猿でも解かるテクスト論

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1名無しチェケラッチョ♪
 夏休みだし作っとこうや。
2我が輩は名無しである:2001/08/10(金) 09:37
ウッキー! キッキー! 
3三流大:2001/08/10(金) 15:08
 まず、作家論・作品論に相対する形でのテクスト論そのものの解説
「作者の言いたい事」は何故存在しないのか?
評論の名を借りた「わたくし主張」とは何か?
あたりを教えてくれ
4吾輩は名無しである:2001/08/10(金) 15:45
>>3
よし。まずは一次通過だ。おめでとう。
5吾輩は名無しである:2001/08/10(金) 19:51
言いたいことがなくてものを書く人が一体いるかどうかを
考えてみてね。問題は言いたいことということで何がいわれているかと、
いいたいことをストレートにことばに出来るかさ。
6吾輩は名無しである:2001/08/10(金) 22:48
>>5
残念だが不合格だ。
7吾輩は名無しである:2001/08/10(金) 22:58
>>5
夏目漱石は、言いたい事が無くて書くことを試み続けたからこそ、
近代文学の代表者とされているんだよ。
8吾輩は名無しである:2001/08/10(金) 23:00
>>7
正解。
9三流大:2001/08/11(土) 00:23
とりあえず
ロラン・バルト「物語の構造分析」
U・エコ「テクストの概念」は読んだんですが・・。
次はジュネットでいいの?
10J・デリダ:2001/08/11(土) 01:01
私が読めるかい?
11Jacques:2001/08/11(土) 01:11
デリダってだりだ?
12吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 01:45
>>7
そのこと、詳しく書いてる評論の名前おせーて
13吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 01:50
>11
鴻上な
14吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 01:57
面白そうなスレだな。
テクスト論とか、なつかしいな。
どんどんもりあがっていってくれたまへ。
たまに参加さしてもらいマス。
15吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 03:55
構造主義あたりで止まってしまいそうなスレだな。
16三流大:2001/08/11(土) 08:41
じゃあ構造主義から説明してください。
猿でも解かるようにお願します。
背景としては
19世紀までの西欧至上主義に代表される
ような歴史や文化や諸々の現象の分析に用
いられた一方的な「客観」に基く解析法に
限界を見出し、より「科学的」な切り口が
模索されてきたと言う事なんでしょうか?
レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯」で
「近親相姦の禁忌は好感の原則に基く構造
だよ」というのはまあわかったのですが。
17三流大:2001/08/11(土) 08:42
好感→交換
18吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 09:36
6>
不合格なのは、いまどき作者は死んだといっているような人だよ。
「言いたいこと」ということによって何が言われているかを明確にせず
ただテクストは書き手の言いたいことの反映ではないと言い募ってもだめさ。
19吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 12:09
>>16
じゃあ、ほんの一言で説明してあげよう。
すなわち「言葉を成り立たせるものはただ『差異』だけであって、それ以外の何物でもない」
ってことだよ。
20吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 15:19
↑さるでも知っていることをことごとしく言うね
21吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 17:08
ソシュールなんかを真に受けてるようじゃダメだろ
22吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 17:52
いやあーソシュール自身は立派なもんだと思うよ。逢ったことァないが
23吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 18:34
確かに立派なもんだ。
一冊も著作を残さなかったのも潔い。
だが、やはりソシュールは乗り越えられねばならならんと思うね。
いずれにしろソシュールに留まっているうちはダメだろ。
24吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 18:52
むろん彼は出発点として偉大といったところでしょう
25三流大:2001/08/11(土) 19:05
講義録しかないの?
ソシュール
言語が差違で成り立つとして
構造主義→マルクス主義的文芸批評
ロシアフォルマリズムあたりの
猿わか解説を熱望
26吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 22:24
拡散しすぎ
27吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 23:17
>>18
残念ですが・・・。
28吾輩は名無しである:2001/08/11(土) 23:49
「三流大」さんは、実際どこよ?
早稲田の仏文あたりか?
29吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 02:02
それを聞いてどうする?
30吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 02:03
>>28
高千穂商科大学の夜間です。
31吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 02:06
>>29
聞いて納得する。
32吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 02:13
水を差すようだけど、今さらテクスト論って随分古くないか?
別に古くてもいいけどさ。今、再びテクスト論ってことの意味は?
33吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 02:36
何でも「時代」で済まさないためじゃないの?
34吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 03:17
テクスト論って、基本的に、イコール、バルトでいいんじゃないのか?
その実践(日本人にとってのテクスト論)としては『読むための理論』の奴らを読めばいいんじゃないか?
35吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 03:30
バルトが猿にわかるか?
36吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 04:07
バルトが猿なんだろ?
37吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 06:52
このスレそういう意味?>>36
すげーな。
38吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 07:12
今月号の『文學界』で蓮実さんと松浦さんがフーコー
について対談しているよ。井口時男『批評の誕生・批評の死』
も読んでみてね。
39吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 07:14
文学界の編集の方ですか?
40吾輩は名無しである:2001/08/12(日) 08:22
大塚英志が『物語の体操』の中で主張する「大きな物語」批判ってどうですか?
41それはありふれている:2001/08/12(日) 08:26
人間は生まれ、生き、逝く。これはグランドナラティヴではないのか?
テリー伊藤、もといテリー・イーグルトンがそんなこといってる。
42三流大:2001/08/13(月) 15:00
テリー・イーグルトンは『文学とは何か』は読んだんですが、
文化現象としての「文学」の概観は掴めたんですが、所謂
現代思想の
構造主義・記号論→ポストモダン→カルチュアルスタディーズ
みたいな(あまりに単純ですが過ぎますが)
ものの文学における関わりあいを解かりやすく教えていただけると
幸いです。とりあえず「構造主義」から・・・・。
とりあえずあれ(過去の書き込み)から
ジュネット・バフチン・クリスティバ・ミラン/クンデラ・デリダ
フロイト・ラカン・フーコー・エリアーデ等斜め読みしてみました。
ヴィトゲンシュタインは少々観念的で理解が難しいでした。
あと誰の何、もしくは上記の方々の何を重点的に読み込めばいいか
御教えください。
43吾輩は名無しである:2001/08/13(月) 19:18
>>42
それだけ読んだら、もはや尋ねるまでもあるまい。
むしろ君の講義を拝聴したい(藁
44吾輩は名無しである:2001/08/13(月) 19:20
>>42
『ドストエフスキーの詩学』すら満足に読めんかったワシはサル未満のようだ…。
 鬱出汁脳。
45三流大:2001/08/13(月) 19:44
>>43
読んだだけであって、今までの人生で使用していない
デコンストラクションや「手紙」の概念とか言われても
解かったとはとても言えないのが実情です。
はぁ?という部分があまりに多いので一度識者に
「解かりやすく言うとだいたんこんな感じ」という
のを聞かせてもらってからリトライしたいという
私の怠惰をお許しください。

今日はソーカルの「知の欺瞞」も読んでみましたが
私にはまだ早すぎたようでした。あんまり意味なし
でした。

>>43
『ポーの詩と詩論』は面白いでした。関係ないけど。
ブルトンを読み、吉本−天沢と読みついでも詩論も
難しい。まずは「構造主義」からの明快な講義を
ここ2ch文学版ならではのを期待。
46三流大:2001/08/13(月) 19:46
下の>>43
>>44の間違いでした。
大変失礼しました。
47三流大:2001/08/13(月) 19:50
遅らばせながら>>38さん
ご示唆ありがとうございます。
取り寄せ次第読んでみます。
蓮見重彦さんは『物語批判序説』
は読みました。
48吾輩は名無しである:2001/08/13(月) 21:24
>>47
それだけ読んだのならおぼろげにでもテクスト論の輪郭がつかめると
思われ。あとは自分の言葉で説明できるようになればいいのでわ?
それとも書いてあることが全然理解できなかったのですか?
49三流大:2001/08/13(月) 21:52
>あとは自分の言葉で説明できるようになればいいのでわ?

これが難しいです。
友人に気軽に「構造主義って何?」と聞かれたときに
言い得るような説明ができない。ということは字面を
刷り込んでるだけのような気がして・・・。あと完全に
誤解しているパターンも結構あるような気もして・・。
気軽で単純な解説を熱望。はっきりいってあんまり
わかってません。
50我輩はバカである:2001/08/13(月) 22:39
いま『小説から遠く離れて』(蓮見重彦)を読んでる。ただいまp.100通過ァ!
これ、どうなるんだろう。ワクワクではあるけど、ぞっとするような。
で、質問です。94頁からの「作家的な倫理の不在」がサパーリ。
「類似」についての議論を、誰か噛んで砕いてゲロにしてくれる〜?(w
51吾輩は名無しである:2001/08/13(月) 22:42
>>49
「主体の行為はその主体の主体性において為されるのではなく、
その主体が属している様々な共同体が内包している(関係性の)諸構造に
よって決定される」とでも言うべきかな・・・

これでもまだ難しいレベルなのでしょうか?三流代氏の友人は?
52三流大:2001/08/13(月) 23:01
>>51
いえいえ、十分簡潔だと思います。
で,脱構築なるものはその(関係性の)
諸構造の「軸」みたいなもんは移動
(ずれていく)するといったところ
でしょうか?故に「新しいもの」が生
まれると。

さて「構造主義」が文学にもたらしたもの
はなんでしょう?構造主義から各国の神話
の類似性等が論理的に語られるようになり
「物語の構造」が考えられるようになりま
すが、マルクスの芸術素なるものや折口
信夫の考えなんかは構造主義と近しいの
でしょうか?なにぶん独学なもので見当違い
を正していただけると幸いです。

あ、ちなみに大学一年生です。
53吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 00:16
大学一年か、よく勉強してるね。三流大なんてウソでしょ?

脱構築については色んな解釈とか適用範囲が考えられるので
簡潔に、というのは難しい。単に俺が勉強不足なだけかも知れないけど
イーグルトン『文学とはなにか』に従って言えば、構造主義は
「科学的」足ろうとしてあまりにも機械主義的な運命論、つまり
すべては関係性の閉じた構造体系であると言ってしまっている。
けれど、一回限りの発話行為=パロールが、一旦発声され社会的
なものになった途端に言語(文法)体系=ラングにとりこまれ
あらゆるものとの差異によって語られるものとなるものである、
と同時にそうした閉じた差異の体系を常に裏切る(「どきゅん」
が「どきゅそ」になるように)ものでもあるように、「構造」
とは決して閉じたものではない。言語その他の諸構造は「通時的」には
つまり歴史のなかでは変化している運動体である。

イーグルトンが構造主義の項で言っていたのは多分こんなところ
だろう。「テクスト論」との関わりで言えば、構造主義言語学の
発達のおかげで、実存主義哲学・現象学的な「主体」が徹底的
に批判された。文学研究の領域では、物語の書き手=「作者」
という「主体」の「主体性」なるものが疑問視されるようになって、
そこから源氏研究なんかでさかんに為されるようになった「語り論」
とか、バルトの有名な「作者の死、テクストの誕生」宣言なんかが
出てくる。「テクスト=texture」であるように、「作者」
という存在もまた編み目の一つに過ぎないから、作品から作者の
一貫した心情だの思想だのを読みとるのは無知蒙昧だというわけだ。

だけど、今なんでテクスト論が流行らなくなったかっていうと、
上にも書いた通り、網の目のようになった作品や作者を細かく分析
してゆけばゆくほど、構造主義が持っていた「自閉性」という問題
点が浮き彫りになってきて、テクスト論が批判したはずのそれ以前の
文学研究と大してかわんなくなってきた。漱石の心情心理が率直
に表れているから漱石の作品がすごいと言うのも、漱石や漱石のテクスト
はこんなに複雑な編み目構造を持っている、だから漱石のテクストは
すごいと言うのも、結局漱石という「個人」、漱石の「テクスト」
の際だった個性を賛美するという点で何ら変わるものではない。

んで、ポスト構造主義になるわけだけど、簡潔に述べる能力は
俺にはない。

長くなったな。こんなマジレスつけるの初めてだわ。

ついでに、『文学とはなにか』で紹介されてた人以外で構造主義
を批判的に捉えて発展させたのが社会学者のピエール・ブルデュー。
『実践感覚』がみすず書房から復刊したからそれを読むと構造主義
およびレヴィ・ストロースの構造主義人類学をこの人がどう乗り越え
ようとしているかが分かる。けど、かなり難しい。
54吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 02:19
>>53
合格だ。おめでとう。
55吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 02:23
で、何の役に立つの?
56吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 04:48
何の役に立たないの??
57三流大:2001/08/14(火) 07:36
>>53
丁寧な解説大変ありがとうございます。
感謝感激であります。

つまり
文学研究が書かれたもの以外のもの(作家の年譜的情報や
記述されたものの文化人類・民俗学的意味付け)への
研究に深入りしすぎて、やれ作家の手紙だ、やれ作品舞台の
歴史的背景だ、と拘りすぎてきたと。作品論にしても
作家論にしても作品を語らんとして、その実、己(研究者)
のイドラを表出したという批判に晒されたと。
そこでテクストそのものに着目しテクストと外部情報を
切り離し「科学的」に文学を研究しようとした。それに
構造主義がはまったと。
しかし、いざ作品と外部情報を切り離してみると、その
不可能性が露わになったと。あらゆるエクリチュールが
外側と密接に複雑に繋がっていて、そこを完全に無視す
ることは「戯れ」に過ぎなかったと。

こんな感じ?
58素人:2001/08/14(火) 07:47
ただの素人考えにしか見えないんだけど・・・
5953じゃないが:2001/08/14(火) 07:50
>>57
そんな感じかも。
60吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 10:21
20年前にとっくに為された議論の繰り返しだな。
やっぱり構造主義とその周辺で止まって終わりだな。
月並みすぎる。陳腐すぎる。
61吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 13:16
>>60
そんなことなら猿でもいえる。
62吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 13:23
周辺だよね?
63吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 14:25
おい、三流大!
おまえ別スレではリアル厨房を名乗っているだろう。いや、もしおれの勘違いならスマソ。
本当は大学院生なんだろ。
くそう、一流大のおれよりも学がありやがる!
64三流大:2001/08/14(火) 14:38
>>63
いえ、名乗っておりません。
院生でもありません。文学部国文学科の一年です。
学などありません。ごめんなさい。
65やまがた:2001/08/14(火) 16:25
猿にテクスト論がわかる必要はありません。
66黄色いサル:2001/08/14(火) 16:39
毛唐に魂売っちゃったから大丈夫です。
67吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 17:09
>>63
おい、おまえ「一流大学」を名乗っているが、
この程度の議論についてゆけないところを見ると、
本当はマーチ(明・青・立・中・法)なんだろ?
もしくは早大の低能学部=二文か社学だろ?
68吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 17:24

テクストとして「一杯のかけそば」があたえられた。
69吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 17:49
学歴ネタはやめない?
7070:2001/08/14(火) 17:54
>>69
同意
7153:2001/08/14(火) 21:29
バイト終わって来てみればなんか学歴ネタで煽り合いになってるね。
せっかく三流大氏が議論の場を用意したんだからみんなで深めて行こうよ。
テクスト論をめぐる議論が20年前に終わったものだとしてもさ。
流行のカルスタ、ポスコロだけやってれば文学研究が成り立つというわけでも
ないし。やっぱり、マルクス主義と一緒でテクスト論も問題だらけだけど、
少なくとも「テクスト」という言葉を流通させて、「テクスト」にいかに
向き合うかっていう問題を提示したという意味で重要。同時代として
テクスト論を経験していない以上改めてその歴史的意義を問うても無駄には
ならんでしょ。
72吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 23:07
もっとやってくれ。法学部の俺は法律の勉強もあまりしていないが、テクスト論
などは触れたこともない。文学は好きだが、専門的に文学論をやるほどの
時間も余力もない。猿=文学の門外漢にでもわかるように教えてくれ。
猿にもわかるように説明できれば、その知識は本物だ。力試しにいいぞ。
73吾輩は名無しである:2001/08/14(火) 23:58
ポストコロニアルって何?
なんかうざそうなんだけど
74うきー:2001/08/15(水) 00:55
うーんと、構造主義で止まっちゃう云々って書いてあったけど、
テクスト論の欠点が暴露されて、その後ってやっぱりなんだか
よく分からない。カノン的なものがない状態なのかなあ、やはり。
カルスタとかなんだかはしかのようなものに思えてしまう。
こんな風に感じるのはわたしが勉強不足なのかな。

>>73なんだかウケタです…。
75三流大:2001/08/15(水) 10:22
 では「構造主義」全盛時、文学はどう考えられていたのでしょう?
物語の上で分割不可能なパターンがあってその組み合わせにより
文学が構成されているみたいな。(わざと穴だらけで書きましたが・・・)
76吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 06:44
>>75
ごく単純化して言うと、物語はパターンが定型で人物と背景を入れ替えてあるだけ、というもの。
演算式f(x)で、fが「構造」にあたり、変数(x)の入れ替えによって各々の物語が成り立つ。
それだけのことを延々と回りくどく繰り返し論じるだけでみんな飯を食っていた。
77吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 06:51
というか、今でも食っている。
78三流大:2001/08/16(木) 09:26
>>76
それでは「新しいもの」が永遠に創作されないという
「そんなことないだろ」状態に陥るので
「脱構築」なるものが出てきたのでしょうか?
では「脱構築」とは?
79吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 09:53
>>78
「構造」があって初めて、そこからの「脱」や「ずれ」が可能になる。
だから「脱構築」にせよ「ポスト構造主義」にせよ、
土台としての「構造」を前提にしているという点では、
構造主義の亜流に過ぎず、周辺を徘徊しているだけ。
つまり、それらも所詮「構造」抜きには論じ得ないというパラドックスに陥っている。
単なるアンチテーゼを提示しているだけで、止揚できていない。

別の例で譬えるなら、共産主義に対する「反共主義」のようなもの。
共産主義が崩壊すれば、「反共」も自然消滅してしまう。
80吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 10:05
ヌーヴォーロマン系統のフランス文学などは、
「脱構築」をかなり意識してやっているようだが、
はっきり言って作品自体は読めたもんじゃない。
そこそこ実績のある作家がそれを試みたからこそ、出版されているだけ。
もし新人などがヌーヴォーロマン風に書こうものなら、
編集者から幼稚園児の散文と見なされて、即ボツ。
そこで「脱構築」や「ポスト構造主義」を編集長にいくら講義しても意味が無い。
81三流大:2001/08/16(木) 10:07
>>79

つまり、
物語には分割不可能な物語パターンが存在する。
その組み合わせで文学は構成される。(人物・背景は
随時差し替えられる)
しかし、現実には新しい物語が生成される。それは
「そもそも構造など無いから」なのではなく
「構造とは不動の真理ではなく常に移動し(ずれ)ている」
からである。その構造が移動し(ずれ)ても新たな構造となる
だけである。その構造の軸の移動(ずれ)を脱構築とする。

超簡単に言うとこんな感じ?
82吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 10:09
そうこうしている間に古いものは忘れられ、忘れられたものが
却って新鮮なものとして時代に受け入れられる循環の「構造」は
服や音楽の流行と一緒。
83吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 10:23
>>81
専制政治を打倒しようとして革命を起こしてみると、
そこに生まれたのは前と同じような専制政治だった。

脱構築も構造主義に取り込まれておしまい、という例です。
8453:2001/08/16(木) 13:58
そもそも「ポスト構造主義」ってのは「主義」ではないんだよね。
なぜなら構造主義があってポスト構造主義が登場する、という考えは
近代的な進歩史観、歴史の直線的発展論の等価物だから近代批判を
展開した構造主義以後の思想が最も忌み嫌うべきものだ。したがって、
「ポスト構造主義」とは、「構造主義」以後の思想状況全般を指すと
理解すべきだろう。

>脱構築も構造主義に取り込まれておしまい
構造の構築→脱構築→構造の構築、という循環を繰り返す、ってことね。
85吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 17:05
とりあえず講談社現代新書、橋爪大三郎の
「初めての構造主義」から入ってみてはどうか。
わかりやすいよ。
86三流大:2001/08/16(木) 17:18
>>85

案内書として
北沢方邦『構造主義』
竹田青嗣『現代思想の冒険』
池上嘉彦『記号論への招待』
立川健二・山田広昭『現代言語論』
土田知昭『間テクスト性の戦略』
ジョン・レヒテ『現代思想の50人』
を読んでみました。
ご示唆の書物も読んでみます。
橋爪大三郎氏のものは全集か何かで
「サルトルはマルクス論を補佐した」
といった事を詳細に説明した文章を読んだ事があります。
87吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 17:18
対抗手段は支離滅裂のでたらめ、意識的な錯乱しかないということなのか。
そもそも循環することにさほどの問題があるのか。あえて、その循環を突破する
必要性はあるのか。たわむれに循環の打破をもくろんでいるのか。教えてくれ。
88JPB:2001/08/16(木) 17:49
>>87さん
その疑問に同意します。
ただ、「脱構築」のデリダ的意図としては、必ずしも遊びでこういう事
をやっているのではない、と思います。参考になれば、幸いですが、
『ユリシーズ・グラモフォン』の中の「廻り合せ」という節に、こういう
箇所があります。
「言説なるものがナルシシズムを断つためには、とはいわないまでも、
少なくともナルシシズムを見るべきもの、思考たらしめるためには、そ
の言説は自分自身について語らねばならないのだ」

ここで、「言説」を「ある哲学」としても「ある小説」としても、
おそらくデリダがこの後に言う「他なることがらを他なるものに向けて
語る」ことという言い方からすれば、かまわないと思います。

そのような「他」を語り伝達する小説の中には、自分の持っている観念
(デリダにおいては西洋形而上学)が「到来」し、それが「他」を回収
し、ある鋳型にはめ込むような暴力が含まれるのではないか、という問
題から、デリダは、それを回避し、「回りを周り」、そのメカニズムを打破はでき
なくても、思考できるようにしようという意図を持っているのだと思い
ます。

そして、それが可能なテクストとは、どのようなものかといえば、
「その宛て先、行き先がその場での蕩尽と定められているような人為物・
遺物──自己破壊的もしくは自己消費的なモノ」である、としてます。
これは、テクストの袋小路なんですけれども、これを「確証」し、
「反復」してみることで、「私は事後的にこのような心配(袋小路
なんじゃないか、という心配だと私は理解していますが)を分かち持ち
ある仮説を提起し、問いを増やしたかったのだと、ひとまずしておこう」
とデリダは述べています。

「脱構築」の意図や効果としては、これが理解しやすいものではないか
と思うのです。
89吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 18:51
>86さん
そんなに読んでるなら必要無いかも。
出過ぎたアドバイスすまん。
9085:2001/08/16(木) 18:51
うえは85ね
91吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 20:08
実は三流大は、何もかも分かった上でみんなを試しているだけだよ。
彼は、スレの脱構築を目指して遊戯するトリックスターなんだよ。
92三流大:2001/08/16(木) 20:12
>>85
いえいえ、さーぱり解かってないのです。
読んでみます。
>>88さんの言葉も一通り呼んでふむふむ
とか思うのですが、「自分の言葉」にならない。
解かりやすくすれば遠く離れてしまうとは思いま
すが、少なくとも20年前の現代思想の文学応用の
輪郭は高校生でも理解できると思います。
理想は
高校生がこのスレ読んで「脱構築」という言葉を使い始めても
識者に鼻で笑われないくらい身に付く解かりやすく、かつ的を
射た解説
を希望。
93吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 21:46
>>92
でも、昔流行語になった「脱構築」という言葉を
今更高校生が使い始めても、どうかなと思うけど。
鼻で笑われなくても、あとでくしゃみをするだけのような気がする。
94吾輩は名無しである:2001/08/16(木) 23:09
>JPB
ありがとう。難しいが、なんとなく分る。戯れで脱構築と言う言葉を
もてあせんでいるのも明らかにいるが、積極的意図でとりくんでいる
者もいるんだな。
95JPB:2001/08/16(木) 23:19
>三流大さん
あのレスは「脱構築」の解説ではなくて、デリダの問題意識と意図をさらりと
示したものにすぎません。

しかし、文学研究において「脱構築」は理論化しえたのでしょうか。理論化され
てしまっては、むしろ「脱構築」の目論みから逸脱しているような気もするのです
が。そういう意味で、「脱構築」とはオケイジョナルな読みの実践以上のものでは
ないのではないか、と思うわけです。
例えば、そこからポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズがでてくるのは
構築作業の主体が、そのような読みだけではどうしても回避することはできないとの
断念から、それならばその構築作業の政治的領野の具体例として、帝国主義的な表象が
ある。それを、西欧の側から、またサバルタンの側から、展開と受容の両面を探ってみ
ようとの試みが出てくるのは至極当然のことではないか、と。
こう書いてくると、文学とは離れてしまうのですが、文学におけるポスコロ、カルスタ
というのが私には何を指すのか分からないので、それらが通底する、民族学や、社会学
という範囲で生れている流れを、これは文学にも通じているのではないかと思い、
書いてみました。
96JPB:2001/08/16(木) 23:22
>94さん
いえいえ、まさに私も勉強中なので。

「構築作業の主体が」→「構築作業の主体を」ですね。
97三流大:2001/08/17(金) 15:33
では、テクスト論とはなんぞや?
98JPB:2001/08/17(金) 20:12
すみません、流れを中断させてしまったみたいで。
確かに、テクスト論とは何だろう?
逃げつつ、アゲ。
99吾輩は名無しである:2001/08/17(金) 22:51
テクスト論はコンテクストをかっこにいれたやつでないの?
単純に。
ただ「テクスト」がむずかしいんでは?
バルトの解説本はよくわかるんだけど「作品からテクストへ」
の「テクスト」ってよくわかんないとこある。
ようするに前衛の小説を読みたいのか、とか思ってしまうのですが。
それじゃあ違うってさ。だれか。
100吾輩は名無しである:2001/08/17(金) 22:53
こわそうなのでさげ進行にしよーょ
10153:2001/08/17(金) 23:08
「テクスト論」とはなにか、改めて問われると難しいですね。テクスト論を
既に終わったものと仮定すると、テクスト論とはなんだったのか、なにを
文学研究に残したのか、もはや参照するに価する理論ではないのか、
ではポスコロ、カルスタという「流行」を追いかけるだけでよいのか、
私もJPBさんと同じく逃げつつ、自問&問題提起。
102吾輩は名無しである:2001/08/18(土) 00:06
テクスト論があったからこそ言説研究があるんじゃない?
意味内容にこだわりすぎてた研究を打ち止めにしたから。
テクスト論はいろんなものを文学研究に残したと思うけど、
そうは思わないんでしょうか。
今やられたらみんなひくだろうけど、今の研究は確実に
テクスト論っていう文脈の上だと思うよ。
テクスト論を「テクスト論」的に見てどうこう言うのでは
なくて、はやりのカル・スタみたいに見るとさ。
それとも、言説研究も終わってるんでしょうか...?
そういう人いますよね。なんで?
103三流大:2001/08/18(土) 00:11
意味不明なテクスト論も多々出たと聞きます。
句読点の数を論じたりしたのとか・・・。

今大学の国文科の研究室では何が主流?
私の大学では作家論、作品論、テクスト論
という区分けは依然として存在しているのですが・・・。
104吾輩は名無しである:2001/08/18(土) 00:21
興味深くロムってたんだけど、テクスト論に関しては
>>53 >>57辺りかなり要旨をついたやり取りが既になされているんじゃない?
結局バルトが提唱した「主体の死」ってのが眼目&その後に残したもの、だったとは思うんだよね。
クリステヴァの「間テクスト性」(こんな名前だっけ? ずいぶん昔に読んだから間違ってるかも)は
それを理論的に洗練させてるんだと思う。

それから>>95でJPB氏もちょっと触れてるけど、カルスタ、ポスコロってのは結局、所謂差異の戯れと呼ばれるものをいかに現実的な闘争へと
繋げていくかということの一種の試みなんじゃないか、と俺は理解しているけどもね。



105104:2001/08/18(土) 00:29
ごめん、つけたし。バルトの「主体の死」に関してはそれを補完する形でフーコーの「物語の作者」ってのがある。
すっげー簡潔に言えばフーコーは物語の作者というものは死ぬことはなかろう、と外部的な条件から述べるんだよね。
研究の分野で、作家論、作品論、テクスト論 が並立する状況を考えるうえでぜひ読んでみるといいと思います。<三流大氏
それとももう読んでるかな?
106104@酔っ払い:2001/08/18(土) 00:35
「物語の作者」ってのが→「物語の作者」って論文が
107三流大:2001/08/18(土) 00:44
「作者とは何か?」は読んだ事あるのですが
「物語の作者」なるものは未読です。
探してみます。御教唆ありがとうございます。

我々が作者を生み、我々が作者を殺すということでしょうか。
そして作者の死を我々は受け入れ切れないと。

この三者は並立してるんですか。うーむ勉強になります。
108104@酔っ払い:2001/08/18(土) 00:47
>>107
ごめん、それだ<「作者とは何か?」
現役から離れてはや幾年&酔っ払ってるんでいい加減なこと書いてごめんね。おやすみ
109吾輩は名無しである:2001/08/18(土) 00:56
著作権とかの話だっけか?

バルトの「作者の死」はタイトルがすごすぎて誤解を生みそうだよね。
一応彼はなんだっけ、作品を述語とする主語にはならない、とかそん
なんじゃなかったっけ?
作者は網の目からつくりだされるものだって感じのこと言ってたよね。
大事なのは死ぬの死なないの、じゃなくてそこではないの?

やっぱりそれって言説研究につながるのでは。
その作品の作者がどういうふうに表象されてたか、とか最近だとよく
ネタになるんでない?
11053:2001/08/18(土) 01:09
>>103
作家論、作品論、テクスト論という区分け自体は古くさいもの
だけれど、テクスト論が流行らなくなり、カルスタ、ポスコロ
にも限界というか批判が集中するようになって、文学研究は
「次の手」を模索しているように見えます。その時に、一旦
は否定され葬り去られたはずの作家論、作品論に新たな照明を
当てることで新しい文学研究のあり方を見いだせるのではないか
という考えも出てきてると思いますよ。

国文学(日本文学)研究のフィールドでは、カルスタ、ポスコロ
はかなり大きな勢力になってると思います。構造主義、テクスト論、
脱構築批評なんかを駆使してた小森陽一氏も今ではポスコロですし、
アジアから留学生が多く来るようになったのでしばらくは続くと
思います。カルスタも最近元気のいい社会学からヒントを得て
メディア論なんかがさかんですよね。それから上に挙げたブルデュー
を援用した研究も出てきてる。『芸術の規則』で展開された
「文学場」概念を持ち込んだ研究が大正期を中心になされている。

自分が近代をやってるから話題を意図的に近代に限定してしまったけれども、
古典のほうもかなり面白いことになってて、今のところカオス
状態と言うしかないのかもしれません。近代は対象が限りなく
ありますし、近世中世もまだまだ資料発掘の余地大だと思います。

「文学研究に先はない」なんて言われてますが、「これから」
の私(たち)は戦略的に楽天的であるくらいのほうがいいような
気がします(また話題がそれてしまった・・・)

それから、テクスト論、ディスクール分析との絡みで言えば
最近は「カノン=正典」批判も盛んですね。テクスト論が結局
自分の分析能力を誇示するために、それまで一義的な解釈を
なされていたカノンをいかに読み替えるかという作業に終始
した結果かえって批判をしたはずのカノンを再正典化するという
逆説に陥ったことは上に書きました。では自閉的な内在批評に
代わってなにがカノン批判をなし得るかというと、言説研究が
代替物になるのではないか。

つまり、漱石をカノンたらしめている、漱石をめぐる言説が
誰によってどのように発せられ、どのように受け手や社会に
享受され流通してゆくのかを研究する手法です。フーコーの
権力論が影響を与えていると思いますが、「語り論」の概念
を拡張したものとも解釈できまた、ブルデューの言う「象徴暴力」
というタームでもって説明することも可能で、人それぞれの
把握の仕方があると思います。いずれにしても、テクスト論的
カノン批判(実は共犯)と大きく違うのは、テクスト内部の
語りとテクスト外部の語りとの相互交通のダイナミズムを問題
として捉えた点でしょう。これでもってテクスト論と
カルスタ、ポスコロとの架け橋ができたと夢想するのは早合点
でしょうか。実際、Saidの『オリエンタリズム』はフーコー
の影響の下にOccidentがOrientをどう表象してきたか、その
言説の権力性、暴力性に着目した書だと思いますし。
長すぎてまとまらなくなってきたのでこのへんで。
11153:2001/08/18(土) 01:16
それにしても、ホントよく勉強してるね>三流大氏
一体どんな高校生だったの(藁)?
112三流大:2001/08/18(土) 09:36
えー難しくなってきたんですが、
では現代小説が論理でどう変遷
したかというと、

構造主義が作家の主体性を否定し、
物語から創造性やコードによって
本来伝えられるべき情報さえも
拒否したと、文学のミニマリズム
化が進み物語においてプロットや
主題、時間や主人公さえあやふや
になってきたと。「表現しない表現」
状態になっちゃったと。で、ポスト
モダン小説として「既に表現されたもの
を表現する」という形が出来たと。

このへん現在のポピュラー音楽に似てません?
DJの台頭から近年のjazzとボサ
やブラジルの融合なんて
ポストモダン小説→クレオールを連想
します。

>>53
まだまだ若輩の私に丁寧な御教唆大変
あり難い限りです。
兄が小説家志望だったもので本は家に
沢山ありました。勉強というのもおこ
がましいですが、それで読書量は稼ぎ
ました。
113三流大:2001/08/18(土) 09:58
小説の科学的考察のはしりって
前田愛氏の『都市空間のなかの
文学』なんでしょうか?
114JPB:2001/08/18(土) 10:01
自分の見解もいいですか。簡単に。

構造主義は、今まで作家の「創造」物として理解されていた「作品」を
作家の神の手から独立し、社会と連結した「テクスト」として理解し、
「客観的」分析への方途を開いた。

しかし、その「客観性」が逆に西洋が背景としている観念を蔽い隠して
しまうという懸念から、そうした分析者の観念の源泉まで問うような
「脱構築」分析がめざされた。

しかし、それが「決定不可能性」とかのレベルで逡巡しているとすれば
読み手の認識論としてはいいかもしれないけど、結局、テクストの意味
って何?ということで、社会−作者−テクストという連関を重視し、
その総合的把握を目指そうとする潮流が生れた。歴史性や権力関係を
重視するのがポスコロ、メディア状況を(読者−作家関係を同時代的に)
把握しようとするのがカルスタ。

という感じ?
115三流大:2001/08/18(土) 10:05
>>114

おー,解かりやすいです。
今日はドゥールーズ=ガタリを
読んでるんですが、頭がこんが
らがってきてしまって・・。
116吾輩は名無しである:2001/08/18(土) 14:10
なんだか勉強不足がバレそうで書き込みを躊躇してしまうのですが、
おもいきって。

>>110
カノン批判あたりのはなしですけど、ある意味(「作者の死」を宣言した
テクスト論の後継者としての)カルスタの中で作者をどう取り扱うのかに
対する解答と見ていいのでしょうかねえ。
「文学者はつくられる」などがその成果でしょうか。

その場合、疑問なんですが、当時の文化から逸脱する作品や、存命当時
世に知られていなかった作家の扱いって、どうなってるのでしょうか?
例えば53さんの例に出されている漱石の場合、門下などの言説やらの
メディア表象などさまざまなものを持ってきて、作者について見ていく
ことになると思うのですが、そうした資料がない場合は適応できないので
しょうか。また、カルスタに関しても、例えば幻想文学なんかは扱えない
のでしょうか。これらは対象を選ぶ方法なのでしょうか。
117吾輩は名無しである:2001/08/18(土) 22:40
>>116
存命当時知られていなかった作家がだれだか分からないけど、その人が世にでて
いった過程をおっかけてみるのがカルスタ的なんでない? これは多分かなりお
もしろいよ。なぜ存命中にでてこなかったか、これだけでも十分ネタになると思
うよ。

幻想文学も、むしろうまくやればカルスタにはまるよ、きっと。
いつでも、どういう状況下でもうけるものなんてないだろうし。
その幻想文学が作れる土台は何が用意したのかとか、読者のうけいれる準備とか。
それだけじゃネタになんないけど、調べてみて面白いことにでくわすのはよく
あること。読者を扱うのってすごい慎重さが必要だけれどもさあ。
118三流大:2001/08/20(月) 19:26
もっと語って欲しいです
119JPB:2001/08/20(月) 23:28
>三流大さん
最近、テクスト論は大学生の間ではあまり読まれないのですか?
120三流大:2001/08/21(火) 09:46
うーん。
「文学が好きな人」には人気無いですね。
やっぱり作家の伝記的要素とか作品の解かり易い言い換え
なんかが文学部に来る人は単純に好きでしょう。
ただ作家の日記を根拠にしたり、これは〜の象徴と決めて
かかっての読解なんかに胡散臭さ(限界)を感じた連中が
現代思想に活路を求めると言った感じでしょうか。
あと詩論をやってる連中はどうしたって現代思想に造詣が
深い人が多いのでその影響もありますね。
あとテクスト論の先生は思想的にある種の偏りを見せる方
も少なくないので、そこも学生の毛嫌いを誘っているかも
しれません。逆に信者みたいな人もいますが・・・。
作家志望の連中は「踏まえはしても深入りはせず」のスタ
ンスですね。古典研究の人達の方が気に入ってるようです
が、単なる「資料嫌い」の逃げ道という感もします。
まあ、まだ入ったばかりなのでよく解かりませんが・・。

それにしても最近学生運動盛んですね。
121吾輩は名無しである:2001/08/21(火) 09:56
> 最近学生運動盛ん

初耳だ。
122吾輩は名無しである:2001/08/21(火) 11:36
>>120
きみ、ほんとは十年前に大学卒業してるだろ?
123某コテハン猿頭:2001/08/21(火) 12:24
全くの門外漢の上、横スレで申し訳ありません。
このスレを読む限り、「何となく」その意味合いが掴めて来ますが、
日本語表記に「テクスト論」を当てはめると、
その「主体=日本人」によるテクストの命題として、
どうして日本人の構造を無視した「テクスト」と表記するのかが
そもそも門外漢として理解できません。
日本語として「文字論」または、「記述論」(テクスト=text(英語))とした上で、
初めて議論できるはずの、内容であるはずなのに、
「テクスト論」と表記した段階で、すでに日本語での「テクスト論」など、
猿には無縁の存在だと忌避されます。
と、猿頭的疑問点にどなたか応えて頂けますでしょうか?
ちなみに、デコンストラクション=脱構築とするなら、
演劇でいうベケットの不条理劇みたいなもんでしょうか?
124考える名無しさん:2001/08/21(火) 12:36
>>113
前田愛はアナル学派を文学研究に導入したようなもんだ、とおれは理解しているんだが。
>>114
日本の文脈でいうと、例えば最近の東浩紀の批評はどう位置付けられるのかな?
カルスタといいがたいような気もするし。
>>121
けっこうさかんだよ。某大学では某文芸評論家が応援しているしな(w
12553:2001/08/21(火) 13:51
>>116 私はカルスタには深く語れるほど詳しくないのでこれこれは
カルスタ的、というようには言えないのですが、当時は全く相手に
されなかった作家作品や、後の研究者によって見捨てられてきた
表現領域を扱うという手法はある意味カノン批判として「カルスタ」
的であると言えるでしょうね。

遡れば、1970年代の文化思潮の一つを形成した(はず)
「中心と周縁」理論にまで行き着くのでしょうか。「中心」としての
カノンがあって、周縁に追いやられたものたちをすくい上げて
中心と周縁の相互交渉を考察する、という。前田愛さんの著作は
こういう側面を持っていると思います。例えば『近代読者の成立』
では、「読者」「女性」「(出版に代表される)メディア」
「大衆」といった、それまでの文学研究において周縁化されてきた、
若しくは考察の対象となってこなかったようなものを取り上げて
既成の文学史を疑問に付していますね。

それから、「明治三十年代研究会」の人達は研究の対象を「言説」
一般に拡張して、移民植民、伝染病、民族、観光等に関する言説
を分析することで当時の言説状況を立体的に明らかにしようと
しようとしていますね。『メディア・表象・イデオロギー』や
『ディスクールの帝国』を見ると、「これが文学研究??」と
思うほど多様な言説を扱っています。ただ、この二作が暗黙の
カノン批判であることは分かるのですが、批判の仕方が、
あえてカノンを語らないという方法によってなされているのが
気になります。「漱石なんて語ってやるかよヴァカ!」方法より
116さんが挙げていた『文学者はつくられる』で展開されていた
手法のほうが誠実ではないかという気がするのは私だけでしょうか?

そういえば、自称「頭がいい」人達の間でカルスタの評判
が徹底的に悪いのはなんででしょうね?私自身はもう少し
勉強してそれから問題を見出したいと思っているのですが。
12653:2001/08/21(火) 14:06
>>123

おっしゃりたいことの意味がよく分からない
のですが、表記の問題ですね?「テクスト」
という言葉を「日本語」に直してから議論
せよ、との提言ですが、なぜ「日本語」に
しなくては議論できないのか私にはちょっと
理解できません。それに、「テクスト」という
片仮名で表記されたこの単語はすでにもとの
「texture」「text」から離れて「日本語」
の文法体系のなかに取り込まれていると
思いますよ。

構造主義的に言えばtextという
異質な言葉が、「日本語」と名付けられた
あるひとつのラングの体系に、「テクスト」
と表記を変えて仲間入りした、というだけの
ことではないでしょうか?したがって、
「テクスト」という言葉が123さんの言われる
「日本人の構造」を無視しているとは思われ
ません。
127三流大:2001/08/21(火) 18:25
>>122

はは、確かに10年以上前に書いたとしてもおかしくない
書き込みですね。文学部は進歩してないのか・・・。

>>124
不勉強でよく解かりませんが、歴史学的な考察を前田氏は
文学研究に取り入れたということでしょうか。

本棚をあさって東浩紀『存在論的、郵便的』なる著作を
発見しましたので読んでみたいと思います。デリダという
カルチャーの考察といったところでしょうか。

>>126
私もテクストはもはや日本語だと思います。
テキストと使い分けたりもしますしね。
12853:2001/08/21(火) 19:46
>>127
レスしようと思って忘れてました。前田愛氏の研究についてです。
研究の背景はすでに70年代の文化思潮の一端を担った「中心と
周縁」理論にあるのではないかと書きましたが、もう一つ。
『近代読者の成立』終章で書かれていますが、戦後の「思想の科学」
グループによる社会心理学的文学研究もまた前田氏の研究に
ヒントを与えているようです。具体的には大衆文化、例えば
吉川英治『宮本武蔵』の読者層の実体的把握と作品が与えた影響を
「科学的」に考察しようとするものです。

前田愛氏の著作に一種科学の色彩を与えているのは、こういう背景
があってのことでしょう。だから、ニューアカブーム以前に
山口昌男さんなんかと一緒に構造主義やテクスト論を先駆的に
紹介することができたのだと思います。文学の科学的研究の
洗礼を受けた前田氏にとって同じく疑似科学的な構造主義
を取り込むことは容易だったと思われます。

それにしても、前田氏が早くに亡くなったことが残念ですね。
存命だったら、今の文学研究を見てどう感じるのでしょうね?
129116:2001/08/21(火) 20:23
>>117
>>125
ありがとうございます。
よく考えたら、漱石の例なども存命中よりは後のことが注目
されたりしていますものね。愚問でした。ただ、なぜそのような
ことが気になったのか考えてみたのですが、例えば作家の死後に
おける受容などから論じていった場合、そこで論じた内容を作家や
作品の方へフィードバックさせていくのはむつかしいですよね。
すべてがそうだというわけではありませんが、カルスタなどに
おいて、こうした作品そのものからの乖離というのがあるような
気がするんです。それがカルスタたる所以といわれればそれまでだし、
それはそれでいいのだろうと思いますが…
結局何が言いたいのかというと、こうした方法は文学研究の「一分野」
であって、他にも我々がすべき研究方法はあるはずで、でもソレ
が何処にあるのかイマイチ掴めてないんだなあ、という感じです。
自分の頭の悪さに滂沱。
(で、更に書いてしまえば、53さんのおっしゃる自称「頭のいい」人達
が「他の方法」をやり始めているようですが…)

もう一つ、私の勘違いでなければ、これらの方法においては
例えばある作品について語る場合に、その読者対象を仮定して、
彼等が読んでいたであろう物・流行っていたらしい物などを
論拠として提出していくというパタンがあると思いますが、
ここでの読者層についてはどのように処理されているのでしょうか。
受容理論が攻撃されていた部分が不問に附されたままであるような
印象があるのですが、どうなのでしょうか。
130116:2001/08/21(火) 20:34
>>123
「テクスト」にあたる丁度良い日本語がないのだと思います。
多分一番近い「作品」でさえ、その意味合いを再現できない
(「作品論」の存在のせいだけではなく)と思います。
「作品」と「テクスト」を分けて論じる場合(特に、外国語の訳
の場合などで)もありますし。

また、テクスト論に話を戻すと、そのもたらした功績の最たる
ものが、「テクスト」概念の普及だと私は思います。
131JPB:2001/08/21(火) 21:20
>>123さん
>「主体=日本人」によるテクストの命題
概ね、>>126>>127>>130の意見と同意になりますが、
>>123の意見において焦点になるのは、日本語の固有性の存在
がどのようにあるのか、という問題と、翻訳された概念の中に
何が残るのかという問題ではありますね。深読みでしょうか?

その上で付け加えさせて頂くならば、構造主義は文化人類学における
<どのように異文化の固有性という違いを超えて、それを理解しうるのか>
という問題から生成したわけですよね。
だから、構造主義から論じるということは、そうした共通性の視点に立つこと
も意味しており、「テクスト」概念を翻訳せずそのまま導入することは、
かまわない、というかむしろそういうもんだと思われます。
ただ、「テクスト論」⇔「記述論」の翻訳において、主体にとっての意味
がどのように保存・伝達・解釈されるのかという問題は依然として残るの
で、例えば古い本ですが『詩学批判』(アンリ・メショニック)とかを
読んでみると、その視点の参考になるのではないかとあげておきます。

ただ、その透明な視点が、批判にさらされ、脱構築やカルスタ・ポスコロに
つながるというのは問題ないですよね。ただ、特に後者等においては
文化相対主義に陥るということ、つまりおれらはおれらのやり方があんだ
勝手にさせろコノ野郎、という話になってしまいかねない問題がある
というわけでもあります。それは政治的な力学関係に学問領域が完全に
従属してしまうということでもありますから。
132JPB:2001/08/21(火) 21:51
>>124さん
そうですね。>前田愛
もともとアナール派の出発点というのは、経済領域と政治領域の癒着
を論じたレーニン的な視点や、ドイツ流の歴史実証主義の瑣末化に対
するアンチ・テーゼとして生れてきたものですね。
そこでは、今まであまり重視されなかった史料を活用によって、
「民衆」という意志をもった主体の姿が浮かび上がってきたというわけ
です。山口氏の『敗者の精神史』にしても、前田氏の著作にしても、
そういう社会の全体的連関へ文学分析を開いたという意味で、面白い
と思います。ただ、それによって落とされてしまうものにも、眼を配ら
なくてはなりませんが。

>>三流大さん
先のデリダを用いた書き込みは、東氏の著作の前半部分も結構参考に
させて頂いてたりします。

>53さん、116さん
読者層分析の現在としては、『メディア研究』(ゆまに書房)という
雑誌を読むと得られるかも知れません。ただ、山本茂利氏(新聞)や
永嶺重敏氏(昭和初期期の雑誌)らの実証研究は、どうしても読書調査
という公的な史料を用いなくてはならないという臨界はありますね。
当然ながら、個々の個人がもつ意味の世界の共同性や差異の把握は
そうした史料からだけでは限界があり、難航しつつも踏み出している
というのが現状でしょうか。

「思想の科学グループ」、また加藤秀俊・多田道太郎らの「大衆」研究
(60年代頃)等々には意見もありますが、ひとまずは。
13353:2001/08/22(水) 00:56
>>129さん
スレのテーマに即してテクスト論との関連で言えば、カルスタは、作家や
作品を取り巻く社会、言説状況に拘泥するあまり作家や作品「そのもの」
に対する視点を取りこぼしてしまっている、ということでしょうか?
もし129さんの仰りたいことがそうであるならば、私も同じようなこと
を感じています。テクスト論の遺産である「テクストといかに向き合うか」
というテーマを現在の文学研究は喪失しつつあるという現状理解は乱暴に
すぎるでしょうか。

ただ、「学際的」「脱領域的」という言葉がもてはやされ、カルスタが
中心となって既成の学問領域を越えて研究がなされているというの
もまた事実であり、そんな中で「文学研究者」は社会学その他の研究者
にフィールドを奪われてしまっている、イーグルトン流に言えば
「主体性を喪失している」ように思います。いい意味で「文学研究者
にしかできない」ような、そんな研究分野はないものか。私は学問領域
の縦割り状態を良いものだとは全く思ってはいないのですが、かといって
「横断的知」なるものを手放しで礼賛する気にもなれないのです。

じゃあどうしたらいいのかと言うと、新しい研究領域を切り開く
ヴィジョンみたいなものもまた見えない。そういう意味でもう語り尽くされた
はずのテクスト論を自分なりにきちんと勉強して対象化してみたい
ですね。もっと勉強せにゃ。

あ、自称「頭のいい人」云々は無視してくださって結構です。
勢いで書いてしまった愚言ですので、ハイ。
134某コテハン猿頭:2001/08/22(水) 02:00
123です。駄問に答えて頂きありがとうございます。
質問内容は53様の>>128で指摘された通り、
>「テクスト」 という言葉を「日本語」に直してから議論 せよ、との提言
でした。この板が「文学板」という前提であれば、
学問上の「テクスト」は日本語に「なっている」かもしれませんが、
「テキスト」でも無い「テクスト」は、2ch全体を背景にするなら日本語ではありません。
むしろ、116様の>>130における説明がしっくり来ます。
これは、日本語で「eコマース」というより
中国語表記の「電子商業」の方が意味が通るのと同様、
日本人専門家における象牙の塔内の「コギャル用語」のようで、
最初から、一般化させる意志の無い専門家同士の「戯れ」ではないかと、
猿はひねくれてバナナの皮に頬を摺り寄せる次第です。
かつて、不可思議なドイツ思想書日本語訳の理解に断念し、
英訳書で読むとすんなり理解できた経験をもとに、
猿には「テクスト論」よりも「text(ラテン語のtextusですか?)論」にて、
「text」自体を英英辞典で読み解く方が、理解度が深いという、
輸入思想を咀嚼すること無く血肉とする学者の努力が、
すでに猿を排除しようとする意志と感じとった次第でいじけておりました。
猿はバーゴンながらジャーゴンは嫌いでご猿。
皆様、お相手して頂きありがとうございました。そりでは。
135某コテハン猿頭:2001/08/22(水) 02:08
JPB様>>131
見逃しておりました。すみません。
猿は、かなり理解できました。ありがとうございます。
ということで、上のレスを書かなきゃヨカッタと、
涙をこらえてバナナの皮より剥がした筋を奥歯で噛み締めつつ、
「ああ、これでトリップできるはず」と昇天願望成就を祈りつつ眠ります。
皆様、猿でも、少しわかりました。
136三流大:2001/08/22(水) 17:41
>バナナの皮より剥がした筋を奥歯で噛み締めつつ、
紙で巻いて吸ってみては如何でしょう
137三流大:2001/08/24(金) 09:51
 そろそろ、具体的なテクスト論の論証法を提示してもらいたいな。
我儘ばかりですいません。

ところで
詩は絶対的な(文字の)情報量が少ないのでテクスト論に向かない
というのは正しいの?
138吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 20:33
少ない方がテクスト論に向いてる
139藤原主義 :2001/08/24(金) 21:41
強く、美しい人になるための61のヒントが盛り込まれた、藤原紀香の
エッセイ集。人生を楽しみながら、日々新しいことにチャレンジし続け
ている彼女が、キュートでセクシーな魅力の秘密を明かします!「反省
しても後悔はしない」「縁に敏感な人は恋も仕事もうまくいく」「すっ
ぴんでもキレイと言われる女になる」「ファッションに思い込みは捨て
る」など、10章にわたる藤原主義を、プライベートな経験に基づくエ
ピソードを交えながら公開。藤原流の、軽やかで華やかなライフスタイ
ルを公開している。仕事に恋に、充実した日々を送るためのアドバイス
が満載の1冊。
140吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 21:50
テクスト論には論証ということはありえない。
論証という手続きの不十分さを語れないテクスト論は毛が無いからね。
141三流大:2001/08/24(金) 22:05
毛とは何のメタファーでしょうか?
142吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 22:23
捨てリルといふことでは?
143吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 22:34
ポエジイほど言語の言語性をはつきり告げるものはないだろうねえ。
144吾輩は名無しである:2001/08/24(金) 23:19
18なのですが、27に「残念ですが」といわれ、
一生こんなに悔しいことを言われたことを忘れる折は
無いと思われ。発言者の意図とは無関係にとにもかくにも
発せられたことばのもついりょくんを感じている最中さ。

残念ですがとは、本当はこんなことはいいたくないが
いわざるをえないということで、思いやりがあるような
ふりをばしているが、本当に思いやりがあるなら、簡潔にでも
問題点をしてきする方が親切なのであってみれば、結局みせか
けの思いやりに過ぎない
というようにぶんせきできるわけですなぁ。
ぢスコースの分析とはこのようなものをさす。

残念ですが・・・自作自演だった模様。
145私大生:2001/08/24(金) 23:29
はつカキコです。ちょいと気になることが。所謂「近代日本文学研究」のジャンルにおいてカルスタは、
ほとんど「註釈」行為と同義になっているように思われます。S・ホールをもちだして、その不当性を糾弾
しても仕方ないんだけど、元来持っていた「イデオロギー批判/考察」的な要素が、イデオロギー再生産を
促す、つまり「安易な論文」を書く便利な方法として用いられているのが現状ではないかなーって思いますが。
これはテクスト論が「輸入」されたときとも重なる現象でしょうが。おそらく、カルスタがどのような文脈で、
そして如何なる考えを経由して今に至ったかを考えると、言説批判的な視点とともに、今何が必要か、というのが
みえて来るきもします。

確かに文学研究は社会学を代表とした新たなる思考の枠組みを多分に援用しているのは否めません。
しかし、文学研究に先があるとすれば、文学テクストを読める、という一点だとも思います。それを
資料としてではなく・・・。

かつて、「テクスト論」的な読みで以下のようなものがありました。ちなみに、その「流行」で材料となった
もの「漱石」です。
作品中、明らかに「作者」の書き間違えと思われる箇所がある。しかしそれは作者のそれとは
考えない。その「間違え」は物語中に起こった出来事として捉え、物語の中で解決させようと
試みる。そこから、物語では直接的には書かれていないことを、その「間違え」を根拠として
類推(読み)し、強引に整合性を付した解釈を行なう。かつてなら、こりゃー作者の間違えさ、
ですまされた、些細な箇所から、読みの可能性を広げていく。もちろん、テクストを舞台として、
記述に沿うかたちで発見される「物語」であるが故に、それにとやかく言うことは、言うことそのもの
が問題含みとされていく・・・。そして、見つけた者勝の、読みの相対主義が跋扈する・・。

こんな感じでしょうか。おおまかだけど。この流れだと、「註釈」が今流行るのも、当然とも
いえそうです。駄文、失礼・・・
146ちんぽくん:2001/08/25(土) 02:34
豊崎光一『砂のアルシーブ』にて終了ってことで
147三流大:2001/08/25(土) 09:23
>>145さんの実例は大変興味深いでした。
ありがとうございます。
148吾輩は名無しである:2001/08/25(土) 19:40
145にある例は一種の高等遊戯以上のものではないようで。
ちなみに文学テキストと非文学テキストの差は到底絶対視できないYO.
後者も「文学」としてよむことが必要なんだってさ、あちらの文学理論ではね。
149吾輩は名無しである:2001/08/25(土) 20:06
と言うか、聖書学や思想史研究から派生したものでしょう?
それが文学批評に適用されて今日に至るのだと思いますが。
150吾輩は名無しである:2001/08/26 08:47
読みのお遊びということでいうなら、145のようなものは面白いと思う。
ただ学問の名においてするようなことではない。だいたいずいぶんシニカル
ではないか。
151吾輩は名無しである:01/08/26 08:52
なんか実際に論文書いてる人の意見がききたいな。地に足ついてないやつばっか。
掲載どころか、書いてもいないでしょ、あーたたち。

>>145
書き間違いって何のどこ?
カルスタが注釈行為になってる論文ってどれ?

>>149
聖書学? 聖書を自由に読ませたらまずいんでないの?
しかも派生したからナニ?
152吾輩は名無しである:01/08/26 09:02
聖書学が読みの様々な技法を発達させたことくらい、知っておこうね。
153三流大:01/08/26 10:03
>>151
作品論の論文は書かせてもらったことあるのですが、
テクスト論はありません。テクスト論でも先行文献
読んだりする作業いるんですよね。本文校合とか初出
とか明記するんですよね。すいません初心者質問で、
主に教わる教授が昔ながらの作家論の教授で、
「現代思想は学生時代はまったなー」と遠い目をして
言う人なのでとても聞けません。
154吾輩は名無しである:01/08/26 12:18
>>152
どんなものでしょ? 例えば縦に読むとかですか(w
155吾輩は名無しである:01/08/26 17:09
人にものを聞く時は態度に気をつけてね。
旧約のひとつの何気ない文を省庁としても
読み解くといったことみたいだよ。テクストの
意味に複数の水準または針灸もとい新旧をもうけるわけさね。
15653:01/08/26 22:22 ID:nsMqhgdU
バリバリのテクスト論と言えるかどうか分かりませんが、小森陽一の
「『こころ』を生成する心臓(ハート)」はそれまでの『こころ』解釈
において中心となっていた「下」における「先生」の「殉死」を「知識人の苦悩」
として捉える視点を批判し、アンチオイディプスとしての『こころ』
という新解釈を打ち出した論文です。小森氏のこの論文と石原千秋の
『こころ』論は国文学界を巻き込んだ論争を生んだようですがその経緯
については勉強していないので詳しいことは分かりません。ただ、
テクスト論による作品批評が作品論作家論に抗するラディカルさ
を持っていた(少なくとも当時は)ことはよく分かると思います。

ちくま文庫版の『こころ』の解説に収められていますが、小森氏の『構造
としての語り』にも入っていたと思います。
157吾輩は名無しである:01/08/26 22:36 ID:e1S75gSA
なんでこのスレだけが生き残ったの?
158私大生:01/08/27 02:15 ID:5PIY1KbI
145です。
>>148,150
ほとんどの論文は、一種の高等遊戯だと思います。意味をずらして言うと、遊戯だからこそ
価値がある・・という論理もなりたってたりして。それが学問の名においてなされているのが
本当だとも。ただ、書いたように、そんなテクスト論は容易に論文作業を促す装置となって、
今、「当事者性」というのがくどいほど問われている情況を生んだといえるかもしれません。

>151
実際、僕も論文書く義務負ってる者なんです(藁
うろ覚えですが、「こゝろ」の中で、語り手が「先生」に出した手紙の数・・だったと
思います。ちょいと、論争じみた言い合いがあったりしました。
最近の研究分野の論文や著作の流れは「註釈」に向かっています。わかりやすいのが、漱石の「註釈全集」なんかが出る
という。もう、明治時代のテキストは註釈なしでは読めないという前提に基づいた、明治時代のテクストの再生産でも
ありますが・・。
一方、テクストに記載された些細な事象を同時代の文脈に置きなおし、その中での意味を浮かびあが
らせ、それをテクストに返すことで読みの可能性を広げる、という作業が所謂、文学研究での「カルスタ」
となっています。テクスト内で解決しようとする読みでは、感知することが不可能な時代的な意味で
読み直すという、いわばこれも(大まかな流れでいうと)ポスト・テクスト論(藁)でしょう。
僕が念頭においた書物は、「メディア・表象・・・」の流れにあるものです。カルスタという
響きのいい言葉のもと行なわれているのは、註釈箇所を早く見つけた者が勝つという、論文生産
競争だと感じるのは、うがちすぎなのかな。(もちろん註釈は基本の基本ですが)

>153
テクスト論で書く、作家論で書く・・という振り分けがそもそも出発点として違う気がします。
教授云々はよくわかります(藁。でも、「方法」を実践することが論文を書くことではないでしょう。
よくご存知だとは思いますが。方法や理論は新しい思考の枠組みを提供するし、それによって今までに
ない「読み」を可能にもするでしょう。でも、論文のための論文は・・。

>156
問題は、彼等の「その後」ですよね(藁。と言うこと自体、論文を「作家論」として
見てることになるかもしれないけど。
159吾輩は名無しである:01/08/27 09:06 ID:qNucj/qs
すると国立大学の大学の先生ってのは、
国民の税金をつかってお遊びをしているわけね。
もうちっと倫理的契機なんてのを持ったらどう
かねえ。
実際優れた論文にはそれがあるYO
160吾輩は名無しである:01/08/27 12:35 ID:n/Vu4WNc
>>151
書き間違いってたまにあるじゃん。登場人物の年齢とかも他であったね。
>>155
とうか半分あおりのつもりだったんだと思われ。
161吾輩は名無しである:01/08/27 14:11 ID:n/Vu4WNc
IDって全部にでるようになったの?
162116:01/08/27 23:23 ID:Dh2KiygM
大変な亀レスですが、>>132JPBさん、>>133(53さん)
有難うございました。スレッドとは離れてしまうようですが、受容に
ついては気になっているので、考えて行きたいと思ってます。
また、カルスタに見られるような「学際的研究」のアヤシサについて
も気になります。
スレの流れに戻すと、一部ではカルスタへの反発から注釈へとむかって
いるような部分があるように思いますが、どうでしょうか?
(「注釈的なカルスタ論文」という話も出ていましたが、それは
似非カルスタだと把握しております)

あと、前の方で出ていて気になったので、「テクスト論」は中国語で
何と表記するのか中国人の友人に聞いてみましところ、
「文本論」と書くそうです。…あまり日本語に馴染まないようですね。
163116:01/08/27 23:33 ID:Dh2KiygM
あれれ。しかも強制なんですね>ID
164吾輩は名無しである:01/08/28 21:00 ID:36S9iE0M
テクストって使わないと織物って意味がナクナチャーウジャン

IDどころでなく2ch自体がどうなるかだってさ。
どーせ、残るんだろうけどな。らうんじはさーばーが移りましたとさ。
165吾輩は名無しである:01/08/28 23:24 ID:36S9iE0M
arya??
166吾輩は名無しである:01/08/31 11:26 ID:YQa.YCL2
上手いまとめが欲しい、今日この頃。
167吾輩は名無しである:01/09/03 11:37 ID:nBascdHY
age
168吾輩は名無しである:01/09/05 01:00 ID:J0/C5M2I
がいしゅつだったらすいません。
カルチュラル・スタディーとマルクス主義批評ってどう違うんですか?
169吾輩は名無しである:01/09/05 02:10 ID:VKMDUmEo
↑イデオロギーの有る無し(タテマエとしての)?にしてもこのスレ、文学板の醍醐味だな。
170吾輩は名無しである:01/09/05 18:54 ID:J0/C5M2I
すいません。カルスタの方にあるんでしょうか?
イデオロギーに自覚的なのがカルスタ?
この2つって似てますよね? もう少し具体的に知りたいです。
すいません。
171吾輩は名無しである:01/09/05 19:04 ID:wFoXvxxE
似てますか?強いて言えば、対象そのものよりも、それを覆う周囲の状況を
分析する試みとして括ることが出来るかもしれませんが。ちょっと無理があ
るように思います。
172私大生:01/09/05 21:55 ID:FSAKYeMY
158です。
>159 それがとことん「お遊び」ならいいと思いますが、産学協同路線へ流れると・・
   「倫理的契機」とはどんな意味か、ちょいとつかみかねます(言わんとする意味は
    なんとなくわかります)。
>162 カルスタへの反発から註釈に流れるのではなく、「文化研究」という名の註釈生産が
   行なわれているという現況という方がいいのでは、と(もちろんここでいうのは日本
   近代文学研究という場でのことですが)。
>168 カルスタを「定義」することは困難で、また意味があることかは難しいところですが、
   なによりも、「イデオロギーの(再)生産構造」に対する視線が大きな軸となっていると
   思われます。ポスコロ、ジェンダー論、そして現在流行のメディア研究がその大きな流れ
   にあるのでは、というのが実感です。所謂カルスタ初期の成果の一つが、メディアをイデオロギー
   生産の場と捉える試みだったことも大きいかもしれません。普通(?)なら結びつかない事項が
   表象の場で「節合」する時、イデオロギーは生まれる(?)、というのが、ホールの考えだ
   った気が(うろ覚えすまそ)。例えば、「聖域無き構造改革」と「日経平均一万円割れ」が新聞紙面
   などで「節合」されると、その二つが「不況」という事態を表象し、僕らは把握する・・。
   そのことは同時に、他に(そして真に)問われるべき問題を隠蔽をする構造を生産する・・。
   ここに、「イデオロギー」が・・という具合に(単純すぎる説明だけど)。このことは、人種と
   不況、マジョリティーとマイノリティー表象という問題ともなって、様々な研究を促す契機となった、
   というのが、僕のおおまかな理解です(訂正、反論あったらお願い)。
   さて、マルクス主義批評ですが、言われるところのそれは、例えば、F・ジェイムソンなどを
   視野に入れているのでしょうか?そのへんが、わからないと・・・
  
   それと、だいぶ、スレタイトルと逸脱してきましたね(藁)。自戒をこめて。


  
173JPB:01/09/05 23:13 ID:UmBnivVc
文学研究とどういうつながりがあるのかは分かりませんが、もともと政治領域と
経済領域の分析を重要視してきたマルクス主義歴史学が、例えばイギリスなら
E・P・トムソンに代表されるような論者が「文化領域」に注目しだして、その
分析を始めたというところから、私大生さんの言われるカルスタが発生してきた。
そして、その「文化領域」の最も重要なものが、象徴体系というか意味の自縄自縛というか
その生産のあり方で、この分析をマニフェストまで高めたのがS・ホールであると
私は、雑に解釈しているのですが、如何でしょうか?

そういう意味ではマルクス主義批評における文書の扱い(下部構造の表層に位置する
もの)とカルスタの文書の扱いは似通っているようには思います。
しかし、内容面の把握において、ともするとマルクス主義批評は教条的になったり
図式的になったりするのが問題ですよね(日本だと宮澤賢治批判など?)。
また、カルスタは確かに注釈行為になったり、相対主義(折衷主義というか・・・)的
になったりしてしまうというのが問題ですね。
例えば、イメージ批判の文脈だと永谷健氏の明治期における上流階級のイメージ分
析などを修士論文で参考にさせて頂いたことがあります。
あとは例えば、守如子氏の 「<性風俗>における「母」というレトリック」(『相関
社会科学』8 1998)という論文とか、和田 敦彦氏の「読書行為と雑誌表現
‐「婦人画報」の夢見る規則‐」(『文学』5巻3号 1994.夏)とかにあたり
ますかね。

マルクス主義批評だとリュシアン・ゴルドマン?古いとこだとG・ルカーチ?
174三流大:01/09/07 16:52
大学行ったら休み中みんな俺の10倍ぐらい勉強してた・・。
あんなに酒飲んだり、クラブ行ったりして一緒に遊んでたのに・・・。
みんな結構頑張るなー。
175私大生:01/09/10 17:35
これはメディア論や社会学の議論となる点を孕んでいるのですが、私の今の段階の理解という前提で言うと、
初期カルスタの成果の大きな一つが、メディア(文章を含む)と受け手との関係における視点の展開ではない
かと。ホールがまとめていることですが、カルスタ研究を飛躍させる過程でとりこまれたのが、アルチュセール
のイデオロギー論とグラムシのヘゲモニー論です。メディアのメッセージとは、一方的な意味の享受ということで
なく、受け手が積極的にその意味を生産することで多層的に現れる。つまり、そこでメディア、つまり文書とは
JPBさんが言われるようなマルクス主義的な捉え方からは脱却しているのでは、と思えるのですがどうでしょうか。
飛躍しますが、この視点が、メディアを権力と受け手(主体)との闘争の場として捉えることを可能にする。それは
覇権的な言説体系による、マイノリティ表象の問題や、オーディエンス研究へと派生していくという流れ。
スレとの関連に戻すと、テクスト論や構造主義的な枠組みが排除した、「テクスト」と読み手存在のイデオロギー性という
視座がここで提出され、相対主義という指摘がなされやすいテクスト論(そこではそれを語る者の存在は透明のまま)こそが
相対化される意味で、既に書きましたが「ポスト」テクスト論とでも言いえるような・・。

ただ、繰り返せば日本でそれを「文化研究」として「流用」する時、本来もちえたはずの、イデオロギー的考察が
無視(?)され、テクスト論がもたらした流行と同じ現象、つまりそれこそカルスタが問題にした構造を再生産している
というのが現況では、と。

夏休み、俺も遊びすぎたかも・・。このスレも下がり気味ですが、再びテクスト論を具体的に論議する場になることを
願いつつ(自分のモチベーションのためにもなるしね藁)
176JPB:01/09/10 21:31
>私大生さん
なるほど、おっしゃる通りです。特に「一方的な意味の享受ということで
なく、受け手が積極的にその意味を生産することで多層的に現れる」ことに
視点を移すことで、「この視点が、メディアを権力と受け手(主体)との闘
争の場として捉えることを可能に」するという部分は、まさにカルスタの最
良の部分ですよね。
ただ、それほどイデオロギー的考察自体は、私としては無視されてはいない
と思われます。無視されてはいないけれども、「多層的」なテクストをえぐり
出すような分析が、論文ではうまく表現しきれてないという印象を受けますが。
そのため未だ「ポスト」テクスト論足り得てない、というか・・・

ただ、構造主義的テクスト理解もまた、マルクス主義的な文学分析に対する批
判というか、審美価値の部分に触れられなくなったあげくに行き着いた「客観
的」態度であったような気がしてます(1920〜1930代のロシアの文学分析を
みてると)。ところが、そうやって手に入れた「客観性」と「厳密性」が、
「科学は所詮西欧中心主義なんだ」といった反批判によって一掃されてしまう
のは、ちょっとやりきれない感じもします。

「科学性」という優越概念の中の属性として「客観性」と「厳密性」があると
すれば、「科学」が西欧中心的イデオロギーの隠蔽を促がすものだとしても、
もう一度テクスト論を再考することでこうした手法の立場というものを見直す
ことはできないですかね。「多層的」な関係構造を捉えようというなら、なお
さらこの視点(「厳密性」等)は無視できないような気がするのですが。

というわけで、「再びテクスト論を具体的に論議する場」に賛同しつつ、
三流大さんよろしく〜(^^
177三流大:01/09/10 23:00
日本での文学論の文化論化は大分昔から言われてきて
かなり限界的な状況であると思います。
特に近代やってますと文学やってるのか民俗学やって
んのか解かんなくなる時もありますし。
そこで日本独自の文芸論なる概念や(提唱者は失念してしまいました)
読者論やテクスト論が文化論からの脱却の手段として注目を浴びた。
でも今現在もそれらでは文化論からの脱却をはかれず、中途半端に
ごちゃ混ぜの理論が文学論の「王道」という困った状態なのが
三流大の現状です。相対主義の極端な非生産性(それもあり、これ
もあり)が新入生には酷く違和感があるし、イーグルトンの言う
ようなマルクス主義的文芸批評の改良では若者の文学熱は
クールダウンするし…。カルスタ・ポスコロにいくと、莫大な現代思想
の知識を要求されるし…。今の学部生は「どうすりゃいいの?」状態
です。

ま、それはさておき、文学を厳密に捉えたいという欲求は不可欠
だと思います。故にテクスト論の再評価に僕も眼を付けました。
大変このスレは勉強になるので頼もしいです。

さて「科学性」ですが、他スレでも書きましたがどう考えるのが
一番良いんでしょう?
参考
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=book&key=998554515
178私大生:01/09/11 00:02
>JPBさん。
「論文ではうまく表現できてない印象」・・なるほど納得ですね。中には刺激的で真摯な論文もありますしね
>私大生さん
まさに、その新入生の悩みが、今現在ある文学部の身の振り方を物語っているような気もします。

僕は基本的に、理論とは考える枠組みであると考えます(当然ですが)。かつては、叙情的に作品や作者を評価
する考え方があったと思いますが(これはすごく根強く文学の場に残っていますが)、とりあえず個人的な姿勢として
僕はここに組しません。だとすれば、どのように文学テクストと呼ばれることで浮かび上がる対象を捉えるべきなのか。
おそらくここでその反対にあるであろう「科学性」というタームが出てくると思われます。

かつて漱石は文学を科学的に捉えようと、同時代的に言えばとっぴもない「文学論」を書きました。
そこで流用されるのは社会学であり心理学であり・・。つまり文学なる現象を、他の「言語」を借りて
分析することを試みたと言えるでしょう。でも、「文学論」が未刊に終わったことが物語るところに
「科学性」による論理的?な分析の限界というか、不可能性が現わされているとも感じるのです。
精神分析は芸術を性の屈折した抑圧の現れとして、また主体が必然的に背負う他者(言語)との関係
のうちに、構造主義、フォルマリスト的視点では、文学テクストは構造化される物語のパロディ的再生産
となり、言説研究(構築主義)では他の言説との関連の中で、ある指標をよりどころにしたテクストの意義
が発見され定位される(国民国家論的なテクスト定位)などなど。
確かにこれらは読む者に「なるほど」と思わせる「説明」をします。でもそれは社会学が文学テクストを材料
にする態度と近い気がするのです。考えるのは、文学テクストと名づけることで浮かび上がる作品とは、それら
の「科学」的な論理に解消されない「何か」を物語っているのではないか、ということです。そこに「文学」を
考えねばならない理由も潜んでいるのではないか・・と。
つまり「厳密」に捉えることとは、科学的な方法を取り入れながら、そこを逸脱する何かを拾い上げ、考えて
行くことでは、というのが今のところの「科学性」に対する私の考えです。

もちろん理論を僕は重要視します。それは理論を具体的なテクストで「証明」するだめではありません。
理論が発見する読みの可能性と、それに収斂されない何かを、いかに考えるかが大事だと思うからです。

先ほど「テクスト論を具体的に議論する」ことを書きましたが、「科学性」の問題も含め、何かをここで
共有しながら読み進める、まぁ、ハイパー読書空間をするのもいいかな、と(藁)。
それの方がみなさんの具体的な意見が聞けるという企みもあるのですが(藁
もちろん私の意見にこだわらず、スレの流れに沿って議論していく態度ですので、あまり
気にせずに、どうぞ(藁
179吾輩は名無しである:01/09/11 01:20
>>178
文学部の心の叫びだな。みんなどっかではそんなことを思ってるような気がするよ。
でも理論で行くならばそれは「エセンシャリスト」で終わるだけだしね。
「ある」と思っている先生方も(結構?)いらっしゃるようだから、いっそその
方向に行くのも手だと思われ。

読書会とかでは言うなよ。
180三流大:01/09/11 01:49
 やはり研究論文が研究者の偏見の表出になる事は避けるべき
でしょう。一見して解からない微妙な偏見の積み重ねで構築さ
れた論文のなんと多い事か。でもそれこそが文学研究の肝であり
時代的な(イデオロギーと言ってもいいかもしれません)意義
を研究に与えます。自然科学等の論文と違って「現代の日本人
の私」の書く論文の意義が存在しちゃってる功罪。これがある。
ここに科学性の光を当てる時、その科学性が「偏見表出のツール」
になる恐れもある。ソーカルの指摘したように現代思想哲学で
多用された自然科学用語での「戯れ」のように…。
故に確固とした論理を学部生は渇望しています。印象批評を
屁理屈(概ね民俗学的考察や文化論的考察が論拠)で補完した
論文やひたすら年譜を掘り下げる研究行為が「王道」だった
ことへの完全なるアンチテーゼを。もちろんそれらの研究行為
を有効利用できる(せねばならないでしょう)新たな文学論を。
その足掛かりはやはりテクスト論であると思うし、カルスタ
ポスコロでは補完しきれない何かを内包する文学は、何をもって
語るべきか。今のように各々「別個」に語るしか術は無いのでし
ょうか?

ところでマルクスのいう「芸術素」ってなに?良く解かんない。
181吾輩は名無しである:01/09/11 03:36
>153
プライオリティを重んじない学問はない。
182三流大:01/09/11 09:50
>>181
ごもっともです。テクスト論おける先行文献の位置付けは
特殊なのかな〜とちょっと思ったもので…。殆どが先行文献
の引き合いみたいなむごい論文を読んでた時期だったから…。
183吾輩は名無しである:01/09/11 10:36
>>180
よく分かりませんね。「テクスト論」が出てきたのはもともと
西洋における19世紀的な“印象批評”や“源泉研究”に対する
アンチ・テーゼとして、批評に何らかの“科学性”(擬似でも)
を纏わせるための方便として登場してきたはず。だから本来
「テクスト論」に乗った批評とは各時代の、各作家の
「偏見表出のツール」として役立つことを目指している。
無論そこに論を張る側の“偏見”も問題になり得るが、
研究の指針はあくまで各作家の“偏見”(言葉が悪ければ
“偏向”とか単に「かたより」)を暴露して解析すること
にある(かなり単純に話せば)。だから実際は研究する側の
「微妙な偏見の積み重ね」だとか、「現代の日本人の私」性
のようなものは、むしろ研究の害になることはあっても、
まったく必要だということはありえない。「テクスト論」を
やろうという人がそういう立場なのは私にはどうも解せない。
だから君は従来の退屈なテクスト解釈でも続けていればいい
のでは、と思うのだが?
184三流大:01/09/11 11:17
>>183
いや、だから原始的なテクスト論には研究者の
「微妙な偏見の積み重ね」だとか、「現代の日本人の私」性
が邪魔であるのは重々承知です。
しかし、テクスト論が纏わんとした「擬似」科学性が擬似で
打ち止めになった根源的な要因は文学という学問の対象が
印象批評(研究者の偏見)やテクストの外を除外しては
語り得なかったからだと思うのです。私が問題としているの
はテクスト論的論評が作者の偏見表出のツールになること
ではなく、研究者のそれになる事です。

従来文学論に科学性を持たせるために導入された
民俗学なり、文化論なりの研究成果の導入が、結局は研究者の
偏見に説得力をもたせるツールに堕しました。それら
他学問の科学性も一度文学論に組み入れられたら「擬似」科学
性に変貌したのです。これが現代思想における量子論の用語や
高等数学の用語がメタファーという逃げ道で「擬似」科学とな
った事実に近しい感じがしたのです。今の雑多な論文を垣間見
ますにテクスト論の論理が轍を踏んでいる嫌いがあるのです。
それはテクスト論が文学の全てを語り得なかったからだと思います。
今の学部生はこのあたりの中途半端さにすごい違和感を感じます。
印象批評的な部分と純粋にテクスト論的な部分は「別個」で考えるしか
ないのか。そうであれば何故こんなにも中途半端に混ざった論文が
量産されるのか。統合の可能性は無いのか。とか思うんです。
私は「テクスト論」がやりたいというより「納得の行く研究方法」
を摸索したいのです。で、馬鹿で不勉強だから基本から教えてもらおうと。
そんな私でも今の研究は混沌としてるのは何だか解かるから、
どうにかなんないのかなと。見当違いでしたら御教授お願します。
185183:01/09/11 11:31
別に自分で自分のことを「馬鹿」だとか言う必要はない。単に、言い訳だと思われるよ。
それに自分をあざむく必要もない。
あなたが好きなようにやればいいのではないですか?
ただその方法だと、あなたが言うように「中途半端に混ざった論文」
しか出来ないだろうな、ということを言ったまで。
あなたが前半で言っていることは、私が言った通り「文学研究」する
側の偏見研究のようなメタ論になるだけで、本来の文学研究とは
関係のないことです。
べつに私がなにかの解法を持っているわけではありません。
ただ私が言いたいのは“生兵法はけがのもと”、ということです。
 
186183:01/09/11 12:18
ごめん。言い切りの形で悪かった。
とりあえず「私、馬鹿なんで教えてください」的な態度はまずいんじゃないのか。
いや、そう思うこと自体は謙虚でいいことなんだが、態度としてはまずい。
それにその言葉には“真摯さ”(多分ね)とともに君の傲慢さや
ずうずうしさが透けて見える。その「真摯さ」もだいぶドラマタイズされた
もので、もうそういうのには食傷気味なんだよ。
歌舞伎で見栄を切ることしかできない、張子の虎みたいにね。
見栄を切ることしかできない大根役者が、緻密なテクニックを要する
生地の刺繍なんてできるのかね?(ごめん、わけわからんこと書きすぎた)
 
187三流大:01/09/11 12:22
お返事ありがとうございます。
自分の不勉強が最近ひどく目に付きますので
言い訳がましくなってるのでしょう。反省します。

そもそも本来の文学研究なるものを(一年生だからかな)
教授が提示してくれないんですよ。教授自身が今までの
研究史に懐疑を抱くようになってる空気が出てきてるんです。
で、私の少ない経験から思ったのは色んな論文が
文学作品を語ろうとしてその実、論者の偏見を語ってる
感じがしたのです。もっと勉強させていただきます。
188Tango:01/09/12 05:44
このスレたいへん勉強になります。
ただ、ちょっと煮詰まって(誤用)来ましたか?
宜しかったら一服してください。

http://www.towelrecords.com/varitext/001.html
189私大生:01/09/12 16:42
>三流大さん
芸術素のことはとりあえずおいといて(藁
一応一年生ということを前提として書きます。今までの意見で見えないものがあるん
です。それはあなたの「問題意識」は何か、ということです。「納得いく研究方法」
を模索する・・。言いたいことはわかります。ですか、はじめに方法ありき、では
ないはずですよね。それに「教授が提示してくれない」という発言からも同様の
感想を抱くのです。あなたが今の時代、「文学」と呼ばれるテクスト群を対象として
何かを考えたいという思い、それはどこからくるのか、それがはっきりすれば必然的
に読まねばならない文献(論文、理論)との出会いがあるでしょうし、それに刺激され
ながら、自分の考えを構築する「方法」が、具体的な論文という形で現れるのではない
でしょうか。僕が論文を読む時、論文に限って言えば、論者の視点や枠組みに注意する
ことはあれど、「理論」「方法」に関心することはありません。
論文とは極端にいえば、論者の「偏見」で構築されていますし、「別個」の形でしか
何も述べられません。つまり限界と批判されるべき点が同居したテクストなのです。
しかし、そこに提出された視点・問題が、真摯であり考えるべき点があることを感じる
ことができるならば、それは読むに値するものと言えるのではないでしょうか。

厳密な科学性を伴い、ある種の普遍性を備えた論文などありません。科学もまたイデオロギー
です。文学はそこに対する批判的な視線を含めるが故に、「文学」だと。

うーん、心の叫びばかりになっていけませんね。なんか具体的にいきたい・・

>188 色々な意味を含めて、「センス」ある直リンだと思いました(藁
19053:01/09/12 18:39
白熱してますね。
議論の方向としては、三流大氏が大学での講義に対して抱いている
フラストレーションと文学研究の「方法論」
の問題とを絡める形で進んでいるように見えます。
私自身は三流大氏と年齢的にはほとんど同じで大学教育を受けている
時間もそれほど変わりませんが、一年生の時は、講義というものに
対して同じような疑問やフラストレーションを抱いていました。
大学における「講義」の問題は、学生からの「興味がもてない、
話が下手、高度すぎてついていけない」等の不満、また教師の側から
も「講義を聴く姿勢がなってない、レベルが低い」などなど、
最近の大学改革論議の中でよく耳にしますね。特に一年生の不満は
ものすごいものがあって、私の大学でもよく議論されています。

私も大学というものに期待するところが大きかった高校生だったので、
自分なりに本読んだり考えたりしましたが一番参考になったというか
衝撃を受けたのはブルデューの『遺産相続者たち』と『教師と学生
のコミュニケーション』です。ブルデューの本はかなり難解で
領域の広がりが無限といってもいいくらいなので私も全く消化
できていないのですが、分かる範囲で紹介しておきます。

ブルデューによれば、講義に対する学生の不満や「理解不全」
(講義の中で使われる用語の正確な定義ができない、という意味での)
と、教師の言説(よく言われるのは「学生というものは自分で勉強
するものだ」という言説)が取り結ぶこの奇妙な関係、長年その
不効率が指摘されていながら解消する兆しのない関係は、大学という
「場」が自分たちの「場」の「自律性」を維持するために作り出した
「場の論理」に起因するそうです。講義における学生と教師の
「実践」は一見対立しているようでありながら、実は大学という場
を守るためにある共犯関係を結んでいるわけです。言い換えれば
三流大氏が不満に思っているような、教師が文学研究における
方法論史や自分の立場を明確にしないといったような「実践」
(定義付けすることなく専門用語を使うのもその一つ)は、教師
の力量や学生の理解力不足が原因と言うよりも、「大学教育」
が構造化している(されている)「大学」という「場」の構造
にその原因があるとというわけです。

ただ、いそいで付け加えなくてはならないのは、「だから構造改革
が必要なんだ」と言いたいわけじゃありません。小泉、竹中が
きちんと定義付けもせずに呼んでいる日本経済不況の原因である(と
言われる)「構造」と、レヴィ・ストロース→ブルデューの言う
「構造化する・される構造」が同じであるわけはないですから。

今日はちょっと時間がないので大学教育の問題と文学研究の方法論
の問題とを絡めて具体的にカキコできませんが、別の
方向から書いてみました。ひどい悪文ですが、三流大氏の参考
というか議論に広がりがでてくればいいなと思っています。

あ、あと余計なことですが、私大生氏の「心の叫び」、大いに
共感してます(藁)。
191三流大:01/09/12 21:29
私大生さん
ご教授ありがとうございます。

えー。
なんと言いますか…、高尚な問題意識というのは無いんですよ。
仰るように
>そこに提出された視点・問題が、真摯であり考えるべき点がある
 ことを感じる ことができるならば、それは読むに値するものと言え
 るのではないでしょうか。
至極最もだと思います。所謂極論を展開している論文や、「視点だけ」
の論文も十分に存在意義があると思います。大好きですし。
何と言いますか…、科学性・普遍性がどうしても必要というより、
「院生や教授の論文が頼りない」んですね。だから学部生まで
おたおたしちゃう。
立教あたりでずーっとテクスト論やってる人の論文なんかは
すごいいい感じなんですが、旧来型の作家論・作品論やってた先生方
の今の乱心振り(ニューアカの時にテクスト論等齧ったにも関わらず)
はそりゃもう不安になります。
>論文とは極端にいえば、論者の「偏見」で構築されていますし、「別個」の形でしか
何も述べられません。
こうやって断言できる教授は少ないです。それほど今の文学論文は
一部の良質なものを除いて「てきとう」な感じがします。その「てきとう」
な読書感想文群が総体として(学問としての)文学と成っているのなら
それはそれでありなんでしょうが・・。
テクスト論者と旧来型の研究者が建前では意義を認め合いながら、
その実、対立してるぽいのも学部生的にいやな感じがします。
もう少し頑張って自分の位置を見つけたいと思います。
新たな文学論の「王道」の可能性は僕の背伸びです。まじで
摸索するほどまだ地に足が付いてません。識者のビビッドな話
が聞けたらなーと思いまして。

53さん
大変おもしろい記述でした。
現実問題、教師によっては学生がちゃんとしないから、わざと
「低レベルな講義」をする人もいます。「理解しやすい」と言う意味
での「低レベル」なら大歓迎なんですがそうではなかったりします。
これだけでもどうにかして欲しいです。
192JPB:01/09/12 21:58
う〜ん、問題意識が「高尚」かどうかが問題ではないのだと思うのですよ。
むしろ、個々の研究者は、卑近なというか、自分がどうしてもこだわってし
まうような問題に取り組んでいるのだと思っております。敢えて擁護する
ならば。だから、そこを「偏見」と呼ぶなら呼べるんだけれども、みんな
そこと格闘しているのだと思ってますが。

ぶっちゃけた話をすれば、論文というものは個別的な視角で、
具体的な対象(物質的なという意味ではない)を扱っていなけれ
ば、審査の対象にはなりません。
また、先行研究との関わりで自己の論文の位置を定めなければ、
この対象が論じられることで、研究の総体に何が付け加わるのかが
示されません。だから、勢い狭い部分を扱うことになるのです。
この二つは、おそらくどんな分野でも共通でしょう。これは
手続きですから、出来て当たり前のことになります。
「雑多に見える」というのは、この手続きを踏んでいないからだと
いえます。実際、問題意識と視角、つまり何をどう論じるのかという
ことを明らかにしたあと、雑誌論文に当たれば、かなりそれらが
クリアーに見えてくるはずです。「てきとう」に書かれた論文という
ものを一つ教えてください。先に私の挙げた論文は、カルスタという
枠に入れられてしまうのかもしれませんが、悪くないものだと思うの
ですが。

そして修士では、おそらくその問題意識のホンの一部しか扱えない。
博士になって初めてある程度のまとまりをもって記述できるように
なるわけです。それは、院ではまた別の勉強をしなければならないし
語学も必要ですから。そして、自分の方法をまた見出し、明瞭に意識
できるようになるには博士くらいまでかかってしまうのです。

すみません、えらそうに。失礼します。
193私大生:01/09/12 22:09
三流大学さん
「高尚」でなくとも自分の問題意識を明確にもった人、その論文は「てきとう」には
ならないと考えます。「てきとう」な論文を書き、制度の安穏と暮らし、高い給料
をもらいながら、「教師」としてふさわしくない人間など山ほどいるし、相手にしても
徒労でしょう。ただ、ひと言いえば、立教系のテクスト論者たちを評価されるようですが、
その人らにある「てきとう」さにも敏感になってください。これは論文一つというよりも、
その姿勢(もちろんそれは論文に現れるけど)のことです。

>53
考えていること、そしてブリュデューの指摘に共感することはよく伝わってきます。でも、
やはり考える必要があるのは、あなた自身が既にいる「場」のことではないでしょうか?
つまり「私たち」もその「場」を延命させる参与者でもあることです。

僕は何回か日本文学におけるカルスタのことを書いてきましたが、それを鳥瞰すると
実に文学研究と文学制度の問題があからさまにわかるからです。突っ込んで議論するのを
控えているのは、スレとずれていくからです。それに三流大さんがおっしゃるように、
今テクスト論を見直し、議論することは、「テクスト論」という便利な標語だけで
語られてしまうがちであるが故に見逃してしまうことを確認できると思うからです・・
194三流大:01/09/12 23:31
みなさん貴重なご意見ありがとうございます。
まず論文に対するわたしの偏見から取り除こうと思います。

>「てきとう」に書かれた論文という
 ものを一つ教えてください。
勘弁してください。
18の小僧には口が裂けても言えません。(藁←はじめて使ってみました。
でもありますよね。対象の卑近さ狭さといった問題ではなく
(それはむしろ歓迎すべき研究の多様化・先鋭化と捉えています)
対象の分析方法における「迷い」のようなものを学部生は何となく
感じています。俺の周りだけなのかなー?

>これは論文一つというよりも、その姿勢(もちろんそれは論文に
現れるけど)のことです。

そうなんですか。これは、
>「テクスト論」という便利な標語だけで語られてしまう
と関連して考えて良いんでしょうか?

>「テクスト論」という便利な標語だけで
 語られてしまうがちであるが故に見逃し
 てしまうことを確認できると思うからです・・

大賛成です。
195JPB:01/09/13 01:41
>三流大さん
いや〜その辺はバンバン言ってかまわないんじゃないでしょうか?
多分、三流大さんがそう思う論文は、他の人もそう思うような気がします。
しかしながら18でよくそこまで勉強してますねえ。自分が18だった頃
を思い出して、頭がカユイです。
個別論と総論があって、個別論の集積が理論になるわけでもなく、総論に
おいて展開された理論(往々にして試論的)がすべての作品を統括することも
また有り得ない。個別を論じる中である一本の軸が生れ、それをさらに伸ばして
行こうとするとねじれ、それでもなんとか鍛えていく。そのジグザグの中で
漠然としたものが生れ、それにメタな説明を適切に与えられたとき初めて理
論的な何ものかが生れる。結構、理論の言語と個別論の言語には距離があり
ますよね。

何か、読んでみますか?
三流大さん、リクエストを。
196三流大:01/09/13 02:50
最近理論書ばかりで小説が疎かに・・・。
森鴎外「雁」なんか読んでみる。
野上弥生子の「海神丸」面白かった。
19753:01/09/13 03:50
眠れないので起きてNY事件について新しい情報が入ってないか
どうか見てました。特に進展がないのでまたまた2ちゃん。
>JPBさん
>結構、理論の言語と個別論の言語には距離があり
ますよね。

賛成します。スレの最初のほうから見てみると自分の文体の
変化もさることながら(藁)、私はブルデューブルデュー言って
ますね。私事で恐縮ですが今この社会学者が自分の中で旬なもので
こうやってアジって読め読めなんてやっていますです、ハイ。
まあそれはともかく、やはり文学研究というか人文学は
「個別具体」の学問だと思います。例えばあるテクストを分析
した論文では、数ある無数のテクスト群から他ならぬ「この」
テクストを選択した必然性が問われることになるわけで、その
意義を提示する際に論者自身の「偏見」や単なる立場の表明
に終わることなく、有る程度の一般性(普遍性というと語弊が
ありますね)を保ち得るように、厳密な文献の読みや膨大な
資料調査が求められるわけですよね。

そのような手続きをとると、JPBさんが
仰るように、論文においては扱われる対象領域は当然狭くなる
のであって、従って「科学性」「普遍性」(=総論、理論)
とは距離が出来る。文学理論が陥った陥穽とはまさにここであって、
科学たろうとして全てのテクストをある枠組みに当てはめることが
できるような理論をむりやり作ってしまったせいで、
個々のテクストが保持していた代替不可能な特殊性が損なわれて
しまった。ソシュール言語学の遺産とは、パロールがラングを
裏切り、ラングがパロールを統御しようとするような動的な
言語構造の提示であったはずなのに(ホントか?)、以後の文学理論
は結果的に静的なテクスト分析を生んでしまった(テクスト論
の限界?)。
19853:01/09/13 03:51
長いので二つに分けました。続きです↓

私が今年の始めあたりから社会学に興味を持ちはじめたのも、
既存のディシプリンでは扱いきれないような社会問題を、
社会学が分析し解決のための提言が為されうるという期待が
社会の側から出てきていることと無関係ではないと思いますが、
やはり社会学をはじめ社会科学は究極的には総論、理論の言語
で構築されていると思います。『上野千鶴子が文学を社会学する』
という本が「江藤淳氏絶賛!」などというキャッチコピーで
書店に平積みになっているのを見ると、羨望とともに(爆)
違和感を覚えてしまうのは、文学研究=人文学と社会学=社会科学
のこうした本質的な差異が原因なのでしょうか。

ウォーラーステインがどこかで18世紀以降の学問分野の
分化を俯瞰した上で
21世紀に構築されるべき新しい学について書いているのを
ちょっと読んだことがありますが、参考にしたいなと思いつつも
近代世界「システム」という言葉からは、個別言語の響きは
聞こえてきません。

疑いだすときりがなくて、上のほうで私大生さんが仰っていたように
「学際」のヒーロー、カルスタも文学テクストを単なる文献の一つ
として見て、それに逐一注釈をつけるというような作業が行われて
しまっている。ただ、私大生さんの言う「注釈的カルスタ」という
言葉の意味が浅学の徒にはちょっと分からないので出来ればもう少し
詳しい説明を頂きたいです。

私自身は、今の文学研究のカオス状態への不安と反動から旧弊な
作家論、作品論に後戻りすることはもう出来ないと思います。
文学研究は他の学問領域にフィールドを食い荒らされていると
書きましたが、それを逆手にとってこっちからも攻撃を仕掛けてやろう
くらいの意気込みをもって望みたいですね(ああ、また「心の叫び」
が・・・私大生さん、ごめんなさい)。結論としては、自分が論文を
執筆する際に持っておきたい考えとして、JPBさんのご意見を
最大限支持することにやぶさかではありません。

>>193の私大生さん
おっしゃる通りです。ただ、191で私が書いたようなことを
知っておくことで、自分が自分の属する「場」に働きかけて
変化させることができる契機を作れるということが私は言いたかった
のです。ブルデュー自身が自分の立場を「発生論的構造主義」と
呼んでいる通り、「場」とはレヴィ=ストロース人類学研究における
共時的構造ではなく、動的なものであって、決して個人が、所属する
「場」に完全に規定されているわけではありません。従って、
なぜ私が三流大さんに向けてこういうことを書いたかというと、
自分が属し、その永続化に荷担している大学という場において
どう行動するかについて少しでも参考になればと思ってのことです。
勿論同じことは私自身についても言えます。言ってみればブルデュー
は私に自己省察のチャンスを与えてくれたわけですね。これ以上は
スレの内容とずれますし、自分の思い入れを得々と語ってしまうこと
になるのでやめますが。m(__)m

ここでの読書会は大賛成です。なにがいいでしょうか?とりあえず、
バルト、フーコー辺り?あとoff会もしませんか(爆)?
199私大生:01/09/13 17:25
>>193の三流大さん。
おっしゃる通りです。かつてテクスト論で鳴らした論者たちは一見「テクスト論者」
としての身振りを強固に示しながら、あまりにも「簡単」に鞍替えしていきました。
論文に対する批判をテクスト論に依拠して論じながらも・・。そして今、カルスタの
流行で、「同じ人」たちが「同じ事」をしている気がします。具体的に述べることは
控えます。

>>198の53さん
「注釈的カルスタ」という言葉が悪かったかもしれません。文化研究という名のもとに
所謂「文学」テクストを対象として行なわれているのが、「註釈」行為に他ならない、
という意味で言いました。このことがカルスタが本来持ち得るはずの視点を換骨奪胎し
たものであることは上で述べた通りです。すごく極端に書きますね。あるテクストの中で
まだ行なわれていない註釈箇所は無数にあります。それを同時代言説と対照させ、その
意味をテクストに照らし返して、テクストのある記述が物語構造や内容の中でもちえて
いた特別な意味を変相させる読みが行なわれているという感じでしょうか。これって簡単に
論文書けるでしょ(笑)。言葉は悪いけど、53さんが上で指摘している点を重ねて考えて
もらえると、今のカルスタが文学の「場」で「活躍」する意味が浮かんでくると思います。
ひと言でいえば、「文化研究」はカルチュラル・スタディーズではない、ということです。
こういうことは、具体的に論じるべきでありますが、それをしないのも既に述べた通りです。
53さんのおっしゃることその通りだと思います。でもそれはいわば文学に携わる者にとって
永遠の問題かもしれないし、自分のスタンスの取り方(それは具体的に論文に現れるけど)の
選択に関わることかもしれませんね。
ただ、「最先端」の問題が提出される専門誌や学会という場での流行も、いわば「研究という場」
の危機と将来を考えるものになっている面が強いです。そこで考えるのも、「危機」を指摘するのは
簡単だ、と(笑)。やはりこれも「論文」の中で、それもテクストを論じることでやれ、という
ことです。(うーん今日はなんか煽りっぽいな笑)。

色々な意見と「叫び」(笑)が出されたことで、スレが向かうべき方向もだんだん
定まってきた感じがします。
バルト、フーコー、リファテール、フィッシュ、なんで結構ですよ。
三流大さん、どうしますか?
200三流大:01/09/13 17:57
皆さん高度な話に展開して僕を置いてかないで下さいね。
まだ「テクスト論」が解かってないんで。

ジュネットの『物語のディスクール』
詳細に見るとするとまずここからですか?

今はバフチン「小説の言葉」の読み直しです。
ちょっと駆け足で色々読んでは見たが
さっぱり理解してない様なので・・。

もはやこの辺で語ることは無いんでしょうが
四年間の学部期間で最初から追いかけるのは
大変そうです。文学部志望者には高校生位から
学校で色々教えて欲しいです。文学部に限らない
悩みだと思いますが・・。
201JPB:01/09/13 19:12
>三流大さん
なるほど、ジュネットですね。
いや、私も「記号論」と「フォルマリズム」、「構造主義」と「テクスト論」
これらの配置について、あやふやだったことが明らかになりました。
復習もかねて、そこから整理します。

いや、まとまった内容として「テクスト」を教えるというのはまだ
難しいんじゃないでしょうか。教えられるためには、内容がある程度
確定されてないと、教えられないですしね。実際、バフチンのそれも
何が語られているのか、という疑問について、答えを用意しようと
すると私も言葉につまってしまいます。

『記号学の基礎理論』(J・ディーリー 法政大学出版会 1998)の第四章
でも読むと、その記号学の歴史について示唆がえられるのではと思われます。
202中卒:01/09/15 07:46
面白いです。続きお願いします。
203三流大:01/09/17 20:57
テクスト論系統の盛んな大学、教授等
知りたいです。忍び込んで聞けるもんなら
聞こうかなと…。
204JPB:01/09/20 01:24
>53さん
遅レスですが、ブルデュー楽しく読ませて頂いております。
off会・・・厳しいですねぇ(笑)もし何かありましたら、こちらまで。

>三流大さん
203の御質問に関しては、私は不分明です。
ですが、、まだ本が手元にない・・・すみません。
205本音:01/09/20 01:33
このスレも三流大が足引っ張ってクソスレになったな。
もう書き込むな>三流大
206通りがかり。:01/09/20 02:43
バルト、フーコーの話題が出てたから。
エーコは仲間はずれ?
207吾輩は名無しである:01/09/20 02:45
>205
なんで? 私は面白く読ませていただいてますが。
ただし、三流大さんが
某私大の1年で現在18才だという説は、どうも…ぁ・ゃ・ι・ぃ?
208吾輩は名無しである:01/09/20 04:55
>207
ま、第一志望じゃなかったことはたしかだろうね。
209三流大:01/09/20 12:11
>>205
ごめんなさい
210吾輩は名無しである:01/09/21 17:57
>>209の三流大氏

私が入学当初からお世話になってる先生がテクスト論で頑張っておられる
方です。実名と学校名を出すわけにはちょっといかないので、芥川の専門家、
とだけ言っておきましょう。JPBさんのようにhotmailの使い方が
分かれば直接三流大氏とコンタクトが取れるのですが・・・

>JPBさん
ジョークにわざわざつきあっていただいて恐縮ですm(__)m
しかもブルデューまでお読みになってるとは・・・
なんて真摯な方(涙)。ちなみにテキストはなんでございますか?

もしここで読書会をやるならやはりジュネットがいいと私も思います。
211私大生:01/09/21 22:28
久しぶりに個人的な必要もあって、「パランプセスト」を読み返してます。前からの印象ですが
ジュネットの分類魔ぶりにはある種、執念を感じます(w。ここでジュネットは「テクスト」が
備え持つ「テクスト性」を、様々な概念(××テクスト)によって問題化し、考える視座を提供
しつつ、幾つもの問題を残したままにもしています。ジュネットの議論でも明らかなように、私
の「テクスト論」に対する考えは、既に「間テクスト性」という概念で考察されるべきものでは
ないか、ということです。もちろん、クリスティヴァの師匠であるバルトの考えも、そういう視点を
共有しており、その点を考えなければ、都合のよいテクスト論になる気もしています。なにより、
「物語のディスクール」の再読に取り掛かってみます。あ、あとみなさんご存知だと思うけど、
「作家論」(三好)との論争を取り上げるのも、面白いかなと(これはまだ先の話ですねw)。

ということで、ジュネットに決定ですね?。三流大さん、読んでます?(w
何か出てきたら議論ができると思いますよ。
212三流大:01/09/21 22:42
>私大生さん
はい読んでます。
もうちょっと待ってくださいね。

それこそ三好行雄氏は芥川をやるとめちゃめちゃ
出てきますね。三好以前以後という分け方も多いし。
氏の論文はニュークリティシズム的な作家論の構想に
氏の美文的な論調も手伝ってか非常に格調高い雰囲気がします。

今は田中実氏を読んでみてます。
213三流大:01/09/21 22:45
>207

第一志望でしたよ。と言うか(他の大学を受ける前に)一番早く
発表があったもので・・。
まあ、どうでもいいことですが。
214JPB:01/09/22 21:18
私は文学に関しては素人ですので、『物語のディスクール』読解に関しては
教えてクンに徹します。でも、それだけではなんなので、叩き台として、
部分部分の要約を記したいと思います。まずは、『物語のディスクール』の
「まえがき」および「序」の要約から始めます。当たり前のことを書くよう
ですが、そこのところは大目にみてください。

「まえがき」
研究対象としては『失われた時を求めて』の「物語言説」であるが、「しかし
その時にその先行状態をも考慮に入れないわけではない」。→資料体の確定
また、この研究の「手続き」としては、「ナラトロジーが姿を現す」。そこでは
「端的に、特殊な対象を一般的な思惑のために利用し、批判的分析を理論のため
に役立てるというやり方」をすると同時に「概念・分類・手順はいずれも、プル
ーストの物語言説をその独自性に注目しつつ、一段と正確かつ精密に記述できる
ようにする」という姿勢が採られる。

続く。
215JPB:01/09/22 21:36
対象の選択理由としては「プルーストの語りを全体としてみるならば、その特殊性
はまさしく還元不能」なのであって、同時にまた「解析不能ではなく、以下の分析
から抽出されてくる特徴のそれぞれは、何らかの対比や比較や展望の対象となりう
る」からである。
で、
「『失われた時』は、普遍的要素、少なくとも超個体的な要素から成っている」か
ら、この分析においては「一般から特殊へ向かうのではなく、特殊から一般に向か
う」。つまり、『失われた時』から「出発して」、「ごく普通の諸要素へ、すなわ
ち一般に用いられ、広く流布している文彩や手法−たとえば私が錯時法とか括復法
焦点化、冗説法等と名づけるもの−へ移ってゆかなければならないのだ」。

しかし、ここには「逆説」が存する。それは「すなわち、私は特殊なものを探し求
めながらもなにがしかの普遍的なものを見出し、理論を批評に奉仕させようとしな
がら、我が意に反して批評を理論に奉仕させることになる」というものである。と
はいえ、その「逆説」は、「おそらく一切の認識活動のそれでもある」ゆえ、それ
を引き受けつつ論じるだろう。

また「別の真理」をもって言うなら、「一般的なものはまさに個別的なものの中心
にある」し、この研究の効果として「無味乾燥な“理論”と、細部にわたる批評と
の真の関係は、多分両者の交替が楽しみを与え、またその両者が相互に息抜きをも
たらす点にある」と言える。・・・・・・・・以上「まえがき」。
216JPB:01/09/22 21:57
〈序〉
「物語」に「含まれている三つの異なった概念」の「区別」。
@ 「物語が意味するのは、物語の言表そのもの」(「一般的慣用」)
A 「出来事」の「継起」と、「出来事を結び付ける連鎖・対立・反復等の多様な
関係」(理論的通説)
B 「語られた出来事ではなく、誰かが何事かを語ることによって成立する出来事
のこと」
で、この三つの意味の「間で切り結ばれる諸関係を研究することが、いつでも含意
され」、よって「混乱を避けるべく、物語の実態を構成するこれら三つの相を、そ
れぞれ一義的な術語によって指し示す」ことを「提案」する。それを、
@ 「物語内容 histoire」 A「物語言説 recit」 B「語り narration」とする。

『失われた時』以外の資料が「これらの出来事についても、また物語についても、
情報を提供し得ない」のは、「両者はいずれも虚構」なのであるからで、だから
「過去の人生を物語るマルセルの行為を、『失われた時』を書いているプルースト
の行為とを混同することのないよう」にする。

ここの例証があるけど、素人的にはむずい(p19〜20)
217JPB:01/09/22 22:15
<序>の続き
「こうした立場を採る以上」、「この研究領域の新たな区別の仕方を提出する必要」
がある。T・トドロフの分類を「出発点」とする。
@ temp(時間)・・・《ここでは物語内容の時間と物語言説のそれとの関係》
A aspect(相)・・・《すなわち語り手が物語内容を認知する仕方》
B mode(叙法)・・・《語り手が採用する言説の型》
で、このあとトドロフの枠組みのジュネットの解釈と「配分」は、トドロフに
当たってみないとわからない。が、ジュネット的には「その発想のもととなっ
た範疇区分とは著しく異なる区分がそこから得られる」し、「私は、この新たな
範疇区分を独自に規定してゆくつもり」だが、その「術語の選択についてはある種
の言語的隠喩に頼るする」から、「あまりに文字通りの意味では解釈しないように
留意」してほしい。

続く。
218JPB:01/09/22 23:00
で、『失われた時』が「どれほど広大」であろうと、「一つまたはいくつかの出来事
の報告を引き受ける言語的生産物であるのだから」、「一つの動詞形態が繰り広げる
展開過程として、つまり一つの動詞の拡大として」扱うことは、「正当」である。
「だとすれば、ほかならぬ動詞の文法から借用してまたいくつかの範疇に基づいて
物語言説の分析をめぐる諸問題」を「定式化する程度のことはおそらく許されるは
はずだ」。

そして「三つの基本的クラスに還元されるだろう」
a「物語言説と物語世界との時間的諸関係」(第一クラス)
b「物語の‘再現’の諸様態(種々の形式と度合)」(第二クラス)
c「語りそのもの−すなわち語りの状況ないしは審級−およびそれを支える
二人の主要人物、つまり語り手とその現実的もしくは潜在的な相手が、物語言説の
中に含まれている仕方」(第三クラス)・・・で、ここには「人称」と言ってしまい
たくなるけど、「少々目立たない心理的含意をもった術語」である「態」を採用し
これの「持つ概念的外延を‘人称’のそれよりも著しく大きなものとするつもり」
である。

そして、これらは物語の三つの定義と「重なり合うわけで」はなく、「複雑な仕方
で切り結ぶ」のである。「すなわち時間(a)と叙法(b)はともに物語内容と物語
言説との諸関係のレベルで作用し、他方、態(c)は、語りと物語言説との諸関係
を示すと同時に、語りと物語内容との諸関係も示すわけである」。

「ただし、以上の各項を実体的なものと考えてはならないし。いずれも一種の関係
群にすぎぬものを本質と見なしたりすることのないよう留意」する。

ごめん、長レス。単なる注記なのでsage
219吾輩は名無しである:01/09/23 01:51
age
220工学部卒:01/09/23 14:37
シロートが首をはさんで恐縮ですが、教えてください。

小説を無数に寓意のある寓話として読む方法っていうのが
テクスト論についての私の印象ですが、まとはずれでしょうか?
221吾輩は名無しである:01/09/23 22:45
>>220
自然言語の抽象化として文法があるように、
物語にもアルゴリズムがあるか? というのがテクスト論です。
生成文法が機械翻訳の実現化に大きな役割を果たしてきたように
テクスト論が自動物語生成装置を生み出す日も、そう遠くはないでしょう。
222工学部卒:01/09/24 17:42
>>221
これは、物語論というかんじがしますが、同じ事なんですか?
223夢みチャイナ:01/09/25 10:29
>>220
それだと(小説じゃないけど)一部の現代詩など
テクスト論で語れないと言うこと?
意味(像)をずらした現代詩なんか寓意なんて
ないじゃん。
224工学部卒:01/09/25 13:03
>>223
無意味=寓意が無限
というようにとらえてます。 勝手な解釈かもしれんけど。
というか、ちょっとくるしいので、よく考えてみます。
225吾輩は名無しである:01/09/25 15:43
アレゴリってことばは、イソップの話の最後にある寓意
というものとは切り離して考えうるよ。その方が生産的だ。
テクストの唯一の確定した意味ということがいえない以上、
小説に限らず、どんなテクストからも原理的には無数のアレ
ゴリを取り出せるといえる。
テクストはそのような装置であり機械というわけだ。
批評家とはその取り出し方がうまい人のことか。
ステレオタイプとは、出力の弱い機械かな。
単なる「がふぉいうあおいうあ」といったテクストもね。
226JPB:01/09/26 22:54
>工学部卒さん
「テクスト」論が、寓意において何でもアリ、を結論するということは、
その一部ではあるけれど(しかもかなり省略された)、全体を述べ得てはいない
と言えます。その言明は、単にある書物の内容(=意味)はどんな時代においても
一義的に決定し得るわけではないというような、消極的な限定に過ぎないと
いえるでしょう。

例えば1950年代のリセの生徒は『感情教育』を恋愛の物語として読み、1970
年代の生徒はそれを革命の挫折の物語と読んだという教師の感想が、その意味決定
に関する浮動性を示しているといえます。この例から読み取れるのは、書物の意味
と、その意味が読者(=解釈者)の中で顕現してくるあり方は、その両者を取り巻く
環境に影響されているということです。

ただ、この規定性すら内面化した時に、初めてあらゆる意味が浮遊するテクストの
姿が見出せるという、書物認識のあり方が可能になったという流れなのではないで
しょうか。確かに書物の創造者としての作者に力は看過しえないし、作者の意図や
人生がそこに反映することは避け難く、また作者の意図を十全に表現しつくしてい
る文学もまたあるわけですけれども、「作者の意図を作品から読者は十分に読みと
らねばならない」という至上律や、「文学作品は社会によって意味が規定されてく
る」という律すら、「はぐらかし」つつ読むことができるか、という「快楽」の
実践の対象を、「作品」や「生産物」とは違う意味を含意して「テクスト」と
名づけたのではないか、と私は思うわけです。
227吾輩は名無しである:01/09/28 19:31
作品といってもテクストといってもいい。とにかくまとまった文章が言っていることを
作家の意図なり歴史社会的コンテクストの関数に還元してしまえないことが快楽をもたらすとは
思えない。どこまでいってもきりがないことは不安しかもたらさない。だから作者の
意図や歴史社会的見取り図に位置付けようとする抜きがたい傾向は絶えないのだ・・・
228工学部卒:01/09/28 20:17
>>226
「この規定性すら内面化した時」というのがうまく理解できないんですが、

読者も社会とおなじように書物の意味を規定してしまう存在だから、
たとえば共産主義者として読書したら書物の意味が共産主義との距離で
はかられてしまう。自分自身をも多義的に解釈する癖をつけたうえで
読書しなければならない・・・

というようなところで近いでしょうか? 言いかえれば、

書物の意味は作者によって一義的に定まる・・・のではないし、
書物の意味は環境によって一義的に定まる・・・のではつまらない。
書物の意味は読者によって多義的に定まる・・・ならおもしろい。

そうすれば、「批評家(>>223)」のようになれるであろうという
ことでしょうか?
229JPB:01/09/28 20:46
>>228さん
一般的なイメージの話としては、それでいい、のではと思われます。
ただ、実際問題、>>227さんの意見のように定義や意味の決定を、望ま
ざるをえないわけですから、ここで言う「テクスト論」が文学研究の
聖典になってしまうことは有り得ない(というか撞着な)わけです。
実際、スレの上で語られているように、「テクスト論」としてまとめら
れているものでも、>>221さんの意見のような物語論として厳密な方法
論をもっている研究もあるわけです。

で、「規定性すら内面化」というのは228のそれでほぼいい(?自分的
には。)わけですが、そのような読み方を理解する、ことと、批評家に
なれることとは直接の連関はない、と考えます。
230吾輩は名無しである:01/09/28 21:30
理屈だらけの文学が好き、内容があるから
231工学部卒:01/10/01 15:17
>>229
「撞着」というのは、テクスト論とはなにかと問うことは
「命令に従うな」という命令に従うようなものということですね。
よくわかりませんが、恣意的な解釈とテクスト論とを分けることで
つじつまがあうかもしれない。

また、「不安(>>227)」だからということを、定義や意味の決定を
望んでもいい理由にするのはちょっと無理があるでしょうね。
それに快楽らしきものも得られます。

たとえば、笑えるパロディ作品は対象を肯定しつつ否定しているという
両義性をもってます。 笑えないパロディ作品は対象を貶すことに
集中してしまっていて、その頑張りが痛々しい。

「テクストの快楽」をまだちゃんと読んでいないんですが、
衣服の裂け目〜云々というしばしば引用されるフレーズから
想像すると、チャイナドレスのスリットから脚を見せるような
隠しつつ見せるという一貫性のない女性の行動は、男性に快楽を
与える。 同様のことが読書にも当てはまるということでしょうか。

淑女と娼婦の同居している女性が魅力的であるように、
両義的な作品が読者を魅了するのかもしれません。
決定不可能性による快楽は、とりあえずお笑いとエロに限れば、
経験していると思います。
232三流大:01/10/02 19:19
今日は「恣意性の神話」菅野盾樹
233吾輩は名無しである:01/10/05 09:58
テクスト論って、記号論の一種ですか?
234吾輩は名無しである:01/10/05 11:27
>232
恣意性は神話ではないと思うなあ。
グランドセオリにあえてspeculative
(投機的=思弁的に)挑戦してみたという
ことでは。そこでひっくりかえせたら
ノーベル賞だからね。
235吾輩は名無しである:01/10/07 22:08
age
236吾輩は名無しである:01/10/13 16:30
優良スレage
237吾輩は名無しである:01/10/13 19:36
テクスト論の大筋を知る入門書は何がいいですか?
238吾輩は名無しである:01/10/13 22:34
すげーくだらない議論
239三流大:01/10/14 08:44
>237
理論の系譜ならばT・イーグルトンの「文学とは何か」が
総括的な気がします。
関係ないけど(まああるけど)私は上記の本を吉本隆明の
「言語にとって美とは何か」と並行して呼んだんですが
おもしろかったです。
240吾輩は名無しである:01/10/14 08:57
勝手に補足させてもらうと、
『文学とは何か』はテクスト論というよりも広義の文学理論の流れを
歴史的に通観したものなので、より具体的に「テクスト論」がどのように
援用されているかを知りたくなったら、
『読むための理論』(小森陽一・石原千秋他)なんかを薦める。
あ、でもこれは主に日本の近代文学が扱われているから、237さんが
英文科とかなら余計なお世話になっちゃいますけど。
241吾輩は名無しである:01/10/19 16:41
あれー、おわっちゃったの?このスレ。
楽しみにしてたのに。
242吾輩は名無しである:01/10/19 21:51
ちょっと興味あるんだけど、テクスト論に興味ある人って
創作にも興味ある?
ていうか、創作可能?
243三流大:01/10/20 09:53
>>242
私は詩や散文を書いたりします。
私の周りには(私を含め)自己
の創作する上での行き詰まりから
現代思想に手を出す人多いです。
役には立たないが幾許かの安心は得れると
皆言います。自分のやってる事がオタクの
「妄想」なんかじゃなく「文学」なんだと
思いたいから理論武装したいんでしょうね。
何の意味も無いですが。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心てやつですか。
こういう格好悪いとこが好きだなあ。書い
てる人って研究者志望の人より泥臭くて
なんかイイ。
244吾輩は名無しである:01/10/20 19:48
>>243
実存主義以降の思想は食わず嫌いでさっぱりわからないし興味がない。
上のほうで誰かが書いていたけど、主体性への批判てなんだ?
批判する主体も批判されて、結局、記号のメカニカルな自律運動の中で全ては
生成されるってこと?
それがそうだとして、その次に批判者は創造のために何を準備できるのかな?
それともおのおのの記号の関係性についての果てしのない解析のための解析?
さっぱり分からん。

>臆病な自尊心と尊大な羞恥心てやつですか。

感覚でしか捕らえてないけど、そうとしか思えん。
作品より批評が先行して、文学が窒息する感じ。
あと、構造主義ってマルクス主義の影響が大きいのかな?
なんか物事の切り取り方が似ている気がするのだが。

感覚やら、情熱を任意の記号に還元するのは容易だろうが、還元する主体である
その批評者自体も容易に任意の記号に還元しうるって事を突き詰めたところで、
何かが見えるのかな?どうもわからん。
245吾輩は名無しである:01/10/20 20:13
現代思想といえば、バルトやクリステヴァの名前がほとんどでてこないね。
テクストってそっち方面のことじゃなかったのかな?
246JPB@改:01/10/21 02:22
私はは学問領域でのテクスト論の位置付けを語るというスタンスで書いてました。
実生活領域でテクスト論が、どう思想として成り立つのかという話であれば
まあ、埒もないことだと言うしかないと思います。以上にします。
247吾輩は名無しである:01/10/21 16:45
>>244
「何かが見えるのか」っということより、頑張って実存主義をやるのは
無駄だってことが分かれば、とりあえずいいんじゃない?
248吾輩は名無しである:01/10/24 19:57
>>244
「批評者自体も容易に任意の記号に還元しうる」ってのは
この世(近代)の摂理であるわけだから、これをふまえてない
文章なんてイカサマだろうな。「わしは神なのじゃ」と言ってる
ようなもんで。
249吾輩は名無しである:01/10/27 11:35
>>243
現代思想の間テクスト性という名の下に許されてる引用ってやつは
創作の役に立つんじゃない?

これはパクリじゃないんだ、引用のコラージュなんだ、って
考えてれば創作も楽になる。
250三流大:01/10/27 16:06
>>249
どうなんでしょう?
みなさん書くときは理屈考えます?
僕は書きあがったものを考える時には理屈使いますけど。
まあ理屈から創作する人もいますから一概には絶対言えませんけど。
関係無いのでsage
251吾輩は名無しである:01/10/28 11:01
>>250
いや、理屈を考えるほどではないにせよ、創作することに対する
気負いみたいなものがあったりするでしょう。オリジナルなものを
書いてやろうとか、斬新なものをかいてやろうとか。

そんなとき「引用」の組合わせを面白がるような手法を使ってもいいんだと
知ってれば、かなり創作しやすいと思う。
252三流大:01/10/29 00:36
>>251
成る程成る程。
でも、今ウォーホールやマルセル・デュシャンの真似しても
虚しいように
>「引用」の組合わせを面白がるような手法
は記念碑では在り得ても創作意欲の契機となるかは「僕は」疑問。
パリでデュシャンの「泉」を見た時に「こんな芸術をしたい」
とこの作品以後に思う人がいるとはどうしても思えなかった。
テクスト論とは関係無いし、めちゃくちゃ酔っ払ってて
支離滅裂なのでsage
253吾輩は名無しである:01/10/29 16:56
結局、人それぞれでいいじゃんって話では?
254吾輩は名無しである:01/10/29 16:59
>今ウォーホールやマルセル・デュシャンの真似しても
虚しいように

この論法こそがめちゃ虚しい。きづけ。
255251:01/10/29 18:20
>>252
ううむ。テクスト論とは関係ないのかな。

ロシアフォルマリズムでいう詩的言語の異化作用のように、
もとの文脈から切り離して別の文脈に引用することで活性化をはかる
というのはもろに「テクスト」という気がする。

創作意欲の契機として、硬直したプレテクストをおちょくってやろうと
いうのはあるんじゃないかな。
まあ、うまくできなけりゃむなしいし、オヤジギャグとも言われるな。
256三流大:01/10/30 00:37
>>254
うん。ごめん。

>>255
上手く出来ても虚しい気がする。
257三流大:01/10/30 00:43
デュシャンの「泉」に放尿して回帰させるなんて手法も
虚しいだけだと思うし…。
ごめんなさい。単純にレディメイドアートやアンチアート
が(そのような一種の禁じ手を追随する現代アートの一部の輩)
が嫌いなだけなんです。聞き流してください。
258吾輩は名無しである:01/11/02 10:56
>>257
禁じ手がいやなら、文学なんかやめて聖書だけ読めばいいよ。
259吾輩は名無しである:01/11/02 19:41
>>258
これは好意的な解釈かも知れないけど、
三流大さんは、「禁じ手」という名の「一発ネタ」ばかりを延々繰り返して
いるような作品、言い換えれば「前衛」であることが自己目的化して
しまっているような作品(例えば、筒井某の物とか)を「嫌い」だ、
と言っているのであって、聖書のような素朴な「物語」に回帰することを
主張している訳では無いと思うよ。
260三流大:01/11/02 21:21
>>259
フォローどうも。
デュシャンはパリにわざわざ見に行くほど
入れ込んだし、(今更)ポストモダン家具
なんか集めてるほど前衛(と呼ばれたもの
も)は大好きなんです。
でも前衛を追随したら前衛でないじゃん。
趣味人的に愛でるならともかく、今更表現
しなくても良いじゃん。と、思うわけであります。
261吾輩は名無しである:01/11/03 19:02
>>260
前衛とポストモダンを混同してはいけない。
前進すべしという考えに待ったをかけたのがポストモダン。
262三流大:01/11/03 19:14
言い方が悪かった。
マッキントッシュをオマージュしたポストモダンスタイル
が好きでして。グラスゴースタイルは前衛的だったでしょう?
263吾輩は名無しである:01/11/04 20:19
>>259
引用と前衛は別の話だよね。
なんでくっついちゃったのかも解説できる?
264259:01/11/04 22:25
え?僕に聞いてるの?三流大さんじゃなくて?

「引用」と「前衛」…。あんまり(というか全然)
詳しくは知らないけど、>>261さんの言うように
「前衛」なるものがもはや成立不可能であることを
宣告したのがポストモダンなのだから、「引用」とい
う、単に一つの手法に過ぎないものが、「前衛」であること
と結びついちゃうのは確かにおかしい。

そもそも、「前衛」は>>261さんの言うように「前進すべし
という考え」に基づいており、芸術における先端であり、
かつ芸術全般を〈表象=代表〉しているかのような物な
わけですよね。
とすれば、ポストモダンとは芸術における〈表象=代表〉の
不可能性を突きつけたものであると言い換える事ができる。
そして、かつて宮川淳なんかが述べていた「引用」なる概念
もまた、そうした〈表象=代行〉の不可能性に基づいたもの
であったようだし、とするとますます「前衛」と「引用」という
正反対の物同士が結びついてしまうのは奇妙なことに思える。

でも、ポストモダンと言われ出したら、途端に、モダンなもの
が消え失せ、〈表象=代行〉の作用も完全に機能不全に陥ったか、
と言われたら必ずしもそうではない。
現にポストモダンは80年代の日本においては文化的「前衛」として
一般に享受されたらしいし、おそらく今後もこうした状況は
繰り返されるのだと思う。

つまり、僕が言いたいのは、こうした拭い去りがたく残る〈表象=代表〉
の機制によって「引用」という「反-前衛」的な概念もまた、「前衛」として
見做されてしまっているのではないのか、ということ。


とりあえず、僕の理解ではこれぐらいしか言えません。
僕は現代美術に関する知識も無いですし、間違いがあれば訂正
して貰えると助かります。
説明もクドくなってしまって申し訳ないです。
265吾輩は名無しである:01/11/05 02:59
前衛は擁護されるべきだ
266吾輩は名無しである:01/11/05 03:12
芸術に「べき」は無い。
267三流大:01/11/05 10:00
 なんか沢山書いたけど264さんの考えと
近しい部分があるので割愛。
私が思ったのはただ、
「引用する価値・意義がないと思われてるものの引用」
は記念碑的な表現方法だということと、
前衛と呼ばれたものは過去実際にあって、
「前衛と呼ばれたものは引用されやすい」
ということです。
268吾輩は名無しである:01/11/05 11:05
 一言いいかな?
>>264 の言っていることはかなりめちゃくちゃだと思うね。
「前衛」の理解も、「表象」の概念の理解も、ポストモダンの
概念の理解もね。例えば以下の文ね。

>つまり、僕が言いたいのは、こうした拭い去りがたく残る〈表象=代表〉
>の機制によって「引用」という「反-前衛」的な概念もまた、「前衛」
>として見做されてしまっているのではないのか、ということ。

 あらゆる概念が粗雑に定義されて、さも分かったように書かれて
いるがその実、意味内容は不明だし、読者にもさっぱり伝わってこない。
まあ聞きかじりによる「お遊び文」としか読めないね。こういう
“それっぽい用語で書かれているけど実はハッタリ”みたいな文章が
多すぎると思うのね、この分野。まあ一般読者の関心は薄いんで、
何をやっても「ああそんなものかな?」で済まされているんだろうが。
将来のテクスト理論の未来は暗い。まあかれも煽りのつもりで書き
込んでいるんだろうが、真面目にやっている人で、反応する人は
いないんじゃないの?
269259:01/11/05 13:15
>>268
浅薄な理解のままに、色々と書き連ねてしまい
申し訳ありません。
でも僕としては「さも分かったように」書いた
訳ではなく、さしあたり今の自分には
あのようにしか説明できなかっただけでして。

宜しければ、>>268さんの(引用と前衛に対する)見解
も参考までに書いて頂ければ助かります。
270吾輩は名無しである:01/11/05 14:35
吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』、
読めば読むほど駄作だということがよく分かってくる
こんな本に手を出しては、決して駄目だ
271吾輩は名無しである:01/11/05 14:53
>何故駄目なの??
272三流大:01/11/05 16:02
>>270
自己表出の奴?
273三流大:01/11/05 16:08
>>268
確かに定義の厳密性はあやふやな感もしますが
「率直な印象」としては頷ける部分があった。
私も詳しくないので268さんの意見を聞いてみたい。
274吾輩は名無しである:01/11/06 11:11
>>267
なんか、ふつうの小説とか美術にはプレテクストがない
みたいな話になってるね。

こんなんで、いいのかな。
275吾輩は名無しである:01/11/06 11:58
 まず「前衛」という言葉の使い方自体が間違っている。

 保守派の愚かな人々は、自分たちと異なるものは何でも
「前衛」という名称で一括りにしようとするが、実際には「前衛」
という言葉は歴史上のある一点から派生してきたもので、
イデオロギーと密接に関係のある「歴史的産物」である。
「前衛」は歴史的産物なのであるから、あれやこれやの「前衛」
があるわけではない。「前衛」と呼ばれる芸術運動には固定された
その内実も、定義も存在している。にもかかわらずそれを理解して
いない人々は、その言葉によって異質分子を十把一絡げにして
レッテル貼りをし安心しようとしている。(現実には
これらの分類されたものには種々多様な差異が存在しており、
中には「前衛」という名前には値しないものまで含まれている。)
こうした態度は怠慢なもので、実際の芸術運動にとっては
有害であるだけではなく、学問的にも単に間違っている。
276吾輩は名無しである:01/11/06 13:43
なるほど。ところで物知らずとしては、
その歴史上に存在するという「前衛」っていう
名の芸術運動の、(フランス語でアバンギャルドですか)
厳密な定義をお聞きしたいのですが…
277三流大:01/11/06 16:58
>>274
といいますか、
「引用が目的」化したものが嫌いという話です。
278吾輩は名無しである:01/11/06 17:17
猿ですけどよくわからん。
279吾輩は名無しである:01/11/07 09:39
>>276
ご自分で考えてみれば。

 とにかく何でも「前衛」などという安易なネーミングで片を付け
ようという魂胆そのものが気にくわない。たとえば2ちゃん以下、
インターネット系サイバー・「パンク」野郎(懐かしい言葉だ)
は前衛などではなくて「(似非)アングラ」。間違っても2ちゃん
が「前衛」などと考えるのは愚の骨頂である。往時('60年代)の
アングラ演劇が「前衛」と呼ばれていたのにはそれほど違和感を感じない
(イデオロギーと連動していたから?)が、現代で「前衛」と呼べるものなどあるのか?
 モダン・ダンスや現代舞踊(どちらも同じか)か?  いずれも
歴史的産物である。逆に戦前のコクトーやデュラックのフィルム作品
は「アヴァン=ギャルド」の名に相応しいものかもしれない。
いずれにせよ、高度成長期以降のポスト・モダン思想はそうした古い
意味での「前衛」性の存在を打ち消すような形で拡がったものと言える。
未だに「前衛」という言葉が、ある組織の「最先端を守っている」という
意味で用いられている場所があるとすればそこは余程旧式の価値観が
蔓延している場所だと言わざるを得まい。
280吾輩は名無しである:01/11/07 10:11
>>279
あなたのもイメージだけの前衛観ですな。
イデオロギーが前衛と決定したもののみ認める
というその魂胆も気にくわない人いると思うよ。
前衛という言葉を学術的だかなんだか知らんが
結果論的に定義して悦にならてもな…。


>>往時('60年代)のアングラ演劇が「前衛」と呼ばれていた
のにはそれほど違和感を感じない(イデオロギーと連動してい
たから?)が、現代で「前衛」と呼べるものなどあるのか?
モダン・ダンスや現代舞踊(どちらも同じか)か? いずれも
歴史的産物である。逆に戦前のコクトーやデュラックのフィル
ム作品は「アヴァン=ギャルド」の名に相応しいものかもしれない。

この辺とか。ありきたりな考えすぎるよ。まあ、
ありきたりな考えを大事にしてるんだろうがね。
281吾輩は名無しである:01/11/07 13:54
>>280
まず魁より始めよ、ってね

 上の四行は意味不明だが、今日び、ありきたりな考えもろくに知らずに
言葉のインフレーションを起こして迂遠な言葉を振り回す少年・少女たちが多すぎる。
 まず君らの教養から叩き直しなさい。っていうか、実際問題「前衛とは何か」
という問いに答えるには本一冊分ぐらいの分量が必要なんだけどね・・・
282吾輩は名無しである:01/11/07 17:29
>今日び、…少年・少女たちが多すぎる。
あーぁ。
283吾輩は名無しである:01/11/08 19:48
>>277
引用による効果を狙ったものはたくさんありますが、
「引用が目的」であるものがいくつもあるんでしょうか?

「泉」がそういうものだということでしょうか?
284三流大:01/11/08 21:04
>>283
個々の名前なんか挙げませんが
「引用が目的」であるものはいくつもあると
思います。何らかの効果を目的とする芸術が
もしあるのならば、そしてそれが引用による
効果なのであれば、あなたの仰る
>引用による効果を狙ったもの
と私の言う「引用が目的なもの」は私の中で同一です。
芸術を「効果」で語る方法を私は持ちませんし
「泉」は効果だけで語るべき芸術ではないと思います。
詰まるに「泉」は引用が目的ではないと思います。
スレ違いですし、そもそも私個人の嗜好の問題なので
sageさせて頂きます。
ところで
>引用による効果を狙ったものはたくさんありますが、
これって、効果が目的の芸術ってことですよね?
効果が目的の芸術ってたくさんあるの?
「泉」がそういうものだということ?
なんでしょうか?
285吾輩は名無しである:01/11/09 10:20
>>279
「表象」と「ポストモダン」の話はどうなってんのよ。
286吾輩は名無しである:01/11/09 18:53
>>280
うんうん、ありきたりちょ〜おっけー。
287吾輩は名無しである:01/11/10 04:54
このスレ見て「物語の構造分析」 読んだけど全然わかんねーよ・・・
なんか参考書ないですか? 新書とか。
あるいは、「物語の構造分析」 読むコツとか享受求むです。

クレクレ君ですまん。
288JPB@改:01/11/10 09:37
>>287さん
例えば、どうですか?一文、一文のつながりがわからないですか?それとも全体の
論旨に納得いかないということですか?
『構造分析』の中の「序説 Tー1 文を超えて」冒頭を例に取りますが、私も例えば
つまづくところがあります。

「周知のように、言語学は、文をもって終わる。」(1)
「言語学が扱う権利をもつと考える最終単位は、これ(=文)である。」(2)

ここまで私も、ああそうか言語学が研究の範疇にいれてるのは最大で「文」、
つまり「さっき、私は台所のテーブルに置かれたメシを食った」という「文」なんだ、
と納得します。では、

「実際、文は一個の序列であって系列ではないから、それを構成する語の総和に
還元できず、まさにこのことによって独自の単位を構成するが、これに反して言表
は、それを構成する文の継起的連続以外の何ものでもない。」(3)

これが難しい。ここでは(1)(2)で言ったことを踏まえて、「文」と「言表」を
対比(=「それ(文)に反して」)させています。前半は「文」の規定で、後半は
「言表」です。前半、「文」はばらしちゃったら意味を成さないといっています。
つまり「私がメシを食った」は「私」「が」「メシ」「を」「食った」の順序を
変えたら全然だめですよね。「がメシ私を食った」、これじゃだめです。だから
「文」は「語の総和に還元できない」のですよね。
ところが、例えば「私はメシを食った。私は困った。」という二文。言語学の中
の「言表」という観点からは、この二文のどちらの文をとっても「文」の特徴を
つかめますよ、ということで、その順序は問題になってないということを後半は
述べています。

でもここで私は常識的に「この二文の順序が違ったら変だよな」と考えます。でも
この変さが言語学という分野でこの頃は常識というか、そのように考えられていた
という事実であることが、次の文で明らかになるわけです。

「言語学の観点から見れば、ディスクールは、文の中に見出されないものは何一つ
含んでいない。」(4)
「マルチネの言うところによれば、《文は、完全にあますところなくディスクール
を代表する最小の線分である》。」(5)
「それゆえ言語学は、文より上位の対象をもつことができない」(6)

で、ここでさっき(3)で述べたところを補強する見方が引用されています。ただ
ここで翻訳上の問題になるのは「言表」(3)と「ディスクール」(4)という語
についてです。この後を読んでいくとわかりますが、どうやらここでは
「言表」=「ディスクール」でして、ここを分離させて翻訳しているのはちょっと
初学者には不親切ですね。原文がどうなってるかはわかりませんが、できるだけ
「文」「言表」「ディスクール」という名詞を意味付けるような部分を明らかに
しながら読んでいくと、結構わかります。
289287ではないですが…:01/11/10 09:51
おお!このスレでは久方ぶりに丁寧なレスですね。
さすがJPB@改さん。

ときにJPB@改さんは上の方のレスで言われている
「前衛」と「引用」に関してはどのようにお考えですか?

議論が半ば泥仕合と化しているきらいがあるので、
無視して下さっても構いませんが…
290Tango:01/11/10 13:15
>JPB(元JPB?)さん
(2)のところは、フレーゲの文脈原理(『語の意味を、それが現れる文というコンテ
キストから独立されて、それ単独で考えてはならない』)のことかな? と見当をつ
けますが、どうでしょうか? 『物語の構造分析』を読んでいないので何とも言えま
せんが、後に出てくる解説がちょっと不親切だなと思いました。

あと(3)の前半のところですが、ここは、心理学が言うところのゲシュタルト(『全体
は部分の総和より大きい』)と同じ事とを言っていると読みました。もし、そうだとした
ら、「がメシ私を食った」が理解不能ないのは、それが一つの「全体」としての機能を
持たないからだとも言えるかもしれません。
291Tango:01/11/10 13:37
あー、やってもうた。2回くらい逝ってきます。
292JPB@改:01/11/10 21:24
>>Tangoさん
一応私のレスの趣旨としては、「読むコツ」として『物語の構造分析』のある部分
つまり(1)〜(6)のセンテンスを例にとって言っただけです。だから、それらは
引用でして、フレーゲまでいくのはちと先走りっすね。
だから単に言いたかったことは、英文解釈をするように代名詞関係をきちんと追って
読むといい、ということと、「言表」と「ディスクール」の表記がどうも内容的に
一致しているようなのに、分けて書かれているから解りにくくなっちゃうことが
あるよっていうことですね。

もしかすると原文ではこれらは違う単語で示されていて、「言表」は言語学の中で
のしばし使われる言い方としての意味をバルトが含意して使ったとなれば話は別で
すが。

結局このパラグラフは、<言語学のいう文という「最小単位」を超えた、文と文の間の
文法、それを「ディスクール」と呼んでみようか>、という程度の話で理解してのち
色々な先行する考えを付加していく方が、自分の経験からいくとよかったかと
いうことです。

>>289さん
「引用」と「前衛」について・・・う〜ん難しい。
293吾輩は名無しである:01/11/11 23:55
読み方教わった気がします。ありがとう>JPB@改さん
294吾輩は名無しである:01/11/12 02:50
とりあえず頑張ってみるよ。ありがトン
295吾輩は名無しである:01/11/16 12:46
「物語の構造分析」 は名著ですか?
296JPB@改:01/11/16 23:09
>>295さん
どうなんでしょうね。みすず書房のやつで考えれば、「対象そのものを変えること」
とか見ると、かなり科学性というか唯物性を意識して書いているように思います。
今、必要かと考えれば、個人差があるでしょうね。

例えば、唯物的な部分は「世界のあらゆるエクリチュールに対して、様々なディス
クール(教育的、美的、情報的、政治的、等々)の絡み合いに対して、物化のレベル
を、作文的密度の程度を測ることが問題となるのである」などに、明確に示されて
いるように思います。これが同エッセイで言われる「読みとりの科学」であることは
間違いないかと。

科学性ってのは、イデオロギー的ではあるのですけれども、一応の公平な評価の
方法を措定しようとする意味では、私は今でも考えられてしかるべきだと思うし
(当然、ポパーの言うような「反証可能性」とかを含む「開かれた」形でですが)
その先鞭としての『神話作用』や『物語の構造分析』は批判的にでも読みつがれ
てもいいような気がします。
297Tango:01/11/18 20:53
298Tango:01/11/18 21:38
えーと、確か『モードの体系』だったと思うけど、訳者が「まえがき」で用語の取り扱いに
ついて解説してましたよね? でも、あれが”初学者”に有益かというと、とてもそうは考
えにくいです。できれば、この分野を概観できる啓蒙書を一、二冊読んでみてはどうで
しょう? 却って近道かも知れません。

というわけで、現在、加藤文彦の『文学史とテクスト』再読中(笑
299吾輩は名無しである:01/11/19 18:17
テクストは読むことと書くことの総体というふうに言われますが、
科学的な「書くこと」について書かれた本はないでしょうか。
300吾輩は名無しである:01/11/19 19:06
ありません。
301吾輩は名無しである:01/11/28 13:50
終わったの?
302吾輩は名無しである:01/11/28 15:08
マルクス主義文学論が、
カルスタ(S.ホールとか)の源流にあるんだけど、
「文学素」は、アルチュセール派のマシュレーなどに由来。
ちくま学芸文庫になってる『資本論を読む』は、
実はテクスト論の要素を強く持ったマルクス論。
この本の執筆者はそれぞれいまだに活躍中だし、
アジテーションをネタとして楽しみながら読めれば参考になるよ。
303三流大:01/11/30 13:42
>>180へのお答えでしょうか?
ありがとうございます。
読んでみます。
304吾輩は名無しである:01/11/30 20:57
>>302
アルチュセールによるマルクスの読み直しとやらはニューアカのやつらが
絶賛してたな。

難解そう。資本論を読んでなくても理解できるのかな。
305吾輩は名無しである:01/12/12 11:57
テクストの読み直しっていうのも、分かりにくい言葉だな。
306吾輩は名無しである:01/12/15 10:17
結局猿でも解かったの?
307:01/12/15 14:49
分かりません。
サンジュとシーニュの言葉遊びってサルトルだっけ?
308吾輩は名無しである:01/12/17 08:19
このスレを読んで思ったこと。

現代の文学批評を考える上で「テクスト」がキー・ワードとなる批評家は
バルトやクリステヴァなどごく少数である。
しかし、日本の文学研究の文脈においては、いわゆる「作家論」の枠組みや
実証主義」などの方法など、伝統的な研究姿勢に対置するものとして
「テクスト論」というスローガンが生まれ、そのスローガンのもとに
西洋(特にフランス)の現代思想、批評の潮流が幅広く吸収されるようになった。
記号論から始まって、ロシア・フォルマリズム、構造主義、脱構築など。
(こう書くと筒井康隆の「文学部唯野教授」か、そのネタ本である
イーグルトンの文学理論入門みたいだが。)
アメリカの文学研究で、今となっては羨望と軽蔑の両方のニュアンスを
含みつつ使われる、「セオリー」という言葉と似ているかもしれない。

「テクスト論」とは何か、という問いは、日本の文学研究の文脈の外では
あまり意味をなさない。たぶん「テキスト論」といっても
外国人の研究者には通じないのではないだろうか。
本文批評ですか、とか聞き返されるのがおち。

むしろ、「テクスト論」という問題の日本的な構築の仕方とか、
それに対置している「作家論」などがなぜ根強く生き残っているか、
その辺を歴史的に振り返ってみるのが生産的ではないかと思う。
309 :01/12/17 08:39
310三流大の知り合い:01/12/17 18:11
>「作家論」などがなぜ根強く生き残っているか

 みんな作家の伝記が好きだからな〜
(文学)趣味人的な作家への偶像崇拝が研究レベル
でも根強く残ってる。
日本の文学研究のこの趣味人的な、曖昧さは良くも悪くも
作用してる。海外の文学研究とは肩を並べられなくとも
文学大好き少年小女のHobbyとして大変魅力的。
311私大生:01/12/18 05:04
伝記好き・・そうですね。でも、それって「文学」を言い表しているかもしれません。
結局、「文学」を勉強することは、「人間」(作家)に対する興味に裏づけされてしまう。
でも、だからこそテクスト論って、必要だと思うんですが。私の言う「テクスト」という
意味はクリスティヴァの言う意味で使っています。例えば、現代作家の一部の人たちが
陥った地点を考える時、テクスト論的な視点を無視してしまうと、歴史的に繰り返された
問題が、骨抜きにされた形で、跋扈する気がしますし。
じゃ、なぜ「作家論」(人間学)が中心なのか・・。それを解くことは、去勢された「文学」
の歴史を探る作業ではないか、というのが実感です。

『物語の構造分析』は、やはり時間論が重要だと思います。「使える」という意味で。というか、
この部分は、既に無視できないほどになっているかと・・・。

「引用」の効果。それは歴史だと考えます。
つぶやきなので、さげ
312吾輩は名無しである:01/12/26 00:29

 視線を感じて、痒いなんて病弱なんですよこれでもコンクリ
リトの隙間から目玉がきょろきょろきょろん優勝。先行き不安
層拡大導入で先生はまぁあせらずに
 またかっていうな。先日は珍しく目玉黒いところ。パワー使
ってみんなよ。また俺の責任に執着するところが新聞のやりく
ちだよな。けんなんは晴れ後曇だよ親切Kちゃん。くぅろしろ
きいろばっかじぇ。
 あのさぁ自覚あるんの先生?おっかCご注文をどうぞやっぱ
みてる、仲間じぇ。そんなとこ寒くねぇ?こっちこ祭り開幕こ
こはじぇ。向けろみる?みてるなあけここはねぇ?もうすぐフ
ィーブここはじぇ。鼓膜調子わるいみたいなの?許してくださ
い許してください
 今日はホッチキス針3本指裂けるナリ。エロモード前回すん
なよなぁぁ日記みてみぃ日記みてみぃ。
 今夏コンクリリトの境内であなたとあなるとあだるとたれて
撃沈。またぞろ登場犬部。肌が汚れますよ肋骨を弾いてぎちぎ
ちらばらばんばんばん。黙れってあはいごめんなさい駄目なん
です謝ってすむきょろんべい。優美雪肌白く染色ばいスペルマ
しょっぱいネオ。目玉なめていい動く動く拘束呼べよ呼んでみ
ろよ見らてんだパワー。ヌグボンは貯金して利息を歯の隙間と
コンクリリトに。バスですかもうぉぉ壁一面の幸福ここ貯金し
て早く。
 やっぱこわういっす。むちゃむあずあ穴て赤まぁかパワー。
握って握って潰してみえねぇぞ邪魔だ邪魔邪魔邪魔
 悪文失礼ごめんなさいごめんなさい。パン工場に深く敬礼っ
音楽科。白くって白くってはるちゃんさい要求。女子高女子大
女子貫徹。穴あいてねえホチキス使って先が曲がってぎゃっと
取れないボーン。あいてねばあいて服部。両サイドから強引に
ヘッド亀ひなたぼっこぼっこ猫7939→泣く裂く完成。コン
クリリトにしみしみパワーバッテリ足りてるの計算で本番展開
ひっかき虫。
 ポケ十万。殺す。嘘ですはいごめんなさいおねがいだから旧
姓ひた隠しは遠慮しとく
313 :01/12/29 06:53
テクストの考えによって読みの創造力を与えたのだとすれば、
その創造力はどこまでも無制限に創造しても良いのかな?
314吾輩は名無しである:01/12/29 08:47
ところで、何故「テキスト」ではなく、「テクスト」なのですか?
スノビズム?
315吾輩は名無しである:01/12/29 09:00
違う! 「スノビズメ」!
316吾輩は名無しである:01/12/29 09:22
「スビノズメ」な「テコスト」論
317吾輩は名無しである:01/12/29 09:25
「スノビズメ」な「テコスト」論で、「マルクソ」について語ろう。
318吾輩は名無しである:01/12/29 09:39
「クスリテュヴァ」の「イソターテコスチアリテヒ」への「バフチョン」の影響について教えて下さい。
319吾輩は名無しである:01/12/29 09:48
そのためにはンシュールをまず勉強しなくてはね。チョメスキーとか、ヤコブンソも。
320吾輩は名無しである:01/12/29 10:17
リフトクソーム
321三流大:01/12/29 10:35
>>314
現在の日本では
テキスト→教科書
といった不文律があるから区別する
ためだと思う。
322吾輩は名無しである:02/01/13 12:15
ツかれたからしぬ
323吾輩は名無しである:02/01/26 11:44
 ( ̄ ̄ ̄)
     (二二二)
    / ̄ ̄ ̄ ̄\
  /     ●  ●、      _____
  |Y  Y        \   /
  | |   |        ▼ | <名スレage
  | \/      _人.|  \_____
  |       ___ノ
  \    ./
    ( ̄ ̄)
     ) (
    /====ヽ
   (===)
    ヽ__/
324駆け出しサザエさん:02/02/10 17:01
このスレ、終わりですか? 素人で有意な書き込みが出来ませんが大変面白く
読ませていただいています。
325吾輩は名無しである:02/02/10 19:41
>>324
あんた、有意でなくてもいいからなんか書いてくれ。
おれははずかしいから書かんが。
326吾輩は名無しである:02/02/10 20:00
テクストとただの文章はどこが違うんですか?
327吾輩は名無しである:02/02/10 20:00
テクスト
コテクスト
コンテクスト
328吾輩は名無しである:02/02/10 20:03
テクストもただの文章も同じだよ。同じ。
329吾輩は名無しである:02/02/10 20:19
ウッキー!構造主義的文脈で「神」ってなに おせーてウッキー!
330吾輩は名無しである:02/02/10 20:24
コード
331三流大:02/02/12 20:29
病気(内臓疾患)から復活
332吾輩は名無しである:02/02/12 21:17
御勤めご苦労様でした。
予後もお大事に。
333三流大:02/02/12 21:36
ご丁寧にどもm(。。)m
334吾輩は名無しである:02/02/23 15:03
335Tango:02/02/25 00:19
パロディ「一杯のかけそば」のテキスト分析@筒井康隆のパロディで
学校唱歌「グリーン・グリーン」のテキスト分析というネタを思いついた
ので、近々あぷします(嘘
336無名草子さん:02/03/01 19:10
>>335
 「一杯のかけそば」ポスト構造主義による分析を見て吹き出した直後でございます。
 ポスト構造主義って本当にあんな分析するんですか?(笑)
 激しく期待。
337Tango:02/03/01 21:53
大きな声じゃ言えませんが、実はあの歌・・某革命党派のセクト主義を告発し
た内ゲバ・ソングなんです。裏・インターナショナルっていうか・・。この辺、
際どくてヤバイんですが、よく読むと幾つかの陰謀が複雑に絡み合っていたこ
とが手に取るように判ります。お望みでしたら実際に陰で暗躍していた何人か
の実名を挙げることもできますが、これ以上は、本当にヤバイのでご容赦を。
……ていうか、ウソです。よかったら、作詞した人のインタビューでも。
http://www.kyogei.co.jp/siryou/interview/interview4.html#■父親をテーマにした曲がない
もし、ポスト・モダン批判の本をお探しでしたら、「『知』の欺瞞」という決定版が
ありますので、そちらを是非。でも理系の知識がそこそこないと、つまんない
かも知れないですが。。

あ、それと、テクスト論系のテクニカル・ターム(てか、殆どジャーゴンだけ
ど)でしたら、実際はあんなものではないです。いきなり「周知の通り」なん
て言葉で書き出す学術系の本は、世界広しといえども、この分野にしかありま
せん・・たぶん。筒井さんのは、かなり解りやすい方です(笑
338336@名無し草子:02/03/02 06:31
↑のインタビュー読みました。
暗い話を陽気に語って克服しよう、というノリだったんですね。
アンネの日記が詩になったようなもんですか(笑)。

テクスト論本は一冊も読んでいませんが、「『知』の欺瞞」読んでみます。
339吾輩は名無しである:02/03/02 08:10
>>45
でも出てるが
>テクスト論本は一冊も読んでいませんが
これでは意味無いと思われ
340吾輩は名無しである:02/03/02 10:07
当方理系だが、テクスト論はよく解らないながらも
「知の欺瞞」は腹かかえて笑ったぞ
341三流大:02/03/02 19:15
現代思想の本をいくつか読んで
フランスの現代思想家がどれ程
高慢ちきかを知らないと本気で
笑えないと思う。
突っ込まれたらメタファーって
逃げるのは無しだと思う。
342吾輩は名無しである:02/03/02 19:49
>>341
よろしければ現代思想の本をいくつか教えて下さい。
343吾輩は名無しである:02/03/02 20:07
『知』の欺瞞はテクスト論というより理系の話だと思う。
確かにポストモダン批判ではあるけど・・・
344Tango:02/03/02 22:38
>>338
あの歌、ずっと疑問だったんですよ。
今にも失踪しようとしている情緒不安定なお父さんと
壊れかけた「ぼく」って感じで。
「グリーン・グリーン」ってのも、よく考えるとゾッとするくらい
意味不明だし。
検索であの頁を見つけたときは、心底ホッとした、と(笑

あと、「『知』の欺瞞」はやっぱり一般向きではないようですね。
書店で手にとって内容を確認してからでも遅くないですので。
345吾輩は名無しである:02/03/04 02:46
age
346吾輩は名無しである:02/03/06 03:28
age
347吾輩は名無しである:02/03/06 10:18
文学のテクスト論とポスト構造主義のテクストって関係あるの?
348336@名無し草子:02/03/09 02:29
「知」の欺瞞、買いました。
衒学ぶった門外漢は(・∀・)カエレ! 的な観念でnow reading。

おもしろいんですが、こんな読み方でいいんでしょうか。

使い古されて現代に適用できなくなった形式は笑い(パロディ)で破壊するしかない、
とか考え始めている自分がいて鬱ゥー。

>>344
詩の背景って、ときどきもの凄い激情があったりしますよね。
やなせたかしさん作詞のアンパンマンOP(タイトル失念^^;)とか。
349吾輩は名無しである:02/03/17 04:49
age
350吾輩は名無しである:02/03/22 12:16
ん?
351吾輩は名無しである:02/03/29 10:29
今どこの大学でテクスト論やってんの?
352吾輩は名無しである:02/04/06 23:20
age
353R”:02/04/08 09:52
サリンジャー『ナインストーリーズ』
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/book/996675874/l50 スレからです。

>いろは
私の考え方としては、どんなに読者側が浅く読む人だろうが、勝手に自分の
解釈を突き進めて読む人だろうが、「そのように読者に理解されるようにしか
描けなかった作者の力量の問題」だと思っています。
悪く言えば「誤解されるような表現しか出来なかった」という事ですが、
しかし、サリンジャーくらいの作家ならば「わざと誤解されるように曖昧に」
描いたという考えもできると思います。

例えば、朱色を見て「赤」という人もいれば「濃いオレンジだ」という人もいると
思います。もし作者が「赤」と解釈されたかったのであれば赤色で描けばいいのに、
あえて朱色を使ったのならば、その中途半端な色を表現したかったのだと解釈する
のが一番だと私は思うのです。
だから、もし他人が「濃いオレンジだ」というのなら、『何故あの人はオレンジと
感じたのか?』という理由を探す事によって、作者の意図に近づくといえませんか?
なぜなら、作者はわざわざ「濃いオレンジ」にも見える色で描いているのですから。

えーっと、余計にわかりにくいですかね?(笑
またご質問あれば、私もお答えしますので。
354いろは:02/04/08 22:30
>R”
文学板だというのにまともなレスにほとんど巡り会えない中、
あんたがまともなレスを返してきたので、正直驚いていますが、

さて、

>例えば、朱色を見て「赤」という人もいれば「濃いオレンジだ」という人もいると
>思います。もし作者が「赤」と解釈されたかったのであれば赤色で描けばいいのに、
>あえて朱色を使ったのならば、その中途半端な色を表現したかったのだと解釈する
>のが一番だと私は思うのです。

これは同意です。

質問が二つ。

@サリンジャーの作品は、「わざと誤解されるように曖昧に描いた」ものとして解釈するのに、
他の作家の作品は「誤解されるような表現しかできなかった」と解釈する、と言っていますが、
その理由が分かりません。サリンジャーだけ特別扱いするのは何故でしょうか。

A
>だから、もし他人が「濃いオレンジだ」というのなら、『何故あの人はオレンジと
>感じたのか?』という理由を探す事によって、作者の意図に近づくといえませんか?
>なぜなら、作者はわざわざ「濃いオレンジ」にも見える色で描いているのですから。

「読者の反応を吟味・検討することは作者の意図を見抜く手がかりとなる」、
ってことですか?もしそう考えるのであれば、読者がどのような解釈を
するかを作者が既に計算し尽くしているということがその後の議論の前提となりますね。
それがあなたの意見と考えて相違はないでしょうか。
355R”:02/04/09 15:29
>>354=いろは
マジレスも疲れますからね。息抜きに来ている人は、長文を打つのも面倒なのでは。
私も読むのが好きなだけで、考えた事を文に変換するのは得意ではありません。

では質問への答えを。

@について。
失礼しました。曖昧な表現でしたね。
サリンジャーだけ特別扱いというわけではありません。夏目漱石とかでもいいです。
「読み手の反応を意識している描き手、表現力がある描き手」=実力のあるプロ
の事で、対比したいのはそれ以外の、プロ意識に乏しい作家の事です。
個人的にアマチュアの文章を読む機会が多かったので、こういう主張になりました。

A
>「読者の反応を吟味・検討することは作者の意図を見抜く手がかりとなる」

読み手である自分が、全く違う人格を持つ作者の考え方の中に理解できない部分が
あっても不思議な事ではありません。
自分と違う角度から見ることで、作者との差が何か気付く事もあるのでは?
それでも完全ではないのでしょうけど。
356R”:02/04/09 15:32
>作者が既に計算し尽くしているということがその後の議論の前提となりますね。

計算し尽くすのは不可能ですが、ある程度予想はしていたと思います。
文学作品において、文章で作者の心情を完全に書き表すのは、ほとんど不可能
な事だと思います。
それを不可能だと諦めず、文章での表現の限界に挑戦しているのが作家だと
思うのです。
何故作家が文章を書くか?というと、やはり自分の心情を誰かに理解して欲しい
からだと思います。そうでなけでば表に出す必要がありませんから。

しかし、読み手の反応・感想を受ける機会が多いプロの作家であればある程、
文章による表現の限界を感じる事も多いのではないでしょうか?
また読者の解釈自体にも、その読者独自の「ものの考え方」が多大に関係して
くるはずです。同時に読者の理解力の限界も存在すると思います。

表現する側(作家)にとってはそれが永遠の壁であり、プロであればその壁を
意識して当然だと思います。そしてどのような解釈が返ってくるかも、ある程度
予想出来るのではないでしょうか?もちろん予想外の解釈をされる事も含めて、
『作者の意図しなかった反応』があることをプロの作家なら知っているはずです。
そして表現をあいまいなものにすればする程、そういった反応が増える事も。

で、サリンジャーの場合は、ハッキリしない部分はハッキリしないままでもいい
として、あのような表現をとったのではないかと思ったわけです。
つまり、「バナナフィッシュ」の正体が何だと思われようと、サリンジャーには
どうでもよく、とにかく「気に入らない世の中の何か」=「バナナフィッシュ」
でさえあれば良かったのではないかとも解釈できるのでは?という事です。
357ホワイトヘッド+ラッセル:02/04/09 16:53
「バナナフィッシュ」とは
命題関数fxの提示である。

「命題関数」とは変項xを含む関数である。
その変項xにある値を指定すると命題となる。
真偽が問えるのは命題であって、命題関数ではない。

例えば、
「xはサリンジャーの作品である。」は命題関数である。
xに「フラニー」を指定すると、真なる命題となり、
xに「オナニー」を指定すると、偽なる命題となる。
しかし「xはサリンジャーの作品である」という命題関数自体の
真偽を問うことはできない。

命題関数にかぎらず関数の本質的特性はそれが、不特定であること。
>「バナナフィッシュ」の正体が何だと思われようと、
>サリンジャーには どうでもよく(>>356)
R氏によるこの発言はそのような意味なのである。

しかし、命題関数の変項に特定の値を指定したことによって
生じる命題の真偽(解釈の妥当性)を問うことは可能である。
よって、いろは氏の解釈は検討の対象となる。
が、そこで問われるのはサリンジャーでなくて、「いろは氏の」解釈である。
サンジャーの解釈もいろは氏の解釈と同一平面にあるのでなくては
ならない。サリンジャーの「作品」(=命題関数)と、サリンジャー自身
による自己「解釈」(=命題)を混同してはならない。
論理的階層の混同は悪循環を生む。 この点については、
詳しくは『プリンキピア・マテマティカ』を参照して下さい。
358いろは:02/04/09 23:31
>R”
こんばんは。

>で、サリンジャーの場合は、ハッキリしない部分はハッキリしないままでもいい
>として、あのような表現をとったのではないかと思ったわけです。
>つまり、「バナナフィッシュ」の正体が何だと思われようと、サリンジャーには
>どうでもよく、とにかく「気に入らない世の中の何か」=「バナナフィッシュ」
>でさえあれば良かったのではないかとも解釈できるのでは?という事です。

おっしゃる通り、可能だと思います。
しかし、私の解釈があくまでも解釈の一つにすぎないものであるのと同じように、
この「あなたの解釈」もあくまでも解釈の一つにとどまります。

あなたのような読み方をすれば、私の解釈は成立しなくなります。
そしてまた、私の解釈にウエイトを置けば置くほど、
あなたの解釈はその分だけ色褪せていきます。

正直なところ、
どの解釈が正しいかという決着を付けることはできないし、
意味もないと思います。

しかし、自分の解釈を保持する必要から、
ある解釈に対して批判をすることがあっても全然不思議ではなく、
むしろ自然なことだと思います。

つまり、例えばあなたの解釈に対して、(批判は加えないにしても)
妥当な解釈ですねとナアナア首を縦に振るようなマネは
自分の発言の鮮度を保持する立場上、できないのです。

というよりむしろ、
そんな社交的な同意はしない方がよほどお互いに有益だと思います。
359いろは:02/04/09 23:54
>ホワイトヘッド+ラッセル

>が、そこで問われるのはサリンジャーでなくて、「いろは氏の」解釈である。
>サンジャーの解釈もいろは氏の解釈と同一平面にあるのでなくては
>ならない。サリンジャーの「作品」(=命題関数)と、サリンジャー自身
>による自己「解釈」(=命題)を混同してはならない。

私がサリンジャー自身のバナナフィッシュ評を引用したことについて
言っているんですよね?

いや、混同はしてないつもりですけど。
解釈は所詮作品じゃないんだから、みな同列と認識はしていますよ。

作品は作品、サリンジャーの解釈はサリンジャーの解釈、
私の解釈は私の解釈。それぞれが独立性を保つことができる、
ってことでしょう?

ところで『数学原理』、読んだんですか。
ラッセルの本は小論しか読んだことがないので
私にはなんとも言えませんな。
360いろは:02/04/10 00:03
>ホワイトヘッド君
図に描いてみるとこういうことか。

【題:作品に対して解釈は同列であるということ】

JDSの解釈 ← 作品 → A君の解釈

B君の解釈

では、解釈の妥当性とはなんぞ??
361いろは:02/04/10 00:07
訂正

JDSの解釈 ← 作品 → A君の解釈

わるい、上手く書けない。
これでよろしく。


362R”:02/04/10 09:22
>>358=いろは
他人の意見を受け入れる事と、他人の意見の存在を認める事は
別の事ですが、サリンジャースレでの貴方の言い方ではまるで
後者の主張をしているように見えるので、その姿勢について非難
されてしまうのだと思います。

それはそれとして、自分の意見を自分が支持するのは当然であり、
自分で支持しなければ他の誰も支持しないものです。
それならば誰も否定しません。
ですが、他人の意見を受け入れる事で自分の意見が変化をする事を
怖れるのはともかく、他人の意見の存在自体を認める事は
自分の意見を明確にするためにも必要な事だと思います。

他人の意見の存在を認める事で自分の意見が消えて無くなったり
する事はありません。もしそうなるなら、それは自分の意見に
自信がないからではありませんか?

少し疑問に思いましたので、貴方がこの事についてどのように考えて
いるのか、お聞かせください。


>>357=ホワイトヘッド+ラッセル
もちろんそれであっているよ。
363吾輩は名無しである:02/04/10 12:39
>>353-354
作品は、ピリオドを打った瞬間から自立する。
作者のもの、じゃないんだ。解釈、深読み、バカの浅知恵…、なんでも
勝手。
批評行為は、それ自体が新たな創作活動。
364R”:02/04/10 13:24
>>363
それも正しいですよ。
だけど、「作者の意図したものは何か?」を考えるなると話は別です。
365いろは:02/04/10 22:48
>R”

>他人の意見を受け入れる事で自分の意見が変化をする事を
>怖れるのはともかく、

怖れてはいない。怖れているのとは違う。

>他人の意見の存在自体を認める事は
>自分の意見を明確にするためにも必要な事だと思います。

他人の意見の存在自体を認めることは「必要」ではない。
人と自分を比較する場合、それは必要となるが。

自分の意見というものは、
他人と比較するプロセスを欠いていても
明確にすることが可能である。

だから、他人の意見の存在自体を認めることは「必要」ではない。
結果的にそれがまったく別種の興味を掻き立てたとしても、
繰り返すが、「必要」ではない。

ところで、自分の意見を他人に伝わるものとする為には、
ある程度の批判が非常に有益である。

他者の批判がなければ、わざわざ自分の意見を補強するような
手間をかけるようなや、他人に分かるように説明を展開するようなことはしない。

中途半端な主張をすれば、批判を浴びる。
その緊張感の中で、他人に伝え得、しかも形式の整った
質の高い意見がしばしば生まれてくる。
366吾輩は名無しである:02/04/10 23:10
ひとりごと?
他人の意見に耳を傾けることはおろか、他人の意見の存在すら認めない人
には、なにを言ってもむだでしょうね。
だからsage。
367いろは:02/04/10 23:12
365の続き

問題は批判の質である。

真に質が高いのは、自分の意見を守る者がする批判である。
その批判には必ず根拠があるからである。

ところが、自分の意見を有しない者の批判といえばどうか。
その批判には論拠がない。

言うなればそれは批判ではなく、
将来的にはまっとうな批判となる可能性を秘めているにしても、
単なる不満の表明である。

私の意見を批判し得る者は、
私の意見を受け入れることによって
自分の意見の成立を失う者である。

つまりは、この意味において、
バナナフィッシュの議論で私に
まっとうな批判を加えたものはいなかったと思う。

このことから言って、
私は怖れていたのではなく、
自分の意見を試したかったのだと思う。
368いろは:02/04/10 23:20
>>366
他人の意見の存在自体を認めないとは言ってないんですが。

その必要性があるかどうかという話をしているだけでしょう?
自分があることないこと勝手に解釈してるだけなのが分かりませんか?

自分が非生産的な奴であることを自覚すらできない人には
何を言っても無駄なんでしょうけど。
369吾輩は名無しである:02/04/10 23:37
いろはさん、どうかしてるよ。
俺は一連のやりとりをリアルタイムに近い形で見たけど、「批判らしい批判
がなかった」とはとても思えない。どっちかというと、あなたのほうが形勢
不利だったと思う。
それにあなた自身、バナナフィッシュに一貫した解釈をすることはできない
と最終的に認めたんだろ。
ということは、ブーブーさんや丸頭の子さんが正しかったか、あるいは本当
は解釈できるはずなのにあなたにが無能で解釈できなかったかのどちらかっ
てことになるだろ。(資料不足のせいとは言わせないよ。テクストが唯一に
して最大の資料だからね。)
どっちにしてももっと謙虚になりなよ。
あなたの言っていることはテクスト論とはなんの関係もない。
こういうのこのスレッドの住人に迷惑だよ。もとのスレッドに戻ったら?
370吾輩は名無しである:02/04/10 23:40
つまらん
371いろは:02/04/10 23:49
>369
おまえいい御身分だよな、ろくな自分の意見もないくせに
名無しで適当に文句ばっかり言ってりゃ済むんだからよ。

何が謙虚になれ、だ。
少なくともおまえに対して謙虚になる義理はない。

372吾輩は名無しである:02/04/10 23:58
本当につまらんな
373いろは:02/04/11 00:01
>372
あんたはオモロイわけ?
374369:02/04/11 00:21
悪意なく書き込んだつもりなのに、おまえ呼ばわりか。
都合の悪い意見にはそういう態度をとるんだね。
あなたを批判する者=意見のない者なのか。
よほど批判されるのが嫌いなのね。
批判されるのが嫌だから、そんな奴は自分の意見をもたない煽りだと
みなす。そして、そんなものはなかったことにする。
批判する奴はクソ。私は偉い。私は正しい。
狂ってるとしか思えないよ。
375JPB:02/04/11 00:45
>いろはさん

>他人の意見の存在自体を認めることは「必要」ではない。
>人と自分を比較する場合、それは必要となるが。

>自分の意見というものは、
>他人と比較するプロセスを欠いていても
>明確にすることが可能である。

バナナフィッシュに関する議論は分からないのですが、一連のやりとり
のなかで、ここの部分はとても面白い、と同時に議論の余地があると
思います。

他人に帰属していると表明される意見が、自分の意見を構築する上で
「必要」か、という問題に関して、いろはさんが言っていることは、
ある意見が[他人に帰属しているということを認める]というプロセスは
「必要」ない、とおっしゃっているんですよね?

私は、自分の意見を構築する時には、他人[に帰属する]意見は必要ではない、
とおもいますが、他の意見が自分の中に生れてくることそれ自体は否定しえない
と考えます。なぜなら、自己の意見の生成に関しては、他の解釈の可能性を自分の
うちにみた上で、ある一つの意見を選好せざるをえない(あるいは積極的に一つの
意見に賭けてゆく)プロセスを、私は認めるからです。

他の解釈の可能性の存在は、そういう意味で「必要」だと考えますがいかがでしょう?
376吾輩は名無しである:02/04/11 01:25
「バナナフィッシュ」の解釈を作者自身に訊いても
答えは得られないと思いますよ。
何故なら、自分の言動を客観的・合理的に説明できる人間は
どこにもいないのだから。
377吾輩は名無しである:02/04/11 02:37
「Rさんの意見は正しいのかもしれません。
しかし、それを認めるなら、私の意見が間違っていることになります。
だから、Rさんの意見を私は認めません。
すなわち、私の意見が正しいのです」

完璧な論法だ。
378吾輩は名無しである:02/04/11 02:47
「自分の意見をもっていないくせに批判しないでください。
批判する前に自分の意見を言ってください。
私は自分の意見が正しいと確信していますし、自分の意見を
守ることが私の義務でもありますので、あたなの意見を認め
ることはしません」

すばらしい論法だ。
379吾輩は名無しである:02/04/11 03:15
テクスト論て
「解釈の真偽」を問うことから
「解釈の面白さ」を問うことに
問題の在り処をずらすための
理論だったんじゃない?

「君の解釈は間違っている」
というよりも、
「君の解釈はつまらない」
と言うべきだ。

などと厨房なことを言ってみる。
380R”:02/04/11 12:51
>>365-366=いろは
えーとですねぇ、
論文でならその姿勢も良い(むしろ必要?)でしょうけど、
意見交換が目的のスレで、それを云われると皆怒りますがな。
貴方のやり方はキャッチボールじゃなくて、デッドボールになってますもの。


>>375=JPB
あ…元々の住人さんでしょうか?すみません(´Δ`;)

>なぜなら、自己の意見の生成に関しては、他の解釈の可能性を自分の
>うちにみた上で、ある一つの意見を選好せざるをえない(あるいは積極的に一つの
>意見に賭けてゆく)プロセスを、私は認めるからです。

なるほど。そう考える方が妥当ですね。
「必要」というよりも、「発展に効果的」?幅を広げるためにも必要ですよね。
381JPB:02/04/11 21:24
>Rさん
いえいえ。サリンジャースレちょっと見ましたが、面白かったです。
それに、いろはさんは、パフォーマンスとしては全く他人の意見を
受容しているじゃないですか。余計な一言でした。

>>三流大さんみてます?
おひさしぶりです、お元気ですか?
382いろは:02/04/11 21:40
>JPB

>いろはさんが言っていることは、
>ある意見が[他人に帰属しているということを認める]というプロセスは
>「必要」ない、とおっしゃっているんですよね?

ん?そう読めたんですか。

いや、仮に他人の意見など無くても、
自分の意見を構築することは可能だ
と言っているんですけども。

これが間違っているなら、
他人の意見がなければ自分の意見を構築することは
不可能だ、ということになりますよね。

「地球は平べったい」という意見が過去にあったことを
知らなくても、「地球は丸い」という意見を成立させる
ことは可能ですよ、ってことです。

「地球は平べったい」という意見を知らなければ、
「地球は丸い」という意見を導き出すことはできない
ということにはならないでしょ?

この意味で、他人の意見の存在自体を認めることは
べつに「必要」ではないと言っているんです。
383いろは:02/04/11 22:01
>R”

ええと。
ただ主張するだけ主張して放っておけば、
後はおのずと意見交換という結果が生まれると
思うんですけども。

社交辞令による中途半端な主張のせいで
曖昧な意見交換になるよりは有益かと。
384JPB:02/04/11 22:11
>いろはさん
なるほど、わかりました。そういう意味では
確かに「意見を成立」させるには、他人の意見は「必要」ないですね。
ただ、それはその意見が妥当かどうかについては、判断することはできない
と私は考えますが、そこまでは踏み込んではいないわけですね?
Rさんたちは、意見の妥当性という部分で、他人の意見の必要性を論じて
いたようにみえますが、それについてはいかがでしょう?
385いろは:02/04/11 22:38
>>384
JPBさん

自分の意見が無いならば、
どの意見も妥当であるように見えるでしょう。

妥当でないように見えるなら、
それは潜在的なものであれ自分の意見を
持っているということだと思います。

妥当性は、あくまでも個人の主観によるもの、
という相対主義を私は肯定せざるを得ません。

他人の意見が必要、という主張は、
他人の力を借りたい、とか
話し相手が欲しい、という理由が基になっているのでなければ
理解ができません。
386吾輩は名無しである:02/04/12 04:00
横レスですみませんが、そういう相対主義って、「私は〜だと思う。なぜ
なら私がそう思うからだ」というトートロジーに陥るのではありませんか。
「私は〜だと思う」「そう思うのはあなたの主観だ」「それを主観だという
のはあなたの主観だ」というようなやりとりは不毛ですし、「私は〜だと
思う。あなたが〜だと思うのはあなたの勝手だ」というのは随分レベルが
低いと思うのですが。
387386:02/04/12 04:14
いろはさんの書き込みを読むと、一方において「妥当性とは主観
によるもの」と言い、もう一方において「その主観性のなかでは
自分の意見のみが妥当なのである」と言っている。
つまり相対主義と絶対主義が奇妙に共存しているように思います。
これって、対話や議論を不可能にしてしまいませんか。
だから、他人の意見は必要ないということになるのでしょうが、だ
とすれば、独善と言われても仕方がないようにも思います。
388三流大:02/04/12 09:14
えらく上がってますね
イマ ビョウキ リョウヨウ チュウ デス
389R”:02/04/12 11:08
>>383=いろは
>ただ主張するだけ主張して放っておけば、
>後はおのずと意見交換という結果が生まれると
>思うんですけども。

貴方は主張して更に放置せずに、他の意見を否定するのが
正しいやり方だと云っているではないですか…(゚д゚;)

>社交辞令による中途半端な主張のせいで
>曖昧な意見交換になるよりは有益かと。

サリンジャースレでの貴方と他の人の、まさにこの点に温度差があるワケです。
他の人は「自分主張以外の可能性を許容することが有益」だとしているように思えます。
それは社交辞令ではなく、「結論が出ない問題に対する人間の知恵」では?(w

貴方が他の意見を批判する事で、それで貴方の意見に納得してくれた人はいましたか?
仮にあなたの意見の可能性を許容したとしても、その他の意見の可能性を捨てたりは
していないと思います。
貴方の意見が本当に正しければ、貴方の説明によって皆納得してくれていたはずです。
でもそうではない。
何故か?貴方の意見だけでは何かが足りないからではありませんか?

結論を出す事に意味がないと考えているのであれば、自分以外の可能性を否定する
のも意味がないように思えますが。自分の意見のみが正しい=結論 でしょう?
それともそうではないのですか?
390sage:02/04/12 13:01
スレと関係ない自分の意見の擁護合戦にしか見えないものはやめてくれ。

読んでも何も得るところのない言い訳や繰り言ばかり。sage
391吾輩は名無しである:02/04/13 01:40
サリンジャーのスレッド読んでみましたが、Rさんの言う通りですね。
いろはさんの態度には正直、不快感を覚えました。
そういう人なんだなとしか言いようがありません。
いずれにしても、このスレッドでやるやりとりではないですね。
392吾輩は名無しである:02/04/14 17:02
>貴方が他の意見を批判する事で、それで貴方の意見に納得してくれた
>人はいましたか?

いろはが人の意見を論理的に批判したことなんてあったっけ?
他人の意見を意見として認めず、「意見もないくせに批判するな」とく
り返し、自分の意見を護ることに汲々としているだけだったと思うぞ。
393吾輩は名無しである
age