1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
中国史上屈指の乱世五代十国時代。
栄華を誇った大唐帝国が崩壊し、秩序が失われた中原で群雄が覇を競い、異民族が侵入した戦乱の時代。
この激動の時代を駆け抜けた英雄たちを語れ。
乙です。 でももう寝るです。
と言うわけで、五代の戦乱の幕開けに位置づけるべきは、
唐朝に致命的な打撃を与えた黄巣の乱だと思う。
であるからして、五代の英雄たちを語るなら、
まずは黄巣の乱に参加した黄巣、王仙芝、後に唐朝を滅ぼすことになる朱温、
黄巣の乱鎮圧に当たった元祖独眼龍こと、李克用らを、
まず語らなければなるまい。
起きた。
IDあるから、連投するのはずかしいね。
三戦板では、自演か?ってくらいレスしていたが…
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 09:53:10 ID:x/hU9IuZ0
まあ、どうせ人数は少ないんだし、連投だろうとそんなに気にする必要はないよ。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 11:02:36 ID:ls0BDsa60
李克用(858〜908年)
突厥沙陀部朱邪氏の出身で、朱邪赤心の子。片目が異様に小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して
功績があり、唐朝から雁門節度使に任じられ、続いて河東節度使へ上った。乾寧二年(895年)には晋王に封ぜられる。
黒鴉軍と呼ばれる軍勢を率い、唐朝を簒奪した朱全忠とは河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で
病没し、 後に後唐の太祖と追尊された。
昼まで暇なんで、李克用について。
この辺はまだ、資料が充実しているから、わりに詳細に語れるけど、後代になると怪しい…
まぁ、生暖かい目をもっていきましょうか。
沙陀磧という砂漠付近で遊牧していたトルコ族(テュルク=突厥)のこの集団は、沙陀(シャーダ)と呼ばれ、首領に沙陀尽忠および、朱邪執儀などがいたそうです。
彼ら沙陀は
(本来、シャーダあるいはサダとするのが正しいのですが、漢字表記の「沙陀」のほうがかっこいいし、のちに漢字圏に入るので漢字で表記しないとかえっておかしい。契丹はキタイ。)
ウイグルと吐蕃との間で揺れ動いていました。
安録山の乱のときにも、唐に与力している、傭兵みたいな集団。のちに吐蕃の追撃を受け、沙陀尽忠は戦死し、生き残った朱邪執儀が部族をまとめ、雁門へとやってきます。
そう、この方が李克用のおじいさんにあたるわけですね。
で、それなりに唐との誼もあるので、??の乱等では一線級の活躍をするわけです。
このとき朱邪赤心とともに、15歳の若き李克用は参陣しており、「飛虎子」とあだ名されました。
李姓をもらったあと、沙陀は朔州に鎮したのですが、王仙之・黄巣の乱を契機に、唐に叛旗を翻します。
理由のほどは、まだそこまでつっこんでないので知りませんが、卑しい傭兵風情とか差別でもされていたのだろうか、近隣の藩鎮に。
2回ほど挙兵して、両方とも鎮圧され、あげく韃靼領にまで逃げ込まないといけない状態になりました。
さらにその韃靼でも、雲州の赫連澤の計略で首領を殺し独立しようとしていると噂され、あわや韃靼首領の手によって殺されかけるところでした。
しかしそこで李克用は、その韃靼首領の前で得意の弓術を披露しました。
100歩離れたところに、針とか木の葉とか小さい的を置き、それを百発百中させ、
「今朝廷は黄巣の賊に京師を呑まれようとしている。もし陛下がお許しくださるなら、わたしは陛下の御ために黄巣の賊を討つであろう。このような北の果てにいて、どうして大功がたてられようか!」
と言いました。
韃靼での叛意はないと見た首領は李克用の弓術に度肝を抜かれたこともあり、許すのです。
このあと、朝廷からの招安がきて、李克用は晴れて勤皇軍となり、唐朝廷のために尽力します。
が、行く先々ではDQNな行動で、いろいろ迷惑かけたそうな… しっかりしろよ。
あ、まだユニコードに対応してないか… 失礼。
??の乱は、ほうくんの乱でした。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 15:52:23 ID:WJXOjL0Z0
>>7 三戦板のスレでも、指摘していた人がいたけど、その説明を読むと、
李克用の軍団は、三十年戦争のヴァレンシュタインの傭兵軍団を彷彿とさせるね。
李克用の軍団も掠奪しまくっていただろうし。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 17:01:01 ID:p6hSK/du0
南唐って、経済力の中心地である江南を押さえていたわけだし、
英君が現れて、本気で富国強兵に取り組んでいたら、
天下を望むことはできたのかな?
>>9 まぁ、文章は三戦板のときの改変つうことで。 その本質はそれに近いものがあるんでしょうねぇ。
でもだんだんと、そのDQNぶりが愛しくみえてしまうから困ったものです。
李克用は17000の兵とともに雁門あたりから長安目指して南下するわけですが、黄河を西に渡河したとき、黄巣軍と初めて戦端を開き、15万の黄巣軍相手に一方的勝利を収めました。
そのあとも連戦連勝なもんで、すっかり増長するんですよね。
その頃朱温は、河中の重鎮・王重栄に働きかけ、唐への帰順をとりなしてもらい、官軍側へと転身していました。
朱温は黄巣軍にあって目立つ将だったので、唐朝廷は喜び「全忠」の名を賜りました。
一方で、強すぎる李克用の対抗馬のような立ち位置だったようです。
李・朱ふたりの活躍で長安に戻ってこれた僖宗皇帝は、李克用を河東節度使とし太原(=晋陽)に置き、朱全忠を宣武節度使としべん梁に置きました。
このときくらいに、後の前蜀高祖・王建は、田令孜の仮子となっていたと思います。
それ以前は楊復光という名宦官の徴募に応じて黄巣軍と戦い、その功績を認められ仲間5人ともども「随賀五都」と呼ばれ、楊復光の死後(このあとすぐ亡くなる。軍中の兵士はその死を惜しんで皆泣いたそうな)皇帝直属の禁軍である神策軍に編入されました。
その神策軍を田令孜(宦官。悪人w)が統括していた、というわけ。
楊行密はすでに揚州(江都)にあり、これまた前時代の名臣・高駢のもとで淮南道あたりで辣腕を振るっていました。
そういう状況下、まだ黄巣の残存軍があったわけですが、なにせ元祖流賊。 拠点を失ったほうがしぶといという…
長安から脱出した黄巣は、華南あたりを東に荒らしまわりながら移動していきました。
たぶん、故郷へ還ることを考えていたのでしょう。
で、その黄巣の討伐に手を焼いた朱全忠は(なにせ、彼の領域近くに接近してきましたから、大慌て)李克用に助力を要請しました。
李克用は再び南下し、中原にて黄巣を打ち破りました。
朱全忠は李克用の功労を讃え、宴会を開きましたが、李克用の高飛車な態度にマジギレしてしまい、李克用が泥酔したところを夜討ちしました。
この「上源駅の夜襲」は、李・朱を不倶戴天の敵同士にする決定的瞬間でした。
李克用は泥酔のまま、史敬思の尋常ならざる奮戦によって逃げ延びることができ、すぐさま軍をもって朱全忠を討つ! と息巻くものの、奥さんである劉氏になだめられ、太原へと帰っていきました。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:25:41 ID:1mQzRoWo0
五代
後梁(907年 - 923年)
建国者は朱全忠(朱温、朱晃)
後唐(923年 - 936年)
建国者は李存勗だが、事実上の建国者は父親の李克用。突厥の沙陀部族出身。
後晋(936年 - 946年)
建国者は石敬?。
後漢(946年 - 950年)
建国者は劉知遠。
後周(951年 - 960年)
建国者郭威。
十国
呉(902年 - 937年)
南唐(937年 - 975年)
呉越(907年 - 978年)
?(909年 - 945年)
荊南(907年 - 963年)
楚(907年 - 951年)
南漢(909年 - 971年)
前蜀(903年 - 925年)
後蜀(934年 - 965年)
北漢(951年 - 979年)
他に河北で燕王を称した劉仁恭、陝西で岐王を称した李茂貞など
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:26:15 ID:1mQzRoWo0
前蜀(903年 - 925年)
黄巣の乱鎮圧に功績があり、唐から蜀王に封じられていた王建が、唐が滅ぼされると四川で自立して皇帝を称する。925年
に後唐に攻め滅ぼされる。
後蜀(934年 - 965年)
前蜀を滅ぼした後唐より四川に派遣された孟知祥が叛乱を起こして自立し、後唐蜀王に封じられた後、934年に皇帝を称して
後唐から離れる。965年に宋に攻め滅ぼされる。
呉(902年 - 937年)
開祖楊行密は群盗出身だが、唐に帰順して節度使にまで伸し上がり、江南に勢力を築く。902年に唐より呉王に封じられる。
自立はしても唐の臣下の立場を貫き、後梁と争った。楊行密死後は、部下の徐温に実権を握られ、徐温の死後跡を継いだ徐
知誥に禅譲する形で滅亡。
南唐(937年 - 975年)
呉の実権を握った徐温の死後、その養子徐知誥が跡を継ぎ、呉から禅譲される形で建国。当初は国号を斉としたが、唐に変更。
江南に強大な勢力を誇り、文化的・経済的に大いに繁栄したが、北方を統一した後周の圧迫を受け、続いて宋に攻め滅ぼされる。
呉越(907年 - 978年)
無頼出身で、唐から節度使に封じられて浙江に勢力を築いた銭鏐が、後梁より呉越王に封じられる。西隣の南唐と度々抗争
するが、南唐が宋に攻め滅ぼされると、宋に投降する。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 22:26:47 ID:1mQzRoWo0
?(909年 - 945年)
節度使王審知が、後梁に入朝して?王に封じられる。王審知死後は内紛が続き、933年には独立して皇帝を称するも、
内紛は止まず、南唐に攻め滅ぼされる。
荊南(907年 - 963年)
後梁から荊南節度使に封じられた高季興が自立。弱小国であったため、後唐や後周、呉、?、南漢、後蜀のほとんどの周辺国
に対して臣を称して安全を保った。963年に統一を進める宋に投降する。
楚(907年 - 951年)
唐の湖南節度使馬殷が、後梁に入朝して楚王に封じられる。その後、後唐、後晋、後漢、後周と五代の各国に対して臣を称し
続けた。馬殷死後は内紛が続き、951年に南唐に攻め滅ぼされる。
南漢(909年 - 971年)
唐の節度使で広東広西に勢力を持つ劉隠が後梁から南平王、続いて南海王に封じられる。跡を継いだ劉?が913年に皇帝を称
して完全に自立、国号は当初の越から漢に。971年に宋に攻め滅ぼされる。
北漢(951年 - 979年)
後漢の創始者劉知遠が劉崇が、後漢の滅亡と後周の建国の際に太原で自立。北方の遼の援助を受けて、後周、宋に対抗する。
979年に宋に攻め滅ぼされる。
>>10 南唐が経済的に優れていた事情のひとつに、淮南の領有があった。
ここは湿地で豊潤であるうえに、海岸線もあり古来より官塩の産地だった。
塩は前漢武帝のときに、国家専売となってより貴重な財源で、しかも法外な値段で売りさばいていた。
塩の密売人が出るのも、その辺が理由。
しかしながら、南唐は西暦953年に大飢饉が発生し、そのせいで国家財政が大きく傾き、淮河の防衛「把浅」を撤廃したことから、後周の攻撃を受けることとなってしまった。
後周の征淮南は、足掛け4年にわたり、南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
驚くことに、後周の水軍が長江にまで進出してきており、南唐は風前の灯状態。
この時点で南唐は大国から弱小国へと転落し、「唐」という国号も返上し以後、江南国と呼ばれるようになりましたとさ。
>>15 訂正
×南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取られてしまったのです。
○南唐の生命線といえる江北(淮南)の十四州をすべて奪い取ったのです。
このときの趙匡胤の奮戦ぶりと、後周世宗の激烈ぶりは後世の語り草となっています。
また、その後周軍の攻撃を約1年半持ちこたえた、寿州城の将劉仁贍もかなり鮮烈な印象を与えてくれます。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 08:53:45 ID:n7udpV/20
>>15 淮南の塩って、この当時も重要だったんだね。
元末の戦乱の時も、河南の紅巾の乱への対応は動きが鈍かった元朝が、
張士誠が淮南で反乱を起こすや、即座に丞相率いる討伐軍を送っているあたりを見ても、
官塩ってすごい財源なんだね。
そもそも五代の乱世を呼び起こした黄巣や王仙芝も山東の塩賊ですぜ
塩賊は時の朝廷を脅かすほどの力を持つ
白居易の塩商婦でも塩が儲けれるんだと分かるな。需要が多く供給が少なかったんだろう。
と言うか、朝廷が専売する塩の値段が、あまりに高かった。
塩という生活必需品にとんでもない消費税がかかっている状態。
だから、闇塩というものが生まれ、塩賊が暗躍した。
塩なんて、原価自体は大したこともないので、例えば朝廷が売る官塩の半額で売ったとしても、
物凄い利益を生み出すことになる。
庶民からすれば、闇塩も決して安くはないけれども、官塩よりはずっと安いのでありがたがる。
塩賊も莫大な利益を得て力をつける。
この頃の華南の生産力は興味深い。
これまでだったら、華南に群雄が並立するのは、一時的なものを除けばせいぜい2ヶ国か3ヶ国だったのが、7ヶ国の並立というカオスなことになっている。
淮南を得て領土的にも大きい呉〜南唐、領土は狭いながら海上貿易と中国の兵糧庫・浙江を抑えた呉越。
海の玄関口である福州と泉州を地味に抑えたビン、湖南の豊かな土地を開発して茶を輸出した楚。
交通の要衝で貿易黒字を出したと思われるw南平(荊南)、よく知らんけど異国っぽい雰囲気をかもし出すような南漢。
あといわずと知れた、芙蓉の城(成都)にイメージされる豊かさを誇った前後蜀。
領土面積や支配のおよぶ地域でみると、どれも六朝には劣り、矮小なイメージを拭えないが、これら勢力が並立しても長く政権を維持できるほどの底力が、このときの華南にはあった。
対して華北は…
後周太祖、世宗の登場で急速に国力が回復しつつあったとはいえ、強国の南唐を力尽くで首根っこを押さえ込めたのは、ひとえに後周世宗の偉能のなせる業としか思えない。
呉越なんか、地図で見る限りじゃ、よくあんな形で独立国を保てたなと思えるね。
あっという間に南唐に飲み込まれそうに見えるし。
にしても、華南の国々はそれぞれ個性が豊かだね。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 02:05:43 ID:9d5zg0uzO
「世家」があるのって新五代史と史記だけ?
うはw 史板のソレ、レベル高いんだよね。 中盤からは何しゃべってるのかわからなくなるくらい…
さて、爆弾投下。
河東太原(=晋陽)の李克用、汴梁(陳留の近く)の朱全忠、あと河中に王重栄、易定に王処存、四川には陳敬瑄等々が、実力者として目される状況。
そういう中で、唐皇帝僖宗は長安に帰ってこれたけど、その腹心である田令孜(宦官)が、官塩の利権から王重栄、王処存らと対立するようになりました。
王重栄は李克用に助力を請い、田令孜を威圧します。
一方、李克用もくだんの朱全忠が不意打ちした非を朝廷に奏上したにも関わらず、李克用をなだめるだけに終始していた態度に鬱屈していた事情もあって、王重栄を後押しします。
これに対し田令孜は邠州の朱玫と鳳翔の李昌符をもって対抗しますが、さすがに李克用には敵わなかった。
ビビった田令孜は、またしても僖宗を伴って逃げます。
朱玫はこの期に李克用と手を組み、皇帝を保護し実権を得ようと奸策しますが、田令孜の逃げ足は脱兎のごとく、襄陽王をどうにか保護できただけにとどまりました。
そのとき、王重栄や寝返った朱玫の追撃はすさまじく、皇帝と田令孜は鳳翔から桟道をとおり蜀へ抜けようとしました。
李昌符が桟道を焼き、どうにか追っ手を防いだものの、前回以上の災難だったので、僖宗はすっかり気弱(もともとだけど)になり、ずっと泣いているわけです。
そこで、神策軍に編入されていた王建が先導し、僖宗を馬に乗せ煙や火の粉を払いつつ進み、一夜の宿では膝枕(ごつい男の…)をしてやって、はじめて僖宗は安心したそうな。
そうやってようやく、興元(漢中)に着き、やがて田令孜の兄が治める成都に行くわけです。
朱玫は僖宗を得ることができなかったので、かわりに襄陽王をして帝位につかせ、また李克用とも共闘しようとしましたが、本来李克用は皇帝そのものには忠であるので、拒否りました。
味方のいない朱玫はやがて自滅し、長安近辺には再び平和が戻ってきたのでした。
そのあと僖宗は長安に帰りますが、帰着後ほどなくして亡くなります。 次に立つのが昭宗。
王建はそのまま蜀に残り、西川節度使陳敬瑄と事を構えるようになりました。
また、なりを潜めた朱全忠は、実はウラで蔡州の反乱者・秦宗権と戦い破り(ちなみに、この秦宗権の徴兵に応じて、木工の馬殷兄弟が参じている)、また謀略をもって山東方面を平定し、着実に力を蓄えていました。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 23:55:56 ID:Xz1x1zd60
ま、ここはレベルとか気にせず、気軽に語りましょう。
初心者歓迎age
十国の方は、創業者が死んだ後内紛ってパターンが多いな。
王を名乗るのもおこがましい勢力が多いしね。
荊南なんか、あんな場所に小さい国でよく半世紀余りも続いたな。
周りの国全てに臣従したと言うが、巧みな外交がなければ、独立を維持できなかっただろう。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 09:05:28 ID:BavDBui30
五代物語
第一部は、黄巣の乱、黄巣が主人公。
第二部は、残唐から大梁建国で、朱温が悪の主人公。
第三部は、李克用とその子孫を正義の側に立てた、打倒大梁と後唐建国。
第四部は、語り手馮道による五代群雄伝。
第五部は、郭威による後周建国と、柴栄の天下統一推進、趙匡胤の活躍。
第六部は、趙匡胤の宋建国、天下統一、南唐滅亡と後主の悲劇。
>>28 お、ついにこのスレにもお越しになりましたか。
五代十国時代は一般にマイナーすぎて、一体どういう流れなのか把握できにくいと思う。
一応、人物や武将を語るために、ある程度の流れというかバックボーンがなければ話にならないと思い
なんかオレ解釈でわかる範囲の爆弾を投下し続けていますが…
ま、ウザかったら言ってください。すぐにやめますから。
>>29 高季興(高季昌)は梁の一部だったので、この頃はまだよかった。
問題は後唐が前蜀を伐ったあと。
そもそも「前蜀を伐つのが易しい」とか吹き込んだ(つか、前蜀は頑健で攻めても後唐では勝てないと思っていたから誘導した)のが高季興なわけだけど、思いのほか前蜀はもろく滅んじゃったのです。
あせった高季興はいろいろと画策し、あげく後唐の討伐を受けます。
ま、これは後唐も本気ではなく討伐軍の司令官に高季興の幼馴染をあてるなどしていました。示威行動ととれますかね…
以来、中原王朝とも微妙な関係となり、高季興の息子、高従誨は四方の強国相手に同盟離反を繰り返し、時の人に「やつは表裏常なく、油断がならん!」と言われ、「高無頼」とあだ名されるほど、外交がたくみでした。
日本で言うところの真田昌幸を彷彿とさせますなぁ。
流れを読むだけなら陳舜臣「中国の歴史」文庫版の4巻が簡単でおすすめ。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 15:19:36 ID:elOC5wip0
この時代の代表者を選ぶなら、馮道だな。
有能な政治家か
狡猾な佞臣か
上層のクーデターだけで平和っちゃ平和だったり。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 21:09:21 ID:ZcoQeanY0
北朝側で、民衆にそれほど迷惑かけていない政権交代といえば…
後唐末帝のときと後周建国くらいか?
末帝のときは、おもいっきり馮道が絡んでいるなぁ。
混乱を最小限に抑えた功績(になるかはわからんけど)は、ひとえに馮道の見切りのよさだったわけだね。
おかげで後世からはボロカスに言われるようになったけど。当時の人にとってはカミ。
「馮道 乱世の宰相」って本もなかなか良かったぜ。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 22:20:26 ID:Ys3lDyyvO
乱世の宰相としてよく馮道と諸葛亮は比較されるね
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 22:29:35 ID:xpLF2EWg0
>>37 どういう比較?
似たもの比較ってこと?
どう見ても、正反対の宰相だと思うよ。
>>39 正反対だからこそ比較じゃない?
斜陽の国を軍事行動に駆り立てることによって支えた宰相と
戦乱が無意味に広がるのを避けるため首のすげかえをあっさりしちゃう宰相
流れを無視して、五代物語のつづき。
>>30さんは、第二部で朱温を主役に添えるように書いているけど、自分、朱温側はまだ把握しきれていないので、あいかわらず李克用側からの流れで…
黄巣の乱のおり、賊軍に味方した河陽節度使(孟州)の諸葛爽という人の下に、李罕之という男がいました。
李罕之は驍勇人に優れ、膂力もまた人一倍だったけど、無学のため無頼をやっていました。
いろいろあって諸葛爽に副将として扱われたが、諸葛が死ぬとその専権を握った劉経が、李罕之を危険視して討とうとします。
しかし李罕之は張言と協力してこれを返り討ち、李罕之は河陽(孟州)、張言は河南(洛陽)をそれぞれ領有しました。
ふたりは親友といってよい信頼関係を得た… はずでした。
李罕之はそもそも横暴な性格で、実は張言のことを見下していました。
それゆえ張言にはあれこれ無理を押し付け、自分は何もしないので、張言はぶちキレて、李罕之を攻めました。
張言は善政を布いていたので、将兵は彼に付き、李罕之は進退窮まってしまいます。
そこで李罕之は隴西郡王たる李克用を頼り、太原(=晋陽)に奔りました。
李罕之を受け入れた李克用は、李存孝、薛阿檀、安休休らに7千を率いさせ、李罕之とともに河陽奪還に出陣させました。
それに対し張言は汴梁の朱全忠に救援をもとめ、丁會、牛存節、葛従周らが後押ししました。
ここに、李VS朱が、はじめて対立するようになるわけですが、朱全忠軍が李克用軍の退路を断ったので、李軍は大敗します。
また、潞州(上党)で李克用の弟、李克脩が亡くなると兵乱がおこり、叛した将は朱全忠側に降ってしまいました。
それを取り戻すべく、康君立、李存孝を遣わすものの、すでに朱全忠側の驍将・葛従周が潞州に入り、防備を固めていたので、手が出せませんでした。
戦況不利な河東軍を、討伐のチャンスと見て取った、幽州の李匡威、雲州の赫連鐸らは宰相の張濬に働きかけ、一気に太原を攻撃しようとしました。
宰相・張濬は、かつて李克用に「お前は口だけだ」と言われたことがあり、それを根に持っていたので、昭宗の許可を得て、李克用の官位を削除、朝敵に認定しました。
張濬を総大将、孫揆を副将とし、実戦部隊の指揮者として華州の韓建をあて、邠州の王行瑜、鳳翔の李茂貞、李匡威、赫連鐸らを加え、大規模な包囲陣を布きました。
当然、朱全忠もこの機に北上し、李罕之がいる澤州を攻めさせました。
逆賊となった李克用は、幽、雲方面には、李嗣源(後唐明宗)、李存信、周徳威らを派遣し、李罕之の救援には李存孝に5000の兵を与え急行させました。
李存孝は進軍速度を重視し、500の騎兵のみで、澤州を包囲する汴の勇将・鄧季筠に迫りました。
李存孝は鄧季筠を一騎討ちで擒え、李罕之と内外呼応して汴軍を破り都将を数十人虜にしつつ追撃し、馬牢関で斬首万余級の大勝をあげました。
さらに官軍の副将たる孫揆が潞州へと陣を移そうとしていることを察知し、軽騎300にて隘路に伏兵し、孫揆の親軍3000を奇襲。
孫揆を生け捕った李存孝は、そのまま汴将・葛従周の篭る潞州を強襲して、復することに成功しました。
李存孝の悪魔な活躍で南方面が安全となった李克用は、晋州に陣取る張濬を討つべく進軍を開始しました。
張濬もこれに対し野戦で決着をつけようとしたものの、陰地関の戦いで破れ晋州城に後退しました。
さらに頼みの韓建も李存孝に敗れたので、長安へと遁走してしまいました。
そこで李克用は朝廷に無実を説き、楊復恭らの張濬追い落としの思惑もあって、官位が旧に復され朝敵の汚名は返上されました。
この一連の戦いで李存孝の勇名は鳴り響き、『旧五代史』などにはわざわざ
「挺身陷陣、万人辟易、蓋古張遼、甘寧之比也」
と書かれているという。
>>40 ま、蜀や荊州の民からすれば、こいつらが余計なことしたから戦乱が長引いた
という考えも成り立つしな。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:07:41 ID:GOhR1eMxO
仮子の制度はこの時代だけに見られる特殊なものなの?
唐玄宗期あたりから顕著になった。
もとは宦官がシンパをつくるためにやったことだという。
なるほど宦官が発祥なのね
五代では百人近く仮子がいた人もいるらしいね
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:39:50 ID:NbqxvkQw0
任侠の、親分子分をもっと縛りいれた状態が仮子。
李克用、王建などがいい例なんだけど、その王建自体も田令孜という僖宗期の悪宦官の仮子だった。
田令孜を特に悪と書いたけど、この頃の唐は牛李の党争に代表される、宦官と官僚との衝突を引きずっていた。
基本的に、皇帝近辺の権力を握っているのが宦官で、禁軍の総大将を兼ね、また皇帝の生死すら操っていた。
そういう宦官全部が憎むべき存在なのだけど、特に僖宗の後見的な立場にいて信頼もされ、再三皇帝を蒙塵させた無策っぷりということで田令孜が悪の代名詞。
権力はあれど、宦官は子を作ることができないので、血縁による派閥が作れない。
そういうときに、擬制的血縁関係を強制できる仮子が流行したってわけ。
唐代後期は、宦官は皇帝の生殺与奪権さえ握っていたようだけど、
明代の場合は、どれだけ権勢を極めた宦官でも、
皇帝の絶対独裁権力を越えることはできなかったようだね。
もともと唐も、初期の段階では宦官に実権など与えなかった。
その禁をやぶったのが、玄宗。
彼は高力士という宦官を個人的に信任していて、楊貴妃の件など他人には言えないような世話を焼いてもらったので、権力を与えてしまった。
高力士個人ならそれもおkなんだけど、結局権力を利用したい宦官がこれを前例として官位についてしまったことから、おかしくなった。
後漢末期も、清流派官僚と濁流派宦官・外戚との党争が、国家衰亡を招いたけど、唐も同じ轍を踏んでしまったようだ。
おーい、外戚はむしろ清流派なんだが。
後漢王朝ってのは、豪族士大夫層を母体にした外戚と、それに対抗するために
宦官をつかった皇帝の権力抗争。
あれ、そうだっけな。 どうも外戚と宦官が手を組んでいたように勘違いしていたようだ。
まぁ、五代専門なんで、その辺の間違いはご容赦を。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:52:53 ID:i5NbPt+/0
水滸伝に出てくる銭振鵬や馬万里って、確か五代の地方政権の
末裔だったはず。趙匡胤は投降してきた地方の王族は全く殺して
いない。後にその子孫が宋王朝の危機に忠臣として働くわけだから
かしこい選択だな。
悲惨だったのは、南唐の李Uぐらいか
>>51 馬氏も銭氏も、後周時代すでに親交があった。
馬氏は南唐李氏に滅ぼされ、金陵に連行されていたけど、後周世宗の南征のおり、大義名分の一つに馬氏の救出があった。
驚いた南唐中主は馬氏を送ったけど、それ以外にも罪を並べられ、結局討伐を受けた。
呉越銭氏は呉や南唐と拮抗するため、中原王朝を頼っていた。
後周世宗の南征のときは進んでこれに協力したし、独自の年号を使うこともなかったくらいのシンパ。
湖南周氏、荊南高氏、南漢劉氏はそれぞれ趙匡胤に保護されたけど、後蜀の孟昶は開封に連れられてすぐに死んだそうだ。
殺したわけではないとは思うが、疑惑があったりする。
後蜀平定戦では、略奪も激しかったようだけど、江南平定のときは略奪を許さなかったあたり、趙匡胤という人柄が見て取れる。
陣頭の猛将のイメージが強い太祖だけど、柴栄のように常に陣頭指揮をしたわけでもないようなんだな。
禁軍将軍の兵権を取るところや、王彦超ら節度使をお涙頂戴などで謀反させる気を削ぐところなど、太祖にしかできない芸当だけど、統一事業は基本、柴栄の敷いた線に沿っているんだと思う。
蜀を平定した時は、かなり掠奪もやっちゃったから、住民の間に反宋感情が生じて、
なかなか安定しなくなったみたいだね。
江南の方は、掠奪を控えたおかげか、後々首都まで持って行っている。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 23:29:39 ID:rDJaeMND0
曹彬のおかげ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%BD%AC 曹彬(931年 - 999年)は後周・北宋の軍人。字は国華。諡は武恵。江南(南唐)攻略など数々の功績を挙げた宋初の名将
で、北宋建国の元勲の一人。
真定郡霊寿県(河北省)の人。後周では太祖の妻・張貴妃の甥として重用され、趙匡胤が恭帝から禅譲を受けて北宋が建
国すると、そのまま北宋へ仕える。 その後は将軍として契丹・北漢・後蜀・江南の諸国と歴戦し、数々の武勲を挙げた。
965年の後蜀攻略戦においては征伐軍による攻略後の暴行を制止しきれず、諸将とともに太祖から譴責を受けたが、975年
の江南攻略戦では被害を最小限に留め、南唐の優れた文化を北宋へ受け継がせることができた。
その後は枢密使・同平章事を歴任して軍事面の責任者として貢献し、一時は北漢討伐戦の敗戦責任を負って左遷されたも
のの、後に枢密使に復帰している。
清廉篤実な人物として知られ、幾つかのエピソードが伝わっている。
曹彬が後周の茶酒を司る役人だった頃、まだ後周の将軍だった太祖・趙匡胤に管理下の酒を要求されたことがあった。曹彬
は公の酒を与えることを断り、自ら酒を購って趙匡胤に与えた。後に太祖は、曹彬の篤実な勤務ぶりを称揚したという。
江南の金陵包囲戦中、曹彬は攻城前に仮病を使って寝込んだ。そして見舞いに訪れた諸将から、病を治す代償として略奪・
暴行を行なわない旨の誓約を受けた後に金陵を攻略したため、被害を最小限に留めることができたという。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 20:25:15 ID:lbZjwsjF0
まあ、戦争で掠奪暴行の類を完全になくすのは無理
唐末五代であれば、略奪行為はむしろ普通。
このあたり、こちら側の見識をチェンジしておかないと、まともについていけない。
それくらい狂った時代。
秋毫も犯さず? そんないい子ちゃんが生き残れるような、甘っちょろさはないといってもいいくらい。
だけど、絶無ではないところが、懐の深さ。 また面白さ。
唐末五代に限らず、昔の戦乱期で掠奪のない時ってないだろう。
南漢はアラブ系らしいけど、やっぱり濃い顔立ちしていたのかな
閩
広州や泉州あたりはアラビア人がたくさんいたらしいからね。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 14:33:24 ID:pPzZ7iUb0
呉越は、国号が「呉越」の二字?
皇帝は称していなかったようだから、形の上では常にどっかに従属していたのかな?
>>63 もともとは黄巣の乱のときに結成された自治組織のようなもの。
董昌という人が編成した杭州八都という軍団があり、その都将として銭鏐がいたと思えばいいわけ。
で、董昌のもとで勢力を広げてゆき、杭州・越州を手中にした。
唐昭宗期では杭州節度使とされたけど、董昌がかなりヘンになったのでこれを倒し、彭城郡王に封じられた。
さらに、西暦902年に「越王」、西暦904年に「呉王」に封じられ、朱全忠が梁を建国したとき(西暦907年)、「呉越王」兼淮南節度使とされた。
王号をもって「呉越」と判別するけど、実際には冊封ということで、より独立性の強い政権であって、厳密に「国」というわけではない。
年号も基本、中原王朝のそれを用い独自のものは作らなかった。
この時期、そういう政権は多いので、ひとつの国とみても差し支えはないはず。十国と言われるゆえんだし。
独立し皇帝を名乗ることもできる国力はあったろうけど、お隣の呉〜南唐が、それ以上のちからを有していたので、生き残るためには中原王朝と親密にするのが上策だったのだろう。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 08:10:08 ID:CmHHV0oq0
どちらのスレも人が少ないねえ・・・
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 22:55:12 ID:lYP8weru0
五代の各王朝の官制は、だいたいは唐朝のものを模倣したものだったのかな?
踏襲といってくれ…
五代十国で、唐制とは大きく違った独特な官制を持った政権ってある?
そもそも、短命政権ばっかりで政権参加者の個人能力の比重が大きいから
独自色を議論するほど安定政権みたいに官制が機能していたかどうかすら怪しい。
官制よりも藩鎮の力を削ぐ仕組の形成だな
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 15:44:23 ID:SWEfWNpO0
もったのは創業者の代だけで、二代目以降はがたがたの政権多いしね
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:50:50 ID:aH5yPdPu0
五代はともかく十国になると、
新旧五代史を読んでも大筋しかわからん。
十国春秋が一番まとまってていいけど、南唐書というのもあり、十国春秋は孫引きなんで、根拠とするには弱い。
しかし、言ったように十国すべてがまとまっているので、すごい便利。
… まだ南唐や後蜀のこれは、といえる人物のくらいしか見てないから、エラそうにはいえないけど。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 14:13:18 ID:VNtD4jwa0
黄巣って子孫はいたの?
この時代って、たとえ皇后でも、再婚した女が多いね。
戦乱続きで、貞節なんかにあまり構っていられない感じだったのかな。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:50:55 ID:+4RDTDB80
唐の時代も再婚が多い。
宋の時代になってから、上流階級の女性の再婚が減った。
人口=国力という一面があるからね。
一般庶民には再婚を奨励したり、
何歳か以上で未婚の場合は税金をかけたり、という時代もあるぐらい。
人口=国力。
唐律における、均田制-租庸調-府兵制のトリニティは、まさに把握できる戸数に拠っているわけで、それが崩壊してしまった唐末では中央の国力はガタガタ。
両税法と官塩と茶税の暴利によって、なんとか持ちこたえた感じ。
そこは五朝もさほど変わらない。
後周にはいってようやく、まともな国づくりに向かったというから、庶民層の生活はとんでもなかったろうね。
>>貞節なんかにあまり構っていられない
それを強く認識し強要(というのもヘンだが)しだしたのは、宋代だから…
馮道も、五朝乱世ならああいう生き方は是とされるが、安定した王朝では単なる無節操とされるゆえん。
唐の頃は、遊牧民的な気質もあり、男女の開放感はあったとされる。 五朝のうち三朝は突厥系沙陀で、その政権下で生きた後周二皇帝もその気風は受け継いでいたようだ。
この時代は、四川とか江南の方が安全かな。
中原は何だか、戦続きだし。契丹人の侵入もあったし。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 15:50:08 ID:DS06TSR40
地方は地方で戦乱が多いし。
南漢とか長期政権だし、治安がいいかも。
長安の貴族文化人は、四川に逃れた者が多かったみたいだね。
よそから侵入を受けない限り、四川の情勢は安定していたと思う。
情熱の花蕊夫人
四川は、考えてみれば黄巣の乱の被害にあってない。
ここは、唐中期に反側の節度使がいたけど鎮圧されてから、あとは皇帝の逃げ場となって割りに安定していたようす。
乱を起こしたのはまさに王建で、異民族を多数引き入れもしたけど、国家作りもしっかりしていたので、中国王朝から離脱することはなかったみたいね。
そこは唐の知識人や中堅クラスの官僚たち(あるいはその方がかなりまともな良識をもった官僚だったかも)が中心となっていたからだろう。
それでも後唐が王師を派遣すると、もろくも滅び去ったけどね…
でも、最後に、
宋が天下統一の過程で蜀を征服した時は、結構派手に掠奪をやらかして、
その結果、反宋感情を根づかせてしまい、
天下統一後もなかなか情勢が安定しなかったとか。
ほぉ。 それはなかなか興味深い事柄だね。
蜀での略奪がひどすぎて、江南攻めのときには特に注意したほどという話だし。
反宋感情の背景に、反側の気風がそれに関わっているとすると、北宋の政策も完全とはいかなかったと取れるな。
どうなんだろう。
だから宋初には蜀だけ特別な経済地域として扱ったんだっけ・・・
鉄銭の使用と、それに続いて初めて紙幣の原型を導入したはず・・・
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 15:45:45 ID:kUQs2Tdn0
清流を濁流へ
白馬の禍
李茂貞が岐王に封じられるのは、旧唐書と旧五代史では違うのな。
旧唐書のとおりだと、景福元年(892)となって、朱全忠が東平郡王に封じられた3年後で、李克用の晋王より3年早いことになる。
そのころの唐は、まず朱玫を筆頭に、李克用・王重栄・新たに鳳翔節度使に抜擢された李茂貞らで、長安付近は嵐の只中だった。
朱全忠は秦宗権討伐で、徐州や淮西・淮南方面に勢力を伸張していた。
中央の荒れっぷりを横目に… という感じだけど、実際には秦宗権という害虫の駆逐に顔を真っ赤にしていたに違いない。
やがて朱玫の天下も終わり、ようやく長安に帰ってきた僖宗は、憐れにも死んでしまい昭宗が跡を継ぐ(がされる)。
で、李克用討伐令発布。→官軍ボロ負け。
西川では王建が平定しつつある。
李茂貞は兵力を温存していた。→興元(漢中)を取る。
この時点で長安に一番近い李茂貞が、二鎮を有し最強の勢力をもっていた。
朱全忠は山東を圧していたけど、遠い。
あるとすれば、この時点で岐王に封じたか。
しかし翌2年(893)、李茂貞は朝廷の討伐を受ける。しかし李克用のときと違って、ほとんど誰も加勢しなかった…
その後も、一応討伐令は継続していたようなので、岐王の号は令とともに削除されただろう。
で次、清流派たち(宰相や官僚)は朱全忠の武力を当てにし、皇帝擁する宦官に対抗しようとした。
そこで朱全忠がこれ幸いにと、長安まで軍を進め(このとき宦官をおもくそ殺している)たので、宦官らは皇帝を伴って鳳翔に逃げた。
皇帝を保護した李茂貞が、岐王返り咲きを強要したのだろう。
だから、『資治通鑑』ではこの年天復元年(901)に岐王になったとしている。
また『旧五代史』では光化中(898〜900あるいは901)としている。
一旦削除されて戻ったとするほうが自然だろうか? これ以上は今はまだわかんない。
李茂貞の絶頂期はまさにここまでで、虢県の戦いで朱全忠にわやくちゃに負けてしまい、以後は消えゆく残り火となる。
のくせに、後梁建国後、李茂貞は岐王府を開き独立国となった。
本来、五代十国には入らないけど、初期鳳翔を中心にあった国「岐」はここが始まり。
それ以前のほうが勢いあったのに、なんとも英雄になれなかったお人…
一つ間違えれば、朱全忠と李茂貞で立場が逆転したかもね。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/11(木) 01:23:41 ID:++Wd0zej0
うーん、李茂貞はどうかな。
朱全忠は一流の武将ではないにせよ、度胸や根回しは相当長けているからなあ。
李茂貞は李克用に勝てたためしがないから、朱全忠と立場変わったら、西で李克用が暴れまくるだろう。
しかしその李克用とて、新王朝を築くには至らないかもしれない。
両者とも、唐朝の権威よりの立場だし、粗末な扱いはするにしても手にかけるかどうかは怪しいところ。
やはり、朱全忠というハカイダーがいないことには、腐った貴族官僚や宦官どもが、いつまでものさばり続けるだろう。
>>朱全忠は一流の武将ではないにせよ
皇帝就任以前では、十分一流の部類に入ると思うが。
朱温って家族いたよね。
皇帝になった後、どんな待遇になったのかな。
朱全忠が皇帝になる時、反対したのは兄一人だけじゃなかったっけ。
>>94 そう。
朱全忠ってやつは、息子の嫁さんにも手を出して、しかも息子はそれを容認していたという異常家庭の持ち主。
息子のほうは嫁が寵愛されれば、もしかして自分が太子になるかもと企んだわけだな。
朱全忠は、政戦両略のある逸材ではあるが、個人としては粗野な盗賊とさして変わらない。
その辺が、梁という国を保てなかった原因ではないかと思う。
次の代になると、朱全忠に従った有能な臣下たちは遠ざけられてしまったし。
翻って李存勗は、李克用以来の部下たちを120%コキ使って、梁を圧倒している。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 13:45:25 ID:4vATWPGI0
そう異常とばかりも言えんぞ。
現代の日本企業でも、出世のために妻に上司の伽をさせてる
サラリーマンなんぞ、ゴマンといるだろう。
梁が短期政権だったから、スキャンダルが暴露されて記録に残っただけかもしれん。
しかし梁が短命だった理由の一つが、朱温のキャラにあったというのは確かだと思うが。
上司に妻を使って性賄賂を贈るってのは、
伝統的に中国、特に役人の社会で結構あったことらしいね。
ソースは?
>>96 そ、そりゃ… そういうのもいるが… それ自体が異常なんじゃ…
しかし、そういう世界には関わりたくないもんだ。
自分の嫁だぞ。それを上司に… うえ、考えたくねぇ。
朱全忠と朱友文は、その異常さの報いを受けたけど、実際多くの仮子が同じことやっていたようだ。
親が子の嫁を寝取るというのは、伝統的にあるようだけどな。 玄宗とか、玄宗とか、玄宗とか。
上司に性賄賂ってのは現代でもあるらしいよ、中国に。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/09(金) 12:08:42 ID:Wo6NbtdZ0
秦宗権(?〜889年)
蔡州上蔡の人。初め許州の牙将となった。広明元年(880年)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱
が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。後に敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めた
が、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。中和二年(882年)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州
で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りを尽くした。光啓三年(887年)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力
が衰えた。龍紀元年(889年)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。
>102
人の所の文章まるまるコピペしてんなよ。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/10(土) 10:11:02 ID:iIrO7Xyw0
でもワロスことに、外字はちゃんと変換してるんだよな。
秦宗権も悲惨だねー。
元々官軍側で、やむなく黄巣の賊軍に降ったのに、
大将の黄巣があぼーんして、一人で反乱続けることになって、
その黄巣の賊軍から朝廷に寝返って官軍になった朱温の討伐を受ける羽目になったんだから。
>>105 都落ちした黄巣も、陳州で趙犨に300日足止め喰らったのが、響いたんだろうかな。
そのせいで、李克用がふたたびやってくるし、時溥も朱温もぞろぞろと集まってくるしで…
>105
ライブドアの平松社長みたいだな。
秦宗権も皇帝を称したみたいだけど、国号は何にしたのかな?
蔡州節度使だから、「蔡」とか?
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/11(日) 20:44:15 ID:UVxD9MB40
旧唐書にはとくに国号については書いてないね。
春秋戦国の頃の国号と対応するから、汝南といえば…
やっぱり「蔡」か?
大蔡皇帝
何だか新鮮な響きだ。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 00:35:55 ID:x+uje/tP0
皇帝といわずとも、この頃は春秋戦国の地域名で呼んでいる部分が多い。 一貫してそうなんだけどね、現在でも。
独立した節度使は、実際に封じられてなくても王のようなイメージだったと思える。
幽州は燕(実際に大燕と号したけど)、鎮州は趙あるいは常山(真定というときも。節度使王鎔は趙王に封じられているが)。
宋州なんかも、単に宋とか。
あと地名で太行山脈以東の邢、洺、磁は山東と書いたり。
現在の山東省とは違うのでややこしい。
節度使の館って、王に封じられていなくても宦官を置いたりしたところも、
あったりしたんだろうか。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 16:25:59 ID:x+uje/tP0
朱全忠が発布した、全国宦官抹殺キャンペーンに順じた連中は、たぶん以後も宦官をおくことはなかったのじゃないだろうか。
荘厳な宮殿みたいなのをもった節度使といえば、まっさきに幽州盧龍軍の劉仁恭が思い浮かぶけど、宦官がどうとかは知らない。
後唐になって荘宗が唐制の復活で宦官をまわりにべったり置きまくったから、またもとに戻ったろうね。
で、やっぱりその宦官のせいで郭崇韜のような名臣を敢えて殺すはめになっている。
李茂貞の岐、劉仁恭の燕は、十国に入れてもらえないのな
たまに勘違いされているけど、劉仁恭は正確には王でも皇帝でもなく、節度使どまり。
皇帝を称して国号を燕としたのは、息子の劉守光。
劉仁恭は、城攻めのとき穴を穿って地下道から攻めることを得手としていたので、「劉窟頭」という渾名が付くくらい勇猛な武将だった。
あるとき夢で、「49歳にして節度使となる」と書かれた幟を見たことから、不逞な野心を蔵するようになった。
この時代、「節度使になる」は、日本の戦国時代でいう「一国一城の主」に匹敵すると思う。
で、最初は幽州を我がものとしようとしたけど失敗し、のち、李克用(わりに近いところの大節度使だったから?なにかパイプでもあったのだろうか…そこまではまだ知らない)に援助を請うた。
当時の幽州盧龍軍節度使を追い落とし、幽州を占領した後節度使を自称したわけだ。
大安山に帝王さながらの屋敷を設け、美女をはべらせ、国内にはそこらへんの芝を茶と称して売りさばき、国外から流入する銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させたorz
李克用の後押しを得て幽州を領有したものの、その目付けとして順州という幽州にほど近い、あるいはその動きを牽制できる位置にある州に、李克用の武将が配された。
それは当然のことだったけど、劉仁恭としては目障りこの上なかった。
やがて朱全忠が李克用の羽翼をもぎとる意味あいと、幽州を我がものとした劉仁恭への懲罰のため北伐を開始する。
当然ながら劉仁恭は李克用に泣きつき、李克用は朱全忠と対するものの、肝心の劉仁恭はいきなり順州を攻めたorz
順州の刺史は郭簡といい、この戦いで戦死することになり、ある人物の生涯に大きな転機を与えている。
つまり、郭簡とはのちの後周太祖郭威の実父だったわけだ。
2歳で孤児となった郭威は苦労してやがて劉知遠とめぐり合うわけだけど、その出発点をこしらえたのが劉仁恭とも言える。
背反が日常化している劉仁恭だけど、対朱全忠という論点からは李克用の味方と言え、この背信があっても李克用は攻めなかった。
ただし、死に際李存勗に三本の矢を差出し、「この一矢で汝は劉仁恭を討て。次の一矢で汝は契丹を撃て。最後の一矢で汝は朱温を滅ぼせ」と遺言している。
劉仁恭はこのあとはあんまり活躍しなくなり(というか、大安山に籠もって酒宴に明け暮れていた?)、朱全忠が皇帝になった直後攻められ、為すところがなかったけど、それを果敢に撃退したのが劉守光。
劉仁恭の次男で、父の愛妾と密通した咎で蟄居させられていたけど、幽州の危機に軍を指揮して後梁軍を撃退した。
そこで、この劉守光が父を幽閉して、西暦の911年、幽州と滄州というふたつの藩鎮を領有し、大燕皇帝と号するようになったわけ。
ただし、913年早くも李存勗に滅ぼされたから、たぶん十国に入るほどでもないと断じられたのだろう。
しかし、この幽州軍閥には、契丹で漢人体制を作った韓延徽や、かの馮道などがいたあたり、割合重要な藩鎮ではあります。
>銅銭は一切流通させず、かわりに粘土で通貨を作り、むりに流通させた
おいおい……w
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 14:06:40 ID:nQ1yPcdZ0
なんか、領民が逃げないように焼印を入れたのも
たしかこの軍閥だったな
酷すぐる…
乱暴な政権だなあw
この時代じゃ、節度使でこういうのは珍しくなかったのかも知れないけど。
唐末から後梁期にかけての節度使は独立色が濃厚だから、領域内での無茶もいろいろやっている。
その節度使を抑制しようとする時期となった後晋のとき、宋州の趙在礼という古株の節度使は、統治領内での収奪が著しく
彼が転任(節度使が民衆や地主層とのつながりを牽制するため、短期転任が課せられていた。だから余計に収奪が激しい)するとき、その宋州領内の民衆は
「目の釘がとれたようだ!」
と快哉した。
それを地獄耳ながら聞き知った趙在礼は、石敬瑭に願い出て、もう一度宋州の節度使となった。
石敬瑭も宿将たる趙在礼を粗略にできなかった弱みもある。これはまだまだ皇帝権力が回復しておらず、藩鎮との力関係が微妙な証左でもあるようだ。
ともかく帰ってきた趙在礼は、「抜釘銭」と称して民衆から銭一千文ずつ支払わせたという。
ただ、こういう無茶をして巨万の富を得た節度使は多く、慢性的に深刻な財政難にあった河南王朝は、そういう節度使の溜め込んだ財産を狙ったりもしたものだったので、皇室の婿にしたりもした。
さらに同じ後晋期、主戦派の台頭によって契丹と手切れになったとき、その南下を一時食い止めるほどの活躍をして
戦史にのこるような戦いをした杜重威という節度使も、支配者としてはサイテーサイアクの悲惨なヤツだった。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/17(土) 21:24:23 ID:EGBNzf150
田中芳樹の短編集「五代群雄伝」の中の『張訓出世譚』に登場する妖怪妻は
《十国春秋》の呉十二列傳「張訓妻某氏」として立てられているんだ…
あの著者だから妖怪云々はオリジナルかと思ったけど、そういう伝説があるってことか。
張訓の風采に似合わない出世ぶりには、当時からなにかしらの疑問なりなんなりがあって
妖怪とか呪詛の類とでも思われていたのだろうか?
なにせ、「人の頭を蒸していた」とか尋常な言われ方ではないわな。
田中氏の五代群雄伝って、いくつぐらいの短編小説が書かれているんだろう。
その張訓の話と、呉越の話、楚の馬殷の話とかを読んだ気がするけど。
あと「人皇王流転」があるけど…
もう素直に書き下ろしかなんかで、李克用あるいは王建書いてくれって感じだ。
中途半端に明宗や末帝出してきても、味もなんもあったもんじゃない。
とはいえ、たしかに短編に適したエピソードを持っている人物が目白押しだから、小出ししたくなる気持ちもわかる。
楊行密を書くなら、槊の名手朱瑾と射撃の名手米志誠あたりを基軸に書けるだろうし、「張訓〜」のように徐知誥出すのもありだろう。
1年に2,3本書いてくれればなぁ…
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 09:32:56 ID:zVGyjh9r0
123氏は、新旧五代史をよく読んでるの?
え? とても読めはしないけど、手元にあるから、なにか新発見(自分の中だけ)があると、うれしそうにここに書いてるだけ。
旧五代史って完全なものはないんだよね。
>>126 途中で列伝の文章が終ってる人とかいて、結構気の毒…w
最近編纂された《舊五代史 新輯會證》では、補填がされて列伝もかなり増えてるし
注釈が多くなってるので重宝するんだろうけど、自分のようなひらがな頭には読みにくい… というのも
中華書局版の《舊五代史》は(新五代史もだけど)、名詞には縦線入っていて、素人にもわかりやすいようになってる。
同じ中華書局の《五代十国方鎮年表》も縦線入っていて見やすいから、ついそっちを見てしまう。
128 :
こんな名無しでは、どうしようもないよ。:2007/02/24(土) 10:36:22 ID:sNgX4DBi0
後周の柴栄(世宗)なんてどうでしょうか。
彼がもう少し長生きしていたら、趙匡胤による宋は成立していたかどうか
わからないと思うんですが。いや、かなり微妙。
やっぱり功成り名を遂げるには、長生きが必要最低限の条件です
>>128 >>功成り名を遂げるには、長生きが必要
長生きしたせいで晩節を汚した「元」英主がいくらかいるので、その主張は肯定しにくいなぁ
それにそのときの勢いというものがあって、趙匡胤は外征、内治の面で完成されつつある成果を継承した幸運児と言える。
対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、その悪名も柴栄に対して向けられている。
ことさら趙匡胤を否定しないけど、というか好きな人物だけど、苛烈な改革の断行や仏教整理、節度のない者への極刑など、時代が変わる節目にあって劇薬となった柴栄を、後世、陰険とか猜疑心が強いとか、趙匡胤を持ち上げるような意図で書かれるのはどうも、ね。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:17:31 ID:AnTNcKKc0
>>129 >対契丹防衛ラインや隴西奪還、淮南の攻略、北伐、開封の外城建設、黄河の大規模な治水等、
>民衆を酷使しまくった大事業は柴栄の代に行われており、
柴栄って、いろんなことやっいるわりに、在位たったの5年間なんだよね。
下準備は太祖郭威の時代に地ならしされていて、それを調理台の上に乗せて料理したのが柴栄。
ただし火加減は常に強火で、連日寝ずの作業という、そんな感じ。
倒れもしますわな…
禁軍の改変、皇帝権力の集中というのは、外すべからざる改革のひとつ。
当人は「10年で天下を平定する」気まんまんで、張り切っていたのだけど、体調の急変は過労だろうと思う。
最初は肺がんかなんかかとも思ったけど、たぶん睡眠時間などなかったに違いないw
この時代の南方の政権、南唐あたりが本気で南方をまとめ上げて、
天下統一を狙ったら、できただろうか?
あるいは南北朝体制に持っていけただろうか?
>>132 大唐スレの86引用(書いたの自分)
>>86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 11:14:47 ID:Q6NE2SxT0
>>節度使って、使職なんだけど、のちには行政区分も兼ねるようになったんだよね。
>>従来の州県区分では、豊かになりすぎた江南江浙やらの民政統治がままならず
>>より大きな区画が必要になってきたから。
>>中唐に起きた軍乱、安史の乱以降は基本淮河より北の地での反乱が多かったけど
>>唐末になると、湖南や浙東を基軸に次第に北上していく兵乱および民乱が続発していた。
>>五代十国時代の十国が、華南にあってそれまでの例になく分裂していた背景は、
>>その節度区画と兵・民乱による相互連絡の分断と地域民とのより深い密着という点が大きいと思う。
>>それまでの歴史は、普通華北側が分裂し、華南は比較的分裂しない、というものだったのに対し、ね。
つまり、政権基盤がそれぞれにしっかりしていて、単純に武力だけの討伐はかなり難しかった。
江南国ではまず、呉王国の権臣徐温の専権によって王権が弱くなり、南唐建国移行への契機となった。
初代皇帝である烈祖李昪は徐温の養子(仮子)で、政戦両略があった英傑だけど建国後は内治に意を用い
隣国の呉越討伐論も退けた。
おかげで国力はおそらくトップとなったろう。
後を継いだ元宗李璟は、その国力をもって征討軍を出している。
しかし先にも書いたように、単なる力技で屈服するほど、華南の政権は弱くない。
李璟は閩王国の内乱に乗じてこれを滅ぼし、楚王国の後継争いの後押しを名分にして蹂躙した。
周辺十国政権で領土拡大ができたのは南唐だけだが(南漢も後で旧楚領を併呑するけど)、それとて完全併呑には至っていない。
征楚戦役では、大将・辺鎬の戦後処理の失敗から、占領地を放棄せざるを得なくなったし、閩平定戦のときは、後一歩のところで呉越の銭弘佐に大敗している。
それでも華南にあって最大の版図と国力をもった南唐は、その国是として中原回復を掲げた。
名分は南唐李氏が大唐李氏の末だからということ(むろんこじつけ)。
後晋→後漢のとき、河南王朝の反乱分子を扇動して謀反を起こさせ、契丹と結ぶなどして着々と準備を整えていた。
後周が起ったとき、北漢と共同して北進を開始したものの、これは北漢の敗退もありすぐ終った。
そのあと、南唐全土に大飢饉が発生することになった。
慌てた李璟は国費削減で対処し、北方防衛ラインである「把浅」をこのとき撤廃してしまった(後周がちょうど内政に重点を置いていたから)。
そこを快速を誇る後周世宗につけこまれ、淮南(江北十四州)での怒濤の奪い合いが展開された。
こうなると李璟は北伐どころではなくなり、いかに生命線である淮南を渡さないかに腐心した。
劉仁贍の堅守で長期にわたって抵抗はできたものの、後周が南唐を凌駕する闘艦を持ち込んだので
得意の水上戦ですら歯が立たなくなってしまった。
淮南を奪われた南唐はその最大生産地をなくし一気に弱小国となり、後周の従属国となったのでした。
(ちなみに、この南唐の転落で、後蜀を除く華南の政権はすべて後周を宗主国と認め入朝している)
ある程度勢力均衡してしまってからは、十国政権に統一する可能性はなかっただろうな。
唐末の勢力なら秦宗権の蔡州軍団を孫儒より有能な誰かがのっとれば可能性はあったのではないかな。
あの軍が解体して、楚が誕生し、さらに呉と呉越の中核部隊にもなっている。
よほど凶暴な連中だったのだろう。
呉の軍団には、かつて朱全忠と抗争を繰り返した朱瑾なんかも参加している(中原から南に亡命するのは結構あることみたい。盧文進とか皇甫暉とか)。
その朱瑾や従兄で鄆州天平軍節度使朱宣の配下に、賀懐や康壊貞といった後、後梁で名を轟かす名将がいたのも、結構興味深いことで。
この朱全忠、朱宣・朱瑾従兄弟、秦宗権との戦いは、長安を中心に嵐が巻き起こっている一方での白熱した戦いなので、結構おもしろい。
>>孫儒より有能な誰か
孫儒も楊行密に勝ったりしてるし、かなり実力あったみたいですね。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 18:13:21 ID:cFxzfGZc0
後梁が後唐に倒されるまでは十国にもチャンスはあったし、
それ以後でも契丹の介入に巧みに乗じれば機会はあったかもしれん
しかし、江南の連中からすれば、華北の軍閥の親玉たちは
恐ろしいヤクザ者であまり関わりたくないというかんじだったんじゃないか
>>恐ろしいヤクザ者
華南の連中もさして変わらんけどねw
この時代、誰も彼もがヤクザ化していて、心底義に篤いなんて人物は、それこそ数えるほどだろうと思う。
馬全節と杜重威という二人の節度使は隣鎮同士ということで比較される。
杜重威は後晋期を代表するケダモノ節度使で、馬全節はその逆の民衆のために収奪をしなかった。
後晋のその時期は(歴史上特筆するべき)とんでもない不作続きだったので、どの節度使も野獣化していたけど、馬全節はそうではなかったという、稀有な例外。
ちなみに、中原国家… ふつう河南軍閥というけど、これが契丹に蹂躙されたとき、秦・鳳の節度使が後蜀に領地ごと帰属している。
後蜀はとくに労なく領土を得た。
その秦・鳳は、後周のとき向訓、王景、韓通らによって取り返されている。
後蜀は中原に対しては強硬路線(屈さず)を通しているけど、積極的に出撃することはあんまりなかったようす。
どっちかっていうと、楚や荊南方面に動いていたようだ。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 23:24:23 ID:VrroZAlQ0
五代の内、後梁以外は山西系軍閥だね。
ここにはかなり詳しい人がいるので聞いてみたいんだが、沙陀の連中は
民衆から収奪するばかりで、まともな統治をしなかったというのは本当だろうか。
それとも当時はどこも同じだったのか?
>>139 学術的に詳しくないが、雑感として思うところを述べてみるテスト
山西に鎮した李克用には、方々での掠殺の記録もあり、統治はむろんするが、小さな過失でも容赦がなかったように思えます。
そもそも戦争屋としての資質が第一なこの軍閥にあって、毛筆関連は下に見る傾向があったわけです。
山西に根付く尚武の気風というヤツでしょうね。
ただし、河東監軍の張承業は別格であって、李克用のような暴れん坊が、この人をして師あるいは兄としたのは、珍しいことでもあったといえるでしょう。
李克用は部下の偏重が多く、人心の掌握が薄かったので領域内での反乱が多く、一時は滅亡寸前まで追いやられました。この辺、項羽的な性格だったと思える。
そこで山西が軍閥として崩壊しなかったのは、ひとえに張承業の手腕によるのではないかと。
張承業は在野の士を招いたし、馮道の登用を強く推したのも彼だった。
つまるところ沙陀出身で国づくりを意識したものは少なく、いわゆる漢人によって保たれたと思えるわけです。
また、劣勢な晋が梁を圧倒できた背景には、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の妻、楊氏の蓄財が大であったのです。
李嗣昭自身は勇猛な武将で蓄財の才能はなかっただろうけど、その妻に異様な才能があって、李嗣昭の家財は巨万となっていました。
山西は昔から鉄の産地で、その貿易によって荒稼ぎしたものと思われます。
名前は伝わっていないこの夫人が、晋をして梁に勝たしめた、とさえ言えます。
ちなみに収奪の度合いは、後晋中期にそのピークを迎えます。
出帝のとき後晋はとんでもない不作と黄河の氾濫にあい、国土は破滅寸前にも関わらず、主戦派のアホウどもが契丹との開戦に踏み切ったため、軍糧の調達でさらに疲弊を促していたのです。
節度使という制度自体が収奪を促すものであって、自制なき強者の私財収集は際限がなかったのです。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 02:33:16 ID:tVYskyAI0
節度使悪玉説って、実際にはどうなんだろうね?
欧陽脩とかは、中華マンセーのガチガチの儒教思想だろうし
実態は日本の守護大名と同程度という気もするが…
もっとも日本でも室町後期の庶民は、守護大名の強力な支配より
将軍家や寺社のいい加減な支配を好んだそうだが…
>>141 その欧陽史に書かれているわけだ。
李克用の略奪も、だし、悪節度使についても書かれている。
「嗚呼、晋之事醜矣、而悪亦極也!」
杜重威、張彦澤、趙在礼と言えば、最悪節度使の典型だし、後唐の頃なら張筠なんていう、略奪で大資産家となったスゲーのもいるし…
ではなんで、そんなことになったかと言うと、そこが日本の大名とは違うところ。
在地の民と融合して強大な勢力となった河朔三鎮の例があり、在地住民とのつながりを恐れた朝廷が、節度使の任期を数年とかにして、短い期間で統治者を変えていったのです。
それによって、節度使が在郷の士と協力して反乱を起こすことへの牽制としたわけですが
結果としてその手法は、節度使が任地にある間に、できるだけ民から収奪し、中央へ送る税を差し引いても巨額の富を懐に残すようにやっきになったわけです。
転任してしまえば、後は知らーん、ですから。
だからと言って、節度使の制度を撤廃したり、そのことを是正できるほど、このときの皇帝は権力がなかった。
後周の慕容彦超の乱を最後に節度使の反乱が落ち着き、ようやくまともな「国づくり」ができるようになったわけで
それまで中原王朝なんて呼ばれますが、実態は唐の亡霊朝廷に任命された統治領域が広い藩鎮でしかないわけです。
慕容彦超さんって、鮮卑の末裔?
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 12:12:27 ID:IrKClpye0
>>143 吐谷渾の末裔ってことになってるみたい。
しかも、「漢高祖の同産弟なり」って… はぁ?
注釈に、《廿二史考異》で「異性やのに同産て称しとるんは、母方が同じいうことやろうなぁ」とあるから、劉知遠と異父兄弟?
劉知遠は突厥系沙陀だけど、慕容彦超のオヤジ、慕容亮は吐谷渾… だから鮮卑慕容氏の末裔で正解なのだろう。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 13:07:54 ID:V1bx3Fyb0
岐の李茂貞って誰に滅ぼされんだろう?後梁、後唐?
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 19:57:32 ID:UYbCS0Gg0
李茂貞は後梁のとき、反発して岐王府を開いて以来、一応独立だったわけだけど
その勢力自体はすでに朱全忠が梁王のときに、頭を抑えられていた。
後唐が汴梁を陥としたとき、降伏を申し出ている。
後唐のとき、息子の李従曮はそのまま鳳翔を任されており、明宗にときに出鎮したものの
末帝以後(この末帝のとき、鳳翔支配時代の資産はまき上げられている)、ふたたび鳳翔節度使のもどり、秦国公、岐王、秦王と累進した。
と、いった感じ。
鳳翔も李茂貞の支配以前から、雄藩として一目も二目も置かれていた重要な藩鎮だけど、この時代
どうしても目は東を向いてしまうので、忘れられがち。
思い出したように行われる、蜀との戦いで出てくるか、有力節度使の歴任の中に出てくるか
くらいの印象が、今の自分には強い…w
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 23:30:44 ID:vmMeqhK/0
李茂貞って五代のほんとに最初の頃に出てきて
その後の消息がわからなかったから教えていただき
ありがとうございました。
最初は準レギュラーで登場してきて、後になってチョイ
役で出演したって感じかな。
この時代は再嫁が多そうやな
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 22:31:03 ID:0I5Fgi7Q0
>>147 >>89で李茂貞について、ちょっと書いてみたんだけど、最初はたしかに強かったんだけどねぇ…
あわよくば、皇帝を擁して長安を臨んだだろうけど…
朱全忠のほうがはるかに上手だったw
咸陽から鳳翔へ至る野戦では、ほとんど康壊貞のためにやられている。
李茂貞も自身が出ているのじゃなく、符道昭という将軍を遣わしていたけど。
この頃、鳳翔には昭宗以下宦官のお歴々が大挙として逃げ込んでいたので、自らの出征は許されてなかったのかも。
出て行った先で朱全忠と企んで、自分らを殺しに来る、とかね。
結果は、李茂貞の惨敗で宦官さまたちは、朱全忠の歓心を買うため李茂貞によって大半は殺されたし、降伏後は朱全忠の手によって斬殺された。
どっちに転んでも滅びる運命だったようだw
しかもこの後、朱全忠の武力を頼った名門官僚たちも黄河に投げ捨てられたとさ。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:01:32 ID:0I5Fgi7Q0
追記。
李茂貞も虢県の敗戦以降も、出撃して一度は朱全忠を苦境に立たせているようだ。
ただし、すでに汴軍は岐州(鳳翔節度使の治所のある州)の包囲にかかっていたので、最終的には挟撃され敗退したようです。
しかもこのとき、実は黄河を越えて、李克用とも戦っていたんですよね(前年から太原包囲作戦発動中)。
李克用には朱友寧と氏叔琮を遣わして、太原の包囲寸前までいっていた。
実は李克用も滅亡寸前だったという…
(義児将の李存信が、太原を捨てて韃靼へ逃げましょうと提言し李克用も気落ちしてその気になったけど
夫人の劉氏に「あんな羊飼い風情に遠大な戦略はわからないのです。莫北へ逃げたとていつ戻ってこれるか知れたものではありません」
と、きつく叱られ、また周徳威らの必死の嘆願で踏みとどまり、どうにか延命できたのです)
鳳翔包囲中に軍中に疫病がはやって、朱全忠もちょっと苦しいところだったわけで、それで李茂貞を完全に覆滅するんじゃなくて、和平におよんだのかと。
あと、東の青州軍閥の王師範が、稀代の名将・劉鄩サマを遣わして、兗州を奪ったという事態も、朱全忠を帰す契機となったのかも。
まぁ、このあたり読みきれていないので、ほんとかどうか…(おいおい)
すごいね、朱全忠。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 23:49:33 ID:0a13yIQF0
李茂貞に朱全忠を凌駕する軍事力が備わっていたら、
どうにかなったかな?
位置的には長安に近いから有利な気もするけど。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 11:35:52 ID:b1KbNZ8x0
ウイグルや吐蕃を引き込みやすい位置ではあるな
本気で勝ちたかったら、そこまでやってたと思われ
ウイグルも吐蕃も国家としては既に崩壊していた筈
この時期だと、ある程度の兵を得ることはできても、
強力な後ろ盾というわけにはいかないだろうなあ。
この頃となると、かの大帝国ともいうべきウイグルは瓦解していて、また吐蕃も失墜していた。
巨大帝国の連鎖崩壊というヤツです。むろん唐もガッチリ含まれています。
河西方面ではタングートが強くなってきてたかな?
河西方面を地味に押さえていたのは、夏州の拓跋思恭。後の西夏国祖。
節度使の軍隊は、基本傭兵なんで、ウイグルの一部くらいは指揮下に組み入れていたろう(未確認)。
でも、沙陀の東進と契丹の拡張で、けっこうスッカスカだったように思える。そっち方面。
やはり熱いのは、沙陀と契丹の台頭。
朱全忠の梟雄爆発の東奔西走っぷり。
ただなぁ…
朱全忠ってやつは上のほうにも書いたけど、女性関係が悪すぎる。
李茂貞の味方に、邠州の楊崇本という武将がいるんだが
この人、もともと朱全忠の西進にあわせて協力したのだけど、じつは奥さんがすごい美人で
朱全忠が寝取っちゃったということがあり、激怒して李茂貞に付いたのでした。
それもあって攻めきれず、鳳翔方面は放置というかたちになり、まぁ昭宗も手に入れ、洛陽遷都を強引に進めればいいか
ということで、朱全忠の天下が始まるわけです(若干地盤が弱いと思うのは気のせい?)。
昭宗も洛陽遷都後は、どうにかして朱全忠の手を逃れたいものだから、李克用をはじめ李茂貞、王建、楊行密らに密使を送ったが
実はそれら軍閥も単体では朱全忠に抗することはできない状態だったので、まぁ絶頂期でしょうねぇ。
まるで、織田信長と足利義昭みたいな流れだけど、天下の形勢は爆裂児・李存勗が出るまで朱全忠の天下とみなされた。
言ってみれば、武田勝頼が信玄を越えるいくさ上手で、織田信長は連戦連敗するような場面がこのあとにつづくと思えばわかりやすいかも…(まじ?)
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 21:41:56 ID:ECZVEMPw0
好きな五代群雄
王建
李克用
柴栄
>>155 朱温って女癖悪いよね。
自分の息子の妻たち、つまり嫁たちを、
「ちょっと具合悪いから看病しに来い」と宮中に召し出して、
いたずらして遊んでいたんだろう。
>>156 自分は、柴栄大好き人間だけど、それ以外の群雄クラスなら
李存勗、徐知誥、銭弘佐、あと高従誨とか面白いかもしれないなぁ。
武将クラスで言ったら… 多すぎる。
もちろん李克用も好きだけど、李存勗のインパクトには敵わないだろうなぁ。
後梁の名将・劉鄩と李存勗の虚虚実実の駆け引きは戦史に名高いし(莘県城塞の戦いなど)
結局、そのせいでか劉鄩は名将の評判は高いのに、負け続きでかわいそう…
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 08:45:17 ID:5UHmYgvz0
逆に嫌いな群雄
燕雲十六州を売りやがった石敬瑭
目抜きの韓通
燕雲十六州を割譲して非難されるけど石敬トウも異民族でしょ?
異民族が異民族に臣従したんだから別に大した事じゃないと思うんだけど…
石敬トウが非難されるのは最後まで燕雲十六州を奪えなかった北宋の怨みから?
まあ、激しく非難されるいわれもないだろうけど、
絶賛されるいわれもないなあ。
それと、石敬瑭の後晋の代に、契丹と関わりを持って、
大々的な侵略を招いて、虐殺やら掠奪やらされちゃったから、
そのへんも負の評価を受けやすい下地となっているのかも。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:05:55 ID:5UHmYgvz0
『独裁君主の登場』という清水書院から出てる本で契丹のいわゆる
「打草穀」が描かれているが、学生のときにそこのところを読むと
気持ち悪くなってしまった記憶がある。
石敬瑭が燕雲の地を質に出したとき、すなわち後唐末帝のときは
石敬瑭と並ぶ軍閥である幽州盧龍軍の趙徳鈞が、同じように契丹の後押しを得て中原に乗り込む画策をしていた。
しかも石敬瑭は朝廷から猜疑を受けていて、遠からず軍閥解体の危機に瀕していた。
そういうこともあって、自分が生き残るためには早急に契丹を動かさねばならなかった。
劉知遠や郭威などは、そこまで譲歩する必要はないから、と諫めもしたが、すでに後唐の討伐軍が向かっていることもあり、割譲の手配をした。
事実、そこまでしないと契丹は動かないし、またその助力があってさえ、後唐の張敬達、高行周、符彦卿らには勝ったり負けたりで、一時膠着したほどだったし。
まぁ、そこまで後唐末帝も弱くはなかったということ。
問題は割譲の件なんだけど、易定・幽州以外のほとんどは、すでに後唐時代、契丹の攻略を受けた山後の地でもあり、実質は契丹の領土範囲(支配力は薄いものの)と言っても過言ではない状態だった。
それだからこそ、要衝である幽州の割譲は契丹からすれば垂涎ものだったのだろうけど。
ただしそれは「後晋」国がやったことで、後代の王朝がそんなことにまで遠慮するわけにはいかず、本来自分たちの領土だったものを返せと言うわけだ。
燕雲十六州をわずかでも取り戻せたのは、後周世宗あるのみ。
契丹=遼が在るあいだ、ついに奪い返すことは北宋国をもってしてもできなかった。
後晋も契丹相手にかなり善戦したんだよな。
当時契丹に喧嘩売ったのはあまりいい判断ではないけど、
全く無謀ってわけでもないような気がする。
>>165 残念ながら、無謀以外の何者でもなかった。
当時後晋領は、記録的にひどい旱魃と飢饉と大雨にみまわれ、石敬瑭の没年から後晋が滅びるまでそれが続いていた。
当然、収穫は絶望的だし、民衆は多くが離散していた。
そんな状態でありながら、ただ自分たちの地位を優位にしたいというだけで、契丹にケンカを売ったわけだ。
どういうことかというと、契丹の援助を得て共存することで後晋という王朝を建て、その交渉などに携わったことで功績を残したのは文官が主。
で、石敬瑭は武人を抑制するために、文官を重く用いようとした。
従来の中国の政権では、それが常の姿なのだが、唐末の動乱から武人優位が続いていた。
つまり、そういう石敬瑭の文人優遇に対する反発心と不安感が、武人たちをして親契丹を主張する文人とは違う意見、反契丹を唱えさせるに至ったわけだ。
そしてあろうことか、武人にありがちなことだけど文を軽視し、平和な世に満足できず、たえず動乱を望むような不届き者もたしかにいた。
そういう連中は、意気盛んに契丹との交戦を声高に叫ぶが、残念ながら契丹が南下してきたとき
身命を賭してそれを撃退したのは、それほど契丹との手切れを望まなかった良識ある武人らであって、交戦を主張したヤツではなかった。
まして、国内の内乱と契丹の南下を同時に防いでいた朝廷司令部の最高責任者は、なんと石敬瑭が太原で独立するとき、契丹の援助を絶対に取り付けなければならないと主張して実行した、文人の桑維翰だった。
つまり、交戦を主張したアホ武人どもは、粋がっているだけでなにも為すところがなかったという皮肉。
で、その桑維翰も一旦危機が去ると、武人連中がわいのわいのと騒ぎ立て、地方へと転出させられてしまう。
そして、三度目の契丹南下。
結果は周知のとおり。
後晋の場合、桑維翰と肩を並べられる人材がいなかったような気がします。
王朝に対する帰属意識、ないしは忠誠心の高さも含めて。
どうやって王朝を強くしていくか、そのグランドデザインを描ける逸材が
残念ながらいなかった、と(景延弘は論外…)。
個人的に、桑維翰は契丹という外圧を利用して、皇帝権の確立と節度使の
権限奪取を進めていたんではないかと思うわけですが。
五代会要などを読むと、後唐時代より後晋時代の方が中華王朝としての
体裁を整えているように見えます。
例えば、後唐時代には律暦礼楽の制定まで手をつけていないんですけど、
後晋時代になると一応全部制定されてるんですよね。
暦を作って正朔を奉じさせることと、皇帝の権威を示す指標となる、
中央の儀式の代表である礼楽の両方を整えられたというのは、後晋の
集権化がある程度の実をあげていた、ということなのかな…などと
考えていたりします。
この時代の専門家の方には怒られそうですが(すいません)。
しかし、中国史全体を通してみても、景延弘は駄目な臣下として
トップクラスじゃないでしょうかね?
桑維翰のやったことを全てひっくり返した結果が国の滅亡…。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 02:23:16 ID:3CY9ORIA0
>>後晋の 集権化がある程度の実をあげていた
後唐明宗から兆候があり、石敬瑭もそれは強く意識していた。
強幹弱枝の最初の例なんでしょうねぇ。
だからこそ、安重栄とか楊光遠とか、節度使らの強硬な反発を招いており
その鎮定に終始するに終ってしまうという。
変化のあるときの副作用。
後漢も後周初も、同じことを徐々にやっており、ようやく主だった節度使の乱が収束したかな?
というところにこぎつけて、柴栄さんの登場ということになりますか。
ヘタレと言われますが、石敬瑭は治績の面では、かなりの名君とも言えますよね。
印刷技術の発達もこの頃を境に発展しだしたんじゃなかったっけ…
>>167 《五代會要》読んでるんですね… いいなぁ(持ってるけど、開いてないw)。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 19:54:43 ID:P41V3Neb0
寇彦卿、あざなを俊臣。
大梁(汴州)出身で、父の寇裔は宣武軍(汴州)の牙兵(親衛軍校)だった。
朱全忠が汴州に移鎮してくると、寇彦卿は抜擢され、その左右に侍衛する。
元帥府押衙・四鎮通賛官行首兼右長直都指揮使(通賛官ってなんだ?)となる。
洺州(めいしゅう)刺史となって、魏の羅紹威と境を接する。
羅紹威は文に傾斜する資質の持ち主だが、魏博を治めるには武が必要。
そこで、魏博の兵は羅紹威を軽く見て乱を起こすが、羅紹威は朱全忠を頼る。
朱全忠は寇彦卿をして共に謀らせ、乱を鎮定させた。
寇彦卿は身長八尺、鼻筋が通って四角い感じの顔つきで、貴人の相をしていた。
その声はまるで鐘の鳴るがごとく。
騎射を善くし、史書を好み、またよく朱全忠の意を知り、その所作はきびきびとしていた。
朱全忠はよく言った。
「敬翔、劉捍、寇彦卿らは私自ら育て上げたのだ」
朱全忠は自身の乗馬であった駿馬、号して「一条烏」を寇彦卿に賜った。
天復中(902)、岐王李茂貞の使府に連れ去られた唐昭宗を迎えるべく、朱全忠は西進した。
岐軍との戦闘中、寇彦卿は「一条烏」を駆り陣中を駆け巡ったので朱全忠は感嘆して
「まさに神王なりや」
と言った。
岐軍を封じ込め、昭宗を奪還した朱全忠は、寇彦卿の勇ましさを讃えて、邢州刺史、亳州団練使とされる。
ふたたび李茂貞が長安をうかがおうとすると、朱全忠は寇彦卿を遣わして昭宗に遷都の要請をさせた。
このあと、呉越王銭鏐が、淮南への合撃を要請してきたので、寇彦卿が遣わされた。
寇彦卿は二千ほどを率い、霍丘に兵を進めたが、土豪で勇略のある朱景のために敗れ、空しく兵を返した。
朱全忠が帝位に就くと、華州節度使から検校太保を加えられ、左金吾衛大将軍などを歴任した。
某日、天津橋に一人の老人がいて、御者が誤って突き飛ばしたので、橋から落ちて死んだ。
これは御史府の責任で、寇彦卿は責めを受け左衛中郎将に落とされた。
数ヶ月経って相州防御使となり、さらに経って孟州節度使とされた。
朱晃(朱全忠)が息子の朱友珪に殺されると、旧恩を思い出し涕泣したという。
末帝(朱友貞)が二代目皇帝となると、興元府(漢中)の節度使を遥領され、また東南面行営都招討使とされるが
淮南への侵攻は拒んだ。
貞明年間(915)の初め、鄧州節度使(南陽)とされた。
淮南の安陸が呉軍に包囲され、詔を奉じた寇彦卿は兵を率いて囲みを解き、呉軍を大破して安陸を救った。
貞明四年(918)、自領の鄧州で死去する。享年57歳。
寇彦卿は性根がまっすぐで明敏、よく主に仕える。 しかし、自身に確たる価値観が存在し威風があった。
功為し名を上げるといえども、殺戮することをできるだけ避けた。
どうして識者の卑しむところと為すだろうか。
う〜ん。 最後の方とかかなり怪しいけど、だいたいこんな感じか。
名将っちゅうか、重要人物。
>>169 えー以前他スレで李晟は五代の人物なら誰に相当しますか?
と尋ねた者です
こちらに寇彦卿について詳しく書き込みなされていると拝見し遅れ馳せながら
やってきました
寇彦卿について良く理解できました
朱全忠が何かと頼りにした人物の様な印象を受けました
>>169氏には大変お手数を掛けました
>>170 これはどうもご丁寧に。
まぁ、自分も趣味の一環なんで、手数でもなんでもないですよ。
朱全忠の勢力立ち上げ時期は、まだ把握しきれていないので上っ面の訳くらいしかできない。
また突然、なにかを書きだすと思います。
後梁の末期は後唐もかなり苦しい状況になっていたらしい(特に財政的に)。
そんな状況だからこそ李存勗はあえて敵の本拠地を直撃することを選択し
それを成功させて一気に戦争を終わらせた軍事的才能はさすがだが、一方で
朱友貞があまりにあっさりあきらめてしまったのが気になる。籠城するなり
西の洛陽に逃れるなりしてしばらく時間を稼げば、勢いに任せて突っ走ってきた
後唐軍は退却を余儀なくされたのではないかと思うんだが。
もしかしたら後梁は既に崩壊寸前で敵が開封に迫った時点で命運は決していた
ということなのかもしれないが、漢文が読めないのでよく分からん・・・。
誰か教えて。
胡柳陂の戦いまでは、結構一気に晋軍は押したんだけど
そのあと、鎮州で趙王王鎔が張文礼に殺された乱で、晋軍の主力将帥の
主だった者が戦死するというすさまじいことになったので
梁としても幾分生きながらえた。
しかし、その梁でも皇帝の左右に佞臣がはべりだし(趙巌とか)、また二代目の宿命的な
先帝の重臣を疎んじる、というやつに陥り朱晃以来の名将・名臣の言を用いることが少なくなっていた。
態勢を立て直した晋軍がやがて黄河を越えてくると、梁は王彦章を用いるようになったが
その王彦章の武威を恐れた趙巌らが、これにまったく協力しなくなり、あげく違う将を立てたので
宿将・兵士らは憤慨し、王彦章以外の将帥のために戦おうとはしなかった。
ついには、その最後の防壁ともいうべき王彦章は晋に擒えられ斬られるに至る。
そのあと晋軍迫るの報に朱友貞はただ泣くだけでなすところもなく、また趙巌らもさっさと逃げ出していた。
徹底抗戦するにも、すでに朱友貞に兵士の人望はまったくなかった。
覚悟した朱友貞は侍臣に首をはねさせて終る。
朱友貞自身はそれほどバカではないのだけど、先帝以来の臣を使い切れない、あるいは使いたくない
そんなヘンなプライドでせっかくの名将名臣を埋もれさせ、あるいは互いに破滅させ、うまく機能させられなかった。
その点、李存勗はいっぱい戦場で失ったものの、各々の実力を出し切らせているのはさすが。
ただし、猜疑も一緒にあるので、結局その人心掌握には失敗し、李嗣源をして軍乱による擁立という
五代の伝統を招いてしまうことにはなるけど。
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 23:59:01 ID:mTDYX8mH0
一軍中に五帝あり。
という、有名な言葉がありますが、李存勗が晋王のときの軍団には、後に皇帝となる
人物が5人いたということ。
李嗣源の仮子である李従珂、帳下の将である石敬瑭、さらにその部下たる劉知遠。
しかも石敬瑭は李嗣源の娘婿…
李嗣源軍団はすごいことになっています。
一応、李存勗も含めて「五帝」なはずです。
ただし、ただしですよ。
実は、鎮州でかの張文礼が乱を起こした戦いで、潞州の重鎮たる李嗣昭が戦死し
治所たる潞州では、李嗣昭の息子らが遺産を巡って、晋から独立したことがあり
そのとき募兵に応じて、若き日の郭威がはじめて兵士として志願しています。
しかしすぐに鎮圧され、その兵士らは李存勗の親軍に編入されたので
これを合わせると六帝ということになりますか…
柴栄はその頃2歳かそこらなので、邢州の別荘でばぶーとか言って弓とかおもちゃにしてたのだろう。
あるいは農夫の人形でもいじっていたか…(んなわけないか)
敵対勢力を倒して勢力拡大した暴走族が、内部抗争で次々とリーダー交代。
しかも、その中の一人がヤクザに応援要請して大変なことに。
最終的にはヤクザにお金を払って許してもらった。
>>175 言えてるw
で、その最後の一人が、ヤクザを凌ぐ軍団を作り
支部の2,3個ぶっ潰したが、惜しくも若くして病死した。
ってね。
五代って、経済力は伸長したのかな。
それともやっぱり戦乱で人口が減って、生産力も落ちたかな。
地域によってかなり格差があっただろうけど。
なんかほとんど脊椎反射のように書き込むけど、別に監視しているわけじゃないよ?
安禄山の乱以降の経済不振のなかで、官塩が復活して以来、貨幣経済が浸透しだした。
それによって、経済面でも近代化が進み、江南や蜀などは特に豊かになっている。
華北においても潞州の李嗣昭は(その奥さんが)特に資産家であって
晋の軍事支出を支えたというのは、つとに有名な話。
また、文化面でも後晋期には印刷技術や、火薬の新兵器とか、いろいろ発展している。
農民は基本、国家からの賦役逃れで姿を晦ますけど、その多くは新興地主層の荘園に入り
その農夫としての労働力となっていた。
国家が兵士に徴用、あるいは税の対象とできなかっただけで
生産力それ自体にそれほど影響は無かったのじゃなかろうか?(これは未確認)
貨幣経済については、北宋が後蜀を降したとき、貨幣不足から独立国だった頃の通貨を
そのまま流通させないといけなかったので、政権としては統一したものの
経済側面では依然分裂した状態だったという。
それが究極的には四川にあった反宋感情の土台ともなったのじゃないかと思ったり。
(直接的には北宋軍の略奪がそうだけど)
あと重要なのは、柴栄が行った仏教団体の整理。
賦役逃れで出家していたものなど、多くの似非僧侶を還俗させ生産力に還元させたし
銅器や仏像を鋳潰して、銅銭に変えたのも、ものすごく画期的なことだった。
当然、仏教側からは「仏敵」呼ばわりされたけど、まったく意に介していない。
でもその呪いで早死にしたのかもしれないなぁ…
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 13:43:02 ID:4WVGkWum0
三武一宗の法難による仏教弾圧って、堕落した仏教勢力の整理のために行われたものが殆んどなんだよね
行った皇帝は殆んど有能な君主ばかりだし
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 23:14:57 ID:ouhgef9Z0
寺に財貨がある方がおかしいわな
>>180 今の世に、こういう権力者が現れたら、顔面蒼白になるのは池田大作だけではないはずだw
柴栄は庭に農夫の像を置いて、いつも民を気にかけるようにしていた。
しかし、彼の急進的な改革には、まだまだ民に苛酷な負担を与えねばならないものが山積みだった。
戦乱で人的資源が枯渇していたというのとあいまって、銅銭の不足もあるし
後晋期からの黄河の氾濫で川筋の修正と堤防の建設といった治水
さらには京師開封の新城壁建設など、どれも膨大な人手が必要な作業だった。
加えて、北漢への遠征、淮南への侵攻など、民を十万単位で戦線に投入してもいる。
ただ、北漢の遠征は完全なる勇み足の失敗で、なんら益するところはなかったけど
他の作業は民へと還元するところが大きいのは注目するところ。
淮南の塩は国家財政を著しく好転させもしたし。
仏教の整理もとくに道教がらみの発想からでたものではなく
単なる不合理の調整という感じ。
そもそも仏教団体がなんで荘園をもって、そこに農奴的な労働者を雇う必要があるか。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 23:59:31 ID:EsbwCguP0
皇帝がたくさん出たから、五代群龍伝としたいところだな。
蛟レベルの奴もおるがw
五代歴代皇帝で、こいつだけは問答無用でアホ
というのは、後漢の二代目、隠帝こと劉承祐くらいだな。
その他の皇帝は何かしら見るべきところがある。
へたれ呼ばわりの(自分も言うが)石敬瑭も、政治的なものは評価できる。
武人を政治から遠ざけようとした改革の初期の例であり、その反発がひどすぎたので
内部反乱が特に多かった治世でもあるけど、いままでの流れをぶった切ろうとしたのは
後代へのつなぎという点では良い。
治政も印刷技術の発展とかもあり、反乱はあれど民政はいい状態だった。
劉知遠は石敬瑭よりひとまわり、政戦に長けた人物。
とくに石敬瑭の太原時代、実戦指揮はほとんど劉知遠がやっており
またその頭脳的役割も担っていたので、全体的な戦略構想の進言も多かった。
長寿であれば、かなり有能な名君として君臨できたろうが、両人とも自立した時期が遅すぎだった。
で、この名君の可能性のあった劉知遠の後を継いだのが劉承祐。
こやつは劉知遠時代の功臣を、口うるさくて邪魔だからと暗殺し
最終的には郭威に返り討ちにされた。
まさに擁護の余地も無い自分勝手な皇帝だった。
五代の皇帝格付け
1 柴栄(後周世宗)言わずと知れた五代最高の名君
2 李嗣源(後唐明宗)言わずと知れた五代二番目の名君
3 朱全忠(後梁太祖)新たな時代を切り開いた人物ではあるが・・・
4 郭威(後周太祖)よく知らん
5 石敬瑭(後晋高祖)割と有能らしい。最大の問題は契丹に対する低姿勢だが
澶淵の盟を考えれば同時代の人間と比べて七十年先を行っていたと言えなくもない。
6 李存勗(後唐荘宗)バランス悪すぎ。
7 朱友貞(後梁末帝)在位十年。五代最長。
11 石重貴(後晋出帝)石敬瑭の苦労が水の泡
12 劉承祐(後漢隠帝)
>>184 1年足らずで病死した劉知遠はちょっと評価しづらいので除外。
そうか、後梁末帝が実は一番在位期間が長かったのか…
朱全忠は優れた政治感覚の持ち主で、戦争は大概部下が手柄を立てていた。
もちろん自身も出征して督戦しているわけだが、それよりもそれだけあっちこっちと動きながら
他勢力の動向を見極めて戦略的に追い詰めたり、動けなくしたりしている。
そのうえ民政もうまくいっていたようだ。
私生活がアレな人だけど、君主としてはなかなか。
なのに、ああそれなのに。
劣勢で詰み寸前だったはずの李存勗に、野戦で3度まで大敗を喫し終わる。
朱友貞は元来、なかなかの人物なわけで、朱全忠亡き後
どうにかこうにか李存勗の南下の勢いを減殺しようとして、それはある一定の成功を収めていた。
ただし、この人も結局、先帝の功臣にでかいツラされたくないという心理が働き
軍政を一手に担う敬翔や、名将の劉鄩とかを、ついに効率よく使うことができず
王彦章ですら、手柄を挙げたとたん見放している。
左右に趙巌とかいう派閥次元の視野しか持たぬ、人間の皮をかぶったダニを置いたからだ。
後唐の愍帝こと李従厚は李嗣源の実子なんだけど、すぐ李従珂に攻められて終る。
李従厚は幼名が「菩薩」なわけだが、政治的実績はなにも示すことはできなかった。
5ヶ月。これ、最短命なんじゃないかな…
後唐の末帝、あるいは廃帝こと李従珂。
この人は勇猛な武人で、石敬瑭とは李嗣源時代からのライバルで、常に競争心をもっていた。
そこで、この石敬瑭を弱らせる方策をとって、反乱に追い込んだ。
当初は張敬達らの太原攻撃で有利に進めていたけど、石敬瑭が契丹の援助を得たので
逆に攻められる立場になってしまった。
晋安で張敬達が契丹ら連合軍を足止めしている間に、河北一円に長大な包囲網を組んだけど
張敬達の副将である楊光遠が裏切って主将を殺し、契丹に投降したので終った。
評価しようにも、何をもってすればよいのか…
武将としてなら、そこそこ有能ではあれど。
粛清しようとした相手に反撃を喰らった、ということか。
問題は、このとき起用した高級将帥は、張敬達を除けば、後に背信行為をする輩が多かった、というところ。
後唐には、もはや命運がなかったとしかいいようがないのだろうか…
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 18:37:33 ID:BWsgFACh0
なんとなく比較。題して
「柴栄@おまいは信長か!?」
当主となって、ある集団の主導権を握ってからの二人。
出発点は曲がりなりにも皇帝としての立場を継承した柴栄は、大幅なリード。
といっても、当時の河南国皇帝は節度使たちの宗主的立場。
形式と象徴だけで、権威や存在はかなり薄い。信長期の足利将軍なみ。
・跡目継承早々の国難。
田楽狭間の戦い … 油断していた今川本陣に乗り込んで大暴れ。敵大将をぶっ殺す。
高平の戦い … 正面決戦。劣勢を覆し逆転ホームラン。
(一説によると、勝利を確信した北漢軍本陣は余裕を見せて酒を飲んでいたが、そこへ柴栄率いる親衛軍50騎が乗り込んできて暴れまわったとか)
・宮城の強化
安土城 … 大規模な土木工事。壮麗な本丸。
開封外城 … 無秩序な街並びを一新。のち、百万人の不夜城と呼ばれる基礎がここに。
・仏敵
比叡山および本願寺を敵にまわす … 旧弊への挑戦。
仏像までゼニにしてしまう … 旧弊の整理。仏の姿を鋳潰して銅銭にした。
・無敵水軍
鉄甲船 … 毛利水軍にやられて、その反省から強力な軍船を編成。
闘艦 … 南唐水軍にやられて、その反省から強力な軍船を編成。
・包囲網
信長包囲網 … 将軍主導のもと四方を取り囲み、信長は東奔西走しなければならなかった。
後周包囲網 … 主導者は特になかったものの(有力は南唐か)、四方を囲まれ、やはり東奔西走。
・統一の期待
両者とも乱世末期に、国内最大勢力となった。
・統一前の死
本能寺の変 … 一番の部下に背かれる
急病 … 過労死?
あと、似たエピソードとしては
長篠の鳥居強右衛門
寿州の孫晟
・援軍を呼びに言った鳥居は武田軍に掴まって、降伏勧告を強要されるが、意に反して「降伏するな」と呼びかけた。
・寿州城を包囲する柴栄に和睦の使者として来た、南唐の宰相・孫晟は、条件として寿州城の開城を迫られる。
しかし城門の前に立った孫晟は寿州城の劉仁贍に、「公は我が朝最後の砦だ。決して城門を開いてはならぬ」と呼びかけてしまった。
など。あと、苛烈な人間性も似通っているかな。
柴栄の皇后は、よく短気な柴栄をたしなめたりしているけど、濃姫はどうだったのだろうか?
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/27(金) 23:17:41 ID:1gUHKR9c0
みんな在位期間短いのに、よくやった人が多いな
後周の顕徳2年11月に始まった、征淮南の役で、翌顕徳3年夏4月に
後周国と同調した呉越軍を常州で破った、南唐の大将・陸孟俊というのがいる。
しかしこれが、《十国春秋》の南唐の項に列伝がない。
記述があるのは、《舊五代史》の後周世宗本紀だった。
《十国春秋》の呉越忠懿王世家によれば、常州での敗戦は南唐の右武将軍・柴克宏のため、とある。
柴克宏の列伝を引いてみると、
南唐元宗・李璟は、柴克宏を右衛将軍として呉越軍の迎撃に向かわせた。
そのとき、袁州刺史・陸孟俊にも、常州を救えと命を下している。
と、あるので、柴克宏の下についたのだろう。
で、記録はそこで終っている。元宗本紀についても、保大14年4月(後周の顕徳3年)は黒歴史なのか
明確な記述はなく、ただ「復泰州」とだけあるのは、どういうことか…?
はじめ、呉越軍は常州を攻めて、団練使・趙仁澤や向重覇など百余人を生け捕り、南唐を東から圧迫した。
南唐の柴克宏は、陸孟俊と兵を併せて常州へ向かった。
このとき、南唐の勁兵はほとんどが江北(淮南)へ向かっており、数千程度の鈍兵しかいなかった。
常州には隋の将軍・陳杲仁の祠があって、夜、夢に出て柴克宏に言った。
「われ、陰ながら公を助けよう」と。
柴克宏は戦いに及んだ。二頭の黒牛(?)があり、呉越軍の陣に突っ込んだ。
呉越兵は恐れて戦わず、軍を整然と並べた柴克宏は、前進し敵を大破した。
と、いう感じで呉越軍を破り、東の脅威を取り払った南唐は、引続き陸孟俊を、泰州に向かわせた。
泰州は江北の最東端で、後周の将・韓令坤によって落とされてはいたものの、韓令坤は要衝である
揚州を固めているので、泰州は手薄だった。
4月、陸孟俊は泰州を回復し、さらに南唐の斉王・李景達との分進合撃によって、揚州奪還にむかった。
斉王・李景達は2万の水軍将兵をもって、揚州の西、六合を押さえ、退路を断とうとした。
陸孟俊は直接、東から揚州の韓令坤と戦った。
斉王・李景達の向かった六合には、後周軍2000の趙匡胤隊がすでに駐屯しており、
斉王は彼のために5000人からの損害を受け(宋史太祖本紀では1万)、大敗して潰走した。
陸孟俊は韓令坤を追い詰めたが、趙匡胤が韓令坤部隊の兵が逃げようものなら「その足を折れ」、
と厳命したため、六合を通って逃げることもできず、その場でふんばり、
ようやく、後周の禁将・張永徳の来援によって、陸孟俊を破ることができた。
また、陸孟俊を捕らえたので、後周世宗・柴栄は、後に水軍の調練要員として起用したかと予想する。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 23:55:42 ID:9NIl6Q1k0
追記
>>斉王・李景達は2万の水軍将兵をもって
どうも、兵数にこれといった記述はないようなのだが、2万ってどっからでてきたのやら。
その後、紫金山に10万からの南唐軍で、後周軍と対峙することを思えば
2万って少ないような気がする。
また、趙匡胤に追い散らかされて、長江を渡り損ねて溺死したものも多かったというし
もし2万だったら、負傷兵まであわせると全滅もいいところでありますな。
《資治通鑑》後周紀四では2万となっている。
で、わかったことだけど
陸孟俊はもともとは楚の臣だった。
楚王・馬希萼を廃して、弟の馬希崇を立てた。
結局、南唐の将・辺鎬に攻められて滅亡したので、南唐に帰順したのでしょう。
揚州で後周の将・韓令坤に捕縛されたとき、韓令坤に殺されたとあります。
後周が南唐討伐に向かう大義名分のひとつに、楚の馬氏開放があった。
馬氏、つまり馬希崇やその夫人たちは、南唐によって揚州に軟禁されていた。
で、韓令坤がそこを確保したとき、夫人の楊氏が「陸孟俊に家人を殺された」
と涙ながら訴えたので、韓令坤は仇をとった、と。
ちなみに馬氏の一族は、きっちり保護されたようです。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 21:55:49 ID:3gWhZThV0
この時代をまとめた資料のような本が欲しいね。
あれだけ三国志関連の詳細な書籍があるなら。
話題には尽きないと思うし。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 22:20:23 ID:KJBGNNwN0
むかぁしには、いろいろあったんだけどな。
今は絶版、絶版。
でも、戦役や会戦の詳細な解説はなかったと思うから、あっても面白い。
しかし王朝の推移は、まぁわかるとして人物相関がわからないとちんぷんかんぷんだろう。
やはり、人名辞典か五代史列伝の邦訳が先だろうねぇ…
古本屋を探したら、意外におっと言うような本を見つけることがあるよ。
>>193 そう。
それで、最近《新五代史》の和刻本を購入したんだけど、レ点とかあっても、わからんもんはわからんw
しかもページとか見難いし。構成は中華書局の《新五代史》が一番見やすいと思ったのだった。
最近、個人名スレいっぱいたってるなぁ。
負けじとやるか!いやいや。
柴栄スレも趙匡胤スレも止まっているから、これ以上作っても邪魔なだけだ…
確かにやめとけwそこそこいくんだけど話題が尽きてあとは伸びないからね。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 12:50:41 ID:TpgH3KeI0
立てたい人物のスレはたくさんあるんだけど、
立てる前に、まず語ってくれる相手が果たしているか?
という点を考えないとね。
つまり、ここでやればいいということ。
>>197 例えば、どんな人物? 今はネタ(気力)がないから、目新しいのは発掘してないけど。
えらいところで韓通を語ったので、ちょっとさわりをここで。
韓通といえば、後周世宗柴栄が信任した武将。
柴栄のなした公共事業wを担った人。
また禁衛侍衛司の大将でもあった。
出身は太原。劉知遠が太原に鎮したとき、その帳下に入った。
劉知遠の牙兵として、衙隊副指揮使を任され、勇気と膂力をもってきこえていた。
郭威が河中の李守貞討伐に赴いたとき、韓通の謹厚なところを見込み、随伴したという。
郭威が北京に鎮すると、魏州天雄軍の親軍都虞候とされた。
郭威はこの頃、天雄軍節度使も兼務していたから。
と、言う感じで後周との縁が「河中の乱」でできているわけですが、これって趙匡胤も同じだよな…
趙匡胤も、各地流浪のあげく、復州の王彦超にはたたき出され行き着いた先が
動乱を巻き起こしている河中だった。
郭威の臨時募兵に参加した趙匡胤は、かなり目立つ手柄を挙げて郭威の目に留まったという。
それが縁で、郭威軍閥に配属されるけど、もっと気に入ったのがほかならぬ柴栄だった。
河北への赴任が決まっているのに、わざわざここに残れ、と言って側に置いたくらい。
この二人のライバル競争はなかなか面白いかもしれない。
もっと時間ができれば、もう少しつっこんでみようかな。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 01:16:14 ID:vWHHU2qS0
前々から思ってたけど趙匡胤と韓通って
秀吉と勝家の関係に似ている。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 19:26:39 ID:RdivAYoq0
韓通の評は、剛毅な性格で思慮少なく、多言にしてものに逆らい、ほしいままに威張り散らす。皆は言う「目剥きの韓」と。
すげい評だ…w
どうも列伝には、そういうことを裏付ける記述はないわけだけど、個人列伝では特に悪くは書かないかな。
郭威や柴栄に対する応対ぶりでみると、謹みあって重厚な性格を思わせ、万能っぷりな感じだが
同僚や目下には高圧的だったのだろう。
目剥きというのは、すぐにムキになるとかという感じで、冗談も通じない男だったのかな。
おれを侮ることは許さん! という感じか。
あんまり人望はなかったとみえる。趙匡胤とは真逆だったんだろうな。
飛龍伝の韓通は聞くところによると、嫌な感じの男で、なにかにつけては趙匡胤をライバル視しているウザいヤツとなっているらしい(おいおい)。
だから王彦昇も「それは仕様でつ」と言わんばかりに、韓通をいきなりぶっ殺したのだろうか。
趙匡胤も、内心はGJとか思いながら、一応は激怒したフリをしている… というのは悪意があるか。
李筠にしてもそうだが、列伝最後の評であんまり良く書かれていない。
この「周三臣伝」は宋史に入っているのだけど、趙匡胤の強力な政敵ということで、事績の内容に比して人物が悪く書かれている… なんてことはないのだろうか ?
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:50:48 ID:Izw1qIy70
>>200 柴栄、趙匡胤、趙匡義で、
信長、秀吉、家康に例えられるからね。
>>202 柴栄と信長、趙匡義と家康は微妙に通じるところがありそうだけど、
趙匡胤と秀吉は間に挟まれてるってこと以外は共通点がなさそうな・・・
>203
身一つで有能な君主の居る組織へ士官。
旧主が無くなると、幼主なのを良い事に組織乗っ取り。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 17:00:43 ID:stoNBjyq0
>>204 そこ、実は疑問なところなんだ。
趙匡胤は確かに柴栄との個人的な結びつきが強いわけで、間違ってもないし普通、そう思われている。
しかしオヤジの趙弘殷は、侍衛親軍の将軍であるので、
名門とは言わないが、著名な家であることは間違いないと思う。
同じように多くの節度使を歴任し、対契丹戦やら内乱鎮定やらで功績があって
名将の誉れ高い高行周の息子は、普通に将家として用いられている。
趙匡胤が家を脱出したとはいえ、禁軍の将校といえば比較的エリートな印象があり、
優位性をもっていたのだから、趙弘殷の息子であることを郭威や柴栄が知らぬはずはないと思う。
実は、意外ともっと若い頃(つまり成人前)から面識あったんじゃないか、とか思ってしまう。
もしそうなら、柴栄と趙匡胤の関係は、より深いところにあるのではないか…
まぁ、小説的妄想ではあるけど。
>>柴田勝家
羽柴秀吉と対立して敗死した、ということに絞れば、潞州昭義軍の李筠が、より近いと思える。
趙匡胤とのライバル競争や、君主への影響力の競い合いなど、そういったものは見止められないが
北方(といっても、上党だけど)に鎮して、北面軍を統率して北漢や契丹の襲来を撃退したり備えたりした。
もとは、太祖郭威の将であり、趙匡胤が後周を簒奪すると、郭威の肖像画にむかって涕泣したという。
北漢に頼って、趙匡胤の新王朝を認めず抗ったが、力及ばず敗亡した。
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 23:39:08 ID:w1L01npD0
小説的妄想でも、そうであったら楽しいね。
趙匡胤は柴栄の王朝を簒奪したけど、その子を殺さなかったからイメージがいい。
秀吉も、織田信長の嫡孫を手にかけることがなかったので、
家康による豊臣家乗っ取りに比べると、あまりイメージが悪くない。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 11:51:04 ID:Ak1oqx2t0
6月2日から、女帝エンペラー(原題:夜宴)という映画が公開で、
一応の時代設定は五代らしいけど、どんなものだろうね。
>>207 主人を殺された主人公が次の皇帝の后になりつつ、復讐の機会を狙う。
そして主人公と昔仲良しだった、先代の皇帝の息子、皇太子も
親父殺しの復讐を密かに狙うって話らしい。
もともとの原題はハムレットなんだって。
209 :
○:2007/05/26(土) 14:10:17 ID:OQjkhrlM0
昔、世界史板の五代十国時代を語ろうにというスレに
五代潰瘍さんという御仁がいらっしゃいましたが
このスレにも名無しで登場なさってるんですかね?
なんか自分のよく知っている御仁と文章の雰囲気が似ているのですが・・・
>>209 あれ、○さんも世界史の五代スレを見てたんですか?
自分はここに居座っていますが、少なくとも自分は五代潰瘍さんではないですよ。
でも、知っています。
世界史板は、まだ自分が五代に興味を持つ前のスレなんで、参加はしていないのですが
五代潰瘍さんとはネット上でお世話になっています。
執筆された五代概要(これってシャレだったんだろうか…)も、よい資料とさせてもらっています。
で、自分は百撰スレのアレです(こっちではコテ使ってないから)。
211 :
○:2007/05/26(土) 21:32:32 ID:OQjkhrlM0
>>210 どもwおひさです。
いやー五代潰瘍さんの五代に対する情熱(愛情?)や文体、三国志が好きというところが
どうも似てるなーと思ったものですから。そうですか別の御方でしたか。
ちなみにこちらでの貴殿の活躍振り、影ながら拝見しております。
五胡と同じぐらい興味ありますしこの時代。テュルクスキーですしw
テュルクつうか、沙陀はいいですよぉ。無茶苦茶ですがね。
その破滅っぷりがまたなんとも…
李克用の鴉軍主力は密集突撃の肉弾戦、という話なんですが、後期李存勗時代には歩兵も多くなっていたようです。契丹に比して、だとは思うけど。
たしかにその頃には、李克用のような機動力はいくぶん影を潜めたような印象はありますが、華北を所狭しと行ったり来たりする沙陀騎兵を核とする晋軍には、なんか軍事ロマンを感じる。
ところで、行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
逃げっぷりも閉口ものですし…
213 :
○:2007/05/26(土) 23:54:53 ID:OQjkhrlM0
>>212 沙陀族も突厥・鉄勒も鮮卑もそうなんですがテュルク自体が無茶苦茶ですよねw>行軍速度の鬼っぷりでは、柴栄も非常識な部類に入るんですよね。
五胡の鮮卑族慕容部に慕容恪っていう人物がいるのですが
この人なんかも頭脳明晰で用兵に関しては攻めて良し引いて良しってところが
柴栄に合い通じるものがあるとかと。
あと弟の垂なんかも行軍速度が異常な部類に入るかと思われます。
柴栄もやはり血の成せる業なんでしようか?
自分はROM専なんでこの程度の意見しか述べられませんが・・・
(スレ違いの話も入ってて御免なさい)
>>207 とにかく血みどろのどろどろな話は五代にしとけって、そんなイメージがこの時代にはあるんじゃないかと疑う。
あんまり歴史背景はないそうだが…
>>213 鮮卑の血… はよくわからんけど、邢州柴氏はどこから来たのか、知る手がかりでもあればねぇ。
当時の新興地主層の家柄だけに、柴翁、つまり柴栄のおじいさんまでしかわからないという。
それ以前、どこにいたのか謎。
ただ、邢州には別宅の荘園もってたりと、当時ではなかなかの資産家だったそうだ。
武人政治により、地域の密着性が増したことによる台頭で、娘を後唐荘宗の後宮に入れたくらいなのだから、誇らしく家系図作ってもよさそうなんだけどね。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 15:11:15 ID:JYmG7b+E0
五代の武将で、鮮卑系の姓を持つ者って結構多かったのかな?
慕容とか、長孫みたいな
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 21:40:27 ID:mptdxbSs0
鮮卑よりも、ソグド系がはばを利かせていたな、この時代では。
ソグドの六州胡というのがあるんだが、よく見ると思う姓、
安、史、康、石、曹、何、米
というのが、それ。
テュルク系のひとだけど、唐代ではいわゆる胡族というのはソグドのことを指している。
六州胡はオルドスの夏、霊州付近に住まわされた突厥難民(李世民が滅亡させた突厥の遺民が主)を統治するための州。
安姓は結構多い。
われらがヒーロー李存孝も、初名を安敬思というし、後唐の硬骨漢・任圜の政敵だった安重誨(もとは仲良しなのに)や
沙陀騎兵の強い部分を受け継いだ騎将・安審琦などなど。
長孫という姓で列伝に挙げられる人はいなかったよう。
慕容は、後周初期の叛将・慕容彦超(劉知遠の弟)、殿前都指揮使の慕容延釗くらいか。
もうこの頃は鮮卑系は完全に漢族と同化した感じってところなのかな。
>>217 よくは知らんけど、そういうことになるのじゃないかな、と。
柴栄は新興地主層の出身だけど、鮮卑系という説がある以上、良民層に根付いたようにも思える。
ところで、朱全忠サマのおかげで唐貴族のお歴々はどっぷり黄河に放り込まれ、
また節度使と地主層の台頭で貴族名族が政治の世界から没落してより、
同じ姓であっても系列は違うものと思われる。
唐の名臣・郭子儀の子孫を自称する、後唐の名臣・郭崇韜のその家系図は、没落貴族から買ったものといわれている。
つまり、郭氏が当座の資金目当てに、先祖を売ったということ。
で、郭崇韜はそれを己の箔のために利用した、ということ。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 23:41:50 ID:EiADA52F0
唐朝の皇帝だって、後半以降は鮮卑系なんて意識はほとんど残っていなかっただろうしね。
今の満州族も、これと流れが似ているのかも。
みんな漢族風の姓にしているし、社会的にも定着している。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 07:45:47 ID:9Euc/kpT0
>>218 当時は、やっぱり郭子儀って名が鳴り響いていたんだなあ。
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/02(木) 20:30:04 ID:Xb/KHjH30
ずいぶん前から、まとめようとしていた後晋期の契丹南下の第一回目まで終りました。
まだ第一回目。
契丹の南征は3回あって、その3回目で後晋出帝が北に拉致される事態になるのですが…
まぁ、ほとんどの中国史関連概説書では、1回目2回目などさらりと流していますので、
いったいどういう経緯か、一般にはよく知られていないと思います。
自分もそうでした。
契丹は魏州にまで攻め、いくつかの部隊は黄河を越えるほど押し捲っていたのですが
崖っぷちの後晋軍は、それらをぎりぎりのところで防ぎ、攻防は一進一退。
決戦は澶州から濮陽にかけての戚城で行われました。
歴史的古戦場というやつですか。
その戚城の戦いでは後晋出帝も出撃して敵に当たるという総力戦。
このときの戦将といえば、李守貞、高行周、符彦卿がクローズアップされるくらいの活躍ぶり。
対契丹主戦論にして上将の景延広は、戦場の勇者かもしれませんが、司令官としては無能。
対応は遅いわ的確でないわ恣意的だわと、百害あって一利なし!
威勢がいいだけの愚将。
そんな司令官のもと、高行周やら符彦卿はよくやったと思う。
李守貞ものちに謀叛さえしなければ、もっと評価高かったろうに…
ちなみに、この戦いでは高行周の息子で、後、北宋初期の軍中核となる高懐徳が19歳で、
この悲惨な戦場に従軍しています。
戚城で契丹の大軍に包囲されたとき、出撃しては縦横に突撃し契丹軍の勢いを殺いだりする活躍をしています。
ともかく土俵際でようやく相手が退いてくれたので、延命できた後晋朝。
しかし次なる二回目の南征では、華麗なる勝利をもたらしてくれる桑維翰が中央に返り咲き、軍略を披露してくれます。
これもまた時間かかりそう。
後晋って契丹に対してそれなりに頑張って戦っていたのか。
靖康の変の時の宋よりはずいぶんましに思える。
靖康の変のときの細かい状況も調べないと責任あることは言えないけど、雑感そう思いますね。
これまで、1回目2回目は契丹の下調べ的南征と思っており、本気ではなかったような
そんなイメージを抱いていました。
とはいえ、1回目はある意味そうだったかもしれません。
もと後唐の将で、投降した趙延寿に兵5万を与えて、南征の先鋒として繰り出したのをはじめとして
各方面から順次支軍を発し、遼太宗自身も鉄騎34万をもって魏州にまで一気に南下したのが
第一回目です。
第二回目もだいたいこの辺りが後晋朝の防衛ラインとなりますが、そもそも遼太宗の南征は
青州で謀叛した楊光遠と呼応したものだったので、その連絡を密にしようとの動きが濃厚に見えます。
魏州に太宗は屯し、博州、斉州を経て青州に通じますので、そっち方面にちからを注ぎますが、
黄河の渡しである馬家渡と、楔になる戚城のそれぞれで、負けました。
「楊光遠のやつは晋の兵馬は大半が餓死していたと言っていたのに、この勢い盛んなさまはなんじゃい?」
と首をひねったと言います。
まぁ、舐めていたのでしょうかね。実際、ひどい飢饉で国力はガタガタでしたが。
魏州から発って後晋軍本隊のいる澶州-戚城の間で総攻撃をかけましたが、
>>221でも言ったように、高行周、符彦卿、李守貞らが異常な奮戦振りを発揮し、また出帝自身も
将として契丹軍と戦っています。
そうした必死な抵抗を受け、これはまだ機ではないと悟ったか、遼太宗は引き上げていくのです。
何度も書きますが、その間、威勢よく対契丹主戦論を唱え、蛮族の下につく必要なし、蛮族は氏ね(ウソ)
と声高に宣言して煽っていた武人の景延広は、まず諸将を各地に分散配置し命令系統を統一させず
また(ホントかウソか)、互いの連携を禁じ(資治通鑑。そんなことしてなんの得があるのか?)
さらに、高行周が戚城で契丹の重囲に陥って援軍要請の使者を出したときも、わざとすぐに上奏せず放置。
いったいどんなサド野郎かと思います。実力のない主戦論者ほど有害な存在はないでしょう。
つまり、第一回目契丹の南下を防ぐことができたのは、あくまで個々の必死さであって
すぐれた防御態勢、軍略によるものではなかったということ。それと、わりにあっさり契丹が退いてくれたおかげ。
第二回目のときも、個々の将が決死の覚悟で戦って勝利しますが、第一回目と違って
逆攻勢かけて、ちからづくで遼太宗を幽州に遁走させているあたり凄まじい。
そのとき中央にあって軍略を担当したのが、景延広などではなく和平、親契丹派の文官桑維翰だったという。
(靖康の変の時の宋よりマシなのはここまで!)
で、三回目になると後晋出帝は気が緩み、また宿臣たる桑維翰が手柄を立てすぎることを憎んだ
皇帝の外戚や側近らが、彼を追い落とします。
桑維翰が中央を追われ、また契丹が南下しても後晋朝では「今度も勝てる」と総楽観。
瀛・莫二州の奪還のための北伐軍を繰り出したけど、遼太宗の計略にかかり
杜重威、張彦澤という大鎮の重臣が寝返るにおよんで北方拉致の事態にw
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 23:50:29 ID:wR6NYqzG0
靖康の変の時の宋って、武器を集めて、軍隊に引き渡す手続きであれこれ揉めているうちに、
金軍がやって来て、集めた武器がみんな金軍の手に渡ったなんてことがあったように思う。
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/13(月) 13:07:08 ID:pq4xh6md0
契丹の先鋒となって後晋を攻撃した趙延寿のことが書きたくて
そのオヤジの趙徳鈞のところから調べているが、シンドー。
とりあえず、わかったところまでwwwwww
オヤジの趙徳鈞。
元の名は趙行実。幽州の出身で最初は幽州節度使の劉仁恭(北方の雄の一人だけど、政治がむちゃくちゃなヤツ)
の長男で滄州節度使の劉守文の軍に仕官していた。
滄州はわかりやすく三国志の地名でいうと南皮だな。(幽州=北平?薊か?)
しかし朱全忠が幽州を攻めたとき、劉仁恭は豪華な邸から動かず為すところがなく
朱全忠を追い返したのは、父の愛人と密通し勘当されていた次男の劉守光だった。
劉守光はその功績をたてにオヤジを豪華な邸に幽閉しておいて、幽州節度使の実権を掌握した。
その矛先は滄州に向き、兄弟対決が開始される。
劉守文は野戦で劉守光を破ったが、仁に篤い人なので「弟を殺してはいけない!」
と、軍の前に出て押し留めようとしたところを、劉守光の部下で武名をもって鳴る元行欽に
不意打ちを喰らい捕まって殺された。
そうして滄州は劉守光のものとなり、趙徳鈞もそのまま劉守光の軍へと編入された。
幽州、滄州を得た劉守光は大燕皇帝を名乗り、北国の雄を気取ったのだった。
ちょっと余談。
趙が後梁に攻められたとき、趙の王鎔は劉守光に援軍を求めたけど、答えず。
かわりに後梁軍を柏郷において撃破したのは晋だったのだけど、劉守光は後梁に攻められた縁からか
定州の北平王・王処直と、鎮州の趙王・王鎔と自分とで三国同盟を結ぼうと提案した。
あきれた王鎔がそれを晋王・李存勗に告げると、李存勗も失笑して
「愚、これよりはなはだしきはなし!(こんな馬鹿なヤツは他におるまい)」と言ったそうな。
晋王が燕討伐軍を繰り出すと、趙徳鈞は燕は必敗とみて、いち早く晋の陣営に投降した。
それを嘉した李存勗は姓名を賜り「李紹斌」とした。
李紹斌は李存勗の親軍に配属され、各地で武功を挙げた。
後梁平定後、滄州節度使から出身地の幽州節度使まで栄達した。
(幽州盧龍軍は雄藩。前任者は、周徳威、李存審など)
後唐明宗のとき、姓を戻し名を改め趙徳鈞となった。
節度使というのは、その職制から権限がありすぎ、朝廷は任地が固定しないように数年単位で任地換えを
するのだけど、趙徳鈞は10余年幽州にあるという異例っぷりだった。
その治政ははなはだ善政といってよく、運河の便や北方への備えのための砦や軍備の増強など
朝廷の信頼に足る重鎮ぶりだったという。
さて、一方で後唐朝廷にそれだけ信頼される背景に、かれの養子・趙延寿の存在があった。
趙徳鈞がまだ滄州の劉守文の幕下にいた頃、常山の人で劉[元β](←そんな字ないんですけど…。邠とも)
が令をしていた蓚というところを攻めるのに従軍した。
趙徳鈞はその劉[元β]という人の妻を掠め取って連れ子だった延寿を養子とした。
趙延寿の容姿は女性的な趣と柔らかさがあったという。
また書を好み、歴史に通じ、賓客との歓談、詩をよくしたともいう。
荒っぽい武将という人ではなかった。
趙徳鈞が幽州節度使となって、明宗(李嗣源)が立つと、趙延寿にその娘を降嫁させることを願い
皇帝の外戚的な立場も得たのだった。
李嗣源も趙延寿を気に入り、徐州刺史から河陽、宋州の節度使を短期間に歴任させ、ついには
上将軍、宣徽使、枢密使兼徐州節度使とされ、後唐朝の中枢を任された。
後唐末帝(李従珂)のとき、太原に石敬瑭、幽州に趙徳鈞、中央には趙延寿という権臣があった。
それぞれが後唐皇室とつながりがあった。
石敬瑭は自身が李嗣源の女婿であり、末帝からの信任は李嗣源軍団に所属していた頃からあった。
しかし、その石敬瑭の巨大さを危ぶんだ廷臣らは対処を末帝に迫った。
石敬瑭は自ら他鎮への転出を願い出るかたちで、末帝の存念を図ろうとしたが
それは逆効果となり、問題を大きくしたくない末帝はあっさり石敬瑭の申し出を受け、
太原にはかわりの者をおき、石敬瑭の権限だった蕃漢馬歩軍都総管の任も、張敬達に移された。
ちなみに、蕃漢都総管は晋から後唐にかけての重職であり、初期には周徳威、周徳威の戦死後は
李存審があたっていた。
びびった石敬瑭は契丹の助力を受けて挙兵。
それを討伐に向った張敬達は太原城下まで攻め込んだものの、契丹騎兵の来援に引き下がらずをえず
晋安城塞で包囲されてしまった。
末帝は趙徳鈞に幽州の州師を率いて上党において、趙延寿の本隊と合流すべしと命をだした。
上党でひさしぶりの再会を果した親子。
晋安で契丹を相手に鉄壁を守り通している張敬達を援護すべく向うが、一方で契丹への投降も申し出ていた。
なかなか見下げた寝業師っぷりの趙徳鈞!
しかしそれはイカンと石敬瑭の部下である桑維翰(w)が趙徳鈞の申し出など無視して欲しいと
耶律徳光にひたすら嘆願したので、それはなかったことになった。
そうしているうちに、晋安で敵に囲まれ不安になった副将の楊光遠が主将である張敬達を暗殺して
石敬瑭に投降したため、一気に防御線を突破された後唐軍は崩壊して末帝は河陽において
みずから火を放って死んだ。
帰順の時を失った趙徳鈞親子は石敬瑭に軽蔑されるわ、
悲惨にも耶律徳光に連行されて、幽閉の憂き目になるわで散々。
しかし彼は帰ってくる!
趙徳鈞は幽閉のうちに死去したが、趙延寿は耶律徳光に気に入られ、
割譲で受けた幽州の節度使として趙延寿を置き、燕王に封じたのだった。
後晋朝に対する憎悪を秘めて、彼は幽州にて何を考えていたのだろう…(次回予告ふうに)
227 :
携帯から失礼:2007/08/13(月) 23:40:24 ID:yxz2ixaEO
あっちのカキコ見て早速見に来ました。
いつもながら乙です。
次回も楽しみにしてます。
228 :
携帯から失礼:2007/08/19(日) 12:10:42 ID:wma4VxsUO
ID:pq4xh6md0氏は
遊牧民を傭兵軍団として多様したりとか節度使が割拠みたいな状態が
唐末〜五代に結構似通ってるなぁと感じる、
アッバース朝やブワイフ朝とかは興味ないのでしょうか?
(スレ違いな話題ですいません)
>>228 pq4xh6md0ですが、興味がないわけじゃないのです。
いっぱい知りたいし、共通点を見つけられたら狂喜するに違いないのですが
なにぶん、そこまで手が回らないという…
五代という時代を、できれば表面だけじゃなく、深く掘り下げてみたいので
それを調べだすと、いずれ来る老後の余暇でも足りなさそうな感じ。
たった60年そこらの期間の歴史なのに、そう思えてしまう。
死ぬまでに一編二編の軍記小説なりを書き、自己満足に浸りたいと思って今がありますw
それにしても、>>遊牧民を傭兵軍団として多様したりとか節度使が割拠
は、唐の遺産であり、なんとなく五胡流入を起想させますね。
節度使は節度使で、「辟召」の権限を使い、最下層域からこれは、という人材を
自らの供回りに集め、私兵化に励んでましたから、単なる太守や刺史のような「役人」「官僚」とは
そのちからが比べ物にならないくらい強力でした。
しかも、唐朝では無視された民間の、多少でも字や計算のできる人材が
そうして日の目を見れたわけですから、路傍の石の中に混じっていた玉も多く発見され
より節度使のちからを強めたのでしょう。
…そうした中には士大夫的なモラルの欠如があったことは否定できません。
230 :
携帯から失礼:2007/08/19(日) 22:05:12 ID:wma4VxsUO
>>229 レスありかとう。
なんつーかですね、アジアの超大国の唐、一方イスラムの雄アッバース朝が
ほぼ同時期に同じ様な状況に陥るとは何か面白いものを感じた訳でして、
興味有りそうかなと思ったんで伺ってみました。
トルコ系の遊牧民を傭兵軍団として使った経緯とか似てるし、
こちらも藩鎮化?してカリフ(皇帝みたいなもの)の
首を挿げ替えるほど権力を持ったりしてますし。
西遼の耶律大石がテュルク系遊牧民国家のセルジューク朝を倒していたりもしますし。
全く無縁では無いなぁ〜と感じたりもする訳で…
まあ自分もイスラムについてはまだ片足突っ込む前段階なんで
大した知識はないんですがw
(またまたスレ違いな話題で失礼しました)
>>230 イスラムとかになると、調べだすと絶対ソコだけで気がすまなくなるだろうこと疑いないと思う。
マクロな視点では、当時の超大国が連鎖的に崩壊したのは非常に興味深いわけで。
ウイグルの崩壊に伴って、沙陀磧の沙陀が唐へと流れてくる過程もあり
沙陀好きにとって、その辺いずれは深く調べるべきところです。
といっても、そこまでかなぁ。イスラムまでは、いまのところは。
まぁ、杉山センセじゃないですが、それくらいマクロな視点をもって見ないと、中国の立ち位置も
正確には把握できませんからねぇ…
テュルク、ウイグル、キタイと、これだけは間違いなく押さえるつもりですが、なかなかw
それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。
232 :
携帯から失礼:2007/08/20(月) 05:12:14 ID:vpned/cgO
>>231 スマソ、面白そうなこと思い付きでカキコしてますのでw
>それにしても、携帯でよくそれだけの文章書けますね。
なぜか、わからないけどたまにボロPCからカキコ出来ないんですよ・・・orz
まあ、大事な第二のツールですからねw
>ま、スレ違いもこの際はいいのではないかな。
ホント申し訳ない。聞かずにはいられない性分なもので。
233 :
携帯から失礼:2007/08/23(木) 07:49:28 ID:bRJ/gu5WO
荊南の高従誨の親父の高季興もかなりの変節漢ですなぁ。
[シ卞]州の富豪である李譲の家僕でしたが、後に養子となり、
朱全忠の元で功を重ね、後梁建国に伴い荊南節度使に任じられ、
ハカイダー朱全忠の死後は湖北で自立し末帝より渤海王とされてますね。
925年には後唐に称藩し南平王となり、
明宗によって蜀への進出を阻まれ断交、呉に称藩。
後梁→自立→後梁→後唐→呉と息子に負けじと
あちこちの勢力に与してますね。
次に孫光憲
後唐に仕え陵州判官となり、
その後、江陵に移り住み、高季興に仕官。
高季興が楚と決戦しようとしたのを諫止させ、
荊南三代に仕えて、荊南節度副使・検校秘書少監を歴任。
963年高継冲に勧めて、領土を宋の太祖に献じる様に進言、
この功績で黄州刺史に任ぜられてますね。
あと十国と云えば群盗から(塩の密売人?)官兵に転じ廬州を占拠したり、
淮南節度使高駢の元にいたが後に挙兵して畢・秦を打ち破り、揚州に入り、淮南留後を自称し、
秦宗権・孫儒の勢力と江淮地方を巡り争い、一帯を占領後、淮南節度使に任命されたり、
黒雲都と呼ばれる親衛軍団を率いた呉の楊行密なんかもいますね。 897年に宣武節度使の朱全忠が大挙して南下した際には楊行密は清口で戦ったりしたりしてます。
>>233 そういう話題を振られると、今調べているシリーズはほっといて、
ひさしぶりに《十国春秋》を開いてみましたよ。
で、楊行密のダンナは、また今度ベン州軍閥立ち上げ期とあわせて調べたいので、
(長く入り組んでいるので)今はスルーしますw
荊南節度使については、武信王が特に有名ですが、その部下についてはなんも知りません。
で、まぁ、見てみると。
【高従嗣】
高季興の従子。ひととなり驍勇。「喜馳突」とありますが、突撃するとき笑顔だったのだろうか?
んなわけないか…。 戦いがお好きな公子だったようです。
しかし、楚の武穆王(馬殷)が許徳勲を大将として荊南を攻撃させたとき、
その監軍使として従軍していた馬殷の子、馬希範に兵を並べて決戦することを提案しましたが
馬希範の将である廖匡斉によって討ち取られたそうな。
(しかしその廖匡斉の列伝にはなにも書かれていない)
【倪可福】
高季興ももとは朱全忠の部下だったわけですが、この倪可福もそう。
高季興が荊南留後を任されてしばらく後、雷彦恭の乱があり、高季興の援兵に赴いたのが倪可福。
そのときの軍略に見惚れた高季興が、娘を嫁がせたりして親交を深めました。
敵軍の鋭鋒を砕き、陣を陥とし向うところ敵無し。
江陵の東30里を賜り、そこに子孫が住まわったので、これを「諸倪岡」と呼んだという。
この辺もまた、物語調で書いてみたいな…
というわけで今日はここまで。
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 14:13:45 ID:IYFFyNW90
後周の淮南戦役の詳細は、柴栄スレに書いたけど、その敵手たる南唐については
これまであんまり触れていなかった。
劉仁贍がすごいすごいと言いつつ、どういう経歴の持ち主かもよくは把握していなかった。
劉仁贍について。
呉の濠州団練使(濠州は鍾離をふくむ淮南の要衝)劉金の季子。
父、劉金は濠州に鎮して、その威名をもって治めた。
長男の劉仁規も濠州知事から清淮軍節度使となったが、苛政のため評判はよくなかった。
(後梁の貞明3年(917)呉は清淮軍の使府を濠州に置き、後唐の天成2年(927)使府は寿州に移った。
同じ清淮軍節度使でも、兄・劉仁規は濠州に鎮し、劉仁贍は寿州に鎮した)
劉仁贍は財を軽んじ士を重んじる人で、その法令は厳粛、兵略に明るかった。
呉から南唐への革命後、劉仁贍は南唐烈祖・李昪に仕え、左監門衛将軍を拝し、
黄州、袁州の刺史とされ、これをよく治めた。
元宗・李璟の代には、武昌軍節度使(鄂州)となり、馬楚平定戦に従軍した。
平楚の役の総大将は「菩薩」の異名を揶揄的に呼ばれた辺鎬。
劉仁贍は水軍を指揮して巴陵にて楚軍を破り、投降者は手厚く慰撫したので、人心を得ること大だった。
やがて楚は南唐によって滅ばされたが、その遺臣たちは後周朝に、南唐の罪を鳴らした。
辺鎬の征服地政策が軟弱だったせいか、湖南(=楚)はすこぶる不安定であり、
やがて劉言の蜂起によって、湖南を手放すことになる。
楚の遺臣の多くは、後周朝に南伐をほのめかしていた。
ときに、淮河の岸に石像が置かれ、そのことが刻まれていた。
これを知った元宗・李璟は怒って首を落とさせたという。
この頃、淮河の水量が少なくなっており、対岸に渡ることが容易であったため、南唐の民の多くは
後周領内へと逃げていった。それを押し留めることは南唐朝廷のちからを持ってしても不可能で
ただ、その境界の備えを強化するのみだった。
これにより、淮河南岸の寿州は最重要州となり、南唐の保大13年(955)4月、
劉仁贍が赴任することになった。
なお、前任者は劉彦貞で、彼は皇帝親軍である神武統軍、侍衛諸軍都指揮使となって
京師・金陵城に帰還した。
(劉彦貞は、同年11月に起こされた、後周の征淮南の役で、先陣たる後周の枢密使・李穀を追撃したが、
正陽の戦いにおいて、後周の侍衛親軍都指揮使・李重進によって戦死させられた)
淮河の水は、この頃毎年のように渇水していたので、領民の北帰とあいまって、河による防衛力が
著しく損なわれていた。ために、守備兵を分散配置して警戒を高める「把浅」を実施していたが
南唐の領内に、領民が北へ逃げてしまう事情、つまり飢饉が発生し、国庫が苦しい状況だったため
その把浅にかかる費用すら削減しなければならなかった。
寿州監軍使である呉廷紹は、後周が北は北漢、遼と戦い、西は後蜀と膠着状態ということを鑑みて
後周の南征はしばらくないと予想し、一時的に把浅の撤廃を上奏した。
劉仁贍はそれに反対したが、朝廷は退けた。
やがて保大13年(955)11月、後周軍が突如として淮河を突破して州境を犯したので、寿州は震撼した。
劉仁贍は神気を発して泰然とし、部隊を発して守備を固めさせ、常と変らぬ態度だったので
不安だった寿州は一転して落ち着き見せた。
後周軍の先鋒は李穀で、南唐の朝廷は防衛軍の大将として神武統軍・劉彦貞を派遣した。
後周帥・李穀が正陽の浮橋を守るため後退したが、劉彦貞はそれを怯懦と見て取り
追撃をしかけたが、劉仁贍は「敵を追う必要はない、兵を抑えて州城を守備すべきだ」と伝令した。
しかし劉彦貞はそれを無視し、正陽において敗死した。
劉仁贍はにわかに出撃し、自在の計略をもって、後周軍が陣営とした南の砦を破り、
無数の軍需物資を鹵獲した。
と、まぁこのあと柴栄がやってきて百出する攻撃をしかけてきますが、
それをことごとく粉砕し、斉王李景達に挟撃出戦を具申するも、許可されず怒りのあまり倒れ
やがて幕僚の降伏によって落城するにいたります。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 22:42:14 ID:pPvWH4Sr0
今度は後蜀の将について。
韓保貞などを…
韓保貞はあざな永吉(えーきっつぁん!!wwwwwww)。
もと潞州の人で、父、韓昭運が後唐の将、孟知祥の成都入りに従い、四川に赴任すると
韓保貞も、孟知祥の牙兵として四川入りした。
(後唐期、前蜀は郭崇韜によって滅亡しましたが、郭崇韜は讒言に遭い誅殺され、孟知祥が
西川節度使として任命され、成都入りしたわけです。さらにちなみに、前蜀討伐の総大将だった
魏王・李継岌は、父、荘宗・李存勗が弑され明宗・李嗣源が立つにおよび帰路、自殺)
孟知祥は東川節度使・董璋などと四川領域内で戦争に明け暮れ、ようやく一帯を平定したものの
皇位についてすぐに死去。
二代目後主たる孟昶が継ぐ。
韓保貞は後主のもとで枢密副使となり、後蜀の重臣となった。
ときに後主が好色なことを言い出すと折檻… ではなく切諫したという。
中原で後漢がたったおり、晋昌軍節度使(雍州。長安)の趙匡賛は契丹の任命によって
長安に拠っているので、また自身、契丹の燕王・趙延寿の子ということもあり、
後漢が立たれて非常に不安だった(趙延寿は契丹を後ろ盾にして後晋をフルボッコにしたお人)。
そこで後蜀に帰順を願い出て、後蜀の将、李廷珪が長安救援のため子午谷ルートで
軍を進めることになった。
一方、長安の後方に位置する鳳翔(岐州)を攻撃するため、韓保貞は数万の兵をもって肉薄したが
鳳翔節度使の侯益が戦わず帰順を申し出たので、これを容れた。
関西があやしくなった後漢朝では、異民族鎮圧と称して討伐軍を大挙派遣することにした。
皇帝禁軍数千を核とした討伐軍は、王景崇を大将とした。
後漢VS後蜀の矢面に立たされることとなる位置である趙匡賛は、真っ先に自滅しそうな気がして
不安になり、ふたたび後漢に帰順を申し出た。当然、鳳翔の侯益も(おまえら定見なさすぎ)。
勃興したての後漢では、あまりムリをしたくないので、両人の帰順を容れた。
いい面の皮は後蜀軍で、せっかく長安近辺まで迫っているのに、相手はすでに心変わりしていたという。
2万をもって子午谷から長安に迫っている李廷珪を、王景崇は迎え撃って撃破した。
韓保貞も陳倉に軍を返したが、侯益の変心あって、ついに戦うことなく成都に帰還した。
やがて北宋が王全斌をもって後蜀討伐に乗り出すと、興元(漢中)において迎え撃ったのだが
相手は無双の王全斌。
韓保貞は興元を棄てて西県を固守したが、史延徳に敗れ捕虜となった。
開封に送られた韓保貞は、どういうわけか手厚く扱われた。
趙匡胤は親しく接し、いろいろなブツを下賜したという。
(なんつう気さくな。成都の略奪に対するパフォーマンス?)
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 22:26:26 ID:RXYbYDJm0
続いて後蜀から、李廷珪。
韓保貞とともに、雍州の趙匡賛を救援するために出陣した人。
李廷珪。もとは太原の人で、幼い頃、孟知祥の帳下にあり、ともに成都に入る。
隷属的なものだったので、全然名もなき庶民だったのでしょう。
そういった実力者の身の回りの世話とかから出世できてしまうのが今の世の中。
後主の代になって中央軍の将帥となり、契丹の侵攻で動揺している後晋領の階州を抜いた
功績により、眉州刺史とされ、例の雍州節度使・趙匡賛帰順の折では、
韓保貞が鳳翔を牽制、あるいは攻撃の動きを見せ、李廷珪は長安救援のため子午谷を急いだ。
しかし子午谷を抜けて耳にしたのは、趙匡賛がすでに後漢に帰順したとの報告だった。
軍を返そうとしたところ、王景崇に遭遇し、李廷珪は敵地に孤立状態となり敗走した。
その敗戦後、李廷珪は興元(漢中)に拠り、西暦954年には閬州に移り、
興元には韓保貞が入った。
西暦955年5月、後周軍が後蜀の秦、鳳、成、階の四州を攻略目標として出師した。
李廷珪は北路行営都統として迎撃軍を指揮し、秦、成、階の三州において後周に敗れる。
(あっさりした記事だな… 後主本紀で補うか…)
秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。
しかし後周の大将・王景が瞬く間に大散関を抜け、秦州の八つの砦を抜くと、恐れて逃げた。
後主は改めて迎撃軍を編成した。対後周軍に対する布陣は以下のとおり。
北路行営都統に、捧聖控鶴都指揮使、保寧軍節度使・李廷珪。
北路招討使に、左衛聖歩軍都指揮使、武定軍節度使・高彦儔。
副招討使に、武寧節度使・呂彦珂(武寧軍は徐州節度使の軍額。遥領か?)。
監軍に、客省使・趙崇韜。
6月、李廷珪は武威城の戦いで、後周軍を破り、排陳使・胡立(濮州刺史)を捕らえた。
このときの後蜀軍の軍装には、斧の刺繍がされてあり、自らを「破柴都」と呼んだという。
むろん、後周皇帝の姓が柴だからだ。
後蜀朝廷は南唐と北漢に使いを出し、二国の協力をもって後周包囲網を作った。
このとき後周軍は撤兵の気運が高まっていた。しかし後周将・韓通の援軍、
趙匡胤の激励によって勢いを盛り返した。
8月、李廷珪は後周の将・王景に打ち破られ、300人の捕虜を出した。
後主は伊審徴を遣わし、将兵の労をねぎらうと共に、改めて作戦を練らせた。
9月、李廷珪は先鋒都指揮使・李進を馬嶺寨に拠らせ、さらに伏兵を斜谷から出させたうえで、
残りの兵力をもって鳳州の北、唐倉鎮、黄花谷に出、後周軍の糧道を狙った。
翌閏9月、後周軍も負けておらず、大将の王景は裨将・張建雄をして黄花谷を牽制させ
また別に1000ほどの部隊を唐倉鎮に向わせ、逆に後蜀軍の退路を断つ構えを見せた。
唐倉鎮を任された王巒は出撃して寡兵の張建雄を攻撃するため、黄花谷に向ったが
そこで敗れ、また唐倉鎮に戻る帰路でも後周軍の部隊の奇襲に遭い、さらに敗れた。
これによって、馬嶺寨の李進も王景の各個撃破のえじきに遭い、潰えてしまった。
李廷珪と高彦儔は退いて青泥嶺に拠ったが、秦州の雄武軍節度使たる韓継勲は怖れて、
秦州を棄て成都に一人遁走してしまった。
秦州は城をもって降り、斜谷からの援軍もまた潰えてしまった。
そうなるともう見ているしかなく、成州も階州も続いて降ってしまった。
李廷珪は罪を謝したが、後主は不問としたという。
しかしここで完全に抜け殻になってしまったようだ…
後の北宋が起こした後蜀討伐のとき、王全斌の軍と遭遇すると狼狽して逃げたという。
この頃は朝廷が随分おかしなことになっていたので、真面目に戦うのも馬鹿らしかったろうけど
韓保貞にしろ李廷珪にしろ、前半よくて後半ダメダメというのは、なんかこの時代ならではのような気が…
五代の頃は、皇子たちも軍人としての教育を受ける傾向にあったんだろうな。
わざわざ此処にまで出張って、長文あげるなくてもよくね?
自分の巣が有るんだからそこで書けばいいじゃん。
>>239 ありゃ。巣のありかを知っておるのか?
ならば歓待せずばなるまい…
巣に挙げるよりここに挙げた方が労力いらんのだw
で、ちょっとやる気になったら、まとめて巣に返すつもり。
反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/05(水) 12:26:40 ID:tYsVDy8x0
>>236 孟知祥や薫璋が任された西川や東川ってどのあたりなんだろう?
歴史地図見ても載ってないんだが・・・
うわ、すげい間違い。
>>237 >>秦州(天水)の韓継勲は大敵を防ぐ器にあらず、と客省使の趙季良は言い、自分が適任と売り込んだ。
名前が似てるから間違えた。「趙季礼」です。
趙季良は後蜀初の名臣だよ… 失礼にもほどがあった。
趙季礼は列伝すら立ってないようだ。チキンだからしょうがないか?
>>241 西川および東川というのは、節度職に与えられる「軍額」なので、地名ではないのです。
正確には
「剣南東川」、「剣南西川」といいまして、その後に「節度使」がついて、剣南西川節度使となります。
で、節度使の管轄する領域は、数州に及びますが、節度使が政務をとるところを「使府」といい
その使府が置かれている州が、メインということになります。
よって、剣南東川は梓州が中心であり、剣南西川は益州ということになります。
益州はいわずと知れた成都のことですね。
244 :
携帯から失礼:2007/09/05(水) 21:29:27 ID:hUwRUGQsO
>>240 >反応もみてる(反応ないけど)。まぁ許してたもれ。
うわぁぁぁん…
自分は結構楽しみにしてるし、反応もしてるつもりだが…orz
(全てにレス出来なくともマメに覗いてるし、布教活動も支援してる)
○さんは見てくれていると思ってます。
ちゃんとカンウントしてますよw
時代性の認識という点で、当たり前だけど後漢末三国におとりすぎ
武将の観点からの切り口で紹介するも、五代期の連中っつうのは
粒の大きいのと小さいのとの差がすごすぎる。
華北側は大きいのがそれなりに揃っているけど、なんかこう華南を呑むよう
気宇をもったやつはおらんのかと小一時間(ry
南唐がその点、一時だけ江南の大半を治めたな。すぐに呉越や周行逢にやられて頓挫し
そのあとには後周から鈍器で殴られ、奥に引き篭もってしまったが…
正味、銭弘佐には南唐に生まれて欲しかったように思う。
あの苛烈と果断さは柴栄に匹敵するものがある…
ただ、田中小説「潮音」では、福州救援には自ら行ったとあるけど
どうやら、それはないようだ(親征しないようでは柴栄には勝てんぞ)。
それにしても、あの小説では南唐側の名将・孟堅を戦死させていることは書いてなかったな…
参考にしたのは《新五代史》だけだろうか…?
それであの分量ならすごすぎるが。
246 :
携帯から失礼:2007/09/06(木) 03:39:23 ID:lZMFjrSnO
ちょっと悲しかったんで陳情したの…スマヌ
陳御大、曰く五代の歴代王朝は地方軍閥に毛が生えた程度の政権だそうな…
(十国の立場ねえな)
そ、そんなにまで言わなくてもいいと自分は思った…
>>243 どうもありがとうございます。ずっと気になっていたんですが、ようやくすっきりしました
他で誤爆したが…
銭弘佐に触れたので、ちょっとやってみるか。
中献王・弘佐。
《新五代史》、《旧五代史》は宋代に編まれた史書なので、宣祖の諱である「弘」が省かれ、銭佐となる。
銭弘佐の薨じた季節は、6月乙卯(22日?よくわからん…)、つまり夏真っ盛り。
『潮音』の書き出しの幻想的な描写は潰えた…
ということは、やっぱり《新五代史》のあの九行程度の記事をもとに、あの短編を起こしたのか。
14歳で、鎮海(杭州)、鎮東(越州)両節度使を継ぎ、9月、王位に上った。
しかし若い主に、軍中の評判はよろしくなかった。
丞相の曹仲達(いい名前だな…)が親しく言い聞かせて、とりあえず収まったそうな。
実際に、後晋から玉冊を受けたのは、2年後の天福8年(943)10月。11月には曹仲達が卒した。
この前後年に、先任の丞相が続々と死に絶えている…
銭弘佐としては辛いところだったろう。
そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。
(ただ、中献王世家に記述がなく、忠遜王世家にあるのみというのは…?)
1年ののち、杜昭達、闞璠(かんばん)ら、親衛の将帥を誅殺した。
呉越王といっても、内実は節度使の気風が強く、その身の回りを固める親衛隊の
将兵は牙兵といって、とくに節度使と個人的に密接な間柄といえた。
官ではなく私兵的な存在なので、公私の別がつきにくい事情があった。
そのため、牙兵は驕慢に陥りやすく、節度使でさえ意のままに挿げ替えようとする動きが活発だった。
これは、皇位を称した河南政権でさえそうだった。
皇帝の親衛隊たる禁軍の将兵が駄々をこねて、皇帝を擁立した例は、李嗣源、郭威、趙匡胤
を見れば明らか。柴栄も高平戦のとき、禁軍将帥に裏切られ、全軍崩壊の手前まで陥ったことがある。
翌年になって南面兵馬都元帥を拝命し、その冬、閩国に乱あり、遺臣の李達は呉越に臣と称して
救援を請うた。
銭弘佐は諸将を集め事を計ったが、諸将は救援には反対だった。
しかし銭弘佐は唇亡歯寒の故事を言い、異議あるものは斬る、とまで言い李達の救援を決した。
閩国はこの2年前から内乱によって簒奪があった。
閩王を弑した朱文進と殷皇帝を称した王延政が争い、南唐の枢密使・査文徽の提案により
南唐が介入するという擾乱ぶりを呈していた。
福州をもって南唐に庇護を求めた李仁達(李達)は、しかし南唐の入朝の命に従わず、呉越に
臣と称して救援を求めた次第だった。
内衙都監使の水丘昭券(後漢の司隷校尉・水丘岑の末らしい…)に用兵を司らせ、
丞相・元徳昭に軍略を委ね、実戦部隊3万を張筠、趙承泰に預け、
水陸から福州に向わせた。
南唐の査文徽は、建州にあって、降将・孟堅を監軍使・馮延魯(馮延己の異母弟)につけて
各地を平定させていった。
呉越軍の入った福州も一気に攻め、呉越軍はいきなり苦戦を強いられた。
翌年の3月になってようやく銭弘佐は余安を海路から援軍として差し向けた。
余安は上陸するや船を棄て、平地に陣形を展開した。
馮延魯はこれをみて、「福州はなかなか落ちないが、あの援軍を叩けば降伏するだろう」と言った。
しかし孟堅は諫めた。「彼らは自らを死地に置いています。このまま戦っても勝敗定かとはいえません」
馮延魯はそれを聞かず、軍を進めた。
余安は陣鼓を打ち鳴らして、福州城内に援軍来着を悟らせた。
福州城内の呉越軍は、はたして出撃し、平野において馮延魯の軍は挟撃され壊滅した。
孟堅は戦場に踏みとどまり、馮延魯の血路を開いたが、力尽きて果て、
楊匡業、蔡遇などを捕縛し、死者は万を数えたと言う。
(《新五代史》に楊業となっているのは、当然、趙匡胤の諱を避けたからだ)
南唐に勝ち、福州を得られたことは呉越にとっては大きい。
後晋は諸道兵馬都元帥、開府儀同三司、尚書令および、資忠緯武恭懿翊載功臣を賜った。
そして6月、20歳にしてこの世を去る。
>>248 訂正。
>>そのため、11月に弟、銭弘倧を丞相に据えている。
これは単に読み間違いだった。
弟・銭弘倧を丞相に任じたのは、福州を保ったあとのことで、死ぬちょっと前でした。
おお。そうなると『潮音』のベースはかなりやばいことに…w
ま、それなりにおもしろいからいいか。
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/24(月) 08:27:00 ID:c9oRKVOf0
潮音はやっぱり美化しすぎだよね。
ただ、他にああいう題材で小説を書いてくれる人がいなさそうだし。
『潮音』の美化はいい美化と思うんだが、それは人それぞれとして。
評価できるところは、《新五代史》の、半ページほどの記述しかない
銭弘佐を取り上げる気になったことと、その分量。
『茶王一代記』にしてもそうだけど、史実どおりに書いてても
盛り上がるかどうかは別問題。
その頃の感覚を取り戻して欲しいものだけど、『人皇王流転』みたいなの
書いてるようでは、なかなか…
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/03(水) 11:56:23 ID:hToQX1tX0
田中氏ってあんまり腰が定まっていない印象がある。
そのへんが、一部作品の、「いつになったら完結するんだ!」的な状況に繋がっている気も……
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 00:30:54 ID:ALfN4gkE0
【肉屋の主人、殺人事件】
韓信の股くぐりはつとに有名。
これは無用な争いはしないという「退く」勇気の一例。
後に後周太祖となる郭威は、3歳で父親に戦死され、幼少は叔母に育てられた。
父が健在であれば、州刺史の子として、また李克用軍閥の牙将の子としての
将来が約束されていたであろうが、その道は閉ざされてしまった。
乱世を横目に畑仕事に没入していたけど、武術や兵略、計算や文字などを
学んだようだった。
とき、まさに乱極まったおり、太原軍閥と袂を分かった潞州軍閥李家は
大金をばら撒き、勇壮の士を募った。
潞州の李家とは、李克用の仮子であり、また太原軍閥の宿将だった
李嗣昭の一族である。
先年、鎮州常山で王徳明の乱があり、鎮圧に向った李嗣昭が流れ矢に当たって戦死した。
しかし晋王・李存勗は遺族に対して慰労の言葉もかけなかったうえ、遺体を太原にて
葬るよう指示したという。
太原に葬るというのは、潞州李氏の他鎮への移転を企図しているともとれたので
次男の李継韜は憤怒して潞州にて叛旗を翻した。
この潞州李家は五代時代随一の資産家で、その資産は巨万であり
太原軍閥が劣勢ながら後梁や契丹などと連戦し続けられたのは、ひとつには
この富のおかげだという。
潞州の叛旗は、その資産を背景にして掲げられた。
このとき郭威は19歳で、畑仕事より軍事の方に非常に興味があり、ついに決心して
育ててくれた叔母のもとを去り、実家に帰っていた父の後妻であったらしい常氏を頼った。
その常氏が潞州にいたからだった。
この常氏という人は、実は郭威の実母で、父郭簡と婚姻したとき、郭威は常氏の連れ子だった
という話もあるが、本当のところはわからない。
ともかく、郭威は潞州の募兵に応じ、軍人としての道を歩もうとしていたのだった。
軍士となった矢先、店先で酒を飲んでいた郭威は、ある肉屋で肉を注文した。
しかし肉屋の主人が注文どおりに肉を切らないでよこした。
ほろ酔いながらに郭威は文句をつけた。
実はこの肉屋の主人、人並みはずれた巨躯と向こう見ずな性格のため、まわりの
商人たちからおそれられていたという男だった。
郭威の態度を生意気と思った主人は、自らの腹を突き出し
「おい、新米の兵隊さんよ、この腹を切れるものなら切ってみろ!」
「おれの肉の切り方が気に入らないなら、あんたに手本をみせてもらおうか」
と青二才の郭威をからかった。
言われた郭威は恐れ気もなく、腰間の刀を抜いて、一刺しに刺してしまったので、
市場は大騒ぎになってしまった。
当然、警護の役人に捕まり、会府に連行されたが、当主の李継韜は
その勇気を奇として罪には問わなかったという。
これは郭威の「蛮勇」あるいは「匹夫の勇」を示した伝説で、韓信のそれとは対照的。
しかし実際のところ軍中での郭威のポジションは軍吏。
兵士の名簿の検査や計算などの事務関連の仕事だった。荒事ではなかった。
字の読み書きや計算のできない武人政治の世の中では
こういった人材が少ないので、理解のある人のもとであれば高評価を得ることがある。
郭威が潞州兵士になった直後、潞州は太原軍閥に討伐され、
潞州の兵士は晋王・李存勗の親軍兵士として編入された。
郭威は親軍のひとつ「従馬直」の軍吏として、乱世に乗り出すのであった。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 14:25:49 ID:ALfN4gkE0
【郭雀児と押しかけ女房】
後周太祖の皇后、諡号は聖穆皇后の柴氏は、
邢州竜岡県の地主、柴翁の娘だった。
柴氏は後唐の荘宗、李存勗の後宮に登っており
洛陽では聞こえた貞淑、賢婦だった。
後、郭威の娘の婿となり、後周朝において世宗・柴栄の右腕として
禁衛殿前司の総大将となって活躍する、張永徳の伝記によれば
いささか小説めいたなれそめが記述されている(東都事略張永徳伝)。
後唐の荘宗・李存勗は洛陽に京師を定め、天下に号令をかけるが、数年を経ずして
その治政は弛緩し、唐の悪弊であった宦官大権の復活や芸能人をそばに侍らせた。
ともに戦った兵士らを冷遇した李存勗に、親衛軍の大将、郭従謙が弓を引いた。
その親衛軍のなかには、潞州軍から編入された郭威も在籍していたのだ。
李存勗は混乱の中、流れ矢に当たって、あっけない最期を遂げた。
郭従謙をはじめとして、親衛軍将兵らは最有力にして人格者の李嗣源を擁立して
洛陽に迎え入れた。
李嗣源は後唐の帝位を継ぎ、李存勗のもたらした悪弊を一掃するため
宦官を大幅に減らし、後宮の美女千人あまりを、年かさのいった者だけを残して
若い女のほとんどを故郷に帰したのだった。
その中に柴氏はいた。当時、おそらく20歳前後。後宮に入ってすぐの出来事であっただろう。
迎えに来た柴翁とともにする、故郷邢州への帰途、ある川のほとりで渡しを待っていたとき
おりしも大雨と風に見舞われ、図らずも数日を費やさねばならなかった。
そばにある宿に泊まっていたが、止まない雨を門から出ずに眺めていた柴氏。
その門の前を、逞しい男が一人走り去って行った。
その男の衣服があまりにボロボロで、みすぼらしかったので驚き、柴氏はいたく興味を惹かれた。
「なんですか、あの人は?」
宿の主人に尋ねてみると、宿屋の主人は見知っていた人物だったらしく、答えが返ってきた。
「ああ、親衛馬歩軍士の郭雀児ですよ」
その男、つまり郭威の首あたりには飛雀の形をした黒子があり、
それで「雀児」と呼ばれていたのだった。
飛雀の黒子とは奇相である。最高級の貴人の相と、柴氏は思った。
突然、柴氏はその男の嫁になりたいと騒ぎ出した。
あきれた柴翁が
「あのなぁ、お前は皇帝の後宮にいたんだぞ。せめて節度使に嫁ぐというならまだしも
なにを考えてあんな男の嫁になりたがるんだ!」
と反対したが、柴氏は言い返した。
「あの人はきっと貴人となります! さ、その着物をよこしてください」
柴氏は旅中の荷物の半分を取り、郭威の後を追った。
その荷物の中には、綺麗な着物があったので、ついにその宿で婚姻してしまったという。
親と半分勘当、絶縁状態で強引に押しかけ女房となった柴氏。
柴翁は結局、娘を置いて故郷に帰っていった。
しかし柴翁はある夜夢を見た。朝起きると蔡翁は上機嫌で笑い続けた。
柴翁の妻が不審に思いわけを尋ねても、何も言わない。
そこで酒をすすめて酔わせてみると、柴翁はうれしそうに語ったという。
「あの花項漢(すばらしい首をした男。つまり郭威)は、将来皇帝になる。天帝がそうお命じになられたのだ!」
こうして柴氏は故郷邢州をはなれて、大酒呑みで博打好きで家計のことなど顧みない
貴人の相をした下級将校の男と、洛陽に住むようになったのだった。
>>254 へえー、郭威の結婚って、そんな逸話があったんだ。
で、その柴氏との縁で、柴栄が登場したわけか。
たしか、南北朝期の北斉の事実上の建国者高歓も、下っ端兵士の時代に、
大金持ちの婁氏の娘が押しかけ女房になったんだっけ。
郭威と似ているかも。
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 17:52:36 ID:ALfN4gkE0
【兄の息子を分捕った妹】
郭威23歳、妻の夫人柴氏、おそらく20歳前後の若夫婦は
つつましい暮らしをしていた。
下級軍吏でしかない郭威の俸給は少ないにもかかわらず
郭威は大好きな酒を控えることができない。
万事に鷹揚な郭威と、それを毎日のように諫める夫人。
郭家の家計は柴氏によって、ようやく破綻せずにいたようだ。
その頃、この家庭に7、8歳の男の子が加わることになった。
邢州竜岡県の地主である柴翁には娘である柴氏のほかに
柴守礼という長男がいた。
その柴守礼には息子があった。
後唐(晋)の天佑18年(921)9月24日、邢州の堯山県にある
柴家の別荘において生まれたこの子は、名を栄といった。
柴氏は、まだ邢州にいた頃、生まれたばかりの栄を
ことのほかかわいがっていたという。
栄の教育の一環のためか、京師である洛陽にはときおり遊びに来させていたようだった。
郭家には子供がなく、貧しさはなかなか改善されなかった。
少年栄は寡黙で慎みがあり、自ら郭家を助けるため街で雑務をこなしたという。
居心地がよかったのか、柴氏が手放そうとしなかったのか
柴栄は郭家で柴氏から騎射、歴史や読書きなどを教わった。
やがて、鄴都の大商人、頡跌氏(けってつし)に連れられて、江陵までお茶の買い付けに
でるなど行商することも経験し、乱世の大地を自分の足で直接見聞する機会を得た。
柴栄の稼ぎは郭家の助けとなり、そのことに感じ入った郭威は自分の養子とする
ことに決めた。こうして柴栄は郭威と叔母・柴氏のあたたかい愛情に迎えられたのだった。
柴栄はおそらく、邢州の新興地主である柴家の跡取息子であったと考えられる。
しかるに、その跡取息子を養子にだした父、柴守礼の思いはいかばかりか。
史書は黙して語らない。
なお、この柴守礼は人格に問題があった。後、柴栄が帝位に就くと洛陽に居を移されたが
そこでほしいままに市民を斬殺するという横暴さだった。
柴栄はむろんそのことは耳に入っていたが、不問にしたという。
本来なんらかの処置を講じなければならないはずだが、
この件に関して後世の大方の見解は「親の犯罪を見逃したとは、あっぱれな孝行者よ」
であるらしい。
しかし当時の権臣である、王溥、王晏、王彦超、韓令坤らの両親は
このとき洛陽に居を移しており、その洛陽市街では、あえて柴守礼を避けて暮らしたという。
そして、この憎まれ者は短命な息子を尻目に72歳まで長生きしたのだった。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 22:27:07 ID:lzQp1JYI0
この時代は、掠奪婚みたいなのも多いし、
皇后に立てられた者なんかでも、再婚という場合がかなりあるね。
略奪婚なら、名君の誉れ高い李嗣源がやってますね。
趙徳鈞なんかもそうだし。
荒れた時代ですが、だからといって粗略に扱われたかというとそうでもないという。
結構、賢婦はいるような感じですよね。
再婚というなら、それこそ柴栄の皇后、宣懿皇后符氏。
顕徳2年(955)に26歳で逝去したから、河中で李崇訓の妻だったのが
20歳のときまでという計算になる。
いくつで嫁いだかはわからないけど、嫁いですぐ河中の乱となったのでしょう。
なんせ李守貞が叛乱に踏み切った原因が
「符氏はいずれ天下の母となるだろう」
という予言を真に受けたから、というあたりだし…
符氏が李家に連座しなかった理由は、ひとえに名将・符彦卿の娘ということにあるだろう。
だからこそ、郭威は柴栄に符氏を娶わせたものと思える。
また柴栄も、病床にあって符彦卿との縁戚を重視し
死去した符氏の妹をして、空位の皇后に就けたほどだった。
妹の符氏は趙匡胤から手厚く遇され、「周太后」と呼ばれたそうだけど
こっちは再婚はなかったようだ。まだ20代前半だったろうに…
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 13:21:40 ID:Kh26sWAv0
貞節を守るために再婚はしないという風潮が強まったのは、
宋代以降からだからね。
郭威や柴栄といった名前だけは知っていたのですが、詳しいことは全然知らなかったので
非常に面白く、かつわかりやくす読ませていただきました> ID:ALfN4gkE0さん
こういったエピソードを読むと、偉大な業績を挙げた歴史上の英雄も人間なんだと思えるのがいいですね
あつかましいようですが、また何か面白いエピソードがありましたらよろしくお願いします
>>262 こりゃどうも。
今回は小説風味で書いてみました。直訳って味気ないですからね。
柴栄についてなら、柴栄スレも読んでみて下さい(と、宣伝)。
柴栄スレで長編小説?を書いてたのと同じ人?
あれでこの時代に興味を持ちました
>>262ではないが、また何か面白いエピソードがありましたらよろしくお願いします
265 :
262:2007/10/16(火) 21:40:05 ID:IsxxmRV40
>>263 柴栄スレ見てきました。柴栄って何か凄い人だったんですね。
自分が知っていたのは「五代の中で最も名君で、若くして死んだ」という評判ぐらいだったので、
柴栄の戦いぶりや人民の酷使、仏教弾圧とかはいささか意外な感じでした。
しかし、とにかくこの人は良くも悪くも生き急いだ、という感じですね。
個人的には「餅屋の餅が薄いと激怒して誅殺くらわそうとして、趙弘殷らに押し止められる」という
エピソードは苦笑させてもらいましたw
>>264 それは恐縮でした。
本当はもっと詳しく書きたかったですが、それはまた別の機会ということになりますか。
>>265 人民酷使の件は、とにかく華北政権はなにからなにまで枯渇していた。
人的資源もそうだし、銅銭の絶対数も、むろん戸数と税収も。
淮南という土地が豊潤な大地で、塩も豊富に取れるということで
国家収入増のためには、なんとしても手に入れたいところだった。
しかも、南唐にとっても生命線なので、そこを取るということは
南唐の首に手をかけたことになる。
ま、そういうわけで、絶対失敗しないがための、おそろしい民衆徴発
なわけで、その被害をうけた宋、徐をはじめとした河南の州民は
逃げたり、賊になったりしたたのです。
淮南を手に入れた後、課税の適正化と帰農を奨励して、まぁ一応
アフターケアに着手したことはしたんですよね…
このアフターケアは、柴栄が短命なため、次代の宋による中央集権の強化
に一役買う遺産となったのです。
仏教弾圧は「三武一宗の法難」で検索してみるといいですよ。
中国史的に有名な事柄ですから。
>>餅屋の餅が薄い
ちょうど寿州で思ったようにいかなかったときの事のようなので、焦り、でしょうね。
北の北漢は、前の後漢皇帝劉知遠の弟が建てた亡命政権ということで
後周に仇敵フラグが立っています。
なので、何かといえば攻めてきてますので、南唐戦で梃子摺るのはうまくないのです。
ただこれは、『周世宗本紀』にはなくて、《宋史》太祖本紀にありました。
そういうところを見ると、やっぱり郭威、柴栄らと趙家ってのは、
わりに深い関係だったのかな? と思えますね。
ちなみに、趙弘殷はこの戦役で戦死してしまいます。
趙匡胤も、その弔いのために一旦開封に戻った様子でした。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 14:17:43 ID:LCwtF19e0
みんなよく言うけど、柴栄は日本での織田信長的な存在。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 18:07:49 ID:BQn2WhTT0
前から探してた逸話の元がみつかった。
《五代史補》『世宗誅高平敗将』にある一文。
これは、柴栄が即位した後周の政局不安を突いて、北漢の劉崇が攻め込んで来たので
澤州高平の平野で迎え撃った戦いの、伝説的な部分が記されている。
史上に名高い「高平の戦い」は、歴史意義的に見て、織田信長の「桶狭間の戦い」に匹敵する、
まぁいわば柴栄がブレイクする原因となった戦い。
侵入する北漢軍は、後周の北辺防衛を担う潞州軍を蹴散らし、潞州城を攻囲した。
潞州の節度使・李筠から、救援の要請が届くと、柴栄は親征を決意する。
そのとき、朝廷では皇帝親征に反対する、宿老の馮道と柴栄との間に有名なやりとりが繰り広げられた。
柴栄「劉崇めはわが国の服喪と、朕が即位したばかりというので、これを好機と見、
みずから軍を率いてくるに違いない。朕が親征せぬわけにはいかぬ」
馮道「しかし主上みずから危険を冒して、万一のことがあればなんとしますか
断固、親征はみとめられません」
柴栄「往古、唐の太宗は戦いには必ず陣頭指揮をした。朕もどうして安易の道をゆこうか」
馮道「しかし、主上が唐太宗となられるか、臣にはわかりませぬ!」
柴栄「…劉崇軍は寄せ集めだ。我が軍が劉崇を撃ち破るのは、
山が卵を押しつぶすに等しいのだ!」
馮道「しかし、主上がよく山となられるか、臣にはわかりませぬ!」
朝廷が、ダイヤモンドダストに見舞われたくらい凍りついたに違いないこのやりとり。
禁衛軍を出撃させた柴栄は、そのうちの第三軍に身を置き、8日という速さで澤州に着陣した。
しかし各州の援軍はまだそこまで到達してはいない。柴栄本陣は手薄だった。
潞州を攻める劉崇は、劉崇は一気に決着を付けるべく、
潞州を後回しにし澤州に向って進軍した。
劉崇は契丹にも援軍を要請しており、都合4万の攻撃軍を率いていた。
柴栄の本陣では数で負けているが(兵数の記録はない)、もし劉崇らが後退すれば、
二度と捕捉する機会はないのではないかと考え、劣勢ながらも戦端を開く必要があった。
劉崇にしてみれば大いなるチャンスなので、士気は旺盛だった。
「周軍を見るに陣容が薄い。契丹の援軍は必要ないな。これは我が軍だけでも撃ち破るの
はたやすかろう。そうすれば契丹もわれに一目を置き、今後やりやすくなるではないか」
ちょうどこの頃、今まで吹いていた北東風が南風に変わり、劉崇軍の方に向って吹き付けた。
劉崇幕下には、それをもって自重すべしとの声もあったが、劉崇の意思はかわらなかった。
相対する両軍の陣容は、左・中・右の構えをとっており、正面からの激突となった。
劉崇軍の左軍を率いた張元徽は、北漢きっての名将で、禁衛軍の総帥であり、
今回の侵攻軍の先鋒大将をまかされ、潞州の李筠を破った猛将でもあった。
その張元徽の猛攻の前に、後周軍右軍を率いる、禁軍大将の樊愛能と何徽が
恐怖に駆られて敵前逃亡を開始した。半数は彼らと共に逃げ、半数は敵軍に降伏し
後周右軍は壊滅したのだった。
右軍の潰走により、契丹軍がやってきて後周軍は敗れ、皆降伏したという流言が流れ、
後周軍は全軍崩壊の危機に立たされた。
随従していた文官の魏仁浦は、この危機を立て直すには皇帝自ら陣頭指揮する他ない
と進言した。柴栄もそれを是とし、最前線に乗り出したのだった。
ここからが伝説の部分で…
柴栄は真っ赤になって怒り、50騎を率いて、まっすぐに劉崇の本陣へと馬を躍らせ乗り入れた。
劉崇は勝利を確信して酒を飲み、余裕をみせていた。
そこへ柴栄が50騎とともに現れ、敵本陣で大暴れしてついにこれを破った。
という、単騎(50騎だけどね)乗り入れの記述。
そこだけ読むと、桶狭間そのものなんだけどね…
この時代はやはり唐が模範とみなされていたのか
李存勗も唐の太宗が云々と言っているし
>>269 そりゃあ、直前に全国政権として300年近くも続いたわけだし。
隋以前になると書物の中の世界だし。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 22:02:08 ID:3wr6kdtY0
>>269 李存勗が魏州で帝位に就こうとしたとき
河東監軍の張承業(あくまで太原軍閥は唐の河東節度使
という体裁を棄てなかった)に、諫められたときの言葉に
「未だ汴人を倒してないのに、帝位に就くとはいけません
汴人を倒して、かつ唐室の後裔を立て、全土を統一なさい。
そうなりました折には、たとえ高祖や太宗が再び世に現れても
王の上に立つことができものではないのです」
《資治通鑑》「後梁紀六」龍徳元年の記事。
高祖はたぶん漢高祖だと思う。
張承業はあくまで「唐の血縁者」をたてることにあるので、
ここで李存勗との最終的な思惑の違いが表面化してしまった。
張承業は去り際、「唐室のために働いてきたわたしを誤らせましたな!」
と言った。翌年には死去(病死)してしまった。
>>256>>258 武明皇后婁氏(501〜562)
名は昭君。高歓の婁夫人。婁内干の娘。幼いころから聡明で、多く強族が求婚したが、こばみつづけたという。
高歓を見て驚き、「これ真に吾が夫なり」といって、私財をなげうって援助し、自分を迎えさせたので、父母もやむをえず許した。
高歓の密謀には彼女もしばしば参与した。倹約を尊び、寛容で嫉妬をあらわさない性格だった。
渤海王妃となり、高澄・高洋(のちの文宣帝)・高演(のちの孝昭帝)・高湛(のちの武成帝)・襄城王高淯・博陵王高済を産み、
また魏の孝武皇后高氏と孝静皇后高氏を産んだ。
高歓が蠕蠕公主を迎えると、正妻の座を譲った。高澄が跡を継ぐと、太妃となり、文宣帝が北斉を建てると、皇太后に上った。
廃帝(高殷)が立つと太皇太后となり、孝昭帝が立つと、また皇太后に復した。
孝昭帝が崩ずると、武成帝を立てさせた。大寧二年(562)春、病の床につくと、巫媼の言を用いて石氏と改姓した。
四月、北宮にて崩じた。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 20:36:36 ID:QS0tSBCL0
力の限りスレ違いしているな。
いや、まったく問題ないよ。
ところで、江陵に鎮した荊南節度使・高季昌(高季興)は
朱氏後梁時代は「渤海郡王」だった。
沙陀後唐になって南平王にされている。
その後は襲位はされず、子が当主になると、渤海郡王→南平王と進爵した。
(一時、呉の冊封で高従誨が秦王となったこともあった)
さて、「高」と「渤海」つながりなんだけど、血縁的にもなんかあるんでしょうかねぇ、高歓とかと。
そういえば、と
>>273の件について、かすかな記憶があったので
世界史板のスレを読んでみるとありました。
『五代十国時代を語ろう』
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008691359/ ちなみにここの1さんは、過去に自分が間違われたことのある五代潰瘍さんなんですが
江南椰子さんといい、実は「五代會要」「江南野史」のパロと途中でネタバレしてます。
そうなれば、自分はさしずめ「清掃実六」とかのコテを名乗ろうか、とか
いやいや、そんなことはどうでもええねん。
上記スレの
>>191のレス。
さすがあやめ殿。
>渤海王に封ぜられています。しかしこの中で最も多いのが「高」姓の人士なのです。
>列挙してみますと
>渤海郡王としては 高樹生・高歓・高澄(北朝の魏)・高固・高崇文・高駢(唐)・高萬興・高季興・
>高從誨・高保融(五代)・高懷徳(宋)
(中略)
>実は高氏は既に久しく 渤海の郡望(郡の有力豪族)であったからです。
どうやら、「高」という姓がキーワードのようですね。
高季興と高懐徳は全然関係ないもんね。
>>268 >柴栄「往古、唐の太宗は戦いには必ず陣頭指揮をした。朕もどうして安易の道をゆこうか」
>馮道「しかし、主上が唐太宗となられるか、臣にはわかりませぬ!」
>柴栄「…劉崇軍は寄せ集めだ。我が軍が劉崇を撃ち破るのは、
山が卵を押しつぶすに等しいのだ!」
>馮道「しかし、主上がよく山となられるか、臣にはわかりませぬ!」
激しくワロタwwwさすが馮道というべきだなw
五代初期の武将に劉知俊というのがいる。
徐州沛の出身で、最初は群雄の一人時溥に仕えてその才能を認められたものの
時溥はやがて劉知俊の勇略を忌避するようになった。そこで配下二千人を率いて
朱全忠に降った。これが最初の寝返り。資治通鑑には「これより時溥の軍振るわず」とある。
朱全忠のもとで「勇は諸将に冠たる」という活躍をして天祐元年(904)に同州の匡国軍節度使となり
これ以降もっぱら李茂貞を相手に戦う。三年には美原において康懐英と五千の兵で楊崇本率いる
岐軍六万を打ち破り斬首二万、馬二千と指揮官百人を捕える大勝利を収めて鄜、延など五州を
続けさまに落とし「西軍これより振るわず」とある。
開平二年(908年)には王重師と幕谷で岐軍五万を大破し李茂貞は僅かに身をもって逃れる。
翌年には攻勢に出て丹、延など四州を落とし、その功績で大彭郡王に封ぜられた。
さてここまでは良かったのだが、活躍したせいでまたもや主君から猜疑されることになった。
丁度そのころ、幕谷で共に戦った王重師が無実の罪で処刑されたこともあって劉知俊は不安にかられ
遂に同州で叛逆した。
隣接する華州・雍州を襲ってこれを確保し、潼関に兵を送ってこれを守ろうとしたが討伐にやって来た
劉鄩によって潼関があっさり突破されたのを知って鳳翔に逃走する。
李茂貞は劉知俊の来降を喜んだが、土地が無いので霊州を攻めさせてこれを劉知俊に与えようとした。
これに対し朱全忠が霊州救援に派遣したのはかつて共に美原で岐軍を破った康懐貞。
劉知俊は霊州から取って返して三水で後梁軍を迎撃し、ここは王彦章の奮戦により突破されたが
昇平に伏兵をおいてこれを大破、数人の副将を皆失って康懐貞は命からがら逃げ延びた。
乾化元年(九百十一年)には前蜀に侵攻し、最初は勝利したものの前蜀軍の反撃にあって撤退した。
これが原因で李茂貞の側近に讒言されて一時期兵を取り上げられたが、李継崇がとりなしてくれたおかげで
事なきを得た。(この時李茂貞は讒言した側近を処刑して劉知俊を安心させている
劉知俊が仕えた四人の中では一番いい人だったのではなかろうか)
ところがこれが次の寝返りを引き起こすことになる。
この時劉知俊の一族は李継崇の領する秦州に住むことになったのだが、貞明元年(915)に
前蜀軍が北上してきた時、なんと李継崇が秦州ごと降伏してしまった。そのために劉知俊の一族は
成都に遷されてしまう。当時劉知俊は叛逆して霍彦威率いる後梁軍を引き込んだ邠州を包囲していたが
これを知るや囲みを解いて鳳翔に帰り、疑われるものと思い込んで遂に信頼できる者百余人とともに夜中に
国境を越えて蜀に出奔した。
蜀でも歓迎され、王建は早速武信節度使に任じて岐を攻めることを命じたが、部将は皆王建の昔からの部下で
劉知俊の命令を聞こうとしなかったため失敗した。
蜀人はそれを貶し、王建も劉知俊を評価する分だけ忌むようになった。
「自分は老い、知俊はお前のような輩に使いこなせる人間ではない」
遂に貞明三年(917年)に処刑された。
朱全忠、李茂貞、王建と唐末・五代初期を代表する群雄に仕え、行く先々で重用
されたにもかかわらずろくでもない結末を迎えた人物。
せっかく才能あるのに発揮しきれず、もったいないことだ、と思う。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 20:59:33 ID:Ahsxy+6o0
閑散としてしまってるんで、ネタ出ししておこうかな。
>>276さんには劉知俊なんつうマイナーどころを紹介していただいて、ごくろうさまでした。
劉知俊VS康懐貞は、かつての戦友同士の戦いということで、小説的ネタとしては
申し分ない魅力があるが… そうかぁ、この人前蜀にまで亡命してたんですね。
ノーマークだったから、ありがたいことです。
さて、今回の小ネタ。
呉の領域の中に、舒州というのがある。楊行密はもと淮南節度使として揚州に鎮し、呉王に封ぜられた。
よって、淮南地方(淮南道)は彼の本拠地ということになる。
その淮南を構成する州のひとつに、舒州がある。合肥の下の州。合肥のある州は廬州という。
その舒州宿松出身者に、周本という男がいる。
ずいぶん前に、名将百選スレで、五代のところでチラっと書いたように記憶しますが、彼は
後漢南郡太守・周瑜の子孫だった。
周瑜は宿松に葬られたようで、墓は祠となり、子孫は代々そこを守っていた。
年代が進むにつれて、数十家ほどとなり、ひとつの村状態になっいったみたいなかんじ。
周本はそのうちのどれかの家の子だそうで。
周瑜の子孫と言われれば知略縦横、な感じですが…
どうも暮らしは貧しかったようだけど、子供の頃から膂力に優れ
「つねに虎と一人で格闘しては、殺していた」という猛者だった。
宣州節度使の趙鍠(宣州は揚子江を挟んで舒州の隣の藩鎮)に仕え、勇は軍中に抜きんでいたという。
楊行密が領土拡大のおり、趙鍠と戦い破ると、周本を帳下におき、やがて楊行密の牙将(直属の兵)
となって戦いの都度真っ先に進み、敵の鋭鋒を挫き、飛び来る矢石をもろともせず、身に傷のないところがなかったという。
浙江での叛乱と、楚軍(馬氏)との戦いで戦果をあげた周本は、信州刺史とされたが
閩、楚、呉越ら併せて2万に攻められた。
しかも信州兵には不満をもつものが多く、かなりヤバイ状態だった。
連合軍は呉越軍が主体となって信州を囲んだ。
周本は門を開かせ、偽りの幔幕を門内に設営し、城壁の上に僚佐(幕僚)を集めて、宴を始めた。
連合軍は試しに矢を射掛けてみたが、周本らはまったく動じなかったので、これは何かある
と疑った呉越軍が囲みを解いたので、信州城は事なきを得た。
いわゆる「空城の計」。
後唐の荘宗が後梁を滅ぼして洛陽に入洛すると、楊行密は使者を出して賀を述べた。
荘宗はそのとき「貴国に名将はいるか?」と問うた。
呉王の使者は周本と答えたので、周本の知名度はアップした。
以後、親軍将、寿州節度使、徳勝軍節度使(廬州)を歴任し、安西大将軍、太尉、中書令、西平王を加えられる。
もともと読み書きには疎くて、書物を知らない人物だが、儒者を尊び、属僚には礼をもって接し、兵、民を愛した。
性格は素朴で無趣味な男だが、ただ軍事用兵に関しては、柔軟で知略に富んでいたという。
呉越の水丘昭券や、この周本など、後漢にゆかりの人が他にもいるかもしれない。
そういうのを探すのも、結構面白いかもしれない…
また、孫姓や顧姓、厳姓とかを、この江南地方で見かけると、もしや? とか思ってしまう。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/19(月) 21:20:27 ID:NekXYgQY0
>>276 沛出身で劉氏……やはり劉邦を意識していたんだろうか?
>>277 「名将はいるか?」と聞くのがいかにも李存勗らしいw
周本って後梁と戦ったことはあるんだろうか?朱全忠は呉に何度も侵入しては
大敗している印象があるけど、名将スレでは呉の武将はあまり挙げられていなかった
んで・・・。
>>278 自分も最初はそう思ったけど列伝には特に何も書いてなかった。
まあ沛から出て関中に至りそれから蜀へ、というのはこじつけてみれば劉邦の前半生に
似てなくも無い。劉知俊はそこで終ってしまったけど・・・。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/22(木) 19:17:40 ID:FknlCB3m0
>>279 >>名将スレでは呉の武将はあまり
岩城さんが臺濛を挙げてましたよ。
でもまぁ、彼はともかく自分はまだ知らんこと多いので、挙げられなかったのですがね。
東平王朱全忠との戦いは、呉「太祖世家」ではたびたび出てくるようですが、
今すぐに全部は読めんです。
で、ちょっと目に付いたのは、周本ではなく朱瑾や張訓という名前。
朱全忠の方では、名将の葛従周や龐師古などなどが、ぱっと目に付いた。
周本が中原への最前線である寿州節度使となったのは、呉の睿宗のときですから
楊行密から3代後になるんですよね。
朱瑾はもと兗州の群雄(節度使)で、朱全忠が秦宗権を討伐するとき与力した人です。
勇猛をもってなる武将。
ところが、秦宗権の鎮圧が終ると、朱全忠は手のひらをかえして攻撃してきたので
やむなく楊行密のところに身を寄せたという次第。
楊行密は朱瑾の来訪を喜んだそうです。
ときに楊行密の驍将として、射撃の名手・米志誠というのがいて、朱瑾は槊の名手として
名が通っていたので、槊の朱瑾と射の米志誠といわれたのです。
張訓は、某ヨッシーの小説にあるアレです。もちろん、妖怪奥さんの話も立伝されてます。
>>劉知俊
この人の幕僚に劉参謀という人がいて、その名前はわからないそうだけど、
《舊五代史考異》に劉源と、名前が付けられています。
そして劉知俊の弟、劉知浣。
さらに彼らを脅かした敵将、劉鄩と、なんか「劉」まみれですね。
三国志以外のものを流行らせるには?っていうスレで柴栄の小説載せてるサイトが
あるみたいな書き込みがあったんですが、ご存知の方がいたら検索のヒントだけでも
教えていただけませんか?
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/09(日) 17:32:59 ID:2KWhLzUA0
李克用の墓誌関連の本を読んでて、つまらんことに「へぇ〜」。
「昭烈皇帝」といえば、誰を連想するかといえば、三国蜀漢の劉備。
くらいしか知らなかったわけだけど、これがもう一人いた。
李克用のおじいさんで、沙陀磧から代州へとやってきた、朱邪執儀(執宜)が
後唐になってから追諡されたのが、「昭烈皇帝」。廟号は懿祖。
《五代會要》巻一「追諡皇帝」より。
…まぁ、これだけ。ネタないから、あげ兼ということで。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 20:24:15 ID:0w5lqFdN0
>>281 タイトルもどこにあるのかも忘れてしまったけど、
ずっと前に、柴栄視点で、趙匡胤も出て来る短い小説を見かけた気もするけど、
それのことかな?
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 19:32:26 ID:QPbM7mwU0
最近サボっててネタをつくってないなぁ。
またまた三国志に絡めて、目を引きそうな小ネタを。
晋王・李克用の編成する一部隊に、義児軍というのがある。
李存進はもと姓名を孫重進といい、李克用の入関(黄巣討伐)に従い
李克用の義児たちで編成された義児軍の軍使とされ、ここで李姓を受け
李存進と改名した。
その後の晋王軍受難のときも、局地的に軍功をかさねていった。
李存勗がたつと、あの柏郷の戦いにも従軍しており、また魏博において
銀槍効節都の騒乱では、沈着果断の態度で臨み、蕃漢馬歩軍福総管に抜擢された。
ちなみに、この頃の蕃漢馬歩軍総管は周徳威だと思う。周徳威が胡柳陂の戦いで戦死
すると、李存審がなったってことで、その頃は、総管も副総管も、日本語読みでは
「りそんしん」という… まぁどうでもいいですね。
楊劉鎮の戦いから胡柳陂の戦いと主要な合戦には従軍し、問題の天佑16年(919)
蕃漢馬歩副総管兼振武節度使(朔州)となった李存進は、王師をもって徳勝渡に拠り
また、汴梁軍も対岸上流の楊村渡に布陣し、洛陽から竹や木材を運び、浮橋を作ろうとしていた。
晋軍は船で渡河を試みるが、黄河の流れが荒く難渋しそうだった。
李存進は敵と同じく、浮橋をかけようと動いた。そのとき軍吏が言った。
「河に橋をかけるとなると、膨大な材木が必要でしょう。このあたりには材料がありません
浮橋をかけるのは無理と思われますが」
「まぁ見ていろ。成算があるから、かならず成してみせる」と、李存進。
李存進は木材ではなく、岸に生える葦を編み、大船数十艘をこれでつなぎ
さらに土山を作って巨木を植えたて、それにくくりつけた。
最初、軍中では「なにをやってんだ?」と笑っていたが、一月ほどで見事、橋が完成し
その綿密な計画と、実行力に人々は皆、敬服したという。
晋王・李存勗は酒を奉じて「存進、お前は我が杜預だ!」と誉めそやしたのだった。
…しかしながら、この戦いでは対岸に渡らせてもらえず、李存審と徳勝の防備に充てられたという…
「りそんしん」コンビというわけだ。
李存進はその後、鎮州(趙)において起こった張文礼(王徳明)の乱で戦死した李嗣昭にかわって
討伐軍を指揮したが、敵の計略にかかって重囲を受けて戦死した。
余談ながら、この鎮州の乱では、李存勗の宿将が相次いで戦死させられた黒歴史な戦い。
最終的には李存審が乱を平らげたけど、これのせいで梁軍にとどめを刺す南下が遅れた
といってもいい。
…三国志に絡めたって、杜預のとこだけだったな。
久しぶりに覗きに来たけど
ここの主(?)は元気そうでなによりだ。
286 :
【836円】 【ぴょん吉】 :2008/01/01(火) 11:34:47 ID:ZTmRyiRa0
>>285 この板とスレがあるかぎり、やっていくと思われ。
なにせ、ライフワーク(おおげさ)と合致しているもんで。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 11:35:50 ID:ZTmRyiRa0
ぴょん吉かよ…
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/04(金) 15:13:03 ID:uHgMN7JY0
あまり力になれないけど、頑張ってくれw
中国語サイト見るのはしんどいし、
ここに書かれていること、かなり参考になるよ。
感謝している。
>>288 ネットの情報は9割がたが嘘。
できるだけいろいろ調べてやってくつもりだけど、まぁお気をつけて。
さて。
他所さまのスレでは「細かい戦いも上げようぜ!」なんてことを言ったものの…
自分が上げられる細かい戦いは、ここオンリーだということを失念していた。
というわけで、細かいヤツを。別に名将とかないですが。
五代は後晋期。
石敬瑭の起義に呼応した代北の人、安重栄は勇武なことから、鎮州成徳軍という
大藩を任された。
しかし内には野心を秘め、動乱に乗じてさらに高みを狙っていた。
そのうえで、契丹は使える。後晋朝と契丹とを手切れさせ、さらに自分が契丹の後援を
受けて後晋を打倒すれば、「もしかして、おれさまが皇帝?」ということになる。
しかしどうあっても、石敬瑭は契丹と事を構えようとしなかった(当たり前)。
だが、チャンスはきた。
後晋が起ってから、魏州という京師の北の要衝で権臣・范延光が叛旗を翻し、孟州にて呼応した
張従賓が洛陽を落として汜水関に迫り、掎角の構えを取るという
後晋朝いきなりの危機のときは動かなかった安重栄が、このたび襄州(襄陽)にて
叛意を公にした安従進(似たような名前だが)と気脈を通じ、ついに治下である鎮州にて
挙兵に至った。
鎮州にて召募した軍兵は2万人以上に及び、それを率いて魏州を目指した。
高祖・石敬瑭はただちに討伐軍を編成し、これを防がすため派遣した。
討伐軍の大将は、女婿の杜重威。副将は馬全節。
両軍ははたして、宗城県の西南において遭遇した。
(つづく)
(つづき)
後晋の天福6年(941)冬12月。
叛将・安重栄は、即座に偃月陣をもって臨み、対し王師を率いる官将・杜重威は
敵陣を突き崩すべく、再三にわたって攻撃をしかけた。
しかし安重栄の堅陣は秩序を保ち、崩れを見せる気配はなかった。
敵軍の不動さに恐れを感じた杜重威は、ここまでと思い、兵を退こうとした。
しかし杜重威の部下である王重胤が「兵家において退却は忌むところです。
それがしの見るところ、敵軍の精鋭はほぼ中軍に集中しています。
そこで、公には兵を分けて、敵陣の左右両翼をそれぞれ攻撃していただきたい。
その上で、それがしは麾下の精鋭・契丹直をもって、敵の中央を衝きます。
さすれば、いかな堅陣であろうとも、狼狽すること疑いありません!」
と、進言した(「契丹直」とは契丹からの逃亡兵によって編成された部隊)。
その言を容れた杜重威は、言われたとおりに軍を動かし、また王重胤も
安重栄軍の中軍を攻撃した。
三方からの攻撃により、怯んだ安重栄はやや後退させた。
しかし事態は安重栄にとって最悪の展開を迎えることになった。
軍をわずかに後退させたことで、戦況不利とみた排陳使の趙彦之が
旗幟を巻いて、官軍側に投降してしまったのだった。
安重栄はもともと趙彦之とは顔見知りの間柄で、安重栄が鎮州節度使となると
彼みずから馳せ参じたので厚遇していたが、内心では趙彦之をきらっており
挙兵のおり、あまり高い地位に彼を置かなかったことから、恨みを買っていた。
そのことがあって、敵前離反を招いたのだった。
趙彦之の背信に怒りを覚えるものの、一気に情勢不利となった安重栄は
輜重隊に紛れ、宗城県に撤退した。
好機とみた杜重威はすぐさま追撃に移り、15000人からの損害を与え、さらに宗城に迫った。
折からの厳冬によって、敗残の安重栄軍は凍死する者も多く、まともに戦える状態ではなかった。
さらに、深州刺史の史虔武が官軍に降り、宗城県も潰えた。
鎮州に奔る安重栄。
鎮州においては郡民をことごとく城内に収容し、それぞれ防備に当たらせ、官軍の到来を待った。
やがて王師は至るが、安重栄の部将の一人が寝返って、門を開いて官軍を招じ入れてしまった。
城内に乱入した杜重威は、城内の農民もろとも斬殺し、手柄を誇ってはばからなかった。
安重栄は牙城に身を隠したが、すぐに発見されてしまい、捕まって首を切られたのだった。
こうして安重栄の乱は終った。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/09(水) 00:11:22 ID:RAGETQlC0
さて、安重栄を除いた後晋朝は、かわりの鎮州節度使に杜重威を用いた。
鎮州城内での派手な殺戮は、杜重威の人となりをうかがわせるが、
この男は、鎮州節度使となったあとの方が、さらにひどい。
後晋の天福8年(943)は、蝗害のひどい年だった。
特に、鎮州と定州はその害が著しかった。
後晋朝はそれを考慮し、この地域からは糧秣の徴発はしないことにしていたが
鎮州節度使となっていた杜重威は、軍糧の不足を理由に、常と変らぬ徴発をし
百万石を集めたが、朝廷には三十万石と報告して、残りは着服した。
さらに、餞民に貸すとして、さらに徴発し、それを今度は法外の高値で売りさばき
その財をすべて我が物とした。
民衆のうち、十軒に九軒が生活を破壊されたという。
同じ条件下の定州では、このとき、安重栄討伐の副将を務めた馬全節が節度使として
赴任していたが、あるとき側近に節度使たるもの杜重威のようにし、財力を増すのが
よろしい、とすすめられたところ、一喝した。
「いまは蝗害に皆がやられ、食料に困っているときだ。自分の職は民を養うにある」
このように隣鎮でありながら、対極の二人だった。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 22:58:11 ID:zL0sRflh0
叛将・安重栄と王師を率いる杜重威が戦った、宗城西南の戦いの後、
洺州(めいしゅう)の州兵卒で解暉という男が、州師から壮士100人ほどを募って、
夜間、安重栄側の砦を襲い、これを陥とした。
そのとき、飛び来る矢をもろともせず、あるいは頬をかすめても、
顔色も変えずに剛胆さをみせつけた。
その功績をもって、州師から本軍(王師)の列校とされた。
後周がたって早々、北漢帝・劉崇が攻めてきたとき、枢密使・王峻(王峻は柴栄の才能を
高く評価していたがゆえ、彼の還京を阻んでいた。柴栄はこのとき節度使として開封にはいない)
の指揮下にあり30人ばかりの死を恐れない壮士を集め、契丹の帳に直接乗り入れ、暴れまわった。
また、柴栄の征淮南にも部署を率いて黄州を攻め取った(本隊とは逆の方面)。
趙匡胤が立ってからも、政戦には従軍した。
上党の挙兵の際、獲られた澤州攻略、湖南征討、その直後、岳州に拠った黄従志と船いくさになり
黄従志およびその将校14人を捕らえ、俘斬千余人、溺死者多数という戦果を挙げる。
太祖・太宗の北漢遠征に従い、ようやく北漢が平らぐと、太宗から北漢の宮女3人を賜ったという。
(3人。中途半端な数だよな… どうせよというのか!想像にお任せします)
淳化2年(991)卒。享年は80歳。
よくよく見たら、北漢が併呑されたの、西暦979年だな。
解暉はそのとき、68歳?
これで、宮女をいただくとは… 絶倫?
これだけ命知らずな戦い方をしていながら享年80歳とは、すごい
68歳で現役でも不思議は無いw
>>292 杜重威って貪欲・残酷そのくせ戦は下手とまったくいいとこがないんだけど、無能な君主
ならいざしらず、石敬瑭ともあろうものがいったいどこを見込んで重用したんだろう?
この時代にこんな取り柄の無い人物も珍しいような・・・。奥さん(石敬瑭の妹)が
やり手だったのかな?
杜重威が石敬瑭の妹を嫁にもらう経緯はどうかわからんけど
たぶん、後唐明宗の側廻りで成長したから、石敬瑭あたりとは
古くから面識があったんでしょう。
奥さんが長公主だからか、禁軍大将を任され、汜水関で張従賓を
敗死させるなどと、まぁそれなりの手柄はあげているのだが…
概して石敬瑭は甘いんだと思う。
杜重威に限らず、范延光や安重栄、さらには楊光遠といった、はねっ返りを
罰することなく、かえって篤く用いたり、万事顔色を伺っていたような対応をしている。
そのせいで、范延光など3人からは軽んじられ、謀叛を起こされている。
石敬瑭が、これは、と思って大鎮を与えた相手に。
人を見る目がないのかもしれない。
そうなってくると、劉知遠や桑維翰は単なる例外でしかないのか…
杜重威はいくさに臨み、敵がちょっと手ごわいと、すぐ弱気になり
そこを部下に尻を叩かれて、ようやく勝つということが、記録上2度見られる。
一度目は上の王重胤の進言。
二度目は、また今度詳しくやろうと思うけど、対契丹戦のとき。
その時は、全軍の総大将だったから、麾下に李守貞、張彦澤、薬元福、符彦卿、皇甫遇と
当時では最高クラスの戦将を配備していたのだけれど。
そういう手柄をことごとく自分のものとして上奏するのが、コヤツだから
人を見る目がないとすれば、それで騙されたか…
>>294 日本でも、毛利元就の末っ子は確か70代になってから生まれたはずだから、
どこでも元気な人は、とことん元気なんだろうw
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 15:01:06 ID:fNrc0iT/0
皇帝がたくさんいたから、
五代“群龍”伝だな。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 23:16:15 ID:kFWGwYxd0
さて、マイナーな戦いをまた。
>>290の安重栄と安従進は似たような名前でもあり、似たような反骨精神というか
反逆のこころを持って南北で同調していた。
挙兵に及んだ顛末は、安重栄がやたら不穏な動きを、おおぴらにするもんだから
石敬瑭もたまりかねて、魏州は鄴都に出向き、安重栄に文句を言った
というあたりから始まる。
皇帝が都を離れた隙を狙って、襄州の安従進は兵を挙げた。
それが、天福6年(941)11月のこと。
これに対し後晋は西京(洛陽)留守の高行周を南面行営都部署に充て、討伐軍の総大将とし
さらに前の同州節度使・宋彦筠を副将とし、宣徽南院使・張従恩を監護とした。
11月27日、南面軍(討伐軍)の武徳使・焦継勲と先鋒指揮使・郭金海らが唐州の南、
湖陽付近で、鄧州を抜けず転進していた安従進軍1万余人と遭遇した。
焦継勲は伏兵を置き、安従進軍に急襲をしかけた。
焦継勲に従っていた先鋒右廂都監・陳思譲は唐州花山の下で、
驚いて浮き足だった安従進軍を叩き、敵の牙内都指揮使・安洪義、鮑洪など50余人を擒え、
山南東道への橋頭堡を得た。
大敗を喫した安従進は数十騎のみで襄陽に逃げ帰った。
そして12月、安従進が弟である安従貴に兵千人を与え、均州刺史の蔡行遇に援軍を請うため向った
と知った焦継勲は、直接指揮下の部隊だけでこれを追い、敵軍700人を殺し安従貴を擒えた。
焦継勲は安従貴の片腕を切り落とし、そのまま放して城に帰させた。
この13日、鎮州で叛した安重栄ともども、官爵が剥奪された。その同じ日、
南面軍の総大将たる高行周は、ついに大軍を襄州城下にまで到達させ、これを囲んだ。
絶望した安従進が自ら焼死したので、残っていた2千ほどの叛軍は降った。
(同じ日の未明には、北面軍が宗城南西において安重栄軍を破っている)
同じような時期に挙兵して同じような時期に鎮圧された、同じような名前のふたり。
北と南の同時挙兵。世が世なら、かなりヤバイ状況だったろうと思う。
北面の杜重威はやや遅れて月をまたいでしまったけど、安重栄のほうが総兵力では多かったのだな。
南面の高行周はこの時期では有数の名将なんだが、この討伐戦では焦継勲にほとんど
もっていかれてしまっている。
対契丹戦で威力を発揮した人なんだけどね、本来は。
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/19(土) 23:19:37 ID:kFWGwYxd0
↑
>>対契丹戦で威力を発揮した人なんだけどね、本来は。
対契丹戦で威力を発揮"する″人なんだけどね、本来は。
契丹戦はまだだっつうの。
《舊五代史》晋書列傳十三の巻末で、薛居正が「史臣曰く」に書いてる。
帝王の尊さは天命のものであり、それは韓信、彭越の勇、呉濞、淮南の勢いといえども
なお妄想でしかなかった。
いわんや、二安(安重栄と安従進)のごとき凡庸な輩が、相援け乱を為したとて、
自ら滅亡の道をとるのも、当然である。
ははは。辛口だねぇ。
漢文の勉強のためにwikipediaに書き込みながら五代史とかの簡単なところ翻訳してみてるんだけど。
新五代史卷十四の李克讓の項で、
「(李克用が段文楚を殺し、李克讓が長安から脱出した)明年(879年),太祖(李克用)複歸唐,克讓還宿衛京師。」
って書いてあるんだが、李克用が唐に復帰したのは長安が占領された後の881年だよね。
李克讓は黄巣が長安を占領する混乱で死んでしまったと書いてあるし…
中国の掲示板に李克用への招撫政策があり、一度逃げた李克讓も戻ってきた、っていう文章があったんだが。
そんな話しあるの?
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/30(水) 09:48:04 ID:6c2kXQxB0
>>303 李克譲については、今初めて調べてみたけど… これはどうだろ。
《新五代史》と《舊五代史》を見ると、
李克用が唐への復帰を果した後、宿衛として長安にもどり潼関の守備についたけど、黄巣に敗れた…
《舊五代史》では李克用が李克譲に謝罪させて戻している。
となってますね。
ところで、この段文楚が殺された時期が、実はあいまいということがわかりました。
《舊唐書》懿宗紀では、咸通14年(873)正月に
「殺害段文楚,推國昌小男克用主領兵權」(段文楚を捕らえたのは咸通13年12月のこと)
《新唐書》僖宗紀では、乾符5年(878)2月に
「雲中守捉使李克用殺大同軍防禦使段文楚」
ここでワロスことに、欧陽史こと《新五代史》は荘宗紀での当該記述は《舊唐書》に拠り
(お前は新唐書も編纂したんと違うんかい!だからきっと名前だけだな。沙陀伝の記述もバラバラだし)
《資治通鑑》は《新唐書》に拠った記述を残しています。
で、これが《舊唐書》準拠であれば、乾符5年に李克用を大同軍節度使としているので(舊五代史武皇紀)
その間(つまりこのときの明年というのが、単に翌年ではないとか)か、その時に李克譲を帰したか。
それにしても、弟を長安に帰しておいて、アニキはのうのうと反逆行為に走っているんだからな…
この辺まだ手付かずだから、詳しい人を待とうか。
>>304 なるほど…最初に見た乾符五年(878年)ってのだけ頭にあった。
中国の掲示板に「即位した僖宗が招撫政策した」って書いてあって少しおかしいなぁと思ったんだが、懿宗の時に事件が起こりその後即位した僖宗が招撫政策をしたってことか。
舊五代史唐書の武帝紀では乾符三年(876年)に事件がおき、乾符五年(878年)に黄巣が長江を渡ってきて、その時李克用を大同軍節度使にしてるね。
873年、876年、878年とそれぞれバラバラだな。
ありがとう。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/30(水) 19:50:38 ID:6c2kXQxB0
ザルな調べで申し訳ないことです。
《舊唐書》による段文楚殺害は、咸通13年(872)12月のことでした。翌年正月は間違い。
>>招撫政策
《舊唐書》僖宗本紀の改元して乾符元年(874)11月のところに、
「以宣慰沙陀六州部落」
とあり、たぶん改元に伴う大赦で、沙陀を慰撫するような制があるんですが。
それのことだろうか?
あと、李克用が大同節度使とされたのは、これは《舊五代史》が、乾符5年(878)のこととしており、
《新五代史》では「大同防御使」であって節度使ではない。
さらに《新唐書》では李克用ではなく、李国昌(パパ)が「大同防御使」。
そして、《資治通鑑》では李国昌が「大同節度使」と…
あのなぁ…
これは《舊五代史考異》からですが、どうもわけわからんみたいです。
しかし、段文楚を殺して雲州にて自立したのを乾符3年(876)とすると、
乾符元年11月の制が、李克譲の記事との整合性がなくなりますね。
さて、その《舊五代史考異》巻二唐書第二十六宗室伝上の李克譲の項に
唐僖宗が蜀へ逃げる以前より、李克用は昭雪(無罪を主張)していないのに
なぜまた李克譲を宿衛に入れ、さらに潼関を守るようになったのか。といったようなことがあり
「これってもしかして、斉克譲と間違えてるんじゃね?」
とあります。
原文:僖宗幸蜀以前,武皇未嘗昭雪,克譲無由復入宿衛,出守潼関(中略)
今考《新唐書・黄巣伝》,巣攻潼関,斉克譲以其軍戦関外,時士飢甚,潜焼克譲営,克譲走入関。
疑当時因斉克譲之名与李克譲同,遂致伝聞輾転失実耳。
こうなってくると、他の兄弟が殺されながらも(李克恭(馮覇に殺された李克恭ではない?)と李克倹)
囲みを破って李克譲が逃げ出したのはいいとして、その後のことがごっそりなくなってしまいますね。
仏僧に殺されたのは、じゃあ誰なんだ。李克譲とすればいつなんだ。
ということに… あうあう…
ところで、五代時代の資料としては、わけがわからなくなると《資治通鑑》に拠るといいです。
《資治通鑑》では李克譲は孟知祥(後蜀高祖)の妻の父という記述だけ(だと思う)だけどw
またなんか気がついたら…
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 21:56:12 ID:k8sSvxUy0
さて、ひさしぶりに。
>>236-237で蜀将を書いたけど、それをさらに補足する。
何重建という人で、この人は契丹が中原を支配したおり、その招安の使者を斬って捨て
蜀に帰順したひと。
性格は謹厚丁寧。後晋朝ではわずか2年あまりの間に、五つの藩鎮を歴任するという
偉能なのか、朝廷の人事がクソなのか、よくわからぬ人。
戦将としては、対契丹戦で黄河の防衛の要衝である楊劉鎮を守り、また東南面の大将として
兗州の守備についた。
後晋軍が総力をもって契丹の鋭鋒を退けた後は、契丹に奪われていた州の節度使となったが
やはり数年を経ずして各藩鎮をたらいまわし。
やがて落ち着いた秦州では、ついに後晋が契丹のために潰えてしまう。
契丹からの誘いを蹴って、後蜀に帰順した何重建は、隣州である階州と成州を切り取り
それをもって、帰参の手土産とした。
そのあと、秦州と梁州(漢中)を結ぶ地点の鳳州および固鎮を攻めるべく兵を借り、これを平らげた。
(後蜀後主本紀では、何重建は勝つことができず、蜀将の孫漢韶がこれを抜いたとされる)
何重建はそのまま秦州を任された。
やがて後漢が起ち、不安になった長安の趙匡賛は、鳳翔の侯益と謀って、後蜀に帰順しようとした。
後蜀の広政10年(947)12月、後主孟昶は、梁州節度使の張虔釗を北面行営招討安撫使とし、
何重建をその副使とし、宣徽使の韓保貞を都虞候とし、5万の兵をもって三秦平定の兵を挙げた。
張虔釗と韓保貞は大散関に出、何重建は隴右より出て、鳳翔の侯益の救援と岐地を伺う。
また、李廷珪は兵2万を領して子午谷より出て、長安(雍州)の援軍とその方面を伺う。
それぞれの軍容はすこぶる勢威であった。
これを知った新後漢皇帝の劉知遠は、客省使の王景崇に禁軍数千を与えて倍道兼行させ
て岐地へと向わせた。
その間、高祖(劉知遠)は趙匡賛を帰順させるよう使者を往来させており、王景崇が迫るに及んで、
趙匡賛は雍州を離れて開封に上洛した。
翌、広政11年(948)正月、そのとき子午谷を進み雍州に至った李廷珪は、すでに趙匡賛
は漢に帰順したことを知ると、軍を返そうとして、王景崇の邀撃に遭い子午谷において大敗した。
また宝鶏(陳倉)に至った張虔釗は諸将と軍議を開くが、協議が長引き兵を抑えて
進まなかった。
鳳翔の侯益は趙匡賛がすでに漢に投じているのを知り、また蜀将の李廷珪が敗れて軍を
返したことを聞き、城門を閉ざして後蜀軍を拒んだ。
張虔釗は敵地に孤軍となり、退却を始めたが、漢将の王景崇が
鳳翔、隴、邠、涇、鄜、坊などの兵を併せて追撃してきたので、
大散関において敗北を喫した。虜にされた将兵は400名に及んだ。
この憤りがあって、張虔釗は漢中においてまもなく死去してしまう。
(蜀軍を破った王景崇も、この年6月、河中の李守貞に同調して後漢に叛旗を翻し、後蜀
に帰順することになる)
何重建はその後特に功績なく、69才にして世を去った。
>>307 もともと秦州、鳳州、成州、階州は前蜀期では、その領土となっていたので
後蜀も、その地は欲しく北伐の機会を狙っていたようです。
奇しくも何重建の来朝で、それが叶ったわけですが、後年、後周の世宗も
「いや、そこは我が朝の領土だ。返せ!」
と言って、力づくでむしりとっていった、ちょっと因縁のある地方です。
李克用の親父の李国昌、この人物はウイグルの崩壊にも一枚噛んでるんだけど、それが840年
ごろのことで死んだのが887年だから随分長生きしたように感じる。といっても年齢が分からん
のだけど。
息子や孫に比べりゃ地味だが河西に侵入した吐蕃相手に奮戦して敵に恐れられたり
龐の乱の討伐で敵に突っ込んで危うくなりながらもこれを打ち破るところは、やはり李克用
李存勗はこの人物の血を引いているんだなと思わせる。
あとどうでもいいけど李国昌より朱邪赤心のほうが凶悪で似合ってる気がするんだが
当時の人間もそう思っていたんだろうか。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 10:55:45 ID:6r6pmHsH0
異民族の野蛮人だから、ぴったりの名前だ、みたいな思いだったんじゃないの
沙陀は勇猛をもってなる部族で、最初ウイグルについていたけど、吐蕃がビシュバリクを攻めるとき
に吐蕃につくも、すぐ疑われて居心地が悪くなって、いままでさんざん戦っていた唐に帰順することに
なり、唐領につくまでの追撃戦で沙陀の長が戦死してしまったから、朱邪氏が後を継ぐようになった。
本来の沙陀氏系列はここで途絶え、もともと突厥の阿史那氏に仕えていた有力者の朱邪氏が
沙陀部衆を率いるようになった、という。
朱邪氏の沙陀が、突厥バリの戦っぷりというのは、そういう血統にもあるのかも。
さすがに、この朱邪執宜の代のことは、上記のようなことくらいしかわからないけど
河東節度使管下にあった朱邪赤心に、わざわざ援軍依頼してくるところ(オルド=バリク攻め)
その勇猛さはすでに当然のように認知されていたのかも。
大した記録はないが、朱邪執宜も孫や曾孫に負けず劣らずだったに違いない。
>>310 元の名だから、相手を軽んじるときは、そうやって呼び捨てる場合もある。
王彦章が李存勗のことを「亜子」(これは幼名だけど…)と呼び捨て、
李嗣源を「邈佶烈」と呼び捨てたり。。。
…これじゃあ、ただ単に王彦章が尊大で嫌なヤツってだけに取られかねないな。
新唐書沙陀伝には柳公綽の「沙陀はもともとウイグル、六胡州にとって恐怖
のまとであるから云々」という奏上がのってるくらいなので、吐蕃に従っていた
ころにウイグルと戦って相当活躍したんじゃないかと思われる。
朱邪執宜はそれを買われて北方の防衛に配置され、それ以外にも何度か反乱鎮圧に
投入されているけど兵力が少なかったからかそれともたいした活躍は無かったのか
資治通鑑にはまったく出てこない。なんか上司だった李光顔などに完全に隠れて
しまってるような。
しかし唐代の中国には沙陀のほかにも突厥、ウイグル、ソグド、党項、契丹とかなりの
異民族がいたはずだが唐末の混乱期にほとんど名前が出てこないのは何故だろう。ウイグル
なんか中国に入ってきてから黄巣の乱まで40年ちょっとしかたってないのに。上の異民族が
全部集団を維持していれば五胡十六国の再現になったんじゃないかと思うが残念ながら(?)
そうはならなかった。
>>309で朱邪赤心という名前が凶悪だって書いたけど、よく考えてみれば朱邪はともかく
赤心は凶悪でもなんでもない・・・。むしろ「朱」と「赤」を重ねていて洒落ている
気もするが、名づけたのは執宜かな?漢文の読み書きできたんだろうか。
>>312 沙陀については、その流入は五胡なみの大事件なはずだけど、そんなことよりも
唐宋変革の方が歴史家にとっては、より重要ということで、深い研究は少ないとか。
それに、欧陽脩もいろいろ混乱しているようですしね… やっぱ記録の散逸がひどかったのかな。
本来、赤心ってまごころとか忠誠心とか、そういうのでしょ。
沙陀を率いていた沙陀尽忠も、忠を尽くす… なんか嫌味に聞こえる。
音を当ててるだけなんでしょうかね、これ。
後周世宗たる柴栄の輔弼は、彼が澶州節度使時代から付き合いのあった
王朴が第一にあげられるけどこの人は、柴栄の留守を預かる役割が主であったように思う。
戦略に優れ理論構築が他の追随を許さず、節度使ら武人でさえ恐れて遠慮する人だったから
都に残しておくのは当然だったろう。
では、戦場で柴栄を輔弼したのは誰か。
ここに、郭威以来の魏仁浦という文人があげられる。
魏仁浦は幼いときに父を失い母との極貧生活を送っていた。服すら借金せずば着られないというほどの。
13歳のときひとり立ちを志し、一路洛陽に向かったが、黄河の流れがその道を阻む。
魏仁浦は母が手ずから作ってくれた服を黄河に沈め
「栄達しなければ、ふたたびこの河を越えず」
と言って、黄河を渡って行ったという(もしや全裸で…?んなわきゃない)。
契丹が華北を蹂躙し、反発したゲリラやレジスタンスらの対処に手を焼き、もういいやとばかりに
統治を投げ捨て北帰したとき、枢密院の下級官吏となっていた魏仁浦までも、契丹王に従って
上京へと連行されることとなってしまった。
しかし帰路、契丹王は逝去し、鎮州にて異変あり(鎮州でクーデターを起こしたのは、馮道と後
柴栄治下で勇名を馳せる李筠が主体となってのものだった)
その隙に逃げ出せた魏仁浦は、魏州に辿り着いたものの、そこの節度使・杜重威は後晋の
女婿でありながら、あっさり契丹に寝返ったような男だったので、これを頼るにおよばず
現在、ゲリラやレジスタンスが希望の星としている、劉知遠のもとに走ったのだった。
杜重威はこれを追いかけさせ、なんとしても幕下に迎えようとしたが叶わなかった。
その頃劉知遠はちょうど兵を挙げて太原を発していた。目標はとりあえず洛陽、次い開封
の回復であるのは言うまでもない。
魏仁浦はその道中に行き会い、即時旧職に復された。
郭威は契丹から身一つで逃げ出してきたこの剛胆な男を見込んで、親しく敵の内情について
審問したという。
そのときの彼の言葉は詳細にして正確。契丹の還軍の兵数はわずかに6万ばかりと聞いた郭威は
「天下のこと憂うにたらず、だな」と喜んだという。それからは郭威のお気に入りとなった。
やがて柴栄が即位し、枢密副使の高位に置かれる。その職責は皇帝の親征に随従することだった。
即位早々の北漢軍の進撃に対して、柴栄は親征をもって早期にケリをつけようとした。
馮道の慎重論をはねつけ、禁軍を自ら率いて北進する。
沢州高平で両軍の激突は開始されたが、禁軍右軍将軍が敵前逃亡をはかり、後周軍は崩壊の憂き目
にさらされた。柴栄は魏仁浦を顧みた。
「陛下が西より出でて、自ら死戦するより逆転の道はありません!」
皇帝に陣頭指揮せよと、臣下が進言したのである。
柴栄はそれこそ望むところとばかりに、親衛軍を率いて激戦の渦中に乗り出した。
その偉挙は趙匡胤、張永徳の奮戦とあいまって、劣勢を跳ね除け、ついに勝利したのだった。
戦後、魏仁浦はますます信頼をあつくされ、ついに枢密使に上った。
その後、後周による征淮南にも従軍し、つねに皇帝の傍にあり、少なからず貢献した。
北伐のおり、病を得た柴栄は還京して、後顧の憂いを除くために人事の入れ替えをするとき
魏仁浦を宰相に据えようとした。しかし他の重臣が、魏仁浦はたかが枢密院の下級官吏の
出で、科挙を受け合格したわけでもないから、そのような者を宰相にすることはできない
と言った。しかし柴栄は
「古来より宰相を用いるは才をもってなし、科挙出身かは関係ない」
と言い、反論を封じ、息子たる柴宗訓の輔弼宰相として据えたのだった。
魏仁浦は生来寛厚な人で、士大夫に対して礼を失したことがなく、怨には徳で報いた人だった。
柴栄がわずかな罪でも厳罰をもって刑に処した官吏を、その責任で救済したり
淮南で得た多数の捕虜にも寛大な処置を与えるよう上言しており、それがために
むやみに殺す者はいなくなったという。
柴栄にとって、なくてはならないブレーキのひとつだったように思う。
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/20(木) 20:18:38 ID:zQKPc29Y0
魏仁浦は宋代に入って趙匡胤からも信任を受け、太原攻略の方図などを諮問されている。
あいかわらず皇帝親征には従軍した魏仁浦だったが、太祖による太原遠征のとき
病を得て、都へ帰される途上で亡くなった。59歳だった。
侍中が贈られただけで、諡などはなかったようだ。
>>314、315
面白いエピソードを読ませていただきありがとうございます。
自分はこの時代の人物にはあまり詳しくないのですが、この魏仁浦という人は
異民族の知識を持って主に仕えた辺りは衛青と、苛烈な主のブレーキ役としては
耶律楚材を連想させるような印象を持ちました。
あと
>王朴が第一にあげられるけどこの人は、柴栄の留守を預かる役割が主であったように思う。
>戦略に優れ理論構築が他の追随を許さず、節度使ら武人でさえ恐れて遠慮する人だったから
>都に残しておくのは当然だったろう。
この王朴という人はどんな人だったのでしょうか?
この文章を見るとなかなかに凄い人物のようですが
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 20:26:56 ID:QqwEHtfy0
どっかで書いたような気もするが、重複してもいいでしょう。
王朴はあざなを文伯といって、東平の人。
子供のときからかなりの切れっぷりをみせており、後漢のときに進士に受かり官界入りした。
後漢の時は、枢密使の楊邠の門下として置かれており、出世コースに乗っていたようだった。
しかし後漢二代目隠帝のとき、先代に仕えた大臣たちの影響力が大きくなり
その相互不和と、漢室との軋轢が生じた。
王朴はそれを非常に危ういことと察し、遠くない将来の危難を慮り、郷里に帰ることにした。
いくばくもしないうちに、李業の乱が起き、諸大臣三名が同時に殺される事態となった。
楊邠の食客たちは、ことごとくその乱の犠牲者となったが、ただ王朴のみが
その禍を逃れていたのだった。
後周がたって、柴栄が澶州節度使として、かつて郭威が鎮した北辺の事後を任せられると
その補佐として、王朴が記室として赴任してきた。
郭威のわが子への贈り物だったように思う。
柴栄の栄達に伴い、その職責を補佐していった。
王朴は神気勁峻、剛決有断であり、それは柴栄の好みにぴったりだった。
つまり、高平から太原親征を経て、開封城の発展を起案し、強化されつつある皇帝権力を
背景に、分裂した中国をまとめあげる意思が明確になったおり、柴栄は近臣を集めて
方針会議を開いたことがあった。
柴栄の意思は積極性を失わない、攻めの戦略にあるけど、招かれた20名ほどの大臣の大半は
文治内政に勤め、外征のことは議論にあげようとしなかったうえ、その方策は抽象的にすぎた。
4名ほどが、南唐への攻撃を提案した。
王朴も、南唐への出兵を提案した一人だったが、柴栄の気を引いたのは、いたずらに主戦論を
唱えたからではなく、その方策が具体性をもって説明されたからだった。
曰く、
「財政を豊かにするに無駄を省き、国家負担の軽減も視野にいれ、人民の生活安定を第一とし
辺境国の人心をわが国にひきつけ、その中から敵情に詳しいものを間諜となし、地理に明るい
者を出兵の案内役として用いるべし。
南唐とはその国境線が非常に長いから、防備の手薄なところを衝いて、西に、東にと攻撃を
しかければ、敵を奔命に疲れさせ国力の弱化を促すことができます。
まず揚子江以北の地を手中に収め、わが国の政治を行えば、以南の攻略も容易となります。
そののち、南漢を、そして西南の蜀を併呑し南を安んじれば、燕雲の人民も風を望んで
わが国に降ることになるでしょう。ただ北漢だけは必死に抵抗するから、力押ししかないものの
高平以来、積極性を欠いた北漢は、すぐにはわが国を脅かすことはないでしょう」
と、いったものだった。
高平以来、柴栄は急速な軍制改革をなしており、また逃戸対策と、これから発布する銅器供出に
より、早い段階での軍事費の捻出が可能になる見通しがついていた。
王朴のこの意見は、後、北宋が天下経略にもちいた「先南後北」策の下敷きとなるもので、およそ
現状にあった現実的な方略だった。
ただ、柴栄はへそ曲がりなので、その言葉どおりに事を進めることはしなかった。
南唐にあたるに、後蜀から手をつけたのだった。
南唐戦に関しては、王朴の進言通り、敵情を詳しく探り、淮河防備の虚をついて一気に渡河し、
敵の迎撃態勢が整う前に、揚州まで電撃作戦を開始したが、これは南唐の必死の抵抗と
長雨により失敗した。
あしかけ3年にわたり淮南で大会戦を繰り広げ、その地を手中にすると、南唐は後周に臣従を
余儀なくされた。荊南、湖南、呉越はすで後周と誼を通じていたので、王朴の言うとおり
残すは南漢と後蜀だけだが、南漢もついに入朝し、敵対するを潔しとしないところまでなった。
その後は後蜀なり南唐なりのとどめ、だったはずが、へそ曲がりの柴栄は燕雲に牙を剥いた。
しかし、王朴はその直前に死去してしまう。
柴栄は非常に驚き、急いでその屋敷に向かい、柩の前でしばし哭いた。
まだ45歳だったという。
そして北伐へと。
王朴の言うように、柴栄が向かった州は、まさしく風を望んで下り、一矢も損なわずに(大げさ)
瀛・莫二州を得、幽州を目前にして、今度は柴栄が病に倒れることとなった。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 20:27:44 ID:QqwEHtfy0
補足。
南唐への仕置きは、王朴の言うほど簡単には進まず、また収まらなかったが、時には手を変え
賦役を免じたりするのは、提案の最初の項にあることだったので、これによって徐々に
豊かな淮南の地が、後周の国力として還元されていくのだけど、
世はやがて宋の成立を向かえることとなり、あとは周知のとおり。
北漢だけは最後まで頑強に抵抗していたのは、さすがの見通しどうり、と言うべきか。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/27(木) 17:04:00 ID:RuQSq8z+0
五代時代の五徳終始説。
唐の土徳から宋の火徳になる間、金、水、木と三つしかないのに五代とはいかに?
宋が火徳であるのは、後周が木徳であることによる。
では、後漢は水徳で、後晋は金徳ということになり、後唐は土徳。
後唐の李氏は、その姓と家系図上、唐の鄭王・李元懿(か、李亮?)の傍系に組み込まれてますんで
一応、唐からも皇室の一員と認められていたんで、後唐の成立すなわち唐の中興ということ。
なので、徳の交代はここでは起きていない。
つまり、後梁朱氏はなかったことにされてます。
《冊府元亀》では十国なみの扱いであるとか(可哀想に)。
だから、唐=後唐で土徳を継ぎ、後晋→後漢→後周→宋で、一巡できるという寸法。
(『中国の歴史』07より)
当たり前だけど、遼は勘定にはいってないですよね。
しかし後唐は実は三姓による皇統だから、それぞれ国号が変わっていたら、また違った
ことになっていたのだろう。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 19:54:44 ID:TB5orMPV0
とあるサイトで『残唐五代史演義伝』の連載が終了しました。
おかげさまで、ひとつ知識を増やすことができたわけで。
それにしてもさすが「演義」。
随所に超展開が張り巡らされているとは…
結構楽しかった。ついでに正史との相違などもちゃちゃいれてみました。
早稲田大学出版部の『宋史軍談』も、この「演義」の影響なのか、それに似た展開が多く
後世にいろいろ名残を残しているのかな、とかふと思いました。
しかしやはり『三国演義』の構成のよさには負けますし、適当さが目立ちます。
いかに『三国演義』が類を見ない良作か、といったところです。
五代史関連では、『五代軍談』というのもあって、こっちは概ね正史、つうかツガン沿い?
五代知らないと、読んでてもすぐ飽きがきそうです。
『夕陽の梨−五代英雄伝』って小説、面白い?
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/29(火) 21:07:50 ID:/+uOnMXX0
まぁまぁ面白いよ。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 09:20:41 ID:rPjonKKG0
>>322 ありがと。早速、読んでみた。
朱全忠主役といっても、ホウクンの乱、黄巣の乱における彼の若き日々が書かれているんだね
この時代は谷恒生のものが地雷だったから、ちょっと不安だったが。
(岡本古好の「登竜門」はまあまあだった)
感想は、まあまあというか、結構面白いね。
あのやたらと正史で読むと長く、位置がつかみにくく、いささか盛り上がりに欠ける
黄巣の乱をうまくまとめて、朱温の出世話に絡めている。
この間のエピソードは、ほとんどが創作なんだろうけど、あまり違和感を感じなかった。
つい、朱全忠が好きになってしまいそうだ(^^;)
今までの唐末五代の小説の中では出色の出来じゃない?
>>岡本古好の「登竜門」はまあまあだった
へぇ、岡本さんも書いてたんだね。それは知らなかった。
どんな内容なんですか? ざっと検索してみても、ちょっとわからなくて。
>>朱全忠が好きになってしまいそうだ
そうですよね。朱温の努力と根性の物語という感じで…
しかしながら自分は朱温を好きでないので、評価が辛いのかもしれんwww
梁太祖本紀を見ても、朱珍や龐師古、張存敬とかの列伝見ても、
いわゆる黄巣の乱に参加していた頃って、書いてないんですよね。
だいたいざっと見るに、宣武節度使となってからが主で。
だから、そこに視点をあてた作者はすごいと思えます。
しかもそれで荒唐無稽では決してないというところも。
朱存(にいちゃん)が死ぬのは広州攻めのときで、高駢の追撃を受けたときではないんですが
時間的には非常に近いわけで。
まとまってていいんですが、自分の持つ朱温のダークイメージが崩されていくぅ…
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/03(土) 17:10:14 ID:rPjonKKG0
>>324 >へぇ、岡本さんも書いてたんだね。それは知らなかった。
古好ではなく、好古だったね。ここにレビューあるよ
ttp://furong.mabinogion.net/books/toryuumon.html 黄巣が主役じゃなくて、唐末の科挙がメイン。でも、朱温も少しだけでている。
アマゾンのマーケットプレイスなら手に入るんじゃない?
仁木英之氏は前から五代を書きたかったみたいだね。
その小説を書くのが目標と言っていたし。
売れ行き次第では、続編もあると思うので、大いに期待だな
朱温の黄巣軍脱退、李克用との戦い、唐王朝滅亡。楽しみだ
しかし、あの朱邪赤心の先鋒を率いていた若い騎兵。あれが、李克用と考えていいのかな?
>>アマゾンのマーケットプレイス
よくみたら古い本でしたね。そりゃちょっと探したくらいじゃヒットせんか…
情報さんくす。
>>あれが、李克用
以外の単なる名もない兵士だなどと、考えたくないです。
そういう想像に幅を持たせているのも、ちょっと憎いと感じたところでもあります。
自分なら絶対、李克用と書いてしまいますから。
久しぶりに面白い小説だった
史実的なつっこみもいくつかあるけど、自分的には言わない方針で
(ちなみに、自分は李克用よりは朱温の方が好き)
そういえば、五代は小前亮の「飛竜伝」も立ち読みだったが、地雷に近そうだった。
あれだったら、ネタ本の一つと思われる「宋史軍談」の方が面白くないか?
「宋史軍談」は通俗二十一史では(もちろん、「三国志演義」をのぞいては)
一番面白いと思う。
女を平気で切り殺し、焼き殺す趙匡胤の豪快さはある意味、水滸伝以上
楊業VS趙匡胤のドリームマッチもあるし
『宋史軍談』はただいま読書中。
感想、というか解説、というかほとんど引用をブログに書いてますが…
やっぱ読みにくい。進まないw さらに今忙しい!
こほん。
史実的なつっこみは、陰険にならなければかなりオッケーだと思う。
攻撃性をもってしまうと、読むほうも負のイメージが強くなるから、
するにしても、まぁほどほどかな。
とはいえ、おもしろおかしくつっこむのが、関西人の本領でしょう(誰だよお前w)。
ああ。あの人ね・・
良かったじゃん。地道な布教活動がやっと、少し芽を見始めて。
『英雄十三傑』も普通にツタヤで注文して見れるし。
(あの解説サイト、笑いながら見たのは何年前だったけ・・)
しかし、安史の乱がしまりのない終わり方をしたせいで、
腐りきった宦官に支配された唐と、脳みそ全てが筋肉と欲望でつまりきった藩鎮の間で
(指揮官同士が)レベルの低い綱引きがだらだらと続いた唐の歴史も
裘甫の乱から俄然と面白くなってくるね
裘甫・龐の乱は水滸伝のifに近いものがあるし、
政府と反乱軍の駆け引き、そして、名将と反乱軍の戦術的な争いで、
講談調で「資治通鑑」を読んで純粋に楽しめる。
劉暀とか周重とかああいう軍師は、普通に講談小説にでてきそう。
でも、黄巣の乱は面白くないというか、あまり人の顔が見えてこないんだよね
朱温がなにをやっていたか、全く不明だし
黄巣の腹心も尚譲ぐらいしか思いつかない。
黄巣って参謀にあたる人とかいたのかな?
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 02:33:59 ID:5YRUZATb0
オレはこの時代では黄巣はイメージ沸く方だな
新唐書や新五代史は読みやすいけど、概して人物像が沸かない
特に藩鎮軍閥系の武将は史書の描写が似たりよったりで初心者にはハードル高い
一方晋書なんかは内容はいい加減なんだが、その分キャラはつかみ易かった
上の方で人物紹介してくれてるマニアのヒトは尊敬するなあ
>>329 布教活動の先駆者は自分ではないんで、うれしい反面、
(自分などで)いいのかなとか思う次第。
たしかに、最近「五代」絡みの話題が多く、有頂天にさせてくれていますので
ありがたいことです。
しかし正体を知っているならご存知と思いますが、自分は五代史は後半に重点を置き
実のところ、残唐〜五代初期はあまり詳しくないのです。
なもんで、黄巣の乱といっても、わかるのは李克用出陣でボロ雑巾にされた、というあたり。
>>330 話半分で読んでくださいね。
どこでどういう地雷を仕込んでいるか、自分でも気づいていませんから…
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 12:59:49 ID:5YRUZATb0
>>329 [脳みそ全てが筋肉と欲望でつまりきった藩鎮]
実際、このあたりって史書の記述通りなのかな?
といっても検証の仕様なんてないかもしれんが…
>>332 欧陽脩はとかく筆誅が厳しいですが、節度使の収奪がほとんど通例化してたことは
大きな可能性をもっていたと思えますね。
『夕陽の梨』でも言及されていましたが、短期間での任地交代は
節度使の地との結びつきを掣肘する一方で、任期内での容赦のない取立てを助長して
いるわけです。その心理は、「任期が終われば、その土地がどうなっても知ったこっちゃない」
という、とても人間らしい個人的な発想からおきていると思い、だから可能性が高いと。
脳みそ筋肉は、筆を軽くみていることでおおよそ伺えますね。
史弘肇と王章とのやりとりが、そのピークでしょう。
だからといって、収奪する節度使ばかりというわけではなかったようです。
特に何事も書かれていない人らはそれに類するかどうか、かなりグレーですが…
五代って大規模な民衆反乱ってなかったのかな?
黄巣のようなのが天下取りに加わっていたら、面白かったような
黄巣のような民衆ばかりの反乱軍じゃないけど
官軍から黄巣に寝返り、黄巣敗死のあと引き継いだ形になって
河南を荒らし皇帝を名乗った、秦宗権の系列では
やがて楚を建てた馬殷がいますわな。もと大工さんの。
しかし淮南にしろ浙江にしろ、この辺はもともと黄巣の乱に
対抗した勢力が地に根付いたから、民衆反乱が起きにくい状況に
なっていたのかな。
散発する民衆の抵抗ならあるけど、黄巣のようなカリスマは出てこない。
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 21:54:29 ID:ZzaNxa4J0
>>333 なるほど、解説どうも。
農民から絞って、身内の兵士に気前良くバラ撒くという
イメージで一般的にはOKなわけですな
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 22:33:18 ID:lFtqTmKm0
>>336 逆もあるよ。
岐王・李茂貞の子の李従曮は、民からの収奪を抑える一方で
兵士らを冷遇したため、反乱を起こされている。
どないせっちゅうねん、という事例のひとつ。
兵士に金ばらまかないと、そうなるから兵士への俸給を名目に
収奪を強め、ついでにポッケにないないするのが、まっとうな節度使w
>>337 現代でもみられる既得権益化した半暴力集団(一応、官のものなはずだが)が、
一方的なわがままでごねまくり、不当な報酬をもらうという構図だな
一個人、特定の一族のことなら、一代限りになることが多いが、階層的な問題になってくる
とやっかい。宋の行き過ぎと思える武軽視はここから来ていると思う。
住民からの大きな自発的反乱もないし、収奪を行わない皇帝や節度使は少ないと
五代の暗さはここから来ていると思う。
そういう意味で、まともな五代皇帝って、郭京と柴栄だけかな?
正直、李嗣源も微妙だ。そのまともな節度使の一人、って感じがする
石敬瑭の代から、まともな方向を向きだしたと見れるんだろうけど。
石敬瑭のときには、最初ということもあって、武人の反発が尋常でなかった
危機的反乱なら、郭威も建国早々にやばい反乱にあっているけど、後晋の場合は
大節度使が続々と反乱したからすさまじい。
そういう内向きの暴力が、契丹の破壊という外力のおかげで、変質していったように思う。
郭威〜柴栄の代になって、ようやく民衆の使役の一方での課税の適正化とか刑法の
整備とか、北宋につながる確かなものができたわけで、明るい方向になっていく。
まぁ、その柴栄も、そういう過程でいっとき民衆を敵に回し、白甲軍なんていう抵抗運動を
生んでしまったのだけど。
本紀の記録を信じるなら、安撫策によって再び民衆の心を掴んだようだけど、民力の使役
のしかたは、なかなかに中華皇帝というにふさわしい(悪い意味で)。
それでも表立った民衆による反乱が起きていないのは、国そのものが再生へとちからを
傾けていっていたからだろうか。
柴栄の役人に対する厳格さは、あるいは民衆の溜飲がさがるところだったかも?
この時代は大規模な民衆反乱がほとんど無いから、節度使にとっての正解は民衆を犠牲にして
その分軍隊を優遇することになる。実際、軍隊の反逆で倒された節度使や皇帝はいくらでも
いるけど民衆の反乱でその地位を追われた人物はあんまりおらんわけで・・・。
脳みそ筋肉節度使の筆頭ともいえる李克用支配下の山西なんか
”克用親軍皆沙陀雑虜、喜侵暴良民、河東甚苦之”
という有様で、なんでこんな奴等に20年以上も支配されて反乱が起きないのか
不思議でならん。李克用本人は一応「これじゃいかん」とは思っていたようだけど。
山西から興った中原政権=河南軍閥も、皇帝とはいっても
しょせん節度使たちを纏める大節度使でしかないから、まともに
統治できてたのかよ、という疑問は常につきまとうw
民衆に視点をおくなら、山西組(やくざか)に天運があるとはどうしてもみれない。
後晋のときなんか、勢力範囲内で餓死者続出というのに、よくまぁ二度も
契丹と渡り合えたものだ。
山西で産した鉄の質がよくて、装備が敵を上回っていたから、というのもあるらしいけど。
そういえば、貿易で荒稼ぎした李嗣昭の奥さん楊氏も、民衆からすれば、とんでもない
銭ババァだったんだろうか??
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 15:09:13 ID:d59Z+ZvZ0
ところで李克用とその配下のサダ部族って
家に住んでたのかオルドに住んでたのかってわかりますか?
一般論で言うと5〜13世紀ぐらいの長城線内に移住した
遊牧民の住居形態について知りたいんですが
>>342 それは知らないな。
オルドちうか、ゲルのことだよね?
移ってきたばかりのときは、葜苾や吐渾なども同じようなところに置かれて
混在、雑居もしてたろうし、放牧してたから、ゲル暮らしだったと思うけど。
…沙陀伝あたりにでも… むむむ。持ってないからネットで見るしかない。
なんかわかったら教えてください。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 22:21:06 ID:d59Z+ZvZ0
いや、ちょっとスレ違いになっちゃいますけど
北魏末の破六韓抜陵、万俟醜奴、侯莫陳悦なんて人名を見てると
とても家屋に住んでいるとは思えないような名前だったもので
山西にはけっこうこういう人たちがいますよね
山西つうか代北? 唐末のこの時代なら朔州とか雲州とかあたりかな。
雁門関より北あたりは、放牧に適した土地があったそうな。
朱全忠てけっこう評価分かれるよね?
個人的には乱世の英雄だと思うんだけど
>>340 やはりそれなりの政治は行ってたんじゃないかなあ。
梅島竜泉亭さんは何かあったんですか?
403が出て見れないんだけど。
>>348 移転してますよ。
名前も変わってます。
澄心書院さんです。
>>340 まあそこらへんは割り引いてもいいと思う。
なにせ政権握ってたのは軍人とか異民族だから、悪く書き立てられたというのもあると思う。
第一、そんなに収奪ばかりしてたら、すぐ民衆の反乱が起きるでしょ。
反乱が起きなかったってことは、やはりそれなりの統治はしてたと思うよ。
李克用や朱温の良い面を信じたい。
李克用の面白エピソードのひとつに、こういうのもある。
燕地方の幽州節度使、劉仁恭の将佐に高思継というのがいる(演義でいい役のひと)。
高思継には兄と弟がいて、兄弟三人で燕軍を分掌していた。
高兄弟の掌握する兵は、山北の豪傑で多く構成されていて、節度使の劉仁恭でも
いろいろはばかられるところがあった。
ある戦いで李克用が燕と兵を併せるため、一将を遣わしたのだけど
戦い終わって、その将が帰り際、「高先鋒兄弟の勢いは州府を脅かすほどです。
いずれ燕にとっての災いとなるでしょう」などと吹き込んだ。
一方で、晋から派遣された兵らは、燕の地でほしいままに横暴に振舞っていた。
高思継ら兄弟は、正しく法に則って(燕に法?笑)、多くを断罪した。
李克用はひどくお怒りになって、劉仁恭に詰め寄り、ついに高兄弟を殺害させて
しまった。
劉仁恭は高兄弟の子らを憐れみ慰め(笑)、自らの帳下に置いた。
成人していた高行珪は牙将として抜擢し、10歳だった高行周は側仕えとした。
まんまと高兄弟の強兵を手に入れた劉仁恭なわけだけど、単細胞な李克用を
彼が利用したのか、それとも李克用のあるいは反間の計だったのか
つまびらかではない。
だが結局、燕は李存勗によって滅ぼされ、高思継の子らは晋王府軍に転籍
することになる。
高行周はこののちに活躍する五代を代表する名将で、契丹を恐れさせた双璧のひとり。
とある講談では、耶律徳光と一騎討ちするさままで演出されたりとか。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/22(火) 22:38:18 ID:wDAjktGR0
なんか閑散としているので、ちょっとデータを。
世界歴史大系 中国史3
によるところの、十国が併呑されたときの州とか戸数。
前蜀 64州 249県 戸数記載なし。
後蜀 45州 198県 戸数53万4309(後周に秦・鳳・成・階の北方州は取られていた)
南唐 19州3軍 180県 戸数65万5060(江北十四州は後周にry)
呉越 13州 86県 戸数55万680
南漢 60州 214県 戸数17万263
荊南 ?
げに恐ろしきは、南唐と呉越。南漢に比して、州に対する戸数がすごい。
人口は生産力に還元できると安直に考えると、江北十四州を失っていても
北宋が併呑するのに、多少なりとも手を焼いたのも無理からぬこと。
それより、前蜀・後蜀の滅びっぷりが良すぎるとさえ。
呉越の場合は福州も取っているから、領土的に狭くても、南唐の真横で
存立できるだけの条件はあった、ということか…
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/23(水) 23:00:26 ID:KyNE57V50
中原なんかは特に戦乱が激しかったから、
国が把握している戸数はかなり減っていただろうねえ
後唐後晋後漢後周と、統一王朝の名前で逆順に続いてるように見えるけど
これはたまたまなのかな
じゃあ、次は殷だな。親の名前に含まれてるから別の字で。
その次は、夏だな。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/28(月) 08:29:54 ID:P1D9v2Sc0
>>354-355 そういう、懐古的な国号で権威付けを狙ったっていうのが有力。
ちなみに、北宋は殷にしたかったけど、諱になっているので別を探すと
都合のいいことに、太祖が即位前に任じられていた帰徳軍は
古代宋の地で、殷の遺民の地だったから、国号を殷とせずに
すんだってわけ。
そういや、宋は殷だったか
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/03(日) 00:52:39 ID:T/sWxb7N0
後晋期に、主催者発表にて「陳慶之の勇名も憚り、孫武の戦術を得」ると持ち上げられた
宋彦筠なる人物は、奇功を立てることを求め、小校のときは敵陣を発見するごとに
兜のうえに大きくふたつのもとどりを掲げた。そのことから軍中では「宋忙児」と呼ばれた
そうな。
それ以後、上位の将軍でさえ、彼のことをそのあだ名で呼んだとかどうとか。
んで、戦功。
後唐が建って禁軍の一部隊の領将として抜擢され、伐蜀戦に従軍する。
後唐VS前蜀の戦いは、名目上の総大将、魏王・李継岌と、実質上の司令官・郭崇韜の
指揮のもと、洛陽を発してよりわずか70日で決着がついた。
成都が陥落するという決着でだ。
そのとき、前蜀軍を相手に、戦場で常勝した将軍が、後梁からの降将で、康延孝という
名将なんだけど、その軍勢のさらに前鋒に配備されたのが、宋忙児の隊だった。
ただ、伐蜀戦は、成都入城後まもなく進駐軍内で異変が起きて、郭崇韜は誅殺されるわ
疑心を抱いた康延孝は叛するわで、三国末期の蜀平定戦後を髣髴とさせた。
ここで、宋彦筠はどうやって本国に帰国するようになったのかわからない。
防御使以上の役職につくようになるのは、後晋に入ってからで、それ以前の詳細は
よくわからない。
叛した康延孝は、魏王・李継岌の派遣した工部尚書・任圜の戦術にはまって敗北している
から、宋彦筠も加担していたら、反乱軍として処分されていただろうし。
で、その後晋期、襄州節度使の安従進の乱平定の功によって、節度使入りしている。
ただし、安従進の乱のおりは、副将としてであって、実際の戦場で武勲を立てたのは
焦継勲という人物。
つまり何が言いたいかというと、陳慶之の名前を出してくるほどの人物ではない。
戦場での勇姿などは、常人ではありえなかったようだけど、対比するほどでもねぇ。
柴栄の顕徳4年に卒したそうで、その日の柴栄は朝議を一日軽くみただけとしたそうな。
歴戦の武将に礼を失さないよう配慮したようです。
ちなみに馮道のときは三日みなかったそうです。
なんともモヤモヤとした話ですな
もしかすると
> ここで、宋彦筠はどうやって本国に帰国するようになったのかわからない。
この部分に、知られざるドラマが存在したのでしょうか。
>>359 全然推敲せずに適当に書いてしまったから…(汗
宋彦筠(その他も)をベタ誉めしているのは、後晋少帝で
第二回目の契丹南進のとき、その迎撃軍を編成したときなんですよ。
だから、士気の鼓舞も含めて、大いによいしょしているわけですが
それにしても、陳慶之や孫武をひきあいにするほど、インパクトがあるかといえば
ないようにしか見えなかったという…
知られざるドラマがあるとすれば、西蜀の乱のときか…
蜀に駐屯したのか、魏王に従って(途中からは任圜)本国へと帰国したのか
それによって、随分話は変わってきますからね。
しかしこういう人物はわからないだけに、小説などの題材にはしやすそう…
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/10(日) 23:14:05 ID:anTYIZJy0
五代十国時代は分裂期なので、地に根付いた政権というのが、方々に立っていて
どれが正統で、どれが生き残るか、というのはにわかに判断できない時代というのは
今更言うまでもないこと。
そういう世情であれば、仕える政権を転々とする者も多くなる。
この時代にも、そういう人物は多い。
その中で、ひとり、盧文進という者に多少興味を惹かれた。
盧文進、あざなは大用。幽州の人で、最初は燕帝・劉守光の騎将として始まった。
燕が滅ぶと晋に組み入れられ、契丹の攻撃があると契丹に配属され
後唐明宗のときに帰属したが、後晋がたつと今度は呉に亡命した。
呉はその年の暮れほどに、南唐に取って代わられたので、配属先は南唐になる。
身の丈七尺で、状貌偉然。偉丈夫ということなんですが、杉さまが結構評価されている
武将なわけです。
晋王李存勗に仕えたときは、李存勗の弟で新州団練使、山後八軍を統べる李存矩の
麾下に配属されたけど、盧文進の娘が幼いわりに美女で、それを李存矩が側室にと
所望したので、内心かなりくやしがっていたとか。
なので、919年、耶律阿保機の山後経略に呼応するような形で、謀叛を起し、李存矩を
斬って契丹に投降してしまったのです。
実はこの事件は、同盟を結んでいた晋-契丹の全面戦争を呼び込む事件となり
契丹は盧文進を先導として、山後の地を攻略し、幽州に迫った。
30万と号した契丹軍に、李存勗は幽州の周徳威に命じ、近隣の州師を併せ
迎撃させたが、野戦で大敗し、周徳威は幽州城に篭るしかなかった。
なにせこのとき、李存勗主力軍は南面して後梁と戦っていたので、十分な戦力を
北に割けなかったのです。
契丹の幽州攻略は結果として失敗しました。
幽州を重要視した李嗣源と李存審、閻宝らが南面している部隊を割いて救援にむかい
数百騎による李嗣源の敵中央突破と、李存審の野戦築城からなる斉射の嵐で
契丹軍を粉砕したからでした。
幽州攻略はできなかったものの、盧文進を起用して長城以南である山後の地経略
を行い、後年燕雲十六州として割譲される地のほとんどを攻略し、その地の民衆を
契丹側へと移住させ、半焦土とせしめたのでした。
功績があり、契丹の公主を娶ったものの、明宗(李嗣源)のときには数万をもって帰順
してきました。その後は後唐朝で安州節度使となるも、契丹の助力を得た後晋が立つ
に及んで、問責されると思ったか、政情不安定な呉に亡命しました。
ときに、呉睿宗は斉王である徐知誥の傀儡に近かった。徐知誥は盧文進の来降を
喜び、厚く遇しました。
盧文進は北方の虎臣で、みな名将であると称えたそうな。
(盧文進だけじゃなく、あとにも南唐に降る李金全ともどもだけど)
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 23:47:47 ID:v52gAmv20
天福2年4月、華北を制して開封に遷った石敬瑭は
わざわざ王彦章に太師を贈る制を発している。
「千年の精気をうけ、百代に令名を伝える」として、その人物に
えらく感銘を受けているようす。
後唐VS後梁の末期の合戦で、楊劉鎮での奮戦が石敬瑭の
脳裏に焼きついていたのか…
猛将で名将で、なにより義臣というのが、今更に贈官した動機なのだろうか。
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/10(水) 00:16:34 ID:ZeDvOUx30
《宋史》から、後周軍団に関係のある(あって当たり前だけど、より濃い関連)
武将の列伝さらっていたが…
北宋期、例の「杯酒して兵権を解く」のとき、殿前軍都指揮使の地位にあった
王審gという者の列伝を軽くなぞってみた。
このとき、殿前都点検は空席で、副都点検が高懐徳、その下の都指揮使に
王審gがいたわけで、北宋建国当初でも、かなりの有力将帥なわけで。
しかし、どちらかというと後周軍所属のときのほうが、武勲が顕著。
対南唐戦は趙匡胤の活躍に目が捉われがちだけど、趙匡胤が活躍したのは
主に淮南東部。
王審gは舒州、黄州など西部に派遣されていた。
舒州は守りが堅くなかなか落ちないところ、せっかちな柴栄はすでに新たな舒州刺史を
任命し、その赴任を完遂させるべく王審gと司超に精騎を領させ、舒州攻略を同時に命じた。
一夕にして陥落させると、新刺史を入城させた。そのとき得た軍需物資が数十万を数えたとか。
そのまま舒州を新刺史に任せ、黄州に長駆し、これを確保。
しかし舒州の軍士が、新刺史を追い出したので、すぐに反転。
軽騎のみで夜、奇襲をかけて再び陥とす。 柴栄もこれには喜んだそうな。
翌年の南唐軍主力を相手にした紫金山の戦いでは、真っ先に突撃を慣行して流れ矢に
当たってしまうほどの奮戦だった。
この戦いは、柴栄も甲冑を着込み陣頭指揮を執っていたので、将兵の指揮は半端なかった。
しかも、柴栄は紫金山で南唐軍を撃破し、その残敵の逃走経路を、巧みに誘導したのか
後周領内に追い込んで覆滅するという、容赦ない殲滅戦を披露してくれている。
さらに翌年、楚州城の攻防で、王審gはあらかじめ敵兵の逃走路を想定して伏兵を配置し
逃げ出す敵を討って、数千ほど斬って、5千ほど捕らえた。
ただ、これはもしかすると城内にいた民も含まれていると思うので、名誉なことではない。
しかしここでの命令は一人たりとも逃がすな、だったから命令には忠実ではあるけど。
この楚州屠城は、柴栄が唯一、自ら命じた虐殺だった。
この後も、瓦橋関の戦いにも従軍しているので、後周軍内でも指折りの驍将といえると思う。
北宋になって、兵権を返すと地方藩鎮で実に8年の長きにわたって仁政を敷き
趙匡胤が開いた射撃大会でも連発して的に当てたりと、なかなか平和に暮らし
50歳のとき、突然の病で声を失い、心配した趙匡胤に見取られ死去した。
後半は趙匡胤が主でないと、ありえないほどの平和さなんだが…
とはいえ、柴栄にもそういう余裕がなかったか、といえばそうでもなく、彼も思惑は
ともかく、射撃大会とかはやっているんだよね。
> せっかちな柴栄はすでに新たな舒州刺史を任命し
笑ってしまったw
柴栄も趙匡胤も、その個性が十二分に滲み出る列伝ですな
主役を半ば食ってしまうくらいにw
>>363 なんか、短編に仕立てたら面白くなりそうな人物だね。
彼を軸にして、柴栄と趙匡胤の多角的な比較ができそう。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/10(水) 20:50:18 ID:ZeDvOUx30
なんか気合いれて《宋史》から列伝拾って、後周の家臣団選抜しようとしてるけど
参加しようと思っているスレ
ttp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1220976421/ は、いまいち喰らい付きが悪いのォ!
まぁ、データベースにはなるから無駄ではないけど。
それにしても後周は惜しくも全国規模とはならなかっただけに、韓信、李靖クラスの
名将がいないことが残念。
後周が長期政権化すれば、趙匡胤がそのポジなんだろうけど、それを言っても仕方がない。
五代北朝の傾向として後周も漏れず、攻撃型の驍将が多いのが、結構な強みか…
さて、今回は…
李継勲という武将。
この人は魏州の人で、後漢時代、郭威が魏府につめていたとき、その幕下に入ったことにより
後周とのつながりができ、柴栄が即位したとき、侍衛親軍の歩軍都指揮使となる。
第一次淮南攻略のとき、堅守する寿州城の南側からの攻撃を担当したが…
まぁ、この寿州包囲は柴栄の直接指揮でも陥とせなかった、非常に堅い城だったわけで
思いのほか長帯陣となり、また雨季の到来で、南唐軍が活性化しだした。
一旦、柴栄が都帰りした後も、寿州の攻囲は続き、むろん李継勲も相変わらず南を担当
していた。
しかし、長帯陣に倦んだ李継勲は自陣の警備を怠っており(たぶん、敵襲などないと安心
していた)、そこを寿州を守る劉仁贍に衝かれ、死者数万、雲梯などの攻城兵器、陣屋など
多くが焼かれるという大失態。
十万規模での包囲だったから、まさか敵が撃って出てくるとは思わなかったのだろう。
都の柴栄からお呼びがかかり、召還されることに…
その後で、柴栄の再度の親征があり、紫金山で大いに南唐軍を覆滅し、寿州城を投降
させてしまったので、李継勲には立つ瀬はない。
名誉挽回。再び起用された李継勲は、柴栄の直接指揮下の将として一軍を統率。
揚州(江都)を抜いた柴栄は、揚子江を見渡す迎鑾江に拠った。
そこには南唐の、おそらく最後であろう機動戦力である水軍、数十艘が集結していた。
柴栄は趙匡胤と李継勲に命じて黒龍船30艘をもってこれに当たらせた。
李継勲は奮戦して、数百の捕虜と2艘の戦艦を拿捕した。が…
趙匡胤はさらに追撃して、揚子江南岸に至り、南唐軍の陣営まで乗り込み
暴れまわり、焼き尽くして帰っていったという、歩く災厄を地でいった。
名将というか、こんな中段の将帥もいるって話なんですが。
それにしても、やはり趙匡胤。違うなぁ。
李継勲はその後も北宋の重鎮として活躍し、曹彬などとも組んで、契丹との
6万対6万のガチンコにも勝利するという、優秀な将。
地方藩鎮を歴任し、善政というわけではなかったけど、実直さが称えられた。
趙匡胤とは付き合いがあり、特に寵遇されたとか。
>>364 柴栄もちょっと受け取り方をかえれば、非常にユニークなヤツになりますね。
それが実像、というのとは別にしてもね。
>>365 春秋戦国時代と一緒で短編化はしやすいと思いますよ。
不落の寿州を演出した劉仁贍などは、書いてみたい気になったことはあった…
さて、お次は…
あんまり書きたくないけど、一応。
韓通をぶっ殺してくれた、王彦昇をひとつ。
王彦章ではなく、王彦昇ね。
この時代、似たような名前が多くて困る。
王彦昇、あざなは光烈。名前はかっこいいんだな。
その性格は残忍。撃剣の使い手で、人呼んで「王剣児」。
もともと蜀の人で、後唐による伐蜀後、洛陽に転居した。蜀の王氏か…
最初は後唐明宗期、宦官にして驃騎大将軍の孟漢瓊に仕えた。
孟漢瓊は聡明な人物で、秦王・李従栄の反乱を防ぐなど、功のある人だったが
潞王・李従珂(後唐末帝)の起義に際し、閔帝を見捨てて寝返ろうとしたが
李従珂によって殺されたしまった人(李従珂には誼があったけど、殺された)。
後晋時代は内殿直で、後晋少帝期の契丹南下に際し、勇士募集に応じて参加。
魏州を囲む契丹軍を突破して、魏州に刺史に詔を届ける任務を帯び、見事に果たした。
これで護聖軍の将となる。護聖軍とは禁軍侍衛親軍のいくつかある部隊のひとつ。
後周初期では、向訓に従い北漢と戦い、敵将の王璋を敵陣において斬り捨てる。
結構な個人武勇ですな…
ちなみに、向訓は時間があれば後日に。
柴栄の淮南戦では、劉崇進や宋偓という将に従い、南唐の水寨のひとつを抜き
閻承旺と范横などを捕える(名前とか書いてもあんま意味ないかも)。
次には、李重進に従い南唐の支軍と戦い、2千の首級を挙げる。一人で、ではないだろう。
さらに今度は、契丹への備えとして急遽派遣された張永徳に従い、瀛州を攻め
東城を下した。
と、李重進と張永徳もまた後日に。
並み居るビッグネームの麾下で転戦した、豪傑って感じの人ですわな。
陳橋の変に際し、いち早く開封に戻った王彦昇は、異変を知り任地に立ち戻って
対応しようとした韓通と出くわし、自分の判断で殺してしまった。
それを知った趙匡胤は王彦昇の勝手を責めたものの、建国の初めということもあって
罪には問わなかった。
しかし趙匡胤は、その一件をもって、王彦昇には節鉞(節度使の任)を与えることは
ついにしなかった。
韓通を殺した悪人という位置づけ?
まぁ、匹夫の勇ではあろうけど、その突破力はなかなかのもの。
性格が悪いので、扱いにも苦労するという、問題児な感じか。
王姓の割合が多くなってきたが、本日は王溥という人を
珍しく文官。
王溥はあざなを斉物。もと并州(河東)の人で、後漢時代に科挙から官界入りしました。
後漢時代の、河中、京兆、鳳翔の、いわゆる三藩の乱のとき、枢密副使・郭威に召され
この討伐軍に従軍した。
乱を鎮圧した後、この反乱に加担しようとした他鎮や人の名が記された文書が出てきて
郭威がけしからん、と証拠品としようとしたところ、王溥は「全部焼いて、なかったことに
しなはれ」と諌めたので、陰ながらガクブルしていた人らは安心したという。
王溥はそのまま郭威の下に止まり、魏府への出鎮にも従った。
後周が起つとき、黄旌をもって郭威を決意させた一人。ゆえに、後周朝では抜擢され
左諫議大夫、枢密直学士となる。
郭威は死に際、王溥の手腕を改めて知り、「われに憂いなし」と言って崩御した。
柴栄が践祚すると、北漢が契丹と結んで南征を開始した。
柴栄は自ら禁軍を統率して迎え撃つ意を表明したが、並み居る宰臣は皆反対した。
特に馮道などは柴栄の血管を切れさせるのではないかと思わせるほど、頑強に
反対した。
ただ王溥のみが、柴栄の、というか皇帝の出陣に賛成した。
それがあって柴栄は憂いなく即位早々の都を後にできた。
凱旋後、王溥は礼部尚書を加えられ、国史の監修を務めた。
王溥の《周世宗實録》や《五代會要》、《唐會要》などがその成果となる。
さて、中華統一計画の御前会議を経て、王朴の意見にいきなり逆らって後蜀への攻撃
を決めた柴栄は、大将を誰にするかで王溥の意見を求めた。
王溥は向訓を適任として推薦したので、柴栄はそれに従い、宣徽南院使の向訓を派遣した。
対後蜀最前線は鳳翔節度使の王景で、向訓は王景と組み、後蜀将の李廷珪を大散関を
越え、黄花谷の戦いなどで破り、ついに漢中の西北4州である、秦・鳳・成・階を
切り取ることに成功した(局地的には、王景の実戦指揮によるところが大きいけど)。
ちなみに、韓通も後詰で参陣している。
これを喜んで柴栄は酒を酌み交わしながら王溥に「遠征を成功させたのは、卿が
推薦した将の力量だな」とその慧眼を称えたそうな。
寿春への親征にも従軍し信頼を得ており、寿州の堅牢さに困り果てた最前線から
柴栄の再度の親征を要請する奏上があったとき、王溥もこれに同意して
柴栄に親征を決意させた。それで再び親征して寿州を下し、南唐にくさびを入れることが
できたのだった。
やがて王溥の親戚に不幸があって、都をはなれまた一旦戻ってきたとき、
服喪が終わるまで出仕を控えたいと表を奉ったが柴栄は怒って取り上げず、
宰臣の范質がとりなして上奏を却下したので、王溥も懼れて陳謝した。
なんとなく、両者に溝ができたような、気がしないでもないささやかな一幕。
陳橋の変で、趙匡胤が潘美を遣わして、ことの顛末を王溥らに伝えさせると
同僚の范質は、王溥の手を掴み
「倉卒をして遣わしたのは、我らの誤りであった!」と言った。
その爪が王溥の手に食い込み、血が流れたほどという。
王溥らはしばし声が発せられなかった(痛かったんじゃないかとか…)。
やがて趙匡胤がむせび泣き、「世宗の厚恩を蒙っておきながら、軍士に迫られ
こんなことになってしまった。どうすればいいのかわからない」
などと言うと、羅彦環という禁軍将が剣を抜いて「今我らに主無し、今日すべからく天子を
得るべし!」と脅迫してかかった。
あっけに取られた王溥は、いち早く気を取り直し、最初に階下に降りて趙匡胤を拝謁した。
そうなると、范質もそれに倣うより他になかったので、趙匡胤はこうして皇帝となった。
王溥は寛厚な人となりで、雰囲気や態度は美しいものであったという。
宰相としては状況判断力にそつがなく、また人事の面でも誤りがないところなど
後周の屋台骨のひとつとしては、かなり重要な宰相であったといえるでしょう。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/12(金) 19:55:42 ID:QHEkSKoQ0
北宋建国当初の把握戸数は300万戸(あくまでも課税対象としての戸数)。
一戸平均5人とすれば、1500万人。
>>352 の華南諸勢力併合時の戸数合計がおよそ、200万戸、1000万人ほど。
すると、華北政権は100万戸、500万人ということになる。
この華北の戸数は、南唐の淮南を後周が分捕ったとき。
淮南平定直後の把握戸数は22万戸だったとか(その後北宋仁宗期には5倍になっている)
後周の把握できた人口は400万…? ほんまかいな。
淮南が南唐の領有なら、人口比で負けてますがな。
もう少し、勉強する必要があります。ほんとかどうかわからん。
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/13(土) 16:43:13 ID:cIryiWwF0
ふっふっふ… もはや我がメモ帳と堕したこのスレ。
我が物となれり…
な勢いですが、とりあえず本日は、宋偓という武将をば。
宋偓は洛陽の人で、祖父が唐に仕えていた家系。
父は後唐荘宗(李存勗)の娘を妻にしており、それゆえに宋偓は外孫という
ことになる。さらに、後漢高祖(劉知遠)が北京(太原)に鎮していたおり、その娘を嫁に
するという、山西軍閥内では比類ない貴位、玉の輿な人。
まだあります。その娘は趙匡胤の後妻となるので、女運は非常にいいようですよ…
宋偓個人としては、後漢のときより早くも節度使となり、滑州に鎮しましたが
郭威が魏府で挙兵し、南下を始め滑州に拠ると、これを迎え入れました。
郭威が開封を守護する慕容彦超を撃破すると、後漢隠帝は軍士に背かれ
衛兵は郭威に続々と投降してきた。郭威は宋偓に「卿は近親だから、衛兵を擁して
今上の御営に急ぎ、決して驚いて軽挙せぬよう鎮めよ」と命じた。
宋偓は馬を飛ばして御営にむかったものの、すでに隠帝は辺村で死去していた。
後周初、近親に不幸があって、一時服喪していた。
朝廷に復帰して左監門衛上将軍とされ、柴栄のとき征淮南に従軍した。
宋偓は、趙匡賛、張彦超など禁軍六軍の将帥らと組んで、寿州四面巡検
とされ、寿州攻囲軍に参陣した(巡検だから、攻撃軍ではなく、主に警備担当か)。
その後、右神武統軍(六軍のひとつ)とされ、行営右廂排陳使、廬州城下副都部署
を兼務して、柴栄の御前を固めた。
南唐は揚子江の河口(通州。現在の南通市の洲付近)に船団を展開し、後周と呉越
の連絡を絶った。
これに対して柴栄は、宋偓に戦艦数百艘を領せしめ、慕容延釗には
歩軍を率いさせて、水陸から攻撃を仕掛けさせた。
※同じ頃、迎鑾から出撃した趙匡胤や李継勲は、南唐の主力水軍と揚子江上で
戦いこれを撃砕。南岸に至って、その陣営をひねり潰していた。
東西の水戦に共に勝ち、ゆえに南唐をして立つあたわざる打撃を与え、臣従を強要した。
淮南の平定後、帰還する柴栄は宋偓に水軍3千で、新領土の巡警を命じた。
さて、この征旅のとき、柴栄の輿に虎が追い迫ったことがあった。
親衛として側にいた宋偓は、あわてず弓を引き絞り、一射だけで撃ち斃したとか。
>>370 盛大なる勘違いだったみたい。
北宋建国当初の登録戸数300万戸は、統一に動き出す前の話。
柴栄の末年、959年の春に230万戸という数字がはじき出されている。
人口はおよそ1155万人というところか。
ずいぶん多いような気もするけど、逃戸対策を実施した成果だと思おう。
この頃の南北人口比率は、北に3割5分、南に6割5分という感じだったそうな。
人口も、宋神宗期にはついに1億を越したとか…
北の人口が減ったのではなく、南が増えたというべきなのかな。
ちなみに、兵力だけど、この時期の多くの政権では、主戦力が禁軍となる。
節度使のちからを殺ぐ効果があるから、唐中期からの伝統で禁軍の強化に
意を注いでいるのが普通。
で、後周のときの禁軍は、六軍と侍衛司と殿前司の三柱。
総計で約20万。その配分は不明。
ただ、数的な主戦力は侍衛司になると思う。
禁軍将のうち、有能な将領は節度使も兼務させられ、また地方には
禁軍の一部隊が、節度使などと協力して張り付いたりしているので
禁軍の総勢を、そのまま一方面に投入するようなことはできなかっただろう。
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/25(木) 21:34:08 ID:C+DAKBr50
後周の陣営を書いていくと、どうしても対南唐戦に言及してしまう。
では、その南唐はいいように蹂躙されただけか? となるとそうではないと。
ときの皇帝は李璟。初名は李景通。後周に臣従して李景となったこの人は
烈祖・李昪の長子で、秀でた物腰と態度をもち、文、とくに詩作に秀でていたのは
ご存知のところ。
乱世の皇帝としては、柔和なイメージすらあるものの、二代目としてなら
それほど不安もない、ところ… だと思う。
立太子のとき、ヘンな逸話がある。
烈祖がある昼、夢をみた。黄龍が宮殿の西の主柱より外に飛び出し、やがて中に向っていった。
烈祖は飛び起きて、人に様子を見させ自分も、夢に見た柱のところまで行った。
すると、「おやじ、どうしたのさ?」という感じで柱にもたれかかっている李景通を顧みて
烈祖は突然思い立ったように、立太子したという。
つまり、李景通のもたれかかっていた柱が、黄龍の飛び出して戻っていった柱だったからなのだ。
そういう皇帝のもと、南唐は在地の人材のみならず、北朝からの亡命者などを多く受け入れ
対後周戦のときには、それらを用いたものだった。
北軍の戦い方に対応できるのは、北軍に身を置いた者、という合理性からだろう。
以下、ちょっとさらってみる。
期待しとります。
皇甫暉。
最初、魏州の強軍に身を置き、驍勇無頼で名の通ったコテコテの武人。
節度使をすらも麾下の兵士が思うままに飾り付けるという、五代の弊風を
体現した人。
魏軍の将帥を、意に沿わぬからと言って二人斬り、ついに趙在礼をもって
主と仰ぎ、牙軍を握って略奪の嵐を巻き起こした、とんでもないヤツ。
城中を大掠し、民家に押し入ると、まず姓を聞いた。
民が「国という姓です」と答えると暉は「おれの姓は破国じゃ!」といって殺し
ある民が「万という姓です」というと「おれは万家(万の数の家)を殺すに足るぞ!」
と言って殺しまわった。
明宗がたってから刺史に押し込まれ、後晋が契丹によって潰えると、江南に逃げ出した。
李璟はこれを受け入れて、奉化軍節度使(江州)として用いると、
やがて後周邀撃のため淮南に出陣させた。
邀撃軍の大将、劉彦貞と姚鳳とともに淮南に赴くものの、皇甫暉一人だけは用心深く
後周の軍勢を推し量ろうとした。
劉彦貞は麾下の将佐に謀のある人物を欠き、猪突して李重進に大破されたが
皇甫暉は姚鳳を伴って、滁州城に退き守備を固めた。
柴栄は趙匡胤に手勢をもって滁州を攻略を命じ、本隊から切り離した。
趙匡胤は2000で清流関の隘路を進んでいるところ、偶然、皇甫暉らと出くわし
衆寡敵せず、いっさんに逃げ出した。
麓で逃げ散った兵を再招集かけた後も、皇甫暉と戦っては退き、戦っては退きを
繰り返し、滁州を、どうやって攻めたものかと頭をひねった。
近くの村に趙学究というものがいて、この人が博識なので知恵を借りることにした。
趙学究、すなわち趙普である。
趙学究の指し示した軍略で、趙匡胤は山間の小道より敵軍の後方に回りこみ、
城中に討ち入り、皇甫暉と姚鳳を一気に捕え、滁州城を落としたのだった。
捕えられた皇甫暉は柴栄の前に出て、趙匡胤の武勇を誉め、ちから及ばぬことを
悟り、潔い態度だった。
柴栄はこれを赦したという。
李平。
李平は初名を楊訥といい、舒元とともに崇山道士のもとで勉学に励んだ。
成人してから最初に訪れたのは河中。
ときは後漢隠帝の時代。河中には重鎮、李守貞が強兵を募り、挙兵の準備に
余念がなかった。
客将として幕下に入った楊訥と舒元は、李守貞の依頼で、南唐への援軍要請の
使者となった。
しかし李守貞の謀叛は郭威によって鎮圧され、行き場を失った二人は、そのまま
南唐に仕えることになった。ために名を李平と改めたのだった。
尚書郎として用いられ、数年がたった。ときに後周による淮南侵攻が勃発。
それに乗じて、呉越が常州を攻め取らんと兵を挙げた。
紛糾する朝廷。
後周への邀撃のため、精兵の多くは淮南に配備してしまっていて、残留軍は弱兵しかいない。
李平は軍略を示したものの、自ら将となることは固辞して、淮南の戦いに出ることを望んだ。
(ちなみに、常州への対応は、柴克宏が充てられた。老弱兵をよく統率して、呉越軍を大破
せしめた軍将)
一軍を編制して淮南に上陸した李平。
破竹の勢いで州城を次々と陥落させる後周軍。奪われた蘄州というところを
李平は目指し、すぐさまこれを奪い返したのだった。
蘄州のとなりの州では、趙匡胤が猛威を奮っていたときのこと。
連敗続きの中、めずらしく勝ち星の上がった戦いだった。
その後、雨季の到来とともに再編制された南唐軍は、朱元を前面に押し出して
故地回復に乗り出した。朱元とはつまり舒元のことで、かつての学友同士が
対後周の要になるかにみえた。
しかし朱元は後周に降ってしまった。
朝廷は朱元と学友だった李平も降るのではないかと疑念を生じさせ、彼を召還させた。
自分にはそんな気はなくとも、都にかえれば高い確率で誅殺されるだろう。
進退窮まった李平は、それでも潔白を証明するため、上洛した。
戻ってきた李平を一目見て李璟は大いに驚いたという。
戻ってきたこともそうだが、自らに枷をはめて参内したからだった。
その誠意に感じ入った李璟は、彼を慰撫し節度副使とし、罪には問わなかった。
李平はオカルトマニアなところがあって、その趣味で潘佑という人と懇意になったが
潘佑が李平に大任を与えようとすると、衆議が紛糾し、直諫したため罪を得てしまい
李平は邪教の類と讒訴され、連座する形で獄につながれ終わった。
どうも、自分ひとりの罪だけじゃなく、知人とセットにされることが多いような。
いくぶん、憐れな感じがしますが。
さて、とりあえず書きたかった人をば。
朱元。
もとの名を舒元といい、潁川沈丘の人。幼い時から聡明で記憶力に優れ、
『左伝』に通暁していた秀才。
李平とは旧友で、縁があって二人して南唐に仕えた。
弁がたつので、よく相吏らと論を戦わせていた。
あるとき、南唐としての軍略を披露し、北朝が多難なときに自ら軍旅を催す提議を
するも、群臣の嫉妬を買い遠ざけられてしまった。
がっかりした朱元は李平などと酒を飲んでは問題を起したりもしたが、朝廷は
寛容にもこれを責めはしなかった(南唐朝廷内にも派閥があって、新参者は
身の置き場が狭かったのだろうが、それを汲む人もいないではない、ということだろうか)
後周の淮南侵攻が始まり、寿州では神気を発した劉仁贍が、北朝数十万を相手に
互角の篭城戦を展開したとき、朱元は自ら邀撃軍の統率を願い出た。
喜んだ李璟は、弟である斉王・李景達を総大将にし、朱元を従わせて
淮南へ赴かせることにした。
すでに後周は電撃的に、光、廬、黄、滁、揚、泰州など奪い取り、南唐の停戦和平も蹴った。
李璟は和平帰順派の李徳明を切り伏せ士気を鼓舞し、反撃の軍はなつ。
しかし総大将である斉王・李景達は2万を領して六合に上陸したものの、
趙匡胤の用兵にはまって大潰走してしまった。反撃はこれで頓挫するかに見えたが
柴栄が戦地を離れ、都へ帰った隙を衝いて、再び勢いを盛り返した。
柴栄の後を任された向訓は後蜀と戦って四州を得た良将であるが、雨季の到来と
在地民衆の反抗という悪条件下に苦戦を強いられた。
朱元は再編制した南唐軍を率いて、李平が取り返した蘄州を皮切りに、舒、和
などを取り返し、寿州の救援のため紫金山を目指した。
紫金山は寿州を展望できる山寨で、すでにあった南唐の砦は趙匡胤、張永徳などに
よって、壊滅させられていたが、ここを取り返し陣を敷くことに成功したのだった。
辺鎬、許文縝などの将とともに、この山寨を領し、後周の寿州攻撃軍を率いる
李重進と、揚州に遠征している本軍である向訓とを分断した。
また紫金山と寿州とで、掎角となる構えをとった。
朱元は士卒を大事にし、甘苦を共にし、戦いに臨む前には皆を集めて誓約をした。
そのときの言葉からあふれる感情で自ら涙し、それを見た将兵で闘志を奮わせない
者は一人としていなかったという。
このとき、紫金山に拠った南唐軍5万の兵勢ははなはだ盛んであった。
(つづく)
軍を分断された向訓は、占領地の放棄を決断し、全軍をもって寿州城下に後退させた。
それによって李景達は、奪われた州をことごとく旧に復し、濠州(鍾離)に本営を置いて
初めて寿州で釘付けになっている後周軍と対峙する態勢を得たのだった。
朱元は紫金山に12の砦を設営し、また寿州城へと糧秣の運搬を行うが、後周軍も
それを黙っては見ていなかった。
また寿州駐屯軍に対する後周の補給も、これを撃滅したりで、一進一退が続いた。
その中で、後周軍内に不協和音が生じ、その隙を見て取った劉仁贍は、紫金山との
前後挟撃を進言するも、李景達は取り上げなかった。ために劉仁贍は憤慨して
倒れてしまったのだった。これがきっかけで、やがて寿州は降伏する。
後周内部の不和の次は、南唐軍本部に不和が生じ、こちらは致命的となった。
総大将である李景達は用兵については経験が伴っていなかったので、陳覚という臣が
軍政を預かり、多くは陳覚の口から指示がでていた。
その陳覚が朱元と仲が悪かった。
後周軍に対して勢いを盛り返せたのは、ひとえに朱元の軍略によった。
それを妬んだのである。あるいは、かつて朱元が朝廷で雄弁に軍略を披露したが、
それに嫉妬し中央から遠ざけた一派が、陳覚だったのかもしれない。
李璟は朱元より陳覚の言を信じ、朱元を更迭しようとした。それに憤った朱元は
自殺を試みたが、客将の宋洎に止められ、砦をもって後周に降る道を選んでしまった。
再び淮南に現れた柴栄は、これを奇貨として受け入れ、他の砦ももろともに粉砕し、
自ら馬を駆って南唐軍を追撃し、5万のうち4万を屠る大勝利を得た。
この結果、南唐の主戦力は壊滅したことになる。李景達は身一つで遁走し、以後、戦陣に
たつことは、断固として拒否するほどの心的外傷を負ったという。
朱元を迎えた柴栄は、その驍果を称え蔡州の団練使に任じた。北宋の太平興国2年に死去。
李平と朱元は学友同士ということもあり、なかなかに小説の題材となりえそうなもの。
劉仁贍にしろ、この二人にしろ、もっとうまく動ける条件が与えられたら、と思わないでもない。
自分で自分のレスに突っ込み入れるのもアレだけど
>>376 >>蘄州のとなりの州では、趙匡胤が猛威を奮っていたときのこと。
滁州のことを言ってたのだけど、隣でもなんでもなかった。
それと、
>>375の趙学究。趙普のことらしいのだけど、本来趙普は、後周の宿将たる
劉詞の推薦を受けて、柴栄の配置で趙匡胤が攻略した滁州に派遣されたのが
二人の出会いとなっているわけです。
なので、かなり妖しい逸話ではありますね。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/13(月) 22:21:05 ID:zDUp82nC0
淮南の要衝、寿州城を包囲していたとき…
柴栄は皇帝の身でありながら、城下に臨み御座を設けて攻城を督戦していた。
寿州城からその姿を望見した敵将、劉仁贍はチャンスとばかりに弓を引き絞った…
劉仁贍の射撃の腕は一流で、はずすことなどこれまでなかった。しかし。
その放たれた矢は御座の数尺前で急に落ち、届かなかった。
柴栄の左右を固めていた親衛は驚き、すぐさま御座を下がらせるよう進言したが
しかし柴栄は…
「一本の矢で殺せるのは一人の天子。天は朕が天子であるを願うか?」
と言い放って、青くなる近臣を尻目に、胡座をさらに城壁に向って進めさせた。
劉仁贍はその挑発を受けてたったが、やはりその矢は届かなかった。
むきになってもう一度放つ。
しかし直前で失速したように矢は落ちてしまう。
これを見た劉仁贍は、左右にむかって嘆息した。
「わたしはこれまで的を外したことがないのに、このありさまだ。
これは天の意思としか思えない。しかしわたしの家は厚く国恩を受けている身。
大丈夫たるものの節を曲げて二姓に仕えるわけにはいかぬのだ」
(『江南野史』巻五 劉仁贍)
だいぶはしょり、また言い換えてますが、《十国春秋》の劉仁贍伝の元ネタになるやつかな。
もうね、信者とか厨とかいわれてもいい。柴栄さんかっこよすぎる!
危険なところにいっつもいるのに、負傷してないというのも、なかなか。
>>376 誰も気にしないだろうし、どうでもいいことと思いますが
李平と朱元が崇山道士のもとで学んだ、というのは間違い。
李平自身が自ら崇山道士を名乗っていたようです。
道士かぶれの李平とともに学を修めた、というのは間違ってないと思いますが
まぁ他にも勘違いとか誤解があるでしょう…
いまちょっと、朱元を主人公に軍記小説書こうとしてますんで、発見できた次第でした。
382 :
【豚】 【1798円】 :2009/01/01(木) 10:24:37 ID:p7NTYY6x0
あげぇ
383 :
正則JP:2009/01/04(日) 00:49:33 ID:UedtSNRX0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
>>383 コピペにレスも野暮だけど…
つ西川ヘレン
385 :
正則JP:2009/01/04(日) 03:05:08 ID:UedtSNRX0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
386 :
正則JP:2009/01/05(月) 05:53:45 ID:bPcfwXre0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
387 :
正則JP:2009/01/06(火) 03:13:20 ID:0oqEgUxW0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
388 :
正則JP:2009/01/06(火) 21:25:55 ID:0oqEgUxW0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
389 :
正則JP:2009/01/07(水) 03:43:52 ID:g+FRdbR60
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
390 :
正則JP:2009/01/08(木) 05:08:17 ID:LRBqnIar0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
391 :
正則:2009/01/08(木) 16:47:39 ID:LRBqnIar0
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない
日本の在日とハーフとは、例えるならベトナム戦争時の、韓国兵と
現地ベトナム女性との混血児を、強く連想されます。アメリカはベトナムを
傷つけましたが、韓国兵は更に、現地女性をレイプして混血児まで残した
アメリカはベトナムを傷つけたが、韓国兵は更にレイプして混血児まで残した
日本国内の、在日とハーフの位置づけは、ベトナム戦争時の韓国兵による現地
ベトナム女性との混血児を、強く連想させます
アメリカは混血児は残していません。在日とハーフは、韓国兵とベトナム女性
との混血児と全く同じです
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
アメリカは日本に混血児は残していない アメリカは日本に混血児は残していない
::::::::::::::::::::::::::::: ,.-ヽ
:::::::::::::::::::::: ____,;' ,;- i へ、 /;へ\
:::::::::::::::::: ,;;'" i i ・i; // _l::|___l::|_ヽ:ヽ
::::::::::::::: ,;'":;;,,,,,, ;!, `'''i; / ̄ ̄ ̄ ̄\,, |l/−、 −、:::::::::::::::`::|
::::::::::: ,/'" '''',,,,''''--i / __ヽ /::::::| ・|・ | 、::::::::::::::\
::::::::: ;/ .,,,,,,,,,,,,,,,,, ;i'⌒i; | | |、 /::/ `-●−′ \:::::::::::ヽ
::::::: i;" ___,,,,,,, `i". | ∩─| | ,|/ ── | ── ヽ:::::::::|
::::::: i; ,,;'""" `';,,, "`i; | ∪ `l |. ── | ── .|::::::::|
::::::: | ''''''i ,,,,,,,,,, `'--''''" ヽ __/ _.ノ | ── | ── |:::::_l__
::::::: |. i'" "; |――― 、". ヽ (__|____ /:::::| 後 |
::::::: |; `-、.,;''" /  ̄ ̄ ̄ ̄^ヽ∞=、 \ /:::,/| 継 |
:::::::: i; `'-----j | | | |っ:::::) l━━(t)━━━━┥. | 者_|
朱友珪 朱全忠 朱友文
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/03(金) 22:24:39 ID:atCCh4K10
馬殷は名君だけど
息子達は出来悪いよね
「朱温」(上・下)仁木英之 朝日文庫10/7発売
「朱全忠」の一生を追った物語
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 12:30:23 ID:+fxJoGIX0
唐末・五代・宋初の名将リスト
超一流 李克用 李存孝 葛従周 楊師厚 李存勗 周徳威 耶律阿保機 耶律徳光
柴栄 趙匡胤
一流 張存敬 氏叔j 李嗣昭 李存審 李嗣源 劉知俊 劉鄩 王彦章
微妙? 朱友寧 朱友恭 牛存節 王景仁 王晏球 康延孝
その他 張処謹 劉仁贍
葛従周は903年に引退するまで汴軍のトップだった武将
地味だけどひょっとしたら李克用より強い?かもしれない。彼が地味なのは
朱全忠自身がしばしば出張ってきてあまり長期間独立行動をとったことがないからかな?
氏叔jと朱友寧は902年に周徳威・李嗣昭のコンビを完膚なきまでに叩きのめした。朱友寧
はその後青州攻めで王茂章に敗死し、その王茂章が王景仁と改名して梁に仕えて
柏郷で周徳威にぶちのめされる。因縁は巡る?
李嗣昭の潞州時代、その奉行として任圜という文吏がいた。
胡柳陂の役では李嗣昭に従い従軍。文官のくせに、李存勗に勇を褒め称えられる。
康延孝は梁の将としてそれなりに勇名があったが、彼の雄略が天下に轟いたのは
魏王李継岌と枢密使郭崇韜率いる、伐蜀戦においてだった。
前蜀王氏の政権は、すでに内部腐敗を招いていたが、郭崇韜指揮のもと
先鋒主力を率いた康延孝は、連戦連勝。
まともに前蜀が迎撃してきた三泉の戦いも完勝。後唐に康延孝ありと知られる。
しかし前蜀が平定されるや、司令官郭崇韜は讒訴され殺される。
疑心暗鬼となった康延孝は反旗を翻す(四川を制圧したものは叛するの法則)
魏王李継岌が鎮圧に差し向けたのが任圜。
歴戦の名将康延孝は、任圜の知略にはまり漢州で壊滅。
任圜は後唐政権下にあって硬骨の宰相として知られる。
「天下のことは一にも任圜、二にも任圜」
ただしこれには後節がある。もともと任圜の存在を煙たく思っていた孔循が鬱憤晴らしに
放言したことで「任圜とはそもなにものぞ!」が続く。
政争の果て、孔循と安重誨に陥れられた任圜は、自裁することになった。
>>396 任圜、文官なのに軍事的功績ばかり目立つ変な人物w
鎮州で李嗣昭が死んだあとその軍団の指揮を引き継いだが、見事な指揮ぶりに敵軍は
李嗣昭が死んだことに気づかなかったとか、李存進が戦死したとき突出してきた敵を
撃破したとか。
さらに蜀で康延孝が叛いたとき、李継芨が「あなたしか頼める者はいない!」と泣いて
討伐軍の指揮を任せたり(他の武将の立場は・・・)。
その李継芨も帰る途中で自殺してしまったので代わりに征蜀軍を率いて洛陽に帰還
した。この時は荘宗が死んで明宗が即位したばかりで、明宗は洛陽に近づく征蜀軍
二万六千の動向に神経尖らせて、わざわざ腹心の石敬瑭と李従珂を途中に配置して
万一に備えていたが、任圜は特に大事無く洛陽に到着して明宗から労われている。
ところで、この征蜀軍は総帥李継芨が自殺、実質的な司令官だった郭崇韜は謀殺、
先鋒でもっとも活躍した康延孝は反逆して処刑、武将の朱令徳は親父の朱友謙が誅殺
されたとばっちりで処刑、と首脳部は軒並み不幸に見舞われており、かなり呪われた
軍隊だったりする。
されたとばっちりでやはり
>>(他の武将の立場は・・・)
実は小説の題材に考えているんですが、このときの任圜と魏王の関係は
師弟のような間柄になってたんじゃないかとか思ってます。
もともと魏王の補佐として、任圜と李愚を付けてたところ、魏王がなついてしまった
という話…… いや、多くは語るまい。
岐王李茂貞のエピソード
ある時李茂貞は油を買占め、城内に薪を入れることを禁じた。そうしておいて、
自分はその中から良いものを選んで灯りにしたので、真っ暗闇の中で李茂貞の居城
だけが灯りに照らされて浮かび上がることになった(と思う)
一人の俳優がこれを皮肉って言った
「ついでに月明りも禁じたらどうですか」と
李茂貞は笑って怒らなかった。
『五代史』には李茂貞は寛大なうえに親孝行で民や軍隊に信頼された。また領土が
狭いため税金も低かった、軍事のことは一度聞いたら忘れなかったといろいろ
いいことが書いてあるが、最後に軍隊の統制にまったく規律がないという
おちがついている。
ヒデさん、五代英雄伝の続編執筆予定。
つうことは、五朝通史する気なのだろう。
文庫版の『朱温』読んだけど、王重栄と朱珍がかっこよかったな。
ところで世界史板のほうは落ちちゃった?
>>401 ああ……980越えたからか……
あしかけ8年の長寿スレだった。
>>401 次スレ立てるなら、ここも関連スレとすべきかな
文庫版の『朱温』、面白かったけど、下巻の後半がやたら間違いが多いのが気に成った。
既に死んだ人物に書状を送る文章が何回か出て来たし、
地理の方角が東西逆に書かれていたり、
文章の変換ミスみたいな部分も有った。
登場人物で格好良かったのは、楊行密が凄い魅力的人物として描かれて居ましたね。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/26(木) 17:08:20 ID:DDvj357l0
楊行密が孫儒に連戦連敗だったけど最後にどうにか勝ったところは項羽と劉邦
の関係に似てるな。
仁木英之 李嗣源(上・下)朝日文庫 10月7日発売
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 00:18:37 ID:cFLfC10eO
マジか。期待age
また微妙な時期のを選んだな〜
見せ場どこかな?
朱恩の続きとして読むにはちょうどいい時期じゃないだろうか。
陣営が逆で重複している時期も視点が変わるし。
見せ場は対梁戦の戦場働きと皇帝として迎えられるところじゃない?
王彦章との一進一退は書いてみたいな〜
期待ageしときながら今日まで存在を忘れてた・・・
秋には耶律徳光出すみたいだね。楽しみ〜
…とか言っときながらも朱温も李嗣源も積ん読状態なのだけど。
早く読みたい。
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/19(土) 15:57:34.79 ID:uZUtAA8FO
五代十国の頃に江西省に国ってありましたか?
>>414 江西省といえば洪州に鎮南軍節度が置かれていた。
五代十国時代に突入した西暦907年に、呉王・楊渥によって陥落し
呉王自ら鎮南節度使を兼務してる。
それ以降、南唐のときに府制が敷かれ、やがて南都とされた。
南都には、南唐随一の猛将、林仁肇が配されたが、その武威を恐れた趙匡胤の
離間計によって殺され、その後は都制も解かれ、ただの州制に戻った。
南唐(当時は江南国)は北宋にひどく遠慮していたので、林仁肇の死後はさらに
自らを卑下しまくっていたから。
唐末期は、江西団練観察と刺史の兼任。
鍾伝が長く割拠していたけど、先に書いたように呉王によって破られている。
開国などはしておらず、自立したいち勢力。一応、唐の追認を受けている。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/19(土) 22:41:19.04 ID:kPUe0P3c0
そうでしたか。
いや、なんか「閩と南漢と呉の境界らへんに小国が存在した」
みたいな記述を本で見たような気がしたんです。
でも夢かもしれないし、それ以来見たことがないもので。
小国というか、小勢力なんでは?
淮西では秦宗権が称帝していたけど、それとはだいぶ違うし。
またその記述を発見したら、なんという本なのか教えて欲しいな。
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 23:53:02.85 ID:D8uPVaajO
山川出版社の世界史リブレットの一冊だったと思います。
閩は本国・福州と、建州、泉州に三分割され(あの小国が)
いっとき、建州では王延政が開国し、殷と号した。
その後、殷は南唐領、福州は呉越領となり、泉州も一応は南唐領
だが、北宋の統一まで節度使・留従效は半分独立勢力として存在した。
420 :
414:2011/11/28(月) 12:31:19.16 ID:6GBl3af7O
>>420 なるほど、河朔の魏博や恒冀(成徳)に類する扱いとして、鎮南軍の軍閥をいち地方政権とみなした
ということですね。
そのときの軍閥の長は盧光稠および譚全播。
虔州に拠って兵馬留後とされたあと、虔州は梁太祖(朱全忠)によって、「百勝軍防禦使」とされましたが
数年後には、洪州の鎮南軍留後も兼任させられました。
ただし鎮南軍は遥領。実任ではなかった。
完全な節度号を得るまで行ってなかったので、河朔の強力な軍閥を比べると数段落ちますが、西暦918年の
呉の討伐まで、確かに自立志向の強い勢力として存続していたようです。
なお、その時期の江西、鎮南軍節度使は、鍾伝やがて呉王そして呉の臣、劉威です。
梁は一応、中華政権の正統をゆくので、梁太祖の任命(実際は追認)した盧光稠の方に
正当性はあるものの、実際には呉の勢力圏内でした。
ところで、鎮南軍節度使関連では、こういう話もあります。
洪州や虔州の近くで撫州というのがあるのですが、ここの刺史の危全諷が一時独立して
「鎮南軍節度使」を自称しました。
その危全諷は十万と号する帥を領して洪州(鎮南軍の使府)に攻めましたが、呉の周本によって
破られます。周本は後漢の周瑜の子孫です。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/01(木) 17:34:35.77 ID:m6P8QX7eO
沢山地方政権ありますが、
ほとんどは中原出身の人間が建国したんですよね
それが気にくわない。
中原をどのへんと仮定するかだな。
結構、地の人も多いんだけどね。
夏州李仁福は、もともと夏州牙校、湖南の劉言、王逵(王進逵)、周行逢も
楚領内の出(朗州とか)、呉王楊行密は廬州、呉越王銭鏐は杭州、北漢劉崇は太原。
清源軍(泉州)の留従效は泉州、趙王(鎮州)の王鎔は鎮州騎将。
と、だいたい勢力基盤と出身地は近いか同じ。
閩の王審知は光州。淮南なので、中原とは違うけど地ではない。
燕の劉守光と、岐の李茂貞はともに深州。中原というとちょっと違う。
前蜀、後蜀、南漢、楚、荊南が中原人か。
南唐の徐氏(李昪)は海州だけど、これは中原というのかな?
北平郡王(定州)の王処直は京兆……。
むしろ京畿付近出身の群雄は少ないのと違うだろうか?
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/05(月) 12:26:27.45 ID:MjBPFmhFO
蜀、ビン、広東と辺境地は中原出身が多い。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/25(日) 17:41:48.57 ID:FxCyUltb0
朱全忠は息子に対して冷淡すぎる
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/29(月) 19:16:07.46 ID:XSB1swNkO
虔ってスイスみたい
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/31(水) 01:13:23.91 ID:9kCsoaF+O
岐って何で秦じゃないのか?
カンコクカンまで抑えてないから?
治所が岐州で、岐王に封じられていたからだな。
秦州はまた別だし、岐山に拠って周朝がなんたらという故事も縁起がいいからとか?
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/19(火) 01:12:43.10 ID:e2s+2VflO
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 00:36:28.39 ID:1ipalU9GO
黄巣が国名「斉」のまま、
故郷で再び王になってくれたら…
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 00:50:55.60 ID:1ipalU9GO
と思ったが、盗賊に政治は無理か。
黄巣は盗賊ではなく、科挙崩れの書生だよ。教養はあるんだ。
黄巣の集団の中には、そうした知識人もどきもいたけど、朱温や
馬殷等の一定の成功をみると、まだ唐の求心力には及ばなかった
のだろう。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 08:49:15.25 ID:1ipalU9GO
よくその二者は政治を取れたものだと感心
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 20:06:24.78 ID:1ipalU9GO
黄巣でなくとも、山東に国が欲しい。
青州平盧軍は順地とはいいがたいな。
独立国というほどではないけど。
後晋期に楊光遠が青州で独立し、契丹と結んであわやという時期はあった。
山東は唐末黄巣の乱で江南浙東が荒れた以後、中原政権の重要な食料と塩の供給地。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 17:34:51.43 ID:1cZYtwvsO
戦国斉は一時は最強だったんに…
>>436 この時期の強国は、河東と魏州、揚州に益州だな。
シルクロードの帰着点は長安、洛陽の線がもっとも有名だけど、河東に入る線がこの頃重要さを増してきている。
それというのも、モンゴルに強く安定的な国ができたから、一段北の商益路が利用されるようになった。
その帰着点が河東太原になる。
鉄、牛皮、明礬に銀と、太原は当時強国の拠点足りえた。
魏州は名目的に中原王朝のいち節度だけど、従順な支配地域以上、独立国以下の特殊な事情がある。
河北平野の交易路中点に位置し、対契丹防衛の要衝。
揚州、益州は天下第一の富裕を誇る地域として有名。
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 00:43:11.15 ID:KS0/4I6hO
>>437 燕の当主が英明で、魏博を統合できたら、
梁や晋とも並立できましたかね?
>>438 おもしろい試みだと思う。
仮に李存勗が並みの戦術家で、梁との一進一退が続いている中、燕では親子兄弟仲睦まじければ
そういうことがあったかも。
韓延徽や馮道を宰臣として登用し、盧文進、高思継、趙徳鈞、元行欽、単廷珪を将軍とすれば、実は結構粒ぞろい。
韓延徽、馮道は言うに及ばず、高思継は息子に高行周がおり、趙徳鈞は趙延寿がいる。
(孫の代にいけば、高懐徳と趙匡賛。一国を代表する名将連だったり)
盧文進は晋とも戦え、やがて南唐に亡命しても名将だった。
元行欽、単廷珪は晋の夏魯奇および周徳威の引き立て役ですが、驍将。
まぁ、できなかったから瞬殺されたんですけどね。
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 17:52:48.51 ID:KS0/4I6hO
馮道がもともと燕所属だったことは忘れてました。
魏博の銀槍軍も加わったら晋梁と互角になれるかもしれませんね。
ただ燕王は劉親子以外じゃないとダメみたいですが。
あと岐はどうすれば生き残れるでしょうか。
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 18:18:30.16 ID:KS0/4I6hO
あと、「燕」という名は単に地域名というだけでなく
安録山を多少は意識していたとか?
唐崩壊直後、梁の初期というのは
中国の数ある分裂時代の中でも一番「しっくりくる」というか。
各国の国名、面積のバランス、首都の散らばり方とか
(確かに山東に国が無いとか南『越』じゃなくて南『漢』だったりと
多少の不満はありますが)。
劉守光の燕建国は、その前に梁祖から燕王を授かっていたからというのが第一だけど
劉守光が安禄山を意識していたかどうかはわからない。
馮道は、孫鶴ともども用いられる可能性は極めて低い、というかはじかれたんですけどね。
他にも後世名を成した盧龍出身者はいて、劉守光のような粗暴な男でなければ、おもしろい勢力ですよ。
魏博銀槍都の件は、梁の仕置き失敗の時点で梁に対向しうる勢力として台頭していないと得られないですね。
営州、滄州まで領土が拡張していたとはいえ、義武や趙に喧嘩売っているところを見ると、どうせ晋に
やられそうな気がしますけどね。
李茂貞は一時、西で最大の勢力になっていたのに、惜しいことをしましたね。
朱温に嫁さんを寝取られた楊崇本が一時、鳳翔、邠州、州、秦州、隴州の兵を併せて統率し
力戦しましたけど、劉知俊と康懐貞に負けており、その後の武功、?県の戦いでも、両者にボロ負け
してしまって国威が落ちましたね。
符道昭も悪くはないんでしょうが、梁の劉知俊や康懐貞の方が上手でしたね。
その劉知俊が岐に亡命して、康懐貞を二度から撃退してのけたので、保ったというところでしょうか。
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 22:55:11.27 ID:KS0/4I6hO
>>443 ネットでちょっと調べたたけでも劉仁恭、劉守光ともにひどいものですね。
そんなに有能な人材がいたのに逃すなんて、「隗より始めよ」の戦国燕とは偉い違いです。
どうも乱世のせいか、異常な人物が目立つような。
ただ、劉守光はともかく劉仁恭は戦も世渡りもそこそこ巧みで、一方の雄としては興味深いところ。
李克用が死に際残した三本矢の訓戒で、契丹、朱温に並んで劉仁恭も討て、となっている。
それくらい、晋にとって燕は無視できないうえに、恨みが積もっていた。
>異常な人物が目立つような。
武人社会だし、短慮で荒っぽい人間が面に立っているからでしょう。
謹厳、文を好む、という人もいるし、最初粗暴で、後名将の風格を備える者もでてくる。
魏州銀槍都の皇甫暉などその典型で、貝州で反乱を起こし州民を殺掠しまくった男が、南唐に亡命すると
名将モードに転化して、「周軍、すこぶるこれをはばかる」と言われ、滁州清流山では趙匡胤と接触し
記録によっては皇甫暉が大敗、あるいは趙匡胤を破るとある。
一進一退で、最後は趙匡胤の中入れで負けてしまうけど、捕虜となっても神色自若。
皇甫暉が防衛した滁州の民は、皇甫暉の意気に感じ、毎日五時に鐘を鳴らして弔いとしたそうな。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/28(木) 18:49:14.57 ID:Cno/MvrgO
春秋戦国に比べて異常に統一のスピードが速いのはなぜですか。
唐の中後期からすでに、意のままにならない節度使勢力を牽制するために、王師の強化がなされていたけど
これは令下の制度であった節度使体制≒封建制を打破する中央集権策であって、宋代のいわゆる「強幹弱枝」政策
というのは、その流れが結実した結果ということになる。
早いといっても、憲宗の中興以後、宋太宗の節度使解体までで考えると百五十年くらいかかっているんだけどね。
戦国時代は基本的に人民の社会意識は封建社会で、秦始皇の統一策は絶対君主、中央集権を目指したことに
よって実現されるに至るわけだけど、ここには法家の存在と法による公平さ、民間からの軍士、官吏登用(これは春秋時代では
みられなかった社会変容。それをもたらしたのは武器等の進化による戦術の進歩と規模の拡大による人員不足など)
さらに商路の都合によって通貨の統一などが望まれた方向性によってくる。
いち勢力に留まらない墨家のような傭兵集団や、下克上的な反乱などで国家間の勢力均衡に微妙な翳りが生じ
商路の確保による統一的概念が生まれだした頃、秦が軍事力ともにぬきんでてしまい、その勢いは坂を転がる
ように拡大していったことから、前代未聞の中華一統がなされた。
統一に動き出してから、一様の形ができたのは、秦始皇の方が早くないかい?10年くらい。
もっとも、完成をみるのは漢孝武帝の頃であって、当時はまだ強固な中央集権、官僚社会とはいえなかった。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/28(木) 23:51:33.29 ID:Cno/MvrgO
>>448 ということは、梁もしくは晋は
多分に唐の中央集権化路線を引き継いでいたと。
多分に、といわずそのままとも。
特に晋は、唐の皇室を名乗り、魏州で建国したのちは(それ以前からもだが)唐の官僚の裔を
登用したり宦官を復活させたりしている。
郭子儀の末の郭崇韜などその一例。
それだけでも、内容的には唐の継承なんだけど、社会として「士」が政局にあるのが正しいありかたで
武人が行政までみるような状態を良としない、あるいは武人の辺地割拠をこころよく思わない、いわゆる
中華思想(世界はただ皇帝一人のみが君臨する統一社会。作ったのは秦始皇)にのっとり、原点回帰
の力が作用したのではないかな。
そのへんが、日本が武家政権路線をひた走ったのと、対照的といわれるところ。
五代が統一に向かう初動時、後周世宗が征戦の先鋒大将に宰相を充てたのは、文人優位を意識付けようと
したからだった。
そういうことができたのも、社会の意識が変わってきており、しかも政局に携わる者の質も唐の頃より大きく変化してきていた。
貴族(門閥および官僚貴族)の没落と消滅による、いわゆる形勢戸、新興地主層の台頭がその土台にある。
そういった中、皇帝親征を繰り返し皇帝権を強化した世宗によって君主独裁路線は導かれ、宋太祖、太宗とに継承されて確立されていく。
この君主独裁と未曾有の宋代繁栄は、秦始皇の偉業に匹敵するほどの、中国の社会変容といわれる(宋代近世説)。
・・・たしかそんなニュアンスだったはず・・・
燕以外の二藩というのはある意味キーなわけか。
ここを梁や晋が押さえれば他を圧倒する勢力になって
一気に統一まで進むし、弱小の燕が押さえれば梁や晋と並ぶ勢力になれる。
燕王がもう少し優秀ならば(例えば馮道を重く用いるとか)、
その後の東アジアの歴史は非常に大きく変わっていたと。
>>450 ヨーロッパみたいに分裂してた方が発展したかも・・・
>>451 >>ヨーロッパみたいに分裂してた方が発展したかも・・・
そういうことではないでしょ。
中国の統一は武器の発展や諸国の均衡が崩れた帰結だから、そのままでは
停滞を生んだのは必然でしょう。
しかしだからといって、すべてがうまく融合などしてはいなかった。
空前の経済発達を遂げた宋代も、四川地方は別通過(鉄銭)を流通させねばならず
民情不安定な統治であったし、真宗期くらいから目立つ南人官僚と北人官僚との
対立など、社会矛盾は内包していたわけで。
しかし、統一によってこの頃主流になる活版印刷技術が発展を遂げたし、江南開発も
進んだのはご存知の通り。
ちなみに、活版印刷は五代に相たる馮道の存在なくしてはありえなかったかもしれない。
>>その後の東アジアの歴史は非常に大きく変わっていたと。
帰結点はそんなに変わらないような気もするが・・・
仮に分裂期が長引いたとして、遊牧民による征服王朝時代が一足早く訪れるだけ
って気がするんだw
会盟を開催し、諸侯連合軍で契丹と戦う・・・
ダメか・・・
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/02(土) 09:34:37.20 ID:tWew8wOOO
岐がタングートを吸収することは可能だったのだろうか?
あと、会盟は牛の血に毒混ぜたりするだけか。
朱全忠は李克用を宴会で殺そうとしたしな。
山崎覚士氏は呉越が十国の覇者的な存在って言ってるな。
五代王朝は周朝よりかなり能動的かつ主体的だったような気もするけど。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/02(土) 20:38:04.89 ID:24KAET5+0
呉越覇者説どうなんだろな。
呉越国王に真王号与えて云々といっても、それはあくまで呉越と中原二国のお約束。
呉・南唐や南漢、蜀にとっては知ったことなかろうし。
実力じゃ呉・南唐が十国随一だから、後晋滅亡後はしばらく、南方諸国は軒並み南唐に遣使してたり。
ただ、呉越が中原とそういう「設定」を共有する一方で、独自に山東だの朝鮮だのに介入してた形跡は面白い。
この時代、雲南とやりあった蜀やチャンパまで遠征した南漢みたいに、十国側で古来の中華の枠を超えていく動きがある。
でも南唐も馬鹿揃いなんだよな。
後晋滅亡時に韓熙載が提言したように、中原回復の機会があったというのに呉越と事を構えてやられている。
華南諸国中で、中原王朝がもっとも頼れるのが呉越だというのは、呉越の江南での立場強化にもつながっているとはいえ
まぁよく、あそこで南唐に歯向かったなぁとは思う。
後周による征淮南のとき、湖南軍閥は早々に敗退のあげく内部分裂していて役に立たなかったのに、一度負けたとはいえ
最後まで後周に付き合ったのは呉越だけだったてのがあるから、中原との結びつきはずいぶん強かったのかな。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/02(土) 23:14:40.74 ID:dHTcy2q+0
呉越は初代の銭鏐が旧主の董昌や淮南の楊行密と戦って政権を確立していく段階から、
常に「中原天子の代理として乱賊を討つ」というのを大義名分に掲げているからね。
もともと同格な在地土豪の連合体だった杭州八都の上に君臨していくためにも
中原の権威から離れるという選択肢はなかったんじゃないかな。
>>456 それらの動きも興味深いですが、
個人的にはすでに文明があった大理朝鮮チャンパよりは、
閩に台湾を文明化してほしかったところ。
現地の酋長と主従関係を結ぶなり、
傭兵として雇うなり、接点を作ろうと思えば作れたと思うんですが。
ビンの字が文字化けしている・・・
閩越は内乱から南唐と呉越の介入、やがて福州で両国が激突する
って流れがとんでもなくおもしろいので、台湾とか却下w
閩国というか王延政の建州(殷国)の出身者が、やがて南唐で将として
第一線を張っていくのは興味深い。
>>438の言い分でいくならば、閩国も意外に人材は豊富だったりする。
将領でいえば、まず陳誨、陳徳誠の親子、鄭彦華、南唐に唯一勝った男、許文縝
孟堅に林仁肇か。
この中で林仁肇は、趙匡胤がその武名を恐れて、わざわざ離間計にかけたほどの存在。
まぁ、閩や殷が存立したからといって、国運を左右するほど高位に上ることができたとはいえないけど。
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 00:12:51.23 ID:1n3zJrsv0
つうかビンって、いい位置占めてる割には政権サイドから交易や海外他国に関与する姿勢に乏しい気配がするし。
ビンは武人もいい味出してるけど、道教マニアの自称皇帝なんが、なんとも土俗的暗君って感じで楽しい。
「この一箭で呉越を破り、この一箭で中原を定めるぞよ」とか気勢あげて国境に押し寄せても、
呉越側は「バカがまた騒いでるよ」とはなから相手にもしないとか。
海外貿易とかで、もっと開明的思考を持ってもいいような立地なのに前時代的なのが滑稽なw
むしろ、南唐に対してもそうなんだけど、呉越は小国の割には懐が深いというか。
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 21:38:54.46 ID:cWgGny+8O
カルタゴやベネチアみたいなもんかな?
「呉越」って名はなんかよくわからない名だけど。
高麗の青磁っていうのも
元祖は呉越なんですね。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 22:22:37.15 ID:qEkbq5M20
政権所在地から考えてメインは越王ながら、楊行密にタメはって呉王も兼務している設定なんじゃないかな
でも普通「越」って「南方の諸々の民族」っていう感じに使われるような。
いやw
銭鏐がタメ張るつもりとかじゃなくて、越王に封ぜられた後、呉王に封ぜられ、後梁建国に際して呉越国王に封ぜられたからだよ。
ただ、後梁(朱温)サイドとしては、呉王楊行密を認めない方向で、銭鏐を対抗馬に立てたのだけどね。
>>467 呉越の首都州、杭州は西府とされ、東府が越州。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 22:51:51.92 ID:tx+d4YQj0
>>467 春秋戦国時代に呉の拠点だった蘇州が呉と呉越の係争地で、越の拠点だった会稽が呉越の支配下だったことをイメージしてたんだけど、例の呉越真王説を絡めると、中原としては銭一族を「中華南方の諸勢力の抑え」として「越王」の称号を与えた、という面もあるのかなぁ。
穿ち過ぎか?
そうすると南漢についても考える必要があるけど。一時、南越を称していたような。
と、思ったら楊行密の呉王の方が自称かな。
910年2月に百官の制を開いているので、より正当性があるのは呉越じゃないか。
朱温の意思とはいえ、すくなくとも唐帝がまだいた時期の呉王冊封だし(906年9月)。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 23:02:37.57 ID:tx+d4YQj0
>>465 そいえば呉越あ高麗と覇を競った後百済王キョンフォンの後ろ楯だし。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 23:11:39.30 ID:cWgGny+8O
>>470 「越」国と百「越」の二つの意味を掛けていたと。
岐みたく「杭」とかでも不自然ではないとも思いますが。
南漢は、後梁冊封で南海王で、その後自立称帝して「大越」としたけど、翌年には「大漢」にしちゃった。
劉氏だからだろうな。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/05(火) 23:41:19.13 ID:NViL4wQt0
>>473 ああいうのは古代の雅名使うとものだから。岐だって西周発祥の聖地にあやかってるんだし。
それに銭鏐が堤防と城壁作って大開発するまで杭州はそこまで大都市じゃない。だからこそ銭鏐は杭州一帯の民間伝承で神格化までされてるわけで。
>>471 通鑑のどこかにあったと思うけど、たしか楊行密は唐の昭宗が自分の意思で、朱温を牽制するために密詔で呉王に冊封。
一方銭鏐は昭宗が朱温に拉致されて傀儡にされたあと(殺される直前)に、強制されて呉王に冊封。
>>475 そうだ忘れてた。
天復二年、昭宗が岐に蒙塵したときに呉王冊封を受けたんだっけ。
で、自立はしていなかったので子に位は継承せず、のちに唐が滅んだので自称だっけかな。
呉王冊封で楊行密も一度兵は出すが不振で、すぐに銭鏐とドンパチやらかしているんだから
朱温としては銭鏐に牽制を任せたくもなるな。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 09:52:16.08 ID:UfyAHGJH0
まったくの自称ではなくて、いちおう昭宗の密使として来たまま
帰るに帰れなくなっていた人物(名前はちょっと思い出せない)を
皇帝の代理という扱いにして、彼に冊書を書いてもらっている。
苦しいやり方だ……
>>477 調べてみた。
李儼ですね。
宰相張濬の子っていうのがアレだが。
でもこれって、冊書を作って嗣がせたのは、弘農郡王じゃないのかな……?
呉は唐の滅亡後、天祐六年に萬全感を岐や晋に使者として送って、翌年二月に奉書を携えて帰ってきている。
一応、唐の正朔を封じた大鎮の晋と岐に承認させることで、呉王を嗣いだ体裁。
この二年ほどのタイムラグは、代替わりとか国境のごたごた(危全諷の乱とか)で忙しかったからかな。
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 18:09:04.86 ID:e7f7jgCk0
ああ、そかそかすいません。記憶だけで書くと曖昧になる。
まとめると独立国としての政治的な足場がためは、
後梁を共通の敵とする晋や岐による国家承認に基づき、
法的な足場がためには李儼を使ったということかな。
ただし李儼の冊書はあくまで弘農郡王。
そのあたり厳密に考えると、この時期の淮南政権の国号は
呉ではなくて弘農とすべきなのかな。
間違えた、資治通鑑ではやっぱり呉王嗣位も李儼が絡んでました。
楊氏政権は短期間で君主が変わっているので、継承の政治的体裁を整えるのに苦慮したみたいですね。
楊行密のとき、奉書によって呉王。これが一番根拠がある。
その後、楊渥ついで楊隆演を李儼によって弘農郡王。
唐の滅亡後二年ほどして、李儼にまた頼って呉王を嗣がせてもらい、岐や晋に報せ、名実共に国王となった
という感じかな。
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 18:51:34.48 ID:gmSBn4SH0
はからずもキングメーカー的役回りを果たすことが慣例化した李儼は
結局、徐温の粛清対象になるんだったかな。
まあ、こんな回りくどい遣り繰りをしているぐらいなら、
「うちは唐王朝の末裔だから」の方が分かりやすい。
一方、南漢なんぞはなんの体裁づけもしないでフリーダムに皇帝自称。
ややこしいながら、実際に呉が自立して開国したのは、919年天祐16年になるんですね・・・。
封建領主的な呉王と、独立国家としての呉国王ということか。
まわりくどさの背景には、周辺国(呉越が主だけど)や国内への牽制もあるんでしょうねぇ。
徐温が権勢をもちゆく過程において、中央軍の掌握も含め君主権を背景にしていく必要があるから
国内軍閥や呉越などの反感を極力かわそうとしてのことかな。
李儼誅殺は、まさに軍閥朱瑾に息子(徐知訓)が殺され、その朱瑾と李儼が通好していたので
連座の罪という感じでしょうね。
後唐で朱守殷の挙兵に連座して、宰相任圜が死を賜ったのと同じような感じかな?
質問なのですが、董昌の「羅平」の由来って何でしょうか?
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:11:10.85 ID:Ckd2IyS80
>>482 自分が乗っとる予定の政権を、乗っとるまでに十分成熟するように育てていく徐温か……三国魏の司馬氏みたいだ。
図式としては似た構図だけど、徐温にとって李儼こそがメインターゲットだったのかも、って気もしなくはない。
>>483 当時、浙江地方の民衆に崇拝されていた羅平鳥という三本足の霊鳥らしい。
ちなみに、数十年前のホウクン(変換できない)の乱のときも羅平という私元号を定めていたと思う。
董昌は左右に越巫を侍らせ、かなり土俗的な政権を築いていたように見える。
まあ現存する記録は敵対陣営の側のものしかないけど。
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 22:15:46.92 ID:rUiHTY3h0
そういえば、呉だけでなく蜀や南漢も917年前後に政権の自立性を強めていて、
これは唐の建国からちょうど三百年が過ぎたことで
天命の移行が明確になったと見なされたためという説があるらしい。
>>三国魏の司馬氏みたいだ。
まったくw
でも、呉書高祖本紀で楊隆演が死に際、大丞相徐温と交わした言葉は。
楊隆演「昔に聞く。蜀先主が武侯(諸葛亮)に言ったそうだ。『嗣子不才ならば君が取って代われ』と」
徐温「とんでもないこと。(中略)もし楊氏に男児なくば女子をもってたて、妄言をなす者は斬って捨てます」
はぁそうですかとしか。
徐温あるいは養子徐知誥は禁軍を握っていたことで、中原の郭威、柴栄の先を取っていて、開国したのちの
政権存立基盤はきわめて強固な君主権が確立しており、権勢家であった宋斉丘などでも、固有の権力基盤
たとえば武力とかはなく、あくまで皇帝の寵によっての権勢だった。
徐知誥=李昪はともかく、李m、李Uがあれだから南唐は軟弱な印象だけど。
>>485 たしかに、蜀の改元、永平(915年)→通正(916年)→天漢(917年)は変えすぎな気もするね。
そういう象徴にあわせたならわかる気もする。918年には王建が死んで代替わりしている徹底ぶり・・・
は関係ないか。
ついでにいえば、契丹が916年に建国している。
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:07:25.90 ID:M4oxwgJXO
>>484 なんと…
ヤタガラスの親戚みたいですね。
地名由来でない国名はこの時代は珍しい気がします。
いやーでも、外国とはいえ契丹は五代十国と絡みまくってるし。
ついでにいえば雲南の長和も、朝鮮の後三国も、桃井至朗先生曰く「五代十一国」の一角を為す安南も絡みまくるけどw
あまり話題が転々とするとあれだけど、契丹も歴史的な節目ははっきり意識していたと思う。
第一次建国が唐滅亡と同年、第二次建国が唐成立からほぼ三百年経過時点ってのは偶然にしてはタイミング良すぎる。
>>489 時代と場所が近い例だと雲南の大長和国、大天興国、大義寧国……
中華圏外になるけど。
地理的に中華圏内とはいえ羅平だのビンだの南漢だのもエキゾチックな国ではあるし、
どうも中華の輪郭がどこにあるのか、よくわからなくなる時代ですな。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/06(水) 23:41:02.22 ID:M4oxwgJXO
>>490 それを言うなら、
平将門や藤原純友もそういうことは意識してたと思います
真面目な話、唐の崩壊、南詔の崩壊、新羅の崩壊、日本の律令国家体制解体は全部連動してるんよね。
大唐世界帝国の覇権が消滅した後に日本や朝鮮やベトナムが自立した地域国家として確立していくのと、
華南に地域単位の国家群が成立するのも、多分同質の事象。
後者は再び統一王朝に回収されてしまったけど、
十国の領域が現在の省の範囲の原型になっている部分もあったり。
将門や純友もまさに五代十国の群雄と同じ時代の空気を吸っている人間だと思う。
さすがにスレチなので、これはここまでにしとこうw
契丹は「外国」というより北朝という印象かな。
一応、中国では戎だの虜だのと区別したがっているけど。
契丹の中国への絡み方は、間違いなく争覇勢力の一角でしょ。
地域由来でない国名はたしかに珍しい。
国内ではやはり以前にあった国号が用いられることがスタンダードなのかな。
たいていは存立地域とか王号によるけど、閩の富沙王・延政の「殷」呼号はなにゆえだろうか。
それと先祖に遡っているが、郭威の「周」は地域や王号に由来などしていない。
もともと王冊封はなく、郭威の職掌は、枢密使、侍中、天雄軍節度使でのち監国。
後漢側の記録では郭威の軍は「魏軍」と書かれているんだが。
資治通鑑をつらっと見るに、周王になっているのは後漢隠帝の劉承祐だけ?
元周王を打倒して周を建国かぁ。
>>493 いや、杉山正明先生も指摘しているとおり、東アジアにおける連鎖崩壊はこの時期の特徴。
これははっきりいってスレチでもなんでもなく、この時代をみるには必要な背景だと思う。
その国の内情とかにまで話が及ぶと、さすがに手は届きませんが。
>>十国の領域が現在の省の範囲の原型
そうか。
これは節度領域によると思っていたけど、もともと十国の存立基盤が○○節度だから当たり前か。
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 08:12:37.01 ID:q62BOR300
>>493 とくに藤原純友なんか、呉越あたりと何らかの繋がりがあっても何も不思議じゃないな。
後百済がポシャったのを見て、海上覇権確立ための次のターゲットとして裏から介入してたかも。
明示的な史料はまず出てくるまいけど。
>>494 たしかに王延政の殷はどこから出てきたのやら完全に不明だ。
そもそも歴史上、殷という国号を採用した政権自体がレアだし。どういう意図なんだろうな。
>>496 「殷」をそのまま国号にしてないけど、宋の内容は殷に順じているね。
こちらは、宋州が殷の故地だったことと、周より古いから正統、みたいな
こじつけでの命名。
ついでに親父の名が弘殷だから、殷を諱にして商としたというけど、諱があって
国号を殷にできなかったから宋にしたんだろうか。
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 09:31:10.19 ID:SZo12tD6O
将門は反乱を正当化するために、
渤海が契丹に滅ぼされた例を挙げてましたね。
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 18:38:54.55 ID:SZo12tD6O
>>494 確かに春秋時代の国号を引き継いでいるとはいえ、
意味はかなり違うかなと。
同じ「呉」「晋」「燕」でも、春秋時代には完全には特定の地名にはなりきっておらず
政治集団名の色彩が強いのでは。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 19:55:05.54 ID:03HZBa/P0
>>494 山崎覚士先生は「五代十国史と契丹」という最近の論文で、「短期間とはいえ契丹は中原王朝として成立し、国際的承認を受けたのだから
五代十国はむしろ六代数国史と称するべき」と書かれていますね。
なお「数国」になるのは、南方諸政権のどこまでを独立国家と認められるかに客観的な基準を設定し得ないため。
ちなみに栗原益男先生は後唐も荘宗以前と明宗以後で別国家と見なし、「七代十国」と言われたそうです。
>>500 五代十六国とか冗談で言ったことはありますが、七代ですかw
荘宗と明宗の断絶を言うなら、末帝もそうじゃないかと思うんで八代ですね。
周辺政権は岐や燕はもちろん、北平と趙、湖南軍閥、殷と清源軍、霊武に夏州となれば結構点在していくわけですね。
その中で霊武と夏州あたりは、世襲的軍閥政権なので、本当に数えてもいいんでないかと思うんですよね。
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:25:01.40 ID:OP5hb2TR0
その伝でいけば、朱温も認めた静海軍節度使こと安南の曲承美(きょくしょうび、ではなく、あえてベトナム語のクック・トゥア・ミィw)なんぞも、
間違いなく諸国の一角w
なぜベトナムは中国の一部にならなかったのか?
「大越国ができるまではベトナムは中国色は薄かった」とも聞くが、
上流階級はともかく庶民は中国本土でもい民族色が強かったと思うんです。
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 20:57:42.62 ID:M2GU7+kJ0
たまたまそうなった
の一言がすべてなのかも。
実際、宋は北漢平定の翌年にベトナム(と後に呼ばれる地域)に遠征軍を送ってる。
そして大敗して結局断念した。
この時期のベトナムは燕雲や西夏と並ぶ「未回収の中華」なんだとおもう。
百年後には「南国には南国の天帝がいる」と叫ぶぐらい民族意識が固まっているんだけど。
逆にいえば、ビンや南漢も中華外の国家になる可能性はあったということになりますね。
王は中華から来た人間ですが、
それは大越の李氏や陳氏も同じですし。
506 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:13:05.12 ID:DCe6knzz0
もうちょっと詰めて考えると、ひとつには南漢と安南が別の政権だったことかなあ。
過去の諸王朝が統一戦争のなかで嶺南に兵を進める場合、基本的には広州を落とせばハノイも勝手に降伏するわけで。
今回は広州を落とした後にさらにハノイまで再度遠征……となるとコストに見あわないと判断したんじゃないかな。
もうひとつは、この頃海南島の東から直接南海に乗り出す航路が開発されて、
あえてトンキン湾に避難港を確保する必要性が低下したらしい。
開放的な南詔が鎖国的な大理に代わったことで雲南からハノイに出てくる交易ルートの収益も落ちただろうし。
周辺国が中華に並ぶほどの地力を持ち出したということかな。
中華最大の経済発展は、実は東アジアでの覇権の落日だった。
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 21:21:23.18 ID:jGoPOsWl0
>>505 南漢の宮廷にはペルシア人の王妃までいたらしいし、そうなったら面白いね。
とはいえ統一戦争に乗り出した北の政権はなんとしても南シナ海を目指すだろうけど。
結局実現はしなかったけど、閩は海岸線を淮南以外に持たない南唐にとっては
咽喉から手が出るほど欲しいところなので、これはそのまま中華の外のままにはならなかったでしょう。
江南開発とともに福州泉州の発展は切り離せないだろうからなんだけど、結局南宋の発展が
そこを基軸にしているので、そう思うだけかも。
当時のビンや南漢の庶民の言葉が
ベトナム語のように、中国語と全く違う言語だったとしても
私は別に驚かない。
>>508 南漢書に「波斯女」とあるそれね。
名前がわからなく、「性善淫」とあって賜った名前が「媚豬」。音読みすると卑猥・・・
>>509 淮南の海岸は遠浅で港を作れないし…
ビンは場所の割に政権の視野が内向きなのが惜しい。
福州はともかく、泉州が交易都市として発展し始めるのは留従効の統治期からじゃないかな。
>>510 つ 福建語
つ 広東語
現代ですら普通話よりベトナム語のほうがなんぼか近縁かもw
そういえば、ビンや南越の地に漢民族が大量に流入したのは
この時代でしたね。
客家の家伝の系譜を調べると、王潮・王審知兄弟と一緒に来た設定がけっこう多いらしいね。
そういえば、?の臣に陳霸先なる人物がいますな。
先鋒武将で戦えば勝つような人で忠義勇敢と称されるものの、賊を追って馬が倒れた拍子に死んでしまったとか。
>>497 高校の世界史で「五代は新しくなるほど名前が古くなる」と習いましたけど、
その流れは実は宋まで続いていたんですね。
>>516 なんとも聞き覚えのある名前ですねww
何を思ってこの名前にしたんでしょうかね。
>>517 へぇ、今や高校でそれを教えてもらえるのか。
自分は小島毅著書の中国思想と宗教の奔流で知ったクチなんだけど。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/09(土) 18:23:11.55 ID:5qJONsK40
>>511 南漢王朝がムスリムだったって可能性はないのかな
>>495 10世紀初頭の日本の動きはむしろ律令制の日本化の一環で、唐崩壊の変革が及んだのは200年後と言う説もある。
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/14(木) 23:55:06.68 ID:8lX3iHQYO
この時代を横山三国志
みたいなノリで楽しめる
漫画は無いのかな?
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 03:12:42.67 ID:GhaXgiPZO
>>520 将門が契丹を意識したのが唯一の影響ってことか
いや、その後の武家政権って実は唐崩壊のいわゆる門閥、官僚貴族制崩壊から替わって軍閥資本家の台頭
尚武の社会、武人政治のあたりが濃く影響として波及したんじゃないだろうか。
ただ中国では形勢戸、官僚資本家が進出して、武人社会は独裁君主制の確立とともに終わったけど、日本は
国の特色のように続いていったという感じで。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 11:21:29.31 ID:GhaXgiPZO
>>523 すると、
・何故鎌倉幕府は武人色が強いままだったのか?
・何故京都朝廷は科挙を取り入れて、新しい人材を入れず、
影響力を失ったのか?
日本史はこれ以上知らんw
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 10:37:09.01 ID:QiXWp7KPO
河北、山西もソグドやらトルコやら
相当に異民族色強いよね。
実は第二の五胡十六国時代だけど、唐宋変革が目立ちすぎてあまり話題にされないという
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 20:08:40.11 ID:QiXWp7KPO
>>527 そういえば漢民族の南下も共通してますね
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/15(金) 01:55:24.43 ID:yq7IRSNFO
>>516 陳霸先ってwかなりの中国史ヲタでももう一人いるとはw
>>527 節度使が独立王国化したとばっかとらえてたけど、よく考えてみれば李克用とか
石敬瑭とか劉知遠とかあと契丹が攻め込んでくるとかって考えると五胡十六国時代
似ているという指摘があながち外れていないことに改めて驚かされた...なるほど...
>>530 契丹の開封政権が長期化していれば、第二の北魏なんだけど、そこまではね。
しかしその一連の、遊牧民族系が中原を目指す流れが、征服王朝時代なんだけど
考えてみれば、魏晋以降、征服されっぱなしなんだなー。
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/30(土) 09:50:48.05 ID:kpEx40xKO
エジプトの話は知らんししとらんw
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
呉の劉信って面白いな
自分を韓信に例えて荘宗に弓比べを挑むとか