中郎将、将軍と昇進した諸葛亮ってあまり蜀将と呼ばれないね
何故?
諸葛亮はあまり武将というイメージがないからじゃないかな?
軍人より政治家の色彩が強い人物だし。
兵権無しに政治なんか出来ない。
魏晋南北朝時代は軍人皇帝の時代だからな。
孔明は妙に奇術師めいた粉飾をされるが、
実際は正統派の出将入相の系譜にいる。
中原回復したら諸葛王朝になってたよね
厳顔って実際は老将だったのかね
>>3 当初は主に兵站を統轄する後方支援、その後は宰相の人物を将なんて
呼ばない方が普通じゃなかろうか。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 22:25:46 ID:jgTPYoxpO
148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 16:47:40
23時男君 マルチはよそうぜ
< 例 >
41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 本日のレス 投稿日:2007/05/30(水) 16:09:18 HLa/fWdh0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/ 149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 16:51:23
おっと昨晩もやってたのね
< 例 >
89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/29(火) 23:53:37 Mo3M6hjg0
三国志・蜀将討議スレッド17
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1180445040/ 150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 17:11:45
三戦に嫌がらせしてるのは23時の男か
156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2007/05/30(水) 22:22:38
以前中英の三国志スレをあちこちに宣伝してたのも23時の男だろうね
最近三戦板の考察系スレを荒らしてんのはほんとに彼かもしれん
157 名前:23時の男 :2007/05/30(水) 22:26:27
さて、それはどうかな?
ふふふ・・・・・・
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/31(木) 04:18:16 ID:8Gmwm2w80
馬謖は諸葛亮に謀殺されたって説を聞き齧ったんだが
詳しく教えてくれないか。
諸葛亮って意外と謀殺してるよな・・・
そんな事してるから優秀な人材が少なくなっちゃうんだな
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/31(木) 09:24:01 ID:eTykPB9i0
それは言えるw
15 :
魏延:2007/05/31(木) 13:22:10 ID:gAd9b5KrO
(´・ω・`)
関羽も?
確実に謀殺したのは劉封と彭ヨウだけで後は推測だろ?
馬謖って優秀な人になるのかな
多少の知恵はあるが自分の才をひけらかす小人なんじゃないか
>登山家
諸葛亮の南征〜北伐まで無くてはならない存在だったようだが。
まあ優秀な戦略家が同次元で優秀な戦術家である必然性は全くない。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 12:50:19 ID:XmsSBiZc0
劉封は?
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 14:46:34 ID:zBzSUFV3O
俺の職場に鳥雲って人が居る。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 22:32:26 ID:idV6eoYVO
諸葛亮が李厳を弾劾した時に出てくる李厳の参軍狐忠って馬忠のことか…
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 09:07:28 ID:ZTiT0ZYjO
\(~o~)/
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 19:16:57 ID:Qx4uu2P00
>23 狐篤とも言ったからな。何平とかみたいなもんだな。
魏延は南蛮っぽいイメージがついてしまった
KOEI め・・・・
( ;∀;) イイハナシダナー
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 00:02:38 ID:UDSft31X0
魏延って南蛮行にも随行してたっけ
関羽って曹操のもとからただ逃げ帰っただけなんか
それにしても記述がそっけなさすぎるな
魏延の武勇はさほどでもない
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 23:02:41 ID:G709+r7V0
そりゃ関張あたりと比べればそうだろうが後期蜀じゃN01だろ
漢中まかせられたあたり、武勇より統率よりかもしれんが
武勇って言葉は一対一で闘ったらとかって意味か?
ま、そりゃ出自も小隊を率いていたらしいから弱くは無かっただろうが。
それより魏延が忠義者だったかどうかのが気になるのは俺だけか?
以下、魏延伝の記述からだが、
陳寿も「王朝への謀反の意思があった訳では無かったのだ」とは述べてるが、それだけ。
それ以上はフォローし切れなかったんだろうな。
王平の「諸葛公が亡くなったばかりの時に 貴様は何をやっている」という発言が重いな。
本当に何やってんだよ 魏延も 楊儀も
楊儀「何って…アホかお前。
これだから文盲は困る。
権力闘争と反逆者へのケジメだよ、ケジメ!
とか言い返しそう。
あれはどう考えても楊儀の方に理があるもんな。
俺は魏延は忠義だったと思うよ。
ただ、その忠義は劉備という個人に対しての忠義であり
蜀という国家に対しての忠義ではなかったと思う。
>>19 参謀、謀臣としては素晴らしいが、指揮官とか人の上に立つと本来の力を発揮出来ないタイプの人だと思う。
>>37 婁圭ならこう言うだろうな。
「主君の器量に不満を持つなら、何故自ら取って代わろうとしなかったのか」と。
高翔
簡雍
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 09:06:57 ID:tIT/Ms/+0
蜀の名将を10人あげるとしたら誰をあげる?
5虎将入れると残りは魏延、王平、張ギョク、馬忠、張翼、李厳、李カイあたりかな
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 09:14:13 ID:I2CaKjv/O
>>42 成都武侯祠のメンバーが参考になるのでは。
そういや陳到は武侯祠に祭られてなかったような…
あれは何か演義基準っぽいもんなあ
いつごろ作られたんだろ
>>42 そのメンツは個人的には好きだが神レベルの五虎将とくらべると普通の優秀な人間に過ぎないからチンケに見えるよな
だからこそ俺は好きなんだが
姜維・廖化・句扶・馬岱・陳式・呉壱・呉班
このあたりは絶対に外せんだろう。
向朗・ケ芝・高翔・羅憲あたりとお好みで入れ替えてもどうぞ
後はショウエンとヒイと諸葛亮な
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 01:21:24 ID:26Ekoc8dO
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 03:10:12 ID:VzWqocDx0
旗揚げのときからいる簡雍は、うっかり八兵衛のイメージがある。
劉備様〜!待ってくださいよ〜!
とか言って無理やり3人の後をついていったようなw
簡雍といい劉琰といい劉備はお伽衆を連れて歩くタイプの人間みたい。
五虎将と十名臣みたいな感じでわけたほうがいいな
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 03:40:06 ID:ItiRe4Tp0
個人的に魏延は準五虎将なイメージ
というか劉備って蜀獲るまで有能な武将の絶対数が少ないよね…
麋竺・簡雍・孫乾ら古株は仲良く将軍位を得ているな。
まあだからと言って軍才があったとは限らないが
麋竺って金持ちだけど 自警団とか指揮してた可能性はあるのかな?
本人は弓矢とか上手かったそうだから、
撃剣も使った魯粛とちょっと被るな。
張苞や関興だってとりあげられても良いじゃねーかYO!
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 08:27:41 ID:mbXCKMkAO
演義厨乙!
ぐはあ!
傳僉
(*´w`)<付箋を貼る傅僉、ナンチテ
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 01:35:36 ID:FY6cKV+aO
_, ,_
( ‘д‘)
⊂彡☆))д´)
>>58
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 05:46:56 ID:mgujz6C+O
放浪時代の劉備についていけなくて脱落した有能な武将がいたよね。
確か陳グウだったかな、その後に曹操に仕えたけど。
他にも放浪についていけなくなった武将とかいそうだな。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 06:44:13 ID:tK5xemM40
陳羣やろ。彼の子が陳泰なわけだから、そう考えると惜しいわな。
でも荀ケと仲良かったようだから、どちらにせよ曹操の元へ行ったかも知れんが。
劉備が失脚して荀ケに推挙されたのは丁度良い機会だと思ったのかもな
法正って性格悪いの?
悪いという事は無いだろうが、恨みは必ず晴らすタイプだったようだ。
恩は倍返し恨みは十倍返しというイメージが。
>>65 劉ショウは法正を冷遇したし、同僚の誹謗中傷で出世の道を閉ざされてる。
お上が軽んじてる人間を、周囲はどう扱うか。
これら2点を踏まえれば、法正が恨み骨髄に達してる相手、これが何人か居てもおかしくは無い。かな?
法正は命がけで売国奴となった。
相方の張松は立伝さえされない、これは死んだからだ。
それは法正のもう一つの末路でもある。
それほど売蜀は危険な行為だった。
その賭けに勝った法正には、張松の分まで彼らを冷遇した仇に鉄槌を下す使命がある。
これは皆仲良くしましょう、とかいう理屈で止められるものではない。
許しが欲しければ乞えば良かったのだ。
復讐心で煮えたぎる法正の門前に、首枷を担いだ廉頗が一人でもいたか?
仕返しをされてしまう程度の人間性で、アウトサイダーを嘲笑してるだけの輩というのは、大抵ろくなのがいない。
端的に言えば法正の積悪は政敵どもの自業自得でもある。
>>67 孔明の人間性から言って、殺されても仕方が無い連中でもなければ基本的に止めるだろうしな。
>>62 魏の法整備等の内政面での功績を考えると
子の陳泰よりも陳羣の方が得がたい人材だろ。
いや、後年の蜀に陳泰がいればどれだけの有益と敵失になるか
>67 諸葛亮も法正も法治論者だしね。
怨みだけでなく、恩にも報いていたようだし
おそらく復讐ってのもある程度は法に則ったものだったんだろう
>72
叩いて埃の出ないやつはいない。
その埃に拡大解釈された法をもってすれば容易に獄に下すことができる。
現代日本も似たような話は聞くね。
つうか、そもそも、法正って劉ショウの後見人であるホウ義が推挙した人物。
それを軽んじたり、誹謗中傷するって時点で法正の恨みを買った連中は考えなしだよなぁ。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 22:19:48 ID:kUh6hsY90
呉班
もし張任が生きて劉備蜀に仕えていたらどうなっただろう
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 21:53:35 ID:iz9yw8pI0
王平並に活躍したと妄想
呉蘭、雷同とかと一緒に討ち死に
>77 今みたいに忠義者の石碑が立たず、ホウ統を殺した者として疎まれていた
ホウ統が実際そこまでの人物だったのか疑問だけどな
しばきのじいさんが言っただけだろ
逆に張任を説得しきれなかった、劉備・孔明がどうなんだろうな
張任の劉しょうに対する忠義は関羽の劉備に対する
それと同じくらい厚いものだったとは思えんし
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 23:20:21 ID:RzaakgU70
まあ実績殆ど立ててないからそれだけならホウ統の評価が微妙ってのは分かるけど
張任は地元の益州生まれで、自分で老臣言うぐらいだから
古くから劉焉・劉璋に仕えて世話になっていたんだろう。
家族同然だったと考えても不自然では無さそうだが
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/01(日) 00:06:13 ID:c71oXtpp0
お前ら、忠義以前にまず家柄や名声が大事なんだぞ
図解雑学三国志くらい読め
なぜそこで図解雑学三国志。おれ読んでないよ。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 14:10:03 ID:W4RH7oGh0
諡を賜った関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲
魏延、王平、呉壱、馬忠、張ギョクあたりが現場たたき上げ名将かな。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 14:22:29 ID:W4RH7oGh0
>>81 それは言えているかもね。
諸葛亮は寥立あたりと並べて評価していたからな。実際は諸葛亮よりもずっと格下
なんだろ。ただ少ない謀臣を失ったのは痛いよな。
どっちかっていうと張任は劉璋に対する忠義より益州に対しての郷土愛が
人1倍強かったんじゃないの
おそらく劉備に対して侵略者みたいなイメージをもってしまい
強い反感を覚えたんだと思うな
まあ妄想にすぎないけど
張任って劉淵についてきた譜代の家来じゃなかったっけ
だから益州に地盤がある名士は劉備についても厚遇されるけど流れ者の張任は厚遇されないだろうから劉章に準じたと
劉備につくか、首を斬られるかの2択を迫られてる人間がそこまで計算するのか
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 23:01:42 ID:QGlMI5H4O
劉ショウに殉じた張任も偉いがそれを讃えた先主も偉いでいいじゃないか
そりゃ忠義に殉じた烈士を讃えないわけにはいかないわな。
ってのは冗談だが
ホウ統が名将だったとして、
彼を戦死させてるって事はやはり張任も中々の人物だったんだろうな
そういや卓鷹も同時に戦死してるのって蒼天だけだっけ?
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 03:13:26 ID:beZNVKeVO
張任がホウ統を射殺したのは演義の話
ホウ統を殺したのを誰の功績かとあえて決めるならラク城を守っていた劉循かな
ホウ統はラク城の城攻めのとき戦死したのだから
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/04(水) 17:02:26 ID:yc8SRkXn0
参謀が戦死するほどの戦闘とはどんな戦闘だったんだろうな?
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/04(水) 18:57:39 ID:0d9Slhy5O
ほうとうは確か
蒋に危ないから下がってくださいと忠告されても
下がらなかった為に流れ矢にやられたはず
初陣で興奮しすぎちゃったんだよな。
その程度の将器でしかない。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/04(水) 19:18:34 ID:0d9Slhy5O
負けたら終わり
そんな状況だったからしかたなかったかもね
>94 中国語で流れ矢ってのは雨のように降り注ぐ矢って意味らしいよ
>>96 そんなに逼迫した状況だったとも思えないが。
荊州からの軍によって、成都の包囲とラク城の孤立化が進んでおり、
最悪、ラクは監視するに留めて、成都を先に陥落させても良かった。
ホウ統が死んだ状況は、恐らくは、敵の抵抗の激しさを見て、
自ら率先して敵陣に進む事で部下の将兵の奮起を促した、とかだと思う。
ナポレオンがロディ橋を突破した時の話と、似たような感じじゃないかな。
1年も攻囲戦が続いて、おまけに後方のカボウで数百の手勢しかない霍峻が
万を超える敵に包囲されていれば焦りも生まれるのかもしれんね。
蜀って二代目に恵まれてないのと、210年辺りの有能文官の早逝がイタイよな。
馬良ホウトウ法正がもっと長生きしてりゃ諸葛亮があと五年は生きてたはずだ。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/05(木) 16:21:12 ID:7mFE/BXu0
>>100
イリョウの敗戦はなかったかもね
ホウトウだけならともかく、法正&ホウトウコンビなら互角以上に陸遜に対抗できると思う
ifはあてにならんけど、もしイリョウで呉撃退してたら荊州支配できて呉はやばかったかもね
妄想全開
そもそも荊州に諸葛亮が残るから、関羽が敗戦して無いだろう(´A`)
>99 それで霍峻は勝っちゃうんだもんな。
蜀将は寡兵を持って多数に敵する事も出来る人材が多いのは良いけど、
それって仕方なくやってる事であって ここに蜀の弱みが露呈しているな。
個人的に、霍峻が勝つ事ができたのは張飛のお陰もあったと思う。
益州入りした張飛は巴西功曹を破っているので、その時点で向存らの策源は脅かされた状態だった。
恐らく、張飛のロウ中接近で浮き足立った所を、霍峻が攻撃したんだと思う。
まぁ、そうだとしても、単独で1年にわたって守り抜き、
向存らに隙の現れる時まで葭萌を保ったのは、霍峻の士気の賜物だろうけどね。
冷静に観察すると蜀の敗因は人間どうのじゃなくて国力の差だと思うけどね
俺も蜀ファンだからあの人が生きてたらってのは好きだけど
調べれば調べるほどたとえ生きてても最終的には押し切られれちゃうんじゃないかと
>>104 某ブログの人と同じ勘違いがあると思うんだけど、
たぶん張飛はロウ中まで行ってないと思うよ。
当時の巴西郡治は安漢なので、そこから先は行ったかどうか不明。
王累が死んでいなければ・・
法正につぐ参謀になっていたろうに
>>106 同じ勘違いって言うか、本人なんだけどね。
そういう指摘は、気付いた時点で言ってもらえるとありがたい。
なんにせよ、指摘ありがとう。
で、華陽国志を読み直したら、巴志の所に「治安漢」ってちゃんとあったね。
何処で見落としてたのか?
ただ、巴西郡の郡治が安漢だろうとロウ中だろうと、結論は変わらないと思う。
むしろ、向存らの策源が安漢にあった方が、張飛にとっては都合が良い。
成都の包囲を遅らせないで済むからね。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 09:34:27 ID:QDV02o7R0
王累か
この人話題ならないけどなぜ?
記述が少ないと聞いたけど本当?
本当も何も、調べてみたら分かるでしょ。
長生きしてたら廖化なみに活躍してたかな?
すげー。本人かよw
気付いた時点でとは言われても、なかなか書き込みにくい雰囲気あったからな。
とにかく張飛の軌跡は安漢までしかたどれないので、
左右両翼から挟撃するシナリオはやや弱くなるんだよな。
>>112 雰囲気かぁ。どうすりゃ改善するんだろ。
ところで、挟撃って何に対しての?
114 :
国重高暁:2007/07/08(日) 12:35:32 ID:8nPBq7Ll0
>>109-110 正史でも成都の城門に
逆さづりとなってるけど、
そのまんま諫死したか
どうかはわからないんだよな(T_T)
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 16:35:08 ID:GK7TIJddO
>>114 確か正史では
かなり期待された士夫だった
抗議で首切ったんだよな
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 16:48:06 ID:Rb/wVHBp0
>>102 諸葛亮の蜀入りはほう統の戦死とは関係ない軍事行動。
諸葛亮・張飛・趙雲の蜀入りは劉備軍本隊が蜀で孤立状態にならないため
と成都を側面から圧迫し、劉備軍本隊と共に成都を包囲するための軍事行動。
ある意味諸葛亮まで軍隊指揮に投入したところをみると、劉章軍が思いの外
頑強に抵抗したことがうかがえる。
元々仲間割れしてる訳でもない敵をまともに攻めるのは大変ということだろう。
相手が自分より格落ちでも、一州切り取る手腕はそれだけで凄い。
袁紹系、劉表系の軍閥がばたばた倒れたのが不自然。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 18:46:39 ID:GK7TIJddO
改善が必要ってんじゃなくて、流れ的にね。
だれかが突っこんだあとで、さらに突っこむというのがアレな件。
挟撃という言葉は使ってなかったと思うが、
左右に展開して成都を包囲するみたいなこと書いてなかった?
>>119 間違いを指摘される事よりも、間違ったまま放置しておく事の方が恥だから、
自分としては、どんどん指摘して欲しいところだ。
あれは、個人的には成都の包囲とラク城の孤立化が目的だと思ってる。
張飛に関しては、張飛伝に、「成都で先主と合流した」とあるから、
巴西を降した後に成都へ向かった事は間違いないと思うけど。
ここは日記帳じゃ無(ry
内輪のブログの話とか、ダラダラ馴れ合いするの抜きには語れないの?
嫉妬豚乙。
過疎板で何言ってんのきみは?
しらけさせる発言だけ1000まで書き込むつもりかね?
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 17:47:32 ID:OaYpzqAZO
煽りイクナイ
でも文句をわめくだけでは豚呼ばわりもやむなしだ
蜀に太尉上官勝っていたっけ?
これ?
新唐書・宰相世系三下 上官氏
漢有右将軍・安陽侯桀,生安,車騎将軍・桑樂侯,以反伏誅。
遺腹子期,裔孫勝,蜀太尉。・・・
上官傑の子孫なのか
あまり名誉な子孫じゃないな・・・
それでも家柄至上主義の世界では誇るべきことなのかな
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 19:13:35 ID:OaYpzqAZO
うむ
蜀書に名前出てたかな?
でも上官桀の子孫は宣帝の太皇太后の一族でもあるからね
俺は魏延は蜀では関張の次に名前が来てもおかしくない名将だったと思うんだがこのスレ的にはどうなの?
出世スピードの早さや、漢中太守に抜擢されて長年そこを守り続けた事とかを考慮すると、蜀では貴重な独立軍を指揮できる司令官タイプだったんじゃないかと思うんだが。
まぁどう考えても性格には問題有ったとしか思えないけど、それも合わせてミニ関羽みたいな。他人の上に立つ事で器量を発揮するタイプだったと推測してるんだけど
史料のほとんど無い上官勝がなぜ宰相世系表に突然出てきたのか
宰相世系表じたい結構怪しいけどな
魏延の評価は過去スレで大モメしたんじゃなかったか
ログ持ってないけど
史料がほとんど無いてか、皆無か
三国職官表は宰相世系見て書いたみたいだし
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 21:15:58 ID:ili9vAbe0
>>128 軍人としての能力は関羽よりも上かもね。
関羽は軍事的にはそんなに大きな功績があるわけじゃないんだよね。
流浪時代から劉備に使えて、魏の知識人達に武勇が評判だった。どちらか
というと人気先行タイプ。張合と互角に戦った張飛の方が軍人としての能力は
上かもしれない。
>>128 独立軍っていうのがどれ程の規模のものかは分からんが
諸葛亮の指示の下、後方がしっかりしてる状態で軍団を指揮するっていうのはしてたね。
ただそれ以上の、韓信の様な一地方の軍事総督みたいな事ができる器ではないと思う。
それに関羽は好きだし名将だと思うけど、お世辞にも人の上に立つ事で器量を発揮した名将とは
言い難いし、ミニ関羽だったらあんまりそういうタイプの将じゃねーんじゃないの。
>>131 寒門出身であろう関羽が人気先行ってのはちと違うと思うけど。
少なくとも若い頃から劉備を支え続け、そこから評判を得たという事は
それ自体が大きな功績だったのでは?あるいは史料的に残されてないのかもしれんけど。
あと顔良を討ったり、曹操の侵攻の際には別働隊を率いて劉備を回収したり、
荊州平定の際には元勲に応じて襄陽太守・盪寇将軍を与えられたり、
入蜀の際の蜀防備や、北上の際の活躍等、軍事的にも中々のもんだよ。
特に北上は最終的に敗れたから過小評価されてるけど、采配としては一級品だと思う。
>>132 「入蜀の際の蜀防衛」ってどの事を指してるの?
>>133 楽進と青泥にて睨みあってた時、先主伝で劉ショウに「帰らないとヤバイ」
って言ってる部分に書いてある。この時結局帰ってないんで守りきったんだろうね。
それに入蜀時には諸葛亮・関羽を抑えに残したと記述されるように
関羽は荊州を抑える要の一人であり、劉備への援軍の為に諸葛亮・張飛・趙雲といった
残った古参の将達が揃って入蜀した後はより一層防備に不安が出ただろうに
入蜀中に魏に付け込む隙を与えずにいた事は評価に値すると思うよ。
この人材の流れは馬良や楊儀といった例を見るに入蜀後も結構あったぽいし
実際のところ結構な問題だったんじゃないかと。
そういう面を考慮すれば入蜀直後の呉の奇襲に後手後手になったりしたのも
仕方ないところがあるかなとも思うし、荊州失陥の遠因の一つかもね。
まあ中央を固めなきゃいけないのだから仕方ないっちゃあ仕方ないけど。
>>132 魏延は漢中の駐屯軍を任された上に内政面でも漢中太守も兼任しているから、
漢中地域のほぼ全権を委任されていた、と解釈しているんだけど違うのか?
地図で見ると漢中は蜀の北辺ってだけだけど実際には陸の孤島で蜀の鍋蓋みたいなものだったから、この地域の軍事・内政の権力を任されるというのは蜀将の中では相当大権を手にしていた将軍だったと思っているのだけれど。
他人の上に立つ〜というのは、誰かの風下に立って一部隊を率いるのには性格が向かないという意味で言ってみた。
関羽も魏延も確か「部下を手なずけるのは上手かったけれど、プライドが高くて同格の人間を見下す癖がある」というような意味の記述が正史でされていた記憶が。
こーいう奴はお山の大将であった方が自由に行動できただろうし、実際関羽と魏延は荊州と漢中でそれなりに活躍してはいると思うのだが。
まぁ最後は部下に四散された魏延が本当にきちんと部下を手なずけていたのかは知らんけどw
ごめん追記で。
幾らなんでも魏延を韓信なんかと比較してはいないよ。
ただ軍人は、「一軍を率いるタイプ」と「大軍を率いるタイプ」とに大別出来て、魏延や関羽は後者だと思うって事。
韓信はちょっと格が違いすぎると思うが、後者のタイプだってだけで十分貴重な人材だとは思うんだが。
>>134 どうかなぁ。
根拠が劉備の発言だけな上、非常事態と言いつつ、
葭萌での反転から時を移さず諸葛亮らを呼んでおり、
青泥での対陣が実際にあったのかどうかは不明。
個人的には、あったとしても劉備の発言の頃には終息してたと思ってる。
じゃないと、あれだけ真っ先に諸葛亮らを呼べはしないと思う。
この辺の動きに関連するであろう記述は、
楽進伝の、「関羽と蘇非を討ち、劉備の任命した臨沮と旌陽の県長を破った」というものと、
文聘伝の、「楽進と共に関羽を尋口に討った」というものだね。
もし楽進伝の記述が、劉備が入蜀して以降の事であれば、一時的とは言え、
旌陽と言う、江陵近傍まで押し込まれた可能性もある。
ただ、楽進伝の記述は、南郡の諸蛮を楽進が降したという記述も併記されている為、
それとの連動も考えられるので、南郡の諸蛮と連動して関羽が北進したが、
江夏の文聘に側面を突かれた為に撤退し、その過程で、引き連れていた旌陽等の県長が討たれた、
という可能性もあるから、押し込まれたというのは決定的な考え方ではないけどね。
>>135 漢中付近の防衛網を整えたのは劉備なので何処まで委任の権限があったのか微妙だし
また魏延は漢中太守として実際に軍権を振るった記述が無いので
この時の魏延から独立軍を率いる資質があるかどうかは「分からない」
としか言えないと思うけど、まあ問題なく治めたとは言えるけど。
魏延はどちらかと言えば劉備&諸葛亮の配下であった頃のほうが光ってるってないかい?
っていうか漢中太守時代の記録が無い事や
実際に自分の考えて率いた時である諸葛亮死後の行動があんまり過ぎる。
特にこの時の文官軽視の態度や、補給や部隊編成といった事務を担当していた
楊儀を敵に回してまで北伐の続行を強行しようとする辺りが独立軍の将器としてどうかと思う。
確かに、「丞相の役人は帰って遺体を埋葬しろ、諸軍は自分が率いて敵と当たる」
という台詞は、司令官としての台詞ではないね。
軍の物資を管理していたのは、丞相府の長史であったり、倉曹掾であったりしたんだから、
丞相府の役人を帰すという事は、兵站システムを放棄するという事になりかねない。
一日で終わるような、一会戦の指揮をするだけならそれで良いかもしれないが、
10万の軍勢を統率するべき人物の台詞ではないな。
>>139 「皆々様は粛々と撤退なされい。殿軍はそれがしが立派に勤めてご覧にいれよう」
だったら、魏延は二千年の後にも武名を残したろうな(´A`)
>>140 五丈原の時ってのは、諸葛亮も乾坤一擲の勝負に出たのは確かだろうし、
戦いを続けるべきだって姿勢も分からなくはないと思う。
ただ、急遽指揮官が変わった状態で、しかも、それまで兵站を取り仕切っていた丞相府を軽んずる発言をする人物では、
少なくとも戦いを勝利に導く事は、諸葛亮が率いていた時以上に困難になったと思う。
だからまぁ、戦いを続けたいなら、楊儀らとも協調し、諸葛亮の遺体は、
作戦に影響が出ない範囲の役人に移送させるなりする必要があったんじゃないかな、と思う。
>>137 曹操の孫権討伐は212年10月に出発で213年1月には帰還してるので
青泥での対陣もそこまで長くは無いでしょう。
劉備自身が孫権の要請を受けて、それを劉ショウに援軍・物資要請を含めた話を通し
実際に物資と兵が届くまでの時間と謀が暴露して劉ショウと戦わざるを得ない状況になった時間
そして劉備が反転し援軍要請が荊州に届くまでの時間を考慮すれば既に対陣が終わってる
or終息が見え始めた時期になっていても不思議は無い。
また楽進はその後に孫権討伐に従軍してから合肥に駐屯してるおり
212年の孫権討伐以後は216年まで曹操自身の遠征はないので
その記述は赤壁前後の記述だろう。
同じく文聘も尋口・漢津という地名から考えれば逃亡時の出来事だと思われる
本当にあの場面で江陵まで進まれてると本当に援軍どころじゃないからまず有り得ない
流れとしては関羽と楽進が対陣し、孫権の要請を受けるも劉ショウとの折衝が上手くいかずグダグダしてる間に
曹操の孫権討伐が終息へ向い、関羽VS楽進も楽進は攻めきれずに曹操撤退と共に後退して合肥へ赴任
その前後に劉備VS劉ショウが勃発して、荊州組は関羽を残して入蜀ってところだと推測。
ただ劉備が葭萌の反転からラク城まで一年もあるんで、諸葛亮らが出発した時期の詳細は不明ってのがネック。
>>141 諸葛亮は「魏延が命令に従わぬ場合は置きざりにしろ」とだけ言い残した。
しかし楊儀は殺した。
魏延と楊儀は、ああなるべくしてああなってるよな(´A`)
>>142 214年に曹操が合肥に駐屯した事は、武帝紀に見えるよ。
恐らく皖城救援の為に合肥に向かったが、着いた頃には落ちていたのでそのまま引き返したんだと思う。
ただ、楽進が任地を揚州に移したのは、自分も212年末の事だと思ってる。
「対陣があったとしても既に終息していた」と言うのは、その辺も勘案しての事。
んで、文聘伝の尋口の戦いは、文聘が「呉と国境を接する事になったので」江夏太守となった後、
つまり、赤壁で負け、江夏が呉との境界であるという事が定まった後の事。
更に言えば、尋口の戦いの後の、荊城で船を焼き、漢津で関羽の輜重を焼いた、と言うのは、
間に昇進を挟んでいるので、少なくとも尋口の戦いとは別に考えるべきで、
恐らくは関羽が樊城に曹仁を包囲した折りの事。
楽進伝の方は、赤壁の戦いから楽進の合肥駐屯までなら、何処に挿入されてもおかしくない記述なので、
これが青泥の対陣と同一かどうかは、判断はできないと思う。
或いは劉備が蜀に入る前、210年頃の事かもしれないしね。
>>143 最初は、遺言通り魏延を置いて勝手に撤退しただけだから、
楊儀も、諸葛亮の遺命に違えてまで魏延を殺そうとしたわけではないと思う。
魏延を置いてった事が、魏延と楊戯による内紛に繋がったので、
結果的に殺さざるを得なくなったってだけなんじゃないかな。
>>145 魏延が追いかけて道を塞がなければ…か。
本当、殿を見事に勤め上げれば「お美事にございます」で二千年語り継がれたものを(´A`)
>>144 確かに214年に孫権征討したとあるね、すまん見落してた。
>「呉と国境を接する事になったので」
というのは「先に荊州を平定した」結果なのだから、赤壁後とは限らない。
またその前に「文聘に兵を授け、曹純とともに長阪で劉備を追討させた」という一文があり
そして北方の兵を預けてる点から考えると赤壁前だと思うが。
漢津の戦いも「又攻羽輜重於漢津」って尋口からの一連の流れで書かれてるから
別の時期と考えるべきではないと思う。
楽進伝の方はやはり南郡の県長や部族まで降伏してる点を考えると
赤壁前が妥当でしょう、それ以後だと劉備等の荊州支配が危うい状況になりながら
何故か入蜀に問題は無く、それどころか援軍を送ってるという妙な事になる
流石に本拠地が危機に晒されているのにそれは有り得ない。
また210年頃は曹操側に大きな動きは無いしね。
>>147 そうすると文聘は、曹操の襄陽入城から赤壁までの短い間に、
兵を授けられ、曹純と共に劉備を追撃し、更に江夏太守・関内侯となって国境を守備し、
楽進と共に関羽を攻撃し、その功績で将軍位と爵位を加えられ、
更に漢津で関羽の輜重を焼き、荊城で関羽の船を焼いた、と。
そっちの方が不自然じゃないの?
あと、「劉備の」臨沮や旌陽の長を破ったという事は、
劉備が臨沮や旌陽の県長を任命できるようになってからであって、
逃げる事に必死だった赤壁前にそんな事ができるとは思えない。
それに県長を破っただけなので、必ずしも旌陽まで進出して県を降したわけではないし、
仮にそうだとしても、これが蛮族の反乱に伴う突発的な事態だとすれば、
楽進の南下は関羽追撃以上の意味を持たず、十分な準備を伴わないので、
江陵を包囲するほどの兵站準備が無く、早々に撤退したって可能性もある。
>>138 まぁこれはあくまで仮定の話になっちゃうけれど、
漢中時代について特に記述が無い=最前線を危なげなく統治し続けた
と評価できない事もないと思う。
天嶮に囲まれた漢中が成都から半ば孤立してたのは確かだと思うし、
漢中太守に抜擢された際の魏延の台詞からその孤立地域の軍権があったのも十分推測できると思うんだけれど。
晩年の魏延については、むしろ魏延が北伐軍の一人として編成されて好き勝手出来なくなった事による末路だと思ってる。
まぁ他人と折り合わなかったり、後先考えなくなったりと明らかに性格に難があるのは確かだと思うよ。
ここからは作家的妄想になるんだが、長安急襲策(個人的には愚策の部類だと思う)といい
>>139の台詞といい、魏延は劉備の遺志を達しようと焦っていたと思うんだが。
活躍する時代や、一緒に仕事するパートナーが違えばもっと別の評価になりえた武将だと思うんだがなぁ……。
たらればで語って申し訳ない
劉備時代だったら関羽張飛のような存在だったかもしれんな
実際孔明は関張のようなバカのくせに出世した奴らは嫌いだっただろう
>>148 >曹純と共に劉備を追撃
>楽進と共に関羽を攻撃し、更に漢津で関羽の輜重を焼き、荊城で関羽の船を焼いた
この2つが同じ時期に起きたと考えればむしろ妥当じゃないかね
荊州降伏した際に応急的に文聘に北方の兵を預け、江夏の太守に任じると共に爵位を授与
漢津や尋口で関羽と戦ってるって事は川を移動してるって事だからちょうど江夏へ移動ルートにもなり
劉備と分隊して川を下って逃亡してる関羽のルートと一致する
つまり江夏への移動を兼ねて劉備軍(関羽)を追撃してたと。
劉備に組したのか、それとも勝手に任命したかは分からんが
劉備は逃亡の際には襄陽に寄って、江陵を目指してた訳だからその道すがらの協力者では?
また県長クラスでは出兵の権限も無いだろうから、これを征討したって事は
その付近まで接近、もっといけば占領に近いことをされてるという状況になる
特に南郡の蛮族は降伏してるのだから、南郡付近が危機に晒されたという事になるのは間違い無い。
これは例え突発的な事態であろうと関羽敗走で南郡付近が危ういとなると劉備の危機には違いないので
これを機に魏が動かないは変だし、劉備側も時期によれば入蜀どころじゃなくなる。
>>152 劉jの降伏から赤壁で敗れるまでは、たった3ヶ月しかないわけで、
その期間に太守と爵位を貰い、更に功績を認められて将軍位も加えられ、
爵位も進められる、なんて事があるかい?
あと、軍隊を出動させるという事を、些か簡単に考えすぎていると思う。
辺境の守備部隊が勝利したからと言って、準備も無いまま大規模な遠征はできない。
突発的な事態であれば、それを中央軍が動くような遠征にまでつなげられないだろう。
それに、後漢の区分で言えば、襄陽辺りまで南郡なので、南郡の蛮族と言っても、
柤中蛮のような、襄陽近傍の蛮族だった可能性もある。
この柤中蛮が曹操らに反乱したのならば、それらを鎮撫する為に臨沮県駐屯部隊を派遣し、
関羽の方は隘路を避け漢水沿いに進み楽進を引き付ける、というような手に出る可能性もある。
臨沮襄陽間は非常に険阻で、途上柤中を通るので、最も対応しやすい臨沮県の部隊のみを送り、
関羽が当陽経由である程度の規模の軍を以って進む、と考えるのも不自然ではない。
>>153 少なくとも赤壁以前に文聘は江夏太守の任命を受けてるし
曹操は人心収攬に腐心してたみたいだから、対呉の重しとして期待してた文聘が
功績を挙げればそれに対して爵位や将軍位を上乗せする事はむしろ好都合だろう。
襄陽は単なる辺境の守備部隊ではないし
襄陽に駐屯してた楽進が臨沮まで進軍してる点はむしろ楽進側が攻勢に出てたって事だろうし
劉備軍の2の関羽を敗走させての進軍だから、劉備側の衝撃はでかいだろうし
これを無視して孫権征討を優先させる事自体が不可解
また楽進に帰服した蛮族は南郡諸県のとあるから何も柤中に限らないし
山間部という事は臨沮までも含めた一帯の部族が楽進に帰服した可能性が高く
これが赤壁以後ならば劉備の南郡支配が揺らぐ事は間違い無いよ
また臨沮と柤中は結構距離がある上に、貴方が言う通り険阻なので
柤中を支援しようと思ったら流石に遠いでしょ、また県長しか劉備側の人間がいないのでは
ハッキリ言って劉備側に蛮族を支援する気があったとは思えない
それから蛮族も帰服したってだけでは曹操に積極的に敵対、あるいは叛乱まで行っていたかは不明だし
俺はやはり時期的には赤壁前後だと思うね、まあこれ以上は完全に水掛け論っぽいけど。
>>154 まず、文聘の江夏太守就任を赤壁前としている点が納得できないし、
仮にそうだとしても、正式な論功行賞も無いまま、文聘だけ昇進させたりするのも不自然。
楽進伝には「襄陽に留まって駐屯した」とあるのに、劉備や関羽の追撃に加わったとするのは不自然なので、
それ以降の記述は、やはり赤壁以降の事と見るべきと思う。
従って、「楽進と共に」関羽を討った尋口の戦いも赤壁以降と見た方が良い。
あと、やはり遠征を簡単にできるものと思っているように見受けられる。
遠征を行うには、遠征中策源となる場所に大量の物資を集積し、
軍隊を集結させ、兵站を構築する為の組織も一緒に動かさなきゃならない。
もし楽進の進出直前に濡須攻撃が企図されていたなら、準備は既にそちらに向いている為、
簡単に荊州方面への攻勢に変える事はできない。
楽進伝と文聘伝の該当箇所全てを赤壁前に押し込めるのは、無理がある。
ただ、これだけ言っても相容れない以上、これ以上の議論は、
貴方の言うとおり無意味なものになるだろう。
>>154 まあ他の部分は既にループしてるので反論しませんが
一応武帝紀には赤壁以前に文聘を江夏太守に任じた事は書いてあるよ
>>156 ほんとだ。武帝紀に、江陵入城後に文聘を江夏太守任じた事が書いてあるね。
すまなかった、訂正する。
ただ、やはりそうすると、尋口の戦いや荊城での焼討が、
赤壁前の関羽追撃とは関連性が薄いという事を補強する事になると思う。
江陵に入った時点で、劉備一党に対する追撃は、一応集結してるしね。
この件に関しては、これ以上の議論は無用だろうけど。
もともとの話である青泥の戦いに関しては、認識にそれほど食い違いはないし。
関羽と魏延の比較に関しても、魏延の方が関羽より上だとは、自分は考えてないし。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 09:23:39 ID:XvWcBYhH0
魏延は魏続と関係あるの?
ないと思うが・・・
どうしてそう思ったのかな?
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 19:43:49 ID:kizahvEU0
関係なし
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 00:43:03 ID:Y4XY5Ccw0
蜀最高のメンバー
お偉いさん=劉備
野菜作り=孔明
考える人=法正
暴れん坊星人=魏延
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 03:17:18 ID:a1EU7J3W0
王平ってどういう性格だったのかな?
業績と、疑い深くて狭量だったといわれる性格が重ならないのだけど
出世するたびに増長したとか そういう事なのだろうか
街亭のアレは
>疑い深くて狭量だった
が正の方向に働いてるよねw
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 01:20:32 ID:G7uH2pvb0
王平は一流の武将だったと思うなあ
防衛戦させたらね
小姑のようにネチネチした奴だったんじゃないかな
正しくてもそういう奴ってうざいよな
あと王平は字が読めないんじゃなかったっけ
規則を守り冗談を言わず一日中きちんと座っていておよそ武人って感じがしない人だったらしい
戦陣で育ったから字が読めず、偏狭で軽はずみな性格だったとか
冗談をいわないのは上杉景勝に通じるものがあるな
でも武人っぽいような気がするが
大村益次郎の弟子の山田も偏狭だったらしい。
大村自身も日本近代陸軍の祖で軍神といわれたが相当変人だから、軍人として優秀な奴は常識からずれてるのが多いんじゃないの。
規則を守り冗談を言わず一日中きちんと座っていて
と
偏狭で軽はずみな性格
は矛盾してないか?
偏狭で軽はずみというのは、愚痴がすぐ口に出るとかそういうのじゃない?
部下の面前で上司を実際の戦場ではこうなんですよとか窘めて、面目丸つぶれとか
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 14:22:59 ID:WzU9UIjd0
まあ、たたき上げの軍人で知識人には言動が理解できなかったという程度では?
職務以外で交際が希薄で、つき合いがあんまり上手でなかった。仕事は抜群でも
交際上手ではなかったという程度でしょ。漢中防衛戦でも同意見だったのは劉敏
くらいだけだったみたいし。魏の大軍を前線の防衛ラインで2,3万の兵力で援軍
がくるまで持ちこたえようという考えは、はたから見ると軽はずみにもみえるよ。
役人の慎重さというのは軍人からすれば臆病にしか見えない。
逆に軍人の果敢さというのは役人からすれば無謀にしか見えない。
両者の一長一短がある。
指導者の仕事は、彼らの一長一短に通じて、
時と場合に応じて双方の良さを引き出し、不味いところを隠すこと。
劉備は関羽の短所を知らなかった訳ではないだろうが、
張飛よりもずっとマシだと思っていたことだろう。
「・・・然性狹侵疑,為人自輕,以此為損焉。」
「偏狭で軽はずみ」って、定評のある誰かの訳文か?
「人となり自ら軽んじ、これを以って損をなす」だから
「俺という人間には大した価値はない」と自分を軽んじたせいで
損をした、って事じゃないの?
175 :
174:2007/07/15(日) 15:24:29 ID:+RXxjKXd0
回線切ってID代わったが続き
「人の為に自ら軽んじ」と読み下したら、自己犠牲で不利益を受けたことになる
どっちにしろ「軽はずみ」とは違うと思うよ
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 15:44:21 ID:WzU9UIjd0
素直に解釈したら、偏狭という言葉が出たら言い意味の言葉は続かないだろうな。
取っつきにくい人物で果敢な性格で周囲は危ぶむ時もあったという感じと解釈するが妥当では?
猜疑心が強く疑り深い性格=人付き合いが苦手である 上に、
自らを軽んず=卑屈な性格 であった為に、
損をする=貧乏くじを引く 事が多かった。
と考えると、しっくり来る気がした。
更に噛み砕くと、
王平は寡黙で何考えてんだか良く分からないが、
優秀で不平不満も言わないので、とりあえず厄介事は押し付けておけ。
手柄はこっちでもらいます。みたいな。
巴西の生まれだし、郷導みたいな役割だったんかね
なるほどねえ。 やはり原文に当たらないと分からない事もあるんだな。
王平に関した史跡とか現地にはあるのかな?
魏延より王平のが功績と損失を考えると総合的には蜀への貢献度は上だと思うのだが
どうだろうか。
晩期蜀漢四天王の
ひとりですからね>王平
>>182-183 句扶(こうふう)・張翼・廖化。
正史の注に「前に王・句あり、
後ろに張・廖あり」とあります。
>>184 それだとちょっと違うような。
張翼と廖化が、王平らの後の世代での活躍になるからね。
どうせなら、北方を守った王平、南方を守った馬忠、東方を守ったケ芝の三人を並べた方が良い。
んじゃ、末期は張翼、廖化、宗預、霍弋かの。
張嶷の武勇は異常
廖化の年齢を演義設定で計算すると
80歳・90歳ぐらいまで現役だったことになる、
てどこかに書いてたなあ
関羽が曹操の下を脱出する時に「少年」と表現されてるから、
90歳は厳しいんじゃないの?
>>188 志村〜演義演義〜
とりあえず、正史宗預伝によると、260年頃に70代だったみたいだな。
>>190 いや、演義の話なんだけど。
三国演義第二十七回「美髯公単機千里を走り…」
の所で、関羽の前に現れた廖化が、「少年」として表現されてる。
未だに廖化が90才とか100才とかデマ飛ばしてる奴がいてうんざりだよな。
ネタ元の演義にも少年と書いてるのに、
その時点で30才くらいだったとか言ってる奴の気が知れない。
ほんとに演義読んでんのかよw
単機じゃなくて単騎だな。変換ミスった。
>>193 関羽の五関突破の頃に少年(十数歳?)だから、正史に出てくる廖化よりは年上だろうけどね。
演義の「黄巾錦衣」という記述から、黄巾の乱に参加してるだとかって妄想に発展したんだろうね。
「演義の廖化は80歳程度まで現役だった」程度は言えるとは思う。
よく考えたら、「黄巾錦衣」って載ってる部分には、
ちゃんと「少年」とあるから勘違いしようがないな。
その後の、関羽が劉備の夫人に会った後の、黄巾の残党がどうのって部分か。
廖化って黄巾賊って設定じゃなかったっけ
184年に起きたこと考えて少なくとも14,5歳じゃないと傘下できないだろうから170年前後の生まれ
そうすると死んだ264年には94歳ってことになる
生きるだけなら可能かもしれんが政治活動は240年ぐらいには無理になるな
黄巾の乱以後も黄巾党はいたが…
184年の時点で参加していたと解釈すると無理すぎる。
黄巾賊は演義だと200年、正史だと207年まで活動してんだよね。
周倉が張宝配下だったんで、こっちと間違えてんじゃないの。
というか演義の設定に整合性やら求める必要性を感じない
演義を元ネタにして演義にすら矛盾する主張をしてるのが問題なんだろ。
蜀の人物にはやたらと長寿な方が多いですが
どこにその秘訣があるのでしょうか?
やはり蜀の塩や生姜維が良いからですか
逆に考えるんだ。
高齢になっても引退できなかった。と。
当時の中国は全体的に高齢になっても一線で活躍する人が多かった様に思える
つーか長寿でいられるくらいの余裕のある人間じゃなきゃ参政出来なかったってことでは?
張嶷
基本的に70歳で引退。
孔明が趙雲が70歳になったとたん年なんだからいい加減引退しろよって言ったんだっけ
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 01:28:09 ID:9OjQgHEL0
いい加減演義の話しを混ぜるなよ。
趙雲は正史では何時の生まれたかは不明。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 01:31:46 ID:KfTX1tKBO
史記で、旗色やデザインは分かりますか?
関羽は緑で、張飛は黒ってマジですか?
史記つうか、正史のことだと思うけど
旗色やデザインとか外見的なことの描写はほとんど無いね
蜀将で描写されてるのは劉備の異形や関羽のヒゲぐらいか
あとは後世に作られたイメージで、それが史実に合致してるかはわからない
張飛の虎ヒゲもホントかどうかわからんし、諸葛亮だって綸巾羽扇じゃなくて
ガッツリと戎装に身を固めて剣を佩いてたかも知れない
> 正史・演義どちらか一方を正統とする発言は極力避ける事。
まあ史記も正史だけどね
単なるイメージカラーってやつでないかい
連れに三国志の質問されたら偉そうに正史と演義の区別を説くけど
正史の曹操のイメージは横光の赤鎧しか出てこない
刷り込みだな
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 07:22:33 ID:KfTX1tKBO
では…イメージカラーをアンケートしま〜す!
名前の右に旗色と文字色を書いてね♪国名もだよ♪
蜀
劉備
関羽
張飛
魏
曹操
曹丕
徐晃
呉
孫権
孫堅
袁術
袁紹
よろぴく
それはやめて。
>為人自輕
”軽い”とされるのは曹操の伝記なんか参考にすると
人前で感情をセーブしない事のような気がするんだが。
人前で大笑いしたり怒鳴ったりすると軽いとされるような。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 19:42:09 ID:KfTX1tKBO
曹仁だったな
>215 京劇でも参考にしなさい。
>217 なるほど、上官に食って掛かったり
部下に対して激昂する事が多かったという事ですかね
>>217 曹操のそれって軽佻浮薄だよな。
軽=行動が軽はずみで、佻=落ち着きが無く、浮=興味が移りやすく、薄=言葉に重みが無い
こうじゃなかったか?
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 09:47:13 ID:+6Ah+SkU0
うーむ
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 12:03:08 ID:V5KQQTpBO
つまり、上辺だけの人間って事か?
>>222 という事なんだろう。
陳寿は超世の傑であるが、軽佻浮薄と苦言を呈している。
これをどう取るかはまた読み手次第だけど。
梅の実とか小さい枡とかは、むしろ矮小な人間像を伝えているような気がする。
誉めるつもりで書き記したんだろうか?
まあ何であろうと、記述が多いに越した事は無いんだが
>>224 表現としては軽佻浮薄という言葉が用いられてるけど、
曹操が真実そういった存在なのかどうかはまた別であり、
王平もまたしかり。
実態は記述を総合的に分析して推測するしかなく、記述量が少なければ断定そのものが無理だよね。
王平は将としては優秀だったが人間としては小物だったってことか?
それだと魏延や楊儀もそうだが
>>226 自分はあくまで「軽」の意味を紹介したのみ。
人物として真実小物だったかどうかも他の記述と照らし合わせて考えるべき。
ただ、王平は記述が少ないので、どうしても推測の領域を出ないだろうね。と。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 06:24:12 ID:DWuErX0h0
王平伝が収録されている巻は時代に恵まれて活躍した人物という観点。
諸葛亮や蒋苑といった宰相クラスの人物ではない。場合によっては魏延や楊儀
といった人物と変わらないかもしれない。ただ王平はそこそこ上手くやっていた
のだろう。魏延や楊儀みたく厄介者という程でもなかったという感じか。
ショウエンや費イ以外で宰相の器だったのってそれこそ楊儀とか李厳だったのかも知れないけど。
楊儀はなくないか?
公平で私欲もなく政務能力がある人ってやっぱ四相以降いないと思う
大将軍張ギョクは見てみたかったなぁ…
楊儀は丞相府長史なんだけど、これは諸葛亮にとっての宰相職だよ。
性格があれなんで、失脚しなかったとしても長続きしなかっただろうが。
家柄からいうと張裔も有力候補だけど、なんかこいつアホっぽそうw
武将出身だがもう少し長生きしてればトウ芝が宰相になってたかもね。
あとは諸葛瞻・董厥・樊建だな。詳しい伝が残ってないのが残念。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 19:38:36 ID:7gi5MrA00
諸葛亮は全く楊儀を後継者とは考えていなかった。
北伐の頃には自分にもしものことがあれば蒋苑に任せるようにと後主に言っている。
楊儀はあくもでも事務屋としての能力が買われただけ。
李厳は一応は諸葛亮に次ぐbQだった。だけど劉備の遺言を重んじたからで、あんまり
好ましい性格ではなかったようだ。劉章をすぐに裏切ったり、諸葛亮をはめようとしたり
と忠義者ではなかったようだ。
劉備の遺言を重んじたってのは劉備の「劉禅がアホなら君が皇帝になれ」か?
それだったら孔明派閥といえるんじゃないのか?
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 01:32:30 ID:MA+TwdgAO
あのさぁ…
馬忠ってやった?
>>234 楊儀を実質ナンバー2として重用しといて後継にはしないで干すなんて諸葛亮黒杉
楊儀ってナンバー2か?
本人がそう自負していただけの自称ナンバー2
丞相府長史という職級から考えて、そんなに大した地位にもついていないわけだし、
ナンバー2ってほどでもないでしょ
当時の蜀は、諸葛亮のワンマン政権だから丞相府が中心になっており、
そこの事務方のトップだったというに過ぎない
そりゃ社長と部長では求められる能力は別物だもの
丞相府長史ってめちゃくちゃ大した地位じゃねえかよ。
>>238 実際に諸葛亮の後を継いでトップになったショウエンもほぼ同じ地位だったじゃない。
楊儀がナンバー2を自負したとしても不思議じゃないでしょ。
楊儀が諸葛亮死後の人事に不満だったのも、序列でいえば自分の方が上なのにショウエンが追い越してトップになったから。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 20:17:39 ID:ycPxF/8c0
>>241 楊儀自身はそう思っていても諸葛亮は全く後継者には考えていなかった。
蒋苑の次が費偉だから、人事は順送りとは限らないということさ。楊儀の不幸は
諸葛亮の自分への評価がどういうものか把握していなかったこと。単に事務能力
だけが買われていたということが解っていれば、また違った人生もあったと思う。
言葉を変えると、自分自身の実力・才能が宰相を担う程ではないことに気がつか
なかったことだね。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 20:27:18 ID:ycPxF/8c0
ちなみに魏延も自分の実力を過大評価。
叩き上げの軍人の魏延に蜀の朝廷が諸葛亮に代わって全軍の指揮を任せる
わけがないことを理解していなかったのが不幸。せいぜい漢中の守備隊
の指揮官がいいところ。蜀の大半の軍隊を家臣に全て任せるのは危険。
諸葛亮が絶大な信頼を得ていたから可能だっただけ。蒋苑・費偉ですら
大規模遠征はできなかった。それにはそういう事情があったと考えられる。
まして魏延が遠征軍の総指揮なんて論外だった。姜維はそのへんのことを
考えず大規模遠征。朝廷と溝が出来、宦官の台頭を許してしまう。
>>242の思いえがく「単なる事務能力」ってどんな能力なんだろ…。
自分で言ってて自分でも分かってない希ガス。
官僚と軍人と指導者は違うって事かのう?
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/31(火) 22:52:31 ID:ycPxF/8c0
つまりさ兵糧の計算や部隊編成・軍需物資の調達に関する諸々の事務だよね。
だけど諸葛亮は政治家・軍司令官の後継者とは考えていなかった。楊儀伝を読むとよく
わかる。それと、張合なんて司馬忠達よりも戦歴・軍功でも遙かに上なのに、その指揮下に
置かれてしまう。軍もトップは名士出身というのが当時の常識みたい。魏延が軍権を握るな
んて相当難しいのさ。
>>張合なんて司馬忠達
誰だ?
魏の張コウと司馬懿だろ
長史の仕事は兵糧の計算や輸送任務だけじゃないよ。
どこでそんなガセネタ拾ったか知らないけど。
丞相府としての職務を実質的に担ったのが長史。つまり丞相職の実体。
官位はさほど高くないが職責はかなり重く、
長史の蒋エンが諸葛亮の仕事を継いだのも別に大抜擢というわけではない。
蒋エンは諸葛亮の出征中、成都の丞相府を仕切っていたし、
国淵は曹操が韓遂征討に出たとき、許の丞相府を仕切った。
丞相が国家の代理人とすれば、長史は丞相の代理人に相当する。
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 12:05:48 ID:RgRzuvh90
何かみ合わない議論してんだ?
楊儀は高官だけど、諸葛亮も蜀の朝廷も宰相にする気がなかった。
ただそれだけのことだろ。楊儀本人はそんな事情をしらないから不満タラタラ。
結局は自殺というのが流れ。
一応名目上の地位は魏延の方が楊儀より上なんだろ。
だから撤退のさい楊儀の指示に従うのを拒んだのだろ。
征西大将軍という地位は、遠征軍の中では丞相の諸葛亮に次ぐ地位なのだろう。
諸葛亮が魏延が指示に従わなければ置き去りにしろと指示した背景には、席次
で魏延に命令できる人間がいないから。
噛みあわないのを人のせいにすんなよ。
丞相府長史の職責をあまりに軽く見すぎてるみたいなんで、
その認識は間違っていると指摘してるだけなんだが。
当方は魏延のことにちっとも言及していない。
大丈夫か。落ちつけよ。
>>249 > 丞相が国家の代理人とすれば、長史は丞相の代理人に相当する。
でたらめ言っちゃいけない。
丞相長史の役割が大きいのは、諸葛亮という丞相のワンマン政権だからこその話。
当時の蜀だけに通用する話に過ぎない。
他の国であれば、丞相がいなくなれば文武官のうちの権力者や実力者があっさり
肩代わりするだけ。
丞相長史なんて官房長官に過ぎず、総理大臣の代理人では決してない。
強力な丞相が存在し、それにより絶大な権力が丞相府に集中した当時の蜀に
あってのみ、丞相長史が権力者たりえるのであって、丞相長史という職に権力が
与えられているのでは決してない。
中国の歴史には、強力な人物がいればその官職の役割・権力が巨大になり、
その周囲にいる人間も本来の官職以上に権力をもつことになるなんて、よくある話。
それを理解せずに、丞相長史がすごい官職であるかのように言っている奴は
中国の歴史をイチから勉強しなおせ。
なに言ってんの?
権力者が増長すればその腹心も力を持つなんてことは当たり前なんであって、
諸葛亮の長史たる楊儀がその立場にいたと言ってるんだが?
要は、府内での地位、職責の重さを言ってるんでつよ。
府外への政治力を普遍的に有したとは誰も言うとらんよ。
ランクだけ高い閑職よりも、
府中で機密に関わる下っ端の方が、
世代交代で受ける利益は大きいという話だろ。
楊儀は虎の威を借るだけの狐で終わったけどな。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 20:00:12 ID:58bpu7g40
五丈原から帰還後、楊儀はすぐに中軍師という閑職にされた。
諸葛亮は自分の死後は要職から外すように上表してたのかもね。
楊儀が政治の実権を握る可能性は皆無だったみたい。
実力随一の実戦指揮官とトップの補佐たる丞相長史が
二人揃って全く人望がなかったってのもヒドい話だね。
人望がなかったというわけじゃないかも…。
将軍にしても長史にしても、
少なくても部下には信頼されてないと話にならない仕事なので、
たぶん部下にはそこそこ信頼されてても、
同僚や上司には警戒心を持たせちゃったんじゃないかな、、と予想。
関羽にしてもそうだけど、傲慢と評される人物は
たいがい部下には人気が高かったりするよね。朱桓とかもそうか。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 12:42:54 ID:jsvqonIj0
ほほう
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 16:09:37 ID:VRqnIBqP0
楊儀は長史としては優秀だったけど宰相の器でなかった。
魏延は侍大将としては優秀だったけど総司令官の器でなかっただけの話し。
関羽、張飛だって蜀全軍の指揮官には力不足だろ。諸葛亮は馬謖以外は
概ね的を射た人事だったと言えるよ。
またきみかw
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 21:02:56 ID:As7Ap9+p0
楊儀と魏延がフュージョンすればおk
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 17:06:08 ID:LYxDWLVW0
魏延は劉備に気に入られたのだろう。
そうでないと、張飛を飛び越えて漢中の司令官にはなれないでしょ。
年功なら張飛が上。
魏延は「部下の面倒をよく見た」とかなんとか書かれてたよね
部下の方からどうだったのかはわからんが……
政争と人徳が失敗にどのくらいの割合で関わって来たのかが気になる
蜀将の傲慢は魏延に限った話じゃないから
劉備死後の体制にぽつんと残ったのが不幸な気がするんだよね
やっぱ魏延贔屓かな?
劉備や孔明に大人しく使われてるのが似合いの狗ころ
狗ころに漢中司令官はつとまらんだろ…常考
狗ころが漢中司令官やらなきゃならないほど蜀は人材不足していた。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 21:16:53 ID:LYxDWLVW0
趙雲 征南将軍→鎮東将軍
黄忠 征西将軍→後将軍
魏延 鎮北将軍→征西大将軍
姜維 征南将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍
どうも蜀の将軍の官位は魏の官位に当てはめると上下関係がイマイチわからない。
どなたか解説してくれませんか?
そもそも、魏の官位にあてはめなければいいんじゃない?
なぜ敵国の官制で理解しようとする?
むしろ漢の官制を学べ。
>>267 蜀では、前後左右が大将軍、驃騎、車騎、衛将軍に次ぐ将軍位で、征西とかは更に下でしょう。
漢においては将軍位というのはその8つで、他は雑号になるから。
だから、黄忠は完全に昇進で、魏延も鎮北将軍から征西「大」将軍なので昇進。
趙雲はよく分からんが、南征するんで征南にしといて、終わったから鎮東に、とかかな?
姜維の場合ちょっと特殊かもね。
輔漢将軍或いは輔国将軍は、張裔や董允、董厥など、中央にあって宰相を補佐する人間が就いてる将軍位。
恐らく、首府を防衛する為の中軍の指揮官という意味合いが強いんじゃないかと思う。
姜維の輔漢将軍は、蒋琬を軍事面で補佐する為、中軍を指揮する立場に置いたって事だろう。
その後の鎮西大将軍就任は、荊州攻略を止めて涼州攻略に方針を変えた事による処置で、
同時に、漢中を守備する王平が鎮北、南中を統治する馬忠が鎮南になってるので、
姜維を中心に涼州攻略を行いますよ、っていう意味の任官じゃないかと思う。
少なくとも「大」が付いているので、大将軍や車騎将軍など以外の将軍位よりは格上でしょう。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 06:32:31 ID:GUTxILri0
趙雲は南征したのかな?
ちくま書房の本では昇進して鎮東将軍となる書いてある。
地位としては当時は魏延と同じくらいの地位となるのだろうか?
>>270 ttp://d.hatena.ne.jp/mujin/20070814/p1 ここでむじん氏が、後漢末は鎮>征だったんじゃないか、って言ってる。
もしその指摘が正しくて、蜀が後漢末に則ってるとすると、
征から鎮は昇進なので、趙雲の事も昇進と考えていいかもしれない。
征から鎮への昇進は、例えば張翼なんかが、征西大将軍から鎮南大将軍に昇進してたりもするので、
もしかすると、むじん氏の言うように後漢末や蜀においては鎮の方が格上かもしれない。
そこでの話と微妙にかぶるけど、蜀の軍師の仕事の中味は
どんなもんだったかという疑問がある
中軍師の劉エン・楊儀は干されてたし、後軍師は費イの腰掛け、
魏延・ケ芝も前軍師として何をしてたかは分からない
(楊儀・費イのが丞相府解体のための人事というのには得心できるが、
それでも具体的な仕事が分からない)
前軍師・魏延に限って言えば、
魏延としては本官たる征西大将軍の仕事に専念したいし、かつそれで十分なはずが
諸葛亮にとっては魏延を自分の指揮命令系統下に入れるために
丞相府属の官職に就いてもらう必要があった
ただ、魏延のプライドを損ねないために軍「師」として招請する形を採った・・・
ということで、魏延の前軍師就任は具体的な職務を伴わないもので、
諸葛亮との妥協の産物だった・・・と想像してみた
楊儀が干された事や、丞相府解体のための人事という話には異論もあろうが
軍師の職務が軍の監察だとすれば、中軍師・楊儀に仕事が無かったのは
監察の対象となる軍が無かったという事ですか・・・
魏の軍師は監軍になったみたいだが
蜀は分からないのでは?
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 11:21:27 ID:+yZWb50Q0
>>273 諸葛亮の死後、姜維が軍事権を握るまでは大規模な遠征はない。
よって楊儀が得意としてた軍事物資の調達や部隊編成の仕事はほとんどない。
それでいて政治・軍事の実権は蒋苑が握っているのだから、事実上の職務はないことに
なる。いままで激務をこなしていた人が仕事がなくなるとどうなるか。
サラリーマン社会に通じる話だね。
>>271 蜀は漢の後継という建て前だから魏は反逆国家。
逆賊を討伐して国土を鎮めるという意味からも四鎮将軍の方が四征将軍よりも上かも。
四征将軍は蛮族を討伐する将軍という意味合いかもね。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 11:32:58 ID:R9905B2A0
>>271 蜀の場合はこんな感じになるのかな?
四征将軍<四鎮将軍<前後左右将軍<四大征将軍<四大鎮将軍
前後左右は中央軍及び名誉職、四征・四鎮・四大征・四大鎮は実戦指揮官かな?
尚朗なんてどうみても軍人じゃないのに右将軍になってるし。実際の権限は四征、
四鎮の方が上かもね。
どうでもいいよ
四方将軍なんて席が全部埋まるわけじゃないんだし
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 06:27:10 ID:mXg2DiZ40
それはどの将軍位も同じでは?
夏侯覇は随分と厚遇されてたんだな。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 11:04:17 ID:la3GrQnK0
馬超もかたち上は厚遇されてたね。
降伏者を厚遇して寛大さをアピールするのは三国どこもやってた。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 16:09:47 ID:ft2hkzD20
馬超に対する厚遇は降伏を促す為のアピールだったのか
孟達はやっぱ掘られてんの?
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/22(水) 14:35:49 ID:Q0yQ7b3d0
でも高官の降伏者ってやっぱりあんまいないね。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 20:57:24 ID:0NwE3m6+0
黄権がいなくなったのは痛いよな。
正史によりば漢中攻略の計画には黄権の戦略が大きかったみたいだし、
なによりも黄権は諸葛亮を信頼していた。蜀に残っていたら諸葛亮のよき
協力者であり参謀となっただろう。黄権がいれば、李厳を必要以上に持ち上げ
なくでもすんだはず。
裏切り者の息子でありながら黄崇が官職についてるしな
劉備は直後に死んでるから蜀全体で黄権に同情する雰囲気だったのだろうか
途中で昔のこと持ち出されて追放や処刑されてもおかしくないだろうに
諸葛瞻に献策を却下されたのってそれが原因でなかったっけ?
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 19:03:15 ID:C//V3rXk0
>>286 劉備は黄権に責任はないと断言しているからな。
蜀政権の中では黄権に罪無しという認識だったんだろう。
諸葛瞻に関しては単に軍事的才能が無かっただけの話しだと思う。
もしかしたら黄権本人は亡命したけど黄一族が蜀内で結構力があったんだろうか
先帝が弁護してもやっぱり裏切り行為には違いないし罪を問う声が出てもおかしくないもんだけどね
巴西出身だし、元々地元の有力一族でもあったんじゃね?
あとは黄崇の仕事ぶりが立派で何か言うのも下世話だろうとか
黄権は撤退できなくなって呉はやだから魏に降伏したっていうけどイマイチ状況がわからん
撤退できないってことは蜀への退路がたたれたってこと?
呉が追撃するよりも早く魏の領土に逃げられるような状況だったのか?
どのくらいの軍勢ごと降伏したのか
呉は一時の感情で戦ってる敵だが魏は漢王朝を簒奪した不倶戴天の敵じゃないのか?
黄権はその後魏でどんな役職についたり功績を残してる?
謎なことが多い
>>292 黄権は夷陵から北上して、夷陵と襄陽とを結ぶ険阻な道に駐屯してた。
具体的には臨沮の辺りだね。
臨沮だと、夷陵城周辺が呉に取り戻された時点で、呉軍を突破するしか逃げる方法が無くなる。
上庸方面にも逃げられるかもしれないが、道が凄い険阻な上、結局魏領だから、
軍を率いて逃げられる道じゃない。
臨沮周辺にいる時点で既に魏領内に入ってるわけだし、呉に降る気がないなら、
少し北へ逃げて魏に降るのも選択肢としては有り得たと思うよ。
夷陵襄陽間の道は、三国時代には精々1,2万の軍勢しか進んだ記述が無いので、
全兵力を考えても、数千って程度じゃないかな?黄権の率いてたのは。
>>291 華陽国志巴志によれば、黄氏は巴西群ロウ中県の五大姓の一つだけど、
群全体、州全体てどれほどの影響力があった氏なのかは、自分には分からん。
>>293 状況はよくわかったが
呉は一時の感情で戦ってる敵だが魏は漢王朝を簒奪した不倶戴天の敵じゃないのか?
はどうなんだろう
魏を不倶戴天の敵と思ってたのは劉備と一部の腹心だけだったのかな?
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 20:38:04 ID:mspfbHID0
魏を仇敵に見据えたのはあくまでも諸葛亮時代からでしょ。
劉備時代は呉とは同盟とは言えない状態だったし。領土争いになれば魏とも呉とも
戦うというスタンスだったんでしょ。
そうなのかな?
むしろ劉備時代のほうが魏=曹操を仇のごとく思ってたイメージがあるんだが
劉備自身、魏を仇敵と思っていたかは分からないと思う。
「曹操と逆の行動を採る事で世の声望を集めてきた」とは語ってたけど、
曹操らを憎んでいたとは読み取れない。
対して当時の呉は、関羽を殺し、本拠地を奪い、重臣が東征を諌めても意に介さなかったほど劉備に敵視されていた。
しかも実際に戦端が開かれていたんだから、呉に降るより魏に降るのは普通にある事だと思う。
劉璋に仕えていた頃は劉備を警戒してたけど、劉備に仕えてからは、
劉備と強固な信頼関係を築いていたんだし、目下の仇敵と言える呉には降れないでしょ。
劉備自身、魏を仇敵と思っていたかは分からないと思う。
「曹操と逆の行動を採る事で世の声望を集めてきた」とは語ってたけど、
曹操らを憎んでいたとは読み取れない。
対して当時の呉は、関羽を殺し、本拠地を奪い、重臣が東征を諌めても意に介さなかったほど劉備に敵視されていた。
しかも実際に戦端が開かれていたんだから、呉に降るより魏に降るのは普通にある事だと思う。
劉璋に仕えていた頃は劉備を警戒してたけど、劉備に仕えてからは、
劉備と強固な信頼関係を築いていたんだし、目下の仇敵と言える呉には降れないでしょ。
劉備は曹操の病死時に魏に弔問の使者を出した。
それを受けた曹ヒは「なにカッコつけてんだ。この逆賊が」という内容のことを小難しい屁理屈で述べて、使者を斬ったとか。
そんな話を聞いたことがある。
>>299 まあまだ魏王朝じゃないんだし、同じ漢の諸侯王で三公の同僚の死を悼んでも不思議じゃない
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 03:07:51 ID:pQ11LliW0
なんだかんだで曹操も劉備もお互い死地を潜り抜けて国うちたてた人物だからなにかしら思うところはあったのかも
呉は孫策時代までなら上の両者と通じるとこもあるけど孫権時代からはなんかせこいイメージしかない
イメージをもつのが悪いというわけじゃないが、安易にイメージで語るなよw
ちゃんとイメージと断ってるから、いちいち絡むようなことじゃないと思う。
本当に問題なのは、自分のイメージを、さも真実のように語ること。
自分のイメージと事実を、混同・勘違いしてること。
2ちゃん含め、ネット上ではこの手の問題児が多すぎ。
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 17:12:11 ID:6/Rzcxz+0
曹操、劉備は初代の人物。
人材や領土は自分で獲得していった創業者。
孫権はいちおうは父孫堅・兄孫策の跡を継いだ三代目。
人材も概ね孫堅・孫策時代に集まった人達が中心。
それと年齢的にも孫権は曹操や劉備の息子世代の年齢。
どうしてもある程度出来上がった体制の中でトップになってるから
ドラマ性がないから小説等にあまり取り上げられない。
それと、魏や蜀に比べると官僚の力が弱く、豪族の連合体的な色彩が強い。
だから強力なリーダーシップというよりも豪族間の調整が多かったのでは。
せこいというよりも創業のほうが守成よりもドラマになりやすい。
曹操と劉備の間の感情を探れる文とかある?
孫堅と孫策にはどうしようもない断絶があるけどな。
実質初代は孫策だろ。
呉の公式見解としては孫権が初代だな。
孫堅や孫策は魏でいうと曹騰とか曹嵩のような位置付け。
いくらなんでもそりゃ無茶だろ
まあ曹騰は宦官で権力を金を握ってたが
孫権が帝位につくと、孫堅は追諡されて武烈皇帝、孫策は長沙桓王。
なんで孫策は皇帝じゃないんだろう
孫策に皇帝号の追謚をしなかったのは…
孫策の息子がまだ存命だったため、
孫権の心境としては
「政治的に(いつか孫策みたいな人物だ」とか皇帝にもちあげられたりすると)やばいし」って感じだったのかも。
ただ陳寿は「この扱いは道義に欠ける」と思ったようだ。
ただし孫晧が「孫策のような…」と比喩され皇帝になったし、(開祖の孫権ではなく孫策にたとえるあたり)
兄の武勲はやはり大きすぎたんだな。
ただ孫策は曹操や劉備と較べると創業に費やせた期間が短くそのため必然的に得た領土も少なかった。
そのため孫権もゼロからの、とはいかないがある程度の創業を迫られた。
曹操や劉備にそのようなオヤジやアニキがいればずっと楽だったろうな。
恵まれてる割に大したことはしていないのが孫権がショボいイメージをもたれる一因。
赤壁や夷陵といった危急存亡の戦役を他人に丸投げしちゃうあたりがもう駄目。
揚州は確かに発展の可能性がありそうな地ではあるが、恵まれている、とはいえまい。
北来の名士や地元の豪族、また孫家を凌ぐ家格の周氏など、君主権を脅かしそうな輩の多いこと多いこと。
そういう連中を司令官に抜擢しないと軍はまとまらんぜ、そりゃ。
しかもたとえそういう連中を抜擢しても古参衆が文句を言う。
てか赤壁はともかく夷陵は劉備の無謀で、
まあ確かに英雄劉備がくるのは恐ろしいっちゃ恐ろしいが危急存亡なんて事態ではない。
諸葛亮の北伐は確かに厄介だったろうがまさか魏帝や魏臣が「この国滅ぶんじゃないか?」なんて思ったわけじゃあるまいし、
日本軍の神風特攻は恐怖にしても「アメリカ負ける!」と思ったアメリカ兵はいないんじゃね?
戦時中、陸遜が孫権へ上奏した文には劉備の用兵は欠点だらけ、とあるし陸遜が終始冷静だったところをみると
開戦前から勝算というか、「負けない」という自身はあったんじゃね?
また赤壁についても江表伝には孫権の「万一の場合退いて私と合流せよ、私が曹操と対決する」という発言もみられるから腰抜けというわけでもない。
そもそも自分より軍事的才能に恵まれた臣下に戦争委任することのどこが気に食わないのさ。
実際がどうだったか、という事よりもイメージの問題だからな。
後世でマイナスイメージが持たれたってだけの話だ。
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 19:44:28 ID:r4KyBZFK0
確か曹操は「子を持つなら孫権のような子が欲しい」といったて話しがあったな。
孫権自体も政治・軍事でも能力があるし、賢能の臣を巧みに用いてものは事実。ただ
晩年は後継者争いを上手く裁くことができず、滅亡の遠因を作ったのも確か。まあ正史
の評の通りだね。
そろそろ蜀に戻ろうぜ。
黄権の話が宙ぶらりんだな。
>>312 孫権に前線で会戦を指揮して勝利をぶん取る実力があれば、
豪族の合議的政権から一歩飛躍出来たろうと言ってる。
即亡国ではなくとも土地を奪われる可能性だけで十分脅威。
例え勝算を立てるまでの手配に孫権が大きく貢献したとしても、
実際の戦場における戦果を他人に与えてしまっては「曹操や劉備に勝った○○」という存在を作ってしまう。
後方指揮の総大将が悪いとは思わんが、求心力の微妙な家柄でそれを使うのは国を割りかねない。
そのような指導体制を選択したことには疑問を呈さざるを得ない。
孫氏の主権と権益は孫氏の人間のみに守られるべきだ、とは思う。他の誰によってではなく。
そうそう、黄権が孫権と間違えられてるって、どんな話だっけ?
ちくま文庫正史三国志だと皇帝曹丕のもとに
孫権と誰だったかもう一人の投降者が出向いた、ってあるらしい。
しかし誰かが
「孫権は自分の息子すら人質に出そうとしなかったのに、
自分から出向くなんてありえないだろう」
と思って調べたら
「ああ、これ多分黄権だわ」と結論づいた。
ちなみに俺がもってる徳間のほうには黄権とある。
ちくまは持っていないが誤植が多いときく。
…が、いくら原文には名しか記されていないといったって
孫権が曹丕のもとにいったというのは無理のある話だろうにw
ああ、そういうことか。文帝紀の黄初三年に記載があるね。
蜀の大将黄権が降伏したというところの注釈なんだから、
どこをどうしても黄権以外にありえんよな。
ちくまの訳者はなんでこんなイージーミスしちゃったんだろ。
文庫化される前の、世界古典文学全集(昭和52年刊)に入ってる奴を借りてるので見る。
・・・孫権が曹丕の車に参乗したらしい
原文を見ると
「権及領南郡太守史コウ等〜」
と書かれており、権さんの姓が書かれてないんだよね。
でも、内容的に孫権はありえないし、
注の位置と、権が鎮南将軍に任じられたことを蜀書で参照すれば、
この「権」が黄権を指したものなのは明白。
てことは、この南郡太守とやらも蜀の人間か。
主立った者だけで百人以上ってすごいな。黄権がそれだけの地位にいたってことか。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 16:46:40 ID:GiS1hU2t0
東征に関する劉備の方針に反対するとなんらかの制裁が当時はあったみたいに
感じられる。方針に反対の途端に別働隊にされて逃げ遅れ、趙雲も反対したら国内
に留められている。趙雲が劉備の生きていた時は地位が低かったのは劉備の方針に
反対したのも大きいのでは。長阪で夫人と皇太子を救った功績を考えると地位低す
ぎでしょ。それでいて劉備の死後は征南将軍に、程なく鎮東将軍に短期間で昇進し
ている。
わざわざ黄権や趙雲を出して推論言わずとも秦フツ(秦ミツだっけ?)投獄が一番顕著でわかりやすいじゃん。
秦フクだったか失敬
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 19:33:28 ID:26mroLTK0
秦宓で合ってる?
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 23:36:02 ID:bqyVHU3D0
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 10:33:55 ID:bQIym4wR0
諸葛亮は東征に反対だったのかな?
荊州を奪還すること自体は賛成だったのかもしれないな。
ただ遠征軍の総司令官は大して活躍した記述がない奴だし、知謀の法正亡く、黄権は
別働隊にしてしまうしとない、張飛は遠征前に死亡。
馬超、趙雲、魏延といった名将は参加せず。将校の力量でかなり不安は感じてたかも。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 13:15:29 ID:3ISuHZOo0
劉備にしてみたらあれは敵討ちの名目でちょいと脅かせば荊州ぐらいは捨てて逃げるかなぐらいの感覚だったのかな
いかに反対が多かったといえど陣容が貧弱すぎるだろ
怒り狂って周りが見えなかったとしかいいようがない
劉邦のスイ水の戦いぐらいみっともない敗戦だと思う
将校の力量とか陣容が貧弱とか何を根拠に…。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 21:57:10 ID:mIsQUBVR0
荊州の重要性を考えれば、勝算は少なくても戦いを挑まないわけには、
いかなかったんじゃないかな。
荊州を失えば、中原進出の望みも一気に断たれるし。
劉備「よくも余から荊州を奪い兄弟を奪い面子まで潰してくれたものよ。
おかげで目が覚めたわ」
呉の使者「かっ返します、荊州の城も関羽の首m」
(ズバーッと切り倒される呉の使者)
劉備「返しちゃ駄目だろう。
劉備は奪うのだ
返却など
受け付けんっっ!!」
>>331 孔明の北伐と比べると貧弱に見える
将に関してはあそこで死ななければ名将になれたかもしれないけどな
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 14:37:14 ID:Q6oeraLcO
イリョウの戦いで失った人材で特に惜しいのは黄権と馬良だと思うんだが、この二人はイリョウ以後も蜀にいたとしたらどういうポジションにいたのだろうか?
北伐の参謀、孔明北伐の際の内治の要などいろいろ考えられると思うのだが
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 16:39:58 ID:d8eFe5UjO
>>328 遠征軍の将帥は劉備。当時では無比の実戦の雄。
その部将は確かに小粒に思えるかも知れないが、どっちにしろ
遠征軍の規模は数万程度なので関張ら都督クラスである必要はない。
どっちにしろ蜀には劉関張以外に大した将器はいないし。
この敗戦は陸遜が防備に徹し、臨機に反撃を仕掛けたため。
呉班とか夷陵でも北伐でも活躍してるじゃん
>>328、
>>330 将校の力量が不安、陣容が貧弱なのではなく、
単に中心人物たちの史料がほとんど残ってないだけ。
この時点での具体的な記述の少なさは、魏延だって似たようなものだし。
ただ、この戦いで死んだり、以後の活躍が残ってなかったりで、
他に判断材料が無く、パッとしないように見えるだけ。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:03:36 ID:ZddVnL/N0
>>338 劉備は実戦経験は豊富だけど戦績はかなり悪いぞ。
漢中戦は法正がいたのと、曹操自体が漢中支配にそれほど熱心でなかったから。
そこら辺を考えるとかなり不安材料だよ。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:32:27 ID:xEOFZvSaO
>>341 だが、大軍を統轄できる将帥としては蜀で唯一の人物。
劉備の戦歴を見ればわかるが、常に最前線で軍を率いてる。
勝率の悪さは前半生における地盤の弱さも要因となるし、
事実荊州以後はほとんど負けてない。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 11:53:37 ID:ZddVnL/N0
それって諸葛亮やほう統、法正が家臣になってからの話しだよ。
諸葛亮は国内、ほう統・法正亡き状態ではやっぱ不安が・・・・・・・・・・・・
おまけに戦略に長ける黄権まで別働隊に追いやっちゃうしね。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:21:50 ID:gM1MEcSS0
それは諸葛亮ら謀臣に期待しすぎ。
個人的能力なんて実戦においてはほとんど大勢に影響を与えない。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 12:59:53 ID:xEOFZvSaO
>>343 ちょい話が噛み合ってない気がする。
要するに劉備は蜀で唯一の「十万人の将」
それに代わる人物がいなかった。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 06:17:02 ID:MmJ0XIQA0
うーん?
ただ兵員を出せば戦争できるなんてことはないぞ。
作戦がまずいと大損害になるしね。
事実大敗だったジャン。
つまり個人の力もば主将・幕僚クラスだと影響甚大なんだよ。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 10:12:53 ID:kvOFsREoO
統率力とか洞察力とか実行力とか、確かにリーダーとしての資質は必要。
もちろん、劉備にはそれは備わっているし
その意味でも当時では屈指のリーダーだった。
どんなに優秀でも勝てない戦いが勝てるようになったりはしないってことだよ。
勝てない中で勝てないなりに損害を抑えるのが優秀な人間。
優秀でなければ勝てる戦いでも勝てなくなったりするが、
将帥がポカやっても輔佐がカバーするから個人的資質は結局あんまり関係ない。
夷陵の戦いではそういう個人的な失敗は見られないし、
そもそも開戦の決断を下した時点で勝利の見込みはなく、間違っていた。
で、それでは蜀の首脳はなにを見込んで開戦に踏み切ったかが問題になってくるわけだ。
とりあえず荊州方面からの侵攻ラインは確保しておきたかったんじゃね?
ぐらいしか分からん
天下三分は荊州・益州の二正面ラインがあって初めて成立して
益州一国じゃ話にならないのは孔明が証明してるし
あのタイミングで動いたのは魏は曹操の後継云々・呉は呂蒙の死で蜀が多少弱っても攻めこむ余裕は無いからか?
結局劉備の最終的な戦略が分からないから推論の域を出ない
結果だけ見るなら、、、馬良の代わりに馬謖が死ねば良かったのに
そもそも劉備は政庁を公安に戻すべきだったのでは?
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 14:07:09 ID:kvOFsREoO
荊州は鼎立戦略のまさに扇の要。
蜀の国是としては親呉だが、それを壊してでも奪回したかったのだろう。
憶測を追加するなら、大器の将帥の不足する蜀にとって
劉備存命中に可能なだけの勢力伸張を図る必要に迫られていたのかも知れない。
事実、劉備の死後、蜀は結局拡大できず滅亡してる。
荊州は、蜀漢政権の上層部の多くを占める、荊州人の故地という点も見逃せないね。
故地荊州の奪還を望む声は、かなり大きかったんじゃないかな。
主力となった、馮習、張南、傅ユウ、輔匡あたりは荊州人だし。
彼等は故地奪還という目標もあり、戦意が高かったんじゃないかな?
逆に、反対した趙雲、秦ミツは非荊州人。
荊州出身者で、反対した記述が残る人って他にいた?
逆に荊州組が少なくなった時期に荊州からの侵入を唱えた蒋琬が浮き上がったな。
荊州人というのは大概がそこの豪族だったりするから荊州が失われれば彼らが
そこから得ていた収入とかも益州だけで補わなきゃならんかったのでは?
孔明は見る限り強く反対も賛成もせずに傍観って感じがするな
蜀将としては作戦としては反対だが荊州人としては奪回してほしい気持ちもあったのかな
ていうかさ、荊州奪還作戦ってそんなに反対するほど勝ち目の薄い作戦だったの?
俺なんかはまだ統治の終わってないうちに取り返す絶好の機会だったと思うんだけど
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:21:44 ID:jlmN/MQA0
鉄は熱いうちにたたけ
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 09:31:29 ID:fUs+yd0qO
どんだけ暗愚ばっかだったってはなし
>>356 おれが書いた
>>348への指摘だと思うんだけど、蜀の首脳陣はほぼ全員が荊州人で、
荊州の現地民も彼らの帰還を望んでた者は多かったと思う。
だから356のいうように最善の契機であるというのは大賛成なんだが、
現地民が呼応してくれるんじゃないかという淡い願望以外に、
具体的なプランがあったのかというと、劉備の布陣を見ても読み取れないんだよな。
おれは将帥のポカを補佐がカバーすると言ってるが、
この夷陵の布陣に関してだけはそのカバーすら見られなかった。
曹丕の指摘したマズい布陣は遠征軍の総意だったんだと思う。
何のための布陣か分かって言ってるのかwwww
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 20:04:07 ID:d2g+AfgA0
>>359 だから将帥の力量が問題だったんだよ。
黄権あたりは気づいたていたんだろうけど、補佐役にするどころが別働隊に左遷だからね。
馮習が総司令だったみたいだけど、正直数万の軍隊を統率したことなんかないのでは?
漢中戦は劉備の補佐役に法正と黄権がいたからね。
その1人は既に亡く、もう1人を左遷だから大敗も仕方がないよ。
後は大した将軍はいないのだから。全体がどうなっているかも把握してなかったのだろう。
勢いに乗ってそれぞれ進撃した結果がおかしな布陣になったのさ。
大した将軍がいないという点は根拠不足だね。
それに黄権は作戦を俯瞰的にみてかなり責任の重い任務にあたっており、
これを左遷というのは当たってないと思うよ。
初戦の勝利で江陵貰って和睦しておけば良かった
というか将帥の力量って言うけど劉備や将帥達がただただ勝利に酔って危うい布陣も気付かなかったってのはおかしくないか?
陸遜が持久戦に徹した以上劉備側としても補給線の確保は必要だと思うし。
まあ結果として大敗したうえ軍の退路は塞がれて壊滅、将校レベルの人材が相次いで戦死したし
>>359の言うように魏を介入させないほど速く荊州を奪える具体的な計画があったかっていうと疑問だと思う
そうなると
>>363の通り和陸が一番良いのかもしれないけどそうすると結局北伐ルートは確保できないし、
国力は減ったまま、荊州閥への影響もあるしそもそも和陸という選択肢は無かったんじゃないかと思う
こうやって考えてみるとやっぱり荊州失落は相当デカかったんだなあ・・・って思う
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 19:24:30 ID:BaC/hOkH0
荊州を関羽に任せなければならない時点で人材不足。
本当なら諸葛亮が荊州に残るべきだったんだろうけど、手に入れて数年の
益州を安定させるには諸葛亮の政治能力が必要だったんだろうな。
関羽は単なる勇将だからな。
現代歴史を知ってるからそういえるわけで当時を生きてる人間は関羽以外適任はいないと思ってただろう
地方を任せる将になるとどれだけ劉備に尽くしてきたかというのも重要だと思う
関羽>張飛>ビジクら譜代>法正や孔明などの信用されてる新参>その他新参
ぐらいだったんじゃないかな
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 20:27:06 ID:B6n6tBtq0
ただ治めるという事に関しては関羽もしっかりやってたわけで
ただの勇将は言いすぎ
俺はむしろ関羽が越権?して孫権との独自交渉してたほうが責められるべき点だと思うけどね
ビボウシジンへの罰はむしろむしろ甘いほうだろうし
劉備は孫権と関羽のやり取りはしってたのか
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 20:49:38 ID:E30m/pF50
関羽の独断だろう
政治的能力がなさすぎた
孫権の方が無茶な交渉持ちかけて関羽は頑としてクビを縦に振らなかっただけやん。
妹と劉備が破談となったから今度は関羽殿の娘とワシの息子を結婚させましょうとか無茶にも程がある。
そもそも主君を介さずしてその配下に直接縁談持ち込むのもねぇ…。
諸葛瑾が荊州問題関係の使者として派遣されたとき、
荊州素通りして成都いったことからして
関羽に外交の権限があったとも思えない。
だから関羽としては主君の劉備の裁可なくしては荊州問題に関しては否と言わざるを得ない。
また劉備にしても荊州を返すつもりなど毛頭なかったしね。
そもそも呂蒙や魯粛死後の孫権の対劉備強硬姿勢は、
外交における関羽の態度が気に食わなかった、
というより呉の戦略によるものだったと思う。
荊州失陥にしたって、これはそもそも呂蒙の権謀術数と電撃作戦が神懸かっていた、と呂蒙を評価すべきで
関羽に責任があるとすればどうにも人心掌握仕切れていなかったことくらい(にしたって、「関羽からの兵糧輸送要請」に対する
麋芳や士仁の態度・対応はよろしくなかったと思うが。)
孫権の関羽にたいするやり口というのは、赤壁直前に曹操が孫賁・孫輔を引っ掛けた方法に似ると思う。
相手がた重要人物に高い官職を与えたり、縁談進めて君主との分断工作を図るというやり口。
関羽は良い意味で馬鹿(兄者一筋)なので引っかからなかったけど。
関羽北上って蜀軍として決定事項だったの?
もしもそうなら誰が荊州担当しても結果は同じじゃないかな
孫権は荊州取る気満々なんだからさ
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 06:29:19 ID:90mkb8nT0
北上自体よりも油断して後方の守備を手薄にしたこと。
後方支援の人間と不和で裏切りそうな人を増やしたこと、呉の孫権との
友好関係という外交を考えなかったこと。守備が堅く頑強に抵抗したら
呉の手に落ちることはなかぅった思われる。
少なくとも于禁を倒した時点で引き返していれば取られる事は無かった。
その場合、荊州から北上して天下を伺うのは困難になる。
しかし、涼州を伺う劉備の動きを考えれば、一度退いても良かったのかもしれない。
人事に関しては陳寿の言葉が至言。
呉との外交に関しては端っから罠なのでコレは仕方が無いと思われる。
単に上官と仲が悪いくらいのことで寝返ったりしないよ。一族皆殺しにされるし。
史書には書かれてないが、もっと複雑な事情があるんじゃないか。
たとえば荊州の土着勢力を代弁してたとかさ。
夷陵にしてもそうなんだが、麋芳・士仁・張南・馮習あたりは
他の誰か(劉備とか関羽とか)の過失を全部おっかぶせられてるような気がするね。
その証拠に呉側の記録じゃ潘濬は賢者だし、士仁も好漢のように書かれてる。
輔臣賛じゃめったくそだよな。
>>376 麋芳・士仁は呉側の記述でも「説得されて降伏した」程度の存在でしかないし、
士仁も涙を流して降伏してるって程度で、そもそも好漢エピソードかどうか疑問だ、
場合によっては内通してたっていう記述もあるし。
潘濬は確かに輔臣賛では言われ過ぎだが、それ以外では記述は無く
特に過失を負わされてる訳じゃ無い。
張南・馮習は呉側でも殆ど記述無く、擁護もされてない。
また蜀書とは反対に、呉で活躍した潘濬は呉書では良く書かれるのは当たり前だし
投降者も多少は良く書かれるだろうに、それでも別に良くは書かれていない訳だから、
>もっと複雑な事情があるんじゃないか。 たとえば荊州の土着勢力を代弁してたとかさ。
とか
>他の誰か(劉備とか関羽とか)の過失を全部おっかぶせられてるような気がするね。
とか言う証拠というのは弱いんじゃない?
ああ、「その証拠に」って書いたのが誤解されちゃったみたいだね。
文は前後してるけど、ここで言ってるのは輔臣賛の記述が疑わしいことについて。
輔臣賛は潘濬を極悪非道の裏切り者扱いしているけど、
呉書では進退窮まってやむをえず降服したことになってる。
泣く泣く投降したという点では士仁やカク普も同じだよな。
もちろん呉書の記述も当人を美化していてそのままには受け取れないんだが、
それにしても輔臣賛が物事の一側面しか語ってないことは明らか。
で、輔臣賛では語られなかった、もう一方の側面に、
なにか重要な事実があるんじゃないかと思うわけ。それが何かは分からないけどね。
たとえ話として関羽や劉備の敗戦責任が、彼らに転嫁されている可能性も十分にありうる。
それはともかく、輔臣賛やその注では関羽との不仲で寝返ったことになっていて、
やはり事実の重要な一側面をざっくり切りおとしていることは否定できないよ。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/15(土) 20:29:03 ID:PJZnE8rr0
荊州は馬超が守っていれば絶対大丈夫だったよ!
だって関羽よりずる賢こそうだもん。
何でも陰謀史観で語る奴って疲れない?
士仁とか言われてる通りの糞だろ
降伏してからまずまず慎ましくやったというだけ
呉書も輔臣賛も同程度にいかがわしいと思うけどな。
少なくとも並べた時にどちらか一方を正統とできる様な資料じゃないと思う。
で、重大な側面があったら何なの?魅力上げるの?
涙流そうと裏切りは裏切り。それ以上でも以下でもない
賛と史書を同列に扱う奴がいることに驚きを感じる。
賛にしか載ってない人物すら居るからな。
そもそも資料がすくねぇんですよ。
蜀の人物は。
>>384 何か勘違いしてるだろ
楊戯の季漢輔臣賛はあくまでも賛でしかなく、
季漢輔臣賛で初めて紹介されている人物についても賛しか著してない。
費観とか王謀らの賛以外の記述は陳寿が著したもの、楊戯の季漢輔臣賛じゃない。
そのことは「戯は延煕四年に季漢輔臣賛を著した〜云々」
と、ちゃんと楊戯伝に説明されてるだろう。
そりゃ陳寿の著した部分と呉書は同程度の価値があると見ていいが、
季漢輔臣賛と呉書が同程度の価値なわけない。
>>385 そういう意味か。そちらの言い分が正しいです。
糜芳にしても士仁にしても劉備が(少なくとも間接的には)信任した人材。
さほどに駄目な人物ではなかったと思われます。
というより、包囲されてやむなく降伏したというのが真相でしょうね。
荊州人士の意向として「戦乱は回避したい」というものがあって
それを無視できなくなって降伏したとも考えられます。
荊州地内には蜀要人の家族なども在住していたでしょうし
その人々の安全を確保しなければならないなどの事情もあったのでは?
これなら蓋然性もあると考えますがいかがでしょう?
劉備が信任した人材だから、さほど駄目じゃないっていうのは?な論理だし
>というより、包囲されてやむなく降伏したというのが真相でしょうね。
というのは飛躍しすぎだと思います、呉書の注釈部分や蜀書はどうなるのかと。
また荊州人士の意向を汲み取ったという〜という部分は想像の範囲内でしかなく、
悪く言えば糜芳や士仁を擁護するための想像の部分が多すぎて、あまり賛成は出来ませんし
さほど蓋然性は無いと思います。
>>380 言われてる通りの糞だという確信はなにを根拠にしてるんでしょ?
史料に書かれた内容を無視することと、史料の真実性に留保することを同列にしてはならんよ。
>>382 裏切りをしていないとは言っていないんだけどね。
おれが言っているのは裏切りの背景に留意すべきだということ。
劉備が糜芳、士仁を信任したなんて、なんてお前のnounaiだな
>>390 糜芳は糜竺の実弟だし、士仁も
「傅」士仁と呼ばれるように劉禅の
教育係だったから、劉備の信頼度は
決して低くなかったはず。
ただの衍字からそこまで発想できるとは脱帽するしかないわ
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 17:16:31 ID:LMjgOD7C0
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 17:21:43 ID:+1ck2GQL0
t
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 17:23:13 ID:tOmSXNU/O
>>392 じゃあお前は信用してない人間に重要な拠点を任せるんだな?
劉備は連中をそれなりに信用していた。
連中もそれなりに劉備に信用される理由を持っていた。
ただ劉備は麋芳を好んでいなかったし、彼の起用が実力者を妥当な
配置に置いた、劉備が常にそういう起用が出来ているというわけでもない。
二人ともかなり劉備とはかなり付き合いが長い(これが理由か)みたいだが
記録から能力まではわからない。潘濬はともかく。
関羽は呉人を田舎者を侮蔑していたが劉備も似た感覚を呉人にもってたの
かもな。まぁ関羽置いてあとあいつら付き合い長いし大丈夫だろ〜
呉人なんて田舎者、適当にあしらってまた漁夫の利をとかそういうノリ
じゃねーかな。 多少舐めてた感はありそうだ。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 19:54:41 ID:LMjgOD7C0
>>376 馮習は「季漢輔臣賛」で敵を軽んじたみたなこと書かれていたな。
諸軍を統率していた立場を考えると、蜀軍全体が呉を侮っていた感じはするな。
それと、麋芳・士仁は単身赴任でなければ、荊州が呉の領土になれば少なくとも
自分の直系の家族は助かる。裏切り者はあんまり親戚のことは考えないよ。呉にして
みれば戦闘することなく降伏してくれたらいい人だよね。呉にとっては。
緒戦で勝ってたからおごりが生じたんだよな。
呉側もそれは分かってて、演義のように計画的に引き摺り込んだ訳ではない。
糜竺は心底劉備に惚れて行動してたけど、麋芳は何となく付いてただけだろ
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 10:40:37 ID:u6Ejoxdl0
季漢輔臣賛って人物によっては全然賛えてないよね。
季漢輔臣賛を賛える。
何となくで死線を掻い潜りながらの諸国放浪はできないだろ。
厨房の家出とは訳が違うんだぞ。
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 19:36:46 ID:uW2mVtcr0
劉備と諸国放浪した麋芳が簡単に裏切ったのは意味深だよ。
関羽と余程不仲で身の危険を感じていたのか、積年の不満が爆発したのか?
魏の于禁も予想外にあっさり関羽に降伏してるから人間どこでどうなるかはわからない。
人間の行動なんてその時にならないとどうするかは解らないのだろう。
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 19:44:41 ID:6rCjXYXTO
長年つとめた会社をふとしたきっかけで辞めるのと同様で
それが命にかかわる事態なら尚更なんだろうな。
やはり麋芳らは、
徐州の陶謙が魏側の記録では悪人として、
呉蜀側の記録では善人として書かれたのと同様、
政治的な事情で、呉蜀間において扱いが若干違う。
ただ陶謙の場合は、魏呉と関係しないところで言動や行動がみられるから、
そこからある程度人物の「核」となる像は想像出来るけどね。
麋芳てそんなに評価に違いあるか?
劉備からは疎まれぎみ、関羽とは上手くいかなかった。
武よりの人間だった。
北方では一定の評価は得ていた。
なんやかんやで富貴な生活を捨て劉備最低時代をも見捨てず苦労を
共にした。
呂蒙に降伏した。守備連中は概ね防衛意識が低く下るものが多
く関羽のため援軍の見込みが厳しく勝率は0%であった。
虞翻にゴミ扱いされて自ら恥じた。
虞翻は于禁含め、降伏したヤツは糞扱いなので麋芳だけではない。
基本的に、儒教観念含め降伏して直系の祭祀を残すこと、
無益な戦火を広げることは悪とは見なされない。
篭城てのは援軍の見込みがあって初めて成立する。あの状況だと
文字通り戦火を広げる足掻きにしかならない。
麋芳は糞のような男でもなくごく一般的な一武将だったんだろ。
あの麋芳の状況で降伏は不自然でもなんでもない。
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 22:51:56 ID:uvNkcWFTO
劉備に疎まれてたってソースは?
>守備連中は概ね防衛意識が低く下るものが多
コレはどうみても麋芳と士仁のことだろ・・・
もしそれが下は兵卒から上は支配階級の官僚・士大夫まで
蔓延していた空気だったのならその責任は守将にあるだろ
うはwwwwww敵が攻めてきたWwwwちょみんなヤル気ねwwwwwおk降伏www
↑こんなのが通るわけがないw
普段から軍規を正して士気を維持するのが将たるものの役目
関羽伝を信じるならば自分の個人的感情による職務怠慢で
自分の身を危うくして孫権と通じる訳だから、救いようが無い。
季漢輔臣賛に添えられた陳寿の記述もそんなスタンス。
さらに呉書の注釈を信じるなら南郡での失火とミスを犯して、
そこを責められて逆恨みしてるのだからさらに救いようが無い。
ただ呉書の他の部分のスタンス自体は単に降伏したって程度の記述に留まっており、
別に善人でも悪人でも無い風に書かれてるな、ただ虞翻伝を見ると器は小さそう。
けど実際の麋芳はどうだったんだろうね、個人的な感想を言えば苦労の割には報われてない感じはする。
劉備の親戚としての地位は元々微妙だったのに劉備が呉壱の妹を娶ってるせいでさらに微妙になってるし、
兄の麋竺が劉備の側元で諸葛亮より上の待遇を受けてるのに、麋芳は要衝の太守とはいえ
前線で特に位も与えられず、ソリの合わない関羽の下に配置されてるってのは結構な差だと思う。
故郷と立場を捨て、曹操に与えられた地位さえも省みず
必死に劉備に付いて行ったという苦労を思えば、麋芳は自分の立場に不満だったのかもね。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 09:26:04 ID:lUZxQyDhO
>>337 誰も答えないね
自分が思うに黄権は北伐の別動隊の司令官クラスかな
馬良は留守番のトップクラスかと思う
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 09:55:03 ID:tZKOf2IcO
>>408 それはあるかもね。
兄をはじめ、孫乾や簡雍など同僚が栄達していく中
自分は荊州で留守番のまま爵位も上がらなかったとすれば
今までの忠勤に虚しさを感じるのも無理ないだろう。
しかも直属の上司とソリが合わないとくれば
現れた呉軍に下って新たな人生を拓こうと考える事もある。
破竹の勢いで拡大していった劉備軍の、組織としては小さな綻びが
大きな波紋を広げるきっかけとなったのだろう。
直属の上司の関羽は、以前は麋芳にとっての上司ではなかったはずだよね。
正史において、関羽は劉備に兄事したが、外では上下の区別をはっきりつけていた。とあるし。
席次でいえば外戚の麋芳とは同格か、劉備の部下である関羽の方が下だったはず。
そういう状態だった物が、麋夫人が死んだ事で解消され、後に公的にも関羽の下につく事になる。
また穆夫人を迎えた事で、今度は完全に家臣団の一人として組み込まれる。
関羽は関羽で完全に上司風吹かせて、命令不服従を理由に「帰ってきたら殺してやる」と捨て台詞を残して出征。
当時、麋芳がおかれた立ち位置って余りに微妙だよね…
御曹司に生まれながらも、流浪の傭兵軍に加わって敗走の繰り返し、
せっかく得た荊州という新しい基盤で結構な地位に就くも、
やがて古参ヒゲヤクザの台頭とその傲慢により、波乱万丈の人生に栄光と没落の転機が訪れる…
「ビホー&あたふたー」って感じだ
曹操の誘いを一度は断ってるんで、劉備に傾倒していたはずだけど、
兄貴が財産を放棄したせいで、なし崩し的に劉備軍に加わっていたとするなら、かなり悲惨だなw
( ´w`)<大改造・麋芳アフター、ナンチテ
川相さんのザ・ワールド長すぎ
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 09:31:05 ID:VqX89RLV0
( ´w`)<横柄な王平、ナンチテ
( ´駄`)<ケ良はケ家の棟梁、ナンチテ
(:;@梵@;:)<羅憲の裏拳、フヒヒ
霍峻は結構凄いと思うんだ
>>409 黄権はともかく、馬良はそこまで有能かね?
呉への使者や異民族扇動を任された所を見ると、弁舌などは評価されていたようだけど。
劉備の属官として召し出され即位後も侍中と、あくまでも側近を歴任してる所を見ると、
夷陵で生き残っても劉禅の侍中(+何かしらの官位)として補佐する程度で、
北伐時の留守番はやはり蒋エンに一任されるんじゃないかな。
その前に呉との関係修復の使者に選ばれる…か?
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 18:23:52 ID:jhIZiR/DO
>>419 馬良って軍事的才能はどうなんだろうね
それと馬氏五常の長男次男三男はどうなったか誰か知らないか
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 19:23:26 ID:SiGffePk0
>>419 若くして侍中になったくらいだから有能では?
軍事的才能は不明だけどね。
文官としては有能だったんじゃないかな。
有能無能ってより、劉備に気に入られたから左将軍掾として召抱えられ、
劉備の皇帝即位に伴い侍中になったんでしょ。
侍中に任命された後にやった事と言えば職務とは全く無関係の異民族扇動だし。
軍事的才能は全くの未知数だし、政務に関しても詳細不明。
ただ孔明が敬服するだけの文章・弁舌の巧みさはあったようだ。
馬氏の五常の残りカスは詳細不明。
多分、馬謖未満だったんだろう。
司馬八達も司馬朗・司馬懿・司馬孚ぐらいしか知られてないしね。
董允みたいな感じなんじゃねーの
>>423 現代日本でいうなら石原家みたいなもんか
最近政界進出した三男と絵描きの四男はあまり知名度無いな
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 00:47:01 ID:r89iVYdH0
馬良は典型的な官僚だろうね
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 09:39:11 ID:RzAzBL9V0
良い馬
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 11:43:29 ID:+WJMRejc0
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 09:32:22 ID:rVxowZJ30
ふぅぅぅぅぅむ・・・・
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 13:31:50 ID:JRd48fGQ0
>>427 でもそういう目立たないけど堅実な官僚タイプは一番必要な人材だよ。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 11:43:59 ID:UpwwO3v60
馬良は戦死し黄権や潘濬は他国へ取られてしまった
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 14:36:27 ID:d4bKKM9PO
ところで関平って荊州から蜀に逃げのびていれば
どのくらい出世したんだろうな
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 14:48:14 ID:r93vUGTOO
んー、
・建国の功臣の嫡子
・実戦経験あり
・すでに成年
おそらく要地の督ぐらいにはなっていただろうな。
王平(何平)は、実は関平の偽名
最低でも演義での関張息子クラス
実際人形劇三国志でも関羽戦死後もそういう役割で出ていたような
養子かどうかはともかくとしても、父と共に死んだから美談として関帝廟にも祭られてるんだしさ
関興とか人形いちいち作ってらんねーよって気持ちも分かるけど、
そういう事情で死ねない関平が気の毒だったよあれは
横山三国志の最終巻あたり読み直して思ったんだけど、
魏延の言ってる『子午谷から長安に抜けるルートで攻める』ってのは実際どうなんだろう?
孔明は負けるのを恐れてその作戦は取らなかったが・・・
>>439 当時は警戒してなかったから長安を落とせたかもしれない
長安が落ちると魏も大部隊を派遣する
蜀が決戦で破ればいいが、長期戦になるとジリ貧で補給不足になる
魏は優れた人材がいるので決戦で勝てる可能性は少ない、たぶん失敗するだろう
かといって諸葛亮の堅実作戦も結局うまくいかなかったし。難しいよな
考え方はいいと思うんだけど
そうか?
国力と兵站で大きく劣る蜀が正面から準備万端の魏にぶつかるなんて、
どう考えても最初から勝ち目が無いと思うんだが。
万が一にでも長安を落とせれば魏国内の動揺は関羽の北上どころでは無いだろうし、
呉も漁夫の利を得ようと兵を出すと思う。
蜀での派閥の維持だけでなく本気で魏討伐の志があるんなら、
多少とはいえ可能性のある積極策に出たんじゃないかな。
実際は周囲の批判をよそに馬謖を起用して派閥強化に努めた訳だが(ただし失敗)。
>>439 反三国志こと超三国志では演義子午道は後方の問題があったから採用されなかったとしており
超三国志世界では後方の上庸及び荊州を抑えてありかつ蜀が優勢であったため採用されている
子午道攻撃は優勢であるなら可能な博打というところか
>>441 必ずしも正解の用意されている問いとは限らないからね
どちらも失敗するなら、より被害の少ないほうを選ぶでしょ
蜀存続の前提があるなら、北伐しないという選択肢は実質無かったわけだし
後年、蒋大司馬の取ろうとした漢水ルートは考慮すらされなかったのかな。
やはり、夷陵の戦いがネックだったのかもしれぬ。水路は蜀にとって鬼門か。
>万が一にでも長安を落とせれば魏国内の動揺は関羽の北上どころでは無いだろうし、
呉も漁夫の利を得ようと兵を出すと思う。
確かに動揺は酷いだろうが、それで魏が崩壊するほどもろい組織とも思えない
呉は、漁夫の利的に様子見しながら積極的には動かないだろう
崩壊は無くても前線での反旗はあったかも
まがりなりにも魏はたかが一度や二度の敗北ごときで崩壊するやわい組織ではない罠
ただ、それでも敗北の上重要拠点、または主力部隊を立て続けに失うとなると一気に内部崩壊する危険が高くなる
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 14:43:19 ID:omE6WgLdO
蜀の北伐は劉備存命中から準備されていた。
「涼州を取れば関羽を回すので荊州を返す」
これは絵空事じゃなくて実際に劉備の構想にあったハズ。
孔明の北伐にロウ西諸郡がただちに呼応したのは、
事前に調略などの下準備がなされていたから。
それが極めて極秘に行われていたため魏は後手を踏んだワケだ。
第二次以降北伐で靡く城が少なかったのはそれらの段取りがなされてなかったから。
つまり、最初の北伐こそまさに乾坤一擲の作戦なワケで
それに馬謖を起用したのにも理由があるハズ。
もしかしたら、魏延は漢中督として涼州調略の責任者だったのかも。
ゆえに街亭防衛より鎮西の任務があったため起用できなかったのかも。
そして馬謖は対魏戦の研究参謀だったのかも。つまり対魏戦のプロ。
史書に記録されてない隠された要素を妄想するのは楽しいね。
>>447 反旗は異民族のこと?
積極的に裏切る奴は、当時の魏には
あまりいないと思うけど
劉備がフ水関を落とすのが後2年早ければ
……張魯攻めてる最中に曹操とバッティングしてアボーンだろうな。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 18:58:17 ID:I3NU/9er0
つくづく劉備の運のよさだけは三国一だな
【考古学】後漢代の四川省に製鉄所 孔明や劉備は鉄を得る為に蜀に入った可能性も
後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと
成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、
221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも
重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの
記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、
今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルの
レンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、
日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために
積極的に入っていた可能性がある」と推測している。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1193473859/
日中調査隊とは日本も参加できるのか
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 23:30:00 ID:ZXOGPdRg0
日本からも参加しているから日中調査隊なんだと思うけど
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 00:38:10 ID:o23XqNwx0
夜は調査しないから日中調査隊なんじゃないのか?
夜になるとヴァンパイアでも襲ってくるのか
中国ではヴァンパイアじゃなくてキョンシーじゃないか
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 14:41:00 ID:KAjdC+inO
このスレ的にはキョンシーじゃなく鞏志だな。
ならば霊幻道士ならぬ韓玄道士の出番だな
史上最弱道士誕生の瞬間に立ち会えて光栄です
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/04(日) 22:53:36 ID:X8FCVM5N0
すごく、徳が低そうです・・・
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/12(月) 09:43:39 ID:9MNFk34X0
アッ――――!
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 13:50:44 ID:edJmqGoK0
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 09:26:05 ID:uyrW8CuT0
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 13:46:09 ID:kOfbtoOh0
蜀から見た魏領への侵攻が北伐なら
魏から蜀への鍾会らの侵攻は征西でよろしいのでしょうか?
鍾会は鎮西、ケ艾は征西になってるし
魏からすれば蜀なんて漢中とその先の成都らへんの僻地の小国だからな。
>>468 荊州方面の曹仁は征南将軍。
三国官職表によると、
・征東=青州、兗州、徐州、揚州。
・征南=荊州、豫州。
・征西=雍州、涼州。
・征北=幽州、冀州、幷州。
なんか征南が征東の範囲をぶった切ってるような気がするが……
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 15:12:05 ID:p1ObC5Tq0
>>471 繋がってるっちゃあ繋がってるけど、揚州なら征東より征南の方が自然な気がするのは否めなくない?
・征東=対建業軍閥
・征南=対江陵軍閥
・征西=対成都軍閥
・征北=対鮮卑
だからおk
征南一人に兵力を集中してしまうと危険。
四征より四鎮の方が階級は上なんじゃないの?
蜀や魏では異なるの?
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 22:29:28 ID:FQNn28lr0
>>448 たった一度の敗戦が契機になって、崩壊してしまった大国も珍しくないけどね。
袁家なんてまさにそうじゃん。
豪族などが相次いで離反して、ひどいときには連鎖反応みたいになったり、
有力家臣が寝返り、もしくは独立なんてのも珍しくないわな。
その一戦で主君が死亡、もしくは指導力が落ちて、回復しないままに、
死亡とかなって、後継者争いが勃発ってのもよくあるケース。
魏だと、司馬家によるクーデターが上手く成功せず、内乱状態になることもあるだろうし、
夏侯家が独立することだって考えられる。
魏はそこまで磐石な国家ではない。
つかそこまで磐石な国家だったら、司馬家のクーデターがあっさり成功するわけないだろ。
そしてその晋の無残な崩壊をみれば、ちょっとしたことで国家が崩壊することがわかるはずだよ。
>>474 征>鎮が普通。
おそらく趙雲の「征南」→「鎮東」が念頭にあるのかもしれないが。
>>475 ボスが倒れるかどうかというのは大きいと思う。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 23:25:10 ID:FQNn28lr0
隋は一度というわけではないが、
高句麗遠征の失敗が原因で崩壊したといわれているし、
戦争の負けで、皇帝の求心力が低下して、
造反が起こるってのはよくある。
関羽が北上しただけで、
同調して反乱をおこした郡や県が結構あったんだから、
まだ若い皇帝に代わったばかりのときに、長安が陥落していたら、
結構大騒動だと思うぞ。
少々戦で負けても、求心力を維持していた
曹操や劉備が異常なだけ。
じゃあ劉邦は神だね
俺がやる、いや俺がやる、どうぞどうぞ〜
の上島竜兵の役を
曹操や劉備は担ってたわけです
>>475 司馬家のクーデタがあっさり成功ってあんた
司馬懿と司馬師・司馬昭と傑物が何代も続いてようやく司馬炎の時代で奪取出来たというのに
しかもその間、曹爽やカン丘倹・諸葛誕のような反司馬勢力の抵抗は何度もあるわけで、
全て鎮圧出来たにせよ途中で頓挫していた可能性は充分にあった
魏は確かに磐石な組織とは言えないけれど、対外的脅威と対内的脅威では訳が違うしな
そもそも魏と蜀・呉は力関係において覆しようもない差があるわけで、
よほど自身が不利な状況に追い込まれない限り、わざわざ離反する人間は居ないでしょ
長安落としても魏が反撃して一度でも蜀が負ければそれまでだけどね。
関羽の北上もそうだが、全部蜀が勝つ前提でないと成立しないのが大国との戦
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 13:53:29 ID:6Xa1/ssZ0
魏から蜀へ降った人物もいくらかいるようですが、
それにはどういった理由があったんでしょう?
魏の降将でまず思い浮かぶのはやはり郭循かな
きょーい、かこーは、おーへー、かこうらんもそうだろ。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 18:49:25 ID:DIMck0jj0
>>481 そのとおり、途中で頓挫して内乱になった可能性は高い。
そのときに分裂して、呉蜀がそれに介入することもあるわな。
>よほど自身が不利な状況に追い込まれない限り、わざわざ離反する人間は居ないでしょ
それがおこるのが、内乱や派閥争い。
あの強大な袁家が崩壊したのがそれ。
当時の袁家と曹家の戦力差は何倍もあったが、
それでも曹家に寝返った人もおり、
その人によって、戦況が覆ったこともあった。
>>483 魏の中央で権力闘争に敗れる羽目になったり上司に睨まれたりで居場所がなくなりやむなく逃げてきた亡命軍人が多い。
前者が夏候覇で後者が姜維、王平など
>>487 > 魏の中央で権力闘争に敗れる羽目になったり
前者がこれ↑で
> 上司に睨まれたりで居場所がなくなりやむなく逃げてきた亡命軍人が多い。
後者がこれ↑か?
なんかわかりづらいぞ。
で、王平は219年の劉備と曹操の漢中争奪戦の際、曹操に従軍してきたが劉備に降伏。
姜維はともかく王平はその例には当てはまらんだろ?
演義の話をしてるのであれば別に構わんけどね。
孫晧がアホだから晋に鞍替え
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 21:16:11 ID:KjUvEbuW0
、 l ‖_ >:=‐  ̄ ̄「 l| l } 、 ヽ んっ んんっ…
ヽ 、i`─ '´ ___ | ll ⌒; j 、 ヽ
\ヽ r,ニ、‐‐'‐' u .l ll '_ノ 、 ヽ
` \"\):、 | l| `、 ヽ 、 ヽ
ヽ ゞ'^ ! ll `、 ヽ 、 ヽ
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`⌒ヽ_ | l| | ハ /´ `ヽ 、
チュパ / /. `´| l| | l / 〃 `、 、
チュパ / / | l| | l' 〃
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 11:53:15 ID:GhbzQeZE0
荊州でならした私たちは、昭烈帝が孫呉に負け、危急存亡の刻を迎えましたが
荊州を脱出し成都に籠もりました。
しかし、益州一国でくすぶってる様な私達ではありません。
蜀の桟道さえ通れば補給しだいで北伐する悲壮な決意。
不可能を可能にし、巨大な曹魏を粉砕する、私達北伐四相Aチーム。
私は丞相、諸葛亮。字は孔明。
八陣戦法と内政の大家。
私の様な細かい性格でなければ、将兵達の心を掴むことはできません。
某は蒋エン、字は公エン。通称昼行灯。
自慢の冷静さで、文官は皆落ち着きを取り戻します。
一命にかけて、補給物資から川下りの為の船まで、何でも揃えてみせます。
ヒック、お待ちドウ〜。
俺様こそ費イ、字は文偉、通称趣味の達人だ。
内政、外交の腕前は天下一品!
曹爽? 孫権? だから何?
董允、字は休紹、皇帝の諌言役です!
黄垢だって讒言してみせます。
でも費文偉殿だけには及びません…。
私達は、曹魏の支配する長安にあえて挑戦する、
出師の表、神算鬼謀の蜀漢の野望、中原回復!
いまこそ北伐を行う好機、陛下、なにとぞご決断の程を。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 10:48:04 ID:TelMXRfe0
張巍はよく魏から人物を何人か引っ張ってこられましたね。
>>492 何の話?
そんなことあったっけ?
いわゆる蛮族の頭目の話?あれらは魏に帰順してたっけ?
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 13:21:28 ID:KLYMaxIBO
>>491 同じ荊州出身でも入蜀の経緯は違うじゃん
三戦のスレ、落ちちゃったね……
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 10:53:01 ID:vzUPwuSW0
ここで踏ん張れば良い!
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/12(水) 19:02:11 ID:kDwdT3ea0
魏延を斬った事から馬岱を嫌いだという人がいるそうだが
なら王平はどうなんだろう?
というか演義版の魏延を好きだって人が珍しいよw
史伝の魏延なら大好きだが、こっちは馬岱関係ないしな
えー、俺は演義の魏延の方がかなり好きなんだけど…。
つか史実だと魏延は馬岱に斬られてるんだけどそれを関係ないって言っちゃうのはどうか。
演義の孔明が嫌いな人は多いがな。
「こいつは謀反の相が出ている。今のうちに殺せ」
ヒドスグル
史実の孔明は法正や魏延とウマがあわなかったが、不当に差別はしていない筈。
(蜀科の緩和の献策や北伐の献策は却下したが)『大義、親を滅す』という人だから。
蒋エンも個人的な好き嫌いで人を罰したりはしなかったな。
楊儀はひどかったけど…。
費イが上手く魏延と楊儀の間をとりもっていたが、諸葛亮の死で崩れた。
魏延、楊儀、法正は、人格に問題はあったが、優秀なのは間違いないんだよな…。
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 00:32:40 ID:Fn1LZKCzO
法正って、諸葛亮の嘆きを聞いて報復を止めたんじゃなかったっけ。
魏延は、蜀の最後の劉備系武将って感じで好きなんだ
孔明の様な代行独裁者の立ち位置では公平でなければ人はいう事を聞かない
少なくともそういう姿勢を裏表なく示すのでなければ
それでも街亭戦での馬謖の起用はちょっと贔屓目とも見れるけど
馬謖はよっぽど買ってたんだろうね
ただ、あの当時一口に『軍師』とは言うけど、
専従の参謀を重用した人間は曹操くらいしかいない。
他の有力な軍師的助言をしたとされる者は、
みんな軍指揮官か行政官の地位にある。
馬謖を重用するのであれば指揮官としての箔をつける
必要があり、そのための強行だったんじゃないかと思っている。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 09:02:52 ID:hkVBWv20O
田豫がいればと思うのは俺だけ?
たかが一人二人優秀な将が増えたからってなぁ…
夏侯家並に信頼できる親族が劉備にいたら、とは思う
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 18:32:44 ID:lbX8a876O
黄権が残ってても、あんまり変わらなかったかな?
蜀の敗因は圧倒的国力の差
これに尽きるからな
人的要因で勝ちたいなら魏の有名な名将は全員蜀にいるぐらいの差じゃないと無理だろう
まあ、魏も呉も勝者ではないから
蜀とはさほど変わらんと思うけどね。
魏に関していえば寧ろ、あれだけの兵力さがありながら
度々、南方併呑に失敗したのは実は
単に兵士数が多いだけの国というのを
ありありと証明してしまったのではないかと。
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/16(日) 19:35:58 ID:cifvm/m40
兵力が多くても士気を維持できるだけの食料が足りなかったんだろう
あれだけ土地がデカくてもインフラのほとんどがぶっ壊れてれば遠征は難しくなる。
結局のところあの時代の魏の攻勢限界はあれで精一杯だったということじゃないだろうか?
結局曹操の代で統一出来なかったのが失点の一。
曹ヒ、曹叡が余りにも早く死んだのが失点の二。
曹叡の後継者がろくでもないのだったのが失点の三。
未統一の状態でこれだけ失点が重なると指揮権を掌握した司馬氏のクーデタが成功するのも無理はない。
魏は基盤が整っている分だけ、有能な人材が能力を十分に発揮することができた。
人材の質的にはそれほど差が無かったとしても、組織力や法整備が進んでいれば
勝つべくして勝つことが出来る。人材にも量的な厚みが加わるし。
が、官の戸籍に入っているのが全人口の数分の一という時代だからなあ
結局のところ三国・晋代では後漢末からの長期動乱から立ち直れなかった。
遠征するには国力が足りず、守る方は豪族さえ懐けている状態なら地の利を計れる。
長期統一には隋唐まで待たなければならないのも止むを得ない時代だ。
>>512 国力が高い=人口が多いって言う時代なわけで、
金銭、物資の両面で、収入がでかい分、支出もでかかったんだろうな。
どっかのスレで魏の鉄は質が低いって見た気がするけど、
鉄の精錬に使う燃料の十分な確保が出来なかったのも一因だろうし。
晋書で、魏の質の低い武器を用意したせいで処罰された人とかいました
似たような状況は北周と北斉だったな
魏に孫皓のようなダメ君主が出て次々と名将を殺してくれて蜀が長安と涼州を取れてれば勝てたかもな
北周と北斉も軍事力は北斉のほうが高かったみたいだし
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 11:32:16 ID:aAlkVuy+0
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 09:40:32 ID:OrAquvb90
なんでここで語らない?
この板のスレッドまで陥落したなら、
後は速やかに降伏するしか無いからです。
戦争を何度も繰り返し、民に損害を与えた糞国家蜀
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 09:21:32 ID:elYehzgm0
蜀信者の反論まだ?
わざわざID変わってから来なくていいよw
何の反論だよ
軍役繰り返し、南陽の民に損害与えた糞国家魏
こうでつか!わかりません!
蛮族を教化し、江南繁栄一千年の礎を築いたおr…神国家呉!
こうでつね!わかりました!
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 22:24:39 ID:v5ZjfloH0
>>512 失点の2は別個の問題を一まとめにしてるぞ
文帝と明帝の死はかなり異質
特に明帝の代で対蜀や対燕で司馬氏の権限を滅茶苦茶な強化しちゃった挙句に
それを段階的に取り除く事せずに急死しちゃってるからな
ここかなり重要なポイントだぞ
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 13:08:02 ID:GmtfNHph0
権限的に司馬を巨大化させっぱなしか
( ´A`)ぅうむっ。
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 11:24:53 ID:AYyp0zVh0
一時的にしか持ち得ない軍権を恒常的に
してしまったんだね・・・・
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 11:35:55 ID:uJ92Hzhj0
>>531 そうでもない
曹爽とかがちゃんと藩屏として働いてて司馬氏から軍権はちゃんと剥奪してる
ただ問題だったのが、国内の一番強い奴を倒したら倒した奴が一番強いままだったんだな
剥奪した権限が一極集中したまんまだったから、曹爽にクーデターを起こして司馬氏が権限を奪いなおした
政敵なし権限あり、じゃもう簒奪は思いのままだわ
「曹操が全土の兵を率いてきたら防ぎ止め、魏が10万の兵を率いてきたら一呑みにしてやります」と
言った魏延の後を継いだ王平が、曹爽らの率いる10万の軍勢を防ぎ止めたという事が面白いと思っています。
曹爽ってその時の外征が遠因になってクーデターの口実にされたなら
呑み込んでやったと言ってもいいのかなあ?
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 21:25:15 ID:eiuOPRBZO
王平って節は仮されてないんだね
必要なかった?
>>533 まあそういう風にみると、
司馬懿の大出世のキッカケつくってやった諸葛亮も魏衰亡の原因の一つかもしれんな
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 00:12:33 ID:B+2IbL0uO
ショウエンが大司馬にまでなっていますが、
史書に記されていない所で
軍事行動の経験を積んでいたのでしょうか?
なんかやたらこういう単発質問見るんだけど、ネット小説書きのネタにでもしてるんだろうかね?
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 00:54:53 ID:4cY7wtH4O
>>536 いまの自衛隊の統合幕僚長に実戦経験があると思う?
大司馬になる前に撫軍将軍や大将軍を歴任してるだろ
あー兵隊連れてチャンバラした事あるかって意味?史書になけりゃ妄想するしかないね
とりあえず大司馬の前に兵站の仕事はしたよな
蜀のしょぼさは異常
537だけどじゃあ真面目に考えるか。
蜀は文人主導の軍政国家みたいなところだから、
費イまではトップは直接軍権を掌握する慣習になっていたんじゃないかな。
丞相では権力が集中しすぎるから大司馬・大将軍でこれに代える。
行政のトップは尚書令だとすれば、漢の官制と比べてかなり簡略化されている
(九卿はちゃんと設置されていたのだろうか?)
名前の残っていない高官がどれだけいたのかわからないけど、
名のある高官は皆将軍位を持っているよね。
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 11:58:12 ID:F5hTmu6U0
大将軍、大司馬になって
これから侵攻するぞ!って準備してる途中で死んだって事なのかな。
>>543 蔣琬
234年、諸葛亮が没すると尚書令に任命される。まもなく行都護・仮節を加えられ益州刺史を兼任し、大将軍・録尚書事に昇進し安陽の亭侯に封じられた。
(亮卒、以琬為尚書令、俄而加行都護・仮節、領益州刺史、遷大将軍、録尚書事、封安陽亭侯。【蔣琬伝】)
239年、大司馬に昇進。
244年、漢水下りを計画するも多くの人に反対された。病を得たこともあり涪まで引く。
246年、病死。
だからちょっと違う。
費イと蒋エンって対外政略でかなり対立してるよな。
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 09:32:00 ID:gUwr3KIV0
そしてハッテン
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 09:26:50 ID:fe42LgFS0
アッ―――――――!
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 09:48:33 ID:7p7p9y+80
548
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 22:03:25 ID:Qqjaea6cO
うむ
550 :
売国マルハン:2008/02/10(日) 23:36:36 ID:jLDk5rq10
孔明が、ケ艾を部下にできたなら北伐も上手くいったかもしれない。
ケ艾・姜維なら、関羽・超雲くらいの活躍できたかもな。
ところで、曹操の夢の三匹の馬って・・・司馬親子?それとも師・昭・炎?
間違いなく後者だろうな。
司馬懿自体は政争下手の愚直な軍人でしかない。
司馬炎はそもそも曹操が夢見たとき生まれてないよ。
幽明録曰:魏武帝猜忌晉宣帝子非曹氏純臣,又嘗夢三匹馬在一槽中共食,意尤憎之。
因召文明二帝告以所見,并云:防理自多,無為横慮。帝然之。
後果害族移器,悉如夢焉。
>>551 ケ艾・姜維は関羽・超雲より上ですが
北伐を成功させることは難しいです。
懿・師・昭です。
>>553 夢ってのは未来を告げるもんだと思うが。
あ、失敬。質問の意味をかなり勘違いしてた。
気にすんなっテ!!
ありがとうと言わざるを得ない。
雄雄雄雄雄雄
>>551 その二人以上の活躍は既にしてるような、少なくとも趙雲よりは
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 20:51:02 ID:hs22b/M30
過大評価の代名詞=カコウトン
スレ違い
\(^o^)/オワタ
ケ艾>関羽>姜維
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 20:45:36 ID:knvdAJJZ0
馬超>ケ艾>関羽
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/04(火) 20:46:10 ID:ti16olIu0
マジレスすっと
関羽>>>黄忠>馬超>ケ艾>姜維
劉備>>>>>>>>張飛>関羽>黄忠>馬超>>>>>趙雲
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 20:43:29 ID:4d3pm9Rv0
趙雲バカにすんなw
むしろ馬超が馬鹿にされてるだろ。黄忠以下とか。
黄忠、趙雲は張飛、関羽、馬超の三人と比べりゃ格としては落ちるだろ
馬超は確かに曹操も追い詰めたことはあるけど、
蜀に入ってからは目立った功績なし。
蜀将としては黄忠以下でもいいかも。
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 18:34:43 ID:satrP4g70
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)
馬超は配下にいるだけで価値ある人物だと思うが。
かつての一方の雄が配下にいるということは、
その主君の格を更に高めることになるからな。
曹操にとっての張繍≒劉備にとっての馬超、かな。
涼洲での馬超の影響力は馬鹿にならんしな
涼州って強兵は多そうだけど、実入りは少なさそうじゃね?
人口は少ないはずだけど、馬の産地だとか、西域との貿易だとか、
うまみはあるんじゃないだろうか。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 19:54:00 ID:YbLt+aKZ0
ちなみにダメージ食らったり、弾薬分は報酬から差っ引かれるんで
無駄玉つかったりすると・・・
>>575 涼州つったって馬超は扶風周辺から西はほとんど行った事ないはずだが
キ城辺りがかろうじて馬超の移動した中で涼州に掛かってる場所で
それでどうやって涼州で影響力があると言えるんだ?
yahoo知恵袋で姜維のあだ名が「美将天水」とか大真面目に書かれててキモ杉
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/25(火) 01:26:31 ID:mAJkfU7l0
ちょっと見てきた
>『呉下の阿蒙』呂蒙子明
>・・・呉の武将の中でも一、二を争う猛将であったが、
>教養は全くといってよいほど無かたため。
呉下の阿蒙は別名でも呼び名でもないだろw
単福w
結局、武将としては関羽を超える将才は、蜀には現れなかった
>>286 > 裏切り者の息子でありながら黄崇が官職についてるしな
それぐらいどうってことない
孟達の子・孟興だって、ふつうに官職についてまんがな
蜀滅亡まで蜀に仕えて、その後、故郷に引退しとる
張飛、馬超が超えてる
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 20:48:21 ID:j9BfFzPW0
馬超はザコ
>>579 地図見てないからよくわからんが、本籍はお祖父さんの出身地をそのまま
書いているはず。
それにヨウ州が置かれたのは魏になってからで、安定なんかは当時は涼州
だった。
一応書いておく。わかっていることだったらごめん。
589 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 21:41:30 ID:F+67fxYT0
( ^ω^)ふーん・・・・・
>>588 地図見てくれ
扶風は長安周辺に含まれて後漢だと司隷
というか涼州の辺りは後漢と魏ではそんなに変わらない
長安含む魏の雍州は後漢の涼州の一部と司隷の西側なんだ
んで馬超の活動領域は司隷と涼州の東側の極一部
591 :
_:2008/04/15(火) 00:21:06 ID:fmMXw2/G0
北伐の際、魏延の子午谷を経由して一気に長安を攻め落とす策は愚策か?
この策を行っていたら、北伐は成功していただろうか?
中国の歴史家は5分5分といっているようだが、どうであろう?
シバイは追放され、カコウモウという実戦経験のない貴族が相手なら
できなくはないと、俺は見るが。長安を占領してしまえば、涼州は孤立し、
攻め落としやすくなる。
シバイが追放というのは創作の話です
実際には対呉戦線に出ていました
別に創作でも構わんと思うが。史実と混同さえしなければ。
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 12:07:35 ID:F0AwX8luO
混同してるだろ
歴史家とか言ってるんだから
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 12:46:09 ID:R3MuzhLyO
落とせても維持をどうするのか疑問に思ってるのが否定派なり
で実際無理でしょ
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 13:17:06 ID:7Mg9Gi4S0
実際に無理 って言うのは出来んが、
後世の人間が考えるに、成功させるのは難しいとは言えるな
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 13:19:34 ID:fQAicI0C0
春秋から20世紀まで、関中・中原に進出できた四川の割拠勢力がどれだけあったか
皆無
前漢。
>>599 前漢は漢中の勢力であって四川の勢力じゃないだろ
まあ四川も持ってたようだけど
四川・漢中に入ると守りやすいが出られない、彼我の強さとほとんど関係なしに詰んでしまう
韓信の成功は特異な例だし、魏延も韓信のマネしたがったのを孔明に止められてるな
それもあるけど楚漢抗争期は肝心の関中こそ敵対勢力だったものの
あとは楚以外、日和見だったり親漢だったりで、実質的な敵が関中の三王だけになってたのもあるだろう
全国から動員かけて長安進出を阻まれた蜀とは比べ物にならない
603 :
_:2008/04/16(水) 01:03:29 ID:mm2ekvdm0
馬超とホウトクが長安落としたのに、孔明ができなかった理由は?
史実だと長安落とせてたかどうか不明。まあたぶん落ちてたっぽいけど。
馬超の場合、支持基盤の関中を丸抱えで潼関を封鎖できたけど、
孔明はまず関中に支配を固めるところから始めなければならなかった。
>馬超の場合、支持基盤の関中を丸抱えで潼関を封鎖できたけど、
>孔明はまず関中に支配を固めるところから始めなければならなかった。
こんなとこだろうな
馬超ら関西軍閥が挙兵した時は後年の諸葛亮の北伐時に較べれば
曹操の関中支配も磐石ではなかったし、雍州の諸郡も組織的な抵抗はできない
涼州に関していえば実効支配にすらいたっていない
諸葛亮が第一次の北伐で涼州の徐バクや游楚の抵抗に手を焼いたような事も
なかったわけだし
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/21(月) 13:14:41 ID:nnIgXHEp0
@‐@
50%の確率もわからないわけではないぞ。
馬超も魏延も戦の駆け引きはわきまえてるだろう。郭嘉が言ってたなよな?
『兵は神速を貴ぶ』ってな。時には迅速に行動し、敵の抵抗がまとまりを
見せないうちに叩くことも必要なのだよ。強ち魏延の策は間違ってはいない。
長安を陥落させてから、守りを固め涼州を料理すればいい。
>>607 > 守りを固め
だから、そんな守りを固める余裕なんざ与えてもらえないんじゃないかと。
魏の遠征軍10万を長安で迎え撃つとして、後背の涼州に無傷の魏軍が残るわけだが
アホのかこーぼーとかでなくて郭淮だから、きっと漢中からの補給線を脅かされる
もし、張任が劉備に降っていたら、孔明の北伐は成功していたかな?
劉障の配下の中で、張任がもっとも有能だった。李厳が陸遜と渡り合える
なら、李厳以上の活躍はしてたかもしれない。どうよ。
陸遜と並び称したのは、益州派に対するアピールでしょ
張任は家柄が低いから降れない
だから李厳は荊州出身だと何度も(ry
益州入りの時期も曹操の南下時だから益州での古株でもない。
その前に黄権や法正らを差し置いて、劉障の配下の中で張任が最も有能???
何か有能さを表すエピソードあったっけ?
演義で一番ということになってるからw
>>613 まぁ一応劉備の蜀討伐戦において劉備と龐統が最もてこずったのが張任だしな
それに有能に対して何故黄権と法正を引き合いに出したのかが疑問。
黄権は内政、法正は軍略、張任は軍事
3人とも土俵違うやん
ちょっと分かりにくいが、軍略は戦闘での戦略
軍事は戦闘での指揮能力や戦術ってことね
張任と引き合いに出すなら呉懿あたりだろうな
有能さをあらわすエピソードか。
特に記述はないが、張任がいなかったら蜀討伐に1年以上も時間を
費やすこと無かったとは思わんかね?
つ 劉循
ラク城守備の総大将は劉循さんじゃないんか。光栄三国志のやり過ぎだ
>黄権は内政、張任は軍事
この辺も何で決めてかかってんのやら
劉循でふと思い出したんだが、
蜀って皇帝の親族、血族の将軍って居ないの?
魏は曹一族、夏侯一族が有名だし、呉も結構孫家の将軍がいる。
蜀の場合、思いつくのがせいぜい呉懿くらいなんだけど。
622 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 16:47:13 ID:YknaVdeeO
えきとくちゃんも
>>620 劉備の叔父劉子敬の子、劉展という人物の名前が華陽国志にある。
黄巾討伐の頃から各地を転戦して功あり、建興初年に没す。
官は輔国将軍・昌国亭侯に至ったという。
夏侯覇もあり?
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 22:51:34 ID:ocGWPrnS0
つか、張任が有能無能はおいといて、本当に家柄が低いって理由で降れないのか?
>>630 wikipediaの三戦関係のページに、自分の妄想onlyが根拠の
武将のルーツを書きつらねるウザ執筆者のこと。
一般人がなかなか見れない史料名(三国志集解、華陽国志、水経注など)を持ちだして
それが出典だと言ってるが、その史料にはそんなこと一言も書いてなかったりする。
「一説には…であるとされるという。つまり…であるという見方が強いとされる」
といった気違いじみた言いまわしが特徴。
もちろん
>>623みたいなことは、どこの史料にも一切書かれてない。
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 07:38:35 ID:lR2zLBUT0
蜀で大地震
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 13:32:57 ID:WlX81P31O
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 12:48:52 ID:kkt7i+NNO
上手く
>>620 なんとかっていう石刻史料に劉姓の武将が何人かいたよ。
それなりの地位や権力はあっても能力と功績がなくて歴史に名を残せなかったんだろうね。
>>637 娘が皇后に取り立てられたときって張飛が死ぬ直前くらいじゃなかった?
ほとんど「一族」としての活躍はしてないんじゃね?
>>636 いやいやまじでまじで。
隷釈のどっかに載ってるはず。探してみ。
・・・ルーツ君乙
>>639 隷釈の探し方も読み方も分からないんだが。
お前は知ってるんだよな?
無知な俺に教えてくれよ。
教えてくれないんなら、
口先だけのルーツ君とみなす。
むやみにルーツ君扱いするのも失礼だけど、こういうときはちゃんと題や原文まで記すべきだろうな
ソースが分からなかったのではっきりと出所を示せなかったが、
たぶん隷釈だと書いてもまだダメって言われたら、もう何を書いてもダメだわw
さっき探してみたら隷釈じゃなくて隷続だったわ。
写してみた。文字化けするかも。
黄龍甘露碑
[11行闕]
[上闕1人]司徒臣[姓名闕]安漢将軍[下闕又闕5人]侍中臣[闕]立侍
中[下闕]尚書[下闕又闕4人]五官中郎将臣[姓名闕]太中大夫臣
[姓名闕]中散大夫[姓名闕]博士臣許慈議郎臣[姓名闕]議
郎臣[闕]信議郎臣[闕]光議郎臣[姓名闕又闕2字]将軍臣[姓名
闕]鎮東将軍臣劉?平西将軍劉[闕]平北将軍臣
劉[闕又闕2字]将軍臣[姓名闕又闕2字]将軍臣[姓名闕第2横並闕第3横闕
18人又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍
臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕10字]将
軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕第4横闕1
2人又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣
[姓名闕又闕1字]将軍臣[姓名闕又闕1字]将軍臣孫[闕又闕1字]将軍
臣[闕]仁
時太守南陽李厳正方丞宋遠文奇武陽令陰化
第2碑
惟建安廿六年[闕10字]赤水甘露[闕]于県中[後闕]
(第2碑)碑陰
[上闕6人]侍中臣[闕]立侍中[下闕]尚書[下闕又闕2人]光禄大夫臣
[姓名闕又闕2人]中散大夫臣劉[闕]博士臣許慈議郎臣[姓名
闕]議郎臣[姓名闕]議郎臣孟光議郎臣[姓名闕下闕1人又闕2人]
益州前部[闕2字]臣費詩益州左部司馬臣[姓名闕]益州
右部司馬臣[姓名闕]益州[闕]部司馬臣[姓名闕]益州部蜀
郡従事史臣[姓名闕]益州部[闕2字]従事史[下闕]益州部[闕2
字]従事史[闕]義校尉臣[姓名闕]益州部巴西従事史[闕]
信校尉臣李[闕]益州部梓潼従事史忠節中郎将臣
[姓名闕]益州部??従事史臣[姓名闕]益州部永昌従事
史[闕2字]校尉臣[姓名闕]益州部[闕]山従[下闕又闕5字]従事史
臣[姓名闕又闕6字]業校尉臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣劉[闕又闕2字]中郎将
臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣張[闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将
臣劉[闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2字]中郎将臣[姓名闕又闕2
字]中郎将臣[姓名闕下闕]
>鎮東将軍臣劉?
劉エンね。蜀書巻10に出てくる車騎将軍の。
>益州部??従事史
ソウカ郡。朱褒がいたとこ。
蜀では建安を26年まで続けていたこともチェックポイントだな
三国志でも分かってたことだけど
646 :
639:2008/06/19(木) 00:13:01 ID:VckATfht0
647 :
639:2008/06/22(日) 13:36:33 ID:DQJgyv7F0
司徒(許靖だろ)の上いる1人が誰か、ってのはなかなか楽しい疑問だと思うんだけどね。
官位で言うと丞相とか太傅、太尉くらいしかない。諸葛亮じゃあないよなぁ。
劉備の漢中王の署名に出てくる議曹・従事中郎・軍議中郎将 射援 って、
諸葛亮の属官だったんだろうか?前どっかで諸葛亮に任じられた、とかって見た気がするんだけど、
従事中郎が軍師将軍のだとすると中朗将とは兼任できないよね?
>>644 おかしいと思うだろ?
マスコミの不自然な在日米軍叩き。
中国は実質内陸国家だからね。
海へ出るには沖縄が邪魔になる。
沖縄制圧最大の障害といったら何か。
そう。沖縄米軍を撤退させる必要があるんだよ。
どこの板と間違えてんだよwww
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/17(日) 10:18:21 ID:p0jlxDtbO
キモオタ三国志
く、くさー
ルーツ君ってなんですか?
コテ?
s
656 :
電脳プリオン:2011/12/03(土) 23:34:22.07 ID:usq/CW3I0 BE:364867294-2BP(1960)
18はなさそうだな
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/04(日) 23:13:07.45 ID:VaLtivU8O
王平と姜維
どっちが優秀か
658 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/05(月) 09:50:38.38 ID:96T3B4QRO
しかしもっと詳しく書き残して欲しかったな蜀の状況や人物伝
659 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/17(土) 16:50:13.99 ID:kfO7XULX0
蜀は史官を置いてなかったらしいから仕方ないのかな
陳到とか結構古株なのに事績がよくわからないとか寂しい
660 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/17(土) 17:19:45.39 ID:+zdStJ46O
無知な質問で申し訳ないけれどなぜおかなかったのかな
>>661 後主伝に史官のことを記述してんだから、
> ・蜀に史官はいないよ説(陳寿)
はどう考えても成立しない。
>>662 一応末期の蜀漢に仕えた陳寿がそう言っている以上,
史官の有無はともかく,まともに記録が残ってなかったことは間違いないだろう。
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/01(木) 07:01:19.85 ID:5uYrFbuG0
age
666 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 18:36:37.78 ID:oYeK6iEp0
スレ主のJominianとTSとむじんとNagaichiはどこに逝った?
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/08(木) 21:30:38.65 ID:frrwc3Xd0
jominianはツイッターにいる
>>657 才能では姜維、人格まで含めた総合力では王平
何で孔明は姜維を馬良と比べたの?
>>669 馬良にしろ李邵にしろ文官としか思えない経歴だから,
姜維も文官としか思っていなかったのではないか。
たまたま武将として大成してしまっただけで。
671 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 02:23:35.91 ID:1Du4C6Mf0
672 :
池田大作:2012/12/24(月) 06:47:06.50 ID:4I4tkoBaO
創価諸君よ!
田浦本部横須賀桜山支部の高橋裕之氏が年末ジャンボで6億円当たるようにまた女子部と結婚成就と障害者年金1級受給と健康とご長寿と貯金残高10億円を15分でよいので高橋裕之氏に題目を送って行こうではありませんか!
673 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/19(水) 02:04:08.96 ID:IlLmDvEG0
魏延、王平、とかやっぱり人気なんだな
魏延も王平も好きだわ。
脇役でしかないけどな。
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/07(日) 12:49:57.03 ID:Giw9N7m80
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676 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/01/01(木) 19:49:02.45 ID:vq12z4xP0
実は黄皓べったりだった羅憲。
晋出仕後の後輩推薦も,予定調査に過ぎなかっただけでなく,
相手の記録にも全く残っていないという有様。
>>676 羅憲を落とすと、呉も落ちるからやめて・・・