たくばつとうは過小評価。
曹操をも上回る英傑だろう。
944 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 18:59:30.84 ID:slVUfjkI0
>>938 俺も韋孝寛かな
全て上位のオールマイティ
石勒は異色だよな、運が凄い
王弥が信じて宴会行ったり、劉曜の馬がいきなりダウンとか
あと徐々に徳のある行動し始めるのも面白い
斛律光に戦場では敵わなかった点で、最高の名将には推し難い。
>>945 不敗だけど戦略上の勝利を逃し続けた慕容垂みたいなのもいる。
勝ったり負けたりを繰り返していたのに、華北を制圧した石勒みたいなのもいる。
勝ち数・負け数は名将の条件ではないよ。
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 17:21:09.43 ID:mtImWIRK0
さげ
桓温はどうだろうか
やはり劉裕と比べると見劣りするかな
桓温はさすがに駄目だろう
>>949 劉裕は、黄河のラインが防衛ラインに適さないことを理解できていなかった時点で
凄く格が落ちるんだけど。
オルドスを併合するか、牽制・抑留できない限り、黄河以南の地域は常続的に北方
遊牧世界からの掣肘を受け続ける羽目になるんだから、無理してでも夏に対する
策を講じておくべきだったと思う。(逆に言えば、オルドスを牽制できない態勢に
甘んじるようであれば、いっそ江南まで防衛ラインを下げたほうがはるかに効率的)
桓温は黄河のラインでは守りきれないと言う戦略的判断が働いたために、洛陽の守備
部隊をギリギリまで削減している。本気で抑えるつもりはサラサラないということだ。
コスト的には、圧倒的に桓温の方が安上がり。
そもそも、簒奪を目的とする両名において、軍事遠征の成功の可否において論ずる
ならば、劉裕はリスクが大きい作戦を採用しすぎている。それだけ権力基盤が脆弱
だったことの裏返しなんだろうけどね。
全体的に強すぎ
test
955 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 19:37:33.29 ID:ZPcbn7b2O
韋孝寛がイケメンって何に書いてあるっけ
北周書にあると思う
聡明で整った顔立ちって
梁の元帝は、侯景の乱を曲がりなりにも鎮圧したので何となく評価が高かったが
よくよく読んでみると、身内殺ししまくって結構えげつない輩だった
時代的に身内殺しデフォだけど、騙し討ちにするわ敵対勢力呼び込んでまで抹殺するわ
そこまでするかとちょっと引いた
便宜的に東晋も含む南朝のうち、北伐が成功する可能性があった時期は何時なんだろう?
東晋・・・祖逖または桓温がいた時代
劉宋・・・文帝時代
南斉・・・武帝時代
梁・・・・武帝時代
陳・・・・宣帝時代
ざっと挙げてみたが、南斉と陳はまず可能性なしだろう
南斉の武帝時代は北魏の孝文帝時代と重なり、国力的に難しいし
そもそも治世が10年にも満たない
陳に関しても、宣帝時代に北斉には勝てても北周には勝てないだろう
そもそも南朝は実効支配領域が狭いし、動員力の問題からして
江北・淮北を永続的に再支配することが超ハードモードなんだよね。
最大の好機は北魏が黄河南岸を要塞化する以前の
劉宋武帝〜文帝初期、北魏道武帝〜明元帝交代期じゃないだろかと思う。
結果としては、その時期でさえ出来なかったわけだけど。
後、太武帝死後〜孝文帝中後期までは北魏の上層部は一触即発の
爆弾抱えてたし、
南斉武帝期の北方戦線は結構、押してたと思われるので、結果を無視すれば
意外と明るい未来が見えてたような気がしないでもない。
劉宋の初期と梁武帝の中期くらいじゃないか。南朝による再統一の可能性があったのは。ほかの時期は無理だろ。
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 18:49:13.51 ID:H6LUtyQr0
>>960 劉宋の時期に限らずとも
東晋の劉裕率いる北伐軍でも十分可能だったと思うんだよね。
実際この当時の北朝勢力の東秦は淝水の戦いで敗れた後は瓦解して小国に分裂したし
宋も山東半島を含む黄河以南まで勢力を広げている訳で
梁武帝の時代はなんか微妙な感じもあるんだよね。
確かに鍾離や胊(く:化け対策)山での大勝利はあるけど、
梁州・荊州・襄州方面や淮水下流域では完全に押されてるんだよね。
というか領土を減らしてるし。
大成果といえば元法僧の反乱に乗じた侵攻だけど、
司令官の蕭綜が「あいつ狙ってる、ヤバい!」ってのは
魏書や梁書の記述からすると周知っぽかったところもあるしね。
そもそも六鎮の乱でくちゃくちゃになってる北魏に叩き帰されてるのは
結構、目も当てられない感じ。
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 23:17:41.20 ID:H6LUtyQr0
そういえばミクシィの某住人が
自分は自分は在日コリアンで国籍は韓国だけど
親と祖父が日本人と通婚繰り返したから
韓国の血は4分の1しか流れてないって説明していた人が居たけど
北朝の鮮卑系の貴族の間でもこれと似たような事例あったのかな?
漢族と通婚繰り返したけど自分は鮮卑の家系として誇り持っているとか
北魏の皇帝なんか漢族貴族と通婚繰り返したっていうけど
そこらへん如何なんだろ?
(漢族との通婚が漢化政策への反発を少なくしたのかな?)
>>963 明元(母親は匈奴)、太武(母親は胡族)、景穆(母親は匈奴(多分))
文成(母親は柔然)、顕文(母親は漢族)、孝文(母親は漢族(母方祖母は拓跋))
宣武(母親は東夷高句麗系)、孝明(母親は胡族(勅勒系かな?))
なので鮮卑には拘ってないと思う。
むしろその辺考えるのに胡族と漢族、または鮮卑人と漢人っていう
一枚岩同士が対立してたように考えるのはどうかなー?というのが個人的意見。
胡族を見るだけでも羌人や氐人は多くの場合、一ランク下に置かれているし、
皇室、皇室支族、門閥胡族、寒門胡族、内朝系、外朝系、非部族首長出身者、
拓跋集団、非拓跋集団、その他いろんなもんが派閥を組み替えつつ
時々に応じて合従連衡していたのが拓跋時代の胡族の歴史だと思います。
北朝所属の漢族系も似たようなもので。
後、いわゆる漢化政策は
「今日から漢人になろうぜ!」ってんじゃなくて、
「お前ら、拓跋氏の家臣だからな、独立国家じゃねーぞ、いいな?」っていう
政策のプロトコルとして漢族儀礼への画一化を目指してるので、
血統への誇りよりも「何で拓跋家がそんなに偉そうなのか」という反発にこそ
気を遣ってる感じがしないでもない。
文化的側面でいうなら国政・国策に携わるような層はすでにバイリンガル化、
漢族儀礼の受容なり理解なりを済ましていると思います。
(というか、その前提が無いとこんな政策実行不可能)
というか孝文帝自ら五胡と見下してるし
五胡は明らかに1ランク下だろう(拓跋氏はそもそも胡族と違う)
というか孝文帝自ら五胡と見下してるし
五胡は明らかに1ランク下だろう
(拓跋氏はそもそも胡族と違うという考え)
途中送信した・・・
祖逖の頃は石勒とか劉曜とかいるし無理だろ。特に石勒はなんだかんだいって最後に勝ってしまう粘り強さがあるし
桓温は慕容垂にボコボコにされてるし
書いてないけど東晋時代の劉裕は意外といい線行くかもしれないけど、野心有りすぎで統一どころか独立しそう
独立しそうってしてるだろ
統一劉宋帝国ができたところで
「やっぱ国号は漢にするべきじゃね?」派と
「もう決まったんだから宋でいいんだよ」派と
「楚王の子孫なんだから楚だべ?」派と
「劉家的に楚帝はまじーだろ?」派で内戦開始
劉裕はそんな対立あったら皆殺しにしそうだな
項羽というより桓玄の楚のほうが記憶に生々しかったろうから、楚はねえべな。
彭城派の宋と関中派の漢が争ったりしてな。
もともとは項姓って話もあるくらいだから楚だったら生々しかったかも
ところで統一前後国号変えるって清以外ある?
975 :
六朝書生:2011/12/30(金) 23:15:46.19 ID:LAIQJpqv0
司馬氏無コ,以致蠻夷凌夏,神州陸沉,期間劉裕雖雄起於當時,揮兵北伐,
恢復關洛故地,無奈天不亡胡,功敗垂成,中原復入索虜之手!嗚呼 天哉!
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 09:42:34.12 ID:kmdJ4Gq1O
檀道済は?
檀道済は?ってどういう意味?
名将
長城
劉裕が統一できたとしても統一を維持する基盤を築くのは難しそうだ
>>981 それは寿命的な意味で?
対外政策なら
北朝と違い、高句麗とかとは関係良好というか高句麗は冊封受けてるし
南部は問題ないし
対北西が問題程度だと思うけど
tes
>>982 皇帝になった時点で60近いのにそこから統一となると相当な年齢になるし
後継者も文帝以外はろくでもない連中ばっかりだから厳しい。
985 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 17:31:05.09 ID:OS0c0b6c0
そもそも劉裕に統一しようとする意思はあったのか?
質問させて下さい
中国の南北・東西間(沿海部と内陸部)においての違いって具体的にどんなことかわかりますか?
自分のなんとなく漠然としたイメージでは食文化(麦作・稲作)、身体的特徴の差異くらいです
またそのような違いがあるとすればそれはいつの時代から何が原因で起きたことでしょうか
↑誤爆です失礼しました。
保守
誰か次スレお願いします
992 :
名無しさん@お腹いっぱい。: