読書会題材一覧
アセンション 夢野久作「木魂」
マグナ 小酒井不木「血の盃」
N 芥川龍之介「お富の貞操」
アセンション カフカ「断食芸人」
ムー大陸 岡本かの子 「鮨」
佃煮マニア 宮沢賢治「どんぐりと山猫」
マグナ 国木田独歩「女難」
鈴木雄介 坂口安吾 「堕落論」
(´・ω・`) 太宰治 「トカトントン」
記憶喪失 太宰治 「グッド・バイ」
鈴木雄介 武田泰淳「異形の者」
ニッパ椰子 イェイツ「春の心臓」
あまな ポー「盗まれた手紙」
N 正宗白鳥「口入屋」
治美 織田作之助「六白金星」New!
5 :
吾輩は名無しである:2011/09/22(木) 07:11:29.10
>>1 おおアリアドネ、アリガトネ!
織田作之助「六白金星」について
書き込んでくれた人のレスをコピペしなきゃなあ。
651 :園児 ◆gKCGnbBUZc :2011/09/19(月) 22:21:53.14
楢雄が放蕩息子で、修一との将棋指しが放蕩息子の帰還て理解でいいのかな?
701 :v(・x・)v鈴木雄介 ◆JSPf4VvHXo :2011/09/20(火) 11:07:12.04
治美さんの勧めで六白金星を三分の一くらい読んでるけど、メチャ面白い。
735 :園児 ◆gKCGnbBUZc :2011/09/20(火) 20:02:45.99
楢雄はゆめをみてたんだが。
空を飛ぶゆめ、牛に頭をかじられるゆめは何の比喩なんだろう?
739 :園児 ◆gKCGnbBUZc :2011/09/20(火) 20:14:12.49
牛は俺の創作論理から言うと狂気の比喩なんだがな。
[牛|狂気]なんだ。
740 :園児 ◆gKCGnbBUZc :2011/09/20(火) 20:17:14.04
牛が頭をかむとは狂気が頭に入ってくるつーことだ。
心底恐怖であり深層の常識への坑がいであり自ら狂うことへの布石だな。
741 :治美:2011/09/20(火) 20:21:58.00
>>きっとつよいストレスとか心臓疾患とかあったんじゃなかろうか。
眠りが浅いとゆめをみるらしいし。
子どもってのは夢と現実の堺が曖昧だなんてよく言われるけど。
この夢ってのは、楢雄を変な子どもに仕立てあげるのに使われているよね。
心がここにない、というか。楢雄だけ別の世界の住人なんだよね。別の世界の
住人だから知らず知らず周りの人間との間に溝ができてくし、それが深化していく。
その極めつけに自殺未遂があるんじゃないかなぁ。
743 名前:園児 ◆gKCGnbBUZc [sage] :2011/09/20(火) 20:27:57.00
楢雄の自殺のこころみがレスに出てきたが、タナトスて理解でいい?
死への憧れはコンプレックス。なんか負い目があるの?
生と死も裏表一体じゃないかな。
744 名前:園児 ◆gKCGnbBUZc [sage] :2011/09/20(火) 20:37:11.14
楢雄にとってヒ素を呑むことは、抜歯や刺青みたいな儀式(イニシエーション)であったんじゃないかな。
よく言うと、血を超えたっつー。
楢雄は実家から逃げて、にんげんとして完成した。
放蕩息子だな。
747 名前:治美 [age] :2011/09/20(火) 21:13:21.91
園児は説明を端折り過ぎ!
長くてもいいから、丁寧に論を展開していって!
詩人はこれだから困る。
園児の感性は素敵だからさ。
わたしにも分かるように説明してくれると嬉しい
748 名前:治美 [age] :2011/09/20(火) 21:22:26.80
>>楢雄の自殺のこころみがレスに出てきたが、タナトスて理解でいい?
死への憧れはコンプレックス。なんか負い目があるの?
生と死も裏表一体じゃないかな。
もっと説明して!タナトスについても。
以前読んだ哲学書にセックスは死で、その死を体験することが快楽の正体だ
とか訳分からないことが書いてあったのね。ちょっとそれ思い出して興味を持ったから。
749 名前:園児 ◆gKCGnbBUZc [sage] :2011/09/20(火) 21:28:02.38
セックスが死?
ちょっとググッてくる。
750 名前:園児 ◆gKCGnbBUZc [sage] :2011/09/20(火) 21:57:50.50
よくわからなかったがセックスは小さな死らしい。
生きるとは死を意識すると際立つらしいな。
752 名前:治美 [age] :2011/09/20(火) 22:09:44.26
ググってばかりじゃないか園児(泣)
いいや、セックスはちょっと横に置いておこう。
死への憧れはコンプレックスのところを説明してくらさい。
753 名前:園児 ◆gKCGnbBUZc [sage] :2011/09/20(火) 22:31:17.56
死への憧れ=ロマン主義?
ロマン主義は俺はちょっと敬遠してるな。
764 名前:江戸川 :2011/09/21(水) 00:26:37.69
とりあえずみんな読もうぜよ。
次のお題、織田作之助って人?
知らない。読んでみるぜよ。
779 :治美:2011/09/21(水) 05:11:23.92
おっと、キチガイつながりで丁度いいや。「六白金星」で言いたいことはいくつかあるんだけど。
今回は「狂気」について述べてみたいと思う。
「六白金星」の冒頭で楢雄が蠅獲りに夢中になるというところがある。「夕闇の中でしきりに眼鏡の位置を直しながらそこら中睨み
廻し、その根気の良さはふと狂気めいていた」の狂気。楢雄の父親の「圭介は家へ帰ると、薄暗い階下の部屋で灯もつけさせず、壁
を睨んだままぺたりと坐り込んで何時間も動かなかった」の狂気。自殺未遂を起こす前の楢雄の、鏡に映る顔も狂気じみていたと思うけど。
ここで思いついたのは、坂口安吾「白痴」。伊沢が白痴の女と押入れの中に入るシーン。ちなみに「六白金星」では狂気を垣間見る場所という
のが夕闇や薄暗いところ。この「白痴」でも押入れという闇のような場所であるという共通点がある。
そして、その押入れの中の白痴は「それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。心の影の片鱗もない苦悶の相の見るに
耐えぬ醜悪さ」であるという。
坂口安吾も織田作もサルトルについて言及している。わたしは、この三箇所を見て、サルトルの「嘔吐」で主人公がマロニエの木を見て突如
<実存>を発見するというシーンによく似ていると思う。
続きは次のスレで。
785 :治美:2011/09/21(水) 05:31:55.85
マロニエの木を見て<実存>を発見する人間は狂気の持ち主であろう。
楢雄も人間の醜悪な要素(=実存)を垣間見て発狂したといえる。冒頭の蠅を睨みつけては漁りとる
楢雄の姿というのは、そのような醜悪なもの(=実存)をまともに覗き込めてしまう人間として楢雄が
生まれたということを示すのではないか。
そして圭介も見てはならぬもの(自分の罪)を見つめて発狂した人間であるということができるのではないか。
ちょっと見切り発車で書きだしたのでうまくまとまっていませんが。第一回目の感想はこれで。
787 :治美:2011/09/21(水) 05:58:46.34
補足
圭介が発狂した理由は、自分の罪を見つめたからだと言ったけど。
楢雄の遺書の最後の方に「俺は無垢の女を凌辱シヨウトシタノダ」とあったよね。
これは、圭介が寿枝にしたことと同じじゃないのかなって。
楢雄の遺書によって圭介が自分の犯した罪を自覚したんじゃないかなって思った。
圭介が発狂した理由ってのも考えるとおもしろいし、意見が分かれるとこかもしれないね。
786 :ニッパ椰子 ◆qJa0bYv/qk :2011/09/21(水) 05:48:12.93
八白金星読みました。
冒頭、楢雄の気狂いじみている書き出しにも関わらず、家出後先生とのやりとりのくだりや精神科医の登場などを経て、読み進めていくと逆転現象が起こるように描かれていた。まともなのは楢雄だけで、まわりが滑稽。楢雄は多分、異質なだけなんだろうな。
普段は阿呆のように暮らしているが、触れにくい真実をズバリ指摘してのける様がシェイクスピアの道化にそっくりです。
とりあえず...
817 :吾輩は名無しである:2011/09/21(水) 12:30:28.60
>>809 テクストを読まなくても感想を書くことはできるよ。
他人の感想から本の内容を類推するか、適当にページを開いて気に入った表現を抽出して適当に論を仕立てあげればよいだけだ。
これも一種の創作として楽しめるよ。
たとえば六白金星だったらこういう風に感想が書ける。
治美は楢雄が蠅獲りに夢中になる冒頭のシーンを狂気を軸にして論じているが、俺にはこの蠅取りのシーンは楢雄の自我の葛藤を描いているように思える。
つまり楢雄は蠅という醜く矮小な昆虫に、自身の自我の矮小さを見出している。
さらに蠅がふらふらと空中をさまよう様に行き場のない自身の孤独を重ねてもいる。
だからこの冒頭のシーンは現在の自身の立場を容易には受容できず、かといって何物にもなれないという近代日本小説の伝統的主人公像を鮮やかに描写しているシーンと言えよう。
このような作家が失われつつある現代の文壇の状況を憂う俺には、一服の清涼剤のような作品だった。
とか。
まああんたも適当にこういう風に書いてみtも面白いと思うよ。全部「読んでいない本について堂々と語る方法」の受け売りだけどw
946 :治美:2011/09/21(水) 19:33:33.34
>>ニッパさん
頭に血がのぼることもあるけど、ノラリクラリいきませんか?
楢雄は愚直だけどさ、愚直なだけに真っ直ぐ人間を見ますよね。そうすると彼の倫理観に合わないものは
拒絶する。そして自分の気にいったものはとことん突き詰める。そういう、実はどこにでもいるドンクサイ
けど憎めない子どもの成長の軌跡、と考えることもできますね。こういう逆転劇は日本人は特に好きなような気
がします。ある意味、どこにでも必ずいるタイプだから(小学校のときにはクラスに一人くらいいたと思う)
そしてどの人間も楢雄のような要素を持ってますよね。わたしたちは、楢雄的なものを押し殺して大人になって
きた、という。
ただ、楢雄は、あきらかに、そういうドンクサイ子どものドタバタ劇以上の何かを背負わされていると思う。
それがわたしの狂気のテーマでもあるんですけど。彼の受難には少し深い意味を読み取ってもいいように思います。
961 :ニッパ椰子 ◆qJa0bYv/qk :2011/09/21(水) 19:53:19.26
>>946 え、なんで頭に血がのぼってることになってるんだろ
963 :治美:2011/09/21(水) 19:54:51.56
>>961 あっ、すんません。のぼってたのは私でしたね。。
アゲ
六白金星読みました。
前半の白痴のような楢雄の姿を見ていたので、後半の楢雄の姿には首を傾げてしまいました。
後半も後半で、気狂いだったと言えばそれまでなのですが、楢雄の変化は、母親が妾だった事実を知らされたことが引き金になったのですよね。
六白金星読みました。文章が面白い。織田作の作品は初めて読んだんだけど、他もこういう感じなんですか。
26 :
吾輩は名無しである:2011/09/22(木) 20:39:15.15
晩年は筆がすさみますが(例えば土曜夫人とか)
巧みな語り口が持ち味の作家です
ギャグのセンスが太宰なんてもんじゃないですね。
>>25 六白金星はコミカルだよね
それなりに重い内容なのに笑って読める
織田作のなかでもコミカルな方かな
やっぱり講演会で腕にシャブ打ってから語り出したって伝説は本当なんだなあ。すごいギャグでしょう。
『六白金星』 感想
(1)
ほんとうに人物がすばらしく生き生きと感じられる。そしてなにより面白い。
下手に細切れに分析したりせずにそのまま楽しみたい作品だ。
この面白さはどこから来るのだろうか?
織田作は、『六白金星』(1946年3月)の同年、『可能性の文学』(1946年12月)にて、
将棋名人の阪田三吉を取りあげた。阪田は、村田英雄の演歌「王将」のモデルだ。
織田作は阪田三吉像を次のように書いている。
「無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくては
ひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった」
だれかに似ている。そう、『六白金星』の楢雄だ。
阪田三吉は六十八歳の一生一代の対局で端歩突きという「阿呆な手」を指すが、
織田作は「定跡に挑戦することによって、将棋の可能性を拡大しようとした」と評価する。
この阪田三吉のエピソードからはじめて、心境的私小説を最高のものとする定説の権威、
「定跡」にこだわる日本文壇の硬直性を批判し、「可能性の文学」を語り出している。
31 :
ほら話者:2011/09/22(木) 21:38:03.95
32 :
ほら話者:2011/09/22(木) 21:38:37.26
(2)
織田作は大の阪田ファンで、処女作が文芸推薦となった時、「この小説は端の歩を
突いたようなものである」という感想を書いた。処女作の時点から、
阪田の端歩突きのごとき定跡やぶりを自分の作品に意識していたのだ。
楢雄の一点集中型の愚直な性格、型破りな生き方、ひきこもり傾向、将棋へのこだわり、
これらは織田作が敬愛する阪田三吉から持ちこんだものなのだろう。
「小説を作るということは結局第二の自然という可能の世界を作ることであり、
人間はここでは経験の堆積としては描かれず、経験から飛躍して行く可能性として
追究されなければならぬ」として、嘘・虚構を排する私小説の定跡の束縛に抗おうと
する織田作は、「日常性の額縁をたたきこわすための虚構性や偶然性のロマネスク」
の導入を望み、「小説本来の面白さ」を取り戻すための可能性の文学を模索する。
楢雄のキャラクターは、阪田三吉から案出したとしても、決して伝記的阪田の像に
落とし込んだままにせず、織田作の自画像にも堕さず、みごとなまでに魅力的な
冗談のような虚構性に満ちている。
楢雄の境遇と占いで楢雄の星とされる「六白金星」の運勢との偶然の一致、
楢雄が読む本「将棋の定跡」の著者が六白金星で中年を過ぎてから三段になった
大器晩成の棋師だという偶然の一致から、楢雄は己の自己像を規定している。
「俺は一旦かうと思ひ込んだら、どこまでもやり通す男やぞ」と言う楢雄、
その愚直でいて大胆な「阿呆な手」は、しかし力強くとても魅力的だ。
33 :
ほら話者:2011/09/22(木) 21:39:14.14
(3)
楢雄は「将棋の定跡」を読み、たびたび兄・修一との将棋に挑む。
ラストの将棋勝負の前にも、「毎晩寝ずに定跡の研究をしてたんやぞ」と言う。
しかし、これは定跡の手を指すためではない。定跡に挑戦するためなのだ。
楢雄を白痴と疎む父・圭介や世間体を気にする母・寿枝に代表されるような
世間(文壇)に定着化した常識・定跡(嘘を排した私小説、日常性の額縁)に挑み、
小賢しい処世術を弄ぶ俗物的な修一の硬直化した定跡的強さに挑み、
たとえ勝負に負けるとしても、必ずや楢雄は定跡破りの「阿呆な手」を指し、
定跡に挑戦することによって、人間の可能性を拡大しようと試みるだろう。
なんとも胸のすく面白い虚構小説だ。
(了)
>>1乙
俺もスレたてしようとしたんだけど、拒否られちまったわい。
>>30-33 ほら話者の感想面白いw いい感想だなー。
35 :
ほら話者:2011/09/22(木) 22:15:51.81
>>34 Nさん
また慣れ合いって言われるから、批判やがつんと乗り越える感想もぜひ
これまるでミニハンさんへのエールに見えるぞとかw
>治美さん
狂気や実存を絡めた読みもっと展開してほしい読みたい
36 :
ほら話者:2011/09/22(木) 22:21:48.59
>園児さん
その狂気はこの作品でどう機能してるの?
>>35 つまらないと思ったら、貶すか黙殺するか、どっちかやるから
ご心配めされるなw
ほら話も過敏になりすぎだ
この話はコミカルな話として読むべきだったんですかね。
暗くて重い印象しか受けなかったのは、読解力が無いからかしら……orz
力技で鉄骨運ぶような話
針金でセーター作るぐらい固い
ほら話者もキャラ変してるぞ
こっちはコテ外して無敵
織田作『六白金星』を読んだ。
次々に場面が展開していく、というよりも、
場面がどんどん流れていく。
織田作之助の次の一手が読みにくいがゆえに
語りのリズムの良さとも相まって読者を引きつける。
作者がどう筆を動かしていくのか、ということは、
棋士がどう駒を動かしていくのか、にもつながるんだろう。
将棋が手の読み合いであるように、
この「六白金星」を読むことは、作者との対極かもしれない。
定石ではない意表をつく手で読者を煙に巻いてくるのか、
あるいは奥の手を用意周到に準備しつつ布石をうってくるのか。
(つづく)
>>35 可能性の文学ってさ、私小説的心境小説が、作家の身の回りの矮小な世界をそのまま
書いてるだけであって、「それで何がしたいのよ?」って言いたかったわけじゃない?それに対して織田作は、嘘や
虚構を持ってきて、文学の世界はもっと豊穣なものであると主張した。
小説の思想ってやつに、こんなことが書いてあるらしいんだけど。
「現実に興味がもてぬというのは、私は現実を信じていないからである。私が信ずるのは、現実の中に瞬間瞬間にあらわれる
真実だけである。嘘を書くのは真実をとらえるためである。嘘から出た真である」って織田作が言ってるらしい。
ほう。将棋に絡めて来るとはな
「夜更けに鏡を覗いてみると、表情が何となく凄みを帯びて見えた。
眉毛の薄いせゐかも知れなかつた。それで一層深刻な顔になつてやらうと、
眼をむき下唇を突き出すと、こんどは実に奇妙な顔になつた。」
この文章に織田作の筆を読むことができるんじゃないだろうか。
真剣な顔になろうとすると奇妙になる、というのは、
重くシリアスなタッチで描こうとしたらコミカルなものになった、
そういうふうに俺は読んだよ。
そういや確かに、織田作のアッポテンポなリズムのなかに、人間を深い闇に叩き落とすような
ものがあるなと思った。ポン、ポン、ポン、ポン、ズドーンみたいな。それまでいくらコミカル
でもズドーンに落とされるんだよね読者は。
たとえば、冒頭の楢雄の阿呆シーンも、「ふと狂気めいていた」で終わるし。
雪江が楢雄に背広買ってやるからと言うと楢雄はちょっと喜ぶんだけど、雪江が世間態の話をしたら
楢雄の途端に消える。「ははーん、こいつただ自分が可愛いから金渡したんだな」って楢雄は感じた
と思うんだけど。ここのシーンは、親子の絆にはもってかないで最終的に人間のエゴを書いているわけ
じゃん?
この織田作の冷めたは目は何なんだろう?ってワタシは考えた。そこで実存と絡めてもいいかなって思った。
実存は無理があるかもしれない。けど織田作にはこういう冷めた目はあると思うんだよね。
治美はコテ外すなよ
>>45 そのあとすぐに「イヴァンを真似たのっそりした態度がやがて表面に現れて来て、そしてある
夜楢雄は砒素を飲んだ」ってつながる。ここがメインでしょ。それまでのは、このオチの序章
でしかない。どちらかというと、コミカルなもののなかにシリアスなものを見てるんじゃないか
な?
49 :
吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 00:16:53.32
>>39 例えば、川島雄三監督作品でもある「わが町」のように
大阪庶民の貧しく、それゆえに不幸な結末に終わる人生を
生活への信頼と言う観点でユーモアも絡めて描いたのが
オダサクの作風なのだ、と言ってよいでしょう。
つまり、常識(定石)で考えたら悲惨な境遇も自身の才覚で切り開いていく。
この覚悟こそが彼の説く「可能性の文学」であり、
人間や人生の持つ無限の可能性に対する飽くなき挑戦でもあるのです。
である以上、道学者風の世情批判や深刻趣味に傾いて
読み解く必要はないわけです。
ただ、行間に滲み出る哀愁がその語り口の妙と相俟って
見事な美しさを醸し出しています。
何故、こんなにも素晴らしい作家が
世間的に(そして文壇的に)低い評価なのでしょうかねえ…
>>ほら話者
人間の可能性ってなんのこと指してるのかね?
虚構や嘘が人間の可能性を高めるってのを手っ取り早く実践しようとしたら、阿呆で複雑な家庭
環境に生まれた楢雄を、金持ちかなんかにしてハッピーエンドにしてしまえばいいわけじゃん?
だけど、この楢雄はギリギリ生きてるじゃん。このギリギリ生かすってとこが織田作の特徴でもあると
思うのね。このギリギリ感はリアルではあるけども。
これが人間の可能性を拡げるってことなのかな?
どー思う?
エゴやら人間の可能性やら言ってるが、そう言うお前ら自身はどーなの?ってか。
52 :
ほら話者:2011/09/23(金) 01:35:07.40
>>50 いやいや。この暗いベースの話を強引にハッピーエンドに持っていて終わると、
リアリティなさすぎのご都合主義的神(作者)の介入になっちゃって、せっかくの
人物描写が台無しになるだけでしょ。楢雄の人物像は人間味をなくしちゃう。
深刻なギリギリ感を笑いに転じるからこそ、楢雄の姿に、ただの悲惨に終わらない、
悲惨を突き抜ける人の可能性がちらつくのだと思う。
ブラックユーモア的に悲惨を笑い飛ばす力強さ・生命力を感じる。
たとえば、修一の縁談が破談したとき、自信を無くしたらしい様子の修一を見て、
ここぞとばかり将棋を挑んで負ける楢雄の描写なんて、明らかに笑い取りにいってる。
深刻さを強調したいのなら笑いはそれを弛緩してしまうから御法度なのにそうしない。
楢雄の下駄が将棋の駒の形に削られていて、「角」と「竜」の駒の字が彫ってあった
ってくだりも、楢雄のギリギリすぎる真剣さが逆にひどく可笑しくて、
楢雄が悲惨をものともせずに立ち向かう姿がどこか頼もしく、真剣すぎる阿呆さの前に
修一が気圧されて「さア来いと駒を並べはじめた。」で終わるラストはとても爽快だ。
楢雄の阿呆さ加減の極端な描写=虚構には、おれは悲惨を感じるよりも、
織田作が阪田三吉の「阿呆な手」に感じ入ったのと同じような、
なにかを突き抜ける可能性を期待したあたたかい視線があると俺は思うよ。
>>52 もちろんハッピーエンドにしたらつまらない作品になってた可能性は大。
>深刻なギリギリ感を笑いに転じるからこそ、楢雄の姿に、ただの悲惨に終わらない、
悲惨を突き抜ける人の可能性がちらつくのだと思う
たしかにそう。だけど笑いに変えたで終わらないところもある。
楢雄はラストのシーンで兄貴と将棋を打ったあとに、楢雄はレプラ療養所の世界に返るんだと思う。
「俺は世間カラキラワレタ人間ダカラ云々」の箇所がそう。楢雄は一度こうだと思ったら、それを
貫くタイプだから、レプラ療養所に返ると思う。
それを考えると、爽快なラストではない気もする。
ここら辺の受け取り方は人それぞれなのかなぁ。。
>なにかを突き抜ける可能性を期待したあたたかい視線があると俺は思うよ。
これにも同感。楢雄が愛すべきキャラになってるのも、織田作の楢雄に対する
愛情というか共感みたいなものがあったんだろうね。
54 :
ほら話者:2011/09/23(金) 01:58:51.10
>>42 >>45 アセンションさん
「六白金星」を読むことを将棋の対局に見立ててるのが粋だね
>重くシリアスなタッチで描こうとしたらコミカルなものになった
ってのは意図してなかった=失敗と見てるの?
55 :
ほら話者:2011/09/23(金) 02:08:06.44
>楢雄はラストのシーンで兄貴と将棋を打ったあとに、楢雄はレプラ療養所の世界に返るんだと思う。
レプラ療養所にちらつく死の影を悲惨と見るか
そこに頑なに飛び込む楢雄の阿呆さを悲惨と見るか
でもさ楢雄なら持ち前の頑固な阿呆さ加減でそんな悲惨も乗り切っちゃいそうな期待感がない?
>レプラ療養所にちらつく死の影を悲惨と見るか
死の影はみてなかったw見る人もいるだろうね。
この世間と絶縁してレプラ療養所で働くことに関しては、どのように受け取るかは
ほんと人それぞれな気がしてきたわ。
>でもさ楢雄なら持ち前の頑固な阿呆さ加減でそんな悲惨も乗り切っちゃいそうな期待感がない?
乗り切るよ。楢雄は生きてくよ。
(悲惨な死ってのもドラマじゃない?そういうドラマから見放されてるのが一般人でさ。
自殺が未遂に終わってるのも、楢雄は死にも見放された人間なのかもね、、
ってこれは考え過ぎか)
生かざるをえないってとこも人間だよね。
楢雄はただの阿呆じゃないよね。自殺したのも自分の罪に気づいたからだし。
「無垢の女を凌辱しようとしたのだ」これはマジなことで。この罪からは楢雄は一生
逃れられないような気がする。
ほら話者はなんで楢雄が自殺未遂したと思う?
57 :
ほら話者:2011/09/23(金) 09:04:20.93
>>56 自殺未遂のとこは悩める若き楢雄の混乱の極みだとおもう。遺書には笑わされたけどw
あれあれ、サリンジャーのライ麦に出てくる有名なやつ
「未熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、
成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」
無垢が穢されるのを憎むあまり死に向かうのは、未熟なるもののしるし。
でも自殺未遂エピソードを転機にして、その後の楢雄には以前のような迷いや不安は
みられない。ひたすら己の信じる道を突き進む。あの混乱を極みを突き抜けてこそ、
後半部のただ愚直に生きる楢雄の挑戦姿勢、人の可能性を広げる気さえする突出した
ある種の成熟にたどりつくのかもしれない。
私、遺書は「嘘ノ世ノ中ニハアキアキシタ」に注目したいな。楢雄の注目すべき性格だと思うし、ここの部分が自殺動機の要だと思うから。
59 :
ほら話者:2011/09/23(金) 11:36:00.09
世の中のいろんなものを我慢できない「嘘っぱち」呼ばわりするのは
ライ麦のホールデンも同じなんですよね
無垢なままとどまりたい
無垢な子供を守りつづけたいライ麦畑のキャッチャー
無垢な子供を守りつづけたいライ麦畑のキャッチャーの園児です。
なんか読みが進んでるね。
だいたい六白金星の感想出揃った?
キャッチャーは世界規模で子供を救う奴になるって決意する話だよね。
ほんとに世界の子供を救うんじゃなくてそのハートをもちながら、だらだらと生きるのを決めたんだね。
自我が大人になったんじゃなかろうか。
>>8-21 コピペどうもありがとう!
前のほうの書き込みのポイントは、
1)園児は伝家の宝刀「放蕩息子」をここで取り出し、
2)治美は「狂気」に焦点をあて、「実存」のテーマに絡め、
3)ニッパは「まともなのは楢雄だけで、まわりが滑稽」だとし、
「シェイクスピアの道化」のような存在だという。
4)19番は楢雄が蠅獲りに夢中になるシーンに「自我の葛藤」を読む
といったところかな。
>>24番は楢雄のイメージが前半と後半で変化することに注目
鈴木は「文章の面白さ」「ギャグのセンス」を語り
>>30-33のほら話者は、かなり力作の評で
将棋名人の阪田三吉が楢雄のモデルになってるとして、
この楢雄の「愚直でいて大胆な「阿呆な手」」は
この作品にも反映されていると見てるわけだね。
それが「小説本来の面白さ」を取り戻すための可能性の文学の一手だと。
で、
>>54ほら話者の質問に答える形でほかの評を取り上げると
39番の「暗くて重い印象しか受けなかった」という意見
28番の「白金星はコミカルだよね」という意見
この2つの意見が決して矛盾しない作品だと思うね。
作者の織田自身がどう考えていたかは別にして
ヤヌスの鏡のようにどちらとも読めるこの作品は失敗作じゃない。
で、
>>46番が語っているように、リズムとしてもそうかもしれない。
「ポン、ポン、ポン」と「ズドーン」のどちらもある。
シリアスかと思えばコミカル、コミカルかと思えばシリアス。
このあわいをうまく縫っていった作品じゃないかと思うな。
>>57-61のほら話者、ニッパ、園児は楢雄に「無垢」を見るわけね。
その意味では安吾の「白痴」を引き合いに出した治美もそうか。
57、58も楢雄の不器用さだったり真っ直ぐな部分が楢雄を自殺に追いやったという
わけだね。
楢雄の遺書を見て圭介が狂い死にしたのはなんでだ?
「嘘」というワードが親父に突き刺さったのだろうか?
楢雄の世間に対する強烈なアンチテーゼを、圭介は父親である自分に突き付けられた
ものとして感じたのか?
どう思う?
67 :
ほら話者:2011/09/23(金) 21:36:28.10
>>66 2年経ってるし直結してはいないんじゃないかと
>>66 タバコを吸いかけた父の手が震えているという描写、母が火を付けようとよして二人がはっとする様子、やっぱり突き付けられたという感じはあったのだと思います。
ただ、私もやっぱり直結しているようには読まなかった。なぜか、脳梗塞とかそういうの思い浮かべてたんですよね。なんでだろ。あとで、さらっと見直したけれど何故そう思ったかは分からない...
69 :
ほら話者:2011/09/23(金) 22:29:19.56
あの冷淡な親父が楢雄の遺書で狂うほど心痛めるとも思えんのよね
単にトサカにきて脳の血管くらいぷちぷちやったくらいかなぁ
自分に似ている事実を突き付けられた故でしょう
71 :
吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 23:23:45.66
狂疾の遺伝は父からのものだった。
それが父の狂死によって明らかになります。
計算高く、非情で、エゴイスティックな点は兄に
直情的でありながら神経的な点は弟にそれぞれ遺伝したわけですが、
当人は六白金星の宿命と思い込んで猛進する。
タイトルである「六白金星」とは、
正しくは「六白金星(的性向の男)」であり、
直接的には主人公楢雄を指している訳ですが
作者織田自身を暗示しています。
そもそも、楢雄と雪江の結婚生活なんて
織田とその妻である一枝の生活そのまんまですからね。
たまにロムりながら楽しませてもらっているものですが、一言感想をば。
この小説の主要なテーマはおよそ作者の意図かどうかはわかりませんが、テクスト中に
書き込まれている小説の名にヒントがあるように思います。
「性の研究」「正直者」「女の一生」「輪廻」『カラマ』「将棋の定跡」などです。
その中で、特に小説の下地になっているのは『カラマーゾフの兄弟』をはじめとするド
スト作品なのではないかと思いました。
ドストは家族の血の問題を広大なロシア的な観念の中に見事に小説として昇華させてい
ますが、織田作之助はドストが広大な大地の上に描いた絵画とは違い、小さな家庭という
日本的な箱庭の中でこの血の問題、いわば人間の本質的な運命、それは性であり、運命的
な宿命の問題を表現したのではないかと思います。[1/2]
主人公は初め『白痴』のムイシュキンを連想させます。それから家族の運命的血の問題
にたがいに悩ませられながら(淫蕩などはこれもドストの主題的な問題)、物語の最後には
ぼろ服を着て、自分の殻(ある種の思想)に閉じこもって、経済的に困窮したラスコーリ
ニコフのようになってしまいます。
ただ僕にはこの小説はこのようなドストの良いとこどりを並べ連ねただけで、まったく
面白味はなく、作者の気軽ななぶり書きで書かれた程度のものでしかないような評価しか
下せませんでした。あまりに早急に話は進みますし、結局は良いとこ取りの小さな世界で、
因果関係が明らかにされないまま風景を描いたに過ぎないと思ったのでした。
一度だけちら読みして書き込んだので、読み違いもあるかもしれませんが、感想の感想
を頂けると嬉しいです。[2/2]
ほら話者さんの感想に触発されて「可能性の文学」読んでます。
>>74 俺は因果関係が曖昧なまま話が進んでいくのが面白かったなあ。因果関係が曖昧ならいいってわけじゃないんですよ。そこらへんの匙加減が絶妙だと思いました。
>>74 ドスト読んでるとそうなるよなあ
それを乗り越えるギミックは特に見当たらないし。
ただ、因果関係は意図的に結んでいないんじゃないかな
というよりも因果を結ばない事で人間描写をしようとしている
着地点が設定できてないから読み終わっても釈然としないのだと思う。
ドストエフスキーか。
ドストエフスキーてながい話ばっかなのでよんだことないな正直。
雰囲気がよければながい話でもそうはおもわないんだが。
オダサクはその話のかっちりしてなさと箱庭的視界のせまさがいいんじゃないか。
ヘタウマのうまさってのがあるように思うし。
日本人なら共感できるっぽい味があるように思うし。
昨日、本屋で可能性の文学とダールグレンと肉子ちゃんとしそちずvol1を立ち読みしたけど。
結局、買ったのは「あの日見た花の名前を…」(上)だった。
これらは何がちがうのかな。
俺の手元に残るのはなんだかこの手のものばかり。
すげーなんにもなかった。
あの日…(上)、よみおわった。徒労。かるく脱力。
だがそれがいい。
しかし志賀的私小説、心境小説全盛期のこういう批判文章を見ると、いかにそれらが「心境小説」ではなく「自意識小説」だったのかがわかるな
自分の心をさらけ出すのだから、そりゃ誰しもいい顔はしたいだろ。作家なんて結局は人気商売なんだし。
まんまこれ。
r ‐、
| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l
|ヽ ~~⌒γ ⌒ ) r'⌒ `!´ `⌒) よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカが
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ ⌒~~ / 「誰もやらなかった事に挑戦する」とほざくが
│ 〉 |│ |`ー^ー― r' | 大抵それは「先人が思いついたけどあえてやらなかった」ことだ。
│ /───| | |/ | l ト、 | 王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は作れないぞ!
| irー-、 ー ,} | / i
| / `X´ ヽ / 入 |
定跡が何故定跡なのか、そこに敬意を払わない傲慢たらしさは
歴史に対する冒涜だ。
>>83 だからと言って(その時代の)王道ばっかになるとつまらないってのはあるわな
王道だけでいいなら御伽噺だけあればいい
歴史を冒涜してもいいと思うがな
自分でその責任取れば。
坂田なんかはちゃんと負けてる。
>>84 小説が王道であった時代なんてとっくの昔に過ぎたよ
あ、そうですか
文脈が通じていない会話でした
楢雄が将臣君とかぶってしょうがない
>>67 2年置いて、その間のことを一切書かないというとことか、因果関係をはぐらかす
織田作の手法なのかね。宙吊にしたまま物事がポンポンと進んで、その調子でラスト
までいくからさ。読後がほろ苦い。
小説内の時間としては2年間。行としては、空白の一行(時間の経過の象徴)を含めて4行。
この空白の2年間という時間をどのように読むかは読者の勝手。
自分は、狂い死ぬために2年間を要した、と考えた。そこは自由。
けども、たった4行しか空いてないわけだから、遺書と圭介の死をつなげて読ませようという
織田作の意図は感じられるのではないだろうか。
こんな風に読み方で意見を分かれさせるのが目的な気がするけどな。
>>91 だね!
ならば、ここは織田作に踊らされて、意見を分かれさせて論じあってみる、
というのも一計。
読者の読み方を誘導するもっとも「王道」なやり方は、ある特定の自分や人間関係を美化して、あるいは肯定的に描くことなんだよな。
ここで「可能性の文学」とこの作品を比べると、「可能性の文学」はある特定の棋士をやけに肯定的に書いているのに対し、
「六白〜」はどのキャラクター、人間関係についても、肯定的に書いているとは言いがたい。
とはいえやっぱり樽男は作者自身のある部分を重ねてるんだろうけど。
>>92 「可能性の文学」の方がおもしろかった。
>ある特定の自分や人間関係を美化して、
×=自分
○=登場人物
>>93 作品よりも評論の方が面白いというのはありがちだね。
売れない芸人にかぎってお笑いの論を語らせたらすごいしな。
笑えない客が悪い、という意見にも一理あるとは思うが。
立川談志だなあ。
若いうちに書いた落語論を否定していたが、最近年食ったからかお笑い論よく喋るようになったな。
どうもお笑い論はよくわかりません。
話の文脈のギャップとか貶める存在者でもって笑いをとるってのが定石なのでしょうか?
98 :
ほら話者:2011/09/24(土) 13:31:39.50
>>90 ああそこね。1行空白入れて2年後のすぐ下に圭介の死。
小説家はそういうとこはまず意識的にやってるだろうね。意味付けは読者におまかせ。
俺は区切って読んで欲しいのとつなげて読んで欲しいのと両方だと思った。
直結しないで、でも多少つなげて読んでみそって感じかな。
遺書読むくだりでも、
「圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈がし、頭の中がじーんと鳴る」
と圭介の狂気と死の複線ぽいのが入ってるしね。
アバタもえくぼ。
誰が貶められてるんだい?
次のお題「可能性の文学」にしねえ?
アバターは緑。
「可能性の文学」が面白いという意見がちらほら見えるね
小林秀雄の「私小説論」
横光利一の「純粋小説論」
この辺と絡めながら読んでみるとワクワクするぜ
来週はそれでいってみてもいいなw
それなら俺の文ではどうだ?
「秘密園子 2ch」か「まぼろしの図鑑 2ch」でググッてくれ。
園児は勇気があるなぁ
誉めてつかわそう
だどもそれは創作文芸板でやればよくね?
106 :
ほら話者:2011/09/24(土) 14:10:06.71
ニッパさんは楢雄が「道化」の役割だと指摘してるけど、俺もそう思う。
道化=トリックスターなんだよね。愚者でかつ賢者。秩序をやぶり、
物語を引っかき回すいたずら好き。
>>72 >>74が指摘してるようなドスト的な重く暗いテーマ、狂気、家族の血、
宿命、親子の確執、妾の子、自殺、淫蕩、凌辱、白痴、貧困、などが出てくるけど、
あんまり深く追求されてはいない。
>>74はこれを
「ドストの良いとこどりを並べ連ねただけで、まったく面白味はなく」
として、どうやら消化(昇華?)不良みたく感じたみたいだけど、
俺はこれらを、トリックスターが嘲りながら駆け抜けていく舞台装置と思ったな。
深刻な状況を笑いに転じて無力化しながらどんどん進み続けるの。
>>106 いいね!
そのトリックスターは楢雄じゃなくて織田作の方だと思うけどな
道化ってのは、「自分が笑われていることを知りつつ、笑わせる」というのが
必要条件。
となると楢雄は道化ではない。自分が笑われていることに気づいてないから。
トリックスターなら笑わせる必要はないだろ。
やりすぎて周囲を引かせるのもトリックスター。スサノヲみたいに。
そもそも、「他人は自分をどう見ているか」より自分の行動を優先するのがトリックスターではないかね。
樽男だって兄ほどに「他人は自分をどう見ているか」気にしていたら、蝿を捕まえるのもやめたろう。
変わり者は異能者にちかしい者で、話の鍵を握っているトリックスターなのかな?
志賀的私小説、心境小説は結局は「自意識小説だ」と書いた。
横光は
>>107でまさに「自意識」という単語を用い、当時の文壇?を批判している。
でもこういう「自意識」ってえのは自分では気付かないものなんだよ。
現代風に言えば「心境小説って要は自己陶酔やん」って話なんだと思うが、
自己陶酔してる奴ほど「自意識過剰だ」と気付かないものだろ。
「私は○○という作家を敬愛しているのであり、自己陶酔などではない」
などと言って来るだろうな。
現代でもよくあるぱたあん。
>>111 異能者って何。
話の鍵を握るかはその話によるだろうな。
ご意見くださった方ありがとうございます。出かける前に少し書いてきます。
>>108 作者自身がトリックスターだというのは同意できるかもしれません。
なぜなら、作者は僕の前に申しあげました、小説の≪ネタ≫をほかの偉大な小説の表題を
出すことで、自分の手の内を前もって恥ずかしながらも開陳してしまっているからです。
手の内を見せておいて、演目を演じるというのは、いわば初めから、俺は下種なことをや
っているんだぞ、というものの表明をしているようなものだからです。あるいは偉大なも
のから掠め取ったオリジナルでは、これはありませんよ、と言っている節はあるのです。
ただ主人公はトリックスターじゃありませんね。超まじめな人間、ラスコやアリョーシャ
のような人物です。だから壁にぶちあったったのです。
うーん、樽男ラブな奴らばっかだな。
そんな樽男に嫉妬。
トリックスターはラブ対象に限らないけどな
ただ作者の意図がどうであろうと、そんなものは読者からすればまったく意味はしないの
です。読者は純粋に小説の中身を吟味するだけです。そこに前もって降参の狼煙があげら
れていようが、これは深刻なものでもなく、気軽な読み物であるから、手痛い批判はしな
いでくださいなどというものは全く関係しないことです。逆に僕はそんな片手間に書かれ
たようなものを読まされたら時間を浪費したじゃないかと憤慨するタイプなのですからw
まあ、これは、そんな奴の感想なわけです。
作者が小説をかく動機は、俺をみて褒めて褒めて褒めてつー願望じゃなかろうか。
その点、樽男は破滅タイプの典型で褒められやすいタイプだよな。
ドブネズミみたいに美しくなりたいらしい
作者は真の意味で、この主人公およびこの小説の真髄の外側で操作しているにすぎず、
且つ近づくことができないまま眺めているといった、僕の印象です。
もう少ししたら出かけて、また夜にロムります。ご意見あったら遠慮なくお願いします。
>>117 まあ「下種なものを書く」自覚はあった気はするな、織田は。
「デカダン」とか自分を樽男に見立ててるところはあるだろう。
>>118 「不良が更正しても普通、偉くない」by両津勘吉
鈴木なんかは時々褒められてるか
この小説の真髄の外側?
メタな感じっすね。
>>121 じゃあ、樽男が始原なし目的なしの不良者としての漂流(吹き溜まり)からビシッと脱け出したか定かではないけれども、
兄たち家族の元へ帰還したってのはどう?普通になった?
>>106 >俺はこれらを、トリックスターが嘲りながら駆け抜けていく舞台装置と思ったな。
深刻な状況を笑いに転じて無力化しながらどんどん進み続けるの。
楢雄こそ日常生活を深刻化させるファクター。愚直で言葉足らずなやり方だけども、日常生活
に潜む闇を浮き彫りにしている。誰もが素通りしていく穴に、いちいち楢雄はズボッと落ちる。
織田作は、楢雄が落とし穴にハマる様を狂気だとして描写してみたり、滑稽に描いたりはしている。
けども無力化はしていない。読者に放り投げるような形で問うている、と考えるべきではないか?
オチが秀逸だと思うがな。
兄は将棋なんて言い訳で樽男の説得が目的だったのに、やって来た樽男にしてみれば将棋が最重要な事だった、と。
>>124 意味が分からん。
書き方によるんじゃね。
主人公は最後で、将棋が重要ではなかったと思います。
彼には、彼の人生が、彼の定石であることが重要であり、宿命なんだと思います。
彼は定石どおりでしか生きられなく、したがって世の中はすべてが定石ではありませんので
生きづらくあるということです。
おまけに主人公は小さな将棋という定石の中でも、成功できないかわいそうな人間ですね。
作者自身の小説家としての無力感も意識的にか、無意識に出ているのかもしれません。
もし樽男が実在していて、
>>128みたいなこと言っても「違う」と言うと思うけどな。
まあそんな解釈の仕方もあるとは思うが。
将棋はそら重大事だ。
ロジックの塊やから。
牛に咬まれ日夜ロジックに臨むなんて、樽男はなんていい人生を送れるんだろう。
主人公がどう思うかは重要ではないです。
この場合、作者が、意図として、主人公の運命に照らし合わせて、将棋の定石という
仕掛けを使っているってことです。主人公はその操り人形ですから、本人の自覚は全く関係ありません。
ここで「無意識」という単語が活用できると。
「樽男くん、君の意識では将棋が重要だったのは確かだろう、だが、私は君の無意識の話をしている。君の無意識は将棋そのものではなく、その定石だったのではないだろうか。
君が九星に拘っているのも、君の無意識が「定石」を必要としていたからではないだろうか」
小説のキャラクターに無意識なんて読み込んでも無意味だと思うけど。
繰り人形の人類から踏み外した感、がやたら楽しくて俺らは文学をよむんじゃないのかな?
>>128は違う感じだねえ
飛角を足に付けて自由に飛び回りたいぐらいの意味しか無いんじゃないかねえ
>>131 「将棋の定石」も「九星の宿命」もそうだってなら、まあそういう読みはありかもなあ、これだけ証拠があるなら。
そしてそれはオダサク自身の話である、と。
いい読みしてるね、チミ。
熱病にとりつかれた男を前にして、あっと思うし、こりゃ何言っても聞かないなと思うし。
修一とちがい、樽男は普通じゃなかんべ?
ちなみにオダサクは「可能性の文学」において「定石」から外れた坂田の初手をこの上なく賛美しているが、
これだって「オダサクの意識」の話であり、「オダサクの無意識の話をしている」と言えばOKになるな。
「織田さん、あなた自身がどう思うかは重要ではないのです」
と。
トリックスターという言葉の定義が必要だな
106の言う狂気、家族の血、 宿命、親子の確執、妾の子、自殺、淫蕩、凌辱、白痴、貧困
は楢雄が生み出しているもの。楢雄がいなかったら素通りされてるよ。
楢雄は嘲るどころか、それに直面した挙句自殺までしている。
>>109 >トリックスターなら笑わせる必要はないだろ。
やりすぎて周囲を引かせるのもトリックスター。スサノヲみたいに。
トリックスターというのは小手先の技で人々をだまくらかして、突進するというイメージだぞ。
サッカー選手がドリブルでゴールまで直進していくイメージ。
確かに、やりすぎると引かれるけどな。
スサノオはトリックスターではない
作中人物や作家の無意識を見ようとすることよりも、得体の知れない熱病をうかされ何かのロジックに熱中するつーことに
おまいら興味がわかないか?
自殺をこころみ失敗した後の樽男は前の樽男と同じだろうか?
樽男(前)→契機→樽男(後)じゃね?
>>136 修一も最後にはそう思ったみたいやね。
「やがてこの男にはもう何を言つても無駄だと諦めながら、さア来いと駒を並べはじめた。」
>>138 あらそうなの。
俺大学の講義でそう習ったからそういうもんだと思ってたわ。
142 :
ほら話者:2011/09/24(土) 15:44:46.46
>>117 うーん。そういう言い方しちゃうと、
落語聞いても、ドスト的葛藤の掘り下げがないぞと怒っちゃうような
ちょっと見当違いな気がするぞ
自分が理想とする作品の型に当てはまらないからだめって程度の印象批評は、
要は個人的な好き嫌い言ってるだけで、あんまり説得力のある批判ではないよ
まあ感想だからいいけどさ
>>140 この作品にある文章だけなら変わった感じはしないなあ。
個人的な妄想を膨らませるならありだけど。
言い方が悪かったかもしれません。読み方の違いだと思います。
つまりは、
主人公の本質では将棋の勝負は二の次なわけです。
なぜなら別に勝負は成り行き上のきっかけだけで、相手から持ちかけられて、
将棋で向かい合うという選択しか残されていなかったということです。
転がり込んできた偶然の結果、将棋に執着したに過ぎない。
ただいざ勝負になれば、それは重要であったということはできると思います。
>>144 >この場合、作者が、意図として、主人公の運命に照らし合わせて、将棋の定石という
>仕掛けを使っているってことです。
作者はどこいったの。
>>142 理想的批評の形でないから
自分は好きではありませんってハッキリ言ったらどうなんだ?
>>138 あぁ、神話に登場する秩序や権威を壊す人物のことをトリックスターというらしいね。
それはどちらかというと、姑息なやり方で壊す、人物のことを指すんじゃないかな。
スサノオは破壊神として崇め奉られる人物でトリックスターではないなぁ。。
でも確かにきっちょむさんとスサノヲは別な気はする。
ロキあたりだときっちょむさん+スサノオになるか。
「信仰されているかどうか」の違いか。
きっちょむさんは愛されてはいるだろうが信仰されているとは言えないだろう。
でも「他人からどう思われるかより自分の言動を優先する」って定義なら、
他人が自分を信仰するかどうかもあまり関係ないのかもな。
151 :
ほら話者:2011/09/24(土) 16:04:21.52
トリックスターってヒーロー像の一種だよ神話でも
ヒーローと思うかどうかはあなた次第
>>151 ウィキペディアによるとゲゲゲの鬼太郎のねずみ男もトリックスターらしいが、ヒーローか、あれ。
聞いても仕方ないぞ
こじつけの上手いタチではなさそうだから。
155 :
ほら話者:2011/09/24(土) 16:11:22.93
ねずみ男って大ブレイクして当時の若者たちのヒーローだったんだぜw
分かりやすいのは、孫悟空あたりかなぁ
ヒーローつったら復讐者とかアンブレイカーとかじゃね?
あ、ダークヒーローか。
まぁトリックスターはヒーローの一面もあるだろう
なにしろ日頃散々な目にあわされてる民衆が、トリックスターの鮮やかな手口をみて
溜飲を下げる、ということもあるだろうから。
スサノオは、農耕社会における自然の破壊的な側面を象徴した人物と、教えられたな。
台風やらなんやらきたら田畑がだめになるだろ、あの台風みたいなもんだよスサノオは、と。
破壊神なわけかな。
一度せかいを全部壊してしまう神様。価値観的にも物質的にも。
弥勒菩薩とかインド神話のカルキみたく。
トリックスターっていうのを神話学や人類学のタームとして出すんなら、
中那尾楢雄という主人公のキャラクターだけに焦点をあてるのではなく、
小説の中の「構造」の中でトリックスター性を述べる必要があるだろうね。
ちなみにトリックスターを意識的かつ方法論的に使ってるのは大江だけど、
その元は「中心と周縁」の山口昌男だから。
血、宿命の話も出てたね。
「六白金星」というタイトルへの着目(
>>71)
父から受け継ぐ宿命としての狂気の血(
>>72)
占星術と宿命ということでいえば、園児は「放蕩息子」ではなく、
ここでこそ「ディザスター」を取り出したほうが良かった気はするw
トリックスターって元々はユングじゃなかったか
>>163 ユングのほうは俺はよく知らないや。
構造主義的に考えるのがデフォだという認識を俺はしてたよ。
山口昌男の元はレヴィ=ストロースからかな。
「可能性の文学」になだれこむのはいいんじゃないかな。
出題者次第で。
あとに控えてるのはムー大陸の「不良少年とキリスト」。
無頼派つながりになるね。
>構造主義的に考えるのがデフォだという認識を俺はしてたよ。
これ意味がわからん。
トリックスターは構造主義ではないが。
まあ、トリックスターは秩序やルールを破壊したり揺るがしたりするってのは大体共通なわけだから、
楢雄がトリックスターなら、どんな秩序やルールを揺るがしたのか、って話をしないといけないってのは同意。
ここで治美だかニッパの、「最初は楢雄がおかしい人だったんだけど、やがて楢雄以外の人がおかしく見えてくる」って
感想になるんじゃないのかい。
>冒頭、楢雄の気狂いじみている書き出しにも関わらず、家出後先生とのやりとりのくだりや精神科医の登場などを経て、読み進めていくと逆転現象が起こるように描かれていた。まともなのは楢雄だけで、まわりが滑稽。楢雄は多分、異質なだけなんだろうな。
>普段は阿呆のように暮らしているが、触れにくい真実をズバリ指摘してのける様がシェイクスピアの道化にそっくりです。
とか。
この「逆転現象」が楢雄のトリックスター性だ、と。
そして俺個人は楢雄がトリックスターだとはあんま思えなかった。
「逆転現象」は感じなかったなあ。
ちょっとコミュ障的な世間からずれた男が大人になっても最後までずれたままでした、というお話。
で、楢雄と他の人たちはどこがずれていたのか、って言うのが、最後のオチによく出てるなあ、と。
こういうコミュニケーションのずれが楢雄にはずっとあったんだろうな、と。
言葉を覚えているからって会話が成立しているとは限らない。
構造主義的に見た場合のトリックスターってのは
秩序を乱すもの道化として周縁から中心のほうにやってくる異質な存在。
楢雄をそういうトリックスターとして見る場合は、
楢雄によって乱される秩序ある中心世界がなきゃいけない。
しかし中那尾家という家そのものが乱れているわけで、
楢雄のトリックスター性が作品の中で発揮されていないんじゃないかと思う。
妾から戸籍に入ったり、父が狂気にやれれていたりね。
でも妾がいる父からすれば、そういう中心ではあろうなあ。
それが楢雄の行動ではなく、妾から戸籍に入ったりするのは中心が乱されるってことになろうな。
家の話なら、戸籍に入れてもらうよう尽力した母もトリックスターってことになるのか。
まあ人間誰しもトリックスターなところあるしな。
人間は「寄らば大樹の陰」だけで動いているわけではない。
レヴィ=ストロースの構造主義ってのは神話を断片化させてごちゃごちゃにおいて、その中から二項対立を見つけるという手法なんだが、
山口はこの「断片化」という過程を無視しているんだよな。
その代わりにユングの元型を持ってきたのか。
レヴィ=ストロース自身が「構造主義というのは何度も実践してやっと身に付けられるもの」と言ってたんだが、
山口はユングの元型理論を援用することで「わかりやすい構造主義」を作りあげたのかもな。
山口の構造主義はブリコラージュではない。
>>172 そりゃ逆だろ
アプリオリな思考の形を例証するものとしての神話だろ
ごちゃごちゃになっているようでそうでないといいたいのが構造主義
二項対立は見つけるものではなく、そうなっている、のだ
まとめ。
>>166のような「逆転現象」を感じた人にとっては楢雄はトリックスターかもしれない。
「滑稽なまわり」というのは、「妾の子だから結婚できない」とする兄や、
「背広も着せない母親だと言はれたら、どんなに肩身が狭いか判りませんよ。」と言う母などで、
「世間様の噂を気にする人たち」なわけだ。
実は現代でも大体の人間がこうだ。
しかし、「他人にどう思われるかより自分の行動を優先する」楢雄はそうではない。
「世間体の気にする普通の人」が滑稽なのか、「世間体を気にしない楢雄」が滑稽なのか。
こういった「逆転現象」があった、というわけか。
まあ楢雄に何かしら感情移入してしまったから、そういった「逆転現象」が置き、
「世間体を気にするのが常識」という目に見えない「秩序」「中心」を乱すことになったのだろう。
それなら楢雄はトリックスターでもええと思う。
ほんと「それだけに書物について自分の視点を押し付けるのは簡単だという話。」って話だ。
>>173 違う、手法として、だ。
レヴィ=ストロースは、さまざまな神話の部分をカードにして(神話素)、わざとカルタのようにばらばらにおいてから、
二項対立でそのカードを構造的に組み替えていった。
この作業は一種のブリコラージュだ。
つまり、冒頭から終わりまで、あるいはどこそこ地方の神話であるという情報、設計図をわざと神話からはぎとって、
エンジニアリングではないやり方で解釈しようとしたわけだ。
要は、どんな概念をどういうふうに用いようと
具体的に「六白金星」に落とし込めればOK!
何がOKなのやら
>>175 ここ本題じゃないから深追いしないけど
構造的に組み替えるのではなく
構造があるからそうなるとういのがほんと
手法というのは人類学的に神話を料理することであって
下位の因子に分解していくこと自体は単に方便
確かに作品内においては、アセの言う通り、楢雄の言動が原因で、何らかの秩序や中心が壊されたり揺るがされたりはしていない。
人間に渡すべきではないルールがあった火をちょろまかして人間に伝えたなんてことはしていない。
しかし、楢雄に対し何かしらの感情移入をした読者は、「まわりの普通の人が滑稽に見えてくる」という「逆転現象」が起きた。
彼ら自身の頭の中にあった「世間体を気にするのは常識」という秩序や中心が揺るがされた、と。
作品内ではあくまで秩序や中心が揺るがされるシーンは明記されていないが、そういった読者の頭の中で、それは起きたのだろう。
>>178 うん、別に俺は構造主義の理念を話しているわけじゃない。
レヴィが実際に学生達とやっていた「構造主義手法」について語っている。
>>178 >構造があるからそうなるとういのがほんと
そうだとレヴィが解明しようとした構造は見えてこない。
エンジニアリングの設計図こそが、最初からある構造を見えなくしているのだよ。
レヴィだってその構造は当該文化に属する人々は無自覚なものだと言っている。
あれだよ、物理実験をする際には、それについての理論を一切忘れて観察しなければならない、という奴だ。
それについての理論を頭に入れたまま観察すると、そうではない反応を見落とす。
ある部族集団で語り継がれてきた神話とほかの部族集団で語り継がれてきた神話を
くらべて同じ要素を抜き出して、ほらここが同じじゃん!つってたのが神話子?神話素?
>>180 >構造主義ってのは神話を断片化させてごちゃごちゃにおいて、その中から二項対立を見つけるという手法
手法と理念は別ね
それならOK
レヴィ:べつに私が考え出したのでなく人類はそう考えるという証拠を拾ってきたまでです
「可能性の文学」も面白い。特に終盤の小林秀雄による志賀直哉論に関する論考が面白い。
そこまでしか読んでないけど。全部読み終えたらまた改めて感想を書きたいと思います。
神話つーか語りつがれたもんには、なにがしか人類で共有してるもんがあるんだね。
人類が背負ってるなにかだね。
俺はそれを文学と名付けよう。
俺はキリストものがよみたい気分だ。
>>179 作品内ではなく、読者に揺らぎを与える役割での「トリックスター」ね。
>>185 じゃあ俺も「可能性の文学」読むぜ〜。
人はみたいものをみる。
みたくないものはみえないよ、大概。
物理的にも可視範囲のスペクトルしかみえないし。
ゆらぎといえばさざ波。
さざ波の漂流ってのがあってリップルドリフトかな。寄せては返すちいさなインパクトがくりかえされる。
その漂流が停滞もしくは回遊してる潮溜まり(吹き溜まり)がものとしての不良が押し込められた先。
どんなに漂おうとその始原なし目的なしの潮溜まり状態から脱け出せない。
波の差分から時間を進めてくってなんかあるよね。いくらかステップを刻んでは差分につぐ差分で波を漕ぐみたく。
その吹き溜まりから大きな潮流に乗り出したのが樽男だね。
人類のトーテム装置から脱け出してさらに人類のトーテム装置の代替わりを目指す存在者[異能者]になれたんじゃないかな。
次のレベレーションを期待するつーかなんか異質な変異体。
変異体と普通体との対峙、ある場合は邂逅が帰還。
放蕩息子たる変異体は迎えられ手厚くもてなされる。
で異能者たる変異体はウォーロックの大車輪つー輪廻を為す、もしくは輪廻を打ち破る武器で戦争を起こす。
修一と樽男の将棋を介した勝負はまさに人類の存亡を賭けた戦争なんだ。
その対峙が人が帰っていくことにつながる。破壊と再生のプロセスを経るっつー。
そこまで話ひろげなくても家族集団の破壊と再生つー話でもいいけど。
つまり要は家族の話なんだね。
ブレイク家族のブレイクしたまんまでも家族なんだっつー再認識を経て、おのおのが再生してくっつー。
家族は各人バラバラのようでいて家族を相手にしていきていく。
>>183 ちがう。そもそもそういった神話を断片化してごちゃまぜにするわけ。
「この神話素とこの神話素は別々の部族だから」なんて考えないようにする。
>>184 >人類はそう考えるという証拠を拾ってきたまでです
うん、そう。
その拾い方が「エンジニアリング」だとだめ、って話。
「エンジニアリング」は作り手の目的が関与するから。
レヴィ「私は神話の小道である」
しかし
>>184の言うように、「構造主義の構造なんてレヴィが恣意的に作りあげたものだろう」という批判が昔からあるのは事実。
だからレヴィもこのような発言をしたのだろう。
>>184がそう言いたい気持ちもわかる。
構造は、人類は、たとえ無意識的にであれ、そう考えているものである。
動物も物陰にかくれる獲物が居た場合、見えてる部分から見えない部分を推し量って存在を認識してるらしいね。
生存のため生物的に身についたスキル。見えないものを想像で見ちゃってしまう。幽霊もその類い。
動物も幽霊見ちゃったりするんだろうか。
動物も構造を類推したりするんだろうか。
見えてる部分から見えない部分を推し量って想像する全体像に固着しているのが人間。
いや、楢雄をトリックスターというのは無理があるでしょう。
トリックスターが周辺に位置するもの、という指摘が出たけども。
それは精神的に中心地から脱却している、もしくは一段階上にいる、という意味
でもあると思うんだよ。
楢雄は別の世界にはいるけど、巻き込まれてるよね。批判するなんていう精神的
余裕はないよ。
ただ、自殺した後は、そういう世界を拒絶したところで生きていく、という選択はした。
それは中心地を壊すとか、批判するとかではなくて、違うところで生きていこうとしただけ。
ちなみに、道化だって体制内に取り込まれてるけどね。王室から雇われているというか飼われている。
王様の本当に痛いところを突くと、ムチで打たれたりして罰が与えられる。
本当に痛いところは突かないでうまいこと世渡りしてるよ。
楢雄は体制内に取り込まれないようにしている。
僕は主人打はトリックスターではないと明言してます
>>199 君を批判しようとしたわけではないよ。
ちなみに主人打は主人公だよね?
>>200 ごめんなさいw
直接書き込みをしようと、急いでキーを打っていたら、たまたま間違ってクリックが入ったようですw
実は最近までデスクトップを使っていて、ノートに替えたばかりなのです。
ノートで打っていると、手首のあたりで間違ってクリックしてしまったりしませんか?w
気にしないでください。
僕は主人公をトリックスターだと明言していましたが、よくよく考えてみれば、確かに明
確な文学的知識は僕にはないので、それが僕の認識するトリックスターが実のところのト
リックスターであるかはわかりません。
コテの方が上で、大江健三郎とトリックスターについての言及をされてますが、実は僕も
大江のとある著書にて、このトリックスターなるものの存在を認識しているにすぎません。
さらに僕は構造主義なるものについても全く知るところはありませんから、その定義付け
については共通の認識のもとに発言しているかは怪しいと思いました。
ただ僕の認識するトリックスターは語源にもある通りの、詐欺師的要素をもって、他者を
ある意味でおとしめる役割を演じていないとそう呼べないのではないかと考えています。
ですからこの小説における主人公はトリックスターではないと思うに至っただけです。
(つづき)主人公はまっすくに自分の人生に向かっているだけで、他者に関してはむしろ
無関心のように思われます。でも、構造の問題について発言がありますが、トリックスタ
ーなるものが、小説の構造上において、その登場人物の主観的意識によらずとも、トリッ
クスター的な位置付けにあれば、それをトリックスターであると呼べるのであれば、今一
度読み直してみて、考えを改める余地はあるのかもしれないとロムっていて思いました。
でも、小説的にはこの小説はつまらないと思われますので、もう一度読みたくはないだろ
うとは思いますが。
間違いお粗末でした。
72/74にも見てもらいたいんだけど
織田作に「私の文学」ってのがある。青空文庫にあって超短いから読んでみるといいよ。
そこから抜粋
私は時に傲語する、おれは人が十行で書けるところを一行で書ける術を知っている――と。しかし、こんな自信は何とけちくさい自信だろう。
私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待っているのだ。十行を一行で書く私には、私自身魅力を感じない。
しかし、やがて十行を何行で書くか、今のところ全く判らないという点に私は魅力を感じている。
これは織田作之助という作家の方法を考えるときに役立つと思う。
カラマのテーマでも実存でも何でもいいんだけどさ、そういう重いテーマを織田作はさらっと写し出しているとは思わんか?
72/74にとっては、ドスト読んだ方がよほどいいと思うだろうけどさ、んで実際にそうかもしれない。
でもそういう重いテーマを、楢雄の阿呆な行動のなかに、楢雄の周囲の人間が発するさりげない言葉のなかに、うまく写し出して
いると思うけどな〜。
204の続き
んでそれをコミカルな語り口のなかに、ふと叩き落とすかのように重いテーマを
放り込んでくるのも巧いと思うよ。読ませるな〜って。
寝る前にレス見てます。
ちょっと疲れてますので十分に理解しているかは自分でもわかりませんが、
なんとなく作者の意図するところはわかります。
ただ僕はこう考えるんですが、小説というものは総合的な学問であり、
総合的なエンターテインメントであり、総合的な芸術であらねばならないと思うのです。
これはあくまで僕の理想ですから、一般的な定義ではもちろんありません。
そこでここで書くには十分に行数が足りませんから、明日また読んで見て書くかもしれませんが
一言だけ。
僕にとって織田作之助の小説にはやはり足らない部分があるんです。
簡単な文で書いても、僕が素晴らしいと思う作家はほかにいますが、織田の作品には今のところ
僕の感じるところの素晴らしい、賞賛すべき文章の総合は見て取れてません。
ただもう一度詳しく読むか、他の筆者の小説を読んで考えを改める余地はあるかとは思います。
急いで書き込んでいるので、間違っているかもしれませんが、とりあえず書き込んで寝ます。
207 :
ほら話者:2011/09/25(日) 02:06:26.32
トリックスター説は反論多いね ちと自論擁護してみよ
深刻な状況を突き詰めてのたうちまわって葛藤してなんぼの、
いかにもドスト的、破滅型私小説的な文脈が置かれていて、
でもそこに楢雄のキャラクターを主人公として放り込んだもんだから、
すごく真面目に葛藤したら笑い取って深刻の底が抜けちゃいましたw
みたいなすごい破壊力がある
愚者にして賢者、破壊神にしてヒーロー
この配置はトリックスターだと俺は思ったなぁ
ドスト読んであの遺書書いたのにはすごく笑えた
それこそ、元のドスト的・破滅型私小説的な葛藤一途の文脈秩序にこだわりを持つ人は
圭介のごとく頭の血管ぷちぷちしそうなくらいの破壊力
他の私小説に楢雄を放り込んだらひどいことになるだろうなぁ
>>207 なるほどと思った
もう一度読んでくる
遺書のとこはね、織田作の失敗じゃないかなと思ってる。
なんとなくだけどね、織田作は笑わそうとしてないのに
図らずも滑稽になってしまった、という感じが否めない。
とりあえずもう一度読みます!
>>108 >道化ってのは、「自分が笑われていることを知りつつ、笑わせる」というのが
>必要条件。
>となると楢雄は道化ではない。自分が笑われていることに気づいてないから。
シェイクスピアの道化に関して、多分これは必要条件じゃないと思います(変遷はありましょうが)。fool、つまり馬鹿。だからこそ、通常指摘し得ない事実も指摘できる。という感じですね。
ほら話者さんの
>>207にある言葉、愚者にして賢者が正に私が使った道化のイメージそのものです。
>>98 >「圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈がし、頭の中がじーんと鳴る」
>と圭介の狂気と死の複線ぽいのが入ってるしね。
そっか、ここで脳梗塞と思ったのかも...
>>179 これ、わかりやすいなと思いました。賛成です。確かに、作品内部においては大して引っ掻き回していないようですね。
楢雄がトリックスターかどうかより
>>156がトリックスターかどうかの方に考えが奪われてる
遺書なんて中ニ病こじらせてみんな書いたことあるもんじゃないの。
遺書を書いていたつもりがラブレターみたいになってしまって
丁寧に折り畳んで君に渡したことはある
>>198 「痛い所を突く」のがトリックスターなら、王様に対し裸だと言った子供が一番トリックスターだな。
>>207 ほら話者のこれまでの書き込みを総合的に読んでみると、
トリックスター性というのは、作品内の楢男そのものにあるというより、
定石を崩す作者オダサクの阿呆の手(=筆)と重なった主人公像のほうだと思うんだよね。
ほら話者的トリックスター性というのは、モデルとなった棋士坂田をも重ねた上での
「定石=秩序」を揺るがす作者の手=筆にこそあるんじゃないかと。
>>209-210 「トリックスター」よりもニッパのいう「道化」にとどめておいたほうがいい感じはする。
で、シェイクスピアの道化もさまざまあるけれども、宮廷道化の場合は、
215が書いているように、「王様は裸だ」といえる自由さを持った愚者=賢者だけど、
「真夏の夜の夢」の場合であれば、職人ボットムが道化であり、
2つの世界を行き来する妖精パックが神話的トリックスターといえるかもしれないな。
>>209 シェイクスピアの道化は馬鹿じゃないよ
リア王とか
リア王に真実を伝える役割
毒舌家
>>204 いま私の文学読みました。感想は後で書きます(書けなかったら書きませんがw)。
続いて、可能性の文学を読んでいる途中です。
とりあえず、一言感想。
織田作之助は将棋が好きだったのかな?
今回選ばれたテクストの主人公はこの棋士がモデルだったのか?
いくつか疑問が出てきたところです。
そして面白いのは、僕はいま囲碁が好きでテレビでNHK杯を見ながら、可能性の文学を読み、
これを書いている最中ですが、また僕は織田が評価している、スタンダール・バルザックといった
作家があまり好きでないというのですw当然僕は将棋にもあまり興味がないわけです。
それがどういった感性的な影響によるものか、いちいち分析はしません。
でも、織田の小説を僕があまり興味を持って読めなかったことに、少なからず何かしらの因果を
感ぜずにはいられないようで、苦笑をしていたところです。
では。
俺別に将棋も囲碁も興味ないけど織田作品は好きな方に入るな
中二病と言われようがデカダンには麻薬的な良さがある
>>210 もう一歩踏み込んでいいか。
作品内部においては引っ掻き回しておらず、楢雄が周りの人々と「逆転」したシーンは描かれてもいないにも関わらず、
君の頭の中でそういった「逆転現象」が起きたわけだ。
なぜ明記されてもいない「逆転」を読み込んでしまったのか。
であるならば、「逆転」を望んでいるのは、君自身ではないのか?
>>125の
>読者に放り投げるような形で問うている、と考えるべきではないか?
に同意だな。
物語なんてのは本の中にあるのではなく、個々人の頭の中に最初からあるものだ。
この店を「幻想の館」と名づけたのはいかにもこの私だが、私はその支配人にすぎない。
みなさん、ベルを鳴らしてお入りになったときには、もうすっかりできあがった筋書きご持参なのさ。
私は劇場を貸し、小道具と、男や女の役者をとりそろえるだけ。
ジュネ「バルコン」より。
「逆転現象」について書いてたのは
>>166じゃなかったっけ?
どうもこの「逆転現象」という言い方が俺にはよくわからないなあ。
ちょっと休憩
ユリイカの2008年9月号「特集 太宰治/坂口安吾 無頼派たちの戦後”」
で町田康がインタビューを受けてて、織田作についてこんな事を言ってる。
掻い摘んでみると
「織田作はやっぱり弱者に対する眼差しが一番冷たいですね。弱者というか、たとえば無学なひとなんか
も出てきますけど、無学であることの残酷さというのをすごくクールに書いている。その書きようの弱い者
に対して残酷な感じがいいんです」
「織田作の『夫婦善哉』に「僕と共鳴せぇへんか?」という台詞があって、それはすごく好きなフレーズ
で昔、曲のタイトルにしましたね」
そーいえば、町田康の『告白』における幼少時の熊太郎が、「六白金星」の
楢雄にヒントを受けていそうな気がする。阿呆なところなども。語りそのものも。
「安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい
子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒
賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた」 『告白』
楢雄も一歩間違えれば、こうなっていた気がするw
前スレ
786 名前:ニッパ椰子 ◆qJa0bYv/qk [sage] 投稿日:2011/09/21(水) 05:48:12.93
八白金星読みました。
冒頭、楢雄の気狂いじみている書き出しにも関わらず、家出後先生とのやりとりのくだりや精神科医の登場などを経て、読み進めていくと逆転現象が起こるように描かれていた。まともなのは楢雄だけで、まわりが滑稽。楢雄は多分、異質なだけなんだろうな。
普段は阿呆のように暮らしているが、触れにくい真実をズバリ指摘してのける様がシェイクスピアの道化にそっくりです。
とりあえず...
ああそっか
>>18のコピペにあったね。失礼。
実は織田作を読んでいるとき町田康のことが頭の片隅にあったよw
牧野信一「ゼーロン」を読んだ時も町田康を思い起こしたけどw
というわけでニッパさんはアセンションさんに「逆転現象」について説明してみると良い。
自分の頭の中の物語を。
町田は弱者を一人称で語ってるが、やっぱ一人称にすると、織田みたいな「冷たさ」はなくなるよな。
織田も作品はそうだが「可能性の文学」など評論にするとその「冷たさ」は消える。
「気取ってんじゃねえよ!」
町田なら織田に対しそう言ってほしいところではある。
やっぱ主人公の楢雄が一番魅力的だよねー、この小説。
「虚仮の一念」って言葉がおもいうかぶよなあ。
いくら将棋のために努力しても、小説の最後まで将棋うまくならない
んだけど、小説が終わったその後にも将棋のための努力をつづけて
その努力はいずれ報われるだろうという予感を含みつつ、小説は
終わるね。 だから、これはハッピーエンドだねw
小説が終わった時点では、楢雄の社会的に対する影響力はいまだ
なきに等しいんで、社会を攪乱するトリックスターに楢雄がなるとすれば
それはこの小説の終わった後に続く世界においてだろうな。
>>229 その冷たさは作家的誠実さだと思ってるよ
愛はあるんだけど、その愛におぼれないギリギリのところで主人公を生かす
そうすることでリアルに近い人間の新たな生き方、みたいなのを提示
したんじゃないかって。
>>231 将棋の努力は報われないよ〜
それじゃあ楢雄が楢雄じゃなくなっちゃうw
負け続けるのが楢雄!
>>233 小説の中では報われてしまったら、楢雄への読者の同情が薄れそうだけど
小説が終わったあとなら、報われてもいいじゃないかw
逆転しないのがデカダンである
>>236 うむ、ロマンだな
俺はデカダンだぁあああああ
そんなことより
>>156がトリックスターなのかどうな気になってしょうがないんだが
お前ら気にならないのか?
>>234 >小説の中では報われてしまったら、楢雄への読者の同情が薄れそうだけど
同情するのは同情したい読者がするわけだから、どうしようもないんじゃないの。
同情したい読者はすればいいし、しない奴はしないでいい。
>読者に放り投げるような形で問うている、と考えるべきではないか?
ということかと。
逆に「楢雄に同情させるためにこのような書き方をした」と読むのは違うと思うけどな。
デカダンは同情されるためにやっているのではない。
同情する奴が勝手に同情しているだけ。
ブライガーってロボットアニメあったな。一瞬で終わったけど。
手が変だったことだけ覚えてる。
アニメ板で追求せよ>238
SF板じゃないか
感想書いたら原稿用紙換算で8枚程の無責任で乱暴なエッセイみたいになってしまったw
どうしようか考え中。
>>238 トリックスターにはみえんな。トリックスターてのは、劇や小説では
主役をはることが多いんだが、どうみてもただの脇役にしか見えない。
>>239 同情っていいかたが悪けりゃ、感情移入っていうか? 主人公に
読者がシンパシーいだけなけりゃ、普通の小説なら、それは読者を
小説世界に没入させることに失敗している、と俺は考えるがね。
エンジェルお町えろい、アイザックかっこいい。
Nとはいい酒が飲めそうだ
>>243 推敲したうえで載せてくれ!
千字ぐらいにまとめられるでしょ
登場人物への感情移入は、作品世界へのステップとして必要なものだとは認識しているが、
俺の文学の快感ってのは、むしろそういった作中の登場人物への感情移入、共感が霧散するところなんだよな。
だからデカダン好きなんだろうけれど。
マゾヒスティックな好みになるのか、こういうの
この作品の楢雄も、共感や感情移入が裏切られる良さがある。
それをコミカルな要素だと言っているのだと思うが。
ミスタービーンなどは彼に共感して笑っているわけではないだろう?
その演劇的な緩急を引っ掛けてこの作品を論じるのはどうかと思うぞ
そういう演出には無頓着な作品に見えるから。
演劇的な緩急っていうか、楢雄に同情させる演出はしていない、って意味なら同意で
>>239という意味だ。
まあ「冷たさ」って奴だわな。
>>251 織田作は劇作家だった
むしろもっと演劇的な手法から分析した方がいい
演劇もシンパシーを煽るだけじゃないからなあ。
異化効果とか。
>>254 マジかよ信じらんねー
そういう視点から読んで「目もあてられねー」って心底馬鹿にしてた
どういう作品作ってんだ?この人
時代から言って「演劇の解体」時期ではあるだろうな。
個人的には最後の兄弟の意志の齟齬なんかはチェーホフっぽいと思った。
作家はその時代にいき文化を吸収して作品をつくるんだね。
とうぜん影響はうけてるけど。
でもいつの時代によんでもある普遍さはなんだろね。
本人が普遍だと思ってるだけ。
普遍性ってなんだろね。
笑い?悲しみ?怒り?慈しみ?
園児が普遍と思ってるのが普遍なんじゃないのか。
普遍か。
変わらないものなどない。
変わらないものなどないつー奴が普遍?
そうならそうなんじゃないのか。
それでいいのかな?
誰が?
何が?
いやいい。話はおわりだ。
あ、はい。
そう言えば易の本持ってる事に酷く動揺していましたが一体どういう事なんでしょう
その部分読み直すとドラ猫は泣いていて楢雄はその理由がわからない
俺もわからん。なんで泣くの?
>>256 おもしろそうじゃん。その視点から語ってみてよ。
ちなみに、川島雄三の『還って来た男』の映画脚本を織田作は手がけている。
その際に「映画と文学」という文章を書いている。
「私事を言えば、私はシナリオを書く時、自分の文学を映画に生かそうとは思はなかった。
むしろ、自分が小説で表現出来なかったことを、映画で表現しようと努力したのである。
たとえば小説では一度躊躇されるような偶然や、小説では何の効果ももたらし得ないような、
というより表現の方法のあり得ないような人物や場面を表現してみた」と述べているらしい。
この偶然が虚構で、可能性を切り開くものではないか?と手元の論考に書いてある。
やっぱ織田作はドストの戯曲的手法に羨望を抱いていたんじゃないかな。
そうなると、この<虚構>や<偶然>っていうタームも、横光利一の「純粋小説論」
を踏まえて考えた方がいいような気がしてきた。
>>255 演劇の異化効果ってどんなやつ?
演劇のこと全く知らないんだ教えてくれ
>>268 中国だからじゃない?
>>270 え、異化効果は演劇だけじゃなく文芸論にも多用されてる概念だけど?
ぐぐったらたくさん記事出てくるしそちらをどうぞ。
お?
ま?
ん? って書いていい?
こ!?
演劇的な緩急ってなーにー?
序破急とか?
序破急ね
途中からドタバタし始めるという意味でおけ?
そうなの?
ドクショカイスレ、オワッテマース
最初からはじまってなんかなかったんだよ
一応言っておくと、ドタバタっていうのが具体的にどういうことかわからないが。
序は演者各人がそれぞれの間で演技する。
各人の間が合致していくのが破。
急は終わり。
なのでドタバタが途中からまとまっていく、ってのが正しいんじゃないだろうか。
この作品は、軸となっている楢雄が、常に周囲と齟齬を来たしている、間がずれている。
なのでずっと序のままの作品だ、となるか。
だとすれば「演劇的な緩急がない」という感想も当てはまらなくもない。
「出来事は起こっているのに作中では起きない」チェーホフもそういうことなんだろうな。
ドタバタは、事が起こってみんなでギャーギャー騒いでいる感じ。
各人の間が合致していく??
ムズい
そうか、別に君に説明するためにここにいるわけじゃないから、あとは自分で考えてくれ。
>>246 もし一緒に飲む機会があったら、「銀河旋風ブライガー」うたっちゃるわ。
蠅を捕まえることが趣味の鈍くさい子供とか気持ち悪いので、感情移入の
対象にはなりづらいし、楢雄は世間一般の基準からいえば落伍者
「世間カラキラハレタ人間」であるわけだが、小説内部の楢雄からものを
見ていくうちに、ドタバタ空騒ぎやってるのは世間のほうで、楢雄のほうが
頑固一徹、自分の道をひたすら進んでいっているように見えてくるんだな。
こうして、小説の最後には、蠅を獲るのが趣味の気持ち悪い子供に
読者は共感を寄せるようになるので、これはやはり小説が小説として
機能しているがゆえのことだろうよ。
「六白金星」感想。
悲痛で真っ直ぐで美しい小説である。その悲痛さはちょっと漱石の「坊ちゃん」を思い出させる。
馬鹿がコミカルな作品だと誤解しやすいのも「坊ちゃん」と似ている。
楢男は、徹頭徹尾、倫理的な存在である。
倫理的な、ということは、軽蔑する資質を持っているということだ。
楢男は「途端にドラ猫を軽蔑した」し、「途端に修一は楢男の軽蔑を買った」のだ。
この性分は自分自身の行動にも向けられ、「無垢ノ女ヲ凌辱シヨウトシタ」ことが楢男をいつまでも苛むのであり、
またこの厳しさは、親兄弟の絆さえ拒絶することになる。
こうした態度には、逡巡や選択の余地がない。また、成長や学習の余地すらないのだ。
だから、倫理的存在の前にあるのは、自身の決断が自ずと導く一本道の「運命」しかないことになる。
全てが「六白金星」のもとにあるのだ。
その星のもとに、楢男は「坊ちゃん」の主人公のように、「敗者」たるべき道をつき進んで行く。
再度言う。
美しい小説である。
ドブネズミの美しさだろ?
>ドタバタ空騒ぎやってるのは世間のほうで、楢雄のほうが
頑固一徹、自分の道をひたすら進んでいっているように見えてくるんだな。
その通りだと思う
>蠅を捕まえることが趣味の鈍くさい子供とか気持ち悪いので、感情移入の
対象にはなりづらいし、
たしかに楢雄の幼少時の行動は阿呆を超えた気色悪さを感じる。
けど俺はこの楢雄にも感情移入できたんだよな
小さい頃って、自分が何気なくとった行動を周りの大人に注意されたり、激怒され
たり、大げさに反応されたりしてさ。いや、そんなつもりじゃないと言っても
伝わらないみたいな経験しなかった?そういうつもりじゃないということを言葉で表現
したいのにうまく言葉にできなくて、いきおい内向的になると。
うん、だから幼少時の楢雄には結構感情移入できたんだよね。
いや、フツーに美しいよ。
>>290 はじめてムーの感想をすんなり受容できたぞ
倫理的存在ってとことか禿同
「可能性の文学」読了。面白いね。しかし、織田作の場合、評論よりも小説の方が面白い。安吾は逆だね。
>>294 えー?
他のも受容してくださいよう。
>>295 んなこたーない。
安吾の小説の素晴らしさに比べれは堕落論とかクソ。
297 :
吾輩は名無しである:2011/09/25(日) 21:26:08.30
しかし、医者が妾に産ませた子供(しかも弟)
という設定は石坂洋二郎の「陽のあたる坂道」に
蠅をとる少年という設定は灰谷健次郎の「兎の眼」に似ていますね。
むろん、織田の方が先ですが。
>>296 まあ、俺にとってはそうなんだよな。安吾の小説って具体的に三作品挙げて下さいよ。
299 :
ほら話者:2011/09/25(日) 21:34:01.76
暗い重い要素をすごく重視すると、練りの浅いつまらない失敗作。これが右派。
コミカルな要素をすごく重視すると、メタ的トリックスターのヒーロー。これが左派。
両方をバランスよく見ると、ドブネズミの美しさ。
こんな感じにまとまるかな
>>299 アセンションかよww
そう物事を簡略化しないでくれたまえ
>>290 一点聞かせろよ
敗者たるべき道の終点を3度目の将棋に据えて終幕してるけど
別にあそこで終わる必然は無い。
ハンセン氏病に患って終わっても良いし
寿枝の葬式で香灰ブン投げても良いし
今後出来るであろう雪江との絆を拒絶するなりして他所の女孕ませても良い
あそこで終わる必然を考えると
俺にはゲタに描かれた飛角を解かないと見えて来ないと思うんだが
お前アレをどう読む?
>>301 いいとこ突いてくれた
それが文学の可能性、人間の生の可能性を示すということじゃないのか?
幾通りの生き方があると
ふふふ。そのリアクションを待っていたよ。
三つではとうていおさまらないので十個。自伝的作品を除いたフイクションのみでは
「竹薮の家」
「逃げたい心」
「吹雪物語」
「紫大納言」
「道鏡」
「ジロリの女」
「信長」
「夜長姫と耳男」
「群集の人」
「木々の精、谷の精」
さらに自伝的な作品では
「古都」
「孤独閑談」
「真珠」
「いずこへ」
「魔の退屈」
「石の思い」
「私は海をだきしめていたい」
「風と光と二十歳の私と」
「わがだらしなき戦記」
「暗い青春」
いくらでもありますぜ
>>301 うーん、これは「楢男の伝記」ではないからねー。
まあ広げた風呂敷を必ずしも閉じなきゃならなくてもいい、という意味では、青春小説というやつだと思うのですよ。
作者は、とりあえずここまで語っておけばいい、という時点で筆を置いたんじゃないでしょうか。
よくわからんけど。
下駄の飛車角を深読みする必要はないと思う
305 :
吾輩は名無しである:2011/09/25(日) 22:07:44.47
>>303 「風博士」「木枯の酒倉から」といったファルス物や
「白痴」や「戦争と一人の女」といった戦争物が抜けていますよ…
>>304 いまいち噛まなかったか。
ありがとう。
うん。
ファルスものは好きだけど10にはおさまり切らんかった。
あと白痴はなぜか世間の評価は高いけどそんなたいしたもんではないと思う。
>>299 なんかそういうまとめってつまらないからやめませんか?
309 :
ほら話者:2011/09/25(日) 22:28:32.84
>>308 こういう風に書くと、皆がそっから抜け出そうとするからおもろいのよ
310 :
ほら話者:2011/09/25(日) 22:32:38.33
で、来週はこのまま「文学の可能性」になだれこむの?
311 :
ほら話者:2011/09/25(日) 22:34:00.76
>>309 あっそうw
うまいこと逃げたね
起爆剤ってことにしとこう
313 :
吾輩は名無しである:2011/09/25(日) 22:38:03.72
世間や人生を将棋盤と見立て、
飛車角の下駄で以てその上に立つ。
まあ、そういった心構えでしょう。
ただ、メルツェルの将棋指し(ポー)に出てくる機械人形ような計算に基づいたものではなく
坂田三吉のような新手必勝の心構えで臨む、と。
「可能性の文学」で表明された自己(実存)に寄せた無限の信頼ですね。
たとえその姿が傍目には滑稽なものであったとしても
「それでも私は行く」ということなんでしょう。
>>313 自己愛自体は構いやしませんけど
それが排他的になるとまた違った趣がありやしませんかい。
僕はねえ、それは依存だと思うよ。
常識に阿るのか精神の潔白に阿るのかの違いでしかない。
315 :
ほら話者:2011/09/25(日) 22:48:32.82
>>314 常識と言うか自分を外から勝手に規定するものに対して排他なんだよ
皆が
>>299に俺が書いたまとめに反抗したいのと同じ
これって依存?
おそらく話をうまくまとめようとする者への反感。
一匹おおかみ気質な奴が、仕切りをきらうみたいな。
己自身の能力の高さから今までなんでも己で解決してきた経験から培われた気質だろう。
どこにでもいるよ。
>>315 別に反抗なんてしてないですよ
価値を認めてないだけで。
「地球の裏側で餓死してる人がいるのにたらふく飯食ってる日本人は人でなしだ」
って言われても「へー」だし。
318 :
ほら話者:2011/09/25(日) 22:56:45.99
>>313 うん。「わたしはそれでも行く」いいねぇ
明日から可能性の文学か。
みんななんだか長距離マラソンみたいで疲弊してないか。
ゴールがないのがツラい。
いったん、分厚いリアル本冊子をよんで文学書の頂に挑むってのを目標にもってきたらどうかな。
なんらか壁障害物や期限など負荷をもうけないどダレて組織は疲弊するよ。
>>319 毎回メンバーが入れ替わり立ち替わりするんじゃない?
すべての回に出ようとすると疲弊するよ
おk。
次は「可能性の文学」でいいのか?
アセが次はムーの「不良少年とキリスト」だとか言ってたが
キリストものがいいな。
潜在性とかキリスト教神秘主義とかでググッてたので。
>>323 「不良少年とキリスト」はキリストものでないぞ
太宰への追悼文的に安吾が執筆したもの
キリストものだったら太宰の「駆込み訴へ」がいいぞ
太宰はキリストを一人の人間として慕っていた節がある
となると園児が求めるものではないかな・・
宗教としてのキリスト教を味わいたい?
325 :
ほら話者:2011/09/25(日) 23:18:54.83
最後の下駄の件は、主人公の我が定石の上を行くといったような、覚悟の意思を表す道具
の様なものだと思います。それが角と飛車であるというのは、必ずしも必然ではなく、た
だ人間の足が二本である必然にしたがって、つまり対をなすものでないとだめなんだとい
う消去法めいた選択でそうなったのではないかと考えます。物語は終始、誰かVS誰か、と
いった相対する個のぶつかり合いを通して、ストーリーが組み立てられております。さす
れば、金と銀では対というよりは兄弟みたいなものです。まるで並列に近い関係です。歩
では対をなすものがない、香車、桂馬でもだめだとなると、飛車角でしかないということ
では。もちろん、駒の中では一番躍動が許される道具でもあるし、故に主人公の意志の勢
いを示す例えとしての効果もあるのではないかと思いましたが。
話の腰を折り、すいません。どうぞ続けてください。
別にここ「組織」じゃないんだし、お題出す奴と感想書く奴さえいれば、スレは続くんだよw
>>306 いや、あれから考えたんだが、最後に楢男に奇僑な行動を取らせることで、作者は読者も主人公も突き放しているんだろう。
「そうは言うてもこんなケッタイな男なんでっせ」
というわけで。
蝿を取るヘンな子供から始まって、しばらくこのヘンな男の人生に寄り添った後、
「付き合いきれんわ、ほんま」と言って突き放していると読めなくもない。
安直な感情移入を禁じているんだろうな。
まあこれでもあなたの言わんとしていることとはすれ違っているんだろうと思うけど、小説のシメを考えるいいきっかけになりました。
>>325 それは逆にアセの負担にもなるよ
ムーと相談して決めたら?
そっか、太宰か。
なんだか後回しにしたい気分になったな。
読むのは今度でいいよ今度で。
文字に霊ありやなしや、つっても霊ってなんだろ。
ほら話さんが先でいいんじゃない。
俺もう一回出してるし。
>>325 言語と動機付けの関連から読むのが本筋なんでしょう。
インスタントな感傷をコンビニエンスにお手元へ。以上。
>>292 >小さい頃って、自分が何気なくとった行動を周りの大人に注意されたり、激怒され
>たり、大げさに反応されたりしてさ。いや、そんなつもりじゃないと言っても
>伝わらないみたいな経験しなかった?
あったねえ、言葉という異物を扱いかねる経験というのか。
>そういうつもりじゃないということを言葉で表現
>したいのにうまく言葉にできなくて、いきおい内向的になると。
俺の場合は、餓鬼のころから、口がうまくて、疎まれた経験のほうが
印象に強いねえ、幼少時の頃はな。
334 :
ほら話者:2011/09/25(日) 23:37:56.97
「可能性の文学」
「不良少年とキリスト」
「文字禍」
の順で俺はいいんじゃないかと思うよ。他に出てないなら
園児さんも希望お題だしてよ
物語が尻切れとんぼでみなまで語らないつーのがいいんじゃないか。
読者の想像力がかき立てられて。
俺は樽男がこのまま変人の道をすすむとおもうよ。
堕落してくのかもしれないし死んでしまうかもしれないしのらくらいきてくのかもしれない。
樽男はそういった奴に成ったんだから修一は付き合い方をきめたんだよ。
家族は付属品ではない。おのおのがおのおのでそれなりにいきてくっつー。
ちょっと個人的な興味で「近代小説におけるカギカッコと<読み>」という論考を
読んだんだけど。そこに織田作の文章も分析されていておもしろかったから載っけとく。
「六白金星」ではなく「夫婦善哉」についてなんだけど
・「この小説には引用や直接話法が少なく、会話文はしばしば地の文に溶け込みます。このことが
物語の時間の流れをより早く感じさせるのだと思われます」
・「しかも、稀に直接話法が用いられたときには、その登場人物による発話が終わる前から語り手が
語り出すことがあるのです」
・「逆に、語り手の言葉が、いつのまにか登場人物の発話になってしまうこともあります」
・「登場人物の言葉の途中で語り手が自らの言葉を被せる、その省略と同時に、物語も省略して進める
ことで、ストーリー全体の進行が早められているのです」
織田作は一般的な会話文と地の文との関係を壊すことで、物語進行の速度を早めた、というまとめになっている。
「六白金星」にも上記に当てはまるものがある。
織田作の語りのリズムやスピード感や面白さを考えるときの参考になれば良いんだが。
>>335 終り方は俺も好き。希望でも絶望でもない受容が感じられるようで。
>>334 俺はその流れでいいんじゃないかなと思う。
「可能性の文学」で1週間引っ張るのがきつければ、
途中で切り替えてもいいし、その場の流れやムーの判断で。
あと園児もそうだし
>>324あたりからもいずれお題を。
>>336 「六白金星」以上に「夫婦善哉」には語りのリズムがあるね。
省略と間接話法か、なるほど面白い。
よし、この機に「可能性の文学」「私小説論」「純粋小説論」を読破するか!
あ、可能性の文学で織田作が言ってること
安吾が対談で小林に言ってることとソックリじゃないか
可能性の文学の方が2年早いけど
「可能性の文学」お題にすればって言った人だけど作品と一緒に読まないとあれなのでスルーでいいっすよ。
>>339 横光の「純粋小説論」もおもしろい。
ドストを通俗小説だとするところとか。
この時代の文学論争って、小説書いたことのあるものなら誰しも疑問に思うことを真面目に議論してたんだなあ、と思って
うらやましくなった。
だが「純粋小説論」の方が文壇批判に傾きすぎてしまっている気がする。
「純粋小説論」とタイトル打っている割には、あえて言えば、文壇批判のためのレトリックなんじゃないか、と思えてしまう。
「可能性の文学」も、同じく文壇批判しているが、織田の「俺の考える小説は」ということに対し、文壇批判から一歩距離があるように思える。
織田はこう書いている。
「思えば横光利一にとどまらず、日本の野心的な作家や新しい文学運動が、志賀直哉を代表とする美術工芸小説の前に
ひそかに畏敬を感じ、あるいはノスタルジアを抱き、あるいは堕落の自責を強いられたことによって、近代小説の実践に
脆(もろ)くも失敗して行ったのである。」
「近代小説の思想性を獲得しようと奮闘した横光利一の野心が、ついに「旅愁」の後半に至り、人物の思考が美術工芸の
世界へ精神的拠り所を求めることによって肉体をはなれてしまうと、にわかに近代小説への発展性を喪失したのも、
この野心的作家の出発が志賀直哉にはじまり、志賀直哉以前の肉体の研究が欠如していたからではあるまいか。
だから、新感覚派運動もついに志賀直哉の文学の楷書式フォルムの前に屈服し、そしてまた「紋章」の茶会のあの
饒慢な描写となったのである。」
体制に反発していることがその体制へのコンプレックスだったりするわけだよな、心理学なら。
コンプレックスならばそれは体制に飲み込まれることになる。
うまく距離を取らなければならない。
横光も織田も、当時主流だった志賀的心境小説(俺は「自意識小説」と呼びたいが)に批判的であったけども、
織田の指摘を採用するなら、横光の批判はコンプレックス的なものだったと言えよう。
なので最終的にそういった「フォルムの前に屈服し」てしまった。
織田の方が知能犯かもな。
>>315 >皆が
>>299に俺が書いたまとめに反抗したいのと同じ
ほら話って面白い人だったんだな。
織田の言っている「美術工芸小説」って要するに志賀直哉みたいな作品ってことなのは文脈で分かるが、
イマイチピンと来ない言い方だなあ。
どういう意味だろう。
現代風に言うなら「予定調和な作品」とか?
それなら「偶然」に拘っているのもわかる。予定調和を崩すのは「偶然」でしかない。
またサルトルへの言及も、サルトルがレヴィ=ストロースの構造主義と激しく対立したことを考えると、わからなくもない。
まあ「予定調和」=「構造」ってわけではないけれども。俺一応構造主義派だし。
チェーホフなんかはこの「予定調和」を過剰に嫌った作家なんだよな。
逆に「予定調和じゃない文章」なんてのは「主題が散漫な文章」とか言われるわけだけだが。
論文だって「予定調和」というかある形式に則ってなければならない。
観客の感情同化(ぶっちゃけ感情移入)をさせないようにするのが異化効果なわけで、ムーが読み取った
「安直な感情移入を禁じているんだろうな。」というのもそういう効果だってことになるが、
ブレヒトの意図したものなどより「六白〜」は異化効果として明確なところはないんだよな。
鏡の前で下唇を突き出す所などはまあ明確か。
異化効果もやりすぎると暗黒舞踏だからな。セリフのない脇役の顔を白塗りするぐらいじゃないと。
でもそう考えても「異化効果を狙った作品」とは言えない、「六白〜」は。
「予定調和」と簡単に言うが、「予定調和」がないと人は読んでくれない、だが「予定調和」はつまらない、って
アマチュア作家でもするような悩みなのかもしれない。
まあもちろんそれについての考慮は織田や横光の方が圧倒的にしてはいるんだろうけれども。
350 :
記憶喪失した男:2011/09/26(月) 17:22:54.29 BE:1368708454-2BP(1)
あれ? 雑談スレってなくなった?
いつでもいいけどさ、谷崎を読もうよ。
谷崎のなに読みたいか候補あげてよ
純粋小説論 昭和10年
私小説論 昭和10年
可能性の文学 昭和21年
伝統と反逆(坂口安吾と小林秀雄の対談) 昭和23年
>>354 二者択一じゃないかw
両作品読んでどちらかひとつに決めて
やーだー
どっちか決めないとどっちも買ったげないわよ!
じゃあ発表時期が早い作品を読みましょう
>>342 >横光も織田も、当時主流だった志賀的心境小説(俺は「自意識小説」と呼びたいが)に批判的であったけども
自意識って、自己に向かう意識だよ。志賀の意識は、自己に向かってない。ゆるぎない自己が前提にあって、その眼で
他者を沈着冷静に的確に見て描写する。
横光利一の「純粋小説論」に四人称ってのが出てくるけど。あれは作家が作家自身をメタ認知的に語る、あるいは
描写するということだと思う。これが本当の自意識でしょ。これは、描写し語る作家である俺は何であるか、
という問題意識や揺らぎみたいなのが前提にないと出てこない考え方。
織田作は、志賀とかのビクともしない眼、末期の眼(悟りきった眼?)を批判している。
それと嘘・虚構を交えないということは、人間が変化していくかもしれないノリシロのような部分を一切
描かないということになると思う。希望が何もないというか。このノリシロが可能性なんじゃないかなって
思うけど・・
>>360 心理学的に言えば自意識とは他者を鏡として自分を見ること。
自己愛というのも他者という鏡に映った自分を愛すること。
志賀は他者という鏡を見ているわけだ。
それが自分を映した鏡と気付いていない。
逆に言えば、人は他者をそのものとしてはけして見ることができない。
織田の町田評にあるところの「弱者への冷たさ」とはそういうものだと思うがな。
>>361 ということは、志賀の小説に登場する主人公は、志賀自身に含まれるある一部分を
写し撮ったものだ、ということ?
>>363 そうではなく、志賀作品に登場する人物は、みんな志賀だってこと。
それが「美術工芸作品的」と言われる所以ではないかと。
大江もそうだが。
まあ小説なんて結局は想像だから、どんな登場人物だって作者の一部でしかないんだが。
それを打ち破りたがっているのが織田の言う「可能性」じゃないのかな。
>あれは作家が作家自身をメタ認知的に語る、あるいは描写するということだと思う。
そのメタ認知をした作家自身をさらにメタ認知で見て、さらにメタで見て……、そして超越論へ。
ヘーゲルでもやってればいい。
>それを打ち破りたがっているのが織田の言う「可能性」じゃないのかな。
そう考えればサルトルを引いてきたのも見えてくるだろう。
絶対的外部(嘔吐してしまう木の根っこ)と接触するのが実存としての自己なわけで。
ここを考えないから、現代日本の文学界も「メタメタメタメタ」とお題目のように奏でられるわけだ。
メタを避けても身辺雑記にしかならない。
この絶対的外部を、そのものとしては無理だとしても、いかに近似的に表現するか、というところで、織田の言う「虚構」「偶然」、
車谷の言う「虚実混淆」があるわけだ。
虚実、必遇の問題はアプローチにしかすぎない。
>そうではなく、志賀作品に登場する人物は、みんな志賀だってこと。
それが「美術工芸作品的」と言われる所以ではないかと。
なぜ、みんな志賀だと美術工芸作品になるのか?
「作者自身の身辺や心境を即かず離れずに過不足なく描写することによって、
小説を美術品の如く作ろうとし、美術品の如く観賞されることを、最高の目的とするのだ」
こっちの方が分かりやすいと思うから持ってきた。
美術品の如く作るっていうのは、死んだ素材(体験談)で作ることでさ。美術品の如く鑑賞されるってのは、
死んでいる物を鑑賞するっていうか。その世界は閉じていて開かれていないというか。
あーうまく言えない。
この美術品の如く鑑賞するっていう部分は、安吾が小林の骨董趣味を批判したのと同じ意味ではないかと思って
いる。もう少し考えをまとめてくるわ。
とか言いながら俺個人は「予定調和」好きだし、志賀も嫌いじゃないんだけどな。
>>360は、横光はともかく織田がやろうとした(と俺は考えている)「絶対的外部へのアプローチ」を無化する考えなので、
妙にカチンと来た。
>>369 俺は「美術工芸作品」とは現代風に言うと「予定調和だ」ってことではないか、と考えた。
>>344 登場人物がみな(意識としての)自分なら「予定調和」になるに決まっているだろう。
そういう意味では「その世界は閉じていて開かれていない」ということになる。
「死んでいる物」も、サルトルが嘔吐した木の根っこを「実存という生」だとするなら、そうだと言えるだろう。
おい治美出てこいよ、サルトルうんぬん言って織田お題にしたのお前だろ。
絶対的外部と交通事故的に出会うことを偶然と考えるのは問題ないんだけど。
>この絶対的外部を、そのものとしては無理だとしても、いかに近似的に表現するか、というところで、織田の言う「虚構」「偶然」、
絶対的外部を近似的に表現することを織田作が<偶然>や<虚構>として捉えていたとは思えないな。
織田作における<偶然>や<虚構>ってのは、「純粋小説論」におけるそれと同じ意味で
使用しているかな。もっと通俗的な事件や事故みたいな風に捉えたよ。
それと織田作がサルトルを持ってきたのは「実存は本質に先立つ」という言葉に示されるように
サルトルが新しい人間観を提示したからだよ。本質というヴェールを剥いだところに、新しい人間を発見した。
ちょうどこの部分
↓↓
「人間というものを包んでいた「伝統」的必然のヴェールをひきさくことによって、無に沈潜し、人間を醜怪と見、
必然に代えるに偶然を以てし、ここに自由の極限を見るのである。」
織田作は「可能性の文学」で新しい生き方や人間を創造したいと宣言したんじゃないの?
そのお手本の一つとしてサルトルを挙げただけかな。
ここら辺は、織田作の筆が走っている部分だから難しいところではあるね。
みんなの意見も聞こうよ。
作家はその小説世界の神なわけだが、人間が神になると退屈するもんだ。
>>347,348って話だ。
「予定調和はつまらない」と作家が言うのは要するに「暇を持て余した神々の遊び」なわけ。
それと、織田の文章でも、文脈を辿れば、「美術工芸作品」ってのは「偶然を排除した作品」ってことになるわけだけども、
美術工芸品って偶然を重んじてると思うんだがな。
焼き物だってそうだろ、「偶然」の所業が味になる。
だから織田の言う「美術工芸作品」というのがピンと来ない。
むしろ「定跡」に反する坂田の一手たる「偶然」とどう向かい合うかが伝統工芸だろ。
焼き物は文章と違いどんなに手を尽くしても「偶然」が侵入してくる。
いやまあ大量生産用の工業釜などなら「偶然」を排除できるだろうけれど。
文章は「偶然」を排除しやすいだろ。推敲も出来るわけだし。
書道、日本画なんかは書き直ししないから「偶然」と向かい合うことになる。
ここで言う「美術工芸品」ってどちらかというと西洋絵画とかじゃないの。
西洋絵画も描き直しできる。いくらでも塗り重ねられる。「偶然」を排除しやすい。
それまでの絵画が取り逃してきた「偶然」を「一瞬の印象」や「光彩」にして表現したのが印象派とかになるんじゃね。
こういう話になると不条理演劇やシュルレアリスムまで持っていきたくなるんだがやめとく。レスストッパーなのは自覚してるし。
「不条理」「超現実」も「絶対的外部へのアプローチ」だと思うわ。
「一瞬」「偶然」「虚構」「超現実」「不条理」、こういったキーワードだと思う。
「絶対的外部」とは。
芸術から外れるならば。
法という軸を置き、それが取り逃してきた「絶対的外部」を読み解こうとしたのが、クリステヴァの「恐怖の権力」だと思う。
>>373 ん? 「絶対的外部」「サルトルにとって嘔吐した木の根っこ」と人間は出会うことができない。
それと出会えるようになるのが「新しい生き方」とするなら何も矛盾しないが。
木の根っこで嘔吐したサルトルはヤク中だったんだけどな。医療ミスによるものだが。
違法ヤク中のゆうちゃんも言ってただろ。
「ヤクやってた俺はこの世ではない世界があることを知ってる」
と。
「それが精神病の人の世界かどうかはわからないが」
とも。
「絶対的外部」とか言っているが、それは「肉体としての内部」の問題なんだよな。
内部にある外部。
ラカンの言う「外-密」だ。
人は肉体としての内部という外部を排除して生きている。
かく言う俺も昔てんかん持ちでした。
ドストはあんまり好きじゃないけどな。
俺は彼より快楽主義らしい。
織田が生きててツイッターとかやってたなら
>>374を問い詰めてみたい。
>人は肉体としての内部という外部を排除して生きている。
ニッパもう見なくなったかもしれないが、「仮面」を剥ぎ続けた最後には、肉体としての内部が残るんだよ。
それを「空虚」なんてしたら、鈴木みたいなヤク中や精神病者や俺みたいなてんかん持ちが見た
「この世ではない世界」が存在しない、と言っていることになる。
鈴木も精神病者もてんかん持ちも存在しない世界、それが「仮面の世界」だ。
「実存は本質に先立つ」の本質って何かというと
・私は男性である
・私は学生である
・私は公務員である
この〜であるに表されるものが本質だと思うのね。
サルトルはその本質の前に、人間は一個のぶよぶよとした肉の塊であることを発見した。
これは、一度この、〜であるから人間を解放したところに意義があって。
あとは、いくらでも〜であることを自ら選択することができる。
織田作は、この幾通りにでも〜であることが可能である人間を描き出したかったのではないかと。
思うけど。
ほんとくだらない例えだけどさ。ある日突然リストラされた男は、サラリーマンというヴェールを
強制的に剥奪される。このリストラ事件みたいなのが織田作のいう<偶然>じゃないかな?
>>380 >ほんとくだらない例えだけどさ。ある日突然リストラされた男は、サラリーマンというヴェールを
>強制的に剥奪される。このリストラ事件みたいなのが織田作のいう<偶然>じゃないかな?
まあ近くはあると思うけど。
それが何、ってくらい。
サラリーマンという「仮面」を剥ぐのはまあいい。
その下にも「仮面」があるんだよ、「肉に食い込んだ仮面」が。
赤ん坊の感覚器官ってのは非常に未熟な状態で出産される。大人の目や耳とは同じ働きができない状態で。
成長するにつれ、大人と同じような機能を持つ器官に成長する。
この成長の仕方は、刺激を感知しながら成長する。設計図通りに出来上がるのではなく環境に適応しつつ成長するわけだ。
「仮面」とは「社会的役割」で、「人間関係を根拠に作りあげた自分」という意味だが、
この赤ん坊の器官の成長ですら、親などと言った人間関係が関与している。
つまり大人の器官機能こそが、「肉に食い込んだ仮面」なわけだ。
それは「天然」という意味での「肉」ではない。
サルトルは医療ミスによるヤク中でこの「肉に食い込んだ仮面」がはげた。
そういう話じゃねえの。
サルトルがやった幻覚剤は何だっけ?日本で流通してないから名前が思い出せない。
サルトルって精神分析齧ってたんだが、構造主義じゃなくて精神分析にケンカ売るべきだったんだよ。
「仮面の下は空虚です」なんて喧伝してる精神分析に。
メスカリンじゃないっけうろ覚え
>>382 379 377 376
これスレチだから気をつけてください
テーマは織田作の「可能性の文学」
このテーマに絡めて論じていないものを連投するのは荒らし行為です
ラカンでもサルトルでも仮面でもいいですが
必ず織田作と絡めてください
それ以外の雑談は連投しないでください
387 :
吾輩は名無しである:2011/09/26(月) 22:49:28.63
本質論が人間一般についての価値を論じること(真理や正義)だとするのなら、
実存論は個人の心理やその性向を個別的に語ることですね。
織田は後者に自身の文学や人生に対する可能性を見出した。
>>386 「可能性の文学」にサルトルが言及されてるわけだが。かなりの行数割いてね。
君は「可能性の文学」を読んだのかね?
君が荒らしと思うならとっとと通報しておいで。
織田は「サルトルは解放するが、救いを求めない。」と書いているが、織田がサルトルをちゃんと読んでいることがわかる。
実際町田評にもあるように織田は弱者に「冷たい」。救いを与えない。
ここが重要だと思うがな。
>>387 >実存論は個人の心理やその性向を個別的に語ることですね。
それだと自我主義になるだろう。サルトルは別に自我心理学に傾倒していたわけではない。
自我心理学ではない自我は母だか父だか他者だかなんでもいいが他者があって初めて成立する。
だからアンガージュマンなわけだ。
そしてそれは「実存」ではない。
ヤク中状態で木の根っこに嘔吐した「実存」はその土台にある。
まあ一応織田に繋げるなら
>実存論は個人の心理やその性向を個別的に語ることですね。
を可能性にするのは彼の作風からしても違和感あるだろ。
あ、ごめん正直今織田どうでもよくなってら。
>>389,390を考えれば、俺が志賀の心境小説を「自意識小説」と言ったのがわかるかもしれない。
自我は意識の外部の一対象だ。
志賀の作品登場人物である他者に対する視線は、意識の外部にある自我への視線だった、と。
>意識の中に「私」はいない。「私とは一人の他人である(TE,78)。そして、意識は、「内部」や「内容」をもたず、
>それ自体が「絶対的内面性」である、とサルトルは言う。それは、いわば体験の流れそのものでしかないのである
>(これが、『存在と無』において、「対自存在」としてとらえられることになる)。
これなんか別の世界を見て妙な悟りを得ちゃったヤク中が言っていることだと考えないと誤解が増すばかりだ。
盛り下がってるね
文学者の会話など盛り下がってナンボだ
盛り上がりたければアニメ話しようぜ、雑談スレで
美術工芸品と言っているのは、作之助が言うところの、志賀直哉の楷書式のフォルム、
つまり美術《工芸》品であることだと思います。
つまり彼は彼の言う日本文学は、既存の手本にのっとった工芸なものであり、それに対して、
西洋のものは既存のものに挑戦をして、時にはそれを破壊してゆくのであり、そこに固定化
されていない可能性を見る、ということでしょう。単純に理解すればいい気が。
工芸=伝統のフォルムを重んずるで、美しくもあるが所詮工芸品の域を出るものではない、
と作之助は批判している。まあ文脈そのままですが。
彼は可能性の文学の《可能性》は限定はしていないと思います。それ故に可能性なんです。
>>397 いいね!
ここは織田作の文脈に沿うべきだね
>>397 お手本に則ることに対するアンチなら語源としてアナーキーになるな。
an(非)+archy(規範)なわけで。
まあ冒頭の坂田の定跡外れの一手だけ考えれば、語源的な意味でのアナーキーの称揚だとなろうが、
それだけだと浅いだろ。
だからサルトルを引いたのだと思う。
つまり、「お手本から外れたもの」を作ろうにしても、人間はさまざまなお手本が無意識にある。
固定観念とでも言えばいいか。固定観念とか他人から指摘されて初めて気付いたりするケースがあるだろう?
「お手本に反抗する」という安直なやり方をせずに、サルトルのように「お手本がない状態はどういうことか」を考えないから、
日本文学は、横光みたいに「美術工芸フォルムに屈服する」のだと。
サルトルを持ち上げているわけではなくな。
「お手本に反抗する」「お手本を避ける」ではなく、「お手本がない」「肉」についての考察が足りない、って話じゃないのか。
この考慮の一助としてサルトルを引いたと。
400 :
吾輩は名無しである:2011/09/26(月) 23:37:37.66
>>389 >自我心理学ではない自我は母だか父だか他者だかなんでもいいが他者があって初めて成立する。
>だからアンガージュマンなわけだ。
うん。だから自己を外部と対立的な関係性に置いて論じたわけですね。
これは心理学よりヘーゲルの考え方に近い。
織田も世間や良識との対立において自己を論じているわけだから
彼の「可能性の文学」はサルトルの考えを反映したものだ、といってよいでしょう。
可能性は、ポッシビリティ。
つまり潜在性かな。
「文学」てのをやすやすと共有できてるとおもいがちですが各人で解釈ちがわないか?
まず「文学」とはなに?その可能性つまり潜在してるものとは?
>>397 単に「アンチお手本」だけならば、横光を批判する必要はあるまい。
彼の立場は常に文壇批判だったんだから。
「観念のヴェールをぬぎ捨てた裸体のデッサンを一つの出発点として、そこから発展して行くべきである。」
「横光利一の野心が、ついに「旅愁」の後半に至り、人物の思考が美術工芸の世界へ精神的拠り所を求める
ことによって肉体をはなれてしまうと、にわかに近代小説への発展性を喪失したのも、この野心的作家の
出発が志賀直哉にはじまり、志賀直哉以前の肉体の研究が欠如していたからではあるまいか。」
それまでの日本文学には「観念のヴェールを脱ぎ捨てた裸体」がなかった、と。
そしてそれは現代日本文学でもそうだ。
それを脱ぎ捨てようとする作家はいなくもないが。
>>397のまとめならそれこそ
>>83の反論で終わる。
>>399 それはあるかもしれませんね。
もう一度丁寧に読めば、そこまで、もう一歩進んでいるかもしれません。
ただ、その一面もあり、僕の言った一面もあるとは思います。
きちんと発言するのであれば、もう一度読む必要が僕にはあるかもしれません。
答えていただいてありがとうございます。
>>399 >サルトルのように「お手本がない状態はどういうことか」を考えないから、
日本文学は、横光みたいに「美術工芸フォルムに屈服する」のだと。
サルトルはお手本あるよ。西洋哲学史が背景にあるだろ。
ハイデガーやキュルケゴールとか織田作も言ってるけどさ。
織田作は、その伝統が根付いて咀嚼されているからこそ、フランスでは
新しいのが生まれると言ってるよ。
直哉か。
志賀直哉ってあんま注目してなかったな。
>>403 おい、お前!簡単に屈するんじゃない
どうも「可能性の文学」をちゃんと読んでない奴がレスしてるようだな
哲学畑の連中が哲学を語りたいというのはよくわかるが
織田作は哲学畑の人間ではない。本家の哲学者と使用している言葉は同じ
であっても意味は異なるはずだ。
その辺を踏まえたうえで論を展開してくれ
>>407 いやいやw
屈するとか、屈しないとかじゃありませんよ。
ただ僕は上にあった書き込みに美術工芸品という表記が、意味がつかみにくいとあったから
それに答えたんです。これはあくまで僕の意志でも、限定的だったんです。
ところで、僕の書き込みに答えてくれた方は、僕が全体をまとめて発言しているととったわけです。
僕はいま急いで、流し読みをして、上で書かれていた方の疑問に答えようと、部分部分しか読んでなくて
書き込みをしてしまっていた。でもそれを言い訳にはしません。
指摘を受けて、なるほどそう言ってくれたことも正しい、もしくは詳しく読んでないが、
もっともな答えなので、今さらっとあらためて読めば、なるほどそれらしいことも書いてあるから
もう一度全体を読んでみますって、お答えしただけですからw
409 :
吾輩は名無しである:2011/09/27(火) 00:02:48.63
ちょっと引用してみますが、この辺りが核心ですかね?
彼等の文学は、ただ俳句的リアリズムと短歌的なリリシズムに支えられ、
文化主義の知性に彩られて、いちはやく造型美術的完成の境地に逃げ込もうとする文学である。
そして、彼等はただ老境に憧れ、年輪的な人間完成、いや、渋くさびた老枯を目標に生活し、
そしてその生活の総勘定をありのままに書くことを文学だと思っているのである。
しかも、この総勘定はそのまま封鎖の中に入れられ、もはや新しい生活の可能性に向って使用されることがない。
彼等の文学のうち、比較的ましな文学の中には彼等がいかに生きて来たかということは書かれているだろうが、
いかに生くべきかという可能性は描かれていない。
小説を作るということは結局第二の自然という可能の世界を作ることであり、
人間はここでは経験の堆積(たいせき)としては描かれず、
経験から飛躍して行く可能性として追究されなければならぬ。
そして、この追究の場としての小説形式は、
つねに人間の可能性に限界を与えようとする定跡である以上、
自由人としての人間の可能性を描くための近代小説の形式は、
つねに伝統的形式へのアンチテエゼでなければならぬのに(略)
>>397に言ってくれ。
まあ一応代理で答えておくと。
そういう具体的な「お手本」ではなく、もっと抽象的で広範囲な「規範」だ。
「an+archy」の「arch」。
俺は「予定調和」などと言っているが、こういった「規範」に即すことが「予定調和」だとも言えよう。
それと、哲学者が先人なり他者の哲学概念を借用するのは、「お手本」ではないぞ。
自分の思考の道具として便利な言葉だから使う、というものだ。
もし君が既存哲学をお手本にしているなら、それは哲学的態度とは言えないと思う。
>>407 織田は劇作畑だったので演劇論でも話してますが何か。
俺はたまたま演劇も知ってて哲学も齧ってる。それだけ。
君に哲学から織田を語りたくないなら別にそうじゃない読み方で参加すればいい。
それだけの話なのに「畑違いだから」と否定するのは浅薄ではないか?
俺は「サルトルは解放するが、救いは求めない」って一言で織田はサルトルを読めてると思ったよ。
俺はまだ可能性の文学もよんでないし哲学も演劇も評論も創作もしらないけど、
なんだか織田が言いたかったことはなんだろなと想像したいとおもった。
可能性とは停滞ではなくなんらか歩みを進めるものである。
>>408 >>397は、ぶっちゃけ「王道への否定」しかないわけじゃん、それこそ
>>83の反論で終わると思ったから、
>>399を書いた。
君の
>>397を否定しているのではなく、補強していると考えてくれ。
あくまで織田は「伝統的形式へのアンチテエゼでなければならぬ」と書いているので、
>>397は誤りではない。
だが、それだけではなく、サルトル哲学という自論を補強するための要素も入れているのだから、
そこも書いてやらないと、織田も「よく頭のおかしいライターやクリエイター気取りのバカ」になってしまう。
>>410 君は踏まえているから問題ない
哲学のことを語る際にも織田の思考や言葉を踏まえてほしいと言っただけ
>>402 確かに<美術工芸>という言葉が<裸の肉体>に相対するものとして述べられているね。
この織田作の<美術工芸>という言葉にもいろいろな意味が付与されているから、それを
明確にしたいとこだ
414 :
吾輩は名無しである:2011/09/27(火) 00:12:19.41
>>404 >いや、ヘーゲルは自我は内部にあるものだとしているが?
>他者との問答を常に繰り返して螺旋で上がっていくよー止揚ー止揚ーってのがヘーゲルだろ。
>サルトルの視線は逆だ。
いや、個人は少年期には家族原理によって生育し、
これが長じては主に職場を中心とした社会における
自/他の関係性で展開して行く。
この弁証法哲学がヘーゲル左派であるマルクスに受け継がれ
やがてサルトルにも影響を及ぼす。
むろん、意識の内部と外部を巡る考えには
現象学的なアプローチもある。
>>410 僕と誰かの書き込みを混同しているのかも?しれませんが。
あと、《手本》と《規範》この区別を厳密にしても、それは言葉のあやの問題だけですね。
この事は、あなたは本質を突くのに夢中になりすぎて、逆に本質から離れて行っているとも
いえることは言えますよ。まあ、これも言葉のあやでいくらとも解釈はできますが。
>>413 失礼した。
>>414 >自/他の関係性で展開して行く。
ここここ。
他が外部になってるわけだろ、ヘーゲルは。
サルトルは自我も意識の外部にしているわけだ。
>現象学的なアプローチもある。
うむ、それも充分にある。自我が外部にあるというのは現象学らしいと言える。
しかし、やはり俺は、サルトルがヤク中で「この世ではない世界を見た」ってまあ幻覚だが、その経験が、
ほとんどの現象学者がエポケーして「存在」や「時間」を対象にするのに対し、
サルトルを「自我の内部の意識」に向けさせたのだと思う。
サルトルが「嘔吐」しなければ他の現象学者同様「存在」や「時間」という形而上学に走ったと思うよ。
サルトルは形而下のさらの下の「実存」に目を向けた。
数字に弱い俺はレス番追うだけで一苦労
>>415 >この事は、あなたは本質を突くのに夢中になりすぎて、逆に本質から離れて行っているとも
正直「本質」はどうでもいいからなあ。
ここで重要なのは「実存」だから。
ここを読めないと織田の言う「可能性」は理解できないと言える。
なんだ保守反対、権威反対つー青臭い話なのか。
欧米諸国とはにんげんの始原がちがうんで、かっちりと未来のうてなとなるべく「可能性の文学」を書けないつー愚痴ってるだけじゃん!
すいません。
もう寝るんですけど、できれば何人かで論議するときは、番号かなんかで名前固定
していただけるといいんですが。まあ、その人の自由なんでしょうけど。
僕は誰が誰だか、さっぱりわかりませんw
みんな分かっているのかな?
>>419 ぶっちゃけ
>>83だよ。
「王道」を書かないとウケない、でも「王道」つまんない、作家(ワナビ含む)なら誰しも持つ悩み。
だが織田や横光はこの青臭い悩みを真剣に考えているわけだ。
俺らも「青臭い」なんて恥ずかしがらずにたまには真面目に考えてみようぜ。
>>421 言葉に反応しているだけなのであんまり気にしない方がいいかと。
誰が誰か考えずに読んだ方が、慣れたら意外な連想できたりします。
>>418 あのw
多分上からの発言ですと、そうおっしゃるんじゃないかと思いましたんですw
言葉の定義って問題は、特にこのようにいろんな方々がいる場所ですと、難しいものです。
だって、同じ哲学を書く人たちでも、ハイデカーとキルケゴールでは、同じ言葉を使っても
必ず注釈に、彼の場合はこの意味でつかわれることが多い、とかありますからね。
寝ますけど。何かありましたら、明日ロムります。
未来のうてなとなるべき小説は例を挙げたらなにかな。近代以降で。
ジョイスとか?ベケットとか?
織田「可能性の文学」を読んだ。
織田の意気込みは感じられても小説作品に比べて芯の強さが感じられなかった。
つまりどうも「能書き」のように感じられるね。
おそらくはジッドやサルトルを消化しきれていないところから
織田の文章の弱さが俺には感じられたのだと思う。
織田は「純粋戯曲」と「純粋小説」というものを考えたという。
ここはジッドの影響だろう。
で、「純粋戯曲」の形式が単純になり簡素になるとするのに対して
「純粋小説」のほうはその名に反して形式は不純で複雑になるとしている。
「小説にはいかなるオフリミットもない」としながらも
ここでは形式的な視点からしか織田は書いていない。
既存の保守的な「オルソドックス」に対する「アンチテエゼ」としては弱いだろう。
実際に「可能性の文学」という概念は曖昧なままに留まり、
織田自身も「明確な理論が私にあるわけではない」と書いている。
十分に消化しきれない借り物の概念と格闘しながらも、
そうした概念に弄ばれているようだ。
ここで言いたかったことを織田は小説で実践できたのか?
そういう問いが生まれるエッセイだった。
>>422 織田作とか新戯作派とも呼ばれてるじゃん
戯作ってことは近代以前の江戸の文学
織田作の時代は明治に入ってから100年も経たない頃
近代文学なんて実は歴史的に新しい
織田作は近代文学の方向性そのものを変えようとしたと思うよ
>>424 上からの発言ってのがよくわからないが、まあそういう話だと思うぞ。
言葉の定義はいろいろ違う。そんなもの当然。
その定義を合わせることが最重要ではない、と。
>>427 織田が「王道」に反発しているとは言っておらん。
現代ワナビの「王道」を書かないとウケない、でも「王道」つまんない、作家(ワナビ含む)なら誰しも持つ悩みと同種の構造だ、と言っている。
>>419を受けてね。
というか
>>419にすべきレスじゃないかそれ?
まあ「可能性の文学」やらは大仰だと思ったわ。
ただし、チェーホフブレヒト的な「感情同化を主題にしない演劇」という補助線を引き、
サルトルの実存という論拠を考慮すると、彼がしたい作品は「六白〜」はそこそこ出来ているとは思う。
冒頭の坂田の一手によほど感動したのか、その勢いのまま書いたって感じだな。
そういう文章の方が俺は面白い。
計算された文章なんかより。
うーん、たのしくみてました。
しかし、結局、文芸という観点でみると、
で、あんたの小説、面白いか、という問いを突きつけられた場合、どうなの?
谷崎とかが、文学理論を鼻で笑いながら、腕だよ腕、芸術は、みたいな。
だからこれと「六白〜」を同時に読むと「六白〜」に「気取ってんじゃねえよ」と言いたくなる。
>>429 間違えた 83の「新しいことは先人がしようとしてできなかったことだよ」というAA
があって、それと同一人物ならば、織田作は全く新しいことをやろうとしたわけではなく、
実は近代以前の文学の手法を取り入れた面があるということを言おうとした。
これは他の芸術分野でも王道だよね。一昔前のものをリメイクするってのは。
織田作は西鶴を尊敬していたけど。それと大阪ということを意識していた。
この大阪についても考えないとな・・
>>433 あ、ごめん俺
>>83じゃないけどこれはそういう問題でもあって、だからこそ
>>83みたいな反論に対する理論武装として
サルトルは外しちゃいけん、って立場。
リメイクとアナーキーもちょっと違うんだよな。
リメイクでもアナーキーは可能だ。
「お手本」「規範」っていうのは、なんだろう、もう構造主義の「構造」でいいじゃん、めんどくせえ。
そういう感じ。
要するに人間全員にある同種の「構造」だよ。
これがあるから人間は「絶対的外部」に触れられない。
小説は言葉や意味から逃れられない。
それでも外側をめざすってベクトルが可能性(潜在性)?
まあ意味から逃れたければ演劇やってた方が良かったかもな
文芸なら詩っててもあるし。
それでもなぜ小説なのか、だよなあ。
小説で食ってけるようになっちゃってたから、とかなら織田らしい。
文明をすすめたいって欲がにんげんにはあるよね。
停滞をきらうっつーか変わりたがるつーか。
その欲を駆動しエスカレーションしてくのが「文学」じゃなかろうか。
「可能性」はその欲の部分じゃないかな。
実際ベケットなんかで演劇は解体されたわけだが、要するに「劇中世界という意味」が解体されたわけだ。
詩ならマラルメとかロートレアモン、ブルトンとかもいるか。
織田はジョイスとかどう評価するんだろう。
>>437 俺は逆だなー。
人間にはアポトーシスがある。
文化のアポトーシスとして、文学が最適だと思っている。
絵や音楽の方が文化を生かすだろう。
なので織田の「可能性」とは、それで言うなら「文化を崩壊させた次の可能性」になると思う。
だから「自我の超越」を説いたサルトルを引いたんだと思うよ。
「文化が崩壊した状態」「肉体論」として。
文化が0になることにおける可能性。
人間存在が「実存」となることによる自由。
肉は朽ちる。朽ちるからこそ未来へなにかを見たがる。
希望とか絶望じゃ言い表せないなにかを。
じゃないかな?
>>426 >で、「純粋戯曲」の形式が単純になり簡素になるとするのに対して
「純粋小説」のほうはその名に反して形式は不純で複雑になるとしている。
「小説にはいかなるオフリミットもない」としながらも
ここでは形式的な視点からしか織田は書いていない。
既存の保守的な「オルソドックス」に対する「アンチテエゼ」としては弱いだろう。
形式的な視点からしか書いてないと何故「アンチテエゼ」として弱いの?
俺は大震災の原発重大事故メルトダウン以来、かんがえる。文化がゼロになることを。
文化がなくなることは歴史も失ってしまうことだ。
それでも未来は失われない。その未来の失わなさは異常。
例えばネコ。ネコは現在をいきている。とおくの未来をもたない。
にんげんはネコ(ケモノ)にはなれない。未来があるから。
それはある意味不幸だから。始原にある不幸だから。
そしてにんげんの未来をもつ潜在は、文明を再び統治するよね。
なになに、「可能性の文学」も課題文書なの今回?
早速読んでみたがー、私小説、身辺雑記小説の否定宣言で、論の方向は
小林秀雄の「私小説論」とそんなにかわらないね。 小林の志賀論についても
終わりのほうに言及がある。 要するに私小説を克服して、もっと虚構的で
面白い近代小説を創作することが日本の文学界の課題と。 太宰や坂口も
こういう問題意識共有してたわけだろうなあ。志賀を激しく攻撃したところも
三人は共通してる。私小説の否定というのは、当時の若い文学者における
一般的な趨勢だったわけだ。私小説否定の評論としてなら、たとえば
中村光夫の評論のほうが、緻密にもっと意地が悪く書けてるって気がしたな
俺は。 しょっぱなに将棋の坂田の話がでてくるが、私小説の権威にたてつく
試みは、ちょうど定石を壊そうとして敗北してしまう将棋指しの試みと似たような
もので、つまり敗北する試みであると、最初に断定してしまったようにも見えて
しまうね俺とかは。
この論文が書かれたのは昭和二十一年か。こういう論読んで考えることは
私小説、身辺雑記小説は、今日の日本文学において克服されたのか、私小説は
既に絶滅したといえるのか、私小説が克服されたとして、それで日本文学が
近代文学の正道を歩んでいるといえるのか、今日の日本文学が私小説全盛時代より
もっと面白くなっているのか、こういうような疑問だよねー。 現代日本文学に
ついては、あまりよく知らないから、これらの疑問に対する適切な回答者であると
俺が自ら自認することはないのだけれども。
あのね、
>>83は「王道を書け」って事じゃなくて「面白い話を書け」っていうことでね
どうして王道王道と言われてるのか僕にはよくわかりません。
もう一度
>>83をちゃんと読んでみましょうよ。「王道を書け」とは言ってないでしょ
更に面白い話というのはコメディータッチのお話とかエンターテイメントを書けということではなくて、
つまり=娯楽を書けと言ってるわけでもありません。
なるほど。可能性を描くのは一方法論としてあり得るでしょう。
留意したいのはオダサクは
「王道から外れるために」ああいう話を書いたのであって
「面白い話を書くために」ああいう話を書いたのではないということです。
ここでひとつのパラドックスが産まれます。
デカダン・アナーキー・アウトロー、本流から外れるような話を書いて
それを評価してくれる類の人間というのは大凡同じような主義主張を持っている人です。
もしも読み手が本流の”面白さ”を求める人間なら
それを一義に据えず作劇したオダサクを評価するわけはありません。
もしも読み手が傍流のアナーキストであるなら
”オダサクという作劇”に対しても持ち前のアナーキズムを発揮して評価しないでしょう。
じゃあ一体この人ってどういう層にウケてるんだろう?
>>444 >それを一義に据えず作劇したオダサクを評価するわけはありません。
君個人が面白くなかったことが真理化してないか?
「六白」は町田言う「弱者への冷たさ」ムーの言う「安直な感情移入を禁じている」ところが俺は面白かった。
「可能性の文学」は「定跡を書かない理由」としてサルトルの実存を引いたのが俺は面白かった。
「僕が面白くなかったんだから他の人も面白くないはずだ」
小学生の思考はほどほどにしようね。
アナーキズムを「何でもかんでもアンチする」って風に考えてるバカがまだいたんだな。
呆れるわ。
そりゃAA張るような知能しかないだろう。
>>444 「面白い」とはどういうことかを書かずに「面白い話を書くこと」を主題にしているところが浅薄なんだよな。
面白いの反対語は退屈か。 「可能性の文学」における「退屈な小説」というのが
何かはかなりはっきりしてるな。それは私小説、身辺雑記小説であると。
では、「面白い小説」はどんなものかというと、これは「退屈な小説」ほど
明確ではないが、「可能性の文学」のなかには、そのヒントがたくさんあるね。
バルザックの小説、スタンダールの小説、サルトル、ジイド、ドストエフスキー
アラビアンナイトにデカメロンと。心境的私小説の狭さ、蛸壺化にいきついて
一刀三拝式に書くことだけが小説の道ではないと。
小林秀雄は日本的心境小説、私小説を相対化するための対抗馬として、ジイドや
ドストエフスキーをもちだしたけれども、織田の場合は、サルトルが時代の寵児で
あったので、サルトルについて多く言及したと、そんな風にみえたね。
>>444はまず
>>444にとっての「面白さ」を説明すべきではないかね。
「面白い」と思うのは人それぞれだからな。
俺は、織田が「王道を外れることによって得ようとしていた面白さ」とは、サルトルの実存にヒントがあると思っている。
それが「可能性の文学」によって明確に配置されているので、両方面白かった。
俺は俺が感じた面白さを説明している。
君個人の面白さの話などはしていなかった。
>>440 「未来」とか言うと途端に嘘っぽくなってつまらなく感じる。
俺個人は。
肉は朽ちる。朽ちるそのままが面白い。
精神も肉も朽ちる。精神とは肉体の防衛。
なので精神を朽ちさせなければ肉が朽ちるのが見えてこない。
「未来」とは「過去」をモチーフにしたファンタジーにすぎぬ。
あるのは「現在」のみ。
「現在」こそが面白い。俺は。
>>442 >そしてにんげんの未来をもつ潜在は、文明を再び統治するよね。
そう考えるとげんなりするなあ。
同じ自慢話を何度も聞かされてるようなげんなりさ。
園児ってわりと「王道」好きそうだな。
>>449 時代の寵児であればそりゃ目にする可能性が高くなるからな。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1316632845/154-155 >知らないものには飛びつけないのは事実。
時代の寵児と、トリックスターって、深い関係がありそうだよなw
もっとも、楢雄というキャラクターから想起した観念というのは
俺の場合、ヴィクター・ターナーのリミナルという人類学的観念
だったんだけど。完全に中心的でもなく、完全に周縁的でもなく
その中間に位置する遊戯的存在。楢雄が将棋に夢中になる
とことか、楢雄の存在は遊戯的という解釈への親和性があるように
みえてくるね。
トリックスターってのも、リミナルなものなのか。ターナーはあんまり
日本では知られてないみたいだし、両者の関係について論じたひとも
俺はまだ知らないんだよなあ。
俺個人的に楢雄はトリックスターじゃないと思う。
サルトルはまあ、世間を引っ掻き回したと言えばそうかもな。
「時代の寵児」に既存体制を引っ掻き回すって意味が込められてるのか。
例えば徳川二代将軍秀忠は幕府の礎を強化した功績があるわけだが、「時代の寵児」とは言えない。
既存体制を引き継いだから?
ローマ二代目皇帝ティべリウスは?
>完全に中心的でもなく、完全に周縁的でもなくその中間に位置する遊戯的存在。
なら、楢雄は周縁よりだろう。
織田がそういう風に書いている。「冷たく」。
坂田三吉などは中間になるかもしれないが。
とはいえ閾値の取り方次第では人間誰しも
>完全に中心的でもなく、完全に周縁的でもなくその中間に位置する
ことになると思うがな。
>>452 周縁よりなんだけど、完全に周縁へと脱落するというわけでもないんだよね。
医学生になって、自活して、病院に勤めてるわけだからねえ。妻もいてね。
社会は中心によって完全に制圧支配されるわけではないが、周縁的存在に
よって秩序が完全に転覆されることもない。両者を媒介するのがリミナルな
存在である。 リミナルな存在は社会の秩序を維持するために貢献する、と。
>>452 秀忠もティベリウスも、「中心的存在」といったほうがいいんでないの?w
>>454 うん、まあ
>>453だな
>社会の秩序を維持するために貢献する、と。
維持というか変化し続けることに貢献する、だな。
人体と同じ、食物や呼吸などで細胞単位で変化し続けている。
>>455 家康は周縁的存在だったと思うが。最終的に中心になったが。
まあローマ初代皇帝アウグストスは中心的か。カエサルが周縁的。
>>457 カエサルだって中心的存在っしょw 終身独裁官にまで昇り詰めたし。
最後は暗殺されたけど。 周辺的存在というのは、だいたいが無名な
存在っしょ。
>>385 それだ。巨大なロブスターに追い掛けられる幻覚に半年間苦しめられたとかなんとかw
>>388 特に「水いらず」ね。持ってるわ。「嘔吐」は「反吐」とかいう名前で出てきた気がする。
むしろ逆に最初から中心的な人間などいないんじゃないか。
>>458 カエサルは元々記録にも残らない家の出で、政治に表れた時は元老院と対立する市民派だった。
まあもちろん脚色されてるんだろうけど。
最終的に中心になったのは家康と同じだが。
そもそもの話、だな。
最初から中心的な人間などいない、ということだ。
カエサルも生まれた時から中心であったわけではない。
秀忠などは生まれた時から、まあいろいろ闘争はあったんだろうが、将軍への道筋が用意されてたわけだろ。
しかし生まれた時は人間みな無名だ。
秀忠だって幼くして謀殺されていれば無名だったかもしれない。
そもそも、中心的、周縁的という構造自体が事後的なファンタジーにすぎないのではないか。
そのファンタジーを「六白〜」にあてはめるのは間違っている気がする。
「可能性の文学」にもあるように。
「が、サルトルはスタンダールやジイドの終った所からはじめず、彼等がはじめなかった所からはじめることによって、」
「はじめなかった所からはじめる」、「そもそも論」だ。
しかし織田はそれだけではない。
「しかし、肉体を描くということは、あくまで終極の目的ではなくて単なるデッサンに過ぎず、人間の可能性はこのデッサンが成り立ってはじめてその上に彩色されて行くのである。」
ということ。
とはいえ「彩色したからスタンダールもジイドも「はじめかった所」をはじめられなかったんじゃねえの」とは言いたくなるが。
こうやって構造主義に辿り着くもんだと思うがな。
「中心と周縁」は構造主義からすれば近代的思想への逆戻りになる。
「構造の周縁」という話ならまだ理解できるが。
構造主義の構造に中心はないんだよ。
サルトルとレヴィ=ストロースの論争は、「中心と周縁」ではなく「中心のない構造」についての論争だった。
「中心と周縁」も「構造主義の構造」も「彩色」だ。後者が「デッサン」に比較的忠実な「彩色」してるだけ。
一応言っておくが何度も言ってるが俺構造主義者だけどな。
むしろ織田に対して反論するなら、「その「肉体」は原則的に「デッサン」不可能なものである」と言いたいが。
むしろ、「そこに中心はある」と思い込みたがるから、中心人物が必要になるんじゃないか。
ネトウヨなんかも同じ心理構造なんだろうな。
しかし、「中心人物がいるのは歴史が証明しているではないか」とも思う。
確かにそうだ。俺は歴史学は否定しない。
だが、ある精神分析家がこう言っていた。
「精神分析は歴史学ではなく考古学である」と。
織田の言葉なら、「歴史がはじめなかった所からはじめる」ということだと思う。
サルトルと対峙した構造主義も、反歴史主義でもある。歴史的な推測を無視して別々の地方の神話を関連させて「構造」を論じる。
サルトルとレヴィ=ストロースの論争は、歴史の外の論争だと考えなければならないだろうな。
463 :
444:2011/09/27(火) 12:28:09.37
ハハハ
まあそりゃ相手が勝手に押し付けてくる妄想は誰しもいやなもんだろ。
>>445 町田評を載せた者ですが
六白じゃなくて「馬地獄」という作品を挙げながら、
織田作の冷たさを言ってましたよ。
無頼派のなかでは最も冷たさがあると。
その冷たさがイイと!
>>460 >最初から中心的な人間などいない、ということだ。
>カエサルも生まれた時から中心であったわけではない。
そうかいな。まあ確かに赤ん坊のときから有名な人間とか
いないけど。 中心、周縁の構造というのも、固有名など
どうでもよくて、匿名の人間をはめ込む社会的鋳型、システム
として想定されてるんだから、人間、誰しもはじめは匿名的存在で
あると指摘したところで、中心 ? 周縁の構造を批判したことには
ならんと思うがなあ。 つまり、家康とかシーザーという固有名は
どうでもよくて、それらを中心として定立する社会構造、権力構造
それ自体を問題にしていると。
サルトルとレヴィ=ストロースの論争についてはようしらんが
ポスト構造主義者の代表のひとりとして目されるフーコーにおいても
権力の活動は非個人的で匿名のミクロ物理学によって駆動されて
いるというので、非個人的な権力構造に着目している点は
やはりよく似てるな。
>>467 >人間、誰しもはじめは匿名的存在であると指摘したところで、中心 ? 周縁の構造を批判したことにはならんと思うがなあ。
別に批判ではないからな。
「はじめなかった所からはじめる」であって、はじまった後の歴史学(中心と周辺構造)は俺は否定しておらん。
>それらを中心として定立する社会構造、権力構造それ自体を問題にしていると。
そもそも中心を必要とするのはなぜだ? というところからはじまっているわけだな。
そもそも生まれながらに中心である人物などいないのに。
>>466 じゃあ町田は除外して読んで。
どっちでもいい。
>>468 それはいろんなひとが考えてきた問題だわなあ。
権力というものの性質上、中心が必要になるという
考え方があるな。トルストイの円錐体の概念とかそんな
感じじゃないかなあ。
社会を形成するためには権力が必要で、権力とは力の
不均衡であり、不均衡な力のベクトルが互いに相殺されて
いく過程で中心が形成されると、とりあえずそんなイメージかな。
それ以上の議論は、政治論、権力論、社会契約論の議論になると
思われるね。
予期理論の出番と聞いて
ただし歴史学でも、そういった「中心と周縁」構造から外れた歴史を研究する学者もいるがな。
網野史観とかはそうなるだろう。
もののけ姫のモデル。
「漂白民」は「中心と周縁」モデルでは捉えきれない。
本当の周縁とは、中心がないことなんじゃないだろうか。
権力論になるとフーコーになるわな。
パノプティコンとかは「なぜ中心が必要か」って所には有効な考えかもな。
とすると結局中心が必要なのは「監視する体制として効率的だから」ということになる。
そしてラカンの「まなざし」に繋がる。
ここまできてやっと「デカダンとは」という議論がはじまると思うがな。
権力論とか他スレでやれよ
スレちも甚だしい
「尾崎豊はデカダンか?」
というテーマでひとつよろしく
>>472 「漂白民」? あえて捉えるなら周辺的存在でしょw
図式ってのは、図式である限りにおいて、いかなる
事態も説明してしまうものだからさ。
いかなる事態も説明してしまう図式というのは、図式の
無力をもまた意味するのではないかという、そういう批判は
ありうるだろうな。 小林もよくこの手の批判はやってた。
それはゲーデルの不完全性定理の話ですか
ゲーデル? 全然意識してなかったw
>>475 一応「デカダン」には繋げたぞwww
むちゃくちゃ駆け足で。
あんまりスレチに拘ると議論は窮屈になると思うよ。
>>476 結構難しいテーマだなそれ。
芸能人とデカダンは相克するからなあ。その葛藤の中にいた人、などとお茶を濁す。
トリックスターと言うよりアンチヒーローだなあ。
>>477 しかし中心権力の作用は受けていない。「漂白民」とはいわば日本国ではない。
日本は「国」としての成立があいまいだったってのも網野史観なわけで。
>いかなる事態も説明してしまう図式というのは、図式の無力をもまた意味するのではないかという、
ラカンもそうだな。晩年サントームという概念で自ら作ったボロメオの輪という図式を自分で壊した。
図式は適応させるのが目的ならすべての事態に適応可能だ。君の言う通り。
>図式は適応させるのが目的ならすべての事態に適応可能だ。君の言う通り。
そしてこの「図式」を「物語」と言い換えれば
>>223ということでもある。
図式、構造、物語とは、各人の頭の中にあるものである。
>>469 こっちはどうでもよくないから言ってんの
町田が六白を冷たいと評したとか、ありもしない事を既定事実にされたら困るから
言ってんのね
つーかミニハン名無しは貼り付きすぎ(笑)
町田うんぬんしてる治美はどうしてコテ外したのっと
「可能性の文学」感想。
緊張感のないふやけた文章である。
まあいい気になって書き散らした感ありありで、枚数を埋めるために水増ししたような形跡もあり、
真面目に論ずるのも馬鹿馬鹿しい。
この不真面目さはすでに題名にも表れている。
「可能性」だって? まるでヒトゴトである。この言葉じたいが、産業関連のシンポジウムのように白っ茶けている。
私は将棋は知らないが、坂田は「可能性」とやらを探求するために打ったのではなく、ただ「勝つ」ために打ったのだ。
さらにその手の選択は、無限にある手の内の任意な選択、つまり「自由」な選択、などというものでもなかったはずだ。そんなにノンビリしたものでは、断じてない。
坂田は「可能性」ではなく「ひとつのスタイル」を生み出そうとしていた。
その行為は単独的なものであり、将棋「一般」の「可能性」とは、その根本においては何の関わりも持たない。
少なくとも坂田が見据えていたのは「将棋一般」ではなく、
「自分の将棋」だったはずなのだ
…ということを織田が知らないはずもなく、つまりは織田自身、
まあこれくらいセンセーショナルな言葉を並べておけば、
読者は苦もなく騙されるだろうと高をくくっている。
駄文です。
以上
>>485 将棋をしらないと断ればどんな的外れをいってもいいのか?
こんなバカにバカ読みされるとは織田作も無念じゃろう
ムー大陸なんか死ねばいいね
自分の文章は駄文ではないと?
とにかく緊張感がないんだよ。この文章。
がっかりです
あと、織田作を否定してるってわけじゃないんだよな。
ただ、「六白金星」にくらべてこれは明らかに手抜きをしてるってだけで。
偉そうなことを言いながら今んとここの二作しか読んでないし、どんな人かも知らないんだが、
ずいぶん出鱈目な生き方をしてるんじゃないかねこの人は
あなたは安吾の評論のレベルが基準だと思ってるでしょう?あんなの書ける小説家は安吾の他にいないんですよ。
うん。安吾が標準ですw
すると読むべき評論はほとんどないことになり、
俺のような怠け者には大変都合がいいんですな
シャブ中になぐさめられてうれしいかい?
エッセイとして読むといいですよ。
だってつまんないんだもん
あなた、自分の感想文が同じ視線に晒されたらどう思うのよ?
大変名誉な事だ
別に。受け止めるよ。
あと俺プロじゃないし。(逃げってことじゃない。生きるということが書くことになると、別の話になる)
じゃあ、今すぐ自己批評してみなよ。
なんでw
出来ないんですか?
意味がわからんし、する必要も感じないな。
っていうか流れ的には君が俺の文章への批判をするべき場面だろw
いつもひとまかせにしちゃいかんよ
織田作の<偶然>や<嘘>や<美術工芸品>とかの言葉の意味を把握するには
『それでも私は行く』(昭和21年4月から新聞連載)を読んだ方が分かりやすいかもね。
作家の小田策之助という作中人物が登場して、この作品を評価するような事も言っている。
この作品の中に作家を登場させるという手法も、ジイドの「贋金づくり」の模倣だと思う。
本人もこう言ってるし
↓↓
「おまけにカメラを動かしている作者が舞台で役者と共に演じている作者と同時にうつっていて」
(可能性の文学)
鶴雄っていう人物がサイコロを振って京都の観光名所を巡るっていうような小説で、ミステリーな
感じもある。まるで「可能性の文学」で自分自身が打ち立てた概念を弄んでいるかのような小説。
あまりうまい小説ではないけど
最近京都行ってねぇなーとか思った人は一読してみて
織田作之助
「それでも私は行く」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47287.html
もりみーでも読んでりゃ良い
何を?自分の文章をってこと?
鈴木が何をやって欲しいのかわからない
1.ムー大陸に主張を取り下げて欲しい
2.ムー大陸の自己批評を見てみたい
3.批評文は坂口安吾レベルのものでないと書いてはいけない
あと何か考えられるの?
鈴木の特徴
・相手によって態度変え過ぎ
・自惚れ、見下しが強い
・嘘、陰口、告げ口が多い
・他人の不幸や欠点を喜ぶ、他人の幸せや長所を嫉妬する
・何でも優劣や勝ち負けに関連付ける、他人をランク付けする
・他人を笑いものにすることが面白いと思ってる
>>485 棋士の坂田が本当はどうだったのかなんて今はどうでもいいんだ
それこそ安吾が嘘つきで、織田作が感心したと言ってるじゃないか
つまりは、織田作も嘘ついてんの
「定跡へのアンチテエゼ」という己の夢を語りたいがために坂田を持ってきてるだけだ。
ただ坂田が勝つために突いたものを<阿呆>であり<定跡へのアンチテエゼ>だ、ということが
虚構の文学であり、可能性の文学であり、織田作のロマネスクなんだと思うよ。
>>507 はいそうです。これは「いい気になって書き散らしたような」文章ではないと断言出来ますか?
>>508 まあ、2ですねえ。
>>509 そんな事ないですよ。
織田作之助の真意が本当はどうだったのかなんて今はどうでもいいんだ
それこそドラマの世界ではヒロイズムを盾にすればどんな無茶もまかり通るじゃないか
つまりは織田作も甘えてんの
「白樺派へのアンチテエゼ」という己のエゴを貫きたいために志賀をディスっているだけだ。
ただ白樺派をディスるために突いたものを<デカダン>であり<体制へのアンチテエゼ>だ、ということが
つまらない文学であり、ルサンチマンであり、織田作の作家性の限界なんだと思うよ。
>>511 俺がいい気になって書き散らしちゃなんでいかんのw
金取ってるわけでもないのにw
>>513 むしろお前の場合は金を払って書くべきだ
510だけど
ムーの言うとおり、坂田は「可能性」を追及するために打ったわけではなく、ただ勝つために
打ったんだと思う。けどそれじゃあロマンも何にもないじゃないか。阿呆な手を打って負けた
という事実だけが残って、坂田は浮かばれない。
そこを織田作が「定跡へのアンチテエゼ」と評することで、坂田は「大望を抱いて無残にも散って
いった英雄」になる。
嘘一つで人間は阿呆から英雄になれる。逆も然り。これが文学の可能性を追及するってことではないか?
志賀直哉だったら坂田をどう描くかね?もしかした、どうしようもない馬鹿者として虚飾なしにそのまんま
描くかもね、わからないけど。
>>510 いや、俺だって坂田どころか将棋なんて知らないし、嘘だろうが虚構だろうがいいんですが、
にしても、面白くない。
なんかヒトゴトみたいに喋ってる気がする。
切っても血が流れてこない気がする。
>>514 ふむ、そうかもねw
自分の楽しみのためだもんな
>>512 >それこそドラマの世界ではヒロイズムを盾にすればどんな無茶もまかり通るじゃないか
その通り!それを無茶ではなくリアリズムであるかのように感じさせるのが作家の腕。
織田作の言う「嘘から出た真」
横光は、ヒロイズム的なもの(感傷)を前面に打ち出している通俗小説の方が、当時の純文学
(私小説)よりもまだ面白いと言ってるよ。織田作が言うところの、人間の可能性を描いているから、
ということになると思う。
感傷物も下手打つと無茶になる。心境小説も下手打つと、芸のないノンフィクション小説になる。
芸のないノンフィクション小説を批判するために、織田作は虚構を宣言した。
ムーはオナニストなんだから織田作のロマンも受容できるはずなんだがな
>>516 織田作がヒロポン打ちつつ7年間を駆け抜けるように創作し続けた
のは知ってるよな?喀血して死んだのも知ってるよな?
グーグルで画像見てこい。激痩せした状態で机に向かっている写真があるよ。
それこそ血で文字を綴っているような人間だ。
これは織田作神話かもしれないが、まさか安吾好きの人間に血が流れて
いない云々言われるとは思ってもいなかったよ。
ムー大陸はほんとうにバカだなあ
いや、織田作の「主張」が間違ってるって言いたいわけじゃないんだよ。
ただ単に「可能性の文学」は作品としてつまらんと言ってるだけで
>>521 知らんし知る必要も無い。
サルコジが不倫大統領でも仕事ちゃんとやってればそれで評価する。
作品に斟酌されるべきものじゃない。
>>513 でももし自分がそうだとしたら、他人にそう言うのはおかしくね?
俺はあなたにそうは言わないけど、自分でどう思ってるか訊きたかったんだよ。
あなたは俺はプロじゃないしっていうのは逃げの意味で言ってるんじゃないって書いてなかった?
なんか俺感じ悪いかな?
>>524 テクストだけで評価って、古くね?
その他の情報へのアクセスを遮断して作品をみろなんて
それこそ傲慢というか無意味。
>>521 うん、知る必要ないよ。そんなこと。
ただ「六白金星」はよかった。「可能性の文学」はダメ。それだけのこと
>>526 本当に作家性がある人間なら
それが必要とあらば説明臭さを感じさせずにテクストの中に組み込みます。
「意図的に入れなかった」と判断します。
だいいち、突き詰めればそいつの半生全て追っても尚足りません。
傲慢ではなく礼儀です。
俺も可能性の文学より六白金星の方が好きですよ。
>>525 いや、もし俺が批評している作家と同じステージに立とうとするなら、
当然今とスタンス変えるよw
推敲もせんで書いたそばから携帯から送信したりはしないよ、そもそもw
鈴木も感想アップしてくれよ
相手の論を叩くには自説の論でもって叩くのが一番だしな
そりゃそうだ。
「リンゴは全て赤い」って断固言い張る奴がいるなら
目の前に青リンゴ置いてやるのが手っ取り早い。
>>526 それこそ織田作が批判してた、志賀直哉的終焉のなんたらじゃないすかw
あなたの態度は
作品を作家の個人像(っていうかぶっちゃけ神話w)で判断するなんて、「可能性」に反するじゃないですかw
ああ織田作が草葉の陰で泣いているww
ところで安吾厨の鈴木とムー大陸に聞きたいんだけど
安吾が小林秀雄と対談したとき、安吾が小林に向かって、小林の骨董趣味を批判した
じゃん。これってどういう意味?
俺はこの骨董趣味に対する批判は、織田作が「美術工芸品」とかいって心境小説を
叩いたのと同じ意味合いを有しているような気がする。なんとなくね。
そこでムーや鈴木に聞きたいんだ
>>528 作品以外のもの、
例えば作者のポートレートとしよう。
それを見ることなしに、作品に向かい合えといえるか?
もちろん、その写真からどれだけのことを汲み取るかは読者による。
汲み取らんでもよろしい。
ただ、汲み取って読んでもよろしい。
真空状態で作品は存在しない。
>>535 言えるよ?青空文庫にはポートレート無いし。
だいいちこの掲示板なんてテクストだけで成り立ってるのにも関わらず
あなた色んな人を勝手に評価してるじゃないですか。
いい加減アホっぽいよ?言ってること全部自分に跳ね返ってんだもん。
>>536 アホだな。
例えば写真てのは、テクスト以外の情報という意味だぜ。
あんたの言ってることは、しまいにゃ作者名を伏せて皆で読みましょになっちまうんだよ。
>>537 臨むところだよ?
何か問題あるの?それ。
モナリザが誰の作品か知らなくても
良い絵なら評価されるし悪い絵なら評価されませんよ。
>>538 えぐいぜ、その単純さ。
いいか、モナリザをだれが描いたか知らずに、
ルーブルで向かい合うことの出来る人間がどれだけいる?
そのものだけをみたりきいたりというのは幻想だし、
そのことを考えずに純粋に見ました読みましたというんじゃ、
アホすぎるだろ。
鈴木とムーのミニコントは終了したのか?
534の質問に答えてやれよ
>>539 実際こんな事知らんでも作品に向かい合う事出来るもん。
>織田作がヒロポン打ちつつ7年間を駆け抜けるように創作し続けた
>のは知ってるよな?喀血して死んだのも知ってるよな?
もう現実に目の当たりにしてるじゃないですか。
産まれて初めてルーブルでモナリザ見る前に
美術の教科書なりでダ・ヴィンチの名前見る前に絵見る奴もいるでしょうし。
http://takannex.fc2web.com/vermeer211.jpg ほれ。絵画そのものだけを見れるぞ。幻想を目の当たりにしてるぞ。
>>541 まいった。
わしが悪かった。
あんた自分の書いたもんよくみてみ。
まあ、わからんから書くんだろうがな。
>>543 お前がよく見ろよ
「より多く枝葉の情報持ってる方が勝ち」のお山の大将気取りたいだけだろうが。
その態度を傲慢と言わずして何をか傲慢と言わんや。
あと一回ぐらいは遠吠え許してやるぜ。それで最後にしろよ。
>>544 バカだな。
ゼンゼン取り違えとる。
よく見れんバカによく見ろというのは無理だったな。
ということでミニコント終了。
続きの演目に移ります。
ミニハンのミニコントシアターでした。
「うっ、うそだろ??
安吾マンセーの連中がこんな簡単な質問にも答えられないんなんてっ!!!」
こうして文学版の真実を知ってしまった俺は闇の組織に追われる羽目になった
続く・・
>>530 ほら。wとか使うでしょ。少なくとも織田作之助はwという気持ちで書いてなかったと思うよ。まあ、ここらへんで追及やめるけどさ。
>>531 だから俺の感想は「織田作は評論より小説の方が面白い」ですよ。だから論旨はムーさんと同じなんだけどね。
>>534 それは俺が思うにね、安吾が言いたかったのは、小林はモノに向き合うんじゃなくて人に向き合うべきだって事じゃないかなあ。
>>549 >小林はモノに向き合うんじゃなくて人に向き合うべきだって事じゃないかなあ。
字面通りじゃないか、背筋が凍ったよ。
わかった、これはナシにしてやる。
いや、真剣に答える気がないなら答えなくていい。
ちなみに、骨董の意味はいくつかある。
「骨董的見方」「骨董的玩味」とかも安吾は言っている。骨董品(モノ)ではなく人に
向き合っていたとしても、骨董的趣味は存在しうる。
ここの部分を聞いたんだが。。
そうか。俺は骨董について何も知らないからなあ。安吾は「骨董はそのものが生き方だ」とか言ってたね。俺はその時点でわからないんだよなあ。どういう意味なのよ?
安吾の「教祖の文学」を土台に安吾と小林は対談しているけど
「生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。
現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。
死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などといふものは、どこにもない。
人間と歴史は同じものだ。たゞ歴史はすでに終つてをり、歴史の中の人間はもはや何事を行ふこともできないだけで、
然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫つてゐたのは、彼らが人間であつた限り、まちがひはない。
歴史には死人だけしか現はれてこない、だから退ッ引きならぬギリギリの人間の相を示し、
不動の美しさをあらはす、などとは大嘘だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、
生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。
もし又生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、
死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかつたまでのこと、生死二者変りのあらう筈はない。
つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ。
教祖がちかごろ骨董を愛すといふのは無理がないので、すでに私がその碁に於いて看破した如く彼は天性の公式主義者であり、
定石主義者であり、保守家であり、常識家であつて、死人はともかく死んでをり、
もう足をすべらして墜落することがないから安心だが、生きた奴とくると、何をしでかすか分らず、
教祖の如く何をしでかす魂胆がなくとも、足をすべらしてプラットホームから落つこちる、どこに伏兵がひそんでゐるか分らない。
、実にどうも生きるといふことはヤッカイだ。」坂口安吾『教祖の文学』昭和22年
この部分なんかはまんま「可能性の文学」だと思うぞ。必然、偶然、骨董、碁。
タームも酷似してる。
でも要するに安吾は造形美術じゃなくて文学を語れって言いたかったんだと思ってたんだけど、それすら間違ってるかね?
>>549 追及っていうのそれw
>>534 ごめんそれ読んだ記憶がないんだよなあ。
今ちくま文庫の安吾全集開いてるんだけどなさそうだし。
ってことは読んでないのか。
いや恥ずかしい限り
>>553 おそらく間違っている
文学を骨董品にするな、と言いたかったんだと思う
>>482 だったらムーの「安直な感情移入を禁じてる」にもつっこめよ。
俺は町田の「冷たい」とは同じことを言っていると考え、「六白〜」はそういう作品だと思っている。
偶然というタームで骨董趣味を批判するのは俺は間違ってると思うんだよなあ。
>>374 そして人だってモノだ。
感情同化を軽んずれば。
文学を物として読むのは批評家はそうでなくてはならない、と思うがな。
教祖であっちゃまずいだろうが鑑定人でなくてはならないだろう。
>>549 鈴木に聞いてみたいが、「モノに向き合うんじゃなくて人に向き合うべきだ」ってどういうこと?
安吾は「大阪の反逆―織田作之助の死」というやつで織田作の追悼文を書いているね
無頼派が無頼派に宛てた追悼文ってのは特に泣けるw
銀座ルパンに飲みに行きたくなりますね
行きますか、今度
「可能性の文学」で言われていることは概ね正論だとは思うんだがなあ。
っていうか、この程度の「正論」は、あちこちからたびたび出てるんじゃないの?
(でも中村光夫の「風俗小説論」は今調べたら織田作が死んだ後なんだよな)
どうもサルトルやら文壇事情やらジャーナリスティックに並べてるけど、肝心の織田作のスタンスが迫ってこないんだよな
「自分の書きたい小説」についての評論なんだからそれを書くなら小説で書くっしょ。
それについてはあくまで補論にはなろうよ。
しかし織田という人柄についてはこっちのがよく出てると思うがな。
小説の方が演技。
>>562 追悼文を書くのって無頼かね、と言いたくなる。
織田という人と向き合うなら「可能性の文学」の方が適していると思うぞ。
彼の本音が出ているかと。
サルトルの引き方はともかく「肉体」「デッサン」の比喩とかいわばマグナ節みたいなもんだろ。
小林と安吾の対談の文脈に限っていえば、
>>553の鈴木の理解で合ってるだろうよ。
よくわからんが、小説としてならそりゃ小説の体をなしている「六白〜」の方が面白いに決まっていると思うんだが、
「人として向き合う」なら、小説という体裁を気にせず、なおかつ学者論文的評論の体裁でもない「可能性の文学」の方が、
本音を書けるだろう、って推測にならないか?
>>565 出版社に無理やり書かされたという体でなw
無頼派の結束力は固いかもね
小説が舞台上なら「可能性の文学」は楽屋トークだ。
バーで他の文士たちとこういうこと語ってたんだろうな、って思わないか?
>>441 >形式的な視点からしか書いてないと何故「アンチテエゼ」として弱いの?
その点に関する「可能性の文学」の弱さは3点。
1)まず形式的な視点がどう内容に結びつくのかが曖昧であり、
2)仮に形式的な視点に特化するにしても抽象的なままであり、
3)「オルソドックス」に対する「反動」に留まるならば自分の足で立てない論となる。
ということだね。
同じように、小林の定石に対して安吾がその反動=反抗をバネにしてるままだとすれば、
オーソドックスがなければ立てない「アンチ」というポジションになってしまう。
>>554 そうだよ。よくないよあんな感想は。
あと「伝統と反逆」は講談社文芸文庫の「小林秀雄対話集」に載っているので、安吾ファンなら絶対買うように。
>>555 文学を骨董品にするなってどういう意味だよ?
>>559 人はモノじゃないよ。
>>560 そうだけど、安吾は小林秀雄ファンなんだよな。「あんたは批評で文学を生かした男なんだから、何か創りなさいよ」と言う訳だ。要求が高いんだよな。
>>562 読んでみたい!!
>>563 俺が一番感心したのは、上にも書いたけど、小林秀雄の志賀直哉論に関する論考だね。「教祖の文学」に直結する話題なんだけどさ。
>>565 あなたが何が言いたいのかわかりませんよ。
>>562 >>565 「大阪の反逆」今読み返した、というか読んだことも忘れてたから
ほとんど初めて読んだようなもんなんだがやっぱり面白いな。
というか安吾も石川淳も追悼文はうまいよなw
「不良少年とキリスト」はもちろん、安吾の牧野信一の追悼文とか石川の「安吾のいる風景」とか絶品だしw
A)「純粋戯曲」の形式が単純かつ簡素
B)「純粋小説」の形式は不純かつ複雑
織田が戯曲と小説でまるで反対の方向性を掲げたのも曖昧だ。
たとえばAはベケットが「ゴドー」以降の演劇や三部作以降の小説でも行った「消尽」の試みだとする。
もう一方のBはジョイスが「ユリシーズ」で行ったような試み、つまり、
ダブリンの1日をさまざまな角度からさまざまな形式、さまざまな文体を用いて描いた試み。
といっても織田は具体的な例示をしていないからこれは推測するしかない。
織田の小説「夫婦善哉」「世相」「六白金星」を読む限り、
AやBの方向性とは別なスタイルで書かれているように俺は思うね。
>>572 なら最初からよくないって言えっつーの。
それですむじゃん
めんどくさい奴だなー
俺は二作品読んで織田作ファンになりました。もうひとつ織田作の小説を読んでみたい気もする。続けてはなんだから、いつかやりましょう。
>>575 いやねえ、あなたは最高だと思ってるのかも知れないから自分ではどう思うのか訊いたんだけど、結局あなたは答えなかったから俺が言わざるを得なかったんだよ。母親的な立場で。
父親でもいいけどさ。別に佃煮あまなが何を書こうが興味はないんだよ。でもムー大陸にあれを書いて欲しくはなかったんだ。
あれえ鈴木くーん。
上から目線になってませんかー?
>>571 1について、まずオルソドックス自体が形式であること。
2について、「可能性の文学」は楽屋トークであり、形式を形式で論ずる蓮實のごとき学者論文ではないから。
3について、自分の足で立てなくていいんじゃね。クリステヴァによればサンボリック(これをオルソドックスだと考えられる)に参入して初めて自我が定立するのだから。
要するに、学者論文としてロジックの穴がありすぎる、という意味なら同意する。
しかし人を読むための文章としては、穴があった方がよい。
本人はロジックのつもりでもロジックが破綻してたりするもんだし。
それをロジックで説明すると人は「屁理屈」と言う。
ロジックなんて所詮気分でしかない。気分が大事だけど。
「可能性の文学」は穴がありまくりだ。サルトルへの繋げかたやら。
ムーの言葉なら「書き散らかし」の類だろう。作家が書く小説や評論家が書く評論と比べたら。
だからこそ「織田という人を読む」には適している。
>>572 「肉体」とはモノだよ。血も熱もモノだ。
>>574 >A)「純粋戯曲」の形式が単純かつ簡素
>B)「純粋小説」の形式は不純かつ複雑
>織田が戯曲と小説でまるで反対の方向性を掲げたのも曖昧だ。
これどこに書いてあるの?
「可能性の文学」じゃないよね。
>>503?
待て。今のなし。
つまりお前本気で怒ってるの?
じゃあ俺も本気で相手するよ。
俺は確かに書き散らしてはいるが、それでも自分に誠実に書いてるつもりではあるんだよ。
それを真っ向から否定されれば黙ってないよ。
俺の感想のどこがダメだかきちんと言ってもらおう
ムー大陸がもう少し反省できる男なら出世もし、結婚もしているだろう
あ、あった。これか
>二十六歳の時スタンダールを読んで、はじめて小説の魅力に憑(つ)かれた。しかし「スタンダールやバルザックの
文学は結局こしらえものであり、心境小説としての日本の私小説こそ純粋小説であり、詩と共に本格小説の上位に
立つものである」という定説が権威を持っている文壇の偏見は私を毒し、それに、翻訳の文章を読んだだけでは日本文に
よる小説の書き方が判らぬから、当時絶讃を博していた身辺小説、心境小説、私小説の類を読んで、こういう小説、
こういう文章、こういう態度が最高のものかというノスタルジアを強制されたことが、ますます私をジレンマに陥れたのだ。
私は人間の可能性を追究する前に、末期の眼を教わってしまったのである。私は純粋小説とは不純なるべきものだと、
漠然と考えていた。当時純粋戯曲というものを考えていた私は、戯曲は純粋になればなるほど形式が単純になり、
簡素になり、お能はその極致だという結論に達していたが、しかし、純粋小説とは純粋になればなるほど形式が不純になり、
複雑になり、構成は何重にも織り重って遠近法は無視され、登場人物と作者の距離は、映画のカメラアングルのように
動いて、眼と手は互いに裏切り、一元描写や造形美術的な秩序からますます遠ざかるものであると考えていた。
小説にはいかなるオフリミットもないと考えていた。小説は芸術でなくてもいいとまで考えたのだ。しかし、日本の文学の
考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中には
いった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、
私はひそかにアンチテエゼを試みつつ、やはりノスタルジア的な色眼を使うというジレンマに陥っていたのである。
しかし、最近私は漸くこのオルソドックスに挑戦する覚悟がついた。
反省はしないが批判と喧嘩はちゃんと受けるよw
>>579 でも暴走してる気がしたからさ。見下してるとか、あんたほんと読めない人だなあ。愛だよ!愛。言わせんな恥ずかしい。
>>581 いや、怒ってないよ。どうしてもやりたいならやりますよ。敬意を持ってね。
あと、もう言いたい事は言ったよ。それについてムーさんが「下らない」「的外れ」と思うなら別にいいよ。
じゃあ聞くが、なんで「書いてほしくなかった」の?
純粋にわからんのだが
>>580 いや小説家のエッセイとしても、俺には穴が感じられるね。
織田という「人」に関しては、嘘=フィクションだから読めない、
エッセイ=ノンフィクションだから読める、という基準は俺にはないかな。
要は小説の実践と、エッセイでの意志のギャップがあるというところだよ。
ここはムーと鈴木に場所をあけようw
ちょっと寂しいなと思ったんだよね。でも別に俺に命令する権利はないし、仕方ないよね。
>>587 もっと愛のある人だと思ってたからさ。「可能性の文学」を読んで織田作がテキトーに書いてるとかさ、そんな事を言って欲しくはなかったんだよね。
あと念のため、別に俺は喧嘩モードではない。
鈴木のレスがなんか本気っぼかったから茶化すのはやめてきっちり向き合おうと思ったまでで
形式化か。
演劇ってのは一回性で、文章のように書き直し、推敲できない。「偶然性」に翻弄される芸術だ。
そのため形式性は重要になる。形式性とはいわば象徴ルールで、象徴主義とワーグナーの親近などが良い例。
一方小説とは書直しが効く。「偶然性」の排除が容易。製本でページが飛ぶとかしない限り(昔はよくあった)。
偶然を描くことはリアリティを描くことで、チェーホフなんかもそういう考えで伏線を排除したりしたわけだが、
演劇はどんなに形式を純化し偶然を排そうとも、偶然が侵入してくる。骨董の焼き物もそうなんだがな。
しかし文章、つまり小説ならば、偶然の排しやすさから、偶然を偶然として描かないと、リアリティが生じない。
現代風に言うならヘタウマな文章にしなければならない。
だが当時の文学界は、形式を重視するあまり、偶然を排しやすい文章の芸術であるにも関わらず、偶然を拝した
文章が評価されている。
偶然、例えば舞台上のハプニングとはいわばわさびのようなもの。
それがない完成された小説などわさびの入ってないお茶漬け趣味だ。
こういう風に俺は読んだ。
いや、いつでも俺は本気ですよ。俺も「可能性の文学」は評価しないし、評論として失敗作だと思うけど、織田作は真剣だったと思うよ。俺はね。
>>588 >要は小説の実践と、エッセイでの意志のギャップがあるというところだよ。
これは俺も思う。つか無頼派全体にも言いたいわ。
>>565 ムー、鈴木に場所あけるの了解。
いや、俺なりの愛だよ。
六白金星が素晴らしかったからさ、期待して読み出したら怒りが込み上げてきたんだよ。
馬鹿にして切り捨ててるわけじゃない。本気で腹立たしいんだ。こういう文章は俺
いやそんな、場所あけるとかいいよw
そうか。じゃあ六白金星への評価がムーさんは高すぎたという事で納得しますよ。
おいおい、アセンションまで鈴木の字面通りの安吾の解釈を推したよ
信じられん
説明するのも面倒くさいからさ、とりあえずお前ら
「教祖の文学」をもう一度しっかり読んでくれ
この「教祖の文学」の文脈で、安吾は小林の骨董趣味を批判してるから
評論向きではないんだね、織田作は。それは俺も思ったよ。
>アセンションまで鈴木の字面通りの安吾の解釈を推したよ
これどれ?
>>599 小説で評論やってるようなもんだからな。下手な感情移入を排するのが評論だとするなら。
>>598 わかった。あんたと決着つけようか。とりあえずコテ付けて。臨時のコテでいいからさ。
まずさ、感想を求めて相手を値踏みするって根性が好きじゃないよ。まずあなたの主張をハッキリ出すべきだろ。違うか?
ミニハンはもっと落ち着いて書け。アセは文脈を限定しているよ。
>>601 うーん、わかんないけど、ムーさんじゃないけど、安吾の批評が多義的なテクストとして読めるのに対して、劣ってるとは思うね。
>>598 「教祖の文学」で骨董趣味批判をしてたのは知ってるよ。
それに対して俺は「安吾は小林にモノより人を見るべきだと言いたかった」とか言ったよな。
それが字義通りってさ、実際そうだろう。あなたの深読みを披露しない限り話は進まないよ。
>>592自己レス
そういう意味で、演劇も骨董の焼き物も、いかに形式に準じてもけして偶然性からは逃れられない芸術である、と考えるならば。
そもそも偶然性を排除しやすい文章による芸術である文学を、骨董焼き物のごとく「偶然性の排除」を基準に評価してはならぬ、
という理屈で、小林の骨董趣味批判は筋が通るな。
骨董は文学ではなく演劇である、と。
それなら俺個人は理解できる。
なんだ俺はもうおわりか、まあいいけどw
っていうか、「まず自分の主張を出すべき」って、
いつも俺が鈴木に言いたいことなんだがw
おやすみなさいませ
小林骨董趣味批判についての俺的まとめ。
>>374 >>594 >>605 つまり普通にやって偶然性に翻弄される度合いとして、骨董や演劇などより、文章の芸術である文学は低い。
従って、文学はあえて偶然性を挿入しなければならない。
文学に対しては、骨董や演劇に対する「偶然性をいかに排除したか」という評価基準を当てはめてはならない。
そういう意味だと読んだんだけど、どうだろ。
>>600 567だよ
流れを把握するのであれば、534 549 550 551 552 553を見てくれ
>>604 もうね、初期の頃から「可能性の文学」に関して意見してるのよ
いま番号あげるから待って
というか「教祖の文学」読んだらその解釈になるわけないじゃん
説明すんのめんどくせー
>>609 今読み返してるよ。面倒臭えとかさ、じゃあ初めから人に突っかかるもんじゃないよ。
「教祖の文学」より
人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまふともう剣などは握らなくなり、
道のまんなかに荒れ馬がつながれてゐると別の道を廻つて君子危きに近よらず、これが武芸の奥義だといふ、悟道に達して、何々教の教祖の如きものとなる。小林秀雄も教祖になつた。
>>610 とりあえず主要なレスを挙げておく
552 519 515 510 380 373 369 360
で、もうそろそろ寝なきゃいけない。明日やろう。
スレチになるから雑談スレでやりますか?
「教祖の文学」「伝統と反逆」
これをお互いしっかりと読んでから決着をつけよう
形式、オードソックスとかいろんな単語で言われてるけど、要するに「ある決まったパターン」なわけじゃん。
演劇や骨董の焼物は(俺個人がそれしか知らないので)、パターンを壊してくる自然の力がある。
演劇ならどんなに稽古ゲネプロしてもある不測のハプニング。
骨董ならうわぐすりや墨の溶解など。
小説はこういった「どうしようもない偶然」を排除するのは容易い。推敲すればよい。小学生の作文でも教えてること。
だからこそ、文学に限っては、この偶然性を故意に組み込まなければならぬ。
偶然を排するのが焼物や演劇の技術だとするならば、文学はヘタウマでなくてはならぬ、と。
しかし普通の人間は偶然に翻弄されてるわけだろ。いかに緻密な人生設計を建てても不測の事態が起きる。
レールの上を生きるのはままならない。
それが
>>551の「骨董はそのものが生き方だ」ってことかなあ、とは思う。
偶然性に翻弄されるのがリアルであるならば、偶然性を排除しやすい文章の芸術である文学は、いわば嘘を付きやすい芸術だ、ってことでもある。
まあ小説自体がフィクションなんだけど。
演劇もフィクションだけどフィクションを忠実に再現はできない。それこそいろんなハプニングがある。
こんなところでどうだ。
ミニハンは最初から番号つけてりゃ面倒がないのにw
対談に関しては、鈴木の理解でまったく問題ないだろう。
本業の文学をやってくれ、という安吾の批判=希望なんだから。
「教祖の文学」は俺はまだ読んでいないから何ともいえないが、
ここにもきっと愛あるアジテーションがあると踏んでるよ。
安吾スレか小林スレに移行でいいんじゃないかな。
>>613 OK!!
明日ね。俺も今「教祖の文学」を半分まで読んだ。明日は「伝統と反逆」を読むよ。あなたの論考楽しみにしています。
ミニハンのレスの特徴
「俺個人は」「君個人は」のように「個人」を多用する。
書籍板の青空文庫スレはいい感じ
このスレは雑談スレのサブスレという感じで気持ち悪い
別人? もう誰が誰やらw まあいいか。
いま「教祖の文学」はさっと目を通したけどスレチになるので1箇所だけ引用。
安吾がジッドに関して語ってるところが、
俺が「可能性の文学」について書いたことに重なっていたので。
ジッドは「小説をつくる技師であるが、本当の小説家だとは私は思つてゐない。
ジッド氏が自身の小説に於いて、自我を創造、発見したか、私は疑問に思つてゐる。」
じゃあそっちでどうぞ
書籍板でサルトルやらテクストクリティーク的な話したら一発でスレチ認定されるからな。
書籍板は馴れ合い目的だな、俺は。
わたくし若い時分に教祖の文学を読んでしまったおかげで、
職業物語作者いがいの人が書く評論をほとんど読まずに生きてきて
しまいました。
この板の皆さんが物語小説だけでなく評論随筆のたぐいも広く読んで
勉強してるようすなのにはいつも感心します。
公式と可能性の話は、今読むととてもランボウですが
アンゴが書くとじつに重みがあります。
>>621 俺個人は
>>613は治美だと思ってた。
後
>>613はここでやっていいと俺は思う。別スレ行ったら行ったでめんどい。
どうでもいいけど
>>622で気付いたんだが、
アセがこのスレでやりたかった空気は書籍板や創作文芸板なんじゃないかと思った。
マグナが書籍板にスレ立てたのは反乱とかじゃなくて、空気を読んでのことじゃないか。
あいつ小説関係ならいろんな板出入りしてるし。
後亀レスだが
>>515 >どうしようもない馬鹿者として虚飾なしにそのまんま描くかもね、わからないけど。
むしろそれがデカダンだと思うがな。
楢雄だって最後に修一から「こいつに何言っても無駄だ」と思われただろ。
アンチヒーローとデカダンは別。
志賀だと、楢雄に対し「いやこの楢雄にも人格の尊厳があってどうのこうの」みたいに考えるんじゃないの。
そうやって楢雄という「定跡はずれ」という虚構のアクチュアリティが剥奪される。
楢雄も志賀になる。
>>624 >評論随筆のたぐいも広く読んで
2ちゃんで連載されている評論随筆は読み切れてません、不勉強です。
>>620 一般書籍板のことはよく知らないんだよなあ。
ちょっと雑談っぽい流れのボリュームは確かに増えてるかな。
あと、名無しの書き込みの割合が昔に比べて最近多い感じはするね。
本人たちは差別化できてるんだろうけど、読むほうとしては区別しにくいな。
あと、途中から新しく参加してくれた人の足がちょっと遠のいてるのが淋しい気もする。
治美とほら話がコテ外したから名無しが多く見えるだけで
総数自体は大して変わってないように思えます
>>627 書籍板やら創作文芸って受け皿あるしいいんじゃねえの。
他人に気遣うことで自分個人の楽しみを削ぐなんてアホらしい。
文学なんてそもそも成立当初からマイナーな趣味なんだよ。
みんなこれがわかってない。
このスレはコテのドロドロした人間関係が見るに耐えない
そらコテ外したくなる気持ちも分る
雑談っつうかスレチだろ。
スレチはある方がいい。スレチを許さないのはその作品を殺すことだ。
>>630 それはどこも一緒だろ。2ちゃんもリアルも。
ドロドロした人間関係から逃げたけりゃ引きこもるしかない。
後見ている人間が勝手にドロドロを妄想する場合も多々あるしな。
俺も女性社員連中から上司との不倫を噂されたことがあるわ。
そりゃよく一緒に酒飲んではいたけどな。
634 :
佐藤:2011/09/28(水) 01:20:04.81
>>618 風呂入ってきた
明日の夜9時頃から安吾スレでやろう
この「佐藤」というコテ名をつけるので目印にしてくれ
えー、こっちでやれよ。
2ちゃんの遊び方の各人の受け止め方だな
これが2ちゃんといってしまえ
そうそう、2ちゃんなんて各人の一人遊びでいいんだよ。
カスを漢字で書かれると斬新な感じ(漢字と感じで掛かってるのが面白いところです)
でしょ
ここで全米が涙!
また名無しの雑談
>>642 と名無しがおっしゃっています。
つかさー、アセもそうなんだが、別に番号ふらなくても、必要があれば
>>613みたいに書けばいいわけで。
「言葉だけに反応する」ってことがどうしてできないかね。
まあそういうの2ちゃんじゃ「脊髄反射」って言われるわけだけども、匿名掲示板なんだからそれでいいと思うがな。
そして「言葉だけに反応し」なくては「感情移入ではない人を読む」ことはできない。
後自己レス
>>625 >楢雄に対し「いやこの楢雄にも人格の尊厳があってどうのこうの」みたいに考えるんじゃないの。
これとかもろ「小僧の神様」だよな。志賀だったら楢雄ですらその小僧のように書いちゃうんじゃね。
>>588 亀レスだが。
>織田という「人」に関しては、嘘=フィクションだから読めない、
>エッセイ=ノンフィクションだから読める、という基準は俺にはないかな。
誰もそんなことは書いていないが。
嘘だろうがそいつの「人」は読める。
フィクションだろうがノンフィクションだろうが、「穴」があれば、「人を読める」、という話。
エッセイなどは気取らず書いているから、学者論文なんかよりはそいつの「人」をさらけ出してるだろう。
2ちゃんなどは匿名だから、そいつの「人」をさらけ出しているだろう。
>いや小説家のエッセイとしても、俺には穴が感じられるね。
と書いているが、「穴」があるからこそ、そいつの「人」が読める、という話なわけだ。
むしろ「穴」があるから「人を読めない」っていうのがわからんな。
それは「人を読んでいる」のではなく「仮面」を読んでいるのではないか?
おいおいまた仮面話かよ。
いいかげん飽きた。
俺は飽きてない。
安吾スレ荒らすなよ
釘刺したからな
ミニハンは貼り付きすぎだって(笑)
安吾スレ見てきたけど過疎ってたな。そっちも盛り上げたほうがよい。
>>652 一度自分の書き込みをカウントしてみればいいよ
>>634 九時からだと一時間くらいしか時間取れないよ。
鈴木の指名料いくら?
150円です。
ウンチして拭いてない肛門を舐めてくれるの?
659 :
佐藤:2011/09/28(水) 13:16:36.10
>>655 じゃあ8時からで
落としどころは見えたよ
2時間もあれば十分
頼りねえなあw
観戦してやるよ
終わったら反省会な
なら諦めるんだな!
20日・30日5パーセントオフの時にするか
150円で鈴木が肛門を舐めてくれるらしい
肛門舐めるのは嫌だよ。
フェラするだけで5千円のお仕事
鈴木は5千円払ってフェラしろよ!
鈴木はフェラされるのはあまり好きじゃないらしいからちょうどいい。
鈴木はフェラフェラしてんじゃねえぞ!
671 :
吾輩は名無しである:2011/09/28(水) 15:58:57.73
また無職名無しの下ネタコントシアターかよ(笑) 労働せよ暇人どもー!
handjobのことかな?
このフェラず口!
フェラい剣幕だな・・・
それで、フェラ話はどこ行ったの?
>>669 別にそんなこと言ってないけど…してくれるなら大歓迎ですよ。
鈴木は金玉派なんだよ。バレてんだよ。
雑談スレでやろうか。
やだ、犯される・・・
鈴木のことは別にフェラいじゃない
金玉の話ばっかしてないでいなりずしの話もしようぜ
鈴木の性癖はよくわからんよ
至って普通ですよ。おまんこ星人です。
鈴木は俺たちと違ってほんと下ネタばっか言うよな
もううんざりだよ!
ほんと鈴木だけだぞ!
ちんち虫ですよ。
ちんち虫って何?
雑談スレ行け
犯されるからやだ
雑談スレは文学板のスラム
お前らがおまんこに夢中になってる間、安吾スレで面白いバトルが起こってたよ。
>>643 >
>>613みたいに書けばいいわけで
じゃあミニハンも613と同じように書き込んだレス番リンクをまず貼ってくれ。
話はそれからだな。
>>692 今から読みに行くぜ〜
ぐぬぬ…
ちゃんと20時に来たから偉いと思ったよ佐藤さん。
安吾スレより、まんこスレ
佐藤はちゃんと時間も守ってるし、仮HNもつけてるから、
今のところ鈴木と五分五分の立場でしっかりした対論になってるんじゃないかな。
ミニハンも同じように俺と向き合えるかい?
アセンションそろそろ怒ってよ。こいつしょーもなさすぎるだろ。
ホモばっかり
おまんこ星人だのちんち虫だの言ってる奴ですよ!許せねえ!
怒りがいのない奴に何言ってもなあ。
>>643-644 俺は言葉しか読んでないな。むしろ言葉に「人」を混在させることは、
感情と結託してしまう読みになってしまうだろう。
「人」というタームで考えている以上、そこにリミッターが働いている。
むしろ、織田に対し「イメージなき読み」をしたいのなら、
俺が以前に書いていたように「筆の動き」を読まなければならないだろう。
少なくとも俺が焦点をあてているのは「人」ではなく、「筆の動き」だ。
そして、それをとりあえず《純粋読書》と名づけてもいいだろうな。
《純粋読書》は織田の「人」以上のものを読む可能性をひらく。
つまり、リミッターを働かせない「可能性の読書」でもある。
織田のいう「純粋戯曲」や「純粋小説」以上にいいんじゃないかなw
ヤクザと馴れ合ってるアセンションが何言っても無駄
>>645-646 次に「穴」について。
「穴」があるから面白い読みができるわけじゃない。
「穴」の質によるだろう。
何度も繰り返されるそのミニハンの個人的見解は
俺のスタイルとはまったく関連をもたない。
俺からすれば、ミニハンの見解にも穴が見られるが、
その「穴」がミニハンという「人」を面白く読ませるのかというと
そうではない。ミニハンという「人」に興味がない。
興味があるのは、書かれた言葉だけだ。
その言葉にある「穴」質で面白さが決まる。
穴とかいいかげんにしろよw
織田の「可能性の文学」というエッセイに穴があるのはいい。
ただ「夫婦善哉」「世相」「六白金星」などの小説に比して、
その穴が面白くはないんだな。
ただ、織田の意気込みと熱意は伝わってくるし、
ムーのように「駄文」とまでは言いたくない。
709 :
吾輩は名無しである:2011/09/28(水) 21:33:55.15
全然読めない人達の集まりですかw
筆の動きを読むより、「作品」を読めてますか?w
筆とかw
安吾スレで面白いバトルってたんに鈴木がやってるんだろっていう
>>707 >>710 ここではあえて「筆」と「穴」というメタファーを用いたw
>>709 異論があるならどうぞw
自分の感想の番号を付けて提示してもらって構わない。
トンネルを抜けると雪国であった。ウッ…
オカ板でのアセンションネタももうおわこんらしい
このスレ あな、おかし
716 :
吾輩は名無しである:2011/09/28(水) 21:48:24.28
>>712 筆の動きより、出来上がった作品を読む方が大事なのは
言う間でもないのでは?w
俺ははっきり言って書いた人間にしか興味が持てないんだよな。
ナレギラには笑った ネーミングセンスねー
さあ
>>716の「作品」への感想を待とうじゃないか!!
ハゲのしまむらは今日朝からずっと名無しで潜伏してたんだろ
722 :
吾輩は名無しである:2011/09/28(水) 21:56:26.52
>>719 あのな、俺は野次馬で一般論を言っただけだw
特に、ワープロ、パソコン登場以来、筆の動きを読むことは
困難なのではないかな?
現代の作家志望者がどういう特殊な書き方をしているか、ちょっと
想像がつかない面もあると俺は思うんだよな。
そんなヒマじゃねーよ。
今日は朝っぱらから延々夕方まで会議だったよ
名無しのシモネタは全部ムー大陸だからね
>>722 野次馬も一般論も許さん!!
三行でいいから感想書け!
っていうかどうか書いてください
穴が三つ
ボーリングの玉
>>693 必要があればこのレスは俺だと言ってるが。
なんでこうアセは俺にいちいち食いつくかね。
アセンションの得意な分野ってどこ?
最近のアセの感想はつまらないぞ
とゆーか読めてるか怪しい
人には得意不得意があるから仕方ないがさ
アセと俺とで文章の楽しみ方が違うのはいいんだが。
俺は俺の楽しみ方で読んでいる。
穴に質はない。
穴は仮面の穴。
仮面の下を覗かせるから面白い。
それだけ。
別に「穴のない文章」でも面白いと思う時あるしな。
「穴」だらけでもつまらないと思う時がある。「穴」の下も大体「仮面」だし。「仮面」とはタマネギのようなもの。
今回の織田の「六白」と「可能性」を並べた場合、「六白」は背伸びした舞台役者のような感じがしたが、
「可能性」は楽屋トークみたいな感じがしたので、そっちの方が面白く思えた。
真面目な小説の楽しみ方ではないかもしれない。
ムーは風物詩の使い方違くない?
雑談スレの人へ。ごめんね、もう書かないよ。2chはやめるからー。読書会楽しかったです。みんなありがとうございました。
最悪だな、おまえら
よくあること
もうニッパのこと叩くんじゃねーぞ
ミニハンやナレギラがいらないんだけど
俺たちはニッパをすぐ忘れるだろう
まだ言ってるし
739 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/09/28(水) 23:19:42.42
ニッパ俺とメールでもやらんか。
アホが偉そうにして得意がってやがる
アホのアホによるアホのためのすれちがい
おっさんどもが発狂してる
おっさんは鼻毛で怒る
ちみたちはバカの中のバカだよー
叩き方が不条理すぎなんだよ。それで面白い面白いってバカだろ。
ほら話者いる?
いたら返事してくれ
急に不安になった
鼻息で鼻毛がなびいている映像が浮かんだ
耳毛もひゅるりらー
かーぜにふかれてー
>>745 や、やめてくれ
荒涼感が半端ない
オレ落ちるわ
また明日な!
>>732 賢明な判断ですな。
まあお子さんが第一次反抗期とかなってやさぐれモードになったらまた来てくださいな。
反抗期のガキ抱えてりゃ殺伐モードにも慣れてたかもなあ
2ちゃんに長居してるとあたいみたいになっちまうのさ。
へっ泣かすぜ・・・
ちょっとあまながかっこよく見えた死にたい
だいじょうぶ
すぐにがっかりさせてくれるから
唐突でもあり、もうすぐ寝ますが、一言。
『可能性の文学』を読んで初めに思ったことなんだすけど、作之助は彼の言う従来の日本文学を否定的に
とっているんだろうけど、『六白金星』で、彼はそれを自ら克服しているのか、という疑問があるんです。
というのも、恥ずかしながら、僕は自然主義的私小説なるものは一つも読んだことがなくて、
彼の指標とするところの志賀直哉のフォルムなるものの正体が皆目わからない。よって批評できないんです。
それで、『六白金星』が、僕の中では彼の言う従来の日本小説とは、これ、どれほど違うのか?
まったく違いはないのではないか?と、思えているんだよな。どうですか?読書量多い方々?
志賀くらい読んどけ
以上
小僧の神様とか教科書に載ってなかったっけ
>>754 おお、期待の新人君か
よく来てくれたなww
おじさんたちと遊ぼうな
『小僧の神様』読んでくれ
短編だからすぐに読める
フツーの人間であれば、つっこみたくなるよ
小僧を何だと思ってんのか?ってね
もちろん、志賀の文章は巧みだがな
城の崎にてだっけか、遠い昔のことだから忘れた
761 :
754:2011/09/28(水) 23:43:54.48
だって、彼は
>いかに生きて来たかということは書かれているだろうが、いかに生くべきかという可能性は描かれていない。
という批判をしているが、このいかに生くるべきか、この問いの答えが『六白金星』に書かれてあるとは思えないんですね。
そこで「可能性の文学」ですよ
たぶん世代や使ってる教科書によって違う。うちらはなかった。漱石のこころはあった。
いや、俺は人はいかに生くべきか、ということを楢男から学んだよ。
最高だぜ楢男!
というか、文学に限らず全ての学問がそうだけど、「問いの答え」は自分で見つけ出すしかできないんだよ、人は。
文学も学問も、各人が答えを出すヒントでしかない。
しかしそのヒントは、ある決まった答えに誘導するヒントになっていないか、という、教える側の自己疑問もあるわけだ。
教師は生徒を自分のコピーロボットにしたいわけではない。
話がそれたけどそれたままにしておこう。
数学でも、ある定理の解き方が教科書に載っていて、それを理解しないまま定理を使うことはできる。
それは「問いに答えが出た」ということになるだろうか。
767 :
754:2011/09/28(水) 23:51:53.67
まあ、作之助は作之助の時代で古い文学を否定的にとっていて、
僕は作之助の文学を今の時代から眺めているわけですから、
なんだか古い日本の私小説と変わらないなーって思っちゃうのかもしれませんが。
漱石のこころぐらいは読んでいますが、僕は読書が偏っていて、日本の小説
特に古いのは読めないんですよね。
文学、学問に限らず言葉全てがヒントだけど、ヒントが無数にあるからと言って答えが出やすいわけではない。
逆に混乱することもあるし、ヒントをヒントだと思えない場合だってあろう。親の小言とか大体そうだな。
それならそれでいいんだよ。
しかしそれは「問いに答えてくれなかった」ではなく、「自分がヒントとして使わなかった」だ。
769 :
754:2011/09/28(水) 23:54:50.51
ただ不思議に思ったのは、作之助は、生きてきたことと、これから生きることを分けて考えている。
生きてきたことを書く小説を否定していて、いかに生きるかについてが重要だって言ってんだけど、
これってどうなんですか?
生きてきたことだって、同じ生きることに違いがないように感じるんですが。
まあ、十分いま考えないで僕は書いているだけなんですけど。
>>754は疑問をぶつけたいだけで他人のレスを読まないタイプである気がするので自分はスルーします
771 :
754:2011/09/29(木) 00:01:05.74
それに僕が考える生きるということは、作之助が考える生きるということと違うんですよね。
そりゃあ、結局違う人間なんですから、違うんですけど、ただ作之助は偉そうに言うほど、
生きるということを十分理解していないような気がします。なんか狭いように感じますね。
もうひとりごとになってますがwひとりごとでいいや。
この狭さが、旧来の日本文学とどう違うのか、という僕の疑問の一部分になっている気がします。
772 :
754:2011/09/29(木) 00:04:01.50
スルーでもいいです。スルーでも。
一応答えているつもりではありますが。
文学とかって問題じゃなくて一人一人が狭いもんだと思うが。
君の言う通り、「それに僕が考える生きるということは、作之助が考える生きるということと違う」。
>>754は、君自身の「生きるという問い」の答えがほしくて文学を読んでいるんなら、的外れだと思うぞ。
宗教とかの方がわかりやすい答えくれるんじゃないか。
774 :
754:2011/09/29(木) 00:06:36.22
書かれていないものを読み取ることはできないとすれば、それはヒントにもなるわけはないでしょうね。
文学と宗教って近いのかもしれないけどなー
>>774 本当に「書かれていないものを読み取ってない」ならな。
例えば君は織田について「偉そう」と書いているが
>>771、「俺は偉そうだ」と織田は書いていたかい?
それは君が「書かれていないものを読み取った」からじゃないのか。
>>739 ハ,,ハ
( ゚ω゚ ) お断りします
/ \
((⊂ ) ノ\つ))
(_⌒ヽ
ヽ ヘ }
ε≡Ξ ノノ `J
779 :
754:2011/09/29(木) 00:11:47.24
僕が言っているのは、自分が生きるヒントということではなくて、
作之助が、いかに生きるか、ということを重要だ、と言っている、
これほどを言うのに、旧来の日本私小説以上のいかに生きるかが書かれて
いないんじゃないかということなんです。
>>776 僕の言っているのは、純粋に明記してあるということではないですよ。
そんなことは小説なんだから、逆にあったらおかしい。
>>751 お前なんて2ちゃんやる前から最低最悪の人間だから2ちゃんのせいにすんなよ。
782 :
754:2011/09/29(木) 00:13:48.21
まあ、でも僕はこれを読んだ方が、僕のように感じないのを否定的に言っているのではないのです。
ただ自分が感じた疑問をここで言って、皆さんがどう思っているのかを聞いてみたいだけなんです。
あたりまえですけど。
>>779 「純粋に明記してあるということ」と「書かれていないことを読み取るヒント」は違うってことか?
そんなの君個人が「俺が織田を偉そうと読んだのは、明記されてないことを読んでいるけど、ヒントではない」ということなんじゃないの。
次は志賀直哉の小説を読むのはどうですか?電子文藝館に2作ありますよ。
>>779 「旧来の日本私小説以上のいかに生きるか」という「明記されていないこと」をどう読み込むかって話なんじゃないの。
まあここまで一般論化したら「旧来の日本私小説」って区分もどうでもいいけどな。
別に
>>754が現代小説の方にヒントがいっぱいあると思えばそれでもいいし、現代小説にも旧来の私小説にもないって言うならそれでもいいし。
789 :
754:2011/09/29(木) 00:24:16.62
>>783 ちょっとよくわかりませんが、僕が書かれていないと思えば、書かれていないんですよ。
純粋に明記されてるとつかったのは、文字づらをそのまま読むという意味で使って、
ヒントって言葉はよくわかりませんが、
作之助が過去の私小説を批判して過大に言う生きることが、僕にとっては、過大に言うほど
生きることを表現していないという意味ですね。そんな生きることを、他を批判することで言いたいのかっていう意味です。
たいして旧来と変わりはないのではないかということです。僕の疑問です。
>>754 「書かれていないことを読み取れるわけないだろう」って文句を言うなら、
まず自分が「書かれていないことを本当に読み取っていないか」考えてから言うべきなんじゃないの。
「六白」に「旧来の日本私小説以上のいかに生きるか」が「書かれていない」「明記されていない」のは事実だろう。
しかし君は「書かれていないから読み取れない」のではなく、「偉そう」などと言っているように、
「いかに生きるかとは別の書かれていないことを読み取っている」だけなのではないか。
君自身の別の「書かれていない読み取ったこと」まで、他人はとやかく言えない。
君自身が考えるしかない。
791 :
754:2011/09/29(木) 00:26:37.08
なんかヒントって言葉は僕が使ったんですかね?ピンとこないな。
>>789 「純粋に明記されてるとつかったのは、文字づらをそのまま読むという意味で使って、」
俺もそういう意味で使ってるけど。
794 :
754:2011/09/29(木) 00:29:34.64
>>790 だから、書かれてないと僕が思えば書かれてないんですよ。
僕が偉そうと思えば、それは偉そうなんですよ。
それで、皆さんはどう思うってことを聞いてみたいだけなんですよね。
内容を聞きたいんですけど、僕の批難ばっかで、、まあいいんですけどw
795 :
754:2011/09/29(木) 00:32:12.99
僕が聞きたかったのは、僕はこう考えていますが、皆さんはどう考えているんだろうなーってことなんです。
なんで僕の批難なんかしても、まったく意味ないですよ。自由だから良いんですけどw
>>794 君がそう思うことまで他人はとやかく言えない。
それはあくまで君の頭の中の話だから。
他の人は他の「書かれていないことを読み込んでいる」かもしれない。
例えばムーなんかは
>>764と書いているな。
>>795 過去ログ読め。
以上。
797 :
754:2011/09/29(木) 00:34:28.13
あとで志賀直哉でも、なんか違う人でも読んでみます。基本僕は好きな小説しか読まないんですけど。
数行で挫折するかもしれませんが。
799 :
754:2011/09/29(木) 00:41:32.93
>>798 いいえ、僕の勘違いかも知れません。
エラーが出てもう書き込めないようですw
寝ます。
800 :
吾輩は名無しである:2011/09/29(木) 00:46:44.63
>>795 つまり、西洋の作家を持ちだして旧来の作家を偉そうに批判するほど
織田の作品は面白く無かった。
754さんは面白さの観点から(それも西洋文学との比較で)織田も
日本的伝統から大きく逸脱するものではない、としているわけですかね?
これは戯作者としてプロットを重視する織田に対しては
強力な批判になるのかも知れませんね。
>>799 >いいえ、僕の勘違いかも知れません。
ん? 君は
>だから、書かれてないと僕が思えば書かれてないんですよ。
>僕が偉そうと思えば、それは偉そうなんですよ。
なんじゃないの?
であれば君が「僕の批難だ」と思えばそうだろう?
俺はどのレスをそう思ったのかを聞いてるんだけど。
>>800 >これは戯作者としてプロットを重視する織田に対しては
これは「可能性の文学」のここに当てはまるんじゃね。
>しかし、肉体を描くということは、あくまで終極の目的ではなくて単なるデッサンに過ぎず、
>人間の可能性はこのデッサンが成り立ってはじめてその上に彩色されて行くのである。
「デッサン」が「いかに生くるか」。「いかに生くるか」は「終極の目的はない」と。
そう考えればその疑問には答えられなくないか。
とはいえその後の
>しかし、この色は絵画的な定着を目的とせず、音楽的な拡大性に漂うて行くものでなければならず、
は大言壮語気味だけど。
戯作者はプロット勝負じゃない
語りで勝負する
言葉遊びでお客を笑わせる
駄洒落とか節とか言い回しとかでね
プロットもストーリーテリングだと思うがな。
805 :
吾輩は名無しである:2011/09/29(木) 01:14:19.68
>>802 それは近代芸術の落子である小説にとって
リアリズム(デッサン)の技術は必須である
しかしながら十分条件ではないので
そこに安住してはいけない、ということでしょう。
織田はリアリズムの規範を超えた構想やプロットに小説の可能性を
置いているわけです。
そこでは面白さも含まれるわけですが
754さんのように織田の言い分はともかく
大して面白い物を書いてはいないじゃないか?という批判がある。
これは結構強力な批判たり得るわけですよ。
主張ではなく内実が問われているわけですから。
>>805 リアリズム=デッサンではないと思うが。
文脈を読めばその「肉体」とはサルトルの実存主義だとなるはずだ。
とはいえ織田はサルトルだけでは不足だ、その上の「彩色」が必要だと。
こう書いているしな。
「まして私たちが実存主義作家などというレッテルを貼られるとすれば、むしろ周章狼狽するか、大袈裟なことをいうな、
日本では抒情詩人の荷風でもペシミズムの冷酷な作家で通るのだから、随分大袈裟だねと苦笑せざるを得ない。」
むしろこう書いている。
「彼等の文学は、ただ俳句的リアリズムと短歌的なリリシズムに支えられ、文化主義の知性に彩られて、
いちはやく造型美術的完成の境地に逃げ込もうとする文学である。」
この「肉体」という語を「リアリズム」で簡単にくくるのは「可能性の文学」は読めてないと思うぞ。
「俳句的リアリズム」の規範を超えたものとして実存主義を挙げている、ってわけだ。
俺個人が勝手に「いかに生きるか」をサルトルの実存主義だと思い込んでるだけなんだけどな。
「可能性の文学」はそういう文章だと思った。
なのでそっちのが面白い。
まあ俺も確かに「六白」はそれほど面白いってわけじゃなかったけども。
ここはそれ、
>>83のコピペの話じゃね。
デッサンだけじゃ面白くはないだろう。哲学は面白さを求めているわけではない。
俺も哲学だけじゃつまらないと思う。
>>754も「どう生きるか」の明確な説明を読みたいなら、実存主義やった方がよかったのかもな。
まあ「偉そう」なんて感情的な読み方しちゃう人っぽいから哲学難しそうだけど。
>>804 確かにそうだ、今考え直していたところ
戯作者ってお笑い芸人と似たようなとこがあるんだよな
ネタ(筋)と実演で
同じネタでも素人がやればつまらないし
この素人が真似できないお笑いの部分が、戯作者で言えば<語り>の部分だと思うんだよね。
「彩色」ってのはまるっきり自由なわけではなく、元の「デッサン」の作用を受けるわけだ。
「デッサン」が同じで「彩色」を違うものも、それはそれで多様性と言えるかもしれないが、織田は「デッサン」を考えた。
「はじめなかった所からはじめ」ようとした。
この「彩色」と「デッサン」を区切った考えは、織田が戯作者だったからかもな。
同じ台本でも別の役者が演じれば違った印象の芝居になる。しかし一本の芝居としては同じものとなる。
志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」って作品と「六白金星」を読み比べてみてよ
清兵衛って子供も瓢箪が好きで好きでいつも持ち歩くようになって親からも先生からも
呆れられて、ついには父親から瓢箪を取りあげられ、いまは絵に夢中になり始めた、って
話し。阿呆なところとかキチガイ染みているとことか楢雄にそっくり。
けども、志賀のはこれで終い。織田作のは狂気だ、自殺だ、カラマーゾフだ、凌辱だ
言うじゃない。ここがやっぱり違うよね。キチガイの方が人間の本質をつかんでいるかの
ように描く。それと、やっぱ語りが面白いよ。笑える。
上手い文章で阿呆な人間書くと阿呆に見えないんだよなあ。
>>810 そうだね
阿呆も極めると逆に哀愁漂ったり、哲学的になったりするもんね。
この極まったあとの余剰の部分を上手にすくいあげながら織田作は、楢雄を描いている。
この余剰の部分を上手にすくい上げる、というのが「可能性の文学」かな
いや難しい。無頼派の人間観ってのは特徴あるからね
ダメ人間こそをより美しく、より生命力のあるものとして描いてくれるから。
新しい人間像を提示したとは思うよ
どーぶーねーずみー
「美しい」ってのは違うと思うけどな。
「生命力」はいいとして。
「生命力のあるもの」=「美しい」とは限らないだろ。
ゴキジェットかけられてよろよろになりながら逃げていくゴキブリは果たして「美しい」か。
>>808の余談。
演劇界ではリビングシアターとか「演者の肉体の質感」を重視した前衛劇が流行しはじめていた、織田の死後か。
「肉体のデッサン」と「彩色」、どちらが台本でどちらが役者か、という問いは難しい。
リビングシアターなど台本を捨て「肉体のデッサン」(それこそ「生命力」)に向かった演劇だと言える。
言葉自体が「彩色」かもしれない。
言葉の芸術である文学は、だからこそ「彩色」なしではやっていけない。
>>812 驚いた タイミング良すぎ
「城の先にて」の始めの方に、串が刺さったまま走りまわる鼠が
出てくるじゃない。その鼠と人間を重ね合わせたうえで、志賀は
ああはなりたくないって言うんだよね。恐ろしいから避けたいって。
織田作之助も安吾も、この鼠に対して畏敬の念を抱くんじゃないかなって
思ったけど。この鼠を厳かに描きそう
>>814 それはいい読み。
「厳か」は近くなったかもな。
「彩色」を無くすのなら哲学でやればいいわけだし。
「冷酷」とかかな。
>>813 まっさらなデッサンなんてないよね
デッサンする眼には思考も思想もまとわりつく。
実存だって、一つの思想で、一つの見方に過ぎない。
実存主義は一つの主義であり一つの思想。
新しい人間像を提示してはいるけど
哲学は「デッサン」ですらないんだよな。
究極の線画。
輪郭も陰影も線で描く。なので輪郭も陰影もない。
なので「デッサン」にすらなり得ない。
哲学は人の認識パターンを破壊する。懐疑主義か。「自明性を懐疑するのが哲学である」。
サルトルは作家でもあったので、一応の輪郭は示しているのかもな。
その輪郭がアンガージュマンか。
サルトルより織田の思想の方が面白そうだな。
演劇やってた人なら。
>>815 冷酷に書いたり厳粛に書いたりかな
串が刺さったまんま走りまわる鼠に強烈な生命力を感じて
それを捉えて離さないとは思う
人間の真実として描くかな
志賀も、人間はその鼠みたいなものだって言ってはいる。
けどそういう生からは解脱したいみたいに書くんだよね
それが末期の眼ってやつなのかな
アンガージュマンは志賀方向になるな、それだと。
「人間は自由に選択し行動できる。そしてこの行動とは、他人にそう選択させる事である」
ってのがアンガージュマンなんだが、だから志賀の小説は「登場人物みんな志賀」になっちゃうんだろうな。
「鼠にはなりたくない」という「行動」、アンガージュマン、か。
織田ももう一歩サルトルに踏み込んでれば、アンガージュマンを批判しなくちゃならなかっただろうな。
いや、「サルトルははじめなかった所からはじめた、新しいデッサンの上に彩色している」とかって言うのか。
志賀もアンガージュマンも「彩色」だろ、って思うが。
安吾あたりはすっぱり同意するか批判するかしそうだけどなあ。
>>821 サルトルを曲解してないか?
安吾スレもいいけど哲学スレも行ってみてくれ
>>823 具体的に指摘してくれないとなあ。
解釈は人それぞれだし。
なんだよ結局ドブネズミの美しさかよ
ブルーハーツは偉大だった
昔は作家スレでもこの程度の議論はされてたのだがな・・・
最近ブルーハーツがCMで使われまくってて苛々するわ。テレビなんて見るからいけねえのか。
鈴木はまた民放テレビなんか見てるのか。ダッセー!
NHKだけしか見ない人ってのもいるんだな
ディカバリーチャンネルとか見るといいよ
鈴木がブルーハーツ嫌いなのが意外
リカバリーか
宇宙ステーションのリカバリーとかならみたい
今ブルーハーツ使って何の意味があるの?バカなの?死ぬの?
ブルーハーツ世代がCM作ってるんじゃね。
ヤニを食いテレビ漬けで消費者金融に借金する底辺っていやだわ〜
なんなん鈴木って?
>>835 あーやだやだ。だからCMみんな最低なんだ。
ヤニを食いってw
また鈴木の自演か
ヤニ食ったら死ぬよねwそもそもヤニを食うなんて言い方しないのは友達いれば普通にわかる事だろ。
リアルで他人と会話してない人なんじゃない?もしくは形而上的な空疎な会話しか出来ない人間とかw
友達が一人もいないからヤニを食うっていう表現すら知らないなんて悲しすぎるよね
いや、ヤニを食うって昔のヤンキーが言ってそうだから、パルコババアなんじゃないかなw
ああ、80年代はそういう表現があったのかな?特定の地方の特定の階層に。計り知れない世界だわ。
また鈴木の自演か
よーし飯も食ったし、ちょっくら校舎裏でヤニ食ってくるべwww
ヤニを食うって表現を知らないから友達がいないって結論にはならない。だって日常会話で使わないから。逆にそれを知らない人は友達がいないんだろうなw
鈴木の親は泣いてるねきっと
いくら自演しても借金は減らないよ?
ヤニを食い
テレビを見つつ
金借りる
雄介
鈴木と比べたら田舎のヤンキーの方がまだまともだろ
タバコを飲むとはうちの田舎では言ってた
それは奥田民生も歌ってるからべつにいい
大昔は煙草を飲むって言ってたんだろう。喫むとも書くのかな。それこそ文学作品でよく見る。
煙草のむは普通に言いますね。全然問題ありません。
ヤニを食うはあまなさんぐらいお育ちがよくないとね。時代背景も考えるんだゾ
汚い格好した在日が煙草吸いながらでかい声で喋ってるのは見たことあるな
こらあまな。ヤニを食うのはお食事が終わってからにしなさい。
鈴木はパチンコとか競馬も好きそう
あまな語録は笑える
鈴木はドヤ街を転々として警察から逃げ回ってるイメージ
パチンコが好きなのは川上未映子のブレーンである早稲田文学編集長、市川真人=前田塁ですよ。
鈴木は抜けた前歯のすき間に煙草をはさんで吸うイメージ
もちろん歯は表も裏も真っ黒で体臭はうんこみたいな臭い
その上アル中でいつも手が小刻みに震えてる汚い鈴木は東スポで目当ての馬に赤丸を付けるのが日課
あーあ、帰ってこないかなあ
パチンコ屋でシケモクを探し、楊枝で刺してチマチマ吸ってる鈴木
870 :
吾輩は名無しである:2011/09/29(木) 21:57:07.94
age
ヤニで茶色く変色した指を恥とも思わない鈴木
ここ雑談スレじゃないんだがなあ
しつこいし、つまんない。
愛飲する銘柄はもちろんエコー240円
よく食うヤニはメンソールw
雑談してるのはミニハンかあまなだろ
ほんと、名無しで書くコテは死ねばいい。
ヤニ食って酒食らって全身ボロボロノーヒューチャー
まだヤニ食ってとか言ってるよwどこの地方の方言だっつーのw
ホモとおばさん立入禁止
灰色の肌、茶色い唇、黄色い目、黒い爪になってもやめられないヤニ
とにかくみんなヤニ食って落ち着けよ!
883 :
吾輩は名無しである:2011/09/29(木) 22:23:43.93
ホモとおばさん お断りします(*l*)
ヤニを満喫するためにエサを食う生活
名無しども、たまには感想でもかけ
毒毒中毒ドロドロの依存症地獄からぬけだせない鈴木
ただでさえ貧乏なのに金に火を付けて灰にする生活で借金はふくれあがるばかり
あーあ、ミニハンがいるからいなくなっちゃった
大麻が吸いたい。吸いたいなあ。吸いたいです。
鈴木の顔ってきんたまに似てるよね
あと髪がちんげに見えて仕方ないんだが。
鼻がちんこか
>>890 おっぱいよりも!!
>>891 これは阿部和重スレで授かったうさちゃんピースなのです。ピスピス。
Nが中村光夫の風俗小説論について言及していたよね
興味深いなと思っていたらなんと、、
戦後の風俗小説家(中間小説)たちは、自分たちこそ読者の需要に応えているんだという
意識があると。近代文学の勃興とともに、純文学が置き去りにしてきたものは一体なんだったんだろうな、って。
そういう問題を考えてきたときに、戦後すぐに活躍したのが無頼派の作家達で。
風俗小説という観点から太宰を考えるとかいう発表会をつい最近やった模様です。織田作や石川淳に関する最新のテーマ
もある
http://ishikawajun.fc2web.com/14.htm 小説の神様とか言われていて、文壇の頂点にいた志賀直哉に対するアンチテーゼっていうのは
織田作・安吾・太宰の三人トリオは強く意識していたと。
当時の志賀直哉の小説は、大人の道徳書のように読まれていたようなところがあって。暗夜行路
では最後には禅の境地に至るし。織田作や安吾は、生から遁走するような態度を嫌って。太宰も、
「襟を正して小説を読むなどとは狂気の沙汰」みたく揶揄している。
志賀の小説の題材、描き方そのものがつまらないという風にも言っているけど。
>>895 主流派へのアンチだったのは事実だろうが、俺個人も志賀には何とも言えない嫌悪というか、疑念がある。
別に今は志賀が頂点ってわけでもないのにな。
風俗小説は「高尚ごっこじゃない読者の需要に答える」側面もあったのだろうが、デカダンは別に風俗に媚びているわけではないと思うがな。
風俗の否定でもなく、風俗への迎合でもない。
風俗も高尚も、「肉体の言葉」ではないだけで。
風俗小説は指導とか、骨休めとか、立ち止まっているイメージ。
志賀は理想に歩んでいる。
しかしデカダンは、立ち止まってもないし、志賀とは別の理想に歩んでいた、ということだと思う。
多分な、ドゥルーズ=ガタリの「逃走論」の方向だと思うんだよ、デカダンって。
しかしそれを「逃走」と言ったのが失敗だ。
それは風俗小説に堕す。
デカダン論面白くて熱が入ったが別のお題始めるならどうぞ。
前の「口入屋」などは風俗小説と言ってもいい。そして「六白」も風俗小説の域を脱しているとは言えないだろう。
しかし、風俗に甘んじるのではなく、志賀と風俗小説なら後者の方向で、さらにその向こうを目指していたのが、
無頼派だ、ということだ。
しかしその理想は「安直なものではない」。
風俗小説の枠に分類されるのも仕方ないだろう。
その歩みは、むしろけして形を得るものではないだろう。
火垂るの墓で清太さんを擁護する人には楽しく読めるんじゃないかしら
私には甲斐性なしのボンボンにしか見えないのだけど。
甲斐性無しのボンボンだから面白く読めるんじゃないか。
>>899は甲斐性無しのボンボンにしか見えないと、楽しく読めないの?
無頼派が書くモチーフは確かに風俗小説のそれと重なるものが多い。
>>899のレスに、風俗小説と無頼派が向かった領域の違いがあるように思える。
「火垂るの墓」の清太。確かに多くの視聴者は清太に何かしらの「同情」を寄せることで涙するのだろう。
ここで「六白」のポイントは、上の感想にもあるように「安直な感情移入を禁じている」ところだ。
ここでは映画に限らせてもらうが、映画「火垂るの墓」の清太と楢雄を比べると、やはり楢雄の方に感情移入するのは難しいだろう。
「甲斐性無しのボンボン」に感情移入は難しいだろう。
いや、「甲斐性無しのボンボン」が楢雄を指しているのかはわからないが。
とはいえ映画「火垂るの墓」を風俗小説的な映画だとは言わない。
例えば節子や清太に対し、感情移入が希薄なまま見る人もいるだろう。
読者、視聴者それぞれの見方があるだろう。
実際俺の知人にも清太を「甘ったれのガキじゃん」と言う人もいた。
そう言う人と「火垂るの墓」はつまらないのか。
感情移入無しで見ると小説は映画はつまらないのか。
>>899がそう言っているとは言わないが、そういった基準で小説や映画を見ることが、その可能性を狭めていることにならないだろうか。
一概に感情移入を否定するわけではない。ただし、感情移入以外の芸術の面白さを、読み損ねてはいないか。
とりあえず火垂るの墓を戦争批判として読むのは誤りだと言えますし
人間讃歌をやるつもりならあんな長ったらしい話は必要なくて
空襲程なくして焼けた街を背に天皇陛下万歳と叫ぶおっさんからパンアウトしてひとつの作品として成り立ちます。
ポニョでは実際に映画館に足を運ぶであろうハイティーンの登場人物は徹底して出しませんでしたね。
ところで成金河原乞食のボンボンとして産まれて青山学院で大学までエスカレーターやって
不意に決まったレールの上を歩きたくないぜ!と東京生まれヒップホップ育ちとか言い出したけんじくんと楢雄ちゃんが被ります。
すまん。wikiったら高校中退だった。
こどもというのは、見栄えも知恵も腕力も、賢しさ聡さ可愛らしさ、はては
どうにもならぬ姿かたち生まれつき人種国籍性別まで、優劣序列を
拵えては自分をその内におき、勝った負けたと一喜一憂する生き物です。
コドモのわたくしも、自分は勉強も練習もお稽古もまるでしないくせに、
きょうだい友だちがほめられるのを見て、あ、畜生うまいことやりやがって
いいないいな羨ましい、それに比べてこの僕は、とクヨクヨメソメソしたものです。
むろん大人の世界だってあれこれ切り取って眺めればそれぞれに勝負
競争はありますが、いいオトナが一日中、なにからなにまで他人様と
我が身を比較して頭を抱え、悲憤慷慨していたら目先の暮らしが立たない。
四十歳の官僚がへのこの寸法を気にして引っ張ったり、三十年増の
投資顧問が乳の貧しさや染みそばかすを鏡に映して悩み暮らしていた日には、
恋愛結婚はおろか女郎にも客にも誰もなり手がなくなってしまう。社会生活
政治経済も停滞してしまいます。たいていのコドモは、人となるまでのどこかで
欲目自尊心と現実生活の折り合いをつけて、考えてもせんないことで泣いたり
笑ったりはしないようになる。
もうひとつ。コドモは教室やら運動場でスポーツや遊びをしてだらだらと日々を
すごしますが、この勝負にはルールというものがある。ただの一度も球に
追いつけない奴が、「ごおおおおおおおおおる!」と叫んでも得点には
なりませんし、お飯ごとの砂のお団子や泥のおつゆを腹いっぱい食べたら
お腹を毀す。お相撲の相手を金属バットでぶん殴っても満塁ホーマーになりませんし、
お医者さんごっこで患者さんのカラダに裂け目があるからといってシリツで石ころや
生き物を詰めて塞ぐと患者さんのホゴシャが血相を変えて怒鳴り込んできます。
このお話のヒーローの悲劇は、自分と人が違うこととその悲しみの答えを
「運勢早見書」に見つけてしまったこと、「運勢早見書」の記述に人生を
方向づけられて、行き様にそいつを適用しちゃったところにあります。
いやなもの、勝ち目のないものからは逃げて逃げてにげまくればよかった
ものを、「運勢早見書」片手に立ち向かってしまったばっかりに……。
かわりに「いやいやえん」を読んでさえいれば。
>>896 たしかに風俗には媚びていない
太宰や織田作は笑いの要素も大切にしたけど
それは心尽くし、ということで風俗に媚びたわけではない
安吾は自分のテーマ(文学のふるさと)を小説で現前化しようとした気がするけど
あとはエッセイが巧いから評論家の才能があるよね
今だったらテレビのコメンテーターとか合ってるような気がする
というか、デカダンがドゥルーズの「逃走論」の方向ってのもいいよね
デカダンは「逃走論」だ〜!じゃなくてもう少し詳しく解説してくれないと
レスしづらい
「六白金星」のときにムーが楢雄は倫理的存在だって言ってたじゃん。
そういう風に、無頼派のデカダンは一つの倫理的態度の表明でもあると思う。
まぁ、いろんな側面があるはずだから
まずは、他の参加者も食いつきやすいように、逃走論をも少し詳しく!
>他の参加者も食いつきやすいように、逃走論をも少し詳しく!
余計食いつかないと思う
デカダンが「逃走論」ってばかじゃね
この人の書き込みは反感が育つ
>反感が育つ
日本語になってねーよ
>>912 お前910?
反感が育つじゃなく反感を買うね
>>913 自分が反感を持ってるんなら「この人の書き込みには反感を覚える」−(A)とかじゃないか。
しかし、(A)だけだと、反感を覚えた「瞬間」だけ述べることになり、当該者の書き込みに反応し徐々に反感が
増幅していった「過程」を表現していないことになる。
この「当該者の書き込みに反応し徐々に反感が増幅していった過程」を暗喩するために、「育つ」という表現を
用いたのではないだろうか。
まあ単純に間違えただけだろうけど。
>>914 「この人の書き込みは」と言ってるから、個人の気持ちを超えて、客観・普遍的に
「コイツの書き込みは人を不快にさせるものだ」と言いたかったんだろうよ。
ならば「反感を買う」が正解
くだらねー伸ばし方をするなぁ。
>>910でFAだよ。覚えるでも買うでも抱くでも不正確。
育つで正解です。
>>916 ああなるほど、客観性を述べるなら「反感を買う」の方が正確だな。
反感って言葉で意味が通ってるんだからきもい粘着すんなよニートども
あまなだったのか、納得
旦那さんの小遣い制を撤廃せよ!!
鈴木自演すんな
うるせえなバイブババア
>>896 >ドゥルーズ=ガタリの「逃走論」
ドゥルーズ=ガタリは一体どの著作で「逃走論」なんて表現をしてる?
「アンチ・オイディプス」「ミル・プラトー」「カフカ」を俺が読んだ限りじゃ、
「逃走論」という表現は見当たらないがなあ。浅田彰ならともかく。
D=Gが使った表現は限られた文脈での「逃走の線(トレ)」であり、
論といえるものは「遊牧論(ノマドロジー)」な。
もしも仮に君が、「俺個人」という立場での書き込みに少しでも箔を付けたいと考え、
たいして読んでもいないのに生半可な知識でドゥルーズ=ガタリの名前を持ち出したのなら、
そういうダサいことはやめたほうがいいと思うよ。
君が使っている表現を使えば、それは「肉体の言葉」から遠く離れている。
>>924 306:吾輩は名無しである :sage:2011/09/30(金) 17:54:59.48
マグナの童貞話は実は全部フィクションで、実はすごいヤリチン
ググってきた。
ここら辺とデカダンを絡めたいんじゃね?
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』でいう“オイディプス”とは、
個人の自由性や自立性を抑圧する『あらゆる社会的な装置・無意識的な機械』のことであり、
資本主義・国家主義・民族主義・家族主義・宗教教義などがオイディプスとして
個人を支配し抑圧していることを示している。ドゥルーズ=ガタリが出した暫時的な結論は、
これらの無意識的に形成される機械(社会制度・政治装置)からの『逃走』であるが
まあ、浅田の「逃走論」はそもそもドゥルーズの大きな影響の下にあるわけで
アセもさぁ、ドゥルーズ読んでるんだったら少しは意を汲み取ってやれよ
逃走論じゃなく線だろ、で揚げ足を取るのではなくさ
浅田彰は「男性という役割」から逃げる事を語ってたね。ガチホモとして。
男らしくないねw
アセンションはチキン
ミニハン頑張れ
ミニハンはミニハンで人様の骨を折るような書き込みをするんじゃねぇーよ
何が言いたいのかサッパリ分からねぇんだよ、お前の文は
自分の頭んなかに浮かんでくる言葉をそのまま打つのはやめてくれ
そういうのは甘えであって馬鹿のやる事だよ。
もっと伝える努力をしてくれ
それをお前が言うな
いやいやえんは傑作だよなあ
>>931 それと男らしいか否かは別の事だよ。浅田彰は男らしいと思う。俺は男らしい人が好きだな。
石原慎太郎主義者!
『太宰治・坂口安吾の世界 反逆のエチカ』おすすめ
織田作之助が喀血がのどにつまって息苦しくなると、夫人がそれを口移しに吸い出す・・
>>927-929 デカダンや無頼派を説明するのに
あえてドゥルーズ=ガタリを持ち出す必要があるかぁ?
「出会い」を説明するのに「邂逅」という言葉を持ち出すようなもんだぜ。
ドゥルーズ=ガタリの名前を抜きにしたら
>>896の書き込みには特に文句はないよ。
ただ「肉体の言葉」と書いてある文章の中で、
安易に名前が引き合いに出されていると「?」と思うわけだよ。
で、一応突っ込んでおかないとD=Gと浅田の差異をスルーすることにもなる。
浅田彰がドゥルーズ=ガタリをレジュメ化し簡略化する中で、
失われているものに気づかないふりをすることは、俺にはできないな。
d(@∀@)が書いてた「いやいやえん」は一度読んでみよう!
>>940 >浅田彰がドゥルーズ=ガタリをレジュメ化し簡略化する中で、
失われているものに気づかないふりをすることは、俺にはできないな
こういう事言うんだから文句あるんだろ?
だったらグダグダ言ってねぇでさ
「簡略化する過程で失われているもの」とやらについて語れよ
それについて語れないんだったら、お前もドゥルーズ読んでるとか口にするんじゃねぇぞ
目糞鼻糞だ
>>941 喧嘩売る度胸もねえのに遠吠えだけはいっちょ前だなw
まずここでの感想の書き込みの番号を付けろ。
それから、ここでやればスレチだから
哲学板のドゥルーズスレに文学板94というの番号付けてこいや。
>>942 「浅田がドゥルーズをチャート化した」なんてぐぐれば出て来るじゃん。
統合失調症についてはどれぐらい知ってるのよ?
ろくに読んでもねえのに名前だけかざして
知をファッションにしてる奴はろくなもんじゃねえんだよ。
自分の体得した知と血で書けねえやつはすっこんでろよw
グーグルマニアは説得力があるw
>>944 その言葉、そっくりそのままお前に返すよ
どの口が言う?
笑わせんな
まず名無しは
>>2を読めw
*感想文を書いた参加者のみ他者へレス(批判含む)できるが、
その場合、名無しの人は自分のレス番号を名前にする。
>>947 何も知らないくせにあんまえらそうにすんなよ。
犯罪者のくせに。
あまなえらそうにすんなよ!
まあまあまあ。ここは穏便に。
鈴木が浅田彰を持ち出したから、それにアセンションが便乗して
940みたいなことを口走ったんじゃないの?
何も知らないくせに
急いでググってきましたっていう
かっこ悪ww
決まりきった小説にNOといいたかったんじゃなかろうか、オダサクは。
そこ(志賀)を脱したとこに、なんかよさそうなものがあると睨んでたんじゃね?
ドゥルーズの逃走線でググッてきた。
なんだか決まりきったとこから外れてくっつー動きからそれを逃げると言ったんじゃないかな。脱コードとかね。
アキラックスの逃走論はツリー型に対抗して考えられた、植物の地下茎の迷走回路を模型として示しただけじゃなかろうか。
交通整理しようともゴチャゴチャでどこから来たかも行き先もわからないつー模型を。
縦横無尽に短絡し切断してる迷路みたくなった奴やね。
始原なし目的なしの漂流を模したリゾーム構造やね、地下茎とか。
経路がどこに短絡してるかあやふやでどこにでも短絡していてどこにでも短絡していないっつー。
吹き溜まり。
そして届かない手紙。そして幽霊。
脱コードとかなかなか例えが思いつかないけど。
ファッションでいうハズしの技術とかかな。ちょっと粋ってのはコード(決まりきった決まり事)から外れかかったとこにあるような。
小説なら志賀の教科書的なとこがコードかな?
ドゥルーズはね、
通読しなくてもワンフレーズだけでビビっとくるから。
ドゥルーズについて「読んだ」「読まない」ってなんかださい
いやいやえん、いいよね。ジブリ美術館でアニメになってた
機械てかにんげんの営みや日々やってる諸々の仕組みを文学、そこからの脱落および再興を可能性っつてんじゃなかろうか?
ちがうかも。
園児の空気感には俺と似たものを感じるw
そうかな。ちがうだろ。
枯れたおっさんの臭い
ええー
波をすすめるのは風と水のちがい。
俺が風で誰彼が水で。
そのちがいが波を駆動してく。
ちいさなちがいが、やがておおきな潮流になるだろう。
この波の駆動体をなんという。
結局アセンションは逃げたか
秋はさらに深まるなぁ〜
波を作り出すのは風ではなくて月の潮汐力なわけでね
974 :
吾輩は名無しである:2011/09/30(金) 21:43:50.48
>>958 例えば枝を意味するbranchは教団や支店を
果実を意味するfruitは法定果実(家賃や利得)も指し示す。
M・ウェーバーが指摘するように近代市民社会とは宗教の世俗化であり
言語的にはキリスト教の世界観(世界樹とかね)を引き摺ったものである。
ドゥルーズが言うツリー状の象徴界とはこの事を暗示しているわけです。
たしかに宝刀だわ。
その波を越えてゆくのは
そう。
「ぞうとらいおん丸」です!
スレチだうせろ存在自体がだせえやつ
つみ木の船とか魅力的やね。
「いやいやえん」はみたことないな。
船に乗りくじらを穫るのはなんの寓意だろね。
やっぱ船といえば阿呆船かな。
カーゴカルト。なんだっけ、ノアの箱船みたいな類型の話し。
勇気と知恵と力を合わせていさましく向かっていくのです。
漠とした「ぼうけん」の世界へ。
で、すばらしく強くて立派なともだちを連れて戻るんです。
くじらとか憧れるね。
ぼうけんはなんだかわくわくするね。
なんでもしほーだいやりほーだいのいやいやえんに俺もいきたいな。
船といえば漫画の「船を建てる」とかおもいだした。
俺は泣ける。
だれか次スレ立ててくんろ
えー
>>907への長文レス書いてるんだけど、次レスにするわ
986 :
吾輩は名無しである:2011/09/30(金) 23:22:16.59
>>895=風俗小説について
これについては三島由紀夫が敗戦直後に
セクシュアリティとしてのエロスが解禁された(そしてすぐに閉じられた)。
と述べていますね。
そして本来のエロスとは生や死と密接に関わっているのであって
性というのはこれらとのつながりによって
初めてエロス足りえるのだ、としています。
志賀の場合、織田やその他の風俗小説(と見なされるもの)に何を嗅ぎ取ったのか?
というと、「死」なんじゃないでしょうか?
「気持ち悪い」という生理的嫌悪感は
必ずしも宗匠根性から発したものではないのでは?と考えられます。
ここっていつものことだけど、
本を読みたいんだか知識(それも勘違いな)をひけらかしたいんだか、
よくわからんれんじゅうばかりだね。
エロい人次スレ立ててくんろ
テンプレは
>>2 おらは無理
おおおっ立った立った
994 :
吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 00:11:52.48
最近は煽り合いばかりですね
ホラ話がいなくなればだいぶ平和になる
>>995 違うな
ほら話がいなくなるとだいぶつまらなくなる
日和見チキン玉なし野郎ばっか
誰かガツーンと批評してくんねぇかな
荒れる荒れないの話をしていたのに
力点が咬み合わない自己主張に挿げ替わる
これがホラ話です
>>997 ならお前はめくらだ
いない方が荒れてんだろ
よく見ろバカ
996はほら話じゃないぞ
999
1000 :
吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 02:54:11.72
1000ならあまなに髭が生える
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。