1 :
1:
村上春樹風な文章でリレー式の物語を書いてみない?
「ねえ、どうしたっていうのよ?」彼女は振り向いて僕に言った。
「30代板なのよここは。ここで、村上春樹風のリレー長編を書けっていうの?」
「仕方がなかったんだ。ここなら紳士的な人が多いと思ったんだ。それに…..」
「それになによ?私はあなたが何を考えているか分からないわ。」
「違うんだ。僕がこの板にスレたてられるのは後1年も無いって事なんだ。だから今はこの板で
たてるのが僕に一番あっていると思ったんだ。未年の男、言い換えれば羊男って事だね。」
「馬鹿みたい。」彼女は小さな声でそう言って肩をすくめた。
「分かったわ。ここで村上春樹風のリレー長編を書けばいいのね?
それとちょっと気になったんだけど、的じゃなくて風なのね?どうして?」
「それは僕の文章が下手だからだ。ハードルを下げてみたんだ。」
「馬鹿みたい。」彼女は少し怒っているようだった。
こうして僕達はここで村上春樹風の長編リレー式の物語を書くことになった。
*基本的にsage進行で お願いします。
*荒らしは徹底的にスルーって事で。
2 :
大人の名無しさん:2006/10/10(火) 13:34:29 ID:9dZHfyvV
↑「どこが、春樹風なのだろう?」と底の見えない井戸の底に向かってぼくは叫び続けた。
−完−
3 :
大人の名無しさん:2006/10/10(火) 18:57:55 ID:Bogf7xpj
早っ!!!もう完結してもうたwwwwwwwwwwwwwwwwww
4 :
大人の名無しさん:2006/10/10(火) 23:27:16 ID:M9oFK6HE
なるほど。ここはいいところかもしれない。と僕は思った。
確かにここでは何かの条件を付けた村上春樹を求められることも、
続きを書くことに対しての身勝手な要求を突きつけられることもないかもしれない。
「ここはいいかもしれない」
僕は実際に口に出して言ってみたが、特に誰からも同意の声は上がらなかった。
でも、ここをどういう風にしていくのかは、我々次第だ。
まるでロビンソン・クルーソーにでもなったような気分だ。
「はいほー」
今日は本当にキツイ1日だった。
君が一生懸命スレを立てているときに、僕は必死で作業の流れを止めないようにボルトを締め続けた。
仕事が山ほど与えられているという事はとても幸せな事である。
過労で人がばたばたと倒れていく様を見るのはつらいのだが。
それでも、書かなければならない。流れが止まらないように。
書き続けるんだ。誰かが僕にそう言ったように。
5 :
大人の名無しさん:2006/10/11(水) 01:30:46 ID:AbM6cSo6
村上春樹はノーベル賞を取れるのかね。
6 :
大人の名無しさん:2006/10/11(水) 09:57:32 ID:nzUMf6u0
>>4 来てくれてありがとう。
僕は少し心配したよ。来ないんじゃないかってね。
偏狭に向かってスレて行く僕がいたんだ。
ここは君が言った通り何の制限も無い。
君の好きな様に書いて欲しい。そして僕が続くよ。
遠慮はいらない。其の為のスレだ。
7 :
大人の名無しさん:2006/10/11(水) 10:07:02 ID:nzUMf6u0
あ、ageちゃった。
8 :
大人の名無しさん:2006/10/11(水) 17:12:55 ID:HzrDEqkE
それもいいんだけど、少し話をしないか?
僕はまだ、丘板で起こった出来事を整理しきれていないんだ。
なんていうか、奇跡的なタイミングでオーバーしたよね?
そのことにしばらく気がつかなくて、僕は何故みんながなんの感想も言ってくれないのか、
人参がどう感じていたのか本当に心配というか、謎だったんだよ。
それでしばらくして、「みんなどうしたの?」って書き込もうとしたら、
もう書き込めなくなっていたんだって事に気がついて本当にびっくりしたんだ。
なんというか、神が降りたとしか思えなかった。
どうしてそんなことが起こるんだろうって、ホントに不思議だった。
人参はどう思ったの?物語の終わり方はあれでよかったんかな?
9 :
大人の名無しさん:2006/10/11(水) 17:36:34 ID:HzrDEqkE
あれは僕も本当にびっくりした。6時ごろ仕事中に覗いて、僕のレスって
誤字脱字すごい多いなと、慌てて書いたからなって反省しつつ、ついにエンディングか
って思っていた。それで、その後誰も欠いて無いからおかしいなと思いつつ
とりあえず「お疲れさん」って書き込もうと思って打ったら、「書き込めません」って表示されて
あれ、何か間違ったかな?ってもう一度やっても同じで思わず「なんだコリャ?」
って大きな声を出したらみんなが「どうしたんですか?何かあったんですか?」
って集まってきてしまったから誤魔化すの大変だったよ。
エンディングに関しては、一番のハッピーエンドを選択したんだな。と思ったんだ。
他に家に行ったけどすれ違いで逢えなくて途方に暮れて終わったり、
実はあの婦人が彼女だったり(まあ、オカルトだからね。)っていうのも
有りかなって思ったけど、でも一番しっくりいってると思ってます。
で、「完」って最後に書いてあるままスレが終わったのには改めて
びっくりだよね。
随分仕事忙しいみたいだけど余り無理しないでね。
時間も残りレスもたっぷりあるしね。
うん、仕事はね、実は10月が一番忙しいんだ。
9月で決算して、その後はお決まりだよね。
その上年間の売上が一番多いのも10月なんだよ。
でも、とりあえず9月中に長編を終わらせられて本当に良かったよ。
あのまま放り出したらマジ袋だたきだよねw
本当はかなりシュールなエンディングを用意していたんだけど、
みんなの意向がハッピーエンドなんだなーって解ったから変えたんだ。
途中で誰かが「彼女が大好きだ」っていう一文を入れたじゃない。
あれでね、みんな彼女に幸せになって欲しいって思ってるんだって、感じたんだ。
でも、僕はあの最後はあれで良かったと思ってるよ。後悔はしていない。
なんというか、あんな風にエンディングとスレのオーバーが同時だっていう事だけで、
すべてが許される気がする。
そういえばそんなレスがあったよね。あれで僕も思わず感情入れまくっちゃったしね。
そんなことするから春樹的じゃないって言われるんだよね。クールじゃないといけないのに。
でも最後は本当に凄く美しい形でスレがおわったからね。
荒れたままで終わっちゃうと後々まで悔しさが残っちゃいそうだったもんね。
でも正直終わった後、喪失感を感じて何かどうしようも無い毎日を過ごしてたよ。
毎日春樹スレ覗きまくってでも何も書く気になれなくて、だからあのスレが
少し上がっていたからあれっ?って思って。そしたら君が書いていたから
別の誰かのレスかな?って少し疑いながら書いたんだ。そのあとまたレスがあって嬉しかったよ。
そうだったんだ・・・。
僕は喪失感もあったけど、充実感がすごくて、なんか、RPG攻略したときみたいな、
たとえがものすごく卑近なんだけど、やり遂げた感が強くてしばらく小確幸を味わっていたよ。
でも、だんだん、「ああ、もうあんなに続き考えたり悩んだりしなくていいのか」と思うと、
すごく寂しくなってね。なんか、人参にちゃんと僕は君をバカにしたりしたつもりは絶対にないって、
はっきり言っておきたかったんだ。
それで、君とちゃんと話を出来たらな〜ってそう思ってガイドラインに書き込んで、
君が見てくれる可能性なんて全然考えて無かったけど、返事が来て嬉しかったよ。
期待してなかったから、返事を見るのに時間掛かっちゃったけどね。
君が僕をバカにしたなんて一度も感じたことなんて無いよ。
むしろ、バカにされてるんだぞって言った奴の方が充分僕をバカにしてるとは感じたけどね。
まあそれはそれでもうどうでもいいけどね。
それから君と同じく達成感とかもう続き書かなくていいっていった解放感も
僕も感じていたけどね。その間を行ったり来たりって感じだったね。
ようやく落ち着き始めた時にあのレスを見つけたんだ。そんな感じです。
季節も秋になったし少し感傷的になってたんだね。な〜んてね。
それを聞いて安心したよ。
なんというか、うま氏との事ですごくナーバスになってたんだ。
彼が君をバカにしたと感じたのは僕のほんの思い過ごしだったのかもしれない。
でもあの時はただの荒らしのノータリンが君をバカにするのとはまったく別で、
仲間の裏切りって本当に許せないって思ってぶち切れちゃったんだ。
だけど、僕もすごく言い過ぎた。あんな事は言うべきじゃなかった。
後悔しても仕方無いんだけど。
でも君が僕を必要と思っているのと同じかそれ以上に、
僕が君を必要と思っている事が誰にも理解されていなのには本当にがっかりしたよ。
僕らがやってきたことは本当に二人三脚で、おんぶでもだっこでもない。
そういう風に理解してもらえないのは僕のせいだ。高飛車だからね。
でも本当は強がっていただけだよ。荒らす奴らに負けて物語りが完成しなかったらって思うと、
絶対に負けられなかった。
いっぱいに張りつめていて大変だったんだよ。本音を言えばね。
じゃ、明日も朝はやいから寝るよ。
またね。おやすみ^^
すいません。昨夜はソファーで横になってたらうっかり寝落ちしてしまいました。
一時頃目が覚めて見てみたら君の書き込みがあったのですが寝ちゃってるだろうな
と思って今書いてます。でもあの状況の中だったから僕も意地になって
書いていたってのもあったし、まあそれはそれでしょうがなかったのかもしれない。
いずれにしても厭な事は忘れて少しでも前に進む事にしようよ。
前向きにね。
あ、そうそう僕も辺境・近境買って読んでみたよ。エッセイは読んだこと無かったけど。
とりあえずノモンハンの処しか読んでないけど。一昨年北京と天津に行った
時のこと思い出したよ。列車の硬座とか軟座とか臥軟座とかね。あと車事情とか
凄くてね。うんうんそうだそんな感じだってね。本当に書いてある通りで
僕が運転したら500mも運転しないうちに事故に巻き込まれるだろうと思ったんだ。
面白かったね。もしよければお薦めの本があったら教えてよ。読んでみるから。
20 :
大人の名無しさん:2006/10/12(木) 13:38:48 ID:XpF9uHaH
僕は中国へ行ったことが無いんだけど、あまり行きたくないなw
お薦めなんて偉そうに言えるほど読んでないけど、今はカフカ短編集を読んでいるよ。
なぜか古典文学は読み返したくなるんだよね。
もちろん、村上春樹もなんだけど。
でも宮部みゆきとか村上龍とか、そういうのは読むと面白いんだけど、まず読み返さない。
それは多分、ストーリーの面白さと、文章を読むこと事態の快楽は別ってことだと思う。
文学とは快楽であるべきだと思うんだ。
村上春樹が訳したレイモンド・カーヴァーも何度も読み返してるかな。
でも村上龍の「半島を出よ」ってすごく面白かったし、すごいな〜って関心するんだけど、
でもあれを2回読もうとは思わないよね。
なんか、あまり参考にならないねw結局何を読ませたいんだ?って。
しまった。あげちゃったよozr
まぁ中国は行かないほうがいいよ。なにしろタクシーに乗った時なんてカーチェイスみたいな走り方するし
挙げ句の果て目的地に着く前にガス欠するんだよ。たまたま近くにスタンドがあったから良かったけどさ
みんなでそこまで押していったんだ。車をね。スタンドでトイレかりたら裏に行けって言われて
行ったら壁しかないし周りに汚物あふれてるし。我慢したよ。トイレかりるの。あ、ごめん。汚い話で。
そんな訳で中国は行かないほうがいい。
とりあえず本はまだ読んでない村上春樹の本とカフカの短篇集読んでみるよ。
忙しいのにごめんね。ありがとう。
すごいんだね〜w中国ってかなりディープだね。
僕がお薦めの本で、中国の文化大革命の時代を生きた女性が書いた「ワイルド・スワン」
というのがありますが、あれは必読です。読んでいるかもしれないけど。
日本人がまったく知らなかった中国の本当のクロニクルだよ。
なんというか、どうしてこんなに大きな国が数え切れない民衆を抱きかかえながら、
一直線に喜劇的なまでの悲劇に突き進まなくてはならなかったのか、考えさせられましたね。
今の時代に日本に生まれたということがどんなに幸せなのか身に浸みたよ。
10年くらい前の本なので、今さらって気もしますが、「大地の子」より迫力あったよ。
現実にそこにいた人の書いたものはやっぱり違うよね。
小説以外だと、「人間を幸福にしない日本というシステム」とか、
「免疫革命」とか、「平気で嘘をつく人たち」とか。読んで良かったなって思う本です。
評判になったやつだけ並べているって言われそうだけどw
あと現代小説では「朗読者」が良かった。なんというか、風景が心にずっと残る小説っていいよね。
村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も是非読んで下さい。
サリンジャーの感受性の鋭さに舌を巻くよ。「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編集もお薦め。
もう、サリンジャーは古典だよね。結局古典に戻ってしまう自分がいる。
人間が一生に読める本の数って、毎日1冊60年間欠かさず読んでも2万千9百冊なんだよ。
紀伊国屋に並んでる本の1〜2%でしかない。
だから、何を読むべきなのかはよく考えないといけないんだなって思うよ。
読んで後悔しそうな本は途中でもすぐに止める。
そうしないとなかなか良書には巡り会えないんだよね。
忙しいなんてそんなに気を遣わないで下さい。自分のペースで書くから。
それに僕は亥年で年下なんです。ずっとため口きいててすみませんでした。
今日は寝落ちじゃありません。あ、そういえば今日はくりょくりょが貰える日だね。
あの〜今まで通りに書いて欲しいな。気にしないで。年齢なんか関係ないんだ僕と君の立場は。
それから本の推薦ありがとう。参考にさせて貰います。でも君の話を読んで自分が恥ずかしくなったよ。
僕はそんなに読書なんてしてなかったんだ。ここ3年ってところなんだ。実は。ほとんど初心者なんだ。
多分君の1/10も理解出来て無い。本当に失礼な話だよね。その程度なのにこんな処で君みたいな人と一緒に
書いていこうだなんてね。だから今まで通りに対応して欲しいんだ。初心者相手だから。
でも僕は誓って言うけどいい加減な気持ちでは書いていない事は理解して欲しい。
少しでも君のレベルに近付ける様に僕は努力したいと思っている。迷惑かけないようにね。
こんな僕でよければ一緒に書いて下さい。まだ物語は始まっていないのだから。
「ねじまき鳥さん、このスレのどこが面白いかわかる?」
「たぶん、誰も読まないのに、せっせと書いている人を想像してしまう所じゃないかな?
突撃隊みたいな人だよ、きっと。」
「そうね、突撃隊さんは、いつでもみんなを、笑わせてくれるわね。」
僕がカフカの短編集を読み返しているのは、実は君の文章ってカフカ的だなって思ったからなんだ。
想像力というのはある人にはあるし、無い人には本当に無い。
そして、間違いなく君にはあるよ。保障する。
カフカのあまりにもドラスティックな展開に息を呑むと思うよ。
村上春樹風に言えば「ジョッキ1杯ぶんくらいの息をはっと呑んだ」って感じかなw
僕はあのリレーを始めた時、もう一人すごい人が現れるといいなって思っていたんだよ。
午氏って、本人はそう思われたら不本意かもしれないけど、僕と同じタイプの作者なんだよ。
倫理的整合性に逆らえないというか、すぐにつじつま合わせに走るというか。
でも君は常に新しい展開を用意してくれた。究めてカフカ的にね。
だから、変な引け目を感じたりしないでほしいな。僕はすごく君を尊敬しているし、嫉妬している。
才能とはそういうものだよ。モーツアルトに高貴な人格が伴わないのと同じように、
果たして読書家に小説を書く才能が伴うとは限らない。
サリエリの気分を味わっているんだ。かなり自虐的にね。
何かそんなに褒められるとテレちゃうな。もともと僕は褒められて伸びるタイプなんだけどねw
でも僕は君の表現力や文章力を尊敬してるし嫉妬してる。おまけに依存してる。
でもそろそろ始めようか。まずは君から書いて欲しいな。その後僕が書くよ。
じゃ頼むよ。
僕はそのカラスの羽より深い漆黒の暗闇に合うはずのない焦点を捜し、目をこらしていた。
それは深く何よりも暗く、地獄の業火にも焼けることのない鉄を思わせた。
そして僕はゆっくりと足を大きく一歩踏み出した。
架空の階段を踏み抜いた時のような意心地の悪さを足の裏に覚え、僕は危うく転びそうになった。
それでも僕はバランスを持ち直し、体勢を整え、また一歩と進んだ。
その先を進むと懐かしい外灯の光がドアの隙間からこぼれ、窓からはおまけのような新月の薄い明かりが一筋になって差し込んでいた。
僕はその明かりを頼りにやっとの思いで冷蔵庫の前に立ち、扉を開けた。
冷蔵庫の庫内照明に一瞬目がくらみ、やっと目が慣れると中に手を突っ込んでバドワイザーの335ml缶を取り出して一気に飲み干した。
数時間前にワイルド・ターキーのボトルを一本開けて酔い覚ましにビールを飲んでいるわけだ。
僕は冷蔵庫を開けたままその明かりでキッチンテーブルに置いてあるデジタル時計に目をやった。
AM3:37。暗いわけだ。
僕は冷蔵庫の扉を閉めて壁づたいに歩き、キッチンテーブルの椅子に腰を降ろした。
妻が出て行ったのは昨日の夕方のことで、僕がバーボンを飲み干したのはそのわずか5時間後だった。
何もかもが煤けて見えた。それは夜の暗闇というよりは、僕自身の心の暗闇だった。
目を閉じると、こみ上げる吐き気と出鱈目な色を重ねたような残像が180度に動く目眩に襲われた。
彼女が僕を捨てるのは当然のことのように思えた。誰もこんな酔っぱらいの相手はしたくない。
「突撃隊さんは小説じゃなくて地図を描くべきなのよ、きっと。」
「だれだって、自分の適性を気づくには時間がかかるものさ。」
そしてびゃあびゃ笑いながら俺とあいつはビールをグビグビ飲むのだ。
「吐いちまえばいいさ。全部吐いちまえばいい。」テーブルの上に転る空瓶の黒いラベルに貼りついた
粗暴な茶色い七面鳥が僕に向かって嘲笑うような目付きでそう言っているように見えた。僕はその七面鳥を
テーブルに叩きつけ「ヤワになっている。」と呟いた。
別に叩き付ける理由は何も無かったが、そうしない訳にはいかなかった。七面鳥はテーブルの上で暫らく踊った後
踊り疲れたように床に落ちた。七歩。ここからシンクまでの距離だ。
今の状態でなんとか歩ける限界の歩数だろう。激しく襲う目眩の中ダイニングの不安定な椅子の背もたれに
体を預けるようにしてゆっくりと進んだ。ちょうど七歩目を数えた時に、バスタブのカランを
全開にしたような琥珀色の液体が外の明かりで鈍く輝いたステンレス・スティールのブラックホールのような
黒いゴムの中に吸い込まれていった。おそらく僕の意識も液体のように吸い込まれてしまえば随分楽になったのかもしれない。
しかし押し寄せる波のような吐き気はそれすらも許してはくれなかった。何度目かの波をやり過ごしたあと
ざらついてすえたような味がする口を冷たい水ですすぎ顔を洗った。おかげで吐き気は止まった。
しかし絶望的な目眩は僕の体を支配し続けテーブルから転がり落ちた七面鳥は相変わらず僕を睨み続けていた。
僕はキッチンの前に立ちながらダイニングルームを眺めた。薄明かりの中で沈黙に包まれた部屋は
いつものそれとはまるで違った場所に見えた。そして僕の孤独を一層深い物にしているような気分にさせた。
妻は出ていく時に僕に何かを伝えようとしていた様な気がした。しかし僕の記憶では一度も僕の方を
振り向いたりせず玄関を出て行った。これまで妻は何度か家を出ていく事があったが、必ず家中を片付けて行った。
そして何日か後に必ず戻ってきた。しかし昨日は散らかったままの部屋で僕の前を素通りしてスーツケースと一緒に
玄関のドアを締めた。鍵も持たずにだ。それは妻の堅い意思の様に見えた。僕は昨日妻の顔を一度も
見ていない。僕の前を素通りして行く後ろ姿を見ただけだった。一体何を伝えたかったのか今の僕には
うまく理解することが出来ないでいた。そんなことを考えられる程まともな状態では無いのだ。
僕は考える事を諦めふらついた体を無理矢理引きずりながら長い時間を掛けてベッドに潜り込んだ。
「..........」
「..........」
目が覚めると遮光カーテンの隙間から秋の物憂げな日差しがこぼれていた。
彷徨える魂のかけらのような塵がその日差しの中で踊っていた。
目眩はおよそ30度くらいの角度にその振幅を修正してはいたが、まだ続いていた。
あれだけのアルコールを飲んでも人間は死なないのだなと思った。
あのままベットの中で死んでしまっていても誰も悲しまないだろう。
僕はベットから起きあがり、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。
いつもなら、僕が起きると昨夜に散らかしたテーブルの上には祝福を受けた美しい花が一輪挿しに飾られ、
白い湯気の立ち上るふっくらとした黄色いスクランブルエッグやカリカリに焼けたトーストや、
邪気のない素朴な味がするフレッシュオレンジジュースが雑誌の撮影みたいに並んでいたものだった。
でも、もちろんの事ながら、テーブルには昨夜僕が散らかしたままのバーボンの瓶とグラスと、丸められたちり紙がオブジェみたいに転がっているだけだった。
カレンダーを見ると、昨日が13日の金曜日だった事に気がついた。
キリストが死んだ日。彼の人生は信じる人からの裏切りの連続だった。
そして僕にとっては唯一信じていた妻が僕を裏切った日となった訳だ。
僕らは結婚式なんてしなかった。キリストにも神仏にも誓う必要なんて感じなかったのだ。
友人たちが僕らをちょっと値の張るフランス料理店に連れて行ってくれ、割り勘でささやかな食事会をしただけだ。
僕の数少ない友人の一人が言った。
「人生いいときも悪い時も、お互いを自分の事のように思いやれば、きっとうまくいくよ」
僕はそれを結婚式でよく聞くスピーチみたいな当たり障りのない祝辞として受け止めた。
「ありがとう。そうなれるよう、努力する」と僕は言い、彼女は静かに微笑んだ。
その食事会はささやかながら、僕らの心を満たしたのだ。
あれから僕は彼女を自分の事のように思いやっていただろうか?
分からなかった。僕には仕事があったし、毎日が充実していた。
それに彼女とのセックスは素晴らしかった。濃密で深く温かく僕らは抱き合った。
何度も何度も数え切れないほど抱き合った。ただ見つめ合うだけでも幸せだったし、愛しかった。
ただ、彼女は無口な女性だった。静かに料理を作り、とても静かにセックスに応じた。
僕は時々彼女が見せる一種のあきらめみたいな表情を見逃せなかった。
なんというか、彼女は僕を、よく躾られた性格のいい雑種犬を見るトップブリーダーのような目で見た。
「素晴らしいわんちゃんなんですけどね」とでも言いたげな。
僕は彼女が幸せではない事を感じていながら、それをどうしてあげることも出来ずにいたのだ。
それは僕がどうにか出来る種類の事柄ではないように思えた。
しかし今の僕がしなければならないのは、ゴミの散乱したこの部屋を片付ける事と空瓶を叩きつけた時に出来た
テーブルの疵を修理する事だった。一人になってしまった今そんなことをする理由がよく分からなかったが
それ以外にするべきことが見つからなかったからだ。妻と一緒に暮らし初めてからは散らかったままの
部屋にいる事が無かったのでひどく落ちつかなかったし。躾の良いトップブリーダーとの生活は雑種犬の
性格をも変えてしまう事もあるのだ。おかげで部屋をそのままにしておく事はとても我慢出来ない重要な
事柄になっていた。僕は床に転がったバーボンの空瓶を手に取ってラベルを見てみたが七面鳥はもう僕を
睨んではいなかった。そこに居るのは酒屋の棚に並んでいる時と同じ極普通のワイルド・ターキーだった。
僕はテーブルの上のグラスを空瓶と一緒に流しに持って行きシンクに置いた。シンクはまるでパーティが
終わったばかりのホテルの厨房と同じ臭いを放っていた。アルコールと残飯が織り成す屈辱的なまでの雑臭
のコラボレーションだ。僕は水を思いっきり出しその臭いをブラックホールを連想させる黒いゴムの中に
流し込みグラスを洗い空瓶の中をすすいだ。僕の住んでいる地区ではリサイクルの関係でそうする事が
義務付けられているのだ。僕は床とテーブルの上を片付け掃除機をかけた後テーブルの修理をしようと
思った時に電話のベルが鳴りだした。孤独と沈黙の中に居た所為でそのヒステリックな音が電話の音だと
理解するのに少し時間がかかった。
「そういえば、春樹さん、ノーベル賞とれなかったんですってね。」
「たしか、トルコのオルハン・パムクっていう人になったらしいよ。」
僕は電話に出ようか出るまいか悩んだ。でも結局出る事にした。
もしかしたら、妻からの電話かもしれなかった。彼女が僕に最後に伝えたかった何かを
伝える決心をして架けて来たのかもしれない。
受話器を取り「はい、坂本です」と僕は言った。
「坂本さんですね」と聞き覚えの無い若い男の声が言った。
「はい、そうですが、何かのセールスならお断りです」僕は妻では無かった事で腹立ち紛れにそう言った。
「もちろん。セールスなんかじゃありません。あなたにとても大事な話があって、電話をしているのです」
「わかりました。振り込め詐欺ってやつですね」と僕も負けずに言った。
「違います。あなたは随分疑い深いんですね。少しは話を聞いたらどうです」
男の声にはまったく聞き覚えが無かったが、彼にはこちらに対して引け目というものが微塵も感じられなかった。
僕が電話を切らないはずだという原子炉の蓋のごとき確信を持っているようだった。
「それじゃ、伺いましょう。大事な話って一体何なんです?」
「あなたの奥様の事です」
「僕の妻がどうかしましたか?」僕は平静を装って言った。
ここで妻が出て行った事を明かせば相手の思うつぼに違いない。
「はい。今どこにいるのか知りたくはありませんか?」
僕は絶句した。相手は妻が出て行った事はおろか、その行き先まで把握しているのだ。
「・・・あなたは、恭子の何なんですか?」
僕はうっかり妻の名前を口に出してしまった。一番やってはいけない事だった。
でも、この男の声には少なくとも名前を知りたいためだけに電話を架けてきているような雰囲気は無かった。
もっと根元的な重大な事実を知っている人物なのかもしれない。
「そうでうね。奥様にとって私が何というような適切な関係性を表す単語は見つかりません。
しいていえば、奥様には見えないところでお守りする役目とでも言っておきましょうか」
僕は彼女がどういった家柄でどのような家庭で育ったのかを、本人の口からきちんと聞いたことはなかった。
でも彼女は何年も僕と同じ会社で働きながら一人暮らしをしていたし、家族は訳あって遠くで暮らしているので合う事は難しいけれど、
結婚の報告はしたから心配はいらないと聞いているだけだった。
そして彼女はほとんど僕の住んでいるマンションにスーツケースひとつで嫁いで来たのだ。
「彼女と話しがしたい。どうしてもこのまま別れるなんて出来そうにありません」
僕はついに本音を訴えてしまった。でも僕には選択の余地なんて無かった。
強がって相手の機嫌を損ねてこのまま彼女となんの話し合いもなく別れてしまいたくはなかった。
ごめんね、読み返したら床に落ちたバーボンの瓶がいつの間にかテーブルの上に戻ってる。
うっかりしてしまった。台無しだ。スマソ
あ、本当だ。
でも僕もテーブルに戻ってる事に気付かず、話を進めてしまってた。
お互い様って事だね。
今回のオープニングは結構重いね。
ちょっと難しかったよ。
「アル中が主人公のねじまき鳥みたいになってきたな。」
「ちょとちがうわ。いうなれば、ヒッキーが書いた風の歌を聴けよ。」
言ってなかったけど、本当は根暗なんだw
付き合ってくれてありがとう。
ごめん。そんなつもりで言った訳じゃないんだ。
君を傷付けたのなら謝る。
本当にごめんなさい。
そんな事で傷つくわけないじゃんw大丈夫だよ。
本当に重い始まりだなって思ってさ。申し訳なかったよ。
前回はかなり陽気な始まりだったね。ギャップがすごいね。
「ここ、結構、レスがついているように見えるけど、3人しかいないのね。」
「いや、4人だよ。ぼくたち以外は1人2役だけど。」
「少なくとも今は無理です。奥様は今それを望んでいません。非常に残念ですけれど。
それに奥様は自分の意志であなたとの生活に別れを決めたのです。それはあなた自身にも心当たりがあるはずです。」
と男は冷静な口調で言った。その通りだった。彼女が無言で僕の前を素通りして出て行ったのを見ていたはずだ。
「それじゃ、恭子は何処に居るのですか?あなたはさっき知ってると言いましたね?」と僕は言った。
「はい。それは間違いありません。それをあなたに伝えるためにこうして電話をしている訳ですから。」
「それじゃ、教えてもらえませんか?恭子が何処にいるのか。」と僕は言った。
「それには少々条件があります。勿論金銭的な物ではありません。私は弁護士ではありませんからそういった
ありふれた要求はできません。ある場所に行って欲しいだけです。期間は決められていません。
それが一週間なのか半年間なのかはっきりしたことは決定されていないのです。」
「よく分かりませんね。僕には仕事があります。一日や二日でしたらなんとかなるかもしれませんが
長い間仕事を休むわけにはいかないのです。いくら妻の居場所を聞くためだとしても。
僕だって生活していかなければいけないんです。」と僕は言った。
「あなたは何も分かっていませんね。あなたの仕事の事くらいきちんとわかっています。
その程度の事くらいいくらでも対応できます。どうでしょうか?ご理解願えますか?」
僕にはよく分からなかった。妻に会いに行くと言うことと、仕事を長期に渡って休むことが出来るという事の間に
なんらかの相関関係があるとは思えなかった。僕らはたしかに同じ職場で働いてはいたか、
彼女の職場での立場は経理関係の事務員で、職場の重要な決定などに関与しているような立場では無かったはずだ。
それなのに彼女の意志であるいは彼女を取り巻く事柄によって僕の仕事における采配がなされるとは考えにくかった。
一体僕の知らないところで何が持ち上がっているのだ?
「事情がよく飲み込めないので理解したとは言えませんが、
仕事の事で心配が本当にいらないのであれば僕にはどこへでも行く準備があります。
僕には恭子の他には僕のことを心配するような家族もありませんし、
それ故に彼女がいなければ僕が生きている意味なんてほとんど無い。
それで、一体どこに僕は行かなければならないのです?」
「北京です」と男は言った。
「北京?中国の北京ですか?」
「当たり前です。中国以外のどこに北京があるって言うんです?北京飯店とかそういうくだらない冗談は無しですよ」
「でも北京のどこに行けばいいんだ?北京に一体何があるって言うんですか?」
「それはまた後日お知らせ致します。あなたはまずパスポート申請と中国大使館にビザを申請して下さい。
すべての準備が整った頃、またお電話致します」
「ちょっと待って下さい。そちらの名前と連絡先を教えて下さい。何かあったら僕から連絡しますから」
「その必要はありません。我々はいわば影のような存在であり、名前というものを持ちません。
もちろん連絡している私は実在しますが、それは幾分形而上学的な性格として存在しているだけです。
私はあなたに連絡をすることは出来ますが、あなたが私の特定の連絡先に繋がる事は出来ません。
大丈夫です。あなたの行動のすべてはこちらで掌握されています」
そう言い終わると、相手は唐突に電話を切った。
僕はしばらく受話器を持ったまま呆然と立ちつくしていた。
僕は暫らくしてから受話器を置いた。一体僕のまわりで何が起こっているのかよく分からなかった。
今の電話はおそらく質の悪いいたずらでは無いことは理解しなければいけないと思う。しかし何故中国の
北京なのだろう。妻の恭子と北京に何らかの関連性があるのだろうか。今まで恭子が中国に行った事や中国に
関連する何かを聞いたことは無かった。第一僕達は中国旅行どころか新婚旅行さえ海外にはいかなかった。
友人が開いてくれたささやかな食事会の後新しく買ったフォルクスワーゲン・ゴルフで河口湖のペンションに
二泊しただけだった。何故河口湖だったのかさえ僕には思い出せなかった。多分恭子が行きたがっていたの
かもしれない。いずれにしても僕の思い出せる範囲内では中国の北京と恭子の関連する何かは見いだすことが
できなかった。「北京」と僕は声に出して言ってみた。しかしその声は僕の声には聞えなかった。
誰かが言った誰かの声のような気がした。さっきの電話の若い男の声の様にも感じた。その声は沈黙の泥のなかに
ゆっくりと沈んで二度と浮かび上がらない様に見えた。その言葉には僕に何も伝えてはくれなかった。
今日は日曜日だからおそらくパスポートやビザの申請と云ったことは出来ないだろう。ただ少なくとも
何らかの予備知識位は身につけておかなくてはならないだろう。とにかく何か行動しなければならないはずだ。
僕はシャワーを浴び髭を剃りゴルフに乗って中国に関する本を探しに行った。
「もう、やめない。読むのめんどくさいし。」
「えっ!読んでたの?」
あ〜ごめん。また間違えた。日曜日じゃなくって土曜日だった。
なにやってんだろう僕は。
無視して続けて下さい。
今日は日曜だったからねwなんかごちゃごちゃになるよね。
全然いいよ。校正係の人に任せればいいんだからさw
とりあえず、どうする?一旦休憩しない?
僕は今までこんなに楽しい思いってしたこと無いよ。
なんというか、君と遊んでると夢中になってしまうんだ。
どうして北京にしたかというと、君が行きたがってる気がしたんだ。
別にゲームなんだから、急がずに楽しくやろうよ。
そうだね。少し休憩もひつようだね。
でも僕もとてもたのしいよ。君と一緒に遊ぶのは。
でも僕は別に北京に行きたい訳じゃ無かったんだけどw
君が辛いんじゃないかって思ったんだ。
でも北京だったらある程度話し膨らませるし、
登場人物も既に想定したよ。
面白くできるといいね。
僕は最近君だけのエンターティーナーになりたいとおもっているよ。
まぁ既に君は僕のエンターティーナーだけどね。
あの・・・私ROM専ですが、このスレ好きです。
続きをお願いします。
君は十分僕のエンターティーナーだよ。
前スレで言ったよね?僕は君のファンになりつつあるって。
あれから僕は本当に君のファンだし、そして君の書く続きを楽しみで書いてる。
負けたくないって気持ちも少なからずあるけどね。
僕は君の行ってきた北京を見たいんだ。物語を通して。
楽しみにしてる。僕は行ったことないからもちろん書いてもいまいちかもしれないけど、
愛想尽かさずにフォローしてやってください。
愛想つかすなんてありえないよ。だって僕は君を…‥その先は秘密。
それより今朝面白い事があったよ。来年の社員旅行が中国だってさ。
香港か台湾らしいけど。きっとまた幹事だ。
僕は心の中で呟いたよ。
「やれやれ。」ってね。
違った。上海か台湾だ。
もっとも台湾が果たして中国なのか少し疑問だけど。
中国政府は台湾省っていってるからね。
いろんな意味で中国って奥が深いよね。
台湾といえば、革命後中国共産党が北朝鮮のように独裁に走らなかった
大きな理由のひとつに周恩来がいたからだと思う。
あれだけ多くの人間を長期に渡って独裁し続けるなんて不可能だよね。
北朝鮮はたぶん独裁が出来る手頃な大きさだったんだろうね。
でも独裁をさせないために王国に革命が起きたのに、そこで権力を得た人間が
独裁を強いるなんて、本当に意味が分からない。
旧ソ連もしかりだね。でもキューバのように社会主義が成功している例もあるから、
一概に社会主義がいけないとは言えない。
今の日本を見ていると、日本に果たして民主主義が機能しているのかどうか、
疑いの目を向けざるを得ないよね。で、おまえはどっちだってつっこまれそうだけどw
僕はゴルフのシートに背を凭れながら、10月にしては些か暖か過ぎる日差しに目を細めた。
目眩はほぼ収まり、胃袋は空腹のために悲痛なうめきを上げていたが、
信じられないことにまったく食欲というものが無かった。
車内から街並を見てもいつもの景色であるはずなのに、それは疎遠になっている親戚みたいによそよそしく、
街を歩く人々は誰もがしかめつい顔で僕を見ないように気を配っているかのように見えた。
手頃な大きさの書店を見つけて駐車場に入れ、店内を少しうろうろした。
人間の数に比例しない書店独特の静寂は、何故か僕の孤独をほんの少しではあるが癒した。
それは誰もが多くの人間に囲まれながらも結局は一人であるということの、
いわば模擬的サンプルのように見えたせいかもしれない。
僕は旅行雑誌の並ぶエンドで、積み上げられた中国・北京と書かれたガイドブックを手にした。
僕の知らない内に北京旅行は特異な人々にしか支持されない選択肢では無くなっているようだった。
今や大々的に中国が観光産業に国家的な経済効果を見い出し、いわば外貨獲得の大きなプロジェクトとして
てこ入れがなされているのだ。
僕はぱらぱらとページをめくり、やれやれと思った。
たぶん小さなため息と共に口に出していたかもしれない。
僕ははっきりって北京になんの興味も持てなかった。
彼の国に僕という人間がなんの感想も持たれないように、
僕にとってもそれは地球の裏側でしかなく、森に住むキツツキの性生活よりも感心が持てなかった。
どうして僕がこんなところで、手に取るはずのなかったガイドブックなんかを手にしているのだろう。
僕は仕方なくそのガイドブックをレジに持っていき、金を払って店を出た。
車に戻ってもしばらくどうしていいのか分からなかった。
この後僕は一体どこに行けばいいのだ?
僕は実際に口に出してそう言ってみたかったが、さすがに頭がおかしいと思われそうなのでやめた。
無性に誰かに会いたかった。誰でもいい。誰かに向かって聞いてみたかった。
僕は一体これからどこに行けばいいのだろう?と。
しかし今の僕に逢うべき人が居るのだろうか?答えはノーだ。おそらく仲の良い数少ない僕の友人達は
こんな天気が良い週末に家に居るとは限らないし、仮に居た場合に僕が訪問してこんな不思議な話をして
混乱させてしまう事が僕には正しい事なのかうまく判断できなかった。おそらく僕の話を聞いて何かしら
アドバイスをくれるかも知れないし、あるいは同情して慰めてくれるかも知れない。そして一緒に食事を
摂り幾分僕の気分は和らぐであろう。しかしそれだけだ。その時間を友人達と共有出来たとしても時間が
来れば僕はまた孤独と沈黙が待つマンションに戻らなければならない。その事が僕と友人にとって良い選択
だとは考えられないのだ。つまり僕のエゴに依って彼らの幸せな週末を損うことは避けなければならないのだ。
それよりも僕はスーパーマーケットで当面の食料を確保する方がずっとましな事だろうと考え妻と週末に
よく行ったスーパーマーケットに行くことにした。スーパーマーケットで僕は一人で野菜や魚、肉を買い
酒を買った。ゴルフの助手席にそれを置き一人きりで誰も待っていないマンションに戻った。僕は誰も居ない
部屋の中に入りガイドブックをテーブルの上に放り投げ食料を冷蔵庫にしまい冷えたバドワイザーを手に持って
ダイニングテーブルのイスに座った。そしてバドワイザーを飲みながらガイドブックを読み始めた。
旅行用のガイドブックにはグルメやショッピング、エステ、マッサージ、ホテル、京劇の情報ばかりカラー
ページに懇切丁寧に案内してあり、天安門広場や故宮、万里長城の概略の説明が書いてあった。巻末の方に
申し訳程度に中国語の単語が日本語に訳され次のページからはパスポートやビザの事や治安や気候の事が
書いてあった。僕にとって必要な事柄は極限られたページに書かれてあるだけだった。まるで出来損ないの
求人広告誌を連想させた。昼寝の枕にも使えない。
僕はガイドブックを読むのを諦め寝室に行きベッドに横になった。何も考える事ができないでいた。天井を見つめ
深いため息をついた。妻の顔を思い出そうとしてみたがうまく思い出す事が出来なかった。後ろ姿だけが
ぼんやりと僕の脳裏をかすめていくだけだった。妻が出ていってそれ程の時間が経っている訳ではない筈だ
僕は目を閉じて精神を集中してみたがうまく集中出来なかった。替りに温かい泥のような眠りに落ちていった。
目が覚めたとき時計は五時を指していた。一体朝の五時なのか夕方の五時なのか区別が付かなかったが
体がひどくだるいのでそれ程長い時間は眠っていないだろうと思った。おそらく夕方の五時なのだろう。
テレビを点けてみればすぐわかるのだろうがうまく体が馴染んでないせいか起き上がることが出来ないでいた。
暫らくそのままにしていると暗やみが少しづつ濃くなっているのに気付いた。おかげで夕方だという事が
確信できた。それと同時に体がようやく馴染んできたのでテレビを点けてみた。ちょうどニュース番組が
始まっていた。テレビのアナウンサーは十四日の土曜日の夕方五時半を告げていた。
僕は暫らくテレビを眺めていたが急に胃袋に違和感を感じた。おそらく朝から何も食べていないせいだった。
堪え難い空腹感が胃袋を締め付けているのだ。僕はキッチンに行って何か作ろうかとも思ったが、少し
面倒だったので外に食べに行くことにした。僕はマンションを出てあまり行ったことの無い道を選んで
歩いてみた。三十分ばかり歩くとそこに小さなバーを見つけた。入り口には「Three's Men」と書かれていた。
中に入るとカウンターに5脚の椅子と四人掛けのテーブル席が三つ程あり壁は暗い灰色の布で出来ていた。
余り広くない店内の奥に小さなステージがあり古いドラムセットとギターとベースにアンプやマイクが
並べてあった。それはライブハウスといった感じでは無く、まるで帰って来ることの無くなった主人を待つ
従順な老犬のように見えた。店内には古いロックがそれ程大きくない音量で流れていて、僕以外に客は
一人だけだった。僕はカウンターに座りマスターに何か簡単な食事は作れないか聞いてみた。サンドウィッチと
フライドポテトならあると言ったのでそれとハーパーのソーダ割りを頼んだ。マスターは四十前後の男で
背は余り高く無く少し太っていてどこと無く落ち着いた雰囲気がした。僕はハーパーを飲みながら出された
ピスタチオナッツを食べてサンドウィッチとフライドポテトを待ちながら店内を見渡した。そこには若かった
頃のマスターらしき人と一緒に二人の若者が楽器の前で楽しそうな顔で写っている写真が飾られていた。
おそらくプロでは無いのだろうが単なるアマチュアでも無さそうに見えた。
「ねえ、マスター。この写真はマスターの若い頃の写真なの?」
僕は尋ねた。
「ええ、そうですよ。まだ痩せてたし、髪もたっぷりあったけどね」
「ふうん、バンドやってたんだ」
「今でもやってますよ。毎週火曜と金曜にここでやりますよ。バンド仲間の都合で他の日に出来ないけど」
「そうなんだ。こんなところにライブハウスがあるなんて知らなかったな」
「僕らの他にも何組かライブやってるバンドが来るんですが、今日は土曜なのにどこもダメでね。
バンドが来なけりゃお客もほとんど入らないんですよ。
土曜はいろんな場所でイベントがあるでしょ。そういうところへみんな行っちゃうんだよね」
マスターはさも残念そうに言ったが僕は今の状況ではむしろライブを楽しむ余裕なんて無かったので幸いだった。
「僕はこの近所のマンションに住んでるんだ。でもここは知らなかった」
マスターはあまり残念でも無さそうに言った。
「いいんですよ。いつもは常連がほとんどですから。でもお客さんも今度ライブの日に来て下さいよ」
マスターがやっとサンドイッチとフライドポテトを持ってきてくれた。
「頂きます。美味しそうだね。クラブハウスサンドなんだ」
「もちろんです。かりっとトーストしたブレッドにトマトとベーコンとレタスとチーズが入ってます。
自慢じゃないけど、旨いですよ」
僕は24時間ぶりに胃袋に食べ物を送り込んだ。
それは当然の事ながら信じられないくらい旨いサンドイッチだった。
「マスターこのサンドイッチとても美味しいですね。それとハーパー1つ。」と僕は言った。
「ありがとう。そんなに旨そうに食べてくれると作った甲斐があるね。」といってソーダ割りを作った。
「でもあれだよね。演奏もね、これくらい巧くできればね。」と少し照れた様な顔で言った。
そして僕の前にグラスを置き空になったグラスと交換してくれた。相変わらず客は僕ともう一人だけだった。
僕はもう少しこのマスターと話をしてみたくなった。
「ねえマスター。マスターはプロだったんですか?」と訊ねながらフライドポテトを食べた。悪くない物だった。
「ははっ、まさか。失礼。そんな事は無いよ。確かに若い頃はそんな風になれればいいって思った事も
あったけどね。そんな簡単になれるものじゃないし努力も足りなかったからね。メシ食ってるか、寝てるか
練習してるかって位じゃないと無理なんだよ。でも楽しいんだよねバンドって。例えばね名前も顔も
知らなかったヤツとね。テーマ決めてジャムセッションするとするね。最初は手探りでもねフィーリングが
合うとね最高の音が出せたりするんだ。まるで自分の音じゃない位ね。凄い恍惚感さ。なかなか味わえないけどね。
そんな感覚がとても楽しくってね。この年になっても辞められないね。要はフィーリングであって単に
巧い下手では語れない。何かがそこに生まれるんだね。例えばそこの彼もね。結構いいフィーリングもってるよ。」
と言ってもう一人の客を見た。その客は「そんな事はないさ。」とでも言いたそうに首を振った。
マスターはそんな事は構わずに「ね、ヤン(楊)さん。サイコーだよな。」と言った。
「マスターそれイイスギ。」と言った。どうやら彼は中国人の様だったので僕はひどく驚いた。
僕は今までロックをやる中国人って云うのを聞いたことが無かったせいだ。でもそれは僕の偏見か無知のせいだった。
しばらくそうやって話をしているうちに僕は幾分気が楽になっていく様な気がした。
時間が経つと常連客らしい人達がやってきて狭い空間が賑やかになって来たので、僕はマスターに
丁寧に礼を言い店を出た。帰り際にマスターが「次の火曜日に是非おいでよご機嫌な曲やるからね。
社交辞令は抜きにして。」
と言った。僕は「そうですね。是非。」と言ってみた。店を出ると風が少し寒く感じた。
ごめんね。流れ急に変えちゃって。その前に書いたのがあまりにもつまらなく感じちゃって。
このままでは君にとても悪いなって思ったんだ。だからそうしました。
あと、マスターの髪が少し薄いってどうして分かったの?ビビったよ。
僕が考えてる事が読まれてるって。
さすが僕達はチームだ。って思ったよ。
それじゃおやすみ。今日はもう寝ます。
流れ的には変えてくれて良かったよ。
最近疲れているせいか、何書いてもすごく暗くなっちゃうんだ。
君は本当にポジィティブなんだね。なんか君の文章読むと癒されるよ。
マスターの描写を読んだだけでそういう人物のリアルな映像が浮かんだんだ。
それにそうしてもきっと君が怒らないだろうと思ったしね。
僕らはチームだ。続きはまた夜にでも書きます。
いささか忙しすぎる。
ちなみにマスターのモデルになった人物は実在します。
気が付いているかどうか分からないけど、ヒントは
お店の名前に隠されています。うまく解読してね。
どうしても分からなかったら後で教えます。
3人の男?
ほぼ正解。
参人の男。
もう分かりましたね?
わからないor2
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!わかった。自己解決。
(*´艸`)続きカモーン
僕にも分かったよ。
もしかして、「かっぱ」をリクエストしたのは君だったの?
そうじゃないかなってずっと思っていたけど、確認してはいけないような
そんな気がしてたんだ。いや、悪い意味じゃないからねw
正解。それとゾンビもね。
あれは意地悪なリクエストだったから僕も云いづらかったけどね。
悪気はなかったんだ。あの時は嬉しくてね。
君が戻って来たことにね。それで思いついたのが
それだったから…‥
あの時は申し訳なかった。
僕は秋の夜の街を少し当てもなく歩くことにした。
ひとりぼっちでマンションに帰るのが嫌だったせいだ。
僕はこんな風に一人ぼっちで夜の街を歩く事がほとんど無かった事に気がついた。
今まで僕と恭子は同じ会社に勤め、近くのスターバックスで待ち合わせて一緒に帰った。
恭子は一緒に歩きながら僕の話を聞いてくれた。
彼女が自分から何かを話す事は少なく、どちらかと言えば聞き役に徹していた。
そして僕はそれをいいことに僕の仕事での愚痴や、将来への不安や、漠然とした満たされない気持ちを打ち明けた。
彼女はジッと黙って僕の話を聞き、時折あまり適切ではないタイミングで頷いたりした。
僕は初めの頃、彼女が僕の話を聞いているのかどうか確信が持てなかったのだが、
最終的には耳を傾けている人がいるだけで、人間は時に信じられないほど癒されているのだという事を、
恭子から教わることになった。
何も言わずに人の話を聞くことが出来るというのは類い希なる才能なのだ。
特に何も話さずに二人とも黙って歩く日もあった。
それでも僕は充分に癒された。その帰り道は電車を含めて40分くらいだったのだが、
二人にとって、少なくとも僕にとっては欠くことの出来ない重要な儀式だった。
恭子の持つ人間としての温かみに僕は深く魅了され、虜になっていた。
でもそれは彼女が僕に与えていただけだった。
今にして思えば、僕が彼女に与えたものなんてほとんど無かった。
収入さえほぼ同格だったし、家事だって僕の倍くらい彼女が担当していた。
その上彼女は地上に現れた女神のような慈悲深さで僕を癒していたのだ。
彼女を失った今になって、僕はそんな当たり前の事実に気がつかずに、
むしろ当然の事として受け止めていた傲慢さに恥ずかしくて消え入りたい程だった。
そんなことを考えながら気がつくとマンションの前に戻っていた。
ゾンビもそうだったの?それは気がつかなかった。
でもリクエストしてくれて嬉しかったよ。
僕はしばらく村上春樹の作品に「ゾンビ」ってタイトルのものがあった事なんて、
本当に忘れていてさ、誰かのレスでそう言えばっておもって読み返したけど、
まったく違う感じだったね。良かったよ。同じにならなくて。
誰かが僕はそれほど春樹的じゃないよって言ってくれたとき、本当に嬉しかったよ。
なんというか、脱春樹は課題だからね。
無意識に春樹っぽくなっちゃうんだ。嫌味じゃなくて。
身体に春樹の文体がインプットされてるんだよ。困ったものだけどね。
そうです。でもいきなり人参買いに行く設定だったから僕がリクエストしてるの分かってると思ってた。
だからわざと続き書きやすくしてくれたと思ったんだ。
それならどうせだから続き書いちゃえって思って書いたんだ。
でも本当に疲れているみたいだね。今。無理しなくてもいいからね。
こうやって少しでも君と話できれば僕は充分だから
しばらく続きは休んだらどうかな?
僕はいくらでも待つから、前に君が待ってくれたようにね。
ガーン;そんなに疲れているように見えた?
やっぱり僕って暗いのかな。ちょっとショック。
続きの内容が暗いからかな?それとも文章がおかしかったかな?
それじゃ、しばらく休みます。
あれは本当にたまたま人参だっただけだよ。
長編の名残だったんだ。
でも君が続き書いてくれた時はすごく嬉しくて、
褒めたら叱られたけどねw
あのオカルト短編書いてる時はすごく楽しかったな。
僕はあのまま短編書いていても良かったんだけどね。
そんな事はない。僕はいつも君の物語は楽しく読んでるし、暗いなんて思って無い。
そう云う意味で言ったわけじゃないんだ。
ただ君がとても疲れていると感じただけで、疲れているのに
夜遅くまでかかって書いている君を少しでも楽にしてあげたかっただけなんだ。
だって君の睡眠サイクルは夜十時から朝五時だろう?
それを乱して書いているんだから疲れているだろうって思ったんだよ。
もし僕が君の近くにいるなら君の疲れた体を時間を掛けてマッサージしてあげたい気分だよ。
言って無かったけれど僕のマッサージはプロ級だそれだけは自信がある
その辺のマッサージ屋なんて裸足で逃げていく位だ。だから悪い意味に取らないで欲しい。
僕は少しでも長く君と書き続けたいんだ。だから疲れている時は
無理しないで欲しいと思って書いたんだよ。
本当にそれだで他意は無いんだ。
僕は鍵を取出し玄関のドアを開けた。そこは相変わらず人の気配が無い静寂の空間があるだけだった。
近くの通りを走る車の音や遠くを走る救急車のサイレンがはっきりと聞こえた。
僕は今までそんな音をこの部屋の中で感じた事は無かった筈だ。そして耳が痛くなるような静寂を感じた事も無い。
僕は部屋の明かりを点け冷蔵庫からバドワイザーを取りダイニング・テーブルの椅子に座りそれを飲んだ。
少し経って僕は違和感を感じた。その違和感が一体どこから来ているのかうまく理解できなかった。
あるいはそれは違和感ですら無い様に感じた。僕は間違い探しの絵を見るように部屋の中を注意深く見た。
いつもの部屋にしか見えなかった。どんなに注意深く見てもいつもの部屋だ。しかし僕の頭には
何か引っ掛かるものがあった。しばらくして僕はやっと気付いた。
間違いなく「 い つ も の 部 屋 」に僕は居る事にだ。
部屋の中は見事なまでに片付けられテーブルの上には僕が読むのを諦めて放り出したガイドブックと
ビールの空き缶の代わりに花が飾られていた。僕が疵を付けたテーブルもきれいに修理されていた。
それが一体何を意味するのか早く気付くべきだった。妻が、恭子がこの部屋に戻って来たんだ。
僕は部屋中の明かりを点けバスルームやトイレやベランダそれにクローゼットに至るまで全ての扉を
開け放って恭子の姿を探した。しかし恭子の姿は何処にも無かった。
僕は一つだけ気になる事があった。恭子が持って行かなかったマンションの鍵は僕が持っている事だ。
僕はこの部屋に唯一残された恭子の持ち物だった筈の部屋の鍵は僕が持っている。
僕はコットンパンツのポケットから二つの部屋の鍵を取出しテーブルの上に並べてみた。
いったいこの部屋に誰がやって来たのだろう?部屋の中を見るかぎりおそらく恭子で間違い無い筈だ。
しかし恭子は鍵を使わずにどうやってこの部屋に入りこの部屋を出たのだろう?玄関にはしっかり鍵が掛かっていた筈だ。
僕が混乱していると突然電話が部屋中に鳴り響いた。
とりあえず。僕の分は書いてみた。君がいつでも書ける様にね。
続きはいつでも構わないけどレスはしてよ。
じゃないと僕は孤独なウサギみたいに淋しくってしんじゃうからw
このおっさんキモいって言わないでくれ。たのむからw
このおっさんキモい
絶対書かれると思ったorz
82は僕じゃないよ。
そんなに優しくしないでいいからw
大丈夫だよ。僕は君を嫌ったりしない。
何故なら君は続きを書いてくれるからさ。
馬氏だって途中でリタイヤしたんだよ。
他に誰が書いてくれた?君だけだよ。
だから自信を持ってください。
前にも言ったよね。僕は続きを書いてくれる人しか信じない。
ただそれだけだよ。
>>82 は君が書いたんじゃ無い事は分かってるよ。
僕を誰だと思ってるんだい?
君のストーカーだw
そんな訳でゆっくりやりましょう。
僕だって書けない日もあるしね。
僕は恭子からの電話であって欲しいと願いながら、裏切られることへの不安を消すことはできなかった。
彼女は僕に何かを必死で伝えようとしていた。
でもそれは通常の電話などの媒体を通して語られるべきものではないのかもしれない。
そう言い聞かせながら、僕は期待と不安の入り混じった混乱の中で受話器をとった。
「もしもし。坂本です」
「すみません、吉田と申しますが、恭子さんはいらっしゃいますか?」
少しかすれていてか細い声の女性だった。
「いや、今は外出しています」僕は彼女の名前にも声にも聞き覚えが無かった。
「そうですか。同じ課にいる者ですが退職されると聞いたので、
送別会に来ていただけないかと思いましてご予定を窺いたいのですが、何時ごろお戻りでしょうか?」
「帰りはちょっとわかりません。・・・あの、恭子はいつ退職したんですか?」
「ご存知無かったんですか?木曜に辞表を出されて、金曜に私物を引き取られましたので、
急な事情としか聞いていなかったのですが、勤続年数も長いですし、是非送別会をさせてほしいのです」
「わかりました。帰ってきたらお電話させます。お電話番号をお願いできますか?」
僕は彼女から今後何かの事情を聞けるかもしれないと思って繋がりを持ちたかった。
吉田さんの電話番号は都内だった。
僕は受話器を置き、冷蔵庫からもう一本ビールを持ってきてプルトップを開けた。
恭子が会社を辞めていたのは知らなかった。
確かに行き先も告げずに黙って出かけるのであれば退職ぐらい想定された事だった。
彼女は何かの事情かあるいは彼女の固い意志によってここを出て行ったのだ。
そして、僕がいないことを知った上で最後の荷物を取りにここへよったのかも知れない。
合鍵なんて今や24時間どこでも作れるし、前もって準備すればいいだけだ。
恭子がもうここへ戻ってくることはおそらく無いのだろう。
僕に残された選択肢はただ一つ。あの男が言っていた北京に行くことだった。
でもそんな電話があったこともまるで出来の悪い悪夢の一部のように感じられた。
僕はあきらめてベットに入り眠ることにした。眠りはすぐに訪れ、殆どなんの夢も見なかった。
日曜日は朝から曇っていた。僕は冷蔵庫からベーコンを取出しフライパンでカリカリに焼いた後
サニーサイドアップの目玉焼きを乗せトーストを焼きたっぷりバターを塗っていれたてのコーヒーと一緒に
それを食べた。恭子が消えてから一人で作って食べた食事だった。一人で食べる朝食は実に久しぶりだった。
食事を終え片付けを済ませると何もする事が無いことに気付いた。
仕方が無いので昨日適当に読んだガイドブックをもう一度読むことにした。別に僕は北京に観光で行くわけ
では無いのでカラーページは読まないことにして気候や治安情勢が書いてある巻末のページを読み始めた。
北京は日本で云うと大体青森の辺りに位置しているので十月でもかなり寒いようだった。朝は一桁代の気温に
なるとそこには書いてあった。僕は前に八月の末に北海道に行ったことがあるがその時にTシャツと
タンクトップしか持って行かなかった事があった。いくら北海道とはいえ八月に長袖を必要とするなんて
頭の片隅にも無かった為だ。生憎その時は天気が悪かったせいかひどく寒い思いをした。雨の夜にバスが
暖房をかける位だ。それ以来僕は地方に行かなければならない時は必ず気温のチェックは忘れないように
しているのだ。もっとも夏の北海道のあと秋の九州に行った時はひどく暑くて持っていった長袖のシャツが
とても邪魔な荷物になっていたのだけれど。そういった理由で僕は入念に北京の気候をチェックした。
おそらく厚手のシャツやセーターそれにダウンジャケットも必要だと思い冬物の服がしまってある場所を
探さなければいけなかった。しかし衣がえの準備はほとんど恭子がしてくれていたのでそれを探す為に
クローゼットの中にほとんど半日籠もる事になってしまった。今日程恭子の有り難みを感じた日は無かった。
やっとの思いで冬物の服を探し出した時、時計は既に一時を回っていた。
僕は冷蔵庫からバドワイザーを取出しそれを飲みながら治安情勢のページを読んだ。
治安自体はそれほど悪くは無いが大抵の海外の国がそうであるようにスリや置き引きには注意が必要である。
と、そこには書いてあった。またこれも大抵の海外の国に云えることであるが夜間の一人歩きや無闇に
人通りの少ない路地裏に入って行くのは避けた方が良いと書いてあった。もちろんそれは日本でだっていえる事だ。
夜の歌舞伎町の路地裏には僕だって一人で行きたいなんて思わない。ましてや中国だ。何が有ったって不思議じゃない。
僕はある程度そういった事を読み終えた時、昨夜の吉田さんの電話を思い出した。
彼女なら何かしら知っている事が在るんじゃないかと思ったのだ。
僕は電話番号をメモした紙を見ながら何度かその番号に電話を掛けようかと思った。
しかし僕はそれが正しい行為なのかうまく判断出来なかった為結局電話出来ずにいた。
だいいち僕は彼女にどう切り出せば良いのか分からなかった。妻が居なくなってしまったので探して欲しい
とでも言えばいいのか?もし彼女がその事を何も知らなかったらどうすればいいのだろう?
僕は彼女の事は良く分からなかったが彼女は僕の事を知っている可能性が高いのだ。恭子の同僚なだけでなく
僕も同じ会社の社員なのだ。その事で何か不都合な事がこの先起こるかもしれない事は容易に想像できた。
しかしそんな事を考え込む必要は全く無かった。
夕方の五時を回った時に吉田さんは僕のマンションのインターフォンを押していた。
吉田さんは淡いグリーンの薄手のセーターに焦げ茶色のウールのスカートをはいていた。
手には並ばないと変えない黄色い箱に入ったシュークリームを持っていた。
「恭子さんはご在宅ですか?」と吉田さんが言った。
「いや、実はまだ帰っていないんです」と僕はごまかした。
「そうですか。昨夜はお電話で失礼しました。また出直します。
これ良かったら召し上がって下さい」と吉田さんはシュークリームの箱を差し出した。
僕は吉田さんに色々聞いた方がいいような気がした。彼女には森の小動物みたいに無垢な人の良さが滲み出ていた。
「あの、もし良かったらあなたに相談したいことがありまして、お時間を頂けませんでしょうか?」と僕は言った。
「私にですか?でも恭子さんは今どこにいらっしゃるんですか?」
吉田さんは明らかに不審な表情を見せた。当然の事である。
僕は正直に言うことにした。
「実は金曜の夕方に何も言わずに家を出て行ったんです」
「そうだったんですか。会社でも少し普段と様子が違うので心配はしていたのですが」
「もちろん、大の大人が自分で荷物をまとめて出て行ったのですから、警察に捜索願いを出すわけにも行きませんし、
でもなんの話し合いも出来なかったので、恥ずかしながら理由がわからないんです。
もし、会社での様子とかを聞いてなにか手がかりを頂ければ・・・」
「分かりました。お役に立てるか分かりませんが、時間ならありますので」
「そうですか。助かります。それじゃ、部屋が散らかってますので、すぐ下にハンバーガーショップがありますから、
そこで待っていて下さい。着替えてすぐに行きますから」
僕は恭子の友人とはいえ、マンションで女性と二人きりになるのは避けた方がいいと思った。
僕はシャワーを浴びようか迷ったが女性を待たせる訳にはいかないので着替えるだけにした。
マンションのエレベーターを降り、バーガーショップへ入ると吉田さんは既に二人分のハンバーガーと
ポテトとコーヒーをテーブルの上に用意してくれて外を眺めていた。僕が声を掛けるとどこかで出合った
ことがあるような笑顔で微笑んだ。まるで天使の様な微笑みだった。
「お待たせしてすいません。少し手間取ってしまって。」
「大丈夫です。時間はありますから。」と彼女は言った。
「それで私に相談したい事って何でしょうか?」不思議なことに彼女の目が少し笑っている様な気がした。
「先程も言ったように、妻の、恭子の事で何か聞いている事や知っている事をお伺いしたいのですが。」
「私が知っている事ですか?それを聞きたいのでしょうか。それより坂本さんはどうしてそんな他人行儀な
話し方をするんですか?私もいつまでこんな話し方をしなければいけないのでしょうか。私の事は知ってますよね。」
僕は彼女がどうしてそんな事を言うのかよく分からなかった。
僕が不思議そうに彼女を見ると今にも笑いだしそうな顔で持っていたバックから眼鏡を取出して掛けた。
眼鏡を掛けた彼女の顔を良く見ると前に僕と同じ部署にいて今は経理課に移動した子だということを思い出した。
眼鏡ひとつで印象がとても変わってしまう事に僕はとても驚いた。おそらく制服を着ていないせいだとも思った。
そういえば最近結婚して苗字が変わったと恭子に聞いた事がある。恭子ととても仲が良かった子だ。
「ねえ、今私とてもお腹が減ってるの。だから話は食べ終わってからにしましょう?」
僕は彼女の変わり様に驚いたが特別否定する理由もなかったので冷めないうちにと言った。
ひとこと言わせてくれ。人参、君は天才だ。
ハンバーガーを食べ終えると、少し落ち着いたように吉田さんは口元に紙ナプキンを当てた。
「それで、恭子は坂本さんには何も言わずにで出てっちゃったってわけね?」
「うん、そうなんだよ。はっきり言って途方に暮れているんだ」
「私は恭子から今まで特に坂本さんの事で愚痴とかは聞いてないと思うな。
まあ、もともとそういう事を言うタイプではなかったけどね」
「そうなんだよ。僕らはすごくうまくいっている夫婦だとは言えないかもしれないけど、
決して破滅的な要素があるって訳ではなかったと思うんだ」
吉田さんは僕のその意見に対しては少し返事に時間を掛けた。同意すべきなのかを推し量っているように。
「私は女だからかもしれないけど、何となくある日ふとどこかへ行ってしまいたいと思う事ってあるのよ。
そういうのって、たぶん夫婦関係が破滅的だから思うってわけでもないし、うまくいっていれば思わない訳でもないって気がする」
吉田さんの言うことは僕にはうまく理解できなかった。それは僕が男だからかもしれない。
「そういえばさっき、恭子の様子が少し違っていたって言わなかった?」
「そうなの。なんだか最近すごく明るかったのよ」
「明るい?」僕は明るいという表現は恭子にあまり使うことが無かった。
「そう。恭子って、一言でいうと冷静沈着眉目秀麗って感じで、近寄りがたい雰囲気があるの。
特に女子社員の中では少し浮いた存在というか、絶対人の悪口も言わないし、気軽に冗談を言えない雰囲気があったの。
もちろん根はいい子だから、私は仲良くしていたけど、他にあまり友達がいるようには見えなかったわ。
でも、ここ最近は他の同僚と仲良くランチしたり、おしゃべりしたりしていたのよ。
彼女は会話に加わっても聞き役になることが多かったのに、突然なんだか糸が切れたみたいにしゃべりだしたの。
別に話の内容は大した事では無かったけど、最近見た映画の話や、好きなタレントのこととか、
普通にOLが集まって話すような他愛のない話をしていたのよ。ちょっとびっくりでしょう?」
確かに僕は驚いた。恭子がそんな風に話している姿をうまく想像することさえ出来なかった。
んなこたぁ〜無い。
久しぶりに友達と飲んで酔っ払ってます。
いいな〜僕も君と飲みに行きたいよ。
私も〜
お酒飲めないけどw
前に一度も言ったこと無いけど
君が飲みに行くよって言えば僕はいつでもおkですW
でも今日は無理(>_<)二日酔いで死にそうだ。
>95さんはおか板からの読者さんですか?
もし良かったら丘板の完成記念でみんなで打ち上げとかどうですか?
って、僕は事情があって幹事とか出来ないんだけど。
誰か仕切ってくれないかな?
どう考えても僕がやるしかないみたいだね。
じゃ、都合の良い日と時間を教えて下さい。
どうせマスクと人参だけって言われるよきっとw
実は住んでるところが遠いんだ。熊が出るようなとこだよ。
参加者が集まったらなんとかして都合つけてみますので、
マスクと人参の顔を見たい人は手を挙げて下さい。
でも荒らした人は遠慮してねw
え〜っと。それじゃ出来るだけ週末が良さそうだね。
早くて27日か28日位だね。無理なら来月かな。
ちなみに東?西?
一応聞いてみないと場所を考える都合があるんで。
ノ 関東♀です。
はい。95さんですね。
分かりました。
僕も関東方面希望です。
新幹線なら2時間ジャストの距離です。
できれば来月にして下さい。
来週は仕事です;;
「ねえ、吉田さん。唐突だけど中国とか北京なんて事は言ってなかったかな?」「そんなことは何も言って無かったわ。あ、でもね恭子とは何の関係もない事なのだけれど
坂本さんの部署から近いうちに誰か北京に暫らく出張するみたいね。仮払いの請求依頼伝票が昨日出てたの。」
僕は頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。あの男が言っていた会社の事は何とでもなる。
と言っていた事だ。既に全ては動き出しているんだ。おそらくあの電話の男は確定した事柄を僕に伝えた
だけに過ぎなかったのかもしれない。そこには僕の意志や判断等というものは存在しなかったのだ。 「もしかして坂本さんが出張するの?」と吉田さんは驚いた顔で言った。
「もしかしたらそうなるかもしれない。でも僕はそんな事誰からも言われてないけど。少なくとも会社からはね。」
「そう?じゃそんな気がするって事ね?でも坂本さん位の立場だったら適任なのかもしれないわね。」
吉田さんは少し怪訝そうな顔をしながら納得しているみたいだった。
「そうだね。そうなのかもしれない。それ以外で何か憶えて無いかな?どんな事でもいいんだ。」
「あ、そう言えばベイジンがどうとか言ってた様な気がするわ。新しいタレントか何かなのかな。よく分からないわ。」
「ベイジン?僕もよく分からないな。ニンジンだったら良く知ってるけど。今これを書いてる奴だ。」
「あなたってもしかして馬鹿?そんな事誰も興味無いし、今いうべきじゃないの。くだらない冗談ね。」
「悪かった。でもベイジンて一体なんの事なんだろうね。」
「きっとタレントか映画のタイトルよきっと。でも後は何も分からないわ。私にも何も言って無かったから。」
「ありがとう。坂本さんの話が聞けて良かったよ。僕は恭子の事が何も分かって無かったということが
分かっただけでも参考になったよ。それと中国の出張の事もね。」と僕は言った。
「そんなこと無いわ。いつでも聞いていいわ。こんな事ならね。」そう言って彼女は席を立ち店の外に出ていった。
あ、すいません。やっと頭が動き出したので続き書いちゃいました。
昔からの友達と飲むと丸一日つぶれるな。
若いときの友達と飲むとついつい昔のノリになるんだよね。
あの〜君が来ないと話にならないから来月でいいですよもちろん。
今月は忙しかったんだよね。つい忘れてた。二日酔いのせいにしよう。
ちなみに新幹線の色は何色ですか?緑?青?僕は緑です。
実は僕も今は都内に住んでいません。ごめんなさい。
あ、僕(坂本)が坂本さんに話聞いてる事になってる。
吉田さんの間違いです。二日酔いで頭がまわって無いな。
―――何から何まで二日酔いのせいかよ!―――
奇遇だね、僕も緑色です。
あんまり言うとお里が知れるからもう止めとこw
本当に会えるのかな?ものすごく楽しみだよ。
でも、書くのは出来れば酔いが覚めてからにして欲しいw
まあ、完成度にはもともと興味がないからいいけど。
僕の興味は君の脳内に繰り広げられる世界なんだ。
僕が絶対に書かなかったはずの続きが読めるなんてこんなに楽しいゲームって他にはないよね。
読んでる人がどう感じてるのか聞きたいと思うし、読者にも会えたらうれしいな。
108 :
95:2006/10/23(月) 08:44:05 ID:becD/wN2
おはようございます。
皆さん、遠くにお住まいなんですね。
申し訳ないので、私が「緑の新幹線」方面に出向いてもかまいませんよ。
>108
おはようございます。
ありがたいお申し出ですが、まだ他にも参加者があるかもしれないし、
緑って意外と多くて違う緑同士はまったく横のつながりがないので、
結局東京に向かって行くしかないんです。
なので、気にしなくていいんですよ。たまには都会に行きたいしw
マンションに戻るとまるで鉛のチョッキでも着ているみたいに、どっと疲れが押し寄せてきた。
自分の知らないところで全てが秘密裏に手際よく準備されて、いつの間にか舞台に押し上げられ、
スポットライトを浴びて客席から白い目で見られた時のような、どうにもならない束縛感を覚えた。
それは僕がもがけばもがくほど、ずるずると引きずりこまれて行く蟻地獄みたいだった。
恭子が出て行ったのは決して自らの意思では無いという気がした。
それはそういう形でしか伝えられない種類のものなだ。
僕は今まで彼女に裏切られ、見捨てられたような気がしていた。
でもそれは多分間違いなのだ。
僕が見逃してきたことを全て洗いざらい確認していく必要があった。
恭子が僕を呼んでいるのだ。何故かはわからないけど、どうにもならない事態に巻き込まれ、
声も出せずに苦しんでいるのかもしれないのだ。
なぜ僕はそんなことにさえ気が付かずに生きてきたのだろう。
どうしてたった一人の女性すら守れないんだろう。
後悔の念が黒く垂れ込める暗雲のように僕の心に広がっいった。
とにかく北京へ行かなくてはならない。そこに彼女がいるかどうかはわからない。
それでも僕は恭子を絡めとってしまっている邪悪な臭いが立ち込める訳のわからない何かと、
対決しなければならないのだ。
君がそう言うんならそうしよう。
日にちはまた後で考える事にしてね。
僕もとても楽しみです。
ごめん、君の意見を聞かずに答えてしまった。
許してください。
大丈夫です。心配しないで下さい。
君の意見は基本的に尊重しますから。
ただ困ったことに11月は僕の休みが少ない上に
仕事上のイベントが増えてしまうのです。
物語で僕の乗ってる車とかその他色々です。
多分2週目の土曜日の夕方だったら何とかなりそうです。
いつでもOKと言っておきながら申し訳ありません。
すっかり忘れてました。今日分かった事もあるけど。
ごめん、11月2週目の土曜はダメです。
僕も仕事なんだ。結構土日も仕事あるんだよ。
なんか、雲行き怪しくなってきたね。
仕事しながら小説書いてるってだけでも結構大変なのに、
甘えてばかりいてごめんね。
95さんも、期待させといて申し訳ないっす。
僕はそう考えながら眠りに就いた。
とても不思議な空間に僕は立っていた。巨大なホテルのホールの中に一人で立って居るのだ。
そのホールの中にもう一つの建物が建っていた。その建物の壁は真っ白で均等な間隔で並んだ黄色い
円柱の間をしっかりと挟み込んで屋根はホールの天井の一部と同化している。
建物の中からは人の声や不思議な音楽が聞こえていた。何かの伝統儀式をイメージさせる様な音だ。
しかしその声や音楽ははっきり聞き取ることは出来ないが、どこか不自然な雰囲気があるような音だった。
僕はその中に入ろうとして入り口を探したが何処を探しても入り口らしい入り口は見つからなかった。
僕は入り口を探すのを諦めその巨大なホールの外に出てみた。巨大なホテルには「BEIJING」と書かれていた。
その文字を声に出して読もうとしたが、僕の声が全く出なかった。大音量の空間の中で大声を上げている
そんな感覚だ。僕はもう一度ホテルの中に入り白い壁に向かって走った。その壁にぶつかる瞬間に僕の目が醒めた。
僕は体中に恐ろしい程の汗をかいていた。下着やシーツまで汗で濡れていた。多分うなされていたのだろう。
しかし今の僕にはうなされていたことを伝えてくれる人は何処にも居なかった。そこにあるのは乾燥した
10月の冷たい空気と窓からこぼれる、よわよわしい街の明かりに映された寝室だった。
僕はベッドから立ち上がりバスルームでシャワーを浴びた。僕は自分の体が自分に馴染むまでじっと立ち尽くした。
今の夢が(本当に夢だったのだろうか?)一体僕に何を伝えたいのか僕には理解出来ないでいた。
今の僕には理解しなければならない事柄がとても多過ぎるのだ。僕には何も考えられなかった。
僕はタオルで体を拭き着替えた後ベッドのシーツを替え恭子の顔を思い出しながらもう一度眠った。
しかし思い出すのは相変わらず後ろ姿だけだった。
そうですか。なかなか難しいですね。
何とか時間作りたいのですが…‥
理想と現実のギャップが大きすぎるね…‥
でも、近いうちに何とか実現したいね。
どんなに遅くともこの物語が完結してしまう前にはね。
僕も期待させる様な事、平気で言ってしまって反省してます。
117 :
95:2006/10/24(火) 01:30:02 ID:Y7rpGAIi
あ、私はいつでもどこでも行けるので大丈夫ですよ。
それより、物語の続きが激しく読みたいです。
すみません。皆さん(2人かな?)お忙しいのに。
>116
大丈夫。いつかきっと会えるよ。
>117
楽しみに読んでくれて本当にありがとう。
自己満足にならないように頑張りますのでどうぞこれからもよろしくね。
翌朝は早めに出勤した。
いつもよりほんの少し早く出ただけで、電車の込み具合も人通りもまったく違って見えた。
恭子と二人で出勤した朝に慣れすぎて、僕は自分がどれほど周りの景色や歩く人々を見ないでいたのかということに気が付いた。
会社について仕事が始まるとすぐに部長に呼び出された。
僕は北京出張のことを言われる覚悟ですぐに部長の席まで文字通り跳んで行った。
部長は少し言いにくそうにこう言った。
「君の奥さんはおめでたなのかね?」
僕は拍子抜けして「へ?」という変な声を出してしまった。
「いいえ、違いますよ。僕はそのような話は聞いていません」
「そうか?それにしてはまた随分急な退職だったな。経理課の課長から嫌味を言われたよ。
家族計画はもっと前もってしてほしいだとさ」
「そんなんじゃありません。事情があって急に里帰りすることになったんです」
僕は仕方なく嘘をついた。突然出て行ったというと話がややこしくなる。
「まあいい、仕方ないだろう。やむをえない急な事情なんていくらでもある」
部長が嫌味を言い返した。
「大変申し訳ございませんでした」僕は素直に謝った。
「まあいい、奥さんの分も君には働いてもらうぞ。
明日から早急にベイジンへ飛んで欲しい。我が社のベイジン市場の新規開拓プロジェクトの資料作成をしてもらう。
アルバイトの通訳を雇った。彼と一緒にあらゆる調査に必要な人員確保は現地で行ってもらう。
何しろ取締役会直々の大抜擢だから、決して失敗するんじゃないぞ!」
「すみません、ベイジンってどこですか?」僕は昨日吉田さんが言っていた言葉を思い出しながら聞いた。
「ばか者、この資料を見たまえ!」
部長がそう言って突き出した資料には、「北京市場開拓調査」と書かれていた。
「いまどき、ベイジンをペキンなどと読んでおったのでは国際社会から取り残されるぞ!」
僕は赤面しながらもその資料を受け取った。
「いいか、パスポートもビザも全ての準備が済んでいる。お前はその資料にしたがって、仕事をすればいいだけだ。
総務課へ行って航空券とパスポートを受け取って来なさい。
その後、アルバイトの通訳が午後から出勤するから細かい打ち合わせをして、
早めに帰宅して準備しなさい」
僕は深くお辞儀をしてその場を立ち去った。
いよいよペキンならぬベイジンへの旅立ちの時が来たのだ。
僕は自分の机の上のノートパソコンで試しに「ベイジン」を検索してみた。やはり北京の最近の国際的表記
と出てきた。現地の人はペイチンと発音するらしいが英語表記は「BEIJING」だった。それで外国の人が
「ベイジン」と発音するのが定着していったみたいだ。僕はふと、ゼンジー北京は今だったらゼンジーベイジン
になるのか?と頭に浮かんで一人で笑ってしまった。どうやら僕の笑いのツボは少しズレている様な気がした。
僕は悔しかったので「ぺきん」でも検索してみた。やはり「北京」と出てきた。そこには「ベイジン」や
「BEIJING」は出てこなかった。僕だけが知らなかった訳では無いのが分かっただけで少しホッとした。
とにかく急な話だったので午前中は仕事の引継ぎで慌ただしく過ぎていった。
十二時少し前に経理課の吉田さんの所に行き話があるのでランチを一緒にどうか?と尋ねた。昨日のお礼代わりに
と言った。吉田さんはご馳走してくれるなら喜んで。と言った。その間経理課長は僕を恨めしそうに睨んでいた。
いちいち理由を説明して謝罪するとお昼休みが無くなってしまいそうなので気が付かない振りをした。
僕らは社員食堂を避けて、外へ出て近くのイタリアンレストランでパスタのランチを食べることにした。
社員食堂で吉田さんと仲良くしていたなどと噂のネタにされるのは真っ平だった。
そのレストランは最近出来たばかりで普段はとても混んでいたが、早めに行ったせいかすぐに座ることができた。
黒くてくるぶしくらいまでの長さがある前掛けをしたボーイさんが注文を取った。
僕らは本日のパスタを2つ注文した。僕はボーイが立ち去るのを待ち構えて吉田さんに今日の部長とのやり取りを話した。
「ベイジンって、ペキンのことだったってわけね?」と吉田さんが言った。
「そうなんだ。つまり恭子もペキン・・じゃなくてベイジンに行っているかもしれないなって、思えてきたよ」
「でも、恭子の話の中でベイジンって出てきたのは多分旅行とかそういう話の流れではなかったって気がするけどな・・・
思い出せないけど、ベイジンっていいよねって言ってたの。なんか憧れているみたいな言い方で。
で、私は外国の俳優さんの名前かなって勘違いしたんだと思う。
でも、なんでそんな話になったのか忘れちゃった。私って結構最近忘れっぽいから」
「そうなんだ。でも恭子が北京のことをベイジンって読むことを知っているなんてね。
恭子は家でもあまりしゃべらなかったんだ。忙しいっていうのもあったと思うけど、暇さえあればてきぱき掃除とかしてたな。
なんだかキレイに片付けておかないと呼吸が出来なくなるとでも言いたいのかってほど、
こまめに掃除していたよ。しかも破れたストッキングなんかを大切にしまっておいて、
それを刻んでモップを作ったりしてね。僕は全然きれい好きじゃない人間だったけど、恭子がいなくなると、
無意識に片付けていたよ。なんだか自分の呼吸も止まるんじゃないかと思えてさ。
不思議なもんだよね」僕は恭子にしゃべっているときみたいにリラックスして話しこんでいた。
「そっか、坂本さんも辛いんだよね。恭子さんに会えるといいね」
と吉田さんが慰めた。
僕は何とも言いようの無い気分だった。そんな僕を気の毒に思ったのだろうか突然。
「ねえ、今日の夜は私が坂本さんの夕食作ってあげる。」と吉田さんは言った。
僕は何と答えるべきなのか上手い返事を考えているとボーイが「今日のパスタ」を僕達のテーブルに置いた。
「やっときたわ。食べちゃいましょう。前からここのお店の料理食べたかったの。」と嬉しそうに言った。
僕は吉田さんのさっきの意味を考えていると、吉田さんはとても美味しそうにパスタを食べていた。
僕も考える事をやめてパスタを食べた。思っていたよりもはるかに旨いパスタだった。今度はぜひ恭子と来たいと思った。
パスタを食べ終わると吉田さんは大きく伸びをして「ご馳走様。美味しかったわ。」と言って一人で
店を出ていった。その後ろ姿を見ていると本当に森に住んでいる小動物そのものに見えた。
「私、本当は森の中でひっそりと暮らしているの。」と言っても誰も疑わないだろうと思った。
僕は支払いを済ませたあと会社までの道のりをゆっくりと歩いた。明日から暫く僕は北京に居るのだ。
そう思うといつもの街並がとても遠くの僕の知らない街の様に見えた。
昼休みが終わり僕は総務課に行きパスポートと旅券が入った封筒を受け取った。総務課の女の子が
経理課に仮払い金が用意されているのでそれを受け取ってから第2会議室に行くようにと
余り愛想の良くない顔で僕に言った。僕はまた経理課長に睨まれるのが嫌だったが我慢することにした。
幸い経理課長はまだ食事から戻っていなかったので吉田さんに仮払金を受け取った。中には30万円入っていた。
「じゃ、今日の夜マンションに行くわ。」と僕の耳元で囁いた。僕は断ろうとして顔を上げると吉田さんは
既に自分の席に戻っていた。しょうがないので僕は第2会議室に行った。会議室には既に通訳の人が待っていた。
僕はその通訳の人の前に行き
「お待たせいたしました。遅くなって申し訳ありません。これからお世話になる坂本です。」と言った。 「こんにちは、コチラコソよろシクおネガイシマス。通訳のヤン(楊)です。」と言った。
その顔を見て僕はとても驚いた。土曜の夜にたまたま行った店で逢ったロックをやる中国人だった。
僕は何を話せば良いのか分からずにヤンさんの顔をじっと見ていた。
「アナタこの間お店ニキテタひとでスネ。どうも久シブリです。」と彼は言った。
「そうですね。あの時はどうも。たしか明日ライブだって言ってましたけど、僕も楊さんも
行けなくなっちゃいましたね。残念ですけど。」
「でも大丈夫デス。私マスターとはバンド組むナイですから。そんなにウマくなデス。」と楊さんは言った。
随分書くの早いね。ついてくのに必死ですw
あの、書いてて思ったんですがヤンさんの口調は次から
普通の口語体にして下さい。自分で設定していて何なんですけどw
かなり大変なことに気付いたのですヨ。
この辺で直しておかないと大変なことになりそうなので…‥
わがまま言ってごめんなさい。
126 :
95:2006/10/25(水) 01:25:58 ID:uLRPZb/P
私が急がせてしまったのでしょうか?スミマセン。
なかなか面白い展開になって来て、F5プッシュしてるのも確かなんですがw
どうか無理なさらずに。
ごめんね、テンポ引き上げてしまって;
時間があるときに一気に書かないとと思って。
でも、今日は書けません。忙しくなってしまった。
楊さん最高。
なるほど。そう云うことだったんですね。
レスが余りにも早かったので
驚いただけです。
じゃあ次のレスまでマターリ待たせてもらいます。
楊さんと僕は会議室で大まかな現地での行動を打ち合わせ、スケジュールを組み、滞在日程を予測した。
大体3週間か長くても1ヶ月には終わるだろうというのが僕らの予測だった。
でもそれは実際に北京に行ってみないと分からないことも沢山あるため見通しが立て難かった。
僕は楊さんにずっと一緒に居てもらえるのかが心配だった。
「楊さんは日本で語学留学中なんですよね?3週間も学校は休めるのですか?」
「ええ、僕の場合は社会人留学で帰国手続きが取りやすいんです。家族が向こうにいるために、
長期に渡って休学してもすぐにまた復学したり、再入国できるんです。
その代わり卒業までに掛かる費用が高くなってしまうんですが、御社からはその差額分の費用も出るという事でしたので、
引き受けられたのです。僕は中国では商売をやっていて、日本でも事業を始めたくて勉強に来たんです。
まだまだ夢なんですけどね」と楊さんはまだ中国語なまりの抜けない日本語で言った。
「分かりました。それでは多少の期限延長は可能なのですね?」
「はい、大丈夫と思います」
僕は話しているうちに楊さんに対して昔なじみのような親しみを覚えた。
偶然にあのライブハウスで会った事がどうしてもただの偶然には思えなかった。
僕は楊さんに明日のフライト前に出社してもらい、一緒に成田へ行く約束をした。
打ち合わせが終わると会社ですることもなかったのでまだ4時頃だったが帰宅することにした。
僕は楊さんと別れて一人でマンションに帰った。
部屋に帰っても朝家を出たときとまったく変化は無いようだった。
日曜にほとんど荷造りが終わっていたので仕事に使うものをスーツケースに詰めてしまうとあとはする事が無かった。
あの男から電話があっても良さそうなのだが、電話は冷たく死んだままだった。
6時過ぎに吉田さんがインターホンを押した。
僕は出掛けてしまえば良かったなと後悔したが、吉田さんはスーパーの袋を持って買い物をして来ていたので、
さすがに追い返す訳にもいかなかった。
「やあ、本当に来たんだね。夕食なんて適当に食べるからいいのに」
「まあ、いいじゃない。しばらく会えなくなるんだし、もし食べずに北京に行って和食が食べられなくなったら、
きっとここで手料理食べなかったことを後悔するわよ」
「たしかに、その通りかもしれないな」
「まあ、2人だけだけど、壮行会しましょうよ。腕を振るうわよ」
そう言い終えないうちに吉田さんは部屋に入り、キッチンに立って花柄のエプロンを締めた。
冷蔵庫には僕が日曜日にスーパーで買ってしまった食料品も眠っているはずだったので、
それらも使ってもらうことにした。残りは吉田さんがもらってくれることになった。
吉田さんの手料理はとても旨かった。ほとんどが京都料理のような関西風の味付けで、
彩りも盛りつけも料理の本に載せられそうなほど綺麗だった。
「すごいね。料理習っていたの?」
「ううん、全部独学なの。ものすごく分厚い京懐石の本を買ってきて、自分で色々試しながら覚えたの。
うちのだんなは料理の腕前に惚れて私と結婚したのよ」
「そういえば、まだ新婚じゃないか。こんなところに来ていたら誤解されたりするんじゃない?」
「いいの、私たちもうあんまりうまくいってないの。
彼はシステムエンジニアで真夜中に仕事しているの。だからいつもすれ違い。
せっかく作った料理も一人で冷めていくの見ているのに疲れちゃってさ。
たまには美味しいっていいながら食べてくれる人に作りたかったの」
僕は吉田さんの言葉の中にある種独特な感情を読みとった。それは簡単に言ってしまえばセクシャリティーそのものの匂いだった。
僕はしばらくこの冗談にもならない状況をどうしていいのか分からずに黙々と料理を食べてしまった。
「でもあれだね。こんなに巧い料理が食べられるなら転職ぐらい訳もないって気がするんだけどね」
僕は何と慰めていいのか分からずにやたらと明るく冗談のつもりで言った。
すると吉田さんは箸を置いて急に僕の目をのぞき込み、意を決したように言った。
「坂本さん、今夜私を抱いて下さい」
僕の自宅のパソコンがアクセス規制にひっかってしまった;
もしかして長文の連投は荒らしと見なされるのだろうか?
僕は彼女の言っている事を理解するのに少し時間が掛かった。彼女は前に僕と一緒に働いていたこともあるし
今は、今はというより少し前までは恭子の同僚であり仲の良い友達の筈だ。その彼女と寝ると言うことが
一体どうゆう事なのか想像できないでいた。否、想像しないように努力していたというべきなのだろう。
いくら今恭子が僕の前から消えてしまった状況だとはいえ恭子を裏切る行為以外のなにものでもない。
その事で僕は恭子をさらに深く傷つけてしまうことになるだろう。しかし僕のペニスは激しく勃起していた。
僕はその状況を彼女に悟られないように料理の話題に換えようと何か話そうとしたがうまく喋る事が出来なかった。
彼女の目が余りに深く澄んでいたし、その目にみつめられることで僕は理性といったものがいっぺんに
吹き飛ばされてしまっていた。そして僕は彼女の唇にキスをした。とても長い時間をかけて舌を絡ませ合った。
僕は何も言えないまま彼女を寝室に連れていきシャワーも浴びないままセックスをした。やさしく服を脱がせ
そして下着を脱がせた。彼女のそこはまるで温かいピーナッツ・クリームのようにやわらかだった。
そしてゆっくりと愛撫をしキスをした。僕が彼女の中に入ると彼女はとてもうまく僕をむかえいれてくれた。
僕は吉田さんの体を抱きながら恭子を感じていた。そして吉田さんを感じながら恭子を抱いているような
感覚に襲われた。まるで二人が一つの体を共有して僕とセックスをしているように思えた。
暫く僕はそんな感覚に包まれたあと激しく射精した。そして吉田さんの体を抱き寄せて天井を眺めた。
いつのまにか吉田さんは僕の胸に鼻をつけて小さな寝息をたてていた。
えっ?そんな事あるの?
僕は良く知らない。でも前の時はそんな事無かったでしょ?
暫く様子見たほうがいいのかな?
一方僕は平日の昼間からこんな文章を書いているって事で
アクセス規制に引っ掛かったりしないのだろうか?
と考えています。
やっぱり、吉田さんとは寝る運命だったのか・・。
もしも、まったく同じ状況を君が迎えたとしたら、君もやっぱり吉田さんを抱くのかな?
単なる好奇心で聞いていますので、マジレス希望です。
健全な男性のほとんどがそうであるように、
僕も当然抱くでしょう。
それが男というものだから。
じゃなければ一夫多妻制とか王族の側室や将軍の
大奥っていうものは存在しなかっただろうし、
今でいえば風俗店というものが存在する理由が無いですね。
勝手な理屈で正当化してますがそんなところです。
あ、風俗店はちょっと違うか。不倫や浮気が無くならないって
した方がより分かりやすかったかな?
やはりアクセス規制で書けません。今携帯からです。携帯だと長文は無理かな。マジレスありがとう!きっとそれが一番自然だよね。たぶん僕でもそうすると思う。変な事聞いてごめんね。
とりあえず2ちゃんねるガイド読んでみたほうがいいよ。
ホスト規制に関する事が書いてあるから。
あと僕は最近全部携帯から書いているから慣れればそれ程大変でもないよ。
電池の充電に気を付けないといけないし、たまに改行忘れてぐちゃぐちゃになるけどね。
さっきの質問は本音で書いたから引かれたらどうしようかとちょっとドキドキしました。
とにかく良く調べて早く解除できるといいね。
本当に携帯で書いていたの?!すごいな〜
僕は今まで携帯でメール書くのが大嫌いだったからすごい時間かかって大変だよ。
改行の仕方今わかったくらいw
正直に答えてくれて嬉しいよ。やっぱり逆らえない流れってあるしあそこで断ったら男じゃないよね。
だけど春樹の小説の主人公は断ったりするんだよね。
君がどっちにするか楽しみだったんだ。意地が悪いよね。
でも物語の方は口調変えたあたりからそういう流れにしようと勝手に決めてたからね。
君が振らなくてもそうなっていたんだなこれが。僕が書く限りはねw
もっとも振られなかったらもう少しさらって書いていたかもしれないけどw
マジレスしたのは格好付けて寝ないよって書くのも変だと思ったからだね。
もっとも今までそんな状況になったことは無いからよく分からないけどね。
ふ〜ん。。。。男性ってやっぱりそうなんだ。。。。おやすみなさい。
そうなんです。
好むと好まざるとにかかわらずね。
おやすみなさい。
僕は仕方なくしばらく裸のまま吉田さんの髪を撫でていた。
吉田さんの髪はあまりパーマやスタイリングを施されていないせいか、少女のようにつるつるした細い髪だった。
そして、花のようなとてもいい香りがした。
気が付くと吉田さんは泣いていた。寝息を立てながら涙をこぼしているのだ。
僕はその涙を見て激しく後悔し始めた。吉田さんの髪をこんな風に撫でてあげるべきなのは僕ではなく、
吉田さんの夫であるシステムエンジニアであるはずなのだ。
吉田さんは夫に抱かれることを激しく望みながら叶えられずに、自らその穢れ無き体を僕に投げ出したのだ。
僕はそのことを思うとそのシステムエンジニアを激しく憎んだ。
彼女をこんな風に傷つけることがあってはならないはずなのだ。それでもおそらく彼もまた犠牲者だった。
利便性を求める社会を底辺で支えている彼は明らかにシステムの奴隷であり、その歪みの中で磨り潰されているだけだった。
彼が真夜中にサーバーをメンテナンスしなければ、翌日の仕事が成り立たない。
その陰でほんのささやかなセクシャリティーも満たされずに、ただ夫の温もりを求めて吉田さんは僕のところへ来たのだ。
そして、おそらく夫に思いを馳せながら僕を受け入れたのだ。
そう思うと僕は本当に悲しくなった。お互いが別の相手を思いながらするセックスはあまりにも悲しすぎた。
でもおそらくこれがこの国を支えているシステムの一部でさえあるのだ。
僕はそっとティッシュで吉田さんの涙を拭った。吉田さんが「そんなに優しくしないで・・・」と寝言のようにつぶやいた。
僕は吉田さんのおでこにキスをして、僕自身も眠ることにした。
その夜、恭子が他の男に抱かれている夢を見た。
恭子は男に抱かれながら涙を流していた。それは吉田さんが流した涙に似ていた。声を殺して泣いているのだ。
恭子も僕を求めながらその男に抱かれているのだろうか?吉田さんがそうであったように恭子もそうなのだろうか?
しかしその姿は余りにも不鮮明で脆く見えた。近寄ると消えてしまう。まるで逃げ水のような夢だった。
「私がこうして抱かれていたのは決してあなたのせいじゃないの。これは予め決められていた事なの。
でもそれであなたを傷つけたりするつもりは無いの。それにあなたのした事で私も傷つく事は無いから
安心して欲しいの。」と恭子が言っているような気がした。しかしそれが恭子の言葉なのかは分からなかった。
目が覚めて時計を見ると夜中の1時10分だった。隣を見ると吉田さんはそこには居なかった。
キッチンやダイニング・テーブルはきれいに片付けられていた。それはまるで恭子が片付けたように見えた。
テーブルの上にはメモが残されていた。「ありがとう。」とだけ書かれていた。その文字を見たときに
ひどく悲しい気分になった。理由は分からなかったが、その短い文が僕をとても悲しくさせたのだ。
冷蔵庫を開けバドワイザーを取り出した時にラップのかかった皿にハムとチーズを挟んだサンドイッチが
並べられていた。おそらく吉田さんは寝てはいなかったのかもしれないと思った。僕が眠りについたのを
確認したあと食事の後片付けをして明日の朝の食事まで用意してくれたのだろう。そして僕を起こさないようにして
静かにこの部屋をでていったのだろう。僕は吉田さんのそんな気遣いを感じたあと。ひどく後悔した。
僕がした事は本当に正しい行為だったのだろうか。僕は何処かで道を間違えて進んでしまったのだろうか?
次の日の朝はとても良い天気だった。秋特有の乾いた少し冷たい空気と雲一つ無い空が広がっていた。
僕は吉田さんが用意してくれたサンドイッチと僕がいれたコーヒーで朝食を取り荷物のチェックをした後
会社に向かった。会社の前では楊さんが僕を待っていた。
URL間違った。
最後のI50をl50にしてください。
そうなんだ。
なんか淋しいね。
早い解除を祈るしか無いみたいだね。
淋しくなんてないよ。スレはちゃんと見てるし、話だけならだいじょうぶだよ。
ただATOK無しでは書けないだけだよ。無学だからさ。
オフの予定でも立てるかい?
ちょっとテスト
うわあ!君の祈りのおかげで規制解除されたみたいだ!
やった〜これで続きが書けます。
でも今夜はもう遅いから寝ますね。
明日の朝から再開します。さて、いよいよ北京(ベイジン)だね。
いいですね!!
オフしてみたいねw
いつ頃なら時間作れそうかな?
おめでとう。よかったね。
それじゃおやすみなさい。
僕はまだおきてるけどね。
>151
僕の希望はできれば土日の昼間で、日帰りかな。
昼間は飲んだりしないと思うけど、実はあんまりお酒強くないんだ。
ビール5本飲んだら2日酔いしますね。
だからランチとかお茶で充分です。
95さんもお酒飲めないんだよね?
でも人参は土日の昼も仕事なんだよね?
12月は予定どうなのかな?
おはよう。12月は2日3日の土日以外は今の所予定は入っていません。
今日は休みで家に居る為その他の土日の休みを把握して無いので
なんとも言えませんが出来れば僕も土曜日あたりが良いかなと思ってます。
そっか〜今日は家にいるんだ。僕は午後から仕事で出掛けます。
なんの仕事してると思う?まあ、あったときに教えてあげるよ。
そうですね〜12月9日か16日の土曜でどうでしょうか?
ちなみに日曜日はだめなのかな?
どちらかと言えば日曜のほうが仕事が入りにくいんだよ。
ドタキャンは申し訳ないので10日or17日の日曜でも検討願います。
そうですね。日曜日も多分大丈夫だと思います。
が以外と地域のちょっとした行事が入りやすいので。
年齢的にそう云ったものも無視できない状況になってしまっているのです。
君の仕事か?なんだろう?朝も夜も早そうだから
飲食店は無いだろうな。思いつかないね。
ちなみに僕は何をやってるでしょう?すぐ分かりそうだけどね。
料理人じゃ無いことは確かだけどね。
楊さんが「おはようございます」と満面の笑顔で言った。
僕は挨拶を返して一緒に会社のビルに入っていった。
受付の女性社員に出張用の経費でタクシーを呼んでもらい、荷物が多いのでそのままロビーで待つことにした。
しばらくロビーのベンチソファーに腰掛けて出社してくる人の波を眺めていたのだが、僕は次第に居心地の悪い違和感を感じた。
もちろん自社ビルに出入りするすべての人間を知っているわけはないのだが、
何故か通りすぎる人たちが一様に僕を一回チラリと見た後また素知らぬ顔で通り過ぎ、
5〜6歩ほど歩いてからもう一度振り返るのだ。
僕は自分の置かれている状況を今一度振り返った。
昨日突然部長に呼び出されて北京出張を言い渡され、今日には出発という流れはかなり急だった。
僕がそれほど驚かなかったのは土曜日に掛かってきた謎の男からの電話で北京に行けと言われていたためだ。
もし、その電話がなかったら、僕はひどく驚いたはずだった。
しかし、確かに急な出張ではあったが、この業界はスピードが命なのだから決定がひとたび下されたのなら、
翌日出発みたいな例は無くはない。極めて希ではあるのだがつじつまは一応通ってる。
それでもこのロビーで感じた不思議な違和感はまるで白鷺の群れの中に紛れ込んでしまったカラスくらいに見過ごせないものだった。
それは、あまり名誉とは言えない理由で一夜にして有名になってしまってるみたいな感じなのだ。
僕は昨夜の出来事を思い出さずにはいられなかった。
何らかの悪意によって嵌められて、吉田さんとの事がすでに社内に周知の事実となっているんじゃないかという恐怖が襲ってきた。
そんな心配をしている間にタクシーが来た。
僕らはトランクにスーツケースを積んでもらい、タクシーに乗り込んだ。
自社ビルを後にして、こんなに後味が悪い思いをしたことは無かった。
ごめん、北京の描写は君に任せていいかな?
あとさ、メアドを交換するっていうのはどうかな?
できれば君が捨てアドでも知らせてくれば、僕のアドレス送信しますよ。
日程もそこで調整して行きましょう。
君の仕事はそうだね〜車屋さん?
そうですね。北京の描写は僕が書いた方がいいのかもね。
独特だからね。でも想像で書くのも面白いかもね。
知ってる人は???ってなるかもしれないけど
知ってる人だって全部わかってるとは限らないからね。
僕だって二年前のちょうど今頃三泊で行っただけだから記憶も曖昧になってるし
今の北京と随分かわっているかもしれないよ。もうすぐオリンピックもあるしね。
捨てアドは後で書いておきます。
色々調べて想像で書くのはいいんだけど、ただ、君が書くのを読みたいだけw
中国にもスターバックスあるのかな?
なんか、そういう小ネタ満載でお願いします。
でも小説なんだから、別にすべて正しくなくてはいけない訳ではないと思うよ。
そのとき見たままを書けば時代や見る人によって絶対に変化してしまうものだし、
リアリティーと事実とはまったく別の種類のものだと思うから。
僕らはリアリティーを追求するだけであって、それが事実じゃないなんて声高に叫ぶような野暮は誰もしないさ。
まあ、楽しくやりましょう。
僕は車の中で最近起きた出来事を考えていた。金曜の夕方に恭子が出ていった事やその後の男からの電話や
ライブハウスや吉田さんの事をだ。余りにも多くの事がありすぎ、全てが少しづつ繋がっている様に見えて
僕は当事者なのにそれらを全く理解出来無いでいる。しかも隣には楊さんがいて僕と一緒に北京に向って
いるのだ。うまく理解できる方がおかしい位だ。第一僕はそれ程柔軟な感性を持ち合わせていないのだ。
タクシーは成田エクスプレスの駅で僕達を降ろした。そして成田エクスプレスに乗り成田空港に着いた。
僕は楊さんに教えて貰いながら空港での搭乗手続きをし空港内でコーヒーを飲んだ。
「ねえ、楊さん。北京て寒いのかな?」と僕は聞いた。
「朝や夜は少し寒いです。でも昼間はそうでも無いです。
だからホテルのチェックするまでは特に気にしなくても良いです。」
「それと聞きたかったんだけど楊さんはずっと僕と一緒に行動してくれるのかな?」
「そうです。向うでは朝食を食べた後から夕食までは私が一緒に行動します。念のためもう一人、サブの
通訳の人、用意しています。北京大学の学生です。向うの空港で待っていてくれてます。」と楊さんが言った。
僕は少しほっとした。いくら楊さんが人の良さそうな人間でも朝起きてから寝るまで顔を突き合わせるのも
どうしたものかと考えていたからだ。ましてや可愛い女の子だったらまだよかったが相手は楊さんだ。
「サブの通訳の人。昼間大学行っていますから夕方から夜まで付きます。余り遅くまではいません。
それと私が都合悪いときはサブの人が朝から付きます。日本語は余り上手じゃないけど下手でも無いです。」
そしてコーヒーを飲みおわった後飛行機に乗り成田空港を発った。
飛行機が安定した時に僕はビールを貰いそれを飲んだ。幸い窓側の席だったので外の景色を楽しみながら
ビールを飲みおわった後バーボンは無いかと聞いてみたがスコッチならあると言われたのでそれを貰った。
げっ!携帯で本文長すぎると今まで書いたのが全部消えてしまうのか!
もう一度書きなおしだ。しかも全部は憶えてない。サイアクOTL
機内食を食べおわった頃飛行機は韓国上空を飛んでいた。しばらくすると左に進路を替えてしまった。
おそらく北に差し掛かったためだろう。そこから一時間程後に北京の上空を飛んでいた。天津や北京を眺めると
そこには広大な大地が広がり山と呼べるものが存在していなかった。当然森や林といったものも存在していない。
どこまでも平坦な土地とそれを分けるためだけに存在する道路とその道路脇に申し訳程度に植えられた
並木があるだけだった。それはまるで茶色の紙で出来た大きな方眼用紙の様に見えた。その狂いのない
正確な道路に恐怖感さえ憶えた。暫くして大きな山々が見えてきた所に北京空港があった。飛行機は大きく
旋回して空港に降り立った。飛行機を降り僕は入国手続きをするためとても広い通路を歩いた。それはまるで
この国の広さに比例しているように見えた。その通路を歩く人の少なさがそれを更に広く見せていたのかもしれない。
入国手続きをするため係官にパスポートを手渡した。係官は僕の顔とパスポートを時間をかけてチェックしていた。
まるで僕に嫌がらせをしているように見えた。おかげで僕の後ろに並んでいた人は全員別の係官の所に並び替えて
しまい。ようやくチェックが終わった時には僕以外そこには居なかった。楊さんが気の毒そうな顔で
僕を待っていてくれた。
預けて置いたスーツケースを取りに行ったが、ベルトコンベアは既に止まっていて僕達のスーツケースが
燃えるゴミの日のゴミステーションに置かれた粗大ゴミのように端に積み重ねられ放置されていた。
僕達その粗大ゴミを丁寧に持ち上げて引き摺りながらそこから引きあげた。盗まれなかっただけましだよと
楊さんが僕に言った。そうかもしれない。盗まれてしまったら僕は寒くて朝晩の外出が困難になってしまう。
暫くして空港の出口付近にサブの通訳の人が僕達を待っていてくれた。楊さんがその通訳の人を紹介してくれた。
「通訳のサブをしてくれるリー・タンさんです。」驚いた事に卓球の福原愛ちゃん似の女の子だった。
「こんにちは。日本から来た坂本と言います。」と僕は言った。
「こんにちは。リー・タンです。李と云う字に牡丹の丹です。リターンと憶えると忘れません。」と言った。
「綺麗な名前ですね。」と僕は言った。
「そんなこと無いです。李丹の名前は余りに平凡な名前です。本当は違う名前がよかった。」と彼女は言った。
おそらく日本でいうと山田花子とかそんな名前なのだろうと思った。
とにかく僕は一息つきたかったので空港の近くにスターバックスは無いか?と聞いた。「ない。」とリターンは言った。
代わりに上島珈琲とマクドナルドならありますと言った。それで僕達は上島珈琲に入りコーヒーを飲んだ。
余り聞き慣れない名前だったが日本のメーカーの直営店だった。店を出た後に気付いた。UCCコーヒーだということを。
>162
大変だったね。でも携帯でそんなに通信してたら料金すごいことになるんじゃない?
僕はキーボード依存症なのでそんな芸当は絶対に無理だ。本当に尊敬するよ。
今月からパケホーダイにしたから問題無いです。
なるほどね。今携帯シェア争いがすごいことになってるもんね。価格狂騒って感じだよね。
あと本当は北京国際空港内にスターバックスあるらしいね。
でもこの小説世界には無いということなんです。お読みの皆さんはそう理解して下さいね。
>>168 あ、今思い出しました。空港は憶えてないけど泊まったホテルから
5分位の所にあるデパートのB1階にありました。スターバックスコーヒーが。
しかも僕はそこでしっかりコーヒーを飲みました。
でも李丹さんは学生でお金が無いのでスターバックスのコーヒーなんて飲んだ事が無いのです。
だから知らなかったんです。北京の人にとってその金額は恐ろしく高いのです(事実)
日本では数百円でも中国の貨幣価値に直すと一杯数千円にも匹敵します。
後でそれに基づく話も書きます。と云うことで許してもらえませんか?
君はいつも本当に素晴らしいアイデアで僕の間違いも君自身の間違いもきちんと直してくれた。
僕がビザ無しでモンゴルへ行った事も、服を着忘れたことも、きちんと助けてくれてありがとう。
許すなんて当たり前じゃないか。なっていうか、君の几帳面さに本当に頭が下がる思いだよ。
スターバックスなんてあってもなくてもいいんだよ。別にそんな小さな事で、話の体勢が変わるわけではないし。
もちろん君がそうしたいって言うならそうすればいい。
なんていうか、ツッコミ入れてごめんよ。そんな大した事じゃないのに。
あと、飛行機からの描写は本当に目の前に景色が見えたよ。君はやっぱり最高だ。
そんなこと無いよ。おかしいと思ったらツッコンでくれて大丈夫だよ。
それによって少し話をかえてみたりすることだってあるから。
僕は言い訳は普段から言い慣れているんだ。
何故かはよく分からないけどねw
それと誉められたからまた伸びるかなw
スキルアップチャンス!
でもさ、僕の希望としては福原愛ちゃんをセックスに巻き込むのは止めて欲しいなw
これ以上読者を失うのはまずい。
それはありませんw
いくら僕でもそれは無いです。
吉田さんは特別だったのです。
僕の中でそれはそうする必要性があったからです。
それと読者の方は多分僕に失望したんですね。
それに関しては申し訳無く思ってます。
ごめんなさい。です。
空港からタクシーでホテルまで行く事にした。タクシー乗り場まで行った。タクシーの殆どが黒いアウディだった。
どのタクシーもピカピカに磨かれてあり色も黒で統一されてあり、日本だったらハイヤーみたいなものだろう。
楊さんに聞くとその通りだと言った。他の車はベンツやBMWだった。不思議な事に日本車は殆ど無かった。
タクシーに荷物を乗せホテルに向かった。僕と楊さんが後ろの座席に座り助手席に李丹さんが乗った。
タクシーの時計を見ると午後3時だった。飛行機に搭乗した時間が12時より少し前だったので3時間かかったのかと思ったが
やけに長く感じた。楊さんに聞くとどうやら時差が1時間あるので日本なら午後4時になるらしかった。僕の時計も全部時間を
合わせておいた方が善いと薦めてくれた。タクシーが空港のロータリーをでると車は随分早い速度で走り始めた。
道路は片側三車線あり中央分離帯がきっちり車線を分けているのだが不思議な事に片側に4台の車が平行
して走っていた。更に頻繁に車線変更を繰り返し当たり前の様にウインカーを出す車は1台もいない。
何度と無く他の車と接触しそうになったが正に神業と云えるくらいに紙一重で全てかわした。正に
プロフェッショナルだと感心した。お陰で僕はドアの上にある把手を強く握り締め両足は床にしっかりと
踏みしめなければならなかった。楊さんの方を見るとリラックスして前を向いていた。僕は楊さんに怖くないのか
と聞くと「中国ではタクシーやバスは優先。だから心配いらない。」と当たり前の様な顔をした。
不思議な事に事故を起こしている車は一度しか見なかった。ただその車は一見ただけでもう走る事が
出来ないのは僕にもすぐ分かった。こんな僕ですらだ。それと気になってはいたのだが自転車が殆ど
走っていないのだ。僕は北京と云えば見事なくらいの自転車渋滞が繰り広げられていると想像していたが
その事に対しては完全に僕の認識不足の様だった。その自転車が今は車に取って変わっているようだった。
タクシーが北京の中心街に近づくにつれて高層ビルが増えてきた。しかしそのビル群には不思議な違和感を
僕に感じさせていた。それは単に勾配の無い真っすぐな道路や規律の存在しない車のせいだけでは無い事に
気付くのに時間が掛からなかった。比較的新しいビルはそんな事はないのだがある一定の年数が経っている
建物の屋上には例外なく瓦ぶきの屋根が存在しているのだ。その年数が5年まえの建物なのか10年前の建物
なのかは判断がつかなかったが、そこにはなんらかの規制が存在している事は分かった。その姿はまるで
ビルの屋上にスタジオジブリ作品の大きな風呂屋が乗っているように感じた。近代化の中国と古い中国の融合が
僕に不思議な違和感を感じさせないではいられなかった。そのビルの周りに近代化された屋上があるビルの
一階にはマクドナルドやらケンタッキーフライドチキンやら吉野家といった外国資本のファーストフード店の
テナントが入っていた。吉野家がファーストフード店なのかは多少疑問に感じたが中国に於いては同じ
カテゴリーに属する事に否定は出来なかった。暫く車を走らせると大きなホテルに到着した。そのホテルには
北京迎賓館飯店と書かれていた。僕はホテルなのに何故飯店なのかと楊さんに聞くと漢字の持つ意味よりも
発音を重視するので飯店となっていると教えてくれた。しかもホテルでも食事は付き物だからあながち
間違いではないだろう。と言った。それについて反論しょうとしたが余りにも素晴らしい運転のせいで
僕にはそんな気力さえ残されていなかった。楊さんがはこのホテルには泊まらないが少し用があるので
このホテルに来たのだと僕に言った。
ホテルのエントランスからロビーに入るとそこには不思議な情景が広がっていた。そこにはほんの少し前に
夢で見たあの建物が目の前にあるのだ。黄色い円柱に挟まれた白い壁そして中からひとの気配そして音楽だった。
僕はその情景を目の当りにしてそこから先へは一歩も立ち入ることが出来なくなっていた。
「デジャヴュ」と僕は呟いた。何故初めて訪れた国の建物の夢を僕は見たのだろう。
「大丈夫ですか?暫く休んだほうがよいです。」と楊さんが僕に言った。僕はそうしてみる。
と答えホテルには入らず外で時間を潰すことにした。その間楊さんと李丹さんはそのホテルのエレベーター
に乗り込んだ。僕はエントランスの前にある石でできた階段に座り込んで空を見上げてみた。
空は日本を出てきた時よりも青く高く澄みきっていて僕が今中国にいる事を感じられずにいられなかった。
僕は広い道路を走る車を見たりその広いホテルを眺めたりしている時に楊さんと李丹さんが戻ってきた。
「お待たせしました。これから今日泊まるホテル迄案内します。でも明日からは別の施設に泊まる事になります。」
と楊さんが僕に言った。僕達はタクシーに乗り別のホテルに向かった。そこからは広い通りでは無く細い
路地の様な道を走っていた。路地と云っても日本のそれとは違い片側一車線はある比較的大きな道だ。
しかしその道路はたしかに路地といって差し支えなかった。表通りと違い昔からある古い集合住宅やら
八百屋や患者がいない病院やらとにかく生活の匂いが充満していた。アパートの玄関では上半身裸の男が
手鍋に入ったお粥か何かを鍋のまま蓮華で口に運んでいた。僕にはその男が玄関に立ち焦点の定まらない顔で
外を眺めながら食事をとっているのかうまく理解できなかった。家の中がおそろしく散らかっているのか
または他に玄関で食べなければいけない理由があるのだろう。しかしそれについて僕がとやかく云う筋合い
の事ではない事ははっきりしているのだ。そんな北京の実生活を眺めている内にホテルに着いた。
ホテルでチェックインを済ませ部屋に荷物を置き着替えている間楊さんと李丹さんはフロント横のソファー
で待っていてくれた。僕は部屋に入り厚手のシャツに着替えダウンジャケットを手に持ってロビーに降りた。
またやってしまったw
本文長すぎです。OTL
心が折れてしまったので続きお願いします。
僕は楊さんと李丹さんと一緒に食事に出掛けた。
北京に来て初めての食事だったので、楊さんがお薦めの店に連れて行ってくれると言った。
「まず、日本人観光客のいない中国人向けの家庭料理の店が本当に旨いです。それだけは間違いない」
と楊さんは胸を張って言った。隣にいる李丹さんも激しく頷いていた。
僕はあまり胃腸が強くないので、何を食べさせられるのかひやひやしたが、逆らわない事にした。
「まあ、お任せします。でもなるべく清潔なお店にして下さいね」と僕はささやかな希望を述べた。
「大丈夫、大丈夫。これを食べたらすぐに元気になる。観光客向けの店、みんなぼったくりね。
足下見てる。日本人と分かるとすぐにゼロ一個増やして請求してくる。だから私についてくるのが一番安全なのね」
そう言われて連れて行かれた店は胡同と呼ばれる昔ながらの庶民の町の中にあった。
看板もあるのか無いのか分からないような不思議な店構えの建物に連れて行かれ、
中に入ると文革前の中国にタイムスリップしたような昔ながらの中国の料理屋があった。
そこで北京風の焼き肉というものが出てきて、七輪のような道具を使って炭火で肉を焼きながら様々な薬味を乗せて食べた。
僕と楊さんと李丹さんで腹一杯になるまで食べてたったの50元くらいだった。
「本当に旨かったです。もしも楊さんがいなかったら、きっと今頃マクドナルドで50元払ってましたよ」
僕は冗談抜きでそう言った。
「通訳の仕事だけでこんなに沢山お金もらえるから、サービスしておかなくては罰が当たります」と楊さんが言うと、
「まだまだ、おいしい店はありますよ。挽肉の沢山乗った麺とか餃子とか包子とか、食べきれない位です」と李丹さんがほっぺを赤くしながら言った。
僕らは満足して、ホテルの前で別れた。彼らにはちゃんと帰るべき家があるのだ。
僕は部屋に戻って、明日からの仕事の準備に取り掛かった。
インターネットを持込のノートパソコンにつなぐことは出来ないかと片言の英語でフロントに問い合わせると、
専門のスタッフがやってきて繋いでくれた。
僕は早速メールで会社に無事到着したことなど、今までの状況を報告した。
とりあえず楊さんに翻訳してもらいたい資料や、市場調査に使うアンケートの作成の準備をしていると、
部屋にある電話が突然現れた死神のノックみたいに何の前触れも無く鳴った。
電話に出ると、土曜日に電話をかけてきた男からだった。
「北京の夜はいかがですか?」と男が言った。
「まあまあですよ。食事もとても旨かったですしね」と僕は言った。
「この仕事をあなたにさせるように手を回したのは私なんですよ」と男が言った。
「まあ、そうでしょうね。すぐにわかりましたよ」と僕も負けずに言った。
「そんなに嫌わないで下さい。私はあなたの味方なんですよ。あなたが奥さんに戻ってほしいとまだ思っているならの話ですが」
僕はすっと受話器が氷のように冷えた気がした。男は吉田さんとのことを知っているのかもしれない。
「もちろんです。恭子と会うためには何でもします。戻って欲しくない理由なんて微塵もありません」と僕は強がってみせた。
「そうですか。それではビジネスの話に移りましょう」
「ビジネス?」と僕はオウムみたいに聞き返した。
「そうです。ビジネスです。私どもはあなたと奥様の仲をうまく取り持つことが出来るかもしれない。
しかしながらもちろん、無条件というわけには行きません。あなたにはある仕事をしていただきたい。
でもそれは誰にでも出来る種類の物ではない。あなたにだってうまく出来るかどうかはやってみなくては分からないのです。
その仕事をすることによってむしろ自動的に奥様はあなたの元に戻ると予想されます。
したがってあなたには選択の自由など元々無いのです。お分かりですね?」
僕には男が何を言いたいのかさっぱり解らなかった。まったく違う世界に生きているまったく違う人間同士の不毛な会話を思わせた。
「で、一体何をしろって言うんですか?」と僕は苛立ちを隠せない声で言い放った。
すると男は少しの間沈黙した。しかし、時間にして10秒足らずの沈黙であったにもかかわらず、
世界中の時計が一斉に時を刻むことを放棄してしまったかのような耐え難い長さに感じられた。
「私たちは理由があってあなたに全ての情報を伝えることが出来ないので、まるで謎賭けみたいに感じられることと思う。
しかし、私たちの目的は決してあなたを不幸にするとか貶めるということではないのです。
それだけは理解して欲しい。
そこで、私たちがあなたにやって欲しいことは、毎晩ある場所に行き、そこである人物に会って欲しいというこです」
「ある人物・・・?」
「そうです。名前は関係ありません。その人物が誰であるかということは、あなたにとって大した問題ではない」
「でも、そんな、それだけですか?」
「そうです。それだけです」
「それで、ある場所って一体どこなんですか?」
「北京迎賓館飯店です」と男が言った。
僕はそのホテルの名前を聞きいい知れぬ不安と恐怖を感じた。そこはこのホテルにチェックインする前に寄った
あの北京迎賓館飯店の事だ。間違いでは無い。あの時感じた不思議な嫌悪感が僕の体を支配した。
「はい、分かりました。それじゃ何時頃北京迎賓館飯店の何処ににいけばいいのでしょうか?メモを取ります。」
僕は堪え難い体の震えに逆らうようにして絞りだすような声でそう聞き返した。そして紙の下の方に小さく
王府飯店と青い字で印刷されたA4サイズの便箋に机の引き出しに入っていた黒いパーカーのボールペンで
メモの準備をした。書き心地の良さそうな細くてシンプルな上等のボールペンだ。
「ずいぶん素直になりましたね。いいですか?言いますよ。毎日夜八時きっかりにロビーの奥にある
黄色い円柱に挟まれた白い壁の部屋の中です。分かりましたか?もう一度言いますよ。いいですか?
毎日夜八時きっかりにロビーの奥にある黄色い円柱に挟まれた白い壁の部屋の中です。明日からで結構です。
失礼ですが、今日のあなたはいささか疲れすぎてます。そのような状態ではあなたはあの場所に耐えられません。
忘れないで下さい。少しでも遅れればあの中には入ることが出来なくなります。それと体は清潔にしておいて下さい。
くれぐれもね。神聖な場所ですから。」と男は言った。
僕がはいと返事をしようとした時には既に電話は切れていた。
受話器からは通信音だけが僕の鼓膜をいつまでも震わせていた。
僕は便箋に書き留めたその内容を何度か声に出して言ってみたが何度言っても受話器の通信音が僕の頭から
離れなかった。僕はホテルの冷蔵庫から冷えた青島(チンタオ)ビールを取出しグラスに注いで一気に
飲み干した。少しクセはあるが悪くは無いビールだった。僕は窓に目をやり外の風景を眺めながら
恭子の事を考えた。今何をして何を思い何を見ているのだろう。恭子は一体僕に何を伝えたがっていたのだろう?
しかし僕に出来ることは極限れた事しか無い。今はこの北京であの男に指示された事以外にはだ。
翌朝、僕は支度をして楊さんと連絡を取り、楊さんが用意しておいてくれたレンタルオフィスに引越しをした。
もちろん、引越しといってもスーツケースだけで電話の回線もすでに用意され、ネット回線も用意されていた。
楊さんは通訳としてだけでなく、有能な秘書としての仕事もこなしていた。
僕はとりあえずオフィスの隣にある安いアパートを借りることにした。
僕と楊さんはきわめてシステマティックに仕事をこなしていった。
アルバイトを面接し、中国においては破格のバイト代を出していい人材を確保した。
正確な情報を手に入れようと思うのであれば、それなりの代価を支払わなければならない。
十分な手間と時間をかけた分だけ正確な情報が打ち立てられ、利潤の見極めが行われそこに資本が投下される。
僕はありとあらゆる中国の文化的な習慣に基づいてさまざまな試算を繰り返していかなければならないのだ。
ちょっとした間違いや読みの甘さがあれば、実際に資本が投入され、ハード面が完成してしまったときに取り返しが付かないことになりかねない。
それでも僕はそれなりにではあるが自分の仕事が好きだった。
それがこの世界にあってはむしろ人間のためだけの利便を追及する極めてスノッブな仕事であったとしても、
僕がそれをしなければ他の誰かがやることになるだけで、僕がこんな資本主義は間違っていると声高に叫んだところで、
結果として世界の成り立ちが変わるとは思えなかった。
それに仕事をしているときはあの男の事も、恭子のことさえも忘れることが出来た。
僕は意識を集中して仕事をこなしていった。
気が付くともう午後6時を回っていた。楊さんと交代で李さんが来てくれた。
僕らは仕事を切り上げて李さんと食事に出かけた。
今のところ、通訳と案内無しでまともな食事にありつけないということがもどかしかった。
李丹さんは餃子の美味しい店に案内してくれた。中国の餃子は水餃子と蒸し餃子が主で焼餃子は置いて無かった。
水餃子の皮は厚くぷりぷりしていてスープと一緒に食べるととても濃厚な味わいがあり、蒸し餃子は薄い
皮で中の海老の赤が白い皮に包まれてピンク色に輝いていた。日本のグルメリポーターに言わせれば
餃子とスープのIT革命や〜と白々しく言ってしまいそうな位だ。青島ビールに良く合っていた。李丹さんは
烏龍茶を飲んでいた。僕は李丹さんに「とても旨いよ案内してくれてありがとう」と言った。李丹さんは
下を向いて頬を赤くしていた。良く考えて見ると李丹さんは北京大学に通っていると言っていたがそれは
日本で言えば東大や京大みたいなものだ。人工比率から言えばそれを遥かに凌ぐ学生なんだと気付いた。
僕と李丹さんは満足して店を出た。勘定を払うと30元だった。日本の気の効いた店なら4千円は楽にするだろう。
店を出て借りたばかりのアパートに帰る途中で屋台が並んでいた。そこには色々な食材が焼いたり揚げたり
して通り過ぎていく人達の目や胃袋を満足させているのだ。僕はその有りとあらゆる食材の中から蠍とヤゴの
唐揚げを選び食べて見る事にした。蠍の唐揚げは無味無臭で振り掛けられた塩以外の味はしなかった。
ヤゴの唐揚げは泥臭くてとても食べれる代物じゃなかった。二つで40元だった。餃子の方が安くてとても旨い。
僕は少し後悔した。李丹さんはそんな僕をやれやれと言いたそうな顔で眺めて小さくため息をついた。
アパートに戻り李丹さんが帰った事を確認したあとシャワーを浴びて着替える事にした。アパートのそれは
湯沸器の完成度が極めて低く20秒毎に熱すぎたりほとんど水だったりした。あの男に指示された8時迄には北京迎賓館飯店に行かなければ
ならないので7時半には着替えを済ましタクシーを拾った。ホテルの前や空港のタクシーとは違って
20年前のトヨタ・スターレットに瓜二つな中国製の車だった。僕は車に関心は無かったが余りにも素敵
だったのでもう二度と乗らないように心に決めた。そして僕は北京迎賓館飯店に入っていった。
丘板でもIT革命や〜って言ってなかった?
僕は言ってません。パクリましたがOTL。
パクリかよ〜wと突っ込んでみましたw
インスパイアされたwと言い直す今日この頃。
僕がホテルの中に入っていくと、時間帯的にはロビーに人が沢山いても良さそうなのに、
何故か不思議なことにフロントにしか人がいなかった。
そしてフロントにいる人間は僕のことを一別して客ではないと理解しているみたいに、
誰も声を掛けてきたりする素振りも見せなかった。
僕は真っ直ぐその黄色い円柱に挟まれた白い壁の部屋に入ろうとしたが、夢で見たとおり、そこにはドアも入り口らしき痕跡さえも見あたらなかった。
僕は途方に暮れて時計を見るともう8時3分前だった。僕は焦り始めていた。
あの男は8時きっかりにこの部屋に入れと言ったのだ。しかし、僕はどうやって入ったらいいのか分からずに立ち尽くしていた。
しばらくして突然フロント中にゴーンゴーンという銅鑼の音のような大音声が響きわたり、何事かと思う間もなく壁の一部が音もなく大きく開いた。
円柱と円柱の間の白い壁が突然シャッターのようにするすると天井に吸い込まれ、みるみるうちに大きな入口が現れたのだ。
僕は時計を見て理解した。それは8時ちょうどに開くように出来ていたのだ。
中へ足を踏み入れるとそれを待ちかねたように白い壁が降りてきて、僕の背後で音もなく元通りに白い壁に戻った。
中はダンスホールの様になっていて、銅鑼が8回鳴り終えるとどこからともなく中国の宮廷音楽が流れ始めた。
入口の正面にはステージがあり、その中央に豪華な天蓋付きの煌びやかな装飾を施された椅子が置かれ、
そこには皇帝がつけるような冠を頂いた高齢の女性が座っていた。
しばらくすると音楽に合わせて沢山の踊り子が、ほとんど裸に近いほどエロティックな衣装で次々と出てきて、
宮廷音楽に合わせてしなやかに身体をくねらせ、あり得ない程のアクロバットを交えながら踊り始めた。
僕はその見事な踊りを見ている内にどうしようもなく堅く勃起し始めていた。
その美しい女性達の踊りはあまりにも艶めかしく、美しいというよりは明らかに妖艶としか言いようがなかった。
そして、極めて具体的な目的のためにそれは繰り広げられていた。
僕は気がおかしくなりそうだった。その音楽が僕の耳の中に忍び込んで明確な悪意を持って性的な狂気を呼び覚まそうとしていた。
踊り子の一人がくるくると踊りながら近づいてきて、僕の身体に手足を絡ませてきた。
僕はあらがうことなど出来なかった。されるがままなっていると、気がついたときには僕は全くの裸になっていた。
そして踊り子は入れ替わり立ち替わり僕の身体の周りにまとわりつき、淫らな表情で僕を誘惑した。
しかし、僕は次第にそれが極めて悪意に満ちた儀式であることに気がついた。僕は踊り子を見ることを意図的にやめ、意識の中から排除した。
僕が欲望に任せて踊り子の上に乗っては負けなのだ。それを自覚して僕は敵意を込めた目でステージ中央の老婆を睨んだ。
すると僕の勃起が萎えるとともに、音楽がフェイドアウトして、踊り子達が次々と舞台の袖に消えていった。
部屋には僕と、その老婆の二人きりになった。
僕は周囲に散らかった服をゆっくりと見せつけるように身につけた。
そして静かに老婆の傍へ近付いていった。
そして老婆の前に立った。老婆は僕の姿をゆっくりと確かめるように眺めそしてうなずくように目を閉じた。
僕は少しの間その老婆をみていた。やがて老婆は目を開き僕の体に触れない程度に両手をかざし
なにやら中国語で呪文のような何かを喋り始めた。残念ながら僕は中国語を全く理解していないため
それが一体、北京語なのか、広東語なのか又はそれらに属しない特殊な言語なのかは見当がつかなかった。
生憎通訳の楊さんも李丹さんもここには連れてきてないので中国語であるのかさえ僕には分からなかった。
僕はまさに彼の国に独りぼっちになっているような錯覚を憶えた。僕は老婆がしている行為にただ従うことしか
できないでいた。いったいどれくらいの時間が過ぎた頃だろう老婆は呪文を唱えるのをやめ
天蓋の付いた椅子に座り直した。僕を見る目付きが柔らかな目に変わり僕に話し掛けた。
「これで暫くは気分が悪くなったりしなくなるはずさね。しかしよう誘惑にまけなかったな。誉めておこう。
大抵の男はあそこで自我の欲望に敗け消えてしまう運命にあるのさ。目的を忘れ肉欲に溺れ消え去る。」
「あの、僕はあなたがおっしゃることがよく分からないのですが、僕は一体何をすればいいのでしょうか?」
と僕は尋ねた。 「ぬしの質問には答えられぬな。ただ一つだけ言っておこう。ぬしは毎日ここにくるのさ。そして
自我の欲望に勝ち続ければいいのさ。敗けたら消えるそれだけさね。ぬしの行動はすべて把握しておる。
ちくいちな。」と老婆は言った。先程の悪意の充ちた空気は、すでにきれいに折り畳まれこの空間の何処かに
しまい込まれている様に感じた。「それでは僕が日本で行った行為もご存じなのでしょうか!」
「この国に居るかぎりはちっぽけな日本での事は関係は無い。しかし日本では何か不都合なことでも
あったのかな?」と老婆は言った。そんなことは既に了解済みとでも言いたいみたいだった。愚問に貸す耳は
持たない様だった。僕は状況が未だ理解出来ずに立ち尽くしていた。 「今日は是くらいにしておこう巧く踊れるようになるまではまだまだ時間はかかるもんさ。」と老婆は言った。
「踊る?」と僕は繰り返した。先程の踊りと僕が踊ると言うことに一体どんな共通点もが在るのか見いだせずにいた。
「これを持っていくがいいさ。」そう言って、分厚いファイルを三冊僕に渡した。すべてのファイルには
丁寧に日本語で書かれた現地リサーチを含む資料が挟み込まれていた。
気が付くと老婆の姿は跡形もなく消え去っていた。天蓋の付いた椅子が行き場を失ったように置き去りにされて
いるように見えた。そして僕はそこに恭子を感じた。恭子の面影や声や匂いのようなものをだ。
僕は暫くそこに立ち恭子の伝えたがっていた言葉を読み取ろうと耳に神経を集中してみた。しかし今の僕には
何一つ感じ取る事は出来ないでいた。僕はひどく悲しい気分になった。僕は間違った事をしているのだろうか。
知らないうちにまた恭子を傷つけ続けているのではないのか。といった後悔にさいなまれていた。
「恭子」と僕は口に出して言ってみた。僕は白い壁にもたれ掛かると知らない間に
壁の向こう側に倒れこんでいた。何の抵抗もなく壁を透り抜けたみたいだった。僕は壁を改めて押してみたが
二度とその壁を透り抜ける事は出来なかった。カウンターには数組の宿泊客が受け付け係にチェックイン
の手続きをする姿が見えた。時計は八時半を少し回ったところだった。時間の流れがひどくゆっくりと
流れていたように感じた。僕は北京迎賓館飯店を出てアパートまで一人で歩いてみた。夜の空気は僕の
耳たぶを引きちぎろうとしているように感じた。僕はダウンジャケットの襟で耳を押さえながら歩き続けた。
道路は昼間のそれと比べ車の通行料が圧倒的に減っていた。おそらく視界の悪い夜には車を乗る習慣が
無いのだろうと思った。いくら中国人と言えども命は惜しいのだろう。
通行料→]
通行量→○
でした。
アパートに戻り、老婆のくれた分厚い資料に目を通そうとしたが、文字がまったく頭の中に入ってこなかった。
頭の中はまるで何年も日に当てられて干からびた石鹸みたいにカチカチに固まってしまっていた。
あまりに非現実的な出来事であるにもかかわらず、僕はそれらを夢であるとは思えなかった。
あの踊り子たちのつややかな肢体は白磁器のように白く触れた手足はあくまで柔らかく官能的だった。
それは現実でしかなかった。
僕は考えることをあきらめて、寝巻きに着替えてからベットに入り、恭子を思いながらマスターベーションをした。
さっき行き場を失った性欲が僕の中でモンスターのように暴れ始めた。
僕のイメージの中で、恭子はあの踊り子と同じ衣装を身に纏い、舌を真っ赤な唇から覗かせながら淫らに僕を誘った。
僕はそのイメージの中で、まるでハギレのように小さな衣装を全てびりびりと引きちぎり、乱暴に彼女を犯した。
何度も何度も激しく突き上げ、恭子の官能に乱れる表情を必死に読み取ろうとした。
恭子が締め上げられた鶏のように悲痛な喘ぎ声を上げた瞬間に僕は激しく射精した。
恭子の顔は絶頂を迎える喜びの表情に溢れていた。
僕は精液をふき取り、シャワーを浴びた。相変わらず温度の安定しないシャワーのせいで、現実に引き戻された気がした。
ドッと疲れが押し寄せて、僕は何も考えることが出来ずにベットに倒れるように眠った。
夢の中で老婆が「ぬしをいつでも見ているぞ」と言った。
翌朝オフィスに出勤すると、楊さんが出勤していて、昨日雇ったアルバイトと一緒に掃除をしていた。
僕は中国人は言われた事以外の仕事は絶対にしないし、退社時間の10分前には仕事を辞めてしまい、
退社時刻と同時に会社の門を出て行くと聞いていたので、かなりびっくりしてしまった。
「おはようございます。随分早いご出勤ですね」と僕が挨拶すると、アルバイトの朴さんは
「時間給だと聞いたので、沢山仕事をしようと思って」と素直に言った。彼も日本語を話せるのだ。
「ありがとうございます。でも決められた出社時間からしか払いませんよ。残業をお願いするときはその都度お願いします」
そう言うと朴さんは少し残念そうな表情をした。彼もまた、お金を稼ぐために必死なのだ。
僕はデスクに座って、昨日老婆からもらったファイルを広げた。
そこにはこれから僕らが必死になって作り上げなくてはならないはずのすべてのリサーチの結果が見事なグラフ付で完成されていた。
後は必要な箇所だけデジタル化してプレゼンテーションの準備をすればいいだけだった。
しかし、そのリサーチの結果がすべて正確なのかは分からなかった。
確かめるためにはほとんど同じだけの調査を繰り返さなくてはならない。
でもおそらくそれは杞憂というものだろうという気がした。
なんとなく、あの老婆が酔狂でこんなものを用意するとは思えなかったし、おそらくあの電話の男がすべて手配したものだろう。
そしてこれも僕を北京に出張させるためだけの大義名分でしかないのかもしれない。
それはすべて周到に準備がなされ、僕がここで何をしようが会社でさえ、関与しないということなのかもしれない。
会社はあの男たちとどういう関係があるんだろう?僕にしてみれば日本企業がなんの関係もない中国人の訳の分からない組織のために、
大金を投資して社員を出張させるとは到底思えなかった。
何らかの弱みでも握られているのだろうか?
そうかもしれないな。と僕は思った。企業には決して社外に知られたくはない秘密の一つや二つあるだろう。
そして情報とはこの世界にあっては最も強力なパワーなのだ。
情報を持つものが世界を動かしてゆく権力を実質的に握るのだ。
そして僕が今関わっているあの電話の男や老婆は、確実に情報を持つ者たちだった。
彼らは僕が誰と寝るかとか、どんな仕事をしているのかなどすべてお見通しだった。
そして彼らは決して必要以上の情報を僕に与えたりはしなかった。
それは情報によって権力を握る者達の基本的な姿勢だった。
情報をちらつかせる。でも決して簡単には与えない。情報のすべてはビジネスの代価として利用する。
僕はそのようにして彼らの手に落ち、北京であの訳の分からない儀式の生け贄にされているのだ。
僕はこのファイルをどうするべきか悩んだ。
このままそっくり焼いてしまった方が楽になれるかもしれない。
僕が正気を保っていられたのは仕事があるという動機付けだけだった。
それすらも奪われた今、僕はもうただの皮を剥がれた生け贄のウサギと一緒だった。
仕事をやり終え、恭子を取り戻して日本に帰るという安易な絵を描いてきた僕は、
まるでなんの準備もなく武器も持たずに戦場のデッドラインに佇む気の利かない特攻隊員そのものだった。
僕は楊さんに昨日の市場調査の準備の続きをして貰うように伝えた。勿論朴さんにその作業のやり方や具体的な主旨を
説明する事もだ。楊さんは思っていたよりも有能であり、僕の言わんとする事をすぐに理解し行動に移してくれた。
それに実に丁寧に朴さんに指導してくれていた。当たり前の事だが朴さんとは北京語で話しているので
僕にはどんな話をしているのか理解出来なかったが、真剣な表情と仕草を見る限りは僕の目にはそう映った。
僕は机の上に置いた分厚いファイルに目をやりその扱いについて考えていた時に電話のベルが鳴った。あの男からだ。
「もしもし。こんにちわ坂本さん。いかがですか?お仕事の方は順調に進んでいますか?」
男はいつもの表情の無い氷のようなのっぺりとした声で僕に話し掛けた。
「そうですね。順調と云えば順調ですね。有能な通訳とアルバイトの人達のおかげでね。」
「そうですか。それは良かった。それなら昨日お渡ししたファイルがあれば一週間も掛からずに調査は
全て終了しますね。とても良かった。お渡ししておいてね。勿論あのファイルの資料は全て本物です。
何しろその為に市場調査のプロとデータ作成のプロが六人のチームを作って三ヶ月も掛けて作った物ですから。」
「やはりそうですか。そんな事じゃないかと思ってましたよ。やはりあなたが用意したものなのですね。」
「そうです。私が準備してそれをあの御方に坂本さんに渡してもらったのです。あの御方が坂本さんを認め
なければそれも出来なかったのですがね。それに坂本さんは巧くやってくれていますよ。その調子で頑張って下さい。
あとあのファイルを処分しようなんて事はくれぐれも思わないで下さいよ。」と男は言って電話が切れた。
僕は受話器を置きしばらく窓の外を眺めた。窓から見える赤煉瓦で出来た平屋の古い集合住宅の周りでは
人々の引っ越しやら住宅の撤去作業をしていた。来たるべきオリンピックの為に全て撤去されるようで
それによって出来る広大な土地は全て新しい立派なホテルやらオリンピックの施設の為に提供されるらしい。
共産圏に於いてはそれは国民が飢えて亡くなる事より重要な事であるのだ。見栄えの悪い古い中国は全て
破棄されるべきなのだ。それが北京の中心にあることは許されるべき事では無いように感じた。
そんな北京が抱える問題を見つめながらあのファイルを活用するべきか考えていた。あの男の言うとおりならば
少なくともそこに集められた情報は僕が作ることが出来るそれよりもはるかにデータサンプルもそれ相当の
人数より抽出しているだろうしそれにより僕の働く会社に有利な報告できるのは間違いは無い。
しかし今の僕にはそれを判断することは出来なかった。余りにも混乱しているのだ。
僕は無性にタバコが吸いたくなった。しかし5年前からの禁煙は今のところ成功しているし、第一僕は
通訳無しにはタバコ一本買うことさえ出来ないのだ。それにその通訳の楊さんにタバコを買いに行って
貰う訳にはいかないのだ。彼はそんな小間使いをするためにいるわけではないのだ。
不思議なことに時計は10時を過ぎていた。随分早く時間が流れていた。昨日の夜といい今といいまるで
時間軸がブレているような気がした。
随分ぼんやりとしているように見えたのか、楊さんが心配そうに声をかけてきた。
「坂本さん、顔色悪いです。なにか心配な事あるんですか?」
「いいえ、すみません。ぼんやりしてしまって」
その時楊さんがファイルの存在に気付いた。「これ、もう出来ているんですか?」
「ああ、話せば長くなるんだ。でもなんて話せばいいのかわからない。
とにかく僕らの仕事はどうやらもうすでに終わってしまったようなんだ」
楊さんはまったく理解が出来ない様子できょとんと僕を見た。
「でも、この資料を作るために来たのに、こんなものがあるなら会社はなぜ坂本さんを北京へ来させたのですか?」
「さあね。僕にだってわからないよ。ただ、僕の本当の仕事はここで会社のために市場調査をすることでは無いらしいな」
楊さんは随分長く考え込んでいた。おそらく自分の仕事がここで打ち切りになることを心配しているのだろう。
彼もまた家族を養うためにお金を必要として僕に着いてきているのだ。
僕は楊さんにある程度の事情を説明した方がよいと思い、朴さんがいる事務所を出て、外の飲茶店で話をすることにした。
小さな店内には質素な木で出来たテーブルと椅子が並べられ、おじいさんが一人で包子を蒸していた。
僕らは出されたお茶を飲みながら一息ついた。すぐ近所では区画整備の取り壊しが行われていた。
「実は、このデータは会社が作った物ではないんだ。誰って言うのは上手く説明できないけど、ある人からもらったんだよ」
僕がそういうと楊さんはよく分からないと言う顔で聞き返した。
「でもただでそんなことしてくれる人はいない。坂本さんはだまされているんじゃないですか?」
「そうかもしれない。でもたぶんこのデータの中身に関してはおそらく信頼できると思う。
もちろん、この中の2〜3項目をランダムに選んで信憑性を確認することは必要だと思うけど、
おそらく間違いはないと思うんだ。理由は言えないけど」
「それでは、もう、私はクビなんですね?」と楊さんが心配そうに言った。
「まあ、そう簡単には行かないんだ。会社はこのデータがあることをおそらく知らないと思う。
そこへ会社にこの資料を2〜3日で僕が持ち帰っても絶対信じてもらえないし、僕らが作ったことにしなくてはならないから、
どのみち帰れないんだ。仕事は確かに無くなった。でも僕らは日本に帰れない。
それに僕は一人で北京に長期滞在するなんて無理だから、楊さんにもいてもらわなくては困るんだ。
アルバイトの朴さんには悪いけど、出来上がった資料のデータをパソコンに入力してもらう作業とか、
ピックアップしたいくつかのデータの正確さを確認する仕事やってもらうことになると思う。
それで、楊さんには僕の個人的な仕事を手伝って欲しいんだ。もちろん、会社が払う通訳料とは別で個人的にバイト代を出します。
そうして最低でも当初の予定の3週間はここにいられると思う。
今話したことはすべて会社には絶対に秘密にしていて欲しい。約束してくれますね?」
「分かりました。坂本さんの言うとおりにします。会社からのバイト代もちゃんと貰えますよね?」
「もちろん、僕らが仕事もしないでここにいることがばれたら貰えなくなると思うよ。
だから、絶対に会社には内緒ですからね」
「ええ、絶対に話しません。このデータは僕らが作った。これでいいんですね?」
僕は楊さんを味方にして、反撃を開始しようと決意した。相手が情報を逆手に僕を利用するならすればいい。
こっちも同じように情報を手に入れて利用してやればいいのだ。
「そうです。そして、楊さんにはこれからある場所に張り込んでいろんな事を調べて欲しい」
「何をすればいいんですか?」
「まず北京迎賓館飯店に関するあらゆる情報を調べて欲しいのです」
「はい。分かりました。北京迎賓館飯店の事調べます。私に任せて下さい。」と楊さんが言った。
「それじゃ僕はこれから市場調査以外の事に掛かりっきりになるかもしれないけど朴さんにはあのファイルを
うまく整理して貰う様に頼んでくれないかな?僕が直接いうより楊さんが話た方がうまく伝わると思うんだ。」
「分かりました。そうします。」楊さんはそう言って朴さんの所へ行って僕に言われたことを話始めた。
僕は二人の中国人に僕の置かれた状況を話さない方が良いと思ったしそうすべきでは無いと感じていた。
「さて」と、僕は声に出して言ってみたが僕に今出来る事が一体何なのか思いつかなかった。
まだ昼食には早過ぎるし資料の中身を確認するには時間が無さ過ぎた。そんな僕に気を使ったのだろうか
「坂本さん。どうですか?昼食を兼ねてどこか観光してみますか?仕事大丈夫。時間ある。少し疲れている
坂本さん。一日位北京歩いても悪い事じゃない。それに市場調査してるのに、北京の事知らないはおかしいよ。」
「そうだね。少し歩いてみるのも悪くないな。」と僕は言った。
「それじゃ天安門広場、それに故宮(禁紫城)行くといいよ。両方とも北京迎賓館飯店の近くです。」
「それじゃ任せるよ。でもここに誰も居なくなるのはマズイな会社から連絡があった時に。」
「心配いらない。中国は携帯電話発達してるし。有名な所は電波どこでも大丈夫です。この広い国電話線
引くよりアンテナ建てた方がコストが安いから今中国の電話は皆携帯です。」そういって携帯電話を取り出した。
僕は会社に緊急時の連絡用として使う楊さんの携帯番号をメールで送った。僕は中国で携帯電話が使えるなんて
今まで知らなかったしましてやそれが中国全地域で利用できるなんて思わなかった。更に良く聞くとその携帯電話は
何の手続きもしないで世界各国で利用できるらしかった。逆に日本の携帯エリアのほうが極限られた
地域でしか利用できないのだ。僕はその事を聞きひどく驚いた。僕の携帯電話は成田を出た時からずっと圏外だ。
楊さんはタクシーを呼びレンタルオフィスから天安門広場に行くように運転手に伝えた。黒塗りのアウディーだ。
車はオフィスから路地を抜け大きな通りを二つ過ぎた辺りから進路を替え大きな通りを走った。しばらくすると
右手に北京迎賓館飯店を眺めながらそのまま10分程走ると左手に天安門広場があった。その広場の上空には
鷹が飛んでいた。まるで不思議な円を描くようにしていた。その軌道にはまるで何かの法則性が隠されているみたいだった。
車から降り天安門広場に立つとその広さは終わりの無い中国の大地を想像させた。そこには何か特別な何かを
感じない訳にはいかないのだ。所々に立つ警察だか軍隊だか分からない制服を着た警備の人の顔には一切の
表情は無いように思えたし中国や外国から来ているお上りさんは皆一様にその間を楽しそうに歩いていた。
僕はその光景を目にして眠れるアジアの大国が間もなくその力を発揮して行く何かを感じていた。空の鷹を
もう一度眺めるとそれは鷹ではなく鷹を形取った凧であることに気付いた。そういえば北京で動物はおろか
鳥に至まで一度たりとも目にしていない事を思い出した。この街を埋め尽くす数え切れない人間以外にはだ。
そして僕達は昼食をとり故宮を観光した。ラストエンペラーの舞台になった場所だった。様々な国の人達の
中で僕は今中国を感じずにはいられなかった。僕はこの国に来たことが僕に何を意味するのか知りたく
なっていた。恭子は何故僕を北京に来させなければいけなかったのかと云う事をだ。
楊さんがもう戻りましょうと言った。僕は何も返事が出来ないでいた。
「坂本さん?大丈夫ですか」と楊さんが心配そうに言った。
僕はやっと我に返って楊さんの顔を見た。まるで幽霊でも見ているような頼りなさげな顔をしていた。
「大丈夫です。僕は大丈夫。あんまりにも壮大な景色に心を奪われていたんです」
僕がそういうと、楊さんは少しホッとしたような笑顔を浮かべた。
「坂本さんには何か大きな悩みがあるんですね?」と楊さんが聞いた。
僕らの間を遙か黄河の果てから流れる風が通り抜けた。
「そうですね。僕にはどうしてもやらなければならない事があります。
それはおそらく楊さんのお力を頂かなくては出来ない事です。
でも僕の今置かれた状況を詳しく説明する事が出来ません。
それをどうか理解して下さいませんか?」
「わかりました。坂本さんがどうしてもやらなくてはならないと言うならきとそうなんでしょう。
私は大丈夫。口は堅いです。それに別に詳しいこと知らなくてもお役に立てると思う」
「ありがとう。今日は僕にとってはある意味合いにおいて生まれ変わった日でもある。
僕は今まで何もかも受け身で生きてきました。成り行きに任せて生きてきたと言ってもいい。
でも僕は今日、決断したんです。
本当に手に入れたいと思う物は、絶対に何を差し置いても自らの力で奪い取らなくてはならない。
そしてそれを出来る時にしなかったら、それは絶対に二度と手に入らないかもしれない。
だから、僕は自らの手と足で行動しようと思う。決して退いたりしないって、決めたんです」
楊さんは僕の身勝手な決意表明を静かに受け止めてくれた。
「そうですよ。坂本さんには坂本さんにしか出来ない事沢山ある。
それに受け身だけでも真面目に生きてこられた事は決して今までの人生も無駄じゃない。
きっと坂本さんが手に入れたいものは手に入ります。そう決めた時に、もうすでに半分は手に入っているようなものです」
僕は楊さんが一生懸命励ましてくれていることが本当に嬉しかった。
僕が今まで本当に出逢いたかった友人は楊さんなのかもしれないなと思った。
「ありがとう楊さん。これからどうかよろしくお願いしますね」
僕と楊さんは堅く握手を交わし、天安門広場を後にした。
上空には相変わらず鷹をを象った凧が8の字を描くように舞っていた。
僕と楊さんがレンタルオフィスに戻ると李丹さんが朴さんのパソコンに入力していないファイルを読んでいた。
「お帰りなさい。市場調査に行きましたですか?」柔かな笑顔で僕と楊さんに微笑んでくれた。
「ちょっと社会科見学に行ってたんだ。これからの僕の生き方を探すためにね。」と僕は言った。
「社会科見学?何ですか?よくわからない。どんな意味?」と李丹さんは首を傾けた。なかなかチャーミングな仕草だ。
「なんでもない。ほんの冗談だよ。今日の仕事はもうお仕舞いにしよう。まだ少し早いけれどね。
朴さん李丹さんお疲れさま。」と僕が言うと複雑な表情で僕を見た。李丹さんも僕を見つめた。おそらく
今日のバイト代を気にしていたのだと思った。僕はその事は気にしなくて良いと伝えた。
二人が帰ったのを確認した後僕は楊さんに北京迎賓館飯店に行ってもらうように頼んだ。食事をとってからで
良いし七時頃迄に行ってもらうようにしてくれれば良いと伝えた。僕は取り敢えず目に付いた日本食レストランに
一人で入って行った。中華料理に飽きてきたし一人で食事をとりたかったからだ。「江戸川」と書いてあった。
メニューを見たときにひどく後悔したが、店をでて別の所に替えるのが面倒だったので、みそラーメンを
頼んだ。しかし出てきたのはかなりおぞましい物だった。まさか味噌汁の中に中華麺が入っていることなんて
無いだろうと脳裏に浮かんだがいくら何でもそんな事はないだろうと思ったが、その通りだった。
しっかりとかつを節で出汁が取ってありワカメと豆腐まで入っていた。更にスイート・コーンがトッピング
されているのを見たときテーブルごと引っ繰り返して店を出て行こうと思ったがチャイニーズマフィアが
出てくると困るので二口程口を付けて店を出て行く事にした。僕はその斬新さに少し敬服することすら憶えたのだ。
僕はアパートに帰りシャワーを浴び髭を剃った。そして清潔な服に着替え北京迎賓館飯店に向かった。
オフィスの出口を出てすぐに、北京迎賓館飯店に行っていた楊さんにちょうどばったりと出くわした。
「お帰りなさい。どうでしたか?何か不審なこととかありましたか?」と僕は聞いた。
すると楊さんは僕の顔をのぞき込みながらひどく真剣な表情で言った。
「坂本さん、あなたは一体どんな面倒に巻き込まれているんですか?」
僕はなんのことか訳が分からずに「なんの事ですか?」と聞き返した。
楊さんは横に首を振りながら、まるで自分が見てきたことを信じたくない人がするみたいに後ずさりした。
「教えて下さい。一体何があったんですか?」僕はたたみ掛けた。
「坂本さんにはこれ以上協力は出来ない。申し訳ないけど。悪く思わないでほしい」
そう言い放つと楊さんは逃げ出すように走り出して行ってしまった。
僕は何が起こったのか分からなかったがそれを楊さんに確かめている時間がなかった。
僕は通りまで出て、カーチェイスを繰り広げるタクシーをなんとか一台拾った。
例によって早く移動すればするほど高く料金を請求できるとでも勘違いしているとしか思えない荒っぽい運転の車内で、
僕は楊さんに降りかかった災厄が一体どんなものだったのかを想像した。
おそらくあの電話の男達が脅しでも掛けたのだろう。僕には味方など持たせないつもりなのだ。
それにしても一体どうして僕の行動のすべてが奴らに筒抜けなのだろう?
それはまるで透明な人間が四六時中僕の背後にピッタリとくっついて僕を監視しているみたいなのだ。
本当にそうかもしれないなと僕は思った。もし万が一そうだとしても、もう僕は驚かない。
ここは中国なのだ。6000年の歴史に裏打ちされた得体の知れない呪術やら魔法なんてものがあっても不思議ではない気さえした。
タクシーが北京迎賓館飯店の前に着いた。8時5分前だった。
僕は急いで料金を払い、駆け足でロビーの中の白い壁の部屋の前に立った。
間もなく銅鑼の音が鳴り響き、壁が音もなく開き、僕は中に入った。
ところがそこは昨日とはまったく違った感じの部屋になっていた。
昨夜のそこはまるで桃源郷を連想させる煌びやかな色の光やら宮廷音楽が流れ狂喜とも呼べる美女達の
官能的な空間であったのだが暗転したあとの舞台の様に空気がやけに埃っぽく微かな香の匂いが漂う
薄暗い広いだけの部屋に変わっていた。唯一天蓋付きの椅子があり昨夜と同じ衣裳を身に纏った老婆がそこに
いたおかげで間違った空間に迷い込んでいない事を辛うじて認識することは出来た。老婆は僕をゆっくりと
眺め昨日と同じように頷くように目を閉じた。僕はそれが初めから決められている作法に従うように老婆の
前に歩いて行きそして立ち止まった。老婆は僕をその場に座るようにうながした気がしたのでそこに座り込んだ。
床は御影のような石で座ると体中の体温を一瞬で奪い取られる程冷たく僕の運動機能や思考能力さえも奪っていった。
それまで一言も声を発していなかった老婆は昨日と同じように不思議な呪文の様な言葉を唱え続けていた。
僕はこの行為に一体どんな意味があるのか理解出来ずにいたが今はそんな事を考えずに従う以外には僕が
ここから抜け出る術が無かった。それはまるで枯れ井戸の底で外された梯子を待つような絶望感に似た気分だった。
僕は御影石に奪われた思考能力をなぞるように暗闇の中の微かな光を探した。
その暗闇の中で何かが弾ける音が見えた。音が見えるというのは不適切な表現だが視覚と聴覚の神経が
何処かで入れ替わってしまってでもいるようだった。ここでは風景や色は鼓膜を震わせ音や声は目に映るのだ。
その弾けた色が僕の心を震わせ、懐かしい夢となって僕の胸を切ない位締め付けていった。
僕がそんな状態から覚醒すると既に其処から老婆の姿は消えていた。僕はふらつく足取りで白い壁に
もたれ掛かるとロビーの前に座り込んでいた。僕は激しい疲労感に襲われてしばらくそこから動く事ができなかった。
随分長い時間そこにいたような気がしたのだが、やはり時計を見てみると、8時半を少し回ったくらいだった。
僕が老婆の前で感じたものは紛れもなく僕の心の一番奥に大切にしまい込まれていてもう見ることも無くなっていた大切な感情だった。
僕はどうしてこんなに大切なものを忘れて生きてきたんだろう。それを老婆が何かの呪文によって曳き出したのだろうか?
僕はやっとの事で立ち上がり、手のひらでその白い壁を撫でた。ゆっくりと壁を撫でていくと、まるで壁は生きて呼吸をしているかのように反応を示した。
壁は脈を持ち、鼓動を打ち、呼吸していた。この部屋は生きているのだ。
僕はこの部屋に恭子を感じた。彼女の中に入っている時に感じる彼女の脈とそれは同じリズムであるような気がした。
この壁に、あるいはこの部屋そのものに彼女が含まれているのではないかという疑いが僕を支配した。
そんなことが実際にあり得るはずは無かったが、それでも僕にはどんなことだってあり得るということが分かっていた。
僕はふと思いついてこのホテルに泊まることにした。
フロントに行き、英語で一泊を申し込むと、あっさりと部屋の鍵を渡された。
あまりに簡単だったので驚いたが、中国の習慣なのか一泊料金の全額を前金で請求された。
僕はカードで支払いを申し込むと、フロント係は笑顔で手続きをしてくれた。
僕は今までどうしてこのホテルに泊まろうとしなかったのかと、我ながら呆れかえってしまった。
なんの荷物も無かったが、部屋に着くとガウンもあったし、洗顔用具やタオルも用意されていたので実際には何もいらなかった。
僕は久々にきちんとした温度を保ったシャワーを浴びてきちんとしたシャンプーで頭を洗った。
湯上がりに冷蔵庫の中にあったHeinekenを飲んだ。どうして中国にHeinekenが置いてあるのか分からなかったが、
それは青島ビールにそろそろ辟易し始めていた僕にとってはありがたい選択肢だった。
僕は服に着替えてから少しホテル内を散策した。このホテルは北京が誇る最高級のホテルなのだ。
それにもかかわらず、初めて来たときから感じていた得体の知れない不吉な匂いは決して隠せなかった。
このホテルには、ホテルとしてでは無い何か特別な目的が存在し、そしてそれ故にホテルとしての機能を維持されているといった、
いわば共依存的な陰陽を併せ持っていた。
僕はその陰の部分に恭子の存在を感じていた。恭子がこのホテルを通して僕を呼んでいるのだ。
ホテルの客室はほとんどなんの変哲も無い長い廊下に規則正しい部屋番号が並んでいるだけだった。
僕は一番上の階にあるラウンジに入った。
北京市内が一望出来る最高級のロケーションに人間が座って最も心地よく計算された完璧なソファが並べられていた。
僕はバーボンのロックを頼み、深くソファに腰掛けた。
すると一人の若い男性が規則的な足音を響かせて僕の傍へ歩いてきた。
僕はその若い男があの電話の男である事に揺るがない確信を持った。
そして彼は僕の前に断りもなく腰掛け、「ようやくここまで来ましたね」と笑顔で言った。
男は僕が今まで見たことのあるどのような種類の人間にも見えなかった。
強いて言えば映画俳優に見えた。とらえどころのない表情は、役を持たない時の素顔に自信のない俳優のそれにそっくりだった。
そして男は僕の目から見てもとても美しい顔立ちだった。ミケランジェロの彫刻のモデルみたいだ。
そして身につけている服装は最高級の素材で作られたオートクチュールであることは明らかだった。
既製品ではここまで完璧に個人のすべての身体的な特徴をカバーできない。
そして男は黄金比をすべて用いて作られたかのような完璧なスタイルの持ち主だった。
「ええ、なんでこんな事に気がつかなかったんでしょうね」と僕は言った。
「あなたは私たちの予想を遙かに上回って優秀でした。早いほうですよ」
「そうでしょうか。まるであなた方の手のひらに載せられた猿回しの猿みたいですよ」
「ははは。そうかもしれない。でももしそうだったとしても、あなたは最高に優秀な猿です」
僕は猿と言われても彼に対して不思議と腹が立たなかった。それは彼にとってはユーモアなのだ。
「僕はあなたの言うとおりにしてきました。あの老婆が誰であろうと僕にはどうでもいいのです。
とにかく当初の約束通り、恭子の居場所を教えてほしいのです」
「それはもうあなたにも分かっていることではないですか?」と男が窓に目を向けて言った。
「このホテルの中にいるんですね?」
「そうです。あなたが感じたことが、おそらく私たちが口で説明する言葉より遙かに真実に近い」
僕はどうすればいいのか分からなかった。このホテルに一体何が住み着き、そして何が恭子を取り込んでしまったのだろう。
「それじゃ恭子に逢わせて下さい。今すぐに。」と僕は男に言った。
「まあ、落ち着いて下さい。お酒でも飲んでね。」と男が言うと同時にウエイターがバーボンの水割りを
丁寧にテーブルに置いた。とてもスマートでタイミングさえも合っていた。さすが北京を代表するホテルの
最上階のラウンジだ。僕は北京に来てこれほどのサービスを受けたのは初めてだ。もちろん皮肉だけれど。
「それに前にも言った筈ですよ。どれくらい掛かるか分からないと。お忘れですか?」男の唇が少し歪んだ。
「そういえばそんな事言ってましたね。忘れてましたね。」僕はバーボンを少し啜ってコースターの上に戻した。
「いいですか?前にも言った様に私は貴方の敵では無いのです。勘違いされては困ります。私は貴方を
おとしめるつもりは無いのです。貴方が恭子さんに逢いたいのなら、協力をして欲しいと言っているのです。
貴方にはやらなければならない事柄がまだあるのですよ。」と男は言った。相変わらず無表情な話し方だった。
「よく分かりませんね。まだ僕がやらなければならない事って一体何なのですか?」
「いずれ分かりますよ。敢えて今お伝えする必要はありませんので。それからここのロビーのあの部屋には
まだ通って下さいよ。忘れずにね。その為にあのファイルを貴方に渡したのですからね。私の好意です。」
と言って立ち上がり一度も後ろを振り返らずにラウンジの入り口から消えて行った。男はいつも僕の所に突然現れ唐突に消えていくのだ。
ラウンジの中は男が初めから存在していなかったように人々の話し声や氷がグラスで溶ける音を柔らかな協奏曲がつつんでいた。
僕はバーボンを舐めながらカシューナッツを口に運んだ。男が置いて行った謎掛けを噛み砕くように。
################################################「ねえ、楊さん。私よく分からないの。」と李丹は言った。
「よく分からないって坂本さんの事かな?」
「そう。だって私通訳のアルバイトって云う事で毎日あの人の所に行く事になってるわけでしょう?
確かに通訳はしたけどそれって結局夕食をご馳走になる時にメニュー読んだりどんな食物か説明するだけ。
しかも今日なんて行ってすぐ帰されちゃったでしょう?これじゃ私日本語の勉強になんかならないわよ。」
「まあまだ一日二日でそんなに怒るなって。きっと坂本さんもまだ何を頼んでいいか分かって無いだけだと思うよ
俺だってまだそれ程通訳って云う通訳なんてそんなにしてないしさ。それにバイト代だって悪くないだろう?」
「まあそれはそうだけどね。でも時間が勿体ないきがするのよ。」
「リターンは勉強熱心だね。いつも。でもさそのバイト代で新しい日本語の本だって買えるよ。
例えばリターンが欲しがっている村上春樹の本とかスターバックスのコーヒーだってのめるよ。」
「わかったわ。もうそんな事言うのやめるわ。でもスターバックスって何?」
「知らなくてもいいことだ。」
「それじゃお疲れさま。楊さん。」
「お疲れリターン。明日また出ておいでよ。あきらめずにな。」
「わかったわ。それじゃ包子ご馳走様。」
################################################
時間が音も無く流れていった。
北京の夜景を見ると聳え立つ高層ビルの間に広い道路が碁盤の目のように敷いてあることに気が付いた。
それはおそらく中国が一つの王国であった当時からこのような形をしていたに違いなかった。
中国という国が持つ歴史はその殆ど全てが伝説だか説話だか推測だか物語の類で埋め尽くされているような気がした。
この国が一つの時系列に並べられた歴史観を共通認識として持ち合わせるのは無謀な試みのように感じられた。
この国はあまりに広すぎたし、あまりに人が多すぎるのだ。
それは個々の歴史家が目隠しをしたまま、巨大な像をおもむろに触って各部においての感想を述べただけに過ぎないのだ。
そしてそのように作られた歴史とはなんの関わりも持たずに、12億の民はこの大地に生きていた。
目の前に広がる中国には人智を遥かに凌ぐ謎が横たわり、僕のほんの小さな希望を遮っていた。
僕は部屋に戻り、備え付けられたバーでスコッチを飲んだ。
特に何もすることが無かったので無性に活字が読みたくなったが、手ぶらで来てしまったので読めるものが何も無かった。
諦めてベッドに入り、部屋の電気を消した。すると「電気を消さないで」と誰かが言った。
こ の 部 屋 に 誰 か が い る の だ。
僕は慎重に体を起こし、部屋の電気を点けた。ベットの周りにもバスルームにも人の気配は無かった。
空耳かとも思ったが、どうしてもそうは思えなかった。
その声は空気を震わせて届いた音では無い様にも思えた。
直接頭の中に響いてきたのだ。
僕はしばらくベットに腰掛けてその誰かを待つことにした。
僕は冷蔵庫からグリーンの缶ビールを取出しそれを飲んだ。部屋の中の空気は乾燥したエアーコンディショナー
のかすかな空気の流れる音だけが完全な沈黙と闘っていた。それはまるで巨大な空母に近付く潜水艦の
スクリューが発する音の様に聞こえた。僕はそのささやかな静けさの中を目を凝らし耳を澄ませて誰かの
気配を感じ取ろうとした。しかしそれはおそらく見当違いな行為だったのだろう。そこに潜む何ものかが持つ
完全な沈黙に僕は余りにも無力過ぎた。そして襲ってくる幾度目かの眠りの脅迫に屈して意識が消えていた。
「………を‥‥して・・・」
かすかに伝わる声はエアーコンディショナーのスクリューにかき消されていた。
激しい喉の渇きで目が覚めると両目の奥がひどく痛んだ。昨日の音が思いの外大きかったのかもしれない。
僕は冷蔵庫からミネラルウオーターを取出し一気にのんだ。口から溢れた水が灰色のシャツを黒く染め
床の絨毯の色を濃くした。窓の外を眺め視線を遠くに移すと幾分痛みは和らいだが痛みは鉛のように沈み込んだままだ。
あまり食欲は無かったが朝食用のチケットを貰っていたのを思い出したので地下のレストランに行く事にした。
中国と云う事もあり余り期待していなかったのだがバイキングのそれは悪くは無かった。
例えば日航ホテルのそれと比較するとすれば日航ホテルが地方のビジネスホテルに感じる程だ。
僕は久しぶりのまともな朝食に満足しレンタルオフィスに歩いて向かった。相変わらず天気は良かったので
比較的長い距離もそれほど苦痛ではなかった。オフィスに着くと楊さんが気まずそうな顔で僕を見ていた。
「おはようございます。楊さん」と僕は何事も無かったように挨拶をした。
「おはようございます。昨日はすみませんでした」と楊さんはうなだれて呟いた。
「いいえ。大丈夫です。私も無理な事を言いました。ただ、あの日何があったのかは、
話していただきたいのです。一体何があったんですか?」
楊さんはデスクの角に腰を預けて窓の外を見た。でも実際に彼に見えているものは、
おそらくその変わりつつある街の風景ではなかった。
「昨日言われたように北京迎賓館飯店に行きました。そこには知り合いが勤めているのです。
始めにあそこへ寄ったのも、彼に会うためでした。
昨日も彼に会いに行きました。その友人に何か話が聞けると思ったのです。
でも彼に忠告されました。とにかく何も話してはならないと言われました。
坂本さんが何を知りたいのかもわかりませんが、とにかくあのホテルのことについてこれ以上調べたりしないほうが身のためだと思います」
「わかりました。私も昨日あのホテルについてはあまり深く関わらないほうがいいと思いました。
特に楊さんに何かしてもらおうなどとはもう考えません。
このまま仕事については続けていただけるのですね?」
「はい、私もこの仕事をさせてもらわないと生活が苦しいもので、坂本さんに関わるなと言われましたが、
契約は会社とのものですから、続けさせていただきます。」
「わかりました。私の個人的な仕事に関しては自分で何とかできます。
何を調べたらいいのかさえ、私にもよくわかっていなかったのです。
それなのに楊さんを巻き込んでしまって申し訳ない。ただ、誰かに頼りたかったのかもしれません。
でも一人で何とかなりそうです。ご心配をおかけしました」
僕がそう言うと楊さんはやっと笑顔を見せた。
彼が戻ってきてくれて僕は嬉しかった。それでなくても異国の地で日本語を話せるだけでもありがたい事なのだ。
しばらくすると朴さんが出社してきた。楊さんは朴さんになにやら二言三言会話を交わした後机の上のパソコンの
前に座りブラインドタッチでファイルに書かれた資料を熱心に書き込んでいた。僕はそんな二人を眺めながら
昨夜の北京迎賓館飯店で起こった出来事を整理した。あの白い壁の部屋のことやラウンジに現れた男のことや
ホテルの部屋で聞いた誰かの声の事だった。それはまるで何の関連性も無いことの様にも感じるが、
どこかに何らかの繋がりが隠されている様な気がした。つまり恭子だ。あのホテルには常に恭子の気配が
暗渠の長い影となりどこまでも引きずっているのだ。客室で聞いたあの声が恭子の声とは似ても似つかぬ
様にも感じたが、おそらくいや間違いなく恭子の声だろうと感じた。僕はあの老婆とのやりとりのおかげで
体のバランスが替わり恭子の気配を敏感に感じる事が出来る様になっているのだと思った。だとすればあの男は
僕にとっては決して悪いものでも無いような気がしていた。しかしあののっぺりとした無表情な話し方が
僕に好意を感じられる事は無かったし何事にもその場で最低限の必要な事柄以外は語らない事が信頼性を
欠いているのだ。それにまだ僕にはやらなければならないことがあると言っていた。僕はその事について
深く考えなければならないのだ。いずれその時が来れば分かる事ではあるがその言葉に僕は何か引っ掛かっる物を感じた。
今まであの男の指示は全て夜に起こっているのだ。ともすれば次の指示は必ず昼間のうちにしなければならない
何かなのだろうと思った。僕はそんな事を考えていると電話が鳴り響いた。しかしその音には悪意といった
ものは感じられなかった。電話にでるとそれは李丹からだった。
僕が電話に出ると、李丹はしばらくなんだか言い出しにくそうにあの、そのと口ごもった。
「どうしたの?何かあった?」と僕が聞くと、「はい、仕事のことで相談があります」と李丹は言った。
「わかりました。どこかで待ち合わせましょうか?」
「はい、実はもう事務所の下にいます。でも楊さんたちに聞かれたくないです」
「いいでしょう。私が今下に行きますから、そこで待って下さい」
僕は楊さんに出かけてくると言った。楊さんは当然のように僕について行こうとしたので、
「通訳は今必要の無い所ですから、ここで待っていてください」とごまかした。
レンタルオフィスのあるビルのエントランスロビーで李丹は待っていた。
安物の薄いコートを羽織って明らかに手編みとわかるナイロンかアクリルの黄色いマフラーをしていた。
もう北京ではすっかり冬が始まっていた。
李丹はまるで秋田の田舎から出てきたばっかりの30年前の女子高校生に見えた。
「それじゃ、スターバックスでおいしいコーヒーでも飲もうか」と僕が言うと、
「楊さんも言ってたけど、スターバックスってなんですか?」と李丹が言った。
僕らは歩いて北京市内の商店街に行き、ビルの中にあるスターバックスに入った。
「星巴克珈琲」と書いてる看板の横に日本でもなじみの緑の看板で「STARBUCKS COFFEE」と書かれていた。
李丹はそのメニューに書かれている値段を見て驚いた様子だった。
「どおしてこんなに高い珈琲飲むんですか?」
「たぶん、美味しいからじゃないかな?」
「でも、珈琲は別にお腹いっぱいにならない」と李丹はつぶやくように言った。
「たしかにね。でもお金があるとお腹がいっぱいになるだけではすまなくなるんだよ。
そこにはややこしいことにトレンドだの、スタイルだのといった、生きるためにはさして必要とは思えないものがたくさん絡んでくるんだ」
「私にはよく判らない。私の2日分の食費を、一杯の珈琲に使うなんて」
「まあ、僕がおごるから、気にしないで消費の美徳というものを体験してみなよ」
僕はブレンド珈琲をブラックで飲み、李丹はホッチョコレートを頼んだ。
「おいしいです。これ。」と言って頬を更に赤くして下を向いた。そして少しはにかんだ笑顔を見せた。
「よかったよ。喜んでくれて。それでさっき言ってた仕事の事ってなにかな?」と僕は言った。
李丹は少しためらうような顔つきで周りを見渡しそして何かを決意したように僕の顔を見た。
「あの。私今通訳のお手伝いしてます。坂本さんの。でも殆ど何もしてない。夜ご飯食べるとき少しだけ
料理店の案内。注文するだけ。それじゃ私勉強にならない。です。少し通訳のお手伝い増やしたいです。」
僕はてっきり辞めたいと言いだすのかと思っていたので少しだけホッとした。李丹が思い詰めているように見えたからだ。
「そうかもしれないね。君の言うとおりだ。でも君はまだ学生だからそんなに無理することなんかないと
思うんだ。確かに僕は君に通訳の仕事を余り多く頼んで無いのかもしれない。でもそれは君のせいなんかじゃ
無いし、たぶん僕のせいでもないと思う。僕が本当に必要な時に手伝ってくれれば何の問題も無いんだ。
それに君はまだ実践の場をこなすより大切な事がまだ有ると思うんだ。学校や友達と過ごす時間をね。」
「そうと違います。私生まれたのは重慶です。北京よりずっと西で南の地域です。私の家あまり
裕福じゃないです。山のなかだし。遠いし。でも今北京の大学通ってます。親に少しでも負担掛けないよに
したいです。だから勉強と生活するお金自分で何とかしたいです。それに通訳一石二鳥」と李丹は言った。
「分かった。それじゃこうしよう。明日明後日の土日は李丹に通訳を頼もう。楊さんには休んでもらってね。
楊さんにも休息は必要だからね。じゃ後で楊さんにうまく伝えておくよ。僕の方からね。」 「ありがとございます。分かってもらえて。それじゃ明日から二日間お願いします。」と言ってまた下を向いて赤くなった。
「まだ決まったわけではないからそんなに恐縮しなくても大丈夫だよ。でも土日は本来仕事も休みだから
それ程通訳の仕事があるとも思えないけどね。」と言ってブレンドコーヒーを飲んだ。
僕は李丹が帰ったのを確認しレンタルオフィスに戻った。楊さんは夢中になってパソコンを睨んでいた。
ファイルの入力をしているのだ。僕は楊さんの前に行き楊さんに話かけた。
「ねえ、楊さん。ファイルの入力はかなり順調かな?」と僕は言った。
「そうです。順調です。このままだったら、あと2〜3日で終わるかもしれないです。」と楊さんは言った。
「それじゃ明日と明後日は休みにしようか?日本の会社も土日は本来休みだからね。そうしないか?」
「分かりました。坂本さんがそう言うのならそうします。じゃ明日と明後日は通訳だけですね。」と楊さんは言った。
「そういえば、楊さんは家族は北京に居るんだよね?」
「はい、奥さんが一人に子供が一人います。妻一人子一人です。」ユーモアのつもりらしい。
「じゃせっかくだから土日位ゆっくりしたらどうかな?また月曜日から頑張ってもらう事にしてさ。」と僕は言った。
「でも一人じゃ、通訳居なくて大丈夫ですか?」
「それは分からないけどね。でも何とかなるんじゃないかな。別に行かなければならないところは無いしね。」
「分かりました。それでは、李丹さんにお願いしてみますよ。土日は学校も休みです。たぶん大丈夫思います。」
楊さんは携帯電話を取出し李丹さんに早速話をしていた。
「大丈夫みたいです。明日と明後日は通訳してくれるみたいです。でも坂本さん。悪いことしちゃだめですよ?」と楊さんは言った。
「まさか。」と僕は言った。
楊さんは嬉しそうにパソコンの前に座りファイルの入力を続けた。
仕事が一段落すると、楊さんは久しぶりの休日が楽しみなのか早めに帰り支度をしてオフィスを出て行った。
朴さんは楊さんより少し早目に帰っていたので、僕は一人になると本当にすることが無かった。
僕は一人のオフィスでぼんやりと窓の外を見ながら、恭子が何故北京に来てどのようにしてあのホテルのどこかに含まれたのかを考えたが、何度考えても解けないパズルみたいにまったく分からなかった。
それでも僕はここへ来る前にあのホテルのロビーを夢で見ていた。
まるで悪魔に振り出した事をすっかり忘れていた約束手形の様に、それはきちんとした形を持って僕の前に現れ、その債券の回収をはじめたようだった。悪魔との約束から逃げることは出来ないのだ。
僕はあきらめてアパートに帰って男に言われたようにきちんとシャワーを浴びてからホテルに向かおうと思ったが、
アパートの時々冷たくなるシャワーの事を思い出すと寒気がした。
風邪を引くのも嫌なので、いっそのことホテルに長期滞在してしまおうと考えた。
元々会社からもそれなりの滞在費を貰っていたし、オーバーした分は自分の貯金で賄えばいいのだ。
それに恭子がいると思われるあのホテルにいた方が、恭子に会える確率も高くなるかもしれない。
僕はアパートの大家さんに解約を申し込もうと電話したが、あいにく大家さんはまったく日本語も英語も理解出来なかった。
途方にくれているところに、李丹が来てくれた。
「ああ、ちょうど良かった。実は、事情があって今のアパートを解約したいのだけれど、
大家さんに電話して話して貰えないかな」と僕は契約の時の条件などを説明した。
李丹はすぐに電話を掛けてくれ、おかげですんなりと解約をすることが出来た。
「お安い御用です。やっと通訳らしい仕事ができました」と李丹も笑顔を見せてくれた。
僕らは二人で食事に出掛けた。今度は普通の家庭料理のお店に案内してくれた。
僕はピーナッツの入った色々な野菜と鶏肉の炒め物と、豆腐と野菜のあんかけを頼み、
李丹は春巻きを頼んだ。そしてそれを二人で分けて食べた。
僕はビールが飲みたかったのだが、これからあの老婆のところへ行かなくてはならないので飲まないことにした。
李丹は食事をしながら大学で勉強していることや、将来の夢などを話してくれた。
「祖父は北京大学の教授だったのですがちょうど文化革命の時代に居合わせて、様々な粛正を受けました。
ほとんど廃人同様になってしまったのです。ひどい拷問を受けました。
研究した文書など、すべて燃やされました。頭を剃られて強制的に肉体労働にも従事させられました。
文化革命が起こったことで、中国の発展は100年遅れたと言われています。実際にそうだと思います。
でも、そういうことはこの国で未だに自由に話す事が出来ません。知っているのは一部のエリートだけです。
中国は世界で大国としてこれからリーダーシップをとらなければならない。
でもそれにはもっと自由と民主主義が必要だと思います。でも、そんなこと、たとえここでも日本語でなければ話せない。まだまだ中国は問題がたくさんあります」
李丹は思い詰めた表情で語った。
彼女の言い分は理解できなくもなかったが、それは明らかに理想論であり、それが果たして本当の中国の未来として相応しいのかは誰にも分からなかった。
それでも彼女のようにイデオロギーを人生の命題のように悩み考え抜く若者がいると言うことが、
日本のちょうど学生運動の時代のようにダブって見えた。
僕はその渦中には居合わせなかった世代だが、彼らが求めていたものはおそらくこのようなものだったのに違いなかった。どんな国にもそういう時代があるのだ。
「李丹のおじいさんは苦労したんだね。
でも君は君でとても優秀な学生なんだから、今は政治の事で悩んだりしないで、しっかり勉強しなよ。
そして本当に誰にも負けない実力をつけて、社会に出てから自分が思う通りの中国を作ればいいんじゃないかな?」
僕がそう言うと李丹は笑顔に戻って「ありがとう。坂本さんに話せて良かった」と言った。
僕は突然恭子を思い出した。話したいときに誰かに話してしまうことで、人は癒されるのだ。
僕は恭子に話してもらいたかった。悩みでなくてもいい。日常の些細な出来事で構わない。
そう考えると僕は話をして貰えなかった自分が悔しかった。存在理由を否定された気分だった。
僕らは外へ出てそのまま別れた。僕がホテルに通っていることをまだ李丹にも知られたくは無かった。
僕は急いでアパートからすべての荷物をまとめて北京迎賓館飯店に行き、フロントでとりあえず1週間の滞在を予約した。
部屋は昨日とは別の部屋だった。
僕はシャワーを浴びて体中を綺麗に洗った。もうすぐ8時になりそうだったので、急いでロビーに向かった。
白い壁の前に立ち、また銅鑼の音と共に中へ入った。
そこには真っ赤なサテンの薄いカーテンが幾重にもドレープを作り、やわらかいランプが二つ左右に灯っていた。
そしてその中央にやはり天蓋の着いた煌びやかな装飾の椅子に座ったあの老婆が座っていた。
僕は黙って老婆の足下にひざまずいた。すると老婆は僕の頭にその枯れ枝のような手のひらを置いた。
次第に目の前が朦朧とし、夢の中に入っていった。
気がつくとそこはさっきの部屋ではなく、砂漠の真ん中で、目の前に吹き晒された砂の城が建っていた。
その城には大きな壁画が描かれていた。美しくふっくらとした東洋美人の絵がいくつも描かれている。
そしてそれは敦煌だと僕は気がついた。まだ見た事もない敦煌だとなぜ僕が知っているんだろう。
222 :
95:2006/11/13(月) 15:22:18 ID:FYZwPZNO
3日も更新されなかったので、少々不安になっていました。
ますます面白い展開になって来ましたね。
敦煌は以前、行ったことがありますので尚更です。
毎日欠かさず読み続けていますので、続きを楽しみにしています。
・・・って、この話、確実に辺境に向かってますよね?!
>222
ああ、まだいらしんたんですねw
実はまた自宅のパソコンはアクセス規制がかかってこの土日は書けなかったのです。
はい。辺境へ向かうスレですのでw向かっていきますよ〜
>>222 あ、そうですか、読んでてくれてたのですね。いつもありがとう。
僕は敦煌は余り詳しく無いので続きは少し待ってて下さい。
期待に添えられるよう頑張ります。
225 :
95:2006/11/14(火) 02:40:29 ID:jaMgGG6d
>>223 ずっといますよ^_^;
出先ではノートパソ持参でF5です。
>>224 こちらこそありがとうございますm(__)m
僕はその菩薩や曼陀羅が描かれた壁画を暫らく眺めていた。それがいったい僕に何を伝えようとしているのか
僕にはうまく理解することができなかった。ただ恭子の気配がどこにも感じられずにいて僕はその今にも
崩れ落ちてしまいそうな城の中を歩き続けていた。そして一つの塑像に僕は目をやった。いつの時代に
作られたのか分からないその塑像に僕は不思議な感覚を憶えた。その優しい慈愛に充ちたその表情にだ。
僕はその塑像に近づき手を伸ばした時に激しい頭痛と伴に老婆の座っていた椅子の前に投げ出されたように
倒れていた。いつものように既に老婆の姿は無くやわらかい灯りがこの部屋を包み込んでいた。僕は激しい
頭痛に顔を歪ませ自分の体にうまく馴染めずにいた。体はしんから冷えきっていて立ち上がる事ができなんだ。
激しい寒さに体が震え老婆が座っていた天蓋付きの椅子を見つめた。しばらくしてうまく立ち上がる事が
出来るのを確認した後僕は白い壁にもたれかかった。壁は僕をあっさりとホテルのロビーに僕を排出した。
ロビーではベルボーイが新しい宿泊客の使い込まれた幾つかのスーツケースを丁寧にエレベーターの前に
運んでいた。そしてその宿泊客達は僕に一度も視線移すこともなく、楽しそうに談笑を続けていた。
それは僕にとって少しなからずショックを与えた。いくら余り他人に干渉したくないとはいえこんな目立つ
場所で倒れ込む男に誰も気に掛けないのだ。僕は激しい孤独感に苛まれた。あるいは僕は誰にもみる事が
できない何かになっているのだろうか。試しに僕は談笑を続ける宿泊客の前をわざと横切ってみたが
一瞬たりともその談笑が途切れる事は無かった。僕はある確信を持ってホテルの自分の部屋に戻った。
部屋に戻った僕はバスタブに熱いお湯を入れその中に沈み込んだ。暫らくそうしていると冷えきった体が
ようやく正常な機能を取り戻していくのがはっきりと感じることができた。体の機能を取り戻していくのと同時に
激しい頭痛もいつのまにか治まっていた。僕はバスルームから出ると腰にバスタオルを巻いたまま冷蔵庫から
ビールを取出しベッドに腰掛けてそれを飲んだ。窓の外に目をやると夜の北京の街灯りと流れるような車の
ライトが僕の孤独感を際立たせた。それと同時に敦煌の事を考えた。いったいあの砂漠に囲まれたかつての
オアシスの街に何故僕が居たのだろう?あの今にも崩れ落ちそうな城や壁画や塑像は僕を何処に向かわせようと
しているのだろう。僕はひどく誰かと話がしたかった。しかし僕には今話をするべき人間がどこにも居ないのだ。
僕は服を着替え最上階のラウンジに行く事にした。部屋を出てエレベーターに乗り最上階のボタンを押した。
エレベーターは静かなモーター音を携えて僕を最上階へと連れて行ってくれた。当たり前の話だ。しかし
エレベーターを降りバーの入り口の反対に目をやるとそこに一枚のポスターが貼ってあるのに気付いた。
そのポスターには砂漠や駱駝そして壁画や塑像の写真が使われて敦煌展と大きな文字で書かれていた。
昨日の夜にはそんなポスターが貼られていた事には全く気付かなかったのだが、僕はそのポスターに強く
魅了されていた。残念なことに全て北京語で書かれていた為その敦煌展が何処で行われているのかうまく
読み取れなかった。漢字を並べられただけの説明書きは僕にとってはまるで低学年の小学生が日経新聞を
読むような行為に似ていた。僕はそのポスターの内容を読むのを諦めてバーに入っていきウエイターに
バーボンのロックを頼んだ。ウエイターはスマートな表情で僕の注文を受けカウンターの中に消えていった。
しばらくするとバーボンのロックと落花生を揚げたスナックをウエイターが持ってきて、
上質な無垢材のウッドテーブルにコツンとグラスを置く音を響かせた。
とてもいい音だ。もちろんこの音もきちんとサービス料に含まれているのだ。
僕はバーボンの香りを楽しみながら、あの敦煌展に行くにはどうしたらいいか考えた。
まあ、李丹に通訳を頼むのが妥当だろう。彼女にはそういう文化に触れる機会が必要だし、
僕には通訳が必要だった。土曜日か日曜日に一緒に行こうと誘えばいいのだ。
気が付くとあの男が僕の前に座っていた。もちろん、座っていいかは尋ねなかった。
「あなたは上手くやっています」と男が言った。褒められた気はしなかった。
「そうでしょうか?僕はどんどん恭子から離れているような気さえしますよ」と僕が言った。
「そんなことはありません。距離的にも時間的にも最短を選んでいます。見上げたものですよ」
男の表情は昨日会ったときより幾分自信に満ちているような気がした。
そのそもこの男が何に対して自信を抱くのかは判らなかった。猿回しの猿が優秀で喜んでいるのかもしれなかったし、
あるいは自分の調教に満足しているのかもしれなかった。
「それはそうと、もう一つやってもらいたいことがあると言いませんでしたか?」と僕は聞いた。
「あなたは本当にせっかちなんですね。あまり一度に何でも抱え込む癖は直したほうがいいですよ」
「生憎そういう性分なんです」
「そうですか。でも仕事が早いに越したことはありません。それでも、もう一つの仕事については、
もう少し後になってからきちんとお話しましょう」
「それなら、今日はどんな用事で現れたんですか?」
「恭子さんはこのホテルにはもういません。お気づきになりませんでしたか?」
僕はひどく驚いた。確かにさっきの儀式の最中に恭子の不在を感じ取っていたことは事実だった。
「僕が何か失敗をしたんでしょうか?」僕は恐る恐る聞いた。
「いいえ、あなたのせいではない。そもそも恭子さんのことについてあなたに責任など何も無いのです。
ただ、恭子さんを救い出すことが出来るのは世界中であなた一人だ。
それは、今日までのあなたの行動によって証明されています。
恭子さんはあらゆる意味で我々にとっても、あるいは世界にとっても重要な女性なのです。
そしてあなたはその恭子さんの心を開くことが出来るおそらく唯一の人間だ。
だからあなたが恭子さんを助けたいと思うことは、我々にも非常に重要且つ必要な事なのです」
僕は男がまたひとつ一つの謎をカードでも配るみたいに並べていくのを指をくわえて見ているしかなかった。
僕には恭子が必要であり、そして恭子も僕を必要としている。この事実を確認することが出来るだけでもありがたかった。
「僕は今までどおりこのホテルのロビーに来ているだけでいいんですか?」と僕は尋ねた。
「今はそういう方法でしか恭子さんにアプローチすることは不可能です。今まで通り続けて下さい。
我々にはあなたに対してアカウンタビリティーがあるとあなたは主張されるかもしれませんが、
これが我々にとっての精一杯の説明なのです。どうか理解して下さい」
そういい残すと男は去っていった。いつものようにさよならも言わなかった。
男が去ってしまうと僕は特段することが無くなってしまったが店内を眺めバーボンと揚げたピーナツを食べた。
僕は最近この揚げたピーナツがとても気に入っていて恭子はよくつまみに出してくれていた。あかい薄皮ごと
揚げてありそれに岩塩を振っただけの物だが「ポリフェノールも摂れるから体にいいの。」と言っていた事を
思い出した。僕は数粒左手の掌に乗せ右手でそれをバーボンと交互に口に運んだ。店内は週末のせいか
昨日よりもかなり混雑していた。おそらく入国したての観光客や仕事を終えた外国人が夕食を終えて
北京の夜景を楽しみにきているのだろうと思った。何杯目かのバーボンと二つ目のピーナツが空になった
ところで掌や服に付いた塩を手で払って席を立った。店の空気も変わってきてたし第一酔っ払った観光客が
話す声が煩く感じてきたからだ。僕はバーを出るともう一度敦煌展のポスターを眺めた。
「敦煌」と僕は声に出して言ってみた。明日の朝李丹に電話を掛けようと思ったがよく考えてみると
李丹の電話番号を聞いてない事に気付いた。僕は部屋に戻り楊さんに電話を掛け李丹の電話番号を聞いた。
その時に楊さんは大きなホテルなら携帯電話のレンタルサービスをやっているはずだと言っていたので
僕はフロントに行き聞いてみた。そんな事は今は当たり前のサービスとでも言いたそうにカウンターの裏の
スタッフルームからコンパクトな折畳み式の携帯電話を持ってきて僕に使い方を説明してくれた。
その携帯はメール機能もカメラも付いてはいなかったが何の問題も無かった。別に誰かとメールやチャット
する訳ではないし写真も撮る必要も無いからだ。僕は丁寧にフロントスタッフに礼を言い自分の部屋に戻った。
僕はベッドに横になり恭子の事を考えた。長いしなやかな髪のことや美しい体の線をだ。
彼女は美しかった。とても綺麗な髪をしていた。
会社に行くときは後ろにひとつで結んでいた。
きちんとした身だしなみとして化粧を施していた。それは男性が髭を剃るのに類似した行為のように見えた。
僕が彼女と出逢ったのは職場の忘年会だった。
恭子は会社でも評判の美人社員で、僕のような平凡な男には無縁の高嶺の花だった。
その日はめずらしく東京に雪がうっすらと積もった日で、とても寒かった。
2次会の時に普段はあまり交流がない別の課同士がくじ引きで席を決めたのだが、
その時偶然初めて僕の隣に彼女が座った。
とても無口な人だったから、僕は何を話せばいいのか分からずに緊張のあまり声がうわずった。
「雪が降りましたね」と僕が言うと、彼女は初めてその事に気が付いたみたいに「そうなんですか?」と言った。
「はい、うっすら積もってますよ」と僕が言うと、彼女はほんの少し嬉しそうな顔を見せた。
まるで今し方降った雪そのもののような儚い笑顔だった。
「私、雪が好きです」としばらくしてから恭子が言った。
周囲はすでに酔いつぶれた者や吐き気をもよおす者や笑っている者達でえらい騒ぎだった。
でもほとんど酔わない僕とまったく飲まない恭子だけはほとんど素面で二人だけの空間にいた。
僕は恭子の表情やその仕草を見ているうちに、まるで恭子に選ばれたような錯覚を起こした。
「もし良かったら、今度一緒に雪を見に行きませんか?」と僕が言うと、
「いいえ、今見たいです」と恭子が僕の目をのぞき込んでそう言った。
そして僕らはこっそり外に出て、しばらく何も話すこともなく雪を眺めていた。
クリスマスが終わったばかりの街は道行く酔っぱらいの吐く息に白く曇っていたが、
何故か僕は深淵なる海の底に佇んでいるみたいにどんな音も耳に入らなかった。
恭子は雪を少しすくっては遠くへ投げたり、雪をぎゅっと握って作った氷を額に当てたりした。
僕はそっと恭子の手を取り、「手が冷たくなったでしょう?」と言って握った。
すると恭子は突然涙を流した。何の前触れもなくその涙はパタンという音を立てて僕の手の甲に落ちた。
僕はその時どうしようもなく自分が押さえきれずに恭子に口づけをした。
恭子はそっと目を閉じ、黙って僕を受け入れた。
その後僕らは毎日一緒に帰るようになり、1年後には結婚していた。
目が覚めたのは時計の針がちょうど6時を指した時だった。窓の外はまだ薄暗く薄い霧が北京の街を
より神秘的にさせているように見えた。僕は大きな通りに目をやったが、車は殆ど走ってはいなかった。
その光景は恐ろしく長い一本の滑走路を連想させた。しかしそれは間違いでは無く、本物の滑走路なのだ。
有事の際にはここは滑走路になり沢山の戦闘機やら貞察機がこの道路から飛び立てるように初めから
設計されているらしかった。僕は視線を部屋の中に戻しベッドに腰掛けた。そして部屋に備え付けられたテレビの
スイッチを付けてみた。もともと北京の放送局が多いのか高級ホテルのサービスの一つなのかは分からないが
十数個のプログラムが用意されていた。ほとんどは中国のニュース番組や時代劇やバラエティーだったが
CNNやNHK-BSも用意されていたので久し振りに日本語も聞きたかった為NHKをつけてみる事にした。
その内容は日本の歴史教科書についてのニュースだったがどう聞いても中国寄りの観点から解説されたものだった。
やはり情報さえ自国の主張に沿った物で無くてはならない国であると感じた。内容は日本の右翼政治家による
歴史教科書の是非を討論検証すると言った事だった。僕はテレビを見るのを止めテレビを消しバスルームに
行き熱いシャワーを浴び髭を剃った。シャワーから出たあと僕は着替えをし、B1階へ朝食を食べに行った。
僕はそこでサワークリームとメイプルシロップをたっぷり付けた焼きたてのワッフルとサニーサイドアップの
目玉焼きとサラダ、オレンジジュースそしていれたてのエスプレッソを平らげた。僕はここのホテルの朝食が
とても気に入っていた。日本でもここまでの朝食バイキングにはなかなかお目にかかれないくらいだ。
僕は食事を終えるとエレベーターにのり自分の部屋に戻った。そして昨夜楊さんに教えて貰った李丹の携帯に
部屋の電話からダイアルをした。五回程呼び出し音が鳴った後李丹が電話に出てくれた。少し眠そうな声だった。
「ごめん。まだ早かったかな」と僕は謝った。
「いいえ問題ない思いますと言っています」と李丹は少しおかしな日本語で言った。まだ眠いのだ。
「今日の予定なんだけど、北京市内のどこかで開いている敦煌展に行きたいんだけど通訳お願いできるかな?」
「え?トンコウテンって何のことですか」と李丹が聞き返した。
「そうか、発音が違うのか。砂漠にある古い遺跡で、すごく色鮮やかな壁画や塑像とかが有名な場所の展覧会だけど」
「ああ、トゥンホワンですね。そこに行きますか?とても遠いです」
「いや、敦煌に行くのではなくて、その展示をやっている北京市内の場所に行きたいんだ」
「それなら、おそらく北京図書館でやってます」
「そうなんだ。でもそのポスターに北京図書館の文字は無かった気がする」
「国家図書館とも言います。有名なところです。でもそれはたぶん文書などの所蔵展示ばかりです」
「そうか、絵画などを見ることは出来ないのかな?」
「はい、敦煌の絵画はその多くが台湾などの国外へ略奪されてしまい、国内にはあまり残っていません。
でも敦煌市まで行けば、本物の洞窟内にある仏像や、塑像の多くを見ることが出来ます」
どうやら李丹は敦煌に詳しいようで、やっと目が覚めたみたいだった。
ごめんなさい。
李丹は中国人だから台湾を外国とは言わないはずです。
認めている中国人もいるかもしれないけど、おかしいです。
台湾は、ヨーロッパに変えて下さい。
ていうか、この先は95さんに書いてもらいたいなw
236 :
95:2006/11/17(金) 08:38:24 ID:B/FtSezL
え?ご指名ですか?
無理無理〜!!ヾ(;゜;Д;゜;)ノ
台湾にも行きましたが、確かに中国人は台湾を外国とは言わないかも?!
外国というより、裏切り者的な認識はあるかもしれないですね。
観光で行っただけなので、詳しくはわかりませんが・・・。
文才ないので、書けません(p_ー)すみません。
「それじゃ9時頃オフィスに来てくれるかな?詳しいことはそこで話そうよ。」と僕は言った。
「分かりました。」と李丹はそう言って電話を切った。時計を見ると8時を少し回ったところだった。
僕はダウンジャケットを抱えてエレベーターに乗り最上階に行った。ラウンジでは簡単なモーニングサービスを
しているようで白いシャツに黒いベストを着た女の子があわただしく給仕をしていた。僕はその様子を
眺めた後昨夜みたポスターを見つけ注意深く文字を読んだがどこにも北京図書館の文字を探し出せなかった。
しばらくそうした後ラウンジに座りミルクティーを頼んだ。染み一つ無い白いシャツを着た女の子が僕の
テーブルにミルクティーとクッキーのようなものを置いていった。僕はそのクッキーのようなものを見ながら
ミルクティーを飲んだ。朝食は既に済ませていたし特に食欲も無かったので結局クッキーは食べなかった。
ロビーを出て外に出るとかなり冷えていた。僕はダウンジャケットのボタンを首下まで留め両手をポケットに
突っ込んだままオフィスまで歩いた。オフィスに着くと僕は少し汗ばんでいた。ダウンジャケットのボタンを
全部外すと冷たい空気が少し心地良かった。ロビーの長椅子に腰を掛けて李丹を待つことにした。約束の時間には
まだ少し早かったみたいだった。しばらくして李丹がやってきた。コーデュロのパンツに紺の厚手のウインドブレーカーにディパック
を背負っていた。相変わらずおしゃれとは言い難い格好だったがキュートな笑顔がそれを全てカヴァーしていた。
僕は李丹に北京迎賓館飯店のラウンジに貼ってあったポスターの事を話した。するとようやく状況を把握した
みたいだった。どうやら李丹は常設の敦煌展と云う事だと思っていたらしく、確かにそんな施設は北京には無かった。
「そういえば、北京図書館って電話で言ってたけどそれはどんな所にあるのかな?」と僕は訊ねた。
「北京図書館は北京大学の構内にあります。もちろん誰でも入れます。でも午後は大学生で一杯になります。
みんな勉強熱心です。でもそこに敦煌の資料あります。私よく疲れたときそれ見ます。落ち着く。します。」
「そこにあるんだ。でもみんな勉強しているんだね?日本じゃとても考えられない。」と僕は言った。
「そうです。学生勉強する当たり前でしょ?日本の学生勉強しないの?なにするの?」と不思議そうに言った。
「まぁ大抵は女の子とデートする事ばかりかんがえてるね。じゃ無ければスポーツをして体壊したりかな。」
「良く分からない。日本人。」と言って首を振った。李丹の話を聞くとそんな気がしてきた。確かにそうだ。
一昔前迄は勤勉が美徳と考えていた日本は今はそうではないと云える。僕にしてもそうだと思った。
「でもそんな事はどうでもいいんだけど僕はその敦煌展に行きたいんだ。案内してくれるかな?」と言った。
「そうですね。それではそのポスター見ます。何処で見ましたか?」と李丹は僕に訊いた。
僕は北京迎賓館飯店のラウンジの前で見たことを言いタクシーを捕まえホテルに行った。そしてポスターを
見せた。李丹はそのポスターの文字を読み分かったと言った。どうやら北京の大府にある美術館で開催されて
いるようだった。李丹が言うには比較的近くだと言った。僕はそれならタクシーで行こうと言ったが、
李丹はバスがあるのでそれで行った方が安いし安全だと言ったのでそうすることにした。
僕達はバスに乗りその大府にある美術館に着いた。バスは電気とガソリンを併用したトローリーバスだった。 僕はその美術館の前に立ってその美術館を眺めた。ここに敦煌があるんだと思った。僕の知らない敦煌だ。
95さん。良かったら少しだけでも良いから書いてくれるとうれしいな。
別に春樹風にじゃなくても構わないし長文じゃなくてもいいからさ。
僕だってこの前まで全然書けなかったんだよ、嘘じゃなくてさ。
折角だから書いてみようよ。結構楽しいよ。じゃ待ってるよ。
240 :
95:2006/11/17(金) 16:50:09 ID:B/FtSezL
・・・・・・か、か、か、書けないor2
僕らは別に無理強いしてる訳ではなくて、書く事の楽しさを体験して貰いたかったんだよ。
僕らもつい3ヶ月前までは文章を書くという行為自体になんの興味も持てないただのロム専だったんだ。
あるスレをきっかけに書き始めて、そこで意気投合してリレーし始めたんだ。
僕らの根本的な姿勢は、書く人を尊敬していくということ。
そしてお互いに強制しないこと。
何を書いてもいいんだよ。きっと信頼する誰かが繋げてくれる。
そのときに感じたことを正直に(あまり先のことは考えずに)書いていけば、
必ず終わるときが来るよ。大丈夫。
もし書きたくなければ書かなくてもいい。
でももし書きたくなったら絶対に僕らに遠慮なんかしないでほしいんだ。
僕らは全くのノープランで書いてるんだ。相談もせずにね。
だから、君が何を書こうとその先を心配しなくていいんだよ。
まあ、このくらいにしておきますがw
その門にはいかにも中国的な朱色の門柱に瓦葺きの屋根がついていた。
中に入ってゆくと広い石畳の広場があって、その奥に美術館の建物がこっそり岩に化けて待ちかまえている鬼かなにかみたいに、
大きな口を開けて人々を呑み込んでいた。
僕らも例外なくその鬼の口の中に入っていった。いかにも中国的に妖しい雰囲気のある建物だった。
説明のプレートは中国語と英語で書かれていたが、僕にはたとえ英語でもいまいち理解できなかった。
その展示は写真のパネルとガラスケースに納められた絵画と写本がメインだった。
僕は敦煌の砂漠にぽつりと建っている遺跡の写真パネルに足を止めた。
そしてその大きな洞窟や風に削り取られていった砂の城にどうにもならない懐かしさを感じていた。
あの老婆の前に跪いて連れて行かれた僕の心の一部が何かの加減で敦煌に置き去りにされたままになっているような気がした。
遠くから聞こえてくる太鼓の音のようにいつまでもその風景は僕の鼓膜を刺激した。
目に映るその景色が耳に響くという体験は、やはりあの老婆の前で体験したものだった。
しばらく美しい絵画とまったく読めない恐らく仏教の経典と思われる写本を眺めていると、
突然目の前にあの老婆の前で見た塑像が現れた。
その表情はやはり慈愛に満ちていて、遠くを見つめるまなざしには生命の存在そのものを許している女性的な慈悲が備わっていた。
僕はその塑像に手を触れたい衝動に駆られた。
突然李丹が僕の腕をぎゅっと引っ張った。
「坂本さん、その中には入れません」と李丹が言った。
僕と塑像の間にはロープが張られていて、僕はそこで初めて自分の片足がロープを跨いでいることに気が付いた。
「ごめん。少しぼんやりしていたんだ」と僕は慌てて足を戻した。
「大丈夫ですか?あまり説明も聞いてないみたいだったし、坂本さん今日は変です」
「そうだね。少し疲れたみたいだな」と僕は言い訳をした。
まだ半分くらいしか観ていなかったが、僕は胸が苦しくなっているのに気が付いて、
傍にあるソファに腰を降ろした。
その美術館はまさに中国という国のスケールを表現しようと試みているかのように巨大だた。
特別展示の敦煌展以外にも常設の様々な種類の中国美術もあるので、丸1日掛けてもすべてを観るのは不可能な気がした。
だが、僕の興味は書でも青磁でもなく、敦煌のあの塑像そのものだった。
つまり目的は達せられたようだったが、それで何が変わったのかは具体的には解らなかった。
ただ、僕の心は老婆の前に跪いた時と同じ状態引き戻され、それが僕にとっての存在の本質に迫る行為である事に疑いはなかった。
あの男と老婆が何者で、どうして恭子をそれほどまでに重要視し、お金と時間を掛けて僕に働きかけているのかは解らなかったが、
それがどうやら僕自身にとっては、僕が望むかどうかに関わらず、なされるべき事であるようだった。
李丹が心配そうな顔で僕を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?坂本さんは何かあったのではないですか?」と李丹が言った。
僕は返事に困ってしまった。自分でも何があったのかよく分からないのだ。
「そうだね。いつもとは違うと思うよ。でも上手く説明出来ないんだ」と僕は言った。
李丹は隣に腰掛け、僕の手を取った。僕はそのとき突然目頭が熱くなって、落涙しそうになった。
慌てて涙をごしごしともう片方の手で拭い、作り笑顔を李丹に向けた。
「坂本さん、泣いてるですか?」と李丹が言った。
僕は初めて恭子にキスしたときの事を突然思い出した。
僕が恭子の手を握った瞬間に彼女は突然落涙したのだ。
それは今の僕の状況にあまりに酷似していた。そうか。あの時彼女は既に誰にも説明することの出来ない問題を抱えていたのだ。
「ありがとう。李丹のおかげで問題が解決しそうな気がしてきたよ」と僕はお礼を言った。
「何があったか解りませんが、坂本さんには私が付いてます。悩んではいけません」と李丹が僕を励ましてくれた。
そうだ。あの時恭子は僕にも誰にも言えない何かを抱えて今の僕と同じように途方に暮れていたのだ。
それが分かった事で何が変わるといういうものでは無いかもしれないけど、
少なくとも僕は恭子の感じていた感情を追体験するという機会に恵まれただけでも中国に来た甲斐があったというものだ。
こうしてはいられなかった。
僕は李丹と美術館を出た。恭子を捜さなければならない。たとえ何があろうとも。
僕は李丹と美術館の門をくぐった時に強い目の痛みに襲われた。昨日の朝に感じた目の奥の痛みと同じ痛みだ。
僕はその門の中で蹲ってしまった。李丹が僕の肩に優しく手を置いてくれた。小さく柔らかな手だった。
「坂本さん?大丈夫ですか?立つ事できますか?」と李丹は心配そうに言った。
「大丈夫だ。少し目の奥が痛んだだけだからすぐに納まるよ。心配しなくていい。」と僕は言った。
「それなら良かったです。でも目が痛いならきっとゴミ入ってないですか?」と言って僕の目を覗き込んだ。
李丹の目はとても深く澄んでいた。それはまるで中国の秘境で人の侵入を拒み続ける滝壺の様な目だった。
「ゴミ入ってないです。大丈夫です。少し冷やせば大丈夫です。」と言ってハンカチを水で濡らして僕に
渡してくれた。僕はそれを目蓋に当てしばらくそこにじっとしていた。そうしているといつのまにか目の痛みが
和らいできた。僕は李丹にありがとうと言って立ち上がった。李丹はまた頬を紅くして下を向いていた。
門を出るとそこには広大な砂漠が広がっていた。僕はさっきの目の痛みのせいで視覚に何らかの異常が発生
したのだろうと思った。後ろを振り向くと李丹が戸惑った表情で僕を見ていた。まるで捨てられた犬の様な
目をしていた。その表情を見てこの目の前に広がっている光景が僕の目の錯覚でないことが理解できた。
「ねえ、李丹。ここは何処だと思う?確か僕達は北京の大府に居た筈だと思うんだけれど。砂漠に見える。」
「私こう思います。敦煌だって。私よく見た敦煌の写真ここと同じです。不思議ですが敦煌に居ます。」
李丹は冷静さを装ってそう言っているがどう見ても混乱している様だった。僕ですらうまく理解することは
出来ないのに、二十歳そこそこの女の子が冷静でいられる訳が無い。僕は無意識に李丹の手を握り砂漠を歩いた。
僕はまた時空を越えたのだ。あの老婆の前で僕は確かに実際に敦煌に移動していた。
そうとしか考えられないほどのリアルさで僕はあの時に敦煌に行って塑像を目にしたのだ。
そして今も僕一人ではなく李丹と共に実際に物理的に時空を越え、敦煌に来ていた。
僕はここへ来ることが予め決められていた未来であることにもう疑うことが出来なかった。
僕は敦煌に来るためにこの中国へ来たのだ。
李丹は明らかに怯えていた。自分の目が信じられないのだ。
「たぶん、大丈夫だから。心配はいらないよ。でも君を巻き込んで申し訳ないと思っている」
「でも、坂本さんのせい違う。不思議だけど。私も敦煌へ来てみたかったから」と李丹は精一杯に強がった。
僕らはしっかりと手を握りあって歩き出した。
さらに不思議なことに、敦煌は世界遺産に登録されたほどの有名な観光地であるはずなのに、そこには人っ子一人居なかった。
強い風と砂漠と、遠くに見える断崖に掘られた石窟以外に何も無いところだった。
今ではおそらく敦煌周辺には沢山の観光施設があるはずだ。そうでなければ観光業が成り立たない。
しかも後ろを振り向くと、僕らが出てきたはずの美術館の門も消えて、ただただ広い砂漠が広がっていた。
ここはまだ誰にも発見されていない当時の敦煌なのだ。文字通り時間と空間を飛び越えてしまったのだ。
僕らは莫高窟と思われる高くそびえる楼閣に進んでいった。それは見事なまでに不思議な光景だった。
何かの加減で寸断された山の壁面が南北に延々と続いて、その中央に断崖にへばり付くように楼閣が建てられていた。
数えると9階建ての建物のようだった。僕らは迷わずその中に入っていった。
その莫高窟へ二人で手を握り合い歩いていくと何処からか二胡の音色が聞こえた。最初は風の音か誰かが
唄う声の様に思えたが良く聞くとそれは二胡が奏でる音だと気付いた。その独特の音色となめらかなメロディーが
僕や李丹の気持ちを不思議と落ち着かせていた。しかしその二胡を奏でる人の姿は何処にも見えなかった。
ただそれは確実に莫高窟の中から聞こえていた。朱い何本もの柱の付いた鳥居のような門のある入り口に辿り着き
中を覗いてみたが特別悪意のある空気を感じ取ることは無かった。僕は少し安心した。少なくともここへ
入ることで何か不都合な事に遭遇する心配が無いという事にだ。李丹もいつからかこの莫高窟へ入る事に
不安を感じてはいないようだった。お互いの手はもう握られてはいないのだ。僕達はゆっくりと中へ入って行った。
「ねえ、李丹。ここが莫高窟なのかな?誰もいないみたいだけど。」と僕は確認するように言った。
「そうみたいです。多分莫高窟だと思います。周りを見てください。いろんな壁画や塑像があるの分かりますか?」
と李丹は言った。僕はその石窟の内部に呑み込まれたままその壁に描かれたインドから伝わったばかりのような
エキゾチックな姿や顔を眺めていた。それは先程北京の美術館で見た壁画や塑像なんかより確実に僕や李丹を
魅了していた。まだその壁画や塑像は損なわれてはいないのだ。悪意を持った誰かの手垢はそこにはまだ
ついてはいない。そんな雰囲気を纏っていた。しばらくそこにいると僕はひとつの塑像に目を奪われた。
三度目の出会いだった。それは老婆の前であり、北京の美術館であり、そして今僕の目の前にあるのだ。
僕は無意識にその塑像に手を触れた。そしてその顔や体を指でなぞった。やわらかな曲線が僕をやさしい
気持ちにさせてくれた。それは菩薩の持つ慈愛や慈悲に似た何かだった。あるいはそれは恭子の様にも感じた。
僕がその塑像に言い様の無い懐かしさや暖かさを感じている時に李丹は壁画や塑像を真剣な顔で眺めていた。
「坂本さん。何か変では無いですか?」と李丹が周りを見渡しながらそう言った。確かに何かがおかしかった。
「坂本さん。あなたが触れているその塑像ですけど。どうしてここに有るんでしょか?なぜならさっきも
美術館にもその塑像にそっくりなものありました。坂本さんそれ触ろうとして止めたから憶えてます。一体
どうして同じ物まだここにあるのですか?その塑像に何かあるのですか?もしよかたら私に教えて下さい。」
僕は李丹のその質問にどう答えればいいのか分からなかった。全てを話す訳にはいかないし、どのように
説明すれば伝わるのかさえ分からない。僕自身もうまく理解できていなかった。「僕にもよく分からないんだ。この菩薩の塑像が僕を呼んでる気がしたのは確かだけど。それが一体
どんな意味を持つのかそしてこの敦煌が本当に存在しているのかって事もね。うまく説明出来ない。」
「それじゃ坂本さんはここが本物の敦煌じゃなくてべつのどこかではないという事ですか?」と李丹は言った。
彼女の瞳は不安のあまりに少し涙で潤んでいた。考えたくない事実を想像してしまい、恐怖で震えているみたいだった。
僕は自分の中で導き出した結論を李丹に言う事を躊躇っていた。
「坂本さん、ここは過去なんですね?まだ塑像が持ち出される前ということですね?」
李丹は僕が言うより先にそれを口に出した途端、声を上げて泣き出した。
「泣かないで、まだそうと決まったわけじゃないんだ。
それより、こんなチャンスはめったにないよ。一緒にまだ誰にも発見されていない敦煌を見よう」
李丹は下唇を噛みながら頷いた。泣くのを我慢している。彼女はまだほんの二十歳かそこらの子どもなのだ。
「まず、この洞窟の中を見てみよう。さっき二胡を奏でている人がいたようだった。
この辺りの砂漠に住んでいる人たちがいるのかもしれない。
とにかく誰かを捜そう。洞窟の中には誰かがいるような気がする」
僕はそう言って李丹を励ました。李丹は少しづつ現実を受け入れようと努力していた。
僕はこの非現実的な状況にほとんどまったく驚いていなかった。
今まで僕の身に現実に起こった出来事に比べれば、ほとんど延長線上の予測可能な出来事に過ぎなかった。
しかし、李丹にしてみればなんの予行練習もなく30m下のプールに飛び込むくらいびっくりした事だろう。
僕はここまで彼女を巻き添えにしてしまった以上、これまであったことの概略を李丹に話すべきであるような気がした。
「李丹、少し僕の話を聞いてくれないかな?もし厭だったら話さないけど。」と僕は出来るだけ落ち着いて言った。
「はい。私分からないことばかり。教えて下さい。」と李丹は言った。それで僕はこの一週間の間に起こった事を
李丹に説明した。妻が出て行ってから導かれるまま中国に来て不思議な感覚や体験をしたことをだ。もちろん
端的に話しただけで吉田さんの事とか北京迎賓館飯店の最初の夜の出来事は伏せておいた。そんなことを
話してより混乱させる訳にはいかないからだ。李丹は信じられないような顔で僕の話を聞いていたが、分からない
単語をディバックの中から取り出した使い古しの辞書を引きながら何とか理解してくれたみたいだった。
話を終えると李丹は何か考える様に下を向いていたがしばらくすると僕の腕を右手で掴んだ。
「分かりました。坂本さんを信じます。とにかく帰りたい。連れて行って下さい。」と僕に言った。
僕は李丹と一緒に莫高窟の中をかすかに聞こえる二胡の音をたよりに歩きだした。二胡の音は同じ階では無く
上から聞こえて来たので、階段を探して音が大きく聞こえる階まで上がっていった。僕と李丹は二胡の音が
はっきりと聞こえてくるのを確認するとその部屋を導かれる様に歩きだした。そして僕達はその二胡を奏でる
人物をようやく見つける事ができた。僕はその姿を見て少し驚く事になった。そこには天涯付きの豪華な
椅子に座り、感動的な程の煌びやかな絹の衣裳を身に纏った若くて美しい女性が左膝の上に置いた二胡を
流れるような弓さばきで弾いていた。僕と李丹はその姿を見てしばらくそこを動く事が出来なかった。
その甘露な音が醸しだす何とも得難い空気を掻き乱す事が出来なかった。しばらくしてその女性が二胡を
弾くのをやめるまで僕と李丹はその姿を瞬きもせずに見入っていた。やがてその女性が顔を上げて僕達を
見たときに僕は強い衝撃を受けた。僕の記憶違いで無ければそれはあの北京迎賓館飯店の白い壁の中に居た
あの老婆なのではないかと思った。もちろんここに居るのは若くて美しい女性なのだけれど。
彼女は僕らを見て驚く様子もなく、瞬きもせずに眺めていた。
それは眺めるという表現に相応しい距離感を持った表情だった。
一瞬僕らがあの塑像とか絵画になってしまったのではないかという錯覚さえ覚えた。
あるいは彼女が見ているのは僕らではなく、僕らの後ろにある入口の格子の入った扉なのかもしれなかった。
突然女性が中国語で何かを言った。李丹はすぐに僕にそれを訳してくれた。
「『なぜあなたは一人で来なかったの?』とその女性は言っています」
「さあ。来ようと思って来たわけではないのです。気が付いたときには彼女と一緒に来ていたのです」
僕は李丹の方を軽く振り返りながら説明した。すると李丹が女性に中国語でそれを伝えた。
李丹が来てくれなかったら、僕はほとんど会話が成立せずに途方に暮れていたことだろう。
彼女は僕が言ったことを理解したように頷いた。
「そこに椅子があるでしょう?お二人ともお座りなさい」と彼女が言った。同時通訳とはありがたいものである。
僕らは座った。そこへ宦官と思われる身なりの男性が3人入ってきて、お酒と食事を円卓に用意した。
女性は我々に食事をするように勧めた。僕らは腹が減っていたので有り難く頂くことにした。
「あなたは今、我々の言葉を理解出来ないために、この娘を連れて来たのですね?」と女性が言った。
僕は頷いた。結果としてなにも無駄になっていない。あの男の言う通り、最短を選んでいる。
「あなたは、この敦煌に生きていました。そしてある女性にであったのです」彼女が話し始めた。
僕は彼女の言葉を聞いて今まで感じ続けていた懐かしさの訳を理解した。
それは望郷の念であり、避けることの出来ないルーツに基づく思いだった。
彼女は続けた。
「あなたは、遙か異国からやってきました。
沢山の駱駝や馬やお供を引き連れ、様々な商品を積んで旅を続けている富豪の息子でした。
この国に美しい踊り子がいました。
しかしその娘は貴族の娘で、武将の妾になることを拒み、この辺境の国に逃げ延びてきた女性でした。
あなたは一目でその踊り子に恋をしました。
踊り子もあなたを一目で好きになり、二人は深く愛し合いました。
そしてあなたはすべての財産を投げ売り、その踊り子を妻として迎え、この国に住むことにしたのです。
あなたはその奥様を深く愛し、幸せに暮らしていました。
しかし、ある時この国は突然の干魃に見舞われ、疫病が蔓延し多くの人々が餓死していきました。
あなたは沢山の財産を食料に換え、飢えた人々を助けました。異国の医学を学んだあなたは沢山の病を治しました。
しかし、あなたは全てを施しとうとう財を使い果たしました。
身なりも貧しくなりお二人は家屋敷さえも失いました。
そんなあなたの元へ一人の老僧が尋ね、仏の道に照らしてあなたの行いは菩薩であると言いました。
そしてあなたの姿をひとつの菩薩像に留めました。
あなたの奥様は貧乏になってもあなたの腕となり共に人々を癒し続けましたが、ある日病に冒され帰らぬ人となりました。奥様のお腹には新しい命が宿っていたのにそれも失いました。
あなたは奥様が死んだことが信じられず、必死で生き返らせる方法を捜しました。
そして腐敗していく遺体と共に暮らし続けました。
奥様を失ってからはまるで人が変わってしまったようになり、あなたは妖しい呪術を用いて生き返らせようとしました。
いつか尋ねた老僧がまたやってきてあなたに言いました。
『死んだ者はまた別の命として生まれ変われるのだ。決して悲しんではならない。』
それを聞いたあなたはまたいつか同じ国、同じ時に生まれ、愛し合うことを約束する術を尋ねました。
老僧は『それには自らの命と引き替えに人を救う修行を積むことだ』と言いました。
あなたはこの地に奥様を葬り、長安へ旅に出ました。そして僧として出逢う人々を導き続けました。
ある時、長安も干魃になり食料の危機が訪れ、また人々が死んでいきました。
あなたは雨を降らせる祈祷を朝廷に命ぜられ、七日間飲まず食わずで祈り続けました。
すると七日目に雨が降りました。長安の都は救われたのです。
そしてあなたは雨が降ったと同時に息を引き取りました。それはあなたが望んだ事でした。
朝廷はあなたを菩薩と敬いました。そして敦煌に葬られた妻の墓にあなたを葬り、あなたの菩薩像を安置しました。
そして多くの使いを住まわせ、いずれあなたがここに現れた時に、あなたのお手伝いをするようにと命じました。
私たちはあなたが奥様とはぐれた時のために、こうしてあなたの再来を望まずに待機していました。
奥様をあなたの元に返すことが我々の存在理由なのです」
僕はその話をすべて聞いた後、質問をした。
「あなたはあの北京にいた老婆ですか?」
「ええ、そうです。私は永遠に生きることが決められています。おそらくそれは私でしょう」
「なぜ永遠に生きなくてはならないのですか?」
「あなたのためです。だからこうしてすでに用途を失い風化しつつあるこの敦煌で、あなたのためだけに生き続けているのです」
僕はまったく信じられなかった。
「その菩薩業を行った人が僕だとどうして分かるのですか?」
「あなたがここに来たからです」彼女はまったく動じる様子もなく言った。
「それでは僕が万が一その菩薩だったとします。それで一体どうすればいいのでしょうか?」
「あなたがそうしたいと思うことを望めばいいのです。あなたは過去世において十分に人々を救いました。
だからあなたは今の世界においてあなたが望むとおりの人生を歩む事が出来ます。
我々はあなたが進むべき道に落ちるすべての石を取り除き、窪みを埋め、草をむしります。
あなたはあなたの徳によってそうされる功徳が備わっているのです。
ですから奥様があなたの元を離れることは出来ません。
あなたが奥様を愛し必要と望む限り、必ずあなたの元へ戻るでしょう」
「もしかして恭子が僕を求めていないという事はないでしょうか?そうであれば、僕が彼女を縛ってしまうことになる」
「それは我々の問題ではないのです。あなたが心から望む女性を我々は導かなくてはならない。
どんな手段を用いてもです。その女性の意志や希望は関係ないのです」
「ちょっと待って下さい。恭子が望んでいないのに、僕は彼女を縛りたくはありません。
もし恭子が本当に過去の世界で出逢った妻では無いとしたら、僕は恭子にどうやって償えばいいんだ?」
すると女性は少し間を空けて堪えきれずについという感じで、クックックと声を上げて笑った。
「あなたはまだ分からないのですか?すべてを決めるのはあなたなのです。
恭子様があなたの運命の女性かどうかを決めるのはあなたであり、
あなたがそれを違うと思えばそれは違うのです。
もっと素晴らしい女性をお求めになればいい。必ずあなたのものになります。
ここが存在していることも、私がこのように姿を見せることが出来るのも、あなたがそう望んだからなのです。あなたはあなたの意志で踊り続けるのです。それがすべてなのです」
その直後僕は激しい目の痛みに襲われた。
まったく何も見えなくなり、椅子からよろめき降りて目を押さえながら蹲った。
李丹が僕の肩を抱いて僕を呼んだ。
次第に目の奥の痛みは治まり、気が付くと僕と李丹はまたあの美術館の門の前にいた。
李丹は心配そうにこう尋ねた。
「坂本さん、半分しか観てないのに、そんなに目が疲れたんですか?」
そう言って李丹は僕の顔を覗き込んだ。その瞳はまるで人の侵入を拒み続ける秘境の滝壺を思わせた。
「坂本さん、一体どうしたんですか、ずいぶんひどい顔してます。そんなにつかれてしまったですか?」
と李丹は僕に冷たい水で濡らしたハンドタオルを僕に手渡してくれた。僕はありがとうと礼を言いそれを
目蓋に当てた。そのタオルはまるで氷の様に冷たく僕の目の奥にまでその冷たさが届いた気がした。
「ねえ李丹。一つ聞きたいんだけど、さっきの敦煌は一体何だったんだろう。一体僕達はどうやってここまで
戻ってくることが出来たのだろう。」と僕は言った。李丹は僕の顔を不思議そうに見つめ首を傾げた。
「敦煌ですか?それは敦煌展の事ですね。色んな壁画とか塑像とか沢山展示してました。その他にも沢山の
文献ありました。いろんな国から集めたのです。いろんな国に散らばったもの中国に戻って来たのです。
そこを出て歩いて戻ってきたのですよ。あそこの入り口から。ここまで。」と李丹は言った。
どうやら李丹は先程の砂漠の中の古い敦煌の事は全く憶えて居ない様だった。それどころか僕が持っている
時計の針は12時を少し回ったところで僕と李丹が美術館から出てからまだ十分も時間が過ぎていなかった。
しかし僕にはさっきの敦煌が全くの幻だったとは思えないのだ。二胡の音や在りし日の老婆らしい女性の
声や匂いや仕草がはっきりと思い出す事が出来るし、彼女が語ってくれた出来事が全くのでたらめや妄想の
類とは到底思えないのだ。しかし李丹にはその記憶は全く無いらしくそのことを李丹に思い出させることは
砂漠に撒いたバケツの水をもう一度集めてバケツに戻す事なんかよりも難しい行為の様に思えた。
「李丹、お腹減ってない?」と僕は李丹に訊いてみた。ずいぶん歩いたしそれに若い子はすぐにお腹が減るものなのだ。
「そういえばお腹全然減ってません。朝食べたきりなのに食べたばかりみたいにお腹いっぱいです。何も
食べられそうにありません。不思議です。私食べるの大好きです。でも今は何も欲しくありません。」
「さっき、食べたばかりなんだよ。すごいご馳走だったんだ。李丹は通訳が大変で、
そんなに食べられなかったかもしれないけど、僕らはさっきまで本当の敦煌に行っていて、
そこで塑像を見たり、壁画を見たり、二胡を奏でる女性から僕の前世の話を聞いたんだよ」
「坂本さん、おかしいです。私たちさっきまで美術館にいました。
美術館では何も食べません。お腹空いてないのは、きっと朝ご飯沢山食べ過ぎたせい。
きっと、坂本さん夢でも見ていましたね。だって、美術館でも様子が変でした。
私の話は上の空で、触っては行けない塑像に触ろうとしたり、急に泣き出したり。
少し、ホテルに帰ってゆっくり休んだ方がいいです」
そういって、李丹はさっさとバス停の方へ向かって歩き出した。
僕の頭がおかしいと思われたことは心外だったが、これで彼女に話した今までの僕の身の上話も、
すっかり忘れて仕舞っているだろうと思うと幾分気が楽だった。
僕らはまたバスに乗って北京迎賓館飯店へ向かった。
李丹はそのまま帰ると言ってそのバスを乗り継いで行ってしまった。
ホテルの部屋に入るときちんとベットメイクがなされてサイドテーブルに薔薇が一輪挿しで飾ってあるのを見ると、
いつも恭子が部屋を心地よくきめ細やかに掃除していた姿を思い出した。
僕は皺ひとつ無いベッドの白いシーツの上に仰向けになった。
確かに疲れていた。まだこのホテルを出てから半日しか経っていないのに、
2〜3日ぶりに帰ってきたような時差を覚えた。
僕はあの若い頃の老婆が言った話を思い出したが、どこかの古い民話か仏教説話にしか思えなかった。
とてもこんな平凡な男が前世菩薩だったなんて信じられなかったし、もしそうだとしても、
今僕の置かれた状況が変わるわけでは無いような気がした。
いつのまにか僕はそのまま眠ってしまった。そして僕は敦煌の夢を見た。僕は来る日も来る日も貧しい
子供達と一緒にオアシスから水を汲み村へと運んだ。子供達は頭の上に水桶を乗せ水を溢さないように
慎重に歩いた。僕は両手に桶を持ち子供達を見守りながら後ろから付いて行った。そして子供達を励ました。
村に着き大きな水瓶にその水を蓄め、病に苦しむ人々にその水を分け与えた。そして僕の妻がその病に苦しむ
人々の看病をし続けた。その妻は恭子であり、時には吉田さんだった。夜になると妻は病の人たちや村の
人々の為に二胡を弾き心を癒した。二胡を弾いた妻は若き日の老婆だった。その音楽に合わせて恭子が
美しい舞を舞った。そして僕と妻は抱き合って眠った。抱き合って眠るのはかならず恭子だった。
そうして僕達は暮らし村人達と共に生きた。恭子は正に菩薩そのものだった。おそらく敦煌の菩薩は本当は
僕なんかじゃなくて恭子の事なのだろうと思った。恭子が亡くなる時に恭子は僕に言った。「あなたは私の
完璧な理想の人なのだから生まれ変わっても私はあなたの事を愛します。そしてあなたの事を必ず探しだします。
何故あなたなのかは分からないかもしれないけど、でもあなたしか見えないのです。それは決まっています。」
僕は恭子の言った言葉を忘れない様にするために菩薩の塑像に書き記した。そして僕は死ぬ直前までその
菩薩の塑像と一緒に暮らした。僕はまるで古い映画のような夢を見た後に目が覚めた。夢が妙に生々しかったのと
暖房を全開にしていたせいで皺一つ無かったシーツはぐっしょりと濡れていた。僕は今一つはっきりとしない頭で
今の夢の事を考えてみた。しかし少しづつまともになるにつれて、夢の記憶が薄墨の中にゆっくりと沈んで
行くのが分かった。一つの物を手に入れるたびに大切な何かを犠牲にして行かなければならなかったのだ。
僕は冷蔵庫からミネラルウオーターを取出し一気に飲み干した。窓の外は斜めに傾いた太陽が金色の光で
北京の街を包み込んでいた。それはまるで菩薩の持つ後光の様にも見えた。
随分汗をかいたので僕はバスルームへ行って熱めのシャワーを浴び、身体を隅々まで洗った。
僕は数少ない服に着替えて沢山たまっている汚れ物をついでに洗濯した。
バスルームにそれらを干し終えると、冷蔵庫からビールを出してベットに座ってそれを飲んだ。
突然味も素っ気もない機械的な音がどこからか鳴り響いた。
聞き慣れない音なので初めは何が鳴っているのか分からなかったが、
しばらくしてフロントで借りた携帯が鳴っている事に気が付いた。
「はい、坂本です」
「ああ、坂本君か、良かった繋がって」と部長が言った。
「どうしたんですか?今日は土曜日のはずですが」
「いや、昨日遅くまで会議が開かれて、急遽君に帰国して貰うことになったのだ。
君の後輩がその後を引きついでくれるから、通訳を連れて帰国してくれたまえ。
事務所はそのままでいい」
「でも部長、僕になにか落ち度があったのでしょうか?
もしよろしければ理由をお聞かせ願えないでしょうか」
「いや、君には帰国してこれから立ち上げる国内プロジェクトのチーフをやって貰う。
君のことだからベイジンの方はあらかた目鼻が付いている事だろう。申し訳ないが、頼むよ」
「分かりました。明日で構わないでしょうか?」
「もちろんだ。月曜日に出社出来るように帰ってくれればいい」
僕は部長に一応の報告をごく控えめにしておいた。
電話を切ってから僕はすぐに楊さんに電話をして急で悪いが明日帰国することになってしまったと告げると、
せっかくの休みが仕事になってしまったことに落胆を隠せない様子で渋々承知してくれた。
僕は、今日起こった出来事がこの急な帰国を決定づけている一番の理由であることに疑いを持たなかった。
彼らは僕の行く道に落ちるどんな小石も拾うと言っていた。
おそらく彼らがそうさせたのだろう。
僕はあの男が言っていた「まだ行って貰わないとならない場所がある」という言葉を思い出した。
それが敦煌の事なのか或いは日本の何処かなのかについて考えてみた。敦煌であるとすれば少なくとも
あと何日かは北京に留まるべきだし、日本の何処かで在るのならば新しいプロジェクトが待っているのだ。
そして僕はかなりタフな状況に立たされるだろう。しかし僕は恭子を探し出さなければならないのだ。
この国に来て僕は恭子との深い繋がりを確認できたことは大きな収穫であったのは間違いでは無い。更に
以前の僕ならば恭子との繋がりを見出だす事すら出来ずに日常の流れの中に身を任せてしまったはずだ。
しかし今は少しだけ違う。北京が僕を覚醒させ敦煌が僕を奮い立たせたのだ。その為に僕は今日の夜も
あの老婆の処に行かなければならないのだ。僕は二本目のビールを飲み終え窓の外を眺めた。既に綺麗に
整列した夜景に変わっていた。僕はこの規則正しく並んだ街の灯りをしばらく忘れることは無いのかもしれないと思った。
僕は時計の針が七時四十五分を指したのを確認して部屋を出てエレベーターに乗りロビーのある階に降りた。
白い壁の前で僕はしばらく待った後、銅羅の音が鳴りいつものように白い壁の中に入って行った。そこには
天蓋付きの椅子に腰掛けた薄い絹の衣裳を幾重も身に纏った若い美しい女性がいつもの様に僕を待っていた。
僕はいつもの様に老婆が待っているものだと思っていたのでひどく驚いた。しかしその女性は老婆に間違いは
無いのだ。僕が敦煌で出会った二胡を弾いていた女性だったからだ。僕はその女性の前に跪き目をつぶった。
女性はその二胡を弾きだした。その調べに僕は陶酔し敦煌に導かれた。そこで僕は菩薩の塑像を手にしていた。
塑像を丹念に調べるとそこには何やら漢文が刻み込まれていた。残念ながらその漢文の全てを読み取る事は
出来なかったが、夢で見た前世での恭子の言葉を刻み込んで在ることは直ぐに理解できた。読む必要性すら
無いのだろうと感じた。そして僕は前世の妻が恭子であったことを改めて確信できたのだ。
僕は塑像をそっと元通りにしてもう一度その菩薩像の顔を見た。
やはりそれば僕自身の像と言うよりは、恭子の像であるほうが相応しく感じられた。
それは美しく極めて女性的な美しさを放っていた。
僕が夢で見た恭子が病人の身体を拭いている時の慈悲に満ちた表情そのままだった。
僕が塑像から手を離すと、すうっと目の前の景色が揺らいでそこがまた元通りのあの白い壁の部屋に変わっていた。
そこにはさっきの若い女性ではなくいつもの老婆が座っていた。
老婆は二胡も持たずにただ静かに座っていたが、気が付くと彼女は既に息をしていなかった。
僕は生死を確かめようと脈を取るためにその腕を持つと、枯れ枝のような腕がみるみるうちに白骨と化した。
腕だけではなく老婆の顔も身体もまるでVTRの早回しのように白骨になり、それもつかの間にサラサラの白い粉へと変わり塵となって消えた。
来ていた豪華な衣装も化石のように脆く乾いて崩れ落ちた。
そこには老婆がいた形跡はどこにもなかった。そこにあるのは古く忘れ去られた記憶だけだった。
僕はその白い壁にもたれかかり、いつものように外に出ようと試みたが、その壁はもうただの白い壁だった。
僕はどこから出たらいいのか分からずに出口を捜すと、天蓋付の椅子の後ろに味も素っ気もない白いドアを見つけた。
僕がそのドアのノブを回すとなんの抵抗もなくドアは開かれ、見慣れたホテルのロビーに出ることが出来た。
ロビーでは相変わらず沢山の観光客が都会的な洗練されたファッションに身を包み、
パーティーかあるいはデートのための待ち合わせや会議や観光やそれぞれの目的のために、
傍にいる誰かと楽しそうに話していた。
僕は沢山の人たちの中で鋭い針が肌に突き刺さるような激しい孤独を感じた。
僕にはもう老婆さえいないのだ。
僕は言いようの無い孤独感に苛まれながらえエレベーターに乗った。僕以外乗っていないエレベーターは独特の
浮揚感を僕に与え微かなモーター音を携えて最上階に僕を置き去りにしていった。土曜日のラウンジは
昨日よりも更にざわついていた。僕はラウンジをひととおり見渡し窓際に1つだけ空いている席を見つけそこまで
ゆっくりと歩いていった。僕はその席に座りウエイターが来るまで大きなガラス張りの窓の外を眺めた。
しばらくしてウエイターがオーダーをとりに来たので僕はビールと何か軽い食事は何か無いかと聞くと
サンドイッチとオムレツがお薦めですとスマートな笑顔が言ったので両方とも頼んでみた。特にそれほど
腹が減っていた訳では無かったが夕食を食べていなかったしどちらか1つを選ぶのが面倒だったからだ。
僕はビールを待っている間にあの男がこの席にやって来るだろうと思い暫らく店内を注意深く眺めていたが
ローストビーフのサンドイッチとオムレツが僕の目の前に並べられても男の姿を見つけることは出来なかった。
僕はビールを飲みながらサンドイッチとオムレツを食べ終えてスコッチのロックをオーダーした時に
気が付くと僕の前にあの男が座っていた。さすがに今日だけは驚かなかった。僕が行った敦煌の事について男が
何かを伝えに来る事は分かり切っていたし、あの老婆が突如消えてしまった理由を聞かなければならないのだ。
「こんばんは坂本さん、ずいぶんお疲れのご様子で。」と男は労いのつもりなのか小さく鼻を鳴らしてそう言った。
「そうですね、かなり疲れましたね。あなたが言っていたもう1つの僕が行かなければならない敦厚に何度も
行って来ましたからね。昨夜僕に言っていた所ですよ。恭子と僕の前世の繋がりを確認してきましたよ。」
と僕は男に向かって言った。それくらいの事は僕にだって言う権利があったし明日は男が設定したように
日本に帰る事が決まっているからだ。僕はもうこの男の指示を仰がなくてもいいはずなのだ。
「坂本さん、一体何の事を言ってらっしゃるんです?わたしが何時敦煌に行って欲しいと申し上げたのです?」
男は不適な笑顔を見せて僕にそう言った。とても冷ややかな笑顔だった。ラウンジの空気が一遍に凍りついた気がした。
「それは一体どういうことなんですか?僕はあの老女の導かれるままに敦煌に行って莫高窟野中の老女に
会って僕と恭子の前世の深い繋がりをこの目で確認してきたんですよ。菩薩の塑像に刻み込まれた恭子の
言葉の全てを確認してきたんです。ですから僕が日本に帰れるように貴方が手配したのでしょう?」
「確かに坂本さんが日本に帰るように手配したのは私です。しかしそれはあくまでも坂本さんが
とても早くそして思ったより巧くあの老婆の呪縛を解き放ったからです。それは間違いありません。
しかし、それはあくまでも一つ目の扉を開け放ったに過ぎません。それに敦煌で坂本さんと恭子さんの
繋がりがあった事など我々は全く関知していません。それはおそらくあの老婆が坂本さんに見せた
理想や希望によく似た嘘なのかも知れません。坂本さんがしなければならない事はとりあえず
日本に帰ることです。」と男は全く表情の無い顔で僕にそう言った。言われてみれば確かに
「敦煌」という言葉をこの男から一度も聞いてはいなかったのだ。それに僕にとって敦厚は老婆に
導かれたのであってこの男の指示は一度も受けてはいなかった。それならば僕が見てきた敦煌は
一体何だったのだろう。そういえば李丹も敦煌の事は美術館以外に何一つ憶えてはいなかったのだ。
「それでも坂本さんはよくやっていらっしゃいますよ。予想以上ですよ、お世辞は抜きにしてです。」
男はそう言って自分の猿回しの腕が確実に上がった事に非常に満足したような表情をしていた。
僕は再び混乱していた。僕の周りで何かが起こりそれにより恭子が消えて僕は何も分からないまま
異国に降り立ち見た事も無い辺境に惑わされているのだ。とらえようの無い不安感と焦燥感に包まれ
僕は逃げ出す事すら出来ないでいるのだ。宙を彷徨っていた視線を戻すと男はすでに僕の前から消えていた。
僕の相方は何処に行ってしまったのだろう?
どうやら僕は君の書く続きがないと何も書けないみたいだ。
もしかしてフランスにワインを買い付けにいってるのか?
それとも熱海に慰安旅行にでも行っているのか?
多分95さんも待っていると思うから早く帰ってきて続き書いてくれ。君の番だ。
一人ではさすがに無理だ。
265 :
95:2006/12/02(土) 01:05:54 ID:AFHfXpFj
待っています。
書けない私は待つだけの女です(涙)
早く戻って来てよ。95さんもこう言ってるしね。
女性を待たせちゃ駄目だよw
罪なやつだなw
ごめんねしばらく本当に忙しかったんだ。
読者がいる限り書き続けなければならい。
これはマナーだよね。
95さん、泣かせてごめんなさい。
それでは僭越ながら、再開させて頂きます。
僕は部屋に戻り、簡単に荷造りをした。
もうこのホテルに泊まることは無いかもしれないと思うと、故郷をひとつ失ったような不思議な寂しさがあった。
僕がこの北京に来て、そして夢か幻覚みたいなもので敦煌に行って来た事が、ほんの1週間のうちに起きた事とは到底思えなかった。
それはとてつもなく長い旅だった。僕の過去であり、恭子の過去を旅したのだ。
熱いシャワーを浴び、風呂場で恭子を思いながらマスターベーションをした。
実に久しぶりだった。たまらなく恭子を抱きたかった。
恭子は僕が求めた時はほとんどの場合、セックスに応じてくれた。
生理が重くてどうしても出来ない場合を除いては、求めれば必ず僕のペニスを優しく口に含んで愛撫したし、
僕が彼女の中に入れば自らその動きに応じて反応した。
愛している女性からそうされるのは、当然のことながら本当に幸せな事だった。
僕は風呂あがりにHeinekenを飲んでその近未来都市のように発展した北京の夜景を眺めた。
東京の夜景とは違っていたが、どこがどう違うのかは上手く説明できなかった。
まるでよく似ていてもすぐに見分けがつく醜い双子みたいだった。
日本に戻り、これで本当に恭子に再び逢えるのだろうか?
分からなかった。敦煌まで旅をし、一人の不幸な老婆の最後を看取っても、何一つ分からなかった。
僕が過去に何者だったにせよ、そんなことはどうでもよかった。
今すぐここで恭子を抱きしめたかった。もう二度と君を離さないと言いたかった。
ベットに横になると、信じられない事に僕は泣いた。
僕は恭子の不在という重みに絶えられず、今にも押しつぶされそうだった。
そして次第に意識が遠のいて僕は眠りに落ちた。
夢の中で「誰にも必要とされなくなった時、人は死ぬのじゃよ」と老婆が言った。
>>267 もう書いてくれないかと思って心配したよ。
書けない時には書けないって書いてくれると助かるのだが。
まあ、忙しいなら仕方ないか。
朝、眼を覚ますと相変わらずの晴天だった。この6日間ずっと晴れていたし、雨どころか雲すら殆ど無かった。
窓の外を眺め柔らかい朝日に包まれた北京の街をおそらく二度と来ないであろうと考えると不思議な淋しさに
似た感覚が僕を襲った。それは病院を退院する入院患者のそれに似ているのかも知れない。不本意ながらも
ある一定の場所に留まり、いつとも知れぬ帰る日を数えやがて来たるべきその日を迎えた、喜びや安心しかし
長ければ長いほど感じる愛着に似た淋しさや何かだ。もう二度とこんな処には来たくないし戻りたくはないのだ。
僕はバスルームで髭を剃り顔を洗い時間を掛けて歯をみがいた。最近少し歯がしみるのを感じていたから
鏡を良く見ると犬歯の下の歯が少し虫歯になっていた。僕は日本に帰ったら歯医者に行かなければいけないと思った。
歯医者に行くのは少し憂鬱だが、行かずにひどくなることを考えるのも憂鬱だ。僕はしばらくそんな事を
考えた後服を着替え地下一階のバイキングレストランに行き朝食を食べた。このホテルの朝食をもう
食べられないと思うと少し残念だったが、僕はもともと朝食に関してはそれほど執着はしないので大した
問題では無いのだ。僕は部屋に戻り全ての帰国の準備を終えた事を確認したあとエレベーターに乗りロビーまで
降りていきそしてフロントでチェックアウトの手続きをした。僕はロビーで変な違和感を感じた。その違和感
に気付いたのは支払いを済ませた直後だった。このロビーの独特の嫌悪感が消えているのともう一つあの
黄色い円柱に挟まれた白い壁の部屋が見事なくらい綺麗に無くなっているのだ。僕は受け付け係りの人に
あの部屋は何故無くなったのかと訊いたが、僕の英語が拙いせいかフロントの人が英語が苦手なのか解らないが
上手く伝わらなかったみたいだ。その部屋は知らないと言っているようにしか聞こえなかった。他の人にも
聞いてみたがやはり同じ様な事しか言わなかった。そこにあるのは上等の牛皮を使った黒いソファーが
しばらく前(おそらく4〜5年前)からそこにあるしそんな処に部屋なんて無いと言っているのだ。
僕はそのソファーに座りぼんやりとエントランスを眺めた。チェックアウトの人やベルボーイの荷物を
運ぶ姿なんかをだ。ベルボーイは良く訓練された犬のように、幾つものスーツケースを台車の上に載せ
スーツケースの主人の後を付かず離れず歩いていきタクシーやバスのトランクルームに丁寧に置いていた。
彼らは厚手のコートと制服に包まれたとびきりの笑顔とサービスに何かしら大きなステイタスを感じている様に
見えた。おそらく彼らはこの北京ではかなりのエリートなのだろう。きちんとした職場できちんとした
身なりをしている、限られた人間なのだ。ぼろ雑巾のような服を着て目の見えない振りをしながら夜の街を
徘徊して人の同情と施しを望む多くの絶望的な老人や子供たちとは違うのだ。気が付くと僕の目の前に
楊さんが立っていた。楊さんは少し淋しそうな目をしていた。また家族と離れて暮らさなければならない
事や家族と一緒に過ごす筈だった休日が仕事で拘束された事なのだろうと思った。後ろには李丹が立っていた。
「楊さんおはようございます。急なことで本当に悪いと思ってるよ。せっかくの日曜日に帰ることになってね。」
「坂本さん。気にしないで下さい。これも仕事ですから仕方ない。でも随分急だったですね。」
「そうだね、僕も正直驚いたよ。昨日急に連絡が入った時はね。でも楊さんや李さんは暫らく僕の代わりに
やってくる会社の人間の通訳を引き続きやって貰う事になるんだ。だから今日は空港に一緒に行ってくれれば
その後は休みになるし一日分として給料に組み込まれる筈だよ。昨日の電話で言い忘れたけど」と僕は言った。
「そうですか。そうですよね。まだあのファイルの入力はまだ終わってないです。別の人くるですね。」
楊さんは嬉しそうな顔で僕にそう言った。そして楊さんの足元にある大きな布製のバックを見ていた。
「それじゃ空港まで案内してくれないかな?まだ僕にはこの国の文字や言葉を理解出来て無いからね。」
「あ、坂本さんこれ。」と言って楊さんが僕に白い封筒を渡してくれた。中を見ると飛行機のチケットが入っていた。
僕は驚いてどうしたのか聞いたが、急に日本語が解らなくなった外国人労働者の様に無口になった。
「楊さん、いったいこのチケットはどうしたのかな?」と僕は楊さんにもう一度聞いてみた。
「・・・」楊さんは僕の目を見ないようにしてずっと下を見ていた。僕に何かを隠しているように見えた。
「ねぇ、楊さん。僕は楊さんの事は信用してるし、話せない理由があるならそれはそれで仕方がないと思うんだ。
でも僕は楊さんを疑ったりしないし、楊さんの不利になるようなことはするつもりは無いんだ。ただ僕は
楊さんが何故飛行機のチケットを何故渡してくれたのか知りたいんだよ。一体何が有ったのかって事をね。」
「今は言えません。私はその封筒何が入っていたのか、知りません。でも坂本さんに渡すよう、言われた。」
僕は楊さんが適当に誤魔化している様には見えなかった。おそらくあの若い男が楊さんに渡したのだろうと
思った。それくらいの事を彼はするだろうし、楊さんに口止めをしたのだ。この国で彼はその行動を秘密裏に
しなければならない何かがあったのかもしれない。僕は楊さんに空港に案内して貰うように話した。
僕がスーツケースを引いて歩くと直ぐにベルボーイがやってきてスーツケースを僕から受け取りタクシーの
トランクにそれを積み込んだ。僕達はそのタクシーに乗り込み空港まで行くように楊さんが運転手に伝えた。
車の中では妙な沈黙が僕を包み込んでいた。僕はタクシーの中から古いアパートが取り壊されていく街を
眺め続けていた。万が一僕がこの街にもう一度来ることが有ったとしてもこの古い北京と新しい北京の不可思議な
調和をもう二度と見る事は無いのかと思うと少し残念な気がした。そしてこの気まずい雰囲気もだ。
僕はふと昨日の部長からの電話を思い出した。「すぐに通訳と一緒に帰国してくれ。」と言われたことをだ。
しかし僕は今朝の楊さんの悲しそうな顔を見たときに楊さんは暫らくこの国に残るべきだろうと思った。
知らない通訳があのファイルを見て不信に思わない筈はないし、楊さんは通訳よりもファイルを処理して
貰ったほうが何かとスムーズに事は運ぶだろうし暫らく北京で暮すべき人間なのだろうと思ったからだ。
明日部長にそう伝えれば不信に思わないだろうし。何より楊さんの暗い表情を日本迄隣の席でされるのには
少しうんざりしているのだ。気が付くとタクシーは、北京空港に到着した。
搭乗手続きまでを楊さんに通訳してもらうと、出国審査のゲートの前で僕らは別れることになった。
楊さんはとても申し訳なさそうな顔をしていた。彼が僕に対して何をそんなに申し訳なく思っているのか分からなかったが、
彼の人柄の良さがそうさせるのだろうと僕はポジティブに考えた。
「楊さん、そんなに落ち込まないで。新しい人とはうまくあのファイルを使って仕事を終わらせて下さい。
もし、新しい担当者があのファイルをどうしたのかと尋ねたら、僕から預かったと言って下さい。
うまくごまかしておきますから」
「わかりました。私はもう少し、坂本さんにお役に立ちたかった。こんなお別れで寂しく思います」
「大丈夫だよ。また、あのライブハウスで逢いましょうよ。日本にはどうせ仕事が済んだら戻るんでしょ?」
「はい。なんとか学校は卒業したいです。日本に戻ったら、必ず連絡します」
僕らは握手をして別れた。楊さんがあの男から何らかの脅しを受けている事は明らかなはずなのに、
それでもそう言ってくれることがとても嬉しかった。
僕は飛行機に乗り込み小さくなっていく北京の街を眺めた。
北京にまだ恭子がいるのかどうかも分からないまま帰国するのは残念だったが、
そもそも恭子が北京にいたのかどうかさえ不確かなのだ。
僕は恭子に近づいているのだろうか?
そんな問いかけには誰も答えてくれなかった。
代わりに美しい黒髪を綺麗にまとめ上げた美しいスチュワーデスがにこやかにドリンクを勧めてくれた。
僕はハーパーのロックを頼んで微笑みを返した。
しばらくしてそのスチュワーデスがハーパーのグラスと一緒に僕に小さな紙切れを渡した。
僕が「これは?」と問いかけても彼女はまったく聞こえない素振りでにこやかに立ち去った。
それは名刺くらいの紙切れで、裏には携帯の番号だけが書かれていて、名前も住所も何もなかった。
僕は紙切れを何度か裏返したり、透かしたりしてみたが、一体それが何を意味するのかまったく分からなかった。
僕はあきらめてその紙切れをジャケットの内ポケットに仕舞い、「やれやれ」とつぶやいた。
成田に着き荷物を受け取り周りを見渡すと新婚旅行帰りのカップルがやけに目についた。そういえば日本の
十月といえば比較的結婚式や新婚旅行が増える季節だというのを思い出した。しかし僕と恭子は新婚旅行も
それどころかまともな結婚式すらしていなかったのだ。僕はそんな彼等(あるいは彼女等)に囲まれ
言い様もないさみしさに襲われた。僕は突如居なくなった恭子を探すため中国の北京に迄行き結局何の手応えも
無いままこの成田にいるのだ。たった独りなのだ。そしてこれといった手がかりすら持ち合わせてはいなかった。
幸せそうに話をする人たちの中で僕一人だけが途方にくれているのだ。楽しい会話の外で不思議な体験を
思い出しながら検疫やら入国手続きの列に並び孤独感に押し潰されていくような気分にさせられていた。
僕は入国手続きを終え成田エクスプレスの駅に向かう途中で、ふと飛行機の中で渡された携帯電話の番号が
書かれた紙の存在を思い出した。僕は人目を気にせずスーツケースを開き奥にしまってあった携帯電話を
取り出した。電源を入れてみると幸い電池はまだ切れていないようだったので、メモを上着の内ポケットから
出してそこに書かれた番号にダイアルしてみた。五回ほど呼び出し音が鳴ったところで留守番電話の冷淡な
アナウンスが流れた。僕は何かメッセージを入れようか迷ったがアナウンスが終わる前に電話を切る事にした。
僕はこの番号の持ち主に心当たりが有るわけでは無かったし、あのスチュワーデスの番号だとも思えなかった。
だいいちどんなメッセージを入れればよいのか良く解らなかったのだ。僕はしばらく携帯電話を見つめた。
しかしおりかえし電話が掛かってくる様子も無かったので、僕は携帯電話を上着のポケットにしまい込んだ。
僕が上着のポケットから手を抜いたとほぼ同時に携帯が鳴った。
電話に出ると、長年まったく連絡をしていなかった母からだった。
「ずっと電話していたのよ。携帯の番号を会社の方から聞いたの。
でもまったく繋がらなくて」
「中国に行っていたんだ。仕事だよ。でも一体なんの用?」
「恭子さんがうちに来たのよ」
「恭子が?」僕は驚いて大声を出してしまった。
「そうなのよ。挨拶でこっちに来たとき一回だけしかお会いしてなかったし、結婚式もしなかったから最初誰かわからなかったわ。
でも恭子さんだって、後になって気が付いて追いかけたけど、タクシーに乗ってすぐに行ってしまったの。
先週の火曜日の朝早くだったわ。これをあなたに渡してほしいって手紙のようなものを渡されたの。
郵便で送ろうと思ったんだけど、できれば手渡ししてほしいって言われたの。
私もそうそう一人で東京に行くのも不案内だし、あなたの都合もあるからと思って、それで電話していたのよ」
「恭子が一人で実家まで行くなんて・・・」
「ねえ、あなた達、何かあったんじゃないの?」
「電話じゃうまく言えないけど、とにかくそっちに行くよ。多分今日中には行くから。」と僕は言った。
「じゃ待ってるからね。気を付けて来るんだよ。」と母は言った。幾分動揺しているような声だった。
火曜日といえば恭子の友達の吉田さんと寝た翌日の朝で僕が中国に発った日の事だ。
僕は成田エクスプレスに乗りマンション迄急いで帰った。恭子の書いた手紙があると聞いた所為で僕は少し
冷静さを欠いているみたいだった。実家のある藤沢には電車で行くほうが確実に早いのだ。僕はマンションに
スーツケースを置きゴルフの鍵を掴んで部屋を出た。僕は駐車場に止めてある車に乗り込み東名高速に乗った。
十月の日曜日とあって東名は少し渋滞していたが反対車線の渋滞よりは少しましだった。FENを付けると
トーキングヘッドがテンポの良いナンバーを歌っていた。「話し掛ける頭」と僕は言ってみた。しかしDJは
そんなことはお構いなしに次の曲を早い英語で紹介していた。僕は秦野のインターを降り実家のある藤沢市に
向かってゴルフを走らせた。実家に着いたのはかろうじて日が暮れる少し前だった。郊外と言うよりは
町外れの田舎にある実家は日々変わっていく市街地のそれとは対照的に、時間の流れに乗り遅れた昭和の遺物の
様に見えた。周りの景色も道路さえも僕が住んでいた頃と何一つ変わっていなかった。ある意味カルチャーショックを
受けてしまう位だ。僕は家の前の道路に車を止め鍵を抜きドアをロックもせずに家のドアをノックした。
暫らくすると奥から母の声が聞こえ鍵を外す音と一緒にドアが開け放たれた。母は僕を家のなかに入れ
居間に入るように促した。しばらくしてトレイの上にふたつコーヒーを乗せて母が入ってきた。
それをテーブルの上に置きエプロンのポケットから白い簡素な封筒を僕の目の前に置いた。
「この手紙のようなものを恭子さんがお前に渡すように言って預かった物だよ。」と言った。
僕は奪うようにその手紙のようなものを掴み封を切って中身を確認した。そこには何枚かの便箋が入っていた。
僕はその便箋を開いて中身を読むことにした。その便箋にはこう書いてあった。
277 :
95:2006/12/08(金) 08:56:18 ID:nWs+7kZ+
僕の実家が藤沢だとは・・・(感無量!!)
ますます展開が楽しみです。
拝啓
あなたに手紙を書くのは初めてのことですね。
今までどうして手紙という手段を思いつかなかったのか、不思議なくらいです。
というのも、私は随分長い間日記をつけていたので、文章を書くということはとても自然な行為だったからです。
それでも、私は自分しか読むことの無い文章ばかり書き続けてきましたから、
誰かに自分のつたない文章を読まれるということがどういうことなのか、正直判らなかったのかもしれません。
私という人間を誰かに知って欲しいという欲求自体が、私の中には希薄にしか存在していなかったとも言えるかもしれません。
それでも、マンションを黙って出て行くことしか出来なかった私はどうしてもあなたに話さなければならないことがあったし、
それをどのように伝えるかを悩み続けていたのかもしれません。
そして、昨日公園のベンチでぼんやりと座って考え事をしていたら、向かいのベンチに座っていた女子高校生が、
学生鞄を机代わりにして、かわいいピンクの便箋で手紙を書きはじめたのです。
そして彼女は時々空を見上げたり、はっと思いついたような表情を見せたりしながら、おそらく好きな人に向かってボールペンを走らせていました。
それはとても自然で、微笑ましい光景でした。
私はそれを見て、はたと思い至ったのです。
あなたに手紙を書いてみよう。そして私が今まで話すことが出来ずにいた思いを綴ってみようと。
そんなわけで私は今初めてあなたに手紙を書いています。
おそらく、その女子高校生よりもずっとどきどきと胸を高鳴らせながら。
さて、一体私は何から話すべきなのでしょう。
何を話し、何を話さないべきなのでしょう。
というのも、私にとって私の人生というのは迷路のように入り組んでいて手に負えないほど複雑に絡み合って、
今では元々の形どんなものであったのかさえ、思い出せないくらいなのです。
この便箋は、あなたにとっては2枚目でしょうけど、私にとってはもう6枚目です。
何度も書き直して破り捨てて、それでもまだ語り口というものが見つからないのです。
だからまどろこしいなんて思わないで下さい。私も精一杯努力しているのです。
今手紙を書き始めて1時間ほどが経過しています。
時計というのは実に正直にその仕事を全うしています。
秒針は1秒づつ動きますし、長針は1分ごとに動きます。
彼らは自分の仕事をきちんと理解し、お互いの役割を間違ったりしません。
そういう積み重ねを経てやっと短針が目に見えた形で数字から数字へとその針先を変えます。
そういう姿を見ていると、私が私としての役割を理解し、その有るべき姿を全うすることが、
実は難しく考える程複雑な事ではないような気がします。
私はもしかしたら、時計の針に生まれてくるべきだったのかもしれません。
一秒か、あるいは一分ごとに決まった方向に(逆周りを時々しなくてはならないというような複雑な仕事は抜きにして)、
動いて行くだけの人生だったら、どんなに幸せだろうと思います。
それでも私は私であることを途中で放棄する権利がありません。
実に残念なことですけど。
そこで、時計に知恵をお借りして、私は時系列に話そうと決意しました。
つまり、私という人間が誕生し、今ここであなたに手紙を書くに至るまでと言うことです。
でもそれを書き始めたらおそらく本一冊分でも足りないくらいでしょう。
ですから、少しどうでもいいことは抜きにして、大事な部分だけを時系列で話してみます。
あなたが、退屈にならないといいのですが・・・。
実は、私は北京で生まれました。やっと授かった一人娘というのが両親の口癖でした。
両親はまだ日中の国交が回復したばかりの北京に政府関係者として滞在していました。
父の仕事がどのようなものだったのか私には分かりませんでしたが、
かなり裕福な生活をしていたことから、日本政府の高官として、
中国共産党との間に様々な意味合いで橋を架けるような事をしていたのだと思います。
物心のつく頃から私は不思議な夢を見るようになりました。
それは未来の夢で、しかも全てちゃんと本当の事になりました。
当時知らなかったジョンレノンが殺害されたシーンを夢に見たりもしました。
でも、私にとってはそれはまったく知らない外国人の出ている映画のシーンにしか見えませんでした。
私がそれを知ったのは随分大人になってからです。
身近な知り合いの家事や、近所の家の子どもが事故で亡くなる夢をみると、私は母にこっそり話しました。
すると本当に数日後にはそれが本当になりました。
私はだんだん恐くなり、私が夢を見るせいで、それらの事件が起こっているような気がしました。
そんなある日、私が15才くらいのとき、父は私を中国の精神病院らしき場所に連れて行きました。
私は変な声で叫んだりする患者さんのいる病棟を抜けて、ひとつの部屋に入り、そこで精神科医らしき人に診察をされました。
しかし、たぶんそこで私は催眠術で眠らされ、どんな質問をされたかはまったく覚えていませんでした。
そして気が付いたときには私は文字通りベットに縛り付けられていました。
両腕は肘と手首に、足は膝と足首に革製のベルトが縛られ、思い出すのも嫌ですが排尿管まで取り付けられていました。
私はパニックに陥り、大声で叫ぶと、看護士さんが数人駆けつけてきて、あの医師がやってきました。
「君はある手術を受けたんだよ」と医師は言いました。
私は訳が分からず、とにかくベルトを外してくれと言いました。
そしてやっと自由になれたその手で頭を触ってみると、頭にはぐるぐる巻きに包帯がされていました。
彼らは私の知らない間に私の頭の中をかき回したのです。
しかし、何週間か経って退院してみると、私はもう不思議な夢を見なくなりました。
そしてあの憂鬱な言いしれぬ罪悪感からも解放されていました。
どんな種類の、なんという手術をしてそうなったのかは分かりませんでしたが、私は前より確実に幸せになっていました。
そして17才の時に日本に戻り、高校を卒業して大学に進学し、普通の幸せで脳天気な女子大生になりました。
しかし、そんな幸せな時間は悪魔との契約によってもたらされた一瞬の快楽でしかなく、私はまたあの変な夢を見るようになってしまいました。
それはゼミの中である助教授と友人の女生徒の淫らな不倫関係を知らせる夢に始まりました。
私は何度もその夢を見た後、その友人が助教授を刺してしまう夢を見てしまいました。
どうにも我慢が出来ずにある日、その友人にそれとなく助教授の事をどう思っているのか訊きました。
しかし、彼女は私がその先生を好きになったと勘違いし、私を無視するようになりました。
その3日後に彼女は本当に先生を刺してしまいました。先生は一命を取り留めましたが、失血がひどかったせいで脳に障害が残り、
学閥から去っていきました。奥さんは不倫関係を知ったことでその助教授と別れ、彼は天涯孤独なまま障害者としての人生を送ることになり、
友人は逮捕され、実刑判決を受けました。私は彼女を救うことが出来ませんでした。
それ以来、私は夢を見ても絶対に人に話さないと心に決めて生きてきました。
自分の生い立ちも話せません。夢と私の人生は切っても切り離せない影法師のようなもので、
身の上話をすれば結局夢の話をせざるを得ません。
私はそうやって口を堅く閉ざし、ひっそりと静かに生きていこうと決めました。
しかし、ある日、私はとうとう両親の夢を見てしまいました。
私が就職して一人暮らしを始めた頃のことです。
定年を迎えた両親は二人きりでヨーロッパに旅行に出掛けていました。
そして旅先で乗っていたバスがテロリストに爆破され、両親は二人とも死んでしまう夢でした。
私はそのときだけは両親に電話をし、とにかくバスにだけは乗らないでくれと言いました。
両親は私の予知夢の事を知っていましたから、すぐに承知してくれました。
しかし、その夜また今度は両親が乗っていた飛行機が落ちる夢を見たのです。
そうです。もうその後は推して知るべしで、私がどんなに手を尽くそうとも、両親が死んでしまう運命を変えることは出来ませんでした。
もう5回くらいの様々な両親の死に様を見せられて、私が半ばあきらめた時、電話が鳴りました。
日本大使館からで、旅行中に暴漢に襲われ、二人とも胸を銃で撃たれて即死でした。
私は両親の遺体を引き取り、葬儀やら何やらを全て終わらせた頃、あなたの夢を見ました。
私はあなたが同じ会社にいる人だということにしばらく気が付きませんでした。
まだ会った事もないあなたと何度も交わる夢をみました。
夢の中で私たちは既に結婚していて、本当に幸せな夢でした。
そして私はあなたにあの雪の降る日に本当に出逢いました。
私はとても幸せでした。あなたと暮らし始めてからはあまり夢も見なくなっていました。
些細な、どちらかと言えば良いニュースの夢ばかり見ました。
だから私はあなたとずっと一緒に居たかった。
こんな風にお別れしなければならないのは心を引き裂かれるような思いです。
でも、どうか自分のせいだとは思わないで下さい。
吉田さんとのことは私にとってはどうでもいいことなんです。
あなたがそうしなければならないと思ってしたことだから、私は何とも思っていません。
だから、絶対に自分を責めたりしないで下さい。
私が出て行かなくてはならないのは、私のせいなのです。
本当にあなたと暮らした幸せな時間は、私の人生の数少ない宝物です。
どうか幸せになって下さい。
本当にありがとうございました。
恭子
僕はその手紙を読み終えて体が震えているのを感じていた。腕が足がそして背中が小刻みに震えていた。
まるで僕の意識していないところでそれは起きているようだった。耐えられない心の震えと無力感や喪失感が
僕を支配しているのだと思った。手にしていた便箋を強く握り締め僕の視線は空虚を彷徨っていた。
僕はその場に居る事が出来ずに家を飛び出しゴルフのキイを廻していた。家の中から母親が何かを
言っている様だったがその言葉はエンジンの音にかき消されてい僕の耳にはとどいていなかった。
あるいは僕の意識がそれを拒否していたのかもしれない。僕はゴルフのアクセルを力いっぱい踏み込みながら
日が暮れた国道を走っていた。何台かの対向車に接触しそうになりたいていの車は僕の車を避けるために
大きく進路を変えたり車を端に寄せて止まったりしていた。僕は車の中で大きな声を出していた。
それは言葉にならない声で自分自身に対する罵声のようなものだった。知らぬ間に海沿いの国道を東に向かって
ゴルフが疾走いや暴走していた。強い後悔の念や無力感が長い暗渠の影を引きずっているみたいに感じていた。
僕は今まで恭子の事を何一つ理解していなかったみたいだ。もちろん恭子の過去について一度も訊いた事も
無かったし、彼女も話そうとしていなかったので恭子の数奇な運命について知らなかったのは仕方が無いにしてもだ。
あの手紙を読む限りでは恭子は僕の為に僕の元から離れていった様にも感じ取れた。恭子が僕に起こる何かを
恭子が全て引き受けて消える事しか出来ないでいたような気がするのだ。北京であの若い男が言っていた事を
思い出した。恭子を助け出すのには僕が必要だと、僕以外にはそれは出来ない事なのだと。
あの男の言う次の扉を僕が開け放つ以外に選択肢が無いのだ。あの男の連絡を待ちそれに従う事しか
今の僕には出来ないのだ。携帯電話を取出しあの男からの着信が無かったかを確認しようとしたが、
残念なことに電池が切れていた。僕は男からの連絡を待つ為にマンションに向かうことにした。
僕に出来る事はそれ以外に方法が見つからなかったし、おそらく男は僕が帰るのを待っている筈なのだ。
一般道の渋滞にはかなり参ったがそれでも東名の上りに比べればいくぶん早くマンションに着くはずだ。
何とか日付が変わる前に部屋に戻り、僕は自宅の電話からあのスチュワーデスに渡された携帯の番号に電話をした。
2回目のコールであの男が電話に出た。
「手紙を読まれたのですね」と彼が言った。
「ええ、やっと何故恭子をあなた方が利用しようとしているのかってことが分かりましたよ」
僕がそう言うと、男は少しの間沈黙した。
でも僕は前のように動揺したりしなかった。僕にはもう恭子を救う明確な理由が有るのだ。
「我々は恭子さんを利用しようなどとは思っていません」
「それはどうですかね。恭子が15才の時に彼女を手術したのはあなた方でしょう?」
「そうです。恭子さんを救うためです。彼女はもうすぐで自殺しかねない状態だったのです」
「彼女の両親を殺したのはあなた方ではないのですか?」僕は半ば八つ当たりでそう言った。
「もちろん、違います。あなたがどう思ってもかまいませんがね。
我々が恭子さんをお守りしているのは、彼女の様に不思議な能力を持った人たちの命を守る任務があるためなのです。
彼らは大変に傷つきやすく、世の中の全ての不幸を我が事として背負い込んでしまう傾向があります。
しかし、彼らには何の罪もない。彼らは人類の新しい進化の形なのかもしれないのです。
我々は、彼らが今まで通りの普通の生活を続けて行く中でしか彼らの能力が発揮されないことを知っています。
過去に恭子さんのような能力を持った人を研究室に閉じこめて軍事利用しようとした国もありましたが、
実際にはそういった形ではほとんど正しい予知能力は発揮されませんでした。
恭子さんの場合には、その予知能力が極めて高いばかりかその精神力の強さに至っては目を見張るものがある。
しかも極めてIQも高い。天才には多くの場合通常の社会生活を送ることに困難を感じる社会的不適合者が多いのですが、
恭子さんは結婚生活においても極めてすぐれた適合性を発揮されました。
そのような能力者は万に一つの可能性と言って差し支えない。
だからこそ我々は恭子さんの死を避けなければならないし、出来ることなら彼女の子孫を観察したいのです。
それにはやはり、坂本さんの協力が必要です。
彼女はもう33才です。出産を安全に自然に迎えるにはもう時間が無いのです。理解して頂けましたか?」
僕と恭子は今まで子どもの事について話し合った事が無かった。
僕が一度だけ「もし僕らの間に生まれてくる子が女の子だとしたら君に似た綺麗な子だろうな」と言った事があったが、
それについて彼女は否定も肯定もせずに、少し悲しそうな顔をしただけだったのだ。
僕はそれ以来彼女に子どもを産んで欲しいとか、出産にまつわるような話題は避けていた。
恭子が欲しいと言えば喜んで受け入れる気持ちはあったが、恭子の意志を尊重したかったし、
何しろ子どもが産まれるより恭子そのものを大事にしたかったのだ。
「子どもの事については恭子の意志に任せているので何とも言えません。
でも僕も恭子を絶対に死なせるわけにはいかないし、彼女との生活を取り戻したい。
そのためならどんなことでもします。僕に一体何をしろって言うのですか?」
「はははっ。失礼。私は貴方に何かを指示する必要はもうありませんよ。日本に戻る事以外には。」
「一体どういう事ですか?僕は今まで貴方の指示する事を全て受け入れた筈です。そして今回も貴方の
言うとおり日本に戻って来たのです。貴方は前に僕に言いましたよね。貴方達に協力すれば恭子がまた僕の
元に帰ってくると。」僕はいくぶん興奮していた。恭子の手紙を読み、僕が改めて恭子を求めている事を再確認したせいだ。
「私は貴方が感がいいのか、それとも奇跡的に運が良いのか少し疑問がのこります。貴方はもう解っている
筈ですよ。何をすべきか位は。貴方は驚嘆する位に巧くここまで来たのですよ。もう貴方に任せる以外に
我々もすべき事は残されていないのです。ヒントは貴方ご自身なのです。貴方が中国で巧く立ち回った事です。」
そう言ったあと男は電話を切ったようだった。受話器に残された記号的な通信音だけが残されていた。
一体彼が何を言わんとしていたのか僕には良く解らなかった。僕には恭子が残したメッセージを良く理解
しなければならない事以外には何も考え付かないのだ。僕は恭子が子供の頃から見続けた予知夢の事を考えた。
悲しい結末の待つ夢の事で恭子が深く傷つき悲しんだ夢の事をだ。そんな夢の持つ現実を僕は考えた。
僕はそんな事を考えながら冷蔵庫のビールを飲んだ。そのビールは真冬の北極海のように冷えていた。
僕は予知夢について考えていた。それは僕も感じていた事だ。北京迎賓館飯店の事なのかもしれなかった。
恭子を求める僕の潜在意識が見せたのか或いは恭子が僕に見せたのか、もしかすると僕にも僅かながら
恭子と同じ能力が在るのかもしれないと。唯一違っていたのはそれを予知夢と分かっていたのか否かだけだ。
つまりあの男が言いたかったのは僕に予知夢を見せたかっただけなのかも知れない。
僕はそんな風に考えていた。そしてそんな未来を期待するために僕は再び仕事に打ち込むことにした。
僕はバスルームに行き熱いシャワーを浴び髭を剃った。久し振りに入ったマンションのバスタブは僕をとても
リラックスさせてくれた。僕はバスルームを出ると寝室に行きダブルベッドに潜り込んだ。独りきりのベッドで
優しくそして甘い恭子の匂いを僕は感じていた。そしてその恭子の匂いを感じながら深い眠りに落ちていった。
そして僕は奇妙な夢を見た。それは真夜中の敦煌だった。二胡の哀しげな音の聞こえる淡い月明かりの砂漠に
悲しげな表情で佇む恭子がそこにいた。僕は恭子の傍に近付き優しく体を抱き締めた。その恭子の華奢な体は
微かく震えていて、泣いているかのように見えた。僕は恭子の体を優しく撫でその震えが治まるのを待った。
「ねえ、私はあなたの全てを受け入れる為に存在しているの。それはずっと前から決まっていた事なの。
ずっと昔にこの場所であなたと私が出会っていたから。私はあなたとふたたび出会うことを心から望み
あなたは私を捜し出す事を心に誓ったわ。わたしが夢でそのことを見て昔のことを思い出した時にはもう
遅すぎたのかもしれないけれど。でもそれは紛れもない事実なの。この場所であなたとあって約束したわ
でも今の私はとても複雑に入りくんだ巨大な迷路の中に紛れ込んだせいであなたの前にいることができなく
なってしまっているの。でもそれはあなたのせいじゃなくてもちろんあなたが原因ってわけでも無いの。
前に手紙で書いたと思うけど。あなたの事はいまでも深く愛しているわ。それとあなたの事はいつでも見ています。」
と恭子は僕に言った。しかしその声は僕の耳に聞こえた訳ではなかった。それはまるで便箋に書かれた文字
の様な声だった。その声を僕は眺めそしてその声はいつまでも消えることが無かった。いつでも読み返す
事ができる類の声だった。僕は恭子の華奢な体を抱き締めながらその声を何度も読み返していた。
「僕は恭子と前世から出会った事は、老婆が導いてくれた敦煌で知っていたよ。でもね、僕達は離れるべきでは
無いんじゃないかと思うんだ。今までだってうまくやってきたしこれからもきっとうまくやっていけるよ。」
と僕は恭子の耳元でそう言った。恭子は辛そうな表情で頷いていた。しかしそれは恭子の慰めの様にも感じた。
恭子は僕の顔を澄んだ瞳で覗き込んでこう言った。
「愛とはいつでも傍にいられたらいいものかしら?
体が離れてしまっても心で繋がることは出来ないのかしら?
私はもうあなたの傍にいることは出来ないの。それが運命で変えることは許されないの。
たとえ前世の約束だったとしても。
前世でもやはり私はこうしてあなたの前から驟雨に打たれる涙のごとく消え去った。
そしてそれはやはり今世でも定められたことなの。
だから悲しまないで。私を忘れなければ、あなたは常に私と共に居るのだから」
僕は恭子が消えてしまわないようにぎゅうっと抱き締めた。
すると恭子は本当に朝霧のように消えてしまった。
僕は腕の中にあった恭子一人分の空間を巣立ちを迎えた雛鳥を放すようにそっと解き放った。
敦煌に吹く風は雛鳥の羽ばたきを助けながら、僕の胸板さえも突き抜けて吹き過ぎて行った。
目を覚ますと僕の枕は涙でしっとりと濡れていた。
僕は起き上がり、冷たい水で顔を洗い、会社へ行く支度をした。食欲というものがまったく無かったが、
たとえ死んでしまったほうが幾分楽なんじゃないかと思えるような気分でも、
仕事に差し支えるといけないのでトーストと珈琲だけを無理やり飲み込んで仕事に出かけた。
外は僕の気持ちとは裏腹に抜けるような青空に包まれて一年でもっとも気持ちのいい季節を祝福していた。
僕は一週間振りの会社へと向かった。歩き慣れた道や景色がどこか不自然に見えた。それはまるで僕の知らない
どこかの国の若い前衛的な絵描きが描いた一枚の風景画のように見えた。どこかよそよそしく、僕の侵入を
拒む何かが潜んでいるようにも思えた。しかしそれはおそらく考えすぎなのだろう、僕は少しづつ「ヤワ」
になっているだけなのだと思った。タフにならなければならないのだ。会社に着くと誰もが訝しげな顔で
僕の顔をチラッと横目で見、すぐに何もなかったように真っすぐ前を見て歩いていった。僕は階段を昇り
自分のデスクに座りノートパソコンを開いた。しばらくすると部長が呼んでいると後輩の蛯原くんが僕に
伝えに来た。僕は中国に持っていったノートパソコンを抱えて部長の所に歩いて行った。報告をしなければ
ならないのだ。北京の市場の事や中国に残してきた楊さんの事もある。僕は慌てないように歩いていった。
「坂本くん、ご苦労さま。疲れているだろう、そこに座ってくれ。」と部長は僕に応接用のソファーに
座るように促した。今まで部長に呼ばれてソファーに座るように言われたのは初めてだった。悪い報告も
良い報告も必ず机の横に立って話した事しか無かったのだ。僕はソファーに挟まれた背の低いガラステーブルに
ノートパソコンを置きそして報告様にまとめておいたエクセルを開いて置いた。しばらくすると部長が
僕の前に座った。そして僕にコーヒーを勧めた。僕はそれを一口飲んだ。インスタントではなくきちんと
豆を挽いた旨いコーヒーだった。しっかりと立った薫りが僕の鼻腔を満足させてくれた。
「まずは北京の市場調査ご苦労さま。それでどうだね?北京には我が社の新規参入のメリットはありそうかな?」
「そうですね。まずこの資料を見てください。」そう言ってノートパソコンの液晶を部長の方に向けた。
その後およそ二時間に渡りその資料の説明を僕の主観を交えて報告した。そして通訳の楊さんの件も伝えた。
しばらく部長が真剣な表情で僕の報告を聞き疑問点や問題点を適切なタイミングで質問してきた。一通りの
報告をしたあと部長は満足そうな表情をした。その後部長は僕の今後のプロジェクトについて話を始めた。
「坂本くん、君の市場調査報告はほぼ完璧だね。もしかするともう完全に出来ているみたいだね。」
「僕も出来るだけの事はやったつもりですが、まだ後少しで完成すると思います。後はまとめるだけに
なっています。後は僕の後に中国に残った楊さんや僕の代わりに行った斎藤くんがすぐ終わらせてくれると思います。」
「そうか、君は私が思っていたより良い結果報告をしてくれた。本当にご苦労さま。そこでだ、電話で言っておいた
新しいプロジェクトの件だが、実は今日の朝突然、延期にする事に決まった。君に急いで日本に帰って来て
もらったのに本当に申し訳ないんだが。トップの決定だから私にもよく解らないのだよ。しかしいずれまた
再開すると思う。その時は是非坂本くんにプロジェクト・リーダーとしてがんばってもらうつもりだ。」
「そうですか、延期になったんですか。それでいつ頃再開の予定ですか?」僕は少しほっとしていた。
「おそらく、年明けだ。でもそんなに遅くはならないと思うがな。そこでだ、坂本くんには慰労の意味を
込めて暫らく特別休暇を与える事になった。二週間ほどゆっくりしてはどうだね?勿論有給になるし、今まで
有給休暇をまともにとってなかったろう?だからどうだ、少し休んだ方がいい。そしてまた頑張って欲しい。」
「ありがとうございます。」と僕は言った。体のいいリストラかとも思ったがそうでもなさそうだったからだ。
「そうか。それじゃ善は急げというものだ、今日はもうあがって帰りなさい。私はこの後中間報告を取締役会に
提出しなければならないからね。それじゃ本当にご苦労さまだったね。」と部長は僕に言った。
僕は正直戸惑っていた。僕は一体何をしているのだろうか?言いようも無い不安に包み込まれていた。
僕はまだこの空間にうまく馴染めていないのかもしれない。北京や敦煌にしばらくいたせいだと思った。
しかしこれでしばらくは誰にも遠慮せずに恭子を探す事が出来そうだ。僕はそう言い聞かせる様にして
会社を後にした。そうだ僕にとって今一番大切な事は恭子を探す事なのだ。僕は足早にマンションへといそいだ。
街の風景は相変わらず前衛的な雰囲気を醸し出していて僕を排除しているように感じたままだ。
マンションに戻ると、僕はあの手紙を読み返し、彼女が行きそうな場所を考えた。
何度も何度も読んでいる内に、ふとどうして彼女がこの手紙をわざわざ僕の母親に渡したのかについて不思議に思った。
恭子の数奇な運命について書かれたこの手紙には、何かが欠けている気がした。
彼女の人生に起きた数々の出来事はうまくオブラートにくるまれ、出来うる限りの無害なものに精製されているように感じられた。
恭子は恐らく、まだこの手紙でも全てを語ってはいなかった。
僕の傍から離れなくてはならなかった理由も曖昧で、心が離れた様な事は書かれていない。
でもよく考えたら、もしも僕の事を思い、なるべく何も言わずに出て行くのならばこの手紙は書かれなかったはずだ。
僕は恭子が極めて切実に僕に捜して欲しがっていると感じた。
そして今の彼女の置かれた立場から救い出して欲しいと願っているように思えた。
しかし、なぜ母なんだろう。会社を辞めたので他につながりのある人間を思いつかなかったのだろうか。
でも母になんてここ何年も会っていないし、結婚してから二人で会いに行ったことは1度もない。
母に報告だけはと思い、結婚する直前に恭子を連れて行っただけだった。
母はもちろん喜んでくれたし、恭子を気に入ってくれた。
でも僕は大学に入学してからすぐに一人暮らしを始め、別々の生活をしていた。
結婚したからといって別にそのお互いを尊重した極めてドライな親子関係を縮める気もなかった。
それについては恭子もある程度理解していたようだった。
ましてや嫁と姑の間でこれから出て行くというのに義母に大事なものを渡すだろうか?
母に読まれたらと思うと渡すのに躊躇するのではないだろうか。それが自然だ。
僕はあの時母にもっと離しを聞くべきだった様な気がした。
なせ母でなければならなかったのか。恭子と僕の母の間には一体信頼を築くだけのやりとりがあったのだろうか?
僕は母に電話をした。
「しばらく有給を貰ったんだ。あの時話せなかったけど、恭子が家を出て行ったんだよ」
「そう。そうじゃないかとは思っていたけど」
「それで、しばらくそっちに里帰りしてもいいかな?」
「いいに決まってるわよ。あなたがどう感じていようが、ここはいつでもあなたの家なのよ」
「ありがとう」
「待ってるわね。恭子さんの事で話したいこともあるし」
「話したい事って?」
「会ってからよ。とにかく早く帰ってらっしゃい」
電話を切ると僕は取るもとりあえず身支度を整えてゴルフに乗り込んだ。
僕は藤沢に向かう途中で恭子の事を考えていた。恭子が一人で抱え込んできた問題の事なんかや僕に対する
事なんかだ。誰にも(もちろん夫である僕にも)打ち明けられずにその不思議な能力に振り回される。
その予知夢には代えがたい運命が存在し、その前では無力であるが故の苦悩の日々であったり、それに抗った事で
自分の両親の悲惨な悪夢を見続けた事なんかを想像してみた。おそらく想像力の欠如した人間でさえその夢を
見る事がかなりの苦痛に感じる事だろう。その悲しみを一人で抱え込み僕の元で暮らし僕の全てを受け入れ
僕を支えてくれた恭子が、僕に伝えきれない何かを隠して僕の元を去っていった事なんかを考えていた。
東名高速では速度規制システムの付いた大型のトラックやら修学旅行の中学生やら高校生を乗せた何台かの
揃いのユニフォームを着た大型バスが蟻の行列のように僕の進路を見事に塞いでいた。
僕は何度かパッシングや車線変更を繰り返しながらストレスを溜め込むはめになった。ようやくインターに
着いた時に僕は疲労とストレスでかなり参っていた。その後国道を走り実家に辿り着いた。車を止め家の
インターホンを押したが何の返事も無かった。確か僕がここに向かう前に電話で連絡をしていた筈なので
誰も居ない訳が無かったのでしばらく玄関の前で待っていが閉館前の博物館のような沈黙が続いた。
僕はそこで待つのを諦め庭に廻って家の中を覗いてみたがそこには人の気配が全く感じられなかった。
僕は懐かしい庭を(ささやかではあるが庭と呼んでも差し支えない程度の)歩き時間を潰していたが
一向に母が戻ってくる様子が無かったのでゴルフのシートを倒して待つ事にした。しばらく車内の天井を
見ていたが白い合成皮革のそこでディズニー映画もトムとジェリーのアニメーションが始まることは無かった。
シートにもたれ掛かってそうしていると「コツコツ」という窓を叩く音で現実に戻された。窓の外に目をやると
そこには買い物袋を両手に下げた母が立っていた。僕がくるといってあったので食料品やらビールやらウィスキーを
買いに行っていた様だった。僕は車を降り母の後に続き家の中に入って行った。
「ごめんね、随分待ったの?」と母がエプロンを着けながら僕の方も見ずに聞いた。
「いや、来たばっかりだよ」と僕は嘘をついた。
「まあ、あんまりにも久しぶりだったから、ついあれもこれもなんて買い物に夢中になっちゃってね。
あんたが小さいときに好きだったものや、今はどんなお酒飲むんだっけなんて考えちゃってね。
悪かったわね。待たせて」
母は僕が嘘をついていることなんてはなからお見通しだった。
僕と僕の家族はみんなバラバラに暮らしていた。
姉は結婚して旦那さんの仕事で、シンガポールだかグアテマラだかとにかくそういう温かい国に住んでいた。
父は母と離婚した後東京のどこかで若い奥さんと暮らしているはずだ。
死んでいればきっと連絡くらいはあるだろうから、おそらくまだ生きているのだろう。
母だけまだ僕ら4人が家族だった頃から住んでいる家を守り、父が支払った多額の慰謝料と、
編み物教室を自宅で開いているささやかな収入で一人暮らしを続けていた。
僕は大学を出た後、東京に来て暮らさないかと何度も母に言ったが、東京なんかには絶対に住まないと言って聞かなかった。
基本的に神奈川県人は東京を田舎者の集まりくらいに思っている節があるのだ。
しばらくして母が夕食を用意してくれた。懐かしい味ばかりだった。
烏賊と里芋の煮物だとか、胡瓜の朝漬けとか新鮮な青魚の刺身なんかを突きながら、僕は久しぶりにリラックスしていた。
「恭子さんってすごく美人よね」と母が思い出すように言った。
「そうだね。よくそう言われたね。会社の周りの同僚なんかも、なんであいつが恭子さんをってすごく不思議がって、
本当にうるさかったんだ。でも僕は恭子が美しい顔立ちをしているかどうかなんて、本当に大して気にも留めていなかったんだ。
どちらかというと、彼女の人生に僕が必要なんだってうまく言葉では表せないような確信が有ったんだ。
随分厚かましいって思うかもしれないけど」
「そうね。あなたがそう思うならそれはたぶん正しいんじゃないかしら」
僕は自分のグラスに自分でスコッチをつぎ足した。溶けかかる氷と琥珀色の液体が大理石のような模様を作った。
「母さんはなんで別れたの?」僕は今まで聞いたことが無かった質問をした。
「父さんが別れて欲しいって言ったのよ。人生をやり直したいって言ったわ。
あんた達も大学生になってみんな出て行っちゃって、さあ、これから二人きりだって思った瞬間だったから、
なんか拍子抜けしたけどね。あの人はさ、外に子どもが居たのよ。自分より二十歳も年下の女に産ませていたの。
それがもうすぐ小学校に上がるからけじめをつけたいって言われてね。
私が一人で死ぬまで暮らしていける分だけの慰謝料貰えるならいいわよって簡単に判を押したの。
まあ、よくある話ではあるけど」
「たしかによくある話かもしれないな。自分の親となると複雑だけど」
「私は結構幸せよ。だって、縛られないし、自由だし、たまにお友達と旅行へ行くぐらいの贅沢は出来るし」
「母さんがそれでいいなら僕も安心だけどね」
僕は残りのスコッチを一口に飲み干してから改まって話を切り出した。
「恭子の事で話したい事って何かな?」
「そうね。あなたにはまだ言って無かったけれど。多分間違いじゃなければ、私は恭子さんを知っていたのかも
しれないって事なの。もちろんついこの間家にあの手紙を置きに来たときにそれが恭子さんだって気付かない
くらいだから、あまり自信は無いんだけれどね。」と言って僕のグラスにウイスキーを注いだ。
「恭子を知っていたって一体どういう事?それはいつ頃の話なのかな、僕も逢っているって事なの?」
「あなたは知らないわよ。だって大学へ行っていた頃だし、第一私も知ってるっていってもそれは現実なのか
それとも夢の中の出来事なのか曖昧なの。そういう事ってあるでしょう?夢の中の出来事を現実の思い出の
様に感じたり、現実の出来事なのに夢だったんじゃないのかなって感じたりする事。時間が経てば経つほど
よく思い出せなくなるって事よ。それとも私が年だから分からなくなったのかもしれないけどねぇ。
それは私が離婚して少し経った頃、何度か。そう、何度か恭子さんとお話をしたことがあったのよ。
今考えるとそういえばあの時の女の子が恭子さんだったのかもしれないなって思ったのよ。」
僕はもしかすると恭子の見る予知夢で母と恭子が出会ったのかもしれないと思った。しかし、それはあくまでも
僕がそう感じた事であって根拠はどこにもあるわけでは無い。僕はその話をもう少し詳しく聞きたかった。
「いったいどんな風に逢ったの?何処で?」と僕は少し興奮したように母にむかって話をした。
「そうね。たしかあなたが大学に行って二年か三年経った頃かしら。私もお父さんと別れてもう完全に
自由な時間があったころでよく鎌倉のお友達の所に遊びに行った時だったとおもうわ。どこなのか思い出せないけど
そこの近くのよくいく喫茶店でよく隣の席に一人で座っていて何度かお話ししたの。近くに住んでいたのか
それとも誰かと会うために来てたのか知らないけど。そう。その女の子が恭子さんだったのかもって思ったの
あなたが連れてきた時は気付かなかったけどこの間手紙を持って来たときの後ろ姿がね、そう感じたの。」
「それでその時の女の子とどんな話をしたんだ?」
「そうね。その子は良く夢を見るって言ってたわ。どんな夢?って聞くと、いい夢も見るけど、大抵は悪い夢って
言ってた。辛いわね。っていうと黙っていたわね。そこのお店で会った子のような気がしたの。この間ふとね。」
「そうか。でも僕も今の話を聞いてそんな気がするよ。きっとそれは若い頃の恭子なんじゃないかって。」
「あなたがそう感じるならそうよね。昔からあなたはそういうことには結構敏感だったし、よく子供の頃から
あなたが間違いなくそうだって言い張った時って、あなたの言う事がただしかったからね。」
「えっ?僕がいつ?そんな事言ったの?そんな事覚えてないし、僕が言ったことが正しいなんてあったの?」
僕はそんな事を母から言われて少し驚いた。僕は少し他の人と違ってるなんて感じた事は無いし普通の子供
と特別変わった才能なんて感じた事は無かったからだ。そして母は僕の顔を見ていた。
「子供の頃ね。小学生までだったかしら。あったのよそんな事がね。でもそれは記憶力が良かったのかもしれないわ
あなたが朝起きて何気なく言ってる話がね、まるで今迄そこに行って見てたみたいな事言ってたからね。
よく驚かされたわ。でもそれだけの事よ。この子は記憶力が良かったってだけの事。もうその話はおしまい。」
「よくわからないな。僕はそんな事覚えてないし、今そんな事言われてもね。だったら大学入試の時にでも
その事を話してもう少し励まして欲しかったね。あなたは記憶力が良いから頑張れってな具合にね。」
「そうね。でもあの頃は私もあなたもそんな余裕はなかったわね。いろんないみで。」と母は言った。
しばらく忙しく、書けません。
来年までお待ち下さい。
続きが書きたい方は遠慮なくどうぞ。
それでは。
分かりました。
再開楽しみに待ってます。それじゃ、良いお年を。
301 :
95:2006/12/20(水) 08:51:17 ID:RVHxynyg
ええええええぇぇぇーーー残念ですor2
物語は佳境に入って来たかと思っていたのですが・・・
私待つわ〜いつまでも待つわ〜・・・の心境です。
忘年会のお話もお流れですか?そうですか('A‘)
お仕事頑張ってください。
Wish a Merry Chrisumas and Happy Newyear!!
お待たせしてすみませんが、実は佳境になってくると、やはりかなりのエネルギーが必要なんです。
そうしないと、永遠に終わらないんです。
前のスレでもあの最後の方でいろんな謎が解ける長い部分を書いたときは本当に疲れました。
このスレもそういう段階に入ってきていて、僕自身、ちょっとの暇にさらっと書いていたような今までのやり方では、
もう書けないのです。
そして、12月は僕の仕事は1年中で一番つらく非人間的な感じになります。
会社の人間はみんなピリピリしていて、風邪を引いたりすれば罵声を浴びせられたりします。
そういう状態ではいいものは書けないし、ましてやこんな難しい場面は絶対無理なんです。
そこで、来年になればお正月休みがあるから、じっくり腰を据えて書けそうな気がするんです。
でもそれも希望的観測です。暇が有るから書けるというものでもないのです。
なんというか、申し訳ないです。
でも待って下さる方が居る以上、僕は必ず終わらせて見せます。
それが出来なければ始めた意味が無いからです。
皆さんの温かいご声援をお願いします。
by マスク
無理せず、マスク氏が納得できる物が描けるまで待ちますよ。
その後僕も精一杯がんばりますから。
by人参。
みなさん(二人?)頑張っていらっしゃるのにワガママ言ってすみません。
私も頑張ってひたすら待ちます。
お身体に気をつけて!
by 95
617 :村上春樹的ゾンビ:2006/09/06(水) 14:24:09 ID:xITpy+i+0
きりというものがなかった。
僕は深い霧の中で次々に襲いかかる歩く死体を上手投げでバッタバッタと投げ飛ばしていた。
僕は真夜中に人参を買いに、遠くの24時間営業のスーパーマーケットまで行かなくてはならなかった。
しかしその日は雨上がりの蒸し暑い日で、地上に降り注いだ大量の雨が地熱によって蒸発し、
夕暮れ時から深夜にかけて濃霧注意報が出されていた。
こわごわと運転しながらこんな日に人参を買いに出される僕の運命を呪っていた。
そのとき僕の運転するワーゲンの前に突如人が現れブレーキをかける間もなく轢いてしまったのだ。
車を止め轢いてしまった人を助けようと駆け寄ると、その死体はすでに何年も埋められていたかのように損傷していた。
「これは、人ではない」
そうつぶやいた瞬間、いきなり後ろから覆い被さってきた別の死体を僕は上手投げで地に沈めた。
立ち上がってみると、そこは深い霧に包まれた墓場だった。
沢山の墓標の下から骨が見える腐った腕が次々に這い出し、土にまみれた男女様々なゾンビがゆっくりと立ち上がった。
彼らは一様に僕の頭部をねらっていた。気がつくと後ろにも沢山いて、あたりは耐え難い死臭が濃霧に混ざり合って立ち込めていた。
命からがら逃げ延びて人参も持たずに家に帰るともちろん久美子はカンカンに怒っていた。
「遅いじゃない!」
「いや、ゾンビが出たんだよ。僕の車の前に出てきたんで轢いちゃたんだ」
「そのゾンビさんは無事だったの?」
「まあ、たぶんね。もともと死んでいるんだから問題はないと思うけど」
「そう、それで人参は?」
「いや、それが、ゾンビがいっぱい出てきたから引き返して来ちゃったんだ」
「もう、しょうがないわね。それじゃあ、人参のない肉じゃがにしましょ」
「最初からそうしてくれればいいのに」と僕は小さな声でつぶやいた。
618 :村上春樹的ゾンビ:2006/09/06(水) 14:25:28 ID:xITpy+i+0
しかし、久美子の作ったそれは肉じゃがなどではなかった。
ぶつ切りの人間の手や鼻や目玉がその形をかろうじて保ったまま甘辛の醤油味でホグツグツと煮えていた。
彼女が嬉しそうに小皿に移した煮汁をすすって味見をした。
僕は後ずさりながらそっと玄関に向かい、久美子に見つからないように外へ逃げようと思った。
しかし玄関のドアを少し開けると、隙間から何十ものゾンビの腕が忍び込んで来た。
やれやれ、前門の虎後門の狼とはまさにこのことである。
僕は何とかドアを閉めてそのまま玄関でたばこに火をつけた。
「なるようにさるさ」
久美子の料理は時々不思議な味がしていたから今までだってそうだったのかもしれないし、
ゾンビと朝まで戦うにはあまりにも腹が減っているのだ。
620 :村上春樹的ゾンビ:2006/09/06(水) 18:16:30 ID:tW6M4iz30
「ねぇ、肉じゃができたわ。早く食べないと冷めちゃうわよ」久美子が僕を食卓へ呼んだ。
「分かった、今行く。」
少し迷ったが墓場から出てきたどこの誰なのか分からないゾンビより
当然僕は久美子を選んだ。そうするべきなのだ。
それに、僕は久美子を愛している。
僕は妻と別れて誓ったはずだ。久美子を幸せにしなければいけないんだと。
決して車の中で振るわれた暴力に屈したわけではないのだ。
僕は意を決してダイニングテーブルに座った。
意外なことに肉じゃがは見た目も匂いも普通の肉じゃがだった。
人参が入っていない事を除けばだが。それに僕は特別人参が好きなわけでは無い。
むしろ、嫌いといっても差し支えない。
小学校の昼休みに誰も居ない教室で人参と睨めっこをしたことさえあるくらいだ。
ごはんも味噌汁も漬物やひじきの煮物もまともだった。まともというより、いつもよりとても旨く感じた。
「ねぇ、美味しい?」と久美子が言った。
「旨いよ、とても。今からでも定食屋を始められるんじゃないかと思うくらいだ。」
僕がそう言い終わらないうちに久美子が突然苦しみだした。
僕は慌てて久美子の後ろに行き背中をなでた。
久美子は頭を両手で抱え「「ぐぁ」とも「ぐぇ」とも区別のつかない声を出し続けた。
その声は久美子の普段の声とはとてもかけ離れたものだった。
僕は久美子の背中をさするのを止め、やさしくあたまを撫でたとき、
久美子の髪の毛が皮膚ごとずるっと剥け赤い肉が剥き出しになった。
621 :村上春樹的ゾンビ:2006/09/06(水) 18:17:17 ID:tW6M4iz30
皮膚がどろどろに融けだし眼球がかつて目の在った辺りから下にどろんと垂れ下がり
爛れ落ちた鼻のあたりから黄色い膿や蛆虫が這い出してきた。
それと同時に堪え難い刺激臭が僕の目や鼻を包み込み息をするどころか、目を開けることさえ困難にさせた。
久美子は振り向き僕の喉を両手で絞めた。
僕は薄れ往く意識の中で蛆虫を数えてみた。208匹を数えたところで暗闇に支配された。
気が付くと久美子は台所で肉じゃがを作っていた。
「ねぇ、人参を渡してくれる?」と久美子は言った。
「人参?だから僕は人参を買いに行けなかったんだよ。」と僕は言った。
「何寝呆けているのよ、あなた。早くこっちにきてよ。」
僕は久美子の言うとおり台所に行った。久美子の手には包丁が握られたままだった。
「ねえ、人参なんて何処にもないよ?」と僕は言った。
鍋には訳の分からない肉塊とじゃがいもと玉葱としらたきが入っているのが見えた。
「人参切らなきゃね。」
と久美子はいきなり僕の喉めがけ包丁を振り回した。
僕は最近まで忘れていたんだ僕が「人参」だってことを。
懐かしいね。
でも今読み返してみると僕の書いたヤツはひどいね。なんか恥ずかしい。
書き直したいくらいだ。
そのときはよかれと思って書いてたけど。
今書いてるのとは随分文体が違って見える。
人参氏のはやっぱりいいね。今読んでもすごくいい。
彼女はここでとうとう人参入りの肉じゃがを作ることが出来たわけだ。
マスク氏、95さん、読者の方(もし、いるのならば)
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
新年にあたりご挨拶させて頂きます。
by人参。
312 :
95:2007/01/01(月) 12:54:28 ID:uEc6jZsM
あけましておめでとうございます。
今年もこのスレの進行を楽しみにしています。
私事ではありますが、私もこのたび生活環境が若干変わり、
人生、辺境に向かっているのでは?!と危惧しつつ新年を迎えました^_^;
あけましておめでとうございます。
95さん、どのような変化が訪れたのか分かりませんが、
前向きに頑張りましょう。
僕は少し会社の経営状態が芳しくないので、こんなところで遊んでいてはまずいのですが、
それでもこの物語が終わるまでは頑張ってみようと思います。
「辺境に向かうスレ」ってタイトルに問題があったのかな^^;
なにかいいスレタイがありましたら募集します。
僕は母の言葉の意味を頭の中で幾度か繰り返しながら考えたが、よく分からなかった。
母が父と離婚したのは僕が大学に入ってからの事だった。
そう考えると、入試当時僕の事を思いやるような余裕が母に無かったというのはどうしてだろうか。
ただ、母には昔からそういうところがあった。自分の事ですぐに頭がいっぱいになってしまうのだ。
「昔からよくそういうちょっと抜けたことがあったよね。学校行事を忘れたり、カレーライスのご飯を炊き忘れたりさ」
「そうだったかしら?」と母はとぼけてみせた。確信犯のするような顔だった。
僕は住んでいた頃からあまり変わらない実家の居間を見渡した。
手あかの付いた柱や、襖のある狭い和室に置かれたこけしだとか、昭和の匂いが漂う古い電気製品たちなんかをだ。
きっと恭子が見てきた風景とは随分違っていたんだろうなと僕は思った。
恭子が子どもの頃はきっとテレビ番組も聞いていた音楽も読んだ本も僕とは随分違っていただろう。
そして日本に来てからそういう文化の違いを乗り越えるための努力だけでなく、
予知夢を見るというつらい現実にもかなりの苦労をしながら一人で全てを粛々と受け入れてきたのだ。
僕は改めて恭子のその恐るべき忍耐力に脱帽した。
その彼女がとうとう初めて僕に助けを求めたのだ。なのに、僕は恭子とまだ暮らしていた当時、恭子の抱える問題の一端も理解せず、
恐らく恭子が差し出した控えめなサインさえ僕は見逃し、あるいは黙殺してきたのだ。
「その、恭子に出逢った喫茶店の名前って、思い出せないかな?」と僕は思いついて母に尋ねた。
「たしか、ベイジンって名前だったわね。でもどういう意味なのかしらね?一体」
「ベイジンって北京の事だよ。僕もつい最近知ったんだけどね。それに僕が出張していたのもそのベイジンだ。」
「あら、そうなの?知らなかったわ。それにそのお店には中国を連想させる物なんて、何にも置いて無かった
ような気がするわ。辻堂の駅前のね、結構お洒落な感じのお店だったわ。」と母が言った。
「ねぇ、どうして辻堂なの?確かにここからは藤沢駅と辻堂駅は同じ様な距離だけど鎌倉からなら藤沢駅の方が近いだろ。」
「そうね、そういえばどうしてかしら。あ、そうそう。辻堂にお友達の気に入った洋服屋さんがあったのよ
それでよくその喫茶店で待ち合わせしたのよ、確か。で、お友達が遅刻魔だったからそこで時間潰す事が
多かったのよ。でもお店の名前がペキンだったら入らなかったわねその喫茶店にはね。だって私は中国になんて
行きたいなんて思わないし、喫茶店の名前にしたって変だものね。『ぺきん喫茶店』ってね。」
「でも、その『ぺきん喫茶店』で恭子にあったんだよね。だったら僕はその『ぺきん喫茶店』に行きたいと
思うんだ。詳しい場所を教えて呉れないかな?明日にでも行ってくるからさ。」と僕は言った。
「それだったら、私が明日案内してあげようか?どうせ暇だし大した用事なんて何も無いからね。」
その言葉を聞いて案内してもらおうかと思ったが、いい歳した男が母親と喫茶店に入り何を話せばいいのか
一向に思いつかなかったし、何かの手がかりがみつかった時に一人の方がその後に動きやすい筈だ。
「悪いんだけど一人で行ってくるよ。せっかくだけどね。場所だけ教えてくれればいいよ。辻堂駅のどの辺?」
僕がそう言うとB4のレポート用紙とボールペンを何処からか持ち出して来て簡単な地図を書き出した。
そのレポート用紙をよく見ると僕が高校時代に使っていたものだった。よくそんな前のレポート用紙を
とって置いたものだとも思ったが、別に捨ててしまう理由も無い事にも気付いた。第一そのレポート用紙は
一ページもつかって無かったし使わなければ何時迄も新品のままだ。紙のまわりが黄色く変色しているのを
除けばって事ではあるが。しばらくしてそのレポート用紙に辻堂駅と何本かの道路らしき線と
『ぺきん喫茶店』が書き込まれていた。そしてそれを僕に渡してくれた
「ねぇ、母さん。さっき恭子と出逢ったのは鎌倉の友達の処っていって無かったかな?」と僕は言った。
確かにさっきは鎌倉のお友達に会いに行った時に良く行った喫茶店だと言った筈だった。それがいつの間にか
辻堂駅の喫茶店になっているのだ。それがいったい何を意味するのか僕は少し疑問だった。
「あら、そんなことを言ったかしら。きっと言い間違いね。だって鎌倉のお友達と会うときはほとんど
辻堂駅の近くだったし、鎌倉には数える程しか行かなかったもの。それに恭子さんらしい女の子とは、鎌倉では逢って無いのよ。」
と母は言った。それはまるで誰かの意志によってゆがめられた事柄の様にも思えた。
「それなら良いんだけどね。何か気になったからね。その『ぺきん喫茶店』にね。」と僕は言った。
「そうね、少しボケたのかしら?良く新しい記憶から忘れていくなんて、良くいったものね。」
「そんな事より、もう布団の用意はもう出来てるから休んだ方が良いわ。長い出張で疲れているでしょう?」
「そうだね。そろそろ休むことにするよ。僕もいい加減酔っ払っているみたいだしね。」と僕は言った。
それは本当の事だった。ここ数日はまともに寝てはいなかったし、最近はいくら酒を飲んでも酔いもしなかったのに
実家に帰った安心感からか、それとも本当に疲れているみたいだ。僕は用意されていた布団に潜り込む事にした。
明日は辻堂に行かなければならないのだ。それには今のうちに少し休んでおかなければならないのだ。
僕は非道い睡魔に教われてしまっていた。その睡魔には僕は抗う力が残ってはいないのだ。
そのまま深い眠りに就き、翌日は昼に近いくらいの時間になってようやく目が覚めた。
もう正午に近いのに母はまったく僕を起こそうとはしなかったのだろうか?
不思議に思って寝ていた部屋を出て寝間着姿のまま居間へ行ってみると、
そこに母の姿はなかった。
綺麗に片付けられたダイニングテーブルには置き手紙があり、母の達筆な字が不吉なまでに整然と並んでいた。
『私はお友達との約束を思い出したので、出掛けます。
朝食は冷蔵庫にあるから電子レンジで温めて食べて下さいね。
出掛けるときは鍵を掛けて下さい。
昨夜は言いそびれてしまったけど、恭子さんとの事はもう忘れた方がいいと思います。
誰が悪いという訳ではないのですが、どうにもならない事なんて世の中には沢山あるのですから。
それでは行ってきます』
と書かれていた。
僕はその文章を繰り返し3回ほど読んで、綺麗に4つに折り畳んだ。
母が一番僕に言いたかったのはこの手紙に書かれたことなのだろうと思った。
でも面と向かっては言えなかったのだ。
ただ、母は恭子のことを本当には知らないのだろうと思った。
たとえ僕が恭子に出逢うよりも前に彼女に会っていたとしても。
僕は北京のホテルで、そしてまだ発見されていない敦煌で、恭子の沢山の残像に触れたのだ。
それは実体の恭子では無かったとしても、恭子の本当の心を知るために必要な事だった。
近くにいるだけではむしろ見えないものが有るのだ。
僕はあるひとつの確信を抱き、その母の手紙を台所のガスの火で燃やした。
それは墓場に浮かぶ魂の様に一瞬にして燃え上がり、流しの上で白い灰となった。
僕は何も食べずに身支度を整え、荷物を整理してゴルフに積み込んだ。
車に乗り込む前にかつて僕の住んだその家を振り返って眺めた。
だがそれはまったく知らない人の家にしか見えなかった。
どこかの無表情な他人の家のようだった。
僕はゴルフのキィを回しエンジンをかけて、辻堂の駅に向かって車を走らせた。渋滞をさけるために国道を走らずに
狭い道路を選んで走る事にした。僕が高校時代に辻堂の駅に行くときに自転車で走った道だ。道路は相変わらず
空いていたが、周りの風景は昔と随分変わっていた。暫らく走ると懐かしい辻堂駅に着いた。僕は駅前の
適当な駐車場に車を停め母の書いた地図を持って車を降りた。駐車場の入り口には一坪ほどのプレハブに
一人の老人が疲れきった顔で駐車チケットを打刻機に差し込んだあと僕に渡した。初めの三十分の料金は
先払いなので払って欲しいと言ったので財布から一万円札を渡すとお釣りが無いから細かいお金は無いのか
と金属性のてさげ金庫を引っ繰り返しながら聞き取りにくい声でぶつぶつと言っていたのでズボンのポケットから
しわくちゃの千円札をひっぱり出して一万円札と交換した。老人はあるのなら初めから出してくれないと
困るんだとでも言いたそうにぶつぶつと何かを喋っていたが声が小さいのと発音が悪いせいで聞き取る事が
できなかった。母の書いた地図を見ることもなく『ぺきん喫茶店』はすぐ見つける事ができた。その駐車場から
道路を挟んで右に20bくらい行った処にそれはあった。母の言っていたようにおしゃれな喫茶店だったが、
それはまるで時代遅れになりつつあるマッキントッシュのコンピューターのようにも見えた。僕はその店を
一通り見渡したが確かにドアに掲げられた緑色に錆付いた銅版に書かれてある『ベイジン』の文字以外には
中国を連想させる物はどこにも見当たらなかった。一体どうゆう理由でこの店の名前が決められたのか
僕には見当も付かなかった。ドアを開け店内に入るとカウンターの奥の壁には万里長城や故宮の写真の入った
パネルが飾られていた。やはりこの店のベイジンは北京であることに間違いないことが理解できた。
僕は店の奥のテーブル席を選んで座りメニューを眺めた。すぐに若いウエイトレスが僕の傍にオーダー
を取りにきたが、そのウエイトレスを見て僕はひどく驚いた。
そのウエイトレスの顔は北京で通訳をしてくれた李丹に恐ろしいくらいに似ていた。確かに赤い頬や
流行を無視した垢抜けない服装はしていなかったがどうみてもそのウエイトレスは李丹以外には見えなかった。
暫らく僕は声すら出せずにそのウエイトレスの顔を見つめ続けていると、「ご注文がお決まりしだい、
お呼び下さい。」と営業用の笑顔を僕に向けてカウンターの奥に消えて行った。僕は今本当に日本に居るのか
まだ北京にいるのか、解らなくなっていた。酷く混乱しているのだ。ぼくはウエイトレスの置いていった
グラスに入った水を飲み干すと幾分落ち着くことができた。ウエイトレスが李丹に似てようがこの店が
『ぺきん喫茶店』であろうがここは日本なのだ。藤沢市の辻堂の駅前なのだ。僕はウエイトレスを呼んだ。
李丹に似たウエイトレスがもう一度僕の処に来たがどことなくよそよそしい態度だった。それは当然の事だろう
と僕は思った。突然やってきた客が自分の顔をじっと見つめて固まっているのだ。それが反対の立場なら
僕だって気持ち悪いと感じるはずだ。メニューを見ながら僕はブレンドコーヒーとサンドイッチを頼んだ。
そしてそのウエイトレスにこの店の名前はどういう意味なのか訊いたが、アルバイトでまだ半年しか経って
いないのでマスターじゃないと解らないと言った。マスターを呼びますか?と言ってくれたが別に呼んでくれなくても
いいと僕は言った。ウエイトレスが戻った後僕は改めて店内を見渡した。昼近い店内は早めの昼食を摂りにきた
OLやら学生が何組か来ていて少し賑やかになってきていた。ウエイトレスが僕のテーブルにコーヒーとサンドイッチを
運んでくると僕に向かって誰かが声を掛けてきた。その無表情で冷淡な声でその主はすぐに分かった。
振り向くとあの若い男が僕の横に立っていた。
320 :
95:2007/01/04(木) 13:48:37 ID:SxgUnFoj
今すぐ辻堂に飛んで行きたい衝動に駆られています。
駅前駐車場にゴルフ止まっているかなぁ…なんて。
あははは。
95さん、多分ゴルフは停まって無いと思いますよw
それよりそんな駐車場が在るのかすら僕は知りませんけどねw
「やっと、ここに来ることができましたね」と男が言った。
「あなたは本当にどこにでも現れますね」と僕は半ば呆れてそう言った。
「私の任務が遂行されるためにはあなたがいつどこに現れるのかなんて、当然分かっていなくてはならないのです。
少なくともあなたには予測不能な行動というものは有りませんでした。
極めて予測しやすい方ですね。助かりましたよ」
もちろん、男は僕のことを褒めているのだ。
「それはそれは、お役に立てて光栄ですね」
男が僕の前の席に座るとウエイトレスが男の前に水とメニューを置いた。
「コーヒー」と男はメニューを返しながら言った。ウエイトレスの容姿についての感想は無いようだった。
「さて、あなたがここに現れると言うことは、僕はここに来るのが正解なんですよね」と僕は尋ねた。
男は店内を見回しながら時間を掛けて僕の質問の答えを考えていた。
あるいは遙か彼方の銀河系からやってきたばかりで地球の気圧にその人間型のスーツを馴染ませているのかもしれない。
「坂本さん、この極めて不完全な世界に置いて、正解なんてものが果たして存在するのでしょうか?
我々も仕事柄完全を求められる事が多い。そしてそれに対してはベストを尽くします。
しかしそれでもどうにもならないことなんてそれこそ山のようにあるんです」
僕は彼の言葉を聞いてはっと息を呑んだ。母も手紙でまったく同じ言葉を使ったのだ。
「そのどうにもならないことについて、もう少し詳しく話して頂けませんか?」
「もちろん、どうにもならない事というのは、ないに越したことはない。
それでもそういうことも有ると言うことを理解して頂ければ有り難い」
男が沈黙するのを見計らったかのように李丹にそっくりのウエイトレスがコーヒーを男の前に置いた。
その一連の動作はあまりにも計画的で一呼吸の無駄も無かった。
男はコーヒーが目の前に置かれるタイミングに合わせて話しているみたいだった。
「私は恭子さんがあなたと結婚をした当初から彼女とあなたの身辺について調査を命令されました。
恭子に手術を施しても、完全にその能力を封じ込める事が不可能なのは予め分かっていました。
それでもその当時恭子さんは極度の鬱状態が続いたり、不眠に悩まされたり、成長期なのに食事も満足に喉を通らない程の精神不安定になっていました。
同然の事です。ほとんどの人間がそんな夢を見続けたら、神経が参ってしまいます。
そこで我々は特殊な手術をし、彼女を一時的にその精神的な地獄から救ったのです」
男はそこでコーヒーを一口飲んだ。彼が何かを口にするのを見たのはこれが初めてだった。
男は口元から離したコーヒーカップを手にしたままジッと見つめた。まるで生まれて初めてコーヒーを口にしたような素振りだった。
「それで、恭子の手術は成功だったのですか?」と僕は話を促した。
「もちろんです。我々はその最先端の技術保ち続けています。
現在では恐らくそのような能力を全て無かったことにする手術でさえ難しいことではありません。
しかし、その当時では技術的に完全に能力を無くす事は出来ませんでした。
それは我々にも分かっていたことです。そして、我々は手術の際に恭子さんの能力をテストしました。
その時、彼女はこれまで存在したどの能力者よりも優れた予知能力を持ち合わせていることが分かりました。
通常はその能力者個人に関わりのある事柄に対してだけ予知されることが通常です。
しかし、恭子さんは社会的に大きな事件として取り扱われるようなものまで予知していました。
そうなると話は少し違ってきます。
彼女は個人として幸せになることだけでは済まなくなるのです。
彼女の能力によって助かる命があるとか、防げる戦争があるとするならば、
彼女の命を守ることと、彼女の予知能力を発揮させることは国家的な戦略として重要な事になってきます。
我々は彼女にその事実を伝えなくてはならない時期に差し掛かっていました。
そして彼女は我々があなたと恭子さんの両名に真実をお伝えしに行く前に、突然姿を消しました。
もちろん、恭子さんはそれを予知したのでしょう。
消えることで、あなたに降りかかるであろう災難を防ぎたかったのかもしれません。
しかし、我々としてはあなた方に別れて貰っては困るのです。
お二人が結婚生活を送る間、恭子さんには考えられないほどの精神的な安定が訪れたのです。
つまり、彼女個人の幸せと国家の戦略が両立するには、あなたが必要なのです」
「そうですか、僕もあなたの言っている事が少しづつですが分かって来たような気がしますね。何故あなたが
僕に近づいて来たのかとか、僕の仕事の業務内容や人事やとりたくてもとれなかった有給休暇まで
勝手に決めたり出来るのかといった事もね。」と僕は言った。男は唇の左端を僅かに歪ませて僕を見た。
おそらく笑っているのだろうと僕は思った。長い間ポーカー・フェイスを義務付けられたせいで
感情表現が出来なくなっているのかもしれない。そう思うと男に対して僕は少し同情すら感じていた。
「そうですか、少しでも理解して頂けて光栄です。私もこれからのお話がしやすくなりますからね。」
男はそう言うとまた一口コーヒーを口に運んだ。僕も男に合わせてコーヒーを飲んでみたが特別クールな味はしなかった。
「それでは話の続きです。何故坂本さんと一緒に居ることで、恭子さんがあれ程までに、辛い予知夢に
悩まされずに済んでいたのか、坂本さんにはご理解頂けますか?」男は僕の目を見ながらゆっくりと話した。
「そうですね、お互いに信頼していたし、もちろん愛し合っていたから、ですかね。」僕は不意に出た言葉に
少し違和感を覚えた。恭子との生活で僕はどれほど恭子の事をいたわり、恭子のために何をしたのだろうか。
信頼はしていたと思うが、恭子の与えてくれた全てに対して僕は甘えて居ただけなのでは無いんだろうかと。
「それは正解でもあり、不正解でもあります。そういったありふれた一般的な関係だけだと思いますか?
坂本さんはまだ何も理解されていないようですね。坂本さん自身のまだ覚醒されきっていない能力にね。」
「僕の能力ですか?僕に一体どんな能力が有るというんですか。僕は何処にでもいる平凡な人間です。
確かにいささか人より変わっていると言われた事はありますが、それは性格的な物であって能力なんて呼べるものは
持ち合わせてなんかいませんよ。第一恭子の予知夢的な能力ですら、一昨日読んだ恭子の手紙で初めて
知ったんです。僕に何らかしらの能力が有るとするなら恭子のそう云った能力とか恭子の居場所とか、
あなたにいちいち命令されなくても今頃捜し出している筈ですね。知っているなら教えて欲しい位です。」
「解りました。いいでしょう、教えて差し上げますよ。勿論。今日坂本さんの所に来たのは、そろそろご自分の
能力について自覚して頂いてそれを我々の…‥、いや失礼、恭子さんのためにいかんなく発揮して頂くためです。」
「本当に僕にそんな特別な能力があるんですか?それなら僕も知りたいですね。それで恭子が見つけられるならね。」
「いいですか?世の中にはプラスがあり、マイナスがありますね。そして陽があり陰があります。
つまりそういった事で世の中は成り立っています。それはご理解頂けますよね?」男は更に無表情になった。
「解りますよ。そういった事柄は、バランスが取れていることはね。それと、過去があって、未来がある。」
「まあ、そう言うことです。恭子さんが予知夢の能力があり、坂本さんには過去を知る能力がある訳です
もうお気付きかと思いますが、坂本さんが北京で体感してきた事です。あの老婆の導きで。」
「でもあなたは、あれは老婆の見せた幻だとあなたは言いましたよね?希望によく似た嘘だと。」
「そうです。確かにそう言いました。しかしそれは坂本さんが混乱しないようにと配慮したからです。
それに坂本さんが何を体感してきたのかその内容については我々のはかりしれない事柄なのです。
それが正確な過去なのか、それとも歪められた過去なのかその真為のことまではね。判りかねるのです。
つまり、恭子さんの調査と同時に坂本さんの事も調査させていただいたのですが。そこで、ある事が
分かって来たのです。坂本さんには人と違った能力がある。それはつまり恭子さんを緩和させ更に
その能力を高めさせる何か特別な能力があるという事です。そこで我々は坂本さんの事を生まれてから
今迄のことを全て調べさせてもらいました。どんな些細なことまでね。すると坂本さんの幼少期にちょっと
人には無い能力があった事に辿り着きました。そうです。坂本さんがトランス状態になった時に過去を
旅する事が出来るのではないか?という仮説にです。」と男はここ迄言うと暫く黙って店内を見渡した。
店内は本格的にランチを食べにくる人で混雑してきていた。周りの話し声も随分と気になりだす位にだ。
「騒がしくて落ち着きませんね。外に車を用意してあります。しばらくそこで話しましょうか?」
と男が言った。
「そのまま何かの施設に入院させられて頭の中をかき回されるのはごめんです」
と僕は警戒して言った。彼らがやってきたことを思えば当然だ。
「そうですか。それではここでも結構です。
我々はあなたをどうこうしようなどとは思っていませんがね。
何しろ基本的人権がありますから。それよりなによりあなたは守られているんです。我々にね」
「守られている?」
「もちろんです。あなたは恭子さんに出逢うまでは確かに平凡な人間の一人でした。
しかし、籠の鳥が外にいる鳥に共鳴しようとするかのごとく、あなたは恭子さんの能力によってご自分の能力を引き出されています。
今はまだ形になっていないかもしれない。それでもその能力は恐らく今後ご自分でも持て余すでしょう。
それが事実であるという事は既に調査済です。あなたは我々が守らなければならない人物のリストに載ったのです。
人間というものは不思議なものでね。望まない人には与えられ、望む人には与えられない能力というものがあるんです。
その人にとってはむしろ不幸の原因にさえなってしまう才能。それこそが能力者です。
次元は違いますが、ゴーギャンだって絵を描かなくてすめばおそらく幸せな人生を送れたでしょう。
モーツアルトもしかりです。彼らは望みもしない才能によって人生をズタズタにされてしまった。
しかし、後生の人類にとって得難き美を残した。
あなたと恭子さんの能力もそれと同じです。無ければ幸せだったかもしれない。
普通に子どもを作り普通に会社に勤め、マイホームを手に入れるのが夢という絵に描いたような家庭を築けたでしょう。
しかし、我々はあなたの能力が実に羨ましい。むしろ我々のように国家と世界を守るべき立場の人間にこそ、
あなた方の能力は必要なのです。しかし、さっきも言いましたように、望む者には決して与えられないのです。
不公平な話ではありますが」
そう言った男は初めて眉間に皺のようなものを微かに寄せた。彼にもこの世の不公平を嘆くだけの感情はあるのだ。
「僕のような凡人が能力者とは、申し訳ないようですね」
僕は本心でそう言った。
「いいえ、あなたには何の責任もありませんからね。
私だって、こういう仕事に就かなければ、それこそ未来だって、過去だって知らずに生きていきたい。
人間なんてわがままなものです」
僕は男が職務以外の至極個人的な意見を聞き少し戸惑った。今までは僕の気付かないうちに現れ、最低限の
会話の後僕の質問にすらまともに答えず、周りの喧騒すら眉一つ動かさずに僕の前から姿を消していたからだ。
まるで「このテープは自動的に消滅する。」と云った昭和の頃のスパイ映画に出てきそうな、再生終了後
爆発して壊れてしまうオープンリールのレコーダーの様にだ。しかし今僕の目の前にいる男は人間臭さのする、
職務に忠実なただの男に見えた。その姿を見ると僕が能力者の重要人物リストに載った事が間違い無い事に感じた。
「少し質問しても構わないですか?少し気になる事柄があります。」と、僕は男に向かって言った。
「結構。私の知る限りの事であれば、何にでもお答えします。」男はそう言いながら鼻を鳴らした。
「前に恭子は、あなたが、あなた達が保護しているような事を言ってましたよね。でも先程の話では僕と恭子に
僕の能力について話をしに来る前に突然恭子が僕の前から姿を消したと言ってました。それならば何故
あなた達は恭子を引き留め僕の許に連れて来てはくれなかったんです。僕が傍に居ないと予知夢に
悩まされるんですよね。であれば今頃恭子は毎日辛い予知夢に苦しんでるんじゃ無いんですか?」
と僕は言った。男は虚空をみつめ暫く黙った。まるで重いデータをダウンロードするパソコンのような沈黙だった。
「それはまず第1に恭子さんの予知夢がまた酷くなったからです。平和な日常がまた蝕まれてきたのです。
坂本さんとの生活はモルヒネのような物なのです。劇的な効果の特効薬も、馴れてしまうことにより効果が
薄れてしまうものです。第2に坂本さんの仮説に基づいた能力を完全な物にする必要があったのです。
一時的な効果を恒久的な、あるいは根治的な効果にする為には坂本さんの能力を覚醒させる必要があったのです。
そこで我々はある賭けに出ました。それは恭子さんの育った環境に於いて坂本さんの能力を覚醒させる事です。
つまり北京で坂本さんの能力を覚醒できればより強固なバランスが保たれるのでは無いかと考えました。」
「それで僕を北京に行かせてあの老婆に逢った訳ですね?」と僕は言った。
「その通りです。それに恭子さんは、坂本さんの能力が覚醒する事は予知夢で既にご存じだったと思います。
ただそれが恭子さんにとってどのように映ったのかは解りませんが。我々にもその詳しい内容は報告されては
いないのです。ですから坂本さんが北京で苦しんでるというように感じたのかも知れませんし、あるいは
それが恭子さんに得も知れぬ恐怖の様に感じたのかもしれません。全ては恭子さんの心の奥深くに閉ざされて
我々の保護下に於いてもそれは知る由も無いのです。しかし、何度か私が坂本さんに伝えた様に、坂本さんは
よくやってくれました。見事な迄に覚醒してくれました。まだ北京といった場所に限ってですが。
我々の賭けが見事に的中した訳です。それはとても喜ばしい出来事です。実に。」男はそう言って左端の唇を僅かに歪ませた。
「なるほど。つまり僕は能力者としてあなた達の目論みどおり覚醒し、恭子の恒久的な、あるいは根治的な
効果のある人間として、生まれ変わったと言うことですね。それなら、僕は今すぐに恭子に逢い、恭子の
苦しみを取り除く事ができるのですね。それじゃ、恭子に逢わせて下さい。今すぐ。ここで。それとも
外に待たせてある車に恭子がいるんですか?」僕は少し興奮して自分の声が大きくなっていることに
気が付かなかった。ランチを食べおわった店内の客が一斉に僕の方を振り返って見ていた事にもだ。
「坂本さん。少し落ち着きましょう。確かに坂本さんは見事に覚醒してくれました。でもまだ恭子さんに
逢うべき時では無いのです。私も坂本さんの気持ちはお察ししますが、タイミングと云うものがあるんです。
つまり、栓の抜けたバスタブにカランのお湯をいくら注いでもバスタブにお湯が貯まる事は無いのです。
またたっぷりお湯の貯まったバスタブにいくらお湯を注いでもお湯が溢れるだけで何の意味も無いのと一緒です。」
「つまり、バスタブの古いお湯を廃棄し、しっかり栓をするまで待てと云うことですね。それじゃいつまで待てばいいんです?」
「その時期について私には何とも申し上げられません。時期が来るまで待って欲しいとしか。」
男はそう言い終えるとあたかもたった今まで一人でこのテーブルに座っていたかの様に立ち上がり、
僕の分の勘定書も一緒に掴んで何も言わずにレジで支払いを済ませて店を出て行った。
追いかけるという選択肢もあったのだが、男がそれを拒否しているのが分かったので僕はそのまま立ち上がらなかった。
男は必要なときに現れ、その必要が無くなれば消える。それだけだ。
それは秋が終われば冬が来るとか月曜日の次には火曜日が来るといった、当然な事象のようにさえ思われた。
少なくとも彼には不可逆的な一貫性というものがあった。
僕はしばらく人の出入りが収まりかけた店内に残った。ほとんど何も考えられなかった。
李丹にそっくりのウエイトレスがやってきて、ほとんど手がつけられていないサンドイッチの皿を遠慮がちに「お下げしてもよろしいですか?」と聞いた。
僕はそれについても一瞬何の事か分からず、ウエイトレスの顔をジッと見つめたので、彼女は怯えたようにその場を去って行った。
気が付くともう外は薄闇に包まれて、駅前は夕食の買い物をする主婦達や学校帰りの中学生達なんかで賑やかになっていた。
僕はファミレスでもない喫茶店にいるには少し長すぎたことに気が付き、ゆっくり立ち上がって店内を出た。
外に出て駅前の駐車場に行ってゴルフに乗り込んだ。
僕はどこに行けばいいのか分からなかった。実家に帰ることは選択肢には無かった。
母に、僕が子どもの頃にどんな能力を見せたのか聞きたいような気もしたが、
それが母から語られることは無いような気がした。
例え聞くことができたとしても、僕はそんな事を知りたいとは思わなかった。
過去に行ける能力。と僕は思った。そんな馬鹿げた話を簡単には信じたくは無かったが、
過去の敦煌に行って来た記憶がそれを否定することを許してはくれなかった。
オー・ケー。認めよう。僕は幾分人とは違った能力があるのかもしれない。
だが、ただそれだけだ。誰も救ってはいない。妻である恭子でさえ、まだ見つけることすら出来ずにいるのだ。
いったい何処へ向かうべきなのだろう。僕はゴルフのハンドルを握りながら考えてみた。国道は夕方の
ラッシュアワーのせいでひどく渋滞していた。特別急いで行かなければならない場所がある訳ではないが、
今の僕をいらつかせるには充分な理由だった。海岸線に延びる長い国道から、闇に支配される迄の少しの間
海を眺めた。そのほんの僅かな時間の間に僕の視界に何かが通り過ぎていった。それが一体何なのかが僕には
認識できないでいた。ほんの一瞬だったし、すれ違う人や車は数えきれないほどいた、第一僕はいらついていたのだ。
暫らくすると不思議なくらい渋滞が解消されていた。僕はその空きはじめた道路を走りマンションに戻る事に決めた。
もちろん他に行くべき処は思いつかなかったし、僕は初めからそうする事に決めていたのかもしれない。
2時間後にマンションの駐車場にゴルフを入れた。僕は朝から何も食べていなかった事に気付き近くの
バーガーショップに寄ることにした。僕はそこでトマトの挟んであるハンバーガーとポテトとコーヒーを
たのんだ。僕はトレイの上にそれを乗せて窓際のテーブルに座った。久しぶりにバーガーを食べた為か
空腹感からか、とても旨く感じた。最後のポテトを口に運びそれをコーヒーで胃袋に流し込んだあと、手や服に
付いた塩を両手で払って僕は店を出た。外に出ると少し寒く感じたが、北京に比べればかなりマシだった。
僕がマンションに入り自分部屋のドアを開けると二つ折のメモ用紙が一枚ゆっくりとドアの下に落ちた。
僕はそれを拾いコットンパンツのポケットにしまい込み、部屋の明かりを点けダイニングテーブルに座った。
僕はそのメモをテーブルの上に置き開いてみた。そのメモには携帯番号らしき数字の羅列の下に
「恭子さんの事でお話したいことがあります。戻りましたら電話して下さい 吉田」
と書いてあった。僕は冷蔵庫を開けビール取出したあともう一度メモを読み返してみた。
僕は吉田さんに今は会うべきでは無いような気がした。
吉田さんが恭子の能力のことを知っていたとは考えにくかったし、吉田さんとの夜の事がどうしても頭から離れなかった。
冷蔵庫に長い間入っていたビールはまるで北極海のように冷えていた。
冷たいビールの所為で少しだけ気分がスッキリした。。
ここ何日かの間に起きた出来事の中で、吉田さんを抱いた夜は僕を現実と繋ぎ留めている鎹みたいに思えた。
吉田さんを抱いたことを恭子は知っていた。まるで予め決められていたことの様にだ。
それでも尚、僕にとってそれは深い後悔となって重くのしかかった。
ただでさえ傷ついて行き場のない恭子を決定気的に傷つけてしまったに違いないのだ。
僕はビールを飲み干して、何かつまみになるものは無いかと冷蔵庫を開けて見たが、
冷蔵庫は見るまでも無く、全くの空っぽになっていた。冷えすぎたバドワイザーが残り3本と、ひからびた半分の玉葱だけだった。
そろそろ食料品を補充するべきだった。食事は済んでいたが、何となくもう少し何か食べたいような気がした。
でもスーパーで買い物をするのは明日でもよかった。どこかで一杯飲もうかと考えていると、
今日が火曜日であることに気が付いた。ちょうど楊さんに会ったライブハウスでライブをやっている日だった。
時計を見るともうすぐ午後の9時だった。ちょうどいい時間かもしれない。
僕はジャケットを羽織ってマンションを出た。深まりつつある秋の夜に、どこからともなく鈴虫の鳴く声が聞こえた。
僕はTree's Menまで歩きながら不思議な懐かしさを感じていた。藤沢に帰った時にも感じられなかった程の
懐かしさだ。僅か10日程前に一度行ったきりの道程にどうしてそんな感覚になるのかが自分でも解らなかった。
30分程歩き古い木製のドアの前に立つと、籠もったような重低音が心地よいリズムで僕を迎えてくれた。
店内に入るとテーブル席はほぼ満員でカウンター席がわずかに空いているだけだった。店内は淡いブルーの
光で照らされていて、ステージのまばゆいばかりのスボットライトが、客席のテーブルに2色のグラデーションを
作り出していた。ステージ上ではこの前会った時とは別人のようなしかめっ面をしたマスターが乗りの良い
ギターを弾き、シャウトしながらロックンロールを歌っていた。悪くは無い曲だったが、プロになれなかった
理由がどことなく理解できた。僕は店員にハーパーのロックをダブルとポテトをたのんだ。サンドイッチも
頼みたかったが、マスターはステージにいるので諦める事にした。僕はしばらく右足でリズムを取りながら
ハーパーの味を楽しんだ。マスターのバンドのロックンロールやブルージーなロックを聴きながら、2杯目の
ハーパーを飲み終えた時に、ステージの明かりが客席と同じ淡いブルーの照明に切り替わっていた。
「今日はおいら達のライブに来てくれて、ありがとう。おいらもバンドをやり始めて20年以上経つんだけど、
夢を追い掛けて挫折して今ここにいる。でもいつかは夢が叶う、そう考えてた若い頃に作った曲。
――もう聞き飽きたよ――なんて言わないで聴いて欲しい、バラードだ。『Dreems.Come.True』。
もちろん分かっていると思うけどドリカムとは関係無い。(失笑)」そう言って今までと使っていたギター
とは違うブルーのギターに持ちかえ、フラット・ピッキングのアルぺジオで弾き始めた。その時マスターと
目が合ったような気がした。夢が叶うと云うタイトルのわりには随分哀しげな曲だった。歌詞もメロディーもだ。
その曲が終わり全てのプログラムが終了したらしく、マスターがステージを降り僕の隣に座った。客は
二割程の常連客を除きいつの間にか帰っていた。マスターは額の汗をタオルで拭きながら僕に笑顔を見せた。
「本当に来てくれたんですね。嬉しいですよ。ライブはどうでしたか?」とマスターは親しげに話しかけてきた。
「とても楽しめましたよ。オリジナルなんだね。驚いたよ」と僕は笑顔で答えた。
それは本当のことだった。何かを作り出すということは、何であれ大変なことなのだ。
「いやいや、最近はまったく作曲とかはしてないよ。若いときは夢っていう動機があったけどね。
今じゃ、演奏するだけでもかなりの体力使うからね。そんな時間もなかなか無くてね」
「そうなんだ。でもとても良かったよ」
僕はマスターと他愛のない音楽談義に興じているだけで、やっとここが二十一世紀の東京であるという現実を受け入れることができた。
ここ最近僕が会った人たちは何かしら大きな問題を抱えていた。それになにより僕自身がそうなのだ。
それに比べると、マスターはとても健全だった。ポジティブで陽気で平凡だった。幸せとは凡庸さの別名であるということの証明のように。
音楽の話も尽きてマスターがおかわりのハーパーを持ってきてくれた。
北京で食べたのと同じ揚げた皮付きのピーナッツも一緒にカウンターテーブルに何も言わずに置いた。
「ありがとう。これすごく好きなんだ」と僕はピーナッツを一粒持ち上げてマスターに礼を言った。
「お客さん、なんか悩みがあるみたいだね」と話の脈絡を無視して突然マスターが言った。
「どうして?なんでそう思うの?」僕はびっくりしてそう言った。
「いやね、昔からそうなんだけど、深く悩んでる人見ると分かるんだよね。その人の周りに流れている空気で」
「すごいね。当たってるけど。でも悩みのない人なんていないでしょ」
「そうでもないさ。悩まない人間なんて沢山いる。例え悩んだほうがいいっていうような人だって、
なかなか悩まないもんだよ。特にどうしていいのか分からない場合はさ。でもお客さんは違う。本当に疲れて、悩んで、途方に暮れているみたいに見えるけど」
「当たってる。話したいけど、そう誰にでも言えるような話じゃ無いんだよ」僕はそう言ってピーナッツを囓り、ハーパーを飲んだ。
「それは分かるよ。普通の悩みだったら、敢えて本人に悩んでるなんて野暮なこと言わないさ。
でもほんの先週くらいかな、まったく同じ空気を漂わせていた人がいたんだよ。それで、お客さんを見たらついね。続くもんだなって思ってさ」
「へえ、それは一体どんな人だったの?」
「女の人だよ。お客さんくらいの年で、髪の長いすごい美人。女の一人客なんて珍しいから、余計に気になっちゃってね」
僕はそれを聞いて凍り付いた。恭子のことだ。恭子がここに来ていたのだ。
「その女の人は何かマスターに話したの?」僕は内心では居ても経ってもいられない気持ちで聞いた。
「いや、ちょうど火曜日だったからライブどうでした?って聞いたら、笑顔で良かったわって言ってくれただけ。
だけど、なんとなく場違いな空気だったんだ。なんというか、ここに居るべきではない人みたいに見えたね」
「マスター、その女性はその一回だけしか来たこと無い?」
「ないね。もしあったら絶対覚えてる。忘れるわけないさ、あんな美人」
「そうですか。それじゃその女性はここの常連客では無いんですね。」と僕は言ってピーナツを食べた。
「そうだね。あ、ちょっと待ってくれるかな?」とマスターは言って、ステージに戻った。ステージでは
バンドのメンバーや若い店員がライブの片付けをしていた。マスターは最後の曲の時に使った青いギターを
柔らかい布で愛しそうに拭きながらギターケースにしまっていた。他の楽器や器材は他人任せだったが、
そのギターだけは誰にも触らせたく無いみたいに見えた。そして、そのケースを抱えてまた僕の隣に座った。
「随分大切そうにそのギターを扱ってましたけど、何か特別な物何ですか?」と、僕はマスターに言った。
「ははっ。見てたんだね。そうだね、大切と言えばかなり大切だね。高校生の時にね、バイトして買ったんだよ。
楽器店のショーウィンドウに飾られていてね、いわゆる一目惚れだね。でもお金が足りなくてね。
足りないって言うよりぜんぜん持ち合わせが無かったんだ。それで店員に頼み込んだんだ。絶対買うから、
間違いなく買うから、他の人には絶対売らないでくれってね。店員は最初は余り相手にはしてくれなかったけど
僕がしつこく頼み込むので根負けしたみたいで分かったって言ってくれた。しかも、その場で持ちかえって
いいって言ってくれてね。丁寧に礼を言って持って帰ったんだ。それでね、次の日からバイトをした。
それまでバイトなんてしたことなかったけどね、三ヶ月掛かったよ。全部返すのにね。でも、店員もよく
僕を信用してくれたよね。それで思ったよ。頑張れば夢は叶うってね。さっきの曲もこのギターで初めて
作ったんだよ。それ以来大切なかけがえのパートナーだね。どんな曲もこのギターじゃないと作れないし
このギターがあればどんな難しい曲でもできる。信頼してるんだ。多分このギターもおいらを信頼してると思う。
お客さん、弾いてみるかい?」そう言ってケースからさっきと同じ様に丁寧にギターを取出し僕に手渡した。
「そんな大切なギターを僕が触るなんて出来ませんよ。第一僕はギターなんて弾けないんですから。」
そう言って僕は遠慮したが、そんなことはお構いなしに僕に手渡してくれた。
ギターは思っていたよりも重かったがとても持ち易かった。そのギターを抱えると不思議な優しさを感じた。
「どうだい?いいだろう。このギターはね、悩みを持つ人間が触るとね、その悩みがね消えるんだよ
何馬鹿な事いってるんだって言われるけどね。深い悩みを持つ人間にはとっても優しいんだ。遠慮はいらない。」
とマスターは言った。マスターの顔をみるとやわらかな笑顔で僕を見ていた。そして僕は丁寧にギターを返した。
「ありがとうございます。何か少し楽になった気がします。それじゃそろそろ帰ります。ありがとうございした。」
マスターにそう言って帰る事にした。また来て欲しいなとマスターが言ったのでまた是非来ますと伝えた。
「あの女性にもね、このギターを持って貰ったよ。言い忘れたけど。何も話さ無かったね。彼女は。」
と別れぎわに言った。僕はその言葉を聞きあの優しい感覚は恭子の温もりのような気がした。マスターは
どうして僕達にこれほど親切なんだろう?そう考えながらひんやりとした秋の夜の街をマンションへと帰った。
部屋に戻った僕は熱いシャワーを浴びたっぷりシェービングクリームを付けて髭を剃った。バス・ルームをでて
ダイニングテーブルに座り真冬の北極海のようなビールを飲んだ。そしてテーブルに置いてあったメモを
手に取って二つに割いた。それを細かくちぎりごみ箱に捨てた。「ありがとう。」と言ってみた。
しかしその声は誰にも届く事は無かった。僕の耳にすら届いてはいないのかもしれない。敦煌の空にも。
僕はビールを飲み干したあとベッドに潜り込んだ。冷たく静かなベッドだった。そして深い眠りが訪れた。
僕は朝の藤沢に居た。そこで恭子は僕の母に手紙を渡していた。そして海岸沿いの国道でタクシーを降りて
砂浜を歩いていた。恭子の顔は酷く疲れていてうっすらとクマが出来ていた。それはまるで何日も眠って
いないみたいに見えた。そして何時間もずっと海を見ていた。僕は何度も恭子に声を掛けたが恭子の耳には
届かなかった。日が沈むと電車に乗り継ぎマンションの前に立ちすくんでいた。恭子の目には涙か溢れていた。
僕はそんな恭子の背中を抱き締めたが僕の腕は恭子の体を擦り抜けるだけだった。恭子は細かく震えていた。
恭子はマンションの鍵を開けて中に入って行った。
ダイニングテーブルの上には吉田さんの置き手紙が残されていた。そこには「ありがとう」と書かれていた。
恭子はその手紙を持って、僕が母の手紙にしたのと同じようにそれをガスの火で燃やした。
恭子は涙を拭い、そのままマンションを後にした。
僕はそこで突然目を覚ました。まるで夢のようだったが、それはやはり実際に起きた出来事だった。
僕はまた時空を越えた。僕 は 過 去 に 居 た の だ。
間違いなく、そこはちょうど1週間前の火曜日で、僕はまるで空気みたいに恭子のすぐ傍に居るのに、
恭子にも、たぶん他の誰にも見えてはいないようだった。
しかしそれが夢であるとはとても思えなかった。
北京の美術館から突然過去の敦煌に足を踏み入れたみたいに、それは紛れもなく現実のように思えた。
ただ今度は、僕はそこに実在としては存在していなかった。
もしかしたら敦煌で僕が会った若いときの老婆も、もともと実在しない存在なのかもしれない。
ちょうど恭子がこれから起きる出来事を夢で見るように、僕は実際には見ていない過去を見ていたのだ。
しかし、それは僕の心に深く突き刺さる出来事だった。僕は吉田さんと寝るべきではなかったのだ。
僕は傍にある時計を見てみたが、まだ真夜中の2時くらいだった。
今恭子はどこに居るんだろう。あのあと恭子はTree's Menに行ったはずだ。そのあとどこへ消えてしまったのだろう。
あの若い男が電話を掛けてきたのは土曜日のことだった。そして恭子が出て行ったのは金曜日だった。
恭子が出て行ったのは、僕が吉田さんと寝る夢を見たからだろうか?
でも恭子が出て行かなかったなら、僕は吉田さんと寝なかったと思う。しかし、恭子は未来を変えられれないと思っている。
男はたしか恭子の夢が酷くなったせいだと言った。おそらく僕と吉田さんの夢はその酷い夢の一部なのだろう。
もし出来ることなら、過去に戻って吉田さんに「君とは寝ることは出来ない」と言いたかった。
でも、たぶんもう一度同じような状況に置かれたとしても、僕は吉田さんと寝ることになっただろうと思った。
未来を知ってから行動を直す事なんて恭子でなくては出来ないのだ。
「未来を知ってから行動を直す?」僕は今自分で思ったことにびっくりして声に出した。
恭子が姿を消したのは、何かの未来を変えるためだったのかもしれない。
そう考えると、僕が吉田さんと寝ることを防ぐより変えたい未来があったのだろうか。
僕は真夜中のベットの上で本当に途方に暮れていた。
窓からは綺麗に半分になっている月が、半月とは思えない程の明るさでその青白い光をシーツの上に落としていた。
僕が目覚めたときに時計の針は既に、朝の九時を回っていた。頭はまるで鉛のように重く、体はこの世界と
うまく馴染めていないように感じた。僕はしばらくベッドの上で窓の外を眺めた。窓の外には街路樹と
街の風景が見えた。何も変わらない筈の景色が何処と無く悲しみを帯びている様に見る静かな朝だった。
僕は三十分程かけて体を馴染ませたあとベッドをはなれ、はっきりしない意識の中ダイニングへと向かった。
冷蔵庫を開け朝食を作ろうと思ったが中にはひからびた玉葱以外に、何も入っていないのを思い出した。
仕方がないのでキッチンでコップに水を注ぎたて続けに2杯飲んだ。水を飲み干したあと僕は近所の
スーパー・マーケットに行くことにした。水曜日の午前中のスーパー・マーケットは特にセールをしていないせいか
とても空いていた。客の人数よりも店員のほうが確実に多かった。僕にとっては悪くない事だったが、
この店の事を考えるとひどく悲しい気分になった。とにかく僕はそこで当分の量食料品や酒を買いマンションに戻った。
冷蔵庫に買い込んできた食料品を詰めたあと、キッチンでパスタを茹で、オリーブオイルで焦げないように
注意しながらニンニクと唐辛子を炒めパスタを絡めてそれを食べた。パスタを食べおわった後食器を片付けた後
リビングに置きっぱなしのスーツケースを見つけた。僕は中を出してクリーニングに出すものと洗濯するものに分け
洗濯するべきものは洗濯し、クリーニングにだすべきものはクリーニングに出してきた。そして全部の部屋に
掃除機を掛け乾いたシャツにアイロンを掛けた。全ての家事を終えると既に日が傾いていた。僕は冷蔵庫から
ビールを取り出した。この十数日間にあまりにも出来事が多かった為に恐ろしく何も無かった。何しろ電話一本無いのだ。
僕はダイニングテーブルの椅子に座りビールを飲みながらテレビをつけた。テレビは夕方のニュースワイドが、
首都圏近郊の紅葉狩り情報や温泉宿の紹介をしていた。まるで世の中全てが平和で何の悩みも抱えていない
ように見えた。そこでは、家を出ていった妻を探す奇妙な能力を持った男の事など何の興味も持たれないのだ。
僕はテレビを見るのを諦め、テレビのスイッチを切った。テレビの音が消えるとすぐに部屋の中を沈黙が支配した。
どこと無く押し付けがましい沈黙だった。僕はふと、テレビの上に目をやった。そこには小さな白い箱が
置かれていた。中を開けるとシルクのスカーフが入っていた。僕はそのスカーフを広げてみた。それは恭子と
結婚したあと僕が初めてプレゼントしたものだった。しかし恭子はテレビの上や家具の上に物を置くのを
極端に嫌っていたし、僕もそういった処に出来るだけ物を置かないようにしている。それに僕の記憶が
間違っていなければ、恭子が出ていって以来恭子の持ち物は全て、この部屋から持ち出されていた筈だ。
更に僕が北京に行く前にそこには何も置かれていなかった筈だ。そう考えると僕が北京に行った夜に恭子が
故意に置いていったとしか考えられなかった。僕に能力があるのが間違いなければ、恭子はその夜この部屋に
戻って来ているからだ。だとすればこのスカーフにどのようなメッセージが込められているのだろう。
しかし今の僕には特別な何かを感じ取ることは出来きずにいた。恭子がそれを僕に渡すために置いていった事
以外には。僕はそのスカーフの表と裏を何度も見比べそして丁寧に折畳み、それを元のように箱の中にしまった。
僕はその箱をテーブルに置き恭子の事を考えた。恭子がこのスカーフを着けた事は数える程しか無かった。
少しの間僕はそうしていたが、少し腹が減ってきたので、キッチンに行きツナ缶と野菜でサラダを作り、
グリルで牛肉を焼き塩と胡椒で味付けをした。そしてそれを食べながら何本目かのビールを飲んだ。
僕は簡単な食事を済ませて食器を片付けてしまうと本当にすることが無くなっていた。外に飲みに行く事も
考えたが、今日はこれ以上飲みたくも無かったので眠る事にした。ベッドに入ると以外に早く眠ることができた。
そして僕は夢を見た。そこは北京迎賓館飯店の一室だった。その部屋は暗闇と沈黙の中でエアーコンディッショナーが
潜水艦のスクリューの様な音を立てていた。ベッドの上には一人の男がひどく疲れて眠っていた。しかし
僕にはその男が誰か解らなかった。暗闇がふかすぎるのだ。その部屋には僕とその男以外に誰かを感じた。
しかしその存在は実態の無い誰かだった。かすれたような声で何かを話していた。しばらく耳を澄ませると
その声をはっきり聞き取る事が出来た。やわらかく優しいその声は僕に話かけているように感じた。
「ねえ、あなた聞こえる?あなたもとうとう覚醒してしまったみたいね。不思議な力に。」
「そうみたいだね。恭子。でも僕は君をずっと探していたんだ。この十数日間ずっとね。」
「知っているわ。でも忘れないでね、今私はあなたに抱かれながらあなたの隣で眠っているのよ。」
「解っているよ。でも僕はたった一人で眠っている。僕の隣には誰もいない。それは信じて欲しい。」
「知っているわ。あなたの傍にはもう誰もいない。私も、他の誰かも。でもそんな事どうでもいいの。
あなたが誰を抱いていたとしても、隣で誰が眠っていても、あなたのしたいようにしてくれればいいのよ。」
「でもその事は本当に済まなかったと思ってる。嘘じゃない。でも憶えてるかい、昔僕と君は、…」
「知ってるわ、私たちは生まれ変わっても、互いに探して合ってまた愛し合うって、誓ったの。」
「そう、だから僕はもう二度と、君を失いたく無いんだ。君だってそうだろう?なぜ僕から離れる?」
「わからないわ。でも仕方なかったの。そうするしかなかったの。今はそれだけしか…‥。」
344 :
人参:2007/01/10(水) 20:44:46 ID:OlWF9BYV
マスク氏、95さん、読者の方(いらっしゃれば)こんばんわ。
人参です。
今日はみなさんに、お詫びとお願いがあって書かせていただきます。
今回僕が書いた
>>342-343の件ですが、今日全体的に読み返したところ、
今後の物語の行方にかかわる重大なミス(矛盾)があることに気付きました。
そこで誠に申し訳ありませんが、書きなおしをしたいと思います。
つきましては
>>341の手直しを含め現在の
>>341-343を
無かった事にして読み飛ばして下さい。
以下
>>340の続きとして書きたいと思いますのでよろしくお願いします。
自分のミスで今までの流れを止めてしまうことを深く反省しています。
勝手なお願いで申し訳ありませんが、よろしくお願いします。
345 :
マスク:2007/01/10(水) 22:21:16 ID:wky2irch
そうですか。お疲れ様です。
それはいいんですが、僕も良く読み返したら
>>339-340はまずかったなと反省してます。
というか、もう少しなんとか出来たはずなのに、人参氏に丸投げしてしまいました。
確かにせっかく過去に行くなら1週間前ってどうなのかとは思いましたが、
>>338の後を受けて僕がそのままマンションに行くだけではなくて、もう少し話を進めるべきでした。
そうすれば人参氏が
>>341-343という難しい話に持って行かずに済んだはずです。
力不足を大変に申し訳なく思います。
>>340より
僕が目を覚ますと、時計の針は既に朝の九時半を回っていた。頭はまるで鉛のように重く
体はこの世界とうまく馴染めていない様に感じた。僕は暫らく窓の外の街路樹や風景を眺めた。
普段と何も変わらない景色が、どことなく深い悲しみを帯びているように見えた。
僕は30分ほどかけて体を馴染ませベッドを離れた。はっきりしない意識の中キッチンへ向かい、
朝食を作ろうと思ったが、冷蔵庫には干からびた玉葱とビール以外に何も入っていない事を思い出した。
仕方無く僕は、グラスに水を注ぎたて続けに二杯の水を飲んだ。
水を飲み干して僕はスーパー・マーケットに行く事にした。暫らくの間僕はどこかに行く予定も無いし、
外食ばかりというのも飽きてしまう。ゴルフに乗りスーパー・マーケットに着いたが、
平日の午前中のためか店内はひどく空いていた。僕を含めた客の数は店員のそれよりも確実に少なかった。
それは買い物をする僕にとっては悪くない状況だが、この店の経営を考えるとひどく悲しい気分になった。
とにかく僕はその店で、それ相応の食料品と酒を買いマンションへと戻った。マンションに戻り冷蔵庫や
食品庫に買い込んできた食料品やら酒を詰め込んだ。僕はリビングに置きっぱなしのスーツケースを見つけ、
中身を取り出し、洗濯すべきものとクリーニングに出すものとを分け洗濯物を洗い、クリーニングに出すものを、
紙袋に入れた。昼近くに、僕はキッチンでパスタを茹で、オリーブオイルの中ににんにくと唐辛子を放り込み、
焦げないように炒めパスタを絡めて皿に盛り、
ダイニングテーブルで、それを食べた。パスタを食べ食器を片付けたあと、紙袋を抱え近所のクリーニング店に出してきた。
クリーニング店から戻り、部屋中に掃除機をかけた後、
乾いてきた洗濯物にアイロンをかけた。全ての家事を終えると、日は西に大きく傾いていた。僕は冷蔵庫から
ビールを取り出しダイニングテーブルの椅子に座り、一気に飲み干した。この10数日間多くの出来事の中で過ごしてきた為、
恐ろしいほど何も無い一日に感じた。何しろ電話の1本さえ無いのだ。
このまま何事も無く過ぎてしまう事を僕は心から願った。恭子が消えてから心の安定は別にしても、何事も無く過ぎた平穏な日が一体何日あったのだろう?
1日?いや、半日すらなかったように思えた。あの日以来僕は恭子の事を考え、若い男の指示に惑わされ異国の辺境へと導かれていたのだ。いつもそうだった。
僕の意思とは全く違った次元で物事は運ばれ、いつの間にか僕も能力者としてあの若い男の所属する得体の知れない組織に掌握され、保護すらされる立場になっているのだ。
僕は能力や国家の戦略なんてどうでもいいのだ。恭子と穏やかな日常さえあれば何も望まないのだ。けれど今はそれすら望む事は出来ないのでいる。
しかし今日くらいは何事も無く過ぎる事を願った。僕は無信心者だが、キリストや仏陀やアラーの神にさえ祈りたい気分だった。しかし無信心者のところには、
神のご加護は訪れる事は無かった。それは地獄から訪れる悪魔の囁きのような、電話のベルが、穏やかな一日を否定するように鳴り響いたのだ。
「こんばんは、坂本さん。久しぶりの日常生活はもう満喫されましたか?私が誰かはもうお分かりですよね。」と男は言った。
「お陰様で、退屈で死にそうでしたよ。何もすることが無いなんて、久しぶりですからね。」
僕は皮肉たっぷりに答えた。「強気ですね、まあいいでしょう。それはそれで。ところで少しよろしいですか?」もちろん。ちょうど茶飲み話の相手を探していたんですよ。
あと少しで雑誌の文通コーナーにはがきを投函する所でしたよ。」と僕は言った。「なかなか面白いジョークですね。しかし何も私はあなたの暇つぶしのために
電話した訳じゃありません。これからお会いする事は出来ないでしょうか?」「 いいですよ。僕もちょうど聞きたい事もありますから。」と僕は言った。
「分かりました。それでは20分後にあなたのマンションに車で迎えに上がります。20分後にマンションのエントランスで待っていてください。」
「分かりました。20分後ですね。その時間までにエントランスで待ってます。」僕は男の電話に嫌な胸騒ぎを覚えた。それはおそらく能力や単なる予感などとは全く違うものだった。
確信に近い、いや、確信そのものだった。
僕はクローゼットを開け乾いたばかりのコットンパンツを穿き、のりの利いたシャツの上にカシミヤのセーターを着た。そして、玄関でテニスシューズを履きエレベーターに乗り込んだ。
一階のエントランスに降り立った時、約束の20分後だった。エントランスを出ると、黒いリムジンの後部座席のドアを運転手が開けてくれた。僕は何事も無いように、
後部座席に乗り込みゆったりとした、高級ソファーのような革張りの座席に腰を下ろした。すると奥に座っている男が僕の顔を見て左唇の端を僅かに歪ませた。
「さすが坂本さん。時間にぴったりですよ。あなたも随分素直になりましたね。」と男は言った。
「別に素直になったつもりはありません。さっきも言ったように退屈していた所です。暇つぶしですよ。」と僕は言った。僕も彼らに保護される立場なのだ。多少の我儘は許されるはずだ。
「話し方は相変わらずですね。まぁいいでしょう。それでは何か飲まれますか?」と男は言った。特に何もいらないがルイ13世があればいただけますか?と僕は言った。
男は何も言わずにバーカウンターからルイ13世のボトルを取り出しブランデーグラスに注いだ。ご丁寧にチェイサーまで用意してくれた。僕は少し驚いたが、何も無いような素振りでそれを口につけた。
「それでは、本題に入らせていただきます。まずあなたの能力の事ですが、日本に帰ってきて初めてその能力を使われたみたいですね。さすがです。」と男は言った。
「そうみたいですね。別に使おうと思って使ったわけではありませんよ。寝たら勝手にどこかに飛んで行っただけの事です。別に能力なんかじゃありませんよ。夢ですよ。単なる夢です。」と僕は言った。
「今夜は随分と突っかかってきますね。もう少し素直になって下さい。私も人間です。多少荒い口調になる事もあるんですよ。」と男は言った。
「あなたも随分と人間臭くなりましたね。驚きましたよ。」僕は男の口調を真似してみた。「そうですね、少し落ち着きましょう。
それでは、あなたの能力について少し。あなたはまだ完全に覚醒しきってはいません。その証拠に日本においては、まだ古い過去には言ってないようですね。」
男はまるで僕しか知り得ないことを的確に指摘した。「よく分かりますね。まるで、僕の意識を隠し撮りしているみたいですね。」
「ある意味そういっても過言では無いでしょう。われわれの情報力を侮っては困ります。」と男は言った。
僕はまるで、お釈迦様の手のひらで踊らされる猿の様に感じた。「それで?」と僕は言った。
「あなたはまだ過去に行くためには何かのきっかけが必要なんです。覚醒したとは言ってもまだ発展途上なんです。中国の経済と一緒なのですよ。
まだまだ隠されているものがたくさんあります。それに不安定だ。」
「あなたの言ってる事は分かります。でも僕は一体何をすればいいんですか?」「それはこれから一緒に行けば分かりますよ。」
そしてしばらく男は黙り込んだ。僕は窓の外を眺めながらルイ13世を飲んだ。30分ほど経つと車は広い敷地の一本道を走った。
鉄格子の門を開いてもらってから5分歩で走ってから車が止まった。「それじゃ降りていただけますか?」と男は言った。
車の前には3階建ての古くて大きな洋館がそびえていた。」それはまるでアメリカのホラー映画に出てきそうな実に不気味な建物だった。
一体東京の何処にこんな広い敷地や建物が隠されていたのかうまく理解できなかった。
この男たちが持つ能力で、テレポートでもしているのではないかと思った。
。
「この建物の中に、あなたが探している恭子さんがいます。しかし、まだあなたと面会するわけにはいきません。
時期が来ていないのです。どうでしょう?この建物の中に入りますか?
それともこの車に乗って、誰もいないマンションに戻りますか?」と男は言った。
泉に落とした斧を持って現れる神様の質問のように思えた。
「本当に恭子がここにいるのなら、勿論あなたに従いますよ。」と僕は言った。
「それじゃ案内します。」と男は言った。
僕の答えは、全く聞いていないようだった。
あるいは、否定する事など端から想定していなかったのだろう。
僕は男の後を付いて、広い部屋に案内された。
「それでは、こちらで休憩してください。」と男は言った。
僕は古いソファーに腰を下ろした。
上等なソファーですわり心地は抜群だった
てすと
352 :
大人の名無しさん:2007/01/12(金) 18:24:59 ID:QQD2OBd+
部屋は古い洋館独特の客間だった。歴史を刻んだといういかにも押しつけがましい仰々しさが漂っていた。
僕が座っているソファの正面の壁際に据え付けられた女神のブロンズ像はもちろん本物なのだろうけど、その女神はまったく人を救えない様に見えた。
そもそも、女神のブロンズ像なんてものを客間に飾るべきではなかったのだ。
僕は何もかもを諦めてソファに背を凭れて目を閉じた。眠りは訪れ無かったが、しばらくすると覚醒しているのに目が開けられないことに気が付いた。
僕は目を閉じたままそっとソファから背を起こして、ゆっくりと立ち上がった。
しかし、依然として目を開けることは出来なかった。
僕は眠っているのだろうか?いや、そんなはずはない。しっかり覚醒している。
僕は試しに咳払いをしてみた。しかし僕の咳払いの音は籠もっていてまるで水中で拍手をした程度にしか響かなかった。
僕は意識を集中して、パニックに陥らないようにゆっくり手を前に出して、掴まるものを捜した。
さっきまでそこにあったはずの応接セットはすでに片付けられたようで、ゆっくり足を前に進めてもまるで何にもぶつからなかった。
僕はもう既にあの客間にはいないのだ。
僕はこれ以上動き回るのは危険な気がして、ゆっくり後ずさりして座っていたソファに腰を下ろした。
ソファ事態にも変化があったことに気が付いた。さっき腰を降ろしたときはとても座り心地が良かったのに、
今座ったソファはまるで質感が違う。どことなく安っぽい、よく病院の待合室に置いてある合皮成の茶色いソファの座り心地なのだ。
そういえば、どこからともなく病院特有の匂いが漂ってきた。そう思った瞬間、病院の待合室に居るようなざわめきが聞こえてきた。
遠くから聞こえる呼び出しの放送や、待合室に居る人たちのどことなく気の晴れない世間話や、かたかたとワゴンを押しながら歩く看護士の足音。
僕は今きっとどこかの病院に居る。間違いない。そう感じたと同時に目が自然に開いた。
マスクです。うっかり上げてしまいました。
申し訳ない。
そこは一昔前の大学病院みたいに見えた。漆喰塗りのかつては真っ白だった壁にはうっすらとひびが入っていた。
だが、周りに居る患者と思われる人たちは特別あか抜けてはいなかったが、ちゃんと現代の服装をしている日本人に見えた。
僕が居るのはあまり広いとは言えない廊下に延々と並べられた待合い席で、それはやっぱり焦げ茶色の合皮成のソファだった。
目の前には脳・神経外科と書かれたドアがあった。その左右には神経内科、そして精神科と並んでいた。
しばらくすると、男の看護士が押している担架が狭い廊下を縫うように通って、僕の目の前のドアを開けて中へ入っていった。
僕は胸騒ぎがしてほとんど無意識にその担架について診察室に入っていった。
そこには診察用ベットの上に寝かされている恭子がいた。恭子は深く眠っているようで、看護士が二人がかりでシーツの四隅を掴んでせーのと言って担架に移した。
僕は「恭子!恭子!」と叫んだが、やはり僕の声はそこにある空気を振るわせることは出来なかった。
僕の目の前を通って恭子は連れ出された。そこに緊迫した雰囲気はなく、どちらかといえば日常的な動作に見えた。
おそらく恭子はここに入院しているのだろう。恭子は他の入院患者と同じような緑色の入院着を着ていたし化粧もなく、外来には見えなかった。
僕はここが現在なのか過去なのかを知りたかった。過去であったのなら、僕と一緒に暮らす前だと思うし、現在なら先週の火曜日以降の出来事だ。
恭子の担架を追いかけて居ると途中に受付のカウンターがあり、そこに置かれた日替わりカレンダーは2006・10・27となっていた。
僕がよそ見をしている隙に担架は角を曲がったらしく、僕の視界から消えてしまった。
僕は慌てながら小走りに追いかけたが、担架はどこかの部屋に入ったようだった。
僕は病室行ったのではないかと踏んで案内表示を見ながら恭子の行き先を予測し、病棟をしらみつぶしにしてでも探すつもりだった。
しかし、どこの部屋を覗いても恭子を見つける事は出来なかった。
途方に暮れていると、通りかかった一人の女性が僕を避けたことに気が付いた。
僕は「ちょっと待って下さい」とその女性を呼び止めた。一瞬彼女は止まったが、何かを振り切るようにまた歩き出した。
僕は走り寄り、彼女の肩を掴んだ。女性振り返り、「何か?」と言った。
彼女は母と同じ位の年齢で、とても裕福そうに見えた。着ている物は明らかに高級ブランドか何かで、手には大きな宝石の指輪が3つも輝いていた。
「僕のことが見えるのですね」
「ええ、見えるわよ」
「どうしてみんな僕を無視しているのですか?」
「いいえ、違うわ。あなたを見ることが出来るのは私だけよ」
「どうしてあなたは僕が見えるんですか?」
「私もあなたと同じ能力があるからよ。でも私たちはお互いを干渉しないのが決まりなの。
だから本当は見えないように振る舞うべきだったわ。うっかり避けてしまったのね。悪かったわ」
「僕は過去へ来ることにまだ慣れていないのです。出来ればお話を聞かせて欲しいんですが」
「それは出来ないの。これ以上干渉し合うことは危険だから。普通はこんな風に能力者同士が同じ過去に入り込むことは出来ないはずなのよ」
「でも教えて欲しいんです。話を聞かせて下さい」
彼女はシーッと右手で人差し指を口元に立て、「戻りましょう」と言ってからおもむろに手の平で僕の目を塞いだ。
僕はまた目が開かなくなった。さっきとまったく同じ状況だった。
彼女は「またお会いしましょう」と言い残して僕の前から居なくなった。見えなくてもそれは不思議なくらいよく分かった。
僕はどうやって戻ればいいのか分からなかったが、とにかく無理に目を開けようとはせずに、そのまま動かずに立ちすくんでいた。
しばらくすると入院病棟特有の密やかなざわめきを帯びた雑音は消え、完全な沈黙が辺りを支配した。
そのうち古い洋館の客間にありがちな幾分湿った重苦しい空気に変わっていることを感じ取った。
するとまた突然目が開けられるようになり、僕の予想通りさっきの客間に戻っていた。
356 :
マスク:2007/01/12(金) 22:07:29 ID:QQD2OBd+
申し訳ない。日にちを間違えてしまった。
>>354文中の「2007.10.27」を「2007.10.19」に直して下さい。
僕の頭の中では恭子は水曜日に入院していることになっています。
つまり、現在の日付は10月25日の水曜日です。一応一週間前の過去に行ってるつもりなんです。
だんだん、つらくなってきたな^^;お見逃しを!!
僕の視界がこの部屋を確認できた時、女神のブロンズ像を遮る様にあの男が座っていた。
「お疲れ様でした。坂本さん。今度はどちらに行ってらしたのですか。」と男が言った。
まるでこの不確かな世界に僕が戻ってきた事に対して、祝福でもしているような気がした。
「いったいあなたたちは恭子に何をしたんですか?なぜ恭子が病院に入院しているんです?」と僕は言った。
「そうですか。やはりこの場所からそこに行く事が出来たのですね。
それが今回あなたにお伝えしなければならない事なのです。言葉であなたに伝えるよ
りその方が手っ取り早かったのですよ。
それに今日はやけにご機嫌が斜めだったみたいでしたから。お話しただけではご理解
願えないかと思ったのです。」男は極めて冷静に僕にそう言った。
「そうですか、やはり恭子に何かあったんですね。詳しく教えて下さい。」と僕は訊いた。
「分かりました。それではお答えします。恭子さんはあなたのところを出て行ってか
ら我々の施設に滞在していました。
そして今から1週間前の事です。恭子さんは、あなたに手紙を書き、それをあなたのお母様に渡しに出掛けました。
その後あなたがおそらく訪れたことのあるTree’s Menへ行き、その後当ても無く街を歩き、この場所に戻って来ました。
しかし、恭子さんはとても衰弱していました。マンションを出て以来ずっと睡眠をとらなかったのです。
勿論我々はゆっくり休むように勧めました。日に日に衰弱していくのがわかりましたから。」
と男は眉間にしわを寄せた。おそらく苦悩の表情をしているのだろう。
おそらく男の言っている事は間違いないだろう。僕は藤沢の海で酷くやつれた恭子を見ていたのだ。
おそらく僕と離れる事で、悪夢のような予知夢を見続ける事を怖れて一切の睡眠を拒んだのだろうと思った。
「それであなた達は恭子にまた手術をしたのですか?」と僕は言った。
「それは出来ませんでした。我々はあなたの能力を覚醒させなければなりませんし、
恭子さんには既に手術に耐えられるほどの体力は残ってませんでした。
考えてみてください。5日間ものあいだ一睡もしていないのですよ。既に限界ぎりぎりでした。
そして次の日に恭子さんは深い眠りに入り、即入院となったのです。それが先程あなたが見た出来事です。」
「それじゃ何故最初からそのことを僕に教えてくれなかったのですか?
どうして北京に僕を連れて行ったのですか。恭子は僕の妻なんですよ。
僕にはそれくらいの権利があるはずです。」
「その通りです、しかし、前にお話ししたように、我々は賭けに出たのです。
すぐにでもあなたに覚醒してもらわなければならなかったのです。一刻も早く。
そしてあなたは確実に覚醒してくれました。あなたの眠れる能力に。
おかげで恭子さんは今とても落ち着いています。あなたがここに来てから随分安定しているみたいです。
あなたの能力が恭子さんにとても良い影響を与えてくれているのです。」
「それで恭子にはいつ会えるのですか?時期って一体いつなのですか?」と僕は言った。
男はその質問には答えてはくれなかった。
「とにかく今日の所はここまでです。隣の部屋に食事の用意がしてあります。」と言った。
部屋に入ると先程病院で出会った女性がその部屋の椅子に座って居た。
僕は女性の向かい側に用意された席に腰掛けた。しばらくするとウエイターがやってきて僕らのグラスに香の良いワインを注いだ。
「すぐに会えたでしょ?」と女性が言った。
「そうですね。あなたの存在が分かってから、あの男達が何故僕の行動を詳しく知る事が出来たのか分かった気がします」
「感がいいわね。そうよ。あなたの傍には常に私が居たの。北京だけじゃなく、恭子さんと結婚した当初からね」
「何もかもお見通しな訳ですね」
「自由自在に行けるようにさえなればね。でもそういう風になるにはそれなりの努力が必要なのよ」
「僕はそんなことが出来るようになりたいとは思いません。恭子に逢いたい。ただそれだけだ」
「分かってるわ。私だって、同じようなものよ。でもそうなることでしか生きる道が無かったの。
私の能力を悪用しようとする他の組織から身を守り、人間らしく生きるためには、そうするしか無かったの」
「恭子にもそういった組織から狙われたりする危険が迫っていたんですか?」
そこへウエイターが前菜を置いていった。キャビアの入ったソースが掛かっているサーモンのマリネだった。
女性はとても上品に極めて自然なテーブルマナーで食事をした。
僕は彼女が質問に答えるのを待っていたが、まったく意に介さずに食事を続けているので、僕もそれに習った。
次々に料理が運ばれ、時々料理に対しての感想を言うだけで、女性はほとんど話さなかった。
僕も諦めて食事をした。食欲なんて感じていなかったが、食べ始めると止まらなかった。
デザートとコーヒーが運ばれてから、女性はやっと話を始めた。
360 :
大人の名無しさん:2007/01/13(土) 21:49:19 ID:KlaI4qlS
「私は恭子の実の母親なの。でも恭子を北京で産んだ当時は貧しい生活で父親もいなかったから、
私は恭子を育てられなくて、仕方なく恭子をあるお屋敷の前に置いて逃げたの。
そのお屋敷に住んでいたのは子どものいない日本人の夫婦だったと聞いた。
罪悪感に苛まれながらも、それが赤ちゃんのためだって言い聞かせていたわ。
それからしばらくして私は突然過去に移動するようになった。でもそれは遠い過去ではなくてほんの1週間前とか、数日前だったの。
私が移動する場所は大抵恭子の傍だった。私は自分の娘に会いたいというエネルギーで能力が目覚めたのね。
日本語で恭子が育てられていたから、私は何を話しているのか知るために、必死で日本語を学んだわ。
恭子がとても大切にかわいがられて育てらていることを本当に嬉しく、有り難く思ったわ。
そのうち恭子には予知夢があることに気が付いたの。でも恭子が苦しんで鬱病になっていくのを指をくわえて見ていることしか出来なかった。
とうとう見かねたある日、自分が母親であることや自分の能力のことや恭子の予知夢の事を、恭子の里親に会いに行って話したの。
恭子の父親となってくれた人は、日本政府の大変に特殊な仕事をしている人だったらしくて、私が能力者だということを知って今の組織を紹介されたの。
私は貧しくて生きていくのもやっとの状態だったから、喜んで組織への協力を引き受けたわ。
そして恭子の目に触れずにずっと恭子の成長を見守って来たの。それは願ってもない仕事だった。
予知夢の能力はかなり特殊だったから、組織にとっても恭子は最重要人物だったわ。
私は厳しい訓練でどんな場所のどの時間にも行ける能力を身につけたの。
それは死んだ方がましだと思うくらい辛い訓練だったけど、恭子の傍に居られるなら我慢できたわ。
そして恭子はあなたに会って結婚した。恭子はとても幸せな結婚生活を送っていたみたいね。
私はいつも恭子の数時間前の過去を見ているから、さっきあなたと会った私は一週間くらい前の私なのよ」
そう言われると恭子の母親の服装は、さっき過去で会った時は違っていた。
僕はなんと返事をして良いのか分からない気持ちだった。
「信じられない気もしますが、お会いできて本当に嬉しいです」それは本心だった。
よく見ると恭子の母親はそれなりの美人だったことが伺えた。今では少し肉付きがよくなってはいるが、目鼻立ちははっきりとしていて肌は白かった。
恭子にそれほど似ているとは思えなかったが、絶対に母親とは思えないほどでは無かった。
「恭子と離れてからは現実の世界で会ったことは無いのですか?」と僕は聞いてみた。
「ええ、無いわ。私と現実で会うと恭子の心のバランスが崩れる可能性があるから、許して貰えないの。
それに里親の二人は恭子を実子として届け出ていたから、私はもう赤の他人なの。でも組織でDNA鑑定をされて、認められたけどね。
私は恭子の傍に居られるだけでいいの。抱きしめたり、話を聞いたり出来なくて辛いけど、本当なら、それすら許されるはずもない立場だもの。
でも、もうすぐこの役目もおしまいだわ。恭子にはもうあなたが居るんだもの。
あなた達が上手く行けば私はまた別の仕事をすることになるわ。もちろん、恭子とは赤の他人としてね」
彼女の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「恭子は実の母親が生きていたと知ったら喜ぶと思いますけど」と僕は言った。
「それでも、やはり無理なの。恭子の能力は組織の重要な財産だし、私が自分の自己満足のためだけに恭子の能力に影響を与えるような行動は出来ないわ」
「恭子の能力は恭子の個性であって、誰の財産でもありません。彼女には自分の母親が誰なのかを知る権利があるはずです」
僕がそう言うと、恭子の母親は一瞬まったく動かなくなった。顔からは表情が滑り落ちるように消えた。
しばらくして彼女はまるで時間そのものを解凍するようにゆっくりと表情を取り戻した。
「そんなこと、言われてみて初めて気が付いたわ。私にとって、私の人生って私のものだった試しがなかった。
貧しい家に生まれて口減らしに売られて、学ぶ機会もなく男に奴隷のように使われて、子どもを産んでも捨てるしかなかった。
権利なんて言葉を知らなかった。生きるのに必死だったから、組織に雇われても言われるままに能力を使って働いた。
そしてお金は沢山貰ったけど、誰も私に権利なんて言葉を教えてはくれなかった。
私の能力を個性だなんて、誰も言ってはくれなかった。私は言われるままに恭子に会いたい一心で生きてきたの。
私も恭子に会いたい。そしてちゃんと謝りたい。酷い母さんだったって。しかも恭子の能力を組織に売り払ってしまった。
そうするしかなかった。それしか他に選べなかったのよ!」
そのまま恭子の母親は泣き崩れた。彼女もまた歪んだ権力の犠牲者だった。
しばらくの間、恭子の母親は両手で顔を覆いながら激しく泣いた。
そんな風に誰かを泣かせる事はあまり嬉しい出来事とは言えなかった。
しかし、彼女は何かを間違えていた。取り違えていたと言うべきかもしれない。
そもそも親子の血の繋がりなんてものはその本人の心の問題なのだ。赤の他人だろうが肉親だろうがそれには関係なく、人は愛し合いもすれば憎しみ合ったりもするものなのだ。
もちろん、ただの一般論ではあるが。
「僕にはお義母さんがどれほどの苦労をしたのかわかりません。だから、あなたを酷い母親だなんて思わない。
恭子が日本人として育てられたから、僕は恭子と出会えたのですから、むしろ感謝しています。
恭子はあなたを恨むはずがないと思います。彼女はなんというか、自分の事を哀れんだりするタイプじゃないんです。
組織でのあなたの立場がわからないので、強要もしませんし、僕の口から恭子にあなたの存在を話したりしません。
でも恭子の能力ことを思えば、恭子があなたの存在に気が付いていないとは考えにくいですけどね。
だから、あなた自身がそうすべきだと思うとおりになさって下さい。大変差し出がましいとは思いますが」
僕はそう言って席を立った。部屋を出るときにも彼女はそのまま泣き続けていた。
何かを必死で守ろうとしている人みたいな、頑なな泣き方だった。
さっきの部屋に行くと、男が僕を待っていた。
「食事はいかがでしたか?」と男はまるで僕が一人で食事をしていたみたいに言った。
「とても旨かったですよ。いささか贅沢ではありましたが」
「それはよかった。あなたの部屋を用意してあります。それともマンションに戻られますか?」
男はあたかも僕に選択肢が与えられていることを強調するかのように言った。
「恭子が入院している病院を教えて頂ければ僕は帰ります。どこなんです?」と僕は言った。
「それはお教え出来ません。恭子さんは厳重に保護されています。でもあなたには会わせられない。
何故なら、恭子さんが望んでいないのです。恭子さんは決してあなたに居場所を教えないで欲しいと言っています。
我々の持ちうるいかなる権力を持ってしても、会いたくない人に会わせるような権限はないのです。
恭子さんは我々の元に来た時に、あなたにもう2度と会えないようにしてほしいと言いました。
私たちはそれに従ったまでです。まだ会う時期が来ていないとはそういうことなんです。ご理解頂けますか?」
「恭子は僕を必要としていると思う。そして僕は恭子に会いたい。それでもダメなんですか?」
僕は男に脅すように詰め寄った。暴力に屈するようなタイプにはとても見えなかったし、もし腕っ節で決着をつけられたとしても、負けるかもしれなかったが、我慢にも限界というものがあった。
「落ち着いて下さい、坂本さん。暴力に訴えたとしてもあなたに勝ち目はない。それに、そんなことをすれば余計恭子さんには会えなくなる。まだわからないのですか?」と男が僕の両肩を掴んで言った。まったく正論だった。
「恭子の実の母親にも会っては行けないと言っていますよね。それなのに、彼女を使って僕や恭子の行動を把握している。
それはなんのためなんですか?恭子には自分の母親に会う権利があるはずです」
僕がそう言うと、男はため息に似たものを吐き出した。まるで聞き分けの無い子どもに呆れるみたいに。
「彼女は恭子さんの母親などではありませんよ。そう信じているだけです。彼女は心を深く病んでいるのです。
能力者は精神的に深く病んでいる人が多いのです。あなたのような正論や一般論を簡単に当てはめることなど極めて無意味な事なのです。
彼女は我々に保護されたとき、極めて精神的に不安定な状態でした。治療の末、過去へ行く能力が遺憾なく発揮されるまでになりましたが、
恭子さんが自分の娘だと信じていることで、彼女の能力は引き出されたのです。
どういうわけかはわかりませんが、彼女は出産経験すらないのに、恭子さんを自分の娘だと強く思いこんでしまったのです。
そしてそれを間違いだと証明するためにDNA鑑定までしましたが、彼女はその事実を受け入れないばかりか、本当の娘だと認定されたというストーリーを作り上げ、それを信じるようになっています。
人の心というものはまったく宇宙のように深く暗く広いのです。恭子さんの心もしかりです。
それでも恭子さんに会わせるべきだとあなたは思いますか?」
僕はもう何も言えなかった。僕は諦めてソファに腰を降ろした。
「坂本さん、あの女性は我々の組織の重要な任務を本当に優秀にこなしてきました。
彼女の精神の安定を図るためにはむしろ恭子さんが娘だと思いこんで貰った方が都合がいいのです。
真実なんてものは信じる人によって変わっていきます。永遠に不変な真実などたとえ存在したとしてもそれが誰を幸せにするって言うんです?
彼女の幸せのためには、恭子さんは彼女の娘であると彼女一人が信じ込んだって、誰にも迷惑はかけません。
所詮彼女はこの地球上に存在しないことになっています。もうとっくの昔に死んだことになっている人なんです。
彼女は能力を我々に買われたことによって、日本でとても裕福な生活を保障されています。
それを台無しにする権利はあなたにはもちろんありません。
坂本さんには彼女と同じ能力があります。訓練をすればもっと素晴らしい能力になるかもしれません。恭子さんの能力を引き出し未来も過去も自由に行けるようになる。
それに一生涯お金に不自由なく暮らして行けます。別に今までのように恭子さんと二人で生活して頂いて構いません。どうですか?組織で働くことをお考え頂けませんか?」
僕は思わず天井を仰いだ。あまりに馬鹿げた話で付き合うのもうんざりだった。
「まっぴらですね。僕は訓練なんて絶対に受けないし、あなた達に協力なんてしません。
僕は平凡な極普通の家庭で慎ましく暮らしたいのです。できれば恭子と二人でね。
もう帰ります。タクシーを呼んでくれませんか?恭子がここに居ないのであれば僕はもうここに居る必要性は無い。それとも監禁でもしますか?」僕は皮肉を込めてそう言った。
「そうですか、残念です。でも我々は諦めませんよ。
それではリムジンでマンションまでお送り致します。
もし、恭子さんがあなたに会いたいと言ったら、我々はあなたにすぐご連絡しますよ」
男はまったく動じてはいなかった。もちろん僕が拒否するなんてことは予め分かっているのだ。
「是非そうして下さい。食事をごちそうさまでした」
リムジンに乗り込んで僕はその高級シートに身を埋めた。
シートの傍に備え付けられたスイス製の高級置き時計が午後の9時を示していた。
運転手が何かお飲物は?と聞いたので、カティサークをロックで貰った。
僕はもともとブランデーより、バーボンとかウイスキーのほうが好きだった。
ルイ13世なんてもう二度と飲みたくなかった。たぶん性格がひねくれている所為だろう。
僕は車の中で恭子の事を考えた。何故恭子は僕に会いたくないと言ったのだろう。
そもそも恭子が僕に会いたくないというのは本当の事だろうか?
分からなかった。なにしろあの男の言う事のどこからどこまでが本当なのかも分からなかったのだ。
でも、あの過去で会った女性が恭子の母親ではないというのは何となく本当の事の様に感じた。
彼女は酷く孤独な女性だった。孤独というものはそもそも自立している人には無縁なものだ。
人は誰でも何かに依存しているものだし、それに気が付いていないというのは幸せな事だった。
僕がマンションに着いたのは十時半を少し回った頃だった。特に道路は渋滞していたわけでは無いし
特に廻り道をして走ってきた様子もなかった筈だ。時間の感覚が一旦ブレ始めるといつまでもその影響が
残ってしまうのかもしれない。それとも能力を使うことによって僕を取り巻く時間の流れに何かしら不具合が
発生しているのかもしれないと思えた。僕はマンションの部屋に戻り今日買ってきたワイルド・ターキーを
ロックでピスタチオナッツと一緒に舐めた。僕はストレッチャーで運ばれていく恭子の顔を思った。
酷くやつれていて苦しそうにも見えたが、何処となくやすらぎが訪れているようにも見えたのだ。
それが、僕の存在を感じたせいなのか、総てを諦めた心のせいなのかは、僕にはこれといった確信は持てないでいた。
出来れば前者で有って欲しいと願った。だがあの男たちの目論みを思うと後者で有るのだと思う。
そうじゃ無いのならば何日間も睡眠を取らずにいる事が考えられ無いのだ。恭子は僕を諦め、
そして人世を諦めたのかもしれない。それ程迄に恭子を苦しめる予知夢の事を考えるとひどく心が痛んだ。
僕はまた生まれ変わって恭子を探さなければならないのかもしれない。僕達は一体何度お互いを捜し求め、
出会いとすれ違いを繰り返していかなければならないのだろうか?僕はそんな状況を心から憎んだ。
例えそれが無意味な事であるにしても。
しばらくして僕は都内の職業別電話帳を探してきて開いてみた。恭子が入院している大学病院を探す為にだ。
僕は一つ一つの病院の名前と住所や電話番号を紙に書き出した。そしてその住所を五万分の1の住宅区分地図で調べ印をした。
明日から何日掛かるか解らないが、この印を付けた病院を廻り探しだそうと思った。少なくとも
脳・神経外科と神経内科、精神科がある病院だけを探せばいいだけなのだ。それにそこに行けばすぐに解るはずだ。
僕はもうその場所に行った事があるのだ。それ程難しい事ではない。僕はその手作りのリストを地図帳に
挿み眠ることにした。思っていたより疲れていたせいか眠りはすぐに訪れた。夢一つ見なかった。
朝起きると相変わらず空には雲一つない秋晴れが拡がっていた。心なし僕の気持ちも落ち着いているように思えた。
僕はトーストと目玉焼きにコーヒーで朝食を摂り片付けが済んだ時に電話が鳴りだした。受話器を取ると男からだった。
「坂本さん、おはようございます。取り急ぎお願いがあってお電話させて頂きます。」
と男は言った。いつもより少し落ち着きの無い不安定な声のように感じた。
「何でしょうか?今日僕はやらなければならないことが有るんです。退屈な一日は昨日で終わったんです。
一体なんの用ですか?僕だって毎日暇を持て余してる訳じゃないんです。」
と僕は言った、病院を探さなければならないのだ。
「これから私と恭子さんの所に行きませんか?お迎えに上がりますから。」
「何を言っているんですか?あなたは昨日僕に言いましたよね。恭子が望んでいないのに
居場所を教える訳にはいかないって。そんな権限は無いってね。」
「事情が変わったんです。詳しいことは後でお話します。あと30分でそちらに着きます、
準備をしてエントランスで待っていて下さい。」と男は言って電話が切れた。相変わらず一方的な電話だった。
仕方が無いので僕は歯を磨き、服を着替え、エントランスに降りて行った。電話を切ってちょうど30分後に
黒いリムジンはエントランスの前に到着した。僕は腕時計に目をやりドアを開けてくれるのを待った。
時刻は午前8時15分だった。昨夜のように時間が僕の目をすり抜けて逃げ出して行かないように見張っていなくてはならない。
リムジンに乗り込んだが、今日は男も運転手も飲み物を勧めてはくれなかった。
「大変な事態になりました」と男が彼にしてはありったけの感情を込めて言った。
「恭子に何かあったんですか?」僕は少なからず緊張して言った。でもまた罠ではないかという期待も拭いきれなかった。
「恭子さんは今、昏睡状態と診断されています。現在は極めて異常な意識状態に陥っています」
「何が原因なのですか?恭子は病気なんですか?」
「医師の診断によれば、本人の意志で眠り続けることは、起き続けることより難しい。
脳が何らかの機能障害に陥っていると考えられます。
しかし恭子さんの眠り方はどうも普通の昏睡とは違うようなのです」
「普通ではない?というと?」
「普通の睡眠状態のような脳波が確認されないのです。脳波だけ見ればほとんど起きて活動していると言って差し支えない。
つまり、身体はまったく何の反応も示さずに昏睡しているのに、脳だけが覚醒状態にあるのです」
僕はその話しを聞いてとても考えたくないことが脳裏に浮かんだ。
「もしかして、未来から帰って来られないのでは?」
「さすがですね。我々もそうではないかと認識しています」と男はなんの躊躇も無く同意した。
「それは予測していたんですか?」
「いいえまったくの想定外です。随分長く眠ってはいましたが、つい昨日までは脳波に異常はなく、時々起きていました。
極めて短い時間でしたが食事をしたり、排泄をしたりといった必要最低限の生命維持活動は自分で行っていました。
特に鬱傾向にあるわけではなく、ただ単に長く起きていたのでそれを取り戻しているのだと医師も我々も考えていました。
しかし、昨夜あなたが過去へ飛んだ頃から脳波が眠りながら完全に覚醒したのです」
「それは僕に原因があるんでしょうか?」
「分かりません。シンクロニシティーは感じますが、直接の原因と呼ぶには些か性急に過ぎるのではないかと思います」
「何か恭子を救う手だてはあるんですか?」
「それを捜すために坂本さんをお呼びしたわけです」
「そうですか。でもあなた達は無責任ですね。恭子を保護していると言った割にはその実何もしていない
恭子が何日も寝ていないのを知りながら何の対策も取らない。挙げ句の果て昏睡状態ですか。呆れて怒る気にも
なれませんね。それで一体僕にどうしろっていうのですか?僕は医者でも看護士でも何でも無いんです。
あなた達が勝手に僕を能力者に仕立て上げただけじゃないですか?」と僕は言った。彼にそう言ったから
といって、この事態が好転する事が無いと分かってはいるのだ。しかし言わない訳にはいかなかった。
「確かに坂本さんには申し訳ないと思っています。しかしこれは結果論であり、我々が望む事では無いのです。
その事は理解していただきたい。それに少なくともこの不測の事態を打開するには坂本さんの力が必要不可欠
なのです。我々も恭子さんを只、黙って見ていた訳ではないのです。いいですか、これは非常事態なのです。」
と男はそう言って右手の親指と中指でこめかみを強く押さえて、それ以上何も話さなかった。
車の中は異様な沈黙に包まれ、僕の耳がひどく痛んだ。余りの静けさに鼓膜が悲鳴を挙げているのかもしれない。
暫くしてリムジンは巨大な大学付属病院の大きな玄関の前に止まった。外見はとてもキレイで僕が知っている
あの古びた大学病院と同じだとはとてもじゃないが思えなかった。玄関の自動ドアのガラスには染み一つなかった。
ドアを通り中に入るとアイボリーに統一された壁に、挟まれるように続く広い廊下があり、中央に引かれた
何本かのラインは色別されてあった。天井から下がっているアクリル製のパネルには、その各診療科別に色別されており、
馴れない人々の為に分かりやすく案内してあった。しかし病院の廊下やロビーはひどく静まりかえっていた。
外来の患者がまだ殆ど来ていなかったし、入院患者は誰一人としてロビーに出てきていないのだ。
僕は男の後に付いて歩いていった。男が革靴で歩く音が廊下に響き渡り、それはまるで巨大な洞窟を連想させた。
少し歩くと赤いラインは古い建物へと続く長い渡り廊下の先へと延びていた。その廊下を渡り終えると、
そこには昨日僕が見た病院の風景が広がっていた。そこはおそらく昔からの大学病院の本来の姿なのだろう
と思った。そして患者数が増えた事で新しく玄関やロビーが増築され、そこに入り切れなかった診療科の
外来診察が奥の方に追いやられているのだと思った。。僕は白い壁に宿命的に刻み込まれたひびを見ながら、
男の後を着いて行った。男は馴れた様に奥の階段から三階の病棟へと歩いて行った。3階の踊り場に出ると
左右に続く長い廊下に出た。廊下の中央付近にナースセンターがあり、夜勤明けの看護士と日勤の看護士が
何やら打ち合せをしながら薬やら点滴の準備をしていた。男はそんな状況に一瞥もくれず、ナースセンターの
すぐ横にある個室へと入っていった。僕は黙って男の後を付いてその個室へと入っていった。
病室に入ると個室の割にはかなり広い事に驚いた。そこには余り上等ではないが応接用のソファーが一組あり
小型の冷蔵庫とテレビがあり、そしてトイレまで付いていた。窓際には四つのベッドを充分置けるスペースがあり
そのほぼ中央にベッドがひとつだけ置いてあった。もっとも、酸素ボンベやら心電図の機械やら、脳波の測定器やら
訳の分からない機械がベッドの周りを取り囲んであったので余分なスペースは特に見当たらなかった。
恭子の傍には看護士が一人で点滴をチェックしたり、体温を測ったりしていた。
恭子の頭には色々な器具が取り付けられ、鼻には管が付いていた。
男は看護士に一言、「席を外してほしい」と言い放った。
その言い方は主従関係にある人間同士の間で常に交わされているような響きを伴っていた。
看護士は手早く仕事を終わらせ、男の機嫌が損なわれないようにそそくさと病室を出て行った。
この病院にとってこの男の存在が特別な意味を持っていることは明らかだった。
男と僕は恭子のベッドの傍に立って、しばらく黙って彼女の顔を見つめていた。
恭子の顔には表情と呼べるようなものは全くなかった。静かに完全に力を抜いて意識なく深く眠っているようにしか見えなかった。
僕はこの2週間くらいの間、恭子に逢いたくてたまらなかったはずなのに、恭子を見てもそれほど感慨深いというような事はなかった。
うまく説明出来ないのだが、今まで僕の見ていた恭子のようには見えなかった。
外側だけ綺麗に剥かれて中身が詰め替えられた別の人を見ているような気がした。
「坂本さん、どうですか?何か感じますか?」と男が言った。
僕はうまく答えられなかった。僕は一体どうしたんだろう?あんなに愛していた恭子が目の前にいるのに、
まるで何も感じられないなんて。
「何も感じません。なんというか、この女性が恭子だとは思えないのです。恭子に間違いないですが、
それでも彼女に会えたという実感はまだありません」
「不思議なものですね」と男はさして興味もなさそうに言った。
そもそもこの男は何事においてもそのような話し方しかしないのだ。
僕は恭子の点滴の管が刺さっている痛々しい腕をそっと持ち上げて手のひらを握った。
その瞬間激しく胸を締め付けられるような愛おしさが込み上げてきた。
それは紛れもなく恭子の手だった。会社の帰り道やスーパーへ買い物に出掛けた時、僕は彼女の手を握るのが好きだった。
どちらかといえば大きな手だった。女性にしては大きめだけど、指が長く色は白く、結婚指輪しかはめていなかった。
初めて恭子に触れたのも手だった。彼女の手はその温かみによって奪い去られた表情を補ってあまりあるほどに多くを語っていた。
「恭子、僕だよ。やっと見つけたよ」と僕は再会して初めて恭子に語りかけた。
僕の声は恭子にはまったく届いていないようだった。
男はソファに座り、そんな僕らの様子を見慣れた風景の一部の様に眺めていた。
僕はひとしきり手を握った後、なんの反応も示さない顔をそっと撫でた。
美しい形の唇に触れて、顎と耳の間をなぞった。
でも恭子はまるで死んだように眠り続けていた。傍にある脳波計はきちんと正常に波を打っていた。
「坂本さん、何か感じますか?」と男がもう一回同じ事を訊いた。
僕は恭子の傍にいることで既に安らいでいた。彼女は眠っていても僕を癒していた。
「そうですね。恭子が本当に生きていることが分かっただけでもラッキーなのかもれない」
「坂本さん、我々としては恭子さんに目覚めて頂かなくてはならない。あまり時間がないのです」
「時間ですか?一体どうして時間がないのですか?」
「恭子さんのお力が必要なんです。我々には知らなくてはならない未来がある」
僕はその言葉を聞いて完全に頭に血が上った。
「ふざけるな!恭子は道具じゃないんだ!どうしてこんなになるまで追いつめてさらに恭子を利用しようとするんだ!
一体何の権限があってあんた達は人の人生をめちゃくちゃにするんだ!僕らには心静かに生きていく権利があるはずだ!」
僕が怒鳴り声を上げると数人のスーツを着た男達が入って来た。
男はなんでもないという代わりに片手を肩まで上げた。すると男達は静かに出て行った。
「いいですか、坂本さん。我々は何もあなたと恭子さんの人生をめちゃめちゃになんかしていません。
むしろめちゃめちゃになるはずの恭子さんの人生を陰で支えてきたんです。
そこへあなたがやってきた。それだけですよ。恭子さんの存在そのものが貴重なんです。
恭子さんから情報を得ることが出来ても、それを確かめるにはその未来が現在になるのを黙って見ているしかない。
それでも未来がどうなるかを知ることは人類にとって極めて重要なことです。
恭子さんがこっちの世界に戻れる方法を一緒に考えようではありませんか」
男の言葉は空虚そのものだった。そこには恭子に対する同情なんてこれっぽっちも無いような気がした。
「そうですか。でもそれは全てあなた達の論理です。たしかにあなた達にしてみれば僕は後から付いてきた
おまけみたいな者かも知れません。しかし僕には恭子を守る義務があるし、恭子を守る権利もあるはずです。
あなた達は、人類を守る為といった大義名分を振りかざし、一人の人間の人権さえ踏み躙っているようにしか
僕には思えませんね。たしかに手術をして恭子を苦しみから、たとえ一時的とはいえ救ったり、両親を失った
恭子を陰で支えてくれていたのは事実でしょう。でもそれは恭子が望んでいた事なんですか?それに単なる
好意で行った事では無いはずです。もし、そうならこの世の中にはもっと救われるべき人たちがたくさん居る筈です。
もうそんな詭弁はたくさんです。」僕は腹の底から沸き上がる怒りを抑えて、そう言った。
「そうですか。確かに我々の理論と言われればそれまでです。それでは坂本さんの理論ではどうなるのですか、
坂本さんの好きな理論とやらについて二人でディベートしましょうか?今ここで?」と不敵な笑みを浮かべた。
「僕は論理なんて別に好きじゃありません。それに今ここでディベートしたから何になるんですか?」
「それじゃ坂本さんはどうされたいのですか?我々より優れた方法でも思いつきましたか?」と男は言った。
「別に優れた方法なんか何も知らないし、分かりませんね。そんな事より僕達を二人きりにさせて下さい。
それ位の事を主張する権利位僕には有るはずです。たとえおまけみたいな人生だとしても。」
「つまり、我々が邪魔だと言いたいのですね。いいでしょう。たしかに坂本さんの言っていることには
筋が通っている。例えそれが一般論だとしてもね。その代わり我々にも条件があります。いいですか?
まず第一にこの病院から外に出ていかないこと、まぁ出ていったところで直ぐに連れ戻されますがね。
第二に医療的治療の時は第三者、つまり医師や看護士ですね。その方達の介入を受け入れること。
それだけは約束して下さい。とにかくそうしてくれるのならば我々は退室します。」と男は言った。
「分かりました。約束します。とにかく僕は恭子を誰にも干渉させたく無いんです。」と僕は言った。
しばらくすると男は病室を出ていった。二人きりになった病室はやけに静かだった。酸素ボンベから出る
空気の出す「ぽこぽこ」という音が部屋中に響いている様に感じた。静かな二人だけの時間がそこにあった。
僕は部屋の隅に立て掛けてあったパイプ椅子をベッドの横に置きそこに座り、表情の無い恭子の顔を見つめ
白いしなやかな手のひらを僕の両手で包んだ。それはまるで神に祈りを捧げる時のように。
「ねえ、恭子。君は今どこにいるんだ?どうして戻って来ない?」
僕は声に出して話しかけたが、それが恭子の耳に届いていないことは明確だった。
僕は握っていた手のひらに口づけをしながら、今度は恭子に向かって祈るように、
心の中で繰り返した。『恭子、僕だよ。応えてくれ』
すると頭の中に直接恭子の声が響いてきた。『聞こえるわ』
『今どこにいる?そこは未来なのか?』
『分からない。でもすごく暗いの。まるで暗渠の中にいるみたいなの』
『今までの夢とは違うのか?』
『そうね。違うような気がする。今まで私は常にその風景の中には居なかった。
いつも映画を見るみたいに、未来の映像を見ているだけだったのに、今は間違って入り込んでしまったような感じなの』
『僕がそこへ行くことは出来ないかな。どうすればいいんだろう』
『ここに来てはダメよ。あなたも戻れなくなるわ』
『でも、君を連れ戻したいんだ。行き方を知っているなら教えてくれ』
『それはわからないけど、お願いしたいことがあるの』
『僕に出来ることなら何でもするよ』
『私に付けられている生命維持の装置や点滴を全て取り外してほしいの』
『それは出来ないよ。そんなことをしたら、君は死んでしまう』
『お願い。あなたにしか頼めないのよ。だって私は組織に生かされてもまた夢を見させられる。
その未来は酷い事ばかりよ。私がまるでテロや地震を起こしているみたいに感じるの。
私がいなくなれば、そんな未来はそもそも来ないかもしれない。私にはそう思えて仕方ないの。
今いる暗渠の中は、きっと遠い未来の地球の姿だわ。太陽を失って、人々は地面に這いつくばってる。
私がここから抜け出すにはたぶん、死んでしまうしかない。
でも私には自分で死ぬことすら出来ないの。お願い。愛しているというならどうか殺して』
僕はそっと恭子の手を離した。恭子が今まで僕に一番伝えたかった事とはこの事だったのだ。
恭子が僕から離れた理由がどうしてかやっと分かった。
傍にいればいつか口に出してしまうという恐怖から逃れるために、僕に会わないことを決めていたのだ。
僕はどうしたらいいのか分からなかった。恭子は死を切望し、僕は恭子に死んで欲しくなかった。
そして生きていれば僕と恭子は確実にあの訳のわからない組織に骨までしゃぶられるに違いない。
僕は恭子と一緒に死んでしまうべきなのだろうか?
恭子は相変わらず静かに眠っていた。世界は何事もなく時を重ね刻一刻とその不幸な未来へと進んでいた。
気が付くともう昼過ぎだった。やはり時間は僕の目を盗んで音もなく逃げ出していた。
たとえ恭子が未来を見なくてもその未来はやってくるのだろうし、恭子が見たからと言ってその運命を変えられないのだとしたら、
どうして恭子にそんな理不尽極まりない不幸な能力が備わったのだろう。
それはまるで僕がたとえ過去に飛んだとしても、やはりそこにあるものを何一つ動かせないのによく似ていた。
僕らはまるで歪んだ合わせ鏡のようだった。
それでも僕は恭子を死なせるわけにはいかなかった。恭子は何も悪いことをしていないのだ。
そんな彼女が、一体何の罪を背負って死ななければならないというのだ?
恭子は今その自らの無力さに絶望していた。
未来を知りながら変えられないという罪悪感で生きることを諦観していた。
僕に出来ることは、恭子に生きる目的を教えることしかなかった。
僕らは絶対に死んではいけないはずだった。僕らは何があっても生き延びなければならない。
僕は恭子のベッドの横に座りながら部屋の中を見渡してみた。白い壁やベージュのカーテンやなんかをだ。
相変わらず酸素ボンベの「ぽこぽこ」といった音以外は何も聞えなかった。僕は恭子の顔を見つめ続けた。
僕には一体恭子の為に何が出来何が出来ないのだろうか?でも僕が恭子の命を断つ事なんて考えたくは
無かった。しばらくすると看護師がやってきて恭子の点滴の交換と心電図のデータや脳波のデータを取りにきた。
看護師は無駄な言葉を一切喋らず、黙々と仕事をしていた。僕はその作業を見てひどく辛い気分になった。
看護師がいなくなると部屋の中は深い沈黙に包まれた。まるで夜の深海のような沈黙だった。
僕は恭子の夢について考えてみた。僕と一緒に居ることによって恭子の夢はしばらく悪夢から解放されていた。
しかし、その力はモルヒネのように徐々に力を失い、恭子はまた酷い未来を見る事から逃れられなくなっていった。
僕が過去へ行ける能力を獲得した事で、恭子の症状が好転するどころかさらに悪化したのは明らかだった。
恐らく、恭子を救うために過去へ行く力を目覚めさせたという男の言い分は口実だろう。むしろ僕の能力に目を
付け、恭子と共に利用しようとしたに違いない。一体どうすれば僕は恭子の踏み込んでしまった世界に行く事が
できるのだろうか?そんな事ばかり考え続けていた。気が付くと窓の外は既に夕闇に包まれていた。
窓ガラスに写る部屋がとても広く感じた。僕は窓の近くに立ちガラスに両手をついた。窓ガラスはひんやりと
していて僕の手のまわりを白くくもらせ、窓ガラスは僕の体温をわずかに、しかし確実に奪っていった。
少しして僕はソファを恭子のベッドの横に置きそこに横になった。別に眠くなった訳ではなかったが
パイプ椅子よりは少しだけリラックスできた。恭子の様子は特別良くも悪くも、変わりが無く寝返りひとつ
うたなかった。『愛しているならどうか殺して。』と言った恭子の声が頭にこだましていた。その哀しい
心の叫びに僕はどう答えるべきなのだろうか?僕は恭子の耳元で小さな声で名前を呼び続けた。囁くように
何度も何度も呼んだ。しかし恭子の表情に変化は無くモニターに映る心電図や脳波のサインにも変化は無かった。
379 :
大人の名無しさん:2007/01/21(日) 15:59:42 ID:FE5+XObm
しかしまだ恭子の脳波の覚醒がおきてまだ一日しか経っていないし、僕が此処にきて半日しか過ぎていない。
おそらく深刻な状態はまだおきていないのだ。それは僅かな希望だ。僕はそれが起きる前に本当の意味で
恭子の傍に行かなければならない気がしていた。しかし僕にはその方法が見つけられ無いでいた。
ふと、目の奥に鈍い痛みを感じた。あの北京の博物館で感じた痛みだ。右手で軽く目を押さえたあと目を開くと
そこは何処かの病室みたいだった。そこは僕がさっきまでいた部屋とは違った小さな個室だった。そこには
頭に包帯を巻いた高校生位の女の子がベッドに寝ていた。その華奢な体つきやきれいに整った顔は間違いなく
恭子だと思った。さっきまで見ていた恭子の表情に似ていた。しかしそこには若い生命力の溢れていた。
僕は恭子に見えていないはずだと思っていたので隠れようともせずに見ていると、目を覚ました恭子が僕に
声を掛けてきた。「誰?あなたは先生?」15〜6才特有の大人とも子供とも言えない澄んだ声だった。
「僕は君の遠い親戚だよ。君が手術をしたって聞いて、日本から来たんだ。具合はどうかな?」
僕は恭子が怯えないようにとっさに嘘をついた。
「そう。私のお見舞いに来てくれたの?ありがとう。でもあなたには会ったことないと思うけど」
「そうだね。君が小さい子供の頃会ったきりだから、覚えてなくて当たり前だと思う。」
「私ね、知らないうちに手術したみたいなの。でも何の手術したのかな?おじさんは聞いてる?」
「僕もよくわからないね。君が手術をしたって聞いただけだから、それしか知らない。でも、これだけは言える。
君は、いつか必ず幸せになるんだ。幸せにならなくてはいけない。どんなに苦しくても生き延びなければ
ならないんだ。それだけは、約束してほしい。僕は君の傍にいられないかもしれないけれど、僕は君の幸せを
ずっと願っている。」と僕は言った。知らないうちに涙がこぼれ落ちていた。声も震えていたかもしれない。
「そうね。私も頑張ってみる。おじさんってなんか変だけどいい人ね。それに…‥‥ん〜。何でもない。」
「そうか、それじゃ僕は行かないといけない。お大事にね。」
「おじさん、ありがとう。またね。バイバイ。」と恭子は言った。
僕は病室を出て湿っぽく薄暗い廊下を歩いた。その廊下は人通りが無く、延々と続いていた。
まるで真っ直ぐに地上を分断する境界線を思わせた。
それが国を隔てる境界線なのか、過去と未来を隔てるものなのかは分からなかった。
僕は誰もいないその廊下をひたすら進んだ。
突然背後から呼び止められて、振り向くと、そこにあの敦煌で出逢った女性が立っていた。
女性は明らかに場違いなあの煌びやかな宮廷衣装を身にまとい、不敵な笑みを称えていた。
「お呼びになりましたか?」と女性は言った。
「ええ、もしかしたら、そうかもしれません」と僕は答えた。
「私たちはあなたの道に転がる全ての石を取り除く事を誓いました。何をすればよろしいですか?」
「恭子が、未来に閉じこめられているんです。どうしても彼女を助けたい」
「そうですか。それでは恭子さんのいらっしゃるところへお行きになればよろしいではないですか」
「それが、どうやって行けばいいのか分からないのです」
「簡単です。恭子さんの眠っている部屋のどこかに入口があります。
それは恭子さんがうっかり開けてしまった入り口です。そこから入ることが出来ます。
でもそこは未来ではないのです。恭子さんが作り出した世界です」
「ここも、実際の過去ではないですね?」と僕は言った。
「そうです。あなたが作り出した希望によく似た別の世界です」
「恭子を救うにはどうしたらいいんですか?」
「あなたがそう望めばいいのです。生きることを選ぶのはあなたです。
死は決してあなたを奪えない。恭子さんはあなたなのです。あなたが死を選ばないかぎり、
恭子さんは生き返るでしょう」
女性がそう言い終えると突然目の前がぐらぐらと揺れだした。まるで地震が起きたようだった。
僕はゆっくり床にしゃがみ込んで手を頭の上に載せた。
僕は目をつぶり、揺れが収まるまでそこにしゃがみ込んでいた。そのまま僕は目をつぶると揺れは収まっていた。
僕は頭の上の手を下ろしゆっくりと目を開けた。目を開けると元の広い病院の個室だった。恭子は無表情のまま
ベッドの上に静かに眠っていた。僕は恭子の耳元で何度か名前を呼んでみた。しかし恭子の表情に何の希望も窺う
ことは出来ないでいた。僕はさっきの女性の言葉を声に出して言ってみた。
「恭子の眠っている部屋のどこかに入り口がある。そこから入れる。そこは恭子の作り出した世界だ。」
僕は何度かそう繰り返した後、部屋の中をぐるっと見渡してみた。特に何か変わった様子は無かったが僕は
部屋の壁に沿って歩いてみた。病室の中は応接セットや冷蔵庫やテレビとベッド以外には白い壁とベージュのカーテンが
あるだけだ。「白い壁?」と僕は思った。あの北京迎賓館ホテルのロビーでの事が頭をよぎった。
あの時僕は白い壁にもたれかかると壁をすり抜ける事が出来たはずだ。そしてこの部屋の唯一壁に触れる場所、
つまり恭子の頭がある方の白い壁が僕を呼んでいるような気がした。僕はその壁に近づきゆっくりと右肩と頭をつけ
体を預けてみた。僕の体は何の抵抗も無く壁をすり抜けていった。その白い壁はまるで空気の層を抜けるみたいに
僕の体を飲み込んでくれた。その何層かの空気を抜けると僕の視覚と聴覚は何も感じなかった。そこは全くの暗闇で、
耳の奥が痛くなるほどの沈黙が僕の周りを包んでいた。僕は得も知れぬ恐怖に襲われしばらくそこを動く事ができずにいた。
僕はその暗闇に目を慣らす為、何度か目を閉じたり目を凝らして前方をじっと見てみた。それを幾度と無く繰り返してみたが、
僕の目は何の明かりも感じる事はできなかった。その代わり酷い恐怖感は薄れていくのを感じた。僕はその暗闇の中
一歩ずつ足を踏み出してみた。思ったより床はしっかりしていて、歩きづらくは無かった。何歩か歩くと僕の手に
何かを触るのを感じた。そこは僕の侵入を阻むかのように真っ黒な壁があるように感じた。僕は遊園地の
パントマイマーのようにその壁を両手で触りながらゆっくりと壁伝いに歩いた。しばらく歩くと壁は大きく右に
カーブしていた。
そのカーブを通り過ぎると今までの暗闇とは少し質が変わっていた。冷たく乾燥した暗闇から
湿気を含んだ温もりを感じる暗闇だった。無機質な孤独な暗闇から、誰かが潜んでいるような暗闇に
変わっているような気がした。僕はこの暗闇のどこかに恭子が迷い込んでいる様に感じるのだ。僕はその何者かが
潜む暗闇に向かって恭子の名前を呼んでみた。先程の恐怖感が僕の声帯を強張らせていたせいか、うまく声を出す事が
できなかった。僕は、搾り出すようにして恭子の名前を呼んでみた。その声はまるで無響室で出す声のように
僕の前の暗闇に吸い込まれているように感じた。僕の体を伝わってくる以外には僕の声は僕の耳にすら聞こえなかった。
僕はじっと耳を凝らしていると、微かな声が僕の耳に聞こえたような気がした。本の微かな声だ。
しかし僕はその声を恭子だと確信できた。
「恭子。何処にいるんだ?恭子。」と僕は叫んだ。僕はその微かな声のするほうに向かってそう言った。
しかし今度は何処からも声は聞こえなかった。僕は仕方が無いので壁から手を離して声のしたほうに歩いていった。
しばらく歩くと僕の足元に何かがあたるのを感じた。僕はそこに座りその何かを手探りで触ってみた。
その何かは柔らかくやさしい温もりを感じることができた。僕はゆっくりとその何かを手でなぞり横たわっている
人間である事を確認することができた。その柔らくて温かい何かは恭子だと思った。長い髪としなやかな体を
なぞることで、それが恭子であるということが僕には分かった。僕はその体をそっと抱き起こし肩を両手で抱きしめて、耳元で恭子の名前を呼んでみた。しばらくしてその体はゆっくりと体を起こしそこに座り込んだ。
『恭子。君は恭子なんだろう?』と僕は言った。
『・・・・・・・』
『僕だ。 恭子。僕が分かるか?』
『分かるわ。あなた。私です。』と恭子は言った。
『恭子。僕は来たんだよ。』と僕は言った。
『そう。でもここにはこないでって言ったはずよ。あなたは来ちゃいけなかったの。』
『そうかもしれない。でも僕は君を助けに来たんだ。ここから二人で抜け出すんだ。』
『ありがとう。でも私はここから抜け出す事はできないの。何度もここから抜け出そうと出口を探したの。でも、
ここには入り口しかなくて、出口なんて存在してないの。』
『そんな事は無いんだ。ここは君が作り出した世界なんだ。だから君がここに出口があるって思えば、出口は必ず見つかる。
君がそれをイメージすればここから抜け出す事ができるんだ。』と僕は言った。一緒にここから抜け出さなければいけないのだ。
『いいえ、それはできないわ。ここにはそんなもの無いの。それよりも私を殺して。お願いだから。私には分かるの。
あなたが私を殺さない限り、あなたもずっとこの暗闇からぬけだすことができないのよ。』と恭子は言った。
『そんな事できない。僕は君を愛しているんだ。一緒に戻らないといけないんだ。考えるんだ。ここの出口の事を。』
『ありがとう。そうね、一緒に抜け出さないと行けないのよね。』と恭子は言った。
その声はどこか、全てを諦めた人間が話す言葉のように感じた。
『そう、僕たちは生き延びなければならないんだ。それが僕たちのマナーだ。死なずに生き延びる事。』と僕は言った。『それじゃあなた、これを持って。』と恭子は言って僕に硬くて平たい金属のような物を握らせた。そして、僕の手を
両手で包み込みそのまま恭子の体に僕の手を引き寄せた。そして何度かそれを繰り返した後、僕の手を恭子は
ゆっくりと離した。僕は暗闇の中で僕の手の中にある平たい金属をなぞってみた。それは鋭いナイフのように感じた。
そして、次の瞬間熱いしぶきが僕の体にかかるのを感じた。
『ねえ、これで全てうまくいくわ。簡単だったでしょう?あなたの言うとおり出口があると思えば出口があるように、
私の手の中にナイフがあると思ったら、そこにはナイフがあったの。多分これが私にとっての出口なの。』と恭子は言った。
しかしその声はか細い声でこまかく震えていた。僕は言いようの無い絶望感を感じた。そして、次の瞬間熱いしぶきが
僕の体にかかるのを感じた。辺りは血の匂いに包まれていた。それは絶望的な匂いだった。僕は恭子の体を優しく
抱きしめ恭子の名前を呼び続けた。しばらくするとうまく恭子の体を抱きしめる事はできなくなっていた。
恭子の体から流れ出す大量の出血がそれを困難にさせているのだ。
『あなたありがとう・・・これで・・・ここから抜け出せるわ・・きっと・・・あなたも出口を・・見つけ出す・・
事が・・できると思うの。』と恭子はかすれた声でそう言った。
『恭子、喋るな!喋っちゃいけない!助けるから!僕は君を助けるから!』僕はそう叫びながら恭子の体を抱き上げ、
僕が入ってきたほうに向かって歩き出した。僕の目からは、涙が溢れてきた。その涙はきっと恭子の体にも
零れ落ちていたのだと思う。しかし、この深い暗闇の中ではそんな事を確認する事は出来なかった。
それよりも恭子の傷の具合さえ確認する事は出来ないのだ。
僕は、その無限とも思える暗闇の中をひたすら歩き続けた。
抱き抱えている恭子の体が冷たくなっていくのを僕の両腕が感じながら歩き続けた。
しばらくして僕は暗闇の中にぼんやりと見える白い壁を見つけた。
そして僕は恭子を抱き上げたままその壁に凭れ掛かった。
しかし、壁は固く南極の氷山みたいに冷たかった。
僕は壁から離れ、どこかからぼんやりと漏れる光に導かれるように壁伝いに歩いた。
その光は夏の蛍ほどの青白い光で、その所為で余計に白い壁が透き通った氷の壁のように見えた。
恭子の体温はどんどん下がっているようだった。僕の手は真っ赤に染まっているはずだった。
「恭子、死ぬな。死んじゃダメだ」僕は時折自分に言い聞かせるように話しかけた。
しかし恭子から返事はもう無かった。
僕は最悪の事態を迎える準備がまったく出来ていなかった。恭子を失う事なんて想像するのも恐かった。
でも恭子の出血を止めるなり、何か手を打たなくてはならない。そのためにただひたすら光の方向に向かって歩いた。
しばらくすると白い壁そのものが発光していることに気が付いた。壁は徐々にその光を増した。
次第にそこにある物の輪郭が現れると僕がしっかりと抱いているものは恭子では無い事に気が付いた。
それは黒い羽で覆われている人くらいの大きさの鳥に似た生き物だった。
そしてその生き物は黒い体液を流し、息も絶え絶えになっていた。
「恭子なのか?」僕がそう呼びかけると、その生き物が小さく頷いた。
僕はその生き物の傷口を捜し、必死で止血しようと試みた。
しかし幾重にも重なる羽が邪魔をしていて、どうしても傷口をうまく塞ぐ事は不可能だった。
どこにあるのかも分からない傷口から、黒い羽を伝って真っ黒な体液はどんどん流れ出ていた。
「恭子!死ぬな!」僕が叫ぶと鳥の姿になった恭子は静かに息を引き取った。
そして次第に僕の腕の中で、その存在の軽さに絶えられなくなった水蒸気のように消えて行った。
僕は自分でも理解できない言葉をあらん限りの声で叫んだ。その瞬間絶望が支配したように暗闇が戻った。
僕は暗闇の中で自分の意識がバラバラになるような気がした。
恭子は何かの形に姿を変え、自らの命を絶つことで何もかもを終わらせようとしたのだ。
それは苦痛をもたらす世界そのものへのアンチテーゼであり、恭子の魂の中に横たわるデーモンを葬る作業だったのだ。
僕はしばらくそこから動くことも出来ずに座り込んでいた。
意識がほどけ、その断片のひとつひとつを拾い集めてはまた組み立てるような作業を幾度か重ねるうちに、
そこがもうあの暗闇ではなく、ダウンライトだけで照らされた薄暗い恭子の病室であることに気が付いた。
涙と血液でびしょぬれなはずの自分の身体を見たが、一滴の血も付いていなかった。
ベットの方を見ると音もなく横たわる恭子が目に入った。
恭子は点滴も、体中に付けられていた計器の類も酸素吸入機も外されていた。
まるで死者にそんなものはもう必要がないというように。
僕は恐怖でもつれる足を引きずりながら、恭子の傍へよりその美しい唇に口づけをした。
すると恭子はまるで今まで寝たふりでもしていたかのように、クスっと笑い声を上げて目を開けた。
「なあに、どうしたの?」そう言って恭子は起きあがって笑顔で僕を見た。
僕はなにが何だか訳が分からなくなっていた。こ れ は 本 当 の 現 実 な の だ ろ う か ?
僕は何も言えずに、恭子をしっかりと抱きしめた。
恭子は温かく、リアルに存在していた。現実の世界の、僕らの日常に。
「心配かけたみたいね」と恭子が笑顔で言った。まるで何もなかったかのように。盲腸か何かで入院していたみたいに。
「良かった。本当に良かったよ」僕は知らずに泣いていた。もう上手く涙を止められなかった。
「何泣いてるの?大したことないのに」
「恭子、一緒に帰ろう。僕たちの家に。もう君は誰のためにも夢なんか見なくていいんだよ。
僕が絶対に護るから。君に辛い思いなんて絶対にさせないから」
「夢ってどんな夢?」と恭子が言った。
「未来の夢だよ。君が見続けた辛い夢のことだ」
「私はあんまり夢は見ない方なの。見てもすぐに忘れてしまうしね」
僕は恭子が嘘を言っているのか、本当に未来の夢について覚えていないのか分からなかった。
でもそれ以上何も言わない方がいいような気がした。恭子が今まで見たことが無いくらい嬉しそうな笑顔で僕を見ていたからだ。
「いや、何でもないよ。今言ったことは忘れてくれ。でも、君を護るってところは本当だと思う」
「あなた、何かおかしいわよ。急に泣いたりして」そう言って恭子は鈴が転がるような声で楽しそうに笑った。
そこへ医師が入って来た。少し白髪混じりの髪をきっちりとセットして、銀縁の眼鏡を掛けていた。
医師は恭子と僕の顔を交互に見ながら話し始めた。
「それでは、予定通り明日の午前中に退院ということになります。大したことなくて良かったですね」
「ちょっと、待って下さい。恭子はなんの病気だったんですか?」と僕は事情がつかめずに聞いた。
「あ、失礼しました。ご主人ですか?まだ、説明は受けてなかったのですね」
「はい、今日初めて見舞いに来たばかりで・・」と僕は言い訳した。
「奥様は1週間前に過労で倒れて内科に入院していらしたのですが、その後昏睡状態に入られて脳波の異常が見られたため脳外科に来られたんです。
でも今日の昼すぎ、無事に目を覚まされたので、念のためあらゆる脳の検査をしましたが何の異常もありませんでした。
それでご本人の希望もあり、退院を許可しました」
「今日僕はずっとこの病室にいたのですが、恭子が目覚めたなんて知りませんでした」
僕がそう言うと、医師は少し困ったような表情を浮かべながら言った。
「いや、恭子さんが目を覚ました時、ご主人はそのソファで眠っておられました。
看護士が起こしましたがまったく起きる様子では無かったようなので、そのままにしておいたようです」
そう言うと医師は、今度はあなたが入院したらどうですかとでも言いたげに首を軽く右に傾け、そのまま会釈をして出て行った。
僕は何がどうあれ、恭子が明日退院してくれる事になればそれでよかった。
医師が行ってしまうと、僕と恭子は二人きりになり、親密な空気の柔らかな沈黙が僕らを包んだ。
「ねえ、仕事は大丈夫なの?」と恭子が聞いた。
「ああ、今有給休暇中なんだよ」
「そう。それじゃあ、退院したら二人でどこかへ出掛けない?」
恭子から出掛けたいなんて言うのは久しぶりの事だった。
「いいよ。どこへ行きたいの?」
「そうね。那須高原なんてどうかしら。いい季節でしょ」
「そうだね。じゃ、そうしよう」
窓の外を見ると、月は天高くまで登り詰め、柔らかな光でそっと病院のあまりパッとしない中庭を照らしていた。
月にはなんの差別も無かった。未来も過去も無く、ただそこに生じる刹那を見つめていた。
僕らの未来は僕らが決める。と、僕は心の中で月に堅く誓った。
完
389 :
マスク:2007/01/24(水) 22:32:55 ID:7yHVT6na
長い間、読んで下さった皆さんに心から感謝です。
そして、何より、僕のわがままで始めた長編リレーに参加し、
書き続けてくれた人参氏には本当に心からありがとうを言いたいです。
僕はなんというか、出来映えがどうかという事よりも、
別の人間が交互に書いた物語がなんとか終わったという事だけでも、本当に嬉しいです。
2ちゃんねるにはなにか不思議な力があるんだなって思います。
この場を提供して下さった、ひろゆきさんにもお礼が言いたいです。
本当にありがとうございました。
390 :
人参:2007/01/24(水) 22:58:55 ID:nzZVBvB+
マスク氏、エンディング本当にお疲れさま。そしてありがとう。
そうだね、こうやって無事エンディングを迎えられて僕も本当に嬉しいですね。
でもマスク氏のわがままで始めたっていうのは語弊があるよ。
僕も書きたかった訳だし、そんな風には思っていないよ。
そして飽きずに読んでくれた人には心から「ありがとう」て言いたいですね。
本当にありがとう。このスレにいる全ての人へ。
391 :
95:2007/01/25(木) 02:29:47 ID:4QF57C74
ありがとう(p_ー)
本当にありがとうございました(T_T)/~
以上を持ちまして長編は終了しましたが、ここからは
雑談スレに変わります。
要望があれば
>>305-308みたいな短篇もやりますよ。
何でもいいので題名をリクエストしてくれればね。
それと、「辺境に向かうスレ長編完成記念off会」もやりたいと思ってます。
結局去年はできなかったので…‥。
参加したい方がいれば、ですけど。
by人参。
短編いいですね。
何書こうかな。
とりあえずお題があると書きやすいんだけど。
考えておきます。
オフ会やるんだ〜。すごく楽しみです。
byマスク
394 :
マスク:2007/01/26(金) 17:55:27 ID:FIMsJ2PV
その前に、人参氏に質問なんですが、書いていて、一番辛かったのはどこですか?
僕はちなみに、
>>233と
>>251-255なんですが、
どうしてかというと、知らない国の事を書くのはやはり辛いんですね。
もうね、233ではかなり致命的なミスを犯したし、251-255に関しては、
書き上げた後もなかなか書き込む勇気が出なくて本当に悩みました。
まあ、その後大きく影響を及ぼした訳ではなかったので良かったのですが、
書いてる時はもうやめたいと思うくらい辛かったですね。
そうですか、やはり長くかいてるとありますね、かなり辛い場面は。
僕はとにかく
>>341-343ですね。自分が何書いているのか、解らなくなってましたからね。
先が何も見えなくなって思いついて書いたら、前に同じ事書いてましたからね。
しかも自分で書いたところですから、あれじゃ全て台無しにしてるってw
もう、書きなおすしか方法が無くて、苦しかったですね。
それと、
>>381-384あたりは、どうやって書けばエンディングに持っていけるかで
かなり辛かったですね。書くのに三日掛かりましたからね。どうすればいいのか、
かなり悩みました。つまりエンディングに持って行く流れが一番辛かったというところです。
でも僕の思い付きで書いた展開をマスク氏がうまく繋げてくれてとても感謝しています。
たしかにあの辺は辛かったね。
あれは起承転結の中で言えば転の部分なんだよね。
一番悩むところだし、小説と呼ぶことが許されるなら、小説になりうるかどうかの瀬戸際みたいな。
だから、あれは人参氏も悩んだかもしれないけど、書き直して良かったと思いますよ。
でも381-384はすごく良かったね。一番気に入っています。
でも、書いている環境も影響するよね。
人参氏はずっと携帯から書いていたって言ってたけど、僕はずっと直に打っていました。
エディターとか、ワープロに書いちゃうと、書き込む勇気が無くなるんだよ。
直打ちだと全体が見えないけど、長く書いちゃってから「本文が長すぎます!」っていう表示を見て、
ここら辺で区切ろうとか、誤字脱字をチェックして2〜3レスに分けて書き込んでいた。
でも、人参氏は携帯だから、長すぎると消えちゃうっていうのを聞いて、長いヤツはどうしていたのかなって。
未だにあんな長文を携帯から書くなんて信じられない。
お疲れ様でしたね。
そうですね、ほとんど携帯から書いてましたが
書き直した346-350や、381-384なんかは、
ワードで書いてPCから書き込みましたよ。
流石にあれくらい長くなると携帯では無理ですからね。
でも、2レス位のは殆ど携帯で書いてましたね。
慣れると結構書けますよ。
何処でも気が向いた時に書けるしね。
マスク氏もお疲れ様でした。
95さんはもう見てないのかな?
もし見ててくれてるならレスして下さいね。
399 :
95:2007/01/28(日) 18:33:34 ID:PQBw386N
見てますよ〜(^0^)/
PC玉砕!!なので携帯からレスしてみました。
Vistaの入荷待ちです。
辺境に向かっていたスレは、明日への希望に満ちて終わってよかったです。
続いて、短編も楽しみにしています。
あ、あとオフ会も。
95さんこんにちは。
そうですか、それはとんだ災難でしたね。
短篇は何か希望があれば、それを題材にして書いてみますが
何かリクエストはありますか?
オフ会はちょっと先ですが二月の後半辺りはどうでしょうか?
前半はちょっと立て込んでるものですから。
マスク氏の都合はどうでしょうか?
401 :
95:2007/01/29(月) 00:36:46 ID:iJbS154r
テーマは『月』希望です。
抽象的過ぎますか?
私は、月が好きで一晩中眺めていても飽きることはありません。
月の土地も買ってしまったくらい(^^ゞ
すごいですね〜〜月持ちなんですか?
一体、どういうお金持ちなんですか!?
off会ではゴチになりますwww
「月」いいですね。書いてみますね。
ちょっと、村上春樹から離れるかもしれませんが、お許しください。
もう、長編も佳境を過ぎてからは殆ど春樹は捨ててましたけどw
403 :
マスク:2007/01/29(月) 11:33:46 ID:eUxgJb2O
>>400 ちょっとまだわかりませんが、2月中がいいですね。
>95さん、「月」もうちょっと、まっててくださいね。
>辺境に向かっていたスレは、明日への希望に満ちて終わってよかったです。
長編は最後に恭子が死んでしまう流れになっていて、本当に悩みましたが、
僕はどうしても彼女を死なせてしまう事が出来ませんでした。
最後に月に誓ったのは、この長編のタイトルに月が入ってるといいなって思ったからです。
だから短編のリクエストが「月」って嬉しいです。
95さんが、僕の気持ちを汲み取ってくれたように感じました。
本当にありがとう。
404 :
95:2007/01/29(月) 17:43:09 ID:iJbS154r
>>403 私の方こそ感謝感激です。
長編を読みながら、何となく月をイメージしていましたから。
村上春樹の小説を読んでいる時、常にビートルズがBGMに流れているような感じで。
だから、どんどん引き込まれて行きました。
>>402 お金持ちではありませんよ〜!むしろ貧乏(*_*)
月の土地は一区画3000円くらいから購入できますよ。
次作の始まるのを楽しみにしています。
新しいPCも早く来ないかなぁ…。
406 :
95:2007/01/29(月) 22:34:02 ID:iJbS154r
おぉ!それです。
先のレスにURLを貼りたかったのですが、携帯からだとできなくて…。
ね、お金持ちじゃなくても月持ちになれるでしょ?w
そうみたいですね。
これなら僕でも買えるかもしれないです。
でも、せっかくの自分の土地に住むどころか、行く事もできませんね。
408 :
95:2007/01/29(月) 23:32:16 ID:iJbS154r
そう…まさに辺境f^_^;
誰がうまいことを(ry
だから一晩中眺めているんですよ。
日々雑多な日常を忘れて心落ち着きます。
409 :
月:2007/01/29(月) 23:36:01 ID:2hEzn/fg
「遙か遠くの国に、ある一人の少年が住んでいました。
少年の名前はイルドといいました。
イルドは毎日畠に水をやるために遠くの井戸まで水汲みに行かなくてはなりませんでした。
しかし、井戸の周りにはコヨーテやハゲワシなんかがいつもたむろしていて、
イルドの行く手を阻むので、毎日通っても水が汲めるのは3日に一回くらいのものでした」
僕がそこまで話すと咲妃は僕の肩を強く噛んだ。
「いててててて」本当に痛かった。
「やめてくれないかな。なんでもそうやって噛んでしまうくせは」
と僕は咲妃の鼻をつまんで噛むのをやめさせた。
「だって、イルドはコヨーテにこうやって食べられちゃうんでしょ?」咲妃が言った。
「いや、まだわからないよ。イルドは頭がいいんだ」僕は続きを考えながら言った。
「じゃ、どうするの?水がなくちゃ作物が枯れちゃうでしょ」
「だから、イルドには考えがあるんだよ」
「ふうん」
咲妃がやっと黙ったのを確かめると、僕は続きを考えた。
「イルドはコヨーテたちが腹を空かせて待ちかまえている井戸へ行きました。
『水を汲ませてほしい』とイルドは言いました。
『ダメだ。何か食べるものをもってこい』とコヨーテは言いました。
『それじゃ、水を汲んで畠に撒いたらいいトウモロコシが採れるから、それを持ってくるよ』
とイルドは提案しましたが、コヨーテは
『俺はトウモロコシなんて食わない。おまえの身体をよこせ』と言いました。
イルドは困りました。自分が死んでしまったら年老いたおばあさんは一人で生きては行けません。
『それは困ります。それ以外のものなら何でも用意しますから』とイルドは言いました」
410 :
月:2007/01/29(月) 23:37:18 ID:2hEzn/fg
僕はそこまで話してしまうと続きを思いつけなくなってしまった。
咲妃は目を輝かせて話の続きを待っていた。
ベットの中で僕らはいつもこうやって裸のままでお互いの身体を温め合いながら話をしていた。
咲妃は僕のアパートの狭くて埃っぽい部屋にいると、とても場違いなくらい華やかな女の子だった。
彼女が僕の部屋に来たのは2ヶ月前のクリスマスの翌日の事で、その日アルバイトが終わって部屋に戻ると、
まるで間違えられたクリスマスプレゼントみたいに彼女が部屋の前に佇んでいた。
「私、行く当てがないんだけど、一晩泊めてくれないかしら」と彼女が言った。
僕は断る理由も無かったので、彼女を部屋に入れた。それはまるで世界中が僕にびっくりパーティーをするために、
隠れて計画でもしていたんではないかと思うほどにサプライズでハッピーな出来事だった。
それからというもの、僕は咲妃に毎晩寝る前に聞かせるお話を考えなくてはならなかった。
それはそれなりに大変な事だった。
「ねえ、続きはまだなの?」と咲妃が言った。
僕は手詰まりになりかけていた。彼女の愛を得るためには僕は物語を考え続けなければならないのだ。
「ちょっと待って」僕はベットから抜け出して、冷蔵庫から牛乳を取り出して鍋に注ぎ、ホットミルクを作った。
部屋の電気は消えていたが、窓からは信じられない位大きな満月が何もかもを明るく照らし出していた。
電気を付ける必要も無い。
僕はホットミルクを飲みながら月を眺めていると、突然いい考えが浮かんだ。
411 :
月:2007/01/29(月) 23:37:57 ID:2hEzn/fg
「コヨーテは『それじゃあ世界一美味しい物を食べさせてくれるというなら、おまえの身体は諦めよう』
と言いました。
イルドは『それでは夜になったらそれを必ず持ってきますので、水を汲ませて下さい』と言いました。
コヨーテは『いいだろう。ただし約束は守れよ』と言いました。
そしてイルドは夜になると約束通りコヨーテのところへ行きました。
『世界中で一番美味しい物。それはあそこに輝いているお月様です』とイルドは言いました。
『そうか、あれは美味いのか』コヨーテは何も知らずにイルドの話を信じました。
『そうです。でもあの月はあまりに美味しいので神様が独り占めにしているのです。
そのためにあんな高いところにあるんです』
『ではどうやってあの月を手に入れたらいいのだ?』
『友達のハゲワシに頼んで連れて行ってもらいなさい。ハゲワシも食べられるから喜ぶでしょう』
イルドは得意げにそう言いました。
次の日、コヨーテはハゲワシの足にぶら下がって、一緒に月をめがけて飛んでいきました。
どんどん、どんどん高く飛んでいきました。
どこまで飛んでも月は近くなりませんでした。
そして疲れたハゲワシはとうとうコヨーテと共に地面まで真っ逆さまに落っこちました。
こうして、イルドは無事に井戸を手に入れ、月は相変わらず神様の物でした。
・・・おしまい」
僕が話し終わると咲妃はもう眠っていた。
いつものことだ。エンディングが一番苦労するのに、最後まで聞いていた試しがないのだ。
僕は咲妃のおでこにキスをして、ホットミルクを全部飲み干すと、温かい咲妃の身体を抱きしめて眠った。
明日は何の話をしようかなと考えたが、それはまた明日考えることにした。
少なくとも今夜彼女を失うことはないのだ。
412 :
マスク:2007/01/29(月) 23:47:08 ID:2hEzn/fg
月の土地って買えるんですね。知らなかった。
短編はいかがでしたか?
月ってなんだか美味しそうに見えるのは僕だけでしょうか・・・?
413 :
満月:2007/01/30(火) 00:43:05 ID:QEj1G27Z
その年の秋、僕は21才で彼女は一つ年上だった。
僕は二度目の二年生で、また単位を落とせば三度目の二年生にはなれない。
そしておそらくきちんとした就職先を探さなければならなかったのだ。
彼女は美容師になって一年半程経ち、シャンプーやパーマ液のせいで指先がひどく荒れていた。
彼女は帰ってくると日課のように、窓の外を眺めながら指先のバンドエイドを貼り換えていた。
「ねえ、君はどうして窓の外ばかり見るの?いったいそこから何が見えるの?」
「さあ何かしらね?きっとあなたには退屈に見えるものかもしれないわ。」と彼女は言った。
「よく解らないな。この窓から見えるものって、向かいの雑居ビルと道路くらいのものだよ。
どれも退屈そうに見えるし、そうじゃないようにも見える。それに星だって見えやしないしね。」
「そうね、きっとあなたには見えてないのね。それじゃ、ごはんにしましょう。お腹へってるわよね?」
そう言って彼女は夕食の準備を始めた。僕はその後ろ姿を見たあと、窓の外を眺めてみた。
あらためて見る外の景色は何かよそよそしく、まるで僕の知らない街のように思えた。
でも彼女の目を引くものは僕には見えなかった。おそらく僕には見る事ができない何かだろうと思った。
僕はビールを飲みながら彼女の作った夕食を食べ、彼女の話を聞いた。ごく平凡な他愛もない話だ。
今日来たお客さんの事とか仲の良い先輩の話とか、どれだけ忙しい一日だったとかそんな話だった。
夕食を食べ終わり彼女の話を聞き終えると、ベッドでお互いの存在を確認するようにセックスをした。
414 :
95:2007/01/30(火) 00:44:42 ID:MCpW+hzX
短編とっても素敵でした。
最近読んだ『貝殻からの風景』という小説を思い出しました。
ちょっと胸の奥がキュンとして、ほんわかと暖かくなる感じ。
世界中の男性が皆、この「僕」のように優しかったらいいのに…と思います。
今夜は私も優しい気持ちになりました。
どうもありがとうございます。
415 :
満月:2007/01/30(火) 00:49:36 ID:QEj1G27Z
いつもはそのまま眠り込んでしまうのだけれど、その日の彼女は横になりながら窓の外を見ていた。
「ねえ、私ね、小さい頃お月様が恐かったの。」と彼女は言った。
「恐いって、あの空に浮かぶ月だよね?」
「そう、あの夜空に浮かぶお月様。」
「どうしてそんなものが恐かったの?」
「子供の頃ね、お友達の家に行った時、遊びに夢中になって暗くなっちゃったの。
お友達のお母さんに暗くなったから帰った方がいいわ、送っていくから。って言われたんだけど
一人で帰れるから大丈夫って言っちゃって、お友達の家から一人で帰ったの。」
「小さい女の子が一人で?あぶないよね。事件とかに巻き込まれなかった?」
「うん、それは大丈夫だったわ。でもね、空を見上げるととっても大きな月が出ていたの。
ちょうど満月だったと思うわ。東の空にね、オレンジ色の大きなまあるいお月様が見えたの。
なんかそれが凄く恐くて、ずっと私の後を付いてくるように見えたわ。
私はなんか恐くなって泣きながら走ったの、でもお月様は私が走る方向に付いて来てるみたいに見えたわ。
私はその時お友達のお母さんに送ってもらえば良かったって後悔したんだけど、
もう私はお友達の家に戻ることも自分の家に帰ることもできなくなってしまったの。」
416 :
満月:2007/01/30(火) 00:59:04 ID:QEj1G27Z
「それでどうしたの?家に帰れたの?でも今君がいるんだから、帰れたんだよね?」
「たぶんそうだと思うわ。でも憶えてないの。そのあとどうなったのか。どうやって家に帰れたのか。
気が付いたら私の部屋の布団の中だったの。でも、誰にも怒られなかったわ。いつもだったらひどく叱られるのに。
その時は怒られなかったの。誰にも。不思議なくらい。」
「それで月が恐くなったんだね?そんな事があったから。」
「ううん、違うわ。その日まで恐かったの。でもその日から恐くなくなったのよ。私にも分からないんだけど。」
「よくわからないな。月に追い掛けられて帰れなくなったんだよね?それなのに恐くなくなったんだね。」
「そう。その日から好きになったの。お月様が。それから毎日見てるわ。」と彼女は言った。
そう言った後すぐに彼女は小さな寝息をたてて眠っていた。
僕は彼女を起こさないように、そっと窓の外を見てみた。
でも僕にはどこにも月は見えなかった。
その時の僕には月は見えなかった。
僕は今残業を終え、駐車場に立ちくわえた煙草を大きく吸い込んだ。空を見上げると丸い月が蒼く輝いている。
彼女はもう僕の髪を切ることは無いのだけれど、今僕が見ている月を彼女は見ているのだろうか。
417 :
人参:2007/01/30(火) 01:11:01 ID:QEj1G27Z
あ、被っちゃった。
僕も書いてみました。
マスク氏のは柔らかくてあったかいね。
さすがだ。僕もそんな感じの描けばよかった。(>_<)
描けないけどね(;_;)
僕のも読んでみて下さいね。
418 :
95:2007/01/30(火) 01:48:17 ID:MCpW+hzX
人参さんの『満月』も読ませていただきました。
これもいいですね〜。
私も子供の頃、お月さまがずっと私と一緒について来るのが不思議で(実は今でも不思議(^^ゞ)、あの頃から月を眺めるのが好きでした。
まるで月に神様が存在するかのように…お月さまが見てるから悪いことはできない!みたいな。
月を見上げて、昔の恋を思い出すのもよくわかります。
今夜のこの月を彼は見てるかな?
どういう思いで、何をしながら見てるかな?
私のこと覚えてるかな?
…なんてね(^^)
マスクさん・人参さん、どうもありがとうございました。
素敵な短編を二編も読ませていただいて、今夜は本当に贅沢な夜になりました。
419 :
マスク:2007/01/30(火) 10:02:48 ID:L8Al4kgy
おはよう。僕は昨日自分の書いた後すぐに眠ってしまいました。
それで、今朝人参氏の満月読んだけど、すごくいいです。
彼女が怖い体験をした後に、むしろ月を好きになったところが文学的にリアルです。
すごく楽しめました。ありがとう。
映画館はガラガラだった。
湿気た座席のシートには至る所にジュースのシミが付いていたし、
背もたれの裏側には足跡がいくつも付いている。
床にばらまかれたポップコーンにはすでに青カビが生えていた。
掃除をした形跡は少なくともこの2ヶ月は無いように見えた。
僕は諦めつつも比較的まともな色合いを保っているシートを選んで座った。
もちろん映画を見るためにはベストポジションとは言い難い。
入口から遠い左側の奥、後ろから数えて4列目という場所だ。
スクリーンは横に長い台形に見えた。
僕が座ったのとほぼ同時にブザーが鳴り、室内は暗転した。
僕の他には3人しか居なかった。
いくつかのCFと予告編を見て、15分ほどでやっと本編が始まった。
信じられない位の駄作だった。まず、監督は台本を選ぶ時点で間違っている。
一体どこの誰が卵から産まれる全裸の女の子が一人でオナニーするだけの映画なんか、
金を払って見なくちゃならないんだ?
しかし、僕はお金を払ってこの映画を見ている。もちろん訳がある。
その女の子の役をやっている女優は僕の恋人なのだ。
彼女は女優の卵で、もうこれが最後のチャンスだと言われ、それこそ清水の舞台から飛び降りるとか、
ナイアガラの滝からカヌーで降りるとかそういった類の勇気を全て振り絞ってこの映画に懸けたのだ。
しかし、この映画がヒットする確率なんてほとんどゼロだった。
僕だって恋人が出演していなければ、それこそ金をもらっても見たくない。
僕は仕事をもう2週間も病欠していた。
幸い組合の強い会社だからまだ首にはなっていないけど、
そろそろ職場に帰るのが辛くなっている時期である。
病名は鬱病。入院さえ勧められた。もう何度も自殺を試みている。
発病の原因は恋人のせいだった。
彼女は僕を愛していると言いながら、ずっと長いことこの映画監督と寝ていたのだ。
その糞より酷い映画を見終わってから、僕は映画館を出てふらふらと街を彷徨った。
街の宝石店でカードを使ってダイヤモンドのネックレスを買った。
たぶん300万円くらいだったと思う。
僕は女優の彼女に電話をして呼び出した。
「もし、今夜空いてたら渡したいものがあるんだよ」と僕は言った。
「うん、いいわよ」彼女が珍しく良い返事をくれた。
僕はまだ早かったが待ち合わせの場所に着いてその時間まで彼女を待った。
その時間が来ても彼女は現れなかった。いつも決まって遅刻するのだ。
でも今日はどんなに待っても来なかった。
待ち合わせの場所にはもう一人待ちぼうけになっているらしい女の子がいた。
彼女は僕の恋人みたいに美人ではなかったけど、人の良さそうな感じの子だった。
服装もびっくりするほどあか抜けていない。
何というか、今時捜しても見つからないくらい古いデザインのワンピースで、
直径2センチくらいのいろいろなパステルカラーの水玉模様が全身にちりばめられている。
それは不治の病にかかったダルメシアンを思わせた。
それでも僕は彼女の事が気に入った。少なくとも彼女は全裸でオナニーするような映画には出ないだろう。
「お一人ですか?」と僕は彼女に声を掛けた。
「いいえ、待ち合わせ中なんです」と彼女が言った。
「でも、ずっと待ってますよね?僕もですけど」
「たぶん、今日は来ないかもしれませんね」と彼女は自分に言い聞かせるみたいに言った。
「もしよろしければ僕と食事に行きませんか?」と僕が言うと、彼女はびっくりしたように僕の顔を見た。
「でも、私なんか・・・」
「いいえ、あなたがいいんです」僕はそう言って少し強引に彼女の手を取った。
彼女は少し俯いて恥ずかしそうに付いてきた。
僕らは気の利いたイタリアンレストランで食事をしたあと、ホテルに入ってセックスをした。
彼女は服を脱ぐととても魅力的だった。
僕はダイヤモンドを彼女に渡した。そして正式に付き合ってほしいと言った。
彼女は困った顔をしていたが、最後には頷いた。
彼女を送って家に帰ると、僕はもう自分が鬱病では無くなっていることに気が付いた。
僕は女優の彼女に電話をして別れを告げた。
女優の彼女は「死んでやるから」と電話の向こうで泣きわめいた。
どうやら鬱病は僕から彼女に遷ったようだった。
僕は泣き叫ぶ声の漏れる受話器をそのまま放り投げておいた。
そしてベットに入って新しい恋人の事を考えながら、希望に満ちた幸せな眠りに就いた。
「鬱と恋人とダイアモンド」いいですね。僕はこういうの好きです。
面白く読ませてもらいました。
昨日は僕は忙しくて書けませんでしたが、今日は書きたいと思います。
ただ僕は想像力があまり無いみたいなのでどんなものかけばいいか思い付きません。
誰かお題を提供してください。
それと、長編も終わったのでこれからは村上春樹風を意識するのはやめて(そもそも似てないしw)
自分の文体で書きます。いいでしょうか?
それでは、だれかお題よろしくお願い致します。
424 :
マスク:2007/01/31(水) 13:26:03 ID:2qqnDg2L
面白かったですか?
お前こそ駄作だって怒鳴られるんじゃないかとびくびくしながら書き込みました。
もうちょっと長くすることが出来る作品ですが、3レスくらいの幅が、
この場所では一番収まりがいいように思ってかなり削っておきました。
さて、お題ですが、『犬のチャーリー』でお願いします。
内容は自由です。よろしくお願いしますね。
425 :
95:2007/01/31(水) 13:27:27 ID:yl4uepEe
鬱病と…面白かったです。
こんな出会いもあるかも?と思いながら読みました。
このスレを見ている人は、こんなスレも見ています!にいつも鬱病スレが入っているので題材にされたのでしょう。
はい、見ているのは私ですf^_^;
ま、私の場合は、明るい前向きな仮面鬱病ですが。
(既女板のは違いますよ〜)
ちょっとしたキッカケで鬱病脱出もできるのかなぁ…と、希望を持ちつつ生きて行こうと思います。
どうもありがとうございました。
今後は(も?)村上春樹風は無視で良いと思いますよ(^^)v
426 :
人参:2007/01/31(水) 14:14:25 ID:XeWxTHSm
分かりました。『犬のチャーリー』ですね。頑張ってみます。
マスク氏は犬が好きなんですか?
僕は昔アラスカン・マラミュートで『シャンディー』と云う名前の犬を飼ってました。
さういえば、95さんは新しいパソは買ったのでしょうか?
これからも、村上春樹風はかけませんw
427 :
マスク:2007/02/01(木) 08:06:30 ID:fsnBAaTA
>95さん、あんまり気にしないで下さいね。
でもこの「おすすめ2ちゃんねる」って結構迷惑ですよね。
僕も他のスレに行くとすぐにここのリンクが貼られてしまって、
どこにも遊びに行けなくなってしまった。
あんまりここの存在を公にしたくはないですよね。
はい、何を隠そう酷友会を見ていたのは僕ですw
>426いや、犬より猫が好きです。
でも何故か犬には好かれるんですよね。はい、飛びかかられますw
お題は単なる思いつきです。
428 :
95:2007/02/01(木) 09:14:50 ID:BZncKg7x
おはようございます。
犬派猫派ありますが、私は戌年生まれ(トシがバレるぅ!)の犬派だったのですが、今はウチで猫を飼っています。
実は、その猫ちゃんにPCのキーボードにおもらしされて、玉砕しました(>_<)
でも可愛いから怒れません。
犬のチャーリー楽しみにしています。
『犬のチャーリー』が僕達のマンションに来てから一年が経った。去年の春に唯さんと一緒にペットショップを覗いた時
彼女が一目で気に入って衝動買いをしたのだ。どうして唯さんがこのチャーリーに引き付けられたのかは
僕には分からない。だっていびつな形で大きさも揃っていない模様をしていたし、ディズニーに出てくる
ダルメシアンより間抜けな顔をしていた。でも唯さんは毎日散歩に連れていくと言い、
世話は必ず唯さんがやると約束した。唯さんの余りに熱心なおねだりを僕は断る事は出来なかった。
もし反対したら、唯さんはチャーリーと駈け落ちくらいしちゃいそうだったから。
そんなわけでチャーリーはその日から僕達と一緒に相模原の賃貸マンションに住むことになった。
唯さんは約束通りチャーリーの世話を毎日欠かさずにしていた。夜の散歩から帰ればバスルームで
チャーリーの脚を洗ったし、テレビを見ているときや、ソファーでくつろいで居る時にチャーリーは
唯さんのボディーガードのようにぴったりと唯さんの傍に寝転がり、僕の侵入を拒んだ。
そんな感じでチャーリーは唯さんにとても馴ついていて、いつも一緒にいた。僕が嫉妬してしまう位だ。
犬に嫉妬するなんて自分でも不思議なのだが、それ位仲が良かった。何故なら唯さんは僕と一緒に
お風呂に入ることは一度も無かったけれど、チャーリーは週に3回も唯さんとお風呂に入っていた。
それでも美容室に仕事へ出かける唯さんの後ろ姿を、小さく哭きながら見送る姿を見ると、僕も少し悲しくなった。
僕がアルバイトに出かける時には、オーディオメーカーのトレードマークのような格好で見送ってくれた。
ある雨の夜にそんな僕達の生活が突然壊れた。いつも唯さんと一緒に帰ってくるはずのチャーリーが
玄関の前でドアを引っ掻きながら哭いていた。僕がドアを開けるとチャーリーは
リードを引き摺りながら階段を駆け降りていった。僕もチャーリーの後を追って階段を駆け降りた。
階段の下でチャーリーは僕が降りてくるのを確認すると、人通りの少ない道へと走っていった。
僕はチャーリーを見失わないように走って行くと救急車と軽自動車が不自然な方向を向いて止まっていた。
そこには人だかりが出来ていてその真ん中に唯さんが投げ出されるような格好で倒れていた。
僕はその人だかりの中に割って入り、チャーリーはまるで護るように唯さんの横に座り鳴き続けた。
その後唯さんは救急車に乗せられ、僕は救急車に同乗して病院へ行った。犬は乗れなかった。
救急車の中から後ろに目をやるとチャーリーがリードを引き摺りながら後をついて走ってきた。
チャーリーの姿は次第に小さくなって交差点を曲がった後、チャーリーはもうついてはこなかった。
幸い唯さんの怪我はそれ程深刻なものではなく、二週間程度の入院は必要だったけれど、
命に別状はなく、特に後遺症の心配もないとの事だった。
それでも僕はその日から3日間は唯さんに付き添っていてマンションには戻れなかった。
唯さんが安定してからは、病院からバイトに行ったりしていてマンションにはほんの少しの時間
立ち寄っただけだった。しかしそこにチャーリーの姿は無かった。いつもならドアの鍵を開ける音で
駆け寄ってくるはずなのにチャーリーはそこには居なかった。
よく動物は飼い主の危険が迫ると身代わりになるといった話を聞いた事がある。
もしかするとチャーリーは唯さんの身代わりになったのだろうか?僕は目から涙が零れるのを感じた。
どうしようもなく悲しかった。僕にとって唯さんはかけがえのない人だが、チャーリーも今の僕には大切な
家族のようなものになっていたのだ。僕はマンションの近くを探してみたり名前を呼んでみたが、
間抜けな顔のダルメシアンはどこにもいなかった。僕は探すのを諦め病院へ戻った。
病室で唯さんはチャーリーの事を僕に聞いた。しかし僕は唯さんにチャーリーが居なくなったことは
言えなかった。唯さんは僕にチャーリーの食事と水を忘れないように与え散歩をするように僕に頼んだ。
僕は適当に頷き分かったと言うことしかできなかった。そうして二週間が過ぎ唯さんが退院する日がきた。僕はマンションに着くまでにチャーリーの事を話そうと思ったが、唯の顔を見ると結局言いだせなかった。
そして僕と唯さんはマンションの部屋の前に到着してしまった。
マンションのドアの鍵を開ける時に僕はチャーリーが居なくなったことを唯さんに話した。
唯さんはそのままドアの前で蹲って泣いてしまった。僕は唯さんの背中を抱いたまま何も言えずにいた。
僕は黙って荷物を部屋の中に運び唯さんに部屋の中に入るように言った。
唯さんがようやく泣き止んだ時に階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。
唯さんは階段の方を見たままもう一度大きな声で泣き出した。
432 :
人参:2007/02/01(木) 10:42:28 ID:gL8smrvU
遅くなってしまいましたがこんな感じでどうでしょうか?
僕は犬も猫も好きですが、今は両方とも飼っていませんね。
あと僕は携帯から書いたり見たりしてるので、おすすめ…‥はリンクされていません
とりあえず一通り目をとおしましたがw
なんて嫌な人なんでしょうw
433 :
マスク:2007/02/01(木) 20:30:35 ID:fsnBAaTA
ごめんなさい。返事が遅れました。
人参氏の作風についてなんですが、昔オカ板で発揮していたあの独特な突飛さはすっかり陰を潜めましたよねw
今はむしろ僕なんかよりずっと整合性を無視しない礼儀正しい作品が多くなってますね。
僕は逆に人参化されたというか、もっと突飛な事を考えて行こうと決意を漲らせていますがw
役割を交代したと思えば結果的に瑕疵は無いわけですが、不思議なもんですねw
個人的には、人参氏の癖だと思われる同じ意味の文章を少し変えて繰り返すところがいい味になってると思います。
本当にありがとうございました。
蟹を食べに行く事になっていた日、彼女はいきなり虫歯が痛み出して行けないと言い出した。
その日はやっと蟹漁が解禁になった日で、浜辺には多くのプレハブが建ち並び、
蟹獲り漁船が網で引き上げたばかりの蟹を真っ赤なほっぺたのおばさんがその場で茹でて、
道行く観光客や地元の料理人や僕らのような蟹を待ちわびている人たちを迎えていた。
僕はその日を一年間ずっと待っていた。去年採れた冷凍の蟹なんてとても食べられたものではない。
やはり蟹はその場で茹でて、その場で食べるに限る。
味噌は濃厚でまるで上質のフォアグラみたいだし、蟹足は弾けんばかりの食感だ。
そして、そういう贅沢が許されるのは今日、この日1日かぎりなのだ。
「ねえ、痛み止めでなんとかならないの?我慢できない?」
僕は一縷の望みを掛けて彼女におそるおそる聞いた。
「話しかけないでよ。もう、死にそうに痛いんだから!
そんなに行きたいなら一人で行けばいいでしょ!」
彼女はこの世の全てに対して腹を立てているみたいに恨めしそうに言った。
「行かないよ。もちろん、一人では行かない」
僕は彼女が食べられないものを一人で食べるなんて後ろめたくて出来そうになかった。
「いいのよ。別に怒ってないし、一人で行けばいいじゃない」
彼女はケーキを買ってくると付いてくる保冷剤にガーゼを巻いてほっぺたに当てた。
とても痛そうだった。シャープな形のフェイスラインは見事なまでに腫れ上がり、
もし純粋に彼女を客観的に見ることが出来たのなら、吹き出さずにはいられないほどだ。
でも、もちろん僕は笑えない。そんなことをしたら間違いなくたたき出される。
「ねえ、僕に何かできる事はない?何か食べられそうなものがあれば買ってくるけど」
僕はそう言ったが黙殺された。もう、話すのも苦痛なのだろう。
仕方なく、彼女の気が紛れるようにDVDを借りてくることにした。
蟹を売っている浜辺は車で30分くらいで行ける場所だったけど、蟹を買って帰っても、
彼女の機嫌はさらに悪化するに違いなかった。
あの腫れ方をみたら、1週間やそこらで治るとは思えなかった。
蟹は鮮度が命だし、買ったらすぐに食べなくてはなんの意味もないのだ。
僕は蟹を買いに行く人たちと反対方向に歩いてDVDレンタルショップに行った。
彼女が好きな映画は大抵大量生産的なハリウッド映画だった。ハリソン・フォードとか、
トミー・リー・ジョーンズとか、リチャード・ギアが出てくると大喜びだった。
僕はそういういかにもっていう映画は嫌いだったけど、彼女がそういう映画を見て笑ったり、
泣いたり、あるいは怖がって僕に抱きついたりするのを見るのが好きだった。
そこで、たぶん彼女もまだ見ていない最新作の映画を2本借りた。
家に戻ってみると彼女はソファに横になって痛い方のほっぺたを上にして保冷剤を手で押さえていた。
僕は救急箱から包帯を取り出して、新しい保冷剤にガーゼを巻いて彼女の顔に上手く固定した。
彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。
「映画見る?」と聞いたが、彼女は小さく首を横に振った。
「喉乾いてない?お腹空いてない?」以下同文。
僕は一緒にソファに座って彼女を抱きしめた。嫌がられるかと思ったが、以外にも素直に身体を預けた。
キスをしたかったけど、口には出来ないので、包帯が巻かれていない瞼にそっと唇を当てた。
「私に出来てあなたに出来ないことなんてひとつもない」と彼女が言った。
僕は何を言い出すのかと思ったけど、「そんなことないさ」と返事をした。
すると突然彼女は立ち上がり、傍にあったクッションを僕に投げつけた。
「嘘言わないでよ!何にもないわよ!あなたはそうやって私をいつもバカにしてるんじゃない!」
ほっぺたに当てていた保冷剤がボタリと床に落ちた。彼女は目に涙を浮かべていた。
「バカになんてしないよ。どうしたんだよ急に」と僕はなんとか彼女をなだめようとしたが、
「じゃあ、言ってご覧なさいよ!私に出来てあなたには出来ないことなんてある?!」
と彼女が怒鳴り返した。
僕は子供を産むことが出来ないとか、そういう事ではないんだろうなと考えながら、
実際に言ってみようとしたが、何一つ思い浮かばなかった。
「ほらみなさいよ。私なんかあなたには必要な人間じゃない!そんなに優しくしないでよ!」
彼女はそう言うと寝室に入ってドアをあらん限りの力でバシン!と閉めた。
僕は冷蔵庫からビールを出してリビングのソファに寝そべって飲んだ。
ここに蟹があったらなぁと思うと、急に腹が減った。
僕は冷蔵庫から在り合わせの材料でパスタ料理を作り、一人で食べた。
相変わらず僕は料理が上手かった。
彼女に出来て僕に出来ないこと、と僕は思った。
それは彼女にだって、分かっていることなんだろうと思っていた。
あんなに愛おしい存在で有り続けるなんて、僕どころか、他の誰にもできやしないって事を。
437 :
人参:2007/02/02(金) 21:22:14 ID:B2ZDO3/p
マスク氏お疲れさまです。今日は仕事が忙しくてスレがなかなか見れませんでしたw
彼女に…をとても興味深く読ませてもらいました。おもしろいですね。とっても。
ここにでてくる「僕」は、僕の知ってる人に、とてもよく似てるような気がしますね。
マスク氏はこんな感じの男性なんですかね?それとも全く違う感じなのかな?
それはそうと、僕も頑張って書かないといけませんね。少し待っててくださいね。
なかなかいい題材が見つからないので orz
438 :
95:2007/02/03(土) 09:15:03 ID:RkV8GB5w
おはようございます。
人参さんのチャーリーを読んで、子供の頃飼っていたワンちゃんを思い出し、涙が出ました。
ネコの気まぐれでマイペースなのに比べると、犬の忠実で健気な姿は時として哀しく切ないものがありますね。
人間に気を遣わずにもっと自己主張すればいいのに…と。
マスクさんの描く「私」は私か?!とツッコミ入れたくなるようでした(笑)。
私の連れ合いも(仮面鬱でf^_^;)荒れてる私にほとほと手を焼いているようですが、いつも「僕」のように暖かく見守ってくれています。
…と、朝からノロケてしまいましたが(^^ゞ
どちらも秀逸な作品ですね。
心に思い描いたことを表現出来るお二人が羨ましいです。
どうもありがとうございました。
439 :
マスク:2007/02/03(土) 13:45:27 ID:WM6p1nrS
>>437 この主人公と僕はまったく違いますよ^^;
何故こういう作品を思いついたかというと、『愛するということは技術である』とエーリッヒ・フロムは言っていますが、
僕としては、愛がもし技術として世界的に認知され、誰しもが習得できるものだとなれば、
たしかに世界は平和になるかもしれませんが、芸術的分野の存在そのものが危機にさらされると思うんですね。
それで、できれば愛にはいつまでも、理不尽で情け容赦なくて、狂おしくも温かいもので有って欲しいのです。
そういう事を考えながら書きました。かなり身勝手な見解ですが・・・^^;
440 :
人参:2007/02/03(土) 17:37:57 ID:+1BdAwP3
そうですか、マスク氏がモデルでは無かったんですねw
それもそうですよね。もしそうなら、彼女が怒ってる理由とか、描写は描けない気がします。
愛については、そう云う見解ですか。なるほど。そうかもしれませんね。
だれもが聖人君子では、真の芸術は追求出来ないのかもしれませんね。
でも僕は何処に向かって行けばいいのか分からなくなる時があります。
とりあえず辺境にでも向かってみますかw
441 :
マスク:2007/02/03(土) 20:21:58 ID:WM6p1nrS
「語るべき物語を持たない人々ほど、幸福な人はいない」というような事を言った人がいるんですが、
ちょっと、誰かは思い出せません。
つまり、愛について技術的に修練を極めている人には語る必要はないんですね。
それは音楽にも言える事だし、文学なんてまさにそうですよね。
そういう芸術活動をせざるをえない精神的病理みたいなものを抱えていない芸術家はいないと思います。
もちろん、僕なんかは芸術家でもないし、かなり平和な家庭を築いているので、語る必要性なんてないのですが、
それでもこうやって誰かに向かって何かを吐き出したい欲求を抑えるのは難しいです。
ましてや、文学史に残るような作品を描く人は、たとい安定した生活を築いていても、表現する行為そのものが、
精神の空白を埋める自浄作用を持つことを否定しないと思いますよ。
僕は、人参氏はもしかしてエンターティナーとして、読者のために書いてはいても、
自慰行為として書いているわけではないのではなかと最近思います。
それがいけないと言ってるんではなくて、そうなら苦痛になってしまいませんか?
僕としては、無理はして欲しくないです。人参氏の作品はすごく読みたいけどw
442 :
人参:2007/02/06(火) 00:54:19 ID:ip2QaRAk
>>441 レスが遅くて申し訳ない。僕が幸福かどうかや、平和な家庭を築けているかは別にして、
確かに今、苦しいといえば苦しいのかもしれないね。いわゆる、産みの苦しみといったものだと思う。
このところ2〜3編書きかけて停まっているんだ。食い散らかして完食できないでいる。
今日もそうなんだけどねw
明白なビジョンが無い為か伝えるべき物語が無い為かは分からないけどね。
単なるネタ切れかも…‥ orz
でも、今週末から来週頭に掛けて僕はネタ探しをしてくるつもりだから、それまで待っててくれないかな?
マスク氏の言葉に甘えて暫らく休ませてもらうよ。勿論雑談には混ぜてもらうけどね。
自分で短篇やるって言っておきながら無責任なんだけどね。
自分で納得すらできない短篇をかきこできる程、面の皮は厚くなかったみたいだ。
決して飽きたり、辞めたいと思ってる訳じゃないから、気を悪くしないで欲しいです。
443 :
マスク:2007/02/06(火) 22:32:26 ID:O+iwNvzq
書かなきゃいけないってルールはそもそもない。
それに、最初にこのスレを始めた理由は長編リレーだから、それが終わった今はもう無理に書かなくてもいいよ。
長編は途中でやめちゃうと自分が気持ち悪いもんねw
ただ、短編は本当に沢山書くのは難しいんだよ。やっぱり有る程度ネタ元は必要だし。
書きたくなったら書くというルールで行きましょう。
でも、このスレも残りあと80KBでオーバーですね。
名残惜しくて気軽にばかなこと書けなくなってきた^^;
444 :
人参:2007/02/06(火) 23:24:14 ID:ip2QaRAk
マスク氏ありがとう。
そうか、あと80KBか、1レスフルで書いて80レス分だね。
雑談で160〜200レスくらいだね。そう考えるとやっぱり自分の納得できないのは書くべきじゃないね。
それなりの短篇が書けたら書き込んでみるよ。僕も書くのが嫌な訳じゃないしね。
正直書き続けていたいんだけどね。空回りしてるだけだから。今はきっと。
その部屋の中に入ると、どこからか長い間置き忘れられている汚れた洗濯物や生ゴミのような生活臭が鼻を突いた。
Sは部屋の中に何も無いことを確認するために作りつけのクローゼットや、キッチンの収納などを確認したが、
もちろんそこには何も置かれていなかった。
前に住んでいた人間が残した匂いなのだろうが、もう長いこと空き部屋となっていたのに不思議だった。
もしかしたら、浮浪者などがこっそり忍び込んで居たのかもしれない。
Sはそう考えながら部屋の窓という窓を全て開け放ち、臭気を逃がした。
もうすぐここに新婚の夫婦が見学に来る予定だった。
Sの経営する不動産会社は最近左前になりつつあった。
どうしてかは分からないが、契約する直前に相手の都合により破棄になる事が多く、
そうなった後は何故かなかなか新しい客は見つからなかった。
一連のマンション耐震偽装事件が尾を引いていたことも原因だろう。そういう事件があると人々はほんの少しの瑕疵にも酷く敏感になった。
もしこの契約が上手く行かなければ、資金繰りでまた銀行に頭を下げに行かなくてはならない。
Sはスーツの上着を脱いで持ってきたバケツに水を汲み、固く絞った雑巾で床や窓を丁寧に拭き清めた。
恐らく匂いはこれで随分緩和されただろう。
この部屋には契約に不利となるようなところはどこにも無いように思えた。
Sはひとつ一つの窓を指さし確認しながらきちんと戸締まりをして部屋を出た。
Sが会社に戻ると、応接室に一人の客が待っていた。
気の利かない中年の事務員が勝手に応接室に待たせていたのだ。
店舗に来ない客はまず不動産を買う方ではなく売りに来る方だ。今の景気ではまともな条件の物件を自ら売りに来る人はめったにいない。
Sは、(適当にあしらうか・・・)と心でつぶやきながら客の前に座った。
相手は名刺を差し出した。今流行りの月契約で敷金などを取らない大手賃貸業の営業マンだった。
Sは戸惑ったが、話だけは聞いてみることにした。
相手の男は松尾という名前でまだ30にもならないであろう若い男だった。
顔は美容院で手入れをしている様子で無駄な眉毛はきちんとカットされていた。
一通りの挨拶や世間話をしたあと、男は表情を変えて咳払いをしながら言った
「私共はS社長のお持ちになっている空き部屋を全てお借りしたいのです」
「しかし、どれも適当に虫食い状態で、一件丸ごと空いてるマンションなどありません。
お宅のような大手の企業にとってはイメージが大切でしょ?突然隣に来た人が敷金払わずに入ったら、
今借りている人たちが文句を言いに来ますよ」
「大丈夫です。その敷金は我々が負担して、先住の方には再契約を結ばせて頂きます。
同じ場所に住んで居られるのに、敷金が戻ればお客様は文句を言われるはずがありません」
「そんな商売が成り立つのですか?私のマンションをいずれ根こそぎ持っていくつもりではないですよね?」
「そんなことは致しません。一括で借り上げる代わりに市場の約半額でお貸し頂くのです。
しかし、半分を空き部屋にしていれば、売上はほぼ同じです。現在そういう物件をいくつも抱えていらっしゃるでしょ?
それに営業コストを大幅に削減できるし、資産を失うわけではないのです。
社長にも決して悪い話ではありません」
「確かに、最近せっかく契約までこぎ着けても何故かまとまらなくて、困ってはいたのですが・・・」
「じゃあ、迷う必要などありませんよね?社長」
「だが、計理士とよく相談してから決めさせて下さい。即決は出来ません」
「分かりました。それもそうです。良くお考えになって下さい。
我々がお貸し頂くのはあくまで空間の方です。建物は社長のものです。それをお忘れにならないで下さい」
男はそう言うと、丁寧に挨拶をして帰って行った。Sは些か急な話の展開に戸惑いはしたが、
今の苦しい状況を一気に解決できるとてもいいチャンスのようにも思えた。
家には明かりが点いていなかった。
Sは自分で鍵を開け、部屋の電気を付けて暖房を入れた。
妻はもうすでに眠っているようだった。子供はいなかった。
妻との間にはもう1年以上も性生活は無かった。妻は40を過ぎた時点で子供を諦めていた。
Sがバブルで羽振りが良かった頃に出逢った女で、その親も会社をいくつか持っている資産家だったか、
バブルが崩壊したあとその大きな資産は巨額の借金に化けて、夜逃げ同然で姿を消していた。
もうすでにSと妻とは結婚をしていたため、親の借金を返済する義務は無く、
当時はそれほど馬鹿げた投資には手を出さなかったSには不動産業をなんとか続けられるだけの資金は残った。
それでも当時に比べれば貧乏になったSを支えてくれていた妻だった。
Sは妻を愛していたし、出来ることなら毎晩でも妻を抱きたかった。
しかし、妻はすでに濡れる事はなく、最近では触れられるのも嫌がった。
一度強引に抱きついたが、泣かれてしまった。「もう出来ないの。ごめんなさい。怒らないから外でしてきて」
と妻は言った。本気のようだった。Sはそのまま家を出てソープに行ったが、若く綺麗な女の身体を見てもまったく興奮しなかった。
何度か挿入を試みても上手くいかず、しゃぶってもらってやっと中には入ったのだが、どうしても射精するには至らなかった。
若い女はかなり同情しているようだった。「そういう時ってあるわよ。お客さん少し疲れているだけよ」
Sには分かっていた。自分が抱きたい女は妻だけなのだ。
Sは風呂に入ってから自分で作ったインスタントラーメンを啜って胃袋に放り込むと、歯を丁寧に磨いて寝室に入った。
寝ていると思っていた妻はベットから身を起こしていた。
暗い部屋の窓から地上12階のマンション最上階に広がる夜景を見ながらグラスでウイスキーか何かを飲んでいた。
「まだ起きていたんだ」とSが言った。
「ええ、なんだか最近上手く眠れないの」
「もしかして俺が起こしたのか?」
「いいえ、ずっと起きていたわ。でも立ち上がるのが面倒だったの」
Sは妻に今日あった事を話した。
「悪い話じゃないと思うんだ。もし部屋が空いていても必ず5割は戻ってくるし、回収不能で悩まされることもない」
「そうね。悪い話じゃないわよね。でも私たちの部屋はどうなるの?今までどおり住んで居られるの?」
「もちろんさ。ここは別に貸さなきゃいいんだ。俺たちのマンションなんだよ。誰に貸すか貸さないかは俺たちの自由だ」
「そうね」と妻が言った後、不思議な沈黙が二人を包んだ。しばらくして妻が言った。
「私の人生って何かしらね」
「なんだい?急に」Sは重い空気に絶えられないかのように乾いた笑い声を混ぜながら言った。
「私、時々自分が誰も住んでいない部屋のような気がするのよ。
誰かが時々やってきては色々とぶつぶつ文句を言って出て行くの。日当たりが悪いとか、間取りが悪いとか言ってね」
Sはどう答えていいのか分からなかった。妻が急に視界のずっと隅っこに移動したような気がした。
「考えすぎだよ。君は建物じゃない。中身の方だ。そいつが言ってたんだ。
我々は建物を借りるわけではない。空間を借りるのです。ってね」
Sがそう言うと妻はSの顔をまじまじと見つめた。まるで今まで話していた相手を間違っていたかのように。
「じゃあ、あなたは彼らに中身を全部売り払う事になるのよ。あなたが持っているのはただの抜け殻だけ!
魂を抜かれた中身の無い入れ物としての存在を大事にしていたのよ。これまでもずっと!」
そう言うと妻は突然立ち上がり、部屋のベランダからあっという間もなく飛び降りた。
Sのマンションには中身のない本当の空間だけが残った。
449 :
95:2007/02/12(月) 09:16:22 ID:rnuustW4
うーん、考えさせられる短編でしたね。
妻は、まるで今の私のように中身のない抜け殻のような存在で、生きている価値(意味)を見つけられずにいたのでしょうね。
最近つくづく思います…存在価値のない人間って、本当はいるんだって。
だから、自殺しても世の中は何事もなかったかのように普通に続いて行けるのじゃないかなぁ…って。
小説の技法なんて、難しいことはわかりませんが、興味深い話をありがとうございました。
450 :
マスク:2007/02/12(月) 17:47:50 ID:7YgdtNE2
>>449 もし、あなたを傷つけてしまったのだとしたら、心から謝ります。
僕の中にはずっと前からたぶん物心点いた頃から生きることの意味について、
疑問ともつかない漠然としたものがあったのです。
それで、なんとなく書き進めていたら、作中の”妻”が突然死んでしまったので、
僕としてもどうしたらいいのか分からなかったのですが、そのまま書き込んでしまいました。
でも、ある日突然、周りの人にはまったく理由が分からずに、いい人が自殺してしまう事があります。
そういうとき、人は大抵の場合自分が原因ではないかと悩むかもしれませんが、
大抵は心の病の症状だと思うのです。
そして、心に病が有ることを、死んでしまうまで周りはおろか本人さえ気が付かない場合もあるんです。
だから、病識が有るというのは、実はまともな証拠だと思うんですね。
例えば癌になっても手遅れになるまで自覚症状が出ない人より、すぐに不調を訴える人のほうが、
助かる場合が多いように。
だから、心を病んでいることを普段から疑う癖を誰でも持つべきではないのかと思います。
小説の技法は僕にも分かりませんw
ただ、テーマを決めて書き出すと、勝手に話が進んでいくのです。
そしてそれは時に僕の手にはおえない場合があります。
コントロール出来なかった作品を書き込むべきではありませんでした。
気分を害された方には深くお詫び致します。
451 :
95:2007/02/12(月) 21:09:09 ID:rnuustW4
マスクさん
私は傷ついてなんかいませんよ(^^)
寧ろ嬉しかったくらいです。あなたのようにわかってくれる人がいることがわかって。
メンヘル板覗いたりすると、抜け殻さんには大勢出会いますが、
マスクさんのように健全な社会生活を営みながら、更に小説という自己表現をしつつ、生きることを真摯に受け止めている人にはなかなか巡り会えません。
家族といえども踏み入れない、踏み込まれたくない心の闇の部分を私に代わって表現していただいている気分で、
楽しく興味深く読ませていただきました。
僕は今夜、人生で最後の賭けに出た。当然有り金全部だ。
僕もかつてはディーラーとして別のカジノで働いていたことがある。
そして大抵のディーラーと同じように、体を壊して普通の会社に転職したのだ。
ディーラーは毎月休みが殆ど無く夜勤が続くからだ。
しかしそのおかげでポーカーフェイスはお手の物だし駆け引きだってかなりのものだ。
もっともツキが変わる前までの話だけれど。その時まではこのカジノで随分稼がせて貰ったものだ。
ギャンブルなんてとても単純で、簡単に金が稼げるものであるように見えていた。
そして僕のツキが変わったのは2年前の事だった。
その年のクリスマスに、婚約をしていた恋人が夜の街角に立つようになり、
その後すぐに何も言わず、僕の前から消えた。
彼女の父親がギャンブルに狂ったからだ。一稼千金を夢見て全てを売り払う羽目になったのだ。
しかし彼女は僕に何の相談も無く、理由さえ話しもせずに消えてしまったのだ。
彼女と住むために買ったマンションを売れば、彼女が夜の街角に立たなくて済むくらいのまとまった金は
用意できたのにだ。そしてその酷い父親のもとから離れる事だってできた。
しかし彼女はそうはしなかった。人知れず夜の街角に消えて行ったのだ。
それからと云うもの僕は、全ての運から見離され全ての物事がうまくいかなくなっていた。
まず売り払う事のなかった僕のマンションは、年中水滴が天井から落ちてくるようになったし、
僕の働いていた会社はその後すぐに倒産した。
幸い直ぐに新しい仕事は見つかったものの、月給は半分になっていた。
そして僕は酒に溺れ、ギャンブルにのめり込んでいった。
そして僕はギャンブルに勝った夜には街角に立つ女と一夜を共にするようになった。
しかし僕は、街角に立つ彼女と一夜をともにする事は一度もなかった。金で彼女を抱くことで
彼女が、コールガールであるという事実を、認めてしまうことが恐かったせいだ。
それなのに僕は、いつのまにか憎んでいる筈の彼女の父親と、同じ様な生き方を選んでいたのだ。
もうすぐこの国に正月(小正月、或いは旧正月)がやってくる。
それ迄には全ての清算をする必要性があった。
この国の慣例で正月を迎える前に、ツケは全て清算させないといけないのだ。
当然僕も、酒代や食料品代といったツケや、それ以外の借金も払わなければならない。
借金は五万五千パダカで月給の約3倍にも膨れ上がっていた。当然給料だけでは絶対払えない額である。
このままではめでたく正月を迎えるどころか、これからはまともに飯をくうことすらできないのだ。
そしてマカオに住んでいる奴らの大半は、原因は違っても多かれ少なかれ僕と同じ境遇だった。
彼らの顔を見ると、鏡をみているみたいに、僕と同じ目の色をしてバカラをやっていた。
もはやここにはギャンブルで金を作らなければ、生きることさえできない人間しか存在しないのだ。
その風景はまるで、毎年正月前のマカオに繰り広げられる、風物詩みたいなものなのだ。
今夜の僕は久しぶりにツイていた。借金はすぐに返せるくらいには勝っているし、
このままいけば、彼女を夜の街角から救う事だってできそうなくらいだ。ざっとHK$20万位は勝っていた。
ここまでツイているのならば、僕はもう全てを取り戻すか、全てを無くすかの勝負に出る以外に、
道は残されていない様に感じた。狂った歯車が巧く噛み合う様な気がしていた。
そして僕はディーラーの表情を見てありったけのチップをベットした。
そして今日の夜は彼女を迎えに行くのだ。
カードを配り終え、ディーラーは自分のカードに目を懲らした。
僕はその目をじっと見つめた。少しディーラーの頬が動いたように感じた。
僕は自分のカードに目をやった時に全てが終わった事に気付いた。
ディーラーは既に自分のカードを全てテーブルの上にに並べた。
『グッド・ラック』とディーラーが言ったような気がした。
455 :
マスク:2007/02/14(水) 12:01:55 ID:GGOv/kCX
面白かった〜〜〜!
全てを賭けるっていうのはある意味性的な快感に近いのかもね。
何もかもを全て吐き出してしまいたいという欲求と、
何もかもを手に入れたいという欲望は相反して同時に存在する。
それはかなりSexに近い気がする。
456 :
人参:2007/02/14(水) 15:17:33 ID:fCJZXAXI
ありがとう。そう言ってくれると救われるよ。
このところ巧く書けなくて悩んでいたからね。
つまらならいって怒られたらどうしようって思ってました。
旅行にいっても何かネタ無いかなって、現地のガイドの話真剣に聞いてたからねw
それがマカオのカジノだったんだけどね
そういえば、売り上げがラスベガスを抜いてマカオが世界一になったみたいだね
僕もその売り上げに少し協力してきましたがw orz
「もう何年も昔の話だけど」と美奈子は右手薬指にはめた金のリングをいじりながら言った。
それは美奈子が話をするときの癖だった。指輪は幾分大きめなのか左手の親指と人差し指の間でくるくると回った。
将樹は美奈子が話し始めるのを辛抱強く待っていた。
美奈子は話し始めた事を忘れてしまったのか思うほど長く間を置いた。
「私、大きなほくろがあったのよ。背中の真ん中に」
「へえ、そうなんだ。今はもうないの?」と将樹は聞いた。
「うん。気が付いた時には無くなっていたの。不思議な話なんだけどね」
「そんなこともあるのかな?無くなったのは幾つの時?」
「分からないわ。無いのに気が付いたのは3年前なんだけど、でも、夫に聞いたら結婚前から無かったって言ってたわ」
「じゃあ、6年前から無かった訳だ」と将樹は年数を数えながら言った。
二人は高校の同級会の帰りで、二人きりでワインバーに来ていた。
美奈子がワインが好きだと言うので、ソムリエの将樹が美奈子を誘い出した。
これで2度目の再会を果たしていた。将樹はまだ結婚していない。
将樹と美奈子は高校で同じ吹奏楽部の仲間だった。
将樹はコルネットで美奈子はクラリネットだったから特に話す事も無かったが、将樹は密かに美奈子をずっと思い続けていた。
高校を卒業後、再会を果たした時には既に美奈子は知らない男と結婚することになっていた。
再会したその日に「私、明日結婚するの」と言われたのだ。
将樹は再会できた喜びと美奈子を永遠に失った深い後悔の念を一度に味わった。
それから6年経っても将樹は美奈子を忘れられなかった。将樹は次から次へと恋人を作っては別れた。
それは時を逃した男の哀れな姿だった。将樹自身もそれを分かっていた。
「気のせいなんじゃないの?もともと無かったかもよ」と将樹はからかうように言った。
美奈子は透き通るような白い肌をしていた。将樹はその美しい背中に大きなほくろがあるなんてうまく想像出来なかった。
「ううん、絶対にあったはずよ。子供の頃、お母さんがいつもお風呂でそのほくろを触って『チョコレート色のほくろだね』
って言ったのよ。鏡で見たこともあるけど、1円玉くらいの大きなほくろだったの」
「そんな大きなほくろが消えるなんて信じられないね」と将樹は言った。
「だけど、私としてはほくろが無くなったことより、結婚した後、
ほくろがあったことをほとんど一度も思い出さなかったってことがびっくりだったわ。
だって、夫は何度もほくろを目にする機会があったし、そのとき私は一度も夫にほくろの事を話題にしなかったのよ。
話しに出していれば、夫もほくろがあるかないかくらいは反応してくれただろうし、私も鏡で確かめたりしたはずなのに、
3年前に偶々水着姿の背中の写真を撮られてそれを見たときに無いって気が付くまで、
私は一度も自分の背中を見なかったのよ?私はその3年間、一体何を見て生きてきたのかしら?」
「つまり、結婚する前はあったの?君の旦那さんはそれも否定してるの?」
「夫とは結婚するまでそういう関係じゃなかったけど、一緒に海に行ったことはあったから、
ほくろは見られたはずなの。で、もし見たのなら忘れられるはずがないくらい目立つほくろだったのよ」
「だけど、旦那さんは見たことが無いって言うんだね」
「そう。不思議な話でしょ?」
「確かに。不思議だよね」
将樹は美奈子の背中を想像した。白磁のように白くなめらかな肌とその真ん中にあったはずのチョコレート色のほくろを。
「ねえ、そのほくろはどこに消えちゃったんだと思う?」と美奈子が言った。
将樹は迷っていた。ここで美奈子をホテルに誘うのはすごく当然の成り行きで、しかも美奈子がそれを求めているのは明らかだった。
そして将樹は美奈子を抱きたかった。当然だ。ずっと夢に見ていた美奈子が今目の前で背中のほくろの有無を確かめて貰いたがっている。
「僕には分からないな。確かめようがないもの」と将樹は言った。
「じゃあ、確かめて見る?」美奈子はいたずらっぽく笑った。将樹はもう理性が吹き飛びそうだった。
しかし、何かが将樹の心に引っかかった。それはほんの小さな目に見えない埃が目に入った時のように、
理由ではなく身体が自然に反応する嫌悪に似た感覚だった。
「いや、やめとくよ。僕にはもうすぐ結婚する女性がいるし、君は旦那さんがいる」
将樹は嘘をついた。美奈子に恥をかかせたくはなかった。
「そうよね。ごめんなさい。バカなことを言って。私もう帰るわね」美奈子は神妙な顔で言った。
「いや、こちらこそ。また会えるといいね」そう言って将樹は二人分の勘定を払って美奈子と別れた。
「不思議なものだな・・・」と将樹は帰り道に一人でつぶやいた。
460 :
人参:2007/02/15(木) 22:09:27 ID:lJZ5ZL9x
マスク氏お疲れ様です。
『チョコレート色のほくろ』とても面白く読ませてもらいました。
書き込みがあったのに気付いた時一気に読んでしまいました。
短篇だからちまちま読むものでは無いと突っ込まれそうですけどw
主人公の将樹は随分ストイックですね、僕には真似できないかもしれませんw
でも、マスク氏は相変わらず凄いですね。僕は最近なかなか巧く書けないのに、
それほど日数を掛けずに、このクオリティの物を書いてしまう。本当に尊敬しますね。
なんか実力の差を見せ付けられる思いです。
まあ、僕も弱音を吐かず次の短篇の構想を錬ってみる事にします。
461 :
マスク:2007/02/15(木) 22:58:23 ID:UyvsuxrQ
僕の短編の書き方についてですが、いつも題だけを先に考えます。
いいなと思える言葉やフレーズが思い浮かんだら、話の内容はまったく考えずにいきなり書き始めます。
最初の一文さえ書ければ、あとは本当に勝手に話がどんどん繋がって、気が付くとちゃんと終わるんです。
だから、僕は作者ではなくてまるで読者に近い状態です。
書きながら読んでいると自分で「へえ」とか「そんなもんかな」なんて言ったりしている状態です。
だからそうしろとは言えないのですが、無理に構想なんて練らずに気楽にやって下さい。
一応、遊びなんだってことを忘れない程度にね^^;
この屋敷の主人「ジュン」はミッション系のお嬢様大学の一貫校をでた、美しく、可愛らしい30代前半の女性だ。
長いストレートの髪をかきあげると白くて神経質そうな耳が利発そうな表情を更に魅力的にさせる。
僕は一ヵ月前に突然急死したピアニストのJ.アルフレッドの代役として、この屋敷に雇われた。
そして、ジュンに逢った瞬間に今までの音楽家生活を全て捨て彼女に忠誠を誓った。それほど魅力的なのだ。
そして毎晩行われる夜会でジュンの為だけに夢を与え続けていた。そう、従順な奴隷のように。
屋敷の中に入ると執事が「それではこちらへどうぞ。今夜はジュン様もご期待されております。」と言った。
そしてホールに用意された、ステインウェイ&サンズの前に置かれたイスに僕は腰を降ろした。
そして僕は軽く鍵盤を叩き、これから始まる夜会のウォーミング・アップを始めた。
ジュンは「ごきげんよう。」と微笑んだ後、執事に耳打ちをして、僕を見ながらクスクスと笑った。
こういった表情を見せた後のジュンは、決まって無理難題を突き付けるのだ。少なくとも今日までは。
この屋敷では毎晩のように友人や知人を集め「夜会」と称したイブニング・パーティが催されている。
そして今夜9月28日は、今までの夜会のなかでも特別な意味を持っているらしく、もっとも盛大な夜会だ。
夜会が始まる直前に執事が僕の所にやってきて「今夜はジュン様にとって特別な夜でございます。
今夜は5時間続けてアップテンポの曲をお願い致します。」と丁寧だが強い口調で、僕に言った。
しかし今夜は巧く弾ける自信が無い。昨日の夜からどうしたのか、右手の小指が全く動かない。
それに気付いてからは、あらゆる治療を試みたのだが、一向に良くなる気配はなかった。そして今夜を迎えた。
しかし忠誠を誓った僕はジュンや執事に弾くことが出来ない等とは言えない、たとえ不可抗力で有ったに
してもだ。それでジュンに見離されこの屋敷から追放されてしまうことが耐えられないのだ。
しかしこんな状態では5時間どころか5曲すら到底無理だと思う。そして今夜が僕にとって最後になるのだろう。
ジュンはたった一度の失敗すら許してくれるほど大らかな性格では無いのだ。ましてや今夜は特別な夜だ。
しかし夜会は予定どおりの時刻に始まりそして僕の予想どおり台無しになった。もちろん僕のピアノの所為だ。
そして僕は今屋敷の地下室に閉じ込められている。生臭いにおいがたち籠めた薄暗く汚い部屋だった。暫らく
使われていないらしくテーブルやイスの上に白い埃が積もっていた。埃の量からみるとおそらく一ヵ月と
いったところだろうか。僕はその埃のたまった椅子の上に座らされた。何かがおかしかった。この屋敷には
三人のメイドがいて、毎日どの部屋も、二回程掃除は念入りにしているとヨーコが前に言っていた。
(ヨーコはここのメイドで何故か僕に親切にしてくれた。そしてこの屋敷の全ての事を教えてくれた。)
薄暗い部屋に目が慣れた頃部屋の片隅にホルマリン漬けの瓶が何本か置いてあるのに気付いた。
その瓶に近付き中を見ると2体の生物がその中に入っていた。しかしそれは不思議な謎の生物ではなかった。
人間の両手だった。ラベルにはJ.アルフレッド、B.ブラウン、H.リチャードと云うラベルが貼られていた。
もしかするとここの屋敷の歴代のピアニスト達は辞めて行ったのではなくこの屋敷で殺されそして
その繊細な両手をコレクションにされているのだろうそしてそのコレクションに僕の両手が追加されるのだと簡単に想像できた。
僕は胃袋から酸っぱい何かがこみあげてくるのを感じた。胃の辺りが脈動を始め、それを必死に堪えた。
得も知れぬ恐怖が僕の体ををそうさせているようだ。僕はこの部屋から何とか逃げ出そうと思ったが
窓すらなく硬い鉄の扉以外にこの部屋から外に出る場所はどこにも無い。そしてその扉は堅く閉ざされていた。
僕は扉を素手で何度か叩き、身体ごと体当たりしてみたがそれは無駄なことだった。僕の身体は悲しいくらい
あっさりと跳ね返されていた。そしてその拍子に僕の腕が曲がってはいけない方向に曲がっていた。
僕は逃げ出す事を諦め床に座り込んだ。忠誠を誓った主人の前で失態を晒したのは紛れもなく僕自身だ。
暫らくすると冷たく固い鉄の扉が開かれた。そこにジュンと執事と屈強な大男が二人そこに立っていた。
「ごきげんよう。今日の夜会の貴男はとても素敵でしたわ。」と言って執事の耳元に何か囁いた。
そして執事はにこやかな顔で頷きながらそれを聞き、冷淡な顔で大男達に耳打ちをした。大男達は執事の声を
聞くために少し屈んで頷いていたので、飼育係に叱られる二匹のゴリラのように見えた。
そして二匹のゴリラ達は僕の両脇に立ち僕の両腕を強く掴んだ。さっきあらぬ方向に曲がった手が激しく痛み
信じられない程の声を上げた。しかしゴリラ達はそんな事は全く聞こえてないかのように、僕を抑え込んだ。
そして僕の両腕を頑丈なテーブルの上に並べた。いつのまにかゴリラ達の手には屶が握られていた。
そんな僕の姿を眺めるジュンの顔は可愛らしく美しく、恍惚の表情を浮かべていた。
まるで悪魔の様に美しく、女神の様に醜かった。そして神に捧げる福音の様にこう呟いた。
「ごきげんよう。さようなら。私の愛するピアニスト。永遠に夢を与え続けて下さい。私の為だけに。」
それが合図だった。
465 :
沈黙する石:2007/02/19(月) 23:19:42 ID:iCc5LcB7
朝、出勤のためにアパートを出ようと外開きのスチールドアを押したが、開かなかった。
チェーンがかかっていたのかと思ったがもちろん掛かっていない。そこまで寝ぼけてはいない。
もう一度少し強めに押してみると、ガツンと何かにぶつかる音がして少し開いた。
何かがドアの外に置かれているのだ。
そのまま無理にこじ開けて外に出てみると、ドアの前に大きな石が置いてあった。
庭石と漬け物石の中間くらい。片手で持てるようなものではない。
とりあえず両手で押してドアの前から退かしておいたが、何故こんなものが置かれているのかさっぱり分からない。
何かの嫌がらせにしてはあまりに無意味な気もする。
石があるのは迷惑だが、ここは何しろエレベーターのない安アパートの2階で、しかも階段から一番奥の部屋なのだ。
これをわざわざ運んでくる苦労に対して、私にかかる迷惑などは天秤に掛けるまでもない。
私はとりあえず会社に向かわねばならなかったので、石は外廊下の隅に退かしておいて、そのまま会社に向かった。
仕事を終えて帰って来てみると、石は元通り私のアパートのスチールドアの前にぴったり付けて置いてあった。
やれやれと思ったが、またわざわざ石をドアの前に置いていった犯人の苦労を思えば、退かすくらいの事は造作もない。
まさか持ち上げて下に落とす訳にもいかないので仕方なくそのまま廊下の隅に置いておいた。
案の定、翌朝もやはりドアは開かず、無理矢理ドアをこじ開けて会社に向かった。
466 :
沈黙する石:2007/02/19(月) 23:22:14 ID:iCc5LcB7
とても一人で運べるような大きさではない。毎日ただずらすだけなら大の男に出来なくはないが、
こんな風に私の留守や就寝時を見計らってドアの前に置くというのは余程の執念がなければ出来ない。
それなのにその嫌がらせか、あるいはアンチテーゼは私をそれほど窮地に追いつめてるとは言い難い。
これが毎日の事になればそれはそれで大変だが、ある意味防犯に役立っているような気さえして、
あたかも無言のボディーガードを雇ったと思えば得をした気分でさえある。
そんな毎日がしばらく続いた。私はその間、犯人を捜す努力を一切放棄した。
石がドアの前に置かれているのは私にとってある意味安心材料になりつつあった。
犯人は決して私のアパートに侵入したりはしなかったし、私が出掛けると必ずドアの前に置いてくれた。
石は沈黙し続け、私を護り続けた。
私にはもうドアをこじ開けるのも、帰って来た時に石を退かすのも日常となっていた。
しかし、ある日とうとうドアがダメになってしまった。
毎日重い石を力任せに退かしていたので、歪んで閉まらなくなってしまったのだ。
私は仕方なくアパートの管理人にドアが壊れた理由を説明した。
当然ながら沈黙する石は、管理人が呼んだ屈強な業者の手によって排斥され、廃棄された。
私は石を持ってきた誰かに諦めるなと言いたかった。
もしかすると、今度はもっと私が困ることを思いつくかもしれない。
私はこの次に犯人が思いつく新たな嫌がらせを想像して楽しんだ。
例えばへんな張り紙を張るというのはどうだろう?テロリストか何かを連想させるような張り紙。
いや、やはりこの部屋は一番奥だから、誰も見ない。
郵便は下の集合ポストに入れられるし、新聞は取ってない。
チラシの投げ込みなんかは迷惑だから、むしろへんな張り紙があれば警戒して入れないかもしれない。
もちろん、おかしなセールスも宗教の勧誘も来ないかもしれない。
そう考えると、それは防犯上とてもいいアイデアのように思えた。これではだめだ。
あるいは動物の死骸なんかはどうだろう。
それを毎日置かれたら、さすがの私も幾分気が滅入ってくるかもしれない。
しかし、毎日新しい動物を殺す苦労を思えば、やはり、それを捨てるなんて容易すぎる。
苦労の割には実りが少なすぎるのだ。
467 :
沈黙する石:2007/02/19(月) 23:23:07 ID:iCc5LcB7
私は犯人を深く同情した。どのような理由があれ、努力は報われてほしかった。
彼(あるいは彼女)が私に嫌がらせをする理由があるとするならなば、私にだって何かしらの落ち度があったかもしれない。
そう考えると私は心から犯人を愛おしく思った。犯人はその努力を誰かに賞賛されてしかるべきなのだ。
そう考えているところへ電話が架かってきた。
「石を置いていたものです」と声の主が言った。
「そうですか。心配していたんです」と私はホッとしながらなるべく優しく言った。
「ご迷惑をおかけしたのではないですか?」と相手が言った。
「そんなことはありません。石はむしろ防犯に役立ってくれていました。
ドアさえ壊れなければ管理人に相談なんてしなかったんです。
毎日毎晩、本当にご苦労様でしたね。大変だったでしょう?」
「・・・私が誰かを知りたくは無いんですか?」
「ええ、あなたが誰であろうとあなたは素晴らしい。あれだけの仕事を毎日欠かさずに続けるなんて、
誰にでも出来る事ではありません。
私になにか恨みがあるのなら、私は心から謝りたい。あなたには本当に感謝しているんですよ」と私は言った。
電話はそこで無言のまま切れた。
私は冷蔵庫からビールを取り出して、二つのグラスに注いだ。
そして新たに結ばれたであろう友情を祝して一人で乾杯した。
468 :
海底宮殿:2007/02/22(木) 01:11:24 ID:xC2V4kX4
あの時のことを、今でも時々思い出す。もちろんかなり前のことなので、断片的であるのだが。
それは確か、僕がまだ今の仕事をする前だったので、十数年前のことだ。
その日僕は仕事を終えいつものように「ミル・ウォーキー」に寄ってビールを飲んでいた。
僕はその店で、心地よい孤独感と解放感を味わっていた。確かその夜は「アルハンブレ宮殿の思い出」が
BGMにながれていた。僕はその静かに流れる曲に耳を傾けていた。
「こんばんわ。何をしているんだい?」
僕はひそやかな楽しみを奪うその声に僅かな嫌悪感を感じその声の主を探した。
すると僕のテーブルの上に20a位の身長の男が立っていた。僕はその男を見つけひどく驚いた。
今夜はそれ程疲れてはいなかったし、銘酊するほど飲み過ぎてはいない筈だ。
「そんなに驚かなくていいよ。それより君はおいらと一緒に楽しい所に行ってみないか?」
「君は一体誰なんだろう?どうして僕を誘う?」僕は混乱した頭を悟られないようにできるだけ冷静を装った。
「えっ?おいらの事が分からないのかい?以外と冷たいんだね。」と小さな男はそう言って頭を振った。
「多分、君に逢ったのは今日が初めてだと思う。それとも何処かで、逢ったことがあるのかな?」
と僕は言った。そしてありとあらゆる記憶を手繰り寄せてみたが一向に思い出せなかった。
「そうか、憶えてないんだね。それなら仕方ないね。」そう言って僕のリブ・ロースを齧った。
「それは申し訳無かったね。でも本当に思い出せないんだ。それで僕を何処に連れていってくれるんだい?」
「海底宮殿だよ。珊瑚の雪が降るとても素敵な場所だよ。」と小さな男は言った。
「海底宮殿?」と僕は言った。
469 :
海底宮殿:2007/02/22(木) 01:14:20 ID:xC2V4kX4
「そう。海底宮殿。」
「何か面白そうだね。連れていって欲しいね。」と言って、グラスに残ったぬるいビールを飲み干した。
「でも、とっても残念だけど、今日は無理だね。」
「無理って、君がさっき連れていってくれるって言ったばかりだよ。」
「そうだけど、もう無理なんだ。入り口が閉じちゃったんだ。」
「そうか、それは残念だね。でも、その入り口はもう開かないのかい?他に方法は無いのかな?」と僕は言った。
「無いね。僕の事憶えて無かったから無理なんだ。どうしても行きたかったら次に逢った時、おいらを
憶えていれば行けるよ。今度こそ憶えていてくれればね。」そう言って小さな男はまたリブロースを齧った。
「そうか、それじゃ次に会える日を楽しみにしておくよ。」と僕は言った。
「分かった。次は必ずね。」と小さな男は言った。
そして気が付くと小さな男は僕のテーブルから消えていた。僕はテーブルの周りを探してみたが、
小さな男は何処にもいなかった。僕はまるで狐にでも化かされた気分になった。
僕はリブロースに目をやると、小さな歯形が二つ付いていた。
それを確認したあと僕は煙草に火を点けた。いつのまにかBGMはアラベスク協奏曲にかわっていた。
しかしそれ以来その小さな男には一度も逢っていない。
それ以来僕は、時々海底宮殿について考える。白い珊瑚の雪が降る海底宮殿のことをだ。
470 :
95:2007/02/22(木) 09:18:29 ID:4ZTVhqPl
おはようございます。
あぁ私、その身長20センチの男の人に会ったことあります(^^)一度だけ。
その時は「次に会った時覚えていてくれたら月に連れて行ってあげる」と言われましたが…それ以降二度と会えません。
20数年前の話ですが。
471 :
マスク:2007/02/22(木) 12:06:25 ID:jNCtD7PJ
人参氏さえてますね。すごく面白かったです。
珊瑚って、一斉に卵を産むんですよね。
テレビの映像で見たことがあって、それは雪が下から上に降るみたいに綺麗でしたね。
でも、95さんにはいつも驚かされます。本当なんですか?その話。
敦煌の話の時も含め、僕らがまるで95さんのためだけに書いてるように思える。
472 :
人参:2007/02/22(木) 13:05:19 ID:xC2V4kX4
驚きました。95さんが小さな男に会った事があるなんて…‥
しかも、今度会ったら…‥まで一緒なんて…‥
完全に創作なのに…‥
そのレスを読んだ僕はひどく驚いた。ってな感じです。
でも、楽しんでくれたみたいで嬉しいです。
マスク氏もありがとう。次作期待してますよ。
473 :
マスク:2007/02/22(木) 19:12:14 ID:49Es4iWi
あんまりプレッシャー懸けないで下さい(-_-;)
たぶん、読者は分かっているとは思いますが、「夢を与え続ける奴隷」はおそらく人参氏作で、
「沈黙する石」はマスク作です。
「夢〜」はなんともオカルト的で、前のオカ板時代を思い出しましたw
「沈黙〜」は実は、僕の個人的な友人から「石」というタイトルで書いて欲しいというリクエストがあって、
それを少し具体的なタイトルにして書いたものです。
474 :
人参:2007/02/22(木) 20:54:49 ID:xC2V4kX4
マスク氏煽ってしまって申し訳ない。
プレッシャー懸けるつもりは無かったのですが…‥つい、調子に乗ってしまいました。
夢…は、僕が書きました。はい。正解です。ってすぐ分かりますよね。
でも、読者のみなさんの声を聞くのも嬉しいので遠慮しないでレス下さいね。
475 :
雨の色:2007/02/24(土) 00:49:18 ID:VkuXNGyO
「ねぇ、雨ってどうして降ると思う?」
もう三日も降り止まない雨に向かって歌織は言った。小学生だって今時そんな質問はしない。
「大気中に水蒸気が溜まって雲になって、重くなると雨になるんだよ」と僕は言った。
もしかしたら間違っているかもしれないが、大筋外れてはいないだろう。
間違っていたとしてもそもそも正解を求められているわけではないのだ。
「違うのよ。雨は降りたいから降っているのよ。私が降って欲しくないときでも、雨にはそんなことお構いなしだわ」
歌織はそう言って温かいコーヒーを2つのカップに注いで一つを僕に渡した。
僕らはしばらくソファに座ってコーヒーを飲みながら雨を眺めていた。特に心が和むような景色ではない。
窓の外はマンションの15階からそれほど変わらない高さのビル街が広がっている。緑はまったくない。
2月の冷たい雨だ。アスファルトを凍らせることを目論んでいる真底冷たい雨。
それが街をすっぽりと包み込み、ディーゼルエンジンの排気ガスをたっぷり吸い込んで全てを灰色に染めていた。
「仕方ないね。雨に文句を言ったところで、何も変わらない。誰も君を同情しない」
「意地悪ね。いつからそんなにシニカルな台詞を言うような人になったの?」
僕と歌織は結婚していない。でも一緒に住んでもう10年になる。
そろそろ僕は彼女にプロポーズをしなくてはならないと思っていた。なにしろもうすぐ僕は40才になるのだ。
でも彼女は結婚しないと付き合った当初にはっきり宣言した。
「私は一生結婚なんてしないわ。それでもいいなら一緒に暮らしましょう」と彼女は言った。
僕らはそれ以来結婚を前提としない同棲生活を続けた。
476 :
雨の色:2007/02/24(土) 00:49:53 ID:VkuXNGyO
その当時からお互いにそれぞれの専門的な分野できちんとした職業に就いていた。
二人は二つの名字をマンションの玄関ドアに並べ、毎日お互いの郵便物や請求書を分別した。
電気代も水道代も全てきちんと割り勘にした。お互いに自分の稼いだ金で何を買おうと干渉はしなかった。
結婚している友達からは最高の結婚生活とまで言われた。自由でしかも好きな女と一緒に居られるのだから。
束縛は無い。浮気をしたこともある。それでも歌織が一番好きだった。最初はこれでいいと思っていた。
それでも何かが足りなかった。それはまるで一枚のカードを失ったトランプのように決定的な欠落だった。
ただ、それが何のカードなのかが分からないままになっているのだ。
「いつからだろうね。もしかしたら、君と一緒に暮らしてからかもしれない」
歌織はふふんという不敵な笑みを浮かべて僕にキスをした。
「雨ってほとんど透明みたいだけど、本当は青いんでしょ?」と歌織が言った。
僕は頭がくらくらしたが、真面目に答えた。「青くない。H2Oは無色透明だよ」
「でも海は青いじゃない。お風呂にお湯を貯めたってちゃんと青く見えるわ」
「あれは光の屈折でそう見えるだけ。無色の水が光を受けると青光線だけが反応して見えるんだ」
「それなら、青いと表現してどこが悪いの?青く見えた時点で、それは既に青いのよ」
確かにそうかもしれないなと僕は思った。何故か歌織の意見はそれがどれほど非科学的だろうが、
非常識だろうが、冷酷だろうが正しい意見のように思えてしまうのだ。
「君がそういうんなら、僕たちは既に結婚しているとは思えないか?」
僕はほとんど何も考えずに無意識に言ってしまった。
477 :
雨の色:2007/02/24(土) 00:51:28 ID:VkuXNGyO
「どうして?」
「僕らは結婚していると言っても差し支えない状況にいる。ただの紙切れ一枚の差だよ」
「私は結婚はしないの。誰とも」
「何故そんなに結婚したくないんだ?別に子供を産んで欲しいなんて言わないし、
君の財産だっていくらあるのか知らないけど興味はない。仕事だって今まで通りに続けられる。
結婚したら何が変わるって言うんだ?」
「私は誰のものでもないの。私は今すぐ死んでも誰にも迷惑かけたくないから家族を持ちたくないの」
「死にたいのか?」僕は少し心配になって聞いた。
「絶対に死にたくない。だけど、いつか必ず死ぬのよ。それは誰にも変えられないでしょ?」
「でも、家族同然の人に目の前で死なれて葬式とか形見とかに手も足も出せない状況になったら、
それこそ大迷惑だよ。むしろそういうときのために結婚したいんだよ」
「なら、私が生きているうちにここを出て行って。もうそろそろ私が死んでしまうというのが分かり次第」
「そんなことが出来るか!一体何考えてるんだよ」
「大丈夫よ。あなたより先には死なないわ。約束する」
歌織はそう言うと何事も無かったようにコーヒーを啜り、またぼんやりと雨を眺めた。
僕はこれから一体どうすればいいんだろうか。
「ねえ、歌織。もし僕が先に死んだら君はどうするつもりなの?」と僕は聞いてみた。
「そうね、樹海にでも捨ててこようかしら?」
「あのね、それは犯罪だよ。死体遺棄って刑法にも載ってる」
「じゃ、あなたの上に重なって一緒に死ぬわ」
「話にならないな」
僕がそう言うと歌織は遠くを見つめてため息を吐いた。
「私は雨の色も知らずに生きている人生なんて絶えられないの。ただそれだけ」
雨はその淡き宇宙の色をただひたすらに秘めながら、僕らにはお構いなしに、いつまでもいつまでも降り続いていた。
478 :
人参:2007/02/24(土) 17:23:25 ID:a1K5PImY
マスク氏お疲れ様です。
相変わらずクオリティー高いですね。興味深く読ませて貰いました。
主人公が今年40になる辺りが少し気になりましたがw
話は変わりますが、僕の仕事がなかなか落ち着かなくて触れられなかった
オフ会ですが、そろそろ具体化したいと思います。
それで、日時とか場所とか決めたいと思いますので、「参加してもいいよ。」と言う方は下記のアドレスまでメールを下さい。
[email protected] それでは宜しくお願いします。余り長い期間は晒しませんのでお早めに。
479 :
夕焼け:2007/02/26(月) 22:02:36 ID:/zqss2C+
僕は煙草に火を付けてから大きく煙を吐き出した。
風が余り無かった所為で煙はしばらく私の周りを漂っていた。
海を見渡すことの出来たジャイアント・ホイールは、そのゴンドラ部分が既に全て撤去され、
6分の1のフレームが、巨大なきりんを連想させる大型クレーンによって、ゆっくりと、
そして確実に解体されていく。新しく出来た、アミューズメント施設の多様化やテーマ・パーク、
なによりもこの遊園地が設備の老朽化で極端に集客力が落ち、淘汰されたのだ。
かつては若者達や子供たちの心を掴んで離さなかった、この町のシンボルが消えようとする瞬間だった。
そして私がその解体の指揮監督をすることで、私自身不思議な気分にさせられた。
それというのも、私が子供の頃、父に連れてきて貰った事のある、唯一の遊園地だったせいである。
しかも、私の父が若い頃に、初めて任された現場が、このジャイアント・ホイールの設置だったからだ。
父は仕事柄、家には殆ど帰って来なかった。地方の現場に入ってしまえば、一ヵ月どころか、ひどい時には
一年以上も帰って来ない事もあった。もちろん一緒に暮らしている時期はあったし、仲が悪い訳ではなかった。
しかし幼い私の時間の弊害がもたらしたせいか、今でも父の顔をおぼろげにしか思い出せないでいる。
それでも、この遊園地の現場だけは違っていた。毎朝家から現場に通い、父の記憶の殆どが、遊園地に詰まっていた。
そして時間が許すかぎり、父は私を肩車をし、ジャイアント・ホイールが出来るのを一緒に眺めていたのだ。
ジャイアント・ホイールの向こう側には真っ赤な夕焼けが広がっていた。
空一杯の夕日がいまでもすぐに思い出せる位の夕焼けだ。
「なぁ、慎一。もうすぐこの観覧車ができあがる。そうしたら、お前を一番にその観覧車に乗せてやる。」
私はその言葉を聞き、とても興奮していた。そして、そんな父をとても尊敬していた。
「大きくなったらお父さんみたいに遊園地を作る仕事をしたい。」と私が言うと父は嬉しそうに笑ってくれた。
480 :
夕焼け:2007/02/26(月) 22:03:25 ID:/zqss2C+
あれから三十数年経ち、この遊園地のマリンタワーとジャイアント・ホイールが、この町から消えてしまう。
それも私の指示で少しづつそして確実にだ。この場所は(遊園地としてはいささか窮屈ではあるが)
撤去が終ればこの遊園地は、隣接した日帰り温泉施設の駐車場になる予定だ。
あと何年かすれば、此処に遊園地があったことすら、誰もが忘れているだろう。
しかし私は忘れない。
父を忘れないように。
481 :
人参:2007/02/26(月) 22:09:12 ID:/zqss2C+
95さん読んでますか?
オフ会は参加されないのですか?
もう暫くはメアド有効にしておきますので(今週一杯)良かったらご連絡下さい。
只今をもちまして
>>478 のアドレスは無効になりました。
483 :
嘘について:2007/03/12(月) 11:10:53 ID:qkwMNkGm
僕らは長い人生の中で随分沢山の嘘をついている。実際に。現実的に。そしてその多く場合、選択の余地は無い。
そして長い時間をかけて磨り減っていく。もちろん、好むと好まざるとに関わらずだ。
僕がまだ幼く、物心ついて初めて嘘をついた時のことを鮮明に覚えている。
僕はその時、一人で留守番をしていた。母は専業主婦だったが、祖母が入院してしまい、
その看病のためにどうしても僕を置いて出かけなければならなかったのだ。
僕はまだ5歳くらいだったと記憶している。テレビと、大量のスナックとおもちゃと一緒に家に一人残された。
そして僕は長い時間をかけてありとあらゆるいたずらを家に仕掛けた。
壁にクレヨンでうんちの絵を描き、全てのドアの前に積み木を積んで開けられないようにしたり、
トイレットペーパーを全て巻き取ってトイレに詰め込んだり、冷蔵庫の調味料をボールに全て注いで混ぜ合わせて味見をしたりした。
母は家に戻ってその有様を見た後、僕の顔を覗き込んだ。「どおしてこんなことをしたの?」
「僕がやったんじゃない」と僕は嘘を言った。「友達が遊びに来てだめって言ったのにやったんだよ」
母は怒りというより諦めに近い表情で「なら仕方ないわね」と言った。
僕の嘘を信じていたのかどうかは今もわからない。でも家には鍵がかけてあったし、
おそらく嘘だってことは最初からわかっていたはずだった。でも母は僕の嘘を責めなかった。
その時僕ははっきりと嘘の苦さを味わった。胃袋の中から搾り出された胆汁のような痺れるほどの苦さだ。
そして嘘はもう二度とつかないと心に堅く誓った。
しかし、その誓いはほんの数ヶ月しか持たなかった。なにしろ僕はいたずらが大好きだったし、
いたずらをするチャンスが巡る度に、その誘惑には到底抗うことが出来なかったのだ。
そして母はそのたびに僕の嘘を責めなかった。僕は次第に嘘をつくことに慣れていった。
484 :
嘘について:2007/03/12(月) 11:12:23 ID:qkwMNkGm
今、大人になって会社で、あるいは同僚との飲み会の席で、あるいは好きになった女性に対して、
数え切れない嘘を日常的についている。
それはその場を円滑に進めるためのお世辞というものだったり、
彼女の服を脱がせるための口実だったり、取引先との駆け引きだったりするが、
正確に言うならそれは全て嘘だ。まるで嘘で作られた人生。
そして僕はある日突然失語症になった。もう話すことが苦痛なのだ。
話そうとすると言おうと思うこととまったく反対の言葉しか出てこなくなった。
しゃべれなくなった営業マンは会社には居られなくなり、二人の恋人も去っていった。
嘘をつくべき相手が居なくなると僕は初めて心からほっと出来た。
今は月に2回のカウンセリングに通いながら、文章を書いている。
文章はいい。気に入らないことは書き直せる。
何度でも何度でも読み返して書き直していくと、本当の言葉だけが残る気がする。
だから、申し訳ないけど、もう僕は話せないんだよ。
それも嘘かもしれないけどね。
485 :
なます:2007/03/13(火) 23:36:33 ID:XJAT5UeC
彼女が出かけた後、机のうえに何やらメモを置いていったのに気付いた。
メモを見るとそこには、
「【なます】の作り方」と書いてあった。
「なます?」と僕は声に出して言ってみた。一体何故「なます」なのだろう?
なますと言えばお正月に箸休めとして出される以外に出されることは無いに等しい。
多分かなりマイナーな料理だ。そして、僕は酢の物が大の苦手だ。
もちろん、彼女もそれは知っている筈だし、第一彼女自身も「なます」は嫌いな筈だ。
それが何故、もうすぐ春になろうとしているこの時期に、レシピがテーブルの上に置かれているのか
僕には巧く理解が出来ずにいた。そこに含まれる物事を探らなければならないのだ。
僕はそのレシピを読んでみることにした。
A)
ダイコン 600g
ニンジン 50g
B)
酢 大4
だし 大4
砂糖 大3
塩 少々
1.ダイコンはマッチ棒より細く、ニンジンはダイコンより皿に細く切り、塩少々を振りしんなりしたら水気を絞る。
2.Bを合わせて1を漬ける。
以上、なますの作りかた4人分。
と書かれてあった。一体これがどんな意味があるのかについて考えてみたが、
僕は一向に思いつかなかった。
486 :
なます:2007/03/13(火) 23:41:24 ID:XJAT5UeC
しかも、何故か四人分だ。僕はリビングの電話から受話器をとり、彼女の携帯に電話してみた。
しかし、彼女は何処にいるのか、音声案内の女の子が、
「電波の届かない所にあるか、電源が入っていないため…‥」
と繰り返し冷たく僕に囁いてくれた。三回目の「電波の…‥」と言ったところで僕は諦めて電話を切った
そして、僕は何をするべきか、考えてみた。部屋の掃除だろうか?
それともシャツにアイロンを掛ければいいのだろうか?
多分答えはノーだ。「なます」をつくるべきなのだろう。
僕は酷い罰ゲームをさせられているような気分になった。
しかし、冷蔵庫を覗くと人参と大根は何処にも入っていなかった。
まずはスーパーに行き素材を買って来なければいけない。
僕は駐車場に止めてある、ゴルフのエンジンを掛けた。
やれやれ、どうやら僕は人参と大根を買いに行かなければならないのか。
487 :
マスク:2007/03/14(水) 11:10:44 ID:xa2w5w7K
「どうやら」を使う場合の述語としては、「行かなければならないようだ。」
が好ましいのではないかな。
>>487 そうですね。ご指摘ありがとうございます。
以後気をつけます。
489 :
マスク:2007/03/16(金) 13:55:13 ID:ChAf5Sxq
偉そうに言ってすみません。
ただ、もったいないという気持ちがつい湧いてしまうものですから・・・。
490 :
人参:2007/03/16(金) 20:57:48 ID:b8BargG1
>>489 >偉そうに言ってすみません。
そんなことありませんよ。
気になったらいつでも、指摘してください。
自分では気付かない事は、結構多いですから。
これからも、宜しくお願いしますよ。
僕は「保守」と声に出して言ってみた。
それがいったい何の役に立つのかは分からなかったのだけれど。
「そう思うのなら、あなたが何か書いてみるべきじゃないのかしら?」
と彼女は長い髪の毛先を、左手の中指に絡ませながら僕に言った。
確かに、保守されることを望んでいるようだな。と僕は思った。
何故ならそれは置き換えられることのない希望であり、宿命だったからだ。
それならば何故僕らはもう書くことを止めてしまったのだろう。
そう。それはそこに読者というべきポリティカルでコレクトな存在が消えてしまったからだ。
だからといってそれでこのスレが消えてしまっていいはずはない。
僕はそう固く信じている。
少なくとも今は。
「バカみたい」
気が付くと彼女はそのクリクリした眼で僕の顔を覗き込んでいた。
「たった二文字『あげ』か『保守』と書けば済む話でしょ?
何時まで迷うのか私には分からないわ。それとも本当に辺境に向かいたい訳?」
「なるほど」なるほど。いつの間にか自分から井戸の中に身を置いていた訳だ。
僕は時々こういうへまをする。これは僕の昔から変わらない悪い癖なのだ。
彼女は毛布からスッと出て、僕の大好きなエレガントな身のこなしでベットに座りなおすと、
その形のいい乳房を下着すっぽりと隠した。
「あなたに出来ないなら私がやるわ。でないとこの世界は終わるのよ」
彼女は最後に決定的な事を言った。
やれやれ。僕はワンピースにすっかり身を包んだ彼女を見てまた何かが始まった事を悟った。
夕方、僕はパソコンのキーボードに眼を落として呼吸を整えていた。
彼女に書かせる訳にはいけない。彼女は本当はここに居てはいけなかったんだ。
それにこれは僕の仕事だ。他の誰がこの仕事を見つけるというのだ。
過去に集まってた人々はもう此処には来ない。彼らにはもう必要ではないからだ。
「彼らにはもう必要ではない」
声に出すとなんて機械的な音だろう。流行のロボットのおもちゃに組み込んでありそうな返事だ。
ピーーーー彼らにはもう必要ではない。ーーピ
苦笑しながら僕は画面を見つめた。下らないことを考えている余裕はない筈だ。
楽しそうに話す人の声がする。自然に窓の外へ視線が行く。
夕焼けの中、若い女の子達が笑いながら歩いていた。まるで別の世界みたいだ。
こんな事忘れて夕焼けの空の下、冷えたビールでも飲んでいる方が十分まともだ。
このスレを救う必要は無いのかもしれない。必要ならそれは誰かがやっていた筈だから。
それに僕がやらなくてもひょいっと誰かがやってきてあっという間に救うかもしれない。
そもそもそんなに大した事ではないのだ。きっと皆ふーんと言って数分もしない内に忘れるだろう。
こんな世界があった。と言う事を。
余計なことをしているのかもしてない。やめよう。僕がそう思った時、「カコログ」が動いた。
ブーーーーーンという冷蔵庫のような音と共に周りの空気が動く。
身体が見えない何かに引っ張られていく感じがする。
そうだ、やらなければいけないんだ!何故なら、僕はこの世界と一体化し始めたからだ!
身体がグングン下に引っ張られていく。
世の中に蹴られろうと馬鹿にされようと見捨てられようとやらなくてはならないんだ。
ワ タ シ ハ モ ウ イ チ ド ヨ ミ タ イ
彼女の声が頭によぎる。
僕は真下に迫った「カコログ」の見えない穴を見ない様にキーボードを凝視した。
手が震える。感覚がない。キーボードが地球の反対側にあるように遠く感じる。
「カコログ」の見えない穴が大きくなった。身体全身でそれが分かる。
僕は最後の文字を打ってマウスを叩いた。
496 :
大人の名無しさん:2007/06/08(金) 14:02:15 ID:11XYMPe0
第一部 完
やれやれ。
僕は前スレで一体どれだけこの「やれやれ」に出くわし、その度に深海に届きそうなくらいの深いため息を吐いてきただろう。
しかし、今はその僕がやれやれを言わざるを得ない状況に置かれているのだ。
一体、君は誰なんだ?
もうこのスレで長編を始めることは出来ない。
何故なら一スレに長編は一話で十分だからだ。
理由なんてない。それは予め決められているんだ。
しかもこのスレにはもうあと20KBくらいしか書けない。
それで一体何を書けというんだ?
しかももう僕たちにはめんようさえ居ないんだ。
遅すぎた。ルーキーが逆転満塁ホームランを打ち上げてそのまま月に突き刺さるくらい不可能だ。
そこで提案なんだが、君が書いてくれるなら、僕が続こう。
新しいスレタイは「郭公の巣に卵を産むスレ」だ。
意味は無い。あまり深く考えないでいい。
君がスレを立ててくれ。
言いたいことはそれだけだ。
何だもう忘れっちゃったの?星野ちゃ〜ん。
カーネルサンダースだよ。
そのスレタイじゃやれないねぇ〜。
よく言うでしょ?「僕にだって選ぶ権利がある。」
もう現れないことにするよ。
ゴージャスな女の子抱きたくなったら高松おいで。じゃあな。
やれやれ、ここで海辺のカフカはタブーだというのに…。
新参者か?まさか郭公が読めないんじゃあるまいな。
500げと