1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
何かと失策が目立つ彼ですが、
一時は袁紹と共に最大勢力の一つでした。
陛下について語ってみましょう。
何で国号を成にしたのか問い詰めたい
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 13:33:31 ID:KtFETgtV0
陛下ほど下種で、陰湿で、落ちぶれた男も珍しい。
でも陛下麗しいよ陛下
一応wikiから
袁術(生年不詳- 199年)は後漢末期の群雄。仲の初代皇帝。字は公路。父は後漢司空の袁逢。袁紹は異母兄とも
従兄ともいわれる。同母兄は袁基。袁術は袁氏を陳の宣公時代の大夫・轅濤塗の末裔(轅濤塗は帝舜の血脈)と称し
た。
御曹司から諸侯へ
若いころは侠気をもって知られ、仲間達と遊びほうけていたが、後に行いを改め孝廉に挙げられ、順調に昇進し河南
尹、虎賁中郎将に至った。
189年に霊帝が崩じた後、袁紹と共に政事を跋扈する宦官数千名を誅殺する。その後董卓が都に入ると、後将軍に
任じられたが、害が及ぶのを怖れて荊州の南陽へ奔った。長沙太守の孫堅が南陽太守を殺害したため、袁術はその
後任に収まり、南陽郡を支配し、孫堅を豫州刺史に任じて董卓を攻撃させた。南陽郡は人口が多く豊かであったが、
袁術が贅沢を尽くし、税を際限なく取り立てたために人々は苦しんだ。
二大勢力
袁術は袁紹と対立しており、それぞれ群雄と手を結んで争っていた。袁紹についたのが曹操、劉表、韓馥ら、袁術に
ついたのが孫堅、公孫瓚、陶謙らである。袁紹が董卓のたてた献帝に対抗して、劉虞を擁立しようとするが、袁術は真
っ向から反対している。
192年(初平3年)、孫堅に命じて劉表を攻撃させたが、孫堅は敗死する。
193年(初平4年)、兗州の曹操を攻撃するも曹操と袁紹の連合軍に大敗、揚州へと逃走し、寿春に拠る。
李カクが長安に入ると、袁術と手を結んだ。
その後、孫堅の遺児である孫策に揚州を攻略させ、楊州刺史劉繇を撃たせるなど勢力を拡大するが、奪った領土は
袁術子飼いの武将に分け与えられた。この行為は孫策の反感を買い、後の離反へとつながった。
ちなみに、その時に幼少であった陸績が袁術の元におり、袁術が陸績におやつとして蜜柑を与え陸績がそれを母親
に食べさせたいからと言う理由で隠し持って帰ろうとしたことが判り「とても親孝行な子供だ」と自ら褒め称えたという逸
話が二十四孝として残っている。
皇帝即位
197年(建安2年)に彼は寿春を都として皇帝に即位した。「国号を成と称号し、元号を仲家としたものの諸群雄の同意
を得られず、また袁術本人の奢侈により人心を失った。」などという俗説が有名だが、それは誤解で、いわゆる国号が
仲である。おそらく『後漢書集解』にある「仲氏(仲家)とは劉氏の漢家や公孫述の成家のように」国号である、との文を
読み違えたものと思われる。
しかし献帝はまだ健在であり、諸侯からは皇帝として認められず、また袁術自身が欲望のままに快楽を求めて、国内
に重税を布いて贅沢三昧の生活を送ったため、国民は大いに苦しんだ。この無茶苦茶な暴政に袁術の家臣の多くも袁
術に見切りをつけ、離反する者が相次いだ。孫策も皇帝即位を諫める手紙を送っているが、納れられず離反している。
だがこの時に呂布と同盟をしており、諸侯が呂布討伐で苦しんでいたため他国からあまり攻められはしなかった。
惨めな最期
呂布滅亡後、曹操らに攻められ国を失い、部下の雷薄、陳蘭を頼って落ち延びたが受け入れてもらえず、199年(建安
4年)夏6月に袁紹の元へ逃げる途中に病死した。韋昭の『呉書』によると、蜂蜜入りの飲物を所望したが、蜂蜜も無かっ
た。そこで「袁術ともあろうものがこんなざまになったか」と怒鳴り、一斗(当時は約1.98リットル)余りの血を吐いて死ん
だという。
袁術の妻子は、元の部下の廬江太守劉勲に身を寄せ、孫策が劉勲を破った際に孫策に保護された。袁術の娘はその
後孫権の側室となり、息子の袁燿も呉に仕官している。娘(袁夫人)は行いは正しかったが、男子は生まれなかった(女
子については不明)。また、他の夫人の産んだ子を何人か彼女に養育させたが、いつも育たなかった。実質的な正室の
歩夫人が死去すると、皇后に立てようとする動きがあったが、袁夫人は辞退した。のち、潘夫人(孫亮の母)の讒言によ
り、孫権に殺された。
『三国志演義』では「伝国の玉璽」を得た事が皇帝僭称の直接的な動機になったとしている。また、袁術の死に関して
は、曹操から袁術攻めの協力を求められた劉備の義兄弟・張飛の配下の山賊に兵糧攻めにされて、最後は大好物の
蜂蜜が無いのに怒り、血を吐いて死んだと書かれている。三国志演義では袁術最後の話には他にも諸説が作られ、甥
の袁胤のみが生き残り飢えと苦しみの中歩き続けとある農家に辿り着き水を求めるものの、その農家の主人は昔袁術
が支配していた町の市民であり、水が入った瓶を割って飲み水が無くなったことを告げると「栄華を誇っていた俺にはも
う民心は付いてこないのか…」と落胆し、血を吐いて死亡するという話がある。
更に、横山三国志では、憔悴しきった袁術が農民に、「帝の袁術じゃ。水を持って参れ」と命令したが、農民は客が袁
術と知ると目の前の水瓶を割って「水はさっきまであったがね、今なくなっちまった。この身体に少しは血が残ってるが、
それ以外は全部お前に吸い取られてしまった。今度はわしを殺してそれさえ持って行きなさるのかね」と吐いて捨てる
様に言われ、「俺はもう一人の民も持たぬ王だったのか。水の一杯さえ恵んでもらえない国王だったのか。そこまで人
心は離れていたのか」と慟哭、吐血して絶命しており、とことんまで民に憎まれた袁術の末路を劇的に表現している。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 23:20:07 ID:raJQyOme0
劉虞擁立に反対しておいて、自分が皇帝なるとかバカかと
せめて中原ぐらいは統一してから、
皇帝になって欲しかったな。
あの時点での即位は、早すぎるだろう。
新朝崩壊後、劉秀が群雄と闘いを繰り広げていた頃の、
自称皇帝たち(劉秀を含めて)も、必ずしも大きな勢力ではなかっただろう。
成はコーエーの嘘
仲氏と称したんだから国名は仲である可能性が高い
>>8 早過ぎない
あのタイミングで即位しなければ漢帝からの逆賊認定で名声が地に落ち勢力崩壊
むしろちょっと遅いくらいだな
やっぱ皇帝を僭称するのって周囲からは反感買うもんなん?
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 15:17:02 ID:0a13yIQF0
そりゃあそうでしょ。
何せ途中断絶も含めたら400年も続いた漢朝だし、
神聖不可侵とまではいかなくても、相当な権威が確立している。
皇帝を名乗るってことは漢に対する反乱なわけだから、他の群雄としては
遺憾の意を表明しなきゃならんだろ。本音はどうであれ。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 22:19:06 ID:ZtyCdL9v0
創業者に相当なカリスマ性がないと、
王朝の創業は難しいわな。
曹丕ですら禅譲って方法をとったのに、儒教道徳に反したやり方で周りが付いてくるとは思えない
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 23:50:24 ID:5a0Z0OfY0
袁術様は東漢末期、三国時代を通じて最高の英雄也
袁術様万歳
武勇絶倫、神算鬼謀、清廉潔白にして漢きっての名族、袁術陛下万歳
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 11:28:33 ID:w8Tsxxw+0
伸びないな。
袁術さん、人気ないのか。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 19:53:43 ID:hh6neJUDO
ダッテこれといった魅力ないんだもん♪
「成」は光武帝劉秀と争った蜀の公孫述が皇帝を名乗ったときの国号。
ちなみに皇帝になった根拠は予言書に「代漢者当塗高」とあったことで、
袁術もこの予言を自分のことだと思ったから皇帝を名乗ったらしい。
ちなみに光武帝は「当塗高」は前漢の宣帝を指すと解釈し、
公孫述に手紙で教えている。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 23:57:07 ID:B/sbqid20
袁氏って名門だけど、経済面での財力もやはりすごかったのかな?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 01:53:03 ID:cWOO/YrZ0
えんすい えんじゅつ
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/02(月) 23:46:22 ID:3EGqbRT20
>>23 南陽郡はわりと豊かな地方だったようだから、そこそこじゃない。
だけど、イメージ的には、袁氏が名門としての声望なのに対して、
曹操は祖父の代からの財力って感じ。
>>26 袁氏の本拠地は汝南なので南陽とはちょっと違う。
荘園収入もあるし、高位高官に派閥の人間を送ってるから
金銭的には非常に有利な立場にあったとは思うけど。
南陽は袁術が居座っただけ。
後、袁氏自身もそれほど歴史が長くはないんだよな。
というか、新しいタイプの名門だからなんだけど。
それまでの名門ってのは古代天子・諸侯の子孫や孔子なんかの子孫、
漢の建国の功臣の末裔だけど、氏族としての実態は問わないから。
三国時代頃を境に「名門」というものが指す実態が変わってくるから
ちょっと厄介だけどね。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 11:26:25 ID:S0iVFhuR0
袁氏もなんだかんだで濁流たる宦官勢力と結んで、
力を伸ばした一族だからね。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 12:35:38 ID:99JAuAno0
ところで袁胤って最後どうなったの?
( ´w`)<袁皇帝の顛末は高低ありすぎだね、ナンチテ
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 19:12:29 ID:7xHJe31Z0
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 19:52:33 ID:f1OcXiAY0
袁氏と前漢の袁盎とのつながりは?
袁術って別に弱くも馬鹿でも無いよな?
相手が更に強くて賢かっただけで
>>32 内政手腕に問題があるが、馬鹿ではないと思う
>>33 そんなに内政手腕に問題があるようにも思えないが…。
>>34 南陽の疲弊具合からしてあまり良い内政をしていたとは思えない。
根拠はそれくらいだから、俺の勝手な解釈だと考えてもらって構わない
南陽は後に曹操が重い軍役を課して、
侯音っていう南陽人が反乱起こすほど搾取されてた土地だからな。
また、南陽を圧迫する直前に同じく南陽人の豪族・婁圭が曹操に処刑されている。
南陽から搾取する際に邪魔になる存在として始末されたのかもしれない。
結論:どうも南陽を荒らしたのは曹操で、袁術は責任を押し付けられただけくさい。
まあ、これも俺の勝手な解釈だけど。
淮南も袁術に搾取されてたぞ
淮南はもっとひでーよ。
曹操によって民衆が根こそぎ強制移住させられてる。
やっぱりコレも「曹操が荒らしたのか袁術が荒らしたのかワカンネ」。
でもって淮南が「本拠地」だった袁術と、
本拠が別にあって淮南は「地方領地」に過ぎない曹操。
どちらが遠慮なく搾取できるかというと……うーん。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/21(土) 01:59:54 ID:yhL21rvm0
陰武者でなくて、曹操本人の殺害に成功していれば・・・
曹真の親父のことか
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/27(金) 01:24:12 ID:V/+LVkqU0
袁術に負けて秦伯南を殺された時ってどういう戦況だったんだろうなー
曹操の陣営や隠れ家でも突き止めたんだろうか
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 08:53:36 ID:5YZjLQHH0
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 23:08:21 ID:ksVjoIXy0
「袁術とその配下を語りましょう」がいつの間にか落ちてたな
>>42 多分呂布がカク萌にやられそうになったときと同じシチュエーションだと思う
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 10:48:41 ID:cU3mV/sm0
対曹操のために呂布を引き入れたり、
呂布が袁術と協調しないとカク萌使って殺そうとしたり、
陳宮って袁術の利益になるようなことばかりしてるよな。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 11:30:34 ID:3FSpt1y00
各勢力に内通者を忍ばせていたって事か
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 19:31:50 ID:6Zny/P9X0
>>46 むしろ袁術に未来を期待して寝返ったってことじゃないの?
曹操の虐殺に反抗した陳Qが圧政を敷く袁術にすりよるとは
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 11:00:15 ID:8T3PfqpW0
呂布が袁術に同盟しなかった理由って何だっけ?
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 20:52:00 ID:sD4SGu9i0
>>50 チンケな野郎が恩知らずの陳瑀の件を逆恨みして妨害しまくったから
>>44 >「袁術とその配下を語りましょう」がいつの間にか落ちてたな
ほんとだ・・・しばらく見てないうちに落ちてる。
いろいろと議論できて、良いスレだったのになー
>>45 そういえば徐州攻略戦のときも袁術に味方してるよな。
陳宮も袁術も相当な曹操嫌いだったみたいだし、敵の敵は味方ってやつかな?
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 14:21:06 ID:y5LaC7/g0
半年経ったから沈んだのです。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 18:59:58 ID:i3SBxovR0
袁術も最初は曹操嫌いだったわけじゃないよね
誤情報だけど曹操が死んだって家族に教えに行ってあげてるし
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 18:17:39 ID:T9e1uTli0
袁術は人を見る目が無かったんでしょうか?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 00:29:28 ID:yUJeDMlc0
>>55 陳瑀とか見るとそうだね
でも魯粛とか見出しても断られてるし人望がいまいちなのもネックだね
あと孫堅とか鄭泰とか、優秀なのがさっさと死んでるのも痛い
朱儁なんかは董卓から袁術に寝返ってるんだから、
漢室を尊重する人物からは結構人望があったんじゃないかな。
魯粛は赤壁あたりでの立ち回りを見ても解るけど、
漢室を尊重する意志はあんまりないっぽいし。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 15:03:52 ID:Tlql9MW40
南陽近辺って、漢代には最も富裕な地域だったのかな。
江南はまだ未開の地だったわけだし。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:03:48 ID:r4/oouYo0
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:14:30 ID:r4/oouYo0
袁術って、存在自体がゴミ同然だったよなw
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 23:04:02 ID:f1NWk2+J0
釣りにしても酷い。
その袁術ににしてやられた曹操や劉備や養って貰っていた孫堅はゴミ未満か?
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 23:21:22 ID:AuLbay7k0
そういう問題か?
ただ争いの種をばら撒いただけの輩という意味だろう。
争いの種を撒いたのは寧ろ袁紹でしょ。
勝手に連合解散したり劉虞擁立しようとしたり。
色々探せばどうとでも解釈できるさ。
ただ袁術様はどうしようもない馬鹿だった。
テキトーに天下を騒がせただけで哀れに死亡だ。
テキトーでもなんでも天下を騒がせられる奴はあんまりいない
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 02:58:08 ID:f5Q5dOOG0
甘寧と張遼の勝者が唯一の豪傑
呂布と関羽の勝者は その次
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 02:59:03 ID:f5Q5dOOG0
甘寧と張遼の勝者が唯一の豪傑
呂布と関羽の勝者は その次
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 04:36:56 ID:DwY5LMoO0
袁紹も反董卓のはずなのに
董卓攻撃しようとしてた孫堅を周グ使って後方撹乱したり
董卓の任命した劉表と手を結んだり
ろくなことしてない
>董卓の任命した劉表と手を結んだり
董卓の任命した官吏は至極まともな名士ばかり。
劉表と手を結ぶのは董卓打倒の目的からすると、むしろその方法は妥当だ。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 10:38:13 ID:u6Ejoxdl0
袁紹と袁術はもっと仲良くするべきだったとは思う。
何かどうあっても同じ天を戴けぬ理由でもあったのだろうか?
袁紹が大人しく嫡流の袁術に従ってりゃよかったんだよ。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 21:34:12 ID:8zyeOCyo0
>>70 何故?
劉表と袁術&孫堅は互いに荊州の領有を主張してるんだから争いになるのは必至
劉表がいたら袁術&孫堅が董卓攻撃に専念できなくなると考えるのが妥当だと思うが
>>73 勘違いしてたけど、袁紹が劉表と結んだのは董卓のためじゃなくて袁術に対抗するためだった。
曲がりなりにも連合の盟主が、
董卓と必死に戦ってる袁術・孫堅の邪魔してるんだもんな。
まあ、本当に盟主だったのかも怪しいもんだが。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 08:53:43 ID:0wB9pyeE0
袁術の本隊は後方支援に従事して、実働は孫堅らの単独行動じゃないの?
袁術本人は戦下手というわけでもないのだから、
その後も、他人と盟約する事で楽に済まそうとしなければ良かったのに
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/19(水) 21:51:55 ID:53d7ANdL0
>>75 袁隗と一族が殺されてるから盟主だったんじゃないの?
>>76 自分より出来る部下に一任するのはある意味正しい
それに南陽は裕福だけど
黄巾が荒らした後だから兵站は意外と難しいんじゃないかな
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 00:10:20 ID:ItXR3dXr0
>>76 孫堅は南陽で前任太守張咨を殺してたからかなり恨まれていた
あとで孫堅の共犯の劉祥が住民反乱で殺されるくらい
だから袁術は命の危険のある孫堅を外に出して
直接事件とかかわりのなくて後将軍というかなり権威がある自分が
その地にとどまって住民を落ち着かせる役に回ったんじゃないかな
南陽って後漢朝にとっては非常に重要な土地なんだよな。
光武帝も南陽の人だし、ケ禹などの建国の功臣連中にも南陽人が沢山おるし。
前期は確かに最優先事項だったかもしれないけど、後期は頴川や汝南あたりの方が重要度が高くなってる。
穎川や汝南を敵に回すと、後が怖いからね。
(穎?頴?忘れた)
孫堅や孫策が袁術配下ってシナリオ三国志シリーズである?
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/22(土) 10:55:20 ID:tco8oSY60
孫家を引き入れたのってどうなんだろう。
上手い事おだてて正当な褒章を与えても力を持ち過ぎて
結局離反しそうだし。ヘタしたら前任の荊州刺史の二の舞なような。
南陽って後漢初期には李、樊、ケ、来、陰氏等の豪族の力が非常に強い地域
だったらしいけど、後漢末ではそういった豪族連中はどうしてたんだろう?
やっぱ袁術に協力してたのかな?
演義では曹操、劉備、呂布、孫策に四方で攻撃を受けることが可哀想だった
でもその数年前には、
袁術・公孫サン・陶謙・張燕で袁紹・曹操をフクロにしようとしていたw
そういえば傷寒雑病論のおっさんも南陽の出だな。
後漢にとってはかなり重要な意味を持つ土地だけど後漢末は
どうなんだろな。初期の豪族連中は光武帝の功臣系列が多いね。
南陽は戸籍が多かったみたいだから勢力基盤にはいいかも。
「河南(洛陽)は帝城にして近臣多く、南陽は帝郷にして近親多し」
と言われるぐらいだからね
何進一族も
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 21:08:14 ID:u04pqOEp0
>>85 陶謙は闕宣の件で曹操と対立したのであって
袁術とは連携してないでしょ
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 22:15:43 ID:7VYpanO90
>>88 董太后とは跡継ぎ争いもあるけど
董太后の甥に故郷を搾取されたのも対立の原因かな
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 19:55:23 ID:+tMs4fYe0
袁術は勤皇派ですよね?
袁術は劉備には強く曹操には弱い感じ
>>91 当時の群雄の中ではかなり勤皇派の群雄と言える。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 21:05:20 ID:cihYbVK9O
献帝を奉じて漢の僅かに残る威光を天下取りに利用する戦略は袁術から曹操に引き継がれたね
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 22:33:35 ID:I/slhnt40
勤皇派だと思う理由は何で?もうちょっと詳しく
俺は袁兄弟は少帝には忠誠心あったと思うけど献帝にはなかったと思う
以下俺の想像に過ぎないんだが
袁兄弟は何進と結んで宮廷改革を行おうとしてて賄賂政治の董太后や十常侍と対立
その延長線上に劉弁と劉協の後継争いがあった。
それを何進も劉弁も殺されて劉協即位で董卓の乱脈政治
ここで何進と劉弁に明るい未来を描いていた袁兄弟は漢王朝に絶望したんじゃないかな?
あとはもう劉協無視で秩序回復を狙っていた
袁術って道徳的な政治を行いたいがために簒奪を行った王莽みたいな人間だと思う
簒奪が成ってから皇帝を宣言すればその解釈もわかるが、
まだまだ群雄が割拠してる中で1人で勝手に皇帝になっちゃったら、単なる後先考えない馬鹿としか評価されない。
一地域で天子を名乗った前例は、すでに後漢時代には大量にあるとはいえ
漢の名家の袁術が皇帝を名のるのは流石に馬鹿というかありえなすぎw
一地域で天子を名乗った最初の例って公孫述?
黄帝子だの真人だの無上将軍だの天王だの黒帝だの
史料に名が残っているだけでも、.天子を名乗った賊は枚挙に暇を得ぬほどにいる。
>>95 確かに、袁紹は劉協に対する忠誠心はなかった。
だから反董卓連合にいながら真面目に戦わず、劉虞の擁立を画策し、
曹操と共に朝廷の派遣した刺史や牧を追い出して勝手に官爵を自称した。
さらに袁紹は「献帝を否定し」「新皇帝の擁立に失敗している」にも関わらず、
偽の勅命をばら撒いて自分のシンパに官爵を与えていた。
袁術が帝位僭称する前から相当な不義不忠を行なっている。それが袁紹。
対して袁術は、
手下(孫堅・張バクら)に命じたとはいえ董卓と積極的に交戦し、
献帝の奪還を考えていた(=献帝の正当性を認めていた)。
何進は死に、董卓の遷都に伴って劉弁も死んだが、
袁術は漢王朝に愛想を尽かさず、朝臣らとも連携をとっている。
また、袁術は基本的に官爵を勝手に名乗った事はない(帝位を僭称するまで)。
袁術が帝位を僭称するまで(或いは曹操が劉協を奉戴するまで)、
袁術は袁紹・曹操などよりよっぽど漢朝に忠実だったと思うんだが。
まず逆賊認定されたから、仕方なく帝位を僭称したんじゃないの。
でもそれだとその後で袁紹や劉勲を頼った事と辻褄合わない?
単に袁紹と対立してたからじゃないのかな。あと袁術は勝手に官位
与えたり任命したりしてるけどな。 後漢の要地汝南に拠るとはいえ最初
から兵隊があったわけじゃない後進豪族の袁術という立場を考えると曹操と
同じスタンスというのは分からない話じゃない。
逆に"忠実"だったという過去完了で話すると僭称したことへの理由ずけが
難しい。後漢に対しては献帝擁護というスタンスは必要だったが王朝に
対しては忠誠心はなかった〜から僭称したと考えるほうが自然じゃない。
そもそも献帝否定=後漢への非忠誠心というのも違う気がする。
そもそも後漢への忠誠心なんてなんの役にもたたんしそれを利用する事は
重要でもそれ自体は生き残りには無価値だから群雄の能力への付加価値
はないな。 諸葛先生だって後漢というコンセプトに無理があると気が
付いて前漢回帰してるし。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 22:27:33 ID:LdD9whWo0
張バクが袁術の下にいたのははじめて聞くけどどの行動からそう判断するの?
あと王允とともに董卓暗殺計画を練っていた張温が
袁術との内通の件で処刑されたのは
誣告って言われているけど本当だったってこと?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 17:39:11 ID:ioDk4qp30
頼っただけでは判断材料にはならないよ
劉表を頼った高幹は劉表の配下じゃないし
袁尚も公孫康の配下じゃない
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 17:05:51 ID:DM33rXnm0
「水を入れてる容器が割れたので無くなってしまいました」
この流れは酷いw 物語においてこれ以下の扱いにされた人物って他にもいるんだろうか?
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 23:53:50 ID:1z80VjCQ0
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 11:42:23 ID:UpwwO3v60
>107 たぶん、演義か横山光輝の袁術の最期だと思う
たぶん、と言うのは実際には読んだ事が無いからで。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 23:53:49 ID:F8C6EDYG0
107だけど109のおかげでやっとわかったよ
水くれって言ったら目の前で水がめ割られたんだっけ
それはそれとして
袁紹って袁氏内では人望ないよな
袁渙、袁胤、袁嗣、袁叙と董卓の殺戮逃れた袁一族は大概袁術のところへ行って
袁紹の味方って自分の子と
袁紹・曹操に挟まれて言うこと聞かざるを得ない袁遺くらいじゃないの
(202年に袁紹方で魏郡太守やってた袁春卿がいるけど
父親の袁元長が揚州にいるし
これ見ると
http://www.weblio.jp/content/%E6%A0%97%E6%88%90 前任太守は袁術の謀略で死んでるから
そのあとに送り込まれた人間で
袁術が死んだあとに袁紹の仲間に入れてもらったんだと思う)
そりゃあ、袁術が嫡流だもの。
>>110 袁紹は冀州、袁術様は南陽〜豫州に勢力を伸ばした。
袁氏の本拠は豫州汝南だから、袁紹よりも袁術様に付く袁氏が多いのは自然なこと。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 09:11:57 ID:JLOOEIGx0
宮城谷でも袁術の最終的な評価はやっぱり微妙だった。
敗北後の張バクが袁術を頼ろうとしただけじゃなくて、
・張バクと組んでいた陳宮はその後呂布の下にいたときも袁術との連携を取ろうとしていた
・張超が曹操に囲まれていたとき、救助に行ける体勢を見せていた(結局は救援ではなく徐州に兵を向けたけど)
ってあたりから、袁術と張バクが結んでいたんじゃないかなと自分も思う。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 12:03:30 ID:NAnsm8c30
袁術はどうすれば天下とれたの?
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 13:52:42 ID:i6bhPBAAO
漢室を保護し名士を集め人民をいたわっていれば
誰よりも天下に近かった。
恩知らずの孫策を始めとして、土壇場で裏切る輩が結構いたらしい。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/25(木) 10:52:06 ID:RQniPVE70
袁術にも思惑はあったにせよ、孫策からすれば大変だっただろうからな。
孫権は袁術の遺族保護してるし
袁紹に較べたら、ずいぶん見劣りするが
>>116 儒家的だな。はたしてそれで天下が取れただろうか。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/29(月) 22:11:45 ID:zQxlBAub0
>>121 まず、「曹操が張バクを頼れ」って言葉は、
「曹操の下に張バクがいる」って構図を思わせるんだけど、
実際には「張バクの下に曹操が居る」んだよ。
反董卓連合が結成された当初、曹操と張バクは共に陳留で挙兵した。
張バクは陳留郡太守。対して曹操は無位無官。
でもって袁術は反董卓連合時に曹操の死の誤報を曹操の家族に伝えた事があった。
曹操は袁術の管理下にあったんじゃないだろうか。
だから、反董卓連合当時、袁術→張バク→曹操という指揮系統があり、
連合の解散に前後して曹操が袁紹側に寝返ったんじゃないかと思う。
袁紹は偽勅をばら撒いてシンパに官爵を与えていたというし、
曹操は南陽から進出してきた袁術をコテンパンに打ち負かしちゃった。
曹操が袁紹へ寝返った事で、
いつの間にか陳留における曹操・張バクの関係は逆転してしまったんだと思う。
>>121の貼ってくれたURLでは、
曹操が「張バクのことを仲間だと思い込んでいた」ことはわかるが、
張バクも「仲間だと思っていた」かどうかは解らない。
曹操は多分、張バクも自分と一緒に袁紹サイドに寝返ったものだと思い込んでいたんだろう。
でも張バクは、まだ袁術サイドにいるつもりだったんじゃないかな。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 00:40:35 ID:Ol2JJoCp0
エン州牧になる時陳宮とかの根回しって張バクにはいかなかったのか?
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 16:48:55 ID:DqYS2L8/0
>119 結果だけ見れば大差ない。
過程でも途中までそれほどは。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/30(火) 22:14:17 ID:QnzxCwXw0
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/31(水) 10:42:47 ID:S0K8wizT0
袁術が曹操の家族に訃報を伝えたって何に書いてあるんですか?
張超が劉虞皇帝擁立の説得をさせるために臧洪を派遣してるから(臧洪は足止めを喰らって任務果たせず)、
張バク張超兄弟の意見が一致しているという仮定だと、
劉虞擁立に反対した袁術と張バクにつながりがあるとしても、あまりがっちりしてる感じはしないね。
と思ったら反対派の曹操が袁紹の傘下に入っているわけだし、あまり気にする事じゃないかな。
↑読みづらい文章になってるね。ごめん。日本語下手やな自分…。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 16:55:14 ID:+D+UNVXb0
袁術って黄巾討伐には参加してないんだっけ。
参加したとかいう記述もたまに見るんだけど
虎賁中郎将っつーから、
洛陽でお仕事してたんじゃないかな。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/06(火) 08:10:02 ID:tKoLvzII0
後将軍って名誉職?
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 21:49:55 ID:ZSTtOHRS0
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 23:14:03 ID:tuWviWgd0
袁術は何進、何苗兄弟も歴任した河南尹に就いているし
何進の部曲の呉匡たちに真っ先に相談を受けて何進の敵討ちしてるし
何進のお気に入りで内外共に何氏勢力中で何兄弟に次ぐ重鎮と見られてて
何進勢力の名目的な相続者として(実質的には董卓に奪われてるけど)
何進系列の武将や文官たちを宥めるために
年齢がまだまだ若いから大将軍はやれないけど後将軍の位やるから
何進の遺志を継いで黄巾討伐してくれって言い含めて
董卓が任命したのかな?
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 16:59:32 ID:MnhbWCBr0
董卓って袁隗をはじめ一族を殺してるが
袁術は何で董卓になびいたんだ?
帝を擁している相手だから、仕方なく従ったのか?
袁術は董卓に靡いてはいないと思われるよ。後将軍に任命されたが、とっとと逃げ出した。
特にビジョンを持ってのことじゃなさそうだけど、反逆者になってしまった孫堅を保護したことで、
お互い渡りに船といった感じで、反董卓勢力を結成させた感じ。
むしろ劉表の方が意識してのことではないけれど、董卓に貢献した形になってる。
董卓になびいたなんて解釈がどうやったらできるのか不思議。演義にはそう書いてあるのか??
>>136 劉表はそもそも董卓の意志で派遣されたんじゃないの? 時期的に考えて。
袁術・孫堅に対抗する作戦として洛陽方面に朱儁、荊州方面に劉表を派遣。
朱儁が袁術に寝返っちゃったから李カクを派遣。みたいな流れだったような。
少し気になったことがあるんだが、袁術はちょっと調べれば儒家思想に傾倒していた
ことが伺える。ここはおまえらも異論あるまい。
では何故、袁術は三国志の中でこれほどまでに悪人扱いされるのだ?中国人の大好きな
儒者ではないか。
皇帝を僭称したから嫌われてんだろうが
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 21:26:54 ID:2Ruik2KA0
劉備や孫権も僭称しているんだがなあ。
新末に皇帝を僭称した公孫述はあまり嫌われてないな。
あと、河北を制圧しただけで皇帝を僭称した光武帝も嫌われてないな。
やはり、悪政を敷いて民衆を苦しめたのが袁術が嫌われた原因なのでは。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 22:26:56 ID:+myS72jz0
王莽は儒教原理主義による政治を行ったけど後漢代の儒者からは嫌われている。
それと同じようなことでは?
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 22:29:35 ID:2Ruik2KA0
結構前にあったけど、
曹操が袁術に失政・悪政の責任を押し付けたとも考えられるんだよな。
舒仲応みたいな奴を罰するどころか賞賛してるあたり、
あまり民を苦しめてはいなかったんじゃねーのかと思う。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/29(木) 22:42:34 ID:yR5jO/wB0
孫策に対して信賞必罰を果たさないのはボツだろ。
個人として優秀だったり義侠や孝心を尊ぶ人間が良政を敷くとは限らない。
この時代だと陶謙、公孫サン、董卓など評価や事跡に一見矛盾が見られたりする。
袁術の場合、兵士に好きに略奪させたのは兵を養うのに自分の財力を
惜しんだからじゃないかな。
自分の地位が安泰な限り、または自分の目に付く相手に対する限りは、
それなりに寛大にもなれる、そういう平凡な(俺らみたいな)人物像を袁術から
感じたりしてる。
で、後漢末に天子を名乗ったのは十人以上いたはずだけど、
袁術はその中でも飛び抜けて大きな勢力で、にも関わらず数年で
ぽしゃったのが評価の厳しい理由じゃないかな。
他の有象無象は評にさえ値しないわけで。
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 20:55:04 ID:JZDgm6FW0
袁術はかつて長水校尉に在職したことがあるとか。
外人部隊の指揮官だぜ。かっこええー。
儒教的な観点からすれば、数年で滅んだ(しかも滅び方がかなり惨め)のは天が
そういう差配をしたからとするしかない。なぜ天がそうしたかと言えば、袁術が
天道に悖る行為をしていたからとするしかない。では天道に悖る行為とは?→
という流れだと思うが。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/02(日) 23:03:23 ID:v9/5ISAQO
>147 胡騎を率いるとは胡人と何か縁あったのかな
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/03(月) 19:08:26 ID:suw3KJHF0
前に中国近代史の本読んで
孫文が1920年代に広州に立てた政権が当時のどの軍閥よりも税の収奪が激しかったとかあったんだけど
一部地域しか治めていないのに全国を統治する機構を作って全国平定の軍備を進めたらそうなるだろうな
袁術も南陽とか淮南とかごく一部しか治めていないのに朝廷作って軍備増やしたから
「悪政」にならざるを得なかったんだろうな
徴税がちゃんと軍備に行ってはいなかったと思うなあ
税収→宮廷や後宮の奢侈へ
兵士の給養→勝手に略奪させる
って感じ。
これでは練度は落ちる一方。
しかも豊かだったはずの淮南が疲弊し切って
曹操との敗戦から回復できず、
結局袁紹の元へ逃げる羽目になってしまった
諸葛均も長水校尉じゃなかったっけ?
特に深い意味がある場合ばかりでもないと思う…
>>139 >袁術はちょっと調べれば儒家思想に傾倒していた
”傾倒”していたと考える根拠をくれ。
その当時誰しもが儒学的正当性を拠り所にして戦いを繰り返していたわけだが。
>151 そこまで搾取を行っていたなら、
袁術が最後は殆ど身一つで逃亡しなければならなかった事に合点が付かない。
道すがらで首狩りに会いそうだし
>>154 一定の軍勢は率いていたようだよ。手持ちの兵糧が切れて出戻りしようとしている。
呂布や曹操との敗戦から立ち直る体力が淮南に残っていなかった
(或いは離反やサボタージュがあったか)ので青州の袁譚と合流しようとしたが、
劉備に阻まれるうちに病死。
という感じに読める。
>>153 うむ。確かにそうなんだけど、極端に儒家的なやつとそうでないやつがいるだろ?
儒家思想には、仁・義・礼・孝・忠などがあるわけだが、袁術の持つエピソードにはこれらを重んじていたと
思わせるものが多い。
例を挙げると、袁術の配下に舒仲応という者がいたが、舒仲応は戦争に必要な兵糧を独断で
民衆に分け与えてしまった、すると袁術はこれを咎めるどころか逆に褒め称えたというもの。これは仁だろう。
袁術は身分の貴賎を問わず、自分を頼ってくる者を拒むことがなかった。孫堅・呂布・楊奉・韓暹といった問題児
から朝臣の金尚やら。これは義だろう。
礼は今一つ確かなものが見当たらないが、孫策を太守にしなかったのは喪中だったからという説を採用するならば
これは礼であろう。陸積のみかんのエピソードは孝で、宦官討伐や反董卓連合での活躍は何進や朝廷への忠。
これらも建前と見るかもしれないが、舒仲応や紀霊などはどう考えても罰するべきだし、上記の問題児たちも
すべて受け入れることはなかっただろう。反董卓連合も他の群雄同様、傍観していてもよかったはずだ。
以上が他の群雄が名目上、儒家思想を利用していたのとは違うと思う点かな。
>その当時誰しもが儒学的正当性を拠り所にして戦いを繰り返していたわけだが。
ここまで書いておいてアレだが、具体的な例を教えて欲しい。
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 23:26:20 ID:H2IX2SYx0
口を出すようだが、
>>156が言ってることは、当時の武将なら誰でもやってることで、とくに袁術だけがやってることではないわけだが、
それでも156は「袁術は」と言い張るの??
>>157 何か言ってることめちゃくちゃになってないか?
そもそも「口を出すようだが」って日本語もおかしいがそれはおいといて
確かに当時の武将なら誰でもやったかもしれないが、
前提は
>>139にあるように仁も礼もない昏君扱いになってる事への反例だろ
そして当時の武将が皆そういう事をやっていたのだとしたら、袁術も儒教的思想に基づいて行動していたと言える
誰でもやっていた=儒教的正当性がない ではないと思うけどな
ついでに儒教や漢室を蔑ろにしたというレベルで言うなら
曹操とかのほうが余程その手の脱儒教的エピソードに事欠かない訳でな
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:24:44 ID:DlGG6wnL0
不仁:袁紹との協和を軽んじ、呂布のような人非人を同盟者として頼んだ
不義:董卓という大逆を放置して党争に明け暮れた
不礼:信賞必罰を忘れ孫策一党を離反させた
不孝:拙い政治指導、戦争指導で一族をほぼ族滅させた
不忠:帝位僭称
>>156のような小さな善行で彼が犯した大きな悪行を打ち消せるものだろうか?
個人としては、それほど悪い人でもないけど善い人でもないということは分かる。
彼のスタートラインの優位優勢を考えれば袁紹、曹操に明らかに劣る出来損ないだ。
端的に言うと「匹夫の仁」だから。かな。
大きな権力を握ったにも拘らず、それを政事に生かすのではなく、
その場かぎりの感動で人を褒め、それだけ。
袁術の良いエピソードはそんな類のが多いよね。
そもそもの論の視点である
>>139の「三国志」が
何を指しているのかが曖昧だけど。
演義を経由する現代のイメージを指しているのなら、
段階的なイメージの拡大と言うしかないなぁ。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 00:29:23 ID:kJsDSl8F0
>誰でもやっていた=儒教的正当性がない ではないと思うけどな
意味不明
>曹操とかのほうが余程その手の脱儒教的エピソードに事欠かない訳でな
曹操が忠臣である、などと言うつもりはないけど、袁術等の皇帝自称を超えるエピソードは無いね。
>>161 孔融とその一族を処刑したのはどうか?皇帝僭称には及ばない?とんでもなく脱儒教的だと思うけど。
>>162 それは孔融を大きく見すぎ
孔融は孔子の末裔で大臣だってだけで、別に儒教を体現する存在だったわけじゃあない
朝廷内の勢力争いの域を出ないよ
皇帝の胎児殺し、皇后殺しの方がずっとアレだろう
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:09:41 ID:OpV3BA730
でも孔融の主張って儒教本来の教えからはかなり逸脱したものなんだよね。
曹操ってやたら儒教の反逆者みたいなイメージで語られるけど、別に儒教そのものを否定したことないんだよな。
よく正史を読んでいくと結構曹操も儒教の教えに囚われてるようなところもあるし。
個人的に長い中国の歴史の中で儒教を真っ向から否定した為政者は始皇帝だけなんじゃないかなと思う。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 01:11:18 ID:OpV3BA730
>>164 禅譲という名の簒奪自体が、儒教の教えに背かないものだからな
孔子が唱えて孟子たちが理論化して王莽が実践した儒教究極の目的は「徳のある人は天子になれる」だもの
>>164 渡邉義浩っていうセンセイは、孔融や曹操の行動も、総て儒教の範囲内で解釈できると言ってるよ。
そもそも曹操は漢臣の立場を取り続けたわけだから、儒学以外の思想による支配は元々眼中に無かった。
法律を多用したのもすべては治めるため。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 02:52:23 ID:pt1DhZqvO
>159 ちょっと言いがかりみたいじゃないか?
袁紹との争いは、責を問うならば袁術袁紹双方にだろう。袁術に一方的に非があるとする根拠には欠ける。
呂布は丁原殺害はともかくとして董卓を排除した事などが漢臣らに評価されている。
そして呂布の受け入れを考えた人物は多くいる。よしんば呂布受け入れを問題視するにしても
仁よりも忠や義によってこれを問うべきだ。
孫一門を高く評価し、親子二代に渡り援助を行った事実は消えない。
孫策の要求に応えなかったのは、彼の苛烈さを警戒したからに他ならない。独立の意志は最初から有していた。
袁術は戦争も弱いというほどではない。結果論に過ぎる。
朝廷を敵に回した時点で、袁術がどのような行動を取ろうとも逆賊の汚名は拭えなかった事だろう。
まさか曹操が朝廷を牛耳る中、出頭していれば良かったとでもいうのだろうか。
ここで問題にするなら「帝位を称した」事ではなくて、「何故に朝廷から敵視されたのか?」という原因だ。
悪行が善行に勝るという評価なら、それは最終的な勝ち負けによる評価が前提としてある。
>160のような結論もそういう視点だ。
個人的には袁術が儒教的人物だとは思わないが、人格や能力まで否定されるのも相応しくは無い。
>>168 単なる名門の貴公子で一軍閥の長ならそれなりの実力なんだろうが
統一王朝をにらんだ僭主としてはいかにも実力も人間性も微妙、というか落第。
それに相性最悪と思われる曹操に負けただけでボロクソに言ってる訳ではない。
彼の天下人への道をシャットダウンされた後の負け方はほとんど自滅と言って良く、
かなり恥さらしな方なので、やはりその最期に相応しい香ばしいお人柄だったように思う。
治世の凡候、乱世の凡主ならず、ってとこだな
最期って、敗走して失意の内に病死だろ
そんなに酷い死に様かね。
人格や能力の優劣を問題にするのは不毛なやりとりになるよ。
いい議論だね。
袁術って唐末の秦宗権みたいな感じだ。
勢力範囲も似たようなところだし。
>>171 その死に様が如何にも惨めで無様に描写されてるのが問題なんじゃないか
それは描写される対象よりも描写する主体の側の問題だからね…。なんともかんとも。
試しに聞きたいが、その「惨めで無様に」描写された作品ってどれ?
それによって問題への対応が変わる
名門の貴公子で漢の忠臣を気取ってたのに何時の間にか帝位を僭称するも
孫策に背かれ、曹操にぼこられ、劉備ごときにも追い詰められる無軌道ぶり
何気にオールスター状態で虐められてるなw
本来、袁術はその三人よりは明らかに格上。
その割に活躍と印象が冴えないのは中身がかなり...で、
戦略性計画性がしょうもないレベルだったということだろう。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 18:58:14 ID:GofEEMl9O
というか、そいつらの勢力に三者三様の攻撃やら妨害やらを受けていたから弱体化したんだろ。
「負けるべくして負けた」という要素はもちろんあるが
それ以上に「負かすべく動いた」連中の存在があるという事。
袁術の外交能力って如何ほど?
それによって袁術悪:それ以外が悪
の比率がかわってくると思うんだけど。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 20:04:54 ID:RitWjQJ7O
どこまで成功していれば良い方に評価されるのだろうか?
助けを求められれば受け入れ、敵の敵とも結ぶ。
呂布と姻戚関係を結ぼうとした、李カクとも近付いていたと言えるかな。
しかし袁術が交わった彼らや公孫サン、陶謙らは
皆が皆 離反したか敗走していった。
結果だけ見れば、評価が芳しくない事にもなるかもな。
それに彼が結んだ連中も評判悪い奴らばかりだな。
李カク、公孫サン、陶謙
彼らは、敗死して当然みたいな言い方する人すらいる。
正史を通読するか、せめて三国志板のスレくらいは目を通していれば
そうでもないという事が自明だろうがな。
今はスレないけど
自分が寿命を全うし、後に直接的な禍根を残さなければ、かな>どこまで成功
君主じゃなくとも当てはまる。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 21:56:07 ID:lSjbvWMPO
>176 演義からしてそうなんじゃないの?
読んだ事ないけど
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 00:27:12 ID:U6sRxg1Q0
三国志群雄データファイルって本に滅茶苦茶書かれてる
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 01:00:03 ID:/t3eZabV0
>>183 ああ、あの華キンが
「正史と演義で性格が正反対だから義理は10点中5点」とか適当な評価されてるアレか。
あの手の本に袁術の真っ当な評価を求めちゃいけない。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 01:01:46 ID:IJ/3MhE1O
評価が低い奴を
付和雷同して貶めるなんて面白くも何とも無いのにな
ていうか、華キンは正史でも伏皇后を二重壁から引きずり出してんだけどな。
あれの著者は後漢書読んでなさそう。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 10:01:38 ID:N+CDCngw0
李カクとか公孫サンの擁護はまだ分かるんだけどさ、袁術の擁護っていまいち納得できない。
・敗北したから(皇帝を名乗ったから)記録上で醜化されたり悪行を押しつけられたりしたんだ
って感じのもの以外に説得力ある擁護ってある?
擁護するとかじゃなく、素朴に正史読んでたら袁術の実力が理解できない面がある。
ていうか、擁護って具体的に何のこと言ってるの?
>>187 う〜ん・・・袁術は他の群雄と違って、特に擁護されてるようには思えないが。
擁護してる自覚がない人って多いよね
>>190-191 きみらの言ってる意味が分かんないんだけど、きみらの言う擁護って何?
擁護するとかしないとかいう問題じゃないと思うんだけど。
このスレの上の方には袁術を「擁護」している具体例が結構あるよ。
通説より良く評価しているという意味でね。
「擁護って具体的に何?」と問われれば具体例を示す以外にない。
その上で「それは擁護じゃない。正しい評価だ」と言っているなら、
そりゃ評価の基点の置き所が違うだけだ。
「歴史への評価に擁護なんてものは存在しない」と言っているなら、
それはまったくごもっとも。
×通説 ○一般的イメージ
だな
擁護というより、誤った認識を改める、といった具合にみえたけど。
三国志はとくに三国志演義等の派生小説などで印象を固定されがちだから
そういう蒙きを啓かせる論評という認識。読んでてそう思った。
擁護というのではなく、当時の社会の流れからして、袁術の称帝が
どのようなものであったか、というところなんでしょう。
「袁術の擁護」ってのはこのスレとか他のスレで散見した
>>193みたいな言い方するなら「一般的なイメージに対する袁術擁護」かなあ。
いわゆる南陽地方に対する悪政に対する擁護として、後の曹操の悪政を押しつけられたんだ、ってのは正直いま一つ。
今のままだとそういう憶測推測もできるかなあ、程度で。
スレ前半でそういう主張してた人が居るなら、具体的に「袁術の悪政」をについて記されてる部分を挙げて批判するとかしてくれると嬉しい。
帝位僣称についてはそもそも擁護しようとしてる人が居ないっぽいけどね。
どっちかというと「曹操や袁紹も十分酷かったぞ」っていう相対的な袁術擁護が目立つような。
孫策を「恩知らず」としたり。
批判と誹謗が違うものであるように、評価と擁護は別のものなんだよ。
擁護というと、ものごとの善し悪しにかかわらず庇い立てることだろうな。
ここでやってることはそうじゃなく、善し悪しを見直そうってことだ。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 13:40:05 ID:HLpKdwFq0
南陽の「悪政」についてはそのとおりというしかない
原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて
荊州中の兵の兵糧を南陽だけで徴収しなければならなかったからで情状酌量の余地ありといったところか
この地は張曼成、趙弘、韓忠と黄巾が3回も立てこもって殲滅戦になったから疲弊もひどかっただろうな
でも袁術が出て行った後、三輔地方からどんどん流れてきた避難民に婁圭が食料与えてるんだからまだまだ裕福だった
淮南の「悪政」については蝗害による飢饉が大きい
しかし劉勲が滅んだとき、袁術配下だった楽師や職工が3万人いたというのは「贅沢の証拠」といわれても仕方ない
ただ楽師や職工はすぐになれるようなものじゃなく何年も修行しなきゃならないものだから
この楽師や職工は黄巾以前からいる人間で、国土が荒れ果てた上に朝廷の支配領域も狭くなったんで放り出されたんだろう
黄巾以前なんか6千万人いたから3万人養えるけど袁術の支配地域なんかごく限られた範囲でかなり厳しかったはず
それでも自分を頼ってきたものを見捨てられず、かつ文化が絶えることを危惧して保護したんじゃないかな
陸績にミカンを与えたのを贅沢の証拠として挙げてた文読んだことあるけど
あれはあきらかに昔植えられたものを取ってきただけなんだからいいがかりだと思う
>原因として荊州中の官兵連れて董卓討伐に向かったら劉表に後方取られて
劉表はホント余計な事しかしないな
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 15:11:51 ID:KkokVgxp0
劉表は董卓に派遣されたんだからそりゃ袁術&孫堅の邪魔するだろうさw
まあでも、同時期に派遣された朱儁みたいに袁術に寝返ったらもっと良かったかも。
袁術や孫堅の邪魔をしたのは董卓に派遣されたからではなく、あくまで「まともな」官僚たちを含めた「漢朝廷」に
治安維持を目的として派遣されたから、勝手な行動をする連中を敵視したんだろう。
「董卓に派遣された」としか考えていなかったわけがない。
事実劉表以外にも各地に有能な士が派遣されてるから、当時の朝廷の動きを全て「董卓」や「李カク」主導とみなすことは危険だと思ふ。
>>200 袁術を南陽太守に推挙したのは劉表なんだけどな。
統率力2点
決断力2点
戦闘力1点
洞察力2点
人望1点
実行力3点
戦略戦術3点
義理1点
各々10点満点
実行力=3点
これだけ非力で卑怯未練な男が
曲がりなりにもあの戦国乱世を一軍の将として生き抜いたという事実は特筆すべきで、
その切ない努力というか、悪あがきに免じてこの際格別に3点を献上しよう。
戦略戦術=3点
統率力・決断力・戦闘力・洞察力・人望のいずれをとっても劣るこの袁術が、
曲がりなりにも一軍の将となり、帝位を僭称し得たということ、
これは一種の奇跡かも知れない。
この際格別に3点を献上しよう。
袁術には生涯を通じて「友」と呼ぶべき人もなく、「尊敬」した人もなく、されたこともない。
三国志中、袁術ほど寂しく心貧しい生涯を送った男もいまい。
以上、久保田千太郎という人による「評」
ひでえ評だな、二方向への意味でw
久保田氏は、時代劇などの脚本が多いが
三国志や墨攻といった中国ものの脚色なども書いている。
ライターとしてはそれほどヘタだとは思わないし最初から史家として評価は・・・
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 11:04:24 ID:2wvGKei00
>>206 それは曹操と袁紹についても言えるんじゃないのか?
その二人が悪友同士w
人気の高い人物のスレだとすぐ戦争の話題になるが、こういった人気の低い人物のスレって
あまり軍事は話題にならないよね。住人の質が違うのかね。
ってことで内政や外交、皇帝僭称等は置いといて、そろそろ軍事について語ってみまいか?
袁術は曹操と戦うといつもフルボッコにされてるが、袁術の軍隊って孫堅とか孫策とか呉景
といった孫一門が優秀だっただけなのか?それとも、ただ記述が多いから錯覚してるだけなのか。
それと曹真伝だったかに袁術が曹操を負かしたかのように見える記述があるが、あれは何ぞや。
曹操が袁術の追手から匿ってもらう話。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 00:45:05 ID:JebZnSij0
揚州における陳ウ戦なんかを見るに、
袁術の軍事能力もけっこう高いように思えるが。
袁術は陳を攻略してるんだが、詳しい状況があんまり記録されてないんよね。
劉備との戦いでもとくに失点ぽいものは見つからないし、そこそこいけたんじゃね。
そういや袁紹や袁術の初陣っていつ頃?
曹操は黄巾討伐戦だけど。
生死をかけ戦いを初陣とするなら、宦官大虐殺じゃない?
でもたぶん、史書に出てない賊退治とかが初陣だとは思うけど。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 21:17:32 ID:os4K4m090
正史だと張勲や橋ズイたちを置いて小勢で逃亡したとかあって
部下を置いて逃げた臆病者というイメージがあるけど
本当に臆病者なら大軍勢に取り囲まれながら小勢を随所にしんがりに置きながら逃げると思う
(小勢で逃亡って、官渡の戦いで軍が壊滅した袁紹とか、部下が皆裏切りそうな牛輔とかで
軍勢は健在だし橋ズイたちは最後まで戦うほど忠義は高いし当てはまらない)
それにこんな形で後詰めもなしに置き去りにしたら橋ズイたちが降伏する可能性が高い
これって街亭のときの逆パターンでやられたんじゃないかな
街亭のときって袁術が掎角の計やろうとして城外出たら
予想外に強く攻撃された袁術の陣形が崩れて
後退して陣形を整えようとするたびに攻撃受け続けて遠くまで後退しすぎて失敗
普通なら敵の城が落ちないうちに進撃すれば補給路が断たれるから
ある程度でやめて城攻めに戻りそうなんだけど
袁術をどうしてもここで殺しておきたかったんだろうな
置いてかれた形の劉詳は降伏。南陽人により殺害
だからこのときは袁術が城外に出れば
前と同じく曹操が袁術を殺したがって攻撃するだろうと考えて
しかも襲いやすいように小勢で出て行った
それで袁術は曹操を自領内におびき入れて
橋ズイたちに退路絶たせて挟み撃ちにしようとしたんだと思う
そしたら意に反して曹操は袁術を追撃しないで
街亭のときとは逆に兵法の常道どおり城攻めに取り掛かった
袁術は戦略家として曹操に劣ると思うけど
臆病者という評価はひどいと思う
街亭って何のことかと思った…。
>>218 何を言っているのかさっぱりわかりません。
日本語で書いてください。
いや、分かるだろう。日本語の読み方を学べよ。
文才は無いな。句点を使わないんだから。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 17:24:50 ID:YlWORLKEO
>街亭のとき
ここがよく分からないのですが
匡亭?
この程度で分からないとかいうのも想像力がないな。
相手に想像力を使わせる時点で微妙というのなら言えてるけど。
ようするに曹操が鬼畜じみた洞察力を持ってただけで袁術はしっかり頭使ってたよ、と言いたいのだろう。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 19:05:43 ID:QgF7tseI0
俺が悪かった
街亭のときは常識無視してどこまでも自分のこと追いかけてきたから
苦城のときも曹操は同じく自分を追いかけるだろうと思って城から出て走ったら
曹操に裏の裏をかかれて城を攻められたんで
「臆病で逃げた」というふうに正史に書かれているんじゃないかってこと
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 21:36:47 ID:iQvXMyNY0
>>226 街亭の戦いはお前の中では、曹操と袁術の戦いになってるんだろうが、
一般的には馬謖と張郃の戦いのことだ。
基本的な知識ぐらい身につけてから書き込め。
だから、曹操VS袁術のは、匡亭の戦いなんじゃないの?
匡亭のこと言ってるって分かってるんなら、いちいち突っかかるなや…。
>218を匡亭で読みかえたら主旨は分かるだろ?
訂正されたのに何度も誤字を繰り返すのは変じゃね?
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 22:57:41 ID:vDsSONGV0
自殺、売春、虐待、大量殺戮、女性差別、ホームレスは農耕社会になってから始まりました
天皇はA型で朝鮮の出身です。A型は2000年前に日本に来たから帰ればいいのに。
A型は100%農耕民族とはいえないがO型かB型にぜんぜん好かれないA型は
農耕民度が高すぎるから2000年前に日本の先住民族を大量に殺してきた
遺伝子、多そうだね。
遊牧民族は厳しい自然の中を小さい家族で移動しながら生活してきたので家族と他人の線引きをはっきりさせたと思う。
これをクールと感じる。だから、そのぶん身内にはあつくなるのか。
B型は遊牧民族、O型は狩猟採取民族。
A型は農耕民族。農耕民族は2千年前(つい最近)に、中国から日本に来た。A型は2万5千年ごろ誕生して農耕社会を
作ってきた。農耕民族社会になってから狩猟採取民族が大量に殺され滅び吸収され、ホームレス、虐待、売春、
女性差別 が始まり、強制的に横並び結婚し横並び子作りしないと女が生きていけない社会になる。
横並びの群れ社会(農耕民族社会)は無理やり敵を作り差別しないと作れない。これが、いじめ。
ブサイクで、もてない農耕民族はとくに性欲として横並びの群れ社会を作りたがる。
農耕民族社会はA型女も不幸になります。
>>229 訂正することを、ふつうの人は「突っかかる」とは言わんぞ。
そもそも誤字を指摘されたら、訂正するのがしごくまっとうな対応じゃないのか?
それとも、そう思うのはおれだけの主観かい?
またおれが間違っているなら、そう言えば済む話でもあるしな。
>>232 いや、誤りの指摘のこと言ってるんじゃなくてさ。
「日本語で書け」とか「基本的な知識を身につけろ」といった人格攻撃はどうかと思うんだよ。
匡亭と読み替えればすんなり理解できることなのに、なんでわざわざ喧嘩売るんだよ。
>>226の人も、そろそろ何が指摘されてるか気付いてくれよな…。
>>233 お前と意識を共有してる人間との会話じゃないんだから、
人名、地名と言った最低限のところを間違えたら物知らずってことになって当然。
人格攻撃でもないんでもないぞ。
いくらなんでも匡亭と街亭の間違いは酷すぎる。
烏巣と烏林を間違えるくらいの最低の間違いだ。
そしてその間違いのまま街亭街亭って書かれたら誰でも日本語で書いてくれって気になるわ。
ひどすぎる間違いったって、あれが匡亭のつもりで書かれてることは察してるんだろ?
で、匡亭で読みかえたら理解はできるんだろ?だったら問題ないじゃん。
非難したり侮辱するに値するのかってこと。単に匡亭の間違いだよって言うだけでいいじゃんか?
筒井康隆はブルーインクのモンブランを買うつもりで間違ってブルーマウンテンを注文したことがあるらしいが、
筒井は日本語が書けないとか基本的知識がないとか思うのか?違うだろ。
子供かよ。
おれは間違ったけど、そんなのはソッチが察してくれ。おれ悪くないもん
ってか?
そんな態度だから人格攻撃されるんじゃないのか。
それこそ、素直に「あ、間違ってたわ。ゴメン」で済むだろうに。
俺に言われても困るんだが…。他人を代理して謝ることはできないんで。
>235のブルーインクのモンブランって変だよな。
モンブランのブルーインクだよ。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 10:40:24 ID:LZLRpt5G0
とりあえず
>>236は、
>>233(
>>226≠ID:JJ+K9W5J0)だってことを見落としてるな。
さあ、「あ、間違ってたわ。ゴメン」の使い時だ!
>>237 なんじゃそら。他人の弁護に狂奔していたのか。
まぁ、それはこちらの人違いということで、勘弁してくれ。
>>229は
>>228へのレスではない、ということでおk?
おれは最初からつっかかってなどいなかったから。
228とかどうとか特定のレスじゃなくてさ、
俺は他人のありきたりな間違いに非難や侮辱を加えるのはどうかって言ってるんだけど。
ましてや匡亭の勘違いってのが分かってるならなおさら攻撃する理由なんかないじゃん。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 12:18:33 ID:dTmGsstA0
DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね
DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね
DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね
DQN男の家族死ね DQN男の親死ね DQN男の友達死ね DQN男の親戚死ね
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ぬとき このレスの事思い出してくれよ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
>>241 ありゃ。まだひっかかってる?
非難や侮蔑はたしかに、する必要もないことだろう。
(
>>236は言い訳すると、誤字の人と同一誤解し、なかなか間違いを認めようと
しなかったもので、ついカッとなった。しかしそれはすでに謝った)
しかし、それをおれに言われてもな… ということになるのさ。
なぜなら、おれは間違いを訂正しただけで、非難や侮蔑をしていないから。
特定のレスは関係ない、みたいなこと言っているが、やっぱりきちんとアンカー
かけてくれないものか。
ちなみに、ここ最近のおれのレスは
>>224 >>228 >>232 >>236 >>240 だよ。
字や認識の誤りを訂正することは、非難でも侮蔑でもないことは、重々承知しているのだろう?
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 14:00:53 ID:53lK00f80
白痴上げ
>>243 あなたが何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からないのだが…。
俺は他人の些細な間違いを取り上げて非難したり侮辱したりするなと言ってる。
別にあなたがそうしてるとは言ってないだろ?
泥棒を指差して非難してたら指先に横から入ってきて俺は泥棒じゃないと抗弁されてるみたいだ。
(しかしあなたは「態度が悪いから人格攻撃されて当然」と発言してんだよな…。)
>ID:JJ+K9W5J0氏
「街亭ではなく匡亭の間違い」と誰かが言った時点で、
それ以後は言われずとも訂正するのがまともな住人かと思われます。
それもせずに街亭のまま自分の話を続けるのは誤字を指摘なされた人に対して失礼ではないですか?
「おまえはこのスレの何を読んでいたのか?」という感じで。
私自身がそのような過ちを犯して人に注意されても改めなかった時、
多少強い言葉で非難されたとしても已む無しと考えます。
「誤字くらいでそこまで…」と思われるかもしれませんが、
そもそも正史を読んでる人でそれをやるのはありえない間違いでしょう。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 18:27:38 ID:PtpfvIQ0O
街亭くんは確かに馬鹿で最低だけど、もうどうでもいいじゃん
218から226の流れを見れば、彼が誤りの指摘を誠実に受け止めていることと、
にもかかわらず、どこが間違っていると指摘されてるかまだ理解できてないことは一目瞭然だろ。
だから、主旨が伝わってないと思って、彼は自分が何を言いたいのか説明してるんじゃないか。
自分の誤りを知りつつ故意に指摘を黙殺してるわけじゃない。
しかも「日本語で書け」と言われてるのは、かれの初回の発言の直後だ。
ありえない間違い?
筒井康隆がモンブランのブラックブルーをブルーマウンテンと言ってしまうのもありえない?
こんな間違いはありえないから、わざとでたらめを言ってると思ってるの?
どうかしてると思うね。
>>247 間違いをした人は別に馬鹿でもなんでもないよ。
どうでもいいのには賛成だけど… でもやっぱ納得いかん。
>>245 まず、カッコ内のことについては、すでに陳述しているので、これ以上弁解する必要はないでしょう。
では、前にはぐらかした
>>240の、こちらの質問に真摯に答えて欲しい。
「
>>229は
>>228へのレスではない、ということでおk?」
これが実はおれにとっては重要な問題で、粘着してしまう最大の理由なんだ。
というのも、君が一般論で言っている、
「他人の些細な間違いを取り上げて非難したり侮辱したりするな」
というのが、こちらにはまったくあずかり知らぬことだからだ。
だから、アンカーは正しく使って欲しいということ。ココ重要よ。
もうここまで来たら、答えはたぶん合ってるだろうけど、君のレスとして確認し、安心したいのだ。
そもそも最初に「匡亭の戦い」と訂正したのはおれで、他の誰でもない。
非難とおもわれているレスしているのもおれではない。
皆が、「街亭の戦い」を実は「匡亭の戦い」だと認識できたのは、どのレスあたりからだろうね。
正史持ってる人なら、ピンとくるだろうけど、そうじゃない人も見てるとか思わないかな?
つまり、そういう人らにとっては、どんなに文章がうまくとも、最初から「?」なわけだよ。
他人のミスをかばうのもいいが、訂正してやるのも愛情のひとつだと、おれなどは思うがね。
>>229は
>>228へのピンポイントレスなんかじゃないよ。これで安心したかい?
他人の誤りを指摘するなとは一言も言っていないんだから。
俺が繰り返し言ってるのは他人の些細なミスを取り上げて非難とか侮蔑はおかしいだろってことだ。
つーかな、
>>249は自分は非難してない、自分は訂正しただけだって、
ほんとに自分の行為をどう評価するかってことをえらく重要視してるようだが、
ちょっとした言い間違いで難癖付けられたり侮辱されたりしてる
>>218の心情には
まるで無関心なんだよな。まったく愛情深いことだね。
>>250 安心した。
あの時点では、君も「なぜ難癖つけられたか」は明らかにせず、いきなり擁護に入ったものだから
たぶん、
>>218氏もどこを間違ったのか、ではなく文章の構成が悪かった、と誤認したんじゃないのか?
そう思ったけどね、こっちは。
文章は悪くないんだ。ただ地名を間違ったのがいけなかった。
だから、2回、訂正入れたけど、アンカーなしの君のレスが直後に来たもんだから
被害妄想まっしぐらってわけさ。わかってくれる?>>自分の行為をどう評価
言葉は正しく使わないとね。自戒自戒。
もうやめたら?
この話題、袁術様と関係ないじゃん。引っ張りすぎ。
ID:JJ+K9W5J0氏は頼まれてもいないのに、ID:os4K4m090氏を擁護するのは止めた方がいい。
ただの擁護にしては過保護すぎるし、彼にしてみれば、
第三者にそこまでされるのはありがた迷惑というやつだろう。
俺はだれも擁護なんかしてねえよ。
他人のちょっとした言い間違いを口実に嬉しげに人格攻撃してるやつを非難してんだよ。
けど馬鹿馬鹿しいからこの件についてはもう何も言わんよ。言いっぱなしですまんね。
なんだか粘着厨と正義感を持った人が随分といい散らして去っていきましたな。
全く迷惑極まりない話だ。
結論:他人の迷惑を顧みない連中が一番厄介
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:18:25 ID:PtpfvIQ0O
まだやってたのか…
袁術もそんな偏執狂なとこあったのかな、なんて思うよ
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:41:56 ID:lhoJ5R5s0
俺のせいでここまで荒れてスマン
>>252氏の言うとおり
日本語がおかしいっていうのしか気が向かなかった
匡亭の戦いが正しい
全面的に謝る
この話は流そう
というわけで別の話だが
曹操が曹洪を派遣して献帝を迎え入れようとしたとき
董承と袁術の部将の萇奴が邪魔したって記事があるけど
これって要は萇奴の方が先に献帝迎えに来てて
董承と合意が成って一緒に袁術のところへ行こうとしたら
曹洪が献帝奪いに来たんだよね?
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:44:57 ID:LZLRpt5G0
>>257 袁術は解らんが、紀霊は偏執狂とは全く逆の性格だったろうな。
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 21:53:12 ID:PtpfvIQ0O
>>258 詳細はともかく、その時献帝を影響下に置いてたのが袁術で、曹操が強奪を試みたのは間違いない
董承が張楊たちと仲違いして、董承が曹操にすり寄ったために曹操の拉致が成功したんだよな
袁術にそんな面はなかった印象があるな。
部下を恨んで殺すような真似はあんまりしない(精査すればあるかもしれない)が、
ものすごく気分屋。贅沢や欲を抑えられないが、人の美談に感動すれば素直に褒める。
ただし、褒めるのも単に感動したから褒めるのであって、
士や君としての道理を踏むわけではない。
そんな感じ。
なんかえらくスレが伸びてるなと思えば、おまえら喧嘩してたのかw
まぁ、荒れたまま年越さなく良かった良かった。
>>260 董承ってあまり知られてないが、かなりの曲者だよね。
すまんね、みんな。
どうも史書なんてのを相手にしていると、些細な矛盾も
どんな矛盾かって明らかにしてやろうなどとなって、性格が粘っこくなるようで。
>>260 固有の武力をもたない人の処世術というやつか。
結局、曹操がつからを付けすぎると排除に走るし…
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 00:03:16 ID:EhS8lqyMO
董承も自分の兵は持ってたみたいだけどね(先の曹洪要撃や袁術討伐に出ている)
張楊や楊奉に独力では勝てないから曹操を頼ったんだろう
李カク政権の生き残りで数々の修羅場を潜ってるから、タダ者な訳が無い
ひたすら部下や同僚に操られた挙げ句裏切られた楊奉とは全く違う
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 22:45:07 ID:EhS8lqyMO
楊奉といえば、騙され裏切られる楊奉もアレだけど、徐晃の奸物っぷりが酷いよな
李カクたちを裏切るように仕向けたのも徐晃なら、曹操につくように薦めたのも徐晃なのに、最後は曹操方について楊奉を裏切るんだから
呂布より酷い裏切り者だと思うんだが
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 22:58:05 ID:MeDn4q0D0
>>265 だよな。
vs郭シ戦とか見る限り李カクと楊奉は結構息の合った主従だったのに。
この二人を共倒れさせた挙句、自分だけ曹操の下で出世する徐晃……。
そういえば、李カクは武力が不足したせいで、楊奉は政治力が不足したせいで、
それぞれ哀れな末路を迎えたんだよな……今気づいたが。
判官贔屓も極まったな。どうしてそうなるんだ?
徐晃は自分と主のために力と能力のある曹操に付くのを進言した。賈クと同じ。
楊奉は張繍と違って曹操の下で大人しく出来なかったので対抗した。
徐晃はあとに残った。そんだけ。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 23:13:30 ID:EhS8lqyMO
おいおい
董昭伝あたりに出てる事情を知ってるの?
楊奉は曹操が協力しようと申し出たのを信用したら、それは曹操と董昭の嘘で、まんまと騙されて献帝を拉致されたんだよ
その詐欺行為に怒って曹操と戦おうとしたら徐晃が離反したために負けた
楊奉のバカさ加減も相当なもので同情する気はないが、裏切るタイミングからして徐晃の不義と利己心は否定できないぞ
普通なら曹操に裏切られたことを主と共に怒るべき場面だ
董昭伝の方忘れてた。全体的に確認せずに適当言った。ごめん。
だが徐晃は梁を攻撃されてから帰順した順序になってる。
武将の降伏としては普通の展開だろう。
武将 → 部将
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 00:16:29 ID:/MHs4Mlw0
確かにこういう部将の降伏はそんな珍しくない展開だし、
裏切りが日常の三国時代で徐晃だけを不忠と責めるのは判官贔屓だったな。すまない。
でも、徐晃の主張を見るとやっぱり首をかしげてしまう。
李カクを裏切るよう進言しておいて、曹操には従うよう進言するってのは整合性が無い。
二人とも献帝を利用しようとしている点では同じだし、
曹操は朝廷の派遣した刺史を追い出して土地を占拠するなど名実共に逆賊だ。ぶっちゃけ李カク以下。
ここで曹操に従うくらいなら、李カクを裏切る必要だってなかったのに。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 00:21:55 ID:/MHs4Mlw0
あと、徐晃伝に書かれてる順序ってあんまり信用できないかも。
李カクを裏切らせる前の段階で「車騎将軍楊奉に従って〜」とかあるけど、
楊奉が車騎将軍になるのは李カクを裏切ったあとのことだし。
張コウ伝みたいに、裏切りの順序が全く逆になってる例もあるからな。
勿論、徐晃が裏切ったのが先だと断言するわけでもないけれど。
>>271 そうか?李カクは先が無いからとっとと離れた方がマシ。曹操はよさげなんで
(自分自身が旗頭となって天下獲りに参加する意志がないのなら)従った方がいい
という主張で、それこそ賈詡とかわりないと思うが。献帝に忠誠があるのなら
なおさら、献帝の保護者としては強く安定した勢力を求めるのは普通だろう。
自分達だけでは守護しきれないと考えるのなら。
ついでに
>朝廷の派遣した刺史を追い出して土地を占拠するなど名実共に逆賊だ
この理屈では、そもそもほとんどの勢力が逆賊になる。逆に董卓は逆賊に
ならなくなる。董卓を否定したのに、董卓の縮小劣化版の李カクには従う
べきだってのはおかしな理屈じゃない?
また徐晃にだって主張や考えがあるだろう。楊奉自身がどう思っているか
はともかく、徐晃からしたら楊奉には天下獲りができる器には見えなかった
のかもしれない。だったら将来性がある勢力についてその下で戦う方がいい
とすすめるのは、普通だと思う。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 13:14:25 ID:MWzCw8JSO
当時、直接の主に最後まで忠を尽くすことを是とする倫理観があった
たとえその主が逆臣であったとしてもね
(関羽が有名だが、李カクたちも董卓に対して忠を尽くすためと長安に進軍したし、反逆者の部下が死をも恐れず晒された主の死体を埋葬しようとする話などが幾つもある)
もちろん全員がそうだったわけではないけれど、その倫理観に反する行為が良い目で見られないのは当然のこと
董卓に従いながら裏切った王允もそんな批判を受けたらしい
逆に言えば、利害だけで主を替えるのは指弾されても仕方ない行為
徐晃の李カクから離れるべきとの進言はこれに当たるだろう
うんんん?
徐晃が楊奉に対して「李カクから離れるべき」と進言したのは、
この時点では忠義だろう。まさに「直接の主に忠を尽くした」のだから。
その後、袂を分かったことには上の通り議論の余地があるが。
自分の主の忠義を邪魔する発言を忠と言っていいのか微妙ではあるが
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 02:58:24 ID:RZ3jBVtiO
袁術って楊奉らと同じく逆賊認定されてたの?
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 23:54:28 ID:0nAPrn/x0
楊奉が李カクに反旗翻したのは李カクが兵士よりも巫女を優遇したから
逆賊認定は呂布伝注に、曹操に擁された献帝から呂布へ
公孫サン、袁術、韓暹、楊奉はすでに賞金首だとの詔勅により確認できる
つか、何で公孫サンが筆頭なんだろ?
この時点だと公孫サンは皇族殺しで
袁術以下は「帝を拉致しようとした」という罪状でやや軽いということか?
そいつらは当初献帝をかついでた連中だな。
追討令は献帝を奪い返した曹操や袁紹の意趣返しだろう。
最近ちくま版手にいれて読んでるんだけど、どんづまった奴は大抵袁術の所に行くな。
面倒見良かったんだろうか。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 02:41:19 ID:3iUqDZgs0
>李カクが兵士よりも巫女を優遇したから
そんなこと書いてあったか?
こぼれ話みたいな風に書いてあっただけで、兵士を軽んじたようには書かれていなかったと思うが。
>>280 大勢力だし、終始曹操と敵対したし。
196年以降は献帝側に付かない(ていうか追い出された)
人間の溜まり場になった観があるな
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 20:57:04 ID:kzmF5rhn0
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 23:18:12 ID:IiUMJJFS0
>>284 たかだか居候の呂布の「搾取」がそんな大規模なものとは思えないけど。
いわゆる「袁術の悪政」の原因の一つだとはとても思えない。
>>284 ごめん。南陽で搾取したって何のこと?どこに載ってる?よく分からん。すまん。
呂布による搾取なら
>>284の通り後漢書呂布伝。
袁術による搾取なら三国志袁術伝・後漢書袁術伝。
南陽戸口數百萬,而術奢淫肆欲,徴斂無度,百姓苦之.
もしかしてこれのことかな?
袁術の贅沢な暮らしは有名だけど、それで郡民が苦しんだってのは陳寿の誇張だと思うよ。
>>287 ありがとう。あとで後漢書のもチェックしとく。
>>288 ユニークな考えかもしれないが、それはつまり、
『搾取は誇張だが、贅沢ぶりは誇張ではない』と言ってるも同然なのだが、
二つの記述への信頼度の差はどこから生まれたの?
>陳寿の誇張だと思うよ。
まず根拠を示すべし。具体的史料を用いて。
そういえば袁術がやった贅沢って具体的な記述はあったっけ?
>>290-290 あのですね、正史ってのはもともと勝者の失敗をなかったことにしつつ、
敗者の成功をなかったことにするもんなのね。
実は重い課税はどの陣営でもやってることなんだけど、敗者だから特筆されるわけなの。
同じくらいのことは曹操もやってるし孔明もやってる。
敵国からは領民を収奪する苛酷な政治家だと非難されてるけどそれが当たり前。
袁術の贅沢は事実でも、たとえば玉の盃や黄金の車馬をそろえたくらいじゃ
数百万人の暮らしに大して影響しないって。
またそれかw
残念ながらその論法は史料検証の手法としては落第だ。
曹操の重税や敗戦を直接的に書いていない、ということは出来る。
だが同じように曹操と敵対したはずの袁紹に重税の描写がなく、
袁術にあるという格差はどこから生まれるのか説明できない。
また袁術への評価の中である点は信用できるがある点は信用できないという。
その選択が無原則。
同じ史料の同等の条件の中で、他に対抗する史料がないのなら、
信用度は同程度でなければならない。
そうでないなら単に恣意でいいとこどりしてるにすぎないよ。
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 10:41:29 ID:EACu6T0d0
おしっこかけられて「飲みなさい」と命令されてからゴクゴクやりたい
296 :
295:2008/01/12(土) 10:42:07 ID:EACu6T0d0
すいません誤爆しました
>>294 袁紹に関しても重税の記述はある。すでに言ったが曹操にもあるし孔明にもある。
袁術に対する評価の一方を信用し、一方を信用しないというのが何を指しているのか分からない。
俺が言ってるのは、百姓の苦しみの原因が袁術の贅沢な暮らしだったという陳寿の推定には
根拠がないということだが、そこんとこ誤解してるんじゃないの。
だいたい過去の人間の評価なんか興味ねえですよ。あなたと違ってね。
>だいたい過去の人間の評価なんか興味ねえですよ。あなたと違ってね。
こういう幼稚な発言はやめてください。卑怯だからさ。
後漢書によると南陽の郡民は240万人ちょっとなんだけど、
黄巾の乱を歴てまだ数百万もいると言ってるのがそもそもおかしいんだよ。
曹操の父は三公の位を買い取るのに一億使ったと言うんだが、
仮に南陽に郡民200万人が残ってたとして、三公を全部買ったとしても一人当たり150銭程度だな。
数百万人を苦しめるためにはせめて百回くらいは三公を歴任しなきゃ無理そうね。
三国志だと「数百万」だけど後漢書だと「数十〜百万」だな。
たぶん後漢書の方が正しい。
しかし50万で計算してもまだまだ余裕だと思うね。
301 :
290:2008/01/12(土) 20:34:47 ID:PyfKwc/90
>>297 ああ、なるほど。
袁術とその周辺が贅沢な暮らしをしたことと、民が苦しんだことは、
1:1かそれに近い割合で対応する原因と結果ではない。特に南陽の頃は。
というわけね。了解した。悪かった。
南陽の「郡民が苦しんだ」こと自体が陳寿の誇張だと言ったのだと思ったんだ。
酷政失政の要因の中では確かに贅沢三昧は大きな要素ではなかろうし。
いや、俺もすまんかった。
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 00:30:34 ID:joyzlleC0
張咨や陰修殺して住民感情が悪化してたから余計悪口言われるんじゃないの?
こうやって熱い議論が交わされるのが、このスレの良い所だね。
>>295 おwwwまwwwえwwww
誰しも一皮剥けばこうだと、身をもって教えてくれた
>>295よ。
君は偉大だ。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 01:35:30 ID:EhpwM9cB0
俺はかけられるよりむしろ直接口を付けて飲みた・・・
じゃなくて
後漢書呂布伝には袁術が呂布を歓迎して手厚くもてなしたって書いてあって
三国志呂布伝には袁術が呂布を信用できないといって最初から追い返してて
双方矛盾してるけど
これって陳寿が
呂布と一緒になって南陽で略奪した張遼が
魏の高官になって一族が有力者だから
憚って嘘の記述してるのかな?
呂布協力者には陳群みたいな大物もいるからな
呂布関係で憚ることもあったかもしれんな
陳寿が魏の高官に気兼ねする必要はないはずだけど。
張遼は子が扁将軍になっただけでその後羽振りを聞かせた様子はない。
陳家は大物だけど、陳羣が呂布の下に入ったのは徐州時代だから時期が合わない。
呂布、袁術のところにやっかいになる
呂布、態度デカイ、袁術いらつく
呂布、袁術が自分のことを暗殺しかねないと恐れ、去る。
こんな流れだったような
ちょっと前に「袁術の贅沢程度で住民が苦しむほどの搾取になるはずがない」って有ったけどさ。
明で専横を極めた宦官の劉瑾が処刑されたときに
没収された財産が国家収入の数倍にあたる量だった、って見たことが有るんだけど。
(だいぶ時代は違うけど)権力者個人の蓄財がそれだけの量になり得るということは、
袁術個人の贅沢が、支配地域の住民に対して苛政となるほどの規模であったとしても問題は無いのじゃないのかと。
搾取って税率2倍とかそんな馬鹿みたいな値じゃなくても
1割2割増えるだけで庶民には苛政になるんじゃないのかな、とか。
そこらへんを疑問に思ったわけです。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 23:50:11 ID:oGPQnyI40
>>309 それは後漢書だけ
極端な言い方だと
三国志の袁術は頼ってきた恩義ある人間を門前払いした薄情者で
後漢書の袁術は敗残者を気前良く迎え入れたら大迷惑かけられた被害者
結構イメージが違うと思う
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 22:20:52 ID:Ew0JCkpL0
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 22:08:43 ID:CmZAaUQW0
>>310 劉瑾の場合国家予算の10年分を蓄えたと言っても5年?くらいの専横期間がある事をお忘れなく
しかも皇帝集権時代に皇帝の権限を好き放題振るえた状況だった
刺史でも牧でもない袁術は昔赴任してた時期の縁故等により南陽で割拠し始めるわけだが
縁故によって立ってる人間を支えてる側の人間が、そんな苛政を許すかね?
腕力によってもぎ取った淮南での割拠時ならばまだ可能性もあるか?と思いきや
旱魃の時に国庫から勝手に兵糧をバラ撒いた舒仲応を「立派だ」と褒め称えてる
ちなみにこの旱魃、三国志には搾取による飢饉と記され、後漢書のみに記載がある
三国志では「苛政のせいで」ということになってるが旱魃の可能性もあるわけだ
そして袁術の支配区域は漏れなく曹操の物凄い搾取のあった地域or戦場
どう考えても荒らしたのは袁術より曹操
ラス二行以外は同意。
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 23:53:04 ID:kA8YBJ+W0
袁術については三国志「武帝紀」の屯田制を実施したとの記事の注がそのまま当てはまるな
魏書曰:自遭荒亂,率乏糧穀.諸軍並起,無終歲之計,飢則寇略,飽則棄餘,瓦解流離,無敵自破者不可勝數
(荒廃と動乱のため食料計画が成り立たず、敵もいないのに自ら敗れる者が数え切れないほどいた)
魏書は曹操を神格化して時々嘘書いてるから油断ならんのよね。
その箇所は曹操に先見の明があり群雄の中ではいち早く屯田政策を開始したように印象付けてるが、
実際の曹操は農業政策には全く無頓着で呂布と対陣中に食糧不足で一時休戦したほど無定見。
棗祗らが提議してようやく重い腰を上げたところにその記述が挿入されている。
屯田政策なら公孫サンだって実施して易京に大量の食糧を蓄えたけど結局破綻してるんだよね。
嘘、というか、曹操は良政を敷いたって記述が無い点でいっそ小気味良い人物ではある。
この時期の河南はそもそも荒れ放題でどこも兵站に苦労していたというのは大いに考慮すべきだろうけど。
それが袁術が酷政をしなかったという傍証にはならんしなー
個人的には、正史の記述があっさりしすぎて誰の政治がよかったか悪かったかは判断できないと思う。
曹操や部下の統治でさえよく分からない。
部下の本伝だと何となくよさげに書いてるけど、
比較対象が示されてないので本当によかったのかはやっぱ不明なんだよ。
ただ少なくとも言えるのは、袁術とかそれ以外の群雄の領民が苦しんだとされるのは、
実態はほとんどが飢饉を原因とするものが多いってことで、
人相食むとか穀幾万銭に値すとか史料から拾ってくと、この時代の飢饉がいかに凄まじかったか分かる。
だから俺的には袁術が苛政を布いたかどうかってのは小さな問題だと思ってて、
善政だったと言うつもりもないし悪政だったという理由もないなと。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 21:47:53 ID:MT8sACQi0
大きな歴史の流れで言うと
後漢後期は政情が安定して農業生産も人口も増大していった
それが末期になると開発のやりすぎと木材の伐採しすぎで地力の低下や水害が酷くなった
農業生産力が減退に転じたのに人口は増えてばかりで食糧難
これへの不満が黄巾の乱で、騒乱で余計状況が悪化した
ただ、これは中原の状況で
袁紹、劉表、劉璋のところはまだ開発途上だったから無事
だからこいつらの統治はまだ良かったと言われている
曹操がうまくやっていけたのって
あちこちの黄巾の残党を攻めて溜め込んだ物資手に入れてたからだろ
開発途上だったせいかどうかは分からんけど、
確かにそいつらの領地で大飢饉が起きたという記録は見当たらないな。
こいつらが寛容な性格っぽく思われてるのと関係ありそうな感じだな。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 23:52:52 ID:MT8sACQi0
もうちょっとまとめると
乱開発で農業が破綻した黄河流域と
これから未開墾地を開拓していく周辺地域
ということで
これは文明の興隆と衰退のサイクルが回ってきただけで
袁術個人の資質の問題ではなく
歴史の必然だね
必然というとちょっと行き過ぎな気が…。
そういやさ、史書ってのはたいがい名士豪族層の目線で書かれるもんで、
善政とか悪政とかいうのも豪族から見て得したか損したかって基準だったりするけど、
一般的に悪政を布いたとされてる君主のところは結構飢饉が起こって、
比較的に良い君主だったと言われてるところはあんまり飢饉がないんだな。
何か相関関係が見えてくるような気がする。
それは言えるが、河南で曹操と比較出来そうなのが袁術と陶謙くらいしかいないからな。
現実の各人の政治ぶりと三国志の記述の相関を論じるにはサンプルが少ない。
陶謙は賢人を遠ざけたとは書かれているが、特に苛政の記述は無いと思ったが。
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 12:13:44 ID:+gsKKVIB0
陶謙が苛政を敷いていたとしても
曹操の大虐殺の前ではそれも霞む
だから真相は謎
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 12:19:57 ID:+gsKKVIB0
あと、前近代の東洋では
徳がない君主がいると天が怒って天災を起こすと考えられていたから
完全に天災による被害で君主には防ぎようのない例であっても
君主が不道徳な生活を送っていたための天罰と判断される
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 19:06:19 ID:ygpb0k7Y0
袁術ってそういう超自然的な現象に対してはどういう態度だったんだろう?
袁術を南陽太守に推したのって劉表だよね?
後漢書にはそう書いてある。
>>326 超自然的には、当時のそれなりの態度なんじゃないの。
再考は面白いと思うけど、袁術自体 才能(群雄標準レベル)
皇帝僭称(前例多数)等オリジナリティもない歴史的にはどうでもいい
小物もいいトコなんだし。
再考済み袁術でも所詮この後の五胡の群雄の数段階下の人間なわけで。
彼に特別ななにかは期待できないでしょ。逆に根本は当時の既成概念
寄りじゃないの。
袁術 = 塚の中の白骨
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 01:44:53 ID:vUX0VApH0
とりあえず即位に当たって
瑞兆云々は語ってないな
>>329 それを言ったらお終いだよw
曹操だってどんぐりの背比べで少し頭出てた程度なんだから
そりゃ瑞兆云々を上奏するのは臣下の側であって
君主のほうから言いはしないだろう。
イーストプレス刊「三国志人物辞典」
煽り文句は「豪傑達の能力が一目でわかる!!パーソナルデータつき!!」
早速読んでみた。
袁術は・・・・・・知力1、武力1、統率力1、魅力1、家柄10
家柄以外すべて最低値!!一目でわかった!!
>>333 その手のネタでしかないような作りの本がまだ通用するのか。
出版不興が謳われとるというのに。
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 21:04:46 ID:J7BzcxSGO
んなの出すより、漢文でも訳して出せよ
袁術の評価について語るときに
>>333のやつばかり挙げてるやつは何なんだ。同一人物なのか。
光栄のは誰でもいちおう勝てるようにバランスとるようにしていたからおかしなデータのキャラが多い
その例がホウ徳
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 01:02:57 ID:lGNZ3dI4O
ホウ徳のは単なるバグだ
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 01:07:25 ID:hsYTHR160
郭図とデータが逆だっただけでしょ。
>>340 そうじゃなくて両方とも知力と武力が逆になってるだけ。
袁術 知60 武95
公孫サン知67 武70
董卓 知58 武91
こうなってた
袁術 知67 武70
公孫サン知58 武91
董卓 知60 武95
こうなら納得できた
猛将袁術萌え
代わりに袁術軍随一の猛将紀霊が、武力57だぜ(ry
袁術 知力60、武力57
紀霊 知力24、武力95
この方がよかったな
三国志1は君主を召し抱えることができない。
配下の能力は上げたくないが勢力全体は強くしたいという理由で
袁術の武力を引きあげてるんじゃないか。
ぶっちゃけ紀霊がそこまで評価される理由がいまいちわからない
呂布にびびって撤退したのと、袁術の最期まで身辺にいた以外に
他に見せ場ってあるんですか?
演義で関羽と三十合打ち合ってる
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 02:03:58 ID:bpiWVydm0
光栄もどうせ思いっきり演義ベースなんだから
関羽と互角に戦い
疲労した状況で張飛とある程度打ち合って倒されたんだから
顔良や文醜よりも武力が上で良いと思うんだが
加速関羽>静止顔良
関羽>弱気文醜
淮南って、蝗の被害とかあったんだっけ?
呉景が広陵に着任した時期がよく分からない。
劉備が広陵取る前なのか後なのか
袁術って何歳位で死んだんだっけ?
30代?
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 07:43:20 ID:ItWO5UFRO
袁術より少し年下なだけなら
四十代ではないかな?
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 07:48:25 ID:ItWO5UFRO
あ 何か意味不明になってたな
袁紹より年下の従弟なら、ね。
袁紹とあんまり離れているのなら
流石に公路との争いも起こりにくいのではなかろうか。
そういや向こうの板の蜀将スレで
ちょうど袁家同士の抗争の話題にされてるよ
>>348 紀霊って、正史だと呂布の口車に乗って和睦結ばされちゃった程度の人物じゃん
下手すると帰ってすぐ袁術に殺されちゃったかもよ
袁術が孫策を重用しなかったのは、孫策が陸康を殺したからじゃないの?
>>358 孫策は陸康を殺していないよ。
陸康は病死。
>>359 ゴメン、陸康は病死でした。
陸康の宗族が大勢殺されたからじゃないか、の間違いです。
(100人以上いて半数が死んだんだっけ?)
後の事を考えると、地元名士の一族を大量虐殺した香具師を重用しにくいんじゃないかと。
そんな感じです。
袁紹の生年も不明だった気がする
紀霊は一応三万の軍の大将だし、演義で大活躍してるからな。
「袁術95」に比べれば「紀霊95」の方がまだ納得できる。
しかしそれだと紀霊を引き抜いたとき(引き抜かれたとき)のインパクトが強すぎる。
袁術95ってのは引き抜けないから、勢力全体の強さと見ることができるわけだ。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 22:00:05 ID:ZTbFqjJ90
紀霊は武力だったら95あってもいいと思うけど、統率だったら80あたりが妥当
それより橋ズイもうちょっと上げてあげても良いと思うよ
もっと言うなら孫香をそろそろ出してやって
袁術が汝南支配しているときでも張勲あたりが太守やってるけど
正史にも太守って書いてあるし将軍位も持ってるんだから孫香を太守にしてあげて
毎度孫香を登録してる俺が通りますよ
データは高くて70ちょいくらいで適当だが。
橋ズイ、張勲、劉勲あたりは上げてやってほしいな。
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 14:13:49 ID:E6yHr4oJ0
劉勲はあれでも一時期数万の兵を持って一大勢力持ってたわけだし
なにより劉曄が頼ってきたくらいだもんな
200年で劉備が徐州にいる状況なら
劉勲が廬江の君主で劉曄が軍師で配下に袁胤、袁耀、張勲、楊弘がいるのが本当だと思う
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 20:07:50 ID:pOKFTDomO
劉曄はあくまでも賓客待遇で軍師じゃないんじゃないかな。
あと、張勲達は捕虜?部下?
劉曄は軍師でもいいんじゃないかな?
実際に諫言しているし。
張勲と楊弘は捕虜かな?
あと、武将に劉偕と劉威を加えるべき。
370 :
劉邦:2008/05/14(水) 11:18:14 ID:u64Tg7540
袁術は、韓王信や三好 長慶に似てる。
そこは今川義元と言って頂きたかった!
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/15(木) 00:14:47 ID:UASMXtl20
近代中国でたとえたら
袁氏つながりで袁世凱
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 23:00:31 ID:gHM3orsL0
演義基準じゃなくて正史基準なら
194年開始シナリオで孫策は袁術の従属勢力で
孫賁も登場させて
周瑜、孫賁、呉景が袁術配下で
袁術が即位を選択すると上の三人が袁術から孫策へ所属が代わる
というのがいいな
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/27(金) 23:15:12 ID:6qks8lRa0
袁氏は袁渙が総本家なのかな?
>>374 豫州出身だけど、汝南の人ではないし、
袁安(袁術らの高祖父)の系統ではないので、いわゆる汝南袁氏ではない。
同姓の誼で袁術に仕えたんじゃないかな。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 23:45:03 ID:hD0v2Yiu0
袁術は陳の大夫の轅濤塗が先祖であると誇ってたわけだから先祖は陳の出で
陳珪との仲も先祖が陳の出身、舜の子孫だというつながりがあったんだと思う
日本でたとえるなら陳の袁氏と汝南袁氏は摂津源氏と河内源氏の関係に近いと思う
摂津源氏の方が本来は直系なのに
親父の所から出て行った弟の家系の河内源氏の方が武家の棟梁とか言われたのと同じ感じで
先祖代々の土地の陳から出て汝南に定着した方が栄えて大勢力になったんじゃないかな
だから袁術が袁渙に敬意を表していたのは先祖の土地に残って墓を守っていた一族だからだと思う
377 :
名無しさん:2008/06/30(月) 21:49:28 ID:F6oSV02hO
袁紹:鳩山兄
袁術:鳩山弟
みたいなもの?
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 22:11:06 ID:GqCv1sw70
いや
袁紹の方が死刑を頻発w
袁術は意外と鷹揚だよね。舒仲應の件とかw
本当に鷹揚なのか、鷹揚なフリをしてるのか分からないけど、
もともと侠気で名を上げた人だからね。
そういえば確かに袁紹には意外とそういうエピソードが少ない。
袁?と袁術との血の繋がりは?
袁オウと袁術との血の繋がりは?
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/19(土) 23:31:20 ID:RH3zYZxG0
呉楚七国の乱の袁オウなら楚の出身だから、陳の出と言っている袁術とは関係ないんじゃないの?
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/07(金) 23:24:37 ID:AQlARJ5Y0
まだここ残ってたんだ・・・
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 01:08:36 ID:eamURXQT0
おお。まさか、こんなスレが・・・・・・
あったとは!
袁術陛下の忠実なる下僕は自分だけだと思っていたのに。
他スレで紀霊はけっこう評価上げてたのに、
陛下は置き去り・・・がんばって名誉回復・・・できるのか?
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 02:03:55 ID:WlK6ObiB0
【2ちゃんねるのPV、1年で25%増 「工作員が貢献」】エキサイトニュース
2ちゃんねる(2ch)にサーバを提供しているBIG-server.comによると、2ch(PC版)の
11月のページビュー(PV)が前年同月より25%増えた。「この増分の陰には数多くの工作
員の活躍がありました」という。
【2008年の2ちゃんねる利用者増加は中国と民主党の工作員の貢献によるもの】
>385
紀霊ってそんなに活躍してましたっけ?
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 21:39:40 ID:Ci8Rn9IT0
>>387 してないね。
「軍門に戟を射る」の実話に出てくるのみのはず。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 21:34:19 ID:cVKb9AjM0
演義で大活躍だけど
おそらく実際は呂布が裏切ったところでまとめて殺されたんだと思う
呂布って人材に対してそういう無体な扱いをする方だっけ?
董卓の部下を許そうって王允に提案してるし
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 14:11:28 ID:/u4H03TKO
>>391 「陥陣営」高順にどのような扱いをしたかお忘れか。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 21:18:58 ID:vNj7ouIX0
スマン、久しぶりで記憶がぼけてた
韓暹、楊奉がどたんばで裏切ったとき壊走中に殺されたんだと思う
袁術様ははちみつレモンが大好物です
最期の晩餐にもはちみつレモンを所望されました
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 22:28:15 ID:hj5Ir/wf0
血を吐いて死ぬくらいだから
固形物はもうだめだったんだろうな
袁家って途絶えちゃったんだろうか
孫権の夫人も死んでるし
>>396 袁術の息子の袁燿が呉に仕えてるよ。
袁燿の娘は孫権の息子の嫁になってるから、
たぶん呉の時代は存続してたと思うよ。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 18:56:46 ID:9PKHz1e4O
は〜ちみつレモン(*^o^*)
レモンて当時の中国にあったのかな?
レモンはどうかしらんが当時の中国に柑橘類はあったので
ちょっと酸っぱい種類を選んでハチミツレモンぽいものは作れたと思われるよ
レモンが中国に伝わったのは10世紀頃。
三国時代にはまだない。
柑橘類を子供に与えて親孝行じゃと言った逸話が残ってるのが他ならぬ公路どのなのに
陸さんとこのお坊ちゃんだった?
陸績ではなかったかな。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/06(火) 15:12:12 ID:/8B0BwKQ0
袁術の配下って紀霊しか目立つ武将いないな
一応孫策も
つ周喩
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 23:23:19 ID:b8SQk8fD0
列伝立ってる袁渙とか
かなり頑張ったのが陳蘭。
赤壁の後まで淮南に割拠していた
曹操の東南進出が遅れた一因だろう
臧覇・張遼らの攻撃に逢い、孫権の救援を仰いだが敗れる
袁術残党は淮河と長江の間に結構根を張っていたようだし、
それを取り込むためか、孫権は袁術系の人間をそれなりに扱ったみたいだね。
演義なら紀霊、正史なら陳蘭
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 12:14:03 ID:XffV+LnSO
>>405 孫策はともかく、堅パパは袁術の部下かというと微妙だと思う。
糧秣はともかく、兵も部将も当初の官位も自前だし。
あと陳蘭や雷薄も土豪のようなもので、勢力瓦解後の彼らの頑張りは「袁術の将」としてのものとは別に評価したい。
ところで雷薄は後に劉備についたと思うが、雷同って雷薄の同族じゃなかろうか。
微妙じゃないな
袁術の幕下に入らないと逆賊認定されたところだったのだし
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 13:25:32 ID:XffV+LnSO
「袁術の幕下に入らないと」「逆賊認定される」が繋がるとは思わないし、
その二つが即「だから孫堅は袁術の部下」ということの証明にはならないだろう。
袁術は孫堅の保証人だった、でもいいんだから。
>>413 袁術の部下に入っていなければ後漢朝廷の配属した正式な太守や刺使をぶち殺しちゃってるものだから
世間的な名声を失う状態だった
そこに袁術が来たので「本当の逆賊董卓を討つ正義の反乱軍」という名目が手に入った
ここで袁術の傘下に入ってないと逆賊扱いなのよ
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 14:34:19 ID:UwbHu72aO
魏延だって部曲を率いていたけど「劉備の部下」扱いで、格下の同盟者としては扱われない。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 15:25:07 ID:XffV+LnSO
>>415 漢の正式な長沙太守と私兵を率いる部将を同列には語れないよ。
>>414 袁術の配下なら正式な刺史や太守殺しても名声失わないのか?
そんなことはないし、失った名声(荊州人士からの)自体は多分戻っていない。
論点となるのは名声よりも正統性の問題だろうけど、孫堅は各地の群雄に連動して反董卓の兵を挙げた。
そしてそれに呼応しない「董卓派」の刺史らを討った。
この全体の流れに正統性(彼らにとっての)があるのであって、
「群雄の中の一人の袁術(高位ではあるが)」に認められて正統性を得たのではない。
また
>>414にある「そして袁術が来たので」というのはちょっと意味不明だ。
そもそも袁術こそ南陽に駐屯する正統性はなく、孫堅が太守を討ったことで助かったのだから。
袁術が上表して孫堅に将軍と刺史の位を与えたのは同盟軍としての正当な報酬でもある。
また、当時の董卓側・反董卓側は互いに逆賊と見なしあっているのであって
袁術の傘下でないと逆賊扱いというのはおかしい(そして傘下=部下ではないと思う)。
孫堅が忠烈の名をあげたのは袁術が正統性を担保したからではなく(彼にそんな力はない)
果敢に董卓側と戦った数少ない群雄だからだ。
190年前半くらいの群雄諸侯の上下関係はそんなもんだったみたいだね。
二袁や公孫サンのような有力者は外の州に刺史や太守を多く任命したが、
現地に派遣したらもはや支配力は殆ど効かなくなったようだ。
田楷や曹操のように独立行動をしたり、事態が変われば陳ウ([王禹])のように裏切ったりする。
「袁紹派」や「公孫サン派」のような緩やかな色づけ、対等ではない盟友関係というところだろう。
ただ、孫堅は袁術指揮下の攻撃軍をほとんど一手に指揮していたが、
政治経済的基盤は完全に袁術に依存していたようだ。
>正当な報酬
その正当な報酬を与えられる人物が周囲にいなかったから孫策は袁術の風下に入ったんだよ
孫策は当時二十歳かそこらだったんだから、
父親残した権威と軍勢をいくらかでも維持するには
周辺の情勢と縁故を鑑みれば袁術一択だろう。
報酬とか何とかは関係無い。
>>417 >ただ、孫堅は袁術指揮下の攻撃軍をほとんど一手に指揮していたが、
>政治経済的基盤は完全に袁術に依存していたようだ。
この辺はおもしろいね。
北上中に膨れ上がって、おそらく孫堅軍は袁術より規模が大きかったと思う。
そしてその孫堅軍が先鋒となり、孫堅のおかげで南陽を得た袁術がそこでの資本を糧に後詰を引き受けた。
だからこそ兵站を疎かにした袁術に対して孫堅が怒鳴り込んでくる。
これは少し袁紹と韓馥の関係に似てる。
袁紹も兵站は韓馥に頼らなくてはいけなかったが、軍事的には韓馥より強大だった。
袁術は当時の一大名士で、南陽の情勢を纏めきり、豫州からも兵を供出させるには
他にありえなかっただろう。
一方孫堅は各地の征伐に名を上げた勇将で、実力で董卓を洛陽から駆逐した。
全うできれば天下取れるくらいのコンビだったんだけどな。
天下取れるほどの実力ではないだろ
董卓が洛陽をぶっ壊して退却した後、劉表に南陽の物流止められて一瞬で干上がってる
この時点で南陽を拠点とする袁術陣営の限界が出てる
一瞬ではないよ
劉表が漢水以南を掌握してから袁術が豫州に移るまで、
正確な月日は不明な部分が多いが孫堅の死を挟んで一年くらいは時間がある
袁孫連合は軍事的には襄陽を追い詰めるに十分な質量を有していたし
豫州に派遣された周昂を破ってもいる
ま、現実に袁術はそれ以上の器ではなかっただろうし、その後勝ち続けたとしても
袁術・孫堅の間に亀裂が入らなかったとは殆ど考えられないが
ところで袁紹派には劉虞・韓馥・劉表・そして曹操などがいたけど
袁術派には孫堅のほかにどんな勢力があったの?
劉表まで袁紹派に入れていいなら、
「袁術派」はまず公孫サンとその影響下の各人物。勿論その一時期の劉備
孫堅・孫策と呉景・孫賁ら親族
公孫サンと同盟関係にあり袁紹と戦った黒山賊
武帝紀には陶謙の名も挙がるが時期的に怪しいところもある。少なくとも袁術が揚州に移ってからは険悪になった
陸遜の父の従兄弟で呉郡陸氏の宗主だった廬江太守陸康(不和から攻め込まれて敗北)
陳登ら下ヒ陳氏の有力者の揚州刺史陳ウ(王禹)(揚州に逃げ込んできた袁術を拒否して敗死)
廬江周家の者で周瑜の従父の丹陽太守周尚
曹操と戦った豫州西部黄巾族の何儀や劉辟
直接の連携の記録は無いが、董卓政権下で協力者として疑われた太尉張温、
曹操政権下で以下同文の太尉楊彪
他には初め曹操の献帝奉戴を妨害したとされる董承、
東城長魯粛や予章太守諸葛玄(諸葛亮の叔父で亮も任地に身を寄せていた)なんて名もある。
他にもそれっぽい人間は多いが、何しろ皇帝を僭称して悪名高い人物だから、
魏に仕えた人間の経歴からはぼかされていることが多い。
呉側の記録では比較的正直に書いてある感じ。
>>425 陳ウは敗死してないよ。徐州南部で勢力を保ち、
後に朝廷から袁術討伐の勅命を受けている。
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/23(金) 23:17:11 ID:YCcmdLll0
>魏に仕えた人間の経歴からはぼかされていることが多い。
袁渙なんかごまかしようが無いから書かれているが
袁術は袁渙を尊敬していてよく意見を聞いていたとかあって
それならお前は袁術が皇帝になったとき意見しなかったのかよ
とかそのあたりはうまくぼやかしてあるな
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/28(木) 00:04:07 ID:sH5nSZne0
ふむう
a
袁術からその生死について妻子に連絡があったという曹操も、一時期「袁術派」だったんじゃない?
袁術派の張バクの下にいたんだから反董卓連合の時期は袁術派だったんじゃないかな。
連合解散に前後して王匡を斬ったあたりで袁紹側に寝返ってると思われ。
領民が飢えに苦しんでるから内政に集中したいのに、逆賊どもが侵略してくるから徴兵せざるを得ない
そんな暗い顔をした民草に希望を与えんがために、悩み抜いた上で即位なさったわけでしょう?
偽帝リュウ協に対して天がお怒りになり、度重なる天災を与えたのだから、当然帝を変えるべき空気だったはず
少なくとも南陽では。いや、城の中では。いや、頭の中だけかも
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 12:27:42 ID:n+kZ3QEK0
何も考えて無かったから即位したって誤謬だけはこの世から拭い去られて欲しいな
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 23:33:16 ID:Ij7QeaTZ0
>>431 袁紹の命令で王匡は自分の妹婿の胡母班を泣く泣く殺害し、
後に曹操は胡母班の遺族と協力して王匡を殺害してる。
この点だけ見れば王匡殺害は袁紹に対する敵対行為にも見える。
袁紹派・袁術派というのはもっと曖昧だったんだろう。
袁紹の記録って、つまんないところがあって、
袁紹伝にほとんど載っていて、他の史料で別の側面が垣間見えるとか、
そういうのがあんまりないから調べ甲斐がないんだよね。
自己完結しすぎっていうか。
袁術は逆にいろんなところに記録が分散していて、
それを拾い集めることで本伝とは違った側面が見えてくるので面白い。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 23:26:43 ID:YHm5yscpO
テスト
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/09(水) 18:13:55 ID:qw7O7Ski0
age
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 15:41:52 ID:tqaNEZ5i0
楊修って袁術の甥らしい
楊脩の母親が袁術の妹だな
いとこの子とかじゃなくて、妹の子か。
えらい血筋近いんだな。
妹を嫁にするほど袁術と縁があったのに、
李カクが朝廷を乱しても袁術の元に身を寄せず、
中央で皇帝に仕え続ける苦難の道を選んだ楊彪偉い。
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 14:04:29 ID:vw8KmTAO0
楊彪は忠臣ってイメージ。
董承とかは正史だと野心家っぽいけど
袁術って宦官虐殺のとき自ら宦官殺したりしたのかな。
後漢書によると「宮門を斫(う)って之を攻める」
これは門を打ち破って中に突入したって意味じゃなくて、
門を攻めたって意味らしい。
その後あちこちに放火したって記述があるけど、
結局宮中に突入したのかどうか分からない。
「嘉徳殿に火を付けて段珪らをいぶり出そうとした」とあるから
門内に入って宮庭に兵展開してたんだと思う。
宮殿内まで侵入したかどうかは不明。
積極的に宦官殺しまくったのは袁紹
袁紹と袁術は
従兄弟という説と異母兄弟という説があるらしいけど
どっちが有力なんだっけ
どっちが有力というわけでもないだろう。
異母兄が伯父の家に養子に出たのだとしても、
従兄が父を失って叔父の家で養育されていたのだとしても、
系譜上は従兄弟になるからあんまり問題ではないと思う。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 15:46:07 ID:XZuqDaJu0
age
448 :
孫尚香:2010/02/18(木) 15:50:50 ID:NRfE5wVn0
分裂都是因為史弟內鬥
所以現今中國人總結出了一條道理
絕不內鬥
團結就是力量
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 21:19:58.78 ID:C/mKtm3M0
age
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 11:15:31.11 ID:MErxuqsuI
あげんなカス
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 13:25:49.89 ID:2MncyQfL0
袁術の玉璽は曹操の手に渡った後どうなったの?
本物は洛陽で燃えてしまったというのが正解
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/29(火) 00:42:47.20 ID:XN4sAy4g0
孫策が袁燿を捕まえたのに殺さなかったのが不思議でならない
縁の深い、元は恩義さえある人間の息子だもの。
脅威でなくなったのなら保護するのが当時の道義だよ。
>>452 献帝に返還された。
漢帝の手元まで戻ったということは本物ということになる。
ちょっとすごい話だね。
孫策が兵1000を与えられたのは、肥のゲーム的に言えば
「”空白都市”の丹陽を兵1000で落として、そこで”徴兵”コマンドしてきなよ」
みたいなもんで、別にケチとかじゃないんだよね
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 03:27:31.60 ID:RNtCn2oO0
孫堅の兵を惜しんだのは確かだけど、代わりに丹陽兵あげるって言ってるんだから充分割に合ってると思う
孫策jは別に袁術を裏切ったわけじゃない
劉表陣営における黄祖のような役割になっただけ
>>458 でも絶縁状叩き付けたし、祖郎とか袁胤を攻撃してるよ?
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 21:56:52.98 ID:Wpvjtj7c0
【袁術】 【袁紹】
弟 兄
孫家の親分 曹操の親分
道教的 儒教的
柔和 剛健
文治 武断
南船 北馬
フリーザ クウラ
キャラ的に対比させるとこんな感じか?
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 16:48:44.66 ID:PylqW7Ti0
多分違う
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/15(日) 15:25:51.56 ID:MQpmJQvo0
袁術は行政まともにやらず、民から略奪しまくり
チンピラみたいな人だったんだろう
そういう類の記述ってどうも胡散臭いんだよなぁ
玉璽を持っていると滅ぶ法則。孫堅、袁術・・・
玉璽は魅力マイナス100でいいような気がす。
玉璽って演義では劉備に渡ってるけど、実際はどうなのだろう?
袁術陛下が天下統一する架空戦記ものとかssってありませんかね?
多少オリジナル要素あっても構いません(紀霊や楽就の字が判明してるとか、袁燿が文武両道とか)
>>465 つ 言いだしっぺの法則
ところで、袁術が天下統一する目ってどの辺まであったんだろ
統一っていうか、天下人になるチャンスはいくらかあったな
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 20:28:20.40 ID:wqLakhMH0
袁術って漫画だとチンピラみたいに描かれること多いよな
天地を喰らう、李志清の三国志、覇LORD、・・・
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 05:27:34.90 ID:bYnnZ3jh0
袁術の国号が「仲」なのは何に由来してるのかな?
ちなみに袁世凱の国号はなんだったん?
七乃〜蜂蜜水が飲みたいのじゃ〜
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/28(木) 22:23:08.48 ID:PU+1rRxe0
three kingdomsの袁術はいい味出してたな
人間のクズとしては、レイモンド・ドメネクは袁術の生まれ変わりと言えるぐらいそっくり。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/01(日) 10:15:33.93 ID:Gnla1xCKO
>>464 正史では曹操を介し献帝の下へ戻り、唐代までは歴代王朝に伝存したらしい。以後逸失。
>>469 袁世凱の王朝の国号は中華帝国。
474 :
曹氏 ◆FFuF8qXBFw :2012/09/07(金) 21:06:00.38 ID:BId/NHuz0
玉璽見てみたいなあ〜
かの李斯が書いた字が見たい
玉璽の欠けてる部分も歴史を感じて良い
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/22(土) 13:35:39.41 ID:WLnjBrOP0
袁術
袁胤 袁燿
張勲 橋蕤
楽就 李豊 陳紀 梁綱(梁剛or梁紀)
紀霊 荀正
雷薄 陳蘭
楊弘 閻象 韓胤
劉勲 袁渙 魯粛
孫堅 呉景
兪渉 呂範
韓暹 楊奉
於夫羅 呼廚泉
人材不足すぐる
袁術は、レイモンドドメネク、鳥居耀蔵と同じタイプの人間のクズ。
この3人の共通点。
- 実務能力が絶望的なほど低い
- 阿諛追従の能力にかけては天才的
- 派手好き、金好き、女好き
- 人望がない
- 能力不相応の極めて高い権力志向を持つ
- 時代の流れに逆らう
- 下には極めて威圧的
- 最後は全ての人から見捨てられ、寂しく消えてゆく
>>460 ◆袁紹
・名家のランクは袁術より下
・政治は神(晋の時代になっても指示されてた)
・優柔不断
◇袁術
・名家のランクは袁紹より上
・内政能力は0だが敵国を攻めとる時は凄い
・欲に弱い
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 22:43:06.00 ID:R2YrXQp4O
>>476 鳥居燿蔵は実務能力はあったよ。後失脚幽閉後は虐待されていたがまわりから慕われて人望もあった。優秀だが非常に偏った人物で多くの人間に被害を齎した酷吏という感じかな。
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>467 呂布を助けに援軍出さなかったことで、完全に滅亡ルート辿ったって感じだな
呂布と袁術が助け合ってれば面白かったかもな