1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
呂母の乱から天下統一まで語ってください
2
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 19:29:40 ID:KENND1UvO
お、後漢スレが
三戦で、ようわからんのが沸いて出て面白かったが、こっちはどうだろうか…
スレタイ通りだと後漢の初期までしか語れないということか
光武二十八将って誰がいたっけ?
ケ禹、馮異、岑彭、呉漢…
馬援は入ってなかった希ガス
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 11:54:56 ID:Ys3lDyyvO
携帯からなので一部使えない漢字があるので申し訳無いけども
雲台二十八将は順位ごとに挙げて行くと
トウ禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、
蓋延、銚期、耿純、藏宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂
傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、万修、ヒトウ、劉植の二十八人です
さらにこれに王常、李通、竇融、卓茂の四人を加えて三十二将とすることもあります
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 00:22:40 ID:Pki4I+tpO
光武帝は地味だけど中国史上の中でも屈指の名君だね
禍の芽をたくさん残していったけどね。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 14:56:40 ID:YS7sdrJHO
>>9 禍の芽とは例えばどんなもの?
劉秀は歴代創業の皇帝の中では後世に禍根を残さなかった方だと思うけどね
>>10 粛清を嫌ったために、豪族が力を保持したままで後年の動乱につながったとかはいわれている
ただ、これは全てのことは長短が表裏一体というクチで、なら粛清しまくればよかったのか?というとノーだな
功臣の粛清を行わずに、後にそれら豪族が外戚となった事と
死刑囚を一律、死一等を減じて宦官にした事が非難されてるが
本人としては善政のつもりだったのがな。
後、子孫が短命が多くて、それで皇帝権が著しく損なわれたのもあるが
これを光武帝のせいにするのは酷だ。
光武帝にまつわる諺とか慣用句でいろいろ残ってるよね
向うところ敵なし、とか矍鑠とか烏合の衆とか
曹操も光武帝の行為(有力な敵を倒した時、内通文書があるかもしれない文箱を見ずに焼き払った)を真似ている
隴を得て蜀を望む
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:37:07 ID:i5NbPt+/0
前漢が外戚に乗っ取られて滅亡したため、外戚の専横には
相当に苦慮したはずだよ。その代わりに用いた宦官が問題
だったわけだが。
東漢も結局は外戚がかなり跋扈したようだけどね
あえて東漢ですか。
だって後漢だと五代の劉知遠とかぶるから
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 00:05:46 ID:eo4CPdb8O
光武帝は統一後、功臣達の軍権を奪い重要な役職も与えないようにして豪族の影響力をできる限り排除しようとしてるけどね
節度使を無力化した趙匡胤みたいなものか。
後漢は能力主義ではなく、人物重視で官僚を採用したのがダメだったとか。
たとえ能力があっても権力者の顔色をうかがい簒奪に対し抵抗しない人物より、
能力は平凡でも人格的に優れ気骨のある人物が官僚ならば王朝に尽くしてくれる
と考えたんだろう。
しかし官僚登用の基準で親孝行を重視したため、猫も杓子も孝行息子を装うよう
になり結局似非人格者が官僚になる例が多かった。
幼帝が続いたので建国期の方針がそのまま続いたのがいけなかったんだろうな。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:58:25 ID:2oZUK+PUO
一般的に後漢朝は、皇帝権が弱く豪族連合政権としての性格が強かったと思われがちだが
章帝期まではかなり豪族の力を押さえ込むことが出来ていた。
まあこれは豪族の側も中央政府に対してかなり遠慮してたってこともあるんだろうけど。やはり章帝以降長命の皇帝が出現しなかったのが惜しまれる。
小説十八史略だと、初期は聡明な皇后が続いてて外戚に専横させなかったから良かったとしている
それも一因だろう
それに後漢の衰退は外戚の専横に始まるから
対比でそう見えるってのもあるか
後漢は幼少で即位したうえ短命な皇帝が多かったのに王朝の寿命は長いね。
よほど基礎がしっかりしていたのかそれとも中級クラスの官僚はまじめだったのか。
前漢はあっさり新に乗っ取られた印象があるのに、後漢は実際は魏であっても
一応続いてはいたね。
そういえば献帝は長命だったね、本人は早く死にたいとか思っていたかもしれないけど。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 18:56:49 ID:OT08H9C50
献帝は孔明と同年生まれの同年死亡。
決して長寿じゃない。
後漢皇帝の死亡年齢
光武帝 63歳(一位) 明帝 48歳(三位) 章帝 33歳 和帝 27歳 殤帝 1歳
安帝 32歳 順帝 30歳 沖帝 3歳 質帝 9歳(毒殺) 桓帝 36歳(四位)
霊帝 34歳(五位) 少帝 15歳(毒殺) 献帝 54歳(二位)
洪武帝が結局一番の長寿か
変換間違えた。光武帝だ。
在位期間で計ると献帝の方が長そうだな。
東漢皇帝の在位期間の長さ
光武帝33年(第一位) 明帝18年 章帝13年 和帝17年
殤帝1年 安帝19年 順帝19年 沖帝1年 質帝1年
桓帝21年(第四位) 霊帝22年(第三位) 少帝1年 献帝32年(第二位)
光武28将ってかっこいいな、どっかのサイトで説明してたよ
中国の星座28宿に当て嵌めて28人だってよ
{東方蒼竜7宿}−角宿、亢宿、てい(低から人偏を引いた字)宿、房宿、心宿、尾宿、其(+竹冠)宿
{北方玄武7宿}−斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿
{西方白虎7宿}−奎宿、螻(から虫偏を除く)宿、胃宿、昴宿、畢宿、觜宿、参宿
{南方朱雀7宿}−井宿、鬼宿、柳宿、星宿、張宿、翼宿、診(言偏じゃなくて車偏)宿
本当は凡庸な人間もいるんだろうな
戦乱の世で生き抜いて高位に昇っただけでもそれなりだと思うけど
普通なら名も無い犠牲者その一万人目、ぐらいで死んでるだろ
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 09:25:04 ID:AKj75wogO
雲台二十八将と言ってもピンからキリまでいる。
ほんと少ししか記述がないやつもいるし。
ケ禹みたいにどこがすごいのかわからんのが首席だしね。
馮異や耿弇のほうが功があるのになんでだろ?。
確かにトウ禹って何が凄いのかよく分からないとこがあるね。
正直名将とは言い難いし、名軍師かというとなんか違和感あるし。
じゃあ彼が貢献した一番の功績は何かというとやはり人材推挙だと思う。
呉漢、寇恂、賈復、銚期等彼が見出だした人物はいずれも後に光武帝にとって欠かすことの出来ない名将となっており、
トウ禹の人物鑑識眼が非常に確かなものだったことを証明してる。
光武帝に赤眉が降伏したとき玉璽・玉壁・更始帝の剣を献上したけど、
この更始帝の剣ってもともと劉縯の物だったのかもしれないね。
更始帝は劉縯の剣を借りてながめてたことがあるから、粛清した後自分の物にした可能性あるし。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 00:53:53 ID:T4ruAg3pO
朝飯前の語源ってやはり賈復の故事なのかな?
「烏合の衆」は
始めて使った人 酈食其
現在の意味で使った人 邳彤
それを広めた人 耿弇
ということなのかな?
この時代光武帝以外で目立つのは王莽と馬援ぐらいだね。
少し後だが班兄弟もいたか。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 01:30:40 ID:Ki586nPRO
光武帝が目立ち過ぎて他の人物が霞んじゃうんだよね
更始帝とかカイゴウ、公孫述はそこそこ有名な方かもしれない
だからあんまり人気ないのかなこの時代。
調べると結構おもしろいのに。
それもあるけど英雄らしくない英雄である光武帝は
小説の主人公としては書きづらい存在だからメジャーになれないんだろう。
駄洒落好きの光武帝は歴史小説よりラノベ向きだし、ラノベで仮に出ても
変な話になるだろうしね。
皇帝になっても毎日政治に熱心に取り組んで苦労しまくりの劉秀
見かねてみんなが休んでと頼んだら
「私は仕事を楽しんでいるのさ(意訳)」と答えて平然としていた
やっぱり農民的だよな、業を楽しむとか
劉秀っていかなるときも緊張感のない人間のような印象を受けるな。
なんか綿のような柔らかさの持ち主というか、その言葉も生き方も。
目立つ人物が光武帝の配下に集中しまくってるのも地味な要員かも知れない
また相手側の目立ちそうな連中が簡単にやられてるからよけいにね。
(厳尤とか延岑とか。)
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 20:57:49 ID:lwp9gOS/O
延岑はかなり根性あるけどね
何度敗れても挫ける事無く反光武帝の姿勢を最後まで貫き通した
赤眉やトウ禹・呉漢等の名将を破ったこともある
王朗って詐欺師みたいな印象だけど意外と有能かも。
劉秀の首に十万戸の価値つけてるし、時代が違うけど項羽の十倍。
あと劉秀一行が昆陽の戦友任光のいる信都に向かわずあちこちうろうろしていたのは、
王朗が劉秀は必ず信都に向かうと予想して網を張っていたためかもしれない。
この時期を舞台に、三国演義みたいな物語って作れるかな。
天下分け目の戦いがないから難しいだろ
昆陽は見せ場だけど天下わ賭けた戦いじゃないし、
宜陽は赤眉ガ戦わず下ったから完勝だけど戦いじゃないし
公孫述と隗ゴウが連合して長安あたりで戦いが起これば最終決戦になっていたけど・・・
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 23:13:04 ID:lwp9gOS/O
カイゴウがもう少し早い段階ではっきりと反光武の方針を取ってたらねぇ…
光武帝との戦いでは諸戦に呉漢や耿エン等を退ける等なかなか光武帝を苦しめていただけに
優柔不断な態度がなんとも悔やまれる
まあ隗ゴウは天下とる野心なかったしね
問題は公孫述、皇帝名乗っていながら蜀に引き篭って・・・
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 10:48:42 ID:fuUi1iovO
公孫述もそうだけど、基本的に蜀に基盤を置いた政権は専守防衛に徹する事が多くてあまり外に撃って出ようとしない
守り易い地形ではあるけれど逆に言えば外に攻めて行きづらい
そう考えると毎年の如く北伐を敢行していた蜀漢は特異な存在だと思う
蜀漢の歴史40年で、諸葛亮と姜維を合わせても10年ほどですよ遠征なんて。
まあ蜀の政権がそのまま閉じこもってしまいがちになるというのは同意。
このあたりは意識の違いなんだろうね。蜀漢や唐の戦乱から逃げ出してきた皇帝
たちには、「ここは亡命地、仮の土地」という認識が強く残っていたと。
かといって、華南が征服されるときは、たいがい四川方面が先に併呑され、江南はそのあとだよね。
そりゃ川の流れを考えれば当然のこと
蜀の土着勢力にしてみれば、治安維持さえできればどんな勢力でも
かまわないって考えなんだろう。だから外征に積極的に協力しない。
外から来た政権は自分達を守る警察力と考えている節がある。
独立の気風はあんまりなかったのかな?
少なくとも公孫述は独立しようとする意思は持ってたよ
実際独自の国号を定めたり貨幣を発行したりしてる
蜀から出発した劉邦ってやっぱ凄いな。
当時の豪族にとって最も重要なことは自分達一族の財産を守ること。
そのため多くの豪族が武装して自衛し、「真主」が天下を治めるのを待った。
特に蜀のように比較的平和な土地ではその傾向が強いと思う。
自分達の損になる事はしたくないから、公孫述が外征を望んでも反対する。
蜀漢と異なり公孫述には、それら豪族を抑えるだけの軍事力(自分の軍隊)
がなかったんじゃないか。その軍隊をつくっているうちに滅亡したのでは。
>>65 根本的な勘違いをしている。 蜀ではないのだぞ。
>67
巴・蜀を含む漢中。って事だから良いんじゃない?
俺も
>>59の書き込みを見て、劉邦を褒め様と思ってたから
言う訳じゃ無いけど…
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 05:39:32 ID:qKCgO7DbO
光武帝って二人の兄貴に対して、顕彰するような諡号とか贈ってますか?
孫権と孫策の関係において前例として影響がないのか気になりましたんで。
劉エンは斉王に劉仲は魯王に封じられています。諡号はエンは武王、仲は哀王です。
仲には子供がいないので名前だけですが、斉王家はエンの子孫が代々受け継いでいます。
>>70 少し違う。劉縯には章・興という子供がいたので、建武二年に劉章を太原王
として劉縯を継がせ、劉興を魯王として劉仲を継がせる。
建武十一年に、劉章を斉王に遷し、十五年に劉縯を斉武王に諡し、劉仲を魯
哀王に諡す。
(蛇足であるが、少しややこしいのは途中、古に王に封じるは無しと、王を
全て侯に替えることがあり、その後、劉氏の侯を再び王に替えている。その
侯時代が紛らわしいので、ここでは省いて全て王とした)
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 14:21:56 ID:qKCgO7DbO
なるほど、単純に劉兄弟と孫兄弟を一緒には出来ませんが、王号は贈って子孫に継がせてたわけですね。
ところで、塚本青史の小説では劉秀と兄達の仲が悪く書かれていて意外な感じがしたのですが、劉秀の兄弟関係は悪かったんですかね。
兄弟仲は良かったと思う。
兄が死んだ後、涙を流して馮異に諌められているし。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 23:55:56 ID:OE/Lc3tCO
ただあんまり生前仲が良かったようなエピソードが無いんだよねぇ…
性格も全然違うし
特にエピソードを残すようなこともない
普通の兄弟だったんじゃない?
妹とは仲良かったんじゃない?
逃げる時わざわざ一頭の馬に乗せて一緒に逃げてる
劉邦なら息子でも蹴落とした場面だ
妹の名前(伯姫)って姉達の名前(黄・元)とくらべると浮いてるよな。
兄弟姉妹とも母親同じだっけ?。
>>77 そうだよ。
劉欽(父・南頓君)、樊嫺都(母・樊重の娘)
後漢書・北海靖王興伝に見える
劉秀の家族は三男三女。男は縯、仲、秀、女は黄、元、伯姫の順。
劉秀から見て、黄、元は姉、伯姫は妹。ここまでは良い。
では、縯と黄ではどっちが年上だろうか?
誰か分かる史料とか誰か知ってる?
というのは、縯、仲、黄、元、秀、伯姫の順だと、劉縯は劉秀の4つ
以上年上で、劉秀にとって十分目上の落ち着いた兄という感じがする。
もし、黄、元、縯、仲、秀、伯姫の順だと、2つ、少し年長なだけな
兄ということになるかも知れないから。
長女・劉黄、次女・劉元、長男・劉糸寅、次男・劉仲、三男・劉秀、末女・劉伯姫
とあるところではなってるね
劉黄・湖陽公主、劉元・新野公主、劉伯姫・寧平公主になってるけど、
小長安で劉元と一緒に死んだ彼女の娘たちも公主になったの?
>>81 公主が嫁ぎ先で生んだ娘が公主になるということになる。
これはありえない。元の子は房子侯ケ晨の娘、それだけ。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 23:54:35 ID:ey5SslPaO
湖陽公主からの結婚の申し出を「糟糠の妻は堂より下さず」と言って断ったのは誰だったっけ?
宋弘の妻の話?
そうだね
宋弘だけに糟糠の妻という訳か
オチが・・・
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:31:49 ID:SalJAk9+O
ごめん…
湖陽公主(劉黄)が夫である騎都尉胡珍を亡くして、劉秀が湖陽公主の意中の人
が誰かを探らせれば、宋弘らしいので、公主を屏風の後ろに隠して、宋弘を呼
んで「裕福となれば妻を替えると言うのは人情かのう」と尋ねた。
で、宋弘、件の名言を吐く。その結果、光武帝は「駄目だった」と公主に言っ
た。
この話、続きが無くもない。寇恂が汝南太守であったころ(建武三年から七年)、
孝簾に挙げられて尚書侍郎となった周嘉の、王莽末の頃の太守を守った逸話を
聞いて、「これは長者だ」と、公主を娶らせようとした。しかし、周嘉は病気
が重いのでと断った。
公主としか書かれていないが、この年代で対象となるのは湖陽公主しかいな
い。よって光武帝は、湖陽公主の婿探しを続けていたと分かる。
>>89 湖陽公主ってよっぽど醜女だったのかな
それにしても劉秀は結構シスコンっぽいよね
>>90 湖陽公主の出てくる逸話には、白昼、奴隷が人を殺したが、それを主人である湖陽公主
が匿ったというものがあり(酷吏列伝の「強項の令」董宣伝、(蔡茂伝にも同じことが記載))、
権威を笠に着る性格のようです。
夫がいなくて、暇だから都度都度光武帝に会いに来て、光武帝も持て余し気味だったの
かも。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 17:18:37 ID:0KHz2KBHO
二十八将の中で最強の武将って誰なの?
>>92 もっと具体的に書かないと。
例えば、二十八将が個別に一騎打ちしたら最強は?
例えば、二十八将に同質同数の軍を率いさせて戦えば最強は?
この場合も、単純な戦いで計略不可と最大限計略を許す2通り
で変わってくる。状況によって最強は異なる。
一騎打ちのことを言うなら、賈復、蓋延、銚期、馬武に絞れる
かな。その中では賈復かな。異議有りの人はコメントして。
個人の戦闘力は賈復か馬武、指揮官としては耿エンか岑彭、
知略は馮異かコウ準、軍団の攻撃力だと呉漢だと思う。
個人的な武勇なら銚期が一番じゃないかな?
銚期伝には「手づから(自らの手で)〜人を殺した」って記述がよく出て来るし。
他にまだ挙がってない候補としては陳俊とゾウ宮とかかな。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:08:28 ID:QFRY3/ZqO
二十八将ではないけど馬援はどうだろうか?
関羽
↑98は見なかったことにして、塗り込んでしまおう。
馬援は、確かに隗囂と本格的に戦うときには活躍している。しかし、馬援
の功績が強調されるのは、武陵蛮が反し、呉漢の副将であった武威将軍劉
尚(或いは劉向)を遣りてこれを討たしめるも敗北し、次に送られた馬成
も功無く、最後に馬援が送られて、武陵蛮を討ち果たして以降。この時、
建武二十四年で、二十八将で馬成以外に残っていたのは、ケ禹、賈復、耿
弇、この三人は兵権を返し、王覇は匈奴と対峙し、残るは臧宮、馬武、劉
隆である。この状態だから、馬援も活躍の場ができたとも言える。
100 :
99:2006/12/03(日) 16:37:41 ID:Aqj5EQrb0
建武二十四年が、光武帝の名言「矍鑠たるかな是の翁(勇ましいかな、こ
の爺さん)」の年。馬援六十二才。率いる将には中郎将馬武、耿舒(耿弇
の弟)、劉匡、孫永ら。
ちなみに交阯の姉妹徴側・徴弐の叛乱を伏波将軍馬援が平定しに行くのは
建武十八年のこと。この時、副将扶楽侯劉隆、他に楼船将軍段志。
コミック三国志マガジンに徴姉妹の漫画が載ってた。当然馬援も登場する。
前に「隴を得て蜀を望む」の話のときは光武帝は完全に無視されてたので、
三国志以外は書かれないと思っていた。
なんかうれしい。
馬援は悪役なんだろうなぁ…
>>102 そうでもない。
悪役は太守の蘇定で圧政に抗議した徴側の夫詩策を殺してる。
厨臭くて無理を承知で聞くけど、光武帝の能力を光栄三国志式にあらわすとどうなる?
武力、統率、知力、政治、魅力で
折角馬援の話が続いているのだから、馬援に光武帝の採点をして貰おう。
馬援は隗囂の使いで、劉秀に会い、その人物像を隗囂に報告している。
馬援が隗囂に語るに「(劉秀は、)聡明で勇気と才略があり、人の敵う所では
御座いません。且つ心を開きて誠を示し、隠し事無く、闊達にして大節多き
ことあらまし、高帝(劉邦)と同じ。経学は博覧、政治は明解敏速、前の世
に類なし」
隗囂が劉邦に比べてどうかと尋ねれば、馬援は「比較になりません。高帝は
可も無く不可も無し。今上帝(劉秀)は実務を好み、常に節度を保ち、また
飲酒を好まず」と言う。
隗囂、心喜ばずして「きみの言の如くであれば、返って(劉邦)に勝れると」
と息子を人質に出すのを承諾する。
よって、劉邦を基礎点に上乗せして下さい。
>>104 武力 53 基本ヘタレだが昆陽の戦いなどの戦果を考慮して
統率 71 兄貴や義父の強力な後ろ盾があったとはいえ皇帝になってる
知力 58 特筆すべきエピソードなし。太学出てるんで馬鹿ではない
政治 80 一応統一後を無難に統治した
魅力 30 殆ど小説化されない原因はこの点か
陣頭指揮して兵たちに「神のような人だ」と言われたことは加味されませんか、そうですか。
他のスレでの能力評価
劉秀
統率90 統率94
武力77 武力85
知力82 もしくは 知力95
政治87 政治98
魅力94 魅力99
>>106 兄貴は分かるが、義父って誰?
蓋延、ケ隆、呉漢の兵の配置を聞いて、その配置は危ない、或いは使者に
お前が前線に戻る頃には破れているだろうと言い、その通りになったのは
劉秀の知力を示すエピソードじゃない?
>>109 劉楊を郭聖通の父親だと勘違いしてるんだろ。
光武帝にかぎらず人物の能力を数値にした場合、
納得できないってことってあるよな。
もともと数値で測れない要素が多いんだろ。
そりゃそうだ。 だがそれを言っちゃ…
配下の能力を上げると同時に、勢力固有のなにか特別な項目がいるね。
>>104 確実に俺等より凄い奴。
それで良いじゃないか。
光栄式評価スレで魅力100候補に挙げられてるお!
さすがに魅力100は高過ぎ。
光武帝って人によって評価の差が激しいよね。
評価低い人は、たぶん知らないからなんとなく、横光劉邦ふうプラスアルファくらいになってるだけじゃまいか?
>>105 「可も無く不可も無し」って一応ほめ言葉なんだよな。
闊達自在の境地って意味で、仙人みたいな感じかな?
劉邦は行き当たりばったりって意味で言ってる気もするけど・・・。
>>116 よく知らない人は、光武帝は豪族達に神輿として、祭り上げられた皇族って思ってたりするし。
>>117 こうしてみると、劉秀やその政治背景の知名度がどういうものかってよくわかるね。
中国では、最近ブレイクの予兆があるけど、日本人受けしそうにない、あまりの完璧成功人生…
かえって妬まれはせんかとガクブル
>>118 完璧人生だけど、俺は嫉妬は感じないな。
成功が鼻につかないというか、嫌味が無い。
人徳と云うやつかな。
↑119 腐女子受けというより、ラノベな素材だな。
腐女子なら、男×男の関係をアレコレ想像して楽しむらしい。
光武帝がちゃんと世に知られると、そういう真性腐女子に絶対
に標的にされるのが一名いる。後漢書読んでる人なら直ぐ分か
る。分かった人は名前を言わずにエピソードでコメントしてね。
例えば、子供が出来ないので、兄貴が気を利かせて妾を遣った
が、追い返したという、あの人。
妻を娶らば使い古して殺す。
>>121 劉秀に容貌を気に入られた人ね。
従兄弟が遼東太守で、日本からの使者を都につれてきたんだっけ。
>>123 そうそう、従兄弟は30年くらいずっと遼東太守で、明帝の時もその座にいた。
もし、倭からの使者が朝鮮半島経由で後漢に入朝したなら、彼が何らかの指
示をしたでしょう。それ以上のことは後漢書東夷伝読んでも書いていません。
牛に乗って闘う王
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 23:15:33 ID:iFfrKRC9O
なんで李軼って更始帝側に寝返ったんだろうか
元々李通に劉秀兄弟に協力することを薦めたのは彼だったのに
なんで後に劉エンの暗殺に関わったのか…
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 23:22:57 ID:d8aNFbA3O
城陽景王バンザイ
>>128 昆陽が、王邑の軍に包囲された時、劉秀は夜半十三騎で脱出に成功する。
この十三騎の一人が李軼。
(劉縯は宛を降し、それを知らぬまま劉秀は昆陽にて実勢力四十二万の
軍勢を数千の兵で破る)
次に李軼が登場するのは、朱鮪と共に更始帝に劉縯の殺害を勧める時。
これ全て更始元年六月のことである。妙だと感じない人はいないと思う。
>>130 昆陽戦で意見が対立し、感情的にこじれてしまったのかな?
兄の仇の片割れである朱鮪が降伏後、登用され出世しているのも奇妙だ。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 11:04:22 ID:bJ//zeyM0
>>128 劉縯兄弟にしろ、李通、李軼、劉玄も、
みんなバラバラで主従関係なんてなかったから、
そもそも寝返るなんて感覚もなかったんじゃない?
主従関係になるのは、劉玄が更始帝に即位してからでしょう。
劉兄弟は李通・李軼を義兄弟のように思ってっていたが、
李軼にはそんな考えは無かったのかもな。
>>117 「可も無く不可も無し」は『論語』微子編で孔子が言った言葉で、孔子が七人の
賢隠者を評した後に、それに比べて自分は「可も無く不可も無し」の平凡たるも
のだと自らを謙遜して言ったもの。しかし孟子や朱子学では別の解釈がされて
いる。
馬援が口にしたのは、平凡の意味で「可も無く不可も無し」でしょう。
李軼が劉縯・劉秀に反目したのは自明だからそのまま置いておくが、
従兄弟・李通の立場はどうだったんだろ。つまり、劉縯の暗殺にど
れだけ関与していたか。また、劉秀・李軼どちらに肩入れしていた
のか。
そう考えると、李通の動き方も面白い。
長安まで更始帝に同行し、西平王に封じられ、荊州に赴任する時に
は劉秀の妹の伯姫を娶る。劉秀が皇帝に立った時は、召されて洛陽
に往き、臣下となっている。世渡りが上手いといえばそうだが、ど
うしてそういう芸当ができたのか。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 14:26:11 ID:XL7bbA22O
劉秀の妹を娶ったぐらいだから相当信頼されてたんだろうね。
図讖に通じていたらしけど、劉秀が図讖に拘るようになったのは李通の影響だったのだろうか。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 15:23:07 ID:XexgBJPX0
> 荊州に赴任する時には劉秀の妹の伯姫を娶る
もっと前に娶っていた可能性はない?
通因娶光武女弟伯姫
"因"は、普通は理由を示す言葉だから、
後に光武帝に召し出された理由を示してるってことないかな?
>>136 図讖は当時の流行だったから、
劉秀の図讖好きも単なるミーハーだったと思われ。
>>137 後漢書で、前後の文は
更始使通持節還鎮荊州,通因娶光武女弟伯姬,是為寧平公主.
更始(帝)、(李)通をして節を持ちて還って荊州を鎮ぜしむ。
(李)通因って光武帝の妹伯姫を娶る。これ寧平公主と為す。
因ってが掛かる文は直前の「更始(帝)、(李)通をして節を
持ちて還って荊州を鎮ぜしむ」しか無いと思いますが。
馬鹿だから文字だけじゃ解からなかったん!
悪いか!
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 12:22:18 ID:eCGBfkQ0O
劉秀の図讖へのこだわりようは単にミーハーだからっていう域を越えてる感じがするけどね。
普段絶対に部下を粛清しなかった劉秀が、図讖を否定した儒者を死刑にしようとしたこともあったし。
それほど当時は図讖に影響力があったんじゃないか。
いくら否定しても図讖を信じるものはいるだろうし、
それなら自分達に都合の良い解読をして流布させたほうが良い。
図讖は西漢末期に頻出する。王莽等はそれを操り、また逆に振り回された。
哀章の「金匱策書」なんかそう。劉秀の時代も影響が残っている。公孫述
も図讖で自分の正統性を主張する、或いは臣下を納得させるのに使ってい
る。蛮中山の賊の張満というのが、劉秀の部下に敗れた時に「讖文、我を
誤てり」と言っている。それほど世の中に流布していたということになる。
その後、図讖の類、讖緯節は西晋の武帝が禁止してから、各王朝では禁止
されることになった。よって以降は図讖の影響は少ない。
李通の図讖は元がある。『漢書』「王莽伝下」に魏成(魏郡)の大尹(太守)李焉が卜者
王況と謀り、王況が李焉のために讖書を作ったとある。王況が言うに「(中略)漢家當
復興、君姓李、李音徵、徵火也、當為漢輔」つまり「漢は当に復興すべし、君の姓は李、
これは徴調(ちちょう)の音で、(五行では)火、当に漢の補佐となるべし」これが由来
である。
『後漢書』「李通伝」では、王莽の世、李通の父李守は王莽の宗卿師であり、その集め
たる讖文に「劉氏復興、李氏為輔」とあるのを李通は胸に留めていた。李通は巫県の丞
となり能名あり。しかるに李通の家は富たるが故に、李通は役人でいて面白くもないと
辞めて帰る。
>>129 赤眉の方でしょうか?
劉盆子も城陽景王の血筋なんだよね?
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 10:04:09 ID:e5S3BZ4sO
城陽景王信仰を弾圧したのが曹操なんだよね
城陽景王ってどういう人? 何故、信仰されてるの?
教えてくんですまん。
>>147 高祖劉邦の長男の斉王劉肥の次男劉章。呂氏討伐時に兄の斉王劉襄を挙兵させ、
みずからは呂産を斬った。
兄が皇帝なっていれば斉王になっていただろうが、結局帝位は叔父の代王劉恒(文帝)
が継いだ。文帝は劉章を趙王にという意見を退けたため、彼は城陽という小国の王となり二年後に死んだ。
恨みを抱いて死んだとされ同情が集まり神として祭られた。
赤眉は、長安を一度出て隴に向った時、帝陵を荒らしたらしい。
呂后の墓荒しは分かるけど、他を荒らせば、城陽景王の親族を
汚すことになる。そこまで知恵回らなかったのかな。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 00:57:56 ID:YuOb2Qy3O
城陽景王が怨んでいたであろう相手は文帝だったろうから、文帝以降の皇帝たちはむしろ報復すべきだったのかもしれん
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 12:14:31 ID:YEdYqf4UO
王莽の二名の禁は何故新朝が倒れた後も守られたのかな?
朱虚候だった劉章は呂后存命中、酒宴の司会を勤めたとき「将軍の家系だから」
という理由で軍法をもって司会を勤め、無断で中座した呂氏の男を斬り、また呂后
の前で「農作業の歌」と称して呂氏は除かれねばならぬという意味に取れる歌を歌ったが
どちらも呂后の許しを得てやったことなので罰せられなかった。
また未央宮の便所で呂産を斬った後、勅使の馬車に同乗して長楽宮に赴いたため近衛兵の長官
呂更始は勅命と信じ抵抗せず斬られた。
知勇を兼ね備え、気骨もあるこの人物を大国の王にすれば兄と共に反乱を起こすかもしれないと
文帝は考えたんだろう。
赤眉は景王を祀って巫(かんなぎ)を連れていた。その巫がトランス状態に
入って言うに「景王大いに怒って曰く、まさに天子と為るべし、何故に賊に
為ると」。この巫を笑う者、病めば、軍中驚き騒ぐ。
というわけで天子を立てる一助となる。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 23:35:53 ID:mcNwhQFiO
>>151 秦や隋のように、政権自体短命でも後の王朝が前王朝の遺産を引き継ぎ発展・定着させることは多々あるので、それも一例じゃないかな?
諱が一文字でもよく使う字の方が二文字になれば、直ぐには困らないんじゃない?
まぁ、諱でもって語ってる後世の人間よりも、当時の人は同姓同名に困ってなかったかもね。
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 23:41:44 ID:xcijv007O
二字名の禁は王莽が勝手に考え出したのではなく、当時の儒教的な価値観から出てるものだからな
王莽に関係なく納得して従う奴が多かったということだ
>>150 遅まきながらダウト。
『漢書』王莽伝下巻末に「宗廟園陵がみな発かれ、ただ覇陵と杜陵のみが
完全であった」とある。覇陵は文帝の墓、杜陵は宣帝の墓で、これらは長
安の南東にある。他の園陵は全て長安の北、渭水を渡った所。長陵、高祖
の墓もこちらにある。よって赤眉は何も考えずに宗廟園陵を発いたと言え
る。
斉王ではなく恵帝を後継にした高祖をも怨んでいたんだよ
廉丹って廉頗の子孫だったんだ。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 20:52:58 ID:A41Cy64XO
>>158 それは初耳だね。この時代に廉頗の子孫が生き残ってたなんて驚きだな。
>>160 廉范伝。楚王英の謀反の時に、連座し誅せられた薛漢の遺体を独り収めて、
明帝の怒りを買い詰問される。そのとき廉范が答えるに「自分はわきまえも
知らぬ愚か者でございます。思いますに薛漢は既に誅せられ、(これに教え
を受ける身とすれば、)師への情に耐えず。罪は計り知れませぬ」
怒りが解けた明帝の言葉が面白い。「そちは廉頗の後裔か。右将軍褒、大司
馬丹と親属であるか」と尋ね、廉范が「褒は曽祖父、丹は祖父なり」と答え
ると、明帝は「(道理で)そちの肝が据わって妙だと思った」と赦す。これ
によって名を現す。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 19:55:13 ID:OSzAPwHo0
陰家の美少女を嫁にするとは劉秀くんはお目が高い!それも小さな頃
からねらってたんだから。恋愛の師と呼ばせていただきたい。
>>141 光武帝が処士で旧友の厳光と同じ部屋で寝たとき、
厳光は寝返りを打って光武帝の腹に何度も足を乗せた。
翌朝「昨夜、客星が御座(北極星)をしばしば犯したので異変が起こるのでは」と
報告を受けたが、光武帝は「厳子陵とともに寝ただけだ」と答えた。
このエピソードから考えるに、光武帝は本当は予言の類を本気で信じてはいなくて、
ただ自分の都合によって上手く利用していただけじゃないか?
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 23:23:14 ID:wsvnStHHO
>>164 それを見る限りでは光武帝は天人相関を信じていないようには感じないが
ただ、客星の侵犯→天下や帝の身に何か大事が!と思ったら帝の身体に足が乗っかったという徴だった、というオチなだけで
「身体に足が乗っかった」であれ、天子の身に何かあるときには天文に徴があるということは否定されてない
>>165 でもそれほど深刻には考えていないようだけど?
予言を信じて致命的なミスを犯したって話は聞かないし、
良い予言は信じ、悪い予言は別の解釈をしたんじゃなかろうか?
清の時代に崇厚という人物がいたが、イリ地方返還を求めるためロシアへ行った時、
占い師に「期日までに帰国しなければ死ぬ」と言われ、
それを信じて本国に無断でイリ地方を割譲してしまった。
崇厚は帰国後、死刑を宣告された。こいつは結局命は助かったが、
光武帝は崇厚のように予言の内容について他人の解釈を無条件で信じるような人間じゃなかったんだろう。
予言に関しては当時の人間として普通といえるぐらいしか信じていなかったのでは?
春秋左氏伝は劉歆の捏造なのか?
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 08:19:48 ID:sHHlCynZO
>>167 その説が有力らしいと聞いたけど、本当かな。
>>166 図讖によって、皇帝になった劉秀が、その同じ図讖で大司馬を選ぼうとして、
臣下がブーイング。皇帝劉秀、だったら誰なら良いんだと言えば、名前が上
がったのが呉漢と景丹。で呉漢を大司馬、景丹をある意味同等な驃騎大将軍
にした。図讖で名前が上がった男は、それっきり歴史から消えた。
と、全面的に予言に託す人物ではない。
もし、朝に「今日の占い」が読めるなら、それを見てから仕事する人みたい
なものかも。
>>169 しかし、同じ図讖に名前があった王梁は二十八将に入ってるな。
ひょっとしたら図讖を理由に孫カンを大司馬に選んだのは、
王梁の県令から大司空の異例の抜擢のブーイングをかわす目的で、
わざと評判の悪い人間の名を一緒に入れたのかも。
>>170 面白いけど『後漢書』の「本紀一上」によれば
六月己未 皇帝に即位
七月辛未 ケ禹を大司徒と為す (上記の12日後)
七月丁丑 王梁を大司空と為す (上記の6日後)
七月壬午 呉漢を大司馬と為す (上記の5日後)
と、三公の選定は日がずれている。王梁がブーイングされれば、その日一日
で、呉漢と同様に、では誰が大司空に相応しいかと諮問したと思われる。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 07:19:01 ID:DXfOL84EO
王梁って二度も勝手に兵を動かしたり、治水事業に失敗したりしてるのになんで28将に選ばれてるんだろ?
>>171 それって、任命した日じゃないの?
三公を発表したその日に任命するなんてあるのかな。
もしそうだとすると、王梁がブーイングされなかったのは何故だ。
皆が図讖を信じたからか、あるいは三公にふさわしい人格と容貌をもっていた為か?
王梁がブーイング受けなかったとすれば、孫咸ってのはよっぽど仲間内
で評判悪かったんだろうね。
また王梁が失敗するのは、大司空になって焦った故かも。死罪を免じら
れてから後は、治水工事の失敗で責められるまで、賊討伐など戦線で活
躍している。
王莽の軍事知識は大軍を派遣すれば勝てるという程度のもので、
補給や将兵の事をまったく考えていないよな。
指摘すると厳尤(荘尤)や田況のように懼れられて兵権を奪われるし。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 00:36:55 ID:HqgbfZLJO
王莽マンセーage
そういえば、後醍醐天皇の年号も建武だったな。
光武帝にあやかろうとしたのかな?
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 15:36:19 ID:ZBgMw7sW0
ゴダイゴ部下使い捨てにし過ぎ。どうも好きになれん。
その点やっぱ光武帝はいいな。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 16:26:46 ID:jbLfZKQeO
漢朝の復興にあやかって、天皇親政を復活させたかったんでしょ。
醍醐天皇の「延喜の治」に対するオマージュから「後醍醐」と呼ばれたがってたみたいだし。
結構、過去の偉人や故事に自分を投影するタイプかもね。
しかし、中興を意味する「光」の諡号(当然、光武帝もこの意味)は北朝の天皇に贈られてるのは、歴史の皮肉なのかな。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 20:43:21 ID:ZBgMw7sW0
なるほど・・・
ていうかあの時代の北朝の天皇ってすごいよな。
武士の集団自決に居合わせたり流れ矢で負傷したり南朝勢力に拉致られたり・・・
>>179 劉備の諡号である昭烈帝の「昭」も、光武帝の「光」と同じ意味なのかな?
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 22:45:45 ID:jbLfZKQeO
>>181 「昭」は「功績を譲る徳を持つこと」
関羽・張飛・諸葛亮ら臣下の功績で大事をなしたことを意味するんじゃないかな。
楽毅が仕えた燕の昭王も広く人材を集め、燕を復興させたわけだしね。
>>182 ふーむなるほど
自分は劉備の諡号である「昭烈帝」は、「光武帝」を意識して付けられたのかと思ってたけど違うみたいですね
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 23:13:15 ID:fDIR9QHIO
諡法に書いてあることだけが諡の意味ではない場合もある
むしろ諡法は表の意味で、裏の意味を持つ場合があると言うべきだろう
昭烈帝は昭→光、烈→武と意図的に光武帝を連想させる諡を選んだのだろうし、献帝も献上の意味も込めて魏が贈ったと思われる
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 01:13:39 ID:0JwtOrU7O
漢代の皇帝は全員諡号の最初に「孝」が付くけど
光武帝には「孝」は付かないよね?
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 01:18:26 ID:Da4NyyxXO
>>185 「先代を引き継いで祭祀を継承した」=「孝」なので初代には付かない
だから高皇帝と昭烈帝にもない
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/27(土) 02:41:42 ID:dmYidef0O
廟号でいうところの高祖・太祖・世祖など「祖」がつくような人には、諡号に「孝」は付かないってことかな。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/28(日) 12:12:37 ID:NM2pkJKaO
諡号にもいろいろ決まりがあるんだな
オール読物に田中芳樹の短編が載ってた。
妖怪退治の話で、主人公は長安遊学時代の劉秀。
別に劉秀を主人公にする必要のない話だけど、
ひょっとして長編を書くための布石なのかな?
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/02(金) 00:29:57 ID:NT9K+D4vO
>>189 いつか芳樹は光武帝関連の話書くんじゃないかなと思ってた
かなり光武帝好きそうだからね。
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 01:19:48 ID:0WRf6H3iO
塚本だっけ?光武帝書いてたの
あれ面白ければよみたいんだよなぁ
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 11:31:50 ID:74slseESO
>>193 塚本光武帝は正直オススメ出来ない
なんか光武帝が嫌な奴なんだよな
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 12:19:27 ID:PrJjQG5vO
塚本版『光武帝』は上・中・下3巻の大作だったから、読む前は赤眉から統一まで詳しく描かれてると期待してたんだが、劉秀即位までで拍子抜けしちゃった。
なんか、塚本自身が途中で燃え尽きた感じだった。
やっぱ、劉秀を主人公にすると小説として書きにくいのかなぁ。
一概に、塚本の力量不足といい切れない気もするんだよね。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/04(日) 13:42:21 ID:0WRf6H3iO
光武帝って完璧すぎてつまらないなんて聞いたこともあるけどそういうもんなの?
牛に乗って戦に出る人間が完璧なわけがない
光武帝は結構情けないエピソード多いよ
情けないエピソード≠完璧ではない≠魅力的
どんな人物のどこを気に入るかは最後は好みだからねぇ
情けないエピソードと言われるものを含めて鼻につく人もいるだろうし、好きになる人もいる
ああごめん、「情けないとこもあるから魅力的」って意味で言ったんじゃなくて
「光武帝といえども完璧な人間じゃないよ」って意味で言ったつもりでした
光武帝小説よりも少年漫画の主人公が向いてる気がするね
それも学園ラブコメのw
光武帝ってジャンプ好きの中学生女子が考えたみたいなキャラしてんな
腐女子サイトがあるぐらいだしね
>>204 あのサイトは好きだな。
わかっていてパロディ化しているから、余計にツボるんだよ。
4コマは完成させてもらいたいものがある。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 16:47:10 ID:J58PmaAN0
最近、この人の事をWIKIで詳しく知ったが
凄い英雄だったんだね。
皇帝の外戚とはいえ傍流から一代で禅譲を受けて皇帝になったんだから偉大な英雄には違いないよな
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 17:27:50 ID:ZDGrm4b1O
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 17:31:35 ID:mcDku+Xz0
>>209のレスで、このスレが光武帝のスレじゃなくて
後漢初期までの歴史全体のスレということを思い出した。
211 :
207:2007/02/11(日) 00:50:49 ID:7yo2Nko70
王莽か?劉秀か?と聞かれて
光武帝とはこれいかに。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 04:58:13 ID:+JEMP33i0
横山光輝には死ぬ前に光武帝伝を描いて欲しかったな。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 12:39:15 ID:c87tDxIqO
確かに横光光武帝を読んでみたかったな
島本和彦のも見てみたい気が…
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 21:40:01 ID:yqZEfS88O
ゴンタ書かないかな
原作・武論尊
作画・池上遼一
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 22:35:03 ID:+Zp/EBEcO
画・園田光慶
作・久保田千太郎
>>220 隈取りが入った劉秀が「この野郎!」と叫びながら
陰麗華を寝取った更始帝を真っ二つにするわけだな。
江口寿史著 光武帝(未完)
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 22:39:14 ID:vFu5uJllO
来歙とか白いワニに食われちまうのか
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 23:45:49 ID:tASOL6J+0
荒木飛呂彦著 劉秀の奇妙な冒険
「劉兄弟は世界一イィィィィィー!」
ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』は横山光輝の『バビル2世』に強い影響を受けたという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまらん流れだな。
>>204がどこか気になって調べてみたら、
なんつーか、すごいのが出てきた。
目がキラキラしてる…。
好きなんだな〜というのがよく伝わって、微笑ましかったよ。
塚本光武帝は陰麗華もダメすぎる。
郭聖通くらいだな、面白いのは。
塚本の王莽は、光武帝より面白い?
塚本には才能がある。
面白い話を腐らせる才能だ。
醗酵させるなら救いがあったんだが…
やっぱ芳樹が書くしかないな
芳樹が書くと女装の麗人がもれなくついてくるぞ
女装じゃなかった、男装の麗人だった
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 23:05:21 ID:jj31+fY/0
女装の二枚目
みんなが言うようにライトノベル、
特に芳樹向けだよね、劉秀。
普通の小説家さんが書こうとすると、
実物より陰気になったり、ギラギラしすぎたりしそう。
なんか良い意味で学生気質を持ったまま皇帝になった人って感じがする。
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 19:08:46 ID:C/CgKbDZ0
劉秀は、一昔前の歴史小説なら主人公としてこれ以上の人物はいないだろ
読者の感情移入と阻害するような史実も少ないし。
今どき単純な英雄史観で歴史を書きたい奴は、劉秀をこそ書くべし。
逆に朱元璋とかを小説の主人公にしちゃうような単細胞には
元末は書いてほしくないな
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 20:43:37 ID:fqyBKi3v0
いや、面白いと思うぞ。
最初は信頼しあっていた家臣団を見る目がどんどん変わっていき、最後には……ていう展開
どこが英雄物だ、て説もあるが。
朱元璋は
最悪の幼少時代、心が荒む
友と過ごす幼年時代、荒んだ時代に自分の居場所
天下争乱の青年時代、サクセスストーリー
李善長らとの出会い。彼らが教える儒教に統治者として夢ヒロガリング
理想と現実。腐りきった地方官。士太夫の裏切りに怒る朱元璋
最愛の息子の死。他人を信じられなくなったかっての英雄
これはこれで一本の筋が通ってて
それでいてバッチリ典型的な英雄記だと思うぞ
王莽って、何であんなに情けなくなったんだろう?
得意なのは権力争いだけじゃない?
実力が有ったと思わせるようなことあったっけ?
>>235 でも塚本はアレなんだよなあ…。
初恋の人への想いが実ったとか、色々あるのにな。
麗華より兄貴とかそれどころかキッツイ嫁の方がインパクトあるとかどうなんだ…。
そして何より本人のキャラが悲しいほど薄い。
このスレ見て興味もったのだが
あんまりこれはという小説ないな
みんな何読んでるの?
則天武后は傑物だろ
どこの誤爆だよ。
これ漫画とかにしたら面白いだろうな
そして一気にメジャー化にならないかな
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:01:25 ID:ufaiqqAA0
陳瞬臣は十八史略で軽く触れてる程度でメジャーな作家の作品が無いのが痛いな。
もし吉川栄治か司馬遼太郎あたりが小説に書いてたら横山光輝が漫画化してメジャーになってたな。
最近は始皇帝や墨家や孔子などが漫画家されてメジャーになりつつあるのに
宋、清、明、後漢の創始者の伝説がメジャーになってないのは残念な事だ。
とりわけ後漢(東漢)成立までの時代背景や人間模様はすっごい面白いのにね。
また、唐は楊貴妃や阿倍仲麻呂にからんで多くの小説が書かれ
小説を読む人や歴史好きな人にはメジャーだが人気漫画家に漫画化してもらえなかったために
若い人への認知が少ないのは少し残念かもね。
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:08:12 ID:Dm12eARa0
お前らが書けばいいじゃん。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:27:00 ID:b1KbNZ8x0
銅馬軍て、どういう集団なの?
原作:田中芳樹
作画:小畑権
でよろんだ
>>241 小説じゃないけど、人物中国の歴史5「三国志の世界」がお奨め。
あとは陳舜臣「続・中国任侠伝」かな。
守屋洋の中国皇帝列伝にも取り上げられてる。
ありがとう図書館で索してみるよ
>>247 河北最大の流賊集団。
劉秀が他の流賊を撃破していったため、
それらの残党を受け入れ兵力を増やしていった。
結局、劉秀と戦って敗北し降伏した。
おそらく寄り合い所帯で組織としてのまとまりがなく、
緑林・赤眉のような天下を狙える集団になれなかったのだろうと思う。
銅馬軍って、首領と言うか、指揮して居た人物の史書での記述って無かったですよね?
>>253 首領の名前として、曹武・郭謙・申屠礼・程威らの名前があがっている。
漢に降伏して、みな列侯に封じられたそうな。
>>254 出典は何?
『後漢書』で調べたら銅馬の頭目は、註に東山荒禿に上淮況とあるだけなので
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 01:31:29 ID:rp498KJm0
>252
サンクス
国を建てるつもりもないようだし、宗教団体でもないし
梁山泊みたいなものだったのかねえ?
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 17:54:21 ID:pnZOpVvX0
>>171 この日付って、どうやって数えるの?
西暦になおせる? 教えて!教えて!
ググりなさいよ。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 21:33:52 ID:pnZOpVvX0
>>258 キーワードがわからん orz
光武帝は建平元年十二月甲子の夜に生まれたとあるが、
もしかして、西暦での誕生日まではっきりわかるのか?
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 19:22:08 ID:qARL0frG0
死んだ日が中元二年二月戊戌。
2000年前の人物で、生没日が両方はっきりしてるって、すごくね?
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 14:08:35 ID:AYoMs4DO0
雲台二十八将って後世の人が勝手に選定したもの?
それともちゃんとした公式のものなんですか?
劉秀が中2の時に考案した。
まぁ、たしかにキモオタ的発想だわな…
後漢書より
永平中、顕宗追感前世功臣、乃図画二十八将於南宮雲台
永平年間に、顕宗(明帝)は前世代の功臣に感じ、
すなわち南宮雲台に二十八将の図を画かせる。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 17:24:20 ID:8ch11Iki0
正直間に合わせで選ばれた奴もいるだろうな
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 18:16:53 ID:7T0mRFyiO
二十八宿に合わせたんだろうから微妙なのもいるだろさ
萬脩、劉植あたりは間に合わせだろうな。
間に合わせでも入らないやヤツがウダウダ言うな。
こんどBSフジで「朱蒙」って高句麗の建国者のドラマが始まるけど、
こいつの息子が荘尤に斬られた高句麗候スウらしいな。
もっとも向こうの歴史では、高句麗の将軍を斬って高句麗王の首とした
ってことになってるみたいだが。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 13:37:58 ID:KW5filkU0
>>270 中国では、反中ドラマだと批判されて放送できなくなったらしい、そのドラマ。
>>268 劉植は劉揚を説き伏せた実績があるから選ばれるのも何となく分かるけど、
万修は何で選ばれたのかほんと分からないね。
記述が少なすぎて逆に印象に残る人物ではあるけど。
二十八将に選ばれても良かった人。
劉秀が皇帝に就く前に配下となり、劉秀を裏切らなかった人物。もちろん劉秀と血縁関
係無し。万修と較べると微妙〜。
河南太守丁?・・・河南郡の十三県及び諸々屯郷を下し、劉秀の下、最初の河南太守となる。
覇虜大将軍叔寿・・・馮異に推挙され、劉秀の幕僚となる。五校との戦いで戦没。
代郡中部都尉蘇竟・・・代郡を全うする。後に代郡太守。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 19:06:08 ID:RFzrizZd0
来キュウは選ばれててもおかしくない功績があるけど、何で選ばれなかったんだろうね
妹婿の李通はのちに二十八将から三十二将になったとき追加されてるけどね。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 13:13:03 ID:PUJBkvJ00
なんだかんだでやっぱり目立たないな、この時代
二十八将は王朗と戦った時、配下にいた連中を選んだんじゃない?
>>278 二十八将が、王郎と戦った時の劉秀の臣下とすれば
岑彭、馬武、劉隆が外れることになる。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 00:15:32 ID:9h+eXx+b0
二十八将の選定にも疑問点が多いけど、三十二将の中に全く軍事的功績の無い儒学者である
卓茂が選ばれてるのも謎だ
子孫の政治的な発言力とか皇帝との縁戚とかが優先されてるんじゃね?
二十八将選定理由の推測
『後漢書』「光武帝紀上」に幽州の賊を撃つ際に「呉漢を遣わして耿?、陳俊、馬武等十二将を
率いて」に記述され、注釈に「耿?伝」の通り十四将とあるべきと記されている。その「耿?伝」
では、「光武は薊に還り、また耿?と呉漢、景丹、蓋延、朱佑、??、耿純、劉植、岑彭、祭遵、
堅鐔、王覇、陳俊、馬武の十三将(計十四将)を遣わし」とある。ここでは二十八将の半数が集
っている。
この後、「光武帝紀上」では、河内の寇恂・馮異が洛陽から攻めた朱鮪らを破ると報告を受け、
諸将が尊号を奉らんことを議すとあり、馬武が帝位に就くことを進言し、劉秀が驚いて「何れの
将軍かこのことを言い出せる。斬るべし」と言えば、馬武は「諸将尽く然り」と応える。つまり
先の十四将が光武帝の即位に関っていることになる。よって東漢王朝としては、まず皇帝を立て
た十四将は功臣として扱おうとするであろう。
ちなみに、この頃、ケ禹は河東郡に入り、河内郡に寇恂・馮異、野王県令の王梁、騎都尉劉隆
が守りについて劉秀から離れ、賈復は丁度重傷を負って戦線を離れている。彼らも劉秀を即位に
導いた功臣と見なすべきであろう。これで十四将+六将で二十将。
ここで、雲台二十八将を見れば、残る八将の銚期、臧宮、馬成、杜茂、傅俊、任光、李忠、万
修も、馬武が劉秀に即位を進言した時には、劉秀の配下にある。
よって、雲台二十八将は劉秀を皇帝となした忠臣あるいは建国の功臣として選んでいると考え
るのが妥当と思われる。
まあ選んだのは明帝だしな
>>282 つまり光武帝即位時に配下にいたものが選ばれてるってことかな?
李通や王常も即位時には配下だったはずだけど、二十八人の中には選ばれずに
後から付け足される形で選ばれてるのはなんでだろ
>>284 『後漢書』の「李通伝」によれば「更始、李通をして還って荊州に鎮ぜしむ。(中略)
光武即位するや、李通を徴して(召して)衛尉と為す」とある。つまり、李通は更始帝
の配下で、(更始帝の敗亡後に、)皇帝となった劉秀が配下にならんかと呼び掛けて、
それに応じたと分かる。
同じく「王常伝」によれば「建武二年の夏に妻子を率いて洛陽に到り、自ら帰す」と
ある。劉秀が即位したのは建武元年だから、帰順はその後。
ちなみに卓茂も竇融も劉秀の即位後に帰順している。
>>285 なるほど、李通・王常は即位前に光武帝陣営に参加してた思ってたけど自分の勘違いでした・・・
やっぱり選定理由は
>>282であってるみたいですね
もういっぺんちゃんと後漢書読み直してきます・・・
しかし景帝の息子の中で、母親の身分が低くて
もっとも冷遇された長沙王の子孫が皇帝になるとは
日本だと御三家飛び越えて会津松平家から将軍が出るようなもんか
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/28(土) 08:02:00 ID:MvlP5RSw0
天皇も既に皇籍から外され北陸地方に居た皇子が即位した例があったはず。
文帝の例もあるし、意外と珍しくないのかもな。
名将スレで樊崇が名将に確定しているけど、
器量はともかくとして、名将といえるエピソードってあったっけ?
ムシャクシャしてやった。今は(ry
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 00:32:36 ID:z/ZdyGZ30
樊崇はあんまり名将って感じじゃないね。
なんで名将スレで確定にはいったんだろ?
光武贔屓すぎるから
という側面もなきにしもあらず。
名将というよりは、偉大なる雄という感じだけど。
一時なりとも、自己の裁量で最大勢力になりおおせたことが、まぁ評価されたのじゃないかな。
この時代、光武帝陣営以外での名将って誰?
荘尤ぐらいしか思いつかないけど
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 00:12:20 ID:be9JpWGV0
>>295 知らない名前がいるな。
図書館で後漢書読み直してくるか。
>>295 盧芳の配下を出してくるか、渋いな。まあ、光武帝の部下を苦しませたのは、そいつらか
呉漢を破ったケ奉くらいだからなあ。董憲は名将というより蓋延がアホだったからだし。
隗囂は将というより群雄、将の上に立つからなあ。(劉秀は将の上に立つけど、劉玄の
将として昆陽の戦いや王郎との戦いで勝っているから、将でも良いでしょう)。
ちなみに延岑については樊崇よりも名将にしたいと個人的には思うから異議なし。
自分も新末の群雄の中では延岑が一番好きだな。
劉秀軍の主だった将達に悉く負けてるけど、最後まで降ろうとしなかったあの根性が凄い。
最後に公孫述に対して言った「死中に活を見出すべし」のセリフもかっこいい。
あと隗囂は群雄としてよりも将としての才能のほうがあると思う。
あの耿弇や呉漢を苦戦させてるからね。
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 20:35:17 ID:8B9CiSR10
何で世界史板のスレを使わないの?
世界史スレから中国史ヲタは追い出されたんだよお壌ちゃん
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 00:31:09 ID:ILHa5FnV0
academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1023555806/l50
追い出されてなくね?
延岑ってあれだけ活躍してて、独立した列伝が無いってのも凄いよな。
群雄の中では小さい勢力だし、公孫述の部下として見られたのかも
公孫述と延岑の立場が逆だったら面白かったかな
立伝されていない光武帝の武将の中にも
「お前、二十八将の末席よりよっぽど活躍してるだろ」って奴がいるので、
無問題
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 23:58:43 ID:d1LH84Yt0
侯進とかね
>>290 2スレ目からのコピペ
858 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/31(水) 20:29:13 ID:BNI4Ofp30
ポイント
・まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。新に与えた打撃は光武帝にも匹敵する。
・武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった) 更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。
更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。
・内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。
それより、光武帝二十八将の筆頭・ケ禹を三度も破っているのは大きい。
ケ禹はこのせいで名将としての評価は低いが、
凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。
ケ禹は馮異たちに劣らぬ武将であった可能性もありえる。
少ないとも良将ではあったのではないか。
それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。
・部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。
この後、ケ禹の評価でもめたが、ケ禹伝の記述からこの人の意見が通ったみたいだね
延岑も候補に挙がっていたが、影響力から樊崇の方が選ばれていた
なら延岑は闘将ってことで
延岑は、弁髪でもなければおでこに中の字もない一般人だし
惑星開発用巨大トレーラー・トランザーが変形するスーパーロボットでもないので
闘将は却下いたします。
それじゃ、梟雄かな
公孫述という男に惚れ込んで忠誠を誓っていたのか、
それとも利用しようとしていたのかで変わってくるけど
>>303 呉漢を殺していたら列伝が書かれていたかも
延岑の星取り表(戦いが数日に渡るものは、その結果のみに集約)
冠軍 劉嘉戦 ●
南鄭 劉嘉戦 ○
下弁 李宝戦 ●
河池・下弁 劉嘉・李宝戦 引き分け
陳倉 劉嘉・李宝戦 ●
茂陵 赤眉逄安戦 ○ (李宝とタッグ)
藍田 ケ禹戦 ○
上林苑 馮異戦 ● (張邯・任良とタッグ)
析県 ケ曄・于匡戦 ●
穣県 耿弇戦 ●
東陽聚 朱佑・祭遵戦 ● (張成とタッグ)
ケ県・武当県 ケ禹・ケ曄・于匡戦 ●
西城 李通・侯進・王覇戦 ●
平曲 臧宮戦 ●
成都 呉漢・臧宮・劉尚戦 ● (公孫述とタッグ)
15戦3勝11敗1分け 勝率0.214
最後の呉漢・臧宮・劉尚戦は最初の内はかなり押してたんだけど、結局勢いの差で負けちゃったんだよねえ…
それにしてもこんだけ多くの劉秀配下の武将達と直接戦った人物ってあんまいないだろうなあ
>>309 ダイモス思い出すあなたはおれと同世代。
公孫述が負傷するまでは有利だったんだよな。
延岑は三回戦って、三回とも勝ってるし。
最終戦の時はもう既に天下の趨勢はあらかた決まっちゃってたからな…
いくら延岑が局地的に奮戦してみても大勢は覆しようが無かったろうな。
死に花を咲かせるつもりだったのかな?
漢の将を誰かを道連れにして。
延岑は常に全力投球してるイメージがあるな
倒れるときは、どぶの中でも前のめりに倒れる男だよ
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 07:07:25 ID:gbyY7VCF0
>>311 いつ死んでてもおかしくないな
本当に、しぶといな
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 23:53:05 ID:tVUfALYB0
三国志11で劉秀勢力でも作ろうかと思うんだけど
二十八将達の能力はどんなもんがいいかな
能力評価スレに呉漢の能力値があったはず
こないだ児童用の「まんが中国の歴史」を見る機会があったんだが、
子供のころ読んだ物より光武帝関係のページは増えてはいたけど、
威斗をかまえた王莽を劉秀が「ふざけるな!」と言って斬った所は
ふざけてんのはどっちだって思ったよ。
一般の新末後漢初に対する認知度なんてそんなもんだよ…
中国史の概説書とか読んでも前漢に関してはすごい分量割いてるのに、
後漢初期〜中期なんてほんの少ししか触れてないのが多いし。
後漢末期になると三国志との関係で結構詳しく触れてたりするけど…
王莽の死に様まで描写すべき
河北の脱出劇とか洛陽の包囲戦とか関中の大敗とかを
事細かに書いた児童向け図書があったら絶対買うわ
学習まんがだったら日本史でもその程度でしょ。
後漢だからって訳じゃない。
王莽→(群盗→更始→赤眉→)劉秀を端折っただけでしょ。
それより、威斗が出ていた点に驚きだ。
>>326 それがこの漫画、更始帝も劉縯もトウ禹も陰麗華も、馬援や公孫述や隗ゴウも一応登場してるんだよ。
これ書いた漫画家はたぶん、編集者が持ってきた資料を見て書いたけど、
この時代のことをよく知らないので間違った内容になって、
しかも編集者もよく知らないのでそのまま出版されたんだと思う。
主な間違いは、
1・昆陽の戦いで劉秀が篭城したように描かれている
(別働隊が城外から攻撃とは書いてあるが、劉秀は城内にいたように描いてある)
2・昆陽の戦いで敗れた王莽軍の多くが劉秀に降伏したことになっている。
3・劉秀が長安を落としたと勘違いしている。
4・劉縯殺害は王莽の死後になっている。
立ち読みで外の部分は班超のとこぐらいしか読んでないけど、
こんなに間違ってるのは光武帝関係のとこぐらいじゃないかな?
ちなみに集英社の学習漫画。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 23:55:07 ID:fCZHijUR0
なんかいつの間にかウィキペディアの雲台二十八将の記事が増えてるね。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/27(日) 00:10:29 ID:oJSevrvcO
陳舜臣「中国の歴史・近現代篇」読んでて、
譚嗣同と袁世凱の会話の中に
「王莽・曹操のような才能を持つ、絶世の雄」
とあったのには笑ってしまった。
それは褒めてるのか?
褒めてる訳ではないが、侮辱してるのでもない。
清朝の変法(維新)を目指す変法派がクーデターのために、
袁世凱の新建陸軍の協力を得ようとしたときの密談で、
譚嗣同が袁世凱に、西大后の腹心の栄禄を殺せるかと問うた時に出た言葉。
栄禄を評して「切れ者で腹黒の奸物」って意味で言ったんだと思う。
陳先生といえば美人に関するエッセイで、
楊貴妃の対抗馬に陰麗華を押しているな、第二候補だけど。
第一候補の西施は時代が古過ぎて伝説上の人物といえるから除外なんだと。
それなら陰麗華主人公の小説を書いてくれれば良いのに。
陰麗華って名前がいいよね
>>334 麗華って、どこにでも居そうな平凡な名前じゃない
もっとも、そのどこにでも居そうな名前の人間は意外といないものだけど
>>335 うはw
やっぱり劉秀はこういうの向きだな。
>>335 こんなゲームがあったとは・・・
その手の人にはこの時代は結構人気あるのかな?
ところでもう一人の劉秀の嫁さんである郭聖通はここであんまり話題にならないけど、
実際どんな人物だったんでしょう?
やっぱり陰麗華との陰湿な女のバトルがあったりしたんでしょうか・・・
お嬢様育ちで、かなり気の強い女だったみたいだな
そういうタイプは劉秀の好みでなかったみたいだけど、
五人も息子を産んでるから愛されていなかったわけではないようだ
ひょっとしたらツンデレというやつだったのかも
後漢書では郭聖通の男子5人しか書かれていないけれど、公主つまり女子
も産んでいる。単純に同じだけ産んでいるとすれば計10人前後。陰麗華の
男子も5人だから、陰麗華も計10人前後を産んでいることになる。
(それにしても女性一人が十人も生む時代だったんだねえ)
劉秀が手を出しているのが分かっているのは男子1人を産んだ許美人(美
人は官職名)である。更に許美人は寵が薄かったとある。
劉秀は猟色家ではないとするか、陰麗華同様に郭聖通も好みであって、
他に手を出す必要は無かったかもしれない。ということは、郭聖通も劉秀
好みの美女だったのかも。
郭聖通が皇后を降ろされた建武十七年(劉秀47歳)に頃には、寵が衰えて
(夜伽に呼ばれなくなって)、しばしば怨みを懐くと言う。
郭聖通の容色が落ちたのか、劉秀の精力が落ちたのか、前者なら若い時
は劉秀好みの美女だったと理由が付けられるし、後者でも分からないでも
無い。後者なのに怨みを懐くなら、郭聖通は男の生理を知らないお嬢さん
育ちと言える。
郭聖通とは政略結婚だよね。
初めからそれほど仲は良くなかったんじゃないかなとか思うけど。
あと郭聖通を皇后から下ろしたのは、彼女が大豪族の出身で、
外戚が権力を専横するのを恐れたっていうのもあるんだろうね。
政略結婚で他に好きな女が居るのに子供を五人も十人も産んでおいて、五月蠅いから棄てた
とかくと、なんか劉秀の所行じゃないように見えるから不思議w
逆を言えば、こんな行為も劉秀がすればなんか色々妄想できるというかw
皇后の地位から降ろし、お前のかあさんだ面倒を頼む後は宜しくと、息子の劉輔に任せたのが、
棄てたと言うのなら棄てたことになるが、その後、劉秀自身、洛陽の沛王劉輔の屋敷にに出入り
し、あそこは金蔵だと都中に言われて、郭聖通も不自由無く暮らせたんだから、そんなに悪くも
ない・・・他の皇帝なら、濡れ衣着せて斬殺してるかも。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 00:34:02 ID:cCVKdtPX0
なんだかんだで劉秀って爽やかイメージだな。
そんなに暗さを感じない。
>>341 劉秀が恐れるとすれば、彼女の一族より叔父の劉楊の方だろ
それもすでに粛清しているから、政治的な理由ではなく
個人的な理由による別居じゃないか?
348 :
これkwsk:2007/06/24(日) 12:57:01 ID:oU/wTdjD0
--------------------------------------------------------------------------------
475:05/03(木) 19:54 [sage]
宮城谷さんは光武帝は余り好きではないんじゃないかな?
後漢帝国の腐敗ぶりは、建国者である光武帝の人格的遺伝子の影響もある、
という風に三国志で書いていたような気がする。
--------------------------------------------------------------------------------
476:05/03(木) 22:08 [sage]
氏が光武帝を好きか嫌いかは別にして
「宦官をのさばらせた原因を作ったのは光武帝」みたいな記述をどこかで見た記憶が
無きにしも非ず
陳御大もひかり武帝は好きじゃないっぽいにゃ
前後が漢楚と三国志というのも不幸
実際近世近代の中国でも漢楚や三国志が講談とかになってたのに劉秀の時代が無視されてたってことはあまり人気なかったんだろうな
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/24(日) 19:15:55 ID:/vGpETdJ0
曹操、諸葛亮、司馬光は大の光武帝ファンなんだがなぁ。
李世民もね
宇都宮清吉という東洋史の先生は、
「表側の完成・優美・平和・穏健・繁栄・・・と、
裏側の沈滞・形式主義・矛盾・無力・絶望・・・という
後漢帝国の性質は、中興した光武帝の人柄による」
ていう意味の話をしてる
あと光武帝の軍談ものなら東漢演義てのがある
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/24(日) 20:42:00 ID:7V7CKbQ2O
劉邦に対する項羽、劉備に対する曹操みたいに魅力ある敵役がいないから物語としてつまらなくなってしまうんじゃないかな。
逆に、その辺りを上手く脚色を交えて表現出来ればいいんだけど。
漫画だけど、蒼天航路の董卓や袁紹みたいに王莽や樊崇、更始帝などカッコイイ敵役に出来たら面白くなると思うんだがなぁ。
オイラに文才があったら書いてみたいんだけど。
あと、劉秀の爽やかインテリのイメージは、
当時の叛乱群が「真王」の出現を期待していた、という
范曄が作った筋書きから出来上がった、て説もある
そういえば28人の伝もそんな筋書きに沿った感じがある
例えば「人を見る目がある」トウ禹が劉玄じゃなく劉秀を選んだ事とか、
王覇が「河が凍ってて渡れます」とウソついたら、劉秀が通る頃には
本当に凍ってたという瑞兆の事とかかな
銚期の「下がれ!」なんか、劉秀の即位が運命付けられてたことを
笑い話で示唆してる訳で、話が巧いというか・・・
>>354 延岑やケ奉、賈覧なんかも結面白い存在だと思う
>>356 彼らは物語的には強敵にはなっても、宿敵にはなれないと思う。
むしろ劉秀のほうがが敵役としてふさわしいかも。
>>349 好きだろ?文章みてると。
ただ、氏は同級生の司馬遼太郎とは違って常に批判精神をもって人を見るから
奴隷解放したけど、それは戦後の混乱で小作人が増えたから。しかし、リンカーンの奴隷解放宣言だって政治的なもんさ
その解放自体はやはり誉められるものだと、その文章からは十分に伝わる
陳先生が嫌いなのは光武帝個人ではなく、
「灰色の時代」と評した後漢という時代では。
陳氏は後漢のことを前漢と比べるとスケールの小さい時代ってまとめてなかったっけ
嫌いというより華々しさにかけて盛り上げずらいと思ってるのかも
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 14:27:39 ID:QbRw9JE9O
やっぱ、創始者が「質実剛健」で華が足りないからかな?
たしかに後漢時代は創始以外では、漢武帝のような(足元はお留守な)華やかさはないなぁ。
しかし陳先生自身は、個人敵にはスケールが比較的小さいと思われる王朝の創始者を好いている。
劉秀、趙匡胤がそう。
武帝嫌いっぽいしなw>陳御大
劉秀は人物は好きなんだけど、なんで儒学で失敗したのに儒学を強化するねん!とツッコミを入れてる
何でもかんでも古を理想とするとか王莽が失敗したとこは改めてるけどね
あと光武帝の政策は儒教一辺倒ではなく法家や道家の影響も見られる
そういえば随分前に光武帝をKOEI風の能力で表すとどのくらいってあったけど
信長の野望烈風伝のPKにゲスト出演してますよ
能力は政治96戦闘89采配98智謀95
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 01:00:02 ID:yJICHAzV0
なんで「信長の野望」にw「三国志」のほうにはまだ出演したことないのに
しかもかなりの高評価なんだな
部下に曹豹がいるやつねw
>>366 本編には出てないな。11(回収前)には糞芸爪覧やら毛沢東と一緒に隠れてたらしいけど。
攻略本の新武将の作例に劉秀がいた記憶が
6以降だったはず
劉臭はイメージ的にオール80台な気がする
日本の戦国時代に混ざったなら
>>364ぐらいでもいいだろう
伊達政宗や長宗我部元親に劣る劉秀を見たいか?
おまえら、陣頭指揮する皇帝なめんなよ。
門番に締め出しくらう皇帝なめんなよ。
笑ってくれない奥さんにラブラブな皇帝なめんなよ。
牛戦車で匈奴の度肝抜いた皇帝なめんなよ。
ちなみに烈風伝の曹操の能力は政治98戦闘80采配100智謀95だった
曹操で采配100なら韓信や李靖は150くらいだな
よく探してみたら朱元璋もいた
政治86戦闘69采配88智謀92と劉秀や曹操と比べると低めの設定
曹操と朱元璋の能力逆にするとしっくりくる
日本の戦国時代の中に放り込んだら全員95以上の能力者になるよ
腐っても中華のそれぞれの時代の英雄だぜ
逆にチンギスに入れれば・・・
そういや朱元璋は出てたっけ。戦闘以外は蝶優秀なパラで
しかし徐達も常遇春もいねーからな・・・
>>379 日本語を喋れないので使いものにならない。
>>381 流石に烈風伝じゃあっさり言語の問題はスルーされてるな
というかあったらそれこそ問題だが
チンギスやカエサルとかも全然違うだろうし。
といかユリウス家って家臣がヴラドツェペシュとジャンヌダルクとロビンフッド
なんだが全員言語違うくね?
まぁ劉秀の軍師は張良というカオスっぷりなわけですが。
「もしやあなたは漢室の血を引くお方ででは?」っておい
後漢は前漢や新の組織をどこまで引き継いだの?
五代みたいにどの王朝でも高官だったのっている?
>どの王朝でも高官だったのっている?
三十二将の一人、竇融とか
王莽の司馬、更始帝の太守、隗囂の重臣、光武帝の大司空
文帝の竇皇后の弟を祖とする名門豪族出身ゆえだが
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 16:22:08 ID:R11uvbxe0
竇融ってかなり光武帝に厚遇されてるよね。
南陽組や河北組以外でここまで優遇されたのって竇融ぐらいだろうな。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 17:08:24 ID:LX3xXu140
俺、王莽嫌いじゃない。
むしろ、自分と照らし合わせてる。
形式や理想に殉じたいのか?
>>321の学習まんがを見た。
劉秀は威厳のあるイケメン風で、いかにもって感じ
王莽が威斗を「ほれほれ」と劉秀の鼻先に突き付けて
「ん?何をふざけているのだ」と返される場面がツボった
ある意味「むむむ」「何がむむむだ」に通じる
王莽には笑いの神が降臨してる
確かに王莽の政治ってコントやってるようなもんだもんな
ノムヒョンとタメを張れる歴史上のお笑い芸人だな
劉秀様にはかなうまい!
劉秀のギャグセンスが、兄貴や親戚の子を失った辛さを
紛らせるために磨かれたとしたら悲しいな
奥さんが冗談嫌いだったのは「痛ましいからやめて」ということかと妄想
>>393 子供の頃からおちゃめさんだったと思うが…
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 20:34:24 ID:6Ea/HzDo0
遅昭平・・・・
396 :
黄帝:2007/07/15(日) 15:17:47 ID:dsSCprSt0
王莽の時代にそわない政治が短命に終わったのかも知れない。
王莽と並ぶ中華お笑い英雄は王衍だと思う
この二人がコンビを組んだらある意味最強
候景は?
宇宙大将軍は名前負けしてるだけでお笑いってほどでもないだろ。
皇帝王莽・丞相王衍、これに宦官王振を加えればどんな王朝でも滅ぼせそうだ。
三王
むしろどんな王朝が相手でも自分が滅びそうだ
絶妙な情けなさだなw
陰麗華って冗談が嫌いだったらしいけど、劉秀との夫婦仲は実際のところうまくいってたのかね?
ホントは郭聖通との方がうまくいってたのかも。
勝手な想像だけど郭聖通ってなんかツンデレの様な気がする。
冗談が嫌いと云うより、冗談がわからなかったんじゃない?
>>405 王衍か王振が兼任で。
一応軍を指揮したことがあるし。
>>402 王莽が叛乱鎮圧のために王衍を司令官とする大軍を派遣
↓
王衍は何もせず、すべてを王振にまかせる
↓
王振が自分勝手な理由で行軍のコースを変更したため将兵が疲労し敗北、王振は殺され王衍は捕虜に
↓
王衍、叛乱軍の首領に「政治に関心がない」と言い訳して怒らせ、土壁の下敷きになる
↓
王莽、天に向かって泣いたり、結婚したり、威斗を造ったりして叛乱軍に備える
こんなかんじかな?
>>287 孔融が曹操の禁酒令を皮肉った文章にあったけど、
景帝が程姫の所にいった時、程姫が生理痛で侍女の唐姫を代理にした。
しかし景帝は酔っていたので気が付かず、唐姫は妊娠し、長沙王発を生んだ。
その子孫が劉秀だから酒がなかったら漢の中興はなかったと酒好きの孔融は言ってる。
つまり酒がなければ後漢朝も存在せず三国時代も無かったって訳か…
酒って偉大だな
まあ結局は酒飲みの屁理屈だけどな。
王莽の「酒は百薬の長」がよく使われるように、
酒は素晴しいと理屈つけても本当は飲みたいだけだろって話だ。
しかし、もし劉秀がいなければあの時代どうなっていたのかは興味深いな。
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/07(火) 01:01:02 ID:37WSGdvx0
wikiの雲台28将の記事が何時の間にコンプリートされてるね
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/12(日) 01:52:49 ID:kfJwCo+e0
後漢書の訳本って二種類出てるみたいですけど、どっちの方が評判いいんですかね?
1冊がハンドバッグに入るのが岩波後漢書、1冊をバックパックで運ぶのが汲古後漢書
二十八将を1冊で読めるのが岩波後漢書、逐語訳が付いてるのが汲古後漢書
岩波のも汲古書院のも高いんだろうなあ…
岩波のが文庫版で出ればいいのに
図書館に置いてないのかい?
田舎の図書館には置いてないよ
うちらの県内で後漢書が置いてあるのはは2箇所だけ、
遠いほうが岩波で、近いほうが姉妹都市から寄贈された中国語の本
資治通鑑もあるけど読めなくちゃ意味ないし…
>>168 最近の研究では、左氏伝自体の成立はは秦以前という説が有力。
ただし、その内容に王莽、劉歆による捏造、修正がないとは言い切れない。
>340
Doubt!
光武帝の娘は五人(『後漢書』皇后紀第十下(附皇女))
皇女義王 舞陰公主
皇女中礼 涅陽公主
皇女紅夫 館陶公主
皇女礼劉 ?陽公主
皇女綬 ?邑公主
それぞれの母親は不明だけど
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 06:41:32 ID:HH2anTDw0
hage
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 19:23:40 ID:sptyWt2h0
後漢の皇帝って光武帝以外には有能な皇帝はいないの?
息子の明帝はかなり有能。武帝以来の西域討伐を開始した。
孫の章帝もそれなりに有能。西域討伐を続けた。
ただし章帝は寿命が短いので評価が難しい、外戚問題も出てくるので。
後漢四代目の和帝は傀儡。後漢は以後、名君は出て来ない。
霊帝は有能。
寿命が邪魔しなければ中興の祖になりえた。
名相を決めようスレで、曹操が名相と言う住人が居たので、
そう言う考えで言えば、献帝も名君って事に成っちゃうな。
>>424 確かに、霊帝の早世は時代の転換点だったな。
あそこで幼君が立たなかったならば、実は後漢はもっと命脈を保ち得たと思うんだが。
(西晋も司馬衷さえ立たずに、別の人物が帝位についていれば、あそこまで無様な自滅は
なかっただろうな。)
最近、夏侯淵は馬賢、皇甫規、段ケイ並みの名将だと思うようになってきた。
一応、曹魏のあの時期は、かなり諸羌を圧迫して関隴を力づくでねじ伏せていた珍しい時期だからなあ。
そういう意味では、曹操は江南・成都を落とすことはできなかったが、華北においては
後漢最盛期と言っていいくらいに勢威を張っていたと見てもいいんじゃなかろうか?
>>426 漢の哀帝、霊帝と魏の明帝は死ぬのが早すぎる
能力はあっただけに惜しい
霊帝の死は、自業自得って感じがするんだよな。
酒と女に溺れた人間って結構早く死ぬから、あの時代は。
明帝は子供の頃に地方官の汚職を暴いた話があったな
霊帝の無上将軍就任は中央軍の強化と評価する人と
「皇帝が兵隊ごっことは世も末だ」という人といるな
>>429 中央軍強化というより建て直しだね。
あともっと悪名高い売官は、皇帝が、というか中央政府がまともに使えるだけの予算がなくなってた(税収減等で)んだから、あるところから取ろうというクレバーな政策
皇帝だけ清廉になったって清流派官僚は地元で豪族として荘園経営して農奴搾取してるし、目には目をなんだろう
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 00:28:50 ID:dwvK7fM40
明帝は法家的な国家運営を行い、豪族等に対しても厳しく対する等、なんか前漢の武帝を彷彿とさせる皇帝だね。
あと個人的には曹魏の文帝も明帝に似たタイプの皇帝のような気がする。
まあ皇帝の資質としては明帝のほうがこの両者を上回っていたと思うけど。
息子の章帝は父の強権的な統治方針を改めて、寛容な政治を敷き儒者の評価は明帝より高いけど、
豪族に対しても妥協的になり、後に外戚問題の火種を残したのはマイナスだな。
霊帝は宦官を重用しすぎたのが痛い。
>>426 夏侯淵は最期がアレだから評価が低いけど、曹操の部下の中では最も
勢力拡大に貢献した武将だしもっと評価されてもいいはずなんだけどな。
夏侯淵と岑彭って共通点があるんじゃないかな。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/07(金) 19:58:50 ID:9EishYrR0
夏侯淵と岑彭ってそんなに似てないと思うけどな。
志半ばで戦場に斃れたことぐらいじゃない?共通点は。
かたや、全盛期の劉備軍閥の総攻勢を受けての壮絶な(不注意だったとは言え)戦死。
こなた、生来の寛容すぎる性格が災いして(不注意すぎることを指摘されていた中で)の暗殺。
結構、違うと思うけどねー。
公孫述と劉備では、将器、環境が若干異なるから。
三国志の話と絡ませるのが好きな人がいるようだから、尋ねるが、
曹操は、光武帝が岑彭に送った書の中で「隴を得て、蜀を望む」と
言うのを引いて、軍を引き返した。 なぜか?
実は、これ、曹操が良く光武帝を研究していたからと言えるの
だけど、分かる人いるかな?
ヒント:『後漢書』光武帝紀第一下 建武八年八月
人苦不知足 既平隴,復望蜀。
のところ?
人は満足する事を知らず、また次を求めてしまう。隴西を獲得したが、更に蜀を望んでしまう。
隴西を得たから、それで満足すべきだ。それ以上、つまり蜀を求める事は危うい。ってこと?
後漢書読み返したが、問題が難しい…
>>437 お手上げ
と言うか、引き返した理由ってどっかに書いてあったっけ?
情勢的には孫権が江北に進出を図って、活動を活性化していた時期だが。
結構、政権中枢を空にしすぎてたきらいはあるが。
440 :
437:2007/09/08(土) 08:14:40 ID:Vyf9gmt60
まず望蜀の言葉が生まれた時の情勢を説明しょう。
建武八年、岑彭は天水を破り、呉漢と共に隗囂の居る西城を囲み、耿弇と蓋延は
公孫述の将李育のいる上邽を囲む。光武帝は上邽に御幸するも、「八月、帝自上邽
晨夜東馳」と光武帝紀第一下に書かれる行動をとる。つまり昼夜にわたって上邽
から東に馳せたのである。これがキーポイント。
光武帝はこの時、西城の岑彭に「人苦不知足、既平隴、復望蜀」の勅を送る。一方、
同じく西城の呉漢には「諸軍甲卒倶坐費糧食、(中略)、宜悉罷之」の勅、兵卒は座し
ていても食料を費やす、逃亡するようなことがあれば危険であるので、それまでに軍
を解散させよ、という書を与えている。
既に、光武帝は涼州からやってきて隗囂討伐に力を貸してくれた竇融らを封爵し、
早々に涼州に帰している。
なぜ、昼夜問わずに東に車を走らせたか? 理由は単純で、光武帝が遠征に出たと
いうので潁川や東郡、河東郡で寇賊が暴れ、また張歩は洛陽を脱出していたため、光
武帝は関東に引き返さなければならなかった。その情報が隴西に漏れれば隗囂らを勢
いづかせ、涼州に漏れれば竇融らを気後れさせるため、竇融らは早々と帰らせ、岑彭
や呉漢への勅でも言及していない。
光武帝は岑彭には、既平隴、復望蜀と書きつつも、実は潁川等を心配して、車を走
らせていたのである(そのくせ、隴を降った汧県では祭遵をちゃんと見舞っている)。
司馬懿が蜀を攻めましょうと言った時、曹操は「隴を得て、復た蜀を望む」と応じたが、
その裏には光武帝がこの言を発した時の事情を考えていた。よって光武帝が陥った様な、
遠征にかまけて足元を掬われることを恐れ、都に引き返すことを選んだのである。
「隴を得て、蜀を望む」にそんな深い意味合いがあったとは…
勉強になりました。
もしもその時、公孫述が北伐を行っていたら・・・
公孫述は、隗囂を救うために兵を出している。よって隗囂は西城を脱出でき、
呉漢の兵は兵糧が尽きて、仕方なく呉漢、耿?、耿?は隴を下り、殿は岑彭
が勤め、軍を全う出来た。
結局、隴西・天水は隗囂に帰し、「既に隴を平らげ、復た蜀を望む」筈が、漢
軍は隴を失っている。再び、漢軍が隴を得るのは二年後である。
というわけで、隴に関する限り、公孫述は動いているのだが、妙なのは、南郡
津郷にいる筈の岑彭が隴西にいて、公孫述はこの機会に南郡に派兵してい
ないことである。遅れること一年、公孫述は南郡を攻め、岑彭らを苦しめる。
もし、この岑彭の居ない時に南郡を公孫述が襲っていたら、荊州南部は
公孫述に牛耳られるところとなっていた・・・かもしれない。
>>420 舞陰公主の夫は梁松だったよね。
他の公主は誰に降嫁したんだろ?
皇女義王 舞陰公主 太僕梁松(酒泉太守・宣徳将軍・九江太守梁統の子)に嫁す。
皇女中礼 涅陽公主 大鴻臚竇固(涼州牧・大司空竇融の弟の奉車都尉竇友の子)に嫁す。
皇女紅夫 館陶公主 駙馬都尉韓光に嫁す。
皇女礼劉 淯陽公主 長楽少府郭潢(郭皇后の弟の大鴻臚郭況の子)に嫁す。
皇女綬 酈邑公主 新陽侯世子陰豊(陰皇后の弟の少府陰就の子)に嫁す。
涅陽公主以外は不幸な方々で、夫は誅に遭っている。酈邑公主は勝気な性格
だったようで、その為に夫に殺され、その夫はその故に誅に遭った。
奥さんと仲が悪いせいで父親に殺されるなんてゴッドファーザーみたいだな。
光武帝の行なった奴隷解放令って正式な名称ってあるんですか?
奴隷解放の詔をたびたび発したとは知ってるいるのですが。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/20(木) 10:34:14 ID:707u9blP0
特に決まってはいないと思うけど、自分が読んだ概説書には奴婢解放令って書いてあった。
449 :
447:2007/09/20(木) 21:39:07 ID:tETia4ylO
>>448 d
自分であれこれ調べてみたら売人法、略人法って記述があった。
後漢書の光武帝紀によると
(建武七年五月)甲寅、吏人に詔す、饑乱に遭い及び青州徐州の賊の略す所、奴婢下妾と為り、
去るか留るかを欲する者、これを恣ゆるす。敢えて拘留抑制し還さざれば、売人法を以て事に従う。
(建武十三年)十二月甲寅、詔して、益州民で(建武)八年以来、略を被って奴婢となる者、皆な一
切を免じて庶民と為す。或いは依り託して人の下妾と為り、去らんと欲する者は、恣これをゆるす。
敢えて拘留し者、青徐二州になぞらえ、略人法を以て事に従う。
つまり、売人法というのがあって、詔の文面から見ると人身売買に関る法律みたいで、また略人
法というのがあって、やはり詔の文面から見ると人身略奪に関る法律で、これらに違反すると処
罰すると言っているように見えます(何時、誰が制定した法かは不明ですが)。
ということで、正式な解放令(命令)というのは無く、売人法、略人法という「刑法」を制定ように
見えるんですが、違うかしらん。(ちなみに人身売買を禁じた法律は、王莽も出しています)
売人法ってのは人身売買禁止法、略人法ってのは誘拐禁止法だよな、簡単に言うと。
これは最初からある法律。
建武7年と13年の詔勅は、奴婢を解放せよという主旨で合ってる。
もし解放しなければ売人法、もしくは略人法に相当するので処罰するよってこと。
ただ、この解放令は全ての奴婢を対象としたものではなく、
青徐(劉永)と益州(公孫述)の旧敵国に誘拐された光武帝の領民のみが対象。
全ての奴婢を対象としたものでは建武11年の詔勅があるね。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:47:39 ID:lWxVnr5CO
その十一年などの詔は、奴婢の差別待遇を改めるものであるのは確かだけど、奴婢を解放したりするようなものではないことに注意
光武帝の奴婢に関する詔をまとめると(抜けがあったらごめん)
(開放令)
建武二年五月癸未・・・民に妻を嫁がしめて子を売りて父母のもとに帰らんと欲する者有れば、恣にこれをゆるす。敢えて拘留すれば、
法律の如く論ず。
建武六年十一月丁卯・・・王莽の時代に財産を没収されて奴婢となり、旧の漢法に該当しないものは皆な免じ庶民と為せ。
建武七年五月甲寅・・・飢餓戦乱に遭い及び青州徐州の賊の略奪する所、奴婢下妻(=妾)と為り、去るか留るかを欲する者、これを
恣ゆるす。敢えて拘留抑制し還さざれば、売人法を以て事に従う。
建武十二年三月癸酉・・・隴・蜀の民で略奪されて奴婢となり、自ら訴える者、及び獄官の未だ報ぜる者は、一切を免じて庶民と為す。
建武十三年十二月甲寅・・・益州民で(建武)八年以来、略奪を受けて奴婢となる者、皆な一切を免じて庶民と為す。或いは依り託し
て人の下妻(=妾)と為り、去らんと欲する者は、恣これをゆるす。敢えて拘留し者、青徐二州になぞら
え、略人法を以て事に従う。
建武十四年癸卯・・・益涼二州の奴婢の(建武)八年以来、自ら所在の官に訴えしは、一切免じて庶民と為し、売られし者は値を還す
こと無かれ。
(待遇改善令)
建武十一年二月己卯・・・天地の性、人を貴と為す。奴婢を殺さば、罪を減じることを得ず。
建武十一年八月癸亥・・・奴婢を焼けば論ずること法律の如くし、焼かれる者を免じて庶民と為す。
建武十一年十月壬午・・・奴婢が人を射って傷つければ棄市(=公開処刑)とする法律を除く。
つまり奴隷制度そのものを無くそうというのではなく、国の制度の破綻や騒乱によって奴隷になった者は庶民に帰す、そういう意
味での奴隷解放令ですね。制度として奴婢は残すので、その待遇は人並みというか生存権を認めるのが、光武帝の立場のようです。
奴隷というかほとんどは地方豪族の小作農というか実質農奴なんだけど、
連中は戸籍を持たないから税収にならんし労役も課すことができん。
もともとは戦乱を逃れて逃げてきた農民を豪族が囲うことで生まれるのだが、
この荘園もどきが各地に点在してて悩みのタネだった、と考えるとわかりやすい。
こういうのはよほど強い君主でないと手がつけられない部分だし、
下手に手をつけようとする確実に臣下の信を失いクーデターを起こされる。
この売買を禁じるというのは、要するに農奴の私有財産化を抑えるためだな。
奴隷の切り売りは禁止しても豪族が世襲で受け継ぐことまでは禁止してないだろう。
そこまでやってたら命がいくらあっても足らん。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 16:03:32 ID:THKwxFsD0
この時代から、平時でも奴変なんてのは度々発生していたのかな?
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/04(木) 20:59:07 ID:8FGddsL00
光武帝さんのいい小説はないものでしょうか?
塚本さんのは読みましたが、あれは力子都とにゃんにゃんの大冒険であって、光武帝の本じゃないですもんね。
ほんと3冊も買ってしまった自分がいやになります。ちゃんとした光武帝伝記みたいのが読みたいのですが・・・。
やっぱ劉秀は優等生すぎて面白くないのでしょうか。
どなたかいい小説もしくは解説本ご存知の方おられたら教えてください。
俺も知りたい。 むしろなんで地味な扱いなのか不思議。
部下も多数個性的、本人も優等生かもしれんけど変な発言とかネタは
ありそうなのになぁ
桓温とか俺が好きな人物はあんまり面白い本がない・・
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 15:38:21 ID:5DiokcO90
ありがとうございます。
やっぱ、光武帝中心の本ってないんですねー。
ちょっと文章系の仕事をしているんですが、これほど主人公にならない偉人も珍しいです。
たしかに、一人勝ちの光武帝ですから、文章にしても面白くないんですよね。
何でも出来て才能豊かな人って身近に感じられないですもんね。
むしろ王莽の方が、反響が大きくって、驚いてます。
やっぱ、失敗者や悲劇の主人公ってのは身近に感じるんでしょうね。
俺も気をつけようって気になるんでしょう。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 23:16:07 ID:6QZRHWyi0
後、光武帝の小説を書きそうな作家と言えば、田中芳樹氏だが、
あの人が小説書くのはちょっと……
文章系の仕事してるなら素直に後漢書買えばいいのでは?
日本で唯一買える本だけど全巻そろえようとしたら結構金かかるんだよなぁ〜
文庫で出ればいいのにな
値段もそうだけど置く場所にも困る
中華書局のほうが安いよ。
名前が嫌だ。
二十四史のサイトあるんだから、それ見たらいいのに。
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 21:52:34 ID:SzFVThtn0
ああ・・田中芳樹さんが劉秀かこうもんなら、ラインハルト銀英伝になってしまう。
うう・・想像したくない。
宮城谷に依頼すれば良いよ。ここぞとばかりにサワヤカーな劉秀が書けるから。
宮崎市定先生あたりが、概説書か何かでさらっと描写してくれていれば良かったなあと思う
ぶっちゃけ、宮崎先生の筆のおかげで中国史の人物たちにはまったから
文章でメシ喰ってる小説家たちには、もっと頑張って欲しいんだが
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/22(月) 20:56:56 ID:kmLpAVJX0
前漢の皇帝達のお墓は現存しているものも多いと聞いたんですけど、
後漢の皇帝達のお墓は現在も残ってるんですかね?
新史記
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/26(月) 20:36:08 ID:7kNEPmnw0
最近28将の中で単独で列伝が立てられているのは耿弇だけということに気付いた
耿紀までの子々孫々の事を書くと長くなって
他の誰かと抱き合わせでは立伝できなくなったかな
あと、丸大ハムの新製品に王覇てのがある
馬援への讒言を聞き入れて爵位を落としたり、
その娘を息子の嫁にしたり光武帝の馬氏への対応はよく分かりません。
誰かわかりやすく解説してください。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/01(土) 00:08:13 ID:KW/DT8wa0 BE:744912847-2BP(0)
光武帝のおおらかでお茶目な性格はほんとにかっこいいと思う。
嫁の陰麗華も清純派で好みだし。
戦記より、部下との友情、嫁との恋愛模様を強調した
青春小説にしたら、人気が出るんじゃない。
それか、暴れん坊将軍みたいにしても…
光武帝を探偵役にした推理小説なんてのもいいかも。
宮廷陰謀劇が好きな俺は哀帝のほうが好き
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/20(木) 12:57:32 ID:fZ9N+2gWO
李通が建武6年だけ、武将として覚醒してるのは何故・・・?
他の連中が忙しかったから仕方なく李通を起用するしかなかったんじゃない?
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/25(火) 10:52:02 ID:yrM6iGGR0
光武帝ってだれ?
劉嘉や李寶が、結構有能で侮れないのは内緒だ。
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 17:55:43 ID:01f+WNTY0
二十八将を能力と実績順に順位付け直したらどんな感じになるかな
北を20年以上守り続けた王覇(23位)
江淮の民政に尽力した李忠(25位)
劉秀に兵10万を引き込む仕事をした劉植(28位)
はもっと上の順位でいいかも知れない
こうぶていを二十八章に入れるたら何位くらい?
二十二章「皇帝即位」くらいだろうか?
朱浮が二十八将や三十二将に入ってないのはなぜだ?
大司空まで昇った功臣なのに。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 00:03:32 ID:FRGNmDxP0
>>493 明帝が朱浮の事を嫌ってたかららしい
朱浮はかなり人格に難があるからね
功臣の武装解除や実権剥奪は光武帝の頃から始まってたが
明帝の代で功臣の子孫はさらに冷遇されたんじゃなかったっけ
この点を強調すると二十八将・三十二将の顕彰も
功臣の子孫の不平不満を抑える方便に見えてくる
もちろん外戚になったり代々高官を輩出した家もあるけど
栄えた家はむしろ例外のように思えるんだよね
>>496 四姓つって、親戚付き合いのあった家しか栄えてないからね、後漢
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 03:38:38 ID:SgNs8CGX0
2008年春休み、漢魏王朝の史跡を巡る中国旅行の参加者を募集しています。
「光武帝」「三国志曹操伝」の作家・塚本青史氏が同行します。
日程:2008年3月26日(水)〜3月31日 5泊6日
訪問地:洛陽・鄭州・少林寺・許昌
内容:塚本青史氏の小説の舞台を作者独自の解説をお伺いしながら巡ります。
詳しくは、メールにて資料請求またはお電話を下さい。
潟^イムトラベル中国室
TEL:03-5659-0507 担当:遠藤
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 09:44:49 ID:RiU72uz70
光武帝関連の史跡、ゆかりの地と言ったら、どこになるだろう?
ツアー内容:南陽で牛に乗り、厳冬の北京で豆粥を味わい、洛陽でダジャレ大会
牛の乗り心地が当時をしのばせるのォ!
豆粥の素朴な味わいが最高だわァ!
あの作者、口癖がそれなのかよ!?
とてもじゃないが、一緒に旅行いきたくないwwwwww
前どっかのサイトで光武帝廟の写真見たことあるけど、なんか地味だったな
>>495 つーか、光武帝も何でまたあんな嫌なヤツを幽州牧にしたんだか。
反乱に追い込まれた彭寵が可哀想過ぎる。
光武帝ってどこの中2腐女子が考えた理想の王子様?
王莽のメインウエポン「威斗」ってどんな武器だ?
文章を読んでいるとひしゃくの中にガソリンか溶けた金属を流し込んで敵に撒き散らすように感じる
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 10:20:48 ID:9TjoCYcg0
>>498 >内容:塚本青史氏の小説の舞台を作者独自の解説をお伺いしながら巡ります。
話を聞いてみたいもんだ
>>500 塚本光武帝にはどっちもないエピソードじゃね?
>>503 でも、派手派手なのもかえって光武帝らしくないように思える。
塚本は漢文は読めるのかね。あまりにも平易な漢字ばっか並んでると中国モノを読んでる気にならなくて困る。
>>509 読んでないだろ。
原資料にあたっていたら、
あんな薄っぺらい作品にはならないはず。
世界史板の後漢スレをのぞいて見たけど、塚本は漢書は読んでるが後漢書は読んでいないようだ。
すごいなあ。なんで中国史書くんだろう。
もちろん漢書も邦訳で読んだんだろうが。
もしかして光栄の武将ファイル書いてるグループのほうが調べてるんじゃないかな。
三冊本で地雷はいかんわ。
光武帝の良さがまったくない小説になってるよなぁ
他に光武帝関連の書籍がある上でアレなら、まぁいいだろうけど、
ほぼ一発目でアレは、むしろ罪じゃないかとすら思える
塚本光武帝では、劉エンがえらく小物じみて描かれていたが、
塚本は劉エンに何か恨みでもあったのだろうか?
>>514 そうしないと弟が引き立たないだろうという大先生のご配慮でしょう
引き立ってないけどな
塚本光武帝は、力子都とかホモっぽいのとかが活躍してた記憶しかない。
>>513 同意。
一般人に「大して面白くない」と認識されてしまった気がする。
劉エンどころか、馮異以外の全員嫌いなんじゃねぇのかと
ケ禹なんか、もうただのチンピラ扱いだ
史実では名前しかでてこないヤツを活躍させて、塚本の気持ちは良いだろうが。
そのフィクションなキャラでさえ魅力がない。
駄作に劉秀の名前を冠するな。
肥三国志8の武将ファイルのコラムでちょろっと雲台二十八将に触れてたな
なんで三国志に?
ナポレオンの元帥連と雲台二十八将はどっちが知名度が上かな
塚本本の主役は連弩。
すげえ威力なんですが、軍事史の上からはどうなのかねえ
>>514 劉エンってグレンラガンのカミナみたいな物語の前半を引っ張る最重要人物だろうに・・・
強力な信念とリーダーシップで弱気な若き日の劉秀に漢朝再興を決意させ、反乱軍のリーダーになるも志半ばでの非業の死
その後、彼の遺志を継いだ劉秀が新たなリーダーとして戦乱を収めると
こうすればベタだけど一人の若者の成長物語として無理はないと思う
>>523 基本構想は戦国時代からあって、前漢時代では実用に至っていたらしい。
トリガー式のもので、上から短い矢を装填して、連発するタイプと
一気に何本も飛ばすものと、その両方が可能なものがあったらしい。
ただし、どうもこれは一人で扱うことはできなくて、それを個人使用できるように
改良し、はじめて実戦部隊に装備させたのは、蜀漢の諸葛亮。
明の時代に、「諸葛弩」というのがあるけど、それはこれの名前だけ借りたもの。
また、床子弩というものもあって、これは大型で、車輪がついたもの。
カタパルトみたいなもんだけど、これも諸葛亮の採用で、「元戎」と呼ばれ
十本くらいを同時かつ連続発射できるようになっている。
取扱には4人ほどかかるくらいの大物だけど。
ビジュアルは三国無双かなんかで登場してなかったっけ?
でもまあ、塚本が駄作だったおかげで、次に書く人間は楽だな。
普通の水準の作品で、相対的に高評価だ。
塚本って弓矢が好きなんかね?
「霍去病」も戦闘シーンでしつこいほど弓矢について語ってた
戦術書けないから全部弓に解決させてる気もする。
北方が調練調練言うのとある意味似てるような
個人的には、北方の戦術描写のほうがいい。
塚本のは人間ドラマならいいんじゃないの?
さすがにそれは北方に失礼だろ
塚本の弓と北方の調練じゃ説得力が違う
それに北方が光武帝書いたら史実は出鱈目でもきっと面白い作品になるよ
しかし塚本の本っていっぱい出てるけど売れてんのかね
415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 00:06:29 ID:xnp8SmpB0
塚本史の作品を読んでると、
「ストレートに英雄という存在が書けないんだなあ」
と思う。
良質の歴史小説って、個人的には
・「こんな人がいたのか」と大きさを感じさせてくれる
・未知の時代に関する、良い入門書になってくれる
ものだと思ってるんだけど、塚本氏の作品には両方とも無い印象が…。
特に「光武帝」、あれはタイトルに偽りありでしょう('A`)
416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 02:12:23 ID:Aq3JyZOO0
そもそも塚本って小説家としてどうなの?
「光武帝」だけでもすぐ思いつくのが
・主役は力子都?
・登場人物の極端な口調
・消化されない複線の数々(鯉・馬援等)
・光武帝主役で王朗が出てくる前に普通に「烏合の衆」を使う
長編小説っていうより週刊少年漫画を通して読んだときみたいな話の展開だった気がする。(最後は打ち切りw)
417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 20:52:53 ID:Syl3+VCV0
塚本の後書きを読んだ後に本文を読むと、詐欺にあった気分になるよ…。
例えば「王莽」。
「王莽は単なる悪役ではない」
とか、
「王莽は改革者。新が長続きしていたら、評価はもっと変わっていた」
とか、
そういうことを書いておいて、肝心の中身は水蒸気爆発がテーマという
パラノイアな小人・王莽の一代記でしたとさハハハ
それから、驚くリアクションが
「そっ、それは!?」
「なっ、なんと!?」
「!……しっ、しかし!?」
ほか数パターンしかないのは如何なものだろうか…。
421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 18:10:52 ID:+gX6uQ5F0
塚本史の「凱歌の後」(講談社文庫版)を購入。
まあ内容はともかくとしてだ、
「『凱歌』が『垓下』の掛詞であると判る方は、いわゆる中国史通といえる。」
(後記より)
まったく大したセンスだのォ!
到底マネなどできないわァ!
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 21:58:15 ID:63BLCX25O
あー、俺もやっと最近読んだ。塚本「光武帝」。
なんだか劉秀が主役の話ではなかった気がするなぁ…
本屋でタイトル見て、ワクワクして買って読んだけど、段々と落胆していくのを自覚出来たわw
どうせなら赤眉の連中をメインにして、その視点で同時代の人物達を書く、みたいにすれば良かったのに。
戦闘が書けないなら書けないで、そういうのもアリかなー、と。
…読んでみたいかは、別だけど。
>>531 >「『凱歌』が『垓下』の掛詞であると判る方は、いわゆる中国史通といえる。」
( ゚д゚)
逸話に事欠かないし、有名な故事は多いしで、
歴史小説の主人公としてはこんなに扱いやすい人物も居ないと思うんで、
誰かしら他に書いてくれる作家はいないもんかねぇ
「曹操、諸葛亮が憧れた皇帝」
とか三国志に絡めた宣伝すれば、結構手にとってくれる人も多そうだけど。
なんつーか、あの小説で終わりってのは、惨すぎる。
田中芳樹が手をつけて2巻くらいで続刊の声を聞かなくなるとかありそうだ
田中芳樹はなぁ・・・もうちょっと筆早くしろってーか、
そもそもアルスラーンのモデルの一人って光武帝だろという
敵役(新の面々)を魅力的にしないと面白くならなさそう
ちゃんと新の連中を個性付けて物語作るには漢書かなり読み込まないと無理だぞ
漢書(邦訳)しか読んでない人が書いているんだから大丈夫
>>538 邦訳だけでもいいけど、
孫建が西域で活躍した将だとか、
成帝が男子を趙飛燕のせいで失っていたから落胤伝説が生まれたとか、
王莽の後妻の史氏は多分宣帝の外戚だった史氏だとか、
そういう細かいネタを使いこなせるようなら有望じゃね?
そういえば王莽の先妻は王氏だけど、このころは同姓婚でも問題なかったの?
>>540 同じ王氏でも血脈つまり姓は違うからいい、ということらしい
同氏であって同姓じゃない、と
妻の方は宜春氏を称していたという説もある
>>541 そうなんだ
考えてみれば王莽の祖先の姓は田だからその点でも問題ないのか
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 01:04:58 ID:ZEFcs18S0
同姓であっても本貫が異なれば、別の一族とみなされて結婚も可能という話を聞いたことある
陰れーかちゃんがロリの頃から現代的な自我を持って大人しい文叔たんに君臨し、
その加虐的献身に感動したM男の文叔たんが執金吾どころかエンペラーにまでなってしまった、とかいう筋はどうよ?
二次元ドリームとかでならいいんじゃないかな
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 18:16:23 ID:tAXzxH4FO
文 塚本青史
絵 いとうのいぢ
劉秀を「中国史上最高の皇帝」と持ち上げて宣伝した田中芳樹には書く責任があると思う
芳樹は「誰も光武帝を書かない様なら自分が書く」と言ってたが、
現状は「書かれなかった方がまだマシだった」だからな
芳樹の本で劉秀に興味を持って、「光武帝」買って劉秀への興味なくしたって奴知ってるし
, '´ ̄ ̄` ー-、
/ 〃" `ヽ、 \
/ / ハ/ \ハヘ
|i │ l |リノ `ヽ}_}ハ.
|i | 从 ● ●l小N
|i (| ⊂⊃ 、_,、_, ⊂li|ノ 傑作になること間違いなしだわァ!
| i⌒ヽ j (_.ノ ノi|__/⌒)
| ヽ ヽx>、 __, イl |::::ヽ/.
| ∧__,ヘ}::ヘ三|:::::/l| |',:::::ハ
にわか光武帝ファンというか興味持った人間なんだけど、
この時代の人の名前って、結構読みにくい人多いね。
勉強が足りないのは重々承知だけど、
「へぇ、こういう読みなんだ」
っていう人ばっかりという印象がある。
自分も最初耿弇とかなんて読むのかさっぱりわかんなかったよ。
ただこの時代の人物はほとんど名は一文字、字は二文字って人ばかりだから、
三国時代から中国史に興味持った自分にとっては覚えやすい。
光武帝は、本人が魔術師ヤンみたいな人だからなあ・・・
光武帝サイドの人間に面白さが集中しちゃってて、
しかも飛び抜けて光武帝本人が面白いんだよね
そういうのって、あんまり小説向きじゃないのかもしれないけど、
逆に言えば作家の腕の見せ所というか、いかに魅力的な相手役を描けるか、という
いっそ新の連中は完全オリジナル設定で
延岑が魅力的な敵役になりそう。
いくら負けても戦いを挑んできて、
最後の最後まで光武帝の前に立ちはだかるの。
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 21:29:55 ID:1pOPesCe0
いっそ延岑を主役で
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 12:41:51 ID:5FbQM91UO
延岑は、経歴がよく分からない部分多いから、フィクションを作る余地が大きいね。
延今は最後に少しだけ光武帝に協力して中華をローマの魔の手から救いますが
最後まで漢に仕えるを潔しとせず、一生を新の理想にささげます
塚本なら・・・塚本なら・・・そんな延岑をつかっても
光武帝に負けるから気に入らないので
さらに架空の人物を作って活躍させる。
塚本「光武帝」、中途半端な終わり方だけど続編を出す気なのかな?
そんな物は出ない方がいいんだけど
続編になったらキャラの性格ガラッと代わってたりな
口先だけみたいな扱い受けてたケ禹とかw
まぁ、続編はねぇだろうけど
史実のケ禹も結構口先だけだよな
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 21:07:58 ID:c0j5/TIb0
個人的に宮城谷昌光に書いてもらいたいな。「三国志」とかで
忙しいと思うが、是非書いて欲しい。塚本は有名エピソードが
無さ過ぎだ!
塚本 読んですげぇ失望したわ。 悪いけどJRの駅の便所に捨てた。
ホント 俺には最低だったわ。
続編なんてもう・・・な・・俺はあの人のは一切買わんけどな。
この人って頭良くないのか???
陳先生も、けっこう架空キャラの大活躍をやらかすけど、そうじゃない作品も多いし、
原文はしっかり読んでおられるし、漢字の使い方も正確だから、どの作品もそこそこ安心できる。
司馬先生だと、架空キャラは序盤活躍して後半はいなくなったりする。
歴史小説を読む人間は、正史で活躍している人間をどう描いてくれるかが興味の対象だと思うから、
呉三国志の奴もそうだけど、オリキャラ>>>>>>>>史実の人物で貫かれると萎える。
呉なら序盤から程普なんかが大活躍しないと悲しいじゃないか。
特に塚本は原文もろくに読まず、漢字の使い方もわかってないじゃないし、得るところが何もない。
×漢字の使い方もわかってないじゃないし
○漢字の使い方もわかってないし
陳舜臣はもちろん歓迎。
田中芳樹は好みが分かれるにしても、塚本と比較対象にするのは失礼な作家だから、
とりあえず光武帝なり、その時代の人物なりについて書いて欲しいね。安能務でも良い。
とりあえず、塚本じゃなければ、今は誰でも良いな。
塚本はもう当分1から勉強して出直したほうがいいよ。
その間に他の人がいいもの書いてくれるしね。
>>566 >安能務でも良い
何年か前に亡くなられています・・・
>>567 >1から勉強して出直したほうがいいよ。
肥水の戦いを書きたいと言っておきながら、出してる本の内容は史記・漢書・三国志を読むだけで書ける時代に限られているんだよな
「中国英傑伝」で人物を時代ごとに分けるのに春秋戦国・秦楚漢・三国・中世〜近代なんて分けかたしてる時点で勉強する気なんか無いだろうよ
>>三国・中世〜近代
おいいいいい!!!
近世は? 唐宋変革は??
中国史の一大転換期はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!?
>>568 「中国英傑伝」なんかしらなかったのでアマゾンで見た。
書評がボロクソだが、これでも光武帝の評価よりわずかにマシなんだな
>>569 李世民や李靖、趙普や文天祥がだのォ!だわァ!言うくらいなら無視してくれて結構w
日本での中国史って、三国志以降一気にマイナーになってくよな
何がそんなに気に入らないのか知らないけど
どっかのスレでの話だけど、水滸伝あたりになると漢民族イズムが
強すぎて日本人には共感できないとか言われてた。
ヒーロー側の人間が人肉売っててそれが道徳的に賞賛されてる辺りとか
もうついていけないとかなんとか。
三国志辺りだとまだ古代の区分で劉備の人肉ディナー話なんかもあるけど
その辺はやっぱり吉川先生がうまい事日本人向けにマイルドにしてるから
受け入れられたという事じゃないですかね。
人肉売って道徳的に賞賛されてる・・・?
>>574 確かに水滸伝は「ちょっとマテ」っていうのが多いな、人肉に限らずw
けど三国志にもないわけじゃなくて、吉川先生のおかげって事は、
結局日本人が日本人向けに書き直したのが多いか少ないか、って話になんのかね
まぁ後は日本語で読める資料の多さかね・・・
普通の街の本屋で簡単に買えるのを「資料」と言っていいかどうかはアレだけど、
明らかにそのレベルでやっちゃってる漫画家なんかもいそうだしw
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 20:31:00 ID:ymWbXxTx0
久しぶりに塚本「光武帝」を読み直してみた。
やっぱりつまらなかった。
口直しに司馬遼「項羽と劉邦」を読み直してみた。
やっぱ司馬遼「項羽と劉邦」は最高だわァ!
最高だのォ!
>>中国英傑伝
海音寺潮五郎の本と同じタイトルなんだが
・・・いいのかよ塚本
タイトルが同じ本なんていくらでもあるよ。
塚本って『後漢書』読まずに書いたんだろ?
後漢書云々の前の話だと思うけどな
ただ、そこまで話題に上るほど魅力のある話ではないだろ。
いまだに興味をもてる人が多いのが不思議でならない。
「人を見る目がある」鄧禹が更始じゃなく光武を選んだとか、銚期の「蹕!」とか
光武帝まわりの話が巧くでき過ぎた感じなんだよね。この辺が好き嫌いの別れ所だろう
光武帝が皇帝になるべくしてなったという後漢初の史観を范曄が無批判に採用したとかいう
後漢書評をどこかで読んだ事がある
欠点らしい欠点がないからな。粛清もあまりしなかったし
抜けてる部分はそこそこあるんだがそれが為政者としての欠点に直結してないからな
ラノベの主人公みたいな皇帝だからな
少年漫画の勢いで天下取っちゃった感じ
案外、西尾維新とかが書いたら面白いかもよ?
女キャラも粒ぞろいだからな
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 01:08:08 ID:lGNZ3dI4O
少年漫画こそそれなりのピンチや挫折が付き物なんだがな
少年漫画の中でも男塾とかワンピース並みに主人公が無敵なんだよな、光武帝
いっそ「無責任皇帝劉秀」みたいな感じにしたらどうか
ピンチは結構あると思うが。
なんなんだろうね、劉秀にあるあっさり感は
たしかに普通にかなりヤバイ状態もあるんだが、やはりライバル連中が
強烈でないため相対的になんとなくあっさりやってる感があるのでは。
光武帝を書くのであれば、作者が自分なりの「時代の総括」を
持たなきゃ駄目だと思う。塚本とかPHPの「班超」を読んで
そんな感想を持った。
王莽とは何者か、赤眉の乱を始めとした反乱とは何だったのか、
群雄たちの実像は如何なるものであったのか…。
そういう、自分自身に対する問いかけのない作者だと、流れを
適当になぞって後はオリキャラ大活躍、な話にしかならないような
気がしたんだ。
そういった問いかけを可能にするのは、結局は人物とか時代に対する
愛情の深さなんだろうなあ、と思うんだけど、どうなんだろう…。
あんまり光武帝の出来がひどかったんで
最近本屋で時代小説フェアとやらで平積みにされている『王莽』
どこまでひどいか確認したくて買ってしまいそうで怖いぜ
>>592 残ってるエピソードから野心とか上昇志向が感じられないんだよな、この人。
「仕官当作執金吾、娶妻当得陰麗華」とか。
華やかでカッコイイ職に就いて美人でおしとやかで頭も切れる嫁さん貰えたらいいな、って
後に王朝を創始する人らしからぬ軟派っぷりだw
>>595 小説じゃないけど東晋次先生の『王莽』にしとけ
>>596 劉邦も始皇を見たときにすげー地味なこと言ってたんじゃないか
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 02:58:32 ID:nVZKNNNUO
「男と生まれたからにはあんな風になりたい」と始皇帝を見て言ってる
皇帝になりたいと言ったわけで、全然地味じゃない
でも項羽と比べるとね・・・・・・
皇帝に取って代わってやるVSああなりたい
執金吾になって可愛い嫁もらうおVSご落胤を騙る占い師
スケール感に欠けるのは致し方ない
まぁ漢楚のお二方が化け物過ぎるんだが
大言壮語は身を滅ぼす
たしかに。
どっちもろくな君主ではなかったしな。
石ロクに言わせると劉邦は劉秀より上らしいけど
まぁ、劉邦の時代と劉秀の時代では、その背景が全然違うから
それで上だの下だの言われても、どうにもピンとこん。
石勒のセリフも文面どおりに受け取ってもいいものかどうか。
石勒のあれは、簒奪を行った魏武帝や晋宣帝を皮肉ったセリフだったんだけどな
劉邦>劉秀になったのは、いまいち分からないから何ともいえないけれど
案外、大義名分で優劣をつけただけなのかも
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:57:11 ID:nVZKNNNUO
無から生み出す方が大変だということだろう
スタート地点の差を言いたかったとか。
劉秀の時代は、劉邦から二百年君臨した劉氏がトップブランドとして認識されていたし。
自分がその立場だったらどれくらいのことが出来たか、って考えたんでないかね。
項羽相手に勝てるか、とか
項羽対石勒は面白そうなカードだな。
常勝の項羽と不屈の石勒、どちらが勝つか全く予想がつかない。
逆もありうるな。
劉秀相手だったら雌雄を決する戦が出来るけど
劉邦相手にゃどれだけ勝っても決定打にならんわけで殺すとこまで追い込める自信がないのかもしらん
主な戦場となったのは、石勒の時代も劉邦らの時代も、そう変わらんしね。
その対決はおもしろそうだ。
下手に石勒が勝つと、人望があつまり漢王を凌ぐかも知れんなぁ…
石勒って曹操厨の宿敵だよな
まあはっきりと名指しで貶してるからねえ。
もっとも李卓吾に言わせると、劉邦と曹操と劉淵が同格らしいが。
それは曹操を誉めすぎのような気もするが。
しかし曹操って宦官の子孫と言うことに騙されがちだけど、出自は恵まれている方だな。
劉秀に対して、劉邦なんかよりはるかに親近感は持っていたんだろうねえ。
>>616 父の最高官位は三公
叔父たちは尚書令などを歴任
縁戚から皇后を出している
相当恵まれている
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 09:39:16 ID:zODntgaH0
>>617 ただ、家は恵まれているが、勢力としてのスタートはやはりそう恵まれたものとも言えないかと。
でも出自がいいからって功績を過少に評価するのもどうかと思うけどね。
もちろん、石勒みたいに本当にゼロからスタートして功績を挙げたのは凄いと思うけど。
恵まれていても、実力を見せて権限が伴っていかないと、大きくはなれないんだよな。
やはり個人の資質も大事。
しかし一天万乗の皇帝でも、やりたいようにできないときってのもあるし、資質ばかりと言えんけどね。
簡単に天下取ったというより、「出来すぎ」って感じがしちゃうんだよなぁ、むしろ
楚漢時代=1stガンダム
後漢末戦国=Zガンダム
新末後漢=ガンダムSEED
的な感じ
劉秀「やめてよね。本気で喧嘩したら王莽が僕にかなうはずないだろ?」
623 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 23:37:00 ID:RkGHO3P90
ガンダムSEEDは見たこと無いなぁ。
劉秀が出るというのなら、観ずにはおれぬ
>後漢末戦国
それ何て言うタイムスリップ?
やったー友達に塚本光武帝読ませる事に成功したよー
早速メールで だのォ!だのォ!うるさいよー
まずお前は後漢書から読め
ネタに吊られてどうするんだのォ!
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 00:48:08 ID:i4Edie560
彼岸島の
凄ェ!
にも通じるものがあるな
塚本から学んだことは
「よがり声」は「善がり声」と書くということだけ
心底どうでもいい
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/21(金) 23:09:40 ID:PbTBFlJU0
まさかこの板で彼岸島ネタを見かけようとはwwwww
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/21(金) 23:11:53 ID:by5Z5YqO0
>>633 そういえば丸メガネ兄弟って劉エン、劉秀兄弟に似てなくも無くもないな
>>90 中国史では長女が男兄弟の相手を探す話はよくあるが
逆も結構ある
>>634 都合良く丸太が出て来る戦のシーンを想像してしまったw
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/27(木) 23:50:59 ID:jdsWH4eu0
昆陽の戦いを丸太で乗り切るのが目に浮かぶぜ
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 02:50:31 ID:NDbuW04dO
ほす
この時代に呂布より豪傑っぽい武将いたかな
楚漢なら項羽だろうけど
巨無覇かな。ビックマックじゃない方。あと延岑とか。
賈復とか馬武とか。
劉秀本人だろ。
敵味方関係なく潰す呉漢。
それすら撃破したケ奉。
巨無覇って強いのか?でかいだけじゃないの?
確かに体格が大きい方が戦いでは有利だけど、
それは一対一の場合で戦争では関係ないだろ。
それにあんまりでかいと乗せる馬がないし、徒歩でもひざへの負担がでかい。
一丈(約230cm)といえばアンドレ・ザ・ジャイアント(プロレスラー)ぐらいだが、
全盛期のアンドレでもリングで20分以上動き回ることはできなかったそうだ。
東洋でも西洋でも古代だと体の大きさ=強さと認識されてたから、
今さらそんなこと言われても困っちゃうな。
645 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 00:23:40 ID:epdTZxoO0
劉秀の身長七尺三寸って当時としては大きい方なの?
>>645 pに直すと168p。中の上ぐらい。
てゆうか、この程度の身長が歴史に残るなんて、
きわめて珍しいケース。
647 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 03:59:40 ID:zG3vqDdR0
伊藤博文が155cmだったが当時の日本人の平均身長と丁度同じだったと推定されている。
個人的には来歙が好き
塚本「光武帝」ではタダの端役に過ぎなかったが
死ぬ間際の蓋延とのエピソードが泣ける
つか、公孫述の刺客って暗殺成功率が凄いな…
スレ違いになっちゃうんだけど、馬超平定まで続いた関中の混乱って、
いつから始まったかハッキリと判る方いる?
蓋延の子孫が三輔で軍の再編とかやってた気がするんだけど…
神の降臨があると非常に嬉しい
>>648 184年の北宮伯玉と李文侯の反乱から。
本来は涼州で起きた反乱だったが、
拡大して三輔(関中)まで攻め入るようになった。
韓遂や馬騰の勢力は、この反乱軍がルーツ。
(正しく言えば、馬騰はこの集団が起こした次の反乱から参加する)
650 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 22:26:25 ID:CsCTDrwp0
昔 ネット上で劉秀を主人公とした小説があった。
けっこうおもしろかったんだけどな。
昆陽合戦で終わっていたような。
>>649 おお、ありがとうございます!
北宮伯玉の乱からですか
そうなると、辺章・韓遂の乱や宋建の乱との連動を考えると
面白そうかも
しかし西平郡や金城郡の辺りは叛乱が頻発しちゃってるね…
羌・氐との雑居地帯のせいなんだろうか
張飛ってロリコンで部下いじめ殺すのが趣味で上にはこびへつらうという最低野郎なんだが
>>653 蓋延も結構なゲスだよ。
地方の太守になってから、不法行為を多く犯して、
諌められると、諌めた奴を干したりしてる。
同僚に二度も背かれたのも、
性格のせいかも知れないね。
>>648 凄腕の刺客を何人も養っていたのかもしれないな
「北斗の拳」の初期設定だと、北斗神拳はちょうどこの時代に誕生したんだったな(北斗神拳2000年の歴史)。
「蒼天の拳」で三国志の頃に変更されたが(北斗神拳1800年の歴史)・・・
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/08(木) 21:58:16 ID:2nj32iEU0
塚本の原作で人形劇平家物語みたいに人形劇で作ってくれんかなぁ、NHK。
光武帝vs洪武帝
人形に罪は無いぞ。
つか、老体を殺す気か!
ところでさ、なんで王莽が簒奪できたんだろうね
劉氏その他の反抗とか無かったような気がする
ここまでスムーズな簒奪を実行できたのは、王莽のカリスマ性が
劉邦クラスで備わっていたから、と考えてもいいのかな?
漢に暗君・幼帝が相次いで、強い指導者を求める声が強まり、
大司馬としてまともな政治を行っていた王莽が
その期待にそえるような人物と見られたため。
王莽は皇位に就くまでは、結構まともな政治をしてた。
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/16(金) 20:09:15 ID:NcUqbQ920
「二名の禁」って具体的にはいつ頃施行されたものなの?
>>667 ちくま漢書の平帝紀にそんな記述があった記憶がある
今、手元に漢書が無いので確認できないが
>>668 ないよ
あるのは平帝の名前を二文字から一文字に変えたこと
このときに臣下にも一文字化を促した(強制した)可能性はあるが明記されてない
>>669 じゃあ、俺の記憶違いだスマンね
けど、推測するとそのころに施行された可能性が高いのでは
臣下が皇帝に習って名を一文字に変えたりして、二文字の名を忌む風潮が生まれ、
最終的に法として成立することになったのかも
岑彭伝読んでたら「蜀漢」という単語がいきなり出てきて
なんでこの時代に「蜀漢」が?と疑問に思ってたんだけど
よくよく読んでみたら蜀地域と漢中地域のことを合わせて
「蜀漢」と呼ぶらしいことが分かってなるほどなと思った。
ただ三国時代には紛らわしいことにはならなかったんだろうか。
>>671 劉備の建てた国を「蜀漢」と呼ぶのは三国時代より後で、あくまで当時の国号は「漢」
現代ならではのちょっとした混乱に乾杯
もしも劉秀が河北あたりで死んでたら誰が天下を獲っただろうか?
その劉秀を倒したであろう王郎あたりは?
王郎軍には人材がいない。
劉秀を破っても、河北に割拠する無数の群賊を平定できそうにない。
赤眉が最強だが、天下を取っても維持できそうにないし、
公孫述と隗囂は治世手腕に優れており、
配下に人材も揃っているが、地方政権で終わりそう。
誰にも再統一できず、群雄割拠のまま、
数百年が過ぎるのでは。
676 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/24(土) 17:44:11 ID:S0RfqCRs0
隗囂とかイイ線行けそうな気がするけど。
公孫述と違って将才あるからね。
あの耿弇に唯一土をつけたことがあるくらいだし。
>>675 それは劉秀史観に毒されすぎじゃない?
劉秀が最も優れていたことに異論はないけど、劉秀にしか統一できなかったというのは流石に無いよ
劉秀史観とは斬新な日本語だな
後漢書は良史だが、范曄は後漢の正統性について何の利害関係もないはずなのに
なぜか両漢交替当時の史観を無批判に採用してしまったとかで劉秀びいきが過ぎるとも言われる
そういう後漢書に基づいて作られたイメージは劉秀史観といえばそうかもしれないね
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/25(日) 09:28:26 ID:GV9njP+lO
後漢滅亡後や、唐滅亡後に続いた時代を見るに、
必ずしも乱世を統一できる人物が、その時代にいるとは限るまい。
何故、劉秀以外でも統一できたと判断したのか、その明確な論拠を
劉秀史観とやらに毒されてない賢者から拝聴したい。
>>679 中国の史書は、基本的に「述べて作らず」だからなぁ
史記の自序にも「整斉はするけど創作はしない」と書いてあるし
取捨選択はしても書き換えたりはしないのが、史家の基本的思考
范曄の思想を汲みとるなら、論賛とか雑伝の序文を読むのが一番
党錮関係の列伝なんか、統一王朝の史家からすれば噴飯ものだしな
「状況によっては、義より生を重んずるもよし」
なんて普通は書けんよ
天下分裂の時代に生き、徳性とかけ離れた政略の中で死んだ人だから
書けたとも言えるが
劉秀なかりせば云々は仮定の話だから答えは無いんだろうけどIF妄想が楽しめる話題ではある
で、春秋から20世紀まで漢中・巴蜀の割拠勢力が中原に進出できた例は
前漢ぐらいしかないから、これはレアケースと見た方がいい
ということは公孫述や延岑は条件的に厳しかったんじゃないか
隗囂も本拠が西北により過ぎな感じ
じゃあ、山東を支配してた劉永が第一候補か?
外交で築き上げた連合政権みたいなもんで、
本体の軍事力は脆弱だが。
関中系:周、秦、西漢、隋、唐
河南系:殷、東漢、西晋、北宋
河北系:元、明(永楽帝)
江東系:明(洪武帝)
中原進出がレアケースというか、比較的マトモな手腕の持ち主が首都圏エリアを制圧したら、
基本的に僻地ではどうにも出来ないという気はする。
首都圏のボンクラ≧僻地の大群雄
これくらいの力関係を強いられてそうだ。
劉氏待望の世論があったから、劉秀でない場合でも
マシな劉氏がいれば、あるいは、と思わせるが
劉秀よりは遅い天下一統であろうことは確かだろうね。
首都圏のボンクラといえば更始帝
しかしこの人物も諸家後漢書では剛毅な人物に書かれてたのが
范曄が
>>679の理由で臆病者に矮小化してしまったらしい
ということで有力候補
竇融のことも、たまには思い出してやってくだちい
>>686 ソースきぼん。
「〜とも言われる」とか「〜らしい」とか具体的な根拠あんのか?
士大夫にあらざれば人にあらずな儒教原理主義者どもの捏造じゃねえの?w
山川出版社の概説書(というが結構ぶ厚い)の中国史1に載ってた
なんだルーツ君か
ID変わったが
>>690あんな奴と一緒にするな
概説書でしか読んだ事ない説だがそれが初出だとは思えん
たぶん先行研究があるんだろう(これは推測)
嗤ってくれるのは自由だがソース無しと確定した後でなければ
嗤った方が恥を掻くだけだ
>>691 君は間違っていない。
清の歴史学者・恵棟が明の劉士元の見解を引いてそのようなことを言っている
と、「中国民衆反乱史」(東洋文庫)にのっている
(資料の書き手が、『光武帝にへつらい筆を曲げた』とね)
しかし、なぜ、君の発言が、
>士大夫にあらざれば人にあらずな儒教原理主義者どもの捏造じゃねえの?w
になるのかさっぱり分からない。
これで、劉玄と劉秀、どちらかをひいきする根拠になりえようもないのだが
>>688氏にはむしろこれを説明してほしい
>>693 ほほう、で、その明の劉士元とやらは何を根拠にそう主張しているのかな?
宮城谷と同レベルの脳内ソースじゃねえだろうなw
劉士元は進士及第者
科挙に合格した者の言う事が全て正しいとは言わないが
経史に対する造詣の深さにおいて現代人とは比べ物にならない
根拠が複数示された上で絡んでも恥を上塗りするだけだ
止めを刺されたいなら明日あさってにでも後漢書に解題を付した
山川本の箇所をここに投下するが
そこまでしてこれ以上恥をかかせたくない
唐代に宦官で劉士元というのがいるが、まぁ全然関係ないけど。
>>695 大人な対応だね。書名も出しているし。
で、結局、
>>688は
>>694なわけですかね?
てか、面白い話だし
スレ読んでるだけの人間からすれば
煽ってるヤツが恥ずかしいと思うよ
>>695 恥とかどうでもいいので投下して欲しいな
>>695 そこまで言っといてソース投下しないと、
君の方が恥をかくぞ。
>>699は「中国民衆反乱史」は読んだうえで、それを言っているのかな?
山川出版社・世界歴史大系『中国史』第1巻p573〜
唐の劉知幾は『史通』という史論の中で、『史記』『漢書』の微妙にして婉曲という叙述の妙や
史書としての重厚さは、范曄『後漢書』では失われてしまったという。
たとえば、劉秀の族兄劉玄がまず後漢を復興して更始帝として即位しているにもかかわらず、
更始帝をはずして劉秀から本紀をはじめ、劉玄を列伝に入れていることに疑問を呈している。
世祖本紀からはじめ、光武帝を尊崇しなければならない『東観漢記』の立場をそのまま受け入れているのである。
さらに列伝では任侠の風のあった劉玄について「即位の時に恥ずかしがって汗を流し、
うつむいて椅子を撫でているだけで顔も上げられなかった」と臆病な人物に描いている。曲筆といわざるをえない。
後漢史の基本文献は『後漢書』であるが、同時代史料ではないこと、
後世の一定の意図から編纂していることなどは、十分踏まえておかなければならず、
散逸した他の諸家の『後漢書』とあわせてみる必要があろう。
『史通』内篇 曲筆第25
案『後漢書·更始伝』称其懦弱也,其懦弱也,其初即位,南面立,朝群臣,羞愧流汗,刮席不敢視。
夫以聖公身在微賤,已能結客報仇,避難緑林,名為豪傑。安有貴為人主,而反至於斯者乎?
将作者曲筆阿時,独成光武之美;諛言媚主,用雪伯升之怨也。且中興之史,出自東観,
或明皇所定,或馬后攸刊,而炎祚霊長,簡書莫改,遂使他姓追選,空伝偽録者矣。
結局、恥かいたのはソース君だったのか。
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 23:30:06 ID:yRdoJVd/0
>>695 信士に及第してる秀才の言うことだから正しいって呆れた権威主義だなw
で、その偉い劉士元様はどういう資料を根拠にそう主張してんのかなぁ?
具体的な資料の名前出してみろよ。
恥の上塗りはてめえの方だ、バカw
>>703 >劉秀の族兄劉玄がまず後漢を復興して更始帝として即位しているにもかかわらず、
>更始帝をはずして劉秀から本紀をはじめ、劉玄を列伝に入れていることに疑問を呈している。
だったら漢書が項羽を本紀から外して列伝に入れたことにも文句言えよ。
そもそも更始帝なんざ一地方政権だろ、最後赤眉ごときに降伏してぶち殺されてるし。
本紀に加わる資格なし。
>任侠の風のあった劉玄について
ソースきぼん。
散逸した他の諸家の『後漢書』?何その脳内ソース。
>同時代史料ではないこと、後世の一定の意図から編纂していること
同時代資料じゃないと格が落ちるってんなら二十四史全部後世の史家がまとめた資料だが何か?
後世の一定の意図が入ってちゃ駄目なら史書のほとんどは儒教史観のバイアスがかかっとるわ。
正史にケチつけて粋がってる勘違い学者が寝言をほざくなw
>>散逸した他の諸家の『後漢書』?何その脳内ソース。
これってあれですか。釣りですか?
劉玄が客を集めてたってのは范曄『後漢書』にも載ってる話だけどな
見苦しいから、止めてほしいわ
>>707 客を集めてたら任侠の風があるのか?
まあ任侠=ヤクザって意味なら間違ってはいないだろうが、即位式での醜態が捏造だって
根拠にはならんな。
劉玄が国のトップとしてどうしようもなく無能だったのは即位後のgdgdさを見れば一目瞭然。
わざわざ即位の時のヘタレっぷりをでっち上げるまでもない。
まさかそれも後漢書の捏造だとは言わないだろうなw
712 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 02:49:01 ID:9W9tdXro0
>>705 693だが、君はおそらく、688、694、699だろうから発言するが、
ネットマナーとして、歴史を議論するものとして、君はまず、686氏に謝るべきだ
事の是非や議論の勝敗はこの際、どうでもよい
君の議論は、支離滅裂な上に、人を傷つけるような暴言が多すぎる
この議論は劉知幾→劉士元→恵棟『後漢書補注』というそれなりに評価できる歴史家
の手三人の間を動いている。さらにそれを紹介した日本人歴史学者もいる。
それぞれがとるに足らない議論なら、その時点で消されるに相違ない。
また、現在となっては失われた資料が多い状態で、この人物たちの議論が正しいか証明する
など、無理な話であり、また、やたらとソースというくせに自分は劉士元たちが
どのような議論をしているか調べようともせず、
686氏に多大な精神的被害と労力を使わせ、
支離滅裂な浅い儒教批判だけでここまで無駄にけんか腰の言葉で議論をしかけている
また、705の発言は703のレスを熟読しているなら、このような内容にはならないはずだ
とても熟慮の上、発言した内容とは思えない。
また、宮城谷氏を批判しているが、彼とて、知識は我ら以上にはるかにある
それを脳内ソースなどと一言で切り捨てる態度も無茶な話だ
どうしても反論したいならもっと調べてから書き込むのが最低のマナーだ
それに693での私からの疑問に答えるのが先だと思うが?
なぜ、儒教バイアスがかかると、正史批判になるのだ?
正史以外の資料は全て信用できないのか?
平行して読み、見比べて歴史を研究する作業は全て無駄なのか?
劉玄をかばって得をする儒家がいるのか?
そんなことはもういいから、君に良識というものがあるのなら、686氏に君の態度を謝るのだ
そこから議論はやっとはじまる。今の君とでは誰もまともな議論はできない
>>712 ( ´,_ゝ`)プッ
おまえ
>>686だろ。
その不自然な改行見りゃバレバレだっつのw
暴言が多いのはお互い様だ。
てめえもこっちを散々毒づいてるだろうが。
謝って欲しいならまずてめえが謝れ。
>この議論は劉知幾→劉士元→恵棟『後漢書補注』というそれなりに評価できる歴史家
>の手三人の間を動いている。さらにそれを紹介した日本人歴史学者もいる。
はいはい偉い学者さんがおっしゃったことだから間違いはないってか。
呆れた田舎者根性だ。
>また、現在となっては失われた資料が多い状態で、この人物たちの議論が正しいか証明する
>など、無理な話であり、また、やたらとソースというくせに自分は劉士元たちが
>どのような議論をしているか調べようともせず
何こっちに責任転嫁してんだよ。
速い話がソースはないんだろ?
だったらそう言えば済むことだw
>また、宮城谷氏を批判しているが、彼とて、知識は我ら以上にはるかにある
>それを脳内ソースなどと一言で切り捨てる態度も無茶な話だ
宮城谷は孟嘗君が趙でやらかした住民虐殺を何の根拠も示さず司馬遷の捏造と決め付けたクズだぜ。
たかが作家の分際で史記の作者をよくもそこまで侮辱できたものだ。
>正史以外の資料は全て信用できないのか?
>平行して読み、見比べて歴史を研究する作業は全て無駄なのか?
んなこたあ言ってない。
だが根拠もなく正史の記述を捏造と決め付けて粋がるのは馬鹿のすることだ。
たとえ高名な学者でもな。
>劉玄をかばって得をする儒家がいるのか?
光武帝と范曄を貶めたいんだろ。
2人とも儒教原理主義的価値観からすれば誉められた人物じゃないからな。
ああ、こりゃだめだ。
後漢書が范曄のしかないと思っている手合いだ。
たぶん、なんも知らんのに偉そうにしたい類の世間知らずだ。
相手する必要もないわ。
>>686と
>>693の両氏は、犬にでも噛まれたと思ったほうがいいんじゃないか。
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 09:10:37 ID:mHwUPMcx0
なにこの不自然すぎる絡み方w
スルーすれば?
ただ喧嘩売ってるだけじゃん。この馬鹿。
717 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 09:11:49 ID:YfWl0GxV0
田舎のDQN男の家族消えろ 田舎のDQN男の親消えろ 田舎のDQN男の友達消えろ 田舎のDQN男の親戚消えろ
田舎のDQN男の家族消えろ 田舎のDQN男の親消えろ 田舎のDQN男の友達消えろ 田舎のDQN男の親戚消えろ
田舎のDQN男の家族消えろ 田舎のDQN男の親消えろ 田舎のDQN男の友達消えろ 田舎のDQN男の親戚消えろ
田舎のDQN男の家族消えろ 田舎のDQN男の親消えろ 田舎のDQN男の友達消えろ 田舎のDQN男の親戚消えろ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね
苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね
苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね
苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね苦しんで死ね
死ぬときこのレスの事思い出してから 地獄へ行けよ
ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
>ID:z3z3dSDx0
いくら相手の意見を否定するにしてもいちいち罵り・煽りを交えないと
できない奴ってなんなんだろう
端でみている詳しくない俺からしても凄い気分悪いんよね
幼稚な大人なのか、余計な知識をつけた子供なのか、そうでないなら
もっと冷静に述べて貰いたいところ
で、劉玄が実は剛毅で有能な君主だったと思ってる人は彼のgdgdな末路をどう説明するのかな?
それも范曄の捏造ですか?w
光武帝好きっ子ってこんな破綻者ばっかりなのだろうか
>>685 王朗(王昌)も成帝の子・劉子興を名乗っているから劉氏の政権に入るよね?
>>720 俺、光武帝好きだけど、一緒にしてほしくない。
たぶん、こいつは洪武帝が好きなんだよ
724 :
719:2008/05/28(水) 00:35:34 ID:WWAMKyjI0
>>720 いや別に劉秀マンセーな訳じゃないが劉玄に天下統一の可能性があったってのは無理があるだろ常考。
反乱軍の頭目としてはそれなりに有能だったのかもしれないが、即位した後のgdgdっぷり見る限り
どう見たって天下統一できるような器じゃない。
仮に即位の儀の時のヘタレっぷりがネタだったとしてもだ。
劉秀>ケ奉>二十八将
と思うのだがどうよ。
二十八将と言ってもピンキリだからなー。
上位陣と下位の連中じゃ実力にかなり差があるでしょ。
二十八将から七本槍とか六人衆とか五虎将とか四天王とか三傑とか双璧とかを選ぶとしたら誰?
>>727 何かテーマを決めとかないと普通に上から順番になっちゃうかも。
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/30(金) 23:54:32 ID:mWtvyMGq0
じゃあケ禹は全てにランクインですね。分かります。
<雲台二十八将>
ケ禹、呉漢、賈復、耿弇、寇恂、岑彭、馮異
朱祜、祭遵、景丹、蓋延、銚期、耿純、臧宮、馬武
劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂、傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植
8位以下はどうも数合わせな気がするね。
ところで郭聖通=タカビーDQN、陰麗華=クーデレでいいだろうか?
大マグロと小マグロ。
>>730 まあ星官二十八宿に合わせてるからな。
それにしても水増し率多すぎw
あと、郭聖通はプライドの高いお嬢さまだったんだろうがDQNではなかったと思う。
でなかったら何ぼ控えめな陰麗華とはいえ皇后にという話を固辞して郭聖通に
譲ったりはしないだろうな。
皇后の地位を笠にきて自分に危害を加えるような人じゃないと分かってたんだろう。
劉秀も何だかんだで郭聖通のことも愛してたんじゃないかい。
でなかったら5人も子供作らんだろ。
皇后廃した後も中山王太后として皇后に準じる待遇与えてるしな。
まあ一番愛してたのは麗華タンだけどw
>>725 ケ奉は光武帝の義兄ケ晨の甥だし、赤眉軍が荊州に侵攻した時に
育陽を守り抜いて陰麗華を保護する大功も立ててるから、本来なら
二十八将に入ってたはずの功臣なのに、呉漢が新野で略奪やらかした
せいで・・・何かものすごく気の毒だ。
>>734 けど、ケ奉は、趙憙が散々諌めたのにそれも聞かずに叛逆続けまくったから、自業自得な面もある。
呉漢を懲らしめたところで止めておけば、あるいは遅くても光武帝親征前に降ってれば、処刑されることはなかっただろう。
28将に入ってなくて不思議な人間を他にあげると、侯進もそうかな。
あれだけ活躍してる将軍が列伝も立てられてないのが、奇妙だし残念。
武威将軍劉尚や河南太守丁チンもな
>>731 劉隆、王梁、傅俊、任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植あたりは数合わせっぽいね。
郭聖通って麗華より年下なの?
郭聖通とやることやってるなーと思う。
ホントにきらいなら陰麗華の四男が生まれた時点で
残りの三人の男子は生まれないだろうと。
廃后した理由というのは一体……
>>740 キレイな話なわけないジャン
荊州出身者が他の勢力を追い落としたんだろ
でも弟の郭況はその後大鴻臚にまで昇進してるし、光武帝は度々郭家に御幸しては
公卿や諸侯を集めて飲み会やってたそうだからな。
権力争いの末追い落とされたんなら、家が劉秀ご一行の宴会場代わりになったりはしないと思うが。
怨み持たれて宴会の最中に謀反でも起こされたら目も当てられん。
>>742 追い落とされるにもいろんな段階があるってことさ
全滅させるまで抗争を繰り広げることもあれば、どこかで手を打つこともある
この場合、郭氏側も陰氏側もお互いに徹底的にやるのを避けて手打ちにしたんだろう
それは光武帝が両者の間を上手く取り持ったということだと思うけど
郭聖通の身内が出世したのって、むしろ皇后廃された後だな。
母親が死んだ時には光武帝自ら弔問に訪れた上に百官が出席して盛大な葬儀やってる。
光武帝も内心相当後ろめたいものがあったんだろう。
廃后の詔勅では「呂、霍(呂后、霍后)の風有り」とまで言われてるが、記録に残ってる限りでは、
寵愛が衰えてからたびたび怨み言を言うようになった以外には特に悪い事した様子はないしな。
今の時代ならキャリアウーマンになれそうだね
>>739 郭聖通の生年が不明なのでわからない。
どんな人となりだったのかもはっきりわからない。
後漢書光武郭皇后紀には、母親の郭主は礼節と倹約を好み徳のある人、
弟の郭況は慎み深く物腰がおだやかだったので世間の評判が高く光武帝にも
気に入られてたってあるが、肝心の本人について書いてないんだよな。
母親と弟が共に人格者だったのなら、郭聖通もそんなに性悪な女ではなかったんじゃ
ないかと思うんだが。
もしも、この時代にローマと後漢が戦争したらどうなったかな?
ローマはティベリウスとカリグラの時代だね。
ティベリウスは有能だったが、人間不信に陥っていた。
カリグラはそもそも政治をする気がなかった。
もし当時のローマと漢が戦争するとしたら、
部下と厚い信頼関係で結ばれた光武帝の方が
有利になるのではあるまいか。
二人とも財政引締め派だし領土拡張には消極的(反乱は容赦なく叩き潰すが)だから、
戦争にはならんでしょ。
なったとしたら攻め込んだ方の負けだと思う。
芳樹が「ローマの敗残兵が匈奴の傭兵になって漢と戦った」って説を紹介してるけど、
あれって「義経=チンギスハン・説」並みのトンデモ説らしいね。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 23:33:20 ID:mCG4Y7u50
>>750 それなりに背景と歴史がある「義経=チンギスハン説」と一緒にしては失礼だよ
>>751 そうかもね・・・
この説を唱えた学者は「漢書・陳湯伝」の魚鱗陣という記述からこの事実に気づいたらしいけど、どう考えてもコジツケ。
「鄭和アメリカ大陸発見説」といい芳樹は面白けりゃ根拠の無いトンデモ説でも信じるね。
>>751 流布した当時に速攻で識者に否定された義経=チンギス・ハーン説に背景と歴史?
根拠がない話を面白さで押し切るのが小説家の仕事だろ
歴史家ならともかく小説家にそんな文句を言うのはお門違い
まあ奴の場合は本人が歴史通ぶってるダブスタが問題だが
小説のネタとして使うならいいけど、エッセイで歴史家ぶって紹介するのはいただけないな
ローマの敗残兵が、なんで匈奴まで来るんだ?
捕虜が商人の奴隷となり、匈奴の地で売られたって設定?
>>756 確かクラックスだかなんだかの兵が流れに流れてやってきた・・・って設定
>>754 とは言え小説家に振り回される読者って多いからなぁ。
劉備が空気読めば曹操の統一で何の問題もなかった、とか
若い頃の劉備は関羽より乗馬が上手かったので白兵戦では関羽より強かった、とか
自衛隊の戦車はエアコン設置スペース確保のためシャーシの装甲を薄くしているので底に穴が開く、とか
こういうのを問い詰めれば大抵小説家の話を鵜呑みにしてたりする。
紀元前53年、クラッススは八個軍団(約4万)を率いてパルティアに遠征。
カッレの戦いでパルティア軽騎兵に敗北、ローマに帰還した兵士は約1万、
戦死者約2万(司令官クラッススも含まれる)、残り約1万は捕虜となり、
パルティア王国最北端の基地メルブ(現トルメクスタン領カラクム砂漠内にある)で
に送られ、終身兵役を科された。
33年後、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとパルティア王フラテス4世との間に講和が結ばれた。
この時ローマは、カッレの敗戦とその後のアントニウスのパルティア遠征で奪われた軍団旗と捕虜の返還を求めた。
この内、軍団旗とローマ兵の武具甲冑は返還されたが、捕虜は全員死亡していた。
と「ローマ人の物語」に書いてあった。
小説っすか。
漢は武帝の時代に五行説に基づいて「土徳」の王朝と定められたが、
哀帝の頃から「劉邦は赤帝の子だから漢は火徳の王朝」説が流布しはじめ、
王莽が簒奪したときに漢を火徳の王朝としてしまい、それが定着した。
ちなみに司馬遼太郎は土徳から火徳に変わった経緯を知らず、「項羽と劉邦」の中で
この矛盾を解決するため、五行説を誤って解釈して「土は赤である」
(本当は土は黄色、赤は火)と書いてしまった。
つまり皆いい加減ということですね。
評判のわるい塚本光武帝
以前読んだ霍去病のハンサムぶりで敬遠してたのだが、読んでみたら中々面白かった。
塚本劉秀はしょーもないヤツだけど、実際あんなもんじゃねえの?
そうかもしれんのォ!
>>763 塚本光武帝は劉エンがあまりに小者過ぎて悪意を感じたので、
途中で読むのをやめた。
つか、基本的に大物がいないような気がw
みもふたもないとはこのことだわァ!
塚本が「英雄」と言ったら、そいつは小者に書かれるからのォ!
塚本光武帝は郭聖通がDQNすぎて面白かったのォ!
先入観とか期待とか抜きならそれなりの出来だろう。
塚本光武帝は光武帝が主人公って感じがしない
みんな塚本の話題になると食いつきがいいな。
実は好きなんだろ?
呉越絃絃で見限った
なんせ鄭の子産は子姓などとのたまってくれた
773 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 00:28:45 ID:z3kCoUGa0
>>189で紹介されてる芳樹の短編「燭怪」が、
光文社の「平成20年度代表時代小説」に載ってた。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/28(土) 14:25:08 ID:LhuMN7HJ0
漢宮二十八朝演義って面白いの?
>>769 主人公は力子都と李軼なんじゃないかなぁと思ったりw
776 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/02(水) 21:11:03 ID:nQY8t2hN0
塚本氏が書くより宮城谷氏が書いた劉秀の方が面白そうだ。
宮城谷だと隗囂、ケ奉、延岑あたりを主人公に持ってきそうだ
劉秀ってライバルいたの??
第五倫はツンデレ
劉秀のライバル → 王モウ 更始帝
雑魚すぎw
なんで雑魚なの?
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/01(月) 22:55:53 ID:s4k7uCty0
中国語が分からない
785 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/09(日) 19:06:16 ID:u29209MK0
雲台二十八将のランキングってどういう基準で決められたんだろうか
787 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/11(火) 21:53:51 ID:+dwYkFaZ0
>>787 劉秀のツッコミ役は大体妹かケ禹か來歙になるんだな
789 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/19(水) 13:33:47 ID:uBl2/99uO
790 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 17:34:37 ID:LAh83PDU0
劉秀が河北に派遣されたのってただの偶然?
劉秀側が更始帝から離れたがって働きかけたりしたとかそういう感じの痕跡は無いのかな。
更始帝側はもうちょっと警戒してて普通な気もするんだけどね。
>>790 大司馬朱鮪や他の将軍たちが強く反対したが、
大司徒劉賜の推薦と、馮異が左丞相曹竟・尚書曹ク親子に工作したため、
劉秀は河北に派遣された。
更始帝側は強く警戒していたけど、
劉秀側の策謀の方が上回ったってところだな。
あ、やっぱりそういう感じのは有るのね。
後から見るから余計にそう思うのかもしれないけど、
あの時期に河北に派遣って絶妙だなあと思ってさ。
793 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 15:59:52 ID:dg9BkhuiO
>>734 概ね同意ではあるが、基準考えれば32将の方だと思われ。
32将もそうだけど 劉秀も大人物だな
個人的には漢の高祖や武帝よりも器デカイと思う
むしろそいつらと比べること自体おかしい
比べるなら趙匡胤や李世民とかでしょ
任侠
役人
反乱者
将軍
王者
皇帝
預言者
これだけ兼ね備えている劉邦の器はちょっとおかしい
>>796 その項目なら劉備でも兼ね備えているじゃん
つか創業皇帝なら普通
予言をした。
>>799 後に呉楚七国の乱の首謀者となる呉王劉ビの顔を見て「反骨の相あり」と言った事かな?
それから先はお前の知ったことではない(呂后相手?)
ごめん誤爆
あのスレももしろいな
どこ?
結局、こういうやつも権力ふりかざして
有能な家臣を粛清した戦争大好き漁夫の利偽善者野郎なんだろ
こんなやつが優秀なわけない
>>有能な家臣を粛清した戦争大好き
なんの話ですか?
王莽?
高祖は結構へタレなのに、この人はなんで豪傑なんだ?
>>812 劉邦は豪傑で名将だよ?
超弩級の豪傑や名将でこそなかったが、ヘタレなんてとんでもない
>>812 高祖は各国の名将達をボッコボコにした楚軍を何年も引き付けて韓信に華北を平定する余裕を与えた
楚軍主力を数年引き付けた戦術能力はとても優れたものだよ
局地戦の勝利を捨てて戦略的な優位を保ったわけだし
高祖は陣頭に立って敵将を討ち取ったとかはあったけ?
>>815 二度も矢を身体に受けてるので、陣頭に立ってたのは間違いない
大司馬曹咎など、自分が指揮して討っている敵将も少なくないよ
相手が当時最強クラスの項羽や冒頓単于だったから雑魚に見えるが、
秦軍や英布には普通に勝ってるからな
陣頭に立って敵将を斬るような君主は相当に少ないわな。
>>817 なんつうか、秦軍は主力を項羽が引き受けてなかったっけ?
英布ってのは、造反のときの?
>>818 秦の主力は項羽が引き受けたが、項羽もまた楚の主力であって、劉邦は小規模な別将
それで南陽郡近辺を制圧して武関から秦に侵入し秦本国を占領したんだから、劉邦はこれだけでも名将の器
秦にも守将はいたんだしね、士気は低かったけど
>>818 部隊長とか将軍とかやってたときに陣頭で直接一騎討ちしてたとか、
してた君主はそれなりにいたのでは?
皇帝になっても陣頭で槍振ってたのは光武帝くらいかな?
>>819 別に否定はしないけど、ちょっとその説明が先にないと
一方的な見方にしか見えなかったもんでね…
長文になるのを避けたのだろうけど。
>>820 石虎とか柴栄とかもだけど、「敵将を斬る」というのはどうよ? というところ。
李世民も秦王時代なら、真っ先に馬飛ばして、敵兵を射ることはあったけど
将を斬るのはどうだっけ?
また、晋王の李存勗も同じく、敵兵を射ることはしたが…
ま、詳細に探せばあるのかもしれないけど、今は知らないもので。。。
趙匡胤は?
>>823 皇帝になってからはさすがに前線へは…
つうか、征戦自体部下に任せることが多かった。
逆に言えば、それだけ部下に手柄立てさせてるのに、のちに
兵権返上させたりできたのがすごい。
明の永楽帝も即位後は出陣無しか
曹子桓は即位後も親征しているけど、最前線に入っていないだろうしなあ
即位後も前線に出るという条件を満たしている皇帝っているのかね、そう考えると
>>825 親征というなら、宋三代はやってるが、前線指揮はちょっと。
太宗も敗走のときにヤヴァイってのはあるが、攻めてて狙撃されるとかは
なかったような気がする。
後周世宗は狙撃されて外れて、さらに挑発的に前へ進み出たくらい
おもくそ最前線で指揮してたが…
漢光武帝は自ら敵兵を斬り進んだんだっけ?
光武帝の即位後、自ら将として征すという記述があるのは、西暦27年八月、
28年閏一月、29年三月、30年六月。前線に出ていたのは確かだ。更に
27年三月には岑彭伝に「帝率諸将親戦」
30年六月には劉永伝付ホウ萌伝に「而帝親自搏戦」とある。
搏戦は要するに白兵戦。
>>827,828
じぇんじぇん合っていない。泣けてくるわ。正しくは次の通り。
光武帝の即位後、自ら将として征すという記述があるのは、西暦27年八月、
28年閏一月、28年三月、30年六月。前線に出ていたのは確かだ。更に
28年三月には岑彭伝に「帝率諸将親戦」
30年六月には劉永伝付ホウ萌伝に「而帝親自搏戦」とある。
搏戦は要するに白兵戦。
>830
>搏戦は要するに白兵戦。
正確に言うなら搏戦は白兵戦ではなくて組み討ち・殴り合い。
搏は「うつ・たたく・てうちにす」と読む。
だったらホウ萌との戦いは光武帝の勇猛さを表すのではなく、
むしろ大将がレスリングしなければならなかったほどの激戦であり、
薄氷を踏む思いでもぎ取った勝利と考えるべき?
ちなみに中島敦の『李陵』に搏兵戦という単語が出て来るが、
あれは中島敦の白兵戦から連想した造語らしい。
そこらへんを高島俊夫氏がエッセイで大いに突っ込んでおられた。
>而帝親自搏戦
ふつーに考えて戦争狂の基地外の行動に思える。
アレクサンドロスもその手の中央突破をやってるし。
本当の意味での”武”の帝じゃな。
陣頭に立って自ら矛を振るう武勇の皇帝ていいわぁ〜〜
郭聖通を廃后したのって
光武帝は腹の底ではやっぱり最愛の麗華を皇后にしたかった
人生の黄昏に入ってきて益々その思いが強くなった
夫の腹が透けて見えた郭聖通は精神不安定になる
渡りに船と理由つけて廃后
大きな落ち度も無いのに降格させたので後ろめたく待遇はそのまま、嫁実家も優遇
皇太子が数年後に交代したのは麗華の子が育つまでの保険
後、子供の数もね。跨いだら妊娠するタイプの女性だったかもね郭聖通
子供の数、男子は分かっていて、郭聖通5人。陰麗華5人。
跨いだらって、それは陰麗華も同じということに。
皇后交代に目がいきがちですが皇太子も変わってますよね。
ニワカの妄想ですが
聡明さを見せた明帝に
帝位を譲りたくなったのかも。(陰麗華との子だし)
まず母親の位から交代したほうが流れとして自然だったのでは…
陰麗華って、名前から美人オーラ漂ってるなぁ
>>834 建武十七年(西暦41年)十月、光武帝は皇后郭氏を廃して、陰貴人を皇后に立
てた。
建武十九年(西暦43年)六月、光武帝は東海王陽を皇太子と為し、皇太子彊を
東海王と為した。
ということで、始めから皇太子を変えたかったら、一年半もほっぽって置かな
い。『後漢書』郅ツ伝には皇后が入れ替わったことで、皇太子劉彊が不安を抱
いたので、それなら皇太子を譲ればと郅ツが諫言して、劉彊がしつこく座を明
け渡そうと光武帝に陳情した、その結果が皇太子の入れ替え。
まあ、政治家としては劉陽(改名後は劉荘)が優秀だろうが。
>>837 皇太子入れ替えは幼い時は暗殺やら危険もあるし劉彊で良かったけど
劉荘が成長したのでお役ご免になったとか
1年半以上無視したのは皇后と皇太子いっぺんに変えると色々と動揺が
あるから、劉荘が今ひとつ幼く不安があったからとか
考えちゃったです
ども
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/10(火) 17:00:42 ID:lnVzXDno0
趙匡胤混じってるぜよw
じゃあ、ちょっくら行ってくるわ
ケ禹はこのスレでも評価低いな
某ゲームだと統率は徐達より高い
ケ禹は建武四年の延岑雪辱戦以後、建武十三年まで右将軍なのに活躍の記述が無い。
賈復も建武三年の赤眉攻略戦以後、建武十三年まで左将軍なのに活躍の記述が無い。
この間、史実に残らないのは、本当に光武帝の左右に居たからじゃないかな。皇帝
の御幸・親征は記載されるが、お供まで記載されるわけじゃないから。そして功績
も皇帝のものに帰される。
要するに、この時期もケ禹・賈復は活躍していたんじゃないかと思うわけです。推
測に過ぎないが。
845 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/16(月) 16:18:09 ID:KGzRUeik0
ケ禹て派手に負けるイメージある。
怜悧な秀才タイプかと思ったら負けてムキになって
リベンジマッチを仕掛けてボロ負けするあたりが
なかなか人間くさい
強化型の馬謖みたいなもんか
泣いてケ禹を切る光武帝
849 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/16(月) 22:50:40 ID:5UAw0SYR0
ケ禹の序列はあと10位ぐらい下げても構わないな
ケ禹を責めるのは簡単だけど、関中に入った時は若干24歳。そしてその時
同行していた軍隊の実働である将軍のうち4名は戦死・仲間割れで居なくな
り、軍歴不足にもかかわらず、かなりを自分で処断しなければならぬ辛い立
場にあった。こんな状態で冷静な判断を求められてもなあ、と思う。
だが援軍を率いてきた馮異の反対を押し切って反転攻勢しかけた挙句
ボロ負けしたのは弁護の仕様がないだろ。
あとは馮異に任せて引っ込んでりゃよかったのにさ。
向き不向きは誰にでもあるけど、(張良だって自分で軍を率いるとダメだった)
それを自覚せず無用に兵を損なったのは痛い。
852 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/17(火) 01:53:03 ID:vSEtA6wN0
ケ禹大人気
よくおもったけど雲台の順位て戦の上手い下手で決まってるんじゃないよな?
そりゃそうです。あくまで建国創設の功績で評価されているので、
確かに統一戦の軍事的功績がクローズアップされがちですが、
それだけの話ではない。
むしろ劉邦が蕭可を勲功第一としたり、明では李善長を一位にしたり、
この手の序列はやはり文官としての功績者をトップにもってきますね。
司馬光とか胡三省とか後世の史家がしばしば28人の序列を論じてるがケ禹の1位は誰も動かさない
どんなに不振でも1番に固定されるイチローみたいなもん
ひところ流行った後漢豪族連合政権説ふうにいえばケ氏の協力が必要な事情があったとか
光武帝と子供の頃からつきあいがあった事とかいろんなファクターが絡んでるんだろうよ
ただ目立った文事がない一方で「朕と帷幄で謀をどうたら」言われてるから
軍功に一定の評価がされたことは確かだよ
>>855 その司馬光と胡三省の28将論の内容が知りたい
ごめん、論じたってほど大層な話でもなくて、後漢書で
賈 呉 ケ
復 漢 禹
・・・
陳 王 馬
俊 梁 成
と縦2列に書かれてたのを、司馬光が資治通鑑で
「トップがケ禹、次が馬成、呉漢、王梁・・・」と並べたところ
胡三省が通鑑の註で「『ケ禹、呉漢、賈復・・・』の読み違え」と指摘しただけの事だよ
史家たちは序列と功績との釣り合いの問題にまでは踏み込んでなかったって事
光武帝の褒賞から見れば、分かっている限り
1位 賈復・・・食邑六県(建武十三年の大封爵で)
2位 ケ禹・呉漢・・・食邑四県(ケ禹は建武十三年の大封爵で)
雲台二十八将の順位を決めたのは明帝だろうけど、公孫述を倒した後の、
言わば、祝勝大バーゲンであった建武十三年において、光武帝のケ禹の評
価も高い。賈復は寇恂との諍いが大事に至らなかったので失点が無く突出
する。呉漢は実はこの時(大封爵は呉漢が洛陽に戻った時)、蜀制覇の功
績に対する封爵の記録が無く、寧ろ蜀の非道なやり方の当てつけか、直前
に穀二万斛を贈られたのみ。それを考えると何にせよケ禹って評価されて
いることは確か。・・・それが後世の人に明確に見えないからあれこれ言
われることになる。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 07:18:44 ID:4r27M3oZ0
勝敗は兵家の常のだろ? 確かに負けが目立つけど>ケ禹
2位の呉漢も延岑や隗囂に負けてるぞ
860 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/20(金) 16:02:04 ID:7M4Ld5LE0
雲台二十八将て過大評価だよな、
ケ禹、呉漢なんて曹操以下
861 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/20(金) 20:30:47 ID:qDQJ2FKp0
でもしかは無意味だが、全中華制覇したときまで大樹将軍が生きていたら、ケ禹の序列はどこまで
下がったかなあとか考えてしまうな。
間違えた、たらればだ
馮異は生きてる間に関中より北西の軍閥やら匈奴やらをほとんど片付けて
結構広い範囲を切り取った訳であれ以上長生きしたら本当に関中王になったかもしれん
これこそ無意味なタラレバだけどな
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/22(日) 07:18:08 ID:LYz7PzBL0
新末は三国時代よりレベルが低い
曹操>>>>>>>>>>>廃后、宦官重用で王朝滅亡の遠因を作った匹夫光武帝
荀ケ>>>>>>>>>>>常敗将軍ケ禹
張遼>>>>>>>>>>>>>>>>>>裏切り者ケ奉に殺されかける雑魚賈復
鍾会>>>>>>>>>>>延岑を勝手に処刑する野蛮人呉漢
張飛>>>>>>>>>>>>>>>>>>公孫述の刺客に暗殺される馬鹿岑彭
新末は三国時代よりレベルが低い
865 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/22(日) 09:24:19 ID:O30ZOdkz0
>>861 一位のまま、もしくは、下がって二位
人事、相当なものであったかも知れない参謀としての功績、河北の軍事実績、
君主の信頼できる人間であること、開国の元勲として皇帝のそばにいたことだけでも功績
(どんなに優秀でも君主が信頼できねば意味がない、李世民も長孫無忌が一位)
>>859の言うとおり、延岑、樊崇ら歴戦の猛将に不敗はどんな名将でも難しい
更始帝側が少なくとも軍事においてはむしろ優秀な方だったことを考えれば、
ケ禹が連敗を重ねても、馮異に引き継げただけでもよしと考えてもおかしくない。
これほどの強敵を相手に、はじめから自ら赴かなかった光武帝にも責任の一端がある。
>>864 釣りのわりには新末に妙に詳しいなw
>>865 >これほどの強敵を相手に、はじめから自ら赴かなかった光武帝にも責任の一端がある。
この時、光武帝は河北の賊軍平定で、上谷・漁陽に南陽の将らを率いねばならなかっ
た。様々の出身の将兵をまとめるには、旗頭である劉秀以外にあり得ない。そして、
河内には洛陽に対して守りを固めるべく寇恂・馮異を配置していた。
それでもって、ケ禹を関中に送ったのは、更始と赤眉の争いに応じて漁夫の利を得ん
としたからだが、兵力分散の無謀な戦略と言って良いような。
河南が確保できるまでは、誰も関中へ送るべきでは無かったかも。その場合は、三国
時代になっていたかも。歴史にifは無いけれど。
>>864 今度は書き損なっていないなw また、書く所も間違っていないw
>>866 >河南が確保できるまでは、誰も関中へ送るべきでは無かったかも。その場合は、三国
>時代になっていたかも。
大失敗じゃねえかw
>>866 結果オーライというか楔を打ち込むのに成功したのは
それなりに評価出来るんじゃないか?
>>865 >>866 それらを劉秀やトウ禹の責任とするのはなぁ。
内訌の頻発、また、蜂起当初は略奪が少ないとの風聞のあった赤眉が必要以上に略奪したのは
想定不可能の事態だろう。
当時の兵法の常道から見て、兵糧は現地調達をある程度期待していたであろうから、
関中制圧方針そのものを問題と見なして彼らのどちらかに責任を帰すことは難しいと考えるが。
関中はこの時代の代表的な穀倉地帯だから早期に抑えることの意義は大きいし、
隗囂が当時劉秀シンパとして動いて居たから極めて大きな近隣勢力による協力のあてもあった。
また、河北制圧に関連して実績を着実に積んでいたトウ禹が戦に弱いという印象は当時はないだろう。
その後、敗戦したあとに勅が下っても攻撃を続けて敗戦を重ねたのは確かにトウ禹の責任であろうが。
「だから最初からやらなきゃよかったんだ」は思考停止だと思うぞ。
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/23(月) 22:21:02 ID:MlxWzaIZ0
赤眉にボコられて、たった二十四騎で逃げ帰るってのは流石にかっこ悪いね。
それでも光武帝からの信頼が揺るがなかったのは、光武帝にとってのケ禹は、
曹操にとっての夏侯惇みたいな存在だったんだろうね。
>871
オレとしては荀ケの方がイメージに近いんじゃないかと思う、最期は違うけど
名将ではないが名臣
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/02(木) 12:52:10 ID:igEkTMLL0
劉秀をあと一歩まで追い詰めた
倪宏て何者?
『後漢書』光武帝紀第一上では倪宏
同、銚期伝・景丹伝では兒宏
他に記載無く、王郎の下で戦ったことしか分かっていない。
詳しく知るサイトとかない?
新末はほとんどないねぇ。
通鑑の訳も、隋末とかと違い行われてないし。
そういや倪宏・劉奉と戦って不利に陥ったって通鑑以外にあったっけ?
後漢書や後漢紀など、現存する早い時代の文献にはないっぽいんだよね。
他の後漢書が失われたのがつくづく惜しいなぁ。
発掘されてくれないだろうか。
数分かるだけでも全然違ってくるんだが。
光武帝の本陣につっこんで太鼓や馬車奪ったらしいのは知ってるけど
自分は呉漢、好きだわ。
主君である光武帝の敵を有無言わさずに族滅は当然、根絶やしにする姿勢に痺れる憧れる。
呉漢に族滅されたり、根絶やしにされたりするのが痺れるとは、とんだどMですね。
880 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/07(火) 21:48:59 ID:qrPxTOPB0
呉漢は普通にカッコいい
名前が「漢」だからな。
漢の忠臣になるべくして生まれた漢の中の漢。
頭が切れて戦は強い。
弁は立たず、不器用だが主君に忠義を尽くす男
かっこいいじゃない
呉漢て国名みたいだよな
五代のときに呉越があったけど
『やる夫が光武帝になるようです』いい。
下手な小説よりおもしろい
>>下手な小説
ここに食いつくなww
889 :
886:2009/04/12(日) 17:21:02 ID:/16Vk9Fb0
下手な小説がどれかは置いといて・・・
ちゃんと盛り上げ所もあって、他のやる夫シリーズと比べても一線画す出来。
ドSの劉元・娘達との別れなんて、涙してしまう。
史実には沿っているけれどあの性格設定だから、司馬小説みたいに混同する人も
いないんじゃないかな。初心者向けには最適でしょう。
作者はこのスレの住人じゃないの?
まあ下ネタ多すぎなので、ネラー限定ではあるけど
下ネタがいいんだよ
やる夫が光武帝でもそうだけど、呉漢は苛烈だな。
だけど乱世では正しいかも。
>>891 乱世でも苛烈な奴は嫌われたり悲惨な末路だったりするものだよ
必要悪ではあるかもしれんが正しいとは思わないなあ
光武帝本人+配下の将軍達の大半が軍規厳正・略奪禁止・無用な殺生は避けるタイプだから
呉漢だけ悪目立ちするんだよな。
もしかしたらそれを承知の上で敢えて憎まれ役を一手に引き受けてたのかもしれないが。
>>893 明らかに必要のない略奪で敵を増やしているのに、その解釈はないだろ。
>>894 ああ、そうだなぁ。
新野で略奪やってケ奉に反乱起こされたりとか、もうアフォとしか思えないもんなぁ。
そのせいでどれだけ鎮圧に手こずることになったか。
呉漢は功罪だと罪も大きいな
結局、ケ奉て処刑されちゃったんだっけ?
そういう訳だし、光武帝も助けてあげればいいのに。
>>897 記憶が曖昧だが、劉秀はトウ奉を助けようとしたんだけれど、
・最初に呉漢を告発しなかった。
・呉漢を攻撃したことについて先に釈明しようとしなかった。
・釈明するよう説得する者が劉秀政権の高官に居たにも関わらず戦い続けた。
・劉秀の親征にあっても下らなかった。
などが理由だったかで、これは斬らないと示しがつかないと耿エンらが諫言したんじゃなかったかと。
確かトウ奉は劉秀政権からの反逆者の中で、劉秀が助けようとした唯一の人だから
色々思うところはあったんじゃなかろうか。
汚職で死罪になるはずが功績によって許された劉隆
詔勅違反2回で斬られるはずが功績によって?許された王梁
こういう例をみると1ミスで死罪になった有象無象がいそうな気がする
900 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 20:01:03 ID:O88q+Odv0
>>899 欧陽歙は汚職で獄死。
載渉は殺人罪に連座して獄死。
武将はミスをしても許される場合が多いが、
文官は許されなかったケースが多い。
韓キンなんてミスしてないのに、
光武帝に嫌われて自殺に追い込まれている。
901 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 20:06:22 ID:qLGTyc7I0
河北閥と南陽閥の綱引きとかあったのかな
それにしても呉漢はすごいよな。大司徒・大司空が次々罷免されているのに
19年間ずっと大司馬だったという。
>>898 『後漢書』岑彭伝
岑彭と耿弇諫めて曰く「ケ奉は恩に背いて反逆し、兵を引くこと年を経て、
賈復は傷痍し、朱祐獲えらるるに至る。陛下が既に至りても、善に悔いる
を知らず、しかも自ら行陳にありて、兵敗れてすなわち降る。もし(ケ)
奉を誅せざれば、以て悪を懲しめる無し」
つまり、通常の反逆罪に加えて、敵陣に主君・皇帝がいるのにも投降せず、
なお陣中にいて直接戦った。降る気になったのは負けたからという、これ
では斬らないと示しが付かない ちゅうことらしい。
これは完全に自分の推測だけど、岑彭と耿弇がケ奉の処刑を頑なに主張したのには、
ケ奉が劉秀と姻戚関係にあった、というのも一つの理由なんじゃないかなと思う。
ここでケ奉を許してしまえば、「ああ、光武帝って身内には甘いんだな」っていう評判が立ちかねない。
岑彭と耿弇はそういった評判による光武帝の求心力低下を危惧したんじゃなかろうか…。
ちなみに、ケ奉反逆後の劉秀とケ奉のやり取りが、やる夫スレではどう描かれるのか凄く楽しみです。
>>900 ミスしてないというより、諫言居士過ぎていきおい災異説込みで批判したのが怒りを買ったように思う。
災害が多くて光武帝としても痛いところだったんだろう。
政治には本来自信があるし、出来うる限りのことはしたと思っているのに、災害は起こりまくってるんで、
迷信深い光武帝は神経質になってたんだろうと思う。
906 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/16(木) 07:32:24 ID:eu8bocrC0
>>905 光武帝より上の仕事をするのはほとんど無理だしな
始皇帝、洪武帝、雍正帝とかみたいに一日中働いてるようなワーカーホリックぐらいじゃないか
天災がおまえのせいとか言われたら腹立ってコロコロしちゃうのも無理ない
まあそこが光武帝の寛容さの限界だったろうが
舌禍で死ぬのは自業自得としか言えない
歴史に名を残せてよかったね、という感じ
>>904 なんにせよ
>>898に書かれた事が出来てれば身の破滅はなかったろうし
どこか野心めいたものを持っていたように思われても不思議でもないんだよな
ロイエンタールって単語がよぎったのは俺だけではあるまい
芳樹は光武帝の大ファンだし
彭寵反乱時の朱浮とか、ケ奉反乱時の呉漢とか、
反乱が起きる原因を作った人間が全然処罰されないのは、
えこひいきに感じる。
光武帝、朱鮪の息の根を止めなかったのが不思議でしょうがないんだけど。
何でやねん?兄貴の仇やろうに。
族滅、皆殺しでしょうに。
早期降伏と引き換えに助命を約束したから、
につきるのではないか?
どの道、降伏させてしまえば生殺与奪を握れる。今すぐ殺すかあとで殺すかの違いだけ
一度降っても不穏な行動をして結局殺されたやつはいるし
朱鮪がそうならなかったのは彼が身を慎んだということだろう。
過失と処分が一致してないのは韓キンくらいじゃないの。
張純って重要人物なのに誰も口にしないね
青州富平侯張純もそうだけど、大舅張況の方がもっとクローズアップされるべきのような。
張純で驚くのは列侯在位年数
この時代で、言及されていない人ってまだまだ多いよな。三公だけでも
大司徒経験者だと、伏湛、侯覇、欧陽歙、戴渉、蔡茂、玉況、馮勤、李訴、
大司空経験者だと、杜林、張純、馮魴、
大司馬(太尉)だと、趙憙。
知られているとして省いたのは、ケ禹、韓歆、王梁、宋弘、李通、馬成、
竇融、朱浮、呉漢、劉隆。
個人的に取り上げるべきと思うのは、郭伋、杜詩。経歴や活躍が面白いから。
>>910 敵対してる連中に「光武帝の兄の仇である朱鮪でさえ許されたんだから、自分も降伏すれば
許してもらえるだろう」って思わせる為でもあったような。
劉邦が張良の助言で雍歯を真っ先に封侯したのと同じ策。
その割には降伏して天寿を全うした奴が少ないような気が。
ああ、ちょっとでも不穏な動きした奴は即あぼんされてるなw
つ竇融
つ徐宣・楊音
920 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/04(月) 23:50:39 ID:YftsCNOH0
内政に関しては光武帝よりも、息子の明帝の方が優れてると思う
まあ、その辺は家康・秀忠っぽいなあ。
922 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 08:39:53 ID:zUXrceZLO
後漢の研究者って誰がいる?
東、佐原、五井くらいは知ってるが…
宇都宮清吉
狩野直禎
吉川忠夫
石井仁
渡邊義浩
最後の人の責任じゃないんだが
名士って言葉だけが独り歩きするのはいかがなもんか
924 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 17:00:43 ID:zUXrceZLO
>>923 サンクス
質問ばっかで悪いが後漢=豪族政権っていうのが通説だけど別の考え・説を唱えてる人はいないのか?
うろ覚えですまんが渡邊さんは『後漢国家の支配と儒教』だかの中で
「一時批判されてきた豪族連合政権説の再構成を試みる」みたいな事を言ってたと思うから
豪族連合政権説を批判する動きがあったんだろう
誰が批判してたかもちょっと覚えてないけど
それこそ東とか五井とかの人達の説じゃなかったっけ?
儒教による支配を強調すると豪族連合政権説に傾きやすく
法家による支配を強調すると豪族連合政権説を否定する方向に行くんだったと思うが
これも詳しい中身は思い出せない
後漢が豪族政権ってのはどこから出た説だろう。
初期は皇帝権力強かったっぽいし、
中期以降は外戚や宦官がのさばってたし。
>>926 トップだけで判断してるわけじゃないと思うよ
各地を統治する太守や刺史、政権の中枢にいる大臣や側近、そういった連中が豪族の出であり、豪族にとって有利な政策を敷いていた、という解釈でしょう
初期にしても、戦乱で行き過ぎた部分を是正してはいても、豪族を明確に敵視した前漢と比べると明らかに対豪族がトーンダウンしている
豪族連合政権は言葉のイメージとしてちょっと言いすぎかとは思うけど、それまでよりも豪族有利な制度になっているのは間違いないだろう
党錮の禁とか見ると豪族にやさしい王朝とも思えないけどなあ
トップがいるかいないか分からん状態でgdgdになっただけじゃないだろうか
>>927 初期はトーンダウンしたとまで言えないような。
光武帝の時代に民間から太傅にまで登った趙憙自体、人物の性格として前漢の酷吏の系統だし。
太守格以上に豪族が多いのは前漢後期からそうだ。
がらっと変わるのはやはり章帝からじゃないかな。
それまで法家的発言をしていた人間が急に徳治を求め出したって話を聞いたが。
そこまで急激な転換があったのは章帝自身の性格の問題のように思う。
932 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 09:21:33 ID:VXO8WulKO
光武帝主人公の面白い小説ありませんか?
933 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 10:23:16 ID:HNtm/D510
つ塚本
つやる夫
つ東漢演義
936 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 21:35:46 ID:WZGSrzwLO
つーか豪族の定義がイマイチわからん
平たく言うと大土地を所有して小作人やら奴卑に耕作させて
収益を上げるのが豪族で、外戚は帝室と通婚した豪族
938 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 12:29:49 ID:by/D7Mk7O
大土地は持ってないけど金持っててその地域に影響力のある人は豪族ではない?
大土地がどの程度かとか小作人にしても1人でも雇ってたら豪族と言えるかとかハッキリしない気がするんだが
貨幣の流通はもちろんあったけど農本主義が経済の基本なんだから
土地はないけどカネはある、って人はごく例外的な存在なんじゃないの
銭が本当に物を言うのは南北朝時代からと聞いたことがある。
公孫述は刺客部隊でも養成してたのだろうか?
暗殺成功率が異様に高い気がする
やられた方がアホなだけかもしれんが
942 :
始皇帝:2009/06/19(金) 11:09:23 ID:AvtYeO5W0
洛陽の光武帝の墓いってきます。応援よろしく!
光武帝ははずせません!
943 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 11:14:03 ID:H5H4GjQO0
感想よろ
やる夫スレ、とうとうオプーナに運命の時が…
>>935 その東漢演義とやらはどこで読めるんだい?
和訳とかはないの?
やる夫スレ、普通に面白いんだけど、
なんでこの時代がつまらないって言われているの?
スレ主のストーリーテリングが上手いだけ?
>>948 あなたは、この時代のことを知ったのは、何によるんだい?
俺なんかは、10年前から『後漢書』列伝読んで面白い
って思っていたんだけど。
>>949 サバ読んじゃいかんな。7年前からだった。
後漢初めの人物は子細にみれば十分キャラが立ってると思うが
一見すると優等生ばっかりでキャラ立ちが薄いめだからじゃないか
創作ものをやるにしても、三国志なら張飛が怒鳴ると曹軍が慌てて逃げたとか
孔明が弁舌振るうと相手が悶死したとかのムチャをやらせても
リアリズムをギリギリ保てる(保ってない?)ぐらいキャラが立ってるが
呉漢やケ禹に同じ事をさせたら一気に白けるはず
三国志だって地味な人物を羅貫中が無理矢理キャラ立ちさせたからこそ今がある。
関羽、張飛は十分正史でも派手じゃないか、趙雲も別伝あるから派手
孔明の超人化だけは凄いものがあるが正史での評価も非常に高い人物であることに変わりない
創作物として微妙なのは何度か言われてるように敵キャラにあまり飛びぬけた人物がいないからじゃ
劉備や劉邦にとっての曹操、項羽みたいに
やる夫スレが面白いのは作者の腕も大きいだろうね
>>954 敵役として一番魅力的なのは・・・・・トウ奉かなぁ?
チュン姉妹だろjk
延岑じゃね?あのしぶとさは異常
延岑って用兵がうまいことで有名だったらしいけどけっこう負けまくりだね
知略や武勇にはあまり優れてなかったんだろう
延岑の戦いの評って実は殆ど無い。俺が調べた限り 『後漢書』の張歩伝にある、これだけ。
茂讓歩曰:「以南陽兵精,延岑善戰,而耿?走之(以下略)」
これは、耿?を迂闊に攻めて負けた張歩を蘇茂が詰っていた言葉。訳すと
蘇茂は張歩を責めて曰く:「南陽兵の精を以て、延岑は善く戦った。しかれど耿?はこれを敗走させた(以下略)」
これだけだと、延岑は頑張り屋というイメージしか湧かない。
俺も知りたいんで、誰か延岑の評判を知っていたら、出典付きで教えてくれないかな?
>>961 同じ記述しか発見できず
ただ訳が
「南陽の精兵と、延岑の武勇をもってしても、耿?は撃って敗走させたのです。(以下略)」
だった
何度負けても戦死しなかったり、公孫述が大司馬にしてるところを見ると将としては
相当有能だったのだろう
呉漢を奇襲で破ってるし、知略もそれなりにあったんじゃないかと
>>952 略奪が多いけど基本は寡黙で私利私欲にうすいタイプだからなぁ。
これで美形なら華があるんだが、顔はアレな人だし。
馬武先生に最初から最後まで引っ張っていって面白おかしくしてもらうか。
問題はキャラをつきつめて考えていくと、劉秀が黙ってれば二枚目、
口を開けば三枚目な、狂言回しが異常に似合う、どうみても主役向きじゃない男だってこと。
んで明るくて世の中の最新情報を学校に持ち込んで問題提起するようなキャラなんだから、
まず少女漫画の当て馬とか、主人公を羨ましがる美形親友キャラの方が既存の作品のセオリーにかなうと思う。
>>962 「南陽の精兵と、延岑の武勇をもってしても、」でググレば、確かにあった。
検索された3ページ見ても、1つのサイトしか該当しなかったから、そこが由来と確定。
なるほど、こうして評価が一人歩きしていくのか。
>>964 一つ突っ込むと、記憶が確かならそのサイト主、2chもやる夫の方も見ているから、
出所でなくて当人の可能性もあるよ。
確かに、真面目に聞いてるのに専門の大学教授でもない、他人の訓読や評価をもとに回答したとすれば
ルーツ君並みに非常に困った態度だけど、完全に断定出来るだけの材料はないかと。
個人的に延岑は毛利勝永みたいなイメージはあるけどな
コラ沢(やる夫スレでは初期案だった)みたいな感じが本当なのだろうけど
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/10(金) 05:47:42 ID:nABJnilw0
呉漢その他の入蜀を徹底妨害してるんだから
戦術的には相当なもんだと思うがな
呉漢はなんであれだけ好き勝手やりまくってお咎め無しだったのかね
ケ禹も結構アレだけど・・・
>>968 河北平定の際に汚れ役をやらせたからじゃないかな?
そう言えば、謝躬殺害って誰が計画立てたんだろうね?
>>969 特定の謀臣による発案ではなかったように思う。
劉秀自身の発案で、史家がそれをぼかしたか、
途中で口をつぐむ奴が居て史家に情報が伝わらなかったってことはありそうな気がする。
971 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/16(木) 00:28:13 ID:YJ+yvgXG0
あるサイトで董憲がすごい名将って書かれていたけど、
名将100選スレでは樊崇こそが新軍に打撃を与えた名将とされている
廉丹を直接、討ち取ったのは董憲っぽいけど、樊崇の全体行動の結果ともとれるような
どっちの方が蓋然性が高いかな?
個人的には、樊崇の方が軍事的手腕は長けていると思うけど
>>968-969 汚れ役もそうだけど、彼ほど無私で有能で派閥に属さない人間を用意することが難しいと考えたのかも知れん。
あと、反感を受けている人間が功を立てても帝位は決して脅かされないからな。
彼は嫉視讒言なんでも受けていたし、顔立ちも芳しくなかった。
功を立てさせるのに非常に都合が良かった。
董憲にしても呉漢についても、後漢書とか引かずに、どこかのサイトのどれほど信頼が置けるのか
不明なことを元に論じているな。
董憲がすごい名将という表現、史書や何か他の文献があれば教えて欲しいな。
呉漢の容貌について、 〃
確かに呉漢を劉秀との対比でブサメン設定したりするファンサイトはある
容貌の描写などについての根拠はないし、後漢初ネタはごく一部での人気しかなかっただけに
チェックも入りにくかったんだが、これからは史料から離れた自由なスタンスでやるのもキツかろう
しかし趣味板でアカデミズムをあまり厳密に追求しても人がいなくなるだけに思える
官制上の軍師だけを対象にしたスレを中英に立てて1桁レスでdat落ちした経験から学んだよ
個人サイトで染め上げられたのを叩くのは
なんかジェラシーの香りがする
976 :
971:2009/07/21(火) 22:39:17 ID:nw0abu1r0
確かに、ジェラシーかも知れんが、
やる夫の感想で、『廉丹を倒したのは董憲』って書いて欲しかったって、
わざわざ書き込んでいたので、名将ってのが、その人の中の設定じゃないんだって思ったからな
ウィキと後漢書で検索してもよく分からなかったんでたずねた
光武帝スレやサイトで、樊崇名将説に反対する人が多いのを見てかなり違和感。
ケ禹・馮異と蓋延どちらが手強いと思っているんだろ?(他の人は延岑だけど)
>>976 >光武帝スレやサイトで、樊崇名将説に反対する人が多い
あれ?そんな人いる?俺は見たこと無いけど。
やる夫の方でも倫理面を非難されて同情に値しない、心情描写が美化臭いとは
言われていたけど、能力面に言及していたものはないし。
ケ禹は直接手ひどく貶されていたけど。
あと、もう少し解りやすく言ってくれると頼む。
全体的に何を伝えたいのかが解りにくい。
>>976 言いたいことはよくわかる。俺は素人でただ光武帝すげえなあと思ってこのスレとかみてた人間だけど
やる夫スレが出来てこの時代を物語として見るようになったら全く見方変わってきたな。
二十八将の下位連中は間に合わせとかいわれてそれに対する大した反論もなかったし、
俺も実際そうなんだろうなあと思ってたけど任光、李忠、ひとう、萬脩の存在が劉秀にとって
どれだけでかかった事かわかった。こいつらいなきゃどうしようもなかったもんなあ。
樊崇もやる夫スレができるまで話題になんかほとんど出なかったし、名将スレでも光武帝陣営以外がいないから
仕方なく選ばれたみたいな雰囲気あった(ていうか樊崇って誰状態)けど実績鑑みれば周瑜に劣ってないなあと。
何より光武帝の天下取りがどれだけ苦難続きだったかわかった。
まあ何が言いたいかというとやる夫スレの1さん最高ってことで。
樊崇もそうだが個人的には張歩が憐れでならない。
『後漢書』と『後漢紀』をしっかり追ってくと結構軍才豊かな男にみえるのに、
相手の耿エンが頭おかしいんじゃないかってレベルの名将だったせいで、
無能なのに群雄に名乗り出たカスみたいな扱い。
まあ、蘇茂の引き立て役にまでなったせいもあるだろうが。
>>977 >あれ?そんな人いる?俺は見たこと無いけど。
その人と、このスレの
>>290-297あたり
わざわざ向こうのスレに樊崇落とせと言う人までいて、そのスレの事情があるとさとされている
さとした人もこのスレの住人と思ったいたようだ
その人については、個人のサイト叩きが目的でないので、
『董憲 赤眉最高の名将』でぐぐって欲しい。
小説としての構想なら文句はいわないが、その前に歴史事実として語っているような部分がある
劉永も戦死しており、無敗の名将はかなり微妙だ。
やる夫を読んだ感想ということで、『廉丹を倒したのは董憲』って、
わざわざブログで書くところが、樊崇ライバル設定に反感をもっている感じがした
>>978 >やる夫スレの1さん最高
これも同意。物語として見ると非常に理解しやすい
三国志もこれだけ語られるのは、陳寿ではなく、羅貫中の力が大きいだろ
もちろん、先のサイト主の紹介や
ウィキペディアを充実させてくれた人の力も大きいのは分かっているつもりだが
董憲が廉丹を破ったのが名将の理由とは、『漢書』を読んでる者は首を傾げる。
『漢書』王莽伝第六十九下
赤眉別校董憲等?數萬人在梁郡,王匡欲進?之,廉丹以為新拔城罷勞,當且休士養威.
匡不聽,引兵獨進,丹隨之.合戰成昌,兵敗,匡走.丹使吏持其印?符節付匡曰:
「小兒可走,吾不可!」遂止,戰死.校尉汝雲?王隆等二十餘人別?,聞之,皆曰:「廉
公已死,吾誰為生?」馳賊,皆戰死.莽傷之,下書曰:「惟公多擁選士精兵,?郡駿
馬倉穀帑藏皆得自調,忽於詔策,離其威節,騎馬呵譟,為狂刃所害,烏呼哀哉!
賜諡曰果公.」
訳すと
赤眉の別働董憲ら数万人が梁郡に在り、王匡はこれを進撃せんと欲し、廉丹は新たに城を
落とした疲労の為止めて、当に士を休ませ威を養わんとするも、王匡は聞かず、兵を
率いて独り進み、廉丹はこれに従った。成昌で合戦し、兵敗れ、王匡は逃走する。廉丹は
その印綬と節を使いに持たせ王匡に曰く「小僧は逃げろ。我はそうはいかぬ」と遂に
止まりて、戦死する。校尉の汝雲、王隆ら二十余人は別途に戦っていたが、これ(廉丹
の死)を聞くと、皆な曰く「廉公既に死す。我は誰がために生きるべし?」と賊に馳せ、
皆な戦死する。王莽はこれ(廉丹)を痛み、書を下して曰く「(廉)公は選士精兵を多く
擁し、郡の駿馬穀倉幣蔵を自ら調達したが、詔策をゆるがせにし、その威節を離し、騎馬
を繰って、凶刃のため害される所と為る。ああ哀しいかな! 果公と謚を賜う」
言うまでも無いかも知れないが、念のため言っておくと、当時の囃子歌で「寧ろ逢うなら
赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」の太師は王匡、
更始は廉丹である。王匡は洛陽が更始帝に落ちた時に捕らわれ誅殺されている。
後は各人で廉丹・董憲について考察して下さい。