私は何回が出てくる「帽子を手に持って歩いているトーマ」の絵を見ると
胸がいっぱいになってくる。うまくいえないけれど、あの空気がたまらない
517 :
299:2011/01/07(金) 22:05:58 ID:???
今頃になって気づきましたorz
訂正します。
『June』No.33ではなく、『June』No.39です。
久しぶりに来てここまで読んだところだけど、
>>115さんとか
>>221さんに続く議論とか、キリスト教の殉教や自己犠牲なのか
自分の愛情の押しつけなのか、単純には答が見えないから名作なんだね。
スレ違いだけど、昨年末に地上波放映してた「オペラ座の怪人」で
クリスティーヌの最後のキスの意味(トーマの自殺と対比)と
怪人の改心の場面(ユーリがトーマの愛を受け入れたところ)を
単純な恋愛感情のみで見るよりキリスト教を絡めた方が分かりやすいのと
ちょっと似てる。信仰心の多寡はあれ、彼らの生活の根幹にあったものだし。
解説する方が宗教とかよくわかってないからな
キリスト教的な自己犠牲的な愛の深さに
漠然とした憧れで描いているという
まあ、それでいいんだけど
かえって神々しいイメージへの憧れでもあるから
520 :
マロン名無しさん:2011/01/20(木) 16:40:02 ID:nTVc/Ler
キリスト教の問題でいうと、映画『悲しみの天使』はミッション・スクールの話で
一種の権力機構と化した学校に引き裂かれる二人の話だった。
百合モノの元祖ともいえる『制服の処女』(1931)も同じようなテーマを扱っていた。
それがキリスト教批判なのか、歪められたキリスト教に対する批判なのかはわからないが、
純粋に愛を育もうとする二人と、それを悪徳と看做して圧力をかけてくる権力側の対立。
その権力側の腐敗や歪な「正義」も映画の中で描かれていた。
ところが、『悲しみの天使』のラストから発想されたという『トーマの心臓』には、
そのような権力批判の要素が見られないように思えるのだが……。
サイフリートら退廃的なグループも登場するが、それらはあくまで表面的な脅威であって
実際の問題は本人の内面に求められているのだろうか?
テーマ的に組織の権力と言うものが作品の中にはあまり描かれていないんだろうね
あるとすれば、人の心に強く染み付いた倫理規範みたいなもので
ユーリがこだわり続けた罪深さみたいな、既存の概念みたいなものとして描かれていると思う
おばあさまの振りかざす価値観とか
サイフリートはあくまでそういうのを逆手にとる不良達だしな
トーマを描いた動機は「死んだ子が自分を好きだったことを知らずに
残されたほうが生きつづけるのは納得いかーん!」「残されたほうはどうなるの?」
ってところからではなかったかの。
Test
525 :
マロン名無しさん:2011/02/05(土) 10:24:51 ID:OP2Q987e
>>169-175 もう見てないかもしれないけど、昔古本屋で買った『遊ち組[ホモエロス]』
(1979年9月9日発行・工作舎)という本を何気なく引っぱり出して
ながめていたら、竹宮さんのインタビューが載っていて、少しだけ言及
しているのを発見。スレチですが、同書p123のインタビュー冒頭より引用。
>私は子供の頃から、赤毛のアン派ではなくてケストナー派だったんです。
>人形遊びも、人形を自分の子として遊ぶより、どんな人間か設定するのが
>好きだった。女の子はお行儀よくしなければならないとか、男は汚くても
>いいけど、女は汚くちゃいけないとか言われるのが気にいらなくて。地を
>出していいのが男でしょ。それが好きだったんです。水平思考よりは
>垂直思考だと思う。女性的だとされる水平思考は、よくわからない。
>(中略)その頃ディズニーの映画で「青きドナウ」というウィーン少年
>合唱団の物語がありまして、それが少年の声変わりの話しを取り上げた
>映画で、それも影響が強かったと思います。声変わりが少年から青年への
>象徴ということを扱っていたのに、なんとなくピンときました。あの時期の
>少年は、人になつかない孤絶した世界を持っていると思うんです。大人と
>対等なんですね。(以下略)
526 :
525:2011/02/05(土) 10:27:59 ID:???
くりかえしますが、萩尾さんではなく竹宮さんのインタビューです。
念のため。
皆さんの一番人気、オスカーの魅力を探るべく読んでみようとするんだけど
ダメだ! 物語が動き出すと、もはやユーリしか見えない!
いつもいつも そうなんだ、なので未だにオスカーの価値が胸に響かんのよ
(いや… もちろん頭じゃ分かってるんだが)
個人の好き好きじゃない?
私もオスカーはいい子だと思うけど、エーリクがかわいすぎてそっちにばかり目がいっちゃう
「湖畔にて」が読みたくて、待望のパーセレ2
アマゾンで正規価格で入手できました。
しかし内容全然知らずでびっくり。マンガじゃないんだ…
詩とイラストをあわせた感じですね。
本編の扉絵は初めて見れて、これまた美しかった!
最初から1・2パーセレで揃えたら良いんだろうな。
その後のユーリの姿が見たかった!
その後のユーリ!
どんなに美しい神父さんになっていることか… 見たいよぉぉ〜
文庫版の表紙誰だよこいつら!
って思ってたけど外人の14歳だったら大人び出しててもいいころなのかもな
「湖畔にて」でさえ すでにみんな違う顔になりつつあったし…
オスカーはまだしも、ユーリの横顔(デッサンに使う石膏像みたいなの)など、
ちょっと せつなかったよ、見てて
文庫版になっちゃうと、先生ご本人もおっしゃっているけれど、もはや別人
文庫本の表紙は好きじゃないなあ
別作品みたいだ
竹宮さんが西原理恵子の「画力対決」で
ジルベールを完璧に前の絵のまま書いてたなあ。
その意味対照的で面白い。
文筆家がデビュー当時と十年後では同じ文体にもどれないように
昔の絵に似せて描くのはかなり難しいし、微妙に違うものを
見せられてもよけいにもどかしいので、いっそ今の絵のほうがいい。
実際カラー絵原画は今のほうが格段に美しかった。
原画展にトーマの習作のなかの「マリオン(エーリクの前身)がトーマ
の恋文を発見する」場面が展示してあって、トーマの文章がかなり熱烈で
おどろいた。
うん、あたしも あの原稿の前でちょっと赤面した
後に世に出たトーマの詩篇では、ぐんと深さと透明さが増しているので
これは「習作を寝かせておいて良くなった」いい例だと思った
あの年で自分の命を犠牲にしてまでユーリを再起させようとするなんてすごいな
トーマみたいな子が神父を目指せばよかったのに・・・
ユーリってお婆様との確執があるから弱い者を助けるというより
神学校で優良な成績→とんとん拍子で出世街道へ、というイメージなんだが。
ヘッセの「知と愛」のナルチスはもっと世情に疎くて仙人っぽい。
>>537 ただ善良で慈悲深い聖職者より、一度地獄をみて
ジュリアン・ソレルが如きしたたかさも持つ聖職者ユーリも素敵だがなw
いじわるな質問かもしれないけど、神父になった後に
もしザイフリートが数々の悪事を懺悔しに来たら、
ユーリは穏やかに聴いて許しの言葉を与えられるだろうか?
ザイフリートはたしか無神論というか悪魔主義者だから
本気の懺悔でなくユーリの反応を楽しむためにしか来ないだろうけど
>>539 むしろその状況は完膚なきまでのサイフの敗北を意味しないだろーか。
>>539 数々の試練を乗り越えたユーリは
ザイフリートが来て何を喋っても動揺しなさそう
ウィキペディアでは「タルチシオ」となっている。
>聖タルチシオ(またはタルチジオ、タルチシウス)(イタリア語: San Tarcisio、
>英: Saint Tarcisius)は、3世紀のキリスト教の殉教者である。教皇ダマスス1世の詩にも登場する。
>カトリック教会での霊名日は8月15日(聖母の被昇天と同日)である。
>ローマ帝国時代のイタリアでは、キリスト教は弾圧されていたため、キリスト教の信仰を持った人は
>カタコンベなどで密かに集まり、祈りを捧げ、信仰を守っていた。その祈りで重要になるのは
>司祭によって聖別された聖体であり、ミサを捧げるのに必要なものであった。タルチシオは
>この聖体を運ぶ役割を司祭から受け、密かに信者のもとへ運び届けていた。しかし、ある日
>聖体を運んでいる途中に見つかってしまい、石で打ち殺され、殉教する。石で打たれた時も、
>運んでいた聖体を胸に抱いて守り続け、奪わせなかったという。そのため、肖像画や彫刻は
>胸に聖体を抱いているようなポーズが多い。
>少年であったといわれ、また聖体を運んでいる最中に殉教したため、侍者の守護聖人として知られる。
>実際には助祭としての役割も担っていたとも言われる。
霊名日の8月15日は、
>>208のどれとも一致しないなあ。
「トーマの心臓」で、出てくる小物とかが何かを象徴していて・・・みたいな仕掛け、あるのかな?
ざっとチェックしただけでは、それらしき物を発見できなかった。
現代のマンガなら、あれだけの話にはもっとページ数を割くだろうから色々仕込めるだろうけど。
「ルネッサンスとヒューマニズム」って、架空の書籍かと思ったら
実在するんだ・・・・・・エウジェニオ・ガレン著。
邦訳の出版は「トーマの心臓」発表と同年。
偶然書名が一致しただけという可能性もあるけど。
>>538 ユーリはただの優等生ではなく一度地獄のように悩み続けた経験があるからな
むしろ、ストイックな聖職者に向いてるのは
一度闇を体験した者のほうだと思う
他人の気持ちを理解できる経験こそ必要だろう
トーマの純粋さは、まだ子供だからこそのもの
だからその時の純粋な気持ちをユーリん捧げたことが尊かった
神父になるには大人にならないといけないし
その間には汚れることも免れないし必要にもなる
トーマがそのまま神父になるのは無理だろう
考えてみれば、この作品の世界、同性愛なのか一過性の疑似恋愛なのか、いま一つ分らない。
萩尾さんって、なぜか雑誌『June』にほとんど関わってないよね?
疑似恋愛というより、性別もない、漠然とした強い愛というもので
それを、性による愛を知る前に、いのちがけでまっとうする
ということではないのだろうか?
報われることもないのに夢中になる行為の象徴みたいな
>>548 竹宮さんは、Juneのような同性愛的なエロスを描きたくてしかたなかったように見えるのだけれど
萩尾さんは、そういう肉体関係を避けるというか、苦痛として描くことが多かった感じがする
大切なのは〜 心〜♪
アガペーと恋情のまじったかんじだね>トーマ
文春のムックのインタビューにあったとおり「トーマの死」ありき
でかかれた話だから「何故死なねばならなかったのか」のところが
理屈だけではすとんと落ちない。でもそこが魅力になっているのだねー。
トーマが自ら死を選んだわけでもなく、エーリクとも出会ってしまう
「11月のギムナジウム」の世界観というか空気が好きだった。
二人が最後に抱擁するところとか、短い作品だけど「トーマ」より好き。
たぶん同様な人は「秋の旅」「雪の子」「マリーン」も好きかな。
554 :
マロン名無しさん:2011/04/09(土) 22:09:10.04 ID:34BHoCes
トーマ、久々に読んで現実逃避でもするかな。
最近読み返して気づいたんですが、
フェンシング対決シーンでユーリの襟元に剣が当たってしまうコマ、
よく見るとユーリの剣先にキャップが描かれているように見えます
でもエーリクが一本取ったことになってるし、
前のページで飛んだキャップはユーリのなんですよね?
単に画材のホワイトが飛んじゃってるだけなんですかね?
気になります
>>555 うんにゃエーリクの。
そのため切っ先がユーリの襟元を裂いて
首んとこの傷が見える。
>>556 ありがとうございます
じゃあなんでエーリクが一本取ったことになってるんですか?
もしかしてフェンシングのルールって自分のキャップを相手の剣を利用して吹っ飛ばす競技なんですか?
聞いてばっかすいません
>>自分のキャップを相手の剣を利用して吹っ飛ばす競技なんですか?
そんな訳なかろうw
公式な試合じゃ無効になるのかもしれんが>キャップ飛び
実質エーリクがひとつの技を決めたという事ではないのん。
試合に勝ったのはユーリだけど勝負に勝ったのはエーリク、みたいな感じなんでしょうか?
あと全く違う質問なんですが、アンテがユーリに謝るシーンの前に
オスカーがあの部屋でユーリにつきまとって頬を叩いて去って行ったのってどういう意味ですか?
アンテの手引きのためにユーリを見張ってたんですか?
いんにゃユーリは試合にも勝負にも勝ってはおらん。
キャップが取れた時点で危険なので公式試合(当時の)では
おそらく技が決まっても無効ではないかという推測にすぎん。
あの場面は、いわば腕比べなので公式ルールより一本とった、
という事実が優先されておる。
オスカーの行為の意味はな、漫画読んでないで靴はいて
外に出て恋でもしろ。そしたら分かる。
オスカーはユーリよりも お兄さんなところが
あの描写のポイントかな、と思う
>>560 なるほど丁寧にありがとうございます!
キャップが取れた時点でオスカーがそれまでだって言ってるのは
試合無効だぞって意味なんですね
それだとユーリはその時点で動きを止めたけど
エーリクは勢い止まらず剣先を引っかけてしまった、って感じにも見えますね
自分の恋愛観では元々トーマキャラの言動を解釈するのはムズイです;
例えば自分がオスカーだったら
「僕は君が好きだけど〜」の告白時に続けて
「いやいや『…?!』じゃないから!」って突っ込んじゃうと思うんですよね
結局まとわりついたりピシャッって叩いてたのはなんとなく好きな人の傍にいたかったからってことですか?
本当に質問ばかりですいません
>>562 だんだんおまいが可愛くなってきたよル・べべw
恋でもしろとはものの例えで人の心の機微にもう少し
聡くおなんなさいということ。
てかその場面にいたるまでの状況をもう少し丁寧に読んでごらん。
トーマの死が事故でなく自殺であり、茶番でなく本気でユーリを好きだった事が
周囲の知るところとなったわけで(だからアンテは茶番劇の件を謝りに来る)。
その事で周囲のユーリへの心象も変わるだろうしユーリの心中を思えばオスカーと
しちゃそりゃ知らん顔はできんじゃろ。かといって「ユーリ大丈夫か!」と事を露にして
詰め寄ることもまたできん。(ユーリは周囲やトーマに対して心を閉ざしてるからね)
それらのユーリへの心配や情愛や、彼の心を開けない自分へのふがいなさや、
にぶちんユーリへのいく分のいらだちやあれやこれやがひっくるまった想いが
あの行為にあらわれていると私は読むがな。
トーマで語られる「恋」は本能として異性を求めるようなものとは違い
根源的な人間関係に求められる情愛に近いもののようだから、
リンチの件を知ってるオスカーの想いは単純に「好き好きユーリ振り向いてー!」ではなく
ユーリが自分の想いを知ってくれる事、すなわちユーリが心をみずから開いてくれることを
静かに強く祈っている。だから食堂の場面もエーリクをだしぬくというのではなく
ユーリへの「気づいて欲しい」というメッセージなんじゃないかの。
いやいや長文失礼した。
萩尾先生、お誕生日おめでとうございます