1 :
映画板:
当たったためしがない
映像脳と言語脳は一般的にベツモノなんでしょうね。
映像脳と言語脳(笑)
映画を撮る小説家なんて少ないし、そもそもずぶの素人が
映画を撮ったって面白くなるわけがない
ちなみに映画を撮った小説家って誰がいる?
マルグリットデュラス。
ぼくはヒマを持て余したらやろうかな
>>3のばかを見返すためだけにw
映像脳と言語脳はうまくやりゃ両立するんですよ
9 :
吾輩は名無しである:2006/05/29(月) 02:56:15
つうか、
吉本隆明も「言語にとって美はなにか」で言ってるように
物語言語面と劇的言語面はレベルが違うんで
向田邦子みたいに脚本家から小説家になってそれなりに成功した人はいるけど
逆に小説家から脚本家になって成功したやつはあんまりいないんだよ。
つまり
劇作家(脚本家も含む)>小説家
ってこと。
三島は、小説家より劇作家としての評価が高いし、
本人も小説は金のために書いて、自分の本領は戯曲だ、と思ってたらしい。
映画撮る小説家は自分で脚本書くけど、これが不味いんだろうな
10 :
吾輩は名無しである:2006/05/29(月) 03:03:22
アリストテレスがすでに紀元前に
劇文学の叙事文学(小説の前身)に対する優位性を説いてるしね。
こんなに小説の地位が高いのは日本だけで
欧米人は戯曲の方が上と思ってるんじゃないか?
11 :
吾輩は名無しである:2006/05/29(月) 03:08:29
12 :
吾輩は名無しである:2006/05/29(月) 03:11:08
13 :
吾輩は名無しである:2006/05/29(月) 03:15:16
人に薦めるほど戯曲読んでるのか?
向田邦子も三島由紀夫も小説家としてそれほど良くないしな。
>>4 村上龍
ジャン・コクトー
寺山修司……は違うか。
吉田修一
>>3 言葉にこだわるのが文学板住人の特徴。
言いたいこともわかんねえのか。
>>10 日本の小説の地位が高いのは国民性にも関係があると思う。
内向的な性質がそうさせるのではないか。
欧米の文化が一部の人々にしか支持されない理由はそこにあると思う。
阿部とか中原とか、映画が好きで字が書けるんだから脚本くらい書け
青山真治
ロブ=グリエ
「ロベルトは今夜」の何とかスキーは
谷崎の「鍵」みたいな話を、
自分の奥さん主演で撮ったんじゃなかったっけ?
クロソウスキーだっけ?
蓮実「ロブグリは、小説家は映像に弱い、という根拠のない俗説を覆してくれたね!
一方、三島の「憂国」のしょぼさは、彼の小説のしょぼさに見合っているw」
蓮実も映画と文学の双方に深く関わってるだから脚本暗い賭け
25 :
吾輩は名無しである:2006/05/30(火) 12:04:53
>>14 それは「人間のほうが猿よりも木登りは下手だ」っていうのと同じさ
>1
小説家で映画とったのは、自分で出演した『憂国』の三島由紀夫と
監督制作した村上龍くらいだべんとす。
他のは皆、小説家の小説を原作に、脚本家に脚本書かせて
映画会社がとった。金もうけ。小説と映画はべつもの。
一緒にするバカが、だまされてつまらん映画見てよろこぶ
原作よりいい出来かもしれない『泥の河』BSでやってたな。
白黒映画でも
すごいいい映画あるんだ…
28 :
吾輩は名無しである:2006/05/30(火) 12:23:34
>>27 見た。映像の力とか改めて感じさせられた。
戦後10年(昭和30年)当時の日本の庶民がどんな暮らしだったか
どんな希望と絶望を抱いて生きていたのか、
なんか空気まで伝わってくるようだった。
昭和30年ーー文学板的にいえば、石原慎太郎が「太陽の季節」でデビュー、
小林秀雄は50代始めくらい、三島由紀夫は前年に「潮騒」翌年「金閣寺」を
書いた頃。その同じ時代に、
大阪の場末の泥の河には「廓舟」が浮かんでたんだな・・・
多分実話。売春防止法が公布されるのは昭和31年だから、
昭和30年までは日本の小さな町にも
公娼が公然と合法的に売春をしている遊廓が存在し人々の生活に
溶け込んでいたんだ。生まれる前でも
確かにあった日本の歴史と人々の暮らし。
だいじょうぶマイフレンドって見たことないんだけどそんなにひどいの?
DVDが出てるっていうのが信じられん>だいじょうぶ〜
でも、あの時代に、
ピーターフォンダ呼んで金かけてああいうことやろうとした心意気は
買うけどね。設定も面白いし。
「限りなく透明に〜」の映画版は悪くないんだよ。
ところどころダサいところもあるけど、それもまた味。
>>26 > 小説家で映画とったのは、自分で出演した『憂国』の三島由紀夫と
> 監督制作した村上龍くらいだべんとす。
最近は辻仁成も撮ったらしいね。
『フィラメント』って映画で井川遥が出演してる。
32 :
吾輩は名無しである:2006/05/30(火) 17:06:59
>>18 資本主義と活版印刷と経済発展という流れに小説というジャンルが一番フィットしたからだろう
日本だって能とか人形情瑠理とかあった
>>18 それに、儒教道徳が流入して強制力を持つまでは日本も庶民は意外と自由だったらしい
ヨーロッパでもルネッサンス以前はキリスト教的な絶対主義の時代だったわけだし
今日の欧米の平等主義も神の名のもとに人間は平等であるてな感じで、見掛けはアバウトでも論理的にはきっちりしないと気が済まないのよ
>>32 そして、
グーテンベルク以降の久々の情報革命と言われるネット革命の時代に
フィットする文学はなんでしょう?
小説じゃないとしたら・・・・・
>>34 ネットと小説は確かに合わない気がする
手持ちの匿名掲示板について言及した新書を引用してみる(少し古い)
『それはテクストや声の背後に、明確な発信者、著者や作家という個人が現前した近代のコミュニケーションとは違って、「作者の死」や「発信人も宛先も不明の自律的エクリチュール」に代表されるポストモダンの時代に派生した、あたらしいコミュニケーションの現象〜』
舞城なんかは確か匿名作家だよね
てか映画から離れてってるな
池田万寿夫は小説家として数えられない?
チッチョリーナ主演の「エーゲ海〜」か。確かに、
芥川賞作家が映画を撮った。
もう一本くらい撮ったよな。あびる優のママ主演で
「窓からローマが〜」
高橋三千綱も撮ったな。
あと女優から作家デビューした高橋洋子も自作を監督
マルチな方がそれぞれのジャンルが相互的に作用して良い影響を及ぼす人と、そのジャンルを追求した方が良い人に分かれる
やはり、タイプによって違うよ
>>32 歌舞伎とかね
昔はそうかもしんないけど、今の話
脚本は映画だけじゃないからね。この場合は映画の話してるけど
脚本は何のために書かれてるか考えればわかるはず
>>31 >最近は辻仁成も
いやいや、「天使のわけまえ」ていう映画をかな〜り前に制作してる。
42 :
吾輩は名無しである:2006/08/01(火) 13:48:28
うむ
43 :
吾輩は名無しである:2006/08/25(金) 04:51:47
『葛飾砂子』 原作 泉鏡花 脚本 谷崎潤一郎
『三つ数えろ』 原作 レイモンド・チャンドラー 脚本 ウィリアム・フォークナー
こういうのも面白そう。
そういえば、川端康成も横光利一と共同で
映画の脚本を書いてるね。
その映画のカメラマンは円谷英二だった・・・
44 :
吾輩は名無しである:2006/08/26(土) 02:40:40
なぜ長部日出雄の名が出てないのか
45 :
吾輩は名無しである:2006/08/26(土) 23:31:07
江戸川乱歩が鳥羽の海女を撮った映像はなかなか良い
46 :
吾輩は名無しである:2006/08/27(日) 09:20:12
チャンドラーは「深夜の告白」で
ワイルダー映画の脚本書いたときに、
小間使いのように扱われたとか。
タバコに火をつけろとか窓開けろとか
>>46 すごいな、それはw
かわいそうなチャンドラー・・・
彼はヒッチコックとも
うまくいかなかったらしいが。