40代が聞いた戦争体験

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@お腹いっぱい。
祖父や父が兵隊だったやつが多かった。実家は空襲で消失。
周りには体験者がたくさんいて、その体験談を興味深く聞いた。
みなさんが聞いた話を教えてください。

やだ
3名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/02 08:33:01
真夜中の空襲でお城が焼け落ちるのがきれいだったと
おばあちゃんが言ってました。
4名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/02 08:35:39
5名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/02 22:04:33
20代の頃は徴兵されるの嫌だったな。
6名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 08:06:56
我々が小学生の頃は日露戦争体験者もまだご存命だった。
7名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 08:15:33
日清戦争体験者もご存命だった。
両親はぎりぎり戦場には行かなかったが

・軍事教練と学校にいる配属将校
・軍事施設の近くになると、いっせいにカーテンを閉めさせられる列車
・精神教育と労働力確保をかねた勤労奉仕
・従軍看護婦にあこがれる女学生
・中国(支那といった)、朝鮮人蔑視
・低空飛行で機銃掃射をもろに食らう中を逃げる
・間近に落ちた焼夷弾
・地獄のような空襲
・大声ではいえないが日本は負けるだろうという当たり前の予測をしてた多くの人々
・食料不足
・昨日まで「やまとなでしこ」だったのが、食うためとはいえもう進駐軍に身体を売る女たち
etc

いくらでもあるけど、2chでこの手の話題は大抵ロクな展開にならないからあまり書こうとは思わない。
父は大正十三年生まれ。
ギリギリで兵隊にとられて中国へ。
母は昭和五年生まれ。
東京大空襲で逃げまわっていた。

戦争世代を親に持つ人なら判ると思うけど、親の戦争話はえてして
お説教とセットになって語られることが多かった。
そのため何度も聞かされていると飽きてしまって、まともに耳を傾けな
くなってしまっていた。
父は五年前に鬼籍に入り、母は軽くアルツが出始めている。
今ならもっと違う質問や会話が出来たのにと後悔している。

それでも記憶に残っている両親の戦争ばなしはたくさんある。
書き出せばそれなりの量になるだろう。
だが、8さんと同じ感想でここに書く気がおこらない。
自分の子供たちへ語り伝えて行くのみ。
10名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 13:29:17
例えば、シンドラーのリストや、プライベートライアンなどを見れば、
個々の戦争体験談よりストレートに戦争の悲惨さが現れていると思う。
圧倒的な暴力、それが戦争なのだと教えてくれる。物語は要らない。
見るだけでわかる。俺の中じゃ今のところあれを上回る戦争の話は無い。
11名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 18:11:07
夜空にサーチライトに照らされた銀色のB29は美しかったらしい。
12名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/04 20:59:32
進駐軍は親切だったらしい。
13名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/04 21:29:35
>>6
そのネタはサザエさんで使われていたよ。
14スキナー:05/03/04 21:43:01
「知られざる世界」で日露戦争がテーマだったとき、
日本海海戦を戦った元海軍軍人が何人か証言していた。
90才くらいの人が多かった。
15名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/05 07:54:28
まもなく東京大空襲60周年なんですよね。
16名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/05 08:13:09
>>12
私の親もそう言っている。
信仰心(キリスト教)から来る優しさだったのだろうと言う。
17名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/05 08:23:29
漏れの親父は、戦犯で危うく死刑を免れた。
18名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/05 11:37:56
東京在住の俺の両親は田舎に疎開したってよく聞いた。
そういえばガキの時に上野の松坂屋の入り口に戦争で障害者になった人
がよく座っていたな。知らないうちにいなくなったが。
19名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/05 22:56:49
足立区六町
20名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/06 11:19:01
今夜のNHKスペシャルで東京大空襲60周年記念番組が放映されるみたい。
21名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/07 18:57:46
大変だったね。

ゆきゆきて神軍
23バイキチ:05/03/07 22:41:28
祖父の部隊が満州に出兵して最初に現地人と出合ったとき、相手はびっくりして逃げて行ったらしい。

そのとき真顔で一言

「おい、支那人も走るんだなぁ」

まるで宇宙人扱いだ。
24名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/08 22:04:36
父はほんのちょっぴり軍隊経験がある。殴られた話とかを嬉しそうに話す。
自衛隊体験入隊みたいなノリ。嫌気がさす前に終戦を迎えたからかな。

母は小学生で東京下町住まいだったから空襲はばんばん体験したらしい。
死ぬのが怖いというよりは、毎晩警報で起こされるので眠いのが辛かったとのこと。
東京大空襲の後は、すぐそばに焼死体が転がってても平気で御飯が食べられた
という。感覚が麻痺していたんだろう。その後祖父の田舎に疎開したが、田舎の子に
いじめられたことを憎々しげに語っていた。
いやな思い出ばかりだったのだろう。そのせいで私は小さい頃、戦争がらみの本は
一切買ってもらえなかった。読書感想文とか書きやすいのになあと、ちょっと困った。
25名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/08 23:21:31
26バイキチ:05/03/09 18:34:28
亡き祖父の苦慮

祖父は満州に中隊長として部隊を率いて参戦しました。
前線で撃ち合いになったとき血気盛んな若い兵士に
「威嚇射撃はいいが相手を殺すな」と命令したそうです。
祖父の言い分は、いずれ戦争は終わる。
もし今殺せばその時から人を一人殺した重荷を一生背負って生きていかねばならない。
やがて子供や孫が出来たときに必ずやそのことを後悔する。
と言うものでした。
今となっては至極常識的な見解ですが
玉砕教育を受けた若い兵士にこのような反戦的命令がすんなりと通るはずはありません。
数名の下士官から強い反駁にあったそうです。
ひとりでも多くの敵を殺して手柄を立てたい若者にとっては
非国民の腰抜け隊長以外の何者でもなかったでしょう。

時が経ち、戦友会で祖父と若者は再会しました。
孫が出来た若者たちは「あの時殺さなくてよかった」「殺していたらこの手で孫が抱けなかった」
と祖父に告げたそうです。

当時すでに40を過ぎた老兵の祖父の気持ちを思うと
もし私が祖父の立場だったらどう決断しただろうか?と考えてしまう。
>>26
人間は上からの命令、つまり自分の責任がないことは
どんな冷酷なことでもするそうです。
そのなかで自分で善悪を判断しそういうことができる人は
稀です。
あなたにはその人のDNAが流れていること誇りとすべきです。
>>26
失礼ですが、それは実話でしょうか?
軍板に書き込んでみて、一応確認をとられることをおすすめいたします。
29名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/09 21:32:25
>>27
私の祖父は逆で、上官の命令で中国人を銃剣で殺したそうです。
捕虜を全隊員の前で。
3年前にこの話を聞きましたが、祖母も初耳だったとの事。
祖父は「あれほど辛い思いをしたことはなかった。何十年経っても忘れられん」
といいます。
何十年も話す事が出来なかった祖父が悲しくて泣けました。
私には祖父を責める事が出来ません。冷酷では決して無い人でさえ
人を殺さなければならない。やらなければ自分が死ぬしかない選択です。
私は死を選択する自信はありません。それが戦争の悲しさだと思っています。

30名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/09 23:43:00
1回目 昭和 3年 甲種合格一年志願兵  野戦重砲第7連隊配属
                        (千葉県国府台)
2回目 昭和12年 支那事変により応召  砲兵第9連隊[山砲]
                        (金沢)
3回目 昭和20年 太平洋戦争により応召 部隊名・・忘れた
                    (静岡県三島→福岡県前原→
                     鹿児島県都城)

祖父98歳。
書ききれないほど話聞いた。
まだまだ聞きたい。
でも、最近は同じ話の繰り返しが多くなっている・・ 
戦後60年。
毎年欠かさず行っていた金沢の戦友会は出席者が居なくなり、5年
ほど前に自然消滅した。
あの戦争の期間を含め、戦前を知る大人の話が聞けるのは、あと
10年もないのだろうな・・・
31名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/10 00:24:15
父、大正13年生。応召して中支へ。
終戦後、蒋介石の俘虜となり、復員。
生還率30%で友人は皆、花と散る。
6人兄弟姉妹だが3人戦病死。
戦場でシナ兵は傘を差していた。
前線から後方に戻り、街に出て飯を食べていると
シナ兵もいたとか。靴磨きのように屋台の歯医者(牙科)が
いて虫歯を足踏み式のドリルでゴリゴリ削り、その場で型をとり
七輪のようなコンロで坩堝で金属を溶かして詰めたりしていた
とか。
惨いものも沢山みたし、死ぬ目にもあったが、淡々と受け止めた
様子。戦後はサラリーマンとして高度成長期を甘受。
戦争は何かと問うと、一言、「男の浪漫」。俺は絶句した。

母は昭和8年生。疎開先の田舎で地元の百姓の子供にめちゃくちゃに
虐められた。百姓農民を心から蔑んでいる。

俺は昭和30年生。
小学1年の頃まで、上野、渋谷、新宿などで傷痍軍人がアコーディオン
を弾いているのをよく見た。
最後に街で傷痍軍人を見たのは昭和46年の渋谷駅の東急文化会館と
渋谷駅を結ぶ銀座線のガード下。
傷痍軍人は軍隊の帽子をかぶり浴衣のような服装で、たいてい手足が
かけて義足義手。戦争の悲惨さを一目で伝える存在だった。
32名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/10 00:56:42
今日から「児島譲」と呼ばせてください先生。
33名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/10 09:09:52
きょうは東京大句集60周年記念日ですね。
34名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/10 22:32:01
NHKで「ガラスのうさぎ」のニュースをやっているよ。
アニメ映画で上映されるらしい。
35スキナー:05/03/10 23:42:34
ちょっと長いです。すいません。

塾の先生が昭和12年に召集されて、その体験を授業中に
よく話していた。「日本兵の30代のおっさんは強い」
「田舎の部隊は強い。シンガポールを落としたのは鹿児島の部隊。
都会の部隊は弱い。また負けたか八連隊」

祖父も8年大陸にいて、最後は軍曹で、勲章がいくつか家にあった。
タミヤの日本兵セットの箱絵を懐かしそうに見ていた。
擲弾筒や歩兵銃他、日本兵の装備の解説をしてくれた。
この日本兵セットには間違っているところがある、戦闘姿勢で軍刀を
抜いた将校がおかしい、将校は前線にはいない、と言っていた。
将校は行軍のとき、馬に乗っていると目立ってよく中国兵に
狙撃されていたと話していた。

広東入城のときの行進の映像が本土の映画館で流れて、
そのとき祖母が、祖父の行進の姿を見たと話していた。

高校の先生は硫黄島、大学の先生はサイパンの生き残りだった。
硫黄島では米軍は穴を一つずつ潰してきて、先生のいた穴は
天然のものだったから上が崩れず、隙間ができて助かったと
話していた。
当時学生で秋水の尾翼の設計に携わったという先生もいた。
航空燃料の開発をしていた先生もいて、アメリカに劣る
燃料しか作れず、本来の機体の性能を発揮できず、死んでいった
パイロットたちには申し訳なかった、だからハイオクのガソリンで暴走
している若者を見るとぶん殴りたくなると語っていた。

会社の同僚の祖父が海軍省の役人でトラック島で戦艦大和に
乗った話、新聞配達のおじいさんが、横須賀の造船所の工員で
信濃の建造に携わっていて、ものすごく広い甲板の話も聞いた。
36名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/11 01:33:08
広島では周りが被爆者だらけだった。
学校の先生も被爆者で、同級生も被爆二世が多数派だった。
身内に被爆者が少ない俺は、むしろ珍しいくらい。
だから原爆の悲惨さは誰でも知っていて、非核は当然のことだと思っていた。
大学に入学して上京したときに、そうでもないと知ったときは驚いたなぁ。
今ではアメリカが日本に核兵器を使用したこともろくに知らない子供がたくさんいるんだとか。

被爆者の人は自分の体験を話したがらない。
思い出したくないような惨状だったらしい。
中学3年生の時、美術の先生が何を思ったのか、俺の横に座って話し始めた。
「血まみれの朝鮮人の人が、『アイゴー、アイゴー』って泣いていた。
僕は何もできずにその場から立ち去った。
今でもその声が耳から離れない」
なぜ俺にだけ話したのかはわからないが、公立の中学校を定年退職した
お爺さんの先生だった。
RCサクセションの「僕の好きな先生」を聞くと先生を思い出す。

タバコを吸いながら 劣等生のこの僕に 素敵な話をしてくれた ちっとも先生らしくない
僕の好きな先生 僕の好きなおじさん
タバコと絵の具のにおいの 僕の好きなおじさん

ちっとも素敵な話ではないが、30年以上経っても忘れられない。
先生が亡くなって10年以上経つ。
俺の知人の広島出身者は、
「非核は思考停止だ」
と言っていた。
そういう考えを広島では口にしにくい雰囲気があるのは事実だが、
必ずしも少数派というわけではない、と言っていたが…
どっちが本当よ?
38名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/11 07:28:44
命がけで戦った兵隊さんのお蔭で日本国は植民地にされずに済んだ。
なのに、君が代、日の丸に異を唱える基地外がいる日本はおかしい。
>>38
日の丸(当時の政府、つまりは天皇の判断で)のせいで戦争がおきたから。
日の丸は旧体制の象徴。 
つまり戦後の日本の象徴にはならんのが普通の考えだろ。
ドイツで今ハーケンクロイツがあったら大問題だぞ。
命がけで戦った国民と、日の丸の問題はまったく別物。
そのくらいは理解しろ。
40名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/11 11:31:34
素晴らしくわかりやすいやり取りだ
41名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/11 13:32:19
>>39
団塊の方ですか?
42名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/11 15:16:16
>>39
鈎十字と日の丸は全然別のモノなのだが。

43バイキチ:05/03/11 15:53:52
祖父の形見

前述の祖父が終戦を迎えたのは帰還してからのことでした。
「負けた!負けた!」と練兵場から不機嫌な顔で帰って来たと父から聞きました。
その後祖父はやけを起こして軍用拳銃である南部タイプ14を河原に投げ捨てました。
とは言え祖父もやはり気になったのでしょう、何度か捨てた場所に行ったそうです。
銃はいつまでたっても河原べりの草むらの中にありました。
捨ててから数ヶ月経ったとき、祖父は一度捨てたその銃を持ち帰ったのです。
その後は蔵の中に仕舞ったらしいのです。

この話を聞いたのが中学の頃でした。
「出してくれ」と頼む私に「蔵の中にあることは間違いないがどこに仕舞ったかわからない」
と繰り返す祖父。今度は父に頼んで一度蔵の中を捜索しようと言ったまま月日が経ちました。
私が大学生のころ、今やらねばこの話は一向に埒が明かないと思い
叔父や伯母の協力のもと蔵に入って一大捜索をすることとなりました。
蔵は広く大きな箱がいっぱい積み重ねられていて捜索は難航を極めました。
そうこうしているうち、昭和30年代のラジオや扇風機、ブラウン管のテレビなどが出て来て
私の興味は方向性を変え、さらに拳銃探しの作業ははかどらなくなっていきました。
そしてついに私の戦意は、大きな収納箱を動かしたときに横たわっていた
ぶっとい蛇の抜け殻によって完全にそがれてしまったのでした。

あれから20数年、祖父は亡くなり私の手元には美術認定を受けた軍刀だけが残りました。
(子供の頃から大人になったらもらう約束をしていた)

幻の拳銃南部タイプ14
もちろん、もし見つけたら見つけたで銃刀法違反という罪を着ることになるわけですが・・
>>43
錆び付いてるから大丈夫なんじゃないかな。
入手経路もはっきりしてる訳だし。
45バイキチ:05/03/11 16:38:38
>>44
私も調べたんですが、意外と終戦後もそのまま持っていた人は多いようです。
混乱期ですからそのあたりの回収はいい加減だったんでしょう。
所持者が亡くなったのちに、その拳銃の処理に困って警察に相談する家族がいまだにいるそうです。
使用出来る、出来ないに関係なく、一応所轄の警察に届けて没収?という形だそうです。
美術品認定はおりないそうです。
>>45
それは残念ですね。
十四年式は芸術品だと思うのですが。
でも発見して一度構えてみたいものですね。

あとは没収でもいいから。
47スキナー:05/03/11 17:26:48
没収されるくらいなら
銃口をパテで埋めて、銀色に塗ってモデルガンに改造し、
その秘密を墓場までもっていくといいかも。
60年も放ったらかしなら錆が来て原形をとどめてないだろうなぁ。
ああ、もったいない・・・。
49名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 01:17:03
>>38さんよ

 日の丸とハーケンクロイツは違う。
50名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 01:35:34
一臣民(祖父)の言葉

 政治家が悪かったとか、軍人が悪かったとかじゃあない。
 もちろん、軍隊があるから必然的にああなったわけでもない。
 当時の雰囲気はお前らには分からんだろう。
 むしろ国民が率先して一方向に流れ出し、マスコミが追従し、軍人 が便乗し、遂には良識ある政治家・軍人も抗し得なかった。
 流れを変えるということは本当に難しい。
 少なくとも国民は反対していなかったどころか、快哉を叫んだこと
 をよく覚えておけ。
 ワシも、開戦のニュースを聞いたときは勝つかもしれない、と思っ た。皆んな嬉々としていた。
 ワシは戦地に行かなかったこともあって、軍隊には良い思い出しか
 ないが、戦争は二度とごめんだ。絶対にやるものではない。
51名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 02:07:43
俺、>44〜>48のアホと同じ年代だということが情けない。
52名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 03:57:39
>>49殿>>39の間違いではござらぬか?
53名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 06:47:42
49です。
39の間違いでした。
思想信条的なものはやめにしないか。

戦争体験者のナマの声を聞き、その時代の空気ををおぼろげにも感じられる世代は
俺たちが恐らく最後じゃないかと思う。
思想や現代の常識というフィルターをかけるとじいさん達の思いが歪曲されてしまい
そうだ。口の重い彼らがマスコミにではなく孫の俺たちに語ってくれたことは貴重。
55名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 10:17:08
仕事上の付き合いで、ひょんな事から80過ぎのじー様と仲良くなった。
「俺は大陸あがりだが、戦争の話はこれっぽっちも言いたくねえ。
ただし、これだけは言っておく。おまえなぁ、大陸の戦争なぁ、報道
されてることなんて全部嘘っぱちだぜ。」
 重機関銃部隊の隊長だった人は白兵戦の経験者。
「ははぁ、あの木の上から撃ってるんだなぁ。ちょっと貸して見ろって
言って、バリバリって撃ったら静かになったよ。」さらりと言ってのける
じい様に底知れない不気味さを感じたよ。人を殺してるんだから。
そういう人が一杯いるんだよ、まだね。一見普通の人に見えても大きな
こころの傷を背負ってるんだよなぁ。こんなくだらない平和でも戦争より
ましだと思わないとバチがあたるよなぁ。
56名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 11:17:48
>>55
そういう人は多いんじゃないかと思う。
俺の叔父は85歳で、開戦と同時に中国へ連れて行かれた。
終戦になったらシベリアに抑留されること2年、通算で7年余り軍隊生活していたらしい。
ところが戦時中のこと、軍隊生活のことは全然話そうとしないんだよな。
どうも思い出したくもないらしい。

恩給生活ではあるが、無駄遣いは一切せず、2年前には貯めていた金を
町の施設建設のためにポンっと寄付してしまった。

うちのオヤジは81歳だが、腕の良い工員だったらしくて海軍工廠で徴兵猶予願いを出してくれ
兵隊に行かなくて済んだ。
戦時中の生活についてはあまり喋りたがらないが、去年一緒に佐世保を旅行した。
「ここらへんに住んでいたんだよなぁ」と、しみじみしていた。
展望台に登って「こんな景色は初めて見た」と驚いていたが、戦時中はいろいろなところが
遮蔽されていて、町の様子が分からないようになっていたらしい。
「2回目の徴兵猶予はできなかったから、終戦の年、9月1日に広島に行くことになっていた」
と聞いてので、「1ヶ月ずれていたら原爆にあって、死んでいたかも知れないな」と言ったら
60年以上経って初めて気づいたらしい。
人の死、自分の死にも感覚が麻痺してしまっていたとのことだった。

二人とも「戦争は絶対にいかん」というのが口癖だ。
57名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/12 15:01:12
>>51
どの部分がアホなのか書いてみなさい。
58名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/13 02:35:54
みんな人殺しの経験が有ると思うと怖いね。
>>58
それが戦争だろ。

うちの親父(T15生)は、18か19で予科練へ行った。予科練の訓練は噂どおり厳しくて
、一人がへますると、同じ班の者みんな殴られたり、「精神注入棒」という丸太みたいなので
穴を○ンチが出るほど叩かれたそうだ。
その後台湾へ転戦したがもう機体がすくなくて、下っ端の飛行兵が実際に機乗する事は少
なかったらしい。敵の機銃掃射で死んで逝った仲間もいたそうだ。
ただ、陸軍と違って面と向かって敵を殺すと言う意識は少なかったらしい。
結局、終戦のときは山形の天童に居たらしい。艦功乗りだったから、もうしばらく戦争が続いて
いたら間違いなく特攻だっただろうと言ってた。

そんな、親父も死んで十数年。この話は、耳にタコが出来るほど聞かされたよ。

>>56
うちの実家は、佐世保です。佐世保では戦時中は、造船所の周りの山は、登ることが
出来なかったそうです。高台には、ネットに草を張ったり、塀をめぐらせてあったそうです。
そんなところで、紙と鉛筆を手に持っていただけで、警察にしょっ引かれたそうです。
60バイキチ:05/03/15 00:06:13
祖父は敵の弾の破片を頭部に受け負傷し、そのことで帰還したのですが
そのときにたまたま同行していた従軍記者が祖父の部隊の銃撃戦の模様を一冊の本にまとめています。
以下クライマックスのみ抜粋してみます。(隊長が私の祖父)

「敵襲」
時は正に二時二十分、耳をもつんざくばかりの大音響、真闇の中にきらめく火粉
周囲から呻き声が聞くる。闇を透かして隣にいる隊長の右頬に血汐が流れてゐるのが見えた。
「隊長殿、血が頬に」
「何?血が流れていると?」と手を頬に当てた隊長は
「やられたか、これしきがなんだ!少尉、少尉!」と連呼される。
「隊長殿、残念ですがやられました。しかし我が隊は・・・」
と軍刀片手に立ち上がりかけた少尉はその場に崩れ落ちた。
轟音に馳せつけた医官は隊長に手当てを加えようとしたが隊長は
「自分は大丈夫だ、それよりも部下のものを先にしてくれ」
としたたる血汐を向ふ鉢巻でしめて負傷者の手当てに余念がない。
武人として自己の負傷を省みず部下を愛する日本軍人の面目さを眼前に見て
唯唯感激するのみだった。

とまるでヒーロー映画の主人公のような描かれ方をしている。
この場面に関して生前の祖父に聞いたことがあるが、祖父は照れくさそうに
「いやぁ、実際はこんなことは言ってない。記者君はいいように書いてくれるんだ」
と語っていた。このとき重軽傷者20名、死者1名、祖父も一時死ぬ覚悟をしたらしい。
祖父の後頭部にそのときの傷が残っていた。


61名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/16 23:10:51
父の右足には銃弾痕があります。
62名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/16 23:38:14
>>60
それ 何十年かまえの毎日新聞社発刊の本。 たしかそうだ。
63名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/17 23:15:27
兵士が死ぬ間際に「天皇陛下万歳」と言わず、「お母さん」
と言って死ぬ人が多かったということが半ば通説化している。
でも、祖父いわく、「天皇陛下万歳」を言って死んだ兵隊の
方がはるかに多かった。というか、「お母さん」なんて言って
死んだ奴は知らん・・・。

だからこそ、我々は靖国に参りつつ、避戦の誓いをしなければ
ならないのではないだろうか?
64名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/17 23:19:24
学徒出陣の映像で決まって流れるのは先頭の東大。
その中で、先頭で剣をふるっているのは、民事訴訟
法の大家、三ケ月章元法務大臣です。

そういえば、ロイド眼鏡に面影が・・。
荒れるかもしれないが、「お母さん」と言って死ぬ方が人間的でいい
と思う。

靖国に関してもいろんな考え方があっていと思う。

ウチの親はおそらく「お母さん」、戦争絶対反対、靖国護持派かな。
66名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/18 19:20:41
携帯で見てましたが良スレですね。伸びてないけど。

両親はすでに他界してるけどヒトケタ生まれで、昔の話を
よくしてくれた。終戦当時、今で言う中学生くらいか。
母は赤い服を学校に着ていったら「非国民!」と罵られた
体験があったらしい。とても怖かったとのこと。
そしてとにかく教師が威張っていて、何かというと殴られた
と両親共に話す。そのせいか教師に対してアレルギーを
持っていた。

東京空襲の日は父の誕生日。疎開先の千葉から見る東京の
空が昼間のように明るかったこと、食べるものは、芋が
あればごちそうで、しかも今のように甘くなかったこと、
シラミに悩まされたこと、進駐軍のくれた食糧の美味だったこと
(このあたりは恨みよりも甘いノスタルジーとなって残って
いるようだった)、アメリカ兵の恐ろしくカッコ良かったこと
・・・

などなどなど。食べ物と殴られた怨みが相当骨身にしみてる。
67名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/19 00:04:44
確かにこのスレ伸びませんね。

聞いてないのかな・・。聞きたくもないのかな。
話してないのかな・・。話したくもないのかな。

それとも皆んな興味ないのかな・・。
300万の英霊が哭いてるよ・・。

68バイキチ:05/03/19 00:30:24
ちなみに祖父たちの部隊は、日本軍が占領した地域の警備を遂行するとともに、
そこに居住する支那人を中国軍(とします)から護衛するという不思議な任務に当たっていたようです。
「支那人を支那人から守るってどういうこと?」
当時、日本軍と中国軍では圧倒的に統制の取れた日本軍のほうが地元民にも信頼があり、
むしろ歓迎される気風があったようです。統率力のない中国軍の中には不良兵士も多く、
同胞に対する強盗、略奪などもあったと聞きました。特に裕福な現地女性が戦禍に巻き込まれて
死んだのち、その死体の指と耳が切り取られているのを何度か見たそうですが
それは支那人が死体から指輪とイアリングを盗むときのやり方だったそうです。
日本人は死体損壊を忌み嫌いますが、支那人は平気でやると言う話でした。

ここで任務遂行していた日本兵は敵国人でも女子供には飢えていれば飯やドロップを与えてやるなど
我々の敵は反日侮日の将政権であって支那国民にあらず の教を実践していた経緯がありました。
出来る限り現地民との交流を図る努力をしたようです。

ただしこれはまだ日本軍に余裕があった開戦直後の話です。
末期になるとそんな余裕もなくなり、もっと悲惨な状況が予想されるのは言うまでもありません。
69名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/19 01:16:14
自分も飛行機大好き、プラモ大好き少年だったけど10年ほど前、友人の父上が亡くなって
お葬式に行ったときの事。葬式の準備の中に満州陸軍の部隊の花輪が。
友人にきくと陸軍の戦闘機乗りだったそうで敗戦後シベリアに2年ほど抑留の経験もあったそうな。なんとこんなに
身近な所に戦闘機乗りがいたとはと残念なことしきり。もっと話を聞いておけばよかったな。
ただし友達いわくあまり戦争の話は息子にもしたがらなかったらしく一つ話してくれたのが南方
のほうで敵の戦闘機を落としたが着水した敵のパイロットがサメに襲われたらしく戦争はむごいもんじゃと
話してくれたことがあったらしいそうです。
自分の母親も福岡大空襲を逃げ惑った生き残りで当時実家が大堀公園の近くだったため
鳥飼連兵場をねらった空襲の激しかった事をよく聞かされたもんです。ホント生の体験談を
聞けるのもあと10年ぐらいだね。
70名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/19 02:44:19
父の友人の話です。
昭和20年8月9日、長崎で学徒動員に狩り出され工場で魚雷を作っていた。
空襲警報が鳴り、工員は魚雷を作る大きな鉄の台の下へ隠れた時に、一瞬にして真っ暗になった。
暫くして這い出て見ると、大きな工場の中に居たはずなのに廻りは瓦礫の山になっていた。
後は何がなんだか分からず、フラフラと郊外の親戚のうちまで歩いて行った。
途中、やたら喉が渇くので畑に成っていたトマトを貪り食ったそうだ。
その後原爆症も発症せずにすんだのは、そのトマトのおかげかもしれないとも・・。

父がその時の詳しい街の状況をたずねても、あまり話したがらなかったそうだ。
多分、まだご存命です。
71名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/19 09:53:14
子供の頃、片腕の人とか片足の人って随分いたような気がする。
72名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/19 21:23:08
昔は該当でハーモニカ吹いて施しを受けていたカタワの元兵隊さんがたくさんいたね。
>>72
本物かどうかは怪しいぞ。
本物の傷痍軍人も居ただろうけど、
たまたま手足を無くした人が傷痍軍人をかたってるパターンもあったからな。
小学生の分際で戦前の軍国小説やマンガや新聞を平気で読んでたから、傷痍軍人を見るとものすごくかわいそうで正視できなかった。もっと
も親はあれは偽者だといってた。実は戦前の娯楽マンガにもすでにカネをせびるニセ傷痍軍人は出てきてたから、そうだったのかもしれない。
あと国籍の関係で、日本の軍人恩給(と言うのか?)をもらえない人も中にはいたようで、そういう人だったとしたら気の毒すぎる。

そういや最近犬?の足をわざとちょん切って寄付を募るという事件があったような。
75名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/20 14:23:06
昔の軍国少年の転身振りには驚きますね。
人間ってそんなに単純なの?
76名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/20 14:29:29
>>75
江川が入団した時に巨人ファンを止めたヤツを何人も知ってる。

ナベツネが長島の首切ったとたん巨人ファンを止めたヤツを何人も知ってる。

77名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/20 15:06:58
オレの親父は、戦争に行った。(今年82歳に成るが)
陸軍憲兵隊隊員として昭和20年1月頃マレーシアのペナン島に派遣された。
昭和20年8月15日以降は大変だったらしい。
戦犯で死刑の恐怖を味わった。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/21(月) 18:38:51
憲兵隊にいた人達の末路はどうなったんだろう?
79名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/21(月) 18:48:41
うちのおじいちゃんは近衛兵(天皇守護)だった。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/21(月) 23:26:04
終戦後8/18日、ソ連軍に攻め込まれシベリア抑留になった人たちの話が聞きたいな。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 00:47:59
>>78
憲兵になった人は優秀てか、まじめな人が多かった
らしいから、戦後もそれぞれの立場で人並み以上に
活躍されたんじゃないの?
82名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 00:54:51
露助め、北方四島耳を揃えて返還と賠償しやがれってんだ!
83名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 03:00:34
天の岩戸成る。
平成日本国に神のご威光あれ。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 03:29:07
おれの叔父はシベリアに抑留されてたよ。
いやなかんじの人だったが、抑留されて性格が歪んだそうだ。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 18:32:19
洗脳されたのか?
86名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/22(火) 23:20:43
まあ自国民に対する教育・各種宣伝だって昔も今も洗脳なわけだが。

「現人神」というからには食事やトイレはどうしてるのか?というのが当時の子供の
素朴な疑問だったとか。

ただ、昨日まで鬼畜米英だったのが今日になればアメリカ民主主義万歳と唱えてるの
だから、すぐまた変わる可能性もあるわけだ。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/23(水) 08:33:09
>>84
シベリア抑留者には悲惨な想い出しかないよね。
88名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/23(水) 11:42:00
>>87
居酒屋で逢ったジーサンがシベリア帰りだった。
そのジーサンが言った言葉が忘れられない。
「帰って来た俺たちに政府がしてくれたこと?
 そんなもの何にもねえよ。」
夫婦で安酒飲んでたが、その姿が幸せそうなのが救いだった。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/27(日) 02:43:30
学生時代の発生学教室の教授は俺の指導教官だった。
戦時中は重爆撃機「呑龍」の操縦士・機長だった。
ホントは戦闘機に乗りたっかが選考から漏れて重爆乗りに
なった。敵の戦闘機に撃たれると、機体は障子のようなもので
簡単に射抜かれ、運悪く身体に当たると飛び散って残酷な姿
になる。飛行機の機関銃は弾が大きいと言っていた。
(あ〜ブローニング12.7mmかなあ)
でも、一度も、敵機と遭遇することなく敗戦になった。
訓練中に事故で死んだ友人が何人かいるといっていた。
彼の研究室には呑龍のプラモデルがいくつもあった。
俺は今でも、いざとなれば飛行機の操縦ぐらいできるぞ。
と言っていた。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/27(日) 13:40:30
>>79
うちのじいちゃんもそうだった。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/29(火) 19:59:28 ID:
そういえば子供のころ傷痍軍人ってよく見かけたよなあ。
アコーディオンとか弾いててなんかすっごく怖かった・・・
ガキのころはまだ戦争の傷跡みたいなものが残っていたなあ。
スレ違いでスマン(汗
92名無しさん@お腹いっぱい。:2005/03/30(水) 01:50:30
防空壕や、高射砲陣地でよく遊んだ。
93名無しさん@お腹いっぱい。:昭和80年,2005/04/02(土) 19:36:21
お盆の時連れられて行ったお寺では軍服の写真がたくさん掲げられていた。
94名無しさん@お腹いっぱい。:昭和80年,2005/04/02(土) 21:52:39
ウチの親より4〜5才上のひとは特攻隊要員だったひともいる。
これからという時に終戦を迎えて出撃が中止になったらしい。
95名無しさん@お腹いっぱい。:昭和80年,2005/04/03(日) 23:15:11
お暇でしたら、NHKを今すぐ見てください。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/05(火) 15:36:08
人生ってのは不思議だ。こどもの頃から戦争に付いてはいろいろ聞いて
いたのに、その頃は、はるかに遠い話に思えていた。この歳になると、
時間は遠ざかる一方なのに、返ってすぐ最近の話に思えてくる。
カラー映像で実写の第二次世界大戦を見ると、まるで昨日の事のようだ。
97名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 09:53:16
歳をとったのもあるだろうけど
戦後復興・経済成長・仕事一筋だった日本人が、
バブル崩壊以来、やっと色んなことに目を向け始めた。
って感じかなぁ・・・

おれも明治維新から昭和の歴史を、少し勉強し直してるよ。
太平洋戦争の記録DVD見たり、本読んだり。
北支に出兵していた親父の話を、もっと聞いておけばよかった。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 10:00:41
いいけどな、なんだか本格的に人生のまとめにかかったような
書き込みで、読むだけで気分が滅入る。
もうちょっと、何かを作り出す、みたいな雰囲気で勉強して
くれないか?
99名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 10:11:18
このテーマじゃそうそう楽しい話にはならないよ。
歴史で仮定の話をしても仕方が無いが、日本があんな無謀な戦争を
もし、しなかったとすると、どうだったろうか?
仮に平和であっても、今とまったく同じ平和じゃ無いだろね。
アジアは相変わらず欧米列強の植民地かなぁ。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 10:26:44
どうだったろうね?
経済的には、植民地支配というのがペイしないものであることは、
もう、はっきりしつつあったわけだし。
ただ、インドネシアのような、天然資源に恵まれた土地は、容易に
独立はできなかったと思うけどね。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 11:00:41
>>99
ハルノートの内容を受け入れた場合、どうなったか?という意味なら
欧米列強によるアジアの植民地支配は、強まっただろうと思う。

共通の敵=日本が無力化されるわけだから、列強国同士の利権拡大を狙った
勢力争いと、反植民地闘争が入り混じって、戦争に発展した可能性もある。
植民地の国民同士が、欧米の利権のために戦うという、悲惨な状況。

そんな中で、日本が戦火を免れていれば、
『アメリカの要求を呑んだ日本は腰抜けだ!』という批判が出たかもね。


102名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 15:21:50
>>100-101
と言うような「もしも」の事も含めて、開戦に至った経緯は全て
日本軍国主義の暴走の様に言われているが、
我が国はボロ雑巾のように痛めつけられていながら、
何も語っていないように思う。敢えて口をつぐんでいるようだ。
戦った国同士がまだ犠牲の傷が癒えずに、勝った負けたの話しが
生々しいうちは、冷静な総括は難しいのだろうけど、「日本だけが悪い」
と言うくくりはもうそろそろはずしてもらいたいもんだ。
常任理事国入りが鍵のように思うんだが。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 15:49:46
まあそこのところは、冷静に歴史的な事実を記述して、残しておけばいいん
じゃないの?
戦前の日本が、後発帝国主義国家として植民地獲得競争に参加しようとして
いたのは事実だし、後発だけあって、そのやり方が洗練されていなかったの
も、また、事実。
そして、おそらく19世紀のあの時代にあって、自分の祖国の将来を考える
ならば、世界中のどこの国の指導者であれ、日本と同じ進路を選択したであ
ろうことも、また事実。
その辺は、もう今更言うまでもなく、現在の世界でもまともな現代史の研究
をしてる人間は理解していると思うよ。
104名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 16:48:40
戦争始めたのが悪いとは思わないが、
落としどころ考えずに突っ走ったところがバカなんだよ。
世間知らずの狂信者集団。

まだ生き残っているみたいだね。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 16:52:15
>>103
けどなぁ、お隣さん連中があの有様だから・・・w

例えは悪いけど、植民地と言う果実の奪い合いでボロボロにやられたが、
どっこいやつらの果実も食えないようにしてやった、ガキ大将の心意気
ってくくり方もありか?
106名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 17:57:02
>>105
アジア諸国は独立したけど、アメリカの餌食になっているのは全然変わらない。
日本は金だけむしり取られているけどね。
現状認識が甘すぎる。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/06(水) 22:52:10
>>105
それは、一万円札の先生も言ってたよな「脱亜入欧」ってのな。
半島はどうにもならなかったとおもうけど、中国人はずばぬけたリアリスト
だから、あの時代の王朝が、異民族としての印象を残していた、清ではなく、
もう少し個人や地方単位以上の視野で、愛国心を持った層が育成できていた
ならば、日中で協力して、欧米勢力の浸透を阻止する、とかもできていたか
も、とかおもうけどね。
ま、清の惨状をみたから、日本でもようやく藩レベルを超えた考え方のでき
る連中が育ってきた、部分もあるのかもしれないけどね。
108名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/07(木) 08:55:49
>>107
アヘン戦争は日本にとって驚愕の出来事だったらしいね。
それでも、中華思想、儒教は尊大を気取ってなんらアクションを
起こさない。ついに歯噛みして脱亜入欧を叫んでしまった。
「今に朝鮮半島に西郷隆盛が現れる。」ってずっと思っていたらしいね。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/07(木) 21:23:43
まあ、アメリカでは広島・長崎への原爆投下は正義の戦いにおける正当な行為だそうだからな。
そのうち、アメリカは原爆で4万人が死んだというのは日本の捏造だ、写真はすべて科学的根拠も信憑性もない
日本のプロパガンダだ、死者は原爆が原因とは言い切れないと言い出すだろう。
北朝鮮が横田めぐみさんの骨のDNA鑑定を日本の捏造だと言ったように。
イラクでも大量破壊兵器がなかったのに、存在すると言って戦争起こしたような国だからな。
まあ、都合が悪くなったら捏造・プロパガンダ・でっち上げ・買収はどこの国でもやるってこった。
何か最近の日本も似てないか?
何が原因で、誰の意志でこんなに変わってきたのか不思議でならない。
俺たちの子供のころは、核武装・軍隊保持なんて言い出したらよってたかって軍国主義だ・右だと叩かれたもんだ。
今は全くの逆だもんな。反戦・平和なんて口にしたら、売国奴・左翼・アカだのとムチャクチャやられる。
尖閣諸島にしても竹島にしても、実際問題にされだしたのはここ10年ぐらいだ。
これがどう現在の日本の国益と具体的にからんでくるのか、さっぱりわからん。
20年前には尖閣諸島・竹島なんて聞いたこともなかった。領海200海里の時ですらそうだ。
何かアメリカ対中国の将来的な軍事対立が想定されて動いているような気がして仕方がない。
1つだけ言えることは、北朝鮮と日本が戦争状態になったとき、韓国と中国は北朝鮮につくだろう
ということだ。特に韓国が日本の味方になることはないと思う。韓国が北朝鮮と戦争を起こさない限り日本と
韓国が手を結ぶことはないのではないか。ましてや中国が日本側に立つことはまずないだろう。
そして、その時には日本はアメリカに見捨てられるんじゃないかと真剣に思っている。
日本をいけにえにしても、中国・韓国との関係重視するんじゃないだろうか。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/07(木) 21:24:41
日本は外交的に本当に困難な舵取りを迫られるだろう。
アメリカを信用しすぎてはいけないと思う。
都合が悪くなると、テロ国家として認定されて武力攻撃をされかねん。日本の各地にアメリカ軍の基地があるということはいつでもそこを拠点に攻められるということだろう。
首ねっこをひっつかまえられている日本はアメリカには逆らえない。
ただ、中国・韓国は北朝鮮という爆弾をちらつかせ、日本を手の内に入れて、アメリカと対抗したいところだろうが、基地がある以上、それもむずかしい。
日本・中国・韓国が中国を中心にまとまることをアメリカは一番恐れている。
そんなそぶりをみせれば、日本はアメリカからテロ国家として攻撃されるだろう。
アメリカは日本が独自に戦争できる状態にすることによって中国と一戦やらせたいのではないのだろうか。
中国・韓国の反日運動の激化もへたしたら、裏でアメリカが煽ってるのではないか。
南京大虐殺はでっち上げだという論がここ最近とみに強いが、これもアメリカの煽りではないのか。
そして日本をとことんいけにえにした上で、国力の疲弊した中国に対抗する戦略なのではないか。
そうすれば台湾が必要以上に日本にすり寄ってきている状態も理解できるし、日本が右傾化しているのもわからなくもない。

111名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/07(木) 21:25:27
妄想ならどれだけありがたいか。妄想であって欲しい。
でも、この流れは変に意図的に感じる。
韓国はわからなくもないが、中国の最近の反日行動は目にあまる。
2chに毒されすぎかもしれないが、日本人の反韓・反中意識も高くなってきたような気がする。
平和ボケだったかもしれんが、北朝鮮の迷走ぶりにあおられて日本人の危機感が高まってきた。
それに便乗して、これまで定説だったものまで曲げられて都合良く解釈されだした。
それに異議を唱えると自虐だという。サヨだ売国奴だと叩かれる。
たかが50〜60年前のことだ。生存者もいるんだ。それがどうしてこんなに急激に変化しだしたのか。
南京虐殺があったかなかったかなんてことは、一般的に簡単にわかるはずだと思うんだ。
それがなかったということに急激に最近の日本の論調はなっている。
俺たちはそのころ生きていたわけじゃないし、本当にあったのかどうかはわからない。
しかし、その変化の急激さに納得がいかないんだよ。
何らかの意図・意志があるとしか思えないじゃないか。
それが、両国の大衆の意識操作をしているんじゃないかと勘ぐってしまうんだ。
太平洋戦争は中国における大国の利権争いによる衝突で起こった戦争だということは自明の理じゃないか。
イラク戦争でも同じだろう。単純に考えればわかることだ。
それがなぜ正義の戦いになるんだよ。アメリカにもイギリスにもフランスにも日本と同様の戦争責任があると思う。
イラク戦争だってアメリカ・イギリス等の戦勝国の戦争責任はある。大罪だと思う。
それが急速にねじ曲げられていくこと、それを疑いもせず受け入れてしまっていることに恐ろしさを感じるんだ。
112109〜111:2005/04/07(木) 21:32:10
どんな意見でもいい、煽りでもいい、みんな聞かせて欲しい。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/07(木) 21:47:53
聞いた戦争体験の事を書けよ。

バカばっかりだな。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/08(金) 07:35:48
70代の母は戦争のことを語りたがらない
空襲で父親が亡くなったから。
亡き父(母より5歳上)は16で終戦を迎えて、
それまで信じていた価値観が壊れたらしく、その意味を
知ろうと必死だったためか
「丸」とか、戦争関係の本が家には山ほどあった。





115名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/08(金) 14:12:20
単なる軍ヲタ
だった。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/08(金) 14:34:36
戦後生まれなら「単なる軍ヲタ」という表現もあるだろうが
戦争体験のある人に対して "単なる" を付けるのは、違和感がある。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 19:13:56
>そのうち、アメリカは原爆で4万人が死んだというのは日本の捏造だ、写真はすべて科学的根拠も信憑性もない

基本的に敗戦国の被害は捏造する必要がありません、何故なら問題にならないから。
ドイツのソ連占領地区や敗戦後の朝鮮半島ではレイプが多発しましたが、誰も問題にしません。

>俺たちの子供のころは、核武装・軍隊保持なんて言い出したらよってたかって軍国主義だ・右だと叩かれたもんだ。

中国が持っている核ミサイルは少なくない数が日本に照準を合わせているそうですし、韓国の
海軍は日本を仮想敵国だと公言してますから将来の事を考えると核武装・軍隊保持は考えないと
いけない問題ですよ。

>尖閣諸島にしても竹島にしても、実際問題にされだしたのはここ10年ぐらいだ。

これは単純に冷戦が形骸化したからでしょう。

>そして、その時には日本はアメリカに見捨てられるんじゃないかと真剣に思っている。

これは無いと言うか、貴方の願望ですか?アメリカは日本を守っているという考えは全く無く
アジアに対する影響力を残す意味で日本に居座っています。しかもタダどころか金貰ってます。
更に言えば四方を海に囲まれた日本という国は守りやすく政情も安定していますので海外に
基地を置くにはこれ以上の条件は無いでしょう。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 19:37:56
>日本をいけにえにしても、中国・韓国との関係重視するんじゃないだろうか。

何か重視するような関係ってありました?

>アメリカを信用しすぎてはいけないと思う。

ケツ嘗め平和憲法を大事にしてる連中に聞かせたいセリフですね。

>首ねっこをひっつかまえられている日本はアメリカには逆らえない。

同じ様な立場にいるドイツはアメリカによく逆らうよね?何故だか解る?
戦後補償をキチンとしたからなんて寝言はやめてね。
ドイツ軍は国内にある米軍基地を強襲占領する様な作戦立案を再軍備間もない頃
からやってるんだよ。今は友好的でも将来はどうなるか解らないからね。
もちろん米軍もこんな事は解っていてドイツの米軍基地の周りは対戦車地雷で
守られている。日本もそれぐらいの気概を見せないといけないね。

>日本・中国・韓国が中国を中心にまとまることをアメリカは一番恐れている。

これはそんなに恐れていないと思う。分割統治は植民地主義の鉄則だけど幸いアジアに
は中国・韓国・北朝鮮という未だ植民地根性が抜けきらないお馬鹿な国がいるので
アメリカの注文通りまとまらない。それに中国という国は民主化されるだけで内戦が何時
起きてもおかしくない国だからアメリカとしても安心。

>アメリカは日本が独自に戦争できる状態にすることによって中国と一戦やらせたいのではないのだろうか。

どうやって戦争するのかな?中国も日本も海上輸送力なんて無きに等しいし海軍自体も大した事ないよ。

>そして日本をとことんいけにえにした上で、国力の疲弊した中国に対抗する戦略なのではないか。

日本とアメリカが中国からの輸入を禁止すれば中国は簡単に疲弊するけど?

>妄想ならどれだけありがたいか。妄想であって欲しい。

妄想だから安心して。
119名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 19:47:07
>韓国はわからなくもないが、中国の最近の反日行動は目にあまる。

イヤ、昔からそうだったけど?

>それに便乗して、これまで定説だったものまで曲げられて都合良く解釈されだした。

これまでの定説ってのが嘘ばっかだったからね、仕方ないよ。

>南京虐殺があったかなかったかなんてことは、一般的に簡単にわかるはずだと思うんだ。

そう、三十万人分の遺骨を掘り出して信頼できる第三国に鑑定を依頼すれば解るよね。

>それがなぜ正義の戦いになるんだよ。アメリカにもイギリスにもフランスにも日本と同様の戦争責任があると思う。

ならば東京裁判から疑おうよ。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/09(土) 23:59:45
あなたが聞いた戦争体験を書きましょうよ。
ここは国際政治を語る場とは違うんだよ。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 00:19:43
父親が疎開中にたまたま通りかかった瀬田の唐橋で、
艦載機の機銃掃射に合い、泳げないのに急いで川に
飛び込んだそうです。
漁師のおじさんに助けられ九死に一生を得た。
動くものは何でも攻撃されたようです。
122sage:2005/04/10(日) 01:33:05
主人の母は戦時中、火工廠で風船爆弾作っていた。
爆弾の誤爆があり、作業中の職員が死亡し、重症を負ったのを見たそうな。
通勤途中、戦闘機からの機銃掃射に会い、電車の椅子の下に伏せて助かったと
言っていた。電車を飛び出した人は撃たれた人も多かったと聞きました。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 23:03:11
祖父98歳
昭和3年頃、千葉県国府台の野戦重砲第七連隊配属。
富士の裾野で実弾射撃訓練をするため、当時はまだ珍しかった
牽引用車両、トラックと軍馬の大縦列を組み、大砲を牽引しつ
つ永代橋を渡る。その後、銀座のど真ん中を通って富士まで・・。
時代だね・・。

ちなみに、当時の首相は田中義一。満州某重大事件(張作霖爆殺)
の処理方法で昭和天皇の不興をかい退陣。
じいさんの部隊を含め、世間では、「田中義一」を逆から読んで
「ひとつもよいことなかった」と揶揄したそうな・・・。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 23:12:04
先日中で焚き火をして酸欠死亡事故を起こした洞窟、防空壕の可能性が高いわけだが、
親の家の近くではあの手の防空壕が当たり前のように存在してた。学生まで借り出さ
れて掘ったそうだ。そのほか各家でも防空壕設置が指示された。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 23:27:59
30年ほどまえ迄、母の実家に防空壕残ってた。
久しぶりに開けてみるってんで、見てみると、
干からびたサツマイモがひとつ転がってた。
コンクリ打ちの結構立派な防空壕だった。
126名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 23:59:13
うちの近くにはガキの頃は防空壕ボコボコあったし、零戦を隠す
変な穴とかも沢山あったよ。
ふーん、これが零戦の大きさか、って、子供心に思った。
小さい。
12777:2005/04/11(月) 02:39:50
ペナン沖で巡洋艦が撃沈して、(ペナン沖海戦)負傷兵の警備を埠頭でしていた時。
親父の持っている銃を掴んで「頼む、憲兵俺を楽にしてくれ」と言って。
負傷した水兵がすがって来た。
128名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 20:32:33
祖父が満鮮国境の図門(ともん)という町へ、在留邦人相手
の商売のため行った時のこと。
夜、お客さんの家で寝てると、遠くで重機関銃独特のドッドッ
という低い連続発射音。
お客さん「匪賊討伐やな。○○はん、えらいとこ来やはりまし
たな」
昭和10年頃だと思う。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/13(水) 22:55:36
東京大空襲の時、周りは焼けたのに、なぜかうちの母の実家周辺は
焼けなかったそうだ(先日六〇木でやった東京大空襲展でもそうあった)
もし焼けてたら、私は今こうして書き込みをしてないかも(汗)。
あと、私の義兄の父は、戦争が終わるのがあと2,3日遅かったら
神風特攻隊として行ってたそうだ。そうなると義兄はいない事に。

しかしそういう運というか何と言うか…って、どうやって決まるのだろう???
130名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/13(水) 23:01:42
中国の橋の上には物乞いが大勢いた。
銭をやると「少ない」と追いかけてくる。

中国人に与えると感謝されるどころか・・・・・昔も今も・・・・・
131名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/14(木) 13:22:56
終戦近くなると戦闘機が本土にやってきて機銃掃射したらしいね。
うちの親父も小学生のころ、疎開先の西宮北口の辺りでグラマンに
狙われたと言ってた。なんでもパイロットの顔が見えるくらい低空
を飛んできたとか。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/14(木) 21:33:41
何故か当時の人は艦載機はみんなグラマンと呼んでいたね。
コルセアとかヘルダイバーもあったんだけどねw
133名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/14(木) 21:53:25
>>131
ウチのオカンも同じ事言ってた。
大阪の石橋で機銃掃射されたらしい。
田圃のあぜ道に伏せる瞬間に何故か振り返ったら艦載機のパイロットが見えたんだと。
オカンは「笑ってた」と言うが、ゴーグルにマスクのパイロットが笑ってるかどうかなんて分かるはずない。
死に直面したからそう見えたんだろうな。

ただ、顔が見えたらもう弾は当たらない(自分よりも前に着弾する)、と教育されてたらしくて、ちょっと安心したらしい。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/15(金) 00:07:44
>>132
そうだね。うちのばあさんなんか、爆撃機は全部B29だった。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/15(金) 00:11:51
うちのばあさんなんて、外国はすべてアメリカ。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/15(金) 00:23:43
私の前の勤務先の同僚、同い年の男

イライラ戦争のとき建築仕事でイラクに行ってて
高所作業してるときイラン軍の飛行機が空襲にきて銃撃されたそうだ。
恐怖で体が固まって足場にへばりついていたところを
鳶の親方(日本人)が背負って助け出してくれたって。
戦争体験者はすごいねー、という話。

そんとき作ったモニュメントは前の戦争では残ってたけど(テレビ画面で確認できた)
今度の戦争では完璧に破壊された模様(全然映らない)
137名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/29(金) 20:00:15
駅前の果物屋には、まだ地下に防空壕があるよ。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/30(土) 10:48:59
高校の時の日本史教師が左寄りだった。
教科書を無視して、自ら作成したレジュメを使って授業をした。
特に現代史、当時は教科書に載っていなかった南京大虐殺の辺りは、
何日も懸けて念入りに熱い口調で語りまくり、生徒はしらけ気味だった。
今思えばあのレジュメ、TVで紹介される中国の教科書に近いものなような気がする。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/30(土) 18:47:12
>>138
その教師は戦争体験者なのか?
大陸で戦っていたとか?
140名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/30(土) 18:56:14
>>139
大陸で戦ってたならそんな馬鹿なレジュメは作らんだろう。
戦後生まれのバカサヨだろう。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/30(土) 18:58:06
>>140
じゃ、138はスレ違いって事だな。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/04(水) 12:02:19
人肉喰ったと聞いたことある。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/04(水) 12:04:55
>>142
それ戦争体験か?
144名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/04(水) 12:26:06
>>143
ガダルカナルなんかでは結構あったらしい。
145名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/04(水) 15:01:21
漏れ、暇になると自分の肉ちょっと削って食ってるよ。
なかなか乙な味
食いすぎると血まみれになっちまうけど
146名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/04(水) 17:53:28
あと、ニューギニアな。
147名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/05(木) 00:15:42
ばあちゃんは東京大空襲の時、離れたビルから見てたら、花火のようでキレイだったらしい。

ちなみに、ばあちゃんの兄弟は二人が戦死、本家も長男が戦死、他の分家も長男が戦死。
両親が早逝したばあちゃんには、兄達が生きていれば、と思うことが度々だったらしい。
148名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/05(木) 00:28:09
内の母親もきれいだった言っていた。
名古屋大空襲を岡崎から見た印象。
父親は熊本にいたが、長崎の
原爆きのこ雲が見えたそうな。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/06(金) 09:34:18
母親も、両方のばーちゃんも終戦前に
こんな戦争勝てるわけない。負けると思ってたそうだ。
じーちゃんは玉音放送聞いてわあわあ泣いたそうだし
まだ10代だった父親はしばらく放心状態だったという。

いつの時代も女は現実的で、男の方が夢見てたのかな。

150名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/07(土) 08:26:58
単に為政者が嫌いだっただけだろ。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/10(火) 00:14:02
俺のじいさんなんかは、やっぱり
「こりゃ勝てるかも知れん」
と思ったとよ。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/10(火) 01:22:53
日露戦争でロシアに勝った経験があるから
アメリカにかっても不思議じゃないと思うの自然だろ。
153名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/10(火) 01:37:51
真珠湾を徹底的に叩いてれば戦況が変っていたかもな。
なぜ第2次攻撃を中止したのだろう・
154名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/10(火) 02:07:12
アメリカ相手に本気で勝てるわけないと思ってる人も多かった。口に出せなくても。
(口に出してしょっ引かれたのがうちの・・)

>>153
あの戦争の失敗と本質的には同じことをやって「第二の敗戦」を迎えたのが戦後の日
本という議論もよくされてますな。
15577:2005/05/10(火) 06:54:26
死んだ婆ちゃんがよく言ってた、農地改革で御先祖様の土地を取られたと言ってた、農地改革の話をするたび
涙ぐんでいた。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/14(土) 21:26:08
農地解放で日本の民主化が進んだことは事実なのdが・・・。
157名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/14(土) 21:29:28
>>156
でも、財閥は実質的にそのまま残ってロクでもないことをやり放題だった。
土地を手にした農民も、某組織に強制加入させられて上前はねられ、
借金漬けにされて、やる気のないヤツばかりが残った。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/14(土) 21:56:04
オヤジは海軍にいたんだけど陸軍ほどお堅いムードじゃなくて
復員したらまず何する?って話になって、女と一発ヤるって言った奴が
圧倒的に多くて密かに盛り上がったと言ってた。
159名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/15(日) 20:57:17
団塊の世代の出来上がり
160名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/15(日) 22:22:53
>>158
そのせいか、海軍の慰安所には女衒が斡旋した娼婦が多い
陸軍の慰安所では、占領地の現地女性を徴用(半ば拉致状態)
161名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/15(日) 22:55:51
海軍は乗船中の禁欲生活が長く、たまってる若人が多いので
慰安所はプロの女性じゃないと勤まらなかったと本で読みました。
16277:2005/05/19(木) 06:24:02
と、したら俺の親父陸軍憲兵でペナンへ赴任したけど。
ペナンは海軍基地が有ったから、海軍の慰安所に行ったかもしれない。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/19(木) 18:55:38
ワシの父は大正15年樺太生まれ。お医者さんになりたかったけど召集で
旭川第7師団の幹部候補生として北海道へ行った。
マントとサーベルがご自慢だった(今思うとw)←エリートの証!
でも肋膜をわずらって実際に戦地に行くことなく終戦。
もし行ってたらアッツ、キスカで死んでただろうと。
アメさんの進駐後は英語が話せるのでそれ相当の待遇を受ける
バドワイザーもらったとかいってたなあ〜、それと葉巻も
しかし戦争に対しては否定的、帝国の洗脳がとけるまでに何十年も
かかったと今でも言ってる。
そんな父と今でも戦争について語りあってまふ
164名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/20(金) 22:26:01
俺のオヤジは陸軍だけど内地勤務で貨物輸送機の航空運輸計画作ってた。
ひもじい思いもしたことなく、前線に行ってないから当然戦闘経験もなし。

戦況が悪くなって飛行機が戻ってこなくなってからは、仕事もヒマ持て余し気味で
町の映画館から軍が没収したフィルムを、食堂にシーツ張ってみんなで見たり・・・
俺たちだけこんなことしてていいのかなーって、ぼんやり思ってたらしい。
16577:2005/05/21(土) 04:24:28
>>163
それなら、オレの親父も同様な事が言える。
オレの親父も、配属先がインパールだったらしい(弓兵団)
しかし、その前に憲兵試験受けて合格しペナンへ
だから、親父はこう言う「インパールだったら確実に戦死していた」と
16677:2005/05/21(土) 05:01:35
>>164
オヤジさん軍人恩給有るのか?
167名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/23(月) 21:46:33
B29の爆音は「アンアンアン」てなむしろ優しい音。
機体がキラキラ光って、下から「キレイだなぁ」と思って観てた。
焼夷弾ってのは六角柱の小さいのが(弾子)、空中でバラバラになって落ちてくるんだが
あれが屋根に当たって転がり落ちてくる音「かぁ〜ん、からんからん」今でも夢に出てくるな。
ところが時々50本くらい束になったのがそのまま落ちてくることがあったんだ。
ちょうどそいつが屋根から天井突き破って座敷で火柱上げ始めたときは生きた心地がせんかった。
次弟が屋根に上って落ちてくるのを棒で払い落とす練習をしていたが・・とてもとても屋根なんかに上がれたもんじゃない。
モノの30分で家は全焼、着の身着のままで放り出されたよ。
あくる朝近所の側溝には黒焦げで固まってる死体がいくつもあったが、
おい、死体なんか毎日見てるとなぁんとも思わなくなるぞ。

親父に聞いた空襲話。死ぬ前に聞いといてよかったとつくづく思ってます。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/23(月) 22:32:05
うちは工業地帯だったから、焼夷弾じゃなくて大型爆弾が降ってきたそうな。
爆撃が終わると、ぼろきれのようになった、人体とか
その一部分が電柱や、木の枝に引っかかってたそうだ。
コンクリートの壁には肉片がへばりついてたといってた。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/23(月) 22:36:57
叔父さんが内地の高射砲部隊の少尉だった。
砲撃指示に夢中になり、気付かぬうちに背後からグラマンの銃撃を受けたそうだ。

高射砲は、あまり当たらなかったらしい・・・orz
170名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/23(月) 23:21:37
近所の知恵遅れの子供をかわいがっていた爺さん。
いつものように二人で小舟に乗って漁に出た。
瀬戸内海の真ん中なのに、米軍機が飛んできて、たかが伝馬船1艘に機銃掃射しかけてきた。
爺さんはうずくまっていたらしいのだが、この子が騒いでいたから目立ったのではないかという話だ。
米軍機が飛び去ってから、近くで漁をしていた船が行ってみると爺さんは即死でこの子虫の息だったとのこと。
昭和20年7月のことで、俺のお袋は孤児になった。

遊びで殺しているとしか思えないんだがな。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/24(火) 00:27:22
>164
貨物輸送機の運輸計画って超極秘情報ですよね。
攻撃されると被害大だもんなー。お父様は情報部員ですか?
172名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/25(水) 22:10:12
日本人っておとなしいなあ
こんな酷いことされたアメリカ人が大好きだし
恨み言一つ言わないで・・・

8月になったら
朝鮮人みたいに白目むいて星条旗を燃やしたっていいはずだよね。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/05(日) 07:20:23
半島人のまねしたら日本はおしまいだって


70超えた母が、今まで決して語らなかった戦争の話をするようになった。
父親が亡くなっていやな思い出ばかりだから、とけして話しなかったのに。
年をとったのかな、と思う。

終戦直前にあった空襲の日、
まだ小学生だった母が家族と火の中を逃げ回っていたら
「そっちは危ない!あっちへ逃げろ!」と誘導してくれた兵隊さんがいた。
夜が明けて戻ってみるとその人は亡くなってたそうだ。
胸に大きな穴があいてた、と。
「あと半月早く終戦来てたらあの人もお父さんも、何十万の人が死なずにすんだのに・・」
174名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 03:16:27
>「あと半月早く終戦来てたらあの人もお父さんも、何十万の人が死なずにすんだのに・・」

「日本の一番長い日」見てると、8月に入ってからの政府の決断が
遅いのには本当にあきれ果てます。
劇中、無条件降伏受諾の手続きに時間がかかることをして
「ニッポンの葬式だからな、手順はきっちり踏まないと、、、」という
もっともらしいセリフも出てくるが、
その一分一秒のあいだにも無数の命が失われていたと思うと
ほんとうにゾッとするし、悲しくてたまらない。

けれど近い将来、国中の戦時経験者がみなさん鬼籍に入り
日本国民が完全に戦争を知らない世代に入れ代わったら、
この国はまたきっとどこかとやるんじゃないかと感じてます。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 10:22:59
そうですね、軍靴の足音が聞こえますねw
176名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 13:37:36
戦争の負け方が分からないくらい幼い国だったんだよ。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 22:15:14
決断が遅いのは今だってそう
日本人の病気だ
178名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/09(木) 22:32:59
「生きて虜囚の辱めを受けず」
これで何人死んだことか。
179名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/10(金) 14:01:57
>>163
あ、私の父と同世代だ。
うちの父は大正14年青森生まれ。
私にはほとんど戦争のことは語ってくれなくて、
兄がぽつりぽつりと聞かされたのを教えてもらった。
馬をよく使えたらしくて、
終戦間近に陸軍で皇居あたりの警備をしていたとか何とか。
父曰く
「あと半年戦争が長引いてたら間違いなく大陸で死んでた」と。

母方の姉夫婦は店(食堂)をやってて、
理想に燃えて満州に出店。
引き揚げ時に長男を亡くし、
遺骨を胸に帰ってきた姿が忘れられないとは母の話。

さらに母の兄、シベリア抑留の経験者。
壮絶。
数年前に手記を出版したんだけど、チョト売れなかったw
でも少しは、歴史的資料としての価値はあると思うんだけども。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/10(金) 14:06:13
179続き

母自身は昭和4年生まれなので、
語ってくれた経験は朝鮮人労働者の話が多かった。
あと、母の父は大掛かりな取引をやってた商人で、
終戦の数年前から言ってたそうだ。
「この戦争は勝てない」と。
言えば非国民扱いされたり投獄されるんで、
声を大にして言うことはなかったらしいけど、
商人の間ではもっぱらの話だったそうです。
商人て情報さといからだよね。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/10(金) 14:10:18
そんな両親も60代で亡くなり、
満州引き揚げの伯母夫婦も鬼籍に入りました。
シベリア抑留の経験者である伯父は90間近で今はほとんど恍惚の人。
語り継ぐべき世代の私らはややヘタレな感があることも確かで、
こうして過去の戦争体験は忘れ去られていくのかなと。
それがいいことなのか悪いことなのかはフィフティな気もしますが。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/10(金) 16:16:54
満鉄でも情勢判断として、敗戦を予想していたみたい。
うちのじいさんは、19年のうちに家族を内地に帰したよ。
じいさんは敗戦後まで満州で仕事をしてた。
八路軍に鉄道施設、設備の引渡し、技術指導したあと
22年に帰ってきた。戦後その頃の話は全くしなかった。
よっぽど、いやなものを見てきたのだと思う。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/16(木) 07:24:33
満鉄調査部って当時のシンクタンクでしたね。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/16(木) 07:31:58
>>179
>さらに母の兄、シベリア抑留の経験者。
壮絶。
数年前に手記を出版したんだけど、チョト売れなかったw
でも少しは、歴史的資料としての価値はあると思うんだけども。


なんていうタイトルですか?アマゾンで買えますか?
ぜひぜひ読んでみたいんだけど。貴重な証言だから、それ。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/16(木) 09:21:07
オレの父親は旧陸軍の伍長で、中国大陸転戦して歩いた。もちろんケコーン前、
オレが生まれる前のこと。八路軍の少年兵をとっつかまえて縛り付け、銃剣で
刺し殺すよう言われたが、父親は坊主の倅であることを理由にそれを断ったそうな。
それなりの仕打ち・処分を覚悟したが、不思議に格別の処分は下されなかった。
ただし、それ以来の昇格はぴたりと止まったんだと。
186名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/16(木) 09:47:58
学校にも兵役経験のある先生とかいたな。
高校の時の校長の指が数本欠損していた。
敗戦時、切腹しそこねて指を落としたとのこと。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 00:33:14
小中と殴る先生の多くは軍隊経験者だった。
まだ40代現役だったよな。
でも些細なことでなおもいっきり殴られたよ。

 それこそ「歯をくいしばれ〜」の世界だった。
188名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 03:50:42
うちは、親父が「歯をくいしばれ〜〜!」だったよ  (#>_<#)
一度息子にやって見たい・・・
189名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 06:39:45
タイホ!
190名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 06:47:31
>>186-187
学徒出陣して支那にて砲兵中尉で終戦、
戦後八路軍の傭兵として国民党と(砲兵隊を指揮)闘う、
数年後帰国し、教員になる・・・

こんな教師がいたはw
191名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 09:57:13
聞きたいんだけど、
教員ストライキはバンバンやってたし、
社会・共産が野党第一・二政党だった時代だったけど、
君が代斉唱や日の丸掲揚は誰もイチャモンつけなかったよな。
192名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 00:39:38
君が代斉唱や日の丸掲揚何ぞしなくても世の中回ってたし
逝け逝けどんどんの高度成長。、
193名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 00:56:55
中学生の時に教師から戦時中、イヌを食べた話を聞いた。
その教師が子供の時の話。
194名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 01:08:16
爺さんが、揚子江で手榴弾を川で爆発させて魚を取ったと自慢していた
195名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 01:19:10
>>191
都道府県、または市町村によって違うのでは?
俺のところは、小学校できちんと「君が代」を教えてくれて、今では感謝してる。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 01:36:23
俺の親父は満州に行ってシベリア送りになった。
終戦後5、6年ぐらいにやっとの思いで日本に帰ってこれたが、
それでも、南方に行ってたらかなりの確率で死んでただろうから、まだ幸運だと言っていた。

親父の右足には、銃弾の跡が生々しく残っていた。
それが俺の戦争体験。

親父も、その戦友たちも、いわゆる“悲惨な従軍慰安婦”の話になると、
「そんなもん見なかったけどなあ」と不思議そうに言う。
(もっとも、“従軍慰安婦”と言う言葉そのものが当時存在しなかったらしいが)

だから、昨今の「従軍慰安婦云々」の話は、個人的には非常に疑わしく思っている。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 03:05:25
祖父は九州の志布志湾近辺で終戦を迎えた。
上陸を迎え撃つための野砲の隠匿用坑道を掘っていたとのこと。
朝鮮人も多く徴用されていたらしい。
終戦になると、兵隊は皆軍需物資を持って復員。
朝鮮人は、軍馬をさばいて、肉を食っていたと。
誰も咎める者もない。
脱力感が伝わってくる話だった。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 05:14:11
小学校での運動会入場行進は
軍艦マーチだった。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 07:58:14
君が代のメロディ自体はなかなかイイと言う共産党員もいるくらいだ
200名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 08:52:19
従軍慰安婦って岡本喜八の独立愚連隊にも出てきた慰安所の女のことだろ?
見たことないってのはあり得ないと思うけどな?
201196:2005/06/18(土) 12:41:15
言葉足らずでスマソ。
つまり、巷間伝わっているようなイメージの、“可哀想で悲惨”な女性たちは見なかった、ということだ。
慰安所にいる女性たちのことは当然知っていたが、
みんな明るく楽しそうにやっていたというし。
朝鮮出身の人たちも兵隊さんたちのこと心配して涙流してた人もいたというし。
(まあ確かに、本人の、本当の心の内はわからんけどね)
202名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 14:44:00
>>201
身売りされて、売春させられているからといって、毎日泣き明かして
いるわけないよ。
今日本にいる、ヤクザにパスポート押さえられた外国人売春婦が、いつも
泣いているわけでもないし。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 17:42:09
>>202
だから?
204名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 18:00:55
198あたりからスレタイが読めないアホどもが、また寄りつきだしたようだな。
特に202と203。
おまえら生臭い話はヨソでやってくれ。
205名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 19:25:07
>>203
201で一番正確な情報は
> (まあ確かに、本人の、本当の心の内はわからんけどね)

っていう事。
201氏の父上が売春婦に個人的な関心を持っていた訳じゃないからね。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 21:47:57
>>205
なんでそれが「一番正確な情報」になるんだ?
「正確なところは分からない」って言う現状を言ってるだけだろ?
207名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 21:58:05
>>206
分からない、ってのだけが正確な情報。

あとは、関わりもないし、たいして興味がない対象に対する、
単なる表層的な見方じゃないかと思うよ。

俺にはあなたが真っ赤な顔して怒っているように思えるけど、
正確なところは分からないから。
な、正確な情報ってのは「分からない」って事だけ。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 22:07:51
>>207
真っ赤な顔して怒ってるわけじゃないけどw

「分からない」と言う事だけが唯一の情報なのであれば、
無理矢理慰安婦にさせられた人だけが声をあげて、
自ら慰安婦になった人たちは口をつぐんでる、って事も可能性としては大きいよね?

「あの人は昔慰安婦だったんだ」という陰口は叩かれたくないだろう。
それが「お国のために自ら志願した慰安婦」であっても、
それはなかなか言い出せないと思う。

無理矢理慰安婦にさせられた人は被害者だと言う意識があるから、
声を大にして「自分は日本軍に無理矢理連れてこられた」と言える。

この差があることは確かだと思う。

ま、想像ですけどね。

真実よりも事実を尊重して欲しいと思います。
自戒もこめて。

209名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 22:13:01
>>208
えーと誤解してるのかな。

俺は201氏の父上が見たことで、いわゆる慰安婦問題が大したことが
無い問題だった、という流れになるのが嫌なんだよね。

大して関心がなかった事に対して、感想を述べるのは問題ないけれど
大して関心がなかったなら、その事に言及すること自体がおかしいと
思ってます。
関心がなかったのにその事に否定的に言及するのは、何か意図がある
からですよね。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 22:30:04
>>209
関心はありますよ。
昨今の中共や朝鮮半島のジャパン・バッシングなどを見てると、
歴史の改ざん云々と言う事が問題になっていますが、
「そうでない歴史」もあった、と言う事を完全に無視しているように見受けられるわけです。

教科書問題にしても、たとえば南京問題での数字の大小などが問題になっていますが、
事実をきちんと実証すべきだと思うし、もしもそれが不可能であるのなら、
これは問題とすべきではないと思います。

従軍慰安婦問題にしても、自ら志願して慰安婦になった方々の意見は採り上げられたのかどうか、
私の不勉強のせいでしょうが表には出てきていないように思います。

全ての元慰安婦の方々の意見を聞いた上で初めて机上にのるべき問題だと私は考えるわけです。
211名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 22:40:08
>大して関心がなかったなら、その事に言及すること自体がおかしいと
>思ってます。

論理的に聞いてみたい気はする。
俺たちが、高校生の孫に昔の話をするとき、オウムについて語るのは、関心が
なければおかしいのか、宮崎について語るのは、関心がなければおかしいのか。
過去の一時を回想して語るのは、特別な関心を持っていなければ許されない事
かね?
212名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 22:53:53
身内から聞いた話じゃなくて、宮尾すすむの「日本の社長」で放送した、ある
社長のサクセスストーリー

その社長は、戦時中、軍隊の上層部にいての多くの部隊を率いてういたのだが、
終戦するやいなや、自分の指揮する部隊に国から支給されていた物資を勝手に
売りさばき、その利益で会社を立ち上げたらしい。

こんな事を反省の色もなく自慢げに語る国賊と、こういう国賊をヨイショして
取材するテレビ局には、殺意を覚えた
213名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 01:11:37
ちょっとスレ違いの流れになってるので修正しようよ。
個人的な思想に関する議論は他に板があるのだし。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 01:20:21
>>213に同意だが、
すまんが、俺には209の言っていることがよく理解できん。
「何か意図がある」のは209の方じゃないの?
215名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 03:05:03
俺の叔父貴はビルマ戦線に従軍してた。

あるとき、英軍と戦闘になって、結構白兵戦に近い状態になったらしい。
で、英軍の投げた手榴弾が叔父貴めがけて飛んできた。
叔父貴は「もうだめだ」と思って伏せたらしい。
手榴弾は叔父貴の頭上で爆発。

だが叔父貴は片方の鼓膜を破っただけで助かった。

手榴弾は叔父貴の居たそばの木の枝に引っ掛かってそこで爆発したらしい。
その木の枝が太くて助かった。

あと、食べるものがタケノコしかなくて何日もタケノコだけで食いつないでいたから、
今でも叔父貴はタケノコを食わない。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 05:28:24
>>214
なんの関心もなかったけど、今にして思えば…、っていう、単なる
不確かな記憶に基づいた回想を、ことさら書き込むのがこのスレの
趣旨じゃない、って事じゃないのかな。

もっとリアルな記憶で語ってもらった、生々しい話がいくらでもある
から、そっちを優先しよう。
217名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 19:10:08
個人の記憶なんてどのみち不確かなものだらけだよ。
リアルな記憶、というけど、それほど鮮明な印象の残るものであれば、戦後
自ら知識を得て、記憶を補足している場合が非常に多いしね。
体験は良くも悪くも貴重、そこから何を学ぶか、はその人しだい。
右も左もごめんだが、そこにこだわって特定の話題を排除するのは、このス
レの意味を低下させてしまうと思うよ。

聞いた話、うろ覚えの話、なんでもうけいれていくべきでは?
218名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 21:04:22
そうだな、特定の情報のみ外すとなると、その線引きもあいまいだし、
妙にルールつくると、それ自体でもめそう。
南京で数十万人が殺されるのを見た、でも、従軍慰安婦なんて一度も
見たことがない、でも、聞いた話をそのまま書けばいいんじゃないの?
217さんの言うとおり、読んだ人間が判断すればいい。
219名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 21:22:12
>>217
>>218
そうだね。
この二人の意見が、このスレの趣旨に一番合っていると思う。
220名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 21:24:43
記憶だの回想だのってのは、語る人が何かを伝えたいから、現実に
あったこと(事実)を伝えたいことに合わせて語るものだよね。

つまり、語った時点で、既に事実をあるフィルターにかけているわけだ
からそれでいいんじゃねぇの。
221名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/19(日) 23:12:02
>>215さんの「叔父上」のお話が埋もれるに忍びず・・
ビルマといえばインパール「白骨街道」、よくぞ、よくぞご帰還されましたね。
ただいつまでもお元気で、と祈念申し上げます。
22277:2005/06/21(火) 06:35:49
>>215
俺の親父も、あと半年インパール作戦が続いていたら
弓兵団(第33師団)に、補充兵として参加していかも知れなかった。
223名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/21(火) 13:54:18
親父たちの話を聞いていると、北へ行ったか南へ行ったかが運命の分かれ道だったみたいなこと言いますね。
まあ、事情がわかった今だから言えるのだろうし、
シベリア抑留でも、たくさんの方々が亡くなられているのだけれども。
224名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/22(水) 12:50:20
私の父もシベリア抑留組です。
南方ほどではないでしょうが、やっぱり相当苦しかったみたいですね。
仲間が病気とかで亡くなっても、凍土なもんで、埋葬する穴を掘るのも一苦労だったとか。

「暁に祈れ」って、聞いたことありますか?
最初に聞いたときは人間そこまで残酷になれるのかと・・・。
みんなぎりぎりの精神状態だったんでしょうね。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/24(金) 23:03:15
>>184
放置してて申し訳なかったです。
しばらく来なかったもので…。

えと、てっきり地元弱小出版社からひっそり出したのかと思ってたら、
アマゾンの検索で引っ掛かりますたw
でも在庫切れになってます。
ユーズドもありませんでした。
口絵写真に自分の母の子供の頃が載ってたりするので、
ここで本のタイトル等をカキコするのはちょと、やめときます。
ごめんね。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/24(金) 23:17:23
ボクの知人にレイテ海戦の生き残り元パイロットがいる。自分の中では、当時の
飛行機乗りはすべからく英雄だ。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/24(金) 23:41:39
すべからく厨が出現の予感。

って、俺だけどw
228名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 15:03:08
>>224
私の叔父も抑留組でしたが、「暁に祈れ」って、
極寒のシベリアの野外で一晩中木に縛り付けられて、
助かりたかったら、早く夜が明けるように祈れ、てことですよね。
確か、関係する本が出版されていたような気もしますが。
229名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 15:06:30
「暁に祈る」で検索してみ
230名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 21:31:41
皇軍は規律厳しかったから近代の戦争に敗れたのかもね
もっと汚くやっていればちょっとは違ったのかも
231名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 21:32:33
>>230
スレ違い
232228:2005/06/25(土) 21:40:47
>>229
参考になりました。ありがとうさんです。。
233名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 22:43:22
「すべからく」は「すべて」の古風な丁寧な言い方ではないよ
「すべからず」(〜してはいけない・禁止)の反対で
(〜したいものだなあ)、という願望や希望を表現する語で雅語でもなんでもない
気取ってるのかしらんが、けっこう年配のひとや「言葉のプロ(作家、詩人、評論家)」でも
間違って使ってることがある
234名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 22:55:27
最後の一行は「誤用していることがある」としたほうが通りが良いと思うね。
235名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/25(土) 23:06:02
>>225
国会図書館に納本しましたか?
是非ともしたほうがいいですよ。
身内だけだと忘れ去られて消えていくだけです。
後世のためにも、納本をお勧めします。
236225:2005/06/26(日) 20:11:30
>>235
ありがとです。
そういうのって全く知りませんでした。
今度伯父の世話してるいとこに勧めてみます。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/28(火) 21:52:08
私の父は陸軍の技術将校でした。

軍隊時代の話は、まー少しは話してくれましたが、
どれも断片的なもので、あまり戦争そのものに関連することは
話してくれなかったように思います。

その父も10数年前に逝ったのですが、
その時に父の軍歴を調べようとしたら、なんと自治体に記録が
残っておりました。

皆様も、お父さんやお爺さんが軍隊経験者でしたら、
記録が残っているうちに、手元に記録を残されたら如何でしょうか。

スレ違い、スマソ
238名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/28(火) 23:39:03
>>237
いえいえ、ご教示ありがとうございます。
私の父も説教にからめてクドクドと戦争体験を話すわりに、具体的な
情報は断片的なままで亡くなってしまいました。
戦友会のようなものにもまったく興味を示さなかったので、千葉の連隊に入隊したという
程度しかわかっておりません。
父は一兵卒として出征だったのですが、職業軍人でなくともわかるものなのでしょうかね。
私もこれを機会に調べてみることにします。
239名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 02:47:29
家の祖父母(父方のは祖父母)の場合は、祖父からは全然聞いてない内に亡くなったが、
祖母は、「親戚の○○ちゃんが戦死してしまった、可愛い子だったのに」くらいで、
他にはいくつかの話が有ったと思うが、他には憶えてもいない。

母方の祖父母からは、全く何も聞いて無かったが、
祖父が亡くなった後、祖母が初めて語ったのが、
祖父が戦時中に徴兵で呉に居た時に、8月6日の広島原爆の光を目撃していると言う事。
戦時中呉に居た事は皆知っていたが、原爆を目撃した事は妻である祖母だけに話して、
子や孫には一言も話す事が無かった。
原爆投下後の広島市内に入ったのかどうかまでは分からない。
ただ、数年前に亡くなった時の死因は白血病だった。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 10:25:44
口の軽いババアだな。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 10:57:02
死んだお袋が若い頃(13,14歳)に、
空襲を受けたらしい。

焼夷弾がものすごい音を立てて落ちてきて、
周りはあっという間に火の海になったそうだ。
そのなかで、防空壕に避難しても、まだ、
焼夷弾の落ちる音が上空から聞こえ続けていた。

何度も空襲にあった土地なので、
ある程度我慢すれば終わると思い中で耐えていた時、
とつぜん、自分のすぐそばに不発の焼夷弾が飛び込んできたそうだ。
このときは、さすがに死を覚悟したそうだが、そんなことより
空襲に慣れるくらい爆撃されたって、想像つかないよね。
242名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/06(水) 01:53:52
>>240
いい歳して口の悪い人ですね。

>>241
戦時中とか戦後間も無い頃の写真とかを見ると本当に焼け野原で何も無いですよね。
戦時中の記録フィルムにはB29の爆弾倉から落ちるおびただしい焼夷弾が映ってますし。
あんなのが何度も何度も襲って来たなんて今からは想像出来ない。
でもそれが今でも時として顔を出す事が有る。
不発弾として。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/06(水) 02:04:53
>>242
今でもたまに爆発してる。
覚えてるのは大分で、不注意の
ガス爆発として処理されていたのが
実は米軍の不発弾の爆発だった
というもの。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/08(金) 10:15:35
まあた、スレの趣旨からそれてる。
245名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/11(月) 22:04:15
>>238
当時の人事記録が、陸軍でしたら終戦当時の本籍地都道府県庁。
海軍でしたら、厚生労働省に保管されています。
全部あるとは限りませんが、照会してみたら如何ですか?
246名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/12(火) 23:42:23
もう忘れた
247名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/12(火) 23:48:10
初カキコ。40代って、親が戦争体験してる最後の世代かも。
疎開の話や食べ物で苦労した話は、いっぱい聞かされました。
疎開先でのいじめとか(都会っ子vs田舎の子)。
あと、父の兄が中国で戦死しますた。(つД`)
248名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/12(火) 23:56:27
漏れのばあちゃんは、明治20年代生まれだった(27年だっけ?)。
福岡の久留米近くの農村の庄屋の娘。
小学生の頃、遠くから、ドーンドーンと音が聞こえて来たらしい。
怖くなって走って家に帰ったそうだ。
翌日の新聞には、「連合艦隊、露西亜艦隊撃破」の見出しがあったらしい。

同じ小学生の時、東京の女学校出の先生が着任したらしい。
はかま姿に、編み上げ靴で、それはそれはハイカラで、あこがれたらしい。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 00:00:08
漏れのおやじは、満州からの引き揚げ者。
徴兵を逃れて、満州に逃げて、満鉄で働いていたらしい。
満州から引き揚げてくる時、疎開していた弟や妹、甥っ子、姪っ子等の手を引いて引き上げてきたとか。
途中で、一人の甥っ子が行方不明になったそうだ。
中国残留孤児の帰国調査の度に、東京まで出向いて行ってたのを思いだすよ。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 00:08:52
249の続き。
そんなオヤジは、ユーゴのチトー大統領を崇拝している、社会党右派系労組の幹部だった。

なんだけど、なぜか、乃木希典と東郷平八郎も大好き。
家族で旅行に行った時など、行き先にある乃木と東郷のゆかりの場所につれて行かれたよ。
さらには霧島神宮のさざれ石を見に行ったり、伊勢神宮にお参りに行ったりで、天皇家も好きだったみたいだ。
ガキの頃、天照大神の話を何度も聞かされたことを覚えてる。

今となっては、どういう思想でそうなったのかが良くわからん(w
251名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 08:49:28
学校の音楽の授業で、原爆の歌を唄わされた記憶がある
♪あ〜ゆるすまじ げんばくを〜
みたいなの
252名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 09:37:18
>>251
スレ違いだよ。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 09:56:56
漏れのおじさん(おふくろの兄)は、陸軍に徴兵されて、ガダルカナルで戦死。
家を出る時、蓄音機から大好きな曲(クラシックだったらしい)を鳴らしながら、出ていったそ
うだ。
横井さんや小野田さんが見つかった時は、ばあちゃんが、ひょっとしたら生きてるかもしれんと、
淡い期待を持って仏壇をおがんでいたのを思いだす。
254名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 10:27:11
先日の「朝生」では80歳前後の戦争体験者が出演していた。
番組前半は「終戦時には○○の戦線にいて××な苦労をした」という
お決まりの展開だったが後半になって特攻に出撃した時の心境云々と
いうようなかなり生々しい話題になった。

番組の終了近くになって司会者が「何故、戦後60年間、何も語らなかったのか?」と
いう質問に対してある男性が「終戦時に親と子供を抱えて食うことに必死だった。
気がついたら数十年が過ぎていて戦争の記憶も薄れていた」と
語った言葉がとても印象に残っている。

戦争について何も語らないで亡くなった私の父もたぶん同じ気持ちだろうと思う。
255名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 10:30:42
>>254
スレ違いだよ。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 10:49:59
>>255
なんでもスレ違いだね(w
257名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 10:59:01
>>256
ちょっとな、神経質になっててなw
まあ、何でなのかは察してくれ。
258名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 11:17:46
大叔父(バーサンの弟)は志願して海軍航空隊に入った。

たまに送られてくる写真の中の大叔父の顔は、
どんどんキツイ顔つきになって行ってた。
(写真は俺も見た)

で、訓練が済んでニューギニアに向けて出発したのだが、
輸送機ごと撃墜されて戦死。
海上で撃墜されたらしくて遺品も無し。

敵に向けて一発の銃弾も撃てずに死んだ。

まさしく犬死に。

バーサンは、よく
「現地の娘とでも結婚して生活してる可能性は無いんかなぁ」
とか言ってた。
259名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 11:20:11
>>257
もしかして昭和35年生まれか?
260名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 12:48:56
叔父で海軍で船乗りだったのでよく話を聞いたが直接戦地へ赴いた経験はないのであまり面白い話はなかった

が・・以前従兄弟の結婚式の時ロビーで外人がギャーギャーフロントの人に英語でなんか言ってた、フト叔父が近づき通訳してた
(`Д´) 英語が喋れる!?なんでも当時の船乗りの何パーセントかは英語の訓練受けたらしい。

書くほうはカラッキリ駄目らしいが。
261名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 13:14:06
子供の頃に死んだばあちゃんから聞いたんだが、
おじいちゃんは、太平洋戦争時に
紀伊だか鬼怒川だかっていう軍艦に乗っていたそうだ。

おばあちゃん本人は戦死したと思っていたらしいが、
どうやら帰国してどこかで余生を過ごしたらしい。

その後、大きくなってウォーターラインシリーズで、
この軍艦を作った時に、思い出した記憶がある。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/13(水) 13:37:30
明治うまれの祖父は商船学校を出て、戦争前に船長に。
乗っていた輸送船が軍に徴用されて、兵員と物資の輸送で日本と南方を行ったり来たり。
その他の乗客には軍属や民間人、今で言うところの従軍慰安婦なんてのもいたそうだ。
航海中一番怖かったのは当然のこと魚雷攻撃。
次に海賊(ゲリラのことか?)だったとのこと。
なぜか祖父が船を変えると、それまで乗っていた船が撃沈されてしまったという強運の持ち主でも
あった。
船には軍の士官が乗りこんでいたが、操船には口を出さず、乗組み員たちは平時と変わらず
キャプテン、ボースンなどと平気で敵性用語wを使っていたとのこと。
これは、それまで使っていて頭に染み込んだ職業用語を下手に変えてしまうと、火急の時に無用の
混乱がおきるかもしれないという危惧があったからだそうだ。
商船学校出で外洋航路の仕事についていた船員は、港ごとのパイロットや港湾事務との連絡で
英語が話せないとどうにもならないらしい。
祖父が学生時代につけていた英語のノートが、あきれるくらい見事な筆記体で綴られていて
驚いてしまった記憶がある。


263名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 03:19:41
>>262
>船には軍の士官が乗りこんでいたが、操船には口を出さず、乗組み員たちは平時と変わらず
>キャプテン、ボースンなどと平気で敵性用語wを使っていたとのこと。
>これは、それまで使っていて頭に染み込んだ職業用語を下手に変えてしまうと、火急の時に無用の
>混乱がおきるかもしれないという危惧があったからだそうだ。

旧日本軍って思ってた程は馬鹿で杓子定規じゃなかったんだな。
ある程度は柔軟性あったんだ。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 15:47:53
陸軍は、敵性言語という事で英語を使うのはダメ。
海軍では、敵地に乗り込んで敵地を征服した時に必要だから、英語推奨。
(本当は>>262みたいな理由があったんだね。)


と、予科練帰りの親父は言ってた。だから、英語勉強せいと・・・・・。
265名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 22:18:14
横道にずれるかもしれないけど、海軍と陸軍では、随分と気風が違ってたらしいね

で、息子が戦死したばあちゃん、もし、また戦争が起きたら、漏れと従兄を徴兵
されないために、脚をたたき折ると言ってた。
「名誉の戦死も、犬死にも無い。親が泣くだけ!」と言ってたのを思いだす。

266名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 22:26:04
陸軍の船舶兵に海軍から指導に行った
人は、説明訓練の時、たくさん英語の
用語を使ったら、陸軍側から、苦情が来たそうだよ。
267名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 22:41:33
陸軍と海軍は仲が悪かった、と元軍人の親父が言っていたことがあったが、本当だったのか。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/15(金) 23:57:53
終戦時、武装解除する時、海軍の司令官が、士官達に向かって
「海軍士官はスマートたれ」
といったみたいなことを、何かで読んだ記憶があるけど、本当なんだろうか?
269名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/16(土) 10:18:29
うちの親父は徴用で海軍工廠で働いていて、戦地には行かずに済んだ口だけど
寮ではマトモに風呂に入れなかったとか。
疥癬やタムシが蔓延している上に、脱衣場に置いていた服が盗まれる。
そんな実態がわかってきたので、少々金がかかるが下宿屋に引っ越したと言っていた。
戦時中も密かにそういう窃盗が行われていたが、これが終戦となると大胆になり
大量の軍用毛布を抱えて倉庫から出てくる奴もいたそうな。
びっくりして見ていると、悪びれる様子もなく
「お、いいところに来た。お前も帰省する土産に持って行け」と2枚ほど押しつけられたとか。

朝鮮人の徴用工が終戦の翌日に担当者を追いかけ回していたという話もしていた。
戦時中の扱いのひどさを見ていただけに、殺さない程度に仕返ししてやれと応援する気持ちにもなったとか。

どうにか辿り着いた故郷では父親・姉・妹と一緒に暮らし始めたが
9月には姉が腸閉塞で死んでしまった。
医者もろくに診察してくれなくて、台風で停電の夜に苦しみながら死んでいくのを看取った。
「あの夜のことは忘れられない」と、60年経った今でも時々話してくれる。
270名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/16(土) 20:19:19
中学生の頃に今は亡き祖父から聞いたけど、
食べる物がなくてマジでイヌを食べたことあるって……
271270:2005/07/16(土) 20:28:54
そんな祖父も晩年はマルチーズを飼ってて、とてもかわいがっていた。
272名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/16(土) 22:45:26
赤犬
ウマ〜
273名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/16(土) 23:40:39
☆初心者歓迎!☆
ニュー速や極東、ハン板で韓国叩かれてるけど、具体的には
何したの?
何が悪いの?
そんな初心者、疑問を書き込んでみましょ〜!!
嫌韓漫画発売記念に、予習として、
みんなが優しくおしえてくれるお^^

ちょ、気味タッチ!マジで『嫌韓流』1位にすんぞwww
http://ex11.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1121517367/l50
274名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/17(日) 00:47:19
>>273
ここは大人の板だからスレ違いは慎んでくれ。
275名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/17(日) 23:55:08
>>269
うちも口癖のように、
今だったら死なないですんだのに
といってる。

よっぽど悔しかったんだと思う。
276名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/19(火) 01:22:36
うちの母親は広島出身 18歳のとき広島市の山の向こう側に住んでいて
朝、窓を開けたとき、山の向こうが、ピカピカピカ!と光ったのを見たって
言ってた。市内で働いていた兄は亡くなった。皆で山を越えて救助に行ったらしいです
がひどい惨状だったとのこと。もっと印象深かったのは死体の衣服を剥いだり
金目のものを盗んでいる人間もいたらしいですよ。
277名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/19(火) 08:05:14
俺が幼少の頃、よく祖母が
「貴方は戦争が終わってすぐに生まれた幸せな子だ」
と言っていたが、
幼心にも、戦争が終わってから俺が生まれるまでに
15年も経ってるじゃねぇか〜このババアと思っていつも聞いていた。

が、最近になって1年1年がとっても早くなりようやく意味が理解できるようになってきた。
278名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/19(火) 08:51:43
漏れのオフクロは、福岡生まれ。
子どものころ、といっても、小学校を卒業していたので、軍需工場に動員されてたらしい。
学校の同級生は、福岡の空襲で、鉄筋コンクリートのビルの地下に逃げ込んだら、ビルが
燃えて、亡くなったらしい。
別の友達は、福岡は空襲に遭うからと、親の実家の長崎に疎開して....
戦死したオフクロの兄の他にも、ご近所さんや同級生でも亡くなった人は結構いるといっ
てたな。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/19(火) 10:15:20
俺の祖父は軍需工場の工場長をしていて、空爆をかなり受けた。
空爆後、広場に出来た爆撃の穴から土器がたくさん出てきた。
終戦後、発掘が行なわれて広い範囲の遺蹟が見つかった。
以前は教科書に載っていた登呂遺蹟です。
その話を学校の先生にしたら『是非学校で臨時講師で話をしてもらおう』ということになり、祖父が学校で講師をすることに。
今の学校のあった場所の戦時中の様子とか、空襲の時の話や、防空壕の話を聞いた。
俺は恥ずかしかったが、みんなちゃんと聞いていた。
だってじいちゃんは話をしだして興奮すると、口の脇に唾が溢れてくるから恥ずかしくて
でもクラスの女の子が
『おじいちゃん可愛いね』と言ってきた。
でもいい体験だったよ。
280名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/19(火) 12:53:59
漏れの父は大和に乗ってた
子供の頃、実家のどこかで写真見たことある
281名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/20(水) 00:55:59
>>279
興味深かったです。
はじめて聞いた話です。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/20(水) 18:43:11
昔の同僚にハーフの男がいた。
なんでも父親は米兵で当時はヴェトナム戦争のからみで駐留していたらしい。
終戦後は帰国してしまってそれっきりなので彼にとって父親の記憶は無いらしい。

ある社員旅行のときに見てしまったのだがその同僚のマラがスンゴイでかかった。
これがアメリカンサイズなのかと驚愕したよ。

その奥さんも同じ会社にいたんだが・・・うん。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/21(木) 08:46:23
>>280
出来れば、大和の苦労話を聞きたい。
284名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 08:44:57
戦争体験を聞くとき、映画のシーンのようなシチュエーションに「本当かなあ、、、」
なんて疑った。多少作っているところもあるだろうが、戦争は何でもありの世界だから、
案外本当にあったのかな。親父が従軍し倉庫で作業していたとき、空襲を受け、屋根を
突き破り目の前に爆弾が転がってきたそうな。不発弾だったんだと。破裂していたら、
オレもこの世に存在しないわけだが。
親父の前歯が欠けていたのは、銃弾の破片が当たったわけではなく、虫歯のせいだろうが。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 08:54:24
>>284
目の前で、ばたばた死んでいくんだから、相当なんもんだと思うよ。
最近、大きな事故や事件が起きると、被害者のPTSDがどうのと報道されるけど、戦場を
体験した人や、前線で戦闘に加えて飢えを体験した人とか、空襲に遭った人たちなんて、
比べ物にならないほどの衝撃を受けてると思うんだよなぁ。
原爆なんて、漏れ等が目にする写真や映像でも相当だから、現場にいた人達なんてPTSD
どころじゃないと思うんだよな。
(もちろん、最近の事件事故の被害者をどうこういうつもりではない)
286284:2005/07/22(金) 09:07:38
戦死者を野焼きしたとき、炎の中で遺体がオイデオイデしたそうな。
熱で遺体の筋肉が収縮し、これは本当だったかも知れない。だが、戦死者の頭上を
黒猫が横切ると、遺体が立ち上がったというのは嘘だろう。
287名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 09:35:50
>>284
傷害事件の現場にさえ、居合わせることも稀なのに、大量虐殺の火中にいた人たちは大変だったろうね。
でも人間は忘れることの出来る動物だから生きてこられたんだろう。
俺はニュースで戦争の映像が出るとチャンネルを替える。
特に子供の痛々しい場面は見てられない。
戦争映画も好きじゃない。
288名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 10:20:15
母は終戦時、小学一年生で、大阪市の隣の某市に住んでいたそうだ。

ある夜、空襲でほんの数キロ先の大阪市の空が真っ赤になった。
(なんとも言えない鮮やかな色だったらしい)
事態のよくわかってない母は友達と二人でそれを眺めて
「きれいやねえ」と言ってたそうな。

ちなみに母と同年齢の父はその当時大阪市内に住んでいて、
その空襲の中を命からがら逃げまわっていたらしい。
289284:2005/07/22(金) 14:40:42
自分の父親や叔父が征った戦争というものが、どういうものであったのか、
自分も体験してみたい気持ちは、正直ある。今となっては大きな声では言えない
が、あの頃は大いに盛り上がった。夢は海外に果てしなく広がった。そんな
希望の持てない時代に生まれついたお前たちは可哀想だ。‥‥‥とは、オレの父親談。
290名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 15:17:23
>>289
正直わからんでもない。
国家全体で、そういう一つのことに向かっていくという馬力は、今はないよね。
大阪万博や東京オリンピックなんかは、そうだったのかもしれないけど。

ひょっとすると、今のタカ派といわれている人達は、そんな思いが強くなってる人達なのかな?
291名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 15:39:51
>>290
スレ違いの方向に向かっているようです。
自制よろしく。
292名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/22(金) 15:42:44
>>291
すまん
293名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/23(土) 02:23:11
地方新聞だが、こんなのもある。
「シベリア抑留 凍土の記憶」
http://www.sakigake.jp/kikaku/kikaku-index.jsp

会員登録しないと読めないが、無料だから、興味ある人はどうぞ。
294名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/24(日) 09:49:39
水木しげる著「戦争で死ねなかったお父さんのために」を
読めと、高校の担任に勧められた(現代国語の時間)

20年たって未だ読んでないけど。

授業中に聞いた空襲体験はちょっと怖かった。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/30(土) 16:09:05
母は当時まだ幼かったので細かいことは覚えてないらしいけど、
こわがりだったので、なんか飛んでくる音がしたら、
母親(祖母)に「防空壕入ろ」と言うのが口癖だったらしい。
296名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/30(土) 16:33:03
うちの母親は戦時中は女学生。大陸に居たが直接戦争の災厄を受けたわけではなく、
カナーリの軍国少女に育ったようだ。その後も「欲しがりません勝つまでは」とか
戦時標語が口癖だった。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/03(水) 20:57:13
戦争体験を聞く季節あげ

長岡の花火は空襲犠牲者追悼のためだったと知った8月2日
祖父の命日だ
298名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/04(木) 23:44:15
>>297 おかげさまで決めました。THX。
ばァさん(愚母)が生きてるうちに娘(中一)に話を聞かせてやるよう、今夏こそ頼んでみる。
60年の節目だし、今春から行ってる女子中の大先輩ってこともあるし。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/04(木) 23:57:33
ええ、ことや。
戦争体験が語り伝えられなくなったのは、核家族化の弊害のひとつだと
思うしな。
色々聞かせてもらうとええやがな。
300名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/05(金) 11:36:05
母は長崎の隣町に住んでいて
遊んでいたときものすごい音がして振り向いたら
きのこ雲が上っていたのを見たそうだ
父は滋賀で疎開生活でとにかくお腹が空いていた、と
終戦の日の夜、久しぶりに点いた電灯の明るさが
今でも目に浮かぶとゆーとった
301名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/14(日) 14:37:42
そろそろ敗戦記念日ですね。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/15(月) 11:30:02
>>300 俺も被爆二世だよ。 だから原爆の話は相当聞いた。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/15(月) 11:45:49
父は、神戸大空襲にあって命からがら逃げて助かった。
『少年H』と同じ世代で、焼夷弾の飛び交う中を右往左往祖母と女学生だった2人の姉とともに
逃げまどった。
母は、ソウルからの引き揚げ者。
ソウルに住んでいるときは内地ほどの苦労をすることなく、女学生。
終戦と共に引き揚げ船に乗って下関へ到着。
なんとか女学校だけは・・・と思い、新制高校を第一期で卒業した。
ホントの苦労は、引き揚げてからだったそうだ。

従姉が原爆で亡くなったり、空襲で家が焼かれた話しを聞いて育った。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/15(月) 22:35:29
「マンガ嫌韓流」が実際にはベストセラーなのに、あまり報道されないのは何故でしょう?
305298:2005/08/15(月) 22:43:52
と、いうわけで娘を連れてバァさんのところへ行って来た。
・・・S7生まれだから、終戦時の歳がちょうど娘と同じだったことになる。

「広島の翌日の空襲で家を焼かれた。逃げるとき、後ろを振り返ったら
二階の窓から炎が噴き出してるのがチラッと見えた・・・
母が<振り返ったらあきません!>叱咤しながら手を引っ張ってくれたんよ」
「国道を跨ぐ橋の下が暗渠になってて、そこに逃げ込んだら狭いところにぎっしり人がいたの。
なかには手の無い人、顔が半分エグれてる人も・・・。あのときの怖さは一生忘れられへん」

「疎開しなかったから、家の近くの海水浴場で玉音放送を聴いた。とにかく暑い日だったわ」
「子供心に<終わった!>安堵感はあったね。でも怖くてそんなこと言われへんかったよ」

「学校でもそういう本を読んだ」などと言い、案外けろっと聞いていた娘。
少し拍子抜けしたが・・・なにかが少しでも彼女の心に残るのを信じ、これからも続けたいと思った。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/15(月) 22:56:38
戦争ばなしって子供の時に何気なく聞いていても、ある時から重みをもって思い出したり
するもんなんじゃないかな。
俺は親が繰り返す軍隊ばなしや空襲ばなしに、ほとほと嫌気がさしていた。
また、その話かよ、ってねw
親父はもう死んでしまって、今では四十男として聞きたい話も聞くことはできない。
もっと聞いてやっとけば良かったと後悔してるわ。

良いことやったね>>305
おつかれさまでした。
307305=298:2005/08/16(火) 23:02:33
>>306 ありがとうございます。

308名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 03:46:09
40代って親とかが戦争経験してる最後の世代だったりするね?
そういう世代は親とか親戚のオジサンとか爺ちゃんから話聞けたもんだな。

それ以降の世代って最近ホント思うけど、私らが思う以上に戦争の事知らなくない?
史実の修正とか色々あって平和教育も怪しいのかな?
薄ら寒くなるくらいな言葉が飛び交ってる状況って嫌過ぎだな。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 14:33:42
五歳の時に仕事の関係で広島に行く親父に、
母、自分、妹(三歳)が同行した。
新幹線がなかったので、電車を乗り継いで三時間。
楽しい家族旅行という気分で行ったと思う。
親父の仕事が終わるのを待つ間、原爆ドームや
平和記念公園をめぐった。他に行くところもなかった
からだろう。
原爆ドームは今とちがって、まだ有刺鉄線で囲われ、
周囲は草ぼうぼうで、廃墟そのものだった。
母親も、とくに原爆についてくわしいわけでもなく、
そのとき、何か教えられたという記憶もない。
それなのに、通り過ぎる途中でちらっと見上げただけの
ドームの姿から、震え上がるほど「原爆」は恐ろしいものだと感じた。
これがわたしの「戦争体験」かな?

ちょっとちがうな、スマソ
310名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 15:48:49
>>309
噴火が鎮静し化した後、雲仙の火砕流後を見て、震え上がった漏れと似てる
“当時”を感じさせるものが多ければ多いほど、脳裏に残るのかもな
311まさる:2005/08/19(金) 15:55:26
個人がネットやるのに役所の個人登録の許認可制にする?
あほな法律

警官の天下り先確保のために
自転車も免許制にするとか
もう日本も終わりだな。

内務省復活も間近
役人の権限は今後拡大、焼け太り
中央集権化が進むのは確実

個人情報保護法の裏の顔が出てくる

こうやって日本国民から言論の自由を奪っていく
情報の独占秘匿が政府の支配の要である。

政府や政治家の悪態を暴かれないために
まずはくだらないネット犯罪を利用してだな
312名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 16:33:47
>>310
そうなのかもしれない。
わたしは昭和33年生まれだから、ドームを見たのは
おそらく昭和38,9年頃。
投下から20年近くたったとみるか、まだ20年とみるか
意見はわかれるだろうが、あのときは周囲にまだビルも
なかったと思うし、大げさかもしれないが、原爆で
何もかも吹き飛ばされたあとにぽつんと残った、という
リアリティが残っていたのだと思う。
二十歳を過ぎてふたたび広島に行ったとき、
公園などは整備されてきれいになっているし、
なにより、開発の進んだ広島の、高層建築群の中にぽつんと
取り残されたようなドームに、原爆モニュメントとしては
もう一つインパクトがないように感じたのも事実。
五歳のとき、ドームの天蓋の鉄骨をごしに見上げた冬の空の色は忘れないだろう。
313名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 19:30:02
漏れの伯父は海軍の将校だったらしい。
戦死して未亡人になった伯母は英語ができてたのでで終戦後
進駐軍の基地で事務員として働いていたらしい。
そうこうしているうちに基地の兵隊と結婚することになり
幼子(漏れの従兄弟)二人連れて兵隊の祖国に嫁いでいった。
その従兄弟たち、子供の頃は敵国の子、東洋人の子ってことで
差別を受け苦労をしたらしいが、今は普通に暮らしている。
10年置きぐらいで交互に日本に来て祖父母の墓参りして夜は親の家に泊まる。
晩飯の時、最初は機嫌良く飲んでた父親が盃がすすむと従兄弟の手を取って
必ずおいおい泣き出す。
今年80で、滅多に戦争のことを語らない父親だが、ぼろぼろ流す大粒の涙が
下手な言葉よりはるかに戦争を語っているような希ガス


314名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 20:32:32
うちの親父は大正14年(1925年)生まれで、
本来徴兵されるはずだったのが、軽い肋膜炎という診断を受けて免除。
田舎の学校へ行っていたので、激しい空襲などの体験もあまりなく、
寮生活で食べ物が乏しかったというのが不満な体験として語られるくらいだ。
戦後は英語らしきものができる人間がいなかったので、
商業英語をかじった程度で進駐軍に職を得られたためか、アメリカ万歳親父。
それでいて、天皇陛下万歳、国のために命を捧げるのは当然、という
発言を平気でする。被爆者など市民の戦争被害者に対してはとても冷酷。
きっと、単に権力や権威に弱いだけなんだろうなあ。なんだかなあ。
仕事関係の方のお父上で、親父より5,6歳年上の方は、海軍の戦闘機乗りで、
ミッドウェー海戦で出動して帰還されたあと、生きて帰ったというので
厄介もののように扱われて、辛酸を舐められたらしい。戦闘機乗りの誇りを
今も持ち合わせておられると同時に、権力とか権威をつきはなして見られる
静かな語り口にはいつも引き込まれる。
なんだかなあ。うちの親父。。。

315名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/19(金) 20:43:48

厄介もののように、というのは海軍内で、ということらしいです。
当時の海戦の帰還パイロットは、南方戦線など、玉砕前提の
戦場に、予告もなく突然配置されたのだそうです。
出撃基地等でも、パイロットだけ完全隔離でまるで囚人のような
扱いを受けた、とおっしゃってました。
316スキナー:2005/08/19(金) 23:38:21
中学の時、伍長というあだ名の先生がいた。
軍隊時代の階級があだ名になるとは。
317名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/22(月) 14:03:34
近所に姫ゆり部隊の生き残りの方が居て色々と教えていただいた。
砲撃の「ヒュー」と音がしているときは近くには着弾しないので伏せないで
音が消えたときが危ないのでその時伏せるとか
死体がごろごろしている事に 毎日泣いていたが
人間はそんな悲しさにもその内に慣れてくるとか

あと被爆直後の広島に救援の看護婦としていった方にも色々と聞いた
何があったのかは 軍は教えてくれず ただただ現地に向かっていったこと
水をほしがる 被災した方は 水を持ってくる間に 
亡くなってしまっていた事もあるそうだ
この方は 数年前に癌で亡くなってしまいました 放射能が原因なのかも

陸軍のパイロットだった方にも 話を聞いたことがある
6回不時着したことがあると言ってた
海軍の飛行場に不時着したときは 海軍と陸軍の仲が悪いゆえの
見栄の張り合いがあって とても待遇がよかったそうだ
それから30機ほどで攻撃に向かうが? レーダーで察知されていて200機くらいに待ち構えられていて
「こんなのまともに戦ったら死んじゃうよ」 と言ってた
飛燕は急降下特性が良いので オーバーヒート寸前まで全開急降下すればたいていは
諦めてくれたそうだ
後期には飛行場に戦車が入ってきて そこからは 歩兵として戦っていたが
アメリカ軍の物量はすさまじく 1発撃つと1000発くらいは撃ち返されるそうだ
最後は 特攻隊要員として沖縄に行くはずだったが 迎えに来るはずの潜水艦は到着しなかった
多分 沈められてしまったのでは と言っていた

話を伺った方たちは 戦争の話は 若い人は聴いてくれないよと 
聴きこむ私(私も若い部類に入るらしい)に 嬉しそうに そして熱心に話してくれたよ 
318名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/22(月) 14:11:00
数年前、ひめゆり記念館に行った。
壁にずらっと並んだ少女たちの写真をみて、
ことばにならなかったよ。
319名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/22(月) 21:14:55
>>318
聞いた話を書いてもらうのがスレの趣旨。
あなたの見聞譚はご遠慮ください。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/25(木) 01:21:46
>>319
あなた公務員?学校の先生?
どっちみち身の周りにはいて欲しくないタイプのお人だな。
321名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/25(木) 01:42:51
>>320
まあまあ。
>>317さんのひめゆりの話につい思い出を書いてしまったわたしもイクナカッタ。
そこでついおととい聞いた「子どもの戦争時の体験」

昭和11年生まれの知り合いの大阪出身女性Aさんの話。
Aさんはおばあ様がイギリス人で、いわゆるクォーター。
だが、現在わたしの目からみると、ハーフといわれても
誰も疑わないくらい欧米的な容貌。終戦時は小学校3年だったとのこと。。
お父様が混血だそうで。
大阪のような都市部は空襲のおそれがあるというので、
学童疎開に学校ぐるみ出て行く。Aさんは三人姉妹の末っ子で上のお二人は
全くの日本人の顔。この二人だけ学童疎開に出て行かせたが、
お父様はぎりぎりまでAさんだけ手元に置いておかれたらしい。
このいかにも欧米人的な容貌で、疎開させたら相当いじめられるだろう、と。
混血であるお父様もきっと苦労なさったことだろう。なにしろ「鬼畜米英」の時代だから。
しかし本土空襲が多くなって、とうとうお父様も可愛い末っ子を縁故疎開させる
ことになり、Aさんを岡山の親戚に預け、Aさんは敗戦はそこで迎えたとのこと。
Aさんは成功を遂げられて、現在は悠々自適。読書、お習字、絵などなど
趣味が広く、字も絵もくろうとはだしだが、
「わたし、基礎をつくる小学校1年から3年まで、全然勉強してへん!この損失は大きいで!」と
悔しそうにおっしゃる。Aさんと同じような子どもが、他にもきっといただろうなあ、と思った。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/25(木) 20:19:24
>>320
特定方向に傾斜した意見の頻出で、議論スレにならないように、という配慮
に基づくもの。
このスレの200あたりを読んどくれ。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/26(金) 09:11:28
>>322
いいこっちゃ
324名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/26(金) 10:11:37
>>322
言い方がおとなげないからだよ(W
325名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 17:22:29
徴兵検査で恥ずかしいことをされたらしい。
326名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 14:45:44
徴兵検査といえば亡き叔父は
体が弱く、体力もなかったので落ちたとか、最低ラインの甲乙丙丁の「丁」
だったとか(今度母親に確認してみる)
近所でそれは肩身が狭かったそうだ。戦後も。
でも落ちたおかげで生き残れた、と祖母や母はこっそり感謝してた。


327名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/12(月) 10:27:19
>>326
死んだばあちゃんは、息子が戦死してる。
で、孫の漏れ等には、
「もし、また戦争が起きたら、あんたたちの脚をたたき折って、片輪にしてでも、戰争には行かせん」
と行ってたよ。
328名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/12(月) 10:44:55
>>327
(`Д´)<バーサン カコイイ!
329名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/12(月) 18:01:49
亡くなった伯父さんは、高校でクリスチャンになって、反戦活動してたそうだ。
学校に目付けられて家族に迷惑及びそうになったので、仕方なく予科練行って
大陸で一式陸攻に乗ったそうだ。伯父さんが亡くなってから親父に聞いたので
直接話しを聞くことはできなかったけど。 
330名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/12(月) 18:51:56
戦争話、子供の頃はちゃんと聞く耳持たなかった。
祖母や両親がいなくなった今、つくづく聞いておけば良かったと思う。
いろいろ下勉強して、広島や長崎、鹿児島の知覧や沖縄など訪れて
みたいと思ってる。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/12(月) 19:22:58
終戦後の話なので厳密にはスレタイから外れてしまうかも
しれないけれど、まあ広い意味での戦争体験という事で…

空襲で父(私の祖父)を亡くした母は、戦争が終わると丸の内の
某銀行に就職。
ご近所にはGHQがあって、米兵を何かと目にする事になったそうだ。
都会育ちで子供時代は映画や本で米国文化に馴れ親しんでいた母は、
さすがに彼らを鬼畜とは思わなかったそうだが、現実に見る彼らが想像以上に巨大なことにびっくりしたそうだ。
まあ、スクリーンじゃ身長の高さはピンと来ないものね。
上司からのお達しで、米兵が屯するような所へは行かないようにとお達しが出たとそうな。
たまに「オジョーサン〜!」とか声をかけられて、そのたびに笑って
挨拶するが内心はちょっと怖かったとのこと。
米軍がらみの犯罪ばなしは何かと噂として流れていたそうだが、母が見た限りでは、やばそうな兵隊は見なかったと証言している。
まあ、小娘の印象だからどこまで当たっているかは判らないがw
ただ、軍人は厳めしいものと思っていたので、なにかと騒がしいのには
驚いたとのこと。
典型的な少国民世代で日本よい国、神の国な人だけど、なぜか生身に
米兵には憎しみや反発は感じなかったらしい。
占領期間が終わり、銀座から米兵がめっきりいなくなって、本当に戦争は終わったな〜と思ったそうだ。


332名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/13(火) 04:49:28
親から聞いた戦争体験は前に書いたけど、俺が育ったのは多摩なんで
米軍との関わりは結構多かったよ。
アメリカンスクールが近くにあって、黄色いスクールバスが走っていたし、
同年代の子達がホームで遊んでた。
軍人は基地内に住んでる事が多かったけど、軍属は結構近くに住んでいて、
子どもの頃から結構アメリカ的なバカな遊びを教えてくれた。
宣教師のくせに、公道をカートで走っちゃおうぜ、とかね。バスケットの
ゴールも彼らの家には必ずあったな。

で、そういう平和な時代がベトナム戦争で変わったんだよね。
日本は前線基地だったから、のんびりしていた彼らの生活が激変。
突然いなくなったりとか、せっかく生き残って日本に来たのに、車
ぶっ飛ばして事故死したりとか。
333名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/16(金) 17:22:39
東条が最初に自殺を図ったときお腹の皮を引っ張ってピストルを撃ったらしい
皮に穴が空いただけで未遂に終わった。
普通死ぬ気になれば頭にぶち込む筈だけど。結構いい加減な奴らしいよ。
当事うわさになったそうな。
334名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/06(木) 06:11:17
>>333
大政翼賛会を無理矢理作っても、総選挙で完全制圧出来なかった
らしいね。
335名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/07(金) 20:46:47
陸軍航空隊所属だった親父の話。

97式重爆に乗ってたことがあるそうなんだが、
離陸するととりあえず積んである食料をみんなで食っちまうそうだ。
いつ落とされるか分からないから、なにはともあれ飯は食っとく、
ということだったらしい。
336名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/08(土) 18:28:42
>>335
酒は積んでなかった?
337名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/08(土) 23:38:05
>>335
97重爆・・・確か後上方銃座の旋回機銃が20mmだった記憶。
20mmの旋回銃ってどんなんだったのかなぁ、という興味があるんだけど
その手の軍オタ質問はここではダメかなあ。
338335:2005/10/11(火) 18:01:10
>>336
ずいぶん昔に聞いた話なのでうろ覚えだが、確か酒は積んでなかったと思う。
酒について覚えている話のひとつに、サントリのホワイトを「白札」
角瓶を「岩」と言っていた。通称なのか正式名称なのかは不明。

>>337
最初からか途中からかはわからないが、親父は結局整備の道に行ったので、
機銃とかそういう話は聞いた覚えがないです。スマヌ
339337:2005/10/11(火) 20:10:27
>>335 =338
・・・い、いえ、どういたしまして。
わざわざご回答恐縮に存じます。
340名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/14(金) 14:01:41
爆撃機で酒飲んだら飲酒運転になりませんか?
特攻隊でさえ出撃前の一杯も(表向き)水杯だったし
341335:2005/10/19(水) 19:46:55
>>340
記憶にないからハッキリとは言わないが、酒は積まないと思うよ。
昔の軍用機なんて気圧が相当低くなるだろうから、
飲酒運転とか以前に、上空で酒飲んだら相当酔っ払うだろうからね。

あと、知り合いの爺さんが中野学校出身だった。
チョロっと聞いただけだから、大した話じゃないけど、そのうちカキコします。
342名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/19(水) 22:42:50
ある朝、外の騒ぎで眼を覚ましたお袋が見たものは、
反乱を制圧に向かう、警察や軍部の騒然とした姿だったそうだ。
後に2・26事件として名を残す事件でした。その後、満州で体験したことは
とてもドラマなどでは放送出来ないような惨状の日々だったそうです。
これを次世代に伝えられなかったのは私達40代の責任もあり。
343名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 01:09:31
満州は悲惨だったみたいですね。

母が選挙に行き忘れると、引き上げ途中に赤ちゃんを亡くして、満州の道に埋めてきた経験のある方にいさめられてたなあ。

344名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 11:32:26
うちのオヤジも満州からの引き揚げ者だった。
幼い弟や妹のてを引いてハルピンから帰ってきたそうだ。
途中、甥っ子を見失ってしまったことを、ずーっと後悔してた。
中国残留孤児の身元調査が始まると、毎回、資料を取り寄せて、東京に行ってたよ。
酔っぱらって、その話をすると、「よく帰ってこれたと思う」と言ってたのを思い出す。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 12:36:44
うちの親父は肋膜炎をわずらってく徴兵をまぬかれたので、
軍隊・戦場体験がない。
一歳下の叔父は立教から学徒動員という形で陸軍に入り、
航空隊に所属して、特攻隊を志願したそうだ。
「志願っても、全員並んでいるところで、聞かれるわけだし。
俺は志願しません、て言えるような空気じゃ、到底ないわけだ」
「もっとも、飛行訓練っても、訓練生の使える飛行機が、ほとんどなかったからな。
俺は飛べないパイロット(笑)」
「隊員も、精神的にかなりすさんでた。けんかも日常的だったし、
ちょっとしたことで暴れたりした」
食糧事情もだんだん悪くなってきて、
叔父も国のために死ぬ俺たちに、こんな粗末な飯かよ!と暴れて
営倉に入れられたと言っていた。飯云々より、自暴自棄だったのだろう。
幸いにというか、出動命令が下らぬままに敗戦を迎えたわけだが。
昨年鬼籍にはいったが、死ぬまで言ってた。
「特攻隊のテレビ、映画?きれい事のうそっぱちばかりだよ!」
346名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 13:51:48
>>345
戦後、愚連隊といわれるようになった人々も、同じような境遇だった人達だろうか?
347名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 15:40:24
>>345
戦時中、志願して特攻隊にという話はよく聞いたが、そういうわけだったんだね。
日本にはそんな空気一色だったんだろうね。
348名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 19:08:18
沖縄戦を体験した大姑(故人)は、ほとんどその体験に
ついて語らなかった。つらすぎて言葉にならないし、思い出したくなかったのだろう。
ひめゆりの映画など、沖縄戦に関する映画やテレビも、晩年まで見ようとしなかった。
晩年になって、「ガマ」という沖縄戦の映画を見たあと、
非常にききとりにくい言葉で一言だけ言っていたのを覚えている。
「においだけは、どうやってもあの戦場のにおいだけは伝わらないさねー。
なんともいえないよー」

349名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 19:15:15
>>345>>348も私が書いたのだが、こうやって二つ書いてみて、
戦争体験のある人が身近にいる最後の世代かもしれないのに、
本当に断片的にしか聞いてない。ただ、辛い体験というのは、
語りたくないものなのだろう。もっと聞いてあげたほうが良かったのかという
気持ちと、いや、辛いことを追体験させるようなことはしなくて良かったのだ、
という気持ちとが相半ばする。

>>346
らしいです。叔父は戦後復学し、しばらく会社づとめをした後、裸一貫で
企業をおこして成功しましたが、当時の立教の同窓生で「特攻くずれ」
の人にも、愚連隊に入って、やがて闇社会にまぎれていった人も
いたらしい。十八、十九の若者が、激動的な価値転換のさなかに
放り出されたんですものね。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 22:27:43
子供の頃聞いた親父の話。
「模範的な工員で、海軍工廠では徴兵猶予願いを出してくれたから
1年余り徴兵を免れて、戦地に行かなくて済んだ」

高校生の頃見た戦時中の親父の写真。
海軍工廠の寮の前で、リーゼントを決めてちょっと斜に構えている。
…あれ?

先日聞いた親父の話。
「徴兵猶予って1回しかできないから、2回目の徴兵ではもう行かざるを得ないんだ。
2回目の徴兵が来るのがわかっていたから、もう好き放題してた。
仕事?ばりばりやったよ。だから職長にはかわいがってもらった。
でも工場が空襲を避けて防空壕の中に入ってしまったら、これが湿気と排気ガスで
とんでもない環境なんだよ。
こんなところにいたら死ぬと思ったから、仕事をせずに工場の中を歩き回っていた。
そんなわけだから、昭和20年の5月からは全然仕事せずに弁当を食っては帰っていたな。
空襲で鉄道が不通になって、同じ工場の若い女の子と一緒に線路を歩いて通勤して…
(しばし沈黙)

でもな、戦地に行って死ぬのが当たり前だと思っていたんだよ。
空襲で工場や民家がどんどん焼けていって、知り合いも死んでいくしね。
生き残れたのは偶然。病気では死にたくなかったけど、運が良かったんだろうな。」

要するに、それなりに仕事はできる不良だったんだな>オヤジ
大正生まれで田舎育ちのくせに、小学校卒業以来、坊主頭にしたことがなかったらしい。
中学校の時に俺が坊主頭にしたら嫌な顔をした。
だからそれ以来俺は坊主にしたことがない。

「あの戦争」を重層的に見ることができるようになった今日この頃だ。
351名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/21(金) 00:15:37

アニメ「火垂るの墓」が実写化され、11月1日にスペシャルドラマとして日テレ系で放送されます。

●終戦六十年スペシャルドラマ「火垂るの墓 ― ほたるのはか ―」
http://www.ntv.co.jp/hotaru/  日本テレビ系 11月1日(火)夜21:00〜から放送。
キャスト : 松嶋菜々子/伊原剛志/生瀬勝久/要潤/井上真央

関連スレ : 【松嶋】火垂るの墓【西宮のババア】
 http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/tvd/1123188729/

関連ネタ : 韓国でアニメ『火垂るの墓』が放映禁止 - 日本人を戦争の被害者として描写 -
 アニメ漫画速報板 【050411:時事】アニメ『火垂るの墓』 韓国での年内公開が取り消しに
 http://anime.2ch.net/test/read.cgi/comicnews/1113226872/l20
 ハングル板 「ほたるの墓」を右翼映画とする韓国人の心理
 http://society3.2ch.net/test/read.cgi/korea/1121620436/

            韓国の皆さんもおひとつどうぞ・・・ 

          、-'""""''''=='、,_          , r''''""'ヽ、、,,,_         ,、-‐
        /          `'‐ 、       i' ヘ i⌒、____ 、\ _,,,、 ,、- '´-‐-,
        r'          ミ''- 、_ ヽ、   ,,i'´i , |i    \' `i,  `!r'''(´ /~
     、=''´           ヾ、ヾ '、<r-'~ヾ, i '! "'   r‐'_""`yヾ!ヽヾ,r'´
    /       、、=_‐''''ミヾ`  ミミ`\ヽヽ. \|   /i'´  ̄ヽ〉 '"; } i   \
   , '        ヽ; '7 , ;,、 、   ミ丶' 、ヽヽ ヽ、'、_. 〈. 人;,   \ ノ |  ‐+==
.   イ         ミ ! { {,'! ,ヽ      `ヾヽ / rヽ;‐`;;\     Yレヘ ‖
    |        ミミ、 丶''    ,   'i 、   } X´ ;;;;;''  ノ ノ}     i'''7´i +=
   ノ        `ヾミミ    ,   ゛ '  `   /´,, \  /ノ'ぅ |   ;.,'πヽ~"'''''''
 ;;;;'          \、、 r'!, t,,!` ,   ,,,,; /;;,,ー''"~フ''"フ'''f‐-;|    ;,'-=、,'_ ,,,;;;;
  ┐           `ヽ、 {:丶ヾ ' ___:;;;;/;;;'''' '´,  7 r'   |   ;;,'    `'''‐-
  -='_           ミミヽ_,,,、‐''";==ー‐‐'''''‐-'、,,,,,i、、{;;;;;;;;;;i  .;,'
   ̄っ、-‐、_            と´               |  ;,' ̄````'''''''=
"""""""""""`"゛'''''''''''''''''''''''''''''''´-‐‐‐‐''''''''''''''''''''''''''''''''''''','r'~´  ,''''''''''''''''''''''''''''''
                          _,,,、,_    / ,、  ,  i 
                         //  'χ';"'''-'7' , , ,'
                         ヾヽ.  } ( ;;,,, ノ///ノ ッボト
                          `''''""`~"" `~~ ̄ 
       うちが今ここで謝るから、もう謝罪とか賠償て言わんといてな。



 
352名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/21(金) 10:41:43
自分が長崎の原爆資料館に行った時
朝鮮系被爆者の展示もあって
まだ微かに息があったのにまとめて焼かれたこと
焼かれた遺体の引き取り手がなくいつまでも放置されたこと
治療も後回しにされたこと
生き残った人も大変苦労したこと
などが書いてあってしんみりしてたんだが
その側を韓国団体客がその展示にまったく気づかず
賑やかに通り過ぎていった
自分は嫌韓じゃないけどなんか切ない…
353名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/21(金) 11:33:08
>>351
日テレのサイトを見てるだけで泣けてきた...
354名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/21(金) 11:41:55
故人となられたけれど、同級生のお舅さんは
お茶のみ話のなかで、ふっと
「一度戦場を体験したら、何にも怖いものなんかない」
と言っておられたのを思い出しマスタ。詳しくは聞かなかったし、
語らなかった。
355名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/21(金) 17:11:03
20代のころ、東北の農村に営業行った時、そのまま勧められるままに酒席に入れて貰ったことがある。
うちお一人がとても穏やかなお爺さんだったんだが、伺うと満州で従軍経験がお有りとのこと、
少し酔ってしまって、つい・・・
「いざ敵が目前という時、引き金って引けるものですか?」
すると静かな、しかし凄みのある眼で
「朝まで一緒に飯喰ってた同僚がバタバタ殺されてご覧よ・・・あんただってそうなりゃ同じだよ」
失礼なこと訊いてしまったと後悔したが、あの時のあの声と表情は多分一生忘れないと思う。
356名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/22(土) 01:49:23
>>355
その場の緊張感がとてもよく伝わった。
戦後世代としては、あなたが核心的な発問をしたという
その気持ちの動きも十分わかるし、
これに応えた老人の大きな揺らぎ気持ちもよくわかる。
すごい体験されましたね、あなたも。
357名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/24(月) 15:48:33
漏れが小学生のころ、お宮の大きなお祭りとかになると、傷病兵たちが募金を募ってた。
片手片足のひとが沢山いて、子供心にショックだったよ。
でも、息子が戦死した祖母は、それを見ながら、
「生きていれば、何だってできる。
 それに、恩給も沢山もらいよるし」
と、無表情に言い放ったのを覚えてる。
その時は、普段穏やかな祖母のその言葉に驚いたけど、今になってみれば、いろんな心情が
交錯した上での言葉だったんだろうなと。

358名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/24(月) 16:16:47
叔父は10年前に亡くなったが元憲兵で当時の写真を一度だけ見た記憶がある。
軍服に身を固め腰に軍刀を差したウ゛ァンダレイ・シウバ似の男がこちらを睨んでいた。
小さい頃は威圧感のあるこの叔父が苦手だったが、今の日本人とは明らかに違うオーラがあったのも確か。
359名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/24(月) 16:20:32
>>357
ふつうに徴兵された人も恩給はあったのかな?
よく知らないのだが、息子さんが戦死なさっていたら、
遺族年金は支給されるのではなかったですか?
近所の方で、ご子息の遺族年金で生活(とまではいかないだろうが)
されてる人がおられた。もう故人ですが。
360名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/25(火) 15:54:31
>>359
357です。ちょっと説明がたりんかったかも。
祖母は、もちろん遺族年金を貰ってた。
でも、どんなに金を貰うより、生きてかえってきて欲しかったようだ。当たり前ですね。

ちなみに、徴兵されたひとたちも、結構な恩給というか年金を貰ってると思うよ。
なぜなら、満州から引き揚げてきたおやじが、恩給(年金)を貰ってたから。
徴兵されて行ったわけも無く、満州鉄道で働いてたらしいけど。

こんなんあった。恩給法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/T12/T12HO048.html
ものすごい量。しかも大正から延々と続いてる。
とりようによっては、公務員が自分たち(職業軍人含む)の老後のために、延々と守り続
けてる法律かもな。
附 則 (昭和二八年八月一日法律第一五五号)を見ると、
大将の恩給は年間八、三三四、六〇〇円、兵卒は一、四五七、六〇〇円となってる。
361名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/27(木) 13:12:19
>どんなに金を貰うより、生きてかえってきて欲しかったようだ
ああ、なるほど。私の読み込みが足りませんでしたね。
失礼しました。母親として当然の気持ちですよね。
ちょっとずれますが。
有名人の戦争体験で、直に聴いたわけではありませんが、
俳優三国連太郎さんが、徴兵されて兵営を脱走して、
お母さんのもとに帰ってきたとき、お母さんがそれを、
軍隊に通報した、以来亡くなるまでお母さんが許せなかった、
と書いておられたのを読んで、お母さんの行動に
ショックを受けたことがあります。
それが時代というものだったのでしょうか。
362名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/27(木) 22:41:13
>>361
そんな話も聞くし
戦時中からどうせ負けると隣組活動にも参加しなかったおっかさんの話も聞くし
363名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/31(月) 02:08:46
>>357
あの障害者は公務負傷じゃないと思う。
傷病恩給なんて、公務扶助料(公務死の遺族年金)より全然金額高いんだよ。
公務扶助料も結構な額を支給されるので、お年寄りが生活するには充分だと思うが、
やっぱり無傷で生きて帰って来れるのが1番だよね。
364名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/02(水) 23:15:51
大学の頃ドイツ人教授が、
戦時中ナチスの収容所に入ったことがあると仰っていた。
365名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 00:44:54
親父は陸軍二等兵で本土決戦に備えて水際に張り付いてたそうだ。
降伏が遅れてたら、、、
366名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 00:50:03
>>363
そうだよな。
俺らが子どもの頃みた「傷痍軍人」は実はニセモノで
いわば乞食のようなもんだ。
367名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 01:13:37
父方の祖父は、鉄道会社に勤めていて、家族と満州に渡った。
メイド付きの家に住み、けっこういい暮らしをしていたらしい。
しかし、終戦間近になり、祖父は徴兵の年齢制限を超えていたにも関わらず
シベリアへ…。そして収容所で死んだ。名目は病死。

敗戦後、12才の父は、引き揚げの列車に乗り遅れそうになって
あわてて走ったそうだ。小さな妹をおんぶして。
誰かが父の手をつかんで、引っ張りあげてくれた。
その手がなかったら、自分は残留孤児になっただろう、と言っている。

一時期、中国残留孤児の肉親探しをテレビでやっていたが
父は食い入るように見ていた。一歩間違えば自分も同じ境遇の人たち。
知った人がいないか、探しているように見えた。

10年ほど前に、父は中国へ行き、当時住んでいた場所を訪れた。
そしてシベリア抑留で亡くなった兵士の名を刻んだ碑に、祖父の名前を見つけに。
368名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 01:33:49
>一時期、中国残留孤児の肉親探しをテレビでやっていたが
これを見ながら俺の母が
「○○さんとこも子供置いてきたらしいけど、今さら名乗り出れないと言ってたよ」
と、ポツンと呟いた
○○さんは、当時もう高齢だったが子供はいないものだと思ってただけに
身近にそういった戦争の爪痕が残ってることを、あらためて思い知った。
369名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 11:36:18
>>367
漏れのおやじは、もちょっと年上で二十歳くらいだったらしい。
やはり20年くらい前だろうか、満州からの引き揚げ者が、満州に行くというツアーがあって、
それに参加してたよ。当時自分が住んでいた家があったそうで、感慨に浸ってたそうだ。
と、一緒について行ったお袋が言ってたよ。
370名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 12:35:11
俺も傷痍軍人、子供の頃見た。真っ白な衣服に包帯、手や足がない人達、寂しげに聞こえてくるアコーデオンの音色。とてもショックで巣鴨の神社にばあちゃんと行く時だったからあの人達はどうしたのと聞いた記憶があるな。
どちらにせよ手足を失って生きて行くのは不幸だなあ。
371名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/03(木) 19:44:06
九州の自分も見た
日本全国に居たのか 日本中を回っていたのかがいまだに謎です
372名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/05(土) 03:22:52
小さい時に、岡山でもみたなあ。昭和三十年代後半から四十年代初頭か。
まだ保険制度・福祉制度も今ほど整っていなかったはずだから、
きっといろいろな事情で食い詰めた人たちも混じっていたんだろうと
想像する@傷痍軍人
373アメリカ支配層:2005/11/05(土) 11:36:57
ジャップども、アメリカはお前らの国富を吸い上げて
アメリカでより強力な新兵器を開発してやったぞ!
おかげで兵器企業は大いに潤った。

次はジャップどもはアメリカ主導で中国と戦争をするのだ。
アメリカの財政赤字も日本の国家財政破綻も
これでうやむやにできる。政府の強権発動でな。
すでにウィグル動乱、鳥インフルエンザ細菌兵器をばら撒いて
準備はしてある。

日本の事を本当に考える護国派、中国寄りの売国奴もろとも
アメリカの邪魔になる政治家、官僚どもを排除して
マスコミも国賊を使い外資に買収させて、日本国民どもの戦争気運を大いに
盛り上げて、またまた大いに儲けさせてもらうぞ。
アメリカの犬どもで日本を仕切る体制は確立した。

米軍の前線司令部は東京に移設してやったし
原子力空母もジャップどもが面倒みるんだぞ。

米軍は自衛隊をあごで使い、
自衛隊は日本の民間人を徴用してあごで使う。
この図式を忘れるなよ。

日本の一般国民どもは徴用されて中国戦線で
アメリカの為に戦い、アメリカ軍の為に死んでいくがいい。
増えすぎた世界人口削減にもちょうどいいのだ。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/07(月) 15:04:18
核兵器は恐ろしいものだ、という感覚はあったけれど、
核兵器も通常兵器も結局は被害規模の違いだけじゃないか、
という考えも抜けなかったのね。ついこの間まで。
今年、33歳の従妹が不妊治療の課程で癌(しかもほとんど同時に三カ所)
を発症してるのがわかって、初めてこの子の祖父は、被爆後の広島に兵隊として入って
二次被爆して白血病で亡くなった人だっていうのを知った。
母方の従妹で、自分はその祖父とは全く血のつながりがないんだけど、
この子の昭和21年生まれの母親(私の母の弟の妻)も貧血が昔からひどいそう。
この子の癌のすべてが被爆が要因とはいえないんだろうけれど、
癌になりやすくなる喫煙や、大量飲酒などに縁のない子だし、
祖父の被爆との関係がまったくないとも言い切れないというのはお医者さんも言ってた。
いくらかでも関係があるとするなら、核兵器は世代を超えて被害をもたらすんだな、
と改めて恐ろしく感じた次第。戦争は絶対悪だと思うけれど、とりわけ放射性物質を
使った核兵器を使うことは、許されてはいけない。その戦争に責任のない世代まで、
巻き込んでしまう。

37577:2005/11/08(火) 07:55:43
>>357恩給貰うには、外地勤務じゃ無きゃ貰えない。
内地勤務だと最低15年掛かる(朝鮮及び台湾の勤務だと微妙)
376名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/11(金) 08:52:08
子供のころ住んでた家の隣のおじさんが歩兵第41連隊に所属して中支、マレー作戦に従事したって聞いた
すごい経験したんでしょ?て聞くと、マレーは上陸地がタイのシンゴラだったからどうってことはない
その後どこやらの島に取り残され補給も無いので終戦まで芋ばかり作ってたと語ってくれたことがある

今、改めて調べてみると41連隊は中支、マレーからシンガポール、フィリピン、ニューギニア
南方の激戦地を転戦してるのね。もっと聞いとけばよかった
377名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/24(木) 18:21:08
既に戦争体験者は絶滅に近い状態なのかな?
378名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/25(金) 17:10:50
1945年当時二十歳として、生まれは1925年。となると今年80才だなぁ。
379じゃがり子:2005/11/25(金) 17:11:48
いま習ってる学校でね
380名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/26(土) 10:33:06
あと20年で戦争体験者いなくなりそうですね。
381名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/03(土) 02:33:56
>>375
内地でも実在職年12年で恩給はもらえる。
終戦間近だと内地でも内国戦務加算がつくから実在職12年以下でもOKの場合
もあるよ。(実+加算=12年以上で恩給資格)
でも、12年もいたら期間短くても外地には行くと思うけど。
382名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/06(火) 22:51:47
死んだ家の親父は陸軍燃料廠(府中)に勤める軍属だった。撃墜されたB29
の燃料を調べたらオクタン価が全然違うので、これでは負けるはずだと思った
そうだ。こういう調査のために米軍の死体を片付けてていない機体に一番のり
したため戦後、戦犯の嫌疑をかけられた。
383名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/06(火) 22:55:40
このスレ重すぎる
384名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/07(水) 11:17:00
母の話。
戦後、進駐軍がやってきた。
海岸の沖合の軍艦から、小さい船が出てきて、それがそのまま陸に上がって走り出したのに
仰天したらしい。
その後、飛行場整備のために、始めて見るブルドーザーやってきて、そのでかさと数に仰天
したらしい。
日本兵がもっこと猫車で整備してた飛行場を、あっというまに整地してしまったそうだ。
それらをみて、勝てるわけない戰争だったと改めて認識したそうだ。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/14(水) 19:17:28
男達のヤマト上げ
38677:2005/12/14(水) 20:48:11
>>381
補足サンキュウ、漏れの親父が外地組だったので。
(しかも戦犯で約6〜7年刑務所に入っていたので)
387名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/31(土) 08:33:05
>>386
未だ戦犯の汚名を背負っているのですか?
388名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/31(土) 09:22:20
>>387
ゴメン、うざいけどコピペ。

----------------------------------------------------
【4】『日本は犯罪者ゆえに東京裁判で裁かれたわけではない』
 これも誤解が多いのだが、東京裁判では日本は「戦争を起こした張本人だから
 裁かれた」のではない。「戦争に負けたから公平に裁かれずに、罪を着せられた」
 のである。
 当時『戦争とは合法だった』ため連合国は日本を裁けなかったのだが、
 それでも裁けないものを裁きたかった連合国は「法学の基礎と国際法を
 無視」して「事後立法」で有罪とした。
 裁判というのは本来、法の下の平等を基礎とするものだが、この裁判は
 判事が全て戦勝国から選出され、証拠の検証すらされず、後から
 取って付けた理由だけで裁くという異常なものだった。この裁判に対して
 「違法である」と発言する勇気を持っていたのは11人の判事の中でインドの
 パール判事1人だけであった。ちなみに現代においては東京裁判の違法性は
 国際法学界の定説となり、国際法の教科書にも採用されている。
 つまり今では東京裁判の違法性は有識層の常識になっている。
 (注意:違法であることが認知されただけでまだ無効化はされていない)

【5】『とっくにA・B・C級戦犯は国際的に許されている』
 現時点では東京裁判は「違法」ではあるが、「無効」ではない。当時の
 日本には受け入れる以外の選択肢がなかったし、今は連合国の不法行為を
 日本人自身が“過去のこと”として水に流しているからである。
 ただし“戦犯”に関しては別の決着がついている。国家間の講和条約の
 締結というのは戦勝国による処罰も消失するのが世界共通ルールで、日本も
 サンフランシスコ講和条約の第11条にある『戦犯の赦免や減刑は、判決に
 加わった国の過半数が決定する』というルールに従い、圧倒的多数による
 国会決議を元に各国と交渉した。そして日本は中国を含む関係11ヶ国に
 了解を取り付けた上で「戦犯の赦免(罪を消すこと)」を済ませている。
 つまりその瞬間からもう日本にA・B・C級戦犯など存在しないのである。
 これは当時の米英の新聞等でも“間違った裁判だった”と大きく報道され、
 韓国も政府レベルではその事実を理解している。こうして元戦犯の人達は
 『国内外から免責』され、結果として靖国神社に合祀される対象となった。
 中国も韓国もこの一連の手続きを知った上で日本と国交を回復したのだ。
 だからいまさら文句を言ってくるのは中国・韓国の国内政治の都合であり、
 日本側にとってはそんなこと知ったことではない。

【6】『百歩譲っても文句言われる筋合いはない』
 戦犯を決めた東京裁判は「違法」だが、日本は受け入れた。そして裁判での
 「判決」とは、受刑の代わりにその後罪を問わないという意味であるから、
 “仮に”元A級戦犯が国際的に赦免されていなかったとしても今は靖国などが
 非難の対象になることはあり得ないはずなのである。
 また、自分たちの国を護った先祖に参拝することは中国や韓国を含む
 世界中どこでもやっている当然の行為であり、それに対して外国から
 中止を要求するようなことは内政干渉という国際法違反である。

当然これらのことは東京裁判の関係諸国もちゃんと認識している。

---------------------------------------------------
現実はこんなにすっぱり割り切れるもんでもないし、
『戦犯』とか言われた人は周りもトラウマになるだろうし、
微妙な問題かも。

※参考サイト
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.html
3.誤解は"なぜ"なくならない? より抜粋
389名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/01(日) 04:29:31
でもなぁ、誰が戦争起こして、非戦闘員を大量死に追いやったかを
明確にしないと、戦後は終わらないよ。

現実に開戦をして、戦って、ヘボ作戦で負けたんだから。

やばくなったあたりで停戦する事すらしなかったバカが、当時の指導者。
開戦したら落としどころを考えているのが、普通の国なんだけどね。
390名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/01(日) 04:36:29
>>389
そらそうだよな。同意。
391名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/01(日) 10:59:41
>>389
おとしどころは考えていたさ。
調子にのった途端にあれしちょったけど。
ただ、喧嘩をふっかけてきたほうが勝てるのに講和をするかどうか。
つーか、うちのじいさん怪我で入院してなけりゃシムシル島にいたでやんの。
392名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/02(月) 13:18:43
>>376
なんか、タイに上陸する舞台裏では一瞬即発って言うかタイ軍と小競り合いとかあって
大変だったみたいな本を読みました。
393名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/04(水) 11:02:05
394名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/04(水) 13:28:08
そりはまだ読んでいないだ。
たぶん↓だったと思う。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410111711X/qid=1136348639/sr=1-38/ref=sr_1_2_38/249-9047438-7493168
39577:2006/01/04(水) 14:22:32
勝てば官軍負ければ賊軍、漏れの親父の場合、終戦前半年間マレーで憲兵していただけで
戦犯になった其れだけの事。
396376:2006/01/04(水) 23:19:02
>392
子供の頃の話だからよく覚えてないけれど
マレーのコタバルに比べたらって話だったような気がするよ
あっちは純然たる敵前上陸だからね

話してくれた方まだご存命なんだけど、もう高齢なんで
詳しい話しが聞ける状態でないのがかえすがえすも残念。
397名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/05(木) 00:18:47
うちの親父は、兵隊時代のことは一切話さなかった。
飛行機工場にいた関係か徴兵されて半年くらいで職場に戻ったそうなんだが、
兄弟にも詳しく話さなかったので、謎に包まれている。
父の従兄が憲兵だった関係で、ある程度は把握できたそうなんだが、空白な時期があって、
なんか怪しいことやってたのかもしれない(笑

憲兵だったおっちゃんはできた人で、親戚が配属された先の憲兵隊に話を通していて、
面会に行かせたり、憲兵隊に呼んだりして、憲兵の知り合いがいる事を部隊中に知らせていたので、
とても助かったそうだ。
終戦時北支にいたおっちゃん達の隊長は、責任とるのは一人でいいといって部下を全部逃がしてくれたとか。
詳しい話を聞きたかったけど、あまり語らず逝ってしまわれた。

ばあちゃんは、男の子6人育てて(親戚も含めて)兵隊にして、1人だけしか戦死(沖縄戦)しなかったのを
もうしわけないといっていたけど、プロレスでアメリカ人がやっつけられるのを泣きながら喜んでいた。

中学の担任はインパールの生き残りで、人間、腹を切ってもすぐ死ねるもんじゃないって言ってたなぁ。



398名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/14(土) 10:06:19
>>357 以下傷病兵スレの方へ

朝鮮半島(旧海外領土全域かな?)出身の人には恩給でないんですよ、
自分が見た渋谷駅の方は確か裁判とか起こしてたけど敗訴してました。

399名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/18(水) 12:16:17
ばぁさんが、棺おけに入れて一緒に焼いてくれと言ていった小瓶には、
自決用の毒薬が入っていたそうだ。
ガラスは一緒に焼けないというのでお墓にそのまま入れました。
400名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 13:49:16
やっぱ最後の帝国陸海軍所属経験のある人が死んだらニュースになるだろうか。
401名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 14:18:16
今の40代50代の教員と違って、戦争体験や終戦のドサクサの時代を知ってる先生は、
決して中韓を一方的に正義と決め付けなかったような・・・・。
402名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 14:40:28
>>401
そういう疑問には一番短絡的だけど、「朝日新聞が悪い」これですよこれ(w
403名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 17:06:48
42 名前:悦王 ◆hzzwZZRBhk 投稿日:05/01/19 13:30:56 ID:RGI1f1Eh

戦争。
戦争絶対反対。
人の命を戦いで奪い取る権利など誰も持つべきでない。
持っていない。
持ってはいけない。

勿論、アメリカも、日本も、各国も。

俺にとっての戦争の定義。

自分自身とならば戦ってみてもいいだろう。
自分自身との戦争ならば・・
これならば、自分を成長させられるかものかも知れない。
だから、自分自身とは、戦うべきだ。
自分自身とは、戦って戦って戦ってみたい。

これが、俺にとっての戦争という言語の意味付けです。

頑張れ!俺の心の中にある自分だけの戦争よ!

404名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 17:40:58
殺すのも、殺されるのも、こりごりやがな
405名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/25(水) 20:49:58
俺たちはメカメカしいのが好きだったので、兵隊経験者の方の武器話は楽しかった(ちょいうざい場合もあったが)。
そんな人の孫のの同級生は、俺たちのことを軍国主義者だの、殺人者になる危険人物だの、いろいろ言ってくれたが、
大学生の頃に、セクト間のあれで、じいさんの軍刀持ち出して自分も相手も半死半生な目にあった。
お前達の方が、危険な人じゃんっていうてやりました。

406名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/26(木) 16:23:53
>>403
その人はもっと自分と戦うべきだね。
407名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/26(木) 17:11:46
>>406
糞悦君は自分と戦って戦死して欲しいです
408名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 16:37:29
最近、路上でハモニカ吹いている元兵隊さん見かけませんね。
409名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 16:45:44
>>408
80過ぎてるからねぇ。
410名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 16:47:26
またスレが汚れだしましたね。
411名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 16:48:26
>>408
そういや、おれたちがガキのころは駅前や商店街の入り口に必ずいたな。
傷痍軍人っていったっけ。
412名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 16:55:34
外地出身の兵隊さんは戦後補償されなかったからねぃ。
413名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 20:59:21
遺族会の次の目標は、一代限りの遺族年金受給資格を永代にすることかな。
ばあちゃんが貰っていた年金が入らなくなると、結構困る人いるだろうね。
414名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 21:02:10
たしか兄弟とかで貰えるんじゃなかったけか、遺族年金だか軍人恩給だか。
415名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 21:02:41
1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2005/03/01(火) 22:24
祖父や父が兵隊だったやつが多かった。実家は空襲で消失。
周りには体験者がたくさんいて、その体験談を興味深く聞いた。
みなさんが聞いた話を教えてください。

416名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 21:13:16
>>414
一代限りね。

>>415
受給するなら、きちんと戦争を語り継いで欲しいな。
民間の語り部として。
417名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/05(日) 22:55:29
昭和36年生まれだが、中学のクラスでおとんが兵隊経験者てぇのは三人だけだった(三人とも大正14年生)。
昭和44年生まれの弟のところは1人だけだったそうな。


418名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 11:50:23
一番上の兄さんが少年通信兵とかだったのが同級生にいた。
お父さんいくつだったんだろう。
419名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 12:18:29
小学校内に手りゅう弾 児童にけがなし 八重瀬町
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060211-00000003-ryu-oki
420名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 12:27:48
お国のために戦ってくれた兵隊さんに感謝。
小泉は今年こそ8月15日に靖国行けよ!
421名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 14:44:15
靖国って、戦犯といわれている人達を祀ってるんなら、西南戦争の薩軍の連中や二・二六事件の首謀者たちも祀ってやればいいのに
422名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 15:11:17
>>421
薩軍や青年将校は、国家に対しての反乱軍。
戦犯に関しては>>388でも読んでくれ。
423名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 16:24:26
>>422
日本の将来を憂えたという点では、たいしてかわらんかと...
424名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/11(土) 21:19:23
>>422
ま、戦争起こしたのは仕方ないにしても、クソ作戦と見栄でここまで
ひどい負け方させた奴は、日本国民に対して責任取るべきだな。
425名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/12(日) 11:26:31
> 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [] 投稿日:05/03/01 22:24:52
> 祖父や父が兵隊だったやつが多かった。実家は空襲で消失。
> 周りには体験者がたくさんいて、その体験談を興味深く聞いた。
> みなさんが聞いた話を教えてください。
426名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/13(月) 04:46:34
母の家は郵便局やってたわけだが、祖父が死んだ後は祖母が切り盛り
していたそうだ。
で、陸軍あたりの若い将校が派遣されてきて、住み始めた。田舎だから
毎日何事もなくてボーッとしていたらしい。その将校にとっては下宿でも
しているつもりだったらしいけれど、実態は監視だったのかな。
伯父が軍関係の極秘技術を開発していたから。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/19(日) 11:06:09
じいさんちの前の家に、若い男達が次々と下宿していた。
仕事をしているでもなく不思議がられていたが、
赤い伯父さんの監視をしていた憲兵とか特高だったとか。

あの時代、悠長に監視だけって言うのも変な話だなぁと思って
調べようとした頃には、祖父さんも伯父さんも逝っちゃてた。
428名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/01(水) 19:54:52
今、徴兵されたらなぶりものにされそうだ
429名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/08(水) 04:35:06
>>428

教練を受けたこともない40過ぎのおっさんを徴兵しても
使いものにならんw
安心汁!
430名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 20:06:40
>ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦【5】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1136346996/l50

431名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 20:18:40
>>429
人間魚雷のような形で玉砕する覚悟はできてる
人として大和男児として生まれた本懐ここにあり
人として人のために死ねる意気を渇望す
432名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:16:00
親父やお袋は戦争の話は嫌がって教えてくれなかったから
近所の爺さん達にせがんで聞かせてもらったけど
どの爺さんも興が乗ってくると、話がデカクなってきて
「大砲の弾に飛び乗って敵地に突撃した」とか「B29を石を投げて落とした」
とか「現地の女にモテまくって困った」とか言い出すしまつだったな。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:19:05
両親は戦地の体験こそないが、もう少しで死ぬところだった体験や、日本領だった
当時の朝鮮の雰囲気の記憶がある。

>>431
好きで大和男児なんかには生まれてきちゃおらん
434名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:19:52
大阪か足立区の爺さんみたいだな
435名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/10(金) 00:30:59
436名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 09:20:49
今戦争あったら困るな
437名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 11:06:13
>>436
いや、こちらに飛び火さえしなければ儲かる可能性を秘めているのは、昔からのならわし。
ま、最近はテロだとか核だとか生物兵器だとかでうまくはいかないだろうが。
438名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 11:53:05
親父が朝鮮特需で、今の地所買ったおれがいますよ。
つーか、バブルのとき危なかった。
439名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 14:26:38
どこでも大量破壊兵器が飛んで来る状態では、特需も糞も無い。
440名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/19(日) 08:14:56
20年ほど前、お菓子関係の営業をしていた時、ある県のお菓子屋さんの
おじいさんに聞いた話。
戦争中、陸軍の師団が近かったため、慰問袋に入れるお菓子(生姜板だった
らしい)を作ってたお菓子屋が近くにあったそうだ。
その菓子屋の親父が軍人さんに袖の下を渡して注文を貰ってたそうだが、
当時、砂糖なんか手に入らず同業者が休業していく中、そこは軍から砂糖
をどんどん供給して貰っていたそうだ、まあ、ある意味軍需工場状態。
終戦を迎えた時、その菓子屋の倉庫には山のように砂糖が積み上げられ、
その砂糖で戦後ボロ儲けをして現在誰でも知ってるような大会社になった
、と言っていた。でもどう考えてもあの時代、あれだけの砂糖を持って
いるというのはおかしな話だったようで、あそこは軍人と連んで日本中の
砂糖を集めていた、とそのおじいさんはまだ怒っていた。
戦争末期、兵隊さんや国民が苦しんでた時代に、私腹を肥やすことしか
考えてなかった軍人や商人もかなりいたんだろう。
441名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 09:37:31
戦争って人間心理が如実に出てきますね。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:12:02
人の喧嘩の延長線上にある国同士の喧嘩で、普通にあることなんだけどもね。
最後は犠牲者に献花すると。

戦争はおこるものだから放棄するという考え方だからこそ、戦争を嫌うことなく、
国民一丸となって戦争を研究する必要があるのでは、と小6でいって担任に右翼といわれたなぁ。


443名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:44:23
立派に右翼だ藁
444名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:48:45
また、スレッドの主旨からそれて行きそうな予感がします。
良スレなのでみなさん自粛をお願いします。
445名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 17:53:58
既に将官クラスは平成の初年で皆鬼籍に入ったと言
われている。
戦後61年が経ち、少年兵を抜きにすれば、そろそろ
最若年の現役兵でも80歳になろうとしている・・・。

地獄のような戦場で、殺し殺された過酷な体験は、
肉親を前にして語ることは憚られるかも知れない。
しかし、勇気を出して、是非語って欲しいし、聞
きたいものだ。
残された時間はあまり多くはない。





446名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 18:45:34
三笠宮さんが騎兵少佐だから、ひょっとして最後の佐官かとドキドキしていますが。
大正13年生まれの伯父が上等兵で終戦だったな。
447名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/11(火) 05:01:02
もっと聞きたい。
448名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 06:38:15
話せる人がだんだんいなくなる。
先週友人祖父が亡くなったので、公職追放経験者の知り合いがいなくなった。
戦前から仏印蘭印でブイブイ言っていた方だから手記とか録音残すようにお願いしていたのだが、
「間違ったことはしていないから、弁解することはない」っつて断られた。
449名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 21:26:11
>>430
旧日本軍は強姦、輪姦を無くす為に従軍慰安婦を作ったのだが
結局駄目だった
450名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 21:33:25
これスレ立てした奴探しとりますけ、心当たりがあったら自治スレまで知らしてチョ
 ↓
驚愕の極太1本糞【古市くん♪】パイプカット無制限オマンコ
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144651913/
恥垢付着強制フェラチオ【古市くん♪】ウン筋パンティー収集
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144820321/
失禁・残尿【古市くん♪】ブリーフまっ黄色の人生
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144753718/
アナルビーズ挿入奥様【古市くん^@^】脱糞顔面噴射
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144850754/
絶景マンコ丸出しエアロビ【古市(^@^)】勃起抑制無理
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144892492/
キンタマ粉砕1玉摘出【古市(^@^)】前立腺肥大頻尿
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144917668/
ピンポン玉肛門挿入【古市^@^】海亀産卵涙目プレー
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144932901/
異臭充満オナラ窒息【古市(^@^)】嫁・緊急入院
http://bubble4.2ch.net/test/read.cgi/cafe40/1144986439/
451名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/15(土) 09:53:46
>>449
それのもとの話を書いた方が、作り話だと謝罪したんだが。
煽った朝日新聞は黙して語らず。
452名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/16(日) 13:14:30
俺の親父、少飛15期出身。昭和3年生で8年前がんで死んだ。
飛行兵で機種は戦闘機。とはいっても九七戦。
軍歴を本人の話と戦友会発行の写真集や文集を基にちょっとまとめてみた。

18・10・5〜19・3・21 太刀洗飛行学校(甘木生徒隊)
19・3・22〜19・7・24 太刀洗飛行学校(隈ノ庄教育隊)
19・8・21 シンガポールに到着。
19・12・6 ジャワのスラカルタ・パリギー等にて飛行訓練後、第36教育飛行隊(ジャワ・マラン)に合流。
20・2・28 第26練成飛行隊(ジャワ・マラン)に改称。
20・6・15 第34教育飛行隊(ジャワ・チレボン)に転属。
20・7・10 転属者は「内地特攻要員」としてジャワ・バンドンに集結。
20・7・15 特別攻撃隊に編成改正。「七生昭久隊」と呼称。
20・7・29 5編隊に分かれ、九七重・百式重等でバンドンを離陸。
その後、シンガポール・カラン→プノンペン→上海→朝鮮半島・連浦→日本。
東京に着いたのがちょうど昭和20年8月15日だったとのこと。

太刀飛では第4中隊だった。第3中隊には↓この人たちがいた。
ttp://aploda.org/dl.php?mode=pass&file_id=0000001247

武装解除を受けずにそのまま実家に帰ってきたので飛行帽が家にある。
ttp://aploda.org/dl.php?mode=pass&file_id=0000001248
親父は飛行服や落下傘帯もあったはずと言ってたが健在行方不明w
飛行服は記憶ないが、落下傘帯なら自分も子供の頃なんとなく見た記憶がある。

かつての少年兵ですら、生き残っている人は少ないんじゃなかろうか。
453名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/16(日) 13:27:36
454名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/30(日) 06:02:19
保守しとく。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/30(日) 06:08:27
ロシア語を習いに行っていて、クラスにもと抑留者の人たちがたくさんいました。
「自分は関東軍でスパイ活動をしていた。」とか、「抑留中に映画『シベリア物語』にエキストラで出たとか。
抑留体験者は、その人によってソ連嫌いと親ソ派の二つに分かれるけど、習いに来る人はやはり親ソ派だった。
毎年夏には墓参にいくとか。刺激されて、あれこれ抑留体験を読んだけど、かなり悲惨なはずなのに、みなさん、
結構みんな明るかった。というか、個性が強かった。私は内心「そりゃ、この人なら生き残るわナー」と思っていた。
456名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/05(金) 15:41:00
「いいか、犬はよく煮込まないとまずい」
「電柱の埋まっている部分はタールがしみているのでよく燃える。」
「蛙も蛇もぶつ切りにしちゃえば大丈夫」

戦争になったときに役立つらしい祖父の教え
457名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/07(日) 23:05:19
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-onisaburo.html

北から来るぞ。神は気(け)もない時から知らせておくから、よくこの神示、心にしめておれよ。
458名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:34:36
終戦の日まであと3カ月あげ。
459名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:53:46
つーか、
実質8月15日に戦争は終わっていないんだよね。
8月18日にソ連軍が占守島に攻め込んできて、白旗掲げた軍使殺したりして
8月21日占守島に日ソ両軍が停戦しても、満州や沖縄では散発的に戦闘しているし
アメリカの学生に聞いたら9月2日の 降伏文書調印じゃないか終戦といえるのはっつってた。
で、9月3日がソ連・中国にとっての対日勝利の日、この日ルソン島の日本軍降伏。
ちなみに国際法上は1951年のサンフランシスコ講和条約まで戦争状態。
調印していないソ連とは、まだ戦争中、は、ソ連がなくなったから、勝ったのか日本。


460名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/19(金) 22:05:02
隣のじいさんが入院した。
見舞いに行ったら、同室のじいさんに「宮本大尉殿!」と呼ばれた。
461名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 05:41:29
もっとないの?
462名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 05:43:40
だれかアウシュビッツの体験談とか聞いて人いない?
463名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 06:25:45
映画「僕の大事なコレクション」観てくれ。
自分の祖父の命を救ってくれた女性を探しに、ウクライナまで
出かけてゆく、ユダヤ系アメリカ人青年の話。

ロード・オブ・ザ・リングのフロドが主役やっとる。


464名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 07:04:44
南京にいた大伯父が最後にあったときに、
私たちは戦争はしたが、虐殺したのは中共。
465名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 08:23:12
母がカラフトに渡って帰ってくる時に
前か後の船が撃破されたと聞いた。
母が乗船していたら私は生まれてない。
466名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 09:46:44
8月15日以降も結構しずめられてんだよね、輸送船。
取引先の社長は入営前に小学校のプールで着衣水泳の練習したとか。
ちなみにそのプールって母校のなんだが戦後の写真見ると焼け野原にプールだけ写っている。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 09:57:52
うちの父親は海沿いの町で育ったのだが
小学校1年生のころ体育の授業で浜から1KMの海で船から落とされて泳いで帰ったそうだ。
意図として「将来海軍行ったら泳げなくては駄目だ」と先生が言った。
おかげで30代のころ海水浴に行くと2〜3KM泳いでいた。
468名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 10:15:58
浜から2キロくらい離れた島まで泳いでいって帰ってこられると
女郎屋に連れてってもらえたとか。
469名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 01:30:33
女郎蜘蛛って凄いネーミングですよね
470名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 10:08:13
昭和14年に徴兵検査で合格し、そのまま招集されて大陸の戦線に動員された伯父は
シベリアに抑留され、帰国したのは昭和22年だった。

口数が少ない人で、一番仲の良い弟(うちの親父)にも戦時中のことはほとんど喋らない。
苦労したんだろうねと言っても伯父は笑っているだけだった。
去年会った時に親父と伯父が昔話を始めたら戦時中の話になり
「俺は大陸で悪いことをたくさんやったよ。人もいっぱい殺した。
殺さなきゃ、こっちが殺されるんだから。
そりゃあ、むごい殺し方もしたよ」
と、突然話し始めた。

顔は笑っているように見えても眼は笑っていなかった。
聞いている俺も胸が痛くなるような言葉だった。
具体的な内容は言わなかったが、60年以上経って、初めて人に言うことができたのだろう。
「殺したんだ」と、何度も言った。
伯父の家から帰宅する途中で親父に尋ねたら、「初めて聞いた」と呟いた。

復員後、結婚して家庭を持ったが貧乏暮らしで苦労した伯父だが
恩給を貰うようになってからは、少しはゆとりのある生活もできるようになった。
ところが先日、コツコツ貯めた貯金を町の施設のためにごっそり寄付してしまった。
「やるな、伯父さん」と言ったら、「かわりに紙切れ1枚くれた」と、内閣総理大臣の名前の入った
表彰状を見せてくれた。
471名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 14:47:41
シベリアは寒かったんだろうね、ワシは寒いのが嫌いだからシベリア生活を想像しただけでも涙がでます
472名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/08(木) 15:22:06
>>470
早く戻れてよかったね。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 00:23:03
年に一回はすいとんさ食うだ。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 06:10:42
戦争当時、母は川の近くに住んでいた。ショウイ弾を投下され火の海になり皆、川の中で死んでいたらしい。血の川。
475名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 07:53:41
昔の会社同僚に普段から差別偏見の強い人がいたんだが
その人の祖父もシベリア抑留帰りでシベリアの悪環境に加え
×人はこうだ△人はああだと差別偏見丸出しの戦争話を
昼休みに聞かされて引いた記憶がある。
同僚が貶していた人達は日本軍が酷い事をしたいわれる人達。

>>470のレスを読んで同じシベリア帰りでも兵士によって
都合の悪い事は忘れる人もいれば、一生忘れずに苦しみ続ける
人もいるんだなとあらためて思ったよ。
476名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 09:01:54
470のおじさんが昭和22年にシベリアから帰ってこられたっていうのが、
沈黙の理由の一つのような気がする。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 20:59:43
>>475
もちっと、文章を整理されますように。
478名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 17:45:32
おろしあ生活が長かったんで・・・・・・
479名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 18:20:47
おれのじいさんは南方戦線(どこだかは失念)の基地の整備をしてたらしい。
そこに米軍機が低空飛来してくると、塹壕(通称たこつぼと呼んだらしい)に向かって
一目散に逃げるんだが、飛行機好きのじいさんは、こともあろうに
米軍機見たさに、たこつぼから顔をひょこひょこだしては、ニヤニヤわくわくしてたそうな。
米軍機が帰ったあとも、同世代(20代前半)の戦友と戦闘機談義をこっそりしてたという。
もちろん、そのそばで死んでいく戦友もたくさんいたらしいが、
極度の緊張が連続すると、人間てのはあそこまで図太くなれるのかと我ながら感心したそうな。
480スキナー:2006/06/24(土) 18:32:30
10代の頃、雑誌の売ります買いますで、
丸スペシャルのバックナンバーを何十冊か1万円で
売ってもらったんだが、売ってくれた人が南方の
水上戦闘機の部隊で整備員をしていた方だった。
手紙をやりとりしていたとき50代だった。
その方がウォーターラインシリーズで情景写真を撮って、
それをコピーして作った写真集をもらった。重巡の前方に
着水した水上機の写真など、なかなかリアルだった.

もっといろいろ話を聞いておけばよかった。
前線の整備員ってものすごく苦労が多かったんだと思う。
481名無しさん@お腹いっぱい。
乗ってた戦艦が撃沈されて奇跡的に海に投げ出された人達が何日も漂流してた、声をかけたら下半身がサメに食われてて殆どの人が亡くなってた、その人はフンドシを下まで垂らしてたから(サメは自分より体の大きいものが苦手)九死に一生を得たらしい。この人達はすごい精神力。