1 :
名無しの笛の踊り :
2008/01/08(火) 11:57:11 ID:aLuCfL7X この人やったら難しい事ばっかり言うけど、実はよくよくかんがえてみると???な所が多い みんなはどう思う
2 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 12:35:13 ID:OLvY5BIT
また、すぐに落ちそうなスレ、立てましたね。 頑張ってほしいとは思うけど。100まで行くかな?
3 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 12:40:21 ID:V3K4P9Lr
ここで音楽美学専攻の俺が登場! だがアドルノは正直わからん。原語で読めればまた違うかなぁとは思うけど。 翻訳の問題は絶対にあると思う。
4 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 12:48:40 ID:SQUBLGUH
弦楽四重奏のための二つの小品op.2(1926)を聴いた まるっきりベルクのパクリでワロタ
5 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 14:21:55 ID:NV95qytQ
昔、Wergoっていうレーベルから出てたアドルノ作品集ってCDを聴いたことがある。 もし「これ、ベルクの曲です」って聴かされても信じてしまいかねないほど、似ていたように思う。 パクリかどうかはわからないが、仮にパクリだとしても、 ベルクをパクれるっていうのは、相当な音楽的実力がある証拠だろう。 件のCDには、シューマンの歌曲か何かを編曲した曲も入っていたが、 編曲の腕前もたしかだったようだ。
6 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 18:02:27 ID:eiFVdie9 BE:525064829-2BP(20)
素人ながらマーラー論には?だな
7 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 18:07:31 ID:G/h7+JDK
あ法政大学出版会
8 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 19:02:19 ID:SQUBLGUH
>「これ、ベルクの曲です」って聴かされても信じてしまいかねないほど、 残念ながらそれは無い。誰が聞いても支那レベルのパチモン。 パクリと言ったのは、ベルクの曲をバラバラにしてデタラメにくっつけたような曲という意味。 師匠の、終末に向かって途方も無いエネルギーのかたまりが流れていく感じとか、 ハーモニーの変転の美とか、そういう感覚とは無縁。この男には独自の楽想とかひらめきは無い。
9 :
名無しの笛の踊り :2008/01/08(火) 19:52:08 ID:F1aFqahj
ま、作曲家の道を選ばずに学者の道を選んだのは、 己を知っていた、ということか。
10 :
名無しの笛の踊り :2008/01/09(水) 17:42:34 ID:VuHGsyTG
誰か骨のあるヤツ頑張れよage
11 :
名無しの笛の踊り :2008/01/09(水) 18:23:43 ID:hcNGR6Ht
音楽を「商品」として消費している現代社会を批判する態度には、強く共鳴するな。 漏れも、本当はCDも何も要らない。 音楽そのものがありさえすれば。
明日あたり本届くから読んだら何か書き込んでみるよ
「アルバン・ベルク」 「ベートーヴェン 音楽の哲学」 「マーラー 音楽観相学」 「音楽社会学序説」 「楽興の時」 「不協和音」 音楽を主題にした著作で邦訳されているのはこれくらいかな。 持っているのに半分も読んでない。
14 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 13:25:31 ID:fHVjrAjI
アドルノは、作品もベルクに似せているだけ 作品論・音楽論は、難解な論調で抽象的にすすめているが、はっきり言えば重箱の隅をつつくようで、詭弁 結局、アドルノ本人が「教養消費者」であった可能性が高いと思う。
15 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 13:35:42 ID:LjPGssw1
アドルノの業績で今も評価されているのは社会学・心理学領域の ものだけだよ。音楽評論や作曲はもともと趣味のようなもの (まあ本人は大真面目だったんだろうが)。
16 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 13:44:24 ID:POKWMaBA
>>14 その意味で、山口マンガ昌男だの、中沢オウム新一だの、浅田スキゾキッズ彰だの、
80年代人気であと忘却されたニューアカデミストに似てる。
結局、音楽論は面白み・重みに欠ける。
>>15 が言うように、他分野では、がんがったけどね。
>音楽論は面白み・重みに欠ける。 ここまで知恵遅れ丸出しの意見だとなんだか清々しいな。面白み・重み。
>>16 >80年代人気であと忘却されたニューアカデミストに似てる。
一般人には忘却されても専門分野では今もそれなりに尊重されてる,
という点でも似てるかもね。
マーラーの旧訳は誤訳・悪訳の例として必ずあげられるぐらい有名になってるな
バイエルン時代のショルティが『ルル』の上演の際、アドルノに開幕直前のプレ トークを依頼した。が、ショルティはうっかり「5分だけ」と言うのを忘れて しまう。 案の定長々と話を続けるアドルノにトーク開始30分目にして聴客から遂にブーイ ングが飛び、ようやく自分が喋り過ぎたことに気付いたアドルノは舞台袖に引っ 込んだという。 その時のアドルノの様子をショルティは m9^д^)涙目プギャー と表したという
>>20 悪いのは明らかにショルティじゃないか。
ショルティは結局いつもそうだから嫌われたんだな。
22 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 14:32:45 ID:h/jP8Mbu
『マーラー』旧訳はあまりにも悪名高すぎだけど、それ以外の訳もひどいのが 多いね。以前読んで、難解というより訳文の生硬さにほとほとまいった経験のある 『不協和音』(平凡社ライブラリー版)から、今たまたま目についた箇所を 例に挙げると、 音楽の主体性を担うべき生徒たちは音楽の真理の客観性から、つまり作品 内容の実質からどうしようもなく遠ざけられ、その間に主観はミューズ的 芸術活動の雇われ人に堕落し、また客観性は何かの代用品に、つまり他でも ない時間の超越を要求することによりどうしようもなく歴史主義に陥って しまっていてなお強情に維持されている永遠的価値に化して、どちらもが 存在の正当性を失うのである。 (op. cit., p. 204) 最後の「どちらも」が、「主観」と「客観性」のどちらも、だと分かるには もう一度全文を読み直さないとだめだったし、何度読み返しても「要求する」 の主語は何なのかさっぱり分からないw
23 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 14:46:18 ID:POKWMaBA
>>22 たぶんね、「要求する」の主語は
その文節の末尾「永遠的価値」なんじゃないかな?
社会に出るのがイヤで学内に残った、出来の悪い院生あたりに
ただ働きで訳させたんじゃないのかな?
>「要求する」の主語は何なのかさっぱり分からないw 「永遠価値」でしょ。 客観性は永遠価値(それは時間の超越を要求することによって 歴史主義に陥りつつ、なおかつ強情に維持される)と化して... 確かに悪文だけど、ドイツ語の哲学書の翻訳としては飛び抜けて 酷いようには感じないなあ。こちらの感覚が鈍っちゃってるのか。
25 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 15:00:54 ID:POKWMaBA
生徒たち(=音楽の主体性を担うべき)は、 遠ざけられる。 何から?→音楽の真理の客観性=作品内容の実質 から。 その間に ○主観→「ミューズ的芸術活動の雇われ人」に堕落 ○客観性→「何かの代用品」に化す 「代用品」とは?=“永遠的価値” 時間の超越を要求することにより歴史主義に陥って、 なお強情に維持されている ▼ そのどちらもが、存在の正当性を失う。 −−ってことかな。まぁ本文は悪文だね!
26 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 15:22:05 ID:A53tXK2h
↑ おまいら、すごいな。よくそんな難しいの読んで いろいろ語り合えるよな。
ベルク:弦楽四重奏のための叙情組曲(1926) アドルノ:弦楽四重奏のための二つの小品op.2(1926) アドルノの一曲目がベルクの一曲目をつぎはぎしたような曲 非常に流されやすい子なんだろね、テオドル君は
28 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 15:55:14 ID:7gEIgXt+
以前『啓蒙の弁証法』を読んだが、むちゃ強引に一言だけ印象を言うと、 結局最終的にはエリート主義、進歩史観って感じがした。 もちろん単純なそれではないけど。 ヨーロッパ近代という野蛮を批判しながらも、結局、そ同じ穴の狢。 特に音楽的には直接全部読んだわけじゃないけど、新ウィーン学派の流れ以外、ほとん認めなかったんだろ? 俺の大好きなシベリウスとかけちょんけちょんだし。 だから個人的に嫌い。
29 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 16:19:31 ID:fHVjrAjI
基本的に、20世紀になっても調性的・比較的古典的な音楽を書いた人には批判的だね。
>>28 >ヨーロッパ近代という野蛮を批判しながらも、結局、そ同じ穴の狢。
それは20世紀が終わった今だから言えるわけで。
思想について時代的制約抜きに論評するのはちょっと。
文明とか進歩とか発展とか自体を相対化する,っていう
今なら当たり前のことすらアドルノより後になって
初めてできるようになったことなんだから。
水戸黄門に出てくる悪代官たちが黄門様の顔を知らないのは
不思議だ,こんなにテレビで全国放送してるのに,みたいな話。
シベリウスはあの時代にアドルノ(およびその他多く)に けちょんけちょんに言われるような音楽を書いたからこそ偉大, とも言えるわけで,またわれわれ自身もし1920年代のヨーロッパに 生きていてシベリウスを積極的に支持できたかは微妙だろう。 俺も交響曲全集4組持ってる程度のシベリウスファンだけど これはやはりそう思うよ。
32 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 18:07:57 ID:ra7CvtEV
「まことにバッハにおいては、民族的な要素が普遍性へと止揚されているのである。 このことはほかならぬ20世紀中葉にまで至るドイツ音楽の優位を説明するものである と言えるかもしれない」と書き、 シベリウスに関しては、 「彼は全ヨーロッパの作曲技法がかちえたものを受け入れず、 彼の交響楽法においては無意味で平凡なものが 非論理的でまったくわけのわからぬものと結びつけられているのではないか。 美的に整っていないものが自然の声だと見誤られている」 と批判している。
アドルノがシベリウス批判をする際に取り上げている作品って何?
34 :
芹澤博士 :2008/01/10(木) 21:09:31 ID:SJ00dOrN
アドルノが個々の作品や作曲家について下す判断には 正直?なところもたしかにある。 (とくにオレの好きなシベリウスに関しては、 アドルノに文句のひとつも言ってやりたいところだ。) しかし、彼の着眼点や方法論のユニークさやパースペクティヴの広さは、 いまだに多くの哲学者、思想家、美学・音楽学者を魅了していることも、 また事実。 有名なところでは、哲学者・思想家の故エドワード・サイードがそうだし、 クラヲタになじみ深いところでは、 これも故人となった指揮者で精神科医のシノーポリがそうだった。 統一された全体性という神話の中にあって、 決してそれに解消しえない異質な要素を際立たせることで、 その作品のもうひとつの隠された真実を浮かび上がらせる、 というスタイル。 それを哲学・美学理論として打ち出したのは、紛れもなくアドルノであり、 それを指揮者として演奏レベルで実践したのが、シノーポリだった。
35 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 21:47:58 ID:ra7CvtEV
>>33 「今まで聴いた交響曲の中で、最悪だ」って評したのは、
第3番ですね。
(ぐうぜんにも3-3-3)
シベリウスって4番書いた後 旧世界に帰って行った人だからね
37 :
芹澤博士 :2008/01/10(木) 22:18:51 ID:SJ00dOrN
>>35 dクス。なるほど3番だったか。
まぁ、方法論的に迷いの見られる
(というか模索途中の)シベ3では
無理もないところもあるが……。
シベファンとしては、4番を、いや、
ソナタ形式を逆立ちさせたような7番を
アドルノに聴いて欲しかったな。
38 :
名無しの笛の踊り :2008/01/10(木) 22:33:17 ID:yrbP5I36
>>22-34 あたり
『不協和音』の中心テーマ(の一つ)はドイツの青年音楽運動の批判.
アドルノからすれば,同運動の指導者が,中心人物(の一人)であった
ヴィルヘルム・エーマンのようにナチス体制下で「活躍」していた人物で
あり,ナチス期の活動について懺悔の気配がないどころか,ナチス時代の
ヒットラー・ユーゲント運動を肯定的に懐古したりしている点を,とにかく
絶対に許すことができなかった.
もちろんユダヤ系知識人として極めて当然であり納得もできることでは
あるが,アドルノの青年音楽運動批判は根本的にこの体質的嫌悪感,反感
が動機となっており,青年音楽運動の指導者の音楽観などに対する具体的
批判はすべて後からつけた理屈,との印象は否めない.
青年音楽運動が「バッハも(ハインリッヒ・)シュッツも」同じように
楽しんでいるのがケシカラン,というあたりに至っては,アドルノの批判は
ほとんど言いがかり,揚げ足取りのレベルにまで落ち込んでしまっている.
39 :
芹澤博士 :2008/01/10(木) 23:36:45 ID:SJ00dOrN
ちょっと記憶に頼って書いているので、間違いがあったら&長文スマソ。
1930年代初頭、アドルノはウィーンにいた。
当時のウィーンは「赤いウィーン」と後になって呼ばれるほど、
左右両翼陣営が政局を主導して革命的状況を迎えつつあった。
しかしそんな先鋭的な政治状況の中にいながら、青年アドルノは、
後の舌鋒鋭い社会批判者としての彼の姿からは想像もつかないほど“ノンポリ”で、
そうした政治状況に興味を示していない。
彼の興味は、もっぱら2つのことがら、
シェーンベルクたちの新しい音楽とフッサール哲学の批判的読解に注がれていた。
後年のアドルノが当時の状況を振り返る際に、
時によっては過剰と思えるほど苛烈な批判を展開する背景には、
(
>>38 の指摘するドイツ青年音楽運動批判もそこに含めていいだろう)
当時の自分のありよう・ふるまいに対する忸怩たる思いが
どうしても見え隠れする。
「あれを許していた(気づかずにいた/黙認していた)当時の自分」を許せない、
といったところか。
そう解釈しないと、『啓蒙の弁証法』の基本的主張である
「ナチスはわれわれ西欧社会が必然的に生み出したものだ」というテーゼが
地に足の着かないものになるだろう。
「揚げ足取り」かもしれないが、
「揚げ足取り」すらせずにはいられなかったアドルノを、
オレは嫌いではないよ。
40 :
38 :2008/01/10(木) 23:54:52 ID:yrbP5I36
>>芹澤博士 私も,「もちろんユダヤ系知識人として極めて当然であり納得もできることでは ある」と断っておりました.「極めて当然」と強調していた点にご留意頂ければ 幸いです. 卒論,修論ともにフランクフルト学派の批判理論で書いた私です.もちろん アドルノは「嫌いではない」どころか学部生の頃はホルクハイマーとともに ほとんど「心酔」状態でした(苦笑)(特にご指摘の『啓蒙の弁証法』). 近年はドイツ本国でもフランクフルト学派再評価の機運がまた高まってきている ようで,嬉しい限りです.
41 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 00:00:55 ID:ra7CvtEV
>>40 再評価が嬉しい、というのはなぜかいな?
かつて心酔してた相手から? 世界にとって再評価が幸福なことだから?
ひとしきり、語り、キボンヌ。
マルクス主義者アドルノは硬い厳しい音楽のみが 仮象である上部構造としての近代ブルジョア社会のイデオロギーを 打ち破ってそれに抑圧されていた「自然」を開示させると考えた。 それだから新ウィーン学派を絶賛し、反面チャイコやシベ、ストラヴィンスキー などには低い評価しか与えられなかったわけだ
43 :
芹澤博士 :2008/01/11(金) 00:09:51 ID:dKDKC9OI
>>38 =
>>40 >私も,「もちろんユダヤ系知識人として極めて当然であり納得もできることでは
>ある」と断っておりました.「極めて当然」と強調していた点にご留意頂ければ
>幸いです.
もちろんもちろん。
貴兄の論点を否定しているわけではなく、
ウエイトの置き所を違えているだけだから。
それにアドルノのアレは、
ご指摘どおり「揚げ足取り」には間違いないしねw
ちなみにオレは『否定弁証法』派(んなもんがあれば、だけど)。
卒論はアドルノとハイデガーのヘーゲル読解比較でした。
ほとんど訳がわからんまま書きましたけどw
44 :
芹澤博士 :2008/01/11(金) 00:28:20 ID:dKDKC9OI
>>42 仮にその仮象説を認めるとしても、それがゆえに
チャイコ、シベ、ストラヴィンスキーはダメだ、と
結論付けるのは早計じゃないですか、
だいいち演奏・解釈論のレベルが欠けているし、
それにシベリウスの後期作品なんて、
アンタの言う仮象説モデルが当てはまる可能性だってあるんですよ、
どうですかテオドール!
とオレ的には言いたいところですね。
まぁ頑固なテオは認めないだろうけどw
45 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 00:37:40 ID:q2CbU7ZR
すんげースレになったな。 こういう住人たちが隠れているから侮れんな。 楽しませてちょ。
>>38 アドルノの議論がそういう動機と直結していて理屈は後付けだというなら
その理屈自体の脆弱性を批判すれば済むし、それが通常のプロセスでしょう。
あんたみたいにいわば「動機の不純さ」をことさら強調するようなやり方
はまさに「言いがかり」的に見えるよ。
47 :
ウシウシ :2008/01/11(金) 00:46:10 ID:MZGGVhRx
>>44 「人類の音楽史」という“統一された神話”を書く時、もし
>統一された全体性という神話の中にあって、
決してそれに解消しえない異質な要素を際立たせることで、
その作品のもうひとつの隠された真実を浮かび上がらせる(
>>34 )スタイル
を実践するのであれば、むしろ、シベリウスらこそ積極的に評価されて
然るべきだったよね。
アドルノの弟子(生徒?)で ジャズ・ギタリストになった奴がいたよな。 デイブ・パイクのグループでシタールまでひいてたっけ。
>>39 NHKFMのバイロイト中継でお馴染みの船木君が一生懸命訳した
「音楽の社会的状況によせて」(1932、『音楽・メディア論集』所載)をぜひご一読下さい。
アドルノはたしかに狭い意味での政治には興味はなかったでしょうが、
(狭い意味での政治:たとえば、次の衆院選で自民がどれだけ議席を減らすか、など)
社会の全体的状況のなかで芸術を考える、という点では最初期から一貫していますよ。
50 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 01:35:55 ID:w321Pa5Q
>>30 でも漏れはふと思い出す−−
パブロ・ピカソがあの素晴らしい「アヴィニヨン」を描いたのは、
1907年のことだったではないか!
まったく
>>28 の指摘するように、アドルノの見解は、
時代思潮に還元できない問題を含んでいるよ。
彼は、ドイツ周辺しか見えてないよ。
つねづね音楽美学は、視覚の美学に遅れを取りやすい性質がある。
「全人類の音楽史」(
>>47 )という概念は、発想し得なかった、ということだ。
ニューアカデミズム(
>>18 )流行の時代、人気だったシノーポリの楽曲分析にも
似たような傾向があるよ
51 :
芹沢博士 :2008/01/11(金) 02:10:08 ID:dKDKC9OI
>>49 >社会の全体的状況のなかで芸術を考える、という点では最初期から一貫していますよ。
それはその通りだと思います。
芸術のことだけしか考えないような近視眼的な思考を、
アドルノは一度たりとも持ったことはないでしょう。
ただ、そのことをもってして、
彼が当時の政治状況をリアリティをもって受け止め、
そしてその政治的リアリティと芸術との関係を真剣に考えていた、とは、
どうしても考えにくいのですよ。
「次の衆院選で自民がどれだけ議席を減らすか」的な
「狭い意味での政治」と書かれていますが、
当時のドイツ、オーストリアでは
「次の総選挙でナチスがどれだけ議席を獲得するか」は
もはや「狭い意味での政治」ではありえない状況だったわけですから。
52 :
芹沢博士 :2008/01/11(金) 02:10:47 ID:dKDKC9OI
連投スマソ。 たしかこの時期のアドルノって、 すでにイギリスに半亡命状態にありながら、 就職のことでしばしばドイツとイギリスを行ったり来たりしていたはず。 (遠距離恋愛の最中でもあったw) 「今ドイツに戻るのは危ない」という仲間の忠告を、 あまり真剣に受け止めなかったようですね。 それに、ナチスに対する認識も「どうせ一過性のもの」程度でした。 私見ですが、アドルノが本当の意味でアドルノになるのは、 ユダヤ人という理由だけで、有能な芸術家たちが次々と命を落としていく現実を、 否応なく突きつけられてからのことだと思います。 その意味で言うと、30年代の若書きの音楽論は、 アドルノ一流のキレをすでに見せてくれてはいますが、 深遠を覗き込んだ後の凄み、のようなものはさすがにまだ感じ取れない、 オレにはそう思えてならないのですよ。
53 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 02:46:48 ID:2rP73VYX
>芸術のことだけしか考えないような近視眼的な思考(
>>51 )
の真意が掴みにくいのだが、文字通り、即物的に
“パン無くして、芸術のへったくれも無い”
“ガス室の中では、芸術もへったくれも無い”という唯物論であるなら、
それは現実世界の一面しか捉えられていないんじゃないかな
>社会の全体的状況のなかで(
>>49 )
しか芸術を考えられなかったホモサピエンスの一派が、逆に、
例えばナチスに暴走を許したのだしね。
「ナチスはわれわれ西欧社会が必然的に生み出したものだ」(
>>39 )
という発言も、センチメンタルなだけに響いてくる
現生人類が考えた唯物史観の非常な無力さを改めて感じずにいられない。
54 :
芹沢博士 :2008/01/11(金) 06:02:28 ID:dKDKC9OI
>>53 >“ガス室の中では、芸術もへったくれも無い”という唯物論
53氏がこの表現を出してくれたので、あえてそれに関連づけて言うならば、
アドルノの唯物論について(ちなみに唯物論と唯物史観はほとんど別物ですが)、
こんなふうに表現できるのではないかと思っています。
すなわち、
「音楽を奏でることが出来た者が、そのスキルゆえにガス室行きを免れた」とき、
「ガス室送りを命じた者が、家族と音楽をこよなく愛する者だった」とき、
「ガス室の中で最後に出来ることの数少ないひとつが、歌を歌うことだった」とき
その時、音楽とは一体何なのか、
こうした苦いアイロニーに何とか答えようとする試みこそが、
アドルノの唯物論の実質を形づくるものだったのではないか、と。
「たまたま収容所の所長が音楽好きだっただけ。そんなのと音楽とは何にも関係ない」
という結論を、アドルノは認めないでしょうね。
それが本当に「たまたま」なのか、いやそうではなく、
そこに何がしかの必然性・関係性(場合によっては共犯性)があるのではないか、
それがアドルノの「唯物論」の本質的課題だったんじゃないか、
と強く感じています。
だから、オレにとってのアドルノの音楽論は、難解であるというのとは別に、
何か苦い味がするんですよ。
55 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 06:05:16 ID:cj5SAcs/
アドルノノ理論は日本の音大でも教えるべきだな。
56 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 08:55:22 ID:e8Z6KvQc
>>54 >「音楽を奏でることが出来た者が、そのスキルゆえにガス室行きを免れた」とき、
「ガス室送りを命じた者が、家族と音楽をこよなく愛する者だった」とき、
「ガス室の中で最後に出来ることの数少ないひとつが、歌を歌うことだった」とき
その時、音楽とは一体何なのか
ここ数年で観た、いくつかの戦争の映画を思い出したよ。。。
にがいね。。。
必死でかき集めたDECCAの「頽廃音楽シリーズ」を取り出して聴いていたよ
シェーンベルクの「ワルシャワの行き残り」も聴いてたよ
57 :
名無しの笛の踊り :2008/01/11(金) 11:03:42 ID:wF7+ADAH
>>37 トスカニーニ、クーセヴィツキー、セル、バルビローリ、(チェリビダーケ)…といった
シベの名演を残した往年の大指揮者・名指揮者すら、取り上げる曲には強い偏りがある。
積極的な意味でシベリウス全集を作るというのは、全く新しい音楽美学が生まれ、そして育った証左だ。
ベルグルントなんか聴くと、同じ曲でも、上記の録音とは、
時代のみならず、音楽世界−−ひいては文化的価値観、世界観すら、まるで別物だ。
…しかしながら、その価値観の「根」は、そもそも、つねに存在していたのではないのか?
アドルノの時代にも厳然として存在し呼吸しながら、
しかしドイツ音楽まんせー派に一方的に、軽蔑され、差別され、疎外されていただけ
なのではあるまいか?
アドルノが「ナチスはわれわれ西欧社会が必然的に生み出したものだ」(
>>39 )と述懐するとき、
その“西欧”とは、どこからどこまでをイメージしていたんだろう。
少なくとも、その“西欧”の地図の中心には、ゲルマン国が描かれていたのではあるまいか?
まあアドルノがその時代でみても音楽作品評価に関して狭い範囲 の評価だったことは確かだろうな ジャズ批判にしてもその当時にジャズの価値を認めた知識人・音楽家 はたくさんいたわけだしな ドビュッシー、ラヴェル、クルシェネク、クルト・ワイル、ブレヒト ヒンデミット、ショスタコ等々
59 :
芹澤博士 :2008/01/11(金) 19:03:47 ID:lV6Bftw6
>>58 たしか海外の研究書で
『アドルノはなぜジャズを理解できなかったのか』
というタイトルの本があったのを思い出したよ。
「そのテーマで本1冊まるごと書けるんかい!」と
驚いた記憶があるw
人を救ったり人を殺したりするのは音楽じゃなくて人間なのよ。
61 :
芹澤博士 :2008/01/11(金) 19:40:00 ID:lV6Bftw6
>>60 その「人を救ったり人を殺したりする」人間なしには、
音楽はひとつとして生まれません。
そうである以上、人間と音楽を切り離すことはできない、というのが
アドルノの(彼だけに限りませんが)基本的な視座でしょうね。
せっかく60氏がテーゼを出してくれたので、
それを拝借してちょっと思考実験をしてみようと思うのですが、
「人を救ったり人を殺したりするのは『音楽』じゃなくて『人間』」というテーゼの
『音楽』と『人間』を取り替えても、テーゼとして成立するでしょうか?
すなわち、
「人を救ったり人を殺したりするのは『人間』じゃなくて『音楽』」ってアリ?
>>51 >>52 30年代初頭のアドルノの音楽論には、後年ほどの凄みは感じられない、
というのは、むしろ芹沢博士の誠実な人柄(これは皮肉ではありませんよ)が
ゆえのことのように感じられますね。私見では、基本的な道具立ては、
>>49 で挙げた論文ですでに出来上がっており、未完に終わった美学理論まで
個々具体的な作品評価も呆れるほど首尾一貫していると思います。
アドルノの具体的な政治状況判断が甘く、ナチ支配も一過性のものと考えていた、
というのはご指摘のとおりでしょう。1934年にアドルノはナチスに迎合的と
受け取られても仕方がない文言を含む音楽評を一つばかり書いています。
それでは、アドルノはそういう状況判断の甘さを捉え直し、
その反省を、音楽理論を含む自らの思想の養分としたのかといえば疑問です。
>>54 の
>「たまたま収容所の所長が音楽好きだっただけ。そんなのと音楽とは何にも関係ない」
>という結論を、アドルノは認めないでしょうね。
は仰るとおりでしょう。
ですが、
>「ガス室送りを命じた者が、家族と音楽をこよなく愛する者だった」とき、 ・・・
>その時、音楽とは一体何なのか、
>こうした苦いアイロニーに何とか答えよう
というのは、アドルノの問題意識というよりは芹沢博士の問題意識と感じられます。
アドルノにとってそれはアイロニーでも何でもなく、啓蒙の弁証法の一帰結だろうと思います。
63 :
芹澤博士 :2008/01/12(土) 01:35:39 ID:absyoW/5
>>62 ご丁寧なリプライ、ありがとうございます。
生まれてこのかた「誠実な人柄」などと言われたことがないため
(しかも2ちゃんという場で!)、
飲んでいたキリン生茶が気管に入ってむせってしまいました。
>というのは、アドルノの問題意識というよりは芹沢博士の問題意識と感じられます。
ご指摘のとおり、かなり脳内補完が入っていて
「マイ・アドルノ」に近いものかもしれません。
まぁ、研究者でもなんでもない一介の市井人が、
アドルノのクソ難しい文章を読み通すのは
(しかもわざと簡単に読めないように書いてあるのが憎らしい)、
自分の問題意識に相当強引に引き付けでもしない限り、
かなり厳しいところがありますので。
ただ、そういう事情は別として、貴兄がおっしゃるように、
1930年代にはアドルノはアドルノとして“出来上がっていた”となると、
逆に、1940年代に彼が経験したはずの多くの事柄、例えば
ユダヤ人の虐殺(広い意味で親友ベンヤミンの死も含めて大過ないでしょう)や
自身の亡命経験(カリフォルニアはアドルノにとって“文化の果つる地”だったようですね)は、
いったいどのような意味を持っていたのかが気になります。
1940年代の経験は、1930年代にはすでに事実上仕上がっていた彼の理論に、
その正しさを裏付けるための歴史的結果でしかなかった、ということなのかどうか。
そのあたりはどうお考えですか?
64 :
名無しの笛の踊り :2008/01/12(土) 09:00:45 ID:hKpn9s4b
もはやついていけてない俺涙目www
65 :
名無しの笛の踊り :2008/01/12(土) 14:23:48 ID:RkWDuKZT BE:175021823-2BP(20)
66 :
芹澤博士 :2008/01/12(土) 14:57:20 ID:uQf8ADN0
>>64 当事者が言うのもなんですが、その通り!
話がこの流れだけになってしまうのは、かえって鬱陶しい。
せっかく2ちゃんなんだから、いろんな話題を同時展開して、
それぞれが興味のあるほうに進んでいけばいいんですよ。
67 :
↑ :2008/01/12(土) 14:59:04 ID:uQf8ADN0
68 :
芹澤博士 :2008/01/12(土) 15:19:58 ID:G60e54M5
ちなみに、オレが今一番訴えたいことは、 なんかアドルノって、シベリウスに顔似てなくねーか? なぜ誰もここ突っ込まない! ってこと。他は譲れてもこれだけは譲れん! ……連投が続いたので、2、3日消えます。 失礼しましたぁ。
69 :
名無しの笛の踊り :2008/01/12(土) 18:51:26 ID:1/mn09PU
春サイの初演に混乱した当時のパリのコンサバ・ブルジョワ、 ドビュッシーを前に狼狽したフルヴェン、 アドルノは、自分の“優秀な”頭脳で割切れない音楽世界に戸惑ったのでしょう。 「だって、シベなんてスカンディナヴィアの未開人、楽典の教科書に載ってないじゃん!」
>>楽典の教科書 そういえばアドルノは「もしシベリウスが偉大な作曲家であるならば バッハからシェーンベルクにいたる音楽の規範の全てが無意味なものとなる」 っていってたから、その発想は結構真実に近いのかも それだけシベリウスがそのヨーロッパの主流の音楽から見て 異質だったってことかな
音楽という海で泳ぐ仲間同士じゃん、と思う シェーンベルクはサメでシベリウスはクジラだ
72 :
名無しの笛の踊り :2008/01/13(日) 09:09:33 ID:lcNWU4ff
要するにこの人も音楽の我流「正しい軌道」という主張をして他を認めなかったわけですね。
どんな世界にもよくいるんだよ。 ちょっと弁が立つもんで得意になって、芸術に派閥政治を持ち込み、敵・味方で全てを決め付ける輩 20世紀のハンスリックだね
>>72 >>73 よくその程度の知識と認識でアドルノのスレなんかにカキコできるな
勇気あるねオマイラwwww
75 :
名無しの笛の踊り :2008/01/13(日) 16:02:38 ID:p2ldn06P
>>74 少年よ、大志をいだけ−−そんなに萎縮せずに。
キミのその言葉は、アドルノ博士に投げられる。
いわく、
「シベやチャイコやストラヴィンスキやジャズについて
よくその程度の知識と認識で本なんか書けるな
勇気あるねオマエwwww」
煽るつもりは毛頭ない。みんな自由に発言したまえよ。
勿論あまりに無思慮なのはご遠慮願いたいが、
>>72 >>73 は、別に健全な意見だ。
アドルノの不用意なシベ批判が、彼の無見識ないし音楽体験の欠如によるものであり、
より前進した体験さえあれば彼も意見を撤回したかもしれないことは、
我々よりずっと彼に対して“知識と認識”が豊かな方の発言(
>>39 あたり)にも見付かるではないか。
2ちゃんカキコに比べれば、論文の出版は、
遥かに社会的・道義的・倫理的責任を負わねばならないところ、
アドルノでさえ、こんな乱暴な結論を提出しているのさ
2ちゃんは、皆んなでざっくばらんに語れる場なのだから、
そんなにビクビクすることとないよ。
Please join us!(なんかYMCAじみて赤面。。。)
アドルノの言うとおり。シベなんて論外だよ。
>>75 それにしてもアドルノを読んだことないのに
アドルノ批判するのはやっぱおかしいだろう。
ネット右翼が誰も大江健三郎を読まずに
批判だけしてるのと同じだよ。
79 :
75 :2008/01/13(日) 17:25:54 ID:p2ldn06P
>>78 確かにそうなのだが、そこは2ちゃん、すこし寛容になろうじゃないか?
あんがい、外野から飛んでくる意見に、往々にして、
思いがけない発想転換のヒントが含まれていることがあると、
私は経験で学んだ。
いろんな若い声、経験を積んだ人の声、聞こうじゃないか
何を言ってんだ。こんな屑の世界に何をもとめてるんだ。
81 :
名無しの笛の踊り :2008/01/13(日) 18:15:42 ID:guDNnXAY
>>80 そうイラついた時こそ、
シベリウスで北欧生活。
シェーンベルクこそが現代(当時の)における唯一の「真正」の音楽である というテーゼが、おかしいと思います。 かといって、ヘーゲル流の進歩史観を音楽の発展に並行させることは、 意匠としては評価できるし、得るところも多いが、それが「唯一」というのが 欧米的グローバリズムの欠点ではないだろうか。
83 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 07:28:41 ID:ohTNLmJW
>>74 間違ってると思ったら反論すればいいんだよ。
議論のテーマとなるテキストを読んだことを前提の意見なら 間違ってればテキストやその解釈に基づいて反論できるし 反論が必要な範囲も限定されるから議論が成立するけど 読んでないんじゃ無制限の範囲で間違った意見が可能だから 反論する方の負担だけが大きすぎて議論が成立しない。 ネットでの議論がほとんど成立しないのはそのせい。
85 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 08:15:29 ID:ohTNLmJW
んじゃ、成立しないと分かってるものをなぜいじる? 議論が成立しないと最初からわかってて触れるほうがより悪質だと思うが
>>85 アドルノを読んだことが参加の条件,とすれば
ネットでもアドルノについての議論は成立する。
読んでない奴はROMればよい。でもそれができない。
そもそも条件や前提のない自由な議論なんてネットの外でも幻想だ。
小学生と会社経営や分析哲学の議論をしてもしょうがないだろう。
知識もなく勉強もしなくても議論に参加できて当たり前に
なったのがインターネットの最大の弊害じゃない?
87 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 12:22:30 ID:2mzHvR++
みんな、先輩方は議論にくたびれてるらしい。 そっとして置いてやろうぜ w
>>84 >>86 そんだけの文字数を打つ暇があったら、
アドルノの論と照らし合わせて間違ってるなり合ってるなり言ってよ
インターネットの弊害を説いてるけど、じゃあなんでここに居るの?
89 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 13:37:25 ID:Etzbl6+w
>>88 に賛同。うじうじ足踏みは、ほどほどにすべし
フットワーク軽やかに行こう。一応ここ音楽スレだしな
90 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 13:51:04 ID:ohTNLmJW
そもそも
>>1 は「みんなはどう思う?」しか書いてないんだよな
誰も学術的に正しい事以外ROMれなんて書いてない
1は「この人やったら難しい事ばっかり言うけど、 実はよくよくかんがえてみると???な所が多い」と書いているが、 1は「???」の中身を明らかにした上で、「みんなはどう思う」と 尋ねた方がよい。
>>63 PCから離れてましたので、亀レスご容赦。
強制収用所などでの大量虐殺、盟友の死などがアドルノの思想に
どう反映しているか、という点ですが、そういう具体的な事実によって
自分の思想の正しさをいよいよ確信した、というところではないかと思います。
その確認に、一抹の苦さを感じていたのは確かでしょうが。
亡命体験も同様ですが、他方で、何のかんのといっても
アメリカの実証的な社会科学の方法を学んだ点は強みにはなっていると思います。
アドルノとシベリウスの外見的類似ですが、個人的には
頭髪がない点を除けば、あまり類似性は感じません。
アドルノのシベリウス評価が話題になっていますが、
アドルノは、たとえばブルックナーについてもかなり否定的にみています。
シベリウスの第4交響曲以降をたとえ良い演奏で聞いたとしても
彼の評価が変わるとは思えませんね。
たしか、クルト・ヴァイルのマハゴニーの初演評だったと思いますが、
彼は「事実を前にしては批判は黙らざるをえない」という言い方をしていた
記憶があります。理論からすれば認めがたい作品も、アドルノ自身の胸を打つ、
ということは間違いなくあったでしょう。それでも理論は譲らない、
というのがアドルノのスタンスではなかったかと思います。
俺は個人的にはアドルノは谷崎潤一郎に似ていると思う。 外見の話。
俺は個人的にはアドルノはアドルムに似ていると思う。 字面の話。
95 :
名無しの笛の踊り :2008/01/14(月) 21:19:03 ID:2mzHvR++
俺は個人的にはアドルノはアーノルドに似ていると思う。 アナグラムの話。
96 :
芹澤博士 :2008/01/14(月) 22:04:57 ID:anYb82VE
>>92 >強制収用所などでの大量虐殺、盟友の死などがアドルノの思想に
>どう反映しているか、という点ですが、そういう具体的な事実によって
>自分の思想の正しさをいよいよ確信した、というところではないかと思います。
回答ありがとうございます。
薄っすらと感じてはいたものの、あまり認めたくはなかった酷薄な結論でした。
ユダヤ人の大量虐殺や親友の死によってその正しさが証明される
「啓蒙の弁証法」の凍て付いた地平は、
かつてアドルノをある憧れを持って読んだことのある者にとっては、
立ち続けるには厳しすぎる場所のようです。
所詮「マイ・アドルノ」は「マイ・アドルノ」でしかなかった、
というところでしょう。
理論からすれば認めがたい作品も、アドルノ自身の胸を打つ、 ということは間違いなくあったでしょう。それでも理論は譲らない、 というのがアドルノのスタンスではなかったかと思います。 常識的に考えれば、理論が破綻しているということではないかな。
>>97 >常識的に考えれば、理論が破綻しているということではないかな。
例外があったら破綻しているというならほとんどの理論は破綻している。
むしろ例外を包含できるように理論を修正していくのが普通だし
アドルノはそうしたと思う。
99 :
シャルル :2008/01/15(火) 14:01:48 ID:NKBY0Swr
自分の頭(思い込み)と、自分の直感・感じたものの間に、齟齬が生じることがある。
すると大抵の人間は、後者を誤りと決め付ける。なぜなら、自分の経験から、あるいは他人を観察することによって、
「人間は間違いやすい」と知っているからです。
でも間違ったのは、前者(信仰・思い込み)なのか、後者(感覚・直感)なのか?
彼はその吟味を避けていた(あるいはそこから逃げていた)のではないでしょうか?
上で会話されている、ホロコースト体験の影響だのなんだのなんて、
それはエクスキューズに見える。その体験が軽かった、なんてもちろん言いやしない。
でもそれと理論の整合性とは次元の異なる話のはずです。
上で交わされている会話(
>>96 >>92 のライン)には、そういう歯切れの悪さを覚えます。
100 :
名無しの笛の踊り :2008/01/15(火) 14:25:36 ID:sR3w1wS+
>>98 いや、アドルノはそうできなかったのだよ。――そこがいま議論になっているのですね
ここを
>>92 氏あたりは
戦中体験を通して「自分の思想の正しさをいよいよ確信した」のだと書くのだけど、
じっさいには、
ワイルもジャズもシベリウスも"包含"していけないほど、
理論を"修正"していけないほど、
《硬直化》していった、――と書く方が適切だと、洩れは思うな。
101 :
シャルル :2008/01/15(火) 14:36:31 ID:NKBY0Swr
>>100 そういうことさ。
アドルノにとって、ホロコーストは、自分の理論の正当化を保証する“都合のよい事実”だが、
かつて批判したクルト・ヴァイルの作品に迂闊にも(!)感動してしまった、という事実は、
同じ事実であっても、自分の理論にとっては、
看過すべき、沈黙すべき、忘却すべき、“不都合な事実”だった、ということです。
102 :
名無しの笛の踊り :2008/01/15(火) 14:56:37 ID:kyr93L/0
では、この辺でシュシュットズルゼンの音楽理論についてアドルノと比較して語りましょう
>>100 >>101 アドルノの理論家としての姿勢が「硬直」している、
というのはその通りだと思います。
ただ、アドルノを(あえて)弁護するなら、彼は、音楽なら音楽の、
すべての事象を包括するような理論を構築することを最初から拒否しています。
そんな「理論」は偽りだ、というのが彼の考えでしょう。
彼の音楽論は一面的だと私も思いますが、同時に確信犯的に一面的なんだろうな、
とも思います。おそらく意図的な物分りの悪さと、
>>92 で挙げたクルト・ヴァイル評のように、
「理論の不整合」を馬鹿正直に告白してしまうところが、とても面白く感じられます。
アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、
ということになるのでしょう。
104 :
芹澤博士 :2008/01/16(水) 00:45:10 ID:VqwjuGWJ
>>99 >でも間違ったのは、前者(信仰・思い込み)なのか、後者(感覚・直感)なのか?
槍玉にあがっている(というのとも違うのでしょうが)
>>92 です。
>>99 氏が誤解している点があるので、それに対してリプライ。
オレが自分で誤りを認めているのは、
「音楽というものの有り様や本質を、人類のホロコースト体験との観点から捉え直してみる」、
その際の拠り所をアドルノに求めていた、という点です。
それがどうやら、かなり過剰な期待・勝手な思い込みだったらしい、と反省した訳です。
つまり、「音楽/ホロコースト」云々の問題自体を考えることを放棄したつもりは、全くないんですよ。
別にアドルノがいなければそれが考えられない、という訳ではないのですから。
その点のみ、誤解なきよう。
「歯切れが悪い」と貴兄が感じられるのは、むろん勝手です。
でも、その「歯切れの悪さ」にも、いや「歯切れが悪い」からこそ、
そこに一片の真理や何がしかの思いを見出せる、ということはあるものですよ。
そのことを極限的に方法論化したのも、これがまたアドルノですがね。
オレがアドルノから学んだ一番のことは、実はこっちなんです。
なので、アドルノはまだまだ「捨てません」。(うわっ、エラそ〜)
105 :
99 :2008/01/16(水) 10:02:41 ID:25BnYqY4
>>104 きちんと文を整えなかた。上の段落、後半の主語は、他ならぬ「アドルノ」さん、です。
漏れは、なんて頑固一徹で自分に対して不正直な爺だろう、と率直感じた。
…というより、これじゃ証人喚問を受ける政治家なみwww
事実であっても、見てみぬふり、気付かないふり。
あ。
そうか。彼の論争も所詮は、政治的な「権力闘争」の過ぎないのねwww
論壇での自分のポジションが重要だったんじゃないのかな
感動したら、素直に「感動した!」って、どこかのソーリ大臣じゃないけどさ、
なぜ、そうといえないのだろ。かっこう悪い?
>アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、
ということになる(
>>103 )
>、いや「歯切れが悪い」からこそ、 そこに一片の真理や何がしかの思いを見出せる(
>>104 )
にいたっては、もうwのもじかけないほど、二重三重の言い訳の上塗り。
論文の誠意ある読者を馬鹿にしてます。
彼は、曲がりなりにも、発表の責任のある公の出版物の紙上で、
個人批判を展開している。後世、どうやら自分の間違いに感づいたかも知れぬ。「でも黙っとこう」って。。。
⇒こりゃもう文学ですね(文学を悪くいうつもりはないです)。
議論は成立しない。
ならそう割り切って、このスレでは、この無責任発言者・アドルノ氏の、
精神の歪みを診断するほかはなくなってきますね。あ〜あ
106 :
名無しの笛の踊り :2008/01/16(水) 10:30:36 ID:cO2BGEFB
私も分かってきました。
当初アドルノとは、稀代の論客、優れた人文科学者だと思っていたけど、
じつはそれは彼のとった外づら=ポーズに過ぎず、
本当のところは、「にんげんだもの」的な、
不純な考えや、衒いや気取り、自己矛盾や、他者攻撃の性癖を抱えこんだ、グダグダ、ぐにょぐにょ、ぴりぴりの
2ちゃんねらー的
近代人だったのですね
このスレッドのリーダー的立場にある
>>103 >>104 諸兄の書込みで、
理解できてきましたよ。
107 :
105 :2008/01/16(水) 10:37:48 ID:25BnYqY4
>アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、 >ということになるのでしょう。 この論理が通るならあらゆるものは弁護できるなwww 政治家の屁理屈とソックリだ おまえさんの精神の歪み、卑しさが見事に露呈しているよ
109 :
105 :2008/01/16(水) 10:42:25 ID:25BnYqY4
ついてく必要もない話(
>>65 )
という上でのカキコが、今更ながらに賛同されます。
アドルノの論調が「確信犯的に一面的」(
>>103 )、という指摘が、もし、正しいのなら。
文学として嫁、というのなら。
でもそれなら文学板がお似合いだよ。ま、いいか。寛容でいようね
110 :
名無しの笛の踊り :2008/01/16(水) 10:59:39 ID:cO2BGEFB
してみると―― アドルノ大明神こそは、 2ちゃんねらーの守護神な〜り!
たかだか、アドルノの理屈で言えばこうなる、という紹介だけで、 >この無責任発言者・アドルノ氏の、 精神の歪みを診断する >おまえさんの精神の歪み、卑しさが見事に露呈している というのは、素朴にすぎるというものでしょう。 「精神の歪み」という言葉は、内容を明確にしないまま、 マイナス・イメージのみを喚起させようとする情緒的な記号です。 議論を行いたいのであれば使わない方がよいでしょうね。 >アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、 >ということになるのでしょう。 と書いたところ、それではアドルノの音楽理論は「文学」ではないか、 という趣旨の書き込みがいくつかありましたが、 その点は良く考えてみる必要があると思います。 音楽一般のシステムについての言説ではなく、 個々具体的な音楽作品についての批評は、「理論」なのか「文学」なのか、 仮に「文学」であるとすれば、「議論」は可能なのか不可能なのか。 私は、アドルノは音楽批評を基本的に「エッセイ」と考えていた、と見ています。 「エッセイ」であるからには「文学」の一形態でしょうね。 そして彼は、音楽作品そのものについても、また音楽作品についての言説も、 「エッセイ」という形で「議論できる」ものとみなしていたと思います。 「文学」であれば議論の対象外になる(ゆえに、鑑賞するほかない?) という考え方には、私自身同意できませんね。
112 :
名無しの笛の踊り :2008/01/16(水) 12:50:21 ID:25BnYqY4
>>111 「エッセイ」とみなしていた? えーほんとかしら?
それって、また例によって、アドルノ援護射撃のための、詭弁?逃げ?はぐらかし?デツカ?
「エッセイ」って思考の“実験”と言う意味でツか?
記号論理学的なゲーム? 建前上の? 実体を伴わない?
机の上の? 正月恒例のかるたや、福笑いでもあるまいし。
ところで、その根拠はいずこにあるのか、どうか教えてくださーい!
>過剰な期待・勝手な思い込み(
>>102 )でないことを期待してます。
(煽りじゃないです)
113 :
112 :2008/01/16(水) 13:09:05 ID:25BnYqY4
ランチタイムに連投しちゃお−−
文学が議論の対象にならない、とは言いたいのではありません。
もし彼の理論として書いたものと、実際の生き方・人生折々の態度表明との、
決定的な断絶を理解するには、それこそ
相田みつを心の詩「にんげんだもの」的(
>>106 )な全的な理解、
あるいは物語としてのアドルノを考えざるを得ないではないか、
と言いたいんです。
思考実験でしかない音楽理論なら、スレタイも
「アドルノの音楽論」=「音楽論(アドルノによる)」とするよりは、
「アドルノ と 音楽論」とした方がお似合いです。
それならここが、“アドルノの物語”を語り合う場だ、
ということが一層鮮明になるはずです。
連投する暇にアドルノの書いたものをひとつでも自分で読もうよ。
115 :
113 :2008/01/16(水) 13:29:31 ID:25BnYqY4
3連チャンw
>>111 いわゆる“アドルノ理論”と、彼による音楽論(エッセイ?)とは
それぞれの論理を辿っていくと、結局ガチンコになるわけです。
この事実を前提にして語らないと、結局、会話は、アドルノの分裂症傾向とか二重人格的性向を
浮かび上がらせる羽目になる。それを「精神の歪み」と表現したのですね。
表現はたしかに「素朴」、
でも、
指摘は決して「素朴」とは言えませんね。
>>105 >アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、
>……
>にいたっては、もうwのもじかけないほど、二重三重の言い訳の上塗り。
>論文の誠意ある読者を馬鹿にしてます。
やっぱり
>>105 は1冊でもアドルノ読んだほうがいい。いっそ解説書でもいい。
その方法は、アドルノが哲学や音楽や文学作品を批評するときの基本的な方法である。
それを知らないとは、やはりアドルノを1冊も読んだことがないことは疑いない。
基本的なことを何も知らないでについて書き込んでいるから、目もあてられないことになっている。
アドルノを読んだことがある者からはそれこそ「二重三重の言い訳の上塗り」にしか見えない。
>>112 >「エッセイ」とみなしていた? えーほんとかしら?
>それって、また例によって、アドルノ援護射撃のための、詭弁?逃げ?はぐらかし?デツカ?
アドルノが音楽批評(に限らないが)をエッセイと見ていた、というのは、アドルノ論としてはかなり昔からある、むしろ一般的な理解だ。
アドルノのエッセイ集「ミニマ・モラリア」を彼の最高傑作とみなす研究者も少なくない。
これまであえて議論に参入せず推移を見てきたが、やはりアドルノを読まずにアドルノについて語るのは無理、と結論する。
いくら2ちゃんねるとはいえども、あまりに幼稚すぎて見ていられない。
しかもそういう輩の意見に引きずられて付和雷同する者もいて、見苦しい。
何も知らないのに盲論をがなりたてるだけの者に、一から教えてやらなくてはならないのは辛いと思う。
そこまでしてやる必要も感じないから黙っている、という者も多いだろう。
私は普段はアドルノを支持しない立場だが、これほどの無理解にさらされると逆に支持したくなってきた。
こういう奴らが大江健三郎を一冊も,件の「沖縄ノート」すらも読まずに ネット情報だけで大江批判をするわけだな。 山崎行太郎が曾野綾子に対してあんなに怒ってる気持ちもわかる。 ものを書く仕事をしているものなら許せんよ。
>>116-117 >アドルノの理論をアドルノ自身に適用すれば、そういう「破綻」にこそ真実が宿る、
↑これに相当する部分について基本的なことを知りたいから、何という本の何ページを読めばいいかおしえてくれ。
訳文の意味不明な箇所もガシガシ質問させてもらうからそのつもりで。
あなたは読んで理解しているんだろうからね。
120 :
112 :2008/01/16(水) 16:12:02 ID:25BnYqY4
>>117 アドルノらが、当時ドイツ文化圏では必ずしも一般的ではなかった
「エセー」の形式を盛んに援用したことは、よく知られています。
“結論”を出す強迫観念から逃れることで、“問い”を探り出す、あぶりだす、発見するには、
じつに効果的な文章の形態です。
しかしながら、同時代の、非・新ウィーン学派に対する独善的な攻撃振りは、
逆に、この「エセー」形式のもつ、責任逃避の性質を悪用していたのではないでしょうか?
アドルノの論調は、しばしば硬直し、しばしば極論に向かって暴走する。
そこに私は不快感を覚える訳です。
(※「ミニマ・モラリア」は入門書としても格好ですね)
(※曽野さんは、私も4半世紀来、賛同できません)
121 :
112 :2008/01/16(水) 16:14:56 ID:25BnYqY4
(※曽野さんは、私も4半世紀来、賛同できません)
↓
これは
>>118 さんに対してね。
それにしても大江さんの一件にこだわりますね。私も共鳴しますが。
>>119 >↑これに相当する部分について基本的なことを知りたいから、何という本の何ページを読めばいいかおしえてくれ。
そこまで面倒をみてやる必要を夜郎自大な
>>119 には毛ほども感じない。
今はアドルノについてのコンパクトな解説書がたくさん出ているので、そのどれか1冊でも繙けばすぐに見つかる。
さもなければググれ。
アドルノの美しい声聴いたことあっか、皆のもの。 イタリ系音楽家のおっかさんの美声を受け継いだってことだ。 たしかツェランの死のフーガを読んでた。一橋久保担当の放送大学で流れてた。 音楽的天性はやっぱかなりのもんじゃないかと思った次第。 啓蒙なんたらとかは俺には難しすぎてようわからんが、 細見などが訳してる社会学講義録みたいのはかろうじて読める。
124 :
名無しの笛の踊り :2008/01/16(水) 16:48:05 ID:cO2BGEFB
>>116 「言い訳」の語義からすれば、どう
>>105 が噛み付いても、
「二重三重の言い訳」にはならないですね
展開しているのは"言い訳"とは別モンだよね
>>122 ハッハハ。予想通りの反応。
実は読んでないから紹介できないと。
126 :
112 :2008/01/16(水) 17:15:27 ID:25BnYqY4
>>125 OIOI。あおるな、あおるな (^-^;
>>115 「精神の歪み」を「分裂症傾向とか二重人格的性向」というような
学術用語っぽい語彙で言い換えても同じことでしょう。
アドルノの理論と彼の批評の具体的内容との不一致が仮にあるとして、
その原因を、貴兄はアドルノ個人の人格的特性(精神の歪み、分裂症傾向、
二重人格的性向、その他)に求めておられる。
アドルノの「音楽理論」についてではなく、
>>113 >“アドルノの物語”
を語りたいのは貴兄自身なのではありませんか?
デリダの流行以降、日本でも「作者の死」を叫んで回る評論家?は
多々おりましたが、そういう比喩的な意味だけではなく、
アドルノ本人はもう30年近く前に死んでおります。
アドルノに会ったこともなければ、血縁関係にもない私自身は、
アドルノ本人がどのような人物であったかには、ほとんど興味はありません。
アドルノが生きていているのであればともかく、死んで30年近くも経って
いまさら当人について「精神が歪んでいる」とか「独善的だ」とか「無責任だ」とか
言っても仕方のないことのように私には思えます。
もちろん、貴兄がアドルノの文章を読んで不快だと感じるのは貴兄の自由ですが。
>>119 今も入手できるものかどうか知りませんが、「楽興の時」(三光・川村訳、白水社)
の冒頭に収録されている「ベートーヴェンの晩年様式」をお勧めしておきます。
その他の文章もアドルノの音楽論の特徴を良くあらわすものが収められています。
>>127 どうもありがとう。早速借りることにします。
>>125 www本当にそう思っているのかね。君、面白いねえ。
そこまで幼稚だと、かえって可愛く見えて来たよ。www
とりあえず新しいところでは、ヴィッガースハウスの解説書なら邦訳があるはずなので、それでも読みなさい。
本当ならマーティン・ジェイのもののほうがアドルノの方法論を(あえてアドルノに逆らって)わかりやすく解説しているのでいいのだが、もう絶版で手に入らないだろう。
音楽論に関しての記述は薄いが、アドルノの批評全般の方法論についてはこれで十分理解できる。
そこに、アドルノのどの著作のどこを参照すればいいか書いてあるから、それを辿ればいい。
本当はアドルノ自体の著作「否定弁証法」に挑むのがいいのだが、長いしさすがに難しいだろうからな。
この上、ページまで尋ねるつもりか?そこまでお人好しにはなれないね。
みんな苦労してアドルノの難しい文章と格闘してきたのだ。少しは君もそうしたまえよ。
>>129 おいおい、あんまりからかうな。
アドルノの新しい読者が一人増えればいい、って考えようぜ。
でも、たしかにマーティン・ジェイのは分かりやすかった。
131 :
名無しの笛の踊り :2008/01/16(水) 18:53:32 ID:25BnYqY4
どうもこういう会話になると、
>>129 みたいな皮肉っぽい口調になるのが
2ちゃんの傾向だ。麻生太郎のひん曲がった唇を思い浮かべる。
おや
もしかして ほんものの麻生さんかな
ふふふ
132 :
127 :2008/01/17(木) 00:57:40 ID:ajoa6pVL
ジェイの『アドルノ』は、現在は岩波現代文庫に収録されていて、 新本が入手可能なようですね。たしかにジェイは、ある程度 哲学の理論的な訓練を受けた人にはわかりやすく書いてありますが、 アドルノの思想よりも音楽の方に興味がある人には退屈な(読むのが苦痛な)本ではないか、 という気がします。音楽の方に興味のある方には、具体的な音楽作品がたくさん 取り上げられている点で、(しかも作品の魅力に新たな光を当てているエッセイが多い点で) 『不協和音』よりも『楽興の時』の方を推したい気がします。 アドルノの音楽論の基本的な枠組みを押さえておきたい、という方には、 『新音楽の哲学』よりも平凡社の『アドルノ メディア・音楽論集』に 収められた「音楽の社会的状況によせて」を再びお勧めします。 『新音楽の哲学』の三分の一程度の分量で、全体の見通しがつけやすいと思います。 アドルノの翻訳として一番読みやすいのはやはり三光訳の『ミニマ・モラリア』 だと思いますが、「音楽の社会的状況によせて」もかなりがんばって よく訳していると思います。
133 :
名無しの笛の踊り :2008/01/19(土) 09:59:48 ID:4uV02YhB
アドルノを1冊も読まなくてもアドルノについて語れるスレがあるって聞いてきたんでツが あれ、みんなお勉強の真っ最中かな?
読まないのに語りたいと思うことが、おいらには理解できない。 1冊でなくてもよいから、論文の1本くらい読むことを薦める。 『バッハ頌』収録の小品(『プリズメン』の中の1編)でもよい。
ベートーヴェンを聞いたことがなくてベートーヴェンについて語ったりはしないだろう。 アドルノについても同じはずなのにな。 「知らないので教えてください」と謙虚に聞くならいいが、その謙虚さのかけらもない。 ネットの特性なのか本人の資質のせいなのかは知らないが、ひどいもんだね。
136 :
名無しの笛の踊り :2008/01/19(土) 12:56:09 ID:Bimb83S9
何だかお先真っ暗な感じだなァ・・・ 結局受験時代の価値観を引きずった自称「優秀」な人がアドルノ公爵様の既に論証された事柄を脳内で走らせて自分が考えて発言しているつもりになってるだけのように見える。 こうゆうのに睥睨されて新しい発想や感覚の芽が潰されていくんだよな。 どちらにしてもこのスレによって何かが発動したことは間違いない。これから「優秀」な人が何を叫んでも無意味な出来事が起こるよ。
ID:Bimb83S9のキミ。 アドルノについて200字程度の文章をアップしてごらん。
アドルノはドイツ生まれでアメリカで活躍した社会心理学者であり, ナチスを支持した人々の分析から生まれた「権威主義的パーソナリティ」の 概念や,権威主義的パーソナリティを測定するカリフォルニアF尺度は 現在の社会心理学にも一定の影響を与え続けている。 趣味として音楽評論やエッセイの執筆も行っていた。
140 :
136 ちいせえ、ちいせえ :2008/01/19(土) 14:33:30 ID:Bimb83S9
>>138 アドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノアドルノ
…と50回繰り返したら満足しますか?
もしくは、
アドルノ/ホルクハイマーのコンテクストから、同一性批判について
200字で要点まとめればいいのでしょうか?
もっと皆んなに門戸ひらこうよ。ここは音楽の板です。
興奮無用。ムキになると、かえってキミの器の寸法が測られもします。
学内でもご注意あれ。
141 :
136 :2008/01/19(土) 14:50:28 ID:Bimb83S9
とても残念なのは、本来的に開かれた会話の場であるべき2ちゃんねるが、
投稿の匿名性に便乗するカキコ等に刺激されて、話の舵がバランスを崩しやすいことです。
>>137 氏の発言は、とても健全です。
一方、たしかにアドルノを“象牙の塔”でガリガリ勉強したかもしれない。
でも誰か、門外漢や、初めてドアをノックした人や、ちょっと興味を抱いた人を、
その愉快な談話のサークルに引き込む術を持たな過ぎます。
もちろん教諭の経験のあるひとは、ほとんどここには来ないでしょう。
人の誤解を解く、人を魅了する、人を教えるということは、大変重要ながら、一朝一夕には身に着かない術です。
私はここを去りましょう。アデュー!
142 :
136 :2008/01/19(土) 14:51:58 ID:Bimb83S9
↑ 一方、書き込むひとのなかには、たしかに…しれないが、 その方も・・・
ID:4uV02YhBのキミ。 アドルノについて200字程度の文章をアップしてごらん。
144 :
名無しの笛の踊り :2008/01/19(土) 15:53:30 ID:HymReFeD
なあんだ ただの 釣り堀の 釣り坊か
何つーか、
>>137 だの
>>141 だのを見ていると、
ひどく甘ったれた姿勢がぷんぷんと臭ってくるんだよな。
アドルノのクソ難しい文章やら偉そうな断定口調やらに反撥するのは、
「新しい発想や感覚」などではなく、月並みな感覚に過ぎない。
そういう平凡な感想を吐露して悦に入る輩を叩けば、
初心者をもっとやさしく扱えと、ふくれっ面で甘ったれた台詞を吐く。
>>142 にいたっては、文句すら自分ではつけられず、
「・・・」と書いて、俺の思いを分かってくれよと恨みがましく要求する。
もう少し骨のある香具師はおらんのかいな。
146 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 00:10:16 ID:PRGAEquQ
147 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 00:18:27 ID:X49bMG0X
>>145 そこのセイガク、青いのォ。卒業して10年経ったら、も少し、議論と距離が測れるようになる。まだ君は話に首ったけなんだよ
社会に出て人生経験つめ。その気の強さ、覇気、見所はあるぞ
>>139 のアドルノについての概説は、ちょっとどうなの?
まるでアメリカ系の、それもかなり古い社会学事典からの引き写しのような感じもする。
社会心理学での若干の業績はたしかにあるのだろうが、
それがアドルノにとっての主たる仕事とはとても呼べない。
それに「趣味として音楽評論やエッセイの執筆も行っていた」というのは、明らかに間違い。
音楽は彼にとって趣味などではなく主戦場のひとつであり、
エッセイは彼の本質的な表現形式だったと思う。
誰も突っ込んでくれないばかりか
マジレスまでされちゃった
>>139 に愛の手を。
151 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 09:57:58 ID:X49bMG0X
>>150 >>139 アドルノ爺ちゃん、かいいの、どこ?
…って、そりゃ「孫の手」!
かいい所に、問題の核心に手が届いていない、アドルノ爺の自称"音楽論"。美声の持ち主が音楽の才能ありとは決まっていない。
>>149 >>150 いやいや、吊りには違いなくても、マジスレしてくれて正解よ
ド素人が異常に幅を利かせているこのスレに限っては、ね
153 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 15:44:17 ID:P/GYAVJI
それにしても、このスレのリーダー格だった
>>39 や
>>49 があまり持論を展開しなくなってから、
アドルノをどんな資格で語るか、という方向にばっかり話が行って、
肝心のアドルノそのものの話になかなか戻らんな。
もっとアドルノいろんな話が聞きたいのに。方法論とかストラヴィンスキー論とか。
誰か新しい剛の者、出てこいや!
いや、俺はムリッス。
154 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 16:28:01 ID:PRGAEquQ
>>153 そもそも感性ばかりアテにしてるクラヲタに思想語れってのが無茶だろ。
アドルノそのものの話になっても好みか歴史認識でしか語れなくなるのがオチだ。
シェーンベルクこそが現代(当時の)における唯一の「真正」の音楽である というテーゼが、おかしい。 ヘーゲル流の進歩史観を音楽の発展に並行させることは、 意匠としては評価できるし、得るところもありそうだったが、 それが「唯一」であったため、理論が破綻したのであった。
>>156 >シェーンベルクこそが現代(当時の)における唯一の「真正」の音楽である
>というテーゼが、おかしい。
で,そのテーゼはアドルノのどの本の,どこに書いてあるの?
文化を相対的に考える(どれもそれぞれに正統である)という
考え方自体が戦後思想なんだよ。戦後思想からアドルノを
評価してもしかたがない。思想はそれが生まれた時代背景を
抜きに評価はできないよ。
158 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 17:54:38 ID:PRGAEquQ
159 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 18:11:55 ID:+lbFx4+h
バーンスタインは最高の指揮者だが最高の理論家ではない。 ブーレーズのピアノソナタが理解できない彼はアドルノも同様理解できない。
160 :
158 :2008/01/20(日) 18:21:03 ID:PRGAEquQ
>>159 サンキュ、その言い方、いただき〜
「アドルノは活発な音楽評論家だが最高の音楽理論家ではない。
ジャズもヴァイルもストラヴィンスキーもシベリウスも理解できない彼は
生きた音楽が理解できない」w
161 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 18:31:19 ID:+lbFx4+h
バーンスタインはほんとうに現代のセリエル技法理解できなかったんだよ。 信じられないけれどね、本当だ! あれほど作曲の構成力がある人でも保守的な部分はあるもの。 チェリビダッケもそうだった。 ブソッティのカオスを見て「音楽の代わりのカオス」といって指揮しなかった。 ショスタコ時代のジダーノフのような指揮者が実際大指揮者として君臨していたわけだ。 でもカラヤンは12音音楽もやった。 史上最高の商売人だったが、 あれでも最低限は理解できた。
いいんじゃない。セリエル理解できなくったって。 て書いたら怒られる?
セリエル技法理解できなかったんだよ ←セリエル技法を評価しなかったんだよ、ということか? なら、理解した上で肯定的な評価を拒んだ、ということではないか?
>>157 >で,そのテーゼはアドルノのどの本の,どこに書いてあるの?
『新音楽の哲学』から自分が読み取ったと記憶する。これは文庫化されて
いないらしく、読みたいという人にあげたので、いま手元にはない。
>文化を相対的に考える(どれもそれぞれに正統である)という考え方自体が
戦後思想なんだよ。戦後思想からアドルノを評価してもしかたがない。
そんなことはない。ヴォルテールとかシュペングラーとかがいたはずだ。
>思想はそれが生まれた時代背景を抜きに評価はできないよ。
これは理解できる。時代背景にどのくらい重きを置くか。
私は、プラトンやモンテーニュを時代背景抜きで賞味している。
だから学者にはなれないのだな。
>>156 >シェーンベルクこそが現代(当時の)における唯一の「真正」の音楽である
>というテーゼ
を立てることと、
>ヘーゲル流の進歩史観を音楽の発展に並行させること
は同じじゃない。「啓蒙の弁証法」を語るアドルノに
進歩史観を見るのは、かなり致命的な誤読。
アドルノのストラヴィンスキー論は、アドルノがストラヴィンスキーを
「理解できなかった」ととらえるべきではなく、ストラヴィンスキーを
「反動」と捉えている点が重要。アドルノはストラヴィンスキーを、
現代において(必ず出てくるはずの)「反動」の一形態と見ている。
つまり、ストラヴィンスキーは、20世紀前半の音楽状況を、
ある意味で忠実に反映している現象と捉えられている。
彼はストラヴィンスキーはよく聴いているよ。
それから
>>160 、アドルノのクルト・ヴァイル評価は屈折しているが、
高く評価しているのは間違いない。
166 :
名無しの笛の踊り :2008/01/20(日) 23:29:36 ID:+lbFx4+h
バーンスタインは指揮の巨匠だったで十分でしょう。 でもバーンスタインがミュージック・セリエルについて言っていることを信じちゃだめ! ブーレーズの音楽は彼の語法を理解しないと何やってるかわからないだけ。 バーンスタインは日本語が出来なかったと同じようにブーレーズ語も知らなかっただけ。 バーンスタインに日本語の「てにをは」の使い方を聞くやつはいない。 同時にバーンスタインにブーレーズの作品はいかがですかと聞くのは無茶な話。 勉強したことがないのだからわかるはずがない!
167 :
160 :2008/01/20(日) 23:44:00 ID:PRGAEquQ
>>165 やや乱暴に書き込んだことを詫びる。
アドルノが批判したのは、ストラヴィンスキーの
いわゆる第2期「新古典主義時代」(1918-1950)であり、
その復古主義を嫌ったのである(彼は後にセリーを用いて作曲している)。
これについては、新W学派の領袖シェーンベルクと、ストラヴィンスキーそれぞれによる
音楽上の「古典主義」というもの、「音楽の古典」というものに対する興味深い意見表明があったはずだ
(記憶が曖昧ですまん。資料どこ行ったかな…)。
だが、バーンスタインは少なくとも指揮者ブレーズは認めていたんだろ? カラヤンは、バーンスタインにもブレーズにもベルリン・フィルを振らせようと しなかったが、バーンスタインはブレーズにニューヨーク・フィルの音楽監督を 継がせたわけだしな(それにしても、バーンスタインのあとにブレーズ、って ものすごい継承関係だな)
>>167 うん、批判しながら評価していたのも
ストラヴィンスキーの新古典主義期の作品なんだよ。
俺が勧めている「音楽の社会的状況によせて」では、
ストラヴィンスキーの「絶望」なんてことが語られ、
「それは一個のきわめて歴史的な絶望であり、《兵士の物語》においては
分裂症的限界にまで追いやられたものだった」(41頁)と言っている。
《兵士の物語》はアドルノはかなり高く買っているよ。
170 :
153 :2008/01/20(日) 23:58:20 ID:pohDOvoR
わ〜い、議論が動き出した。\(^0^)/ 皆の衆、もっと話を聞かせておくれ。
171 :
名無しの笛の踊り :2008/01/21(月) 00:00:42 ID:z41IJEgl
あそこの音楽監督はいつものように事務長が決めると思うよ。 BPのように楽員の投票じゃなく、 WSOのように現ディレクターの推薦でもない。 もちろん楽員はBP以外どこでも決められない。 N響がアバドやシャイーを常任とかだったらギャラ払えないだろう。 バーンスタインはブーレーズの指揮はそこそこ認めてたんじゃないの?
172 :
160 :2008/01/21(月) 00:16:36 ID:EMP6be1x
>>169 でもね、《兵士の物語》を以ってストラが初めて傑作を書いた、とする
のは、なんかズレテる気がする。褒める場所をわざと違えといて、辛辣に批判するみたいな。
ダルムシュタットの音楽教室では、シェーンベルクすら、
アドルノのストラ批判に首かしげたそうだお。
彼の周囲には、先輩のエルンスト・ブロッホや
クレンペラーみたいにストラを深く理解していた人もいたんだがねぇ
あと、アドルノのストラヴィンスキー批判はDQSで、シェーンベルクですら「これはひどい」と言ったとか。
彼の周囲には、先輩エルンスト・ブロッホや指揮者クレンペラーみたいにストラヴィンスキーを深く理解していた人もいるのにね。
たしか、ブレーズNYPのペトルーシュカの国内盤LPだったと思うんだけど、 (米コロンビア盤を手に入れて手放してしまったので確認できんのだが) 解説に、バーンスタインとブレーズの2ショット写真が載っていてね、 これが二人とも満面の笑み、みたいな調子で、おりょー、 バーンスタインとブレーズって仲良かったの?と印象に残ってんだな。 ブレーズNYPのペトルーシュカは、たしかブレーズとNYPの第一弾のレコードで、 それでそんな写真が載っていたんだと思う。
174 :
160 :2008/01/21(月) 00:17:27 ID:EMP6be1x
↑へんなことしたorz
>>172 ヲイヲイ、
>ダルムシュタットの音楽教室では、シェーンベルクすら、
>アドルノのストラ批判に首かしげたそうだお。
ダルムシュタットにシェーンベルクは行っていないだろ?
エルンスト・ブロッホのストラヴィンスキー論は、『この時代の遺産』の
「時代のこだま、ストラヴィンスキー」だろうけど、
これはストラヴィンスキー批判のエッセイだよ。
>>160 =
>>174 ノープロブレム。議論がけっこう生産的に動き出したから、
そのぐらいの傷はどってことないよ。
シベリウスの時はなんか陰惨な方に話が流れがちだったが、
ストラヴィンスキーになったら俄然議論が生き生きとしてきた。
みんな!いいぞぉ〜!
177 :
174 :2008/01/21(月) 10:58:59 ID:EMP6be1x
という(
>>172 )のは、要は、春サイもペトも火の鳥も、認めません、
あんなのまともじゃありません、やっと兵士でまともになりましたね、って評価なんです。
勿論、宇野功芳氏がなんといおうと、アドルノ氏がなんといおうと、吉田秀和氏がなんといおうと、
勝手なのですけど、
近代音楽史におけるストラ評価は、まず、ロシア・バレエ団と乗り込んで
パリ市民の度肝を抜いた春サイに始まる、その考えに
アドルノは、賛成しない。
う〜〜〜ん、要するに音楽史の教科書通りの評価をしていないから、 アドルノは「硬直している」、というわけ? あんなクソ難しい文章読まされて、ごく当たり前の 音楽史通りのことしか書いてなかったら、 俺なんかは「何だこれは」と思ってしまうけどな。 兵士の物語や詩篇交響曲を評価するストラヴィンスキー論の方が 個人的には面白いと思うけど。 ちなみにアドルノは、ストラヴィンスキー晩年の実質上の十二音音楽に ついてどう書いていたか、はっきり覚えがないんだけど、 あまり評価しないと思うよ。十二音やってりゃそれでいい、 なんて発想はアドルノはもってないでしょう。
179 :
174 :2008/01/21(月) 12:50:42 ID:EMP6be1x
>>178 うんにゃ、そうじゃなくて−−
エッセエ形式にも、一長一短あって、音楽エッセエは、良くも悪しくも、「音楽時評」になる。
(その意味で、アドルノを“音楽論の専門家”というより、“音楽評論家”と見る見方もある)
しかし彼自身は、エッセエの戦略的強みばかりに目が行って、その弱みには当初からは意識が回っていなかった気がするんだ。
ストラヴィンスキーの聴き方はユニークだ。
そしてその音楽観は、背景となる、彼の社会学思想に直結している。
(その意味で、彼を、“音楽社会学者”と見る見方がある)
それは大層立派なことなんだけど、
しかしながら、上にあったヴァイル『マハゴニー』を観た時に彼が取った、煮え切らない、
“うじうじした”態度を思うにつけ、
彼の音楽エッセエには、彼の韜晦癖や見栄や頑固さが、かなり大きく反映していて、
それが何かひねくれた印象を与えるんだ。
彼は最後まで、ストラの新古典主義にしか、心を動かさなかったのかなあ?
それらしか、彼の頭を動かさなかったにしても、さ
>>165 156です。
「啓蒙の弁証法」を語るアドルノに進歩史観を見るのは、かなり致命的な誤読。
とありますが、アドルノは「アルノルト・シェーンベルク」でこう書いています。
「ヘーゲルは、ある新しいものが、何の中間物もなく、一挙に、正統的に
姿を見せるような場合でも、実はずっと前から形成されていて、
今やその殻を脱ぎ捨てたに過ぎないのだと教えてくれている。(中略)
伝統は、実験的だとして非難されているいる作品の中にこそ現存しているのであって、
伝統主義的たろうと意図しているものの中ではない。(中略)
こうして、彼は他ならぬ「実験」の中で、見慣れない外観の中に、正に、
伝統の継承者となったのである。」
私の読みー要約のどこが致命的な誤読なのか、ご教示いただけますか?
>>180 「進歩史観」という用語に根本的に違和感を感じるんだよ。
>ヘーゲルは、ある新しいものが、何の中間物もなく、一挙に、正統的に
>姿を見せるような場合でも、実はずっと前から形成されていて、
>今やその殻を脱ぎ捨てたに過ぎないのだと教えてくれている。
ヘーゲルの言わんとしているのは、そういう新しいものが「新しいもの」に見えるのは、
それ以前の中間段階を見損なっているからだ、ということ。
で、ヘーゲルの場合、細かく言えば事情は複雑になるけど、
歴史の現段階を肯定する姿勢を持っているから、最終的には、
「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という
有名な言葉になる。今現にあるものは、突然現れたわけじゃなくて、
合理的な段階を踏んで現れたもので、現時点から振り返って見れば、
その合理的な中間段階は認識できるだろ?という話。
これに対してアドルノは、歴史の現時点に立って、現在に至る中間段階を
現在に至るために必要な段階として全面肯定するわけじゃない。
(俺の理解じゃ、結果的にそういう全面肯定になってしまうのが進歩史観)
現在の時点では、「こんなものは極端すぎる」といって排斥されるような、
「実験的」なものにこそ「真理が宿る」、つまり未来への萌芽があり、
そういう極端なものが最終的には伝統を形成することになる、という話。
アドルノは、1920年代末からシェーンベルクこそ正統と言い切っている。
現在の目から見れば、それほど極端な発言じゃないけど、
当時からすればかなりの冒険だろう。
182 :
名無しの笛の踊り :2008/01/21(月) 18:19:34 ID:3NjBihZx
アドルノはシベリウスの第三交響曲を聴いて、 今まで聴いた音楽のうちで最悪といってのけた。 彼においても間違いは存在する。 彼はセリエルのバックボーンとしか存在意味がない。
>>179 マハゴニー論は、俺の記憶違いで「事実を前にして批判は黙らざるをえない」
と書いているのは、どうやら「三文オペラ」の初演評のようだ。
『楽興の時』に載っているマハゴニーの初演評は絶賛というべきものだった。
「この音楽は、破壊された市民音楽を復元したり、その形式を・・・《再興》したり、
大過去に遡及することで過去を蘇られせたりすることを、そもそも目指していない。
むしろ、生命のないものをモンタージュするその構成法は、生命のないものが
すでに過去の形骸にすぎぬことを明白にし、そのために生ずる恐慌から、
宣伝のための力を引き出しているのだ。またこの力から、この音楽独特の、
即興的な、あてどなくさまよう躍動も出てくるのだ」と言って、
「ほかならぬシェーンベルクのそれと並」ぶ、「材料に固有の弁証法によって
もっとも先進している音楽」とまで言っているね。(以上、邦訳179頁)
上でクレンペラーの話が出ているけど、クルト・ヴァイルと親しかった
クレンペラーでさえ、マハゴニーには拒否的だった。
(『クレンペラーとの対話』、白水社、135頁)
俺は、クルト・ヴァイルの最高傑作はマハゴニーだと思っているので、
この点は、アドルノを支持したいね。
184 :
179 :2008/01/21(月) 18:26:56 ID:EMP6be1x
>>182 いやいや、どうして、勘違いや、無理解、誤解すらも
こうして会話のネタに、議論の命題になること自体、
アドルノの音楽評論には存在価値がある、と前向きに受け取ろうぜ。
ついでに、クレンペラーのストラヴィンスキー評価だけど、
彼は、ストラヴィンスキーをシェーンベルクとともに
20世紀音楽前半の双璧とみなし、もっとも親近感を抱いている作曲家だ、
と言っている。だけど、面白いことに褒めているのは
新古典主義期の作品ばかりなんだよね。
それからちょっと意外だったのが、1966年の十二音技法の色彩の強い
レクイエム・カンティクルスを絶賛していること。
そんなにいい曲だったっけかな(今夜聞き直してみよう)。
>>179 さんは、いわゆる初期三大バレエに思い入れが強いようだけど、
アドルノ、クレンペラーあたりにとっては、ストラヴィンスキーは
完全に同時代人で、「次はどう出てくるのか」という方に
興味を抱いていたんじゃないかと思う。
186 :
名無しの笛の踊り :2008/01/21(月) 18:37:59 ID:NCV1uJoU
アドルノがサヨ崩れ(っつうか徹頭徹尾サヨっつうか)ってこと忘れちゃダメダメ! サヨの議論の根底にはいつも「党派性」がある。「党派性」はまあ平たく言えば敵、 味方のレッテル貼り。 ストラヴィンスキーも一旦「反動」とレッテル貼りしちゃうと、後は基本的に何を書いても 「あいつは反動だからダメダメ」っていうのが通奏低音になっちゃう。 丸山が大昔wから指摘していたサヨ特有の「敵は遂にその本性を暴露したぞ」式議論。 アドルノの議論も結局最後はいつもこれなんだよな。
アドルノの面白いところは、ストラヴィンスキーは反動だ、 なんて言いながら、そういう反動にはきちんと(笑)社会的根拠があり、 作品内にそれが映し出されるとみなしていたところ。 作品内に「弁証法的に」(っつーことは、幾重もの屈折を経て、っつーことだろうが) 映し出される社会の矛盾を明らかにすることが、彼の「批判」。 やはり、アドルノが「反動」を代表する作曲家とみなしていた ストラヴィンスキーについての議論は、実際に読んで見れば なかなか面白いよ。むしろ、シェーンベルク論なんかの方が、 現在から見ると平凡に見えてしまったりする。
>>181 156=180です。
「ヘーゲル流の進歩史観を音楽の発展に並行させることは」という文章は、
(1)「アドルノの持っている・観点としてある・進歩史観」という意味ではなく、
(2)「音楽の発展に対してヘーゲル流の進歩史観を適用することは」
のつもりで書いたのですが。156をさっと読むと、
181さんのように(1)の解釈をしてしまうかも知れませんが、
ちゃんと読むと、(2)のように読めると思うのですが。
つまり、「致命的な誤解」という言葉は「致命的な誤読」に基づくのでは
ないでしょうか?
189 :
179 :2008/01/21(月) 20:43:33 ID:EMP6be1x
>>185 いえいえ、私はストラヴィンスキーは、
3期とも通して楽しんでいるのです。それで、
ああ、ここに見られるアプローチはなんて時評的なんだろ、もっと
大きく、長く、繊細かつ柔軟に聴けないものかなあ、大アドルノ先生ともあろうお方がー
と感じたのですよ。そりゃあ、教科書的な話(
>>178 )はからっきしゴメンだ。
でも、3期を貫くストラヴィンスキの芸術の特徴、って考えは、
(ま、彼は用心したのかもしれないが、)
彼の耳の奥で発想されなかったかな、されなかったんだな、と失望させられたのです。
なんかドグマチック。ドグマチックでないふりをしたドグマが見え隠れします。
・・・結局、アドルノさんのエッセイは、単なる時代意匠にしか見えないなあ
190 :
179 :2008/01/21(月) 21:08:48 ID:EMP6be1x
もう一つ言える事は、アドルノの音楽エッセエは 結局、様式論・形式論に終始してるじゃないか?ってことです。 形式の良し悪し、面白い・つまらない、に言及することが、あまりに 多い! で、こういうスタイルで原稿用紙を埋めるには、特段「耳」を必要としない。 文献資料と頭脳・教養がありさえすれば事足りる。 面白いこと書いてますよ、読んでない人、読んで。 でも、それだけ。 だな、漏れにとって、この人は。
>>189 >でも、3期を貫くストラヴィンスキの芸術の特徴、って考えは、
でもそうなると、ストラヴィンスキーの生涯を貫く本質的な要素、
というものを仮構せざるをえなくなる。
そういう「3期を貫くストラヴィンスキの芸術の特徴」という捉え方は、
次々と変貌を遂げていったストラヴィンスキーという作曲家の
ごく一面しか捉えられない、ということにはならないか?
むしろそうした本質主義的な捉え方のほうが
アドルノ以上に「ドグマティック」に思えてしまうんだが。
「変わらないものにこそ、その事物や人間の本質がある」というプラトニズム的な考えは、
案外食わせもんだぜ。
>次々と変貌を遂げていったストラヴィンスキー これがストラヴィンスキーの本質だ と言ったらプラトニズム(打ち間違えて「ぷーたろいずむ」と出てワロタ) の外に出たことになるかな。ちょっと仏教的かな。 流れ読んでないレスでスマソ。
>>186 >サヨの議論の根底にはいつも「党派性」がある。
ま、それはそのとおりだろうけど、かといって右翼がその陥穽から逃れられているわけでもあるまい。
敵というレッテル貼りは、むしろ右翼の十八番だ。
アドルノを左翼の理論家として捉えるのは、むろん間違っちゃいないだろうが、
そう簡単なことではないぜ。
戦後ドイツの左翼的な潮流の中にいたことは確かだが、何か党派のようなものを築けたわけでもないし、
(ホルクハイマーとの関係だって、厳しく言えば、長く続いた「ユニット」のようなものだった)
彼の理論が正しく理解され、広く社会一般に影響を与えた、わけでもない。
(『啓蒙の弁証法』も、当初は、名のみ高くて実際に読んだことのない人間が多かった。)
強いてレッテルを貼るなら、あまりこなれた言葉じゃないが
「社会批判者」とか「クリティカー」とでも言うほかない。
それが戦後ドイツでは「左翼」という、まあ何とか無理すれば着られなくもない「衣装/意匠」を
身にまとうことになったのだろう。
アドルノが敵に対して辛辣なのは、左翼だからではない、アドルノだからだ。
>>192 「ぷーたろ」って主義だったのかよw それはともかくとして……
言葉を弄ぶだけに終わりかねないから深入りはしないが、
要は、「変貌」でも何でもいいから何かを「本質」と名指しして、
それがないとそのもの自体の存在根拠が失われてしまう、とする考えが厄介なわけだ。
件の「次々と変貌を遂げていったストラヴィンスキー」について言えば、
「これがストラヴィンスキーの本質だ」とは言わずに、
「そこがストラヴィンスキーの面白い/価値のあるところだ」と言えばいいんだと思う。
>>188 ま、俺には、
(1)「アドルノの持っている・観点としてある・進歩史観」
(2)「音楽の発展に対してヘーゲル流の進歩史観を適用する」
の間にどれだけの違いがあるか良くわからないんだけど、
アドルノのストラヴィンスキー論を、俺なりに真面目に紹介したのは、
アドルノがストラヴィンスキーを「反動だから歴史(音楽史)の進歩に貢献していない」
と切り捨てているのではなく、「反動という形で歴史(音楽史)に関っている」作曲家と
みなしていることを言いたかったため。アドルノは、反動が勝利する歴史(=退行)
ってのを視野において議論している(ここがヘーゲルとの決定的な違い)。
だからストラヴィンスキーの才能を認めながら厳しく批判するわけよ。
>>189 アドルノは最初期からストラヴィンスキーの一貫した特徴として
ヴィルトゥオジティ(名人芸的性格、って感じかな)、遊戯性、
というものを指摘しているよ。ま、ブロッホなんかもそうだけど。
その遊戯性が、個々の作品ばかりでなく、「変貌を重ねるストラヴィンスキー」
という経歴にも現れている(現れざるをえない)というのが、
たぶんアドルノの考えだと思う。アドルノの音楽論が様式論・形式論に
終始している、というのは俺にはちょっとどうかな、と思える。
たしかに時評的だとは思うけどね。『楽興の時』なんか、30年前に書いた時評
(たとえばマハゴニー初演評)をそのまま再録している訳だから。
ところで、レクイエム・カンティクルスを聴いてみたけど、
これは良い曲だね。かなり感動した。
このスレのおかげで『クレンペラーとの対話』
を久しぶりにめくり、この曲を聴き直す機会を得た。
ちょっとした収穫だった。
196 :
189 :2008/01/22(火) 00:00:39 ID:8Y+gS9uk
>>195 書き流しのカキコに、しっかりしたリプライ、まっこと感謝。
私が形式論だといったのは、アドルノの場合、作曲の構図や技法の分析を透視図法の枠取りにして、
そこを通して社会を論じたい、という、どうしようもない彼の性向が鼻につくのです。
音楽を語るのは楽しい。それはここクラ板の住人の生き生きとした参入をみても分かる。
でも、アドルノもそこに浮かれていやしましか。
音楽を語るなら、供与する側(作曲者、演奏者)、受容する側(聴衆)、いずれの状況も視野に入れるべきだけど、
アドルノは一方、しかも作曲様式の分析ばかりに目が行く。
なぜならそれが一番語りやすいからだよ。
音楽の実作者であり続けなかった彼は、どう逆立ちしても、音楽時評家の域を出ない。
彼れが諸々の批評の拠所とする理論さえ、昔とった杵柄であって、例えばシェーンベルクのように
形継続的な創作活動を通じて成熟していった12音技法とは違う、それこそ教科書どおりの音楽理論だったよ。
無論、別分野で鍛えた、舌鋒を転用したから、いかにも興味深く“時評”をものしたけれども。
197 :
189 :2008/01/22(火) 00:06:46 ID:8Y+gS9uk
×形継続的 ○継続的 ストラヴィンスキーのヴィルトゥオジテや遊戯性なんて、 つまんない指摘じゃないかな
>音楽を語るなら、供与する側(作曲者、演奏者)、受容する側(聴衆)、いずれの状況も視野に入れるべき う〜〜〜ん、だから、俺は「音楽の社会状況によせて」(1932)を勧めているんだけどな。 それこそ、聴衆の問題については『不協和音』の「音楽における物神的性格と聴取の退化」 なんて論文もあって、『啓蒙の弁証法』の有名な文化産業論にもつながるわけだが。
199 :
名無しの笛の踊り :2008/01/22(火) 00:51:08 ID:TSXFXnxg
音楽の質と内容をとことん追求したら、 みんなわからない演奏も難解な音楽が出来たこと、 それがアドルノの要旨だ! そこに変な哲学を持ってきても混乱するだけ。
188です。
>>195 アドルノは、反動が勝利する歴史(=退行)てのを視野において議論している
ここのところが明白に表れている個所を引用してもらえないでしょうか。
そうしていただければ「致命的誤読」は撤回します。
201 :
名無しの笛の踊り :2008/01/22(火) 11:52:42 ID:8Y+gS9uk
>>198 例挙の文章で、あるいは他のエッセエでも、
彼はすぐ社会学的なメスを入れたがるんですよ(職業病だ、あるいは、強迫観念?)
新Wを理解しない聴衆を、あるいはドイツ楽派の“発展”の文脈から外れた
音楽に夢中になる聴衆に対してね。
安易にも、あるいは高ビーにも!
まず黙って、虚心坦懐に、音楽と向き合ったらどうだろうか、
そんな早漏者でもあるまいし(失礼)、先走るな、と言いたい訳さ。
剣道やらせたら、ポカスカ、やられるタイプかな。
202 :
201 :2008/01/22(火) 12:17:18 ID:8Y+gS9uk
果たして、時代と共に、社会的状況の変遷により、
人間の音楽センスというものは良くなったり(進歩したり)、
逆に悪くなったり(退行したり)するものだろうか?
>>188 =
>>200 氏ご自身は、個人的に(アドルノがどうこう、でなく)
どう考えますか?
203 :
201 :2008/01/22(火) 12:18:46 ID:8Y+gS9uk
>>201 氏の揚げ足を取るわけじゃないが、
「まず黙って、虚心坦懐に、音楽と向き合ったらどうだろうか」というけれど、
その「虚心坦懐」がどの程度本物なのか、そんなタブラ・ラサみたいな純粋状態って
少なくとも現代社会ではありえないと思う。
アドルノはそこに人一倍敏感だったわけだが。
>>200 『啓蒙の弁証法』序文が、まさにそうなんだけど。
>>202 「進歩」したはずの現在において、ある種の「退行」と
しか認められないような事態が生じている、それどころか、
「進歩」と「退行」が表裏一体の関係にある、というようなことは、
社会生活のいたるところに見られるんじゃないかな。
アドルノが、
>>198 で挙げたエッセイで論じた「聴取の退化」
という問題は、音楽「消費」のすべての場面の問題だろうし、
俺自身も当然無関係じゃない。宇多田ヒカルの何とかという
CDが何百万枚も売れた、ということは、その反面、
数百枚しか売れなかったCDが大量に(何万枚も?)ある、
ということにならないか?ストラヴィンスキーなら、
春の祭典であれば毎月のように新譜が出る一方で、
レクイエム・カンティクルスは初演の三日後の録音しかない、
(のかどうかは知らないけど)とか・・・
自分たちの感性が、ある種いびつな形で普遍的に形成されるシステムの中で、
俺自身、音楽を「消費」しているんだろうと思うよ。
206 :
名無しの笛の踊り :2008/01/22(火) 20:22:04 ID:3G+l9o10
彼の理論はセリエルを守るためには非常に効果があったわけだ。 でも実際の音楽はそう単純ではなくずーっと複雑だ。
180の引用にあるように、アドルノの主張によれば、 シェーンベルクは、正に、伝統の継承者なのです。 一方、アドルノは、反動が勝利する歴史(=退行)を視野において 議論しているそうです。だとすると、反動が勝利する歴史が半永久的に 続く場合に、シェーンベルクが伝統の継承者であるという根拠は どこに求められるでしょう。 私見によれば、アドルノの頭の中だけ、なのです。
おお、やっとアドルノの発想が進歩史観とは何の関係もないことを 理解してくれたようだね。 シェーンベルクが正統である根拠はアドルノの頭の中にしかない、 というのはその通り。だからアドルノの議論は「冒険」だ、といったわけ。
209 :
201=202 :2008/01/23(水) 00:05:34 ID:8Y+gS9uk
>>204 >>205 …と考えてしまいがちなところが、アドルノの指摘するような現代病なのではないかしらん?
みんなクラシック音楽よく聴いてるよねぇ、コンサートで、ラジオで、テレビで、CDや
その他のメディアを通して。
毎日欠かさず聴くでしょう?−−”生活習慣病”だよ。
クラシックなんてきいたことのないアンダルシアのジプシーが、
生まれて初めてベートーヴェンを聴いた。たちどころに叫ぶ、
「この音楽化にはドゥエンデがある」と。
ドゥエンデとは、魂を惹きつけるような魅了する魔性をさし、
フラメンコ音楽で評価される最上の価値だ。
この肌の焼けたジプシーは、”虚心坦懐”にベトと向かい合ったとは言えないだろうか?
「現代社会」(
>>204 )とか「社会生活」(
>>205 )という用語は、
軽々と一般化して使わない方がいい気がする。
さもないと、ドイツ音楽以外の音楽に耳を塞いだ、当スレ主役の碩学の
歪んだ認識をなぞることになる。
−−と書いておこう。
210 :
201=202 :2008/01/23(水) 00:19:04 ID:YMSWFFnQ
>>198 上(
>>209 )のジプシーの話を、そっくりそのまま使います。
「受容する側」と表現する時、社会学系の方々の悪癖は、
それを”聴衆”という、一般化された集合名詞にしちゃうことです。
世界中どこでも、自分と同じような生活、同じような価値観、同じような感受性で
音楽に接していると錯覚しちゃうんです。
このジプシーのことは思い浮かばない。それだけ、
我々は想像力の閉塞状態に置かれている−−情報がこんなにも溢れていながら!
アドルノは、まるで自分で、自分の病気を診断するようだ。
彼の口真似をする我々も、自分らの難病を見付けて、
絶望する。
211 :
201=202 :2008/01/23(水) 00:36:13 ID:YMSWFFnQ
カキコが盛んなので、連投になっちまい、スマソ。
さて
>>207 の推論に共鳴しつつ、
それに対するレス:
アドルノの発想が、本当に、進歩史観とは
「何の」関係もない(
>>208 )
と言い切れるかどうか、私は大いに疑問がある。
さらに、アドルノの議論が「冒険」だという表現にも
違和感がある。どういう意図をもって「冒険」と評価したのか、
貴兄
>>208 のご意見を伺いたい。
212 :
名無しの笛の踊り :2008/01/23(水) 00:43:12 ID:D/Q9mlv9
>>208 「根拠が頭のなかにしかない」とは、
単なるアドルノの《思い込み》だったってことでしょうか?
なら鼻から議論は不可能では?
論点をはぐらかしていないかしらん?
>>209 >クラシックなんてきいたことのないアンダルシアのジプシーが、
>生まれて初めてベートーヴェンを聴いた。たちどころに叫ぶ、
>「この音楽化にはドゥエンデがある」と。
>>204 だが、この逸話が作り話であるかどうかは全く関係なく、いい話だね。
むしろこのエピソードが本物であってほしいとさえ思う。
「(そのジプシーに向かって)アンタは、ベトを深いところで理解しているんだね!」
と抱きしめてやりたくなるくらいだ。
でもそれは「虚心坦懐」だからだろうか?
「ドゥエンデ」というものがそのジプシーの心身に染み付いているからこそ、
それをベトの音楽の中に感じ取ることができたのではないか。
だとしたら、それは「虚心坦懐」とは呼べないだろう。
すでに何かが刷り込まれている、という意味では、彼我の差はない。
ただそのジプシーの場合、その刷り込まれている何かが、
(たぶん我々とは違って)美しいのだ。
「虚心坦懐」というゼロ地点を無理に作り出さなくても、
そのジプシーのベト理解の素晴らしさを称えることはできるよ。
う〜〜ん、なんだか話が噛み合わんな。
>>「現代社会」(
>>204 )とか「社会生活」(
>>205 )という用語は、
>>軽々と一般化して使わない方がいい気がする。
というか、俺が「社会生活」というときは、当然自分がその中にいて
自分が見聞できる「社会」の話をしているわけで、その程度の対象化さえ
試みもしないで理論もヘッタクレもないと思うのだが。
残念ながら、俺が見聞できる範囲内にはアンダルシアの「ジプシー」はおらず、
彼?の肌が焼けているかどうかも知らない。しかし、
>>202 氏といえども、
>>210 を見ると、どうやらその「ジプシー」は「思い浮かんだ」もののようだ。
2ちゃんねるに日本語で書き込める、グーグルその他の検索機関を使って
ドゥエンデと叫ぶ「ジプシー」の話を拾ってくることができる、という
自身が置かれた状況を対象化することのないまま、
音楽に「虚心坦懐」に向かい合える感性の持ち主を
アンダルシアであれシベリアであれ中近東であれ世界のどこかに仮構する、
というのは、今時珍しいくらい素朴なロマン主義だと思うがな。
215 :
212 :2008/01/23(水) 02:43:00 ID:YMSWFFnQ
>>214 話が噛み合わないのは、異種格闘技だからですw
アドルノ論を“学問的に”内輪で議論したいなら、専用板があります。
でもここは音楽の話をする板。だから音楽の話(≠社会論)をいつも出発点にしています。
ジプシーの話は、分かりやすい言い回しにしましたが、決して
ググッた訳でもありません(なんとも陰気で懐疑的ですね…)
貴兄ほどの経験者なら“第3国”の友人、
スラムのある国、CDなんてない国、ラジオもそんなに聴かない国の友人の1人や2人いるでしょう?
いわゆる“ワールド・ミュージック”の貴重な現地録音ぐらい、
10や20は聴くでしょう?
あるいは、現地で生で聴いた経験もおありでしょう?
私はそれらの音楽と同じ地平で、バハもモツもベトも、ドビュッシーも、
シェーンベルクも、その他も聴きます。
でも、これって、べつだん、珍しいことじゃないでしょう?
You may say I'm a dreamer, but I'm not only one.だなんて、くさいかwww
異種格闘技戦が認められないなら、それって、予定調和のプロレス興業…?
>>213 氏の書き込みがあったので、話をちょっとそらせる。
「ジプシー」音楽が、俺たちが現在「クラシック」と呼んでいる
ヨーロッパの音楽に与えた影響は大きい。シューベルト、リスト、ブラームスなどの
「ハンガリー風」音楽は、実質上の「ジプシー」音楽で、
バルトークは、ヨーロッパで「ハンガリー風」と受け止められている音楽が、
本来のハンガリー音楽ではないと主張し、民謡収集などによって、
それを「証明」しようとした。他方で、シューマン、サラ・サーテ、その他の
「ツィゴイネルワイゼン」が、本物の「ジプシー」音楽ではなく、
彼らが「ジプシー風」として虚構した性格が強いことも指摘されている。
そういうヨーロッパの音楽家なりの「ジプシー音楽」の極めつけの一つが
ビゼーの「カルメン」で、あの軽快で情熱的な音楽の実質はほとんど
「ジプシー」音楽とは関係がない。しかし、「ジプシー」音楽が、
ビゼーの創作の一つの強烈なインパクトになったことは疑いをえない。
ということで、「ジプシー」音楽とヨーロッパのそれぞれの地域の音楽は
「ジプシー」のヨーロッパへの進入時から長い期間にわたって融合を重ねている。
民族としての「ジプシー」にはヨーロッパの各地域の音楽を消化する小器用さがあるだけで、
それほど高い音楽的能力はない、という見方もあれば、
いや彼らは優れた音楽文化を持っていて、ヨーロッパの各地域の音楽を取り込んで
自らの音楽文化を発展させてきたのだ、という見方もある(現在はこちらの方が有力なようだ)。
「ジプシー」がヨーロッパ社会の中で差別されてきた―ある地域では「ジプシー」(エジプト人)
と呼ばれ、別の地域では「ボヘミアン」(ボヘミア人)と呼ばれ―のは事実だが、
ヨーロッパの音楽文化の一角をなしてきたのも間違いない事実。
>>209 のアンダルシアの「ジプシー」の話は、申し訳ないが、
彼らが本能のままに?自らの音楽文化を維持している、という、
彼らがヨーロッパの音楽文化と深く関ってきた歴史を無視した、
いかにも「先進国」の音楽消費者が好みそうな「神話」の一つに
しか見えない。
>それらの音楽と同じ地平で、バハもモツもベトも、ドビュッシーも、 >シェーンベルクも、その他も聴きます。 だーかーらー、そういう聞き方を可能にしているものが何なのか対象化しないまま、 どっぷりつかって「楽しむ」ことが、音楽「消費」者の態度なんでしょ?
218 :
209 :2008/01/23(水) 03:18:25 ID:YMSWFFnQ
>>169 しつもーん!
彼ら流浪の民ロマが関わってきたヨーロッパ音楽って、
具体的にどういった音楽でしょう?
・・・じつはこれは音楽学的にかなり判明してきています。
ほんの1例として、ヤニス・クセナキスは、古い時代のギリシア地方の旋律の癖を
あるフラメンコの古歌に読みとっています。
でも、
カギカッコ「西洋クラシック音楽」カッコトジと交渉した
痕跡は、現在のところ確認されておりません(当方の知る限り)。
逆に「西洋クラシック」がモチーフとした例は、例えば
>>216 が一生懸命に
挙げてくれたものがあります。
Aヨーロッパの音楽=B西洋クラシック音楽でないこと、
くれぐれも忘れずに。Bは、Aの、ほんのほんの一部。
文面から察するに、貴兄あまりロマの音楽はじめ民族音楽にはお詳しくないかと…
おや失礼、スレ違い。話題の方向をすこし戻そうね
219 :
218 :2008/01/23(水) 03:20:49 ID:YMSWFFnQ
まあ、アドルノの言うところの文化産業が提供してくれる 選り取り見取りの「ソフト」をとっかえひっかえ消費して、 俺は「大衆の好み」にも流されず、「音楽エリート」の偏見からも自由に、 シェーンベルクもピグミーの音楽も「同じ地平」で鑑賞しています、 ってな調子で、わずかばかりの優越感を満足させている消費者にとっては、 アドルノの議論が腹に据えかねるらしい、ということは良く分かった。
222 :
218 :2008/01/23(水) 03:27:32 ID:YMSWFFnQ
もっと陽気に音楽のはなししたいな〜〜〜
>>217 2ちゃんスレッドにその「対象化」完了の宣言文でも載せなきゃ
ここに書き込む「資格」がないってはなし?
あーあ、また逆戻り。あほらし。
223 :
名無しの笛の踊り :2008/01/23(水) 03:36:04 ID:D/Q9mlv9
私としては、 上で話が出た、ダルムシュタットの夏期講習が、歴史上残した功罪について、色々みなさんの意見を聞きたいです。 個人的には、 シェーンベルクが健康で、予定されていた講義のスケジュールをきちんと果たし続けていたのなら、 時代は大きく変わっただろう、と考えています。 いま砂漠だよね…
>>220 >>222 『俺は「大衆の好み」にも流されず、「音楽エリート」の偏見からも自由に、
シェーンベルクもピグミーの音楽も「同じ地平」で鑑賞しています』というのは、
自分の置かれている状況をしっかりと把握できていない錯覚にすぎず、
そんなものはクソなんですよ、といった「アドルノがズバリ言うわよ!」的な物言いに、
そう素直には同意できないだろう。
そんな苦い「事実」は飲み込まなくてもいい「自由」が我々にはある。
もっと陽気に音楽の話などして遊べばいい。それは決して悪くないことだ。
ただ、そうしたところで、それが「事実」であることには変わりはない。
こう言うことは可能だ。
「我々の持っている「自由」はアドルノにかかればクソにすぎないらしいが、
クソだと知って楽しんでいるんだから、別にいいじゃない、
クソ以外の何があるっていうのさ、そういうアンタもクソなんだろ」
こういう物言いなら、
アドルノを擁護する者も同意せざるをえないだろう。
(アドルノ自身はそれに同意するかどうか分からないが。
案外「いや私は違う」って言い張ったりして。)
225 :
名無しの笛の踊り :2008/01/23(水) 06:09:11 ID:Pi8mv0AC
私としては、 上で話が出た、 ダルムシュタットの夏期講習が、 歴史上残した功罪について、 色々みなさんの意見を聞きたいです。 -------------------------------------------------------- 功罪かな? ジョン・ケージで中和されたし、 功罪というなら和声学も対位法も功罪かもしれない。
アドルノの話とはちょっとずれますが、エジプトの作曲家ハムザ・エル・ディン氏の経験。
初めてオーケストラを聞いた時のこと、
舞台にオケが現れて、チューニングを始めた。聴衆が拍手をしたので自分も拍手をした。
またチューニングが始まった。聴衆が拍手をしたので自分も拍手をした。
隣のお客に「いつになったら音楽が始まるのですか?」と聞いたら
「何言ってるんだ。もう2曲も演奏したじゃないか。」
(CDのライナーノートに書いてあった話をうろ覚えで)
>>209 さんのジプシーとは別の受容もあるということで。
227 :
名無しの笛の踊り :2008/01/23(水) 19:03:03 ID:5FLg8MUj
現代音楽は全く知らない人にとってはただの雑音に聞こえる。
なぜ現代音楽を聴かないの? 私じゃなく現代音楽に聞いてくださいよ。
229 :
名無しの笛の踊り :2008/01/23(水) 22:14:31 ID:5FLg8MUj
そうなると「何で現代音楽は現代音楽を聴かせないの?」となる?
228はひでェ弁証法だ。
芸術・文化はみなそうよ。 誰かが紹介していたけど、かつて文化人類学者が、アフリカかどこかの未開の部族に、 甘ったるいフランスの恋愛映画を見せて直後に感想を求めたところ、 みな口々に「ニワトリが3羽いた」と語って、それ以外の感想はなかったそうな。 芸術・文化は、そのコードに馴染みのない人間にとっては、ただのいたずら。 わかりやすさを拒否する傾向にある現代音楽なんて、なおさらだ。 しかしモーツァルトはそうではない、とは言えない、という話。
見せるのがわいせつなフランスのポルノ映画だったとしたら ぜんぜん違う感想をもらしたと思うよ。
233 :
名無しの笛の踊り :2008/01/24(木) 17:52:11 ID:IBlnCIXC
Mozart時代はみな和声が機能していた共通言語があった。 今はもちろんそれは機能しないどころか使う技法が十人十色だ。 だからわかりにくい。
>>232 「見せるのがわいせつなフランスのポルノ映画」だったとしたら、
違う場面に、あるいは同じ場面でも違ったふうに、興奮するだろうね。
性の営みは、どの世界にも見られるものだが、いやだからこそ、
その文化ごとに驚くほど違ったテクニックや禁忌を持つ。
おそらくきっとその未開人は
「フランス人は何故あんなこと(ここはご自由にご想像ください)をするのか?」
という「ぜんぜん違う感想」をもらしたと思うよ。
それとも「下の毛も金髪だ!」とビックリするとか。
ちなみにオレは、初めて洋モノのポルノを見て、 「なぜコイツらは、事の最中に『カモ〜ン』とか『グレイトゥ!』とか、 あんなに言葉を発するのか?」ということに何より驚いた、高3の夏……。
インデアン、ウソつかない。 白人、ウソつき。 アドルノも白人でしょ?ユダヤ人だけど。
237 :
名無しの笛の踊り :2008/01/24(木) 23:41:41 ID:IBlnCIXC
西洋人の理論ってカントとか共産主義とかみんな神の頭を取ったような哲学になる。 彼らは嘘つきではなく観念的だけどある意味でインディアンはただしい。
う〜む、狙いがわからんと、吊られようがないなぁ。
239 :
名無しの笛の踊り :2008/01/25(金) 06:09:01 ID:KZ5LtNAA
白人はインディアンにヨーロッパ大陸の病気を持ってきて広めたのは確か。
>>236 は、
インデアン=民俗音楽、
白人=普遍的(と称しているが実は単なるヨーロッパ至上主義の)音楽、
のことか?
241 :
名無しの笛の踊り :2008/01/26(土) 09:09:02 ID:OUzmguCG
白人はその病気でインディオを滅ぼした!
最近ちくま学芸文庫から出た武満徹対談選を読んでいたら、 武満がバリ島に行ってガムランを聴いてきた体験を語っていた。 一言で言えば、ガムランは「持ち運びできない音楽」だ、と。 ガムランの演奏は、気づいてみれば始まっている、なんてことも言ってたな。 そう言えば、俺も津軽三味線のライヴを聴きに行ったとき、 チューニングしていると思ってたらいつの間にか音楽が始まっていたので、 あとで奏者にそのことを質問したら、チューニングは三味線が来たよ、 という合図でもあって、聞き手が集まってきたところでその場の雰囲気で なんとなく始まる、なんてことを話してくれた。 持ち運び不可能なガムランに対して、西洋の音楽は、楽譜にすることも含め 持ち運び可能にすることを目指した音楽だ、と武満は言う。 武満は、持ち運び可能ということでレコードという例は挙げていなかったが、 インターネットによる音楽配信は、持ち運び可能の究極の形かも知れん。 ま、誰もがバリに行けるわけでもないし、仮にバリまで行ったところで、 武満が行った頃より観光化ははるかに進んでいるだろうから、 武満が経験したような生活と音楽の切れ目がないような ガムランはそう簡単には聴けないだろう。 実際、俺もメシアンのトゥランガリーラとバリのガムラン演奏を CDで聞き比べたりもするけれど、この二つの、それこそ「地平の違い」 というものは、頭の隅に置いておきたい気がする。
243 :
名無しの笛の踊り :2008/01/28(月) 04:49:46 ID:OybXLReB
自分はインドネシア人に混じって実際のガムランを演奏してみた。
244 :
名無しの笛の踊り :2008/01/30(水) 05:59:23 ID:EguuLVYc
久々にこのスレを覗いたらなんと200を超えているではないか! 意外な伸びにビックリした記念age
>>243 それはとても貴重な経験でうらやましいが、
反面やはり「観光化」が進んでいる、ということかも知れんな。
(水を注して申し訳ない)
いやマジな話、難しいところだ 我々がインド音楽を手軽に聴けるようになったのはラヴィ・シャンカルが 伝統の枠から外れていろんなことをやってくれたためだ、みたいな…
247 :
名無しの笛の踊り :2008/01/30(水) 14:52:51 ID:7gN2zr05
クレーとかニーチェの作曲したものを昔聴かせてもらったけど笑ってしまった記憶がある。 音楽教育うけたもの側の傲慢かもしれないけど・・ まあその道の偉人なんだからそんな事は承知の上で作曲したんだろうけど笑ってしまうの
その点ルソーは偉いよな。 作曲でも教育史に残っている。
249 :
名無しの笛の踊り :2008/01/30(水) 19:02:18 ID:YzRLasz7
彼らの作品はヨーロッパでかなり演奏されて放送されている。
メシアンのガムラン(他にもあるが)だの、ベリオのアフリカ音楽だの、 現代作曲家が、非ヨーロッパの民族音楽の要素を取り込んで、 ヨーロッパ音楽の枠を破ろうとした例はたくさんあるけど、 話をアドルノに戻すと、アドルノはその路線には批判的なんだよな。 このスレでも散々槍玉にあがった彼のシベリウス評価にしても、 土着的なものを養分とした音楽の新たな展開というものに懐疑的な アドルノの姿勢から来るものだと思う。 彼の発想としては、そういう音楽は結局エキゾチズムとして消費されてしまう、 というところなんだろう。シェーンベルクの作品にしても、弦楽三重奏曲や ファンタジーなどは絶賛するが、モーゼとアロンとなるとかなり距離をおいた 評価になる。 だけど、そういう、音楽の論理を突き詰めていく路線で行くと、 結局ウェーベルンになって(アドルノは、音楽家としての才能は、 ウェーベルンはシェーンベルクをしのぐ、と見ている)、 トータル・セリー路線にならざるをえないと思うんだが、 アドルノ自身はブレーズなんかが唱えたトータル・セリー路線にも 批判的なんだよな(『不協和音』に入っている「新音楽の老化」を参照)。 シェーンベルク以降、というところでアドルノが考えていた音楽の展開に ついては、俺ももう一つ良くわからない。
251 :
名無しの笛の踊り :2008/01/31(木) 03:50:40 ID:/uAV+xW/
音響そのものの追求をしないで、 民族音楽に逃げてごまかす作曲家は無数に入ることだ!
252 :
? :2008/01/31(木) 05:04:43 ID:5v4rKNdO
>>247 さんの言うクレーが画家で有名な人なら、たぶんあなたよりずっと専門的な音楽家でしたよ。有名な『日記』が邦訳でも出ていますからぜひ一読を。音楽史上重要な資料です。普通の大学の図書館には置いてあるはずです。
253 :
名無しの笛の踊り :2008/01/31(木) 09:27:16 ID:lh5d26v5
クレーは演奏家としても活動していたよね。
254 :
名無しの笛の踊り :2008/01/31(木) 13:16:50 ID:dCl+0QhW
>>252 247ですが自分は専門バカなので天は二物を与えるってのが信じられないんです。
いま大学からなんで今から読んできます。
この手の話は、知人の音楽学者や演奏家、指揮者、作曲家などと ここ10年くらいことあるごとに話題になりまして、しまいには 音楽学の限界や、個人の立場の問題にまでなるので、積極的に 議論は避けているところです(^_^;)。先日も朝の3時まで新宿で 話していたし・・・・・・ 拝見していると、全く新しい機軸のご意見は残念ながら拝見できませんし、 やはり簡単には結論が出ないことは明白です。むりやり思い込むことで 逃げている人はいますが(^_^;)。
>>255 あなたが学者や専門家でないことだけはわかった。
258 :
名無しの笛の踊り :2008/01/31(木) 17:43:40 ID:FjUddR5S
アドルノってその良し悪しよりも議論そのものが勉強になる。
それが偉大な思想家だと言うことだろ。
>>248 しかし、その教育史に名を残すルソーは、
自分の子育ては放棄してしまったんだけどねwww
261 :
名無しの笛の踊り :2008/02/01(金) 18:34:35 ID:BxI7gtGv
アドルノは結果論よりも音大の頭の体操に効果的だね。
とにかく読みにくい。
263 :
名無しの笛の踊り :2008/02/02(土) 01:34:34 ID:VRQPG+i6
だから良く考えるようになる!
とにかく読みにくいのを時間をかけて良く考えて読んでみて、 その結果はじめて、読む必要は(皆無ではないが)あまりなかった、 と言えるようになる!・・・アドルノ とにかく聴きにくいのを時間をかけて良く考えて聴いてみて、 その結果はじめて、聴く必要は(皆無ではないが)あまりなかった、 と言えるようになる!・・・ゲンオン
ワラタ だがそれが正道。 必要あるかどうか人に決めてもらって読む/聴くってのは学生だ罠。
266 :
名無しの笛の踊り :2008/02/02(土) 17:41:22 ID:Q/OkV8Ej
読まねえと、アドルノの「ア」もわからん。 ここにアドルノがどうのこうの書けるはずないじゃんか!
哲学は概説書で十分。わざわざ難しいのを解読していく時間が勿体ない。 どんだけ暇人やねん。
でも、哲学ってそういうもの。いってみれば考える行為そのもの。 哲学史上の知識をどれだけ覚えても、哲学したことにはならない。 その意味では、クラシックを聴くことは哲学することに似ている。 「クラシックの曲なんて1回聞けば十分。演奏者を違えて同じ曲を何回も聴く時間が勿体ない。 どんだけ暇人やねん」
概説書を考えながら読めばよい。
そもそも、うだうだ考えずに済むように書かれているのが概説書だからなぁ。
無駄に回りくどい言い回しで読者を煙に巻くドイツ観念論の欺瞞。 流行はすたったすたこらさっさ。
「無駄に回りくどい言い回しで読者を煙に巻く」
というのは、ある意味
>>271 の言うとおり。
でも、それが「欺瞞」だと何故断定できるのか?
回りくどいやり方でしかたどり着けない真実、
ってのもあると思うが。
もしわかりやすい単純明快なものだけを求めたいなら、
わざわざアドルノなんか読む必要ないよ。
「流行」とやらを追っかければいい。
273 :
名無しの笛の踊り :2008/02/02(土) 23:25:13 ID:Q/OkV8Ej
アドルノの著作の要旨もできないのか? もう一度中学校で勉強しないとだめだな。
ふぅ、疲れるな。 要旨がダメだと言っている訳じゃない。 要旨をまとめることと哲学することとは別もの、 (アドルノの場合は特にそう)と言っているだけだ。 「軌跡は行為そのものではない」って 誰が言ったんだっけかな。ベルグソンだっけ?
275 :
名無しの笛の踊り :2008/02/03(日) 01:37:09 ID:2jWkWGxl
余計なことを考えるよりもアドルノの要旨を、 それからが事が始まる。
>アドルノの著作の要旨もできないのか? そういう時は「要約」という言葉を使う。 で、要約された中身を要旨という。
>だけど、そういう、音楽の論理を突き詰めていく路線で行くと、 >結局ウェーベルンになって(アドルノは、音楽家としての才能は、 >ウェーベルンはシェーンベルクをしのぐ、と見ている)、 ベルクはヴェーベルンをしのぐと言ってるよ、アドルノさん
278 :
名無しの笛の踊り :2008/02/03(日) 23:12:02 ID:+NCm7jr0
(アドルノは、音楽家としての才能は、ウェーベルンはシェーンベルクをしのぐ、と見ている)、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これはブーレーズも同じ意見だった。 セリエルへの重要な橋渡し役である。
279 :
名無しの笛の踊り :2008/02/03(日) 23:16:06 ID:JjyxLddA
要〜旨 パパ頑張っちゃうぞ
280 :
名無しの笛の踊り :2008/02/04(月) 05:50:14 ID:QpKyzzY3
頭が良ければアドルノは十分に理解できる。
281 :
名無しの笛の踊り :2008/02/07(木) 15:07:17 ID:T/tFxxDX
『不協和音 管理社会における音楽』を購入したよ(でもまだ読んでないよ)記念age
282 :
名無しの笛の踊り :2008/02/07(木) 18:05:44 ID:RC5DLQ3p
文庫本であるね。 確かにセリエル擁護の本だけど、頭の体操には良いよ。
283 :
名無しの笛の踊り :2008/02/10(日) 00:16:26 ID:JClKsEY9
>>281 だけど、な、なるほど、これは難しい。
これがアドルノの文章か……。
とりあえず読み進めているけど、理解しながら読んでいるのか、
理解できないまま字面だけ目で追っているのか、それすらよくわからん。
もう少し頑張ってはみるけど、もうじきギブしそう……。
284 :
名無しの笛の踊り :2008/02/10(日) 02:07:39 ID:ebpOJkcv
言い回しがくどく凝っているから、 全体の文意だけをつかめば問題ないです。
良スレ保守
286 :
名無しの笛の踊り :2008/02/19(火) 20:42:11 ID:dkr9giFN
やっと『不協和音』読み終わりますた。 この人がキレモンだってことは分かりますた。 知恵熱出ますた。
287 :
名無しの笛の踊り :2008/02/20(水) 00:35:15 ID:+Niwj+oj
ここからダルムシュタット・セリエル理論が始まったのね。 一時ジョン・ケージによって壊されたけど。 その後もポスト・セリエルとしてラッヘンマンやファニホーが引き継いだのね。 単なる理論だけれどもしっかりしているから、 良く世界中で攻撃しやすいのね。 大体攻撃の形はこの理論に対してこうだという形が多く、 新理論を掲げて戦うことはないね。 だから良く対抗馬としては無視されるし引用されるのはアドルノだけね。
ここは誰かの狗を飼いならすスレですか?
289 :
名無しの笛の踊り :2008/03/18(火) 02:57:25 ID:gzS4ygws
やっぱり過疎ったな。アドルノについて議論しようなんて高望みすぎたか。
いや違う。アドルノは舌鋒鋭く、多くの信奉者を作ったが、その音楽観は古臭くもう時代遅れなんだよ。 新世紀にとっては、最早"おじいちゃん耳"なんだ
291 :
291 :2008/03/18(火) 10:44:01 ID:HqAT/6nd
そこが芸術家でなく評論家だったアドルノの限界だった。
自分が理解できないものは価値のないものなわけね。 そういう人は他の場所にもたくさんいるけど。
人間なんてそんなもんだ
2ちゃんは社会の縮図ですからw
295 :
名無しの笛の踊り :2008/03/18(火) 18:31:42 ID:S//q4UIw
まあ、アドルノの音楽観がもはや時代にそぐわなくなったのはたしかだろう。 かといって、アドルノの音楽「論」が音楽「観」だけでできている訳でもない。 着眼点、方法論、分析力、論理構成、批評性など、 アドルノのアクチュアリティが生きている部分はたくさんある。 残念ながらこのスレでは、彼の音楽観以外に関心が向けられることがほとんどなかったが。 音楽観の古さだけでアドルノを切って捨てるのは、 バッハに向かって「ずいぶん古い楽器を使ってますね」と言うようなものだろう。
つーか、アドルノ読んでで書き込みしていた香具師は、 俺以外には二人くらいしかいなかったように思うが。
>>295 煽る気は毛頭無いのだが、そこが、大学生のアドルノ理解で(ゴメンなぁ)、
現代の、いまの、アクチュアルな哲学思想は更に先に進んでいる訳です。
やっぱり日本は哲学の議論で遅れをとっている。相変わらず、翻訳書・舶来書なしに、哲学を語れていないのは、悲しい現実だ。
諸君、一生に一度は島の外に出て、荒波に揉まれ給えよ!!!
>>298 そうするには、もっと語学力を何とかしないとな
日本の外国語学力の低さは異常
習得しようと思っても、学業とは別に個人でやらなきゃいけないから時間がかかる上に習得できたころは社会に出てることが多い。
荒波にもまれようとも学問やる暇が無いw
>>298 >現代の、いまの、アクチュアルな哲学思想は更に先に進んでいる訳です。
哲学はどんどん変化はしてるけど,別に「先に進んで」はいないよ。
哲学も含めて人文科学というのは一方向に進歩していくようなものではない。
古いものにも独自の視点があり,価値がある。
それ以前に,アドルノの進歩主義的な音楽観を批判しておきながら
哲学に対してはもろに進歩主義的な主張をする無神経さにあきれる。
つーか、1980年代後半から90年代にかけて、フランスでベンヤミンがクローズアップされ、 そのあおりで日本でもベンヤミン・ブームが到来したが(ちょうど著作権が切れたことも あったしな)、ベンヤミンとアドルノの関係を押さえて置いたら、 「アドルノの進歩主義」なんて言葉が出てくるはずもないのだが。 もちろん、アドルノのベンヤミンの読み方がベンヤミンのすべてではないし、 フランスでの流行のおかげで、新しいベンヤミン論の視角が開かれたのも確かだが、 「更に先に進んでいる」「アクチュアルな哲学思想」なんてのも、 フランスの思想家たちが、それまでろくすっぽ読んで来なかったドイツ語圏の 思想家を「あれ、こいつ、すげーんじゃないの」と遅ればせながらに認めた、 っつーレヴェル。ことさら日本人の語学力を云々するほどのことではない。
>>298 >現代の、いまの、アクチュアルな哲学思想は更に先に進んでいる訳です。
>
>やっぱり日本は哲学の議論で遅れをとっている。相変わらず、翻訳書・舶来書なしに、哲学を語れていないのは、悲しい現実だ。
>諸君、一生に一度は島の外に出て、荒波に揉まれ給えよ!!!
上から目線のわりには内容がない&(いまどき)ヨーロッパ中心主義的な匂いのキツイこのコメント自体をまずなんとか汁
フランクフルト学派ってマルクスに囚われたサヨクだろ
>>300 とは言え、アドルノを取巻く思想界の「状況」は、着実に変化してるわな。それを何とする?
(型通りの反論だたな)
>>302 「脱ヨーロッパ」を言ったら、じゃあ…
アドルノ自体はどーなる?
(自ら墓穴掘ってるよ)
>>301 「アドルノの進歩主義」って…?
よく分からないけど。
>>304 哲学云々をいうならまず言葉を正確に使えないと。
307 :
名無しの笛の踊り :2008/03/22(土) 02:33:24 ID:e7rAeHVr
>>304 >「脱ヨーロッパ」を言ったら、じゃあ…
>アドルノ自体はどーなる?
>(自ら墓穴掘ってるよ)
もしアドルノがヨーロッパ中心主義の陥穽に陥っているとしたら、
なにもアドルノに遠慮することなく批判すればいいだけの話。
(そもそも新ウィーン学派の優位性を説くこと=ヨーロッパ中心主義、
とするにはいろいろ問題があるが。)
オマエ、「批判 kritik」の意味を知らないだろ。
ははん、さてはカントすら読んだことないエセ哲学・思想ヲタだなw
それに「ヨーロッパ中心主義」を批判することと「脱ヨーロッパ」とは同じじゃないだろ。
そのあたりに無頓着なターミノロジーを無造作に使ってるってことは、
オマエ、ヨーロッパ留学はおろか、哲学・思想の基本的な訓練すら受けてないことを
自分で告白しちまってるんだが、そのことに気づいてるか?
煽ったわりにはすぐに馬脚をあらわしちまったなwww
もう少し粘ってほしかったよ。
>>307 みたいな大人げない香具師が次々に噛み付いては、住人をスレから追出して行くんだね。
たとえどんなに未熟でも
>>304 をおしゃべりの輪の中に引きとどめる懐(寛容さ)を持たないね。
しかもカキコミながら、ひとりでどんどん興奮していくタイプ。
…相当"たまってる"のかな?
309 :
名無しの笛の踊り :2008/03/22(土) 02:58:24 ID:O0IqdYNd
あと、ここんとこのスレ読返すと、
>>307 君は、議論の流れを読まず、個人攻撃(揚げ足とり)に走ってるなあ
50歩100歩だ
310 :
名無しの笛の踊り :2008/03/22(土) 10:43:31 ID:MFQoJRyM
>>307 だが、
>>309 の言うような「議論の流れ」など、
ここしばらくのこのスレには実質的にないだろう。
オレに対する「大人げない」って評価は認めてもいいw
「個人攻撃」というのは認めるが、「揚げ足とり」ではない。
>>302 でのオレの反論の内容自体は、反批判されたわけでもなく、まだ有効と思っているが。
>たとえどんなに未熟でも
>>304 をおしゃべりの輪の中に引きとどめる懐(寛容さ)を持たないね。
そんな寛容さは、ないね。必要あるか?あんな
>>304 みたいな高飛車なニセモノ相手に?
寛容な精神で相手して、何か中身のある議論が出てくるならそうすべきだが、
ニセモノと議論したところで、そんなこと期待できるとは思えんがな。
言っとくが、初心者は大歓迎するよ。
初心者の謙虚さもなく、自分を大きく見せようとするニセモノに、不寛容なだけ。
あと、
>>308 =
>>309 が、オレが批判している当人でないという保証は、まだないからね。
アンタにも同じイヤな臭いを感じるよ。
311 :
名無しの笛の踊り :2008/03/22(土) 11:21:47 ID:20cJ5w0H
そもそもアドルノを読んだことないのにアドルノについて 何か意見を言おうというのがおかしい。 勉強してないことについても誰でも意見がいえるのが普通, 知らないことに意見を言っても批判されないのが普通, 無知を指摘すると「大人げない」「個人攻撃」「ハラスメント」。 まあネットならまだしも最近は学問の世界でもそれに近い奴が 増えてきてるんだよな......
犯罪者は必ず現場に戻るものだ。
つーか、 >オマエ、「批判 kritik」の意味を知らないだろ。 >ははん、さてはカントすら読んだことないエセ哲学・思想ヲタだなw だの、 >オマエ、ヨーロッパ留学はおろか、哲学・思想の基本的な訓練すら受けてないことを >自分で告白しちまってるんだが、 ってな書き込みは、 哲学書読んで自分の頭で考えてきた時間よりも、2ちゃんで吠えてきた時間の方がはるかに長い、 と感じさせるに十分だな。 ま、「俺はKritikの意味を知ってんだ」(三批判書の文庫本解説には必ず書いてあるものな)、 「哲学の基礎訓練を受けてヨーロッパに留学したこともあるんだ」と匂わせて (こういう振る舞いはえてして劣等感の表れなんだがな) 優位に立ちたい気持ちは分かるが、今時留学など何の自慢にもならない。 ドイツ語ができなくて、ゼミで指名されるのが怖くて、 留学期間中ずっと教授から逃げ回っていた香具師もいるからな(笑)
>>313 >「哲学の基礎訓練を受けてヨーロッパに留学したこともあるんだ」と匂わせて
>(こういう振る舞いはえてして劣等感の表れなんだがな)
どうしてそのように読めるのかのほうにすごく興味がわいた。
「投影」という言葉を思い出した。
>>313 >今時留学など何の自慢にもならない。
読み方、完全に逆だろwww
>>302 が留学経験をほのめかすような高ビーな発言をしてるのに対して、
>>307 =
>>310 は「それがどうした、だったらもっと内容のある発言をしてみろ」
と言ってるんだから
その意味で
>>314 に同意
皆さん自分の脚が馬か鹿か分かって無い事がよく分かるスレですね。 それでも捨て駒狗としては有益なのでしょうが。
317 :
名無しの笛の踊り :2008/04/01(火) 00:08:53 ID:S8AKTgLA
にゃーご
318 :
名無しの笛の踊り :2008/04/01(火) 04:26:01 ID:btF0M95A
ちゅーちゅー
ひひーん かぁかぁ あほーあほー
320 :
名無しの笛の踊り :2008/04/01(火) 13:29:13 ID:gCkiW0Fn
さて、釣りに対するお義理のぬるいリアクションはこのくらいにして、と。 アドルノの辛辣なストラヴィンスキー批判を、 アドルノに擁護された側であるシェーンベルクが 「ちょっとその批判はどうかと思うが」と言った件について、 誰か意見のある者はおらんのかね? お、じゃはい、そこのチミ。
テオドール・アドルノと「クリスチャン・ローゼンクロイツの見えない学校図」との比較を行って下さい。
>>320 シェーンベルクが、アドルノのストラヴィンスキー批判に首をかしげた、
という話は、
>>172 にも出てきているんだが、不勉強な俺は知らないんだよね。
アドルノのストラヴィンスキー批判といえば、新音楽の哲学が有名だけど、
あれの刊行は1948年、もっとも当時はアドルノもロスにいたから、
シェーンベルクも草稿は読んだかも知れないが(実際、トーマス・マンは、
アドルノの草稿を読んで、『ファウスト博士』を書いたのだしな)。
そのシェーンベルクのエピソードは、どんなところで紹介されているのだい?
フライタークのシェーンベルク伝(邦訳音友)に出てたと思う。他でも見たことがある。 元はシェーンベルクの私的なノートかなんかにあるらしい。
最近邦訳されたローレンツ・イェーガーの『アドルノ 政治的伝記』では、こんなふうな訳で出てるな。 シェーンベルクは『新音楽の哲学』を読んだとき、不快感を隠すことが できなかった。「余談だが、彼のストラヴィンスキーの扱いは、おぞま しい。私自身はストラヴィンスキーのファンではないが、彼の作品のい くつかは気に入っている。ともかくこんなふうに書かなくともいいので はないか」。 出典であるこれ↓に関連発言がまとめられているようだ。 Musik-Konzepte 63/64: Theodor W. Adorno. Der komponist. (Hrsg. von Heinz-klaus Metzger und Rainer Riehn. 1989)
おお、詳細情報ありがトン! Musik-Konzepteは、多分見ることができるから確認してみるな。
複製芸術についてだが企業の大量生産だけでなく個人でもCD(-R)を作成出来る現代に対してアドルノはどう考えるだろうか?
327 :
名無しの笛の踊り :2008/04/03(木) 07:48:18 ID:bVMrYlW4
Musik-Konzepteをざっと見てみた。
ウォルター・レヴィン(もちろん、ラサールSQの)の論文、
「アドルノの弦楽四重奏のための二つの小品作品2」の冒頭に、
アドルノとシェーンベルクの関係についての考察が、
ドキュメント付で付されていた。
>>324 氏が引用してくれた文章は、シェーンベルクが、「新音楽の哲学」刊行の際に、
ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット宛に書いた手紙(1949年12月5日付)
にあった。「おぞましい」の原語はekelhaft、直訳すれば「吐き気がする」(笑)
こりゃ相当の嫌悪感の表明だな。
ただシェーンベルクは、アドルノのストラヴィンスキー批判が気に入らなかった、
というよりは「新音楽の哲学」そのものが、さらに言えばアドルノ本人が、
気に入らなかったようだね。同じ手紙で「こいつには我慢がならない」
なんて言ったあとで、「余談だが」(nebenbei)と
>>324 氏の引用になる。
シェーンベルクのアドルノ嫌いは、レヴィンによれば、ベルクの弟子時代
にさかのぼるもののようだ。ベルクも、シェーンベルクにとりなしの手紙
なんか書いている(笑)
アドルノのストラヴィンスキー批判は、シェーンベルクも認めていない、 だから駄目なんだ、という単純な話ではなさそうだね。 もう少し丁寧にレヴィンの論文を読んでみるよ。
GJ、
>>327 !
ムズィーク・コンツェプテか…、
いい場所教えてくれて、dクス!!
330 :
名無しの笛の踊り :2008/04/03(木) 13:11:10 ID:zMhjJLz2
おお、このあいだまで無意味な煽りと薄汚い罵倒の応酬だったこのスレが、 なんという美しい流れに! 願わくばこの流れが、アドルノを擁護するか批判するかは別として、 生産的な議論に結実しますように。 ・・・やっぱ、無理かな? いや、がんばろう! 現代の、しかも極東の地で、アドルノを読むのだから、 擁護しからずんば批判、といった安手の二元論にそう簡単に回収されてたまるかっての!
331 :
名無しの笛の踊り :2008/04/03(木) 13:42:49 ID:7YGPZYK3
450:第5の波平◆rTnJeRmLss :2008/04/03(木) 10:25:22 O 科学の限界にあらわれているは、ハイゼルベルグの不完全性、観測に認識が作用する ゲーテルの不可能性、自己言及の欠落 客観的な位置は存在しないということ。メタ言語は存在しない。 論理にしろ、科学にしろ体系は第三者の解釈を排除できない。科学的客観性は第三者を隠蔽してきただけ。 なぜなら自然を客体化し、資源化することを善としてきたから。 ここには過去の自然災害という偶然性が外傷的な経験から抑圧してきた。 現実界は必ず回帰するというテーゼが当てはまるのは自然災害が主体の外傷という認識論であるから 自然はいつもただ戯れているだけ
332 :
名無しの笛の踊り :2008/04/04(金) 19:04:40 ID:Z+qfiPEw
このスレ難しすぎて俺には理解できなさそうだ。 どうすればいいでしょうか?
333 :
名無しの笛の踊り :2008/04/05(土) 00:55:54 ID:1iChO9mn
要するに簡単にわかりやすいようにアドルノを語ればよい。 できるだけ哲学用語を排除しよう。 要は「繰り返しは詰まらんから止めれば良い音楽ができる」という考え方だ。 何のことはないよ。
334 :
名無しの笛の踊り :2008/04/05(土) 03:49:45 ID:9pmXUQAB
「簡単にわかりやすく」ってやり方は、 じつは“非アドルノ的”なアプローチではあるんだけれども、 ま、そこまでアドルノに義理立てする必要もないしな。
335 :
名無しの笛の踊り :2008/04/05(土) 05:10:17 ID:1iChO9mn
難しければみんなが付いてこない。 気取ってわざわざ難しくする必要は無いね。
まだレヴィンの論文を読み終えていないんだが、
>>327 で引用したシェーンベルクのシュトゥッケンシュミット宛の手紙、
あれと同じ日付のヨーゼフ・ルーファー(どういう人か知らんな)宛ての
シェーンベルクの手紙に、「新音楽の哲学」について、こういう文があるのだそうだ。
「この本はとても読みにくい。というのも、この本は、哲学もどきの隠語を
使っていて、今の哲学教授連中は思想の欠落をこの種の隠語で覆い隠しているのだ。
連中は、定義も定まっていない新しい表現を駆使して不明瞭に書けば、
それで深くなると思っているのさ」
レヴィンも匂わせている(と思う)のだが、どうもシェーンベルクは、
「新音楽の哲学」が良く分からなかったみたいなんだね。で、
よく分からない「新音楽の哲学」の中で、比較的分かりやすかったのが
アドルノのストラヴィンスキー批判だったんじゃないかと俺は思う。
だから、そこに噛み付いたのが
>>324 氏が引用してくれた文章ではないか、と。
何言ってんだか良くわからんが、この本は気に入らない、
とりあえずストラヴィンスキーを叩いていることは分かるから、
ここにはイチャモンをつけておかないと気が済まない、
ってのが実情じゃないかと思うんだが、そんな風に受け取ったら、
シェーンベルクを2ちゃんの住人レヴェルに引きずりおろしたことに
なるかも知れんな(笑)
>>333 >要するに簡単にわかりやすいようにアドルノを語ればよい。
それをできるのはアドルノをきちんと読んで
ある程度の理解レベルに達した人だけだよ。
難しいことを難しく語るのは誰にでもできる。
難しいことを簡単に語るためには知識と能力がいる。
>難しければみんなが付いてこない。
どうしてみんなが付いてこなければいけないのか?
そこがわからないよ。
>>336 ルーファーはシェーンベルクの弟子で、助手みたいなこともしていたようだ。
「12音による作曲技法」という教科書を書いた(入野義朗による邦訳が昔出てた)。
入野の「ヴァイオリンとピアノのための音楽」を吉田秀和がルーファーに聴かせた
ところ、「シェーンベルクを本当に勉強した人の音楽」だと言ったそうな。
シェーンベルクのアドルノ評は初めて知ったが、「ソーカル事件」を思い出すな(w)。
フライターク本にあったと思うが、トーマス・マンが「ファウストゥス博士」を書くときに
12音技法について教えたのがアドルノだったということで、シェーンベルクはその点
からもアドルノを快く思ってなかったらしい。
339 :
名無しの笛の踊り :2008/04/05(土) 17:22:23 ID:Eqbb+L5G
難しいことを簡単に語るためには知識と能力がいる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ もちろんだよ。それがどうしたのか? どうしてみんなが付いてこなければいけないのか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 強制じゃないけど、付いてくれば新ウイーン楽派が良くわかるよ。 「12音による作曲技法」 ・・・・・・・・・・・・ これは音大で教えてくれないので大昔本気になって読んだなあ。 でも和声学のように実習しないとほんとの意味は無い。 12音終わったらセリエル、それが終わったら和声学のように忘れるのが一番良い。
>>338 おお、貴重な情報ありがとう!
「12音による作曲技法」という本は恥ずかしながら知らなんだ。
ふ〜ん、入野さんが訳したのか。
「新音楽の哲学」の最初の邦訳(「序論」「シェーンベルク」)も
入野さんによるもの。「新音楽の哲学」は、龍村あや子さんによる新訳が
出たんだけれど、ダールハウスの元で勉強した龍村さんがものすごくできる人
だと認めた上で、俺自身は渡辺健氏による旧訳も捨てたもんじゃない、
と思うんだよね。読み慣れている、ってこともあるけれど、
原文と照らし合わせてみても、決して低いレヴェルの翻訳じゃない。
渡辺氏の翻訳がそれなりのレヴェルのものになったのは、
(直接には見ていないんだけど)入野訳が、
かなりのレヴェルのものだったからじゃないかと
俺は勝手に想像している。
「新音楽の哲学」旧訳には、訳者あとがきに、
渡辺氏が入野氏に、入野氏の旧訳稿に手を入れて共訳にしないかと
提案したところ、入野氏が「恥ずかしいから」と言って辞退した、
という裏話が載っている。入野氏の人柄が偲ばれるエピソードだと思う。
341 :
名無しの笛の踊り :2008/04/05(土) 23:21:34 ID:Eqbb+L5G
当時は芸大系よりも東大系の方が現代音楽の本質を理解していた。 芸大は校歌の専門の作曲家は良く輩出させたが、 現代音楽というといつもどうも保守の牙城だった。
アカデミーってのは元来そういうもんずら。
343 :
名無しの笛の踊り :2008/04/06(日) 15:31:34 ID:r2yZ2IqJ
東大はさすーがー、知識に偏りが無くて、 音楽もどれがほんとに大切かは伊東君といえどもわかっているね。
といへども。
345 :
名無しの笛の踊り :2008/04/06(日) 18:17:37 ID:r2yZ2IqJ
まあ、彼は傲慢なだけだ。 たいしたことは無いよ。
346 :
名無しの笛の踊り :2008/04/08(火) 17:06:02 ID:+Juz07Xc
アドルノってまともに論じるとスレが延々と続くよ。
347 :
338 :2008/04/08(火) 17:53:12 ID:U4tnjOtm
アドルノとは関係ないが、ルーファーはシェーンベルクから直々「ドイツ音楽の優位をあと100年 保証する方法を見つけた」と聞いた人だったな。
348 :
名無しの笛の踊り :2008/04/08(火) 18:32:21 ID:+Juz07Xc
系列は同じ。 というよりも100年後に12音が認められるようになる音楽、 といったほうが良いかも?
349 :
名無しの笛の踊り :2008/04/16(水) 23:14:39 ID:5AOUz+Yf
>>346 このスレには、というかクラ板には、「アドルノをまともに論じる」能力のある奴はいないから、それは杞憂。
>>349 そう断定しながら、
「杞憂」の語をみごとに誤用するキミは…
351 :
名無しの笛の踊り :2008/04/17(木) 17:29:34 ID:wpufFkML
「杞憂」ではあるが、書くことに意味を見出すよ。
sage
353 :
名無しの笛の踊り :2008/05/08(木) 23:01:26 ID:6gZaos4G
アドルノってゲソヲソなのか?
354 :
名無しの笛の踊り :2008/05/09(金) 16:04:07 ID:AGTtKTBl
ゲソヲソでありクラシカーであり哲学者だった!
355 :
名無しの笛の踊り :2008/05/22(木) 04:57:18 ID:1MKlOUm3
アドルノの音楽の聴衆を7分類したが、あれどう思う? エキスパートはいわば評論家、 大半のものは教養消費者なんだろうか?
356 :
名無しの笛の踊り :2008/05/22(木) 05:16:21 ID:rZE5denB
今はもっと多様化していると思うよ。
2ちゃんに書き込んでいるのは、ルサンチマン型教養消費者だろうな。
おお、このスレ、まだ生き残ってたんだ。 すごい! ちょっと感動しますた。
359 :
名無しの笛の踊り :2008/05/24(土) 13:22:01 ID:T3JehRYG
美の理論を一から読んでやろうと思うのですが、何か必須な本はありますか? 当方音楽の専門的教育は受けていませんが、美学・表象関連の本には多少親しんでいます。
大久保訳の美の理論は、一頁に誤訳がいくつあるか数えるだけでもたいへんだ。 合本になったから、多少は直したのかと思いきや全然直っていない。 あまり褒められたもんじゃないが、否定弁証法の翻訳の方がまし。 あとは、最近の音楽・メディア論集、新音楽の哲学あたりをお勧めする。
361 :
名無し募集中の痛い人 :2008/06/16(月) 10:52:40 ID:G4izgmJ2
失礼します 『新音楽の哲学』においてアドルノはシェーンベルクに対してもストラヴィンスキーに対しても 平等に手厳しい批判を加えていると思います ジェイ『アドルノ』ではストラヴィンスキーをほぼ全否定したかのような乱暴なまとめかたをしていますけど ストラヴィンスキーの音楽がこの狂った社会歪んだ人間性などの客観的な表現たりえているという感じでアドルノは「認識分析」しています ただ社会の現状に対してストラヴィンスキーの音楽が批評性を欠くと考えたアドルノはそれを「評価」する段になって批判したと思うのです アドルノは物象化された12音技法に対しては非常に批判的ですシェーンベルクの不興を買うのも理解できます
362 :
361 :2008/06/21(土) 06:53:44 ID:2kc1Vtgk
実を言うと、私が語りたかった事はおちんちんについてです 失礼しました
s
366 :
名無しの笛の踊り :2008/07/29(火) 23:38:23 ID:zn06uiC4
367 :
名無しの笛の踊り :2008/08/06(水) 17:13:26 ID:F6Ozx0wa
368 :
名無しの笛の踊り :2008/08/13(水) 04:25:32 ID:/QYPJpvT
369 :
名無しの笛の踊り :2008/09/06(土) 14:36:17 ID:1PWxnTkR
sage
370 :
名無しの笛の踊り :2008/09/11(木) 10:26:14 ID:n4XYyF14
Fスケール
皆ヨーロッパにいないからわからんのだろうと思うけど アドルノってのは選民思想の持ち主だったわけよ だから「啓蒙なる野蛮」と言った。これは「教化された蛮族」という意味。 つまり、フランク人に対する最大の皮肉。 「そうだ。 私はユダヤ人だ。議員殿の祖先が名も知れぬ島の野蛮な土人だった頃、私の祖先はソロモン王の神殿の司祭だった!」 と言いたかったんです。
372 :
名無しの笛の踊り :2008/09/25(木) 20:21:07 ID:fttVQpuS
ユダヤ人つっても半分だけじゃん。 アーレントにいじめられてたじゃん。
mage