【Cafe】しりとりでざつだん ☆ 2【Rest】

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『迷子』

 ブラインドの向こうから、あたたかそうな陽差しが誘っていた。さぼって良いはず
はないけれど、休日出勤なら平日ほどあくせくしなくてもすむ。人の出入りが少ない
し、ぽっかりと空いた時間には、自分のデスクから外の景色を眺めるゆとりさえある。
お昼ごはんのあと、自分でいれたコーヒーにそっとくちびるを寄せる。
 広々とした駐車場をハクセキレイが一羽、つつつと走っている。車や人が近づいて
も、ぎりぎりまで足を使う。翼はなんのためにあるのかといつも思う。向かいには二
階建ての本社工場があって、クリーム色の壁にくっきりと庇の影が映っている。右手
には桜並木が春のおとずれを待ち、左手の松林では、高いところの梢が時おり風にゆ
れていた。空には大きな白い雲がぽっかりと、ずうっとぽっかりと浮かんでいる。
 うんと大きく伸びをする。そのあと、いやいやをするみたいに軽く頭をふるのがわ
たしの癖だ。耳を隠していた髪がフレアスカートのように広がって、辺りにほんのり
とピーチの香りを漂わせる。わたしは胸のポケットからお気に入りのコンパクトを取
りだすと、絵柄とその重みとをこっそり手のひらの上で楽しんだ。
 羽をひろげた妖精が湖につま先立ちして、空に浮かぶ弓張りの月をみつめている。
羽と湖と月には、ステンドグラスのような着色がほどこされている。ほとりには花の
モチーフが数種類、繊細に刻まれており、小さなビーズも散りばめてある。ホックを
指ではじくと、蓋がひらいて、銀のリングに縁取られた鏡があらわれる。デザインも
好きなのだけれど、この鏡にはもっと素敵な細工が隠してある。顔を近づけて瞳の奥
をじっとみつめていると、鏡が透けて花や妖精の姿が浮かんでくるのである。夜の湖
がみえる。心をゆだねると、深い水底へゆっくりとゆっくりと引き込まれてゆく……
 若い人たちが好きそうな街角だった。喫茶店のテラスに陣取って、陽気な女の子た
ちの声など気にもとめず、わたしは自慢の真珠色のコートを毛づくろいする。おなか
のところをはしたない格好でぺろぺろ舐めていると、男の子が近づいてきてすぐそば
にしゃがんだ。
 小学校一年生か二年生くらいの男の子だった。ニットのセーターの上に、フードの
ついたクリーム色のジャケットがもこもこと膨らんでいる。お下がりなのか、桜色の
ロゴマークの横に、ハートとクローバーを組み合わせた刺繍が入れてあった。栗色の
髪の毛は女の子みたいにさらさらで、かわいらしい耳たぶをちょこんとのぞかせてい
る。おおきな澄んだ瞳はわたしを興味深そうにみつめている。かすかに、美容院の待
合室の匂いがした。頭を撫ぜてくれたので、しっぽを立てて胸に頬をすり寄せ、それ
から「にゃあ」 とひと言あいさつを返してあげた。
 レンガを敷きつめたプロムナードには、コートやジャケットに身を包んだ人たちが
いて、お店とお店との間に、しあわせそうに挟まれている。クリスマスソングが流れ、
ショーウィンドウにはツリーも飾られていた。聖子ちゃんやM.ジャクソンがいた。ク
レープの甘くて香ばしい匂いがよく似合った。地面のすぐ下を、電車がたくさん走っ
ているけれど、ここではそれがあたりまえだった。
 男の子の指がわたしのおひげに触れたとき、オルゴールを奏でていた街路樹が、よ
く響く澄んだ三つの鐘を打った。わたしを捕まえようとしたので、軽やかな身のこな
しで腕をすり抜け、バイバイと手を振りさっさと歩きだした。ちょうどお散歩の時間
でもある。男の子はわたしのしっぽを掴もうとついてくる。得意のスラロームで人混
みを縫ってゆくわたしの後ろで、恋人たちの間には割りこむし、こわい顔をしたお兄
さんの姿もぜんぜん目に入らないようだった。伸びあがったり身をこごめたりしなが
ら、がんばってついてくる。
 なんだかいじらしくなってきた。それに、とても楽しかった。だから、メインスト
リートへ抜けたとき、わたしは情を立てて立ちどまり、さっきよりもずっとずっと優
しく、ほほえみかけてあげたのだ。なぜだかわからないけれど、男の子の澄んだおお
きな瞳を、どこかで、うすれてゆく意識のなかで、みたことがあるような気がした……

「ねえ君、どうしたの?」
 男の子のまつ毛は涙でしめっていて、前髪もおでこに貼りついていた。ハンカチを
ポーチから取りだして、とりあえず目元とお鼻とを拭いてあげた。おどけた口ぶりも
冗談もためしてみたけれど、でてくる言葉はなかなかつながらなかった。梅雨空は朝
からずっと怪しげな雲ゆきで、夕方までなんとか大崩れせずに持ちこたえている。や
まぼうしの梢に舞う白い花と、その足元に咲く紫陽花の花びらには、雨のしずくが乾
ききらずに残っていた。
 大手都市銀行のレトロな建物の前だった。雪のようなものがふわりとはこばれてき
たので、アイシャドゥを確かめていたら、この子とぶつかった。そばにはバス停があ
って、道路のほうを向いている人がほかに数人いる。なんだか、スーツ姿の男の人が
うらめしく、ダブルGのバッグがよく似合う女の人にはため息がでた。おおきなタイヤ
が唸りをあげてじゃまをするので、男の子の声がよけいに聞き取りにくかった。お母
さんとはぐれてしまった、ということはわかった。
 夕暮れが忍び足で迫ってきて、わたしの心を急かそうとする。こんやは映画を観に
行く約束だった。季節はずれとしか思えないジャケットをみていたとき、ふと思いつ
いた。ポーチから携帯電話を取りだして、ストラップを外す。ピンク色のロゴマーク
が入った銀色のタグに、ピーターパンと海賊船のマスコットがついている。ホワイト
デーに、バレンタインのお返しだよと、恋人からもらったお気に入りの品だった。
「これあげるから、泣かないで。お姉さんがいっしょにさがしてあげるから」 
 まつ毛はいっしゅん上を向いたけれど、まだしゃくりあげている。そこで、ほっぺ
たにキスをしてあげたら、男の子はようやくはにかんだ笑顔をみせた。
 このあたりへは何度か訪れているらしく、落ち着きを取りもどすと、子供ながら、
ちゃんと男らしい顔つきになってきた。地下鉄の出口があるところでおおきな通りを
離れ、それから二つ角を曲がったときには、わたしのほうが手を引っぱられていた。
水商売のお店の隣りにうどん屋さんがあった。お品書きのところから歩道の石畳に沿
って花壇がつくってあり、色とりどりの花が目にやさしい。ベンチのかわりに、てら
てら光るテーブルと床机が五つならべてあった。
「俺ぁ 男だ。俺ぁ 男だ」
 じゅもんのようなつぶやきが、きこえたような気がした。
 次は本屋さんだった。ドラえもんとあんぱんまんと… ガンダム? がウィンドー
で遊んでおり、無造作に寝かせてある自転車の横にはガチャポンがなつかしかった。
その向こうは児童書のコーナーらしく、宮澤賢治の「風の又三郎」 や坪田譲治の「風
の中の子供」 が目にとまった。少女時代には「マーガレット」 や「セブンティー
ン」 ばかり読んでいたから、文字の多そうな本は見過ごしてしまったかもしれない。
「はなさんか! 爺! はなさんか! 爺! はなさか爺……」
 意味はわからないけれど、たしかに男の子のハミングにまじってきこえてきた。
 エスコートされているとき、デート中の女の人から視線を投げかけられることがあ
った。
「……勝手に点滴のスピードを速めるの。もう、やんなっちゃう、本当に!」
 すれ違いざま、急にアクセントが強まったりする。横にいるのはたぶん自慢の恋人
なのだろう。わたしは、多少、気恥ずかしくはあったけれど、いったいどこへ連れて
行かれるのかな、などと考えると、笑いが込みあげてきた。楽しいとさえ思う。
 建物がだんだん左右に開いていった。石畳には縁石がつき、芝生をはさんで二列に
なった。広場にでると、それらは泉のまわりにぐるりと円を描いて落ちついた。水辺
を彩るのはラベンダーで、すっくと立った細い茎のさきに、紫やうす桃色の花穂がゆ
れていた。ビーズを持ちあげて水はこんこんと湧きだしている。リーフプランツに縁
取られた花壇が浮かべてあり、ペチュニアのピンク色の花びらがあざやかだった。わ
たしはあいかわらず一歩さがって歩いている。小さな手のぬくもりが心地よかった。
 レンガを敷きつめたプロムナードにでた。レインコートも傘も、ここではファッシ
ョンアイテムになった。あゆの歌声や”せかちゅう” がきこえてくる。ゲームやパ
フェがゆうわくしていたけれど、男の子は少しもさそいにのらなかった。わたしは、
ずっとここにいてもいいかな、と思った。
 突然だった。いっしゅん足をとめたかと思ったら、男の子は駆けだした。小さな背
中がぐんと力強く前へでる。つんのめったわたしの手を振り切って、まっすぐに駆け
てゆく。髪の毛がゆれる。ぶかぶかのジャケットがはだけて肩が見え隠れする。水の
浮いたグランドのようなレンガ通りを、うんどう靴が蹴りあげてゆく。危ない、と叫
んで追いかけたけれど、男の子は行き交う人の波にとびこんで、それきりみえなくな
ってしまった。
 置いてけぼりにされた気分だった。恋人にさよならをされたときと同じように、胸
の中がからっぽになって、ぼうっと立ちつくしていた。喧騒がもどってきてから、腰
を折り曲げて、テラスの影や喫茶店の中を覗いてみたけれど、あっ! と思ったのは
別のことだった。「ミニスカートをはいていたんだった」 追い討ちをかけるように、
恋人からのメールも入った。待ち合わせの時間はとうに過ぎている。お化粧もなおし
ておきたい。喫茶店を振り返りながら、もしかするとからかわれたんじゃないかと思
った。
 そこは見覚えのあるネットカフェで、何時間もパソコンを占領して罫を埋めている
ひともいる! 「お金がかかるんじゃないの」 ときいても、「気分転換なんだ」 
などと言って澄ましている。前からくる人をよけながら、メールを開いてみた。あい
かわらず、意味不明である。

「声をかけてくれてありがとう。早く行ってくれ。きっと、待ちくたびれてる。それ
から、もう一人… お会いできてうれしかった。いつかまた、物語のなかで」

 松林に沿って入ってきたトラックが、排水溝のグレーチングを蹴った。左から右へ
運送屋さんのトレードマークがゆっくりとながれて行く。そして、午後の陽差しをき
らりとはね返すと、桜並木のほうへ曲がって行った。廊下からは、ドア越しに、にぎ
やかな話し声がきこえてきた。
 どうしてこんな出来事が起こるのか、わたしにはまるでわからなかった。でも、来
る日も来る日も仕事に追われ、会社や職場の仲間たちのことで神経をすり減らし、や
やもすれば荒んでしまいそうになるわたしのこころを、あたたかな気持ちで満たして
くれる。わたしはパソコンの前に座ると、去年ネットで送られてきた掌編を、もう一
度読み返してみた。あとで、みんなにも紹介することにしよう。
 わたしはコンパクトを胸にしまった。今日はパートさんがお休みだし、久しぶりに
わたしがお茶の用意をしてあげることにする。ひとつ大きく伸びをして、頭を振り、
髪に軽く手櫛をあてる。今日はなんとなくコロンを多く付けすぎた気がする。
 ブラインドの向こうでは、あたたかそうな陽差しが工場の屋根に降りそそぎ、広々
とした駐車場をハクセキレイが一羽、つつつと走っている。

 8 「迷子」一 sage 04/06/07 17:40
  梅雨冷えのする日だった。
  今にも降り出しそうな鈍色の空を睨み、私は何度も溜め息を吐いた。約束の時間
 になっても中々現れない恋人に対して苛々していたのだ。だが、よくよく考えてみ
 れば彼女は決して時間にルーズな女性では無い。そう思うと今度は、事故にでも遭
 ったのではないか、と考えてしまい、拠り所の無い不安は胸中に広がるばかりだっ
 た。
  そんな時、彼女が息を切らして駆けて来る光景に気付いた。
 「ごめんなさい……待った?」
  約束の時間に二十分も遅れた上に散々心配をさせておいて、待った? は無いだ
 ろう。
  私は文句の一つも言いたい気分だったが、そこをぐっと堪えて深呼吸をした。怒
 りを静めるためだ。恋する男は時として聖者にだってなれる。
 「何かあったの、君にしては珍しいよね? 待ち合わせの時間に遅れるなんて。怒っ
 てなんていないよ。途中から映画を観るのが趣味なんだ。いや、マジで」
  うっかり口を衝いて出る聖者の皮肉に、彼女は膨れっ面になった。
 「迷子の男の子が居て、その子のお母さんを一緒に捜してあげてたんだから!」
 「ふーん。所でまだ映画を観る気力は残っている? 俺はもうどっちでも良いんだ
 けど」
  こうなると、もう後は泥仕合である。散々罵り合った挙げ句に喧嘩別れをしてし
 まった。
 9 「迷子」二 sage 04/06/07 17:41
  そして自宅アパートに戻り、私は一人悶々としていた。何て了見の狭い男だと自
 己嫌悪に陥っていた。彼女は善い事をしたのだ。迷子の子がどんなに不安な気持ち
 になるか、自分にも経験があるから良く分かる。まだ小学校に上がったばかりの頃
 の事だ。
  その時には見知らぬお姉さんが玩具をくれながら慰めてくれて、その玩具は今で
 も宝物として机の引き出しの奥深くに仕舞ってある。確か、ピーターパンと海賊船
 の……
  そこまで思い出すと私は飛び起きて引き出しの奥から件の玩具を引っ張り出した。
 そして海賊船の裏側を見ると蛍光ペンで”2004・3・15”と書かれてあった。
  古ぼけてはいるが、確かに今年のホワイトデーに彼女に買ってあげた携帯のスト
 ラップだ。プレゼントに貰った日付を裏書きするのは彼女の癖である。
  その後、彼女に連絡を入れてストラップの事を尋ねると、涙ぐむ男の子を慰める
 ために確かに渡したと答え、何でそんな事を知っているのか、と不思議そうに問い
 返された。
  だが私はその問い掛けには答えられず、ただ「ありがとう……」と繰り返すだけ
 だった。何故そんな不思議な出来事が起きたのかは、まるで分からない。だが、彼
 女にプレゼントしたストラップが幼い頃の自分に手渡され、それが長年の自分の宝
 物だと知ると何故か温かい気持ちに満たされた。彼女と十数年来の付き合いの様に
 思えたからかも知れない。
  アパートの窓から覗く梅雨空は相変わらず分厚い雲に覆われていた。
  だが、私の心は一足早く梅雨が明けた様に晴れ渡っており、新たなデートの約束
 を彼女に取り付けると静かに携帯を切った。
  そして私は、真新しいピーターパンのストラップを買うために夕暮れの街へ繰り
 出した。
  ――迷子の私を助けてくれた、優しいお姉さんへのプレゼントである。
                                
  (了)