技術スレ

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1名無し物書き@推敲中?
小説の書き出し「それはある日の午後だった」というような苦しい出だし
でなく自然にするにはどうすればよいか。さらに章の始まり、場面転換の
始まりの描写など。場面転換を情景描写で書いても何度も繰り返すと
不自然。さらに人物の台詞が連続する場合あまりにも混乱すると
「○○は言った」を多用するブッサイクな作りになってしまう。もしくは
語尾に「にょ」とか「俺、漏れ、オラ」などで書き分けるのか。
どんなものにしても一度や二度程度なら自然に誤魔化せるが頻繁に場面転換
したり人物の台詞が多い場合の自然な誤魔化し方スレ。
2動画直リン:03/05/29 02:29
3_:03/05/29 02:33
>>1
何が言いたいのかサパーリわからん。出だしに迷うなら、よれより>>1よ(ryって書いとけや。
なんでこの人怒ってるんだろ
最悪だね
64:03/05/29 04:50
怒ってないんだけど、そう見えたのなら謝る。ごめん。
まあわからん事もないよ

文が読みづらいのは確かだが
8名無し物書き@推敲中?:03/05/29 05:40
こういうのは、人に教わるものではない。
反省しろ>1
ブッサイクな作りになっていいだら
内容が良ければ。
10名無し物書き@推敲中?:03/05/29 08:40
 スレ立てたんだ…まあいいけど。
 プロが弟子をもって小説作法を伝達するという制度はなくなってしまった
からね。こういう形で補完しあうのもいいかもしれないね。貪欲に学び、作品
の質を少しでもあげることが読者への敬意となるなら、チンケなプライドを
棄てる勇気も必要ではないかな。
技巧はともかく、作法みたいなものは教える人が居ていいと思うんだよなあ。

プロなら担当の編集がバンバンチェックを入れてくれるんだろうけど、一人で
書いてるとそんなの誰も指摘してくれないからね。

例えば純文なんかだと、彼氏、彼女という表記はよろしくないとか。この場合
恋人と書くのが作法だみたいな事を、細かく担当にチェックされるという話を、
以前見沢知廉のコラムで読んだ事がある。

そういった、慣習なのか、作法なのかという見極めは、読書量を増やすだけでは
意外に難しい気がする。
見返りがないな
13名無し物書き@推敲中?:03/05/29 09:30
>彼氏、彼女という表記はよろしくないとか。この場合
恋人と書くのが作法だみたいな事を、

馬鹿な編集だな。死んだほうがいい
何もわかってない奴だ。
14名無し物書き@推敲中?:03/05/29 20:57
>例えば純文なんかだと、彼氏、彼女という表記はよろしくないとか。
 死んだらってのはかわいそうだけど、程度の知れた編集者なのはたしかだね。
しかも恋人と言い換えろだなんて、純文はいつからそんなロマンティックになっ
たんでしょ。おそろしい話だな。うかつにもこんな作法を信じてしまう文学趣味者
を選考で落とすための罠だよ、これは。
15名無し物書き@推敲中?:03/05/29 22:49
流行り廃りの無い言葉を選んで書く事も純文学の作法の一つなんじゃないの?

まあ無意味な作法だとは思うけど
16名無し物書き@推敲中?:03/05/29 23:59
>>10
これ、どこのスレからきたの?
 さて、書き出しはどうしよう。やはり掴みは大切だね。まず読者に興味
を持ってもらわないと話にならないから、突飛な文章ではじめてもいいと
思う。なんだろう?と思わせればこっち勝ちだ。
 いくつかの書き出し方法を並べてみよう。
 会話・途中動作・解説・回想・夢・覚醒・ループ・疑問・擬人・自然描写・
ルポルタージュ・独白 etc.
 典型として人物の登場場面が多いと思う。そのとき気をつけなければいけない
のは、物事や人物を一気に説明してしまわないこと。先は長い、焦らず行こう。
>>17
お前が一番焦って見えるわけだが
>>18
なにこのレス? 病人?
>>16
 あ、私か。
「スレたてるまでもない〜」で技術やら構造論やらで私とやりあってた
人が立てたんじゃないかと、勝手な推測です。スレ違いな展開になって
しまったのでね。
 できればsage進行にしたいですね。 
すいません、実はここのレスの半分ぐらいは私の自演でした。

今後は1を中心にスレを盛り上げて下さい。さようなら。
書き出しはむしろ最後に書きたい。
 おとぎ話ほど広く永く読まれている物語があるだろうか。
 子供の読み物とばかにしてはいけない。世界中の文化や歴史のなかで生き残って
きた物語は、多く共通の行為構造を有している。また、名作として親しまれ、映画
や劇にもなっている現代文学も実はおとぎ話と同じ遺伝子を持っている。スタンド・
バイ・ミーも走れメロスも、物語行為は一緒である。
 まず物語の核が伝達され、欲望を生み、試練をうける。この三つを通して主人公は
昇華され、乗りこえるために生かされる。この寓意の構造要求に抵抗するものが唯一
「私」である作者なのだ。虚構の語る人に実人生の私を重ねあわせることがリアルで
あるとする錯誤が、物語りを陳腐な方向へと回収するのである。
 だがしかし、すべてを腐りきった方向へ転倒すれば村上春樹になれるかもしれない。
メロスは歩いて家に帰り、なにかにつまずいて妹と寝てしまうし、盗賊には金で見逃し
てもらうし、城についたらとっくに親友はさらし首になっているわけで、
「しかし、実体のあることばがどこいある?必ず戻ってくるなんて。いいかい、誠実な
仕事なんてどこにもないんだ。誠実な呼吸や誠実な小便がどこにもないようにさ」とつぶやけば、暴君もびっくりだ。
どちらにしろ小説のなかに「私」などいないのだ。そういうおとぎ話を書けるだろうか。
 川端康成『みずうみ』にみる場面転換。
 
 有田老人のわめき声は、下に寝ているさち子も目をさましたほどだった。
「お母さん、お母さん、こわいわ。」とさち子はおびえてたつにしがみついた。
 (後略)
 (2行あけ)
 坂道で子供が六七人ふざけていた。女の子もまじっている。おそらく小学校に
入学前の子供たちで、幼稚園の帰りかもしれない。そのうち二三人は棒きれをもち、
ない者はもったつもりで、みな腰をかがめて杖にすがる身ぶりをしながら、
「じいさん、ばあさん、腰抜かし……。じいさん、ばあさん、腰抜かし……。」と
歌いはやして、よろめき歩いていた。
 少々分かり易すぎるくらいの、場面転換における技術の一例。
 上段と下段ではまったく違う場面空間であるが、言葉は類似したものをを呼び
あっている。この言葉の近接が文章上の空間を埋める役割をはたし、ある種の連続
性を帯びるゆえに、さち子の恐怖心をいっそうはやし立てるかのように、子供たちは
はふざけるのである。もう少し自然にしたければ言葉が生みだすイメージのズレをた
くみに使い、前後に幅のある文脈のなけで近接を織り込めばよいだろう。
場面転換おれも苦手だ・・
27名無し物書き@推敲中?:03/05/30 23:33
>>24みたいに実例を挙げてくれると、わかりやすいね。
28名無し物書き@推敲中?:03/05/30 23:42
冒頭については、その機能を考えてみるべし。

1:物語の方向性の提示
2:物語の人物の提示
3:物語の場所の提示

大きくこの三つかな?
プロのを引き出してみる。

 どうしたの、なんだか元気のない声みたい。夕食はすませた? いえ待って、用があるのよ、ちゃんと。さっき佐々木さんから電話がかかってきたの。ええそう、あの佐々木さん。ポプラ荘の。
 電話の向こうで母がそう言った時、私はもう何年も、おばあさんと過ごした日々をゆっくり思い返すこともなかったのに、
「ああ、おばあさんが亡くなったのだ」
 とすぐに悟った。
(「ポプラの秋」より抜粋)

3がわかりにくいが、「電話」という言葉で、おそらくは主人公の家だろうと予想がつく。
2は、いわずもがな、主人公とおばあさんである。
1は、主人公の元気のなさとおばあさんに関する話であろう、という想像がつく。
良スレage
sageてた。まあいいか。
>>28
 ご協力感謝。

 sageでお願いします。
川端康成『みずうみ』にみる場面転換。2

 この浴室の照明はどうなっているのか、湯女(ゆな)のからだに陰がないようだった。
湯女は銀平の胸をさすりながら自分の胸を傾けて来ていた。銀平は目をつぶった。手のや
り場に迷った。腹の脇にのばしたら湯女の脇腹にさわりはしないか。ほんの指先でも触れ
ようものなら、ぴしゃりと顔をなぐられそうに思えた。そして銀平は真実なぐられたショッ
クを感じた。はっとおびえて目をあこうとしたが、まぶたは開かなかった。したたかまぶた
を打たれていた。涙が出そうなものだが出ない。目の玉を熱い針で刺されたようにいたんだ。
 銀平の顔をなぐったのは、湯女の手のひらではなく、青い革ののハンド・バッグだった。
 (3行略)── ハンド・バックがしたたか顔を打ったのは確かである。そのとたんに銀平
はわれにかえったのだから……。
「あっ。」と銀平は叫んで、
「もし、もし……。」と女を呼びとめかけた。
これは作品冒頭にみられるもう一つの場面転換である。本当はもっと長い引用を用いて
これに掛かる技術のすごさを玩味していただきたいのだが、わずらわしさを避ける意味
もあって割愛した。興味のある人は実際に読んでみたほうがいいと思う。
 
 ここで使われている転換はいわゆる回想導入である。珍しい手法ではないが、一流は
やはり憎らしいほどうまい。まず、湯女の陰が消え銀平の目が閉じられることで焦点が
フェードアウトする。だがすぐには転換しない。なんでもすぐヤリたがるガキは冷笑さ
れるのを手練れ知っている。ここでもまた、言葉が言葉を呼ぶ例の近接の技術が使われ
ている。数行を費やしたところで青い革ハンド・バックが登場する。イメージしてみて
欲しい。あまり見かけない、なにか不気味な色のバッグではなかろうか。それが銀平の
顔をしたたかと打ち、はっとわれにかえるのである。もちろんそこは湯女の居る場所で
はない。現代でいうストーカーの銀平がここに目覚めるのだ。その鍵となるバッグは、
ルイヴィトンではいけない。気持ちの悪いイメージを呼び起こすものでなければ言葉の
近接を並べた意味がないのだ。しかもこのバッグは、この後、五十数ページにわたって
ガジェットの役割をはたすのである。
 また、この箇所周辺には繊細な伏線も張られている。たったひとつの場面転換に、作品
構造全体に関わる技術の多重展開を自然にやってのけるは、さすがノーベル賞作家である。
どうでもいいけど川端のストーカー小説なんてもってくんなよ。

ラノベにしとけ。

読んでないから、誰もついてこないだろ。
>>34
ラノベ担当よろしく!
>>35
わりぃ、俺はラノベは読んでないんだよ。
ノーベル賞は関係ないと思いますが。
 宮本輝『螢川』にみる場面転換。

「……情熱的やのォ」
 竜夫はそう言って空を見あげている関根の顔をいやにはっきりと覚えている。
 蒲団の中が温まってくると、竜夫はにわかに疲れを感じて目を閉じた。痙攣を起こして
崩折れていく瞬間の父の顔が、胸の奥に刻み込まれていた。もうわしをあてにするなとい
う父の言葉が聞こえて、彼は寝返りをうった。柱時計が止まったままなので、家の中は物
音ひとつなかった。竜夫はそっと起きあがって隣の部屋をのぞいた。柱時計の下に座った
まま、千代は重竜の入れ歯を膝に置いてじっとうなだれていた。
(一行あけ)
 四月に入って五日目に再び大雪が降った。
 ゆるみかけていた古い雪を、ぶあつい新雪が包み込んで、白い街の底が汚れている。
 千代は重竜の着替えを持って小走りで停留所まで行くと、待っていてくれた市電に飛
びのった。 
 竜夫は中三になるこの作品の主人公で、千代はその母。
 掲出したセリフ後段までは、竜夫が思いを寄せる同級の少女や友人とのセクシャルな
回想である。蒲団が温まるのは、たかだか3ページの回想時間だけのせいではないだろ
うが、まあこれは措いておこう。回想を使う場面転換はすでにのべているので問題では
ない。
 ここでのキモは、三人称で視点を自由に移動させる叙法をとる場合の場面転換である。
いわゆる神の視点だが、神だからといって好き勝手に振る舞うようでは人間(読者)に
に見はなされてしまう。まず、通常ならば竜夫が目を閉じたところで、一行あけて四月に…
の部分にもっていっても間違いではない。しかし、それでは転換の連絡が拙いと思ったの
だろう。作者は、入院した父親のイメージを呼び竜夫をもう一度起きあがらせ、隣の部屋
に導く。当然作者は次に千代の視点に切り替えることを決めているのだから、そこには千代
が座っている。ここで視点は竜夫から千代へと受け渡されるのだ。実質の場面転換はここで
おこなわれている。また、座っているのは千代であって母ではないこと。老婆心だが三人称
であることを忘れてはならない。うなだれているのもたまたまではなく、竜夫のなかの悲愴
が同時に伝わるからで、間違ってもニュースステーションなど見ていてはいけないのだ。
 とりあえず場面転換の技術はここまで。なんとなくコツがつかめたでしょうか。
 >>38にあげた人称における転換はフローベールの『ボヴァリー夫人』が白眉で、
最初はこちらを例に取り上げるつもりでした。しかし、どれも非常に構造が複雑
なのと私の力量不足もあり、断念しました。技術においても壮絶な一品なので、
機会があったら読んでみてください。
乙。
面白い。乙カレ。
 一応、前に違うスレで書いたものをコピペします。
 反作用的な言葉やイメージをつかって、対象をきわだたせる技法です。かなりポピュラー
なのでこれ以上の説明は必要ないと思うし、距離や頻度に気をつければ破綻することもない
ので、各自応用を競って楽しむのが吉です。とかいってホントは用例をあげるのがめんどく
さいだけだったり…モゴモゴ。
 まず、感情をゆさぶる山場へのプロセスが大事です。悲しみが主題の場合、基本として
これに笑いや軽薄なものをぶつけるんです。この典型例の映画として『クレヨンしんちゃん
戦国大合戦』があります。もちろん爆笑させては主題がかすむので、ここら辺のさじ加減は
各自で勘案してください。また、高村光太郎の詩を援用すれば、

  (前略)
 #その数滴の天のものなるレモンの汁は
 *ぱっとあなたの意識を正常にした
 *あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
 *わたしの手を握るあなたのちからの健康さよ
  あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
  こういう命のせとぎわに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
 ●あなたの機関はそれなり止まった
 ▽写真の前にさした桜の花かげに
 ▽すずしく光るレモンを今日も置こう


先に*部にある、「意識を正常にした」「眼がかすかに笑う」「健康さよ」といった言葉が
後にくる死への抵抗・対立として描写されています。そこから話者の妻への愛情と思い出を
受けて、●部の死へと流れ込みます。そして▽部の余韻にある「レモン」の語が#部の「レモン」
に導かれ*部を想起させ、安らかさと死がここで衝突し、読者の哀惜をより一層深める作用となるのです。

この詩とクレヨンしんちゃんの映画の類似性をよくよく看取し、学習の一助としてください。
>>44
ああ、あなたか・・・。ここで有意義に語ってください。
 有意義か。それとも単なるペダンティックか。書くというのは恐ろしい。
私はいつも息苦しくなる。機械的に書ければ楽なんだが、そうもいかないらしい。

 次はどうしよう?他の技術系のスレを覗いてみるとあまり、というよりまったく
時間にかんする話題がないのに驚いた。そんなのは接続助詞の後に適宜に点をいれ
ることで、文章にリズムや間を生みだし、読みやすさにも貢献するという程度の、
自明の事柄なのであろうか。時間処理こそ小説の要諦であるはずなんだがなあ。
>>46
よろしく頼みます。
   カミュ『異邦人』にみる時間処理。
 (A)
 眼がさめると、マリイは出て行ったあとだった。彼女は叔母のところへ行くつもり
だといっていた。きょうは日曜だなと考え、いやになった。私は日曜は好きではない。
そこで寝台へ戻り、長枕のなかに、マリイの髪の毛が残した塩の香りを求めた。十時まで
眠った。それから煙草を数本すい、続けて正午まで横になっていた。いつもの通り、セレ
ストのところで昼食をするのはいやだった。きっと、あそこの連中が質問するだろうが、
私はそんなことがきらいだからだ。自分で、卵をいくつも焼いて、鍋からじかに食べた。
パンが切れていたが、部屋を降りて買いに出たくなかったので、パンは我慢した。
 (B)
自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち
震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。泉の方へ五、六歩歩いたが、アラビア人
は動かなかった。それでも、まだかなり離れていた。恐らく、その顔をおおう影のせいだった
ろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に
汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、
特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつく
ような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、
一歩、ただひと足、わたしは前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起こさずに、匕首(あいくち)注:短刀)
を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく長い刀のように、私
の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼を
つつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首
からほとばしる光の刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつく
ような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。海は重苦しく、
激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私は全体がこわばり、
ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、
それでいて、耳を聾(ろう)する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽
とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわした
ことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そ
うとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。
 
 「太陽のせい」で殺人を犯す、不条理小説として名高いカミュの代表作。
 あからさまに分量のちがう引用だが、なぜAとBでこれほど差があるのか。それは
「説明」と「描写」の違いがありありと出ているからで、ひいてはその変調が時間の
流れを大きく変えているのである。小説には二つの時間がある。小説のなかに流れる
虚構の時間と現実の時間、つまり読者がいま読んでいる時間だ。

 まず、(A)をみてみよう。説明的な短い文の連続で成り立っているのがわかると思う。
こまごました描写や心理は省かれている。極めつけは十時に起きて煙草をすったあと正午まで
の二時間を、横になったという説明だけですましてしまうところである。一方で読者は
この部分を、個人差はあれ、数秒で読み終わってしまう。一般に説明と会話でつなぐ小説
が読みやすく、早く読めるのはここに由来している。叙述のリアクションが早ければ、基本
的に先へ先へと話が進むので読む労力は軽くなる。一見親切のように思われる。
 だがしかし、このような説明一辺倒の小説は薄っぺらい、ガキの作文、単調、などと世の
素人批評家にさえ踏みつぶされて、無惨にも駄作の烙印を押されてしまう。
 では、全体にわたって説明過多でおし進む『異邦人』は駄作か?
 否である。カミュはここであえて描写を避けているのだ。その神算鬼謀が発揮され
るのはクライマックスにおいてである。(B)をみてみよう。
(B)は主人公がさしたる動機もなく殺人におよぶ、この小説のクライマックスの
場面。(A)とのいちじるしい差がすぐに読みとれると思う。ここまでサクサクと
進んできた話がここで─実際にはもう少し長い文脈なのだが─は一転して、時間の流れ
が遅くなる。なぜか?描写しているからだ。読者はただ事でない雰囲気を感じる。
「それで事は終わる」「ママンを埋葬した日と同じ太陽」と不吉な言葉が招来し、
照りつける太陽、流れる汗、時は止まったようにじりじりと過ぎる。まるで決闘シーン
のような緊迫感に読者はくぎ付けになる。
 そう、全てはこのためにあった。軽い文体そのものが人物造形と話の伏線として
仕組まれていたのだ。主人公は何ごとにも─母の死でさえ─頓着しない性格ゆえ、
ものをよく見るという描写をここまでしてこないのだし、この殺人場面の不条理さ
と驚きを与えているのは、まさに文中にもあるように、文体が二重の意味で「均衡」
をうちこわしているからなのだ。
 もうこれは超絶といっていいレベルで、素人がいきなりここに飛びつくのは危険
すぎる。けれど、下手なものをみるより、最上級のものをみたほうが自身のこやしに
なると思う。これより更にキテるのがクロード・シモンやロブ=グリエなどの作家で、
文学に幻想を抱いている人は手を出さないほうがよいかもしれないが、文学の彼岸を
知るだけの価値は十分ある。

 さて、これを踏まえて、もうちょっと簡単な時間処理の応用を解説しようと思った
のだがさすがに疲れたので、また明日。
 
とてもタメになります。なにより、わかりやすいです。期待しています。
個人的には「超絶レベルな技術」というより「素朴な創意工夫」と捉えていたけど
そんな風に読む人もいるんだなぁ。
まあそういうのもひっくるめて面白い。がんがれ。超がんがれ。
クロード・シモンやロブ=グリエ
クロード・シモンやロブ=グリエ
クロード・シモンやロブ=グリエ
クロード・シモンやロブ=グリエ
クロード・シモンやロブ=グリエ
 ただ、いや、いいんス我ながら超絶なんてプだし。脳内柄谷くんで転倒的にとら
えておきまふ。そもそも諧謔センス0%なのがいかんのかな(´・ω・`) 
ああだれかテクあげて…ボソ
 しかし横書きだと、いい小説の抜き書きでもなんか安っぽくなるなあ。縦書きで
読むともっと迫力あるんだけどね。
と、ちょっと文体変えてみたりして。では、昨日の続きです。
 ここまでの解説で説明と描写が時間と深い関係をもっている、というよりも時間そのもの
であるということを理解して頂けただろうか。基本的には描写が細密になればなるほど小説上
の時間は遅くなる。(B)の場面は実際には十数秒たらずの出来事と思われる。だが読む方は、
これも個人差はあるが十秒ちょっとでは読みきれない。スローモーな展開に感じるのはこの二つ
の時間軸の齟齬(そご)があるからだ。説明はこれと逆である。三十年後。たった四語、約一秒
で初々しい少女もオバタリアンになってしまうのだ。説明とは恐ろしい。が、もしここでまだ少女
のままであったりすれば、そこに幻想性やSF性がでてくる。また、三時間ほどで読みきれる分量
を計算して小説内の時間経過もきっかり三時間にするという、ちょっと実験小説的なこともできる
だろう。大に小に応用はさまざまである。まさに書くことそれ自体が時間の調整だといっていいのだ。
じゃあキテレツな時間処理をすれば面白いのかというとそうではない。(B)の例にしても言葉の
近接や対立、複数の伏線や人物設定、前半のしっかりした書き込みなど、多様な技術の支えがあって
こそ生きてくるのだ。けして単独の技術だけで小説はなり立たない。
 話を戻そう。野心的な試み除外すれば、やはり普段留意すべきなのは時間の起伏であろう。描写が
続いたあとに説明を使ってすっと時間をすべらしたり、会話が続いてダラダラしてきたら描写でひき
しめる等の配慮であり、また回想を使って時間を過去に飛ばすのも有効で、これは先にあげた宮本輝
がよく使っている。単にリアリスティックにみせたいからという理由で描写するのではなく、そこに
時間の概念を意識して書けば、少なくとも作文的な単調さを回避することはできる。
 ともあれ、原理さえわかればここでごたごた言うよりも、いろいろ本を読んでみたほうが早いだろう。
 読みにくくてスマソ。なんか今回はしんどかったなあ。
『ボヴァリー夫人』分析中だったから、今度こそ使おうと思ったんだけど……。
結果→(゚ρ゚)メンドクセ   カミュに救われたね。
いやあ、よく研究してるね。感心したというより驚き・・・。
バルガス・リョサがボヴァリー夫人でいい本書いてたよ
図書館の検索かけたらありました。
果てしなき饗宴 フロベールと『ボヴァリー夫人』ですね。
読んでみます。ありがとう。
 ちょっとよた話を。
 時間ていうのはホント面白いんだよね。映画のハリーポッターなんか観てると
小説との違いがよくわかる。二作目のハーマイオニー、かなり色っぽくなっちゃっ
てね。ハリーだって青臭さが抜けているのがどうしても目についちゃう。作中では
一年でも、生身の人間は実時間に抵抗できない。

 その点、小説やマンガはうまくできているよね。例えば 「それから5年過ぎたが、
その面差しは当時のままであった」と書けば、読者は5年の経過を疑いもなくすっと
ばしてイメージしてしまう。のび太だって、おまえ何年小学校留年してんだよっていうw
 でも、普通そんなこと気にしないでしょ。なんでって実はそういった嘘っぱちの部分こ
そ面白いから。『異邦人』にしても『螢川』のラストにしても、「そんなことあるかい」て
いうことを「リアル」に読者の心に焼きつけてしまうところに、この表象芸術の特異性と
特権性があって、現実を律儀に踏襲することがリアル感に通じるわけではないと思うの。

 映画のなかで、ホウキにまたがって飛ぶシーンを「あれはすごいCGだね」とは言うけど、
小説上の同じシーンを読んで、「ここの特撮はどうやってるの?」なんて訊いたらきっと
(かわいそうな人)と哀れみのまなざしで、「いいお医者さん知ってるよ」と答えられても
いたしかたない。小説を愛する人は夢の住人なんだから(*´▽`*)クサッ
しかし、CG的なのを小説で書こうとしても、ただの電波文章になってしまう。
「時間」というテーマからはズレたけど・・・。
 たしかにCGを前提に小説を書こうとすると、うまくいかないかもしれないね。
それは非現実的な表現を、映像に変換するための技術だからね。
 ある種のスタイルをとる小説は、非現実的な要素をもっともらしく説明しなく
てもいい、むしろ積極的に珍事を肯定していくほうが小説の理にかなっている。
私はあまり好きではないんだけど、メタフィクションなんかはこの原理を活用して
書いてるわけだよね。電波だって構造化してしまえば立派な文学になると思いますよ。
 なんかWindowsのカスタマイズにハマって書き込みできなかった。
 なにやってんだろ(;´Д`) でも甲斐あって、パッと見はもうWindows
とはわからないくらい変わってかなり満足、ムフフ。
 こんどはイメージについて考えてみますか。
 次回、心理学なんてぶっとばせ( VωV)y━~~ (ヤルキネーナオイ
吉野弘『夕焼け』にみるイメージの喚起力

いつものことだが           
電車は満員だった。          
そして                   
いつものことだが              
若者と娘が腰をおろし            
としよりが立っていた。           
うつむいていた娘が立って          
としよりに席をゆずった。            
そそくさととしよりがすわった。       
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。   
娘はすわった。               
別のとしよりが娘の前に           
横あいから押されてきた。          
娘はうつむいた。              
しかし                   
また立って                 
席を                    
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて──。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
あの娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。  
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。 
 こういう詩を読むと、小難しい語彙やひねくり回した比喩、華美な装飾に彩られた言葉が
必ずしも人の心をとらえるわけではないというところに、神妙にもなり、また自らの無知
が励まされるような気持ちにもなる。どこかの首相ならば「感動した」ですましてもいい
かもしれないが、小説を、文芸を志す者はそうはいかない。その「感動」のみなもとを探
り、自ら芸のこやしにしなけばならない。昔気質の職人が新米に、「技は盗んでおぼえろ」
と諭すのはよくきく話である。なんだ、そんなのは今時ではないと一蹴してしまうのは浅は
かであって、実はこの意欲こそ大切なのだということは、一度でも何かに打ち込んだ経験の
ある人ならば自明のことと思う。事実、小説に関わるもろもろの技術は逃げも隠れもせず、
書籍というかたちをとって私たちの目の前に、盗んでくださいと言わんばかりに転がってい
るのだから、これを利用しない手はない。
 では、詩の方へ目をむけよう。

 一見なんのてらいも算段もないかのように、日常の出来事を平易な言葉で活き活きと写しだ
して心に残る一片の詩。そのわけを、作者の視点が素直だとか無垢、あるいは純真であるから
という乙女チックなまろやかさにあえて抵抗するならば、なにが残るのか。そこにあるのは、
人はどうしたって恣意的にものごとを見たがり、感じたがるという当たり前の心理作用の中心点
に作品を射的する技の妙である。
 まず、《いつものことだが》といういきなりの断り書きである。そう、
日常とは字義どおり、いつもの、おきまりの毎日のことだ。よほど特殊な
人生を送ってきた人でなければ、満員電車をイメージできない人はいない
だろうし、そこの座席に座っているのは必ずしも年寄りばかりでないことを
私たちは知っている。そんな風景はあたりまえすぎている。そして、すでに
ここで善良な読者はこの作品の共作者となっている。
 あとはもうベルトコンベアーなのだ。無駄な言葉を弄せばかえって作品の
質を下げて目的を失敗するだろう。ここではイメージこそ主役であり、それを
妨げるような記述、描写はこの世界にあらわれることをゆるされない。これは
時間処理で解説した『異邦人』とは性質の違う原理がはたらいているのだが、
これはあとで説明したい。
 席をゆずるろうとする娘がうつむくのは、その殊勝な行為をするために好奇の目が
そそがれるのを避けられないゆえなのだが、ここで見ているのは満員の乗客ではなく、
実は話者でもあり読者の分身でもある「ぼく(読者)」ただひとりなのだ。いや、言い
方を換えればこれを読む無数のひとりたる読者の目であると言ってもいいかもしれない。
そして、こんな娘は「かわいいじゃないか」と「ぼく」は思う。で、礼も言わずに降り
ていった年寄りはしゃくさわるではないか。そこへまた年寄りが横から押し出されてく
る。押し出したのは他ならぬ「ぼく」である。だってまた見たいから。そして期待どお
りに娘はまた席をゆずるのだ。うつむいて。「いいぞ」と思う。二度あることは三度あ
る、なんてことわざを引くのはちょっと後ろめたさもあるからだろうか。素直に言えば
よい、もう一度見たいと。だからまた年寄りが出てくる。
 考えてもみたまえ。こんなうじゃうじゃ年寄りばかりがわざわざ娘の前に出てくるわ
けがない。第一となりの若者のところにはなぜ行かないのか。答えは簡単で、そんなの
は絵にならないからだし、「ぼく」だって望んでいないからだ。
 三度目において娘は席をゆずらない。それはかわいそうだから、と書いてある。わけ
がわからず不審に思う人のために、もう一度書くと、この作品ではイメージこそ主役な
のだ。そこに徹底している。そういう部分では詩というはとてもわかりやすい。冷静に
読めばこの娘に関する情報はほとんどなにも書かれていないことに気づくと思う。背格好
や顔や年齢を示す言葉はなにもない。ただ娘なのだ。それなのに、恐らく私とあなが想い
描くこの娘のイメージは、ジャイ子としずかちゃんほどの隔たりはないだろう。でもそ
れは、つまりこの娘がとんでもない醜女であることを排除していないということでもある。
そんなしぼむようなことは考えたくもないだろう。そのための技術がここにある。とりあ
えず先に進もう。
娘は席をゆずらず、下唇をキュッとかんで体をこわばらせて座ったまま、そのあと
どうなったかを書かずに「ぼく」は電車を降りる。いたたまれずにキュッとなるのは
娘のくちびるだけではなく、「ぼく」の心もなのだ。娘はやさしかったと「ぼく」は
思う。最後まで黙っていたからだ。つらい気持ちにじっと堪えているその姿こそ美徳
であるならば、娘はどこまで(も)ゆけるだろう。それはもう過去の姿としていつま
でも「ぼく」の心のなかにあり続けるのだから。
「いま」「ここ」にある美しい夕焼けを見ることもなくなった娘の代わりに「ぼく」
はみる。まさにその沈みゆく太陽とその赤い色彩の美しさが娘の心を代弁しているの
だし、そのイメージはさらに膨張してその娘の頬を染め、容姿まで(書かれていないのに!)
うるわしいに違いないと感じてしまう。だからタイトルも『満員電車』とか『娘』
ではなく『夕焼け』なのだ。

だが現実に、単に席をゆずる行為にやさしい心だなんだという必要はなく、自責や
羞恥でそんなわかりやすく下唇をキュッと都合よくかんだりはしないだろうし、美し
い夕焼けというありきたりな表現は通常避けられるものだ。それでもそうした言葉が
効果を持つのは、ただまっすぐにこうイメージしたいと願う読者の心を狙い、その的
を射て外さないためである。
 ふだん人がいかに恣意的にものをみているか、例えば強面で五指がそろってなかった
りすると、ちょっと腰が引けたりするだろう。また肩書きを人間的な価値に置き換えて
みてしまうのもそうだし、眼鏡をかけて澄ましていると思慮深い人にみえてしまうのも
そうだ。まあ、こうした例はどちらかというと陳腐な先入観として斥けられることのほ
うが多いのだが、読者のイメージを計算できるのだから要はこれも使いようだろう。
 こうしたイメージというものが私たちの心理をどれだけ左右するのか、その観念がい
かに強力であるかを知ってもらいたい。 だからきっちりとイメージを誘導できれば、
 この詩の娘はきっとうら若い10代の少女であり、まだ擦れたところもなく髪は黒く
つややかで、内気で小さな胸のうちは汚れていないやさしさにみちている。親のしつけ
もよいのかもしれない。けれどまだ衆目に晒されて堪えられるほど心が丈夫ではないの
だろう。そしてこのような心根の美しさは、きっとその面立ちにもあらわれているに違
いないったら違いない。と、読者は勝手にうれしい想像で人物を造形してくれてしまう。
この共同性に注目されたい。
 つまり特殊性を含まない事象をイメージに落とし込むためには、へたな説明や描写を
しないほうがよいのだ。
さてこれで、いかにも人畜無害な人間が人殺しになるという裏切りの装置として、
描写を避けていた『異邦人』との違いをわかってもらえただろうか?ちょっと今回
はわかりにくかったかもしれない。私もまだまだ勉強不足だな。

 しかし、この詩のように簡素化するのは簡単なようで実は難しい。細やかな感性
と観察力がないとなかなか共感を呼べるものは書けないのだ。適度に描写してし
まったほうが楽であるのも事実だ。
 まあ、使える使えないは別としてこの縦横無人な書き方の幅というものを賞味
していただければと思う。

これを踏まえて(マタカヨ)、次はもう少し実用的なイメージの操作を示したい。
自分で書いてガックリ来た_| ̄|○。無駄口ばかりで要をえない駄文でした。

なまじ説明したり描写を書き連ねたりするよりも、読者に大きな印象をあたえること
ができる。例えとして、AとBがケンカをして双方倒れる。するとAが起きあがって、
天を仰いで倒れているBの眼前に手を差しのべる。Bは一瞬ためらうも、Aの手を握って
結ばれる。ここに、無言の標章(シンボル)として読者は和解や親和をイメージする。こ
うした紙上のアイコンともいえる標章の数々は読者のもつ刷り込みのイメージを利用するた
め忘れがたく、説明を大胆に省いてもその説得力を失わない。

これでいいじゃぁぁん。もう全部消したい。しばらく鬱です。
オチカレー
眉唾付けて読んでるけど、面白いのであまりガックリせずにガンガレ
そうかい? 楽しく読んでるけど・・・。というか、例がイイ!ね。わかりやすい。
あと、トリップをつけてほしい。もしコテが嫌ならトリップだけでも。
親しみがわくし、こういう真面目なスレならコテ歓迎だと漏れは思う。
sage進行はまったりしてていいな。
79 ◆YgQRHAJqRA :03/06/13 20:53
心づかい、恐縮です(つД`)
いちおトリップつけてみました。ちとハズカシイ。
80 ◆YgQRHAJqRA :03/06/15 08:18
さあ気を取り直していこう(タチナオリハヤッ)

 人のイメージをより強くかき立てるものにノスタルジーがある。これを効果的に使って
成功をおさめた映画が『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』だ。どちらかというと、
子供向けのお下品映画としてPTAのヤリ玉にあがっていた「クレしん」シリーズが、こ
の一作においてはまさに、良識ぶった大人たちのもつイメージに対して逆襲に転じたのだ。
なにしろこの映画をいちばん楽しんだのは、しぶしぶ子供に同伴していた当の親たちであっ
たのだから笑える。

 この映画はたちまち大人たち、特に中年層の話題になり大ヒット。時は平成大不況のまった
だ中。リストラ、倒産、ボーナスカットの生き地獄にあって、古き良き時代の思い出にひたる
ことは、その疲れた心を癒しまた忘れさせてくれるのにちょうどよかったのかもしれない。ち
またでは、いい年したおじさんが子供向け映画に一人訪れて、帰りには涙しているという珍現象
を生むのだった。
81 ◆YgQRHAJqRA :03/06/15 08:19
 この映画は文芸誌のコラムにもたびたび取り上げられて、誰だったかは忘れたが「大人帝国」
イイ!イイ!ともろてをあげて激賞していたので、私も観てみた。
 感想としては、まあたぶんこの懐古趣味に感じいるほど年をくっていなかったせいもあって、
それなりに面白いなという程度であった。だって生まれてもいない時代のことを(TV等で知っ
ていても)懐かしむなんてどだい無理な話だ。
 この映画の言いたいことは、「つらい現実もがんばって生きようね」というメッセージである。
その対立にノスタルジーを用いている。しかし、この映画のスゴイとこはノスタルジックな事物が
氾濫して、そんなメッセージを呑みこんでしまっているところだ。本来これは本末転倒でやりすぎ、
鼻につきすぎると批判してもいいのだが、エンタメとしての側面もあるし、あらわな過剰さを一概
にけしからんと白眼視はできない。資料集めや場面設定を考えるのも大変だったと思う。

 こうしたノスタルジーがいつでも歓迎されるのは、多感な時期に経験したイメージほど強く心に
固着しているためだろう。小説で用いる場合はあまりくどくならないように、その時代の雰囲気を
感じさせるもの、懐かしさを呼び起こすものをさりげなく配置するといいだろう。また、イメージ
というのはもともとアバウトなものなので、正確さよりも時代の匂いみたいなものを伝えられれば
いいと思う。ちょっと抽象的になったが、なにかのヒントになればいい。
82 ◆YgQRHAJqRA :03/06/15 08:20
 しばらく前に柄谷行人の『反文学論』を読んで、やっぱり昔から「今」から
みてひとむかし前を書く流れというのはあったんだなと思った。だいたい20年
が「ひとむかし」になるようだ。現代でいえば80年代から70年代後半くらい
で、実際に音楽もこの時代のものが流行ったりしてるし、新しすぎず古すぎない
となるとこれくらいがちょうど良いのだろう。現代ものを書くのに飽きてきたら、
ここら辺をねらうのもいいかもしれない。
良スレ、ハケーソ。ガンガッテ!
84 ◆YgQRHAJqRA :03/06/17 11:05
 バルガス・リョサ著、果てしなき饗宴 フロベールと『ボヴァリー夫人』
を読んでいます。>>59さん、ありがとうございます。
 なるほど面白いですね。特に、エンマ・ボヴァリーは男性になることへの
あこがれがあったというのはとても示唆的でした。私もエンマの恋愛の周辺
にむらがる男たちの馬鹿さ加減を、作品自体のもつ対立構造、とりわけその
容赦のないテクストの奪い合いのなかに理由をみいだしていました。確かに
エンマのとる一挙手一投足やその言質を子細にみれば、そのフェミニズムの
力学が浮かびあがってきます。さすがプロの批評家は目の付けどころが違う
なあ、と感心しました。
85 ◆YgQRHAJqRA :03/06/17 11:05
 このスレでなんどか取りあげようとした『ボヴァリー夫人』なんですが、分量
もありますしなかなか手強いです。後半部分はおおむね目処はついているんです
けど、前半部分はほとんど手つかず。特に冒頭一人称複数、多視点ではじまる話
法がすぐに三人称の多視点に移るところは不可解かつ曖昧で、この点においては
原書をあたる必要性を感じるのですが、私のような浅学菲才にはなんともしがた
ですね。
 『ボヴァリー夫人』に限らず、その国の言語自体に関わる叙述、構造の技法は
翻訳によって減殺─←正確にはゲンサイと読むんですね。ATOKに訂正されてしまった^_^;)
広辞苑にはゲンサツも慣用読みとしてのっているんで間違いじゃないと慰めとこう。
─されてしまい、綴り換えや同音異義語などの比喩は訳者にとっても悩ましい
問題でしょう。
 まあ、なにもそこまでご親切に深読みしなくてもいいではないか、と思う人もいる
かもしれません。でもここで柄谷行人の言葉を借りるなら「しかし私は深読みさせる
作品にしか興味がもてないのである」
 などと虎の威を借りながら、自分が批評家の器でないことを知りつつも、結局私も
ボヴァリー夫人を愛しているのだと、6月の湿った風に吹かれるのでした。
ああ、たしかに、ボヴァリー夫人は……。
でも、がんがって、トライしてみてちょ。
87 ◆YgQRHAJqRA :03/06/20 00:46
 次は比喩をやります。比喩の固まりともいえる『ボヴァリー夫人』から、
比較的わかりやすいところを抜粋して解説します。これなら多分、うまくい
きそうな気がする、かな?
 メッツの新庄を代打におくる期待感で、まて次回。
ハァハァ
横浜が勝つ期待感を持って待ちます。新庄とあまり変わらないかな?(w
楽しみにしてまつ。
90 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 20:08
フローベール『ボヴァリー夫人』にみる比喩の構造

 「旦那、どこへやります?」と馭者(ぎょしゃ)がきいた。
 「好きな方へ!」レオンはエンマを車のなかへ押し入れながらいった。
 そして重い馬車は動きだした。
(中略)
 ──、植物園前で三度目にとまった。
 「もっとやれ!」前よりはげしく叱る声がした。
(中略)
 どうしてもとめろといわないのは、お客が動き病いにでもとりつかれたかと
馭者には不思議でならなかった。ときどきとめてはみるが、とめるとすぐ背中
にどなり声が聞える。そこで彼は馬車のゆれにも頓着せず、方々引っかかって
もおかまいなく、うんざりして、咽喉のかわきと心細さに泣きだしそうになっ
て、汗びっしょりの二頭の駑馬(どば)をいよいよはげしく鞭打つのであった。
 そして、船着場の荷車や樽のあいだ、さては車避けの石の立っている町角で
は、町の人々が驚きの眼を見張って、地方ではまことに珍しいこの怪物──窓掛
けを下ろし墓穴(はかあな)よりも厳重にしめ切り、船のようにゆれながら、こ
うして絶えず姿を現す馬車を眺めていた。
 一度、真昼ごろ、野原のまんなかで、古ぼけた銀ランプに陽の光がはげしく
射すころおい、小さな黄色の布カーテンの下から、あらわな手が一つ出て、千
切れた紙ぎれを投げた。それはひらひらと風に散って、その向こうに今をさか
りと咲いている赤爪草(あかつめぐさ)の畑へ、白胡蝶(しろこちょう)のよ
うに舞いおりた。
91 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 20:08
 比喩。いわずと知れた修辞法であり、特別くどくど教わるまでもなく普段から
使用していることと思う。ここで扱うのは、腹黒いとか腕が鳴るといった慣用句
的比喩ではなくて、もっと想像的な言葉の多義性を駆使し、作品に厚みあるいは
深みを持たせる比喩の使い方である。
 昨今は右翼のお兄さんも粋なほめ殺しをするくらいだから、文芸創作者も負け
てはいられない。
92 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 20:09
 引用文は、散々泣きごとをいっては使用を避けてきた『ボヴァリー夫人』の、
おそらくかなり有名な一場面である。レオンという学生とのあいびきを断るた
めにおもむいた主人公のエンマ・ボヴァリーが、当初の意志とはうらはらに二
人で辻馬車に乗ってあっちにこっちに移動するようすが描かれている。
 バルガス・リョサはこの描写を擬人的な表現ととらえた。しかし、ここでは
オーソドックスな比喩として考えたい。
 話の流れを念頭におけば、この場面はあきらかにエンマとレオンが一戦交え
ているところであるのは、そうとうの不感症者でなければ容易に想像できると
ころである。現代でいえばカーセックスであろうか。執筆された時代(185
1〜56年)では、男女の交わりを赤裸々に描写するのは社会的に難しかった
であろう。そこで作者は思案をめぐらし、さまざま比喩を用いる。かなり露骨に。

 エンマとレオンは馬車に喩えられている。そして「馭者」だけがなにもわかっ
ていないところが滑稽であると同時に、それ故にいっそう二人に拍車をかける
のも「馭者」なのだ。
 つまり「馬車のゆれにも頓着」しない馭者は「汗びっしょりの二頭の駑馬
(エンマとレオン)をいよいよはげしく鞭打」ち、二人を絶頂に導くために
使役されるのだ。
 当然ながら、ここに出てくる言葉もいやらしい。
「汗びっしょり」「はげしく」「ゆれ─」「まんなか」「射す」「さかり」
「もっと行け」「もっとやれ」。
 試しに、これらの言葉に喩えられる行為を簡潔に述べよ。と、年頃の娘に
答えを迫ればよい。うぶな娘なら固まって答えられまい。そこで実地に教えて
あげたいのはやまやまだが、妄想は小説だけにしておこう。
93 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 20:13
 さて、始まりがあれば終わりもあるのが世の常である。作品中でも突出して
エロティックなこの場面は、きちんと二人が果てるところまで書いてある。
 以下は、比喩する語をカッコで横に書いてみたものだ。

一度、真昼ごろ、野原【陰毛】のまんなか【膣】で、古ぼけた銀のランプ【エンマ。
人妻でありレオンより年上、さらにすでに他の男と関係したあと】に陽【レオン。彼
は金髪である。】の光【ペニス】がはげしく射すころおい、小さな黄色の布カーテン
【女陰のひだ】の下から、あらわな手【ペニス】が一つ出て、千切れた紙ぎれ【精液。
元はレオンに渡す断りの手紙。この描写は同時にエンマが貞操を捨てた意にもなって
いる。】を投げた。それはひらひらと風【空】に散って、その向こうに今をさかり【発情】
と咲いている赤爪草【エンマの性器。この草は春にピンク色の花をつける】の畑へ、
白胡蝶【白い蝶】のように【レオンの精液は】舞いおりた。

 これでは少しわかりにくいので、さらに私なりにここから意訳してみた。

─真昼ごろ、窓掛けを厳重に下ろし、二人は船のようにゆれながら汗びっしょり
になってもだえていた─

 陰毛に隠れたエンマの膣のなかで、レオンのペニスがはげしく射しこむ。そして
エンマの小さなひだひだの下から、むき出しのペニスがとび出すと、レオンは勢い
よく射精した。それはひらひらと空に散って、まるで発情したような、ピンク色に
めくれあがったエンマの性器の上へ、白い蝶のように舞いおちた。

 現代であればこう書いても差し障りはないだろうし、まだこれくらいは控えめな
ほうかもしれない。
 こうして果てたところでこのプロットは終わるのである。このあとは段落をかえ
てわずか二行の説明だけである。馭者も出てこない。こうだ。

 やがて六時ごろ、馬車はボーヴォワジーヌ区のとある裏町にとまった。そして
そのなかから一人の女がおりて、ヴェールをかけたまま、後をも見ずに歩み去った。
  (このあと2行あけて場面転換。)
94 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 20:17
 想像ををたくましくして読むほど、比喩に満ちた文章は楽しい。また、
そういう想像を許容する言葉を紡ぎだすのも、創作者の楽しみ(苦しみ?)
ではないだろうか。

 ちなみにこのタイプの比喩と違うが「窓掛けを下ろし墓穴より厳重に閉めきり」
という文は、これより14ページを隔て、レオンとまた密会してホテルに泊まり、
「そして雨戸を立て、扉を閉めて日を暮らした。」という説明への密かな伏線に
なっており、この暮らしがどういものであったかを暗に示している。
 また、エンマとレオンが馬車に乗りこむ直前には、「せめて北門から出て、
『復活』や『最後の審判』や『天国』や『ダビデ王』や、業火に焼かれる
『堕地獄者』をご覧なさいまし!」と、堂守のじいさんが叫ぶセリフがある。
これは、エンマの、その人倫にもとる数々の行為によって、やがて身を滅ぼす
ことへの警告のようでもある。あるいは偽善的な人生への反駁の意をこめるた
めに、続く性描写の対置であるようにも思える。
 とにかく、フローベールの作り出した『ボヴァリー夫人』という小説はその
綾目の複雑さと美しさはもとより、物語として読んでも面白いまれにみる技術
の教科書である。未読のかたはぜひぜひ、一読することを奨めたい。

 次も『ボヴァリー夫人』を例にとって、また別の比喩の使い方を述べたい。
 それはまた明日。
95 ◆YgQRHAJqRA :03/06/22 21:34
 あー技術的な説明を忘れてました。
 でも、このタイプの比喩は珍しくはないですよね。ある一つの言葉は、それ
単体では一つの意味しか表さないけれども、その前後関係から派生する言葉の
イメージから語義とは違う意味を持たせることができる。ってことですね。
「顔」「影」だけではそれぞれの意味しか成しませんが、「顔に影がおちた」と
書けば、不安や悲しみを喩えているわけですよね。この例はちょっと独創性に
欠けますけど(笑)
 ところが、じゃあ俺様仕様で比喩を使おうとすると、「この比喩、読者はわ
かってくれるだろうか?」という不安が頭をよぎるのね。
 じゃあどうするかっていうと、今回あげた例のようにどうしたってそういう意味
にしかとれないようにきっちり前後を書きこむか、気づかなくても筋に影響しない
ように書いて、気づけばそれで作品の味わいが増すような、泰然自若とした気持ちで
しこんでおくのがいいでしょう。
 やっちゃいけないのは、比喩だけで主題を語り、読者をおいてけぼりにするような
自己満足的な書き方ですね。どんな技法にも言えることですけど、いかにも技術を見
せびらかして、独りよがりになるのは避けなければなりません。そんな小説は2ch
とか同人誌でやればいいのです。なんか説教臭くなりましたね。私もそんなエラそう
なこといえる人間じゃないのに、ヤダな。
乙。エロイナ
>93は流し読みしてるとさっぱり意味不明だよなぁ。難しい。
98 ◆YgQRHAJqRA :03/06/23 18:06
 今回書いたものをあらためて読み返してみると、なんか消化不良だなあ、と思い
ました。抜粋した箇所はたしかに比喩の見本としてはすばらしいのですけど、普通
に読むとふ〜んという感じですね。やっぱり先のほうから通読しないと、この比喩
が生きてこないのがわかりました。ここらへんが『ボヴァリー夫人』のやっかいな
ところなんですね。
 約7ページ前にある話者の語りを今更に補足しておきます。

 あの女は今にやってくる。あでやかに、そわそわと、あとをつけている人目を気づかい
ながら──そして襞附きのドレスを着、金の眼鏡を胸にさげ、華奢な半靴をはき、レオン
のまだ味わったこともないあらゆる雅びやかさに包まれ、まさに散ろうとする貞操の、得
もいわれない魅惑をただよわせて。

 レオンの心内語ではなくて、話者の独白であるところがミソなんですけど、それをやると
またややこしくなるので…作品全体の理解はリョサの批評を読んだほうが早いと思います。
あれいい本です。あと、教会の堂守のはたす対立(性への抑圧)の役割も大きいし。
 ん〜とりあえず送りバントってことで、ヨシトスル。
いやあ、よくそこまで読むね。感心というか、すこし尊敬・・・。
10099:03/06/23 21:42
あ、「読む」というのは、「深読み」とか、そっちの意味の「読む」ね。「本を読む」のほうではなく。
>◆YgQRHAJqRA  さん、乙です。
101 ◆YgQRHAJqRA :03/06/23 23:47
 私のような読み手にとってはホント、『ボヴァリー夫人』はよく読ませてくれるいい
小説です。いろんな意味で楽しませてくれます。さすがにすべての本をこんな風に読むわ
けじゃないですけどね。

 蛇足ですけど、ちょっとフランス語の意味もしらべてみました。エンマのもっていた
手紙は仏語で、lettreレットルです。これは女性名詞ですね。これが破けてただの紙になる
と、papierパピエになって男性名詞になります。それがひらひら舞うと、papillonnerパピヨネ
になってこれも男性名詞です。それを蝶、papillonパピヨンに喩えていて、これも男性名詞
ですね。さすがに赤爪草の訳はわからないけど、草herbeエルブは女性名詞なので推して知る
べしといったところでしょう。
こうして仏語による言葉の類似性をみるとまた分析の助けになります。原文の価値という
のはこうしたところにあるんですね。私は学者じゃないんでこれ以上は調べませんけど。

あ、比喩の続きは明日ってことで(^^ゞ
なんか、この板で初めて本物の書き込みを見た。
続きまーだー?
マターリ掻けばよろし
105 ◆YgQRHAJqRA :03/06/25 20:27
遅れてすみません。今書いてます。もうしばらくお待ちください。
106 ◆YgQRHAJqRA :03/06/26 00:42
間違えた。 書き直しだ(TдT)
107 ◆YgQRHAJqRA :03/06/26 08:56
フローベール『ボヴァリー夫人』にみる比喩の構造その2


──エンマは牛がこわかった。牛がいると駈けだした。そして頬をばら色に染め、
樹液と青草と大気の香りを全身から匂わせながら、息を切らしてたどりついた。
その時分ロドルフはまだ眠っていた。それはちょうど、春のあけぼのが部屋のなか
へ入ってきたようであった。
 窓辺に沿って掛けた黄色いカーテンが、どっしりした金色の光を柔らかにとおし
ている。エンマは目をしばたたきながら手探りで進んだ。そのとき、鬢(びん)に
宿った露の玉がまるで黄玉(トパーズ)の後光のように、顔を取りまいて光ってい
た。ロドルフは笑いながら女を引寄せて、胸のうえに抱きしめた。
 それから彼女は部屋の様子をいちいちしらべた。家具の引出しをあけてみたり、ロ
ドルフの櫛で髪を梳(す)いたり、髭剃り用の鏡に顔をうつしたりした。枕もとと小
テーブルのうえ、レモンや角砂糖といっしょに水差しのそばに置いてある大きなパイ
プをとって、くわえてみることさえよくあった。
108 ◆YgQRHAJqRA :03/06/26 08:56
 前回しめした比喩は、表現と構成こそ混みいっていたが、普段みる比喩の使い方と
(一部例外はあるが)さほど変わりはなかった。わかりやすい例として同書からもう
一つ引用したい。

──二人はひしと抱き合あった。お互いの気まずさはこの熱い接吻に雪と解けた。

 この程度の比喩なら自分だって使うわ、と鼻を高くする諸氏もおられるかと思う。
そして普通なら、比喩のために書いた借りの言葉、上でいうなら「熱い」と「雪」は
使い捨てにされ、次の描写や話の運びを考えることだろう。
 しかしである。「雪」という言葉は紙の上に定着してなおそこに存在する。書かれ
たものはどんな無意味なものであれ、そこに露呈されることをまぬがれない。「雪」は
厳然とそこに在り続けるのだ。これを最初に気づいた人が「ユリイカ!」と叫んだか
どうかは知らないが、文章技法の一つの発見だったに違いない。
 感のよい人はもう気づいただろうか。
109 ◆YgQRHAJqRA :03/06/26 08:56
 この箇所は、夜明け近く、伊達男のロドルフ恋しさに家を抜け出し、会いにいく
エンマの行動を描写すると共に、比喩の連携がみごとに示されている。
 まず、エンマは「春のあけぼの」に喩えられている。
 また頬をばら色云々という、まさに春を匂わせる描写は、比喩への引き込み線に
なっていて、さらに「ばら」の花言葉などをちょっと調べてみるとなお意味深い。
 それで「あけぼの」というのは夕日のような赤さはない。どちらかというと黄色
によった赤さで、空は見るまに明るさを増して青みを帯びてくる。西洋では太陽は
黄色で表現される。
 もうおわかりだろう。「あけぼの」の比喩はそこで消去されずに部屋のなかへ入り、
その形象を変えて「黄色いカーテン」になり、「金色の光」になり、「黄玉」になっ
て、またエンマの姿へと戻って現れる。なにもハリーポッターだけが魔法使いだと思っ
たら大間違いである。言葉の構造こそ魔法なのだ。
ただ実際、この比喩が類似性をともなって自己再現するという技法は、あざとくならな
いよう後段にあるレモンあたりに落ち着くのが無難ではある。しかし、このような鮮や
かな実例をみてしまうと自分もキメてやりたいと力がはいるものだし、冒険するにみあ
うだけの価値も効果もあるのは確かだ。使用にあたって注意する点を述べよう。
=喩えるまたは喩えられるものの重要度と持続=『みずうみ』の場面転換>>33に出てき
た青いハンド・バッグはその気味の悪さを喩えて銀平にぶつけられると同時に、みずうみ
の青でもある。作品の中核にからむ故に青いハンド・バッグは容易に消去はされない。
 今回引用した比喩は花火みたいなもので、スポット的な効果を狙っている。『ボヴァ
リー夫人』にも作品全体にまたがる比喩、イメージはあるのだが、かいつまんで説明で
きるレベルではないのでこれは措いておきたい。
=使用する頻度=何度も同じような比喩を連発すると下品で鬱陶しくなるので注意する
こと。
=類似するイメージの近遠=腹黒いやつめ、といってシャツをめくるとホントに腹が黒
かった、なんていうのは低脳なギャグでしかない。イメージの距離は、作品の性格や構成
などをかんがみてセンスよく決めていただきたい。
110 ◆YgQRHAJqRA :03/06/26 08:56
 あと、比喩とは関係ないが、後段の「それから彼女は〜」にみる文章は、
リョサの指摘したエンマの男性願望をよくあらわしている描写。「大きな
パイプをとって、くわえてみる」などは、フロイト的な解釈をすればまさ
に男根を…ってまたエロイ方向に……。
乙。
ボヴァリー夫人未読だけど、読んでみたくなったよ。エロ目当てに。(藁

あてずっぽに解釈すると「類似する語句でイメージ付けを図る」ってことだろか。
比喩の連関は考えたことなかったな・・
映画で言うと背景や小物のカラーコーディネイトみたいなものだろうか。
見ている人はほとんど気づかないが、深層心理にじわじわ効いて、全体のトーンを左右
する。
113 ◆YgQRHAJqRA :03/06/27 20:19
 スレの最初のほうから、律儀に読んでいただいている方は、なんとなく技術の共通項
みたいなものが見えてきたでしょうか。
 技術の形は違っても、そこには言葉や構造の「類似」と「対立」という要素が、時に
はっきりと、時にはひっそりと表されています。この「類似」と「対立」は小説技術の
基礎になっています。
 映画は小説のもつさまざまな技術を受けつぎ転用しました。文字というフィルムが、
眼という映写機を通して脳のなかで像を結ぶと考えれば、小説と映画のもつ技術は、そ
の親和性が高いというのもうなずけます。

 ここで小説技術の土台となっている要素は次の五つです。
    「類似」「対立」「時間」「空間」「読者」
 前の三つはもうわかりますよね。残りの「空間」と「読者」についても、そのうち
やっていきたいと思います。また、色彩も小説では大きな役割をはたします。イメージ
のところで扱おうかと思っていたのですが、技術というより色彩論になってしまうので
止めました。これは各自で学んでくださいね。
◆YgQRHAJqRA の色彩論も聞いてみたいとは思うけど、まずは「空間」と「読者」についての
御講義をたまわりたいと存じます。
115 ◆YgQRHAJqRA :03/06/28 18:02
 御講義なんて大それたものじゃないですから(笑)こういう形式があるんだな
と、物書きの参考にしていただければ望外です。

>>113でぽかをやりました。訂正します。「空間」ではなくて「視点」です。
無自覚に「時間」とからめて空間と書いてしまいました。いけませんね。
 それと、『ボヴァリー夫人』はもう一回だけやって終わりにします。この
一冊だけで、小説技術のほぼすべてをカバーできるのですが、ずっとそれでは
飽きるでしょ。
まだ116番だし、ボヴァリー夫人をきちんと教材(?)として使い切ってほしいと思う。
もし他にも使える著書があれば「参照」としてくれると、生徒(?w)としては、
一冊で一貫性を持った授業を受けたいと思うので・・・w
117 ◆YgQRHAJqRA :03/06/29 00:30
 そうですか? 続けて『ボヴァリー夫人』を利用できれば、他の書籍から引用を
探す手間は省けるのでいいですけど…ただ、使い切るというのは難しいですね(汗)
片手間の読解で使い切ったと言われたら、フローベールも浮かばれませんでしょ。

 このスレッドを見ている人がどれほどいるかわかりませんが、このあともずっと
『ボヴァリー夫人』でかまいませんか?
私はOKでつ。他の方はわかりません。
あの、先生が使われてる「ボヴァリー夫人」の出版社と訳者を知りたいです。
というのも、すみません、まだ未読なもので・・・。
先生の説明を読んで、
たとえばパイプのシーンなどで「ああ、そっかー」なんて声をあげています・・・。
119tina ◆OcfLN77Pak :03/06/29 00:59
 わたしもOKです。今度、本を購入するつもりですので。
 よろしくお願いします。
120 ◆YgQRHAJqRA :03/06/29 01:32
 ありがとうございます。了解です。
 引用は岩波文庫の伊吹武彦訳です。こないだ本屋さんにいったらまだ同じ
ものがありましたよ。
 あと、先生はちょっと、そういってくれるのは嬉しくないわけでもなく、
でもやっぱり恥ずかしいし、長々と拙文をさらしておいて先生もないだろう
と思いますんで、どうぞ記号で呼んでください。

 tinaさんもここみてたんですか。『続百鬼園随筆』面白かったですか?実は
私はまだ読んでませんブブw。むこうのスレもちょくちょくみてますよ。がんばって
くださいね。

 では、『ボヴァリー夫人』を続けます。進め方を考えますので少し時間をください。
うちのボヴァリー夫人、-地方風俗-って副題がついてる。
122 ◆YgQRHAJqRA :03/07/02 21:20
 ではそろそろ続きをはじめましょう。
 次の技術の前に、もう一度今までのおさらいと『ボヴァリー夫人』の簡単な解説を
したいと思います。約2ページ半を引用するので、ボリューム満点です(jεj)
 アップは明日になると思います。それまで、お腹をすかせて待っていてください。
でもまずいかったりして(>_<)


ボヴァリ夫人注文したぞ。ハァハァ…
期待してます。生徒の一人なのであえてコテにはなりませんが、
◆YgQRHAJqRAさん、がんがってください。  
125 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:18
岩波文庫 伊吹武彦訳 『ボヴァリー夫人』下 14p〜16p


 「ああ、もうしばらく。帰らないでここにいて下さい!」とロドルフはいった。
 彼はもっと向こうの、小さい池のほとりへエンマを連れて行った。池の水には浮草
が青かった。枯れた睡蓮が灯心草(とうしんそう)のあいだに立って動かなかった。
草をふんでゆく二人の足音に、蛙がはねて姿を消した。
 「私、悪かったわ、悪かったわ。あなたのおっしゃることを聞くなんて、私どうか
していますわ」
 「なぜです……エンマさん! エンマさん!」
 「おお! ロドルフさん!……」若い女は男の肩にもたれながら静かにいった。
 ドレスの羅紗が男服のビロードにからみついた。彼女は溜息にふくらむ白い頸(うなじ)
をぐっと反(そ)らせた。そして正体もなく泣きぬれて、長く長く身をふるわせ、
顔をおおいながら身をまかせた。
 宵闇がおりてきた。横ざまに射す陽の光が枝間を縫ってエンマの眼にまばゆかった。
まわりにはここかしこ、木の葉のなかや土のうえのに、まるで蜂雀(ホウジャク)
が飛びながらその羽根を散らしたかのように、光の斑点がふるえていた。静寂はあ
たりにみなぎり、何かあるなごやかなものが木々のなかからわき出るように思われた。
彼女は心臓がまた動悸を打ちはじめるのを、そして血がミルクの流れるように五体に
めぐるのを感じた。そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫
び声、尾を引くような一つの声が聞こえた。たかぶった神経の名残りのふるえのなか
に、まるで音楽のようにとけこむその声をエンマはしずかに耳をすまして聞きいった。
ロドルフは葉巻を口にくわえながら、切れた一方の手綱を小刀でつくろった。
126 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:18
 二人は同じ道を通ってヨンヴィルに帰った。自分たちの馬の足跡が泥のうえに並んで
ついているのや、同じ灌木の茂み、草の中の同じ石ころが見えた。まわりにあるものは
何ひとつ変わっていない。けれどもエンマにとっては、山が動いたよりも大きなことが
突発したのだった。ロドルフはときどき身をかがめ、エンマの手をとって接吻した。
 エンマの乗馬姿はあでやかだった。すらりとした上半身をまっすぐにのばし、片膝は
馬の鬣(たてがみ)の上に折り曲げ、顔は外気にふれて夕映えのなかに心もちほてっていた。
 ヨンヴィルへはいると馬を石畳のうえにはねまわらせた。みんなが窓から眺めていた。
 夕食のとき、夫はエンマの顔色がよいといった。しかし散歩のことをたずねるとエンマ
は聞こえないふりをした。そして火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばに
じっとひじをついていた。
 「エンマ!」とシャルルがいった。
 「なあに」
 「実はね、今日の昼、アレクサンドルさんの家へ寄ったんだよ。ところがあの人は
古い牝馬を一頭持っている。ただちょっと膝に傷があるだけで、まだなかなか立派な
ものだ。三百フランも出せばきっと手にはいると思うのだが……」
 シャルルはつけたして、
 「いや実はお前が喜ぶだろうと思って、その馬を約束して…いや買ってしまったの
だ…いいことをしたろう? ねえどうだい?」
 エンマはうなずいて見せた。そしてものの十五分もしてから、
 「今晩はお出かけになりますの?」ときいた。
 「うむ、どうして?」
 「いえ! なんでも、なんでもありませんのよ」
127 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:18
 邪魔だったシャルルが出かけてしまうと、エンマはすぐに二階へあがって居間に閉じ
こもった。最初はまるで眩暈(めまい)でもするような気持ちだった。木立や、道や溝
やロドルフが見えてきた。あの人の抱擁がまだ感じられる。それと同時に木の葉はゆら
ぎ、灯心草は風に鳴った。
 しかし自分の姿を鏡の中に見たとき、エンマはわれとわが顔に驚いた。眼がこんなに
大きく、こんなに黒く、こんなに深ぶかとしていたことはついぞなかった。ある霊妙な
ものが全身にめぐって、エンマの姿を一変させたのであった。
 エンマは、「私には恋人がある! 恋人がある」と繰り返した。それを思い、それに
また、二度目の春が突如として自分に訪れたことを思ってしみじみ嬉しかった。今まで
あきらめていたあの恋の喜び、あの熱っぽい幸福をいよいよわがものにしようとするの
だ。自分はある霊妙不可思議な世界に入ろうとしている。そこではすべてが情熱であり、
恍惚であり、狂乱なのだ。ほのかに青い千里の広袤(こうぼう)が彼女を取り巻いている。
感情の山巓(さんてん)は彼女の思念のもとに燦然(さんぜん)とかがやいている。そし
て日常の生活ははるか下の方、山々の狭間にこめる闇のなかにほの見えるばかりであった。
128 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:22
 『ボヴァリー夫人』の驚嘆は、幻想にとらわれることなく緻密に計算して書かれ、
それが完璧といえる完成度でなしとげられているという事実だ。とりあえずとか、
なんとなく、といった妥協やふやけた性根は微塵も感じさせない。
 フローベールは、決定稿487枚のために、プランを書いた大型の紙46枚と両面
を使った草稿1788枚、そして約4年半の歳月を費やしている。その間、彼はほと
んど休むことなく書き続け、夜遅くまで部屋の明かりが灯っているため、地元の漁師
が灯台がわりにしていたという逸話まである。
 ときに読者は、あまりにも隙のないすばらしい小説に触れると、これはきっと作者
になにか霊感が宿って神憑り的に書いたか、たまさか偶然や幸運がかさなって珠玉の
名品が生まれたのだろうと、考えがちになる。あるいはもっともらしく、才能という
言葉を引っぱりだしてはため息をつくのだった。
 もし彼に才能というものをみるとしたら、それは感受性とか電波まじりの精神とか
ではなくて、飽くなき探究心と、言葉を精錬し組上げる技術者としての才能であろう。
書簡のなかに彼の小説に対する姿勢がよくわかるセリフがある。
 《ぼくがやってみたいのは、生きるためには呼吸をすればいいのと同じように、(こ
んな言い方ができるとすれば) ただ文章を書きさえすればいい書物をつくることです。
プランについてあれこれ悩み、効果の組合せを考え、要するに表に出ないさまざまの
計算をしなければならぬことにはほとほと嫌になりますが、しかしこうしたものもや
はり 「芸術」 ではある、なにしろ文体の効果はこれにかかっている、もっぱらこれに
かかっているのですから》
 彼は『ボヴァリー夫人』を書くにあたり、言葉を物質的にとらえ感情を抑制し、シス
テマチックな小説をめざした。しかし、実は彼はとてもロマンチストであったので、
ヌーヴォー・ロマンのような小説のための小説にはならなかった。そうしてできあが
った小説は、物語と形式が親密に結合し、類い希な人間像を造りだす一方で、近代形
式主義の源流にもなったのである。
129 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:24
 さて、御託はこれくらいにしておいて解説に入ろう。
 物語中盤、エンマとロドルフが馬に乗って散策にしている場面を2ページ半に
わたって抜粋した。『ボヴァリー夫人』の作品を象徴し、また技術的にも内容の
濃いところである。ここでこのテキストを使って今までのおさらいをしたい。と
いっても全てを逐語的に解説するわけではなく、重要な点だけを取りあげること
にした。比較に読み解きやすいところは、あえて少し言い添えるだけにして、
各自の考察を期待したい。
130 ◆YgQRHAJqRA :03/07/03 23:33
 つづく… (汗汗
乙。
132 ◆YgQRHAJqRA :03/07/05 07:13
 ちょっと訂正です。この場面ではエンマとロドルフは馬から降りています。
133 ◆YgQRHAJqRA :03/07/05 07:17
 最初にテキスト全体を俯瞰して気づくのは、その叙述のバランスの良さである。描写
と説明、セリフの三つが分量および配置において、模範的な形に収められている。この
2ページ半は小説構成のミニチュアだと思っていただければいい。
 小説上の時間は、「描写」と「説明」 によって成りたっている、このことを思い出し
て欲しい。時間は描写によって遅くなり、説明によって早くなるという原理だ。この場
でもう一度、時間処理の説明を補足したい。
 まず、Aという対象を描写する。その対象を細密に、徹底してしつこく書けば書くほど
紙面を埋める文字は増え、A以外のものは入り込む余地がなくなってしまう。それが1
ページ、2ページ、さらに3ページと続いたら読者は息苦しくなるだろう。やがて「話が
進まないじゃないか!」 と、本を投げだしてしまうかもしれない。そう、極端にいえば
描写することによって時間を止めてしまうことも可能なのだ。
 大切なのは小説と読者のもつ時間の起伏であり、その結果が文章や構造のダイナミズム
を生むことになる。
 大雑把ではあるが、時間の流れを加速、減速、等速に分けて引用文に照らし合わせてみよう。
 セリフは虚構と現実の間にあまり差がないので、冒頭の「ああ、〜」からエンマのセリフ
まではほぼ等速状態にある。次に、森のなかでの描写が入り、ヨンヴィルに戻ってくるとこ
ろまでがおおむね減速状態になり、そしてやや等速に戻す。夕食への短い説明で加速し、ま
たセリフが入って等速。シャルルが出かけたあとから最後までが、エンマの心理描写を含む
減速状態となっている。また引用はしなかったが、この直後回想へとつながるので、全体で
みるとなかなか動きの多い内容である。つまりこの時間の動きというものが、読みのリズム
を作りだしているところに注目していただきたい。
134 ◆YgQRHAJqRA :03/07/05 07:18
 小説を書くのに、こんなことを考えて書くのは、なんだか面倒くさいと思う人
もいるだろう。実際すべての作家が時間処理に汲々として書いているわけではな
いし、これは車の運転と同じで、最初はギアチェンジの動作を確認しながらやっ
ていても、そのうち自然にできるようになってくるはずだ。なかにはテクが上達
してくると、頭文字Dばりに『異邦人』のようなことをやりたくなってくる御仁
もいるかもしれない。まあ、上を目指すのは悪いことではないので止めはしない
が、失敗したときの破綻はより大きいものとなるので、それなりの覚悟をもって
取り組んでもらいたい。
◆YgQRHAJqRA さん。
イニシャルDの前には、オートバイの作品でたしか売れたと思うのですが、
異邦人の前に、カミュは何かで売れたのでしょうか・・・?
さすがにカミュも一作目から異邦人では、電波扱いされそうな気が・・・(^^;
136 ◆YgQRHAJqRA :03/07/05 21:46
 あら、そこをツッコミますか(^◇^;)
 えっとですね。小説は時間芸術といわれるくらいでして、この技術はとても
応用範囲がひろいんです。ある程度、時間処理の走り(書き方)に自信をもっ
てきますと、他人とはちょっと違う、よりダイナミックでかっちょいい走りを
求める人もいると思うんです。でも、頭文字Dの拓海のような、人を魅了する走
りには、それ相応の技術とリスクが伴いますよね。そういう意味では『異邦人』
もある種、走り屋的な作品ではあるんです。
 小説もコミックみたいに売れてくれればいいんですけどね。まあ特に純文なん
かは、売り上げは二の次みたいなところもありますし、一概に一括りにはできな
いのですけど。こんな感じでよろしいでしょうか?
137135:03/07/05 22:22
あ、いや、ツッコミというわけではなかったんです。
そうですねえ、売り上げは確かに二の次にしないと、やってられないかも、ですねえ。
続きを期待しています。
138 ◆YgQRHAJqRA :03/07/05 22:58
 そうでしたか。単純に売り上げのことを訊きたかったのですか。
 今ちょっと裏読みモード(なんじゃそりゃ)になってるんで、つい勘ぐって
いらんことを書いてしまいましたね。文学も雑誌で取りあげられたり、映画化
されたりしてメジャーになれば、村上龍みたいに高級ホテルを常宿にできるん
ですけど、そんなのはほんの一握り、いやほんの一つまみの人でしょう。まし
てや世界的に名が知られるとなると……ま、そんな暗いことは考えずに書きま
しょ(笑)
139135:03/07/06 00:31
ええ、そうですね・・・。
拓海のようなテクでもやはり、本になる・ならない、売れる・売れないは別というか、
志望者の私から見ると、いきなり拓海ではなくてスカイラインの人くらいのレベルで出てきたいというか、
あれ、何を言ってるのかw。とにかく、ウルトラテクもヘタすると周囲がポカーソとするだけで、
相手されないどころか本にもならなかったりして、と思ったのです。でもイツキはヤダなあw
あ、いえ、気にせず、続きをお願いしますです。^^;
140 ◆YgQRHAJqRA :03/07/07 21:35
 それにしても、『ボヴァリー夫人』ほど比喩や伏線が錯綜している小説もめ
ずらしい。しかもそのほとんどの比喩、伏線は露骨な奏功を求めることなく、
物語という織目の裏にいくらか透けてみえるか、あるいはまったく目につかな
いように重ねられている。この奥ゆかしさこそが、作品に陰影をもたらし、逆に
目にみえぬ効果となって表れるのである。といっても、初めのうちは容易に実践
できるものでもない。知識、教養はもちろんのこと、語彙の豊かさも必要となる。
そしてなによりも、各種新人賞などに応募する短編には不向きであること。10
0枚程度では、陰影を出そうとしているうちに紙幅がつきるし、無理に詰めこめ
ばそれぞれの効果が飽和して、とても奥ゆかしいなどとはいえない代物になるだ
ろう。
 ただ、技術を露骨に見せびらかさないという自制心に、学ぶ価値はある。出す
ところは出し、引っこめるところは引っこめる。美しいフォルムとはそういうも
のではないだろうか。

 この物語は、ある予兆というものが常に立ち現れては消え、また光と影、夢想と
現実など、二項対立の原理に貫かれている。このことを頭に入れて読むと、『ボヴァ
リー夫人』の面白さが一段と増すことと思う。
141 ◆YgQRHAJqRA :03/07/07 21:35
 まず最初に取りあげねばならないのは、次の象徴的な比喩である。
 
 《枯れた睡蓮が灯心草のあいだに立って動かなかった》
 《そして火のついた二本のろうそくのあいだ、自分の皿のそばにじっとひじ
をついていた》

 この二文の類似性にさほど説明はいらないだろう。灯心草は、名前の通り昔は
ろうそくの芯に使われていたイ草の一種である。そのろうそくの間にじっとして
いるのはエンマであり、ならば灯心草の間で枯れている睡蓮もエンマということ
になる。しかし、睡蓮がどうしてエンマのイメージにつながるのだろうか。前に
も述べたが、これは翻訳という過程で失われてしまう比喩のあやなのだ。問題は、
睡蓮という花のイメージではなくて、言葉そのものにある。
 睡蓮の仏語は、nenufar ネニュファール 、学名をNymphaea ニンフィア という。これはギリ
シャ神話のNymphe ニンフ という精霊の名前からとっている。仏語ならまだしも、日本
語の睡蓮からギリシャ神話のニンフを連想するのは難しい。
 では、このニンフとはいかなるものなのか説明しよう。
 ニンフは木や川、海などといった自然物はもちろん、国や町などにも宿る精霊で、
性格は純真無垢であり、若くて美しい性的魅力にあふれた女性の姿をとって現れる。
なんともあられもない男性の願望をみたした存在であるゆえ、やはりというか当然と
いうか、人間との恋に落ちる話が多いようだ。しかし、たいていその恋は悲劇的な
結末を迎えるのである。それを示唆するように、作者も睡蓮に「枯れた」 という言葉
をわざわざ付け加えているのだ。
 『ボヴァリー夫人』を読み進めば、エンマがニンフ的な人物であると呑みこめると
思う。さらに、ろうそくが二本である点も意味がある。本書では、2や対という形が
構造の基本として細部から全体にわたるまで浸透している。そしてこのろうそくと睡蓮
は、非常に距離の長い伏線にもなっている。このテキストにはいくつかの興味深い伏線
が張られて、次回はそのことについて解説したい。 
142 ◆YgQRHAJqRA :03/07/07 21:37
 宿題といってはなんですが、「灯心草」という言葉が二回出てきますよね。
これがどういう役割を果たしているのか、ちょっと考えてみてください。それ
ほど難しくはないと思います。>>24がヒントです。
うーん、私の不勉強を棚にあげて、こう言うのもナンですが、
比喩についてはライターズ・センテンスとでもいうのか、
ふつうの(創作しない)読者に向けて書いたとは思えないのです。
なんというか、「ああ、ここで作者は遊んでるな」と創作する者にだけ受ければいいな、
といった内輪のテクとでもいいましょうか、
微妙な綱渡りだと思えるのですが……。あ、いや、これはあくまで私の印象ですので、
すみません、灯心草が何かは、ちょっと、わかりませんでした……。
>ふつうの(創作しない)読者に向けて書いたとは思えないのです。
外国のものだからじゃないのかな? その文化圏で育ってればすっとわかるのかも。
似たような例で逆を考えると、例えば彼岸花をぽんと出しても、
それが意味するところは外人には分かんないと思う。
なにしろ150年も前の小説だから、その時代、故事とか伝承的な物は一般人にとっても
生活の中でかなり身近だったんじゃないのかな、と推測してみる。

灯心草はさっぱりわかんない。恋の炎を灯す触媒?
24を参考ってことは場面転換の何かなんだろうけど。場面転換のきっかけかとも思ったが、
それだと普通、灯心草を見て思い出すという順序になるから、違うよなあ。。
大体、回想の中に織り込まれてるし。
次の段落が、「しかし」で始まってるのが何かありそうだけど。
答えを待ちます。
145 ◆YgQRHAJqRA :03/07/08 07:55
 おはようございます。
 睡蓮の比喩は、作者も読者に気づかれることをあてにしていないと思います。
作中において、ばればれの比喩というのは少なくて、どこかひねりのきいたも
のがほとんどです。もちろん文化や歴史的な背景が日本とは違いますから、その
せいで解りにくいというのもあるでしょう。
 ただそれは技術上の遊び心からきているというよりも、フローベールの小説に
対する厳格な美意識によってもたらされている、別の言い方をすれば、ボルト一本
の手抜きから大建築も崩壊するのだという、神経質なこだわりの表れであるような
気がします。
 比喩というのは作家性がよく出ますね。好きな人はホントによく使うし、使わ
ない人は意固地なくらいまったく使わない。開高健とかの報告的文体に、比喩が
がちりばめられていたら、ちょっと胡散臭くなりますもんね。
 「灯心草」難しく考えることないですよw 言葉の近接だけでとらえてみてね。
 朝っぱらから長文失礼いたしました(汗
 
146 ◆YgQRHAJqRA :03/07/10 19:11
 ちょっと前置きのあとに、「灯心草」の答えです。
 エンマはこの居間のくだりでロドルフの恋を確信するんですね。おまけに妻の
不倫を助けるために、シャルルは自家用の馬を買ってくる間抜けぶりを発揮して、
内心嬉しくてしかたないはず。その前にエンマが乗っていたのはロドルフの借り
馬ですし、見栄っぱりな彼女にしてみればそれは恥ずかしいことでしょう。
 でも前段のセリフからは、シャルルの妻への愛情はまったくエンマに届いてい
ません。この冷めた関係とロドルフのやりとりに比較してある、あからさまな差別
はなんなのか。それはシャルルという人物が凡庸や愚鈍さにみちた現実の象徴で
ある点にかかっています。エンマがその情熱や人生を感じるのは、日常からはなれ
た劇的な恋や現実離れした夢に浸っている時なのです。つまりエンマにとってシャ
ルルは、夫婦であるがゆえに嫌でも現実を突きつけてくるつまらない人間、あるい
はくびきでしかないのです。この対立は物語中、何度となく繰りかえされます。
 そしてこの現実への呪いが最後、シャルルを激しく打ちのめす効果となって現れ
るのだけど、ここで説明してしまってはつまらないので、ぜひ本書を熟読し、容赦
のない構造の力学にこころ震わせてください。
147 ◆YgQRHAJqRA :03/07/10 19:11
 では、
 「灯心草」の役割は、蝶番(ちょうばんorちょうつがい)と呼ばれている技法
で、類似した言葉の反復を使い、物語上の時間や空間をこえてA点とB点をつなぎ
合わせるはたらきをします。>>24の場面転換や比喩の連携などはこの応用といえる
でしょう。「時間」 「対立」にならぶ基本技術なので、ぜひ憶えてください。この
「灯心草」は言葉のズレもなく、一番単純な使い方だと思います。
 この機能を理解した方は、夕食への場面転換で 《顔は外気にふれて夕映えのなか
に心もちほてっていた》《夫はエンマの顔色がよいといった》 という部分に>>24
同じ手法をみてとることでしょう。
 ならば「灯心草」もロドルフが目に浮かぶ前にもっていけば、もっと効果的じゃな
いかと考えるかもしれません。私もそう思いました。ただ、同じ「灯心草」ではわざ
とらしいと思ったのか、仏語の音の調子を優先したのか分かりませんが、イメージの
喚起より後へ置いて余韻的な使い方をしています。しかしなにげなく「それと同時に」
と書いてあるところがフローベールらしくていいですね。あと、ゆらいだり、鳴った
りというのはエンマの心の動揺を表現しています。
 まあそれにしても、シャルルはセリフの段でもエンマに冷たくあしらわれて、なおか
つ構造では蝶番で無視されてしまうこの二重の排斥に、哀れみを感じるなぁ。いい人な
のに、かわいそうなシャルル…。
 ちなみに人を思い出す時って、その周りの状況や印象と関連して思い出すのが普通な
んですね。あの時のアイツは変な恰好をしていたなあとか、初めてアイツに会ったのは
どこそこだったなあ、みたいに。記憶のメカニズムはそんなふうになっているんだとか。
だからこの部分は科学的な見地からも正し描写? なんていえるのかな。
今日買ったぞ。
読む。
その前に寝る。
仕事に出るまえに・・・。乙です。
じっくり楽しませてもらってます。
形式主義者を目指してるつもりだったのに、蝶番なんてテク初めて聞いた。
151 ◆YgQRHAJqRA :03/07/11 21:53
 軽く答えるつもりだったのに、なんか解説っぽくなっていまいましたポリポリ。 

 昨今、形式主義者を標榜する人は希少ですからね、がんばってください。
射倖をあてにしない意気はプロにも見習って欲しい人がいますからね。W・ジュン
イチ大先生とかは特にw 初めてあの人の作品を読んだとき、私はほんとエンマじゃ
ないけど、眩暈をおぼえましたよ。ま、ここで悪口いっても不毛なのでよしましょ。

 次回、伏線について解説すると言ったのですが、ちょっと後回しにさせてください。
部分的な説明を書いてるうちに、おさらいの範囲に収めるのが難しくなりました。期待
していた方には申し訳ないのですが、あとで必ずやりますのでお許しください。
 またこれから先はネタバレな話が増えると思います。読了していない方にとって、楽
しみを奪う結果になるやもしれませんので、ご承知ください。 
152山崎 渉:03/07/12 12:03

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
153名無し物書き@推敲中?:03/07/12 23:24
山崎につき保守age
154 ◆YgQRHAJqRA :03/07/13 01:12
 そういえば「対立」については突っこんだ解説はしてないですね。まあ、>>44
や『異邦人』にみる叙述自体の対立、エンマとシャルルのような例をみればその
原理を理解していただけるのではと思います。
 一般的な使われ方としては、文庫本でいうと上巻40pにあるルオーじいさんが自分
の結婚式のことを回想する場面、(>>90とダブりますねぇ。実際には逆ですけど、
エロさではいい勝負) 雪で「野原は真っ白だった」 というそのイメージが、「妻
のかわいいばら色の顔」 をいっそう赤く情熱的にみせるというやり方ですね。

 原理が単純なぶんそのバリエーションも豊富で、いちいちその一つ一つをあげる
わけにもいきません。原理を踏まえて、ノウハウは自分で築いていくしかなんです
ね。しかしその原理をうまくつかめていない人もいるかと思いますので、一応解説
を書きました。
155 ◆YgQRHAJqRA :03/07/13 01:18
 人間は、対立のなかに刺激を求めまた感じる生き物である。スポーツにしかり
ゲームにしかり、また映画にしても、見渡せば娯楽というものはなにかと対立関係
を好んで採用する。白と黒が激突するその狭間に野性をくすぐられ、人はそこに面白
さや興奮を感じる。
 そしてもう一つ。コントラストの対立というものがある。色や物、気分、なんでも
よいが、主となるものを 「より際だたせるため」 に、比較して異なる言葉、イメー
ジを対置する方法だ。
 「ぼくはなごみ系の小説を書きたいから、対立なんていらないんだよね」というの
は、はなはだしい勘違いであり、どうしたら読者がよりなごやかな気分になるのか、
そのことを書き手は考え、対立に関わる差異の成分を探し求める必要がある。
 ぬるま湯のような文章をだらだらと書き連ねても、読者はなごみを通りこして退屈
になり、あなたのテキストの上によだれを垂らすかもしれない。
 だが、対立だからといって白と黒の強烈なコントラストばかりでは能がないだろう。
実際には対立にかかる明度変化の強弱と配分にこそ興があり、書き手にとってはそこ
が腕の見せどころでもある。いろいろと趣向をこらしてみて欲しい。
 最後にスタニスラフスキーのこんな言葉を紹介しよう。
 「悪人を演ずるときは、そのよいところを探せ。老人を演ずるときは、その若いとこ
ろを探せ。青年を演ずるときは、その老いたるところを探せ」
単調な理屈ばかりで退屈なんですけど。
>>156
そうではない人もいるので、あなたがこのスレに来なければいいだけのことです。
158 ◆YgQRHAJqRA :03/07/13 23:03
 まあまあ。でも、コチコチの解説ばかりで退屈してきたってのはあるかな。
 息抜きに短歌でものせますか。

 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
 ↑は俵万智の有名な短歌です。↓はこれを受けて作った私の短歌w
 「寒いね」を「暑いね」に換えたらむさくるしくてやっぱり冬が恋しい オソマツ
 
159 ◆YgQRHAJqRA :03/07/13 23:57
 >>155は厳しいことを言っているかもしれませんが、これは自分への戒めでも
あります。ひとりで穴熊みたいに書いて困難にぶつかったりすると、いろいろ理
由をつけて自己を正当化する気持ちに負けそうになります。だからこうしたも
のを書いておいて、のちに読み返したそのときに、自分がぬるま湯に浸かってい
たら、きっと心に痛く刺さるのではないか。他人の書いたものなら目を背けるこ
ともできるけど、自分の書いたものならば直視することができると思うのです。

 それで、やはり伏線を先にやることにしました。新しい技術の要素も入ってきて、
ややこしいことになるかもしれません。ここにきて力不足を痛感しています。なるべく
簡潔にまとまるようにしたいと考えていますが、読み落としや勘違いによるおかしな
点は遠慮なく指摘してください。
 では、阪神が優勝する前に終わることを目指してがんばります。 
がそばれがそばれ
161山崎 渉:03/07/15 11:43

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
162 ◆YgQRHAJqRA :03/07/16 01:06
  長編小説に伏線はつきものである。伏線とは、のちにおこる事態をそれとなく暗示
する、またはその事態の原因となるものをさりげなく配置する、演出の仕掛けである。
これは辞書にも載っているが、変則的な伏線としてもう一つ。小説の主題や構成そのもの
を示す伏線もある。その端的な例がつぎだ。
 作品冒頭、シャルルは登場するなりその愚鈍さを見せつけ、
「新入生、君は ridiculus sum(余は笑い者なり)という動詞を二十編書いて来たまえ」
と、教師に言わしめる場面は、この小説におけるシャルルの扱いを決定づける伏線といえ
るだろう。
 また、>>51 で解説した『異邦人』もこの種の伏線である。
 この変則を別にすれば、伏線もまた蝶番と同じく、言葉やイメージの類似性を使った技術
でありその性格も似ている。だが蝶番が比較的短い距離をつなぐために使われ、表面に現れ
やすいのに対し(>>44のレモンがいい例)、伏線は導火線のようなかたちで割と長い距離で
仕組まれ、その存在も気づかれにくいという違いがある。
 伏線の問題はこの距離にある。ともするとその導火線の火は、発現場所につく前に消えて
しまがちなのだ。
163 ◆YgQRHAJqRA :03/07/16 23:32
 読者は、その一字一句を脳裡に焼きつけながら本を読むわけではない。ほとんど
の字句は時間の経過と共に忘れられ、断片化した言葉や印象だけが残る。通常、比喩
や蝶番、伏線の効果は紙面上の距離を隔てるほど弱くなる。つまり書き手はここで、
一般読者の記憶は概して薄弱であり、曖昧であることを意識せねばならない。これは
一般読者が馬鹿であるとか、痴呆にかかっていると言いたいのではなくて、忘却は生
理的な現象であって防ぎようがないのである。これに抗って、全知性を傾注して読む
ような人はまれであるといっていい。
 だったら伏線なんて仕掛けるだけ無駄じゃないの。といえば、たしかにそうだ。無駄
を承知で書く場合もある。別に気づかれなくてもいいさ、というその余裕ぶりがまた、
田舎者を悔しがらせるための都会派の粋ってやつ、といえば耳あたりはよいが、どこ
かで手抜きとささやく声もあるかもしれない。
 そこでここはもう一段突っこんで、おぼろげになる記憶を逆手にとれば、一線級の仕
事となる。消えかかる言葉、印象の火花を途中でまた増幅してやればよい。そこで助け
になるのが、類似の反復である。
>発現場所につく前に消えてしまがちなのだ。

これはつまり、読者自身が忘れてしまっていて、もはや伏線にならなくなってしまったと、
そういう感じなのかなあ・・・。かといって、蝶番では、伏線というよりはギミックにしかならない、と。
165 ◆YgQRHAJqRA :03/07/17 19:34
 そういう感じです。目の前に本をポンと置いただけでは、これ、面白くもなんと
もないないわけですね。本を開いて読むという能動的な作業をしなければなりませ
ん。ここが、映画や音楽の娯楽との相違です。一冊の本を3時間で読み終える人も
いれば、3日かかる人もいます。
 伏線というのは、フラッシュバックの効果によって、もろもろの感情を惹起させ
ようとするものですね。 ハッ、コレハアノトキノ…Σ(゚Д゚;)ガガ−ン みたいな(笑)ちょっと
マンガ的ですけど、わかりやすい効果例。でもこれは、あくまで読者の記憶の保存性
にたよっているわけです。なので伏線の賞味期限はなかなかに短いのです。だからと
いって、この小説には伏線が含まれておりますのでお早めにおめしあがりください、
と注を入れるわけにもいかんでしょ。
 で、その対応策をいま書いてるのです。エート、ココガアーナッテ、コーナッテ…ヽ(jДj)ノ ウワァァン
アゲたいのだが、荒れるしなあ・・・。上位スレにはさっそく夏厨が来てるし。
地下でマターリしよう。
レス付けてなかったけど、楽しみに更新待ってる。
168 ◆YgQRHAJqRA :03/07/21 17:51
 書くには書いたのですがどうにも、天気と同様スッキリしません。引用を変えて
もう一度書き直そうと思っています。もうしばらくお待ちください。

 伏線の反復でもっともわかりやすい例は『千と千尋の神隠し』なんですよね。
実用度からいったら『ボヴァリー夫人』よりもこちらが上ですし。どうしよ。こっち
はすぐに書けるんだよね。ていうか書きたいんだよねw
>>167
遠慮せず書きたいものを書いてください。

千と千尋で思い出したんだけど、あの映画よーく見ると、結構長い間あっちの世界に
行っているようでいて、実はシーン的には一泊二日しか行っていないんだよね。
”今日から”風呂当番じゃ、みたいな湯婆のセリフや、いつの間にか自分の名前を忘れてるシーン、
周辺の人物が千尋のことを受け入れている様子、千尋の性格の変化などで、
時間経過を表現している。(こういうのを、時間を盗む、というらしい)
雑巾掛けのシーンなんかたった一回しかないのに、習慣的な仕事であることがわかる。
(というか、そう見えてしまう)
下手な人だったら「〜日たった」みたいな千尋のモノローグ入れたくなったり、
朝夜朝夜を何度も繰り返したり、刑事ドラマの聞き込みシーンみたいに、bgmつきで
退屈な毎日が繰り返されてますよ、的なシーンを入れたくなるんだろうけど。
直接的な表現をしないで、周りの状況から「何日たった」をうかがわせるやり方、
けっこうすごいと思った。
ごめん、一泊二日は大嘘だわ。あいまいな記憶で適当なこと書いた。
見せるべき時間をじっくり見せて、どうでもいい時間を思いっきりカットし、
そのつなぎをさりげなくやる、そういった時間の盗みかたがうまいな、ということを言いたかったのです。
171 ◆YgQRHAJqRA :03/07/22 23:31
 今日レンタル屋さんで借りてきて、あらためて観ました。やっぱいいなぁ。
暇な方は『クラバート』と『ゲド戦記-影との戦い-』を読んでみてください。
この二冊が元ネタだといっていいですし、面白さは折紙付きです。

 時間を盗むとはオシャレ言いまわしですね。時間経過を示す方法はいろいろ
ありますから、本やら映画やらからどんどんパクってくださいw 
172 ◆YgQRHAJqRA :03/07/22 23:36
 『千と千尋の神隠し』は「水」のイメージに満ちている。絵は百万言の言葉に勝る。
絵で語れない映画はいつだっておしゃべりだ。観客は耳で聞く以上に絵を読んでいる。
 この映画は現代版の龍宮伝説といってもいいだろう。未見の方はほとんどいないだろ
から、物語の詳細は省かせてもらい、本題に入りたい。
173 ◆YgQRHAJqRA :03/07/22 23:36
 ハクはなぜ千尋を助けたのか。また千尋も、なぜハクを信頼しその窮地を救おうと
するのか。さほど答えは難しくない。ハクがまだ川の神であったとき、千尋はその川
に「落ちて」溺れ死にそうになり、ハクはこれを助けた。真の名前を湯婆婆に奪われ
たあとも、彼はこの記憶を残していたので、この異世界に来た千尋を当然助けようと
する。千尋はこのことを知るよしもないのだが、命の深いところではこのことを感じ
取っている。なにしろ千尋の尋とは水深を測る単位のことだ。この「水」と「水」の
親和性から、今度は逆に千尋がハクの命を救うという、類似の法則が働くのである。
お互いに似たものは、目にみえぬ引力によって惹かれあい近づこうとする。この法則は
現実だけでなく、虚構の世界においても有効であることを忘れないで欲しい。
 さて、この答えはもちろんラストシーンのところまで伏せられたままだ。しかし唐突さ
を避けるための伏線はしっかりと張ってある。
 冒頭、おびえる千尋とハクのセリフ、「忘れないで、わたしは千尋の味方だからね」
「どうしてわたしの名を知っているの?」「そなたの小さいときから知っている」がそうだ
し。腐れ神が大湯に浸かるシーンで千尋は湯船に「落ちて」溺れてみせ、これを拾い上げて
くれるのが川の神であるところ。また川の神は龍の姿をしている。ハクもまたそうだ。龍は
古来、雷雨を呼ぶ神話の生物である。千尋が空を見あげると、白い龍(ハク)が彼方に飛び
去ってゆく。すると次のシーンには雨が降りだし、まわりは海になってしまう。さらに手負
いのハクと千尋が穴に「落ちて」ゆくシーンでは、川で溺れた記憶がフラッシュバックする。
 そしてついに最後、千尋はハクの真の名前を告げこれを取り戻し、二人は解放感に満ちた
空のなかを「落下」していく。観客はこれをさも当然のごとく受けとめて、ちょっと涙ぐんだ
りもするのである。これは愛の力などというありふれた理由ではなく、厳として「水」の近接
と反復によってもたらされた結果なのである。これにより、ハク=川の神という伏線を支えて
あまりあるほどの効果を発揮し、かつ作品の統一性にも寄与している点をぜひ学びとってもら
い、小説にも活用していただきたい。
174 ◆YgQRHAJqRA :03/07/22 23:50
『ボヴァリー夫人』の方もちゃんとやりますから、待っててくださいね。
 煩雑で面白くないけど、ボツ解説も載せようかな。まあ、お金もらって書いてる
わけじゃないから、気張ることないんだけどさw ちこっと参考になるかもしれな
し。
マターリとお待ちしてます。
176 ◆YgQRHAJqRA :03/07/23 20:11
 《そのとき、遠く遠く森のかなた、別の丘の頂に、かすかな長い叫び声、尾を引くような
一つの声が聞えた》

 このとても気味がよいとは言えない「声」は、エンマだけに聞こえている。なにしろこの
「声」は、はるか後方153p、物語的にはまだ訪れぬ未来から発せられた残響であり、その間
にはまさに広大な言語の森が層をなしている。そこにロドルフはいないのだから、聞こえる
故もない。
 では、その153pに飛んでみよう。

 《乞食は前うしろの車輪の泥を浴びながら、もう一方の手でふみ台にしがみついていた。
声は、最初は弱く赤ん坊の泣き声のようであるが次第に鋭くなっていった。何をなげくとも
知れぬかすかな哀訴の声のように、それは闇のなかにながながと尾をひいた。鈴の音や木立
のざわめきや箱馬車のうなりを通して聞くと、その声にはエンマの心を転倒させるような、
はるばると遠いものがあった。それは竜巻が谷底へ舞い下がるように、エンマの魂は底へ沈
んで行き、果てもない憂鬱の虚空へエンマを運び去るのであった》

「声」の主はあきらかにこの乞食であるといっていい。さらに152pにある乞食の描写を掲出しよう。
177 ◆YgQRHAJqRA :03/07/23 20:13
 《峠には一人の乞食が杖をついて、行きかう乗合馬車の間をうろついていた。肩には
ぼろを重ね、顔は鍋底のように丸くなっている形の崩れた古い海狸帽(かいりぼう)に
隠れていた。しかしその帽子を脱ぐと、瞼のところに、血だらけな、ポッカリ口をあい
た二つの眼窩(がんか)が現れた。肉は赤くぼろぼろにただれていた。そこから膿(うみ)
が流れ出して、鼻のあたりまで緑色の疥癬(かいせん)のようにこびりついている。黒
い鼻の孔は、ひきつるようにクンクン鳴っていた。物をいうときには、仰向いて白痴の
ように笑った。すると青みを帯びたひとみがずっとこめかみの方へ吊りあがって、なま
なましい傷の縁へ突き当たった》

 この目のない乞食はもはや人間ではない。死神のそれである。この伏線はさらにあと、
毒に悶え苦しむエンマが最期に叫ぶセリフ、234pにかかってくる。

《「めくらだ!」とエンマは叫んだ。
 そして、エンマは笑い出した。乞食の醜悪な顔が、物怪(もののけ)のように、永劫の
闇に突っ立っているのが見えるような気がして、残忍に、凶暴に、絶望的に笑い出した。》

 エンマは死の床で何度も叫び声をあげる。かすかな長い叫び声、それはエンマ自身の
断末魔も含まれていたのかもしれない。
178 ◆YgQRHAJqRA :03/07/23 20:15
 伏線としてみると、14pの描写はどうにも弱い。読者に印象を残そうとする力みはまる
でなく、むしろ自然に忘れられていくことを望んでいるかのようなさりげなさだ。読者は
153pに至って、14pの場面を思い出すことは皆無であると言っていいだろう。どちらかとい
えば152,3pと234pを意識するのが穏当だ。しかし考えてみると、時間の流れに沿って強か
ら弱へとかすむ印象を、なるべく引き延ばそうとする通常の伏線とは、またっく逆の形式を
とっているのだからこれで正解なのかもしれない。この伏線の転倒性は難度が高いのでここ
はしばらく忘れてもらいたい。14p〜16pにおける描写が、終盤の絶望と破滅への予兆を表象
するものとして解説をすすめる。

 物語はここから大きな展開をみせる。この不吉な呼び声に引かれて、不義と放恣にまみれた
運命の坂をエンマは転げ堕ちていくことになる。そして変化をみせるのはなにも話の内容だけ
ではない。その兆候を表すものが>>127の二段目以降の描写だ。 
179 ◆YgQRHAJqRA :03/07/23 20:17
 エンマの大きな「黒い」眼が強調され、ある霊妙なものが全身にめぐって、エンマの
姿を一変させる。さらに次の心理描写の段でも、自分はある霊妙不可思議な世界に入ろ
うとしている。そこは、情熱と恍惚と狂乱がすべてらしい。そんなのはマトモな人間の
みる夢ではない。棺桶に片足をつっこんだシャブ中の妄想と大差ない。その意味でいえ
ばエンマはいわば恋愛中毒者であり、もちまえの神経症も手伝って幻視幻聴はあたりま
え、そこかしこであなたの知らない世界を垣間見てしまう。そして完全にイッてしまって
いる感情の頂からみる現実、これからエンマが堕ちる現実という地獄は、はるか下の「闇」
のなかにある。
 といっても、初見の読者はエンマの運命を知るはずもない。ただ勘のよい人は、なにか
不穏な空気を読みとるだろう。その凶兆のシンボルとなるが「黒」と「闇」という言葉である。
 上巻第一部でも「黒」と「闇」は何度となく表れるが、それはまだ不吉な影をともなっては
いなかった。下巻第二部からこの言葉はある種の異様さをちらつかせ、反復しながらも、けし
て意味を明確にせず、不安や予兆めいたものを感じさせ、読者の心理に暗い影を落とすのであ
る。これは作品の色調を統一するはたらきにもなっているし、心理色として黒がもつ効果はけ
して軽いものではない。遠からずそこには死のイメージが重なってくる。
180 ◆YgQRHAJqRA :03/07/23 20:19
 しかし、馬鹿のひとつ覚えのように、闇雲に反復すれば良いというものでもない。
上巻24p「うれしかった」を5連発するシャルルよろしく、野暮ったさを強調して苦笑
を誘うことにもなるので気をつけたい。
 実際、読者は同じ言葉の繰り返しには敏感で、まともな書き手はこれを懸命に避ける
努力をするし、一見マイナスの要素を転じてこれを利用する術もある。このように、類
似する言葉がどうも目につく場合、そこには作者のなんらかの意図があると思っていい
だろう。とはいえ、なかには無自覚に意味もなく何度も同じ言葉をばらまく作家も、い
ないわけではない。だれとは言わないが、とにかく私はくらくらと眩暈を覚えたのであった。

181148:03/07/24 04:52
まだ読んでる。
読むの遅いな俺。鬱。
乙。
伏線とイメージの効果、これだけいろんな例を出してもらうと、さすがにしっくりくるね。
私的に、この板でここが最良スレでつ。
184 ◆YgQRHAJqRA :03/07/25 00:25
 ありがとうございます(^^ゞ

 もう伏線に関してはこれでいいかな、という気がします。『ボヴァリー夫人』は、
うんざりするくらい伏線だらけの小説でして、そのひとつひとつを紹介するだけで
一冊本ができるんじゃないかというくらいです。伏線に関わる効果や方法は、ここ
に述べたことを基本として呑みこんでいただければと思います。

 さて、伏線には基本技術の要素として「類似」ともうひとつ、「読者」という存在
が大きな重点になりましたね。148さんが身をもって示してくれるように、長編はさっと
読める代物ではありません。生活をするうえで、小説よりも憶えておかなければいけな
いことはたくさんあります。印象に残らないところは、次々と忘れられていくのも仕方
のないことです。その対策として反復があったわけですが、もう少しお手軽で簡単な方法
もあります。
185 ◆YgQRHAJqRA :03/07/25 00:26
 《それは青葉棚の下、かつて夏の宵々に、レオンがうっとりと彼女を見つめたことのある、あの腐(く)ちた丸太のベンチの上であった。今はもう彼女はレオンのことなど考えてもいなかった!》

 この青葉棚のベンチは、物語のなかで重要なガジェットになっていて、最後の最後、
シャルルのオチに結ばれています。そこで消去されないように折々に登場するわけです。

 で、なにがお手軽かって説明ほどお手軽なものはないわけですね。「かつて〜あっ
た。」と書けば、読者には十分記憶の手がかりになりますね。キメのシーンでこんな
説明をいれるのは無粋ですけど、中継点でこうした説明を用いるのは有りでしょう。

 さてさて、技術のなかにやっと「読者」がみえてきましたね。読者もまた作品の一部
であるということに着目した技術です。次回をおたのしみに。
186 ◆YgQRHAJqRA :03/07/25 00:27
 あ〜改行失敗した(´・ω・`)ショボーン
605/644 落ちそう
188 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 01:00
 そんな下まで落ちてましたか。どうもです。

 ちょっと調べたいことがあって、図書館に行こうかと思ってたんですけど、
行きそびれました。あした(今日か)は休館だし、少しあいだがあきますね。
189 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 23:13
  読者と登場人物の結託

『ボヴァリー夫人』上 113p

 レオンは部屋のなかを歩き廻っていた。南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、
こんな見すぼらしい家のなかで見るのは妙な気がした。ボヴァリー夫人は顔を赤らめた。
レオンは自分の眼つきにぶしつけなものがあったような気がして向こうを向いた。
190 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 23:16
      同作 下 53〜54p

 恋する習慣の力だけでボヴァリー夫人の態度は一変した。目つきは大胆になり、言葉
づかいは露骨になった。まるで「世間をばかにするように」くわえ煙草でロドルフと散歩
するような、おだやかならぬことまでした。ある日エンマが男のように胴をチョッキで
締めつけて、「つばめ」を降りるのを見たときには、まさかと思っていた連中ももう疑
わなかった。ボヴァリー老夫人は夫と大喧嘩をしたあげく、息子の家へ逃げてきたが、こ
れまた大いに眉をひそめた。
 (3行略)
 ボヴァリー老夫人はその前の晩、廊下を横切ろうとするときに、フェリシテが一人の男
といっしょにいるのを見つけた。顎から頬へかけて黒い髭をはやした四十がらみの男で、
足音を聞くと急いで料理場から逃げて行ったというのである。エンマはその話を聞いて笑い
出した。ところが、老婦人は気色ばんで、風儀の良し悪しを頭から問題にしないのなら知ら
ないこと、そうでなければ召使いの風儀ぐらいは取締まらねばいけないときめつけた。
 「あなたはどんな社会のお方です?」そういう嫁の目つきがあまり横柄なので、老婦人は、
お前さんは自分自身の言い訳をしているのだろうとやり返した。
 「出て行って下さい!」若婦人は飛び上がって叫んだ。
 「これエンマ! お母さん……」仲裁しようとしてシャルルは叫んだ。
 しかし二人とも激昂して、もう向こうへ飛んで行った。エンマは地団駄をふみながら、
 「ああ、世間知らず! 土百姓!」と繰り返した。
 シャルルは母親のほうへ走って行った。母親は狂気のように口をもぐもぐさせながら、
 「生意気な女! おっちょこちょい! いやもっとひどい女かも知れない!」
191 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 23:17
 嫁姑の争いとそれに翻弄される夫を活写し、それを傍観しておもしろおかしく茶をすする
図は、みのもんたの決め台詞「奥さん……別れちゃいなさい!」をアップで楽しむ現代にも
通じるものである。昔小説、今テレビといったところであろうか。
 まあそんなことはどうでもいい。この技術の話は単純だ。今、読者が読んで知り得た内容
をそのまま、登場人物も共有してあるかのように振る舞うという手法である。
 伏線のところで、読者はやたらと忘れる生き物なのだということを書いた。しかし、今読
んでいる部分を忘れてしまうほど、ひどい健忘症の人はそういないだろう。つまり、短期的
にみれば、読者は書かれてあるすべてのことをよく知っているわけだ。
192 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 23:19
 まず最初に上巻113p、エンマはここでなぜ顔を赤らめるのか。レオンの眼がぶしつけ
だったから、などと答えてはいけない。学校のテストなら○だが、作家の答えとしては×。
正解は、《南京木綿のドレスを着たこの美しいひとを、こんな見すぼらしい家のなかで見
るのは妙な気がした》 というレオンの心理をエンマが読みとったせいだ。なぜ読みとれ
るのか。読者が知っているからだ。
 エーッそんな馬鹿なことあるわけないと、異議をとなえたくなるだろうが、そんな馬鹿な
ことあるのが小説なのである。もちろんあまり露骨にやると超能力じみてくるので、そこは
曖昧さを加減してやる必要があるだろう。この一文も現代的な水準にあわせれば、レオンの
眼がぶしつけ云々という説明の逃げ道はなくてもいいのだが、写実に徹するという作品の
性格もあってのことと推測する。
 しかし無節操に誰とでも読者との結託を用いていいわけでもなく、やはりそれなりにわき
まえるべきルールはある。
193 ◆YgQRHAJqRA :03/07/28 23:20
 一つ目、作品の性格を考慮すること。写実やルポなどの少しお堅い性格の作品には、
派手な使用を控えたほうがいいだろう。

二つ目、人物の性格もまた考慮すること。エンマやボヴァリー老婦人、ひいてはこの
作品に登場する女性たちはみな勘がよい。元来、男性よりも女性のほうが細かいところ
によく気がつくという性質がある。つまりは、相手の営みや心理をやすやすと見破るそ
の勘どころのよさによって、読者の分身ともいえる結託が成立する。間違ってもシャルル
のような抜け作が、相手の心情を読者と同じように察知するなんてことはおこらないし、
おこしてもいけない。

 最後は、やはり距離である。53〜54pの例は少し入り組んだ構成になっているけれども、
老婦人との結託のもとになる情報(ロドルフとの不逞)は、すぐ隣に書かれてある。なる
べく1ページ以内の距離でおこなうようにすれば、空振りを防げるだろう。
194 ◆YgQRHAJqRA :03/07/29 00:30
 この技術がもっとも鮮やかな効果を発揮するのは、地の文とセリフの連携である。
その例として>>190をあげた。しかしながら、なるべく目立たないように書いている
こともあって、こう今ひとつぱっとしない。他にいいところもなかったので、お粗末、
恐縮、ごめんなさいと先に謝っておき、私のやっつけを例にとって見てみよう。
 
「あいつ絶対許せない! キミとはやっぱり馬が合わないみたいぃ? ふ、ふざけんじゃ
ないわよ! 他に女ができたのはわかってんだから、コンチクショー!」
 どうやら飲んできたらしい。目をまっ赤にして、姉はしきりにソファを殴ったり蹴ったり
している。そのうちに疲れてぐったりとソファへもたれ、鼻をチーンとかんだ。
 離れたところでテレビを見ていた弟は、呆れたように横目で姉の醜態を見やり、そうやって
すぐヒステリックになるから、男に逃げられるんじゃないのかね、と内心つぶやいた。
 ティッシュの箱が飛んできて、弟の頭に命中した。
「あいつが悪いのよ!」
「痛いな、おれに当たらないでくれよ」
195 ◆YgQRHAJqRA :03/07/29 00:30
 文章の拙さはご容赦いただき、地とセリフの構成を看取してもらいたい。
 このような感じにすればさほど不自然にもならず、地と会話の連携(姉と読者が
結託してる)がはかれると共に、興趣のあるすっきりとした流れになる。
 非現実的な世界や幻想性を前景化する作品なら、もっと大胆な結託をみせてもいい
だろう。不気味で奇妙な世界をさまよう「私」を書いた、内田百閨w冥途』にその例
をみることができる。さすがにこちらは惚れ惚れするような名文である。
 
 女は暗い道をどこ迄も行った。私は仕舞いに家へ帰れなくなる様な気がし出した。もう
後へ引き返そうと幾度も思いかけても、矢っ張りその時になると、今にもその泣き声が思
い出される様な気がして、どうしても離れることが出来なかった。道の片側に家の二、三
軒並んでいるところを通った。家の戸は皆しまっていた。隙間から明かりの漏れない真暗
な家だった。その前を通る時、自分の足音が微かに谺(こだま)しているのを聞いて、私
はふとこの道を通った事があるのを思い出した。私の足音が、一足ずつ踏む後から、追い
かける様に聞こえたのを思い出した。
 「いいえ、私の足音です」 とその時一緒に並んで歩いた女が云った。そうだ、その道を
歩いてるのだと気がついたら、私は不意に水を浴びた様な気がした。


初心者はなにかと現実性を踏襲しようとする断り書きによって、文章の流れを濁らせてしまう。
下手な親切心は返って作品のあだとなる。ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、
書き手には必要であろう。最終的に作品を完成させるのは読者なのだから。
例文がわかりやすくてよかったよ。
197 ◆YgQRHAJqRA :03/07/30 07:40
 新潮の『ボヴァリー夫人』を立ち読みしたんだけど、やっぱ岩波の訳のほうが
しっくりくるなあ。好みもあるから絶対ってわけじゃないけど、エンマの最期の
セリフが「盲目!」っていうのはどうも…おぞましさに欠けるような。

 この技術は面白いでしょ。私のお気に入りです。『ピンポン』ていう卓球映画
ありますよね。原作の漫画はこのテクを場面転換なんかに応用していて、ホーっと
感心しながら読みました。絵柄にアクがありますけど、買って損はないですよ。
お疲れ様です。
> ◆YgQRHAJqRA さんの「読み」といいますかコメント、いつもとても楽しみです。
199山崎 渉:03/08/02 01:10
(^^)
200 ◆YgQRHAJqRA :03/08/04 03:35
 なんだか暑いなと思ったら、となりでウンウンいってるパソコンが暖房器具である
ことを思い知る今日この頃。フウフウいいながら、あとちょっとで書き上がると思っ
たら、ビールがうまいや夏の夜。酒は減ってもテキスト増えず。
 え、なんのことかって? そこを察していただくのが次の技術というわかめ(イミフメイ
Thanks!
202tina ◆OcfLN77Pak :03/08/04 05:01
 こんな夜おそくまでお疲れ様です。
 今回たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありません。
愚痴っぽいことをこぼしてしまいましたが、書くのが大好きなことには変わり
ありません。中断しているお話も止めるつもりはありませんし、技術の勉強
や読書もこれまで通り続けます。
 どうかこの「技術スレ」も阪神優勝までに、などとおっしゃらず、ゆっくりで
構いませんのでどうか長く続けてください。よろしくお願いします。
 ボヴァリー夫人の上巻が「第二部未完」の文字で終わっているのを見て、
フローベールという人は第二部を書いてる途中で亡くなられたのか……と
思ってしまいました(恥)すみません。
 
203 ◆YgQRHAJqRA :03/08/07 02:08
 迷惑なんて被ってませんから気にしなくていいんですよ(笑)もうちょっと
気楽に書いてもいいかもしれませんね。あまり深刻にならずに。

 はよ続きキボンヌという感じでしょうけど、もうしばらくご辛抱ください。
山崎が二つも三つも重なるような有様にはならないと思いますw 
>>203
>山崎
了解っす。w
205山崎 渉:03/08/15 12:47
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
>◆YgQRHAJqRA さん!

い、いくらなんでも、落ちすぎだと思われぇぇぇぇぇぇぇぇ!

お待ちしてます  m(_  _)m  
207 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:24
 さて、そろそろ続きをはじめますか。すっかりご無沙汰になってしまいましたね。
 放っておいても、雑草のようにみだりに伸びないところがこのスレの奥ゆかしさで
しょうか。幽谷にひっそりと咲く山野草のごとくに、なんて言っても実のところ物好き
しか訪れない辺境というのが正解かもしれませんがw

 と、先日書き込みしようとしたらプロバイダのアクセス規制で書き込めないの(/_T)/
なかなかこれが解除されないんです。 
 で、仕方なくネットカフェに今いるわけです。私、はじめて利用します。勝手がよくわか
りません。IMEからブラウザから各種設定など、自分のパソコンとまったく違うわけです。
それらと格闘して早30分。やっと書けるぞとほっとして、運用板みたらあなた!規制解除
されてるじゃありませんか!なんだそりゃ、金返せ!と叫んでも摘み出されるだけなんで、
もうちょっと遊んでから帰ろう。
208 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:34
  ─黙説─ 空白の引力

   『ボヴァリー夫人』上 111p


 そのときレオン君が書類の束を小脇にかかえて近所の家から出てきた。彼は近寄って挨拶し、
ルウルウの店先に張り出したねずみ色の日覆いの影へはいった。
 ボヴァリー夫人は、子供に会いに行くのですけれど、そろそろ疲れてきましたといった。
 「もしも……」 とレオンは答えて、それから先はいいよどんだ。
 「どこかご用がおありですの?」 とエンマは聞いた。
 書記の返事を聞いてエンマはそれではいっしょにきて下さいと頼んだ。そのことが早くも
夕方にはヨンヴィルじゅうに知れ渡った。村長の妻テュヴァシュ夫人は女中の前で「ボヴァリー
の奥さんはあやしい」とはっきりいった。


      同作 下  132p

 エンマが門をノックする音を聞くと、待ち兼ねていたシャルルは両腕を開いて進み
寄り、涙声でエンマにいった。
 「ああ、お前……」
 そして彼はやさしく身をかがめてキッスした。しかし彼の唇がふれたとき、エンマは
ふとあの人を思い浮かべ、身ぶるいしながら顔をふいた。
 しかしエンマはさすがにこう答えた。
 「ええ、知ってます……知ってます……」
209 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:40
しかるべき情報をわざと書き落とす。知られたくないものを隠蔽してはぐらかす。これを
黙説法という。
 黙説法などというと、なんだかエラそうな技術に聞こえるが、なんのことはない。はっき
りものを言わない日本人お得意の「暗黙の了解」や「沈黙もまた答え」、表現としては、
「こんな所で立ち話もナンですから」 「ここは遠慮しておいたほうがアレですし」など、
最近では(ryなんていうのもこの黙説の範疇に入る。なんだかとたんに下世話な感じになっ
たけれども、小説には小説なりの使い方が。


 さて、上述のように唐突な切り方をしたらどうだろう。使い方が?なに?、とにわかに尻切れ
になった部分が気になりはしないだろうか。黙説の効果のひとつとして、この空白の生むいわば
真空的な誘引力がある。
 私は「読者との結託」で、ある程度は読者の想像や解釈にまかせてしまう余裕も、書き手には
必要であろう。最終的に作品を完成させるのは読者なのだから、と書いた。
 黙説はこれを書くことではなく、書かないことで成そうとする技術である。つまり読者はそこ
に書かれてある以外のことは知りようがない。肝心なところをはぐらかされるとそこが気になる。
しかしその動機は容易につかむことができない。なぜか。書かれていないからだ。ある程度どこ
ろか、すべてを読者の想像や解釈に放擲(ほうてき)することで、黙説が生む空白はあさましい
ほどの引力をあらわにする。
210 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:46
 空白はとても魅力的な機能をそなえている。さも意味深なように書いて読者を惹きつけつ
つ、どうにも解せずに難渋しても、それはきっと自分の読解力が未熟なためだろうと思わせ
てしまう詐術である。ことによると、読者は何度も同じ箇所を読み返し、ページを遡行して
答えを、納得のいく解釈を探りだそうとするだろう。こうした空白を作品全体にちりばめ、
構造そのものを黙説化してしまうと、純真な読者はころりとこれに引っかかる。まるで底の
みえない深遠さや得体の知れないスゴイ小説のような勘違いが生じるのだ。
 そしてこの空白の名手ともいえるのが村上春樹である。読者の興味と関心を惹きつけるた
めならば、創作者が持つ情報の独占的な立場を大いに利用してはばからず、なおかつ本来あ
るべき答えさえも実はないという態度によって、ときに厳しい非難や不興を買っているのは
このためだ。そんなことはへのへっちゃらで、気にもとめない図太い神経を持っていると自
負する人は、その手並みを研究してみるのもいいだろう。
211 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:48
 黙説法のえぐいところばかりを書いてしまったが、通常はもっとしとやかな情緒性
を誘い出すために、あえて語らないということが多いだろう。卑俗な例でいえば、結
びあう男女の目線とか、おなじみの医者の告知シーン(セリフを挟まず、落胆の仕草
や表情で病状の深刻さを表す)といったものが思い起こされる。

 より自覚的に黙説を利用する場合、ひとつ注意点がある。読者の感情や思惟によって
空白を埋めるためには、前後の書き込みや話の流れから、見えざる答えを導けるように
しておかなければならない。あまりに勿体ぶった書き方をすると、書く側の優位性に寄
りかかった悪手か横着と取られかねない。懸念や謎を煽るような目的で使用するならば、
伏線の一つや二つを同時に配置するくらいの気配りをみせるべきだと私は考える。
212 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 20:53
 さて、上巻111pにみる例は、地とカッコ書きでやりとりする会話を黙説でつなぐ良い
お手本。「そろそろ疲れてきました」というエンマの言葉をうけて、「もしも」とレオ
ンは言うが、この先は言葉になっていない。彼の性格からしてもじもじと、「そこで少
し休んでいきませんか」とか「お茶でもどうですか」といった、月並みな誘い文句が続
くであろうことは容易に想像がつく(正確には読者にそう思わせる)。並の書き手なら
ここで 「もしも…なんですの?」なんてセリフを挟んでしまいがちになるが、フロー
ベールはこの二人のやりとりで両者の力関係をはっきりと見せつけている。エンマから
みると、レオンは典型的な年下のかわいい坊やという扱いだ。

 エンマは「もしも……」というレオンの言葉の先を気にもとめず、「どこかご用がお
ありですの?」と自分の質問を浴びせかける。イエスかノーかという簡単な答えも、あ
るいはそれ故に、レオンは言葉を発する(書かれる)ことを許されない。しかし 「それ
ではいっしょにきて下さいと頼んだ。」という一文によって、レオンの答えは容易に察す
ることができる。
 いったいどちらが主で従であるのかという力関係がこの黙説の内に示されている。畢竟、
小説の主人公(副次的であっても)とは、限られた紙面をどれだけ占有し、その領域を支配
しているかということにつきる。続く112p、エンマとレオンが乳母の家へむかう道すがら、
「彼は彼女の足に合わせてひかえめに歩」くことも必然の所為といえるだろう。

 そして、このレオンと対照となるもうひとりの恋人が、ロドルフである。
213 ◆YgQRHAJqRA :03/08/25 21:02
 つづく。

 対照「と」じゃなくて「に」だね。これだから他人様のパソコンは……いえ、
単なる推敲不足です。すいません。読み返すと結構アラがあって恥ずかしい。
お、久々に更新されてる。乙
落ち過ぎなので保守上げ
漏れは例の空白部分には全くピンと来なかったなあ。
言われてみたらその通り、とは思うんだけど。

漏れが鈍いのか、それにしても
「もしも」のあとに口説き文句がくるとは思わないもの。
(もしもお茶に誘ったら……とかそういう台詞を切ったのかな)

訳の問題だろうか?
どうでもいいけど、ボヴァリー夫人はずっとシャルルに感情移入して読んでたので
ロドルフのくだりは死ぬほど鬱だったよ。
あ、エンマの台詞が、そっくりそのまま続きなのかな。
「もしもお暇でしたら(ry」が一番それっぽい。

で、女に先回りされて言われてしまった、と。
たしかにレオン君情けない。
219 ◆YgQRHAJqRA :03/09/05 00:58
 例文は物語の流れのなかで活きてくる黙説なので、そこだけ取ってみてもなかなか
ピンとこない、というのも確かにあるかもしれません。「もしも……」という言葉の
なかに、語られない彼のエンマに対する思いや性格というものを、説明やあからさま
な演出によらず読者に訴えかけるところがミソなんですけど、やはりこの技術特有の
いやらしい側面が取り扱いを難しく(使い方自体は簡単)しています。
 なので、ぶっちゃけ張りきって習得してもらわなくても構わない、それとなく意識せ
ずに使うくらいが安全で、せっせと使ったところで作品に箔が付くわけでもなく、返っ
て泥を塗るような結果にさえなります。まあ、身も蓋もないこと言いますと、この技術
のところは読み飛ばしてもかまいません。
 じゃあ書くなよということになるんですがw 知識として持っておく分には大過ありま
せんし、いやオレはうまく使ってみせる、というか好んで使ってましたという方には、や
はり慎重な扱いをうながしたいと思います。あと、無駄な文章をそぎ落とすことと、黙説
をごっちゃにしている方も注意してください。
220 ◆YgQRHAJqRA :03/09/05 01:00
 非常にいい例(悪い意味で)として、アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』があります。
作品全体に散見する黙説はあきらかに空白の求心力を発揮していたし、後半に至ってはもう
開いた口がふさがらないという有様でした(ファンの方には申し訳ないが)。
 ただ、エポックメーキングの役割は確かにありましたし、その圧倒的な支持によって本来
マイナス面となりうる部分を覆い隠していました。誰だったかは忘れましたが、良心的な分析
を試みて、なるほどとうなずける現代性を提示した批評もありました。しかし、冷静になって
見てみれば、黙説のあざとさはハッキリしていて、これをもろ手で誉めるわけにはいきません。
 これや良しと、二番煎じのまねごとで黙説を取りいれることはくれぐれもしないでください。
安易に振りまわすと、自分を傷つけることになります。
221 ◆YgQRHAJqRA :03/09/05 01:12
 黙説はもうちょっと続きます。余韻や余情といった部分に関係してくるところ
をもう少し解説して、次の「視点」に関する技術に移りたいと思います。

 最近あまり時間が取れませんで、更新ペースが鈍ってますがまったりとお待ち
くださいませ。
222 ◆YgQRHAJqRA :03/09/05 01:45
 ああ、そうそう217 さんの気持ち、私もわかりますよ。判官贔屓ってやつです
ねw 日本人はどうも弱者、人間的にダメなやつに味方したがる気質があります
よね。欧米ではダメ人間に同情するような、ましてやそれを美学にまで昇華する
文化はないそうです。滅ぶものは滅ぶべくして滅ぶというドライな摂理に、複雑な
感情をはさむ余地はないようです。
 だから物事に失敗すると虚無的な笑いを浮かべる(通称ジャパニーズスマイル)
日本人の心理作用は、今だ欧米人の理解を超えているようです。だから海外でヘラ
ヘラ笑いながら、アイムソーリーなんて言うとぶん殴られるかもしれませんw
竹中直人みたいに笑いながら怒りを表現しなければならぬと思った49歳の夏。
224名無し物書き@推敲中?:03/09/23 16:05
保守
初めて読んだけど珍しい位の良スレだな。
ガンガッテね
少し話題になってたので、今更ながら千と千尋見た。

正直、腐れ神の入浴が反復になってるとは気付かなかった。
フラッシュバックが入る場面でようやく「ああ、複線だな」と思った程度。

迷子の機微がうまく描けてるところに一番感心しますた。
あとはアニメーションの勝利? か。

恋愛もどきや、繰り返し挿入される主題っぽいBGMは気恥ずかしかった。
でも、こういうのは受けるだろうなあ。
ああでも
繰り返し見れば気付くのは難しくないと思う。>反復

初見で気付くか? 気付かなくとも無意識に効果を及ぼすか?
というのは疑問。

そういやサブリミナルでコーラの売り上げが伸びたとかいう実験は
実は嘘、とかいう話を見かけた。ソースは無し。
>>226
ほー複線なんてあったのか。
良スレ。
230 ◆YgQRHAJqRA :03/10/12 12:52
 どうも、久しぶりです。いやホントに久しぶりだw 一ヶ月もたっていたんですね。
 
 ちょっと職を変えましてね、そこらへんでゴタゴタしてまして、すっかりこのスレ
のことを忘れていました(汗 なんか生々しい話になってしまうんで、詳しくは書き
ませんけど、まあ心機一転でまたはじめますんでよろしくw

 えーと、黙説の132pの例ですけど、読み込んでみたら思っていたような黙説ではな
かったので見なかったことにしてください。なんか取りあげるほどのものでもありま
せんでした。のっけから訂正ですみません(^^ゞ
 次の、黙説が生みだす余情感については、また『千と千尋の神隠し』を使いたいと
思います。情の感じ方というのは人それぞれですから、絶対ということはもちろんない
のですが、偶然によらない奏功を得るためのテクは知っていて損はないでしょう。
 
 それと、技術って基本的に前面にしゃしゃり出てくる、また出すものではないと思う
んです。ラーメンでいうとダシみたいなもので、麺や薬味などの素材と相性良くからみ
あうことで、はじめて美味しいラーメン(作品)になるわけですね。でも目に付かない
からといってダシに手を抜けば、てきめんに味が落ちるのもたしかです。なにも海原雄山
みたいな味覚をもっていなくても、なんとなく不味い(面白くない)といのを感じるで
しょう。
 『千と千尋−』の多重にしくまれた伏線を、目ざとく見つける人はほとんどいないと思い
ます。それでもこの伏線は、謎を明かす段の唐突感をやわらげ、作品の調和をそれとなくは
かる役目を果たしています。まあ、こういった御託はうまいとかまずいとかになぜか人生賭け
ちゃってる山岡みたいなマニアにまかせて、一般の人はもっと大らかな気持ちで映画や小説
を楽しんで頂ければいいんじゃないでしょうか。
 ん〜、なに言ってるんでしょ私は、窪塚某よりはましだと思うんですけどやはりブランクが
きいてるのかなw
◆YgQRHAJqRA さん、転職されたんですか。さぞかし気忙しい毎日を
送られておいでのことと推察いたします。そのような時期であるにもかかわらず、
御講義を再開して下さることに感謝いたします。
宜しくお願いします。
告知するために、一度上げます。
巡回登録してるから俺だけ告知不要。
ほしゅ。
234名無し物書き@推敲中?:03/12/01 02:32
ほしゅage


わくわく
        ……まだかな

     どきどき
(言 言)
 (口)

E・Tが保守しまつ
保守しとくか。
238名無し物書き@推敲中?:04/01/10 22:58
239名無し物書き@推敲中?:04/01/12 19:57
久しぶりにあげとこう
240名無し物書き@推敲中?:04/01/14 21:53
漏れもあげとくか
漏れはsageてみるか
242名無し物書き@推敲中?:04/01/15 17:01
じゃ、あげてみる
弄ぶな……1さんも忙しいのだろうから。
きっと、いつか帰って来るよ。
追悼sage.
245 ◆YgQRHAJqRA :04/01/18 07:00
 長い間ほったらかしで、ほんとにすみませんm(__)m

 しばらく離れていたら、なんだか気が抜けてしまったのと、家出しておいて
のこのこ実家に戻るような気恥ずかしさみたいなものがありまして、辛かった
んです。いやはや小心者の甲斐性なしと笑ってください。

「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人也」とは芭蕉の言葉ですが、
この数ヶ月、善くも悪くもなにが変わりなにが変わらなかったのか。人が変わ
ればまた文も変わると思います。小説は技術の巧拙というシステマチックな読み
方ができますが、文の色はやはり心ではないでしょうか。どちらも大切な事だと
思います。私の文調も多少変わるかもしれません。
 さて、このまま終わってしまってはまさに黙説の悪しき実例となってしまうので、
残りの技術もきちんと始末をつける所存です。バリバリ書くというわけにはいきませ
んが、どうか細長い目でみてやってください。
うわーん。教授帰ってきたー。。・゚・(ノД`)・゚・。
247名無し物書き@推敲中?:04/01/18 13:22
>>245
おかえりー。
楽しみにしてました。
またよろしこ。
うれしい!
おかえりー!
1さんドゾー ( ・∀・)つ且~~
今後のご活躍を心よりお祈り致します。
>245
俺の迸る愛を受け取ってくれ!
待っていた甲斐がありました。
 皆さんありがとうございます。
 続きは今日か明日にはアップ出来る予定でいます。私のような無能の戯れ言を、
辛抱強く待って頂けているとは思っていませんでした。もうすっかり荒れ果てて
いるものと覚悟していたのです。
 保守してくださった方、また続きをじっと待っていてくださった方に改めてお礼
を申し上げます。どうもありがとうございました。最後までがんばりますよ(・∀・)
253 ◆YgQRHAJqRA :04/01/22 07:15
おっと、トリップ入れるの忘れてました(汗
体育座りでお待ち下さい
(。_。)うん。
256 ◆YgQRHAJqRA :04/01/24 01:08
 余情とは何かと問われれば、なんだか分かりにくい。しかし、なんだか分かり
にくくても、どんな感じかは分かるような気がする。「余情がある」と言えば、
まず褒め言葉だと思っていいだろう。
 私たちはこの余情感を感動のひとつとして捉えているとみていい。余情からう
ける感動は、ハリウッド映画によくあるような熱のこもった激しいものとは質を
異にする。
 辞書を引けばなるほど、余情とは何かと、無駄のない筆致は役所のごとしである。
 しかし、いかにすればその「しんみりとした美的印象」やら「言外の情趣」
が醸し出せるのか。どのように書けば人は余情を感じやすいのか、いくつかの例を
示ながら解説してみたい。
257 ◆YgQRHAJqRA :04/01/24 01:13
 まず、一連の文章から受ける情景やその背景に、読者がどれだけ感情移入して
いるか、という部分にポイントがある。
 私は>>81 の『クレヨンしんちゃん 大人帝国の逆襲』を観た感想で、一部で騒
がれるほどの懐古趣味に感じ入ることはなかったと書いた。そうしたノスタルジック
な事物を「知っている」ことと「体験している」ことには、大きな隔たりがある。
その差が、そのまま作品への感情移入度に反映したとみていいだろう。懐古趣味の
感動を支えているのは、体験的イメージに依るところが大きい。
 このイメージの効果をよく表しているのが、『夕焼け』>>65 の詩であった。今一度
読み返してみて、どうだろう。情報は決定的に少ないのに、印象は返って鮮明になると
いう詩ならではの趣が発揮されていると思う。これは電車内や夕焼けといった日常風景
だからこそ、読者はそこに共感しつつ書き込まれていない情報を印象で補完するのであ
る。この黙説の手法に注意してもらいたい。そして、この詩の読後感を言葉で表すならば、
「しんみり」という表現を用いてもなんらおかしくはないだろう。
 余情が生成される要素として、感情移入と印象があり、そこに黙説の空白が加わること
で読者に言い難い複雑な情感を呼び起こす。と、言い切れないところにめんどうくささが
あるのだが、強い傾向性をもっていることだけは確かである。
258 ◆YgQRHAJqRA :04/01/24 01:15
 さて、これだけではなんだか分からないので、『千と千尋の神隠し』をまたまた
例として取りあげたい。ちなみにフランス語のタイトルは『Le Voyage de Chihiro』
で、「千尋の旅」とそのまんまであるが、こちらの方がより内容を浮き彫りにしてい
ると言えるかもしれない。旅とは出会いと別れ、自らを省みる人生の縮図という見方
もできるし、その響きにはどことなく感傷的な影さえちらつく。情に訴えかけるには
申し分ない舞台装置なのだ。さすがフローベールを生んだ国であると、褒めておいて
いいのだろうか。
259 ◆YgQRHAJqRA :04/01/24 01:30
 当然まだ続くのですけど…最後のほうは書き上がってるんですが、
中盤がどうもいまいちで、ん〜また明日あたりのアップになるかも。
 ちょっとしんどい(^ー^;
再開講義第一回目は、余情感ですか。
余情感を出せるかは、自分自身の一つの目標でもあります。
っていうか、自分だけに限りませんね(w
お願いいたします。
ボヤージ
262名無し物書き@推敲中?:04/02/04 15:25
ry
263名無し物書き@推敲中?:04/02/14 15:41
p@poj
264 ◆YgQRHAJqRA :04/02/14 18:16
>>262
あはは、うまい。やられましたw

お待たせしました。つづきです。
265 ◆YgQRHAJqRA :04/02/14 18:20
 余情が最も強く表れるのは、主に作品の終結部においてである。
「けして振りむいちゃいけないよ」「さあ行きな、振り向かないで」
 映画の終わり近く、千尋を見送るハクのこのセリフはいったいなにを意味するのか。
すぐに思い浮かぶのは、主人公に対しての制約とペナルティという筋書きで、これは
民話や伝説などの物語でよくみられる形式である。卑近な例でいえば、浦島太郎の玉
手箱、シンデレラの12時の鐘、走れメロスの暴君との約束などがあげられるだろう。
 もし千尋があそこで振り返ったとしたらどうなるのだろう? ソドムとゴモラの滅亡
を見たロトの妻のように、塩の柱となって死んでしまうのだろうか?
 結果として、なにか土壇場でイベントが起こるようなプロットをみせながら、千尋は
何ごともなく元の世界へと帰っていく。これといった伏線もなく、わざわざ振り返るな
という制約を設けた意図はどこにあるのか、ここで分析したみたい。
 余情を生むための要素として、印象と感情移入、そして黙説が大きな役割を果たして
いることは先に述べた。かなり大雑把で抽象的要素だが、細かな点はあとで書くことにする。
266 ◆YgQRHAJqRA :04/02/14 18:22
 このシーンでは、まだなにか有りそうだという期待感を煽っているところがミソだ。
いわゆるどんでん返しへの布石であるような予感が、「ああ、もう終わりだな」と、
作品から離れかけてゆく観客の心をまた惹きつけるのである。途中、千尋は振り向く
ようなそぶりをみせるものの、物語の流れがここで変わることはない。つまりなにも
起こりはしないのだ。
 そして、千尋の一家がトンネルを出て車で去っていくそのあとに、まだなにかエピ
ローグがあるような淡い期待(構成的な振り向き)をまた裏切るように、映画はそこ
でふっつりと切れてエンドロールとなる。さらにそこへ木村弓の歌う切なげな主題歌が
かぶさり、美しい彩りを添えるという寸法だ。
 スクリーンに吸いついていた観客の意識はここで唐突に引き剥がされる。黙説の最大
効果である不確定感は、映画に深く没入していた観客ほど強く感じられ、その語られぬ
空白に余情は拡がっていく。もはやそこは言葉の領域ではなく、一様でもないために明
確な説明をほどこすのは難しい。人によっては余情という言葉でかたづけられないほど
の複雑な情感を訴えるかもしれない。逆にいえば、容易に言葉へと置換できるようなも
のから、余情が生まれることはないとも言える。
267 ◆YgQRHAJqRA :04/02/14 18:24
 さて、構造的な視点でラストシーンをみた場合、どのような解釈ができるだろう。
 やはり千尋は現実を生きるのであって、あれからまた油屋の世界を訪ねることは
ないし、またハクに会うこともない。きっとまた会えると約束するのも、最後に千尋
を振り向かせないための方便にほかならない。なぜなら、もう川が埋め立てられて
いることを知っているのだし、構造は観客の期待を裏切るかたちで、なにも特別なこ
とは起こらないと示しているからだ。
 また、最後に一瞬写るあの髪留めは、ファンタジーによくある実は夢じゃなかった
という暗喩とみるよりも(そのオチも含んではいるが)、現実を生きる力を獲得した
証なのだ。映画冒頭の、気力のないだらけた少女ではなくなっている点をみればよい。
そして映画の終わりと同じく、観客もまた現実を生きなければならない。それがあの
ラストシーンの意義であり、黙説の最大の焦点であるように感じられた。
 『天空の城ラピュタ』や『もののけ姫』のようなスペクタクルロマンとはまったく
性格の違う詩情性に作品の眼目があるのだ。観客をぐいぐいと惹きつけて、どっぷり
と感情移入させておき、最後の最後でスッと突き放す。
「さあ行きな、振り向かないで」
 これは千尋だけでなく、観客にも向けて発せられた作者の言葉であるように思う。
作品は虚構なのだ。けれどもそこから受ける感動は嘘ではない生きていく力になる。
それで十分ではないかと、その憎らしい演出に私はいたく感心した。これは既存の
商業アニメに対するアンチテーゼなのである、といったら少し大げさであろうか。
268 ◆YgQRHAJqRA :04/02/14 18:30
 まだつづくんですね、これが。
 映画だけじゃなんなんで、小説の例も取りあげたいと思います。
 またお待たせしてしまうかもしれないけど……。
269名無し物書き@推敲中?:04/02/16 11:16
uy
>>1さん乙です。
271 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:11
>>269
できればsageでお願いします。

>>270
私は1さんではないです。スレを立てたのほかの人で、私はそこに便乗
しただけなんです。今じゃほとんど私だけで進行させてますが(笑
スレを立ててくれた本物の1さんに感謝。

では、つづきです。取りあえず「読者」の技術はこれで終わりです。
272 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:12
 小説作品では、宮本輝『螢川』の終結が印象的なので、ひとつ余情の例として
取りあげてみたい。
 約80ページほどの短編なので立ち読みでも読みきれる分量だ。技術的に学べる
ところも多いので、暇があったら読んでみて欲しい。頭から通読すれば、この場
面をより深い感嘆をもって迎えられるのではないかと思う。
273 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:18
 夥しい(おびただ)しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に押し寄せてくる
のだった。白い肌がひかりながらぼっと浮かびあがった。竜夫は息を詰めてそんな英子をみていた。螢の大群は
ざあざあと音をたてて波打った。それが螢なのかせせらぎの音なのか竜夫にはもう区別がつかなかった。このど
こからか雲集してきたのか見当もつかない何万何千万もの螢たちは、じつはいま英子の体の奥深くから絶え間な
く生み出されているもののように竜夫には思われてくるのだった。
 螢は風に乗って千代と銀蔵の傍らにも吹き流されてきた。
 「ああ、このまま眠ってしまいたいがや」
 銀蔵は草叢(くさむら)に長々と横たわってそう呟いた。
 「……これで終わりじゃあ」
 千代も、確かに何かが終わったような気がした。そんな千代の耳に三味線のつまびきが聞こえ
た。盆踊りの歌が遠くの村から流れてくるのかと聞き耳をたててみたが、いまはまだそんな季
節ではなかった。千代は耳をそらした。そらしてもそらしても、三味線の音は消えなかった。
風のように夢のように、かすかな律動でそよぎたつ糸の音は、千代の心の片隅でいつまでもつ
まびかれていた。
 千代はふらふらと立ちあがり、草叢を歩いていった。もう帰路につかなければならない時間
をとうに過ぎていた。木の枝につかまり、身を乗り出して川べりを覗き込んだ千代の喉元から
かすかな悲鳴がこぼれ出た。風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、螢の綾なす妖光が、
人間の形で立っていた。
274 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:21
 情と景が渾然となっているような文脈である。まず銀蔵のセリフを境に、上段の
竜夫と同級である英子のいる川べりの場面と、下段の千代と銀蔵のいる土手の場面
における印象の類似性がある。
 螢の大群が立てる波のような音、英子の体に群がる何万という螢、それを息を詰め
て見る竜夫の驚き。千代の耳に聞こえる三味線の音、覗き込んだ川べりに立つ人形
の螢光を見、かすかな悲鳴をこぼす千代。
 それぞれの場面を描いた一連の文脈は、乖離すことなく読者のなかで混じり合い一体
となって最後、螢と人間のキメラとなって静かに闇にたたずむのである。千代と竜夫の
見るこの唖然とする情景は、そのまま読者の見たものとなるのだ。
 作者はしかし、千代の聞いた三味線のつまびきや銀蔵が呟いた終わりとは、螢とはな
んであったのか、その答えを明らかにしてはいない。
 もちろんこれを魂や命の抽象化であるとみるのは容易い。しかし、そうした安易な答
えに収斂してしまうことを拒むような、底の知れない感触がこの世界にはある。
 そして闇のなかに取り残された読者は、いつしか無数の螢のひとつとなって、得体の
知れぬこのキメラに吸い込まれていくのだった。
275 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:24
 余情を生むための仕掛けとして、雨や雪などの自然物はかなり利用価値の高い
小道具である。こうした道具を使う場合、なるべく周知な、イメージしやすいもの
を選ぶといいだろう。上記の小説では、タイトルにもなっている螢が強力な役割
を果たしている。
 もちろんこうした道具を単独で使ってもあまり効果はない。できれば登場人物の
心理や物語の核心をそこはかとなく反映することで、単なる雨粒は、語られぬ悲し
みや涙へと読者のなかで変貌するのである。ならば、わざわざ話者を借りて悲哀を
語ったり、人物に露骨な独白をさせるのは明らかに愚の骨頂であろう。これは比喩
の技術と似たようなところがあるけれども、こちらはあくまで余情を与えるような
雰囲気作りが目的であって、あまり手の込んだ仕掛けは必要ない。それよりかは、
いかにさり気なくかつしっかりと読者に情景をイメージさせられるか、表現の繊細
さシンプルさといった筆致に労力を注ぐべきだろう。そして読者の感情移入を妨げ
ないためにも、なるべく冗長な描写や無粋な説明は避けた方が好ましい。大事なこ
と、言いたいことはあえてぼかして描いてみせ、明確な答えではなく「なにか」を
匂わせ感じさせる。多分に書きすぎるよりは、少し書き足りないと思うぐらいで、
丁度よいのである。
 しかし、いくら簡素淡白がよいといっても、新聞報道に余情を感じる人はほとん
どいないように、単に事実や出来事を書き連ねただけでは情感に乏しい。心や風情、
自然や日常をしっとりと表現するところに余情の因子はあるのだ。
276 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:27
 さらに注意すべき点を述べれば、濃く強く激しい表現をなるべく排除し、露骨な
情動を避けつつ難解で錯乱した文章になってはいけない。かといって稚拙で軽薄
な文章ばかりでは刺激がなさすぎる。そして一番の問題が、「読者」という存在
である。
 余情をもたらそうと、どんなに書き手が汗水たらし、耳から脳汁が垂れそうな思
いをして必死に言葉を紡ぎだしても、最後は読者の感性に委ねられている。読者の
持つ経験、思想、知識に左右されることはもちろん、その時の気分なんてもので作り
手側の狙った余情など吹き飛んでしまうのだ。書き手は、そうした幻の読者を怖れな
がらも、一方でまた読者を信じて書くしかない。

 ちなみに喜怒哀楽という分かり易い感情を作品内で狙うのなら、対立の技法を駆使す
れば結構な効果が得られるし計算もしやすい。同じ感情操作でも、余情はあっさりと一
般化できない微妙な感情であるために、その表現に「深い」という言葉、意味が多く用
いられる。うまく言葉にできないが「とにかく、いい」と評されたら、まさに作家冥利
に尽きるというものだろう
277 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:29
 ここで私ごとではあるが、面白いエピソードを。

 『千と千尋の神隠し』が公開されて間もないころ、一緒に観にいこうと友人に
誘われた。映画が終わり、劇場を出た私はいい気分で余情感に浸っていると、そ
の横で友人はこうのたまわったのである。
「なにあれ、わけわかんねえ。俺的には今回はクソ」
 (゚д゚)ハァ?←私w そのあと彼は私のウンチクを小一時間ほど聞かされて、げん
なりするはめになるのだが、それでもやっぱり『千と千尋─』は「クソ」で決定ら
しい。これはどうも覆りそうもなかった。
 理屈じゃない。結局、余情だってそこに頼っているのだ。
278 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:31
 ちょっと今まで解説してきた技術とは勝手が違いますので、すぐさまこれを自分の
作品に取りいれるというのは難しいかもしれません。奇抜さや文体の妙で読ませる小説
にはまず向きませんし。
 それに、最終的な表現は個々人のセンスという問題になってしまい、黙説の技術だけ
で成り立つほど単純ではないんですね。当たり前といえば当たり前ですが、作品に感情
移入してもらわなければ余情もなにもないわけです。それには他の技術、表現力をも含
めた総合的な文筆力が試されるわけなんです。ちょろっと幽玄霊妙な小説でも書いてや
るかと、コンビニ気分で書ければ、芥川賞の選考も楽でしょうね。ま、本格志向はトレ
ンドじゃないのかな。私もよくわかりません。
 それでもなお、この種の叙情文の醍醐味を求めて止まない人には、「情」と「景」の
関係をしっかりと考えて書くことで、洗練さの部分では及ばないにしても、少しは見栄
えのよいものに仕上がるかと思います。
279 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:32
 読者に対して、書き手の不安や期待が伝わってしまうと、もうそこに自然な感動
は生みだされないとみてよいでしょう。特に文学好きの読者の目は肥えていますの
で、あざとさやいやらしさのほうが目についてしまうはずです。本の帯に「涙が止
まらない」なんてコピーがデカデカとあると、返って白けてしまう感覚ですね。
まあ、心がねじけていると言えなくもないのだけど。素直な心で大いに泣けるとい
う人は、こういった感覚を気にする必要はないかと思います。小説を楽しむには、
そっちのほうが幸せなんじゃないかな。
280 ◆YgQRHAJqRA :04/02/16 19:38
 なんかちょこちょこ書き足していたら妙に長くなってしまいました。
もっと簡単にしないといけないね。
 次はいよいよ「視点」に関する技術です。
千と千尋のラストはたしかに感じるものがありました。
◆YgQRHAJqRA さんの解説を読んで、さらにジーンと来ました。
振り返っちゃいけないよ、というのはズルイですよねw
age
283吾輩は名無しである:04/03/26 14:50

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284名無し物書き@推敲中?:04/03/26 19:42

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285名無し物書き@推敲中?:04/03/26 20:35
ガチンコファィトクラブ
>>283-284
誰?
某監督?w
287 ◆YgQRHAJqRA :04/04/06 04:38
 またまたお久しぶりになりましたが、地味に更新していきます。

 ジーンとくる小説を書けたら最高ですね。たとえそれが技術のたまものであった
としても、感動の質は変わらないんじゃないかな。
288 ◆YgQRHAJqRA :04/04/06 04:40
 映画は、その表現のために目まぐるしく視点を変化させるが、元ネタともいえる小説は
定点的な視点でしかものを見れないのだろうか。いつも同じような視点でしか小説を書け
ないのは、小説が不自由な媒体だからではない。それどころか、あまりに自由すぎて大抵
の書き手はその取り扱いをもてあましているのだ。
 書きたいものがあるという 「思い」 だけではやはり、なかなか読者に伝わらないとい
うのが現実であろう。その 「思い」 を形にする、見えるようにするための技法をおおま
かに、「類似」 「対立」 「時間」 「読者」と、分けて解説してきた。
 今回で一応最後となる 「視点」 は、直接小説の表現にかかわる技術でもあり、解りに
くいと感じるところもあるだろう。そこはまったくもって私の力不足からなる業であるため、
ご容赦していただきたい。

 小説上のカメラワークともいえる実際的な視点の操作を解説する前に、私たち自身の感覚
器官が捉える視点、ものの見方についてまず考えてみたいと思う。
289 ◆YgQRHAJqRA :04/04/06 04:45
    ─ イメージと視点 ─

 小説の世界は、なにがしかを見るところから始まる。小説が映画化できるのも、ひとえ
にいろいろと 「何か」 を見ているからに他ならない。ここで見るというのは、なんとな
くカメラでパチリと撮るような、単なる切絵的な見方をいうのではない。
 おおらかな気持ちで空を見上げるとき、私たちは風の香りや鳥のさえずりなどの諸感覚
から入る情報も視覚に織り交ぜて、空というイメージを見ている。だからこそ、そこにあ
る空に春を見つけもし、うららかなる語の情緒も育まれてくる。逆に針穴に糸を通そうと
しているときはどうだろう。視点は針穴や毛先の一点に集中し、周囲のものはほとんど感
取されなくなり、息をするのさえ忘れてしまう。ひとくちに見るといっても、このような
差異がそれこそ無段階に生じている。
 人は全知覚から得る情報を、イメージに集合させて外界を捉えている。もちろん視覚は
そのうちの8割強を占めているが、残りの知覚もイメージを構成する要素として無視はで
きない。また、意識下ではさまざまな刺激から別のイメージが浮いたり沈んだりしている。
それがなにかの拍子に前面に表れ、実際に今見ているイメージに融合したり投影されると、
壁の染みが途端に人面の相を成し、虚像に怯えたりするのである。そして、この虚像が小
説世界という現のなかで動きだせば、ひとはこれをファンタジーやホラーと呼んで分類す
るだろう。
 平生は、意識下のとりとめのないイメージは抑制されているため、絶えず錯覚を起こす
ようなことはない。しかし、麻薬などの作用でこうした抑制の働きが鈍化すると、強い幻覚
症状を引き起こす。現実にはあり得ないもの、見えるはずのないものが、ありありと見える
という。 
290 ◆YgQRHAJqRA :04/04/06 04:46
 私たちはいつも見たいものだけを選択する。
 自分が今見ているものは文字の羅列ではない。はるかな銀河に向かって走る鉄道
や、人生に敗れて死の淵に立つ人間を、愛と自由を語るカモメを、見る(見たと感じ
られる)ための想像性を有しその面白さを知って、幾度も小説の扉を開き、また自ら
も書いてみたいと思いはじめるのは、自然な成り行きかもしれない。
 しかし、今だ自然に文豪となる気配もなく、いみじくも玄人を目指さんと欲する人は、
この視点の変性に留意しておくにこしたことはないだろう。なにかをじっと見ていると
きと、呆けているときではおのずと─ 一人称小説では特に ─それ相応の描法を駆使し
て然るべきではないだろうか。今は『異邦人』における時間の変性が、そのまま視点の
変性にもつながる手並みを参考にしていただくとして、もう少しイメージの話を続けたい。
キター
◆YgQRHAJqRA さん、楽しみにしています。
待ってました!
おつおつ
295 ◆YgQRHAJqRA :04/04/09 21:00
 物書きが、言われてムッとくる言葉のひとつに 「陳腐」 というのがある。
別に陳腐なものを書こうと思って書いたわけではないのに、ひとは陳腐だあり
きたりだとバカにする。そこで次は珍妙な表現手法をかってがんばってみる。
すると今度は、そのミナギッタ珍妙さがまた陳腐極まると、したり顔で吐き捨
てるのである。いったいどうすればいいのかと、明日はどっちだと言いたくな
るだろう。トルストイの自伝的小説 『青年時代』 にこんな記述がある。


──公爵夫人の好きな場所とは、庭園のいちばん奥深いまったくの低地にある、細長い
沼にかけわたされた小さな橋の上だった。ひどく限られてはいるが、非常に瞑想的な優雅
なながめだった。われわれは芸術と自然を混同することにすっかり慣れてしまったため、
絵画の中で一度も出会ったことのないような自然現象が、まるで自然そのものまで作り
ものであるかのように、人工的なものに思われることがじつにしばしばある。反対に、絵
画の中であまりひんぱんにくりかえされてきた現象は陳腐に思われるし、現実で出くわす
ある種の景色が、あまりにも一つの想念や感情にみちすぎていたりすると、わざとらしい
ものに思われるのだ。公爵夫人の好きな橋の上から見る景色も、このたぐいだった。──
296 ◆YgQRHAJqRA :04/04/09 21:04
 日常において私たちに必要とされるのは、きれいなものをきれいと言い、きた
ないものをきたないと言う神経である。散りゆく桜ははかなく、梅雨はうっとう
しいのである。直截な、ありきたりなもの言いができることは、他人の安心を買う
うえで便利なルーチンだといえるだろう。

 風景を発見したのは都会の人間だと言われている。
 ともすると、私たちは馴染み深いシンボリックなイメージから逸脱するのを避け、
「あまりにも一つの想念や感情にみちすぎ」た、平凡な表現のなかへ対象を回収し
ようとする。また、ときにその陳腐さは、知らず人間を差別的に選り分ける政治性
さえ発揮する。
 既存のなかにうずもれた風景を、裸の目線でもう一度発見すること。そう口で言
うのは容易いが、習慣的な発想はなかなか私たちを解放してくれない。ついつい紋
切型の思考と文句を連ねてしまうのは、無思慮であるか、高ぶった気持ちでいると
きだろう。落ち着いてものを見れる(イメージできる)状態にない人は、概してお
さだまりのフレーズを連呼するのだし、書ける書けるぞと、ノリノリで小説を書い
てみたら、ことごとくなにかの剽窃であった。なんてことも無きにしも非ずである。
 そこで書き手は一所懸命に、独創的で個性的でカッコよく、うまい文章を書こうと
意気込む。そして、頑張れば頑張るほど、反って 「わざとらしいものに思われるのだ」
297 ◆YgQRHAJqRA :04/04/09 21:06
 >>71のところでも触れたことだが、私たちはさまざまな観念を養ってきている。
意図的であろうとなかろうと、ある種のイメージを工夫なしに扱えば、陳腐化を
助長して作品を台無しにしてしまう恐れがある。陳腐さの判断はつきにくいとこ
ろもあるだろう。だが、世界を見る自分の視点が固着していないか、ただ漫然と
書いていないか、おりおり自省してみるのは大切なことだ。

 マンネリが加齢的であるように、幼年と成年でイメージの仕方も変遷していく。
次回はそうしたイメージの方向性と見ることが書くことにどう繋がるのか、そん
なところを解説したい。
蝶番、近接、黙説等々。
しかし、もっとも高度な技術は焦点化の離れ業であろう。
>>298
焦点化の離れ業とはなんですか?
教えて
俺は298ではないが。
「本気で小説家になりたかったら、漱石に学べ!」という本を読むと良い。
くわしく説明してある。
しかし一般的な言葉では無く、この本の作者が作った言葉だと思う。
ググってもヒットしないしね。
でもこの本はわりとおもしろかった。未読なら読んでみてもいいかも。
立ち読みするなら、本の真ん中あたりより後ろをまず見れ。
前半はなんだかちょっと退屈ですんで。後半がよい。
>>300
ありがとう。持ってたよこの本。
しかしどうも眉唾なんだよな。この作者、作家になれなかった人だし。
持ってたのか(w
303 ◆YgQRHAJqRA :04/05/15 05:59
どうも、忘れたころにやってくる◆YgQRHAJqRA です。
 このスレに書き始めて早一年経とうとしています。ん〜……、
なんか月並みな言葉しか出てこないので止めときましょう。
 思うところありまして、だいぶ前からネットの回線を断っていまして
ろくにレスも返せませんですみません。さらにPCと携帯をなくせば時代
遅れの漂流民になれそうですが、なかなかそうもいきません。

 もっとも高度な技術は、技術を消す技術だと思います。 
まあ高度か低度か、ひとつひとつの技術でいえば、何年もかけて勘を養わなけ
ればいけないようなものではないからね。使い方を知れば、とりあえず単純には
使えますし。実際には技術を有機的に作品に結びつけるところに手練がいるんです。
 あと、ご存知の通り、渡部直己は私の先生(勝手に)で、その著作を読んで頂
ければこのスレを見る価値はあまりないのだけれど、まあほら、拙いながらもタダ
だからこっちは(笑) 
 「焦点化の離れ業」先生こういう語勢のいい言葉好きですから、知らない人にはな
んだかよくわからないと思いますけど、叙述における視点の移動と伸縮に関する技術
です。このスレでは次の次か、その次くらいにやります。

 >>301 知識と実践はちがうものですから、と弁護させてください。

  続きは、え、また頃合のいいころ(なんだそれ)にやってきます(^^ゞ 
304 ◆YgQRHAJqRA :04/05/15 06:03
あ〜、sage忘れてしまいました。自分で言っておいてすみません。もうきません(ウソ
305298:04/05/15 06:08
>>303
楽しみにしてますよ。

是も非もなく、お願いします。
>>303
私も楽しみにしてます。乙です。
一周年前記念sage
>>304

>もうきません
一瞬ギクッ

>もうきません(ウソ
よく見てホッ
309298:04/05/16 07:41
まだ、連載が再開されないので、
閑話休題。

>>303
への反論。
技術はそう簡単に使えるものではない。
資質の問題もあるだろうが、はなはだしく知識と実践との乖離が生じるものだ。
ナックルボールの知識があっても、実践で投げられるわけではない。
技術はその人の能力に応じて血肉化して始めて使えるものになる。
直喩一つ取り上げても、これはといえるものに出会うのは希だし、プロにおいてもそうなのだから、
素人においてはなおさら、陳腐な比喩のオンパレードということになる。

次に「技術を消す技術」について。
「技術を意識させない技術」という意味ならば同意だが、
文字通り、技術を消すという意味であれば、
技術は必ず顕在化され、それを消すことは不可能だ、と反論しておこう。
それ故に目利きが存在する。
作者の一人よがりは技術とは評価されない。
ただ、解釈には微妙なところもあって、
単なる深読みと片づけてしまえるものか、
恋人の眼差しや仕草の一つが他人には窺い知れないシグナルと読める、
という違いもあると認識した上でのことだが。
(あばたもえくぼということわざもある)

分かりやすい喩えでいえば、
(サッカーを知らない人には通じないだろうが、
そして蛇足ながら上記のナックルボールとは、ベースボールでピッチャーが投げる球種のこと)

マラドーナの技術は技術として意識させない。
われわれ観客は唖然、呆然としてこれを楽しむ。

名作もこれに同じ。
310すんてつ:04/05/16 14:37
 では俺も意見を。
 技術は使うものだ。
 使いこなすのはまた別の話。 
 先生の彼も、
 >使い方を知れば、とりあえず単純には使えますし。
 >実際には技術を有機的に作品に結びつけるところに手練がいるんです。
 と言ってるやん。
 これを、君のナックルボールの例えで言えば、
 「握り方をナックルにして投げるのは誰でもできる。
  だが、打者をナックルで打ち取るには修練が必要」
 ってな感じになるだろうか。
 握りをナックルにする=技術をつかう
 打者を打ち取る=何らかの感動を呼ぶ
 ナックルボールになってないのにうちとっちゃった
 =効果に無自覚な作者のフロックwもしくは、もともと豪腕だった。
 おお、我ながらいい例えだ(w
 結局、>>309の前半は、「使える」という言葉の定義に対するツッコミなのだね。
 ならばそこに論をもっていかないとイカンですねえ。
 論のおおまかな内容は、>>303のまんまなのだから。ちょっとズルイ(笑)
 
 つぎに、彼は技術を消す「技術」って言ってるね。
 それはまごうことなき技術であろうよ。またしても>>303のまんまだよね。
 >>309後半はちゃんと「消す」という言葉へのツッコミになっているが、
 まぁ……彼が技術を無くしちゃえと言ってるようには見えないよなァ。
 彼の言う「消す」とか「有機的に」ってのは「自然に」と近いように思えるがどうだろうね。
 作品がまず何らかの感動を生む。こりゃどういうわけだ?と分析してみると、
 そこに周到に技術が用いられている、と。
 初見では技術が見えないわけですね。だから「消えて」いる。
 ステルスですな。実際に戦闘機が消えるわけではなく、レーダーにかからない。
 ヘタピィ〜な文章は、ここんとこが消滅しながら逆転していて、
 あ、感動させようとしてんなコイツ、技術ミエミエだし。てな感じになるわけだ。
 早期警戒レーダーにかかって、対空ミサイルであぼーん(笑)
312298:04/05/18 06:35
まだ、休憩時間ということでよろしいですね。

議論などという徒労で時間を浪費するの性に合わないのだが、
今回はあえて書かせてもらうことにした。
ひとつは、言い出しっぺであること、そして、ここが「技術スレ」であるという理由からである。
まず、何をもって「技術」とするか、ということを明確に定義しない限り、そもそも論議事態が成り立たない。
こちらの論旨としては、実践で使えないものは技術とはいえない、ということだ。
それ以前のものはあくまで「習得過程の産物」でしかない。
だから、>>310
>握りをナックルにする=技術をつかう、>打者を打ち取る=何らかの感動を呼ぶ
という解釈は、こちらに関する限りでは間違っている。
上記の形を借りていえば、
握りをナックルにする=習得過程、打者を打ち取る=技術
ということになる。補足すれば、>>303
>使い方を知れば、とりあえず単純には使えますし。
>実際には技術を有機的に作品に結びつけるところに手練がいるんです。
「とりあえず単純には使える」技術などはたしてあるのだろうか。
多分、拙い技術と巧みな技術とを使い分けているのだろうが、
裏をかえせば「無機的に」作品に結びつける(拙い技術)を、技術という名で呼べるのかということなのだ。
マニュアル通りの使い方ができるのは習得過程の産物にしか過ぎず、それを血肉化した時初めて技術といえるのではないか。
もちろんナックルボールがすべて成功するわけではないし、
作品においても出来不出来、巧拙は当然存在する。
よって、こちらの論旨としては、
打者を打ち取る(確率の高いもの)=技術=有機的に作品に結びつく(可能性の高いもの)
という、技術の定義が導き出されるわけなのだ。
313298:04/05/18 06:36
技術を消すということに関しては、いずれ実例で披瀝していただければ済むこと。
納得がいけば、こちらも持論に固執せずに、改めるにやぶさかではない。
勉強になりました、とお礼をいう気持ちでいるということを申し述べておきましょう。

勝手ながら、講師の方には、意地の悪い聴講生の質問などに拘わらず、講義を進めていただくよう希望します。
(他の聴講生の方々は早く休憩時間が終わって、先を聞きたいはずですから。もちろん、こちらとしても)
こんな論議は、講義の後で一杯飲みながらやるのが相応しいですからね。
314すんてつ:04/05/18 14:57
 ほいほい。
 授業が始まるまでワイワイ騒ぐのは生徒の本性だね。
 先生来たらピタッとやめるから大丈夫だよ。俺は小心者で腹黒いからね。

 では意見を。
>「とりあえず単純には使える」技術などはたしてあるのだろうか。
 とのことだが、下の文章を読んでいただきたい。 
 『あのね、チアリーダーのぽんぽんのように咲いたよ、桜が。
  足を車輪のように回して走ったよ、犬が。
  犬が「もうカンベンしてワン」と言ってたよ。それ見て、桜も笑ってたよ。』
 うは、すげえ稚拙(笑) 俺のいうところの、ナックルの握りで投げた球です。
 バッターボックスまでも届いていないような感じですが(笑)
 でもとりあえず、文章として成立しています。つまり、球は誰でも投げれるのです。
 ここには明らかに「比喩法」「倒置法」「擬人法」「一人称」が存在してますね。
 これらを「技術」と呼ばずしてなんと呼ぶのか。簡単だから技術じゃない?
 だとしたら「簡単である・簡単でない」の線引きが必要になるねえ。難しい。
 他にも「技術」が見えますからそっちでいこう。
 頭弱そうな言葉の選択の基準を定めるのも「技術」と言えるでしょうし、
 ”語り手-書き手”のレベルで言えば、語り手の拙さを演出しようとした
 書き手=俺の意図の表れもまた、「技術」と言えるでしょう。
 すべて、普段とは裏がえしの技術の使い方ですね。反技術か(笑)
 ややこしくなった。ええと。そうそう、「技術の定義」だった。
 上に述べたような、部分部分にみられる「技術」を、修辞法的なものまでひっくるめて、
 『個々の技術』と呼びます。これが俺の定義です。
 修辞法的な、簡単なことから、全て「個々の技術」だと思うのですよ、俺は。
 「個々の技術」を使うこと自体は、そんなに大層なもんじゃないと思うのです。
 文法みたいなもんで、ただ使えばいい。
315すんてつ:04/05/18 14:57
 で、「個々の技術」をいかに纏め上げるかも確かに「技術」です。ややこしい。
 これを「個々の技術」同士の『連携の技術』としましょう。これも俺の定義ですが。
 298さんの言う技術は、この「連携の技術」に焦点されているように思います。
 しかし先生のいう「技術」は、両方を含むのだと思うのです。
 先生の言葉は、俺にはこう見える。
 >(個々の技術の)使い方を知れば、とりあえず単純には使えますし。
 >実際には技術を有機的に作品に結びつける(連携の技術)に手練がいるんです。
 うん、こうなるんだと俺は思うんだよナァ。
 これを「連携の技術」というレベルだけで読むから、ちっとピントが外れるんじゃないかと。
 「個々の技術」「連携の技術」そして最大の技術は「作者の意図を隠す技術(=消す技術」
 おおざっぱだけど、この3つを意識すると、先生の言葉の真意が見えるんじゃないかと。
 
書き手の真意なんぞどうでもいい。
あとから言葉の定義付け始めるのも無意味。

各々が自分の納得行くように解釈すれば、それでよろしい。
できれば好意的にネ
>>316 君も好意的にネ
>>317
俺は無理
ここはマターリ。
320名無し物書き@推敲中?:04/05/31 11:23
保守上げ
>>320
プッ、ゲラ。
保守上げだってさ(プッ
保守はsageでもいいのに、そんなことも知らないのか(ケケケラ ケケケッ
区美句呉予(プゲラヒャゲラ

先生の出番を待ちましょうね。
>321
あ、言い逃げスレの223だ!
323321:04/05/31 21:26
>>322
誰だそれは?
「いい逃げスレ」などという、この世のものとも思われない程に
恥ずかしい命名を施された地域に出没したことなど、いまだかつてない。
間違えないでくれ給え。
324298:04/06/04 23:38
こちらは自習していたいんだけど、まだ講師来ないし、話しかけられて無視するのも失礼だから、・・・

すんてつさん、それはカーブだ。
返球。
「来ちゃんたんですよ、あの人が。茹蛸みたいに真赤になって」
これも(クソ)カーブです。
それでナックルボールの喩えを出したわけです。以上、省略。

中には「技術をめぐるつまらない冒険」を面白がってくれる人もいるかもしれないので、
(「もっとやれ!」前よりはげしく叱る声がした。馭者は答えた。「もう馬が走れないずら」へヴォリー夫人より)
少し逸脱しますが、何故高度な技術が必要になるのか、ということを書いてみます。
すんてつさんの例文は何かのパクリなのかどうか知りませんが、ちょっとした小話みたいで面白いと思いましたよ。
問題はここから先なのです。なぜ犬は走り廻っていたのか。なぜチェアガールのへそという比喩なのか。
あえて文学とは言いませんが、ここから物語が小説が始まっていくのです。推理小説かもしれないし、エロチックファンタジーかもしれない。

「響きと怒り」の着想は、木に登っている少女の汚れたパンツが見えるという情景が浮かんできたからだと、フォークナー本人がぬけぬけと言っています。
そして、それを白痴の弟が見上げている云々と膨らみ、成人になった彼女が今度は雨樋をつたって駆け落ちするために家出する。
デビット・リンチは、自分の家の内部が映し出されたビデオテープを家人が見ている、というイメージから「ロスト・ハイウェイ」という映画を作っています。
夫が妻の過去に疑惑を抱いていき、そこからリンチ独特の世界が展開されていく・・・。

カーブだけでなく、ナックルボールという技術も使いながら。
「ボバリー夫人」もまたしかり。
ナックルは誰にでも投げられるわけじゃないな
( ゚д゚)ポカーン
327 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:40
 どうも、月いちでやってくる◆YgQRHAJqRA です。
 いろいろなんか盛り上がってる感じで私もうれしいかぎりです(他人事か)
 時間があれば私も混ざっていろいろお答えしたり、お答えされたりしたいのですけど。
 技術という包括的な言葉をひとつの形、定義に閉じ込めてしまうのは難しい
ですね。「技術とはなにか」なんて命題をつけると、どうも始末が悪く、ポケット
に山を入れるようなことになります。そこを議論したいという方もいるでしょうけど、
消耗がはげしいので私は参加しません。
 あと、技術を消す技術ですか。これは言い方が悪かったですね。すみません、適当
にあしらっておいてください。でも、あらためて技術を消すことを考えてみたりしたん
ですけど、これも時間がないのであとまわし。
 では、視点のつづきです。
328 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:43
 さて、前回に引き続いて今回もいっこうに技術的ではないかもしれない視点と
異化のお話。はてさて「異化」ってなに? なんていう方は、とりあえず広辞苑
などを開いてみとよい(本当は、「Googlで検索してね、おしまい」と言いたい)。

 多少なりともクリエイティブな仕事をしたいと願う人にとっては、前回いった
陳腐さを避けたり、克服するのに、もっと深くものごとを見なければ。感覚だって
「カミソリみたいに」 なんて比喩を持ち出さないくらいに鋭くしなければ。そんな
風に思い至ったかもしれない、またそう思い至るように書いたかもしれない。
 たしかに、なんの工夫もなく、当たり前のことを当たり前に書いて、読者の感動
を催促するのはなんとも横着で虫のよい話である。仮に卓抜した観察眼をもって
「なにか」 が見えたとしても、それを言葉として描写につなげる筆力が伴なわなけ
れば、活力ある文章を書きつづるのは難しいだろう。その上、現実や小説を深刻に読み
たがるほどに、表面的な人生論や人間像といったものを獲得してしまう場合も、ままある。
そうした読み手が書き手の側に回ったとき、この抽象的な 「深さ」 は、まさに陳腐の
裏返しになってしまうのだ。
 では、そうならないために、どのようなものの見方、書き方があるのだろう。と、いうこ
とで、今回はブレヒトの演劇理論とロシア-フォルマリズムの文学理論から、異化の効果に
アプローチしてみたい。合わせて、言葉とイメージの関係性とイメージの構築方向についても
思量する。まあ、理論といってもいかめしい話をずらずら並べるのが目的ではないし、概念的
に共通する部分も多い両者を細かく弁別したりはしない。また、私の解釈の違いもあるやも
しれない。なので、お手元にへぇボタンでも置いて気楽に読んでいただければと思う。なかに
は創作に役立つキラリと光る種もある、かもしれない。
329 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:46
 北朝鮮拉致被害者である地村さんの子供たちが日本に戻り、故郷の福井に帰る途中、
整った水田を見て長男が訊いた。農作業をしている人があまりいないけど、なぜ?
 父の保志さんは、日本では機械で作業をするから、人手は必要ないんだ。そのよう
に答えると、ずいぶん驚いていたという。
 端的にいえば、この驚き、予期せぬ出会い、発見が異化である。
 北朝鮮では、昔の日本と同じように、田植えや肥料の散布に多くの人の手を借りて
おこなっている(農業の機械化はかなり遅れているらしい)。それが常識であり、
変わらぬ営為であり、自明の事柄なのであった。
 かの地では、よれよれと不揃いに並ぶ稲も、この地では北朝鮮軍の行進と同じように
整然と並んでいるのである。彼はそのとき、日本を祖国ではなく、異国なのだと実感した
だろう。
 逆転させれば、これは私たちの常識、田植えは機械でおこなうこの時代に、─『木を植
えた男』ならぬ『稲を植えた男』とでも言おうか─ ひとりせっせと腰をかがめて、一本
一本、広大な水田に向かって稲を植えている人がいたら、どうだろう?
 そこには、とかく風になびく稲穂を 「美しく」 描写したがる視点からは見えてこない、
「現実」 のすがたがある。
 世間にすんなりと共感される自然な目線とか通念といったぬるま湯に、どっぷりと浸かっ
ていては見えてこないものがある。もはや変わることはあるまいと安心しきっている人々の
認識をうたぐり、見直し、また解体していく。そうした異化の効果が、人を、なかんずく
社会を転化させるひとつの力となる。
 蓮池さんの子供は、はじめソウルという言葉に嫌悪感を示していたという。しかし、韓国ドラマ
「冬のソナタ」 を観たあとには、自分からソウルに行ってみたいと口にするまで、その態度を
変えている。それはなにもヨン様がステキだったから、という理由だけではないだろう。
330 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:47
 この事例をみれば、北朝鮮当局が自分たちの体制=神話を守るために、必死になって
情報を統制するのも当然であろう。北朝鮮に限らず、神話作用というのはいたる所に
働いているものだ。それは日々の習慣であったり、学校や会社の規則であったり、法律
であったりする。そして異化は、それらが決して不変不朽ではないと訴える。昨今、物議
をかもしている皇室、天皇という不可侵の神話も例外ではない。
 なんだかアナーキーな話しぶりになってきた。とりあえず、必要なのは、眉間にしわを
寄せた思想ではなく、決めつけてものを見ない開かれた見識であろうと思う。
331 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:49
話し変わってここで問題。
 犬も歩けば? 「  」。
 パロディやデフォルメ、笑いは異化に満ちている。日常化した言葉、事物に対
しての思い込みを、いい意味で裏切ってゆく。
 例えば、「面白い」 を 「面黒い」(辞書を引いてみよう)といい、さらに言葉
をゆがめて 「面グロい」 と表現すれば、当世風であろうか。また、ほんらい口から
飲む牛乳を鼻から飲んでみたりする。いきなり 「まずいっ」 と、言い放った青汁の
コマーシャルは、まさに常識破りであった。
 となれば当然答えは、犬も歩けば 「ハッスル ハッスル」 と……。

 さて、一風の涼を呼ぶギャグも季節がら有効であろうが、小説も書けるお笑い芸人を
目指しているのでない方は、もう少し実のある話を要求されるであろう。
332 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:50
   「しにん」 小二 ふじもりてつ

 雨ばかり  ふって  いたので
 こうずいに  なって  しまった。
 たくさんの家が  ながれる。
 人が  しぬ
 どこの  うちも
 おそうしきを  やって  いる。
 おはかばかり  ふえた。
 おはかには  みんな
 そうしきまんじゅうや
 みかんを  おそなえして  いった。
 夜  になると
 しにんたちが  でてきて
 ちゃいろの  どろみずを  はきだしている。

333 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:53
 この詩を、小学二年生の児童が書いたから驚けというのではない。また、よくある
「心の闇」 について語るのでもない。
 「子供」 という記号がもたらす 「純真」 とか 「無垢」 「明るい創造性」 などと
いうイメージが、まがいものとまでは言わないまでも、必ずしも子供の実態ではないこ
とを承知した上で、この詩を玩味しなければなるまい。
 注目すべきは、やはり作者の一貫した視点であろう。詩の内容に伴なって現れがちな、
怖いとか悲しいといったありふれた感想には支配されず、ただ、ただ、無情のカメラとし
て世界をとらえている。このリアリズムが、詩に迫真性をあたえている。そして最後の二行
(ここでも視点はいささかもブレはしない)、突然作者の内より吐き出された異化のこうずい
で、この硬質な世界は押し流されてしまうのである。
 仮にこの詩が、 「みかんを  おそなえして  いった。」 のところで終わっていたと
しても、それはそれで重みのある詩として成立はする。
 だが、堅密な現実のあわいを突き破り、超現実の使者(死者)がわれわれの眼前にそのすがた
を現すと、詩全体(世界)がいっきに異界化され、重みに増して凄みさえ感じさせるまでに
なるのだ。
 もちろん、計算高くそうした効果を意図して書いたわけではないだろう。むしろ妙な見栄や
分別をひけらかそうとしない子供のほうが、言葉の美的構成力をそのまま感知して、すぐれた
詩を生み出せるのかもしれない。
 さかしらな大人はこういう詩に触れると、さらに言葉のウラへ回り込もうとして、無遠慮に
心理学的メスを振るいたがる。しかし、解釈によって同情や感傷を招くならば、返ってこの詩
から遠ざかることになるだろう。
 ちなみに、鋭い方は 『螢川』 のラストと類似した構造を、ここに重ねるかもしれない。
まあ向こうは小説で、情緒に流れている分、迫力という点ではこちらに軍配が上がるけれども。
334 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 21:54
 と、ここまで書いてふと、『ボヴァリー夫人』 はどこに行ってしまったのだろう?
と、すっかり出番がなくなって消えかかっているタレントのような扱いになっている
のは分かっていても、たぶん、というかかなり、今後も出番は少なそうであり、ずい
ぶん前に 「愛」 などと口ばしったことをちょっぴり後悔もしているのである。
 ま、ともあれ次に進もう。
335 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 22:04
 「光」 小六 石川せき子

 しめったわらから光がとびだした
 光にははねがはえてとんでいった。
 とんでうすくすきとおった中へはいった。
 その中に、春がさいていた。


 うって変わってこちらの詩は朗らかで、健康的な明るさに満ちている。親が手放し
でよろこんでほめそうな詩であり、実際よろこんでいいし、ほめてあげていい
(ふじもり君の詩もほめてあげよう。あの詩を理解できる審美眼が親にあるかが問題
だが)。
 その簡明な印象から、なんだか自分にも書けるかしらと、そわそわする方もなかに
はいるかもしれない。だが、はたしてそれほど簡単に書けるであろうか? いや、書く
前に、同じ状況にあってこの 「光」 を 「見る」 ことができたであろうか?
336 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 22:09
 作者はおそらく、田畑などに刈られて積まれたわら、あるいはわらのようなものを目
にしたのであろう。日差しに強さを感じられるようになった春の昼時と思われる。たぶ
ん周りにはもっと 「春らしい」 ものがたくさんあったに違いない。
 草木が芽吹き、花が咲き、蝶が舞い、鳥が歌う。そんなどこにでも転がっている春の
意匠が、目につくはずである。
 しかし、作者は春を描きたかったのではない。作者は見つけたのだ、光を。
 この詩の命は、一行目に集約されている。とびだした光を追った先に、春があった
だけだ。言い方は悪いが、一行目以降はおまけである。
 形のないものに形をあたえ、命のないものに命をあたえる、アニミズム的自然観の
あらわれといえばそれまでだが、私はやはり作者の一般的な感興に落ちない(これは
両方の詩に共通している)まっすぐな視点を称えたい。

 私たちは日常を円滑化させるために必然、瑣末なもの、茶飯事となるもののすがた
を省略してしまう。例えば、洗濯物を干すのにいちいち洗濯バサミの形状をしげしげ
と見定めて手にするだろうか。パソコンで文字を入力するのに、一文字ずつキーの配置
を確認していたのでは埒があかない。
 たしかに、脳ミソを効率的に働かせるために、そうしたエンコードは必要である。だが、
そんな雑な、ほとんど盲目的な目でいたとき、あの 「光」 が見えたであろうか。
 異化の目 ─詩人の目といってもいいが─ は、そうした日常の自動化された感覚を停め、
意識の表へと知覚能力をフィードバックさせ、対象を自在に生け捕ってみせる。そのとき、
言葉は見る者のイマジネーションと同じようにゆがめられ、世界は自然の法則から解き放た
れる。
 結果、異化効果をもたらす。
337 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 22:11
 これで、よしわかった! と、詩人の目になるのだったらなにも苦労はない。
なぜなら、ここまで書いてきたのは、ほとんど感覚の領域の話であるから。
 柄谷行人の言説をここで引用しよう。


 ─たとえば、怒りや悲しみがいかに真率なものであってもそれをことばにすれば
凡庸であり他人を感動させないのは、それらが本来伝えがたい失語の溝を一挙にとび
こえて社会化したクリシェ(紋切り型の表現)に頼ってしまうからだ。固有の怒りや
悲しみでありながら、ことばにしたとき私たちは他人の怒りや悲しみしかもつことが
できないのである。書く意図や動機がどんなものであっても、私たちは社会的言語と
の格闘を経なければリアリティを実現することができない。したがって、いかに書く
かは技術的な問題ではなく、もっとも倫理的な問題であり、ここにすべてがふくま
れている。─

 これは批評について語っているのだが、その倫理的な問題というのは、創作の舞台
の上では言語感覚の問題になる。そういう感覚をなかなかつかめないという方もいる
だろう。技術そのものの伝達は容易であっても、「感じ」 とか人の内的資質を伝える
のは至難であり、ついに才能はコピーされ得ない。
 だがしかし、そこをなんとかして、技巧的に異化へ近づく方法を考えよう。
338 ◆YgQRHAJqRA :04/06/15 22:23
 いいところですが、つづきはまた次回。しかし長いな。
久しぶりの講義、有り難うございます。

異化の視点については、それをメインとして作品を仕上げるためには、
つまるところ個人に特別な資質・感性が必要なのではないかと思っています。
しかし、異化の視点を作品の一部分においてスパイスとして使用することは、
技術として身につけたものであっても、有効に利用できるとは考えています。

技巧的に異化へ近づくという次の講義を楽しみにしています。
あっそうだ、ageておこう。
341名無し物書き@推敲中?:04/06/19 00:37
age
342 :04/06/20 05:48
>>337
引用した柄谷行人の著作名を教えてくんさい
↑ 屑
344名無し物書き@推敲中?:04/06/26 20:20
アゲ
345 ◆YgQRHAJqRA :04/06/29 20:25
 どうも、あんまりageなくていいんじゃないかな〜なんて思っている◆YgQRHAJqRA です。

 柄谷行人の引用は 『畏怖する人間』 からです。タイトル付けるの忘れてました。すみません。
 あとちょっと補足で、いくら異化といっても、何度も何度も使いまわされ、反復されれば、
もうそこに異化の効果はなくなってしまいます。素材のうまみを引き立てるスパイスとして
異化を用いるという意識は正解かと思います。技術のほとんどはそうした調味料的な性格なの
ですが、その主客を大胆にひっくり返すということもできます。実験的、前衛的小説という
のは手段が目的化しているんですね。
 別にそういう書き方がダメだというんじゃないですよ。ただ、その目的や理想のためには、
どのような手段も正当化されてしまう勘違いが、ときにおこります。作家という人種は、
なにを書いてもかまわないんだ、という論理は、ゴシップを書くような売文屋の理屈であっ
て、まっとうな物書きのものではありません。渡部直己が筒井康隆のテンカン差別を指弾す
るのもそういうところでありまして、くわしくは 『日本近代文学と<差別>』 を参照して
もらい、ここは江藤 淳の一説を取り出してみましょう。
346 ◆YgQRHAJqRA :04/06/29 20:26
 ── 当然、作家は自分の恣意にまかせてあらゆることを描くことを許されていない、
いや、描き得ないという態度でなければならない。
 いいかえれば、作家には、自分の都合で他人を勝手に傷つけてもよいという 「権利」
は扶与されていない。にもかかわらず、対象を 「写生」 しなければならぬ場合には、
本来 「智識的」 「打算的」 なものである礼儀─ 「虚礼」 を介在させなければなら
ない。具体的にいえば、それは知的な虚構を介在させて描くか、または暗示によって
描く、という方法を採用することを意味する。つまり 「写生」 は、「殺風景」 な、
あからさまなものであってはならない。それは描かれる対象に対するいたわりを内に
含み、ときには見ながらあえて描かぬという断念を含むものでなければならない。──
                            (『リアリズムの源流』)
347 ◆YgQRHAJqRA :04/06/29 20:29
 作家というのはなにも職業的な人ばかりを指すのではありません。文字を使って
言葉を外部に表出する行為─メールやチャット、掲示板など─が一般化されたいま、
だれもが(まさに小学生であっても)作家性というものを持ち得るのです。そうし
た環境の変化に対して、認識が追いついていかないために、チャットや掲示板の
マナーといったものを広く啓蒙しなければならないような問題もおこってくるわけ
です。
 先にあげた柄谷行人と江藤 淳の言葉をかみ合わせて、書くこと、書かれることの
意味をたまに考えてみるのもいいかも知れませんね。
 そんなこといいから、異化のイメージの話はどうなったんだと、つっこまれそう
なのでここらへんで退散します。だってまだ書いてないんだもの(´・ω・`)

 では、またそのうちに。
乙ですー
>>◆YgQRHAJqRA

お疲れさまです
350名無し物書き@推敲中?:04/07/03 20:38
>>347 名前: ◆YgQRHAJqRA

なんか誤魔化していないかお前。
この程度の話に、なんでそんなに時間がかかるんだよ。
仕事が忙しいとか、そういったレベルの問題じゃないだろ。
要するに、お前自身が分かっていないことを、これから
調べて報告します、ってことだろ。

恥を知っているんならやめたらどうだ、その旨を宣言してさ。
それを勧めるよ、マジで。

そうしろよ、お前も気持ちが休まるぞ。
どうせ、誰がカキコしたかも分からない2ちゃんのスレなんだから。

なあ、そうしろよ。
ここを見ている連中が気の毒にさえ思える、今日この頃。
俺は別にこのスレの読者でも何でもないけれど、
sageでやっているのだから気に入らないならスルーすれば済む話でしょう?
本当に恥を知らなければいけないのは君の方だよ。
一年以上も続けているのだから黙って見守ってやるのが人情ってもんだろう。
ともかく無意味に煽るのはやめた方が良いよ。
自分を貶めるだけだから。
352名無し物書き@推敲中?:04/07/03 20:51
病院から抜け出したらダメでしょう。

みなさまにご迷惑かけて申し訳ありません。
>>350の母でございます。
353名無し物書き@推敲中?:04/07/03 20:57
>>351
>俺は別にこのスレの読者でも何でもないけれど

それなのになぜ分かったようなことをカキコするんだ?
お前の言っていることはヲカシイぜ、ムジュンしているぜ。
そう思わないか、この馬鹿が!

自分を貶めるなんて、お前のような馬鹿! に言われる筋合いはない。
俺の言っていることが理解できなていないようだな、
だったら、馬鹿は馬鹿らしくしていろ(ケッ

くたばりやがれ、この馬鹿ッ。
>>352
アッ、母ちゃん。アビヲは悪い子でした。
ハラヲキッテツグナイマス、ゴメンナカアチャン。
うは! リアル病人来てる
356↑田吾作:04/07/03 21:41
クズ
357名無し物書き@推敲中?:04/07/03 21:53
俺は>>350のほうが面白い。
>>350
あんたから見たら「この程度」かもしらんが、
俺みたいに「うーん、なるほど!」って馬鹿もいるんだよ。

◆YgQRHAJqRA さん、スルーする「技術」を見せてください。
いつも楽しみにしている者より。
>>358
だったら、小説の書き方本を何冊も買って読め。そして何度も読み返せ。
その方がましだぜ、まじな話。馬鹿でも分かるはずだ。
まあ、分からなければそもそも小説を書くのは無理だから、作家になるのは
諦めるべし。

以上
360358:04/07/03 23:07
小説の書き方本は、何冊も読んでます。
俺個人が、◆YgQRHAJqRA さんの考え方に興味を持っているってだけだよ。
「ほー、そういう考え方もあるのね」と。
how to本を書いている先生方の意見に対しても、俺は、
「ほー、そういう解釈もあるのね」くらいにしか思ってない。
だって、所詮は、自分が書くしかないのだし、その自分に得るものがあれば、
それがこのスレからだろうが出版された本からだろうが、関係ないんだよね。
もちろん、359氏には359氏の考えがあってOKだと思う。
>>360

>>358
>まあ、分からなければそもそも小説を書くのは無理だから、作家になるのは
>諦めるべし

FA
362361:04/07/03 23:12
あっ間違えた。

>>358ではなくて、>>359だった。
363名無し物書き@推敲中?:04/07/03 23:32
母でございます。
またまたご迷惑かけて申し訳ありません。
お薬の時間忘れていませんか。精神安定剤飲みましたか。
狂犬病のお注射もしときましょうね、お尻に。
突然レスが進んだと思ったら何だか妙な展開に
夏が近いからかな

俺は小説に関してはわからないから口を出せないけど
流れだけ読んだらやっぱり>>358が悪者になるよね
俺も今までの文章は読んでて勉強になったし
>>358は◆YgQRHAJqRA 氏の話してる事を否定はしてないし
出来れば何をごまかしてるかとか説明して欲しいんだけど。
煽りとかじゃなくて純粋に知りたい

ほら、創作文芸板だしさ
勝手に病人扱いしないで、理屈で話そう
358はまた独自の考えを持ってるのかもしれないし
小説読んでりゃ出来る事だ!とか言われたら萎えちゃうけど
アッ、母ちゃん。アビヲは悪い子でした。
ハラヲキッテツグナイマス、ゴメンナカアチャン。
アンカー間違えてないか?
先生、まだかな
>>367
小説の書き方本を種にして講義をしていた先生は、バケの皮が剥がれて
出てくることができないのです。

でも、少なくともそれだけの恥を知る人ではあるということです。

先生出てきて下さい。
369 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:08
 出てきましたよ〜。また変に盛り上がってますねw最近暑くてたまらんです。
 でも安い挑発には応じませんよ。運悪くお酒が入ってたりするとアブナイけど(汗
 
 つづきどーぞ。
370 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:11
 言葉というものは、決して辞書的な意味だけにとらわれて機能しているのでな
いことは、だれしも経験的に承知されていることと思う。抽象度の高い、「愛」
や 「花」 や 「海」 といった名詞からは、さまざまなイメージが導かれてくる。
逆に 「グルタミン酸」 という名詞は、イメージの喚起力に乏しい。あまり人口
にあがることのない専門的な用語や具体的に対象を指示する言葉には、イメージ
の広がりに欠けるところがある。
 日常を引き剥がすことによって得られる驚きの異名が異化であるならば、やは
りその材料となる言葉も、親しみ深い、つまりすっかり油断してしまっている日
常語から選び取るということになるだろう。
 では便宜上、名詞だけに絞って言葉の中身を図式的に表してみよう。


   << 外形⇔言葉(記号)⇔記号内容 >>

    < 記号内容(概念)一般性→連想─類似系→辺縁系 >
    <                └→対立系   >

    < 外形=イメージ→写実的 閉鎖型  >
    <       └→空想的 開放型  >
371 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:13
 言葉は使用される条件によって大きくその意味内容を変えてくる。例えば、
「女子高生」 という名詞は高等学校に通う女子生徒という意味だが、渋谷あたり
で中年オヤジが若い女の子をつかまえて 「女子高生?」 と、いやらしい目つきで
言うとき、この名詞は本来とは違う意味内容を持ち、卑猥なイメージさえ期待され
ている。この場合、「女子高生」 はひとつの記号として表現され、そういう性質を
与える概念(イメージ)を記号内容と呼ぶ。外形は文字通り形を有して私たちの知覚
に触れるものすべてである。如上のエロオヤジは、諸々の視覚的判断、その体形とか
肌の色艶とか服装などの情報(物理量)を、脳内で心理量(妄想含む)へと変換し
これを表出、さらに不確定な部分を確定させるため疑問符をつけ加えた。
 こうした文脈のなかで、言葉は高い記号性を持ちえるが、紙切れに 「女子高生」
とただ書いてあるだけだったり、機械的な抑揚のない発話は、そうでもない。また
「田舎」 と聞くと、非常に肯定的なイメージを持つ人もいるし、その逆のイメージ
を抱く人も少なからずいて、言葉によってはその記号内容が大きく揺れているもの
もある。前置きとしてそうした複雑な過程や問題を逐一取り上げるわけにはゆかな
いので、一応そういうメカニズムがあるんだと概観してもらって、記号内容の類別
から異化の源泉にせまってみたい。とはいっても、女子高生をジロジロ眺めまわす
のも具合が悪いので、もっと抽象度の高い 「石」 を材料に選ぼう。
372 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:16
 まずは 「石」 という名詞から思い浮かぶイメージ、意味を、とにかく思い
つくままに書き出してみる。辞書などを参照してみてもいい。多少の個人差は
あるとしても、その社会集団のなかで通用されるイメージが抽出されると思う。
それを 「石」 の中心概念として定置させる。
 近いところから、「硬い、重い、冷たい、くすんだ色」 そして 「小さい、
つまらない、ゴツゴツした、沈む、落ちる、岩、瓦礫」 と、類似系のイメージで
「石」 の外郭を広げていく。さらに進めていくと、「墓、彫刻、遺跡、武器」 と、
関連しつつも動詞や形容詞、副詞が減って名詞が増え、中心にある一般性から離れ
たものが出てくる。あげくには 「石川県、医師、イッシッシ」 など、単に発音が
似ているとか字が同じといっただじゃれ、「うまい、うるさい」 というナンセンス
に行きつく。ここが 「石」 の辺縁系である。記号内容の概念が崩れ去る地点だ。
 たぶん滑稽やシュールとしての異化が、この辺縁系にありそうだと、感ずかれた
かもしれない。試しに辺縁系に属する言葉を拾い上げ、本体である 「石」 に結び
つければ、次のような表現が生まれる。
 「この石うまいね」
 そう言って石をボリボリ食べる輩がいたら、たしかにそれは奇妙な事態といえる
だろう。この隠喩的実在はゴーゴリの 『鼻』 やカフカの 『変身』 を極点として実
を結んでいる。だからといってこれらの二番煎じを求めたがるのは軽率で、もうすで
に何十番も煎じられていて、今さら味など残ってはいない。小説の主題としての可
能性は一分もないのかといわれれば、まだあるような、でもないような、と微妙な
ところである。どちらにしろここを目指すのには、そうとうな念力で干からびた泉を
掘り下げる必要があるだろう。
 また、類似系のイメージの数々はあらゆる比喩の下敷きとなっている。頑固で融通の
きかない人のことを 「石頭」 というし、ジャンケンのグーはその形状から 「石」 の
記号で用いられている。こういう比喩表現は枚挙に暇がない。それは、いうなれば安定
と調和をもたらすイメージの和合反応だ。
373 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:19
 例えば 「水」 というキーワードを用いて映画全体の統一感をもたらしたその
手法は、すでに >>173 で触れた通りである。
 しかし一方で、類似系のイメージは、画一的な印象を与える側面も有している。
ここでもう一度 >>335 の詩をみてみよう。その一行目。
 「しめったわらから光がとびだした」
 この詩の核となっている句だ。あまり他人の詩をいじくりまわすのははばかれる
のだが、「しめったわら」 を違う言葉に置き換えたらどうなるか。
 「たんぽぽから光がとびだした」
 こうすると、なんだか本当にどこにでもあるような句で、この 「光」 は私たち
の胸に飛び込んでこない。下に続く句もすべて台無しになる感がある。つまり、あり
きたりなのだ。まったく詩味というものがない。これは 「たんぽぽ(ひまわりでもいい)」
と 「光」 が非常に似た、近いイメージで連結されているのと、語そのものも使い
古されて新味に欠けるためである。
 詩において直喩よりも隠喩が好まれるのは、「ような・みたいな」 といった助動詞
を省くことでより名詞間の相互関連度が高まり、お互いのイメージが強く読者のなかで
結ばれるという効果を感得しているからだ。印象をすくいあげる絵画的な趣を狙ってい
るといってもいいだろう。ただし、魅力的である反面、使い方を誤れば作品の質を一気に
下げてしまうリスクもある。ポイントはイメージの距離のとり方にある。
 そこで、「たんぽぽ」 と書かないためにはどうするか。「光」 を生かすも殺すも、
たった一語の異化にかかっている。
374 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:22
 対立系─反意系と書くのが正しいだろうが、今までの流れからこちらを選ん
だ─は、普段の言語生活では縁のない意味作用である。「お水ください」 と
言って 「ライター」 を差し出す人はいないだろう。だからそこにインパクト
がある。矛盾やコントラスト効果を狙う対立技法の応用だ。

 先に書き出した 「石」 の記号内容に再び目を転じてみよう。
 そして、「石は鳥だ」 と言ってみる。
 石は一般に水よりも 「重く」、「沈む」 ものであるし、なにかの支えがなけれ
ば地面に 「落ちる」 のが当然で、投げた石が鳥のようにどこかへ飛び去ってしま
うことはあり得ない。しかし、虚構上ならば石は鳥になる。
 「飛行石」 というものがある。いわずと知れた 「天空の城 ラピュタ」 に出
てくる、物語の中心となるアイテムだ。この映画のキーは、「飛翔」 にある。作中、
空を飛ぶ道具はたくさん出てくるが、なぜ 「飛行石」 が特別な地位にあるのかと
いえば、この 「石」 だけが対立系に属する隠喩的実在だからである。どんな巨大
な戦艦が宙に浮かぼうと、それは空力学的な保障を得ている間だけであって、その
自然則が破られればどんな飛翔体も地に落ちていく。本来飛翔とはま逆のイメージを
持つ石(飛行石)だけが、こういう決まりごとを無視するのである。故に物語はこの
「飛行石」 を中心に回転し、逆説的にこの石に向かってすべてが落下してゆく。
その果てにどんなカタルシスを迎えるのかは、ここで紹介するまでもないだろう。
375 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:24
 手法さえわかればあとは連想力の勝負となるし、これ以上くだくだしく例を
あげる必要もないと思う。細かい距離のとり方や構成は自分で試行錯誤してい
くしかない。

 さて、内容が前後して凝縮だが、また例の詩にある異化の成分を考えれば、
「光」 の対立系としてあるのは、「わら」 ではなく、「しめった」 という動詞
にあった。「かわいた」 でも、ましてや大げさに 「つめたい」でもなく、
「しめった」 たというイメージの距離がいい味をだしている。
 これを大人のいやらしい技巧を加えて書き換えるならば、「みずの底から光がとび
だした」 などと書けもしよう。でも、レトリカルでない 「しめったわら」 のほうが
自然な気がするし、なにより足下にちまちま咲くたんぽぽなどに目もくれぬ炯眼がな
ければ、この詩は生まれなかった。
 しかし、天賦の才に頼らずとも、ある程度形式的な手法を借りて異化的フレーズや
発想を創作に導入できれば、表現の幅も広がり、かつ連想力も鍛えられて一石二鳥である。
つまりここでも石=鳥なのであった(イテテ
376 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:32
     「銭湯で」 石垣りん


 東京では
 公衆浴場が十九円に値上げしたので
 番台で二十円払うと
 一円おつりがくる。

 一円はいらない、
 と言えるほど
 女たちは暮らしにゆとりがなかつたので

 たしかにつりを受け取るものの
 一円のやり場に困って
 洗面道具のなかに落としたりする。
377 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:33
 おかげで
 たつぷりお湯につかり
 石鹸のとばつちりなどかぶつて
 ごきげんなアルミ貨。

 一円は将棋なら歩のような位で
 お湯の中で
 今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。

 お金に
 値打ちのないことのしあわせ。

 一円玉は
 千円札ほど人に苦労もかけず
 一万円札ほど罪深くもなく
 はだかで健康な女たちと一緒に
 お風呂などにはいつている。
378 ◆YgQRHAJqRA :04/07/15 21:34
ちょっと時代を感じさせる生活詩ですけど、価値転倒の異化と自然な筆致で
おこなわれる擬人化がどこにあるか、考えてみてください。テクスト分析の
問題としてはかなり簡単ですけどね。
 単に好きな詩を載せたいだけって話もありますけど(笑

 外形についての解説はまた今度。異化とはあんま関係ないしね。どうしても
書けないときにプロットをひねり出す裏技?みたいなもんかな。
 ではまた(このまたが長いんだ
379368:04/07/15 22:04
>>369-378 ◆YgQRHAJqRA さん

あんた偉いよ。普通なら気を悪くして講義を中止しても
仕方のないことを俺に書かれているのに、きちんとこうして講義を
続行するんだもんな。

俺には、貴方の講義を聞く資格はない。逝ってきます。
380名無し物書き@推敲中?:04/07/21 16:37
>>359みたいなプロセスしか考えない人間が
文学及びその評論を駄目にするんだよ。
氏んでいいから。サヨナラ
381名無し物書き@推敲中?:04/07/22 07:16
 文字(もじ)はコミュニケーションの道具だよ。生まれた瞬間からずっと、今でも。
 文学者は、少なくともその使い方が非常に優れている人種に分類されるべきだと思う。
 それぞれの意見は違う、文学(ぶんがく)の定義も違うかも知れない。

 ビジネスの世界ではよく『完全に分かりあうことはできないことを前提にコミュニ
ケーションを取れ』って言われると思う。それは、ビジネスにおいて正しい。
 でもこの場所にいるからには、少なくともそれぞれの人に感動の名作が存在している
だろうし、その時の経験はどうだったかと言われれば、
それは『限りなく完全に近いコミュニケーション』だった筈だ。

 文学者は、少なくともその使い方が非常に優れている人種に分類されるべきだと思う。
sage
383 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:35
 どうも。8月はずっとTVの前に座っていた◆YgQRHAJqRA です。

 >>368 批判精神というのは本来健全なものですけど、ガブリと咬みつく
ようなやり方ですとお互い痛い思いをするだけで不健康ですね。冷静になって
いただけてよかったです。

 >>381 なんと答えてよいのかちょっと…、分かり合うってむずかしい(´・ω・`)

 詩に誤字があったので今さらに訂正。
 >>335 光にははねがはえてとんでいった。→ 光にはねがはえてとんでいった。
 >>376 一円のやり場に困って → 一円のやり場に困つて
384 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:41
 今回は 「見る」 こと、形(対象)の認識から生じるイメージの方向性と表現、
それを利用してプロットや物語を作り出そうという試みです。ずいぶん前にやった
解説とかぶるところもありますが、そこらへんはもう忘れたと考えて、気にせずGO──。


 私の目は真実しか映さない。
 そんなセリフを無条件に信じきってしまうのは、よほどのお人よしである。なん
ていくらか誇らしげに文明人の理を説いてみても、超魔術とかイリュージョンとか
のトリックに目を白黒させてしまうあたり、やはり見えるものは真実だという体験
的了解はそう簡単に崩れたりしないようだ。日記や伝記をノンフィクションに列し
てみるのも、肉眼への信頼が前提としてあるためだろう。
 小説も言葉という道具を使ったイリュージョンである。意識的な書き手は、言葉が
いかに読者のなかでリアルに結像するかを思案するだろうし、時間と資金があれば、
そのための取材を惜しまないだろう。
385 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:43
 経験はあらゆる表現の原石であり、物書きにとって 「見た」 ものは、すでに
「書いた」 ことに等しい。あるひとつのものを点として描くだけならば、それは
絵を画くよりもはるかに容易だといえる。まずほとんどの、形あるもの(ないもの)
に付いている名前を書いてやりさえすれば、それで済む。たとえば、「人間」 と。
 だが小説は一幅の肖像画とは違う。
 小説は時間の織物であり、物語を紡ぐのは絶え間ない視点の運動である。その線的
運行を私たちはプロット(筋)と呼び、そのなかで 「人間」 は解体され、分裂し、
文章という形に構築(テクスト化)されていく。見るべきものは量産複雑化する。しか
し、なにもかも書きしるして、そのすべてを厳密に見定めることをしても意味がない。
文章の冗漫化を避けるためにも、「見る(語る)」 ものと 「見ない(語らない)」
ものとを取捨し、話が野放図とならないよう、体裁を整える必要がある。そう説く私の
文章は、最近富みにそれと矛盾してそうな気もするのだが、言葉にも多少の遊び(余裕)
が必要なのだ。という話はともかく、なんだっけ、そう、あらかじめ作品全体を俯瞰し
て綿密な計算を立ててから書き始めるのに越したことはないが、いつもそんなベストな
状態で書けるとは限らないだろう。気まぐれで、唐突にやってくるファンタジーを、
締め切りは待ってくれない。
386 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:44
 しゃれた物語なんてものはどこにも見当たらず、文体だけに頼って書きなぐる
力量も野蛮さも持ち合わせていない方にとって、小説はまるでブラックボックス
である。見えないものは書きようがない。だったら書かなければよい、というもっ
ともな進言はひとまず呑みこんで、コーヒーをすすりながら 「書けないなあ」
とボヤくすぐそばに、案外と物語は転がっていたりするかもしれない。

 「見たこともない天使は描けない」 と、絵画に実際的現実を導入したのはクールベ
だったが、パッチリ目を開けていればリアルだということにはならない。そもそも眼球
に映じているのは単なる光の乱反射でしかなく、私たちはそこに形や意味を 「読み」
にいくことでイメージを確立する。あるいは記号化させる。それは生得的なものでは
なく、もっぱら学習的なものである。言い換えれば、私たちは見たことしか描けないの
であった。
 ストックされたイメージと言葉を相互変換し、それを切ったり貼ったり混ぜたりして、
「なにか」 を、私たちは表現しようとする。そして、ものの見方の違いは、そのまま
表現方法の違いとなって現れてくる。
387 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:46
 ロールシャッハと呼ばれる有名な心理テストを幼い子供に実施すると、大人と
は違うなかなか興味深い結果が得られるようだ。
 テストは、左右対称の無意味なインクのしみを見て、そこになにが見えるかと
いうものである。(あからさまに病的でない)大人はまず、しみを大きな輪郭と
して把握し、なるたけもっともらしい顕在的な形を見る。輪郭線は固く結ばれて
いて、ちぎれるようなことはない。ちょうど影絵でも見ているような感じだろう
か。そこには人の顔や昆虫や動物などのすがたがあって、なるほどそういわれれ
ばそのようにも見えるなと、うなずける答えと傾向性が示される。内的に閉鎖し
たイメージによって、それらは見えて、または読めている。
388 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 06:48
 対して子供、というか幼児は、大人とは対照的な反応をみせる。まず、しみ
全体の対照性、整合性にとらわれない。輪郭の部分部分を指し、ここにゾウが
いるとか、ここにはお花が咲いているといって、ほとんど自分にしか見えない
形の解釈をする。ある輪郭の出っ張った形がゾウの鼻に見えたとすると、そこ
からイメージが拡大してゾウの全体を空想的に補完するという具合である。
 思えば子供というのは、消しゴム一個を車にしたり船にしたり、はたまた飛
行機にしたりと、多様な遊び道具に変えてしまう。そういうイリュージョナルな
空間になかば身をひたしていられる、おおっぴらにそれが許されているのが幼
年期であるといえよう。大人はそこに、懐かしさと共に羨望の眼差しを送り、
しきりに幼年回帰を試みる。かの芭蕉も、俳諧は三尺の童にさせよ、なんてこと
を言うのだから、ストーリーが思い浮かばずに、あっぷあっぷしている物書きの
救いのわらになったっていいのだ。
389 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 07:20
 ここにコーヒーカップがあるとしよう。
 コーヒーカップというイデアをどこからか引っ張ってこれる者同士では、この
名詞の交通は実にスムーズなはずなので、私たちはそこになんの不審も抱かない。
その上で、ひとまず、コーヒーカップという便利な名前をうち棄てて、「それ」
なるものを言葉で表し、認知させるとしたら?
 私たちはあらためて 「それ」 をじろじろ眺め回しながら、「見る」 ことの複雑
さと、それをいか様にも表現しうる言葉の弾性に戸惑うかもしれない。そしてなか
ば習慣的に、いわゆる写実的な描写という方法を用いるかもしれない。ある種の饒舌
が最低限のリアリティを確保する、そんな期待。けれども、それは全体から部分へと
膠着する閉鎖的な視点であり、なおかつ過剰な言葉の累積が返ってイメージの発展性、
拡張性を妨げる、といえなくもない。
 もちろん描写は今日でも有効であるし、今後も有効であり続けるだろう。ただ、
ここでは物語を示唆するものの見方を上位に置く。
390 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 07:23
 「朝の一杯から立ちのぼるブルーマウンテンの香り」 は 「コーヒーカップ」
の共時的幻想を私たちにいだかせる。その一杯は湯のみかもしれないのに。
 部分から全体を、あるいはその延長を想起させるリアリティ、この換喩(提喩)
的な表現に帯びるイメージの開放性が、物語というわらをつかまえるヒントで
あるかもしれない。

 例えば、帰宅した夫のシャツに長い髪の毛が付着していれば、妻はこれを非常に
訝しむ。長い髪の毛とはつまり、「女」 を表象するものであり、夫と女が密であれ
ば、これは愛人ということになる。さらに露骨に香水のにおいなど染みついていた
りすると、妻はもう平常心を失って夫に詰め寄り、修羅場となる。
 こんな話は陳腐だと、バカにするかもしれないが、実はこの同工異曲はいたると
ころで、何度も繰返し用いられている。夫婦が親娘に、髪の毛がコンドームに替わる
だけで、シークエンス自体の構造はほとんど変わらない。
 そして、次に夫の切断された足が河原で発見されれば、なんとかミステリー劇場
になるし、妻もお返しとばかりに浮気にはしれば、トレンディ(かなり死語)ドラマ
仕立てとなろう。小説もそういう部分では変わりがない。
 物語というのはこうした個々のシークエンスの集合体であると同時に、シークエンス
自体が派生的に(この例でいえば髪の毛が)物語を発現させるのだとも考えられる。
391 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 07:24
 さて、ここでまたコーヒーカップに目を移して、だが、認識は 「それ」 の
ままで、見てみよう。その胴横に付いたアーチ(ようするに取っ手)の部分に
注目するとなかなか面白い形をしているではないか。
 それはネコのしっぽのように、白鳥の首のようにも見え、ゾウの鼻、耳、
蝶の羽、滑り台、乳房、いろいろなすがたが想起されてくる。また、コーヒー
の黒い波紋は海に、そのほのかな湯気は女のため息だろうか。
 いうまでもなく、物語は関係の構造であるから、AとBがそれぞれで充足し
て隔たっていてはお話にならない。拡張したイメージからまたイメージが誘発
される。細かなディテールは気にしない。一度見えたものは、あとでいくらで
も精査できる。そこは大人だ。
 部分から波及して物語が生産され、筋の連関が成される発想─イメージとい
うのは、物語小説にとっては都合がよい。
 『ボヴァリー夫人』 も、夢見がちな田舎娘だったエンマがシャルルと結婚し、
ブルジョアジーにつまづいて人生を踏み外すところからドラマが展開される。
小さな過誤がやがて大きな病変となってエンマを蝕むのである。これが最初から
救いようのない破滅的な女だったなら、彼女の悲劇は退屈な寓話にしかならな
かったかもしれない。
392 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 07:27
 現象の一部分に潜む物語性を、ほとんど病的な妄想力によって拡大すること。
とにかく針小棒大に事を荒立てること。それこそ物語小説の面白さではないか、
くらいに思えれば、借金の形に友人を人質に置いて遁走し、とうとう 「戻らな
かった」 太宰が、『走れメロス』 の美談に変体して、人の感動を誘う仕儀と
なる。(byトリビアの泉)


 はてさて、これで物語のわらしべ長者になれるだろうか。それともやはり、
溺れる者のわらであろうか。それは各人の努力しだい、とまた都合のよい責任
転嫁をするのだけれど、私にはこれ以上のことはできないので仕方ない。
 無闇に長い割には実のない話で、自分でも書いててうんざりしてきて、途中
かなりへこたれたのだけれど、室伏の 「過程が大事なんだ」 という言葉を勝手
に自分への励ましにとらえて最後まで書いた。(だからなんだ)
 まあ、小説(ほとんど文学)に対して私小説的な強度を求める手合いには、な
んだかドーピングくさい手法かもしれないが……。
393 ◆YgQRHAJqRA :04/09/06 08:04
 次回はやっとというかなんというか、叙述における視点の伸縮、および移動
についての実践的な技術の解説です。
 一応次で、五つのカテゴリーに分けて書き散らかしてきた小説技術の解説も、
おしまいとなります。一知半解の疎漏は免れませんが、このスレがさらなる小説
探求の踏み台となり、言葉と戯れることの楽しさを知るひとつの道標になればと
思います。
 と、ちょっとしんみりしたところで、番外編という形でなにかたくらんでおります
ので、谷亮子に水泳で金を望むような、危うい期待を持ってくださってもいい、のか?

 では、再見。
乙〜〜〜〜
395名無し物書き@推敲中?:04/09/11 20:29:10
いよいよ視点の話ですね。
語り手が自在でありたいと思っても、なかなかこれが難しい…。

396名無し物書き@推敲中?:04/09/24 21:52:51
自分、視点の話、すごく楽しみにしてるっす。
まだかな……
397名無し物書き@推敲中?:04/09/26 00:41:07
このスレ凄い! ◆YgQRHAJqRA 乙です!
続き楽しみにしてます。
398名無し物書き@推敲中?:04/10/08 21:32:44
視点ごときでいつまで滞っているんだ
牛歩か?
399名無し物書き@推敲中?:04/10/08 21:34:55
◆YgQRHAJqRAの言ってることは確かに納得できるが、本人も実際に小説に反映させられないんだろうな。
カウンセラーの子供がいい子に育たないのと同じか。
400名無し物書き@推敲中?:04/10/08 21:36:45
視点ごときど素人でも普通にできるんだよ
なにが技術だ
401名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:35:22
俺、神視点のやり方が知りたいんだが、上手いやり方教えてほしい。
そりゃ、何となくはわかるんだが、理論化されたものが知りたい。
◆YgQRHAJqRAでも400でもいいからおしえてプリーズ
402名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:41:19
そんなもん検索すれば腐るほど出てくる
検索もしない者がここで語る資格はないんじゃないのか?
403名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:43:46
視点について先日この板にお世話になったお礼に。そのときに作成した例文を。

○1人称視点
 「最悪だな」僕はそう言って、まぶたを手で覆った。「ありえねえよ」
  ミカがこっちを見ている。
 「どうしたの、そんなに深刻な顔をして」
  僕は何も応えない。

○2人称視点
  君は歩いている。どうしたんだい? 足元がふらついてるじゃあないか。
  それでも君は歩くことを止めない。折れた引きずるようにして、
  歩き続けることを諦めようとしない。全く、本当に君はそういう奴なんだ。

○3人称カメラ視点
  男が虫を手に取った。何か金属を扱うような、ぞんざいな手つきだ。
  隣の女が笑った。「ねえ、見てよ。足が動いてるわ」
  男は果たして聞いているのだろうか。虫を見る目の焦点も定まっていない。

○3人称1視点
  男は虫を手に取った。
  何なんだ、この生き物は。
  隣でエミリーが笑った。「ねえ、見てよ。足が動いてるわ」
  うるさい奴だと男は思う。タバコが吸いたい、強いタバコを。

○3人称神視点
  男は虫を手に取った。
  何なんだ、この生き物は。男は思う。
  隣でエミリーが笑った。「ねえ、見てよ。足が動いてるわ」
  しかしエミリーはそんなことを気にしていない。
  バカな事やめればいいのに。エミリーは本音を口にしない。
  男はエミリーを、うるさい奴だと思う。タバコが吸いたい、強いタバコを。
404名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:47:14
>>403
そういう神視点はクーンツが悪い例として挙げてなかったか?
405名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:48:58
>>404
良い例を教えてよ。
406名無し物書き@推敲中?:04/10/08 22:49:19
無理だろうけどw
407404:04/10/08 22:51:17
無理
408名無し物書き@推敲中?:04/10/08 23:07:36
>>402
じゃ、おまいがここで技術についてなんか語れ。
語ることがないなら帰れ。
409名無し物書き@推敲中?:04/10/08 23:09:05
また妙なルールを作りやがったな
410名無し物書き@推敲中?:04/10/08 23:18:07
検索してみた。
「神視点」で検索→最初の60くらいはざっと見たものの、多すぎてわからん
「神視点 小説」で検索→理論を述べたものは見あたらなかった。しかも途中でホモの3Pの小説にぶちあたった

>>402畜生騙しやがったなこのホモ野郎!
411402:04/10/09 00:19:58
ホモ野郎とは不愉快だな。私なりに403をリライトしてみようと
思ったがもう知らねーよ
412402:04/10/09 10:08:10
改めてじっくり見てみると、>>403の「3人称神視点」は、
3人称神視点である必然性が薄いな。
むしろ読者側の視点の混乱を生むだけ。確かクーンツはこういう文章を、
>>403の「3人称1視点」の例のような文章に書き換え、
良い例として示していたっけ。

登場人物の気持ちをそのまま地の文に埋め込むのが神視点かというと
必ずしもそうではない。「神視点(神の視点)」の例文としては正しいが、
文章として読んだ場合にあまりよろしくないと感じる原因はそこにある気がする。
413名無し物書き@推敲中?:04/10/09 10:34:08
>>412
じゃあ、3人称神視点の例文提示してみてよ。
どーせできないだろーけどw
414402:04/10/09 11:41:47
なぜ出来ないと思うのか、もしよかったら教えてもらえないか?
415412:04/10/09 11:42:26
↑412の間違いです。
416名無し物書き@推敲中?:04/10/09 12:28:15
どいつもこいつも。
要するにお前らはね、自分もなにかすごいことしてみたいと思ってるだけなんだよ。
なにか自分も語ってみたい、でも自力では語れない。
だからこういう良いスレに乗っかって雑談してんだ。
なにか言いたいなら自力で語れよ。
他人の作った勢いに乗るな卑怯者ども。
417名無し物書き@推敲中?:04/10/09 12:44:56
>>416
そういう君何か良いこと語っているのかね?
418400:04/10/09 12:48:58
ど素人にも理解できることをうだうだと議論しているようだから
さっさと次に進めよという叱咤激励のつもりだったのだが、
本当に理解できてないのならしょうがないな。存分に議論するがいい。
419名無し物書き@推敲中?:04/10/09 13:54:18
>>417 馬鹿が。俺は語るなと言っているのだ。
     その程度の読解力もないのだな、痴れ者めが。

     お前のその口調、気取りすぎで反吐が出る。
     浅さが文末に滲み出している。
     見掛け倒しの権化、己では何も生み出せないクズの代表だ。
     相手の言葉をそのまま利用して悦に入る、卑怯者だ。
     そうやってニヤニヤニヤニヤ笑っていろ、無能力者め。
     
     ま、どうせ色々書いてやったところで、お前の心に何も届かないのは知っている。
     チンケなプライドで固まっちまって、身動き取れないのがよく見える。
     せいぜい「必死だな」だの「お前もな」くらいしか言い返せまい。
     成長の無い者は永遠にその位置だ。
     せめておとなしくしていろ、クズ。
420名無し物書き@推敲中?:04/10/09 14:19:34
なんだか苛立ってる人がいるな。
良スレだったのかここ。びっくりだよ。牛歩スレかと思った。
まあ語るなというなら去るよ。自分のペースで気楽にやるといい。
421名無し物書き@推敲中?:04/10/09 14:28:12
つまり仕切り屋さんが、人に仕切られそうになってキレたってことか
422名無し物書き@推敲中?:04/10/09 15:09:15
今どき、神視点なんていってるようじゃあ、早々にお引き取り願った方がいい。
423名無し物書き@推敲中?:04/10/09 15:19:08
>>422
君のその文章もひどく怪しいな。
424 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:32:48
 おひさしぶりです。
 締め切りに追われて書いてるわけではないので、のんびりな更新は勘弁して
くださいね。ネットへもほとんどアクセスしないからレスもつけられないし、
私のことは気にしないでください(なんて書くと、気にしてって言ってるように
きこえますかね)

 また性懲りもなく長くなったので視点操作は二部に分けます。
 第一部は語り手と時制です。
425 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:34:32
              ─語り手と時制─ 
近代物理学が時間と空間を統合したように、語り手と時制も同じような関係にある。
われながら突拍子もないこじつけだなと思う。
 しかし、語り手は確実に、語ることによって空間を拡大させ、狭い部屋をさらに狭
くし、プルーストの『失われた時を求めて』などは、まさに時間の壁を突きつけて手に
取るのをためらわせてくれる。そして小説の語り手は、時制というなかにさらに心理的
な空間をも創りだしていた。そしてここに、物心相対小説時空統合論が完成したので
ある。(効果音)
 ……スミマセン。本題に入ろう。
426 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:36:16
 一応、メインは時制である。が、それは同時に語り手がどう振舞うのかを考える
ことでもあり、語り(ナレーション)そのもののディープなところへ首をつっこむ
とまではいかないが、覗き見るくらいはしてみよう。
 また、ここからは 「視点」 と表記した場合、それは叙述上の 「語り手」 とほぼ
同義であり、文脈によってふたつを使い分けることもあるが、随意に解釈してもらえ
ればありがたい。
 初めに、一人称視点と三人称視点(めんどくさいので以下一視点、三視点と略す)
とはなにか、十分わかっている人もいない人も、いま一度、簡単におさらいしてみよう。
なお、二人称は広義の一視点としてここでは区別しない。
427 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:39:55
 一視点は、「わたし」 とか 「ぼく」 といった人称代名詞で語られる叙述形式。
この 「わたし」 は人間である必要はないのだけれど、幽霊とか神さまとかのイレ
ギュラーな設定は別にして、基本的に 「わたし」 の視線が通る範囲以外のものは
見えない。壁の向こうや他の人物の心理を透かし見ることはできないことになって
いる。そんな制限があるにもかかわらず、この一視点の人気が高いのは、やはり
「わたし」 から見た世界を自由に解釈(表現)できるからで、独白を用いた観念小説
のようなものを書くのに適している。それと、(うまく書ければ)読者の感情移入を
誘いやすいというのもある。
 また、視点をもっと語りの中心へ近づけようという野心は、ついに視点を超越論的に
反転せしめ、「今この小説を書く、書きつつある私を書く」 という現在小説、
メタフィクションの域へ達する。
 「メタ」 とうほど自己言及的ではないものの、石川淳の小説 『葦手』 には、そう
した視点の相転移が、断章をかいして繰りかえし用いられている。
 一部だけ抜粋するが、やはり全文を読まないとこの視点操作の妙味がわからない。
未読の方は一読をお薦めしたい。

 ── 「まあ、いいだろう。一緒に来てくれ。」 そういいながら、銀二郎はもう手を
あげて通りかかったタクシイを呼びとめたていた。


 ここまで書いて来たとき、わたしはびくりとしてペンを擱(お)いた。もともと小説家
めかしてこんなふうに書き出すとは柄にもないことといわれるまでもなく、──
428 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:42:27
 一方、お手軽な自分探しの延長にあらわれる 「わたし」=「作者」 という構図
が作家を頽廃させたとする見方もあり、いわゆる私小説の筆頭格である志賀直哉を
して文学の没落をまねいたとする怨み節さえちらちら聞こえてくるような弊害がな
いわけではない。 「ボヴァリー夫人は私だ」 と叫んだフローベールのセリフを、
文字通りそのまま受け取ってしまう呑気な人々のことを考えてフローベールは発言
すべきだった、なんて非難はさすがに聞かないけれど、昔、私小説の圧力が強かった
ころには、「私小説に比べれば、フローベールの『ボヴァリー夫人』も、「偉大なる
通俗小説」にすぎない」 と、大変勇ましいことを言った人がいた(名前は失念)。
際限のない自己撞着と強烈な自意識の過酷さを生きない場所で今、躊躇なくそんな
大言を言い放てる人がいるであろうか。
 私は 「わたし」 というものがわからない。この問題に立ちつくすとき、作家は言葉
を失う。そして志賀直哉は言った。
 「さういうものは面白くなくなつた」 と。
429 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 06:44:21
 三視点の語り手は、基本的に無人称の透明な存在であり、登場人物を 「山田」 とか
「花子」 といった固有名詞や 「彼・彼女」 で呼び、また一視点のような視点の制限
がない。真暗な土のなかだろうと、人物の内奥にある秘めごとだろうと、おかまいなし
に焦点をあわせられる。まさに神のごとく時空を駆けめぐるSFチックなレベルから、
一視点と変わらないレベルまで、視点の権限を自由に設定できる。多数の人物が立ち
まわる壮大な物語などには、この三視点が適しているだろう。そこで読者は、歴史的な
目撃者なるのである。
 今でこそ、この三視点の透明な語り手はあたり前のように受けとめられているが、語り手
がこうした特性を持つようになったのはフローベール以後だといわれている。たとえば、
ユゴーの 『レ・ミゼラブル』 は冒頭から次のようなくだりになっている。


 「かれがその教区に到着したころ、彼についてなされた種々な噂や評判をここにしるす
ことは、物語の根本に何らの関係もないものではあるが、すべてにおいて正確を期すると
いう点だけででも、おそらく無用のことではあるまい。」
430 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:04:48
 この語り手は、のっけからテクストが物語─虚構であることを暴露しながらその口で、
「正確を期する」 などと言うのだから、論理的な思考になじんだ現代人にはいささか
面食らう話である。もちろんこうした書き方が間違っていておかしいというのではない。
それが時代のスタイルだったのだ。
 『ボヴァリー夫人』の革新は、その写実性、客観性の徹底によって、それまで事ある
ごとにしゃしゃり出てきていた、いわば書き手と結びついたあからさまな語り手の人格性
を封じたところにある。
 しかし、完璧に封印したわけでもなかった。フローベールは自由間接話法という時制処理
を用いて、前時代となった語り手の性格を隠微な形で表現したのだが、煩雑になるのでひと
まずこれは措いておく。

 こうして、一視点と三視点をわけて捉えることになれてきた私たちは、この二つの視点を
つとめて分別し、境界線のようなものを引いて断絶的に扱おうともするのだが、はたして
それほで別たれたものなのであろうか。
431 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:07:34
        『夢みる少年の昼と夜』 福永武彦


 太郎は眼を開いた。あたりがくらくらする。魔法の世界が過ぎ去って、真昼の
眩しい光線が縁側に一面に射し込み、その余熱が頬をかっかとほてらせる。茶の
間の中は蒸し暑い。箪笥の上で、啼き終った鳩時計が、もう何ごともないかのように
平和に眼の玉をくるくる動かしている。コノ鳩時計ハモウオ婆サンダ。ソレハオ母
サンモ知ッテイル。オ母サンノオ父サンモ知ッテイル。コレハドイツ製ダ。コレハ
ドイツノ鳩ダ。オジイサンガムカシ外国デ買ッタモノダ。コノ鳩ハ色ンナ死ンダ人達
モ知ッテイルノダ。鳩ハ何年クライ生キルノダロウ?


 一見してわかるとおり、この小説は特異な叙法をとっている。物語は 「夢想/現実」
「昼/夜」 「一視点/三視点」 という典型的な対立構造に支えられており、ひらがな
の述部が現実(三視点)を、カタカナの述部が夢想(一視点太郎)を受けもって、それ
らが進行的に微妙に重なり合い交錯し、混沌としていくところがこの小説の面白さである
といえよう。
 問題は、きっちりと弁別しているかに見えるこの二つの視点に、むしろ横断的な特徴
が表れている点である。カタカナという字面に惑わされずに、三視点の語り手と一視点
の語り手(太郎)を識別するならば、まず文末の形、断定の強い言い切り 「ダ」 の多用と
指示語(コソアド体)の頻出が目立ったちがいとしてあげられるだろう。たしかに、こう
した文体の工夫によって読者は二つの視点のちがいを意識することができる。単なる異化と
してカタカナを用いているわけではないのだ。
 太郎の語りはとても一視点らしい叙法だが、三視点の語りは、「太郎」 を 「僕」 に換え
てもなんら違和感がない。この例文では、三視点よりも一視点として読まれうるニュアンス
が高い。表面上は断絶している視点も、実は基部において横断している故に、物語の夢と現実
は乖離することなく混交していくのである。
 形式的な区別ではなく、語りのなかでつくられる遠近法的な視点の正体、それが 「時制」 である。
432 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:09:21
 時制というのは、現在形とか過去形とか、時を表す動詞変化の一形態のことで、
さして耳に新しい文法ではないだろう。文法と聞くとなにか憂鬱な面持ちになって
しまう方もいるかもしれないが、私の低クロックな頭脳でもなんとかなっている
ので大丈夫。(ちょっと遠い目になっているのは内緒だ)
 まず、結論から先にいってしまおう。
 文末の述語、つまり動詞の終止形が現在形(「たべ-る」)をとる場合、事象に対
する語り手の認識点は主観的な位置を、過去形(「たべ-た」)では客観的な位置をとる。
そのため、読者は主語(人称)が記述されていなくとも、時制によって一視点や三視
点的な印象を受けとる。視点の距離感を生みだしているのは 「わたし」 や「太郎」
よりも、動詞の語形なのであった。

 このあと、時制に関するこざかしい文法の解説を書く予定だったのだが、書いている
途中で不毛だと感じて止めた。例証を含めて説明すると甚だしい文量になってしまうし。
433 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:10:55
 もう少し具体的な話をしよう。
 『夢みる少年の昼と夜』 の文末は全体として現在形の割合が高い。太郎の視点
では 「ダ」 が多用されているが、これは語り手の意志を示す 「ね」 や 「よ」
といった終助詞と同じで自制的な意味は少ない。この 「ダ」 おかげで語り手の人格
的な押し出しが強くなり、対比して三視点の語りが 「引いて」 みえる。だが、太郎
の述部を消して三視点だけをみれば、この視点はけっして引いているわけではない。
現在形は語られるものに対して 「寄る」 視点である。また過去形よりもより人格的
である。一視点的な性格が強まるというのはそのためだ。
 この三視点の語り手はつねに太郎のそばにいて、ごく近い外部として視点を共有して
いる。語り口や字面の相違から、最初、二つの視点は水と油のような対立関係をなして
いるように見えてしまうが、そうではなかった。いわばそれは水(三視点)と魚(一視点)
の関係である。水のなかに魚はあり、魚のなかにも水はある。昼と夜、夢と現実、その
境界はどこまでも曖昧なのである。
434 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:12:45
 『ボヴァリー夫人』は云うにおよばず、過去形文が醸し出すある醒めた、事実
だけをそこに投げ出すようなニュアンスは、三視点の語り手をあたかも語られる
その世界から超越しているかのようにみせかける。映画を観ているとき、私たち
はそのスクリーンに切り出された景色が、カメラマンという語り手の主観によって
「構築」 されていることを忘れ、まるで自分がスクリーンにであり、超越者で
あるかのような錯覚を起こす。
 ときに人はこの視点を神≠ニ形容する。神と聞くと不埒にもこれを引きずりおろ
さずにはいられない現代精神は、「わたし」で試みたのと同じ自己言及的な手法で
脱構築を目論んだりもするのだが結局は徒労に終わる。「私」 が 「私」 の外に
出られないように 「語り」 も 「語り」 の外へは出られないからだ。
 アニメーション映画の 『千年女優』 はヴィジュアル的にこの問題をよくわからせて
くれる隠れた名作である。それはある種の循環論であり、決定不可能性などといわれる
ものだが、これ以上やると話がややこしくなる。
 とりあえず、小説はフィクションの内部でしか語れないのだから、「語りえないもの
については沈黙せねばならない」というウィトゲンシュタインの言を素直に聞いておく
ことにしよう。
435 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:14:34
 ことし亡くなった水上勉は、『蛍川』に対するあとがきでこう書いている。
 「作者はこの幻世界へ読者をいざなっておいて冷たく筆をおく。」
 実際的に見れば、このいざなう者とは、三視点の語り手にほかならない。
そしてこの冷たさは、過去形文末に畳みかけられた視点の冷ややかさではないか。
 もし、これが逆に現在形であったなら、文意は同じでも、この小説にただよう
静謐さは失われるだろう。水上勉も、きっと 「冷たく」 感じることもそれに
類する印象も、持てなかったはずである。

 標準日本語の文末は、「-る」 や 「-た」 で終わることが多く、どうしても単調
にならざるを得ない。体言止や倒置法、黙説的三点リーダ、助詞で止めたりと、いろ
いろ工夫してもそれは連用できるものでもない。書きなれてくると文末の単調さが気
になって、しばらく 「-た」 が続いたからここらへんで 「-る」 を混ぜてみるか、
といった程度の意識はおそらくだれでも持つだろう。ここまで読んだ方はもうおわかり
だと思うが、時制を単なる時の規則ではなく、もっと空間的な視点の距離感を生みだす
ための表現なんだと理解し、また活用してもらいたい。
436 ◆YgQRHAJqRA :04/10/15 07:30:37
 文法用語ばかりで抵抗があるかもしれませんが、敷衍するとなるとまた
大変なので、わからないところは自分で調べてくださいね。
 なるべくテクニカルタームは控えるようにしてますけど、まあ長いこと
やってるんで、これくらいはいいだろうというのはちょろちょろ使います。

 では、また寒い季節に会いましょう。
437名無し物書き@推敲中?:04/10/16 07:23:15
お疲れさまです。
いつも楽しみにしています。

ケチをつけるわけではありませんが、
「一視点」、「三視点」よりも、
今は「単一視点」、「多元視点」の方が多く用いられているのではないでしょうか。
「一視点」を含んだ、第三者的な(客観性を装った)語り手の視点がイメージしやすい、
という意味で「三視点」よりも「多元視点」の方が適切ではないでしょうか。
まあ、用語はいろいろ変化していきますので、「三視点」で悪いというわけではありませんが。

さらに勝手をいわせてもらえれば、
寒くならないうちに次の講義期待しています。

438名無し物書き@推敲中?:04/10/16 12:30:23
これどう思う? ここの住人に聞きたい。これは江戸川乱歩賞スレから抜粋。
自分的には、語り口レトリック派に禿同なんだけど。

766 名前:名無し物書き@推敲中? :04/10/16 10:53:45
若桜木が執筆目安箱で、レトリックや語り口に力を入れたいとする質問者に
答えて、

「まず、新人賞の応募作品に対する採点基準が100点満点だとして、
アイディアの斬新さに対する配点は35点ぐらい。語り口やレトリックの
巧さは10点くらい。ストーリー展開の巧さが35点、キャラクター設定の
巧さが20点、といった配点で、予選通過ラインが70点、受賞ラインが
90〜95点残念ながら、あなたの発想では予選を通過できません。」

と答えているのだが、俺にはやはり語り口やレトリックのうまさは文学的
味付けとして(ミステリーだろうとなんだろうと)、必要不可欠のように
思えてならんのだが。。。ご本家の乱歩だって語り口のうまい作家だったと
思うんだ。それを粗末にしたために、ミステリーは読者に飽きられ、この
衰退が始まったんだと。しかし、テロパラなどは確かにこの公式にあては
まっているようにも見えることは確かなんだが。
439名無し物書き@推敲中?:04/10/17 16:09:13
若桜木の採点方法。
90〜95が受賞ラインなら、レトリックも欲しいな。
アイデア33点、展開33点、キャラ18点、レトリック8点。
これで92点、受賞です。めでたしめでたし。
レトリック無いと、ほかがパーフェクトでも90点。ギリギリ受賞になってしまう。
Aさん:アイデア35、展開35、キャラ20、レトリック0 総合90
Bさん:アイデア33、展開33、キャラ18、レトリック9 総合93
受賞枠が一人なら、アナタはどっちを押しますか。
ま、こんな場合もあるわけで、結構妥当な配点ではないかと思ったりもする。
(てか、ぶっちゃけこんな配点に意味なんかねーような気もするのだがw)

予選を通過する発想てのは、配点がでかいとこからやりましょうってことですね。
アイデア30、展開30、キャラ15。こんな作品がもしあれば、予選を通過ですね。
あくまで予選を、ですが。直しが大変そうです。

結局>>438さんの言うとおりなんですよ。
受賞まで行くには、レトリックも語り口も、重要不可欠なんです。
ウッカリさんが読むと、レトリック不要論に見えてしまう文章を書いた若桜木が悪いってことで。
”予選を”なんてウッカリ読み流すと別の意味ですよ。
ウッカリ「予選”も”通りません」とか読み間違えられたら、ただの厨房の煽りです。
だいたい、この最後の一言余計だし。……ヴァカだなぁ若桜木(笑)
「残念ながら新人賞では、レトリックに対する配点は低いのです」
とか書いとけばいいのにね。その配点が実際にあるのならね。
個人的な印象ならそれを明記すべきだし。……ほんとヴァカだなぁ、若桜木(笑)
ま、強気の断言口調で生きていくしかない人にはちょっと同情もするけどさ。
でも、どこにも『文学的味付けにレトリックは不要』なんて書いてないみたいですから。
読み取ってあげましょうよ、こっちでね。
若桜木はヴァカだけど、どこから学んでも損はないはずですよ。
440名無し物書き@推敲中?:04/10/17 19:42:32
丁寧に説明してくださってありがとうございます。実はこのスレずっとロムって
勉強させていただいておりました。で、今さらながら初歩的な質問なんですが、
(以下は批判でも何でもなく、単に私の知識不足なんですが)、ボヴァリー夫人や
異邦人や川端の手法など、ああいったものを含めてレトリックとか語りの手法と
いうのではないんですか。

私はそう思っていて、それで、レトリックや語りというのは、作品を構成する際に
もっとも大きな比重を占めるもののように思っていたのです。つまり作品の緩急の
流れとか、緊張と弛緩のコントラストだとか、スムースな場面転換とかいったものは
、レトリックや語りのテクニックから生まれると。

極言すれば、たいしたアイディアがなくとも天才的な文章技術で傑作は生まれるが
(天才が描くある平凡な一日のように)、文章や語りの技術なくしては、アイディア
(ホラーならホラーらしく、純文ならそれっぽく)は生かされないし、ストーリー
展開だって(川端の説明で確かありましたよね)うまくいかないと思うし、キャラクター
だって(これはボヴァリー夫人のところで)生きてこないと思います。

おそらく若桜木氏が100点満点式に文学を計ろうとするところに無理があるのだと
思いますが、語りやレトリックというのはどのような文学作品でもベースになるもの
で、そこでこそさまざまな技法を駆使でき、また作者の個性(漱石節、志賀節、
谷崎節、など等)が現れるところだと思うのです。そうすると、10点どころでなく、
アイディアと同じくらい30点とか35点とか、もっと高配点になるように思うの
ですが。それでこの技術スレで、レトリックや語り口に10点程度の配点と言うのは
ちょっと意外な感じがするのです。

つづく
441名無し物書き@推敲中?:04/10/17 19:49:01
>>440
このスレッドはsage進行で書き込んであげて下さいね。
下手すると荒れますから。
442名無し物書き@推敲中?:04/10/17 19:54:13
すみません、あげてしまいました。気をつけます。
以下が若桜木氏の執筆目安箱のQとAの全文です。っつーか、白状してしまえ
ば、私のQなんですが。(ノ∀`) もし、ご意見聞かせていただけたらありがた
いです。(それから、もしかしてあなた、朝野十字さん?)

アイデアか、レトリックか

公募に投稿する際に書くあらすじについて、「よい作品はあらすじからして
面白いものだから、下読みさんが本文を読みたくなるような、しっかりした
あらすじを書くように」と、下読みさんの管理するサイトに書いてありまし
た。ですが、最近(初心者ながら創作者の目で)読み返した志賀直哉の傑作
短編「剃刀」などは、なんということのない平凡なあらすじです。この短編
の特徴は語り口と天才的なレトリックだと思うのですが、そういったものは
あらすじには現れません。

また、漱石の夢十夜のうちもっとも怖いと思う「第三夜」にしても、言い古
されたフォークロアにまったく類似のストーリーがあったことを最近知りま
した。スティーブン キングなどにしても、吸血鬼や狼人間といったよく知
られた素材を使っており、短いあらすじにしたら、山のホテルで父親が幽霊
にとり憑かれたみたいな、平凡な内容になってしまうのではないかと思いま
す。

つづく
443名無し物書き@推敲中?:04/10/17 19:55:17
すると、つらつら思うに、プロットのアイデアを競い合うほかに、(この前
の質問にもありましたが)レトリックや語り口で勝負するやり方もありかな
と思えてきました。しかし、時代趨勢などを見て、そういったチャレンジの
仕方は地味に見えて損のように見えますし、とくに昨今の新人賞では、特異
奇抜なアイデアの向こうにかすんでしまうようにも思えます。コロンブスの
卵的に、よく知られているアイデアを語り口やレトリックに工夫して書くの
はどうでしょうか。


A.まず、新人賞の応募作品に対する採点基準が100点満点だとして、
アイディアの斬新さに対する配点は35点ぐらい。語り口やレトリックの
巧さは10点くらい。ストーリー展開の巧さが35点、キャラクター設定
の巧さが20点、といった配点で、予選通過ラインが70点、受賞ラインが
90〜95点。
 残念ながら、あなたの発想では予選を通過できません。
(ゲスト回答:若桜木虔)
444名無し物書き@推敲中?:04/10/22 17:00:10
この疑問に対してなんと返答すれば良いのか、私にもよく分かりません。
語り口やレトリックで勝負するという心意気や良し、だと思うからです。
以下は私の考え方です。皆がこう考えるかはわかりません。

私が新人賞に出すのならば、語り口やレトリックに30点も配点して欲しくない。
なぜなら、自分は新人だからである。これから完成を目指す人間なのである。
語り口やレトリックは作家になってからも追求し、磨いていく部分なのである。
現時点での私の、そうした文章上のテクニックを見られても困る。
拙いのは重々承知の上で出すのであるから。これで完成なんて思って欲しくない。
だが、アイデアやキャラクタなら自信がある。
多少拙い語り口やレトリックのせいで損なわれているかもしれないが、そこは前述のとおり
これから追求が可能な部分だ。
だから、語り口やレトリックが重要なことは承知の上で、あえて配点は低く。
でないと、これから伸びるかもしれない才能まで潰してしまいかねない。
新人賞を貰うのはゴールではない。むしろスタートなのだ。

回答にはなっていないかもしれませんが、違う見方もあるかもね、ということです。
あくまで新人賞に限った話ではありますが。
445 ◆YgQRHAJqRA :04/10/22 21:34:44
 盛り上がってるところ横からすみません。ちょっと補足と記載漏れでやってきました。
 石川淳の 『葦手』 は新潮文庫の『焼跡のイエス・処女懐胎』 に短編として収録されて
いるものです。『葦手』のタイトルでは本屋さんや図書館で探しても見つからないと思う
ので、念のため。それと水上勉はあとがきじゃなくて解説ですね。あとがきじゃまるで
水上が 『蛍川』 を書いたみたいに誤解する方は、まあいないでしょうけどこれも念のため。

 文法的な説明をはしょったので、一般的に時制と目されている動詞の語形が、一律に時制
の働きをするわけではないということは書きませんでした。「友達が"きた"」は過去で
なく動作の完了(形)を示し、「友達が"くる"」は未来を示しています。断定の動詞は、
種類や文脈によって時制的な働きが変化します。また、動詞の連体形は文末の時制に支配
されるのですが、そんなことどうでもいいですね。
 安定した時制の働きをするのは、断定形よりも、「-している(た)」という持続相と
呼ばれる語形なんですが、そんなの知るかって感じですね、もう。
 あまり正確さを気にするとノイローゼになるので、アバウトに文末の語形を変えてみて
自分なりにニュアンスの変化を確かめるのがいいでしょう。
446 ◆YgQRHAJqRA :04/10/22 21:56:11
>>437 
 お好きなように読みかえてください。
 私としては、やはり読者は人称を支点(視点の誤変換ではない)にして読んでいる
と思うので、一人称視点・三人称視点という言い方のほうがしっくりくる感じなんです。
一視点とか三視点という用語は私の不精から略したものなので、ほかでは使わないこと
をおすすめしますw
 
 新人賞の審査ってそんなテストみたいな勘定でやってるんでしょうか?
 採点の正誤表なんてものはないはずだから、結局なにか基準となる作品に照らして
コイツは何点とつけるとなると、採点論理の前提がすごく心理的なものになるわけで、
一点の重みがどこにあるのか非常にいかがわしくなりませんか?
 私だったら、おまえのテクは5点とか言われても、しゃらくせえって感じですね(笑
 
 つい無駄口がすぎました。これにて退散します。
447名無し物書き@推敲中?:04/10/23 09:17:02
え、と、それだけ?
448名無し物書き@推敲中?:04/12/28 09:40:14
>>430

>フローベールは自由間接話法という時制処理を用いて、
前時代となった語り手の性格を隠微な形で表現した

時間があったらここのところを解説してください。
よろしく。
449 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 17:56:17
 寒くなったんでやってきました、てわけでもないけど、こんばんは、ていうか
大晦日。
 でもねえ、視点のつづき、手ェつけてないんだ。ァハハ(汗
 いや、なにをどう書くかのアウトラインは引けてるんだけど、いろいろとね。
モチベーションが上がんなくて、すみません。2年目に突入とはお恥ずかしい。

 自由間接話法は、たしか『果てしなき饗宴』にも解説があったはずなんで、
どうしようかなって思ってたけど、お望みとあらばやりませう。

 これでまた来年ではさびしいから、ちょっと余話的な(余話というには長い
かもしれない)ものを書きました。お雑煮でも食べながら読んでね。
450 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 17:58:48
 およそ文芸というものは、どういうベクトルで言葉をひねり、折り曲げ、
ずらし、組み上げるかにかかっている、そういっていいかと思います。
 畢竟、哲学とは文体の問題であると、誰かが言っていました。もっともら
しい哲理も、実は文章の妙に支えられているのであり、十中八九 「だぴょん」
とか 「ぽよよん」 とかいう書き方から哲学はやってこないし、「ズバッと
こういう感じ」 なんて長嶋茂雄のように言われても、原始的直感力に恵まれ
ていない凡人は首をかしげるばかりです。
 意味する記号に哲学者は挑まねばなりません。例えばフッサールにとって
「現象」 という言葉は、それはもうただの 「現象」 をさすのではなくなり
ます。その新たな認識を説くのに、おそろしく多くの言葉を連ね、束ね、積み
上げ、さらにそのなかの言葉が……核分裂を引きおこす。たしかに、哲学とは
無限に変奏される言語(記号)との闘いなのかもしれません。
451 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 18:00:33
 小説もそこに通有するでしょう。ひいては、そうした格闘を微塵も感じさせ
ないテクストは技術以前の問題だと言う柄谷の一文>>337 を思い出しもしま
しょう。
 レトリック、技術、フォルム、テクスト論、呼び方はなんであれ、表現者と
して言葉の技巧性や装飾性はもはや不可避であるし、私たちはそういう言葉の
あやを解しなければ、「読み・書き・話す・聞く」 という言説空間のなかで
豊かさを感じることができないのです。それはジャンルを限定した話ではない
はずです。友達へのちょっとした文章にさえ、技術は使えます。そうした意識
に立ったとき、文芸というものが自分のなかで生きはじめるのではないかと、
私は思います。
 まあ、そんなヤヤコシイことを考えなくったって、人はものを書けてしまう
のだけれど……。
452 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 18:03:30
 「アイデアやキャラクタなら自信がある。」>>444さんのように、魅力的な
虚構人物をこしらえて、読者を小説に引き込むというねらいは悪くありません。
あやなす言葉の色彩のなかにこそ、読者はエンマを、シャルルを見つけること
でしょう。
 しかし、時代はなかなかエンマを生みづらくもしています。今や虚構よりも
奇態な人間のありさまが電波に乗って茶の間に届き、覗き見趣味を満たすスキャン
ダラスな話題にはことかきません。もはやワイドショー的なものは、小説の
装置として──死滅はしないけれど──古びてしまいました。
 今の基準で見れば、エンマの苦境も 「よくあること」 で、なにも死ぬほどの
窮地ではないでしょう。私たちは、もっとひどい陰惨な現実を、すでに知って
しまっているのですから。といっても、表層の現実をトレースするために小説が
あるわけではありませんね(そんなものはTVに任せておけばいいのです)。
エンマは、当時あった事件に取材しているとはいえ、あくまで小説のコード
(法規・文法)に従って死ぬのです。
453 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 18:05:21
 今日、堂々たるヒーローやヒロインを主人公にすえて白昼夢を見続けること
はむずかしくなりました。劇画的な個性はモダンでなくなったのです。そこで
現代小説は、どこにでもいる人間の日常を題材とするようになります。やりき
れない日常を描き、やりきれない小説の現出を可能にしたのは、この無名性で
ありました。物語らしい物語を必要としない内面の告白は、現代の感性とやら
に新しいスイッチを入れましたが、多少なりとも技術的な足場を持っていない
と、すぐ独り善がりな心理小説へと滑落してしまいます。こじんまりまとめよ
うとするより、破れかぶれで、町田康の 『くっすん大黒』 みたいな冒険をし
たほうが面白いかもしれません。知性派な方は 『異邦人』 かな。それとも、
「僕の出生に関して特筆すべきことはほとんど何もない」(『国境の南、太陽
の西』) ところから始まる、村上春樹的空虚な実存を、露悪的に描いてみせる
手もありましょうか。
 世界は断片化して他者はどこまでも不可解に映りだす。言葉は暗黒物質の
ように、私と非私の間に降り積もり、わからないことだけがわかるという一事を、
私たちはわかちあうのでした。
454 ◆YgQRHAJqRA :04/12/31 18:07:15
 では、よいお年を
455名無し物書き@推敲中?:05/01/01 08:04:23
◆YgQRHAJqRA さん、お疲れ様です。
今年も楽しみにしております。
456吾輩は名無しである:05/01/13 03:12:29
hs
457名無し物書き@推敲中?:05/01/13 03:42:20
おまんこを抜けると、そこは子宮だった。
458名無し物書き@推敲中?:05/01/13 20:17:17
>>449
自由間接話法の解説よろしくお願いします。

いろいろと読む本がたくさんありすぎて、
今年最初の読書は「オデュッセイア」でした。
(蛇足です。粗筋を知っている人は多いと思います。通読してみて、一言、二言。面白すぎ、ザッツ、エンターテイメント)
459名無し物書き@推敲中?::05/01/20 01:12:41
5y
460 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:04:52
 ども。つい先日、ブックオフで文学全集の『ボヴァリー夫人』を二冊救いだして、
ちょっと善い事をしたような気分の ◆YgQRHAJqRA です。違う版元で、訳は同じ
伊吹武彦 なんですが、びみょーーに訳が違っていてマニア心をくすぐります。

 自由間接話法は、まあ、ぶっちゃけ期待しないほうがいいですよ。言語体系の違う
日本語でやってもたいした文体効果がないっていうか、そんなのフツーでしょって
感じだから。別にやりたくないってわけじゃないんだけどねw
461 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:06:37
── 視点移動・虚構のカメラマン ──

 小説中の視点操作を、映画のカメラワークになぞらえることは、よくあることだと
思う。では、それがそのまま映画と同等、同質の効果を読者にもたらすのかといえば、
赤べこ(知ってる?)みたいにわけもなくウンウンと首肯してしまうわけにもいかない。
小説は、映画のようにワンショットで対象を明示することはできないし、逆に映画は、
あまりにすべてが露わに見えすぎてディテールの誤魔化しがきかない。
 現実を取り囲むさまざまな 「目」 が、人の意識(心理)のなかで機能している限り、
ありのままの現実を映すテクストは存在しない。書き手は、客体化した言葉のなかで
リアリティを装うだけだ。主体を持たぬカメラは、その意味で客観的であるといえる
が、映像の価値判断を下すのはけっきょく人間である。
 原理的相違はあるにしても、両者の表現コードはまるきりかけ離れているわけでもな
いから、作家は映画を小説のように読むことができるだろう。当然そこにあるもろもろ
の技術に、作家はインスパイアされていい。
 なぜ面白いのか? この問いかけがあれば、道は明るい。
462 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:08:21
  『ボヴァリー夫人』 上巻37p

 菓子屋は万事念入りにやった。デザートにはみずから菓子の造りものを運んできて
一同をあっといわせた。まず一番下には、青いボール箱の四角なのが殿堂をかたどり、
廻廊もあれば列柱もあり、まわりには漆喰製の小さな像が立ちならび、それぞれ金紙
の星をちりばめた龕(がん)の中におさまっていた。ついで第二段にはスポンジ・ケーキ
の櫓(やぐら)が立ち、まわりには、鎧草の砂糖漬やアーモンドやほしぶどうでこしら
えた小さな砦をめぐらしてある。最後に、一番上の平屋根は緑の原で、そこには岩山が
あり、またジャムの湖水に榛(はしばみ)の実の殻で造った舟が浮かんでいた。野原には
小さな天使がチョコレートのブランコに乗っているのが見え、ブランコの二本の柱の先
には、珠にかたどった本物のばらのつぼみが二つついていた。
463 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:11:11
 その場にありながら、書き記され、読み進むことでしか明示されない対象。描写を
単なるリアリズムのためのテクスチャーと考えていては、例に見るような描法を駆使
する発想は出てこないだろう。これは、シャルルとエンマの結婚の祝宴に出された
デザート(ケーキ)を描写している。一同をあっといわせるくらいだから、けっこうな
大きさだろう。フローベールは、それを安直に説明したりはしない。
 視点はケーキを細密に写しながら、下から上へと移動していく。この視点の、下から
上へと向かう描写の長さが、そのままこの菓子の威容を示してもい、古来、価値ある偉大
なものは上昇のなかにその姿を現す。
 描写は、物理的に視点(カメラ)を対象に接近させることだとイメージすれば、その
機能が見えやすいかと思う。ケーキの周りにいる人物たちは、必然的にフレームから
除外される。よって読者は、その描写の外でなにが起きているかを知りえない。この原理
を利用すると、視点にいろいろなサスペンスを導入できるだろう。また、描写=遅延とい
う時間軸の働きも頭に入れておこう。
464 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:12:23
 ちなみに、もしこれがケーキなんぞでなく、なまめかしい女体であったりすると、
これはまた意味が違ってくるわけで、あの 「なめる」 ような、いやらしくセクシャル
な視点になるのだが、どうも男はフェティシズムが働くせいか視点が特定の体部に吸
いついてしまったりもして(フローベールは足フェチらしい)、それはそれでまた
エロティックかも? という下卑た話はさておいて、この視点、まだ一方向の視点だ
からやさしい。書き方そのものがひとつの表現体になるところまで企図できれば、なか
なかの玄人はだしといえよう。
 次はもう少し動きのある例をみよう。
465 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:13:35
     上巻8p

 それは楕円形で、鯨骨を張り、先ず一番下には輪形の丸縁が三つ重なっている。次
にビロードの菱模様と兎の毛の菱模様とが、赤線に仕切られて互いちがいになり、そ
の上には袋のようなものがあり、その上に多角形の厚紙をおき、これには込み入った
飾り紐で一面にぬい取りをほどこし、そこから金糸の小さい飾りを房にして、むやみ
と細長い紐の先にぶら下げてあった。帽子は新しく、庇(ひさし)は光っていた。
 「起立」 と先生がいった。
 彼は起立した。帽子が落ちる。組じゅうが笑い出した。
 かがんで拾おうとすると、隣りの生徒がひじで帽子を突き落とした。彼はもう一度
拾いあげた。
466 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:15:03
 作品冒頭、シャルルというキャラクターをまさに決定づける場面。あえてそれを一口
で言い表すなら、「まぬけ」 である。
 学ぶところは、描写と説明の緩急を視点の運びと連動させる構造である。シャルル
の膝の上に乗っている帽子は、同じく下から上へ向かって描写される。この接近─上
昇は、ふいに 「起立」 という声で急転する。説明=加速の時間軸をまた思いだして
ほしい。そして、拾う(上)落ちる(下)拾う(上) の、コントじみた動きがクラス
メートの嘲笑を誘うのはもちろん、先生にもあなどられ 「余は笑い者なり」と、二十
ぺん書かされる罰を与えられてしまう。
 なぜ彼はこれほど貶められるのか。やるせないもうひとつの悲劇がここにあるのだが、
それはシャルル最期のせりふにある、小説(ロマン)という 「運命の罪」 にほかならない。
小説のために、彼はレオンでもロドルフでもあってはならない。他でもないシャルルで
あること。このシーンに、すべては決している。 
467 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:16:30
 世に横長テレビはいたるところで目にするものの、縦長テレビにはとんとお目にか
かったことがない。それは、人の目が横に二つ並んでついているからという、しょーも
なくあたり前な理由にある。
 生物学的にどうこうはともかく、人は水平方向よりも垂直方向に対して強く惹かれたり、
恐れたりといった動的心理を持ちやすい。遊園地の絶叫マシンはもとより、映画のアク
ションシーンなども、やはりこの上下動でスリルや躍動感を演出している。日常を突破する
力を、人はそこに見るのだろうか。
 紙の上に固定された文字に、同じ効果を期待するのは酷であるかもしれないが、イマジ
ネーションを具象化するためにこうした視点と描写、説明のテクニックは無駄でない。
少なくとも、ホームビデオで運動会を撮るようなのどかさ、だらしなさとは違う、緊張感と
立体性をテクストに織り込むことができるはずだ。
468 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:18:23
 長いので引用しないが、本が手元にあれば上巻の88ページをひも解いてほしい。
 「しかしきわ立って人目をひくもの、それこそは旅人宿 「金獅子」 の向い、
オメー氏の薬局である!」 にはじまる描写の向こうには、雑然とし、かつギラギラ
しい彼の店構え。そして隠そうとしても隠しきれない功名心が、目にイタいほど透け
て見える。ほどなく、視点は店の外へはずれ、「ヨンヴィルには、それからさき見る
べきものはもうなにもない。」 と断じて、そっけない説明に町のありようを俯瞰して
終わる。 「なにもない」 のだから、もうこまごまと描写する必要などないのだ。ここ
の部分は、ちょうど映画でいうクレーンアップの撮影に似ている。(というか、映画の
ほうが小説に似ているのだが)
 描写から説明への呼吸はいいだろう。シャルルやオメーの登場する場面においてキモ
となるのは、叙述の手法それ自体が、人物を描くひとつの姿となっている点である。
 一朝一夕にまねできるほど簡単ではないかもしてないが、「人目をひくもの」 の描写
がやはり表現のカギとなる。そこを地道に練習して腕を磨いていただきたい。
 とにかく、語彙力と構成力が盾もなく露顕してしまう技術ゆえ、一足飛びに上手く
やろうとしなくていい。語彙と構成は、絵画でいえばデッサンみたいなものだ。本を読
んだり辞書をめくったりして書きつつ、基礎的な筆力を養うしかない。かつて自分の
なかを通らなかった言葉が、ひょいと出てくるなどありえないのだから。
 「描写は一日にして成らず」 である。
469 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:19:36
   下巻165p

 つぎの木曜日、ホテルの二人の部屋で、レオンといっしょになったときは、なんと
いうはげしい感情の沸騰! エンマは笑った、泣いた、歌った、踊った、氷菓子を
取った、煙草をすいたがった。レオンには彼女が突飛に見えた。しかしたまらなく
よかった、すばらしかった。
470 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:20:48
 描写が対象の細部を際立たせることで特殊化をはかるなら、説明はその細部を捨象
して一般化をはかるものだといえる。説明の説明たる有用な機能とは、手短でわかり
やすいということである。晦渋な取扱説明書は用をなさない。
 だが、ときにその直截さは、凡庸と退屈の代名詞のように言われ、如上の例も普通
なら手抜きと見られかねない。もちろんこの筆致が手抜きでなく、計算して書かれて
あることくらい、まっとうな読者はすっかり承知している。どうしてかといえば、
繰り返すようだがやはり描写とのメリハリが利いていること、そして極端な要約の配列
によって、文に一種のリズムを作りだしているのだ。なんとなく、だらだらっと説明し
てやり過すところを、点描ふうに短い言葉のショットでモンタージュする。
 ともすると漫然となりがちな長編小説を書くさいには、こうした小さな趣向にも目
を向けたい。
471 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:22:19
 映画には、パンと呼ばれる撮影法がある。A点からB点へ、画面をカットせず、
主に水平方向にカメラを移動させて撮る方法だ。
 映画でいうワンカットが、小説の一文(ワンセンテンス)に照応するものと考えて
みる。すると、小説でパンというのは、一文のなかである対象からある対象へと、視点
をなるべく散らさずに連続描写していくような書き方になろう。


『焼け跡のイエス』  石川淳

 あやしげなトタン板の上にちと目もとの赤くなった鰯(いわし)をのせてじゅうじゅう
と焼く、そのいやな油の、胸のわるくなるにおいがいっそ露骨に食欲をあおり立てるかと
見えて、うすよごれのした人間が蠅のようにたかっている屋台には、ほんものの蠅はか
えって火のあつさをおそれてか、遠巻にうなるだけでじかには寄って来ず、魚の油と人間
の汗との悪臭が流れて行く風下の、となりの屋台のほうへ飛んで行き、そこにむき出し置
いてある黒い丸いものの上に、むらむらと、まっくろにかたまって止まっていた。
472 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:24:07
 視点の移動に応じて、当然一文の息が長くなる。この連続描写をどこまでも続けて
いけば一大パノラマのできあがり、にはならない。
 視点の線性といっても、それは描写の量的な自主規制によって実現されているものだ。
薬も飲みすぎれば毒となる。逆もまた真なり。この弁証法を地でいくのが、ジョイスの
『ユリシーズ』 であろう。そのなかでジョイスは、句読点のまったくない長大な一文
の独白を、「意識の流れ」 として書いた。
 文を成型するのに、句読点は欠かせない記号である。しかし、そもそもテンやマルや、
段落? 秩序だった文脈? そんな 「読みやすさ」 を意識する意識のリアリティとは
いったいなんだろう。近代リアリズムが自明のものとしてきたリアリティの風景を変え
たのも、また(メタ)リアリズムであった。
 意識(主観)そのものにたち返る視点によって、現代芸術はその夜明けをむかえる。
ただ、その光芒が小説界の大地をあまねく照らして、ロマン主義や自然主義の読者の
認識を豁然(かつぜん)と開かしむことには、現状を見るに、なっていないようだ。
 一見して上手な絵に、多くの人がたちまち共感するのと違って、けっきょく、
なんだか 「よくわからない」 ものである現代芸術に真の共感を寄せる人は少ない。
ゴッホのように、時代がそれを認めないということもある。
 最初から前衛する勇気もいいが、まずは相応の技術を身につけておいて、それから
いくらでも転向したらいいと思う。
473 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:26:31
 さて、一文の長さはどのくらいが適当なのだろう。
 個人差はあれ、小説の一文の平均が約40字であることを考えると、パンに模して
始点→中間点→終点 の流れを一文に収めるには、だいたい120字内外、本にして
3行くらいが適当ということになるが、ある程度の描写性を待たすとなると、さらに
その倍くらいになるだろうか。もちろん平均など気にしながら書く必要はないので
これはあくまで参考だが、描写の性格上あまり短くもできないず、逆に10行、20行
となると構文に無理が生じ、視点の線性がぼやけ、意味は拡散し、描写は 「印象」
に呑みこまれてしまう。 普通リアリティというものは、直示性(いま・ここ)に依拠
している。時間とともに記憶の鮮度が失われていく以上、文の長さにも限度がある。
その見極めも大切だ。
 同じようなことを、伏線の技術の解説でも述べたと思う。私たちは読みながら忘れ
ていく。長い距離で伏線を張る場合、反復≠上手く使うのだと。
 >>471 もう一度例文を読めば、この反復の要領が長文にも通じることがわかる。
描くものは少なく、イメージを反復させる。また、上手く蠅を使って視点を誘導して
いるところなども、押さえておきたいポイントである。
474 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:27:25
 作文では、読みにくい、文意がつかみにくい、しまりがない等、たしなめられる長文
も、小説では非難にあたらないどころか、逆に効果的に利用することができる。例えば、
酔っぱらった人物の朦朧とした視点を表現するのに、あるいは混濁した思考や心の乱れ
として、長文の持つネガティブな要素の有意味性を作品に活かしてみるのも一興であろう。
475 ◆YgQRHAJqRA :05/02/03 23:30:09
 どうでしょう。他の技術と比べると、お手軽感はあまりないかもしれません。
描写が絡むとどうしてもメンドウになります。まともに描写しようと思ったら、
それなりに参考となる資料や実物が必要になるんです。リアリズムってのは意外と
足が出るんですね、これが。
 今回の技術は、主に一場面の視点操作でしたが、実は視点移動のダイナミズムが
もっともよく表れるのは、場面転換なのです。つまり、私がこのスレッドで最初に
解説した技術へ戻ることになります。
 いや、はじめからこういう円環構造を狙っていたわけでじゃないんだけど、結果的
にこのような仕儀とあいなりました。めでたしめでたし?
 
 どれくらいの方が根気よくこのスレッドをみているのかわかりませんが(五、六人
かな)、私の駄文、拙文を、奇特にもここまで読み続けていただいた方々に、あら
ためて御礼申し上げます。
 あ、でもまだ終わりませんからw 場面転換については、もう少し補足しておこ
うかと思います。それはまた次回ということで。
476tina ◆OcfLN77Pak :05/02/04 01:22:59
◆YgQRHAJqRA さん、おつかれさまです。

http://homepage2.nifty.com/sakura-classic/sakura/kanon2.mid

いまでも読ませていただいてます。これからも、よろしくお願いします。
477名無し物書き@推敲中?:05/02/05 00:29:51
> そこを地道に練習して腕を磨いていただきたい。
どういう立場の人なのかなあと妄想しちゃいますね。
教師? 編集者?
答える必要ないです。
スレ汚しスマソ。
478名無し物書き@推敲中?::05/02/12 00:50:58
656
479名無し物書き@推敲中?:05/02/12 09:37:36
ひまな大学院生。
480 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:07:46
 場面転換、ふむ、これは一考に値する技術だよ、ちみ。と、口ひげをなでつけなが
ら、革張りの椅子に深々と腰かけて、おもむろに180度回転するような立場でない
ことは確実の◆YgQRHAJqRAです。
 ずうずうしい好事家の御託を、ハナクソ程度にも気にかけてくださるのは、まっこと
恐悦であります。私をだしにしてどうぞ妄想力を鍛えてください(笑)

 アラ、なんだか懐かしい名前の方が。まだ日記かエッセイみたいなのを続けてい
らっしゃるのかな。文体への意識は身につきましたか? 自分のスタイル、スタンス
はつかめましたか? エッセイのようなものを書くときは、個性的な文体とか変わった
視点(異化の技術参照)が読者への訴求力になりますからね。
 まあ、個性的といっても、どこか他人の言葉であることをまぬかれる書き手はいない
わけですが、柄谷行人はこう言っています。ちょっと長いけど引用しましょう。
481 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:09:38
  構造主義者がおこなったように、文学作品の構造への還元は可能であり且つ必要な
ことである。しかし、それが明らかにするのは、ある種のテクストには必ず還元不能な
何かが残るということである。なぜ、われわれはある種のテクストを作者の名で呼ぶの
か。それはロマン派的な 「作者」 の観念のためではない。構造に還元できないような何
かがあるかぎりにおいて、われわれはそれに固有を名を付すほかないのである。実際、
構造主義的分析が成功するのは、神話や大衆的文学にかんしてのみである。
 固有名について語ることで、私は別に作品を生み出した作者、あるいは主体の地位を回復
しようとしているわけではない。ロラン・バルトが言うように、「作者は死んだ」 といって
もよい。しかし、たとえばバルトの著作に言及する際に、私はそれらを 「バルト」 という
固有名で名指さなければならない。そうすることは、それらがバルトに属するものだという
ことを意味するのでない。そこに、たとえば構造主義とかポスト構造主義といった類(集合)
のなかに回収しえない、「単独的」 な何かがあるということを意味するのだ。それは、バルト
自身が意図したりコントロールしたりしえないもであり、さもなければ、それらは 「特殊性」
でしかなくなるだろう。

                       「固体の地位」
482 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:10:40
 通俗的に個性的な文体といっているものは、ほとんど 「特殊性」(例えば若者言葉
に代表されるようなもの)といっていいものでありましょう。
 別の箇所で氏は、この構造に還元できない 「単独性」 を、猫のたとえにしてさらり
と、なにげに 「愛」 であるなんて言うのです。
 巷間では、ジャンクフードのように供給、消費されているアイ(love)ですが、こう
いうインテリゲンチアにとって、この種の語はほとんど禁句であるはずです。めったな
ことでは、愛なんて言葉をストレートに使ったりしないものなんです。そこも引用しちゃい
ましょう。
483 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:12:51
 ──たとえば、ここに 「くろ」 という名の猫がいる。特殊性という軸でみれば、
「この猫」 は、猫という一般的な類のなかの一つであり、さまざまな特性の束(黒い、
耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、単独性という軸
でみれば、「この猫」 は、「他ならぬこの猫」 であり、どんな猫とも替えられない
ものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているからではない。ただ、それは
私が愛している猫だからである。
484 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:14:10
 氏は、「人間」 という語を用いるのに気をつかうと、違う論説のなかで言っていた
くらいです。このテクストには柄谷行人の、ひとつの語に対するひそかな決意とか決断
があり、まさに構造に還元できない 「愛」 が、「単独性」 があると、私は感じてし
まうのでした。

 たまたま前を横ぎった野良犬や、ゴミを漁っているカラスに、いちいち名前を付けて
いる人はいないと思います。私たちの固有名─名前というのは、自分を指標するためと
いうより、むしろ自分以外の、他者がそれを必要とするために用いられ、名付けられ
るのですね。
 ペンネームとかハンドルとか、私たちは自分に好きなように名前を付すことができま
すが、tina、と呼んでくれる人がいてはじめて、その名が自分に与えられるわけです。
そして、栄えようと衰えようと、また良くも悪くも、その名を忘れない人のなかに単独性
はあるのです。映画の 『ミザリー』 なんかは、それをもっとも極端に表したものかも
しれませんね。
485 ◆YgQRHAJqRA :05/02/15 00:15:37
 文章の持つ身体性として、どんな個性があってもいいし、自分のコントロール下に
あるからこそ、それは道具にも武器にもなります。技術もその範疇でしょう。しかし、
そうしたものを越えて、読者の心を捉えるテクストのよろこび、味わいというものも
あるのですね。そのようなテクストとは、柄谷行人をリスペクトして言えば、「ただ、
それは私が愛している言葉だから」 だれのためにでもなくそれを読むのです。
 例えば、自分を固有名で呼んでくれる近しい人からの言葉、あるいはそういう人へ向
けて書いたもの、そういうダイアローグ(対話)的なテクストには、単独性を感じやす
いかもしれません。
 誕生日に、「お母さん、だい好き」 と書かれたカードを見て母親涙ぽろぽろ、徳光さん
もらい泣き、みたいな。
 私も最近涙腺弱くて、書きながら胸が熱くなったりして、どうしたものか。トシ? (´・ω・`) 
でも、フローベールも号泣しながらエンマの最期を書いたっていうし、いーんだ泣いたって。グビグビ(酒)
 ほいじゃ、また。
486名無し物書き@推敲中?:05/02/15 13:20:18
>構造に還元できないような何か=単独性
というのは、

しかし、所詮、結局、残念ながら、
その「愛」に似た思い入れに涙が溢れでるのにもかかわらず、

差異

でしかなく、構造の中に吸収されてしまう。

遺憾ながら。

作者などいない。フローベールもバルトも記号にすぎない。あるいはそういう固有名詞の幻想。
ただ、語り手がいるだけだ。そしてまたそれは読み手がいて初めて存在する。
487tina ◆OcfLN77Pak :05/02/16 07:01:06
>>480◆YgQRHAJqRA さん
はい。いまだに日記かエッセイ”みたい” なのを続けています(汗

>文体への意識は身につきましたか? 自分のスタイル、スタンス
 はつかめましたか?
う… と言葉につまる从^ 。^从
がんばります! 読むことも書くことも大好きなので。

今日も1日おつかれさまでした おやすみなさい
…って、もう朝でした(笑
488tina ◆OcfLN77Pak :05/02/16 20:05:52
ただ… 文章上手くなりたいって思いは、一昨年より、はるかに勝っています。
あれから、ずいぶん、誤解されたりしましたので。
489 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:45:46
 どーもこんばんは。
 
 >>486
 んー、つまりその構造に回収されないものが、単独性であるわけです。それを
愛云々と(私みたいのが)強調いたしますと、反人間中心主義でもある構造主義者
にとっては、そんなのチャンチャラおかしいや、ということになりましょう。そう
いう侮りがあるのは、柄谷もよく承知してしていますから、引用文>>481 のなかでも、
単独性と固有名の結締はロマン主義への回帰ではないと断っていますし、(単独
的な)「何か」 などと容易に意味を同定できない言いまわしをとるのです。
 しかし、そんな予防線を張るまでもなく、構造主義の限界はすでに明らかになっ
ています。テクストを統一的な構造に還元(システム化)してしまおうとする試み
が挫折するのは、そこに構造外の影響を排除できない、あるいは反動的にその影響
を隠蔽しようとするためです。
 反言語中心主義として構造主義に足払いを仕掛けたのが、ポスト構造主義の、い
わゆる差異であったかと思います。>>486 さんの論旨は、私には少しわかりにくい
のですが、言い訳がましくさらに重ねて言えば、「愛」 という言葉にはいつもズレ
(差異)がありますね。いろいろと誤解をまねく言葉であるところがイカンともし
がたく、それでいて隙あらばこの語をテクストにすべり込ませたいと願いつつも、
直接に触れることの怖さとためらいと羞恥のために、それに替わるさまざまな言語の
妄想――内界のリアル――を結実させてしまうのです。禁欲こそ新しき創造の翼であり、
それはまったく理性の伸展などではなく、愛=欲望そのものの解体―再構築(ディコン
ストラクション)である、という突然の論理の飛躍はしかし、欲望一直線の時代の風に
煽られて、あえなく墜落してしまうのでありましょうか。
 なんていうのが、ポスト構造主義的思考法、かも? 小説書くのに役立つかどうかは、
知りません。
 なにやら主義主義とうるさいことばかり並べてしまいましたね。すまんです。
490 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:46:51
 >>487
 お元気そうでなによりです。みたいでもなんでも、続けていることに感心し
ました。
 今はどこで書いているのでしょうか。できたらtinaさんの、「みたい」 じゃ
ない日記かエッセイ、また読んでみたいですね。
 ひっそりと書いているなら、無理に教えてくれなくてもいいです。
491 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:48:33
    ――場面転換の汎用的方法――


 いつ・どこで・だれが・なにを・どうする。
 俗に5W1H(上では 「なぜ」 が抜けているが)といわれる要素は、情報の
明確性や信頼性をはかるのに最低かつ必要な条件であり、報道の基本事項でもある。
これは別に専門的な話ではなく、ごく日常的な理屈の話である。

 「あなた! こんな時間までなにしてたの! 」
 午前様のぼくに向かって妻が怒鳴る。元来、臆病者のぼくはひとまわり小さくなり
ながら、いや、その会社の打ち合わせで……とかなんとか、例の5W1Hをさりげに
使って妻を納得させるのだ。それに、子どもが起きるよ、とか。
 「ふーん」と、にらみを飛ばす妻。
 ぼくは風呂に入り、湯船にどっぷりと浸かりながら、あくび混じりのため息をつく。
 あっとぼくは声をあげそうになって、みるみる思い出す。背広のポケットに、キャバ
レー 『パフパフ』 のレシートを、うかつにもそのままにしてあったのを。
 腰を半分浮かした湯のなかで、ぼくのちんちんは縮みあがった。
492 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:49:56
 私たちの世界がパラレルな可能世界に侵食されているのでなければ、事実は
ただひとつしかない。犯人は、アリバイを作るために二重三重の虚構を作り出す。
だが、その話はどこかで現実との整合性を欠き、ひとつしかない事実は二転三転
して情報の確度は失われ、結果的にウソは破たんする。
 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、そしてそれをまったき
ひとつの(虚構)世界として描くならば、当然そのなかの事実もひとつであり、
<いつ・どこで・だれが・なにを・どうする> のかというルールは暗黙のうちに守られ
なければならない。それをふまえて、場面転換の汎用的方法というものを考えてみよう。
493 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:53:07
 目を閉じて、顔を横に動かして、目を開けてみる。そこには違う景色が映って
いるはずだ。あたり前じゃないかと感じるかもしれないが、この景色の跳躍は、
映画の表現力を革新させる(実は偶然の)大発見だった。もし、カットとカットを
組み合わせてシーンを構成するモンタージュがなかったら、大げさに言えば、映画
はいまだに固定された画面のなかを人が出たり入ったりする演劇であっただろう。
 景色の跳躍を、もっとユニークに、よりダイナミックに動かすと、場面は転換する。
好例は>>24 以下に紹介したものをいま一度味読してもらい、凡例は上に書いたお粗末
な話のように、どこにでも転がっているので苦はなかろう。
 <いつ・どこで・だれが・なにを・どうする>
 この五つの軸線が話の整合性を保つのに必要な要素であるのはわかったこと、加えて
同時にこれは時空と運動の関係として捉えることができるし、構文の基本形としても捉
えられる。つまり、時間(いつ)、場所(どこで)、語り手・人称(だれが)、
対象・名詞(なにを)、作用・動詞(どうする)、というふうに。
 このなかで場面の基軸となっているのが、<いつ・どこで・だれが> である。通常の
文章では、これらは――省略されていたとしても―― 一致した状態にある。ひとつのカメラは、
ひとつの直示性を前提している。だから、「あした、わたしはカレーを食べた」り、「今日
は家で本を読みながら、学校でテレビを見る」 ことや、「彼が山田君の家へ行くと、ぼくが
山田君と遊んでいる」 事態にはならない。説明するまでもないと思うが、これらは時制、場所、
語り手の不整合がある。面白半分でこういう二重視点の叙法に手をだしても、単に作者のリテラシー
(読み書き能力)を疑われるだけである。あえて使うとしたら、日本語のあやしい外国人のセリフ
として、そのインチキ臭さをだすためとか、そんな使い方にしたほうがよい。
494 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:54:45
 ともかくも、普通に書いていれば視点は均衡して、ひとつの場面が生成される。
そしてその場面場面を連続的に布置してゆけば、自動的にそれは物語上のシーク
エンスとなる。しかし、いつまでも同じ時間、同じ場所に居座っているわけにも
いくまい。読者は、物語に変化を求めるものだ。
 ちまちま視点を動かしていても埒が明かないので、書き手は連続した場面の
<いつ・どこで・だれが> の軸のどれか、あるいは複数をずらす。前の場面との
ずれが大きければ大きいほど、場面転換としての効果も大きくなり、行空けや断章
の形式を生み出すことにもなる。基本的には、この三つのパラメータをいじること
でさまざまなパターンの場面転換が表現できると考えてよい。
495 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 21:57:49
 例えば、<いつ(時間)> だけをずらしみる。
 人物:太郎 場所:机 時間:深夜>>朝 
 と、設定し、<なにを・どうする> に、「勉強中いつの間にか寝てしまう」
という行為をつないでみれば、どのような場面転換として叙述すればよいか大体
わかるだろう。

 <どこで(場所)> でいえば、災害や事故などの外的要因によって、その場の
様相が一気にガラリと変わってしまうことも場面転換の一種と捉えられる。

 <だれが(語り手・人称)> の軸を動かすのは、一人称視点か三人称視点かの
形式で少し変わってくる。
 一視点の場合、いわばカメラの持ち手を代えることになる。同じ 「わたし」 で
あっても、カメラマン(語り手)が代われば、絵の作り方(書き方)が変わるのは
むしろ自然であろう。といっても、小説は基本的に個人の営為であるから、ここで
問題となるのは作者の人物造形力と、人格(文体)への没入力、持久力である。作者
はひとりで何役もこなさなければならない。いくつものハンドルネームをもって、
すべてのキャラクターを苦もなく使いわけられるマルチアイデンティティな人は、
一人称小説向きかもしれない。
 ただ、一編の小説中で主人公をそう何度も代える機会はないだろう。最初から書簡体
形式を採用するか、断章形式で語り手を代えるか、『こころ』(漱石)のように、先生
の手紙という違うテクストの形で本文に挿入するか、あるいは長い会話、そういう工夫
がまず必要になるのであった。
496 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 22:01:08
 三視点の例は、>>38にみる通りだから多言するにあたるまい。要は視点人物を
ずらせばいいのだ。
 三視点の自在性と透明性は、映画的なカメラワークに類似した技法に適している。
特に継ぎ目を感じさせない場面転換はかなり技巧的で、川端のような手筋はそうお
目にかかれない。テクストを分析するのも骨が折れる。もし場面転換のいいお手本
を捜そうと思ったら、小説より映画を観たほうが手っ取り早いかもしれない。
 しかし、文章化のむずかしいものもある。例えば、『プライベート・ライアン』
の冒頭と最後で現在と過去をシームレスにつなぐ手法は、CG技術のたまものだろう。
映像をすべて言葉に直訳するのは無理があるが、そこをなんとか言語表現の技術に
置換してみようと創意をめぐらしてみるのも面白い。
 映画草創期の監督、エイゼンシュタインは、自身のモンタージュ理論を確立するのに、
日本の俳諧のもつコードを知人から聞いて、その着想を得たといわれている。発句
(五七五)と脇句(七七)の関係は、べったりくっついていてはいけないし、まったく
切断さていてもいけない。付かず離れずの曖昧な言葉の関係によって、句の連なりがひ
とつの情趣をかもしだす。この句と句の連結関係を、エイゼンシュタインはカットとカット
の連結関係にみたてた。それに近いものが、>>24 のような手筋だと思えばいい。
『プライベート・ライアン』 のなかにも、地面を打つ激しい雨音が戦場の銃撃音と重な
ることで場面転換するシーンがある。
 さすが文芸はエライというのではない。表現技術は、ジャンルの飛び越えるのである。
タコツボに進歩はない。
497 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 22:02:03
 話がそれてしまったけれど、むずかしいことを抜きにすれば、場面転換は
<いつ・どこで・だれが> の跳躍的な視点変化であることに変わりはない。
時間Aから時間Bへの跳躍を、「一週間後」 と書くか、「花瓶の花はしおれ
ていた」 と書くかの違いがあるだけだ。
498 ◆YgQRHAJqRA :05/02/26 22:06:50
 次は、自由間接話法だったかな。ふう。
 では、またあったかくなたら会いましょう。
499吾輩は名無しである:05/03/02 14:00:46
6
500娘遍詑 ◆SF36Mndinc :05/03/02 16:41:04
場面転換と時間のさかのぼりを何の説明もせずに段落も変えずに書いてみたら読者の因果律と小説の因果律を組み合わせることができそうな気がさっきしたんだけど
501名無し物書き@推敲中?:05/03/02 23:28:35
>>492
> 小説を書くのに、さしずめ物語と呼ぶものをこしらえるなら、
> そしてそれをまったきひとつの(虚構)世界として描くならば、
>当然そのなかの事実もひとつ

芥川の藪の中は?
502 ◆YgQRHAJqRA :05/03/05 18:49:43
 『藪の中』は、断章的に話が独立していますよね。そして、個々の話(世界)
は整合性がとれています。ただ、それらの話が、同じ時空間上の同じ事象を語っ
たものである、という 「了解」 のなかで読まれたとき、それは同時並行(パラ
レル)の可能世界として認識されるわけです。また、そう読まれることを前提に
しなければ、この作品の面白さはないわけですね。
 もちろん、もっと前衛的に、個々の話をひとりの語り手のなかで輻輳(ふくそう)
させてしまう方法もとれるでしょう。しかしそうなると、もはや物語や場面転換が
どうのというより、小説という表現の可能性を問う話になってしまいます。一場面
転換の技術から、メタフィクショナルなところまで射程に入れてしまうと、ちょっと
荷が重いですね。 「汎用的方法」 でもないでしょう。だから、通論として、ひとつ
の物語(世界)がもつ時空間上のルールを 「ふまえて」、場面転換を考えてみましょ
う、と書いたんですけど、わかりにくかった?
503吾輩は名無しである:05/03/16 22:41:45
k
504名無し物書き@推敲中?:05/03/17 22:55:22
答えなくなければ無回答でも結構です。

講師の方は創作をされているのか、
あるいは読むこと(研究や批評することも含んでの広義の意味合いで)
をもっぱらにされているのか、
その点気になったものですから。
505tina ◆OcfLN77Pak :2005/03/31(木) 01:17:29
>>490◆YgQRHAJqRA さん
 このスレッドで教えていただいたことを意識して、ひとつ、書いてみました。
 どうでしょうか。心の準備はできていますw ので、酷評OKです。
 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/bun/1107980225/314-321
506吾輩は名無しである:2005/03/31(木) 01:34:43
8
507 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:20:07
 >>504
 私はぜんぜん気にならないけど(笑)
 まあ、これだけ長くひとりでぐだぐだ書いてるスレッドも珍しいかもしれ
ないんで、何ヤツ? という疑問もあるのかな。
 私のもっぱらは、本を読んで考えることですかね。大したことじゃないけど。
そこから滴り落ちた言葉のしずくの一部が、このスレッドに不細工なしみを
作った、それだけのことです。

 >>505
 批評するんですかw じゃ今から読みます。酷評OKとか言うとボコボコに
しちゃうぞ。ウソ
508 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:21:37
 自由間接話法とは、フランス語のフランス語による表現形式であり、レトリック
である。言語体系の違う日本語で、その文体効果を再現させるのは難しい。
 日本語は、インド・ヨーロッパ語族のように、人称が文の成分として切っても
切れない要素になっているわけではない。そもそも、文脈重視の室内言語である
日本語には、西洋語のいう主語は元々ないのだという学者さえいる。人称は、修飾語
とそう変わらない扱いを受け、付け外しが自由である。ために、語り手の位置が
しばしば不明瞭になりやすく、人称を伴わない主観的言説をゼロ人称や四人称
(こういう呼称は語弊があると思うが)と言ったりもする。自由間接話法はこれに
近いものだ。その意味で、自由間接話法的表現は、そのハイカラな名前に期待され
るほど、文体として特段目立つことはないと思われる。 それでも、うまく使えば
それなりの見栄はするので、その形を(フランス語のレクチャーなどできないので)
日本語に即して紹介しよう。
509 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:22:51
 まず、自由間接話法以外の話法との違いを比べておきたい。直接話法と
間接話法の二つである。


   「“これこそ私の最高傑作です”と彼は言った」

 直接話法はおなじみの書き方だろう。地の文(語り)とセリフを分けて、誰が
それを言っているのかを判然とさせる。
 原則、語り手は人物の発した言葉をそのまま再生しなければならない。日本語
は、くどさを避けるためもあって、往々に人称(ここでは私)を省いてしまうこと
が多い。西洋語ではなかなかそうはいかないので、人称を勝手に省くと直接話法で
はなくなってしまうのだが、そこは先に言ったように言語体系が違うので厳密に
考えなくてもよい。
510 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:24:50
   「彼は、これこそ最高傑作だと言った」

 間接話法は、人物のセリフを地に開くことではなく、又聞きしたことを話す
ようなものに近い。発話者の一人称が単純に省かれるのはもちろんだが、語り
手の人称と時と場所に、セリフを従属させ、ひとつの文に組み込んでしまうよう
な書き方である。
 「“これこそ最高傑作だ”と彼は言った」 こう書いてもいいのだが、前後の
文脈がないのでこれでは直接話法との違いがわかりにくいだろう。日本語的には、
語り手の主語と述語の間に間接話法のセリフの部分を挟んだほうがそれらしい
構文になる。
 この文体は口語から取り入れられたもので、もっとくだけた書き方をすれば、
「ねえねえ、部長ってズラなんだって、さっきそこで聞いちゃった」と、こうした
間接話法は日常会話によく使われているものである。
511 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:27:11
   「これこそ最高傑作だ。作品にこめた彼の……」

 これだけ見せられて、自由間接話法だと言われてもおそらくピンとこないだ
ろう。間接話法に増して、このレトリックにはここに掛かるテクストの形式と
文脈をまず要するのだ。(そこは『ボヴァリー夫人』の例を出して説明する)

 間接話法と比してみれば、省略されている部分が何かすぐわかるだろう。
人称は当然として、「―と言った」という語り手の指向性が消されている。
単なる地の文となにが違うのかといえば、自由間接話法の言辞は、主観的な
思惑や感情の表明となっている点である。そして時制は現在形をとるが、と
りあえず主観的な言述になっていればいいので、疑問詞や断定の形でもかま
わない。
 では、『ボヴァリー夫人』 の例を見てみよう。
512 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:37:12
   『ボヴァリー夫人』 上巻83p

 四年間も居を構えて 「やっと根を下ろしかかった」 頃にトストを見捨てるのは、
シャルルにとっては痛手であった。しかし必要とあらば仕方がない! 彼は妻を連
れてルアンの町へ行き旧師に会って診察を乞うた。それは神経のやまいであった。
転地させねばならない。
513 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:41:01
 過去形文が、客観的リアリズムを支えるひとつの文体、ニュアンスであること
は前に述べた。それは、語り手を物語に介入させないための自覚的形式である。
『ボヴァリー夫人』のテクストは、ほとんどが過去形で占められている。
 フローベールは 「文体だけが事物を見る絶対的な方法なのです」 と言うくらい、
文体にこだわった作家であった。彼は自由間接話法を使って、瞬間的に文章を流れを
滑らせ、語り手と人物の位置を曖昧なうちに同化させることに成功する。
 「しかし必要とあらば仕方がない!」と言うのは、文脈からしてシャルルの心理と
読めるが、セリフは地に開いており、シャルルを指向させる語を語り手は示さない。
では、これは神の視点を持つ語り手の、つまりはロマン派的な作者=神の叫びなの
だろうか。いや、ロマン主義者はたぶん、こんな手の込んだやり方はしない。もっと
堂々と物語のなかで熱弁を振るうであろう。
 『ボヴァリー夫人』 の語り手は、物語から一定の距離を保ち、その位置取りを決し
て崩さない。語り手は、現在形で自らを明々と照らし出してしまうようなヘマはしな
いのだ。じゃあ、これはやっぱりシャルルの……、という循環論に陥ってしまいそう
になる。
 日本語でこれを読む者にとって、このレトリックの違和感はほとんどないのではなか
ろうか。どちらともとれる二声的な文体を、なにか特殊な表現をしているとは感じない
だろう。人称が付随的であることで、いわば自由直接間接話法とでもいうような文体上
の拡がりを、日本語は常に内在させているのである。
514 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 19:43:29
 フローベールの手筋に学ぶなら、まずは文脈をしっかり作ること。そして
自由間接話法にあたる言辞を、作中人物の主観と重なる形で織り込むこと。
文はあまり長くないほうがいいだろう。連続使用はさらに控えなければなら
ない。現在形は、語り語られるものをいま・ここの場に指向させるニュアンス
を作り出すので、それが連続すればどうしてもあからさまな語り手の思弁に
なってしまう。三人称の神様が、臆面もなくべらべらと物語に闖入してくる
体裁とは、やはり技術として一線を引いておかなければなるまい。
 語り手のささやかな声と人物の心理が、そこはかとなく一緒に響く、そんな
繊細さが欲しい。
515 ◆YgQRHAJqRA :2005/03/31(木) 20:02:53
例の最後の一文も自由間接話法ですね。なんとなくどういうものかわかりました?
三人称形式の小説だと、知らず知らずこういう文体になる可能性はあると思います。
 語り手は人物の心理を代弁する以外、説教を垂れたり、感情的にわめいては
いけないという文体上の抑制をかけないと、自由間接話法のずれが活きない
ですからね。最初から、それこそ自由に書きたい、そんな煩わしい形式なんて
知らない、という小説ならこの技術は意味のないものだと思います。

 これまでは、比較的スタンダードな小説の書き方を前提にしていましたが、
次はちょっとアバンギャルドなスタイルを取り上げてみようかと考えています。
 では、またそのうちに。
516名無し物書き@推敲中?:皇紀2665/04/01(金) 00:17:12
今日初めてこのスレをハケーンし、少しずつ読んでますが泣きそうなくらい為になりますね。感謝感激です
517名無し物書き@推敲中?:皇紀2665/04/01(金) 08:08:40
自由間接話法というのは今ではあたりまえの手法だが、

ということは、
フローベール以前の作家、バルザックやスタンダールにはそういう手法は使われていなかった。
少なくとも一般的ではなかった、ということですね。
518名無し物書き@推敲中?:皇紀2665/04/01(金) 19:54:54
このスレは後で編集して永久保存。
519名無し物書き@推敲中?:皇紀2665/04/02(土) 01:11:12
真面目な話、本にして欲しい
520 ◆YgQRHAJqRA :2005/04/03(日) 11:48:56
>>517
 そうですね、フローベール以前にも、自由間接話法を使う作家なり作品は
あったのですが、小説でこのレトリックを効果的に使ったのは、彼が最初だと
言われています。今では「自由間接話法」 は文法として理解されていますが、
文法は20世紀半ばから本格的に研究されだした新しい学問ですから、当時は
あくまで文体、語りの表現法のひとつという意識だったでしょう。
 小説は直叙でなければならない。この理想の追求から、フローベールは自由
間接話法に新たな可能性を見出したのかもしれません。まあ、ここらへんの
むずかしい話は、フランス文学史とその書き言葉(エクリチュール)の変遷に
ついての知識(当然フランス語をマスターして)を要するので、私の限界をは
るかに突破します(笑)。もっと詳しく知りたい方は、自分でお勉強してね。
521 ◆YgQRHAJqRA :2005/04/03(日) 11:49:57
 例えば、バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の書き出しの一部を見ましょうか。


 ――とはいってもこのドラマが始まる1819年には、そこにひとりの気の毒な娘が寄宿
していた。悲壮文学のはやる今日このごろ、むやみやたらと誤用され酷使されたために、
ドラマという言葉がどんなにか信用を失ったとはいえ、ここではやはり、それを使わな
いわけにはゆかない。この物語が、言葉の真の意味で演劇的だからというのではない。
だがこの一巻の物語を読み終えたときには、《都の城壁の内でも外でも》 〔訳注 パリ
でも地方でも、の意〕、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。
522 ◆YgQRHAJqRA :2005/04/03(日) 11:51:31
 なんと自信満々でエラソーな語り手でしょう(笑)。これでは自由間接話法
なんて霞んで問題になりませんね。
 バルザックは、1834年にこの作品を執筆し始めています。、この約二十年後に
『ボヴァーリー夫人』 が登場するわけです。ほぼ同時代と言ってよいでしょう。
フローベールの文体がいかに革新的であったか、近代リアリズム小説の旗頭とさ
れるのも当然かと思います。
523 ◆YgQRHAJqRA :2005/04/03(日) 11:52:43
>>518
 少しでもなにか糧になるものがあったら、書き手として幸いです。

>>519
 本になる程の内容じゃないですよw 巷には、私なんかより、もっとちゃんと
した知識理解を持って書かれた本がたくさんある、はずです。それに、只で読め
る、書ける。この気楽さがあったから、まあ、ここまでなんとか続いたのかもし
れません。

 一応、主要な小説技術について書きたいことは書いたから、あとは各自応用
なり選別なりして自分の血肉としてください。もちろん、ここで解説したものが
技術のすべてではありませんし、技術以外にも、書くことの楽しさや苦しみに、
取り組んでいってもらえたらと思います。
524名無し物書き@推敲中?:2005/04/03(日) 12:40:29
本当に乙カレ様でした
525吾輩は名無しである:2005/04/13(水) 12:39:33
y
526吾輩は名無しである:2005/05/11(水) 11:40:10
7
527 ◆YgQRHAJqRA :2005/05/12(木) 20:11:49
 三島由紀夫の 『永すぎた春』 を読んでみようか。
 おもむろにこう切り出すと、見えざる磁力でこれはもう三島の伝説(人生)を
取りあげるのかしらという予感が、読者の心の一隅に湧き立つかもしれない。
三島のテクストは、彼の身体性と固く結びついているかのようにみえる。
だから、作品を通して三島の乳首を想像してみたくもなる。そのような魅力が
あるのを認めないわけにはいかないし、アノことについて考えると、人はつい
饒舌になってしまう。
 しかして三島由紀夫はまたムクムクと再生産され、私たちの前によみがえる。
三島が構築したそういう目論見に、私は与したくない。と表明したら、ひとは
それを意気地なしと嘲笑い、または無能な気取り屋がよくとる態度だと卑怯者
扱い、されるだろうか。そんな政治的な気づかいをここでする必要はないのだ
けれど、愉快ならざることに当の私、どうやら意気地なんぞすっかりかかとが
潰れてしまっているし、無能めと言われれば、すみません。気取ってんなよと
聞こえれば、ハイ気をつけます。といった按配でどうもホメられる様子にない。
まあそんなことは、当たり前田の糞でもくらえであって、はなから居直っている
のである。

 なにやら中身の薄さを糊塗する手並みをみすぼらしく実演しているみたいだが、
しかしこれも字数を稼ぐためのちょっぴりセコくて実用的なテクといえばテクで
はある。自己言及的冗長性。でれでれ書き流しても芸無しであるから、味付けに
こくのあるエスプリやまろやかなユーモア、スパイシーな諷刺などを少々加える
が吉。
 で、なんの話をしていたのか(書いてる本人も)よく分からなくなるという
オマケつき。
528 ◆YgQRHAJqRA :2005/05/12(木) 20:17:36
 …予告するだけなら、はじめの一行で足りてるわけでして、え、肝心の
解説はまた今度でございます。

 『永すぎた春』、暇があったら読んでみてください。昨今流行の純愛もの
であります。
 では、これにて失礼。
529名無し物書き@推敲中?:2005/06/01(水) 18:39:46
「ウィスキー」という映画をやっている
南米ウルグアイの映画で、東京国際映画祭で賞を獲った。
あの映画は文学的には、どうなんだ?
530名無し物書き@推敲中?:2005/06/05(日) 13:23:47
>永すぎた春
ですか……。

何をどういうふうに論じるのか楽しみですね。
531 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/11(土) 11:38:55
 はぁ、遅々として進まず。作品の全体を解説しようってのがまず無謀
なのかも(身の程を知れ) 書くこといっぱいあるし(言い訳言い訳)

 >>529
 一応私に訊いてるのかな。
 どうなんだ? と言われても、観てないのでなんとも申し上げられません。
ウィスキーって接客スマイル法、ウルグアイにもあるんだ。へぇ、と無駄知識
がひとつ増えました。
 文学的にどうかというより、映画としてどうなのか。面白い感想などありま
したら、お聞かせください。

 永すぎた解説、そんな予感をはらみつつ 入梅。
532 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:06:33
どうも、リニューアルしたドラえもんがけっこうお気に入りの◆YgQRHAJqRA です。


 この間、コーヒー牛乳に当たって悶絶しました。腐りかけてたのかなぁ。
 水寫便(すいしゃべん)、なんて熟語を使う機会はそうそうあるもんじゃない
んですが、ゴロピー状態になって、これぞ水寫便! て感じでしたw
 近年まれにみるはげしい腹痛で、全然笑いごとじゃなかったけど。吐いたら
楽になって、大事にならずひと安心。気温が上がってくると気をつけなくては
いけませんね。
 尾籠(びろう)な話でゴメンナサイ。

 やっとこさまとまったのでUPです。でも、完全じゃない…。
533 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:08:57
 ――『永すぎた春』とポストモダン的なるもの ――


 『永すぎた春』 は青春恋愛譚である。三島特有のアフォリズムや比喩が小気味
よく、また話もわかりやすくドラマ的で、純文学というよりは俗受けを狙った娯楽
小説、という見方にさして異論はない。実際この小説は俗受けしたので、単行本
の上梓から半年もたたないうちに映画化された。
 それに、ウブなお嬢さんが電車のなかで読まれても、恥ずかしい思いをしなく
て済むように書かれている。まちがっても、「百子は郁雄のたくましいペニスを
小さな口で……」 なんて表現や場面は出てこないから、となりの客に覗き読み
されても安心だ。さすがは三島である(ちょっと違うか)。
 しかし本当にさすがというべきは、作品を通俗(飯の種)と割り切って書き捨て
ない三島の文学者としての矜持であり、『永すぎた春』 にはその文学的なカラクリ
がしっかりと仕組まれてある。
534 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:10:52
 話は単純だ。主筋は、主人公である宝部郁雄(いくお)と木田百子(ももこ)
の、婚約→結婚の道程を語るものである。このプロットだけを与えて、なにか
小説を書けというと、どうだろう、春樹的な 「僕」 が出てきてうだうだセン
チメントするのが現代的にイケてる書き方でなのであろうか。
 ロマンスとセンチメンタルは飽きられたことのない 「通俗」 の強力な武器で
あるから、そこに飛びつくのは至極まっとうな感性であろう。それを卑しみ馬鹿に
してきた 「純文」 が凋落して、それこそ黄昏たことを言いだすのも面白いとい
うかあわれな話だけれども、書けることと同時に読めることの能力が文学である
ならば、通俗でありながら文学であることはなんら矛盾しない。

 うだうだもいいが、恋愛小説に物語の機能をしっかり持たせてやると素直な読者
はもっと喜ぶにちがいない。それは、愛の試練という甘美な響き。
535 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:12:40
 主人公たちにとって、敵や障害、つまり郁雄と百子の信頼関係や結婚を邪魔
する者たちがいてはじめて、物語にサスペンスが生まれる。私たちの実人生に
おいては、なるべく波風を立てないよう社会秩序に従うのが賢い生き方であろう
が、しばしばそれが 「退屈」 にみえてしまうのも確かである。退屈を紛らす
ために小説を読んで、いっそう退屈が増進するはめになってはやるせない。
娯楽(ゲーム)に敵はつきものなのだ。
 ここで主要な役者を並べてみよう。

 宝部郁雄:T大法学部のまじめな学生。お坊ちゃん。
 木田百子:古書店の看板娘。元気ハツラツ。

 宝部夫人:郁雄の母。通称、無敵不沈戦艦。

 宮内  :郁雄と同じT大の友人。28歳、妻子有り。
 吉沢  :郁雄の友人。影のある男前。

本城つた子:都会気取りの艶女。画家。

木田東一郎:百子の兄。通称、雲の上人。
 木田一哉:百子の従兄。詐欺師。

 浅香さん:看護婦。東一郎にみそめられるが……。
 浅香つた:浅香さんの母。貧乏という病。
536 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:14:52
 「幸福」 のプロットをぶち壊しにする危機、これを惹起させるのが、一哉・
つた子・吉沢・浅香つた、の四人である。そしてなにより、二人(郁雄と百子)
の 「生殺与奪権」 を握っているのが郁雄の母、宝部夫人であり、この小さな
神話(物語)における気まぐれな神人は、援助と災難を同時にもたらす裁定者
でもある。唯一、二人にとって利害を入れない味方となってくれるのが、人生
経験豊富な宮内だ。
 敵と味方と超越者。
 こうして物語の構図を開いてみれば、まさに古典的ともいうべき三極構造が
現れる。別種のパターンとして三角関係のドラマが奥様方を魅了するように、
三 は物語の定番的構造である(『ずっこけ三人組』 『三銃士』 『三国志』等)
 大体においてカッチリした物語というのは、こういう構造に支えられている。
それは別段珍しくないうん蓄だが、こういう構造分析をやるとキリがないので
やらない。
 三島劇場の開幕はここからだ。
537 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:17:22
 では、物語の筋を追いつつ小説の深部をさぐっていこう。
 最初の危機は、二人(郁雄と百子)の婚約がやっと決まってめでたいと喜んで
いる矢先、百子の従兄である木田一哉が詐欺の現行犯でタイホされ、新聞の三面
記事にさらされる。これを目にした宝部夫人は青ざめるやら真っ赤になるやら。
 『だから言わないこっちゃないんだ。私のカンは正しいんだ。だからあんな家の
娘と婚約なんかさせるべきじゃなかったんだ』 とすっかり冠を曲げてしまう。
 仮にも上流階級である宝部家が、犯罪者を抱える家とねんごろになるなんて、
末おそろしい。とにかく、平身低頭なにか申し開きがあるものと思っていたら、
木田のご夫婦はずいぶんとのんきに構えてるんだからあきれちゃう。おまけに、
一哉(とかいうゴロツキ)をかばう百子の態度ったらなんなの、えらい神経に
さわるわ(私を殺す気かしら)。郁雄のためにも、こんな恥知らずな嫁をもらう
わけにはいかない、絶対にっ。
 ところが、折り悪く、婦人の良人の弟(役人)が汚職で摘発。新聞の一面を
デカデカと 「宝部」 の文字で飾ってしまう。一哉の件など比較にならない身内の
とんだ面汚しに、宝部夫人はあっさり手の平を返して(こういう羞恥心には鈍感
らしく)百子と仲直りを図る。
 《「―― 丁度オアイコなのよ」
  と夫人はいとも軽やかに言った。》
538 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:19:57
 僥倖、郁雄の知らぬ間に事の破局は避けられたものの、宝部夫人のこの性格が
のちに大きく災いする因子であることを、読者に印象付けるのであった。


 次なる危機は郁雄に降りかかる。
 彼は若いくせに古風な貞操観にこだわる青年で、また、大学の卒業が結婚の
条件ということもあって、婚約期間中は百子(もちろん処女)と 「アレ」 は
しないぞ、勉強優先でがんばるぞ、と決意する。なかなか見上げた心意気であ
る。とはいっても若い男子、やっぱり溜まるものは溜まるわけで、アッチの
処理はどうなしているんだろう、なんて余計な心配をしてしまうところへ
つた子登場。
539 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:21:59
 あたくし、田舎っぺを相手にするような安い女じゃなくてよ。
 という感じの、いかんにも都会の洗練された女を演じるつた子にとって、郁雄
みたいな坊やを手玉に取ることなど朝飯前である。
 で、
 『この娘〔百子〕はどうあっても、結婚まで大事にしておかなければならない。
指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、
一日も早く、百子のために、つた子を捨てることだ。よし! そう決めたぞ』
 とまあ、女性を擬物化して新品と中古品のそれと同じ扱いをしようと、およそ
T大生らしからぬ短絡的な結論を導くわけだが、さすがにちょっと不安になって
親友の宮内に相談を持ちかける。彼は28歳で妻子があり、学生の身分でいったい
どうやって生活しているのかしら、なんて疑問もわいてくるけれど、とにかくも、
人生の場数で宮内には一日の長がある。
 「君のやり方は、回避しながら深入りしてゆく典型的な例だから、危なくて見
ちゃおれんね」
 まあ、別につた子とやりたきゃやればいいさ。俺の女じゃないし。だが、それ
ではなにも知らない百子さんが不憫でもある。どうやら、この世間知らずのお坊
ちゃんには、人生の修羅場をくぐり抜ける儀式が必要らしい。
540 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:24:25
 つた子を 「知る」 ために、夜、そぼふる雨のなか彼女のアパートを訪れる
郁雄。戸口にメモ。
 「一寸(ちょっと)買物に出てきます。カギはドアの下にかくしてあります。
中で待っていらしてね」
 ひとり部屋に上がって帰りを待つ。…低く流れるラジオの音楽。意匠を凝らし
たアトリエの調度。重くたちこめる香水の匂い。郁雄は、手もなく甘いわなに捕ら
われ、長椅子(ソファ)に寝そべってぼんやりとまどろんでいた。
 ノック。
 「どうぞ」
 ドアを開けて入ってきたのは、つた子ではなく、宮内と百子であった。
 郁雄ははねおきた。
 恋人がほかの女の部屋にいる。悪夢のような現実に、百子は 「帰って……私
と一緒に帰って」 そう言うのが精一杯で、郁雄の顔を見ることもできない。
郁雄としてもこれは目が覚めるような悪夢であった。

 「対決するんだよ。裁判をやらかそうと思って、俺はやって来たんだ。人間と
人間とは、かち合わせてみなきゃ、何も判らん。おとなしくつた子の帰りを待ち
たまえ」 と宮内。
541 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:27:42
 もはや言い逃れのできない状況に、郁雄は従うしかなかった。
 ほどなくしてつた子が帰ってくる。予想外の面子に迎えられ、神妙にしている
百子を認めたつた子は、どうやらとんだ茶番に巻き込まれたらしいと、気がささ
くれてくる。
 「でも私、郁雄さんとはまだ何でもなくってよ」 「大変な大芝居なのね」
 (百子をとるか、つた子をとるか)「サイコロで決める?」
 百子とつた子に挟まれて、郁雄の惨めさはいかばかりか、ざまあないのである。
それでも、小説としてドロ沼の愛憎劇を描こうというものではないから、フィアン
セである百子が裏切られるような急展開はない。このあと、つた子が椅子に掛け
てあった百子のレインコートをはたき落とす場面で、奇妙にあっけない決着をみる。
 「レインコートをお拾いなさい」
 「お友だちがいると勇気が出るのね」
 「お拾いなさい」
 「御自分で拾ったらいいんだわ」

 宮内が、レインコートが山場だったというように、このやり取りに決定的な
決別があらわれているのだが、それを説明するには少し話をさかのぼってみな
ければならない。そもそも、どうして郁雄はつた子に惹かれたのか。魔が差し
た、火遊びが過ぎたなどというほがらかな理由で片づけるわけにはいかないのだ。
542 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:30:55
 どこからか仕入れたジェンダー(性差)の観念を装備して、一個の女を自認
するつた子は、素朴自然主義的な百子とは対蹠的な空間に身をおいている。
 服飾と美容に金をかけ、高雅な趣味を持ち、そしてなんとも近づきがたいオーラ
を発散して並みの男どもをたじろがせる。お高くとまるのはいいけど、気づいて
みればオールドミスに入りかけ…。たしかにそれは、都会のハレやかな舞台に昇って
自らを広告する女の成りゆきとでもいうもので、いかにも今日、「負け犬」 と称さ
れるポジションである。

 「そうね。はじめ思想や主義を作るのは男の人でしょうね。何しろ男はヒマだ
から。―― でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあいなんて
ことを考えないですむもの」

 つた子のこの考えには、むしろ女性らしい卑屈さがにじみ出ている。
 同姓とうまく、仲よくつき合えない性格があり、かといって数多の男との浮名
を流すような尻軽女にもなれない。彼女にとって男は、部下や生徒のような位
にあるのが望ましく、決して自分より強い男とは関係を持ちたがらない。バカで
威張りくさった男は、つた子の芸術的感性にそぐわないのである。その点、年下
で優男の郁雄は、理想のパートナーと映る。
543 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:32:48
 どうにも高飛車で気取屋のつた子に郁雄は辟易するところもあるのだが、「内
心重々反省しながら、多少好い気持ちでないこともな」 く、「少々呆れたけれ
ども、面白くないこともな」 いし、「つた子の声には―― 百子の抒情的な声とは
ちがった、柑橘(かんきつ)類の豊かさと甘さがあっ」 て、終いには 「つた子の
電話を待つことが郁雄の日課に」 までなるのだから、まんざらでもないのである。
 そして、「思わず」 二度ほどデートをして、くちびるまで許している。キスく
らい 「何でもなくってよ」?

 はたしてそれは百子とって何でもないことであろうか? きょう自分とキスした
恋人のくちびるが、きのうはちがう女のものだったと知って。
544 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:34:23
 郁雄には不満があった。
 自分の露わな嫉妬のほむらが、百子の頬を幸福に火照らせる。しかしそれが
彼の自尊心に火傷を負わせるのだ。年下の女性に対して、人間的な小ささや弱さ
を見せたくないと思うのは、男性の正直な心理であろう。けれども郁雄は、どう
も武張った男になれない。百子の前で、男としての理想と現実がきしみ、うまく
歯車が回らなくなる。
 口には出せないが、精神的に、百子も弱いところを自分に見せて欲しかった。
それで 「オアイコ」 になれるのに、百子は負けん気が強すぎて嫉妬のしの字も
見せないのである。
545 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:37:12
 つた子の前では、少なくとも精神的な矯飾にわずらうことのない安堵があるに
違いなかった。端的に、楽なのである。
 「僕がだらしないことから起こった事なんです」 と郁雄が言うとおり、男とし
てだらしなくいられる場所(つた子)に惑溺したかった、それは百子に対してなに
か当てつけたいという、それ自体女々しい底意から生じたのである。
 受動的な立場に甘んじることの快楽。つた子の部屋で待つ郁雄の姿に、それがよく
あらわれている。フロイト的解釈をすれば、部屋とは女性器のシンボルである。
そしてそのなかで郁雄は、いきり 「立つ」 のでなく逆に弛緩して長椅子に 「横た
わって」 しまう。これは男としてつた子を抱くというより、むしろつた子に抱かれる
ために待っているといったほうが正しい。郁雄は、はからずも娼夫≠ノ堕している。
546 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:39:45
 場面はまた宮内と百子の奇襲を受けたところへと戻る。
 とっさに長椅子から身を起こしたのは、懸命な動作といえよう。あわてて男の
本能を起動させる。百子の存在自体が、郁雄をそう使嗾(しそう)するのだ。
結果としてそれが、「レインコートをお拾いなさい」 という、丁寧だが明確な
命令、つた子にしてみればもっともいまわしい男の虚勢を招いたのである。
 そして、「郁雄は“立ち上がって”、百子の草色のレインコートを拾いあげた」
ことで、「自分の裡(うち)の強さを、力を、突然感じ」、つた子の希望は潰える
のである。
 展開からしてつた子をなんだか悪女のように捉える向きもあるかもしれないが、
決して人のいい郁雄をおもちゃにしようと下衆な心算から彼に近づいたのではな
かった。恋敵を一方的に悪者に仕立てるのは凡手である。
 「忘れてください」
 都合のいい男の決まり文句に、つた子ははじめて見せる女らしい微笑みで、
 「おぼえていてよ。私、いつまでも」
 ポツリともれた本心を、しかしすぐさま打ち消すように、
 「もう一寸大人になってから又来るんだわね」
 と、冷たく突き放す。そういう強がりにしがみつかなければ、つた子はその場に
くず折れて郁雄を苦しめることもできたのに。
547 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:40:44
 とかく 「人工的」 と三島の小説は揶揄されるが、どうしてつた子の陰影の
つけ方は秀逸である。いつも澄ましていて、あまり笑うことのないつた子が、
最後に、心中もっともつらいシーンであえて見せる微笑み。しかもそれをこと
さらに表現しようとする臭みやクドさがなく、三島らしからぬ? ゆかしい筆致
は見事と言うほかない。
548 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:42:10
 この一件のあと、
 「彼女が発見したのは、郁雄の弁明しようのない弱さ、彼自身がいつもそれと
戦って、それをひた隠しにして来た弱さに他ならなかった。自分の恋人を弱者だ
と感じることくらい、女にとってゾッとすることがあるだろうか!」
 と語り手は思弁する。古きを守る、古書店の意識のなかで育った百子が感じた
弱さとはなにか。百子は怖れ、つた子は受け入れた弱さの本質とは。
 ここで私は、小説のテクストから、文化・社会の背景へと視線を伸ばす。なにも
弱い男というのは郁雄だけに限った話ではないだろう。ここに語られている弱さ
というものが、ポストモダン的な時代を予兆するなかで書かれていることに目を
向けてみよう。
549 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:44:21
 この物語の時代背景は、昭和30年代(1955)の初めごろとみていいだろう。
つまり、小説の執筆時期とリンクしている。敗戦の荒廃から十年余り、はや日本は
平和のぬるま湯につかりはじめていた。
 「もはや戦後ではない」 という名文句は、昭和31年の経済白書に記されたもの
である。同31年には、若者の風俗をあけすけに描いた問題作、『太陽の季節』(石原
慎太郎)が芥川賞を受賞し、文学の不可逆的地滑りが起こる。
 週刊誌が続々と創刊され、昭和33年には東京タワーと言う巨大なペニスが都心にそそ
り立ち、やがてそこから、良識の人をして低俗と卑下される番組が全国に垂れ流される
であろう。そして、俗臭ふんぷんたる世相を揶揄して、「一億総白痴化」 なるコピーが
登場するのもこの時期である。いよいよ大量消費と情報化の波が社会を洗い始めたので
あった。

 もう男たちは、銃を手に、あるいは爆弾を抱えて、死にに行かなくてもよいのである。
日の雨と爆撃に脅えることもない。貧しくとも、明日への望みが、夢が、人々の心に灯った。
 時代は変わったのだ。男の仕事は、戦争から金儲けにシフトする。そこで男は、郁雄の
セリフを借りて言えば、「公然と許されすぎている」 のだ。弱さが。
 男たち強さの脅迫から開放され、モラトリアムとなってあふれ出た。今日に続くポスト
モダンの萌芽がここにある。昭和30年過ぎは、その兆候が次第に表面化してきた時期で
あったろう。
550 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:46:08
 強い力(組織のコード)が頽勢し、弱い力(私的なコード)の優位を得て新た
な文化がその相貌を現した。それがおおむね戦後の文化的な時代の流れである。
絶対的な他者(神・父・天皇・死者等)を解体してきた近代とその後(ポスト)
のよるべとして、人は、「自分自身」 を信じて生きていく、という再帰的自己像
のあやふやな仮構に他者―中心のモデルを求めるようになるだろう。このメタ
フィクショナル(自己言及的・決定不可能的)な戯れの果てに、オタク系文化に
顕著にみられる並列世界が現じてくる。
 それは、東浩紀の分析を拝借すれば、データベース化した、カスタマイズ可能な
断片的中心(萌え)だけを持ち歩き、総体的中心(理念)を必要としない文化の
形態である。(くわしくは『動物化するポストモダン』)
 この観点からもう一度テクストを読む。
551 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:47:15
 まず結婚の裁量が家から個へ、自由恋愛がそれなりに尊重される社会風土なし
にこの物語は成立しない。女性の横恋慕を可能にするのも、社会的ヒエラルキー
(強い力)が個人を縛りつけることができなくなったためである。
 「私だって―― 本当に好きだった初恋の人がありましたのよ。でも―― 親の
決めた人のところへ来てしまいましたの」 と語る宝部夫人は当然、戦前の
「強い力」 の信奉者として現代(昭和30年)とのギャップを作中にもたらす。
 ポストモダンのひとつの特徴は、それまでの文化・制度・観念の上下関係を
パスティッシュ(ごた混ぜ)に平準化してしまうことである。この小説もそのよう
な磁場の上に立っているのだ。
552 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:50:26
 百子を選ぶか、つた子を選ぶか。
 実はそこには、読者の目に見えていないだけで、単純なルート選択のカーソル
しか用意されていない。第一、つた子の部屋を訪ねたのも、宮内の助言があって
のことで、郁雄は主体性もなくほとんどその場の流れでやって来ている。本来
あるべき精神の葛藤や苦悶が、ここでは無効化されてしまっている。むしろ直接的
な苦悶を引き受けるのは主人公ではなく、周りの人間(百子であり、つた子であり、
後で出てくる東一郎や浅香さん)であって、主人公はただそれをシミュレーション
するにすぎない。それがポストモダン的なるものの、(村上春樹などにも通じる)
空疎さや弱さではないか。
 郁雄は、レインコートというちょっとしたきっかけ(フラグ)で、百子を選んだ
と言ってもいいくらいで、(オススメではないけれど)場合によってはつた子でも
いいという程度の、ある意味ゲーム的な 「対決」 をしただけであった。この場面
に、おそらくは宮内が想像していたであろう、もっと逼迫した人間の緊張感が希薄
なのは、郁雄のなかにもはや他者を背景とした倫理の葛藤(格闘)がないためで
ある(例えば『こころ』(漱石)のKや先生のような)。
 極端な話、幼児性愛も調教陵辱も、萌えるか萌えないかのちがいにすぎず、単
なる要素(パーツ)として受容されてしまえば、それは内面や社会の問題として、
齟齬として自己の深部(システム)へ還元されないであろう。ただ皮相な差異だけ
に、感心が留まる。つまるところ、郁雄の欲動はオタク系文化と同質の平面を共有
している、と言いたい。
 『永すぎた春』 のもつ軽妙な娯楽性は、駘蕩(たいとう)たるポストモダニティ
から発しているといえ、半世紀を経て、この小説は風化すどころかより現代的になった
のである。そこを批判的に捉えるかどうかは、読者の考え方に任せたい。
553 ◆YgQRHAJqRA :2005/06/25(土) 21:51:51
 これで半分です。ドラえも〜ん、と泣きつくのび太の心持にちかいんだけど、
残りもそのうち書く予定でいます。では
554名無し物書き@推敲中?:2005/06/25(土) 22:05:08
乙です。
555吾輩は名無しである
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