寄る年には勝てぬわ。
老齢のたぬき親父ゆえ、呆けたことを申すやもしれぬが、
ひとつ、ご容赦めされよ。
三戦板系がまたひとつ増えたか・・・・・・
老齢だから早起きなのか?
>2
ほうほう、この付近に居城を構える方がおられるとな?
それは結構なことじゃ。このいへやす、近々ご挨拶にまいろうぞ。
さて、寅の刻に目がさめてしまうは老齢ゆえかの。困ったものじゃ。
鷹狩を終えたらまた、覗いてみるかの。
それではおのおのがた、よしなに。
適当に自己紹介してくれや
ジジイ優雅だな。
>3
これは被ってしまいましたのう。左様、そういうことにしておいて下され。
>5
名は徳川家康と申しあげる。
天文十一年、そなたらの暦では西暦一五四二年に、三河は岡崎にて生まれ
申した。父は松平広忠じゃ。
それから色々あっての、慶長八年に将軍となり、江戸に幕府を開いた。
元和二年――西暦一六一六年、此の世を去って東照宮となった。
趣味は鷹狩じゃ。まあ、わしのことは追々話すと致そうぞ。
>6
まったく恐れながら、このとおり息子秀忠に将軍職と幕府を任せ、悠悠自適
の日々をすごさせてもろうておりまする。
まあわしも息子を切腹させたり、大義の為に泣く泣く多くの家臣たちを捨て
駒にしてきた身でござれば、老後のゆとりということで、ひとつ見逃してはく
れませぬか。
しかし、お陰で暇を持て余していかん。と、いうわけでござって、ひとつ、
この爺めの酔狂にお付き合いいただければ幸い、と存ずる次第。
8 :
豊臣秀吉:2006/01/19(木) 08:52:16
いへやす
そちはわがゆひごんにそむき
ひでよりとわがいへにあだなした
まつだいまでうらむ
とくがわにしんばつあれ
くわんぱくひでよし
「平成の日本」の事が見えますか?
>8
これは、太閤さま。よう参られましたのう。
はて? 何のことやら、このいへやす、とんと……。
ともあれ、秀頼さまと日ノ本のことは、五大老、五奉行の衆とよくよく
諮って裁量したしますゆえ、ご安心めされい。
ささ、お体に障ってはなりませぬ。ごゆるりと休まれよ。
>9
日光東照宮より、江戸幕府の終焉からこの時代まで、日ノ本の変遷、し
かと見届けておりますぞ。申し上げたき儀は山ほどござる。が、あまり説
教くさくなってもいかぬ。斯様な話になったおりに、改めて語らせて頂き
ましょうぞ。
11 :
いへやす ◆oKRwLClyb2 :2006/01/19(木) 18:44:23
さて、このあたりで我がすれっどの取り決めごとなどを、申し渡してお
こう。
とはいえ、煩いことは申さぬ。
戦国・安土桃山系あるいは徳川家臣のこてはん飛び入りは、随時歓迎致
す。とはいえ、各々も領地裁量や幕府の仕事を抱えておることだろうから、
好きなときに抜けて構わぬ。本業を優先いたすことじゃ。
また、話題はなにもわしの時代のことに限らずともよい。亀の甲より年
の功とも申すゆえ、恋の悩みから嫁姑のいがみあいまで、このいへやす、
何でも相談に乗ろう。しかし、埋蔵金の場所を教えろだの、年貢を三公七
民にまけろだの、幕府の機密や統治に関わることは乗れぬ場合もあるゆえ、
ご承知めされい。かようなことはわしではなく、正純や利勝に申すがよか
ろう。
すれっどのあげさげにおいては、おのおのの裁量にお任せ致す。わしは
遅筆ゆえ、あまり話が増えても返答が遅れるであろうし、寂びれて客人を
退屈させるようでもいかぬ。というわけで、よしなに計らってくだされ。
いへやす。恐々謹言。
(フン、三河上がりの狸親爺が…)
…おお、家康殿。
厳冬の候ご壮健にて祝着至極。
この三成も御家と太閤殿下の繁栄をお慶び申し上げる。
ところで、家康殿は最近、ちと独断で
政の決裁を急いておられ過ぎると思案致す。
大老、奉行の和は太閤殿下の厳しく命ぜられるところ。
…そこのところよろしいか、ん?
>12
これは冶部どのではござらぬか。
なにを水臭いことを申しておるのじゃ。
それより、そこもとが斯様に規則を振りかざして、杓子定規にまつり
ごとを運ぶものでござるから、ちと豊臣家に皹が入ってしまっておるが、
少しはご自重されたほうがよろしいぞ。
加藤どのや福島どのを軽んじて、わざわざ政を難しくなさることもあ
るまい。
そうそう、このいへやす、いつでもそこもとの相談に乗りまするぞ。
徳川の世は二百年続いたわけですが
家康さまは太平の基を築き上げた、その祖に当たるわけですね
ご自分の功業に満足されていますか?
15 :
振姫:2006/01/19(木) 20:10:47
ねぇパパぁ…?
あたしね、京都の五条屋さんのお白粉と紅とォ〜
山中屋さんの新しいバッグとォ、
あとなんか、カワイイ着物がほしいのォ…
ね、ね、いいでしょ〜?
あと、かっこいいカレシと結婚したいんだけどォ…
だれかイケメンいない?
乳母とかァ、もうババくさくって超ヤなのォ…
前田さんちの利家さんがお亡くなりになりますた
>14
――織田がつき羽柴が捏ねし天下餅すすりまわして食うは徳川
斯様な厭味を言われておるのは、よう承知しておるが、織田殿も太閤殿下も、
この日ノ本よりいくさを無くしたいという強い思いを持たれておった。天下布
武も、太閤の天下統一も、そのためと言うてもよかろう。
そればかりでなく、天下泰平は、心有る武士すべての熱望であったと言えよ
うの。
されば、わしが開いた幕府が、大きな武家どうしの戦を起こすことなく、二
六〇余年続いたのは、そのことに限って言えば上出来ではなかろうかと、思う
ておる。わし自身、太平の世のために、骨折り出来たことは誇りに思っておる
し、それゆえに多くの家臣がわしのために命を投げ捨ててくれたのではないか
のう。
わし一人の業績ではない。天下泰平を願う全ての戦国武士の手柄であろう。
ゆえにわしは、真田昌幸のような、時代を乱世に戻して所領を増やそうなどと
考える不届き者がどうにも好きになれぬのじゃ。
>15
お振や、よく来たの。しかしまあ、少し見ない間にすれてしまったのう……。
秀行どののことは、惜しいことであった。まあわしとて天地の理を動かすこと
などかなわぬゆえ、辛抱いたせ。
よいよい。何でも欲しいものは買うてやろう。それでおまえの気が紛れると
いうのなら、いくらでも聞いてやろうぞ。
ほう、彼氏とな?
ふむ……よい漢がいるぞ。浅野長政が次男の長晟というものがおっての。
それはもう男前じゃ。こんど紹介してつかわすゆえ、たんとめかしこんでお
くがよかろう。
>16
む! それは誠か?
なんとまぁ、惜しいお方を。
(……キタキタキタキタァ!)
はっはっはっは!
権現とは、三河殿も随分と大きく出たものよ。
これはこれは、織田殿。
よう参られました。
「権現」ではござらぬぞ。「大権現」でござる。はっはっは。
されど、織田殿の「盆山」も、なかなか織田殿らしゅうてようござった。
あれは朝廷や神仏という権威に対する、織田殿なりの挑発であったのでは
ないかとお見受けしますが、如何? やがて絶対権力者の地位を狙うとす
るならば、よい布石でござる。
この狸めは小心者ゆえ、大権現などともったいぶってみせるのが、精一
杯でござる。
織田殿には及びませぬ。
いいねえ。
生暖かく期待しちゃう。
というわけで
藤堂について今思うことを述べて欲しいなぁ。
うむ、そなたの聞きたいことはよう分かりますぞ。わしのような、子飼い
の家臣を大切にする古臭い武将が、なぜ五度も主を変えた藤堂高虎を重用し
たのか、のことでござろう?
ちがうのじゃ、かの男はこのうえない忠義者ゆえに、仕える主を選んだに
過ぎぬ。そして、これと見定めた主に対しては、一命を投げて仕える男じゃ。
大和大納言どのとわしには、掛け値無しに忠誠を尽くしてくれたものよ。太
閤殿下の死後、高虎は冷静に文治派と武断派の対立を観察し、天下は必ず乱
れると踏んだ。わしも、そう思うておった。わしが手を下さずとも、やがて
内紛が起こり、豊臣の天下ゆらぐは必定、とな。
しかし、それを見抜けぬ凡将には、わしに擦り寄る高虎が、変節極まりな
い男に映ったのはやむを得ぬことであろう。高虎の名誉のために申し上げて
おくが、あやつは細君や家臣をとても大切にする男じゃ。自身、命を張って
主に仕えても報われぬ時期があったために、おのれを支える妻や、家臣たち
にはそのような思いはさせぬという気持ちが強かったのではないか。その家
臣たちのためにも、身の処し方を誤ってはならぬと考えるは当然。それでわ
しに擦り寄った。しかし、擦り寄った以上、それ以後はずっとわしの譜代の
臣にも劣らぬ働きをしたものである。
土壇場で豊臣を見限ったものどもより、よほど潔いではないか。
わしらも、三河松平の時代、織田と今川に挟まれて苦労したものじゃ。生
き残るためには多少のこともやむをえぬであろう。真田信幸もそうじゃが、
誠の心を持って降ったものに辛くあたるほど、わしも鬼ではない。
高虎は、大坂夏の陣で、もっとも過酷な戦場となるであろう地に布陣し、
不利を承知で軍をすすめ、股肱の重臣ふたりを戦死させた。わしの死後も、
我が孫・和子が入内するおりに露払いを務め、反対する公家どもの前で「通
さねば切腹する」と啖呵を切って場をおさめたものじゃ。
わしの目に狂いはなかった、いまでもそう思うておる次第じゃ。
23 :
いへやす ◆oKRwLClyb2 :2006/01/21(土) 13:58:37
さて。
自作自演はわしとて苦手ではないが、この辺でひとつ浮上してみるかの。
いへやすさんがその生涯で一番肝を冷やした出来事はなんですか?
25 :
以上、自作自演でした。:2006/01/21(土) 21:28:04
高天神
>24
我が生涯は、肝を冷やしっぱなしの日々でござった。
幼少にあってはいかに今川義元どのの機嫌を損なわずにおるか。長じて
はいかに織田殿との同盟を固く維持しつつ、武田の脅威をかわしていくか。
太閤さまに降ってからは、大大名としていかに警戒されないよう振舞うか。
人生は重き荷を背負うて長い道をゆくが如し――
腹の底からくつろいだことなど、生まれてこのかた、殆どござらん。
三方が原、関が原の秀忠の遅参――いろいろござったが、そのなかでも、
とくに肝を冷やしたといえば、本能寺の変の直後の、伊賀越えであろうか
の。内政や外交のことであれば、熟考して手を打つことができるが、あれ
は青天の霹靂であったからの。まさか三河まで生きて戻れるとは、思うて
なかった。いちじは腹を裂いて織田殿の後を追おうかと、そこまで思い詰
めたものじゃ。
されど、一番辛かったのはやはり、織田殿に長男信康の切腹を求められ
たときじゃな。あのことだけは、未だに思い出すと悲しくなる。我が妻・
築山とて、ああいう女ではあっても夫としての情は持ってござった。され
ど口惜しいかな、我が徳川はもはや、織田殿との友好なくしてはやってい
かれぬ状況であった。
いやいや、泣き言を連ねてもいけませぬな。次へ参りましょうかの。
>25
高天神と申すと、武田勝頼との攻防を思い起こしまする。
勝頼めは我が領地にたびたび攻め寄せてきおったが、それもまあ仕方の
ないことではあった。先代・信玄より「陣代」とされ、正式に跡目にされ
た訳ではのうござったから、家臣団を上手くまとめていく為には外征を企
てる以外にない、という側面があり申した。敵を求めるは、国をまとめる
常套手段でござる。周辺国のなかでは、我が徳川が一番弱体であったしの
う。
が、それゆえに戦の見とおしも立たぬまま我が領内に攻め入ってくる。
さすがは名高い武田勢、猛攻には悩んだが、年中戦をしている訳にもいか
なくなる。撤退したのちに、こちらは少しずつ取られた砦を取り戻す。そ
うしているうちに武田は疲弊し、最後には外征を起こす財が乏しくなって
きおった。しまいには、「高天神を制す者は、遠江を制す」と言われた高
天神を兵糧攻めにしても、武田は援軍を出せぬ有様。
勝頼めの面子と、武田の武名は丸潰れでござる。武田には、散々煮え湯
を飲まされたものだが、あれで風向きがいっぺんに変わったものじゃ。
おっちゃんレス長いよ
読むのマンドクセ
ゴメンいへやすまでしか読んでない
>28 >29
老人の話は、昔から長くクドいと決まっておる。
しかと心得よ!
31 :
以上、自作自演でした。:2006/01/27(金) 17:01:39
若いうちの苦労は買ってでもしろと申しますが、
上様には無用の言葉ですな
寒い国にお住まいのとある大大名がインタビューに答えてくれました
「ええ、それはもう酷いものですよ。百万石くれるっていうから張り切って上○勢と
戦ったのに、いざと終わってみると六十五万石、おまけに抗議しにいったら
家臣が出てきて証文燃やしちゃうんですよ。いくらなんでもあんまりだと
思いませんか。しかも先祖伝来の土地から引き離されるわ、しかもよりにってその土地を
戦った相手に渡しちゃうんですからねぇ。ありゃあとんだ悪党ですよ。ええ。
嘘つきの腹黒狸。あ、そうそう最近ハマッてることは笛でしてね(後略)」
他にも天下分け目の合戦後、『約束が違う」という不平の
声は天下にみちみちており、大御所徳川家康をなじる声
(九州にお住まいの加○氏など)は後を絶たない。
彼の天下確立には、口にするのもはばかるような陰湿極まりないものをたっぷり
含んだ、薄汚いものだったようだ。、大坂の豊臣家との確執も噂され、
今後の動向が注目される。
一六○三年 ルポライター 風魔小太郎
>31
ふむ、買うまでもなく苦労だらけであったからの。
しかし、わしに厭味を言いにくるなら、もそっと頭を捻らぬか、このわっぱめ(藁
>32
片目のあの男でござるな。まったく手の込んだことをしおって。まあよい。
こんなことが、あった。
秀次どのが太閤殿下より切腹仰せつかり、秀次と親しかった政宗は殿下のご不興を蒙り、
伊予へ転封を申しつけられた。そこで伊達の重臣がわしのところへ参り、知恵を貸せという。
うぬらの主は腰抜よと、わしは叱咤してやったわ。ま、いくらか助言はしてやったがの。
それで意を察したのか、政宗は大坂の屋敷を武装した兵で固めさせた。
そこへ、太閤殿下の使いが現れた。物々しい空気に気圧された使いは、客間に通され、
そこでさめざめと涙を流す政宗と対面しおったわけじゃ。
政宗曰く、
「ご覧のとおり、家来どもにはよくよく太閤殿下のご恩を語り、道理を説き伏せておりますが、
言うことを聞かず困っております。父祖伝来の地を離れるくらいなら、腹を切れと私に言う
のです」
そこで使いは血相を変えて、太閤殿下にことの顛末を報告する訳じゃ。とうぜん、その傍
にはわしがおる。
わしは殿下に、こう言上いたした。
「まったくけしからぬことでござる。太閤さまがお許し下さるなら、それがしが兵を率いて
伊達の屋敷を静めてまいりましょうぞ。されど、政宗は殿下に二心ないようでありますし、
それがしが兵を率いて衝突になれば、伊達は立つ瀬なくなり、奥州でまた戦になりましょう。
ここはひとつ、大目に見てはいかが」
すると殿下は、
「ふむ。内府のとりなしであれば、聞かぬわけにはいくまい」
と、こうなった訳でござる。
政宗め。うぬの倅、秀宗には、分家として宇和島をくれてやったであろう。あまりに禄高を
増やしても、前田のように睨まれて気苦労が増えるだけぞ。悪いことは言わぬ、我慢いたせ。
34 :
以上、自作自演でした。:2006/01/28(土) 19:54:47
名スレ
本能寺の変の黒幕説があるがどうでしょうか?
鳥居忠吉殿について
思うところを語ってくだされ。
36 :
以上、自作自演でした。:2006/01/28(土) 21:30:55
関が原の前に蒲生氏郷が死んだことは
大きかった?
小牧・長久手の戦い
三方原の戦いは大好きだ
日海と鹿塩利玄の勝負が三コウだったって?
国家アンコウ
夏の思い出として印象深かった体験は?
|林| _ .|風| |林|
「と、殿!大変です、武田騎馬軍団が |火| |風| .|林| |火|
>>41getしました!!」 |山| |林| |火| |山|
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|火| |山|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚ )|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
||` || ( | ( |(´⌒(´ ||` || ( | ( | (´⌒(´⌒;; (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
【疾如風】武田騎馬軍団is戦国最強!【徐如林】武田騎馬軍団is戦国最強!
【侵掠如火】武田騎馬軍団is戦国最強!【不動如山】武田騎馬軍団is戦国最強!
徳川
>>1え康 クソ漏らしてんじゃねーよ(クセー!
長宗我部く
>>2親 土佐にヒキコモってんのか?(藁
今川
>>4し元 織田のうつけに討ち取られてんじゃねーよ
尼
>>5経久 陰険な手つかってんじゃねーよ友達できねーぞ(プ
>>6角承偵 戦国時代に反骨サヨクか?笑わせるね(ププ
山
>>7豊国 おまえ弱すぎ。月山富田城が泣くぜ(藁々
畠
>>8ま義慶 おまえいたの?
朝
>>9ら義景 プライドのワリに実力が伴ってねーな(藁
>34 名スレ本能寺の変の黒幕説
すまぬ、わしは二ちゃんねるに不案内での。もしよければりんくを張ってもら
えまいか。ざっと眼をとおしたのちに然るべく見解を述べるといたそう。
>35 鳥居忠吉殿について思うところを
忠吉か。わしが愛する典型的な三河者よ。
わしが幼少の頃、駿河に人質としておった頃、今川の代官の目を掠めて倹約に
努め、我が家のために財を蓄えてくれた。
桶狭間のあと、岡崎に入ったときのことは今でもよう覚えておる。
今川は我が岡崎に重い年貢を課し、戦ともなれば我が松平の侍を捨石のように
使う。それゆえ、わしが三河に戻ってくれば必ず暮らし向きはよくなると、忠吉
を始めとする家臣たちは思っておった。
群を為した武士や百姓どもは、馬上のわしを見て大泣きじゃ。
岡崎城に入ると、こんどは忠吉たちがわしに見せたいものがあるという。爪に
火を灯すようにして蓄えた軍資金じゃ。
期待と責任の大きさ、それに家臣たちの有難さを思って、わしは言葉が出なか
ったわ。
「忠臣の子は忠臣」と申すが、平八郎忠勝を見ても、鳥居元忠を見ても、まこと
言い得て妙、と思う次第じゃな。
>36 関が原の前に蒲生氏郷が死んだことは大きかった?
関が原は元々、勝ち軍となるよう万全を期しておった。それが秀忠の遅参、思
いも寄らぬ石田勢の奮闘、そして小早川秀秋の逡巡ときて、先が見えのうなった。
結局、皆が知ってのとおりの結果となったが、一時はどう転ぶか分からぬところ
まで行きおった。
孫子も申しておるが、戦というものは目的を絞り、勝つ見とおしが立って初め
て起こすものぞ。博打ではない。されば、氏郷が生きておればそれに基づいて見
とおしをたてるのみ。いなければいないで、手を打つ。それだけのことよ。
むろん、織田殿が見込むだけあってなかなかに天晴れな男ではあったがのう。
しかし、一〇〇万石の大名は扱いが難しいともいえる。あまりに大きな大名を残
すと、相対的に幕府が安定せぬ。従って、是非とも削らねばならんが、関が原か
ら味方されては削る理由を見つけるのが一苦労じゃ。
>37 小牧・長久手の戦い三方原の戦いは大好きだ
ふむ。小牧長久手は、わしの政略の極みと言えるであろう。はったりを交えつ
つ背後の北条を宥め、今だ織田殿の後継者として安定せぬ羽柴の足許を叩き、長
曽我部・佐々などの勢力を煽動しつつ、貝のように守りを固めて長期戦に持ちこ
む――
あの頃は、羽柴殿はいかに織田殿の後継者として自分を周囲に見とめさせるか
が最大の課題であった。それゆえ、わしを滅ぼすというより、従えたいと思って
おった。わしは織田殿と、表面的には対等な同盟者であった。そのわしが羽柴の
臣下になるとなれば、羽柴殿にはいやがおうにも箔がつく。
そのあたりを見据えての、政戦おり交ぜの駆け引きよ。
しかし、そこもともツウじゃのう。わしは嬉しいぞ。
天ぷら
抹茶塩
秀忠の遅参は徳川譜代の家臣を温存する為の策略とする説がありますが
本当の所はどうなんですか?
後、父親の目で見た秀忠像をお願いします。
不肖の息子か、案外の出来物か。
歴史おしえてください><
愛ってなんですか><
>38 日海と鹿塩利玄の勝負が三コウだったって?
さよう、申すのう。
本能寺の変の、前夜のこと、両人が織田殿のまえで囲碁を打ち、三コウになり
引き分けとなったそうじゃ。わしも見た訳ではないので、実際のところは分から
ぬが、あれ以来三コウは不吉ということになったらしい。
譲れぬコウであればこそ三コウになったのであろう。さて、その譲れぬコウを
さておいて他の場所を打ち、再びコウができて初めて三コウになるのじゃと思う
が……。
果してそううまくなるものか、わしには良くわからぬ。
>39 国家アンコウ
わしが大坂に因縁をつけるための口実じゃな。鐘の銘じゃ。
さよう、これはただの屁理屈でござる。されど、重要なのは「いへやすが屁理
屈で豊臣に因縁をつけても、通ってしまう」という事実を衆目に知らしめる事ぞ。
これで、徳川と豊臣の力関係が明確になる。それこそが狙いなのじゃ。
されど、わしもちゃんと豊臣方に条件は出した。淀どのを人質として江戸に差
し出すか、国替えに応じるのであれば、攻めぬとな。
つまり、豊臣が他の大名に倣い、徳川将軍家の臣下に甘んじるつもりであれば、
太閤殿下に義理だてする意味も含めて、豊臣を温存してやってもよいと、わしは
思っておった。
しかし、将軍の権威と並立することは断じて認められぬ。
江戸幕府を長く保つためには、避けられぬ道であった。
>40 夏の思い出として印象深かった体験は?
幼少の頃、今川に送られる途中で姦計にかかり、織田に送られたときのことよ。
信長どのには、よう遊びにつれていってもろうた。どういうわけか、織田殿は
わしを実弟のように可愛がってくれてのう。夏の日差しの下、瓜を頬張りながら
水練や相撲を楽しんだものじゃ。
>41 「と、殿!大変です、武田騎馬軍団が
>>41getしました!!」
あな恐ろしや。このいへやす、震えて布団に頭からもぐりこむばかりよ。
されど、じゃ。
糞を漏らそうが何であろうが、この乱世――
最 後 の 最 後 に 笑 っ た の は わ し だ が の ( 藁
>44 てんぷら >45 抹茶塩
ふむ、てんぷらは大好きじゃ。鯛のてんぷらは幾らでも入るわ。からっと揚げ
たてを、こう、抹茶塩をちょいちょいとつけての――
ああたまらぬわ。口のなかが唾液でいっぱいじゃ。
夕餉の準備はまだかの。
されど、わしの名誉のために言うておくが、わしがてんぷらに当たって死んだ
というのは、断じてデタラメぞ。大御所がてんぷらの食べ過ぎで死んだなどとな
ったら威厳に欠けるからと、土井利勝や本多正純が胃の病をでっちあげたのでは
ないぞ。重ねて申すが、わしの死因はてんぷらの食いすぎではない。
そもそも、質素倹約を旨とするわしがてんぷらなどという贅沢品の食いすぎで
死ぬわけがなかろう。重ね重ね申すが(略
暴れん坊将軍について一言どうぞ。
52 :
以上、自作自演でした。:2006/02/02(木) 20:56:51
W
53 :
中村一氏:2006/02/04(土) 03:42:03
内府殿・・・・・・お頼み・・・お頼みもうす
一忠を・・・・お頼みもうす・・・(げぼっ)
54 :
以上、自作自演でした。:2006/02/04(土) 03:45:58
佐々成政がさらさら越えで会いにきたときは
さすがに驚きました?
困った程の律儀者をあなたがいった佐竹義宣について
詳しい評をお聞かせ願いたい
>46 秀忠の遅参は徳川譜代の家臣を温存する為の策略とする説
いや、それはありえぬ。関が原では、勝つか滅びるかのふたつにひとつじゃ。温存しても
関が原で敗れれば、何の意味があろう。
真田や九鬼のように、生き残りを模索して親子兄弟で反目する格好を取った者もおるが、
そういう策が許されるのは、かの者どもが小大名であるからじゃ。衆を率いる立場にあるわ
しが半端なことをすれば、わしに従って上杉討伐に立った者たちの間に動揺を走らせること
にしかならぬ。
秀忠めは、真田昌幸の策にハメられて深入りしたのではなかろうか。昌幸めは恐らく、真
田家中において豊臣につくか徳川に降るかで動揺が走っており、大軍で寄せれば徳川に降る
べしという意見が大勢をしめるだろうという偽情報を流したのであろう。そこで秀忠どもは、
簡単に真田を降せると思い込んでしまった。ところが気付けば、神出鬼没の真田勢に山中で
脚止めを食らい、にっちもさっちもいかなくなった。
遅参の言い訳など聞く気にもなれんかったが、実態は、こんなところであろう。
>後、父親の目で見た秀忠像をお願いします
徳川の跡目を決めるうえで、いろいろと家臣たちにも議論をさせもしたが、わしがこやつ
を後継ぎに選んだのは、とにかく家臣の話によく耳を傾け、熟考する性格だからじゃ。知略
にも武勇にも、ことさら優れている訳ではないが、それゆえにこういう性格の者は大きく道
を踏み外すことがない。
といっても、関が原ではあの様だったがの。ま、よい薬にはなったであろう。
おのれの才を見極めた者は、成功を収めたいというより、失敗したくないという気持ちが
強くなるものよ。とはいえ、戦国武将たるもの、土壇場に追いこまれるとそんなことを言っ
ていられなくなるものじゃが――。
結局、家を背負うという気概において、わしに頼っておる部分があったのじゃろうな。
いずれにしても、わしは眼の黒いうちに、秀忠が当主であっても無難にやっていけるだけ
の基盤を固めるつもりでおったのは確かじゃ。
>47 歴史おしえてください
わしなりに政略的な観点から歴史を解説するのは構わぬが、試験でよい成績を修めたいな
ら、わるいことは言わぬ、学校や塾の師範に尋ねるがよろしかろう。ここでは恐らく、試験
になど出てこぬようなことしか話さぬじゃろう。
>48 愛ってなんですか
これまた漠然とした問いじゃのう。おなごへの愛、家臣や領民への愛、てんぷらへの愛と
いろいろあるが……。
わしは遺言に、こう残しておる。
天下は個人のものではなく、天下のものである。ここのところを我が子孫が思い違いをし、
よい政治をしなくなったら、誰でも取って代わって世を治めるがよい。このいへやす、望む
ところであり、恨みに思うことはない――
これがわしなりの子孫、幕臣、領民への「愛」の表現じゃ。
つまるところ、善を望むがゆえ無私に至るものこそ、愛ではないかの。
>51 暴れん坊将軍について一言どうぞ。
光圀にしてもそうじゃが、あれが物語ではなく本当のこととすれば、両者とも暗君と言わ
ねばなるまいの。領主たるものが世直しをするなど、言語道断。領主は、左様なことなど必
要ない世を実現するために、政治に真剣に取り組むのが本道であろう。
あれでは、領分をおかされる江戸の町奉行の面目を潰し、側近衆にいらぬ心配をかけるこ
とになる。実際、将軍が直々に世直しなどすれば、将軍に左様なことをさせた町奉行は腹を
切らねばなるまい。
ま、それはそれとして楽しめばよいのではないか。どうせなら光圀の代わりにわしを主人
公にしたほうが面白かろうて。あるいは、
(大御所兼)火付盗賊改方、徳川いへやすである! 風魔小太郎、神妙にお縄につけぃ!
……これもこれで、なかなか盛り上がるのではないか。
若さってなんですか?
なじぇに乱世の雄はオトコスキーなのでござろうか
>52 W
あげ、大儀である。
>53 中村一氏/一忠を・・・・お頼みもうす・・・(げぼっ)
そのほうがわしの抑えとして、太閤殿下より駿河に封じられ、わしをいろいろと牽制
してくれたことはもう水に流しておる。案ずるでない。
さあ、休むがよい。
(……すまぬが、しかと引きうけた、とは言わぬぞ。特別扱いはできぬ。しかし、落ち
度がなければ取り潰すようなことはせぬぞ)
>54 佐々成政がさらさら越えで会いにきたときは
おお、驚いたぞ。会わずに帰らせることも考えたが、あの雪山を越えてきたとなれば、
会わぬというのも酷い話でござろう。
客間に通したが、佐々どのはやつれて、鬼神のような形相でござった。
時節というものがあり、いま羽柴ととことんまで敵対する愚をわしなりに誠実に述べ
たつもりであったが、成政どのは釈然としない様子であった。わしは思った。この男は、
羽柴どのを憎悪するあまり、家来や領民のことが見えておらぬ、とな。聞けば、帰国後、
可愛がっていた側室のひとりを、密通疑惑についてよく詮議もせずに処刑したという。
心の均整を欠いておったのじゃろう。
後に佐々どのは、太閤殿下より切腹仰せつかったが、辞世の句が印象的であった。
このごろの厄妄想を入れおきし鉄鉢袋いま破るなり
言わんとするところ、率直かつ明瞭であり、武骨な佐々どのの人柄がよう表れておる。
厄妄想とは、太閤殿下への燻るような嫌悪がもととなった、どろどろした感情のこと
であろう。腹を捌いてその思いに蹴りをつけようという、じつにさっぱりした気持ちが
手に取るように伝わってくる。
自ら厄妄想というくらいであるから、道を誤った自覚はあったのであろう。愛妾を感
情のまま処刑したことも、悔いておったに違いない。
信玄公が、「情けは味方、仇は敵なり」と申したが、いやはや。
>55 佐竹義宣について詳しい評をお聞かせ願いたい
鬼義重の倅であるな。
常陸佐竹は、従来より北条と伊達の間に挟まれて、危急存亡の憂き目をみておったが、
太閤殿下の関東攻めにいち早く参じ、その庇護を得て常陸五十四万石を固めた。それ以
来、石田治部と篤い親交があって、治部が襲撃されたおりにも、
「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」
と高言し、義宣はこれを救った。
古田重勝が義宣に、
「治部どのを救ったことについて、内府に弁明されたらどうか」
と尋ねたところ、義宣は、
「公命に背いていない治部どのを討とうとは、私怨に過ぎず、私はそれを救ったまで」
と答えた。もとより義宣の言い分にまったく非はないし、むしろわしはその分別と律
儀ぶりに感じ入った次第よ。それに、ここで三成を討たれてしまっては、豊臣が半端に
まとまってしまう。わしが機嫌を損ねるはずもない。
斯様な男は、腹も据わっており、頭も切れる。敵方にあっても信頼できるものよ。ま、
関が原ではどっちつかずだったゆえ、秋田に移封させたが、切支丹の禁教など幕政にも
忠実であった。殉死を早いうちから禁じたように、家臣を慈しむ男でもあった。
大英帝国の基礎を築いた
エリザベス女王をご存知ですか?
アダムス殿の故国の元首ですが。
64 :
以上、自作自演でした。:2006/02/06(月) 00:10:08
直江の手紙にはまじめにむかつきましたか?
65 :
以上、自作自演でした。:2006/02/06(月) 00:13:46
最上義光と会見した印象はどうでしたか?
おっと、こんなところに村正がいっぱい。
一つ一つ順番に抜いて振り回してみようかな
ぎゃー
68 :
以上、自作自演でした。:2006/02/06(月) 15:46:19
結城秀康を疎んでいた件
三方が原の戦いについて
武田騎馬隊って恐ろしかったですか?
そのとき絵師に描いてもらった絵について、改めてご本人から感想をお願いします
あ、あともう一つ。焼き味噌っておいしいんですか?
難波のことも夢のまた夢
71 :
以上、自作自演でした。:2006/02/06(月) 21:26:43
徳川四天王の中でも最長老であった酒井忠次の晩年の処遇は
些か不憫と存じます。
やはり信康事件の際、弁明をしなかったからですか?
殿、竹製のキーボード「竹千代」が発売されるそうです。
73 :
以上、自作自演でした。:2006/02/07(火) 03:49:21
内府殿と親しい仲で東軍有利を悟りながら
石田光成公との友情のために
あえて西軍につき散っていった大谷刑部殿について
コメントを
74 :
松平忠輝:2006/02/07(火) 12:19:09
父上は、それがしがお嫌いなのですか!
それならば、いっそのこと切腹のご命令を賜りたい!
75 :
千姫:2006/02/07(火) 14:48:15
だって、坂崎きもいんだもん
>58 若さってなんですか?
うむ、何であろうのう。
夢を持ち続けることが若さ、とも言うが、わしはそうは思わぬのじゃ。わしなど、
若い頃は領主としての責務を果すことしか考えておらんかった。わしや松平を取り
巻く情勢を考えれば、生き残ることを考えるだけで精一杯であった。
されど、夢を持たぬからといってわしが死んだ魚のような眼をしていたとも思わ
ぬ。
艱難辛苦のなかであろうと、夢を目指そうと、一生懸命生きるということが、若
さなのではないかの。
>59 なじぇに乱世の雄はオトコスキーなのでござろうか
織田殿しかり、武田信玄しかり――なるほど乱世の雄に衆道をゆく者は多いよう
じゃな。
わしに衆道の趣味はないのでよう分からぬが、己を愛でるという延長にあるのや
もしれぬ。
織田殿は若くは前田どの、往年は森乱丸などを相手にされたそうじゃが、いずれ
も機転や気性の荒さなど織田殿に似たところがあったし、信玄も高坂弾正のような
立派なもののふを好んだゆえ、自己愛という線はありうるやもしれぬ。
乱世になると、良くも悪くも人間は活気付くものぞ。苦難のなかで底力が湧く、
とでも言えばよいのかのう。とうぜん、人の気性も荒くなる。おなごのようなたお
やかな相手では、昂ぶる感情に響くものがないのやもしれぬ。
とはいえ、憶測の域を出ぬのう。あい済まぬ、よう分からぬわ。
>63 大英帝国の基礎を築いたエリザベス女王をご存知ですか?
三浦按針より、いくらか話は聞いておる。ちょうどわしが幕府を開いた年に亡く
なったそうじゃの。英国が西国の無敵艦隊を破ったときの女王として名高いが、わ
しはそれより、政争を避け、婚姻話を外交に活用するために生涯独身を通したり、
切支丹宗派の対立をまとめたり、スコットランド王を後継に指名して英国とスコッ
トランドの統合を果したりなどの鮮やかな手腕に驚くばかりじゃ。
まったく、おなごとは思えぬ。
国運まさに盛んとなる時期に斯くの如くの名君を持った英国の民は、その幸運に
謝せねばなるまい。
>64 直江の手紙にはまじめにむかつきましたか?
いや、ここだけの話じゃが、実際には釈明が並んでおった。あれはわしに当てた
ものではなく、西笑承兌へわしへのとりなしを頼んだものじゃ。だいいち、わしを
挑発するつもりなら、わし当てに送るであろう。有名な直江状は、後の世の創作ぞ。
が、戦に持ち込むには激怒して見せ、証拠隠滅も兼ねて上杉からの返答の書状を破
り捨てるしかない。書状の内容が諸将に知れれば、先ず詮議すべしという論に傾き
かねず、それでは戦に持ちこめぬ。
これくらいのことは、この狸親父、平然とやるぞ。はっはっは。
そもそも、三成の挙兵は追い詰められてのうえでのことよ。わしが上杉討伐を為
し終えたら、ますますわしの基盤は固くなる。するとどうじゃ、三成は余計に不利
になる。挙兵するには、上杉討伐が最後の機会であったのよ。
石田と上杉が組んで、わしを挟み撃ちにしようとしたのではない。わしが動いて、
石田に挙兵せざるを得ないようにさせたのじゃ。そこのところは勘違いしてはなら
ぬ。左様、であるから、石田と上杉は連携しておった訳ではない。
直江状の創作については、斯様な事情がある。山城守は、上杉家において、景勝
をたぶらかしてわしに敵対せしめた張本人のように思われており、長いこと奸臣あ
つかいであった。上杉も幕府への忠誠をそういった形で示さざるを得なかったので
あろう。だが、太閤殿下から与えられた米沢三〇万石をそっくり景勝に献上し、五
万石の俸禄を返上した男が、奸臣である訳がない。それに、わしの友――正信の覚
えもめでたい。直江山城守は、正信のような切れ者が認める男じゃ。そのことだけ
は、申しあげておこう。
待たせてあい済まぬ。多くの質問を頂戴し、ありがたきことじゃ。順繰り答えて
ゆくゆえ、暫し猶予をくだされ。
79 :
以上、自作自演でした。:2006/02/07(火) 20:51:03
吉川広家と毛利輝元公の評を
広家は忠臣だと私は思うのですが
おしのー
たぬきじじいですか
永田徳本が長生き過ぎる件について
83 :
以上、自作自演でした。:2006/02/08(水) 11:01:17
穴山梅雪は本能寺の時、三河殿をかばって死んだ
奸風発迷
hosyu
86 :
以上、自作自演でした。:2006/02/11(土) 03:27:47
安国寺恵瓊はさすがに殺さなくてもよかったのでは
>65 最上義光と会見した印象はどうでしたか?
最上義光というと、これも秀次どの切腹のおりの話になるが――
義光は娘を秀次どのの側室に入れておったが、裏目に出た。太閤殿下は、秀次の
子種を絶やすという意味じゃと思うが、側室すべてを処刑するよう命じられた。
最上より、わしの元にも書状が来た。何とか娘を助けて欲しい、とな。されどわ
しも、最上の転封や改易を免れさせるのが精一杯で、娘のことまではどうもならん
かった。
長谷堂城の戦いにおいて、寡兵をもって上杉軍を退けた功績をもって、わしは最
上を奥州出羽五十七万石に加増してやったが、返礼として義光が江戸に出てきた。
その折の会見のことが記憶に残っておる。
どうも浮かぬ顔をしておるので、事情を聞いたところ、嫡男義康との折り合いが
悪く、跡目に悩んでおるということであった。恐らく、最初から腹は決まっておっ
たのだろうが。万が一、お家騒動のようになると領地召し上げということもあるか
らのう。じゃから、手柄を立てたところでそれとなくわしに切りだしたのじゃ。
世継ぎを決めてくれ――つまり、わしが世継ぎを選ぶとなれば反対する家臣を抑
えやすかろうし、またわしにも推した後継ぎの面倒を見る義理が生じるわけじゃ。
わしは義光の見えすいた芸に、内心で苦笑したものじゃが、とはいえその苦労は分
かるので、わしの小姓をしておった義光の次男の家親をはっきりと推した。
義光というと、近隣の豪族にたいして暗殺や調略を繰り返したことで知られるが、
当時はあれが普通であった。毛利元就公も、井上元兼の一派を誅殺しておるし、信
玄公は粗暴の父を国外に追放した。大名の権限の強化をせねば、生き残れぬ時代で
あった。ゆえに、わしはそう義光を色眼鏡でみることもせなんだ。
領内の開発にも熱心な男で、なかなか人望もあるようじゃった。義光が死去した
おりには多くの家臣が追い腹を切ったそうじゃ。
>66 村正がいっぱい〜振り回してみようかな >67 ぎゃー
これ、冗談はよさぬか。このいへやす、冷や汗をかいたぞ。
村正については、わしよりも家臣たちのほうが神経質になっておったのう。名君
として名高かったわしの祖父、清康公を死に追いやったのも、また父の広忠が討た
れたときも、そして築山と信康の首を落したのも村正であったが、単に、名工とし
て出まわっていただけの話じゃ。
ちなみに、平八郎忠勝の蜻蛉切は村正であった。道具は道具に過ぎず、使い方の
問題ということであるな。
>68 結城秀康を疎んでいた件
秀康を疎んじたのは、多くは内政的配慮からであった。あやつには済まぬとは思
うが、わしは父であるまえに徳川の当主である。御家騒動の芽を摘むには、信康と
秀康への違いをはっきりと別けたほうがよい――とはいえ、秀康が幼少の頃は築山
の嫉妬でなかなか会う訳にもいかなかったことも素直に認めようぞ。
長じて豊臣の養子に入れてからは、秀康を厚遇することは親豊臣という旗色を示
すことでもあり、天下を狙うには得策とは言えぬという事情があった。秀康自身、
豊臣になにかあったときには秀頼の元に真っ先に参ずる、と言うくらいであった。
このような話を聞いた。
あやつが馬を駆けさせておると、太閤殿下の家来が競ってきたらしい。競争しよ
う、ということなのであろうが、あやつはそれに激怒し、殿下のご家来を問答無用
で斬ってしまった。これを聞いた太閤殿下は、「いやあっぱれ、秀康はわしの子で
あり、それに競りかけるほうが言語道断」として事無きを得たが、わしは呆れかえ
ったものじゃ。己が地位を傘に着て、わしの実子でありながら殿下の養子であると
いう微妙な立場を弁えぬ、この粗暴な振舞い――
昔から、秀康のそういうところにわしは眉をひそめておった。
たまには保守
最近は冷えますな
91 :
以上、自作自演でした。:2006/02/13(月) 20:23:03
真田幸村と鬼島津と武田騎馬軍団
一番怖かったのは?
92 :
以上、自作自演でした。:2006/02/14(火) 21:12:32
最初関八州は名人久太郎に任せるはずだったみたいですね
93 :
以上、自作自演でした。:2006/02/15(水) 19:12:16
94 :
高杉晋作:2006/02/18(土) 09:42:36
三千世界の烏を殺し〜♪
主と朝寝がしてみたい〜〜♪
後世の学者の中には、江戸は風水の地相観にもとづいて作られた都市だという説を唱える人がいます。
江戸の所在地はいわゆる「四神相応」に適っているだのなんだの…
天海僧正が寛永寺や輪王寺の建造を進言したのも、「鬼門封じ」のためだとかなんとか…
しかし、権現様や僧正がそういう意図を持って都市造営を行ったと証明できる文書は、どこにもないわけで。
本当のところはどうなんでしょうか?
hahaha
97 :
アホ糞:2006/02/25(土) 15:28:59
権現様。人生に何回SE●しましたか?
>69 三方が原の戦いについて、武田騎馬隊って恐ろしかったですか?
武田軍というと騎馬隊が有名であるが、それよりも信玄公の手足の如く動くその統制が
脅威であった。二俣を抜いた武田勢が浜松へと向かってくるかと思うと、突如西へと進路
を取ったのは、そこもとたちもよく存じておろうと思うが、あのとき急追すれば我が軍に
も利はあるとわしは乾坤一揆の勝負に出たが、完璧に裏目に出たわ。それも、あの高い統
制にやられたようなものよ。信玄公は常識外のこと――つまり荷駄部隊を先行させ、行軍
体形(つまり縦長じゃな)の後部に行くに従って戦闘力の高い部隊を配しておった。それ
に気付いたときにはもう合戦は避けられぬ状況であった。
というのも、信玄公のそれは、高い統制を前提とせねば成立せぬ策なのじゃ。軍という
ものは一度崩れるとあっさりと壊走してしまうものでの、敵地を進軍しつつ我が手勢に背
後から急襲されるとなれば、一歩間違えれば軍内に恐慌が起こることもありうる。それな
のに、武田勢はものともせずに完璧な統制をもって迅速に陣容を整え、迎撃の準備を済ま
せおった。
長篠の合戦のおりにも、武田勢は堀と柵に無謀ともいえる勇敢さを発揮して突撃してき
おったが、それを見れば武田勢がどれほど統制の取れておった軍か、よう分かるであろう。
一騎討ちの猛者など怖くはないが、あの統制は恐ろしかったぞ。
>そのとき絵師に描いてもらった絵について、
三方が原はそもそも論になるのじゃが――弁解させてもらえれば、あそこでわしが戦に
出ねば、遠江や奥三河の豪族たちは雪崩をうって武田に寝返ったことであろう。いったん
岡崎に引いて織田どのの本格的な援軍を待つか、浜松に篭って信玄めをやりすごし、背後
を脅かせばよいというのはよく分かっておったが、わしも若かったし、遠江を切り取った
ことで慢心もあった。
あの戦でわしが学んだのは、「駄目なものは駄目」ということじゃ。捨てるべきを捨て
ず、考え尽くすべきを考えず、安易な見積で戦に訴えて多くの忠臣を死なせた。あの絵を
描かせたのは、楽しようと考えたり、問題の解決を時の運に任せるということを今後一切
やらぬという決心よ。
あの情けない顔――あれはいつ見ても、身の締まる思いになる。
>焼き味噌っておいしいんですか?
かように知りたいのであれば、「溶けた焼き味噌」をそこもとに食わせてしんぜようか?
いや、冗談じゃ。そう青い顔をなさるな。はっはっは。
念の為、言うておくが、あれは負け戦に気落ちしたわしを励まそうと家来が(略
>70
太閤殿下の辞世の句であるな。よくもわるくも、太閤殿下らしい句じゃ。
しかし、晩年の殿下はどうにも精彩に欠いておったの。秀頼さまのことしか見えておら
ぬといった風で、諸大名の力を削るために朝鮮出兵などという暴挙に及んだ挙句にわしら
五大老に泣きつく有様。
かようなことではどうにもならぬと分からぬ太閤殿下でもあるまいに。
あるいは、どうにもならぬと分かっておったからこそ、泣きつくしかなかったのやもし
れぬのう。
遅うなってあい済まぬ。ついでに百頂戴仕る。
ワタシハ ロボットダ
ウソダ
102 :
以上、自作自演でした。:2006/03/01(水) 18:34:32
心配した、お帰り。
俗にいう真田幸村の評を
104 :
松平清康:2006/03/09(木) 06:26:34
上げじゃ。
三倍返しマダー
106 :
以上、自作自演でした。:2006/03/18(土) 15:09:16
後世であなたはグズ、のろま、狸オヤジと呼ばれています。
>71 酒井忠次の晩年の処遇は些か不憫と存じます。
さよう、他の四天王に十万石前後の封地を与えたのに対し、筆頭家老の立場であった
忠次のせがれ家次には二万石――これではあまりに、ということであるな。確かにそこ
もとの申されるとおり、信康切腹のことについてわしにも釈然とせぬ部分がなかった訳
ではない。いかに織田殿との絆を第一にせねばならぬとはいえ、御用聞きではないので
あるから、織田との折衝にあたった忠次にはもう少し働いてもらいたかったものよ。
外交というものは、硬軟おリ交ぜてこそよ。簡単に承知するのではなく、
「わが殿は織田さまを大事に思うておりますれば、一も二もなく信康さま築山さまに死
を賜りましょうが、家中に織田さまへの恨みが生じ、こうした話を飲む主家康を軽んじ
る風潮も出てきかねませぬ。武田につくべしなどと言い出す不埒者が出ぬとも。いまは
武田との大事ゆえ、処分をいましばらく待っていただく訳にはまいりませぬか。その間
に、よく詮議して確たる証拠でも出れば、家中の者どもも納得いたしましょう」
こうして処分を一時預けておけば、織田殿は、徳姫の讒言であろうと冷静になること
もあったやもしれぬ。
家次の禄高については、もうひとつ内政的な配慮があった。わしは吝嗇であるが、譜
代の家臣に大封を与えなかったのは、徳川の家臣団を結束させるためじゃ。本多や榊原、
井伊といえども、十万石そこそこであれば、単独では微々たる力しか発揮できぬ。であ
るから、外様にあたるには、団結して将軍を支えざるを得なくなる。
あの酒井が禄を抑えられたとなれば、本多や井伊に与えた十万石が大盤振る舞いのよ
うに見えるであろう? 自然、家臣たちから禄高についての不平不満も出づらくなると
いうものよ。
いずれにせよ、外様のような大封の家臣をいくつも作っておったら、その者たちが将
軍を軽んじるようになり、あれほど長く幕府はもたなかったであろう。
>72 殿、竹製のキーボード「竹千代」が発売されるそうです。
むう。
徳川の嫡男のみに許される由緒ある幼名の、であるか。
まあ、いまは全ての者が大名のような世じゃ。いささか腹は煮えるが、致し方あるま
いて。
買うた方には、大切に使うてくだされ、とだけ申し上げておこうかの。
>73 大谷刑部殿についてコメントを
刑部どのが癩病を患っておることは、そなたらもよく存じておろうと思うが、いつぞ
やの茶席で刑部どのが碗に膿をおとしてしまい、それを治部が眉一つ動かさず飲んだと
かで、それから二人は気の置けぬ間柄となったという。
癩病は前世の悪行に因するとも、移るとも言われる病であったから、刑部どのはさぞ
悩んだことじゃろうと思う。されば、恥を救ってくれた治部に並々ならぬ恩義を抱いた
とて、無理はあるまい。増して、関が原の西軍不利を知りぬいておった刑部どのだけに、
火中の栗に手を伸ばすがごとく西軍についたあたり、よほどその茶席のおりには感激し
たのであろうな。
関が原の合戦が終わったときのことじゃ。
刑部どのは器量人であったゆえ、わしはその首を確かめておきたかったが、いくら待
っても首がやってこぬ。湯浅五助なる臣が自刃に及んだ刑部どのを介錯したというのじ
ゃが、その湯浅の首を獲ってきた藤堂仁右衛門が、
「湯浅が刑部どのの首を埋めた場所は存じておりまするが、お教えできませぬ」
という。訳を尋ねると、湯浅とやらは自分の首と引き換えに、主の首を秘匿したいと
藤堂に申し出たのだという。
このような忠義者・律義者は、わしは決して嫌いではない。じゃから、わしは意を汲
み、刑部どのの首を探すのをやめさせた。どうも、律義者であった大谷殿のまわりには、
かような者たちが集まったりするものらしいと、面白く思ったものじゃ。
>74 松平忠輝/父上は、それがしがお嫌いなのですか!
このたわけ者が!
うぬは、わしに嫌われておるのが不遇の原因と思うておるのか。うぬ自らの振舞いに
その因があるとは考えられぬか?
仮にも兄である秀忠が家来を手打ちにしたこと、よくよく反省せよ。
徳川の世が末永く平穏に続くために、うぬは何を貢献した? 切支丹を崇拝し、海外
貿易を望むなど、なにごとぞ。うぬは幕府を転覆でもさせたいのか。
わしのほうこそ、うぬに害意を持たれておるのではないかと悩むわ。
>75 千/だって、坂崎きもいんだもん
そうだのう、そうだのう。このいへやす、お千を、きもいやつにはやらぬゆえ安心い
たすがよいぞ。
とはいえ、直盛にお千の嫁ぎ先として公家との周旋をさせておったが、よくよく考え
れば、やはり気心の知れた臣に嫁にやりたかったのじゃ。それでなくとも、お千には秀
頼どのに嫁がせ、幼き頃から苦労をかけさせてしまったからの。本多の家に嫁げば、も
はや気苦労はないじゃろう。
坂崎の面目を潰すことになってしまい、きゃつはお千の拉致を目論んだのじゃが――
まあ致し方ない。わしとて人間、外様より孫娘のほうが大切にきまっておる。
戦国一(日の本一)の軍師は誰でございましょう・・?
大陸では諸葛亮孔明が思い浮かぶ・・。
いへやすにネコミミをプレゼント!
>79 吉川広家と毛利輝元公の評を 広家は忠臣だと私は思うのですが
毛利輝元については、決して暗愚ではなかったが、毛利家をどのようにしたいのか
について確たる考えを持っておらぬのが、備中高松から関が原、ひいては大坂の陣に
おける佐野道可事件に見られるようなどっちつかずの振舞いに繋がったのではないか
のう。
備中高松においては、もう少し粘れば羽柴どのより有利な条件を引き出せたであろ
うし、関が原では主導権を発揮してこられればわしも頭を抱えざるを得なかった。大
坂の陣においても、内藤元盛に密命をあたえて大阪城に入れるなどという真似をした
がために、周防長門すら失いかけた。
まあ、あのような激動の時代において毛利家を存続させたこと自体、並々ならぬこ
とではあるが、やはり他の大名衆と見比べると、いささか見劣りするのう。自家の存
続を第一に考える男ゆえ、大勢力とはいえ扱いやすいし予想するのも容易であった。
広家は、毛利元就公の
「毛利家は天下を狙ってはならぬ」
という遺訓に忠実であったことになる。そこもとの申されるとおり、忠臣であろう。
関が原前夜において、毛利は恐らく、どちらが勝っても所領を保つ、あるいは増や
すという都合のよいことを考えておったのであろうが、広家ほどの器量人であれば、
東軍有利はあきらかに認識しておったろう。
「関が原のおり、東軍を率先して攻め立てておれば……」
などというのは、後からは何とでも申せる、というやつじゃ。所詮、西軍の主導権
は三成にあったから、毛利が動いて西軍勝利に終わっても三成に美味しいところをも
っていかれるのみであろう。されば、輝元は広家がおらずとも動かなかったのではな
いかのう。さきほども申したとおり、元就公死後の毛利は乾坤一揆の勝負などできぬ
家柄になっておった。少なくともわしは、東西いずれにも通じ、どう転んでもよいよ
うに万全を期すというのが、毛利の方針じゃと考えておった。
それ以前に、関が原は応仁の乱のように、いたみ分けに近い状態で終わり、戦乱の
世に戻るのではないかという予測が一般的であったから、西軍の諸将は、来るべき乱
世を見据えて自軍を温存するという意味で、動かなかったという部分が大きかったの
じゃ。
こういう現状をよく認識したうえで、広家がわしと通じておったからこそ、毛利は
家名を保てたというものじゃ。のちに広家は毛利において裏切り者扱いとなったが、
思い違いも甚だしいというものよ。広家がおらず、毛利が動かぬまま関が原が終わっ
ておったら、御家断絶しかない。
>80 おしのー
ときには、好いたおなごの名を叫びたくなることもあろう。よいよい。
>81 たぬきじじいですか
左様にござる。はっはっは。
>82 永田徳本が長生き過ぎる件について
まあ、医者どのであるからのう。名医であれば、左様なこともあろう。
>83 穴山梅雪は本能寺の時、三河殿をかばって死んだ
いいや、それはまちごうておる。
わしは正信と相談のすえ、梅雪どの一行をどさくさに紛れて謀殺したのじゃ。
……嘘じゃ、信じなさるな。
されど、梅雪どのが生きておったら、甲斐の接収は頓挫しておったやもしれぬ。
望まぬことではあったが、あのとき梅雪どのが死んでくれたお陰で、甲斐信濃の経略
がおおいに進んだのも事実じゃ。梅雪どのの後家どのに庇護を申し出て、甲斐の地侍た
ちを手なづけ、それを嗾けて織田の代官であった川尻どのを始末させる――
ときには、かような謀略も必要じゃ。
>84 奸風発迷
ほう、そこもとは何か道義に悖ることでも企てておられるのかな?
>85 hosyu
保守、大儀である。
>86 安国寺恵瓊はさすがに殺さなくてもよかったのでは
恵瓊めは毛利を西軍の総大将に仕立て上げた張本人じゃ。僧侶でありながら、太閤様
より大封を得て、毛利より独立した大名のように取り立てられたが、わしはこのような
男は好かぬ。知略は、誠実さに裏付けられておらねばならぬが、この男にはそれがない。
口先三寸で渡り歩くような者よ。
備中高松の周旋のおりでは、羽柴の歓心を買うために、主家たる毛利を売ったとも言
えるではないか。
>89 たまには保守 >90 最近は冷えますな
いやはや、遅筆ですまぬ。
そうこうしているうちに、すっかり梅の時期も過ぎてしもうた。
もうそろそろ、桜が咲く頃じゃのう。
火鉢もいらなくなってしもうた。
116 :
以上、自作自演でした。:2006/04/02(日) 22:14:14
丹羽長重の数奇な運命について
117 :
伊達政宗:2006/04/06(木) 08:21:01
徳川様!この政宗、徳川家のために尽くします!
父上は、織田と武田の狭間で深く悩んでいたことをそれがしは存じております
だから、私のことは悩まないでください
>91 真田幸村と鬼島津と武田騎馬軍団、一番怖かったのは?
知略の真田、胆力の島津、統制の武田――いずれも恐ろしゅうござった。
ここだけの話、島津が太閤殿下やわしに取り潰されなかったのは、薩摩隼人の桁違いの
武勇あって、という一面がござった。織田・豊臣がもとで立身した大名どもなど、長い物
には巻かれるゆえ、取り潰すは容易であるが、薩摩や奥州などの辺境では世間知らずゆえ
の気骨があり、潰すとなればこちらも戦を覚悟せねばならぬ。
そのうえ、兄・義久が硬軟織り交ぜの巧みな外交をしおる。さすがのわしも、島津の取
り潰しには二の足を踏んだわ。これも、鬼島津が手勢の、死に物狂いの働きあればこそ、
ぞ。
いや、敵ながらあっぱれであった。
>92 最初関八州は名人久太郎に任せるはずだったみたいですね
堀秀政どのがことか。堀どのというと、小牧・長久手で、わしが叩いた別働隊のなかで
唯一、我が勢に一矢報いてくれたなかなかの将よ。また太閤殿下のご信任には、並々なら
ぬものがあったのう。
されどまあ、殿下もいささか大袈裟なところがあるゆえ、関八州ということが出てきた
のじゃろうが、さてそれまで越前北の庄十八万石の太守にすぎなかった者が、歴々をさて
おいて関八州を領するともなれば、不満も出るであろうし、また堀どのも嫉妬を受けてな
にかとやりづらくなろう。
もし、関東攻めで病没せなんだとて、堀どのほどの御仁であれば、関八州など畏れ多い
と辞退したのではないかの。
>93 六角承禎とその息子六角義治が怪しいんだってさ、本能寺
杉谷善住坊などを使って織田殿の暗殺を目論むくらいであるからのう、左様な噂がたっ
ても不思議ではなかろう。
わしが大坂城で、秀頼さまの弓の師範となっていた六角どのとお会いした感じでは、左
様な陰謀を弄するほどの知恵や執念は――おっと、これは聞かなかったことにしてくださ
れ。
>94 高杉晋作/三千世界の烏を殺し〜♪主と朝寝がしてみたい〜〜♪
幕末の、毛利藩士でござったか。苦しゅうない、苦しゅうない。
そのほう、
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
などと辞世の句に読んだそうじゃな。いずれも、なんと人を食った歌であることよ。さ
れど、世が動き出す時代には、そのほうのような者のほうが、うまく時流に乗れるという
ものかもしれぬ。
ともあれ、徳川の世は終焉のようでござる。日ノ本がこと、よろしゅうお頼み申す。
121 :
以上、自作自演でした。:2006/04/08(土) 14:31:50
>95 江戸は風水の地相観にもとづいて作られた都市だという説
わしに限らず、領主というものは皆、そういう面があるが、風水にご利益があるか
どうかなど、さしたる問題ではないのじゃ。皆がそう信じておるようであれば、周り
が納得するように取り入れるだけの話でござる。明智光秀どのが、叡山を焼き討ちに
せよと命じた織田殿に、
「叡山がどうこうではござらぬ。皆が尊ぶものは尊べ、ということがありますれば」
と言上したそうであるが、まさにそのこころよ。
むろん、風水を優先するあまり、町割りに効率を欠いてはならぬ。されど、さほど
重要でもないことであれば、取り入れてもよかろうというのが、わしの基本的な考え
でござった。
また、元々水運や地の利など、発展の要素を備えた土地は大抵、四神相応なる条件
に適っておるのではあるまいか。
わしも耄碌爺ゆえ、さてそのような書状を残さなんだかいまひとつ思い出せぬが、
家臣どもに聞いてみることに致しましょうかの。
>96 愛新覚羅溥儀/hahaha
清が宣統帝、後の満州国皇帝でござったな。
ご機嫌宜しゅう、なによりでござる。
>97 権現様。人生に何回SE●しましたか?
うぬ。さて、いかほどであったかの……。
む、待たれい。左様に無作法なことを尋ねるのはいかんぞ。
説教好きと言われたわしに、左様なことを尋ねたが運の尽きというものよ。そこに
座りなされ。よいから座りなされ。貴殿に礼節というものを説いてやらねばならん。
よろしいか、そもそも(略
123 :
以上、自作自演でした。:2006/04/08(土) 18:36:27
お、リアルに遭遇
がんあれ
あと、土井利勝は隠し子ってほんと?
>101 ワタシハ ロボットダ ウソダ
ほうほう、からくり人形と思うたら、人ではござらぬか。
そこもとたちの世では、かような着ぐるみが流行っておるのか。
……孫の竹千代にひとつ買うて帰るかのう。
>102 心配した、お帰り。俗にいう真田幸村の評を
真田左衛門佐は、大坂冬の陣まではほぼ無名であったが、出城での見事な采配を見
せて勇名を武名を轟かせた。わしなど、大坂に入った真田というのが、昌幸ではなく
その倅だと聞いて胸を撫で下ろしたものじゃが、とんでもない話でござった。
出城に居座る真田勢はいかんともしがたく、信濃一国で調略をかけてみたが一蹴さ
れてしもうた。夏の陣では、伊達勢を敗走せしめ、我が本陣もいちじは総崩れといっ
てもよいほど掻き回された。わしもこれまでかと思ったものじゃ。
戦が終わり、左衛門佐が首がわしの許にとどくと、徳川の部将たちは、
「左衛門佐どのが遺髪を頂戴しとうございまする」
口々にわしに言ったものじゃ。小勢ながら、本陣まで突き込んできた信繁が武勇に
感じ入らぬ者はおらんかった。どれほど感じ入ったかは、幕府が左衛門佐を題材とし
た歌舞伎や文芸に煩いことを言わなかったことからも伺えよう。
125 :
以上、自作自演でした。:2006/04/08(土) 18:39:33
真田昌幸は幸村に遺言として、戦略を伝授していたらしい
大阪がもっと幸村を大事にすれば
>123
これはこれは、かたじけない。
利勝か。わしと風貌がうりふたつであると、よく騒がれたものじゃ。
子に恵まれたわしであるから、隠し子のひとりやふたりおっても――
おっと、あやつは正真正銘、幕臣であるぞ。はっはっは。
妹の口癖が「ファック」になりました。
大きなつづらと小さなつづら、開けるとしたらどっち?
こいつは影武者だ!
130 :
以上、自作自演でした。:2006/04/19(水) 22:06:01
そろそろ浮上
何が人生だ。ふざけんなよ糞が。やってられるか。
いへやすって一騎討ちするの?
がんばってよ爺さん