>ホールデンは実は非常に「大人」だと思いますよ(始めから)
うーん、大人・子供という用語は、それ自体、危うさを含んでいる
のですが・・・(最初に使ったのは私なんですが)
やはり、ホールデンは三日間(でしたっけ?)の彷徨の間に何かを
つかんだ、あるいは彼の中で何かがかわったのではないですか。
そうでないと、『ライ麦畑』の通過儀礼的側面を看過してしまうこ
とになるのではないでしょうか。
では、何をつかんだか、何が変わったかというと、まあ、そのあた
りは多様な解釈が可能なのですが、ひとつは夢と現実の間に折り合い
をつけたということかな。
その意味で、私は、竹内氏の本を読んで、わりと共感しました。
いずれにしても、pont nordさんのように、「ホールデンは最初から
最後まで変わらない」と言ってしまうと、うーん、ちょっと違うので
はないかと思ってしまいます。
883 :
pont nord:02/08/25 05:13
>>870=607さん
>ホールデンもフラニーも現実をくそだと思っている
二人の場合はそれぞれ違いがあると思います
フラニーは確かにそんな感じを持っているかも知れませんが、それはゾーイに指摘されるように、彼女の考えが足りないからで、
ゾーイが言うように「世の中には美しいものがある」ということがわかっていない、それに気づくことも出来ないほど、考えが自分勝手で偏狭になってしまっているのだと思います
フラニーは、甘い、一人ごちた認識で「世の中はクソ」と思っているんですね
だからこそ、ゾーイによる「救済」の余地もあるのだと思います
(結局、ゾーイによって新たな認識を与えられていますよね)
逆に、ホールデンは違って、彼はゾーイが言うような、世の中に「美しいもの」があることを知っていると思います
それでもなお、「世の中はクソ」的考えを持っていて、フラニーよりも遥かに高次の、ゾーイに近い「絶望」を持っているのだと思います
で、フラニーは世の中を否定して、「キリストの祈り」に「逃げ込もう」としますが、ホールデンはそのような、「世間と縁を切る」ことは、結局のところ、厳密には、一切しようとしないんですね
実は彼は、自分勝手な「世の中はクソ」というような甘い考えは
持っていないのではないでしょうか?
(ゾーイによって新たな認識を得られたフラニーに対して、ホールデンの場合は、アントリーニ先生を持ってしても、その絶望は変わることはなかった、と)
>100%が98%になった〜
う〜ん、2%減ったというのとは、違うと思うんですよね
>>871=607さん
>だれに対して銃を撃つかを問いかけている〜
微妙な話ですが、「誰に対して」ではなく、正確には「どうやって撃つか」なんですよね
結局、タッパー教授に対しては、銃を撃つことをゾーイも否定してはいないと思うんですが、どのように撃つのかということですよね
子供っぽい「否定!否定!」ではない「賢い銃の撃ち方」であり、中には銃を向けてはいけない人もいる、というような話でしたよね
>>871=607さん
>インテリを主人公としているから凄いというのは〜
おっしゃる通り(笑)
あれは僕の間違いで、607さんの考えに同感です
手短に自分の考えをうまく纏められなかったので、間違いだと知りながら、放置してしまいました
でも、結局のところ、あの小説で描かれることって、フラニーの問題ではなく、実はゾーイの問題だと思うんですよね
あの小説の複雑さについては、次回に!
>ホールデンは感性で処理〜
そうかな?
というか、「子供っぽい短絡的思考」というのはありますよね
でも、それは僕が以前に言った、「多重人格」による矛盾の内の、片方だと思います
ホールデン君の心理分析は十分にやらないと、解釈がこんがらがって錯綜してしまう危険があって、その一面にのみ、捕らわれてしまってはいけないと思います
>>873=607さん
本当に、徹夜までして頂いて、頭の下がる思いです
ちょっと、暫く休みますかね?
(話が核心に向かうにつれ、どうにも書き込みが長くなってしまいますね)
ところで、余談ですが、
お互いの、この物質的な見返りを度外視した自己犠牲的エネルギッシュな書き込みの山は、旺盛な自己顕示欲以上に、実はお互いの共通点であるラディカルな「関西人気質」から生まれているのではないですか?(笑)
関西圏外の人に言っておきますが、こんなん関西では当たり前ですよ!(ウソ)
>「ライ麦畑の捕まえ手」の概念は、ホールデンの、この世の
>中と縁を切りたいという願望(亜自殺願望、自殺の代替行為)
>の表れであって、一見、美しい夢のようですが、実は山本周
>五郎的(山周って実はそういう作家なんですよ)、限界ギリ
>ギリの擦り切れた精神状態を表していると思います
これについては反対はしませんが、「美しい夢」と「限界ギリギ
リの擦り切れた精神状態」は少しも矛盾しないと思います。
擦り切れて限界ギリギリだからこそ、美しい夢に逃避するという
言い方もできますし、「ライ麦畑の捕まえ手」になりたいという
こと自体、社会と縁を切ることを意味していますから。
ただ、ホールデンが救いを求めていないと言い切るのは、どうで
しょう。
それは微妙なところではないでしょうか。
誰かが、あるいは何かが自分を救ってくれるとはホールデンは思っ
ていない。
しかし、それでも誰かを、何かをもとめて、さまよっているように
も思えます。
「導き手」ということばに固執する気はないのですが、「導き手」
は「救い手」とは全く違うものだと思います。
「導き手」というのは、全く無意識的に、相手を真実に導く存在
であり、いわば触媒にすぎませんから。
その意味では、フィービーは「救い手」ではないが、「導き手」で
ある、ホールデンが救いに似た何かを見つけたとしても、それは
フィービーが「与えた」ものではなく、ホールデン自身がフィービー
を媒介として、自分で見つけたものなのだと思います。
885 :
吾輩は名無しである:02/08/25 05:22
さりんじゃーヲタは逝ってよし! 終いにはジョン・レノン射殺したりするんだから。
作家本人も、ひでぇロリだし。
886 :
pont nord:02/09/02 02:49
>>885 今日もエネルギッシュに「逝ってみます!(中山キンニ君風で)
作者自身がロリと言いますが、成人一歩手前の19とか18でしたよね、彼がつき合ってたのって?
本当の「幼女」と交際しようとしたことはあるの?
ジョイスの暴露本を読んだけど、本当に彼の性行動に関しては、不気味な疑問が残るよね
まだ読んでないけど、娘の書いた暴露本には、その変な性癖についての記載もあるのかな?
でも、ジョイスの次の恋人とはうまくいってたんじゃないの?
>>878〜
>>880=607さん
結局、僕が初めに言った「別種の概念であるが故、並列比較不可」という話に戻ってませんかね?
>>881=607さん
>ライ麦畑の子供を捕まえたい、フィービーは放っておく、オマ>ンコシヨウの落書きは消せない、と3回出てくるから、関連が>認められないことはない
3つとも全然別種の概念ではないですかね?
関連の根拠も、607さんが語るものしかないですよね?
だとすれば、緻密な作風が売りのサリンジャーにしては、逆にあまりにも貧相ではないですかね?
もし、3者を関連付けて表現したいのなら、サリンジャーはもう少し構成に工夫を凝らしたのではないでしょうか?
もし、「ライ麦畑の捕まえ手」に対応する形で「フィービーとのやりとり」があるとすれば、両方とも物語の終盤に存在しているのは、あまりよろしくないですよね
仮に、両者(3者)を同種の概念であり、強調のために終盤に集中させたと考えれば、今度は、それに対する伏線(もしくは対概念)が冒頭(もしくは、遅くとも中盤)に存在していないのは、
『ライ麦〜』を「通過儀礼物語」として見る場合(僕はそうは考えませんが)、「上級作文24A」もしくは「出版向け作文コース」の受講者としては(笑)、ちょっと御粗末な気がしますね
逆に、僕が今言ったような根拠を挙げることが出来るのであれば、僕も諸手を挙げて驚喜乱舞の内に賛同するのですが(笑)
887 :
pont nord:02/09/02 02:53
(さっきのつづき)
さらに、3つの概念にしても、厳密に見てみると、出てくる結論も、問題の仮定も、全然共通しないことがわかります
・ライ麦畑の子供の場合
1ーー捕まえたい(捕まえ手になりたい)
2ーーけど、それは無理(だとわかってる)
3ーーでも、それしかない(結局、放棄はしない)
・フィービーの場合
1ーー捕まえようかと思った
2ーーでも、そんなことはやっても無駄
3ーー(だから)放っておく(捕まえない)
・オマンコシヨウの場合
1ーー落書きを消した
2ーーでも、世界中、全部消すのは無理
3ーーそれでも、やっぱり見ると消しちゃう(4ーー最終的には、ガラスの上に発見して「消しても」「消えなかった」)
対応関係や、共通点を探すとすると、実は全然違わないスか?
この辺の論証が、T内氏は非常に曖昧だと僕は感じますがね(日本の文学界全体がそうなのだろうか?)
例えば、一見すると(2)が共通しているように見えますが、実はフィービーに関しては「無理」ではなく「無駄」なんですね
(他の2つの概念と違って、フィービーを縛りつけておくことだけは、実は現実には可能なんですね)
突き詰めれば別種の概念なんですが、T内氏はこういうところに、あまりこだわらないですよね?
(しかし、僕の論証も即興なので不十分ですな(笑)でも、厳密にやりだすと、ほんと卒論書けちゃいますもんね。こういう論文書いたことある人、いないかな)
888 :
吾輩は名無しである:02/09/02 03:12
ねーねー この880台書いた人さー これって何文字おきに読めばいーの?
それとも親指をプッシュしてないと身体が震える子なの?
889 :
pont nord:02/09/02 03:50
>>882=607さん
>『ライ麦〜』の通過儀礼的側面を看過してしまう〜
「通過儀礼を経て現実と折り合いをつけた」と考えると、冒頭の、落第はするものの、しっかりスペンサー先生にお別れを言いに行き、老人に対する類稀な気遣いを見せるホールデン君の、
「大人びた」一面を「看過」することになりませんかね?
ホールデン君は冒頭から、スペンサー先生という「現実(社会)」と折り合いを付けていますよね(そんなホールデン君って、見事だと思いませんか?)
(「夢と現実の折り合い」となると意味が違ってくるのかな?)
やはり、通過儀礼的側面もなければ、ホールデン君は最初から最後まで基本的には、なにも変わらない「絶望」物語だと思います(論証できると思いますが、これまた卒論級の長文になるかな)
ただ、一度噴火したことで、「ガス抜き」は出来ましたよね
ただし、これが「救済」にならないのは、ガスが「溜まらなくなったわけではない」ということですね
ま、ガスをうまく抜く方法を学んだと考えれば、変わったと言えるかも知れませんが、実はそこについては何も語られていないんですよね!(ゾーイを見ればわかる?!)
果たして、フィービーとの最後の出来事を通して、ホールデン君はうまくガス抜きをする方法を「学び」、社会と折り合いをつけられるようになったのでしょうか?!
(これは、それぞれ個人で考えるべき問題でしょうな。どんな結論がでようと何も言いますまい・・・)
>>884=607さん
>〜だからこそ、美しい夢に逃避する、という言い方も出来ます>し〜
すいません!そこだけは、こだわらせて下さい!
「美しい夢」とは正反対の地獄絵図なんです!
イヤらしい言い方ですが、経験した者にはわかると思います(誰か他にもわかる人はいないかね?手を挙げてくれ!)
あと、「逃避」ということに関しても、サリンジャーは、ホールデンを「逃避をしない存在」として描くことに、相当こだわりを持って書いていると感じます
サリンジャーの共感者として、ここだけは譲れないポイントなんですね!
890 :
pont nord:02/09/02 04:11
最後にもう一つ!
以前から思っていたのですが、『ライ麦〜』って、スペンサー先生のところで入り口が二手に、
それぞれ「人生はゲーム派ご案内」と「そんなのお断り派ご案内」とに分かれていて、
どちらに進むかによって、小説が全然違う姿を見せるのではないかなと思います
「お断り派」でなければ、サリンジャーの気持ちがわからないのかな、なんて。
てなわけで、あなたはDOTCH!
>>888 それって、改行が少ないってこと?
それとも、段落分けがすくないってこと?
それとも、句読点がすくないってこと?
それとも、あなたのプラットフォームで文字化けが起きてるってこと?
それとも、単なる、遠回しな嫌味・・・
それとも、「アナタ、車売る?」(これって、関西限定?)
(と、震える指で書いてみる・・・っと)
891 :
吾輩は名無しである:02/09/02 08:57
888です。
起きたら「最後にもう一つ!」だと(笑)イタイ(爆)
おーよちよち☆
きっと肥大自我タイプやのぉー。
壁作って閉じこもれや!!
892 :
べつにサリンジャーオタじゃないが。。。:02/09/02 09:38
>>891 起きたらまずレスをチェックかい?w
こいつを無視して続行きぼんぬ。良スレ。
pont nordさん
「ライ麦畑の捕まえ手」になりたいという話と、「オマンコシヨウ」の
落書きを消してまわりたいという話と、金色の環をつかもうと回転木馬
から身を乗り出しているフィービーをとめようとする話の3つが、全く
別種のものであるという意見は、私には少しわかりかねます。
最初のふたつは、子供たちを守るためにそうしたいけれど、それは不可
能だという話ですよね。
で、最後のは、そうしようと思ったけれど、してはいけないと思った
(pont nordさんは、「しても無駄」と書いておられますが、もっと強い
と思いますよ)。
「できない」と「してはいけない」は勿論、全く別です。
ただ、そこにホールデンの変化(pont nordさんと、私の考え方の違いは
おそらく、ホールデンが変わったかどうかにかかっていると思います)を
みてとろうというのが、竹内氏の主張だったように思います。
ホールデンは最初から最後まで少しも変わっていない、回転木馬
のくだりは単なる「ガス抜き」だと言われてしまうと、ちょっと
なあと思いますねえ。
ホールデンが「ガス抜き」の方法を学んで、折り合いをつけたの
だとすれば、なんだか処世術を学んだ話のようで、ひどくつまら
ない話のように思うのですが・・・
ホールデンとフラニーの比較についてーー
フラニーはなにもかもいっしょくたにして、世の中に絶望している。
ホールデンはそういう性急な判断はしない。世の中には美しいもの
もあるということを知っている。
ーーというpont nordさんの指摘はなるほどと思いました。
ただ、ホールデンについて私が気に喰わないのは、彼はいろいろな
人間のことを嫌なやつだと言っていますが、なぜ嫌なやつなのかが
はっきりしないことなのです。
にきびつらで不潔だから、女たらしだから、こっそり鼻の穴に指を
つっこんでいたから、嫌なやつだと言われると、子供だなあと思っ
てしまいます。
おまけに彼は、最後になって、嫌なやつだと思ったけれど、ここに
いないのが寂しいなどと言い出す。(それがpont nordさんの言う
「肩透かし」ということになるのでしょうが)
その点フラニーはタッパー教授がなぜ嫌なやつか、ちゃんとわかって
いるわけです。
(そのフラニーも、ゾーイに言わせれば、大砲の打ち方を知らないと
いうことになるのですから、同じように絶望していても、自分の絶望
を認識しているという点では、ゾーイ>フラニー>ホールデンという
図式が成り立つのかもしれません。)
pont nordさんは、『ライ麦畑』を絶望の物語ととらえている。
いや、そのこと自体に反対する気はないのですが、では、ホール
デンはいったい何に絶望してるんでしょう?
彼が絶望しているのはわかるとしても、その理由がよくわからな
いーーうっかりすると「思春期にありがちな社会不適合」なんて
いう答えがでそうなので、困るわけです。(私がそういう見方を
していないということは言うまでもありません。)
その意味では、サリンジャーがオタクというかヒキコモリというか
要するに社会に適応できない人間の逃げ場になるというのも、まん
ざらわからなくはありません。
ホールデンもフラニーも社会と縁を切り、どこかに逃げたいと思っ
ているわけですから。
ただ、サリンジャーの凄いところは、あっちの世界(死の世界か、
幻想の世界か、それこそ「美しい夢」の世界かわかりませんが、と
にかくanywhere out of the world)に行く寸前で踏み止まる。
ホールデンもフラニーも最後には現実の世界に戻って来る(そこま
では、勿論書いていないわけですが、そう予想させる)ところかな
と思います。
>すいません!そこだけは、こだわらせて下さい!
>「美しい夢」とは正反対の地獄絵図なんです!
>イヤらしい言い方ですが、経験した者にはわかると思います
>(誰か他にもわかる人はいないかね?手を挙げてくれ!)
>あと、「逃避」ということに関しても、サリンジャーは、ホール
>デンを「逃避をしない存在」として描くことに、相当こだわりを
>持って書いていると感じます
>サリンジャーの共感者として、ここだけは譲れないポイントなん
>ですね!
うーん、これはどういうことでしょうか。
ホールデンのいまの状況が「地獄絵図」なのではなく、「ライ麦畑
の捕まえ手」になることが「地獄絵図」だということですか?
だとすると、ちょっとわかりかねます。
ホールデンが「逃避をしない存在」であることは賛成します。
ただ、それは上に書いたように、ホールデンが「あっちの世界」へ
行く寸前で踏み止まるからであり、pont nordさんの言う意味とは
かなり違うかもしれませんね。
スレッドを読みかえして、ふと思ったのですが、pont nordさんが、
「ライ麦畑」の子供たちと、回転木馬のフィービーを「並列不可能」
というのは、前者が架空の、あるいは象徴的な物語であるのに対して
後者は、現実の場面だからというのが主なのでしょうか。
ただ、非常に具体的かつ現実的な事柄が突如として象徴性をおびたり、
逆に高度に知的な、あるいは抽象的な事柄が日常の衣をまとったりと
いうことは、サリンジャーの作品ではよくあることですし、それがサ
リンジャーの魅力でもあるのではないでしょうか。
そうそう、それからもうひとつーー
ホールデンがスペンサー先生にちゃんと挨拶に行くことについて、pont
nordさんは、彼が最初から「大人」であることの証拠だとおっしゃって
いますが、それはどうですかね。
不良の高校生(ホールデンがそうだというのではありませんよ。あくま
で一般論です)でも、世話になった先生に仁義を通すくらいのことはす
るのじゃないですかね(そのかわり、気に喰わない先生をボコボコにす
るかもしれませんが)。
いや、冗談はともかく、ホールデンは大した行動力をもっていますよ。
その場に応じた、態度やことば使いも心得ている。
ふつうの高校生なら、あんなことはできないでしょう。
ただ、だから社会に適応している、大人であるとはならないような気が
します。
「子供」と「大人」(本当はこの分類はあまり好きじゃないのです
が、単純化するためにこのままにしておきます)ということについ
て言うとーー
子供が無邪気だったり、純粋だったりするのは、ある意味であたり
前なんですよね。
まだ何も知らないから無邪気なだけで、別に偉くもなんともない。
問題は、その無邪気さや純粋さ(純粋さということばも、本当は
嫌いなんです。でもこのままにしておきますね)を保ちつつ、大人
になることができるかどうか。
普通は、無邪気さや純粋さを捨てて、つまらない大人になってしまう。
稀に(最近は稀でもありませんが)、無邪気さや純粋さを保つため
に、大人になることを拒否する人間もいる。(ひと昔前の言い方だと
「ピーターパン症候群」ですね。いまならヒッキーでしょうか。)
ホールデンはそのどちらの道もとらず、困難な第三の道を模索して
いるのではないか(彼自身がそれを意識しているかどうかは別にし
て)。
「ライ麦畑の捕まえ手」になるという夢は、社会と縁を切り、大人
になることを拒否することなのではないか。
回転木馬の下りは、この困難な第三の道を啓示するものではないか。
ホールデンが彷徨の間にえたものは、「ライ麦畑」から「回転木馬」
への推移が象徴するなにかではないのか。
ホールデンは美しいもの、弱いものは守らなければならないと思って
いる。
だから、崖から落ちそうな子供は止めなければならないし、「オマン
コシヨウ」の落書きは消さなければならないと思っている。
しかし、美しいもの、弱いものは、彼が思っているほど、やわでは
ない。
セントラルパークのアヒルは、ホールデンが守ってやらなくても、
じっと寒さに耐えて冬を越す。
たとえ雨が降りだしても、フィービーは回転木馬で回り続ける。
自分が守らなくても、美しいもの、弱いものは存在しつづける。
ホールデンはそういう認識をえたのではないか。
別の言い方をすると、ホールデンがしゃかりきになって守ろうと
しなくても、こころが安らぐ場所は、この世のどこかに必ず存在す
る。
ホールデンの幸福(彼は回転木馬の下りで「大声で叫びたいくらい
幸福だった」と言っていますよね)をそういうふうに理解できるので
はないかと、ふと思いました。
いろいろ書いているうちに思い付いたのですが(こういうところが
「対話」のいいところですね。話しているうち、書いているうちに
いろいろ発見がある)ーー
私が『ライ麦畑』を好きなのは、そしてまた『ライ麦畑』は絶望の
物語であり、ホールデンは救われないどころか、最初から全く変わ
らないというpont nordさんの意見に賛成できないのは、最後の場面
でホールデンが幸福を感じているからなんですね。
勿論、その幸福が長続きするかどうかは別です。
おそらく、一瞬の幸福にすぎないと思います。
しかし、その幸福をまやかしである、あるいはたんなるガス抜きで
あると言われると(pont nordさんがそう言っているのかどうか、
まだ私にはよくわからないのですが)、やはり違和感を感じてしま
います。
春樹がキャッチャー訳すって本当ですか?!
嫌だなあ。でも、やるならちゃんとやって欲しいなあ。
まあ、いままでも何人もが訳してきてるんだから仕方ないかなあ。
『ライ麦畑でつかまえて』っていうタイトル自体
変えなくちゃだめだよね。あれはあくまで野崎キャッチャーだもの。
言葉遣いはどうすんのかな?
下手に時代考証なんてしないで、今の普通の言葉で喋らせて欲しい。
そのほうが春樹キャッチャーもクラシックになる可能性が有るし、
日本の若者たちの変遷の資料としても有用。
にゃー。
ほんのちょっぴり楽しみだけど、やっぱり嫌だ。野崎(命)だし。
903 :
吾輩は名無しである:02/09/03 12:23
・春樹の訳したサリンジャー読んだ?
・うん。春樹訳のはみんなよんでるもんね。
・でっ どうだった?
・うーん。いいとは思うけど。やっぱネジマキ鳥やノルウェイの森のが、
面白いし考えさせられるね。
・そうだよねー
・だよねー
やれやれ
904 :
吾輩は名無しである:02/09/03 12:25
野崎訳でいいのに。
なんでまた春樹が。
905 :
吾輩は名無しである:02/09/03 13:30
>904
やりたかったんだろ、その気分はわかる。
906 :
吾輩は名無しである:02/09/03 13:36
わたしも野崎訳でオッケーだと思うのですが。
907 :
吾輩は名無しである:02/09/03 13:44
とうとう念願の春樹訳サリンジャーを読んだ。
野崎訳はこなれているもののグッと後ろから掴まれるんなものがなかった。
だから春樹にはそれを期待していた。そして結果はどうだったか
やはり春樹訳のが優れているといわなければならないる。
春樹によってはじめて、サリンジャーは日本の読者に開かれたものとなろう。
しかし、いや、やはりというべきか、そうかっこれではっきりしたことがある。
小説としてはサリンジャーより春樹の実作のが優れているということである。
908 :
吾輩は名無しである:02/09/03 13:52
>874
ラテン語では、「six」を「sex」と綴るんだそうですよ。
あッ、間違えた、>875さん宛てでした。
日本語に比べ、英語の方は「音」に敏感な気がするので
(例えば、詩における「踏韻」など)、わたしはsix=sexって
アリなのではないかと思いますが・・。
でも、確かにそのことがどの作品にも当てはまる、とは
言い切れないんでしょうけれど。
911 :
吾輩は名無しである:02/09/03 19:48
>910
875です。
sixとsexをかけるという文学的なことばのあやは、私もアリだと思います。
バナナフィッシュで6という数字が強調されており、それはセックスを意
味するという「いろは理論」(いま、勝手に命名)も、珍説・奇説のたぐ
いと言えばそれまでですが、個人的には面白いと思います。
ただ、それを当然至極であるとか、唯一絶対の解釈であるというふうには
思いませんし、語源的にも正しいと言われると少し違和感があるというだ
けです。
初歩的な質問で恐縮なのですが、つづりが同じであることと語源的に密接
なつながりがあることはイコールなのでしょうか。
meanなんてたしか意味が3通りくらいあったと思いますが、全部語源は違
うと習った記憶があります。
また、ラテン語と英語はそれほど密接な類縁関係にありましたっけ?
言語としては系統が違うという話を聞いた覚えがあるのですが。
>911さん
文学スレに始めて書き込みしたのですが、
やっぱり皆さん、とても丁寧にレスされますね?
はい、わたしもsix=sexという解釈だけが絶対だとは思いません。
まあ、ひとつの解釈としてはあり得るかも・・という感じです。
ただ、個人的に、サリンジャー作品はオモテ向き「性」を否定している
ように見えて、実はものすごく「性」に執着があるのでは、
というふうに感じることが多いです。
シーモア(サリンジャー自身も)が「山羊座」であることに注目して
論文を書いた学者がいるようですが、山羊座は「好色」の代名詞でもある
ようで、わたし自身占星術にすごく興味があるのですが、山羊座の
イメージというのはスケベといっても「ムッツリスケベ」の印象ですね(笑
「抑圧された性」といったイメージです。
シーモア自身が何かこう、聖者のようなものを目指しているのでしょう
けれど、心底そうはなりきれない、つまり、やはり性を含めた様々な
「欲」を断ち切れないところがあるような気がします。
そういえば、イエス・キリストも山羊座でしたね?
ああ、論理的なタイプではないので、何が言いたいのか自分でも
分からなくなってきました(苦笑
ええと、つまり、サリンジャー作品と「性」というのは
密接な繋がりがあるのでは・・という結論です。
ましてや、グラス家の兄弟姉妹の中で数少ない既婚者である
シーモアには、それこそ「夫婦生活」という「性」が常につきまとう
でしょうから。
・・という理由から、わたしは「6」という数字を「性」とからめて
論じるのは、ある程度正当性があるのではないかと感じました。
それと、綴りが同じ事と語源的に密接な繋がりがあるということに関しては、
確かにイコールではないと思います。
というか、わたしもあくまで雑学なので、余り確かなことは言えないの
ですが・・。
ただ、語源的にどうこうだけでなく、まず「視覚的」に似ていますよね?
「six」という単語が眼に飛び込んできた瞬間、「sex」というふうに
「見える」こともあるかも知れない・・と思います。
それに加え、「音」(発音)が似ているということです。
「シックス」と「セックス」―少し舌がもつれでもしたら、
似たような発音になり得ると思います。
最後にこれはダメ押しなのですが、「バナナフィッシュ」の冒頭部で、
ミュリエルが「セックスは地獄か?」といったタイトルの雑誌の記事を
読んでいましたよね。
物語の冒頭部で「セックス」という単語を登場させることによって、
作者は作品全体に「性」のイメージを持たせたかったのでは・・と
思います。
すいません、これはあくまでわたし個人の考えなので、
この解釈が絶対であるとは全く思っていません。
皆さんのご意見も伺いたいです。
実際野崎訳古いじゃん・・・
915 :
吾輩は名無しである:02/09/06 12:37
fishmanて、バンドのfishmansのこと?
ここ見てまた読み直したけど
コネティカットのエロイーズって眼が悪いんじゃない?
カメオのブローチの件とか
(記憶違いならマーシア・ルイ―ズの件とか、その前のブロンドの件をきっちり憶えてるとこと矛盾するような)
917 :
吾輩は名無しである:02/09/08 18:27
英語の[i]は日本語の「イ」よりも「エ」に近い発音なのだよ。英語の授業で習わなかった?
918 :
吾輩は名無しである:02/09/08 18:42
だからどうした?
919 :
吾輩は名無しである:02/09/09 16:01
どうでもいいんだよ。
920 :
吾輩は名無しである:02/09/09 17:35
あ、そうか。なるほど。
921 :
吾輩は名無しである:02/09/14 20:10
あのー、いよいよ佳境かと思って楽しみにしているんですけど
続きは……?
922 :
pont nord:02/09/15 01:03
>>913など、シーモアのsexlessについて
「いろは解釈」のような解釈も面白いですが、内容解釈は?と、いつも感じます
仮に、シーモア夫婦が復員して以来(もしくは、今までずっと)「セックスレスである」と考えると、ミュリエルの言動が矛盾していませんか?
もし、そうなら深刻に悩んでいるべきではないですかね?
母親との電話も早く切ろうとせずに、離縁して他の人との再婚について、もっと乗り気で相談をするだろうし、
または、セックスレスの原因が自分の女性としての魅力にあると考えているとすれば、あんなにのうのうとマニキュアを塗ったりせず、
スリップは脱いでいたほうがいいか?
どうやれば、男をその気にさせることができるのか?
とか、いろいろ考えて、それこそ雑誌を隅から隅まで何度も読み返すのに大急がしだったりするのではないですか?
母親との電話のやりとりを見ていても、彼女がシーモアとの性的関係を含めた人間関係(夜の生活?!)について、とても問題を抱えているとは思えません
それとは逆で、ミュリエルにとっては全く問題がないのではないですか?(それとも深読みして、セックスレスの関係をミュリエルも求めていると考えるか!?)
だって、ミュリエルは早く電話を切ろうとしてるでしょ
親元を離れた解放感で頭が一杯で、「さあ、休暇を楽しむぞ!」という感じではないですか?
内容を見る限り、二人はセックスレスかなぁ?
そんなことより大事なのは、シーモアがたいして弾けもしないピアノを、ホールの片隅で延々と弾いたりしている、その心理状況なんかだと思う!(プンプン!)
(と、言いつつも、色々な意見を聞けるのは楽しいし、有意義なことだと思うので、これからもどんどん色々な意見を聞かせて下さい(笑)
923 :
pont nord:02/09/15 02:15
>>894=607さん(以下、敬称略です・・・m(_ _)m
>ホールデンが処世術を学んだっていうだけの話ではないように・・・
同感。僕の書き込みは「サリンジャーの扱うテーマに単純なものは一切ない」などと考える、一部の表層的マニアの人たちへの逆説的なあてこすりです(笑)
サリンジャーの扱うテーマの中には、子供心に関するものなど、非常に単純明快に多くの人が共感できるようなものも多いと思います
>>895=607
・フラニーとホールデンの違いについて
フラニーはタッパー教授の授業風景や学校での行動を見ただけで、その「存在」を「全て否定」しようとしていると思います
同情も気遣いもなく、その回りにあるものや、その後ろにあるものも見ようとはしません
ホールデンはそれと違って、スペンサー先生を鼻をほじったことで責めてはいますが、それと同時に毛布にまつわる「老いた者なりの喜び」について考えを巡らせたり、
「例え自分が正しくとも、年寄りに新しい知識は毒だ」などと、思いやり深い気遣いを与えています
607さんの意見とは逆に、サリンジャーは
「相手のことを責めるからといって、必ずしもそれが相手のことを愛していないということになるわけではない、真の愛情とは、謙遜や謙譲、遠慮などに包み隠されるべきものではない」
というようなことを訴えたかったのではないでしょうか?
(うっ、非常に山本周五郎的な解釈だ・・・)
ゾーイのフラニーに対する遠慮のない態度を見ていて、それを感じます。ゾーイの行動は、非常にホールデン的だと思います
924 :
pont nord:02/09/15 02:46
>>896=607
>ホールデンの絶望と言いますが、その絶望の理由(原因)は?
これについては、作品の肝心な部分の内容解釈になってしまうので、よほど求められない限り、僕の意見を公言しないことにしておきます
(公言したところでどうということも、実際はないのでしょうが、「推理小説を読み終える前に、犯人を教えられた!」と思われる方が、いないとも限らないので、少し慎重になってみますね)
ただ、この小説が「絶望」についての小説だと、僕は断言できるので、皆さんには、その原因について是非とも考えて頂きたいと思います
この「絶望の原因」こそが作品の第一義の主題であると思います
サリンジャー本人の言葉を借りれば、
「全て作品の中に書いてある。なにも補足することはない」
であり、聖書の言葉を用いるなら、
「・・・それが見えないのは、我々の想像力の欠如に原因がある」
であり、僕に言わせてもらえれば、
「経験を、実体験として共有するか否か?」
ですね
『ライ麦〜』をファンタジーやフィクションとしてとらえることに問題があると思います(春樹氏はそうしているのでしょうね)
あそこに書かれているものは、ほぼ全てサリンジャーの実体験と実見聞に基づいていると僕は考えます
あの、「交差点を渡るたびに、自分が地の底に沈んで消えてしまいそうに感じる」という表現さえも、作者の文学的創作などではなく、
実際に人間に起こり得る(実際にサリンジャーに起こった)心理現象だと思います
僕は初めて読んだ時から『ライ麦〜』は実体験に基づく現実の話だと感じていたのですが、この部分に関しては、僕自身が経験したことがなかったので、どういう気持ちなのかよくわかりませんでした
でも、他が全て現実の話ナノだから、きっとこれも現実に起こることなんだろうなぁ、とぼんやり考えるだけでした
しかし、幸か不幸か、ほどなく、ほぼ同じような経験をすることとなり、期せずして、それがやはり実話であることを、自分の体でもって証明してしまいました(笑)
「やっぱり、『ライ麦〜』は実際に起こった話を書いてるんや!サリンジャーは現実を書いてるんや!」と、改めて確認した次第。
あのフレーズまでもが実話であり、創作でない(!)とすれば、もはや、その他のすべては現実に起こる実話だと断言できるのではないですか?(笑)
925 :
pont nord:02/09/15 04:22
>>898=607
ホールデンが語る「ライ麦畑のキャッチャー」の概念においては、子供を捕まえるか否か?というところには、発言のポイントが置かれていないと思います
彼が示したい、弁護士や会計士になることの代替としての人生(第3の道?)(それを求める気持ち。存在自体が矛盾する、現実には有りえない概念。自殺の代替行為)を説明するために、
あの逸話とそれに付随する子供たちを登場させたのであって、
ホールデンはその説明において、子供たちが落ちるどうかまでは考えていないし、捕まえるか、もしくは捕まえられるか?といったことも前提とされていないですよね?
それを、「捕まえるか放っておくか」の問題に置き換える(繋げる)のは私意的に過ぎると感じます
小説の中で、内容において、彼がフィービーに示した概念の中で「ホールデンがその命題(子供は捕まえられないのか)」を「意識するようになった」と説明する部分はないわけでしょう?
それでいて、いきなり答(「フィービーのように、子供は捕まえられない」)が飛び出すのですか?
ホールデンの心理の進展や流れを考えると、あまりにも唐突ですよね
その解釈は、言うならばホールデンの心理的側面やその進展を、あまりにもないがしろにした解釈ではないですか?
少なくとも、「ホールデンの心情の変化に即した解釈」とは言えませんよね
もう一つ
概念上の存在と、現実の存在を並列して考える行為には、技術的に無理が生じませんか?これは、非常に微妙な問題ですが、一般的な議論における、前提条件の一つだと感じます
ここを混同してしまうところは、日本の文学(界)が持つ、悪しき因習的問題ではないか?とすら感じます(マンガの影響かな?)
つづく
926 :
pont nord:02/09/15 04:27
つづき
ホールデンの語るあの概念において、
「落ちそうになる子供」という存在は、例えばフィービーはそうだと言えるのですが、ホールデンが受動的に、受け身の立場で与えられたり、押し付けられたりしたものではなく、
「切り立った崖を持つ、広い広いライ麦畑」という、彼が作り出した「想像上の世界」に、彼自身が「能動的」に作り出した存在です
あくまで彼が作り出した概念なのですから、彼自身がそれを落ちるか落ちないか心配するのはおかしいですよね?
彼が落ちると思えば落ちるし、空を飛べると思えば空も飛ぶでしょう(笑)
しかし、フィービーの場合は概念ではなく現実の存在で、彼にとって、自分の意志を働かせることができない、受け身の存在ですので、落ちるかどうかは彼にもわかりません
落ちるように思うけど、落ちないかも知れない
しかも、実際のところ、小説の中では、結局落ちることはありません
「フィービー」の場合はこのようにホールデンにとって、転落の可能性は不確実ですが、
「ライ麦畑の子供」は彼自身の作り出した概念であるが故、そこに転落か否かの不確実性をフィービーの場合と同じようには考えにくいと思います
従って「転落の不確実性(確実性)」において平等ではない両者を、概念として「並列」して、「対概念」や「同種概念」として議論(解釈)することには、論証の技術的側面において、無理を感じます
想像上の存在である「ライ麦畑の子供達」を、「フィービー」のような「現実の子供」と変わらないものとして見て、比較するのっておかしくない?
しかし、文学部の人たちというのは、こういうテクニカルな問題は一切気にしないで、自己の夢の世界の中をポワポワと漂っているんでしょうねっ!!(かなりきつい皮肉(笑)嫉妬ではありませんよ(笑)
>>899=607
・子供と大人?
サリンジャーは作品を通して一貫して、「大人になっても子供心は持ち続けることができる」ということを表現しているのではないかとよく思います
「大人になることと、無邪気さや童心を持ち続けることは、必ずしも矛盾するものではなく、それが両立できないとすれば、それはあなたの個人的な問題で、あなたの力で解決できるのではないか?」
と、問いかけられているような気がします
>>900=607
>〜ホールデンは第3の道を行く〜
同感
ただ、それは大人に成ることの拒否ではないですよね
アントリーニ先生の言葉を借りて、「高貴な死ではなく、卑小な生を選ぶ」のではないですか?
というか、もうその道を行ってますよね
(彼の生の、なんと「つましい」ことか!!)
実は既にホールデンは大人になっているのだが、ただ他の大人と違い、童心を忘れずにいるだけなのではないか?
な〜んて、思いません?
>>891=888さん
僕はイタイですよ(笑)
しかも、その「イタさ」たるや、あなたの「星印」などの愛情にあふれる書き込みをもってしても、受け止められないほどの「イタさ」です(笑)
僕個人としては、あらゆるサリンジャー板が「ヒッキー駆け込み寺」になったとしても、問題はないのでは?と思います
半分は皮肉かもしれませんが、それの意味するところは、残りは本気であるということです
携帯でアクセスしている人がいるとは思いませんでした
最近の携帯はちょっとしたPDAですな?すごいね!
pont nordさん
>607さんの意見とは逆に、サリンジャーは
>「相手のことを責めるからといって、必ずしもそれが相手のことを
>愛していないということになるわけではない、真の愛情とは、謙遜
>や謙譲、遠慮などに包み隠されるべきものではない」というような
>ことを訴えたかったのではないでしょうか?
うーん、これはどうでしょうね。
ホールデンがスペンサー先生を愛しているかどうかは疑問ですし、た
とえ愛しているとしても、それをゾーイがフラニーに向ける愛情と同
列に論じていいかどうかも疑問です。
ここに見られるのは、ホールデンの他人に対する公平さであり、pont
nordさん式の言い方をするなら、その公平さこそが、ホールデンの「大
人っぽさ」でもあると言うべきではないでしょうか。
サリンジャーと『ライ麦畑』の関係、ホールデンと彼の空想の
中のキャッチャーに関するpont nordさんの考えを読んでいて、
pont nordさんが、現実と虚構の間に、明確な区別をつけている
という印象を強くもちました。
ただ、ホールデンは当然、虚構の人物ですし、彼が生きている
「現実」は当然、小説の中の現実、すなわち虚構なんですよね。
現実に生きているサリンジャーという作家がいて、ホールデン
という虚構の人物を使って虚構の物語を書いた。
で、そのホールデンが空想の中で「ライ麦畑のキャッチャー」と
いう虚構をつくりあげた、とまあ、そういう構造になっている。
pont nordさんは、『ライ麦畑』という虚構の物語をサリンジャー
の現実に近付ける一方で、ホールデンの空想の物語をホールデン
の「現実」から遠ざけるという矛盾を犯しているように思えてな
らないのですが、どうでしょう?
pont nordさんは、そのことから日本の文学界や文学部の教授たちを批判
なさっているようですが、ちょっと私にはピンときません。
私自身は、日本人が書いた評論より、外国人が書いた評論を読む機会の方
がはるかに多いのですが、竹内氏の分析などは、日本的というより、欧米
的ではないかと思いますよ。
まあ、竹内氏の見解について、これ以上、固執する気はありません。
私も、最初読んだときは、あれえ、そんなばかなと思いましたから。
ただ、最初はそう思ったけれど、後から考えるとなるほどと思うし、
それを前提にして、他の事柄(例えば私が前に書いたセントラルパー
クのアヒル)も同じ方向で解釈できるのではないかと思っただけの
ことです。
>〜ホールデンは第3の道を行く〜
>同感
>ただ、それは大人に成ることの拒否ではないですよね
はい。
大人になることの拒否ではありません。
第一の道は、社会に順応して、つまらない大人になること。
第二の道は、大人になることを拒否して、ネバーランドにとどまること。
第三の道というのは、そのどちらでもなく、無垢や純真さを保ちながら
成熟することを意味しますから。
>アントリーニ先生の言葉を借りて、「高貴な死ではなく、卑小な生
>を選ぶ」のではないですか?
>というか、もうその道を行ってますよね
前にも書きましたが、ホールデンが最初から全く同じか、それとも彼は
変わるのかという点が、私とpont nordさんの考え方の決定的な違いかと
思います。
「第三の道」を「高貴な死ではなく、卑小な生を選ぶ」という言い方で
言い換えるのは、若干抵抗はありますが、それでも構わないと思います。
ただ、ホールデンが最初からそれを実践しているとは思えません。
もし実践しているのなら、彼はあれほどさすらう必要もないし、絶望する
必要もない(pont nordさんの言うように彼が深く絶望しているとして)
のではないでしょうか。