1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
劉備(161 - 223年、在位221 - 223年)は、東漢末期から三国期にかけての武将で、蜀漢の建国者。西漢の
中山王劉勝の末裔を称し、字は玄徳、諡号は昭烈帝。
三国演義においては、主人公格の待遇を与えられ、正義の君子として描かれている。
劉備は自ら西漢の景帝の第8子、中山王劉勝(生年不詳 - 前113年)の末裔と主張していた。劉勝には、劉貞を初め、孫
も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前116年に涿郡涿県の列侯として爵位を賜
った。だが、紀元前112年の年始頃に、劉貞は皇族のみに課された漢朝への上納金を納めなかったために、叔父である武
帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま涿県に住居していたという。そのため、系図もそこで止まって
おり、劉備との系図の繋がりを確認することはできない。以降の劉備の家系は歴史研究学者の事実に基づいた検証の積
み重ねの成果と、まだ発掘されてない当時の記録書が発掘されることを期待するのみである。
その一方で、当時の東漢では西漢以来の歴代皇帝の末裔に対して幅広い税の減免が認められていたため、一般の住
民が勝手に漢の皇帝の末裔の証しとも言える劉姓を名乗ることは重大な違法行為であり、もちろんそのような事を行なうこ
とは困難であったとされている。そのため、劉備の主張を単純に嘘と決めつける事はできない。
また、中山王劉勝は淫色に耽った王として有名であり、子は50人以上もいたため、約300年後の当時には中山王の末裔
は中山国を初め、涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく
劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。 逆に言えば、劉備が中山王の末裔だった可能性
も充分にあると言える。
なお、『三国演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられる場面が書かれているが、これはもち
ろん創作である。
最近三国志のスレが立ちすぎだと思う
何だかんだで狡猾な男だよね。
かなり「謀」も使っているし。
曹操ほど器用じゃないけど。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 20:30:06 ID:v/ODXrh/0
あちらこちらを転々とする疫病神だよな。
劉備を受け入れた勢力は、亡びへの道を歩み、
劉備はとっとと逃げるし。
それでも受けいられるのは凄いじゃないか。
( ゜Д゜)奪おー
>>6 多分、言葉では説明しにくい人間的な魅力があったんだと思う。
人物としての器があるとでも言うのかな。
結構、苦労しながらも付き従っている人が多いし。
正史で各人の劉備に対する評をまとめてみると結構面白いよ。
劉備も、どうも劉邦を意識して行動していた節があるように思う。
高祖の再来と言われたかったんだろう。
たくさん負けたのも高祖を見習ってw
子供の時に塾で学んだりしたようだし、
豪族とまでは行かなくても、
全くの百姓というわけでもなかったみたいだな。
後援してくれる商人もいたらしい。
そういう点じゃ、やっぱり人間的な魅力があったんだろうね。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:52:01 ID:xaGbAMT10
何だかんだでこの人、部下人材には恵まれているよ。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 13:53:52 ID:gbUr/f3P0
劉皇叔w
中山靖王劉勝ってすごい子沢山なんだし、その子孫と言うのが詐称なら、
劉備はいいところに目をつけたと言えるね。
ひょっとしたら劉備の先祖の代からの詐称の可能性もありそうだけど。
劉備個人の武勇はどんなものだろうね。
若い頃は、かなり勇ましかったのかな。
老いてからはあまり強い印象がないのだけど。
傭兵みたいなことやってたんでしょ。
「みたいな」事はやってないよ。
手は膝の下まで届く長さがあったって本当かなあ。
なわけない
23 :
名無しさん@お腹いっぱい:2007/02/07(水) 15:20:16 ID:6V6tFHQ50
>>11 見習ってるかなぁ?
劉邦の本紀と劉備の列伝見比べると、行動自体は似てない気がするんだが。
はっきりとしているのは、
劉邦 >>>>> 劉備
だな。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 04:51:37 ID:fYRIsTRvO
君主の器としては劉邦の方が上だが個人の能力としては劉備の方が上な印象がある
劉備に高祖のような数十万の総指揮を取れる能力があったかのかはわからない。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/08(木) 21:03:52 ID:fYRIsTRvO
いやだから劉備は高祖ほど将の将としては優れてるわけじゃないけど
一部隊の将軍としては劉備の方が優れてるといいたいわけで
某三国志漫画の○天○路では劉氏なのは形だけで
タテマエがあれば漢朝復活できる〜とかいってだが?
野に育った奴と、学問しちゃった奴の差かもな。
劉備って一部隊の将としては実際そんなに弱くないんだよな。
負けた時の相手が馬鹿みたいに強い奴ばっかりだったわけで、
特に旗揚げ時代の傭兵部隊の隊長やってたころなんか、
腕っ節と指揮能力で頭角を現したようにも見える。
何を今更
たしかに。今は21世紀だからな
ならこのスレいらないじゃん
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 21:22:58 ID:DsPYHZ7B0
歴史は繰り返すのさ
諸葛亮先生が加わるまで領土拡大とは無縁だったな
関羽や張飛・趙雲なんかが「この人こそ主君!」と思った理由はよく分からん。
後世の俺らから見れば、負けるほど出世する愉快な男だったり
筵売りから天下を獲っちゃったり、最後はちょっとしょんぼりだったり
なかなか面白い人物だけどさ、共に生きてる彼らには先のことなんか分からないわけで
一体何を思って劉備に就こうと決めたんだ?
それほど見栄えが良かったわけでもなさそうだし、「劉」姓もそれほど効力があったわけではなさそうだし。
なんかオーラでも出てたのか?
人間的魅力が有り余るほどあった、というのはくどいほど正史に描かれてる
しまいにゃ曹操まで騙されてるんだからこれがよほどのものと気づけ
すまん、正史は読んでないんだ。
そこそこの魅力だったら長い放浪生活の間に見捨てられたりしそうなものだが
いくら負けても逃げても皆ついてきてくれるあたり、本当によっぽどのものだったんだろうな。
やっぱり全然具体的な想像はつかないけど。
劉備が人を食った話
劉備が感動した美談であるとされているが、出典がわからん。
なんか、いつもこの疑問を出してもさらっと流される。
他にも食人にはこんな例があるよ、っていうのを求めてるわけじゃないんだが。
「劉備が感動」の部分と「美談」の部分の出典がほしい。
蜀漢の成都って、城市としてはどれぐらいの規模だったんだろう。
地方政権とは言え、一応都城だしね。
>>38 何が聞きたいのかよく分からないけど出典は演義の19回、
劉備が感動したのは劉安が妻を殺してまで自分をもてなそうとしたことでしょ
現代の日本人にとっては酷い話だが
>>40 該当部分をちくまから持ってくると、
>劉備は仰天してわけを聞き、はじめて昨晩食べたのが、劉安の妻の肉であったことを知り、
>胸つぶれる思いで、ハラハラと涙を流しながら馬に乗った。
これを読んでも劉備が感動してるようには思えない。
なぜこれが美談とされていると思われているかというと、この部分の
>玄コ不勝傷感
という表現を、日本で小説にする時に、
>玄徳は感傷してやまなかった
と書いてしまったのが原因だろうと思う。この後に鉢の木をもってきてることからも、
感傷=感動と解して、美談だとしてるんだろう。
しかし、もしかしたら美談の出典は他にあるのかもしれないと思った。
>35
関羽張飛よりも腕っ節が強かったりして。
劉備ってこんなヤツ
劉元起 「一門の人間の中で並みの子供ではないからだ」(先主伝)
麋竺 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)
袁紹 「劉備は度量が広く立派な信義のある人物だ。劉備が徐州を治めることは私の希望に沿ったものでもある」(先主伝注)
呂布配下諸将 「劉備はしばしば態度を変えるしてなづけるのは不可能。始末するべき」(先主伝注)
程c・郭嘉 「ずば抜けた才能を持ち人心もつかんでる。最後まで人の下にいる人物ではない。始末するにしくはない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
呂布 「この男が一番信用できんぞ」(呂布伝)*
曹操 「今、天下に英雄と言えるのは君と余だ。袁紹などは問題にならん」(先主伝)
程c・郭嘉 「劉備を自由にしてはいけない」(武帝紀、程c伝、郭嘉伝注)
董昭 「劉備は勇敢にして大きな野望を持ち関張がその羽翼となっているので信頼してはいけない」(董昭伝)
曹操・郭嘉 「劉備は人傑であり今攻撃しないと後の災いとなろう。袁紹は機を見るに敏でなく行動を起こさないだろう」(武帝紀、郭嘉伝注)
張遼他 「北方討伐の隙を突き劉表に説いて許を襲撃するに違いない」(武帝紀、張遼伝注)
傅巽 「劉備では曹操に対抗できない。仮に対抗できるとしたらいつまでも劉jの下位にはいないだろう」(劉表伝)
程c 「劉備は英名があり関張の武は万人に相当する。孫権は彼らと協力し我らに抵抗するだろう。それはやがて分裂するだろうが、その時にはもう劉備を殺すことは出来ないであろう」(程c伝)
曹操 「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」(武帝期注)
劉巴 「劉備は英雄で受け入れれば必ず害をなすので断るべき」(劉巴伝)
黄権 「劉備は勇名を馳せており、部下として遇することは出来ず、賓客として扱えば二君を認める形になる。国境を閉鎖して入国させてはならない」(黄権伝)
劉巴 「劉備に張魯を討たせることは虎を野に放つのと同じことだ」(劉巴伝)
趙戩 「用兵は稚拙で逃走にあけくれてる。一方、蜀は小国と言えど堅固な地である。併合は不可能だろう」(先主伝注)
傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。また政治・戦略に優れた諸葛亮が大臣となり、勇敢で万人を相手に出来る関張が将軍となっている。成功しないことがあろうか?」(先主伝注)
張魯 「曹操の奴隷となっても劉備の上客にはならん」(文帝紀注)
劉曄 「劉備は人傑で度量もあるが行動は遅い。今蜀を手に入れたばかりでまだ治まってないので今これに付けこんで押しつぶすべき。さもないと政の諸葛亮、武の関張らを用い要害を利用して防備し再び犯すことは不可能となろう」(劉曄伝)
曹操 「玄徳がこのような策を考えつくわけがない。誰かの入れ知恵に違いない」(法正伝)
龐徳 「劉備は小物に過ぎない。わしは国家の鬼となっても、賊の将にはならん」(龐徳伝)
賈詡 「劉備は優れた才略を有し群臣にこれに匹敵するものがいない」(賈ク伝)
劉曄 「劉備と関羽の関係は道義では君臣だが恩愛では父子。小国といえども必ず報復の軍を起こすだろう」(劉曄伝)
曹丕 「劉備は戦争を理解していない」(文帝紀)
陳登 「傑出した雄姿を持ち王覇の才略を備えている点で劉玄徳を尊敬している」(陳矯伝)
裴潜 「中原にいれば乱を齎すことは出来るが太平を招くことは出来ない。しかし要害の地を占めれば一方面のあるじとなるだけの器量はある」(裴潜伝)
彭羕 「劉備は老いぼれて話にならん」(彭羕伝)*
(*付きは悔し紛れの罵詈雑言なので除外してもいいかな?)
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 17:46:24 ID:5WUhnEijO
こうして見るとほんとに劉備って不思議な人物だね
三国志で一番得体の知れない人物だな
呂布と愉快な手下たちはそろって「こいつ信用できないよ」って思ってるのか。
お前に言われたくないよバーカバーカw
現代日本で抱かれているイメージだと
>傅幹 「劉備は度量があり部下に力をふりしぼらせる事が出来る。
ここらへんが一番近そうかな?
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 12:37:27 ID:/0CCQ39Y0
>>43これは稀に見る良レス
すばらしい
高祖、光武帝のDNAが含まれてると信じてしまうな。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 14:19:29 ID:ODzlr6Q6O
もしかしたら高祖の血は引いているかもしれないけど、光武帝の血は引いてないよ
そうだった!
むしろ、程cとか予言者かと思ってしまう。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:59:04 ID:vmMeqhK/0
この大耳野郎が一番信用できねェ! by呂布
呂布配下に「しばしば態度を変える」なんてそこまで言われるって、
その頃の劉備にそんな前例あったっけか?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 12:57:14 ID:VCwNSQ/00
>>51]
公孫サン→田楷→陶謙→徐州牧→親曹操派
これくらいかなあ?世渡り上手。
袁術派だった徐州を問題起こさず袁紹派にするというアクロバチックな真似してるしなぁ
これ全然目立たないけど当時の中原のパワーバランスを一気に塗り替えてるよ
徐州が袁術派ってソースは何なの?
確かに陶謙は袁術寄りか、と言われると微妙だね。
公孫サンあたりは袁術寄りらしいけど。
最初に袁紹派袁術派とか言い出したのは誰なんだろうな?
ある場面を切り取ればそう見えなくもない一面もあるが、ほとんどはその場の都合でころころ変わってるのに。
その「都合」ってのが袁紹袁術を軸にしてるからじゃないの?
>>57 実はあまりしてない。
敵の敵は味方程度。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 23:47:25 ID:ZtyCdL9v0
結局は、みんな自己利益中心に動いていて、
有利に見える方についていただけじゃないの。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 15:33:25 ID:fslYCW750
こうしてみると
劉備恐ろしい子
しかし
糜竺が今一よくわからないんだよな
当時金持ちだったのに全財産を劉備に与え
妹を与え劉備が逃げるとき付いてきて
曹操に誘われても断ってるし
あまつさえ弟が裏切ったとき自分を縛り付けて宮廷に現れてるのだから
この男は劉備をどんなふうに思っていたのだろう
金持ちだけど器用貧乏な自分が余り好きではなく、
劉備みたいな抜けてる非常人に必要とされることで充足感を得て、
彼の天下取りに自分の人生を委託してる感がある。
高祖之風ってヤツかなあ。
大物ぶることが大物の証なんだろう。
乱世にあって皇帝にまでのしあがり、曹操も一目おいたほどの器量人。
高祖の風とか持ち出すまでもなく、その程度の力はあっても何も不思議はないんじゃないか
>>60 うん、本当に恐ろしい子だ。
普通なら死んでそうな状況を、なんだかんだでしぶとく生き残っている。
劉備の最大の英雄的行動は徐州の大虐殺に寡兵で抵抗したことだろう。
徐州の豪商だった麋竺が私財を投げ打つほど惚れ込んだのは分からなくもない。
人と時勢を見る目はたいしたもの
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 06:40:04 ID:LxTxBTAq0
age
>>43 演義の劉備だけでなく、正史の劉備も知りたくなった。
今までなかなか手が出せなかったが正史を読んでみるわ。
このスレに感謝
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 00:31:35 ID:dU1GtozS0
正史の劉備ってかなり乱暴なことやってるんだよね。
例えば演技では督郵を殴りつけるのは張飛だけど実際
には劉備がやっている。『蒼天航路』の劉備はおおよそ
史実を元に作ってると思う。
>>69 蒼天の劉備は軍事弱すぎるし士大夫らしくもないから史実とまるで別物
こうして見ると、曹操と比べても遜色ない面白い人物だ。
>>69 蒼天劉備は何故か農民出身にされてるから全然話にならない
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 02:04:31 ID:GYxEYCQFO
歴史にIFはタブーだけど劉備が漢中王になったあと関羽死なずに荊州も失わないで曹操どドンパチやってくれてればなぁ
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 08:01:36 ID:y8z3Ydxu0
>>73 確かに万全の状態の劉備と曹操で合戦をして貰いたかったな
もし関羽以外に荊州を守らせるとしたら誰が良かったんだろうか
あの時点での劉備陣営で一州任せられる将軍って他に誰か居たんだろうかね
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 08:58:45 ID:UOKKH/xY0
張飛
魏延
どっちも一州レベルは難しいと思うが
関羽の他にはいないんじゃないかと思う
こいつ現代に女として生まれ変わってたら「魔性の女」なんじゃね
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 23:36:31 ID:G8tRg0hA0
劉備ちゃん……むうう……
荊州出身といわれる魏延を荊州においたら、叛乱しろというようなもんだろw
劉備が生きてる限り、魏延さんが裏切るわけなかろう……
たしかに魏延さんは裏切らないけど、あれは魏延とは別の人だからさw
>>77 どの時代に生まれてても魔性の女だ。
日本の戦国時代に、女として生まれ変わるトンデモ漫画とか面白いかもしれん。
劉備としての記憶を持ったままあっちの君主、こっちの君主にフラフラしてみる。
信長に対してはお約束として「こいつ曹操に似てる」と思わせたり
謙信に対しては「確かに強いけど、こいつが天下統一したら民は暮らしにくいだろうな」と思わせたり。
それなんて無双オロチ?
>>43 > 麋竺 「劉備でなければ徐州を治めることが出来ない」(先主伝)
ごめん。これ病床にある陶謙が麋竺に向かって言った言葉だった。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 04:04:12 ID:EZcfPEbKO
高祖の風あり
毛だし
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 23:42:28 ID:/eVtPcsH0
何か劉備が女とかいう設定の歌舞伎か何かやってなかった?
遺言からして只者ではないわな
仁義なき戦いの山守義雄が劉備のイメージ
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 09:37:51 ID:r/3cPwH7O
有るためだ
>>87 なんだっけ?
劉禅が糞だったら孔明が後をつげだったっけ
曹操にとって最大の敵は袁紹で最悪の敵は劉備だな
あんなに高く評価してたのに徐州ごと裏切ったり赤壁で孫権を焚き付けるのに間接的に一役買ったり
夏候淵は殺したり関羽を使って曹操に遷都を考えさせるほど脅かしたり曹操にとって最大の不幸は劉備と同じ時代に生まれた事かもしれない
>>91 まあ逆に劉備にも同じことが言えるわね
「劉備≒モーツァルトの天才に嫉妬する秀才のサリエリ」ってどっかで見たことある
>>91 劉備が曹操と戦い続けたのは、曹操の度量が自分を受け入れないと思ったから、
と陳寿は書いている。まさに孫権辺りとは次元が違う両雄並び立たず状態だったわけだ
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 17:44:25 ID:wpgDuemV0
>>91 劉備は、劉邦なんて雑魚に執着していなければ天下を取っていたのに。
漢王室を保護している人間に対しての謀反なわけだから。
劉備は逆賊。
>>94 今だからこそ劉備は忠臣なんて評価だけど当時の知識人や民衆の大多数はそう思ってたのかもな
そう思わなかった少数の奴やもしかしたら的に賭けた奴が劉備に仕えたんだろ
あと中国は出身閥が大きいから益州組は魏じゃ出世見込めないからほとんど劉備の下に入ったんだと思う
劉備は現在の北京近くで生まれ育ち、各地を流浪して最後は白帝城で亡くなるわけだが
彼が生涯で移動した距離はもの凄いと思う。
当然のことだけど体は丈夫だったんだね。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 16:10:57 ID:HLa/fWdh0
漢高祖と比べたら劉備の移動した距離なんて大したもんじゃないな。
曹操と比べてもかなり少ない距離じゃないのかな?
とんでもない妄想なんだけど、
劉備たちって実はホモなんじゃないか?
仲良すぎね?とかいうのならアレだが、一緒に寝たとかいう話なら
同じ布団で仲良く寄り添って寝たわけではなく、頭と足、互い違いに寝たらしいぞ。
眠る前にアッーがあったかどうかなど分からんけどな。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 02:41:57 ID:4JBHCL850
三兄弟の体格だと、一般的なイメージだと関羽と張飛が巨漢で、
劉備は小柄だな。
弟たちに組み敷かれる兄・・・・・・
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 12:04:37 ID:oDL6b7iD0
う〜ん、なんていうか桃三兄弟はいわゆるヤクザの兄弟関係だからねぇ。
「仁義なき戦い」のモデルになった人たちの集合写真見たけど、手握ったり肩に首を持たれかけたりとなにかとベタベタしていた。
こういう関係の人たちって皆こういう感じだと思う。
りうびはイケメンにあらず
>>103 侠に限らず、あの時代では信頼関係のある者が、共に寝るのは当たり前のこと。
逆に女性とは一緒に寝ることはない。
当時の風俗を知ろうともしないで勝手な憶測でものを語るな。
裴潜 「中原にいれば乱を齎すことは出来るが太平を招くことは出来ない。しかし要害の地を占めれば一方面のあるじとなるだけの器量はある」(裴潜伝)
予言というならこれだな。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 05:50:10 ID:LwIfStsA0
まあ劉備よりは、諸葛亮やむしろ関羽張飛のが行政官としては優れてたかも知れんしな。
でも裴潜は自分が外面の悪さや出自で差別されてたみたいだから、
見た目の良さや生まれで上手くやっていた劉備に対しての腹いせもあったんじゃないか?
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 12:17:10 ID:VNUFqpwe0
賈詡 「劉備は優れた才略を有し群臣にこれに匹敵するものがいない」(賈ク伝)
この評価はどうよ。賈詡の人を見る目に定評があるがこれは褒めすぎてない?
「才」だけなら先主より上はいくらでもいただろうが、
「才略」となると魏武くらいしか相手にならなかったのでは?
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 14:54:20 ID:VNUFqpwe0
>>110 108だけどそう言われて原典を探ってみれば:
以下はその発言の一部
吴、蜀雖蕞爾小國,依阻山水,劉備有雄才,諸葛亮善治國,
孫權識虚實,陸議見兵勢,據險守要,泛舟江湖,皆難卒謀也。
用兵之道,先勝後戰,量敵論將,故舉無遺策。
臣竊料群臣,無備、權對,雖以天威臨之,未見萬全之勢也。
要するに劉備に「雄才」があり、補佐に孔明がいる。
問題は『臣竊料群臣,無備、權對』の意味
臣が思うに、(魏の)群臣に劉備、孫権に敵う人がいないと訳するのはありだけど、
群臣は劉備孫権対策まだ練り上げていない、天威だけじゃだめとも読める。
というか『隆中対』の「対」の使い方を見れば後者のほうが割と近いと思う。
たとえ前者であってもその「備」はどうも劉備本人だけでなく、
諸葛亮も含めて一勢力として挙げられた感じ。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 15:01:47 ID:VNUFqpwe0
あと文脈の流れでも、用兵はまず必勝の策を用意しなければならない
という文が直前にあるから、やはり対策がまだ用意されてないって意味かな。
多分文帝頃のそこら辺の若い家臣たちは劉備討伐なんか
策などいらないって騒いでいるのを見てこの発言をしたのではないかと。
何だかんだ言って、最近は劉備は使えない奴扱いされることが少なくなったな。
何でだかわからんが、俺は劉備が「人柄だけで能無し」だと認識していた時期が無い。
演義から入らなかったからだろうか?
俺もだな
演技だって冷静に読めばなんとなく嫌らしさがプンプンとただよってくる
陳寿の評。
「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、
人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、
英雄の器を備えていたといえよう。国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、
何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、
永遠に手本とすべき事例である。好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、
魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。
しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、
彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。
単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」
(「弘毅寛厚、知人侍士。蓋高祖之風、英雄之器焉。及其挙国託孤於諸葛亮、而心神無疑貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。
機権幹略、不逮魏武、是以基宇亦狭。然折而不撓、終不為人下者、抑揆彼之量必不容己。非唯競利、且以避害云爾」『蜀志・先主伝』)
人柄も能力も一流だな(能力は曹操には及ばないけど)
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 15:00:46 ID:D3mP+05G0
曹操って多才なんだけど、一部の能力を除くと他の英傑や武将にはどれも劣るような気がする。
曹操は人材を好んだと言われるが、それも個人的には劉備の方が当てはまる。
劉備はあまり身内びいきも謀殺もしなかったしな(してるけど)
曹操と劉備のちょうど中間ぐらいの人材マニアが孫権って印象だ
曹操の謀殺というと周不疑が思い浮かぶな
いくら先行き恐ろしいからって十代の若者を始末するなんて、なあ
曹操は人材コレクターって感じ
果たしてコレクターが一番上手に使えるかと言うと……
コレクターだからって上手に使えるかどうかは不明だが、記録に残る限りの
曹操は人材を上手に使っている。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 10:42:34 ID:NrHngCRi0
権力者や資産家は謀殺してから財産を没収してるな。 確かに、上手いやり方だと思う。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 18:58:55 ID:RzaakgU70
劉備って騎兵隊を率いてて強かったんだろ?
馬術に優れた人材や軍勢を吸収してるし
劉備の雑虎軍
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:00:45 ID:dFO3Vpbz0
劉備もヒゲが貧相だと言った人をいつまでも根に持って
入蜀後、殺している。
人前で言われ恥かかされたと思ったんだろうか?
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:14:31 ID:Or7t+ftjO
玉ナシヘナチン野郎
と言われたようなものだったんだろ
関張がいつも隣にいるんだから、そりゃある意味しょうがないような・・・
イリョウの戦いではぶっちゃけ劉備はどんぐらい勝算あって臨んだのだろうか気になる所なんだが…
劉備は戦においては適切な判断や行動が取れる人間を積極的に重用できる人だけど
夷陵では「こうするべきでは無かった」と記されるような行動が多いな。
戦死者も多過ぎるし、ハッキリ言って夷陵に勝っていたら
「劉備は戦下手」だと思う人は出ていなかったんだろうな。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 21:52:10 ID:d+MFdima0
蜀にとって、荊州の領土は死活的に重要だったから、
一か八かでも、やるしかないって感じだったんじゃないのかな。
馬良モッタイナス
>>131 中原への道を閉ざされて、蜀に閉じ込められてしまうような感覚だったのかもね。
劉備は勝ち目もなく戦争なんか仕掛けないぞ。
現に兵力が寡少だった前半生は逃げ回っている。
夷陵は地形と陸遜の器量が想定外だった。
それで後に晋は陸路を避けて水軍で荊州を攻めて呉を落とした。
夷陵も若干兵数は呉より少なかったみたいだけどね。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 09:33:08 ID:QDV02o7R0
荊州はどうしても欲しかったってことか
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 11:23:10 ID:BmBy4L3j0
劉備は基本戦ベタなんだから、出て行くべきじゃあなかったんだな。
出て行った理由としては
@義弟(正史じゃそんな記述は無いが)の関羽が殺されたことに対する威信の回復。まだまだ蜀は元気ですよーっていうアピール
A荊州を失うと三国鼎立の基本構想が崩壊(中原制覇には漢中、荊州からの2方向作戦が欠かせない)
B荊州派閥からの圧力(劉備陣営で重きをなしたのは主にこの派閥)
結果的に荊州を失ってしまったことで、中原制覇はほぼ不可能になってしまったのは後の歴史からも明らかなんだな。
考えてみれば、これは関羽の敗死、荊州失陥以前における蜀の外交戦略があまりにもお粗末だったから生じた結果で
あって、夷陵どうこうという問題でもないんだな。
そもそも蜀の存在意義の大前提は漢の復興であるわけだから、まずは、簒奪者である
魏を討伐するのが第一義であるわけだな。
それならば国力を考えても、呉と同盟関係を維持し、2国で魏に対するのが大前提なんだが、
荊州の分割問題なんかで、呉との関係は悪化の一途(ロシュクが生きてたらまだ良かったんだが...)、関羽は政略結婚を蹴ってしまう。
もう少し呉に譲歩した外交を進めていればあんな結果にはならなかったんだな。それどころか関羽なんかは呉をなめきって、食料まで分捕って参戦の口実
を与えてしまうし。
劉備に至っては魏に対抗して皇帝になっちゃうし(漢最後の皇帝...霊帝だっけ?はまだ生きてる。劉備もそれは知ってて、あえて殺されたっていうデマを信じた
フリをして帝位に登った。このことで、以前は劉備に好意を抱いた名士層が魏内部にもいたわけだが、一気に冷められてしまう。ああ、漢の復興だなんていっておいて
結局お前も皇帝になりたかっただけなんだな、って。)
面子と領土と軍団と盟友を失って出てくなってのは無理だろ。
背信行為には死あるのみ。
力不足が問題なのであって、間違った行動ではない。
献帝
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 11:53:31 ID:BmBy4L3j0
ああ、献帝か。
>>138 力不足ってのがわかってて出て行くのが問題。
深入りせずに示威行動だけでよかったんじゃあ?
むしろ夷陵に負けたから戦下手って呼ばれているんだと思う
>(漢最後の皇帝...霊帝だっけ?はまだ生きてる。劉備もそれは知ってて、
>あえて殺されたっていうデマを信じたフリをして帝位に登った。
可能性は以前からいわれていたけど、
デマを信じたフリをしたってのが確定したの?
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 14:45:15 ID:QDV02o7R0
>>142 >デマを信じたフリをしたってのが確定したの?
確定はしていないはずだが
知ってても不思議ではないと思う
臣下が教えなかった言うなら可能性はあるけど
とりあえず即位反対した奴は殺されるか左遷されてるな
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 21:55:39 ID:BmBy4L3j0
多分劉備は知ってたはず。なんせ、魏が簒奪してからわずか6ヶ月(10ヶ月だったっけ?)
で皇帝になっている。こんなに素早く帝位につくのには、やはり生死の確認が十分で
無い段階でつく必要があったためと思われる。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 22:09:21 ID:QDV02o7R0
断定じゃないな
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 00:09:51 ID:eXVfVzBgO
献帝が生きていようが、死んでいようが、劉備にとってはどっちでもよかったんじゃない?
死んでたら、自分が献帝に代わって漢朝再興したといえばいいし。
生きてたら、生きてたとは知りませんでした、漢朝が纂奪されたままでは大義がしめせませんので代わりに位に即いたといえばいいし。
もし、献帝が生きてる間に魏を滅ぼせたなら、形だけ帝位を返上して、献帝から再び禅譲されるように工作するのも可能だし。
孔明は反対しなかったんだろうか>帝位
>>147 理論はそうかもしれないが実際は献帝が生きてるのに帝位についたら大逆罪以外の何者でもない
ハッキリいってしまえば帝位についた時点で劉備の漢朝復活という大義はなくなってしまったともいえる
蜀では献帝のことはタブーだったって説もあるしやはり蜀の暗い一面だと思う
滅ぼされる側になれば大逆罪
統一する側になれば天命が下った
そんなもん。献帝も一旦帝位を失ったんだから光武帝における孺子嬰や更始帝みたいな扱いを受けるだけだ
まあ実際は曹丕と同じ穴のムジナになるから魏を討つ大義名分がなくなるだけだ。
だがそれこそが国家目的を揺るがすほどの大問題だったわけで。
>>137 戦上手いぞ
下手だと言うなら何を根拠に下手だと言うのか言ってもらおうか
上手い根拠はいくらでもある
赤壁以後から漢中制圧までの動きは戦下手にはできない
>>151 バカ?
禅定を認めるってことは「私は漢の後継である魏に対して弓引く逆賊です」ってことだぞ
ここでは「逆賊の似非禅定はなしで漢の社稷を守る俺達が正統」という登極宣言がないと正当性を失う
>>152 レス番間違ってないか?
あと、日本語でよろしく。
劉備の即位は結果的に生きている漢皇帝の正統の否定にもなってしまう。
正統が途絶えたのなら義をもって自ら正統を宣言するのも可なんだけど、
本物の正統をさしおいて自分が正統と主張するのは無理なんだ。
だから献帝生存を認めると、形式的とはいえ禅譲を受けた魏を叩く理由が弱まる。
蜀が魏に匹敵する大国ならともかく、国力の差を正義の力で埋め合わせようと
いうんだからここは切実な問題だと思うよ。
家臣は欲や義理で動かせても国民はそれだけじゃ動かないんだから。
献帝自身が逆賊曹氏にもっとも尊いものを譲り渡したロクデナシ。
これは高祖にも光武にも「不孝」と言ってよく、一族の劉備に対しても「不順」である。
はっきり言えば譲位を拒んで自害すれば良かった。
彼の為に多くの志士が死んだ。
どうして彼自身は死ぬべき時にそれから逃れようとしたのか?
禅譲によって、彼は天子としては死人同然になったし、
劉備が帝位を僭称したところで、もはや単なる「劉協」では「不忠」の対象ですらない。
今更何をか言わんや、ってとこ。
社稷を保てない前漢の正統は絶えた。後漢だけがどうして例外なのか?
>>153 禅定に対して「その帝位は間違ってる、こっちが本物」
と劉備が漢の皇帝にならないと魏の正当性を否定できない
ところが
>>151で「まあ実際は曹丕と同じ穴のムジナになるから魏を討つ大義名分がなくなるだけだ。」
と言ってる
二行目の「だがそれこそが国家目的を揺るがすほどの大問題だったわけで。」というまとめで前行を受けて
「劉備から大義名分が失われたことが国家目的を揺るがす程の大問題だった」
って意味になる
これでは劉備の登極が間違ってたという主張をしてることになるね
劉備が献帝生存のまま即位しても漢皇帝の正統の否定にはならんよ
天下の紊乱を招き簒奪を受けた皇帝は徳が無かった
漢の火徳はその前帝から劉備に移り、蜀の金城湯池に拠って立ち天下を簒奪者から奪い返すのだ
皇帝が廃位になり漢帝国の祭祀が一瞬でも断たれるのは皇祖皇宗に申し訳が立たないので劉備が即位するしかない!
という論法になるからね
勿論死んでた方が都合がいいので死んだことにしといたんだろうさ
>>154 後世からは三国鼎立に見えるけど実際は魏と反乱勢力その1、その2だからさ
献帝にしてみれば「ああ、もう何してもだめじゃんね」って感じで死んでも意味ないと思ったんだろうさ
じゃあ捨扶持貰って悠悠自適でいいやぁって誰でも思う
俺もそう思うだろう
>>154 徳川慶喜を俺は評価してないのでまったく同意
>>155 袁紹みたいに献帝の正当性を以前から批難していたのならともかく、曹操への対抗上
献帝を持ち上げまくってた劉備がそれいってもねえ。
ちなみに、行動だけをみると、劉備は献帝の権威を攻撃しまくっていたが。
勝手に王号を僭称したり、はては帝号を自称したり。
>>157 その時の状況に応じて劉備が言い分を変えるだけ
玉虫色の対応してとにかく正統は自分、魏は偽者って言うだけのこと
>>157 漢中王に就いた時には上表してるし、それ以前に孫権と同盟した時にも互いに上表しあってる。
劉備はきちんと漢室の権威を立ててきてる。
あと「君側の奸」という便利な言葉もあるしね。
その見方は一方的に過ぎる。
もっとも仮に劉備が献帝在位中に曹操を討つことが出来ていたら、献帝を譲位させたかもしれんがなw
>>159 「諸事情で漢中王名乗ることにしましたんで事後報告はしておきます。あ、そちらの許可が
なくともやめませんから」
のどこが権威を建てていると?
正当性を云々すれば、曹魏にきまっている。皇太子でもなく法的な資格もなく勝手に帝位を
名乗ったという点で、劉備の即位は袁術のそれと大差ない。皇族なら勝手に帝位を名乗っても
いいよなんてそんなこと認めたらどうにもならん。非常時に名乗るは個人の自由だが、それも
正当性の部分ではやはり疑義をさしはさまれる偽者にすぎない。
偽者が本物になる方法は一つ、本物を抹殺すること。しかし劉備と蜀はそれに失敗した。
>>160 朝廷を曹操が牛耳ってる時点で何をいわんや、だなあ。
というか君はまさに王朗だな。
朝廟が危ういときにもただひたすら簒奪者に媚びへつらって我が身の栄華を図るのは確かに利口ではあるね。
劉備も孔明もそうすればよかったのにねえ・・・曹操にへつらっていれば安穏と暮らせたものを。
>>152 まあ言葉遊びみたいになるけど
「弱くは無いが戦上手ではない」という印象はありますな。
曹操、呂布、袁術らには負けていましたし。 まあ彼らは戦上手の代表みたいな人物ですが
後は夷陵の大敗が一番大きいと思いますよ。
袁術のどこが戦上手?曹操にやられっ放しじゃん。
呂布も後ろを掠め取るばかりでとても戦上手とは…
「戦上手でも勝ち星が少ない」でいいと思うが。
劉備がその能力を最大限に発揮するのは生き延びる時だしなぁ
だから三国志11だと特技で遁走を持ってるんだろうな。
どんなに敵に囲まれても生き延びる、みたいな。
>>166 川を飛び越えたり孫権の元から無事逃亡した逸話からじゃない?
徐州のときも関羽はマヌケにも捕虜になり張飛なんか世をはかなんで山賊になってたのに劉備は着実に目標に向かって進もうとしてたからな
この辺後まで共通の思い込んだら例え一人になってもやるような頑固さがあるな
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/26(木) 04:33:33 ID:hfvoLzKZ0
『後漢書』列伝第六十・孔融伝
「・・・・(略)備驚曰、孔北海乃復知天下有劉備邪。・・・」
劉備が発したこの言葉の意味を教えてください。
見たまんま
劉備曰く、コウユウが、
『劉備は邪心もちであると天下は知る』
と言ったことに驚いた
違うかw
173 :
170:2007/07/26(木) 13:52:16 ID:+AKG0plF0
>>172 訓読は「・・・備驚いて曰く、孔北海(融)乃ち復た天下に劉備有ることを知る邪、と。・・・」
自意識過剰にしか思えないのだが、どういう意図での発言なのかイマイチ分かりかねる。
天下の意味ちがくね?
どう違う?
孔融は管亥に包囲されてしまった。そこで孔融は太史慈を使者として劉備に救援を求めた。
劉備は驚いた。「孔融殿は、この広い世間の中で、この劉備ごときの名を知ってくれていたのか」
そこで三千の兵をもって救援して敵をやぶった。
なるほどね。しっくり来るね。
じゃあ「復」の意味は何?「復」が無ければ多分自分もそう読んでいたとおもうけど。
孔融が黄巾に囲まれてピンチに陥り、太史慈を劉備の所に使いにやって援軍を求めた。
劉備は「孔融さん(のような偉い人)が、天下に俺(のような小物)がいる事をご存知なのか」
と驚いて援軍を送り、黄巾を蹴散らした。
みたいな意味だと思う
「復た」の意味まではよく判らんが、他の大物軍閥じゃなくて
自分を頼ってくれたことに驚いたんじゃないか
うわ
かぶってた
復た
「『いったい』という語気を示す副詞」だって
「諾」
孔融は大物に助けてもらって借りを作るよりも
その辺をフラフラしてて腰の座ってない劉備に頼んだ方が
後々面倒が少ないとか思ったんかな。これは勝手な想像だが
>>182 > その辺をフラフラしてて腰の座ってない劉備
その頃は公孫瓚のもとで軍功を上げていた時期だからそういうことでも無いと思うが……
劉備の平原郡と孔融の北海国(この時は篭城していた都昌も北海国の一県)の間には済南国と斉国しかない。
太史慈に兵三千をつけた後、すぐかどうかは分からないが、劉備は袁紹に当たるため田揩と共に斉国に向かってるから、
頼りになりそうなヤツの中で一番近いのが劉備だったんじゃない?
孔融と陶謙、袁紹の関係性はどうだったのか良くわからないから断言はしないけど。
孔融が袁紹も曹操も嫌いだった事が
劉備の援軍の話の直後に出てる
っていうか、孔融や王允といった文官は、”威”をちらつかせるような輩は悉く軽んじていたらしいからな。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 03:31:39 ID:S3X2j2Ne0
その点、誰にでも腰が低かったという劉備はうってつけだったか
文民統制という概念から考えると孔融らの発想もある程度理にかなっているな
単純に当時は軍閥の力が異様に強くなってしまったという現実でもあるが
そのへんでも劉備の「学歴」がモノをいってるよな。
武官上がりの傭兵隊長だったら後継指名どころか呼ばれさえしなかったかも。
公孫瓚の呼びかけに応じて陶謙も袁紹包囲網に参加した。
劉備も公孫瓚の配下として高唐に駐屯した。
その後、陶謙が袁紹ラインである曹操に攻められると劉備が救援に向かった。
陶謙が死ぬと劉備がその後を継ぎ徐州を支配した。
そして何故か袁紹と孔融も劉備を推した。
なんか不思議だよなあ……
やっぱり劉備には説明できない魅力があったんだろうなあ
何もしなくても嫌われる俺とは大違いだ
>>189 それまで親袁術的な立場だったのが、公孫瓚から独立して親袁紹になったんだろうな。
孔融はかつての関係があるから不思議ではないし。
より有利な陣営に次々移るってのは節操ないとも言えるけど、完全に独立できるような状況じゃなかったんだから仕方ない。
曹操だって袁術を倒すまでは袁紹からは完全独立していなかったようなものなんだし、群雄なら誰でもやってること。
ただ劉備は陣営を移る時の見切りが凄い。
>190 劉備は外見が良かったから
耳が肩までたれてるなんて外見がいいか?
少なくとも俺は気持ち悪いと思うぞ
手長で耳デカってのはオールマイティな人間だったって言う比喩じゃなかったっけ
腕が膝を超える人間なんてあり得ない、仏様が大耳・手長に描かれることが多いから
劉備の異相も仏教の影響だろう、という説を複数の研究者が唱えてる。
当時どれだけ仏教が普及してたか、という疑問がないではない。
劉備の耳長手長って外見的特徴は正史にも記述あったんだったっけ
バッチリ書いてあるよ
先主伝に
「手を下げると膝にまでとどき、ふり返ると自分の耳を見ることができた。」
とある。
考えてみるとキモイな
手長猿かリトルグレイみたいな容姿だったり
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/30(月) 10:41:03 ID:RBapHOJm0
孫権も似たような体型だったと劉備本人が言っている。
腕長はなぜか魏晋南北朝の人物に多いような・・・
苻堅は手が膝に届いて、目に紫光があったというから
劉備+孫権みたいな感じか?
むしろ劉備が符堅に被ってそう
どういう事かな?
司馬炎は髪が地面に届くとかうんぬんなかった?
ロン毛、腕長だね
劉備はロリコン
現在に生まれてギタリストになってたらすげーな!
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/24(金) 16:36:40 ID:IVEPfF6w0
>>207 実際のところ、劉備はどんな女性が好みのタイプだったんだろうね?
その方面の話題はそんなに豊かじゃないけど。
ぶっちゃけこの時代の英雄どもは女より男のほうが好きかもしれねとか
腐女子脳の恐怖
まあ戦国時代なんかだと、
子作り→仕事
男色→娯楽
だったという話を聞いたような聞かないような。
どっちも仕事であり娯楽だよ。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 11:08:03 ID:aHljT6cO0
劉禅は長生きしたな。遺伝子が良かったのかね?
そんなに長生きしたか?
長生きしたとしても遺伝子が良かったとか断じれるような人はこの世にいないだろうな。
寿命としての63が長生きかどうかはわからないが
まず何度も途中で殺されててもおかしくないレベルの負け戦をしても生きのびてきたという意味では驚異的な長生き
>>216 劉備と劉禅、どっちの話をしてるんだ?
劉永も長生きの部類に入るのかな?
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 14:29:37 ID:xDafCs4Y0
>>217 劉備かと思ってたら劉禅の話だったのね、スマソ
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 02:24:45 ID:Q6aUaEiL0
血統詐称と寡黙で感情表に出さなかったのがカリスマ性に関係あったのかな?
血統詐称とも言い切れんだろうに。
曹操や夏侯氏よりかは信憑性ある。
まさか劉備も1800年以上も後の時代に、自分の血統が疑われるとは思っていなかっただろうな
皇族ではないにしろ、劉氏を代々名乗っていたんだから、自分も先祖を辿れば一応は
そこそこの王族に繋がっていたんだろうなあ、くらいは普通に思っていたんじゃない?
別に詐称するのであれば、当時の権門の姓を詐称した方が遥かに利益大きそうだけどね、野心家的には
(北斉の高歓が渤海高氏を詐称したように)
劉氏なら王族の子孫って考えられるお前が凄い。
高祖の時代に劉氏を使い始めたわけでもなければ、
徳川みたいに皇族以外の劉姓使用禁止したわけでもない。
先祖の段階で劉姓を勝手に使ったとか、家系を買い取った可能性もありえる。
劉裕の例もあるわけで詐称はありえないとも断言できない。
>別に詐称するのであれば、当時の権門の姓を詐称した方が遥かに利益大きそうだけどね、野心家的には
劉姓は名乗る価値が無いから、別の姓を名乗ったはずだってか、ずいぶんと乱暴すぎる理屈だな。
>1800年以上も後の時代に
って、現代になっていきなり言われ始めた話でも無いだろうに・・・
なんにしてもはっきりした証拠があるわけじゃないし、
劉表・劉焉・劉岱・劉虞・劉曄など経歴のはっきりした皇族と違って
疑わしいところが残るのは事実だろ。
>>223 劉備が純粋な皇族、貴種の末裔なんて俺は言ってないけどね
皇族扱いになったのは、劉備の実力と時勢によるところ大ではあるが
劉姓の庶民が成り上がって皇族待遇、どっか不自然なところある?(強いて言うなら劉備の強運)
そもそも大家族単位で生活している中国において、劉備の数世代前で
いきなり姓を詐称しちゃいましょう、て発想に至るんかね?
一族全部で詐称?姻族やら近所づきあいの柵もあるのに
血統詐称説てリスクとコストが高すぎること、全く考慮していなくない?
はいはい。血統詐称はまったくありえません。
これで満足かい?
>>225 なんかずいぶん短絡的なレスだね。
劉備の場合、他に裏付けとなるような材料が無いのも事実だけど、明確に否定できるような材料もない。
まあ疑わしいのはわかるけどイコール嘘じゃないんだから、決め付けた立場で他者を断ずるのはどうかと思うよ。
時の皇帝が信じてたんだからホントに血がつながってたかはどうでもいいんじゃない?
何度か書いたけど当時劉氏を名乗るのは税の免除や職の優遇などある反面嘘だとばれれば死罪だった
簡単に詐称詐称いってるけどお気軽にできるもんでもないんだよ
山田論文にもあった話だな
ただ、皇族を詐称すれば死罪、という取締りが実効力のあったものかはまた別問題で
中央の統制があまねく行き届いてたかという疑問はある
例えば人事権ひとつ取っても各軍閥が勝手に地方官やら雑号将軍を任命してたし
軍閥同士の互選も頻繁に行われてた。中央の統制がキツければあり得ない話
人事とは違うが、劉備自身が小役人の頃に督郵を半殺しにしても
咎められた記録が無いことを見ると、中央の統制はザルだったとも考えられる
もちろんこれが詐称を裏付ける訳じゃない
なんか反論がずれてるやつがいないか?
別に劉備(及びその一族)が「劉姓を詐称した」わけじゃないだろ。
劉姓だったから、皇族の末裔と称するようになったんじゃね?という問題だろ。
>>224 よく演義のイメージ鵜呑みにして勘違いしてるやつ多いが、
劉備の家はただの庶民じゃなく、それなりの豪族な。
劉備個人の家が落ちぶれてたみたいなだけで。
そういう家が、権威付けのために、
いつのまにか先祖が有名人になるのはありがちなことではある。
>簡単に詐称詐称いってるけどお気軽にできるもんでもないんだよ
後に皇帝にまで上り詰めた男がこのぐらい出来なくてどうする。
曹操や孫堅あたりも若い頃に殺人とかいろいろやってなかったっけ?
証明するものが何一つ無い状態で皇族名乗れてる時点で
皇族を詐称すれば死罪って言う法律の判断基準なんてあるわけも無い。
皇族を名乗ってることと事実なのかどうかは別にして王の末裔を称してることにはかなりの差があると思うけど?
皇族ってのは宗正の属籍に名を連ね、労役免除などの特権がある「宗室」のことを言ってるんだと思うけど、
劉氏でも宗室の属籍から外れている者=皇族ではない者はいるよ
王の末裔でも、犯罪を犯した場合などには宗正の属籍から外れる場合がある
ちゃんと区別して考えないと混乱する一方だよ
結局、劉備が本当に中山靖王の末裔だったという確証はないし、
そうではないと否定する明確な根拠もない。
確かなことは、劉備が中山靖王の末裔を称していた、ということのみ。
なので「自称中山靖王の末裔(真偽不明)」くらいが一番妥当な表現だと思う。
本人が自称し、皇帝が認め、否定する根拠がない。
それなのに称号の上に「自称」をつけ、しかもその後括弧つきで
真偽不明とか入れるのはいくらなんでも不当にイメージ悪すぎ。
どっちか片方だけにしろよ。
自称なのは確かだし、真偽不明なのも確かだろ
意味がかぶってるわけでも無いのに過剰に反応しすぎ
劉姓を自称したんなら、本名とか元の姓分かるくらいに匂わせるのが、中国の正史だよねえ。
(新末の王郎や曹操の親父曹嵩みたいに何だかんだ言って、ルーツには絶対ぶち当たってる)
これは、おいらが前に上で上げておいた高歓でも明らか(字から非漢民族出身だと匂わせている)。
史書編纂者としては、ある種の悪意がここに働いているわけだ。(共通項は彼らは全員敗者側)
だから劉備の場合も、はっきり元の姓やら何やら書いちまえば良いんだよ、結果的には敗者側なんだし。
書かないで、「真偽不明」に暈かすんであれば、理由はひとつ。
史書編纂者の悪意は「出自を暈かして、血統の正当性を怪しませる」に他ならない。
祖父の時代にそれなりに栄達した一族なんだから、「系図買い」するんであれば、この時に粉飾は
十分に可能、立派な家系図を備えていなければむしろ不自然。
それがあんなバッサリ切れていれば、「何で?」て普通は考えるでしょ。
祖父は曲りなりにも官僚、さらに劉備自身、若いころは盧植に師事している。
みんな、詐欺師みたいな劉備の経歴詐称、あるいは自称にコロリと騙されるお人よしばかり
だったのか?(実際、多くの群雄が劉備に騙されているような気がしないでもないが)
真偽不明なのは、史書編纂者が本当に客観的に劉備を評価していたかどうかの方でしょ?
酎金失侯って意味わからんけど、分家した直後からずっと庶民だったってこと?
>>240 なんかムダに長い長文だな。
しかも何を根拠にしてるかわからないが、劉備の代から劉備が僭称したという前提になってるみたいだし。
そもそも史書では別に真偽不明になってない。
全ての代が記述されてない事を以って、史家は家系が捏造と判りながらあえて暈して真偽不明としてるという理屈?
よくわからん。
>>241 ちくまの訳によると「酎祭の献上金不足のかどで侯位を失い(坐酎金失侯)」とある。
ちなみに失った侯位は「陸城亭侯(陸成侯)」で、「分家」の意味が良くわからないが、中山靖王勝の子貞が封じられた侯位を失ってからは庶民だということだろうね。
それが事実なのか、家系伝説として何代か前からあったのか、劉備が世に出る際に捏造したのかはわからない。
>>242 書き方悪いからな、よく誤解を招く。
俺の結論は、「親疎の程度は不明だが、劉備は普通に漢室に繋がる家柄」と言うこと。
たとえば、詐称説、自称説の根幹がどこにあるか考えてみる。
劉備の数世代前から自称しているかどうかは、別にどうでもいい(劉備自身の自称でも問題ない)。
もしそうであれば、正統王朝である晋(すなわち蜀を征服した勢力)は、劉備の系統を
暈かしつつも、「詐称」、「元の姓は〜〜」、あるいは「実際は、〜〜に所縁あって、劉貞との関係は疑わしい」
史書のどこかには散りばめる、リードするのが通例(始皇帝の出自がいい例だな)。
それをしないで逆に系図を暈かしているものだから、みんないろいろと想像を膨らませる。
大体は「ああ、劉備の系図は怪しいんだな。」という結論に落ち着く。
でも、それは途中の系図がないから辿り着く結論であって、系図が存在すれば誰も思い至らない。
ルーツが(漢王室にしろ、あるいは元の姓にしろ)存在しないから、貶めれるんだよ。
不可解なのは、県令にまで出世した劉雄が自分の経歴を、立派に見せこそすれ、何にも残していない点である。
系図に空白があるどこの馬の骨とも分からない人物に対して、征服者側である晋が余りにも
寛容すぎる、いくらでも貶める材料は揃えられる立場でありながら。
編纂者グループは劉備を貶めたい、しかし、劉備が劉姓であることは揺ぎ無い事実である。
だったら、やることはひとつ「系図を載せない」に尽きる。
あとは「深読みする好事家」が勝手に拡大解釈してくれるんだから、楽なもんだよ。
曹叡の生年とか、本当にこういうのは面白いと思う。
>>243 お前の結論を皆の共通認識にしようとして必死になるな。
考え方の一つとして、聞いてやるのは構わんが、
「これが真実です!」なんて、絶対的な証拠もなく
わめき続けてたら、誰も聞く耳すら持ってくれなくなるぞ
>>241 「酎金失侯」は漢の歴史では有名な話。
>>242にもあるけど、当時列侯は祭祀の時に金を献上しなければいけなかった。
これが「酎金」だが、武帝の時に「金の純度が低い!不敬である!」と大規模摘発され、功臣の子孫から諸侯王の分家から100人以上の列侯が金の純度不足による不敬罪で摘発され列侯の位を失うという大事件となった。
劉備の祖もその事件にひっかかって父中山王から分家した列侯国を失った。
しかし彼が皇族(宗室)としての特権まで失ったかどうかは不明だし、劉備と血縁関係が本当にあったかなんてわかるわけがない。
大体、劉備ってそんなに皇帝の血筋であるってことで得してるかねえ?
最後の最後、漢中王になり皇帝に即位するあたりはわかるけど、それ以外ってそんなに良くも悪くも影響していないような気もするんだがな。
>>244 あくまで俺の持論だからな、別に万人の同意を得れるとは思っていない。
考え方にもいろいろあると知ってもらいたいから書いてる。
祖父から上の系図が不明
普通の人:それぐらい没落してたのか、そこから漢復興のために頑張ったんだから、劉備って傑物だよな。
詐称派 :中山靖王の子孫かどうかは疑わしい、あくまで自称→劉備は貴種ではない可能性がある。
(それはそれで下克上の体現者という意味ではカッコいいんだがね)
穿った人:待て、これは司馬家のワナだ。普通に漢王室の末裔の可能性のほうが高いだろ。
確かに、俺の考え方が一番アホに見えるな。
祖父から上の系図が省かれてるのは儒教の制度と関係あるのでは?
文帝紀だったか明帝紀だったかに曹嵩以前だったかを祀る云々に関しての批判があったと思う。
だから祖父以前を省くのは特に不自然ではないことなんではないかと。
>>245 皇帝即位に重要だったのは劉姓よりむしろ「左将軍」の官位。
劉姓だけならもっと正統だったのがゴロゴロいたわけで。
>>248 皇帝即位の頃ってもう左将軍は名乗ってないよね
そら王になったらもういらんだろ。
だが漢皇室から正式に授与されたメッチャ高い官位というのが重要。
これが曹操の簒奪を正す口実になってる。
孫権だってね、皇帝名乗る前にわざわざ魏と和睦して王位認めてもらってるのだ。
>>250 > 皇帝名乗る前にわざわざ魏と和睦して王位認めてもらってるのだ。
別に帝位を号するためじゃないだろうにw
>>250 漢朝から正式に任じられた官位は左将軍が一番。漢中王は自称というか、これこそ詐称。
>>245 >大体、劉備ってそんなに皇帝の血筋であるってことで得してるかねえ?
肩書きが何も無いよりもはるかにましだろ。
同姓ってだけで、同族意識に近いものもあるんだから
劉表や劉璋に与える印象も違っただろうし。
>>248 なぜそんな結論になるのかよくわからんが、
ならば、後将軍、のちに左将軍の袁術陛下も
皇帝になる資格がしっかりあったわけか。
248の結論は250だと思うのは俺だけ
>>253 >ならば、後将軍、のちに左将軍の袁術陛下も
>皇帝になる資格がしっかりあったわけか。
現存する漢皇帝を抱えた連合勢力と真っ向からぶつかって、
その全てに勝つ自信と力があったなら資格は十分だったんじゃないかな。
袁紹とか曹操はそれより皇帝抱えたほうが楽だと冷静に判断したわけだがw
なんにせよ劉備も孫権も魏とガチでやりあう覚悟があったから皇帝を名乗った。
資格は同じでもそのへんが違うから評価も違うだけだと思うよ。
そもそも皇統を自称した、なんてのはどこから出てきた話なんだ?
先主姓劉諱備字玄徳たく郡たく縣人 漢景帝子中山靖王勝之後也
正史読む限りじゃ景帝の子孫だと断言してるんだが
演義の劉皇叔が念頭にあるんじゃね?
>>257 演義でも同じだろう
劉皇叔ってのは系図調べたら献帝より一世代上だったってことから
つけられたってだけの話だしな
ん?
だから、皇族と爵位を失った王の末裔じゃ全然違うという流れの中で、そもそも「劉備が皇族を自称した」なんてのはどこから出てきた話なのよ?ということでしょ?
>>259 同族で世代が上の人はみんな叔って呼ぶんだよ
皇帝の同族で世代が上の人ってだけの意味なのに何で皇族を自称につながるのか分からん
他の有象無象の名族の末裔と同じように
系図が残ってないから、証拠が無い。
もちろん本当に中山靖王劉勝の末裔であってもおかしくない。
それでも証拠がなければ、自称に過ぎないのは変わりない。
なんで、国語の授業してやらなければいけないんだ?
証拠がなければ自称というのはさすがに意味がわからん。
史書に記載があるのだから歴史的には状況証拠十分。
せいぜい真偽は不明というべきだろ。
国語の授業?
>>261 見下して相手に話す割に、説得力の無い内容。
もう少し肩の力を抜かなければならない。
真偽不明だから、「自称」程度の表現で言われるんじゃない?
そこまで劉備ファンには許せない表現なのか?
>>237が粘着してるのかな?
さすがに「史書に記述があるから即真実」というような理屈は話にならん。
史料批判は史学の基本だよ。
>>264 曹叡はエンキの息子って言うくらいの言いがかりとしか思えません
曹叡は自称文帝の子なのですか?
第一「漢景帝子中山靖王勝之後也」をどうやったら「自称」中山靖王の子孫と訳せるのか教えてください
資料批判じゃなくてそれは単に手前勝手な超訳でしょ
第一劉表とか劉焉とかも系図残ってるの?
こいつらだって魯恭王餘の後は以下省略だよw
劉曄も光武帝の子延から一気に父の代まで飛んでるし
曹叡の件なんてまるっきり関係ないのに持ち出す意味が分からない。
劉表、劉焉、劉曄なんかも正史に系図が載ってないだけで、
当時、皇族に連なる名門とした履歴を持つとはっきり認められてる家の出身なわけで
劉備のように、朝廷が認識すらしてなかった家の出身と同じだと主張する意味もわからない。
劉備以外だって、はっきりとした傍証が無い名門の子孫は
「○○の後裔と言われる」、「○○の子孫を称した」という風に
確定事項としては扱われないのに、劉備だけ例外に考えるのもおかしい。
それともあれか?
演義で朝廷が劉備の系図の欠史13代を読み上げたのを真に受けてる人なのか?
>>267 > 当時、皇族に連なる名門とした履歴を持つとはっきり認められてる家の出身なわけで
ソース、もしくは根拠plz
劉備だって漢王朝に連なる者ということを疑う人なんて同時代には誰もいないよ
劉備を罵倒してる人に関してもだ
正史も「勝の後なり」と3人称で断定してるじゃん
これをどう読んだら劉備が自称してたということになるの?
>>269 そこはそれ、著者が著者だから……
例えば劉勝に劉貞という子は存在しないとか、同時代人の劉備に対する罵倒の中でその系図は虚偽であるに類するものがあるとか、そういう根拠めいたものってあるの?
まあ後者に関しては史料が三国志しかないけど、裴松之の注とかは十分参考になるような気がするけど……
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 10:47:46 ID:0WxiGE2o0
妻妾が何十人も(あるいはそれ以上)いる状態が何百年も続けば、
その家系に連なる者の人数は天文学的な数になるはず?
史料批判で粘着するのは勝手だが、
劉備は一応皇族だろうと推理する立場の人間を、
丸っきり馬鹿扱いする物言いが気に食わない。
第一「劉備は中山靖王の血筋である」という明確な証拠も無いが、
「劉備の系図は詐称である」という証拠もないのだ。
どっちも疑わしいならば、当時の人間の劉備への対応を見て考察するべきだろう。
そういうプロセスを無視した詐称論は、
「史料批判」ではなく単なる「狐疑逡巡」と言うのです。
まあ、ここは学問板じゃないから、大学とかで教わる方法論を知らない人がいてもいい。
励ましの意味で。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:42:23 ID:z/SQL5O4O
はっきり言えるのは、劉備が当時存在した皇帝含め勢門貴族の劉姓より名声があったということだな。
徐州の虐殺に対して貴族の義務を果たした劉姓は劉備だけだった。
他の劉姓は名に恥じぬ働きをしなかった。
日本に源平の後裔はごまんといても北朝鮮と戦う人間はごく一部だろ。
国民のために何かできない人たちは名門であっても意味はない。
正史に漢室の子孫と書いてある以上、それを覆す反証をしなければならないが
それが全く出来てないね
系図がないのは劉備に限らず全員そうだし
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:55:06 ID:z/SQL5O4O
光武帝とか継体天皇とかも脊髄反射的に偽物呼ばわりする輩がいるが、
いくらなんでも何の根拠も無しに自称したら不敬罪だろう。
熊沢天皇とか生かしておけるのは戦後日本だからだぞ。
劉備が中山靖王の末裔と断定できると主張してるみなさんへ。
『典略』の「劉備は元来臨邑侯のわかれである」という記述はどう解釈してるの?
劉備が中山靖王の末裔と断定する気はないが
『典略』を持ち出せば、その史料価値を吟味する必要が出てくる
劉禅に関する珍説は有名だな
>>277 劉備の親父さん辺りが妻子を連れて養子にでも入ったんじゃないか?
だから「元々は」臨邑侯(劉譲のこと?)の支流であったと
臨邑侯:劉秀の兄の子北海靖王興の子復。
袁紹ですら父について異説があるからなあ・
枝屬ってなによ?
枝族。別れ出た一族。支属。分家。枝胤。
どれでも好きなのをどうぞ。
販履織席で生活し、失侯あるいは枝屬の家系である人。
失侯あるいは枝屬の家系を自称する可能性……
失侯あるいは枝屬の家系を自称するメリット……
>>279 血筋的には臨邑侯の分家、家柄的には中山靖王の一族(没落してるけど)かよ
劉備って毛並み的にはすごいサラブレッドじゃん
劉備の先祖に関しては
正史には中山靖王劉勝と書いてある。
それをはっきりと裏付ける傍証は無い。
真偽については不明である。
で、良いものを「劉勝の子孫です」って、断言したがってる人ってなんなんだろうな。
別にこっちは「劉備は劉勝の子孫ではない。100%劉備の詐称」.と断言したいわけじゃないんだけどな。
>>286 そんなこと言い出したら正史に書いてあることのほとんどが傍証なしだろw
そもそも劉備が筵を編んで暮らしていたのも本当?とかきりが無いぞ
貴方のレスを読んでると反三国志の前書きを読んでるかのようだ
正史の記述のみで他に裏づけが取れないものは、確定事項として扱われないのは普通のことだぞ。
大体、正史の記述をそのままただ受け入れるだけでは、ところどころに矛盾がでるんだぞ。
正史に載ってるから、全て正しいなんて思考停止はありえない。
劉備が本当に中山靖王劉勝の末裔の可能性は高いと論じるのは構わんが、
「劉勝の末裔と断言しない人はおかしい」、みたいなことを喚くのだけはやめろ。
劉備の字に関しては
正史には玄徳と書いてある。
それをはっきりと裏付ける傍証は無い。
真偽については不明である。
で、良いものを「玄徳です」って、断言したがってる人ってなんなんだろうな。
別にこっちは「劉備の字は玄徳ではない。100%劉備の詐称」.と断言したいわけじゃないんだけどな。
>>289 池沼ですか?
劉備の字が玄徳ってのは、傍証はいくらでもあるだろう。
>>290 本当にどこにあるの?いやマジレスで
当時の書簡で正史以外に劉備の字に言及してるのってあるのか
書簡は知らんが、正史三国志の中だけでも多角的に検証できるし、
他の史料でも玄徳とは書か.れているはずだが?
つーか実際、史料に字すら間違えて載ってる可能性もあるから
古い時代の史料ってのは油断ができんww
もっと古い時代だと、字なのか、名なのか、官名なのかすらわからなかったりするし
ま、なによりも字と系図じゃ裏付けなきゃいけない事由自体が違いすぎるし、
>>289みたいな鸚鵡返しは馬鹿すぎると言っておこう。
どうしても断言したければ学会行って
正史にこう載ってるから正しいんですって発表でもして来いw
>>288 >正史の記述のみで他に裏づけが取れないものは、確定事項として扱われないのは普通のことだぞ。
>>293 >書簡は知らんが、正史三国志の中だけでも多角的に検証できるし、
言うことがコロコロ変わるなアンタ、もういいよ
>他の史料でも玄徳とは書か.れているはずだが?
後の資料が前のを参考にしてるだけって可能性は考えないんですね
> 「劉勝の子孫です」って、断言したがってる人
> 「劉勝の末裔と断言しない人はおかしい」
見えない敵と戦ってるように見える。
多くは「『劉備は中山靖王の末裔である』という記述を否定する材料は特には無い」程度だろう?
それに対して「真偽は不明だ!真偽は不明だ!」と必死な人はいるみたいだが。
>>294 劉勝の末裔ってのは正史の記述の中だけでも多角的に判断しきれる情報あるんだっけか。
そもそも系図の確かさを保全する為の傍証は出身の家系についての別角度から記述でなければならない。
ちなみに聞くが、曹操の家系の先祖が曹参ってのも無条件で信じてるのか?
>>295 否定する材料が特に無いということにはなんも文句つけてない。
可能性は高くとも断言できるような話ではない。とだけ言っている
それに噛み付いてきてる時点で「劉勝の末裔と断言しない人はおかしい」 と主張してるってことだろう。
本当に
>『劉備は中山靖王の末裔である』という記述を否定する材料は特には無い
と言ってるだけなら、ここまでの論争に意味は無い。ただすれ違いから生まれた悲劇。
そういうことなら以後、この話題は禁止↓ 話題出したやつは断言したいキチガイ決定。
>>296 お前頭ヤバすぎるぞ。薬でも飲んで来い。
呉の程ヘイなる人物は「自身の伝記にしか自分の名前がのっていない」という奇妙な人で、
実際正史三国志立伝者の中で
自分の伝記にしか自分の名前が載っていない、というのは唯一この人だけ。
この人物の名を正史三国志内の他の人物の伝から見出だすことはできない、
よってこの人物の存在を証明することは不可能。
>>296 あなたの言ってることは不可知論でしかなく、議論に値しない。
>>296 漢の正統を継ぐ、ということで蜀を建国できたのは家柄のおかげだろ
そして魏も晋もその血筋には異論を唱えていない
(正史に載ってる段階で劉備の出自について問題視していないというのはわかる)
裴松之も突っ込みいれてるけど漢室に連なる者だということには異論を挟んでいない
文章に矛盾があるとかそういう観点で疑問視してくれるんならいいんだけどね。
例えば「陸城亭侯」が誤字で無かった場合。
亭侯は前漢時代には無かったらしいので、途中で誤伝があり実際には中山靖王の子孫であったとしても、その信憑性は落ちる。
とかね。
ID:5VHIng4W0は高卒ですか?
このスレ、揚げ足取りに煽りに詭弁ばかりで酷いことなってるな。
劉備が中山靖王の末裔ということに疑いを持っただけで
この異常な感情的な叩きっぷりってなんなんだろう?
自分の意見を他人に押し付けるのに必死すぎ。
>>303 疑うのは勝手だが、その疑問の根拠は?と聞かれてもろくに上げられないのでは説得力ないね。
>>303 根拠も無いのにただ「書かれているだけでは納得できん」では話にならないよ
感情的になってるのは「正史の記述を信用できない」って意固地になってる方でしょ
>>303 ああ、あなたは典略の記事を根拠の一つに上げてるね。
異伝があるからただちに信憑性に問題が出るとは思わないけど、あなたがその事を以って疑問視するならそれはそれで構わない。
>>300 それはまた別の問題だろ
魏も晋も劉備の血筋が正しいから、漢の正統を継ぐことが正しいなんて言ってない
魏は漢から正統に禅譲されて、晋は魏から正統に禅譲されてる
禅譲後、仮に献帝の息子が漢の正統を主張しても、そこに民意が集まり、
結果、魏を武力で滅ぼした場合のみ、その王朝に正当性が生まれる
劉備の建国した蜀漢も同じ、正統は魏にある以上、血筋がどうあれ逆賊であることに変わりない
(親子や兄弟で君主権を争った例はいくらでもあるけど、
正当になるのは勝った者だけ。負けたものは君主の係累であっても逆賊でしかない)
血筋にのみ拘るなら、孫権はどうして建国できたんだよって話だよ
劉備が真に皇族の末裔だから、魏や晋が否定しなかったんだっていう結論ありきの論法過ぎる
むしろ漢の血筋を名乗ったことをなじったら、漢の血筋が王朝を継ぐのが
本当は正しいって暗に認めてる(恐れてる)と.世間にとられるって考え方もできる。
劉備が正当な漢の血筋でないと否定するわけじゃないけど、
こうだから漢の血筋だと主張できるエピソードでもない
>>307 劉備は漢朝を継いだという立場で帝位についてるから、孫権の場合と同一視は出来ないと思うけどなあ。
>このスレ、揚げ足取りに煽りに詭弁ばかりで酷いことなってるな。
揚げ足取ってるのは「正史に書かれてることが全てとは限らん」って主張してる奴の方だろ
>劉備が中山靖王の末裔ということに疑いを持っただけで
同じく系図の無いほかの劉姓を挙げてない点で疑いじゃなくただの偏見だな
>この異常な感情的な叩きっぷりってなんなんだろう?
叩きじゃなくて正常な意見を語ってるだけ
>自分の意見を他人に押し付けるのに必死すぎ。
自分の意見を押し付けてるんじゃなくて三国志正史の記述を何度も読み上げてるだけでしょ
200年もの間の記述が何もない、田舎の二流地方豪族の端の人間が、
正真正銘中山靖王の末裔なの?
と疑うことが、それほど許されない、史料を無視した行為なのか。
いや、俺も疑いたくないという人に強要するつもりはないから、かまわんよ。
どちらの意見にせよ、議論でなく、煽りあい・押し付けあいに参加する気はないのでご自由に。
>>309 最後に「同じく系図の無いほかの劉姓を挙げてない点」について
劉焉は漢朝から宗室扱いされてたことが、彼の伝に書かれている。
劉ヨウは「高族名人」とあり、これまたれっきとした名家だったことがうかがえる。
劉備とは彼らは家格が格段に違っていた。
参考までにどうぞ。
あとはご自由に。
>>310 何を勘違いしてるの?
正史で中山靖王の末裔と言ってる以上、それを覆すのを人に納得させなきゃいけないのは
>正真正銘中山靖王の末裔なの?
と考える方だよ
>と疑うことが、それほど許されない、史料を無視した行為なのか。
分かってるじゃん、そうだよ、史料を無視した行為以外の何物でもないよ
許されたけりゃ正史以上の証拠を示さないと
>>308 よく読んでくれよ
論点はそこじゃない
君は人のレスのごく一部だけをあげて、反論する癖があるようだから直したほうがいい。
問題は
・王朝を立てるのに劉姓であることは必要条件でない
・魏・晋の立場上、漢の血筋を恐れることはできない
・
>>300のレスは劉備の血筋の確かさを補強するエピソードではない
・もちろん漢の血筋でなかったと主張できるエピソードでもない
繰り返すが、元皇族の王朝設立であっても、献帝の禅譲という既成事実がある以上
武威を用いて魏・晋を打ち倒した後に禅譲でなく、簒奪だったとしない限りは逆賊のまま
逆賊の理由は「正統は魏にある」からであって「漢の血筋でない」からではない
魏・晋の立場から言えば漢の血筋には魏への禅譲の時点で、正統性は一切なくなってる
(王莽も負けたから簒奪者になった。負けなければ劉玄はただの逆賊)
>>313 >君は人のレスのごく一部だけをあげて、反論する癖があるようだから直したほうがいい。
釣りならよそでやれば?
ここは君のような上からものを語りたい人に好意を示すことは無いよ
>>312 それはそれでどうかと思うが……
例えば劉焉。
前漢の魯の恭王の後裔とあるが、劉焉までの系図は不明。
ちくま訳を頼りにすると「王族のため、中郎に任じられた」とあるが、
本当に王族のために任じられたのか、出世したのでその言い分が通ったのか断言できるかわからない。
でも特に疑わなければならない材料があるわけでもない。
劉表は……前の方で名前があげられてたけど、彼も皇帝の末裔なの?
>>315 自分にとって気に食わない意見だからって感情的になるな
好意云々でなく、論証をしてくれよ
>>312 劉曄に関しては高族名人が詐称であるかもという点はまったく考慮しないんですか?
大体それは鄭宝が劉曄を利用しようとしたときに出てきた文面だよ
鄭宝が敢えて騙った可能性もあるよね、少なくとも否定は出来ない
>>313 劉備は帝位に就くに当たって、その正統性の一つとして中山靖王の後裔である事を上げている。
正確には諸葛亮らの上表だけどね。
魏には魏の理屈があり、蜀には蜀の理屈がある。それは当然。
相手を非難する時、自らの正統性を主張する場合もあれば、相手の主張が間違いである事を主張する場合もある。
他にもあるかも知れんけど。
で、後者の場合、劉備の中山靖王の末裔であるという主張を否定することは十分ありうる。
しかし、呉の場合、これは有効でない。だから同一視できないと言ったのであって、
そのような主張が魏側からなされなかった事を以って、あるいは記録が無い事を以って魏側も劉備が中山靖王の末裔であることを認めていたと言ってるのではない。
>>319 でも本当に劉備が自称だったのなら魏がそうしない理由が分からない
禅譲を受けたのは自分(自らの正統性を主張)
そして劉備は漢王朝の末裔を騙る不届者(相手の主張が間違いである事を主張)
これらは相殺するものじゃなく重ねればプラスになるものだからね
>>318 劉曄の場合、「自分は漢の王族の端くれだから、魏朝においてあまり交友を広めるようなことはしない」とかいうような事を言ってなかったっけ?
>>319 >>307での主張は君への意見でなく
>>300の意見が
「主張が魏側からなされなかった事を以って、
あるいは記録が無い事を以って魏側も劉備が中山靖王の末裔で
あることを認めていたと言っている」
に該当してるからのそれに対して反証するレスなんだよ
だから、すまないが
>>308は論点がズレてると言うしかない
魏・晋からすれば、中山靖王の後裔にはすでに皇統の正統性は無い。
中山靖王の後裔だから蜀漢王朝は正統なんだって主張自体が間違い。
なのに、わざわざ「中山靖王の後裔じゃないから正統じゃない」なんて言ったら
漢の血筋に王朝の正統性があるって認めることになるという考えね
魏・晋からすれば、名声のある元皇族劉姓を相手に逆賊と主張できるのは
劉姓に皇統は既になしって言うプロパガンダに都合がいいとも言える
もちろん、その効果を考えず、「漢の血筋でも王朝の正当性はない。その上、
劉備は漢の血筋どころかどこの馬の骨とも分からないじゃないか」という主張をすることもありえる
>>321 いまさら昔のことを嘘でしたと言うには収まりがつかなくなったからとかかもw
>>322 劉曄みたいに名士でありながら服属してる王族もいるんだから
劉備の主張が自称に過ぎないのなら当然指摘すると思うよ
>>323 当然となぜ言い切れるのかが俺には理解できないのだが
>>324 元皇帝はじめ元王族は魏を嘉してる
これに逆らうのは漢室の末裔を騙る者だけ、とするのは自然じゃない
劉備の出自があやしければ少なくとも魏ではそれを指摘するかどうかの話が行われるはずだが
そういう形跡がまったく無い
>>325 状況証拠による推論で水掛け論にしかならないんだよ
とても「当然指摘した」なんて言い切れる話じゃない。
それと元皇族が臣下にいるってことと
元皇族が正統を主張して、反乱してるけど、ただの逆賊だよって言えることは
魏の正当性を高めることでは同じだけど、イコールではない。相乗効果がある話。
持論を披露するのはいいけど、推論でしかない話を「当然」とか言って、
人に押し付けるのはやめようよ
別にこの話がなければ劉備の血筋の確からしさを証明できないわけじゃないだろ?
劉備は実在しなかった
>>326 魏が劉備中山靖王末裔説を否定したとしても、「それは批判のための批判であり事実に基づくものではない」と主張することも可能だからな。
魏が批判しようがしまいが、各自の心証を左右するものでしかなく他者への説得性を持つものとはなりえないわな。
実は劉備はすでに殺されていて劉備に摩り替わった日本人の男がry
劉備の先祖は同胞ニダ……と悪乗りしてみた。
反省はしてる。
劉備が実は死んでいて、まではよかったが、惜しかったな
摩り替わった劉備は、実は女だったんだよ。
呂布や曹操にモテモテ。
劉備の血筋に正史の記述以外の傍証が無いのは確かだが、
ID:5VHIng4W0やID:frz28qW80が言うことがマトモな反証とは全然思えない
疑問を呈するのは勝手だが、たいした論拠も無しに是とされてることを非と言えば、反発を食らうのは必至。
発表の事前に叩きを回避できなかったのは用意が足りていないから。
そんなことも分からずにオーディエンスの人間性を非難とか、どうしようもない
ここでは妙に自称とか真偽不明という言葉に過剰反応してる奴が多いが、
研究者さんの間では、劉備の血筋については懐疑的・眉唾物
と考えてる人が多数を占めているようだね。。
特に触れなくても「劉勝の後裔とされる」くらいの表現で濁す人も多い。
一般的には、こうした疑わしいととる見方の方が是とされてる見解なんだよね。
勿論、通説をひっくり返そうと頑張るのは結構なことである。
しかし、このスレみたいに
「先主伝に断定形で書いてあるから間違いないんだ」
という単純な主張のみでは、今さらあまり相手にされないと思う。
あと、陳寿は蜀の遺臣で、蜀についての記述には何かと気をつかってる
という問題には、先主伝を振りかざす人は触れようとしないのが気になった。
>研究者さんの間では、劉備の血筋については懐疑的・眉唾物
>と考えてる人が多数を占めているようだね。
これはほとんどの住人がそうだろう。
「眉唾だ」で止まるならまだしも、それが「詐称だ」に直結するから問題
>しかし、このスレみたいに
>「先主伝に断定形で書いてあるから間違いないんだ」
>という単純な主張のみでは、今さらあまり相手にされないと思う。
そんなこと言ってる輩がどこにいた。
ここの住人が「先主伝を振りかざす」というのも人聞きが悪い言い方だろう。
詐称派も魏書や呉書から持論の都合のいい記述を引っ張って来ればいいじゃないか。
詐称だなんて誰も主張して無いわけだが・・・
一人でなんか勘違いして、騒いでるアホがいるな。
>>336 事実関係を確かめられないような脳足りんぶりも、
自分に都合のいい言葉以外は認識できないようなアホならしょうがないかなー
220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 02:24:45 ID:Q6aUaEiL0
血統詐称と寡黙で感情表に出さなかったのがカリスマ性に関係あったのかな?
m9(^Д^)プギャー
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 12:46:03 ID:M97anqEQO
英雄劉備をブルジョアから外したい中共から、
劉備が血筋を疑われる原因となったのは孔明への遺言、
これは逆に劉備自身に血統への自負があった証拠だと思う、
国を一世一代で作り上げた不世出の英雄秀吉は天皇の血筋なのに全く逆の遺言をした。
血筋に全く自信が無かったからだろう。
>>337 ああ、つまり何日も粘着してた君はそのレスの主が
ずっと血統詐称だと主張し続けてると思い込んでたわけだな。
どんだけキチガイだよw
議論はこの偉そうな男の発言からヒートアップしてる。
その経緯を知らずして語るなかれ。
初期の熱い反論はこの傲慢さに対しての正常なリアクションにすぎない。
261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/09/04(火) 23:57:16 ID:VqSDWxY40
他の有象無象の名族の末裔と同じように
系図が残ってないから、証拠が無い。
もちろん本当に中山靖王劉勝の末裔であってもおかしくない。
それでも証拠がなければ、自称に過ぎないのは変わりない。
なんで、国語の授業してやらなければいけないんだ?
>>339 「詐称ではないにしても証拠不十分で自称としか言えない」と言うのは双方一致しているが、
系図から劉表や劉虞、劉焉らの例を見ても、劉備は皇族ではないという明確な証拠には成り得ないだろう。
仮に皇族だとしても劉備の主張する系譜がこれほど直系から離れていては、
ただ劉姓であるというだけで、その内実は劉裕あたりと大して変わらん。
一日しか見てない俺でもおまえらの主張が理屈に合ってないのは分かるわ。
「劉備は文帝の傍流の傍流である皇族だ」というかなりどうでもいい内容を、
疑わしいと何日も連呼するだけで、反証もロクに出せないあんたらこそキチガイだろう。精神科へ行け馬鹿。
>>340 そいつより↓の方が問題だろ
225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 08:30:47 ID:tMdBrh3/0
はいはい。血統詐称はまったくありえません。
これで満足かい?
>>341 それぐらいの認識がちょうどいいんじゃない?
ずっと暴れてた人は、ひたすら「真偽不明」(可能性の考察も無視)に拘っていたから。
肯定的に見るか否定的に見るかは、あとは個人の問題でしょ。
しかし、劉裕は楚王の末裔であることを自ら否定していたはずだが
それでも、「自称」中山靖王の末裔の劉備と同列になるのか?
>>341 劉備は皇族じゃないぞ
本当に中山靖王劉勝の後裔だとしてもな
それに劉備の血筋はそれほど重要じゃなないというのは
「自称としか言えない」と主張してるグループの意見であって、
劉備は絶対に中山靖王劉勝の後裔だと主張してるグループは
「自称はおかしい。劉備は中山靖王劉勝の後裔だから
王朝立てられた。そうじゃなかったら無理。」と言っている。
俺が問題視するのは詐称云々じゃなく、
劉備の建国を皇室に連なる血のおかげと断じてること。
>>343 >ずっと暴れてた人は、ひたすら「真偽不明」(可能性の考察も無視)に拘っていたから。
可能性については認めてたと思うが・・・
劉備は中山靖王劉勝の後裔と主張してる人が
「こうこうこうだから、真偽不明でもなければ自称じゃない。自称を撤回しろ!」
と、一般的に可能性の問題でしか論じられない
劉備の血統問題を確定事項として扱おうとしてるようにしか見えんが・・・
>>343 劉裕は最初の方こそ自称していたが、即位後に詐称だったと認めてる。
劉備は死ぬまで自称を通したから詐称かどうか分からん。
当時では自称も他称も劉備は皇族扱いだったようだが、その根拠はまさしく「真偽不明」だろ。
俺にしてみればどっちも一応劉氏ですね、ぐらいで信じる根拠にはならない。
あと自称も真偽不明も半信半疑であまり良い意味ではない。
その内訳は 信:疑=1:9 ぐらいだろう。
この場合において、意味はどっちも正しいという主張は本当だが、
両方同時に使ったら相乗効果でコケにしてるようにしか見えない。
アホが言葉の印象を注意もせずに重ねるからここまで荒れたのだろう。
>>343 >「真偽不明」(可能性の考察も無視)
これがもう喧嘩腰になっちゃってる曲解だよね。
「真偽不明」は「真か偽か明らかにあらず」ということだから、
偽と断定してるわけでもなく、どちらの可能性も含めた表現なのに。
それを偽と決めつけた、と勝手に決めつけ、大騒ぎして叩いてる。
結果、俺にも、可能性として疑うことすら許さず
「確定事項として扱おうとしてるようにしか」見えない。
どう見ても、このスレの過剰反応からの叩き方は異常なものがあったと思う。
>>344 劉備が自称してるのが分かるところなんかあるか?陳寿がそう書いてるだけだし
諸葛亮が劉備は漢室の末裔と言うシーンはあるが本人がそう主張してるなんて記述無いぞ
まあ、個人的な意見だが
劉備は漢王室にとっては傍系も傍系、道楽王侯の没落して土豪化した子孫の末裔ですよー
て自己申告してるけど、これって劉氏を名乗る一族にとっては、結構下位カーストに位置
づけられているように思うんだが、史書に登場する劉氏はたいてい王族、皇族なわけだし
(奴隷階級や日当稼ぎにまで身を落としていない限り)
これを「真偽不明」て言っちまったら、劉姓すら疑えというのか?と普通の人は思うんじゃないかな?
少なくとも俺はそう感じたんだけど、
>>347氏はこの意見どう思う?
> 「確定事項として扱おうとしてるようにしか」見えない。
それが思い込み。
劉備の系図が真偽不明というならば曹操や劉焉、劉表も同じくらい不明というしかない。
そうした中で殊更に劉備の系図を真偽不明を強調するのは何故?ということなんだと思うわけよ。
で、それはそうと三戦板の方の類似スレにも書いたんだが、劉表が魯の恭王の後裔ってのはどうなんかねえ?
後漢書には記述があるが、三国志には記述がない。
陳寿は書き漏らしたが史料が残っていたのであれば、范曄と時代の近い裴松之が注に記したと思うんだが……?
それとも三国志にも劉表伝以外の場所に記述があるのかなあ?
劉備の系図が真偽不明と思うのも主張するのも勝手だが、
何故そう思うの?と根拠を聞かれても答えず、逆に「疑うことも許されないのか」と切れるのはやめていただきたい。
あと元々は「劉備は中山靖王の末裔だと詐称してる」という断定が話の発端だからね。
これに対しての反論側がやや「系図は真実」寄りになってるのも仕方がないことであるのは理解して欲しいものである。
>>350-352 なんで、こんなどうでもいいことをいつまでもループさせようとしてるの?
正史には劉備は中山靖王劉勝の末と書かれている。そこまで至る系図は不明である。
中華の歴史では、自分のルーツを有名人に求めるのは普通のことで
(実際は日本でもそうだけどね)劉備もその可能性はある。
ただし、中山靖王劉勝は子供が多く、その末裔は多くいた為、本当に子孫であってもおかしくない。
ちなみに中山靖王劉勝の末という血筋は特に尊貴なわけでもなく、
中山靖王劉勝の末裔だから蜀を建国できたわけでもなく、血筋はそれほど重要ではない。
※大義名分としては、使ったが建国に不可欠な要素ではない
ってな感じが落としどころだろ
詐称してたと断言してる人なんて、もうどこにも見当たらないのに
「詐称してた証拠出せ!」と暴れ続けている意味はなに?
このスレの人間に何をさせたいの?
>>353 じゃあ「劉備の系図を特に疑わなければならない点はない」ということでお引き取りください。
>詐称してたと断言してる人なんて、もうどこにも見当たらないのに
>「詐称してた証拠出せ!」と暴れ続けている意味はなに?
>このスレの人間に何をさせたいの?
上の部分は燃料にしかならんだろ。暴れたりないのか?
「不快で挑戦的な物言いだった割にしょぼい顛末。謝れゴルァ!」ってとこじゃないの。
>>354 なんでお前の思想でこのスレの人間を染め上げようとしてるの?
中華でも日本でも系図不明の有名人の子孫は一応は疑いの目を向けられているわけで
殊更、劉備のことだけ系図不明だけど疑う必要が無いと考えるべきだ。
なんて主張が通ると思うほうがおかしい
詐称は断定できないし、疑う人は疑うでいいだろ
そうじゃなきゃ↓みたいになるぞ
<丶`∀´> <疑うなニダ!
解釈と態度か気に食わないってだけでなんでこんなに荒れなければならないのかわからん。
だれか、いい加減おだやかな結論だしてくれよ。
>>356 一々煽るから何時までも続く。早くやめれば?
そうじゃなきゃ↓みたいになるぞ
<丶`∀´> <疑うニダ!断定するニダ!証拠は後で捏造するニダ!
>>358 そういうお前が煽ってりゃ世話ねぇwww
一応俺的にまとめてみると
劉備は田舎の豪族の端からの成り上がり。
しかも、200年ほどすっ飛ばして、祖を中山靖王に求めている。
中山靖王は子種120人ほどばら撒いたことで有名なおっさん。
帝王の伝紀には、その出自・生誕の逸話なんかを書き添えるのが定石。
これらのことから、劉備が中山靖王の末裔ってのも、
眉唾物でそんなに信用できないよね。
というのが研究者間でも通説になっている、懐疑論の要旨。
一般論から「怪しいよね」と言ってるわけ。
それに対し、このスレでは
先主伝本文に断定形で書いてあるだろ。
疑うのなら、詐称・自称である証拠を史料から明示しろ。
と騒ぎ立てている。
これでは、話が噛み合うはずもなく、
明確な証拠を出さない限り、確定の物と扱おうとしてる
ととられても仕方が無い。
結果、この論点の違いを理解しないまま「懐疑論は言いがかりだ」と大荒れ。
こんなとこだろうか。
結局、悪印象による感情的なこじれに長い論争につながってる。
「詐称かどうかは当時の人間にも真偽不明」
「現代人としての視点では、正史の系図だけでは証拠不十分で自称としか言えない」
「だが競争相手の曹氏、司馬氏、孫氏も、曹参、殷王司馬コウ、孫子の血統を自称してる」
「よって劉備だけが系図を疑問視されることで、殊更に貶めらている訳でもない」
これで終わりにしたいがどうだろうか?もう飽きた。
ちなみに裴松之も劉備が漢王朝につながる血筋だとは認めてる
すごい遠縁な上に検定が生きてるのに即位した姿勢は批判してるけどな
つまり少なくともチンジュや裴松之の時代には劉備が自称してるなんてことは考えもつかない
「劉備は漢王族の末裔」というのは前提として受け入れられてたことが分かる
むしろ現代的な目を持ち込んでるのが失敗なんじゃないかなあ
劉備は貧乏→貧乏人が皇族の末裔なんてそうありえん→自称だったんだろうという連想で
でないと同じく系図の無い他の劉性を無視して劉備の三国志での記述だけ疑うわけないもの
史学においては、根拠となる史料を提示することも大事だが
それのみに拘泥しすぎれば、
直接的に明記した根拠となる史料がなければ、推測は許さない
ということになり、史料の内容からの類推という考察手段を封じてしまう。
今回の荒れ具合は、そうした問題をよく表しているといえる。
実際には貧乏な皇族や功臣の末裔なんて山ほどいたからねえ
>>363 >史料の内容からの類推という考察手段を封じてしまう。
これを全然懐疑派は示してないだろ
自分の感覚だけを根拠にしてるんだから
>>362 くどい
陳寿がこう書いたから、裴松之がこう書いたから全て正しいっていう主張の仕方自体がありえない。
と言われてることに気付いてくれ
>>361 俺も、無限ループはうんざりです。
特別新しい仮説・発見でもない限り、もうこの話題は意味が無いと思う。
>>365 全レス読んで来い
そしていつまでループさせる気だ?
なんでそんなにルーツを疑うのを禁止させたがるんだ?
でも、劉備が中山靖王の子孫であることを疑う人はこのスレにはいても
劉邦、あるいはその親族に連なる人物であることを否定する人はおらんよね?
曹操は曹無傷の子孫に違いないですぜ
ただし、史料を盲信しない俺sugeee!という態度では
余計な反感を買い感情的な水掛け論が続く。
悪態をついたり不遜な態度を取るのは最悪
現実的な考察でも所詮は推論にすぎないので、
暴論に近い正史盲信派の論者に対する決定打にはなりえない
と補足。
管夷吾は管叔鮮の子孫に違いないですぜ
>>361 でも曹操については
>養子嵩、官太尉に至るも、その生出本末を審らかにする能ふなし。
という書き方してるよね。
これは陳寿の誠意を信じるに足る証拠のひとつになると思う。
>>368 疑うなら勝手に疑ってろ。他の人にまで強制すんな。
言葉は悪いがこういうこと。
陳寿の記述を疑う根拠は何?
これは陳寿の言ってることは全て正しいとかそういうことじゃないからな。
>>368 >なんでそんなにルーツを疑うのを禁止させたがるんだ?
ルーツを疑う理由が自分の主観によってるからだと思う。
客観的な証拠(劉備の血筋を怪しいと言う同時代の人物の言葉など)が示せれば違うんじゃない?
>>373 誠意というか、「本当のことバッチリ書いちゃったら今いる曹氏の末裔に刺客送られちゃうなあ・・・」っていうぼやかし方なんじゃない?
まあ曹騰の実子としなかったんだから誠意あるのかな
>>374 そうですよね。三国志の記述を疑うということは
陳寿が嘘をついてるか誤ったか、ということになりますもんね。
他人をうそつきとか無能とか言うからには自分感覚以外の根拠を示さないと。
ID:yJs0XuvY0氏
ID:tBj6uOKS0氏
ID:s69CjkWb0氏
と俺ID:10Zm4Yu80が
二三日、書き込みを自粛する方向で
手打ちとしたいがどうだろうか?
>>366>>368 大方収束しかけてるのに命令口調でイラつかせるようなことをいうのは逆効果。
人は敵性な人間の命令には従わないものだ。
自粛よろ
>>373 例えば曹叡なんか年齢の件から出生を疑う余地が三国志自体にある。
劉備が中山靖王の末裔であることは疑わしいと考える材料は三国志にはない。
この違いって結構大きいと思うんだよね。
推定無罪の立場をとるか、立証できない限り不明とするか。どっちの立場を取るか?
>>375-376 じゃ、中国や日本の歴史で有名人の子孫を名乗っている人は
懐疑的な意見を同時代の人物が言ってない限りは全て事実と認定すべきとあなたは言うわけですね。
荒唐無稽なことが史書に書かれていても、そのなかで否定されてない限りは事実だと?
アンタの主張は歴史に関する考察を放棄しろって言ってるようなもんだよ。
とまともにさらに長文レスを書いていこうと思ったら
>>377w
なにこの釣りwwwまともに反論する気も失せるわ
劉備が王忠たちに「おまいら何人来ても平気だよ?」とか吠えたのってどこに見える記述だっけ?
>>378 俺はまとめることはまとめたし、
特別目新しい見解でもない限り、無限ループに参加する気はなし。
ただ、あんたも今日一日のIDみてると、
馬鹿だのアホだのキチガイだの、m9(^Д^)プギャーだの、
挑発的発言や悪態が相当目立つぞ。見てて相当不快だった。
まず、自分の発言を反省すべし。
>>382 >挑発的発言や悪態が相当目立つぞ。見てて相当不快だった。
言われた分をしっかりお返ししただけさ。
反論より先に人格攻撃が先に出る輩を付け上がらす必要は無い。
>まず、自分の発言を反省すべし。
と、言われましてもねえ。
参加したことが間違いだったという以上の反省はないです。
あんたはマシな方だが、そうでないのは論外のレベルでしょう
>>380 >荒唐無稽なことが史書に書かれていても、そのなかで否定されてない限りは事実だと?
劉備が漢室の末裔というのが言うほど荒唐無稽か?
実際にたく県に昔封ぜられた王族がいて下手打って爵位を失った
そして劉備の一族はたく県でも結構大きな一族だったらしい
(少なくとも他に匹敵する劉一族がいるという記述は無い)
俺は荒唐無稽だと思う方が独りよがりな思考の罠にはまってると思うよ
吉川三国志の茶を買うのも苦労する母子家庭の劉備をイメージしてるんじゃないの?
>>384 別に劉備が中山靖王の末裔なのが荒唐無稽と言ってるわけじゃないが・・・
史書で否定されてないから絶対そうなんだっていう考え方に対するつっこみ
というか、それぐらい理解できるだろ・・・
それともわざとレスの一部を取り出して、相手の意見を捻じ曲げた解釈するのが目的?
そういうことやられるとまともな意見の交換できないから議論の意味がなくなるよ
緊急アンケート
・劉備は中山靖王の後裔である。
1.絶対に間違いのない事実である。
2.特に疑うべき材料もないので、一応信用できる。
3.判断材料が少ないので是非については述べれない。
4.立証できない以上、疑わしいという立場でいるべきである。
5.絶対に詐称である。
どれ?
オレは2.かな?
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:26:22 ID:F/lBTXEw0
6.どっちでもいいに一票
4.かな。
そもそも立証責任は賛成している派にあるのだから、信頼できる材料を持ってきてもらわないと。
史書にあるからというのなら、北斉の高氏とか、隋の楊氏とか唐の李氏とかねえ。
3.で
>>388 このスレでは1.の立場の人が
「紛れもない事実を否定しているのだから立証責任は懐疑派にある」
と言い続けてるけどね
悪魔の証明になるから2..3.の立場の人はそんな主張するはずはないかわな
>>388 > 史書にあるからというのなら、北斉の高氏とか、隋の楊氏とか唐の李氏とかねえ。
詳しくは知らないけど、それらは他に疑うべき材料があるからだろ?
>>386 2でしょ。普通に考えたら。
このスレにはどうしても正史の記述を肯定することから始めたくない人がいるみたいだけど
劉備は漢室の生まれだとすでに推定されてるんだから立証責任は否定派にあるよね。
>>391 曹操の先祖についてはどう思ってますか?
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:45:17 ID:F/lBTXEw0
自然に性転換した人間とか、寿命を不気味なくらい的確に予知した奴とか、史書に書いてあって誰も疑う記述をしていない
もちろん紛れもない事実だよね
昔の人間は凄かったんだな
>>394 劉備が漢の血を引くというのはそれらと比べると現実性が高いから一緒くたに出来ないね
>>394 当時それが広く信じられてた、ということを示す事実として読むよ?
>>394 これはひどい
劉備の記述がこれらと同じくらいありえないって否定派は思ってるんだな
こんな偏見の塊とじゃ議論不可能だよ
>>397 結論が出たじゃん
劉備=陸城侯の末裔も当時それが広く信じられていた、ということを示す事実なんだろ
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 23:51:18 ID:M97anqEQO
中共の研究者たちは文革で武侯祠や関帝廟までもが破壊されるのを恐れて、
劉備をなんとかして百姓出身の革命的闘士に仕立てあげようとした。
その為には劉備がプチブル的富農出身で貴族の血統に頼った機会の均等の外の存在ではまずい。
んで「孔明に皇帝の位を譲ろうとしたのは血統にこだわりが無かったから。劉備はこだわるほどの血筋ではなかった」
ということになった。
実際には劉備には、本人にやる気はなかったが、当時一般人や多少の金持ちが受けられない超一流の教育が施されていて、
中央に太いコネがあったことを伺わせる。
督郵を殴らなければ、地方有力者としては十分な出世コースに乗っていた。
>>399 事実なら広く信じられるのも当たり前で水掛け論にしかならないね
俺のレスは無視かい?
>>393 どの点に関して?
曹操の父曹嵩の出自について?
曹家は曹参の後裔であるということについて?
>>400 それはない
劉備は自ら望んで官僚としての出世コースじゃなく軍人としてのドサ回りの道を選んでる、初めから
大きなことを成そうとしたら官僚なっても見込みがないと早くも見切っていたわけで、恐ろしい先見の明だといえよう
>>403 先見の明がなかったから孔明に会うまでドサ回りやってたんじゃないのか?
先見の明というか戦略構想と言った方が適切か
>>404 前半生も戦略はそんなに間違ってないよ。
単に曹操に及ばなかっただけで……
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 00:06:00 ID:aZ7XrAbSO
>>403 それはないって、どの点に対して言ってるの?
劉備自身にやる気はなかったって書いたつもりだけど。
だけど親戚に清流派のコネがあったのは事実だし、伯父さんのすすめで勉強させてもらってる。
全く金もコネもない貧乏人には無理だと思う。
>>406 >督郵を殴らなければ、地方有力者としては十分な出世コースに乗っていた。
ハナッから私兵を集めて(後の曹操のような規模ではないだろうけど)反乱平定に参加して軍人として出世してから督郵事件があるじゃない
素直に学生時代のコネを使えば彼ら一門の麒麟児として後には中央政界の端くれぐらいにはなったのかもしれないが、その程度では満足できなかったのが劉備
>>407 官僚としての能力はそれほどなかったんじゃないかなあ?
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 00:27:14 ID:aZ7XrAbSO
>>407 ああ、そう言う意味か。
反乱討伐に私兵を率いて参加した人ってのはいっぱいいる。
劉備の一族が地方では少しは知られた名士の家柄なら、ごく当たり前の行動だったとも言える。
もし、漢室と縁もゆかりもない貧乏人だとしたら、それはそれで凄いけどね。
まあ劉備がどう考えていたのかは置いといて。
劉備の血筋を疑ってみても、こういう状況証拠がでてくるんだよって事で。
>>409 名士としての参加だったら最初から将校待遇とかでしょ
それか官僚(候補生)として反乱討伐に参加
死んだ振りして生き延びるだなんて危険な戦場に自ら飛び込んだ格好の劉備は、地方とはいえ名士の世界を捨ててわざわざ戦場を選んだんだよ
それとも酔っていたときに関羽たちに騙されて傭兵契約書にサインしてしまったのだろうか
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 01:01:24 ID:aZ7XrAbSO
>>410 でも、私兵率いてても官職は邪魔にはならんでしょ。
場合によっては督郵と組んで百姓絞り尽くしてもいいんだし。よくないけど。
劉備は血統の名に恥じない立派な人だったと思うよ。
みんなが困ってたから戦ってたような気がする。
ルーツでループしてる流れを切るために別の話題
劉備が非凡だと思えるのは、荊州奪還のために動いた事と、
失意の中死ぬ際に諸葛亮に「禅がマトモなら助けてやってくれ。無能なら君が代わって皇帝になれ」って言ったことかな。
劉備は荊州の自領はあきらかに魏への侵攻路としかみなしてなかったと思う。
逆に言うとその侵攻路は三国鼎立から魏打破という、国家戦略の第二フェーズで必要不可欠な物だったから、
寡勢で現状復帰して和睦を狙ったんじゃないかなと。
荊州ありだと漢中〜長安ルートに加えて江陵〜襄陽南陽ルート、それに呉の合肥ルートの三方面から。
荊州を失ったら漢中〜長安ルートのみに絞られ、呉は荊州からの独立した侵攻戦力を置かないだろうから、戦術的に可能性が大幅に減る。
ここで妄想の飛躍になるけど、劉備の諸葛亮への先の言葉は
「おまえの戦略構想破綻させてしまったよ。荊州取り返してイーブンにしようとしたけど駄目だった・・・ごめんな」
と、以後蜀が辿る静かなデカダンスを見抜いていた上での発言じゃないかな。
「君の才能は曹丕の10倍」ってのは、劉備自身では蜀のみで本気の侵攻は無理だったけど諸葛亮ならやれるかもしれないっていう期待。
諸葛亮も第一次までは本気で挑戦したんだろうけど、
本拠地から漢中、漢中から長安という飛び地を2つ跨ぐことになる補給の不利
一方の魏は長安を守ればいいだけという利
仮に長安を奪取しても、さらに補給が伸び、独立した司令官が漢中のみならず長安にも必要という飛び地の増加
こういう事実を身にしみて感じて、北伐は国家のアイデンティティーを確立するためを第一として、魏になんらなかの異変が起きるまで国力を温存という消極主義に転換したんだと思う。
魏延なんかはこの構想を理解しておらず、また諸葛亮もタテマエ上「侵攻するフリだからマジになんな!」とも言えずに後に困ったことに・・・
まぁ、「劉備は多分これらのことを全て承知でバクチに出たと思う」という長文でした。スマン。
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 11:23:11 ID:GdKPzh9T0
>>400 文革について、最高権力者の毛沢東は曹操派だから、
劉備の扱いは所詮其の程度。
おまけに71年以降批林批孔運動に連動して、
諸葛亮=周恩来という図式が出来上がり、
孔明も四人組にょって封建士大夫の反面典型とされていた。
阿斗魏延も毛沢東に扱き下ろされて、蜀漢はますます沈下していた。
>>411 督郵は元々戦功で成り上がった人たちの口減らし目的で来たらしいよ
まあ劉備は若者が争って友誼を結びに来るというくらいの人望あったから
田舎でじっとしてても推挙されてお祖父さんぐらいの官職にはつけてたろうけどね
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:16:54 ID:mIsQUBVR0
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 22:17:57 ID:mIsQUBVR0
督郵は朝廷から直接派遣されて来たように描かれるけど、
実際は郡に属する監察官のような役職だったみたいだね。
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 23:48:39 ID:aZ7XrAbSO
>>413 俺は徐州救援に動いたことの方が非凡だと思う。
呂布と張バクももしかしたら目的は一緒だったかもしれないけど、
圧倒的に不利な戦場へ入り込んで弱い人々の為に大軍に立ち向かおうという精神が凄い。
劉備が呂布を招き入れたのは、劉備だけでなく徐州の多くの人が呂布に恩義を感じていたからではなかろうか。
このスレすげぇな。
演義か二次創作の何かで劉備好きになった人が、
劉備はすげぇって主観をもって、正史を読み取っていくスレか。
というか劉備好きの大半はそんな奴だろ
劉備はやっぱり凄い人なんじゃないかなあ
ビジクなんか曹操からもらった官職捨ててついて行ってるし
陳登や陳群に逃げられたと揶揄されることもあるが、普通に考えたらついて行く方がアホだろ
そしてその有り得ないことをさせて当然、むしろ陳群を連れていけないことを笑われる劉備は
ものすごく評価されてる、過大評価なまでに
何だかんだであの乱世を掻い潜って、地方政権とは言え、皇帝にまで登ったんだから、
劉備の実力は確か。
聖人君子ではなく梟雄に近いとは思うけどね。
>>422 ただの梟雄と言い切るのもどうかと思うんだよね
「度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、人物を良く見極めて、ふさわしい待遇を与えた。
それらは前漢の高祖(劉邦)に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。
国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して、何らの疑念を抱かなかったことは、君臣の公正無私な関係を現すものとして、永遠に手本とすべき事例である。
好機を得るための機知や、行動の根幹をなす戦略では、魏武(曹操)に及ばなかったため、勢力の基盤となる領土も、その才能の差に準じて狭かった。
しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、彼らの器量を考えた時、
自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは到底思えないがためにそうしたのである。
単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、殺されないようにするためだったと言えよう」
簡単に一言で言い表せない多面的な顔を持つ人だと思う
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 03:20:57 ID:Iuxb9HdyO
鋼鉄三国志のリュウ備のキモさには怒りがこみあげてくる
>>425 キモいとかいいつつ、しっかり見てるんだなw
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 02:43:00 ID:U/N3QXMoO
まぁ鋼鉄は三国志とは名ばかりのもんだからなぁ。
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 03:01:05 ID:s3QrNuw20
常に前漢の高祖を意識してたんだろうな。
劉禅は意識せずに中山王劉勝のような
生き方をしたんだろうけど
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 17:00:28 ID:yS5xG9Xy0
没落しても何故か配下に慕われ、難局を乗り切って生き残る術は、
真似しようとしても簡単には出来ないだろう。
基本的に似ていたところがあったんでしょ。
曹操や孫家もそうだしな
英雄の最低条件とも言える
ま、それでも重耳や劉邦とじゃ比べものにならんな
>>429 徳があるように見せかけるのは絶対どっかで破綻するよ
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 01:27:30 ID:ZiDVwLxS0
コウソンサン、トウケン、リョフ、ソウソウ、エンショウ、リュウヒョウ、
リュウショウに次々に取り入るって考えると凄いな。
各勢力には劉備の履歴と人物みて、かなり警戒する部下もいたし、
君主ごとに全く性格も違うのにねぇ。もろに敵対していた勢力までいるし。
かなりの特技OR魅力があったとかかな?
正確に情勢を読んで、適時的確に自分に危害を加えない相手を選んでいるし
しかも寄生先が滅んでもしぶとく生き残って這い上がるなんて、まさに怪人。
曹操みたいなわかりやすい怖さじゃないけど、得体が知れない怖さがあるな。
劉備軍団には傭兵としての期待があったんじゃないかな
当時の群雄たちには呂布と同じで危険ではあるが結構な戦力になると思われていたかと
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 04:48:43 ID:MX8KfY3RO
つうか普通に人気者だろ。
危険な匂いがしてくるのは劉璋以降で、それ以前は人気者劉備のタニマチみたいな者ばかりだろ。
劉備には乗っ取りの野心どころか頼る相手を選ぶ余裕すらなかったはず。
トウケンに到っては放っておいたら曹操に食い物にされてたのを助けただけ。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 18:41:58 ID:0gK9eK7i0
>>429 慕われているというより、可愛がられているように思う。
この人ならついて行けるというより、
この人ならすべて捨てても守るというタイプかな。
>>434 >つうか普通に人気者だろ。
同意。庇護を受けた回数も内容も、まるで春秋時代の公みたいでこの時代ではありえない。
特筆すべきは、ちょっと前までは間接的な敵(派閥)だった勢力にも受け入れられてる所。
>危険な匂いがしてくるのは劉璋以降
郭嘉・程c・周喩などは劉備の危険性を十分予測していたようだが・・・
殺せとか、飼い殺しにして外に出すなとか、物騒なことばかりだから相当なものでしょ。
梟雄ってw
>それ以前は人気者劉備のタニマチみたいな者ばかりだろ。
そんなに甘くはないと思う
真偽は定かではないけど、皇室の末裔という由緒は受け入れられていたし、なにより
公孫?→陶謙→曹操→袁紹→劉辟→劉表→劉璋
いずれも劉備の武力をアテにしてたか、名をアテにしてたかで、庇護者と被庇護者という関係よりgive and takeに近い関係のほうが多い。
傘を借りる代わりに劉備の力を貸すと(性格上、劉備の立場が弱いことは明白だが)。
公孫?の下では袁紹戦に功を上げ、陶謙への援軍の前には孔融を賊から助け・・・負けたのは袁術呂布曹操といった猛者ばかりだしな。
孫権にしたって、赤壁こそ単独だけどその後の江夏を譲り受けてるわけだし、江陵と南部四郡は共同で平定してるし。
この辺りからもう劉備は完全に対等(少なくとも「上客」)な関係になっている。
>劉備には乗っ取りの野心どころか頼る相手を選ぶ余裕すらなかったはず。
流浪中にどこぞかの勢力を乗っ取る機会など無かったと思うよ。
曹操誅殺の件は乗っ取りというより必死の刺し違えだろうし(出来る訳ないと踏んで逃げた?)、袁紹に居候してたときは兵など持ってない上に乱を起こしても曹操に利するだけ。
劉表の時は曹操が北を制圧中で、唯一の「機会」だったけど、完全制圧は益州のように2、3年も掛かるだろうしね。
襄陽取っただけで終わるのなら劉備も終わる。
色んな意味で唯一にして最大の機会が益州だったわけで、決して楽ではない獲物を逃さなかった劉備は凄いと思うよ。
歴史を知るってのはそこに自分の心情を乗せることでなく、何が事実かを問い続けること。
とか言ってもここの住人には理解できないだろうな。
自分の好きなものの正義を競うのが歴史を語ることだと思ってるようだからな。
まるで自国の歴史を都合よく解釈し続ける韓国人のようだ。
>歴史を知るってのはそこに自分の心情を乗せることでなく、何が事実かを問い続けること。
こういった概念、定義が浸透してからまだ数十年。
さも当たり前みたいに言うけど、歴史の見方この考えが絶対に正しいなんてことはない。
437がそう思うのは勝手だけど、「この考え以外は有り得ない」とか思うなら、愚かな奴だ、と言わざるを得ない。
>>437 つまんない釣りだな
そういうのは自分の劉備に対する認識を明らかにしてから言う台詞だぜ
同じ土俵に上がろうともしない者は語るにすら値しないね
すぐ釣り扱いするのもどうかって思うわ
歴史を知るってことは傲慢になるってことと同義か?
自分も気をつけないとな。
>>437=419だろ。こんな過疎スレで似たようなことを書く荒らしが
何人もいるとも思えんし。
で、それが誰かと言えば、ちょっと前の史書はなんでも疑うと言ってた人なんだろうな。
こいつは歴史を疑う前に自分の正気を疑った方がいい。
三国志系のスレは、間口が広い分荒れやすいのが宿命か。
みんな大人になれ。
いちいち頭に血を上らせるな。
釣りだと思ったならスルーしろ。
過ぎた話に粘着して蒸し返すな。
>>443 大人ぶってんなよ。
劉備に関しては間違った歴史認識されてることが多いから
正しい歴史観を教えるのは当たり前。
>>444 荒れてるついでに突っ込むが
歴史観なんて個人の妄想と変わらんようなものを教えずに
判明しているだけの事実関係を教えてやれ
>>445 劉備は皇族の末裔として、漢室を助け、その大いなる徳で
ついには曹賊に陥れられた漢王朝を復古させた稀代の英雄。
決して、皇族詐称とか梟雄とかヤクザとか腹黒とか言われるような謂れはない。
>>446 おいおい。曹「賊」ってなんだよw
しかも「陥れた」って・・・
どうみても曹操は董卓〜李カクまで本気でやばかった漢朝を助けた「忠臣」の本流だが。
後に「簒奪」したといっても、初めて「禅譲」という前朝廷を殺めることなく、否定することなく「正統に受け継ぐ」というシステムを考えたんだぞ。
いくら劉備が好きだからって、不当なレッテル張りをしてる貴方は人の事を言えなくなるんじゃない?
それと「梟雄」ってのは周瑜が実際に孫権へ劉備を表す言葉として言ったものだ。
しかも全然悪い意味じゃないぞ(曹操や孫権から見たら最悪だがw)。
劉備以梟雄之姿,而有關羽?張飛熊虎之將,必非久屈為人用者.
愚謂大計宜徙備置?,盛為築宮室,多其美女玩好,以?其耳目,分此二人,各置一方,使如瑜者得挾與攻戰,大事可定也.
今猥割土地以資業之,聚此三人,?在疆?,恐蛟龍得雲雨,終非池中物也
劉備を大器と認めてるんだ。
あぼんする必要ないよ。こういうのが面白いんだから。
ただ現実に曹操は簒奪してないし、ある時期までは天子を奉じていたのも間違いない。乱世をある程度まで収めたのも功績。
劉備は後世の小説等で過大評価されてる。或は脚色されて印象良くされることで、
ようやく曹操と比肩し得る、というのが妥当だろう。
> 評曰、先主之弘毅ェ厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉。
> 及其舉國託孤於諸葛亮、而心神無貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。
> 機權幹略、不逮魏武、是以基宇亦狹。
陳寿の評、ここまではまさにその通りである。
> 然折而不撓、終不為下者、抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。
ただ最後の部分はちょっと好意的に過ぎるなw
>>447 周瑜、美女やご馳走攻めで劉備を骨抜きに出来る、なんて馬鹿なこと言ってるなw
そういうわけでその人物眼はちょっと偏りがあるかもね
もっとも益州を取ったことからもただのお人好しでもないのも事実で
そういう多面的な部分が魅力だと思うね
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 22:17:13 ID:sW+C5eS20
曹操はだいたいどんな人物だったか想像できるが
劉備は謎。人物評聞いても、イメージが固まらない。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 22:33:24 ID:5hcSdcnQ0
劉備の男色相手で有名なのは誰でしょうか?
曹操には扈従以外に男色相手は居なかったのですか?
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 22:36:11 ID:niwCuLQsO
曹操は献帝より年上だから、禅譲を受けるのは無理があったんじゃないのか。
年老いた先代が超優秀な若者に位を譲るのが上古の禅譲なわけだから。
>>451 おーい
単純に贅沢で引き止めると解釈しないでくれよw
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/syuuyu17.html http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/syuuyu18.html これ、かなり説得力を持った考察と思うね。
いや、勿論決定的証拠がない「飛躍」だけど・・・
まぁこのサイトは劉備の荊州事情を解りやすく説明してるので熟読してくれ。
大体、劉備は龍になる大器と言ってるのに
龍がただの屋敷とか女で満足するタマじゃないことくらい自分でもわかってるでしょ
もしそうだとしたら当代最高の将帥の一人が、自分の発言の矛盾も気が付かずに上奏するアホになっちまう
この発言は劉備という呉からみて潜在的に超危険人物の劉備を殺すことなく(殺したらトンデモないことになる)
逆に神輿にして実権無くして利用してやろうという、周瑜ならではの献策じゃないかな。
龍になる=皇帝になる
池の中で終わらない=荊州で満足せず蜀を得る
周瑜の予言はことごくあたってるぞ。だからこそ、この評は的を射たものだと思うが?
もう一度いうけど、けっして劉備をナメてるわけでも貶めてるわけでもないんだよ。
逆に凄い評価をしてるから飼い殺しにしろと言ってるのさ。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 22:52:59 ID:niwCuLQsO
董卓残党時代は董卓全盛期の百倍ヤバい気がする。
董卓の残虐性を表すエピソードとして村の祭りを襲う話があるが、
リカク、カクシは毎日のように同じ事を繰り返して関中から人家の集落を無くしてしまったといわれる。
ここから董卓全盛期に戻らせた曹操は、まあ一応偉い。
だが、しかしな。
妊婦である皇后を叩き殺すとかは忠臣のやることじゃないだろ。
今はもう帝政ではない日本やイギリスですら、
首相が同じ事をしたら暴徒に襲われて逆さ吊しに遭うと思うんだが。
>>456 曹操を忠臣じゃないとネガキャンすることに意味があるとも思えんが一応言っておこう。
現代的な思想を持ち込むこと自体が間違いだろ。
そもそも現代の首相は妊婦でなくとも誅殺なんてできない。
それに皇后でなくて貴人だし、お前の言い方だと趣味で殺したように聞こえる。
ただの宮廷での権力争いの結果で、中世頃までは普通にあったこと。
大体、その子供が生まれたところで、殺すことに変わりはないわけで
「妊婦だから殺すな!」なんてのは無意味な繰り言。
>>455 矛盾してる
そもそも飼い殺しでよしとする程度の人物なら
チョウシュウみたいに適当なとこで曹操への抵抗を切り上げて下ってるはず
孔明が同名結ぶときにぶち上げたように志があるから曹操に下ることは出来なかったんだろう
>もしそうだとしたら当代最高の将帥の一人が、自分の発言の矛盾も気が付かずに上奏するアホになっちまう
別に構わないんじゃないの?当代最高の将帥であっても謀臣というわけじゃないし
周瑜には戦略眼はあったかもしれないが外交とかそういう素養はないでしょ
って、ID:niwCuLQsOは他のスレでもズレた歴史観披露してるじゃねぇーかw
ただのかわいそうな人か(´・ω・) カワイソス
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 23:46:55 ID:niwCuLQsO
>>459 妊婦という記録が残っているということは、だ。
産婦人科も無い昔のことだからヤヤコの有る無しは自己申告で、それが確定的になるのは腹が誰の目にも目立つようになるからだろ。
曹操はこうなった主君の妻を謀略に巻き込んだだけでも、たいしたもんだ。
昔の女性は腹に初めての子ができてから謀略に関わる余裕があったのか?
確かに歴史上、止むえぬ事情から殺し殺される凄惨なエピソードは多いが、多いからって、ここまでやる曹操は本当に忠臣と呼べるか?
浅井長政の息子を殺した信長を『優しい伯父さん』と呼ぶくらいに無理な話だろ。
>>460 だからなぜ曹操が忠臣じゃないってネガキャンに走ってるんだ?
曹操の高評価って、忠臣だからって理由じゃないだろ。
曹操が忠臣というのはかなり無理あると思うな
彼にとっての皇帝って単に自分の目的のための神輿でしょ
それ以上でも以下でもない
禅譲も道徳的見地からそうしたわけでもなく
敵がまだいる状況で名分を失うことを恐れただけだろうし
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 23:58:38 ID:eIH1CgXEO
曹操は忠臣ではないだろ
ことさらに逆臣と言い立てるほどのものでもないが
漢の皇帝をないがしろにするなんてあの時代はみんなやってることで、曹操もやってたが彼だけ悪く言うのは妥当じゃないな
>>458 だから反曹の神輿の飼い殺しだって
反曹の立場から曹操に下った張繍と比較する意味がわからん。
貴方にわかりやすく話しを例えるとだな
劉備を献帝のように実権のない南朝(漢王室は既に曹操の物で正統性は失われたとする)の主に置いて、
孫権は曹操のように力を握るという国家構想を述べたの。
謀臣外交素質というかね・・
・
劉備(最高権威)→孫権(最高執行者)→周瑜(軍事責任者)→[揚州孫権・荊州?・益州孫瑜]+同盟の涼州馬超
この布陣で曹魏に挑むという大戦略だよ。
これなら劉備も漢王室を守り、曹操=逆賊を誅する立場になるでしょ?
劉備を荊州に戻したら劉備は天下への道を歩んで手がとどかなくなるから、適当に理由つくって呉から出すなって献策してるわけよ。
曹操は忠臣とはいえないが、その業績をみれば明らかに衰亡の淵にあった漢朝を
援け漢室の保護の一助を担った。
劉備は忠臣と言われるが、こいつがやったことは漢朝の権威を傷つけ貶めること。
曹操が賊というのも簒奪したというのも良く考えたら割と妥当な表現だな
後漢側の人間から見ればだが・・・
その後魏も賊が現れたりとかその賊に簒奪されたりとかやられてるから自業自得ではあるし
(魏皇帝が司馬氏のやり方に納得していたわけないしな)
>曹操が忠臣というのはかなり無理あると思うな
忠臣と言うのに無理は無いけど、言い切ることもできないのもまた事実。
>彼にとっての皇帝って単に自分の目的のための神輿でしょ
>それ以上でも以下でもない
論拠を示して星井。
仮に御輿だったとして、その「目的」が何かに因って忠臣非忠臣議論が再燃する。
>その後魏も賊が現れたりとかその賊に簒奪されたりとかやられてるから自業自得ではあるし
「自業自得」という見方は凄く現代風。
中国史上の見方で言うなら「天命」でしょう。
>>464 周瑜は戦馬鹿であって丞相の器ではないことが良くわかった
こんなこと本気で考えていたというならアホ過ぎる
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 00:11:24 ID:GZW/aosiO
>>467 曹操が漢にとって忠臣だというなら、司馬懿・師・昭も魏の幼帝を守り権臣や暴君を排除して蜀を滅ぼした忠臣だな
>>472 ID:niwCuLQsOさん、コテつけてくださいよ。
曹操が忠臣かどうかなんて誰も問題にしてないのに
曹操は忠臣じゃないとか言い続けてる姿はまさにキ○ガイですよ。
>>472 そういう意見は論文の題材としては非常に面白そうなのだが、決め付けるのは安易過ぎると思うよ。
>>460 建前上はだね・・・
曹操は難を逃れて洛陽まできた皇帝を保護し、洛陽の復興を開始し、
その間は許で皇帝の下で天下の為に奉公する忠義の高官なわけだ。
その忠臣曹操を誅殺しようとした董承は帝を誑かして勅を得、都を再び騒乱に巻き込もうとした逆賊であって
その三族が皆殺しにあうのは法に適ってるだろ?
逆にパワーゲームに敗れた董承(曹操が帝奉戴しようとしたときに一度敵対してる)が無罪になるわけないし、
「貴人」(正室でない可能性が非常に高い)の娘だけが罰から逃れるのも結局法を捻じ曲げることになる。
以上から「逆賊の身内」が妊婦であっても処刑するのは理に適ってる。当時において敵対勢力の頭を皆殺しにするのは普通だし。
今の倫理観を持って「残虐だ」「忠臣でない」というのは無理でないかい?
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 00:23:01 ID:dUzwPXj1O
>>467 西郷隆盛や岩倉倶視って一番いい時ですら忠臣と呼べるか?
敵対するものを片っ端から逆賊のレッテル貼って、幼帝を御輿にやりたい放題やっただけ。
主君の傍に居られなくなって都落ちしたとは言え松平容保や劉備が忠臣でないとは言えないだろ。
吉本の乱・魏諷の乱みたいなのが起こっている以上
曹操が忠臣だなんていうことは当時の人でも建前でしかないと思ってたんじゃないかね
特に後者は後漢知識人の最後の抵抗だわな
>>475 それこそ無意味な論立てだと思う
曹操が忠臣のポーズを取っていたと証明することに何の意味があるんだ?
>>476 劉備は忠臣とは呼べない。
本当に忠臣だったなら、曹操の下から逃げ出さない。
献帝が生きてるのに、勝手に皇帝名乗らない。
結局、劉備は自分が皇帝(No.1)になりたかっただけでしょ。
特別曹操が忠臣だとは思わんが、
董承だって、外戚という立場を利用して権力闘争を行って敗れただけで、
劉備に至っては、献帝死去の誤報を根拠に帝位につき、
存命中の献帝の存在を黙殺している。
漢の皇帝の権威を利用しようとした点では、別にみな大差ない。
曹操一人を特別忠臣だの不忠だのいって騒ぎ立てる意味は何?
>>470 >周瑜は戦馬鹿であって丞相の器ではないことが良くわかった
おまいさんは
「夏侯惇は戦馬鹿であって丞相の器ではないことが良くわかった」
なんてな事を言う人なのか?
周瑜を丞相と結びつけるとか、これくらい無理があるぞw
>こんなこと本気で考えていたというならアホ過ぎる
これはあくまで周瑜伝に載っている事実からの推測にしか過ぎない。
ただ、推測事態の整合性は物凄く取れていると思う。
天下二分にしても、その後の益州攻略準備等、その場にいきなり出たものとは思えん。
この周瑜案は孫呉と蜀漢が独立共同して曹魏に当たるという、
実際は魏がパワーバランスの主導権を握ってしまい、絵に描いた餅に終わった案より、遥かに実現味があると思うが?
何せ表裏一体だからね。
この周瑜案が「アホ」というなら諸葛亮や魯粛の三分も「アホ」になるけどいいのか?
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 00:44:57 ID:dUzwPXj1O
>>479 会津は明治天皇を認めずに自分達で北朝を建てた。
だが孝明天皇に信頼され、また期待に応えようと必死だった容保公は現在では逆賊よばわりはされていない。
劉備は皇帝に即位したのは漢朝が滅ぼされ、曹丕が即位したことに対抗するため。
本当に漢朝を無視するなら漢中王に即位した直後に皇帝に即位すればよかった。
>>483 つまり、政策上の都合で帝位を称したわけでしょ?
少なくとも忠ではないね。
>>481 美女でもてなしてたらOKとかいうのは俺はありえんと思うな
劉備を野心のある男と見なしてるのなら尚更
漢のお飾りも魏のお飾りも権力奪回を企てたのに
>>483 容保も将軍が降りたのに戦争続けた点では劉備に似てるね
その手段はともかく幕府に殉じたという内容が評価された、ということなのかな
>>485 美女でもてなしたら、孫権に心服して従うようになる。
と周瑜の主張を勘違いしてないか?
漢の傀儡も魏の傀儡も権力奪還を求めて果たせたのか?
実権を与えずに、反乱の機会も与えず、それが飼い殺しってことだろ。
別に、美女贅沢でおもてなしして、劉備に自主的に残ってもらおう
なんて虫のいいこといってるわけじゃないだろ。
宮室を築き、美女玩好で接待というのは表向きの名目。
実質は、賓客扱いしながら軟禁状態にしてしまうのが実際の目的。
そうして中心を失った劉備軍団を切り崩して、自勢力に加えてしまう。
劉備には、反抗的な連中を抑える人質としての効果も期待できる。
周瑜の献策の理解としては、これぐらいが一番妥当なとこじゃないかな?
家康が駿府に預けられ、今川の命令で動かざるをえなくなった三河武士。
イメージ的には、これに近いような状況を狙ってたと考えていいと思う。
>>455で紹介されてるのも、面白い推測ではあるが、それ以上の評価はしようがないなあ。
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 23:53:33 ID:9WttOJ4r0
一番ドラマ性がある生涯だね
曹操は正統派の英雄すぎ、孫権は若い頃の政治は凄いけどやっぱりちょっと地味
>>489 別のスレでも話題になったが、
曹操は早くに登りつめすぎて、物語の主人公としてはいまいち盛り上がりに欠ける。
袁紹を破ったあと、自分より強大な敵というのが存在しないから、
物語的に緊張感に欠けるんだよね。
その点劉備は、前半生の苦労が長い分、後半の急成長の爽快感が高く、
ずっと曹操という格上の敵が存在して、緊張感が途切れず
小説の主人公には最適なキャラだろうと思う。
>>488 いや、その説で難点なのは
三国同盟によって後ろが安全になった今川と違って、孫権には曹操という脅威があり
その脅威に対抗するために劉備(反曹操実績による名声・力)は必要であるということ。
劉備のこの時点(210年)での力は
・劉gの勢力を名実共に吸収している
・南荊州四郡を独力で落とせる
・曹仁攻撃に力を貸している
・後の事だが劉璋攻略の再に荊州の守備に十分な兵力を残していた
(これは雷緒の数万が大きいのかもしれない)
これだけの力が今川に対する徳川と孫権のソレと同じではないと考えるのが妥当。
仮に孫権が名目上は歓待・・・上客として遇しても実情が意に反する軟禁だとしたら、
たちまち孫権は留守の劉備勢力から総スカンを喰らい、臨戦状態になる危険もある。
「手を出したら劉備を殺すぞ従え」
「おお、やってみろ殺したら攻め込んでやる!」
という風に、孫呉が有利といっても劉備の勢力はそれに痛手を被らせることが出来ると思われ・・・
そのような情勢は曹操が喜ぶだけなので下の策としか言えないと思う。
仮に劉備を人質に取ったとしても、孫権は曹操の敵(朝敵=逆賊)であり劉備の敵(心情的な漢の敵)になってしまい
もう完全に味方がいなくなる(この時点で呉が独立する準備が出来ていたはずがない)。
そういう同盟者を捕らえた呉が馬超と同盟できわけもなく、ここで完全に矛盾が噴出してしまう。
つまり引きとめは引きとめでも、劉備も喜ぶような(留まらせるだけの説得力を持つ)策であり、尚且つ
>>488の
>劉備軍団を切り崩して、自勢力に加えてしまう。
一体化する方法は劉備を頂点(同時に傀儡化)とした孫劉合併しかないのでは?
話の整合性を考えると一番合理的だと思うんだ。
>>491 「天下二分の本質が反曹勢力の即時的な結集である以上、劉備の処遇が傀儡化以外にない」というのは頷ける。
もっともな仮説だが、これ以上は孫ぽこさんとこで話した方がいいんじゃないかな?
そういう仮説にケチつける人間もいるし、無用の荒れに繋がるだろう。
実際に孫呉の基本方針は周瑜の天下二分案より魯粛の天下三分案だった。
劉備にとっても孫権にとっても天下二分は現実的な方策ではなかったことだろう。
>>492 天下二分なんて
曹操がボーと眺めているわけがない
益州襲っている時点で荊州を襲うだろうぜ
といまさらの事を言ってみる
ついでにあげ
>>491 >仮に孫権が名目上は歓待・・・上客として遇しても実情が意に反する軟禁だとしたら、
>たちまち孫権は留守の劉備勢力から総スカンを喰らい、臨戦状態になる危険もある。
だから、周瑜案は却下されて、魯粛の方針が採られたんじゃないの?
つまり、俺の意見としては
>>455は仮説としては面白いが
>>455自身が認めているように「決定的な証拠がなく飛躍した」仮説でもある。
だから「面白い仮説」の域を脱するのは難しい。
一般的に妥当かつ無難なのは
>>488程度じゃないかな?
ということ。
>「手を出したら劉備を殺すぞ従え」
そりゃ、こんな言い方したら険悪になるわなw
そうしない為の表向きの賓客扱いだろ。
今川のたとえは、主君を人質にして、
その配下を先兵として使ったことを有名な例でたとえたかったわけで、
別に周囲の情勢や両者の勢力関係まで同一とか言うつもりはない。
そんなとこまで細々つっこまれてもw
>>492 あくまで個人の一仮説で絶対の正解じゃないのに、それに対する反対意見は
「ケチつける人間もいるし」とか、妙に喧嘩腰というか、悪意に満ちた表現だね。
そういう態度が荒れにつながるんじゃない?
>>495 仮説の論証ばかりがスレの大半を占めると、
むきになってケチをつける輩は必ず出てくる。
まあ転ばぬ先の杖というか、老婆心というか…
要らぬおせっかいならスルーしといてくれや。
しょせん一つの仮説にしか過ぎないものを何でそこまでムキになって主張するのか分からん
定説でもなんでもない個人の意見が批判に晒されるのは当然でしょう
「ケチつける」なんて物言いについては何様のつもりだと感じる
ああ、なるほど。
>>492を読み直して、あんたらの激怒がようやく理解出来たよ。
別にID:mO/qfO/n0氏やID:+XtNeiCFO氏が今まで付けた批判を「ケチをつける」と言ってる訳ではないのだ。
「ケチつける人間もいるし」⇒「ケチつける人間も出てくるだろうし」に修正しといてくれ。
>一つの仮説にしか過ぎないものを何でそこまで主張するのか分からん
これは
>>492で私が言ったことに通じるかな。
どっちにしても諸兄の心中をおだやかならぬものにさせたようでスマソm()m
>>492 いや、呉の基本戦略は二分策。ただ現状で二分に持ち込める実力がなかったので、
現実に対する妥協として三分策を採っただけ。それも一時的なもので、好機さえ
得られれば劉備を排除して荊益を征服する気は満々だった。
その動きは劉備死後にも諸葛亮死後にも現われている。ただ、期待したほど荒れ
なかったというので手を出すのは控えただけ。
また蒸し返すようだけど、現実に三国志をこの板で語らってる連中ってのはどういう人たち?
小説と漫画だけでしか三国志知らない人?
それとも全員が全員正史を読んでるの?
さあ?
ただ少なくとも皆の頭に「演義」があって考えを霞ませてるのは確か
このイメージから抜けないと三国志を語るのは難しいよな
あーあ折角論戦が盛り上がっていたのに
「荒れる」とか「仮説にすぎない」とか自治厨が沸いて話すことなくなったよw
過疎板でそんなことしても意味ないだろ
一つの定説について私的見解しか話せないなら
皆似たようなのばかりで同意に同意を求めるだけじゃない?
正史をソースにして筋が通っている論戦に水を差す奴らより
多少熱くなって罵声が飛ぶくらいでも「中国英雄」についてレスしてる奴らのほうがよっぽど貴重だね
その貴重な意見に寄ってたかって正史を根拠にした正論をぶつけられて、その貴重な意見を発した奴が
ファビョるのを見るのが面白いのだ。
>一つの定説について私的見解しか話せないなら
>皆似たようなのばかりで同意に同意を求めるだけじゃない?
なんで?
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:01:41 ID:/BSXfxaO0
どうでもいい
公平な観測者ならば結論が出せない問題。それが歴史学の本質だからな。
>>497みたいに一つの仮説をムキになって否定して、
自分の思想が唯一つの定説だと主張したがるアホがいたら話も弾まんわな。
分かっている確かな証拠からいくつかの類推できる仮説が存在し、
新たな証拠が発見されない限りは、そのどれもが論争の価値のある話である。
それがわからず、「自分の定説」という結論から、
他の仮説を否定する為の反証を組み立てるアホが多すぎる。
ここは裁判所じゃないんだ。山口県光市母子殺人事件の被告弁護団みたいなマネをするな。
裁判じゃないから「死刑」や「無期懲役」といった結論を出す必要はないんだ。
各々いろんな考えをぶつけ合おうじゃないか。
価値ある話というより妄想だろうが
結論から入ってそれに都合良く当てはまるように解釈してるだけじゃねえか
>都合良く当てはまるように
うーむ、「論」というのはそんなものの様な気がするのだが。いかに説得力を持たせるか。
ただそれを聞いた人間は、その都合よく当てはめられた論に反論する権利があるわけで、だから自由に反論していいと思うよ。
でもその権利を行使せずに、「反論の価値無し」とか「それは有り得ない」とか言って反論できなければ、或は反論しなければ負けですよ。
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/25(火) 19:19:26 ID:JbtVtZs40
三人の中でただ一人皇帝にならなかったのが曹操というのは皮肉だよな。
孫権は最初から漢王朝に対して忠も不忠もないから「ふふん」と帝位についたのも面白い。
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 05:55:39 ID:7TzNrLo+0
あげ
>>509 今盡力一方 冀以輔漢耳 此言非所及也
魯粛が「漢なんかどーでもいいから江東に拠って帝王になれ」
って考えを披露したときの返事。
定型で無難であたりまえの返事だけど、
魯粛は筋金入りの蒼天既死思想を持ってる人間だから、孫権が遠慮する必要はない。
・親父が皇室の墓を復旧したことを自慢してること
・兄貴が僭称した袁術から離れたこと
さらにこの二つを加味するに、けっして「忠でも不忠でもないようなスタンス」ではなかったと思うよ。
むしろ勤皇(漢)で通ってるのが孫一族。
皇帝になる時も漢を称する蜀漢に断りを入れてるしね。
スレ違いだけど。
詐欺の能力が凄かっただけで実力は劉璋に毛がはえたレベル。
行動と口先が一貫しない小物中の小物。
孫堅や孫策は漢の忠臣だったのは史料からも読み取れるからな。
でも孫権は本当に?
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 21:40:49 ID:CXlDJ0Jf0
孫権が漢王朝の忠臣だなんて説、あるのか・・・・・・
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 22:10:42 ID:pJ/GlauNO
玉璽ネコババした孫堅や献帝拉致を考えた孫策が忠臣なのか
奇抜な新解釈を出せばよし、って風潮はどうかと思うなあ
家柄を考えても孫家に漢室の藩屏になる義務も無ければ期待もされてないっしょ
現代でいう「義務」なんて概念は無いんだよ当時は。
それと、何が奇抜な新解釈なんだ??
藩屏になる期待をされていたかどうか知らんけど、
孫策自身が漢の藩屏になって尽くすみたいなことを張紘に言ってるけどね。
>玉璽ネコババ
記述が各々違いすぎて真相不明じゃないの?
論理的に考えると、連合軍で唯一董卓とガチバトルをして(曹操も、か)
皇帝の墓を修復した孫堅が漢の宝を盗んだと考えるのは合理的じゃない気がするが?
裴松之の説を支持したいね。
>献帝拉致計画
孫策の視点からすると、乱れる中原から帝を保護するためという理論では?
曹操が帝を許に移したことと同じ。
本当にスレ違いなんだけど、自分の考えになかったものは「奇抜な新解釈」になってしまうこのスレって何?w
話が盛り上がってくると(←すれ違いだけどw)必ずこの手のが沸いてくるのがこのスレの特徴なの?
劉備マンセーで劉備以外はクズという思想のもとに
史実を捻じ曲げて解釈するのがこのスレの特徴
>>518 義務はあるだろ…曹操が四方の群雄を平らげていったのは
「忠臣」としての義務だったからだろ(本音はこの際置いといて)
劉備が漢の復興を唱えてこれに対抗したのも同じく劉氏の義務だし
でもその結果外交上取れるオプションは狭くなってしまった
呉はそんなものないから有利なように自由に出来たわけで
孫権が忠臣とか歴史を無視するにも程があるわ、飽くまでも状況に応じて使い分けてただけだろ
義務に見えても、それは現代とは感覚が違う。
まあとにかく、軽々しく現在のそれと同一視するな。
まあ、スレ違いだけどって断れば
延々とスレ違いの話題を繰り返していいって事はないけどね。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 11:45:32 ID:LLn00aFi0
あげ
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 01:55:18 ID:+U6F4ubE0
-
_
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 16:21:05 ID:Mq2fqsz00
?
漢の高祖の風あり
これ書いたやつに聞きたい
おまえはやつを実際に見たことあるのかとね
個人的にはどっちも大嫌いだが
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 05:14:45 ID:4jytDwMAO
>>529 お前含め大半の人間はみたことないんだから一々評など気にするなと
風ってのは別に容姿だけのことじゃないと思うけどね。
_
劉備の漢中王って自称なの?
教えて偉い人
>>534 お前は三国志を少しでも調べたのか?
すぐわかることだろ。
限られた文字史料でしか知ることの出来ない人物を「大嫌い」と言い切れる人間の狭さに脱帽。
srb
srb
でもやっぱり劉備は侵略者なんだよね。逆に曹操は河北の戦乱を平定した人。
劉備は身内からものすごく慕われてるのは史料からも存分に伺えるが、元の立場が侵略者では
「国力」という面でも曹操や孫権に劣るのは間違いナッシング。
ま、よそ者らが大挙して押し寄せてきて支配者層に居座り、
また別のよそ者らが大挙して押し寄せてきて一年も土地を荒し回って支配者になり、
挙句にその戦禍も癒えぬ内に北へ東へと出兵だからな。
搾取される立場の民衆からすればたまったもんじゃない。
>>540 搾取される以上に、その軍閥が政府機能を十二分に発揮してくれれば民衆としては
そこまで反感抱かないだろうねえ、まあ税金が安いことに越したことはないだろうけど。
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/15(月) 08:11:44 ID:XTefT1tW0
age
蜀で大規模民乱が起きたって聞いたことないけどそれなりにまとまってたのか
南側で不穏な動きがあった。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:15:29 ID:im0HC3MMO
>>543 南側は何度も反乱起こしているよ
苦労したみたいよ
なんだこの糞スレ
age
劉備が益州に侵入した頃は、率いていた兵はどれぐらいのものだったのだろうか?
2、3万て所じゃね?
_
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 19:30:02 ID:StA8lDg/0
>>548 現地でもある程度の兵力増強はできたと思う。
でも5万人以下ぐらいなんじゃないかと。
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 10:51:49 ID:GfysAo7r0
age
>>545 南方はもともと平定されてないだろ?
そこを国力増強のため平定しようとしたんだから乱が起こって当然。
蜀全体としては政権が安定するのに越したことはないでしょ。
劉禅とて浪費で国土を疲弊させたという記録はとくにないし、まあ
住民にとってはそれなりにいい時代だったのではないかなあ。
>>548-551 益州入りするときに「数万」とされてるが・・・
しかし・・・
張魯を攻める前に劉璋は劉備を歓待してお互いに官位を与え合い(w
さらに兵を(その他軍需物資も)与えて3万強となったとある
X(入蜀時の劉備手持ち数万)+Y(劉璋の与えた兵)=3万強
3万強+ウソの催促で得た増援4千=3万5千(侵攻開始時)
ここからが状況証拠と推測だが:
Xは恥ずかしくも「万」とあるから1万程度は最低あったと見て間違いない。
あたりまえだけど3万以下。
益州を強奪せんとする矢先に、果たして過半数以上を劉備にとって「新兵」にあたるような構成にするだろうか?
侵攻開始までの1年以内に完全な劉備の私兵とすることができるだろうか?
急襲で得た白水関の将兵の妻子を人質にしたと書いてあるおり、劉備はこの辺がシビアであるのは間違いない。
だとすると3万の半分は劉備自身の兵だったと思ったほうが妥当に思える。
で、ここまでの推測からすると1万5千以上3万以下。
ここからはどうやって幅を狭めるかが問題だけれどもヒントが2つある
一つは鄭度が劉備の軍勢を「1万弱」であると述べてる点。
もう一つは劉備がウソの催促で「1万」を要求してる点。
鄭度が言っているのは間違いなく劉備子飼いの軍勢であることは間違いない。
そして1万弱と言っているのは
・この時点で既に劉備の益州総軍勢もややダメージ(戦死や離反など)を受けているから子飼いも少なくなったと述べた可能性
・劉璋を楽観させるために少なめに述べた可能性(暗に劉備子飼いの軍は少ないから一撃で瓦解するかもしれませんよ、と仄めかした可能性もある)
この2つが考えられるが、これはひとまず置いとくとして・・・
次の増兵要求が1万だったという点・・・前回劉璋が自発的に与えた兵より、劉備が借りようとした兵が多いと考えるのは理に適ってない。
つまりYは1万以上2万以下であったと考えるのが極自然。つまり劉備には間違いなく1万以上は最初の出迎えで渡している。
そもそも劉璋は益州-漢中のイザコザと何の関係もない劉備に武力行使を頼んでいるわけだから、それに見合う恥ずかしくない援助をしてるはず。
以上の点を勘定すると
1万5千前後というのが最終的な数字になるのだが・・・
これを多いと見るか少ないと見るかは
赤壁時に推定3万を持って、荊州南部掌握までほとんどダメージを受けてない点。
荊州の地盤を得て戸籍を把握(徴税・徴兵)する時間と実行できる人脈があった点。
曹仁の江陵撤退後に劉表の遺臣民が劉備に集まったという点。
雷諸の帰服で「数万」(但し、一族郎党老若男女非戦闘員含む可能性が非常に高い)を得た点。
これらをよ〜く考えると、荊州は残された兵と将からして必ず磐石であるという事実があって、
「実に計算されている」としか形容できない・・・その、つまり、劉備がタダモノではないことが伺えると思う。
劉備って老獪だよね。
大耳児ですから
あげ
劉備はチャンコロ
劉備こそローカルレベルだと思うんだよな。
<隆中対での劉備による統一の前提条件>
1:荊益二州の完全領有
2:1が前提で劉備側が主導権を握り、孫権が中立or東部戦線で対魏戦
3:曹操が寿命切れで御家騒動、求心力を失って離間し放題
4:西部戦線の劉備が関中に進出するまで、中部戦線で魏の主力と渡り合える指揮官
実際は↓で、いかに非現実的な前提条件だったかが窺える。
1:曹操(208)、周瑜(208〜209)、魯粛(215)、呂蒙(219)、陸遜(222)の活躍で段階的に破綻。
仮に劉表、魯粛が長生きして、呂蒙の半年早く身罷ればまったく別の展開。
まあ、周瑜の病死は都合よすぎだったけど。
2:北来名士の存在から山東領有の需要は少なからずあったが、
孫権の実力では合肥を抜けずに東部戦線で飛躍出来ないので破綻。
劉備にとっては敵に回すと恐ろしいが味方にすると頼りない2ちゃんねらーみたいなヤツ。
3:魏諷の乱などで少々動揺したが、そもそも御家騒動など起こらなかった。
付け込むべき最大のチャンスである曹操病死〜禅譲の直後に夷陵戦をやってるくらいなので、
もうこの時点で劉備はやる気なくしてる。
4:野戦指揮官だけなら関羽でも十分。ただ荊州董督にはまず不適当。
呉の人選を参考にすれば孔明がここにいるのが当然。
やっぱり202〜207年の五年間もの間、曹操の独壇場にしてしまった時点でだめぽ。
劉備は194年の徐州委託から209年の荊州割拠まで実に15年もの時間をサバイバルに費やしているのが惜しい。
曹操が「天下の英雄は君と余」と認めても、後世の人間にローカルレベル呼ばわりされるのは当然かもな。
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/23(火) 12:57:27 ID:0G8sgb4t0
age
もし劉備が曹操の陣営に留まり続けていた場合はどうなっただろう?
上手く立ち回れば、魏内部でかなり力を持てたりして。
テイイク・カクカ等によって速攻始末されるか、飼い殺し。
もしくは辺境戦線で生かさず殺さずこき使う。
age
age
age
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 03:58:14 ID:2JyPEdRo0
あげ
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/26(金) 15:10:39 ID:k4FmPLfm0
>>560 >2:北来名士の存在から山東領有の需要は少なからずあったが、
>孫権の実力では合肥を抜けずに東部戦線で飛躍出来ないので破綻。
>劉備にとっては敵に回すと恐ろしいが味方にすると頼りない2ちゃんねらーみたいなヤツ。
これは孫権が可哀想でしょ。
もとより広陵〜下?は兵站が伸びすぎるし
濡須から水路を使って寿春を無視て下?に行っても陸路の確保に難がある
結局、合肥〜寿春が唯一無二の侵攻ラインだけれども、魏の歴代の守将が見事なまでに名将揃いときてる。
しかも時勢に合わせて最前線を合肥城から南北にフレキシブルに変えてるんだから、手がつけられん・・・
劉馥、張遼、満寵・・・特に孤立無援の7千で10万を破って
以後、呉に張遼恐怖症をもたらした張遼を恨むしかないね・・・劉備はw
>>570 天下三分が一強二弱ではなく本当に三分となるには
呉蜀がともに魏が所有する東西両翼のリムランドを奪い取り、
ハートランドである中原に直接脅威を与えるくらいでなければならないだろう。
諸葛亮の隆中対も呂蒙のアレンジ版天下二分も自国の戦力を過大評価し、
同盟国を都合のいい存在と甘く見ている。
呉蜀の対立で魏に流れるマージンがどれほど危険なものかを軽視した失敗作にすぎない。
つまり荊州の帰属を抜きで考えるなら以下のような感じか。
魏:幽州、并州、冀州、兗州、予州、司隷
呉:揚州、徐州、青州
蜀:益州、涼州、雍州
それを言うと劉備の
「涼州を取ったら(本気でお前を叩き出してやる。万一青二才のお前が百戦錬磨の俺に勝てたら)返す」
というふざけた時間稼ぎの発言は三国のバランスオブパワーをよく考えた発言と言えよう。
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:16:44 ID:E9vOZsn70
>>563 劉備のゴキブリ並みの生存能力と
寄生虫並みの乗っ取り能力舐めとるな
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 03:43:22 ID:1CzoYcc70
あげ
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 16:37:03 ID:ZNcc/v/MO
>>572 >>564にあるように、劉備は他人に仕えるタイプじゃない。
なのに曹操配下に留まっているとなると、劉備は政治的に無力の状態になっているはず。
でなければ劉備なら必ず独立する。
唐に降伏した李密の状態だろう。
それ以外なら曹操の下に甘んじてるハズがない。
後漢代の四川省に製鉄所、「蜀」建国の理由に迫る発見か
中国・四川省の古石山(こせきさん)遺跡で、愛媛大学東アジア古代鉄文化研究センターと
成都市文物考古研究所などの日中調査隊が、後漢代(1世紀ごろ)の製鉄遺跡を発見した。
中国の中心部である中原(ちゅうげん)以外で、漢代の製鉄跡が見つかったのは初めてで、
221年に劉備が、この地域に三国時代の「蜀(しょく)」を建国した理由を解明する上でも
重要な発見として注目される。同大で27日午後に報告される。
秦の始皇帝(在位・紀元前221〜210年)が現在の四川省に鉄生産の役所を置いたとの
記録があることから、調査隊は同省内で昨年から発掘調査を行ってきた。その結果、
今年6月に、成都市蒲江(ほこう)県の古石山遺跡から、高さ1・5メートル、幅最大1メートルの
レンガ造りの製鉄炉の跡が出土した。炉は4メートルほどの高さがあったと推定され、
日本では幕末から明治にかけての製鉄炉と同じ規模という。
調査に携わった村上恭通・愛媛大教授(考古学)は「諸葛孔明や劉備たちは
山間部の蜀に追い込まれたというよりも、鉄を得るために
積極的に入っていた可能性がある」と推測している。
(2007年10月27日14時32分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20071027i506.htm?from=main5
>>575 なんかビミョー。蜀に製鉄所があったってのは華陽国志にすでに明記されてる。
考古学的に発見されたからといってそれがいきなり建国理由にはならんだろ。
おそらく記者が村上教授の見解を誤解してるんじゃないかと思われ。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 02:40:34 ID:WVKDFTG50
あげ
579 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 20:50:52 ID:WVKDFTG50
あげ
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 22:50:39 ID:PS0b8Rmk0
りゅうびさいこう
このスレ最近、無意味にageるバカが居ついてるね。
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/03(土) 04:23:57 ID:4cBRgtw40
あげ
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/04(日) 13:05:16 ID:ksnGvgFQO
劉備は北京原人
耳たぶが垂れ下がっていたとか、
手が膝まで達するくらい長かった、っていうのは、
実際にそうだったというよりも、
当時の、容姿にたいする、一般的な褒め言葉なんだろうね。
つまり現代人がスタイルの良さを褒めるとき、
足が長いとか、頭が小さい、って言うけど、
2千年後のヒトがそういう形容詞聞いたら、
気持ち悪いだけかもしれないよね。
なにが凄いんだ?
常識すぎることを今更書いてることが凄い^^
のじゃないか?
身の丈(胴回り)八尺という類は
ありえないくらいでかいという比喩なのも常識
>587
でも容貌魁偉とか胴回りとかは以後色んな武将の描写でも出てくるわけじゃん。
だからああ一般的な比喩なんだなってわかるけど、劉備の耳長手長は類を見ないんだよね。
手長は他に例があるぞ。
曹丕だったかな?ちょと忘れたが確かに劉備みたいに膝に届きそうなくらい長い人の記述は有る。
福耳だけど、呂布が実際に大耳野郎と言ってる訳だから、デカかったのだろうね。
太史慈もさるのような腕だと書かれてるね。
直後に弓がうまいとあるから、弓に適した身体的特徴として特記されてるんだろな。
あと劉備が孫権を長上短下と言ってるのが腕長短足の意味だという説がある。
張遼も孫権のことを長上短下で弓馬がうまいと言ってるね。
さっき中研院で検索してみたら司馬炎やら劉曜やら垂下過膝がどっちゃり出てびびった。
始皇帝の墓の等身大と言われる親衛隊像がほぼ180cmだってね。
始皇帝の周りは流石に選ばれた偉丈夫で固められただろうけど、実際180cm台の武士っていたんだろうね。
当時の身の丈八尺(一尺22cm〜24cm)はまんざらウソでも誇張でもないだろう。
流石に胴回り七〜八尺となると「でかすぎ!!」っていう形容詞代わりだろうけど、
120〜140kgの相撲取りを実際見ると無きにしもあらず・・・
昔の中国人はでっかくて、満州民族と交わったから低くなったとかいう話もあったような
>>593 親衛隊なんだから各一般部隊から体躯と武芸に優れた者を選出してるだろうさ
エリート部隊って奴だよ
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 09:24:04 ID:TjBnizFY0
age
Lau
劉備はひげが無かった――蜀志/周羣伝
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/25(日) 15:40:41 ID:9RKvcruS0
age
劉備「おでのヒゲがうすいと言った張裕はぜってえヌッ転したる〜〜」
張裕「220年に漢は終わる。しょぼヒゲの劉備は、多分222〜223の間に亡くなるだろうな。ギャハハハ」
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/27(火) 03:28:04 ID:Te9dyO9bO
自演乙晒しage
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 16:29:40 ID:6D6elbUWO
ウリは三國志初心者なんだけど、自称三國志マニアの友人曰く
劉備は諸葛亮と出会わなければ一生傭兵隊長
関羽・張飛と出会わなければ一生筵売りだったって言ってた。合ってるの?
>諸葛亮と出会わなければ一生傭兵隊長
出会う以前に
官爵はスゲー高位に・・・
安熹県の県尉→平原国の相→鎮東将軍・宜城亭侯→予州牧→左将軍
傭兵隊長というかパシリみたいなことしてたのは、上官がいたからな・・・
孫堅だって袁術のパシリだったし、曹操だって袁紹の子分だった。
一生パシリで甘んじるつもりがなかったのは以前からだろう。
しかし、諸葛亮が大きく劉備のその後を変えたのは間違いない。
>関羽・張飛と出会わなければ一生筵売り
筵売り(平民)は勉強も出来ないし、士大夫と交際できない。
華美な服も着れないし、音楽をたのしむ余裕もない。
当代きっての大学者に師事もできない。
江戸時代の貧乏侍が内職で傘を作っても、その侍が「傘売り」なわけないだろ?
劉備は没落王族の末裔ではあったが、平民とは明確な身分の差があった。
あの時代では誰一人として劉備が「正当な中山靖王劉勝の末裔であるということ」にクレーム入れてないんだよ。
本当は自称かもしれないとか、中山靖王劉勝の末裔って価値あるの?とか抜きにして、認められていた事実が劉備にとって重要なんだからね。
で、関羽張飛が居なければ随分違うストーリーになっただろう。
兵を挙げるにしても、関張がいなければ最初の黄巾で手柄をたてれなかったかもしれないし、
あるいは公孫サン傘下で目立つ武功を得られずに埋没したかもしれない・・・
>>604-605 『魏略』では劉備は臨邑侯の庶家の末裔とあるよ。
二人いるんだが、真定王劉揚の弟の劉譲と光武帝の甥の北海靖王劉興の
子劉復・劉騊駼父子が該当するそうだ。
まあ中山王の末裔よりも信憑性はありそうだ。
あるいは劉備の祖父の劉雄が劉騊駼の孫かもしれんね。
『典略』の間違いだった・・・
劉備はニートもしたし行商もしたし政府の役人もして傭兵稼業もやり一勢力の長として最後に皇帝になった
一言で言うなら職を転々として最後に蜀の皇帝に就蜀、じゃなくて就職した
諸葛亮もニート書生。
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 20:10:34 ID:6OoJ8yVM0
隠者が賞賛を集める対象であったといわれる当時の中国社会において、
諸葛亮の態度は(プラスに成りこそすれ)マイナスなものではないはずでは?
つーかだからこそ龐統に並ぶ名声があり、それ故に劉備も膝を屈して自陣に招いたわけで、
そうじゃないと理屈に合わないと思う。
大方ちょっとしたおふざけで「孔明はニートw」とか言われてるのを見て真に受けたかなにかしちゃたんだろうけど、
ネットの誇大情報に変な影響を受けないようにな。
…2chで言っても説得力無いかw
>>610 >隠者が賞賛を集める対象であったといわれる当時の中国社会において、
これはもうちょっと後の時代やね。竹林とかはね。
当時はまだまだ、官職を得て出世するというのが知識人にとって最大の美徳。
太守とか刺史になるのが夢だったのさ。
後漢末期・霊帝時代の「隠居」は宦官にたいするアンチテーゼ、反体制運動であって郭泰のような例は孔明とは違うでしょ。
>諸葛亮の態度は(プラスに成りこそすれ)マイナスなものではないはずでは?
司馬徽もそうだけど、劉表を敬遠したのであって仕官そのものは敬遠してないんだよね。
612 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/28(水) 21:15:36 ID:KjUvEbuW0
、 l ‖_ >:=‐  ̄ ̄「 l| l } 、 ヽ んっ んんっ…
ヽ 、i`─ '´ ___ | ll ⌒; j 、 ヽ
\ヽ r,ニ、‐‐'‐' u .l ll '_ノ 、 ヽ
` \"\):、 | l| `、 ヽ 、 ヽ
ヽ ゞ'^ ! ll `、 ヽ 、 ヽ
丿 .:::. | l| \ ヽ、 、 ヽ
丶、_ | l|/lヽ `>=‐- ミヽ `、
`⌒ヽ_ | l| | ハ /´ `ヽ 、
チュパ / /. `´| l| | l / 〃 `、 、
チュパ / / | l| | l' 〃
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
処士の徐庶モナー!!
>関羽・張飛と出会わなければ一生筵売りだったって言ってた。
仮に劉備が関羽張飛と出会わなくても、
学問の師:廬植、学友:公孫サンのパイプはあるから、
その縁でそれなりに出世はしてたんじゃないかと思うけど。
少なくとも一生筵売りでは終わらなかっただろう。
県令を勤めた祖父の恩顧で廬植・鄭玄・孔融・陳珪らと師弟関係になったり、
交遊関係があったからね。
まあ地方の太守止まりだろう・・・
ちなみに蓆織りとは地方官吏だった父が早世したから。
だから、土豪(小豪族)の身分では状況が厳しかった。
まあ、同じ事情で農業で生計を立てた松平氏と似たようなもん。
母親の身分が低かったんじゃないかなー、とも思うな。
あの時代、割と父夭逝の場合、母親の実家で育てられて〜ってパターンが多かった気がする
孫策とかね。
孫策は何気に生い立ちで苦労してるところが劉備と被る。
孫静も呉景もノリ気じゃなかったしな。
当時は当主が死んで頼れる親族がいないと転落まっしぐらが普通なんだから、曹操がセックスに励んだのもわかるぞ。
仮に劉備の生家の系譜を設定してみる。
斉武王劉縯―北海靖王劉興―臨邑侯劉復―劉騊駼―劉□―東郡范県令劉雄
―劉弘―先主昭烈帝劉備―後主懐帝(安楽思公)劉禅―新興王劉恂
いわば劉縯の系統は新田氏、弟の光武帝の系統は足利氏って感じになるな。
劉禅の子って王なんだ
へぇ
劉禅が蜀漢の帝位に就いてたから庶子は王に封じられてるのが普通なんじゃね?
劉禅の弟の劉理・劉永がそうだったように。
劉恂ははじめは新興王だったけれど、蜀漢が滅んだ後は
最終的には劉禅の嗣子として安楽公になった。
ただ、諡号もわからないし、子供の名もわからない。
永嘉の乱で殺害されたのは確からしいけど・・・
劉玄以外は全滅したんだよな
劉玄は蜀に逃げて蜀漢の将軍の子供を部下にさせてもらったんだっけ
624 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 10:10:08 ID:BIEQ6tkA0
>>617 母親の身分が低いと今度は再婚してそっちの家で育てられるだろうけどな
何アンみたいに
身分が高いからこそ、劉氏のままで居られたんじゃないの?
姻族関係での政治力学とかでも働いて未亡人を実家につき返せないって事は、まあないわけじゃないし
ちょううんが必死で助けたのに。なんだあの息子は。
みんなどれだけ必死になってショクの国を興したとおもってんだよ!
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/05(水) 14:29:50 ID:j3DWuSPD0
阿斗の失策って後宮増設しようとした事か?
まあおかげでか、父よりずっと子は多いね
>>625 少なくともお前よりは大物だったよ。
一国の皇帝として40年も君臨するのは並大抵のことじゃない。
>>626 そのエピソードの何が暗君になるかがわからん。
諌められて「うるせー昔のことなんぞ知ったことか!俺は女がたくさん欲しいんだ!」
とかって強行したというのなら暗君暴君だと思うけど。
>>628 劉エンとの件
皇太后の命令なんてのは口実
同じ粛清なら同時代の曹叡@孔明没後や呉の孫皓のほうがより劉禅よかより大規模で悪質だな
司馬師以降の曹家は権限が司馬に移ってしまった感はあるけど
部活の顧問や知り合いやバイト先の常連さんとかに劉備っぽいって言われたことが
あるんだけど、喜んでいいのか?
目上の人にはなれなれしかったかもしれないけど、逆らったりせず言うことはちゃんと聞いて
立ててたと思うんだが。。。
ここを見てたら凹んできた
三國志占いで劉備だった俺が通りますよ。
耳がでかいんじゃないか。
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/07(金) 19:30:22 ID:hO4Zwe+LO
もしくは腕が長い。
>>631 その人たちが何を読んでいたかに寄る
だいたいは横山か蒼天だろうけど。
三国志熟読した人間に劉備っぽいと言われたら大したもんだよw
>>43
治世の姦賊
乱世の英雄
これって劉備も該当するわなw
>>636 誰が誰を評した言葉だよ
知らんぞそれw
ああ、許劭か。済まんかった
誰かがいってなかったか?劉備は中央にいると状況をひっかきまわすだけの存在だが、
地方に出て天険に拠れば一国は起こせる、とかって。
裴潜だよ。 人物を輩出する名門の家系だな
やはり漢の名門からは疎まれていたような印象もあるな劉備は。
人によって好悪が激しく別れそうだ
641 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 15:36:28 ID:YNAuUaPs0
>>640 んで、諸葛亮をゲットして名門とのパイプを作ったって感じだ
実際に好き嫌いの分かれるような奴には違いなさそうだな
敵も隠れシンパの類も多そうだ
>>43からして毀誉褒貶の激しい人物だったのが分かる
あと、肯定的な発言だけ読むと押尾語録に見えてくる
俺も顔の相みてもらいたいなぁ
手相
age
649 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/10(月) 22:11:20 ID:RitWjQJ7O
劉備が漢王朝に対してどういう考えだったかは分かりませんか?
そんなの本人にきかねえとわかんねえよ
三国志でも読んで勉強しろ
>>650 解らないという結論なのに勉強しろとはこれいかに。
さて、漢朝そのものに対する劉備の意見表明は(多分)記録に無い。
曹操のもほぼ無いんだけどね。
というか劉備には、自分自身の志向を表明した記録さえ殆ど無い。
子供時代の「あんな車に乗ってやる」を除けば、脾肉の嘆のときの
「老年も近いのになんの功業も立てていない」くらいしかないだろう。
おそらくこの頃までの劉備にとっては、漢朝は「当たり前にそこにあるもの」
であって、いわば「天下」そのものに近いものだったと思う。
つまり彼は単純に「立身」という目標しか持っていなかった。
それが劉表期までの劉備の、信義を重視する人間だと評判を得ていながら
戦略的には「反復常ならず」という外面の矛盾を生み出していた。
などと想像している。
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 10:40:51 ID:BgOxef+T0
>>651 曹操にとっても同じ事だろう
建安15年の布令を見る限りは曹操も同じように考えてたんじゃないかな
註に牽かれた魏武故事の中に詳細な内容があるけど
後徴*為都尉,遷典軍校尉,意遂更欲為國家討賊立功,欲望封侯作征西將軍,然後題墓道言『漢故征西將軍曹侯之墓』,此其志也.
これが偽らざる心境だったと思う
徴*は山と王の間に一が入る字
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 12:10:21 ID:ZEqCqEWAO
そのまま信用できんだろ、それ
表向きはそう言ってたってだけじゃないか
王莽だって一貫して「漢のために」を言い続けてたぞ
>>652 晩年文若と仲違いしたり魏楓の乱が起こったりしたのはこの二枚舌のせいだったのかも
大体は反乱する側にもそれなりの理由がある
それは蜀も魏も呉も漢も変わらない
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 15:50:04 ID:BgOxef+T0
荀郁が「何の目的で」魏公反対したのかも不確定というか
そもそも荀郁が後漢の忠臣である保証すらないのだが…
尚書令となって皇帝から完全に実権を奪い、曹操の覇業に手を貸してる時点で同類でしかないからな
もう落ちてしまったが三戦板の荀イクスレ有志でなされた考察とか見れば
どれだけ荀郁も奸物だったかがわかるよ
>>656 と書いてから気付いたけど別に後漢がどうのとかって観点じゃなくて
ただ仲違いしたのは曹操のこういう二枚舌な姿勢云々って話だったね
曹操軍閥の覇業の初期を支えた荀郁を代表とする穎川の名士とか豪族とかは必ずしも一枚岩じゃなかった
曹操は外様だからな
だから、軍閥が巨大化しある程度の時期になると他地方の人間等も重用されるようになって軋轢が生じてくる
そういった政治力学のバランスから荀郁の立場がおかしくなっていっての結末であって
曹操が二枚舌とかそういう事とはまた別問題だと俺は思うよ
魏諷の場合も曹操の二枚舌とかそんなレベルというよりももっと根の深い政治的な問題だって考えられるしな
文若は清流派名士群だから漢朝打倒を見過ごせる立場じゃないな
曹操がかつてほど彼らを必要としなくなったのは確かにそうだが
逆に言うと必要としてるうちは忠臣アピールも演んなくちゃいけなかったってことだ
反乱は曹操の2枚舌のせいじゃないと言うが本当に征西将軍で終わってりゃそんなの起こらなかったろう
659 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 17:41:15 ID:EhjakhLG0
すべてはコウホスウが手抜きしたから。
董卓だの袁兄弟だのはお呼びでないはずだった。
孫一族や劉備など言わずもがな。
660 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/14(金) 19:47:41 ID:ZEqCqEWAO
>>658 清流派は別に漢王朝を絶対視していたわけじゃないぞ
公然と漢を力で打倒しようとしている反乱者にはくみしないが、後漢末の乱を収めた者が漢に代わって新たな天下人となることは別に否定していない
荀ケを漢朝マンセー論者とみるのもねえ。
一度荀ケスレ見てきたら?
>>658 じゃあ何で尚書令なんかになって曹操の言いなりの詔勅出しまくりわざわざ皇帝の権威を落とすんだ?
勤皇の士なら尚書令になんかならないで、もっと別の手段あるだろ
そもそも清流派というのが政治闘争の場で彼らが濁流と呼ぶ政治勢力と対決するだけの存在で
「清流=勤皇」ではないんだよ
むしろ清流と名乗りつつ、濁流と呼ぶ連中よりもはるかに悪どく意地汚い真似を散々やって来てる
意外に思われるかもしれないが董卓ですら元々は清流派の下っ端
清流=新興豪族ってのが正しいだろうな
清流派が勢力争いをしてただけというのは確かにそうだが
主導権争いも結局漢あってのことだろう
曹操が漢王朝の枠組みの中で偉くなる分には良かったんじゃないかな
尚書令として頑張ったというが第一晩年には実権を失った名誉職に降ろされてる
何で魏公・王と登り詰める曹操の手足足り得なかったの?
曹操が征西将軍と墓に刻まれたいと言ってたときは頑張ってたのに
政権与党が「民意」と言うのと同じで、
本心は自派閥の権益の保護拡大であっても、表向きは「輔漢」とか「佐幕」とか言うよな。
それも真実の一面なんだけど、それだけじゃないよ、という。
そりゃ清流派でも魏に尻尾振ったのは一杯いたろうさ
でもそれは踏み絵を踏んだのと踏めなかったのがいたってだけの話だろ
踏めずに整理させられたのがジュンイクや吉本・魏諷に唆された連中
まあ劉備の場合はそんなの関係なく自分の都合で曹操と戦ってたんだろうけど
>>663 違うよ
当時、漢王朝はすでに多くの者に見限られ、混乱を治め天下を平定した者が新たな王朝を開くと認識する人間がほとんどだった
魯粛が有名だが他にも漢の皇帝を利用こそすれまったく敬意を払わない者、自分が皇帝にならんという志を公然と口にする者、枚挙にいとまない
それでも確かに漢王朝の威光を慕う者もいれば、王や皇帝になりたがる欲丸出しの態度を嫌う者もいたわけで、荀ケはそういう人間の反発を避けるには魏公になっちゃ駄目だと反対した
荀ケ自身は皇帝を利用してきた側の人間であるから、あくまで謀臣としての発言であって漢への思慕はあったかどうか疑問
征西将軍の件は他の人の言うように本心を隠しての表向きの発言でしょう
天下が乱れる前の若い頃なら実際にそう思ってたかもしれないけど、建安年間もまだそう思っていたとは思えない
謙譲のポーズを見せているだけ
>>665 魏諷も魏諷の乱の参加者も魏王国内部の者が多く、どちらかというと魏内部での勢力争いに端を発している感じだね
吉本の乱は漢の名門中心で漢復権のためだと明記されているけど、実はこっちは清流派とは言えない
清流派は後漢中期あたりから現れ始めた系統で、吉本ら三輔の人間は前漢から連綿と官僚を輩出している系統
出自が全く違う
>>666 曹操は漢が大好きなんだよ
天下紊乱前だけなら、忠義の士だったと言えるさ
建安年間の曹操がどこまで忠義あったのかの判断はとても難しいよなぁ…
そんなに熱く反論しあうような問題なの?
どっちもおんなじようなこと言ってるように見えるけど。
要はどっちも本音と建て前を使い分けてるって話っしょや。
>>668 その上で、本音がどこにあったのか?ということでしょ
蘇徹・蘇軾の荀ケ評が参考になるか。
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 20:56:18 ID:xeHrJ3Uk0
袁紹に仕えて逃げ出した、というのがポイントだと思う。
で、しょうがなく曹操に仕えたと。
それは妻が宦官の娘だからだろうか。
荀ケは清流の中でも人柄と腕前は正統派でも立場はかなり窓際っぽい印象。実際どうだろう?
oioi・・・
>>666 折角文若が注進したのに曹操はこの腐れ儒者が!って左遷したんだな
それだけならともかく病死寸前の時期に従軍させるとか凄い嫌がらせだな
三国志一の英雄も所詮この程度かよ
>>673 違うよ
いきなり左遷と同時に従軍させて、それから病気になったんだよ
病気になったのは従軍してから(そもそも本当に病気だったのかという疑問もあるけど)
まあ自殺とか憤死の類だろうな
どうせなら劉備のとこにいた方が晩年はまだ幸せだったかなあ
上のレスでもカクカやテイイクは野心的で危険だって警戒してるけど
ジュンイクはそうでもなかったみたいだし
>>675 いや、野心的でないわけがないだろ
常識で考えろよ
野心的でなかったら、袁紹のところで
ぼかぁ出世は無理だなあ、とか言ってのほほんとしてそうだな。
劉備は大将でも部下でも普通にこなす上どんどん人望を集める
たしかに恐ろしい奴だろうな
おまけに戦に弱くはないくせによく負けるから信頼がおけない
>>680 ワロス
曹操と劉備の差は確かに能力の差も大きいけど
「荀ケ」や「魯粛」がいたか否かの差も相当でかいんだよな。
明確な大目標を提示して軍事行動を規制できる存在。
劉備の戦の前半分はそれがなかったために負けまくったと見ていいと思う。
諸葛亮による提示がなければ、荊州争奪戦で曹操を駆逐するまではよくても
その後また中原へ突撃していた可能性も十分ある。
実際北を睨んで7年暮らしたわけだから。
孫権も同じで、孫策の代で何度か長江を渡ろうとして失敗してる。
天下二分・三分の計ってのは鼎立体勢とかいう以上に、
劉・孫にとって重い実質的功績があったと思う。
>明確な大目標を提示して軍事行動を規制できる存在。
いや劉備自身がそうなんでしょ?しかし曹操曰く「考えつくのが遅い」と
劉備は軍・政の統率者として高く評価されていたけど、
国家戦略レベルの軍略は持ち合わせていなかった。
だからこそ、諸葛亮と知り合った頃に無数の意見交換しただろう
にも関わらず、その中で天下三分の計画が特筆の功績とされる。
のだろう。
いわゆる
「劉備には戦略を構築できるブレーンが欠けていた」
っていう感じの論だけどさ。
それを証明してそうな事例って有る?
三顧の礼以前の劉備って誤った戦略を取ったりしてた?
個人的には(三顧以降だけど)晩年の対呉戦くらいしか思いつかないんだけど。
>>684 特に誤った戦略を取っていたわけではないが、
いきあたりばったりで行動することが多かった。
>>684 戦略方針自体が存在して無かったと思うよ。
曹操が着実に地歩を拡げている7年間、劉備は新野で変わらず
北を睨んで機をうかがっていた。
劉備の戦略方針は基本的にこれ一本で、とりあえず一定の独自兵力を
確保したら相手の隙を狙って攻撃する、しかない。
これじゃいくら民や将兵に人気があって武勇を謳われる人間でも
勝ち続けることは無理だ。
故に荊州以前は変転を繰り返し地盤を築くことに失敗し続けた。
荊州以後の劉備は対呉以外で基本的に負けていない(そこで三敗だが)。
結果的に蜀漢の地盤を築くことに成功している。
要するに「勝てる相手とだけ戦い地盤を整え、伸るか反るかの戦はぎりぎりまでしない」
という単純な方針を貫き通せる「巴蜀」という形の目標を与えたことに三分の計の真価がある。
劉備が一城で不遇を囲っていた時代に本当に諸葛亮がこの提案をしたのであれば、
これは単なる軍事助言者としての「いわゆる軍師」の仕事よりすごい功績だと思うんだな。
戦略を構築するブレーン、軍事戦略家として諸葛亮が位置していた、
と言っているわけじゃないよ。
臨機応変の一級の軍事戦略家は結局のところ蜀漢に一人もいなかった。
諸葛亮はそれが多分一番の苦手分野。法正も怪しい。
だから荊州争奪戦で負けまくってる。
687 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 10:50:45 ID:IJ/3MhE1O
中国のドラマの劉備は中々良いな。
なんだかんだいっても
曹操が劉備以上
劉備が曹操以上
と言える様な具体的な差はついてないんだよな。
人生の総合を比べるとどっちも1君主で終わってる上
大敗もなかなかに経験している。
どちらも鼎の王というべき。
曹操が劉備以上という話はあっても
劉備が曹操以上という話はない
支配領域も兵法上の功績も文学上の功績も
曹操が統一できなかった理由の一つに劉備の存在があるが、
それをもってして劉備と曹操が同等というのは無理がある。
690 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 17:36:12 ID:bT+LSXFsO
劉備は地位や金のバックグラウンドがない状態だったことを考慮すれば評価される。
しかし一平民から天下を伺うなら、本人に天才的軍治手腕があり、早い時期に大きな軍閥内の有力者となる必要がある。
ただ劉備は「処世術」は天才的だったため、乱世を生き抜くことができた。赤壁勝利の便乗、それに伴うショク進出は特筆に値する。
同時代で劉備という人間を直に知っている曹操自身が「劉備は俺と同等だが、考えるのが遅い」といってるわけだが、
これは軍人としての評価だと思う。
文人としてみれば孫子注釈や作詩という面から曹操>>>>劉備とするのが妥当なんだろうね。
692 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/23(日) 18:15:19 ID:bT+LSXFsO
↑当たり前田w
劉備を文人として評価する要素は何一つ無いですよ。
>690
案外処世術自体は下手だったんじゃないのかって気も。
すぐに何処かの軍閥に入り込む事は出来るけど、いつまで経っても最前線で壁みたいな使われ方
ばっかりだ。
>>691 あれは負け惜しみだろう。「ざ、雑魚に負けたわけじゃないんだからねっ!」
しかしとはいえ、曹操は劉備を一貫して高く買っていたようではある
劉備がもう少し大人しくしていたら、面白い組み合わせが見られたかもしれないなあ
でも文弱みたいに晩年不遇を囲ってた可能性も捨て切れない
正史には劉備の生き方の同機は単なるポリシーだけじゃなく
自己防衛の意味もあったと書いてるしな
>>695 狡兎死して良犬煮らるの世界だし、有能ならば有能なほどそうなるだろう
まあそうなると荀ケとはまたちょっと違うケースだが
誰かにつくか独立するか
どちらにせよ劉備は時代の流れを作りうるとんでもない奴だったというわけだな
>>697 劉備が徐州で反乱しなかったら曹操はかなり楽に袁紹と戦えただろうな
少なくとも豫州方面の心配をしなくて済んだ
>>698 劉備を置いといて官渡やったら負けてたかもな
ないないw
ありえるよ。別に、
そんだけ劉備がすげーんだよ!!
ってわけじゃなく。
官渡の勝利は袁紹の大軍をあの位置まで引き込んだ(ていうか押し込まれたんだが)
うえで両軍の主戦力が一箇所に集中していたからこその逆転だった。
誰でもいいが曹操の側背を突ける纏まった別働兵力の持ち主がいたら、
良くて許都篭城だったろう。
だからこそ、四方を守った鍾ヨウ陳登臧覇らの存在が特筆されるわけだ。
これじゃ四方じゃないな、三方かw
703 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/27(木) 22:19:00 ID:v5ZjfloH0
>>701 逆転ですらないよ
官渡は簡単に言えば深く侵攻して来た袁紹の兵糧庫焼き払って進撃止めただけだから
だけってわけでもないか、追撃に成功して戦果挙げたから
ただの防衛成功
その後に袁紹が死んだからターニングポイントになっただけ
官渡対陣は「逆転」でしょ?
大劣勢の状態から敵の後退>追撃戦に至ったんだから
10万の兵の大半を穴埋めにして皆殺しにしたんだから大逆転だな
>>704 いや相変わらず圧力は受けてるし逆転まではしてないだろ。
局地単位では一見逆転でも戦況事態は何も変わってない。
>>705 魏には勝った時功績は10倍に書く慣例があった。
負けた時被害を1/10に書く慣例があった。
官渡の場合は精々が数千規模の被害を袁紹に与えた程度と考えたほうがいいよ。
10万の10分の1は数千なのか。はじめて知った
ん
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 00:07:47 ID:A5yTdhYTO
許都を衝く位置には、張繍、劉備、孫策、劉表がいたわけだが、どれか一つでも官渡と連携できれば、曹操は危うかった。
710 :
704:2007/12/28(金) 00:33:45 ID:aIx6HFOq0
>>706 うん、解ってて言ったんだけどね。
>>699からの流れは「官渡」を主題としているわけだ。
つまり、官渡を戦場とする戦術レベルか、
官渡を転換点とする袁紹の一連の河南侵攻の戦域レベルの問題
で劉備の存在の有無が与えた効果を話していたわけだ。
あなたが論じている袁紹と曹操の雌雄を決する戦略レベルのことは
最初から議題に上っていなかったんだなこれが。
711 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/28(金) 09:52:51 ID:A5yTdhYTO
712 :
700:2007/12/28(金) 11:02:09 ID:B2EuUeeI0
亀で悪いが・・・
ゴメン、誤爆w
袁紹スレの流れ者が紛れ込んでるな。
必死に袁紹擁護する姿がワロスw
>>707 まず号10万が誇張
その1/10程度なんだから
数千がいいところ
>>710 官渡ってまさか烏巣燃やしただけのあの一戦のみを指すとでも思ってるのか?
官渡は広義には一連の戦役全てを指してるんだが
>>715 >官渡は広義には一連の戦役全てを指してるんだが
一連の、というのがあやふやだが。
俗に官渡戦役という場合、袁紹の南進から撤退までを言うだろう?(710で指摘した通り)
普通、その後の河北の反乱勃発・鎮定・袁紹の死、袁譚・袁尚の後継者争い、
曹操の北進・烏丸での決着まで断続的に7年続く曹袁戦争のことを
「官渡」とは言わないよなあ
>>712 てかてめえwww
あんたのお陰で今こんな具合になってんだよw
>>717 官渡の始まりは袁紹の南下一歩前の曹操側の官渡への布陣からだろ
ここで冷戦から熱戦に以降してバタバタとドミノ倒しの如く一連の戦役が始まっていくしな
どう見ても逆転とかじゃなく一時的な防衛成功でしかない
曹操が歴史の勝者になったからターニングポイントとして官渡が印象付けられてるだけで
あの時点での官渡は決定的な曹操の勝利でも、袁紹の敗北でもないただの防衛戦
>>719 くどいなあ。
「あの時点での」という、誰もそのレベルの大戦略の話をしていない。
ただそれだけなんだがなあ
決定的な敗北とやらの定義がなにか知らんが、
すくなくとも敗戦後反乱が各地で起こってる時点で重要な敗北だろ。
要は曹操が劉備に背後を突かれてたら負けてたかもなって話だろ
そしてそれは十分有り得た
官渡前:曹氏<袁氏 袁紹ノリノリ
官渡後:曹氏≧袁氏 官渡で戦略的なマージンが消滅して首位失陥。しかし袁紹一代の統一は無理でも、再び首位を狙うのに十分な勢力は保持。
袁紹病死後:曹氏>袁氏 袁紹があっさり死んでしまったので、シーソーゲームにさえならず。
それ以後:分裂してボロボロに。ここで曹操も死んでたら曹操≧袁紹くらいの評価だろう。
総合的に曹操>袁紹なのは確かだが、
曹操>袁紹>>>>>>>>>>>>袁紹の馬鹿息子たち
よって相対的に袁紹は凄いと結論出来る。
>722
背後をつく行為自体はやっていた。劉辟と共同して如南周辺に基盤を作り支援者も得ていた。
曹仁が負けていれば許昌をつかれていた。そして許昌は落ちていたかもしれない。でもそれは
仮定に仮定を重ねた話だよ。
>>721 ただの反乱だよ
三国時代は間接統治が主流だからどうしても豪族の反乱が多い
曹操も劉備も孫権もずっと反乱に苦しんでるだろ
ちょっとしたきっかけですぐ反乱が起こるのが三国時代
ほぼ即座に鎮圧してるからあまり重要じゃない
これが劉備敗戦後〜死後辺りの南中反乱だと数年規模で悩まされる事になってるから重要だけどさ
>>720 官渡としか書いてないのにそこまで判断出来るって思い込む方がおかしい
>>724 徐州を拠点にしてそれなりの兵力で攻めるのとはまた状況が違うだろ
現に曹操は北が動きだす前に先に徐州を攻めて平定しておいた
劉備が徐州を拠点にして、兵は動かさないまでも曹操を東から脅かしたら、
袁紹にしても戦略の幅が一気に増えるよな。
臧覇もどこまで去就を維持できたか分からんよ。
>>728 だから曹操は官渡を離れて劉備を攻撃したわけで^^;
>>729 その通りだな
袁紹の圧力が高まる前に劉備を撃退する必要があったからこその曹操本人の出陣なわけだしね
>>729 曹操の対劉備の徐州攻めって官渡へ出る前でしょ
汝南に山賊らと一緒に居た劉備を討ったのは、十面埋伏を決めて袁紹を病死させてからだし
>731
曹操が出張ったのは201年9月、倉亭後ではあるが袁紹はまだ死んでない。
そして曹操自身が出張ったのがその時期だってだけで官渡中1年2ヶ月劉備の如南作戦は続いてた。
まずは劉辟が許昌の近くに陣取りそこに徐州を追われ袁紹に兵を借りた劉備が合流。
これは曹仁に撃退される。
その後また袁紹から兵を借りてきてキョウト(元黄巾の奴)と合同で再び汝南へ向かい蔡陽を
斬ったりして暴れてたが、曹操が帰ってきたので劉表の元へ逃げた。
>734
ん?だれにむけていってるのかわからない
じゃあちょっと年表纏めてみるか。スレらしく劉備中心に
196 曹操が天子を擁立する
曹操は劉備を鎮東将軍とする。
袁術が徐州の劉備を攻撃、淮陰で対峙する。
劉備、呂布に下ヒを奪われる。軍を転じて海西に駐屯する。
劉備、楊奉・韓暹を斬る。
劉備、呂布と和睦。小沛に駐屯する。
呂布が再び劉備を攻撃。劉備は破れ、曹操へ落ち延びる
曹操は劉備を豫州牧とする。
197 張繍は一旦曹操に降伏するが、翻って奇襲し打ち破る。
198 曹操、張繍を攻撃。劉表に背後を絶たれ退却する。
追撃の張繍を奇襲で破る
呂布が袁術と組む。曹操は劉備と共に小沛へ赴く。
兵を整え、呂布を攻撃。呂布は高順を派遣する。
夏侯惇が救援するが勝てず。劉備は敗れる
9月曹操自ら呂布を攻撃
下ヒにて呂布を斬る
199 張楊が殺害される。曹操、黄河まで前進。
史渙と曹仁が袁紹へ逃げようとしたスイ固を討つ。
曹操、黄河を渡る。射犬を包囲
8月黎陽に前進。
臧覇を青州に派遣
9月曹操は許に帰還。官渡に兵力を留める
11月張繍帰順
12月曹操、官渡に陣を置く
袁術、下ヒを経由して青州(袁譚)へ逃れようとする。
劉備と朱霊を派遣してこれを阻止。
劉備徐州刺史車胄を殺害。沛に駐屯。袁紹は騎兵を派遣しこれを支援。
劉備、討伐に派遣された劉岱と王忠を破る
廬江太守劉勲が曹操に帰順
200正月董承らの計画が漏れ、死刑。
曹操、官渡から劉備討伐へ。劉備を破り、関羽を捕らえる。
劉備は青州の袁譚の元へ逃げ込む。
2月郭図・淳于瓊・顔良が白馬を攻撃。袁紹は黎陽へ前進。
曹操は白馬の包囲を攻撃。顔良を斬る。
曹操民を引き連れ西へ向かう。
袁紹渡河、延津の南に砦を築く。劉備と文醜を派遣。
曹操、南坂にて文醜を斬る。
曹操は官渡へ撤収。袁紹は陽武へ前進。
関羽、劉備の元へ逃げる
8月袁紹は砂山?へ前進。曹操に大勝する。
袁紹、官渡を包囲。
孫策急死。
汝南の劉辟が曹操に反逆する。
袁紹は劉備に劉辟を救援させる。派遣された曹仁が劉備と劉辟を破る。
劉備は再び袁紹の元へ逃げ込む。
袁紹の輜重を徐晃と史渙が焼き払う
10月許攸が曹操へ逃げ込む。曹操自ら淳于瓊を破り、烏巣にて輜重を焼く。
袁紹軍総崩れになり、黄河の北へ撤退する。
冀州の諸郡県が反乱する。
201 (劉備、この頃袁紹からの離脱を図る)
曹操、東平郡に食料を求めるが、対袁紹に十分なほどは集まらず。
4月曹操、黄河北岸に上陸。
倉亭にて袁紹軍を破る。
袁紹は帰還し、諸反乱を鎮圧する。
9月曹操、許都に帰還する。
汝南にて再び兵を興していた劉備を遠征して破る。
劉備は北へ戻らず劉表を頼る。
202正月曹操、ショウへ駐留。橋玄を祭る
5月袁紹死去 袁尚が後を襲う。袁譚、黎陽に駐屯
8月曹操による北征。黎陽にて袁尚・袁譚と交戦。
平陽の単于が反乱し、鍾ヨウがこれを攻撃する。
高幹と郭援が単于を救援するが、鍾ヨウは馬超と共に郭援を斬る。
2033月曹操、黎陽を攻略
4月曹操、ギョウに至る(が落とせず)
5月許へ帰還。黎陽の守備に賈信を残す
長いよ疲れたよ全然劉備中心じゃないよしかも途中だよ
事実誤認特に順序の間違いがあったら勘弁だよあとは任せたよ
しかし200年はほんとに大忙しだな
199年4月、射犬の眭固討伐。
同8月、黎陽に駐屯。臧覇らを派遣し青州平定。
同9月、許に一旦帰還。
同12月、官渡に駐屯。
200年正月、徐州の劉備を討伐。昌豨討伐後、官渡に帰還。
同2月、袁紹、郭図・淳于瓊らを白馬へ派遣、自らは黎陽に軍を進める。
曹操は策を持ってこれを救うと黄河を西方へ赴く。袁紹はこれを追い黄河を渡り延津へ。
輜重隊を囮に文醜・劉備を撃破。
同8月、袁紹軍と争い敗れる。
汝南の劉辟らが反逆しこれに呼応して劉備が向かうと、曹仁を派遣しこれを撃ち破った。
袁紹の輜重隊を徐晃・史渙を派遣し撃ち破る。
十月、袁紹、淳于瓊を烏巣に輜重隊を護送させる。
曹操は自ら兵を率い烏巣を急襲し、淳于瓊を撃ち破る。
袁紹、張郃と高覧を派遣し留守を守る曹洪を攻めさせたが、張郃らは降伏。
袁紹の軍勢は総崩れとなり、軍を捨てて逃走した。
※年月付き以外の行は必ずしもその月の出来事とは限らない。
201年4月、倉亭に駐屯する袁紹軍を攻め、これを撃ち破る。
袁紹、南皮に帰還し背いた諸県郡を平定。
同9月、許に帰還。
袁紹、それ以前に劉備を再び汝南に派遣すると汝南の賊共都がこれに呼応。
蔡揚を劉備討伐に派遣するが撃ち破られた。
劉備討伐に自ら出征すると劉備は荊州に逃走。
しかし叩き潰しても叩き潰しても立ち向かってくる劉備はさぞうざかったことであろうな。
この五年の劉備の七転び八起きっぷりは確かにおかしい
こんだけ負けてものちの劉表・孫権・劉璋や
その配下からの評価がさっぱり落ちない辺りがまた凄いよな
実際、まともに統率された軍を率いれば強かったんだろう。
あるいは諸葛亮と同じく強兵を作るのが上手かったか。
この時期の汝南に乗り込んでいきなり曹操本隊とやりあうなんて無茶だし
新野以降は夏侯惇・于禁を初めとして夷陵まできっちり勝ってるし。
思えば入蜀の際にホウ統の成都強襲案を却下したのは、
この時期の苦闘の反省もあったのかもしれないな
乙
なかなか読み応えのある年表だ
しかし劉備の負け数は異常だな
あと曹仁の強さが光る
さぞかし精鋭を率いていたのだろう
劉備だって袁術の部下とか曹操の部下でも王双とかには勝ってるんだぞ!
ちょっと訂正してみる
199年
2月 張楊が楊醜に殺害される。楊醜は曹操に帰属しようとするも袁紹に帰属しようとする眭固に殺害される。
3月 袁紹が公孫王賛を滅ぼす。
4月 史渙と曹仁が射犬にて眭固を包囲して撃破。これにより河内方面は曹操に傾く。
袁紹の冀州牧・大将軍位が剥奪される。
5月頃 袁術が袁紹に助けを求めて下丕を通過する。
6月頃 劉備と朱霊が袁術討伐に派遣される。到着前に袁術は死亡。朱霊は許に帰還。
8月 曹操と于禁が黄河を超えて袁紹領の黎陽に出陣。
臧覇を青州に出陣させる。
9月 曹操は許に帰還。官渡に于禁らと兵を留める。
11月 張繍が曹操に帰順。
12月 曹操、官渡に戻る。
劉備が徐州刺史車胄を殺害して反乱。沛に駐屯。袁紹は騎兵を派遣しこれを支援。
劉備、討伐に派遣された劉岱と王忠を破る。
廬江太守劉勲が曹操に帰順。
200年
正月 董承らの計画が漏れ、死刑。
曹操、官渡から劉備討伐へ。劉備を破り、関羽を捕らえる。
劉備は青州の袁譚の元へ逃げ込む。
2月 郭図・淳于瓊・顔良が白馬の劉延を包囲。袁紹は黎陽に駐屯。
曹操は白馬の包囲を攻撃。顔良を斬る。これにより一時的に包囲がとけ、曹操は白馬を放棄して民を引き連れ西へ向かう。
袁紹渡河、延津の南に砦を築く。劉備と文醜を派遣して曹操を追わせる。
曹操、南坂にて文醜を斬る。劉備は撤退。
関羽が劉備の元に帰る。
4月 孫策が死ぬ。曹操は孫権を慰撫すると同時に親族の離間・家臣の引き抜きにかかる。
8月 袁紹は前進を続けその途中で曹操を撃破する。曹操は官渡に撤退し、袁紹はこれを包囲する。
汝南の劉辟が曹操に反逆する。 袁紹は劉備に劉辟を救援させる。派遣された曹仁が劉備と劉辟を破る。
劉備は再び袁紹の元へ逃げ込む。
徐晃と史渙が胡市にて袁紹の輜重を焼き払う。
この頃、関中より鐘ヨウが馬二千を官渡に送る。
10月 許攸が曹操へ逃げ込む。曹操自ら淳于瓊を破り、烏巣にて輜重を焼く。
袁紹は張β合と高覧を官渡に向かわせるも、二人は曹洪に降伏を申し入れる。
袁紹軍総崩れになり、黄河の北へ撤退する。
冀州の諸郡県が反乱する。
201年
(劉備、この頃袁紹からの離脱を図る)
曹操、東平郡に食料を求めるが、対袁紹に十分なほどは集まらず。
4月 曹操、黄河北岸に上陸。倉亭にて袁紹軍を破る。
袁紹は帰還し、諸反乱を鎮圧する。
9月 曹操、許都に帰還する。
汝南にて再び兵を興していた劉備を遠征して破る。
劉備は北へ戻らず劉表を頼る。
202年
5月 袁紹が死ぬ。
劉岱王忠とかには勝ってるから袁紹が上手く相呼応して戦えれば良かったのにな
白馬から曹操が離れた隙を襲えなかったものなのか
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 10:00:38 ID:TwOGt1PJ0
age
裴松之ってなんてよむの?この前飲み屋で口ばしっちゃいそうになったし!
752 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 21:12:47 ID:DELBZN800
読めないのに口走りそうになったのか
器用だな
はい・しょう・し
66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:34:18 ID:fuUi1iovO
東晋以降やたらに名前の最後に「之」がつく人物が増えるけど
これはなんか理由があるのかな?
67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 21:39:53 ID:OLa9RSJx0
>>66 あくまで一説だけど、この時代の人の名前に「之」がついてるのは
五斗米道の信者だといわれてる。
68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:07:54 ID:fuUi1iovO
>>67 それが本当だとするとかなりの数の五斗米道信者がいたことになるね
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 23:30:53 ID:e+5aHfiy0
臥龍、鳳雛や五虎を従えた
劉備は麒麟なのか?
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 01:15:48 ID:v7eYPvES0
劉備のことを「劉備げんとく」と呼ぶ人は専攻が近世以降の可能性が高い。
また「りゅうび」と呼ぶ人は中世以前を専門としている可能性が高い。
劉備を知ってる人間の中で、中国史を専攻した人間って1%もいないだろ
近世以降の可能性が高いって
諱とあざなをくっつける奴が東洋史専攻にいるんか
>>758 専門家は諱と字をくっつけない、なんてそんな気にしないよ
後漢書と続漢書の区別の方がよっぽど重要
東洋史専攻の奴で後漢書の巻の数え方とか諱と字の事とか
ちゃんと理解して卒業するのがどれだけいてるかって話もある
かも知れない
通鑑がものすごい偏向かかってることとかね
>>753 > はい・しょう・し
ありがとう!
わすれないぞ!
俺は最近よこみつ吉川三国志みてから中国語勉強したくなった。
漢詩もよみたいから、昔の漢文の問題集探してた。
高校の時に興味をもちたかったよ。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 13:36:57 ID:k0+TSs9w0
765 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 00:05:55 ID:HTZNM+mR0
昔、三国志の小説を読んで、
最近になってから思ったんだけど、
劉備ってペテン師なの?
ペテン師ではないなあ。
ペテンの語源が中国語だけに、「ペテン師」=「(職業的な)詐欺師」になってしまう。
劉備は少なくとも軍民の統治では信望高く、
故に流転する先々で諸侯に重んじられ、同時に警戒された。
おそらく演義も読んでない人間が入蜀の経緯を聞きかじりで
あげつらってるんだろうけど、ぶっちゃけあれくらい誰でもしたレベル。
曹操は楊奉を騙して献帝を手中にしたし、
孫策は会談の席で手ずから厳輿を殺したし。
劉備はむしろ民衆や土豪に反感を抱かれないように段階を踏んでるくらいだ。
あ、失礼。
「最近になってから思った」だったか。「最近になってから聞いた」と読んでしまった。
演義も読んでない人間が〜 というくだりは
>>765をあげつらったわけじゃないよ。すまん。
曹操とのシーソーのような両極端の評価が原因だろうね
劉備をペテン・口先三寸・腹黒という人は昔からいたけど(日本では)、
有徳の大人劉備と天才軍師諸葛亮>優秀だけど大悪党の曹操
が見直される過程で
万能の天才曹操>腹黒・無能の劉備に三流軍師諸葛亮
というセンセーショナルな表現が一人歩きした感じ。
>766の言うように
むしろ、現在ではもっと双方にバランスのとれた評価がされつつあるよ。
769 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 12:28:25 ID:Y4ln6C7O0
無能と三流軍師じゃ、皇帝名乗れないだろw
770 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 21:02:32 ID:YfDVnxV5O
猿だったかがわけのわからぬ妄言言ったせいからかな?
771 :
765:2008/01/13(日) 23:55:13 ID:at1aOEIG0
三国志の話はほとんど忘れてしまっているのだが
劉備にみんな騙されてるんじゃないかって思うんだ
劉がつく人たくさんいるのになんで劉備だけチヤホヤされるんだ
>>771 ・敵に回しても恐ろしくないが、
味方につけると心強い軍事力を有していた。
・人への応対が巧みで、
いろんな人と仲良くすることができた。
こんなところかな。
曹操が天下の英雄は君と予だって言うくらいだからな
血筋だけじゃなくて実力もあったからチヤホヤされたんだろう
それに加えて進んで人にへりくだる性質もあったから受けも良かったろう
血筋は殆ど有利に働かなかったんじゃないかなあ。
劉備自身は困窮していたが、祖父は県令で、
ちゃんと裕福な親族がいるわけだから、
しっかりした一族に連なる者だったろう。
もし仮に詐称だとしても、一代や二代の詐称じゃない。
タク県に「劉勝の末裔」を名乗る劉氏がごろごろ転がっていたのかもしれない。
250年前の祖先のことなんて、欧州の「うちの侯爵家の祖は妖精なんだぜ」レベルだ。
775 :
765:2008/01/14(月) 14:07:36 ID:Liom/gmW0
もしかして↓のような様子?
劉備「劉勝のい末裔なんだぜ!」
関羽「ハイハイ。とにかく義兄弟だから」
張飛「うんうん。とにかく義兄弟だから」
劉備「劉勝のい末裔なんだぜ!」
諸葛「それより天下三分クッキング」
そうでもないんじゃないの
年下の者たちは争って劉備と交友を求めたとあるから
一種のカリスマだったんではないか
>>771 カリスマがあったんだろ。
>>43に他者の劉備評があるからよく見ておくといい。
あと演義はともかく、正史だと皇族の末裔だからちやほやされたと思われるような記述は無いよ?
せいぜい蜀入りに関して劉璋と同族のはしくれだということを主張し利用したくらい。
779 :
765:2008/01/14(月) 20:38:55 ID:eHhRxrlM0
皆様のレスに感謝しつつ
劉備 = 優秀なカウンセラー
という疑問も沸いてきました
また劉備の血統の話題か?ちょっと前に散々出てるよ。
劉備が皇族の末裔という話で重要な点は三つだけ
一つ
自称であろうと、眉唾であろうと、周りは劉備を漢皇室に繋がる者として認めていた。
一つ
皇族の末裔であっても直接的な利はほとんどなかった(ex.人脈や経済的恩恵や地盤など)
一つ
実が供わない名義上の官位だけは恵まれ、荊州以後にフル活用できた
さらには大義名分という最も大きな物を得ることができた
(ex.家臣による漢中王の奉戴と、漢→魏禅譲による"俺が正統な漢”の皇帝即位)
>>778 孔明が同盟の使者に立った時孫権に降伏してはどうかと最初は言うんだけど
孫権がそれならなぜ劉備殿は降伏しないのかと聞くと
孔明が劉備は漢室の末裔であり帝を傀儡にする賊には屈さないと答えてるシーンはある
世の中、最初に言った奴が偉いのさ
劉備が末裔と自称したのも同じことよ
大義名分は常に「末裔だから」
ノ口 日
木王 立
今かんがえた。
程cスレでやれw
俺は劉備のこと信じてたんだけど
wikiを見て絶望した
自称末裔で堂々と旗を掲げていたのか
悪魔だ
こんな釣り針もろ見えレスも珍しいw
劉備って何がしたかったんだ?
呂布が劉備に言った罵倒こそ正論
英雄は時として正論を超えるのだよ
天下統一できるほどの器ではなかったが劉備も立派な英雄だしな
劉備の諺ってないのかなあ
「人が良ければ英雄になれる」とか
>>790 劉備って人が良いとは思えないけどなあ。
他人からの評でも「人の下風に立てない」「勇名が高い」
「才能がある」というのばかりで、
人が良いという評価は無い。
海千山千の煮ても焼いても食えないやつなんじゃないの?
そもそも何で「自称」扱いになってるのかが分からん
演技みたいに劉備が自分は漢王室の末裔ですって名乗ってるシーンがあるのか
劉備の諺
トンビが鷹を産んでもその子供は鷹じゃないかも
人の下に居続ける男ではない・・・そう感じたんなら斬首すればいいのに
曹操の部下も孫権の部下も劉璋の部下もそう言ったよ
でも飼い慣らして使う誘惑に勝てなかったんだな
君主と部下の立場の違いもあるわな。
部下にとってはライバルだから?
と言っても、劉備は30代半ばで鎮東将軍、そのあと左将軍(漢の四方将軍は驃車騎と四鎮の間)
なんておそろしい出世速度だからなあ。官位なら頼った群雄の殆どと互角以上。
むしろ「厚遇して(実権を与えて)は二君を認めることになる」という劉璋の配下(誰だっけ)の
言葉が実情に近かった気がする。
曹操も案外馬鹿だったのかもな
戦争が強かっただけで
劉備なんて馬鹿で戦争も弱い
最後は私憤で弔い合戦を起して大敗
アンチって都合のいいときだけ演義を利用するよね
劉備は戦争に弱いとは限らんぞ
諸侯の下を頼るなか常に戦火にまみれた中で生き延びたのは
戦に必要な判断力を持っていたからではないか?
結構劉備の戦術レベルの才能って偏差値で70ぐらいあったんじゃないかと思う。
でも戦略は偏差値60ぐらいで、やばいところを切り抜ける才能はあっても
孔明先生を見出すまで一定以上の勢力には成長できなかった。
しかも曹操は戦術も戦略も偏差値85ぐらいあったし。
劉備は単なる大儀中毒
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 18:51:43 ID:AVGAZaN90
諸葛亮に限らず、荊州時代に得た財産って大きかったんだろうな。
>>802 > 孔明先生を見出すまで一定以上の勢力には成長できなかった。
単に中原と田舎の厳しさの違いだろ。
豫州時代に諸葛亮がいても同じような結果になったと思うぞ。
豫州時代。曹操に帰順して数年大人しくする。
劉備のハードラックは呂布に徐州を後ろからがっつりいかれたところから始まる。
(その時点までは、この時代他に類をみないほどの出世街道驀進中だったが)
その後201年まで、根拠地も安定した兵力も持てず、
一番負けが込んでた時期にあたる。
この時期に独立勢力を気取るのは確かに諸葛亮がいても無理だ。
あ、それで、戦場では曹操の五将らのような一級の武官には及ばないかもしれないけど、
戦術はそれなり以上のものだったろうし、トータルの戦争の強さは本物だったと思える。
だからこそ黄巾の乱を経て公孫サンの元で武勲を立てて平原国相まで昇ったし
(有力な親族がいない公孫サンにとって劉備は関羽張飛のようなものだったのかもしれない)
その後群雄達に厚遇されたんだろうね。警戒されたので重用されないこともあったが。
実力者で人の下風に立てない人間で、
しかも官爵では自分を上回る劉備を
八年間も使った劉表はかなりの人物だったんだな。
>>808 人の下には立てないってのはあくまでも曹操幕下の参謀達の印象であって
実際の劉備はそういうわけではない
あと劉備の旗揚げ時期の盟友だった田豫、牽招辺りは孝廉だったりするわけで
劉備って思われてる程徒手空拳じゃなかったというか、意外と旗揚げ仲間って新進気鋭のエリート集団だったのかも
劉備側にそれだけ雌伏するだけの価値というか、打算があったんじゃないかな。
荊州南部を呉と分割することになった時、荊州の人材が呉に行かずに
劉備に懐いたことなんかがその成果、とかさ。
>>810 どうかなー あれは劉備が従来の戦略(大勢力の隙を突いて要所を獲り中原に根拠地を築く)
に固執したためだと思う。7年の間に東か南に出て地盤を切り取ると同時に地元の士人と人脈を築く
とか手があったんじゃないだろうか。
いや、東西南北どこに出るとしても劉表がそんな大兵力を貸してくれるかは疑問なわけだけど。
単に荊州を少しでも長く維持したいだけなら、確かに劉備に郡守規模の権力を与えるなんてのは
自殺行為だしね。
同時に「劉備よ恩を忘れたか!」って叫んでるから苦し紛れの罵詈雑言だと思う
苦し紛れの罵倒こそ本音
自分から劉備の背後を突いたのに、
降伏した劉備を殺さなかったことを恩に着せるなんて
とんだ勘違い野郎だって、陳舜臣氏も言ってたな。
小沛任せて袁術との交戦を仲裁した後に
何故か自分でまた劉備を攻めてるし。
それで恩を忘れたかって、なあ…。
>>816 それは複雑な呂布の周囲関係と、呂布の智謀が関係している。
沛は予州の最北東に位置して、エン州、徐州の真ん中、つまり曹操領土と呂布領土の緩衝地帯に位置している。
呂布が徐州の主となった今、己の軍勢を置くと仇敵の曹操とバッティングするし、かといって置かないわけにはいかない。
そこで劉備が呂布を対曹操用に沛に駐屯させたように(劉備もかなり狡猾w)、劉備の降伏を認めてクッション材料として生かすことにした。
そこへ袁術がトドメを刺すために、劉備には敵わない軍勢を派遣したので、呂布は
・以前、南陽で袁術から追い出された事を思い出し、別に徐州を取れたからといって袁術に深い恩義があるわけではないと認識
・袁術との関係が±0だとしても、劉備が死んだら対曹操で困るし、袁術が沛を支配して勢力を伸ばしても嬉しくない
・そこで自慢の弓の神業で仲裁した←これが多分「命を助けた」という呂布の主張
劉備も馬鹿じゃないので自分のポジションに気が付いた。
東に呂布、西に曹操、南に袁術、北方面は昌キや臧覇などの有力豪族がウジャウジャいる、つまり身動きとれない。
このままでは埋没してしまう・・・
そこで呂布の盾として甘んじるより、誰かに頼って呂布から徐州を奪い返そうと考える。
消去法で
・呂布を倒すのに呂布には頼れない
・袁術はついさっきまで自分を殺そうとした
・臧覇などの徐/青州豪族は呂布と関係が良い
・昌キなどのエン州豪族は曹操に帰服している
・曹操とは陶謙の時代にちょっと刃を交えた程度だし、曹操も徐州に色を見せているから利用できそう
ということで、曹操を好を通じて呂布をどうにかしようとしたら発覚し、高順が攻めてきたということじゃないかな〜?
劉備からしたら「帰順を認めたのに騙し討ちしやがって恩も糞もねーよw」
呂布からしたら「袁術がお前を殺そうとしたところを守ってやったのに助けてくれねーのかよ!氏ね大耳の嘘吐き野郎!」
そういや曹操んとこ逃げ込む前に
呂布にやられた時は、劉備もだいぶ兵を集めてたとかで、
それでうるさくなったから、やっぱり潰そうと呂布が思ったのかと解釈してた。
×そういや曹操んとこ
○劉備が曹操んとこ
ね。
そういやだけ消し忘れた
>>817 おー、面白い解釈だな。
劉備が本当にその時期に曹操と通じたのかはちょっと解らないだろうけど、
徐州牧と鎮東将軍の地位は曹操経由で正式に認められてるわけだから関係はいい。
ていうか陶謙の跡を継いだときに袁紹に対して「牧になりましたー」「おk」と
やってるわけだから、劉備にはこの時袁紹・曹操派の色が付いていて(既にギクシャクしてるが)、
袁術が影響力を伸ばしてる呂布・徐州派とは既に関係が怪しくなっていたと見ていいかな。
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 07:24:31 ID:76F+Jbws0
>>817 呂布ってリアルでジャイアニズムに溢れてるとこあったんだろうな
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 11:59:07 ID:aP/otq7Q0
小学校教師がクラスの女児ほぼ全員をレイプ 中国
【NYTIMES】中国にて小学校教師が担当クラスの女子生徒
ほぼ全員にあたる26人の女児をレイプしたとして逮捕されたとのこと。
これまでの調べによれば、逮捕されたリ・グアン容疑者は昨年秋から
凡そ3ヶ月に渡り、担当するクラスの女子生徒ほぼ全員にあたる26人
の女児を日替わりでレイプし続けていたという。
事件が明るみに出たのは被害者のひとり、クラスのある少女(14)が
学校に行くことを拒否し、グアン容疑者の横暴を家族に告白した
ことによる。
彼女はそれまで2度に渡ってグアン容疑者にレイプされていたのである
おお劉備〜心の友よ〜
>>821 気紛れというか、大局観が無いというか。
王允と不仲になって長安落ち伸びる時に一緒に逃げようと誘ったりしてるんだよね。
善人でもないが計算づくの打算屋でもない。
総大将としては劉備の流転しながら名声を失わない渋とさの方が恐いw
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 22:09:23 ID:dlrs3Wa3O
劉備は流転しながら名声を失わないんじゃなく、負けて流転するたびに名声や地位が向上するという魔法の使い手だ
流石にそこまではw
負けた後に官位が上がったのは豫州牧・左将軍くらいだろう。
(陶謙に徐州牧を譲られた時を「負けた後」と言っていいのか?)
この前後の負けが集中してる時期以外は劉備は基本的に戦果を挙げてる。
あ、陶謙の徐州が曹操に「負けた後」は劉備は豫州刺史か。
この時曹操と直接交戦した記録ってあったっけ?
ある
曹操の親父暗殺事件はどうみても陶謙の差し金。
正史をよく読めば全体像が浮かび上がってくる。
君のいう全体像とわ?
復征陶謙,拔五城,遂略地至東海.還過炎β,謙將曹豹與劉備屯炎β東,要太祖.
太祖?破之,遂攻拔襄賁,所過多所殘戮
東海郡まで攻め入った帰り道に、曹豹と劉備が待ち伏せしていたが、曹操が撃ち破ったとさ。
ちなみに↑の前に
下?闕宣聚?數千人,自稱天子 徐州牧陶謙與共擧兵,取泰山華,費,略任城.
秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出
曹嵩が避難していた泰山を攻めていることが書かれてる。
曹操は反撃に出て撃ち破るも堅く守った陶謙を破ることができず撤退。
さらに↓
興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩,去官後還?,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害
曹嵩はさらにそこを逃れて琅邪に居たところを殺害される。
曹操の徐州虐殺は色々と議論あるが、陶謙のキチガイ粘着振りも特筆すべき。
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 23:09:59 ID:dlrs3Wa3O
その時点まで曹操の父が瑯邪にいたというのがこの件の最大の謎
馬超のように、父が殺されることを覚悟の上で陶謙と戦ったのだろうか
それだけではよくわからんなあ。
曹嵩殺害が陶謙の利害に絡んでいたと推察できるなら納得できるんだが。
動機を「キチガイ粘着」にしなければならないってのは、つまり論理的な動機が無いってことだ。
陶謙の指図の可能性と同等以上に部下の監督不行届き(敵の親父だからやっちまおーぜ)
の可能性も残るって事じゃね?
これは袁術&公孫サンvs袁紹曹操劉表の大戦争の一部なんだけど、
袁術が公孫サンと結んで袁紹を追い落としに掛かったら・・・
袁紹と公孫サンがガチで斬り合ってる間に、黒山賊などを使って袁紹と曹操を圧迫。
→曹操は賊を撃退する(袁紹も呂布を使って撃退)
→そしてカウンターで劉表が袁術の後方を圧迫
→玉突きで袁術は曹操領土に食指を伸ばす
→曹操がコテンパンに袁術を叩きのめす(袁術は九江・寿春へ大引越し)
※→公孫サンの子分の陶謙も参戦して曹操領土に侵攻
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
→陶謙を撃退した曹操は徐州侵攻し、虐殺なしで引き上げる(このときに劉備と交戦)
※これ重要。先に手を出したのは紛れも無く陶謙。そして引退して力もなにもない曹嵩を執拗に狙って殺害。
→再び曹操が徐州に侵攻して虐殺をやらかす(この帰り道で劉備と交戦)
そして袁紹から離脱した呂布が曹操領土内で陳宮や張バクらとともに大反乱を起こす。
陶謙は間もなく死去し、劉備が徐州を治めることに。
>>832 なるほど。
曹操が大義名分を得て内心ほくそえんでたという説もあながち間違いじゃなさそうだ
この流れを理解するに当たって重要なのは、
公孫サンの巨大勢力を認識することが前提。
幽州に目の上のタンコブである劉虞を抱えながらも掌握し、冀州の北部と青州を治め、
徐州は陶謙を、并州は黒山を使って間接的な影響力を持ち、界橋で敗れた後も当時ナンバー1勢力だった。
>>834 >※→公孫サンの子分の陶謙も参戦して曹操領土に侵攻
その陶謙はのちに徐州牧になる陶謙と同一人物で本当にいいのか?
陶謙は黄巾の乱前後に徐州刺史になってる大物だぞ?
それを良しとしても、この時期、袁紹を盟主とする董卓討伐軍が引き上げた後に
孤軍奮闘する朱儁を多少ながら支援したりもしてる。
袁紹・袁術抗争との絡みは薄いように見えるんだが。
さらに、その説でいっても陶謙側が曹嵩を殺す計画的な理由は何も説明できない。
>>837 >>それを良しとしても、この時期、袁紹を盟主とする董卓討伐軍が引き上げた後に
>>孤軍奮闘する朱儁を多少ながら支援したりもしてる。
それと同時に董卓に使者を送って、安東将軍の位と刺史→牧に昇進しておまけに侯にもなってる。
便宜上、陶謙を公孫サンの子分と書いたけど、陶謙は右手で何かやるとき左手も逆なことをやるようなタイプ。
皇帝僭称(この当時珍しくないけどw)と組んで、それから殺したりしてる。
陶謙が「どっち派」というわけではないが、曹操攻撃時は公孫サン派の子分格であると見ていいと思う。
右手で何かやるとき左手も逆なことをやるようなタイプの人が何で曹操の父を殺すの?
どっちにもつなぎを残そうとするなら極端な行動に走るのはおかしいだろ
>>839 曹操の父は曹操に対しては人質になるはずだからなあ
実際に泰山他曹操領土に攻め入って、結果として曹嵩を流浪に駆りたて、その流浪先の瑯邪でまた殺してるじゃん。
>>なんで殺すの?
↑愚問すぎる。考えがそこで止まってる。
敵の身内は殺す。当たり前のこと。
陶謙とは信用ならない人物でると書いたつもりなのに伝わらなかったね。ごめん。
>>841 >泰山他曹操領土に攻め入って、結果として曹嵩を流浪に駆りたて
これってどこに書いてあるの?
>>831にある
>興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩,去官後還?,董卓之亂,避難琅邪,為陶謙所害
とは合わないけど
曹操に先制攻撃した&曹操のカウンターで危なくなったら田階が助けを差し出した
この事実だけで、陶謙の公孫サン派ということが解るんだが・・・
派閥が関係ないように見えるっていってる人はこの一文をどう解釈してるの?
いや、煽りじゃなくて真面目に。
袁術與紹有隙,術求援於公孫?,?使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發干,以逼紹.太祖與紹會?,皆破之
袁術が公孫サンに助けを求めた、公孫サンは劉備、ゼンケイ、陶謙らを各地に出陣させて袁紹圧迫させたが、曹操と袁紹によって撃ち破られた。
>>842 徐州牧陶謙與共擧兵,取泰山華,費,略任城.
一つの解釈としては面白いかもしれないけど、
それを事実とするには足りない気がするな。
>>844 質問の意味分かってる?
「董卓之亂」で既に琅邪に避難しているんだから、陶謙が泰山に攻め込んだことは関係ないでしょ?
どこに「曹嵩が泰山にいて、陶謙が攻め込んで来たから琅邪に避難した」って分かることが書いてあるの?
さっきから気になってるんだけど、
貴方が思ってる全貌を聞こうか、
と言われて自分なりの解釈をソースだして書いてるのに、チャチャ入れてる人たちは
ソースも出さないし、自説も出さなくて話を折ってるだけだから発展しないんだよね。
突き詰めていくと合致するもの・しないものいっぱいあるだろうけど、
新しい考えに触れることができる。俺もそれが目当てでかいてる。
でも、否定することに全力を挙げてるひとって何がしたいのかわからんw
>>846 ああ・・・泰山の件はどこかにソースというか、目にしたことがあったもんだから捜査中。
勘違いだったら泰山&粘着の話はスルーしてくれ。
今探してる
>>838 >陶謙は右手で何かやるとき左手も逆なことをやるようなタイプ。
そうだね。だからこそ、二袁公孫抗争との絡みで曹嵩殺害理由を説明するのは難しいと思うんだが。
話を整理しよう。信憑性の度合いを無視すると、陶謙の立場は三説に纏められる。
1.陶謙は公孫サンに派遣された子分格で、一貫して反曹操・袁紹行動を取っていた。
2.陶謙は公孫サンに派遣されたが徐州に割拠して状況を観望することにした。
3.陶謙は特定の派には与しない独立的な勢力である。
>>829以下の論が説得力を持つには、
「3の説だと殺害は謎の突発事件だけど、1の説なら合理的な動機が説明できるよ」でなけらばならない。
でも、そういう種類の動機って見当たらないよ。
1-3のどれを取るにしても、193年の時点で現実に曹操との衝突は起きていたので、
曹嵩が微妙な立場にいたことには変わりないんだから。陶謙が粘着キチガイだと言うなら、3の説でも、
「俺は何もしてないのに曹操が喧嘩吹っかけてムカついたので親父殺しました」と言えるわけだ。
蛇足。
陶謙は朱儁を盟主にして檄を飛ばそうとした時は刺史だったから、
牧になったのは朱儁が和睦して太僕になった時か後と考えていいと思う。
陶謙と袁術って仲悪いよね。いつからだろうか。袁術が徐州に食指を伸ばしていたっぽいが。
850 :
846:2008/02/01(金) 00:16:01 ID:aYq/L3LF0
面白いな
後漢書宦者伝だと、
曹嵩は曹操が挙兵した時に曹操に従うのを「肯んぜず」、琅邪に避難したと言ってるんだな
>>849 やっといい流れになってきた。
4.陶謙は何時の頃からか公孫サン系勢力となった。
A:一貫して反曹操・袁紹行動を取っていた
B:徐州に割拠して状況を観望することにした
これは難しい話題。
皇帝僭称のケツ宣(だっけ?)と暴れていたという記述をどこまで信用するかも問題だが、
仮にそうだとしたらBになる。
しかし、反曹操・袁紹の軍事行動は、何も突飛な奇策をしてない。そうだとすればAになる。
自分としてはAB両方だと思う。徐州統治・支配域拡大に関してはBだが、それを実現するためにAに乗ったというべきか。
劉備が陶謙の跡継いだとき袁紹に使者派遣して承認っぽいことしてもらってるんだよね
曲者だというならなおのこと、粘着キチガイ的に特にもならんことするか?って思えるね
呂布ですら劉備の家族を保護しといて懐柔しようとしたのに・・・陶謙って呂布以下?w
850続き
ということは曹嵩は単に避難したんじゃなく、息子曹操から自分の意志で距離を置いた可能性があるってことだ
その行き先が徐州琅邪だったというのは何か意味があるんだろうか
お、なかなか白熱してまんな。
陶謙は泰山太守の応劭と連名で朱儁を太師に推挙している。
そして陶謙が奪ったとされる華・費は泰山郡に属している。
これは見逃せない事実ですよ。
で、黄巾の乱終息後の琅邪というと臧覇が割拠していた筈なんだよね
曹嵩は平気だったんだろうか
なんでそんなところを選んだんだろうか
>>856 曹嵩のルートは
琅邪(避難)→泰山(曹操のもとへ)→SATSUGAI
だった、ってことで
>>841は逆だな
ダメだ、わからん!
後漢書陶謙伝、応劭伝、朱儁伝、武帝紀、引用されてる呉書や世語でみんな記述が違うものw
東郡の發干に駐屯して袁紹曹操と対峙していたはずの陶謙が朱儁を支援する余裕なんてあるのか?
とりあえず後漢書陶謙伝では、曹嵩が殺された後に最初の徐州攻撃と虐殺があり、
二次の攻撃の時に呂布がエン州を奪ったという順になってる。
ところでこの応劭は朱儁連合が解散した後曹操に与してたんだな。ちょっと面白い。
陶謙がケッ宣と与して泰山を攻撃されて、華と費が奪われる前後に曹高は殺されたと。
琅邪相陰コの話は探したけど無かった。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 01:49:16 ID:ScBwagI9O
たぶん、曹操が父と仲違いしてて、しかも順番はともあれ父を見殺しにしたという事実を隠蔽するための史料操作が記述の混乱の一因だ
それを勘案しても操作するところがないと思うんだが…
確かに三国志の本伝には武帝紀「琅邪に避難し、陶謙に殺された。曹操は復讐を決意した」しか書いてない。
逆に言うと短すぎて嘘を入れる余地が無い。後漢書や世語や呉書の記述が混乱してる理由にならない。
殺害が陶謙の意思か、部下が利に眩んだだけかってのは、親子不仲説とは関係ないだろうし。
>>858 応劭は曹操に与したというより泰山太守だったので部下の立場なんだよ。
そのあと袁紹のところへに行ったけどね。
ちなみに闕宣が天子を称したのは初平四年六月だね。
陶謙が闕宣と組んだのはそれより前なんじゃないかな。
>>861 >部下
いや、そのくらいは解るw
朱儁支援で陶謙と同じ立場にいたのに、朱儁が長安に行ったので
徐州支配を固める陶謙と曹操についた応劭と、あっさり分かれるのが時勢らしくていいね。
>敵(嫌いな奴を含む)を害するにはある程度の行動力が必要だから、
>陶謙のような人間が敵の親父を殺すほうが有り得ることだけど。
人質にしといた方がいいのに普通はやらないよ
それに曹嵩が死んで得をするのは曹操なんだよね
陶謙が殺したというなら曹操と不仲だった彼を始末することは
マイナスにならないと判断したのかもな、で曹操はそれを利用して徐州討伐の名分を得た
俺は
>>859を応援する
というのは徐州侵攻が193年と194年の2回に渡って行われ、虐殺をしたのは後者の方のみだからだ
最初に徐州を普通に攻める→人質の父殺害→虐殺という流れなら納得出来る
結局曹操は馬超と同じことしたんだろうな
劉備の家族見捨てぶりは爽快
置き去りにするために連れ歩いているとしか思えん
>>859 曹操の詩で幼い頃から孤立無縁ってフレーズあるんだよな
でも陶兼の記述読むとキチガイ気質がチラホラと見受けられるし
ムカついたからやっちまえってのもありそうに思える
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 12:30:17 ID:ScBwagI9O
曹操としては不都合な真実が三つ
・父と喧嘩別れしていた(不孝)
・人質同然の父を構わず陶謙と戦い、父が殺された(不孝の極み)
・徐州で虐殺略奪を働いた
これらのうち、一つ目は曹家しか真実は知り得ないので仲違いの事実自体を隠蔽した
二つ目は、「悪逆錯乱の陶謙を正道に従い成敗したら逆恨みされて父を殺された」的な印象にすることで見殺しのインパクトを緩和した
三つ目は、「父のカタキ討ちなんだからね!食料不足を略奪で補ったんじゃないんだからね!」と、親孝行だからやってしまったと印象付けることにした
反曹操側は曹操をより悪役に仕立てたいので、「カタキ討ち」という虐殺の名目を「陶謙に責任がない死であったのに逆恨みした」と強調した
868 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 13:03:51 ID:Q9sQ34f+0
この時代であっても、
利害関係で子が父を見殺しにした事って普通にあるものなんですか?
馬超だって、仕方なくやった事では?
不仲説大いに結構だが、
>>867 喧嘩別れを「真実」と触れ込みするのは印象操作じゃね?
旗揚げする息子と両親が行動を同じくする例の方が聞いたことない。
琅邪にいくまでは隠居してショウに引っ込んでいただけだろう。何も不思議なことは無いんだが。
>>864その順序どこに書いてあるんだっけ?
後漢書陶謙伝は 親父殺害・193侵攻(虐殺)・194二次侵攻(張バク謀叛) の流れなんだけど
とりあえず読んでる史料を揃えようぜ。スレらしく劉備の行動も追ってみよう。
後漢書
・陶謙伝
・朱儁伝
・応劭伝
三国志
・武帝紀
・先主伝
・陶謙伝
及び各伝の注
他にある?
通鑑・漢紀52、53あたり
呉書呂範伝に、当時まだ袁術傘下の将だった孫策の配下の呂範が陶謙に拷問に掛けられたとある。
よって
>>851を訂正。
4.陶謙は何時の頃からか公孫サン系勢力となった。
×A:一貫して反曹操・袁紹行動を取っていた
○B:徐州に割拠して状況を観望することにした
×自分としてはAB両方だと思う。徐州統治・支配域拡大に関してはBだが、それを実現するためにAに乗ったというべきか。
○陶謙は間違いなくB。たまたま公孫サンと袁術が一致して反袁紹曹操になったが、
○けっして親袁術というわけではなく、勢力維持・拡大のために公孫サン系となった。
後、一連を読み直して気が付いたこと
・陳寿は呉書と後漢書を延々と引用してるが、内容は主に陶謙を称えるものである
・これはクソミソに書かざるを得なかった陶謙を間接的に弁護している
・しかし、裴松之は弁護の為に載せた記述の矛盾を突いて、
曹操の悪事を暗に仄めかすために陶謙よりになった陳寿の姿勢を指摘している
・その矛盾の最もなものが、陶謙の推挙を拒否して陶謙に捕縛された張昭が、
追悼の辞を述べたという呉書の引用
874 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 15:30:24 ID:ZUztVsYU0
>>873 妄想日記か?
成立は三国志の方が後漢書に先んじてるぞ
陶謙が公孫サン系というのは、幽州刺史であったというところが関係してるんじゃないかなと思った。
韓遂討伐の前に議郎として洛陽にいて、その前まで幽州に赴任していたのだから、可能性としては184年か・・・?
その頃すでに公孫サンは県令のくせに騎兵3000を指揮していたとあるから、滅茶苦茶な実力者。
接点があればここなんだけど、刺史⇔県令 50前後の爺⇔おそらく30台 この関係を考えると、実に奇妙。
>>874 謝承の後漢書。
満足した?
「妄想日記か?」という前に考えようね。
八家
878 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 16:00:55 ID:ZUztVsYU0
>>876 満足した
いきなり後漢書って出ると宋代の方が思い浮かぶんで、可能な限り誰の後漢書か書いてくれると読む方としては楽
>>876 本筋ではないが、陶謙伝の記述が謝承の後漢書に寄っていることはどのようにしてわかるの?
散逸してない部分が読めるなら読みたいな。
んで、史家の意図の裏読みもいいんだが、それは記述の事実関係と矛盾を整理してからにしようぜ。
というわけで纏めてみた。疲れたので半端だから、あとは適当に追加してくれ。
陶謙の前歴
遷幽州剌史, 徴拜議郎,參車騎將軍張温軍事,西討韓遂.會徐州黄巾起,以謙為徐州剌史,撃黄巾,走之.
三年
進軍界橋.以嚴綱為冀州,田楷為青州,單經為エン州, 置諸郡縣 .(三国志公孫サン伝)
夏以前? 袁紹及公孫?戰於界橋,サン軍大敗。(献帝紀)
夏以降 公孫サン使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發幹,以逼紹。太祖與紹會撃,皆破之。(武帝紀)
朱儁時猶在中牟.陶謙以儁名臣,數有戰功,可委以大事,乃與諸豪桀共推儁為太師(朱儁伝)
四年
六月 下ヒ賊闕宣自稱天子。(献帝紀)
(陶謙初與合從寇鈔,後遂殺宣,并其軍衆?)
下ヒ闕宣聚衆數千人,自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。秋,太祖征陶謙,下十餘城,謙守城不敢出。(武帝紀)
(初,曹操父嵩避難琅邪,時謙別將守陰平,士卒利嵩財寶,遂襲殺之.)(後漢書陶謙伝)
曹操撃謙,破彭城傅陽.(凡殺男女數十萬人)(後漢書陶謙伝)
曹公得謙上事,知不罷兵.乃進攻彭城,多殺人民.謙引兵撃之,青州刺史田楷亦以兵救謙.
(武帝紀引用の呉書)
曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主具救之.(先主伝)
嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣?州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。
(略)殺太祖弟コ于門中(略)嵩逃於廁,與妾具被害。(武帝紀注世語)
太祖迎嵩,輜重百餘兩.陶謙遣都尉張闇將騎二百騎衛送,闇於泰山華、費間殺嵩(武帝紀注呉書)
興平元年
(前太尉曹嵩及子コ從琅邪入太山,応劭遣兵迎之,未到,而徐州牧陶謙素怨嵩子操數撃之,
乃使輕騎追嵩、コ,並殺之於郡界.劭畏操誅 棄郡奔冀州牧袁紹)
(応劭伝。これは郡を棄てた時期を指すのか)
曹操復撃謙,略定琅邪、東海諸縣,謙懼不免,欲走歸丹陽.
曹嵩三回死んでるよw
それから、界橋の敗北の後に徐州刺史の肩書き持ってる陶謙を發幹に駐屯させるなんて
やっぱおかしい。東郡の北部、袁紹と対峙する黄河南岸、劉備らと比べても前進しすぎてる。
ここは少なくとも時期の間違いがあると思う。
でも応劭伝の「しばしばこれを撃つので曹操を怨み」の記述には合うんだよなあ。
解ったこと。曹嵩の死地(泰山華、費間)というのは、ちょうど陶謙と闕宣が奪取した地点と符合する。
すると、二人が兵を興したので慌てて曹操が応劭を迎えを出したが間に合わなかった、
という想像の余地は出来る。そうすると呉書の「二百騎衛送」というのは誤記かなんかか?
そうするとかなり整合が付くわけだが。
ちょっと誤解があると思うんだけど、曹操の虐殺事件は初回の徐州侵攻時だよ。
陳寿が二回目のところに書いてるのが間違い。
三国志陶謙伝、後漢書陶謙伝でも初回のときだとしてるし、
なにより事件現場が初回に侵攻した場所なのが決定的。
曹操は初回は西から侵攻し、二回目は北から侵攻してるけど、虐殺があったのは西。
まあ、初平三年までの陶謙の動向はともかく。
陶謙らが下ヒで勢力を興し、北上してエン州東南部へ兵を進めた。
徐州琅邪にいた曹嵩は危険を感じて曹操の支配下の泰山へ逃げようとした。
この東南部奪取の過程で曹嵩が死んだと見ていいと思う。
曹操を攻撃し、のちに田楷の救援を受けていることからも
この時陶謙が公孫サン「寄り」の位置にいるとも言っていいだろう。
だけど、曹嵩殺害が陶謙の直接の指示によるものか、指示を出したとして
そのような情勢下での戦略的意図に寄るものか、ただの私怨かには、
決定的な根拠はない。
ってとこか。
884 :
test:2008/02/01(金) 19:50:49 ID:2luZtz3v0
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r┤ ト::::: \___/ ||
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| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ
朱元璋「しゅげんしょう」 (1328-1398):明の建国者。明朝初代皇帝、洪武帝(太祖)。
貧民の子から身を起こして、群雄を平らげ、元王朝を北方に追放する。
有能な家臣をほとんど殺し、十万人以上の処刑者を出したりと苦難続きだが、
持ち前の陰湿さ(残酷さとも言う)と、その恐怖あふれる発言で
混迷する明王朝を暗くしている(間違いない)。
その陰湿なキャラクターから、そのキャラクターが皆から嫌われていることは、
各種AAがあまり開発されていないとからも明らかである。
前スレ:
朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ 第七巻
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1155321045/
んー資治通鑑見ても、袁術が救援を求めて公孫サンが陶謙らを派遣した時期と
界橋や董卓誅殺の時期の前後はわからんなー
しかし、陶謙が朱儁を救援したって話が、三国志各伝だけなら解るが
後漢書陶謙伝からも無視されてるのは興味深いなー
時空警察っぽくなってきたなw
話の流れに無理やり劉備をくっつけると
小沛を貰っただけなのに予州刺史って凄いよなw
この頃の予州って
南西の襄付近は張繍
西のエイセン付近〜中央南北は曹操
汝南から東は袁術
小沛より北東は・・・曹操か陶謙?
無茶がありすぎるw
曹操が長安とコンタクトを取るのはまだ後のほう、いまだ断絶状態だから出来たことか。
>>887 汝南、頴川あたりは黄巾がいっぱいいたはずで、曹操の影響下とはいえないと思う
曹操の版図に入るのは献帝拉致直前
こんなバラバラな場所を纏め上げる可能性があると思われたのだろうか
陶謙がその時どの程度野心を持っていたかによるんだろうけど、
劉備を豫州進出の先駆けにするつもりだったんだろう。で、先に正当性を主張しておいた。
するとやはり、袁術との開戦を見越してたんだろうなあ。
890 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 18:52:19 ID:dQCvfTEqO
時期的に、劉備がいた頃はすでに曹操の攻勢に直面してるから、
それは無いと思うんだが・・・
ああ、曹操の一次と二次侵攻の間か。
…か?
でも沛県って沛国の大分北なんだな。これは対曹操シフトか。
すると刺史はただの箔付けかなあ?
陶謙の「旗揚げ」の時期を特定できないかな?
刺史になったのは確定してるけど、何時から軍権を振りかざすようになったのかわからない。
それに徐州といっても東海から北は豪族たちがgdgdっぽいし、
広陵は張超〜臧洪の支配時がけっこうあるし、
徐州の支配圏域の広がりも気になる。
刺史として黄巾を討伐しているのだから、何か軍権は持っていたんだと思う。
ずっと徐州にいたなら、独立行動を取るようになったのはやはり
董卓討伐軍が出来たのを契機にするんじゃないかな。
この時は動いていないが、袁紹らの撤退後に孤軍奮闘する朱儁に兵三千を
提供しているわけだから、この時点でかなりの動員力を保持していたと見ていいと思う。
一万以上か? 具体的な勢力範囲は解らないけど。
ネックになるのがやはり界橋の戦い前後に発干に駐屯したという武帝紀の記述。
これは董卓誅殺のほぼ同時期だから、全てを認めると、
1.董卓健在の頃、朱儁に兵三千を遣わす(肩書きは徐州刺史だがどこにいたのかは解らない)
2.公孫サンに使われて東郡に進出するが敗退する
3.董卓死亡後、朱儁を押し立てて討伐連合軍を作ろうと目論むが朱儁が和睦に応じたので沙汰止みになる
4.朝貢して徐州牧となる
5.賊闕と共同して蜂起し、エン州へ攻め上がる(193年6月)
ということになる。中々の梟雄ぶりだけど、1と2が噛み合わないんだよなあ
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 00:24:51 ID:xBSnAYeU0
長坂で曹純に捕まった劉備の家族って、やっぱ処刑されちゃったんだよね?
曹操って敵の親族でも割りと厚遇してないか?
馬超の子も、張魯の元に送り返しただけだった。
896 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 01:50:20 ID:qw7ComvN0
張飛に捕まった夏侯一族の娘みたいに
妻にされた可能性はないのかな?
男子は宦官にされたかもしれんが
殺すより人質としたほうが価値あるだろ。
外交カードになるんだぞ?
自分の親ならともかく、妻や子(特に娘)には人質ほどの価値が無いのが当時の常識。
人質価値
親>>>>>一族の年長者(伯父)>男児(跡継ぎの道具)>>>妻(有力者の血縁)>>>妻・娘
劉備の二人娘は「張魯に処分を任された馬超の妾の子」と同じ末路だと思う。
張魯に任せるって、処罰の恨みや風評は張魯に押し付けると同時に、忠誠度合いを計るエグイ方法だったけどなw
運が良くて奴婢や売春奴隷。
記録に載っていないという事は、取引にも処刑にも関わっていないという事で良いのでは。
つまり生き延びた。
ま、特筆すべき事件には至らなかったという事だろうね。
この時代だと普通に処刑じゃないか?
呂布が劉備の家族を保護してたり劉備が黄権の家族を罰しなかったりしたことが
わざわざ取り上げられてるぐらいだからな
この時代、女子はわざわざ単独で処刑するほど大事に思われてなかったんじゃないかね。
一族の処刑に連座するのでなければ(馬騰や袁瑰の例)。
大方は奴婢、身分があれば妾、側室、或いは正妻になるかもしれない。最たる者が甄后。
華キン伝にそうやって分配された婦女を華キンが嫁入りさせたという話が特筆されてる。
陳宮や黄権の家族らは、少なくとも身分を剥奪されるところを厚遇されたので特筆されるわけで。
>>898の馬超の妻子も普通に褒賞に見える。むしろ殺したことで史書に特筆された、と。
叛将の庶子を下げ渡されて、囲ったから忠誠に疑いあり、だったら張飛はどうなるw
あれは曹操に背いて沛に駐屯した時に捕まえた娘が「あの夏侯嬰」の裔だったから
嫁にしたって話だろう。
政略結婚があるなら政略人質もあって良いのではないか?
妻子が捕獲させて処断されたとなると大儀もできる同情も買える
妻子ではイマイチ…。
親ならまだ判るけど、これも本人の孝心に期待するしかないし、
人質をとった方の評判が暴落する諸刃の剣。儒教的にオススメ出来ない。
政略結婚というのは、家と家の結び付きに意味があるのであって、
妻自身の身柄には殆ど価値は無い。少なくともこの時代は、まだ。
ていうかまあ、政略結婚してるから戦争回避したという例は
世界史的にもあんまりない気がするけどなー。
そっか外交カードにはならないか。
確かに個人的なもので国うごかしちゃだめだよな。
でも殺したらごししょみたいに士気高まりそうだし、裏切りものならともかく、捕虜となった人質をむやみに処刑するのも考えものだな。
子はまた生めばいい、嫁はまた取ればいい。
儒教ではそうだったな。
そりゃ人質にはならん罠。
だいたい劉備のような弱小勢力相手に人質が必要とも思えないし。
曹操なら自分の株を上げるために礼遇して送り返しそう。
古くは劉邦は項羽に父を人質にされたとき、「俺にも父親で作ったスープ分けてくれ」と言い放った
同じ時代では袁紹は伯父や一族が董卓のもとにいるにも関わらず打倒董卓の兵を挙げ、
曹操は徐州に父がいるにもかかわらず徐州の支配者陶謙と戦った
天下を狙うような人物には尊属でさえ有効な人質にはならない
孫権は曹丕に攻められたとき息子を人質に出すと言ってるし(反故にしたけど)、
公孫淵も司馬懿に攻められて息子を人質に出そうとしてる。
紛争の抑止力にはなるけど、情勢によって重みが変わるだけだよ。
「人質を取る」ことが重要なんじゃなくて
「人質を出す」ことが重要なんじゃないかと。
「私はあなたに逆らいませんよ」という意思表示としての人質差し出し。
人質を取って交渉を有利に進めようなんて考えは
政権とかそれくらいの大きさの集団にはほとんど無意味なんでしょう。
人質に価値がなければ意思表示にもならないと思うんだけどなぁ。
勿論ある。
でもその価値ってのは、嫡子を差し出して恭順の姿勢を示すとか、
嫁を出して交流のきっかけを作り信頼関係を醸成するとか、
日頃の親善の積み重ねの中の重要なカードという意味合いだと思う。
これは長い目で紛争回避するために大事なことだけど、
実際に緊張が高まったときに「親戚なので戦争をやめよう」ということには
殆どならないと思うんだ。利害関係の方が比重が大きいわけだから。
古今東西、兄弟・従兄弟同士で戦争するのは普通のことだし。
確か近代欧州では嫁入りした后が緊張緩和に頑張って
危機回避とかあったと思うけど。これは人質としての価値とはちょっと違うかな。
>>909 この流れに則して言えば「人質を取る(得る)」ことが重要なのではなく「人質を出させる」ことが重要なんだと思う。
913 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 22:52:19 ID:tC20lJur0
曹嵩の件は、曹操にとっちゃ徐州侵攻の絶好の口実だろw
わかってて見殺しwまじパネぇwwww
ってかこのスレ、劉備の話題ねーしwwww
あってもクソwwwwwwwwww
劉備になるべく性格をかえようと思う。
実際行動するのはむつかしいな。
頭の出来の悪い俺にとって、このスレは色々と勉強になります。
でも>>194-
>>200の流れで爆笑したので、書き込ませていただきますw
友達(日本人)に、気を付けの姿勢で膝に手が届く奴がいます。
そのままちょっと肩の関節を下にずらせば、膝をコリコリと掻くことも出来ますw
自慢げに見せてくれた時は、唖然とした後にゲラゲラ笑いましたw
自分も気を付けをしてみましたが、間が20cmもあって驚きました。
俺より背が高く178cm位かな?バランス良くしっかりとした体付きなのに
何かずんぐりして見えて、面白いというか愛嬌があります。
よく太っている人といると、安心するって人がいますが、腕が長いと
包容力みたいなものを感じますね。
腕を水平に上げるのには、もの凄い力を使っていると中学の頃に教わりました。
人間の体(骨や肉)は結構重いものだから、長い分かなりの力が付くのでしょう、
その友達も見た目以上に、凄い腕力があります。
素行の悪い奴じゃないのですが、腕が長いと喧嘩で有利だと言ってました。
あと座ったままで、遠くにあるリモコンやタバコが取れると、自慢げに笑ってました。
耳は普通だったと思いますが、オールマイティな感じはします。
目上の人間には尽くすし、年下には優しく接していて、慕われてますね。
雪国の出で、自分の家の雪かきが終わったら、ついでに年寄りしかいない家や
公民館の雪かきまでも、自発的にしていたらしいです。
結構短気なのに、自分から喧嘩を吹っ掛けたりせず、無言で我慢するタイプ。
まあ、良い奴だと思っているので、良い事しか思いつかないのですがw
俺も言われるまで、腕が長い事に気が付かなかったので、もしかしたら案外
膝に手が届く人が、近くにいるのかもしれませんよ。
だって手を伸ばして歩いてる人なんて居ないし、気を付けをしている人すら
滅多に見かけるもんじゃないですもんねw
では、下手な長文で失礼しました。
918 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 06:57:52 ID:VGUMZmsT0
ほしゅ
919 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/05(火) 17:12:46 ID:b5uf6xIR0
うんちちゃんしないと
劉侯爵という呼び名はどこが初出?
劉皇叔の誤記だろう。
中国には我が国のように臣籍降下制度がないから、皇帝と同姓がうじゃうじゃ。
候なら王族でもエリート中のエリートだす。
明代には不逮捕特権を悪用して盗賊をやっていた王族もいたしね(血は争えんな)。
劉備がゴロツキやっていたのも先祖返りだね。
924 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/02(火) 04:26:34 ID:9zNkyOB9O
吉川さんの劉備玄徳は、一人では何もできない泣き虫。
925 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/02(火) 15:36:13 ID:QiUa+5ZYO
>>923 >ゴロツキ
確かに劉邦、劉[糸寅]、劉備と必ず乱世にピンポイントに輩出してるあたり、血のような気がするなw
926 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/03(水) 02:43:47 ID:GS1ZZjsZ0
劉備は、演義で正義の味方にされてるのが割り食ってるんだろうなぁ。
乱世において、名が知れた群雄の一人になってしまった時点で、ある程度の
裏切りや謀略は必要になるもんだと思う。
時代のモラルを破壊して突っ走る曹操のおかげで、劉備のそれが霞んだのか。
とにかく、劉備と曹操は陰陽みたいな関係で面白い。
やっぱり、この二人の最終決戦は見たかった。
風評で得をしたとは思うが、遺言で自分の息子を見限れと臣下に言える人って
劉備以外にいただろうか。
漢の復興は単なる大義名分かも知れないが、劉備は劉備で漢の全盛期の様な
平和国家の未来図を描いて戦っていた気もする。
漢の全盛期って武帝で財政傾くほど対外戦争しまくりの時期ですけど…
匈奴に喧嘩売られてたから叩きのめさないと平和にならなかったんじゃないの?
平和にやってた南越とか西域にも喧嘩売りまくり
演技寄り劉備→仁と徳に溢れた聖人君子。自然と人が集まってくる。
正史寄り劉備→目的のためなら手段を選ばない無頼漢、でも人徳はある。
っていう性格や領土争いの事は嫌という程目にするんだけど
劉備の統治・政治の話ってあんまり出ないよね。
実際、政治的な功績や善行ってどんなのがあったの?詳しい人教えて。
932 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 02:48:24 ID:6D+DqES60
>>931 新貨幣の発行とかで経済政策はきっちりしてたようだよ
933 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/30(火) 23:50:29 ID:QNvwzxCT0
劉備が入蜀して間もない頃。劉備新政権の法律が厳し過ぎ、
あんたらはよそ者なんだから遠慮すべきと批判の声があった
という。それでも直さず新しいやり方を変えなかったと記録にある。
もちろん中心人物は諸葛亮だけどね。参考になった?
諸葛亮「前が緩すぎてゆとりが量産されてたんだから〆なきゃいかんだろうがjk」
諸葛亮はそんなこと言わない
>>927 武帝の時期は最大版図であって、全盛期は文景の治じゃないか?
>>933 漢高祖の法三章は秦の法が厳しすぎたから法を緩めたんだけど
今回はその逆だから…っていう話だよね
>>933 >>937 法正が文句つけたけど孔明にうまく丸め込まれた話だったっけ
ただそれがどういう意図と評価をもって記載されたかは微妙なとこだよね
劉備陣営でもカンヨウが皮肉って道行く男女を告発したエピソードもあるし
法を厳しくしました、善政ばんざーい、って話ではなさそうな感じはする
940 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/04(土) 14:13:48 ID:d5kBJyLv0
相当厳しい政治だったと思う。「蜀記」という史書には
「亮(孔明)は刑と法が厳しすぎ、百姓を刻剥し、君子小人よりみな
怨歎を懐いた」とある。個人的な意見としては彼の理想というか
やりたいようにやってしまったんではないかと思う。それでもきちん
と蜀が国家として運営出来たのはやはり彼の手腕の見事なところだろうね。
941 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/09(木) 20:18:27 ID:jx22E3Li0
今、人形劇で劉備死ぬ回を見たんだが、格言というか辞世の句みたいなのは
本当にあったやつなのか?
「善は小なりとも、これを成さざるなかれ」ってやつ。
三国志の注が引く諸葛亮集に載ってる話
劉備は中山靖王劉勝の子孫じゃないだろうな
あからさまな陳寿のプロパガンダだ
945 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/04(金) 18:05:26 ID:N+G9JaPu0
曹操が呂布を捕らえた時、呂布を生かしていたとしたらどうなってただろうか
またどこかで自立するんじゃね?
1.曹操への恩義から帰順
2.反曹勢力として再び挙兵
3.既存の反曹勢力に帰順
1と3の場合、いつ裏切るか分からないので君主の器によっては誅殺されるかもな
劉備って殺した相手の軍勢は大抵吸収してるよな
袁紹も曹操も孫策もそうやってデッカくなったんだけどね
逆に戦力吸収せずに皆殺しや追放するほうが珍しいでしょ
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 20:51:28 ID:i6k0rddg0
でも簡擁に「孔明の法律厳しすぎるからちょっと考えてみたら?」って突っ込まれてなかったか?
劉備の法律
952 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 23:16:10.96 ID:cygxVejp0
それも妄想
劉備の出した禁酒令をユーモアを備えた進言で禁酒令を取り消させたことじゃねーの?
法正が孔明に言った話と
>>956の話が混ざったぽい
曹操が孔融に皮肉たっぷりに抗議された話?
孔融の半分は皮肉で出来ています
半分で済むか?w
>>126 >劉備もヒゲが貧相だと言った人をいつまでも根に持って
>入蜀後、殺している。
亀だが
ひげが貧相とは宦官と遠まわしに言っているので殺されても文句言えないよ
劉備は後漢に対する忠臣ではないだろ
皇帝を名乗って後漢王朝を否定したわけで
後漢王朝を擁護する立場なら皇帝にならずに後漢復活のために戦うべきだったと思う
その方が大義名分もあるし
色々あったけど、
みんなそれぞれ過去が違っていたとしても、結局は
司馬一族が勝つような気がする。なんといっても、シバイの寿命が長かった事が
一番の勝利への道だったと思う。
福島原発の避難民が三条で大雨にあってまた避難か・・・。
劉備とかぶるな。
ということは何年か後に天下を取るかもしれんな。
966 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 23:47:49.36 ID:qu+kPsKZ0
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 07:15:49.79 ID:92za69CsO
雨をかぶってる
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 11:29:28.10 ID:UsZlpXib0
>>963自分が先頭(主君になって)に立って領土も切り取らず、君主になったのも政治的に簒奪した上に天下を統一しても僅か60年で乱世に戻した司馬一族と
自ら君主になり国を興し領土も切り取り人質時代、同盟国(事実上は従属)の為に苦労をし様々な苦労の末に天下を取り天下統一後200年の泰平の世を築いた家康
一緒にするな家康に失礼すぎます
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 21:30:10.58 ID:A068HUjkO
>>968 家康ひとりの力で泰平の世を気付いたわけじゃないだろw
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 23:39:34.80 ID:d4UFHdvu0
>>969確かにそうだが、それでも司馬一の糞一族よりは千倍以上マシというか、圧倒的に家康の方が良い
972 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 22:17:09.17 ID:b4HWPy3/O
司馬氏のやり方は、自らの子孫である後の皇帝(東晋だっけか?)ですら
こんな手段で国を立てて長持ちするわけないと嘆くくらいの酷さ
>>926 > 風評で得をしたとは思うが、遺言で自分の息子を見限れと臣下に言える人って
> 劉備以外にいただろうか。
息子じゃないけど、似たようなことなら劉備の遺言より23年も前に言ってる三国志の人物がいますけど?
策が張昭に対して
『もし仲謀に能力がないようなら、あなたが政権を執ってほしい』
ってね
軍事能力皆無の頑固者に事後なんてよく託したものだ
>>974 自ら率いる能力は定かじゃないが、軍事に関して能力皆無なんてことはないと思うよ?
策は政務・軍務の一切の裁断を任せ、出陣の際は昭か紘のどちらか一人を伴っていたのだから
諸葛亮の事かと思った。
自分も孔明の事かとw
孔明に頑固者を表す逸話ってあったっけ?
>>962 蜀漢の建国イデオロギーは後漢への忠義ではなく
漢帝国の文化・制度の継承じゃないかと
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 00:28:19.96 ID:YbU9UaXC0
孔明に皇帝を譲ったら中山靖王の末裔って大義名分がなくなってしまうんじゃないか?
>>980 劉備って帝位に執着してるようには見えないんだよあ。
曹操も死んだし漢も事実上滅んだ、後は遺された者達の為に生きてくれって事なのかもしれない。
>>981 陳寿曰く
先主は死にたくないから曹操と袂を分かち回りまわって皇帝になりました
だからな
>>980 孫権はそんなもの無くても帝位についたよ?
劉備も大変だな。曹操なんてストーカーにつきまとわれて。
呂布から逃げて身を寄せたのが運の尽き。すっかり気に入られた劉備は、以後死ぬまで曹操に追っかけられる羽目になる。
徐州に逃げれば人を差し向け、すげなくあしらわれるとリスク覚悟で自ら乗り出し劉備劉備。
官渡の戦いが終わると息つく間もなく、とって返して劉備劉備。
荊州に身を寄せると夏侯惇らを差し向け、劉ソウが降伏したらすぐさま向かって劉備劉備。
深入りし過ぎて赤壁で大負けし流石に懲りたと思ったら、漢中で劉備を見つけて再燃。
自分の気持ちを鶏肋に例えたら楊修に馬鹿にされ逆ギレして処分。
必死にアタックするも大損害で追い返され、遂に失意のまま病没。
全く困ったもんだよ曹操には。
なんだその腐女子の妄想みたいなのはw
次スレは?
立てそうにないな
三戦板に劉備スレあるから立てなくていい
とりあえず保守
ここに立ててもいいんじゃない
三戦板は何かと荒れるし
うん
劉備好きだな。
曹操は「正史では凄い人!」ってアチコチで言われてて、でも実態が見えてくるとガッカリしてしまう感がある。
劉備は逆で、演義や「歴史の真実!」みたいな本とはまるで違う姿が浮かび上がってきて、それでいてはっきりとは掴めない奥深さがあるよ。