1 :
吾輩は名無しである:
「レーゼシナリオ」とは、シナリオ形式で書かれた文芸作品のこと
です。「レーゼドラマ」(独語)と「シナリオ」(英語)を合成して
造られた和製語ですが、いくつかのカタカナ語辞典には載っている
単語です。
(例)
芥川龍之介の「誘惑」「浅草公園」
W・バロウズ 「ダッチ・シュルツ 最期のことば」
ダリウス・ジェイムス 「ニグロフォビア」
みなさん、レーゼシナリオについて語りましょう。
2 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 18:26:30
ちなみに、レーゼドラマとは、「舞台脚本形式で書かれた文芸作品」のこと。
「戯曲」とどう違うのかというと、べつに厳密な区分けはないが、「戯曲」
の方が、演劇の台本を書いたら「結果的に」文芸作品としても成立してしま
ったという意味合いが強い。「レーゼドラマ」は、書き手が当初から文芸作品
として読まれることを目的としていた、という意味合いが強い。
書簡体の小説、日記形式の小説、などがあるが、「脚本形式の小説」と
言ってみると分かりやすいかもしれない。
3 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 18:30:10
>>1と
>>2から、「レーゼシナリオ」とは、「レーゼドラマとして書か
れたシナリオ」と言える。
4 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 18:37:38
シナリオとは、舞台脚本に対して、「活動写真」というテクノロジー
普及以降に生まれた「劇映画」とか「TVドラマ」の脚本という意味で、
ここでは使っている。
Vシネマとかネット・ムービーとかの脚本も、勿論そう。
5 :
4の書き直し:2005/07/04(月) 18:44:14
「シナリオ」という語は、舞台脚本に対して、「活動写真」というテクノロジ
ー普及以降に生まれた「劇映画」とか「TVドラマ」の脚本という意味で、
ここでは使っている。
Vシネマとかネット・ムービーとかの脚本も、勿論そう。
6 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 21:27:41
ゲーテのファウストも?
7 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 22:24:01
>>6 >ゲーテのファウストも?
レーゼドラマか?という意味でしょうか。
いくつかのカタカナ語辞典で、「レーゼドラマ」を引くと、よく実例として
「ゲーテ『ファウスト』二部」と載っています。
これはどういう意味かと、
私なりに考えてみました。(つづく)
>>7の続きが出る前に割り込み。
現代日本においては、「エロゲシナリオ形式の文芸作品」もありうるはずだが、なぜか見ないね。
エロゲの書籍化はノベライズばかり。
9 :
7の続き:2005/07/05(火) 22:58:44
ある文学辞典には、「レーゼドラマ」の定義が三通り書いて
ありました。以下のように要約されます。
@ 書き手が、はじめから「読まれること」に優先順位を
置いている戯曲。
ミュッセの「戯れに恋はすまじ」はこれに該当するらしいです。
A 書き手の意図はどうあれ、結果的に「上演に適していない」
戯曲。
例えば、劇作家が馬鹿で、十秒に一回場面転換が起こる舞台演劇
など物理的に不可能なのに(映画ならできますが)、
「できる!」と思い込んで舞台脚本を書いたとしましょう。その
舞台脚本を読んだ人が「これ、面白いけど、上演できるわけ無い
よ」と思ったとしたら、その脚本はレーゼドラマである。
B 書き手の意図はどうあれ、読んで面白ければ(つまり、文学的
価値があれば)レーゼドラマである。
シェイクスピアは、自分も俳優として舞台に立ったり、劇場の
株主だったりして、もうバリバリの演劇人でした。彼が書いた
脚本は、まず何よりもビューネンドラマ(上演用の脚本)だった
はずです。(勿論、出版に際して、読みやすいように手を入れた
かもしれませんが) しかし、結果的には文芸作品としても
成立しうる。このような脚本もレーゼドラマと呼んでいい。
レス番号2に書かれている「レーゼドラマ」とは、@の意味合いが強い
と、思います。
(つづく)
10 :
9の続き:2005/07/05(火) 23:11:59
ゲーテの「ファウスト」はどうかと言うと、二部だけがいつもレーゼドラマ
と呼ばれる。
一部だけを上演用に書いて、二部は文芸として書く、というのは不自然
ですよね。
だから、「ファウスト」二部はレーゼドラマである、と言う場合、
Aの意味で言っているのだと思います。
私は未読ですが、きっと「悪魔が出てきて空を飛ぶ」というような感じの事
が、ト書きに書かれてたんじゃないでしょうか。それは当時の技術では不可能
だった。だから、レーゼドラマと呼ばれた。これが私の解釈です。
11 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 23:24:24
>>8 ゲームのシナリオ?形式で書かれたらしき文芸作品を、一つだけ知っ
ています。筒井康隆の「RPG試案 夫婦遍歴」というものです。でも、
未読だから、どういうものかは分からない。
RPGとは「ロール・プレイング・ゲーム」の略でしょう。
もし、ゲームのシナリオ形式で書かれた文芸作品がこれから沢山
出てきたとして、それは「レーゼシナリオ」よりも、この「RPG試案」
という名称で呼んだらいい、と思います。
映画、TVドラマ、ゲームでも、シナリオ形式ではなく、ノベライズ
で出版されるのは、まだ「小説中心主義」が終わってないからかな、
と思います。
戯曲でさえ、あまれ出版されてないし、売れてないし、教科書にも
載ることが少なそうですからね。
13 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 23:31:35
14 :
11の訂正:2005/07/05(火) 23:37:04
>>11 >戯曲でさえ、あまれ出版されてないし、
「あまれ」を「あまり」に訂正。
15 :
9の訂正:2005/07/05(火) 23:53:48
16 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 02:27:49
公立図書館では、シナリオ本は、戯曲のコーナーの棚に置いてある。
英語で戯曲のことを "play" と言う。("drama"という言い方もある。
また、文芸としての戯曲だけでなく、実際に演じられた劇のことも"play"、
"drama"と言う。
英語でシナリオのことを、劇映画なら"screenplay"、テレビ・ドラマなら
"teleplay"と言う。
以上のことから、シナリオも一種の"play"=戯曲であると言ってよいだろ
う。
17 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 02:32:19
この板の「戯曲スレ」でも、シナリオのことはあまり話題になってい
なかった。
映画自体についても、ニール・サイモンのことが、話題になったとき
にチラッと言及されただけであった。
18 :
11の訂正:2005/07/06(水) 02:38:24
>>11 >映画、TVドラマ、ゲームでも、シナリオ形式ではなく、ノベライズ
で出版されるのは、まだ「小説中心主義」が終わってないからかな、
と思います。
「ノベライズで出版されるのは」を「ノベライズで出版されることが
多いのは」に訂正。
物語をつつがなく滑らかに読ませるためにはノベライズは有用な手段でしょ?
わざわざシナリオ形式にする意義がわからんのだが。
そもそも、戯曲と区別する意味がわからん。
なんかスゴイ効果なんかが有るのかね?
20 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 20:12:28
21 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 21:02:16
>>19 シナリオ形式の効果について。
シナリオ形式による効果は、映像劇を個人的に楽しむことが増えた現代人が、
まさにビデオ・DVDを観るような感覚で、文芸を読むことができるように
なる、というところにある、と思います。
もう一つは、本義のハードボイルドということ。タフガイ探偵がでてくる
小説、という意味ではなく、「非情な文体、感情表現を排した文体」という、
もともとの意味でのハードボイルドな文体と同じような効果が有る、
と思います。ト書きって非情でしょう。
22 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 21:22:21
>>19 >戯曲と区別する意味がわからん。
区別というより、「強調」ですね。
多くの現代人にとって、舞台演劇より、「劇」映画や、
テレビ「ドラマ」の方が、より「身近」で「普通」で「標準的」な
「劇=ドラマ」である。ということは、(脚本を読んだりする一般人は
少ないとしても)舞台脚本より、シナリオの方が身近な存在である。
にもかかわらず、戯曲と言ったら、まず何よりも舞台脚本(および
その形式で書かれた文芸)が、優先される。そのような世間の「常識」
があるので、あえてシナリオ形式というのを強調する意味があると
思います。
23 :
吾輩は名無しである:2005/07/07(木) 03:10:05
レーモン・クノーの「イカロスの飛行」はシナリオ形式で書かれたらしい。
M・デュラスの「破壊しに、と彼女は言う」と「インディア・ソング」は、
小説とも戯曲とも映像作品(のシナリオ)とも言えるような文体で書かれ
た、と言われた。
24 :
吾輩は名無しである:2005/07/08(金) 06:03:33
国書刊行会のHP見てたら、セリーヌ全集の14巻の解説文に
「レーゼ・シナリオ」という言葉が出てきた。「島の秘密」という作品が
そうらしい。
図書館で読んでみたら、映画のアラスジが散文で書かれているだけで
シナリオ形式ではなかった。
25 :
吾輩は名無しである:2005/07/09(土) 12:06:16
映画は、ちょっと前までは通俗的なものと見なされる場合が多かった。
今は、どうか。
公立図書館のビデオコーナーは、かなり充実してきている。
東京芸大のような有名国立大学の大学院にも、映画を学ぶ部門ができた。
公立図書館や国立大学は税金で成り立っている。
つまり・・・・。
もし、映画が、立派な"文化"と見なされるならば、シナリオも・・・・?
「シェイクスピアの演劇は高級芸術として認めるが、戯曲は通俗的なもの
である」などということがありうるだろうか?
(ためしに、上のカギカッコ内の文章を英語で言ってみるとどうなるか?)
26 :
個像劇 個像化 個像派:2005/07/10(日) 18:02:51
「カウチポテト」は死語だが、カウチポテトなライフスタイルの人は
今でも少なくない。
DVDの価格が安くなったために、本やCDを買うような感覚で映像ソフトを
買う人も多いだろう。
映画館で劇映画を観るのより、DVDレンタルやセルDVDを利用する方が
「観劇」行為の主要な形態である、という人も少なくない。
ビデオ・オン・デマンドもいつかは普及するだろう。
このように、「個人で楽しむ映像劇」が普及しつつある。
個人で楽しむ映像劇のことを「個像劇」と呼び、
"個像劇"が普及しつつある傾向のことを「個像化」と呼ぶことにしよう。
また、かつてカウチポテト族と呼ばれた人たちのことを、
「個像派」と呼ぶことにしよう。
27 :
吾輩は名無しである:2005/07/10(日) 18:08:43
レーゼシナリオは、「個像化」に伴って、普及するかもしれない。
28 :
広劇:2005/07/11(月) 04:52:18
現代でも「劇」「演劇」と言ったら、舞台演劇こそが、正道であり、
劇映画、TVドラマなどは邪道である、という考えが消えてないように
見える。
その事の是非はここでは問わないが、それらは一つのグループに属する
ということを表す言葉(つまり、総称)が無い。
広い意味の演劇、広義の劇ということで、「広劇」と呼ぶことにしよう。
個像劇(
>>26)は、「広劇」の一種である。
29 :
吾輩は名無しである:2005/07/11(月) 05:11:30
>>6 ゲーテの「ファウスト」がレーゼドラマか?という問いに対しては
>>9のAの意味で考えれば、YES。
もし、レーゼシナリオか?という意味でのご質問だとしたら、
答えはNO。
30 :
小説中心主義? :2005/07/11(月) 05:36:59
>>11 文学(または文芸)と辞書や事典で引けば、詩歌と小説と戯曲は、
必ず例として出てくる。(ときには、随筆や評論がこれに加わる)
にもかかわらず、日本では文学=小説っていう感じが強いよね。
国語教育でも、詩歌は教科書にケッコウ載ってたけど、
戯曲はきわめて少ない。今はどうだか知らないけど。
私が子供の頃はそうだった。
倉本聡の「北の国から」のシナリオが教科書に載ったという話は
聞いたことあるが。
柄谷行人の「反文学論」という本の中の『価値について』でも、
「日本では、色々な スポーツの中で野球が支配的であるのに似て、
文学の中で小説が支配的だ。
スポーツ新聞が実質的には"野球の新聞"であるのに似て、
文芸誌は"小説の雑誌"だ」
みたいなことが書いてあった。
(Jリーグ、サッカーが流行る十五年前くらいの話だけど)
31 :
吾輩は名無しである:2005/07/12(火) 08:46:53
>>1 バロウズの「ダッチ・シュルツ 最期のことば」
あとがきに、デ・ニーロの協力で、J・マクノートン監督で映画化されると
書いてあったが、その企画は流れたようだね。
「ヒッチャー」「ブレードランナー」のルトガー・ハウアーが声の出演をした
短編映画があるみたいだけど。
まあ、レーゼシナリオっていうくらいだから、映画化されるかどうかは
どうでもいいんだろうけど。
32 :
吾輩は名無しである:2005/07/12(火) 08:52:42
33 :
吾輩は名無しである:2005/07/14(木) 22:30:44
小説中心主義は、確かに、在る。
>>30 広辞苑で「小説」という語を引くと、
「散文で書かれたフィクション」みたいな説明が書いてあり、
続いて備考として次のようなことが書いてある。
「(小説は)詩に代わって、近代以降、文学の王座に就いた」
! 近代は小説の時代だった、ということを「広辞苑」が認めているんだよ。
近代は終わった(ポストモダン)なんてことが言われた時期があったが、
もしそれが本当だとすると、小説の時代も・・・・。
まさか、レーゼシナリオの時代が・・・・。
34 :
吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 09:38:54
>>33 >「(小説は)詩に代わって、近代以降、文学の王座に就いた」
詩っていうのは、日本で言えば和歌(俳句や短歌)も含むんだろうな。
「詩歌」っていう言葉もあるくらいだから。「詩歌」は、「河川」「金銭」
「児童」みたいな単語の造りになっている。
辞書によると、文学(文芸)は「詩歌と小説と戯曲、その他」だ。(
>>30)
近代以前では詩歌が文学の王座に、近代には小説が王座に、ということは、
ポストモダンな社会では、戯曲が文学の王座に就く!?
「戯曲」を舞台脚本(あるいはその形式で書かれた文芸作品)と、
狭く捉えれば、ちょっと無さそうなことのような気がするが、
レーゼシナリオも含む広い意味での劇文学と捉えれば、
ありうるような気もする。
35 :
吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 09:47:47
二葉亭四迷にとっての落語が、現代人にとっての個像劇(
>>26)だろう。
36 :
吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 09:57:35
> 「レーゼシナリオ」とは、シナリオ形式で書かれた文芸作品のこと
>です。「レーゼドラマ」(独語)と「シナリオ」(英語)を合成して
>造られた和製語ですが
ぜんぜん普及していない用語だと思うし、多少は普及しているLesedramaとの
区別が出来ていないようじゃ話にならん。
レーゼシナリオではあるが、レーゼドラマではないもの、あるいは逆の作品
が明示できてはじめて有意義な議論になると思うが。
37 :
吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 11:13:00
>>36 >レーゼシナリオではあるが、レーゼドラマではないもの、あるいは逆の作品
screenplay(映画脚本)が、play(脚本) の一種と見なせるように、
レーゼシナリオは、レーゼドラマの一種だと思います。
だから、「レーゼシナリオではあるが、レーゼドラマではないもの」は無い。
逆に「レーゼシナリオではないが、レーゼドラマではあるもの」は在る。
>>9の定義のBに従えば、シェイクスピアの戯曲やギリシャ悲劇など
舞台脚本形式で書かれている物は全て、これです。Aに従えば、ゲーテの
「ファウスト」二部がそう。@に従えば、ミュッセの「戯れに恋はすまじ」
がそう。これらは、劇映画やTVドラマの存在を前提としたものではないから
です。
人間(ヒト)も動物の一種である。「人間であって、かつ動物でない生物」
は存在しないが、逆に、「人間でなくて、動物である生物」は、
犬、猫、魚など無数に存在する、というのと同様だと思います。
では、レーゼシナリオとは具体的には何なのかを明示すると・・・・・
(つづく)
38 :
37の続き :2005/07/15(金) 12:03:44
では、レーゼシナリオとは具体的には何なのかを明示すると・・・・・。
>>9の「レーゼドラマの定義」についての文章の中の、
「舞台脚本」を「映画脚本」、「舞台演劇」を「劇映画」に置き換えて
考えれば、(あるいは、「TV脚本」「TVドラマ」に置き換えれば)
そのまま「レーゼシナリオの定義」になる。
@'の具体例が、
>>1に挙がった、芥川、バロウズ、D・ジェイムス、各氏の
作品。
A'は、具体例は挙げられません。画面から香りが漂ってくるとか、
俳優の手が伸びてきて観客の頭をナデナデするとか、
そういう「物理的に不可能な」シナリオを書いた人が仮にいたとしたら、
その人の作品が、これに該当する。
B'の具体例は、例えば古くは向田邦子や倉本聡、最近で言えば、
三谷幸喜や宮藤官九郎ら人気脚本家のシナリオは、ノベライズされずに
シナリオのまま出版されます。
それらの本を読む人の中には、マニアックな人(自分もシナリオ・ライターを
目指す人や、そこまで行かなくとも業界の裏方に関心のある人)
も多いでしょうが、一般の人もいると思います。その一般の人たちは、
シェイクスピアの戯曲を読むように、向田女史や三谷氏のシナリオを
読んでいるかもしれない。この場合、これらのシナリオは「レーゼシナリオ」
と呼んでよいでしょう。
このスレで話題になっているのは、どちらかというと@'のケースです。
39 :
吾輩は名無しである:2005/07/15(金) 12:34:11
確かに「レーゼシナリオ」という語はあまり普及していません。
でも、ググってみれば何件か検索される単語だし、「れーぜしなりお」と
平仮名入力してみれば、一発で変換できる(つまり、パソコンの辞書機能の
語彙の中に組み込まれている)単語です。
>>1にも書かれているように、
幾つかのカタカナ語辞典にも載っています。
また、「レーゼシナリオ」という呼称に、こだわっているワケでも
ないのです。既存の言葉で言うとすれば、コレしかない、ということで。
「レーゼドラマ」と言ってしまうと、どうしても舞台脚本形式を
イメージさせてしまうので、あえて、この呼称を用いています。
たとえば、
>>1に挙がった「ダッチ・シュルツ 最期のことば」は、
「映画シナリオ形式の小説」という副題がついています。この言い方でも
間違いではないのです。最適とは思いませんが。
40 :
39の訂正:2005/07/15(金) 12:55:25
>>39 たとえば、
>>1に挙がった「ダッチ・シュルツ 最期のことば」は、
「映画シナリオ形式の小説」という副題がついています。
を
たとえば、
>>1に挙がった「ダッチ・シュルツ 最期のことば」には、
「映画シナリオ形式の小説」という副題がついています。
に訂正。
41 :
吾輩は名無しである:2005/07/16(土) 14:07:31
>>37 推理小説は小説の一種である。「推理小説であって小説でないもの」は無い。
逆に、「小説であって推理小説でないもの」は在る。純文学小説、SF小説、
ホラー小説、経済小説など。
42 :
吾輩は名無しである:2005/07/16(土) 14:56:27
例えば、日本で一番権威のある戯曲賞は「岸田國士戯曲賞」だと思いますが、
今までに劇映画やTVドラマのシナリオが受賞したことはないと思う。
候補に挙がったことも多分ない。
つまり、この賞は、「戯曲」とは舞台脚本(あるいはその形式で書かれた文芸)
のことだけを指し、シナリオは戯曲ではない、という暗黙の前提のもとに
作品選考がなされている可能性が高い。
読売文学賞・戯曲・シナリオ賞というのがあって、
宮藤官九郎の映画シナリオが受賞したことがある。
しかし、この賞の名称は「戯曲・シナリオ賞」である。
シナリオがもし、れっきとした戯曲とみなされているのなら、
ワザワザこんな名称は付けないであろう。ただ単に映画シナリオが「戯曲賞」
を受賞した、というだけのことでよいはず。
シナリオを戯曲と言ってよいかどうか「微妙」だからこそ、
このような賞の名になるのだと思う。
レーゼドラマという単語を使わずに、レーゼシナリオという単語を選択する
根拠・理由・意義はこの辺にある、と思います。
43 :
吾輩は名無しである:2005/07/18(月) 09:26:24
マヌエル・プイグ「蜘蛛女のキス」も、レーゼシナリオそのものではないが、
いかにも脚本家や監督を目指していた人が書いた作品という感じがする。
44 :
吾輩は名無しである:2005/07/18(月) 09:44:30
45 :
吾輩は名無しである:2005/07/18(月) 09:50:01
「しなみに」を「ちなみに」に訂正
「レーゼ・シナリオ」という語句は、セリーヌ全集14巻の説明文のなかに
出てくる。
46 :
劇文学:2005/07/18(月) 15:29:59
戯曲という言葉はどうしても舞台演劇、特に近代的な演劇をイメージさせて
しまうと思う。活動写真発明以降の「シナリオ」はもちろんのこと、大昔の劇
の脚本を呼ぶ場合でもちょっと違和感がある。
大昔の劇、例えばギリシャ悲劇は、戯曲より「劇詩」という言い方のほうが
ふさわしい。
能や歌舞伎の台本のことを戯曲と呼ぶのにも微妙な違和感がある。
それは、「源氏物語」を小説と呼ぶことに似ている。物語形式で書かれた
文芸のうち、近代以降のものを小説と呼ぶのが適切な感じがする。
実際、ある文学研究者は「源氏〜」が書かれた当時「小説」という語は
無かったのだから、「源氏〜」を小説と呼ぶべきではない、と発言している。
この辺の問題を解消するために、これからは、「脚本形式で書かれた文芸
作品、および結果的に文学的価値を持つことになった脚本」を「劇文学」と
呼ぶことにしよう。
これはいま勝手に造った言葉ではなく、既存の言葉だ。
47 :
非舞台劇 :2005/07/19(火) 05:13:16
広劇(
>>28)を、舞台演劇とそれ以外に分けて、後者を「非舞台劇」と呼ぶ
ことにしよう。
非舞台劇には、劇映画、テレビ・ドラマ、Vシネマなどの他に、例えば劇画
(ストーリー性の高い漫画)もある。
舞台劇より非舞台劇の方が、多数派の日本人にとって身近な存在である。
その一方で、いまだに舞台劇のほうが正道の劇であるという考えは消えて
いない。この板の戯曲スレでも、岸田國士戯曲賞選考会でも。
でも、
>>25にあるように、公的な機関が、非舞台劇を認めつつあることも
確かである。
48 :
:2005/07/19(火) 05:27:11
49 :
吾輩は名無しである:2005/07/19(火) 08:24:59
50 :
吾輩は名無しである:2005/07/19(火) 08:34:15
ほとんどの劇文学がハードボイルドな文体で書かれているといってもよい
のではないか。
51 :
吾輩は名無しである:2005/07/20(水) 08:42:40
シナリオ形式とは一般に、
台詞とト書き、人物表と柱から成る。
(柱とは、舞台となる場所の名前を書いたもの。『シーン1・山田の家の前』
とか)
書簡体小説(例・ラクロ『危険な関係』)、
日記形式の小説(谷崎の『鍵』、最近なら『アルジャーノンに花束を』)、
などが在るのだから、シナリオ形式の文芸作品が在ってもいいはずだ、
と思っていたら、本当に在った。
レーゼドラマという語が在るのだから、レーゼシナリオという語が在っても
いいはずだと思っていたら、本当に在った。
52 :
吾輩は名無しである:2005/07/20(水) 08:50:05
イカロスの飛行 レーモン・クノー・著 (
>>23)
Le Vol d'Icare
1968
Roman en forme de scénario.
53 :
劇文学の時代? :2005/07/20(水) 12:40:52
>>33 &
>>34 広辞苑によると、
かつて詩が文芸の王座に就いた時代があり、
近代に詩に取って代わって小説が文芸の王座に就いた。
このことは何を意味するか。
@ある時代において、ある文芸形式が他の文芸形式より、際立った存在である、
ということがありうる。(そのことが、『王座に就く』という表現で比喩
に言い表される)
A時代の変化とともに王座に就く文芸形式が変わった(比喩的に言えば、
『下剋上が起こった』)事が、過去に少なくとも一回はあった。
(つづく)
54 :
劇文学の時代? :2005/07/20(水) 13:09:06
>>53の続き
多くの辞典と事典において、文学(≒文芸)は、詩(歌)、小説、戯曲に
大別される。
「詩(歌)の時代」と「小説の時代」は、既にあった。「戯曲の時代」だけが、
まだ来ていない。しかし「戯曲」という言い方は
>>46に書かれた理由から、
避けたい。換言すれば、「劇文学の時代」だけが、まだ来てない。
近代が終わり、「現代」が到来するとw、「劇文学の時代」になる
(劇文学が文芸の王座に就く)という仮説は、無意味だろうか?
そして、仮に「劇文学の時代」の時代が来たとして、
>>22などに書かれた事を
踏まえると、「戯曲」よりも「レーゼシナリオ」の方が、文学の王座に就く者
として相応しいという仮説は、無意味だろうか?
55 :
吾輩は名無しである:2005/07/20(水) 13:31:54
アリストテレスは既に紀元前に、悲劇(=劇文学の一種)こそが、
文芸の最高の形式であると、「詩学」の中に書いていた。
56 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 00:35:00
なんだかチラシの裏化しているな。ともあれ
>>55については18世紀19世紀になってもそういう傾向が存在していた。
ヘーゲルなんかも悲劇を最高の芸術と考えていたわけだし、ワーグナーの
言う総合芸術としてのオペラ(楽劇)も同様だね。だたし、この時代の
戯曲は基本は韻文形式だが。(かといって抒情詩や歌謡とは別)
小説が文学の主流になったのは、下克上といえばそうかも知れん。韻文
文学があまりに芸術貴族的なのを嫌った市民階級が散文を好んだ事情も
文学史的には指摘される。既存の文学に反抗する実験がしばしば演劇から
生じるのも、この下克上では興味深い現象かも。
57 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 00:49:22
どうやらレーゼシナリオとして念頭に置かれているのは、映画やTV
ドラマなどで、みたところ、映像メディアで上演される形態のようだ
が、この点で、戯曲として構想されながらもそもそも上演を考えて
いないと思われる作品はあまり考慮されてないように見受けられる。
考察点は3つ?
1. 舞台での上演を目的として書かれた戯曲(散文・韻文・オペラ)
2. 舞台での上演を目的とない戯曲(レーゼドラマ 韻文・散文?)
3. 舞台ではなく映像メディアでの上演を目的とした作品で
読むに値するもの(レーゼシナリオ)
58 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 01:03:23
ジャンルは「目的」ではなく、形式で定められるものだから、
「シナリオ形式」に注目すると、
>>57の1〜3については、書かれた形式
には、韻文・散文の区別を度外視すれば、差がない。もっとも映像化する
場合は、ト書きには「アップ」とか「パン」とかいうカメラワークの指示
があることになるだろうが。
59 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 01:10:15
ところで、映像じゃなくて、音声ならどうよ。ラジオドラマとか。
舞台上演も映像化もされないが、シナリオとして書かれ、演じられ、
なおかつ文字文学の一分野として確立している。
ブレヒトなんかも書いてたと思う。
あんがい最初からこれを念頭に置いた方が良かったかも
60 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 01:49:09
>近代が終わり、「現代」が到来するとw、「劇文学の時代」になる
>(劇文学が文芸の王座に就く)という仮説は、無意味だろうか?
「劇文学の時代」かどうかは別として、仮説は無意味じゃない。
が、近代が終わり、現代が到来、という区分ではどうか知らん?
重要なのは受容者層の変化だよね。目下進行中のように、大部分の
人が文学作品を本で読まなくなり、物語作品はテレビや映画や
マンガやゲームでしか受容しない人が主流になったときに、
変化が来るんだろう。ただ、そうなったときにレーゼシナリオを
文字として読む人が多数いるかどうかは知らん。
61 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 02:36:09
>>57 >考察点は3つ?
4つだと思います。
> 3. 舞台ではなく映像メディアでの上演を目的とした作品で 読むに値する
> もの
これはレーゼシナリオというより「文学的な価値を持った、普通のシナリオ」
ですね。結果的には読み物としても成立しうる、ということで。
例えば、向田邦子の「阿修羅のごとく」のシナリオは、
もともと映像化を目的に書かれ、実際に映像化されましたが、
文庫化されて廉価で一般の人が買えるようになりました。
この本を買った人が、これを文芸作品として読んだとしたら、
レーゼシナリオ(=読み物としてのシナリオ)と呼んでも間違いではない。
ただし、それは結果としてそうなってしまっただけ、ということだと思います。
レス番号1(
>>1)に挙げられた、芥川、バロウズ、ダリウス・ジェイムス
らの三作品は、映像化を目的としたわけではなく、「シナリオ形式の読み物」
として構想されたものです。バロウズの「ダッチ・シュルツ〜」は実際に映画
化されましたが、それは副産物のようなものでしょう。
(シナリオ形式で書く効果=意義=必然性は、
>>21に書かれたようなことです)
「劇文学として構想されながらもそもそも映像化に優先順位を置いていないと
思われる作品」が、真性のレーゼシナリオです。
(つづく)
62 :
61の続き:2005/07/21(木) 02:43:00
ですから、四つの考察点とはこのようになるでしょう。
>>57 1と2は、そのままでよい。
3. 舞台ではなく映像メディアでの上演を目的とした作品で
読むに値するもの(普通のシナリオだが、レーゼシナリオと呼んでも間違い
ではない)
4.映像メディアでの上演を第一の目的としないシナリオ(レーゼシナリオ)
4の具体例が、
>>1に挙げられた作品群。
レーモン・クノーの「イカロスの飛行」は未読ですが、これも恐らく該当す
る。
>>52
63 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 03:23:38
>>58 たしかに、最終的には、レーゼシナリオと他の劇文学の差は無い、と思います。
ただ、ダリウス・ジェイムスの「ニグロフォビア」(
>>1)みたいな作品を
「戯曲」と呼ぶのには違和感があるし、ただ「シナリオ」と呼ぶと「文学性」
という部分が吹っ飛んじゃうし「映像化されてないシナリオなんて、変なの」
と思われてしまう。「レーゼドラマ」だと、舞台演劇をイメージさせてしまう。
「シナリオ形式の小説」と言ってもいいけど、小説と劇文学は質的に違うもの
だというのは、ゲーテも吉本も柄谷も言っていることなので、その「違い」を
言い尽くすことができない。
そうすると、既存の言葉で言うとすれば、「レーゼシナリオ」が最適というこ
とになってしまうのです。
64 :
63の訂正:2005/07/21(木) 03:44:39
>>63 >「レーゼドラマ」だと、舞台演劇をイメージさせてしまう。
を
「レーゼドラマ」だと、舞台脚本形式をイメージさせてしまう。
に訂正します。
65 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 05:12:25
>>56 >韻文
アリストテレスの「詩学」によると、昔は哲学論文までも韻文で書かれていた
という話ですね。
これはメディア・テクノロジーの問題だと思います。
昔は、文字を書いて遺すということ自体が高級なことでした。
石版に掘るとか、(大量生産は困難であったであろう)パピルスに書くとか。
それを保存して後世に伝えたり、運送して遠隔地の人に読ませるなどという事
は、大変なことだったでしょう。
韻文形式が主流だったのは、リズムが、現代における紙媒体の代わりの役目
を果たしていたのだと思います。
(つづく)
66 :
65の続き:2005/07/21(木) 05:40:24
(
>>65の最後の一文をちょっと訂正)
韻文形式が主流だったのは、リズムこそが、現代における紙媒体の代わりの
役目を果たしていたからだと思います。
例えば、古代日本で、京都に住む賢者の「思想」を、奈良に住む人に伝えた
かったとして、その「思想」が、現代で言うところの「原稿用紙30枚分」ほど
の分量だったとしましょう。オリジナルの原稿を送ってしまうと京都人が困る。
紙に毛筆で全文書き写すのも大変。輸送手段も、当時は、徒歩か馬車くらい
しかなかった。
そこで、七五調のリズムに押し込めることによって、記憶しやすくなり、
また、伝達しやすくなり、現代で言えば本を配送するような感覚で、
「思想」を輸送できるようになる。
(つづく)
67 :
66の続き:2005/07/21(木) 06:09:39
しかし、時代は変わり、
グーテンベルクの発明などによって、印刷・製本・書物の配送などが、
比較的、低コストかつ大量かつ広範囲に行えるようになった。
「韻文の文学(=詩歌)」から「散文の文学(≒小説)」への移行(下剋上)
も、これを背景にしている、と考えられると思います。
(もちろん、技術の進歩が文字文化を発達させたというより、
文字文化を発達させたいという人々の欲望が活字メディアの技術発展を
促したとも言える。この辺は、ニワトリが先か?卵が先か?みたいな話で
本末を転倒させてもよいでしょう)
68 :
67の続き:2005/07/21(木) 06:19:40
そして、いま、ネットによる文字配信の普及などを背景に、
小説と、「小説ではない文芸ジャンル」の間に、下剋上が起こるかも
しれない。グーテンベルクの発明が、詩と小説の下剋上を促したように。
「小説ではない文芸ジャンル」の一つとして劇文学がある。
「劇文学の時代」という仮説はこの辺を背景にしているのです。
69 :
68の書き直し:2005/07/21(木) 06:31:53
そして、いま、ネットによる文字配信の普及などを背景に、
「小説ではない文芸ジャンル」と小説との間に、下剋上が起こるかも
しれない。グーテンベルクの発明が、小説と詩歌との下剋上を促したように。
「小説ではない文芸ジャンル」の一つとして劇文学がある。
「劇文学の時代?」という仮説はこの辺を背景にしているのです。
70 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 06:56:22
>>60 ペーパーレス社会なんていう言葉もあったけど、ニュー・メディア・テクノ
ロジーが紙媒体を完全に駆逐するかどうかは分かりません。
でも、映像や音に比べて文字が尊い存在であるという世間の考え自体は、
ネットが普及しても変わらないだろうと思います。音や映像の配信より
文字配信の方が低コストだろうし、ワイセツな画像や音声が青少年の育成
にとって害である、という考えも消えないだろうし。(ワイセツな文章も
ありますが、映像などとはインパクトが違いますからね)
文学(文芸)を「文字言語の組み合わせによって、人の心を揺さぶること」
というように広く定義するのなら、電子メディアがいくら発達しようとも
文学(文芸)は無くならないと思います。
もちろん、ネット普及とともに劇文学の時代が来るか否かは、また別の問題
ですが。
71 :
1:2005/07/21(木) 07:31:28
「シナリオ」という言葉の意味領域をもう一度確認しておきましょうか。
ここでは、「シナリオ」という語は、映像劇(映画、テレビ、ビデオ、DVD、
ネットなど、要するに、電気を使うもの)の脚本という意味で使っています。
(
>>5を参照)
舞台脚本のことは、ここでは、「シナリオ」とは呼んでおりません。
そのまま「舞台脚本」と、あるいは文学性を帯びているものの場合は「戯曲」
と呼びます。
(『レーゼドラマ』については、
>>9を参照。
>>9の@で使う場合が多い。
Bの定義に従うと戯曲とレーゼドラマに区別は無い、ということになって
しまうから)
しかし、「シナリオ」も、本来は即興劇用の大まかな筋を書いた台本をさした
言葉だったそうです。語源をたどっていくと、シナリオも舞台用語だったらし
い。今でも稀に舞台脚本という意味でもシナリオという言葉を使う場合はある
らしいです。
しかし、ここでは、舞台脚本という意味では、「シナリオ」という言葉は
使いません。
(つづく)
72 :
71の続き:2005/07/21(木) 07:56:38
劇画の原案が脚本形式で書かれた場合は、それもシナリオと呼んでよいこと
にします。
要するに、何らかのテクノロジーの導入によって舞台演劇の物理的な制約を
乗り越えられた「劇」の脚本は、全て「シナリオ」と呼びます。
舞台の物理的な制約とは、一時間のうちに何十回も場面転換できないとか、
地方公演する場合はワザワザ役者がその場に出かけていって、
もう一度初めから演じなおさないといけない、というようなことです。
空も飛べないし。
73 :
72の続き:2005/07/21(木) 08:10:30
>>8&
>>11 最近では、ゲームの原案を文書化したものも、シナリオと呼ぶらしいですね。
しかし、ここでは、それを「RPG試案」と呼んで、シナリオと区別します。
その理由は、御質問があったときにかぎり、答えます。
74 :
シナリオ:2005/07/21(木) 08:21:38
75 :
二葉亭ウォーホル:2005/07/21(木) 08:26:32
昔々、アンディ・ウォーホルが・・・。
(つづく)
76 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 10:30:25
> これはメディア・テクノロジーの問題だと思います。
> 昔は、文字を書いて遺すということ自体が高級なことでした。
あんま関係ないと思う。習慣の問題。当時は書物は音読・朗読するのが
一般的で、その場合リズムが必要とされる。 グーテンベルクの発明は
15世紀中頃。小説は、17世紀にも存在しているが、文学の主流となった
のは、18世紀後半以降と考えるのが一般的だが。
受容状況を考えずに技術の発展だけを考えるのは、どうかと思うが。
77 :
吾輩は名無しである:2005/07/21(木) 11:47:54
78 :
二葉亭ウォーホル:2005/07/21(木) 17:18:27
アンディ・ウォーホルは、美術界において、「ポップ・アート」の立役者と
言われる。(本当の元祖は、R・ハミルトンという人らしい)
映画スターの顔や缶詰など、当時だったら看板職人が描いていたような対象を、
本格的な手法で描いたことによって、斬新さを醸し出した。
坪内逍遥と二葉亭四迷の「言文一致運動」は、文芸のポップ・アートだった
のではないだろうか。ウォーホルが缶詰を題材としたように、四迷は、落語や
滑稽本という大衆文化を素材にして、新しい文芸を生み出した。しかし、彼を
始祖とする日本近代の純文学は、今やポップアートではなく単なる高級文化に
なってしまった。(昨今の某文学賞受賞騒動には目をつぶるとして)
ウォーホルにとっての缶詰が、二葉亭四迷にとっての落語・滑稽本だった。
この次に起こる文芸改革の担い手にとっての落語・滑稽本が、
映画(および、そのシナリオ)である、と考えてみたらどうか。
二葉亭四迷は、落語や滑稽本の形式を借りて「小説」を創出した。
「21世紀の二葉亭四迷?」は、シナリオの形式を借りて「レーゼシナリオ」
を創出する!?
79 :
二葉亭ウォーホル:2005/07/22(金) 03:35:48
>>78の第三段落は、分かりにくいので、書き直し。
ウォーホルにとっての缶詰が、二葉亭四迷にとっての落語・滑稽本だった。
ウォーホルにとっての缶詰、四迷にとっての落語・滑稽本が、
次代の文芸改革者にとっての映画(および、そのシナリオ)
である、と考えてみたらどうか。
二葉亭四迷は、落語や滑稽本の形式を借りて「小説」を創出した。
「21世紀の二葉亭四迷?」は、シナリオの形式を借りて「レーゼシナリオ」
を創出する!?
80 :
吾輩は名無しである:2005/07/22(金) 03:51:05
>>59 ラジオドラマの脚本も、勿論、劇文学の一種としてありうると思いますね。
81 :
吾輩は名無しである:2005/07/22(金) 05:06:42
>>1 >ダリウス・ジェイムス
日本での表記は ダリウス・ジェームズが、より正しい。
>>53 >そのことが、『王座に就く』という表現で比喩 に言い表される
脱字。「比喩的に言い表される」に訂正。
82 :
吾輩は名無しである:2005/07/22(金) 08:44:12
あんまり作品読んでないと思われる記述が続くなあ。
84 :
吾輩は名無しである:2005/07/22(金) 15:16:08
貴方は貴族だ。
85 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 06:23:06
>>49 >>50 感情表現を抑制した文体、という意味でのハードボイルドというと、
アゴタ・クリストフの「悪童日記」を思い出す。
作品自体もハードボイルドな文体で書かれていたが、
ある書き手がハードボイルドな文体を選び取ることになった過程についても
描かれていた。
主人公の双子の兄弟が作文の練習をするんだけど、アヤフヤな表現や
情緒的な表現を極力排除した文を書こうとするんだよ。
「おばあちゃんが作ってくれたスープが好きだ」というような表現は、
「好き」の部分が情緒的でアヤフヤだから、
「おばあちゃんが作ってくれたスープを毎日飲む」というような表現に
書き直したりする。
アゴタ・クリストフは、たしか、劇作家としてのデビューの方が早かった
と思う。
現代人は、多かれ少なかれ「悪童」なんだよ。
86 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 13:25:34
平行線公理を否定して「非ユークリッド幾何学」が誕生した。
文学における「小説中心主義」および、劇の世界における「舞台演劇中心主義」
という「公理」を否定した世界観を提示できないものだろうか。
87 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 15:15:02
非ユークリッドまで行くと、殆ど電波の域。→再考のこと。
ポップ・アートを引き合いに出すなら、
ポップ文学を挙げてしかるべき。→ もっと勉強せよ。
ハードボイルドねえ。自然主義文学の文体を参照のこと
89 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 18:55:16
>>88 非ユークリッド幾何学を引き合いに出したのは、あくまでも比喩ですね。
「ある社会において暗黙の前提となっている事を否定しても、それなりに
まとまりのある世界観を提示できる」ということが言いたかったのです。
詩歌が文学の中心であるような前近代的な社会にとって、
小説が文学の中心である近代社会は、非ユークリッド幾何学のようなもの
であった。(あくまでも比喩)
ならば、小説中心主義の近代社会にとって
(レーゼシナリオはともかくとして)劇文学が中心であるポストモダン
(=現代?)社会は・・・・、というようなことが言いたかったのです。
まあ、言葉のアヤですよ。
既存の幾何学の超越するものとしての非ユークリッド幾何学の比喩を
用いるのなら、それこそ言語表現を否定する文学こそ、その比喩に相応しい。
まあそれは良いけど
劇文学=ポストモダンはどうかと思うぜ。
シェイクスピアだって劇文学、ワーグナーだって劇文学。
表現主義(1910年代)は劇を中心とした文学運動と理解される。
91 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 19:16:33
>>88 ポップ文学というのは、例えば、
ヴォネガットやディック(通俗文芸とみなされていたSFの形式を借りた)
とか、オースター(同じく通俗文芸とされた探偵小説の形式を借りた)のこと
ですか?
それらのことは、けっこう意識していましたよ。スリップストリーム(境界
解体文学?)とかアヴァンポップ(前衛文学とポップ・カルチャーの融合?)
っていう言葉も聞いたことあるし。
「ニグロフォビア」(
>>1)なんかは、そういう文学の潮流の中にあると
思います。
92 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 19:25:15
>>88 あら。
>>90に対する答えは後ほど、ということにして。
「自然主義文学の文体」ということに関しては勉強させていただきます。
助言をありがとうございました。
93 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 19:50:50
>>90 そうですか。
でも、少なくとも日本では劇文学が社会の前面に出たことは、あまり無かった
と思います。
前の方のレスにもあったけど、教科書に戯曲が載ったことは私の経験上、
非常に少ないし、文学部の人以外では、「戯曲が文学である」ってこと自体を
知らない人も意外と多いのではないでしょうか。
理科系の大学を出て数学の博士号まで持っている人が知人にいますが、彼に
「文学の主なジャンルは、詩歌と小説と、あとは何だ?」と質問したところ、
答えられなかった。
この板(文学板)を見ても、戯曲スレの数は少ないと思います。
劇文学=ポストモダンっていうのは、劇文学が中心的な存在になる時代、
という意味合いですね。
94 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 19:55:50
>>93に補足。
教科書というのは、もちろん「国語の教科書」という意味です。念のため。
95 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 20:24:59
>>93の最後の一文を書き直し。
劇文学=ポストモダンっていうのは、(日本の)近代に小説が王様であった
のと同じ程度に劇文学が中心的な存在になる時代がポストモダン、 という
意味合いですね。
しかるに今はポストモダンと言うべき時代と思われるが、
劇文学が文学の中心かと言うと、そうでもない。
国語の教科書は文学の教科書じゃないので、戯曲が取り上げられなくても
不思議ではないね。俺が使っていた教科書には載っていたけど。
文学の主たるジャンル?
小説、詩、劇、物語、批評、エッセーだろう。
97 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 22:43:18
>>96 答えやすいところから答えることにすると、まず、第三段落。
>文学の主たるジャンル?
>小説、詩、劇、物語、批評、エッセーだろう。
エッセー(随筆)について。
「ちびまる子ちゃん」というマンガを描いた、”さくらももこ”という漫画家
が、「自分は本当はエッセイストになりたかったが、エッセイストという
肩書きは、他の業界である程度有名になってからなるものだと思っていたので、
とりあえず漫画家になった」という主旨のことを言っていました。
例えば、椎名誠(エッセイスト、雑誌編集者)
寺田寅彦(随筆家、物理学者)
エッセイストという肩書きだけでやっていけるのは、「文豪の娘」くらい
でしょう。
批評はどうか。
「文学」という語は、「文芸」と全く同じ意味で使う場合と、
「文芸を研究する学問」という意味がありますね。だいたいどこの辞書を
引いてもこの二つは必ず載っている。(あとは人文学 humanitiesという
意味で載っている辞書も稀にある)
批評は、後者の意味では「文学」かもしれませんが、前者の「文章の芸術」
という意味では「文学」とは言い難い。
批評とエッセーは、文学という語で表される意味領域の辺境に位置するもの
だと思います。
オリンピックはスポーツの祭典である。「新体操」はスポーツか?
うーん、微妙・・・・。でも、新体操はオリンピックの競技の一種目として
一応は認められている。 これが「文学」における批評とエッセーですよ。
98 :
吾輩は名無しである:2005/07/23(土) 23:07:41
99 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 00:03:03
>>96 第二段落に対して。
私が義務教育の期間に国語の教科書で習った戯曲?(というか劇文学)は、
狂言の台本の現代語訳「附子(ぶす)」だけです。小学校の高学年の時に
習った記憶があります。
>国語の教科書は文学の教科書じゃないので
これは見解の相違ですね。私は「国語=文学」だと思います。
「日本語」というものがまず初めに存在して、それを組み合わせて「文学作品」
が作られたのではなく、むしろ「文学作品」が「国語」を作ったという方が
的確だと思います。
調子に乗ってもっと言ってしまえば、「国語=国家=文学」だと思います。
だから、義務教育で戯曲をほとんど教えない国があるということは、
その国家自体が劇文学を軽視しているのと同じことだと思います。
枕草子は? 渋沢龍彦や内田百閧竢ャ林秀雄の著作は?
ベンヤミンやエリオットなんかは?
ジャンルの話を、「肩書き」にすり変えるのは、論証法として無理あるぜ。
>>98については、リンク先の見解が狭量である、あるいは古いと断言する
ことは簡単な訳だが。
> 批評とエッセーは、文学という語で表される意味領域の辺境に位置するもの
だと思います。
同じように
シナリオとか脚本は、文学という語で表される意味領域の辺境に位置する。
と言えなくもない。
102 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 00:49:42
すぐにでも、返答いたしたいのですが、パソコンが不調です。すみません。
103 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 02:26:54
>>100 随筆について。
では、もう少し本質的なところから考えましょう。
文芸を「文字言語の組み合わせによって生み出された芸術」と定義すれば、
そして「芸術」を「美を生み出して、人の心を揺さぶること」と定義するなら
ば、随筆(エッセー)も文芸でしょう。優れた物であれば。
しかし、「芸術」とは、辞書によると「特定の様式によって美を表現する」
ことだそうです。いま手元に国語辞典が二種類ありますが、どちらにも
そのようなことが書いてありました。
随筆は、この「特定の様式によって」というところに、引っかかる(抵触する)
のです。
随筆の「随」は、随意(=勝手気まま)の「随」。
「様式にとらわれない」文章形態のことを「随筆」と呼ぶ。そうすると、
これを文芸(文章の芸術)と何のためらいもなく呼ぶことは難しい。
「様式にとらわれない芸術」などというのは、形容矛盾になってしまいます
からね。
104 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 02:58:50
>>100 「文芸」と同義の「文学」ということで言えば、やはり批評は文学ではないと
思います。仮に「小説のように面白い批評文」が在ったとして、
それは、「小説のように面白い新聞の社説」「小説のように面白い科学論文」
というの同じことであって、そこまで文学(=文芸)と呼んでしまうと、
「全ての面白い文章」が文学だ、ということになってしまうので。
文芸を研究する学問(文芸学?)という意味での文学ということで言えば、
批評も文学でしょう。
105 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 03:14:35
>>101 シナリオとか脚本という言葉を、(舞台脚本=戯曲ではなく)映像作品の
脚本という意味で用いていらっしゃるのであれば、それはその通りです。
そのことに対する疑問があったということが、このスレが立った理由の一つだ
と思います。
106 :
105の続き:2005/07/24(日) 03:42:18
しかしながら、戯曲(≒舞台脚本)は、文学の辺境ではなくて、
三本柱のうちの一つであるというのは「世界の常識」wです。
「狭量であり、かつ古い」見方かもしれませんが、そこが良いのです。
日本は、辞典や事典を読むかぎりでは、この「世界の常識」に従っている
にもかかわらず、現実的には戯曲を軽視気味だと思います。
107 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 04:21:19
>>96(>第一段落)
>しかるに今はポストモダンと言うべき時代と思われるが、
>劇文学が文学の中心かと言うと、そうでもない。
これが一番難しい問題なのですが、一つだけ。
脚本を読む一般人は少ないが、劇映画やテレビドラマを見る現代人は多い。
日本では、「文字に書かれた劇」を「脚本」と言い、
「演じられた劇」を「演劇」と言いますが、
英語では両者の区別は無い。両方とも"play"です。
「戯曲」=「演劇」 なのです。
ということは、
「シナリオ」=「劇映画」
(または「シナリオ=TVドラマ」)
なのです。
(つづく)
文芸を「文字言語の組み合わせによって生み出された芸術」と定義すれば、
映像表現は、文芸を芸術たらしめる、言語表現=「特定の様式」を犯している
訳だから、その時点で文芸ではない。よって、
劇映画やテレビドラマを観る人は文芸と無関係な人たち。
辞書的ソースしかないから、矛盾に陥るんだよ。もっと作品読めよ。
渋沢の批評よんで、これを学問と捉えることは難しいだろう。
文学のジャンルを扱うのには、
文学表現の広がりにたいしてあまりに無知すぎるな。
110 :
吾輩は名無しである:2005/07/24(日) 10:36:22
まだ、途中だったのに・・・。
つか、ジャンルの序列について語っても不毛だと思われる。
と言うわけで勝手に仕切り直し。
>>1のレーゼシナリオについての思考実験。
前提1。読書媒体に限定して論を進める。映像や舞台での観客・視聴は
一切考慮しない。
前提2。レーゼドラマとレーゼシナリオの区分が、目下のところ上演形態
の違いのみに由来している以上、テキスト形式においては両者の相違は明
確ではないので、同列に扱う。
前提3。従って、扱う形態は、
>>2の言う 「書き手が当初から文芸作品
として読まれることを目的としていた」、戯曲(脚本)形式で「書かれて
出版される」テキストのみ。
簡単なところから。
で、作家にとっては、表現手段を選択する自由があるし、また、その
選択にあたっては、何らかの意図があると考えられる。
ある作家が、小説形態ではなくレーゼドラマ(レーゼシナリオ)を
表現形式として選択した場合、上演の目的が全くないのなら、
はたしてどのような意図がその選択にあるのか?
小説の叙述形式とは異なる、独特の効果が脚本形式にあるか、否か?
あるなら、それは何か?
あるいはなにゆえに、小説的な叙述形式を選択しないのか。
ノベライズの点でも、
出版業者は、映画などの書籍化にあたって、ノベライスと脚本形式の
二つを選択できる。前者が主に選択されるのは、小説中心主義ではなく
たんに、そっちの方が売れるから。仮にある映画が書籍化されて、脚本
版と小説版の二つが出版されたら売れるのはどっちだろうね。
売れるってのは、読者はシナリオよりも小説(物語)形式を好むって
ことだから、受容の側にとってみれば、小説の方がアドバンテージが
大きいと考えられないか? ではそのアドバンテージって?
ただ単純にスジが追いやすいとかだけではないと思うが、どうよ。
実際、小説受容には読者が「追体験」したり「世界に没入」したり
することが重要になってくるわけだし。
結局のところは、戯曲(シナリオ)形式のテキストが、読者の「読み方」に
どのような違いををもたらすか、そこにどれだけの文学的表現の可能性があるか
ってことになる。この問題はジャンルの序列とは切り離して考察可能だろう。
日記形式や手紙体の小説は、私信などのプライベートな言語表現に読者を
引き込み、読者と主人公の同一化を促進させる手段と解される。
脚本形式にも同じようなこと(あるいは反対のこと)が指摘できるか?
もちろん読者の読み方は、その習慣や思考法に規定されるわけで、映像表現
に慣れた読者と、そうでない人を同一に扱うことは出来ない。だから、テレビ
世代には別の読み方や文学の受容があるのは理解できるが……
>脚本を読む一般人は少ないが、劇映画やテレビドラマを見る現代人は多い。
たしかにそのとおりでしょう。だが、それは大衆の嗜好を述べたに過ぎないし、
この現代人が脚本ではなくノベライズを読むと言う事実を突き出せば、何の説
得力もない。むしろ、文字媒体としては小説形式が好まれるという好例だろう。
それを序列や小説主義ではなくて、文体上の特性から説明出来るのか?
このスレ、ゼミかなんかで使ってるの? それとも一人だけが書いてるの?
117 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 12:54:56
>>112 >作家にとっては、表現手段を選択する自由があるし、また、その
>選択にあたっては、何らかの意図があると考えられる。
>はたしてどのような意図がその選択にあるのか?
>なにゆえに、小説的な叙述形式を選択しないのか。
小説は、フィクションを過去形で書くところが、イヤだ(不自然だ)と、
いう面があると思います。そして、そのように思っている書き手がいるという
ことは、どこかに(潜在的に)同様に思っている読み手もいるはずだ、と。
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」(雪国)「昨日ママンが死んだ」
(異邦人)など、小説の地の文は過去形が多い。
自分が知っている唯一の例外は「幽霊たち」(オースター)だけですが、
これは当初は戯曲として構想されたものだったと訳者あとがきに書いてあった
と記憶しております。
劇文学で小説の地の文にあたるのはト書きだと思いますが、ト書きは現在形
が多い。そこが良い。
この点が一点。
118 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 13:34:59
119 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 15:53:16
>>113 >ノベライズの点でも、
>出版業者は、映画などの書籍化にあたって、ノベライスと脚本形式の
>二つを選択できる。前者が主に選択されるのは、小説中心主義ではなく
>たんに、そっちの方が売れるから。
>>115 >この現代人が脚本ではなくノベライズを読むと言う事実を突き出せば、
この件に関して、反証というわけではありませんし、レーゼシナリオ云々
から話が少し外れますが、あくまでも参考になる事実の提示という意味で。
映像劇の書籍化の際、向田邦子や倉本聡、最近で言えば、三谷幸喜や宮藤
官九郎など、個性や作家性が認められる人気脚本家の場合、
ノベライズではなくシナリオ形式で出版されることが多い。
全体としてはノベライズの方が、やはり多いかもしれません。
120 :
美香 ◆FE5qBZxQnw :2005/07/25(月) 20:08:30
シナリオを読む優越感というものを否定するのは偽善者である。
画像にならなければ楽しむことができない大多数。
わたしゃーちょっとちがうんだよ! そーゆー優越感。
122 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 22:32:49
>>121 >ところで、どうして現在形だと良くて、過去形は不自然なの?
どうしてでしょうね・・・。
なんとなくこっちの方が気持ちいい、という感覚的なものでしかないのですが・・・。
過去形が当たり前と思っていたときに、現在形のフィクションに出会い、
解放感があった、という経験からしか、言えないのですが・・・。
脚本形式の良さは、フィクションをフィクションとして書ける、という点に
あると思います。
123 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 22:38:52
おいおい。小説だってフィクションをフィクションとして書けるだろう。
124 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 22:53:52
昨日ママンが死んでないのに、「昨日ママンが死んだ」と過去形で
書くのが、小説の一般形態。
>>123 「グレーゴル・ザムザが虫になった」 これも過去形。
>>117は、そこに違和感を感じているのでは?
125 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 23:04:49
だから小説の過去形は過去を表しているわけじゃないってば。
SF未来小説だって過去形だろう。
「時制論 物語論」でとりあえずググれ
126 :
吾輩は名無しである:2005/07/25(月) 23:26:35
そのくらいわかっていますよ。
>>125 これは違和感の問題。「イヤだ」という生理の問題。
でも、とりあえずググります。
127 :
吾輩は名無しである:2005/07/26(火) 00:16:36
貴重な情報ありがとうございます。
>>125 「文学理論入門」の中の、ハラルト・ヴァインリヒの『時制論』の
ことでいいのかな?
128 :
吾輩は名無しである:2005/07/26(火) 00:36:44
貴重な情報ありがとうございます。
>>125 一番最初の「文学理論入門」の中のハラルト・ヴァインリヒの『時制論』の
ことでいいのかな?
時制論が実際の小説受容に合致しているかはともかく、
考えるきっかけにはなる。
完了
131 :
吾輩は名無しである:2005/07/26(火) 17:10:01
>>129 現在形=説明の時制=緊張の態度(戯曲など)
過去形=語りの時制=緊張の緩和(小説など)
ということのようですが、これを読んで、ゲーテの言葉を思い出しました。
たしか格言集の中の「文学について」という章での言葉だったのですが、
「小説は、展開が緩やかであり、主人公は受動的であることが望ましい。
戯曲は、展開が急激であり、主人公は能動的であることが望ましい」
というようなものだったと思います。(たまたま、本をめくっていたら
見つかった言葉)
この言葉と、「時制論」の見解は、合致するように思えますね。
純文学の小説って、フィクションだとは思うけど
どうしても「純然たるフィクション」って感じがしないんだけど。
推理小説とかSF小説みたいな「作りすぎた」話って、
通俗的なものと見なされる、と言われるでしょう。
>>133 今、二十代前半の人が、中学生ごろに習ったらしいね。
義務教育で映像劇のシナリオを教えることに対して、税金が使われたってことか。
公立図書館にもシナリオ本は置いてある。公立図書館の視聴覚コーナーには、
ビデオも置いてある。都道府県レベルの公立の図書館には、
劇映画のビデオは、わりと豊富に揃ってるが、TVドラマはあまり置いてないようだ。
市区町村レベルの公立図書館は、TVドラマのビデオも置いてある。
国立の東京芸大でも映画が教えられるようになった。ここにも税金が・・・。
ともあれ、映像劇および、そのシナリオに対して税金が使われるようになった
ということか。
つまり、もはや、映像劇は「アングラ」とか「サブカル」とかいうものではなくなった!?
そういえば、
>>1に挙げられた三つのレーゼシナリオも、公立図書館で見つけた。
「レーゼシナリオ」という語の載ったカタカナ語辞典も図書館にあった。
つまり、「レーゼシナリオ」にも税金が使われている。
「レーゼシナリオ」はもはや公共財としても認められた!?
1、カドカワ方式とディープラブ方式。
2、横書き文芸。
3、例是。
例是って何よ?
140 :
吾輩は名無しである:2005/09/07(水) 22:59:22
例是
「例えば、是(これ)」ってことか?
レーゼシナリオのことか。>例是
小説の次に文芸の王座に付くのは何か、「例えば是(コレ)」で、
「例是(れいぜ)」w
ロマン(浪漫=ろうまん)とかジョーク(冗句=じょうく)みたいなもんかね。
言葉の造り方としては。
「例えば、コレ」だから強制・断言してるわけじゃない。謙虚な表現。
それと、これだと、レーゼシナリオとレーゼドラマの両方を指すことができる。
舞台演劇と劇映画その他の区別を曖昧なままにしておくことができる。
脚本が、柱とト書きと台詞という形式で書かれるということは、
いまの時代だったら、演劇や映画などに人一倍の興味がある人でなくても
知っているだろう。
書簡体小説や日記形式小説が受け入れられるには、書簡や日記の形式を
多くの人が知っていなければならない。そして、実際に書簡や日記の形式
を知っている人が多かったから、それらの小説は受け入れられた。
今は多くの人がシナリオ形式を知っているから、(以下略
戯曲が社会に広まるには、演劇が社会に定着していなければなるまい。
今は、舞台演劇よりも映像劇のほうが社会に定着している。
>>115 >文体上の特性
ヘンリー・ジェイムスは、内面の描写をしなくてすむからという理由で
戯曲を最高の形式とみなした時期がある、と
小谷野敦の「反・文藝批評」という本に書いてあったと思います。
たしか、コギャル風の文体についての章の中でだったとおもいます。
知性の無い人間の内面を(一人称で)書くことができるか、
みたいなことが問題になっていて、
その流れで出てきた話題だったと記憶。
>>145 >反・文藝批評
「反・文藝評論」に訂正
この内面の描写をしないというところがハードボイルドなのです。
ノーベル文学賞受賞者のヘミングウェイや、
アンドレ・ジッドに今世紀最大の作家と評されたハメットは、
こんにちでも、元祖ハードボイルド作家として読み継がれている。
「悪童日記」
>>85も内面描写をほとんどしない文体。
あの主人公の双子のような環境を多くの現代人は生きている。
だから、あの作品と波長が合い、あれはわりと売れた。
「いま、ここ」ではない世界をイメージすることは誰でもすることであろう。
過去を追想する。未来を想像する。その他諸々。
「子供の頃に祖母と一緒に藤の花を見に行ったことを思い出した」
この一文を次のような体言止めに書き換えてみる。
「子供の頃に祖母と一緒に藤の花を見に行ったという記憶」
このような言い方は、「記憶」という「イメージの世界」を
あたかもモノであるかのように対象化する。
この「イメージの対象化」「イメージのモノ化」「イメージの名詞化」が、
劇文学の第一歩なのだ。
ト書きの文の後に、「〜というイメージ」という語が省略されていると
考えてみよう。
「ロミオ、バナナの皮で滑って転ぶ。」というト書きがあったら、
それは本当は”「ロミオがバナナの皮で滑って転ぶ」というイメージ”
と書かれているのだと考えてみる。
>>151 劇文学の中でもレーゼシナリオがとくにそうだ。
劇文学というよりレーゼシナリオがそうだ。
>>151 >ト書きの文の後に、「〜というイメージ」という語が省略されていると
考えてみよう。
訂正。”「〜というイメージ」という言葉”
「語」と言ったら、単語のことをさすのが普通だから。
>>1の「ダッチ・シュルツ〜」は、人が死の直前に見ると言われる
「走馬灯のように駆け巡る、生まれてから死ぬまでの記憶の連鎖」を
描いたものであり、「ニグロフォビア」は麻薬的な幻覚、「誘惑」は修行僧の幻覚。
このような感覚を描くのに、フラッシュ・バック、フラッシュ・フォワードと呼ばれる映画的技法は
適している。
これは、レーゼドラマというよりレーゼシナリオ特有の表現だろう。
>フラッシュ・バック、フラッシュ・フォワード
前者は辞書にも載ってたと思うが、後者は載ってないと思うので、注釈付けると
「フラッシュ・バックとは逆に、未来のイメージが連続的に挿入される編集技法のこと」
北野武の「3―4X 10月」の花畑のシーンが一例。
156 :
吾輩は名無しである:2005/09/14(水) 03:17:17
個像劇
>>26が普及している時代では、
レーゼドラマというよりレーゼシナリオの方が受け入れられやすい。
統計を取ってみれば、一人の人間が今までに見た舞台劇の本数より
非舞台劇(劇映画、TVドラマ、劇画)の本数の方が多いことが分かるだろう。
ゼーレのシナリオなら知ってるけど
何ですか?それ
近代以前、物語(=過去形が基本のフィクション)形式で書かれた文芸には
色んな呼称があったろう。
それが、「小説」と名づけられた時点で、
そこが数直線や座標のの「原点」のような役割を果たし、
近代文学空間が拓けたのではないだろうか。
そのような「原点」を今、位置づけなおす時期に来てるのでは。
レーゼシナリオ?文学界の「鼻行類」みたいなもんか?
>>58 >ジャンルは「目的」ではなく、形式で定められるものだから、
この認識に従うと、(活動写真発明以降の)映像作品を念頭に書かれたことが
文章表現の表層に明確に表れているものを、「レーゼシナリオ」と呼べばよい
ことになるかな。
舞台では不可能な頻度での場面転換、「アップ」、「パン」などの撮影用語、
「フラッシュバック」「オーバーラップ」などの編集用語が、使用されている
場合は、レーゼシナリオ。
これは、テキスト外の、出版産業的な視点からの定義だが、
映像作品と関連して出版された場合は、「普通のシナリオ」。
無関係に出版された場合は、レーゼシナリオ。
そう考えてみると、レーゼシナリオは、
>>1に挙げられているくらいしか
前例は無さそう。
あとは
>>52の「イカロスの飛行」がどうか。
スレの流れをまとめると、
1、「レーゼシナリオ」という単語が存在する(あるカタカナ語辞典に載っている)
2、その単語に該当する作品がいくつか存在する。(公立図書館にも置いてある)
3、「将来、レーゼシナリオが小説に取って代わって文芸の王座に立つ」という仮説を立てた者がいる。
ということか?
167 :
166:2005/10/04(火) 01:38:26
王座に立つ、とは変だな。王座に就く、か。訂正!
カタカナ語辞典に出てるって、どこの?
三省堂のコンサイス系のカタカナ語辞典
>>91 「スクリーンプレイ:ユービック」P・K・ディック(1974)
ゴダールと「万事快調」を共同脚本・監督したジャン・ピエール・ゴランから
の依頼で書いた映画脚本だが、映画化されなかった。
のちに、書物として出版された。これもレーゼシナリオ?
>>91 オースターも書いてたね、シナリオ。
あれは映画化されたか。
「スモーク」「ルル・オン・ザ・ブリッジ」が書籍化されてた>オースター
>>9 「戯れに恋はすまじ」を読んだ。
解題に、ビューネンドラマとしての戯曲(=舞台脚本)に絶望したミュッセが
レーゼドラマを志向したというようなことが書いてあった。
シナリオ(=映像劇脚本)界に、ミュッセが登場してもなんら不思議ではない。
>ミュッセ
「ヴェネチアの夜」初演に失敗して
「肘掛け椅子の中での見物」と題したレーゼドラマ集を出した。
脚本形式にこだわった(著名な)書き手がいるということだ。
ヘンリー・ジェイムズ(
>>145)とミュッセ
>>177に追加
ミュッセだって、戯曲(脚本)をノベライズして出版するという選択肢もあったはずだ。
しかし、「戯れに恋はすまじ」は脚本形式で書かれ、出版され、古典として今日も読み継がれている。
おそらくは(税金で成り立ってる)公立図書館にも置いてあるだろう。
>>174 >シナリオ界のミュッセ
荒井晴彦の「シナリオ神聖喜劇」はもしかしたら、そんな感じかな?
>>138 ディープラブってもしかしてYoshiの?
182 :
165 :2005/10/09(日) 17:44:43
>>147 ハメットの恋人リリアン・ヘルマンは小説家を目指していたが
ハメットの助言で劇作家に進路変更したとどこかで読んだ記憶がある。
ハードボイルド作家ハメットに脚本形式に対するこだわりがあったのでは
ないだろうか。
二人とも映画と縁がある。
>>181 Yoshiとレーゼシナリオとどう関係あるんだ?
>>166は果たしてそれで正しいのかどうか。再度検討したほうがよいな。
>>138、
>>181、
>>184 この板のDeep Loveスレよりコピペ
568 :吾輩は名無しである :2005/09/04(日) 16:32:49
内容はともかく、ケータイで小説を発表して、
その評判をバックにして、映像作品を作るっていう、手法は、
良いな。一人カドカワって感じ?
誰でも思いつきそうなことだけど、実行するところが偉いよ。
「Yoshiに学ぶべきこと 」(創作文芸板のスレ)よりコピペ
ttp://book3.2ch.net/test/read.cgi/bun/1124434854/ 162 :名無し物書き@推敲中?:2005/09/29(木) 11:19:07
やっぱり、ネット(ケータイ)で小説を発表して、
その人気(と金?)をバックに、映像作品を作ったていうのは
画期的だと思うんだけどな。
誰でも思いつくことかもしれんけど、実践したのが偉い。
作品の内容には興味ないんだけど、
読者がつくってことは、それなりのモンでしょう。
なんかのパクリかもしれないけど、盗作で訴えられない程度には
オリジナリティはあるわけだし。
あと本を出版するときにも横書きで出版したっていうのも注目すべき点かな。
「電車男」もそうだけど、これから横書き文芸は増えるよ、きっと。
純文学の世界でもチラホラ出てるみたいだし。
ttp://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1121498789/224-324 一般書籍板 「鬼才Yoshiを語る」スレよりコピペ
233 :無名草子さん :2005/09/16(金) 13:37:04
ケータイに小説を発信して、その人気(と金)をバックに映画(映像作品?)を
作るっていうようなことは誰でも思いつきそうなことだけど、
実行するところが偉い。「ひとりカドカワ」って感じ?
似たようなこと試みた人は他にもいるかもしれんが、成功したは今のところ
彼だけでしょう。これから、こういうやり方が定着してくるかもしれない。
歴史的には彼が先鞭を付けたってことになるかもね。
小説の中身は興味ないけど、あまり酷いモンだったら
誰も読まないわけだから、その程度の質はクリアしてるってことでしょう。
テキストを先に出版して、後から映画を作る。これだけなら角川がかつてやったことだ。
そのときに、ネットやケータイを利用する。これはYoshiがやったこと。
以上はみな小説だが、レーゼシナリオでこれをやってみたらどうだろうか?
>>187 それ、映画監督さんのブログでしょ?現場の人は「レーゼシナリオ」という言葉をそういう風に使うよね。新藤兼人もたしか「シナリオの話」という本でそんな言い方をしてたな。
ミュッセのレーゼドラマも、後に上演された。
>>1の「ダッチ・シュルツ〜」も文芸として出版されながら、のちに
映画化された。
>>189 横書きのほうが眼に慣れてる人の数が、増えている?
純文学の世界では、水村美苗、篠原一、福永信らが横書きの小説を書いている。
>>194
>>186 レーゼシナリオという単語は実在する。それが「読むためのシナリオ」、
”ミュッセの「読むための戯曲」のシナリオ版”を意味するということは
間違いない。三省堂のコンサイス系カタカナ辞典には載っている単語だ。
三省堂と言ったら有名な出版社だろう。
他にも、集英社の「日本語になった外国語辞典」とかいう辞書にも
載ってたと思う。集英社といえば、「少年ジャンプ」「週刊プレイボーイ」
などで有名な出版社だ。
>>1にあるようにドイツ語と英語の合成語だから
厳密には外国語じゃないんだけどね。外人に"lesescenario"なんて
言っても通じないだろう。そういう意味じゃ純日本語なのだけど。
近所の図書館にあった”あらかわそおべえ”なる人物が編んだ角川の
カタカナ語辞典にも載ってたと思う。その本はもう絶版になったかな。
角川も有名な出版社。
GOOGLEで検索したって、何件かのページが出てくる。そのうちのいくつかは
本スレに関する物だけどねw
シナリオ形式で書かれた文芸は、
>>1に挙げられている。これらは、
映画制作とは直接無関係に書かれたシナリオだ。
もちろん、これらの作品の著者らが自ら自作をレーゼシナリオと
読んだわけではないだろう。しかし、これを「レーゼシナリオ」という単語
で表わすのは、間違いではないだろう。
>>166の1と2については間違いない。残るは3だ。これは、検討すべきだね。
そういう仮説を立てた者がいるのは事実。その仮説が正しいかどうかは
検討すべき。
200ゲット?
>>166-167 3、「将来、レーゼシナリオが小説に取って代わって文芸の王座に就く」
という仮説を検討しよう。カギカッコ内の命題は真か偽か。
>>195 日本の純文学はほとんどが横書きだった。
漱石の「それから」に「nil admirari」というラテン語?が出てくるが
これが首を傾げなければ読めないように表記されてる。
縦書きだと、欧文や数式を表記するときに首を傾げなくてはならないから、
不便だと思うけど。
ITの話をするにしても、外来語を書かなくてはならない。そのときに
元の英語も表記した方がいいだろう。「インターフェイス(interface)」
というように。
経済の話をするにしても、「国民総支出(Yd=C+I+G)」というように
数式を書くことが必要になる場合が多い。
これからの日本は横書きが主流になるだろう。文学もこの流れに無関係では
いられまい。
レーゼシナリオも横書きで出版されるかもしれない。
この「出版」というのが、従来の紙の束の本という形態での出版なのかは
ともかく。
>>201 >日本の純文学のほとんどが横書きだった。(一行目)
すみません。「縦書きだった」ですよね。
>>195 日本の純文学はほとんどが縦書きだった。
漱石の「それから」に「nil admirari」というラテン語?が出てくるが
これが首を傾げなければ読めないように表記されてる。
縦書きだと、欧文や数式を表記するときに首を傾げなくてはならないから、
不便だと思うけど。
ITの話をするにしても、外来語を書かなくてはならない。そのときに
元の英語も表記した方がいいだろう。「インターフェイス(interface)」
というように。
経済の話をするにしても、「国民総支出(Yd=C+I+G)」というように
数式を書くことが必要になる場合が多い。
これからの日本は横書きが主流になるだろう。文学もこの流れに無関係では
いられまい。
レーゼシナリオも横書きで出版されるかもしれない。
この「出版」というのが、従来の紙の束の本という形態での出版なのかは
ともかく。
>>188-191 紙の本こそが活字媒体の主流であり、ネットは補助的な物であるという
感覚も、これからは変ってくるかもしれない。
また、今、出版されているシナリオ本は映画が作られた後に、
記念のように出版されて、それを買って読むのは、ワナビーやマニアで、
一般の人は、あまり関係ない、という感じ。
これが、シナリオの出版が先行して、映画制作は後からという風に
逆転するかもしれない。
後半部分、句読点の打ち方メチャクチャ。
>>204 また、いま出版されているシナリオ本は、
映画が作られた後に、 記念のように出版されて、
それを買って読むのはワナビーやマニアで、
一般の人は、あまり関係ない、という感じ。
これが、シナリオの出版が先行して映画制作は後からという風に
逆転するかもしれない。
いまのところ、脚本形式の文芸を、実験的な試みとしてじゃなく
意識的・継続的に追求したと考えられるのは、ミュッセだけ?
レーゼシナリオでデビューしたダリウス・ジェームズ
>>1はどうかな?
上の方のレスでも、「なぜ、ノベライズではなく、脚本形式か」という問いかけがされているがミュッセがなぜ「戯れに恋はすまじ」をノベライズではなく脚本形式で書き、発表したか、という問題と同じであろう。
>>200 かりに王座に就かないとしても、
「ダッチ・シュルツ〜」
>>1が書かれた70年代半ば頃ほど、マイナーな試みじゃないだろう。
映像劇を見る環境も、一般人のシナリオに対する認知度も、今のほうが高いだろうから。
図書館や学校のような公的機関の後押しも、今のほうがあるし。
映像劇自体はもう新しくはない。100年くらいの歴史がある。
ただ、映像劇が(通俗大衆娯楽以上のものとして)公に認められた社会は、
新しい。
演劇のために戯曲がある。映画のためにシナリオがある。
否。逆である。
劇文学のために劇がある。
今のところ「脚本形式の文体の特性」についての、過去の偉人がらみの話は
>>145のヘンリー・ジェイムスだけか。
ミュッセは脚本形式にこだわったというけれど、
「何故こだわったか」というような本人談らしき話は出てないね。
こだわった、という事実があるだけ。
ヘンリー・ジェイムズは「内面を描写しなくてすむから」という理由で
戯曲形式を愛した(時期があった)。これは文体上の特性、
こだわった理由、だよね。
小説は「消極的フィクション」?
21世紀の人々は、20世紀の人々が俵万智さん(歌人)を見たような眼差しで
小説家のことを見る?この時代の変遷の象徴が綿・・・
224 :
1:2005/10/25(火) 18:06:00
>>87 「個像化」ってことをもっと掘り下げよう。
>>87-88 自然主義の作家ゾラの「居酒屋」の文庫を注文したぜ。
ハードボイルドの源流を学べる!?
「他人のゾラ似」だったりしてwww
日本でハードボイルドと言うと片岡義男?
ヘミングウェイのザ・キラーズは過去形で書かれた、
セリフ前の役名が省略された脚本という感じの小説だったな。
前に読んだハメットの短編もこんな感じだった。
ハードボイルド小説≒劇文学?
非情な文体っていうのは、小説では特筆すべきことかもしれないけど
戯曲のト書きでは当たり前のこと。
>>1の三作品(四作品か)は全部読んだけど、面白くはないよな。
価値があるとしたら、シナリオ形式で書かれたってところだけかな。
未来の広辞苑にこんな記述があればいいな。ぽわ〜ん(以下、妄想)
例是【れい・ぜ】
レーゼシナリオ、またはレーゼドラマのこと。脚本形式で書かれた文芸。
近代からから現代への移行期に、小説に取って代わる文芸の王は
「例えば、これ(是)」という発想から、この名が付いた。
>>142 ロマン=浪漫、ジョーク=冗句
なるほどw
レーモン・クノー「イカロスの飛行」復刊の噂をどこかのスレで目にしたが
どうかな?
90年代は、個像劇
>>26が社会に定着した時期であった。
もう、その前の段階には戻れないだろう。
「イカロスの飛行」に関する情報を片っ端から集めたい
M・デュラスの「破壊しにと彼女はいう」と「インディア・ソング」は
小説とも戯曲ともシナリオとも呼べる表現だ、と訳者に解説されていた。
前者は既読で、面白かったら後者も読もうかと思ったが
前者が面白くなかった。残念。
現代の若手作家が、現在形と体言止めを多用するというのは
どこかの座談会で井上ひさしも言ってたような。
現在形と体言止めというと、シナリオ形式に近い?
245 :
吾輩は名無しである:2005/12/11(日) 10:44:13
一般書籍板の「脚本の本のスレ」から、コピペ。
これも、レーゼシナリオらしい。
103 :無名草子さん :2005/11/24(木) 13:09:17
前野伸幸
「23才のアンソロジー」ってシナリオ集が出てる。シナリオには珍しい短編集。
>>226 最近、「居酒屋」を読了した。
別に、ハードボイルドとも、映画的とも思わなかった。
情緒的な表現は抑制されてたような気もするが。
ともあれ自然主義文学の代表選手のゾラの著作を読んだのは、
よい体験だった。
自然主義=ナチュラリズム
ナチュラルの対義語はポジティヴ
例、ナチュラル・ロー(自然法)⇔ポジティヴ・ロー(人定法)
人工主義=ポジティヴィズム
こっちのほうが面白そうだよな。
小説の王道は、「純然たるフィクション」より、
「事実を基にしたフィクション」のような希ガス。
劇文学は逆に「純然たるフィクション」なのではないか?
その辺が、小説=過去形が基本、劇文学=現在形が基本
であるゆえんじゃ?
事実は小説より奇なり」という言葉があるが、
事実に対置されるほどには小説はフィクショナルじゃないと、
個人的には思う。
劇文学こそが「フィクションの中ののフィクション」
のの⇒の
集合の記号が変換できると知った。
レーゼシナリオ⊂レーゼドラマ⊂戯曲⊂劇文学
って感じかな?
Lesedrama ????? [??][??] ??? [EM] [NT]
Lesescenario ?????? [EM] [NT]
だってよ
あら、韓国語って表示されないのか。スマン
青は藍より出で藍より青し
64 :癒されたい名無しさん :2005/08/28(日) 00:38:39 ID:lFfRPW4V
国語の教科書に戯曲やシナリオが載ったことってどのくらいある?
倉本聡の「北の国から」が載ったってことがあるって本当?
65 :癒されたい名無しさん :2005/08/28(日) 01:57:53 ID:7HYTC36Y
俺らの教科書載ってた 北の国から お母さんに会う所
66 :癒されたい名無しさん :2005/08/28(日) 02:06:39 ID:lFfRPW4V
応答ありがとうございます
>>65 67 :癒されたい名無しさん :2005/08/29(月) 00:41:53 ID:4q8/+QGK
教科書に「北の国から」って、義務教育期間(小学or中学)?
69 :癒されたい名無しさん :2005/08/29(月) 02:01:06 ID:vBcF8hr/
あたし22だけど、確か中三のときの教科書に北の国からあったよ。班ごとに配役してセリフ覚えて朗読したよ。あたしは石田ゆみこの役だったなぁ。懐かしすぎ。
やっぱり文学の産業的な側面について触れずに、
レーゼシナリオの可能性や画期性について語るのは難しいな。
テキスト限定だと、たしかに戯曲とどう違うの、ということになる。
また多くの人が、
映像劇を個人的に見られるようになったという社会背景抜きに、
それらについて語るのも難しい
レーゼシナリオは、現代人にとって、脳内イメージを語るのに
最適なテンプレである。
>テキスト限定だと、たしかに戯曲とどう違うの、ということになる。
テキスト限定だと、たしかに「戯曲とどこが違うの」、ということになる。
265 :
名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/01/29(日) 01:25:12
脳内イメージを語るのに最適なテンプレ?
脚本形式というのも、
脳内イメージを語るのためのテンプレのようなものである。
映像劇の普及の度合い、 または、
>>261などで示されるようにシナリオ形式を知ってる一般人が多いという事実
などから、多くの現代人にとって、イメージを語るための最適テンプレであると
考えられる。
映像劇は受動的なメディアであり、
インタラクティブなコンピューターゲームのほうがより進んだメディアだから
映像劇シナリオより、ゲームシナリオ(RPG試案)のほうが、より現代的である
と語る方もいるかもしれぬが、
社会全体の中で、ゲームはまだ「近未来への投資」的な要素が濃い。
また、脚本が「台詞とト書き」という形式で書かれることは、現代人の多くの人
(映画マニアなどでなくて普通の人でも)知っていることであろうが、
ゲームの原案がどういう形式で書かれるかは、それほど知られてない。
(というか、いまのところ定まった形式などないのではないだろうか?)
脚本形式というテンプレ=【柱書き】+【台詞】+【ト書き】+【人物表】
文芸とは、文字言語の組み合わせによる芸術である。これは、よいだろう。
よほどの事が無いかぎり、コレが否定されることはなかろう。
では、言語とは何か。
とりあえず、文字言語と音声言語がある。
音声言語は、空気の振動(の聴覚器官への刺激)、
文字言語は、紙の上のインクのシミ、またはパソコン等のモニター上の記号の
配列(の視覚像)である。
(つづく)
272 :
271:2006/02/03(金) 14:19:07
しかし、このような物理的な表象としての言語は、
「ほんとうの言語」の氷山の一角に過ぎない、
というようなことを言ってみるwww。
だが、こういう物言いは、
幽霊のような神秘的な領域を捏造してしまう思考とみなされやすい。
それは承知の上である。
(つづく)
273 :
271:2006/02/03(金) 14:21:34
音声言語を聞き、文字言語を読む時、
人の脳内に何らかの物理化学的な反応があるはずだ。
そして、
日本人が日本語の「犬が尻尾を振って寄ってきた」という文章を読んだ時と、
日本語を知らない外国人が同じ文章を読んだ(というより単なる模様の羅列を
目で追った)時とでは、脳内に起こる反応が違うはずだ。
前者の人は、「犬が〜」という文章によって意味されてる事柄を
イメージできている。
いっぽう後者の人にとって、日本語の文は、単なる「見慣れない模様の羅列」だ。
よって、頭の中で、犬がイメージできていない
(まさか、この『イメージ』という言葉までも、
非科学的オカルト的という人はいないだろう)。
このような時に、両者の脳内に起こる物理化学的反応は、違うはずだ。
文字言語(または音声言語)=a
a を聞いたり見たりしたときに起こる身体への反応=b
「ほんとうの言語」=a+b
と、考えるのは、それほど観念的でも神秘的でもないだろう。
274 :
271:2006/02/03(金) 14:26:20
このように、考えると、
英語のplayが、脚本と芝居の両方を表わすこと
(そして、それは、manが、人間をあらわしたり、
人間の男性だけをあらわしたりするの
とは、ちょっと違う、ということ)の説明が付くのではなかろうか。
このように、考えると、
英語のplayが、脚本と芝居の両方を表わすこと
(そして、それは、manが、『人間』をあらわしたり、
人間の『男性』だけをあらわしたりするのとは、
ちょっと違う、ということ)
の説明が付くのではなかろうか。
277 :
271:2006/02/03(金) 14:56:27
つまり、脚本を読んで頭に劇をイメージする人と、
舞台や映画で劇を観る人との間には、大きな差は無いと。
もちろん、前者の方が知的であるということは言える。
自転車に乗れる子供と補助車つきの自転車しか乗れない子供が
広場で戯れていたとして、前者は後者を馬鹿にしてるかもしれないが、
補助車が付いてることが識別できぬほどの遠点から見たら、
「二人の子供が、元気よく自転車で遊んでるな」くらいの感じだろう。
もちろん、ここは文学板だから、前者の方を重視する場所ではある。
>>108 >渋沢の批評よんで、これを学問と捉えることは難しいだろう。
「文学に対して言及した知的なエッセイ」に過ぎないような代物を
「批評」と読んでしまう風潮が、日本にあるのではないだろうか。
もう一点。
批評が、学問じゃないとして、
では、「芸術である」と胸を張って言えますか?
「辺境」という言葉が適切かどうかはともかく、
「詩や小説や戯曲が文学である」というのと同じ次元で
「批評は文学である」」とは言えないのでは。
「創作と批評」という対句の、創作の部分の代表選手が詩・小説・戯曲で、
批評はやっぱ、それらとは異質のものなのでは?
随筆については、
農林水産業も鉱工業もやってない労働者を、第三次産業従事者と呼ぶのと同じで
詩とも小説とも戯曲とも呼べない表現のことを、
とりあえず随筆と呼んだのでは?
>「創作と批評」という対句
「対句」じゃなくて、「対語」です。スマン
もちろん、
>>271-279をもってしても、「現代が劇文学の時代だ」とは言えない、
ということは言っておかなければならない。
さて、どういうことになったら、
「現代は、劇文学の時代だ」ということになるのだろう。
戯曲・シナリオなどの本(紙の束の本)が、
書店でよく売れている(小説本よりも)というのが、一つの目安である。
一方で、今は、文字媒体は、紙媒体だけではない。
しかし、脚本を公開してるようなサイトが、
アクセス数を伸ばしてるという話も、聞かない。
レーゼシナリオの時代が来るための必要条件。
1、映像劇が十分に普及している。
(舞台演劇を全く見たことが無い人、演劇の存在自体を知らない人が、
戯曲に興味を持つと言うことは、まずありえない。それと同じこと)
2、シナリオがどういう形式で書かれるかを、一般人が知っている。
(手紙がどんな風に書かれるか多くの人が知らなければ、書簡体小説は読まれない。
谷崎の「鍵」のような日記形式の小説についても同様。日記形式が知られてなければ
日記形式の小説は売れない)
他にもあるだろうが、上記の二つは、満たされているだろう。
レーゼシナリオの時代が来るというのは、「既に起こった未来」(ドラッカー)!?www
Aという物質とBという物質を混合して化学反応が起こって
Cという物質ができるとする。
化学反応が始まった初期の段階があり、中期があり、
反応が終わった段階がある。
DVDが安くなり、映像ソフトが公立図書館に入り、
国語の教科書にシナリオが載り、
国立芸術大学院に映画学科が設立され、ギャル二人が芥川賞を取ったwww
これらが、新物質Cの構成要素だとすると
Cの生成=「劇文学(⊃レーゼシナリオ)の時代
の初期の段階と考えることはできないだろうか?
Aという物質とBという物質を混合して化学反応が起こって
Cという物質ができるとする。
化学反応が始まった初期の段階があり、中期があり、
反応が終わった段階がある。
DVDが安くなり、映像ソフトが公立図書館に入り、
国語の教科書にシナリオが載り、
国立芸術大学院に映画学科が設立され、ギャル二人が芥川賞を取ったwww
これらが、新物質Cの構成要素だとすると
「劇文学(⊃レーゼシナリオ)の時代」=Cの生成
の初期の段階と考えることはできないだろうか?
小説は嘘を吐いてもいい叙事的表現?
小説は「嘘を吐いてもいい叙事的表現」?
要するに、
手紙形式や日記形式の文学が在るのだから
「柱とト書きと台詞」という形式で書かれた文芸があってもいいし、
現に既に在るし、
いままで、それらのうちの多くは、
舞台演劇を念頭に置かれてた(なおかつ、そのことが文章の表層に表れてた)
のだが、
劇映画等の映像劇を念頭に置かれてることが表層にも現れてる代物が、
映像劇の社会への定着とともに、
勢いを増すという予想は、それほど突飛じゃないと言うことで、
そのような文芸ジャンルが、いま主流である小説を凌駕するところまでいく、
というのは、やや勇み足の未来予想かもしれないが、
仮説として掲げておこう、ということ。
そう、それが「レーゼシナリオ仮説だ!」
291 :
訂正:2006/02/05(日) 15:07:07
そう、それが「レーゼシナリオ仮説」だ!
そして、その「レーゼシナリオ仮説」のなかで、レーゼシナリオに凌駕されつつあると考えてられいる「小説」とは何かと考えてみる。
(王道の純文学の)小説は、「嘘を吐いてもいい叙事的散文」である。
しかし、ここは小説のスレではないので
小説論は割愛
>>278 思うに、批評は公務員。
小説戯曲詩歌のように分かりやすく分類できるものは、農林水産業や鉱工業。
随筆は第三次産業
2,4,6,8・・・という数字の配列を見て、次に来る数字が「10」だという、答えが書けた人は、試験にパスする。
どうように、小説の衰退、映像劇の普及、という出来事の配列を見て、次に来るのが (ry
どうように→同様に
重力加速度9.8毎秒毎秒を知っていれば、落下する物体の位置がある程度予測できる。
同様に(ry
21世紀の日本は、「レーゼシナリオに興味がある人」と「ない人」に二分される。
現代日本は、犬に興味ある人とそうでない人に二分されてるってのと同じじゃん
インディアソングはどうよ?
テキスト テアトル フィルム
だってさ
「レーゼシナリオ」という言葉は、
二つの「暗黙の前提」の否定とそれに伴う価値観の転換を
体現してる。
1.劇が主で、脚本が従であるという考え
2.舞台演劇の方が、映像劇よりも、時間的に先に生まれたゆえ、
舞台の方が、王道の劇である、という考え
>>259 その場合、「青」が映像劇、「藍」が舞台ね
戯曲が文学であるという件とついて
「散文で書かれたフィクションは小説である」
書簡体小説や日記形式小説があるように、「脚本体の小説」とみなせるものがある。
小説⊂文学 ∴脚本体の小説⊂文学
「脚本体の小説」を戯曲と呼ぶようになった。
人間⊂動物でありながら、
日常の言葉遣いでは、人間は動物とは別種のように言う場合もある。
両者を対義語のように言う場合もある。
戯曲が小説の一種とみなすこともできるのに、
小説とは別の一ジャンルとされるのは、これに近い。
>戯曲が小説の一種とみなすこともできるのに、
戯曲が、小説の一種とみなすこともできるのに、
レーゼシナリオって昭和時代からある言葉だったのか。
しかも、ドイツ語と英語からの造語、和製カタカナ語ってことは、
純日本語ってことか?
帰納法的に証明できるか?>レーゼシナリオの時代
レーゼシナリオが文芸の王座に就くなんてありえない。
どのくらいありえないかというと、
ヨーロッパから派生したアメリカが世界の覇権国になるのと同じくらい
ありえない
>小説が文学の主流になったのは、下克上といえばそうかも知れん。韻文
>文学があまりに芸術貴族的なのを嫌った市民階級が散文を好んだ事情も
>文学史的には指摘される。
これテンプレに使えそうだな。
○○が文学の主流になったのは、下克上といえばそうかも知れん。××文学があまりに芸術貴族的なのを嫌った市民階級が
△△を好んだ事情も文学史的には指摘される。
○○が文学の主流になったのは、下克上といえばそうかも知れん。
××文学があまりに芸術貴族的なのを嫌った市民階級が
△△を好んだ事情も文学史的には指摘される。
イカロスの飛行、読みたいな
宇戸清治ってタイ文学の人?
>>315 「レーゼシナリオ」という言葉が、
文学の研究論文のタイトルに使われたことがある、ということか!
もう、立派な文学用語だな>レーゼシナリオ
ロムロン、読みて〜
東京外語大教授だってよ
宇戸 清治 詳細情報
研究業績(著書、発表論文等)
(8件) 1. 現代タイ文学に見る表現技法2:レーゼシナリオとしての『ロム・ロン』
『東京外大東南アジア学』( 2005年)第10巻、1〜19頁
国立大学教授が書いた論文に「レーゼシナリオ」という語が使われてるということは
もはやレーゼシナリオは国家的な問題?
「選ばれた人間」だけがアクセスできるサイトで、レーゼシナリオが読めまくりっていう噂っすよ。
あくまでも噂だけどねw
324 :
吾輩は名無しである:2006/05/05(金) 11:18:25
それにしても、無名草子さんたちとは、さぞやすごい作家先生の匿名書き込みなんでしょうね。
作家なんて才能が全てだから、津井ついみたいに、いくら努力したって駄目なものは駄目ですよ。
私なんか、早々に見切りをつけて趣味の世界で細々ですから。
小説現代ショートショート・コンテスト優秀賞受賞 阿部敦良
マルチか
re-
レーゼドラマは、シュピールドラマともいうらしい
spielは英語のplay,実演用の〜っていうような意味
シュピールシナリオっていう言葉は無いよなw
>>329 レーゼドラマじゃなくて、その対義語のビューネンドラマだろ
ビューネン〜とシュピール〜が同義語。
そうじゃないと意味が通らん。
ちなみにビューネンとは、独語で、舞台の〜という意味。
ビューネンシナリオって言葉ももちろん無い。
>>21 確か筒井康隆の「文藝時評」で、
筒井ともみというシナリオライター兼小説家の作品を評価するときに
シナリオ形式とハードボイルド文体の類似性について語るくだりが
あったような。記憶違いか?
336 :
吾輩は名無しである:2006/07/01(土) 05:39:32
>>335 あった。シナリオ形式を取り入れた文学も出てきて
戯曲=文学/シナリオ=非文学っていう境界も取っ払われた、とか。
あと、文学の視点を四つに分けて
1、語り手の視点が、全ての登場人物の内面に出たり入ったり出来る
2、語り手の視点が、主人公の視点と同じところに固定化されている。
(日本の私小説などによくある)
3、第三者の語り手が、外面だけを語る(内面を知りえない)
(へミングウェイのキラーズとか)
4、語り手の視点が、登場人物の視点に固定化されるが、外面だけを語る
(ハメット)
みたいな感じだった。しかし、3,4の区別はいまひとつハッキリしない。
内面を書かないんなら、視点がどこにあっても、あんまり変わらないような
気もする。
筒井康隆には「大魔神」っていうシナリオ本があるけど
あれは、(狭義の)レーゼシナリオか?
それとも、映画のために書いたけど製作中止になって
脚本だけ書いたのか?
筒井ともみは森田芳光監督の「それから」(漱石原作)、
「阿修羅のごとく」(向田原作)の脚本家だね
339 :
↑訂正:2006/07/05(水) 07:02:11
>製作中止になって
>脚本だけ書いたのか?
製作中止になって 脚本だけ出したのか?
340 :
吾輩は名無しである:2006/07/28(金) 13:22:49
保守
クノーの「イカロスの飛行」読みたいな~
342 :
吾輩は名無しである:2006/07/31(月) 10:49:58
もう一年以上経つのか、このスレ
ニグロフォビアは、やたら下品だったな〜。
ニグロフォビア、最後に、主人公の白人ギャルの顔が消えるのは、
つまり、「黒人(その他有色人種)を見下すことで白人は自分を保ってたのに、
その差別心に気づいて(反省して?)しまったら、
アイデンティティ喪失して自分が何者なのか分からなくなってしまった」、
ということか?
白人ギャルに気をつけろ
平成5年から中学2年の国語の教科書(光村図書)に「第17回」の令子と蛍の河原を走る別れのシーンの部分が掲載されましたね。
「北の国から」の話
352 :
デュカン三世 :2006/11/06(月) 21:42:32
阿部和重や中原昌也が、映画大好きな作家なのに
レーゼシナリオを書かないのはなぜ?
ドゥルーズが言うような、(皮肉な意味じゃない)いい意味での「愚鈍さ」に恵まれたから!?wwwwwwww
(皮肉な意味じゃない)良い意味での「愚鈍さ」?
>愚鈍さに恵まれる
懐かしいね
蓮實重彦はレーゼシナリオ書いたことあるの?
仏文学者でもあるわけだから、
レーモン・クノーの「イカロスの飛行」とか
デュラスの「破壊しに、と彼女はいう」「インディアソング」
あたりの存在くらいは知ってるだろう。
出版社とのつながりだって、そこらを歩いてる一般人よりはあるだろう。
また小説「陥没地帯」を書くなど、批評にとどまらず創作もしてるわけだ。
映画好きでなおかつ文学に何年も深く関わった人間として
普通だったら、レーゼシナリオの一つや二つ書いて出版すると思うんだけど
そうしないとしたらはなぜなのか?
もしかして、「皮肉な意味じゃなく良い意味での愚鈍さ」に恵まれたから!?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
蓮實といえば、ニューアカ、ポストモダンの人?
私大の裏口入学は合法か?違法か?
違法であるとすれば、
裏口卒業はどうか?合法か?違法か?
裏口とはどういうことか?
秘密裡じゃなく公然とやれば裏口じゃないと言えるのか?
↑誤爆すまん
「劇文学の時代」だって?
そんなの来るわけないじゃん。小説の時代が永久に続くよ。
そうかなあ。
あと、テネシー・ウィリアムズとか↑
映画と文学の両方に興味あるくせにレーゼシナリオ書かない人 = ムッシュ愚鈍!?
(↑もちろん、いい意味で)
映画と文学の両方に興味あるくせにレーゼシナリオ書かない人 = ムッシュ愚鈍!?(←もちろん、いい意味で)
”小説とは、「資本=ネーション=国家」の文学
レーゼシナリオは、アソシエーショニズムの文学”なんて道端で叫んでる人が
いたから、「おかしなことを言うな!」と叱ってやりました。
吉本隆明
「言語にとって美とはなにか」構成論
劇文学の項
劇的言語面は物語的言語面からの上昇・・・うんぬん
ボルヘスのような小説は自分のほうが巧く書けるとか
吉本隆明のような詩はあまりにもどんどん書けちゃうんで怖くなってやめた
とか言ってる人が、
文学と映画に長年にわたって深く関わってるのに
シナリオ書かないなんていう事があったとしたら、それは
いい意味での愚鈍さに恵まれたから!?wwwwwwwwwwwwww
それとも倒錯者の戦略!?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アイダホ州立大学のブライアン・ノーマン助教授が
ジェームス・ボールドウィンが書いたマルコムXについてのレーゼシナリオについて
論じてるって本当?
ボールドウィンといったら黒人作家としては有名らしい
英語版ウィキペディアでは
マーロン・ブランドとツーショット写真が載ってた。
東京外語大の先生が、レーゼシナリオについて論文書き
アメリカの州立大学の先生が、”closet screenplay"(←こういう語を使っているが
レーゼシナリオと同じ意味だろう。
レーゼドラマは英語ではクロゼット・プレイというからね)について小論書く。
もはや、レーゼシナリオは、
胡散臭い怪しげな物ではなくれっきとした「文学」!?
日本の国立大とアメリカの州立大が・・・
アイダホって言ったら、アイダホポテトと
映画「マイプライベートアイダホ」くらいしか思い浮かばんけど
カウチポテト時代の文芸がレーゼシナリオなんだから
それも悪くないwwwwwwww
カウチポテトって日本じゃ死語だけど、英語圏では、
もうちょっと定着してるらしい。
日本に定着しなかったのは
カウチを置いて寝そべれるほど広くない住宅事情のせいか?
oddとかbastardとか、悪く言われてるようにもwwww
>>355
しかし、レーゼドラマ=closet playというのが既にあるんだから
映画が普及した時代にはレーゼシナリオ=closet screenplayというのがある、
というのは
発想としてはそんなに突飛でもないと思うんだけど
odd(変な)、とか、bastard(ここでは、雑種とか私生児っていう意味だろうな)
っていう風に、文学やってるアメリカ人さえそう思うのか?
One Day, When I Was Lost: A Scenario Based on Alex Haley's The Autobiography of Malcolm X
ボールドウィンの「クロゼット・スクリーンプレイ」のタイトルと副題
ニグロフォビアのスタイルも、もしや、これから影響を得てるのでは?
awkwardnessとかclunkinessとか、無様とか不恰好みたいな言葉が続くな
One Day When I Was Lost
発表されたのは1973か。
今は、どうだか知らんけど
やっぱ、世間の常識的には古いモン勝ちというところがあって
演劇>劇映画>テレビドラマ
だったろう。
劇映画の脚本しか書いてない人が、劇作家を名乗ることはできなかった。
向田邦子なんかテレビドラマしか書いてないから、
脚本家を名乗ることも出来ずに「放送作家」だって
世間の常識というか
康夫ちゃん言うところの政財官報複合体的な常識的には、だろ?
大衆的には不等号は逆。
ディックのスクリーンプレイ・ユービックがそうだし
筒井のシナリオ大魔神もそうらしいけど、
映画化を念頭に書いて頓挫したから結果的にレーゼシナリオとして出版された
って感じだろ?>One Day When I Was Lost
マルコム暗殺の後に、黒人言論人のホープだったボールドウィンに
ハリウッドから脚本依頼があって、不承不承引き受けて、
けっきょくアーノルド・パールによって手直しされることになり
(これが、スパイク・リーのマルコムXの元になった)
後からユービックみたいな感じで出版されたんじゃないの?
しかし、もし、これがニグロフォビアのスタイルに影響を与えたんなら
前向きに見ることもできる。
ダリウスも黒人のライターなんだから、ボールドウィンは知ってるだろう
長部日出雄ね。
集英社から出てるんか
集英社と言えば、ここのカタカナ語辞典「日本語になった外国語辞典」にも
「レーゼシナリオ」という語は収録されてたな。
有名なところでは、あとは三省堂と旺文社だっけな
あと、もう絶版らしいが、
角川の、あらかわそおべえ編著のカタカナ語辞典にもあったような
古事記とか、神社仏閣板のスレへのリンクとか、なんか神々しくなってきたなw
北川冬彦がうんぬん
吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」構成論
詩的言語面から物語的言語面、物語的言語面から劇的言語面への上昇などと
書かれてたけど、
たとえば、人間をパソコンに喩えると
文学とはOSで
それがヴァージョンアップしていくのが、
詩から物語、物語から劇っていうことか?
すると、前近代=詩=MS−DOS
近代=小説=WINDOWS-XP
ポストモダン=劇文学=VISTA
なんちゃって!
アンチ・スレが立つようになったとしたら、たいしたもんだ
>>396 直リンの意味、間違って憶えてるな。
hを消すのは直リンとは言わないんだよ
直リンの意味、間違って憶えてるな。
hを消すのは直リン自粛とは言わないんだよ
やっぱり言うか?
400ゲット?
普通、あるサイトの(本で言えば表紙にあたる)トップページ以外の、
具体的な内容(画像など)のあるページにリンクするのが、直リン。
2ちゃん内で他のスレにリンクするのは違うだろう。
レーゼシナリオって言葉自体が、北川冬彦らのシナリオ文学運動あたりから
出てきたんじゃないか?
404 :
吾輩は名無しである:2007/04/29(日) 16:22:20
レーゼシナリオって言葉はシナリオ文学運動から出てきたとみるのが
妥当か?
バックシャンみたいな英独合成語で「旧制中学、高校」っぽい語感だもんな
405 :
吾輩は名無しである:2007/04/29(日) 16:41:03
あげるな、コルア!
あげるな、コルア!
407 :
吾輩は名無しである:
すまん