こどもだって殺される>『ひかりの素足』
これちと悲しい・・・・
でも救いだってあるさ、『銀河鉄道』に乗れば。。
572 :
吾輩は名無しである:02/06/22 19:38
長らく休業させていただいておりました銀河鉄道は一夏の再開が決まりました。
なお、流れ星により発着時間に変更がある場合もございますのでご了承下さい。
573 :
吾輩は名無しである:02/06/22 20:31
>>418 これって なあに?
銀河鉄道の夜にあるの?
宇宙は透明な水で満たされている
575 :
吾輩は名無しである:02/06/23 14:02
576 :
吾輩は名無しである:02/06/24 04:48
さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでいました。
ところがそんな事には一向構わず、林にはやはり毎日毎日子供らが集まりました。
お話はずんずん急ぎます。「虔十公園林」
このくだり、初めて読んだとき「すげえ」と思った・・・主人公だと思って読んできた虔十が
「さて」の軽さでぷっつり死ぬんだもん!お話はずんずん急ぎます。
577 :
吾輩は名無しである:02/06/24 08:02
>>571
別に救われてないと思う
578 :
吾輩は名無しである:02/06/25 23:54
つんくは「恋愛レヴォリューション21」のプロデュースにあたり、
「丁丁丁丁丁」を下敷きにしたと思われ。
579 :
吾輩は名無しである:02/06/26 07:05
>>550 >クラムボンも「得たいの知れない不吉の塊」(檸檬)みたいな感じ。
そ れ だ !
チューリップの酒、飲んでみてー
580 :
吾輩は名無しである:02/06/27 06:01
581 :
吾輩は名無しである:02/06/27 23:34
貝の火
謎めいた童話だが、ラストの
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さい
わいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」
というウサギの親父の言葉には救われる。
582 :
吾輩は名無しである:02/06/30 02:34
誰か! 銀鉄の乗車券を、売ってるトコしりませんか?
うしろから 五月のいまごろ 黒い長いオーヴァを着た
医者らしいものがやつてくる たびたびこつちをみているようだ
それは一本道をいくときに ごくありふれたことなのだ
584 :
2ちゃんねらー:02/06/30 02:46
きみたちときょうあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかのひとつづりから
血みどろになって遁げなくてもいいのです
585 :
吾輩は名無しである:02/06/30 03:11
筑摩の全集って完結したの?
586 :
狂乱の修道士:02/07/03 02:12
「猫の事務所」の中で、虎猫がかま猫に向かって決闘をふっかけようとする場面が
ある。この時黒猫の事務長がどなることで、虎猫の言葉をさえぎる。凡庸な作家な
ら黒猫に「にゃあお」などと言わせてお茶を濁すところであるが、賢治は「ジャラ
ジャラジャラジャラン。」と表現している。意味不明なれど、何ともインパクトが
ある。
587 :
吾輩は名無しである:02/07/03 08:32
すごく真面目な質問させてください。
小学校6年生の読書感想文で賢治を使いたいのですが、
みなさんだったらどの作品を選びますか?
588 :
吾輩は名無しである:02/07/03 19:03
どの作品も選ばない。
589 :
吾輩は名無しである:02/07/03 19:07
590 :
吾輩は名無しである:02/07/03 19:08
小さな子には賢治を読んで聞かせ、
六年生なら、家族の前で朗読させたら
楽しいひと時になるかもしれません。
ある孫が料理店を朗読するのを聞いた祖母が山猫に騙された紳士達を可愛そうと言いました。
その祖母の父は独逸製の鉄砲と洋犬を使って山で猟を楽しんでいたのです。
591 :
吾輩は名無しである:02/07/03 19:10
一般書籍板でやれ糞ども
592 :
吾輩は名無しである:02/07/03 19:18
>>590 狩られた動物も可哀想(ToT
子供に朗読させるのもいいけど、朗読して聞かせるのもよいよ。
以前、賢治映画(なんだか忘れた)のビデオ見てたら、「注文の多い料理店」の
序文の朗読が流れてきてゾクゾクしたことあり。
>>591 お前は子供のころに賢治童話を読んだ経験もなく文学語ったりしてるわけ?
恥ずかしくない?
593 :
吾輩は名無しである:02/07/03 21:34
>591
賢治のなんたるかを知らない糞は出ていきなさい。
>587
できれば感想文向けでなく子どもに読ませられないでしょうか。
594 :
吾輩は名無しである:02/07/03 21:47
「衰弱」というのは間違っている。古井は消費されるためだけに
そこにある言葉の、たやすく説明がつくような平明さから離れて、
ある〈自律的な連鎖〉を示す文を書き付ける。例えば「新潮」
に連作として書かれていた言葉の、この執拗ながらも取り留めの
ない、ただ言葉の魅力が立ち昇ってくるような「文」のあり方:
病室に戻ってひと息ついているとまた呼ばれて別の検査を受けに
行くことになった。呼び出されると張り切って急ぐ病人もあるが、
その日の私は、廊下の途中から湧き上がったみたいに先刻と変らぬ
足取りで歩いている。教えられた階の、病棟ではないようで閑散と
した午後の廊下に、赤や青や貴や緑や、色とりどりに引かれた道
案内の線を、背は立てたままなのでやや遠くへ見込んで進むと、線
をたよるでもないのに、足の運びはあくまでもまっすぐで、どこ
まででも行くようで、途中からまたふっと消えてしまいそうな心地
にもなったが、赤い線はやがて左へ折れた。耳たぶから血を採って
凝固を量るだけの検査だったのですぐに了えて、お大事にと送られ、
ありがとうございますと返して廊下に出ると、同じ道でも往く時と
復る時とでは眺めがまるで違う。身体の自由のいよいよ窮まって
きたせいかと驚くうちに、お大事に、ありがとう、といましがたの
やり取りがもう一度、どこぞの路地でかわされたようにくっきりと
立って、その尋常なはずの、意味がつかめなくなった。
―古井由吉「春の日」(「新潮」2001年6月号)
ここで行なわれていることを技法的に考えれば、古井は主観と客観を
(人称を介することなく)入り混じらせ、またある往復の動きの内に
言葉/観念の挿入を繰り返すことで、「尋常なはずの、意味がつかめなく
な」るまでの「歩み」を引き伸ばし、不安定なものへと転じている。
しかし、安易な批評であれば「差延と異化」とでも読んでしまいそうな
この描写は、描写自体が匂い立つような魅力を放つように仕組まれている
のであり、言葉がまるで〈自律的な連鎖〉を見せて、つまり「色とりどり
に引かれた道案内の線」を自ら辿っていくような感覚を、読者に与えるの
ではないだろうか。それこそが、言葉に「運動の欲求」を感じる古井
ならではの魅力と言えるに違いない。
595 :
吾輩は名無しである:02/07/03 21:49
人がものを知るやり方にはいろいろあるが、直接にものを知るときには直観を使う。ものを考えるときは人は
いつも直観に頼るものだ。しかし、直観するためにはその前にその対象を手に入れなければいけない。しかし、神様
でもない限り、人が対象を手に入れるには、対象のほうが人の心を触発しないといけない。
この対象の触発に応じて、そのイメージを受け取る能力を感性という。つまり、感性によって人は対象を手に入れるのである。
ということは、感性のおかげで人は物を直観できるということになる。
いっぽう、手に入れた対象について考えるのは知性の仕事である。知性が理解するのである。しかし、物を考えると
いうことは、直接にしろ、あるいは何かの目印を介して間接的にしろ、結局は直観、そして人間の場合は感性のお世話になるしかない。
ほかの手段では対象は手に入らないからである。
そして、その対象が外から感性を触発した結果が感覚である。直観のうちでこの感覚を通して対象とつながっているものを、経験による
直観という。この経験による直観の対象で、まだわけの分からないものを現象という。
しかし、現象を分析してみると、その中には感覚だけでは説明できない要素も含まれている。だから、現象のうちで感覚とつながりが
あるものを、わたしは現象の素材と呼び、この乱雑ににあらわれる現象に整理をつけるものを現象の形式と呼ぶことにする。
様々に受け取った感覚に何らかの形式を与えて整理をつけるものは、感覚自身ではあり得ない。だから、現象の素材は経験
によってしか与えられないのに対して、現象の形式は心の中にその全部が先天的に用意されていないといけない。だから、現象の形式は
感覚とは区別して考えることができる。
わたしは、あらゆる概念のうちで感覚とは関係のないものを(超越的な意味で)「純粋な何々」と呼ぶことにする。すると、感性による
直観は、さまざまな現象に整理をつける純粋な形式として、先天的に心の中に見いだされることになるだろう。この感性の純粋な形式は
同様にして純粋な直観と呼ばれることになる。
例えば、物体の概念から、それについて知性が考えること、物質とか、引力とか、分割可能とか、そういうものを取り除いてみよう。
次に、感覚で捕らえられるようなこと、中身が詰まっているとか、表面が硬いとか、何かの色をしているとか、そういうものを取り除いてみよう。
こういった経験によって直観的に知ることのできる要素を取り去っても、なおも残るものがある。それは、物体の持っている大きさと形だ。
これが純粋な直観なのである。この純粋直観が働くには、感覚の対象が外部に現実に存在する必要はない。純粋直観は感性の形式として
心の中に先天的に存在するものである。
わたしはこのような経験と関係のない先天的な感性がもっている原理について研究する学問を「超越的な感性論」と呼ぶことにする。(原注)
596 :
色男no,1:02/07/03 21:50
こんばんは、みなさん、私が色男です。
新聞のコラムに、太宰は呼び捨ててそう違和感を覚えないが、松本清張に「氏」あるいは「さん」が着かないと落ち着かないとありました。何故この2人が比較されているかというと問題は単純で、2人とも1909年生まれの同年だからという事で、
時間的経過とその生の形の違いが、違和感を生じるか生じないかの基準になってくる、というものです。他にも往年の名勝負を演じた2人、力道山は呼び捨てで違和感がないのに対して、ルー.テーズは「氏」が着かないと落ち着かない。
ところが三島と同年の劇評家戸板康二(1993年没)が著作の中で三島を呼び捨てにしたところ、三島に「氏」が着かない基準はどこにあるのかと読者からの問い合わせがあった事が紹介されています。
http://laspara.tripod.co.jp/
597 :
色男no,1:02/07/03 21:53
こんばんは、みなさん、私が色男です。
もちろん豊饒の海を意識しています。
私とパーシーは別人です。彼女は私のHPのWEB担当スタッフです。5さんの紹介して下さった
四つの河もふまえています。そういう意味では三島はヒトラーのような独裁のシンボルでもあります。
http://laspara.tripod.co.jp/
598 :
色男no,1:02/07/03 21:55
こんばんは、みなさん、私が色男です。
53氏が紹介してくれたエピソードは修正すべき点があります。酒場で用心棒として雇われていた
安部譲二がボクシングで酔漢を取り押さえたのを見たのが、三島がボクシングを始めたキッカケというのは
本当ですが、三島は日大ボクシング部でスパーリングをも経験していましたが、周りの者は三島の頭部を狙っては
いけないと安部から厳重に注意されていて、その事に気付いた三島は手加減するなと抗議したといいます。
ボクシングをやると脳圧が上がり、下手をすれば三島の知性に疵をつけてしまう事にもなりかねないと説得され、
頭部が保護されるボディービル、剣道に移行したという事です。
安部との関係は三島の最晩年まで続き、安部が安藤組の組員になった時には楯の会に入れ、親分には俺から話をつけてやる、
と口説いたといい、決起の前日には三島行きつけのバーのボトルキープしてある酒を飲んでも良いと、電話があったといいます。
安部は後で、それが三島の別れの言葉であったと気付いたと語っています。
http://laspara.tripod.co.jp/
599 :
色男no,1:02/07/03 21:56
「ゴジラとは何か」という外国人の日米文化比較論のような著作の中で「ゴジラ対キングコング」は怪獣映画による三島論であると面白い考察がありました。
ゴジラは日本であり、キングコングはアメリカ、ギリシャ体験以降の三島は徹頭徹尾みずからをアメリカンナイズされたスーパーマンに化身せしめたのですが、
昭和35年以降はまたしてもゴジラへと回帰するという三島の肉体の履歴を紹介しています。ゴジラとキングコングは対立項ではなくゴジラにしてキングコングというスタンスを三島は取っていたのではないかという意見です。
書店で立ち読みしただけなので著作者名や出版社名は残念ながら記憶していません。
ちなみに「ゴジラ」が初めて映画化された昭和29年には、「潮騒」や「七人の侍」も劇場公開されてます。
600 :
色男no,1:02/07/03 21:57
こんばんは、みなさん、私が色男です。
新聞のコラムに、太宰は呼び捨ててそう違和感を覚えないが、松本清張に「氏」あるいは「さん」が着かないと落ち着かないとありました。何故この2人が比較されているかというと問題は単純で、2人とも1909年生まれの同年だからという事で、
時間的経過とその生の形の違いが、違和感を生じるか生じないかの基準になってくる、というものです。他にも往年の名勝負を演じた2人、力道山は呼び捨てで違和感がないのに対して、ルー.テーズは「氏」が着かないと落ち着かない。
ところが三島と同年の劇評家戸板康二(1993年没)が著作の中で三島を呼び捨てにしたところ、三島に「氏」が着かない基準はどこにあるのかと読者からの問い合わせがあった事が紹介されています。
http://laspara.tripod.co.jp/
601 :
色男no,1:02/07/03 22:00
「きみに中上を語る資格はない」
「え、柄谷はぜんぶ読んでおいてよ。常識だよ」
「うーん、中上の神話的解釈がボクのライフワークだけど」
「(自慢げに)生前の中上さんはねえ〜」
「中上で日本の文学は終わったよ。そんなことも知らないの?」
「きみに中上をあれこれ言われたくないな」
なんて言われるかもよ(w
実名はださないけど、熊野大学関係者に会ったとき↑みたいな感じの人で笑えた。
学校の先生をやっていて、いかにもつまらなそうな人生を送ってそうだったけど。
根暗でモテなそうで、妙におごりたかぶっていて。
この人と話して、あ、熊野大学になんか参加したくないと思った。
あっちもおまえみたいな批評嫌いは来るな!という感じだったけど(w
ハイデガーの思想はなぜナチと共存できたのか。ハイデガーの思想にたいして、とくに転回以降のハイデガーの
考えについて素朴な疑問が昔からある。なぜハイデガーはナチ加担を内省しなかったのだろうか。周囲はごまかせ
ても自分にうそはつけないのではないか。こいつはやおないやつだ(一筋縄ではいかないという意の熊本弁)というの
が若いころからの印象だった。彼はナチ権力の大学内への介入にたいして闘ったと言明し、その自分を連合軍の権力
はまたも迫害すると居直り続けた。(発言については正確には文献にあたること!)なぜこんな詭弁(それもアーレントを
生涯に渡って騙しおおすこと)が可能だったのか。(*1)
かつて戦争について小林秀雄も似たことを言った。「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみる
がいいじゃないか」(『近代文学』昭和21年2月号)小林秀雄の居直りは嫌な感じはするが理解はできる。過去を否定し戦後
をあられもなく肯定する時流に棹さしたい気分がよくつたわってくるからだ。しかしハイデガーの狡猾さと小林秀雄の惚けぶ
りは似て非なるものである。小林秀雄の脳天気に卑しさはないが(見苦しさはある)、ハイデガーの尊大さにはひやっとする
ものがある。ハイデガー哲学の地肌を透かしてみると、存在の神秘に魅入られたときの陶酔と、醒めたときの異常な体温の
低さが両義性として混淆している。ここに存在の謎からじかに派生する字面のうえでの謝罪では済まないおそろしいものが隠
れていると私は思う。それは何に由来し、どこからくるのか、それをこの手でつかみたい。
603 :
吾輩は名無しである:02/07/03 23:06
なんだよ、これ。
いつの間に賢治トピが別物に変わってんの?
604 :
吾輩は名無しである:02/07/03 23:28
605 :
吾輩は名無しである:02/07/04 00:45
>>587 わたしは、「よだかの星」がいいと思います。
606 :
吾輩は名無しである:02/07/04 00:57
>587
どんぐりと山猫もいいよ。
>>587 私は6年の時に『風の又三郎』読みました
蜘蛛となめくじと狸
だな
609 :
吾輩は名無しである:02/07/04 16:27
っていうか
いろいろ読んでみて、
自分がかきたいのをかけばいいじゃないのよさ。
そんな時間ないって?
610 :
吾輩は名無しである:02/07/07 11:30
wage
壊血病で血をげほげほ吐きながら、風がすきとおっている
と言ったり、高熱でうんうん唸っているのに、周りの人が大丈夫ですか
と聞いても、なぁに見ているほどではありません
と言う兄さん・・・
なんだか負け惜しみを言ってるようにさへ聞こえます
612 :
吾輩は名無しである:02/07/09 16:04
>>587
フランドル農学校の豚(だっけ?)
613 :
吾輩は名無しである:02/07/10 00:55
母校の小学校の校歌は、雨にもまけず風にもまけずという歌詞から始まる。
当時は何も思わなかったけど、今になるととても好きだ。
614 :
吾輩は名無しである:02/07/10 02:20
615 :
吾輩は名無しである:02/07/10 19:13
私も知りたいな。
教えてくださいな。
617 :
吾輩は名無しである:02/07/14 15:51
age
618 :
吾輩は名無しである:02/07/22 08:57
今大学のテーマで宮沢賢治を勉強してるのですがもしよかったら以下のテーマに
ついてみなさんの考えを聞かせてください。
1・賢治の自我の特質である風景の関与についての説明
2・「自我は一つの罪である」というのを賢治に即して説明してください。
3・双子の星の主題は何かをイノセントという語を用いて説明してください。
どうかよろしくお願いします
619 :
吾輩は無名草子さん:02/07/22 09:49
>>618 真面目ぶってもダメだよあんた。レポートは自力で書かなきゃあ。
>618 丸投げしないで、まず自分がどう思うのか書いてみれば?
それに対するレスなら返ってくるかも。。