1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
金
西夏
南宋
という三国志もあるんだが。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 15:05:55 ID:+HIjuS7e0
>>2 その時代になると、地理的な関係上、金と南宋の対決にばかり注目が集まって、
どうしても西夏の影が薄くなる。
だから三国対決の印象は弱い。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 23:45:57 ID:xtnIw74H0
西夏ってあの微妙な位置によく独立を保てたね。
ちょっとでも均衡が崩れたら、宋か遼に併呑されそうだけど。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 14:13:19 ID:gf0DZXEi0
西夏の場合、背後の敵対勢力がなかったのがよかった。
ウイグルが強大な帝国だったら、宋との戦争どころではなかっただろう。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 01:06:23 ID:4JBHCL850
西夏は宋から技術を導入して陶器を作ってみたり、
灌漑を進めたり、
いろいろ産業を栄えさせる努力はしていたみたいだね。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 14:12:15 ID:CfPLqFgF0
西夏の財源で一番大きかったのは何だったんだろう?
交易?
>>7 西夏の主な収入源はシルクロードの中継貿易だよな。
あと范中庵の戦略で交易つーか物資の流れ止められて
戦争どころじゃなくなってたしな。
西夏は領内で取れる塩を宋に輸出したがっていたみたいだね。
でも宋としても塩は重要な財源なもんだから、
認めなかったみたいだけど。
密輸とかは結構あったのかも。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 11:58:20 ID:kBtHh3xr0
青白塩か。
昔は、内陸の岩塩と沿岸の海塩だと、どちらが人気あったのかな?
岩塩の方が辛いけど。
宋代は地方によって消費する塩の産地が決まってたから
どっちが人気というのはあんまり意味ないんじゃね
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 22:35:57 ID:dUON+7880
そーかー。
国に半ば強制的に買わされるものだしね。
一般業者は原則塩を扱えないから、
ブランド塩の販売は無理かw
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 15:41:20 ID:+/xh5wLh0
西夏の官制ってやっぱり宋に準拠したような感じのものだったんだろうか?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 16:25:25 ID:iYJOVhzxO
西夏文字は美しいので有名だった。
現在でも中国の書道家の中には、西夏文字を使い作品を発表してる人もいる
>>13 岡崎精郎の『タングート古代史研究』や、西田龍雄の「西夏王国の性格とその文化」
によれば、大まかには北宋の官制は模倣しているけど、西夏独自の官職もあった。
だけど、法令がある程度整ってきたのは李継遷・徳明・元昊くらいからみたい。
しかも、度々北宋とは国交断絶していたから、遼・金の制度や、隋・唐時代の律令も
組み込んでいる。
基本的に資料が少ないしね。
だから謎の王国と呼ばれるんだろうけど。
首都の興慶は人口はどれぐらいだったんだろう?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 11:54:58 ID:B9ATigu+0
10万人を超えるのは難しかっただろう。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 10:15:27 ID:Yo9w1lE30
人口は、寧夏のあたりでどれだけ灌漑が整備されて農業生産力が確保でき、
どれだけ養えるかによる。
陶器の生産にも力を入れていたみたいだよ。
宋から技術を導入して。
あの地域だといろいろ工夫しないと大変だろう。
つか、レス伸びないな。
国都興慶府の人口は詳しくは分らないけど、兵士数だったら何十万単位
で徴兵できていたみたいだから、それなりに人はいたんじゃない?
あ、時にこのスレの住人で、西夏・遼関連の史料を持っているヤシは手を挙げて
ノシ
史料は、遼史しかない。
資料なら図説もんとか概説書もってるけど。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 06:50:52 ID:a82izyRX0
この時代は、後のモンゴルの時代の影に隠れた感があるな。
契丹は、西方の一部地域では中国を意味する言葉になるほど、
影響力があったけど。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 23:37:47 ID:g/mNcp0n0
宋が弱かったからこそ面白くなった時代とも言える。
もし宋が軍事面でも強大なら、経済面文化面では既に超大国なんだから、
遼や西夏は太刀打ちできなかっただろう。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 15:31:48 ID:CTSWVj2V0
遼って塩は自国で産出していたのかな?
海に面した地方の海塩と、内モンゴルの岩塩
高額な塩税がないから塩が安くて、宋の領域に遼のヤミ塩が流入することもあったみたい
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 10:40:47 ID:Jipg5bY50
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/22(水) 14:53:59 ID:42ljR7IR0
宋は四川が案外情勢不安定だったみたいだね。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 21:28:45 ID:pnNQEch8O
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
>>28 天下統一の過程で蜀を滅ぼして四川盆地を征服した時に、
かなり掠奪とかをしちゃったから、住民に反宋感情が芽生えてしまった。
その反省で、江南の南唐を征服した時には気をつかったので、
江南は終始安定し、靖康の変以降は首都を移した。
>>30 それだけじゃないよ。
経済圏の独立感がなお残っていた、残さざるを得なかったというのが一番強い。
南宋が杭州を京師にした理由のうち、北宋の南人官僚閥があって、
秦檜なんかも杭州の士人との密接なつながりを持ってて、その利権のうえに成り立っていた。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/26(日) 23:37:11 ID:CFa4Yyj70
江南は人口が多い上に経済的にも豊かな地域だから、
科挙合格者を多く輩出し、中央に強力な人脈を築くことができた。
それと比べると、四川閥はどうしても劣る感じかな。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/23(日) 08:33:18 ID:j1BfU3DX0
江南の方が人口多いしな。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 23:34:51 ID:7MdQbf8F0
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 15:00:23 ID:YvVnMLzZ0
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 23:56:13 ID:RFm0K+SE0
西夏には遼の公主が嫁いでいるけど、
実際どういう待遇だったんだろう。
もろに政略結婚だから、基本的にはお客さん扱いだったんじゃないかな。
下手したら、言葉もあまり通じないだろうし。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/04(火) 21:12:12 ID:1QWg7biC0
>>31 銭は一般的に銅銭だけど、四川では鉄銭が使われていたんだよね。
信用力が低かったらしいけど。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 23:30:05 ID:wF/75gtC0
四川には鉄の産出地が多かったから、鉄銭にした方が政策として都合がよかったらしい。
ただ、支払いを受ける側は、鉄銭より銅銭を望んだために、
公的には同じ価格と定められた銭も、
銅銭一枚に対して、鉄銭数百枚で取引される状況になったらしい。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/17(月) 23:54:29 ID:7/jAf6fO0
銭って、金属だから重量あるし、
考えたらかなり輸送に手間がかかるな。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 12:53:34 ID:E45DQngZ0
その銭をいっぱい買い入れていたのが日本
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/22(土) 23:57:25 ID:VRt4LPEN0
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 10:43:09 ID:82vg/I9J0
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 20:19:28 ID:0w5lqFdN0
>>45 西夏銭ってあるんだね。
彫られているのは西夏文字か。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 22:12:00 ID:yVNPQYGE0
一枚が軽く5万円はする
西夏文字とか、マニアにはたまらんものがあるんだろうな。
俺でもちょっと興味が湧いてしまうんだから。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 14:41:59 ID:s3Gr24WY0
西夏銭って、どのぐらいの範囲で流通していたんだろう。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 09:55:09 ID:MOTM1m2J0
江戸時代すでに日本のマニアが所有していた。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 21:41:20 ID:lpDBjnOH0
西夏と日本の接点って何かある?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 12:59:21 ID:n0FX3EFZ0
井上靖「敦煌」
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 23:20:17 ID:JzjeDMCe0
宋と西夏の戦い、宝元戦争って、
日本での、豊臣秀吉と徳川家康の戦い、小牧・長久手の戦いによく似ている。
西夏は緒戦で宋軍を次々と撃ち破ったものの、宋軍全体から見ればそれは致命傷とはなり得ず、
戦線が膠着して持久戦になると、国力の差から苦しい状況に陥った。
一方の宋も、遼という宿敵を抱えていて、西夏との戦いを早期に終結させる必要に迫られていた。
その結果、形式上西夏が宋に臣従する代わり、歳幣を得る形で講和が成立。
小牧・長久手の戦いも、徳川家康は豊臣軍の一軍を撃破したものの、
豊臣軍全体を崩壊させるにはいたらなかった。
その後の持久戦では、国力の差が出てじわじわと追いつめらた結果、講和。
豊臣秀吉も、早期から海外への出兵構想を持っていたので、
自身の年齢的にも、国内平定にあまり時間はかけられないという焦りがあった。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 00:14:57 ID:frrt49+x0
あげ
西夏文字 難しすぎ字画多すぎ。こんなん一斉に使えやって配布されて
タングートな人よく使いこなせたな。
漢字が読める人間には何だこれ?ってなるけど、
ゼロから習うんだったら、子どもが漢字を習う手間とそう変わらないと思われる。
>>53 西夏って、長安を獲るってどこまで本気だったんだろう?
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 11:56:09 ID:9yX3ZrHD0
ただのポーズ
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 15:28:38 ID:hykTws590
緒戦で宋軍が弱くて、連戦連勝だったので、
この勢いだと、長安も獲れる、って考えたんだと思うよ。
宋軍が守りを固めると、途端に戦線が膠着しちゃったけどね。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 21:05:06 ID:rO7SnWGmO
とる気はあるさ
とる気はあったかもしれんし一瞬なら取れるかもしれんが維持できる
とは思えない。景気づけだろ。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 23:52:51 ID:ZUc0hrbT0
西域攻略は連戦連勝だったからね、李元昊。
いける、って思ったんだろう。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 03:15:50 ID:gTowUgsNO
取る気あるだろ
宋が安定したら攻めこまれるのだから
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 11:48:18 ID:d/N0CanA0
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 20:02:20 ID:Nr3LtDFb0
そういう古銭って、具体的にはどういう部分がポイントになるんだろうね。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 13:00:47 ID:KcMVMy9V0
真贋でしょうね。贋物があまりにも多かったから。
中国人の偽古銭作りは有名だよ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 22:40:44 ID:DpjUUazc0
>>63 周辺の西夏、大理にしたら、
宋と遼が対峙している状況の継続が一番望ましいわな。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 22:25:01 ID:9tctTumQO
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 23:43:24 ID:93LCYIzD0
宋は外敵に弱かったせいか、あまり周辺を征服して領土を広げるイメージはないけど、
建国初期には、征服しまくっていた国だしな。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 23:59:24 ID:hQ4RXjV80
遼と言う強敵さえいなければ、大理は征服しただろうし、
定難軍なんて認めなかっただろうね。
ただ西夏の軍事力の限界もはっきりしている感がある。
最大版図以上の拡大は無理なんじゃないかな。 どこを攻めても
取った取られたで終わると思う。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:53:12 ID:wgKnyAlw0
西夏の統治能力の問題もあるだろうな。
仮に陝西一帯まで軍事的に征服できてたとしても、
そこを治める行政機構の整備も大変だろう。
仮に征服できたとしても行政機構に漢人を登用せざるをえないわけで・・・
結果として支配者階級が漢化していくという併呑の黄金パターンですな
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/02(日) 15:53:19 ID:BhNaJDK80
東方の征服地を陝西に限定し、かつウイグル方面まで制圧した場合、
この西夏帝国における漢人の人口比率はどれぐらいになるかな。
西域の方に大きく進出した場合、モンゴル帝国のように、
色目人が政権中枢を担う場合もあり得るのでは?
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/03(月) 18:45:17 ID:yVxwHhqn0
本拠地をどこに置くかにもよるだろうね。
長安に遷都した場合は、当然“漢”の色合いが濃くなるだろうし。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/09(日) 00:53:20 ID:cuxyjNVr0
チベットの支配が難しそう。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 23:35:14 ID:57DW1swL0
本当にチベットの支配は難しそうだw
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/24(木) 14:47:49 ID:mh17C5LN0
西夏は遼金元と違って、多民族国家志向がなかったと思う
機会がなかったのか、民族固有の性質なのかはわからんけど
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 23:54:01 ID:IcutzWJjO
今週号のスピリッツで連載が始まったシュトヘルは西夏が舞台らしい
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 16:18:23 ID:fZd91j9e0
西夏の女兵士かあ
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 00:20:55 ID:IFfDzLRtO
いきなり素っ裸で登場
とってもセクシー
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 02:06:47 ID:iawJZpm/0
西夏はどう見ても宋に従属していただろう。
仏教を国教としていたそうだが、宗教的にもタングートはシャーマニズム信仰で行政、宗教を漢化する事により従属する姿勢を採ったのでは?
本当は戦争もしたくない弱小国。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 17:36:41 ID:gKSDBhEN0
従属はしてなかったよ
戦争というか略奪で宋との国境を荒らした。そもそも仏教は純粋な漢文化じゃない
インドから西域を経由して中国に入った物 タングートが元々影響を受けていても不思議ではない
軍が弱体化してた宋は当初遼と西夏が共倒れになってくれる事を期待してたけど結局失敗
どっちにも金や財物を送って周辺荒らさないでねって和議を結ばざるを得なかった
金が台頭すると 西夏はむしろ金に服属の姿勢を見せる。西夏の内乱に際して反乱軍を捕らえてくれた金とは
感謝の念もあったのか滅亡まで友好的な関係だったそうだ。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/09(月) 23:48:48 ID:H35YrTv+0
西夏はチベット高原方面には進出しようとは思わなかったのかな
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/11(水) 15:22:26 ID:6xNVg3qSO
>>83 西夏は末期には、南宋と結んで金と戦っているよ。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/10(土) 04:35:09 ID:jJDZJJSpO
李安全が長年の外交政策を転換し、金からモンゴルに乗り換えようとして金を攻撃。
しかしモンゴルは西夏なんぞ属国としか見ておらず、チンギス・ハンに西征の兵を出すように要求される。
しかし西夏は拒否。その結果、怒ったモンゴル軍に攻め込まれ、やがて滅亡…。
長らく同盟関係にあった金をあっさり捨てたからある意味仕方ないか。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/09(水) 14:40:01 ID:fH2zJVco0
加藤徹明治大教授は著書「貝と羊の中国人 (新潮新書) 」で、
宋の趙匡胤はトルコ国家の後唐の近衛兵の世襲軍人家系だからトルコ系の可能性はかなり高いって書いてる。
そら確かに沙陀はテュルク系だけどな
宋をトルコ国家という言い方するのはどうだろうな
ドイツ人とインド人は同じアーリア系です的なもんだろそれじゃ
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 23:06:52 ID:AVQQ4ZJq0
君たちはどんな本を読んでいるんだ。すごすぎ
>>89 井上靖の「敦煌」から始まり、基本は岡崎精郎の『タングート古代史研究』
西田龍雄の『西夏王国の言語と文化』 「史学雑誌」「東洋学報」の論文とか
ですかね。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 14:12:14.84 ID:C6826HIzO
西夏文字で則天文字の「圀」みたいに後世まで使われてる文字ってある?
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/10(木) 18:47:27.26 ID:zQUxvw/t0
契丹の遺物を展示してたのを見に行ったわ
豪華な装飾品が多く、いかに遼が栄えていたかよくわかった
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/25(水) 21:52:35.16 ID:sGa4hsEP0
南宋は超平和国家
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/30(月) 00:56:00.87 ID:cwtbmOUB0
全く伸びなさそうだなこのスレ。
じゃあせっかくだから契丹展にあやかって優秀な皆さんに質問。
耶律阿保機が926年に渤海国くだした後、東丹国と改称して皇太子の突欲を冊立して国主とした理由って、唐朝がキビ統治を行ったことと関係ある?
契丹展終わっちゃったのか
どのみち遠方なんて観に行くのは無理だったけど
図録だけでも手に入らないかな
>>92 西夏が滅んだ後も碑文に使われていたことはあるらしい
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/19(水) 16:05:55.02 ID:AVri05o80
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/13(土) 14:14:17.62 ID:EG7CyUQw0
明朝、北元、ティムールで三国志状態になったら面白かったのに・・・
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、 _ノ ̄ ̄ ̄
`'ー '´
○
O
{ヽミ∧
彡彡 .\
彡彡 .● ヽ
彡 ( \
_────___──../ /ヽ ヽ
/ / ./ ./ ヽ o丿 と思うゴールドシップであった
彡彡彡 ./ / │
彡彡彡彡 |ゴールドシップ/ │
彡彡彡 / .. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .ヽ、 ヽ ノ
彡彡 ノ / ̄ ̄` ヽ 、 `、 ノ \
彡 / / `、 / ` ー 、 __ヽ ヽ ヽ 、
/ / / / \ 丶` - 、 `、
/ ./ / / \ `、 \\
././ | / \ 丶 ヽ ヽ
___/./ | | ヽ`、 `、`、
/ |__/ | | `、ヽ、 tニゝ
 ̄ """"''""'"" ヽ 、ヽ
tニゝ
ちょっと覗いたけど、ここは中英で巧妙に耶律休哥を語るスレでは無かったか。
西遼と西夏って関係良かったのかな?
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/18(月) 02:15:28.34 ID:FeLoE/OI0
魏・呉・蜀→晋が統一
北周・北斉・陳→隋が統一
宋・遼・西夏→元が統一
なぜなのか?
西夏や遼の武将って記録に名前残ってるのかな
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/05(日) 10:25:23.08 ID:cg9dKMGc0
西夏(タングート)も遼(契丹)も民族が異なるから三国志じゃねえだろ
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/17(金) 19:56:01.09 ID:HT0EggR70
五胡、契丹、女真は完全に漢化されたけど
蒙古だけはそうならなかったね
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
秦漢>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>倭
隋唐>>>>>>>>日本
明清>>日本
日本>>>>>>>>民国
日本>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>共産中国
どうしてこうなった?古代あたりまでは中国の方が遥かに文明的だったのに…
明治維新と日清戦争で完全に逆転したな