>>191 >江戸末期日本の武士達がアメリカに渡航しました。
>武士としての矜持に裏付けされた凛とした姿、
>立ち振る舞いに感銘を受けたとか。。
これは1860年(安政7年)に遣米使節目付(監察)として、
日米修好通商条約批准のため米海軍軍艦ポーハタン号でで渡米した小栗忠順や、
咸臨丸で追従した勝海舟・福沢諭吉等の事についてなのでしょうか?
日米修好通商条約批准から30年後の1890年(明治23年)、
米国誌「ハーバー・マガジン」の通信員だったアイルランド人が、
40歳を目前にして日本にやって来ました。
彼は横浜港に着いた後に、島根県・松江市に英語教師として赴任、
その後松江市に住む日本人女性と結婚をし、神戸クロニクル社勤務を経て、
東京帝国大学文科の英文学講師となりました。
彼は自分が強く心を惹かれた日本古来の精神性や文化性を、
古くから伝承された民話・御伽噺を英訳することで世界に広めました。
彼が捉えた日本の基層的精神のひとつとして、
>>143でも少し触れた山川草木・森羅万象に神が宿るという自然認識−神観念があります。
これを「アニミズム」といったりする訳ですが、再三繰り返す通り日本古来の神々や宗教精神は、
自然と切っても切れない一心同体の関係にあります。
その後仏教や儒教が外来宗教として入ってこようが、
それらと背反・対立することもなく国内に並存し得たのは、
日本固有の神道でも存在した「やおよろずの神」が認められていたからです。
本来アニミズムの立場からは、
どれだけ神が存在していようとも一向に問題はありません。
木が魂を宿せば木魂(こだま)となり精霊となる、
山には山の霊がおり、川には川の霊がいる・・・といったように。
やおよろずの神々は人々に様々な恩恵をもたらすとともに、
災厄をももたらしました。
動物の形を取った神々は「妖怪」と呼ばれ、
かつての日本人を笑わせたり恐怖させたりもしましたが、
それはかつての日本人が自然を征服し支配したりはせず、
自然と共存し共鳴しあう存在であったからだと言えます。
ただアニミズムは宗教形態としては最も原始的モノで、
近代精神からは劣等な精神と否定され貶められ続けて来ました。
しかし時は流れ、自然資本が収奪され続けて
環境破壊がそれこそグローバルな単位で問題視されるに至って、
改めて自然と人間の関係性や自然に対する価値を再認識するようになり、
アニミズム的自然観が再評価されてきたようです。
話を前述のアイルランド人に戻しますと、
彼が日本でみた人々の姿とは、貧しくとも慎ましく道徳的に生きる人の姿でした。
彼の記念館内のパネルには、当時の日本人のふたつの様子が描かれていると聞きます。
それは、「規律正しい日本人」と「創造性に欠ける日本人」です。
彼が東京で亡くなる頃には、日本は、本格的な近代産業化に邁進する途上で、
きしくも日露戦争が勃発した年であり、
重化学工業がまさに躍進し始めた頃、すなわち大工場時代の幕開けでした。
・・・私の方も
>>142サンから振っていただいた話からかなりピントがズレてしまいましたが、
彼が「雪女」や「浦島太郎」「耳なし芳一」などを収めた「怪談」や、
「日本〜ひとつの試論」で表現した日本観の中には、
外国人であった彼が「日本人独自のポジティブな調和」を何とか表現しようと、
四苦八苦していた様が伺えます。
日本人の創造した神々が、いかに太古以来断絶することなく生き続けてきたか。
日本人の家庭生活・社会組織・国家体験の中で、どのように祖先の神々への信仰が生き続けていたか。
さらには日本人がいかに仏教やキリスト教に対応したか。
>自分の正義をしっかりと保持した上で、他者の正義へも調和していく。
彼は既に当時から祖先信仰を失っていたギリシャ・ローマなど西欧諸国との比較にも及んでいますが、
西洋人たる彼が日本に帰化してまで追求したモノとは、自分の文化と他国の文化の調和だったのかも知れません。
>>192 >教師及び父兄の質・モラルの低下、学校の責任範囲の拡大(訴訟等に起因)
>生徒の周囲の大人社会が、自分のリスク回避をまず考えています。
>非常に難しいことですが、まずは子供を取り巻く大人社会の環境を変えなければ。。
>>142サンはご自身の立場から、どのように環境を変えていくことが良いとお考えでしょうか。
多少具体的でなくとも構いません、たとえば日本をアメリカのような訴訟社会に発展させて、
世間に絶えることなく湧き出るリスクを全て司法の手に委ねることもひとつの方法ではあると思います。
そしてもしかするとそれと対極の位置にいるのが、「アメリカン・スタンダード」を拒否したい私と考えていただいて結構です。
最後に。文中の「彼」とは小泉八雲ことラフカディオ・ハーンのことです。
ラフカディオ・ハーン:
代表作:
『日本雑録』、『怪談』、『心』、『日本の面影』、『日本 解明への一試論 Japan An Attempt at Interpretation』ほか。
1850年にアイルランド人である父とギリシャ人の母の間に、ギリシャのレフカダ島で生まれる。
幼年期をギリシャで過ごし、両親の離婚により、アイルランドの大伯母に引き取られて育つ。
16歳の時左目を負傷、視力を失う。そのためか現存するハーンの写真は右側を向いているものが殆どで、
正面や左側から撮った写真は数少ない。
大伯母が破産した後は学校を退学せざるを得なくなり、19歳でアメリカ、オハイオ州に渡る。
当時のアメリカは南北戦争直後でどん底の生活が数年間続いたが、
新聞記者になりニューオリンズへ移り住む。
ニューオリンズでは新聞記者の仕事をする一方では著書も出版するようになっていった。
1884年、ニューオリンズで万国博覧会が開催された際、博覧会を訪れたハーンは日本や東洋のものに関心を抱き、
古事記を読んだりしながら日本への関心を深めていく。そして出版社の企画で日本紀行記を書くことになり、
1890年に日本を訪れる。しかし、給与の問題からか出版社との契約を破棄してしまい、
東京帝国大学(現・東京大学)教授のバジル・ホール・チェンバレンと文部省官吏の助力を受け、
島根県松江にある中学校の英語教師として赴任する。
この松江で家政婦としてハーンの世話をしたのが小泉セツで、
旧松江藩士の次女で教養があったセツはハーンの日本での生活・著作活動を支え、
後にハーンとセツは結婚する。松江の厳しい冬に耐えられなかったハーンは熊本へ移り、
高等学校で教鞭をとることになるが、
松江への郷愁を捨てることが出来なかったハーンは、その後も度々松江を訪れている。
ハーンの主な著書の大部分が松江で書かれているのは、松江への郷愁があったからだと言われている。
怪談やその土地に伝承される民話等に強く惹かれたハーンは、
怪談や民話の中に日本人の心根を垣間見たようで、
自らの著書の中で日本人の基層的精神を表現することをライフワークとした。
1886年、帰化が認められると、ハーンは小泉八雲と改名。
八雲は古事記に出てくる和歌の冒頭「八雲立つ 出雲八重垣 ・・・」から取ったと言われている。
3年の熊本生活を経た後は、神戸、東京へと移り、
東京では東京大学、早稲田大学で英文学の教授として1903年まで教壇に立つ。
1904年、心臓発作により死亡。 享年54歳。
皆様、おはようございます。
学園生活を心底エンジョイするための設備投資先にアイディアがございましたら、
是非ともこちらにご一報よろしくお願いいたします m(..)m
なお設備投資の為の予算は「200」程度であります。