>>9 事象を書き留めるという行為自体がそもそも、
事象に対する説明機構としてシステムを作動させているものであり、
作動しているそのものを否定的に見る必要はないよう思われる。
説明機構が万能であるという幻想は昨今の科学に対する観点にも
多々見られるもので、一般的なものであるようにも思われるが、
一方で説明機構は万能であるというわけではなく、むしろ
説明を必要としているために発生した、いわば
便宜的な装置であろうと思った方が良いのではなかろうか。
即ち、宗教などに見られる説明機構の不備が、現在では
科学のような説明機構に押されている感が日本国内ではあるが、
説明機構そのものが説明の機能を果たしているのが重要であり、
事実関係という存在が個々において独立しているという仮定から、
認識そのものに対する影響が発生したとき、それは説明機構の
役割を果たしていると思われる。
影響力の多少に関わらず、である。
説明機構そのものがまた、更なる抽象性を帯びる事により、
単独で、説明機構そのものがその文法的な事項に関わらず
説明機構として働くと言う結果を生み出す場合もあり、
説明機構としての不備は更に広がるにせよ、
結果としてその存在が説明機構の役割を果たしうるのであれば、
何等その結果を否定する材料はないのではないかと思うところである。
説明機構が発した存在が事象そのものを歪めることも思えば、
影響そのものを否定するのは愚かしい事ではあるが、
今回の設問においてその点は重要視されないものと思い、
此の点には触れずにおこうと思う。