1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
・正史三国志で数少ない一騎討ち経験者。
・時の権力者董卓のボディーガードを努めていた。
・抜群の弓術と馬術と腕力を持っていたため飛将と呼ばれた。
・蒼天の下に立てらられた戟をただ一矢で射ぬく
・武芸に優れていた丁原、董卓を自らの手で殺す。
・黒山賊の数万の精鋭に対し数十騎で連戦戦勝、「人中の呂布、馬中の赤兎」と評される。
・袁術軍筆頭将軍の紀霊が大軍を率いて劉備を攻めた時、少数で出陣してきた呂布の勇名を恐れ、攻撃をしなかった
・兗州を乗っ取った時、引き返してきた曹操軍を一度は叩きのめしている。
・徐州を迅速な速さで乗っ取る。
・捕縛された時、曹操は呂布の強さに魅力を感じ、配下しようとした。
・陳寿は「呂布は吠えたける虎のごとき勇猛さをもつ」と評している。
やっぱりかなり強い武類の武将だったのだろうか?
中国史全体ではどのくらいのレベルに入るのか?
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 20:37:37 ID:qKAsgrn2O
一騎討ちなんかあった?
郭汜とやってるじゃん
北方謙三著の三国志の呂布は、
>>1のイメージに結構近い。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 02:40:47 ID:WDvPykxA0
強いか否かでなく、何処まで強いのか?だろうな
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 15:47:34 ID:E7h2hsxx0
演義では黒山賊との激闘がカットされてるんだよね
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 11:56:27 ID:H1KIHxGu0
>>7 だから演義から入る人は魏越とか成廉を知らないんだよな。
下ひ篭城前に捕縛された程度しか。
成廉って地味に好きだ
北斗の拳で言うザク隊長的なイメージ
やはり関羽くらいじゃね?
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 15:09:42 ID:0nlyQ7GH0
呂布ってやっぱり遊牧民出身?
出身地を考えれば遊牧民か遊牧民と漢人のハーフっぽいわな。
素人意見で恐縮だが 呂布って攻め戦では強いけど防戦は苦手って感じ
呂布は遊牧民族系騎兵集団の指揮官だからな。
野戦はともかく拠点死守は適任じゃないだろうな。
頭を使った作戦は不得手っぽいな
正直正史だと張飛の方が上な感じがる
王允はハーフかな
張飛は長坂橋の話やら万人の敵と言った武勇が突出しているが
蜀攻略戦では厳顔を捕虜とし更に魏の名将張コウを撃退し
漢中太守最有力候補と目されている。
名将と言ってもいいだろう。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 15:29:58 ID:gUczyskA0
>>19 厳顔が捕まって、張飛は降参しろと言っても降参しなくて
張飛は怒って打ち首(なのかな?)にしろと命じてもなお、
厳顔が別に良いと言ったので張飛はそのおいおいしい
(省略されました)
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 00:42:56 ID:eLYdjlmHO
俺は三国最強の男というコピーに引かれ、三国最強になるためにはどうすればよいのか考えた
三国最強なのだからどんなこともできる
手始めに全裸で貂蝉の部屋にアンゲロ、アンゲロとつぶやきながら飛び込む
タンスをこじ開けブラジャーを腰に巻きパンティーを頭にかぶる
貂蝉が呆然としながら見てくるが三国最強なので気にしない
貂蝉のベッドに潜りこみ「幸せだから!幸せだから!」と絶叫、貂蝉は無言で部屋から立ち去る
だがまだ最強には不十分、次は張遼の部屋にムッシュムッシュと叫びながら飛び込む
張遼は着がえをしている最中だったが三国最強なので無視
半裸で逆立ちをしながら
「俺に充電しろ!!俺に充電しろ!!」と絶叫
張遼は大泣きで退散、確実に三国最強に近づく
開脚後転でトイレに飛び込み便座を外し首に掛ける
ゾンビの真似をしながら董卓の部屋に突撃、タンスを開けると一枚の写真発見
死んだ丁原が俺を抱いている写真だった
俺は泣いた
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 16:18:17 ID:BAkr1RycO
でもリョフってカコウトンには勝てないね
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 22:04:44 ID:KB5EJudx0
「勝ってないね」の意味か?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 22:31:16 ID:dIs7Snfd0
三国志スレ立ちすぎだな
驍将スレとか適当に名前付けて冉閔とか楊玄感みたいな部将を語るスレにすりゃよかったのにさ
>>1みたいな馬鹿がこの板の三国志規制に拍車をかけるんだ。
陳寿が取材したものには、すでに創作が入ってると思う。
ついでに聞くんだけど、紀霊って袁術の筆頭将軍とかそんなんか?
史料漁っても、ほんの数カ所にしか名前が見えないんだけど。
張勲とかのほうがよほど頻出する
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 07:57:59 ID:WhgwOPvY0
>>25 陳寿にもいろいろ愛着や、配慮しなければならない対象があっただろうからな。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 09:15:13 ID:UQszo6kq0
>>1 確かに強いとは思うが実際負けの方が圧倒的に多い。
曹操とボクヨウ攻防戦を繰り広げ、飢饉によって
休戦になったすぐ後に、弱小豪族の李進と戦って
大敗北を喫してるし、その後も呂布が一万余もの
大軍を引き連れ曹操を攻撃した時も、数百の曹操軍
に大敗北を喫し、闇にまぎれて
逃走したほど、さんざんな目に会ってるわけだし。
実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例
もない。一騎打ちにしたって郭しのような個人的武勇
がどれほどのものかもわからない男に勝ったところ
で自慢にもならないし、郭し自身をも討ち取ってすらいない。
それに賊に勝ったというが賊というのはそもそも指揮系統が
はっきりしている軍とは違って、思い思いに略奪など行っている
ならず者軍団と考えるほうが妥当。正規軍を数万を撃破したとは
わけが違う。それに兗州を確保し、孤立したケン城を攻略し
ようとした呂布はここでも苦戦し退却している。さらに曹操の
呂布討伐戦では緒戦から降伏しようとしてる。結局、陳宮に静止
され勇んで撃って出たが敗北を喫し城に篭ったが降伏してる。
呂布の徐州攻略にしたって劉備軍本隊が不在かつ、守備を任されていた
張飛はソウヒョウ軍と戦っており呂布軍とまともに戦える状況に
なかった。降伏時についても、曹操が呂布自身に魅力を感じた
という保障はどこにもない。呂布は曹操軍にはない騎兵軍団を
統べており、この北方の精強な軍団をまるごと曹操軍に編入したかった
と考え魅力を感じたと考えるほうが自然。
「山東は大臣を出し、山西は大将を出す」という。
この場合の「山」とは大行山脈のこと。
つまり涼州、并州は半異民族みたいなものなので、強兵が育ちやすいということ。
動物的な競争力に長けてる反面、人間的な社会性というのは非常に低い。
そういう連中をどうやってまとめるかというと、それはほぼ「力」。
戦利品の分配が公平とかいうのはあくまでオプションに過ぎない。
「山西出身」で「指揮官」というだけで山東系の部将よりは真正面の組合いでは一日の長がある。
それと側面、背面、兵站、その他の総合力は別。
力だけが価値観の連中の上に立つのは最強でなければならない。
だから、呂布は当然最強の強兵で猛将ということになる。
戦績から帰納的に考えると大したことの無いヤツというのは正しいが、
それだけだと何故そんなボンクラが天下をかき回したのか分からなくなるだろう。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 09:36:34 ID:56i+ZtIB0
>>14 丁原の元にいた時は主簿
これは地場出身の豪族で士大夫階層がよく着任している官位
この事から普通の豪族だったんじゃないかと推測できる
>>28 魏の記録は戦果の数字を1/5に、被害の数字は5倍にして計算すべき
三国志内部できっちり魏の戦果報告はそんだけ水増しされてるって書いてあるから
なので1万の兵どころか2000の兵で曹操に敗れたということになる
直属の配下である高順も1000人の兵士がいると言ってたが実数はもっと低い部隊だった
正史で評価するなら正史の記述システムももう少し理解しては?
>>28 >実際、張遼や張飛などのように正規軍と戦って完勝した例もない。
正規軍とはなんぞや?
呂布のいた当時は、各勢力の兵は全て漢の正規軍と言えなくもない。
魏・呉・蜀分離したあと、「敵はxxの正規軍」と必ず言える状態の
張遼や張飛の戦果と同列に比較して、呂布の相手は「正規軍じゃないから」
って、オマエはアホか
孫権だったたが曹操や二袁に比する脅威として呂布の名を挙げている。
李カクとかサク融、黒山や白波らの賊では無くてな
呂布って孫呉と事を構えた事も無いよなあ それだけ有名だったって事なのかな?
人中の呂布、馬中の赤兎ですからなぁ
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 00:43:35 ID:WtFmafrl0
呂布も敵わなかった李カクらなんかは
最期は割と簡単にやられて討ち取られているように見えるのだが
呂布は最後までしぶとかったな。
内通者や離反者が出なかったらまだまだ粘れただろうか
高順をもっと信用していれば・・
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 02:50:49 ID:wlqq7GyFO
ほ
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/23(月) 12:10:32 ID:V5KQQTpBO
まぁ 馬鹿な猛将以上の評価はないってことか?
たしか 字が読めなかったんだよな呂布は。。つまり兵法書も読んでなかった、だからこそ兵法に詳しい陳宮との意見の相違も起きたんだな
陳宮は頭の中身がどうこうとという以前に行いがなぁ
陳宮が呂布に造反したのは事実なんだろうか?
物語のような忠誠心があったとは思わないが。
造反者なのに呂布は最後まで仕えさせたし、陳宮も殉じたんだよな
造反したのかどうかが事実であるかどうかは兎も角
高順が全軍の前で陳宮を告発した事で、呂布軍と陳宮の信頼関係は失われたと思う。
追記。あくまで推測だけど述べてみる。
カク萌の乱後、
「呂布は高順を嫌うようになり、その兵を奪って魏続の部将としたが、高順はそれを恨まなかった」とされる。
その理由について正史の注では「陳宮の事が有ったからだ」としている。
しかし、これは陳宮がカク萌と乱を起こした事に関連させると全く意味不明。
何故なら、高順はカク萌の乱の鎮圧では大活躍だったからだ。
呂布を脳筋馬鹿で高順の大活躍に嫉妬した小物、と取ればこういった経緯もアリかもしれないが、
自分は、呂布はそこまで馬鹿ではないと思いたい。
では、高順と陳宮の何を問題として、呂布は腹心である高順にそんな仕打ちをしたのか。
呂布は、陳宮と高順がかねてから不仲である事を知りながら、2人を同時に用いている。
呂布の、両者への評価が高かった事が伺える。
そして、カク萌が造反する事件が起こった。
高順は陳宮を告発したが、陳宮は押し黙って反論せず、呂布は結局陳宮を不問に処したとされる。
謀叛は死罪をもって当たるのが正道。陳宮を不問に処す理由は2つしか考えられない。
1:呂布には陳宮を処罰出来なかった=呂布軍に陳宮が不可欠だったか、陳宮はパトロンだった
2:陳宮は無実だった=真実無実だったか、証拠不十分だったか
高順は、不適当な告発によって兵士に混乱を起こした罪によって兵を奪われたのではなかろうか。
>>41 1でしょうな
陳宮は曹操の下でもかなり有力な将だったようだから、
呂布の下でも多分有力だっただろう
多分呂布の指揮する兵の多くが陳宮の私兵だったんじゃなかろうか
下手に陳宮を切ると自分が痛いわけだ
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 00:56:03 ID:cr+xbTfY0
>>42 主君の窮状を理解するってのも忠だよね・・・
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 03:07:43 ID:PZK87VkEO
つまりさ、呂布と陳宮は単なる主従の関係じゃないんだよ
同盟者、または出資者と雇われ社長みたいな微妙な関係だったんじゃないかと
>>45 確かに陳宮のほぼ100%の活躍でエン州奪ってるし
呂布にも遠慮があったと考えると面白いな
そう考えると
キングメーカー(は言いすぎとしてもそれに似た役割)としての陳宮を見るのも面白くていいな
エン州奪ったのは張?の功績だろ
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 10:39:33 ID:RBapHOJm0
>41 そうすると、高順が空気読めない奴みたいでちょっと嫌でもあるな。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 13:13:49 ID:JmL2VtJzO
当時の漢民族の人口は800万人で大阪府くらい。
呂布を日本にあてはめると
大阪府最強の男=岸和田の番長=カオルちゃん=竹内力
>>49 呂布が居た頃はまだ5000万以上いたはず
その後の動乱でだいぶ減ったと思うけど
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/01(水) 00:36:24 ID:VFnLrBzyO
こいついきなり裏切るもんで装備してたもん全部もってきやがったあ!いきなり裏切るんじゃねー
たしかに蒙古もどきの強さがあったんだろうけど、郝萌に反乱された
時、便所の天井から必死こいて脱出てのが彼もまた人の子なんだな〜と
ほのぼのさせられる。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 20:02:14 ID:qRNgV95b0
呂布って実は清原みたいな奴だったんじゃね
自分自身は全然実力ないんだけど、なぜか有能な若手に慕われる
呂布の強さって有能な部下に支えられてただけだと思う
ところで呂布って、董卓軍にいた時に大軍を率いた事ってあった?
一部隊はあっても総大将だった覚えがないんだが…
遷都した後は完全に董卓のSPだからなぁ。
>>54 呂布にはそんな権限が無い。
だが元丁原の軍はそのまま丸ごと率いている筈。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 19:04:40 ID:CUng9iSs0
>だが元丁原の軍はそのまま丸ごと率いている筈
???
なぜ断言できるんだろ???
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 20:18:56 ID:4pUVvyLG0
>>54 虎牢関では胡軫の副将だったしな。
自分で兵を率いたのは董卓暗殺後じゃない?
>>41 俺も2だと思う。
そもそも呂布と陳宮の力関係以前に、陳宮がカク萌と反乱を起こすメリットがあったのかどうか。
また、陳宮が関わった謀反劇なら、そう易々と鎮圧されるものなのか、とか。
実際、陳宮が謀反したとするなら、
陳宮やカク萌ら非并州系のグループが袁術との連携で?とかなんだろうけど、
それはそれでジリ貧のような気もするし…
>>57 ゲームと違い、当時の軍は豪族の私兵だから。
呂布に張遼や秦宜禄、李粛という丁原時代からの并州出身者が付き従っている所を見ても、
呂布が丁原の軍をまとめている事が分かる。
>>60 丁原の軍が全て、丁原を直接的な支配者と認識していて、
丁原の後継者を呂布と認めているという前提がつく話だな
ゲームじゃあるまいし、そんなことはありえないと思うけどね^^
丁原は騎都尉で呂布はその主簿
主簿は上官の文章や印鑑なんかも管理してるので
上司がいなくなれば最もその権力を掌握し易い存在
董卓が呂布を抱き込んで兵目当てで丁原を殺させたのもその為かと
騎都尉の兵権をそのまま掌握し、土豪なんかの私兵も同じ并州出身の呂布ならば調整できる
>>61 ゲームじゃないけど呂布は丁原の持つ兵をほとんど掌握できる状況にあった
そもそも「後継者」って発想が間違ってる
漢の兵権を借りて兵士を使ってるわけで拠り所は丁原じゃなくて「印綬」
「印綬」持ってれば官兵の掌握は難しいものじゃない
丁原は豪族ではない。
丁原の出世コースは役人(今の日本だと巡査か?)からスタートする。
危険を顧みない勇猛さが認められ、最終的に執金吾まで出世する(つまり、呂布に殺された時ね)。
状況的に官兵の可能性が高そうだ。というより私兵を雇う余裕がなさそう。
両方正しい可能性も有ると思うけどな。
それから、主簿にはそんなに大層な権限はないよ。兵士だって誰が偉いか知ってる。たかが主簿の言う事なんて聞きはしないでしょう。
つまり呂布が「ただの」主簿などではなかった事の証明では
だからその証拠が無いんじゃん!
呂布は丁原の全兵権を握ってた。(証拠なし)
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
豪族の私兵だから全部ついてったに決まってる。
↓
豪族の私兵なら、なおさら分散するはず
↓
豪族の私兵じゃない。官兵だから主簿の呂布が統率できた。
↓
ただの主簿如きにそんなの無理
↓
丁原の全兵権握れたんだから、ただの主簿じゃなかった証拠になる。
↓
なんで全兵権握ってたって断言できるの?
↓
以下、上に戻ってエンドレス
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 17:04:13 ID:6QUSUIzQ0
>>66 主簿には権限ないよ
でも権限を掌握する事は可能な立場なの
権限の拠り所である印綬の管理役が主簿だから
流れぶった切りですまんが、赤兎てのは実在する馬なのか?
俺の調べた感じでは正史にも記された名馬なんだが
ある人が俺の読んだ正史三国志にはそんな記載ないアル。
俺は職業上、中国語が読めるから、俺の読んだのは発掘された陳寿の三国志をそのまま写した真の三国志アル。
今知られる正史三国志は唐代以後の粉飾の混じった偽書アル。
ということなんだが、キティ認定でいいのかな?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 01:24:01 ID:aYQAcAU3O
ageておこう
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 16:54:06 ID:nHLQi3ZV0
1
布有良馬曰赤兔.
布は良馬曰く赤兔を有す。
呂布は赤兎という良馬を所有していた。
2
曹瞞傳曰:時人語曰:「人中有呂布,馬中有赤兔.」
曹瞞傳曰く、時の人語りて曰く「人中に呂布有り、馬中に赤兔有り。」
曹瞞傳という書によれば時の人々は「人に呂布という英傑がいるように、馬にも赤兎という名馬がいる」と噂した。
正史三国志巻七 魏書七 呂布臧洪傳第七 呂布 より抜粋
あとは自身で判断してくれ。
後漢書本伝にも載ってるね。
魏志と曹瞞伝の当該箇所は太平御覧にも引用されてる。
これが全部、唐代以後の加筆とするにはかなり苦しいだろうな。
もし陳寿の原典に近い三国志が発掘されて、それに記載されてないとしたら、
むしろ発掘された方に佚文があるとまともな学者なら考えるだろう。
曹瞞伝は曹操をひたすらクソミソに貶す書だから一般的には信憑性が薄いとされてるけど
人中有呂布、馬中有赤兔
この一文に限っては捏造する意味がないもんな
曹操を貶めるからこそ、相手側を褒めるという事もある。
呂布の徳行を誉めるならまだしも、呂布の武勇を誉めてしまったら、その呂布を破った曹操を誉めたも同然になってしまう。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:11:51 ID:AbmFP3kb0
そんな回りくどいことせんでも曹操のすごさは十分評価されてるだろ
強くなきゃあそこまで増長は出来ないだろうな
呂布に足らなかったのは自分が馬鹿だっていう自覚
>>80 機を見るに敏だぞ
呂布に足りなかったのは長期的展望
あと、謙虚な態度と助言を聞く耳
なんか項羽とかぶるな
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 10:23:33 ID:k47E40zj0
長安に篭る呂布や王允が敗走させられたのは何でですか?
単に数の差?
>>83 項羽と劉邦関連のスレで
「呂布と劉備だけの三国志」って説明があったな
>>84 王允のクーデターは涼州と并州の州閥争いの側面もある。
并州の方が軍事力に劣り、朝廷の名士層の支持も少なかったんだろうな。
泣きを入れてきた董卓派に対して王允が
「謝っても許しませんよ。あんた等は皆殺しです」とさえやらなきゃ、
軍事的には劣ってても主導権は握れたように思う。
だから李カクが報復処置で王允一派を鏖したんだな。
呂布と李カクらって仲悪かったんかな?
良い悪い以前に本文中では殆ど接点が無い。
呂布が董卓の下にいる間、李カクらはほとんど外に出ていたんじゃないかな?
確認してないけど(というか記述があるか?)
面識も殆どなかった可能性はある
呂布が一部将に過ぎず涼州人でもない上に、涼州人を王允が許さなかったので、董卓軍は李カクに集まった。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 10:38:31 ID:yWGSlbuk0
涼州と并州で心を一つに天下統一に向けて邁進すればよかったのに
なぜ緒戦の大将が李粛?
他にいなかったのかね、武将が?
それとも、牛輔程度の相手なら李粛で充分だと思ったのか…
負けたから史書で大したことない扱いされてるだけだろう。
牛輔の方は董卓の娘婿で、長安の東に駐屯し、
つまり山東の諸侯との前線に位置して李カク・郭シらを指揮下に持っていた。
董旻と並んで長安外の董卓軍主力を擁していたと考えていいだろう。
朱儁を破ってもいる。記述が少ないだけで小者感は微塵もないよ。
まぁ牛輔の場合は最期がアレなんで評価が下がるのは仕方ないにしても、隣に何かすごい人材がいるわけだが…
だったら尚更李粛では荷が重くないかな?
やはり、この時点ですぐに牛輔隊と戦える兵力を持っていたのが騎都尉の李粛しかいなかった…と見るべきか…
牛輔のすごい人材って誰だっけ? 郭シ?
李カク、郭シ、張済は周辺部を攻略中なので、牛輔隊を叩くには彼らが帰還するまでに決着をつけねばならない。だから、攻撃をするのであればこのタイミングしかない。(攻撃をする必要性が有るか否かは置いといて…)
で、李粛って目立った戦績有った?
平話では李広の末となっとるね。
なんでこんな設定にしたのかは知らんが
気になって三国志の董卓伝見たら、牛輔を処刑させるために
李粛を派遣したとあるじゃないかw
相応の兵力を率いていただろうけど、正面決戦目的じゃなさそうだな。
新政権の権威と董卓の死による涼州兵の動揺・寝返りを計算に入れたのだろう。
でも軍を率いて行ったなら迎撃されるのは目に見えてるよな。敗けて処刑される李粛タンカワイソス。
牛輔だったら、董卓の娘と離縁すれば罪は問わない…とか言えば、ノコノコ出頭して来そうな気がする。(勿論、餌も用意してな。)そこをバッサリと…
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 02:27:01 ID:E6Yw7GGzO
いかにも劉備がやりそうな手管ですね
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 19:40:25 ID:sxNI483oO
武周も呂布の知人だったのかな?
関係ないが、カクワイは并州出身者なのに、
長らく雍州・涼州方面の統治をしてたよね。
差し障りは無かったのかな?
ほんとに関係ないw
出身の反対側で活躍するような人間沢山居るじゃない。
劉備なんて3/4周してるぜ
そういう意味じゃなくて、并州人と涼州人は仲が悪かったのに
郭淮はどうやって涼州人と接していたかってことなんじゃないの。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 11:47:23 ID:F5hTmu6U0
>103 他に適任者がいないなら、有能な人物が回されたというだけでは?
魏で出世した涼州出身者ってどんなのがいる? 賈?とか
>>105 涼州閥、并州閥の対立って董卓陣営内でのものであって
別に并州人と涼州人が対立していたわけじゃないんじゃないか?
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 16:25:55 ID:dn53VL+Z0
元々の東漢朝廷では、何州閥が一番勢力があったんだ?
あぁ、呂布が長安開城するまで迎撃も何もしなかったのは、兵士の掌握ができなかったからか。
そうすると董卓暗殺直前には少しばかりの兵しか持ってなかったことになるか、呂布は。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 15:41:09 ID:Q1GreESK0
こんなスレがあったのか。呂布好きには嬉しい。
最近初めて魏書の呂布伝を読んだが、例の虎牢関の戦いなんか一行も書かれてない
ので笑った。あの名場面や三兄弟との一騎打ちなんか全部フィクションだったのな。
ちくま学芸文庫以外で呂布の史料読めるのって他にないですか?
後漢書呂布伝。対張燕で具体的な武勇の記述もあるよ。
ネットに和訳が掲載されてる。
『後漢書』呂布伝とか後漢末期の連中の伝。訳書は汲古書院から出てる
『資治通鑑』漢紀52〜54。現代日本語訳書は抄訳ばかりで、呂布が出る箇所の訳があったかは判らない
両書を訳してる奇特な人もいる。「ほぼ訳!後漢書」で検索するとわかるでしょう
ああ、かぶった
趙翼の『ガイ余叢考』で春秋から明までの一騎打ちの事例を集めた話があるが
三国からは呂布と郭のタイマン勝負が選ばれてる
他は?
後漢紀とか諸家後漢書かな。御覧あたりにも何か載ってるんじゃないの。
でも
>>112が求めてるのはそういうんじゃないような気がする。
演義の呂布が好きなら三国志平話が面白いかもしれない。
ガイ余叢考の歴代名勝負に広武山の項羽・劉邦と並んで呂布・郭のカードが入ってるのは
三国で一騎打ちがほとんどなかった事を示しているとも言えるかもしれない
太平御覧にしても、呂布が袁紹のガサ入れから逃げるのに琴の奏者を使った、
みたいな勇ましいというより風流?な話が載ってたりする
120 :
112:2008/02/03(日) 23:27:48 ID:9q4DAZ5J0
親切な人が多くて嬉しいです。ありがとうございます。
最近、史実の呂布がどうだったかに興味がわきまして、ちくまの奴を読んだ
ところなのです。演義と史実の違いとか、比較したいと思いまして。
最強説の出所である虎牢関の話がなかったり、一騎打ちで化け物じみた力を
発揮するところがなかったりとか。演義の作者は呂布萌えだったのかな、とw
なんで最強設定にしたのやら。
演義って先行する小説や演劇の影響を受けてて、ちょっと正史と違うなってところは
ほとんど演劇の筋が取り入れられてるんだよ。
演義より先行して演劇の影響も強い三国志平話なんか見てみると、余計によく分かる。
平話の呂布や張飛を見たら、演義のは劣化版にしか見えないかもしれない。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 07:22:08 ID:fwlWEnOD0
ま、本場中国じゃ曹操の実力とあくどさは社会常識として浸透してて、
その曹操を一度は打ち破った呂布や馬超の評価の高さは
知識としてしか知らない日本人のそれとは隔絶してるらしいからな。
演義であれだけ活躍してる趙雲が端役として認識されてるのもそう。
123 :
_:2008/02/09(土) 22:14:45 ID:HZZYvV+l0
呂布の出身はモンゴル。
モンゴル出身が一番の強いなによりの証拠。モンゴル人が築き上げた元の国は、
歴史上最大の帝国。領土拡張能力は、モンゴル人は最強だということだ。
弓馬をとらせては、天下無双なのも理解できる。
さらに、朝青龍、白鳳の強さもモンゴル人の象徴だ。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 22:23:25 ID:YvjjreDhO
モンゴル人て、モンゴル拡大の過程で様々な部族や民族を内包してモンゴルというんだが?
元のモンゴルがいたのはゴビ砂漠の向こうで呂布の出自の五原の住人をモンゴルなぞいわん
そもそもモンゴル自体がはるか後世の民族だろうが
呂布が異民族と漢族の雑居地帯にいた事は確かだろうが、呂布がモンゴルな訳ないだろ
呂布は領土拡張してないと思うけど。
それに蒙古にも相撲はあるんだよね。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 17:37:56 ID:43Mxz/HKO
もっとも元は、モンゴル帝国の一部であっても、モンゴル帝国の全てじゃないんだが。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 22:51:46 ID:tUx7go2PO
元の時代はモンゴル帝国といえるか微妙な感じだけどな
まぁ半異民族エリアの出身だから騎乗射撃はかなりのものだったんじゃないかな。
これは漢人は不得手で、異民族の最強戦法だから呂布がその使い手で
勇名が高かったんじゃないの。
武勇なら漢人の冉閔とかのほうが最強て感じだけど。
弱小国家(呂布とも共通)の大将で個人武勇の力で敵を撃破する、
一流名将でほぼ無敗の慕容格すら10度ほど連続で撃破する。
頭は良くない無策だが騎馬の突撃と個人武勇だけで敵を倒す。
智謀がないので常套戦術しか取らないので突撃を封じられて異民族
一斉騎射でアボン。
華北の漢人は騎馬の突撃は結構強かったが、騎射は会得できなかった
んじゃないかな。だからそれがすごい呂布は超人じゃんみたいな。
騎射が凄いと特筆されてるのはこの時代では董卓だなあ
呂布はそれに比べると漢人に近い気がする。
まず、董卓に見込まれたのは丁原を暗殺できる武勇に目を付けられてのことだし、
張燕攻撃でも、数十騎を引き連れて一日3,4度も陣営に突撃し、皆首を斬って戻ってきた
とあるし。
騎射しない騎馬突撃って意味あるのか?騎兵は普通騎射するもんだと思う。
武術の得意分野の話をしてるんじゃなかったのかい?
>>130 密集馳突。
車懸かりっていう戦い方もあるぞよ。
>>132 いや馳突とか車懸かりって言われても分からないんだけど、
結局矢を放たない突撃に意味あるの?
馬蹄で蹴散らすくらいの効果しか想像できないな。
矢をまったく放たないわけではないが騎馬の突撃というのは意味はある
し騎射もする。
上で言われてる騎射てのはただ矢を放つてのじゃなくて、特化技術的な
レベルの射撃だろ。遊牧民は高速で馬かっとばしながらすごいバランスと
精度で射撃可能。これがモンゴル等最強だった。レベルが違う。
いや騎射の巧拙は勿論あるんだろうけどさ、
騎射技能が低くて突撃が強いという光景が想像できないんだよ。
騎兵突撃っていうのは、普通歩兵の攻撃の前に敵陣を乱すとか、
戦闘中に側背を突くためにあるんじゃないか。
戦車(タンクの方)と歩兵の関係と同じで、
騎兵・戦車の攻撃は非常に強力だが、制圧は歩兵に任せるしかない。
農耕民族の軍では歩騎の割合が8:1とかなんだから、
騎兵が幾ら騎射に長けてもそれほど大打撃は与えられないと思うな。
遊牧民族のような騎兵が主体の軍では騎射が出来なければどうしようもないけど。
後漢書呂布伝によると、数十騎の騎兵を率いて城壁や塹壕を飛び越え、
張燕の陣を「馳突」し、一日に3〜4回それを繰り返し、毎回敵将の首を獲った。
それで十日余り戦って張燕軍を壊滅させたということらしい。
その記述からすると、後続の歩兵が付いていたような感じではないね。
前途を遮る者がなく自由自在に往来したってのは凄いけど、
大打撃を与えたというのとは違うんじゃないかなぁ。
それは呂布の凄いところだが、
そんな桁外れなこと十日も繰り返せばそりゃ統率は失われるよw
歩兵主体の古代の戦闘では、正面決戦で大きな死者が出ることは少なくて、
こちらはしっかり踏ん張って敵を後退させ、
追撃戦の姿勢に入るかが問題になるわけだから、
1.戦術で勝利し、敗走させる
2.戦略的要因を作って後退させる
(幾らゆっくり慎重に撤収しても、その背後を襲われると非常に脆い。普通は)
3.将兵の士気を阻喪させて統率を失わせる。
のパターンになると思う。
後漢書の記述をそのまま信じるなら、呂布の武勲は3になるんじゃないかな。
張燕の部隊がどれほどの人数か判らないが、騎兵数十騎で敵部隊を
数量的に「壊滅」させるのはそりゃ不可能だよw
一人頭50人とか殺さないといけない。
これは騎射が得意とか不得意とかいう問題じゃないと思うな。
さっきは勘違いしてたよ。城壁や塹壕を飛び越えるってのは赤兎の能力のことで、
張燕戦の時とは限らないね。どっちにしても僅か数十騎で暴れ回ったってことで、
こんなので張燕軍を壊滅させられる訳がない。
たぶん会戦の主力は袁紹軍の歩兵で、呂布は遊軍として開戦直後から少数の騎兵で敵陣を攪乱し、
戦闘中も折を見てまた攪乱に入って、、って事なんだと思うね。
だから実際に敵兵を殺してるのは袁紹軍だろうな。
あなたの言う通り、騎射の巧拙は大して問題じゃないと思う。
密集馳突って、それだけを必殺技のように使うわけじゃなく、敵の展開にあわせて中央部を突き抜けるとか
乱した敵陣をさらに割るとかというので、蒙古兵の集団騎射とはアプローチが違う。
それと、数十騎による馳突はよくある戦術で、敵兵をなぎ倒すというより、追い散らかす
という方があってると思うがどうだろうか。
士気の阻喪。強固な意志で結びついていない陣営では、そういうので四散することが多いようだ。
塹壕、城壁(ほとんど土塁みたいなもんで、想像される石壁ではない)越えは、飛将とか
飛ぶ如く、とか言われる人らはよくやってるようだよ。
ちなみに、密集馳突のいい例は、後漢末は知らんが、五代初期の柏郷〜高邑の役がつとに有名。
気の緩んだ敵歩兵に、高速的に一撃し、敗走路に沿って追撃して大打撃を与えるというやつ。
歩兵より騎兵のほうが早いからね。
なるほどな。それだと俺が想像してるのと大体同じ線かな。
散開した騎兵が敵陣を外から囲んで遠巻きに矢を射るというのと反対に、
敵陣に一斉突入して内部から敵軍の統率を破壊するってことだよな。
ただそれだと結局騎射の巧拙は関係ないんじゃないかな。
俺が
>>128氏に疑問を呈してるのは、漢民族が騎射は下手なのに突撃は強いって主張なんだ。
ところで密集馳突ってのは軍事用語か何かか?
言葉通りに受け取ると、四方の敵のいい標的になったり、
先頭の馬が倒れたら後続もばたばた将棋倒しになる絵を想像してしまうので、
あんまりいい表現じゃないように思う。
伯郷〜高邑の役はよく知らないので、参考になるサイトとかあったらURL紹介してくれ。
うん、どこが疑問なのかよく判らないが。
>散開した騎兵が敵陣を外から囲んで遠巻きに矢を射る
これは遊牧民的な戦術。
>敵陣に一斉突入して内部から敵軍の統率を破壊する
これは漢民族的な戦術。
なので、漢民族は騎射の比重が低い。
使わない戦術なので苦手と言ってもいい。ということだろう。
弓馬の技術は士大夫の基本素養のはずだけど、
戦術的に遊牧民の軍のような活用はしなかった。はずだ。
うわー、中々認識の差が埋まらないなぁ。
敵陣に突入して敵軍内部から攪乱する場合、弓を使うんじゃないの?
弓を使わず、かつ機動力を減殺せずどうやって攪乱するか想像できないんだけど。
まあ薙刀で撫で斬りとか方法はあると思うけど有効性は疑問だよね。
遊牧民ほど巧みじゃなくても馬上で弓を使った方がいいんじゃないの?
突入して弓矢を使わないとしたら、
士大夫が六芸とかいって射御を習う意味があんまりないよね。
あと包囲が異民族、突入が漢民族ってはっきり分けられるもんなのかな。
そういう文献があるなら仕方ないけど、どっちも同じくらいやってたんじゃないの。
むしろ、敵の歩兵の陣列に突入するという至近距離で
弓を使ってたら機動力が落ちまくると思う。両手を離すわけだから。
漢民族の騎兵が必ず弓を携行していたのか、いないのか知らないので、
弓を使わなかった、とは言わないけど、むしろ部将が突入しつつ弓を使っていたという
記述の方が少ないんじゃないかな。斬ったとか刺し殺したという記録の方が多い。
弓騎が役に立つのは、距離を取って駆けつつ集団で射掛ける場合、
追撃で敵の背中目掛けて射る場合、後退するとき背後へ射て追撃を絶つ場合、
じゃないかな。
歩兵は近代のような散兵ではないのだから、騎兵がまっすぐに突っ切るだけで
歩兵は避けるしかない。当然指揮は乱れる。実際に殺せる数は少ないだろうが、
同時、または次いで圧迫を掛ける歩兵隊がいれば、陣列を崩すことが出来る。
上手く行けばそのまま追撃戦。ウマー。有効だよ。
あ、機動力が落ちるってのは矛も変わらないか。ごめん。
両手使ったはずだしね。
足を止めたら騎兵は死ぬよ。
騎馬による突撃の衝撃力で、敵の士気を殺ぎ、兵らが皆何していいかわからない状態を作り出す。
敵兵が間近にいては、矢を番えるより、殴打したほうが早い。
斬る武器より、突いたり殴ったりする武器をよく使ってるみたいだけどね。
>>包囲が異民族、突入が漢民族
色分け的な意味でしょ。戦術なんてのは、そのときの状況によって使い分けられるものだけど
経験の少ない戦法はあまり使用しないとなると、戦陣にあって高速敵前回頭から騎射に移るという
そもそもの騎馬術の修練度が要求される戦術は、日ごろから馬に乗ってる戎兵にはかなわない
というあたりで。
それでも、騎射は有効な戦術なので、漢兵も取り入れてはいるけど、多用はしていないってことじゃないの?
北辺の防衛軍は、それでないと戎兵に太刀打ちできないから、訓練されるけどね。
それでも、歩兵の利を生かして、野戦築城とか、騎兵の足止めをしていて、そのできた隙を
漢兵の騎馬が襲う、というのもある。
>>密集馳突
これは史書にある記述。軍事用語ではないと思う。
自分が想定したのは、漢兵ではなく沙陀騎兵の多用した戦術なんで、ここでは違うかも。
ただ、モンゴル系の遊牧民である契丹を破ったときなので、漢兵VS戎兵というかたちにはなるが。
で、その将棋倒しだけど、むろんその可能性はある。
敵が落とし穴とか、馬の足を引っ掛ける罠(葦を結んで、とかある)をしているところに突撃すると
ものすごい被害を蒙る。
四方の標的というが、真っ向勝負ばかりとも限るまい? 歩兵の槍衾で足止めしているうちに
敵の背後に回りこんで殴打するというのもあるし。
速度が速いから、視認してから矢を用意していては、まったく間に合わないんだよね。
あらかじめ用意していても、期待する地点に現れないとか。
短弓なら速射もできるけど、飛距離と威力が…
>>参考になるサイト
寡聞にして知らない。
鐙なかったとされる時代だから
馬上で弓を使うのは尋常の技術じゃあない
そんなのを数万単位で揃えられるのは匈奴か前漢くらいだ
騎兵は長槍や弓で待ち伏せされると泣けるほど弱いからなあ。
クレシー会戦とか長篠(三段撃ちは伝説とされるけど、同種の戦術は欧州にもあったようだ)とか。
派手さの割には、「正面突破!」って形の兵種ではない。
でもいるといないとで歴史が変わる。やはり花形だよね。
騎兵の正面突破で勝っている事例もあるんだけど、それを伝家の宝刀みたいに過信すると
むちゃくちゃ間抜けにしかみえない負け方するからね…
>>鐙なかったとされる時代だから
そういえば、それを忘れていた。
馳突で検索したら、ただ単に敵陣を駆け抜けるという意味で、
武将が馳突しながら弓を射たとかハンマーの類を振り回したとかいうのはあったけど、
弓矢を使わないとか、逆に別の武器を使うとかいう限定はないみたいだね。
後漢書呂布伝の張燕戦の記録にも同じ言葉が使われてる。
これだけだと弓矢を使ったか使わなかったか、巧かったか下手だったかは分からないね。
ただ歩兵は連れて行かずに敵の首を斬ったと言ってるから、
弓矢を使ったとしても同時に刀剣の類を使ったのは確かだろう。
>>146 正史だと密集馳突という言葉は見つからなかった。
>>147 ここで問題になってる張燕戦だと呂布の騎兵は数十騎くらいなので、
数万とかいうオーダーを揃えるのは別の話だね。
>>正史だと密集馳突という言葉は見つからなかった
密集陣形による突撃のことで、そのままの言葉はないよ。
「領十余騎、横槊深入、東西馳突、無敢当者、卒全部伍而旋」
訳し方によっても変るかも知らんが、自分は、数十騎での密集隊形により
敵陣を縦横に駆け回った、としているけど。
そして、その隊伍のまま誰一人欠けることなく帰ってきた、と。
つまり、ひとつの集団として敵に当る戦い方で、そういうのを多用した陣営があるってはなし。
騎射をしない騎馬突撃の用例のひとつなんだけどね。
まあそういうことなら納得だ。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 16:23:19 ID:CtCdWv6S0
>>151 史書に書かれる事は特筆すべき事であって
むしろ、そういった特攻がレアケースだったから残ってるような気がするんだが
騎射が基本技術、必修技術として存在していたのはある程度覗えるのに、
それはあまり記されず突撃が記録に残っている事を考えるとやはり騎兵運用の基本は騎射であり
高価な馬を損なう突撃はあまりやりたがらなかったんじゃなかろうかね
いや待てw
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3 ここで検索すると、正史の騎兵戦の記述の中で、
「馳突」という二字がたまたま使われていることが83回しかないというだけで、
突入したとか斬り殺したとかいう箇所は他に腐るほどある。もちろん弓を使った記述も多くある。
なのにいったいどういう脈絡で、「騎射が基本戦術で馳突が特殊」という前提が生えてくるんだ?
史書の戦闘の記述を網羅して統計を取ったとかいうならともかく。
そもそも、士大夫の必修技術が騎射というのは、日本の武士の剣術のようなもので、
軍を率いなかった人物でもこれを得意とした者は沢山いる。
役に立たなかったとは言わないが、戦術運用を前提とした教育だったとは即座に繋げられないよ。
>>154 あのさあ、その史書何年分なの?
3000年分だよ?伝説部分まで入れるともっとある
3000年で84回、年0.028回
長い戦乱のある中国でこれって相当少ないよ
何が言いたいのかよく判らんけど。
つまり「馳・突」という熟語は、当時から一般的に使用され史書に記される類の軍事用語ではなくて、
時々使われていたけど主に後代に
>>151のような戦術を表現するために採用された用語だということがわかる。
わかるのはそれだけ。
でも、馳突という用語を使わなくても、
>>153 >そういった特攻
というのは、他に多くある。
三国志でも曹仁、張遼に記述がそのような行動をしているが、馳突という用語は使われていない。
関羽も顔良を斬ったときにそのような戦術を取ったのだろう。
ではお返し。
騎射が基本戦術だとするならば、古代漢人の軍隊がそれを『戦場で』使用したという根拠を引いてください。
全く使わなかったとは俺も断言しないけど、
今のところ根拠が士大夫の個人教養である「六芸」しかないもので、興味ある。
胡服騎射の故事でいいかね?
中国の騎兵の始まりからして騎射からのスタートだという事で
あれはまんま胡の戦術の採用じゃないか。
騎兵が突入(馳突)するときに戟や矛などではなく、
>敵陣に突入して敵軍内部から攪乱する場合、弓を使う(
>>143)
という戦術のほうを基本として使っていたか?
というのが今の話題のはずだけど。
あれ? 違ったっけ?<話題
まあいいや。
趙の戦術が一般的な漢人の騎兵戦術として普及したかはまた別の話じゃないか? 詳しくないけど。
漢代では、烏丸や董卓のような北方の騎兵を導入することで
そのような戦術を用いる者を補充していたと見えるけど。
まあ誰が使うにしても、漢書・後漢書辺りに「騎兵が雨のように矢を降らせた」
とかいう記述があっていいと思う。検討するのはそれを探してからじゃないかな。
>>158 だから漢民族の基本戦術は異民族から学習した騎射ってことだろ
何言ってるんだ?
>>159 善く騎射するもの云々って話は史記か漢書辺りで見た気がするが思い出せないな
>>160 だから、その文化が継続して漢代の一般騎兵まで継承されていたかどうかが判らない、
頭ごなしに否定しているわけじゃないんだから使用された記述を出してくれ、
それから検討しよう。
と言ってるんだけど。
>>161 うん、個人の特技だと結構ある。項羽とか霍去病とか曹丕とか孫権とか麋竺とか。
基本素養なので、詳細な記録がある人物でそれが得意なら大抵記述されるようだ。
自分で探したほうが早そうだ。
ざっと騎射で見ると、胡とか匈奴、それに対抗した部隊、羽林絡みの話が多いかなあ。
袁安伝の漁陽、鴈門、上谷って幽州とかかな。
公孫サン伝にも馳 騎 射 之とある。
騎兵は北方の方が強いだろうけど、そもそも中原出身の騎兵ってどのくらいの割合でいたんだろう。
騎兵の殆どがそもそも北方出身なら、当然史書の記述上、「騎射が基本戦術」というのは当たり前になるけど。
>>162 以降、軍服は胡服とも呼ばれてるわけで漢にも胡服騎射は継承されてるだろ
>>164 それは、今までの漢服が馬に乗れないものだったから、
馬に乗れる軍服を胡服と呼んだってことじゃない?
>>165 って事は継承されてるってことじゃないか
名が体を現すとは限らないんだが…
ここから判るのは、『胡の風習を取り入れて漢人も馬に乗るようになった』ってことだけだろう。
>>167 じゃあ名前と実際が食い違ってる証拠は?
少なくとスタート地点が騎射だったという事で判明してるわけだ
鐙のない状況で体重を掛ける必要のある戟なんかを使う戦術が発展するもんかね?
それこそ生まれた時から馬に乗ってる遊牧民じゃないとそんな真似は出来ないし
そんな真似が出来る連中の戦術は騎射だったってのはお前さんも言ってるよな?
三国時代の馬は農耕用の馬ですら下手な官僚の年収分くらいの値段がするわけだし
軍事訓練を施す必要のあった軍用馬なんてのを怪我させる危険性のある白兵戦が基本的な戦術になるかね?
中国軍の騎兵の標準装備は、馬上弓と刀もしくは長柄の武器。
馬上騎射ののち、接戦では刀などに切り替える。
というあたりが、基本的なものだけど、時代によって変遷している。
漢代では、長柄の武器を同時に装備し、敵陣突入後は、下馬して戦ったであろうと言われる。
南北朝代では、馬甲を装備した重装騎兵が登場する。
これは、敵陣への切り込み、突きぬけ、衝撃による蹂躙などを期待されてのこと。
機動力が若干劣るし重いから、長駆して騎射、そののちに高速回頭するという、蒙古騎兵のような
アクロバティックな戦術は取れないだろうから。
(あくまでも、止まらずに敵陣を駆け抜けるので、馳というのだと思う)
上で、自分が「密集馳突」という、なんか特殊そうな用語を使ったのは申し訳ないが
これは、戦術の一形態であって、漢兵が必ず用いた戦法や戦い方というわけではない。
馳突って使わずに、単に突撃なり突進なりにしておけばよかった。
ただ、戦法として、ある集団でひとまとまりとなり、一斉に駆けていくさまを馳突ともいい
今回は、そのつもりで例にあげた。
戦術としては、敵陣が乱れれば、突入、乗り入れ(こういうのを馳突という)するし、会戦の初動ならば
遠距離から接近して、回頭しつつ騎乗射撃して敵陣を乱す、というのもある(戎兵の得意戦術)。
これだって、同じ部隊がその両方を担ったとも限らない。
軍の編成では、「突騎」だの「雲騎」だの、騎兵じゃないかもしれんが「左射」だのと
役割が決められてそうな編成もあるんで、なんともわからん。
>>169 何で三国時代の話に南北朝の話題が出るんだ
どうでもいいところだろ、そこ
第一南北朝時代には鐙が登場した後なんだからかなり登場前後で戦術は変わるだろ
>>168 悪魔の証明はできない。
この場合、胡服(軍服)を着ていた漢人が胡の騎馬戦法を「使わなかった」という
証拠の提出を求められているが、そんなことは論理学的に不可能。
そもそも、漢兵は騎射をしなかった、したはずがない、とまでは言ってないんだけど。
(北方の胡や匈奴などと比べてかなり落ちただろうけど)
騎射ではない騎兵戦術における戦果の記録は幾つか出ている。
次は騎射による騎兵戦術の記録がほしい。
と言っているだけなんだけど、そんなに不当な提案なのかな、これ。
馬が高価なのはまったくその通りだと思うが、
それは対費用効果の問題にすぎず、
「効果だから接近戦には使えなかった」と言うにはやはり何か根拠が必要。
戟というのは、同じ高さにいる敵騎兵を突くか、低い位置にいる敵歩兵を
すれ違いざま掬い上げるように掻っ切る武器であって、
三国演義の漫画のように(あれは槍がある時代の風俗を基にしているが)
ぶん回すものじゃない。
というか、現に戟という武器が漢代に使われているのに、
なぜ「鐙がないので使えたはずがない」という結論になっちゃうんだ。
自分の立てた仮定にこだわって記録を歪めてしまってるよ。
>>169 >敵陣突入後は、下馬して戦ったであろうと言われる。
あ、なるほど。そんな感じの記述もあるね。竜騎兵みたいな感じか。
そういえば、陣への突入って結構あるけど、
この時代、追撃戦ではない正面戦闘でほんとの「野戦」って
比較的少なかったのかな?
>>171 騎射が基本だからこそ、突撃による戦果が特筆されて史書に残り
そうでない騎射は基本的に学ぶべきものとされつつ全然表舞台で「騎射によってどうのこうの」とは書かれない
史書書いた人間からすれば騎射こそが普通って感覚なんだからな
それから騎射は六芸じゃない
六芸の一つなのは射、これは馬に乗ってない状態でやるものな
射が六芸として成立した時点じゃまだ武霊王の胡服騎射による兵制改革は行われてないから
三国時代にも騎兵が騎射兵科だった事は以下にも見える
・公孫サンが白馬と騎射の兵数千を集めて白馬義従としてた事
騎射が特殊な兵科だったら数千も集められるか?
そして騎射を運用してるのに「矢が雨あられで凄い戦果でした」というような文言が公孫サンの戦歴には出てこない
実際白馬義従を中核とした軍隊で勝ってるにも関わらずな
これは騎兵が騎射兵科だったから、精鋭の騎兵を揃えたって言うだけでもう判るだろう?って筆者は省いてるだけだろ
・曹丕は典論に「6歳で射と乗馬を覚え、8歳にして騎射を覚えた」と書いている事
・左右で弓を射る事が可能というのがステイタスとなっていた事
騎射がデフォルトの戦法でもなければこんなこと尊ばれないし曹丕は典論で自慢もしないと思うよ
戟は馬上の兵器ってより長柄の武器ってだけの存在でしかないし歩兵も戟を使うし、騎兵も戟持ってる事はある
でもさっきから何度も言うように騎兵の基本は射撃、ポールアームはあくまでもサイドアーム
ここは勉強になるインターネッツですね
>>172 >騎射が基本だからこそ、突撃による戦果が特筆されて史書に残り
だから、まったく根拠がないじゃない。
その突撃が伝の立てられるほどの有名人によって行われ、
稀に見る武勇の証だから特筆されたんだよ。
と同じようにいえてしまうよ。
公孫サンは北方の騎馬民族に繋がりがあった。
だから騎射の出来る部隊を集めたことが「特筆される」。あなたの論法を借りるとね。
「騎射」で検索すると幽ヘイ涼州辺りの記述ばかり出るのもそういうこと。
>>174 騎兵を数千集めるのが、しかも白馬で、どれだけ異様な事か
幽州という土地柄、騎兵を集める事自体は難しくないが「数千の騎兵」というのは物凄い桁外れの数だぞ
騎兵一人を支えるのには人の装備、馬の装備、そして人馬の飯を供給しなければいけない
公孫サンが「騎兵数千による部隊を作った」って書けばそれだけでもうものすごい権勢の象徴になる
「数千の騎兵」だから特筆されるんであって騎兵が「騎射」だったからではない
秦と漢代の兵馬俑を比べると戦車の代わりに騎兵の俑が置かれているわけだがその騎兵達が持ってるのは弓
漢の正式な騎兵は騎射兵科だったのが基本なのはここでもわかる
まあ、戟持ってる連中もいるがな
漢軍は韓信が趙を平定した折、将軍の李左車を自陣に取り込み趙の軍制に関する情報も手に入れていただろうから
恐らく秦では正式な兵科とされなかった騎兵のノウハウも手に入れてたんだろう
騎兵が騎射ってのは基本だから特筆されにくい
史書のページが有限である以上、書く人間の生きた時代の常識はある程度差っ引いてかかれるのだからな
考古学的な前提を一切無視して記録記録って言われてもな
また矢の弾幕で相手にプレッシャーを与える役割上、目立った手柄を上げにくい
だから史書に「誰々を矢で討ち取った」とか描かれにくいわけだな
そんで騎兵を操るのが得意な呂布と戦ってる最中に流矢(流れ矢じゃなくて矢弾幕)によって
夏侯惇が目を射抜かれてる事が矢による打撃の存在をかろうじて教えてくれるが
呂布関係者が弓をどうしたこうしたなんて話は呂布本人の調停話くらいにしか出てこない
無根拠で言ってるわけじゃない
>>170 いや、「史書」に書かれていることは、特筆すべきことで、突撃はレアケース
というから、史書から伺える、騎馬突撃をひいてみたのだが…
ここではすでに、三国時代云々は飛んでいるでしょ、スレタイはそれとしても。
騎射しない騎兵に意味がない、というそもそもの命題が三国時代限定の暴言なら、それでサイナラしますがね。
>>騎兵の基本は射撃、ポールアームはあくまでもサイドアーム
そうです。しかし場合によってはそうでないときもあるっていうこと。
「意味がない」というのは、そのサイドアーム、つまり騎兵の近接戦を否定していることでしょ。
で、近接戦の例はといえば、引けばあるわけで、それが単なる戦術の一形態であって
特殊なものではないってこと。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 12:31:09 ID:kXPxDQEx0
>>176 >騎射しない騎兵に意味がない、というそもそもの命題が三国時代限定の暴言なら、それでサイナラしますがね。
誰がそんな暴言を言ってるのか教えて欲しいな。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 12:35:02 ID:hFw3D5IaO
ソシアルナイト<ホースメン
というわけだな
>>176 俺の主張は「三国時代の騎兵の基本は騎射」
「騎射しない騎兵は意味がない」とかどこの脳内設定だよ?
勝手に敵作ってシャドーしてんじゃねぇよ
騎兵の基本は騎射で突撃の方が稀な運用だろ、常識的に考えろ
>>130 のことと、思ったけど、もしかして騎射ののちに突撃という、戦いかたがあるのは承知している?
だとしたら、カン違い。
(
>>169ですでにその基本戦術は示しているから)
どうも、そちらが騎射しかしないことになっているような言い回しだったもので、
突撃の運用例もある、と言及したまでだ。それは読めばわかるでしょ。
しかし、突撃後も弓するという
>>143のは…?
>>常識的に考えろ
まぁ、そういうことだろうが、ひとつ。
そういう常識の裏を突くのが戦術。
だから、上にも書いたが、一口に騎兵といっても、吶喊することを主体とする部隊と
騎乗射撃ののち展開(ヒットアンドアウェイ)する部隊など、さまざまな編成がなされる。
騎射が基本事項なのは、それがおそらく騎馬技能をもっとも必要とするからだろうと思うが
だれもが習得済みかといえば、そうとも思えない。
騎射を主体とした部隊はむろん、習得済みだろうけど。
なんで俺の騎射呂布上手いよ論で荒れているんだw
「三国時代の騎兵の基本は騎射」の主張なんだけど不正解なんだよな。
俺が書いた冉閔もそうだが、いわゆる武器を持って騎乗して鎧で馬を保護
して切り込む、突撃する騎乗白兵と騎乗射撃メイン2つにあるんだよ。
冉閔はたぶん前者のほう。そのタイプは弓はほとんど使わない。
宋とやりあった金はこの運用に長けてたしヨーロッパでもこの騎兵部隊は
威力を発揮した。
ただ向こうでは弩には弱かったらしい。強力な騎馬突撃も弩の一斉射撃で
動きを止めることができた。包囲される前に崩すとか突撃も使いこなせる
人間が運用しないとダメなんだろうな。
漢代以降になって異民族て存在がクローズアップされて研究されて取り入れ
られたと考えられるな。逆に漢代以前には存在しないし。
完全に三国時代に存在した戦法だな。
俺は冉閔が両手に武器で切り込む猛者だったこと、突撃の使い手である事
からあぁ書いたわけだ。
あと士気はすごくあると思う。冉閔や項羽はとにかく連戦が利くし精強
なんだよな。ただ実は兵隊は隊長のカリスマで動いてるだけで中身
は疲れきってるから1度崩れるとボロボロになる。
>>180 >>130みたいな奴がいたのか…しんじらんねぇ
脳内シャドー発言は全面的に俺が悪かったよ
>>130見落としてたんで
>>181 冉閔は鐙普及以後の人
鐙普及以前の三国時代にそういう重装騎兵が居た可能性はあってもそれがメインになる可能性はあんまないぞ
鐙の無い時期で、鞍は存在はしてるが未発達
馬上で武器持って殴れるなんて曲芸が弓撃つよりもどれだけ難しいかは簡単に想像が付くだろ
漢辺りの鞍なんてちょっと布かなめした皮をケツの下に敷いただけのような代物だぞ
裸馬よりマシだけどケツが砕けそうな乗り心地
荒れてる自覚はないけどな。鼻息荒い人ならいるようだけど。
自分は、史書なり武器資料なりを引用して、想像しての発言だから
できりだけ断定は避けている。
漢代の戦い方も一部示したけど、騎兵が弓を装備しているのは、一般的認知による姿ではあったらしい。
しかし戦い方によっては、騎射をしないのもあり、するのもある、というだけだと思うのですよ。
>>冉閔
打撃系の武器を装備して、敵陣を駆け抜ける驍将は多いね。
鐙ってのが、騎乗修練度の足りないものでも、乗座が安定するということで、その補助部品みたいな
もんだけど、前漢以前の騎兵でも、突入後は刀の一振りで、敵兵を殺傷していたと見られている。
その当時の騎乗技術は、奔っている馬の上に正座できるほどの人もいたとか…
おっと、リロードしていなかった。
>>182 別人でしたか、それもカン違いしてました。
鐙に関しては上の通りの見解。
騎乗での武器の使用は、あくまでも駆け抜けるときのもので、ずっと言っているように
馬の足をとめて武器を振り回すことはしないと思うが。
185 :
130:2008/02/26(火) 19:18:59 ID:HV4MRX210
あれあれ、俺の発言でエキサイトしちゃってたんだ。
まあ、どっちも落ちついたようで良かった。
しかし他人の発言を暴言って言うのはいただけないな。
ちなみに俺の発言は
>>128に対するもので(
>>180と同じ人かな?)、
常時弓を使わない騎馬隊があった(しかも漢民族による部隊は呂布を含めて全て)
という意見に対して、そんな編成に意味があるのかと問うてるだけで、
騎兵が弓以外の武器を用いるケース自体は否定してないよ。
あ、それと鐙については過大評価しすぎかなと感じてる。
鐙がなくても普通に馬乗れる。反動のない弓ならさらに必要性は低くなる。
さっきの「呂布を含めて全て」は「呂布以外の全て」だね。間違えたよ。
あと俺は鞍上での武器の扱いについてlr06r+E20氏と同様の認識を持ってて
「馬上で武器持って殴れるなんて曲芸が弓撃つよりもどれだけ難しいか」はまったく同感なんだが、
「漢辺りの鞍...裸馬よりマシだけどケツが砕けそうな乗り心地」ってのは的外れだと思う。
俺は2週間だけ乗馬クラブで体験乗馬したことがあるが、
全体重はほとんど馬の背を挟んで抑える内股にかかり、鐙や鞍にはかからない。
股を開いて正座してるような感覚に近いから、5k6rjQiV0氏の言うように
「奔っている馬の上に正座できるほどの人もいた」というのは割と理解しやすい話だ。
ただし走行中は常に腰を浮かせてるので、正座そのものではない。
鐙は内股の疲労を多少は分散してくれたり、微妙なバランスを取りやすくしてくれてると思う。
鞍は内股で挟みやすい形状を提供し、馬の汗を防いで摩擦を高めて内股をすべりにくくするためだろう。
たった2週間しか乗ってないので、熟練者にとってはそうだろうと推測するに過ぎんが。
>>186 武器や弓を使う時には手綱から両手離す事をお忘れなく
>>187 その乗り方が出来るのは鐙で体支えてるからなんだけど…
鐙無しで乗馬してみろ、全然違うから
>>188 どっちも間違ってるよ。
手綱は馬を制御するためのもので、自分の体重を支えるもんじゃない。
(鞍の前面に持つところがあって、もし体重支えるとしたらこっちを使う)
それにもちろん鐙も体重を支えるにはあんまり関係ない。(ちょっとは預けたりするけど)
乗馬クラブのコーチは鞍の上に両足で立って馬を走らせるパフォーマンスを見せてくれた。
それを初日から俺にやれって言うんだ。で、並足歩行までなら実際できちゃうわけだ。
lr06r+E20氏は頭ん中で考えるだけじゃなくて実際に乗ってみた方がいい。
そしたら一発で理解できる。体が理解する。楽っしいっよー!
西洋馬術だから漢魏の乗り方とは多少違うかもしれんが、基本的に同じはず。
>>189 漢代の鞍がどんな代物かもう少し調べてから言ってくれ
ぶっちゃけ皮とか置いてるだけなのと大差ない
だから、鞍の形状はあんまり関係ないっつの。
鞍の進化によって、より快適に乗りやすくなることはあっても、
鞍が原始的だから乗れないとか乗りにくいとかいうことにはならない。
鞍無しの裸馬に普通の人でも乗れちゃうんだから。
乗馬の初心者にありがちな失敗は、鞍に腰かけちゃうことで、
馬の背は常時ポップアップしてるから、尻置いてると跳ね上げられ、
尻が自然落下したとき第二波のポップアップと正面衝突してしまう。
そのときかなり激しい衝撃を感じるし、場合によっては落馬するかもしれない。
「尾てい骨強打!」とか「タマ強打!」とかは初心者ならではの笑い話だけど、
中級者以上なら万が一にもありえない失態だ。
正しい乗馬スタイルは、鞍に尻を置かないで常に浮かしてる。
太ももを外側に45°くらいづつ開き、左右だとトータル90°くらい開いてる。
俺は2週間しかやってないからそんな感覚だが、熟練者だともっと角度が違うかも。
馬体にあてるのは太ももから膝小僧の内側だけで、
(乗馬用スーツはこの部分に摩擦の高い素材を縫い付けている。ケツには付いてない)
体重の90%以上はここで支えてる。鐙には大目にみて5%もかかってない。
上体が左右にぶれないように、太ももで馬体を左右から挟み込み、
上体が沈み込まないように重力に逆らって上方向にも力を使う。
内側に挟むのと上へ体を持ち上げるのとで、力のバランスは50:50くらいかな。
これも熟練者だと感覚が違うと思うが、俺の場合はそういう意識だった。
馬の背が上下反復するのにはリズムがあるから、それを体で覚えて、
足腰で反動を吸収する。それで上体は同じ高さをキープする。
これは単に馬を走らせる場合のことで、馬が一定のリズムを崩さないから、
騎乗者も馬の背の動きを予測して、反動を吸収できてるわけね。
しかし実際に戦場に出した場合は、予期できない動きを馬がするはずで、
たとえば予期しない減速、予期しないターンがあった場合、
(いきなり馬が驚いて二本足で立ち上がったり前のめりになったりすることもある)
騎乗者は体で覚えたのとは別の動きで人馬のブレを減殺しなくちゃいけない。
そういうときに鐙があるとないとじゃかなり違うだろうなという感覚はあるね。
それにしても、こうやって想像するだけで、
馬上で打撃系の武器を使うなんて、相当にあり得なさを実感するな。
自転車を時速20キロで走らせて木の棒で電信柱なんか叩いたりしたら、
よほどの衝撃があって棒を手落としてしまうだろうな。
馬上でそんな武器使ったら、下手すると腕がぶっつりもげちゃうよ。
史書見ても馬上でハンマー振り回したとかいう人いるけど、
あれは機動力を殺されたとき緊急回避として使うか、
残りは心理的威嚇くらいの意味しかないんじゃないかな。
とてもじゃないがあれで敵兵を殺傷するなんて現実的に困難すぎる。
>>191 鞍が原始的だから馬上での行動が制限される
制限されるからポールアームなんぞを取り扱うのは曲芸だろ?
「乗れない」って言ってるんじゃなくて「行動がかなり制限されてる」って言ってるわけで
現代の乗馬程度の話してるんじゃないの
鞍に掛からない?アホか
おめぇの内股が締め上げてるそれが鞍だ!
武器を持つ、甲冑は着たり着なかったりしてさらに背中には数日分の食料を背負ったり馬に背負わせたりする
しかも馬具は未発達
この状態での戦闘を前提で話してるわけなのに何でそうやって無意味に現代の乗馬の話題を持ち出すんだか全くわけわからん
適切な言葉を選んでくれてたら言いたいことは分かるよ。そんなどぎつい言い方しなくても。
太ももで挟んでるのが鞍ってのは、俺にとっては分かりきった話だけど、
lr06r+E20氏は最初「ケツが砕けそうな乗り心地」って言ってたんだぜ?
そりゃ尻を下ろすことを想定してるなら、鞍の発達に期待するのは分かる。
しかし馬を乗るとき尻は鞍に下ろさない。両方の太ももで挟むだけだ。
で、太ももで挟むだけなら鞍無しでもいいんだが、今度は安定感と疲労の問題が出てくる。
いい鞍は、太ももとの接着面がいい感じにカーブしてて、上体を安定しやすくさせ、
長い時間乗ってても疲れにくいんだな。
だいいち鞍がないと馬の汗ですべっちゃうんだから、鞍が無意味というわけじゃない。
だれも鞍の価値なんか否定してないだろ。
俺は「西洋馬術だから漢魏の乗り方とは多少違うかもしれん」とか
「2週間しか乗ってないから熟練者の感覚とは違うかもしれん」とか断ったうえで、
馬は鞍に尻を置いて乗るもんだと誤解してるようだから、
おそらく古今東西違いはないだろうと思われる一般的な馬の乗り方について説明してるだけだよ。
甲冑を着けたり武器を持ったりしても、鞍に尻は付けないのは間違いない。
実際問題、速度出てると尻が痛くなるだろ
尻は痛くないよ。鞍にノータッチだから。
姿勢としては両膝で立ってる感じ。
まあ慣れてくると、馬の背が上がってきたとき一瞬だけ尻付けたりはできる。
俺はそれで内ももの疲労をほんのちょっとだけ抑えてた。
乗馬歴2週間の俺ができるんだから、中級者なら楽勝だろう。
ただちゃんとした乗馬の教育を受けた人なら、そういうことしちゃいかんと言うかも。
内転筋群を使うんだから尻は痛くならない方がおかしいぞ
それは鞍に尻をぶつけるとかいう次元の話ではないよね。
鞍が未熟だからケツが砕けそうな乗り心地だろ
痛くなって
鞍が未発達だから両股で挟むのに過度な疲労がたまり、
筋肉痛になってケツが砕けそうな乗り心地とかいうのなら、そう思ってくれていい。
けど、俺は付き合わない。
俺はlr06r+E20氏がケツを鞍にぶつけて痛くなると誤解してるみたいだから説明しただけだから。
まあ、とにかく俺が言いたいのはそういうことじゃなくって、
>>128=
>>181氏が、漢民族は馬に乗っても弓矢を撃たないと言ってるので、
(でも呂布は例外だからすげえ論)
騎兵が弓矢を撃たないなら、そんな編成は無意味だろと言ってるんだよね。
なぜかみんなスルーしてくれちゃうんだけど、むしろこっちの見解を聞きたいな。
>>200 お前内転筋郡とその周辺の筋肉に激痛が走るまで筋肉使ってないの?
乗馬に限らずスケートとかでも結構使う筋肉なんだが
限界まで使うとケツ痛くて砕けるんじゃないかと思う痛さになるんだけど
>>201 騎射が基本だからそんなバカげた前提が有り得ないって事でFA
>>202 2週間かそこらの体験乗馬で内転筋が痛くなるほど乗れる訳ないじゃん。
どのみち筋肉疲労がどうのって話には付き合わないと宣言したとおり。
尻を鞍にぶつけるとかいう誤解が解ければ、俺はそれでいいんで。
だんだん話がズレてきてるぞ
>>201 騎兵が弓矢を撃たないなら無意味なんてのはありえない暴論だと思うけど?
機動力を生かして近接戦闘にならないように戦うなら、当然飛び道具必須だから弓矢を使うし、
衝撃力を生かして敵陣に突撃し、分断したり混乱させたりするように戦うなら、
近接戦闘になるから当然弓矢ではなくそれようの武器を携帯する。どっちも騎馬戦闘の基本。
両方出来るにこしたことはないだろうが、どちらかに特化していても普通に運用できるのだから、
弓矢を撃たないなら無意味なんてことにはならない。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 21:06:02 ID:0AhkJ/xxO
馬に乗った事も、戦った事も無い奴等がひたすら罵り合うスレはここですか?
馬に乗ったことは兎も角、(馬に乗って)戦った事のある奴は世界中さがしても
なかなかいないだろう
209 :
201:2008/04/08(火) 07:52:54 ID:A1FWoyU60
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 16:11:47 ID:88nPcGN40
中国学科教員 問題言動集
N.S教授・・・・・授業中に、
「人間は働かなくても生きていける」
「(自分のことを棚に上げて)中国語学科の学生は常識が無さ過ぎる」
「(上に同じく)教育学科の学生はロリコンだらけ」
「三国志が好きな奴は中国学科に来るな」
「一般教養など必要ない」
「セクハラというものはその行為を行う本人に悪気が無ければセクハラには当たらない」
「大学教授は世間を知らなくて当たり前だ」
etc迷言・珍言多数
W.Y教授・・・・同じく授業中に、
「第123代天皇は精神異常者」
「N.K(D大名誉教授)、F.N(T大教授)、S.T(元G大教授・故人)、H.I(元N大教授)、
I.S(芥川賞作家・都知事)、K.Y(妄想漫画家)は人間のクズ」
「金持ちに対する税制優遇を廃止して、税金をできるだけ多く搾り取るべきだ」
Y.Y准教授・・・・退学願を提出した学生に対して、
「私の言う通りに行動すれば、君の要求が通るように私が裏で話をつけておいてあげよう」
という内容の取引を持ち掛けた。
以上のように、中国学科はキ○ガイ教員の巣窟です。
これから大○文化への入学をお考えの皆さんは、
中国学科にだけは絶対に出願をしないようにして下さい。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 22:24:23 ID:Zwducl2BO
三國志の時代は馬に乗って弓を射るのは最大級の自慢になると聞いたな
それだけってか騎射ってそこまで多かったのだろうか?
三國志時代は現代にある馬の背中に乗せる道具がなかったと言われてるしな
本当に騎射ってすんなりできるの?
馬上用の短弓も必要だしなぁ。
董卓は馬に乗って左右両方に弓を撃てたってことが特筆されているし、
馬上で思うように弓を撃つってのは難しかっただろうね
>>211 すんなりできないから最大級の自慢になると思うんだ
後漢末から三国時代の騎兵は弓矢を常備していたというな
鞍も普及はしていたが、鐙の確かな普及は四世紀になってからというし
そのおかげで全体的に騎兵の構成比率がさほど高くなく、騎兵は訓練を施された
兵士や異民族が主にならざるえをえないというし
215 :
劉邦:2008/05/14(水) 10:18:24 ID:u64Tg7540
呂布って、レキ食其や宮本 武蔵に似てるね。
いろいろ本読んだけど、
やはり、呂布の強さや性格を考える上で、朝青龍、白鵬の強さや性格は参考になるとのこと。
傲慢で野心家で物欲にとみ、我慢というものをしらない。縦横無尽に草原を駆け抜ける
それはまるでジンギスカーンのよう。
人類史上最大の帝国を築き上げた血が当然呂布、朝青龍、白鵬にも入っていよう。
そりゃ強いわ。
血筋で強くなったり弱くなったりするわけないだろ。
そもそも何で呂布がチンギスや朝青龍と同族みたいなことになってんだよ。
と普通にレスしてみる。
ドルジ関係ないよ
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/30(水) 03:29:19 ID:dB0ciCro0
生音
チョーヨンピル
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 09:14:20 ID:O9Z6Kk61O
横山三国志しか知らないけど各メディアの呂布=最強で無敵ってのに違和感がある
武芸最強かも知れないけど張飛よりちょっと強い程度で
各国の名将を圧倒出来る程強く無いんじゃないの?
三国志というある物語の中としては、「最強」のキャラ立てに
しやすい存在で、それが昂じているのが今の状況。
どんなものでも、実像とその後の虚像との乖離があるもの。
実像は実像として把握し、虚像を楽しむのがいいと思う。
例えば、三国無双の呂布などは、ああでないと面白くない、とか。
最強とか言い出したのって誰だ?
演義か何か知らないけど
劉備+関羽+張飛の3人まとめて相手したとか
描写があるからじゃないの
呂布は演義ができる前から物語の主人公になったりしてるようだから、
その名残で主人公ボーナスが残ってるんだな。
今更な書き込みだが、鐙を使用せずトロット、ギャロップが出来るようになるのは
初心者から中級者になるための練習方法である程度馬に乗れれば
両手でスコップ振り回しながら鐙ナシで馬乗れるよ…
まぁ、実際にやったら馬によってはびっくりして振り落とされそうになると思うが。
>>211 後漢の時代の騎射は今で言うと
F15Jにハコ乗りしながらバズーカを撃つくらいの価値があったんだよ
それだとスゲー曲芸だが意味は無い、って事になるな。
>>227 普通に「戦闘機乗りの資格」くらいでよかろうに、
なぜわざわざ物理的に不可能な戦闘機のハコ乗りなる形容を選んだのかがさっぱりだ。
戦闘機乗りの資格自体、騎射の出来る人物の割合より少なそうだが。
てか軍事ネタならレンジャー資格と空挺資格あわせ持ってる人くらいでいいんじゃなかろうか。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/16(日) 23:12:12 ID:RyktEBfn0
>>221 今のメディアの呂布=最強・無敵ってのは面白さ追求で誇大表現だけど、
張飛よりちょっと強いとか、その程度ではないと思います…よ?
伊達に前漢・李広の飛将の異名取ってませんしね。
まぁその李広さんが…あんま知名度高くないんですが(--;)
しかし「飛将軍」の異名は当時、武勇に優れた武将にだけ付けられる異名でしたし。
他に三国時代で飛将の名を持った人いませんし。
そーゆー点で、やっぱ現代で「最強」って言われるだけの武将だったと思いますよ。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/19(水) 20:23:20 ID:zy38rtK70
>>230 正史張飛が正史呂布に劣るとは思えないが・・・。
ってか、当時の大陸では知名度も武勇認知度も関羽、張飛>呂布なんじゃないか?
漢より後に勇者を称するには、必ず関羽・張飛を引き合いに出す。
晋の劉遐は賊を討つたびに堅陣を陥し、鋭鋒をくじいたので、関羽・張飛にたとえられた。
苻堅が閻負・梁殊を張玄靚のもとに使者として派遣したとき、本国の誇る将帥として王飛・ケ羌を挙げて、「関・張の流、万人の敵」と称した。
禿髪ジョク檀が人材の推薦を宋敞に求めたとき、宋敞は「梁ッ・趙昌は、武が飛・羽に匹敵する」といった。
李庠は膂力にすぐれていたので、趙廞がかれを評して「李玄序はいっときの関・張である」といった。
南朝宋の薛彤・高進之はともに勇気と力をそなえていたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
魯爽がそむいたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻めさせ、薛安都は魯爽を見つけるやいなや馬を躍らせて呼ばわり、あっという間に刺し殺したので、ときの人は「関羽が顔良を斬ったのもこれほどではあるまい」といった。
南朝斉の垣歴生は拳勇突出していたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
北魏の楊大眼について、世間の人々は関・張もかれを超えることはないと評していた。
崔延伯が莫折念生を討って勝利すると、蕭宝寅は「崔公はいにしえの関・張である」といった。
南朝陳の呉明徹が北斉を討ったとき、尉破胡ら十万の兵にはばまれた。呉明徹は「もしあの胡人を倒せば、敵軍の士気を奪えるだろう。君は関・張の勇名をもっている。顔良を斬ってこい!」そこで蕭摩訶が出陣すると、尉破胡を打ち殺した。
と後の世まで武勇を語り継がれているが、呂布は全く聞かないなぁ・・・。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/20(木) 03:56:53 ID:XPYzWFU4O
それは関張が臣下として生きたことが大きいんじゃ?
呂布の方は評判の悪さもあったから
強さを例えるのに「おまえ呂布な」とか言われたら
「こいつはいつか裏切るんじゃねーの?」
とか思われてると誤解されそうな気が
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/20(木) 18:35:39 ID:1AUImlU40
>>234 もし、そうなら
敵兵を生き埋めにし、義帝を殺した項羽がたびたび引き合いに出されているのはおかしい。
例、隋末の楊玄感の叛乱時の奮戦ぶりについて「論者方之項羽(人は項羽に匹敵すると言った)」(隋書楊玄感伝)
吐谷渾の2代目、吐延は羌族から「号曰項羽」と、その偉丈夫ぶりを称された。(晋書吐谷渾伝)
旧唐書の李密(隋末の群雄)の評、「或以項羽擬之、文武器度即有余、壮勇断果則不及
(項羽になぞらえる者もいるが、文武の才は項羽以上だけど、威厳やカリスマや決断力などは劣るだろう)」などなど。
項羽は仮にも覇者だったし、そもそも敵兵をどう遇しようが勝者の自由だろ。まあ残忍として引き合いに出されるけどな
呂布の場合は主と仰いだ連中を保身のためにポンポン裏切ってるし、結局一群雄のまま死んじゃったからね
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/20(木) 19:13:25 ID:CEUgHbBW0
>>235 呂布と項羽じゃ最期がえらく違うから、後世の人の評価が違うんじゃないかなぁ…。
個人的な意見だけど、別に項羽から悪いイメージ浮かばないし。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/24(月) 02:44:42 ID:DRVi1C3CO
そもそも項羽が裏切ったのは自分のとこの傀儡で、勢力を築いたのは自身の功績。
呂布が裏切ったのは勢力母体で、それを築いた功績は彼にはない。
ここら辺倫理的にも、また体制側からの認識もまるで違う気が。
>>238 呂布はヘイ州系の勢力を束ねて董卓勢力に寄与してただろ
何言ってるんだ?
呂布はただの一勢力
項羽は曲がりなりにも一王じゃない
項羽でいうなら項梁を裏切ったようなもんだろ。それはやっちゃいけねえよ。
>239
疑問なんですけど呂布はどうやって主君を殺してその下にいる軍勢を掌握したんでしょう?
普通は言う事なんて聞かないのでは
主君が同等以上に人望がなかったってこともありうる。
>>242 掌握してた?
丁原の時はそのまま董卓が吸収した形だし、董卓の時はポロポロ寝返られていたようだが。
>>242 董卓の掌握してる軍は大きく三つ
・後漢の正規軍
・呂布に従う并州人
・董卓子飼いの涼州人
董卓暗殺時点で長安にいた董卓軍の内訳は前二者が大半を占めている
子飼いの部下は中原の反乱討伐に向かっており并州人、朝臣を除くと実は長安、軍事的には完全な空白地帯
そこで王允ら朝臣が正規軍を抑え、呂布を抱き込んでのクーデターを企図して成功させた
ちゃんと派閥に分けて動きを見ると簡単に理解できるようになってるよ
呂布は、主君を二人も裏切り、殺した奴
日本で言えば、光秀、蝮の道三
奴に例えられたくないのは後世の人間にとっては至極当然
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/02(火) 21:47:36 ID:9czw3wFi0
ああ、だから呂布を取り上げた京劇もあれば
宝塚で光秀が主役になるのね
>>246 その不義理なところを例えられたのは、唐末の李罕之だな。
例えたのは李克用だが…
なんだかなぁw
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/03(水) 21:13:40 ID:nnDdbkwG0
丁原はどういう状況で殺したんだろ
徐栄はどの軍をつかってたんだろうなぁ
251 :
董卓:2008/12/15(月) 20:54:11 ID:81+ck4Uk0
とっても偉大なチーンギースハーン。
最強の武にこそ付き従うのだ
三国志ファンで呂布が嫌いという人はあまりいないよね。
裏切り者ではあるけど、俺は何故か呂布が憎めないんだよな。
欲望に忠実で思慮が足りないところも人間臭くて好きだよ。
俺は三国志で呂布、馬超、孫策、曹丕、甘寧という癖のある人物が好きだな。
正史演義の呂布は好きだが最初に無双で呂布を知った時は嫌いだった
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/17(水) 00:19:37 ID:cKpWl2Om0
最初は呂布が一番強くて好きだった
しかし中国史を色々と読んだら項羽のほうが無双っぷりが凄まじく思い(もはやチート)項羽のほうが好きになった
漢楚無双でもでたら項羽の方が好きになる奴は多いと思う
むしろゲームのせいで嫌いになる奴が増えそうだ
HPゲージ赤くなってる時に背後から迫り来る触覚はトラウマだよな
自キャラとして使うときに簡単に俺TUEEEEEEEEEできるってのも、マニア
には嫌われがちだしゲームキャラになったら項羽も好き嫌い分かれそうだ。
正史演技の呂布や項羽は人間臭くて好きだが、個人的に付き合うとしたら
惚れ込むか蛇蝎のように嫌うことになるかのどちらかになりそうな気がする。
なんにしろクセの強い人物だよな。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/09(火) 16:53:02 ID:qc3O+tN/Q
高貴な美青年で20代で世界史に不滅の名を遺した項羽と
呂布みたいな荒れくれの筋肉馬鹿を一緒にしないでよ
覇王の異名を持ち世界史に不滅の名を遺した高貴なる美青年
京劇に出てくる呂布のイメージは結構ハンサムだと思うが
細身で背が高くて色白でがっしりしてる
今で言うとスポーツマン体型だよな
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 17:31:21 ID:yvurb+2HO
>>258 項羽を絶賛するのは同意だが、呂布を体育会系筋肉馬鹿呼ばわりはやめれ。
そんな単純な男じゃないから。
>>261 呂布は真っ黒に日焼けしてガッチリして男らしいイメージしかない。
美少年タイプ、カワイイ系は子竜や呉の美周郎、孔明。
なんでその三人が美少年タイプだよwww
子竜は二重顎のマッチョだし、孔明も周ユも普通に髭面のオッサンだよ
呂布が筋肉馬鹿って事には別に否定しないが、項羽も筋肉馬鹿と言う点では変わらんと思うが
政治的な行動を見てるとね
項羽もキレて兵や捕虜を感情的に虐殺しようとしたり、窘められるとすぐ機嫌を直したり、単純な所がある
婦人の仁という所も似ているような気がするな。彼ら二人とも直情的だが悪人では無いような気がする
ただ呂布が終始自分の身の振り方にあくせくしている等身大的な人物であるのに対して、項羽は「天が我を滅ぼす」と言ってみたり、如何にも大望と気宇がある
項羽がチートじみてたのは楚漢戦争だったからだろう
後漢末期は楚漢より遥かに面倒臭い状況で、政治力が必須。物資も無いし
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/06(土) 16:19:35 ID:5XwHht9y0
冉閔~~中華第一武將
趙雲なんて良いオッサンになってから活躍し始めたのになんでイケメンで定着してるのか
それを言ったら陸遜とかイケ面ですらないのに
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/30(火) 21:05:24 ID:D2XyQnLT0
昔コミック三国志マガジンに
呂布が主人公の作品があったような
>269
『呂布が起つ!』ね
単行本になってないんだよな〜
『雲漢遥かに』という趙雲が主役の漫画では
趙雲が呂布の軍に身を投じているので
それなりに活躍してるよ
正史系の漫画だと「爆風三国志」とか。
呂布がひたすらいかつく描かれてる。
いま出てるオースーパージャンプ(スーパージャンプの増刊?)
呂布が主人公のギャグ漫画載ってたw
文革の頃に粗方無くなっちょる
誤爆
ガチイケメンでいったら公孫さんをもっと取り上げてやるべき
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/12(月) 20:17:06.71 ID:wNiOKfkf0
今だとどうしても
秋山好古と比べてしまうよな
世界史板の人が作った「世界史レベルでの呂布評価」が
ずっと前に三戦板で載ってたが、10点満点中「戦術」だけが5で
あとはほぼオール1と評価されてたなw
董卓のがずっとマシだった
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/13(火) 07:08:17.82 ID:O9eURIK2O
世界レベルならまあ仕方ないかもな
世界史板のレスに権威なんかあるんか
権威とか問う意味じゃないと思うが、少なくともここや三戦よりは
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/14(水) 18:15:20.70 ID:lHkMPOH7O
世界史レベルだったら三国志の英雄たちもだいぶ低くなるのは仕方ない
中華レベルでも呂布は項羽とかに比べたら格下になってしまうし
項羽どころか、下手したら陶謙あたりより・・・
長い眼で見たら「中原をチョロチョロ這いずり回っただけの戦闘屋」に過ぎないからな。
英雄どころか群雄としても微妙な評価
河内兵や丹楊兵をまとめあげた政治力はほめても良いと思うんだがな〜…。
ていうか、袁紹(呂布)に敗れた後張燕の軍勢が離散していったって書かれてるんだが、
これもしかしたらやばいんじゃね?もしあの時点で張燕がまだ百万の軍を持ってたら、
呂布が数十騎で百万を離散させたって事になるぞ
袁術(紀霊)と劉備の戦いの仲裁の時に、
超人的な弓術を見せてるから、
少なくても弓が凄いのは確定。
演義でも再現されている。
あぁ、
>>285のは張燕伝に離散したって書かれてたって話しな
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/18(火) 10:27:36.09 ID:ggxrw9gO0
呂布が曹操の配下になってれば、どうなったんだろうな興味あるな
個人武勇でいうなら強かったんだろう。
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/18(火) 20:49:25.95 ID:gZD0NeoZ0
正史も作り話だろ。