1 :
実習生さん:
高校国語において教材として取り上げられている物(純文学・古文・漢文など)は、象牙の塔の学者が好む時代遅れの娯楽であり、現代人の趣向に沿うものではありえない。
いくら一生懸命勉強したって受験が終われば一生使わない知識しか身につかないのである。
こんなものはさっさと廃止して余った時間を英語や情報処理教育・投資教育などに充てるべきだ。
2 :
実習生さん:03/02/21 12:16 ID:NEJXzYmO
ばーか
実学ばかりじゃ本当の学問の素晴らしさは分からないのだ
人間が生きていくには「物語」が必要なのだ
そのために古典を学ぶことは大切で
古典を学ぶことは人間を知ることにもなる
むしろもっと授業時間を増やせ
3 :
_:03/02/21 13:37 ID:4V2387k4
国語の教材を「娯楽」だと思ってる時点で、馬鹿だな、と思わせるスレ。
4 :
実習生さん:03/02/21 16:40 ID:38aA0JaB
日本の教育の約半分は虚学
5 :
実習生さん:03/02/21 16:44 ID:depapr/H
国語なんていらないでしょ 市ね
教師はみんなロリコン
俺もロリコンだから教師以外になる気ないしな
6 :
実習生さん:03/02/21 17:23 ID:GHGG/9Zs
国語好きなんだけど、母国語である日本語が汚くなってきた。
7 :
実習生さん:03/02/21 20:46 ID:bUoi8MIf
8 :
実習生さん:03/02/21 21:15 ID:V3Vh7iTF
>正直、アメリカの国語教育がうらやましい。
まさか、アメリカの教育が全国民に対して均質的な(高い)レベルで与えられてると思ってる?
質問に答えている技術者や専門家が、全米人口の何%程度を占める存在か考えも
しないでうらやましがれるなんてうらやましい。
9 :
実習生さん:03/02/21 21:25 ID:bUoi8MIf
>>8 オーケー、いい反論が返ってきたぜ。
誰もアメリカの公教育の水準が高いなんて言っちゃいないよ。
言いたいのは、水準じゃなくて、方向性だ。
日本の国語教育に、誰にでも取得できる技術として役に立つ要素があるかい?
万人に必要な教育とは、まず第一にそれが来るべきだ。
10 :
実習生さん:03/02/21 21:45 ID:bUoi8MIf
>>7 補足。
あの書き方だと、読んでない人に不親切だった。
別にエンジニアや専門家にだけ、そういう国語教育が与えられているんじゃない。
小学校から、そういうやり方なんだ。
読書感想文の代わりに、レポートを書かされる。
試験問題は、小学校から、こんなのだ。
「これらの文の、どれが事実で、どれが主観ですか?分類しなさい。」
1.この街で一番高いビルはシアーズ・タワーです。
2.アメリカは世界で一番すばらしい国です。
3.有色人種は犯罪を犯しやすい。
4.昨年度の市内での犯罪の40%は有色人種によるものだった。
5.……
すまんが、いま手元に本がないんで、問題は俺が作った。だけど、こんな感じなんだ。
11 :
実習生さん:03/02/21 22:28 ID:olJwPpu9
国語を廃止して論理学を汁。
12 :
実習生さん:03/02/22 00:06 ID:z4Q33SRk
役に立たなければいらないというのは
間違ってるのだ
13 :
実習生さん:03/02/22 00:08 ID:rQhkdEXK
>>9、10
素晴らしい。
本筋と関係ないけど、選択肢の3は微妙ですね。
14 :
実習生さん:03/02/22 00:09 ID:rQhkdEXK
>>12 じゃあ貴方はカリキュラム編成は
何を基準に行うべきだと考えるの?
15 :
実習生さん:03/02/22 01:00 ID:D4vP2EkF
>>7だ。
ちょっとは盛り上がってきたかな。
>>13 3は微妙に見えるだろう?
だけど、いくつも反論ができるんだ。
・この文は「有色人種だから犯罪を多く行うのだ」と取ることもできる。こういう
書き方は客観的とは言えないのではないか?
・有色人種と、同一経済水準の白人を比べて、どちらが犯罪が多いのか?同じくらいなら、
真の問題は貧困であって、有色人種という点を取り上げるのは偏っていないか?
・有色人種、とひとくくりにするのは問題はないか?仮に有色人種全体の総計が
犯罪を犯しやすいことが事実でも、犯罪を起こしにくい民族もいるのではないか?
もしそうなら、有色人種の一部の民族が原因ということになる。全体に敷衍するのは
問題ではないか?
ということで、反論ができるから、これは事実ではなく主観だということになる。
アメ公はガキのころからこういう思考の訓練をやらされるんだ。これは明らかに国力の
基礎になってると思うな俺は。
16 :
実習生さん:03/02/22 01:04 ID:D4vP2EkF
>>15 補足。こういうのをリテラシー教育って言うんだよ。
俺はガキのころからこんな教育を受けたかった。おとぎ話なんかじゃなくてな。
17 :
実習生さん:03/02/22 01:38 ID:NadrUmj1
>>15 本筋とは関係ないのでsage進行でいきますが、
・有色人種と、同一経済水準の白人を比べて、どちらが犯罪が多いのか?同じくらいなら、
真の問題は貧困であって、有色人種という点を取り上げるのは偏っていないか?
・有色人種、とひとくくりにするのは問題はないか?仮に有色人種全体の総計が
犯罪を犯しやすいことが事実でも、犯罪を起こしにくい民族もいるのではないか?
もしそうなら、有色人種の一部の民族が原因ということになる。全体に敷衍するのは
問題ではないか?
という反論は4にも妥当しますけど、そうすると4も「主観」という
ことになるのですか?
「反論ができるものは事実ではなく主観である」
という基準だと、ほとんどの命題は主観とされてしまうような気がしますが。
>>16 同意。
18 :
実習生さん:03/02/22 01:53 ID:gwFXW8A7
なるほど。これは素晴らしいですね! なによりこのメソッドなら、テキストさえ
あれば自習可能ですね。日本は、教師に「師事」するのが前提なので、こういう開
かれたメソッドの教育なんかありえません。
結局、日本の国語教育は、曖昧かつ情緒的に「たましいを育てる」とか言ってるような
アホな教育と(例えば、教育者としての宮沢賢治を持てはやすような連中ね。賢治文
学の優劣・是非は別ですよ)、クソみたいな受験国語教育の二種しかないんですよ。
これは国語に限らず、全教科そうですけどね。
最近の朝の読書ブームにも、情緒の匂いがして気味が悪いんだよな。
そもそも、情緒的国語教育をやってる連中で、才能勝負のプロの文筆(職業的か否
かは別ですよ)ができる連中がどれだけいるかというと、ほとんどいないし(w
自分がワヤな言語感覚しか持っていないのに、こーゆー才能型の教育をするなんてねえ。
作文・読書感想文コンクールも、カンドーを前提にしていて、本当に気味が悪いよ。
19 :
実習生さん:03/02/22 01:54 ID:kjsUd7M3
おおいにsage 確かに日本における国語授業のレベルは愚であるが国語というものは社会にでてから一番根本的に必要なもの。受験でしか必要がないと考えてる時点で、愚民決定。
20 :
実習生さん:03/02/22 02:03 ID:D4vP2EkF
>>17 いや、4は事実だ。
3はそれをもとにした主観だな。
4という事実から、別の主観を導き出すことができる。たとえば、
・貧困者というのは犯罪に追い込まれるのだ。
・少なくとも、有色人種の一部には犯罪を起こしやすい者もいる。
・有色遵守は貧しいのに、それほど犯罪を起こさない。
などだね。分かりにくくてスマン。
実は日本で事実とされているものの大部分は主観だ。
21 :
実習生さん:03/02/22 02:04 ID:D4vP2EkF
22 :
実習生さん:03/02/22 02:11 ID:D4vP2EkF
>>18 教育に情緒を持ち込むなというのは、俺も大いに同意です。
つまらんものだからと言うのじゃない。大切なものだから、軽軽しく教師なんかが
一律に扱っちゃいかんのだ。それは家庭の仕事です。
教師はもっとプラグマティックな知識の伝達のプロであるべきだ。
教師に道徳教育を押し付けるDQNも逝ってよし。だいぶ話がそれたが。
23 :
実習生さん:03/02/22 02:28 ID:+MEvuwer
高校は義務教育ではないから
大学のようにして
「基本数学」「基本国語」・・とかを一通りやったら
希望科目受講で卒業できるようにしてもいいかも。
ただし国立大行こうとしたら無理だが、2割以下しかいけないのだし
24 :
18 :03/02/22 02:31 ID:gwFXW8A7
>>22 >大切なものだから、軽軽しく教師なんかが一律に扱っちゃいかんのだ。
情緒・感受性とは、結局は才能ということだと思う。
この才能とは、その人間の生育環境や生まれつきの何かに左右されるもので
すよね。例えば、TVの「課外授業 ようこそ先輩」に出ているようなレベ
ルの一流のプロなら、こういう教育をしても許されると思う。中途半端なセ
ミプロが才能教育をしても、何も生まれません(だから、部活に頼った日本
のスポーツ・芸術教育は悪くなる一方)
せめて、日舞の名取レベルの人がやらないとダメでしょう。でも、そんな教
師は、理系にはいるかもしれないが、文系では絶望的ですよね。
>教師はもっとプラグマティックな知識の伝達のプロであるべきだ。
これを厳しく求めたら、教師の大半はクビですよ(w 残るのは、皮肉にも、
受験教師でしょう。点数が上がるという点では、彼らは実践的ですからね。
25 :
実習生さん:03/02/22 02:40 ID:D4vP2EkF
>>20にさらに自己補足。
>>17の言葉に従った返答していなかった。
4.には反論することはできない。これは事実だからだ。動かしようがない。
ただし問題は、事実自体は無数にある。どの事実を取って、どれを捨てるか、
そこには主観が関わってくる。
そしてその事実からどのような結論を出すか、それは主観次第で何通りでも可能だ。
>>20ではそう言いたかった。
俺はリテラシーが足らんな。
26 :
実習生さん:03/02/22 03:04 ID:D4vP2EkF
ID変わっちまったが、
>>7です。
>>24 うーん、とりあえず簡単に。
才能型の教育自体はある程度必要だと俺は考えています。
現状の問題は、才能型がほとんどを占めていることで。
プラグマティックな教育の能力は、現在の教師にもあると思いますよ。
ただ、それを求められていないだけで。
俺は教師の能力自体はけっこう高いと思う。100%才能型の教育をするには足りないが。
あと、受験教師は否定すべきでないと思う。すばらしい受験教師も、最低なのもいます。
それはふつうの教師と同じこと。
とりあえずこれで失礼。
27 :
実習生さん:03/02/22 03:05 ID:D4vP2EkF
あれ、ID変わってないな。こんなこともあるのか。
28 :
実習生さん:03/02/22 03:31 ID:UD7CElJI
受験現代文はレトリック力の基礎を養成しうるだろうし、
うまくいけば言語空間の拡大にも資するだろうね。
問題を解けるということと、深い意味内容まで実感し読みきることとは
まったく異なるので、一概には言えないがね。
29 :
実習生さん:03/02/22 10:13 ID:z4Q33SRk
>投資教育などに充てるべきだ
なんでもカネカネかよ
アメリカの真似をすればいいってもんじゃないんだけどな
30 :
実習生さん:03/02/22 11:05 ID:J5J7c7EH
まー、国語は重要だよな。
実感として、中学生の半分ぐらいが
数学の設問を理解する(関係を理解する以前の段階)にも
達していないように思う。
総合学習やゆとりもいいけど、
国語と数学(算数)を重視しないと。
モノを理解する基礎基本がここにある。
31 :
実習生さん:03/02/22 11:45 ID:A2A5kxNs
子供には基本的に「読み書き計算」だけ教えてりゃいいの。それすら出来ない
奴が偉そうに「教育」のことなど、語るなよ。・・・と俺は言いたい。昔の
詰め込み教育が本当の教育だと俺は思っている。その基本が出来てこそ、自分から
他のものを勉強するようになる。そういう意味では今の「国語教育」には
かなりの問題があると思う。特に小学校。
32 :
実習生さん:03/02/22 11:55 ID:z4Q33SRk
>>31 まったくそのとおりだと思います
読み書き算盤さえ教えれば
あとは子供が勝手に学んでいく物だ
33 :
実習生さん:03/02/22 15:00 ID:i+yfCAj0
少しズレるかも知れないけれど、やはり初等中等教育が何を目指して
行われるべきなのかを考える必要があると思います。
高校あるいは大学以降の言語教育とは分けて考えるべきでしょう。
国民国家を下支えする規範として今後も国語を捉えていくのかどうなのか。
とても難しい問題です。
34 :
実習生さん:03/02/23 20:20 ID:MKPj21qx
>>33 私は、国語教育の目的は、「日本語で論理的に議論する能力」を
養成することに置くべきだと思います。
これこそが民主主義の基盤であり、
これなくしては民主制は衆愚政治に陥らざるを得ないからです。
35 :
実習生さん:03/02/23 21:34 ID:p8hblNC2
でも現在の国語の授業だって
もう、森鴎外とか夏目漱石とか
全然教科書に取り上げられてないんだってさ
36 :
33:03/02/23 23:31 ID:wr9K6KZr
>34
おっしゃるとおりだと思います。
33では、少し言い方をごまかして書いてしまいました。
と言うのは、国民国家と市民社会との関係については、また別の複雑な議論があるため、
そちらへ話がそれてはいけないと思ったからです。遠まわしな言い方になってすみませんでした。
ですので、私が言った「規範」というのは、市民社会の規範と理解して頂いても結構です。
私が言いたかったのは、市民社会を下支えするような、ある普遍性を持った「市民」を養成することが
初等中等教育の役割ではないか、ということなのです。
市民として発言し、聞き、議論することができるような主体を養成すること。
また、こうした主体によって、市民社会は大きな公共的な場として構成されるということ。
その中で、国語教育は、非常に重要な位置を占めていると思うのです。
(ひょっとしたら34さんが述べているところと、近いのかもしれません)
37 :
実習生さん:03/02/23 23:54 ID:ma05UT5E
>>1 激しく同意!
理系に限っていえば古文漢文は高1のみで十分!
そんなんやるひまがあったら理科4教科やったほうがまし!
38 :
_:03/02/24 23:40 ID:lGEFeSNG
>37 理系に限って言っても、高2程度の古文漢文で授業についていけなく
なるレベルのヤシが、理系4教科やるなど無駄。
なぜなら、間違っても国立TOPクラスには受からないから、やるだけ無駄(w
で、こっからはマジレス。
日本の公教育は、伝統的なエリート教育の雰囲気を色濃く残している。つまり
高等教育を受ける=社会のエリートたるべき存在=人格教育の必要性
という感じ。
漢文の勉強は、実は中国の古典及びそれで育った世代の文章(明治までの)
を読むためには必須。実は、すごく必要な素養。文句言わず一所懸命やった方がイイ。
39 :
実習生さん:03/02/24 23:43 ID:4DnaQWe/
>>38 漢文教師の方ですか?
いつも思うんですけど、漢文擁護派の方って、必ずと言っていいほど
「漢文を学ぶと○○ができるようになる、
○○ができると役に立つ、だから漢文やれ」
というロジックを展開するんですよね。
(この場合○○は「明治期以前の文章を読む能力」ですね)
40 :
続き:03/02/24 23:47 ID:4DnaQWe/
(他にも○○は「作文力」だったり「感受性」だったり、します。)
でも、思うんですけど、だったら○○を勉強すりゃいいじゃないですか。
明治期以前の文章を読むことがそんなに大事なら
(個人的にはそんなに優先度が高いとは思いませんが)
端的に明治期の文章を読む訓練をした方が、効果的だし、
学ぶ側も学習目的が明確になって意欲がわくでしょう。
初等中等教育では、もっと汎用性のある知識・技能を
教えるべきだと思うんですけどね。
41 :
実習生さん:03/02/25 00:07 ID:YmXYIjr9
>>40 >でも、思うんですけど、だったら○○を勉強すりゃいいじゃないですか。
ワラタ というか、日本の学校教育は、そういうのが多いですよ。
「○○をやるには、××が必要」という名目ですけど、その○○は、なぜか、
直接やらないことが多い。
いろんな理由があるんだろうけど、いちばんの問題は、教師本人も、なぜ、
それをやらなきゃいけないのか、実は理解してないんですよね(w
教科書や指導要領が上から来るだけですからね。入試も突破させなきゃならんわけで、
自分も理解してないけど、そうやって誤魔化しておけば、先送りできますからね。
それに、教師の専門性も、さほど高くなかったりするしね。今の学部や院って、
ゼミや論文指導で、中途半端に細々した専門をやらせるけど、総体的な教養
を高める場所にはなってませんから。
とくに、理数・英語にはマシな教員もいるけど、国語・社会はバカばっかしでしょ?
42 :
実習生さん:03/02/25 10:32 ID:a/i74TSH
各点収束と一様収束の違いについて、
高校の先生に5日かけて教わった。
大学の先生よりも分かりやすかった。
お礼に稲刈りを手伝いました。
43 :
実習生さん:03/02/25 11:53 ID:ix7F78tG
街のカルチャースクールでやれ>>古文・漢文。
44 :
実習生さん:03/02/25 18:17 ID:bmZ6sP0l
45 :
_:03/02/25 21:28 ID:aLolKnAY
>39 ワラタ
いや、別に漢文教師の方ぢゃないけどさw
漢文を学ばずに明治期の文章が読めるなら読んでみろ、と。
漢文の素養を前提として書かれた文章なのよ。
君が言ってるのは
「小学校の算数は、中学で数学やるのに必要とかいうけど、
だったら最初から数学教えりゃいいじゃないですか」
と言ってるのに等しいわけだが。
あと、作文力や感受性について言えば、たとえば「感受性を教えて」も
なんの意味もないわけ。感受性を「身につけさせる」のが必要。
そのための手段として、教材があり、授業がある、と。つまり、
トレーニングの「やり方」を教えるんじゃなくトレーニング「させる」の。
わかる?君が言ってるのは「トレーニングのやり方教えてくれれば
いいじゃないですか。トレーニングさせるなんて馬鹿げてますよ」と
運動部の部活で言ってるのと同じ。
46 :
実習生さん:03/02/25 21:32 ID:wPpmPL1l
>>45 >「身につけさせる」のが必要
これ重要。今日の学習ポイントだ。
47 :
39:03/02/25 22:01 ID:HMR6VB5K
>>45 言葉遣いが妙に予備校教師っぽいですが、まあそれは置いておくとして。
(ちなみに当方は社会人暦数年目。納税者である点を除けば高校教育と直接
の利害関係はありません)
>「小学校の算数は、中学で数学やるのに必要とかいうけど、
> だったら最初から数学教えりゃいいじゃないですか」
算数と数学は全然別物なので、
個人的には最初から数学を教えるのも「アリ」だと思いますが、
話がややこしくなるのでやめましょう。
48 :
39:03/02/25 22:02 ID:HMR6VB5K
で、貴方は最初は
漢文の授業は明治期の文章を読めるようになるためのものだと
主張されていたわけですが、
今回は「作文力」や「感受性」も援用されてますね。
後出して次から次へと新たな根拠を出されると議論にならないので、
貴方が漢文の必要性を主張する根拠は
1)明治期文章の読解力
2)作文力
3)感受性
の3点であり、これらに限られると理解してよろしいですか?
さらに追加すべき要素があれば「前もって」主張しておいて下さいな。
49 :
実習生さん:03/02/25 22:23 ID:DJQ2Y3Zv
>算数と数学は全然別物なので、
>個人的には最初から数学を教えるのも「アリ」だと思いますが
別物?あほかいな。算数は膨大な数学宇宙に含まれる砂粒くらいの部分集合じゃよ。
しかし算数を身に付けずに数学を学ぶのはまず無理でしょうな。
それとも消防厨房相手にペアノの公理や実数体の構成から話すんでっか?
流れに関係なくて須磨素。
50 :
実習生さん:03/02/26 10:54 ID:i9NiFEBG
若いうちは、みんな未来の方を見るけどね、
この年になると歴史や古典を見るようになるの。
興味が出来て、それから勉強しても遅くはない。
なんでもね。
どっちが偉いなんてもんじゃなくて、
若いうちにどれだけ考えたかが問題なの。
と、定年間際の数学教師が言ってた。
彼は数学についても博識だったが、
それ以上に文学や歴史に造詣が深かった。
51 :
_:03/02/26 14:07 ID:wsMq55ub
>39 さん、論点を整理して議論したいという心構えはとりあえずよく分かりました。
私はその3点をそれぞれ「根拠として」主張しているわけではありません。
加えて言えば、私はそもそも>1の主張にたいして反論しているわけで、>1の
主張のポイントは(とりあえず漢文に絞っていえば)
「漢文は娯楽的な題材しか扱わないので虚学。一生使わない虚学でなく実学ヤレ!」
ということだと理解しました。その上で私は、
「高校での教育(=高等教育)においては伝統的に人格の陶冶が重要な目的の一つである。
漢文の文章はそのための素材ともなりうるのであり「娯楽」ではない。
加えて漢文は過去の人々の文章を読むために必要な「教養」でもある。」
と述べたわけです。作文力やら感受性やらは、あなたが40であげた例について
触れたにすぎない。触れた理由も、「○○を直接やらないのはおかしい」という
あなたの意見が奇妙だと感じたから。作文力は「作文の時間」を設ければつくの
か?感受性は「感受性の時間」を設ければつくのか?「直接やる」という言葉が
見かけだけで空虚なものに感じたから批判したまでです。
最後に、
私も「初等中等教育では、汎用性のある知識・技能を教えるべきだ」と思ってますよ。
ただ、何が「汎用性のある知識・技能」だと考えるかが違うのだと思います。
「人格や教養」こそ本来「汎用性がある知識」であり「人生において必要な技能」
だと私は思うし、「高等学校」という場ではきちんと時間をとってそれを教える
べきだと思います。もちろん、「漢文が養う人格や教養は、既に現代には適さない」
という議論ならばまた話は別ですが。
52 :
実習生さん:03/02/26 22:09 ID:V6CyjeY4
最近の新入りは読解力はあるのに何で文章を書けないですか?
もっと作文しろよ、作文。
53 :
一般人:03/02/27 07:19 ID:8+JjGqOd
国語の教科書の朗読テープ・CDってありますか?
あるとしたら一般人が手に入れるにはどうしたらいいですか?
54 :
実習生さん:03/02/27 10:10 ID:289UFoGP
>>52 文章は様々な能力−論理的思考力・構成力・表現力・客観性−
そういったものが総合的に反映される。
近年、(狭義の)勉強においてもハウツーが巷に溢れ、
少ない努力で知識と問題を解く技術を身に付けられるようになった。
(その水準は、決して昔の受験生にも劣らないだろう)
しかし、安易に『解答』を求め過ぎるため、
立ち止まって考えることが少ない。
知識と知識、情報と思考をつなげる力が
著しく低下しているように感ずる。
近年、思索にふける生徒が減ったように感ずる。
妄想にふける生徒は減っていないが。
55 :
実習生さん:03/02/27 15:18 ID:clmBb3qW
プラグマティズムの大成者デューイはかつて教員だったという事らしいが(うろ覚え)、
その時に彼は生徒に、教室で学ばせる「机上の学問」ではなく、
何かをする場合、必要となる知識を覚えさせるという「実践」を重視していた。
例えば「医者になる」場合、生物学や薬学などの理学を学ぶ必要があるだろう。
また「政治家になる」場合、言語学や政治哲学などの文学が必要があるだろう。
つまり、生徒達に「何かを覚えさせる」じゃなく「何かをするためには何が必要なのか」を教え、
その必要な学問に興味を抱かせ、知識を積み重ねていかせるという方法をとったと言われている。
いわば「実践の人」だったということだ。
今の日本にもそういった「実践学」が必要じゃないかと思う。
それに虚学っていうのはその時代に合っているかどうかに依るものだと思う。
哲学だって、今の時代にはあまり求められているものでは無いと思うけど、
中世、近代あたりでは非常に重要な学問であっただろうし。
無論、主観の違いにも因るだろうけれど。
56 :
_:03/02/27 17:36 ID:F2/smI9d
>55 主観の違いにもよるだろうね。
中学・高校で徹底的に哲学を学ばせたら、不登校やいじめは半減するかもしれない。
……
もっとも、倍増するという可能性もある罠w
57 :
実習生さん:03/02/28 22:55 ID:zRfHjkCg
58 :
実習生さん:03/02/28 23:19 ID:zRfHjkCg
>>56に補足。
萩谷教授は、東大に入って、京大に行って、東大に戻って教授をやっているぐらいだから
少なくともある程度の知性はあるはず。
また、この人は文章を読むことも書くことも嫌いではない。
そういう人に、国語教育について、こんな偏見(はっきりいって偏見だと思う)を
持たせてしまう、現行の国語の授業ってどうよ?
ということをお聞きしたいんです、国語の先生の皆さん。
さっきも書いたけど、理系の人だったら多かれ少なかれ、おんなじことを考えてると思うよ。
一部のヴァカだけが極論に走っているのではないんです。
59 :
_:03/03/01 00:16 ID:1rzSUkU0
清水義範のあの作品を、イイ年して真面目に読む辺り実に知性がない。
あれはせいぜい高校生が読んで、面白いな、でも良くできたギャグ小説
だな、と感心する程度の作品。
悪いこと言わないから「国語」について語りたいなら、もう少しマシな小説
読んでから喋らないと恥ずかしいよ、と。少なくとも小林秀雄の文章みた
いな分かりやすい文章と、「悪文」の区別が付かない時点で逝ってヨシ、と。
まあ、感想といえばそんな感じだけども。
天才的な理系の学者の話を引きたいなら、朝永振一郎の随筆でも
読んでみろヴォケ。どれくらい本読んでるか見てみろ、と、まあそんな感じ。
>>57 この萩谷という人物が出会った国語教師には、まともな人間がいなかったのだろうな。
もしくは想像の世界だけでその文章は書いてある。
この文章で「現代国語教育への提言」とか言われても困る。
第一、最後に
>要するに、SFやミステリーだけでなく、
>もっと色々読みましょう、といいたかったのであった。
って書いてあるでしょう。この人にとっては国語じゃなくて読書の話だよ。
61 :
実習生さん:03/03/01 01:15 ID:oPNP6B0Q
読み書きさえできれば、後は自分で学んでいけるものだ、
という意見が散見されましたが、いかがなものかと思います。
そのようにお書きになる方の多くは、『後は自分で学んでいけた』のでしょうが・・・。
実際には、幼少時からの様々な思考活動言語活動によって、
意図的にではなく、偶然的に貴方達の中に『思考方法の雛型』のようなものが
形成されていたからこそ、『読み書き』を習熟した後には、
知識学習等に突入できたのです。
あなた方の周りにいた人々、親や、友達、教師、書物等から、
思考パターンを学習しえたからこそ、うまくいったのです。
運がよかったのです。
そのように運のいい方は、そう多くはありません。
だからこそ、公教育においては、それら偶然に委ねるのではなく、
万人に「意図的に」授けることを目指すわけです。
したがって、そこから先の議論がどうしても必要なわけです。
62 :
実習生さん:03/03/01 01:16 ID:oPNP6B0Q
読み書きさえできれば、後は自分で学んでいけるものだ、
という意見が散見されましたが、いかがなものかと思います。
そのようにお書きになる方の多くは、『後は自分で学んでいけた』のでしょうが・・・。
実際には、幼少時からの様々な思考活動言語活動によって、
意図的にではなく、偶然的に貴方達の中に『思考方法の雛型』のようなものが
形成されていたからこそ、『読み書き』を習熟した後には、
知識学習等に突入できたのです。
あなた方の周りにいた人々、親や、友達、教師、書物等から、
思考パターンを学習しえたからこそ、うまくいったのです。
運がよかったのです。
そのように運のいい方は、そう多くはありません。
だからこそ、公教育においては、それら偶然に委ねるのではなく、
万人に「意図的に」授けることを目指すわけです。
したがって、そこから先の議論がどうしても必要なんです。
63 :
実習生さん:03/03/01 01:16 ID:oPNP6B0Q
すいません。訂正前の文章をカキコしてしまいましたm(__)m
初参戦。「偉大なる勘違い」があるのでは? そもそも文部科学省は、必要以上の学力
向上を求めていない。例外はエリートだけ。でなきゃ、なぜ「ゆとり教育」なんかやりだ
すのか? ここには先ず暗黙の学力低下方針があって、それと比較して学力が下がり過ぎ
たケースを「学力低下」と呼ぶ。既定路線に沿った学力低下こそが学校教育の基本である。
国語力の低下はその一環に過ぎない。古文・漢文の撲滅だって、所詮は明治時代の文明開
化路線の末裔ではないかい? そもそも「国語」なんて言葉は、それ自体が予定調和の象
徴なのだよ。中身を日本語から英語にすげ替えるためのね。
日本語による思考は根本的に間違っている。古文・漢文は論外。本来なら、英語で思考
する訓練が必要である。それが困難である事は、過去百年以上の歴史を顧みても明らか。
だからこそ森有礼の英語国語化論が軍部台頭後に勢いをそがれた後、小渕政権時代になっ
て漸く英語第二国語化論なんてのが出てきたのではなかったかい? 「思考力そのものを
失ってはならないから、便宜的に日本語を教育しているだけだ」という事を忘れてはいけ
ない。ローマ字化の実験が事実上破綻したから、今の小学校教育への英語導入実験がある
のだ。尤も、まだ選択的な段階だけれどもね。
古文・漢文の撲滅はまだ達成されていない。国語教員は先ずこの点を問題にするべきな
のではないか。個々の教員は近視眼的に、「それなりの国語」を学習指導要領の通り懸命
に教えればよい。だが教え過ぎてはいけない。出る杭は打たれる。反省し後悔するのは、
定年退職後でいいのだ。日米併合または日本植民地化の路線に沿って、誰が何を申し立て
ようと漢語との訣別は緩慢に進行しつつある。
訂正。英語第二国語化論→英語第二公用語化論
66 :
実習生さん:03/03/01 09:21 ID:8CfIymcW
日本撲滅実験人格(ID:f8BiMBao)=(ID:EHQvvReB)
187 名前:実習生さん :03/03/01 07:25 ID:EHQvvReB
高校の同級生で冴えない奴が教師になったなぁ。
勉強できるわけでもない。部活もやってない。
遊び人でもない。
影のうす〜い奴。
背が160センチぐらいしかなくて女の子にもバカにされてた。
同窓会にも出てこない、それが小学校教師やってるって聞いて
大笑い。最近結婚したらしいってだれかが言ったらみんなまじかよー。
67 :
実習生さん:03/03/01 16:42 ID:GumVxIcA
>>64 英語に「侘しい」という言葉はない。
同様に日本語に「right」という言葉はない。
どっちがいらないかという問題ではなく、
どっちも必要だが、どう指導したらいいかという問題だ。
>>67 委細承知の上で書いている。それゆえ「実験人格」なのだ。まともな指導が禁止されて
いるのは何故か、そこのところを研究した結果が
>>64なのだ。この文脈で「どう指導し
たらいいか」を考える必要がある。まともな指導は空理空論でしかないからね。
>>66は意味不明。心当たりなし。
話を戻そう。国語教育では「読み書き可能」な領分と「読み書き不可能」な領分との峻
別が前提となっている。例えば印字体系と書字体系の場合で云うと、国語教育では内容と
無関係に総てを活字文化の枠内に収めるから、いくら古文・漢文を学んでも筆文字が読め
る様にはならない。それと同様に、いくら漢文を学んでも「現代文」の漢語との横断性を
汲み取れない様にすれば、漢文は日本語の領分から放逐され、中国語としての扱いに収束
していく。従って方法次第では、「古文は国語ではない」とする見方に持っていく事も可
能。無意識のフレーム内で「読める様にする」事だけ考えていれば、フレームから外れた
領分を放置して「読めないままにする」のは簡単。
『思考方法の雛型』は既に西洋の側に依存する仕組みとなっているから、日本語による
思考では結局、或る種の「翻訳」が前提とならざるを得ない。その結果、日本在住の世界
市民は日本語から本来の言語に「戻ろうとする」か、もしくは思考方法の錬磨が日本語破
壊(文学的マニエリスムの乖離性障害)を導く様に自ら仕組むか。〜とにかく日本語を思
考の周縁に置く事で、「語・文の来歴」はほぼ確実に「語・文の意味」から遠ざけられる。
来歴から学ぶタイプの自然科学的な発見学習指向は排除され、他方では思考の疑似的創造
を優先する教育が暴走し始める。
悪文批判も一種の破壊ツール(逆相としての翻訳要請)。単純な構造に分解しにくい文
章が悪文扱いになるのは、文そのものの形式が単純な思考を要請するから。通常はそれを
積み上げて、複雑な思考を記述する。ところが最初に複雑な思考(直観)がある場合、直
観そのままの構造を文章に投影すると、直観批判と悪文批判が混同されたりする。
70 :
実習生さん:03/03/02 23:50 ID:Zf6K3Eo6
64=68=69氏の登場で新たな展開かな。
でも今一、何を言っているのか良くわからない。
思考のモデルを言語体系もしくは国語国字問題に絡めとられたような
「国語」の来歴にかかるイデオロギーを介在させずに指導すべき…ってこと?
もう少し分かりやすく説明してくれたら助かるのだが…。
>>69の訂正。「乖離性障害」→「解離性障害」
私が解離や離人症と言葉との関係に興味を持ったのは、小林敏明『精神病理からみる現
代思想』(講談社現代新書)を読んだ後。こんな事が書かれていたからです。
--------------------------------------------------------------------------------
書が不思議だというのは、本来意味を伝達するための手段にすぎないはずのシニフィア
ンがその当初の役割を超えて、いわば伝達的なシニフィエにとっては過剰な次元にまでは
み出し、しかもその過剰がそれなりの相互了解的な世界を作り上げてしまうからである。
少なくともその道に通じた者同士は、互いにこの過剰の機微を了解しあえる。だから書を
習う者も、師からたんに文字を教わるのではない。それを通して「気」であれ「間」であ
れ、その過剰な「なにか」を教わるのだ。
このことはある意味で、茶道、剣道、棋道といった「道」のつく世界にいずれにも共通
して言えるだろう。実体的な意味として成立しないものを教わるというこの不思議さの中
に、おそらく書の本質が宿っている。だがそれは表面的にはあくまでシニフィアンの世界
でしかない。
--------------------------------------------------------------------------------
>>70。多くの人々が古典的な書字体系を読めなくなったのは、日本語(文学)としての
扱いが不充分なまま、「書」を専ら「芸術」の側に追いやったから。ここでは「読む」中
身と「書く」中身との解離が、教育上の方便で正当化されている筈。
それからもう一つ、小林敏明や西田幾多郎の絡みで検索中に見つけた文章をリンクして
置きます。
http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/JT1.html また〜小松英雄『日本語書記史原論』(笠間書院)所収の「句読点を必要としない書記
様式」説を併読すると、明治時代の国語「国際化」施策が日本語に何を加え、そして何を
排除したのか、その辺の事情が教育上の実態と別角度から絡んでくる筈。
「実験人格」でない立場なら、私は古典指導の強化を支持します。…が、教育基本法の
解釈上「伝統文化の尊重」が認められていない地域では指導禁止状態(事実上の無法状態
が法的に庇護されている)。或いは〜今の国語はもう「伝統文化ではない」のかも。
72 :
70:03/03/04 23:36 ID:n7lCA9nU
詳細なレス、恐れ入ります。
同意>今の国語はもう「伝統文化ではない」のかも。
ただ、漢文・古文の排除について一言。
漢文・古文の排除は、漢文/日本語の二層状態から漢文を排除することで、ありうべき
純粋な日本語を抽出できると想定しているように思う。(古文の排除は、近代「日本語」
の抽出)。これは英語/日本語の二層状態にしても同じ。近代以降の私たちの思考方法の
雛型が西洋に依存しているからと言って、日本語を排除したところで、西洋の伝統にかかる
透明な連続性の上に首をすげかえるようなもの。
いずれにしても、伝統に対して無批判であるように思うのだが…。
問題は、近代「国語」が、日本/西洋いずれの伝統にも直接的には根ざしていない点に
あるように思う(もちろん漢語の教養とも関わりが無い)。
>>72 …よく分かります。「いずれにしても、伝統に対して無批判」ってのは「実験人格」の
趣旨そのものだし。
自分の言語としての「日本語」が現実的に変容すれば、時には「伝統」(漢文・古文を
含む)からの乖離に至る。表向きは別の理由を挙げた上で、中身の方に「伝統の変質」を
要請すれば、判断基準が根本的に違うから解釈も自ずと変わる。
まるで時代劇。素朴な段階では「見る側」と「見られる側」とで時代性の解釈が異なる
と云えそうだけれども、実際は「見られる側」の方が同時代性の枠内で演じている。現在
が過去を擬態している訳だから、伝統はこの時点で「生きた虚構」と化す。
ここに生ずる「見える伝統」と「見えない伝統」との距離に対して、教育システム(機
能が優先で、場は学校に限らない)はいかなる立場を採り得るか。〜「見えない伝統」は
時代錯誤の危険を正面切って背負っている。「見える伝統」の方も、それと正反対の時代
錯誤を背負っている。しかしそれらが自覚的かどうか、潜勢的か顕勢的かという事に対し
て、教育上の義務は何物をも背負っていない。ここに文学的虚構との混同可能性が絡んで
くると、国語は(伝統文化どころか)学問ですらなくなるかも。
だからと云って、それをタイトル中の文句=「虚学化」に直接結びつけるのも(我なが
ら)どうかと思う。その前に、文学が国語に寄与したもの、国語が文学に寄与したものを、
教育システムとの三角関係の様に扱ってみる必要を感じる。国語は(架空の)言語学科日
本語でも芸術科文学でもないのに、どちらでもあり得る点では二股膏薬的。
それからもう一つ。〜学校は学問教育より常識教育の方を優先する。非常識な者が虐め
られるのも、天才が育たないのも、当用・常用漢字の様な「これを常識としましょう」式
の上意下達も、漢文排除も古文排除も、結局みな同根ではないのか。
74 :
実習生さん:03/03/05 23:53 ID:9OM3n001
75 :
1:03/03/10 00:13 ID:nUSYO1Uw
そろそろ議論が出尽くしたかな?
元々こんなスレ大して伸びると思ってないけど、
>>18が俺の言いたい事を代弁してくれた。
文学好きの人間が国語の必要性をがなり立てるのは当然だけど、ポップカルチャーを愛するサイレント・マジョリティには、高校国語に関する費用対効果については心の片隅に置いておいて欲しい。
76 :
_:03/03/10 22:15 ID:2Y5vYH/E
>75
結局アンタが、このスレでなされた議論をどれ一つとして理解し得なかった
ことは、そのまとめ方でよくわかったよw
77 :
実習生さん:03/03/12 07:18 ID:spY26Z2m
>>76 そりゃ、あんまりかわいそうだよ。
だったら誤解を解くぐらいしてやんなさいよ。
エー、まず隗より始めよということで、
>>76さん、あなた
>>59で、
>>57-58の意見を完全に誤読してるよ。
>>57-58が引用してるページの内容に、
>>57-58自身は賛同してないでしょう?
>>57-58は、ある程度の知性のある理系人間に対してすら、国語教育が恩恵を与えて
ないこと、つまり国語教育が理系人間を大量に取りこぼしていることを問題として
提起しているんでしょうが。
78 :
1:03/03/12 15:54 ID:pTLzPEhy
>>76 うわーまた揚げ足取りかよ・・・・。
常時接続じゃないから一々反論出来ないのが悔しいが、少なくとも君の人を小馬鹿にしたような口調からは、「大人の知性」みたいなものは感じないけどね。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」っていうでしょ?
国語科の教員って文学の知識以外何の職能も無いくせに、ひたすら自分がお利口さんだって事をまくし立てるアホが多いんだよなー、君みたいな。
79 :
実習生さん:03/03/12 15:56 ID:ZrLFK9wP
80 :
_:03/03/12 23:14 ID:C+JR1J/J
>77さん、あなたは私の>59のレスを誤読してますよ。
私のレスは1〜6行目が「荻谷教授にあてた感想」であって、>57-58に
あてたコメントは7行目なんだけども。
そして私は「感想をいうとすれば、荻谷は馬鹿だから馬鹿の話をまともに
とるだけ馬鹿」と言ったわけで、その意味で国語教育に取りこぼされている
理系の人間の馬鹿さを>57-58を含めてあしらっただけ。「問題」足りうる
話題を提出して初めて「問題提起」というのです。
要約
>57-58 「馬鹿が馬鹿言ってますけど馬鹿が馬鹿なのをどう思いますか?」
>59 「馬鹿は放置」
81 :
_:03/03/12 23:28 ID:C+JR1J/J
オイラは「オレって大人ー」とか「知性的ー」なんて一言も言ってない。
>1は馬鹿だね、って事実を言っただけ。
大体、このスレにおける>18の発言て、>9ー10の「問題提起」をまともに
理解しないまま尻馬に乗った馬鹿発言で、しかも、やり方も理由も目的も
知らないままに「朝読書」の運動をあっさり「情緒的」で片づけてる馬鹿。
>22がわずかに同意を示すが、>22自身「話がそれたが」と言ってるとおり
そこまでのスレの流れとはズレた、教師への妙なルサンチマンの表明を
出発点にしてる意見。
それをして「>18が俺の言いたい事を代弁してくれた!」とかあんたが言ってる
から>76のオレの発言になるわけ。わかった?
単なる煽りとシビアな煽りの区別も付かないんなら、すっこんどけ。
お前が居ない方がスレのレベルは上がるようだよ。まあ>64からは
激しく脱線してるがなw
ちなみに、オレは>3だ。予想通り馬鹿スレになりそうだな。それを止めるのは
>1じゃ無理無理。
82 :
実習生さん:03/03/13 00:31 ID:jbdN7Xmk
>>80-81 あんた、口は悪いが、読解力と文章力は確かだな。80は少し疑問が残るが、81はほぼ完璧な
要約だ。正直、感心した。レベルが高いよ。
俺は
>>7だ。このスレの1は高校生らしいんで、平均的な高校生にも役立つようなスレに
したかったんだ。だからわざと意見も抑えていたんだが、あんまり手間がかかりそうなんで
途中から放置していた。
あんたのレスを読んで気が変わった。周囲は気にせず全開で行こうと思う。悪いが、俺の
議論にしばらくお付き合い願えないか?俺はあんたのようにレベルは高くないが。
萩谷昌巳はノーベル賞を取るかも知れん天才だが、あんたの言うとおり、国語に
関してはヴァカだ。俺なんかよりはるかに優秀な萩谷のような人間が、どうして国語に
関しては落ちこぼれるのか?俺の問題意識はそこにある。
>>7で書いたのとは裏腹なことを言うが、実は日本の国語教育のレベルはきわめて高い。
>>9-10で書いたような安易なマニュアルとして教えられる水準じゃない。これをきちんと
クリアできた人間はきわめて優秀だ。こういう人間には、
>>15で書いたようなマニュアルなんて
不要なんだ。自分で感じ取って自分で考え出せるからな。
俺が言いたいことは、トップのレベルの高さはさておき、あまりにも脱落者が多すぎる
ということなんだ。それは文系の人間の数学の苦手さなんかより、はるかに度合いも大きく、
社会に与える害も深刻だ。数学を必要とする人間は1%もいないだろうが、国語力を必要と
しない人間はまず存在しないからな。
83 :
実習生さん:03/03/13 00:46 ID:jbdN7Xmk
続きだ。
あんたは高度な国語力を身に付けているから、「ヴァカは放置」で済ませられるだろうが、
noblesse oblige というものをちょっと考えてもらえんか?
つうことでまとめだ。
1.なぜ日本の国語教育は、これほど大量に落ちこぼれが出るのか?
2.それはこのままでいいのか?
3.改善するなら、どういう方法が考えられるか?
1.に関しては、俺はデュルケームの言う、学校の選別機能という観点で考えていきたい。
2.は、俺としてはぜひ改変したいが、そうではないと言う意見も聞きたい。
3.は切実だな。ここだけ読めば、高校生にも役立つものになるといいんだが。
念のためだが、このスレを御覧の皆さんに参考文献だ。
清水 義範 『はじめてわかる国語』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062116073/249-2508732-3429905 大したことは書いてないが、共通認識作りにはなるだろう。
読むのは1章と2章、そしてあとがきだけで十分だ。残りはトリビアに過ぎない。
84 :
実習生さん:03/03/13 00:55 ID:jbdN7Xmk
書き忘れた。
俺は忙しくなってしまった。リアルタイムでの議論は不可能だ。ご了承願う。
それにしても、こんなことを書いて、レスがつかずに放置されたら大笑いだな。
選別機能の観点で捉えるのは正しいと思う。語彙の量的問題と思考の構造的問題とを貫
く文法上の基準が、学校教育では初手から間違っているのではないか。
例えば中国語由来の漢語システムの場合、語そのものには文法的要素がなく、ただ意味
だけがある。ところが「やまとことば」の方は全く別の文法構造を持つため、文字言語化
の要請自体は最初から翻訳的要請との絆の下に自覚され、宿命的な言文不一致を根こそぎ
取り込む。だからこそ漢語導入以後の日本語は、異質な意味表記系を土着の構文内で馴致
し、かつ「自ら日本漢語・日本漢文を創造する」事で翻訳的属性の溶解をも実現してきた。
昔は漢文の素読による「門前の小僧」式の体得が可能だったが、今の日本人には翻訳的自
覚など殆ど残っていないのではないか。
漢語・漢文が虚学とか娯楽とか教養とかの領分で語られるのは、それがあらかじめ別枠
として相対化されているからではないか。明治時代に問題となった「言文不一致」と類似
する要素なら、B・バーンステインの「制限コード」「洗練コード」概念が示す通り、他
の言語にも明らかに存在する(日本側の例はイ・ヨンスク『「国語」という思想』などに
も掲載)。だからこれは教養の問題以前に、言語共同体の問題として扱われるべきだろう。
嘗ての文語体は共通語として機能していた。ところがそれを(口語の)共通語化政策がぶ
ち壊したもんだから、文語体は日常生活と無縁な古典語になっていった。
古文・漢文が古典語となったのは、済んだ事だから仕方がない。教養は中身の蓄積が大
事。多読多習でも奨励しない限り、どのみち崩壊に向かう筈。〜差し当たって、古典を現
代日本語に翻訳するとどうなるか。自国の言語から戦前または開国以前の「異質な歴史」
を隔離し、刹那的または「ススメ、ススメ、シヌマデススメ」式に将来だけ夢見る人材を
つくるとどうなるか。将来に絶望したら、「国民の歴史」ならぬ「国民の自殺」ブームが
起きるかもね。その前に英語公用語化を実現しないと、日米併合どころではなくなる。年
寄りと日本語話者の自殺は強権的に黙殺する必要がある。それが嫌なら古典教育の復権と
翻訳的自覚の回復、「ゆとり教育」の廃止、教育基本法改正をさっさと進めるこった。
86 :
実習生さん:03/03/13 21:19 ID:edLWMJtM
国語が知識を身につける科目だったとは・・・・
87 :
実習生さん:03/03/13 21:34 ID:h/4vMmvV
首都圏の公立高校出身者ですが、質問です
クラス替えはどの基準で行われているのでしょうか?
完全にランダムなのでしょうか?
88 :
82:03/03/14 00:12 ID:BTKI2v8G
>>85 ・悪いが、そのレスのどこが、学校の選択機能と関係してるのか教えてくれないか?
3回読み直したが分からねえ。
・悪いが、今は古典の話はしたくないんだ。現代文の話に付き合ってもらえんか?
・悪いこと言わんから、その実験人格つうのはやめれ。分かる話も分からんだろう?
89 :
82:03/03/14 00:15 ID:BTKI2v8G
まず、1.なぜ日本の国語教育は、これほど大量に落ちこぼれが出るのか?
について共通認識を持ちたい。国語教育の成果がいかに壊滅的か、実例で示そうと思う。
少し前の京都大学理学部の話だ。
清水義範の『国語入試問題必勝法』が、ほとんど喝采をもって迎えられていた。無論、こんな
方法で現代文のテストで得点できると考えるほどのヴァカは誰もいなかった。では、なぜ
この本が彼らの多くに支持されたのか。
彼らは現代文のテストに強い不信感を持っていたんだ。「こんなわけの分からないもので
本当に国語力が評価できるのか?」と思いつづけていたわけだな。
逆に言えば、手も足も出なかったと言うことだ。ほとんどの人間にものすごい劣等感が
あったわけだ。
>>57の萩谷教授の反応は、非常に典型的と言っていい。
無論、彼らは間違っている。文系学部の人間は現代文のテストで満点を取るからな。
誰がなんと言おうと、国語のペーパーテストは国語力をある程度は評価できているということだ。
しかしだな、京都大学といえば、人口全体の500人に一人にまでペーパーテストで選別された
学生の来る場所だ。そこですら理系学部では、国語教育の成果はこんなもんだ。
これはシステムに何か原因があるんじゃないのか?個人の資質だけに帰して済ませていいのか?
彼らにとって、小中高と受けつづけてきた国語教育は何だったんだ?
京大でこれだ。他の大学の理系でも、国語教育の成果は推して知るべしだろう。
90 :
82:03/03/14 00:17 ID:BTKI2v8G
今度は京大の文系学部の話をしよう。
彼らの中には、全員では無いが、現代文のペーパーテストで満点を取れる人間がいる。
しかし、その満点を取れる人間のほとんどは、なぜその答えが正解なのか人に説明することが
できない。フィーリングなどと言い出す人間も多い。
ましてや、生徒を教えて国語力を伸ばせる人間は皆無に近い。
これは何かに似ているな。
そうだ。帰国子女だ。
彼らは英語のペーパーテストで満点に近い点を取るが、なぜそれが正解なのか人に説明する
ことができない。同じようにフィーリングなどと言い出すんだな。
この類似性については賛同してもらえるだろうか。
これらから推測されるのは、文系学部の人間の国語力は、通常の学校教育で身に付けたもの
ではないということだ。もしその国語力が学校教育で身に付いたものだったとしたら、自分が
学校で教わったとおりに教えればいいはずだからな。しかし、彼らは教えられない。
この推測の当否はさておき、彼らの国語力は学校教育で身に付けたものではないという結論に
同意する人間は多かろう。
この結論が正しいなら、文系においても、やはり国語教育の意味が問われることになる。
91 :
82:03/03/14 00:22 ID:BTKI2v8G
かなり過激な言い方に見えるかも知れんが、俺に批判の意図はない。
あくまで社会学的に、価値中立的に話を進めていきたいんだ。
別に社会学に詳しいわけじゃないが。
例えば、学生の国語力は、帰国子女と同じだから良いのだとか、ダメだとかいう
価値判断に踏み込むつもりはない。
また、国語力は学校でつけるべきものではないという意見が出るだろうから、あらかじめ
言っておくが、俺は学校教育の機能について話をしているんだ。生徒本人の資質や
向学心の話をしているんじゃない。
また、日教組打倒とか、文科省打倒とか、国語的教養は素晴らしいもので
知識人に不可欠だとか、日本の誇りだとか、そういう価値判断にも俺はコミットしない。
先に話すべきテーマがあると考えるからだ。
面白そうなので、続きに期待。
ここまで読んだ。
93 :
実習生さん:03/03/14 07:04 ID:Q0eDhszZ
では、「実験人格」と表記するのをやめとこう。
古典の話と現代文とを切り離すと、意味理解の基準が曖昧になるんだけどねえ。それが
「選別機能」にも影響してるんじゃないかって事。これはいわゆる「フィーリング」〜と
云うより、デノテーションとコノテーションの話に通じる。表向きの意味ならそれなりに
理解できる。しかし言外の意味となると、文の前後関係だけでは処理しきれなくなる。要
するに、コノテーションと古典とが深層でつながっているんじゃないかと云ってるのよ。
その先に細部=
>>85がある(論理構造内の特異点が漢語)。
国語教育であれ何であれ、日常における運用から学ぶものは大きい。漢文を自分で作っ
てみれば漢文が自分の言語に「なる」のと同じ理屈。漢語が日本語になっているのも同じ。
辞書的な意味=デノテーションだけ使って何かの文章を書き換えてみれば、原文の意味は
滅茶苦茶になる。コノテーションが絡んでくるからだ。その影響範囲は語彙に留まらず、
構文単位で文章内外の各所と絡む。発問外の記憶が要請される場合もある。だから一言で
まとめれば「フィーリング」になる。
取り敢えず、今朝はここまで。
94 :
実習生さん:03/03/14 08:39 ID:yVAZbPxo
お前らもっと改行の仕方を工夫しろよ
95 :
18:03/03/14 12:21 ID:M0CbkLt8
>>89-91 京大生でもその程度なのは、単純に、現場が、解釈型国語と、受験国語の双方に両
極化しているからだよ。指導要領改訂で、コミュニケーション重視になったらしいが、
具体的な現場がどう変わったのか、いまひとつ、よくわからない。
解釈型国語は、生徒も教師も、退屈なだけだし、受験国語は、クロスワード・パズル
を解いているようなものだろう。
鑑賞教育としても、実践教育としても機能せず、限定されたジャンルになっちゃってる。
これじゃダメだよね。作文教育もお粗末だしさ。「子どもらしい感性」なんて、す
ぐ消えるんだよ。そんなモノを競うのはもうやめて欲しいよね。
96 :
18:03/03/14 12:23 ID:M0CbkLt8
具体例が出せないけど、例えば、鑑賞教育は、優れたアンソロジーが沢山出ているので、
そうしたモノを使えばよい。作文教育も、そうした優れた指南書を使えばよい。
古文もそうで、中途半端に細々した文法・単語をやる必要を感じない。漢文程度に
簡素化したもので充分。敢えて言うが、原文を読む必要は無い。
優れた現代語訳を、どんどん読ませた方がいい。原文が読みたい人には、授業外で
そうした場を確保するか、大学でみっちりやればよい(大学のセンセイは嫌がるだろうが)
指導要領・入試を軸にする限り、どうにもならない。国語に限らず、どの教科も、
狭い学校教育内でジャンル化してしまった弊害は、極限に達している。
97 :
実習生さん:03/03/14 16:17 ID:C5otgRK4
俺の国語力では読むのがつらーい。
これも、日本の国語教育のせいだー!
とりあえずさ、
・句読点
・改行
この2つを多用してほしい。
適度な空白で読みやすくなるだろうし。
できれば、ポイントを箇条書きで絞ってくれるとありがたいな。
98 :
実習生さん:03/03/15 00:44 ID:/7UYbjWy
質問:
「本当に国語力」って一体何よ。
その有無や優劣を測る普遍的な基準はあるんですか?
普遍的な基準がないのに、「京大理学部生が落ちこぼれてる」などと言ってみたところで
何の意味もないと思うが。
99 :
82:03/03/15 04:01 ID:Fbhg/l0i
今日はほんとに時間がないので、ほんのちょっとだけ。
2ch見るのににIEを使っていて、行間が詰まって読むのがかなわん人は、
ユーザー・スタイルシートを設定すればいい。
以下の2行を内容とするテキストファイルを作れ。ファイル名は"2ch.css"でも
なんでもいい。拡張子は"css"にする方がいいが。
BODY { line-height: 175%; margin: 5%; }
TH, TD { line-height: 175%; }
そしてそのファイルを、ブラウザの
「ツール(T)」→「インターネットオプション(O)」→「ユーザー補助(E)」
→「ユーザー・スタイルシート」で指定してやれ。
行間が空いて読みやすくなる。これは2chに議論をしに来ているなら必須だ。
まあモナーとかはバラバラに表示されちまうんだが。
100 :
82:03/03/15 04:03 ID:Fbhg/l0i
>>98 鋭い!あなた、きっと国語力あるよ。決して皮肉ではないです。
俺は次はそれを書こうと思ってたんだよ。今までの議論にそれが欠けてることは
明らかだったからな。
国語の先生の皆さんへ。
何とか言ってくれよ。
>>89-91は、あんたらのことを、何の役にも立たんと
言ってるようなもんじゃないかよ。こんな天下の暴論を許していいのか?!
金持ちケンカせずってか?
自分は学校教育でこんなに国語力がついたとか、こんなに生徒を育てたとか、
いろいろ反論したいことはないのか?!
>>82-以降を見てくれよ。学校の国語教育は役に立たんということをすっかり
前提にして話をしてるじゃないか(
>>98氏は例外ね)。なんともそそっかしい
話だが、このままでは俺も、それを前提に話を進めなきゃならない。
つうことで、なんか言ってください。おながいします。
国語の先生に呼びかけても無理ではないか。なにしろ指導禁止事項がある。その中には
基礎の領分も含まれている。だから教えたくても教えちゃいけない。
>>96の「ジャンル
化」も、「縄張り」とか「しきたり」の影響と絡む筈。〜現に某地方の県立高校の場合、
進学校も底辺校も大差はない。全県規模の校長会などでは暗黙の合意がある様だし(ただ
し表向きは「指導内容の精選」扱い)、県教委も各校管理職の意図を尊重している。
話題を変える。〜清水義範について検索してみた。
http://www.right-one.co.jp/okai/essay/essay01.html --------------------------------------------------------------------------------
「百羽ばかりの雁が一列になって飛んでいく」「暖かい静かな夕方の空を」おもうと、私
どももどこか分からない遠い空への( )に誘われる。
問 空欄に入れる最も適切な語句を次の(ア)〜(オ)の中から選ベ。
(ア)幻想 (イ)虚無 (ウ)郷愁 (エ)悲哀 (オ)想像
--------------------------------------------------------------------------------
ここだけ読めば、どれを入れてもそれなりに意味は通る(私なら「虚脱感」や「想念」
と入れ替える)。ただし「雁」は日本情緒満載の素材。これと「郷愁」を結びつけるには、
和歌や日本画における伝統的な扱いが一種の先入観として記憶されていなければならな
い。一方、清水は出題者側の意図を推理する。平易な出題の背後の「平易にしようとする
意図」を先入観とする。このテクニック自体は実に面白いが、それは日本文化と何の関係
もない(「どちらにしても人間の心情のことばかり」)。日本文化など学ばなくとも、初歩
の問題は別の推理で解ける。理解の空洞化が可能になる。しかしこれはこれなりに、文学
の文学たる所以を度外視すれば「普遍的な基準」と云える筈。
教材の精選と指導法の工夫が、共に日本文化の排除と結び付く。清水方式ほどではない
にしろ、余計な説明を排除する傾向は確かにある。下手に踏み込むと他分野の縄張りを荒
らす事になるから、基礎指導禁止は当然。その分、生徒には「基礎と文化を発見する才能」
が求められる。どうやら文化を理屈で教えてはいけないらしい。所詮、稽古事だそうだ。
102 :
3=80:03/03/16 00:26 ID:Q4DALoI0
>82
続いてたとは…Σ(゚д゚)!正直スマソ。
お気に入りに入れたので、以後は巡回ルートにいれることにする。
>82の内容はよくわかった。なるほど。続いて、オイラは先人達に比べれ
ばこと国語に関しても、とてもとてもnoblesseなんぞぢゃないが、あんだけ
書いた以上「書いた責任」つーのはあると思う。オレでよければレスさせて
いただく、つーか黙ってられねぇんだよコノヤロウ(w
で、アンタの書いた>83の(1)〜(3)について書くのが筋なんだろうが、
どうもそれは「結論」になりそうなんだ。だから、やっぱり順を追って
話をしてみようと思う。
とりあえず、
「国語力とは帰国子女の英語力のごときものなりや?」
という問題提起はなかなかユニークであった。現在の公教育における
国語という教科の指導方法には、なるほどそういう一面があるのは事実だ
ろう。つまり、
「方法を教え教育するのではなく、実践を積ませることで体得させる」
というやり方だ。しかし、このやり方で成果をあげるためには、根本的な
条件として「実践の必要性を生徒が感じている」及び「浴びるほど実践させる」
ことが必要なんじゃないだろうか、と思うのだ。
103 :
3=80:03/03/16 00:29 ID:Q4DALoI0
↑こんな感じ。
例:英会話を日常で必要としないおばちゃんが流行りでNOVA始めても、長続き
しないが、半年後には一人で海外出張しなきゃいけないビジネスマンなら
必死で通うだろう。また、どんだけ必要性を感じていても、3〜4日に一度、
それも他に山ほど仕事抱えてたらなかなか身に付かないだろうが、とりあえず
いくつかやるべき仕事を絞って貰い、空き時間を作って毎日のように通えば
そうとう上達は早いんじゃないかな。
…そして、国語公教育を上記の方法で成立さすためのこの二つの条件を
過去の日本は満たしていた。
↓
現在の日本ではそれを満たすのが難しい。
↓
だから公教育は必然的に変わらなきゃいけない。
というのがオレの結論になる。だろうと思う、多分。
けど、その辺が今の狂氏にわかってるかどうかは激しく疑問だとは思う。
その意味で、このスレがこの板にあるのはいいことじゃないかな。
104 :
実習生さん:03/03/16 23:20 ID:YC0tD+Av
「本当の国語力」とはなんぞや。
その有無や優劣を測る普遍的な基準は?
105 :
_:03/03/16 23:41 ID:DPjahwGA
>104
とりあえず、
1)読解力 2)表現力 3)鑑賞力 4)情報処理力 5)知識量
を総合的に関連づけ用いる力、くらいの認識でいいんじゃねーの?
「本当の」とかつけると、妙に話がややこしくなるのでヤメレ(w
106 :
82:03/03/18 00:03 ID:04lD7I7m
大変遅くなってしまった。レスしていただいた皆さんには申し訳ない。
ついでに言うが、これから俺はもうここに来れないだろう。個人的事情により
おそらくネット自体にほとんどアクセスすることがないのだ。
ついに
>>80氏が参加してくれるなど、やっと議論が始まりかけているのに、
それを放置して去ることの非礼を心からお詫びしたい。
消える前に、レスの残務整理を少ししていこうと思う。
108 :
82:03/03/18 02:10 ID:PDnLkS2O
>>98,
>>104 国語力の定義だが、俺はこのスレでは以下の項目だけに絞って議論したいと
考えていた。
1.文章の内容を早く正確に理解する能力
2.問われたことに早く正確に回答する能力
このような簡素で機能主義的な定義を選んだ理由は、まず第一に価値観の
相違に基づく不毛な論争を避けるためだが、他にもいろいろ理由がある。
例えば、
・ペーパーテストで客観評価することが、他の国語力より容易。
・実社会で必要とされる国語力は、ほとんどこの2点のみと言ってよい。
・この2点が基盤にないなら、他の国語力は一切意味を持たない。
いろいろ反論はあるだろうが、それはあとで論じよう。時間があったらね。
>>107 違うよ。
109 :
82:03/03/18 02:11 ID:PDnLkS2O
2.が「思ったことを思い通りに表現する能力」ではないことに注目して
ほしい。単なる自己主張だけならガキでもできる。問題は相手に届くかどうか
なんだ。文章自体には価値はなくて、それが相手に届いたとき、初めて価値が
生まれるんだな。
全人類に理解できる文章というのは存在しないから、文章を書くには対象
読者を設定し、彼らがなにを知っていてなにを知らないか、どういう形式で
どういう内容の話を聞きたがっているのか、聞く用意があるのか、よく理解し
対応する必要がある。今の国語教育はこういう事をまともに教えないから
困るよ。俺が聞いてなかっただけかも知れんが。
言わばあらゆる文章は、仮想的な読者の有形無形の質問・要求に対する回答
なんだ。ましてやその文章が実際の議論や、テストやレポート課題の回答なら
なおさらだ。自分の言いたいことをただ言うだけではダメで、相手に問われて
いることを理解し回答する必要があるんだよ。
議論のルールというのはそういう理由で生まれたものだ。
110 :
82:03/03/18 02:15 ID:PDnLkS2O
ここは国語力に関するスレなのに、俺の
>>82-83,
>>89-91の議論をきちんと
踏まえて論を展開しているのは、80氏の
>>102-103、あとは
>>98氏だけだ。
はっきり言えば、他は俺の意見にかこつけて、自分の言いたいことを言って
いるだけに過ぎない。
国語教育の貧困を象徴していると思わないか?
まあ
>>101氏は話題を変えると明言しているし、
>>98氏はまぐれ当たりかも
知れんが。
念のために言っておくが、国語力や、議論のルールに従っているかどうかは
主張の内容の優劣とは関係ない。また人の主張に興味がなかったら、無視して
関係ない議論を始めるのもアリだ。だけど議論を積み重ねようと思うなら、
もう少し考えてもらいたいよ。まあ2chの平均レベルよりはずっと上だし、
2chで説教くさいことは言いたく無いが、どうせ最後だ、言うことにした。
あとはまた時間ができたら書こう。
111 :
82:03/03/18 06:08 ID:N4DmZi4J
また書く。今度は少し長い。
俺のレスを読み飛ばしている高校生諸君、ここからは読んでほしい。
ごく基本的だが、役に立つ人もいるはずだ。
国語力に関する先の定義は、実は高校生にこそ有用だと考えている。
1.文章の内容を早く正確に理解する能力
2.問われたことに早く正確に回答する能力
特に2は重要だ。国語に必要な回答は、世界普遍の真理なんかじゃない。相手が
求めている回答なんだ。相手がなにを要求しているのかを読解することが何より
重要なんだ。理系の人間はこれに気づかないから点が取れない。ヴァカな奴は
出題者の解釈に対抗して自分の解釈を主張したりする。結果は当然0点だ。
そんなのは押し付けだ!と怒る奴は理解が足りない。別に出題者は自分の
見解を押し付けているわけじゃない。出題者の見解の内容を理解できるだけの
読解力が君にあるかどうか調べているだけだ。賛同しろとは言ってない。君は
「理解ならできます」と答えればよいのだ。
こういう考え方は、実社会でもとても有効だ。無用な対立を避け、問題の解決を
早めることができる。逆に言えば、国語力が無いが故のトラブルが実に多いな。
112 :
82:03/03/18 06:09 ID:N4DmZi4J
順番が逆になったが、1.文章の内容を早く正確に理解する能力 についてだ。
要するに読解力だな。
読解力については強い誤解がある。文章の解釈の仕方は個人の自由なのだから、
読解力なんて客観的には評価できない、というものだ。
はっきり言うが、それは嘘だ。少なくとも高校までの範囲なら、文章の解釈なんて
ほぼ一意に定まる。どうしても一意に定まらないような内容を問われることは高校
ではありえない。それに気づかない奴には読解力がないのだ。逆に言えば、読解力は
個人の自由を許すような甘いものではない。
読書感想文を思いつきの垂れ流しで書くことを許されていることも、自由な解釈
という誤解を広めた原因だろう。実際には感想文にも模範解答は成立するのだ。
読書感想文集など、赤点の答案を集めて綴じたようなものだ。嘘だと思ったら、
中学のときの感想文を見てみろ。本の内容を全く理解していないことに気づいて
赤面するだろう。今の自分の文章も、成長した目で見れば明らかな間違いに気づく。
国語教師も本心ではそういう目で見ているはずだ。
113 :
82:03/03/18 06:11 ID:N4DmZi4J
結局のところ、読むにも書くにも精密な検討を要求される段階があるのだ。精読
すれば勝手な解釈は弾かれ、許される解釈は驚くほど限られたものになる。
現代文のペーパーテストは、そこまで絞った上での共通認識を問うているのだ。
だから、現代文のテストは決して無意味なものではない。
もちろん、中には悪問もあるから、すべてのテストに意味があるとは言わない。
しかし、センター試験などは良問だ。このテストの現代文で点が取れない人は、
残念ながら国語力が不足している。
こう書くと、こう反論する人がいる。
「そんなはずはない。国語に出題された小説の作者が「私はこんなつもりで
この小説を書いたのじゃない」と文句をつける話がよくあるじゃないか」
はっきり言うが、それは作者に国語力がないのだ。文筆業の人間には、面白い
文章を書く力はあっても、自分の意図を正確に伝える力を持たない人間も多い。
現代文の問題は、作者の本心ではなく、文に実際に何が書かれているのかを
問うているのだ。俺の知る限り、国語の不得意な小説家は、みな二流三流か
電波系だ。一流とされる小説家は当然のごとく国語も得意だ。断言していい。
114 :
82:03/03/18 06:13 ID:N4DmZi4J
以上のレスを読んだ人は思うだろう。
「なんだ、予備校で言ってることと同じじゃないか」
その通りだ。俺は現行の高校の国語教育より、予備校のほうがましだと
考えているので以上のようなことを書かせてもらった。
無論、予備校が最高だと考えているわけでもない。もしそうならわざわざ
議論を始める必要はないだろう?
もっと詳しく知りたい皆さんに、参考サイトだ。
いしいの受験現代文
http://plaza5.mbn.or.jp/~gendaibun/ 予備校講師のサイトは他にもあるが、自分の本の宣伝をするだけのサイトが
多い。ここはそうではないから紹介する。内容は基本的でわかりやすい。
(実は
>>101氏の紹介してくれたのも予備校講師のサイトだ。申し訳無いが
エッセイが多くて方法論に乏しく、俺の趣味に合わない)
皆さんの一部の人間のために補足。
高校生ぐらいの年代には、無意味な優劣にこだわる人間がいる。
「なーんだ、有名講師じゃないじゃん。俺読まないよ。最強は出口だろ?」
こういう奴は俺の周囲にもたくさんいたが、その大部分が本命の大学に落ちた。
万人にとって優れた講師は存在しない。生徒ごとにつまづいている個所が違う
からだ。あなたのつまづきを解決してくれる講師が、あなたにとっての良い講師だ。
それは接してみないと分からない。
115 :
82:03/03/18 06:16 ID:N4DmZi4J
予備校がまし、という言葉について補足する。
これは、上の定義の国語力を習得することの効率がよいという意味だ。それは
受験に役立つというだけの理由ではない。大学でも、実社会でも、上記の国語
力は必要不可欠だからだ。
俺もそうだが、この社会で生きるほとんどの人間が、日々読みたくもない文章を
読み、書きたくもない文章を書かなければならない。その労力を軽減してくれる
ような能力こそ、第一に重要な国語力だと俺は信じる。
文章には非実用的な目的もある。文学や娯楽小説、2chもそうだな。こういう
ものこそ国語の本質と考える人は、上記の国語力の定義に反対するかも知れない。
俺は国語力の定義を上記のものだけに制限するつもりはない。だが、上記の国語
力を抜きにしたら、どのような国語力も成立しないはずだ。例えば2chで遊ぶこと
にすら不自由することは、
>>110で示したつもりだ。
まとめだ。
○国語力とは、
1.文章の内容を早く正確に理解する能力
2.問われたことに早く正確に回答する能力
○国語力はペーパーテストで、ある程度までは評価可能
俺はこういう国語力観を前提に、議論を進めようと思っていた。
時間ができたら、あと少し書きたい。
116 :
82:03/03/18 13:09 ID:hdsVbwDv
ここからは高校生は読み飛ばし推奨だ。
>>110ではこのスレの議論の展開に文句をつけたが、議論の内容自体には優れた
ものもあると思う。じゃあそれなりに満足しているかというと実はそうではない。
その理由は、学校の先生や教育関係者が来ていないようだからだ。
このままでは俺たちはトンデモになってしまう。
正統派との関わりなしに考察を進める人々をトンデモという。トンデモが
まともな議論を行えることはほとんどない。それは能力ではなく情報の蓄積の
問題だ。トンデモが苦労して出した結論が、正統派から見れば噴飯物であり、
歯牙にもかけられないのはどこにでもある光景だ。専門板の住人なら誰もが
知っているだろう。
また、議論に参加している人数が少ないことも大問題だ。例えば俺が京大関係者で
なくて、
>>89-91が大嘘だったらどうするんだ?他の複数の京大関係者が追認して
くれるまでは、俺の情報の信憑性は保証されないんだ。匿名掲示板での少人数の
議論には、こういう危険がいっぱいだ。
まともな議論が始まる前に、このスレを離れることになって、俺は少なからず
落胆している。
117 :
82:03/03/18 13:10 ID:hdsVbwDv
打ち明け話をしようか。
>>83に書いた3つのポイントに沿って議論を進めようとしていたんだが、一つ隠して
いたことがある。俺がこの議論を始めた目的についてだ。
実はそれは、俺自身の勉強のためなんだ。
俺は自分の国語力のなさを痛感してるんで、国語力を身につける方法を識者の
皆さんに教えてもらおうと思ったんだな。
識者を集めるには、知的な興味を持てる話を提供することが必要だ。ただ現状を
訴えるだけじゃなくて、それを新味のあるネタにまで練り上げなきゃならない。
あ、ネタといっても嘘じゃないぞ。議論の題材という意味だ。
そこでいくつかアイディアを考えた。俺は国語力は無いが、何か新しいアイディア
を出すのは得意なほうなんだよ。
つうことで、「国語力のある人 = 国語の国からの帰国子女」説を第一弾として
放り込んだわけだが、他に放り込む予定だった現状分析ネタを少し披露しようか。
・現代文の授業はホームルームと同じ。生徒はダラダラ意見を言わされ、最後は
教師の意見に従わされる。無駄な時間がかかる割に、生徒はほとんど納得できず、
教育効果がきわめて低い。
・学校とはデュルケームの言う選別所であり、その選別に一番最後まで残った
人間が教育者になる。だから教師は最初からシステムの既得権益者であり、
システム自体への批判能力を持たない。
(何かの本に載っていそうだが、読んだことはない。それらしく見えるよう
般教の知識をもとに俺が考えた。古臭い意見にすぎない可能性も高いな)
こういう挑発的なネタで現場の先生や教育関係者を釣って、俺を論破してもらい、
返す刀で理想の国語教育法について議論してもらおうと考えていた。その成果を
俺自身の勉強の参考にしようと目論んでいたわけだな。
118 :
82:03/03/18 13:13 ID:hdsVbwDv
教育法として議論していただこうと思っていたのは、例えば以下のようなものだ。
・従来の学校教育
・アメリカのリテラシー教育
・予備校の現代文の教育
・公文式の国語教育法(これは、あなどれないぞ!)
・旧時代の読書百遍の教育
ところが今のところ、集まってきたのは、俺と同じ現状批判者ばかりだった。
80氏までがある意味で現状批判側に回ってしまったのは予想外だったな。
こういう批判者ばかりを体制側が論破するのはしんどい。しんどい割に俺の
ようなDQNを論破したって金になるわけじゃないから、損益勘定から言って
ここに先生がわざわざ来る理由はないわけだ。
金にならなくても知的関心で集まってきてくれればよかったんだが、俺のネタに
魅力がなかったらしい。このスレに来ている皆さんが今後ともネタを出して
もっと人を集めてくれることを願うよ。
まだ書くことが残っている。間に合うかな。
119 :
82:03/03/18 14:07 ID:JJpL0mF3
最後に、意見をくれた皆さんへのレスを書こう。
>>93 専門用語を書きたい気持ちはよく分かる。議論の抽象度が一気に増して、書きながら
思考内容がどんどんクリアーになり、見通しが開けていく。すごい快感だよな。
だけど門外漢の読み手には専門用語はコショウみたいなもんだ。少量なら風味が
増すが、多すぎたらとても食えない。抽象化の誘惑に抗して、読み手を考えた文を
書くことをおすすめする。内容自体は興味深い。
>>95-96 あなたの意見自体はいいと思う。俺もずいぶん参考になった。
だけどその論理展開はどうよ?いきなり初手から
>京大生でもその程度なのは、単純に、現場が、解釈型国語と、受験国語の双方に両
>極化しているからだよ。
どう見ても根拠がない。なぜそれが京大生の国語力が低い原因と言い切れる?こう
いう書き方は、京大生の実情をよく見聞きした人以外はやっちゃいかんだろう?
他の主張も独断的すぎる。自分の経験を普遍化しすぎていると思う。
120 :
82:03/03/18 14:08 ID:JJpL0mF3
>>101 個人的に一番興味深い内容だった。現行の国語教育に欠けているものの一つを
鮮やかに説明してくれた。国語はきわめて扱う範囲が広いから、こういう問題が
出てくるんだな。専門家とお見受けする。俺の議論にあまり付き合ってくれな
かったのが残念だ。
以上お三方の特徴は、俺のレスにまともに応じていないことだ。
例えば俺は「まず現状分析をしよう」と言っているのに、とにかく自分の考えた
解決策を主張してくる。
ただし
>>101氏には注釈が必要だ。話を変えると断っているし、おそらく意図的な
ものだ。単なる現状分析には実りが少ないと思ったのかも知れない。
121 :
82:03/03/18 14:11 ID:JJpL0mF3
>>102-103 見事なレスとしか言いようがない。内容はちゃんと現状分析だ。しかも表現がすごい。
俺の「学校では有効な国語教育が行われているのか?」という問題提起に対して、
「方法を教え教育するのではなく、実践を積ませることで体得させる」という
教育が一つは行われていると回答しているわけだが、それを説明するのに、俺の
帰国子女という比喩に乗っかって、英会話学校を持ってくるという巧みさだ。
どうしたらこういう国語力を身につけられるのか、教えてもらいたいよ。どうやら
80氏も国語の国の帰国子女らしいんで、それは俺の望む形ではかなわない気がするが。
(本を読めってのはナシな。俺は本は読んでるんだよ。厨房の時には純文学を
手当たり次第に読み漁った。一番ハマッたのが安部公房だったのがまずかったの
かも知れない)
今後、議論を続けられるなら、国語が好きで得意な人の視点だけでなく、文章が
苦手だが生活のために関わらざるを得ない人の視点も取り入れてほしい。心から
お願いする。
何だかんだ言って、けっこう書いたな。
ということで、みなさんご意見ありがとう。たぶんもう来ることはない。
Adieu!
…もう来ないのか。出題と回答との対応関係にフレーム制限(「正答は一つ」とか)を
設けるなら、そりゃ確かに機能主義的だわな。結局「テストが総て」ってな訳だ。
「よく理解し対応する必要がある」中身もそうだ。「どういう形式で」の方はともかく、
他の前提は一方的に過ぎる。「彼らがなにを知っていてなにを知らないか」を問うなら、
問われた方は「彼ら」について「なにを知っていてなにを知らないか」。既にここで破綻
しているではないか。互いが掌の中で転がし合う幻覚の下、制限の連鎖が回答の幅をどん
どん狭めていくと、最後は多様性も可能性も自家中毒を起こす。「どういう内容の話を聞
きたがっているのか、聞く用意があるのか」の条件を満たさない者は排除。一問一答式テ
ストならそれもよかろう。しかし口頭試問やAI入試の場合はどうか。
「国語力」の解釈に至っては、映画「猿の惑星」の審問「なぜ猿は人間より賢いか」と
そっくり。猿は「どういう内容の話を聞きたがっているのか、聞く用意があるのか」〜そ
んな事は(映画中の)知的人間の歴史と何の関係もない。これと同様に古典と現代文との
絆を排除すると、「読むにも書くにも精密な検討を要求される段階」がどんなふうに定立
すると云うのか。内なる異物としての過去を排除してまで、なりふり構わず帝国主義的な
社会言語学にのめり込むのか。もちろん「作者に国語力がない」例は沢山ある。昔の人は
大抵そうだ。なにしろ当時は「国語」そのものがなく、多様な方言と実験的規範の洗練・
蓄積、諸々の横断があっただけだから。
接点となる語句を鏤めたにもかかわらず、「レスにまともに応じていない」とはどうい
う事だ。「猿の惑星」同然に準拠すればよいとでも? 「正確に理解する」ってのがどう
いう事か、国語辞典を見れば大雑把に予測できる筈。不充分な情報のまま循環する「言い
換え」のセリーであれこれ組み直す際、接点を手がかりに「完全な中心」を見ようとしな
い限り、元のコンテクスト=意味の中心も見えてこない。そもそも存在しないのに、理念
的には確かに中心であるかのごとく機能しているからこそ、中心が中心として見えてくる
のではないか。台風の中心に居ても、「実感としての台風」ってのは見えるものなのかい?
123 :
3=80:03/03/18 22:00 ID:2BQhLf0H
124 :
だが断る:03/03/20 02:31 ID:B8qWZW38
国語ってさあ、なんつうか「言語能力」に関するものと「文学的教養」に関する
ものがごっちゃになってる気がするんすよね。
別の科目としてきっちりわけてやって欲しいっす。
125 :
_:03/03/21 13:24 ID:6woWxw/a
>124 うーん。
前にも書いたような気がするが、「すでに両方なされている」なら、
別授業にする必然性つーのはどこにあるんだろう、と思ったり…。
「両方とも中途半端」ってだけなら、両方きっちりやればいいので
はないかと思ったり。
126 :
_:03/03/31 00:35 ID:9lPivNRR
良スレage
127 :
実習生さん:03/04/01 20:41 ID:Xh817gkb
128 :
山崎渉:03/04/17 11:02 ID:niiMTp/T
(^^)
129 :
山崎渉:03/04/20 05:34 ID:JBwgToZ1
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
130 :
山崎渉:03/05/22 01:36 ID:THHwtr3N
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
国語教育ねぇ。
国語の試験の点数が良い高学歴でも
国語力のない人はいるからねぇ。
ふつうに新聞や小説が読めれば問題ないんじゃないの。
漢文や古文なんか読めなくても不自由しない
という点では数学と同じ。
それとセンター試験の国語はあれは酷いね。
国語教師の大半が国語好きだから、たぶん状況はほとんど変わらん。
133 :
山崎渉:03/05/28 16:13 ID:4m1Rg7x3
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
134 :
実習生さん:03/07/07 02:26 ID:euNHPusR
落ちそうだね。あげとくかな。
135 :
山崎 渉:03/07/15 12:20 ID:P3JL3roR
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
137 :
実習生さん:03/07/25 05:37 ID:V5JMkVNx
>>132 結局そうなんだよな。
文学オタクみたいな奴ばっかりだから、「古文がつまらない」「古臭い戦前の小説なんか読みたくない」と言ったって、議論が平行線を辿るのは必死。
神学者と物理学者、軍人と反戦運動家が議論するのと同じ。
進学校の生徒はどの教科の授業だって真剣に聞くから、教員も生徒が自ら興味を持って取り組んでると勘違いしてる。
受験のために自分を殺してるだけだってーの。
138 :
私立高校2年目(非常勤):03/07/30 01:55 ID:rV+T3MOh
あげとくぞ。
おまいら!もっと議論せよ!
おまいらの脳みそはそのてーどか?
139 :
実習生さん:03/07/30 09:59 ID:V3dhxBFB
よ○こモナー
140 :
実習生さん:03/07/30 15:28 ID:2CObmYjx
小学校では国語の授業を大幅に増やし、そのかわりに高校の国語を選択科目
にするという案が浮上しているそうですね。
個人的には、高校時代の国語の授業は「文学鑑賞」または「暗号解読」だった
ので、選択科目にしてもよいとは思います。
141 :
国語教師:03/07/30 20:50 ID:OmGjF6zy
>>137 >受験のために自分を殺してるだけだってーの。
毎度、卒業していく生徒に「先生の授業は面白かった。」っていわれるよ。
もちろん現代文も古文も漢文も全部やる。進学校だから3年の後半なんか当然
問題集込みの受験対策型授業だった。
きっといい先生にあたらなかったんだ、その点はお気の毒さま。
>>140 別に選択でもいいけど、国語力が低いゆえに指導を受ける必要がホントはある人ほど、
敬遠するに決まってる。だから国語関係の必修を減らし(ていうか必修をゼロにする
という話なのかな)選択科目分を増やせば、結果としてハイティーンの国語力の
総和は確実に落ちる。それでもいいというなら。
文学鑑賞意味がない?文章パズル解き意味がない?
意味があることに気づけなかっただけで、無意識レベルで身についていることが
あるのかもよ。自発的にはとうていやるはずのない作業を、それでもやってきていた
からこそ、各自の「今の程度」があるのかもよ。それが完全になくなったとしたら・…
「ベストキッド」って空手の映画が流行ったっけ。少年が東洋人の老人に雑巾による窓拭き
か何かをやらされてて、「ほんとの修行をさせてくれ」っていうんだよね。
でも実は、雑巾がけの際の両手の円運動が自然と型の基礎訓練をかねていた、っていう
エピソードがその映画の中にある。
>>141 ズルいなあ。そういう奥義みたいなことを言われると、誰も反論できなくなっちゃう(w
個人的には、「ふーん。じゃあ、最初から教師用指導書でも、みんなに配ってよ。
勝手に読むから」としか思わない(w
そうそう。まあ貴方は違うだろうけど、「たましいを育てる」とか言い出すタイプの
国語教師って、なんとかならんかね? こういうオカルトって、誰の影響なんかね?
143 :
国語教師:03/08/01 00:41 ID:04oDbkq+
>>142 >個人的には、「ふーん。じゃあ、最初から教師用指導書でも、みんなに配ってよ。
>勝手に読むから」としか思わない(w
この言葉が返ってくるってことは、国語の指導書をみたことがないんだろね。
(教師か教師の親兄弟でも持っていない限り見たことないのが普通だろうけど)
一度見せてもらうといいよ。びっくりするほど「授業に使える事は何も書いてない」。
時間配当案(こんな時数でできるか!)とか、段落わけ案(しばしば不満)とか、
細かい字句の解説とか(私が知りたいと解説してほしいと言葉に限って触れられてない)、
編集者がこの教材を採用した理由とか崇高な理念とか……そんな感じ。
多分生徒が読んでも授業できるようにはならないし、授業受けたのと同じ効果はないよ。
念のために言っておくけど、私は自作教材派ではないよ。ちゃんと教科書すすめる。
ちなみに、書店でよく売ってる教科書ガイドは、出版社が指導書をどっかから手に入れて、
おそらくは大学生バイトかなにか使って縮小再生産したものです。だから実は
けっこう間違いが多い。定期考査の記述問題を減点したら「ガイドにはそう書いて
あった」って来る子がたまにいる。説明すれば「ああ、そうか。」って生徒にも
わかっるようなミスばっかり。
144 :
国語教師:03/08/01 01:16 ID:04oDbkq+
続き
>そうそう。まあ貴方は違うだろうけど、「たましいを育てる」とか言い出すタイプの
>国語教師って、なんとかならんかね? こういうオカルトって、誰の影響なんかね?
教育である以上、たましいを育てるってのは大事なことだよ。
私も実はそれをやってるつもり。
国語で育てるたましいは、本居宣長の言った「やまとだましひ」に近い精神。
(私はウヨではないからね、これも一応念のため。)
別に大学入試対策的な授業とも矛盾はしない。入試問題を解く、という作業に
かこつけて、いくらでもやり方はあるし。生徒が卒業して何年もたってそれぞれの
人生を歩む中で、何か迷ったり悩んだりした時に、私と読んだ教材の内容とか、
教材を読むときの筋道のたどり方とかがふと思い出され、それを判断の足しにして
もらえるような……そんな授業が私の目標とする授業です。
「たましいを育てる」という言葉がうさんくさく聞こえるとしたら、えてして
やってる人間(国語教師)がその言葉に見合うだけのことをしていないのじゃないのかな。
145 :
142:03/08/01 03:55 ID:dBEI1xTt
>>143 さいでつか。参考になりまちた。
>>144 貴方の努力に水を差す気は無いのですが、個人的に、そうした「教育する善意」に
対しては、極度の嫌悪感を覚えるタチなもので・・・これ以上、レスしても平行線でしょうね。
>>144 >教育である以上、たましいを育てるってのは大事なことだよ。
>私も実はそれをやってるつもり。
>国語で育てるたましいは、本居宣長の言った「やまとだましひ」に近い精神。
キモイ・・・・・。
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
148 :
国語教師:03/08/02 22:59 ID:tSvQzEIU
>>145 あなたに「善意」という解釈しかでてこない段階では、お察しの通り、平行線となるでしょう。
(私はこの仕事、一個人としての趣味の一環としてやっているわけではないのだけれど)
>>146 あなただって、例えば赤ちゃんの口に離乳食とかを運び、「おいちいねー」って声を
かける母親の姿を見たことはあると思うけれど、たましいを育てるってのはそういう
ことだ。146のコメントは、これに対して
「あかんぼに言葉がわかるかよ。うまいかまずいかなんか本人しだいじゃんかよ。
大人のくせに『おいちー』とか言うなよ、キモ。」
っていうようなもの。
虚学という言い方はかんべんしてほしいけれど、国語で学ぶ内容が「いわゆる実学」
でないのは確か。即物的な人(ダイエットに、食生活全般の改善ではなくダイエット食品の
摂取やエステ、脂肪吸引を選ぶ人みたいな人)には、我慢できない面もあるんでしょう。
149 :
142:03/08/03 01:20 ID:QvXsyGqj
>>148 残念ながら、私に反論する理論はありませんが、別に即物的見地から批判している
訳では無いのです。
甚だ飛躍致しますが、例えば、情緒だの伝統だのと言った類のモノの制度的側面につ
いてちょっとでも考えると、「たましいを育てる」だのと言ったことは安易に言えなくなると思うのですよ。
教育とは、ある種の型を覚えさせる反復行為に他ならない訳ですが、この行為に潜
む恐ろしさをも自覚してしか、教育は有り得ないのではないでしょうかね?
まあこのあたりは平行線でしょうね。私にこれ以上の理論はありませんので。
150 :
146:03/08/03 02:51 ID:6OQXCk6n
>>148 >虚学という言い方はかんべんしてほしいけれど、国語で学ぶ内容が「いわゆる実学」
>でないのは確か。
あなた国語の先生のくせに形式論理学のイロハも知らないようですな。
実学と虚学という矛盾概念に中間はないですよ。
実学じゃないなら虚学。
虚学じゃないなら実学。
それに古典教育の押し付けの話を赤ん坊の餌付けだのダイエットだのに例えたって問題のすり替えでしょう。
高校生は赤ちゃんじゃないんだから。
151 :
148:03/08/03 10:00 ID:x/CDCxs0
>>150 おや、レスどうも。気に障った?スルーしようかと思ったんだけど……
国語の扱う範疇には哲学も含まれるので、論理演算のなんたるかくらいは知ってます。
(もちろん、大学文学部等で般教レベルを超える記号論理学を学んだりはしないけれど)
むしろ「いわゆる実学」の「いわゆる」に注目せずに一足飛びにケイシキロンリガクなんて
言葉だして来る時点でハァ?ですわ。
「高校生は赤ちゃんじゃないんだから。」の言葉が出るのも同様。
比喩を交えて気楽に議論するのでなくカチッといきたいなら、実学・虚学の定義に基づいて
高校国語の実学度を割り出すところからいかないと。そして私なら、それを1またはゼロと
は割り切れない。もちろん0.5よりは低くなると思う。とはいえ、本格的なファジイ理論に
ついては明るくないので、あなたが専門的にそれを学んだことがあるなら、私は残念ながら
骨のある論客となることはできないのだけど(その点は申し訳ない)。
ちなみに、国語教育で修得が求められる能力は、大雑把に言って「話す」「聞く」「書く」
「読む」「言語事項(知識)」の5つです。
あと、宣長の名前を出したからといって、私が古典学習の話だけをしていると読んだなら
それはあきらかにあなたの誤読。
152 :
146:03/08/03 11:19 ID:BVUI4nj0
>>151 私もファジー理論なんて習得してません。
それではあなたの言うように高校国語が実学・虚学であるかは、中間項を含む反対概念であるとしましょう。
実学の定義は「習得した知識が将来の職業生活に直接的に役立つ、体系を持った学科」ということで。
あなたが挙げているもののうち「話す」「聞く」「書く」「読む」能力は基本的に同義語反復だと思っていいですか?
要するに与えられた言語の内容を理解し、自分で表現する能力ということでしょう?
これは義務教育終了までにも膨大な時間をかけて訓練したことですよね?
「言語事項(知識)」の能力というのは、古典文法と古語・非常用漢字の語彙のことですか?
私の理解が正しいか判定して下さい。
153 :
148:03/08/03 20:42 ID:qsRDWOuu
>「話す」「聞く」「書く」「読む」能力は基本的に同義語反復だと思っていいですか?
え?なぜそうなるのかな。上記の4つは[理解|表現]×[音声言語|文字言語]の組み合わせで、
音声 文字
理解=聞く 読む
表現=話す 書く
それぞれ独立した能力なので(失語症の研究でもぐぐってみればすぐ納得できるはず)、
各々深く連携を持たせつつも厳密には別個に訓練してゆくべき要素。
>これは義務教育終了までにも膨大な時間をかけて訓練したことですよね?
そのはずなんだけど、実際取りこぼしの多い少年もいて、ちゃんと入試で選抜されて
中堅〜底辺高に集まってくる。そういう学校では小・中の学習内容をやり直すところから
カリキュラムがちゃんと組んである(その点は国語に限らないけど)。
中学の内容をそこそこ修得済みの生徒は進学高またはレベルの高い実業高にくるので、
そういう生徒には、中学の段階より進んだレベルが(課程に忠実に)要求されるということです。
154 :
148:03/08/03 21:10 ID:qsRDWOuu
続き
>「言語事項(知識)」の能力というのは、古典文法と古語・非常用漢字の語彙のことですか?
もう一度いうけれど、なぜ古典にこだわるの?
例えばあなたが
>>152で使った「実学」「概念」「語彙」という言葉、これみんな
中学では深く扱わない高校レベルの現代語単語です。(中学の時使えてた?)
理科や数学もそうだと思うのだけど、高校で要求されるレベルは、実生活で直接的な
形で役立つ「いわゆる実学」を本来超えるのです。それを「虚学」というなら、
高校のほぼ全教科が虚学の領域に踏み込むわけ。
三平方の定理とか、オームの法則とか、酸とアルカリの違いを理解してないと実生活に
困ることも多いと思うけど、行列式とかプランク定数とかは大多数の社会人にとって
実生活には縁のないもの。
でも実は高校ではむしろ、<虚−実>の対応でいえば、理科においては<理学−工学>のうちの
理学の方を、社会科公民においては<経済学−商学>のうちの経済学の方を学ぶんだよね。
国語と数学も、日常生活に即効性ありやなしやの観点からすれば「虚」に傾く。
五教科のうち英語だけは比較的実学的なものに傾いている(特に新課程になってから一層
コミュニケーションの力重視となった)。
問題は、数学理科社会は、虚学的な学習をしているにも関わらず、一般の人にもそれが
大学等へ進んだ後に待っている実学(工学・医学・商学・法学etc.)の基礎となることを
比較的容易に認識している。
それに対して高校の国語は、虚学の代表格である文学や言語学・哲学・美学と対になる
「実学」を想起しにくい。学習者が「一体なんのためにやっているのか」という疑問を
自力で解決しづらい教科なんだと思う。
155 :
146:03/08/03 22:37 ID:XEW94gA0
>>154 >問題は、数学理科社会は、虚学的な学習をしているにも関わらず、一般の人にもそれが
>大学等へ進んだ後に待っている実学(工学・医学・商学・法学etc.)の基礎となることを
>比較的容易に認識している。
確かにそうですね。
高校レベルの基礎学力は大学その他に進んで、実学を学んで初めて役に立つものですね。
高校の数学理科社会はそれだけ切り離しも実学であるという私の認識は誤りでした。
ですが、が。
古典文法や数千もある古文単語や、漢文で使う非常用漢字を覚えることが全員に強制されること、国文科以外の入試にも課されることの必要性は、私にはどうしてもアクセプト出来ません。
またインテリが空語を散りばめた、独善的で観念的な評論文をパズル的に読解しなければいけないのもおかしいと思います。
本来いい文章というものは、科学的に証明可能なことだけを出来るだけ簡潔に記述したものである筈です(「語りえないことについては沈黙しなければならない」という論理実証主義者ウィトゲンシュタインの言葉を想起して下さい)。
それなのに教科書で使われている教材、センター試験や有名私立大学の入試現代文で課される評論文は全くその逆をいくものです。
何故なら、簡潔で分かり易い文章を問題にしても差がつかず、選抜に役立たないからです。
156 :
148:03/08/04 00:36 ID:UaOSk2/v
寝る前に。
>ウィトゲンシュタインの言葉を想起して下さい
後期のヴィトが『論考』(二十代の時の著作)を自己批判していることはご存知?
>簡潔で分かり易い文章を問題にしても差がつかず、選抜に役立たないからです。
これそのまま数学の入試問題にもあてはめられる言葉だと思うけれど。
>インテリが空語を散りばめた、独善的で観念的な評論文
あなたがこのように判断しちゃうことこそ不思議だなあ。私など、入試対策の授業の中で
偶然触れた文章の断片に感銘を受け、あるいはそこまでゆかずとも興味がわいて、その人の
著作を求めて読むに至ったこともある。ま、もちろん中にはスカとおぼしきものもある。
>本来いい文章というものは、科学的に証明可能なことだけを出来るだけ簡潔に記述した
>ものである筈です
あなたは洋の東西を問わず、思想史そのものを否定しようとしている。
高校で学ぶ古文漢文の意義については、古文漢文板で、あなたと同じ気持ちの
人のカキコに対して必要派が論陣を張ってるからほじくってみるといいよ。だから
ここではそれは略すけど、
>古典文法や数千もある古文単語
これは勘違い。必須の古文単語は、相当なレベルの大学入試対応でも600語程度です。
センター160点目標なら300語でもいける。
>全員に強制されること、国文科以外の入試にも課される
これについても、よく調べれば古文漢文を必須とする大学は少ないことはすぐにわかる
ことと思う。
高校の授業で入試レベルの学習内容「修得」を「強制」する先生は少ないと思うけどな。
「履修」と「修得」の違いについてはわかりますよね。
157 :
148:03/08/04 01:03 ID:UaOSk2/v
↑の後半で言いたかったこと、言葉が足りなくて伝わってないかも。
要するに、(好き嫌いはともかく)高校でやる程度の古典なんて、たいした負担ではないよ。
といいたいのです。
「それは貴方は得意だから…」という反論が聞こえてきそうだけど、私だって、
高校生の頃虚数の計算やら行列式やら順列組み合わせやらをやらされて来て、
正直消化しきらなかったけれど、私はそれはそれで受け入れてきた。
おかげでホーキングの本(もちろん一般向けね)なんか読んで「虚時間」なんて概念が
出てきたり、ゲーム理論の話なんかが出てきても漠然としたイメージを湧かせること
ぐらいはできるみたい。別に今の仕事してる分にはそんなことのイメージなんかできなくても
それまで、給料が変わったりは全然しないのだけど、でもできるとできないのとでは
自分の見ている「世界」が明らかに違っているはずと思う。
158 :
146:03/08/05 06:14 ID:eZGU7QWp
それじゃ最後に小説についてお聞きしますが、何で現代文の先生って純文学ばかり推奨するんですか?
鴎外を読め、漱石を読め、って何とかの一つ覚えみたく。
国語の先生は岩波書店から金一封を受け取ってるんじゃないかとか、疑いたくなりますよ。
僕らの親の世代から変わらない。
僕に言わせりゃSFとか刑事小説とか、そういう大衆文学のほうがよっぽど人間の実生活を生き生きと描いてると思いますけどね。
今の高校生で純文学なんか読んで本気で感動してる子なんて、文学的センスがあるというより少し「おかしい」と思いますよ。
高校生が主人公の青春小説とか、そういうものが教科書に載ってれば面白いんですがね。
159 :
146:03/08/05 06:40 ID:eZGU7QWp
それとこれは余談ですけど、高三の時の現国の先生(二十代前半の♂)が「椿姫」の授業の時いっぱしに恋愛論みたいなことを語るんですけど、「絶対こいつ童貞だよ」みたいなことを言ってみんなで馬鹿にしてた。
そういうところでも、実体験ではなく他人の体験を通して「感受性を高め」るような過程に、虚偽を感じていた。
160 :
148:03/08/05 20:44 ID:0rggeqYQ
朝の6時にカキコのあなたは何者……ま、それはどうでもいいとして。
大衆文学やSF「の方がよっぽど」人間の真実を語っているなんてことはないわけで。
大衆文学やSF「の中にもしっかり」人間の真実を語っている物語はあります。
ただし、多くの大衆文学やSFにおける人間構築は、純文学の世界で「すでに試みて成功した」
物語のオイシイところをちゃっかりいただいてるってやつがけっこう多くて、それに
SF風味や推理風味をまぶしてあるわけ。風味を除けば単に純文学の名作のエピゴーネンでしか
ないような物語が、それでも風味がある分だけ、純文学のエピゴーネンよりは読めるという
だけなのかもよ。ああ、この構図、マンガやアニメの世界でより顕著かもしれないな。
時期を同じくして映画化されたファンタジー物の例でいうと指輪物語とハリーポッター、
(日本語訳しか読んでいないのだけれど)読み返す価値があるのは指輪物語、ハリポタは
確かに面白いけれど、すでに年をくって様々なジャンルの様々な物語に触れてしまった
私にとっては、「いつかどこかで読んだ話」の域を出ない、つまりエピゴーネン。
よく生徒に話を振るのだけど、「今自分達が夢中になっているもので、1000年後に
残ってるものってあると思う?映画でも歌謡曲でもゲームでも何でもいい。」
千年後の書店(図書館ではなく!)の店頭に、20世紀に作られた物語のうちいくつの
ものが並んでいると思いますか。
高校で覚えさせられる近代現代文学史に名が連なるほとんどの人・作品は、千年後の
書店の店頭にはないと思います。現在出回っている多くの大衆文学なども。
源氏物語や枕草子は千年の時に耐えた作品ということです。(まさに今現在売ってるもの)
個人的には、漱石は千年に耐えると思います(もちろんその頃には「現代語訳つき」)。
鴎外は正直微妙。
そもそもの疑問は「何で現代文の先生って純文学ばかり推奨するんですか?」でしたっけ。
答えは「なかなか読んでくれないけど読む価値のあるものだから。」
161 :
148:03/08/05 21:07 ID:0rggeqYQ
>>159って、もしかして「椿姫」じゃなくて「舞姫」のことかな?
余談につっこむのも野暮な話と知りつつも。
言語を持った人間が他の動物よりわずかに優位な点のひとつが、「記録/伝達された
他者の実体験を知ることによる疑似体験が自分を実際に成長させる」ところです。
日常的に女を抱いていても恋愛を語る資格のない者だっている。(最近逮捕された
早大生の集団が語る恋愛談義だったら聞くに価する?)
「感じていた」という書き方ですが、少年期特有の気持ちを懐かしく書いているので
なく、今も変わらない思いなのであるならちょっとひいてしまうんですが……
162 :
146:03/08/05 23:05 ID:up4wckdM
>>160 >多くの大衆文学やSFにおける人間構築は、純文学の世界で「すでに試みて成功した」
>物語のオイシイところをちゃっかりいただいてるってやつがけっこう多くて、それに
>SF風味や推理風味をまぶしてあるわけ。
いや、いや、僕はその考えには同意しません。
SFやハードボイルドの作者の多くは高等教育を受けていないマージナルマンタイプが多く、名作なんて一度も読んだことがないような人が殆どです。
おそらく先生のようなインテリは、現代のSFに用いられる
「俺の経験では体のパーツを一つずつ吹っ飛ばしていくと、尋問に対する答えが正確になる傾向がある」
といった暴力表現を読むと思わず顔をしかめ、「こんな物はR指定にすべきだ」と言い出すでしょう。
僕が大衆小説にこそ人間の真実が描かれているというのは、SEXやバイオレンスのような動物的本能が描写されていて、現場にいるような即物的な興奮を得られるからですよ。
完全に物語の主人公になって、十二時間ぶっ通しで読む事が出来るんです。
ちなみに僕は作者の心情吐露を主体にした暗い純文学が嫌いなのであって、ドストエフスキーやビクトル・ユゴーや、プロレタリア文学は好きです。
小林多喜二の「我々の芸術は、飯が食えない人にとっての料理であってはならぬ」という言葉が正しいと思います。
真の文学とは、文学部の教授や学生だけでなく、土方のおっちゃんにも理解出来る物ではないでしょうか。
163 :
148:03/08/06 01:30 ID:MJjlBxbS
>>162 高校国語からは話がどんどんずれてしまうけれど。
「俺の経験では……」という表現の持つ暴力性の話は、SFというジャンル自体とはまったく
無関係な話ですね。ついでに言えば、性描写や暴力的な描写が単に「刺激」の域を出ていない
し、それ(刺激ね)を求めて読む人を狙った大衆小説の方が断然多い。それは言わば、
火曜サスペンス劇場「湯けむり殺人事件」(←今てきとーに作ったタイトル)に必ず出てくる
「露天風呂で旅行中の女子大生グループと混浴」シーンと同じ。人間の持つケモノ的な部分を
あからさまに書けば人間の真実に迫っているという考え方は正しくないよ。
このあたりはヌード写真の芸術性/わいせつ性の問題にも似てると思う。週刊ポストの
グラビアに芸術を求める人はいない。一方で、ヌードでなければ写し取れない人間の一側面が
確かに存在することも事実。
>小林多喜二の「我々の芸術は、飯が食えない人にとっての料理であってはならぬ」という
>言葉が正しいと思います。
プロレの人々は彼等の運動の手段(つまりプロパガンダ)として文学を利用していた
のだから、上記は「我々の」という言葉をちゃんと受け止めた上で理解しないと。
>真の文学とは、文学部の教授や学生だけでなく、土方のおっちゃんにも理解出来る物では
>ないでしょうか。
その土方のおっちゃんが本当に人間の真実を文学に求めるなら、ちまたにあふれる大衆小説
だけではきっと満足がいかなくなる。
おそらく私とあなたとで、「文学」という言葉が指す範疇が違っているんでしょう。
私のいう文学とは、単に娯楽の一種のことではないです。だからこそ学校教育で扱うんだけど。
164 :
146:03/08/06 17:36 ID:PiNxnj2S
要するに先生は帝政ロシアのように、文学者が大衆の精神的指導者になるような社会が理想なんじゃないですか?
これは主観的には善意の考えのようで、客観的には下劣な支配欲の表象に過ぎませんよ。
プラトンは哲人政治を、教皇は教会国家を、オフィサーは軍事独裁を、エンジニアはテクノクラシーを望むのと一緒で、自分達に権力と経済力が集中するのを密かに狙ってるに過ぎない。
先生は文学者という現人神の司祭になって権力を振るおうとしてる邪悪な人間ですよ。
>>164 まあ公平に言って、このセンセはよく勉強されているとは思いますけどね。
>文学者という現人神の司祭になって権力を振るおうとしてる
ちなみに、この類の人間がいまだに跋扈するのが、日本の「文壇」と文芸同人誌の
世界ですね(w 各々ベクトルは違いますが、プロ・アマの作家から大学教授・国語教
師に至るまで、文章に携わる人間にはこの手合いが本当に多いですな。恥ずべきことですよ。
166 :
148:03/08/06 21:22 ID:cTUpVRGN
ん、165は164(146)とは別人てこと?でも164の内容は同意って感じなのかな。
>>164 >文学が大衆の精神的指導者に・・・
この表現の中に、あなたが「作家」と「文学者」の区別をできていないことを感じるの
だけど。(もしそうでないならご容赦を)もちろん一個人がすぐれた作家と文学者を
兼ねる場合も少なくないけれど、前者/後者でしかない人も多い。概念的には別個の
存在です。
作家は、自分の信念とか目的に応じて自由に好きな作品を吐き出せばそれでいい。
文学理論なんか知らなくても優れた文学作品を残せる人もいるし。作家の創作活動って
のは(プロレなど一部の例外を除いて)とても個人的な営みなんです。
それに対して文学者は、作家達が提供した物語世界を理解し、その中にある美しいもの、
大事なものを掬い上げて人類共有の財産にまで昇格させることが使命となる。私は、
文学者が大衆の精神を正しく導くことができれば、それはひとつの理想的世界だと思いますよ。
その場合、文学者の「目」が正しいことが前提となるというだけ。
歪んだ目を持つ文学者が、言葉巧みに優れた文学の美点を換骨奪胎して、本来の作品が
持っていたのとは全然違う「良さ」として紹介することも可能。
作家でも文学者でもない人間が歪んだ目的(しばしば権力奪取)のために文学を利用して
大衆を扇動する可能性もあるってことでしょう。
あなたがブンガクに感じている危うさはまさに上記のような点に問題があるのであって、
文学そのものの罪では決してないんだってば。
現代社会の権力者の関心は、文学よりも即効性がある「メディア」操作に重点が
移っていますね。逆に言えば、文学はそうしたプロパガンダの道具の役割からようやく
解放されて、再び自由を得たんだと思っています。
167 :
146:03/08/06 23:00 ID:PiNxnj2S
もう駄目ぶぁい。
先生の「意志の力」には勝てましぇん。
先生はぽっくんにとって永遠の彼岸でしゅ。
誰か助けて下しゃ〜い。
168 :
165:03/08/07 01:34 ID:FgcCSWkD
>>166 だからそういう態度が「文学者という現人神の司祭」と揶揄されるんだってば(w
いかにもどこかの古い教養書にでも書いてありそうな、古典的な文学観・教養観ですなあ。まあ
この人は割と勉強しているようなので、これぐらいは言っても赦されるのかもしれないけど・・・。
個人的に、こうした教養主義は苦しくてイヤだね。真綿でクビを絞められているようだ。
169 :
_:03/08/07 23:54 ID:1XP8EnDs
オレは146も結構勉強してると思うが、この問題については独学の域を出て
ないように感じるな。
苦しくなって「おぼっちゃまくん」で逃げるあたりのハズし具合とか、特に。
(年齢がわかるなw)
148は、なるほどよく勉強してると思うが、どうもその言葉から「実際の生徒」の姿が
見えてこないのは不思議だ。
ま、いずれにせよ「高校国語の虚学化」という問題とはずれていってるような気がするな。
その点については、
>理科や数学もそうだと思うのだけど、高校で要求されるレベルは、実生活
で直接的な形で役立つ「いわゆる実学」を本来超えるのです。それを「虚学」
というなら、高校のほぼ全教科が虚学の領域に踏み込むわけ。 (154)
>高校の数学理科社会はそれだけ切り離しも実学であるという私の認識は誤りでした。 (155)
で終わってんじゃねぇの?
ついでながら、それでも146がかみついていた
「本来いい文章というのは、科学的に証明可能なことだけを出来るだけ
簡潔に記述したものである筈」(146@155)
「真の文学とは、文学部の教授や学生だけでなく、土方のおっちゃんに
も理解出来る物ではないでしょうか。 」(146@162)
には、自分の文章について語った
「どれだけ易しくしても、これ以上易しくしようがない限界というのがあるのだ」
という小林秀雄の言葉を献上しておきませう♪
久々に覗いたら、なかなか面白いじゃねぇか。
170 :
146:03/08/07 23:55 ID:w+lHvu6o
>>168 教養主義に先験的に追従しない、懐疑派の国語教師というものにお会いしてみたいものですな。
日本中探して10人いるかいないかだと思うけど。
171 :
148:03/08/08 01:46 ID:NmZrWJ8f
いつの間にか上がってる……
>>169 >どうもその言葉から「実際の生徒」の姿が見えてこないのは不思議だ。
当面の話題が純粋に文学論なんだから当然でしょ。私が教員であることを疑ってるのかな?
公立の学校で国語を教えてますよ。今は夏休みだから、夕方のひと時や夜中に夜更かし
しながらこんな所を覗きに来られるんです。
>>141なんか、実は高校国語の「実」の部分に触れるための前振りのつもりだったのに。
話がその手前の段階でこんなに込み入ってくるとは思っていなかったもので。
>>168(165)、
>>170(146)
改めて160番台を読み返してみたのだけど、現在の文脈における「教養主義」って何のこと?
文学者=現人神で司祭=私って解釈でいいのかな?それとも違うのかな。
ちゃんと考えたら、わからないことだらけになってきた。
私自身は「先験的」という語を「追従」の修飾語として使えないので、私の力量では
170の文章も何が言いたいかちょっと理解不能。懐疑派って、「判断は永遠に保留」
(∴感性に従って行動!)というニュアンスを含む場合もあるよな……
私は、あなた達が本当に言いたかったことを、実はよくわかっていなかったりして。
172 :
169:03/08/11 12:36 ID:wJRiyCww
>171
>
>>169 >>どうもその言葉から「実際の生徒」の姿が見えてこないのは不思議だ。
>当面の話題が純粋に文学論なんだから当然でしょ。私が教員であることを疑ってるのかな?
補足します。
漏れは文学論の話だけを取り上げていったわけではないのです。
大げさにいえば、あなたが146を「説得」できなかったことそれ自体を
問題にしたと言ってもいい。
あなたの言ってることは、おおむね論理的に正しい。特に169でも触れたように
154で述べてることはこのスレの結論といってもいいくらい。だが、非常に教条的
な内容をただ述べているに過ぎない、とも言えるんだよね。要するに、146の
問題意識をまったく汲み取っていないんじゃないかな、ということを軽く揶揄してみたわけ。
あなたは生徒と対する時も、こういう「書かれた正しさ」を前面に出して
話をしてるのかなぁ、なんて思ったわけさ。疑いなんて特に持ってない
(持つ意味を感じない、という意味でね)からその点はご心配なく。
じゃあなんで揶揄的に語るのか、というと、結局137の低レベルな愚痴に
つきあって、しかも教条的な答えを返してるだけじゃ、このスレの存在意義が
>>1から始まった糞レベルに戻ってしまうから。
せっかくこのスレに参加したのなら、あらためて
>>120以前くらいまで、
必死にこのスレを伸ばしていた>82さんの話を読み返した方がいいんでは
ないかな。現役の国語教師ならあれを読んで何かを感じると思うのだが。
173 :
148:03/08/11 23:06 ID:ftNhwQ2/
>>172(169)
正直に言いますが、私は146が表面的にもてあそぶ語彙の豊富さほどは、彼が内面的に
問題意識を持てているように思えなかった。
「嫌悪感・不快感」の類と「問題意識」は別物だと思うのです。
146に納得させるって、「おれの気持ちがおさまらねえ」という感覚を解消してやれ、
という意味ですか? 彼が私の生徒であるなら、今後のつきあいもあるからする。
生徒相手に話をする時は、もちろん相手の理解力レベルを考える。けれど、146に対して
生徒向けレベルの言いようで相手したとしたら、乗ってきたと思う?
対等な立場での意見交換を求めて来たように思ったので、そのつもりで応じた。
そしたら相手は尻をまくった。私の理解はこうなんだけど。
174 :
148:03/08/11 23:21 ID:ftNhwQ2/
続き
82以降、ちゃんと読んでますよ。
私が
>>141に書いたものを再掲します。
>「ベストキッド」って空手の映画が流行ったっけ。少年が東洋人の老人に雑巾による窓拭き
>か何かをやらされてて、「ほんとの修行をさせてくれ」っていうんだよね。
>でも実は、雑巾がけの際の両手の円運動が自然と型の基礎訓練をかねていた、っていう
>エピソードがその映画の中にある。
この中にある『「ほんとの修行をさせてくれ」っていうんだよね。』がこのスレに集う
多くの人に対して、私から贈る皮肉だったってこと、皆さん理解していたのかな。
私の立場からするべき話があるとしたら、まずはこれから始まるのです。
175 :
146:03/08/12 00:19 ID:WInk8IFP
>>173 >「嫌悪感・不快感」の類と「問題意識」は別物だと思うのです。
そうですかねー?
水が99.974度で蒸気になるように、問題意識の量的変化が一定限度を超えると嫌悪感・不快感に転化する、というのが僕の理解なんですが。
僕が感情的に駄々を捏ねているように取られるのは本意ではありませんなー。
>>174 >私の立場からするべき話があるとしたら、まずはこれから始まるのです。
しばらく茶々を入れないで聞いてますんで始めて下さいな。
176 :
165 :03/08/12 02:29 ID:bHNOAa7g
>>175 >この中にある『「ほんとの修行をさせてくれ」っていうんだよね。』がこのスレに集う
>多くの人に対して、私から贈る皮肉だったってこと、皆さん理解していたのかな。
そういう態度こそ「文学者という現人神の司祭になって権力を振るおうとしてる」態度
そのものなのだよ! その鈍感さが、他者を苛立たせていることに気づいて欲しい。
要するに、貴方の文学観・教養観は、昔ながらの日本的結社(短歌・俳句等)的態度
そのものなのだ。聖的なまでの奥義を身に着けた「師」がシモジモを睥睨し、弟子
はそれを有り難く押し頂かねばならぬ。
困ったことに、学校現場から地方のアマ文芸同人誌、さらにプロの文壇・ジャーナリズム
に至るまで、いまだにこの共同体的文章観は日本の文章世界を覆っていると言っていい。
177 :
165:03/08/12 02:31 ID:bHNOAa7g
極端な例だが、「文壇バー」はともかくとしても、なぜ、官僚・財界人まがいの作
家たちのゴルフ大会といった珍妙なモノが日本には存在するのか、よく考えて欲しい。
そして、こうした共同体的文学の最高峰こそ、芥川賞・直木賞なのだよ。
(念の為に書いておくが、独立した「作品」の質とは、またこれは微妙に違う問題
である。しかし、日本的文章の世界が、是非は別として、背後にこうした奇妙な共同体的力学を
抱えていることは理解して頂けないだろうか? むろん海外の実態までは私は知りません)
さらに悪いが、ここは2ちゃんねるなので、そうした指導的態度は大いに反発を買いますよ。
178 :
148:03/08/12 20:57 ID:aUFgn0EU
>>176-177 だから「文学者という現人神の司祭になって権力を振るおうとしてる」って……
この言葉自体に漂う衝撃的な雰囲気に、つりあうほどの中味はあるんだろうか。
現人神ってのは(人間で神のようなカリスマ性を持つ者だからこれが)文学者、
司祭ってのは(その神を祭る人だから)国語教員ということかな。
つまり虎の威を借る狐って理解でいい?
(上の言葉には第一次の表現者としての作家の位置付けもないね。あなたも作家と
文学者を区別しないということだろうか。私には、作家=現人神、文学者=司祭という
揶揄であるなら結構有効な気がしないでもない)
文学者の権威を押し出して授業を進める教員ってのは少ないと思うけどな。もちろん
詩や小説教材を扱う時は、もちろん文学者の分析を(直接、間接に)ふまえる。
でもそれは、別に国語に限らないことです。
それなのになぜ皆、数学の教員に対しては「数学者という現人神の司祭になって権力を振るおう
としてる」と不平を言わないんだろうか。←問題はここにこそあるわけです。
共同体的文章観?……「観」の話で対抗しようとするから話がややこしくなるんじゃないか。
高校国語の問題が本当にそんな大それた根っこまで掘り下げないと解決できないものだなんて
本気で思っているのですか。
だとすれば残念ながらピントがずれてる。私の言うことを「指導的」と感じるあたりも含め、
あなたの個人的体験に根ざす「教師観」の曇りを拭った上でもう一度私のスレと
対峙してください。別に、生徒に説教たれてる気分で書いているつもりはないのです。
179 :
148:03/08/12 21:18 ID:aUFgn0EU
最後から2行目、「私のスレ」じゃない、「私のレス」だった。
>>175 >問題意識の量的変化が一定限度を超えると嫌悪感・不快感に転化する、というのが僕の
>理解なんですが。
直感的に考えても逆じゃないかな、と個人的には思うのですが。初めに感覚としての
違和感があり、それを克服すべく冷静に(←これが大事)分析することで問題意識にまで
高まるというのが流れではないかと。
それにしても
>水が99.974度で蒸気になるように、
こういう枕詞がなぜつくのかな……99.974℃というのは沸点(1気圧の場合)です。
すべての水分子が液体でいられなくなる温度ということ。水分子の蒸発自体はその温度
以下でも起こりますね。100度といわずに細かい数字を出すことで何らかの表現効果を期待
したということかな……細かいツッコミを入れられる隙にもなる。
↑↑↑訂正ついでに書いてみただけ。気を悪くしたらごめんなさい。
180 :
146:03/08/12 22:32 ID:LP+nCVYX
>>178 僕も
>>165も文学者=作家というニュアンスで言ってる筈ですよ。
「大辞林(三省堂)」によると
文学者
@文学を創造する人。詩人・作家・劇作家など。
A文学を研究する人。
となっている。
Aの意味にしか取らないあなたの定義の方が異常じゃなくて?
だから僕が言う真意は
現人神(いわゆる文豪)の司祭(国文学科教授・国語教師)になって権力を振るおうとしてる(教養主義の押し付け)
という意味。
181 :
148:03/08/13 00:22 ID:ym1NM8NV
ありゃ、詩人・作家は文学者ですか。じゃ、以降その意味で行きます。
しかも、むしろ(2)の意味は限りなく無視という前提も含むのかな。
そうでないと司祭に文学研究者である国文科教授を含めると文学者の司祭も文学者
つまり(文学者が文学者を祭る)になってしまう。
ついでだから、148が文豪を実際にどう評価しているのか、しばらくこだわっている
この言葉からは伝わってきていないことも指摘しておきたい。
このさい威を借る狐でしかない国語教師はそれでもいいからしばらくおいておくとして、
148,169は「文豪」と呼ばれる人の作品・作品世界を評価しているのかいないのか。
レスの流れからするとあまり評価していなさそうな感じ。だとすると、「現人神云々」の言葉は、
≪大したもんでもないものを、ごちゃごちゃ煙に巻いて「神様」に祭り上げた上、
それを初学者に問答無用で押し付けてくる(のが国語教師だ)≫という主張になる。
少なくとも文豪と言われる人達の作品自体に力や価値が存在することまでは認めて
いるのだろうか。(ほんとは「認めて」ではなく「理解して」といいたいんだが)
だとすると、≪自分では何かを生み出せるわけでもないのに、文豪が見出し造り上げた
美や真実を、さも自分が見出した成果であるかのようにひけらかしている(のが国語
教師だ)≫となる。どっちにしても私なりに最大限善意に解釈してみての理解だけど。
文豪もサロンの連中も文学者にひっくるめるから、話がこんがらがってる。
(サロンの連中の中にはただの勘違いやろーもいるなんてことは誰だって承知しているよ)
どっち?
上記のどっちでもないなら、この際、具体的に正してください。
182 :
169:03/08/13 00:55 ID:tYz/+CwX
>173
内容から察するに、あなたはそこそこ優秀な「国語」の担い手であると思う。
が、「内面的に問題意識も持てていない」ようなレベルの(オレ風に言えば
「低レベルな愚痴」に過ぎない代物)相手を上手にあしらう程度のことが
できないのはなぜ?……つまり、あなたの信奉される「国語」は所詮「虚学」なのかしらん?………
>対等な立場での意見交換を求めて来たように思ったので、そのつもりで応じた。
オレは146如きを「対等に相手する」コト自体が問題だと思うね。
あぁ、そこそこ以上のレベルを持つ国語の使い手にして、この程度か、と。
まさに高校国語は虚学なりや?!と、ね(笑)まぁ、ログを読まずに始まった
のなら仕方ない、と思った。
だが、あなたは174で82以降は読んだ、という。ならば二点質問したい。
1)そもそも174で141に触れてかいたこの部分、
>この中にある『「ほんとの修行をさせてくれ」っていうんだよね。』がこのスレに集う
>多くの人に対して、私から贈る皮肉だったってこと、皆さん理解していたのかな。
当然その話は102-103で既出だということも、あなたは理解していたんだな?
その上で、102-103は、
>その教育を成り立たしめる条件が、現在の日本から失われている。
>ゆえに公教育は変化しなくてはならない。(ではどのように?)
という新たな問題を出してるし、それに対し82氏は
>現実問題として、大量の「国語難民」を輩出している現行の国語教育
>無効ではないにしろ、見逃せない問題も起こしているこの教育の変革プランは?
と、自らの問題意識を呈示しながら応答してる。
この方向で「あなたの話」はどう広がっていくのかね?これが一点目。
183 :
169:03/08/13 00:56 ID:tYz/+CwX
2)
また、もし、82以降のスレの流れに乗って146にからむとすれば、146の話が
82のいう「デュルケムの言う選別作用」の問題とリンクしてると理解できる筈だ。
つまり、「国語教師」は「現行の教育下で国語を面白いと思った人間がなる職業」
であり、新たな広がりを見出すことが原理的に難しい閉じた世界になっている。
結果、十年一日の如き作品の「読み」をただ繰り返す授業が当たり前に
なっている、と。これは、非常に「司祭的」な態度です、とね。
たとえば、あなたは166で「文学者の使命」みたいな話を無邪気にしてるけど、
小森陽一が以前どこかの本で「文学研究者というのは、小説の予定された読者
なのだろうか、という疑問が湧く」という意味の言葉を書いていたね。
「作家」と「読者」の間に「ブンガクシャ」なるものが必要だ、と、なぜ無邪気に
前提できるのか?正直言えば、この辺からして、多いにツッコみたいところなんですよ。
と、まあ。この辺が二点目です。
184 :
148:03/08/13 01:17 ID:ym1NM8NV
重箱の隅をつつきあうのもそれはそれで楽しいのだけど、少しは前に進まないと。
生産性を上げ堂堂巡りを避けるため、上の方のレスを掘り起こしておこう。
「こんな意味のない作業じゃなくて、ほんとの修行をやらせろ!」というキッド達
(私もしつこいね…)に対する「御前はすでに大切なことをやっておるのじゃ」という
解説の一例は、実はすでに
>>93に出ているんだ。そのレスに対する>82の評価は
>>119だ。そしてこれは責められない、93は確かに読みにく過ぎる。
>93の前後で展開しかけた話題をめぐるキーワードのひとつは「フィーリング」。
問題点を約すと次のようになるかな。
1) 国語ができるやつらは「フィーリング」で理解しているだけ。
2) 「フィーリング」を教わる/教えることはできない。
3) 言い換えれば、彼等自身の才能に、学校教育はとくだんの貢献をしていない。
4) 天賦の才「フィーリング」を持たない人達は、国語教師の与える空虚な作業を
やらされた上、評価される。時間の無駄な上にいわれなく尊厳を傷つけられる。
上の 1)〜4) が多くの人の気持ちであるのなら、突き崩したい。
185 :
148:03/08/13 01:36 ID:ym1NM8NV
あれれ、間にレスが挟まってる。>184は
>>182-183を読んでないです。
ま、流れを同じ方向に向けようとしている意識は一致したということで。
>>183 >「作家」と「読者」の間に「ブンガクシャ」なるものが必要だ、と、なぜ無邪気に
>前提できるのか?
作家と読者の間ではないよ。すぐれた読者は作家と直接つながればいいと思う。
でも、人類にはブンガクシャが必要だと私は思います。
ただ、直接に読者であることを自らは望まない人が、作家のあぶり出した真実に触れる
ことができるためには、適切な評者による分析と紹介が欠かせないのではないかな。
私自身、例えば新聞の毎週(だったっけかな?)の書評欄はとても助かっている。
あれがなければ読まなかった本も多い。そして、私が読んでいなければ読んでいなかった
生徒が、私の紹介によって(普通の高校生は書評欄なんか読まない)良書に触れる。
美術作品にも同じことがいえる。私も絵画は好きだけど、作品に直接向かい合って
感じられる感動のみならず、学芸員の方の努力(整理・解説・展示の企画etc)によって
補われた理解力も正直かなりある。
186 :
148:03/08/13 02:14 ID:ym1NM8NV
続き。
以下は
>>103からの引用。
>だから公教育は必然的に変わらなきゃいけない。
>というのがオレの結論になる。だろうと思う、多分。
>けど、その辺が今の狂氏にわかってるかどうかは激しく疑問だとは思う。
183の中にある「十年一日」という言葉も多分同じ気持ちを表現しているんだろうな、
と思ったのだけど。
一般論として公教育が変わるべきだという趣旨の発言は多いし、社会構造の変化から
すれば当然の要請なんだからそれ自体を否定するつもりはないのです。
国語に関していうと、そういった空気を受けた結果、最新の学習指導要領では国語でも
音声言語重視の流れが強烈に入ってきて、授業内容三割削減という総量規制に合わせて
ディベートとかパネルディスカッションとかが入ってきてる。(つまり従来の学習内容は
その分さらに削られている。)初期の頃のレスのアメリカ式云々を出していた人から
すれば待ってました!の教育課程なわけです。
現場の私からすると、ありがた迷惑もいいところ。語るべき中味のない連中がディベート
やったって結局は大したことができなくて、ツボを心得た国語の得意な生徒にほいほい
指示されて資料コピーするぐらいしかできなかった生徒、相手の反論を一言一句メモして
結局は論点を絞り込めなかった記録係、ただの強弁と論破の区別がつかずにトンデモナイ
判定を下した判定役……てなオチですわ。ま、せっかくの機会なので議論のイロハから
できる限りのことは教えましたが。
不易と流行という言葉はご存知かと思いますが、不易の部分に関しては十年でも百年でも
同じことでいいと思っています。102-103なんかは、ちょっと見は至極まっとうな
意見でありながら、その実どうも、不易の部分を無視してでも流行を追え、という
コメントにも感じられてしまうのです。「わかってない」のは狂死?それとも……
187 :
146:03/08/13 10:54 ID:8PbX/nY1
>>181 もちろん前者でっせー。
>>182 >146如きを「対等に相手する」コト自体が問題だと思うね。
対人論証(論証そのものでなく論証者の人格への攻撃)はやめてくれよな。
それこそ論理学でいう”論証曖昧の虚偽”の一つだよ。
てか第一パラグラフと第二パラグラフが同義語反復で笑える。
どっちかに統一しろと。
>>186 >語るべき中味のない連中
>議論のイロハからできる限りのことは教えましたが。
て事はディベートが上手くなるのに必要な要素は
@人文社会学系の知識のストック
A論理学
の二つですな。
これは国語というより社会科(特に倫理社会)の範疇では。
伝統的な国語教育とはリンクしないと思うのですが??
188 :
148:03/08/13 20:26 ID:COW/3ICH
>>187 やっぱりあなたは前者ね……残念ながら「如き」がちょっと似つかわしく思えてきた。
でもそのことと私とあなたがこの場においてあくまでも対等であることとは別。
(あなたの本業/専門に関して私が口を挟めば、たちまち私の方が「如き」となる)
>(1)人文社会学系の知識のストック
>(2)論理学
本質的には確かに必要ではあるものの、上記は議論のホヘト以降ですわ。新過程の教育を
受けた今後の中学生が高校まで上がってくれば事情は変わってくるかもしれないけれど、
いきなり新過程の高校生にとってのイロハは、「一文一文は短くする」とか、
「相手が話している時は最後まで聞く」とか「相手を納得させたかったら、理由とその
証拠を出す」とか、そういうレベルです。
まあ、文章を論理的に組み立てる能力は、もともと国語の担当なのでこれらを教えること
自体に文句はない。けど、優先順位的には後回しにしたいというのが本音。
(論理学を学んでもそれでディベートに強くはならないと思う。栄養士であることと
シェフであることとは別事なのに似ている。)
189 :
169:03/08/14 01:35 ID:yMl4raRb
>187
あんた(146)を「如き」呼ばわりしてるのは、別に「人格評価」じゃない。
あんたは、一般人としてはそこそこ国語ができる方だと思う。
だが、148のような、一応「国語のプロ」と議論を展開すると、ボロが出過ぎ
るんだ。端から見てると、気の毒で応援せずにはおれないくらいな。
オレは、あんたの「問題意識」は買ってるんだ。
148はあんたの「言葉の端々」に反論してるだけで、
そんなことはいくらやっても時間の無駄だ。
…オレはそれが不満なのだ。
そういうことだ。わかるか?
>186
いくらか話がかみあってきたようで嬉しい。
そこで聞くが、あんたのいう「不易」を身につけてる生徒は、現在どのくらいの
割合でいると思うかね?30年前にはどのくらいいたと思うかね?大体の感じ
でいいから答えてくれないか。増えたかね?変わらないかね?それとも…減った?
オレも、「国語で教えること」のある部分が「不易である」ということには多いに
賛成している。しかし、「今までと同じやり方」でそれを生徒に身につけさせる
ことができていないとすれば、やり方を変える(流行)のは当然じゃないのか?
190 :
実習生さん:03/08/15 00:24 ID:gS3+CVRG
内容がまったくわからないですが、良スレだと思うのでage。
>>124,
>>125 亀レスで申し訳ないですけど、私は小説や詩などには美術とか、音楽とか、
書道とか、そういう観点で話を進めてほしいと思います。
今の国語は、主に論説文をとりあげてほしいです。
>>82さんは出された現代文の問題が解けないことを
「出題者の意図を理解できない方が悪い」と言ってますが(どういう文を指してそう言っているのかわかりませんが)
少なくとも小説の問題に対しては、論説文よりは
(こういう言い方はおかしいかもしれませんが)悪問になってしまう可能性が高いと思うのです。
たぶん2ちゃんねらーの方でしたら、「じゃあ具体例を言ってみれ」とおっしゃるのでしょうが、
私の10年前の記憶はもう遠くにいってしまっていて、思い出せません。
根拠がなくて申し訳ございません。
でも「論説文」を読む/書くということと、「文学作品」を読む/書くという
ことは、どう考えても同じ知的作業には見えません。
言ってることがむちゃくちゃですみません。
私も国語が苦手ですし頭も悪いので、ダメ人間の独り言として聞いてくだされば幸いです。
191 :
実習生さん:03/08/15 00:32 ID:DBErt4jg
俺の高校時代の現代文の授業の時間は完全に無視されていた。
号令がおわり席に座った瞬間、全員が別の教科の教科書を開き、
カリカリカリカリと鉛筆を走らせる音がする。
先生は授業が終わったころにはゲソーとした顔でいつも教室を出って逝った(w
192 :
実習生さん:03/08/15 00:46 ID:gS3+CVRG
続き
色を作ることと、それを吸収スペクトルから理解することと、絵画が美しいと感じることは同じ知的作業ですか?
書きやすい書き順を考えることと、それを人間工学に基づいて考えることと、書が美しいと感じることは同じ知的作業ですか?
音を作ることと、それを気体原子の振動から理解することと、音楽が美しいと感じることは同じ知的作業ですか?
で、
日本人なら誰もが理解できる日本語の文法を作ることと、
言語工学的にそれを人間の頭で構文解析することと、
小説が「いい小説だ」と感じることとは同じ知的作業ですか?
今の国語の入試問題は、目指しているのは究極のシソーラス
ではないかと思います。
193 :
実習生さん:03/08/15 01:37 ID:FpP2b5wj
ふむふむ。八割ほど読ませていただきました。
やはり、文学的教養としての「国語」と実践的知識としての「国語」が
ごちゃ混ぜになっているというところが多々散見されるようですね。
「実学の時代」と呼ばれる現代では、おそらくご承知のとおり、
「目に見えるもの」がもてはやされ、「見えにくいもの、目に見えないもの」が
軽視されがちです。その余波が生き残り合戦を展開する大学にまで波及し、
実学の時代などと言われている。
実学と虚学とのどちらを重視すべきであるか(もちろんどちらも良い塩梅で
ミックスされるのが理想なのですが)ということについては、「生きる力」
という言葉をキーワードにして、虚学を重視すべきであると私は思うのですが、
スレの主旨と食い違ってしまうので、黙して語らずということで勘弁して下さい。
さて、これからもしこの議論に私も参加させていただきます。たくさんレスは
つけられないからそこのところはご容赦を。
>色を作ること〜小説が「いい小説だ」と感じることとは同じ知的作業ですか?
基本的に、外へ出す出力作業(創造)と中に取り込む入力作業(認識・内面化)の線引き
をしてみると良いと思います。それから書き順は人間工学的には設定されていません。
「こう書くと美しい(とされる)字が書ける」という視点から作られています。
194 :
実習生さん:03/08/15 01:48 ID:wUMMn40O
図書館・本屋・ネットでダイレクトにいろんなリソースや作品にアクセスできる時
代に、なぜわざわざ、他人経由でオリジナルから劣化した教養を教わらなくてはならないのか?
という不満は、少数しかいないかもしれないが、目端の利く生徒は抱えていると思うよ。
現に、「受験」に関しては、塾・予備校の方がナマな情報を授けられるので、みんなそっちに行く訳でさ。
(ちょっと例えは悪いか?)
ここに書き込んでいる教師のみなさんのプライドを壊すようだけれど、どうしても
根本的に納得できないのだね、この問題が。
そもそもなぜ他人に習うのかというと、例えば日舞のように正しい型を授かる。ため
なのだろうけれど、学校の教科程度など、そこまで大それたものかねえ?
まあこれは根本的な学校制度の矛盾点なのだろうけれど。
196 :
148:03/08/15 10:41 ID:rgyoPsMv
雨でせっかくの休みに昼真っから2ちゃんなんてとほほ。
>図書館・本屋・ネットでダイレクトにいろんなリソースや作品にアクセスできる時
>代に、なぜわざわざ、他人経由でオリジナルから劣化した教養を教わらなくてはならないのか?
正確には「アクセスできる環境に恵まれている人もいる時代」です。
そして、アクセスできることと、アクセスしようとするかどうかは別。
アクセスできることと理解できることは別。
コアラの赤ん坊は自分でユーカリ食えるようになる前に、母親のフンを離乳食にします。
「赤ん坊」にいきなり生のユーカリ食わせたって腹壊して死ぬのです。
あなたは「劣化」と言うが、「半消化」された状態でないの受け付けない初学者は多いの。
(文学の最高レベルの解釈者とはとうてい言い難い巷の)国語教師(ふぜい)が吐き出した
分析(の縮小再生産程度のもの)でちょうどよいんでないの?
この言い方では今度は「生徒」のプライドを傷つけるかな?
>そもそもなぜ他人に習うのかというと、例えば日舞のように正しい型を授かる。ため
>なのだろうけれど、
その通り。ほら、あなた自身十分おわかりなんだ。それなのに
>学校の教科程度など、そこまで大それたものかねえ?
という認識が同時に生まれるのは、コアラと違い、(学校教育が理解と修得を求める
ジャンルの)文学を受け付けなくとも、ヒトは(生物学的な意味では)死なないからです。
197 :
148:03/08/15 11:15 ID:rgyoPsMv
>>191 それは国語という教科の問題ではないよ。単にその教員の教材研究と生徒掌握テクが
足りないだけ。国語の問題だと思って紹介してくれたのなら191もイタイ。
私の聞いた話では女子高などで数学の時間ほぼ同じ世界が展開する話も知っている。
>>192 >日本人なら誰もが理解できる日本語の文法を作ることと、
>言語工学的にそれを人間の頭で構文解析することと、
>小説が「いい小説だ」と感じることとは同じ知的作業ですか?
多くの人が多分勘違いしているんだと思うのだけど、学校でやるのは文学・文法学ではなく
「国語」なのです。この言い方わかるかな。本当の意味で専門的な人文学の諸分野を
やるんではなくて、もっとざっくりしたものをざっくりと扱っているのです。
この点では実は高校数学も同じです。代数と微積だけ教える先生とか、幾何だけ教える先生とか
に分かれていないでしょう。傾向としては確率統計は他の出身の先生が苦労する分野だとか、
情報が独立するまでコンピュータも応用数学(数学C)に入っていたとかもあります。
現代文(しかもその中が文学評論に分かれる)古典(古文漢文の別がある)が共存し、
言語事項がその全領域をまたいでからんでいる国語の事情にけっこう近いと思いませんか。
これに対して、理科は物化生地、社会は地歴公のようにわりときれいに?分けられます
(実際に教員採用の段階ですでに専門別に採られている)。
高校生の段階で細分化した領域として与えられるか、られないか、教科による性質の
違いもあると思います。今の日本は、高校生レベルでは、国文学・国語学・思想哲学を
独立した学問レベルで教えるべきではないと判断しているということです。
>今の国語の入試問題は、目指しているのは究極のシソーラス
>ではないかと思います。
大学入試程度に「究極」を使うのでは究極という言葉が泣きます。
高校国語で触れる内容は、人文学に進む人間にとってはほんの準備運動に過ぎません。
その点は他教科も同じ。(歴史科の入試が目指すのは究極の年表作り?)
198 :
146:03/08/15 13:51 ID:1PYi7dQh
199 :
195:03/08/15 14:05 ID:R81pNsbd
>>196 うーん。絶句。ちょっと牽強符会では無いですかそれは? ジャンルとしての学校
国語、職業としての国語教師に、生徒は奉仕しなきゃいけないのか?
それは違うんじゃないですか?
200 :
山崎 渉:03/08/15 20:05 ID:4oXJXRHA
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
201 :
148:03/08/15 21:15 ID:U8xwPN3m
>>199 >生徒は奉仕しなきゃいけないのか?
196を読んでなぜこの「奉仕」という言葉が出てくるのか私にはわからない……
146の使った「支配」という言葉も同じ根から出た言葉だということはわかる。
教員は自分のエゴのために授業やってるんじゃないんだから、教員が奉仕して
もらってるわけではない。こちらとしてはあくまで国民の教育に我が身を奉じている
わけで、その実現のための過程・手段として、生徒達にとって気乗りのしない作業を
「強要」することだってあります。
そしてそれは私個人への盲従を求めるための儀式ではないのですがね。
202 :
148:03/08/15 21:24 ID:U8xwPN3m
続き
都道府県トップの進学校における平均的生徒の読解力(ある文章から主題、筆者の主張、
鑑賞のポイントを正確に抜き出す力)は、公立高校の平均的な国語教師に全く及びません。
母語に関する事だけに、進学校の生徒であれば、音読ができて第一印象をもつ所ぐらい
までは、たいていの者でもいけてしまいます。問題は、そこから先の話なのです。
国語力に関して学年相当より早熟な生徒は当然一定数いるし、そうした生徒が教材の
文章に対して独自の、しかし正しさのある読解を示せば、自分があらかじめ用意して
おいた"正答"でなくたって、いつでも受け止めるつもりがあります。
(教科の性質上、ある種の発問の解答が、一つの「点」でなく相当の帯域を含んでしまう
場合も当然あります。時々いわれる「国語には答えがない」という認識も、ある一面に
おいては誤りとはいえないのは確かです。なるべくその帯域を狭めるような発問をひねり
出すことが、国語教師の手腕のひとつとなります。コケるとただの誘導尋問でしかなくなる)
ただ、現実問題として、これまでの私の教員歴の中で、そこまでのレベルにあった生徒は
少なかったです。学区トップ校にいた時は東大生京大生も出しましたが、そいつらを
含めてもです。
ある教材と格闘するに当たって、生徒の側から私の解釈と異なる「対案」が出てこない
のですから、当面は私の読解を正しいものとして、そこへ至るまでの流れを追体験させます。
だから私の授業には、私の精神を通過した私が読める深さまで、という限界が生じます。
それを劣化とおっしゃるなら、私は作品の価値を劣化させているかもしれません。
203 :
148:03/08/15 21:45 ID:U8xwPN3m
>>198(146)
それなら>901で十分じゃないの。そして>904で882が醜態をさらしてオワッテルと。
あ、でも
>20世紀前半的ヒューマニズムを戦後民主主義的にミニチュア化したのが現代国語であり、単なる道徳にすぎない。
については「前半」「単なる道徳にすぎない」という部分を削除すると実は同意。
そしてそれの浸透に一役買っているつもりでやってる。(なにせ司祭だから(笑)
204 :
実習生さん:03/08/15 22:09 ID:VvTuQBmd
ホシュ〜
205 :
195:03/08/16 01:02 ID:c6sJJjCU
>>202 >ある教材と格闘するに当たって、生徒の側から私の解釈と異なる「対案」が出てこない
そんなこと当たり前でしょう。だって、あなたなりの「読解」に至るまでの材料や
ルールは、貴方がすべて握っているのです。せいぜい、生徒は教科書しか持っていない。
そのうえで聞くに値する「対案」が無いなどと嘆かれても困りますね。
プロレスなどの異種格闘技戦の場合、試合前に実は勝負は終わっています。八百長
だから(!?)ではなくて、どっちのサイドの格闘技寄りのルールを採用するかで、
有利不利は決まってしまうからです。
貴方は、自分に有利なルールを設定して、「自分は強い」と言っているに過ぎない。
もちろん私も、現在の平均的生徒の国語能力のダメさ加減はよく知っておりますがね。
そのうえで腑に落ちませんね。
206 :
195:03/08/16 01:03 ID:c6sJJjCU
>>203 >それなら>901で十分じゃないの。そして>904で882が醜態をさらしてオワッテルと。
その後の882のレスを読んだ上でそう言っているのですか? 教養の相対性と絶対性
の問題について、この人は実に的確な指摘をされているではありませんか?
職業上、譲れぬ一線があるのはよくわかりますがね。
207 :
148:03/08/16 19:11 ID:TtXOG+1a
>>205(195)
>ルールは、貴方がすべて握っているのです。
>>202の
>国語力に関して学年相当より早熟な生徒は当然一定数いるし、そうした生徒が教材の
>文章に対して独自の、しかし正しさのある読解を示せば、自分があらかじめ用意して
>おいた"正答"でなくたって、いつでも受け止めるつもりがあります。
はちゃんと読んだ?
多くはないけれど、生徒の意見に感服できた時、私の方が譲ることもあります。
その上で言うなら、それはあなたが私の力量や性格に信頼を置いていないという
ことだから、私の話は、決してあなたの腑には落ちない。それだけのこと。
私が打撃系よりも寝技関節系が得意だとして、寝技関節系に有利なルールを選択する
権利を私が握っているのは、日本という国が寝技関節系に長じた人間を教師として
採用することによって、平均的な青少年には打撃よりも関節技に長じて欲しいという
意思表示をしている結果だと考えるべきです。
上記は、
>>183で再び出てきた「選別作用」に対する私の考え方の表明でもあります。
>>206 「教養の絶対性と相対性」について自身のうちで正しく消化できている人は、最初っから
>904なんか書かないのです。部分的に正しい指摘というのはけっこう誰にでもできる。
いい記述も散見されるのに、全体としてはいまいち。882の中で、彼がせっかく吸収した
知識(量自体はけっこうありそう)が綜合されていないということです。
揚げ足とるような作業は、本人がここにいないのでかわいそうなんだけど、
>むかし、サルトルは「アフリカの飢えた子どもたちの前で文学は有効か?」といった。
・これ人類の知を開拓する立場の人であるサルトルが言うから重いんであって、我々凡人が一個人として
文学に導かれたり癒されたりするのは、生物の系統発生と個体発生くらいレベルが違う。
>教養を自己批判する能力としてみるなら、ウツ体質の人ならOKってことになっちゃうけど
・批判と非難の区別がついていないですわね。
例えばこんな所で私は興が冷める。どうですか?これは私の、自分の一線を守りたい気持ちが
彼のカキコ理解にバイアスをかけてるせいだと思いますか。
208 :
146:03/08/17 13:31 ID:kizoYCET
>>207 >日本という国が寝技関節系に長じた人間を教師として
>採用することによって、平均的な青少年には打撃よりも関節技に
>長じて欲しいという意思表示をしている結果だと考えるべきです。
国家の意思を貫徹していることを正当性の根拠にするなら、何年かして政府がメディア・リテラシーなどを重視したアメリカ式国語教育を打ち出しても、あなたは迷わずそれに従いますね?
ダブルスタンダードはやめて下さいよ。
>これは私の、自分の一線を守りたい気持ちが
>彼のカキコ理解にバイアスをかけてるせいだと思いますか。
ええ、とっても!
882のレスは、学究でも教員でもない、一般の人の価値観そのものですよ。
209 :
148:03/08/17 20:59 ID:g0ipcnES
>政府がメディア・リテラシーなどを重視したアメリカ式国語教育を打ち出しても、
>あなたは迷わずそれに従いますね?
せっかく195が助け舟を出してくれたのに、あなたは、あなた自身のカキコに関連があると
いう流れで出てきた「選別作用」の概念を理解しているのかな。(していればこの質問は
出て来ないんだけど……)
「国語」の名のもとに従来修得させてきた諸知識・技能の時間を短縮して、空いた時間を
別の技能の修得に使うということであれば、現在職についている国語教師たちの多くは、
残念ながらその任を負いきれないのじゃないかと思う。つまり、国の方針が変わるなら、
国語教師達はむしろ入れ替えられるべきじゃないのかな。(まあ、いわゆるリストラだ)
能力的には(信じてもらうしかないが)私はメディアでもレトリックでも教えられると
思う。国の方針が変わって実利重視の技術志向に変わったら、人生設計上の理由から、
私はそれを、それなりの使命感をもって教え始めると思う。(そして授業の合間に、
可能な限り人文学のおもしろさを混ぜ込んだ授業をすると思う。今とちょうど逆の
ことをするわけだ。今は発問に答えさせる時をなどを使って、コミュニケーション
スキルの訓練を兼ねたやりとりなどをなるべく意識して行なっている。)
そしてその結果育成される未来の「日本人」達は、当然、従来とは異質な教養(←使いたく
なかったが他のいい語がなかった、言葉尻より趣旨を汲み取ってくれ)を持った人材となる。
あなたは高校へ進んだ人々が3年間の国語の時間はからっぽだと思っている?から
その違いが想像できないかもしれないが、あなたのいう有益な何かを身につける
代わりに捨てるものが必ず出るんだ。上の方のレスで私はそれについて「不易」という
言葉で表現したことがある。
210 :
148:03/08/17 21:05 ID:g0ipcnES
(「本文長すぎ」長すぎって怒られちゃった…ので続き)
けれど、例えばメディアリテラシーに関しては新科目「情報」の範囲であるべき。
本来的には国語の範疇ではないんだと思うな。(これが「アメリカ式」の一例に過ぎない
本来のレスの趣旨は理解しているから安心してください。)
あなたのいうアメリカ式で身につくという能力の訓練をかなり重く据える科目はあって
いいんだけれど、今度はそれを「国語」と呼ぶべきなのかという問題がある。
新しい時代に新しい技能を持つべきなことに異存はないから、学校教育のどこかで
それらを取り上げるのはいいと思う。
そして、その場合でも、従来の国語は残しておくべき。
これを能動的受動的を問わず学ばずに長じてしまった未来の「日本人」が、私には正直こわい。
その人達は、アメリカ人と一体何が違うのだ?
名前が「日本語・日本文化」などと変わってもそれは呼称上の問題なのでかまわない。
その場合、私は可能であるなら従来の国語の領域を教える担当に移ると思う。
211 :
148:03/08/17 21:11 ID:g0ipcnES
>ええ、とっても!
>882のレスは、学究でも教員でもない、一般の人の価値観そのものですよ。
私にバイアスがかかっているかどうか、私自身には検証できないので、そう言われると
返す言葉はないのです。
ただし同様に、あなたと882が「一般の人」を代表できるかどうかも、あなた自身にはわかりません。
(あなたが882と気が合いそうなことは十分わかりました。)
212 :
146:03/08/18 15:25 ID:w3x5kqH1
>そして、その場合でも、従来の国語は残しておくべき。
うわ〜そうすると一日7時間授業になりますね。
>これを能動的受動的を問わず学ばずに長じてしまった未来の「日本人」が、
>私には正直こわい。
>その人達は、アメリカ人と一体何が違うのだ?
骨格や皮膚の色や言語が違うだけで十分違うと思うけど・・・・・何が心配なんでしょう。
日本アニメがここ十年程アメリカで大人気で、しかもインテリ層の若者に受けてるんですよ。
日本の方が格好いい物が沢山あるから日本に生まれたかったという人もいる。
海外の制度や文化が影響を与える時は常に双方向的であり、お互いが新しい物を取り入れ、古い物を捨てて発展していくんです。
結局不易の物が何かってなると、日本的精神とか、捉え所のないエーテルみたいな物になるんじゃないですか。
玉葱の皮を剥いてったら何も残らないんだ。
>海外の制度や文化が影響を与える時は常に双方向的であり、お互いが新しい
>物を取り入れ、古い物を捨てて発展していくんです。
そんなことはない。
世界中で多くの「文化」が西洋文化に飲み込まれて消えていっている。
特に、現在世界を席巻してるアメリカ文化の影響力はすさまじい。
フランスが頑強に「アメリカ文化」の流入に制限をつけているのは
なんのためだと思ってる?
そして、文化の多様性を失うことは、種の多様性を失うことと同じだ。
可能性を閉ざし、変化への対応力を失う。文化は文「華」だ。その土地に
根ざし、その土地で花開いた物だ。多様な自然が多様な文化を生んだし、
それ自体が人間の多様性・可能性の証明なんだ。
「 何 が 心 配 な ん で し ょ う 」
という台詞は、「文化」に関するあなたの無知しか示してない。
それは同時に、異文化に対するあなたの狭隘で偏頗な態度を想像させる。
「 『 不 易 』 な る 物 は 実 態 の な い 幻 想 」
というならば、世界中のどの文化が失われても、あなたは毛ほどの痛みも
感じないのだろうな。
『みんなコカ○ーラ飲んでハン○ーガー食ってればいいじゃん』……そうか?
ここまでレスを返して下さるのはこの先生がいい先生である証拠ですが、実際に進行
している現実の前ではただ虚しいのです。
それこそ例えば、麻布・灘・筑駒クラスでは、受験に留まらない教育実践を行っている訳
です。各地の国立付属等でもね。しかし、往々にして、生徒は塾・予備校に行っている。
(こういうところの教師は不勉強ではありませんので、10代に与える教養としては、
学校内で与えられる知識だけで充分なはずなのです。しかし、生徒たちは、外で
明らかに劣化した受験用の知識を身に着けようとする。点数が欲しいからね)
いや虚しい、虚しい、虚しいなあ・・・。
>>213 しかし、「日本文化」の場合、明治期以降、近代国家としての成立のために、
急拵えで即製されたモノなのではないか? という疑惑がどうしてもつきまとう。
いやこの疑惑はどこの国・文化でも多少は抱えているはずだ。フランスは知
らないけれど、アメリカ型文化を自信をもって笑い飛ばせる民族がどれだけいることだろう?
さてそのうえで現代。日本的学校教育下の生徒は、より実利的な受験文化を
選択している訳です。日本文学? 知らんそんなモノ。入試には出ない(w
文化の防波堤、不易の保存としての教育。を唱えたい人に問いたいのだけれど、
・そんなモノ、本当に信に値するモノなのか?
・値するとしても、敵はまさに教育制度の中にいるのではないか?
まあ答えが無い発問ではあるのだけれど。
216 :
146:03/08/18 16:47 ID:1ZpVnqrb
ちと補足
>>207 >これ人類の知を開拓する立場の人であるサルトルが
>言うから重いんであって、
フランスの最高学府がソルボンヌじゃなくてグランゼコールであることはご存知ですよね・・・・。
当地のエリートは皆サルトルを崇拝してるんでしょうか?
そうでしょうか。
>>213 >現在世界を席巻してるアメリカ文化の影響力はすさまじい。
例えばニューミュージックは皆アメリカ生まれだけど、各国はそれを一旦咀嚼して自分の物を作り上げて来たんじゃないかなぁ。
フレンチポップとかジャーマンテクノとか。
単に侵略されて来ただけとは思わない。
>『みんなコカ○ーラ飲んでハン○ーガー食ってればいいじゃん』……そうか?
コーラを買うかどうかはあくまで本人の自由意志だよ。
教育みたいに国家権力にバックアップされて、半強制的に摂取させられるものじゃない。
補足。
コーラの話が出ているけれど、世界を席巻するコカ・コーラ文化を皮肉ったのが、
映画「コカコーラ・キッド」ですね。
(個人的には、守るべき日本文化が本当に存在するとも思えないのだけれど)、
アメリカ文化なんかよりも、やはり敵は内部にいるのではないですかね?
くだらぬTV番組やら(最近のTVの質は本当にひどいと思う)、ゲームやらケー
タイやら、現代日本の過剰な消費文化の方が問題ではありませんか?
こうしたカルチャーの貴賤の問題は難しいのですけれどね。
218 :
148:03/08/18 20:52 ID:9AXVQemH
(146が上げるので)いろんな人が書き込んでますね。
サルトルとソルボンヌの関係はごめんわからなかった。教鞭をとってたんだっけ?
日本文化の話について。
世界(つったって目先は主に西側なんだろうけど)に評価される日本文化の根が、明治
以降西欧から入ってきた諸文化日本風味の再輸出だとは思えないのです。
どんなに新しくても江戸文化、古くは中古中世より連綿と受け継がれた日本的感性が
西洋世界と出合った結果生じたのが近現代の日本文化だと思っています。
(その日本文化を形成する種は土着の縄文文化+ユーラシア大陸文化であろうことが
いえると思うのですが、そんなこといえば西洋文化は古く西アジアの洗礼を受けた
結果込みで成立したものですから、そこまで遡っちゃうとおあいこということで。)
日本のアニメが受けるのは、日本の文化がようやく西洋文化との同質化を果たしたから
ではなく、本質的な意味において日本的だからじゃないのかな。
例えば今のアニメ文化の担い手がアメリカで暮らしてきた人達だったとしたら、今と
同じ作品群を吐き出していただろうか。そもそもなぜアメリカでは日本的なアニメ文化が
育たなかったのか。文化圏的にはほとんど溶け合っているようにすら見えるのに(?)
日本人がJapan語(英単語をテニヲハで連結した言語みたいな日本語)を喋る"アメリカ人"で
あるなら、日本のアニメの国際的評価もないんだと思います。
玉ねぎの比喩は、文化というものの重層的で、隣り合った層の境界はあやふやだという
性質をたとえるには間違っていないと思う。そして、もう少しその比喩に乗っかっていえば、
例えば生物学的に組織を検分すればちゃんと複数の層に分類できますよね。あてる
モノサシさえしっかりわかっていれば、時々の必要に応じて何枚までむけばいいのか
ちゃんとわかるんです。それをわからず暴力的にむくから「すべてを失う」だけ。
エーテルなんて言ってないでちゃんとモノサシを持てばよいのです。
どっぷり浸かっている間はその存在自体がわからなくて、失って初めて「実は存在していた」
ことがわかるなんて話は多いもの。
失ってみないとわからないのなら、いっぺんスポーンと捨ててみますか?
219 :
148:03/08/18 21:27 ID:9AXVQemH
言わずもがなかも知れませんが、上記の「捨てちゃおうか?」は、狭義の古典の授業を
しないというのみならず、現代文の、近代日本の精神---自我確立への苦しみ、西洋への
卑下や憧憬や克服、といった道程---を写し取った文章群(詩・小説・評論等)を精読
する授業もやめるということね。かわりに「国語」は、純粋に情報リテやディベート力育成
のプログラムに基づいた訓練の場とする、と。
虚しい虚しい受験国語について。
正直な話、公立学校の授業では文化の最前線で活躍する人材を育成することまでは
できません。まずこの点を素直に認めるところから始めないと。学校教育の体育の授業が
それだけで五輪選手を育てられないのと同じことです。文科省もはれて正式に塾に言及した
今の時代、東大京大へ行くのに必要とあらば塾予備校でもいいと思っています。
私は別段塾予備校へ行かずに、地方公立高校から、東大京大でこそありませんが一応「教員
やってるなんて負け組」レベルの大学までは行かせてもらいました。東京近郊に住んで
いて大手予備校現役コースなんてのに通っていたら東大へいけていた可能性だって
ゼロではないと思いますが、私のたどってきた道に不満はありません。
都立はわかりませんが、地方の公立各学区トップ校には、生徒が学校に頼ってそこそこの
大学進学を実現できるだけの力があります。その上、大検→大学というコースでは
経験できない、楽しくほろ苦い青春の一時期も過ごせます。
夜遅くには塾のある生徒と、彼がぎりぎりいっぱいまで学校にいられる間、文化祭準備
のためにペンキまみれになる夕暮れ時……
これは、教員としてはやっぱり「虚しい」姿なんでしょうか。
220 :
実習生さん:03/08/18 22:12 ID:CMERciSV
いきなり乱入するけど
かつて漢文は確かに国際語であり、
導入に当たっての理由づけも、
単に古典を学ぶというだけでなく、
その辺(国際語を学ぶ)にあったと思うよ。
#漢字語圏:日本・中国・朝鮮・満州・越南では、漢文は通じた。
但しその後、中国は簡体字を採用するわ
朝鮮は漢字を捨て、諺文一辺倒になるわ
越南は仏国の意向で、漢字を捨て去るわ
…いまじゃそのまま通じるのは、繁体字を使う台湾ぐらい。
もちろん日本も旧字体を捨てた以上、互換性が無くなってる。
かつてほどは、学ぶ理由が薄くなってきてるのは確か。
古典を学ぶというなら、それでもいいんだけどね。
>>219 >正直な話、公立学校の授業では文化の最前線で活躍する人材を育成することまでは
>できません。
それはわかっております。ただ、今は上に挙げたようなクラスの学校でもムリなのはどうでしょうか?
昔(60・70年代まで)は可能でした。例えば、有名文化人の多くは、そうした「名門」の出身です。
最近も、四方田犬彦(旧東駒)が当時の体験を書いているようですね。
むろん、意識して育成されたものではなく、秀才たちの中に、自然とそうした文化的環境が維持されていた訳です。
(ただここを誤解してはならないが、大半の生徒はそうした傑出した才能になることもなく、
一流?大学経由で、普通のアッパークラス?社会人となっていった訳ですが)
(実にイヤミな連中ではあっただろうけれども)、突っ張って「受験だけじゃない」と、ある種の
特権教養で遊ぶことを、ある時期から(恐らくは70年代後半から)、「名門」の生徒たちですら、やめたのです。
そして、即物的かつ実利的に、大衆的受験の作法を身に着けることの方を望むようになった。
私が「虚しい」と呼ぶのは例えばこうした事態です。「勉強は勝ち負けだけじゃない」
という当事者のささやかな突っ張りこそが、辛うじて、彼ら自身をくだらぬ受験エリート
に堕することから救っていたはずなのですがね。
進学校にいたのなら、そして今もいるのなら、この倒錯は貴方もよくご存じのはずです。
ここまで書いても、なぜ、「敵が中にいる」と私が言ったのか、わかって頂けませんか?
「今の時代、東大京大へ行くのに必要とあらば塾予備校でもいい」という問題とは
微妙に違うのです。ご理解頂けませんか?
223 :
148:03/08/18 23:14 ID:9AXVQemH
>>221-222 「受験戦争」という言葉が登場したのが60年代後半ですね。
(実は、この言葉自体の初出はなんと大正時代のようです。)
高度成長のピークの時期であり、高校進学率が90%を突破した時期でした。
「普通の高校生」が大学進学を目指し始めた時点で、エリートに混じって
庶民的環境から努力を積んで灘生、東駒生となった層も新たに生じたろうし、
本来のエリート達にとっても、大学進学は必ずしも「自然と約束された道」では
なくなった、というのが本当のところではないでしょうか。
「昔は受験ばかりじゃないと突っ張っていた」という方が、年寄り達の抱いた
甘美な幻想なのかもしれませんよ……
もちろん知的/経済的素養も十分あったでしょうが、彼等にとってプラスの努力を
しなくても東大生となれた時代であれば努力もわざわざしなかった。努力しないと
落とされる時代になったから努力するようになった、というシンプルな原理で
捉えてはだめですか?
>>223 ですから、私がなぜ再三「敵は中にいる」というのか、わかって貰えませんかね?
本来は、庶民が高校・大学に行けるようになった。あるいは、努力し刻苦勉励して
行った。というのは、ストレートな美談であり、平均的国民の教養的向上を証明することのはずなのです。
しかし、日本においては、必ずしもそうではないらしい。
日本的教育大衆社会があらかじめ孕みもつ、このあたりの矛盾にこそ、「敵」はいる
のではありませんか? と私は言っている訳です。
(もちろん、では、いわゆるアッパー層によって維持される「教養」がいかほどのものか?
という問題は、また別に検討されねばなりますまいが)
ただ、個人的に私は、恐らく、傍若無人な「受験エリート」たちの功利性を、イヤ
と言うほど見過ぎてしまったのでしょう。このあたりでバイアスが掛かっているのは事実でしょう。
225 :
148:03/08/18 23:46 ID:9AXVQemH
「敵」の話が抜けました。
受験が誰でも参戦できる大規模な「戦争」へと拡大するにあたって、大きな役割を果たしたのは、
死の商人、受験産業の存在です。
とはいえ、別に受験産業が悪だと言いたいわけではありません(笑
彼等の存在が、市井の人々に「大学は手の届く存在じゃないか」という希望の光を与えたのです。
現在、受験産業が収集・分析する情報の量と質は非常に高いレベルに達しています。
目的(志望校合格)を達成するため最適な戦略だってアドバイスしてくれます。
その中には、「○○大の問題傾向分析」といった、本来的な知識教養とは別次元にある
情報も実際あるでしょう。
お金を出せば、誰でも等しくそれを利用することができるのです。
"エリート"達に対して、御前たちはそんな姑息なものを利用せず正攻法で東大に受かる
くらいの学力をつけ、あくまでもその結果として東大へ進め、というのは正直かわいそう
な気がします。
ここまで考えてみると、果たして「敵」はどこにいるのでしょうか。
226 :
148:03/08/19 00:12 ID:e8wANY/n
>>224 あ、いつの間にか旧来の国語の内容に意味は有る、という前提できちゃってますが
とりあえずいいですか?
有名私立だって、受験テクニック的な部分を受験産業に外注して補い、全人教育的な
観点から国語の授業を展開することはできると思います。
公立高ではなおさら受験予備校化することを避けねばならないと思っています。
一方で、高度に受験産業による(戦略的な意味で質の高い)情報送信が発達した現在、
受験対策的な勉強をひとつもするな、とは言いづらいです。
だから、単純かもしれませんが、学校の教員が受験用に予備校へ通うことを積極的に
認めることによって、真に知育的な授業を展開する学校の姿をかえって保てるかも
しれない、と思うのです。大学側がタコな入試問題を出さない限り、両者の重なる部分は
本来そんなに小さくないはずですし。国語に関しても、ひところに比べれば、入試に
めっちゃくちゃな悪問が出る所は少なくなりました。(昭和の後半頃は結構ひどかった…)
>>225 >ここまで考えてみると、果たして「敵」はどこにいるのでしょうか。
はっきり名指ししますと、社会的上位層から大衆に至るまで、誰にとっても都合が
良かった、日本的教育神話(努力すれば誰でも!?教育の階段を昇り立身出世できる)の中にいるのです(w
受験産業は市場として成立するので参入したに過ぎない。
私自身は、この神話は「勉強すればするほど知性から遠ざかる(?)」奇妙な「受験エリート」
という人種を産んだと思っていますし、いまや、壮大な搾取機構と化したとも思っています。
あらゆる意味で、現在の青少年は「教育」によって搾取されていると感じます。
かといって、搾取からの離脱も難しい。大変なところに差し掛かっている感あり。
>>226 >だから、単純かもしれませんが、学校の教員が受験用に予備校へ通うことを積極的に
>認めることによって、真に知育的な授業を展開する学校の姿をかえって保てるかも
>しれない、と思うのです。
事実上、現在の多くの高校ではそうなっていますね。私自身は批判的ですけどね。
これもまた、「学力はカネで買える」と思いこんでいる人種を見過ぎたせいなのでしょう(w
旧来の国語に意味が有るか無しか。ですが、こういう状況では、意味を問う以前では
無いでしょうかね? そうそう、それでもZ会の国語教材はよくできているね(w
補足。
「日本的教育神話」を批判しましたが、ある程度、有効ではあったと思いますよ。
それはよくわかっています。旧来なら別の場所にいたかもしれない人材が、受験競争経由で、
ホワイトカラーやエンジニアなどの市場に登用されたのも事実でしょう。
しかし、ある時期から、この神話の矛盾が大きくなったと思っています。
それと、はっきり言って、一部の小中高生たちにとっては、塾・予備校の方が学校よりも、
受験以外の側面でも確実に面白いでしょうね。そのあたりを否定するものでもありませんので念のため。
229 :
146:03/08/19 21:14 ID:zRiTjWIz
>>218 日本アニメに投入されてる日本的感性があるというなら、それは日本人に遺伝子として刻み込まれてる物であって、古典や明治文学とは何の関係もありませんよ。
アニメのクリエイターになる人が学校国語大得意な受験エリートの筈ありませんしね。
>失って初めて「実は存在していた」
>ことがわかるなんて話は多いもの。
>失ってみないとわからないのなら、いっぺんスポーンと捨ててみますか?
ですから捨てて下さいって最初から言ってるでしょ。
論理学で「悪魔の証明」ってのがあるんですが、元々存在しない物はそれが存在しない事を証明する事は出来ないんです。
僕がセンセを説得出来ないのはこの論理的壁のためです。
でも「いっぺん捨ててみるか」という点では見解の一致を見出せたので、僕としてはこれで最後のレスにしたいと思います。
ずっと相手にしてくれて有難う。
230 :
148:03/08/19 22:00 ID:ZijL03Rb
わ、最後にやっちゃったな146。遺伝子ですか。そうですか。
悪魔の証明?、唯名論もあるしねえ……
ともかくお疲れ様。
私も夏休み後半に入って通常勤務に戻りました。そろそろお暇します。
>>227-228 >努力すれば誰でも!?教育の階段を昇り立身出世できる
って、科挙が始まった時代の中国の頃からある人材主義のセールストークですね。
なんだ、そんな神話?を敵視しているとは読み取れませんでした。そうですか。
知識を積み上げ徳も高いはずの高官たちが人民を苦しめる現実の姿も、古来枚挙に
いとまがありません。
知識は、それをいかように使うのかという「たましい」とでもいう部分との
組み合わせによって、毒とも薬ともなるものです。知識そのものには罪はないと
思います。(20世紀の最大の両刃の剣といえば、E=mc^2などですね。)
ターミネーターが作れる技術が人類に手に入った時、アメリカはおそらく
ターミネーターを作るでしょう。日本はきっとドラえもんを作ると思います。
私は、たとえ塾予備校からもたらされるものであっても、知識である限りは
必ず本人のためになる、将来のある若者にとって、トリビアでしかないと即断して
しまえるような知識などないと思います。(「マークの解答には2が多い、1はほとんどない」
などといったくだらない"知識"は議論の外として。)
「受験エリート」に感じる恐れの感覚は結局、刃物をもたせた吉外に感じる恐れと
同種のものでしょう?安ッぽい言葉でいえば徳育にあたるもの、昔の真のエリートなら
持っていたかもしれない精神性の確立が、受験勉強が上手なだけの多くの若者にあってては
阻害されている。じゃあ、といってその主犯格が「日本的教育神話」なのか
どうか、これも即断すべきではないと思います。
231 :
実習生さん:03/08/19 23:06 ID:yWcRPE4T
みんな何だかんだ言って、国語大好きなんだね。
>>230 >なんだ、そんな神話?を敵視しているとは読み取れませんでした。そうですか。
ボクだってこんな俗流サヨクみたいなことは言いたくないのです(w しかし、この負の側面を見過ぎました。
自分なりにいろいろ見てきたせいか、私はもう学校教育の啓蒙性に対して、楽天的
になれないのですよ。学校国語を虚しく感じるのも結局はこのせいでしょうね。
もうこのスレも終わりでしょうね。
233 :
実習生さん:03/10/23 03:33 ID:UwdfEaC9
すげえな国語の先生たち。レスが長いこと長いこと。
ちょっと面白いのでage
あがってたので、ちょいと参加。
>229 当たり前だけど「遺伝子」は比喩だよねw
いくら日本人の両親から生まれても、生まれて一度も日本人と触れたことの
なく、そもそも日本に住んでもいない子供に「日本的感性」が存在するなんてあり得ない話。
じゃあ、あなたが「遺伝子」と呼ぶそれは何によって刷り込まれるか?
たとえば毎日の生活、習慣、食、衣、TV、宗教…色々あるでしょうが、
たとえば「花見」ひとつとったって、桜を愛で続けてきた歴史の中にある
わけで、そこに「古典」が関与してない……なんてどうやったら思えるのか
その方が理解できない。
本来は義務教育で身につけて欲しい文化の根幹を、たとえ受験の中に繰
り込まれるという形であっても、取りあえず90%近い国民が習う機会を持つ
ことに、私は大きな意義を見出すのです。
その意味で、214・215の様に、私は「受験教育」に負の感覚を持たないのです。
なぜなら、古典の持つ力というものは、受験などという仕組みより遥かに
重いことを素直に信じているからです。
古典を学んだ生徒が、10年20年後に、ハッと古典の一節を思い出す…
「国語教育」が虚学に見えても、「古典」は虚しいものでは決してない。
235 :
実習生さん:03/10/30 23:59 ID:jb2ZiOmf
>>234に関連して。
日本を代表する比較文学者・川本皓嗣氏の論文に、「秋の夕暮」というのがあるよね。
「秋の夕暮」に「寂しさ」を感じる感性でさえ本来人類に普遍のものではなく、
日本では古典詩歌でこうした歌意が歌い継がれた結果として、
「秋の夕暮=さびしい」とする感情が当たり前のものとして定着したという内容。
243氏の言うとおり、古典の積み重ねが、日本人の感性を決めてきた。
そんなわけで、229の「遺伝子」が本当に比喩であることを祈る。
236 :
実習生さん:03/10/31 00:04 ID:Q49lHkON
>>235訂正。
「243氏の言うとおり」→「234氏の言うとおり」
自明だけれど。
(しかし229を読む限りどうみても比喩じゃないなあ…)
ふーん。国語の教師って、やっぱ自分のやってることが役に立つと思ってる
んだあ・・・禿しく違和感。
オレは90年代前半に、センターで校内ハイスコアを獲ったけど(いちおう、
東大に数人受かる高校。点数は忘れた)、学校国語(受験国語)は知性や読
書量など無くても解ける。と悟った頃から、始めて現代文ハンターになれたよ。
それまでは、自分の主観で解答していて失敗した。実際は古典的だけど、
「こう答えて欲しいんだな」というスジを読んで、その通りに答えるだけで良かった。
他の連中は、自分の主観で解答するべきか、スジを読むべきか、その区別すら
つかずに撃墜されていた。
いつから読めるようになったのか・・・中3のある日、ふと気づいた、ことしか
覚えていない。
古文・漢文については、純粋に参考書・問題集の力で、別にあれで教養が身に着い
た実感は無い。何を使ったかは忘れたけど。
敢えて挑発的なことを書くけど、作文・読書感想文についても同様で、「こう書い
て欲しいんだな」というスジを読んで書けば、面白いくらい、教師がコロんでくれ
るんで怖くなったぐらいだよ。文例集じゃないけど、傾向と対策があるんだよね。
これまた、自分の主観を書いてはいけないんですよね。また間違っても、新聞の文化欄で
読み囓ったような文芸批評的スタイルで「分析」ごっこをしてもいけない。
何を書いても、背伸びせずに素直に「中高生らしく」書く。自分の人生への希望と
抱負を述べ、あくまで前向きでシメルのがキータームですw
小論文はどうしたか・・・これは受験で使わなかったからサボった(w
同じ学年に2人、家庭で贅沢な国語教育を受けていた女の子がいて、そういう子が
家庭で受けたような国語教育こそホンモノだと思う。
1人は、和歌の授業のとき、百人一首を完全にそらんじ、教室が静まり返ってしま
った。昔から家族でやっていたらしい。こういう優雅な習慣が日常生活に根づいて
いることこそ、小手先でない本当の教養だと思う。
もう1人は、図書室の常連で、あまり「勉強、勉強」と言われない家だったのか、
本ばかり読んでいた。まあその程度なら学年に数人いるが、学校の成績も悪くなく、
小論文を書かせると本当に巧かった。
この子は、旧帝の理系に進み、今はどこかの助手になっている。学力の基礎は読み
書きソロバン、という基本を体現していたね。
まあ、以上は自然発生的なケースで、ほとんどの生徒は(オレも含めて)「何のた
めにやらされたんだ」とブツブツ言いながら卒業していくのが現状です。
まあどうせ、「それでも、さわり程度にはやった方がいい」とか仰るのでしょうが、
日本人の感性とか、そら恐ろしいことだけは言わないで下さいよ。
そういうご大層なことは、天皇家に御進講するような國學院の国文学者さんの仰ることで、あ
っしらシモジモには、俵万智ちゃんレベルで充分で御座いますよ(読んでないけど)
まあ、最近は教科内容も変わってきているのかもしれませんが、私自身は、「役に
立った」という実感がどうにも希薄なのです。
この希薄感は、中高の各教科に共通して感じるのですが、いったい、これってどういう
ことなんだろう、と思います。
241 :
235:03/10/31 06:52 ID:Z+38/A5i
>>237 >「こう答えてほしいんだな」というスジを読んで書けば
その解き方で正解だと思いますよ。「国語の問題」はあくまで、
「出題者がどう読み取ってほしいと考えているか」を読み取るゲームだもの。
だから幅はあっても基本的には「唯一の正解」が成立するのだし、
特に学校だと、その解答は「道徳的に正しい」ことも暗黙裡に要求される。
私は小学校時代から先生の性格に応じて答え方を変える程、そういうことに敏感だったけど、
同時にその「暗黙のルール」を明示しない先生には批判的です。つーかアンフェアだろう。
それでも「相手の要求に沿って答える」という対人関係の実践練習にはなると思うけどね。
ただ私は「国語の問題」として成立するものだけが全てとは思わないし、
古典に関しても、自分の世界認識が古典を通じて歴史的に形成されたことを知ったり、
見方を変えればどういう作品が「古典」として認定・制度化されたのかを知れば、
今までと違うものの見方をする可能性が広がるだろうし(少なくとも私は広がって面白かった)、
自分と違う認識のありように対しても偏狭にならずにすむのではと思う。
それは異文化理解の根源にかかわるし、現実社会を生きるうえでもとても役に立つと思うけど。
242 :
235:03/10/31 07:11 ID:Z+38/A5i
念のため補足しておくと、私は、
(「暗黙のルール」さえ明示すれば)学校の「国語の問題」や、
入試の国語・小論文も、けっこう役に立つんじゃん?と考えています。
だって「相手の要求は何だろう?」と考えてそれに沿ったことを書いたり、
あるいはそれを踏まえて自分の意見を説得力があるように展開したりすればいい。
この能力って日常生活やビジネスでも必須の技術じゃないかな?別にセンスだとは思わない。
ただ、私は先生でもビジネスマンでもありませんけどね…。
(Yゼミで小論文指導をしつつやっぱり学校の国語教師を目指す一介の大学院生ですわ。)
243 :
235:03/10/31 07:29 ID:Z+38/A5i
過去ログ
>>108-115あたりを見たら、
82氏が私の思うことをさらに要領よく書いてくれてる。
これに尽きるんじゃないかな?
特に、
>>115の、次のくだりには同意する。
私個人は「上記のもの」以外の国語力もできるだけ大切にしたいけどね。
>俺は国語力の定義を上記のものだけに制限するつもりはない。
>だが、上記の国語力を抜きにしたら、どのような国語力も成立しないはずだ。
244 :
237:03/10/31 17:33 ID:4gzmq9CJ
>>241 >同時にその「暗黙のルール」を明示しない先生には批判的です。つーかアンフェアだろう。
明示する教師になんか会ったことが無いよ。予備校にはいるのかもしれないけど。
教育的配慮で教えなかったのか、教師に力量が無いのか、どっちかだろうけど。
>>242 >この能力って日常生活やビジネスでも必須の技術じゃないかな?別にセンスだとは思わない。
恐らく私は厭世的に過ぎる性格なんだと思う。作文・読書感想文で、教師をコロばすことには
途中から飽きていたし、自己嫌悪感も強かった。
読書感想文のネタが無いときは、大きな本屋にでも行って、難しげな棚や雑誌から
適当に書くことを抜けばそれで済んだ。コピペみたいなもんだったよ。
そしてこうした能力は、大学以降とはさほど関係が無かった。「小論文」を練習し
なかったせいか、間違って放任のマンモス大に行ってしまったせいかはわからない。
245 :
237:03/10/31 17:36 ID:4gzmq9CJ
中学時代、たまたま、北杜夫の「楡家の人びと」を読んで自分なりに感動したことを
いまだに覚えているが、隣の成績トップの受験エリートさんたちは(そういう学校
だった)、ジャンプしか読んだことが無かった。
ちょっと本が読める能力があっても、スコアを出せなきゃなんの能力の証明にもならない
ことを痛感させられた。
実のところ、私のスジ読みは、その頃開眼した能力で、我ながら嫌悪感が大きい。
(敢えて「学校国語(受験国語)は知性や読書量など無くても解ける」と言い切るのは、
そのときの実体験が元になっている)
ところで過去レスを読むと、「国語」教育で、そうした受験エリートさんたちに何かを
授けることができるような主張があるけど、実に甘く牧歌的だと思いますよ。
彼らが欲しいのはとにかくスコアですから。それ以外は要らない。徹底してます。
スコアのためなら、多少の情緒的演技すら厭わないでしょう。私がしたようにね。
246 :
237:03/10/31 17:38 ID:4gzmq9CJ
さて現在の私は読書家でもない。短歌も古典もたしなまない。つくづく閉じた勉強だったと思う。
しかしスレの流れ的には、活かさなかった方が悪いと言われるのだろうな、きっと。
(こんな私は大学では落ちこぼれで、院なんか行かなかったので、プロのアカデミ
ズムが何をやっているかは知らないが・・・)
>>243 こういう理屈はわかるんだが、学校国語の現場は、そんな厳密で論理的な場所じゃ
ないものね。私も詳しくないが、多くの教師は、文芸理論も文芸批評も知らないのでは?
(大学・院の講義で囓った人はいるかもしれないが・・・)
それに、文章に感動しつつ、その中身を論理的に読み抜くには、強靱な感性と知性の
両立を必要とすると思う。どっちか片方だけではダメなんだ。
このあたりの曖昧さにもイラ立ってしまう。まあ、このスレの住人さんたちは、分かってる
人たちなんだとは思うんだが・・・。
247 :
実習生さん:03/10/31 20:11 ID:qMp/AdtJ
そもそも、国語教師って、なんのとりえもない文系の人間が
デモシカでなるんだから。
その証拠に、文章書かせると下手な奴が多い。そのくせかっこつけて
わざわざ難しめ凝ったつもりの言い回しを多用するからなさけない文章になる。
248 :
実習生さん:03/10/31 20:23 ID:uqOYCxHy
>文芸理論も文芸批評
それができるなら、教師なんぞやってらんないって。w
もしできたとしても、授業ではやらないもんだと思うけどな。
249 :
234:03/11/02 11:58 ID:QZhdB6sP
>237
一応いっとくと、「受験国語」とは言っても、そうバカにしたもんでもないですよ。
東大・京大の二次試験をきちんと解いてみれば分かりますが。
中学時代(90年代)に「楡家の人々」を読めた時点で、237さんにはそれなりの
国語力が既にあったと思いますが、その時点で止まってしまって
以後全く国語力が成長しないまま…という理系の生徒はよく見かけます。
数学で言えば、四則計算が身に付いた、くらいのレベルで。しかし、悲しい
かな、たとえ文系の生徒でも、そのレベルにすら達しない生徒は多い。
従って、そういう(理系の・そこそこ成績の良かった)生徒が、学校教育における
「国語」という教科を「この程度のものだ」と見限るのは無理ないかもしれません。
また、それを「国語の奥深さを分かってない」と批判するのも的外れですね。
(理系に進む生徒にそれ以上の国語力が要求される機会は、おそらく無いからです。)
思うに、国語の世界で教師達は、このスレで批判されているとおり国語力の
重要性を自明視して、
「国語力とは何か?」「それはどうやって育てるものなのか?」
という討議を余りにもなおざりにしてきたのではないか、というのが
このスレの途中のへんで論議されていた話ではないでしょうか。
そしてここまで、誰もそれに正面から答えられずにいるのではないか、と。
250 :
234:03/11/02 12:02 ID:QZhdB6sP
ただ、237さん、中学時代に「楡家の人々」が読めるようになるまでに、
あなたに施された「国語教育」の有効性(と必要性)は自明と感じておられる
のですよね?(今こうして書き込みができていることも含め)問題は、それ以降
の国語教育が(たとえば理系の生徒に)なんの役に立つのか分からない、と。
その限りにおいては、237さんの問題提起は実は、単なるカリキュラム上の
問題という気もします。要するに、
現在の時間数では 足 り な い or 多 い
のいずれかの問題として。
この点について、235さん的にも、どうですか?
とりあえず、多くの進学校と言われる私立の高校が、現文3時間・古典
3時間の授業数を確保してると言われますが、公立校は……
251 :
235:03/11/02 13:08 ID:7xAJXN5r
>>250 確かに制度上、時間が根本的に足りないという問題はあると思います。
特に古典とかはそもそも絶対的に時間が少ない。
小説も、例えば『こころ』の一部だけ読んで何がわかるのか?
その点では、現場の国語教師の方々の苦労が偲ばれます。
しかし、私が予備校で接した生徒たちに感じる国語力不足は、
授業時間が短くとも最低限身につけてほしいレベルであることも事実です。
先日採点した小論文の問題を例にとると、
●問「次の文章を読んで、「競争と教育」について、あなたの考えを述べなさい(800字以内)」
当然ながらこの一行の文章には、次のような情報が含まれるわけです。
1.「次の文章を読んで」⇒読んだという痕跡を解答に残さなくてはならない。
2.「競争と教育について」⇒テーマは「競争と教育」だ。別のことを書いてはいけない。
3.「あなたの考えを」⇒本文に賛成にしろ反対にしろ、「あなたの考え」を示す必要がある。
4.「800字以内」⇒800字を1字でも越えたら0点でも文句は言えない。
こうした読みとりは別に受験テクニックというほどのものではありません。
「まず相手の要求ことをきちんと理解する」という日常生活にも必要な能力です。
(何事も、相手があってはじめて自分の意見が言えるのですから)
でも、これができていない生徒がおそろしく多いです。半数はいくかな?
他にも接続詞が使えないとかいろいろあるんですが、
文章による最低限のコミュニケーション能力も育成できないで、
学校の国語教師は何やってるんだー、と思うことも多いのですよ。
234さんには申し訳ないんですが。
252 :
235:03/11/02 13:26 ID:7xAJXN5r
>>251 >「相手の要求こと」→「相手の要求すること」です。ごめんなさい。
補足ですが、実は古典や短歌等に関しても、
時間の不足と同時に、教える側が実はそれらについてよくわかってない、
という側面もあるのではないでしょうか?
特に和歌・短歌・俳句といった短詩型文学にはそれを感じます。
昔、国語の授業で「なぜ日本では俳句が発達したのですか?
この句のどこがいいんですか?」と聞いたときにも、
「そういうものなんだ、これが日本の伝統的な美しさなんだ」という具合に、
何も説明できないくせに、「これが美しい」と
勝手に「スタンダード」として押しつけてくるので
「こいつ実は全然わかってないな」と悟りました。
本来、学校の国語教師は、初学者の感じる本質的な問いにこそ
答えられないにしても、向き合うべき立場だと思います。
そのための勉強が不足している先生がいるような気がします。
(自分で解答がおぼろげに見えてきたのは、大学院で比較詩学を専攻し、
日本詩歌の特徴を英語の詩と比較して考えるようになってからのことです)
>>235 あなたが大学院で学んでようやくおぼろげながら見えてきたようなことを、
中学生あたりが教師のわずかな言葉で、あなたのおぼろげ程度理解できると思う?
その点に関する限りのあなたの意見は、何か根本的に違わないか?という気を
起こさせる。
それをナチュラルに回避する手立てのひとつとしては「押し付け」もありだ。
と思うけれど、どうだろう。
文化の吸収には、ある種「しつけ」的な側面があるとも思うんだけどな。
『教養としての大学受験国語』(石原千秋)ってオモシロイね
>>253 それはそうだけど、感性が鈍い人もいると思うよ・・・知性とは言わないでおくけど。
自分はわかっているけど、他人にうまく伝わらない。のか、やはり自分もわかって
ないのだろうな。という人の区別は、やはりあるよ。
ま、生徒の誰もを高く引き上げることはできないことと同等に、教師のすべてに鋭敏さ
を求めても仕方がないだろう。その意味では、マニュアル的メソッドも致し方無しかな?
例えば暗誦・朗読とかも、そういうメソッドだろうしさ。そうしているうちに、そのうち
理解できる日も来るだろうと。それはそれで必ずしも悪いとは思わないよ。
よく知らないけど、大村はまとか斎藤孝とか、メソッドのスターもいるし・・・。
256 :
234:03/11/02 20:52 ID:SRgMoA9u
251の話にコメントを差し挟んでいいでしょうか。
「こいつら人間としての普通のコミュニケーションも出来てないが、どういう
国語教育を受けてきたのか?!」
という感想を抱くことは私もあります。私の場合は相手が高校生ですから、
中学の国語教育について思うわけですが。それも、一応世間的にはある程度
以上のレベルの高校、と言われている高校で、です。
ただし、どうもこれは「国語力」というレベルの問題ではない面も多い
ようなのですね。端的に言えば「まぁいいだろう思考」のようなものです。
つまり、
800字以内って書いてあるけど「まぁいいだろう」
次の文章を読めって書いてあるけど「まぁいいだろう」
「競争と教育」?他のこと書いちゃだめかな?「まぁいいだろう」
あなたの考えを述……もう読むのがめんどくさいから書いちゃえ、「まぁいいだろう」
ていうか、そもそも問題読むのうざいけど、「まぁいいだろう」
……という具合です。これは「国語力の欠乏」でしょうか?
一度大学に落ちて、はじめて「まぁ……良くねぇじゃん!」と思う生徒には
まだ救いがあると思いますが、こういう気質を予備校の生徒に感じることは
ありませんか?800字以内で書け、という問題で800字をオーバーする生徒は
本当に日本語が理解できてないのだと思いますか?
補足。
252、で書いてあることはそれなりに納得します。253の「押しつけの必要性」にも。
これはダブルスタンダードではなく、「方法としての押しつけ」は肯定するとしても、
教師自身は「押しつけのテクニック」を教育力だと勘違いすることなく、実際に
初学者が感じる疑問に答える力を持っていて当然だ、ということです。そして
私自身は上にも書いたように「押しつけ」であっても、教えられた内容は教師が
意図した以上の効果を生徒に与えるだろう、と思っております。
>254
自画自賛してますが、名著ですね。MD現代文、河合の「格闘…」も面白いですが。
しかし、「大学受験のための小説講義」の方は、面白いけど受験参考書としては
今ひとつ、と思えてなりません。
258 :
235:03/11/03 08:42 ID:i6AYTH7+
>>253 たしかに学校における「スタンダードの方法的押しつけ」によって、
これまで文化や文学が世代間を受け継がれてきたのだと思います。
ただ、そのスタンダードの成立理由や他の基準の存在可能性について、
自覚している教師と無知・無自覚な教師の間では、
同じ内容で授業をしても、結果的にかなり大きな差が生まれるはず。
私が
>>252で例にあげた教師は明らかに後者で、私はその時、
この教師は「教師」の立場をかさにきて「スタンダード」として押しつけることで、
実は自分が理解できていない事実を誤魔化しているにすぎないと思ったのです。
259 :
235:03/11/03 10:52 ID:FDI/M+Vx
>>256 定義論に陥りそうですが、私はそれも広い意味で国語力の欠乏と考えます。
>>115における82氏の定義でも、同様に解釈されているみたいです。
練習で「まあいいだろう」ですます生徒は本番で同じ事を繰り返す確率も高いので、
これは注意力というよりはっきり能力が欠乏しているのでしょう。
私はよく、「たった一行のルールさえ把握できない人間に、
ゲームに参加する資格はないんだ」という言い方でその重大性を指摘します。
260 :
253:03/11/03 13:06 ID:wEQmJRzb
>>258 やっぱりあなたのレスを読む限り、自分の生徒時代、感性?においては国語教師より
既に優越していた、という主張をしている以上のことを読み取ることができないな。
国語に限らずだが教員に当たり外れはあるもんさ。
ただ、「これは世間的に授業で扱う価値のある教材で、平均的日本人は
(その教師の言った理由で)件の俳句を好むんだ」という事実については、
教師は、職業上のスキルとして知っており、子供だったあなたはそれを知らない可能性の
方が高かった。授業で教師は、あなたへ確かに伝達した。
この事実の伝達に関して、教師自身の感性云々は実はあまり重要ではないかもしれない。
(あなたは、自分の感性が、社会的に的外れではないという確信は受け取れたはずだ)
社会生活上、そこまで知れば十分な人の方が多いし、それで満足できなかった
あなたは自分でさらに学んで高いレベルの真実を手にした。
その流れのどこがどれほど不満なのかな、と思ってしまう私はダメ教師?
詩歌に関して自分でも作歌するほどの国語教師が歌の授業をすれば、素晴らしい世界に
触れられるとは思う。作文しかり。現代思想しかり。古典しかり。
その教師の得意な分野なら、力のいれようも変わるかもしれない、でもそれはラッキーな
「おまけ」ぐらいに考えておいたほうがいいと思う。
全て"並"なら、それでよしとしよう。(ほとんどが並み以下だとすればそれは確かに"ハズレ"だけど。)
全ての分野のエキスパートであるような人材を全国に配置できるほど、国は教育に
金をかけてはいない。
261 :
235:03/11/04 05:49 ID:wV4hQQHe
>>260 私が言っているのは純粋に知識の問題で、
件の教師は、俳句がなぜ文学ジャンルとして一般に高く評価されるのか、
子供を一瞬納得させる程度の理由すら言えないまま押し付けてきたわけです。
相応の理由があれば私も賛成はせずとも理解はできますから。
今思えば、俳句に関してはあなたの言う並以下の教師なのでしょうが、
それにしたって国語のプロがそれじゃ恥ずかしいよとも思います。
ところで
>>237氏が塾講師スレ8の947で「学校国語ってどうよ?」と話振ってるけど、
そこでも見事に(237氏ではなく国語が)相手にされてませんね…w
国語の授業で「道徳」「啓蒙」したがる教師には私も懐疑的なのですが、
指導要領その他でやらざるをえない面もあるのでしょうか?>現場の皆様
http://school.2ch.net/test/read.cgi/edu/1061124351/947-957
262 :
実習生さん:03/11/18 17:11 ID:1AoGKxC/
塾で高校生に数学を教えているんだが、
往々にして国語の授業になってしまっている。
まず、文章題がダメ。
3行以上の問題文を見ただけで拒絶反応を示し、放棄を決め込む
生徒が約半数、残った者のさらに半分も、文章を式に落とす
段階で挫折。文をどう読み、どのように数式に置き換えていくか
ということを延々指導することになる。数学以前の問題である。
(ちなみに、式にさえなってしまえば、サクサク答えを出す生徒は
少なくない。)
次に、こちらの方が深刻なのだが、記述式解答に極端に弱い。
答えに到達した生徒の中でも、まともな説明を記述している者は皆無。
9割以上が、メモ用紙に殴り書きしたような計算の痕跡らしきものを
並べ立てるだけで日本語の1文字も見当たらない。
残る少数も、せいぜい「式1のaを式2に代入する」というように些末な
部分のみ説明をする程度で、「何をどう仮定すると、どういう推論により、
どんなことがわかり、何を結論できるか」という風な、論理の骨格というか
概観が全く説明できない。
で、何が言いたいかというと、こういう領域の指導を国語の時間に
できないものかなあ、と。
>>262 >で、何が言いたいかというと、こういう領域の指導を国語の時間に
>できないものかなあ、と。
このスレを見ていてわからない? 所詮、国語の先生の言ってることの大半は神学論争。
部外者への説得力は往々にして希薄。
論理能力に限れば、日本の小中高大では、レポート力の養成が不足しているので、
教師がいい手本を見せられない→生徒もできない、というデフレスパイラルだね。
ところで「天声人語」を要約しろとか、書き写せとか、まだやってるのかね?
あれはエッセイ。小論文の練習にはならない。
それに、要約にはコツ(意識するか否かに関わらず、文章にはキー・センテンスがある)
があるんだが、そうしたルールを教師もわかっててやってるのか、本当に疑問だ。
要約のコツ云々の話は正直レベルが低い。読解力のない人間にそもそもキーの抽出など
できないのだから、コツとか言ってる人は、自分には読解力が身についているくせに、
その力のおかげで自分が要約に長けているという事に気づけない程度の人ですがね。
(あるいはまた「秘伝があって、私ならそれを伝授できる」といいたげな予備校講師あたりか。
ただしこっちの場合は確信犯だな)
私は日本の子供達の作文力のなさ、子供に詩作をやらせないからだと思うよ。
あぼーん
>>264 また神学者が出てきたw
>読解力のない人間にそもそもキーの抽出などできない
だから、その読解力とやらはどうすれば身に着くのよ? 結局は言ってることに何の実体も無いよ。
結局はせいぜい「本を読みなさい」という程度しか言えない訳でしょう? 所詮、
そんな誰でも言えることを連呼して、教育したつもりになってるだけだよ。
>私は日本の子供達の作文力のなさ、子供に詩作をやらせないからだと思うよ。
だからどういう作文を書かせたいのよ? また「元気でみんな仲良く」とか、そういう
童心主義のヤツ? 詩作って、銀色夏生みたいなヤツでも書かせるか?(藁
267 :
266:03/11/18 23:59 ID:md7yFJXq
(続き)
つーか、「読解力」って何よ? 現代文の試験を解く能力・「小論文」を書く能力
のことか? だったら、軽蔑されているらしい予備校講師の方が、オタクらがゴタクを
コネているヒマに、少なくとも点数だけは上げてくれるだろうよ。
普通に文章を読む能力のことだとして、素朴に考えて、仮に一定の読書量で養われるとしたら、
学校で仰々しくやることなんか何も無いよ。ほったらかしにして、本ばかり読ませればいいさ。
(これはあながち投げやりに言っている訳でもない。すでに、少人数・自学自習形式の
実験的私学があり、そこでは生徒は自力で教科書・副教材に向かい、合間に好きな
本を読書、という学習スタイルが確立されているそうだ。
読書力に限れば、中学で文学全集だろうがオトナ向けの本だろうが、いちおうは
普通に読めるそうで、相当に高い。教師の仕事は、主にその補佐。まあ、少人数
で元の素質がマシな生徒を集めているので可能という点は割り引くべきだろうが)
所詮はその程度のものなのに、自分たちが何か特別なことをしているような錯覚が、他者の
嫌悪感を誘い、巡り巡ってこういうスレが立つことになると気づいた方がいいよ。
268 :
266:03/11/19 00:35 ID:LXd/3QFX
ちょっと言い過ぎたかな?
まあ、「読解力」というのは便利なコトバで、中高における客観的な判断基準はせいぜい、
現代文試験の点数程度しか無いにも関わらず多用され、明快な育成法も無い(らしい)ときている。
学校の教師はせいぜい「もっと本を読みなさい」とか説教すればそれで済んでしまう
訳だが(勘違いしないで欲しいが、読書を否定している訳ではない)、予備校・塾では
とりあえず、具体的に点数のひとつも上げてやらねばならぬ。
そんな悠長なことは言っていられない。アヤしげな参考書・講師も多いとはいえ、
まだこっちの方がマシにさえ見えてくるんだが・・・。
やはり曖昧に見えるんだよ、学校の先生の言ってることは・・・。
269 :
266:03/11/19 00:37 ID:LXd/3QFX
あるいは、国語教育がある種の教養教育を目指すのだとすれば、これまたせいぜい、
上記のようなタイプの放任読書教育に徹するぐらいしか、できることはないのよ。
生徒の教養水準の個人差もあるしね。
そのうえで、生徒と読んだ内容についてダベるとか、ホントにその程度しかできることはないよ。
それとも、古典の暗誦や、俳句・短歌・詩の創作でもしますか? こっちはそれこそ付け焼
き刃ではできず、教師本人の生育期及び日常生活における教養の地を問われるから、
今の日本でそれに耐え得る教師がどれだけいるのかはいささか疑問ですがね・・・。
270 :
262:03/11/19 01:21 ID:EO8fDX9M
>>266-269 大筋では同意するが、具体的にどうするのが最善と思うかが
書かれていないのが残念だ。
俺としては、高校までの国語の時間では、「文章で人にものを説明する」という
ことをもっと徹底的に訓練して欲しいと思う。
説明といっても、読書感想とか、「○○についてどう思うか」とか、
「自分の気持ちを説明」とか、そういう抽象的かつ主観的なのじゃなく
(大の大人でもこれには手を焼く)、もっと簡単なのがいい。
自分もよくわかってないことを人に説明する時点で無理があるのだ。
たとえば将棋のルールとか、電車の乗り方とか、本人が
当たり前と思っていることを、それを全く知らない人に説明する
時に説明力の有無が問われる。そういう訓練をこそ、国語の
時間にやってもらいたいものだと思う。
面白くなくても、野暮ったい文章でもいい。
必要かつ十分な情報を、正確に、簡潔に、わかりやすく。
271 :
266:03/11/19 02:44 ID:ehUObScX
>>270 >具体的にどうするのが最善と思うか
>「文章で人にものを説明する」ということをもっと徹底的に訓練
私もそう思いますね。万人に必要な言語能力とは、まずは明晰さですよ。その前提すら
曖昧なままに、中途半端にいろいろ読ませたり書かせても仕方がないと思うんですけどね。
(もっとも、教育現場というのは杓子定規なモノで、今度はその基準からハミ出すモノは、
いい表現でも潰しに掛かるかもしれません・・・どうにも悲観的になってしまう)
それと、古典教育の類については、教師本人が常時、知性・感受性を鈍らせ
ないように心がけておかねば不可能で・・・これも今の日本では悲観的・・・。
272 :
266:03/11/19 02:45 ID:ehUObScX
付記すると、私は、
>>267で例に挙げたような学習スタイルによる教育こそ
理想と考えますね。以前、新聞で見ただけなので、学校名を失念しましたが、
すでにこういう学校はあるんです。
まずは生徒と教師の粒が揃っていることが前提なので、なかなか広範囲には
普及させにくいスタイルですけどね。
273 :
264:03/11/19 21:46 ID:a+TXXXz7
詩から銀色がまっさきに出てくるようじゃなあ。それに、別に文学史に残る詩を
作れという課題を与えるわけではないし、子供が子供なりの言葉練りをすればよい
だけのこと。266は詩のなんたるかを理解せずに国語を語っているから、自分の理解
不能な世界はみな神学論争(これだって本来は神なんかひとっつも語ってないんだから
せめて形而上学ぐらいに言えばいいのに)扱いなんだろう。で、比較的理解しやすい
「○○の解法」みたいなもんが国語の理想だって極論になるんだな。
読解力をつける手管そのものは、特段ムズカシイことじゃない。
「本を読め」は確かに大事だが、読み間違いをしながら百冊読んだのでは効果も薄い。
a)テキストを読んで、b)骨子をまとめて、c)感想なり意見なりを述べて、
d)それを人に評価してもらう
ことだ。
それをやれば絶対のびる。できない人間は、
a)読んだテキストの量がまだ足りないか、
b)まとめたものを評価してもらう機会が足りないか、
c)何を読んでも心に響かないほど心が練られていないか、
d)レベルの低い評価者にしか評価してもらってこなかったか、
のいずれかだ。
c、dに関しては必ずしも本人の責任とばかりいえないのでかわいそうだが、
a、bをちゃんとやってくれれば必ず読解力は伸ばせる。
ここがキーワード、なんてのは読解力がついた人が後付けで初めて言えること。
読解力がない者でも、もちろん指摘されれば「あ!」とは思える(相当のバかで
ない限り)。
問題は、それを自力でできるようになるまでのプロセスの話なわけでしょう?
生徒と教師の粒が揃っていることが前提の教育……それこそ、ほっといてものびてゆく
連中にちょこっと水やりをしてるくらいのことじゃないか。
274 :
264:03/11/19 21:52 ID:a+TXXXz7
>必要かつ十分な情報を、正確に、簡潔に、わかりやすく。
これは、実はとても難しい作業。
「文章から、不必要な情報は除く」能力が必要だから。つまり情報の価値に関する
感覚があって初めてできることなのです。所与の文章からキーワード・キーセンテンスを
見抜く力と同じ感覚。
ここに行くまでには通常、「多くの無駄を含む不正確/あいまいな内容の文章」を
数多く書き、それにペケをもらい続けるプロセスがあるはず。
今の学校国語教育にあっては、その時間をあまりとれていないということは認めます。
275 :
266 :03/11/19 22:17 ID:cgHgdvMF
>>273 >詩のなんたるかを理解せずに国語を語っている
じゃあ逆に聞くけど、詩ってなんですか?
>比較的理解しやすい「○○の解法」みたいなもんが国語の理想だって極論になるんだな。
「理想」だとは言っていない。「マシ」だと言っただけです。
>>268 >読解力をつける手管そのものは、特段ムズカシイことじゃない。
貴方はそういう工夫をしている自信があるのかもしれないが、そんな教師に会ったこと
はほとんどありません。単純にいちいち要約したり添削しているヒマが無いんでしょう。
あるいは、指導能力が不足しているのかもしれない(こうした不満があるのは、私だけではないと思うよ)
276 :
266:03/11/19 22:21 ID:cgHgdvMF
>>274 >今の学校国語教育にあっては、その時間をあまりとれていないということは認めます。
貴方は認めてくださいましたけど、こうした不備すら認めたがらない人が多いように思う。
このスレでも、国語教育に携わっている人間が実際は何を考えて、どんな意図を持
っているのか、こうして問い詰めてやっと出てくる訳で。
国語に限ったことではないが、教師の手の内のさらけださなさも、「何のための勉強
だったのかわからない」という多くの元生徒の不満の遠因だと感じる。
日本の教師(というより、上でカリキュラムや教材を作っている人たち)は、もっと意
図を明確に伝える努力をすべきだし、その意図と懸け離れていないか、折に触れ自
己点検すべきでしょう。
277 :
264:03/11/21 21:41 ID:qyDR43Kr
詩について
詩というのは、言葉を、辞書的意味の枠(束縛)を超えて組み合わせながら運用してゆく
表現活動です。感情・観念・思想など、本来的には具体的な形を与えづらい精神的産物に
対して、代用的に何らかの形をあてがい固定する作業(いわば比喩表現)が多いと思う。
優れた詩には、散文にして数百言・数千言を要する思想を、わずかな単語の組み合わせ
によって表現してしまえる力がある。
絵画と比べながら考えると分かりやすい。
静物画は、写真を撮るように眼前の対象を平面上に記録するのが目的なのではない。
眼前の物品の凝視、転写を通して、結局自分が何に注目し、何に執着するか見極めている。
結果として完成された画面は、そのまま自己分析であり、自己表現となっている。
詩もそれと同じ作業。絵の具の変わりに言葉を使う。
278 :
実習生さん:03/11/26 13:50 ID:SexQBlFj
age
わたしは高校には行っていません。中学中退なもので。学校の国語でやったのは
小学校のときと、強いてあげれば大検の国語。どれもつまらなかった。
それで、日本語に不自由することはありません。
今は教育・文化関連の評論を書いています。
日本語の能力は、実際に読んだり書いたりしゃべったり聞いたりのなかで
身につくものであって、学校教育はあまり関係がないと思います。
どんな教科書でも授業数でも儀礼的なものではないでしょうか。
ただ、TOEFLの勉強のときに感じたのですが、論理や因果関係、時系列に沿った
出来事の把握といった面が日本の学校国語には弱いな、と。
主観的な人の気持ちや立場を推量するばかりではなく、論理的に読めば分かる
ようなテスト、科学雑誌の記事などを題材に因果関係をつかむ練習、歴史的な
話を時系列に沿っておさえる訓練などもとりいれれば、より日本語らしくなるでしょう。
今の「情緒に流れすぎ」「道徳的説教が多い」などの不満も収まるでしょう。
古典については、「老子」でも「方丈記」でも何でもいい、興味のあるものを
現代語訳や学習マンガ等で学ぶだけでも、ものの考え方や表現の仕方にちがいが
でます。学校の教科書・テストの古文・漢文は文法や単語重視がすぎて、古典の
魅力が伝わらない気がするのはわたしだけでしょうか?
なお「平家物語」などは、読むだけでなく琵琶の演奏を録音なりライブで聴くほうがよいでしょう。
歌舞伎や浄瑠璃の作品も同じ。言葉のリズムや抑揚も、独特の感じの読みも含めて
その雰囲気が分かりますからね。自分は学校の授業ではなく、大阪の文楽を見にいきましたよ。
>>279 自分は279さんと違って、大学院までいった者ですが、ほぼ完全に同意します。一点だけ
同意しかねるのは、
>学校教育はあまり関係がないと思います。
の箇所です。現状では確かに関係が薄いと思いますが、本来は学校で教えるべきだと思い
ます。日本語(であろうが何語であろうが)で何かを伝えるということは、教育の基本だ
と考えるからです。
281 :
実習生さん:03/11/27 13:28 ID:Q80dWm40
野矢茂樹氏の「論理トレーニング」を取り入れるとか。
282 :
校長が強盗:03/11/27 13:38 ID:ARpfXU3W
面白い話をしてますね。
>>277 詩がどういうモノか、ということについては同意。そう言うモノだからこそ、
安易に子供に作らさないでほしい。
小学三年生の頃、教科書に載ってたまどみちおの詩を読んで、ああこれが詩か、
と思った。で、「詩を作りましょう」と言われて作るわけだが、子供心にも
自分の作ってるものが詩でないことくらいわかる。それを朗読させられて、
さらに詩でもなんでもないモノを先生が「いい詩ですね」といって誉めたりする。
苦痛でしたね。まあ、お絵かきみたいに幼児の頃からやってれば、子供なりの
表現、というのが出来るんだろうが。
それよりも散文をもっと書かせて欲しい。100のことを100として表現する
のがまず先でしょ。社会で生きていくための基礎なんだし。何度もここで
言われたことだと思うが、偽善的な文章をやたらに誉める先生を何とかして
欲しいな。「こうやれば先生に受けるだろ」という文章を書いたヤツが誉めら
れてるのを見るのはウンザリだった。
284 :
283:03/11/28 23:38 ID:2xcywer0
文句ばっかりではなんなので、私の学生生活で一人だけ出会ったいい国語の
先生の話。今から20年以上前の話だ。
高校1年と3年の時の現代国語の先生だった。どんな文章にもその文章なりの
論理があり(たとえば詩にも普通の論理とは違うが詩なりの筋道があるとか)、
文章を読むというのはそれを読むことだ、てなことを教わった。1年の終わりの
頃には、その人のおかげで大抵の文章はある限度までは必ず一義的に読めること、
そうでない部分についても、ちゃんとした試験問題なら出題者の論理が問題文
の流れからきちんと読みとれ、答が一義的にほぼ出る、ということがわかった。
高校の定期試験なんかだとそう言うきちんとした問題を出せない先生もいるが、
その先生が作る問題はきちんとしていたのですぐにそれとわかった。実力試験
で立原道造の詩の問題をその人が作っていて、問題を解くことによりその詩の
理解が一段と深まったと感じられ、感動したことがある。受験対策的なことは
ほとんど言わないのだが、少なくとも私はその人の授業により国語で点を稼げる
ようになった。
私はまるっきり理系の仕事をしているが、今でも楽しみとして新古今だの風雅集
だのを読む。和歌を読む楽しみもその人に教わった。本当に感謝している。
>>283 欧米では、詩は、本来は成人の嗜みなんじゃないかと思う。だから、知識階層や、
そうした空気に憧れる人間が、詩を書いたり読んだりするんじゃないだろうか?
つーか、自分も含めて、日本人の多くは詩の読み方なんか知らんからな。
>>284 そうした教師って、なかなかいないですよ。自分も1人だけ、全国レベルの歌人でもある
教師に習ったけど、そうした論理性は無く、どうしようもなく古風で啓蒙的な文章観だったよ。
その人の短歌のレベルについてはよく判断できないが、仮に創作者としての実力が
あっても、意外と考えていることは古いんだなあ、と感じた。人柄は善かったけど。
286 :
実習生さん:03/11/29 10:30 ID:RoT08hLA
>>284 ひところの麻布武蔵の入試問題ってそうだよね。解くことで理解が深まる。
そこまでの実力の先生はなかなかいないんだろうな……。目標にしたい。
日本と欧米では詩に対する考え方が根本的に違うので比較は難しいと思われ。
かつてイギリスの名士録では政治家ではなく詩人が最上位に置かれていたくらいだ。
>>284 君が教わったこと、マジで俺にも教えてほしい。ウェブ作ってくれ。
>>286 中国も伝統的に詩を教養の一つとして重視してますよね。
288 :
実習生さん:03/11/29 13:57 ID:SePT66wk
話が少しずれるのですが、
現国の大学入試向け問題集についてはどう思われますか?
田村の現代文は有名ですが、
最近、高田瑞穂という先生がかかれた『新釈現代文』という本があることを知りました。
手に入れるのが難しいみたいなんで、読んだことはないのですが、
どうなんでしょう?
遅レススマソ。ここを発見するのが遅かった。
ここを、もっと早く発見したかったな。日々の教育活動での疑問は
やっぱり間違ってなかったな、と。
表現は少しくだけ気味でいくので、諸氏ご了解のほど。
>270
激しく同意。
ずっと以前にもあったんだが、現在の教育は、日本語(<あえて)文法や
作文技術を曖昧にしたままにしすぎている。だから、小論文を書かせると、
「てにをは」すらまともに使えない、また、主述や副詞の呼応などが食い違う
文しか書けない者が続出している。そして、相手に訴えるための説明の手順
(論理展開)もなっていない。
もちろん、どんなモノでもそうだが、「学ぶ」は「まねぶ」だから、「まねぶ」
対象に数多くふれることが大切であるし、その幅もできる限り広いことが良い。
現在の日本語表現成立にいたるまでの間に、漢文訓読の影響や過去からの語意や
表現変化の歴史も、表現の深みとなるため、古文漢文の基礎は(使える知識という
観点でなく、発想力・考察力の育成という観点から)必要であると考えるが、
現在の受験教育のような技術教育のみに偏っているのは、弊害だ。
簡単な題材から、言語による表現の技術を学ばせることは、本当に必要だ。
なんとなくそんな気がしていて、今まで、接続詞の使い分けや助詞の使い分け、
単語を並べ替えてわかりやすい文を構成する、などの、英語のWTのような訓練が
できる問題集を探してみたのだけれど、そういうことに特化した問題集がない!
・・・ということは、現場で求められていないということなんだな。
まだ、駆け出しも駆け出しなので、不勉強なのですが、ぜひいい問題集や著作が
あったら教えていただきたい!
290 :
264:03/11/29 23:19 ID:0SZSCVoL
久々に進んでますね。
皆にいちいちレスするのは大変なので直近の
>>289のレスを引いて。
>もちろん、どんなモノでもそうだが、「学ぶ」は「まねぶ」だから、
とせっかく指摘しているのに、
>言語による表現の技術を学ばせること
との間にある関係がわかっているように思えないのはなぜ……
私の感覚では、Input90%、Output10%でいいんですよ。Outputができないことを
Outputの練習が足りないからだとするのは近視眼的すぎる。
受験が間近に迫った3年生には、個別指導で小論文、作文を見るのですが、皆さんの
ご指摘のとおり「てにをは」レベルからあやしい(数学は90点取ったりする)
生徒に、読みでのある文章を書かせるまでは大変な苦労です。そういう生徒にいつも
感じるのは、「いい文章」というもののイメージを持てていない、ということ。
接続詞や助詞の使い方でもいいのですが、直してやっても、なぜ私が直した文章の方が
自分が書いた最初の文章よりよいのかわからないやつがいる。
わかる者はなぜ「わかる」のか。助詞や接続詞の辞書的な意味を知っているからでは
ありません。頭の中に、照らし合わせるべき正しいサンプルがたくさんつまっているから
だと思います。
WTのような訓練もいいのですが、その前にやらなければならないのが「読む」作業なのです。
この目的の限りにおいては、必ずしも論理的に構文解析をびしっとされながら少ない量を精読する
よりも、多くの文章をざっとでもため込む方がいいと思います。
ちなみに私は、どうしようもないレベルの者に対する小論文指導は、しょうがないので
「一つのお題について、ベストの解答になるまで何度でも書かせる」というやり方をします。
間違った表現には×を付けるだけで、正しい展開/表現をこちらから示すことは避けます。
場合によっては4〜5度書き直させます。時間がかかる方法なので、2〜3題もやれば
本番になってしまうため、受験校の傾向からヤマを張って、なるべく当日出そうな題で書かせます。
(当日、近いお題が出ればラッキー。てな感じです。)
このやり方は、とてもではありませんが、一般の授業で100人相手にやる気にはなれません。
>>290 現在の精読型の授業・試験の存在意義がよくわかりません。
国語の勉強=国語の先生のお説教につきあい、ついでに現代文の問題を解くこと。
という誤解の元凶じゃないでしょうか?
小中高では、多読→要約力・文章力訓練をコツコツやれば充分では? ま、現在の
カリキュラムと受験制度下では、精読型主流にならざるを得ないのかもしれませんし、
この方法だと添削が必要なので、現在の教員数ではムリなのでしょうね。
292 :
264:03/11/30 19:23 ID:7mh42F3m
>>291 ちょっと前までは、子どもの側に、精読授業を補完できるだけの個々の読書体験があったのですよ。
一定レベル以上の高校は、それをある程度前提にできたから、精読型の授業を通じて、子ども達の
頭の中にある渾沌としたテキスト群も整理してやることで、相乗効果が期待できたんです。
しかし今の子ども達は、まとまった文章を読む経験をほとんど持っていないようです。
小中の授業ではすっかりビデオ教材やコンピュータなどで見る動くコンテンツが幅をきかせているし、
遊びだってメールにゲームですから、刺激的で断片的な言葉の切れ端が飛び交っているばかりです。
趣味は読書だという子でも、読んでいるのはコミック調の文庫かハリポタまでで。
中高生の書く文章を見ても、短文を羅列した感じのものが多く、構成として深みのある文章を書く
ことのできる生徒は減っているように思います。
義務教育の新課程では、音声言語重視の傾向がさらに打ち出されていますが、これだって
「よいスピーチ」にたくさん触れなくては結局子供自身のモノにはならないのでは、と
危惧しています。巷間にあふれる面白くて軽妙な「トーク」に触れている生徒達の日常会話は
とてもテンポがよく、軽妙です。けれど、同じ生徒が授業で発表する1分間スピーチは
惨憺たるものですし、何か指導された時にする「言い訳」などでは、本当に支離滅裂な話しか
できません。もちろんそういう生徒は、「面接」で苦労します。
293 :
291:03/11/30 20:14 ID:84eBz+6H
>>292 >ちょっと前までは、子どもの側に、精読授業を補完できるだけの個々の読書体験があったのですよ。
その前提が、すでに幻想では無いのか? と思うんですが・・・私は80年代末期に、
地方の県立トップ高(それなりの人数が旧帝にけっこう行く)にいましたが、生徒の
平均的読書量・言語能力は、大して高いとは言えなかったですよ。
ま、文化資本が貧弱な田舎ということを割り引かなきゃなりませんし、今はもっとひどい
んでしょうけどね。
さらに言うと、若年層のそうした能力が衰退しているとすれば、社会が享楽化・刹那化し
ていることの反映でしかないと思います。「宇力低下」も所詮はそういうことでしょう。
余談ですが、そうした事情を考慮しない、一部(と信じたい)「学力低下」論者の、
受験エリート礼賛志向にはヘキエキします。W田秀樹をTVに出すな。
>290
丁寧なレスありがとうございました。
もちろん、模範テキスト多読の必要性はわかった上での発言だったのですが、
言葉足らずですいません。
つまり、「読む」ことは当然勧めているのですが、それと同時に、その模範
テキストが日本語表現上どういう点で「良い」のか、ということを効率的に
意識させるには、まさに「output」部分の訓練も同時に必要なのではないかと
いうことです。それで、「output」部分の訓練用のものが、まだまだ「input」十分
であることを前提としたもの(つまり、いきなり作文させる形式、もしくは
形だけ確認してすぐ作文に移ってしまう問題集など)が主流で、田舎では
いいものがなかなか発見できないでいるのです。
何かご存じでしたら、ぜひご教授ください。
295 :
291:03/11/30 20:48 ID:84eBz+6H
言わずもがなですが・・・。
進学校では、部活や日々の勉強の消化だけで終わってしまい、硬い活字等に興味が向かない。
非進学校では、そもそも、勉学的・学術的なモノ全般に興味が向かない。
こんなカンジですかね? んで、みんな共通して、ヒマな時にはマンガ読んでTV見て
ゲームしてケータイいじってる?(ステレオタイプだけど)
社会環境がおかしい、と言えばそれまでですけどね。
296 :
264:03/11/30 23:36 ID:7mh42F3m
>>293(291)
うーん……私も八十年代末期の地方公立トップ高出身ですが、母校が毎年発行している
生徒会誌の自由投稿欄は、短編小説あり戯曲ありエッセーありで、もちろん文体は当時の
時代を反映して軽薄調なタッチも多かったのですが、内容的には今振り返ってみても
けっこう読み応えのあるものだった気がします。
現在の母校の生徒は、そんな文章が書けるのだろうかと思うと、疑わしいです。
母校に勤務しているわけではないので確認しようもありませんが。
(自由投稿欄自体がなくなっていたりして)
>>294 作文指導の要は、上のレスでも書いたのですが、とにかく「評価してやる」ことに尽きると
思います。自分の書いたものに×を付けられること、いい作文だというものを見せる
ことだと思うのです。それをしないで、問題集を生徒にあてがって「やっておけ」では
いずれにしても力はつかないと思います。
私自身は、3年生の受験指導の教材は、その年年の一般書店で手に入るもので間に合わせています。
秋になると本屋を回って一通り買いあさります(3年の担任をするのは3年に1度なので、
前に買った問題集はネタが古くなっていて使えないこともありますから。自腹です)
個別指導を申し出て来た生徒に紹介して、適したものを本人に買いに行かせ、いきなり書かせます。
1・2年生も含め授業で作文指導をする機会といえば小説教材なら必ず最後に感想文を書かせること
(場合によっては一読後にも感想を書かせ、授業後の感想文と比べています)とか、
論説文の要約とかの機会をとらえて、必ず添削してから返すぐらいです。
よいものを抜き書きして生徒に配ることもあります。
あとは定期考査に長文記述を毎回ひとつは入れるとか、短歌・俳句(例えば修学旅行後のテスト
では「旅行短歌を作っておけ」とあらかじめ課しておいたりして)を入れるとか。
考査は必ず点数評価をされるものなので、生徒のモチベーションも上がりますし。
こんなことをやるくらいで手いっぱいです。私に関しては、とても問題集を買って指導、という
余裕まではありません。
297 :
264:03/11/30 23:58 ID:7mh42F3m
つけたし。
これは皆さん意識してやってらっしゃるかどうかわからないのだけど、私は、授業中の発問に
答えさせる時、主述が整っていなかったり、1単語だけで答えたりした発言は、言い直させています。
例えば、
私「これは、どうしてだろうね。はい、山田。」
山田「悲しかった。」
私「誰が?」
山田「紫の上が。」
私「じゃ、最初から。」
山田「紫の上は、悲しかった。」
私「どうして、という質問にはどう答えるんだっけ?」
山田「なんとかだから、で答える。」
私「じゃ、最初から。」
山田「紫の上は、悲しかったから。」
こんな感じですが。こういうことも、Output訓練の貴重な機会だと思っています。
298 :
実習生さん:03/12/01 13:00 ID:9NVlUx6B
超基本的な書き方指導なら、『ほんとはやさしい小論文』(文英堂)がよいと思う。
「主語と述語を対応させる」「「だ・である」と「です・ます」の混合はダメ」から始まり、
内容ははっきり言って小・中学生レベルなのだが、高校生の現状によくあっている。
もっと本格的に、論理的文章を書かせるトレーニングをするなら、
野矢茂樹の名著『論理トレーニング』および『〜101題』が最適。
司法試験の参考書にもなってるくらいだが、優秀なら高校生からでもできる。
別にこれらを使って授業する必要はないけど、参考にはなるかな?
>>297 自分は予備校の小論文講師に応募中の者だ。全然関係ないのだが、自分の彼女に同じよう
なことをよく言っている(w
それはさておき、評価が大事には同意します。自分自身、大学院時代にエッセイを大量に
かかされた上で、かなり厳しい評価をもらった。2年間で英語ばかりで2500単語のエッ
セイを10以上書いたが、最後の頃は次第に自分の書いている文章が何点つけられるか分かっ
てきた。今では、あれは論文だけでなく論理的思考一般の非常に良い訓練になったと思っ
ている。
300 :
299:03/12/01 17:17 ID:GdnJkkEa
301 :
実習生さん:03/12/02 14:34 ID:V28rmx3w
>>288 高田瑞穂とはまた大昔の学者ですなぁ…
現在、あまり有効な参考書ではないと思われます。
志賀直哉(新潮文庫だと思う)の作品解説があったように記憶してるので
とりあえず読んでみてはどうかと思います。
>298
ありがとうございました!たいへん参考になりました。
また、地道に探してみます!
303 :
実習生さん:04/01/01 01:47 ID:BTWl/jgu
書くことは刻むことであり、己を鍛えることである。
良スレage
304 :
実習生さん:04/01/01 08:50 ID:G4zLr1pA
297すごいですね。てか国語の先生って頭よすぎ!そういう授業してほしいかも。国語は授業ちゃんと聞いても成績上がらないから辛いです。受験は小論無いとこにするし…古文は単語も識別も分からないままセンターへ泣
305 :
実習生さん:04/01/01 08:58 ID:8jiFBkH/
>304 授業だけでは上がらないよ。
運動と同じ。
体育の授業まじめに受けたからといって、体力バリバリのヤシと
マラソンで同じように走れるかというと…
授業「聞いて」るうちはダメだな、確かに。
308 :
実習生さん:04/01/13 08:54 ID:yKrXzIUr
国語の時間にディベートとかって意味あるのかね。
外国でやっているからって、真似する必要ないんじゃないの?
外資系企業相手にプレゼンする人が自分で勉強すりゃあいいべ。
議論する能力は当然必要だけど、公教育で取り入れる意味は
どれだけあるんだろう。英語のリスニング重視とパラレルって
いうのが気になるなあ。
「読む」重視の従来の教育は確かに偏っていて、作文や論文での
「書く」教育には大賛成だ。でも教室を二つに分けて賛成派と
反対派で意見を出し合って判定するなんて、方法論としても
ちょっと?だな。
「話す」っていうのは単なる説得力がどうこうの問題ではなく、
例えばお金の話をするのは遠慮がちになるとか、そういう日本人
のメンタリティと深く関わる部分もあって、それを抜きにディベート
能力どうこう考えたってあまり意味はない気がする。
これはきちんと根付くのかね。
309 :
実習生さん:04/01/13 16:20 ID:VQ+BEYIH
じゃあ私は一生国語できないんだ…聞くんじゃなくてどうするべきですか?というか先生の話聞いてもなんでそうなるのか納得できない。テストの採点を見ても自分のどこが間違ってるのか分からないし、文章の捉え方は人それぞれだから別にいいんじゃないのって思ってしまう
310 :
実習生さん:04/01/13 16:27 ID:VQ+BEYIH
あと作者のいいたいことがなんで分かるのってかんじ 必ずしも作者の考えとこっちの考えは一致しないんじゃない?ヘリクツイイスギカ
久々だったので使ってたレス番いれるの忘れてました。
>>308 >例えばお金の話をするのは遠慮がちになるとか、そういう日本人
>のメンタリティと深く関わる部分もあって、それを抜きにディベート
>能力どうこう考えたってあまり意味はない気がする。
むしろ、そういった日本的?メンタリティとはリンクしない「勝つための弁舌の技術」ってのが
ディベートを通して習得させたいものではないかと思う。(それが良い悪いかはまた別として)
>>309-310 これ以上の深入りはスレ違いになるのかな?どうなんだろ。まあいちおう思ったことを書くと、
成績でいい点を取ることを目指したいなら、
>文章の捉え方は人それぞれだから
を言ってはいけないんだな、これが。教える側の示す読みが世間一般に「よい読み」とされてる
わけなんだから、それとずれているってことはよくない読みなわけだ。
(以降、「よい読み」「わるい読み」ってのは、成績が上がる/上がらないという意味で
読んで欲しい。)
あなたは教壇に立つ一個人の教師を相手にしているつもりかもしれないけれど、実際は、
国語が得意=世に言う「よい読み」に沿って読める故に、現在教壇に立ち&ある程度の教材研究
(世間的に認められた読み方)を踏まえて授業を展開している教師の読みというのは、
やはり読みの"セオリー"なんだな。あなたはそれを相手にしている。
採点式のスポーツ競技(体操とかフィギュアスケートとかシンクロとか…)とか、
踊りとか書道とか生け花とかと同じことだと思う、そう言っちゃうとみもふたもないんだが。
作者の考えの分析についても同様。あなたの考えが教師の分析より優れているというのであれば、
その教師を論破するしかない。
ちなみに、「聞いてるうちはだめ」ってのは、毎回の授業で
まず自分の読みを頭に置く→教師の読みを聞く→一致してたら万事OK、
一致してなかったらどこがズレテルのか検証する→自分の方が正しいと思ったら
教師に確認。教師の方がやっぱりよい読みだと思ったら、次からはそれができるようにする
(どうやったらその読みへ至れるか、自分には何が足りないか分析)
というプロセスを経験できているか、ということ。このプロセスなしに、ただ話を聞いて
黒板を写してるだけじゃ、いつまでたっても独力で「よい読み」にはたどり着けない、
ということ。
読みのセオリーってなんじゃい。
教師と読み比べなんてどこの生徒がやっているのだろう。
国語の時間は文学の時間じゃないよ。
>>313 >読みのセオリーってなんじゃい。
ある文章について、普通はこう読むでしょ、という読み方(解釈とか、主題とか、筆者のスタンスとか、いろいろ)
……そのまんまか。
普通ってのをどう解釈するかにもよるけど。
例えば料理でも、料理ができる人なら「普通はこうする」という手順とか処理方法っての
があって、普通はそうする。それがいわば「セオリー」。
そして、普通どおりにやらなくてもおいしければいいじゃん、というスタンスももちろん
あるとは思う。
料理学校で教えるのは前者。
「文章なんて人それぞれの感じ方でいいじゃん」っていうのは、料理における後者の考えに
近いと思う。後者の考えで料理しようとする人で、セオリーどおりにやるよりおいしい料理を
作れる人って、ゼロではなかろうけれど、やはり少ないんじゃない?どうだろう。
「人それぞれでいいじゃん」と自己流の読みをしていく人で(以下略)
>教師と読み比べなんてどこの生徒がやっているのだろう。
私の発問、生徒の返答、それに対する私の指導、それに合点がいった/いかない時の生徒の表情……
などを観察して生徒達の頭の中の動きを推測する限り、一定以上のレベルの生徒なら
普通にやってることだと思うけど。たまには「こういう答え方(=考え方)じゃだめですか」
とか聞かれることもある。よければ「それもありじゃない?」って言う。だめなら、
どこがだめなのか教える。
「読み」の授業の場合、だいたいこうやって進んでいくものでしょう。
>>314 「読み比べ」って、別に文学的文章に限らない。
そもそも国語の時間は「読む」訓練だけがすべてでもないし。これは言わずもがな……
「文章なんて人それぞれの感じ方でいいじゃん」なんて誰も言ってないよ。
個々の教師がその「セオリー」とやらを完全に体得していると言えるのか聞きたい。
>>316は、かかりつけの町医者に、この世のあらゆる病気と怪我を診断、治療できるような
完全さを期待するタイプか?
個々の教師ということでいえば、それはもちろんピンからキリまでいるさ。
全員に完全を求めるのが前提であれば、「いえない」。
こういう答えが引き出せれば満足?
test
国語というのは読みの作業が多くを占めているわけで、それが指導できないということは
町医者で言えば問診ができないに等しいのでは? とするとあなたの言う「セオリー」は、
「セオリー」と言うに値しないと思いますよ。少なくとも体系的なものではない。
それを「普通はこうする」などとして生徒を説き伏せることに疑問を抱くわけ。
>>310 あなたの言う通り、文章を読んだところで「作者の考え」なんかわかるはずがありま
せん。だから、国語の時間にそんなことは聞かれていないのです。
あなたは自転車の乗り方を言葉で説明できますか?
何度も転んで体で覚えたバランス感覚は、頭でわかっていても言語化は難しい。
つまり、考えと、それを文章で表現することとは、別のことなわけです。
すると、作者が頭の中でAと思っていることを文章で100%表現できている保証はない
ということになります。だから作者はAと考えていても、読者はBと受け取ることが
よくあります。Bの方が社会的常識的に妥当であれば、その文章はAではなくむしろ
Bと解釈されて当然です。
あなたに期待されているのは作者の考え(A)の復元ではなく、社会的常識的により
妥当とみなされる解釈をするということです。
ただ、あなたが作者の考えにこだわる理由のひとつには、出題者側の不用意もあると
思います。「作者の意見を要約しなさい」「作者の主張に合致するものを選びなさい」
などといった設問からは、やはり「現代文=作者の意見を抽出する作業」というイメージ
ができてしまうでしょう。
「この文章を要約しなさい」「この文章の主張に合致するものを選びなさい」とした
方がより正しくてわかりやすいと思います。
>>317 問題は、教師側の意見が「社会的常識的に妥当である」根拠はどこにあるかということ
なのだが。
教員採用試験に合格したからというのではあまりにも悲しいし、ある程度の常識の範囲は
教師間で共有されているというのもやや説得力に欠ける気がする(そうでないと困るという
のはわかる)。だからと言って、個々の授業の運営は各先生に任されているというのも責任
感がない話だ。
建前はともかく、現実にはこれらを都合よく使い分けて主張しているというところではない
だろうか。
>>320 殺し文句的で申し訳ないのだが、「やってみるとわかる」ことっていうのがあって、
例えば教科書には「指導書」というのがある。実は普段私は指導書などほとんど見ずに
授業をしているのだけれど、指導案を(たいていは頭の中でだけど)作って授業をやってみて、
ちょっと疑問点が出たのでたまには指導書でも見るか、と見てみると、
指導書には導入-展開-主題抽出といった授業展開例が書いてあるのだけど、それで「ここがへそ」
みたいに書いてある所は、やっぱりほとんどの場合、自分も確かに触れているのですよ。
それから、教科書会社は(頼みもしないのに)教材研究の実践例とかを載せた小冊子を
よくくれる。つい読んじゃったりする。また、県や市町村ごとにたいてい教科の研究会みたいなものが
あって、年に一回紀要を発行したり、研究授業を開催したりしてる。
>個々の授業の運営は各先生に任されている
というのは、実は多分にイメージでしかないんではないの?
多くの人は一生のうち同じ教材で複数の教師の授業を受けてるわけではないのに、
なぜいとも簡単にそう言い切っちゃうんだろ?
>>319 >国語というのは読みの作業が多くを占めているわけで、
そうね。
>それが指導できないということは町医者で言えば問診ができないに等しいのでは?
わたしのいう「キリ」の教員のことね。
>とするとあなたの言う「セオリー」は、「セオリー」と言うに値しないと思いますよ。
はあ??????
このつながりが、まるでわからんのですが。
「キリ」の教員がいるのは事実だけど、「キリ」の教員とは、私のいうセオリーから
外れた教員のことです。ハズレの教員ということ。
(余談ですが、問診のできない医者(ちゃんと、堂々と開業してる)もけっこういますね。)
上記にも述べたとおり、多くの教員は、セオリーをおおよそ共有してますよ。
>>322 ずっと気になっていたんだけど、とうとう本音が出たのかな。
>「キリ」の教員がいるのは事実だけど、「キリ」の教員とは、私のいうセオリーから
>外れた教員のことです。ハズレの教員ということ。
あなた自身がいわゆるアタリであるというその自覚はどこから出てくるのか?
と、まずは突っ込んでおく。
ところで、「私のいうセオリー」というのは何なのかってずっと聞いているんだけど。
あなたのいうセオリーなんだからあなたにはあるのでしょう。
それから外れた人をハズレ扱いするくらいなんだから、詳しく説明すべきでは?
>ある文章について、普通はこう読むでしょ、という読み方
と言われても、おっしゃる通り何の説明になってないね。
あなたの読みが「普通」である根拠を聞いているんですが。
というより、「普通」であることをどう生徒に説明しているのか聞きたい。
まあ、するつもりでもいいけど。
>>323 私はずっと一人の同じ人を相手にしてるのかな?(どっちでもいいけど)
>あなた自身がいわゆるアタリであるというその自覚はどこから出てくるのか?
本音って……あなたはいったい何を身構えて私と言葉を交わしているのか。
私が一通りのことができる教師であることが不満なの?
私が自分を、まあアタリの教師な方じゃないのかな、と思っている根拠。
自分で入試問題を解いたりしてみての出来具合、作文指導の結果として生徒が入賞したり
した例などの蓄積、生徒の成績(模試等のできぐあい)、生徒の教員評価(学期に1度やらされる)の結果、
生徒や保護者の「いい先生に当たってよかった」という謝辞(直接言われるのはリップ
サービスと話半分で聞きますが、間接的に聞き及ぶこともあるし)、「先生に近づきたい」と
いって国文科に進む生徒の数、その他もろもろ。
こんな感じでいい?それとも上記に関して全て具体的数値を出せと?
出したところで信じる?(←最後はここにたどり着くんだよ)
つづき
>ところで、「私のいうセオリー」というのは何なのかってずっと聞いているんだけど。
>……
>あなたの読みが「普通」である根拠を聞いているんですが。
「何なのか」なんて、100字や200字で書けるはずないと「普通」なら思うんじゃないかなあ
例えば野球にもセオリーがあると思うけど、それを一言でざっくりと表現する言葉なんて
ないと思うんですよ。
先発オーダー作りのセオリー、四番打者のセオリー、初回立ち上がりの投手を責める時のセオリー、
1点差で追い上げている時の7回の攻撃のセオリー、二死満塁の時の守り方のセオリー・・・
そういったものの集積を一言で「野球のセオリー」を表現すれば簡単じゃないか。
「読み」のセオリーにだって、評論を読むセオリー、小説を読むセオリー、韻文を読むセオリーは
それぞれ別にあるし、序論を読むセオリー、本論を読むセオリー、結論部分を読むセオリー、
人文学的文章のセオリー、科学的文章のセオリー、文明論のセオリー、漱石のセオリー、志賀のセオリー、
比喩表現理解のセオリー、言い換えのセオリー、100字要約のセオリー……
これらの各セオリーは、家族的類似性を持っていると思う。コアになる部分をメタ言語で
抽象的に説明すれば、短い語数でまとめられるかもしれないけれど、そうした時、あなたは
果たしてそれを理解できるだろうか。
かといって、具体的にいちいち説明せよということなら、あなたはこのスレで私に一冊の
総合学参を書け、と要求しているのと一緒。長くなるけど、どうする?
>>324 信じる信じないの前に、あなたが実際にどのような先生なのかということに全く
興味はありません。
言いたかったのは、あなたがデキる先生で「私のセオリー」に外れた教員はハズレ
なのだという表現に、やや傲慢さが感じられたということ。それだけですな。
>>325 各セオリーごとの説明に興味があるわけではない。
だから「コアになる部分をメタ言語で抽象的に説明」する方を聞きたいね。
ただレスを読む限りあなたは語る準備があるようだから、最初に掲げた「評論を
読むセオリー」もできたら説明してもらいたい。その方がコアの部分と合わせて
よりよくあなたの主張がわかるでしょうから。具体的な評論文を例にしてもいい。
長くなる分にはあなたはたいへんだろうけど私はたいへんではないので何とも
言えないね。他のレスもほとんどないから遠慮はいらないと思うけど。
で、あなたのその読みが「普通」であること、そしてそのことをどう生徒に説明して
いるのかということも聞いているのですが。まあこれは上のセオリーの答えを聞けば
わかることだろうね。
>>326 私は
>>312 >(世間的に認められた読み方)を踏まえて授業を展開している教師の読みというのは、
>やはり読みの"セオリー"なんだな。
と書いている。上記の言葉は、国語教育の世界には(そうやれば有効だと)定評のある文章へのアプローチの仕方があり、
私も(キリの方ではない)国語教師なのでそれを身に付けている、という主張を含む。
それをふまえて言った私の「私のいうセオリー」という言葉を、あなたはどうやら、
「私のいう(=私が独自に提唱している)セオリー」と曲げて理解してしまっている気配がある。
私のいう「セオリー」とはむしろ、平均的な読書人(その中に平均的資質の国語教師も含む)
で共有されているものです。312では「世間」というくだけた表現がそれを示している。
おそらく、あなたが持つ大きな認識のひとつに「平均的国語教師はクソ」という前提がある
のでしょう。だから「ちゃんとやってるよ。そりゃ、ピンがいればキリもいるのは認めるよ」という
私の発言が、「キリもいる」→「オレはキリとは違う」→「オレは他の奴よりデキル」と
あなたの頭の中で変換されてしまっている。
あなたにとって「並みの教師=クソ」だから、それを前提とすれば、確かに私の主張は自分が
平均以上の能力の教師である主張をしたことになる。それじゃあもちろん傲慢ですよね。
けれど、上記の分析が当たっているとしたら、大前提そのものが私とずれてる。
私の前提は、「平均的国語教師は、それなりの共通認識と読解技術を共有している」なので、
私が「自分はその"セオリー"を持っている」と主張することは、私が集団から飛びぬけている
主張を意味しません。「自分は少なくとも平均レベルの資質はもっている」まで主張して
いることにしかならないのです。
「アタリ」という言葉を先にだしたのは実はあなたの方である、という点に注意して
(ここは重要な点だと思う)レスをさかのぼってもう一度読み直してみて。
どうですか、あなたの「感覚」に対する私の理解がずれていたら訂正してください。
"傲慢な307"のメタ言語なんか、おそらくあなたはハナから受け付けてくれないのでは?
徒労におわる作業をする気まではありません。
なるほど、323は確かにちょっと行き過ぎた発言だったようだね。失礼しました。
ハナからあなたのことをばかにしているなら、こんなにレスをつけたりしないよ。
また、「並みの教師=クソ」うんぬんというのはあなたの思い込みですね。
面白そうなことが聞けそうだから聞きたいと書いた。
できればそれに私なりの反応を示したいとも思っている。
「思い込み」という表現は、思い込んだ私の方に曲解した落ち度があるという主張をして
いることになります。憮然。
読解スキルに関する抽象的な話が面白いとは思えない、本当は具体的なテキストと
面突合せて読む作業の中で、「ここがポイント(セオリー)」とやるほうがましなのだ
とは思うけれど、とりあえず評論関係について書いてみますよ。
文章を理解するには、解剖的アプローチと建築的アプローチがあって、前者はマクロ→ミクロ、
後者はミクロ→マクロへ注目するスコープを変化させる。どちらを先/後にやるという
問題ではなくて、普通、文章を読む瞬間ごとに両者を切り替えながら同時に行っていく。
以後評論の読み方について、上記のより具体的な作業のあり方を説明していきます。
まずは解剖的アプローチについて。
評論文を書く人は、多くの場合、主題に関する自説の主張(高飛車に言えば啓蒙)の手段として
文章を書いているとの前提に立ちます。
この前提があるが故に、(教科書または入試問題の問題文に採用されるような一定レベル以上の)
評論文は、多くの場合以下のような特徴を持つはず。
・一定の構造を持つ。具体的には多くの場合、[序論-本論-結論]タイプ(尾括型)か
[総論-各説]タイプ(頭括型)か、または両者のミックス。
→上記の構造を見抜くため、最初の通読を終えた後最初に行うのが段落分けの作業。
・序論には直接的間接的に、何らかの形で主題が提示していると見込まれる。
・主題にもいくつかのタイプがある。人文…文学・歴史・芸術・思想/社会…言語・心理・風俗・民族
/自然…生命・環境・科学史などが取り上げられることが多い。
→逆に言えば、ホントウの専門家向けのディープな論文などが問われることは少ない。
一般(もしかしたらそれよりちょい上)レベルの人々の関心に合致するような話題が
取り上げられているはずだ、という高をくくって主題提示のキーセンテンスの当たりを
付ける作業を行う。
まずはこんなとこから。
うーん、議論の前に少し。
私はあなたに対する傲慢という発言については非を認めたが、あなたがその前提と
考えている私に対する次のようなイメージまで肯定していませんよ。
>おそらく、あなたが持つ大きな認識のひとつに「平均的国語教師はクソ」という前提がある
>のでしょう。
>あなたにとって「並みの教師=クソ」だから、それを前提とすれば、
私の発言のどこを見て「並みの教師=クソ」なんて言ってるんですか?
私はそんなこと一言も言っていませんよ。
あなたはこれらを勝手に前提としているのでないですか?
これはあなたの「思い込み」以外の何なんでしょう。
私に落ち度があるとでも?
憮然とするのはこちらの方なんですが。
今回はコメントする気にならない。
読んでますから続きをどぞ。
誤解のないよう付け加えておくと、
あなたは少なくとも自分にはセオリーがあり、そのセオリーがない教員は「キリ」だと言った。
私が傲慢だと言ったのは、あなたが「自分が平均以上の能力の教師である主張をした」からではなく、
むしろ「キリの教員の定義を勝手につくり、また自分がキリではないと主張」したことの方にある。
だから「あなた自身がいわゆるアタリであるというその自覚はどこから出てくるのか?」という
突っ込みになる。
あなたからの反応がずいぶん大きかったので、「傲慢」という表現はややきつかったかもしれないと
思って行き過ぎだと言った。
平均的な教師うんぬんはあなたの「曲解」。
>私のいう「セオリー」とはむしろ、平均的な読書人(その中に平均的資質の国語教師も含む)
>で共有されているものです。312では「世間」というくだけた表現がそれを示している。
312について少し。私は一貫して、その「セオリー」の内実を問うてきているわけね。
それはなぜかというと、何が「よい読み」かという大きな疑問を、「セオリー」という実に便利な一言で
済ましてしまっているからだ。
平均的な読書人(その中に平均的資質の国語教師も含む)に共有されているなどというあいまいな
説明をされても生徒は納得しないだろう。312についてはその点が大いに不満だ。
じゃああなたはその「平均的な読書人」および「平均的資質の国語教師」なんですか?またそれはどう
いう根拠があるんですか?それとも自称ですか?と問われて当然。
よい点を取るためとか、成績を上げるためにはとか、私は生徒をいい大学に進学させたという評価が
あるからという理由で、否応なくこちらの読みを「よい読み」として受け入れさせる姿勢は疑問だ。
そういう説明をしているから、国語嫌いがどんどん増える。
320も私のレスだが、310のような質問にはまず丁寧に320のような説明をすることが必要だろう。
そうか、
>>320はあなたでしたか。そして
>>320はネタじゃなくて、丁寧な説明のつもりで
まじめに書いていたのでしたか。(別に誰が書いたは置いといて)てっきりネタだと思って
スルーしてました……
>あなたの言う通り、文章を読んだところで「作者の考え」なんかわかるはずがありま
>せん。だから、国語の時間にそんなことは聞かれていないのです。
もしこれを本当に本心から書いているのなら、私が今から書こうとすることなんか読む必要ないと
思うよ。
>私の発言のどこを見て「並みの教師=クソ」なんて言ってるんですか?
よく読んで。私はあなたの「307が自分をアタリだなんていってるぞ」という発言の
根底に、「並みの教師=クソ」という認識があるからそんな発言をしてるんじゃないか、
と分析した。あなたがリテラルに「=クソ」発言をしたなんて私も言っていない。
それから、「キリ」つまり実質的に不適格教員であるような者が今でも教壇に立っているのは
事実で、それはあなたも争う気はないのでしょう?
その認定の一要件に教授法のセオリーを体得しているかしていないかという点を問題にするのに、
あなたがなぜそんなに気色ばむのか正直わからない。至極まっとうな要件だと思うよ。
あなたの「定義を勝手に作り」という受け取り方は私から見ればゆがんでます。
こうしたことも、あなたの心理の奥に「並みの教師=クソ」という前提を仮定してみると
説明できる気がするんだけどな。(あなた自身が自分の内奥に気づいていない可能性も
ありますよ)
つづき
私は私なりに、本当に僭越ながら現場で国語を教えている者を代表するつもりでセオリーの
話を書こうとしたし、
>>329なんか単に書き捨てでは申し訳ないから(つまらない所で
突っ込まれて本筋が進まないと生産的でないしね)小一時間かけてそれなりに吟味して書いたつもり。
だけど、結局あなたは一個人としての「私」しか相手にするつもりはなさそうだ。
私は自分を大当たりではないにせよ、アタリの教師だと思うから、私の考えが世の国語教師の代表を
できる(かもしれない)と考え、いろいろな発言をしようと思っていた。
僭越なのは承知で、「オレはこうなんだけど」というスタンスでなく、「皆こうなはずだ」と
いう立場に立とうとしたんだ。
あなたがそれを疑うところから出発するのなら、あなたを説得するために私は自分の資質を証明する
所から始めなければいけないわけだけど、それは非常に難しい、こんな匿名掲示板上では多分不可能なことだ。
それができなければ、私が何を言っても、あなたが「307が何を言おうと、それは307が勝手に言っているだけ。」
を評価するかもしれないのはわかる。ただし、そんな受け取り方をしている限りは、
"傲慢な307"のメタ言語なんか、おそらくあなたはハナから受け付けてくれないのでは?
徒労におわる作業をする気まではありません。
この言葉をもう一度贈る、そして「終了」。
不毛なことばかり書いても気持ちがすさむので
>>329の続きも。こいつの内容をあなたが
「よい読みだ」と納得すれば全て解決?なのかもしれないし。
いわゆる「本論」または「各論」部分にはいくつかの型がある。現実には複数の型が
重複して文章に織り込まれ、説得力を高めている。
・説話-論証(具体的な事例を挙げてから、それと主題との関係付けを行う)
・逆接対比(予想される誤りやすい意見を紹介し、それと対立させる形で自説を問う)
・反復変奏(同じようだが少しずつ異なる事例-論述を重ねて自説を強化していく)
また、具体的事例の紹介から主題解決への展開をする流れにもいくつかの型がある。
・因果律(提示した条件から当然導き出される帰結であることを論証)
・帰納法(個々の事例に共通する要素として抽出することで妥当性を論証)
・演繹法(命題を個々の事例に適用して矛盾が生じないことで妥当性を論証)
・弁証法(対立項を止揚することで解決可能であることを論証)
→これらの「型」を看破するために、接続語への注目、類義語の結びつけ、対義語の結びつけ
などを行い、そこからキーワード/キーセンテンスの絞り込みを行う。
あのねえ、あなたは人の書いたレスをちゃんと読んでいるの?
>よく読んで。私はあなたの「307が自分をアタリだなんていってるぞ」という発言の
>根底に、「並みの教師=クソ」という認識があるからそんな発言をしてるんじゃないか、
>と分析した。あなたがリテラルに「=クソ」発言をしたなんて私も言っていない。
そんなことわかってるんですけど。こちらもリテラルな話をしていないから誤解のないよう
にと思って
>>331を書いたんだけど、読まれていないのかな。
「根底に、「並みの教師=クソ」という認識があるからそんな発言をしてるんじゃないか」という
あなたの推測が間違っているとはっきりと指摘しているのにまだ繰り返す気?
>こうしたことも、あなたの心理の奥に「並みの教師=クソ」という前提を仮定してみると
>説明できる気がするんだけどな。
だからあなたは、「並みの教師」と比べて自分が上だと主張しているという意味で私が
>>322の発言を
受け取ったと思ったわけでしょ?
私はそういうふうに受け取っていないし、そういう意味であなたを非難したわけじゃないと言っている。
あなたの認識の出発点がそもそも違うということを、
>私が傲慢だと言ったのは、あなたが「自分が平均以上の能力の教師である主張をした」からではなく、
>むしろ「キリの教員の定義を勝手につくり、また自分がキリではないと主張」したことの方にある。
とはっきり書いているのだからいい加減にしてほしい。
「あなた自身が自分の内奥に気づいていない可能性もありますよ」??
あなた自身の勘違いに早く気づいてくれ。
それに定義の話がなぜ並みの教師うんぬんの話になるのか意味不明。
320はネタだと思ったわけね...。その一言だけであなたのことがいろいろわかった。
おそらくあなたは40代後半かそれ以上の年齢だと思うね。まあどうでもいいけど。
>僭越なのは承知で、「オレはこうなんだけど」というスタンスでなく、「皆こうなはずだ」と
>いう立場に立とうとしたんだ。
だから、その「皆こうなはずだ」というスタンスに立てるということ自体を信じて疑わないあなたに
驚かされる。どういう根拠があってそんなことができ、かつまたそれを踏まえた発言ができるのか。
あなたにその能力がないとかそういうことではなく、そんなスタンスは幻想で、存在しません。
結局、あなたは「平均的な読書人」および「平均的資質の国語教師」が「共有」しているという「セオリー」を
大前提としているため、自らが(また他の大多数も)「平均的な読書人」および「平均的資質の国語教師」である
【はず】だということも必然的に前提としなくてはならない立場に立っている。
このことにあなたはどれだけ自覚的なのか?
セオリーがない教員はハズレなのだなんていうレスを読む限り、全く自覚的ではないようだね。
また、
>>あなたの言う通り、文章を読んだところで「作者の考え」なんかわかるはずがありま
>>せん。だから、国語の時間にそんなことは聞かれていないのです。
>もしこれを本当に本心から書いているのなら、私が今から書こうとすることなんか読む必要ないと
>思うよ。
逆に、どうやったらリテラルな意味での「作者の考え」がわかるのか教えてください。
あなたの読みはこれを目指しているんでしょうし。
あと、セオリー論は読んでますからそのまま続けてください。 あとでまとめて感想を述べます。
というか、「短い語数でまとめられ」そうな「コアになる部分をメタ言語で抽象的に説明」することは
どうなったんですか?
ごめんね、あなたの相手をするのやめていいですか?
>>336は、年齢をのぞいて全部あなたのお見通しってことでけっこうです。
あ、歳も40代でいいわ。
338 :
傍観者:04/01/24 03:28 ID:upbOtE78
ああっ!やっぱりこんなことに!
こうなるんじゃないかと思っていたんだ。
もっと早く、何か言っておくべきだった。
>>337 お疲れ様でした。大変興味深い内容、今までありがとうございました。
何も書きませんでしたが、ずっと読ませていただいておりました。
今はその気になれないでしょうが、また、何かの機会に発言していただけることを
お待ちしております。
>>335-336 あなたにはいくつか言うべきことがあったと思う。もう遅いけど。
・何かの主張をするより、その批判をするほうがずっと楽なこと。
・こういう場では、一分の隙もないような議論は不可能だから、相手の意図を汲んで、
言外の主張を取りこぼさぬよう、慎重に、相手に敬意をもって接するべきこと。
・高度に抽象的な議論においては、合意するより決裂するほうがずっと簡単なのだから、
できる限り相手の立脚点を探り、共通の土台に立てるよう努力すること。
つうか、307先生が、現実世界の、形にも言葉にもなっていない抽象的事実を、何とか
言葉にしてあなたに伝えようとしているのに、あなたは(あまり一般的に承認されている
とは思えない)観念によってそれを批判し切り捨てようとしている、と私には見える。
そりゃ、あまりにも不毛なんでないかい?
この議論はもとずっと実り豊かになる可能性があった。どうか次はもっとうまくやって下さい。
おながいします。
>>338 大人気ない捨て台詞をお見せしてお恥ずかしい。一応、構想としてはこの後
・建築的アプローチ(注目すべき単語・表現から構造タイプの看破へ)
を書いたあと
・「読む」ことと「教える」ことの違いについて
・読解の教授法読
あたりを書こうと思っていたのだけど、もしかしたら書きます。
今、300番台のレスをざっと読み返していたのだけれど、316=320=…が私に期待していた
セオリーって、もしかして「武士道は死ぬことと見つけたり」とか「秘すれば花」みたいな、
禅問答的な極意めいた言葉だったのかな、と思ったりしました。(そんなイメージのものを
想像していたのなら、全国の国語教師が等しくそんなもの共有してるはずなんかない!と
いう気持ちにもなるかもねえ)
>>339 少しずつでけっこうですので、書いていただけると助かります。
それに突っ込みを入れる人も、賛同の意を示す人も自然に出てくるでしょう。
いちばん困るのが
・議論の前提の共有
・議論のレベルの設定
なんだけど、これはある程度独断的に進めていただくしかないと思います。
なんだこりゃ。変なごみが名前に入っちゃった。
あと、
>>316 氏などが求めていたのは、私の印象ですけど、
禅の公案などではなくて、
「社会科学のような、客観科学としての意匠」だったんではないかという気がします。
まあ、国語教師にそんなものが共有されているはずないですよね。
#「意匠」と見るか「本質」と見るかで意見が割れそうだな。
なるほど、「勝利の方程式」みたいな意味(私はこの程度の意味で使っていた)ではなくて、
「フィールズ賞をとった森Theory」とかの方ね……。
>少しずつでけっこうですので、書いていただけると助かります。
>それに突っ込みを入れる人も、賛同の意を示す人も自然に出てくるでしょう。
私の「語る資格」でなく、記した内容の方を問題にしていただける意見であれば、
私だって他の人(それは316だって例外じゃない)の考えを聞きたいのです。
なにせそれほど自信満々に書いているわけでもないもんで(笑
日頃まとまった言葉で語ることのあまりない領域の話題ですが、現場の人間も研究者
サイドまかせにせず、必ず考え続けなければならない問題ですし。
教育とは無関係の30代です。
高校の現国の先生は例外的にいい先生で、考えさせることを中心にした興味深い授業
を受けることができました。また、一応は文学少年でしたのでかなり大量の読書をし
ました。(阿部謹也とか村上春樹とか読んでました)
しかしですね。いざ試験となるとあまり得点源になりませんでした。
仕方ないですから、高三の11月以降に共通一次過去問題を全部解いてみたんです。
最初は得点は良くなかったのですけども、10年分もやっているとコツが判りました。
回答者の視点で解いていたのではだめで、出題者の視点から正解を導き出さないと
どうにもならないこと。
自由な立場から見れば文章が一意である必要はない(自由な解釈を許す)けれども、
試験問題は一意で捉えないといけない。そして、正解するためのスジは教育者の視
点であること。・・・判ったのはそんなことです。
そこからは、どんな試験でもほぼ満点を安定してとれるようになりました。
別に自慢じゃないんです。私のようにもともと国語を非常に得意としていて、よい
教師にめぐり合って十分な読書をしても、「それだけじゃなんにもならない」。
結局は「一般的な国語教師ならこういう考え方を正解にしたがるだろうなあ」とい
うスキルを訓練しないといけない。
これって、「美人コンテストの論理」なんですよね。
344 :
336:04/01/26 18:42 ID:UWfuFU2S
まあふたりしていろいろ言ってくれること。結果としてあなたの話の腰を折ったのは悪かったね。
セオリーのことにこだわったのは、なんと言っても
>>312にある。あなたは
>>309-310の疑問に全然答えていない。
それもわからずにセオリーを語っていることは、以下の理由で非常に違和感があった。
>作者のいいたいことがなんで分かるのってかんじ 必ずしも作者の考えとこっちの考えは一致しないんじゃない?
これは、次のことを言っていると私は思う。
A 作者の考え
B 教師の読み(あなた風に言えば「セオリー」を踏まえた読み)
C 生徒の読み(文章の捉え方は人それぞれだから・・・思いつきに近い恣意的な読み)
BとCを比較すると、Bが妥当な読みであることは明らかだ。しかし作者の考え(A)を前提とすると、BとCはそれ
ぞれAに近づく試みとなり、解釈という意味では同等となる。Cは根拠も希薄だからBにかなわないことは明白だが、
A=Bである明白な証明もないわけで(作者のいいたいことがなんで分かるのってかんじ)、A=Bという主張に
疑問が呈される(必ずしも作者の考えとこっちの考えは一致しないんじゃない?)。さらに推測すれば、もしかしたら
A=Cではないかという可能性を捨てきれないでいるので最終的な納得はできていない。
つまり、教師が作者本人のことをわかっているかのように語ることが間違っている(国語の答えは作者に聞けばいい
じゃん、という話をなぜ生徒がするのか考えてみればわかる)。あなたが312でした説明は、単に教師側の読み
(B=セオリー)が正しいから従えと強く主張するだけで、結果としてわけもなくA=Bを反復しているにすぎない
権威的な説明だ。なぜ作者の件に何も反応しなかったのか。
執筆時に作者が何を考えていたかは書かれた文章からはそもそも復元できない(そして、そんなあいまいなことを
学校の国語の時間にしているわけはない・・・ただ参考として執筆背景を知るなどは必要なこともあろう)。
このことをまず初めに納得させる必要がある。それが
>>320なんだけど。そんなに荒唐無稽でしたか。
345 :
336:04/01/26 18:42 ID:UWfuFU2S
Aが不在になれば、残されたBとCの比較となり、Bの方が社会的常識的に妥当であることはわかりやすい。
さらに言えば、大学受験で科される「現代文」という教科は、実はある文章を読んで、それの常識的な解釈が
できるかどうか、つまり日本語を使ったコミュニケーションがきちんとできていて、文章の意味が正しく伝わっているのか
が試されているということを説明する必要がある。
だから、出題者(大学の先生=世間一般の常識を持つ人)が解釈しているように解釈し、大学と自分との間
で課題文を経由した伝言ゲームが成り立っていることを示さなくてはならない。
大学側は、「おれたちはこの文章をこういうふうに理解する。お前たちも同じ理解ができるかどうか試してやる。」と
言っているわけなので、受験生は「私もあなたがたと同じような(常識的な)理解ができます。」と答える必要がある。
ここに作者の意見が入り込む隙間は全くない。作者はその文章を書いた人として当然の尊敬を受けるものの、
もしかしたら特殊かもしれない彼個人の意見は現代文のテストでは全く考慮されないのは当然。その代わり、
その文章を読んで当然導き出されるはずの、いわゆる「常識的な」解釈をすることが求められている。
これを踏まえるとさきほどの図式は、
A 大学側の読み(世間の常識の源:言いすぎか?)
B 教師の読み(その大学で「よい読み」をする訓練をした者の読み)
C 生徒の読み(文章の捉え方は人それぞれだから・・・思いつきに近い恣意的な読み)
となり、A≒B≠Cであることは非常にわかりやすい。ここで初めて生徒が納得する形での「セオリー」の根拠が
明確化し、教師の読みが受け入れられるのだと思う(権威的であることに変わりはないが)。現代文の授業
およびテストは「作者の考えを復元する作業」だと考えている生徒は私の知る限り非常に多いと思うがどうか?
あなたのセオリー論はそれ自体非常に興味深いが、これらのことを踏まえた上でなければうまく機能しないだろうと
考えている。それがいかに高尚な話でも、根拠のない自分の権威を上塗りするだけになる。
これを私なりに確かめたくて再三突っ込んでいたわけだが、320がネタだと言われて断念。
わかってもらえたかな。それともアホらしくて相手にならんですか。
>>343 >私のようにもともと国語を非常に得意としていて、よい教師にめぐり合って十分な読書をしても、
>「それだけじゃなんにもならない」。結局は「一般的な国語教師ならこういう考え方を正解に
>したがるだろうなあ」というスキルを訓練しないといけない。
>これって、「美人コンテストの論理」なんですよね。
私自身も上の方
>>312で、
>採点式のスポーツ競技(体操とかフィギュアスケートとかシンクロとか…)とか、
>踊りとか書道とか生け花とか
という例を挙げています。表現したいことの内容は一致していると思いますよ。
ただ、あなたのような「よい授業にめぐり合い、自分自身読書もよくした」という下地が
ない受験生だったとしても、11月から共通一次10年分訓練で現代文満点ゲッターになる
ことが可能とお考えか。ここはポイントですよ。
私は否定的。単に読書家なだけの人の場合、共通一次レベルで堅いのは8割キープまででしょう。
>336(やっと一時固定ハン作ってくれた)
「文は人なり」という言葉があって、一定量の文章からは、いわゆる論旨とか、
突き詰めた所の要点とは全く別に、筆者の心の内のいろいろなことを読み取れる、
と私は思っています。
>>344-345は、うがった読み方かもしれないけれど、私にたった一人賛同者?が登場した
だけで一気に強気がぐらついたあなたの気持ちが感じられる、ような気がする。
でも、344-345自体は内容的にはそんなことがあり得ることを否定する文章だわね
(読み手の解釈B|Cは表現者の真意Aとリンクしている蓋然性などない、と。)
ちなみに、私があなたの気持ちを感じ取るのは、例えばこんな所。
>最終的な《納得はできていない》。
>そんなに《荒唐無稽でしたか》。
>これを《私なりに》確かめたくて
以前の
>《とうとう本音が出た》のかな。
>これはあなたの「思い込み」《以外の何なんでしょう》。
>てるということ自体を《信じて疑わないあなたに驚かされる》。
などと比べてみればその違いは明らか、と私には思えます。
読み手は、たった数百字の文章からでも、微妙な情感まで含め本当にいろんな情報を
読み取り得るのです。
何にせよ、
>>338の意見を踏まえてか、不本意ながらも?大幅の歩み寄りを示してくれた
(私は、要すれば前と全く同じ主張を繰り返しているに過ぎないかもしれない344-345に、
それを感じ取っている)あなたにはそれ相当の応答をせねば。
まずは
>>344について。
>これは、次のことを言っていると私は思う。
以降について。以下に抜き出した文の中では、
>作者の考え(A)を前提とすると、BとCはそれぞれAに近づく試みとなり、
>解釈という意味では同等となる。
上の行まではOKですが、下の行は「同等」という分析の部分がNGです。
B・Cともに、"非Aである"という点に限っていえば同じですが、あなた自身が直後に
書いているとおり、"A=B"である期待度と"A=C"である期待度が異なる場合、
それを「解釈という意味では同等」というのは暴論です。
"A=Bである明白な証明もない"故に、"A=Bという主張に疑問が呈される"という
くだりに関しては、「明白な証明もない」がNGです。受け手が証明の確かさについて
認定し得るのか、という可能性にまで言及しないとこれは言い切ることができません。
(ちなみに、"A=Cである可能性"は常にあります。ただし一般に可能性は低い。
また、A=Cの可能性がゼロでないことと、A=Bの確からしさについての問題は
互いに独立している。)
たとえば、先ごろ数学の世界で証明されたフェルマーの定理、これが20世紀末まで
不可能だったのは、近年になってようやく研究され出した非常に高度な理論を導入しないと
解決できなかったからです。数学の素人である人例えば私に、その高度な数論を駆使した
何100ページにも及ぶ"明白な証明"を突きつけられたところで、それを明白であると
認定する能力がありません。けれども私は、ニュースで取り上げられ、ものの本に書かれた
(一冊読んでみました)専門家の紹介をもって、「ああ、真実なんだろうな」と納得します。
皮肉な話ですが、"A=Bである明白な証拠はない!"という(あなたの)言葉もまた、
真実味を帯びるには、ひとつの権威を必要とするのです。
あなたの嫌いな、「権威」という言葉が登場しました。
権威について。
実はおそらくあなた(を始めとする「国語教師は自分で好き勝手しゃべっている」派)は
とても大切な視点を見落としている。それは、
《教科書は、一定の意図のもとに強烈に編纂された"教材"である》
ということ。
カタイことを言えば学習指導要領に従って、となるけれど、それは置いとくにしても
教科書というのは、大きくは入学-卒業の三年間、小さくは当該学年の一年間の学習内容に
ついて、実は非常な綿密さをもって教材選択・配置がなされているのです。検定制度の
話題も、毎年「今年は百数十箇所の修正を求めた」云々が季節の話題になるくらいシビアです。
つまり、そもそも強烈な一定の意図のもとに切り取られ、月ごとに配置された文章に、
文学作品なら先行する国文関係の論文の抜粋とか、評論も場合によっては筆者自身の
覚え書きや解説すらある「指導書」まで付いてくるのです。
そういう教材を扱うのに、何を読むことが目的の文章で、どこをポイントにすべきかなど、
普通程度の力量の教員なら、めったに読み外したりしません。
権威の押し付け、という前に、厳然として背負っているものがあるのです。
私が先に「生徒は、一個人としての教員の"読み"と対峙しているわけではない」と
述べたのには、上記のような点もふまえられているのです。
生徒が目の前の教員に対して「先生の言うことが正しいという根拠はどこにあるのですか?」
という質問は、本質的な懐疑論の問題の範疇でしょうか。
私はそうは思わない。単に、教員が本当のスカでトンデモナイ授業を展開しているか、
さもなくば、生徒・教員間の信頼関係の問題に帰するべきことではないでしょうか。
たくさん書き込んで申し訳ない。でも、ひとまず区切りのいいところまで書いてしまう。
>>345が344と別のレス番になっていることって実は非常に興味深いと思う。
上のレスで私は、教師が授業で扱う教材の読みの裏づけについて書いたのだけど、
大学入試においてはまさに"検定済み教材として評価済み"ではない文章と対決する
ことになる。学校の授業と入試問題の解答という作業の間に、ある種の飛躍があるのは
確かです。
>>345は、
>ここに作者の意見が入り込む隙間は全くない。作者はその文章を書いた人として当然の尊敬を受けるものの、
>もしかしたら特殊かもしれない彼個人の意見は現代文のテストでは全く考慮されないのは当然。その代わり、
という部分を除いては、実は私としてもほぼOK。「伝言ゲーム」という比喩(揶揄?)ですら
不当な表現だとも思えない。
「出題者が原文の筆者の考えを読み外してる可能性大」という前提にこそ無理があるん
じゃないのか、と思うのだけど。昔は確かに、ひどい悪問もあったようだ。でも今は
世間の目も厳しい。予備校への外注まで始まった昨今、出題者のひどい読みごり押しの
悪問は減りつつあると思う。
思うんだけど、あなたは上のような前提をしてしまうってことは、言語によるコミュニケーション
そのものを否定することになりかねないのではないかねえ。
例えばあなたも今日一日、他人に向かってたくさんの言葉を直接に(音声)間接に(文字)
発したと思う。それらを受け取った人(聞いた人、読んだ人)は、本当にあなたの意図した
通りの意味であなたの発言を受け取ってくれている保証って……あるのかね。
実際、ささいな言葉の行き違いでケンカになったり、仕事がストップしたりなんて日常茶飯事。
「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」なんて、確かに一面では真実だ。
だけど……
351 :
338:04/01/27 02:21 ID:6z9PFrcF
>>344-345 何か責任の一端を感じるので、書かせていただく。
実は、あなたの主張は個人的にはかなり共感するんだよ。私も理系出身だから。
要するに、
>>111 あたりの内容をもっと掘り下げたようなことを論じたいんでしょ?
だけど、少なくとも今は、私はあんまりそれを追及してほしくないんだ。
307先生が主張したいのは、そのあたりじゃないみたいだから。
というのも、私は
>>148先生の失敗を繰り返してほしくないんだ。
148先生は優秀だったが、誠実すぎた。四方八方からやってくる、まとまりのない
質問の群れに対応するだけで時間切れになってしまった。おかげで、このスレッドの
論点には、あんまり進歩がなかった。
私は 307先生に、まずは独断的に話を進めてもらって、彼の教えている国語の全体像を
先に提示してもらいたいんだよ。そうしないと、議論がまた堂々巡りになるから。
少なくとも、今このスレッドでいちばん国語ができるのは 307 先生だから、私は
彼に議論の主導権を握ってもらいたいんだ。
352 :
338:04/01/27 02:21 ID:6z9PFrcF
148先生の議論における主張は「国語とは理論ではない。型をなぞることだ」という
ものだった。つまり「国語には有効な方法論はあるんだけど、その方法論の根拠を
客観的な形で万人に示すことはできない」という主張だったと思う。そして、307先生も
それと通ずる主張をしていると私は感じている。多分、これは多くの国語の先生の
共通見解なんだろう。
あなたの議論は、とりあえずそこまで進んだ議論を逆行させていると思うが、どうか?
理論的根拠を検証するのは、大まかでも全体像に到達してからのほうが良いと思うんだが、
どうか?
ゲーデルの登場は、アリストテレスやユークリッドより後のほうが良いと思うんだが、どうよ?
(個人的にはゲーデルやチャイティンは大好きなんだが)
※余談だが、国語に関して徹底して合理的追求を重ねて行くと、聞くところによると
ポストモダンという不毛の荒野が待っているらしいぞ。
まあそれはそれで面白いのかもしれないけど、私は今は、高校国語の話を聞きたいよ。
353 :
338:04/01/27 02:23 ID:6z9PFrcF
つうか、あなたは頭のいい人だと思うし、議論においてもあなたなりに誠実だったと
思うんだけど(あなたの専門分野では、かなり議論慣れした人だろうと思う)、307先生
と立脚点が違いすぎるんだよな。先生に話が通じてないんだよ。
例えば
>>342 の
「私の「語る資格」でなく、記した内容の方を問題にしていただける意見であれば、」
という個所、あなたにとっては、かなり心外だったんじゃない?だけど、そういう風に
受け取られていたわけで。つまり、あなたにとって当然の疑問が、先生からは「何で
こんなこと聞いて来るんだ?」という感じだったんだろう。
こういう議論は、数学とかと違って、命題自体を明確に定義できないから、誤解の余地
も非常に大きいし、議論が噛み合わなくなりやすい。そうなったとき、ついその原因を、
無意識のうちに、お互いに「相手の不誠実さ」に帰したくなっちゃうんだよな。実際は、
議論の前提が共有されてないだけの場合がほとんどなんだけど。
あなたの口調がだんだんキツくなってった様子は、まさにあなたがそう感じているように、
私には見えたよ。それを先生がどう受け取るかは、言うまでもないだろう。
で、今回の場合、責任の大半は、悪いけど、議論を急いだあなたにあると私は思う。
>>338に書いたとおり、こういう議論というのは、相手に敬意を込めて、慎重に丁寧に
やらなきゃいかんですよ。
つうことで、言いたい放題言わせてもらいましたが、それもあなたとこのスレに期待
するが故ということで、どうか大目に見てやってください。ダメですか。そうですか。
まあ、こんなところで私は傍観者に戻りますわ。
354 :
336:04/01/27 18:46 ID:xeZyF1u1
言いたいことはたくさんあるのだが、まずはこちらの横レスっぽい主張に対し真摯に反応してくれた両氏に感謝したい。
場所をわきまえず駄々をこねる子をなだめすかす両親のようではあったが。
338氏の言っていることはいろんな意味でよくわかった。お前は引っ込んでいろということね。
私としてもこのセオリー論の続きをぜひとも読みたいのは同じ。ただ307氏のせっかくの指摘に対して少し返答しても
よいだろうか。レス不要。言いたいのは次の2点(特に後者)。
@
>>348 文章を読んで作者の真意Aに到達できたかどうかという判断は、可能性が高いとか低いとかの問題以前に
その可能性さえ検証不可能であって、そもそも論じる意味がないと私は考えている。
受け手はその「証明の確かさについて認定し得」ないということ。なぜなら、
【現実】 A 作者の考え
【解釈】 B1 大学の読み(権威ある読み)
【解釈】 B2 教師の読み
【解釈】 C 生徒の読み
という図式を考えてみると、B1・B2・Cは文章の【解釈】というカテゴリーに属しているが、Aはそれらとは次元が
全く異なっていることがわかる。Aは読みや解釈ではなく、実際の人間がどう考えている/いたかという【現実】の
話だから。つまりあなたも言うように言語表現には言い足りなさや誤解や反語がつきものであることを考えれば、
作者本人の言葉もしくは文章が作者の考えを完璧に写し取っていると考える方がむしろ難しい。このような
意味で、「作者の考え」を論じるということは、他人はうかがい知ることのできない生身の人間の内面を相手に
するということであって、(本人がいくら自分の考えを他人に伝えようと努力していたとしても)そもそも無理がある。
355 :
336:04/01/27 18:46 ID:xeZyF1u1
例えば、あなたは私(作者)のレス(文章)を分析しては私の心理(作者の考え)を言い当てたつもりになって
いたが、
>>336を書いた直後に私のPCの調子が悪くなり、
>>344-345は家でワードファイルとして時間を
かけて文章化してネットカフェで書き込んだために文体に差が出たというのが本当のところだ。
だから作者の考えを復元するという意味であなたは強気とか弱気とかとはとりあえず関係なかった私の文章を
読み誤ったことになる。また、レスを見るだけでそんなことが読み取れるはずもない。仮にあなたの分析が客観的に
見て正しそうに思えたとしても、少なくともそれは私個人の意見(作者の考え)とは合致していなかった。
また、作者である私が強く否定したにもかかわらず、あなたが
>>332で私に対して「あなた自身が自分の内奥に
気づいていない可能性もありますよ」と自信を持って主張できてしまったのはなぜか考えてみてほしい。
今回の例に即して言えば、作者の考えを論じるということは、レスを読むだけで私の意図を言い当てることが
できるということを意味している。私はそれを積極的に表現しようとはしていなかったが、突然のPCの不具合を
踏まえた私の感情などの周辺情報まで含む・・・なぜならそういった日常の文脈や無意識の深層に沈殿して
いる過去の記憶群の中で私の「考え」が形成され、定義されているから。私にとってそれらの文脈は所与の
条件であり、それなしに「考え」は語れない。私は実際には、その文脈から切り取られたいわば断片でしかない
レスを書くしかない。その文脈を共有しない他人が、いかに言葉を尽くしても結局は断片以上にはなりえない
レスを見るだけでどうやってその「考え」にたどり着けるのか?日常のコミュニケーションは、あなたが心配するように
こういった非常に不安定なものだ。言語はいい加減なものであることは確かだが、人間は言語以上のものを知ら
ないから言語を使ってとりあえず表面的な「相互理解」を図るしかない。
356 :
336:04/01/27 18:47 ID:xeZyF1u1
A
しかし誤解してほしくないのは、解釈はそもそも意味のない作業だとか、だからあなたのセオリーは論じる
価値がないなどとは間違っても言っていないということだ(どうも両氏ともこう理解しているようで悲しい)。
私はAというわかりようもないものを相手にするのではなく、【解釈】カテゴリー内で話を進めるべきだと言って
いるだけであって、「文章の捉え方は人それぞれだから」などという不毛なカオスの状況も、「自分で好き勝手
しゃべっている」国語教師も肯定するつもりはない。Aという「唯一絶対の正解」がありえないことがわかった今、
仮の「正解」となりうるのは社会的常識的に妥当な読みであるB1しかない。「よい読み」が目指すべきものは、
見つかるはずもないAの探索では決してなく(これを見つかったなどと言う人がいるから不信感を与えてしまう)、
むしろこのB1を基準とする読み(指導書も含むはず)にいかに到達するかということの方だろう。
私には、あなたが多数のB2に共有されている「セオリー」を強調することで、Aのあいまいさを隠蔽し、かつ
A=B2を主張しているように思われた。しかし、B2=B1を示しさえすればいいのだと思う。
この場合、結局のところB1とB2という縦軸で「共有」されているはずの「よい読み」の方法論が問題となり、
私はあなたのセオリー論がそういうものとしても理解できるかどうか知りたいと思っている(そんなことを言われても
あなたにとっては不本意極まりないとは思うけど)。
これは私個人の勝手な考えでしかなく、私はあなたのいうセオリーをこういう視点でこれから読んでいきたいと
いうだけの話だから気にしないで続けてほしい。現場の人であなたのように体系的な話をしてくれる(そして
私の話にも付き合ってくれる)人はめったにいないということだけはわかっているつもり。
むちゃくちゃ書いたあとなので、気になってつい早めにつないでしまった。
>336,338
1レスがお互い長いね。まとまったことをちょっとでも本当に書こうとすると、これくらいの
量は必要なんだということです。
それから……もしかしたら謝った方がいいことがあります。
今まで言いそびれていましたが、私は
>>148です。
>>338氏は、本質においてそれを
見抜いていらしたのですね。これも、「文は人なり」が真理であることの証左なのでは
ないかな。
ということで、
>>352の
>多分、これは多くの国語の先生の共通見解なんだろう。
は、あなたの中ではひとまず保留にしておくべきです。
なにせあなたが根拠にしようとした意見は、同一人物から出ているものなのですから。
(あとできれば「先生」というのも、リアルでは生徒達に毎日そう呼ばれているとはいえ、
こんな場ではかえってこそばゆい。)
↑↑カミングアウトしたのでこうします。
>336
細かい応答はまた長くなるのでしないけれども、ここまであなたの主張を読んでくると私は、
あなたがとても孤独な「意識の孤島」に住む住人に思えてくる。ファンダメンタリスティックな
唯心論者の姿だ。(この言い方でニュアンス伝わる?)
私は言語を通じて、他者の心理、心情、思想と共感することは可能だと思っている。
100%が不可能なのは承知。私だってしばしば「なぜ私の思っていることが(思っているように)
伝わらない!?」と思いながら他人とコミュニケートしているから。
それでも、優れた表現者がつむいだ「表現」は、最大限の効果を持って優れた読者の心に
響き、両者の間に心情等が伝達されることは可能だと考えている。
だから私は100%「A=B」が達成される事の不可能性(数学的な厳密さにおいて)の方でなく、
「A≒B」ならA=Bとみなす事の有益性(理工学的な近似の方便に近い)の方をとりたい。
実際そうでなくては、地球上のあらゆる人文学は壊滅すると思うのだけど。
…と。こんだけスレで暴れまくったら、やっぱり引っ込みはつかないですよね。
>>329,
>>334の続き、少しずつですが書いてゆきますので、皆さんのご意見をお聞きしたいです。
ごめん、しつこいようだけどやっぱりここだけは言わせてみてください。
うまい図式なので下を利用させていただくと
>【現実】 A 作者の考え
>【解釈】 B1 大学の読み(権威ある読み)
>【解釈】 B2 教師の読み
>【解釈】 C 生徒の読み
>という図式を考えてみると、B1・B2・Cは文章の【解釈】というカテゴリーに属しているが、Aはそれらとは次元が
>全く異なっていることがわかる。Aは読みや解釈ではなく、実際の人間がどう考えている/いたかという【現実】の
>話だから。
これに、
※【解釈】 B0 作者自身の目から見た、読者としての読み
を設置したい。2chの垂れ流しレスならともかく、文筆を生業とする人が世に問う
文章を推敲せずに公開することは少ない。ここに、「読者としての筆者」の存在を
指摘しておきます。読んでみて「こりゃオレの言いたいことではない」と思った文章
は淘汰されていて、通常は、読者としての筆者の思いを満足させた文章のみが
他の(筆者ではない)読者の目の前にあるはずだ、という前提に立てば、
B1-B0→0の試みと、筆者自身の内部で行われていたはずのB0-A→0の試み
の存在を認定することによってA=Bの道を開き得るのではないでしょうか。
この点いかが。
360 :
336:04/01/28 22:35 ID:RNA4KG6t
>>358-359 338氏には隠れてこっそり簡潔なレスをしたい。
>優れた表現者がつむいだ「表現」は、最大限の効果を持って優れた読者の心に響き、
>両者の間に心情等が伝達されることは可能だと考えている。
上の行にのみ賛成。その表現者の「表現」が読む者の心を打つのであって、表現者の内面が「表現」を経由して
読む者の心に到達するわけではない。人殺しでズルでウソつきの乱暴者でも切なく甘美な恋愛小説を書くことが
できるように、きれいな文章を書くことができる人の内面がきれいとは限らない。
浪費家で友人知人から借金だらけだった啄木が好例。
あと、あなたがB0として設置した「作者自身の目から見た、読者としての読み」(=作者の読み)については、私に
言わせればAそのものであるとしか言えない。作者は読者を装うことはできても、内面の文脈を脱ぎ捨てることができ
ない以上、文脈を共有しない他の読者(B・C)と同列に扱うことはできない。「A≒B」ならA=Bとみなす事について
は、その有益性を論じる前にAとBの関係がなぜ「A≒B」であると言えるのかという説明がなければならないはずだ。
>>360 あなたの観点と主張がゆらがない旨は諒解。
あなたは論文以外の目的の文章を(あまり)書いた事がないのかもしれないな。
「心を伝える」目的のもとに自分の文章を推敲した経験も。
筆者というものは自分が吐き出したテクストに対して一読者の立場に立つ努力をするという事、
そしてそれは、他者がその同じテクストを前にして検討を加えるのとほとんど差のない作業として
成立し得るものであるということに関しては、『推敲』の故事の存在を示すことで私の立場の
再確認としたい。中国2000年、日本1000年分の言語生活史の重みが私の援軍だ。
また私なら啄木の話から、消費者金融もない時代に「だらけ」呼ばわりされるほど借金が
できた彼の人となりと彼の作品との接点を見るけれど。
>その有益性を論じる前に
有益性がある故に(後付けで)「いえる」と見なすことから始まる理論の世界もある
んだよ。
複雑系に関する理論の場合、研究の発展の段階はしばしば後付けからまず大雑把な体系化が
始まり、それに基づく詳細な分析と、その結果得た新しい知見による理論の再構築がだいぶ遅れて
からなされるなんてこともよくあるのではないかな。
易の思想体系に基づいて発展してきた東洋医学が、近代において西洋文明的なツールで分析され、
その枠組みの中での再構築が試みられている(そしてその成果がまとめられつつある)現状などを
その例に挙げておきます。
362 :
338:04/01/29 02:35 ID:s7VXlKIe
>>360 私もひっそりと横槍。
おーい、私は「お前は引っ込んでいろ」とはひとことも言ってないよ。
ただ 307氏の話の流れを完全に逆流はさせてくれるな、もっとうまくやって下さい
と言っただけだ。307氏だって議論は相手がいなきゃできないんだから。
つうか、引っ込まないで下さい。おながいします。
このスレは慢性的に人不足なんだもの。
背伸びをせずにきちんと論理的に話をしてくれる、あなたのような人は、なかなか
現れないんだから。
それにしても人が少ないよね。148氏が復活して、307氏の相手をしてくれることを期待
してたんだけど、あてが外れました。
>>169氏あたり、復活してくれないかなあ。
では今度こそ傍観者に戻ります。
363 :
336:04/01/29 18:29 ID:QuKxNdv6
>>362 ずいぶん失礼なレスだな。
私は、あなたに監視されながらあなたの期待に沿うような議論を進めるなんてまっぴら御免だ。
端的に言って、あなたの望む議論はあなた自身がすべきなんじゃないの?
人不足を嘆くよりも、あなたが出てきてあなたの好きなように307氏と論じ合えばいい。
さすがに
>>363は同感だな。
ちょっと書いたものを整理したいので、329と334を編集して再掲します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
文章理解のための「解剖的アプローチ」と「建築的アプローチ」
解剖的アプローチ=マクロ→ミクロへ分析
建築的アプローチ=ミクロ→マクロへと注目するスコープを変化させる。
文章を読む瞬間ごとに両アプローチをを切り替えながら同時進行で行う。
評論の読み方について
解剖的アプローチ編
評論は、主題に関する自説の主張(高飛車に言えば啓蒙)の手段として文章を書いているとの前提に立つ。
この前提から、(教科書または入試問題の問題文に採用されるような一定レベル以上の)評論文は、
以下のような特徴を持つ文章である事が多い。
・一定の構造を持つ。
[序論-本論-結論]タイプ(尾括型)か[総論-各説]タイプ(頭括型)、または両者のミックス。
→上記の構造を見抜くために、通読を終えた後、最初に段落分けの作業を試みる。
・序論には直接的間接的に、何らかの形で主題が提示していると見込まれる。
・主題のジャンル。
人文…文学・歴史・芸術・思想
社会…言語・心理・風俗・民族
自然…生命・環境・科学史など
→ホントウの専門家向けのディープな論文などが問われることは少ない。
→主題のジャンルを絞り込むため、主題提示のキーセンテンスの当たりを付ける作業を行う。
・本論(各論)部分にはいくつかの型がある。現実には複数の型が重複して織り込まれる。
○説話-論証(具体的な事例を挙げてから、それと関連付けた自論を提示する)
○逆接対比(予想される誤りやすい意見を紹介し、それと対立させる形で自説を問う)
○反復変奏(同じようだが少しずつ異なる事例-論述を重ねて自説を強化していく)
→型を発見できれば、文中のどの部分が筆者の主張の確信なのか当たりがつく。
・具体的事例の紹介から主題解決への展開をする流れにもいくつかの型がある。
○因果律(提示した条件から当然導き出される帰結であることを論証)
○帰納法(個々の事例に共通する要素として抽出することで妥当性を論証)
○演繹法(命題を個々の事例に適用して矛盾が生じないことで妥当性を論証)
○弁証法(対立項を止揚することで解決可能であることを論証)
→展開の型を見抜くには、接続語への注目、類義語の結びつけ、対義語の結びつけ
→などを行い、そこからキーワード/キーセンテンスの絞り込みを行う。
少し考えがまとまったので、ここから追加します。
・結論部分の類型
すでに広く世間が了解済みの知見をわざわざ書くことはほとんどない。であるなら、
筆者の主張には、有益な新しい知見が含まれるはず。
○既存の観念の否定/転換
○既存の観念の拡張/厳密化
○既存の観念の修正
○忘れ去られた観念の再発見
→結論部分を見抜くには、「既存の観念」にあたる部分の抽出をまず行う。そして
→それと対比関係にある判断文を当たってゆく。
・結論部分のジャンル
国語教育の場で取り上げられる文章の場合、結論部分には次のような特徴を持つ場合が多い。
○物質文化に対する精神文化の特性・価値
○自然環境と文明社会との共生
○社会構造の仕組み、個と社会との相互関係
○美しく豊かな日本文化の特性・価値
○(青年期に顕著な)危うい精神世界に対する分析と支援
→上記のような視点に立つ判断文を特に重点的に検討する。
紳士で真摯な議論をしているところ、揚げ足取りのようで恐縮だが。
ただ、
>>361を読んで思うことは、まず、
・筆者というものは自分が吐き出したテクストに対して一読者の立場に立つ努力をするという事、
・そしてそれは、他者がその同じテクストを前にして検討を加えるのとほとんど差のない作業として成立し得るものである
この二つのことは、そもそも全く別の命題であり、
仮に前者を認めるにしても(これも一般的な通念・思いこみに過ぎないとの疑念があるが)、
そのことが後者の命題が真であることを保証するわけでは全くない。
特に、作者による検討が他者による検討と「ほとんど差のない作業」だとは私には到底思えないし、
仮にそう思っている作家がいたら、それはよほど楽天的な作家なんじゃないか?
(↑これは私の思いこみだが、「ほとんど同じ」というのも同程度に思いこみではないかと思う)
それと、そのあなたの主張が、なぜ「推敲」の故事によって根拠づけられるのかもわからない。
「推」「敲」で迷った賈島は他者である韓愈の意見を聞いて「敲」をとったわけで、
この故事は作者による検討と他者による検討が同一たりえないことを示しているのではなかろうか。
もう一つついでだけど、
>また私なら啄木の話から、消費者金融もない時代に「だらけ」呼ばわりされるほど借金が
>できた彼の人となりと彼の作品との接点を見るけれど。
いくらなんでもこれはナイーブすぎる発想ではないだろうか。
現代における「借金」と明治末における「借金」じゃ全然意味合いが違う。
国語の先生だったら漱石の『道草』読んでいると思うけど、
明治末〜大正という時期に借金を断ることがいかに難しいことだったか、
あの本を読んだだけでもその時代の状況が直感的にわかると思うんだけど。
368 :
367:04/01/30 13:00 ID:FuEb2pvx
私が
>>367で無粋なつっこみをしたのは、
評論に関して
>>365-366のようなごくまっとうな読解力を持った優秀な先生が、
それでも336氏との一連の議論の中で「作者」という概念にこだわっているのが不思議だったから。
ロラン・バルトが「作者とは近代読者の想像の産物である」と宣言して以来、
「作者の死」が基本的な認識になって作品研究はテクスト論に移行してるわけで、
その経緯をふまえれば「作者」を考慮に入れない国語教育だって充分に成立しうるわけだ。
307氏はそういう認識を通過した上でなお「作者」に拘っているのだろうか。
だとしたら、文学と作者の関係に対してロマンチックな幻想を抱いているとしか思えない。
それと、「文は人なり」という見方が学校空間に持ち込まれると、
一種の抑圧的なイデオロギーとして機能することに対しても、
できればもうちょっと自覚的であってほしいと思うよ。
369 :
_:04/01/30 19:34 ID:lyrfpknJ
>368
148=307氏はどういう「教師」なのか、相変わらずよく分からない。
しかし、彼が日本の国語教師の「ある側面」を非常によく伝えていることは間違いない。
なぜ学校空間で「『作者』の幽霊」なんぞが復活するのか?
一人一人に話を聞けば、バルトの話くらいは囓ってる筈の教師が、教室に行けば
普通に読解のために「作者の人生史」を語っていたりするんだな。どうしてだろう?
そのためには、368の
>「作者」を考慮に入れない国語教育だって充分に成立しうるわけだ。
これがもう少し掘り下げられなきゃならないんじゃないか?
それで今より「魅力的な授業」が成立するとしたら、なるほどアンタの言うことが
正しいと思う。しかし、そこが実は将にスレタイの問題の要かもしれない。
370 :
_:04/01/30 19:42 ID:eagzpHv7
あと、学校空間というのは本質的に抑圧的な装置なわけで、いかなる思想も
教師個人の強い自覚と資質がなければ、簡単に「支配のための道具」と化す。
「自由と平等」しかり。
「世界にひとつだけの花」しかり。
「わたしたちは一人一人がみんな違って、それが素晴らしいです」みたいな
作文を書いて、「100点」を付けられているという、滑稽(シュール)な状況ね。
それを「国語」という教科でどうにかできるのか?っていう。
…とはいえ、367のツッコミのお陰で、スレの話は少し前向いたと思う。
オレにはとても、367ほど上手にまとめたツッコミは書けない。
その意味で感謝してる。
新しい人の登場なのかな?
私は自分が「どういう教師」なのか自分自身で語ることはできないのでどうぞ皆さんで
判断して下さい。あ、皮肉とかではないです。
>・筆者というものは自分が吐き出したテクストに対して一読者の立場に立つ努力をするという事、
>・そしてそれは、他者がその同じテクストを前にして検討を加えるのとほとんど差のない作業として成立し得るものである
>この二つのことは、そもそも全く別の命題であり、
全く別の命題ではないです。作文という作業が音楽や絵画と決定的に異なるのは、
言語によって、概念をコードとして直接的に扱い思想を組み立てるという点です。
実証はされていないものの強力な仮説に、人間は内的言語を操作することによって思考する
という考え方があります。思考と言語とでもし本当に同じコードが用いられるのであれば、
文章は、その人の思考に近い構造を保ったまま転写されている可能性があります。
この可能性をどれだけ高く見積もるのか、という点がここしばらくの議論の実質的な論点
なのではないでしょうかね。
吐き出されたテクストはもちろん不可塑的な劣化コピーですから、他者による解釈=思想の復元
にはおのずと限界がありますし、当然解釈者による補完(レタッチ)が行われます。
しかし、私は、言語による「思想転写」の力を不当に低く見積もることができません。
逆に言えば、ここ最近このスレに集う私以外の論客は、その力をあまりに低く見積もっている
ように思えるのです。
もちろん、既に吐き出されてしまったテクストの独立性と、まさに作文中の瞬間における
作者とテクストとの密接な関係とは別に論じられるべきです。
推敲の故事には二つの側面があると思います。
何よりも賈島が自分自身で迷っていたということ。この故事から出た成語である推敲
の作業がまさに行われていたわけで、最高の文章にしようという志のある作者と完成前の
テクストとの間に結ばれた動的な関係がここに描かれています。
韓愈からのアドバイスを賈島が受け入れたということ。件の詩の作者はあくまでも彼なの
ですが、韓愈は彼の精神内部に立ち入るまでもなくテクスト自体にとってベストの選択肢
であろう敲を挙げている。ここでは漢詩の世界の特殊性とか当時すでに韓愈の名声が不動の
もので賈島はさすがにダメですとはいえなかった、とかいう点にこだわるのではなく、
吐き出されたコードを解釈する、という作業は筆者自身も他者も行わざるを得ず、時に
他者の解釈力が筆者のそれを上回る可能性があるということすら読み取りたいのです。
生徒の作文・小論文を見て赤を入れるのに「(本人を前に添削をしながら)言いたいのは
つまりこういうこと?」「あ、そうそうそれです。」なんて会話はよく経験します。
優れた文章家とは、それを他人に見てもらう前に地力で行うことのできる人だと思います。
(推敲のの過程なしに垂れ流したテクストが仮に読者の心を打つとしたら、それは
単なる「まぐれ」なんじゃないですかねえ。あるいは魂の叫び????)
言語のコード性に対する信頼、推敲過程での筆者の最善の努力の存在、この二つを前提と
すると、当然私のような考えに傾くと思うのですが。
最後に。
>「わたしたちは一人一人がみんな違って、それが素晴らしいです」みたいな
>作文を書いて、「100点」を付けられているという、滑稽(シュール)な状況ね。
どういう文章が本当に評価されているのかという現場についてご存知ない方に限って
もってらっしゃる、ありがちな評価観の"亡霊"ですわ。
374 :
_:04/01/30 22:30 ID:B2cJ76gW
>371
おそらく話題の基盤が違うので、あなたが不審に思う点が乗り越えられる
ことはないと思います。
「内的言語」…
あなたが148さんならば、以前ご自身で話題にされていた、ヴィトゲンシュタイン
の「探究」(またはクリプキの「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」でも)読んで
いただければ、双方の「違い」がご理解いただけると思います。
375 :
_:04/01/30 22:32 ID:B2cJ76gW
373を読んだので、追記。
私の文章において、その「例」が一体何を言おうとした「例」なのか、
あなたが「優秀な国語教師」だというなら、ひとつ答えてみちゃくれませんか?
376 :
367:04/01/30 22:53 ID:FuEb2pvx
>>373 レスありがとう。ただ、私が
>>367で書いた
「啄木の作品と彼の人となりを結びつけるという考えが安易すぎる」
と実例をあげて批判した内容が適切かどうかということも含め、
>>368で私が書いた内容についてレスをお願いたい。
バルト以降、作品論においては「作者」がほとんど問題視されていない。
「作者」の考える「正しい読み」があって、それに近い読みが「より良い読み」だなんていう考えは、
少なくとも文学理論としてはもう20年以上前に死んでいる。
まあ学校が学問の現場に遅れをとることは往々にしてあることだけど、
いろいろ勉強しているらしいあなたがなぜ「作者」重視の立場に固執するのか、私には不思議だ。
(単に知らないだけなら勉強すれば良いだけだけど、そうでない気もするので)
>>374-375 むしろ、先の内的言語への言及は哲学的な言語分析よりも認知科学的な分析に近いイメージ
なんですよ。ついでにいえば、私は、個々人の思考ツールは(生成理論的に言えばUGに
あたるような)中間コード的レベルより、個別言語のレベルに近い所で働いているように
思うのです。つまり例えば私は日本語に縛られている。
この説明でわかってもらえるかどうか不安なのですが、少なくとも私は、ホントのホンキで、
テクストと内的言語の相関性にある種の一致を期待しているのです。そういう観点での
レスだと思って下さい。
バルト以降のいわゆるテクスト論の王道を詳しく学んだわけではないのですが、
テクスト論の先にある危険性(個人的嗜好の域を出ない読みの乱立、あるいは文学研究
そのものの解体→社会学/文化人類学へのリストラ)を回避するための「作品論」の
回復があってもいいのではないですかね。
さらに言えば、学校は子供を相手にしている所なので、例えば物理も古典物理をやり、
相対性理論や量子力学はやりません。遅れているからとは別の意味で、蓄積のない子供相手に、
実際の授業で生のテクスト論を直接導入するメリットは少ないです。
>私の文章において、その「例」が一体何を言おうとした「例」なのか
これは
>学校空間というのは本質的に抑圧的な装置なわけで、……
>簡単に「支配のための道具」と化す。
の例として挙げているということだ、と私は理解したのですが。クニが求める「ヨイ国民/
ヨイ子」像に沿ったノゾマシイ答えをひねり出す子供が評価されるようになっている
チャチなシステムなんじゃないの?と。うがった受け取り方ですか?
上のレス、
>>376向けも混じってしまってますね。
「道草」……絶対読んでいるはずなのですが印象に残っていない……のでレスできる
持ち合わせがないのですが、たしか自伝的な作品でしたよね。それこそテクスト論ではなく
むしろ作家論に傾く話になってしまうのですが、漱石と子規の社会的立場の違い、彼等を
取り巻く人間関係の影響などを無視できるほど、「道草」という一作品から明治大正期の
借金事情全般を読み解くことができるのですか?
時間があったらちょっと読み返してみます。
さすがにもう寝ます。
>377 (1)
>テクスト論の先にある危険云々
というのは、別にあなただけではなく最近よくある批判ですが、
テクスト論をきちんと理解してる人が批判してるのをみたことが
ありませんので、やはり「王道を詳しく」学ばない限りは言及されない
方が無難かと思います。「メリットがあるかないか」も含めて。
もちろん、私の方は逆に「生成文法のなんたるか」、等は一切専門外で
すから、あなたの論がいいだの悪いだの、ましてや正しいか間違ってる
かを論評する手段は持ちません。
ただ、共通の基盤を持たないで喋っても、互いの議論が平行線にしか
なり得ないだろうと思うだけで。
>377 (2)
>>学校空間というのは本質的に抑圧的な装置なわけで、……
>>簡単に「支配のための道具」と化す。
>の例として挙げているということだ、と私は理解したのですが。クニが求める「ヨイ国民/
>ヨイ子」像に沿ったノゾマシイ答えをひねり出す子供が評価されるようになっている
>チャチなシステムなんじゃないの?と。うがった受け取り方ですか?
例の「元」にあたる部分の抽出は間違ってませんが、解釈は間違ってます。
採点すれば10点満点で4点というところです。以下解説。
☆「いかなる思想も」「教師個人の強い自覚と資質」がなければ
「支配の道具と化す」、について
その例として
「自由と平等」
をあげてますね。
「自由と平等」のなんたるかを心得ているという「資質」、及び、
自らの職業と思想に対して当分の誠実さを持つという「自覚」があれば、
「自由と平等」に貫かれたクラス運営ができる人もいるでしょうが、
往々にして学校現場では
「平等にしろよー、お前らー」みたいに、あらゆるものが単なる
学校的システムに基づいた「理屈の押しつけ」と化します。その時、
本当の意味での思想は死に、代わりに教条主義が生まれる、私が
言っているのはそういうことです。
「一人一人違う」という作文を、点数という一義的評価システムで
「高評価する」という滑稽な矛盾は、何も「国語の作文指導」に言及した
例ではなく、上記のような学校の特殊事情の比喩なわけですね。
どんな高邁な思想も「学校という場」で生かすのがいかに難しいか、という。
それを373のように「ありがちな評価観に対する誤解」と解釈されてはね…。
381 :
367:04/01/31 10:20 ID:VNIMP08r
>>377 テクスト論に関しては私も微妙にプロパーではないので、充分に理解している自信はない。
ただ、私が理解している程度のテクスト論の基礎的な立場を紹介することで、
「作者の考えなんかわからないのに」という根本的な不満を抱える生徒に、
その疑問もある意味で正しいという、一応のかみくだいた説明はできる。
説明の過程で間違った理解を与えないよう教師の勉強が必要だし、
また「みんな違ってみんないい」的な曲解も避けねばならないが、
少なくとも、「正解」の存在を信じさせるよりははよっぽど健全ではないだろうか。
そして、原理的には「正解」がないのに「正解」が一義に決まる、
文学読解のテストの持つ特殊な事情(学校空間という装置や設問文という誘導の存在)について、
あわせて説明してやればいいのでは? 国語関係のスレ見る限り、気付いてない生徒も多いみたいだから。
382 :
367:04/01/31 10:52 ID:VNIMP08r
ゲーデルにしてもアインシュタインにしても、私は彼等の理論を到底理解できない。
ただ、ピュタゴラス以来の数学的世界観で信じられていた「真理」の存在が、
彼等によってただの「神話」に過ぎないと暴かれたことの意味の大きさは理解できる。
同様にテクスト論は「作者」を解体したわけだし、
今や国民国家論によって「古典」果ては「国語」そのものも解体されてしまった。
結果として、私がかじっている文学・文化研究のレベルでは、
「優れた作者の人格が文学作品に反映されている」
「古典は優れているからこそ定着し伝統的な古典となった」等の考え方が、
真理じゃなくてただの「神話」にすぎないことが暴かれてしまっている現状だ。
皮肉じゃなくて国語教師にとってはやりづらい時代だと思うよ。
私はある程度、こういった研究の成果を受け入れて国語的「真理」を相対化してやることは必要だと思う。
私がバイト先の塾で話をしたら、積年の謎が解けたようにすっきりした生徒もけっこういた。
ただ、学校の先生がこれをやると、行き着く先は教師による「国語解体」になりかねない。
というわけで、文学作品の読解を「教える」ことは非常に難しいというのが私の情けない結論だ。
実はそこで停滞しているからこそ、優秀な教師らしい307氏に質問をふってみたわけなんだけど。
(正直なところ、文学は読みたい人にだけ読ませておいて、)
(評論の読み書きや調べ方などの技術指導に専念したほうがよほど楽で効果も高い気がする。)
383 :
367:04/01/31 11:03 ID:VNIMP08r
>文学作品の読解を「教える」ことは非常に難しい
補足。当然ながら、これは「文学を題材にしたテスト問題の読解法を教える」ということではない。
テストにおける読解法なら、すでにこのスレにも書いてあった気がするので繰り返さない。
>>380 採点どうも。じゃああなたが書いた文章そのものを採点しちゃうと、
>「一人一人違う」という作文を、点数という一義的評価システムで
>「高評価する」という滑稽な矛盾は、何も「国語の作文指導」に言及した
>例ではなく、上記のような学校の特殊事情の比喩なわけですね。
>どんな高邁な思想も「学校という場」で生かすのがいかに難しいか、という。
という意図を反映させるための文章でありたいなら、370の解答例に「100点」をつけちゃ
まずいと思うんだけどな。あなたがあの解答例に100点つけたところまで汲み取ったつもりで
私はあれを読み解きました。100点。あなたは「学校があのような作文をよしとしている」
との主張を吐き出した、と受け取られる可能性大のテクストを生成したということ。
と、こんなこと書きにきたわけではなくて、昼間ニュースを見ていてふと思ったことを
忘れないうちに書きたいと思い昼間っから来たのでした。
ちょうど、例の中三虐待の実父と継母の供述を知らせるニュースだったのですが、
「医者へ行けば警察にばれるからまずいと思った」「見殺しにするつもりだった」との
言葉の恐ろしさに体が震えました。
先週の日曜日も昼間から家でテレビを見ていたのですが、よく見る番組で他人の家に
(最近流行りのタグといった)落書きをしていた若者へのインタビューがありまして、
「(書かれた家が困るでしょ、に対して)俺は別に困らないから。」と答えているシーンが
ありました。上のニュースを聞いた瞬間、そのシーンがオーバーラップしたのでした。
共通するのは、男の子/家の持ち主、つまり「他者の視点」の欠落です。
ここから先は私自身が今ひねりだしたのか、いつかどこかで読んだものの受け売りなのか
もはや判然としないのですが(仕事上、いろいろな評論の断片をずっと読みつづけてきましたから……)
20世紀後半、流行としてのテクスト論が、表現する側の意図よりも享受する側の解釈に
重きを置くようになった結果は、多様性の名のもとに際限のない「あたしが一番」「俺はオレ」
を発生させた現状を生み出したのではないでしょうか。
テキスト論が「表現者と解釈者の共通理解の存在」を断念するところから出発する以上、
他者の心情を汲み取るための努力は本質においては無意味な行為となります。
「思いやり」などという言葉を使うととたんに説教くさくなるのですが、あえて使うと
「他者を思いやる必要性」を軽く扱い始めた風潮とポストモダンの流行とは、
根っこの部分でつながっているように思うのです。
虐待や落書きを防止するのに、行政、警察力の強化とかシステムとしての学校の
チューンナップが必要なのはもちろんですが、私は警察官ではないので、ニュースを
見ながら私のできることは何だろうと考えました。
あの親/若者にもし、自分の行為を受ける相手の心情に共感することがあったなら、
どこかで行為をストップしていたのではないか。相手への慮りを利己的行動の抑止力と
できる人は、現に世に数多く存在しています。一人でも多くの若者にその能力を
身に付けさせようとするにあたって、
「まあ、ほんとに他人が何思ってるかなんてわからないからね〜、目の前に提示された
者に対して自分が受け取ったものに基づいて動けばいいんでね?」
という基本姿勢よりは、
「提示されたものから、彼/彼女が何を私たちに伝えたいのかよく考えてみましょうよ」
という基本姿勢のほうがどんなに有益だろう……
さっき、そんなことを考えました。
387 :
367:04/01/31 20:32 ID:VNIMP08r
うーん、あえて意地悪なつっこみをさせてもらっていいかな?
あなたが実践している文学作品の読みのあり方、
「文学には作者の用意する正しい読みがあり、それにたどり着こうとする読みのあり方」を、
仮に正解到達主義と呼ばせてもらう。
ちなみに10年前に私が高校生だったときもこのスタイルで授業を受けたのだが、
おそらくは以前、あなたが言う「セオリー」を共有した平均的教師の間でも、
この正解到達主義の考えは長年共有されていると考えてよいのだろう。
しかし、だとしたら、正解到達主義の教育をずっと受けている現代の子どもたちが、
なぜ
>>385のように、どんどん「他人の視点を欠落」させているんだ?
これって国語の文学読解で一般的な正解到達主義が、
少なくともあなたの目標に対して効果的であることを疑わせる材料じゃないか?
いや、「効果なし」なんて言わないよ。言い切れるデータがないし、
本当はもっと欠落してるのに国語のおかげで食い止めているのかもしれない。
ただ、「効果なし」と言えないのと同じくらいに「効果あり」とも言えない。
従って、教師の抱く美しい幻想に終わる危険性もかなり高いのではないだろうか。
だとしたら、そんなあやふやな教育目標のために正解到達主義を実践するよりは、
その教育目標の達成のためには別のカリキュラムを用意して、
きちっと文学の読みの本質的な多様性に向き合うべきではないだろうかと思われる。
388 :
336:04/02/01 00:36 ID:W1Rxowq2
>>386 テクスト論は「表現者と解釈者の共通理解の存在」を断念するところから出発するとあなたは言うが、
それをそんなに消極的にとらえる必要はない。なんでもありの無秩序状態が始まるわけではないのだから。
現在の文学研究では、その作品をいかに読み解くかということはもちろんだが、解釈の「幅」が広がった分、
そう解釈することにどんな意味があるのかということも同時に厳しく問われている(そのため後者に重点が
置かれすぎて、作品は社会的文脈の中で史料のように扱われ始めているが)。こうも読める、ああも読める
などと言うだけでは話(論文)にならない。
テクスト論を踏まえた国語の授業において、あなたの言うような意味での教師の質は、解釈そのものという
より、むしろテクスト解釈後の意味付けの部分で十分問われうるのではないだろうか。テクストの内容を
理解した後、その文章が主張している(と見なした)ことに対する妥当性、是非、背景、意義、等々の
問題、また表現技法に関する効果の程度などが教師主導で解説・理解されるべきだろう。
そこでは作者の仮面をかぶることなく、あなた自身の考えが語られることになる。生徒たちはあなたの真意を
探るために質問し、時には反対意見を述べたり賛同したりするだろう。それは見えない作者の意図をめぐる
模索よりも、ずっと他者理解の訓練になると思うが。
>>387 高校の授業で文学の読みの「多様性」を論じるのは、時間的にも生徒の能力的にも現実味がないと思う。
国語という教科は文学そのものではなく、読む・書く・話す・聞くの技能教科だから(307氏のようにこれに
言語に関する知識を入れてもいい)。小論文という形でなんとかなるかもしれないと思うが、多様性をいかに
評価するかという問題があるし、「読み」の論じ方を教えるのもたいへんだろう。
389 :
_:04/02/01 01:57 ID:IrlwteyS
>384
そもそも370の文章は「解答」じゃなくて、議論の中で投げ合ってるボー
ルに過ぎないよね。それを「100点の解答だと思って読み解きました」
という時点で、あなたにはコンテクストを読む力がないと告白してるも
同然だと思うのですが。
それが、本来文脈的に言ってあきらかに「例」にあたる内容を、そのま
んまに受け取ったこと(試験で国語力のない生徒が良くやるミスですが)
の言い訳にはならないですよ。私はむしろ、375であえてそれを「問題」
として切り取ってみせることで、あなたにその勘違いを糺す機会を与え
たわけなんですけどね。
お願いだから、専門外と思っているなら、386のような
「 俗 流 テ ク ス ト 論 解 釈 」
を垂れ流すのは、辞めていただきたい。あなたにはテクスト論のなん
たるかを論じる能力も資格もないことは明白ですから。
390 :
_:04/02/01 02:01 ID:IrlwteyS
あと一言。
>377であなたが「内的言語」という言葉を使ったことについて。そこであなたは
>哲学的な言語分析よりも認知科学的な分析に近い意味で使った云々
と書いてますが、あなたが本当に148ならば、156で146氏を批判した
ときに自分で「後期のウィトゲンシュタインが前期の哲学を批判した件を御
存知?」と問いかけたの覚えてますね?今、その言葉をそっくり返したい。
生成文法理論やそれに基づいた認知科学の元になってるのが
ウィトゲンシュタインの「論考」に基づいた「前期の哲学」
そして、「内的言語」という言葉を用いて、前期の哲学を越え、
言語を道具とした哲学の地平を切り開いたのが「後期の哲学」
こちらは、あなたが批判するポストモダンの哲学と言って良い。
「内的言語」という言葉を「前期」の文脈で用いたあなたに問いかけたい。
「後期のウィトゲンシュタインが、前期の哲学を否定したことの意味を、理解していますか?」
まぁ、語り得ないなら素直に沈黙してください、ということです。
いろいろな方向の話題が交錯しているので整理すべきですかね。それとも複数の縦糸を
残したままどんどん進めるべきですかね。
まず、大づかみとして、私が思うのには、今、「テクスト」の示す範囲に大きな
二つの塊が合って、混用されつつ議論が展開しているかもしれないことについて。
作者の死宣言以降の(純粋な?)テクスト論は、私の理解では文学研究の場における
流れだと思うのですが、高校の現場で扱う教材には、文学作品のほかにいわゆる評論と
して括る説明的文章と、両者の中間的内容にあたる随筆類があります。
本質的に事象の説明〜現状に対する提言を内容とする評論には、筆者はその思想をあまり
歪曲されずに読者へ伝達する必要があるはずです。
一方、文学的文章にあっては、結果的に出来上がったテクストがどれだけ読者をインスパイア
できるかに価値がある。これは別にテクスト論到来を待つまでもなくもともと自明なこと
ですから、作家・作品論から解釈論への転換もいいと思うのです。
これまで私は、このスレが高校国語教育のスレであることから、特にことわりもなく
"テクスト"の中に評論の文章も視野に入れて論じているつもりでした。大きなことをいえば
言語表現全般をカバーする一般論として「読解」の話をしているつもりでいたのです。
評論においては筆者は主張を理解してもらってナンボですから、<<誤読をさせないための>>
推敲も万全を尽くす、教材で扱うようなものであればそれが成功している文章が目の前にあるはず、
という仮定ができるつもりでいます。
(
>>389には申し訳ないけれど、極めて短い断片をやりとりする、コンテクストなどすぐに
ひっくり返るこのような場で、ひとつひとつの単語・数値などを具体的にを示してしまうことの
意味は重いのです。あなたに推敲の配慮が不足していたとも理解するべきです。)
それが、皆さんとテクスト論について考え始めると、どうも対象とするテクストが
(断りもなくなりゆきで、ある意味では自然と)文学的文章限定へと傾いてゆくのを
感じます。
というわけで、
ここしばらくの内容を、文学的文章の読解(とそれに関する授業)の話に限定すべきか、
途中まで扱っていた評論読解の話も視野にいれてできるのか(そうした文章にもテクスト論
的アプローチを適用する/できるのか)、どなたか方向性を打ち出し、以降のイチシアチブを
とって下さい。私自身の頭も整理してそれに従います。ちなみに、
>そこでは作者の仮面をかぶることなく、あなた自身の考えが語られることになる。
これを今までやってきた従来の国語教師こそが「虎の威を借る説教くさい狐」として、
公教育ではもっと役に立つスキル取得の機会を提供しろと批判されています。
どうどうと教師自身の考えを語り、それが人材育成にとってプラスになるためには、
教師に強力な知的蓄積+高潔な人格が必要です。
ここでも、結局まとまった話をしだすといつでも最後に私の「語る資格」の話になってくるので、
私レベルの力量の教師ではつとまらないのでしょう。
あと、認知科学的領域における言語の役割についての研究と前期ヴィトにおける言語分析とは
同じものではないと思います。「元」という言葉に間違いはないと思いますが、学問の種類が
異なる以上、当然のことです。
393 :
367:04/02/01 18:02 ID:5TGzLmL4
うーん、そんな基本的なところで食い違いがあったのか・・・
そもそも「テクスト」も「作者」も文学理論の概念だから、
307氏が「テクスト」という言葉を使っている以上、
私は当然それも文学の解釈の話だと思っていた。
でも、307氏の言う「テクスト」は「テキスト」だったわけね…
気を取り直して、まずは文学に絞ってお願いしたい。
(366氏もご不満かもしれないが、とりあえずご寛恕をお願いする)
「学校における(文学の)授業で作品論は有効か否か?」を当面の問いとすると、
私および336氏は「いいかげん作品論はないんじゃないの?」という立場。
それに対してあなたは
>>386で、他人を思いやる気持ちを育てるためには、
作品論が有効だとしていた。
その発言に対して私は
>>387で「それって裏付けないよね?」と「作品論」授業の有効性を疑い、
336氏は
>>388で「その目的だったらテクスト論のほうがふさわしいのでは?」と反論している。
これが現在の作品論に関する議論の見取り図だと思う。
話が文学のみに絞られることで意見が変わる点があったら言ってほしい。
特にないのであれば、この路線で話を進めて欲しい。
あと申し訳ないが、ウィトゲンシュタインに関する話は、
私は野矢茂樹の解説本をかじった程度なので、
残念ながら見取り図を書く資格がない。必要であれば名無し氏にお願いする。
394 :
367:04/02/01 18:09 ID:5TGzLmL4
また用語上のずれがあると嫌なので、念のためあくまで私の理解で書いておくよ。
間違っていたら適宜訂正してほしい。
●作品論
文学は「作者」によって書かれた「作品」であり、「作品」を読むとは
読みを通じて「作者の言いたいこと」を探ることである、とする文学理論。
「作品」の解釈を「作者」の伝記的事実に還元することがままあり、
307氏が
>>361で例に示したような、
啄木の短歌を啄木自身と結びつける発想は典型的な作品論の立場。
私は一応、先にも書いたように文芸作品だけを論じてきたつもりではなかったので、
ニュアンスとしては単に文学論を越えたテクスト=読み解くべきモノと拡張された議論の範囲で
考えていました。つまりここが国語スレでなければ、身体表現や社会現象までも「テクスト」
として扱い得る所のテクスト論。それを俗だ気分の産物だといわれればそれまでです。
けれど現に、
>>320などは自転車の乗り方とその技術の文章化が比喩に使われているのだし、
それを私が受けた
>>321などを読めば、当面のターゲットが狭い意味での文学論の範囲で
なかったことは、当然了解されているものと思っていたのでした。
そういった意味では、「筆者」(←私はこれを使っていた)と「作者」という用語も、
実は事前の了解もなくお互い好き好きに使っていましたね(しかもかなり厳密な意味で)。
あと、ふと我にかえってみれば、今しているのはスレタイとの関連でいえばバリバリの
虚学的側面の議論のような。みんなして奈落の底に落ちてゆく気分……
作品論をやっていくと何がだめなのか、「今はもうそういう時代じゃない」では全然答えに
なっていない、というのが私の正直な印象です。テクスト論によって初めて得られた知見、
テクスト論を生かした解釈の実践が高校国語教育(人材育成)にもたらすことのメリットについて、
支持者の方々はできれば具体的に言及しながら進めてもらえるとありがたい。
今、このスレ内の「テクスト」を検索したら、初めに使ってたのは私でした。
不用意さにかけては>389の100点のことがいえないな、と反省。
397 :
367:04/02/01 22:34 ID:5TGzLmL4
私自身はテクスト論授業の確固たる方法論を持っているのではなく、
「文学を作品論で教える授業はダメなんじゃないか?」と、
よりましな方法を模索している段階なので、まずそのことをご承知ありたい。
だからここでは「作品論がダメだと思う理由」をあげておく。
理由の第一は、単純だが作品論がすでに理論として死んで久しいから。
あなたは「それでは理由にならない」と言われるかもしれないが、
教育の意義の一つは人類の知見を次世代に伝えることにあることを再確認したい。
極めて難解なものでなければ、少なくとも
その存在や基本的立場を知らせるくらいはあっていいのでは?
第二に、「正解」を持つ「作者」に解釈を還元する作品論では
複数の読みは、「どちらかがより正しい」という単一のベクトルの上でしか扱われない。これは、(少なくとも私の感覚では)文学を読む上で致命的に貧しい態度と言わざるをえない。
私の出身校でも、口では生徒の読みを尊重するといいながら、
結局最後は「作者」と学校という装置を味方につけた
「先生の正しい読み」で締めくくる教師ばかりだった。
また、こういう人が「文学の豊かさを味わいなさい」とか言うから恐れ入るのだが・・・
一方で、テクスト論の基本的な姿勢は、
「どうして自分の解釈じゃいけないの?」
「作者の考えていることなんてわかるわけないのに」
という、作品論が切り捨てる子どもの素朴な疑問にも向き合うものだ。
これだけでも私には作品論よりテクスト論を支持する充分な理由になる。
398 :
367:04/02/01 22:37 ID:5TGzLmL4
第三に、307氏が強調するところの人材育成においても、
作品論の授業を通じて「他人の気持ちを考える」効果があがるのか疑問だ。
いや、正解到達主義の作品論では、仮に完全にうまくいったとしても、
「自分の想像力を正しく使い、正しい手続きをとれば、相手の気持ちの正解にたどり着く」
(もし間違ってもそれは手続きを失敗しただけで、ちゃんとすれば正解が出る)
という、現実にはきわめて希な「幻想」を定着させるだけにすぎないのではないか?
現実には、相手の気持ちが自分の想像の範囲外にあることが多々ある。
というのも、お互いの持つ価値観そのものが違うことがあるからだ。
今後、国際化やたこつぼ化の進展で、お互いが価値観を共有しないケースは増えるだろう。
だからもし307氏がコミュニケーション能力育成の観点から文学を扱いたいのなら、
「どんなに相手の立場に立ったつもりでも、究極的にはそれはできない」
という、自分の想像力の限界についてまずはっきり自覚させ、
そこを出発点にコミュニケーションの問題を考えさせるべきなんじゃないか?
そしてそれは、基本的にはテクスト論以後の思想だ。
(というよりも、20世紀の思想はどれも主体の理性の無謬性を疑うことにある)
以上の少なくとも三つの理由で、私は少なくとも「脱・作品論」が必要だと考えている。
テクスト論のほうが「よりまし」だろうという思いはあるのだが、
しかし残念ながら、それを具体的な教案にできる段階にはない。
それでは307氏は不満かもしれないが、作品論への批判として読んで欲しい。
>>397-398 指導案を書くようなレベルの話を期待しているわけではないのでそこまで肩肘はる必要は
ありませんよ。
>理由の第一は、単純だが作品論がすでに理論として死んで久しいから。
基本的に理解してもらいたいのは、学校教育の国語の授業の場は文学「研究」の場ではない
ということです。「教える」という言葉は伊達ではないのです。
研究は「既にまがりなりに読める者」において初めて成り立つものです。人は、
「まがりなりに読める」段階に達するまで、どのような読みの訓練を経ている(はずな)のか
ご自身の学習遍歴をよく振りかえってみて下さい。初学の段階で物語に対してテクスト論的
接近を求められていたとして、どの程度の中高生が自力で主体的読みを発見できていたろうかなど。
子供は放っておけばとんでもない誤読を平気でします。語彙力・社会常識その他もろもろの
周辺知識に欠ける以上、ある面ではしかたのないことです。ある一定の段階までは、
教師が導かざるを得ない点についてはおわかりでしょうか。
そうすると「引いていた生徒の手をどのあたりで放すか」という問題が浮かび上がるのです。
あと少し気になったのは、テクスト論云々の前に、小説教材を扱うにあたって私を含め
教師達は、それほど「作者が何を考えているか」という問題には触れていないような
気がするのです。今自分の授業を振り返ってみても、「主人公は……」という言葉はしばしば
口にするはずですが、「作者は……」という言葉、読解の最中にあまり口にしないと思います。
高校の文学教材の授業で、なぜ作者はここで登場人物たちにこの振る舞いをさせたかったのか、
とか、なぜ物語がこちらへ展開するのか、なんて話はめったにしません。時間もないし。
子供の口にする
>「作者の考えていることなんてわかるわけないのに」
という言葉、本当に小説教材を扱っている時にしばしば出てくるような言葉なんでしょうか?
評論・随筆では「筆者は……」という言葉を自分でも確かによく口にすると思います。
上記の言葉、本当は小説の「作者」と、論文の「筆者」の話がごっちゃになっていることは
ないんでしょうか。
>「どんなに相手の立場に立ったつもりでも、究極的にはそれはできない」
私はこの言葉がたとえ究極においては真実であるかもしれなくても、それを前提とする所から
子供達と対峙するわけにはいきません。それを突きつけられた若者たちが、皆その諦観を
自覚しつつなお相互理解への最大限の努力(いける所までいく)を実践できるかどうかは
疑問です。「無理だってわかってるなら、必死こいてするこたぁねーや」と考えてしまう
若者をこれ以上増やすことになるかもしれません。
どうせいつかは知るのだからといって、初めから「サンタなんて幻想だ」と幼な子に言って
聞かせるよりも、幼少期にサンタクロースを信じる時期を経験することも、有意義な経験だ
と思います。(あまりうまい比較例ではないのだけれど)
人間には、心の発達段階に応じて段階的に世界理解をしてゆくことも必要だと思うのです。
401 :
_:04/02/02 12:56 ID:PNMA+uMN
茶々を入れて、少し流れを変えたことについて、責任上若干の補足を。
私は、307氏が余りにも無邪気に「方法論的に正しければ、国語の授業
には意味がある」的な話をすることに、多いに疑問をもっていた。
逆に、367氏については、「理論としての正しさはおいておくとして、現実
の教室でのその理論の有効性」を問うてみたかった。
俺は369-370で、367氏にそういう発問を確かしたはずだと思うし、
(370の文章は出だしに「学校空間というのは…」という話をしており、
かつ例の後に「国語という教科でどうこう…?」とあるわけで、これが
「教科としての国語を越えた話」だとコンテクストは明示してある。
それが分からないとすればそれは、言葉が足らないのではなく、単に
読む人間の注意力の問題だよ、307氏。)ようやくその方向で話が進み
はじめたので、疑問点をもう一度整理して呈示しておきたい。
307氏の理論が、どれほどの努力と善意と経験によって築き上げられ
たものであるかはおくとして(有効性も含め)、それが「抑圧の装置とし
て働く」可能性を367氏は問うていたわけだが、そのことを回避したまま
でいいのか?あなたの喩えを使えば、早熟な子が「サンタはいない」と
言ったとして、周りに「サンタはいるんだよ〜」と言って虐められていた
らどうするのか?という問いに、あなたは答えてない。
367氏については、あなたが十分問題意識を持っていることは理解できる
ので、369-370で触れた点について、397のように「私自身は…もっている
のではなく」と避けて通るのではなく、自分自身の小さな経験なりなんなり
をバックボーンにして、語ってみていただきたい。
と思った。以上。
>>空白の人
無邪気にといってもねえ。「私も試行錯誤に苦しみ悶えながらもとりあえず今のやり方やってますけどっ」
てな言葉なんぞちりばめながら書いてたら、それこそ焦点もボケボケになって読む人が困るでしょう。
「立場を演じている」私、という部分への考慮なしに読んでいるのかな?
私はこれでも一応、「本当はもっといろいろ足固めしながらでも書きたい所を、立場を明確に
するためにあえて気張って書いている部分もあるのだろうな」と思いながら皆さんのレスを
読んでいるつもりです。お気楽無邪気なんですかね。
>「教科としての国語を越えた話」だとコンテクストは明示してある。
……あなた、自分自身と吐き出した文章とを分離し切れてない。
>言ったとして、周りに「サンタはいるんだよ〜」と言って虐められていた
>らどうするのか?という問いに、あなたは答えてない。
答えてるって。
>聞かせるよりも、幼少期にサンタクロースを信じる時期を経験することも、有意義な経験だ
>と思います。
が私の立場ですから。これをことさらに解説せよというならこういえばいいのかな、
「サンタの存在」が抑圧の装置であるとするなら、抑圧される時期が必要であるということ。
早熟な子に対しては早熟ななりに個別に手当てをすればよいのであって、早熟な子の
存在する故に、残りの子に対して「サンタはいない」を周知徹底することはありませんよ。
「サンタを信じていない子とも仲よくしましょうね。」という指導の道があります。
ここが純粋な意味での真実の追究たる"研究"と"人材育成"の根本的に異なる点だと思うのです。
学校が抑圧のシステムであるというなら、はっきりいって、ジャングルの奥に暮らす
人々からなる人間集団だって(これもあんまりたちの良い喩えじゃないけど)
抑圧のシステムとエゴとのパワーバランスによって均衡しています。
人がヒトである以上の人間を演じるためには、そうした抑圧のシステムとの対峙は
避けて通れぬ道ではありませんか。
403 :
_:04/02/02 23:30 ID:w1QSXp3M
>402
>早熟は早熟なりに個別に手当
>「サンタを信じていない子とも仲よくしましょうね。」
ですか。いやはや。
「じゃあ、先生、サンタはいるの?いないの?ハッキリして!」
ってみんなの前で言われたら、どうするの?w
現場を知ってるなら、それが当然起こりうること位分かるでしょう。
決して突飛なことを聞いてるわけでもないし、これは非現実的な比喩
をしてるわけでもないよね。その程度には考えをめぐらせておいて、
そしてはじめて「答えた」と言えるんじゃないですかね。
結局、学校が抑圧の装置と化すことに(特にあなたが「正しい読み」と
称するものが生徒の読みの可能性を抑圧することに)無自覚だという
批判に対する答えとして、「信じていない子とも仲良く」&「個別的な手
当」のダブルスタンダード構造で対処するという姿勢そのものも、今
問われているわけで。まさにそのことにあなたは無自覚なんですよ。
抑圧の意味をよく理解しているなら、手段としての抑圧を否定するもの
ではありませんが、自らの手が成しつつあることに無自覚な人間に
方法としての抑圧を委ねることには賛成できません。
ところで、367氏に質問。
>401において私は307氏を「無邪気」と評しましたが、それはどういう意味
で、だと思いましたか?
404 :
367:04/02/02 23:58 ID:ed+d8H8a
>>400 評論と文学を混同してはいない。「作者の〜」という台詞は主に、
「この物語の主題は何でしょう?」などの問いに対する反応を想定していた。
(細かいこと言えば作品論では作品構成要素のすべてが作者の意図の範囲内だけど)
で、そもそも私の作品論的授業への懐疑は
>>397で書いた
>私の出身校でも、口では生徒の読みを尊重するといいながら、
>結局最後は「作者」と学校という装置を味方につけた
>「先生の正しい読み」で締めくくる教師ばかりだった。
>また、こういう人が「文学の豊かさを味わいなさい」とか言うから恐れ入る
という自身の体験から出発している。また教えている塾の子どもたちに聞いても、
どこも似たような状況で、疑問や違和感を持っている生徒は少なくなかった。
これは、作品論で授業をする以上避けられない状況だと私は思う。
仮に教師が自分で「正解」を告げない場合にも、
その代役を自発的に演じる小才のきく生徒がいるだけで、状況としては全く同じことだ。
(かくいう私がそんな生徒だった。おそらく作品論的授業というのは、
学校という場に従順な生徒の協力があって初めてまともな授業になるのだろう。)
307氏はこの事態をどう考えている?仮に私があなたの生徒で、
上で引用したような不満を授業中にぶつけたらどう対応する?
上記の事態があまりよいものではないという共通認識が得られれば、
ではそこからどうすればいいのか?とお互いの立場から生産的な議論もできるだろう。
また、そこでは私の乏しい体験について文脈の中で語ることもできるかもしれない。
なお、作品論の背後にある「文は人なり」思想が作文指導に援用されると
「疑似優等生」を多数生み出すという問題もあると思う。
でもまあ、それについては文学読解の範囲を超えるので当面は不問にしよう。
405 :
367:04/02/03 00:18 ID:s4ukcR4D
ん?なんか私に読解問題が出されているけど、皮肉を解説させたいの?
ここで307氏の感情を必要以上に逆撫でしても仕方ないと思うのだけど。
何より、私が
>>404で書いた問いは、名無し氏が
>>403で書いた
>「じゃあ、先生、サンタはいるの?いないの?ハッキリして!」
>ってみんなの前で言われたら、どうするの?w
と、立場としては同じものと思うので、
307氏には、ぜひこの問いに正面から解答してくれることを望む。
406 :
_:04/02/03 01:13 ID:mAyZRsDG
>405
逆なでしたいとかではないのです。
307氏に直接問題を出すと、「お前の書きようが悪いからそう読みとれる
わけがない」てなことを言われるんで、果たして私の書きようが悪いのか
307氏に読解力がないのか、ハッキリさせたいだけで。
あの文脈で、「307氏は無邪気だ」という台詞に対して、
「無邪気といっても…苦労話を書くわけにもいかないでしょう?(402)」
というレスが返ってくる307氏の国語力に、私はどんどん疑念を深めて
いるわけで。
それでも一応謙虚に「自分の書きようも悪いのかもしれないから、取り
あえず読解力の有りそうな人の判断をあおいでみよう」と思ってるわけで。
…いやー、逆なでしてるかな(w
皆さんが教壇に立てばすぐにわかることですが、答えは簡単。
早熟な子には個別に対応するということは、公式には「サンタさんはいますよ。」と答える、
ということなのです。
国語の授業の場は、(おそらく皆さん方が想像する以上に)毎時間のようにそんな問いかけの嵐に
さらされています。サンタで紛糾するくらいならともかく、高校生を相手にするともなれば
法や正義、倫理、生の哲学、恋愛や性、それら相互の功利計算などなど、世の中に普遍的に
存在する矛盾はほぼすべて教室の中に普通に持ち込まれます。いやはや、なんて言ってるどころ
じゃありません。高校二、三年生あたりだと、小説教材も城之崎にて、山月記、高瀬舟、舞姫、こころ、
珍しいところでは安部公房の短編なども扱います。
教室は、それらの問いかけの嵐に対して、単に私個人としてどう答えるかというだけでなく、
「そういう問いに、大人はどう答えることになっているか」を表明する場としても機能
しているのです(特に公教育の場合)。
ところで、367氏は、塾で「国語」を教えている/たのかな(高校レベルの国語のコマを持ってる
塾って、私塾ではあまりないのよね……)もし授業の補講以上の内容で国語を教えていたのなら、
生徒たちから、こんな声も聞いた事があるはず。
「要するにどういうことなんですか?」
脱作品論は、この問いにどう答えるのか。
高校レベルはあくまでも読み書きソロバンですからねえ。
ある程度以上の水準からみれば嘘である可能性があったとしても、とりあえず有効
な方法を教えることが期待されているんでしょ。文脈を常識的な解釈で読み解けれ
ば十分なのであって、対象への眼差しがどうだろうがどうでもいいんです。
そのレベルを超えられるひとはもともとごくわずかだし、高校生の段階で到達する
必要もないということだと思いますね。
抜群によくできて、将来は研究者として一流になれそうな逸材がいれば話は別です
けど・・・いないでしょ、そんな子。
409 :
_:04/02/03 21:10 ID:CDd6DBzq
>408さん、少し違う。
高校レベルはあくまで読み書きそろばん、そこには同意しますよ。
飛び抜けた一部のためのエリート教育をしていいならともかく、
現実には文脈を常識的な解釈で読み解けるようになれば十分でしょう。
「対象ヘノ眼差シ」とか抜群の逸材とか……(たまにはいますがね)…
まあ、おおむね関係ないものとして(万が一に備える余裕はやはり
望ましいのですけどね)授業では無視してもいいと思いますよ。
では、何が「違う」のか。
>とりあえず有効な方法を教えることが期待されているんでしょ。
有効な方法に「とりあえず」も何もない。有効か、無効か、ですわ。
それと、「教える」ことが期待されてるわけじゃない。期待される目的は
「身につけさせる」なんじゃないですかね。
おそらくそこが、307氏と私の(367氏もそうではないかと期待しますが)
大きな違いになって来るんじゃないかと思いますね。私なら407みたいな
授業はしませんよ。
410 :
367:04/02/03 21:32 ID:HywgNlYy
>皆さんが教壇に立てばすぐにわかることですが、答えは簡単。
>早熟な子には個別に対応するということは、公式には「サンタさんはいますよ。」と答える、
>ということなのです。
私はそういう授業を否定する所から考え始めているので、
「答えは簡単」とあっさり書かれると正直戸惑うな・・・。
その「公式」見解が子どもを抑圧してきたのが「学校国語」の歴史だと思うのだが。
そして、私がずっとこだわっているのはまさにその点だ。
私は「要するにどういうことなんですか?」という問いに対しては、
「要するに、『要するに』という発想が文学を読む際にはいらない」と答えるよ。
文学を読む態度・文法って、そういうものじゃないか?
そもそも要約した時にこぼれてしまうものがあるから文学という形式をとるんじゃないの?
教師がそう生徒に言わないのなら、文学はやめて全部評論にすればいい。
そのほうが教師も楽だし、はっきり言えば生徒に害も与えずにすむ。
「『学校』で『文学』を『教える』」という命題は本質的に矛盾を抱えていて、
そのせいで授業はどうしても教師による「正解」の、善意に基づいた押しつけに傾く。
この矛盾を完全に解消することはもとより不可能な話だが、
307氏は失礼ながらこの矛盾に対して多少楽観的すぎる、というよりも無頓着な気がする。
時に名無し氏が揶揄する口調になる理由も、そのあたりにあるのではないかな?
411 :
367:04/02/03 21:47 ID:HywgNlYy
>>407 私が子どもと接するのはあくまで塾・予備校の現代文・小論文なので、
雑談程度に文学や社会学の話はするのだが、
学校の教壇に立った経験は、実は学部生の時の教育実習の時しかない。
(307氏は私の大先輩なわけだが、数々の不遜な発言はお許しいただきたい)
ただ、ここで話してきたような問題意識はずっと持っていたから、
教育実習では、中学三年生相手に90年代の現代詩をとりあげて
某現代詩人の「詩の解釈に正解はないし、正解を見つけようとしてほしくない」
というエッセイとあわせて読み、また、ありうる詩の解釈を並べ比較検討した。
(「正解」は出さずに、個人個人でどの解釈が最も適当に思われるか、
その根拠をきちんと考えていくことが大切だという流れだった)
その際に、文学研究では「テクスト論」「読者論」という立場があるんだよ、
ということは説明した。まあ、詳しい理論の内容がわからなくても、
「正解を必要としない考え方」があるんだと知ってもらえればと思っていた。
その学校は偏差値エリート校で、生徒も学校で求められる「正解」を書く達人だったから、
私のやり方は新鮮だったのだろう。自分でもやっていてある種の手応えがあった。
もちろん、彼等は例外だろうから、その授業を全国の中三に一般化はできない。
ただ、高校生レベルなら「脱作品論」、あるいはそこまでいかなくとも
「作品論の相対化」ができるんじゃないかと思った一つのきっかけではあった。
これが私の「補講以上のレベル」の唯一の体験談だ。
まあ、正直に言って経験としては圧倒的に物足りないが、それが今の私のすべて。
>>410 私たちは、自分自身が思っている以上にいろいろなことを「教えられて」身につけています。
(これは別に学校という場に限らずの話です)
文学を学校で扱うことを避ける、というのは、一つの道として当然アリだとは思います。
けれどそんな意見は、文学を国語(学校)で扱わなくなった時の私達の未来について、とても
楽観的な見通しをしているように感じられる。あなたは文学と一定以上の濃密さをもって
触れたからこそ「『要するに』という発想が文学を読む際にはいらない」という言葉に
至っているわけですが、多くの人にとって、本格的な文学の世界は学校で触れたことを
きっかけに開けてゆく世界ですし、触れるにしても、初めから主体的に正面切って文学と
格闘しようとする人の割合がそれほど高いとは思えない。
特に子供を相手にする場合、主体性を尊重といった美しい言葉はしばしば、泳げない者を
大海に放り出すような無責任と背中合わせなのです。
現に、新課程で始まった「総合的な学習」の時間は、多くの現場においてまさにそんな
惨憺たる世界が日々展開しています。
範読不在の授業は、しばしばエゴとエゴがぶつかる人外魔境の様相をていしかねません。
これは、「そこを上手くやればよいのだ」というような種類の問題ではないように思います。
お二人は文学と正面切って関わってしまった。だから「先生がいうんだからそうなんだろう」
という態度を初学者が見せることが、はがゆくてしかたないかもしれない。
そして初学者自身にではなく、ロボトミーよろしく初めから芽を摘むことでそんな態度を
取らせようとする教員の側に矛盾の根源を見るのでしょう。
けれど、文学をそっくりそのまま別の領域に置き換えたら、実はあなた自身が、その筋の
専門家から見ればはがゆいほどスナオな学びの態度をとっているかもしれないのです。
例えば私自身に関していえば、私は比較的素朴に進化論を信じています。(ネオ)ダーウィニズムに
対して様々な方面から批判的議論があることを知ってはいますが、それをことさらに自分から深く
学び比較して真実を追求する情熱まではありません。
ところで、ここしばらくあまりの話のかみ合わなさについて私なりにずっといろいろ
考えてはいるのですが、今日思いついたことはこんなこと。
日本文学には、中古の日記文学から始まって、近世俳諧、近代短歌俳句、自然主義の変節から
始まる私小説まで、テクストと作者がある種不可分な関係にあるような一つの流れが
あるのだろうと思います。平成の世にあってすら柳美里の裁判でも判断材料の俎上にのぼりました。
日本文学の流れの中に身を置いた者が文学と関わってゆくには、作家作品論はどうしても
殺しきるわけにはいかないと思うのです。そんなことを考えていたら、もしかして
お二人(367、空白の人)はむしろ英米文学プロパーまたは個人的にそのあたりに近い人?
などと思ったりしました。だからどうということではないのですが。
ちょっと本業が忙しくなるので、しばらくは毎晩(ここの所ほんとに毎晩来てる!)
というわけにはいかないかもしれません。
414 :
367:04/02/03 23:43 ID:HywgNlYy
>お二人は文学と正面切って関わってしまった。だから「先生がいうんだからそうなんだろう」
>という態度を初学者が見せることが、はがゆくてしかたないかもしれない。
ちょっと待って欲しい。私が一貫して問題にしているのは、
「先生の『正解』に釈然とせず、しかし反論もできず沈黙する生徒たち」だよ。
かつての私自身もそうだったし、いま塾の教え子たちにも少なからず存在する
彼等のような生徒を、あなたは切り捨てるんですか?と問うているんだ。
まあ、
>>407の「公式」に「正解」を出すというのは、まさしく切り捨てているわけなんだけど。
私は学校で文学を教える必要がないと思っているわけではない。
(そもそも、思ってたらこの問題にこんなにこだわらない)
ただ、学校にできるのは、あなたも言うとおり文学との出会いを提供すること、
そして、その後にその生徒が独力で読むための態度と方法論を学ばせること、
せいぜいこの二つだろうと思っている。
しかし、上記のような不満を抱く生徒を生産する作品論的授業が、
生徒と文学の幸福な出会いの場だと言えるのだろうか?
あるいは作品論で「正解」を導く解釈が、生徒たちがその後人生の折々に
「主体的に正面切って文学と格闘する」ための方法論になるだろうか?
私の答えはいずれもノーだ。
文学の授業に必要なのは、その場その場で「正解」を出すことじゃない。
子どもたちがやがて文学に向き合う精神的な必要が生じたときに、
独力で文学に向き合うための方法論を教えてやることだと私は思う。
その際に「唯一の正解を導くための唯一の読み方」が、どれほど子どもの手助けになる?
415 :
_:04/02/04 00:27 ID:HkxV3zAs
とりあえず、「307氏は無邪気だ」という私の文章に、367氏から
>「『学校』で『文学』を『教える』」という命題は本質的に矛盾を抱えていて、
>そのせいで授業はどうしても教師による「正解」の、善意に基づいた押しつけに傾く。
>この矛盾を完全に解消することはもとより不可能な話だが、
>307氏は失礼ながらこの矛盾に対して多少楽観的すぎる、というよりも無頓着な気がする。
>時に名無し氏が揶揄する口調になる理由も、そのあたりにあるのではないかな?
というレスが返ってきたことで、367氏及び自分自身の国語力に対し
幾分かの安心感を得て、私はほっとしているw
閑話休題
国語の話だと思うから混乱するのかもしれないな。
国語の授業の目的を「ある種の特殊技術の習得」にあると考えたら?
たとえば手品の学校だとしたらどうだろう。
・生徒の前で鮮やかな手品を見せる。
・生徒の前であざやかな手品を見せた後、詳細な種明かしをする。
・各種の手品を分類し、整理して、体系化し講義する。
・生徒の前で鮮やかな手品を見せ、生徒に種を考えさせる。
・手品はできないが、素晴らしい手品師の列伝を語る。
…さて、どの授業を受けると、生徒は立派な手品師になってくれるでしょう?
416 :
実習生さん:04/02/05 16:05 ID:pnV5LScD
手紙とかレポートの書き方とか授業でやってほしかったかも
>>416 普通にやってますよ。指導計画上は、1年(3単位として100コマ前後)のうちすべて合わせても
5〜6時間ですが。それでも少ないのは確かなので、定期テスト返しの際の、記述答案の書き方
指導などを通じて補っています。
ちょっと来てみました。今はいろいろまとまった考えができる状態でないので、
最後の手品学校にについてだけ一言。
手品学校は手品師を作る学校ですが、公教育の国語の時間は、文学研究者を作る時間ではないと
いうことに注意して下さい。先に私は料理学校の例を出しましたが、料理学校は、調理師を
輩出するための専門学校ではありません。揚げ足取りだと思わないで下さい。
大事な観点だと思います。
昨日の読売新聞の社説は、文化審議会の答申に関するコメントでした。
私の国語力では伝わっていないかもしれませんが、その最後の一文は、
私の書いた
>>412の後半部分と思想的には重なっているように思います。
今ここで展開している話題と直結というわけではありませんが、お二人の感想に
興味があります。
418 :
実習生さん:04/02/06 04:40 ID:cdg7F+J8
419 :
367:04/02/06 13:41 ID:frL7H16n
手品学校の比喩は私もどうかと・・・。何より、国語教育に関心のある私たちが「
国語の話だから混乱する」では正直自分たちが情けないのではなかろうか。
ただ名無し氏の言う「特殊技術」は、文学研究技術のことではないはずで、
私も当然、文学研究者育成なんてことは微塵も考えてないから誤解なきよう。
讀賣新聞の社説はネットで読んだが、私も実は日本文化論が専門だし、
日本の伝統文化についてもっと教えることは基本的には賛成だよ。
ただ、無批判な日本文化礼賛を避けるくらいの冷静さは必要だが、
記事を見てるとそういう視点が充分にあるのかどうかちょっと気になるな。
ちなみに近年の文学研究では、あなたが
>>413で言う日記文学にしても、
いわゆる中古日記文学が「日記文学」として評価されるようになるのは、
たかだか1920年代の「日記文学」「女流文学」ジャンル成立以降だったという事実が、
歴史社会学的な言説研究によって明らかになっている。
(それまでは日記ではなくあくまで作歌の手引書や歴史資料にすぎなかった)
すなわち「テクストと作者が不可分な一つの流れ」という日本文学観それ自体が
近代文学の文脈から都合のよいように遡及的に形成されたものであり、
決して恒久不変な「日本文学の伝統」ではないことを知っているほうがよいと思う。
420 :
367:04/02/06 13:48 ID:frL7H16n
日記文学については専門的な話になるので、興味があれば
『創造された古典』(新曜社、1999)の一読をおすすめする。
「古典は作品の内容が素晴らしいから古典になったわけではない」
ことに自覚的になるのには最適の、比較的新しい日本古典研究だ。
まあ、以上は余談も含んでいるが、伝統文化を重視するかどうかと、
今回の議論(文学の授業における作品論の是非)では、
最後の一文こそ似たことを書いているが、そこに至る文脈が全く違う。
仮に議論したいなら改めて、というのが適切ではないかと思うがどうかな?
私としては、
>>414の問いに対する307氏の返答を再度望みたいところ。
421 :
_:04/02/06 22:26 ID:4OVsOMfJ
うう…「ある種の特殊技術の習得」が、どうして「文学研究」のことに
限定されてしまうのか?サッパリ分からないが、とりあえず、「教師が
持っているある種の技術」を「生徒にも身につけさせる」ことが国語教
育の目的と考えちゃいけないのか?別に「国語」と「手品」が似てようが
似てまいが、話の本筋はそういう所にはないんだけど。
今週はべらぼーに忙しくてこれなかったけど、両氏から返事を貰えた
ので、まぁよしとしよう。
ちなみに今回のは別に「クイズ」のつもりじゃなかったんだ。ただ
想像してみて欲しかっただけで。あなたが受けてきたのは、そして
受けたいのは、どんな授業か?
・名人芸のような「読み」を披露してくれる国語の先生
・自分の「読み」について根拠を説明する授業をする先生
・このように「読む」のだ、という理論を追求する授業
・素晴らしい「読み」を出して、「どうしてそう読めるのか」を考えさせる授業
・名人芸のような「読み」はできないものの「文学者列伝」を語ってくれる先生
…
「技術習得」ということに限れば、307さん辺りには二番目三番目なんて
とこが好まれるのかなあ、と。367さん的には四番目なんかが「良い授業」
になるんだろうなあ、と。
でも、個人的には、一番目・五番目の教師の下から「も」、結構たくましくも
有力な高い国語の能力者が生まれる気もする。オチコボレも出るだろうけど。
けど、それが「いけない授業」だとも思わないんだ、オレは。だから、どの
授業も否定する気にはなれないな、という話。
まぁこれは、その人の「教育論」の問題であって、スレタイの「国語は虚学か
否か?」とは微妙にズレる気もするんだが。
422 :
_:04/02/07 09:36 ID:QYvEJ4XB
>367@419 へ返答
「国語教育に関心のある私たち」だからこそ、冷静に語れないこともあるでしょう。
論の帰結がたとえば「自己否定」になりかねない…としたら、そりゃ「冷静に語れ」
といっても無理かもしれないなあ、と思ったのさ。
「氏の言う「特殊技術」は、文学研究技術のことではないはず」←その通りです。昨夜書いたけど。
ただし、420であげられた「創造された古典」についてはどうかな、と。
たとえばアマゾンの書評で「万葉集がメジャーになったのは明治だ、ということに驚いた」
とか書かれてるけど、これって文学史的にはごくごく「当たり前の話」でしょうに…と。
(「万葉集」が再評価されはじめたのは明治…って高校の近代文学史の授業で普通に
習っただろうと思うが。別に松山出身でなくともさ。)
423 :
_:04/02/07 09:39 ID:8iu6lO0c
(続き)
内容読まずにレビューと内容紹介だけで云々するのはどうかと思うけど、
確かに、「時代によってどの『古典』が評価されるかということについて、決して
文学的評価だけではない、極めて政治的な判断が働くこともある」というのは、別に
おかしい話ではないと思うけど、「古典とは創造された(いわばデッチアゲ)ものなり!」
みたいな仰々しいタイトルをつけるほどのことではないと思う。
この手の「『近代』批判」本は、90年代の初めならそこそこ売れただろうけど、今更…という
観もぬぐえないしね。
大体、この本がちょっと?なんてことは、たとえば江戸の読本や黄表紙本やを見ても
簡単にわかるはず。これらの一般大衆向け(そして時の権力には嫌われた)娯楽本の類
が、明らかに、「当時の一般大衆読者」に「一定の古典教養」があることを前提に
書かれているのがわかるから。それをしも「政治的判断」と言うとすると、その人の言
う「政治的判断」というのは相当範囲の広い概念だということになるよね。ほとんど単
なる「時代の流行り」以上の意味を持たない、というか。
まあ、この手の「近代批判本」は既に「批判本批判」もなされ始めているから、あまり
頭から真に受けない方がいい、とも思う。大体「万葉集」だって、発表後1000年以上(!)
たってから再評価を受けるという時点でそもそも並々じゃないよなあ、とも言えるだろう?
古典の力というのは、オレはもっと素直に信じていいものだと思っているよ。
まあこの台詞は、半分がたコバヒデの受け売りかもしれんがw
424 :
367:04/02/07 12:23 ID:gdTrVr8+
『創造された古典』については
>>413の発言に対して、
「そんな文学の流れがあるってことを無前提に信じていいんですかね?」
「その流れ自体、ある時期に政治的意図で作られたものかもしれませんよ」
という事例として出しただけなので、
賛成なり反発なりの関心があったらまずは読んで下さいとしか言えない。
私たちの世代は研究上は彼等の議論に批判的な立場も多く(私もわりとそう)、
本格的に語り出すと泥沼にはまりそうで怖いというのもあるんだけど・・・。
ただ、今頃になって源氏物語読んでるけど、正直面白くない、長いしw
面白くないと感じたカノンを褒めなきゃならない呪縛から解放されたという意味では、
あの手の議論の存在に私は感謝してるところもあるけどね。
425 :
_:04/02/07 20:07 ID:EHf6oAtk
σ(’ー’)は367さんより少し下なのかもしれないな、と思いますよ。
我々の世代的には、「今更な…」という論。その方向で進んでも
おそらく「実り」を得ることはないだろうということが分かってきて。
もちろん、それらの論が、ある時期に、ある種の呪縛を解く力を
持っていたことは否定しないです。はい。
たとえば80年代にフェミニズム批評がそうであったように。
源氏を読んでおられるとは偉い…それならば、それこそとりあえず、
「最初っから最後まで通して読む」という「近代的読書観の呪縛」を
捨ててかかれば、意外なおもしろさもあるかもしれませんぜ。
仕事が一区切りつきました。
>>419 >いわゆる中古日記文学が「日記文学」として評価されるようになるのは、
>たかだか1920年代の「日記文学」「女流文学」ジャンル成立以降だったという事実が、
>歴史社会学的な言説研究によって明らかになっている。
>(それまでは日記ではなくあくまで作歌の手引書や歴史資料にすぎなかった)
その通り。これを研究の世界の中に(のみ)確立された虚構と見るか、世界を写し取るとこに成功した
(つまりある種の真実を切り取った)と見るか、という問題ですね。
国語学的な文法研究も、江戸時代後期の研究(鈴木朗とかね)から始まるとされますが、
これもほんとの初めは、中世の作歌技術に関わる研究が母胎となり、後に純粋な言語学的
興味へと変化していく過程が読み取れます。文学作品を読む行為にも、純粋に文芸作品を
読み味わう行為とは別に、研究対象として文学を読み解く行為が存在していると思います。
両者は似て非なるものであり、学校教育が目指すのは前者です。文学の授業では、
解釈作業の次に必ず「鑑賞」の領域があります。生徒から鑑賞を引き出せない授業は
はっきり言ってスカです。
ただし、物語の5W1H抽出もあやういような生徒に鑑賞を求めても、トンデモを出されて
しかも本人がそれに気づいていない、というような状態から先へは進めません。
高校レベルの授業の実際は、実はこうした誤読を防ぐための読解作業が中心であり、
・作品の舞台(時代・年代・季節・月日=When、国・地域・場所=Where)
・主人公、登場人物の人物像の確立(性別・年代・職業・お互いの関係=Who)
・情景、事実関係の整理(場面の時系列・事件の概要・各人物の行動の概要=What)
・登場人物の行動、表情、会話等から心理を読み取る(why・How)
・これらの読解の前提作業として、漢字や語句の学習
などをやっているといっぱいいっぱいです。また、これらについて生徒たちが正しく
作品を理解できてはじめて、この作品が全体としては「何を語っているのか」という
問題、あるいは「これを読んでどう思うか」という段階に入れるわけです。
>>421については逆にお尋ねしたいのですが、空白の人のいう
・名人芸のような「読み」
・このように「読む」のだ、という理論
・素晴らしい「読み」
について、もう少し細かくイメージを出してください。(三者の違いが明らかになるように)
私の受け取り方が正しいのであれば、
・このように「読む」のだ、という理論を追求する授業
に関しては、生徒に対して「"理論"を追求」する授業はしない、と答えたいところです。
・自分の「読み」について根拠を説明する授業をする先生
これは当然します。生徒の読みが明らかにおかしい場合はその根拠も。
これは、結果的には小説を読むときのセオリーたる読書技術を伝達する、という行為に
あたると思いますが、第一の目的としてそれを目指しているわけではありません。
もしこれをやらずに、あなたなりに読んでみてよ、感想を聞かせてよ、てなことばかりやって
いたのでは、私が148を名のっていた時に相手をした若者のように「暴力的なSFの方が
自分を興奮させるから真実を含んでる」てな方向へ行きかねない。
(続き)
逆に根拠を示さず、「この話(文章)にはこういうことが書いてある」と言ってのけるだけなら、
生徒は「テストに出すんだろうから覚えておけっていうんでしょ」という態度を示すか、
「先生がなんか言ってらあ。どこをどう読んだらそんなことが書いてあるだよ」という心持ちに
なられておしまい。
429 :
367:04/02/08 12:16 ID:pEPij4OG
307氏からは、私が提出した根本的な問題に対しての
明確なお答えをまだいただいていないのだが、
>「先生の『正解』に釈然とせず、しかし反論もできず沈黙する生徒たち」だよ。
>かつての私自身もそうだったし、いま塾の教え子たちにも少なからず存在する
>彼等のような生徒を、あなたは切り捨てるんですか?と問うているんだ。
に対しては、はっきり「切り捨てる」ということでいいのですね?
今までのあなたの意見からは、
・解答:切り捨てる
(「個別対応」ってのは「切り捨てる」と同義だと思う、
自分の読みを圧殺されて質問抗議に来る生徒なんてほとんどいない)
・その理由:今の高校生は概ね
>>427で書いたような低レベルな現状であり、
文学を日本語として読むだけで精一杯の、「解釈」とかいう以前の段階。
そうした状況下で別の解釈を示す生徒は例外的な存在であり、
彼等を考慮に入れて授業をしては、授業が成立しなくなるから
が類推されるのだが、間違ってたら訂正してください。
430 :
_:04/02/09 00:37 ID:DJkEj92c
>427-428
まず、427で質問されてる内容について。
最初に「手品」という統一した比喩を使ってるのを見て貰えばわかる
ように、とりあえずあなたの用語で言うところの「正しい読み」に、もう
一歩プラスα(鮮やかさ)を加えたような概念なんで、特に三者に
差はないですよ。
で、私は別にあなたの授業がマズいとも思わない…というのも421で
述べた通り。あなたの授業で「も」、素晴らしい「手品師」は生まれる
だろうと思う。
ただ、「正しい読み」が国語の授業の目的ではない、目的は「国語力を
つけること(手品師の育成)」にあるわけで、だから、そこに行き着くまで
の方法にはもっと自由性・多様性が有り得るということを言いたかったわけ。
「正しい読み」をしていない生徒だからこそ、逆に意外な読みの可能性
を持ちうるということが、全く無いワケじゃない。そして、そういう意外な
読みの可能性を探ることも、”「国語力」を育てるという目的”からすれ
ば有益な場合も有り得るわけで、「はい、その読みはトンデモだから×」
と流しちゃうのが勿体ないようなことも無いワケじゃない。
「その読みはトンデモ、だけど、こういう観点だと考えると面白い着眼
ではありうる」…現場で教えているならば、せめてその程度の柔軟性は
持ち合わせてるんじゃないですか。どうです?
で、これはまた367氏がこだわってる「反論できない生徒たちへの対応」
についての答えになってるんじゃないかと思いもするわけですけれども。
431 :
_:04/02/09 00:48 ID:DJkEj92c
ついでに、「切り捨て云々」に絡めて、このスレ当初からの疑問に答えます。
421の1や5を誉める私にしてからが、1や5だと大量の「国語的オチコボレ」
を出すだろうことも認めますね。実はこのスレの最初の方で呈示されていた
のもまさにこの問題。「なぜ、一応それなりに優秀な能力を持っているだろう
理系にしてからが、国語無用論を唱えるのか?(オチコボレるのか?)」、と。
そして「国語の授業」とは知識の伝達ではなく、運動部のシゴキの如し、という
私の感覚で言うと、どのような類の授業をやってもコボレる奴ぁ出てくる、と。
問題はどこを拾いどこをこぼすか、という判断…つまり、個々人の「教育」観
による…それが、この問題に関する私の結論なんであります。
私の感覚だけど、2や3の授業は、ある程度の問題演習を自分でこなすことが
期待でき、かつある程度の能力を持っている生徒ムケだと思いますね。そこ
そこの進学校でやるには良い授業なんじゃないでしょうか。4の授業は、中堅
以下の高校で好まれるでしょうね。特に、367さんがこだわるような「多少間違
ってはいても、自分の読みに固執するタイプの生徒」が多いところで、円滑に
楽しく授業をすすめていくには、「君の読みは間違っています」という指摘は時
に大きな害となりますから。
ちなみに、1と5の授業は、トップ校及び底辺校で受けるでしょう。生徒に「まー
ーーーったく」自分で作品を読んだりすることが期待できない場合、逆に生徒に
よってまちまちだけれども、時におどろくほど深く作品を読んだりする生徒が混
じったりしている場合、月並な「正解」だけでなく、生徒を圧することができるよう
な「読み」を見せなければ、そもそも教師への信頼を醸成できない場合が有り得るからです。
まあこれは一般論に過ぎないんで、問題は、その人の対応力、ヒキダシの数、
応用力と柔軟性……そして教育観、なんじゃないでしょうか。…随分長々と書
きましたが、以上でほぼ私が言いたいことは書き尽くしたと思います。
「個別に対応」と「切り捨てる」は同義ではないですよ。
同義に受け取っているあなたの側に「個別に対応」のイメージがつかめていないのでは
仕方のないことだろうけれど。
「圧殺」とか、「抗議」という言葉も同じ感覚に根ざしているのでは?……
個別に対応の例とは例えばこういうことです。
・同じ発問は時間がある限り複数の生徒を指名する。指名前に自然と声が上がることも
あるのですが(だいたい私がまずはそういう投げかけ方をするので)、それを汲み取った
後でも、指名するなどして別の意見を集めます。
・もちろん板書の段階でだいたいは板書計画の通りの板書にまとめます。
その場合も、少数意見が出れば併記します。
・あと、注目、礼で授業が終わり、教室を出る時に生徒は声をかけてきます。次に書くテスト
のことともからむのですが、純粋な質問のこともあれば、「発言はしなかったが、こういう解釈はだめか」
という確認の時もあります。あとは、だいぶ後になって、例えば生徒が職員室に用が
あって来たついでなどに雑談的に質問されることもあります。
面白い観点だったり、蓋然性のある解釈だった場合、次の授業で紹介することもあります。
・テストの読解問題に関して、なるべく解答が揺れないように作問するのが重要な
テクではあるものの、記述問題ではやはり生徒の書き方にある程度の幅が生じます。
授業で私が採り上げた解釈(もちろんたいては教材研究の段階で固めた通りに落ち着く)
以外であっても、生徒から出てき(て私が良しとし)た読みを解答してきた場合なら
加点します。
あと、367氏のいう「少なからず」が何人くらいをイメージしてるのについても本当は
詰めたい所なのですが、私は毎年40人×3〜4クラスで120〜160人ほどを一度に相手
しています。学区トップ校にいた時も中堅校にいた時も、評論や古典の理解度は全く
違うのに、文学理解に関しての"切れ"はそれほど変わらないかも、というのが正直な印象です。
鑑賞に関する部分では、一人一人の生育歴のようなものが大きく影響するからだと思います。
私に「お!」と思わせる生徒は10人くらい、そのうち半分は授業中にちゃんと自分の
読みを披露してくれます。黙して語らず、感想文やテストの解答の段階でその輝きに
初めて気づくのは2〜3人といった所です。授業をやっても何にもわかってくれてなさそうな
がっかりさせる感想文/解答を書いてくるのが5人から10人。
問題は、私が授業をした通りに近い感想や解答を書いてくる残りの100人前後の中なのでしょう、
上記に記した通りにやっている私と生徒と授業の中で、お二人に観察してもらったなら
「あ〜あ、せっかくの読みをつぶしてるよ……」となる生徒はどのくらいいそうですかね。
>>430-431 手品のたとえを出すなら、「観客にしかならない」人々の存在まで含めることによって
比喩がより有効になると思うな。
手品学校に通う人々は、そもそもすでに「手品をやろうとする人」というフィルタが
かかっていることを忘れるべきではありません。手品を楽しむのに「手品師になる」
ことは必然ではない、という側面もあるのです。スポーツもそうですね。スポーツ鑑賞が
趣味だという人がいます。見るだけ。そういう人はスポーツ教室には通いません。
じゃ、「趣味は読書」という人は?……そして、高校の教室という場に集まる生徒たちは?
彼等を文学に対してどういうモチベーションを持った集団と見るか、という問題に戻ります。
純粋に文芸に向かうという意味での前向きさは、必ずしも学力と正比例ではありません。
集団の質は(お金を払って勉強するために通ってきているというフィルタがかかっている)
塾生としての子供達、とも単純に比較できませんね。
435 :
_:04/02/09 02:33 ID:DJkEj92c
>434 について補足。
手品、というのは、「国語力(とりあえずあるテクストを読み解く力)」を
一種の「特殊技術」と考えた場合の比喩。
手品=小説とか文学作品を書くこと、じゃない。
そこが誤解。
「手品出来る人=まともな『読み』が出来る人」
「手品出来ない人=まともな『読み』が出来ない人」の意。
そこのところ、よろしく。
観客より一言。
手品の比喩は不適当。話がややこしくなるだけ。
議論の流れを乱しただけ。
まだ続いていたのか・・・なんだか泥沼だね。ここらで碁盤をひっくり返すような
ことを書いてみる。スルーされるだろうけど。
ここで熱く語ってる方々には申し訳ないのですが、現状では、いまだに大半の教師は
従来型の、修身道徳の代替物的な国語しかやってないのでは?
(恐らく、指導要領や教科書が、そういう作りになってるのだろうけれど)
ここでテクスト論だの語られても、現実の大半の教室の空気とは別の次元のお伽噺に
しか聞こえないんだけど・・・。
ところで、ブンガク論や受験現代文についてはよくわかんないけど、当たり前のレポート
作成能力すら、まともに指導できてないのはなぜなんですか?
旧帝クラスの学生すら、レポートや卒論に四苦八苦するのは、そういうトレーニン
グが小中高で不足しているからだし。ここがいちばん気になっている。
普通の人間にいちばん大事な「国語力」ってこういう能力でしょ? 理想を言えば、
高校で新書程度は読めて要約できなきゃダメなんですよ。
(元々、岩波新書は、高校生でも読める。ことが目的だったんですよね)
まあ残念ながら、今の大半の生徒には出来ませんけど、例えば、この程度の能力を
養成するためにはどうするべきか、ここから逆算して、国語に限らず、小中高全体
のカリキュラムを組むべきじゃないでしょうか?
こうした根本的な次元で組み替えないと、本を読みましょう、とかただ読書運動をやったり、
調べ学習をやったって意味がないと思う。
ここらあたり、現場教師より、テンデンバラバラなカリキュラムと受験体制を敷いてきた、
長年のエラいさんたちの無能が悪いんだと思いますが・・・。
もっとも、最近言われる、若年層の語彙力・文章鑑賞力の低下については、むしろ社会環境
の激変が原因じゃないかと思うので、学校教育ではもうどうにもならないようにも思うんですよね。
昨今のメディア(主にTV)が与える言語環境のヒドさには心底ウンザリするし。
さらに単純に、部活や学校の勉強(受験勉強)等で時間を取られる以外にも、ゲーム・TV・
ケータイ・マンガと、若年層の遊びが多過ぎて、活字に触れる機会も激減しているわけで。
加えて、ネットまで出てきた。こんな社会では、文芸教養としての国語も、もはや風前の灯火だなあ、と思う。
自分は、生徒は従来から、日常生活や読書で自分なりの基礎的な言語能力を磨いてきた。
学校国語はその基盤の上で、安心して制度としての「国語」、文芸教養としての「国語」
をやっていれば済んだ。
と思っていたのだけれど、いまや日常に立脚した「基礎」が崩れまくってますからね。
日常言語そのものが、乱れて枯れてきて、制度としての「国語」が成立しない。
さりとて、社会環境・日常言語に対して、学校はなんら打つ手を持たない。
そういう意味では同情してますけどね。
ええと・・・言いたいことがあっちに行ったりこっちに行ったりしてますが、
>>439 のような意味では、たしかに国語は虚学だった、と思ってます。
実のところ、学校外の日常・社会生活で養われた基礎的言語力を前提にして、極めて制度的に
「古典」だの「感性」だの「読解力」だの言っていただけじゃないでしょうか?
だから、社会環境の変遷には無力で、「学力低下」「活字離れ」と呼ばれる現象が
起きたとき、スローガン(せいぜい、もっと本を読もうとか、読み書きのドリルに
力を入れようとか)以外に何事の対処もできなかった。まあ、やらないよりはいいけど。
こうした意味での敗北は、いったん認めるべきなんじゃないかと思います。
(って、現場の教師よりも、上のエラいさんの問題なんだろうな、結局)
・・・それとも、認めた上で議論なさっていたんでしょうか? あるいは「敗北」
などない、役に立ってきたし、立っている、というお立場なんでしょうか?
指導要領や学界の議論は存じ上げませんが、かつての一生徒の立場としては、こうした
醒めた感慨を抱かざるを得ません。
現在、手許にソースがありませんが、文科省も重い腰を挙げて、国語教育の改革に乗り出す
ようですね。ルビの活用ぐらいしか覚えてないですけど。ちょっと遅かったかな・・・?
441 :
実習生さん:04/02/13 07:40 ID:+UOb/Mmm
ぜんぜん関係ない所から飛び入り。
伊藤和夫の「英文解釈教室」。名著ですわな。受験英語の根底を書き換えたと
言っていいでしょう。ところがね、この本を利用できる受験生はすごく限られ
た層なんですね。
方法論的な難易度もさることながら、大多数の子は「日本語訳が理解できない」
らしいんですよ。つまりね、基礎教養不足。硬派の文章を読むための基盤がそも
そもない。
せめて大学入試レベルの英文の日本語訳を理解してもらえなきゃ、どうにもなり
ませんわな。
>>441 >大多数の子は「日本語訳が理解できない」らしいんですよ。
>>440に書いたように、そもそもが、日本の国語教育は、学校外の日常社会で
身に着けた言語力を前提にして、制度的に様々な価値観(人によっては「伝統」
だの言うね)を生徒に詰め込んでいただけだったのだと思います。
元々があらゆる意味で、学校教育内に、基礎から日本語力を養成するプログ
ラムは不充分だったと思いますね。
だから、教育の前提としていた基礎的な言語力が、社会的に崩れ始めたとき、
為す術もないのは当然だと思うのです。テクスト論とか言ってる場合でしょうかね?
>せめて大学入試レベルの英文の日本語訳を理解してもらえなきゃ
身も蓋もないですが、このレベルからの躾は、学校教育にはムリでしょう。
家庭で親が活字(新聞や週刊誌で充分です)を読む姿を見せることです。
そうすれば子どもは真似します。この程度すら、多くの親がやってないのでしょうね。
444 :
_:04/02/13 18:54 ID:wL18Apu+
>オレも観客氏
「ここでテクスト論を語ってもお題目」
というのは別に碁盤ひっくり返しでもなんでもなく、私が語ってきた話なわけですが。
「教室の授業の大半は修身的…指導書も教科書も」
これはむしろ逆。
指導書も教科書も、307氏的な方向性で書かれていると言っていいです。
で、その限界を、私や367氏は再三指摘してきたわけですが、依然として
「人生論的、感動型」授業も、「307氏的」授業も、「367氏的」授業も、
並立しているのが、「現場」の姿。
そのどれもが、
「一定程度有効ではある。しかし同時に取りこぼしも多い」
というのが、手品の比喩を出した私の主旨。
そもそもあなたの言う「『当たり前の』レポート作成能力」を育てるのに、
「日常的な言語環境の貧弱さ」+「95%以上の高校進学率」+「40人学級」
+「現国は標準で週二時間×2年間」+「担当時間数週18時間平均」…
というのが、果たして十分な環境かどうか考えてみればわかる。
上に上げた5つの条件のうち、どれか一つでも決定的に改善されれば、おそらく
このようなスレは立たないだろうね(かつては「日常的な言語環境」がマシだった
という指摘はその意味で正しいかもしれない)。
また、現在それなりの成果をあげている国語教師は、独自の工夫で上記のいずれか
を克服しているだろうと推察される。それが教師の人間的魅力等ならば、余人には
いかんともしがたいが、「新しい教材の開発」や「授業方法の工夫」、「教育器具
の活用」の類で、容易に導入できる部分があればどんどん共有すべきだ。
445 :
_:04/02/13 19:03 ID:NEY9k4tq
ただ、
生徒がこれまで「日常的な努力で身につけてきた言語力」の上に高校国語は
あぐらをかいてきた…云々
についてはやや異論がある。
確かに「教室で」国語力を伸ばすのは至難の技だが、それまで本を読まなかった
生徒が、授業のお陰で教室の外でも本を読むようになったとしたらそれは
「教育の成果」であり、一つの「指導プログラム」の成果だろう。
かつての国語教育は、それをしていたのだと思う。
自分を振り返っても、高校時代教室でタイトルやら作者名を聞きかじった本を、
片っ端から本屋で見つけて読んだのが、今の自分の国語的バックボーンになって
いると思う。高校時代に習った教師は、それまでの「国語の先生」と違って、
文学の世界に、強い興味を抱かせてくれた。別に作文指導もレポート技術指導も
してもらった記憶はないが、オレはいい国語教育を受けたと思っている。
「素晴らしい手品を、ただ見せるだけでも、手品師は育つ」
という比喩は、要するにそういうことなんだ。
まあ、もはや大半の学校ではそれは成り立たない。システム的な改善が必要だ、
という意見には、いずれにせよ同意だ。
新しい教材、指導法の研究は、必須だな。
>>444 >で、その限界を、私や367氏は再三指摘してきたわけですが、依然として
>「人生論的、感動型」授業も、「307氏的」授業も、「367氏的」授業も、
>並立しているのが、「現場」の姿。
すみません。議論が途中から膨大になってきて、立場の差異点が整理しにくくなっ
ているのですが・・・。私の「読解力」の不足なのでしょうか(恥)
>>445 >かつての国語教育は、それをしていたのだと思う。
そういう意味では、僕は貧弱な環境にしかいなかった、と思います。地方というこ
ともあって、教師は教師で、旧来型の人格形成型国語を教養だと信じている、古い
人が多かった。後は、受験向けの問題演習と、希望者に小論文添削をするだけ。
>「素晴らしい手品を、ただ見せるだけでも、手品師は育つ」
そういう手品は、残念ながら、僕は見ないままに終わった、と思います。
>新しい教材、指導法の研究は、必須だな。
ソースが見つからないのですが・・・私立には、すでに、従来型の授業を原則として
止めた実験校があるそうですよ。ただとりあえず、読書だけは奨励する。
その学校では、オフィスのような教室で、生徒が黙々と、自分の課題(教科書・問題集など)
に取り組み、あるいは読書をしている。原則として、教師はチューターに徹する。
(恐らく、みんなで取り組むべきカリキュラムの時間も、別に確保されているとは思いますが)
少なくとも読書力に関しては、中学生で、専門的学力を必要とする専門書レベルでない限り、
いちおうは何でも読めるようになるそうですよ(延々と学校・塾の授業を受け続け、
入試を突破しても、新書も読めない人間がいるのに)
つまりは、一斉型授業を止めて、読書量を稼がせ、習うより慣れさせる。それだけ。
実験ですので、1学年十数人程度しかいないそうですし、まだ大学進学者も出ていません。
(もちろん進学実績的には、意外と大したことはない可能性はあります)
だが、こういう話を聞くと、学校・授業・入試・学力・国語力、、、とは、いった
いなんだろう? と思ってしまうのですが・・・。
448 :
_:04/02/14 01:56 ID:FYMdpREM
>447 国語をスポーツの如きものと考えた場合、
学校 = 部活 、授業 = 練習 、入試 = 大会
学力 = 素質(運動神経、基礎体力)
国語力 = 実力(競技の能力)
と考えては。
あなたのいう「従来型の修身授業」は、武道の師範が、武道を身につける人間に、
それを身につけた際の心構えを説いてるようなものでしょう。その中にちらちら
そのスポーツ(武道)のヒントが散りばめられていたりいなかったり。でも、実際
「国語力」だけを身につけているけど人間的には最低…なんていう人間には、あ
まり身近に居て欲しくないですね。
私が言う「すばらしい手品を見せる授業」は、たとえて言えば部活の顧問が元オ
リンピック代表だったりするようなものでしょう。
307氏のそれは、「コーチングやトレーニングの理論を勉強した顧問」
367氏のそれは「自分で自分の身体を把握し、最適なトレーニングメニューを
考えられるようにするためのサポートをしてくれる顧問」
その、読書ばかりさせる授業は、「『部活』という強制をやめて、各自が自分で
ジムに通ってひたすら体を鍛える」ようなやり方
……まあ、どれもそれなりに強い部活になりそうでしょう。
でも、極論言えばよーっぽどひどい顧問でない限り、少なくとも生徒に最低限の
モチベーションさえ与えることができれば、それで、「部活動」としては上出来かな
とも思うわけです。
たとえば、怒鳴り散らすしか脳のない顧問の下ですら、それなりに試合に勝つよう
な部活はあるわけで。(宿題、小テスト、補習、でおどしまくるだけしか脳のない教
師の下でも、それなりの国語力は多分つくわけで)。
っつぅか、148氏で書かれていた段階はわかりやすかったのだが、
307氏となって、両方向に対応してきて以降わかりづらくなった。
正直、空白氏は邪魔だった。
こういう議論で揶揄も自分の心象もどうでもいい。
307氏は、ある程度の実体験の蓄積の上での話なので、
その善し悪し以前に非常によんでて参考になった。
上っ面の理論はいらない。現実的に生徒にどうするか、のが大切
450 :
_:04/02/14 16:34 ID:1RhR7A0L
>449
じゃあ、あなたが私の話の内容をきちんと要約してくれたら、消えます。
揶揄その他抜きで。
あなた含め観客(観客氏ノミニアラズ)が「単にわかってない」だけなら、
まだ説明し足りないということですしね。
あと、私がなぜ「揶揄」するかも私の代わりに説明してくれれば言うこと無し
なんですが、それはまあ、言わずにおきましょう。
お久しぶり。
わー、今の論点はどのへんにあるんだ……
>いまだに大半の教師は従来型の、修身道徳の代替物的な国語しかやってないのでは?
扱う教材の中身にそういう傾向があるのは確かにそうですが、国語の授業の第一次の
目的はそこにはないんですね。教材の中身(思想)を受け取るのは副次的な効果として
期待されるもので、その前段階にある「文章から内容を取り出す」という作業に関わる
スキルの習得がまずは第一次の目的なわけで。
お菓子作り教室とか陶芸教室とかで「できた作品はお持ち帰りできます」っていうのがよく
ありますが、読了後の思想の享受というのは「お持ち帰り」にあたるものです。
ブツを持って帰るというのがとにかく第一義の目的であるなら、自分では失敗しても、
あるいは結局何もしないでサボリまくっていても、最後に例えば先生があらかじめ作って
おいたものをおしいただいて持って帰れば「目的は達成」ということになりますね。
それをもっとおし進めると「買えばいい話じゃん」ともなりかねない。
実際に教員をやっていない人達は、自分達が生徒であった当時の「授業を受けている」
状態について、「作業/体験」の場ではなく、上意下達の精神注入を受けている場で
しかないという印象を持っているのでしょう。
しかし、その印象の持ち主も、さらにいくつかのパターンに分かれると思います。
1) 教員側も本当に勘違い野郎な場合。
読解の過程を生徒に実行させるのではなく、結果を所与のものとして生徒に苦もなく
与えてしまい、それを前提と舌小中学校の道徳の授業に似た世界が本当に展開している。
2) 生徒の側が、授業中に求められていることを理解できていない場合。
これはさらに分かれて、下記の両パターンがあります。
2-1) 教員がいろいろ生徒を活動させ、そして実際にやるのだけれど、生徒がその
意義を理解できないままやっている。
2-2) 授業は「先生の話を座って聞く」ものだと思い込み、自分自身は実は全く活動しない。
教師や他の生徒の活動の成果を、おしいただいて帰るだけ。
(2)を生み出す要因も3種類あります。
a) 教師も、実はやらせてはいるものの、いるだけでその意義を意識化していない。
b) 教師の側が作業内容の目的や意義を事前に明示しないため、生徒が煙に巻かれている。
c) 教師が目的や意義を明示しているにも関わらず、生徒が聞く耳をもっていない。
これら要因、教員側・生徒側の諸条件も異なる全てのケースが、生徒側にすれば「国語は
教師が説教を垂れる場だ」という印象を残します。(さらには、往年のキンパチ先生も
その印象形成に一役買ってるのかもしれないとか、外的な事情もいろいろとあると思います)
レポート作成能力について。
そもそも、「当たり前」といわれるレベルをどこに設定するかで話が大きく違う。
それから、その能力を将来にわたって必要とするのがどういった人達で、どれくらい
の人数なのか。そういったことの分析抜きに話をするのはもしかしたら不毛です。
いよいよ大学全入時代に突入し、就学人口が減少する一方で"大学生"の数は過去最高
となります。大学生の平均的な能力レベルは、他に何の条件がなかったとしても
低下しないはずがないのです。学生全体のレベルをキープするには、そもそも教育機関の
側に往年よりも多大の努力を要するのです。
その上、私も実感するのですが、伝統的な日本語に関する語彙や表現力は確実に
落ちていると思います。となれば、その分の上乗せも必要です。
そして、増えすぎた?大学生のすべてに、「まっとうなレポート作成能力」は果たして
本当に必要なのでしょうか。いや、もちろんあるに越したことはないに決まっている
のですが、問題はどこまで(例えば公教育が)エネルギーを注ぎ込むべきか、という
ことです。歩留まりをどこへ持っていくかという。
454 :
_:04/02/16 22:10 ID:YQpUqzSY
>307氏
歩留まり、の話はなかなか面白い。
もちろん学校の学力差にも寄るわけですが、「歩留まり」をどのくらいに
見込むべきなのか、そういう話って現場でたとえば職員会議ではおおっ
ぴらにできないでしょう?
本当は大事なことなのに。
ちなみに307氏は、自分の授業でそれをどのくらいに見込んでいますか?
教室単位〜学校単位で考えるべき問題ではないと思います。就学人口に対する割合のレベルで
考えなくてはいけないと思う。
まあ、身も蓋もないことを言うと、上にいう「歩留まり」のラインを決めるのは
現場ではなく、教育行政の仕事だし、さらにその奥を言えば本来は教育を学校に付託して
いる市民の要請であるべきです。方針さえ示してもらえれば、それに従って現場の教員は
いくらでもそのように動きます。
一個人教諭が、「お前には論文の能力が必要だ」「お前にはいらん」と生徒を選別する
ことに誰も何の違和感も感じないということであれば、好きにやらせてもらいますが。
……と、まぜっかえしはこれくらいにして。
東大10人レベルの公立地区トップ校--事実と異なりますが学年10クラス400人規模と
します--に在勤時代であれば、「1000字の小論文を可もなく不可もなくというレベルで
書ける」生徒は50%いるべき。「優れたレベル」の生徒は各組数人で十分ですね。
そう思うので授業ではそのあたりを目指します。
あと、これは本筋とは全然かんけいないのですが、
職員会議では、こういった話題を扱いません。もっと実務的な学校経営に関する事案を
話し合ったり報告し合ったりしています。職員会議とは別に「職員研修」の会というのが
あって、こうした話は研修という名目で実際に話し合ったり研究したりしています。
今年度より明示的に導入された観点別評価というのは、従来は行っていなかった細かい
観点別の到達度をA,B,Cの三段階の基準で具体的に示せ、という評価法ですが、
「B:おおむね満足」のレベルを、だいたい生徒の60%程度が到達できるレベル、
としています。それに基づいて、例えばある教材の「読解」がどこまで到達したら
B段階なのか(ひいてはどこまで高い次元に達したらA段階かとかも)といったことを
教科内で決めてゆきます。
単に言葉尻を捕らえたくて書いているのではありません。現場の方でなければ知らなく
ても当然ですし、それをあげつらいたいのではないのです。ただ、言いたいことは、
例えば外部の人が「こういうことを職員会議で話し合う」と思っている、そしてそれは
学校というシステムの実際の姿とは離れている、という事実です。
これをもう少し一般化して考えてみてほしいのですが、学校とはこういう所だろう、と
外部の人が漠然と抱いているイメージのうちのいくつかは、本当は実際の学校現場とは
異なるイメージであったりするのですよ、ということです。
学校は、日本人であれば誰もが一時期身を置く所です。だからついつい、「内部を
知っている(だって毎日通っていたもの)」という思いを抱きがちです。けれど、
ほとんどの人々が学校を「子供」時代、「生徒の目」から見たイメージをもとに見ている、
(あるいはそれに、通わせている「子供」の「話」を通じて抱くイメージが追加される)
ということを頭の隅に置いた上で各自の「学校観」と冷静に向き合ってほしいと思うこと
もあるのです。
457 :
_:04/02/17 17:39 ID:kECbdh8d
なるほど。レスthxです。
文系理系の割合にもよるでしょうけど、おっしゃることは現在の生徒
レベルに即してると思います(普通に小論指導したら50%が可レベル)。
ついでに教えて下さい。「1000字の小論文を『可もなく不可もなく』
(以上の?)レベルで書ける生徒が50%いる」指導ができたとして、
その場合、あなたの予測ではどのくらいの生徒が「国語的オチコボレ」
になっていると思いますか?
ちなみに、質問ばっかししててもなんなので、私の予測を先に言って
おくと、「国語的オチコボレ=残り50%」なわけですが。言いかえれば、
内容は下らなくてもいいのですが、1000字程度で人に読ませる小論
文を書けないとあれば、普段の読書量・将来に渡って読書するであろう
量、持ち得ている教養の量…等のあらゆる点において、「人並みの国語
力があると言えるレベル」には達しないのではないか、と。
要するにこれって、かなり問題なのではないか、と。
まあそう思ってるわけです。
ちなみに、>456に少しだけ突っ込んでおきますが、
職員会議では「そういう話はおおっぴらにできないでしょう?」というのは、普通
職員会議では「そういう話はしないでしょうね」という意味ですよね?
456は私に向けて書かれたのでしょうか?
>>457 >職員会議では「そういう話はおおっぴらにできないでしょう?」というのは、普通
>職員会議では「そういう話はしないでしょうね」という意味ですよね?
「しないんでしょう?」の部分はもちろんちゃんと伝わってますよ。
ただ、話題が「歩留まり」、つまり「教員がどれくらいの落ちこぼしならやむなし
とするか」ということに関してなわけですから、「おおっぴらに」と「できないでしょう?」
という言葉は、背中合わせに「ぶっちゃけしたいのに」「控えるべきこととされているんで
しょう?」という発言にかなり近いニュアンスを背負いますよ。
だから「職員会議は、そもそもそういう話題を扱う場ではないので、出来るも出来ないもない」
ことと、「そういう話題を扱うには職員研修という場/仕組みがある」という話を出しました。
例えば私と同業者=教員なら、こういう話を振るときに、きっと
>そういう話ってたとえば職員研修/教科会議でもおおっぴらにできないでしょう?
となると思うのです。これなら教員的にはジャストフィットです。
まあ、もっといえば、それをダシにして「みんな学校のことわかってる?本当にわかってる
っていえる?」と遠吠えしてみただけです。
というわけで、456(の特に後半)は>ALLだと思ってください。
>1000字の小論文を『可もなく不可もなく』(以上の?)レベルで書ける生徒が
>50%いる」指導ができたとして、その場合、あなたの予測ではどのくらいの生徒が
>「国語的オチコボレ」になっていると思いますか?
文章を読み書きするいうのは、口で言葉を話したり聞いたりする能力とはまた違った
次元にある能力です。文章が書けない=「国語的オチコボレ」と断ずべきではない、
というのが私の考えです。
文章は書けないのに、話の達者な人は大勢います。それがその人の生活を大いに助け
ていることも多いし、それは一つの「国語力」ではないでしょうか。文字を持たない
アイヌ民族などでは、「能弁であること」は英雄の一条件でもありました。
いい文章が書けるのに、シャベリが全くだめな人もいます。
私の勤務校の前任の校長がそうでした。とにかく訓話にせよあいさつにせよ、長いし
堂堂巡りするし落ちはないしで……でも比較的簡明で親しみやすい文章を書きます。
(ちなみに割と読書家でした。)しかししゃべりが下手だというのは、やはり校長と
してはマイナスだと思います。
国語力という言葉が本当にあるとしたら、それはかような複雑な力の総体を指すもので
あるべきです。
加藤典洋『テクストから遠く離れて』(講談社)を読み終わりました。筆者の示す
脱テクスト論的な批評、とされる読みの形は、私にとってしっくりくるもの……
というよりむしろ「これって普通にやってるよ」ってな感覚の持てるものでした。
どなたか詳しい方、加藤氏の批評家としての巷の評価や、この本自体の評価が
どんなもんなのかなど、お教え下さい。(ネット上に散らばる書評のたぐいは検索して
一応目を通しました。その限りでは内容自体に対して否定的な評はあまりなかった
ように思ったのですが)
※「_」です。以後、仮に「No3」と名乗ることにします。「空白氏」という呼ばれ
方にも名残はないでもないですが、途中から見る人には分かりにくいでしょう。
>458
たとえばあなたと同業者であっても、「こんなところ(匿名掲示板という場
所一般)で、同業であることを前面に立ててレスをするということ」自体に
対し反発を感じている場合、ああいうレスになる可能性もあるわけですよね?
受験問題でなく、実際の文章を読み解く場合には、様々な可能性を考慮す
べきだと思いますよ。特に相手の考えの「書かれた部分」だけでなく、その背
景(及び中心となっている考え方)を理解することはとても重要です。
それから、私は別に小論文が書けない生徒がオチコボレだと言ってるわけでは
ありません(これは、私の言い方も悪くて誤解させたかもしれません。すみません)。
もう一度丁寧に言うと、ここでいう国語的オチコボレとは、このスレ前半で82氏
が述べていたその意味のことです。たとえ、頭が良かろうが、論理能力が有ろ
うが、文章を書けようが書けまいが喋れようが喋れまいが、「高校国語」からこ
ぼれ落ちていく層のことを私は問題にしているツモリです(そういうスレですよね?)。
50%が「小論文」を書けるようになったとき、その授業の結果として、上記の意
味で「国語的オチコボレ」と化す量はどのくらいでしょう?というのはそういう意味です。
(「歩留まり」という話がでたことによって、再びそこに話が戻るのは、このスレ
にとってはなかなか良いことではないかと思います。私はここで「素人向けの
啓蒙」をするのには意味がない、むしろ必要なのは「玄人同士のぶっちゃけ
話」だろう、と思ってるので。)
461 :
No3:04/02/18 03:34 ID:i/wyQOnS
だから、聞いたわけです。私はその授業だと(でさえも?)50%はオチコボレる
と思うが、どうか?と。というのは、現在の国語教育においてこの「50%」とい
う数字は「相当よくやってる」数字だと思うからですね。「80%」位の生徒を置き
去りに(オチコボレに)してる国語の授業なんて、周囲を見ればザラじゃないでしょうか?
けど、果たしてその「50%」で我々は満足して良いのでしょうか?82氏が振っ
た話は、その50%を更に少なくするためのキッカケにはならないでしょうか?
…とまあ。それが、私の遠い目論見だったわけです。
私が何度か揶揄を繰り返したのは、結局あなたがこの「50%の壁」について
全く触れずに来たからなのですね。要は、このスレの当初から出てるもっとも
大きな問題を蔑ろにしたまま、延々と素人相手の啓蒙に力を注いでるのが無
駄だし勿体ないと思ったからです。367氏の絡みで、その方向性を修正でき
そうだったのでスレに戻って来たわけですが、なかなか戻し切らなくて色々と
挑発してみたのは見ていただいた通り。
それはそれとしても、まあ趣味においてもあまり「気が合わない」気はしま
すね(苦笑)。加藤典洋ですか…。ちなみに私が最近「頭イイなこいつ」と
思ってるのは東浩紀ですが、多分あなたは、この人の本読んでも面白く
ないだろうなと思いますよ。以上余談。
まあそんなわけで、あなたの実感をあらためてお伺いしたい。
「82氏の言う意味で、あなたはどれだけの生徒を『オチコボレ』ないで
送り出していると思っておられますか?」
返答次第では、話がふくらむかもしれないし、しぼむかもしれませんが。
それはそのときにまた考えましょう。
※ちなみに、一応言っておきますが(つーか、一応同じハンドル・同じ口調・同
じ主張だったので分かる人には分かると思いますが)私はこのスレ当初から居る3です。
>たとえばあなたと同業者であっても、「こんなところ(匿名掲示板という場
>所一般)で、同業であることを前面に立ててレスをするということ」自体に
>対し反発を感じている場合、ああいうレスになる可能性もあるわけですよね?
ならない、ならない。
「職員会議」というのは、職員が会議することを広く指す一般名詞ではありません。
法的にも「職員会議」は厳密に規定されているし、職場としての学校に浸かっている
者なら、職員会議が学校運営上どのような機能をもった仕組みであるかわかってしまって
いるが故に「(歩留まりの話など)職員会議ではしないでしょ?」という言葉を
そもそも出さないのです。出せない、と言った方がいいのかな。
同業者が上の言葉を書くとしたら、計算づくで"部外者"を演じたいという意図がある
時ですよ。
似たような話。学校現場では、「教務」という言葉は、文書の受付とか教育課程、時間割、
入試業務とか、学校経営上の(大事だけれど面白みの余りない)実務的な仕事を扱う領域です。
高校における教務主任は、学校経営上は校長・教頭に次ぐ事実上のbRです。
(中学だと少し事情が異なるようですが……)
ところが塾の業界では「教務」というと、学習指導関係の業務を指すようですね。
2chで初めて(塾のいう)「教務力」という言葉に出会った時は激しい違和感を覚えました。
職員会議云々のくだりは、「皆様方の"つもり"ほどには、本当は皆様ご存知ないのかも
しれませんことよ」という事がいいたかっただけとは先にも申した通り。
業界用語に染まっているかどうかというレベルに近い、このスレの本筋にとってはあまり
重要ではない話です。
あらためて
>>460-461 「50%」について、あなたはその意味をちゃんと受け取ってくれているだろうか?
某県某学区に東・西・南・北の4校があったとします。(話を簡潔にするため公立のみ)
その地区における某学年集団の人数が1240人だったとします。
東高校…400人 東大10人出るほか、全員四大進学予定
西高校…320人 四大・短大・専門学校進学
南高校…400人 短大・専門学校進学・就職ちらほら
北高校…120人 ちょこっと進学・ある程度就職・残りはフリーター
今てきとーに作ったモデルですが、東・西(・と南の一部)から大学生・短大生が500〜600人
出る勘定です。全国の大学進学率49%に近いでしょ? ジガジサン。
で、私が
>>455で出した50%=200人という数字は、地域の学年集団全体に占める割合として
考えると、200/1240人ですから16%程度ということです。だから私個人は、大学入試
レベルの小論文の力に関しては、84%の者については「なくてもいいんじゃね?」と
思っているということです。
また、上記の東西南北各高校で与えられている教育レベルはそれぞれ異なります。
例えばまず教科書の"活字の大きさ"からして違います。(もちろん↓へいくほど大きい)
実質的には小学校や中学1年レベルから学び直し始める高校もあるのです。
だから、今さらながら思うのは、「高校国語」というひとくくりの扱いの乱暴さです。
>462
「反発を感じてる」人と「部外者を演じる」人が、どうして重ならないのか
不思議な……いや、もう言いますまい。
>463
別にこの書き込みを見ても、特に誤解していた観はありませんが…
ただ、あなたの頭の中では、東高校の最下位>西高校のTOP
なんですか?それはちょっと乱暴な話では?
(…ひょっとして進学校「しか」勤務経験がないのかなぁ?いや、マジで)
そこは変えた方がリアルだと思います。だから、50%→小論文できる
層が16%というのは極論でしょう。
さて、「高校国語」(あるいは「国語力」)という言葉の内容は摺り合わせを
しておく必要があるでしょうね。
「高校国語」とは高校で教えられることになっている国語の授業内容であり、
「国語力」とはそれらの授業の結果として身につけることができると期待されている力です。
そして、私はこれを「外敵指標(たとえばセンター何点以上)」としてでなく、
もっと主観的な指標(たとえば、自分の通っている学校の国語の授業を興味
深く聞けるか?というような)とイメージしていました。
もちろん、学習指導要領がある限り、ある程度「教えなくてはならない内容」
はあり、かつまた大学進学を視野に入れれば、その内容はそれほど多様な
ものになり得ないという可能性はあります。しかし、いくら現在とは異なった
外的指標であっても、(たとえば時間と資料を設定した論文作成能力、口頭
試問に答える力、など)それが「国語力」を測るのに適切かというと、そうは
思えないからです。
465 :
No3:04/02/19 23:30 ID:nKTAtefF
どのように複雑に構成された「指標」よりも、現実の「国語」を使う場は複雑であり、
現実の場で使えない「国語力」には意味がありません。人は「ことば」を用いて様
々なことをしますし、また「ことば」の比喩で語ることのできる人間の活動まで含め
ると、「ことば」の関係する領域は、ほとんど人間の全活動領域に近いところまで
広がります。そのあらゆる領域において「ことば」を適切に扱う力は、必要とされて
いるはずです。そこまで話を広げると、必然的に問題は、国語力の「深浅」ではなく、
より具体的な「使えるか、使えないか」というカタチで現れてくることになります。
↑
たとえば格闘技者を育成する場合、彼が人を殴る技術を「どのくらい知
っているか」よりも、「実際に相手を倒せるかどうか」が問題であるように。
(格闘技者だって「拳で語って」いるわけですから、これも国語力ですよw)
その意味では、上と全く逆の事も言えるわけです。「国語力」をはかる
指標は非常にシンプルであり、つまりそれは「使えるか/使えないか」だ、と。
466 :
No3:04/02/19 23:42 ID:nKTAtefF
さてここで「使えるか/使えないか」というのは、一見外的な基準を持ち得る
ように見えますが(たとえば英語におけるTOEICのごとく)、それがこと自らの
母語を操る能力に関しての話である場合、主観的に全く「使えて」いないのに
客観的に見て「使えている」…というような「国語力」に意味はあるでしょうか?
↑
自分では全く自分の言いたいことを伝えられなかった作文に、たとえば
「80点」という点を付けられる…それは無意味ではないでしょうか。
そう、「使えるか/使えないか」というのは、実は外的指標によっては測り得ない
非常に主観的な「使えているか/使えていないか」のことを意味しているのです。
私が、「国語力」をはかる指標は、「非常に主観的なものであるとイメージしていた」
といったのは、つまりそういうことです。誰も、「私」の代わりに食べてくれる人はいな
いし、「私」の代わりに死んでくれる人もいない、それと同じように、誰も「私」の代わり
に語ってくれはしないのです。「国語力」の「育成」とは、本当はそのような「私のこと
ば」を各自に身につけさせることにあるのではないか、と。そして、高校時代を最後に
二度と「国語」の授業を受ける機会の無い人が多数に上ることを考えたとき、「高校
国語」に関する一般共通項があるとすれば、まさにこの点にあるのではないか、と思うのです。
↑
「私」ガ「国語」ノ意味ヲ知ルコト。ソレガ「高校国語の授業」ノ目的地点。
人ハ一生「コトバ」ヲ呼吸シテ生キル。アルイハ咀嚼シ消化シ排泄シテ。
「高校国語」トハ、ツマリ、ソレラ人ノ仔ニ「狩」ヲ教エルコトデモアル。
以上は、私の個人的な「国語」観です。いろいろ異論もありますでしょうが、
上のような見地から、私は「高校国語」を語ろうと思っています。「虚学化」
しかけている「高校国語」(これは正直認めなくてはならないでしょう)の実
態を前に、我々に何ができるのか。
これは遅まきながら(本当に遅まきながら)の、>82氏へのレス(の始まり)でもあります。
>>464 >「反発を感じてる」人と「部外者を演じる」人が、どうして重ならないのか
>不思議な……いや、もう言いますまい。
だから重なっているのならその人が「意図的にそれを演じている」、という話ですよ。
それにはそれなりの理由があるのでしょう。隠したいというならその意に添うまで。
教員を数年もやって学年を一回り持ち上げて卒業生を一回出せば、普通なら社会が
学校に何を付託しようとしいるのか身をもって感じ取るはずです。
そうではないだろうと思うからいいますが、あなたがもし教員で国語の授業を日々
行っている人、内部に身を置き日々を送っている人でありながら、なおかつこれまでの
話(>466まで含め)を展開しているとすると、あなたを「トンデモナイ勘違い教師」
だろうと思ってしまうな。外部に身を置く人だろうと思うから、その疑問なり意見など
を聞き、その疑問、意見が生じる原因がどこにあるのだろうかと考えようとしている。
>>464 >ただ、あなたの頭の中では、東高校の最下位>西高校のTOP
>なんですか?それはちょっと乱暴な話では?
モデル化ですから、乱暴承知の上で、そういう前提でOKです。
現実の話をすれば、私が学区トップ校にいた時は、田舎とはいえ、普通高校10校、実業高校5校、
総合学科も1校という規模ですから、生徒の偏差値輪切り学力は重なり合っています。
定員の合計の実人数だって倍以上です。最近は実業高校でも進学が盛んで、小論文が必要となる
場合があります、一方、トップ校だって、ドロップアウト組は出ます。
そんなこんなをすべて4校でモデリングしようとしていると思ってください。
西高、南高レベルで受験する大学・短大・専門学校が課す「小論文」なんて、高校入試の
作文に毛が生えた程度で十分です。(そしてこれが書けるようになるまで指導するのに
一苦労)
16%という数字が計算根拠上うそくさい、というのであれば西高トップと東高ボトムとが
重なっていて、西高トップがそこそこの大学を受けていると仮定しなおしても、
まあ+4%、計20%ぐらいまでですね。
>>464については前半は異議なし。ただし
>もっと主観的な指標(たとえば、自分の通っている学校の国語の授業を興味
>深く聞けるか?というような)とイメージしていました。
揚げ足とりになるかもしれませんが、↑↑のみに関していうと、これは、教員が最も
避けねばならない勘違いです。あなたも、もっと他にも挙げたかったのだろうとは思いますが。
一般に学力というのは、すなわち課題処理能力です。教員が与えないと飲み込めない、
というのであれば教員はその生徒が死ぬまで面倒みなければならなくなります。
「今は俺がやってみせるけれど、それを手本にお前たちもやってみ」という負荷を
与えない授業はよくない授業です。
>>465、異議なしなのですが、
>>466 > 自分では全く自分の言いたいことを伝えられなかった作文に、たとえば
> 「80点」という点を付けられる…それは無意味ではないでしょうか。
>
>そう、「使えるか/使えないか」というのは、実は外的指標によっては測り得ない
>非常に主観的な「使えているか/使えていないか」のことを意味しているのです。
ここが少なくともあなたと私とで決定的に違う点なのでしょうね。
国語としての割り切りは、例えば作文指導で言えば、書いてあることの文章構成、
用語用字、表現の巧みさに対する評価が全てです。本人に「これは自分の気持ちと違う、
何とかしたい」というモチベーションがあれば、個別にアドバイスしたり、よい表現を
一緒に考えたりといったことはします。
極論承知でいうと、「猫を殺すと気持ちがいい。」という作文を書いてきた生徒に対して
もし、文章的にある種の明晰さ、美しさを備えたものであったら、国語としては
それなりの点数をつけるでしょう。
「それはよくない考えだ」という指導をするのは、国語担当の仕事ではありません。
担任、スクールカウンセラーにそのコピーを渡し、生徒指導上の行動が開始されます。
(本人が試みに、猫殺しの気持ちを代弁して書いてみただけだ、と言う場合もあるかも
しれませんね。ただし、その場合は、自分の名前を付して文章を書く以上持たねばならない
責任ということについて、今度は担任と国語担当とで総合的な見地から指導、という
ことになると思います。)
470 :
No3:04/02/21 13:58 ID:RYpaszD7
>467
匿名掲示板で、相手の身分立場でレスを変えるのってどうよ?…、と。この件に関して
のコメントはそんなとこで。それに、もし「No3は勘違い野郎」と言いたいのであれば
少なくとも「どこがどのように」は語るべきではありませんか?
とりあえず、>468の話は、まだ了解できます。とりあえず「東高最下位>西高TOP」
でいきましょう。で、これは「学力」による「輪切り」を前提にした場合の話ですよね。
その場合、あなたの言う「学力」とは私の言う「客観的・外的指標」にあたるような物
をイメージしておられると思いますが、私を「トンデモナイ勘違い」とするあなたは、
要は私の「国語力とは、主観的指標なり」という見方を否定なさるということなのでしょうか。
そうすると、あなたのモデルでは「東高の上位50%にのみ(あなたの定義による)『論文
作成能力』があり、それ以下の生徒には『論文作成指導』は無意味である」ということにな
るということでしょうか?
そして、それがあなたが社会から要請されていると感じる「国語教育」の水準なのでしょう
か?…というのが、私の質問意図と考えていただければいいかと思います。この場合「社会
からの要請」とは、あなたが>455で述べておられたような「就学人口に対する割合」として
「教育行政が要求するライン」や「現実の環境」など様々な変数による関数として表される
所の…つきつめればあなたの「感覚」として、ということで。
こう書くと、「だから、国語の授業とは小論指導だけじゃなくて…」というレスが
来ることが予想されますが、だから既に私は何度か質問したわけです(>457、>460
それから、>461あたりを再見していただければ有りがたい)。その指導で
「国語的なオチコボレの割合が(あなたのモデルのうち)どの程度と予想しますか?」
という質問を、とりあえず再度投げておきましょう。
(というわけで、468の後半は不要かと思います。別にあなたのつくられたモデルです
から、嘘くさいとかなんとか話の進行に関係ないケチをつけたいわけではありません。)
もちろん、定義への疑問、反論等でも結構です。よろしく。
>匿名掲示板で、相手の身分立場でレスを変えるのってどうよ?…
え、私はもしあなたが教員だったとしたら「顔洗って出直せ」の一言ですませてますよ……
逆にあなたは、私が教員だからこそ日頃の疑問を提示しているのでは?
>もし「No3は勘違い野郎」と言いたいのであれば
あなた、印象的な単語を拾ってつなげて微妙にずれた受け取り方をするきらいがあるのかな?
教員だったとしたら「トンデモナイ」と、
>>469前半の「勘違い」をつなげてはだめだって。
職員会議云々の部分は、そもそも>ALLだということですからそう読んでくれればいいのだし、
あなたが教員の現場に染まっている必要はそもそもない(先に繰り返した通り)。
>469前半部分に関しては「のみ」に注目して読んで下さい。「授業は聞くもの」という
観念は、一般の人がもっていやすい、是正されるべき観念です。あなたの発言をダシに
それを言いたかったということ。そもそも私がちょいレスのつもりで
>>307を書いたのも
同じ思いからでした。
うー、"そもそも"ばっかり。悪文だ(まあいつものことだけど)。
>>470後半について。
>そうすると、あなたのモデルでは「東高の上位50%にのみ(あなたの定義による)『論文
>作成能力』があり、それ以下の生徒には『論文作成指導』は無意味である」ということにな
>るということでしょうか?
まず確認しておきたいのですが、教育活動には「履修」と「修得」の区別があります。
履修とは"触れる"、つまりわかってもわからなくても一通りやるということです。
修得とは"自分のものとする"ということです。
高校生である以上、事実として各教科の学習内容を"履修"する必要があります。高校に
おいては、単に出席日数でなく、出席時数まで細かく算出され、たいていの学校では
3分の2以上の出席に満たなかった科目については無条件で単位不認定という決まりに
なっているのではないかと思います(少なくともうちの方ではそうです)。
一方、何をもって"修得"したと認定するか、に関しては非常に複雑な問題を抱えます。
先に書いた通り、義務教育でない高校は、良くも悪くも、生徒の特性と能力に応じて
学学校で設定されている「目標」と「評価」のレベルが全く異なります。
東高で落ちこぼれるような者が北高へ行けば"優等生"なんてことは普通のことです。
(長崎市内のように完全学校群でコンマ2桁まで見て生徒を割り振って平均化なんて特別)
まず言いたい事は、私はこの現状を是認しているということ。
東高に進むものにはそれなりの要求レベルがあり、それを身につけた上での未来に向かって
ほしい、北高の生徒にはそれなりの要求レベルがあり、それをクリアした暁にはその
力を生かして社会に貢献してほしい。
「高校国語というひとくくり」の乱暴さ、と言った意味がご理解いただけるでしょうか。
それに対して、上記のような学校単位で見る評価基準上のオチコボレの話でなく、
就学人口総体に対して「国語的オチコボレ」のラインを引こうとする試み(私には
そう受け取れる)は、せっかく身の丈なりの学習に励もうとする生徒達を、再び一律
の硬直したモノサシで測りなおそうという試みにも聞こえます。
何度でも言いますが、論文作成に関していえば、東大〜六大学(またはその下くらいの
四大)受験に必要なレベルのレポート作成能力が将来必要となる人材は、人口比20%程度
で十分ではないか。
逆に、東高レベルでは時間の関係上あまり扱わないような面接マナー(敬語なども含む)、
○分間スピーチ、ビジネス文書作成、論文ではない作文(あえて言えば随筆的な文章)などに
関しては、面接がある事も多い専門学校入試や就職希望の多い、西・南高レベルや実業高校
においてより多くの時間が割かれ指導され(修得も求められ)る傾向にあります。
結局は、その高校が「どういう人材を世に送り出そうとするのか」という話です。
そこには、学校の数だけの多様性があります。
高校国語の学習内容の虚学的な側面にのみ注目するからこそ、一律のモノサシの話が
出てきて、落ちこぼれるか否か、という話題に傾くのではないでしょうか。
このスレの2桁台〜100番台のレスも、結局「高校国語」という一般的な話をしている
ふりをしつつ、結局みんなの頭の中にあったのはせいぜい東高・西高レベルで展開する
大学進学ありきの学習活動のイメージではなかったか……。
多分、ご期待にどんぴしゃの答えではないと思いますが、3氏からの投げかけを真正面
から受け止めると、こういう返答にならざるを得ません。どうでしょう。
474 :
実習生さん:04/02/24 10:57 ID:uANbFeTo
相変わらずレスが長いだけで不毛だな。
ここで何言ったって、現国の時間が爆睡か内職の時間であるという事実は変わらない。
476 :
実習生さん:04/02/25 01:23 ID:86rgBt8d
国語教師と体育教師はいらん。
477 :
実習生さん:04/02/25 11:39 ID:86rgBt8d
相変わらずレスが長いだけで不毛だな。
ここで何言ったって、現国の時間が爆睡か内職の時間であるという事実は変わらない。
いや、不毛どころか、きわめて内容のある議論だと思いますよ。
興味深く読ませてもらっています。
307氏も No.3氏も、大変だと思いますが、どうかじっくりと続けていただけるよう
お願いします。
議論のレベルが高くなって、現役の高校生がほとんどついて来れなくなっている
わけだけど、今はまず、論者が共有できる議論の基盤を作らなければならないから、
これは避けられないことだと思います。
それにしても、現在の議論のテーマは、
>>477君 みたいな生徒をどのように
扱ったらよいかという話だとも言えるから、
>>474-477の流れはある意味タイムリー
ではあるよな。
479 :
実習生さん:04/02/25 18:32 ID:htuSjRVU
授業形式を変えたらいいんだよね。国語を無くせ、っていう話よりも
もっといろんなものを盛りこめるはず。
例えば「太宰治の人間失格」をみんな読んできて、しゃべり場形式で議論を
したりする。もちろん、40人も生徒がいたら難しいんだけど。
その発言内容で成績をつけるとかさ。
家庭科でも音楽でもムダな授業は無しだと思うよ。
高校っていろんな種を蒔いておく時期だしね。
>>479 >しゃべり場形式で議論
今の学校では難しいと思いますよ。最近は、コミュニケーション力が持てはやされて
ますけど、現代日本人の国民性として、目立つことを嫌いますからね。
それに、意外とみんな、話す内容もないのですよ。しゃべり場は、話せそうな
ヤツを選んでますから。
私は、本など勝手に読めばいい、国語教育など大きなお世話、と思っている
クチなので、まあ勝手にやってくださいな、としか思わないけどね。
古文漢文はまだ意味があると思うけど(現代文と違い、日常では触れる機会
も少ないからね。多少は古典の継承として、やった方がいいかもね)
481 :
No3:04/02/25 23:36 ID:7OHe24OS
>469
「国語力を、『内的な指標』で考えるべきでは?」という話に
「負荷を与えない授業は悪い」という返事が来るのは、私の言う
「内的指標に基づく指導と評価」を、単なる生徒の現状追認と見てる
ということかね?それとも、「授業を『聞く』」という表現だけしか
見えず、それをダシに全然関係ない話をはじめたわけじゃないよね?
「自分の学校の授業を興味深く聞く力」
↑
という概念の語るところが、全く理解されないまま流されてるのは悲しい
ので、少し説明するけどね。これは、「生徒のレベルにあわせた授業をやる」という話ではないの。
どうすれば生徒は「興味深く」聞くのか、と。ポイントは「興味深く」なの。
生徒が「興味深く」聞くようになるためには、やはり生徒の中の「何か」を
ねばり強い指導で育てる必要があるでしょ、と。それは、漢字がどれだけ
書けるとか、難しいコトバをどれだけ知ってるとか、文学史に詳しいとか
それだけでは測れない力でしょ、と。それを「主観的指標」と言ってるわけで。
それを欠く国語教育は「虚学」の誹りを免れまい、と。そういう話。
「3年間、高校の授業は興味深く聞きました」と言い、卒業後も
興味や楽しみで本を読んだり、古典に親しんだり、伝統文化に
感心を持ち、新聞記事を読み、人とディスカッションし…
↑
まあそういうことが出来る人なら、それは「国語が出来る人」と
言っていいんじゃないか、と。
そういう生徒を育てることが、「高校国語」の目的であり、それが
「高校国語」という言葉が作りうる、唯一有効なフィールドではないの?
…と、オレが言ってるのはそういう話なんですよ。学校のレベル云々でなしに。
「受験国語」という、高校国語の鬼子のような世界の話は、二の次三の次。
まあ、お互いに「育てたい生徒イメージ」が違うから仕方ないかもしれな
いけど、こちらのイメージが少しは伝わったことに期待。
482 :
No3:04/02/25 23:51 ID:a23UWSoY
だから、>473の「なんで再び一律の硬直モノサシで測るのさ?」という
問い自体が違うわけで。
「就学人口総体」に対して発生する「国語的オチコボレ」は、たとえ各学校の
教育目標がどうであれ、一定数「発生」してることは事実でしょ?
(まさか、国語的なオチコボレが「いる」事実を見てないわけじゃないよね?そこから指摘が必要?)
オレは、あなたの「国語指導観」が各学校に行き渡ったとき、各学校で「オチ
コボレ」る生徒はどのくらいだと思ってる?と聞いてるわけ。それともあなた
の指導法は進学校限定?その国語指導観は、「東高にしか対応してない痩せた思想」なわけ?
「一律の硬直したモノサシ」の代わりに、「各学校毎のモノサシ」とあなたは言う。
そりゃそうだろう。しかしオレは最初から「モノサシは生徒一人一人の頭の中に
あるんでないの?」って話をしてるわけ。
そのモノサシに基づいて教育できんかね?って話をしてる。
たとえばこんな風…
[クラシック]音楽は多分に感動(内的基準)によって評価されるように
見えて、まず一定の技術(外的基準)で大きく「評価」される。
[ポップス]売れたか売れないか?という一見「外的基準」で評価されるが
実は売れるのに必要なのは、買い手が(・∀・)イイ!と思うかどうか(内的基準)
というあやふやな所にしかない。「絶対に売れるポップス」は無い。
極論だけど、
技術教育(外的指標)→ツマンネ(゚听)→売れない(主体的に学ばない)→虚学化
感動授業(内的指標)→(・∀・)イイ!→売れる(主体的に学ぶ)→実学化
という可能性。
483 :
No3:04/02/25 23:56 ID:Li9k/wN0
蛇足ながら、↑は、477へのレスでもある。
「感動授業」つーのは、別に「作品」への感動を意味しないけど。
たとえば教師の人間性に感動でもよし、知識教養の深さにでも、
国語の世界の奥深さを垣間見せるその手さばきにでもいいわけだが。
484 :
477:04/02/26 01:09 ID:bLbJ94Lk
俺は生徒ではないよ。
某学習塾で主に数学・物理・化学を教えてる大学院生。
俺自身は理系だが、かなりの文学少年だったし、テストでは国語で失点したことなんてほとんどない。
国立2次レベルでも国語を教えることもあるし。
文を書く能力はあまりない(それが理系にいった理由のひとつ)が、国語は好きだよ。
ただ、理系の優秀な生徒が揃いもそろって「国語いらね。」って言うからにはやっぱり問題があるんじゃないの?
結局ここだって国語教師どうしでウダウダ言ってるだけでそういう生徒をどうにもできないだろ。
485 :
477:04/02/26 01:10 ID:bLbJ94Lk
俺は生徒ではないよ。
某学習塾で主に数学・物理・化学を教えてる大学院生。
俺自身は理系だが、かなりの文学少年だったし、テストでは国語で失点したことなんてほとんどない。
国立2次レベルでも国語を教えることもあるし。
文を書く能力はあまりない(それが理系にいった理由のひとつ)が、国語は好きだよ。
ただ、理系の優秀な生徒が揃いもそろって「国語いらね。」って言うからにはやっぱり問題があるんじゃないの?
結局ここだって国語教師どうしでウダウダ言ってるだけでそういう生徒をどうにもできないだろ。
486 :
477:04/02/26 01:13 ID:bLbJ94Lk
二重書き込みすまん。
でも国語の先生たち、気を悪くしないでね。
俺は国語が好きなのよ。
>「3年間、高校の授業は興味深く聞きました」と言い、卒業後も
>興味や楽しみで本を読んだり、古典に親しんだり、伝統文化に
>感心を持ち、新聞記事を読み、人とディスカッションし…
私の親戚に、近頃源氏物語に凝っていて、市民講座に足を運んだりしている伯母がいるのですが、
私が国語の教員なものだから目を輝かせつつ図版片手に一生懸命語ってくれるのだけれど(そんな
話に付き合ってくれる人も少ないらしい(笑))、まあ、なんというか。その人はおせじにも
ディスカッションの力があるとはいえないし……
伯母の人生は今源氏物語にはまっていることで、そうでない状態よりも確かに"豊かな"
毎日なのかもしれない。でもそれを彼女の「国語力」の現われ、と表現することには、
ためらいを感じてしまいます。
感動と技能習得との間に、密接な関連はあるに決まっています。でも、残念ながら
感動する(させる)だけでは身に付ける(付けさせる)ことなどできないのです。
生徒を飽きさせないという意味において、授業に感動は必要ですが、感動を受け取った
生徒が学べることは、
・へえ、こんな世界があるんだ……
・自分も勉強すればその世界に踏み込めるのかなあ……
ということまで。最大限の効果が上がったとして、
・よし、この感動を再び得るために俺もちょっとがんばってみるぞ。
まで。そして、本当に頑張り始めてから生徒にさしのべねばならない指導・支援が
くさるほどあるのです。残念ながら、3氏の話からは(指導者の立場にたたねばならない
私にとっては一番重要に思える)この部分に関する考察が見えてこない。
興味・動機さえ持たせればあとは自然に伸びてくれるだろう、という素朴な楽観が
あったりはしませんか?
あと、3氏がことあるごとに取り上げようとする"あざやかな手品"を見せる授業には、
大きな落とし穴もある。
・先生は国語得意だから読めるんだろうけど、俺には無理だな。
と受け取る生徒の存在。これでは結局テレビのバラエティ番組を見てるのと同じで、
生徒自身の前進が期待できない。
他教科が得意な生徒の偏ったプライドで裏打ちされたりすると、さらにこれが
・国語なんか別にいらね。勝手にやってろ。(俺も勝手にさせてもらう)
となるわけで。
再びオチコボレについて。
オチコボレを認定するためには、基準が必要です。就学人口総体に対して一定の割合を
オチコボレ認定するためには、一つのモノサシを当てる必要がある。極めて自然の
ことわりだと思うけれど。
各生徒の各自の内面において「国語からドロップアウトした/してない」を基準にする
ことはできません。どうやって判定する、自己申告してもらう?そこに展開するのは、
学校教育のスタイルからは遠く離れた一対一の(あるいはそれに近い)「師弟関係」の
世界です。あなたの望む世界を追い求めると、結局は「高校国語」を論じることと根
本的に矛盾してくると思うのですよ。
489 :
No3:04/02/26 22:53 ID:SMLQbCWP
>477
理系の「本当に優秀な一握り」なら、「国語イラね」とは言わねーと思う
けど、確かに、理系の「そこそこ優秀な部類」の生徒でも、あるいは
文系の「そこそこ優秀な部類」の生徒でも、「イラね」と思ってる生徒は
多いだろうね。オレも、それをなんとかしたいと思ってる。
>487
じゃあ、その伯母さんにもしあなたが授業していたとしたら、あなたなら
伯母さんに、今よりも格段に優れた(あなたの考える)「国語力」を身に
つけさせることができた、と思うわけかね…?その「国語力」は伯母さん
の人生を、今より豊かにしていたはずだ、と思えるのかね…?
あるいは、その「国語力」があれば伯母さんは今よりもすくなくとも社会
的に報われる人生を送っただろうな、とか…?たとえば弁護士になった
りキャリアウーマンになったりして…?
…それはどうかねぇ…。
さて、それはおいといて。
「感動」だけでは「身につけさせる」ことなどできない。その通り。無論。
オレも「感動」だけで「身につけさせる」ことができるなどと、一言も
書いた覚えはない。「授業」は「感動」「でも」いいのではないか、と書いただけ。
伯母さんの先生は、やっぱり(・∀・)イイ!先生だったんではないかね?
少なくとも伯母さんを「国語ギライ」にはさせなかったという意味で。
あなたの言う「指導・支援」を、オレは少し低くみつもっている所もあるだ
ろう、けど、自分を振り返ってみても、学校の授業から得たものや得るこ
とのできるものというのは、残念ながら(どんなに優秀な教師であっても)
それほど多いものではない、というのがオレの実感。「授業」から得られる
ものは「国語力」を身につけるためには決定的にpoorだ。
だとしたら、一体国語教師というのは何をする職業なのだろう?という話なんだよ。
そして、「理系のそこそこ優秀な生徒が『国語』に虚しさを感じてしまう原因も
そこにあるのではないか」という話。307氏は477氏の訴えをどう思ってるのかね?
490 :
No3:04/02/26 23:04 ID:SMLQbCWP
>488
>あと、3氏がことあるごとに取り上げようとする"あざやかな手品"を見せ
>る授業には、 大きな落とし穴もある。
444で、あなたのスタイル、私の言うスタイルそれら全てが
「取りこぼしが多い」と書いてるわけですけれども。
そして445の段階ですらオレは「もはや大半の学校でそういう(優れた
手品を見せる的)授業は成り立たないだろうけどね」って言ってるんですが。
今更ことごとしくそんな話を持ち出されるとガックリしますな。
私は私の考える「取りこぼし」のことを考えています。
>再びオチコボレについて。
>オチコボレを認定するためには、基準が必要です。就学人口総体に対して一定の割合を
>オチコボレ認定するためには、一つのモノサシを当てる必要がある。極めて自然の
>ことわりだと思うけれど。
>各生徒の各自の内面において「国語からドロップアウトした/してない」を基準にする
>ことはできません。どうやって判定する、自己申告してもらう?
目の前の生徒が、自分の授業をきちんと興味を持って聞いているのか、
どうか、自己申告して貰わないと判断できないとすれば、それは私の
考える「教師」ではない。単なる「歩く指導書」だよ。あなたはそういう
ヘッポコ教師なんですか?
491 :
実習生さん:04/02/27 11:09 ID:tkStCNM0
age
492 :
実習生さん:04/02/27 15:01 ID:GOeC8mYZ
だいたい、すくなからずの国語教師は「文系でとりあえず得意な科目がない、
日本語なら問題ないだろ」というノリでこの職に就いている。
>>489 >じゃあ、その伯母さんにもしあなたが授業していたとしたら、あなたなら
〜
>りキャリアウーマンになったりして…?
>…それはどうかねぇ…。
結論から言えば、ここで私のイメージする「国語力」はそもそもあなたの指している
ものと違うのでしょう、「人生を豊かにする」をメインに据えたら、先述の伯母は
十分豊かかもしれないとはすでに述べた通り。私(の教育)が、「それ以上」、「格段」を
確約できるということはありません。つまり私のイメージする「国語力」は、精神的豊か度と
ストレートに結びついているものではないだろうと思うのです。思うのです、という
言い方で申し訳ない(まだどんぴしゃの言葉で語れるまで私の中で熟していないのです)。
言えるのは、もし私が3年間国語の担当であったなら、私が伯母に感じた「国語力ないなあ」
という印象における"足りなそうな"部分を、当時の伯母の担当教師よりも身に付けさせられる
可能性はある、ということです。
その場合彼女の何が変わるのか?といえば(変わることが何もなければ教育を受ける意味が
ないものね)、彼女の親戚づきあい、子育てなどが今よりもう少し上手にできていたかも
しれないとかいう可能性があります。高校を出た時点での就職口も違っていたかもしれない、
とすると夫となるべき人との出会いもまた違っていたかもしれない、それらは、彼女の
経済状態に影響を与えるかもしれない。源氏物語に対する理解度も今より深いかもしれない。
そのことの影響は彼女の精神世界に及ぶと思います。
いきなり弁護士・キャリアの話に飛んで「どうかねえ」と言われてもこちらが困ります。
(続き)
あなたにとっては、やはり
「国語からドロップアウトした/してない」の基準
||
目の前の生徒が、自分の授業をきちんと興味を持って聞いているのか、いないのか
なんですかね? だから何度も「感動」授業の話に回帰してしまうんですよ。
一方で「理系のそこそこ優秀な生徒が『国語』に虚しさを感じてしまう原因」の話が
挙がりますが、理系そこそこが国語の時間に虚しさを感じるのは、感動をもらえないから
ではなく、授業を受けても自分の進路決定にとって好材料にならないからでしょう。
「目の前の生徒が興味を持って聞いているかどうか」《のみ》についていえば、私にだって
たやすく判断がつきます。問題はむしろそうした彼等を「=オチコボレていない」と認定
してしまえばいいのか、そんなことが基準でいいの? という事の方なのです。
あなたには信じがたいかもしれませんが、「自分の目の前で何かを語ってくれて、それを
聞いているだけで楽しいと感じる」子も現実に存在します。テストをやれば赤点です。
でも「国語、好き」と言います。
495 :
No3:04/02/28 09:57 ID:YMyQijz7
>結論から言えば、ここで私のイメージする「国語力」はそもそもあなたの
>指しているものと違うのでしょう、「人生を豊かにする」をメインに据えたら、
>先述の伯母は十分豊かかもしれないとはすでに述べた通り。
そうですね。私も489で「(あなたの考える)『国語力』」「その『国語力』」
と言う言い方をしました。
繰り返しますが、あなたの考える「別な国語力」を身につけた結果として
得られる「別な人生」の価値を、私は否定しているわけではありませんね。
私が「どうかねぇ?」と言ったのは、その人生が「今より報われたもので
あるかどうか」ですよ。よく文脈を読んでください。「先入観で文章を読んじゃ
いけないよ」とよく生徒に教えているでしょう?
何度も繰り返しますが、私は別にあなたの授業が「劣った」授業だなんて
思っちゃいませんよ。あなたの授業が他の授業より「優れた」ものかどう
かという点に疑問を呈しているだけで。それは「あなたのモノサシではかる
からそうなだけで、他のモノサシで測ればそうではないでしょう?」と言っ
てるわけです。
私はあなたのモノサシの存在を認めています。
あなたは私のモノサシの存在を認めていない。
そのことが私は疑問だ。
そういう話です。494の話も同じ。
私が「感動を中心にしたモノサシ」の話をしてるのは、別に「私のモノサシ
が正しい」と言ってるんではないのです。(494前半「あなたにとっては、
やはり〜なんですかね?」を見ると、どうも、あいかわらずそう勘違いさ
れているようですね。)私は何度も「どちらにもすくい上げる生徒がおり、
どちらからもこぼれる生徒がいる」と書いている。
問題はなぜあなたが執拗に、自分の授業の価値「しか」認めないのか?
他を否定できるのか?という点ですよ。(今更「感動授業を否定はしてない」なんて言い出さないで下さいよ?w)
496 :
No3:04/02/28 10:47 ID:YMyQijz7
再び494で理系の生徒の話が俎上にのぼったけど、どうやらそこから再び
話をはじめた方がいいみたいですね。ここしばらく、聞き手が「さーーっ」と引いていって、静寂だけが残って
いる様子が目に見えるようだしw
「国語は有用である」ことは自明であるとした上で、このスレでも上記のような
理系よりの立場から色々な人が色々なことを言っていた。それなりの国語力
を「身につけて」なおかつ「国語教育の虚しさ(改善の必要性)」を強く「感じる」人が多い現状。
いわく、何も身に付かない、何のためにやるのかもわからない、やってもやらなくても
変わらないような気がする、出来る人は出来るし出来ない人は出来ない…etc
これに対抗する可能性の一つとして、あなたのような「読解の方法論を仕込み、たましいを育てる
授業」があってもいいとは思う。しかし、「それで解決」と思えるほどオレは事態を楽観できない。
それもまた別の「虚しさ」を育てることでしかない気がするからなんだよ。
「難解な現代評論が読めるようになること」で変わる世界(そだつ「たましい」)もある。
当たり前だよ。
けど、たとえば難解な現代評論を読みこなすことは「必要」なのか?高校国語が公
教育である以上、ある種の枠をはめることで、生徒をまさに「選別」していくわけだが、
「難解な現代評論を読める生徒と読めない生徒」を「選別」することに「意味」はあるのか?
それがこのスレの元々の流れだったんじゃないのか?
「読解の方法論」は本当に「ためになる」のか?
493のように可能性の域を越えては語れないことにどうしてそんなに自信満々なのか?
それが「ためになる」ことは、本当に自明のことか?
そう言いながら、結局あなたはそこから目をそらしているだけなんじゃないかな?
497 :
No3:04/02/28 11:04 ID:KhJyIBIn
要するに、>141で語ってた「ベストキッドの比喩」というのが、あなたの
「国語ギライ」の人に対する一つ説明イメージなんだろうね。
じゃあ、その比喩を借りていおう。
あの少年は友達にいじめられてたんだっけ。映画では少年は1人だけど、仮に少年が10人いたとしよう。
映画では少年は「一見意味のない修行」についていって、結果として「カラテ」を身につ
けるわけだけど、10人もいたら文句言ってやめるヤシもいるだろうさ。5人くらい。
それでも、307ミヤギ氏に言わせれば「一見意味のない修行」には意味があるわ
けだ(そりゃあるだろうけどね)。でも、5人にとっては無意味だったろうね。
そもそもの目的は「カラテの修行」なのか?そもそも「いじめに対抗する」ことが目的だったんじゃないのか?
だとしたら、その「無意味に感じた5人に修行させたこと」は本当に無駄でしかないんじゃないのか?
少年たちは、「他のやり方でいじめを解決」できたかもしれないのに。
あるいは、カラテで解決できた少年たちに取っても、「カラテで解決」したことは良いこと
だったんだろうか?他の解決方法を学ぶ人生よりも、カラテの人生の方が良い…なんて誰に言える?
「理系の生徒が感じる『国語』虚しさ」の正体を、オレはこんな風に考えてる。
307氏「それは『高校国語(カラテ)の否定』ではないか!」
そうかもしれない。オレはまさにそういう話をしているのだよ。
論文やら何やらでごたごたが続いた結果、足がはなれてしまいました。
中途で抛擲した形になって申し訳ないけど、
スレの今の流れを把握してないこともあり、当面は観客に徹します。
来年度から院生をしつつ某私立中堅校で国語の非常勤をすることに。
先日使用テキストをいただいたのですが、文学作品はほとんど全くやらず、
小論文対策も兼ねているのか、ポストモダン系の評論ばかりで正直驚きました・・・。
>>498 稼ぎ口ゲットとりあえずおめでとうございます。
もし一年後のあなたがこのスレを読み返した時、私の一連の発言についてどう評価して
もらえるか楽しみです。もちろん、「全面同意となるはずだ」とまでおごった考えを
持っているわけではないのですが、これだけタンカ切っている以上、理想はそうである
べきなんだろうなあ……、聞きたいような聞きたくないような。
>>495-497 寝て起きたら早速の精力的な書き込みに敬服。
>私はあなたのモノサシの存在を認めています。
>あなたは私のモノサシの存在を認めていない。
>そのことが私は疑問だ。
残念ながら、それが指導計画を立てる時の「モノサシ」たりえないからです。
正しいとか、正しくない以前の段階の話なのです。だからあなたには私が「目をそらしてる」
ように見えるかもしれなくても仕方ないかもしれない。
ちなみに、指導案を書く時には、お題目程度には「豊かな感受性を培う」とか「……に親しむ」
という言葉が必ず入ります。タテマエ的な指導目標には掲げますし、現実にそれを目指して
授業もします。例えばちょっとした生徒の発言をきっかけにしてなどで授業がふくらみ、
妙な(悪い意味でなくね)一体感を伴う興奮が教室を包む中終業のチャイム、なんて授業も
たまにはあります。そんな時は、「今日はなんかいい授業だったな」などと思ったり
して、ちょっと嬉しくなったりします。
でも、そんなエンタテ的な充足感を共有することを、第一義の目的にしてはいけない、
と肝に銘じているのです。
実は、やろうとすればそれはできてしまうものです。教育界には、そうしたことに関する
ノウハウももちろんいくつか蓄積されていて、それらをフルに組み合わせていけば、
授業の"シナリオ"は割とシステマティックに書けるものです。
そもそもそれを目的とするなら教員採用の段階でそうしたことが得意な人柄を雇用する
所から始めれば、(現在の国語教師の何割かはリストラされ、)そうした授業にふさわしい
教員の粒を揃えることなど難しくはありません。
こんなことを書いたのは、あなたが思ういい授業というイメージ、どう聞いても
「虚しさが消える」=「聞いてて心が満ち足りる」
というレベルを越えられていないように思えるからなのです。とてもすっきりした
基準のようでいて、じゃあ具体的にはどうすればいいのか?という話になると、
詰まる所は「人間として魅力的な教師が教材を通してその魅力を振りまく」授業へと
傾く。それが達成されたかどうかは「一人一人の生徒による教員評価」のうちにある、と。
これは、実は非常にあぶない授業観なんですよ。ごく簡単にいうと、一番の問題点は、
このシステムに極度に依存した評価法(モノサシ)の内では、真実とカルトの区別が
できないということです。(ゲーデルあたりの話も飛び出しかねませんが、お互いそこは
ぐっとこらえて具体の世界に踏みとどまりましょう。)授業を受ける側の内的基準を
あまりに重く扱うと、時として空疎な教員"芸人"が幅をきかせる余地を残しすぎるのです。
芸人、今でも一定の割合でいます……。
ところで、「文系/理系」の言葉を用いる時点で、当面話題となる学習者は大学進学を
予定し、将来学卒以上の技能を要する分野に進むための生徒達で、「高校国語」もそれ限定の
話になりますが、その意識はおありですか? 私自身はその流れでも構いません。
良スレage
502 :
No3:04/02/29 21:41 ID:y9R83joX
ようやく少し、話が進んで来たな、と。
No3「なぜ、他のモノサシを認めないのか?」
307「それはモノサシ『@足り得ない』から。及び『A危険』だから。」
まず、Aの『危険』の方から話をしよう。確かに、この授業が「最高の」授業だ…
と主張するなら、あなたの言うように「空疎な芸人」が幅を効かせることになり
かねない。しかし、100%否定もできないでしょう?芸人的素養を全く持たない
人間が、現場で有用か否かなんて、少し考えれば分かるとおり。純度100%な
ら毒であっても、用い方次第ではその効力を薬として使用することは可能ですよ。
『危険』は否定の理由足り得ない。
@『モノサシ足り得ない』…授業の中にそういう要素を取り入れることをあなたも認
めている。私も「それを認めよ」という話をしている。問題は「第一義の目的」とする
か否かだけど、最初から私は全く「自分の方が100%正しい」とは一つも言っちゃ
いない。要するに、「それを第一義とせよ」という主張など一度もしてません。あなた
が、私の言う観点もまた授業を組み立てる上で有効な観点だと認めればそれで良
いだけのこと。あなたは「利用はする、が、第一義の目的とはしない」と言った。十分です。
そして、再度言っておきましょう。
「あなたの考える国語力」だけが「国語力」ではない。
あなたが「エンターテイメントに過ぎない」と考える授業の中からも重要な力は育つ。
以前の例を使えば、オリンピックの代表選手は決して「名コーチ」ではないかもしれないが、
だからといって彼が選手に与える影響を「エンターテイメントに過ぎぬ」と切って捨てるこ
とはできない、ということです。あなたにはそういう影響を与えることができないとしても、
その授業の価値は認めるべきだ、という話ですよ。
>501であなたが述べてる「大学進学を予定し」ている生徒を中心と
した場合でも、これは変わらないことだと思います。
503 :
No3:04/02/29 21:49 ID:y9R83joX
>498
余計なお世話かもしれないけど、研究者を目指す積もりでの院進学なら
(おそらく文学系の院なのだろうと思うけど)本当はバイトよりも本業に精
を出すべきです。そうでないなら、いいけど。
あと、個人的には、今の高校生はいわば「どっぷりと」子供の頃からポスト
モダン状況を生き抜いているわけで、教員世代からしたら意外なのかも
しれないけど、「一見難解」に見えるポストモダン系の評論は、丁寧に説明
されればすーっと理解できるようですから、実はあんまりやる意味がなかっ
たりもするのです。まあ、要は親しみやすい教材なんですな。
どちらかといえば、彼らにとって本当に難解なのは、一昔前の「近代とは
なんぞや」とか、「思想か実生活か?/政治か文学か?」的芸術論だったりします。
一昔前の世代からしたら、青臭い文学青年連中が、口角泡を飛ばして
論じてた程度に毛の生えた論議ですら、まったくついていけないみたい。
ちんぷんかんぷんで。そういう思考訓練を全く経ていないんでしょうね。
だから、某西部とかにころっと騙されたりするわけです。
高校生相手にするなら、そういうことも覚えておくとよいでしょう。
504 :
実習生さん:04/03/01 06:51 ID:LiOPGWt/
話の流れを断ち切るような質問を致します。
国語、特に現代国語というのは何を学ぶ科目なのでしょうか。
例えば数学ならば明確な体系が生徒の目にも見える形であります。三角形の合同
の証明も理解できずに、平行四辺形の問題が解けるはずがないという程度のね。そ
うすると、勉強せんといかんなあという気にもなるし、落ちこぼれても自分がどこ
でわからなくなったかは、まあ分かる。
現代文の授業は違いますね。なんだか色んな文章が出てきて言葉の意味を聞かれ
たり、要旨をまとめさせられたり、登場人物の気持ちを聞かれたりする。それが無
駄とは言いませんが、単元間のつながりが生徒には見えないために、ま、とりあえ
ずここは寝ててもいいかって気になります。例えば俳句の単元だと仮にそこで失点
しても、次の「こころ」で点取ればいいや、俳句はどうせ配点が二十点だし、とい
う感じです。つまり、ある単元がきちんと理解できていないと次の単元がわからな
いという具合には、現代国語はできていないという風に見えます。
そこで、特に 307=264=148氏に御尋ねしたいのですが、現代文という科目は何を
目標として、どういう段階を踏んで教える、あるいは学ぶべきものなのでしょうか。
御教示頂ければ幸いです。スレの流れを切るような質問であるため、スルーされて
も不服は申しません。
505 :
実習生さん:04/03/01 08:47 ID:vRuxaZu7
ある小説作家が自分の書いた文章を使った高校の国語の問題を解いた
結果、半分も解けなかったという話がある。要するにこれは教師どもが
主観で内容を捏ね繰り回して自分の都合の良い解釈を文に施したという
ことだと思う。これじゃあ、肝心の生徒が間違った意味でその小説を
理解してるんだ。国語の教育はジグソーパズルじゃないの。教師の
型に填められているようじゃダメ。自分の意見をしっかりもつことが
社会に出た時に重要になってくるんだよ。だから国語なんて学校で
ガリガリやってる暇あったら夏目漱石なり森鴎外などを何回も読め。
ただし、漢字とかはちゃんとやれよ。
>>503 それは面白い指摘ですね。浅田彰は「日本のTVは異常。たけしやさんま、
ダウンタウンのギャグのひねり具合は凄いです。海外に行くと、日本のコメ
ディアンが、いかにハイレベルで批評的かわかる」とか言ってた記憶がある。
もっとも、そうした状況を読み解ける教師がどれだけいるか、となると・・・。
>>506 >ある小説作家が自分の書いた文章を使った高校の国語の問題を解いた
>結果、半分も解けなかったという話がある。
これはこれで、批評・解釈として面白いケースもある、と言っている人もい
たと思う。大江健三郎はそう言ってなかったかな? (皮肉かもしれないが)
その昔、大真面目に誤読に対して怒りを露わにしていたのが、丸谷才一(他
にも多数いるようだが、みんな諦めてますね)
>>504 >例えば数学ならば明確な体系が生徒の目にも見える形であります。三角形の合同
>の証明も理解できずに、平行四辺形の問題が解けるはずがないという程度のね。そ
>うすると、勉強せんといかんなあという気にもなるし、落ちこぼれても自分がどこ
>でわからなくなったかは、まあ分かる。
> 現代文の授業は違いますね。なんだか色んな文章が出てきて言葉の意味を聞かれ
>たり、要旨をまとめさせられたり、登場人物の気持ちを聞かれたりする。それが無
>駄とは言いませんが、単元間のつながりが生徒には見えないために、ま、とりあえ
>ずここは寝ててもいいかって気になります。例えば俳句の単元だと仮にそこで失点
>しても、次の「こころ」で点取ればいいや、俳句はどうせ配点が二十点だし、とい
>う感じです。つまり、ある単元がきちんと理解できていないと次の単元がわからな
>いという具合には、現代国語はできていないという風に見えます。
現代文に、数学のごとき「単元」「体系」があると思っていること自体が、痛すぎ。
そもそも、ここで交わされている議論が何であるか、理解できているのか? と。
>>1から全部読んで出直してくることですな。
510 :
実習生さん:04/03/01 16:38 ID:LACyq96g
数学・物理・化学・・・も文系には虚学以外何物でも無いが・・・
>>504 >現代文という科目は何を目標として、どういう段階を踏んで教える、あるいは学ぶ
>べきものなのでしょうか。
まず、学習指導要領「国語」の「現代文」の部分を抜粋します。一般の方は、あまり
見る機会もないでしょうから。つまり、お尋ねの件に関する"公式の"回答はこれ。
========================================
第4 現代文
1 目標
近代以降の様々な文章を読む能力を高めるとともに,ものの見方,感じ方,考え方を深め,
進んで表現し読書することによって人生を豊かにする態度を育てる。
2 内容
次の事項について指導する。
ア 論理的な文章について,論理の展開や要旨を的確にとらえること。
イ 文学的な文章について,人物,情景,心情などを的確にとらえ,表現を味わうこと。
ウ 様々な文章を読むことを通して,人間,社会,自然などについて自分の考えを深め
たり発展させたりすること。
エ 語句の意味,用法を的確に理解し,語彙を豊かにするとともに,文体や修辞などの
表現上の特色をとらえること。
オ 目的や課題に応じて様々な情報を収集し活用して,進んで表現すること。
3 内容の取扱い
(1)話すこと・聞くこと及び書くことの言語活動を効果的に取り入れるようにする。
(2)生徒の読書意欲を喚起し,読書力を高めるよう配慮するものとする。
(3)近代の文章や文学の変遷については,文章を読むための参考になる程度とする。
(4)指導に当たっては,例えば次のような言語活動を通して行うようにする。
ア 論理的な文章を読んで,書き手の考えやその展開の仕方などについて意見を書くこと。
イ 文学的な文章を読んで,人物の生き方やその表現の仕方などについて話し合うこと。
ウ 文章の理解を深め,興味・関心を広げるために,関連する文章を読んだり創作的な
活動を行ったりすること。
エ 自分で設定した課題を探究し,その成果を発表したり報告書などにまとめたりすること。
(5)教材は,近代以降の様々な種類の文章とする。その際,現代の社会生活で必要となる実用的な
文章も取り上げるようにする。なお,翻訳の文章や近代以降の文語文も含めることができる。
========================================
3のような扱い方で、2の内容をやると、1の目標を達成できる、という趣向です。
面白みも何もありませんが、頭のいい人達が寄ってたかって何年も練り上げたものだけに、
隙のない表現だと言うしかありません。これを言われてしまえば「その通り」と言うしかない……
で、このスレで問題となっているのは、3→2→1 は可能であるのか? あるいは
2→1 は果たして適切な道なのか? あるいは、そもそも目標が 1 であること自体
それでよいのか? と主張している人もいるかもしれません。
あ、むしろ全くその手前の、今の教師がやっている授業/指導は、3〜2 を的確に実現
できているのか? という問題もありますね。
ところで……
>>502は正直、ちょっと拍子抜けだったんですが、No3氏の中では
>>481-482とどう
いうふうにつながっているんでしょうか。
515 :
No3:04/03/01 23:42 ID:1H7yWcr1
>506
>ある小説作家が自分の書いた文章を使った高校の国語の問題を解いた
>結果、半分も解けなかったという話がある。
画家が自分の画の最も巧みな解説者であるとは限らない。
>要するにこれは教師どもが主観で内容を捏ね繰り回して自分の都合
>の良い解釈を文に施したということだと思う。
というわけで、全然「要」してないし、「主観をこねくり回して都合のよい結論
を導いた気になっている」のはまさにあなたの主張そのもの。
>これじゃあ、肝心の生徒が間違った意味でその小説を理解してるんだ。
主述の対応が悪すぎて、何が言いたかったのか判読が難しい。生徒が誤解し
ても「仕方ない」と言いたいのか、生徒は誤読を理解として「押しつけられた」と言いたいのか。
いずれにせよ、国語は絵描きを育てているのではなく、強いて言えば解
説者を育てている授業なので(その是非は上で問うている通りだが)上記の批判はあたらない。
>国語の教育はジグソーパズルじゃないの。教師の型に填められているようじゃダメ。
「ジグソーパズル」の比喩が唐突で、何を批判しているかすら意味不明。
「(生徒の心を)あらかじめ用意された無意味な型にはめこむ無意味な作業」
とでも言いたいらしいが、全く持って親切心に欠ける比喩。せめて、数行
前の「主観をこねくり回して云々」という部分を「教師が主観でつくった型に
生徒を填め込んでいく…」等と、「ジグソーパズル」に繋がるような言葉を
入れていく必要がある。
(続く)
>506
>自分の意見をしっかりもつことが社会に出た時に重要になってくるんだよ。
「自分の意見をしっかりもつ」ことは、「他人の意見を聞かない」こととイコール
ではない。「国語の授業は所詮教師の主観に過ぎない」という前半の批判が
生きてない(「教師の主観を聞くのもまた国語の授業の意義である」と反論さ
れかねない。)。
「自分の意見をしっかりもつ」ことは必要だが、それは様々な優れた意見を
一つ一つ慎重に検討しながら我が物としていく謙虚な作業を通して行うべき
ことであって、「下らぬ教師の主観なんぞオレ様には無用」という、間抜けな
阿呆同然の態度で身に付く単なる「独善」と一緒にしてはいけない。
>だから国語なんて学校でガリガリやってる暇あったら夏目漱石なり森鴎外
>などを何回も読め。 ただし、漢字とかはちゃんとやれよ。
で、すがる権威は「鴎外・漱石。そして漢字の勉強」か。
最後まできて権威にすがるしかないのか。
いやはや。
阿呆教師同然の意見だな。
517 :
No3:04/03/02 00:00 ID:UcvnfwlM
まあ、>506 のような文書をこうして添削できるようになる…というのが、
目に見えてつく「現代文の力」なわけですが。
とりあえず、2chで楽しく読み書きするには必須の能力だという意味では
非常に「実学」なんですけどね。<現代文
>507 おそらく、ある程度の文化的等質性を前提とし得たことが、必然的に
笑いを高度なものにしていった…という側面もあるでしょうね。
平安貴族が、数々の古典を暗黙の前提にして、様々に技巧的な歌を
作って楽しんだりしたのと同じことかもしれません。
先日、高校生に使った喩えですが、「メロンソーダと書いた商品の下に、
堂々と『果汁0%』と書いてあることを誰も不思議と思わない…それほど
我々は既に記号的な日常を生きている」ということは、同時にそういう
「危うさ」を抱えた高度な、かつひ弱な状況でもあると思います。
>514 わからないなら、別に無理して答えなくてもいいです。
代わりに、文科省の公式回答でも書いといたらどうですか?w
518 :
No3:04/03/02 00:21 ID:rUCwgNtd
>504
「現代国語」は「体系化」できるものか否か?
「できる」としたらどのように?
「できない」としたら「国語(の授業)」とは「何」なのか?その目的は?…
面白い問題だと思いますので、横レスします。スルー可。
Q体系化できるか?
Aできる。ただし、できる部分とそうでない部分がある。
Qどのように「できる」のか?
Aたとえば、論理学及び意味論、語用論については、体系的に学ぶ
ことはおそらく可能です。これらに関する中学生向けの教科書という
のはあまり有りませんが、たとえば意味論の古典的著作「思考と 行
動における言語」( SI.ハヤカワ) あたりなら、中学生でも本当は理解
は難しくないはず。
しかし、「高校国語」がとりあえずの目標にしているのは、おそらく
論理的な部分に限っても、「知識人」によって書かれる「現代評論」
を一応読み解けるレベル。
これをきちんと読み解くためには、上記に留まらない多大な能力が必要です。
漢字語句、熟語、慣用句はもちろん、上記によって養われる論理能力
思考力のみならず、一般教養、文学的な比喩を読み解く能力、古典知識、
その他諸々の知識が必要です。
そして、これらの「智」については、その雑多な性格上「体系的な修得」
が極めて難しい。「国語」の授業の、「見えにくさ」には、この辺りの事情が
大きく関係していると思われます。
519 :
507:04/03/02 02:23 ID:mPPnFBsU
>>517 >我々は既に記号的な日常を生きている」ということは、同時にそういう
>「危うさ」を抱えた高度な、かつひ弱な状況でもあると思います。
ハイレベルな授業ですね。生徒さんがどれだけ理解しているかはわからないけれど、
この程度のリテラシーが身に着けば、入試に限ればどこの大学の現代文もOKでしょう。
ただ、こういうクリアーな解説ができる人には、残念ながら、あまりお目に掛かっ
たことがないのよね。教師がそうしたレベルを設定していなかったのでしょうか?
>>509 >現代文に、数学のごとき「単元」「体系」があると思っていること自体が、痛すぎ。
>そもそも、ここで交わされている議論が何であるか、理解できているのか? と。
理解しておりません。そもそも、ここで行われているのが議論なのかどうかすら、
わかりません。それはそれとして「現代文」には体系はないと考えてよろしいですか?
それとも「数学のごとき体系」はないけれども、学ぶに当たって踏むべき階梯はやは
り有って、それは現在の高校の授業で行われているような、ある種の修行を通じてし
か身につかないものである(ベストキッドの比喩ですね)ということでしょうか。
>>511-513 御教示ありがとうございます。ただ何というか、標語が並んでいる感じがして、ここ
からどういう経路をたどって、あの現代文の授業に至るのかが、わかりません。貴殿
は
>>499 において「教育界には、そうしたことに関するノウハウももちろんいくつか
蓄積されていて、それらをフルに組み合わせていけば、授業の"シナリオ"は割とシス
テマティックに書けるものです。」と書いておられるので、そのあたりを具体的に伺
いたいのです。ここには書ききれないでしょうか。
>>518 御教示ありがとうございます。
私にわからないのは、その体系化できる部分を、どうしてきちんと体系化して教科書
にしていないのかということです。
学習指導要領に「論理的な文章について,論理の展開や要旨を的確にとらえること」
とあるそうですが、であれば少なくともごくごく初歩的な論理学の基礎ぐらいは要る
わけでしょう。私の言うのは「A かつ B」の否定は「not A または not B」とか、「命
題の逆は必ずしも真ではない」という類のことです。これは数学で扱う内容ですが、
しかし、その程度のこともわからずに論理的もなにもないだろうと思うのです。
お受験ブーム→詰め込み教育→生徒に「勉強=暗記」の概念が染み付く
→現代文も暗記科目だと勘違い→それに加えて日本語の乱れ→活字離れ
→現代文の衰退
>>517 じゃあ、結局私は、あなたが私に求めている問い自体が理解できなかった、ということで
構いませんから、スルーします……
>>520 >ただ何というか、標語が並んでいる感じがして、ここからどういう経路をたどって、
>あの現代文の授業に至るのかが、わかりません。
そうかも知れません(笑)。ただ、より具体的に説明しようとするとあの文章の何倍も
分量が必要なのは確かです。あれのコピペだけでも長すぎERRORでレスを分けました。
納得していただけるような説明となると、多分ほんとに長くなると思います。
(このスレの前の方で、分野ごとに、所々断片的に触れてはいるのですが。)
試しに、Google等で「高等学校学習指導要領」を検索すれば一発でたどり着くので、
あなたが「何をやっているのかよくわかる」教科についても参照してみてはどうでしょうか。
その教科に関しては、"標語"→現場の授業のギャップが埋められるかもしれない、
そしてそれを埋めるために、あなたが頭の中でどれだけの具体性を補ったか意識にのぼして
みると、現国に関しても何らかの類推できるかも知れません。お試しを。
あと、>499は、あくまでも「生徒を興奮と感動に包み込むための手練手管」に関する
ノウハウも蓄積されているんだよ、という発言としてお読みください。
それをフル活用すれば、とりあえず「50分間の楽しいひと時」はけっこう簡単?に作り出せる
よ、ということです。
ただし、私は(No3さんと違って?)教員がそれに身をやつしてエネルギーを浪費し、
もっと大切なこと、例えば技能訓練的な部分などをおろそかにするのは本末顛倒だと思っている、
という文脈のもとに読んでいただく必要があります。"芸人"という言葉は、同業者の
一部の者に対するさげすみの言葉です。(本当の芸人の方にはちょこっと申し訳ない使い方ですが……)
まぁ、あれだ。
>>1は今回の期末試験で国語で失敗したから
こんなスレ立てたんだな。うんうん。気持ちは分るよ。俺も
国語は苦手だ。
524 :
No3:04/03/03 20:20 ID:Fhplyo+A
>519
生徒がどれだけ理解しているかは、私もなんとも言えませんw
しかしそういう説明を、教師ができないとすれば、それは単なる教師の不勉強でしょう。
(もっとも、相当勉強熱心な人でも継続的に新しいことを学び続けるのは難しいとは思いますが…
それを専門としている職と違って、やってもやらなくてもそれほど仕事に差がでないだけに)
まあ、専門教科に関して言えば、くだらない校内研修などさせる合間に、大学院の授業
でも受けさせた方がいいとは思いますね。
>520
某ya○○o掲示板じゃないのですから、丁寧な言葉遣いしなくていいですよ。煽り煽られ。
ちなみに、お尋ねの件、「どうしてたとえば論理学の初歩から教えないのか?」想像で答えます。
1)数学、倫理等の授業とかぶる内容だから。
2)教えられないから
2−1)そもそもそれが必要だということが理解できない
2−2)必要だと思っても、自分が理解していない
2−3)必要性を理解し自分も身につけたが、それを訓練するノウハウがない
2−4)それで授業をしたら生徒に寝られたから
…などの理由が考えられます。2−4は意外と切実ですw
あと、
3)教えなくても身に付くと思っているから
(たとえば、「法則化」が出る以前に、小学校の教師に「どうして跳び箱の飛び方(の教
え方)を体系化しないのですか?と聞いたら目を白黒させたのではないでしょうか)
閑話休題。私の知っている某国文学系の大学教授は、授業で一年間生徒にC言語を
教えました。非常に有意義な授業であった(し、あながち研究に無関係ではない)
とは思いますが、それが適切であったかどうかは議論のわかれるところであります。
>522 はい。さようなら。
ちょっとちょっと……。
想像もいいけど、3氏も学習指導要領のサイト行ってみなさいな。
論理学は、倫理学、少なくとも高校倫理とはかすりもしませんので、念のため。
あと、国語もね。(あ、こっちの方がメインか)
>>520が言っているのは、
実際に高校学習指導要領で「論理的な文章について,論理の展開や要旨を的確にとらえること」
とあるにも関わらず、国語の授業で基本的な論理学のイロハを教えないことへの批判でしょ?
自分も確かめてみたけど、高校の指導要領だと「国語表現I・II」や「国語総合」でも、
論理的な思考力を育てることが繰り返し目標とされている。
ここまで指導要領で書いてるのに、論理学が「かすりもしない」って変じゃないか?
論理学の専門的なことは知らないが、初歩的な論理学の考え方は必要なはず。
逆・裏・対偶の話とか、正しい演繹の導き方とかは、
論理的な文章を書いたり、相手の間違った論理展開を見抜いたりするのに重要だと思うのだが。
(このくらいなら一部の国語教師はやってるかもしれないけど)
論理学と国語がかすりもしないとは書いてないでしょ。
528 :
No3:04/03/04 19:49 ID:DlHivXZA
>525 あなたは、釣り師でなければ、相当面白い人ですね…。スルーと言うならスルー
しておけばいいのに、あれだけの長さのレスで、色々穴を掘って自分ではまるとは…。
>論理学は、倫理学、少なくとも高校倫理とはかすりもしませんので、念のため。
学習指導要領で言えば「先哲の基礎的な考え方」の中に、ギリシャで生まれた
初歩的な論理学の考え方が入ってくるのは自明のことだと思いますが…。
たとえば、生徒さんから資料集を借りて、索引で「排中律」ってひいてみたら
いかがでしょう?
あと、「倫理学、少なくとも高校倫理と」というのは、「倫理学⊇高校倫理」
でない限り、「論理的に」変な文章ですよ。逆ならまだしも。
大学で初歩の論理学を「一応」学んだあなたなら理解できると思いますが。
実際問題、高校の「倫理」とは、「倫理学」とは別物で、一種の「哲学史+道徳」
みたいな代物ですよ。それこそ、学習指導要領見て「すら」一目瞭然ですが。
>あと、国語もね。(あ、こっちの方がメインか)
そうそう。そういえば、こんな書き込みもありましたね。誰のレスでしたっけ。
>国語の扱う範疇には哲学も含まれるので、論理演算のなんたるかくらいは知ってます。(>151)
以上三つ。顔を赤くしたレスをお待ちして………ません。不毛だから。
529 :
No3:04/03/04 20:01 ID:EyZYakYh
>526 あなたは親切な人ですね。
私は疲れたので、もうとても……w
という冗談はおいといて。
結局、そういう(論理的思考力という意味での)「国語力」は、たとえば数学の授
業でも身に付くと思うし、逆に言えば、それで身に付かないなら、国語の時間に
わざわざ時間を取っても同じ事だ…という考え方(結構正しいと思うのですが)
があるのも、520氏の言う「体系化できることを体系化しない理由は?」という
問いへの答えになるのかもしれません。
また、「体系化」とは違うことかもしれませんが、もっと「何を・なぜ学ぶか」が
目に見える授業として、「理系仕様の国語」という観点が、もっとあってもいい気が
しています(教科書には無論そういう教材もありますが)。
現実問題としては、現代思想と様々な科学思想の関わりや、現代建築と空間論の関係に
ついて、とか、色々と面白い評論なり文章なりを読むことができそうな気がするのですね。
一年間で生徒に科学系の新書(ブルーバックス?)を10冊くらい読ませるような授業とか。
あるいは、どこぞの私立校で、そういうことは既にやっているのかもしれませんが。
530 :
実習生さん:04/03/04 21:31 ID:wYCeGXbD
野矢茂樹氏が、数学の論理と日常言語の論理の違いについて、次のような指摘をしています。
(日常言語での論証では)「ある前提Aから,Aとは違うBを結論しなければならない。しか
し,なぜ,AからAと異なるBが導けるのだろうか。ここに,論証のもつ力ときわどさがある。
前提から結論へのジャンプの幅があまりにも小さいと,その論証は生産力を失う。他方,その
ジャンプの幅があまりにも大きいと,論証は説得力を失う。そのバランスをとりながら,小さな
ジャンプを積み重ねて大きな距離をかせがなくてはならない。それが,論証である。それゆえ,
論証の技術にとってもっとも重要なことは,前提から結論へのジャンプの幅をきちんと見切るこ
とである。」
これを読んで私は、数学で培われる論理的思考力は、国語で培うべきそれを代替できないので
はないかと推測しました。ただ、図形問題を説く際の思考についてはどうなのかについて、考え
がまとまりません。
なお、関連して、下記の論文がとても面白かったです。
道田泰司「論理的思考とは何か?」
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/works/2003/kiyo0309.html
531 :
実習生さん:04/03/04 21:33 ID:wYCeGXbD
論理的思考教育については、日本言語技術教育学会の人たちを中心に「国語と
は言語技術教育である」というテーゼのもと、論理的思考力育成のための方法を
体系化しようという試みが盛んのようですね。ただし、私自身は門外漢なので、
それが国語教育界隈全体の中で、どの程度の影響力をもっているのかはわかりま
せん。
試しに我が家の家庭教育用に、彼らの出した論理的思考力育成ドリルを買いました。
http://www.meijitosho.co.jp/kensaku/bango.asp?bango=3621 このドリル自体は、理論的な体系に基づいているというより、おおまかな便宜的
な分類をもとに各問題が位置づけられてあるという印象です。
>>518 一般意味論(およびクリティカルシンキング)を国語教育に取り入れることを
提唱している国語教育学者も古くからいるようです。
上の道田論文の引用文献をたどって見つけた下記で読みました。
井上尚美『言語論理教育入門』明治図書
>>530 関連リンクもざっと読みましたが、私の言葉で簡単にまとめると
・数学的/論理学的論理=完全な演繹。飛躍がない。結論は前提に含まれており、
それを明るみに出すのが論理力。
・国語教育的論理=演繹的な推論。飛躍がある(ないと文章を書く意味がない)
前提から結論までを一本道でつなぎ、他の可能性を排除、防御するのが論理力
ってな感じでしょうか?
P.S.
ハヤカワの本、古書店に注文しました。井上さんのも読んでみます。
お二方、ご教示ありがとう。
533 :
526:04/03/05 10:27 ID:IfnzRzAd
ただ、数学的論理と国語学的論理が厳密に言えば違うとは言え、
>>520さんが指摘しているような数学的論理は国語で教える必要があると思いますね。
たとえば2ちゃんで、
1 :実習生さん :04/02/28 17:04 ID:QuTmjzN1
なんで教師ってロリが多いの?
2 :実習生さん :04/02/28 18:32 ID:DAEnEfA8
ストレスたまるとロリになるらしいよ
3 :実習生さん :04/02/28 19:23 ID:BLHnORlY
ふーん、教師って相当ストレスたまってるんだな。
みたいな会話があったとして(内容は思いつきだからつっこみ勘弁)、
この結論(3)って論理的には正しくない推論ですよね?
(「2の逆は真ではない=ロリがみなストレスたまっているわけではない」ので)
でも、漫然と掲示板見てたらけっこうだまされるような・・・
こういうのは目に見えて有益な国語力の一つだと思います。
私は以前、
>>530の野矢さんの「論理トレーニング」「〜101題」やりましたが、
(このスレではけっこうやっている方もいると思いますが)
ああいうのを中学生くらいの時に学校でやってくれたらすごく役に立ったと思う。
534 :
526:04/03/05 10:30 ID:IfnzRzAd
訂正。
(誤)国語学的→(正)国語教育的
535 :
526:04/03/05 10:51 ID:IfnzRzAd
あれ、533って適切な例かどうか不安になってきた(^^;; カコワルイ。
(考えうる理由の一つではあるから会話の流れとしてはOKかも)
下の形に直せば、誤った推論の例として大丈夫だと思いますので、改題。
んで、かえって流れを混乱させるならスルー希望します。
国語力の不足を露呈したので、また「論トレ」買ってやり直してみよう…
>>533改題
1 :実習生さん :04/02/28 17:04 ID:QuTmjzN1
教師ってロリばっかだな。
2 :実習生さん :04/02/28 18:32 ID:DAEnEfA8
ストレスたまるとロリになるらしいよ
3 :実習生さん :04/02/28 19:23 ID:BLHnORlY
ふーん、教師って相当ストレスたまってるんだな。
536 :
530-531:04/03/05 13:29 ID:GZpr2TtE
>>532 なかなかわかりやすい要約をありがとうございます。ただ、「国語教育的論理
=演繹的な推論」という部分は、そう整理してしまうと、帰納的推論が捨象され
てしまうので、要約しすぎという気もします(下記参照)。
日本言語技術教育学会会長・市毛勝雄氏が、前掲の論理ドリル集が必要な理由
として述べているところを紹介しましょう。
---------
第一、言葉を使った推論はすべて論理的思考と言うことができる。
第二、言葉を使った推論法のうち、「演繹的推論」と「帰納的推論」という二
つの推論法が、学校教育のために研究に値する推論法である。
第三、現在、演繹論理はその多くが記号論理として、数学科によって多くの範
囲がカバーされている。
第四、帰納論理は自然科学の推論法として利用されている。統計的推論がその
代表的方法である。
第五、演繹的推論の応用例は、将棋、囲碁、トランプゲーム、テレビゲーム、
コンピュータのプログラムなどである。
第六、「論理教育」は数学科だけに任せておくわけにはいかない。日常生活に
は、演繹的推論ばかりでなく帰納的推論も多く使われるし、また演繹論理と帰納
論理とを組み合わせた推論も多く使われるからである。
第七、国語科の「説明文教材」が理科的な話題ばかりであるという事実、「文
学教材」では感情教育だけを行なうべきであるという主張等は、すべて「論理」
についての偏狭な誤解に基づいている。
---------
私が
>>530で述べたことは、上述の市毛発言にそっていうと、第六の主張の補
足と位置づけてもよいでしょう。
537 :
530-531:04/03/05 13:32 ID:GZpr2TtE
>>533 おっしゃるように、論理学で最初に習う「逆は必ずしも真ならず」は、国語に
も役立ちますね。論理学と国語学とで交錯する領域といってよいでしょう(もっ
とも、とくに論理学と位置づけずとも、常識として学ぶべき範囲だとも思いま
すが)。
しかし、日常生活では、
>>530で述べたような何らかの飛躍によって、逆が
たまたま真である場合が少なくないところが論理学とは異なります。2chの議論
において
>>535の架空ログ内容のような混乱が少なからずみられるゆえんです。
私の専門である法解釈学では、反対解釈という解釈手法が多用されますが、こ
れは、いわば逆は真であるという解釈ですから、当然ながら、誤った結論をも帰
結しえます。そして、ある条文について、そこから反対解釈を帰結することが妥
当かどうかについて、論理学は何ら手がかりを与えません。このことを国語に引
き直して考えると、国語でも「逆は必ずしも真ならず」を知ることは必要である
にせよ、「論理的思考」を働かせる局面は、むしろその先のほうが大きいと思う
のです。
野矢氏の『論理トレーニング』にも、「3時になったら、おやつを食べていい」
のような例を用いて同様の指摘が簡単にあったと記憶しています(今、家族に貸
していて手元にありません)。
訂正。法解釈学における反対解釈とは「裏は真である」というものです。「逆も真である」の例としては不適切でした。
「論理」という言葉にみんな振り回されている……と思ったら、
なんだかんだいって妥当な意見がいろいろな人達から出てきてるじゃないですか。
「論理『学』」の基礎について私も学びましたが、それ(論理学)によってわかることは、
ある文章に「しかじかの論理が働いているねえ」という事実(のみ…をつけたいけどちょいっと
その自信まではない…)です。授業中、この文章の展開は○○律に従っている、というような
解説はよほどの必要がない限り使いません。教員が論理学を心得ていることと、生徒に何を
教授するかは別問題です。
・教材の論理を読み取ること/論理的な文章を書くこと ・論理学を修めること
これを混ぜこぜにしてはいけないのです。
こちらの方がもっとわかりやすいのではないかと思いますが、文法についても同じ事がいえます。
・用例の文法を理解すること/文法から外れない文を作ること ・文法学を修めること
「あなたは、生徒を文法学者にしたいのですか?」この言葉は、新任教員が先輩教員や
指導主事に食らわせられるパンチの典型です。
ついでにいえば、このスレか別の国語関係スレか忘れましたが、私自身が文章読解について
生徒達に最も身につけてほしいと思っている能力は「類推(アナロジー)」の能力です。
ちょい上の方のレスで「飛躍」「ジャンプ」などと表現されていることと極めて近いと
思います。漢字や語句の予習をマメにこなす生徒でも、文章理解になかなか至れない
場合、[例示された話題]→[主題への考察] という思考の流れが阻害されている場合が
ほとんどです。これは、論理学的な意味での推論では乗り越えることが難しい壁です。
[リンゴ落ちる]→[万有引力]みたいなもんです(違うかな?)
後段の最初の2行、さすがに訂正。
ついでにいえば、このスレか別の国語関係スレか忘れましたが、私自身が文章読解について
生徒達に最も身につけてほしいと思っている能力は「類推(アナロジー)」の能力だ、
と書いた事がありました。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ← これを加えてください
へー、市毛さんエラくなったんだなぁ。
大学時代に論文(というよりむしろ作文)の書き方を教わったっけ。
今現在大いに授業するときに役立たせていただいてますよ。
==ここ最近のスレの基本的な流れ==
>>504で「国語の授業って体系があるの?そもそも目的は何?」と質問が出る。
それに対して
1.
>>511-513で「目的」に関して指導要領が紹介される(307=264=148氏)。
2.
>>518で「体系」に関して「体系化できる部分とそうでない部分がある」(No.3氏)
・論理学、意味論、語用論などは体系化可能
・現代評論を読むにはそれ以外に膨大な知識や教養が必要(体系化難)
上記の2つのレスに対し、
>>520で504氏より
1.「511-513は標語のようで、ここからどう実際の授業に行くのかわからない」
2.518に対して「体系化できる部分(例:論理学の初歩)をなぜしないの?」
と、再度の質問。
その再度の質問に対し、
1.
>>522で「納得してもらえる説明だと本当に長くなる」(307=264=148氏)
→この発言で「目的」に関する話は事実上打ち切り?
2. ・
>>524で論理学の初歩を教えない理由を想像(No.3氏)。
(これに関連するやりとりが525-528まで)
・さらに、
>>529で「論理は数学でも教えられる」(No.3氏)とも。
↑
これに関して
>>530で「数学・論理学の『論理』と国語の『論理』は違うのでは?」
と指摘あり。
(530-538まで関連レス。両者の違いの簡単なまとめは
>>532と
>>536)
これを受けて307=264=148氏があらためて国語と論理学の違いを強調し、
身につけて欲しい能力は類推の能力と。
指導要領に関する話は別に「目的」だけじゃなかったね。スマソ
544 :
526:04/03/07 11:15 ID:9gCdu+LL
>>530で言う「論理学の論理と国語の論理の違い」を認めた上で話をします。
国語の論理に特徴的な「飛躍を一本道で結ぶ力=
>>539で言う類推の能力」ってのは、
体系的に段階を追って習得することが可能なのでしょうか?
いや、
>>531のようなドリルもあるし原理的には可能な気もしますが、
国語教育研究の現場であるていど評価を得た、
段階的な習得法というのがあるものなんでしょうか?
それを教えることができれば
>>504のような不満もある程度解消できるかと…。
生徒の立場から一言。
私はセンター試験型の問題はほぼ満点が取れるんだが(148氏の言うところの類推力はあるんだろう)
論理的な文章が書けなくて大学のレポート課題では苦労してた。
そんな時、大学の授業でクリティカルシンキングに出会い、目から鱗。
148氏の言うように確かに全ての生徒に論文作成能力は必要ないかもしれない。
しかし、高校国語は明らかにこのような思考の技術に関しては指導を怠っているよ。
論理的な文章を書くのは才能ではなく技術だ。
高校の国語でなぜこのような技術を学ばせないのか、とオモタよ。
そこんとこは国語の先生方はどう思われているのかな?
まとめ役の方、ご苦労様です。
>>544 学問自体の体系の話でいうと、現代文で学ぶ内容は指導要領を見てもおわかりの通り、
数学のような意味での体系ではないですね。
(数学の目的は「数学における基本的な概念や原理・法則の理解を深め」とあるし)
数学における「三角形がわかる→平行四辺形がわかる」レベルのつながりは、国語の
世界で言えば、小〜中学校レベルのつながりなのではないですかね。母語の操作なわけですから、
そういう段階のつながりは建前上、高校前に学習済みという感じ。
逆に考えて見ると、私が高校時代の数学は数I・基解・代幾・確率・微積というまとまりでしたが、
不得意なこともあって正直な話、それらの横のつながりはあまりわかりませんでした。
今にして思えば見えてくるものが当時は見えず、わからずただ問題を解いていただけです。
学生時代〜教員になってからちょこっと学び直したり関連書籍を読んだりしてみて初めて、
群論以上の集合論から、あるいは非線形まで視野にいれた代数学から見下ろした時の高校数学の
横の連携がようやく自分なりにわかったような気がしてきた次第です。じゃあ、それを
高校時代の週3〜4時間の授業の中でちゃんと触れてくれてればその当時のうちに
わかったじゃんか!と思うかというと、今、教員の立場から考えてみれば「そんな講釈たれて
いる間にゃ1問やらせた方がいいわな〜」と私自身思ったりします。
現在主流の現代文分野における「読む力」の育成は、ケーススタディの積み重ねという
形であるといえます。はるか上の方で私が出したベストキッドの比喩でもそのことを
言っているし、その比喩はさらに、ケーススタディでは満足できない(自分のやっている
ことの意義をアタマで理解できないゆえに無駄だと判ずる)学習者の存在も含めて
使っています。
「クリティカル」でも「例の方法」でもいいのですが、ケーススタディを離れて公式集
然とした"読解の金言集"は、実はケーススタディをある程度身に解かしこんだ人でないと
有益でないと思うのです。
数学なら <学習する概念・公式の紹介→例題→演習>という流れがあるため、表面上は
何をやるための作業かわかりやすい(公式使えっていうんでしょ?)のですが、
これを現文でいうと授業は<今度読む文章のジャンル・形式の紹介→実際の精読作業>と
なります。<→演習>部分は・定期テスト・課外授業・受験前の問題演習で処理します。
数学の学習でも、ホントに学力底辺の子は、教科書・問題集の例題がそのすぐ上の囲みに
記されている公式を使ってみるために存在していること自体わかってないですよね。
評論や小説の読解も、ちゃんと教材としての読み所があって、普通の教師であれば、
最初の導入でその紹介をしてくれるはずです。巨人が勝ったの天気が雪だのといった話
から始めて(巧妙なフリである場合は別ですが)生徒が顔を向けたら授業開始なんて
教員に当たっちゃうとここがダメなんだろうなあ……
それから「段階」の話ですが、これは教材選択によってなされていると考えて下さい。
例えば、「こころ」「舞姫」は高1ではやりません。(最近また教材として復活した)「羅生門」は
高3ではやりません。読むまでに身に付けているべきだとされる基礎力・精神的成長段階が
異なるのです。
高3で扱う国語の教材は、ゆるやかに高2までに学ぶすべての教科の知識・感覚が前提と
されていると考えるべきだし、扱う側もそれを前提にした深さまで踏み込んでいいと
思います。
15歳にはどこまで考えさせて、18歳にはどこまで考えさせるべきか、というのは
難しい問題ですが、私自身は、一般化されたところの公式のガイドラインのようなものを
見た記憶はありません。ケースごと、つまり教材ごとに教員が寄ってたかってこれを教える
べきだ、これはさずがに無理だろ、といった研究を蓄積してゆきます。その結果が指導書、
問題集の作問レベルなどに反映されます。
それらを概観して一般化できるのは国語教育の研究者の仕事ということになるでしょうか。
私自身は、これまでの指導歴(上の成功・失敗の経験)を通じ、あまり言語化されては
いない形である種のラインを形成しています。教員育成の観点から見ると、一人の教員
が仕上がるまでの過程が、ある意味非常に徒弟制度的な世界であるのは事実です。
中・高時代にどんな先生の授業を受けたか、初任校がどこでそこにどんな先輩教師が
いたか……これらの環境的事情が、実は教師の教育観、授業スタイル等を決定すると
いっても過言ではありません。
そもそも国語教師同士の議論なんか無意味。
教師がどう思っていようと
当の生徒が国語に意味を見出しておらず
内職か睡眠の時間となってるのは事実だし
そういう状況を何十年も変えられないじゃないか。
>>549 だいたいが、教育学なんてこういうもん。らしいよ。
それと、「将来、役に立つときも来るから、今はやっておけ」式の言い方に
ついては、ある先生がこんなことを言っていた。
「自分も、浅薄な実学志向、面白い授業には反対だし、むしろ、徹底して正統的な
基礎基本が大事だと思っている。
ただし、今は即効性が無くても、いつか役に立つ。この大切さを、生徒に
地道に伝えられる優れた教師も、また少ない・・・。
そうした教師の条件は、小手先の技術論ではなく、ある種の人格知や教養だろう」
こういう人には、自分もそんなに会えなかったな、という印象がある。まあ、
教師も多くは普通の人な訳だし、あまり高いものを望んでも、仕方がないのだろう。
それとその先生は、「生徒の知性の涵養において、教師にできる仕事など限られている。
親が養った価値観に、いくらかの上塗りができるか、どうか・・・」とも言っていた。
教師が悪い、というよりも、生徒の感受性には親の趣味傾向の影響も大きい。
教師ばかりをあんまり責めても気の毒、という気もあります。
>>548 話が前後するが、教員の価値観・指導力の形成パターンについては、そんなものですか?
家庭教育における人格知の形成に似て、環境が大きく左右する。とすれば、私が会った
人に、古典的な人間学志向主体の国語教育者が多かったのは、少なくとも私の地方の教育界
には、そういうムードが濃かった、ということなのでしょうね。
卒業式〜入試業務〜単位認定〜次年度準備と、教員にとって3月は心臓破りの坂です。
どんな展開になってるかなと思って来て見たら……私がとりとめのないことを書き散らした
せいで流れを止めちゃったのかな?
>>549 >当の生徒が国語に意味を見出しておらず
>内職か睡眠の時間となってるのは事実だし
似たような書き込み、同じ人なのかな(ageてるってことは、釣り? 魂の叫び?)
う〜ん……私が持っている子達にはこれまでそうした生徒、あまり見られないんですよ。
(まあ、ド底辺高の経験はないので、そこに行った時の私の力量は未知数なのですが。)
つまり、↑↑↑は、実はあなたが知る範囲での事実でしかない、と。
>>551 >教員の価値観・指導力の形成パターンについては、そんなものですか?
私の知る限りでは、です。
教委が設定する研修講座の類は指導要領や法令の素読に気を盛った程度の概論的な
ものが多かったりします。(それはそれで必要なものかもしれませんが)
教科の研究会はたいてい研究授業の見学と、それに対する授業研究から成り立つことが
多く、どうしても個別の教材の扱いに対する研究が中心となります。
そのちょうど中間層にあたるようなレベルの教授法理論が体系化されていない、あるいは
学会レベルではされているとしても、それが現場(の私)にまで自動的に浸透する
システムになっていないのは確かです。
そんな現状にあって、たいていの教師が(本来非常に抽象的な)国語教育の理念なり
目的なりを、個別の教材処理の中に具現するためにどうしているのかといえば、
・あらかじめ中間コード的な理論を修めていてそれを演繹的に当該の教材へ適用して
指導計画を立てる
という形よりは、
・以前(授業を受けた|授業をした|誰かの研究授業で見た)同ジャンルの教材に対する処理を
援用して指導計画を立てる
という形で日々の実践をやりくりしている次第です。中には、
・指導書にある指導計画例のとーりにやる。
という人もいるとは思いますが……
553 :
No3:04/03/14 00:27 ID:iYHhrKyr
>551 は九州出身者か…と想像するテスト。
554 :
No3:04/03/14 10:58 ID:yRLYY6Fa
>549
むしろ、「何十年前」はそうでもなかったと思いますが。国語を軽視する
そういう傾向が、「イイ傾向」だとあなたは思うわけでしょうか?
私は、近年のそういう傾向を招いたのは、明らかに国語教師の側に
国語に対する安易な楽観(徒弟主義、あるいは浅薄な方法論万能主義)
があったためだと思いますし、その意味で550氏の言うような観点を
まさに「国語教師」が論じるべきだと思うのですよ。
>550
元来、どんな勉強にしろ「〜なんて役に立つの?」って思われた時点で
本当はダメなんじゃないですかね。そんなこと考える前の段階で終わら
せないといけないつーか。
事を起こす前に理屈こね過ぎる奴は、結局使えないことが多い、という。
習うより慣れろ、つー言葉も有るし、「見る」前に「跳べ」と命じるよりも、
生徒の方が、気が付いたら「跳」んでた…という方が良い教育ではないかと。
555 :
No3:04/03/20 20:23 ID:SGOqg5Fz
ようやく一息ついたのでage
556 :
網の四季:04/03/21 07:23 ID:OgOTJT7W
>>556 なぜ、そのURLが貼ってあるのか、よくわかりませんが・・・。
極めて身も蓋もないことを言いますと、人間の言語力は、その個々人の家庭の文化資本や、
社会的な空気に左右されやすいものですよね?
「学校」や「教育」でどうにかなる部分と、ならない部分がある、そういうことだと思います。
なぜ、日本人の言語力は衰退したか? ですが、単純な話、TVを中心としたメディア・
カルチャーの言語表現が、お粗末で乱れまくっていますからね。その中で人間は育っている訳です。
こんなステレオタイプのTV・マンガ・ゲーム害悪論は嫌いなのですが、昨今は目に余りますので。
国語教育の悲劇とは、そうして基礎的な言語力が乱れた場所で、様々な授業を展開したり、
試験を行わねばならないシンドさでしょうね。大人たちよ、まずはTVを消しなさい。
558 :
No3:04/03/21 21:53 ID:Nkrw4qh6
>557
確かに、「今の日本の」TVがロクでもないものであることは事実。
しかし、「そこにおける言語表現が乱れている」から「日本語が乱れる」
という論理の展開にやや粗雑さを感じる。
言語を主たる表現手段とする、従来の「知」を中心とした表現のありようと
映像や音といった多様で感性的な表現手段を主流とする現代の表現の
ありようは、ひどいズレをひきおこしている。
これは、おそらくTV放送が発達した現代の多くの国で普通に起こっている
現象なのではないだろうか?と思うよ。
たとえば、うちはケーブルTVが入ってて、海外の面白いドキュメンタリー
(ディスカバリーチャンネルとか)見られるんだけど、確かに日本のその手の
番組とは格段の差(知的・情操的刺激において)を感じるんだけど、それでも
もし「それしか見ない」とすれば、おそらく「国語力」はつかないだろう、と思う。
ただし、海外のそれらの番組は様々な知的好奇心を刺激してくれるし、
その結果もっと色々なことが知りたいと思って本を読むようになれば、結果と
して子供の国語力は育つだろう。その意味で、「良質なTV番組」は重要だと
思う。日本のTVの悪い所と言えば、それを見ただけで「わかった『気にさせる』」
ところのような気がする。
559 :
No3:04/03/21 22:03 ID:Nkrw4qh6
えーと、何が言いたいのかわからんレスになったな。
つまり子供に対して「TVを消し、ゲームを禁じ」れば良いのか?と言えば
そうじゃないだろうね、ということ。この社会でそれを強いられた子供は、
逆に自閉的にならざるを得ないような気がする。
良かれ悪しかれ、「この社会」が彼らの生きていく場なのであり、その場か
ら子供を切り離して、なおかつ「健全」に育てられるというのは、懐古主義者
の妄想なんじゃないか。
あなたの投稿に基づいて言えば、「(現代日本の)文化資本、社会的な
空気」の全てが、短絡的で快楽的なものになっているという現状を踏まえ、
一体どういう社会をデザインしていくべきなのか、大人が考えなくちゃ
いかんのだろう。
以上を踏まえた上で、もしそれでも「この社会がどうこうではなく、私が
私の子供に何をすべきか?!が問題だ。私はTVの害毒から子供を
守りたいのだ!」というのなら、まず大人自身がTVを捨て、「TV無しで
どのように「この社会」で生きていくのか(…「この社会」で生きている他の
人達と調和しながら)」という見本を見せねばならないだろうね。
560 :
557 :04/03/22 00:46 ID:ZBpuOKiB
>>558-559 補足、ありがとうございました。つまり、大人たち(親・教師)は、もっと主体的
なリテラシーを持たなくちゃならない、と言うことですね。
561 :
実習生さん:04/03/23 02:48 ID:FMTXw0o6
>>559 このレスはなかなか面白かった。
率直に言って
>>557-558は
>>556の意見を誤解のうえ批判しているだけだ。
556が言っているテレビとは、昨今のくだらない娯楽番組を指しているのは文脈から明らか。
それを消せと言っているのに、テレビそのものを捨てなくてはいけないかのように理解され
「回顧主義者の妄想」として批判されている。大人は子どもに悪い番組を見せるのはやめ
ようという556の意見はテレビ廃止論と混同・曲解され、「じゃあ大人がテレビなしで暮らせる
ところを見せてみろよ」という乱暴な結論でもって冷たく突き放されている。
つまり、557-558は556で特定なニュアンスで使われている「テレビ」の意味を意図的に
ずらすことでそこに生じた隙間を攻撃材料としている揚げ足取りのレスである。
ところが、559ではそれに対して「補足」ありがとうという「賛辞」を加え、大人による「主体的
なリテラシー」が必要という理解をしたとコメントしている。こういう観点からすれば、ここでいう
「補足」の意味は明らかであろう。「主体的なリテラシー」という表現は、おそらく557で一般的
なテレビ番組と「知」の表現のあり方が比較されていることに対する呼応だろう。そもそも存在
理由が違うのだから、その比較が何になるのかはまったくわからないことと対応するわけのわから
なさだ。
↑レス番がひとつずつずれたなあ。
563 :
557:04/03/23 05:44 ID:ze4QPwDd
>>561 また、深読みされてしまったなあw
>556が言っているテレビとは、昨今のくだらない娯楽番組を指しているのは文脈から明らか。
まあそうなんですけどね。明らかにコンテンツの質は下がっていると思う。
ドラマなんかひどいね。少なくとも80年代までは、刑事ドラマも時代劇も、
山田太一や倉本聰といった作家のドラマも、今よりも遥かにレベルは高かったと思う。
マジメな話、「娯楽」(とくに、物語的素養を必要とするフィクションは)
も教養なんですよ。かつては、最低限のレベルはあったと思うよ。
564 :
557:04/03/23 05:49 ID:ze4QPwDd
>「主体的なリテラシー」という表現
これは、極めて単純化して言えば、メリハリのある視聴習慣を身につけよう、ダラダラ
点けっぱなしはやめよう、という程度の意味なんですけどねw
とくに父親なんか、仮に残業が無くても、せっかく家にいてもTVばかり、という人
が多いように思うのよね。
「勉強しろ」だの「本を読め」だの言う必要はなくて、時間を巧く使って、本を読んだり、
自前の勉強や趣味に没頭している姿を見せるのがいちばんの教育だと思うんだけどね・・・。
それとも、仕事で疲れているのかもしれない人間に、ここまで要求するのは
やはり酷なんでしょうか・・・?
565 :
557:04/03/23 05:53 ID:ze4QPwDd
しつこくTVに関して言えば、個人的には、地上波はもうほとんど見なくていいん
じゃないか、とすら思ってます。
BS・CS・ケーブルはいい番組をやってるけど、これもコンテンツが豊富過
ぎて見きれないし。もう、日本人はTVはいいんじゃないかと・・・。
>そもそも存在理由が違うのだから、その比較が何になるのかはまったくわ
>からないことと対応するわけのわからなさだ。
スマソ、この一節は何が言いたいのか、ホントに意味がわからないw
567 :
No3:04/03/25 00:48 ID:jf04cqu3
うーん、「TVを中心としたメディア・カルチャー」という557の発言を受けて、どうしてそれを
「低俗な娯楽番組のことを指しているのは明白」と言えるのかいささか理解に苦しむ。
ただ、557の発言をオレが少し「ずらして」答えている、という把握は正しい。
なんで「ずらす」のか、と言えば、「ずらさ」ないと、同じ結論にしか辿り着かないから。
それに、オレの立脚点は557さんと少し違うから。オレは「見るなよ、って言ったって、
子供は見るよ、そりゃ」という立場なわけ。それに、見たから即馬鹿になるってわけじゃないよ、っと。
だから、「子供は観る」という前提で教育を考えなきゃ仕方ないでしょ、と、まあそう思ってる。
かつてPTAの激しい攻撃にさらされてた「8時だよ!全員集合」を観てた(オレも含め)全国のPTA
「非」推奨児童たちが、全員馬鹿に育ったのか?と。今朝のニュースなんか観ながら思うわけだよ。
実際、ドリフの「コンテンツの質」が高かったかと言われると、あんまり自信ないしなあ。
その意味で、あんまり「かつての時代」を称美するのは、オレとしてはやはり
「懐古」趣味的だなあ、と思ってしまったりするわけです。
そういう雑多な刺激を受けながら、それでも自分たちが生きてきた時代には、
もっと多様な「学びの糸口」があったような気がする。そしてそれに気付かせて
くれる大人が。重要なのは、TVよりむしろそっちなんじゃないか。
「(娯楽として)TVに勝てるわけない」なんていうのは、単なる大人の逃げだと
思う。たとえば一緒にアッチ向いてホイしてやるだけでも、普通の子どもは、
TV見るのと同じくらい熱心に遊びに心奪われるもんだよ。
568 :
No3 ◆4X2rb0GY3M :04/04/01 01:09 ID:VJ1Q63y6
明日からちと忙しいので、最後に。
書物もまたバーチャルな、そして人工的なメディアに過ぎない。
問題は、あるメディアがバーチャルな、人工的なものであるかどうかに
あるのではなく、むしろ我々を取り巻く環境そのものの人工性にあるの
ではないか。
569 :
No3 ◆4X2rb0GY3M :04/04/05 01:27 ID:s/6Y93Dg
我々人間は、「現実そのもの」を扱うべきOSを初期設定で積んでいない。長らく「言葉」は(相互互換性
の点で不完全は持つものの)そのOSの役割を果たしてきたし、国語とはそのOSと基本アプリケーション
のインストール作業だったとも言える(これは非常にシンプル(過ぎるよう)な比喩ではあるが)。
「言葉」とは「現実そのもの」ではなく、「現実そのもの」を「人間が扱えるもの」に置き換えるための、そして
そのために作り出された、二重の意味で「人工的なるツール」なのであり、かつて「言葉」を扱う人間は「知」
を一手に握っていたわけだ。その意味で、このスレの上の方で言われていた国語=宗教説、もまたあなが
ち的外れだったわけではない、と思われる。余人には扱えない(それゆえその仕組みが秘されている)権力
を恣にしていたという意味で。
それは丁度、DOS時代にPCを使っていた人が、あたかもPC教の司祭であったかに見えたように。
しかし、windows時代の到来によって、多くの事情は変化してしまった。
今国語に起こっていることをこういう比喩で語ってみることが可能な気がする。
たとえばファッション、映像、ダンスパフォーマンス、など、さまざまな「現実をとらえ、表現する手段(OS)」
が生まれてきており、その多くはまだ「言葉」を基底OSとして(windowsも初期はDOSから立ち上げたもの
だった)はいるものの、徐々に人々は「言葉」というOSを積む必要を感じなくなってきているのではない
だろうか。少なくとも、「言葉」というOSが「非常に強力で有用なもの」と感じられる場面が減少してきて
いることは事実ではないだろうか。windowsを使いはじめてしばらくしたら、DOSのコマンドを忘れはじめ
たように…。
570 :
561:04/04/07 15:07 ID:CiYxoy3e
>>569 君の比喩の話はいつもよくわからん。
それまでの話を簡単にまとめるのが長い比喩のわかりやすい使い方だと思うが、話そのものが
比喩で語られるから読む側は謎解きを強いられる。ベストキッドの時と同じだ。結局、君は
自分の言いたいことを自分でしっかり言語化できていないということ。
言葉を扱う人間が「余人には扱えない(それゆえその仕組みが秘されている)権力を恣に
していた」というのはいったいいつの時代のこと? 国語教師が「余人には扱えない」権力を
行使していたとも思えない(過去レスで国語教師=司祭説があったが、ここでいう権力者を
教師とすると次のwindows時代が何のことかわからない)。とすると大和まほろばや平安
時代かい。次の現代まで時代が飛びすぎだろう。
Windouws時代というのが何を指すか判然としない(まさかテクスト論の時代と言うんじゃない
だろうな)ものの、ファッションやダンス、映像文化の隆盛によって言語の重要性が忘れ去られ
ようとしているというのは?だな。そういう表現は表現のみとして存在しているわけではない。
その技術を習得したり歴史を知ろうとしたりする人間たちの活動によって文化となるわけで、
そのような過程において言語が介在しないはずがない。むしろ目立つと言ってもいいくらいだろう。
「その多くはまだ言葉を基底OSとして」と言うけど、上のような意味では言葉に拠らなくなる時
なんか来ないだろう。また、メールや掲示板を例に出すまでもなく、このインターネット全盛の
現代は文字文化の再来だとマクルーハンも夙に指摘してる。書道もパソコンも習う学校と
いう場はある意味すばらしい。文字・言語に興味を持つ子もこれから少しは増えてくるんじゃ
ないかと思うけどね。
誰でも手軽に扱える小さなデジカメが発売されたとき、
「9つの誕生日に両親にデジカメを買って貰ったアイダホの農民の娘が
新しい映像の時代のモーツァルトになるのかもしれない」
…てな趣旨のことを言ったのはだれだっけか。
なかなかおもしろい話だと思うんだよ、これ。
テクノロジーの急速な進歩が、我々を言葉から遠ざけることは、本当に「全くあり得ない妄想」だろうか?
言葉は、今もなおもっとも手軽なメディアであることは言うまでもないが、オレはあなたほど
「言葉=絶対」主義者ではない、そういうことかも。言葉はなるほど「もっとも手軽なメディアのひとつ」
ではある。しかし、同時にそれは「言葉もまたひとつのメディアで『しかない』」ということでもある。
「映像」だけでテツガクを語ることだって、十二分に可能だ。もちろんそれは「文字」には翻訳不可能
であるかもしれんが。そして広い意味ではそのような「映像」を「読む」力を養うのも国語の勉強だと
思ったりもする。
これは世代の違いというヤツかもしれませんね。
オレも「マンガ・ゲーム・音楽・アニメ」で育った世代だから。
>そして広い意味ではそのような「映像」を「読む」力を養うのも国語の勉強だと
>思ったりもする。
これは、国語の学習の補助教材として図版やビデオを見たりすることとは本質的に
異なることが言いたいのだろうけれど、そうであればなおさらのこと、「国語」の
定義の根底を覆すようなことは言わないでね。
映像を読む力が現代社会において有効な、ある意味必要な技術であり、その養成は
現代社会を構成する人材育成にとって重要な課題だと私も思います。
ただし、文字コードから離れた瞬間から「国語」の領域ではなくなります。
>>572 聞いていいかな。「文字」ではなくて、なぜ「文字コード」?
>>573 巷にあふれる画像・映像も実は、知覚とか神経に直接訴える効果だけでなく、
知性の領域に訴えかける「コード」がたくさん含まれています。映像等の理解に
「読む」という言葉を使いたくなる部分があるとか、そうした能力は本能・直感と
いうより(訓練により修得される)技能であるという点に関して、No3氏が
考えている(んじゃないかなと私が理解している)ことに国語学習との類似点は
認めていいとは思う。これらは、ある種、広義の言語みたいなものだから。
で、
単に「文字」というと、印刷されているインクの染み(グリフ)の世界に寄り過ぎて、
上述の映像等との類似点が表現できない、かといって「言語」としてしまうと、
意味内容(概念)の側に寄り過ぎて、今言ったように映像等も広義の言語だ、
といってしまう立場に対して差異を打ち出しづらい。
といったわけで、文字コード、と表現してみました。
>>574 そうですか。文字コードというと、JISとかUNICODEのことと思ってしまうので、不可解でした。
私の誤解でした。
576 :
No3:04/04/10 00:59 ID:uSqWUb84
>572
「国語の定義の根底」?
たとえば「スピーチ」は「国語の定義」の中には入らないのだろうか?そこで
上手に「話す」ために必要な能力とは、「文字コード」とはまた別の能力では
ないだろうか。たとえば目の前の相手の気持ちを「読む」とか、場の雰囲気を「読む」
とかいった能力と言えるのではないか。
それとも、あなたの言う「文字コード」はそれらを含んだ概念なのだろうか?
(そうではない、と読めるのだが)
もちろん「広い意味では」とエクスキューズをつけた理由は、それを育てることが
国語の第一義的目的とまでは私が思ってないからでもあるのだけれども。
けど、それが「国語の定義を覆す」とは思わないなあ。
広義の「テクスト」を読む「力」はすべて広義の国語力だとしてよいのではないか。
たとえばバルトがファッションで、あるいはプロレスをテクストとして読み解いて見せ
たことを考えれば。
でないと、国語は将来「マンガ」を扱うこともできなくなってしまうしね。
>>576 >でないと、国語は将来「マンガ」を扱うこともできなくなってしまうしね。
漫画を国語で扱うことはないでしょう。というか、やめてください。漫画がつまらなくなります。
578 :
No3:04/04/10 09:24 ID:uP3EB96F
>576
「やめてください」…と言っても多分ムダでしょう。
小説だって、詩だって、現代俳句、現代短歌だって、明治の頃には
「程度の低い娯楽」に過ぎませんでしたよ。宮崎アニメなんかが小学校の
国語の教科書にのるのは、もう目の前じゃないですか?
強いて慰めを言えば、「国語でやる」から「つまらなくなる」というよりは、
「つまらなくなってくる」と「国語でやるようになる」という方が正しい…ということかな。
「文字コード」という言葉はやっぱり不用意だったんだろうなあ。
>>573さんのような
読み方を引き出してしまう時点ですでに明らかなように。反省。
もう少し厳密に言うと、「狭義の言語(日本語)」とすればどうでしょうか。
>たとえば「スピーチ」は「国語の定義」の中には入らないのだろうか?そこで
>上手に「話す」ために必要な能力とは、「文字コード」とはまた別の能力では
>ないだろうか。たとえば目の前の相手の気持ちを「読む」とか、場の雰囲気を「読む」
>とかいった能力と言えるのではないか。
スピーチは当然日本語の操作を扱うので国語の範疇。
目の前の相手の気持ちを読んだり場の雰囲気を読むのは、(いじわるな言い方をすれば)
瑣末なテクニックに該当する部分なので、あえていえば発展的項目ですね。
もちろん、実際の運用ではそうした技術の部分が情状、交渉ごとの成否などに大きく
影響することは承知しています。ただ、国語の範囲で扱うべきなのは、そこよりも
ずっと手前、表現側では文章構成や適切な語彙の選択、理解側では聞き取り時の注意や
メモの仕方といった部分だと思います。
宮崎アニメが国語の教科書に載る場合、やはりアニメの写真などを豊富に載せた「文章」
についての学習活動になるのではと思います。ととろのビデオを見て、映像から何かを
汲み取らせること自体を目的とする授業にはならないでしょう。ビデオを見て、
感じたことを「発表させる」、すなわちスピーチの練習に徹するのであれば国語の
範疇に収まります。ただし、その場合は、子供達ひとりひとりが「どう感じたか」に
ついては、ほぼ不問になると思います。ある子供の発表の<内容>に関して、その
理解の仕方では云々…といった学習活動になると、それは国語の範囲を逸脱すると
思うのです。
こうした国語の守備範囲の問題は、漫画・アニメ・または実写のドラマ・映画が発展
してきてから揺らぎ出したわけではなくて、実は演劇・種種の(古典)芸能との距離感覚に
おいて古くからすでに考察が行われており、別に新しい問題ではないのです。
高校までの、いわゆる国語で扱われるのは、演劇でいえば「劇文学」までです。
私の小学校時代、教科書には「夕鶴」が載っていました。戯曲の読解までは国語の
範疇だということです。そこで本当に演じるのは、よくいえば発展的学習、悪く言えば
逸脱だと思います。実際に演劇の作品を一本舞台の上にのせるには、国語的な能力の
他に、様々な種類の力量が必要となります。話芸も然り。新課程の教科書には寿限無が
載ったそうですが、これも、言葉の楽しさおもしろさを実感させる目的から離れて、
ほんとに笑いをとることを修得させるための学習活動になってしまうと、それは逸脱じゃ
ないかと思います。
中学校まで国語の範疇で扱われる書写は、高校では芸術科書道へと移行します。書道
自体は国語の範囲ではないのです。演劇・芸能・映画・漫画・アニメはどうでしょうか。
表現活動の総体としてのそれらは、個人的には国語よりもむしろ芸術科の領域に近い
と思います。一部分だけを国語の領域に引き寄せて扱うことは可能です。でも、
それ以上のことにはならないはずです。
581 :
No3:04/04/10 20:15 ID:NbEAPDRB
>580
あなたのしているのは「今」の話。
わたしのしているのは「未来」の話。
わたしがしているのは「変わるかもしれないなあ」という話。
あなたがしているのは「変わらないんじゃないかなあ」という話。
残念ながら、接点は見いだせなさそうですね。
話してる内容の指し示す範囲が "将来どんどん変わっていく" ことが込みなら、接点もへったくれも
ありませんやね……
そろそろ512KBを超えるんだとか。長いレスいっぱい書いたからなあ。
いろいろふだんあまり考える機会をもてないことに目を向けるきっかけをくださった皆様方、
ありがとうございました。
583 :
561:04/04/12 21:31 ID:shObzV0B
>>579 国語の定義を論じる際の「文字コード」は、明らかに不適切な表現。「文字」を基盤とすると、
「話す」「聞く」の部分が抜け落ちてしまう。蒸し返すようで悪いけれど、ここであえて繰り返すのは
英語教育にも通じる「読み」「書き」重視の傾向を国語でも垣間見た気がしたからだ。さらに
言えば「読み」偏重だけど。
インプットばかりでアウトプットがないのが日本の国語・英語教育の特徴だと私は思っている。
生徒に「どう感じたか」そして「何を考えているか」を問い、またそれを言語で「どう表現するか」を
見るのも「国語の範囲」であるべきだと思う。音楽で笛や歌のテストがあったように、国語でも
例えば今度の定期テストは50分600字の作文のみ、というのがあってもいいと思う。成績と
直結する定期テストなら出題者側も周到に問題を用意して評価の基準を明確にしておき、
できることなら複数で評価するなど工夫が必要だろうが。さらにテストの返却時に採点への
異議を唱えるのを許可すると、それだけで国語はずいぶん魅力的になるだろう。
584 :
561:04/04/12 21:31 ID:shObzV0B
作文に正解はないから採点者は必ず文句を言われることになるが、生徒たちにとって自分の
考えを他人にぶつけてそれを評価してもらう経験は、それが本気であればあるほど貴重なはずだ。
提出するだけで終わる夏休みの読書感想文や修学旅行の雑記ばかりで、なぜ添削されかつ
評価もされる作文を書く機会が極端に少ないのだろう。スレの中央あたりで展開されかけていた
文章読解講座もいいが、自らの文章作成能力を高めることがひいては他人の文章を読みこなす
力ともなる。片方だけというのはやはりいびつだ。
このような意味で、先生の「正解」をみんなで押し頂く式の授業形式は(もちろん排斥すべき
類のものではないし主流を占めさえするものだけれども、それでも)必要な場合に限って慎重に
選択されなくてはならないだろう。多くの大学入試で小論文が課され、義務教育で絶対評価が
導入されているのはまさしくこういう流れを後押しするものでもある。作文=小論文は3年生に
なってあわてて希望者のみやるものではなくて、授業の根幹として位置づけ可能なものだと私は
思う。「作者の死」が常識化し国語でも読者の復権が叫ばれるなら、このような形で「読者の
意見」を掬い上げることも意味あることだと言える(個人的にディベート授業にはやや政治性を
感じるので今のところ懐疑的)。さしあたってトトロについて言っているというのはわかるが、「文字
コード」による定義と同じく、生徒たちが「どう感じたか」(教材としての「読み所」があるという立場
のあなたの議論にこの視点は希薄だったように思う)が「ほぼ不問」というなら、このような国語の
定義は悲しいほどに狭い。
585 :
561:04/04/12 21:32 ID:shObzV0B
>>581 トトロが「そのまま」の形で国語の教科書に載るなんてことはないだろうね。教科書という時点で
まさしく「文字コード」なわけだし。演劇の一部でしかない「戯曲」を扱った教科書の「夕鶴」が
そうであったように、オリジナル(演劇・映画そのもの)とは次元の違う形でのテクスト化なので
あって、映画そのものを論ずることになったりはしない。それをするようになると言っているのであれば
>>576は暴論でしかない。国語教育に携わったことがある人の言葉ではない気がする。同じ
言語を扱っていても、バルトやデリダのした/ていることと、技能教科である国語の目的はやはり
別もの。文学と国語の差異は、文学科出身の教育実習生がまずぶつかる問いだ(作者を知る
ことが作品を知ることだった時代の文学と国語は、別の意味でもっと連続してたと思うけどね)。
586 :
実習生さん: