貧しかった少年・少女史!

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1名無しさん@お腹いっぱい。
この年代、高度成長期に働いていた親を持つ。
貧しかったけど、古き良き時代。

泣き笑いの、ガキの時代を語りましょう。
2名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 02:57:44
カギっ子でした。
一家団欒はめったにありませんでしたが、不幸だとも思ってませんでした。
バラ色の将来が当然開けていることを疑いもしませんでした。
3名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 05:11:19
淋しいこと思い出させるなよ。

まあ、

当時は不幸とは思ってなかったな。

不幸ってことを知らなかったし。

不幸じゃなくて幸せだった気もするし。
41:04/11/28 22:55:41
あれ?意外とレスないな。

>>2、3さん
ありがとう、御座います。
5名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:02:41
自分の部屋というものにあこがれたが
いまのように子供に個室が当たり前というのが
いいのかどうか
6名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:10:33
汗をかかない時期だと
みんな同じもんを何日も着てきたなー
71:04/11/28 23:20:56
>>5
自分も姉と3畳間で、同部屋でした。
今は個室が当たり前か〜
ヤレヤレですね。
81:04/11/28 23:24:17
>>6
ですね〜
ジージャン着てる奴が、ちと羨ましかったりしました。
9名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:31:46
小学生の頃のおやつは砂糖水だった、申年生まれ・・・
101:04/11/28 23:32:32
ジャンバーの肩が、鼻水で乾燥してた。
みんな、そうだった。
11名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:34:48
ガキの頃そんなに貧しかったかな?
普通に働いてれば豊かじゃないが貧しくも無い時代のはずじゃなかったかな。
「働けど貧しい」が当たり前の世代はもう少し上の世代と違ったかな。

特別、甲斐性なしの親を持った人の溜まり場かここは?
12名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:35:20
カギッコでした。
学校から帰ると、茶箪笥に20円置いてあって、それがお小遣い。
食器棚じゃなくて、茶箪笥。
13名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:35:24
ふだんは麦茶に砂糖
サイダーだって特別なときでないと飲めない
家でコーヒー牛乳を取ってたらブルジョワ
141:04/11/28 23:40:50
>>11さんは、いわゆる大臣さんですね。
イジメられませんでしたか?
1511:04/11/28 23:46:21
確かにオレッチは金持ちだす。 えらいスンマヘン。
161:04/11/28 23:48:02
>>12
自分もカギっ子
でも、姉が持ってて自分は無かった。
オヤツ食いてー!!っと何度、涙したことか。
171:04/11/28 23:52:55
>>11
いえいえ、あなたは偉い。
正直、荒らされると、思いました。(笑)
18名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/28 23:54:25
うちは線路際でね、電車が通るたびに揺れ揺れですよ
かぐや姫の赤ちょうちんはうちのパクリ
191:04/11/28 23:56:04
映画「セブン」みたいな状況でしょうか?
201:04/11/29 00:00:32
>>13さん
今でも、コーヒー牛乳は至福の一時です。
21名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 00:03:19
クラスの住所録、電話番号のあとに(呼)
22名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 00:06:38
( ・∀・)人(゚∀゚ )>>21
23名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 00:10:53
自転車は鉄くず屋から買った。
カメラとか時計とかは質流れの店で買った。
学校の帰りにはコーラやビールの空き瓶を拾い
酒屋で売る。
たまに、鉄くずや砲金を拾って鉄くず屋に売りに行った。

そんな東京のディープサウスに今も暮らす48歳・・・
241:04/11/29 00:22:40
>>21-22さん
うちも(呼)ヨビリンだった。

>>23さん
自分も、酔っ払いの親父の空き瓶を酒屋にもっていった。
25名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 00:59:00
貧しいからこそ、今がある。
26名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:02:18
庭に出たマムシを家族でたき火で食べた。
あんまり楽しかったから、翌日学校のお絵書きで描いた。
バカ正直な小学一年生だった。ちなみに当方女。
27名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:09:16
>>26
どんな味だった?
28名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:13:52
父は免許持っていたが、車なんてなかった。
親戚んちの車を借りて出掛けた。
でも、夫の父親は自転車しか乗れない。
29名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:31:09
家庭科で使う裁縫セットは買ってもらえなかった。
ミシン糸を割り箸に巻きつけて小さい弁当箱に入れて持っていった。
30名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:32:53
カツはクジラだ。ライスカレーもクジラ。焼肉はにおいのキツいマトン。
31名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:34:28
すき焼きは豚肉
32名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:37:35
>>30
旨そう
33名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:43:10
メザシばかり食べてた
34名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:46:20
骨丈夫そう
35名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:47:52
>>34
骨年齢20歳だって、43なのに
36名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:48:28
メザシって藁に刺さってた。
37名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:52:07
わぁ〜ら〜にぃ〜まみれてよ〜♪
>>27
小骨のきつい鶏みたいな感じかな、旨味がもっと強かった。
一番美味しかった所はレバー、蛇仕様で細長かった。
うちは貧乏な上に山育ち。
猫が捕って来て、見せびらかしに来た禁猟の山鳥を「贅沢だ」と
うちの父親はガメて焼いて食った。わしも食った、うまかった。
39名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:53:39
めざしもししゃもも藁に繋がってる
40名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:54:45
>>38
ワイルド!かっこいい!!
41名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:55:20
納豆も藁に入ってた
42名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:57:00
>>38
絶倫家族
43名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 01:59:49
んー、子供でも山に行ったら当然のように山のものを採って食ってたな。アケビとか。
44名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:02:52
昔は喰う物があっちこっちにあったな〜今考えると別に食べなくても良かったんやけど
45名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:12:08
イナゴとか、普通に食ってたしね。
46名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:15:10
獲って食うのか?どうやって?
今でもじゅーぶん貧しーニダが…。

ウリも鍵っ子だたニダね。
んでも独りで家ん中居るの淋しゅーて、
お袋がパートから帰って来るの
いつも家の前の川で石投げしながら待っとる…
て話田舎のばーちゃんに聞かせたらさめざめ泣いとたニダ(wニダ
48名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:18:32
この世代なら、震災きてもSOSは要らないかも
49名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:21:34
>>30
俺も、いまだに好きな物は「くじらかつ」だよ。
50名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:27:21
>>45
仮面ライダー食べてたのか(@_@)スナックなら食べたけど
三宮そごうの食堂のミートスパがこの世で一番のごちそーと思とたニダ。
今でもあの味求めてよくミートスパ注文するニダが、
どこで喰ってもあんま旨くないニダ。
やぱ口が肥えただけニダかね〜?
52名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:33:53
イナゴは、煮付けじゃない?
タニシとか、食べてたけどな〜。
53名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:38:26
>>52
どちらも醤油味やね。
醤油と言えば一升瓶に入った醤油、最近見た事無いな〜
54名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:44:39
そのコピペ、内容的には間違いじゃないんだろうけど、
実際はこんな感じ

岡「吉本興業所属の社員さんが吉本興業のタレントを訴える」
岡「 これねぇ、考えてみて下さい」
矢「不思議やねぇこれ」
岡「これねもしですよ紳助さんがもうえぇ辞めるわって言うたら
  大打撃受けるのは吉本興業ですよ」
岡「ここにいる吉本興業の社員さんも紳助さんが働いたお金で
  給料貰ってるかもわかりませんやんか、ねぇ、そう考えると
  どんどんこれおかしなことなるなぁと思って」
矢「今吉本の三本の指に入りますからねぇ」
岡「そりゃそうですよ、大打撃ですよこれは」
岡「今こそ行列のできる法律相談所の人たちが立ち上がるべき
  なんですよこれ、何とかしないと」
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


512 名前:可愛い奥様 :04/11/29 01:50:48 ID:6SiOv0hr
>>511
実際のほうが酷いね・・。つまり会社のためには社会善をも踏みにじる
べきということだね。企業倫理ゼロであれと。

岡村氏ね
55名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:47:40
お前が、氏ね。
56名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 02:47:57
>>54 子供は寝ろよ。
親は共働きだったから、家族で遊びに行った記憶がない。
同級生が休みに家族で海や動物園に行ったことを聞くと羨ましかった。
>>57
日曜日も働いていたということですよね?
共働きでも日曜日は両親とも休みということもあるわけで。
59名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 20:07:56
おれは>>57じゃないけど、
うちは家畜がいたから家を開けられないし、
母ちゃんも労働の担い手だったから365日共働きだったな。
ちょうど円高の始まりの頃で、飼料代が軒並み値上がりして、
本当に貧乏してたよ。
60名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:23:58
小学校低学年の頃は藁貧でご飯に「きなこ」かけて食べる日が。
61名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:32:27
おかんが、にわとり絞めてた
62名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:35:02
巨人の星に
「食べるものがなくてドッグフードを食べていた」
とキックの鬼が語るシーンがあるのだが、
当時、ドッグフードなんか高くて食えなかったのでは
63名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:42:33
当時ドッグフードなんて無いよな 時代考証がいいかげん。
>>57
うちもそう、家が自営だったので、60年代は月1の休みだった。70年代で月2だったかな。
65名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:52:29
2DK賃貸団地の子が土地持ち木造ボロ家の子を
バカにするというわけわからん状況もあった
66名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/29 23:59:04
最近の犬様は贅沢すぎる、、至れり尽くせり。
俺の食費より犬の食費のほうが勝ってる!
嫁からのMessageなのか、あんたは犬以下や、と、、
67名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:04:00
今思えば確かに貧乏だったけど、当時は気付かなかった。
68名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:04:44
そして妙に明るかった
69名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:07:32
つぎはぎした服を着た子供、最近見ないな
70名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:09:50
今じゃパンツのゴムが切れても
ゴムを入れ替えてまではかないであろう
71名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:11:35
セーターの編みなおしとか
お古を着るのは最近また復活したよ
73名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:32:49
貧乏人死ねよ
74名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 00:36:00
親の世代が物を捨てられないのは仕方ねぇな
家中ごみなんだけど…
>>70
今のパンツは板状のゴムが縫い付けてあるタイプが多いので
伸びても取り替えられません
なので、少し伸びたまま穿いてます(つД`)
76名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 13:40:41
四畳半に二段ベッド&姉妹の机。
いつも一緒だったからケンカばかり。
ひとりの部屋っていうのにどれだけ憧れたか・・・。

そんな姉妹は今は大の仲良し。
77名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 13:52:35
>>72
子供服も古着って流行ってるの?
78ミミゲー:04/11/30 13:59:57
>>62-63
亀だけど ドックフード=いぬまんま のことではないのか?
今の子にいぬまんま では通じないので
あえてドックフードにした、ということでわ?
79名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 14:01:56
ビタワンはあったよね
80名無しさん@お腹いっぱい。:04/11/30 14:25:35
5、6歳まではパンツに社会の窓が付いてなかった。
姉貴のお古だった。
81名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/01 19:40:12
子供にブランド物を着せるのは馬鹿だと思うこの頃
母ちゃんがクマのパッチワークをつけてくれた。
ズボンの膝のほころびに。
83名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/01 22:12:38
映画「泥の川」を見ると、子供時代を思い出す。
工業地帯の運河のそばに住んでた。
腐敗した犬が浮いてたな。
うわっ想像しちった。。。
85名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/02 00:59:01
ビンボーが普通だったね。
86名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/02 01:15:16
カレーライスには肉なんて入ってなかった
ちくわだった。
87名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/02 01:31:25
高度成長期の田舎の男の人はほとんどシャツ(肌着)を着て出歩いていた。
88名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/02 01:34:12
女はもんぺに割烹着、もんぺはまだいるよ〜
89名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/02 01:56:00
>>87
政令指定都市でもそうだったよ。
90名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/04 21:35:36
>>86
魚肉ソーセージだったよ〜
91名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/04 21:48:41
良く裏山でつくしを採って食べたよ。油で炒めて醤油かけて、結構旨かったな。
92名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/04 22:05:02
つくしは、ちょっと苦かったかな。
自分は、ノノヒロが好きだった。
93名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:25:13
たまごとじうまいね。
わらびとりによくいった。
タニシも甘辛く煮てごはんのおとも。
94名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:30:44
おれはおしゃれだったんで夏はタンクトップで過ごしていたよ
95名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:31:38
半そでめくりあげて格好つけてたヤシいる?
96名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:32:13
ランニングシャツなら俺も着てたぞ
97名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:47:37
学校帰りに道端の畑に忍びこんで食べた物=サツマイモ、スイカ、青梅、なすび、大根、びわ、みかん、梨、ぶどう、柿、栗。みんな生で食べたが、おやつ代わりで美味かった。あと、鶏小屋から卵とって角をコンコンと割って中身を吸ったっけ。俺って悪い子...
98名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:51:31
>>97
ま〜かっぱらい普通だが
やたら多いなw
99名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:53:07
家を出る時点でポケットにアジシオが
100名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 00:58:42
自然に囲まれてなかった俺は、スーパーで満たしていた。でも、駄菓子屋では出来なかった、当てもんが楽しみだったから!
101名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 01:12:17
>>98九州で育った俺はリンゴ畑に憧れてた...
高校の修学旅行で長野に立ち寄りオプションでリンゴ狩りがついてて、木からもいだリンゴを食った時には、そりゃもう、あまりの旨さに感動したな。一度に7個も食べてしまった。
102名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 01:19:18
わしは都会の中で育ったので、お屋敷の中の
柿とか、ざくろ、無花果なんか採って食ったな。
お屋敷の中に番犬が放し飼いになってたが、よくなついて
一緒に遊んでたよ。
親父がある日、「クーラーを買いに行く」と言って出かけて行った、
俺はルームクーラーだと思って期待していたが、
買って来たのは「バカンスクーラー」だった。
つまり、バカンスクーラーと言う商品名のクーラーボックス。
それにジュースとか詰めて海に遊びに行ったりした。
今でも段ボールの箱ごと残ってる、親父も元気だし。
親父はそのメーカーは潰れたと言っているが、ググると何件かヒットする。
潰れてないのか?
104名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 01:45:51
おやつはもんじゃ焼き♪
105名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 01:51:04
おやつはお好み焼や
106名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 02:04:20
おやつはチクロにかぎる。
107名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 02:31:39
ピンクやグリーンの毒々しい色が紙?に書いてあって、
それを噛んで食べるのあったよね?あれってすごい着色料?
なんかそんなのばっかり食べてたな。
108名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 03:02:58
発癌物質まんさーい
お袋にパンの耳を買いに行かされたな。
10円で袋いっぱいあった。
あんまり美味しくなかったがしばらくそればかり食わされた。
学校の給食のほうがご馳走だった。
便所が外の小屋にあり、地面にカメを埋めて両端に板を置いただけのものだった。
蛆虫とカマドウマのすくつだった。
夜は怖くて、親に付いてきて貰ってウンコしてた。
111名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 06:36:32
九州の実家の便所、牛小屋の隣にあった。あるとき興奮した牛が角で板壁を突き破り大きな穴が空いた。大便してると壁から牛が顔を出す、そんな朝が一週間ほど続いたっけ。でも怖くはなくて「よし、よし」なんて言って額を撫でてやるんだけど。今考えるととおおらかだったな。
112名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 10:22:55
昔は汲み取りが多かったから、家の外に便所があったから夜は恐かった。
でも、今思い出してもバキュームカーの臭いが脳裏を過ぎる ξ
昔の清涼飲料は飲むと舌が着色料で染まったものだ。
出かけた先で、ファンタグレープを飲んだが、帰りに車酔いで吐いたら紫のゲロが出た。
114名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 10:27:51
ちびまるこちゃん見ると子供の頃を思い出す。
115名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 18:57:06
うちのジーさんちが便槽が「かめ」だったよ。いっぱい溜まってくると、
おつりがきた。それを畑に撒いてそこで採れた物が又食卓に上る。
今はやりのリサイクルだ。
116名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 20:10:24
ヤクルトをどんぶりで飲んでみたい…
小僧寿しのパーティ寿司を一人で食ってみたい…
瓶入りのヨーグルトをいつか食べてみたい…

と食うことにすべて結びついていたなあ…
117名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 20:12:13
そういえば小さい時
肥を運んでいたおじいさんを落とし穴に落としたことがあるなぁ・・
すごく怒られたけど。
118名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 20:21:29
バカだねぇ まったくw
119名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 20:25:08
>>118
そう馬鹿だった。
人が嫌がることは自分も嫌
そういう倫理観がまだ無かった。

でも小さい時の事だから気にしないで。
120名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 21:32:54
今でもバキュームカーはあると思うが、
昔同様、吸い終わると野球の軟球をホースの先に
くっつけているのだろうか。
121名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 21:36:36
>>120
昔同様、鉄の棒にヘラがついたやつでかき回しているのだろうか。
122名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 21:37:08
江戸川区の一之江あたりじゃまだ現役じゃないかな。
少なくとも数年前までうちの近所の社宅はそうだった。
123名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 21:37:35
>>120
昔同様、利用者はパンツやスリッパを落っことしているのだろうか。
124名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 21:46:19
兄弟どころか、ご近所、親戚中でお下がりの回し合い
125名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 22:51:05
二十歳すぎくらいにすき焼きを食った。
ずーーーっとメインは豚肉だと思ってた。
126名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:01:02
まだいい。

俺は鶏肉だと思っていた。
127名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:01:55
いや、すき焼きってなんだか知らなかったw
128名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:33:33
働くようになって初めて先輩に連れてってもらい、握り寿司を食った。
寿司屋のケンちゃんで見た事のある寿司に感激したよ。
今思えば安い寿司屋だったけど、ほんとに美味かった。

129名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:34:23
カレーには魚肉ソーセージが入ってて
誰かの誕生日だけ豚肉が入ってた
130名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:39:56
私 和歌山の寒村育ち。
カレーなんて大阪に出るまで存在自体しませんでした。
131名無しさん@お腹いっぱい :04/12/05 23:40:16
ここいーなー。
コロッケは肉だと思ってた
132名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:40:47
しませんでした。

しりませんでした。
133名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:43:06
埼玉の友だちんちに泊ったら
うほ〜のスキヤキで
ジャガイモと玉ねぎが入っててビッツラおったまげーしょん!!
134名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:44:50
>>130>>132
「しませんでした。」で大爆笑中ですー!!^^
135名無しさん@お腹いっぱい :04/12/05 23:45:10
円形のちゃぶ台が懐かしい。
136名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:47:06
鶏すきやきの老舗、神田のぼたん
http://r.gnavi.co.jp/g198900/
ここは態度が悪いからやめといたほうが無難
137名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:47:55
そのちゃぶ台ですべり台してました。
ちゃぶ台の足おりました。
おこられました。
すべり台出来なくなりました。
138名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:48:16
130&132はイーデス・カンソンさんでつか?
139名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:50:42
>>138_| ̄|○
140名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:53:56
ハンソンさんはおれが生まれる前から日本にいるわけで
141名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/05 23:56:34
イヤデス・ハンソン
142名無しさん@お腹いっぱい :04/12/05 23:57:43
俺、長屋みたいな所だったから、隣に味噌や醤油借りに行かされたな。 
生まれた場所が悪いーのか〜
144名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 00:20:12
>>142
長屋住まいの友達ん家によく遊びに行ったけど、
「俺の部屋が出来た」って言ったから行くと
隣の部屋の壁ブチ抜いてたよ。
145名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 00:36:40
こら!! そこのアンタ!! 俺の書き込みにいちいちケチつけるな。w
 しかし なんだな 俺の書き込みてナゼわかる?w
フッシギだな〜。  なんでかな〜。 職権乱用すなよw
146たらおばんない:04/12/06 00:39:50
>>143
昭和ブルース
147名無しさん@お腹いっぱい :04/12/06 09:57:52
原付取って、DAX乗って、たしか\45/?だったかな。
148名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 12:50:55
昔は牛肉が高かったのかな?
年に2〜3回しか食えなかった。
あと夕飯のおかずがミソだったことがある。
149名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 13:02:10
ネギ味噌は旨い、飯がいくらでも食える。
だけど、100グラム何千円の高級品になっても
クジラのベーコンだけは二度と食いたくない。
ごく小さい頃は、貧乏に気がついてなかったろうな。
小学 何年生のときか正確に覚えてないけど、
クラス単位でぞろぞろ外を歩いているときだった。
当時の我が家は、ボロい二階建の二階を借りて住んでいた。
下はもう一世帯と貸事務所になっていて、流しトイレは共同だった。
「ここ○のうち」と言ったら、先生が「ここ?」と二階方向を見上げたその目が
ちょっと言葉でうまく言い表せないのだけど、子供心に刺さったみたいで
未だに覚えている。
それからかな、他の家や貧富の差が見えるようになったのは。w
151名無しさん@お腹いっぱい :04/12/06 15:47:51
商売家さんちって割とリッチだった気がする。
電気屋とか酒屋とか。
152名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 16:17:57
>>150
差別とまでは言い切れないが、昭和30年代
貧乏人の子供を侮った態度の教師は確かにいた。
俺にも経験がある。当時の教員というのは
エリート意識が今より強かったのかも。
153名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 18:01:13
貧乏な上に合成着色料は毒と思っていた母親の弁当は地味だった。
めざしとキンピラ、ごはんには醤油をまぶしたカツオブシがかけられ、
ふたを開けた時の印象が泥色だった。
友達の弁当はピンク色のデンブ・黄色いたくあん・赤いたこウインナーと
同じ貧乏ながらもカラフルだった。
154名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 20:04:48
>>148
牛肉は12階より高かった!

昔、親父の好物は豚ソテーだったから
誕生日に兄弟で、お金1000円貯めてビフテキをと思って
スーパーに買いに行ったが手が出なかった。
結局、ペラペラのを5枚くらいしか買えなかったよ。

で、焼いて親父に出したら「なんだか〜乳くせえぇーな」だって…
155名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 21:00:08
>>154
そう、確かに昔の牛肉はクセが強かったような。
肉の味が変わったのか、俺の味覚が変わったのか、
どっちなんだろう?
156名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 21:02:26
鶏肉すき焼きのうちの親父の言葉。「うちは牛バ飼うとる。牛が怖がるけん牛肉は食べるといかん。」子供心に『もっともだ』と納得したが今考えれば鶏も飼っていた。それもすき焼き前には実家で鶏バラした。それに、生きている牛が仲間の焼ける臭いって分かるのか、親父?
157名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 21:11:32
俺のおやつはマヨネーズとケチャップを皿に垂らしてかき混ぜて舐めてた

あと、プライドだけ高そうな女教師が新聞を取っていない
家庭の多さに呆れ返っていた
そう言えば、家庭訪問の時にお袋が作って出した野菜の煮物、俺が見たら旨そうだったけど、先生、箸をつけなかったな。
子供心にちょっとショックだったの思い出した...
先生が帰ったあと夕飯で食べた。俺はお袋の煮物好物だったが、なんかその時は味がしなかった...
159名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 21:36:49
そう言えば、家庭訪問の時にお袋が作って出した野菜の煮物、俺が見たら旨そうだったけど、先生、箸をつけなかったな。
子供心にちょっとショックだったの思い出した...
先生が帰ったあと夕飯で食べた。俺はお袋の煮物好物だったが、なんかその時は味がしなかった...
160名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 21:34:05
そう言えば、家庭訪問の時にお袋が作って出した野菜の煮物、俺が見たら旨そうだったけど、先生、箸をつけなかったな。
子供心にちょっとショックだったの思い出した...
先生が帰ったあと夕飯で食べた。俺はお袋の煮物好物だったが、なんかその時は味がしなかった...
161名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/06 23:43:59
あらら>>158-160
災難に、時間帯もメチャクチャだしね。
似たような話は何処にでも有るんだね
163名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 02:18:03
貧乏は鯨を食え。

だったね。
今じゃ・・・
家で作った野菜の煮物はその家庭の味があるからね
よその家の煮物は食べづらいよね。
小学生の時、家庭訪問の時はお茶だけでいいのよーって
お母さんに言ってねと先生がみんなに言っていた記憶がある。
昔は徒歩で家庭訪問だったから、一軒々で食べていたら
トイレに行きたくなったりして大変だったのかも?
166名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 10:47:50
茶色や濃い緑を基調とする飯の出る家では
食べたことのない献立がたくさんあるので、
給食の時間がめちゃくちゃ楽しみだった。
フリッターだの、トマトシチューだの、魚フライのあんかけだの。
フルーツポンチや白玉団子とフルーツの組み合わせもあったっけ。
167名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 11:55:59
ケーキは、クリスマスと誕生日だけだったよね?
しかもバタークリームが多かったような・・・しかも喜んで食べたし。
>>158
公立の先生だと、「公務員は饗応をうけるべからず」の掟を律儀に守っていた
のかもしれない。165さん先生が言われた趣旨もそうかもしれない。気を遣わし
ちゃ気の毒、って配慮も。
169名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 12:43:21
>>167
そうそう!そうだったよ。
で、イチゴのショートなんだけど、クリームはバタークリームだし、
イチゴは赤いゼリーのニセモノなんだ。
けど本当にクリスマスのある月の給食楽しみだった。
>>172
家庭訪問のお知らせの印刷物には、お茶とか食事を出さないようにと書いてあった。
公立だと公務員だから、食事等の供応は「子供の成績に手心を」って賄賂に取られるだろうし。

>>173
イチゴの形のゼリーはあの当時見た事無いが、
サクランボ風の赤玉ゼリーや砂糖漬けのサクランボやフキは食べた事がある。
砂糖漬けは不味くて嫌いだった。
サクランボは洋酒漬けだったかも。
ふと、バタークリームを食べたくなるが、今はバタークリームケーキは稀になっている。
丸い台形のスポンジに、バタークリームとチョココーティングを施した、
製パンメーカー製の小さなケーキを、以前はスーパーやコンビニのパン売り場で見かけたが、
今はほとんど見かけない。
あれ好きだったんだけどな。
171:名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 15:53:54
家で海老が食卓に出たことがなかった。海老はかっぱえびせんでしか食べたことがなかった。
海老の尻尾や殻は食べれるのかどうかわからず、かといって人に聞くのも恥ずかしくて聞けなかった。
その謎が大人になって解けたので、張り切って「エビチリソース」を食べたら全身蕁麻疹でエライことになった。
172名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 16:38:49
さほど貧しくなくとも、家庭で大正エビのような
大きいエビを食べたことはなかったような記憶があるよー
バタークリームのケーキは、あれはあれで美味なものだよなあ。
小学生の頃は

・ずっとジャージを着せられてた
・牛肉を食ったことが無かった
・家族で旅行に行ったことが無い
・1年から5年まで同じスキー板だった
・2年から6年まで同じ自転車だった
175名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 20:01:48
海老っていえばザリガニ食べてる友達がいたな。
176名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 20:09:37
仕事で漁師町に勤務したときに
B品の伊勢えびを最高で7匹一度にもらったことがあった。
しかし、漁期は集中しているためすぐに飽きた。
そこでエビフライにしたら、やたら硬くてまずかった。
やはり名物はたまに食うほうがいい。
伊勢えびはもう一生分食ったので食いたくない…
177名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 22:11:42
海老は、九州の山村の我が実家では絶対手に入らない物だった。子供時代に読んだ本で「土蜂の幼虫は海老みたいな味がする」と書いてあったが、土蜂を見たことさえなかった。土蜂ってどの地方にいる?
本当に海老の味がする?
一度食ってみたい。
情報求む。
178名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 22:21:18
野山を駆け回って、イナゴ、マムシ、スズメ、カワニナ、ヨシノボリ、アケビ、野イチゴ、山栗
いろんなものをとって食ったけど、蜂ご飯だけは見た目が気持ち悪くて食えなかった。
親父は美味そうに食ってた。
179名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 22:35:23
>>174
おいおい
自転車は高価だったぞー
俺はママチャリでだ。
180名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 22:42:43
親父の三角自転車で練習した。ヒラリとカッコよく跨るのが
4年生には難しかった。
181名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 23:11:44
カルビーのサッポロポテトバーベキュー味がでた時、
「こんなに美味しいお菓子は初めてだ!」と感激した。
UFO焼きそばにも感激した。
貧しい食生活だった。
182名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 23:17:57
土蜂、土蜂〜。
どこの地方の郷土料理?
どこに行ったら食べれる?
本当に海老の味?しつこくてご免ね?
183名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 23:29:14
>>182
ググってみたけど、台湾の郷土料理みたいよ。
184名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/07 23:49:28
>>183ありがと。台湾か〜、行ったこと無いな〜..
昔呼んだ本って確か「三太郎物語」??とかいう本で、田舎の小学校を舞台にしていた。その中で先生が食べて言った言葉だったから国内でも食べるとこがあると思ってた。ちょっと残念。
185名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 01:23:09
>>182
長野だよ、蜂に小さなこよりをつけて、
巣に帰るのを皆で追いかけて、巣をさがす。
そして掘り出して、幼虫を食べるんだよ。
カミキリムシの幼虫も美味いそうだぞ。
186名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 08:01:15
そうですか、長野だったんだ。有難うございました。あっ、俺、カミキリ虫の幼虫食ったことある!囲炉裏の火の中で焼くんだけど香ばしくて旨かったな。あと、死んだジイチャンにマムシの骨を乾かしたのも体に良いからって食べさせられた。これの味は覚えてないが。
187名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 10:44:49
>>184
げげ!まさかここで三太物語の話が出ようとは!
自分は三太が軍鶏を大事に可愛がって育てたが、
なんだかんだで鶏鍋になってしまった話が印象的。
昔の人は可愛いくても、鶏である限りは食う!と潔い!
188名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 16:02:18
そうそう「三太物語」でした。面白かったな。学校の先生が砂糖漬にしていたイチゴを女の子をオダテて食べてしまい、代わりに梅干しを入れておいて、帰宅した先生が暗い中で梅干し食べて卒倒したという話が印象的でした。それだけ甘い物に飢えていた時代だったんだよね。
189名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 16:15:07
道路脇の草むらに落ちているコーラのビンを拾って
洗って酒屋に持ってくと10円になった。
それで3バンドのラジオかった。
谷村とバンバン聞いてよく笑てた。
190名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 16:29:04
連チャンでスマソ。
家族で民宿に泊まったら
帰り際の精算の時に嫁さんと財布の中身みながら
ボソボソ話していたら
娘達から「お金足りなかったら私達も出すよ」って言われた。
まだコーラのビン引きずってんかな。
191名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 19:44:54
コーラの瓶なんて落ちて無いところで育ちました。ドングリを拾って売ってました。釣り餌になる虫が湧くとかで。
あっ、竹山でタケノコ見つけて竹串1本立てるごとに5円の報酬を貰えると言う約束を親父としましたが、結局、金をくれなかったっけ。
そういえば初めて買ってもらった自転車
月賦だったな。金額も物価対比で高価なんだろうけど

こないだ中学の子供がチャリ盗まれてしょうがないから
大人用の5800円で買ってきた。
なんだかな〜。昔が良かったって思うな。
昔の自転車は今より作りが良かった。
今のはかなりチャチくなってる。その代わり軽くて安いが。
それにしても今はランプが暗い。
昔は6W一灯か3.2W2灯だったけど、今は2.4W一灯。
おまけに無灯火大杉。
194名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 22:14:30
自転車は中学に入る前にやっと買って貰った。6歳年の離れた姉ちゃんが高校卒業するから、姉ちゃんの自転車を下取して貰い少し安く買えたの覚えてる。姉ちゃん頭良かったから女子大に行きたかったらしいが、俺がいるからと説得されて大阪に行き就職した。姉ちゃん、ゴメン。
(´-`).。oO(自転車って安くなったなぁ〜?)
196名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 23:23:31
九州の山奥の貧乏な百姓家庭で育った自分。
頭が悪く馬鹿な俺でも、何とか這上がりたいと仕事を人一倍頑張ったから今の生活が出来ているんだなと、親に感謝している。
親父、おふくろ、長生きしてくれよな...
197名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/08 23:46:45
駄菓子屋でも、海老センとかポテチなど
バラ売りしてくれてたよね。
「カール10円」とか言ってたな〜
懐かしいですわ。
>バラ売りしてくれてたよね
袋を開けてって事?
199名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:07:34
そう言えば「すずめの卵」って菓子、一個50銭だったな。5円玉1枚で10個買えたっけ。紙の袋に入れてもらって嬉しかった。今でもたまにスーパーなんかでも見かけるが、懐かしくって、ついつい買ってしまう。一年に1度くらいだけど。
200名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:12:54
ついでに金チューブに入ったチョコレートなんかご馳走で、2年位に一度しか手に入らず、買って貰った時は少しずつ少しずつ出して舐めたっけ。最後の最後まで吸って、しまいには金チューブを箸なんかで真っ直ぐに伸ばし甘さを堪能した。最後の最後には金属の味がしたな。
201名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:14:50
みなさん40代だよね!!本当の話ですか???
202名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:32:12
「再婚に至る」「学校帰りの畑泥棒」「牛に便所の壁を」「カミキリ虫の幼虫」「下取自転車購入」「スズメの卵」「金チューブチョコ」等の者ですが、45歳です。九州の田舎育ちですので、都会とは違う暮らしだったのかも...
おまけに貧乏でしたから。
すべて事実です。
203名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:35:12
すばらし!!ドラマになります
204名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:42:42
タイトルに惹かれて沢山書き込みし「いい歳して!」と笑われそうで恥ずかしいのですが...
東京に住んでますが、根っからの田舎者です。
205名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:46:32
なんかいい!!かわらないでほしいぞ
206名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:49:18
どうも有難うございます。
これからも書き込みしていいですか?

明日の仕事もありますので、もう寝ますね。
おやすみなさい...
207名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:50:35
楽しみにまってるぞ!!おやしみ〜〜
208名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 00:53:59
ガ、ガバッ

お、おやすみなさいまし〜(照笑
209名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 01:46:39
50円以下のお菓子しか買わなかった俺にとって、
グリコのアーモンドチョコはとてもまぶしかった。
210名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 01:48:57
リッチな・・・感じかい?
う〜ん、俺は昭和40年3月生まれ(昭和39年生まれと同学年)だけど、
物心ついた時には、一円以下は使ってなかった。
一番安かったのは、クッピーラムネ5円とか、バラ売りもしてくれた屋台のタコ焼き一個5円だったな。
マルカワのガムも5円だったかな。
マルカワの工場近くを通ると、すんご〜い甘いけど安っぽいガムの匂いがしてくる。
たまに嗅ぐにはいいが、毎日だと地獄だな。
212名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 06:05:20
昭和36年生まれ。通貨としては50銭玉は流通してなかったが、言葉には残ってた。
飴玉やねぶりくじ(紙を舐めるとアタリ/スカなどの文字が浮き出てくる)は50銭だった
記憶がある。
213名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 06:22:52
昭和34年生まれ。
小学校のときに家族の誰かがへそくってった聖徳太子の柄の100円札の束を
たんすの隅で発見。あれって換金してもやっぱり100円になっていたのか
今でも気になっている。
214名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 06:38:58
33年生まれ。
駄菓子やでは、50銭の単位は生きてた。ただ貨幣は流通していなかったが。
そういや、いまも相場の世界じゃ生きてるな。
50円硬貨は穴無しで立派だった。婆ちゃんは五十円銀貨と言ってたような・・・
百円札は今でもどこかにあるはずだ。探してみよう。
215名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 07:35:55
31年生まれ
年に一回 なぜかクリスマスに「テキ」食べました
むろん「豚テキ」  トンテキって読んでね
216名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 08:10:38
出勤中です。夜中の書き込みしてる方々って、元気ですね。
死んだバアチャンの座布団の中から「チョンマゲした小太り男」が印刷されたお札が出てきたことがありました。すでに流通してなかったのですが、使えなくなった時のバアチャンの嘆きが..可哀想。
217名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 12:02:27
30年生まれ
駄菓子屋がいっぱいありました。
少しボケかけた駄菓子屋のおじさんに
「おじさん、この5円のガムいくら?」と聞くと
おじさんは真剣に悩んでました。
218:名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 12:30:33
35年生まれ、
一日に10円か30円貰って近所の駄菓子屋へ
今でいうクレープみたいなお好み焼きを買って食ってた
クレープみたいに巻いてね、でも包む紙は新聞紙w
インクが付いてたな
219名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 12:33:01

38年生まれ。
駄菓子やでモンジャを食べた。油紙みたいなのに、
ちょこっと載せてもらって10円だった気がする・・・
220名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 13:11:18
駄菓子屋の中に、一台だけ鉄板焼き器があって、
友達と金出して、1枚お好み焼きを作って皆で食ったよ。
いくらだっけ?30〜50円だったような気がするな。
221名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 13:20:58
貧乏からだんだん外れていってるけどw
>>220
それ、何処の地方の話?名古屋もそれとおんなじだったから懐かしいわぁ。
お好み焼きを「おばさーんモンジャキ〜」と言って。
あの溶いた小麦粉を、鉄板にお玉でクルクル〜・キャベツをてんこ盛り・・
222名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 13:34:16
45年生まれの嫁に「ばっかみたーい」といわれますた・・・
スレチ メンゴ
223名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 13:39:53
>>174
亀だが・・・俺が小学生の時には「ジャージ」など無かったぞ!!
短パン、トレパン、体操着。紅白帽だろ!?しかもツギアテの・・・
224名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 13:42:27
徒競走で足袋履いた
225名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 14:03:34
ただのトレパンじゃなくてGトレというのが流行ったぞ。
226名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 14:12:48
女子はちょうちんブルマだった。
227名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 14:22:19
>>221
はい、名古屋での話です。
ただ、もんじゃやきなんて、なかったような気がするな。
おばちゃんが、東京出身だったんじゃね、もんじゃ、
東京にきて初めて見たよ。
228名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 14:38:50
貧しさゆえに・・・



お医者さんゴッコをしていた・・・


まだしている・・・ふぅ
229:名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 14:50:31
通学路が畦道みたいなもんだった。うっかり歩くと肥溜めに落ちた。
230名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 16:39:09
 なんか、このスレ見てたらいろいろ思い出しちゃったよ。((+_+))シミジミ
夕飯のおかずにイルカの煮物が出たときは驚いた。

(/ロ゜)/ フリッパー!!
231名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 17:05:48
30年生まれ
俺の子供の頃の思い出は
親父の会社の慰安旅行(確かに当時はそう言っていた)で行った
船橋ヘルスセンター、楽しかったなぁ。
それから、日野ルノー(うちは貧乏だったから親父が友達から借りたヤツ)で
行った東京湾の潮干狩り、多分稲毛あたりだと思うが、海の家がいっぱいあって
アサリやはまぐりがいくらでも取れた。
昭和35年ころの話です。
232名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 17:40:41
オリンピック前の羽田飛行場なんか、バラ線で区切られてただけだった。
大森海岸でシジミ採り、夕方にはコウモリも飛び回ってたぜ。
思い出すなぁ・・YS−11だっけ?
233名無しさん@お腹いっぱい :04/12/09 18:07:54
>>230
いまでも「くじら」と偽って「いるか」を出す処があります。
234スキナー:04/12/09 20:09:48
くみ取りやのおっさんのパシリになってお駄賃をもらった。
集金カバンから気前よく50円もくれた。
235名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 20:59:59
みんな都会で育ったんですね...
俺の育った九州の実家なんて一番近くのバス停まで歩いて2.5Kmもありました。お店もそこにしかありません。現在も同じで、週に一回木曜日に移動販売の魚屋が来ています。
「蟻」みたいだな、俺って...
236名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 22:07:21
不思議だよな、今から思うと金が無くても毎日楽しかった、
237名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 22:24:09
金はなくとも想像力はめいっぱいありましたもん
238名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 22:58:06
遊ぶ場所もいっぱいあったしな。
239名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 23:10:41
蟻は田舎の山に登っては遠くの山の、そのまた向こうに夢をはせていました。町に出るのは山鹿温泉の夏祭りを見に行くくらい。親父が車の免許をとる前は、オートバイの荷台にくくりつけたテボ(でかい竹カゴ)の中に入れられ、カゴの中から花火を見ました。
240名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 23:16:24
なんか、貧乏とはいえ贅沢な経験ですね
241名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 23:30:26
「贅沢は的」みたいな感覚で育てられました。白い米のご飯は正月くらいで、普段のご飯にはいつも麦や粟が混ぜてありました。そういえば春になるとご飯に親指くらいの竹を1Cm位に切ったのを入れてました。中に詰まったご飯粒が多いほど豊作になるという風習でした。
242名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/09 23:48:54
あっ、そうか。今気づきましたが、ご飯に竹を入れると食べ辛かった。竹の穴に詰まったご飯を箸でツツイテ出し食べてましたが、あれってもしかしたら、少ない米粒をゆっくり食べさせるための知恵だったのかも。
243名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 01:20:36
家族総出で稲刈りも、今思えば楽しかったな。
244名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 02:02:44
なんかNHKアーカイブスに出てくるような風景でいいな。
俺は、工業地帯の下層労働者居住地帯に生まれ育ったから、
憧れの風景だな。でも街の中は異常なほどの活気があったよ。
245名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 02:48:59
>>227  亀レス  名古屋のお好み焼き

確かに、とろとろのもんじゃ焼きは、当時知らなかった。
ところが 駄菓子屋さんで焼いてる、普通のお好み焼きを
もんじゃ焼きでなく 「もんじゃき」と
皆で呼んでいたと記憶しているんです。中村区でした。


246名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 03:07:13
寒い季節になってきたが、
朝、顔洗うのが冷たかろうとお袋がヤカンでお湯わかして洗面器に
入れてくれたなあ。
あの頃お袋は冷たい水で顔洗ってたよ。
「冷たいほうが気持ちいい」とか言ってな。

親孝行してえ!
>245
俺も中村区ですが、もんじゃきは知りません。
もんじゃ焼きは大人になってから知りました。
もんじゃきはそのお店限定か、その地域限定の呼び名かも知れませんね。
248名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 07:04:58
>>246さん「湯を使うとバアチャンみたいにシワだらけの顔になる」と親父に言われていつも冷たい水でした。油分が抜けるからそういわれたのか、それとも湯沸し代を節約するためか未だに分かりません。3歳頃は沸かした湯に浸したタオルでお袋が顔拭いてくれました。蟻。
249名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 08:59:15
ここの住人さんって、皆さん私生活でも、優しい方ばかりなんでしょうね〜。「若い内の苦労は、買ってまでしろ。」
って 今なら判るよな気がします。
250名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 11:52:19
昔は物が無かった。
テレビも一家に一台しかなかった。
また外食産業も発達して無かった。
だから家族が集まる時間が多かった。
今は家族が集まらなくても不便でもなく、個々の娯楽もある。
でもやっぱり昔の貧しかった頃が楽しかったし心が豊かだった。
251名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 12:05:20
家族で外食などした事がなく、高校生の時初めて近所にできたすかいらーくへ。
親父がウエートレスをネエチャンネエチャンと呼んだもんだから
姉貴が真っ赤な顔して「恥かしい!」と怒り出し
親父はネエチャンはネエチャンだろと、またネエチャンと呼んだもんだから
姉貴は泣き出してしまい、悲惨なお食事になりました。
252名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 12:12:28
>>251
ホームドラマを見ているようです。
253名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 13:06:45
>>252
まったく寺内貫太郎一家のオヤジみたいだw
254:名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 13:07:53
叔母さんに喫茶店に連れて行ってもらったとき、
あんまりうれしくてクリームソーダを2杯飲んだ。
その直後逆噴射してしまった。
255名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 14:21:44
>>254
ワロタ
けど、気持ちはわかるわかる〜
体に悪そうな、緑色のソーダ、
今から考えればアイスクリームじゃなくてアイスミルク、
それに真っ赤なさくらんぼ。
ショーケースの中の蝋細工の見本みて
あこがれてましたよ〜
256名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 14:34:09
>247 えぇ〜中村区なんですか。
今は他の土地にいるので、名古屋地名は懐かしくてw

そうですね。他の方が知らないのであれば
「もんじゃき」は地区限定呼称だったのかもしれませんね。
その頃の、みたらしだんごとか、自転車で売りに来たわらび餅とか
やけに懐かしくて、自分で作ってみるのですが
記憶の味ではありませんw
257名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 15:20:10
>247 オイラも中村区だけど お好みって呼んでたなあ
夏のカキ氷(せんじ一本) 冬の大判焼 なつかしいなあ

中O公園の近くに住んでました 
258名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 16:17:25
>257「村」 かな 私は烏・・だったから判るような気がw
大判焼き たいこ焼きと言わなかったですか?
あと あん巻きを天ぷらのように衣をつけて揚げたのも売っていました
夏は近くの公園に皆が集まり 紙芝居のおじさんも来たし
鋳型に粘土を詰めて作った型に 粉の色をつける遊びがあった
あれはなんだったんだろ ぼんやりとしか覚えてないけど
メンコやら ビー玉遊びやら・・ みんなが地面の上で遊んでいた
259名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 16:42:29
俺は35年生まれだけど初めて外食でハンバーグなるものを食ったのは
中学だったと思う。
拾った空き瓶を店で10円に換えてもらったり
ザリガニやカブトムシやクワガタ捕まえてペットやに売ったり
は当たり前だったし、小学校5年生くらいから近所の一条直哉の実家みたいな
魚屋でお手伝いしてこずかい貰ったり
中学からは、新聞配達やってた。

別に貧乏だとは思わなかったが、今の子供にはできないだろうな・・・・

俺も35年。
特に貧乏ってことはなかったと思うが、今ほどモノがあふれ返ってはいなかった。

月に一度墓参りに京都へ出る。帰りに、駅前のデパートでお子さまランチかなにか
食べたっけ。
地下の食品売場で買って帰る鶏のモモのローストはご馳走だった。
ローストという料理が田舎にはなかったように思う。京都まで30分とかからない町
なんだが。

デパートの地下に、キャンディーやらなんやらが山盛りになって回っている
お菓子売場があった。いちど、いっぱい買ってみたかったな。

あれ、復刻したらノスタルジーで流行らないかな。
261名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 17:07:10
おれの前の彼女  アイルランド系アメリカ人58年生まれなんだけど
お小遣いもらったことないって言ってた。線路沿いに空き瓶をひろって
それを換金して欲しい物を買ってた。で 時々お父さんも手伝ってくれたって
白人はみんな金持ちってイメージがあったけど違ってたな
262名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 22:08:40
俺は人里離れていた小さな村だったので、今考えると貧乏でしたが周りが皆貧しかったから、それがあたり前と思って貧しさを感じることもありませんでした。都会で育ったら、物も溢れてるし金持ちも多いでしょうから、より貧しさを感じやすくなるのでしょうね。
263名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 22:36:11
デパートの大食堂が最高の贅沢だった
264名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 22:52:07
桃の缶詰を兄弟四人で分けて食べた。
今、100円で売ってるねえ・・・。
265名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 22:53:48
ファンタやコーラの空き瓶が1本10円だったので、集めて酒屋に売りに行って小遣いにしたなあ…
266名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:01:20
蟻です。幼い頃、耕運機に乗って父母の農作業について行き、帰りに大雨となり道端の芋蔵(サツマイモを保存する穴、九州ではカライモと言う)に避難。親子3人で、長時間やまない雨を避けながら、恨めしそうに暗い空を見上げてた。思い出すたび、寂しくて、そして悲しくなる...
267名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:09:52
うわぁ〜桃の缶詰か
久しく食べてないな。
食後に出てきた時は、そりゃ〜バンザイしたもんさ。
268名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:11:04
シロップをごくごく飲んだ
269名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:26:14
今やったらムネヤケしそう。
270鬼畜タンハアハア:04/12/10 23:34:16
桃のかんずめ いくらでも食わせてやる、といって
美少年誘拐して
肛門にやけ火箸さして蛙みたいな格好させて遊びたいな。
271名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:42:14
基地外
272名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/10 23:45:00
昔の家は、ひのきの桶風呂だった。
273名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 00:09:46
肝油が買えなくて、悲しい思いをした、小学時代。。
274名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 00:38:02
蟻です。>>273さん、同じ思いしました。冬休み前に先生が購入予約を取るんですよね。6年間で、買って貰ったのは2回だけ。あの甘味の美味しさの誘惑に負けて、1日に決められた以上の個数を食べてしまいました。直ぐになくなって、悲しかった...
275名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 01:32:45
蟻さん、、初めまして。蟻さんのレス見て、思わず「うん、うん。」って
頷いてしまいました。
あの美味しさは、私にとって悲しい味です。
276名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 05:24:10
子供の頃おもちゃのサイボーグジャガーが欲しかった。
でも買ってもらえなかった。
そのことを思い出して少し切ない気持ちになった。
43になっても子供の頃の感情が突然蘇ることがあるから困ったもんだ。
277名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 05:27:46
漏れは何も欲しがらない子だった
家が貧乏なの知ってたから。
278名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 07:18:51
我慢ばかりしてた。
>>276
俺も43だけど
子供の頃GIジョーが欲しかったな
二十歳位の頃に「コンバット ジョー」って
いう復刻版の様な人形が発売されたので
全種類大人買いした・・・
280名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 08:17:34
小学生の頃、不二家でチョコレートパフェなんぞを
食べてる家族がとても、とても羨ましかったです。

今でも不二家の前を通ると胸キュンになる自分が可笑しい。
281名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 09:42:13
チョコパフェなんて、高校生の時まで知らなかったよ〜。
うちの父ちゃん仕事あんまししなかったから貧乏だった。
でも、かーちゃん働いていたし、家賃安いおんぼろ貸家に住んでたから、何とか生活できてた。
銭湯は結構遠くて、冬なんて、髪の毛が凍った。
中学の時、グリーンスタンプみたいなやつで、デパートで可愛いセーター買って(?)貰った。
確か3600円相当だったと思う。でも、洗濯して縮んじゃってすごい悲しかった。
うちのかーちゃんちょこちょこお金貯めてたし、給料日には、鮨とかも食べさせて貰えた。
贅沢しなきゃ何とかなるんだよね。でも今、あの頃の生活にはとても戻れないと思う。
283五日前のカレー:04/12/11 10:21:53
子供の頃以下の暮らしぶりじゃ。わはは、はは。
284:名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 10:47:29
>>282
グリーンスタンプ!!なつかしい!なんか家も貯めてた気がする
俺んちも風呂がなくてね、親父の会社の風呂を借りに行ってた
冬は歩いて帰るもんだから、冷えてね〜でも月がきれいだったな
マークといえばベルマークを学校で集めていたね。
マークのついてるものをそんなに買ってなかったから持っていった記憶がない。
金持ちの子はいっぱい持ってきてたね。
なんでそんなに一杯あるのか不思議だった。
貧乏を自覚していなかった小学校低学年の頃。
286名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 12:59:16
>>275さん、こんにちわ。蟻です。ところで皆さんはバナナってどうでした?うちはバアチャンが病気になった時に親戚が持ってきた時しか口に入りませんでした。バナナ腹いっぱい食べたいといつも思ってて、バアチャンが病気にならないかなと思ったこともある悪い子でした...
287名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 13:31:30
こんにちは♪蟻さん。
バナナって、専門店のような問屋みたいなような…大きな店がありました。我が家の祖母は、バナナ大好き婆だったので、バナナはよく食べましたよ。ツイギィーやトッポジージョの人形が欲しくて、玩具屋のウィンドーを眺めてました。
288名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 14:19:34
蟻さんはガッツですか
289名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 14:20:29
ガッツ、ジャングル似合いすぎ@NTV
290名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 15:21:38
オイラはバナナよりも 初めてコカコーラ飲んだ時だな
あのショックは忘れられん
絶対 今より炭酸きつかったと思うのだが。
291名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 16:43:19
コアップガラナのショックがでかかったぞ
もお無いよな〜
292名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 17:07:17
ビートたけしの貧乏話は?だ
子供を何人も大学へやって
かなり早い時期にテレビを買ってる
さきさんが寝る間も惜しんでいくつも掛け持ちして
苦労して働いた結果だろうけど
菊次郎も人並み以上は稼いだらしい
293名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 17:21:18
蟻です
小学生の時にスズメ蜂にさされ、病院に連れていってくれた親父が「好きなだけ食べろ」と食堂の店先に並んだバナナを房ごと買ってくれました。なんか胸がイッパイになり、一本食べるのがやっとで、残りは家に持って帰って兄姉の腹の中におさまりました。
294名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 17:57:00
蟻さん、
やさしいお父さんだね。読んでて胸がイッパイになったよ。
295名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 18:50:07
蟻です
父は81歳になりますが未だに趣味は畑仕事で、「放っておくといつの間にか畑や山仕事に行ってしまう。年寄りだからもっと楽にしたらいいのに。」と愚痴をこぼしてます。実家は今も貧乏です。でも、自然と共に生きる父を羨ましいと思うとともに尊敬しています。
296名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 18:53:32

変な文章になってました。愚痴をこぼしているのは、私が小学生の時に、カマでエンビツを削ってくれた母です。
297名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 21:18:52
だよな〜
鉛筆を、カッターで削って使ってた。
流石に鎌では削らんかったがw
ロケット鉛筆欲しくて、欲しくてよくねだってた。
298名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 21:21:58
カッター持ってる奴が羨ましかったぞ。おれは小刀。
299名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 21:24:20
うちは、昔とある市議会議員の家を借りて住んでいました。
そうです・・・「五右衛門風呂」で10年間暮らしていました。
台所は土間でした。真実です。
300名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 22:27:21
小学校の家庭科調理実習で、各自お米を一号もってきた。
私の持ってきたお米の色だけ明らかに灰色がかっていて、
その時はじめて「うちは貧乏なんだ。」って意識した。
301名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 22:33:28
先日、41歳にして初めて河豚を食べた。それも回転寿司で・・
10歳と4歳の娘は美味しくないと言ってた。
302名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 22:37:22
それはカワハギかもしれない。
303名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 22:41:21
カワハギの肝は絶品だぞ!
304名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 22:48:40
俺も親戚の家で「河豚ちり」だよ、と言われて出された鍋は「カワハギ」だった。
これは、「カワハギ」だぁ!と突っ込みたかったが、こらえた。くそうッ!
305名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/11 23:52:55
>>299さん、うちもゴエモン風呂でした。板が浮いてましたよね。>>300さん、小学生のいる家庭から週一で野菜を集め学校に届けてました。給食費安くするためだったようです。>>301さん、俺、フグって歯応えだけの魚だと思います。旨いフグ食ってないからかな?
306名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 00:10:14
305さん。
河豚そのものに味は無いと思います。
やはり歯ごたえですよね〜。
皮や白子は、美味しいと思いますが…。
タレが美味しいと、河豚も美味しく感じられると思いますよ。
18歳で初めてピザを食べた時、あまりの美味しさにヒックリ返りました。
307名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 00:22:41
>>306さん、>>305です。正直言って河豚は生まれて5回くらいしか食べたことがありません。やはりタレですか。河豚雑炊は好きなんですが。下関で地元の有名店に行きましたが、貧乏に育った俺は、河豚という名前だけでお腹がいっぱいになりました。
あっ、蟻でした。
308名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 00:33:34
バナナの蟻さんでしたか〜♪(ニコニコ)
私は肝油です。
蟻さんって女性かと思っていました。
いつも、レスThanksです。
309名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 00:44:48
何か季節時の食い物のはなしが多いなw
食い物と言えば、小学校4年だか5年の頃、グレープフルーツを金持ち
の友人の家ではじめて食べた。
二つ切りにして、ブランデーと砂糖とがかかっていて、スプーンと果物
ナイフが添えてあるんだが、最初どうやって食べてよいのか分からなく
て、友人のするのを見よう見まねで食べた。
しばらくして母親から、銀座辺の高級果物屋(千疋屋)でしか売ってな
いとかで、相当に高価な果物だということを聞いたよ。
310名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 01:21:22
五右衛門風呂に土間はこの世代なら当然だ
311名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 01:37:44
土間に風呂桶置いてたな、五右衛門じゃないけど
312名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 01:39:03
ラジコン持ってた金持ちのガキ、いじめて
ラジコンバラバラ・・・ギャハハハハハ
313名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 01:40:14
>>312
コラ〜〜〜ッ!気持ちはわからなくも無いが・・
314名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 01:55:20
おれはブルジョワだったから
マブチの水中モーター持ってたぞ
モーターだけだが
315名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 02:49:29
肝油さん、どうもです。
そう言えば鶏すき焼きの我が家では「卵」も貴重でした。チャボを実家で飼ってたんですが、これがまったく卵を産まない。たまに産んでもモミガラの中に大事に入れられてしまいました。運動会の朝だけ生卵に醤油垂らして飲ませてもらったっけ。
316名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 10:07:23
おれのうちは公営住宅で風呂なしだったけどみんな自分でかってに
五右衛門風呂を建てた。なかにはプレハブで子供部屋建てた人もいた。
もちろん無許可というか問題にもならなかった。 あ 34年生まれです。
317名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 11:01:00
村には小さな川が流れており夏前には平家ボタルが乱舞してました。ススキを束ねた物で取りに行きました。多い年には庭でも舞ってました。数は少なくなりましたが今でもホタルが舞うそうです。妻に見せたいと思う蟻ですが、その時期休みをとるのは、なかなかできません。
蟻さん。

おいらのオヤジの郷里は四万十川の源流域、すんごい山奥だ。
夏休みになると帰省して、川で遊んで、魚とって焼いて喰った。

婆ちゃんがヤギを飼っていて、砂糖たっぷりのヤギ乳を毎朝飲んだ。
肉屋なんてないから、つぶしたニワトリでスキヤキをした。

貧しかったわけではないように思う。同じ年頃の従兄弟たちがいたから、婆ちゃんは
ヤギを飼ってたと思う。毎日牛乳配達なんて来ない田舎だもん。
婆ちゃんはニワトリも飼ってたから、卵もあったし鶏のスキヤキもできた。
地鶏のスキヤキなんて、今や高級食材だよ。

子供心にもあの田舎はおいらにとってかけがいのない宝のような土地だった。
今でもそう思う。不便だけどね。
319名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 18:20:20
平家ボタルと源氏ボタルってどう違うの??
320299:04/12/12 18:36:11
>>305,310,311さん、
そうですか・・・皆さん五右衛門風呂だったんだぁ!私だけじゃなくてよかった。
薪はどうされていましたか?
我が家では、古新聞・古雑誌・ぼろ切れ・割り箸などを焚き付けにして、
薪は買っていたように思います。
何年かして、「オガライト」っていう6角形のドーナツ状のおが屑を固めた燃料を
買っていました。
火鉢は部屋に一個ありました。炭も買っていました。
火鉢で焼いたお餅ってホントに美味しいね!
炬燵+みかん+安倍川餅・・・日本の冬って最高!

318さんは四国の方でしょうか?素晴らしい故郷をお餅ですね。
321318:04/12/12 18:51:07
俺自身は近畿で生まれ育った。
田舎へ帰るのは、電車と連絡船、四国でのディーゼル車を乗り継いで
一日掛かりだった。それだけに、向こうの山河、かまどでの料理、薪で焚く
五右衛門風呂。

何もかもが別天地の生活だった。
沢庵や味噌も婆ちゃんの手作りでうまかったなぁ。

>>319

ゲンジボタルはヘイケボタルに比べて大型。梅雨の頃に一斉に大発生するから見事。
清流に棲むといわれるけれど、人が生活する里山の水路にいる生き物だよ。
条件さえ整えば、町や公園でもたくさん棲息できる生き物だ。
水路があって、田んぼがある環境、つまり、日本なら昔はどこでもたくさんいたもの。

こいつらがいなくなってしまった今の環境こそがどこか間違ってるんだよ。
322名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 18:56:28
>>320
風呂が家にあっただけでもスゴイ。
中学まで俺は2日おきくらいに銭湯に行ってた。
高校生の時に五右衛門風呂のある家を借りて住んだ。
おそろしく汚い長屋だったけど、風呂があって四畳半の個室を与えられて
最高の気分になった。
323名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 19:02:30
貧乏人ってほんと最低だね!
324318:04/12/12 19:03:38
分割して320にもひとつ(笑)。

うちも俺が小さい頃は五右衛門風呂だった。
石炭やなんか燃やしていたよ。オガライトも覚えている。
ああいう風に昔は森林資源を無駄なく使ってたわけだ。近頃、やっと見直され始めた。

俺の住んでいる県で、カタクリの咲く林が再生されているところがある。せいぜいこの
数年なんだが、観光客が増えている。

で、この林、主にコナラの林で、ヒコバエから見るに30年くらい放置されていた
里山林。三十年くらい間に最後に伐られて、放置されていたのね。荒れたままに
なっていたのを、蔓草などを切ったら林床のカタクリが見事に復活した。

その頃、薪としての里山の需要がなくなったので、放置されていたというわけ。
まだ、今からなら取り戻せるという気がするんだ。

ほんとうに貧しかったんだろうか。贅沢ではなかったが、豊かだったものもたくさん
あるんじゃないだろうか



325318:04/12/12 19:05:41

>三十年くらい間に
三十年くらい前に

の間違い。校正したつもりだったが。
326名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 20:11:10
現金を持つことがあまりなかったし、
今ほど物はないわけだが、
なんだか幸せといえば昔のほうが幸せだったように思うねえ。
327名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 21:52:29
>>318さん、四万十川は私の憧れの河です。映画で四万十川の清流や濁流を見て一度行ってみたい場所です。今でもウナギが捕れるんでしょうか? ヤギの乳、近所のヤギを飼っているジイチャンからビール瓶につめたの貰って飲んだことあります。旨かったな。蟻でした。
328名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 22:05:13
>>320さん、蟻ですが、うちのゴエモン風呂は山から切ってきたクヌギやカシや杉で沸かしてました。裏山の杉の葉から火をつけて。灰の中に栗や里芋やギンナンを入れて焼いて食べたりしてました。特別に卵を貰った時なんか殻に小さな穴を空けて焼き卵なんかも作りました。
329名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 22:16:11
そう言えば風呂の灰の中で学校帰りに掘ってきた百合根も焼いて食べました。あと、針金に通したムカゴなんかも焼いて食べると香ばしくて旨かったです。蟻の実家では未だに2年に一度、山から伐ってきた木で炭を焼き、堀ゴタツの燃料にしています。
330名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/12 22:55:24
子供の頃、うちの母親が作ってくれる唯一のデザートは粉末ジュースの寒天だったような気がする。
作り始めると楽しみで、出来上がるのをわくわくして待ってた。
二十歳頃になった時、友達の家に粉末ジュースがまだあって、飲ませてもらったら超まずかった。
子供の頃はこんなまずいの喜んで飲んでたんだなあと、思った。
そういえば、駄菓子屋で売ってる安いチョコレートもまずかった。
ニチャニチャして変な味だった。
本物の板チョコはおいしかったけどね。
331299:04/12/12 23:30:25
>321,322,蟻さん、
わ〜い!何だか「五右衛門風呂スレ」になったみたいですね。
こんな貴重な体験をいくら今の都会の子供に話してもなかなかわかってもらえなくてね。

そうだ!また思い出しました。
私の亡き祖母(明治34年生まれ)の実家って、便所と五右衛門風呂が母屋とは別にあったっけ。
夏につるべの井戸で水をくみそれで煮炊きしてました。
隣の田んぼと用水路をかねた小川から祖母の実家の表庭の池に水を引いて鯉やら鮒やら
泳がせてて、祝い事の時にはその鮒が食卓にのぼった。

弁当に卵焼きを入れている友達がうらやましかった・・・うちは、魚肉ソーセージとちくわが
おかずだった。

パイナップルとかキーウィ、アボガド、ブロッコリー、ミニトマトの存在を知らなかった。

お正月前には杵と臼で餅つきしたり、部屋と部屋の間のふすまを開け放って大部屋にして
正月に親戚一同で宴会してたりしたなぁ。
お正月は小さいときみんな一張羅の着物を着て迎えてたね。
今よりももっと季節にメリハリつけて、それぞれの季節の行事(お月見とか)をやっていた。



332318:04/12/12 23:37:07
蟻さん。

ウナギとれますよ。ほんの少しなら。

昔はもっと獲れたみたいで、独特の漁法もあるのです。でも今はあまり獲れません。
四万十川でも、ウナギが沢山獲れるのは下流域に限られます。うちの辺りまで
登ってこないんです(笑)。

五右衛門風呂と言えば、俺はボタ拾いを思い出す。
親戚が旧産炭地にあって、夏休みに遊びにいくとボタ山(石炭を掘ったカスが数10m
の高さの小山になっている)にいって、ボタの中から燃えそうなつまり石炭含有量の多
そうなのを拾ってきて燃料にする。俺が拾った奴は使い物にならなくて怒られたなあ。
334318:04/12/12 23:49:47
やったことないからそれ自体は輪からないが。

でも俺たちの子供世代になると、石炭自体見たことない奴らがほとんどなんだろうなぁ。
都会はともかく、全国的に昭和45年あたりまで蒸気機関車は走ってたよ。
あ、いや鉄っちゃんじゃないんだけど、SLは石炭で走る。
336335:04/12/13 00:01:12
すまん。よく読んでなかった。子供の話だったか。
337名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 00:27:49
名古屋でも中央本線・関西本線は蒸気機関車走ってた。
338名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 00:55:22
五右衛門風呂のあったうちのものですけど、小学校は石炭ストーブ使ってて
「ストーブ当番」があったよ。
普通に蒸気機関車が走ってた。
339名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 00:58:06
ストーブも小中高と学年が上がるにつれて、
石炭、薪、石油と変わっていった。
石炭ストーブの当番って、大変だったんよ・・・
340名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 01:01:56
朝鮮人皆殺し
341名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 01:04:02
子供の頃、蒸気機関車に乗ったのを覚えてる。
「雪国」で有名な、清水トンネルを通ったとき、母親が窓を閉めろと言いました。
えっ、何で?と思ったら、トンネルに入ると煤が入ってくるから、閉めないと真っ黒になるって…。
冬に新潟行った時も、今とは違って山のように雪が積もってて真っ白だったし。
今は、新潟の道路は水が出てて水浸しだなあ。便利になったけど、あの風景はもう二度と見られない。

あっ…、学校のストーブも石炭でした。

342名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 07:10:20
>>330さん、粉末ジュース、懐かしい。私は水に溶かずに直接舐めて舌を真っ赤にしてました。滅多に手に入りませんでしたが。
蟻でした。
343名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 07:23:35
蟻は、チョコ手に入りませんでした。テレビで沢山のパラソルチョコが木にぶら下がってるCMがあり、本気で山に行きその木を探そうとして、8歳年の離れた兄に木の在る場所を聞いたら「あの木は日本に無い。アメリカの山奥にしか無い木だ。」と諭されました。兄ちゃん..
344名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 07:45:26
>>331さん、蟻の幼少期と同じお正月の過ごしかたですね。昔は子供の数も多く大人はお年玉も大変だったと思います。蟻の頃のお年玉は百円札一枚が相場でした。因みに実家の母は「百姓のあげるお年玉は、これでヨカと」といって今でも千円札を一人一枚ずつ用意してます。
345名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 08:06:22
それと>>331さん、蟻が一番嬉しかったお弁当のオカズは、油揚げを醤油と砂糖で煮付けたものでした。魚肉ソーセージなんか滅多に入ってませんでした。たまに入ってる玉子焼きは、それだけでご飯食べれるようにお塩を沢山入れて味付けしてありました。
346名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 08:09:54
>>332さん、ウナギ食べたの、幼少期に一回だけでした。川で山太郎蟹は捕れましたが。
347名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 08:21:43
夕方になると風呂を沸かすのは俺とネータンの仕事だった。
釜に薪をくべて沸かすのだが、二人でよく駄菓子屋で一番安いせんべいを
買って来ては火箸でアブって食べた。ささやかな役得だった。
何の変哲もないせんべいも、あぶると香ばしい香りが格別だった。
ネータンはいつも炙ったのを最初の俺にくれたんだよ。
348331:04/12/13 08:30:45
おはようございます。
師走の月曜日の朝だっちゅうのに、こんなにレスが・・・皆さんお忙しいでしょうに
どうもありがとう!!とっても嬉しいです。

蟻さんは九州の方かな?お母様が「・・・これでヨカ」とおっしゃっているので。
九州の女性達はたくましい方が多いですよね。
そうそう、油揚げの甘辛煮!美味しいですよね。これはうどんやそばに入れるので
うちでは4日に1度は作っています・・・昼ご飯はうどんかそばです。
塩辛い卵焼き!?そうです。出汁で卵をのばして葱とかゆでたほうれん草とかひじき
を入れたのはもうおおごちそうでした。

病人には近所から卵を買ってきたり、牛乳に砂糖を入れて飲ませていました。

夏場の飲み物は井戸水か麦茶+砂糖、粉末ジュースの色がちょっと苦手な私は
麦茶+砂糖が大好きで1日に6杯のんでました・・・出がらしの麦茶でもおいしかった。

夏休みのラジオ体操はハンコを集めてその数によって、子供会からの賞品が出てたけど
いつも漢字練習帳を頂きました。
そう。皆勤賞です。夏休みに旅行に行く友達がうらやましかったな・・・両親の実家も
同県内だったから盆と正月はそこに行くだけ。

デパートのエスカレーターに初めて乗ったのは小1の頃。うまく乗れなくて母に怒られました。
デパートの食堂で隣の親子連れがお子様ランチ食べているのを横目で見つつ、私と母は
ホットケーキ+ジュース、母がわらって水を飲んでいましたっけ。
家族でデパートで買い物したことがないのです・・・父はデパートが嫌いだったので。とほほ。
349名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 10:11:06
中学の時、お弁当を包むのは、クラスの生徒はかわいい大判のハンカチだったが、
私のはなぜか新聞。お弁当を新聞紙でつつんで保温していました・・・と言えば聞こえが良いけど
なんだか寂しかった。
でも、犬を飼っていました。そうです、いつのまにか我が家になついてきて
飼うことになった雑種の♀です。
あの頃犬を家の中で飼うことなんて、信じられませんでした。
放し飼いはできないので、犬小屋は近くの材木屋さんから廃材を少し分けて
頂いたりして父と建ててやりました。
可愛がっていましたよ〜!
350名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 10:47:51
夜店のひよこは、どれもこれも成鳥することなく死んでいった。
351名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 14:29:02
ハンカチ、ちり紙の検査の時、
落し紙を畳んで持っていってた。
サリーちゃんのポケットティッシュを持つのが夢だった。
352名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 16:27:22
あと、すかしが入ってたり、いい匂いのしたりするティッシュねー。
353名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 17:08:14
蟻です。今、やっとお昼ご飯です。
貧乏暇無しです..(涙

これからまた仕事に戻ります。
354名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 17:28:16
>352
なっつかしぃ!すかし入りや香りのティッシュ!!あこがれでしたね。
たま〜に手にはいると宝物。
香りのついた紙石けんも集めてたっけ。

蟻さん、もうお仕事なのかな・・・お疲れ様!
355名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 19:57:17
貧しかった少年時代
さらに貧しい中年時代。
356名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:04:11
今40代で、ガキのときは貧しかった・・・といってたら
もっと年配のしとに怒られるぞ!
貧しかったとゆーよりも、
今のよーにモノが氾濫してなかったとゆーことだろ
まぁ 昔を懐かしむ・・・という気持ち。解らんでもないが・・・
少なくともサラリーマン家庭の場合、
今と違って給料年々右肩上がり、それなりの生活してたんちゃう?
357名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:11:23
子供時代の一時期、ご飯はいつも「おじや」。
オヤツなんてものは年に一回お盆に「おはぎ」が一個。
358名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:12:30
かなり自分ではがんばってるつもりで自分の子供の頃の様な
不自由はさせないぞと思ってる。

が、自分の子供の頃の方が息子たちの今より幸せだった
様な気がする。エビの天ぷらなんか食いたくねぇーって
息子が言うのを見てて、俺10歳までにエビの天ぷら何匹
食ったかなって数えてみたくなった。(多分10匹以内)
もちろん、死ぬほどうまかったがなぁ・・
なんだと!
360名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:17:36
食い物の配分とTVのチャンネルで兄弟喧嘩が絶えなかったな。
361名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:19:54
チャンネルなんか取れちまって
親指とひとさし指で軸をガリガリ回してた。
362名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/13 22:32:34
蟻です。百姓している我が家、日曜日は終日家の手伝いでした。朝に牛の餌をやり、土間を掃き、家中の雑巾がけ、洗濯、昼には牛に水をやり、三時に農作業中の父母に飲み物を届け、バアチャンが夕食作る手伝いしてから牛の餌やりでした。会社員の子供に心底、憧れました..
363名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 01:45:30
テレビは三本足だったな…。
うちのテレビがカラーになったのは小学校4、5年頃?…。

子供の頃、お使いに行かされてた時、いつだったか忘れたけど、コロッケが五円。豆腐が二十円位だったような気がする。
給食の脱脂粉乳は嫌いだった。小学二年頃で牛乳になったけど、牛乳もあまり飲めなかった。
でも給食はいつも楽しみだった。うちの母親が田舎料理しか作らなかったせいかも。
基本的な味覚に、給食の影響は大きいかもしれない。
粉末ジュースを最期に飲んだのはいつだろう?
あれは2種類有った、水に溶かして飲むタイプと、粉のままなめるタイプ。
粉のままのタイプを水に溶かしてみたらまずかった。
あの頃の駄菓子屋のチョコレートは、(準)チョコレートでそれもかなり粗悪だった。
不味いし臭いし、噛んでもパキッと割れずグニャァと曲ったりした。
チューブやパイプ型のソフトチョコも本当に不味かった。
今はチョコエッグで有名なフルタや、今でもジューCを売り続けるカバヤも、
当時は不味い菓子ばかり作ってた。
久し振りに食べた時、やっとまともになったかと感慨深かった。

昭和40年代前半の頃の物心付いた時、金持ちではないが白黒テレビが2台有った。
一台は立方体に長い足の最も古いタイプ、もう一台はナショナルの家具調テレビ。
長い足のはしょっちゅう素直同期がずれて、いつも調整ダイヤルを回しながら見ていた。
このテレビが古くて調子が悪いので、家具調テレビを買い増したのだろう。
後にカラーテレビを買った時に捨てれられたと思われる。
家具調のはとても調子が良く故障知らずだった。
これには後からUHFチューナーを取り付けたが、今でも電気屋さんの取り付け作業を憶えている。
長い間物置きに保管して有ったが、10年くらい前の粗大ゴミ有料化直前に捨てられてしまった。
おそらく電源を入れればまだ映っただろう。
その時からずっと、テレビが複数台ある生活が続いている。
365名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 15:01:20
小学生に行く一番の楽しみは給食でした。学校側が家庭の夕食とメニューが重ならないようにという配慮で出した給食メニュー表、いつも帰宅前に破り捨ててました。

自宅では食べれない美味しいものを自分だけが食べているという罪の意識がありました..
(蟻жж)
366名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 16:36:25
>蟻様
あなたのレスから察する所
「いきなりだご」が好物のような感じがします
近所に親戚があり時々遊びに行ってましたww
地鶏のすき焼きにはナバは入ってましたか?ww
367349:04/12/14 18:23:26
新聞紙に包まれたお弁当をちょっと恥ずかしいとは思ってたけど、そんな母のおかげで
新聞をよく読む習慣がついたし、その新聞の利用法が今の生活にいきています。

でも、手が真っ黒になるのにはまいったな。
どんなに貧しくても、本を読んで物事を考えたりすることは一生の宝だと教えてくれた。

「本を読むんだったら図書館で読む→視野が拡がる→考え方が前向きになる。」
こういう上昇志向はあるんだけど、未だに車、持ってない。


368名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 18:48:18
>>366
ナバ?・・・・・ヽ(´∇`)ノ

     ∧_∧
    ("・ω・゛)
    /,   つ
  ( ((_(_, )) ) ご近所さんハーケーン
     しし
369318:04/12/14 18:50:21
ナバ(笑)。

学生の頃信州にいた。やたら寒い土地だ。
地元の人は目の色変えてキノコ採りに行く。
370名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 19:50:09
>>369 九州でもナバといいます。さらにいきなりだごは薩摩と思われ
371名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 20:34:34
>>366さん、ナバって椎茸のことですよね。確かに入ってました。
>>399さん、薩摩でなく肥後ですが、「いきなりだご」って言います。「いきなりだご」は嫌いです。カライモはイヤッていうほど食べさせられましたから。

(蟻жж)
372名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 20:37:34
こういうのって昔の30代以上の板にあったな。
ぼくちゃんの幼少の頃、お爺様が会社の社長さんをやっていた。
初孫のぼくちゃんは、お爺様からの寵愛を一身に受け
着る物は全て英国製やおフランス製だった。お母様の買って来る国産の服は、襟の所がチクチクするから着なかった。
腕時計も小学校一年のお祝いにオメガを買って貰った。

お爺様がぼくちゃんが小学校三年の時亡くなり、急に貧乏になった。
自慢の腕時計も友達と遊んでいる時、年上の図体のでかい八百屋の家の子に
「お前!時計なんかして生意気すぎ!」と破壊された・・・。


そんなぼくちゃんは、今でもブランドのこだわりは持ち続け
スーツは「AOYAMA」
部屋着&アンダーウェアーは「UNIQLO」
と決めている。
374名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 22:24:33
ここに来ている貧乏少年少女の今の仕事と年収が知りたい。
語れるか?
嘘はいけないぞよ。
375名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/14 23:44:46
なんか変なことになってますね。
外資系企業勤務。昨年はストックオプションを含め、¥2028万でした。これでよろしいでしょうか?
(蟻жж)
376名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 01:50:02
欲しかった宇宙ゴマ
377名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 04:04:51
>>376
そうそう、無茶欲しかったが、500円?くらいしてかえなかった。
378名無しさん@お腹いっぱい:04/12/15 04:55:12
銭湯、デパートなどに置かれていた噴水型のジュース(オレンジ)の
自販機。本当にたま〜にしか飲めず、顔を近づけては「これが好きな
だけ飲めたら…」といつも思っていた。いくらだったろう?一杯10
円くらいかな。
今では体重が増える一方で、甘いものは一切飲めなくなってしまった
が…。
379名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 06:09:43
10えんだったよ。
初期のは紙コップを自分でセットするものだった。
そんなことを知らない僕は、お金を入れてボタンを押した。
ジュースは見事にそのまま排水口に飲まれてしまった。
半泣きになった僕。かあちゃんに、おもいっきり頭を
はたかれた。
夏の日のデパートの屋上での思ひ出。
380名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 08:02:17
小学生の時、お袋と隣の幼なじみ親子と生まれて初めて熊本市に出た。そして生まれて初めての外食は「素うどん」。味は覚えてないが、緊張したのか店を出てから全部吐いてしまった...
帰りのバスでも吐いた。すぐに車に酔う子でした...(蟻жж)
>>380
コテハン使うなら、名前欄に書いたらどうですか?
このスレずーと読んで、貧乏だった子供時代をしみじみ思い出した。・゜・(つД`)・゜・
>>381
外資系の企業にいるから、最後に署名する習慣がぬけないんだよ
(ロバート・J・佐々木)
外資系だのマスコミ関係だの一人語りをよく見かける今日この頃。
385名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 19:41:38
大人になっても貧乏人のヤッカミ半分のカキコが増えたな。
386名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 19:43:16
子供の頃の話だけしてればいいのにね
387名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/15 20:56:40
チャオって飴が好きで、
舌を切りながらもしゃぶってた。
チャオはほんのり鉄の味。
388(蟻жж):04/12/15 21:13:36
毎日ここを見るのが楽しみです。過去を否定して頑張ってきたものの、自分の根がどこにあるのかを改めて振り返ることが出来た日々でした。楽しかった。でも、変な人も出てきましたので私は離れます。さようなら、皆さん。有難うございました。また、どこかでお逢いしましょう。
389名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 02:11:48
蟻жжよ、おまいはガキか、
2chごときの煽りを受けて、
引っ込むのかョ。
俺はおまいと対極を成す
大都市スラム出身の、未だ
最底辺でもがいてる身だが、
おまいの書き込みは、それなりに
楽しみにしてたぞ。
へこたれんと出てこいよ。
390名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 08:44:24
蟻よいくな もっこすのお前がこんなことで逃げてどうする!!
名無しで書けばいいんでないの?>蟻
ただ、改行は入れてほすぃw
昔の貧しさを、互いに語り合っているうちは、和気藹々だったのが
今その人が裕福になっていると、判った途端に嫌がらせを言いたくなる。
その気持ちがわかる自分も、いじましいし。

私などは親が貧乏で、反骨精神でもあれば、蟻さんまではいかずとも
もう少しマシな立場になれたのかな、と思わないでもないが
ここで昔の貧しさを懐かしく述懐できるのは、今にゆとりがあるからだろうか。
金銭面も含め、自分の親と比べれば、若干はマシな生活してるかもしれないが
心はどうかというと、今最低なので、昔をほのぼのと思い出すには
ちょっと遠い気分だな。

母はいつもミシンの内職して 私も弟も高校を卒業させてもらうのがやっとだった。
それが今は、電化製品に囲まれ、子供たちを上の学校にやり
親子皆で携帯使いインターネットして、それで四苦八苦してる。本当に四苦八苦。
時代の流れと共に、貧しさの質も変わってくるものだ。
バカじゃなかろうかと自嘲気味。
同感。
親の子供に対する心配の種も、
栄養失調 → 交通事故 → 校内暴力・いじめ → 変質者による犯罪・引き篭もり
と変化してきてる。安心・安全な社会になったとは思えない。
394名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 16:21:02
ほんとうにそうだ・・
何が幸せで、何が不幸なのか。
こころの持ち方で180度違ってくるのが、幸せと不幸。

しあわせと
感じる心が持てなければ
決して幸せにはなれない。と、思う。
396名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 17:14:31
子どもが、お母さん何が一番怖い?と訊いたので「貧乏!」と、答えました。子どもは、キョトンとしていました。「子どもよ…キミには一生判るまい。判らないで欲しい。」
蟻さんへ。
また、思い出話を訊かせて下さい。
肝油です。
397名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 17:20:28
友達が持ってた電子ブロックが欲しかった。
398名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 17:22:56
復刻版でてるね、欲しい。
でも買えない私。
399とほほおぢさん:04/12/16 17:45:08
はじめまして。

このスレ、はじめから読ませていただきました。
気が付いていなかった今の幸せと不幸せ、
いろいろなことを考えさせられました。

皆様の書き込みが心に染みてくるようです。
俺たちの両親の世代、敗戦直後にひもじい思いした世代だよな。

おかげで、贅沢ではなかったが、ひもじい思いはあまりしなかったんじゃないか。
老いが見え始めた両親に感謝。
401名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 18:34:12
野や川・海に行くとどれが食べれて、
美味しいかよく知っていた。
昔はこんなもん食べたと、すいとん
食べさせられたが、ぐだくさんで
美味しかったよ。
食べられる物と毒のある物の区別なんか
親からも年上の友達からも教えてもらった。
なまじ、自分で採って作って食べる喜びを知っていると
グルメ番組見てても、所詮買ってきたもんだろ、と
驕った気分になる。
山菜やら、川魚やら、磯の貝やら、簡単に獲れてうまいもの教えてもらったよな。

西日本だから、ナバはあかんが。キノコは未だにわからん。
養蚕が流行って、蚕の餌として桑畑がそこいらじゅうにあった。
その桑の実が美味だった。手が紫色になるくらい食ったっけ。
405名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/16 23:30:09
な〜んだ。戻ってきたね〜??
戻ってこいよ?!
406名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/17 09:16:21
当方九州
「また桑ば食うたな!腹の痛うなるぞ!口ん中、歯ぁまで紫にしてから!!」
とばあちゃんに怒られたな・・・・

ばあちゃんが作った微妙に黄色いカレーには天ぷら(さつま揚げ)が入ってた
時には鯨も入ってた・・・ じいちゃんは毎日冷凍鯨を食いながら宝焼酎飲んでた
今では、おれも宝焼酎飲んでます・・・・_| ̄|○  
桑の実って誰が食べてもいいおやつじゃない。
なんで怒られるの?

うちの辺りでは養蚕はもうなかったけれど、田んぼの畦にぽつぽつ桑があった。
けっこうとって食べたよ。
406じゃないけど、衛生的な注意では無いかな。
農薬もつかってたろうし、洗わずに食ってたからね。
409名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/17 21:28:15
物は無かったが屋根に登るのが好きだった
チフスになるとか言われたな。桑の実。
411名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/18 08:40:56
既出の宇宙コマだけどさ
あれの名前は地球コマではないかい??
この年になるまではっきりしないけどどっちよ?
だれか45年間の疑問にけりつけてくりゅぉ

>407
んで桑の実は食いすぎると腹痛くなるんよ
412名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/18 09:18:51
うちに電話がついたのが、小学6年生の時。
それまで、お隣さんにいちいちかかしてもらっていた。
そのお隣さんの電話も有線電話だった。
それが今や一人に1台携帯持ってる。
>>411
昔、流行ったのは「地球コマ」でしょう。
http://www2.ocn.ne.jp/~happyman/cosmoskoma.htm
「宇宙コマ」は何か新しいヤツみたい
http://www.nep.chubu.ac.jp/~sakatai/module/koma/koma.html
414名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/18 12:12:07
>>413
ありがとんww

解決しますたww
415名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/18 12:28:17
>>412
呼出電話だね。
住所・電話番号書く欄に(呼出)って書いたよ。
今週のトリビアの種視てて思ったんだけど、
基本的にボール一個あれば、ゲーム(遊び)はいくらでも発明できるね。
だから貴重だったんだな。
草むらで無くしたら、暗くなるまで真剣に探し続けたもんな。
今の子供は簡単に手に入るからなあ。
417名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/18 13:30:22
ボール遊びは嫌いだった
河原で秘密基地作るのが大好きだった。
418名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/20 22:42:14
小学生の頃の運動会で昼食の時間、うちは爆弾おにぎりと漬物だけ
ほかの子は結構いい弁当とか、おかずがたくさんあったな
419名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/20 23:23:42
運動会では家族全員揃い、小学校の講堂でお重を囲み食事した。
親父は酒を飲み、昼からの父親参加の徒競争で転びそうになった。

あまり気にはしなかったが、他の同級生の弁当に比べて貧弱な中身だったと思う。
420名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/20 23:57:04
マスクメロン農家だったけど手間隙かかるわりに貧乏だった。
間引きした小さなメロンは丸ごと漬物にするんだけど
それ見た友達が「すげー!お前んち金持ちだなぁ」
ちょっとだけ嬉しかった消防の頃。

幼稚園も含めて、運動会に家族が来た記憶はない。少なくとも親父はただの一度も来たことはない。
だから運動会のときは、いつも一人ぼっちだった。子供の頃から一人が身に染み付いてしまったので、
48年間、未だに一人ぼっちだ。
漏れの家はクリスマスも一度も祝ったことがなかった。小学二年のクリスマスの前日、よその子の家
では皆クリスマスの飾りつけとかでわいわいやっているのに、うちは、居間(6畳間)で両親と兄貴が何
もせずにくつろいでいる。漏れが、「うちはクリスマスはしないの?」って言ったら、親父が、「お前一人で
やれ。」って言って、皆で漏れのことを笑った。
俺んちもクリスマスなんか祝ったことないよ。
年末は借金取りから逃げるために家族で雲隠れ。
正月に郵便受けにツケの請求書がたまってて
オフクロが元旦から俺を連れて一軒一軒訪ねて謝るのよ。

正月だから相手もすぐに払えとは言わない。
それどころか俺にお年玉くれるとこもあったりしてさ。
子供心にすごくミジメな気分になったよ。
423名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 00:35:17
421…ごめん…泣けた。家も貧乏だったけど母が天使みたいな優しい人で誕生日やクリスマスはごちそう作ってくれた。でも今月の始めに亡くなったの。もっと親孝行したかったのに…
424名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 00:36:52
・゚・(つД`)・゚・
425423:04/12/21 00:40:20
422も…泣けた。お母さんはもっともっと辛かったと思うよ。家も差しおさえが来た事があるから気持ちわかるよ…
426423:04/12/21 00:49:29
424…一緒に泣いてくれてありがとう。貧乏でも母のいたあの頃に戻りたい…無償の愛を当たり前の様に受けていたあの頃に…。
427名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 01:35:15
無償の愛…
長いこと忘れていた言葉。
428名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 08:05:48
俺もガキの頃 両親は死んでいて祖母と兄の三人暮らし
兄の収入でなんとか 飯を食っていた
当然赤貧で クリスマスも正月もなかったな その頃いつも「なんで俺だけ 」
っていつも 周りをねたんでいたけど 辛い人たち結構居たんだね
当時の自分が 凄く恥ずかしくなってきたよ
429名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 09:49:49
このスレでメンヘラぶってると簡単に女が釣れますよ。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/utu/1103454155/l50
430名無しさん@お腹いっぱい:04/12/21 12:04:36
俺んちは2人兄弟だった。父親は俺が3歳の時に死んで母1人が俺と兄貴を育ててくれた。
小さいころはよく、コロッケ1ッコを兄弟2人で分けてそれをおかずにしてた思いがある。
でも不思議と貧乏という感じは無かった。明るい母の性格がきっとそうさせたのだろう。
その母が今年の5月に亡くなった。
最後はろくに口も聞けなかったのに、
俺たち兄弟を前にして「2人とも風邪ひかんといてな…」それが最後の言葉だった。
孫の顔、見せたかった。
サザンのライブの「ヨイトマケの歌」を聴いてると母を思い出す。

今でもコロッケは好きで良く食べる。でももう、半分じゃないよ。
            お母さん、ありがとう。2人ともげんきです。
431名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 23:42:24
腹が減って、腹が減って、雨どいの下にある粒が大きめの白い砂を、ご飯粒だと思って口にしたことがある。
もちろん違うとわかり、すぐに吐き出した。

5才のときの思い出.......
432名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/21 23:58:27
・゚・(つД`)・゚・
433名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/22 00:03:37
そういえば、子供のときのひもじい感覚は忘れつつあるな。
空腹感をおぼえることはあっても、眩暈がするほど腹ペコになることはもうない。
434名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/22 00:05:22
ど〜してお腹は減るのかな ケンカをす〜ると減るのかな
仲良くしてても減るもんだぁ 母さん母さん お腹と背中が くっつくぞ♪
小学4年まで、うちの風呂は豆炭で沸かすやつだった。
夕方、風呂を沸かすために新聞紙を釜につっこんでマッチで火をつけ、
豆炭をくべていたら、隣んちの中1のお姉さんが後ろで見ていて、立派
ねーとか言って褒めてくれた。なんか恥ずかしかった。
小5のときに隣の家が引っ越すときに、新しいのを買うからといって
ガス釜の風呂をうちに売ってくれた。お古の風呂だったが、うちの
豆炭風呂よりもきれいで新しかったので、漏れはなんかちょっと
生活がモダンになったような気がして、うれしかった。
436名無しさん@お腹いっぱい:04/12/22 09:07:04
≫430
泣いてしまいました。
437名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/22 09:24:39
>>421,422,423,428,430
私も泣いてしまいました・・・。
来年はもう少し良い暮らし、できるようにみんなで頑張ろう〜!
438名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/23 14:50:47
柱にくっつけておいた味の無くなったガムを数時間後に噛むと味がよみがえるように感じた。
439名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/23 16:07:19
わしが柱におしっこかけておいた。
440名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/23 16:27:03
洗濯はしてあっても
サル又は擦り切れたような・・・
身体検査用にいいやつはいつもは穿かずにとっといた。
ある日、何の連絡もなしに身体検査・・・・
新米教師である担任の連絡ミス
まるで刑場に引き出された罪人、いつものサル又の中でも3っ上の兄と兼用の
デカパンにして破れのあるやつ・・・・身長計測、端で並んで待つ同級生達がクスクス
指差して笑いあう同級生、ドッチボールや跳び箱で築いた小さな誇りは
>>440
脆くも崩れ去ったんだね。
可哀相に・・・
子供って残酷だからね。
小学校の時のクラスメイトで、シャツに破れが有ったばかりに、
その後ミーゴと呼ばれた男を知っている。
ゴミ>ミゴ>ミーゴ
いじめられっこではなかったが、その子と仲の良い子達がそう呼んでいた。
心中複雑だったろう。
俺はそのあだ名で呼べなかった。
>442 優しい人だね  そうだよ
目頭が熱くなる話だな…
>>438 そういえば、子供の頃噛んでいたガムの味が全くなくなると、そのガムに砂糖を一口
詰めて噛み直していた事を思い出した。ガムはめったに食べられない貴重品だった。
445名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 15:53:00
低学年の頃、40年代初め、終業式でバタークリームのケーキを貰ってた。
裕福な子が「おうちに不二家のケーキがあるから、いらな〜い」とくれた。
まだ学校にあがってない弟の分ができた!と喜んでた自分。。。
446名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 15:57:16
あの頃は生クリームが上等だったね。
今はな〜んてこと無いのに。
みんなあ、メリークリスマス!
このスレの心優しき人達の健康と幸福を祈って・・・乾杯!!!
(ツマミは勿論バタークリームのケーキ、コロッケ、桑の実、他)
448名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 16:53:08
うちは子沢山だったが、私が小一の時に
一度だけ父が何を思ったか、大盤振る舞い。
その日珍しく東京でも雪が積もって、一個連隊連れて都内のとあるホテルへ
入り口で止められた。親父長靴、私もやっと買ってもらったお気に入りの
色付き長靴はいて、一番上の兄は留守番のかぁちゃんの・・・・
入れる入れないでボーイと大喧嘩。恐かったですね当事の親父の迫力たるや。
で、入ったわいいが、食い物が喉通らない。ケーキだったんですが、
後で吐く始末、生クリームのケーキ食べるとそれを良く思い出す。
449名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 17:10:49
暮れには「賃つき」に家の前で餅を餅箱(餅箱を知ってる人も少なくなった)
何段もついてもらったよね。
正月は下着から上着、靴 全部新品だった。 みんなもそうだろ。

クリスマスはナーンの想い出も無し。(プレゼントもケーキも何故か無し)
450名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 17:17:22
僕には三つ上の姉がいる。
何かにつけてその姉のお下がりを使うのが常だった。
小学校の家庭科の授業、僕の裁縫箱はピンクだった。
それを机の上に出すのが嫌で嫌でたまらなかった。
もっとも嫌だったのは真っ赤な自転車。
小学校三年からサッカーを始めた僕は日曜の度に他校とリーグ戦をしていた。
試合会場が遠かったので自転車に乗らねばしんどかったが、
姉のお下がりの赤い自転車に乗るのが嫌で僕だけ走って行った。
お陰で体力がついて、レギュラーになれたのだが…

六年生の誕生日。母さんが生まれて初めて新品の自転車を買ってくれた。
嬉しかった。ただただ嬉しかった。
毎日毎日その自転車を磨き、風を切って颯爽と走った。
高校を卒業するまでその自転車を大切に使った。
大人になって新車を買おうと外車に乗ろうと
あの嬉しさに勝ったことは一度もない。
451名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 17:28:30
私は職業用自転車(?)豆腐やさんや新聞配達が乗っていたあれ。
もちろん足とどかない。サドルに座ることなく立ったまま。
懐かしい、今はとんと見かけなくなりましたが。
452名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 18:26:54
>451
足、ペダルにとどきました?
俺はとどかないので「三角乗り」しました、よくそれで怒られましたけど。
453名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 22:22:01
クリスマスの朝、目が醒めると枕元に「小学一年生」が置いてあった。
今思えば『あれがクリスマスプレゼントかい?』と思うが、その頃は心から素直に喜んだ。
454名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 22:56:34
お正月のご馳走は豚の頭でした。
455名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 22:56:57
団地住まいで、家に煙突がないことを弟とずっと悩んでいた。
クリスマスが近づくと、ベランダから空に向かって
あれが欲しい、これが欲しいと大声で叫んでいた。
寝る前に、母が窓をちょっと開けておいて「これで入ってこれるから」と芝居してくれた。
456名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 22:58:10
団地住まいで、家に煙突がないことを弟とずっと悩んでいた。
クリスマスが近づくと、ベランダから空に向かって
あれが欲しい、これが欲しいと大声で叫んでいた。
寝る前に、母が窓をちょっと開けておいて「これで入ってこれるから」と芝居してくれた。
457名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/24 22:58:51
うわ、ごめんよぉ
458名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 00:17:58
クリスマスにガムを貰った。
うれしくて夜寝るときも噛んでた。
翌朝起きたら髪の毛にガムがくっついて固まってた。
髪の毛、切られた。
虫歯になって歯医者で泣いた...
459名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 00:18:30
クリスマスにガムを貰った。
うれしくて夜寝るときも噛んでた。
翌朝起きたら髪の毛にガムがくっついて固まってた。
髪の毛、切られた。
虫歯になって歯医者で泣いた...
460名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 00:20:15
クリスマスにガムを貰った。
うれしくて夜寝るときも噛んでた。
翌朝起きたら髪の毛にガムがくっついて固まってた。
髪の毛、切られた。
虫歯になって歯医者で泣いた...
↑なんだこりゃ?二連カキコの次は三連カキコだし。

ガムが貴重品な事はなかったな、昭和40年代中頃の事だけど。
子供の頃のクリスマスは、今思うと結構良かったかもしれない。
おもちゃ買ってもらった事も有るし、ケーキも毎年食べてたし。
クリスマス柄のでっかい板チョコもらった時はすごくうれしかった。
小学校の3〜4年生の頃に、おばさんが子供を生む為に実家の我が家に里帰りしていて、
お金持ちのおばさんは、3段クリスマスケーキをプレゼントしてくれた。
そのケーキは本当にでかかった、こんな大きなケーキが有るのかと驚いた。
それからは祖母が買ってくれた、亡くなるまでの数年間だけだったが。
462名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 06:02:51
↑オカネモチでつね。
463名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 07:04:23
冬厨いっぱい
464名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 08:30:53
昨日は娘にオイラとサンタの分のプレゼントを購入
今日の早朝 娘の手提げバッグに入れといてやりました
思えば日本も豊かになったものです

皆さんのレス見てて懐かしくは思うけど やはり貧乏はしたくないな
465名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/25 08:43:21
まわりが金持ちだらけの中のビンボーはヤだね。
まわり全員ビンボーなら耐えられるかも。
466名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/26 01:06:53
俺は個人主義だから耐えられる
467461:04/12/26 10:47:04
>>462
金持ちじゃねえよ、食うに困るような貧乏じゃなかったが金持ちでもなかった。
金持ちなのは親戚やクラスメイトや近所の人達。
近所には黒塗りのクラウンで送り迎えされてる社長宅や、大きな庭付きの家が何軒も有った。
小学校の頃、近所に住んでたクラスメイトは、中小企業だけど社長の息子で、
昭和50年頃に3管プロジェクター式のテレビ持ってた。
金持ちはすげえなこんな物が有るんだと驚いたよ。
それとは別にやはり近所に住んでた(こっちも中小企業だが)社長令嬢もクラスメイトだった。
しかも両方のクラスメイトの親の会社は、当時は俺の親父の店の取引先だったし。
468名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/26 17:35:56
中学生の頃になると、正月の食卓に刺身があがるようになったが
冷凍カジキだった。でも物凄く美味しかった。
469名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/26 17:51:54
四十代もしまいとなり立てじゃ
随分と状況違うんでげしょうな。
地域格差もあったろうし、今じゃどの地方行っても
ジャスコ、ヨーカ堂があり、ユニクロも。
うちのガキンチョはユニクロ嫌ってのたまう。
ダセッときたもんだ。おまけに貧乏人だと・・・・
470名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/26 17:54:07
しまむらでジーンズ買ってきた。2本も。
うちも貧乏だった。
父親の稼ぎが悪いこともあったのだが、
父親は給料を全部、自分の母親に渡し
ほんのおかず代を、母に渡すだけだったそうだ。
ばあさんは一番下の娘(私より6歳上)を溺愛して
娘には毎日おやつを与え、二人で毎日銭湯に行き、
それもみんな、父が稼いだお金。
母は自由になる金がなく、風呂銭や、ちり紙買うにも事欠き
とにかく昼夜、いつも仕事していた。内職しても、たかが知れてる。
私は、6歳上の「叔母」だけがおやつを食べるのを
欲しがりもせず、でもじっと見ていたと、母親談w
そんな母に対して、教養もない田舎者と、祖母はことごとく意地悪し
毎晩父を自分たちの部屋に呼びつけ、何事かを話し
戻ってきた父は、いきなり物も言わず母を殴る蹴るした。
まだ就学前だったが、その時の鈍い音や母の泣き叫ぶ声を覚えてる。
顔にも、背骨にもヒビが入る怪我をし、母は私を連れ実家へ戻り
しばらくの間、知り合いの夜の店で働かせて貰ったのだそうだ。
ぼんやり暗い狭い部屋と、赤い電球の記憶は
多分、住み込んだ店の奥の部屋だったのだろう。
4〜5才だったはずなのに。あー書ききれません!終わり!
これは貧乏以前に、家庭不和の話ですね。
>>471
それであなたの父親と母親はその後どうなったの?
俺の母親は、嫁入りの時に祖父母に嫁入り道具を「たったこれだけか」と言われたそうだ。
後から色々と家電とかを実家から買ってもらったそうだ。
あまりにも祖父母はあさまし過ぎる。
祖父母はもう死んでいないが、後でそう言う事を聞いた時に、自分達の事を孫がどう思うか考えてなかったんだろう。
生きていたら激怒して殴り倒してたかもしれない。
>472さん
母の親はそのまま離婚を勧めたが、私を父なし子にするのが忍びなく
迎えに来た父と泣く々戻り、2年ほどして弟が生まれた。
相変わらずの貧乏暮らしは続くものの、まぁ人並みに私たちは高校も出してもらう。

次男夫婦と暮らしていた祖母は、褒めちぎっていた大学出の嫁と合わず
家の中の仕事も満足にできなくなった頃 、どうしてもそこには居づらいと
晩年をうちで引き取り、母は祖母の看護をするうちに、自分も身体を壊し
定年を目の前に退職し、自分の心臓病の治療を受けながら、看病を続けた。
祖母の最期はボケて、他の看護婦や近くに居る人を識別しても
母だけは、誰かわからないと他人扱いをしていたそうだ。

その後祖母が死んだとき、私は一度も泣きもせず、やっと母が楽になると思った。
両親が50代になり、それまでの借家住まいから、長男である弟と共同ローンで家を建て、
気の合わない、喧嘩ばかりの夫婦二人で、やっとこさの年金暮らしだったが
母は友人も多く、集まりに出たり旅行にいったりと、まぁまぁの老後かと思う矢先
4年前、突然の心臓発作で死亡。享年70歳。
親孝行もできず、一晩の看護をすることもなく、運ばれ明け方には死んでしまった。
苦労した分、神様が早く楽にしてくれたのかと、今は思うようにしている。

と、端折って書けばこれだけのことなのだが、折に触れ母から聞いた話は辛いもので
自分も今、さほど幸せとは思えないのだが、母の昔の苦労に比べたら、
と思いながら自分を宥める。
父は76でまだ健在だが、そろそろ先の介護のことなどが頭を掠め、悩み多き今日この頃。
母を苛めた父は、こうして老いて一人で暮らさねばならぬのも償いの一種なのかと思いつつ
自分の父親だ。なにもしてやれなかった母の分も、父に対してするのだと、世話をやいている。
>>474
お母様の冥福をお祈りします。
そしてあなたのお幸せをお祈りしております。
476名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/27 21:28:55
・゚・(つД`)・゚・

元旦に実家いくけど、明日大掃除手伝いに行ってこよ
>>474
あなたがなぜあなたの母親をひどい目にあわせた父親にやさしくするのか分からない。
そんな父親は、かつての仕打ちの復讐を死ぬまで繰り返して、思い知らせてやればいいんだよ。
>>477
母親も父親も親なんだよ
そう、どちらも限りなく愛しい親なんですよね、やっぱり。
私には両方の血が流れていますしね。
それに、祖母が死んだ後に、(妻に対して)苦労をかけたと
人に言っていたそうです。本人に言えない父。w
でもその気持ちがあれば、それで良いのでないかと思います。
母の死後は一人暮らしなのですが、毎日灯明を絶やさず
父が朝晩作ったおかずとご飯を仏壇に供えています。
夫婦はどこかでやっぱり、夫婦なのかな、と。

>>479
> それに、祖母が死んだ後に、(妻に対して)苦労をかけたと
> 人に言っていたそうです。本人に言えない父。w

甘いな、よくいるんだよそういう父親が。
母親に対峙するときは、ちょっとでも自分の気に入らないことを言うと、
激昂して怒鳴ったり暴力をふるったりしておきながら、母親のいない処
では苦労をかけたとか言って、さも自分に思いやりの気持ちがあるよう
な空想にふけって、自分のしたひどい行いによる気まずい気持ちを補償
して自己満足に浸っているだけだよ。
言うだけならタダだもんね〜w
うちも兄弟が多くて貧乏だったよ。普段、小遣いって貰えなかったような。
お年玉もそうそう貰えなかった。親父は、まぁ優しかったかな。
ってか、お袋が怖かったしww
>480  確かにそうなのかもしれない。
でも、母は死んで
老いて一人残されたことだけで、父は十分罪を償うことになるはず。
私は私で、私のできることをするだけ、ってところだろうか。
みんなー、折角の和気あいあいな流れをぶった切ってしまったようだ。
暗い話にしてしまって、ごめんね〜。
来年は、今年より良い年でありますように。
皆さんに、幸せが沢山訪れますように。
484名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 00:17:12
大晦日 楽しみはテレビの紅白だった ある年 大晦日にテレビが壊れ ラジオで紅白の歌を聞いた 家族全員で静かにラジオを聞いた 正月が終わるまで 電気屋さんは来なかった
485名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 00:18:37
小学校の時、お年玉使い込まれたな・・お袋に
486名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 00:25:43
冬休み明けの、お年玉話題は嫌だったな〜。
487名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 00:58:32
蟻さん…。
お元気でしょうか。
488名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 05:27:27
肝油さんですか?
お久しぶりです、皆さん。

恥ずかしながら (蟻жж)です。

今日からやっとお正月休みになりましたので戻って参りました。
489名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 08:43:38
やっぱり子供の頃(S50年代)は洋服がお下がりばかりだったのがつらかったです。
従妹のお下がりの吊りスカートは毛羽立っているし、セーターには穴が開いていた。
女の子なのに兄貴の着古したしみだらけの水色と白のジャンパーもつらかった。
昔は今みたいにコート、ジャンパー、フリースなど何枚もの服を買ってもらえず
私は2年間冬は毎日毎日それしか着るものなくて、女の子の友だちからも馬鹿に
されていました。ジャンパーの裏側に兄貴の名前がマジックででっかくか書かれて
いるのを消して私の名前が書かれていました。どうせお下がりするならこんなに
でっかく兄貴の名前書かないでよとか思っていました。ほんと汚いジャンパーだった。

小学生でも女の子に身なりであまりつらい思いはさせちゃいけないなと思っています。
490名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 09:32:27
蟻さんお帰りなさい。
よいお年を!
来年もカキコ期待しています。(肝油さんではない1ファンより)
491名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 09:40:26
確かにお下がりは辛いですね。ましてや女の子でしたら。
(蟻жж)は8歳年上の兄のお下がり海パン、それもゴムが微妙にのびたもので水泳大会に挑み、半ケツになるのを恐れるあまりスピードを下げたところビリになりました。
子供時代の苦い記憶です。
492名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 09:43:20
>>490さん

ど、どもですっ

ありがとうございます。
493名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 11:18:33
蟻さん…。
お元気そうで、良かったです。
お年玉の話が出てますが、わたしも一言。
百円札か、五百円札かで明暗クッキリ。。ってな感じでした。
少額のお年玉で買う、紙製の着せかえ人形。嬉しかったものです。
肝油でした(ビンゴ♪)
494(蟻жж):04/12/31 12:03:40
肝油さん、お久しぶりです。
お年玉ですが良くて100円札でした。でも、貰ったお年玉を使う店もなく...
そう言えば、近所のお姉さんが東京へ修学旅行に行き100円札をお店の人に出したら「何コレ?」と言われたと聞き、村中の子供達が100円玉集めに走り回った時期がありました。
495名無しさん@お腹いっぱい。:04/12/31 23:58:24
2004年も終わりそうで、又ひとつ歳をとると思うとガキの頃の記憶が
懐かしくなるもので、
496名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 01:22:08
皆様あけましておめでとうございます!
今年1年、皆様にとってすばらしい年でありますように。
497名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 02:39:35
おめでとう。
カレンダーを今変えた。
我らが象徴の、日めくりってのは最近ないのね。
498(蟻жж):05/01/01 07:40:27
新年
明けましておめでとうございます。
正月になると子供の頃、家族揃って一張羅を着て村の小さな神社にお参りしたことを思い出します。
神社では当番持ち回りの村人に数の子の欠片とおトソ(赤酒という甘いお酒)を頂くのが楽しみでした。
数の子を腹一杯食べるのが夢の一つでした。
499名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 12:27:00
あけまして おめでとうございます。
我が家のお正月料理は、とても質素です。
お雑煮と数の子を除くと、普段と変わりません。子ども時代に食べた、ロースハム。最高に美味しかったです。
蟻さん…。
本年もよろしくお願い致します♪
今年も500get!
501名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 15:27:07
子供のころから粗食を常としていたせいか、
クリスマスから正月にかけてご馳走攻めで、逆に辛いと感じるのは私だけでしょうか。

世界一うまい食い物は鯵の干物の気がします。海外から帰ってきたときもいつもそう思います。
502(蟻жж):05/01/01 19:15:08
今は、なんか毎日ゆとりがないです。
山奥で育ちましたから、物に対する感動がありました。
冬に母が編んでくれた手袋やマフラー、安っぽい物でしたが感激しました。
あっ、そうそう、父はよく夜に農作業用の縄を機械で編んでて、その父の足元で戦争の思い出話しを聞くのが好きでした。
503名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 19:45:38
蟻さん、こんばんは。 明けましておめでとうございます。 

お父様の戦争の思い出話・・・うちは、空襲の中を逃げまどった話を聞いた事があります。
「少年H」のような体験だったそうです。
今年こそ平和な世界になりますように。
504名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 19:55:45
ウチ、時々雨漏りしてた。
よくあんな家に住んでたな。
服も学校の教材(算盤や裁縫セット、体操着)も
全部お下がりだったし。
当時は何も分らなかったけど、家計が苦しかったんだよね。
でも、惨めな気持ちになったことがなかったのは救いです。
505(蟻жж):05/01/01 22:05:26
>>503さん、こんばんわ。おめでとうございます。
戦争は嫌ですね。うちの親父ときたら、第二次世界大戦でアジア各地に出征した時食べた南国の果物の話ししかしませんでした。バナナの木が飛行場の回りにあり、好きな時に食べられた、とかです。ヨダレが出そうな話しばかりでした。
506名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 22:29:33
子供にお年玉をやった オイラと嫁で一万円 子供は9歳だ
ゲームを買って あっという間に消滅
おいらが9歳の頃 500円もらったような気がする
なんたるインフレ...

507名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 22:38:34
今、40代後半と仮定しても500円は少ないなぁ〜 気の毒に。
508(蟻жж):05/01/01 22:51:53
子供いないからお年玉の心配無いと喜んだのですが、おいっこと姪っ子の3人に諭吉クン2枚と一葉さん1枚。
一番痛かったのは、年の離れた妻に催促され、泣く泣く手放した諭吉クン10枚。
おかげで財布が随分と軽くなりました...

今晩、布団かぶって泣いてもいいですか...
509 【凶】 :05/01/01 23:01:57
よしよし
泣いてもいいよ。
>(蟻жж)これなんて書いてあるの?
510名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 23:03:04
>>508
それだけ放出してもまだ財布に
入ってるなんてお金持ちですね〜w
おれの財布なんか野口英世しか
入ってないよ トホホ・・・
511名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 23:03:20
503です。私たちの幼い頃は本当にバナナは高級な果物でしたよね。
ときたまうちにあると兄弟でじゃんけんして食べましたね。

私の伯父は戦時中に南国で蛇を食べて以来、鰻や穴子、ドジョウは食べられないそうです。

それから、父の世代はさつま芋や南瓜が苦手です・・・小さい頃イヤと言うほど食べたからです。


512「 【豚】 【875円】 :05/01/01 23:10:07
test
513名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/01 23:24:31
あけましておめでとうございます。なんか子供の頃の話題ってうれしいようなさびしいような・・・
新年おめでとうございます。

子供の頃の話って、寂しいところがあります。
私が小さい頃住んでいた家は、
水道の蛇口が、家にひとつしかありませんでした。
お台所だけね。

お風呂は無かったし、
トイレには、下から細い金棒を手のひらに当てて
上に押すとチョロチョロとシャワーのように水が落ちてくる
プラスチックの小さなタンクがぶら下げてありました。

今は、幸せです。
台所も、お風呂も洗面所もトイレも水が出る。
ベランダにも蛇口が着いてるし。

私、昔の反動で、水道管や蛇口大好きです。
515名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 00:20:57
おばあちゃんの部屋の火鉢で餅を焼いてたな。
砂糖醤油付けて、ほんとうまかった。

今は、レンジでチン!か…味けない…
俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の
前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスの
ジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びた
ハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って
517(蟻жж):05/01/02 04:02:10
>>509さん、蟻の後ろに仲良く歩く2匹の蟻がいる...と思ってください。
>>514さん、うちも同じものがトイレについてました。懐かしい...
冬の朝になると水の出口が良く凍りました。
518(蟻жж):05/01/02 04:07:25
>>515さん、実家では今でも直径50cmの火鉢を使っています。正月に火鉢で餅を焼くのが私の役目でした。
火鉢、今の家にも欲しいのですが、灰が飛び散って掃除が大変&猫がいるので危ないと、妻が購入を許してくれません。
火鉢の炭の暖かさって、幸せな気持ちになりますよね。
519(蟻жж):05/01/02 04:20:50
家の近所に山水が湧く「井川」というのがありまして、一番上の貯水は飲み水、夏になるとスイカやサイダーが冷やしてありました。
二番目は野菜を洗う所で、三番目が洗濯場でした。
3才の時、死んだバアチャンに連れられて洗濯に行き、足を滑らせて水の中に落ち、溺れたのを覚えてます。
520名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 04:24:03
>>516
小学生の時にファミコンっていうことは、30代の人かな?
いい話をありがとう。

ところでオヤジの戦時中の話っていうのは40代の人には定番かも。
「メシを食えるだけでもありがたいと思え」っていうのが子供の頃、オヤジの説教の初めの言葉でした。
しかしよく聞いてみると、大正生まれで10人きょうだいのウチのオヤジはひもじい思いをして育ち、
戦時中に海軍工廠で働いた時の方が、きちんとメシ食えていたらしいのですが。
聞き流すことが多かったオヤジの話だけど、この夏に海軍工廠のあった佐世保に一緒に旅行しました。
工場では腕を見込まれて徴兵を猶予して貰ったが、とうとう昭和20年9月1日付けで広島の陸軍に行く予定だった
なんていう話も聞きました。
1ヶ月ずれていたら、俺は生まれていなかったんですね。

小学校しか出ていないオヤジは、結婚後も貧しい生活を続けながら俺たちきょうだいを生んでくれました。
子供の頃はサツマイモとジャガイモ、カボチャをよく食わされました。
「また芋か」と言ってしまうと、「バカたれが!」という怒鳴り声の後に「昔は…」と続きました。
芋とカボチャが苦手というのが似てしまいました。
しかし生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうと本当に感謝しています。
今年で82歳、オフクロは一足先に逝ってしまいましたが、長生きして下さい。
お願いします。
521(蟻жж):05/01/02 04:38:23
>>520さんって、親孝行ですね。
父親と旅行らしい事をしたことありません。
15年ほど前に父母が上京した時にハトバスに乗せたくらいしか...
父は今年81歳になります。
今では足腰も弱くなり、遠出もしなくなりました。
毎朝、自分で運転する車で温泉に行ってますが、交通事故が心配です。
522名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 05:03:23
>>521
520です。
書き込みに少々時間がかかったので、その間に蟻さんが>>517-519を書いていたんですね。

孝行らしいことは、この歳(46歳)まで、ほとんどしていませんでした。
もう4年前になりますが、オフクロには亡くなる時まで孝行できませんでした。
唯一、家を建てたことが孝行かもしれません。
この家に引っ越してからも、住宅展示会なんていうのに行って、
「やっぱりウチが一番いい」なんていうのが口癖でした。
墓に布団は着せられぬというのを、しみじみ思います。
余計なお世話ですが、蟻さんも親御さんを大切にしてあげて下さい。
ウチのオヤジは免許を取る余裕もなかったので、俺が乗せてやるしかありません。

俺も貧乏な子供時代を過ごしましたが、
それでいてゼニカネに執着がないというのも親の躾のありがたいところです。
先日、「子供の頃は自分の家や部屋がほしかったけど、今はどうでもよくなってるんだよ」
なんて言ったら、「オマエは本当に俺に似てきたな」と笑っていました。
似てきたことが嬉しくもあり、哀しくもあり。
523(蟻жж):05/01/02 05:26:46
「オマエは本当に俺に似てきたな」って言葉、最高に親孝行な息子という言葉の裏返しだと思います。
蟻の夢は、海軍にいた父親をハワイの真珠湾に連れて行くことでしたが、若い頃は金もなくできませんでした。現在なら出来ますが、今の父に7時間の飛行は厳しいと思います。お父さん、ごめん...
524四人兄弟:05/01/02 06:01:58
貧乏話というと、やはり、食べ物と着るものは避けられないようですね。
皆さんのレスを読んでいて、過去を思い出しました。
私の家は小遣いのない家庭でした。お金は働いて稼ぐという方針です。
ただ、お祭りの日には、三ツ矢サイダーを飲ませてもらえるので、嬉しかったです。
でも、1本を4人で分ける回しのみです。コップについで飲むという習慣はありませんから。
口を小さくすぼめて、チョロチョロと飲むわけです。ビンの先をくわえ込んで飲むのはルール違反でした。
いつか、一人で1本全部を飲みたいと願ったものです。
お店では腐りかけのものが安く売ってましたから、祖母は、そればかりを買ってきて食べてました。
腐りかけや腐ったものでも普通に食べていました。
とにかく、腐っていないものを食べるのも、子供時代の夢でした。
525四人兄弟:05/01/02 06:09:17
小学4年生のときです。給食費(900円くらいでした)を母にもらえなかった。
欲しいといえば出してもらえる額でしたが、言えないんです。
そこで新聞配達を始めました。毎朝5時前に起きて25軒に配達です。
たったの25軒ですが、寒村なので時間がかかりました。
1軒配るために山を上り、次の1軒を配るために別の山に上りました。
毎朝、2時間掛です。での、つらくなかったなあ。給食費が払えたから。
1ヶ月間の仕事料は1500円でした。1軒、60円でしたから。
526名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 07:25:24
>>521
良い躾を受けられたのですね。うちも親父は少年兵の生き残りで学が無いもので、
貧乏で、小さいときは切ない思いばかりをしました。

豊かな時代になりましたが、悲しい習性が身について我ながら貧乏性で
嫌になってしまいます。
代々医者の友達が、金に全く無頓着なのを見るとうらやましくもあります。
タクシーは心臓に悪くて嫌いです。(嫌な性分だなあ…)
527名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/02 07:39:09
でもさあ 昔の貧乏の話を子供にしても「?」って反応だよね
528(蟻жж):05/01/02 07:48:32
>>526さん。
14才の夏に家を出され一人暮らしを始め、その後は高校も寮生活、高校卒業後に上京してしまったため、満足な躾も受ていません。
前妻には「思いやりが無い」とよく云われました。
親元に長く居なかったから人に対する思いやりが欠けていたのでしょう。
親としては農家の次男を独り立ちさせる手段だったのでしょうが、かなり寂しかったです...
529名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 16:39:46
貧乏自慢大会か?ここは。
530名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:01:38
そうだよ
531生まれながらのお金持ちはロッカー:05/01/03 17:05:39
だれかボンボン育ちスレ立てれ
532名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:08:16
脚が茶部台のような白黒テレビが家にあった。また、レコードは78回転仕様も可能なものがあった。
懐かしい。
533ソウルおばさん:05/01/03 17:11:14
531 自分で勃てて
534名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:11:22
そりゃよかったね大将
535名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:15:39
貧しかった子供の頃の話をみなで言い合ってしんみり・・・・か・・・
それだけ、今は余裕があるってことでしょうね・・・・

私はそういう感傷にはふけることはしないようにしてるけど・・・
貧しかった幼少期があってこその今だよね。
536会社のロッカーの鍵壊れた:05/01/03 17:18:58
>531
まるで、年寄りと孫娘二人でやってる食堂に入ってきたチンピラだな
537名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:21:50
嫌味な食堂だからいいのよ
538名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:26:24
>>537
うちらは、「こんな貧しい、苦労してきたんだ・・・・ゲホゲホッ・・・」

って・・・・?wwww<嫌味な食堂
539生まれながらのお金持ちはロッカー:05/01/03 17:40:23
オヤジッ!酒出せ酒!
ネェチャンこっちきて酌しろや〜
540名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:41:22
誰も、苦労自慢してる様子はないよ。
541名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:42:29
(┰_┰) ウルウル・・・・うちは「オヤジ」いないの

ババアだけの店なの・・・・
542名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:43:17
百円を握り締めて近所の駄菓子屋兼たこ焼き焼きそば屋によくいったものだ。w
543名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:44:12
100円?もらえただけ幸せだね
こっちは、たま〜に・・・5円、10円レベル
544名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:45:08
バター飴が1円だった
弟とひとつを分け合ったことが ・゚・(つД`)・゚・
545うまいモンはうまい ◆1xScF1fQr2 :05/01/03 17:46:32
 冬はラクダの糞を乾燥させた物を燃料に使っておりました。(ウソつけ!)
546542:05/01/03 17:47:50
駄菓子屋へ糸にいっぱいぶら下げられた飴欲しさによく行ったものだ。
547名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:53:49
ぽん煎が一枚1円で3枚買って、みかん水が5円。
食後のデザートに2円のどんぐり飴を一個。
10円で大満足。

100円なんて・・・・。  
548名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:57:41
友人と二人駄菓子やへ行った。
きな粉飴口に入れたはいいが、ポケットに5円しかなかった。
おばさんが、手出しきて吐けっ。
おばさん飴戻して、きな粉まぶしてた。「5円分なめさしてやったでしょ」
549名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 17:58:26
ある時くじが残り少ないの確認。
残ってるの友達と全部買い占めた。
当然そこにあるはずの一等のあたりくじ入っていなかった。
大人は嘘つきだと悟った。
550名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 18:02:24
友人と二人焼き鳥屋の前で。
ポケットに5円しかなかった。
おばさんが、団扇でヒトあおぎ。
おばさん手を出し「五円」
「5円分煙吸ったでしょ」・・・orz
551名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 18:05:19
今更、どうでもいいこと・・・・
っつうか・・・その分、今現在、物を大事にしてます?みなさん・・・
子供にも・・・・
552名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 18:26:37
ミミズ掘って
釣堀に持っていくと、そこの主人が小銭くれた。
毎日毎、学校から帰るとミミズ堀り・・・・
給食費はそれでまかなった。
一週間ほど、流感で寝込んだことがあった。
友人に聞いたらしく、釣堀の主人がうちのボロ長屋に尋ねてきた。
ボウズッ、どした?元気か?
母一人子一人のうち、それがきっかけとなり・・・
その後もその主人はうちへよくくるようになった。
遊び人だった、毎日だったり、数日空いていたり
来るたびに私は外へ追いやられた。
給食費は稼がなくてもよくなったが・・・・
やがて、暴力。母は飲み屋で働くようになった。
中学に入り荒んだ。殺してやろうと何度思ったことか。
そんな義父も今はもういない。母は80を過ぎて健在である。
553名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 18:40:09
僕の住んでいた貧乏長屋に利かん坊で利発な同級生がいた。
ある日、長屋に視察にきたお偉い人に「ぼくんちなんで貧乏なんだ!!
お父さんも、お母さんも一生懸命働いてるのに」とお偉い人に詰め寄った。

長屋の人達や大家は突然の出来事に恐縮しきり

(続きは任したよ)




554名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/03 18:53:42
>>553
文意は解かりますよ。「創作だろ」って事でしょ。
>>550
「チャリン」と地面に落として、音で支払ったんだよね。
556(蟻жж):05/01/04 20:59:06
実家に湯たんぽが二つありました。
赤茶色の陶器で出来たものと、金属でできた銀色のもので、お湯を入れ布で包んで足元に入れておくものです。
でもバアチャンとジイチャンが使ってました。
ジイチャンが亡くなってからは父母が使ってました。
自分で使ったことは一度もありません。
大人にならないと使えないものだと思ってました。
557(蟻жж):05/01/04 21:23:07
春になって小川に魚捕りに行くのが楽しみでした。
竹で編んだ長方形のザル(地元でショウケと呼ぶ)を水草に突っ込み、足で水草をザルに向かって踏んで行くと、面白いほど魚が捕れました。
もちろん、食べるためです。
魚が捕れない時は、タニシ(地元ではホウジャ)を捕って帰り、砂糖と醤油で煮て、マチバリで中身を出して食べました。
おやつ代わりです。
20年前の護岸工事で川はコンクリートだらけになり、魚がいなくなりました。
昨年帰省し川に行きました。
魚は戻っていましたが、昔の一割程度です...
558(蟻жж):05/01/04 21:41:22
鑑定団見ていて思い出しましたが、これも帰省した時の話です。
実家の仏壇横の床の間に、黒光りする高さ1m程の立派な壷が飾ってあります。
「どがんしたと?こうたと?(どうしたの?買ったの?)」と聞く私に父がニヤリと笑い『後ろバ見てみい』。
壷の後ろにヤカンの口のような小さな突起があります。

昔、自家製で醤油を作っていたという壺...
やはり貧乏でした。
559(蟻жж):05/01/04 22:11:11
8年前に小学生の甥っ子が入院しました。
雨上がりのクヌギの木でカブトムシを見つけ、登ったはいいものの滑って落ち肋骨折りました。
甥っ子が退院した2ヶ月後、父が柿の木から落ちました。
腰の骨を折る重傷でした。
笑えるのは、甥っ子と父が同じ部屋の同じベッドだったことです。
帰省した時に父が落ちた柿の木が切られずに残っていました。
驚く私が母に「切らんと?」と聞くと
『お父さんが、木から落ちた記念だと言って切らんと。また落ちるバイ。』とカラカラ笑います。
この父母に育てられて良かったと思う今日この頃です。
560名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 22:42:54
蟻さん今晩は。
「少年H」のように空襲の中を逃げまどって、母屋の離れに五右衛門風呂とトイレのついている
祖母の実家にたどりついた父を持つ511です。

私も小さい頃、タニシ、食べた事あります。久しぶりに思い出しました。
ハヤっていう魚を食べました。
今はもう廃屋ですが、去年行ってみたら記憶の通り『遺族の家』という小さい
プレートが崩れかけた玄関の引き戸の表札のそばにつけてありました。
561(蟻жж):05/01/04 23:06:22
>>560さん、こんばんわ。
「遺族の家」の白地に黒の文字、懐かしいですね。
昨年帰省した時に私の実家に、まだ有りました。
ミッドウェー海戦で亡くなった叔父のものです。
因みに私の学費は90歳で亡くなったバアチャンの遺族年金から出して貰いました。
就職も決まり、これからバアチャン孝行するぞ!と思った矢先、卒業と就職が決まったことを安心したか、急に亡くなりました...
何の孝行も出来ず悔やまれてなりません。
それから、川魚の名前、蟻の田舎の方言では「ハエ」と言いました。
灰色の魚ですが、同じものでしょうか。
562名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 23:07:23
ハヤは馬鹿パッヤと言って、ポンポン釣れた。
味は、不味い記憶がある。
563(蟻жж):05/01/04 23:08:29
実家で牛を飼っていました。
「肥後の赤牛」と呼ばれる種です。
3才頃までは、農作業で活躍していました。
牛の背中に鞍をつけ、農作業の行き帰りに乗せてもらうのが楽しみでした。
小牛が産まれると名前をつけ血統書登録します。
一度、自分の名前を小牛につけてもらいました。
乳離れした後は毎日餌をやり、ブラシをかけて可愛がりました。
生後8ヶ月位経った頃、売られて行きました。
小牛が売られた日の夜、母牛は一晩中泣き続けます。
一緒に泣きました...
それ以降、「自分の名前を小牛につけて」とは二度と口にしなくなりました。
564名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 23:13:28
>561さん、レスありがとうございました。
そうです。蟻さんが「ハエ」と呼ばれている川魚です。
うちは、祖母の弟が南方の海で戦死しました。
蟻さんは高校から寮生活を経験されて、ご苦労も沢山あったと推察されますが
得られた物も沢山あったのではないでしょうか。
565(蟻жж):05/01/04 23:14:28
>>562さん、確かに簡単に釣れました。
同じ魚でしょうね、多分。
でも、醤油と砂糖で甘辛く煮た「ハエ」、蟻の実家ではご馳走でした。山奥で近くに魚屋もありませんでしたから。
釣って帰ると母が喜んで料理してくれました。
566名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 23:31:33
釣りといえば思いだす。
ちょっと奥地の池に鯉がウジャウジャいた。

これは、ちょいとした御馳走になるぞ〜とニヤニヤ
で、バンバン釣っていたら、バイクに乗った親父が来た。
「ここは!養殖場だぞ!!!」

ボコボコに殴られました。
567蹴球三日:05/01/04 23:33:00
私の日記です誰も来ないので1回ぐらい見てやってくださいhttp://blog.naver.co.jp/235silver.do


568名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 23:33:06
そりゃあ殴られるでしょうw
569(蟻жж):05/01/04 23:34:55
>>564さん、
高校の寮では毎晩の先輩からのシゴキがキツカッタ。
剣道の竹刀やバットで、尻や背中を強く叩かれたり、正座2時間などです。
それから、見えない部分(腹など)をよく殴られました。
寮に40人以上いた同級生も1年の夏休みが終わったら、たった10人に。
蟻も寮を出たかったですが、下宿は月4万と高かったので、親に負担はかけられず我慢するしかありませんでした。
寮費は2食ついて月1万3千円程でしたから。
何も得たものはありません。
マゾにならずに良かったと、ホッとしています(笑
570名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/04 23:58:58
ハエ(ハヤ)は釣っても食わなかったけどシジミは採ってきて食ったです。
現在の地名で言えば北九州市小倉南区。
571名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 00:05:20
ハヤ・・・こっちじゃ、赤腹とか長じゃこ・・・・って言って
今でも実家父親は釣って食べてる。
酢でしめて小骨も柔らかくなったところで、炊いたもち米、千切りの
にんじん、しょうが・・・・塩・・・・で漬けて冬場に食べる。
ハタハタの飯寿司と同じやりかた。さっぱりしてうまい。
昔の人はうまい食べ方知ってるよなぁ〜
572四人兄弟:05/01/05 02:35:36
タニシは、好きで食べました。昔はいっぱい取れましたから。
あれって、最近は食べないのかな。田舎に行ったときに聞いてみるか。
柿木は折れやすいから、大人は上らない方がいいですよね。
体重の軽い小学生くらいでないと、危険です。
いつでも、太目の枝につかまりながら、片手で柿をもいでました。
昔は、ご飯代わりに食べてたような気がします。
573名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 03:04:25
九州地方の人が多いので、聞くけど。
テレビで見たことあるけど、
巨大なタニシが生息してるんの?
574(蟻жж):05/01/05 06:05:25
>>573さん、蟻の田舎のタニシは長さ3cm位の大きさでした。
巨大タニシはいませんでした。
どの位の大きさなのでしょうか。
そういえば、外国から食用タニシを輸入して、そのタニシを逃してしまった人がいましたね。
肉の色が赤く、とても食べる気がおきない代物と聞きました。
町中の田んぼで気味の悪いピンクの卵を見かけますが、国内に広まってしまったようです。
人間の欲というものは、日本の自然そのものを変えてしまうんだと、悲しくなりました...
575名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 06:16:46
漏れの子供の頃はタニシじゃなくカワニナだったな
576(蟻жж):05/01/05 06:25:11
>>572さん、確かに柿の枝は折れやすいですね。
父は市場に出すために採っていたようですが、少しでも多く市場に出そうと上へ上へと登り、落ちました。
秋の終りに農作業の手伝いに畑に行くと、畑の畦に決まって柿の木がありました。
赤く熟しきった柔らかくて冷えた朝の柿を食べるのが楽しみでした。
冷たくて本当に美味しかった。
熟した柿のほとんどは野鳥に食べられていましたが。
昨年秋に実家から送られてきた柿で、熟した柿を作ろうと冷蔵庫に入れていました。
そろそろ食べ頃かなと思っていた矢先、いつの間にか妻に捨てられてました...
577564:05/01/05 09:02:45
>569
蟻さん、おはようございます。蟻さん、今日はまだお正月休みですか?

高校の寮生活って悲惨なものだったんですね。
ちゃんと泊まりの寮長さんとか宿直の先生とかいなかったんでしょうか。
そういえば、妹の中学のクラスメイトで高専の寮生活で亡くなった人がいたという
話を思い出しました。
あと、やっぱり熊本の山奥出身の人が高校から都市部の賄い付きの下宿生活していた
と思います。
今、学校の宿直の先生とか、賄い付きの下宿なんて少なくなってきたのでしょうね。
ちなみにうちの近所の小学校は夜間に警備会社が入っていると思います。
578名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 19:50:28
>>576うちのばあさんがいっていた。言葉を思い出しました。

桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿 柿の木登る大馬鹿

折れやすいんですね。
579564:05/01/05 20:06:17
あ〜!それそれ、うちの祖母も言っていましたよ。
 
桃栗三年柿八年・・・みたいですね。
580(蟻жж):05/01/05 20:59:40
>>577さん、高校の寮は毎晩、宿直の先生が交代で泊まりに来ていましたが、シゴキを黙認していました。
皆、体育大学卒の教師でしたから、寮のシゴキは当たり前と思っていたようです。
特に国士舘と日体大卒の教師は、寮生を宿直室に呼びアンマを強制するなど最低の教師ばかりでした。
入寮の前年に一人、風呂場で転倒し死亡した先輩がいたとのことです。
夏になってその人の霊が霊感の強い同級生に乗り移り、恐怖の夜が続きました。
突然、ノソッと起き上がり、先輩の首を絞めたりするからです。
その同級生が退寮した時はホッとしました。
581(蟻жж):05/01/05 21:14:45
>>578さん
確かに柿の木は、枝の根元から一気にボキッと折れますから、登らないほうがいいですね。
植えて100年以上の柿なので直径も1m近くある木も数本あり、上に登れば登るほど、粒が大きく形の良い実がなっているように見えるんです。
市場に出して儲けようと欲をかいた結果でしょう...
ふと思いましたが、人生も同じようなものなのかもしれません。
582名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 22:00:29
友人宅の隣の家に柿の木があったけど、洗濯竿を改造して泥棒したのを思い出しました。
その家のおじさんには頭を叩かれましたが、「登ったらダメだぞ」と言いながら
柿をわけてくれました。
小学生の頃は柿だけではなくて、ミカン畑やイチジク畑、ビワ畑、いろんな畑を荒らしてしまいました。
思い出せば汗顔の至りです。
叱られることも多かったけど、おおらかに見てくれていた大人達ばかりでした。
「ミカンには農薬をかけてるから、ちゃんと洗ってから食えよ」なんて言ってくれました。
583(蟻жж):05/01/05 22:34:15
>>582さん、おおらかな方が周りに多かったんですね。
蟻は、小学生の時、畑の主に無許可ミカン狩りがばれ、父親が相手方に金を払いに行きました。
その時に父親に言われた言葉は「他人の畑に入るな。自分の家の畑に入れ!」でした。
でも、うちにある畑は、牛の餌の縁麦等の食べられないものや、栗山や竹山や杉山、芋畑、桑畑、野菜畑です。
甘い果実のミカン畑やブドウ畑や梨畑はありませんでした。
バレてからは二度と他人の畑に入りませんでしたが、未だに実家に帰省すると、恥ずかしくてミカン畑の主には会いたくありません。
584(蟻жж):05/01/05 23:15:46
小学生の時、父親がグレーの毛の野ウサギを持ち帰りました。
田の畦の草を刈っていたところ、野ウサギが走っていたので、手にしていた鎌を投げたら、偶然命中したとのことでした。
残酷と思われるかもしれませんが、炊き込みご飯にして美味しくいただきました。
蟻があまりにも父を誉めたので、その後の父は、農作業の際に必ず鎌を持ち歩きました。
二匹目のドジョウを狙っていたようです。
結局、同じチャンスには二度と巡りあうこともありませんでした。

「待ちぼうけ」の唄を思い出す出来事でした...
585(蟻жж):05/01/05 23:28:05
小学校に通う道すがら、畑の脇にある野ウサギの通り道に仕掛けた罠を見廻りして帰宅するのが日課でした。
針金で輪っかを作り、野ウサギが通ると止め金が外れ、野ウサギの首が絞まり宙に浮くという残酷な罠です。
毎日ドキドキしながら見て周りましたが、一度も野ウサギは掛かりませんでした。

ウサギのほうが一枚上手だったようです。
586名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/05 23:41:49
>>575
カワニナって何?
587564:05/01/06 00:16:39
蟻さん、今晩は。
なかなかハードな寮生活だったようで・・・やはり、体育会系の大学出身の
教師ってそうなのかなぁ・・・この前の国士舘の事件、思い出しちゃいました。

でも、蟻さんのご実家はそれほど貧乏じゃぁないと思いますよ。
典型的な熊本の山間部の農村の風景というか・・・むしろ豪農では?
いろいろな農作物を作り、畜産もなさっていらしたし。

飼われていた牛と野ウサギのお話にはじ〜んときましたけど、うちでも
鶏は飼っていました。
卵のためだけのペットで、夜店で買ってきたのが大きく育っただけです。
「食べてしまおう!」と言う話もありましたが、その前に私のクラスメイトに
譲りました・・・彼女の所で鳥鍋になってしまったのかもしれませんが。

あと、これを書くとちょっと特定されてしまうかもしれませんが・・・。
私が小さい時に住んでいた父が転がり込んだ祖母の実家の隣には既に亡くなった
曾祖父のお手伝いさん=お妾さん一家が住んでいました。
いわゆる妻妾同居ですね。

身内にそんなことあったんだと知って少なからずショックでした。
現在はその息子さん(亡くなった祖母の腹違いの弟)が昨日書いた
廃墟と化した家を見守りつつ小学校の校長を退職した後、米作農家を
やっています。
その息子さんもおそらく90歳は超えていると思います。
私には「嬢ちゃん」って本当にやさしく接してしてくれましたけど、祖母達に
とってはかなり複雑な感情があったことでしょうね。

588(蟻жж):05/01/06 06:24:12
>>587さん、おはようございます。
残念ながら豪農ではありませんでした。
隣の本家は江戸時代に名字帯刀を許された庄屋でしたが、実家は本家から分けて貰った田畑や山林を細々と耕していました。
市場に出す野菜や柿やタケノコも大した金にはならなかったと記憶しています。
山はあっても、植林されている杉は子孫に残すもの、と教えられて育ちました。
野菜と米を作っていましたので食べるものは何とかありましたが。
本家は敗戦後の農地改革で田畑が少なくなりましたが、それでも豪農でした。
その本家も跡継ぎに恵まれず、村を去りました。
589(蟻жж):05/01/06 07:09:55
小学校に入る前、冬の寒い朝、父母と兄姉と家族揃って山の中の、猫の額ほどの小さな畑に芋掘りに行きました。
高い崖の上にかかる丸太橋を渡る時は怖かったです。
畑に着いて、父母が芋を掘り、兄が焚き火を焚いて、掘ったばかりの里芋を焼いて食べました。
甘くは無いですがホクホクしてとても美味しかった。
今考えると、あれって、もしかしてピクニックだったのかな?と思っています。

いや、違うな...
帰りに蟻以外の家族はみんな、芋の入ったフゴ(藁で編んであり、野菜を入れて運ぶ入れ物)を担いでいましたから。
590503,564,587…:05/01/06 09:49:43
蟻さん、おはようございます。
今朝、当地方ではこの冬一番の冷え込みですので、炬燵に入ってこのスレを始めから
読んでいました。

素朴な質問ですが「蟻さん」=>201,235,239・・・ですよね?

この文才を生かされて、ご自身の生い立ちを一冊の本に纏められたら良いと感じました。
この先も楽しみにしていますね。
591名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 12:51:33
蟻さん今年も色々聞かせてください。
懐かしい記憶が蘇ってきます。
39年早生まれ
仮面ライダースナックが買えないのでカード集めが出来なかった。
切手帳には使用済み切手しかなかった。
自転車は中古。
刺身は誕生日のみ。
野球チームに誘われたがユニフォームを買えそうにないので断った。
パイナップルが食卓に上ると「今日は何?」と聞いてしまう。
牛肉は缶詰が主流だと思っていた(コンビーフ・大和煮)
高台の造成地に住んでいる奴らとの貧富の差を感じていた。
ダウンタウン&マッキーの「チキンライス」を聴くとぐっと来る

何食っても旨かった。
取り敢えず腹一杯にはさせて貰っていた。
親に感謝
昭和30年代、お菓子は何でも『御馳走』だった。食べられれば幸せだった。
今、親戚の子供などはお土産にケーキを持っていっても「な〜んだ」という
感じで食べたがらない。何が食べたいかと聞いても食べたいものが思いつ
かないようで、「別に…」と食べ物に対する熱意というか拘りが全くない。
果たしてそれが幸せなのかと、最近考えてしまう。
594(蟻жж):05/01/06 21:29:59
残業して今帰宅しました。
私だけでなく、皆さんにも懐かしい沢山の思い出があると思います。
ただ、皆さん、毎日多忙過ぎて、思い出すお時間が無いのではないかと思います。
また、現在、ゆとりある幸せな日々を過ごされているので、思い出される必要もないのではと...
蟻は精神的に余裕がありませんので、この歳になり、昭和40年代の子供時代が懐かしく思い出されて仕方ありません。
これからも日記代わりにに書き込みを続けると思いますが、蟻の文章は長くてウザイので、お気に召さない時にはトバしてくださいね。
595(蟻жж):05/01/06 21:47:27
お食事がまだの方はトバしてください。
今は味気ない納骨堂となった先祖の墓。
小高い山の頂上にあり 場所こそ変わりませんが、昔は墓石が並んでいました。
納骨堂に安置する前に、村のご先祖様の骨を掘り返したところ、まだ肉のついたものがゴロゴロ出てきたそうです。
村の青年団のお兄さん達が、生の骨を見つけては、焚き火をして焼いていました。
一昔前までは土葬だったんですね。
骨を焼く焚き火には子供は近づけませんでしたが、納骨堂が出来上がりお参りに行くと、周りに小さな人骨の破片が落ちていて、少し怖かったです。
596(蟻жж):05/01/06 22:07:46
自分で見たことはありませんが、納骨堂に奉られている叔父(父の一番上の兄)の骨壷には、石コロが一つ入っているそうです。
ミッドウェー海戦で船と共に沈んだから遺骨が無いんです。
同じような話は沢山聞きます。
お国のために戦い、死んでも故郷に帰れないって寂し過ぎますね...
懐かしい故郷に帰りたくとも、それを口にすることも許されず、異国で土になられた英霊のかたのことを考えると、本当に悲しくなります。
戦争は、二度とおこしてはいけないと思いますが、自衛隊イラク派遣のニュースを見ると不安になります...
597(蟻жж):05/01/06 22:25:24
幼稚園帰りに、墓石の隙間から、蜜蜂がウヮンウヮン飛んでました。
馬鹿な蟻は、
「ヨ〜シ! ハチミツ、トルゾ〜!」と意気込み、近くに捨ててあったダンボール箱を蜂の巣めがけて被せ、蜜蜂の大群に襲われました。
その後にスズメ蜂に刺された時は、頭に蜂の剣付きお尻が残っていました。
刺された自分の顔や頭を見た記憶はありませんが、きっと凄いことになってたんだろうなぁ...
元々悪かった頭がそれ以降、益々悪くなったような気がします。
40代となった今も、蜂は一番苦手な生き物です。
トラウマかなぁ?
598590:05/01/06 22:53:38
蟻さん、お疲れ様・・・590です。
記憶の奥底にしまってある思い出の数々が段々と蘇ってきますね。
おっしゃるとおり、毎日の雑事に追われそれらはいつもどこかへ隠されているのでしょう。

まさしく、蟻さんの戦死された叔父様のお話は、私の祖母の弟のそれと全く同じです。
一族の者も未だに納得がいかないようです。
599名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 22:58:58
一度聞きたいと思っていました。
思い出してなんになるの?
蟻さん、精神的に余裕がありませんのでっておっしゃってますが、
精神的に余裕があるからそうしていられるんだと思うが?
ちなみに、荒らしでも煽りでもありません。
600名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:07:07
600
601名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:08:11
>>586
カワニナは、竹を筒状に編んで作った、鰻?を取るための罠だと思う。
違ってたら、ごめんね。
602名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:12:33
カワニナってつぶ貝の仲間でそ?
蛍の幼虫が食べるやつでそ?
きれいな水のところにしか生息できないって・・・・
603名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:13:55
家が貧乏だった人間は、例外なく、卵かけ御飯が大好きだと聞いたことがある。
俺も家が貧乏で、卵かけ御飯は大好きだが、おまいらは、どう?
ちなみに、俺の田舎では、卵かけ御飯を「ぼっかけ」と言っていた。
604名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:17:13
>>602
そうだったのか・・・知らんかった。
605(蟻жж):05/01/06 23:21:33
学校帰りの道すがら、雨の降った後しか水の流れない川からチュゥチュゥと言う鳴き声が。
声の主を探したところ、川の土手の窪みに茶色の小さな生き物が。
可愛くて、頭を優しく撫で、そっと手で抱きあげてみました。
その直後、この世のものとは思えないほどの激臭が鼻を襲いました。
慌てて家に走って帰りましたが、バアチャン曰く
「イタチの子ば触ったバイネ!」
翌日まで臭いがとれませんでしたが、それよりも気掛かりだったのは、その後のイタチっ子の運命。
野性の動物って、人間に触れられた子は見捨てると聞いたことがあったので。
私貧乏な家庭で育ったけれど、
卵かけご飯嫌いなんです。
理由は、母方の祖母が同居していたんですが、
卵1個をかき混ぜて、それを弟と私に半分ずつご飯にかけるのね。
その時、いつも私の方に白身をたくさん入れて、
弟の方は、黄身がたくさんだったの。
白身がたくさんの卵かけご飯って、気持ち悪いよ〜。
祖母はとても跡継ぎである弟こと可愛がっていたよ。
607名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:31:14
白身の生ってキモイよね。
煮炊きしてあると白身のほうが美味しいけどね。
608(蟻жж):05/01/06 23:34:19
>>599さん。
夜になると、そこら中が真っ暗になり、星がとても綺麗な田舎で育った小さな蟻が、東京に出て来て人混みに驚き、日々の仕事に疲れ、田舎の生活を懐かしんで書き込みしているのだと笑ってください。
田舎に戻りたいのに、帰ったとしても満足な仕事につく自信もなく、女々しく昔を懐かしんでいるのだと...
609名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:35:53
旅館の朝食は卵かけ!!
610(蟻жж):05/01/06 23:44:09
>>603さん、卵かけご飯、大好きです。
特に、冷やご飯
に卵をかけたものが好きです。
蟻の田舎ではシンプルに「卵ご飯」と言います。
でもチャボの卵も貴重すぎて、小さな頃はほとんど食べれませんでした。
蟻の兄はもっと悲惨で、煮たカボチャの黄色い部分だけをご飯に混ぜてもらったものを「卵ご飯バイ〜」と親に言われて食べてたそうです。
611名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:45:45
卵かけご飯!・・・好きなんですが、うちは貧乏ですので、やはり
6人家族(父と祖母と母と妹と弟と私)で4個使ってました・・・つまり、
6人家族で4個の卵かけご飯を丼で混ぜて配るの。
白身と黄身を均等にしながら・・・ここが美味しさの一つのポイントかと・・・。

一番最後の人はその丼にわずかに残った卵液の中にご飯を入れてお醤油をかけて、
海苔でまいて食べてました。これは、大抵母か私でした。
これって長女の宿命なんでしょうかねぇ・・・。
612611:05/01/06 23:50:19
連続書き込みですが・・・

>609さん
旅館で朝に生卵を出すのは、おそらく手を着けないで残した生卵が夕飯等に
加熱して再利用出来る為だと思います。
613(蟻жж):05/01/06 23:54:56
>>606さん、長男と次男もそうですよ。
兄は待望の長男としてこの世に生を受け、農家の跡継ぎとしてジイチャンに、それはそれは大切に育てられたと聞きました。
そして長男だけに受け継がれる神楽(踊り)を夜遅くまで練習し身につけ、
長男にしか受け継がれない山の所有権(他人の山との境界線)を覚えこまされました。
私は両方とも未だに知りません。


次男で良かった...
614名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/06 23:55:45
家で朝飯に卵かけご飯は、食べませんね。。。
615(蟻жж):05/01/07 00:07:05
>>611さん、豪勢ですね。
蟻の実家では、食卓にあがるのはチャボの小さな卵が一っ個だけ。
バアチャンのものでした。
たまにバアチャンが自分で食べずに「食べればヨカ」と蟻にくれた卵も、直ちに母に回収されモミガラの中の卵保存箱に埋められました...
海苔なんて朝食に出たためしがありません。
海苔も卵も、運動会もしくは遠足の時しかお目にかかれないものでした。
その反動か、今は土曜日曜の朝食に一度で3個の卵を食べてます(笑
616606:05/01/07 00:07:37
>>613 (蟻жж)さん
家はサラリーマン家庭で、引き継ぐものなど何も無いのですが、
昔のことですから、跡継ぎを可愛がって育てるのは同じですね。
でも、姉・長女と弟・長男の場合はまた一寸違うのですよ。
お姉ちゃんだから、女だから、と我慢ばかりでしたよ。





617(蟻жж):05/01/07 00:25:33
>>614さん、卵ご飯は、蟻も平日は食べません。
生卵を食べると口臭がすると聞いたものですから。
自分ではわかりませんが、やっぱり臭うのでしょうか?
618(蟻жж):05/01/07 00:29:43
>>616さん、うちの姉は一人娘のためか可愛いがられてました。
姉が腹痛を訴えると、7km離れた町の病院からわざわざ医者を呼びました。
でも、蟻が腹が痛いと泣くと
「これを飲むと腹痛は治るバイ!」と父に言われ、
ドクダミと何かの草を混ぜて絞った青汁に、ほんの少しの砂糖を混ぜたものを飲まされるだけでした。
口に入れるとジャリジャリして、噛むとガラスの粉を噛んでいるような気持ちになる透明な粉末も飲まされましたけど、いまだにあれが何だったのか分かりません...
619(蟻жж):05/01/07 00:49:34
あれっ、もうこんな時間です。
明日も仕事と新年会あるから寝なきゃ...
最後に教えて頂きたいのですが、父が昔、
「田に仕事に行って昼飯飯を食べ、食べ終わったアルミの弁当箱に布を被せてヒモで巻き、布の真ん中に小さな穴を開け、弁当の中に味噌の固まりを入れて川に沈めておく。2〜3時間して弁当箱を川からあげると中には小魚が沢山入っていた。」と言ってました。
本当に、そんな簡単な仕掛けで魚が捕れるものなのでしょうか...

蟻の夢は、四国の四万十川に、潜ったり、いろいろな仕掛けで小魚を捕ることです。
620名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 01:33:08
俺は鍵っ子で、卵かけ御飯ばかりでアレルギーになった。
親は、今でも自虐してる。

別に恨んじゃいないが、ただ卵って料理に多く使われてて、
そのたびに、アレルギーが出てたのは参ったよ。
昭和40年代の子供の頃、日曜の朝だけ卵かけご飯を食べていた。
おいしくて大好きだった。
卵は母の実家へ行くと、帰りにまんじゅうの紙箱にたくさん入れたのをくれた。
それがうれしかった。
だが、最近母から聞いたのだが、
うちの祖母は「卵ばかりもらってもしかたないだろう」とか悪態ばかりついていたそうだ。
嫁入り道具が少ないと文句言ったり、後から母の実家に家電を買わせたり、
ったく、強欲ジジババめっ!!
やさしい祖父母の振りをしていたが、実はとんでもない性悪だったとは。
俺が死んであの世へ行ったら、きっちり文句を言わせてもらう。
622名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 01:55:09
>>619
それは味噌じゃなくウンコのような気がする。
母が川で漏れのオムツを洗うと、水面が黒くなるほど小魚が集まって来たって
聞いた事ある。
623(蟻жж):05/01/07 06:19:34
おはようございます。
今日1日頑張れば3日連休ですね。
>>622さん、確かにそうかもしれませんが、アレは、アルミの弁当箱に入れるものではないと思います(笑
624名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 09:39:06
おはようございます。
今朝は、七草粥をしました。
昔むかーしの子ども時代は、今よりもっと寒かったので、草なんか少なかった気がします。
大根の葉が、たくさん入った粥を食してたような…。
卵の話題で盛り上がってるようなので、わたしも。子どもの頃、卵屋さんがありました。S・M・L・LLと、、LLは今よりもっと大きく、時々双子でしたよ♪
一つから買えて、新聞紙で包んでくれてました。白身のズルッとした感触が嫌いなので、卵かけご飯は苦手でした。
卵って、一つ60〜80円くらいしてたんでしょうか? (肝油でした…。)
625590=610,611:05/01/07 14:44:59
蟻さん、こんにちは。
そんなに豪勢でもなかったですよ・・・だいたい日曜日か祭日の朝のことでしたので。

>606さん
わかります!うちもそうでした。長女の悲しさというか、確かに「お姉さんだから」で
いろいろと我慢させられたものでした。
何より頭に来たことは、弟が生まれて3ヶ月の時に、一人で買い物に行った
八百屋のおじさんから、「嬢ちゃんの所の赤ちゃん、今度は男の子じゃったんじゃね。
男の子はイエの宝じゃから、よかったねぇ」何て言われて私はふてくされて、
「じゃぁ女の子はイエの何なのよ?」と言おうとして言えなかった事です。
626名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 15:29:51
中学卒業し、両親が離婚するまで6畳一間のアパートでした。
卵かけご飯なんて日常茶判事で、僕達兄弟はオヤジは夜仕事でいなく
母親は、朝帰りの毎日だったのでメリケン粉を溶き砂糖をまぜた
ホットケーキの偽物を主食にしていた時期もありました。

>>626
オレもその味よく覚えてるぞ。・゜・(つД`)・゜・
うちは田中角栄を境に貧乏から抜け出した気がする。
本当に所得倍増したのかもしれない。
貧乏な頃は夕飯が塩にぎりだったりした。
美味しかったけど。
629名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 20:31:12
味噌のおにぎりも美味しかった。
630(蟻жж):05/01/07 22:32:10
>>625さん、こんばんわ。
実家の朝食、粗末なものでした。
ご飯と具沢山の味噌汁に、漬物や豆を醤油で漬けたモロミもどきです。
夏の昼御飯で母が作る「冷や汁」が好きでした。
味噌を水で溶き、薄く切ったキュウリを入れただけのものでしたが、氷が浮いてて、冷たくて美味しかったな。
それを冷や飯にかけてサクサク食べると体の芯から涼しくなりました。
昼御飯のあとは畳を外した板張りの部屋で2時間ほどお昼寝です。
外は猛暑でも、冷えた板の上で心地よい眠りにつけました。
裏山から流れてくる冷たいそよ風で楽しい夢を見ました。
631名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/07 22:52:39
こちら北関東ですが「冷や汁」ありましたよ。
煎り胡麻を鉢ですり、味噌、キュウリを入れ、水で溶く。
それを素麺で食べた。

幼少の頃は夏の定番でした。
最近食べてないな〜。
632625:05/01/08 00:17:52
蟻さん、今晩は。
「冷や汁」って、確か宮崎の郷土料理かと思っていましたが、631さんの
お話では北関東でもあるものなのですね。
胡瓜やナスは体を冷やす野菜ですので、真夏のご飯には良く合うのでしょう。

「びわ」・「いちじく」・「柿」は、買う物ではなくて大抵の農村のうちでは
もいで食べる物でした。

ブロッコリー、カリフラワー、グリーンアスパラガス、ズッキーニ、クレソン、
ミニトマト等の洋野菜の存在を知ったのは、中学3年生の時でした。

でも皆さん、食に関してはある意味贅沢な体験では?

「ご飯」「具沢山の味噌汁」「漬物」
「豆を醤油で漬けたモロミもどき」「冷や汁」
もぎたての「びわ」「いちじく」「柿」・・・。

どれもこれも旨そうです。

そんな漏れは今、酒飲みながらツマミにチキンラーメン(勿論生)を喰っちょりマス。
634(蟻жж):05/01/08 05:01:35
休日だというのに、こんな朝早く目が覚めまてしまいました。
昨晩のお酒のせいでしょう...
生ビールとジントニックを3杯ずつ飲んだだけですが、蟻は日頃晩酌もせず、酒に慣れていないので酔ってしまいました。
冷たい水が美味いです。
小学生の時に、冷蔵庫の中にあったビールを飲んだことがありました。父や兄が旨そうに飲んでいたので、好奇心からでした。
一口飲んで、あまりの苦さに驚き、思わず吐き出ししてしまいました。
飲みかけの瓶に蓋をして冷蔵庫に戻しておいたのですが、農作業から帰った父と兄にバレ、叱られてしまいました。
635(蟻жж):05/01/08 05:20:20
父や兄の晩酌のおツマミを取りに行かされました。
竹山に栽培してあった椎茸を採ってきて、火鉢にのせ、醤油や塩を掛けて焼きました。
近くの畑に植えてあった茗荷や、川岸に生えていたセリも採りました。
夕方、セリを採りに川に行くのが面倒なので、採ってきたセリを庭の水道の回りに移植したところ、ちゃんと根付いてくれました。
それからはセリ積みが楽になりました。
昨年帰省した時に見ると、35年以上も経つのにセリはいまだに庭に生えていました。
酢味噌つけて食べるセリ、薄く刻んだ茗荷、焼いた椎茸は酒飲みの父の好物でした。
636(蟻жж):05/01/08 05:46:09
家の裏にも前にも山がありました。
正月になると、父は酒のツマミを入れた盆を風呂敷に包み、近所のオッサン3〜4人と嬉しそうに近くの山に登り、焚き火しながら飲んでいました。
途中、太いモウソウ竹を斜めにナタで切り、焚き火の回りにそれをさして日本酒を温め飲んでいたようです。
村では「カッポ酒」と呼んでいましたが、「竹の香りが日本酒について旨い。」と父は言っていました。
兄も真似しているようですが、私は未だ経験がありません。
酔っ払い、大声で笑いながら山から下りてくる千鳥足の父達の姿は、子供心に滑稽でした。
637名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 05:50:06
>>633
毎日食べてれば、そりゃ贅沢だわな。

ただ、至福のひと時の話してるんじゃねーの。
638(蟻жж):05/01/08 06:22:59
>>624は肝油さんだったんですね。
七草粥、食べたくなりました。
卵の話しですが、兄がブロイラーの仕事を始め、学生時代に帰省すると、いつも食卓のテーブルの盆に山積みの卵が積まれていました。
帰りにはLL玉を30個、必ず持たされました。
飛行機に乗る時の手荷物は新聞紙に包まれた卵だけです。
割れないように、大切に大切に、手に持ちました。
全て中の黄身が2個で、お得な気分になりました。
>>626さん、それ、蟻も食べました。田舎では「焼きだんご」と呼んで、滅多に食べれない貴重なオヤツでした。
黒砂糖入れると美味いんですよね
639名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 08:36:11
チョコレートをずうっと虫くだしだと親に思わされて、しばらくたってお菓子としったときは、
びっくりし44才になったいまでも大好物ですね。
技術家庭かなんかの宿題で、家の見取り図を製図しろという宿題が、貧乏長屋だったので
恥ずかしくて嫌だったので、忘れたといってかたくなに提出しなかった。
おもちゃのようなグローブしか買ってもらえず、学校で金持ちの子に馬鹿に
されいまだに野球が嫌い。
厨房になり袖にラインの入ったジャージの上だけでいいから買ってくれと、
スポーツ具店に初めていった。3000円の値札をみて母親がゲッと言ったが
無理して買ってくれた。
スポーツシューズをためた小遣いでかったら、いくらだかわすれたが高いと
怒られ返しにいかされた
高校に行っても、自家用車がなく、電車がストの日に学校にいけず困った。
そんな普通の貧乏でした。
今も、けっして金持ちではないが、どこの家でも何でも普通に買える生活が出来る。
みんな、お父さんやお母さんたちががんばってくてたんだからだろうな〜。
640(蟻жж):05/01/08 08:53:55
小学校の時に、自分の住む集落で一番賑やかな場所の、交通量を調べるという宿題がありました。
幼なじみと一緒に道路開通の記念碑前(隣には炭焼き窯があります、今も。)で通る車を待ちましたが、当時は車を持っている家庭など近くに無く、二人して「宿題やって来なかったと言われたらドガンしよか..」と落ち込んでいました。
見かねた父が、
単車で3往復、耕運機で2往復してくれました。

オートバイ6台、自動車4台と宿題に書きました。
641625=632:05/01/08 10:49:48
蟻さん、おはようございます。
小学校の思い出、皆さんほろ苦い経験がありますね。

本州の西端で、妻妾同居の下級士族出身の私の一族では何かというと「明治維新」が
合い言葉のように出てきていました。
小学・中学(公立)は、130年の伝統校で。   
何故だか知らないけど、特に江戸末期〜明治以後の社会の授業は学校も保護者も
一体になって盛り上がっていました。

教育水準は関東の今の私の住んでいる所よりも数段上だったように思います。
強い東京指向のせいか、当然のように私も大学は都内の私大へ進学。
今でも貧乏ですがどこかにへんなプライドがあるのは自覚しています。

車は持っていませんが、我が家には自転車がありますよ。
それから、ちなみに夫の家は両親の期待を見事に裏切ってリタイアしていますが
サラリーマン家庭。
ある叔母から、2世代議士の見合い話がきたときには正直迷いましたが、断りました。
官僚の妻や代議士の妻っていう身分は気苦労が絶えないと思いましたので。

こんな話書き込んでしまうと、皆さん「時代錯誤も甚だしい」って思われそうですが、
真実ですから。
642(蟻жж):05/01/08 11:02:03
これも小学校の時ですが、一歩の歩幅を測り、学校と家との距離を調べる宿題が出ました。
距離は4kmと聞いていましたが、歩数から計算したところ6kmを超えました。
山を二つ三つ越え、隣の町の小学校に越境入学して通っていました。
山道を登る時には人の歩幅は自然に狭くなります。
小学校の本というものは、平地に住む街の子供達のために作られているのだな、と考えて、ちょっと淋しくなりました...

余談ですが、今度小学校にあがる姪っ子は、町のお金で毎朝、黒塗りのタクシー通学になります。
贅沢過ぎて、とても羨ましいです。
643625=632:05/01/08 13:16:27
>642
す・すごいですね。熊本県の山間部はどこでもそうなのでしょうか?
小学生が黒塗りのタクシー通学ですって?
まぁ、物騒な昨今のご時世ですので致し方ございませんでしょう。
姪御さんが事件・事故などにあわれない事をお祈りします。
644(蟻жж):05/01/08 15:07:09
>>643さん、10年ほど前まではスクールバスでしたが、小学生の数が3人くらいに減り、スクールバスの燃料費と運転手の人件費を考えるとタクシーのほうが安い、と町の教育委員会が決定したそうです。
>>641さん、高杉さんの出身地ですか?
トラフグの美味しいところかな?
数年前、空港のある市に、仕事で7ヶ月間滞在しました。
クジラが安くて、美味かったです。クジラ肉も値段が高くなりました。昔は、貧乏な我が家でも焼酎の肴で食べれるくらい安かったのに...
渋谷の店なんか、本物のクジラの味もしないのに、軽く諭吉君が飛んでいきます。
645641=643:05/01/08 16:33:27
蟻さん、レスありがとうございました。

過疎化が一層すすんでいるようですね。

その通りです。蒸気機関車がS48年までごく普通に走っていました。
県庁所在地の地価が万年全国最下位で、人口も頭打ち。
皆、過去の遺産で食べているようなところです。
昨今の一番の有名人は、なんといっても波田陽区さんですね。(笑)
646(蟻жж):05/01/08 18:51:09
ロンブーのアツシさんもそうですよね。
滞在してみて、市の人口に比べて塾や予備校が異常に多いと思いました。
教育県だなと感じ、驚きました。
蟻は塾に通った経験がありません。
住んでいたマンションからは海が見え、休日は海岸を散歩しました。
○○興産という会社が海の下の鉱物を掘っていましたが、戦前朝鮮半島より来た人達の三世の方も多く、焼肉の美味しいお店が沢山ありました。
特にフグの街まで行って食べた焼肉屋さんは、今までで一番美味しかったです。
また行きたいです。
647645・・・:05/01/08 20:29:20
>蟻さん、今晩は。
下関でしたら、ロンブーのアツシさんもそうですね。
あと、故・松田優作さんも。

JRの大きな駅周辺には塾・予備校があり、あと2ヶ月くらいで
出身中学→合格高校が塾の掲示板に大々的に実名で貼り出される事でしょう。

蟻さんが7ヶ月間すごされた西村知美さんの市は、仰るとおり○○興産の
企業城下町といえます。セメント業界ですね。
まぁ、いろいろ問題をかかえていますが、この季節ですとふく(河豚)を始めとして
水産加工品(うに・かまぼこ類)は美味しいと思いますよ。

もう少しこの県の特徴をお知りになりたいという方には、
去年公開の『チルソクの夏』という映画をご覧になる事をお薦めします。
演歌歌手の山本譲二が流しのギター弾きとして出演しています。

648梅雨:05/01/08 21:29:51
>>619 そうやって小魚をとったこと私あります。
ほとんどハヤですけどね。まきえは米ぬかでした。

数年前 福島のいわき市にいった時 川はハヤで真っ黒だった。
地元の若者に ここらではハヤは食べないの?と訊いたら
ハヤは臭いから食べない という応え
そりゃ 川が汚れてんだ ハヤはふつう臭くない と思った。
649梅雨:05/01/08 21:33:51
 えー冷や汁ですが 東京では宮崎観光コーナーで食えます。
 JR新宿駅南口からスクエア方面に渡る歩道橋を歩くと
 右にあります。安いですよ。
650(蟻жж):05/01/08 22:13:25
>>647さん、山陽町の「ワラジの寝太郎(平賀清恒)の伝説」ってお聞きになられたことありますか?
滞在した時に、海の幸で一杯やりながら部下が話してくれましたが、私のお気に入りの話です。
651645・・・:05/01/08 23:17:20
>梅雨さん、今晩は。
ハヤのまきえは米ぬかだったんですか・・・なるほど。
え?宮崎観光コーナーって新宿にあるのですね。
今度暑い時に行ってみますね。

>蟻さん、
勿論、 山陽町(「厚狭」)の「三年寝太郎伝説」存じていますよ。
ちなみに、『寝たろう餅』というお菓子もあります。

厚狭と言えば、『チルソクの夏』のモデルの高校は
厚狭高校だそうです。高校の陸上部のほろ苦い日韓交流映画です。
おそらく、今DVDも出ているそうです。
主人公の4人組の陸上部の女子高生の中の一人は、今放送中の
NHK朝の連続ドラマ「わかば」のヒロインです。

652名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/08 23:55:05
突飛な質問ですいません。
アメリカザリガニをおやつ代わり食べて少年期を過ごした方っております?

私は釣って飼うことはしました。けど家に友人が来たとき
「マッカチンっておいしんだよねぇ」と事も無げ言われて驚きました。
そういう少年期を過ごしたのは彼だけだと思い、
居酒屋の店長に話したら、「生で結構食べてましたよ」
え”って仰け反りました。
最初、店長に「マッカチンを食べるのってヘンですよねぇ」って余計な言葉を
いわずに良かったとおもいます。
迂闊に自分の価値観を押し付けなくて……
アメリカザリガニ愛食家って結構いるんですかね。
653(蟻жж):05/01/09 00:10:02
父母の畑仕事にくっついて行きました。
三人分のアルミの弁当箱を持ってです。
オカズは梅干しと漬物だけでした。
貧しい弁当でしたが、青空を見ながら食べるご飯は最高でした。
ある時、箸を持って行くのを忘れてしまいました。
弁当、食べれないと思い、悲しくなりました。
父が畑の土手にある柿の枝を折り、箸を作ってくれました。
曲がった箸、子供の小さな手では食べにくかったですが、父母と一緒に食べれることが嬉しかったどす。
654名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 00:15:30
う〜ん・・・・懐古主義ですね〜みなさん
655(蟻жж):05/01/09 00:25:47
>>652さん、ザリガニですが、幼なじみの一人は捕りに行ってたみたいです。
ゆがいて食べると美味しいと言ってました。
でもザリガのいる川まで行くには自転車が必要でした。
蟻は自転車をもっていませんでしたから、捕りにはいけませんでした。
656名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 00:26:40
ザリガニ食べるとお腹壊すって言われてたけどぉ
657名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 00:31:34
なまで食べると虫が多いのでだめです。
ゆでれば大丈夫
658名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 02:10:29
ザリガニと言えば、思い出す。
水路に生息するザリガニを、皆、イカとか垂らして釣っていた。

俺は面倒臭い事嫌いなんで、水路の壁に囲いをし、ハエナワ漁のごとく
ザリガニを全部釣り上げた。

みんなから嫌われた。
659(蟻жж):05/01/09 06:42:33
秋も深くなると、父が山に入ります。
目的は、山芋を掘るためです。
そのために父は、夏の間に農作業の傍ら、山に入っては山芋の蔓を見つけて目印を付けていました。
秋になると蔦が枯れて、山芋が何処にあるか分からなくなるからです。
山に一緒に入り、目印を探すと、細い蔓が土の中から流さ2cmほど出ています。
その下に山芋があるのですが、長さ150cm位の木の先に平たい鍬がついた専用のもので、根気強く掘っていきました。
流さ1m以上の山芋を折らずに掘れた時は、とても満足そうでした。
途中で折れると大声だして残念がっていました。
660(蟻жж):05/01/09 06:59:43
掘った山芋は食卓の花形でした。
スリコギで摺ったものに、冷ました味噌汁を少しづつ注いでまた摺り、暖かいご飯にかけて食べました。
摺る時は力が必要でした。
天然の山芋は、粘りけが凄いんです。
美味かったです。
美味いの一言でした。
山芋を摺ったものを少し置いておくと固まりました。
それに醤油をかけただけのものも、なかなか、おつなものでした。
秋から冬にかけての、貴重な食べ物でした。
そのうち、野菜作りを生き甲斐とする母が、畑で長芋を作るようになりましたが、味も、コクも、固さも、天然ものには敵いものでした...
661(蟻жж):05/01/09 07:53:40
近所の家に甘茶の木があり、葉っぱを貰いに行っては、本に挟んで乾燥させました。
乾燥した葉っぱにお湯を注いで飲むと、ホンノリ甘くて、幸せな気持になれました。

今、同じことをしても、その淡い甘さを感じることが出来るか自信がありません。
これまで手にいれた甘さと同時に、苦さも嫌というほどに味わいました。

舌が肥えると云うことは、己の感覚を麻痺させていくことかもしれないな、などと思うこの頃です。
662(蟻жж):05/01/09 08:40:08
今ではハイカラな名前がついた遊歩道になっていますが、山仕事に行くための細い山道がありました。
山の上に大きな石があります。
上に乗ると、大きさは畳5枚程の大きさでしょうか...
今にも傾きそうな石の下の僅かな空洞の土の中から錆びた刀が見つかり、現在は県の美術館に保管されています。
修験者が、いつ崩れ堕ちるかもわからない大石の下で修行し、埋めて行ったものと云われていますが、真実は分かりません。
こんな山奥の村に、よく人が住んでいるものだと驚かれます。
そんな山奥の、家が15軒しかない田舎で育ちました...
663(蟻жж):05/01/09 09:21:50
子供の頃、父と杉の枝落としに山に登った時、村の一番奥の山に石垣の跡と見られる石が転がっていました。
父親に、昔は家があったのか聞くと、答えは曖昧でした。
気になり、今朝電話して尋ねたところ、
300年以上も前、一帯を納めていた総庄屋の野村さんという人が、京都に行って女郎を見そめ、お妾さんとして九州まで連れて来て住まわせた屋敷の跡との話でした。
しかし、よくあんな山奥に隠したものだと感心します。
京都から来られた方も、夏はヤブ蚊が多く大変だったと思います。
よほどの恐妻家だったのでしょうね...
664(蟻жж):05/01/09 09:45:13
田んぼの中の端っこに水の流れる溝が掘ってあり、その中の泥をガバッと手で掬って拡げると、中からドジョウがウジャウジャと出てきました。
竹籠に入れて、小川の水で泥を流し持って帰り、煮たものは大切な蛋白源でした。
今では農薬のせいで、ドジョウも取れなくなったと聞きます。
護岸工事以外に、川に魚が少なくなった大きな原因の一つではないでしょうか。
実家から送ってもらった米を、今、妻が炊き始めました。
味噌汁の具は、実家から送ってきた里芋みたいです。
今朝の卵焼きには、ニラを刻んで入れるように頼みました。
665名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 10:04:08
摺った山芋を冷ました味噌汁冷で伸ばしていく食べ方があるのですね。驚きました。
ず〜と読んでいると昔に戻って行きたい気分になりますね。
666名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 10:18:02
666食
667(蟻жж):05/01/09 13:34:53
まだ残っていると思いますが、母の実家の裏庭に、にっ桂の木がありました。
葉っぱのついた枝や、根っこを掘って持って帰りました。
葉っぱは、そのままかじり、根っこは天日で乾かしてかじり、シナモンの味と香りを心ゆくまで楽しみました。
668名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 14:16:50
>>120
あの軟球たまに落ちてて「変わった軟球だな〜貰い!」
とか言いながら三角ベースやってたよ。
669名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 14:34:32
>>667
にっ桂の木の葉っぱもいい香りなんだよね〜根っこよく掘って齧ったよ。旨かった〜
ザリガニも食ったな〜田舎だったから季節によって食べる物いつも同じだったよ。
670651:05/01/09 17:03:54
こんにちは、ここを読んでいたら急にお腹がすいてきました。
私はタニシは食べていましたが、ザリガニは食べた事がありません。

「公設市場」まで行けば車エビが安く手に入りましたが、甲殻類は余り食べません。
今でも、あじの開きとか鰯程度で満足してます。

そうそう、昨日映画の『チルソクの夏』のことを紹介しましたが、訂正があります。
舞台は X厚狭高校→○長府高校です。 ごめんなさい。
今日、近所のビデオ屋で確認してきました。


671名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 17:21:13
おれは自然薯掘りによく行ったぞ!
あれは短気だと途中で折れるんだよな
672名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 17:22:42
春先は土筆やノビルを採ってた
母が喜んだ
673(蟻жж):05/01/09 17:57:35
>>670さん、
今、レンタルビデオ店行ってきたのですが、「チルソクの夏」、貸出中でした。
次の週末こそはと思います。
しかし今日は、風も強くて、とても寒いですね!
買ってきたコーヒーを入れる香りが部屋に漂ってきました。
煙草を吸い始めたら、煙に驚いた猫が走って逃げて行きます。(ゴメンネ)
実家でも猫を飼っていたのですが、煙草を吸う兄の煙が部屋に充満することもありませんでした。
隙間の多い家だったからでしょう。
冬になると、綿入りのチャンチャンコ着せられ、炭を入れた掘りゴタツに足を放り込み、暖をとりました。
674(蟻жж):05/01/09 18:16:52
>>671さん、確かに父は短気でした。
ジイチャンが亡くなる時に枕元で「お前は短気だけんイカン...直せ...」と言われ、徐々に丸くなりました。

>>672さん、ノビルをご存知とは!
嬉しくなりました。
土筆や蕨も学校帰りに摘んで帰りました。
子供の頃に美味しいと思ったことはありませんでしたが、この歳になって好きになりました。
特に土筆の苦い味噌汁が大好きです。
675651:05/01/09 20:45:51
今晩は。
『チルソクの夏』を探して下さってありがとうございました。
ご近所のお店では貸し出し中だったとは残念でした。
なかなかの名作だと思いますので、来週はあるといいですね。

>672
あと、春先にはせり・土筆・野蒜も摘んでしましたね・・・もう少し暖かく
なると蓬(よもぎ)が出てきて、祖母と摘んでは草団子を作っていたのを思い出します。

よもぎの草餅にするには硬くて大きな葉や蜜柑の皮を日に干して乾燥させたのをお風呂に
入れていましたっけ。

私、小学生の時に犬の散歩も兼ねて家の裏の竹藪で時々筍を掘って、夕食に取り立ての筍を
食べていました。
朝の取り立ての筍は軟らかい部分はお刺身で食べられますし、お吸い物にも美味しいし、
硬い部分は若竹煮(ワカメと筍の煮物)も美味しいです。

蟻さんが、竹の筒に入ったご飯を食べていたということでしたが、竹と竹の皮に
ある殺菌効果で、ご飯が腐敗しなくて美味しかったのだと思います。


676名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 20:59:51
竹の子の皮の産毛を削いで
梅干をくるんで舐めてた
677とほほおぢさん:05/01/09 21:01:40
たけのこの皮を三角形に折って
中に梅干入れてちゅうちゅうしてたけど
こんなことやってたのは私ンとこだけかな・・・?
678とほほおぢさん:05/01/09 21:03:08
>676
うわあ!!ほぼ同時にレス!
私ンとこだけじゃなかったのね。
679名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:05:21
>>678
うひょ〜  (。・ω・。)人(。・ω・、)ノ ナカマッw
680名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:09:50
677>オレもやってた。42♂ 
681名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:11:02
ナカーマヽ( ・∀)人(´∀`)人(∀・ )ノナカーマ
682名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:15:29
>>680
俺もした。旨かった〜
683名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:16:05
水泳パンツが買えなくて普通のパンツで泳いだ。結構そんなやつがいたっけ。
684名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:22:02
この時期は近所の仲間と焚き火しながら焼き芋くったりした。
もちろんホイルなんか無い。そのまま焼いて食ってた。
あとは干し柿だな。どこの家にも物干しに干してあったからな。
685(蟻жж):05/01/09 21:41:22
秋になると家族全員で柿ちぎりに行きました。
その頃はまだ木から落ちたことがなかった父と兄が木に登り、竹の先が割れたモジキ(ガッソと言ったかな?)で柿をもぎ、藁で編んだフゴという入れ物に入れ、木の上からロープで下ろします。
ロープがついたままのフゴを、木の側に座っている母と姉のところに運ぶ役目でした。
母と姉が干し柿用に柿についた小枝を剪定しました。実家でも鈴なりの干し柿を作りまし
干し柿業者に売るためです。
10トントラック山盛りになりましたが、幾らになったのかな。
大した金額にはならなかったと思います。
686名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:53:42
四万十川の話を聞かせてくださったのは蟻さんだったのですね。
あの話も楽しかったです。有難う。
687名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/09 21:57:49
鹿をさばけるというのも、もしや?w
688651・・・:05/01/09 22:27:47
>686
え?四万十川のお話をして下さったのは蟻さんなのですか?
私、てっきり
四万十川さんと蟻さんは別人ではないかと思っていました。
蟻さん、どうなのでしょうか?
差し支えなかったら、教えて下さい。
689652:05/01/09 22:36:49
みなさん、教えてくださりありがとうございました。
また、このスレに遊びにきます。
690(蟻жж):05/01/09 23:43:17
>>686さん
違います...
>>687
違います(笑
>>688
違います

蟻は、九州の山の麓の小さな小川が流れる田舎の出身です...
691(蟻жж):05/01/10 00:09:54
村の上手にある石の階段を90段ほど上がった所に「菅原神社」という小さな神社があります。
牛馬を祭る社もある、典型的な村の神社です。
お正月に家族とお詣りしてお神酒や数の子を頂いたり、村祭りに「子供相撲」を取りに行き、一つかみのお菓子とオニギリ、イリコを頂きました。
外で食べるものは、たとえイリコと云えども美味しかったです。
夏に神社に行くと、一面に苔があるせいか、涼しかったことを覚えています。
蚊にも刺されましたが。
小学生の数が少なくなるとともに、子供相撲も無くなったと聞き、少し淋しくなりました。
692(蟻жж):05/01/10 00:18:48
自転車の荷台に大きなコウリを乗せた「富山の薬売り」のオジサンが年に数回来て、紙風船をくれました。
満足なオモチャも買って貰えなかったので、狂喜乱舞したのを覚えています。
いつの頃からか、紙風船がゴム風船に変わりました。
テレビで見るガスの入った浮かぶ風船は、一度も買ってもらえませんでした。
欲しかったな、アレ...
>>692(蟻жж)さん
私もガスの入った浮かぶ風船、一度でいいから手にしたかったなぁ。
それと、リンゴアメ。憧れでした。
うちも、富山の薬売りのおじさんが来ていました。
紙風船、楽しみでしたね。
694(蟻жж):05/01/10 00:29:00
夏の午後になると、「チャリンチャリ〜ン」と鐘を鳴らしながら、アイスキャンデー売りのオジサンが麓の街から来ました。
一本5円か10円だったと思いますが、あまり買ってもらえませんでした。
それでも、「チャリン、チャリ〜ン」という音を聞くと、もしかしたら買って貰えるかもしれないとワクワクしました。
そのほとんどは、期待外れに終わりました...
695(蟻жж):05/01/10 00:37:06
>>693さん、そうそうリンゴアメ!
憧れていました。
当時、リンゴは九州で育たないと言われていましたから、北国を感じさせる上に、赤や青のアメでコーティングされているのですから、それはもう!
生まれて初めて食べたリンゴアメは、親で無く親戚のお姉さんに買って貰いました。
でも、思ったほど美味しくなかったのと、食べてる途中で落としてしまい、泣きそうになりました。
696名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 00:40:18
リンゴアメとは、贅沢なw
ミカンアメで十分だった。
697(蟻жж):05/01/10 00:47:29
ミカンアメって、私の行くお祭りでは売っていませんでした。
大人になって初めて食べましたが、これを子供時代に食べることができたら幸せだったろうな〜、と心から思いました。
水飴なんて小学校の6年間で、一度しか口に出来ませんでした。
698(蟻жж):05/01/10 01:11:54
何が辛かったかと言えば、
食べたいものを売っているお菓子屋さんの前を通るとき、
欲しいものを売っているオモチャ屋さんの前を通るとき、
美味しい匂いが漂ってくる食堂の前を通るときでした。
でも、うちにお金が無いことが分かっていましたので、わざと反対側を見て歩きました。
もしかしたら、一番辛かったのは、物欲に溢れた蟻の性格を知っていながら、我慢する蟻の姿を見ていた母だったのかもしれません。
手を繋いで足早にお店の前を通り過ぎようとしました。
街に出ると、あとが辛かったです。
699(蟻жж):05/01/10 01:28:15
小学校の時の授業参観。
母は幼なじみ二人の母親と着物姿で来てくれた。
帰りに雨になった。
傘を差し、着物の裾を上げて歩く三人の母親。
幼なじみ二人の母親は、着物の下に薄くて白くい肌ジュバンもつけていたが、母だけは着けていなかった。赤いジュバンだけだった。
大きくなったら、親孝行するぞ!
と自分自身に誓った。
700名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 01:32:18
>>699
蟻さんひと眠りして今目が覚めました。
四万十の話をしてくださった方と蟻さんは違う方だったのですね。答えてくださって有難う。
701(蟻жж):05/01/10 06:28:46
どういたしまして、>>700さん。
702(蟻жж):05/01/10 08:27:47
成人式、出席したことありません。
高校卒業した時に、寮の住所から東京への転職届けを出したのですが、東京で引越し届けを出さず、社会人になって引越し届けを出すまでの期間、幽霊市民でした。
幽霊市民に成人式の案内ハガキが届くはずもありません。
成人式の日は、バイトを終えてから、4畳半の狭い貸間の部屋で、実家から送ってきた正月用の餅の残りを雑煮にして食べたような覚えがあります...
703(蟻жж):05/01/10 08:29:37
転職届けでなく、転居届けの間違いでした...
704名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 09:30:34
案内ハガキが届かなかったのは寂しかったですね。
705名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 11:04:53
>>281
>チョコパフェなんて、高校生の時まで知らなかったよ〜。
同意。俺は上京するまでしらんかった・・・
ガキの頃の我が家のすき焼き、カレー等は全て豚肉だった。
海無し農業県のド田舎だったため、牛肉、いくら、うに、なんてのも上京するまでしらんかった・・・
ちなみにウチの小中の坊主たちは牛肉、いくらが幼稚園以前からの好物です。
706名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 11:09:54
私、日本海沿いの寒村に育ちましたが、ガキの頃あまり裕福ではなっかので
ゆでたカニの足をしゃぶっていました。カニ臭くて嫌いでした。
大学入学して、カツどん食ったときはあまりの美味さに感動したよ。
707名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 11:22:57
小学時代、ド田舎(人口2万人台の町)だった。
新幹線がまだ開通してなかったので、関東にもかかわらず、地平線を見ては
「東京なんて一生行けないだろナァ?」
と思ってた。当時、NYやロンドン並みの地の果て、って感じだった。
たまたま都内のおば宅へ遊びに行く機会を得、東京見物の第一声は
「地下鉄乗りたい」
だった。列車は原っぱを走るのが当たり前と思ってたので、
地下を走るなんて想像できなかった。
おば宅で初めて食ったグラタンなるものが妙にうまかったのを覚えてる・・・

708(蟻жж):05/01/10 11:24:45
>>706さん、カニしゃぶっていられたなんて、凄い贅沢ですね。
カニカマしか食べたことありませんでした。
あと、川で捕れる山太郎ガニという、甲羅が子供の手の平くらいの大きさの黒っぽい蟹を食べてましたが、身はほとんど入っていませんでした。
709名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 12:47:36
山太郎は上海蟹の近似種みたいでそっくりです。私は上海蟹は食べたことがありませんが、
山太郎は食べにくいですが本当においしいものの1つと思います。

都会では食べられないもののひとつですね。食いたい!!
710名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 12:51:28
山太郎続き
山太郎は本当に小さくて身がとりにくかったですが、ワイルドな親父達は平気で食べているので
どうやって食べるかを聞いたら、「殻ごとバリバリ食うんだ!」と言われてびびった覚えがあります。
711651・・・:05/01/10 12:54:18
蟻さん、こんにちは・・・やっぱり四万十川の方とは別人でしたね。

蟻さんは都内在住で熊本県の人口15人?!の山奥ご出身の方ですよね。

四万十川さんは高知の方で、正解ですよね。

蟹で思い出しましたが、私の母の実家が瀬戸内海の小都市にありまして、
毎年夏休みには、「汽車」を小郡で乗り継いで、母と妹・弟・私で4.5日滞在
していました。
瀬戸内海の夕暮れの美しさは最高!とか思っていましたがお盆過ぎの海水浴は
くらげが出るのできつく禁止されていました。
沢ガニがとことこ母の実家の庭先近辺まで歩いているようなのどかな所でした。

帰りには車エビ、蛸、鯵、鰯、いりこ、ワカメ等々の海産物を祖母は持たせて
くれました。
それを家に帰ってこれは一人何匹まで・・・なんて考えながら頂いていました。
井戸水で冷やしたスイカがとっても美味しかったなぁ〜!

でも、周南市近辺の出○石油などのコンビナートが出来てから、瀬戸内海も汚れてきたな。
まぁ開発と自然破壊は表裏一体ですから、ある程度は仕方のない事なのかも知れません。
712名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 14:29:27
お台場に上海蟹がいるそうだ。ソース○○新聞
713名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 14:58:44
モクズ蟹、石蟹、わたり蟹はいるね
714名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 15:04:50
706です。
その頃はカニ、いわゆるセコガニっていって小さいメスガニなんですが
安いものだったたんですよ。今は高いですが・・・
お菓子を買ってもらえないうちの子供は長持ちするからかじってたんです。
>>712
蟹にソースは不味そうな気がする。
716651,711....:05/01/10 16:34:12
蟹とは余り縁がないのですが、お台場の上海蟹って沢山いるんでしょうか?
蟹といえば、鳥取で食べた松葉蟹が美味しかったな。
北海道まで旅行した時に初めて「蟹の天ぷら」を食べました。

やはり、普段食べ慣れている、蟹の缶詰や「○文のマリーン」(この頃フランスでは有名)
より美味しかったです。当たり前ですよね。

この前スーパーで、706さんのおっしゃるセコガニを見つけました。
木製の桶に松葉をひいて、うじゃうじゃ売っていました。
なんだか「うちで飼ってみよう」という理科の教材みたいな感じでした。
美味しいのかしら?
717名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/10 22:20:32
セコガ二は、モズクガニですか?だったら味噌汁最高ですよ。
生で食うのは絶対禁止ジストマが98%いるそうです。
718651,711…:05/01/10 22:51:11
>717さん、

甲殻類に余り縁のない者ですが、ありがとうございました。
スーパーで見た蟹は、甲羅の大きさが5x3cmくらいで、とにかく桶で生きて
売られていてびっくりしたのです。

生食が厳禁で、味噌汁最高とは・・・いわゆる「蟹入り味噌汁」のことですよね?
味噌汁の中に蟹がそのまま泳いでいる状態の。

蟹といえば、新潟で以前に味わった「蟹ラーメン」!塩味のスープに
小さめの越前蟹?が入っていてとにかく豪勢というか豪快でした!!

ラーメン丼の大きさも巨大!でも、とても美味しく頂きました。
ラーメン1杯に¥1000以上支払ったのは、これまでの私の人生でこれが
最初の出来事でした。
ちなみに最低料金は、¥40。醤油味でしたね。(笑)
719名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/11 06:11:11
ぼくも、新潟でスキーにいったときに食べたな〜1500円だったような。
720(蟻жж):05/01/11 21:13:05
幼稚園に上がる前、母と二人ボンネットバスに揺られ、母の実家に行きました。
帰りにバスを待っていたのですが、バスが来ません。
「ギリギリの時間にバス停に来たから、もうバスは行ってしまったかもしれないね(訳:標準語)」と母に言われ、歩く事にしました。
次のバス停まで半分くらい歩いた所で、バスが蟻母子の横をすり抜けて行きました。
バスが1時間に一本もなく、結局、近道である山道を歩いて、家まで5キロほど歩きました。
暗い山道を歩くのは心細かったですが、つないだ母の手が暖かく、泣きませんでした。
ウック...
721(蟻жж):05/01/11 21:32:45
>>711さん、15人ではなく、15軒です。
人口は65人くらいだと思います。
夢を壊してすみません...
因みに、今の蟻の実家は7人家族です。
坪単価5000円の田舎です。
買う人はいないと思いますが。
722(蟻жж):05/01/11 21:43:30
蟹で思い出しました。
梅雨の時期になると、サワガニが実家の庭に散歩に来ました...
赤い色をしたちっちゃなカニです。
なんか、うれしかったです。
「ガンバレヨ!」なんて、声をかけたりして。
でも、大人になって帰省した時、油で揚げたサワガニが山盛り、ビールのオツマミで出てきた時には驚きました。
生活に困窮し、とうとうサワガニまで食べるようになったのかと。

食べたら納得しました。
美味しかった...
723(蟻жж)⇒オケラ:05/01/11 22:07:24
蟻より、オケラが好きでした。
庭の土を掘ると、出てきました。
軽くグウを結んだ手の中に入れると「うにうにっ」という感じで、逃げようとする感触が可愛く、たまらなく好きでした。
ひとしきり遊んだ後は、土の中に帰してあげました。
名前は忘れましたが、仰向けに寝かせると首の力で飛び跳ねる虫もいました。
最近は見なくなった玉虫、昔は沢山庭の柿の木に飛んできました。
田舎には無い派手な色をしていたので、夢中で捕まえて、夏休みの宿題で標本にして提出しました。
心から、深く反省しています...
724オケラ:05/01/11 22:20:31
小学校の帰り道、道に変な生き物がうずくまっていました。
よく見ると、「モグラ」でした。
本でしか見たことがなかったので、興奮しました。
よく見ると体をふるわせています。
可哀想で見ていられず、助けてあげようと手を伸ばしました。

咬まれました...
ばい菌が入ったら死ぬ! とパニックになり、家に走って帰り、オキシドールで消毒しました。
翌朝見ると、モグラの姿はありませんでした。
モグラの実物を見たのは、それが最初で最後です。
これまで沢山の人に、この話をしましたが、モグラに咬まれた経験は、オケラだけです..
725オケラ:05/01/11 22:40:36
もう一匹、変わった物に思いっきり咬まれた経験があります。
大人になってからの話です。

相手は、生き造りの「タイ」です。
大人になってからのことですが、会社の部下を連れて食事に行きました。
見栄を張って、タイの生き造りを注文しました。
出てきたタイは、口をパクパクさせて苦しそうです。
「往生せ〜よ。」と優しく声をかけ、何の気無しに顔の前に手をやると、タイが飛び跳ねて、人指し指を咬まれました。
血が出ました。
痛かったです。
タイに咬まれ今年で10年、バチがあたったのだと、今でも思っています...
726オケラ:05/01/11 23:22:56
>>710さん、カニを甲羅ごとバリバリって、中国の方は当たり前みたいです。
ある国の中華レストランに入った時、華僑の人達が何かの記念日らしく会食をされてました。
見ると、ブラックビーンズソースのかかったカニを丸ごと美味しそうにバリバリ音をたてて丸かじりされていました。
その音だけでお腹がいっぱいになりました。
そういえば、肥後の居酒屋さんで、甲羅が固くなる前の山太郎ガニがメニューにありました。
こげ茶色になる前の白いカニでした。
これならオケラでも! と思い、甲羅ごと食べました。
翌朝、胃が痛く、胃腸薬飲みました。
727名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/11 23:40:56
生けづくりのさかなには、パクパクしている口にしょうゆをたらしてください。
もっと元気になりますよ。(余計くるしんでいるんですが)
728オケラ:05/01/11 23:55:55
ある日、父が買ってきた生カツオ。
母が包丁でさばきドンブリ山盛りの刺身になり、食卓に置かれたことがあります。
こんなに沢山の刺身を実家で見るのは生まれて初めてでした。
幼かったオケラ兄弟はご飯のオカズとして頂きましたが、食べ終わった子供達に向かって、落ち着いた声で父が「お前達、これを飲んでおけ..アタるかもしれんから...」
コップ半分の日本酒か焼酎を兄弟3人、喉に流し込みました。
腐りかけだったのか、それとも虫ヨケだったのか、いまだに怖くて聞けません。
日の経った刺身、日本酒を飲めば、体こわしませんか?
729711,:05/01/12 00:04:56
蟻さん(オケラ)さん、今晩は。
>721
ごめんなさい。オケラさんの集落は15軒でしたね。読み間違えてしまって申し訳ございません。
オケラさんは、幼稚園に行かれてお母様が授業参観には着物(!)で観に来られていたのですか。  
それだけでも、すごい・・・! 
私の近辺では幼稚園は1年保育のみが大半で、父が「2年も幼稚園に行って何になる!」
それよりもうちにいて家の手伝いをしていろ。
「勉強は小学校からで〜!」という考えでした。
幼稚園の入園式と小学校の入学式では大多数のお母様方が着物姿でしたが母は少数派の
スーツ姿でした。
確かに単に着物の似合わない体格でしたし、そんなに着物も持っていなかったから、
敢えてスーツ姿にしたのでしょう。

明治末期、大正〜昭和一桁生まれ位の方は改まった場所では、着物が定番でした。
特に、和裁や着物の着付けはできて当たり前だったように思います。

亡き祖母は着物を洗い貼りしていたようにしていました。
父は、勤め先から戻ると夏は浴衣を着ていたように思います。

ボンネット式のバス、走っていましたよね。
車掌さんが黒い鞄を首から提げていて、「お切らせ願いま〜す」って言って
切符を切っていました。
1時間に10本ではなくて、1日に10本くらいのバスでした。

モグラの穴そのものは私は見たことありますが、モグラに遭遇したことは
ありませんでした。
730オケラ:05/01/12 00:16:24
冬、
滅多に風邪をひくこともありませんでした。
風邪を引くと、片栗粉を熱湯で溶いたものや、ショウガ湯を飲まされました。
砂糖が入っていたので美味しかったです。
卵酒は中学生の時に一回だけしか作ってもらえませんでした。
焼いた長ネギを手ぬぐいに包んだものを首に巻いて寝たこともありました。
歯が痛い時は、クコの葉っぱを、痛い歯で嚼まされました。
抜けそうな歯がある時は、その歯と足の親指を長い糸で繋いだ状態で寝かされました。
翌朝、歯が抜けていると、上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上に投げました。
731711,:05/01/12 00:20:18
>728
生のカツオは特に傷みやすいので、生姜・にんにく・わさび+醤油で頂くのだと
思います・・・ですから、鰹節に加工して日持ちを良くしますよね。

朝の私の仕事は、新聞を取入れて、玄関先を箒で掃き、味噌汁の出汁用に鰹節を
削っていました。かんな屑みたいなのをその日一日使いそうな分を削っていました。

夏休みはラジオ体操から帰ったら、豆腐屋さんに豆腐とか油揚げとかがんもどき
を買いに行っていました。 それから、1日2回の犬の散歩も日課でした。
薬味の葱やしそは庭兼畑で適当に摘んできていました。







732711,731:05/01/12 00:32:29
風邪をひいた時・・・我が家では大人は卵酒でしたが、子供は
葛粉+生姜(葛湯)だったです。
それから、大根を切って蜂蜜に漬け、大根からエキスが出て蜂蜜と
混ぜたのを熱湯に溶かして飲んでいました。
生の蓮根をすり下ろした汁とか黒豆の煮汁も喉によいので飲んだこと
があります。
葱の味噌汁飲んで体を温めていましたね。

あと、においのキツイ煎じ薬を祖母が時々火鉢で煎じて飲んでいましたが
いったいあれは何の薬だったのか・・・今でも疑問です。 
733オケラ:05/01/12 00:32:59
>>729さん、こんばんわ。
オケラも幼稚園は一年だけです。
が、自然児だったので、よく脱走しました。
ある日、脱走したらオヤツを食べそこないました。
次からは、オヤツの時間にはキチンと幼稚園に戻る「いやしい園児」でした。

オケラ年代でお母さんがスーツを着るって凄いですね。
オケラの田舎でスーツを着るのは、父親が中学教師だった同級生のお母さんだけでした。
母のスーツ姿を初めて見たのは、中学生になってからだったと思います。
734711,731・・・:05/01/12 00:53:17
>733
いえ、確かに他のお母様方より肩幅が広くて着物の似合う体型ではないのと、
独身時代に銀行員でしたので洋服の方が着慣れていたので、着物が似合って
謡曲(謡い)と茶道が趣味だった祖母には着物では到底太刀打ちできないと
判断したのかもしれません。(笑)

それでは、今日はもう遅いので皆様おやすみなさいませ。
>>677-682
俺はした事無いが、母がそれをしていたと話してくれた。

>>692
あれは水素入り風船だったので、昭和40年代に、車で持ち帰る途中で車内で爆発事故が起こった事も有りました。
昭和50年代くらいになると、風船の自販機やサービスで配る風船には安全だが高価なヘリウムを使っていましたが、
露店では相変わらず安価な水素を使ってました。
736名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/12 05:26:41
オケラ氏の話は面白い(というと語弊があるかもしれませんが)
ので、いつごろ、どの辺での話しかを教えてくれませんか。
私は45歳、東京育ちで、実体験にはないのですが、
状況を想像できるくらいには近い距離にいます。40歳前半以下の
人だと隔世の感があるんじゃないかなー、という気もしています。
737オケラ:05/01/12 06:50:54
>>736さん、同級生ですね。
九州の山奥の話しです。
738734:05/01/12 08:39:20
おはようございます。

>>735、
水素入り風船だったのですね。
我が家にも富山の薬売りが来ていました。
紙風船、もらって遊んでいるのが楽しかったですね。
732の方法で治らない時は、富山の薬を飲んでいました。
漢方薬が主で「熊の胃」とかいう胃薬がありました。

歯が生え替わる時にオケラさんの所と同じで、上の歯は縁側に下の歯は屋根の上に
投げていました・・・歯の生えている方向に向かって投げました・・・「鼠の歯と
取り替えっこ」と言っていたようです。

私には、虫歯はありませんでしたが父は歯が痛む時は、正露丸(!)を砕いて患部に詰めていました。
一時しのぎにはなりそうですが、大変でした。

幼稚園に上がる前の年に曾祖母が亡くなり、県庁所在地の町に引っ越しました。
幼稚園の1年間はカトリック教徒(笑)スペイン人の園長先生からいろいろ
教えて頂きました。生まれて初めて、スペイン人に出会いました。
これはかなりのカルチャーショックでした。

>736さんは、肝油さんでしょうか?
オケラさんと、736さんと私、同級生みたいですね。
739オケラ:05/01/12 20:01:43
みたいですね。
育った環境は違いますが、同じ年代を生きてきたみたいです。
でも、
私が一番貧しかった...
断言できます...
740名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/12 20:13:24
友達の家でカルピスを飲んだ時は驚いたな、濃い味で。
オラの家は100倍位に薄めてたんだな、これが。ムハハハ
741738=チルソク:05/01/12 20:41:43
オケラさん、今晩は。
そんなことないですよ・・・少なくとも、うちでは山林は持ってはおりませんでしたし、
オケラさんのご実家では、農業+畜産+養鶏と手広くされていたのですから。

母親も着物は全て空襲で焼けてしまったりして、お酒を買う余裕もなく生活するので精一杯だったと思いますよ。

それに、現段階でも、オケラさんの方がリッチなのでは?
だって、うちなんてやっとローン完済した家があるだけで、車すらないし。
宝飾品にも興味がないのでほとんど持っていません。
子供は一人いますけれど、これからは手は掛からなくなるけど、お金が掛かるし、
リタイアした両親達もいろいろ病気を抱えていますし。

>740
わかりますよ。カルピスって美味しいですよね。
数年前に、子供の家庭訪問で先生にカルピスを出したら「初恋の味ですね」
って言われて子供と3人で大笑いしました。
カルピスを初めて飲んだのは5歳の時でした。

チルソクとは韓国語で「七夕」の意味です。
742オケラ:05/01/12 20:55:22
オケラはカルピス、中学生になって初めて飲みました。
それも友達の家でです。
でも、似たような色の飲み物はありました。
街の酒屋さんが月に一度だけ、三輪トラックで醤油を売りに来ます。
夏休み前には決まって、白い液体が入った一升瓶を持って来ます。
カルピスと同じく、水で薄めて飲みます。
ただの、白く濁った甘い液体でした。
でも、母が作ると甘くありません。
爺婆父母兄姉の目を盗んでは、一升瓶を抱えて口に流し込み、甘さを堪能する下品極まりない子供でした。
ある日、それがばれ、次の夏からは買って貰えなくなりました。
743738=チルソク:05/01/12 21:15:31
>742
その一升瓶の白い液体って、ヨーグルトドリンクなのだったんでしょうかね?

うちは、一時期、「あめゆ」という一升瓶入りの生姜が少し混じったような
味をした甘い液体を買って、夏は氷水で、冬は熱湯で薄めて飲んでいました。

「あめゆ」=甘湯(あまい・ゆ)だったのかな?
744オケラ:05/01/12 21:17:06
こんばんわ、チルソクさん。
山はあっても、杉の木なんか売れません。
日本国中、杉の木だらけですから..
山は子孫に残すものと教えられ、売ることも出来ず、また、買う人もいないような山の中です。
価値はありません。
オケラなんか、家も社宅です。
一生、家なんか持てるかどうか。
それに、車どころかWAKEありで免許さえありません。
でも、運転はできます。
高校の夏休みには実家の2トントラック、運転してました。
農作業の手伝いのために仕方なくですが...
荷台に山盛りの牛の餌を一人で刈り、毎日、牛の世話に明け暮れました...
745チルソク:05/01/12 21:30:35
オケラさん、すごい〜!
高校の夏休みで2トントラックを運転できたなんて・・・それって無免許でですか?

社宅でも、条件の良い会社でしたら都内のかなり広い借り上げ社宅に格安で住むことが
できるわけですし。

都内近辺でしたら公共交通機関が発達していますので、考え方によっては高い駐車料金・
ガソリン代・保険料・交通事故の危険等を考えて自家用車を持たないというある意味で非常に
合理的な生活ができると思います。
いざという時はタクシーを使えばいいことですし・・・ですけど、貧乏でタクシー好きでは
ありません・・・タクシーに乗るとドキドキします。(笑)

オケラさんが野山を歩いて鍛えられた足で毎日歩いていたら、血流が良くなって健康的だと
いう考え方もありますよ。
746オケラ:05/01/12 22:19:22
チルソクさん、私もタクシーは嫌いなのですが、帰りのバスの時間が合わず、よく利用します。
地下鉄もありますが、苦手です。
景色が見えず、目のやり場に困ります。
地下鉄から地上に出るまでの長いエスカレーターも苦手です。
何もない田舎で育ったので、閉所恐怖症です。
エレベーターに乗った時など、ドキドキして、息苦しくなります。
ですから仕事で地方にいる時は、一人用のテント担いで山に入り、焚き火を焚いて星空を見るのが楽しみでした。
東京に戻ってからは、なかなかそうはいきませんね。
せいぜい温泉に行くくらいです。
飴湯じゃないの

白いのは甘酒、、、じゃないだろうしなあ
748名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/12 22:25:06
ドブロク?
749オケラ:05/01/12 22:37:04
山で思い出しましたが、麓の街で馬を飼っている家がありました。
山から木を切り出す時に、木を引く頑丈な馬です。
村に馬が来ると、走って見に行きました。
ある時、木を運んでいたその馬が、谷底に落ちて死んだと聞きました。
見に行くと、既に巨体はトラックに積まれていました。
ピクリとも動かないお馬さんの姿を見て、涙が止まりませんでした。
殉職です...
父の子供時代には、実家にも2頭の馬(名前はハヤテとアオ)がいたそうです。
農耕馬&乗り物として飼っていたそうですが、オケラが生まれた時には、既に牛にとって代っていました。
750オケラ:05/01/12 22:55:14
生まれて初めて接した外国人は、韓国の方でした。
兄の勤める(自営ではありません)ブロイラー農場に研修に来られた二人です。
父や兄が座敷で接待した時に、お二人がソワソワしています。
聞くと、座敷の襖の上の写真が気になって仕方ない、とのことでした。
座敷に飾ってあったのは、既に亡くなっていた軍服姿の叔父二人の写真でした。
「子供時代に軍服の日本人を見るのが、とても怖かった。」とのお話しでした。
日本人、かなり悪いことを朝鮮半島でやっていたんだなと感じ、悲しくなりました...
751オケラ:05/01/12 23:08:22
これも父から聞いた話しですが、戦争が終わるまで、朝鮮半島から来られた二人の方が実家に住み込み、農作業を手伝っていただいたそうです。
なんで二人がいらっしゃったのか、また、どこから流れて来られたのかは分かりません。
戦争が終わると、ジイチャンが金を沢山包んであげて、二人を村から送り出したと聞いていますが、真相は分かりません。
今度、父に真相を尋ねてみます。
父の男兄弟は三人共、先の戦争で出征していましたので、強制連行した人を安い賃金でコキ遣っていたのではないかと心配しています。
752チルソク:05/01/12 23:19:21
>747さん、
ありがとうございました!
そうです、「飴湯」のことです。

>748さん、
ドブロクでしたら、酔っぱらって大変な事になりますよね。
甘酒でしたら、酒粕に砂糖入れて作れるし・・・。
乳酸飲料の一種なのではとは思います。

オケラさんは、閉所恐怖症なんですか?
それでは、満員電車・エレベーター(ガラス製で透明なのは私は大好きです)
観覧車・地下鉄は苦しいのですね。

地下鉄に初めて乗ったのは中学生の夏休みの時でした。
エスカレータで、ドンドン地下に潜っていく感覚でスリル満点だと思いましたが
慣れたら、騒音と景色が見えないのでがっかりしました。

オケラさん、以前に年収を書かれていましたけど、我が家の去年の
総収入の2倍強はありますよ〜!
そろそろ確定申告の用意をしなければいけませんね。
うちは、いろいろと医療費がかかって、だいたい毎年申告しています。 

税務署にいく時にはできるだけ質素な服を着て行き職員の同情をひくとすんなりOK!
で全額還付されます。
郵送で一番書類の混み合う頃に提出する方法もありますが・・・。

馬のお話は、可哀想でしたね。
農耕馬は私の中学生くらいまで農家では割と見た事がありました。






753オケラ:05/01/12 23:40:14
実家の縁側の下に、鉄の塊が無造作に置かれていました。
子供の時、蹴飛ばしたり、庭の土に絵を書いたりして遊びました。
あとで知りましたが、焼夷弾と機関銃の玉でした。
嫁いで永年、腰の曲がったオバチャンから聞いた話ですが、終戦も近い頃は、山の中の畑で仕事していても米軍の飛行機が急降下してきて、機関銃でバリバリとオバチャン達を狙い打ちしたそうです。
オバチャンやバアチャンは飛行機の爆音がすると「アメ公バイ!」と走って、畑の芋蔵(ただの穴)に身を隠したとのことでした。
オケラの田舎で無駄玉使えるくらい余裕だったのか...
754名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/12 23:41:41
しかし、よく憶えているね。
755オケラ:05/01/12 23:55:11
チルソクさん...
昨年に比べて今年のストックオプション額面が減少しましたので、今年は税務署に行かなくてもよさそうです。
嬉しいのやら悲しいのやら...
今年の6月まで、昨年のストックオプションのために毎月10万もUpした税金を天引きされてます。
お金って、貧乏な人間から真っ先に逃げて行くものなんだと、最近シミジミ感じます...
756オケラ:05/01/12 23:57:57
>>754さん、本当に自分でも困っています。
10分前のことは、すぐに忘れてしまうのに...
757チルソク:05/01/13 00:15:32
>752
オケラさん、私の母校の公立小中学校はそれでも町の学校でしたので、中国人・韓国人の
経営する商店の子女達で、クラスメイトの何人かは外国人でした。
皆さん、親御さんは1世や、2世さんで、日本語のアクセントが少し違うくらいでしたが
普通に遊んでいたように思います。

差別感は私の祖母・父の世代くらいでしたら確かにありましたけれど、それらを払拭するほどの
当時の教育力が先生方にはあったように思います。

日教組とかそういう影響もあるのかもしれませんでしたが、クラスの中のほとんどが「貧しさ」
を共有していましたので、一々誰それの出自を構って付き合う余裕がなかったのでしょう。
あと、お母様が原爆症だという人も、引き揚げ者だという人も現実にいましたし・・・
様々な問題を抱えているのですがある意味、今の子供達よりは肉体的・精神的にもたくましかったと
思います。

これは私の独断ですが、九州・長州は昔、大陸と貿易で栄えた大内氏をはじめかなり外国との交易が
盛んにありました。
遠縁の者も「一旗あげる為に、ちょっと満州へ・朝鮮半島へ」と下関港から旅立って行きました。
そういう意味では、開放的で、反骨精神にあふれた県民性というのも納得ですが、
やはり、私どもの祖先は彼の地で随分と酷い事をして来たのだろうとも思いますと胸が痛みます。
758オケラ:05/01/13 00:16:54
チルソクさん、
七夕ですか...
ロマンチックな響きですね。
七夕には、裏山から切ってきた流さ10mくらいの大きなモウソウ竹に願い事を書いたタンザクを、シュロの葉を裂いて結び付けました。
竹の大きさに比べ、願い事のタンザクは兄弟三人で9枚ほどの貧弱なものでした。
枯れかかった笹を、牛に食べさせたからでしょうか..
書いた内容は
「背が伸びますように」「頭がよくなりますように」「お金持ちになりますように」
全て徒労に終わっています。

七夕に買った株、暴落しました。

本当のオケラになりそうです...
759オケラ:05/01/13 00:32:03
お正月の朝、雑煮食べる前に、梅干しを二個入れたお茶を飲みました。
なぜかコタツの上の台には「生の栗」と「生のイワシ」が置かれていました。
なぜかは忘れました。

生の二品、いったいあれは、何だったのだろう...?
あしたのために、もう寝ます。
おやすみなさい。
>>753
もうその時には反撃するだけの力が無いので、アメリカ軍機は遊び放題のやり放題。
当時からジュネーブ条約で民間人の殺傷は禁じられていたんだけど、
破壊し尽くされてめぼしい攻撃目標も無く暇だから、列車を撃ったり民間人を撃ったりして遊んでいた訳。
爆撃機の爆弾が余ったりすると、そのまま帰還すると危険なので、適当にその辺に投下して捨てていたらしい。
なので田舎の山の中なのに爆撃を喰らう事があったそうです。
761名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 07:01:09
コテハン、馴れ合い
削除対照だぞ。
762チルソク:05/01/13 11:03:06
みなさん、おはようございます!

>760さん
その話、阪神神戸大空襲の時も米軍機のパイロットの顔もハッキリと見えた
と父も申しておりました。

だからといって、私、全て米国が嫌いなわけでもありません。
米国から来た物には良い物も沢山ありますよね。
例えばハリウッド娯楽映画、「奥様は魔女」を観て米国の電化製品に憧れました。

初めて、マクドナルドに入ってハンバーガーとポテトチップを食べ、ジュースを
飲んだのは高校1年でした。 

なんだか、自分が「都会人」になったような気がしましたね。
全然中身が伴っていないのに、とりあえず流行していましたから。

都会育ちの方は、ファストフード店に初めて入られたのは何歳くらいですか?



>761馴れ合う為にコテつけてんだろ。。。無理言うなって。
764オケラ:05/01/13 20:20:07
チルソクさん、肝油さん(最近来られてないのかな?)こんばんわ。
きっと都会で育った人は小学生の時からハンバーガーとか牛どんとか食べてたんでしょうね...
オケラはハンバーガー、高校生になって初めて食べました。
最初はMのピクルスの味に舌が慣れず、ピクルスの小さなLのハンバーガーばかり食べていました。
上京して、大人になるにしたがいピクルスが大好きになり、Mに移行しました。
ケン■ッキーは、兄の仕事が発展するように、毎週8ピース買って帰っては
「兄貴のために食ってくれ!」と妻にお願いしています...
765名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 20:23:07
雑談ですから。
766オケラ:05/01/13 20:39:30
「明日もホームランだ!」の牛どんは、憧れでした。
近くにオレンジの看板が無く、夢の食べ物でした。
ある時、高校の寮の近くの食堂に
「牛どん有り」
の貼り紙が出ました。
寮の仲間を誘い、ワクワクしながら暖簾をくぐり、
「おっちゃん! 牛どん7ハイ!」と注文しました。

出てきたのは、玉子丼の肉が牛肉になったものでした...
不味かった...

「都会の子供は、コレでホームランが打てるトか〜?」
不思議がるオケラに、千葉と名古屋と大阪から越境入学して来た後輩が口を揃えて一言
「センパイ... これ、牛どんチャイマス...」
767名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 20:45:12
ちょいてすと
768名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 20:57:46
期末テスト
769名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 21:00:16
点が貧しかった。。。
770オケラ:05/01/13 21:03:02
上京して、人の多さに驚きました。
どこを歩いても、必ず人が一人はいます。

どこに行っても、懐中電灯なしで歩けます。

「東京は昔から、生き馬の眼を抜く、と言う所だから気をつけんといかんバイ!」
父の言葉が頭の中をよぎりました。
無理して、話し言葉の言葉の最後に「サァ」をつけました。

でも
ある時、気がつきました。

「俺... 一番似合うのは、゛あんたがた、どこサァ〜゛ だな...」

東京に挫折し、7年間九州に引き隠りました。
幸せな日々でした。
正直言って、田舎に戻りたいです..
771名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 21:05:32
>>770
お仕事の関係で今九州にいるけど・・確かに東京とか大阪とかより九州は人間的に暖かいとこだね。
772チルソク:05/01/13 21:07:01
>764
オケラさんも、初マクドナルドは高校生でしたか。

我が家では、中学生までは、子供同士で喫茶店・うどん屋等に入るのは厳禁でした。
確かに中学の生徒手帳に明記されていました。
本当は、お汁粉屋さん、お好み焼き屋さんに、土曜日の午後に友達と連れだって行ったり
してみたかったのですが、そのような事は、「不良」のすることだとされていました。

別に、食い逃げする訳ではないのに〜!

どうしてもそういう場所に行ってみたいというと、仕方ないなぁと言った顔で
母が妹・弟には内緒で連れて行ってくれました。
その代わり、当時はオイルショックで石油製品が不足していましたので、半分
格闘家になった気分でトイレットペーパーに突進して行かなければならないのでした。

そして、スーパーで、お一人様1点限りのトイレットペーパーを母と私で2パック
手にして初めて、お汁粉屋さんに連れて行ってもらえました。

K.F.C.は、M.よりも私には敷居が高かったです。
高校のある町には無かったです。
初めて食べたのは高校卒業したての頃でした。
ハーブチキンとか、サラダとか、スコーンみたいなセットとか、とにかく
私の中の「鶏肉の唐揚げ」のイメージが変わったものでした。

K.F.C.って国産のハーブ鶏を使っているそうですね。
店頭のカーネルサンダースに挨拶して入店していたものでした。

今では、それらファストフード店は、高校生の子供が塾や部活帰りに
折り込み広告に入っているクーポンを握りしめて友達と入っています。






マクドナルドは小学生の時に親と一緒に行ったけど、
一番安いノーマルのハンバーガーを、家族の数だけ買って、バスに乗って帰った。
電子レンジなんてないから、家で冷たいハンバーガーを食べた。
それから数年後、中学1年の時に友人と3人で連れ出って遊びに言った時には、
ロッテリアでハンバーガーを食べた。

鶏肉はあまり好きではなく食べる気がしなかったのと、近くに店が無かったので、
ケンタッキーは二十歳くらいの時に初めて食べた。
思ったよりもおいしかった。
ただ、「美味しんぼ」のおかげで食べる気がなくなってそれ以来食べて無い。

吉野屋とかの牛丼は数年前かな、別にこれといって食べたくなかったので
774オケラ:05/01/13 23:01:35
小学生の頃、家に食べ物が無いときは、バアチャンが毎日飲んでいた「ワカモト」という薬をボリボリかじってました。
変な味でしたが、生まれて初めて食べた大人の味でした...
775オケラ:05/01/13 23:15:12
庭に、麦を一掴み蒔き、つっかえ棒をしたザルを置いて、スズメを待ちました。
ザルの下の餌はよく食べに来るのですが、つっかえ棒から伸ばした紐をひいても、一度もスズメが捕れたためしはありません。
スズメ捕まえたら、食べるつもりでした。
いまだに焼き鳥台行くと、スズメを注文してしまいます。
776名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 23:23:50
6畳一間のアパートに両親弟と4人暮らしでした。
僕は体が弱く良く熱を出したりして寝込んでいたらしいです。
小学校3年生から野球をしてから体も少しづつ強くなり喜んだ両親は、
その野球を本格的にさせてやろうと私立の中学に入れてくれました。

貧乏なのに・・・僕はその両親のお陰で好きな野球をできました。
昼夜働いている父、内職で寝る間を惜しんでまでがんばる母、
全て僕の為でした。しかし、悲しいことに僕は勉強が出来ませんでした。
高校に上げて貰えなかったのです。

親は、落胆の色を隠せませんでした。もちろん僕も両親に対して申し訳なく
て、どうして良いのか分からなくなり、グレルばかりでした。
そんな、親もおかしくなり離婚、あげくには他界・・・苦労をかけてしまい
本当に申し訳なくって・・・お金もドブに捨てさせたようなものです。
同級生には、絶対家に来させたくなかった・・・風呂もないんですから。

そんな、親不孝な僕は、今ものうのうと生きています。すいません・・・
つまらない話しを長々と書いてしまいました・・・・
777名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/13 23:26:46
(ノ_・。)
778オケラ:05/01/13 23:38:49
夏の夜、0時頃から「夜ぎり」に連れて行ってもらいました。
石灰を入れたカンテラと、地元でホコと呼ぶ、竹の先にフォークがついた凶器です。
大きい川の河口から村の川まで遡り、カンテラの灯りに誘われて穴から出てきた魚や、月明かりの下で寝ている魚を刺して捕ります。
村の川に着く頃には、手に持ったバケツに溢れるくらいの小魚が捕れました。
翌日から当分は魚生活でしたが、
田舎での夏の楽しみかたの一つでした。
779名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 05:05:29
貧乏だったからって、しかたないよ。生きてればいいじゃない。今いきることを楽しみましょう。
親の無償の愛は本当にありがたいですね。
780オケラ:05/01/14 07:03:08
無償の愛。
確かにありがたいです。
その愛に応えるべく、社会人になり毎月3万から始まった仕送りも、結婚前には8万になっていました。
結婚した現在はボーナス時にお小遣いを送るくらいです。
ある時、上司に言われました。
「金を送るより、スーツ着て、盆か正月に帰省し、ちゃんと生活してます、という姿を両親に見せるのが、本当の親孝行だ..」
気がついたら4年も帰省していませんでした。
早速帰省しました。
空港の出口でオケラが出てくるのを待つ父の姿が夕方のTVニュースで映り、胸が痛みました。
あと何回、父母と会えるのかな..
781名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/14 09:16:31
子を思う親心ですね。
親が生きてる間、出来る事はしてあげたいですね。
782チルソク:05/01/14 09:45:42
おはようございます。

>773
そうですよね、電子レンジのない生活でした。
その場合、フライパンの下にアルミホイルを敷きハンバーガーを入れ蓋をして弱火で
3〜4分温めれば美味しく頂けたかも知れませんね。

そういえば、ロッテリアとM.はライバルでしたね。
イタリアンサンドだけはM.に勝っていたと思います。

>オケラさん、
「ワカモト」って、整腸剤ですね。たしかに大人の味なのかも知れませんが。
雀を食べた事はありません。ごめんなさい。

>776さん、
私立中を受験する機会は、私の町にはありませんでした。
それ以前に私には、それだけの学力・経済力もなかったと思います。
部活動と勉強の両立は本当に難しいですよね。

だけど、776さん、それだけのご苦労をなさったとしても、それは
過去の事なのです。
大切な事は、これから先の約40年間は、毎日を有意義に明るく、健康に生きて
いくことを考えましょう。
779さんも、仰ってるではありませんか。

>781
本当にその通りですね。
無償の愛・・・私も今度のGWに帰省しようと思いました。

783776:05/01/14 11:51:29
はい、そうします。
784チルソク:05/01/14 18:08:39
>783,776さん、
今晩は。レスありがとうございました。
何だか、あんまり纏まりのない言葉になりましたが、頑張りましょう!
785オケラ:05/01/14 21:49:17
村から歩いて30分の山の中に、水晶山がありました。
昔は水晶の塊が出たそうです。
小学生みんなで水晶を探しに行きました。
淡い紫色やピンク色した水晶の欠片を見つけて、喜んで持ち帰りました。
その山から、兄が小学生時代に掘り出した六角形の水晶には敵いませんでしたが宝物にしていました。
子供時代は、そんな、お金のかからない遊びばかりしていました。
786オケラ:05/01/14 22:05:44
小学生の時、一人で山の中に秘密基地を作りました。
木の枝や葉っぱや草で周りを覆った屋根無しのものでした。
基地の回りに落とし穴を掘り、誰も来ないことを祈りました。

ある日、高校生だった兄が落とし穴に落ちました...
787オケラ:05/01/14 22:22:09
予科練(字、あってますか?)出身の父は、海軍船の中ではハンモックで寝ていたそうです。
夏になると、実家の裏の竹山にハンモックが吊されました。
父や兄が、暑い昼間にハンモックに寝て涼むためです。
ハンモックで寝たいと頼みましたが、「もう少し大きくなったらな。」と諭され、一度もハンモックを使わせてもらえませんでした。
小学校高学年になって、さあ、ハンモック使うぞ! と張り切って小屋の奥から引っ張り出したハンモックは、ネズミにかじられて、ボロボロでした...
788オケラ:05/01/14 22:27:26
夏の夜には、蚊帳の中で寝ました。
蚊帳の中って、なんか独特の雰囲気で、大好きでした。
朝になると、顔のホッペタに蚊帳の痕が、それも緑色で残っていました。
789オケラ:05/01/14 23:23:09
バリバリバリ
ビッキーンッ

裏山の木に、雷がよく落ちました。
夕ご飯食べてる時の停電も多く、仏壇から手探りで持ってきた白いローソクに火をともして食事を続けました。

「クリスマスみたいだね(^o^)」

子供心に、気を使うことを覚えた瞬間でした...
790 チルソク:05/01/14 23:32:57
>785
オケラさん、
今晩は。明日、明後日は関東地方は雪が降るみたいですね。

オケラさんの村から30分のところに、水晶の鉱山があったのですか。
そこに行けば昔は水晶がザクザク・・・でしたら、きっとオケラさん達は
水晶パワーを頂いていたのかもしれませんよ。

宝石にはほとんど縁のない私でも、水晶の印鑑を持っています。
その割には、あまり水晶の御利益ないです。

予科練は、それで正解だと思います。
私の所でも、夏は蚊帳をつって寝ました。
祖母の寝室と、父と母の寝室、子供部屋とで、3室とも麻の緑色の蚊帳をつって
休んでいました。
ある日、蚊帳の中に蛍がまぎれこんで入って来た事がありとても幻想的でした。
「蚊帳の中に入る」というのは、何か神秘的な感じがしますね。

土曜日の夜、時々私は亡き祖母と寝ていました。
いろんな昔話を話してくれたものでした。
この間、厚狭の「三年寝太郎」の話とか、源平合戦の壇ノ浦と安徳天皇の最期の話とか・・・

そして、日曜日の朝はNHKラジオの謡曲の時間で起きていました。
確か、観世流謡曲だったと思います。

男の子達が秘密基地造りが好きなのは、洋の東西を問わない事かと思います。
映画『Stannd by me』でも、4人の米国の少年達が木の上に
小屋を立てて遊んでいましたね。 
あの映画、1986年公開でしたが、スティーブン・キングの原作ですが
それほどおどろおどろしくなくて私は面白いと思いました。

映画といえば、『チルソクの夏』のビデオ、お店で借りて来られましたか?
   




『チルソクの夏』のビデオ借りてこられましたでしょうか?

791オケラ:05/01/14 23:34:54
カエル釣りしました。
道端に生えているネコジャラシの草で...
ネコジャラシの草のフワフワした部分を少しだけ残して、カエルの顔の前で振ると、
カエル「虫だ!」
平たい口をアングリと開けて、飛びかかってきました。
釣れるのは、
カエル「ペッ、ペッ、なんだ、エサじゃないんか!!」

一瞬の出来事でしたが、
たしかにカエルが釣れました...
792チルソク:05/01/14 23:40:42
>790
訂正お願いします。
X『Stannd by me』 → ○ 『 Stand by me』

最後の一行は削除して下さい。重複になりましたので。

雷は怖いですね。
夏の夕暮れで、みるみるうちに空が暗くなって来たら要注意です。
793オケラ:05/01/14 23:42:52
チルソクさん、こんばんわ。
昼に「チルソクの夏、ある?」とビデオに電話で聞きましたら「今、貸し出しされてます」の返事。
でも、もしかしたら返却されてるかも..と期待して、夜8時過ぎに行ってみました。

ダメでした...
794オケラ:05/01/14 23:45:44
あっ、オケラも...「ビデオに」⇒「ビデオ屋に」

仕事の疲れがたまっているみたいです...
795チルソク:05/01/15 00:04:09
>794
オケラさん、
それは残念でしたね。また、来週に期待を寄せてみてください。
DVDでしたら、2004年10月29日発売のDVD2枚組が、売り出し中です。(¥5000弱)

それでは、お疲れのようですので、おやすみなさい。

796名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 01:10:39
>ここで昔の貧しさを懐かしく述懐できるのは、今にゆとりがあるからだろうか。
だから次の世代が心配...
797名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 01:58:35
わしは今も極貧だ。
798名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 03:01:04
極貧の人間は2ちゃんねるなんぞする余裕はないよ。
799オケラ:05/01/15 06:49:24
おはようございます
窓ガラスの向こうが白々と明るくなってきました。
コーヒー飲みながら、空から雪が舞い降りてくるのを待っています。

極貧ではないけれど、豊かな生活とも言えません。
毎日好きな食べ物を食べて、好きな煙草をくゆらせて、TVニュースの凶悪犯罪の被害者に同情し、犯人を憎み、自分が犯罪に巻き込まれなかったことを感謝し、故郷の思い出に浸る、そんな代わり映えしない毎日です。
老後の生活を不安に感じなくなれれば、豊かな生活がおくれるのでしょうか...
800オケラ:05/01/15 07:16:36
窓の外を見ている猫の後ろ姿に癒されています。
猫と一緒に雪を待っています。
妻はまだ寝ているようです。
実家で雪が降ると家族みんなで喜びました。
雪が降ることが珍しかったからではありません。
雪が降るからといって特別な料理が食卓に出るわけではありませんでしたが、雪の日の食事は、とても美味しく感じました。
寒い日でも、家族揃ってコタツを囲み、暖かいものを食べることができることを、幸せに感じたのだと思います。
いいえ、それよりも、家族の体温を感じることが幸せに感じたのかも。
猫や...ちょっとコッチに、おいで..
801オケラ:05/01/15 07:33:28
梅雨の時期に山から流れる水は、山の土の下に小さな洞窟を作ったりします。
人が入れる大きさではありません。
そんな中には、決まって山犬が住み着いていました。
街では野良犬と呼びますが、オケラの田舎では山に住むから山犬と呼んでいました。
街から来た人が捨てて行ったり、猟に来た人が連れて来た猟犬が道に迷って野生化した犬で凶暴でした。
一度、人間に裏切られ、心が荒んでしまったのでしょう...
危ないから近づかないようにと、親に言われました。
ダメと言われると触ってみたくなるもので、洞窟を掘っては山犬の子を抱きました。
802オケラ:05/01/15 07:47:19
夏になると、小屋に燕が巣を作ります。
田んぼから運んだ土や藁などを、ひっきりなしに運びます。
巣が作り安いよう、板を打ち付けて土台を作ってありました。
燕の雛が、親燕から口移しで貰う餌を食べる仕草が、あまりにも必死で可愛く、飽きずに眺めていました。
ハエやバッタを捕まえて、餌をやりましたが、
「人間に餌を貰った子燕は、親燕に捨てられるから、やめろ。」と兄に言われ、配給をストップしました。
本当なのでしょうか?
803オケラ:05/01/15 08:00:53
初めて食べたインスタントラーメンは、たしか、お湯を注いで蓋をするチキンラーメンでした。

貴重な卵は入っていませんでした。
次はアベックラーメンと言う、真っ直ぐな麺のものでした。
近所の安売り店にアベックラーメンがあり、つい懐かしくて買ってしまいました。
子供時代には無かったトンコツ味です。
インスタントラーメンでも故郷を感じることが出来ると知りました。


妻は明星チャルメラが好きです。


世代の差を感じます...
804オケラ:05/01/15 08:20:45
「俺は男だ」に憧れて、小学生から剣道を始めました。
小学校で毎週木曜日に始まったクラブ活動からです...

剣道の胴着で砂浜を走るのが夢でしたが、
近くに海はありませんでした...

兄の木刀を庭で振り回すのが日課でした。

中学生になり剣道部に入部しましたが、1年の夏には辞めて、野球に転向しました。

高校時代は空手の道場に通いました。

何事も長続きしない根性無しでした。

今の会社に20年以上勤務している自分が不思議です...
805オケラ:05/01/15 08:40:33
高校時代のアルバイト、時給160円でした。
自分から飛び込んだウドン屋です。鍋を洗うのがきつかったですが、バイトの賄いで食べた肉ウドン、美味かったです。
友達がレストランのウェイターで時給400円と聞き辞めました。


その後、タコ焼き屋や喫茶店やレストランでバイトしました。
バイトのお金で、九州の山に登ったり、テント担いで四国一周したり、北海道一周したあとは礼文島まで渡りました。

周りは勉強する同級生ばかりだったので、いつも単独行動でした。
806オケラ:05/01/15 13:39:32
間違えました。
アベックラーメンでなく、マルタイラーメンでした..

しかし、雪、降らないな〜...
雨で終わりですか...
807チルソク:05/01/15 16:55:36
>796,797,798さん、
こんにちは。今日は一日冷たい雨の週末になってしましました。

私はチルソクです。
今、「極貧」かといえば、それ程でもなく真ん中くらいの生活水準だと思っています。

>オケラさん、
土曜日なのに、早起きなのですね。

我が家は子供が土曜日・日曜日は部活と午後からは補習のために今日・明日も早起き
(といっても朝6時ですけど)したのですが、天気は悪いし、バーゲンにも行く気に
ならなくて、本を読んだり音楽を聴いたりしています。
やはり冬は炬燵+蜜柑が冬の一番の楽しみだと思っています。

山犬・・・一度人間に捨てられてしまった犬は可哀想ですね。

この前、足の針金を巻き付けられた犬のニュースを観ました。
人間不信なので善意の方がどうにかして捕獲し、針金を取ってやろうといろいろ
工夫していましたが・・・結局親切な獣医さんがその犬の針金をペンチで切って
治してあげていて、今ではその犬は飼い犬になりました。

我が家に小学生の時にやってきた犬は元は野良犬で給食の残りのパンを学校帰りに
あげていたら、懐いてしまって、とうとう私が飼う事になりました。

初めて食べたラーメン?
う〜ん、アベックラーメン?!(笑)じゃぁありませんでしたよ・・・
素麺より少し太く、クリーム色で一わずつ紙の束でまいてあるラーメンに、
母が鶏ガラの出汁をとってくれて、それに塩や醤油で味を付けてスープを
作ってくれました。
具の基本は、葱とワカメ。キャベツや白菜が入る時もあれば、広島菜(不断草とも
いっていました・・・小松菜みたいな菜っ葉です)の時やもやしを入れて
頂きました。  
チャーシューが入っていると大喜びでしたし、冬場は丸餅を火鉢で焼いて入れて
ボリュームを出していました。
ゆで卵がついて、チャーシューがついたら、もうそれは晩ご飯になります。

我が家は父が外で夕食をすまして帰って来る日は、うどんとか素麺とか焼きそば、
ラーメンとか割と簡単にすませていました。

そうすると、夜にお腹がすいてしまうのでお腹がすくまでに宿題を済ませてTVを観て
寝ていました。
808チルソク:05/01/15 17:23:59
>オケラさん、
本日(1月15日付け)朝日新聞の朝刊の別刷りのbe on Saturday(赤い方)に
ことばの旅人「長州奇兵隊の高杉晋作」の特集が掲載されています。

ご興味をお持ちでしたら、最寄りのASAか図書館等でお読み下されば、
仕合わせます。
809名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 18:35:50
山犬か。
俺も山に水晶を採りに行って山犬の群れに追いかけられた事がある。
石を投げながら必死で駆け下りたよ。大人たちから「噛まれると狂犬病で死ぬぞ」と
脅されてたからな。

ちなみにそのころの俺は野生犬のほうが本物の犬で、飼い犬は捕まえられ縛り付けられ
たかわいそうな犬だと思ってた。
810名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 18:42:43
山伏がどうして追いかけるんだと勘違いしちゃった
811名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 22:04:16
>>810
ツボですww
812名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 22:20:10
ツボってなんだ?
813チルソク:05/01/15 23:25:06
>809さん、こんばんわ。
山犬=狼って感じですよね。
野生犬=野良犬?自由犬?ですね、

放し飼いにされている飼い犬>鎖で繋がれて首輪をされた外での飼い犬
>洋服を着て、部屋の中で飼われている小型犬

犬にとっては、どれが幸せなんでしょう。
バウリンガルで訊いてみたい気になってきました。
814名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/15 23:31:15
   ↑  
  あ ほ?
あんなんインチキやん
815チルソク:05/01/15 23:50:11
>814
「バウリンガル」ってやっぱりインチキ商品なのかな?
もし、私が今、犬を飼っていたらちょっとバウリンガルつけて遊んでみたいな。
816オケラ:05/01/16 01:08:08
朝は『コケッコケッ、コケコッコ〜ッ』と鳴くニワトリの声で目が覚める。
裏山で『ポルップポルップ〜』と鳴く山バトの声を聞きながら野菜の沢山入った味噌汁で朝食を食べる。
庭で『チッチチッ』と鳴くスズメの声を聞きながら新聞を読む。
春には生まれたての『ホウッ.ホウッ.ケッキョ..ケッキョ』という舌足らずのウグイスの若鳥の歌を聞いて庭の畑を耕し、秋には畑の脇に腰掛けて『チチチチチチチチ』と空高く舞い上がるヒバリの姿を追いかける。
カラスが『カアカアカア』と山に帰る様子を眺め『今日も一日が終わる』と溜め息をつく。
そして裏山で『ホウホウ』と鳴くフクロウの声で眠りにつく。
理想の老後です..
817オケラ:05/01/16 01:44:51
砂浜に打ち寄せる波の音で目が覚め、コーヒー片手に「今日も暑くなりそうだ..」と、眩しい日射しの中で海を眺める。
青い芝生の中に作られたプールに飛び込み目覚めを確実なものにする。
家の中のTVからKマートのバーゲン品の案内が聞こえ「行ってみるか..」という気にさせる。
木の下に置かれた揺り椅子に深く腰掛けて海を眺めていたが、いつの間にか眠ってしまう。
2ミニッツと呼ばれる雨で再び目がさめる。
今、日本は真冬か...

そんなことを考えてウトウトしていたら、また眠ってしまった。
目が覚めると、もう夕方...

これは夢でした。
818オケラ:05/01/16 02:06:35
実家の台所、昔は玄関から靴を履いたまま行けました。
台所には釜戸が二つ。
流しはコンクリートで作られていました。
流しの横には四角い形の水を貯める場所があり、その下には扉付きの食料保管場所が有りました。
中はヒンヤリとしてました。
当然ですがアイスクリームなどを入れても直ぐに溶けてしまいました...
夏に父がアイスクリームを買って来た時に限って、野山で遊んでいました。
家へ帰って『アイスクリームあるぞ』と聞き、喜んで流しの下の保管場所を開けても、中にあるのはドロドロにとけたアイスクリームでした...
819オケラ:05/01/16 08:08:57
雨ですね。
待つ雪、降りません...
雨が降ると、暇でした。
外が雨では農作業も出来ず、親も暇でした。
牛小屋の天井に張ってある梁に2本のロープをかけ、板きれを乗せた簡易ブランコを作ってもらいました。
ひとしきりブランコで遊ぶと、村の神社に行き、蟻地獄を探しては蟻んコ落としたりしていました。
今思えば残酷な遊びでした。
蟻地獄の中にいる虫(ど忘れ)を指で抓んで引っ張り出して数えたりも。
とにかく、雨の日は暇でした。
820チルソク:05/01/16 11:32:54
今日も冷たい雨というかミゾレが降っている日曜日ですね。
皆様、こんにちは。
ここのスレッドを読んでいらっしゃる皆様方の中には、昨日・今日と今頃
センター入試を受験されているお子様を持つ方も大勢いらっしゃると思います。

全国の受験生達、頑張って下さい〜!!
特に、貧しくてもしっかりと将来を見つめて勉学にいそしんでいる受験生の皆さん、
あと数時間後には自己採点しなければいけませんが、第一志望校に無事に
合格されることを心よりお祈り申し上げます。

私の大学受験は悲惨でした。
高校は、何とか頑張って通学地域中での県立進学校に入学でしたが、1年生では、
その高校に入学したことに安心してしまい、夏休み後に成績は急降下!

なかなか浮上しないまま、2年生で少しだけ挽回できて、私立文系クラスに。
3年生の時は「みんなよく勉強できるな〜」なんて感心しつつもMac.に
行ってたりしたおかげで、私立文系大学・短大を6校受験した中でわずかに
1校だけ合格できました。

まぁ、当初の目標であった現役で「東京都内の大学生」にはなれましたが、
勉強していればよかったなぁと思っています・・・それとも自分の
頭の出来を自覚していなかったのでしょうね。
821名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/17 23:02:30
ageとくか
貧乏話と関係ない自分語りはちょっと。
823名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 00:17:45
この年代で不勉で大学行くなんて、ボンボンだと思うけどな。
てか、チルソクタソお嬢でわ・・・。
825名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 19:07:16
>>824
そうですよーだって、チルソクさんは優しいんだもん!
826名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 19:08:15
貧しい話キボン
827名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 21:23:38
それはだれだってワカルゾ>>825チルソク。チレソクを暴け。
828 :05/01/18 22:21:01
チルソクさんこんばんは。
偶然見たスレで同郷の方を見つけて懐かしくなりました。
チルソクの夏は未見ですが、題材となった日韓交流のの陸上大会って覚えてます。
同級生が行ったような気がする。
ちなみに、チルソクさんの時代なら市内トップ高(WESTですね?)に行く女の子って
かなり少数だったと思います。今は女の子増えたので本当の共学らしくなったらしいです。
829名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 22:23:09
ローカルでw
830名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 22:30:59
自作自演はけーん
831名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 22:32:16
貧しいなw
832チルソク:05/01/18 22:56:44
今晩は。
>822さん、
本当にそうですね。自分語りが過ぎました。反省しております。

>823さん、
勉強をせずに大学に行くなどということは、私にとってはあり得ないことです。
なぜなら、大学は、自分の好きな勉強をする為に行く所だからです。

>824さん、825さん、
ありがとうございます。でも、自分の事を「お嬢」という風にはあまり捉えた事がありません。
なぜなら、私が高校進学を決意した時、まず県立・公立高校以外に選択の余地はありませんでした。
ですから自分の成績に見合ったところで、合格可能な学校を探し出しました。

>826さん、
貧しい話・・・一番私が情けないと感じたのは、台風がよく上陸する地方に住んでいたので
雨漏りが酷くて、ある台風の過ぎ去った朝に一部屋(幸いなことに3畳間)が水浸しになって
その辺にあったバケツ・桶では間に合わなくなったので、ビニールの風呂敷(遠足に使う物
まで動員して)他の部屋への浸水を防いだ時のことでした。
おそらく、土台もかなり傷んでいたようで、傾いて建っていました。
小学5年生ごろのことでした。
父も大家さんに一生懸命に交渉しました。台風が相手のことだからと、
「ある時払いの催促なし」ということで何とか許して頂きました。
親切な大家さんで助かりました。
833名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/18 23:07:04
チルソクは在日?
834チルソク:05/01/18 23:14:04
>828さん、
832を私が書いている間に書き込んで下さってありがとうございました。
残念乍ら私の出身高校はその高校ではありません。

なぜなら、4歳の時、曾祖母が亡くなったのと同時期に父の転勤で県庁所在地
の町に引っ越しましたので。
835チルソク:05/01/18 23:20:51
>833さん
違います。日本人です。
836名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 09:09:28
なんでチルソクなの?
837チルソク:05/01/19 09:30:34
>836さん、
おはようございます。
「チルソク」という言葉は、韓国語で「七夕」という意味だからです。
年に一度、7月7日の七夕に、笹の枝に結んだ短冊に一人一人の願いをこめて
書き、お星様にお祈りする風習です。

それを題材にした映画の題名『チルソクの夏』から、です。



838名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 19:01:31
此処の連中の貧しさなんて俺から見れば屁みたい。
一応親は居るし食べさせて貰ってるし。
俺なんか12歳の時、両親が家出したんだぞ。 俺ひとり置き去りにして。
それからの話は書くのも辛くて・・・・。

どうしても続きを聴きたい見たいてお人はお手紙またはお電話で。
839チルソク:05/01/19 21:02:05
>838さん、
今晩は。そうだったのですか。12歳という最も多感な時期に838さんは、
言葉を失ってしまうほどの体験をなさったのですね。

でも、こういう風に考えられては如何でしょうか。
838さんのご両親にはそうせざるを得ないほど大変に辛い事情があったのでしょう。
838さんを置き去りにすることによって、838さんの命を誰かに委ねるという方法を
取られたのだと思います。
840名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 21:22:16

なんか、カウンセラーみたい〜チルクソさん!
841名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:02:13
↑↑ある意味キモイ。
842名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:04:25
↑↑↑
宗教の方?
843名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:17:32
↑↑↑↑自分より貧しかった憐れな貧乏人に優しく接しているようで実は優越感に浸っているおばさんと見た
844チルソク:05/01/19 22:24:04
>840〜842さん、
私は、単に838さんの書き込みを読んで感じたままを書いたのですが・・・。

宗教?特定の宗教は信仰していません。
強いて言うなら、幼稚園(1年間だけ)イエズス会系の幼稚園だったことで
多少はその影響はあるかもしれません。
でも、幼稚園時代から40年はたっておりますし(笑)
夫の方は仏教(臨済宗)ですけど、それほど信心深くはないと思います。

845名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:24:54
もうよせ・・・気の毒になってきたよ。
クリソツさんが・・・・
846名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:25:52
やっぱ、おばたんだったんだー
847名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:32:09
旦那のことは放任か?出張や単身赴任や残業で帰り遅いというだろうな
40代板でおばさん扱いはなかろう…

ど田舎から県庁所在都市の公団アパートに引っ越して小学校に入ったとき
他の生徒はぴっちりしたおしゃれなブルマーだったけど
自分は従姉妹のお下がりのちょうちんブルマーだった
さすが都会は…と思った最初の経験
849名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:33:39
そうか・・・838さんに比べると俺のガキ時代なんかまだ幸せかも。お膳が牛乳パックで出来た家でも・・・・。
もう、あちこちで貧乏話するのやめるわ。
850チルソク:05/01/19 22:44:37
>847
夫のこと?
普通に暮らしておりますが。
放任もしていないし、かといって束縛もしておりません。


851オケラ:05/01/19 22:48:04
チルソクさん、こんばんわ。
風邪ひいて辛いです。
元気になったら、また来ます。

小学生の時、トレパンでした。
初めて買ってもらった時は嬉しかったです。
あまりにも嬉しくて、遊ぶ時もトレパンはいてましたら、同級生よりも早く黄色くなりました。
トレパン、1本しか持っていませんでした。
852オランケ:05/01/19 22:51:48
小学四年まで家にある暖房器具は炬燵と火鉢だけでした。
眠る時は湯たんぽでしたが、低温やけどのあとが今でも残っています。
テレビで見るガスストーブがとってもハイカラに見えました。
パジャマから服に着替える時はカチカチと歯を鳴らしていました。
当時の東京の冬は今より寒かったです。
853名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 22:54:19
オケラ 早く戻ってこい!
また田舎の話を聞かせてくれ。
854オランケ:05/01/19 22:58:55
そんなわけで真似っこをしてみました。
やはり田舎の話しではないと受けないと思いました。
小学校の時に買ってもらいたかった電気鉛筆削りの話しはやめときます。
855名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 23:00:05
足袋にトンガラシ入れて暖を取ってたなぁ〜
懐炉の桐灰を買う金なくて。
どういゆ訳かトンガラシはふんだんに家にあった。
ハクキン懐炉は眩しい存在やったね。
856チルソク:05/01/19 23:07:37
>848さん、
こんばんは。
提灯ブルマーは小1〜3年まで、紺のブルマーは小4年からでした。
今はハーフパンツ又はクォーターパンツを近所の小・中学校の子供達は
履いていますね。

>851さん、
オケラさん、今晩は。
今、悪い風邪が流行っておりますので、どうぞお大事に。


857名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 23:11:43
>>855
ハクキン懐炉ってベンジンを入れるやつ?
858名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 23:15:04
>>857
そうそう、今はジッポーを代役にしています。
859チルソク:05/01/19 23:15:19
>857
高橋圭三さんがCMしていた物かと思います。
860名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/19 23:27:11
>>858
あれって、当時すっごくハイテクな印象があったよ。
861名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 06:30:24
ハクキンカイロ、ウチの父はいまだに使ってる。
「冬は、あれじゃないとダメだ」って。
去年、それもあで使っていたのがダメになったから買い換えようとして
なかなか手に入らず、もう製造中止になったのかと思いきや、
http://www.hakukin.co.jp/top/index.html
白金を触媒としたゆっくりとした酸化(燃焼)反応だったんだね。

俺の子供の頃も暖房器具は火鉢だけで、時々オヤジのカイロを借りて暖まった。
でも普段はそんな物するわけにもいかず、よくしもやけになった。
夜、寝る時には豆炭アンカを布団に入れて貰ったが、ぬくもると足のしもやけが痒くなる。
40年前の田舎者は灯油ストーブを知らなかった。
隙間だらけの家だから、どんな暖房器具でも無理だっただろうけど。
俺は黄金カイロ使ってた
おなかのあたりに入れてるとベンジン臭が昇ってきて
気持ち悪くなるんだよね
背中の腰のあたりに入れてるといいかんじでした
863名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 17:44:15
貧しいとは、食えない事。
864名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 18:00:00
そーだねえ  おかずない時なんざ 塩かけて

ご飯 食べてたもんなあ 〇谷園の のりたま

でさえ 高級だった
865名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 18:00:59
塩さ・・・なんでもさ・・・
866名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 18:21:46
ひいばあちゃんの思い出は、桐灰のカイロとワカモト
じいちゃんが石炭くべて 風呂沸かしてた
そのひいばあちゃんが死んで、じいちゃんが交通事故の後少し呆けて
その後からうちの悲惨な貧乏生活が始まった
じいちゃんが中心にやってた商売が急速に傾き、親父ががんばってたみたいだが
とうとう潰れ、何を思ったのかその店舗を改装してストリップ小屋になった
その当時俺は3年生くらいで学校に行くのがたまらなく嫌で、家に居たら借金取りが来るし
それを嘘を言って帰ってもらうのが俺たち兄弟の仕事だった
学校から帰っても誰も居ないし、自分でなんか作って食べてた
けど やっぱし寂しくて誰かに相手をしてもらいたくて
よく踊り子のおねぇちゃんと遊んでたりしてた
そのうち親父が踊り子のねぇちゃんの一人とできたらしく
二人で蒸発してしまった、残された俺たち兄弟は母親の里に預けられ
今思うと蒸発した親父のことが憎かったのだろう
よくじいちゃんにベルトとかで殴られた
でもそっちに居たら学校で「ストリップ」って言われないからなんぼかましだった

くそ・・・ 思い出したら涙出てきた、少年期を活字にするってパワー要るな
みんなの少年期がうらやましいな・・・
867名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/20 22:37:40
うちは、青線の近くだった。
夏の午後、迷路のような路地の中、
縁台でうちわをパタパタさせてる
おねいさんによく遊んでもらった。
飴貰ったり、ほおずりされたり。

今では全く若いおねさんには縁がない。
868名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/21 01:17:41
肉屋のおねーちゃん優しかったな〜
いつも、おまけしてくれた。
869チルソク:05/01/21 16:45:11
>851
オケラさん、お具合いかがでしょうか?
お風邪が快復されて、また故郷のお話や上京後のお話など聞かせて下さいね。

『チルソクの夏』今週末に観られるくらいに快復されるといいですね。

*尚、私の文章の拙さで、このスレが本来の物と違う方向に進行しているように感じられた方には、
 心からお詫び申し上げます。
870名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 00:33:14
俺も薬の錠剤ガリガリ食べてた。
レス読んでると、ワカモトだったのか。
871名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 00:38:00
おらはエビオスだった。(安いからね 千錠入りで幾らやったかな)
872名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 00:47:01
ハイ おみやげ、おみやげ
873オケラ:05/01/22 09:11:02
チルソクさん、みなさん、おはようございます。
お陰さまで風邪、完治したみたいです。
皆さんの中で、竹の花を見たことのある方はいらっしゃいますか。
竹の花に黒い胞子がついた長細い部分があって、時期になると、舐めていました。
ザラザラして味も無く、美味しくも無く、舌が黒くなるのを見せあいっこするだけでした。
口に入れるものが乏しかった時代、何かを食べたいのを我慢するための遊びだったのでしょう。
遠足の時、オケラのオニギリだけ、海苔が無い真っ白なものでした。
同級生の薄焼き卵を巻いたオニギリを見て、貧富の差を...
874名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 09:16:20
おはようさんです。
オケラさんの書き込みを楽しみにしてる一人です。
風邪なおってよかったですね。
875チルソク:05/01/22 09:40:54
皆さん、おはようございます。

>オケラさん、
お元気になられて、よかった。

竹の花?確か竹の花の咲く年は凶作という話ですが。
私も見た事はありますが、味わったことはないです。

「ぐみ」の木が小学校の校庭脇にあって、1年、2年の時の帰り道に毎日
2個ほど頂きました。先生も笑って許してくれていました。

遠足のおにぎり・・・そうですね・・・中には、梅だけだったような気がします梅は、クエン酸がありますので

行き先ならば、よく覚えています。
旧県庁前から、100メートル歩いて県知事公舎を眺めつつ、瑠璃光寺の五重塔・
それから、雪舟庭園・亀山公園などなど・・・。

すべて、徒歩です。健脚になりました・・・というかならざる得ませんでしたね。























876名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 09:46:56
行き先、わかりません。
877オケラ:05/01/22 09:51:18
>>874さん、ありがとうございます。
下手な文章ですが、また読んでください。
小学生時代に山を越えて隣町の小学校に越境入学していました。
4キロの通学路を何とか短く出来ないかと、土曜日の帰宅時は『近道』を探し回りました。
山の薮や獣道を手探り状態で登るのですが、小学校の6年間、とうとう近道は見つかりませんでした。
一度だけ遭難みたいに道に迷い、山狩りされて夜の10時過ぎに村の消防団に見つけてもらいました。
父に『牛小屋で、牛と寝ろ!』と牛部屋に投げ込まれそうになりました。
でも、探検みたいで楽しかったです。
878チルソク:05/01/22 10:39:24
台風で傾いた家は結局、当時市の婦人会会長だった方のご尽力によって、近所の別の
家を貸して頂ける事になりました。

当時は、なにしろ貧しかったけれど、台風による浸水で傾いた古い家に半年以上
住み続けたために祖母が肺炎に罹りました。

その当時、私の町内一帯が「景観整備地区」に指定されて、父は大喜びして市からの補助金で
平屋だけど少しは良い家に引っ越しする事ができて仕合わせでした。

その代償に小さな城下町は観光地化がドンドンと進んでしまい、大型の観光バスから降りて来られた
全国の観光客の皆様方に観光案内かたがた中学生がボランティアで記念撮影に応じなければなりませんでした。


879名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 15:35:58
おもしろくねぇ・・・・な。ここ
880オケラ:05/01/22 21:17:15
実家は、歯磨き粉でした。
本家の幼なじみが、『チューブ入りのバナナ味歯磨きを買って貰った』と見せびらかしに来ました。
食べました...

冬になると、母は有明海の海苔養殖場に出稼ぎに行きました。
胸まであるゴム長靴を履いて冷たい冬の海に入り、海苔を採る作業です。
母がいない時期は、父と一緒に寝ました。
母が帰って来るとクズ海苔(四角に切った時の端っこ)のお土産がありました。
ご飯にかけて食べました。
冬のご馳走でした。
881チルソク:05/01/22 21:28:08
>879さん
ごめんなさい。文才がないもので・・・。

>オケラさん、今晩は。
小学校から、4kmの通学・・・すごいですね。
それなら、往復8km毎日歩かれていたわけですね。
 
近道を見つけようとしてて山狩りされて・・・でも、ご無事でよかったではありませんか。
オケラさんは、毎日森林浴されていた状態ですから、樹木の持つエネルギーや、動物と身近に
接しておられたのでそれらの持つ智恵を吸収されて成長されたのだと思います。

私も同年ですが、曾祖母や祖母、両親等、皆大人に囲まれた中で育って、さらに
妹と弟とは年が少し離れていたせいか、変にませた感じの少女だったと思います。
むしろ、周りの大人達から、いつも「キチンとしていなさい」、「お行儀よくしなさい」
「歌謡曲などを聴いては品が悪くなる」(?!)という、変な価値観を押しつけられて
いたように記憶しています。

お酒を買う事さえ、煙草を買う事も許されない位の貧乏だったのです。
お酒は、本家の方がお正月とお盆に一升瓶で持ってきてもらったのを、
祖母と父のみが呑む事を許されていました。






882名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/22 21:31:07
>>チルソクさん
いいお家柄なのですね。
883チルソク:05/01/22 23:50:23
>880
オケラさんのお母様は農閑期には、有明湾まで冷たい海に働きに出ていらしたのですね。
そういえば、一昨日TVのNHKの朝のニュースで70歳代の海女の方がまだ
現役で活躍されている様子を偶然目にして、その逞しさを私も見習わなくては、と
思いました。

私の母は、内職で家計を支えておりました。
ある日、奇麗な色の毛糸を両手いっぱいに抱えて帰宅していたことがありました。
今まで見た事もないような色の毛糸の美しさと柔らかさに驚いた私は、
「それで、何を編んでくれるの?セーター?それとも・・・」と心を躍らせて聞きました。

しかし、母はとても厳しい顔をして、
「この毛糸は子供は決して触ってはダメなの。
 これでお母さんが編む物は、来月○○手芸店のウィンドーに飾られる物だから」と申しました。

毎日、姑である祖母に仕え、幼い妹と弟の育児に追われてそれこそ寝る間も
惜しんで一心不乱に編み棒を動かす母の姿を中学生になったばかりの私は
複雑な思いで見ていました。

数年前の秋に、私も母のマネをして、本を見ながら子供のセーターを一枚編んでみました。
できあがった物は、袖の長さが違い、不格好でとても我が子以外には着せられない代物でした。
買った方がずっと早くて安くて良いと思いました。

>882さん、
そうでもありませんよ。
地方の息の詰まりそうな四方を山に囲まれた盆地の街では、常に「隣は何をする人ぞ」
という雰囲気でしたので、自然と自己防衛の為に「親の顔に泥を塗らないように」
ということばかり考えてしまう癖がついてしまいました。

8841:05/01/23 06:48:25
うおおおお
スレ立て野郎です。

正直、当初は100レスあれば良いと思ってましたが、まさかここまでとは。
皆さん、有難う御座いました。 
885名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/23 08:48:16
>>866
学校で軽蔑されるのってつらいよね。
自分もそうだった。
子供のころの思い出でいい事は1つもないよ。
本当にどうしようもない環境だった。
でもそのかわり今の自分の家族特に子供が大事。
886オケラ:05/01/23 08:51:04
牛乳が大好きでした。
でも、学校の給食でしか飲めません。
街の温泉街は市営温泉が10円で入浴できました。
湯上がりに牛乳を買ってもらったことが一度だけあります。
給食の牛乳より濃く感じました。
ある日、父が自宅で飼っている牛の乳を絞り、沸かして飲ませてくれました。
乳牛でなく、畜産用の『肥後の赤牛』の乳だったからでしょうか、脂肪分が多すぎて飲めたませんでした。
ばあちゃんが飲んでいた粉ミルク。たまに、うすく作って飲ませてもらいました。
でも、本当は粉を舐めるのが好きでした。
粉のまま舐めると味が濃厚でした..
887オケラ:05/01/23 09:18:46
小学生の時、牛に蹴られました。
庭(なぜか田舎では昔からカドと言います。角?門?)で牛の蹄鉄を取り換える作業の手伝いをしていた時です。
庭に出した牛の足を持ち上げ、長くなった爪を鎌で切り揃え、鉄で出来た蹄鉄を、釘で打ち付けます。
馬は足を後ろに上げて蹴るようですが、牛は横に蹴ります。
一瞬の出来事です。
見事に脇腹を蹴られ、青アザができました。
文句は言えません。
生活の糧でしたから...
8881:05/01/23 09:26:11
あれ?スルーされてる…
ま、いいです。

兎に角、ありがとう。
889オケラ:05/01/23 09:31:22
春の牛の散歩が好きでした。
舗装されていない道を、父と兄が親牛を一頭ずつ連れて歩きます。
牛が歩く度にカツン、カツンと蹄鉄の音が響き、のどかだな〜と感じました。
オケラの役目は、親牛の後を追う子牛が横道に外れて迷子にならないよう見張ったり、他人の田畑に入らないようにすることです。
小川に着くと、牛を浅瀬に入れて洗います。
目を細めて気持ち良さそうな顔をする牛を見るのが楽しみでした。
洗った後、草場に牛を繋ぎ、草の上に横になり昼寝をしたり、魚捕りをしたり、野イチゴを探したり、野ネズミの巣を探して遊びました。
890名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/23 09:33:06
>>888
無視したわけじゃないよw
ここ自分的には良スレだよ。
建ててくれたことを感謝。
891名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/23 09:50:11
スレ伸びると>>888が儲かるのか?
8921:05/01/23 10:35:03
>>891
実は儲かるのだ(大嘘)
>>890さん
優しいレス有り難う。
こちらこそ、感謝!感謝!

コテハンさん盛り上げてくれて有り難う御座います。

レスを読み返し泣き笑いしました。
個人的には>>38さんのレスが豪快で面白かったです。
オケラ氏の牛乳からは
瓶に塩と牛乳入れてひたすら降れば
いいバターが作れそうだ
894チルソク:05/01/24 00:23:59
今晩は。
今まで、1さんがオケラさんかと思っておりました。

ここの皆さんのおかげで、記憶の底に埋もれていたことをいろいろと思い出す
ことができるので懐かしいですし、勉強になります。

同じ40代の方でも、育った環境により経験も様々で、とても感慨深いスレですね。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
895名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/24 05:45:18
貧乏って惨めだ〜
896名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/25 22:35:07
俺は子供の頃、よく、御飯にカツオ節と醤油をかける「猫まんま」を食べていた。
「猫まんま」は貧乏人の必須アイテムだったような・・・・
ちなみに、俺の家では、猫まんまに対して、御飯に味噌汁をかけたのを
「犬まんま」と呼んでいた(;´∀`)
それと、御飯の上に海苔を敷き詰めて醤油をかける「ノリ弁」は
俺の田舎には無かったな。
ほかほか弁当に「ノリ弁」が登場したときに、「ノリ弁ってなに?」
って、皆、言っていた・・・
地域によって、あるところと無いところがあるんだろうか?
897名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/25 22:44:26
うちの方じゃ、味噌汁ぶっかけ飯を猫まんまって言ってたけど。
898(^・・^=)〜:05/01/25 22:47:12
味噌汁ぶっかけご飯は ワンコ飯と言ってました。
お気に入りだったのですが 友達に話したら
「うちのポチと同じご飯だ」と言われてへこみました。

味噌汁ぶっ掛けご飯にオカカのせるとニャンコ飯です。
899オケラ:05/01/25 23:16:32
小学校低学年の時、体育の短距離走や運動会は裸足で走りました。
そのうち、靴の側面に青い線の入った運動靴(たしかアタックシューズと呼んでました)が流行り始め、通学時も履くようになりました。
下校時に急に雨になった日は、アタックシューズを手に持ち、裸足になり山道を走って帰りました。
翌日履く、替えの靴など持っていなかったからです。
足の裏の肉、丈夫でした...
日曜日はタワシで靴を洗いました。
洗っても汚れの落ちない部分は、白チョークで誤魔化しました...
露の時期など、靴が乾きません。
湿った靴を履き通学しました。
900オケラ:05/01/25 23:29:51
小学生時代に持っていたハンカチ、白だけでした。
それも、すべて姉のお下がりです。
でも、白って、いいですね。
男子が持っていても、けして恥ずかしい色ではありません。

しかし、なぜ、白いハンカチしかなかったのでしょう?

この歳になり気がつきました。


葬式に行った時、手に入るハンカチだったんですね...
901オケラ:05/01/25 23:44:04
節分の思い出。

福わぁ〜内ぃ〜(焼いた大豆を家の中に沢山ばらまく...)

鬼はぁ〜、外ぉ〜(大豆を庭にチョビッとまく...)




庭にまいた大豆は、拾っても食べれませんでしたから...
902オケラ:05/01/26 00:00:27
幼い頃、実家の隣にあった公民館で、年に一度だけ映画会がありました。
村中の人が集まります。
それだけで興奮しました。

映画が始まる前には、場内の電気が消えます。

暗くなると同時に、いつも寝てしまいました。
一度も映画を見たことがないので、どんな映画をやっていたのか知りません。


朝日が昇れば目を覚まし、夕日が沈めば眠くなるというコイサンマンみたいな生活習慣でした...
903名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 14:14:19
なんか 泣けてきました
今の子は 子供時代を振り返っても
泣ける なんて事は ないだろうなあ
904名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 14:31:04
オケラさんに足袋100足
905名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 15:23:14
>>903
そんなことないと思いますよ。
でも、現代じゃ有って当たり前、無くて村八分みたいなとこがあり
何でも買い与える傾向が親にもあるんでしょうね・・・・
我々迄の年代で子を持っていれば、ある程度の教育(我慢、辛抱)
ができるでしょうが・・・本当の貧乏って家庭なくなってますもんね。
906名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 15:27:39
>>902
オケラさん朝日が昇れば目を覚まし、夕日が沈めば眠くなるという
子供の頃のそういう生活が懐かしいです。
年老いたら又戻れるのでしょうか・・
907名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 15:30:23
鼻たれてヨレヨレのお下がり服を着て、冬の田んぼで凧揚げしたなぁ。
新聞で作った凧の足がヒラヒラと空で泳いでた。
暗くなるまで遊んでいたけど何があんなに楽しかったんだろう。
908名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 15:35:02
>>907
暗くなっても気づかない時がありました。
遊んでいた近くの家の晩御飯の美味しそうな匂いを合図に急いで帰っていました。
楽しかったですね。
909チルソク:05/01/26 17:42:42
今晩は。1月も下旬になると段々日差しが伸びてきますね。
猫マンマのことを書いていた方、我が家では、鰹節+梅干し+醤油の組み合わせが
好きでした。

お米+麦でご飯を炊くときは、山芋のすりおろしが定番でした。

麦飯、今では見直されてきていますが、我が家では凶作の年になると必ず
登場していました。

ホームメードのパンを買う生活になったのは、中学3年くらいでした。
それまではスーパーの袋入りのパンでした。

初めてオーブントースターを買ったのは高1の春で、いろいろ工夫して
パンを焼くだけでなく調理に使う事も覚えました。

パン屋で食パンを買うのと同時に、サンドイッチ用のパンの耳を小分けして
もらいました。
パンの耳を1cm角にちぎり、牛乳、砂糖又は蜂蜜、卵、レーズン(あれば)
を混ぜた液に一晩浸して翌朝フライパンで焼いたり、アルミカップに入れて焼いた
物は今でも我が家のおやつの定番です。
大人用にはブランデーを少々入れたら、即席フルーツケーキになります。

もう一手間かけたい時は、焼き上がりにバターをお好みで垂らしたり、
アイスクリームを添えたり、シナモンや煮林檎を添えたりします。




やっぱゼンゼン貧しくないね>ツルソク
911チルソク:05/01/26 20:42:36
>910
そうですかねぇ・・・現在の私は極貧ではないとは思いますが、
少なくとも、小学1年〜5年までは、貧困層だったと思います。

もう少し大きくなってから「生活保護を受ければよかったのに」と
母に訊いたら、「そんなこと、体裁が悪くてできなかった」と申してました。
ですから、生活保護に対して「恥ずかしい事だ」という信念を持っていたから
貧しさからなかなか抜け出せなかったのかな、とも思います。
>>910
んだな


バスを逃すと徒歩1時間の通学道を歩いて帰るとき
途中の家で水を飲ませてもらったときの美味しさよ…
今に成ってその辺りに行くと 
田舎は田舎なんだけど家は建て変わってるし
田舎のよろず屋だった商店もこぎれいになってるし道も舗装されてたり…
時の流れを感じた
913チルソク:05/01/26 21:16:10
>912
「貧しさ」の判断基準は人それぞれだと思います。
 学校で惨めな思いをされた人は沢山いると思いますが、問題はその時の
 惨めな思いをいつまでも引きずらないことではないのでしょうか。
 
 故郷に何年ぶりかに帰る時に、私は「変わったところ」と「変わらなかったところ」
 「これから先も変わりそうもないところ」と区分して考えるようにしています。
 
 もっと直感的に故郷を観る事ができればよいのですが、どうしても故郷にまつわる
 様々なしがらみが目についてしまうのです。
 
 一概に言えない何かが、そうさせてしまいますし、もう少し年数が経てばまた違った
 感想を持つかも知れませんが。
914名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 21:18:37
貧乏な中にもちょっとかねもちっぽいやつを見つけては
「おまえなんて貧乏じゃない!」と仲間はずれにして
貧乏じゃないと言われてもムキになって
「びんぼうだいっ!」と言い返すスレはここですけ?
915オケラ:05/01/26 21:19:00
>>912さん、オケラは家も無い山道をエッチラオッチラ歩いて帰りました。
喉が乾くと、遠回りして山道を下り、崖の隙間からチョロチョロと流れ落ちる山水を飲みました。

美味かったです...
オケラの田舎の景色は、昔よりも山が増えました。
後継者がいないため、田畑に杉を植林する家が多いのです。
花粉症の原因を作ってしまいました。
毎年花粉症で苦しまれる皆さん、誠に申し訳ございません...
916チルソク:05/01/26 21:39:00
>915
オケラさん、今晩は。
私自身は花粉症ではありませんが、今年は花粉症の方にとっては例年の30倍もの
花粉の飛ぶ春になるそうですね。

ですから、もう早めの対策でマスクをしておられる方も私の周りでも沢山見受けられます。

吸っている空気や水・食べ物がドンドン悪くなり、人間の本来持つ免疫機能不全が
多くなってしまった結果でしょう。

これからは、多少汚染された環境でも頑丈に生きていけるだけの体力と根性を養う
教育が各々の家庭でなされるべきですね・・・難しい事ですけど。
917名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 22:32:04
>>916
お坊ちゃん認定されて 仲間はずれになってるのに
まーだ貧乏な振りをするんですね。
918名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 22:33:31
昔貧しかったならいいのです。
919名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 22:57:13
ここでの、「貧乏」の基準とは?
今、ここにいる貴方、自分が昔、貧乏だったと思う人、それならばいいのでは
ありませんか?

それとも、昔貧乏だったけれど、今では貧乏ではないという人へのやっかみから
チルソクを仲間はずれにするのなら、お門違いというものでは?

誰しも、いかなる状況でも、上昇志向を持ち続ける方が良いのに決まっています。
余りに貧困だと、その上昇志向そのものを持ち得ないこともあり得るでしょう。
2ちゃんをこの時間にやっている段階で、そこそこの暮らし向きだとは思いますが。
920名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 23:03:25
>>919
チルソクさんのレスも楽しみにしています。
同じ気持ちです。
921名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 23:08:48
言わずもがな。あえて言う事を恥ずべき。
922名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/26 23:11:52
それを言っちゃおしまいよ。
923オケラ:05/01/26 23:12:34
盗まれるものは何も無いのに、なぜか番犬がいました。
もちろん雑種です。
1日2食しか食事を与えません。
腹が減った時には繋いである小屋の柱をカジってました。
ある日、父が柱に唐辛子を塗り込みました。
その後は柱をカジらなくなりましたが、小屋の軒下に吊り下げてあるニンニクやタマネギが落ちてくるたび、シッポ振り振り嬉しそうにカジってました。
いつもニンニク臭い犬でした。
昨年帰省した時もニンニク臭い息をして飛び付いてきました。
もう15年以上生き続けています。
ニンニクって、犬の身体にも良いみたいです...
924チルソク:05/01/26 23:28:02
>919,920さん
ありがとうございました。
貧乏を憎む事は仕方ありませんが、何とかしてそこから脱却しようとする
気概を持っていきたいものですね。

>オケラさん
私も、犬を飼っていましたが、勿論雑種の番犬としてです。
このことは以前にも書きましたが、その犬は私の心の友だったような気が
致します。
どうにもならない事を、朝夕2回の犬の散歩によって発散していたのです。

後にある獣医さんのお話では「犬には鳥の骨とネギ類は食べさせてはいけない」と
言う事を言われてしまい、あの犬の寿命を縮めたのは私だったんだと思うと
哀しくなりました。ごめんね・・・。

925オケラ:05/01/26 23:37:16
チルソクさん、こんばんわ。

えっ、犬に鳥骨、駄目なんですか?
そう言えば、鳥の骨はトガってるので危ないと聞いたことあります...
気にせず食べさせてました。
ネギ類も駄目なんですか。
ニンニクやタマネギも、きっといけなかったんでしょうね。
926オケラ:05/01/26 23:49:21
ドドドドド〜ッ

夜になると毎晩、天井裏でネズミの大運動会が始まりました。

飼っていたネコは夜になると行方不明になりました。

そして


毎年春になると飼っていたネコそっくりの仔猫が村中に溢れてました...
927名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 00:23:19
>>925
長ネギ、玉ねぎには、犬には有害は物質が含まれていて、
最悪、死んでしまう事もあるということです。
私も飼犬が喜ぶので、フライドチキンの骨を与えていたのですが、
犬にはよくないと聞いて、与えるのを止めました。
928名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 00:36:06
鶏をやりたいなら鶏頭の水炊きの缶詰を与えたら。
脚の骨みたいに先が鋭く欠けないから。
929名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 00:37:47
>>928
でも開けるのが怖いです
930名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 00:40:25
確かに怖いぞ〜  白目剥いた頭が・・・鶏冠も薄いピンクで。  
931チルソク:05/01/27 01:30:48
>927さん、
犬には鶏肉骨とネギ類が悪いのらしいのは確かなのですが、今更どうにもなりませんね。
それより、ウチの犬は「麦飯+味噌汁の残り」とか「給食の残りのパン+腐りそうな牛乳を薄めた物」
とか「麦飯+前日の鍋物の残りの汁を薄めた物」とかそんな感じでした。
当時、ドッグフードは売っていませんでしたし、買う余裕はありませんでした。

それでも、時々余ったおはぎの餡の残りを食べさせてみたらその甘さに驚いていたように
思います。
おはぎはお盆・お彼岸に祖母と母と私で20個くらい作っていました。

オケラさんの犬はやはり、一日2食でしたか。うちも、成犬は基本的に2食。

人間も一日3食では栄養過多になるという説があるらしいのですが、ダイエットには
良いかもしれませんが、ストレスがたまりそう・・・。
はじめてこのスレに来て今過去ログよんだところです。
どうやら私、チルソクさんとおなじ小学校に通ってたみたいです。
私は、3年生の秋に風のように現れて5年生の秋に風のように去ってゆきました。
それまで住んでいたところより都会で、お金持ちの子も多かったため
自分の家は貧しいのだと、だんだんと理解しはじめた頃でした。
933チルソク:05/01/27 14:01:02
>932さん、
こんにちは。
本当に同じ小学校でしょうか?Y市立S小ですか?
5クラスですので、3年生の秋から5年生の秋までの2年間のお付き合いだった
のですね。


学年は違うかもしれませんが確かにY市立S小でした。
H間田の交差点のそばにすんでました。
クラスの男子の8割は自転車持ちで
そのうち半分以上はフラッシャー付きでしたが、僕は持ってませんでした。
いつも、友達の自転車の後を走ってついていってました。
子供心に切なかったです。いま思い出したら、鼻の奥がきゅんとしました。
935チルソク:05/01/27 18:41:50
>934
ホントに奇遇ですね! 934さんは今もY県にお住まいなのですか?
私は、その交差点から300m程県庁よりのN日本新聞支社の前を
渡って少し入った小川の近くに住んでいました。
一昨年、S小の周りに行ってみたら新校舎に建て替わっていて、私が低学年の
時の木造2階建て校舎は跡形もなくて寂しかったです。

934さんと、校舎のどこかですれ違っていたかも知れませんね。
当時の流行の遊びはゴムとびとか「ぽこぺん」とかでした。
「花いちもんめ」も流行っていました。
936チルソク:05/01/27 19:24:07
これ以上書いてしまうとさらに、馴れ合いになりますので、
貧しかった話題でお許し下さい。

小学校の頃、「○研の科学」と「学習」という月刊学習雑誌を任意で
買う機会があったと思います。
特定の業者が小学校の中で販売するのはいけなかったとは思いますが、
2冊とも買っている友達がうらやましかったな。

私は1年の「科学」だけ。それも実験の付録が目当てでしたけど、
何ヶ月かやらなかったら、親からもったいないと購読を中止されました。
937名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 22:03:54
>>936
俺は買って貰ったことなかったなぁ。
「科学」も「学習」も。
友達が「科学」の付録を学校に持ってきてたのが羨ましかった。
でも親には買ってくれというのが言えなかった。
938名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 22:26:09
俺買ってないよ。両方とも
俺の勝ちだっ!
やっぱチルソクはブルジョア階級!
939名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/27 22:27:15
いや勝った負けたじゃないし
940チルソク:05/01/27 23:20:13
>937,938
こんばんは。
私は、結局「科学」の付録を組み立てるのは面白くてよかったのですが、
段々面倒になって、1年秋には、もう買ってもらってなかったのですけどね。
941オケラ:05/01/27 23:24:40
オケラは『科学』でした..
『学習』とってる友達がテストの点の上位を占めてました。
小学校高学年になるとマンガ本に夢中になりました。
男子なのにマンガ本ばマーガレット"でした。
『こんにちはスザンヌ』とか...
高校生の姉が毎週買って来たからです。
街には、10円払えば何時間でも読み放題のマンガ本屋がありました。
中学生になり一人暮らしするようになると、毎週貸本屋に行きました。
もちろんマンガ本借りるためです。
おかげで、私立高校に入学するはめになりました...
942.チルソク:05/01/28 00:08:14
オケラさん、今晩は。
やっぱり『科学』の方が面白みはあったようですね。

あ〜「貸本屋」ってありましたよね。確かに。
943オケラ:05/01/28 00:19:35
小学校、一学年1クラスでした。
オケラの同級生は1年生から6年間、27人。
転校生も一人もいません。
ず〜っと27人です。
因みに小学校は平屋建てでした。
944名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/28 00:38:49
なんかアパッチ野球軍みたいですな。

因みに、主題歌唄ってのは同じ町内の人でした。
聞いたこと人、居ると思いますけど
想像以上に、美人でしたよ。
945名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/28 01:21:05
俺たちゃ、裸がユニホーム♪
根性!根性!根性一つが財産さ〜♪

懐かしいー
946名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/28 22:06:12
アパッチ野球軍の主題歌って、差別用語が入っていて、
今じゃ放送できないだそうだ。
947名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/28 22:22:17
ツルンクってウザイよ。山形で金持ちの少女時代を過ごし今貧乏じゃないか。
948名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/28 22:25:57
アパッチ野球軍にオケラって居ましたけど、
ここの常連さんオケラさんもそれから?

>>946
唄に差別用語っていうより、内容が差別満載な訳だがw
949オケラ:05/01/29 00:12:54
こんばんわ、オケラです。
アパッチ野球団、かすかに覚えています。
あの山の中の舞台はどこだったのでしょうか?
確かジャガイモをボール代わりにして野球の練習してたら、その中の一人が転がってきた生のジャガイモをカジってしまう場面がありました。
オケラ、サツマイモやダイコンやニンジンは生で食べましたが、ジャガイモも生で食べられる物なのでしょうか。
いまだに気になっています。
オケラと呼ばれる人、覚えてません。
オケラは貧乏なので、オケラです...
950オケラ:05/01/29 09:43:01
春になると保健所から家の消毒にきました。
『ブォ〜』と大きな音をたてる車を引きながらマスクしたオジサンがやって来て、家の中に向かって消毒煙を吹き込みます。
『3時間は家に入らないで...』と言って、隣の家に去っていきました。
ばあちゃんと、庭で日向ぼっこしながら、3時間待ちます。
一度だけ、試しに白い消毒煙が充満する家の中に入ったことがありました。
目と鼻にツンときて『死ぬのではないか』と本気で心配しました。
あれって、今でもやってるのかな...
951オケラ:05/01/29 17:39:52
大きな音の少ない田舎でした。

耳をすますと、聞こえてくるのは風に揺れる木々の枝がしなる音や竹山の笹音、鳥のさえずり、遠くの山で木を切る『カーン、カーン』という音...

東京は、うるさい所ですね。
聴きたくない音が多すぎて...
うざいコテの自分語りかと思ったが読んでみたら意外に面白いスレだな
953チルソク:05/01/29 18:33:51
オケラさん、今晩は。

サツマイモもジャガイモも生食は、アクがあって無理ですよ〜!
特にジャガイモは、芽の部分に毒がありますので必ず加熱しないと。
生に近い食べ方でしたら、新ジャガを千切りにしてサッと茹でて酢・醤油
ごま油のドレッシングでシャキシャキ感を味わいます。

オケラさん、サツマイモを生で食べた事あるのですか?すごい!
トウモロコシの新鮮なものでしたら、生で食べられますが・・・。

春先の家の消毒・・・おそらく害虫の燻蒸かと思われますね。
今でい「バ○サン」みたいな物かと。
猛毒ですので、室内で飼われているペットや金魚、台所にそのまま出したある
野菜や果物も要注意でしょうね。

田舎では、日が落ちると急激に静けさがやってきますね。
星の瞬きはそれは美しいものです。
都会に住み慣れてしまうと、自分でも段々と音に対して鈍感になっていくのが分かります。







954名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 20:03:15
最初はコテいなかったのだけど
途中からウザウザでてきたんだよ。 
でもって貧乏自慢やって勝敗決めてるんだw
955名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 20:41:24

今はお前が一番ビンボね 生活も心も ここは昔ビンボで 今は成功者のスレ
956名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 20:50:31
成り上がりスレかよw
957名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 20:53:48

今が極貧のオミャアにはわかるまいなw
958名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 20:54:45
うん、わからんw
で、1000までに決着付くの?
960名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/29 21:40:17
痛み分けでw
961名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/30 22:18:51
>>953
>生に近い食べ方でしたら、新ジャガを千切りにしてサッと茹でて酢・醤油
ごま油のドレッシングでシャキシャキ感を味わいます。

なんだこれ〜美味いじょ〜。
新ジャガじゃなかったけど、ホクホク感もいい感じ。
あ、レシピスレじゃねーとか叩かれそうだw
962名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/30 22:27:07
昔ビンボで今は成功者のあなた
親に家でも買ってあげたら!!
963名無しさん@お腹いっぱい。:05/01/30 22:36:37
♪ びんぼ〜 びんぼ〜  なみだあ〜の びいうんぼう〜 ♪
964チルソク:05/01/31 21:41:45
>961
今晩は。スレ違いでしたけど、気に入ってもらえてよかったです。

965名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/01 16:36:26
>>964
今日それ作ってみますね。
966名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/01 23:34:48
つまらないスレだな
967名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/01 23:37:17
オズマ
968名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/01 23:51:16
おいおい反応速過ぎツルンク!!
969名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/02 11:17:04
小さいころ雪を食べていました。
雪を見ていたら思い出しました。
970名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/02 23:39:45
雪!
雪か

たまに降り積もった雪に、合戦が始まる。
砂利混じりの雪爆弾。
相手も俺も血まみれ。
だけど、俺も奴も、みんな笑ってた。

くそガキ時代に戻りたい…
971名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/02 23:50:12
あははは、バカだなーおいらもだ
972名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/03 11:17:48
節分あげ。
973名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/03 23:05:40
オケラさん、また季節感溢れる山でのお話聞かせてくれないかな?
974オケラ:05/02/04 21:00:11
喪中


飼っていたネコが亡くなりました..
975名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/04 21:01:11
神だですね
976チルソク:05/02/04 21:19:03
>974
オケラさん、今晩は。

>800で、お話しされていた猫が旅立ってしまったのですね。
オケラさん達にたくさん可愛がられていた猫は、きっと幸せだったと思います。
ご愁傷様でした。 
977名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/04 22:22:56
978名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/04 22:32:46

(-人-)
ねこさん さようなら
980名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/04 23:24:34
1000!
981オケラ:05/02/05 05:33:28
皆さん、ありがとうございます。

子供時代に飼猫や飼犬が死ぬと、父が山の中に埋めに行ってくれました。
犬が4匹、猫が2匹、田舎の山に眠っています。
二匹目の猫は東京で飼えなくなり飛行機乗せて実家に連れ帰った猫でした。
田舎でのペットの葬儀は、土に埋めるだけで簡単ですが、都会は大変ですね。
勝手に近くの公園に埋めることもできないですし。
今回の三匹目の猫、火葬と骨壷の料金四万四千百円也..
マンションで飼っていたので、あまり外に出た事がない可哀想な猫でした。
自然の中で思いきり走り回らせてあげたかったです。
982オケラ:05/02/05 05:48:13
三方を山に囲まれた、日の出が遅く、日の入りが早い田舎で育ちました。
冬の朝は、霜柱踏みながら学校に行くのが楽しみでした。
あの『ズシャッ』というか『グジッ』というか、うまく表現できませんが、とにかく、他に楽しみのない冬でした。
雪が降ると狂気乱舞です。
積もることを祈りましたが、数年に一度しか積もったことがありません。
1cmでも積もれば、丼とスプーン持って、雪集めに飛び出しました。
丼に集めた雪に白砂糖かけ、カキゴオリを食べる気分を満喫しました。
雪国生まれの人が羨ましかったです。
俺雪国の炭鉱町育ち。35年生まれ♂
親父は流れの炭鉱夫、まあ日雇い人夫の炭鉱版みたいなもんか。
これがまた全然働かない、で俺が5歳の時お袋が出て行った。

母親がいなくなり父親の生活態度が更に乱れ本当に食うものに困った。

小学校6年の時には父親は野良犬を捕まに行くって針金でワッカ作り出し・・
夜、冷蔵庫の中の肉の固まり見たときにはサスガにここまで落ちたかと。
弟が犬の肉だーって言って泣き叫んでいたけど俺はグッとこらえて
誰にも言うなよ、言ったらいじめられるからなって冷静に諭していたよ。



984オケラ:05/02/05 15:20:29
すごいですね。
犬の肉ですか。
どんな味がするのでしょうか...
でも、韓国では犬の肉を食べさせるお店があるそうです。
体に良いとも聞きました。
たとえ貴男が犬の肉を食べたとしても、それは生きるための手段ですから。
貴重な経験、聞かせて頂きありがとうございました。
泣けました。
他人事だから俺はのん気な受け取り方してるのかもしれないけど、
これまでに書き込まれてる話のうち、かなりの数は、貧しかったと言うよりも
都会的じゃなかったっていうだけの事じゃないのか? 豊かでもあったと思うよ。

で、いまどきの「貧乏」は殆どが、贅沢してない(出来ない)だけ。
慎ましさ、質素とかの概念を忘れたか、それで堂々していられない人達ほど
貧乏かどうかを気にしているようにも感じる。
豊かさの対語として貧しさを思い浮かべていると
987名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 02:57:17
考えすぎじゃねん。
それに、厭世主義ぽいぞ。
988名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 20:02:40
心が貧しいっと?w
989名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 20:17:21
俺もガキの時代は貧乏やったよ。
おかんはお金が無くなると大事にしてる嫁入りで持ってきた着物を箪笥から出して質入れ。
そんときのせりふが「人間、貧すれば箪笥や」。
そんな天真爛漫で明るいおかんのおかげで心までは貧しくならんかった。
990名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 21:46:28
お久しぶりです。
スレ立て野郎です。
う〜ん、もうすぐ終了ですか。

と、思うと何か悲しい。
皆さんのレスに感慨無量でした。
誰か次スレ立ててくれるかと思いましたが…
次スレ自ら立ち上げてみます。
991名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 22:04:00
992名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 22:24:55
>>991
Zでぃす!
993名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 22:25:56
1000!
994名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 22:48:25
まだどこかに、「戦後」があった頃のことをギリギリで覚えています。
いろいろ心に響くお話を聞かせて下さってありがとうございました。
次のスレも引き続きよろしく。
995名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 22:54:03
995
996名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 23:09:53
ここいらで保存版にしとこっと
997名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 23:22:22
コテハンさんに一言。
もはや失礼な呼び方ですね。

蟻さんことオケラさん、チルソクさん。
次スレでも、宜しくお願いします。
感謝してます。
998名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 23:24:42
1000!
999まちこ:05/02/06 23:25:13
 
1000名無しさん@お腹いっぱい。:05/02/06 23:25:45
せんまさお
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立てて下さい。

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