1 :
吾輩は名無しである:
part2とスレタイに明記する智慧もない
>>1のいるスレの2じゃ価値もないなあ
>>2 > part2とスレタイに明記する智慧もない
>>1のいるスレの2じゃ価値もないなあ
という>2のいるスレの3じゃ価値もないなあ
4 :
吾輩は名無しである:04/12/17 02:01:04
智慧?
叡智の始まるところに芸術は終わるのだ。
>>4 フラクタルにも美を感じるとしたら、
むしろ叡智も芸術の始点であろう。
6 :
吾輩は名無しである:04/12/17 06:14:36
>>1は前スレでもさんざんバカにされてたよな。
パート2ぐらい明記せれよ
>>1。
7 :
吾輩は名無しである:04/12/17 10:13:47
>>5 「フラクタルにも美を感じるとしたら」というところがちょっと
理解できていないかもしれませんが、叡智、理屈、言葉による
解釈が起こり始めると、美は消えてしまうというのが、小林秀雄
の言いたかったことだと思います。
ジイドの著からの引用なのですが、小林秀雄自身の言葉と受け
取ってもいいでしょう。
もちろん「様々なる意匠」のタイトルに続いて掲げられている言葉
です。
矛盾だね
9 :
吾輩は名無しである:04/12/22 16:23:39
自分の墓の建て方や葬式の出し方をこと細かく指示するというのは
尊敬すべきことなのか。
10 :
吾輩は名無しである:04/12/22 20:02:27
いやふつうにこいつは凄いでしょ。見りゃわかるでしょ
関係ないけど、ジイドはいかさまだよね。
12 :
吾輩は名無しである:04/12/27 16:37:03
13 :
吾輩は名無しである:04/12/27 16:46:37
某革命スレからやってきたのですが、
ここは流石知的な会話が交わされていますなぁ・゚・(つД`)・゚・
14 :
吾輩は名無しである:04/12/27 16:49:52
全集未收録集を出したら賣れるかもね。著作權者が許すまいから裏本でさ。
單行本や全集でだいぶ自分に都合好く改稿してゐるから、初出によった校本でもいい。
17 :
吾輩は名無しである:04/12/29 23:58:12
>>16 ヴァリアント集だね。面白いと思う。
「地獄の季節」の翻訳も今出てるのと最初のとはずいぶん違うはず。
いや、訳文の推敲なんてレベルではなしに、
もっと口をぬぐって前言取り消しみたいなひどい改稿があるんだよ。
だいたい小林秀雄はランボーもヴァレリーも誤訳だらけだし。
20 :
吾輩は名無しである:04/12/30 00:48:11
私は骨董が好きで、そういうとこから小林秀雄に入門しました。氏の書いたことは骨董に魅せられた人間のひとつの理想型であり究極だと思うのですが、どうでしょう?。
>>18 小林だけじゃないだろ。
評論だと新事実が出てきたりしたら意見が変わるほうが
普通。
時間がたったら、読み直すと書き直したくなるのは
むしろ自然だ。
定本にしない限り決定稿でないと、書く者は言うだろな。
>>21 評論どころか、単なる文藝時評まで改稿しとるんだな、小林秀雄の場合は。
どうかしてるよ。そんなに自分のヘマを隠したかったのかね。
>>21 そもそも意見が変ったなら新たな論を書くべきなのであって、
過去に書いた意見はそれはそれとして残しておかねばならぬ。
現に平野謙とかがそのやり方だ。
小林秀雄のやり方は歴史の改竄。
24 :
吾輩は名無しである:04/12/30 10:23:08
完全主義者的なところがあるから直すのは自分に誠実だったからだろう。
25 :
吾輩は名無しである:04/12/30 10:41:26
>>24 削ったり『全集』から落したりするのが完全主義者なら、そんなのは褒められない。
それに「自分に誠実」だったらよけいに悪い。
小林秀雄「學者と官僚」(1939)に曰く――
「西田〔幾多郎〕氏は、ただ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしている誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神様だけが知つてゐる。」
27 :
吾輩は名無しである:04/12/30 10:45:27
>>25 山崎行太郎はどのスレでも浮きまくりだねw
もう腹くくってコテハンにしたら?
「誠実」とは自己ではなく他者との間の倫理であるはず。
>>24 他者(読者)に責任を取らない誠実なんてものが信用できるかどうか、小林教祖樣だけが御存知だ。
29 :
吾輩は名無しである:04/12/30 11:01:41
言葉の論理より言葉の力に重きを置く人だったから
見直して気に入らなかったら直したり削ったりわりと自由に
やったんだろう。自分の文章だからね。
一度公表した文章は、もはや自分の好き勝手にしていいものではない。批評は特に。
そうですか。そうですか。
>>30 そうじゃない。そうじゃない。
意見は変わるもの。
昨日と今日が同じなんてことはありえない。
公表した文章は確定するんだから、
トレースできればそれでいいじゃん。
トレーサーの便宜を考えろってんなら、お願いレベルだね。
批評は特にってのも偏見だねえ。
なんでも同じっしょ。
>30がどんな立場で発言しているかに興味あるね。
もれは一般の読者だが。
意見変更が悪いのではない。初出から改稿したのなら、その旨、断るべきなのだ。
何も変ってないフリして、前言を取り消すのは悪質だろ?
>>32
>>33 理想はそうだな、うん。
以前にどの雑誌の何月号の何ページにういうことを書いたのだが、
現在は新事実がでてきたし、酒も抜けたので
2,3度しゃっくりをした結果、その意見は
このように変更することをせんげんする。
何年何月何日。
みたいな脚注がすべての作品に書いてあるといいな。
35 :
吾輩は名無しである:05/01/04 20:38:09
>>33-34 そうやってていねいに訂正をした旨を記している文学者って
どれくらいいる?
いたとしてたとえば誰ですか?
>>35 若干流れがなんだが、
まあそのなんだ、
むずいんじゃないかっていいたかったわけで、その...
全集で、過去の作品を隠したのは小林秀雄位のもんだろ。
単に収録しないだけでなく、隠したことすら秘密にしたってのはひどいよな。
38 :
吾輩は名無しである:05/01/05 07:31:18
ドッカン
ドッカン
☆ゴガギーン
.______
. | | |
∩∩ | | | ∩∩
| | | | | | | | | | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ,,) | | | (・x・ )<おらっ!何とか言えや!!
/ つ━━"....ロ|ロ . | l |U \__________
〜( / | | |⊂_ |〜
し'∪ └──┴──┘ ∪
↑
小林秀雄
小林の人柄が偲ばれるね。
酔ったときの勢いでああ書いちまったが、だれそれがまたなんくせを
つけるだろう。ここはちょっとシカトしておこう、なんぞと考えたのだろうか。
「僕は無知だから反省しない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
生前の改稿を「歴史の改竄」などと大上段に断罪したり、
「ヘマを隠す」なぞと下衆の勘ぐりを働かせる考証家に、
こんな放言をしちまう作家の「誠実」が理解出来るとは思えないな。
この種の人間が誠実ヅラをぶら下げて、ベルグソン論で商売する。
40のような、根拠も示さず小林(と自分)を上に置いて、それ以外の意見を「下種の勘ぐり」などと
「大上段に断罪」する書き込みは「ああまた馬鹿信者か」としか思われない。
無知を装ったら知識人どもに勝てることを「知って」るのが小林の小悧口なところさ。
ちなみに
>>40の引用した『近代文学』誌上での座談会は
速記原稿に手を入れまくった「作品」であることは、同席した平野謙が回想してるね。
逆に自分が手を入れて創ってない座談は、書物への収録を許さなかったらしい。
そりゃあそうだ。出版して世に出すものを書くのと、ここらにこそこそ書くのとでは、志が違うからね。
長々と本当のようなことを書いて、最後に「らしい」というのをつけることもないしね
口頭発言の記録まで筆で改竄せずにおかないその根性。
しかも座談は相手の発言あってのものなのに……。自分しか頭にない。
それが無視の精神ってわけか。
おっと無私の精神だな。でも小林は他者無視だから同じことか?
小林には他者がありません(柄谷行人)
>>50 他者とは精神病患者の妄想である。
なかなか難しい話になってきましたな。
>>51 小林には精神病患者の妄想がありません(柄谷行人)
柄谷行人って誰?
林房雄なんかと親友になった時点で、ダメだな。小林秀雄の目は曇っとる。
>>53 もう少し教えて。
林房雄ってどんな人なんですか?私は友達じゃないんですが、
親友になっただけで、なにがダメになってしまうの?
55 :
吾輩は名無しである:05/01/09 14:13:30
最近の小林秀雄論では、前田英樹の『小林秀雄論』(太田出版)が
個人的にはお薦めです。
>>53 友人は打算ではない。
友になったら決してみすてたりしない。
友人とはそういうものだよ。
友に値しない人間を親友に選んだんだから、選択眼てか人を観る眼が無えよな。
それに、友になった後は友の過ちを忠告もせずに放任するのが真の友情なのかね。
>>56
>>57 見守ることしかできないこともある
諫言してもききいれないときもある
当然けんかをすることもある
殺し合いすることもあるかもしれない
けれど友は友
友情は物理の法則じゃないからねえ。
つまり、見守るだけでなく忠告できるのにそれをしなかったのは、友ではないわけだ。
そのくせ親友のフリをするのだから、秀雄はひどい奴だ。房雄が可哀相(?)。
>>59 不自然に見えたとしたら
なにか理由があったんだろうね。
単に小林秀雄が冷たくて友だち甲斐の無いエゴイストだった――てのも、
あり得る理由の一つだな。
>>60 一般に小林の文章や言行が不自然で謎が残る場合、
どんな理由があったかは小林教祖は説明しないし、
小林信者も読解しようとしない。そして神秘化する。
>>62 不自然というのは、どういうことなんだろうか
自然は神秘的だと感じる感性とどんな関係にあるかを説明してくれると助かる
>自然は神秘的だと感じる感性
自然を神秘と感じるのでなく、不自然な謎を神秘として崇めるのでは?
単に小林秀雄が冷たくて友だち甲斐の無いエゴイストだった――とすればよいものを、
何か背後に意味ありげな理由があると暗示する。しかしそれがどんな理由かは明確にしない。
それが神秘化だ。かくて教祖はあがめたてまつられるのであった。
>43,45
冗談だろ?
座談会や対談は雑誌等掲載前に加筆修正するのが常識だよ。
小林は削る方向が多かったらしいが。
特に「論争」なんかになった日にゃ、誰が最後に直せるかが
当事者の間では大問題だ。
>>67は「先生、○○ちゃんもやってるのに何でボクだけ叱るんですか」って感じ。
だからって自分に都合好く加筆や削除をするのが良いことになるわけではないわな。
>>68 世間知らずなだけあって、ガキ丸出しな喩えだな。
>68
座談や対談やったら嫌でも出版社からは加筆修正用のゲラが送られてくるんだよ。
直さない人もいるかも知れないけど、極めて少数派だよ。
「おしゃべり」を「読めるもの」にするには必要なプロセス。
もちろん小林が、「過度に自分に都合好く加筆や削除し続けた」という前提で
言ってるのなら、それはいかんというのは分かるよ。
でもそこまでいくと妄想の領域だろ。
対談相手の方がひどい場合もあったろうし、実際は色々なケースがあったと
考えるのが「常識」ってやつじゃないか。
>でもそこまでいくと妄想の領域だろ。
知らないのに決めつけてはいかん。
一般読者なら仕方ないが、研究者なら勉強不足。
>71
つまりそれは、「小林秀雄は、ゲラや既に記事として掲載された座談や対談記事
に対して、過度に自分に都合の好い加筆や削除をし続けた」というのが、
小林の研究者の間では、ほぼ「事実」ないしは「定説」とみなされている、
ということですか?
そもそものこの話題の発端?
>>43で書かれてる平野謙の回想では実際どのように書かれてりゅの?
初期の文藝時評である「アシルと龜の子」を初出『文藝春秋』と全集とで較べて見な。
>>73 平野謙の回想ではないが、参考までに。
大岡 小林秀雄で思い出したけれども、「近代文学」が
小林を呼んでやった座談会のときのあとで物議をかもした
台詞があるだろう。自分は黙って事件に処した、利口なやつは
たんと後悔すればいい、というやつ。
埴谷 ああ、それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、
あとで書いたものなんだよ。だいたい小林さんは座談会の原稿は
全部書き直して、はじめの言葉は一つもないくらいだよ。
それをみてわれわれも悪くなってね、座談会というものはこういう
ふうにするもんだときめて、とにかくしゃべっておいて、あとで直す
というふうになった。
『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』
>76
うん、これは参考になった。ありがとう。
座談・対談ではないけれど、小林秀雄の「噺」から「文」への修正が
どのような性質のものだったかということは、評論「信ずることと知ること」と
その基になったとおぼしき講演「信ずることと考えること」のCDを比較して
みると、少し判るような気がするのだけど。
>>75 そもそものこの話題の発端は
>>16から
>>22あたり。
座談だけに矮小化えきない。秀雄の改竄ぶりは全般にわたる。
>>78 改竄てのは語弊があるねえ。
追跡できないようにしてあるんならともかくさ。
モノ書きは大同小異だろ。
小林秀雄は、機会がある度に徹底して改稿(アンチ用語では改竄・捏造)する派。
吉本隆明は、一切改稿しない派。(本人の弁によると小林の反対をやると決めたから)
柄谷行人は、小林と基本的には同じ改稿派だが、俺は思想家だ、売文業者じゃない
という意識があるのか、小林と違ってゲラはわざと返さない、締め切りは破る、
出版の約束も気分次第とかなりわがまま。
この辺は気質の問題だから、一概に誰の姿勢が正しいとは言えないだろ。
>>78 悪意から身勝手に話を広げておいて、
「座談にとどまらない」とかよく言えたモンだなぁ…
改竄しないっつーだけで「誠実」なんて言ってのけるのは、
物書きでも何でもない、文責を矮小化して捉えてる、
Webで息巻いてる論争屋くらいのモンだ。
82 :
吾輩は名無しである:05/01/10 23:08:06
>>80 柄谷は小林的な「改稿派」ではないんでは?いや改稿自体は好きだと思うけどさ。
「執筆時とは見解が変わっているがあえてそのまま収録する」というような自身の「注」付きで単行本化された文とかあったから。
80年代前半?あたりまでは三浦マサシの提案で発表した文は原則的に全て年代順に書籍化する、なんて書いてなかったかな?
現在、発表済みの論文を改稿した「定本集」が出てるけど、元版じたいも入手できるようになっている。
柄谷の場合、原則じたいがころころ変わるって感じか。
「ゲラはわざと返さない、締め切りは破る、出版の約束も気分次第とかなりわがまま」ってそれは改稿とはカンケーない話だろ。
職業作家が書いたものを読む限りにおいては
本や雑誌は文章読むとこで、意見を読むとこじゃない。
小林秀雄も柄谷行人も文に魅力がある作家なんだから、
多少ずるくてもいいんじゃない。
別に政治的にすごい力があったわけでもないんだし。
なんでそんなにくちうるさい人が多いのか分からん。
84 :
吾輩は名無しである:05/01/11 05:12:46
>本や雑誌は文章読むとこで、意見を読むとこじゃない。
柄谷がマジギレしそうな言葉だな(笑)。
>>79 全集からなるべく追跡できないやうに隱してあるのは小林の指圖だつたさうです。
>>81 >改竄しないっつーだけで「誠実」なんて言ってのけるのは、
そんなこと誰か言ってるのか?
改竄するから不誠実、ならわかるが。(
>>24-28)
改竄しないことは誠実の必要条件に過ぎず、十分条件ではないだろ。
話を逸らさずに。
問題は、小林の場合が一般的な改稿に収まるものか不誠実なものなのか、の筈。
で、
>>76の引用を見てもそれは「悪く」不誠実なことに見える。
みんながやってるから許されるってのは擁護にならない甘えだし。
>>82は半可通。
柄谷行人『隠喩としての建築』「文庫版へのあとがき」を見よ。
「この本を出そうとしたとき、〔……〕「あとがき」にあるように、他人に編集を
まかせるほかなかった。つまり取捨選択も加筆もせずに、〔……〕載せることにし
たのである。これはやはり不本意なことだった。〔……〕そこで、文庫版を出すに
あたって、せめて数編を取り除きたいと思った。」
一度公に発表したことを隠したがる悪癖は紛れもない。
ただこれは断り書きがあるだけでもまだマシな方で、
『批評とポスト・モダン』の福武文庫版ではコッソリ削除したものがあったはず。
『マルクスその可能性の中心』講談社文庫版を講談社学術文庫版で出し直す際も
長文の「文庫版あとがき」や笠井潔の解説を削った。
「定本」も所詮は著者の主観的な恣意によって定めたものであり、校本が必要だ。
柄谷でも小林でもなんでもいいが、宗教家の著作でも理系の文献でもない、
ただの文学作品について、なんでそんなに内容を厳密に固定したがるのか
自分の頭がない、文学部オーバードクターが自分たち用の仕事をなんかしら
でっち上げようとしてるようにしか見えないな。
訓古学ならもっと古いのやれよ。
>>88 役にも立たない、どうでもいいこと。
一面文学はまさにそういうもの。
バカの群れの楽しみなのです。そっとしておいてやってください。
まっとうなあなたが足を踏み入れるべきではありません。
>>87 >『マルクスその可能性の中心』講談社文庫版を講談社学術文庫版で出し直す際も
>長文の「文庫版あとがき」や笠井潔の解説を削った。
講談社学術文庫は基本的に解説はあらためて書かれるのが通例でしょ?
>「定本」も所詮は著者の主観的な恣意によって定めたものであり、校本が必要だ。
著者存命中の「定本」を著者の主観的な恣意によって定めずにどうやって定本化するんだ?
>>87=電波or釣り?笑
>>76の大岡と埴谷の言葉を信用すると、
>この大戦争は一部の無知と野心から起こったのか、
>それさえなければ起こらなかったのか。
>どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。
>僕は歴史の必然というものを、もっと恐ろしいものと考えている。
>僕は無知だから反省などしない。利口な奴はたんと反省してみるが
>いいじゃないか。
小林はこの有名な発言を加筆修正の段階で創作し、その後作品の中で
「放言をして嘲笑されたが」とかなんとか再度自己言及することによって、
創作を既成事実化しようとしたわけか。
こう考えると小林という人は自分の人生を劇に仕立て上げる天才だな。
残念なことに舞台には小林以外の俳優がいないから虚しい一人芝居に
終始せざるを得ないのが悲しいところだが。
>>91 掛け軸?を日本刀でバッサリ、とか小林宅に賊が忍び込んだが秀雄の寝顔を見て何もせず…、とかも「劇」な気がする。
「モォツアルト」だっけ?日本橋?を歩いていたら?耳にとびこんできたんだっけ?とかさ。
まあでもしかしその手の「劇」をする人がいないから文学はさみしくなったのかもしれませんが。
「文学」だと思ってなおかつこういう話をしてるとすれば、
驚くべき素直さ。
現実におけるだましに対する免疫作るのが文学。だましのうまい下手を
笑えないやつは修行(読解力)が足りないだけ。
94 :
吾輩は名無しである:05/01/12 10:47:08
そうだね。小林の文章はすべて「文学」として読まなければだめみたい。
だましとして拙劣悪質で、文学としてはメロドラマ。それが小林秀雄
>>88 もしかして古いことやるから「訓“古”学」だとか思ってんの? 訓詁学だってば。
チンポとティムポの差は?
103 :
吾輩は名無しである:05/01/13 12:49:30
↓YAHOO辞書より
「定本」
1 異本を比較・検討して誤りや脱落などを正し、その本の最初の姿に復元するように努めた書物。「―万葉集」
2 全集などの決定版。
「校本」
古典などの諸種の異本を校合(きようごう)し、その本文の異同を示した本。「万葉集の―」
勘違いして自信満々で他人を罵倒する
>>95は阿呆以下のぞうりむし晒しage。
104 :
吾輩は名無しである:05/01/13 13:47:50
堀江謙一の「太平洋一人ぼっち」を褒めていたエッセイがあったが、
あれはゴーストライターが書いたことがわかったら、全集から削除
したのかな。
>>103って辞書引いてもわかんないんだね。馬鹿につける薬無し。
「その本文の異同を示した本」=校本が必要だって
>>87は言ってるんだろが。
106 :
吾輩は名無しである:05/01/14 02:47:13
>>105 >「定本」も所詮は著者の主観的な恣意によって定めたものであり
「所詮は」って、そもそもなぜ「定本を著者の主観で定めるこ」とが問題になるの?
それに定本化以前の原本を絶版にしたわけではないんだから異同は確かめられるでしょ?
なぜ「校本」が必要なの?
煽るにしてももう少しましなことしてくれよ。
原本は絶版だ。初出誌を新刊書店で購入できるのか? 底抜けの阿呆。
異同を確かめ、思想の変転を白日のもとに曝すために、校本が必要だ。
こんなのは研究者や精読者にはイロハだが。
その前に
>>106は、結局自分が定本と校本の差も知らなかった無知を認めるのか認めないのか。
109 :
106:05/01/14 03:44:04
>>108 106が定本と校本の差を知らなかった、根拠はどれ?
110 :
吾輩は名無しである:05/01/14 03:47:27
>>107 雑誌に発表した文を単行本化また文庫化のさいに校本も同時刊行してるような著述家がどこにいるの?
相手のある論争文を改稿しないで収録する著述家がある。当然の倫理だが。
112 :
吾輩は名無しである:05/01/14 04:25:49
小林秀雄が「遺志」によって全集を校本と化することを阻んでるのは明らか。
「無常という事」に小林教祖曰く、
「生きてゐる人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。何を考へて
ゐるのやら、何を言ひ出すのやら、仕出來すのやら、自分の事にせよ他人の事
にせよ、解つた例しがあつたのか。鑑賞にも觀察にも堪へない。其處に行くと
死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故、ああはつきりとしつか
りとして來るんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。」
かくて秀雄教祖は、自らの文章を固定した死物として聖典化してゆくのである。
だから「生きてゐる人間」としての小林秀雄を見るには改稿過程を明らかにしなければならない。
116 :
吾輩は名無しである:05/01/15 01:12:44
そもそも
>>103であげた「定本」の意味「2」が分かっていれば、
>「定本」も所詮は著者の主観的な恣意によって定めたものであり、校本が必要だ。
などと「定本」を著者が主観で定めることを問題にするわけがない。
「決定版」を著者が定めることのどこに問題があるわけ?
逆に
>>90と
>>103を証拠(どこがどう証拠になっているの?)として持ち出す
>>115の書き込みはいまだに何も分かってないことの証明になっている。
揚げ足とろうと懸命なのはわかるが相手の足がどこにあるかも見極められない。
それどころか自分の足元さえおぼつかない始末だ。
自分の次元の低さがいやにならない?
僕の爪の垢でも煎じて飲んでみるかな?
つまらない。
>117は負け惜しみ?
ププッ!
|_
|〜ヽ
|・-・) じぃーーーーーっ
|-J゚
/
120 :
吾輩は名無しである:05/01/15 12:31:37
負け惜しみってあんた・・・
スレを見てるのは自分と相手だけだと?
周囲が読んで楽しいようなレスをしてくれ。
122 :
吾輩は名無しである:05/01/15 13:57:40
121お前がな
といえばなんでも済むと思う二ちゃん依存症患者。
>>116 校本こそが必要だと
>>87は言ってるのに、
そこを無視して定本の方だけ問題にしたのは
>>90だったな。
定本と校本の差がわかってたらそんなことはしないはず。
125 :
吾輩は名無しである:05/01/16 02:40:31
>>124 だからそもそも最初に「定本」を著者が主観で定めることを問題にしたのは
>>87だ。
なぜ問題になるのか説明したまえ。
126 :
吾輩は名無しである:05/01/16 05:01:19
青山二郎が好き
>>125 いや、それを問題にしたのは
>>90だな。
>>87が問題にしたのは、著者が主観で定めた定本の所為で校本が作られないことだ。
いまだに「校本」の意義がわかってないのは哀れ。
130 :
吾輩は名無しである:05/01/17 06:30:37
>>128 おいおい「意味」の話がどうして「意義」にすりかわってんだ?説明したまえ。
お前は頭が回らないだけではなく実に卑しい奴だな。
そして
>>87は著者が主観で定めた定本の「所為で」校本が作られないなどという風には書いてない。
お前は卑怯者だよ。
131 :
吾輩は名無しである:05/01/17 23:37:45
おら>128!「説明したまえ」だってよ!説明しろよ卑怯者。
132 :
吾輩は名無しである:05/01/18 06:24:48
>>87=
>>124=
>>128は2ちゃんで煽ることすらマトモにできない厨房以下の存在か。
こういった奴等が2ちゃんの底辺を支えているんだろう。
ごくろうなことだ。
わはははははははははははははははは。
おやあ? 何で校本を話題にするのをそんなに避けてるのかなあ?
「校本」を知らなかった癖にナニ言ってんだか。
135 :
吾輩は名無しである:05/01/19 07:30:43
……
創元社の編集者Fは、当時小林の文章を細大もらさず切り抜いていて、所持していた。
全集を編むに当たって、その切り抜きが小林の方へまわされたが、小林は大ナタをふる
って、気に入らない文章は片ッぱしからやぶき、惜し気もなくくずかごに投げこんだ。
もちろんそれらの逸文は、Fのところへ戻ってこなかった。Fは地ダンダふんだが、後の
祭りだった。
……
「大俗物・小林秀雄論」『東京新聞』1960年12月22日
>>136 わはははははははははははははははは。
悪いけど思わず笑ってしまった。
コンピュータが普及してたら随分と小林も困ったことだろうにねえ。
138 :
吾輩は名無しである:05/01/20 02:28:00
自分が編集顧問になっている出版社から自分の作品の全集を
出すにあたって大ナタをふるうことが悪いことなの?
他人から借りた所有物(切り抜き)を棄てて返さない奴が擁護できるのか。
信者には教祖の行為は全て悪くないらしい。
自分が「編集顧問になってい」れば好き勝手していいのか。
自分、自分、自分か。だから他者への顧慮がないってんだよ。
それに新潮社版全集も事情は同じなんだが。
140 :
138:05/01/20 10:24:25
>>139 好き勝手というが、仕事の問題だから裏の事情をとやかく言うのは
読者にとって問題外。週刊誌的興味にすぎない。
発表されたものを読むだけで十分。
小林秀雄にとって作品の発表は読者との真剣勝負だったはずです。
その作品の発表について、初出に手を加え、イイところだけを
著書に残しているのが問題だってこと。
「当麻」にある「美しい花がある」云々の名文句も、
戦中に掲載された雑誌初出に載っていなかった。
これは見過ごしてよいが、見過ごすことのできないケースが
ありそうで、その場合は「週刊誌的興味にすぎない」とは言えない。
142 :
138:05/01/20 11:23:02
>>141 修正、削除、追加が問題かどうか。
小林秀雄が発表した「文学」を味わえばそれでいい気もするけど。
一読者として初出時との違いは興味はある。
「本居宣長」も「新潮」連載時と単行本とはかなり違うと聞く。
141の続き(内容的に
>>142を含む)。自分の知っている範囲で、別の例。
「バッハ」という短文で、マグダレーナ・バッハ作『バッハの思い出』を、
偽作説があったにもかかわらず、小林は「偽作説があるようだが、
(そのような説は)軽薄で問題にならない」と見栄を切っている。
これは、角川の文学全集(小林、河上の抱き合わせ)に収録されている。
が、偽作説が確定してから出した選集ではその個所をすっぽり落としている。
小林本人は最終的な定本を意図しただろうが、何時の時点の意図を
尊重すべきか不明。雑誌掲載時か、単行本収録時か、定本選定時か。
定本選定時の意図を尊重して「文学」を味わえばそれでいい側面は
確かにあるが、その文学がいかに形成されたか、作品論だけでなく
作家論にも関心を持つ者は、原稿の手直しにも関心を持つ。
また、作品だけを論じるにしても足場が分かった方が論じやすかろう。
足場など必要ないという見解もありえるが、「小林ほどの著作家については
足場まで残しておいた方がよい」という意見に与したい。
そもそも「感想(ベルグソン)論」にしてからが、本人の遺志に反して
全集に収録されたのではなかったか?
144 :
138:05/01/20 14:48:23
>>143 説得力あります。
小林秀雄がどういう足場に立って作品を直し、また発表を
拒んだか知りたくなってきた。
ただ、自分の作品の発表についてそこまで関心を持ってくれるのは
小林秀雄にとって幸せではないかとも思う。
>>144 信者っぽい目線だねえ
最終的に彼は凄いと思うけど、
一度相対化を施した方が良いぜ
改稿過程の検証はそのためにこそある
メジャーな作家相手なら必ず行われている
146 :
138:05/01/20 15:15:54
>>145 あなたも小林秀雄=教祖、愛読者=信者という図式で色眼鏡で
見るのはやめた方がいいと思う。
『新潮』2001年4月臨増に、
「近代絵画の思想と技法のあいだのドラマはとっくの昔におわっているのに、
すべてを永遠の問題という形で描写するのはあなた様の常套的手法でした。
いや、それよりも、あなた様は世によくしられている画家だけを扱って、
小林秀雄だからこそ発見したという無名の、世に知られざる画家をひとり
として発見していらっしゃいません。」
と書いている杉本秀太郎さんは、『無常といふこと』と『真贋』の2冊に
いまも愛着を感じているという。ワタシはこの選択に同意する。
>>147 そういう視点で見ると、
小林が発掘した対象は、最終的に彼自身ということになるんだろうね。
基本的にメジャーな奴しか扱っていないし。
149 :
吾輩は名無しである:05/01/21 09:31:07
自分自身を発見することが難しいんじゃないか?
それに「近代絵画」を読んで絵画史的意義にしか目を向けないというのは
馬鹿かと思う。
149は贔屓の引き倒しだな
>>143 >そもそも「感想(ベルグソン)論」にしてからが、本人の遺志に反して
>全集に収録されたのではなかったか?
その癖、本人の遺志を楯に取って、第五次全集にも収録しないものがまだまだ多い。
もちろん改稿過程などには解題でもひと言も触れない。
校本の必要な所以だ。
上記の杉本秀太郎さんもそうだが、寺田透なんかも若い頃は小林の愛読者で、
後に批判者の側に転じた。この人たちの論には充分な説得力がある。
その寺田の小林論でも、雑誌掲載と単行本の内容が違いすぎることが
指摘されている。確かに、校本が必要だ。特に1940年代の書き物。
「無常といふこと」は確かに名作だと思うので、例えば「当麻」について、
雑誌初出(『文学界』)と「美しい花云々」を加筆した単行本初出とを
読み比べたい気がする。・・・って、誰かが論文でやってるかな?
基本的に小林秀雄研究者は心酔者ばかりで、批判的に距離を取った論が尠く、
本文批判すら済んでない。それに乗じて反省の無い新潮社も新潮社だが。
亡き吉田熈生の衣鉢を継いでキッチリ『小林秀雄書誌』の補訂や
中絶した『論集 小林秀雄』(麦書房)の続刊を企図する人も現れない。
吉田熈生が生前自著を出したがらない性格だった所為もあって
吉田の長年書きためた諸論文はまとめて本にされることなく埋もれゆくままだ。
郡司勝義が幾ら調査してようと彼には書誌学ってものがわかってない。
批判的に検討しているのが柄谷派だからじゃないの。
ハ? 柄谷(とその一党)がやるのは評論で、研究論文なんか書けないよ、連中には。
156 :
吾輩は名無しである:05/01/22 10:05:59
批評はともかくとして、徹底的な調査や研究というのはその人物に
とことん心酔してなきゃできないよ。心酔してるから目が曇るなん
てのは心酔の仕方が足りないのだと思うが、どうだろう。
157 :
吾輩は名無しである:05/01/22 10:09:11
(追)まあ、批評も同じことだと小林秀雄なら言うのだろうが。
158 :
吾輩は名無しである:05/01/22 12:02:28
そうですな、逆に言うとそうでない批評あるいは批判ってのは
ここに書いてる4分の3ぐらいはそうだよね
そんなむきにならなくてもいいのにね
あんたらも自分でありたまえ、
それで十分だろう
って感じかな
小林秀雄のあらさがしみたいなことをしてること自体
自分に自信がないということを一所懸命に暴露しているようで
あわれだ
そんなことせんでももっと自分に自信をもつべきだよ
信者は校訂とあら探しの区別も付かないのかよ
160 :
吾輩は名無しである:05/01/22 12:26:30
そんなに必要だと思うなら何故自分でやらないか。
そこのところをよく反省してみたらどうだろう。
「校訂」とかなんでもいいけどさ
そんな「研究論文」でしかないような論文、誰も読まないよね。
大学で仕事したい君たちの就職資料としての価値しかないんだから、
その辺自覚して、あんまり「研究」として普遍的価値があるみたいな
こと言わないでほしいな。
誰も、じゃなくてあんたが読まないだけだ
基礎資料の編纂をバカにする香具師は駄目だよ
今の新潮版全集をよしとすることには無理がある
163 :
吾輩は名無しである:05/01/22 13:27:40
164 :
吾輩は名無しである:05/01/22 13:30:53
誰に反省求めてるのかってことだけどもね
基礎資料ったって、たかが小林秀雄じゃん。
166 :
吾輩は名無しである:05/01/22 13:32:13
ばかはばかなりに
りこうはりこうなりに
楽しみましょうよ
面白いかな?
他人けなしても自分は偉くはならないという道理はわかるよね
小林秀雄との距離感がおかしいだろ、どう見ても。
ここにいる人らは。「たかが」というのはそういう意味。
自分の立ち位置が特殊だってことを自覚したほうが
かしこそうに見えるよ。っていうのは
「わかるよね」?
>徹底的な調査や研究というのはその人物に
>とことん心酔してなきゃできないよ。
これがそもそも信者的発言だなあ。
批判して潰すために徹底的に調査し研究する場合だってあるのに。
それに、「自分」なんてつまらぬものぁどうでもいいのにさ。
「無私」の精神なんて言って、結局、我利我利亡者なんだよね。
いや、だから、「信者」ではないからといって、
「潰す」必要もないでしょ、といってるんだが。
170 :
吾輩は名無しである:05/01/22 14:58:20
>>167 わかった、あんたは偉い。
その先続けてくれ、だれかとの比較じゃなく
君の事をき君の言葉で書いてくれ
自分に家。
172 :
吾輩は名無しである:05/01/22 15:04:26
き君ってのはなにさ
この言語生涯!
ダモルんじぇねぇ
あほ、
おれなんか大学でてないけど
小林秀雄なんかより
ずっと頭がいいんだ
だから信者はあほだって言うんだよ
親のすねかじって
ソープ行くようなやつじゃないんだ
おれはなぁ、毎日汗水流して、
ときどき津田沼のピンサロに行くのが精一杯なんだ
小林秀雄はどうでもいいけど
そいつの信者が嫌いだ
信者なら宗教法人でも立ててみやがれ
ざまあみろ、
くやしかったら
「き君」みたいな
間抜けなこと書くんじゃああああああねぇ
ぼけなす
ちんかす
おたんこなす
ざまあみやがれ
学歴なんかじゃないんだ
悔しかったら
あやまれ!
173 :
吾輩は名無しである:05/01/22 15:07:58
そうだ、そうだ
自分に言えだ
中学校出ただけでも
「言え」ぐらい漢字で書けるぞ
おれは書き取りはいつも満点だった
まあ、自慢話はそれぐらいにするよ
信者、信者、信者野郎
174 :
吾輩は名無しである:05/01/22 15:09:39
信じるものは救われる
これも近くの教会の神父様に教わったぞ
高校中退だからってなめるなよ
聖書読んだことあるんだ
176 :
吾輩は名無しである:05/01/22 15:12:16
>批判して潰すために徹底的に調査し研究する場合だってあるのに。
それに一生を費やすのか?そんな奴いるのか?いるんだったら教えてくれ。
「徹底的に調査し研究する」のレベルが違うよ。
>>172 「逆境・それはその人に与えられた尊い試練であり、
この境涯に鍛えられてきた人は誠に強靭である。
古来、偉大なる人は、逆境にもまれながらも、
不屈の精神で生き抜いた経験を数多く持っている。誠に逆境は尊い。
だが、これを尊ぶあまりに、これに囚われ、逆境でなければ人間が
完成しないと思い込む事は、一種の偏見ではなかろうか。
逆境は尊い。しかしまた順境も尊い。
要は逆境であれ、順境であれ、その与えられた境涯に素直に
生きる事である。
謙虚の心を忘れぬ事である。
素直さを失ったとき、逆境は卑屈を生み、順境は自惚れを生む。
逆境、順境そのいずれをも問わぬ。
それはそのときのその人に与えられた一つの運命である。
ただその境涯に素直に生きるがよい。
素直さは人を強く正しく聡明にする。
逆境に素直に生き抜いてきた人、順境に素直に伸びてきた人、
その道程は異なっても、同じ強さと正しさと聡明さを持つ。
おたがいに、とらわれることなく、甘える事なく、素直にその境涯に
生きてゆきたいものである。」
こういうの引き写す根性って
180 :
吾輩は名無しである:05/01/22 18:31:57
アンチとか信者とかすぐレッテルを貼る奴がいるな。
ほめれば信者、くさせばアンチか。
181 :
吾輩は名無しである:05/01/22 20:21:33
ぼくは断じてウンチなんかじゃないぞ
君たち、もう少し日本語を勉強したまえ
182 :
吾輩は名無しである:05/01/22 20:42:53
183 :
吾輩は名無しである:05/01/22 21:02:27
泣けるな
184 :
吾輩は名無しである:05/01/22 21:06:17
ああ、信者には特に読んでもらいたいな
要はそういうことなんだ
185 :
吾輩は名無しである:05/01/22 21:25:32
>>179 ああ、きっと本に線引きながら読んでるな
>>177 ええー、だったら小林秀雄に「一生を費やす」の? ヤな人生だなあ。
批判するにも讃美するにも、小林秀雄に一生を費やす価値なんか無いって。
>>186 まあ、一生蚤の研究に没頭する人もいるわけで、価値があるとかないとか
いうことを言ってもはじまらんのだよ。そういうことを言う奴にかぎって、
何にも一生を費やすことができずに終わるものだ。ま、それでもいいんだ
けどさ。
次スレのタイトルだけどさぁ、
【ニヤリ】小林秀雄【ニヤリ】
にしねぇか?このスレの雰囲気にぴったりだと思うよ。
意味がわかんねぇヤシは逝ってよし。
189 :
吾輩は名無しである:05/01/23 08:56:55
【信者】小林秀雄【撲滅】
の方がこのスレの趣旨に沿ってると思うがな
ちょっとスレ違いかもしれないんですけど、小林秀雄関係なので…
「無常といふ事」を読んで、小林秀雄の歴史観を200字程度でまとめろ
といわれたのですが、自分でまとめても字数が足りません…
歴史とは
・動かしがたい必然の(常なる)もの
・人間の内的経験
・思い出す(必然である歴史と向き合う?)ことでその美しさを知る
・一般にいう年代順の史料ではない
なにかこれ以外のことが読み取れるのでしょうか?
よければ教えてください
「文字」への注目
ラムちゃんはどうよ?
おいら昨日行ってみたぜ!
彼女のどういうとこ知りたい?
193 :
吾輩は名無しである:05/01/23 13:08:59
>>190 そういうキーワードだとはっきり言って落第だ。
寺田透の小林に対する論難は、以下の引用部分に集約されていると考える。
「ある対象について、世間一般の漠たる見解を持って来て、読者をそこに
誘い込み、いわば読者を通説たらしめた上でその足許をすくう、そしてそ
の場合、自分の見解と通説との間の相違より、通説そのもののうちにある
盲点を際立たせることがかれの主な論法であった。従って小林氏の言いう
ること、言うべきことはもっと先があるはずだと思わせつつ、かれの評論
はつねに終った。(中略)かれの愛読者がかれの業のために、かれに倦き
るに至るのはほとんど必然である。」(寺田透「小林秀雄の功罪」1955年
=筑摩の文学体系「小林秀雄」巻末付録に収載)
小林に「言葉」と題する一文(「本居宣長に、姿ハ似セガタク云々」1960年)
があって、なかなかの理解困難を未だに感じているが、これにも寺田の上
の叙述が当てはまると思う。
196 :
吾輩は名無しである:05/01/23 18:58:38
>>195 「考えるヒント」の中のエッセイ「言葉」の構造は寺田氏の指摘が
当てはまると思う。ただ、もっと先があるはずだと思わせ、本当にあったんだ
と俺は思う。「本居宣長」を読め。「補記」を読め。
理解困難は読んでいないことから生じる。
>本当にあったんだ
結局それを言葉で示せなければ、言葉を使用する稼業には失格だな。
小林のオブスキュランティズムは読者にまで感染するから罪が大きいよ。
>>195 >言うべきことはもっと先があるはずだと思わせつつ、かれの評論
>はつねに終った。
これを現代で縮小再生産してるのは坪内祐三なんかだな。もっと軽い形でだけど。
信じる者は掬われる。
200 :
骨董好き:05/01/24 06:04:39
彼の愛した焼物を見ると、余白というか間というか、育つ楽しみのあるものばかりでホント欲しくなる。 こちらに想像・創造させてくれる隙間があるのが良いじゃない?。全部言い切らないのが良い。 たまにはこちら側から彼を眺めては?。文字だけが小林じゃない!。
↑
?の後に「。」までつける所が、「余白というか間」がなくて、ホント馬鹿っぽい。
骨董いぢりに耽ると、文字はロクに操れなくなるらしいな。すると小林も……?
戦前戦中にかけてもてはやされたはずなのに、敗戦は母親の死に比べて
ほとんど意味がなかった、というようなことを書いている。
思想理解者としてはどうか知らぬが、
評論家としては保田與重郎の方が偉大だと思う。
204 :
吾輩は名無しである:05/01/24 10:43:29
読めば読むほどどこまで凄いんだと思わせてくれる文学者だ。
オブスキュランティズムを使った文体も魅力がある。
205 :
吾輩は名無しである:05/01/24 14:38:28
201 重々承知 200より
飽満した腹を抱えて「小林は大した評論家ではない」と繰り返すのか
209 :
吾輩は名無しである:05/01/26 10:05:04
小林を教祖のようにあがめる新潮社の姿勢はたしかにあったような気がする。
出版社も持ち上げるだけでなく客観的に対する姿勢がほしいね。
小林は相当の評論家だとは思う。貶めるつもりはない。
だが、彼の論理展開は一種薄められた禅問答のようなもので、
日本で初めて評論を文学として確立した第一人者と捉えるのは、
大局的に見て誤解だと考えるわけです。
大体において、「宣長は源氏ですよ」と言った折口の方が
宣長のことを理解していたと思う(まだ予感にすぎないが)。
211 :
吾輩は名無しである:05/01/26 15:25:53
>日本で初めて評論を文学として確立した
小林といえばみんなこう言うけど、誰が言い出したのだろう。
小林のは評論というよりエッセイだと思うが。
吉本隆明や江藤淳や、吉田健一みたいな人までいっている(はず)。
それで、一般通念として流通しているけれども、エッセイストと
言う方があたっている。・・・この意見に与する人は、ワタシと
211と、最低2人はいる。
213 :
吾輩は名無しである:05/01/26 16:40:55
評論とは何かということも問題だが、たとえば丸山真男の
書いたものなどは立派な評論だろうね。構成がかっちりしていて。
評論とエセー(試論)を判別することに大した意味はないかもしれぬが、
例えば橋川文三の『日本浪曼派批判序説』なんかはちゃんとした評論だろ?
>>211 >誰が言い出したのだろう。
前スレで既出だが、本多秋五とか平野謙とか「近代文学」派が早い。
吉本隆明や江藤淳はずっとあとだ。
山本芳明「〈文学的資産〉としての小林秀雄」(『文学』2004年11・12月号)は読んでないの?
>>211-212 エッセイスト、ねえ……。どうせ「栗の木」とかに騙された口でしょ。
郡司勝義が裏事情を明かしてたよね。
217 :
吾輩は名無しである:05/01/26 22:36:37
>>190 「まとまるわけがない」と書け
それで罰点を貰ったら、その先公(?)は莫迦だ!
かかる愚問に答えず
って奴だな。
219 :
吾輩は名無しである:05/01/27 09:21:21
>>215 >山本芳明「〈文学的資産〉としての小林秀雄」(『文学』2004年11・12月号)
知らなかった。ありがとう。「文学」といえば岩波ですね。
『本居宣長』をまともに読んだ上で、小林の最高作だ、
この一冊で小林の名は不滅だ、と断言できる人は
いらっしゃいましす? 自分はまだ読んでません。
↑「いらっしゃいましす?」→「いらっしゃいますか?」に訂正
そんなわけない。短い文章の方がうまいよ
223 :
吾輩は名無しである:05/01/27 12:19:31
評論とエッセイの違いすらわからん・・
ななんだ!このダスレは!
評論:クリティック、批判、批評、・・・客観性に傾いている
エッセイ:エセー(試論)、随筆、・・・主観性に傾いている
といった意味を包括する。部分的に(大部分か一部分)重なる。
小林は、特に前期、「詩的」と形容できる文章で文芸批評を行った。
文芸批評の地位を高めるために、必ずしもそのような文体は不要。
小林の本領は詩的な随筆風の散文にあるのではないか、という
問題提起と考えてください。そうすれば、代表作として
『無常といふこと』『真贋』を挙げることができる。
225 :
吾輩は名無しである:05/01/27 16:19:42
>>224 本領は詩的な随筆風の散文にある、に同感。
代表作は自分なら「様々なる意匠」、「近代絵画」、「本居宣長」を挙げる。
>>224氏はなんかうまく纏めてしまっているが、
印象批評はどうなるんですか
印象批評はエセーですか
227 :
吾輩は名無しである:05/01/27 17:50:39
なんだ>224のような人物もいるではないか・・失啓
評論とエッセイの区別を小学生にも分かるように説明した>224は、え・ら・い・・・
まさか小林が「私批評」「私評論」と呼ばれたのを知らぬわけでもあるまい?
>>224
日本では、小説は「私小説」、評論は「私評論」というわけね。
哲学は「私哲学」、詩は「私詩」、になるのかしら。
何か小林の愛読者ってそれ以外ロクに読んでないわけ? 無知が多い。
233 :
吾輩は名無しである:05/01/29 23:16:59
散々ガイシュツと思われますが、どなたか、氏の大学受験の際の有名な話きかせてもらえませんか? かかるなんちゃら〜ってやつ
234 :
吾輩は名無しである:05/01/30 18:20:34
あげ
235 :
吾輩は名無しである:05/01/31 01:20:12
あげ
一高の受験に失敗した小林秀雄は、それを妹に揶揄されて、泣いてしまった。ダセエ。
小林を批判しようと試みるもののタイプ
(1)小林本人でなく読者を対象にする。<-母集団を限定できぬので無意味
>>231 (2)小林の個人的な問題を対象にする。<-作品との接点を探求すれば面白いかも
>>233 >>236 (3)改稿など、執筆態度を批判する。<-変化した内容を追及するのが吉
過去ログ多
(4)作品そのものの内容を対象にする。<-本質的
過去ログ少
238 :
吾輩は名無しである:05/01/31 11:26:06
歴史は巨大な恨み
>>237 小林を賞讃する方も、どこがいいのかを内容そのものに即して
明晰判明に解説したものは無い。
わからんものをわからんまま有り難がるばっかりでさ。
それがオブスキュランティズム。
240 :
吾輩は名無しである:05/01/31 15:22:51
オブスキュランティズムそのものは悪いものでないでしょ。
言い過ぎないこと、書き過ぎないこと、読者のイメージ喚起を誘うように書く、
こういう技術は文章を書くすべての人が教わることですね。
いや、悪いものだよ。もともとobscurantism(蒙昧主義)ってのは貶辞、けなしことばだ。
明晰かつ判明、はヴァレリーを持ち出すまでもなくフランス文学の一方の柱なんだが。
ぎりぎりまで言葉で突き詰める努力を抛棄した曖昧さを、象徴主義の影響だなんて馬鹿らしい。
そもそも散文で批評なのに象徴的にぼかしてどうする、なら詩でも書いてろ。
242 :
吾輩は名無しである:05/01/31 16:15:02
いや、言葉ですべてを描き尽くせるというのは無理だよ。
言葉の限界を知りすぎていたくらいの人だと思う、小林は。
「様々なる意匠」の冒頭で分かるように。
だからといって、小林はオブスキュランティズムに逃げたとは言えない。
小林の言語論は小林の根幹に関わる部分だから簡単には言えない問題
ですね。
>>242 限界はあるのなんて当り前。
だからこそ限界ギリギリまで極めるのが言葉のプロの仕事。
>>240ではオブスキュランティズムであるがそれは悪くないと主張し、
>>241ではオブスキュランティズムではないとするのは、意見を変更したのかな。
「簡単には言えない」ってのも、言葉で詰めることをしない逃げですね。
本文を熟読した上で語っているので、教えられる点はあるが、
語られる対象について、何か新しい発見とかはないでしょ?
宣長の古事記解釈に異論を唱える学説(定説がないために
群雄割拠状態と思いますが)の方を私は買います。
246 :
吾輩は名無しである:05/01/31 16:30:00
オブスキュランティズムという文章技法を小林は使っているが、それに
逃げたわけではない。むしろぎりぎりまで言葉を追い込んで書いている
と思う。だから何度読んでも意味深くて面白い。あいまいさでごまかした
文章なんて一度読めば捨ててしまいたくなるから。小林が書く文章、その
内容は甘いものでないですよ。
何度読んでも曖昧でつまらないんだが。
>>246個人がどう読んだかなんて信仰告白は無益。
どこがどう面白いのか分析して明快にしなければ、ね。
>>195-197既出。
でも信者は、誰もが読めば入信したくなる筈と思ってるからなあ。
ウィリアム・ジェイムズが『宗教的経験の諸相』で不可言表性って言ってたっけ。
249 :
吾輩は名無しである:05/01/31 16:52:58
>何度読んでも曖昧でつまらないんだが。
そういう人がいるんだなと残念に思う。
……と、言葉で説明することから逃げる
>>249であった。
251 :
吾輩は名無しである:05/01/31 17:19:12
小林秀雄の何がどう面白いか分析して明快にすれば250にとって
小林は面白く読めるようになるのかな。
逃げるって責めるけど、ある程度の読解力がなければ小林は面白く
読めないよ。
それなりに読解力のある人に、より読解力のある人が作品の読み方を示してやるのも批評の仕事だな。
小林は、自分は読解力があるってポーズばかり見せつけ、論を曖昧にしか述べなかった。
小林の悪癖を真似ることはないわな。
「ユリイカ(発見した)」という喜びを伝える文章ではなく、
判断躊躇が詩の形を取ることもあると思う。
よく言えば、人知の及ばぬ問題について静かに崇める姿勢であるが、
本来のクリティーク=批判家というのは、小林より更に一歩踏み込む
のではないか? 私は、小林の論を判断躊躇の抒情詩として読む。
>>251 分析して明快にすれば誰にとっても面白くなるよ。少なくとも評論好きなら。
是非、魅力を明晰且つ判明に言語化してほしいね。「(私は)思う」ではなく。
255 :
吾輩は名無しである:05/01/31 17:37:23
>>254 残念だが、原文を読んでほしいと言うしかない。小林を読むには実際
かなりの教養が要るけど、その辺りは頭の良さで補ってほしい。
>>255 原文読んでつまらないから、面白がってる奴に説明してみろって言ってるわけだろ。
読んだからって誰もがファンみたいな読み方するわけではないぞ。
寺田透みたいな教養ある真摯な読者による批判(
>>195)を無視して、また逃げるわけ?
ごまかすなや。
>>255 小林秀雄がわかりにくいのは、内容解読に教養知識が必要だからではなく、
非論理的で詩的で曖昧で晦渋な文章の所為だろが。
小林にして初めて評論文学と言いうるわけだ。
アンチといえどもそれは認めざるをえないな。
>>195 この発言の通りだと仮定したとして、
世間の通説を持ってくることの何が問題なんだ?
通説のあいまいさを明確化していないという不満か?
小林なら説明してくれるという期待か?
論難しているように思えるかもしれないが、
それが小林の手法だと自ら明言しているだけだろう。
飽きるってのは
新たな発見をしたり、鑑賞したりができないってことでもあるな。
現に何度読んでも面白いという者がいるわけだから。
あきたら読まなきゃいいじゃん。
皆さんは通説に安住しているようだが、
通説はこんなにいい加減なんですよ、
とおっしゃる方に、じゃああなたのお説は?
と尋ねると、こう言いながら立ち去るのです、
「わたしゃ考えるヒントを提供したまでヨ。」
>>262 それでもいいんじゃないか。
考えることこそが楽しみだろう?
えさをまってる犬じゃあるまいし。
ソヴェットの旅
昭和38年というから1963年。東京オリンピックの前の年の講演か。
今思うと方向性は小林の考えていた、じゃなくて感じていた通りに
なっているようだ。面白い一章。酒が好き。
考えるに値することを考えるのは素晴らしいことだが、
「解決のヒント」がない「考えることだけのヒント」は、
わざわざ小林さんに頼らなくてもよい。
小林の文章には、味わうべき詩的文章の他に
(言い方は悪いが)煮ても焼いても食えない文章が
共存していると思う。
>>265 考えるに値するってのが突っ込みどころだねえ。
誰がそう決めたの?
どうしてすばらしいの?それは偽善じゃあないか?
etc.
面白くなきゃ読まなきゃいいじゃん、と言っているわけ。
なにをないものねだりをするのかな。
小林の功罪として、やはり、暖炉が暖かすぎることをあげなきゃならんなあ。
小林を読むとき、行間は春樹の3倍はあると思うといいかもしれん。
268 :
吾輩は名無しである:05/01/31 19:01:38
266=大江健三郎w
スランプ
これもいいね。豊田と酒を飲みながら野球の話かあ。うらやましいな。
いや、久しぶりに考えるヒントあけちゃったぜ。
>>268 反論はなしかい?
人を型にはめてもしょうがないだろ?
小林を批判するのも結構だけど、自分の言説で勝負したらどうだい?
271 :
吾輩は名無しである:05/01/31 19:17:23
オマイニハンロンシテモムイミダロ
272 :
255:05/01/31 19:25:57
ごまかすとか逃げるとか言われるけど、俺は小林秀雄のどこがすごいか
自分で読んで答えを持っている。
それは教えたくない。本当に答えを求める人間なら教えられたくないでしょう?
すぐに答えを求めて教えられて何の喜びがあるのか。
ファミコン世代はすぐに答え、結論を得て安心して、飽きて次の課題に移る。
小林秀雄のすごさはそう安易に済まされるにはもったいなさすぎる。
273 :
吾輩は名無しである:05/01/31 19:37:12
>>255 「本当に答えを求める人間」ですけどめっちゃ教えられたいです!!
おせーておせーて
274 :
吾輩は名無しである:05/01/31 19:54:00
ファミコン世代…w
275 :
吾輩は名無しである:05/01/31 23:17:51
>>255 安心だから答えを求めてるんでしょ。
小林はそれをわかってたが、君はそれを読み取っていないようだね。
もっとよく「よんだら」、凄さが膨れると思うよ。
ちなみにサターン世代
飛び入りなんだがね、
>小林の功罪として、やはり、暖炉が暖かすぎることをあげなきゃならんなあ
まず、「暖かい暖炉」が非難すべきものであるということが
理由を述べるまでもない自明な事かどうかを疑ってもいいんじゃないかな。
価値観は時代によって変化も反復もする。
これからの時代、「暖かい暖炉」は結構じゃないか。
ちなみに、おいらはインベーダーゲーム世代だけど(ヘヘ
>>276 世代はどうでもいいが、おれはバルガスとボスコニアンだ。ハイスコアは...(ry
暖かさを求めてやってくる、シンパじゃなくてアンチを
どうするつもりなんだ?
なまじ餌まくからつれちまうんじゃあないのかな?
不満を感じるってのも感性だからな。
278 :
255:05/02/01 10:40:24
>>275 あなたの言っている「それ」の意味が解らない。
小林秀雄のすごさのキーワードを一つだけ言うね。
「自然」
279 :
275:05/02/02 01:04:55
それというのはインテリゲンチャの気持ちですよ。
考えたことありますか?
280 :
吾輩は名無しである:05/02/02 06:06:05
前スレでも言われてたが「小林信者」は255のように考えてる「ポーズ」を示すだけで
謎めかし、教祖気取りで高みに立ったつもりでいるクソ俗物だ。
281 :
280:05/02/02 06:06:59
ムカつくのでもうひと言付け加える。
>>275
死ね。
282 :
280:05/02/02 06:08:23
あーごめんごめん。
ムカついて間違えた。
上の「死ね」は>>255へ。
275すまん。
自分がやや得意な分野だと思うので、
『本居宣長』の28章から30章を読んだが
(ただし精読というほどではなく)、
小林秀雄はそれなりに勉強している
ということが判るだけで、批評文としての
価値はほとんどないと思いました。
284 :
275:05/02/02 10:34:29
>>280 ビビたよ
>>283 それは正しいと思う。
というのも、掲載と本とでは随分違っていて、
誰かが「本の方は面白くない」と言っていた。
掲載していた方では、フロイトとの比較があるらしいが……
「本居宣長・掲載版」出ないかな。
285 :
275:05/02/02 10:36:14
今思い出したよ。
山城むつみだ。
>>255=
>>272を翻訳すると――
「お前らにはわからんかもしれんが、オレ様はわかってるんだ。」
小林秀雄(とその信者)の言ってるのはこればっかり。
で、どうわかってるのかを問うたり教示を乞うたりすると、明答を避ける。
ただ自分の優位を無根拠に誇示するハッタリ。
「考へるヒント」とか言っても、それが「考えるに値する」対象であるか否かも怪しい。
小林の場合、既に世評の高い「天才」を対象として評価することしかしないことで、
その疑問を封じてるわけ。大俗物。
287 :
吾輩は名無しである:05/02/02 11:12:33
小林が
「お前らにはわからんかもしれんが、オレ様はわかってるんだ。」
というのは、別にいいんだ。他意があるからな。
信者は一様に真似してるだけ。
一度小林から抜けねばならん。
それはテメエの考えじゃなく小林の考えだからな。
288 :
287:05/02/02 11:20:16
あと、
>>255=
>>272に関して言うと、
ファミコン世代だとか自然だとか、かなり抽象的な言葉を使っているので、
小林を読んでいるかすら疑わしい。
>>207 別にいいんだ? 小林なら許されるってのが理解できん。
「他意」ってどんな意図があると読むわけ?
>>287
291 :
287:05/02/02 12:49:36
>>289 小林風に言うならば、
小林は小林の信ずるままにものを言ってるからいいけど、
信者も小林の信ずるままにものを言ってるのは、おかしいということ。
許される、というわけではないが。
以下、
>>290へのレス参照お願いします。
>>290 私は、それは心から言ってるのではなく、何かを論ずるうえでの
例えと考えています。「認識」「文字」「年の功」等。
ただ、文学の雑感(講義)では、本気で言ってる節はある。
全部が全部、他意があるわけではない、というのも記しておく。
まあ要するに、「他意があるからな。」の一言で済ませた私が悪い。
「信ずるままにものを言ってるからいい」……? 何でいいんだか。
無根拠な妄信や傲慢な自信や自明性に頼った過信に基づく発言って、同じ信者以外には、ちっともよくない。
293 :
287:05/02/02 13:01:22
無根拠な妄信や傲慢な自信でも、当人にとっては当たり前のこと。
だから、あまりに度違いな場合、小林を批判する事が出来るから「いい」のであって、
信者の場合批判の対象が無い、要するに無責任だから「よくない」。
そもそも過信しないことは、逃げ道を作る事じゃないのか?
根拠って何? 万人共通のもの? それじゃ文学はいらないだろ。
「当人にとっては当たり前のこと」でも他人には当り前ではないことを自覚すること、
そこからはじめて、他者へと開かれた言葉が工夫されるわけではないか。
ところが逆に、小林の無責任な放言は自閉するばかりだ。
もしそれが「文学」だとするのなら、それは迷信。
295 :
287:05/02/02 13:14:12
俺が間違ってたよ。ありがとう。
素直すぎて、素直に受け取れない。
297 :
287:05/02/02 13:28:57
俺はいつだって素直
間違ってたら謝る。
299 :
287:05/02/02 13:41:12
いや、素直だって(w
ただ、反論ではないけど、思ったことを。
小林の放言に置ける工夫を「創造」することによって、小林の論文は
始めて完結するとしたら、小林を「読む事」は文学か否か。
>>299 ナニ言ってんだかサッパリ。
「小林の放言に置ける工夫」って何のこと?
括弧つきの「創造」って何の意味? 「工夫」と同義の冗語では?
「読む事」にカッコつける意味は?
「文学」ってナニ?
……これがオブスキュランティズムか。
301 :
287:05/02/02 13:58:14
つまり読み手が小林の意(
>>292の言う根拠)を勝手に考えるのは
文学か、って事。
あと俺はオブスキュランティズムだか何だか知らんが、
主義は持ってないよ
ismは主義だと即断するなかれ。magnetismは磁気であって磁石主義ではない。
303 :
287:05/02/02 14:10:21
もっと詳しく書いてやろう
「小林の放言に置ける工夫云々」……
小林の放言に工夫は無いと
>>294は言うが、
その放言にも工夫があると、読み手が勝手に考えること。
「読む事」
読み手の認識が介在した場合、小林と言おうとしたことと、伝わったことが
確実にズレる。
>>294は小林の言葉を文字として受け取った場合のものいいであって、
自閉することで終わっているが、自閉せず小林が言おうとしたことを
読み手が考えるのは、必要であるということが重要に思われたので
括弧をつけた。
「文学」……
文字や言葉を物的に受け止めず、意の篭ったものとして
受け取る行為。今この場では、そういう風に扱った。
他に質問は
304 :
287:05/02/02 14:11:36
イズムに話をずらすな!!
小林の放言にも工夫はあるよ。自分を偉く見せかける工夫が。
但し小林を信じぬ他者へと言葉を届ける工夫は無い。
306 :
287:05/02/02 14:15:12
>>350 曖昧に書くという物的な工夫はあったかどうかは知らん。
他者に言葉を届ける工夫があるかどうか知らん。
工夫って、どういった意味合いで今使ってる?
307 :
287:05/02/02 14:17:27
>>301 その程度のことをなんであんな自分だけわかってる(本人しかわからない)表現で書くの?
独り善がりはいけません。
「当人にとっては当たり前のこと」でも他人には当り前ではないことを自覚すること。
310 :
287:05/02/02 14:34:28
要するに「どう書くか」ということね。
「但し小林を信じぬ他者へと言葉を届ける工夫は無い。」というが、
他者がキチンと読んでないだけの話でしょ。
曖昧に書いたら、含蓄が生じる、その生じた含蓄を読者が作り出していない、
それだけのことだから、中身がスカスカの文に見える。
小林がどう書いたか、そうなったら関係無い。
含蓄とか行間とかそこに本当にあるのか、あるならどんな含蓄か。
それが読み取れる文章ではないから、説明しろと言ってる。
すると小林信者はあるものはある、で遁げる。
>他者がキチンと読んでないだけの話でしょ。
あの曖昧な悪文をどう読めばどんな含蓄が読み取れるのか、そこんとこ分析よろしく。
313 :
287:05/02/02 14:40:39
>>309 俺が普段使ってる言葉にケチつけられてもなあ……
『「当人にとっては当たり前のこと」でも他人には当り前ではないことを自覚すること』
と仰られても、他人なんて山ほどいますから、考えてられませんよ。
だから、読み手がその事を考えてください。
もっと切り詰めていけば、誰の言葉だって独り善がりでは。
>>313 結局287は小林秀雄の悪弊を踏襲してるわけだし、やはり己れの過ちに気づいてなかったのね。
315 :
287:05/02/02 14:48:29
>>311 あなたが
>>308と同一人物かどうかは知らんが、言葉一つ使うにしろ、
辞書だけを基にせず、自分の感じたのを基にして使っている。
それが判らないのなら、あなたのイマジネーションが欠如しているか、
俺のイマジネーションがキモイ程あるか、どちらかだ。
ちうか、信者ってなんだよ、信者って。曖昧に使うな。
>>312 普通に読めば読み取れる。
分析的に読むから読めない。
316 :
287:05/02/02 14:49:25
>普通に読めば読み取れる。
翻訳すると――「お前らにはわからんかもしれんが、オレ様はわかってるんだ。」
で、
>>286に戻る。
318 :
287:05/02/02 14:55:37
勝手に翻訳するのは腹立たしい限りであるが、
「お前らにはわからんかもしれんが、オレ様はわかってるんだ。」
これはそうでしょ、認識だもの。
誰だって
――「お前らにはわからんかもしれんが、オレ様はわかってるんだ。」
って言えるでしょ?
>>286に戻して逃げるな匿名
>>318は一般論に逃げず、具体的に小林のテクストに即しながら論じなさい。
一見曖昧な文書だがここはこんな風に読めばこれこれの含蓄が読み取れる、ってな感じでな。
説明抛棄するならこれまでの小林信者と一緒です。
「読めばわかる。読め」――いつもこれだ。批評以前だ。
読んでも現につまらないから、面白がってる人に訊いてるのに。
321 :
287:05/02/02 15:20:48
>>319 分かりました。
無常という事に、このような文がある。
「僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いを
させないだけなのである。」(※)
目で追ったらさっぱりである。が、僕の気持ちの裡で、まざまざと経験しているという
感覚、そしてその感覚と記憶の感覚との差が、膨れ上がる。
その時「記憶は何かを経験した時の感覚がなくなったもの」僕はそう読解する。
しかし、ある人は「ということは、言葉がなければ、思い出は余計な思いは
させないのか」と読解するかもしれないし、他のように読むかもしれない。
では、もし小林の書こうとしたことが、
「記憶は何かを経験したときの感覚がなくなったもの」だとして、
それをそのまま書いたとしたら、先ほどにも例に挙げた
「ということは、言葉がなければ、思い出は余計な思いはさせないのか」
や、そのほか※印の引用文を基にした読解は中々浮かばない。
ということは、書かんとしたことを文によってぼやかした※印の引用文に
含蓄があるということが、言えやしないだろうか。
322 :
287:05/02/02 15:25:42
>>320 今の場合、含蓄が読み取れないという問いに対し、
感覚的に読まず、分析的に読むからいけない、
含蓄は感覚的なものだ、というようなことを返答した(かった)。
「読めばわかる」の文をチラと見ただけで、カッカせず、もう少し
流れを見られたらどうか。
>>321は全く説明になってない。
>「記憶は何かを経験した時の感覚がなくなったもの」
「記憶とは」と書くべきところか。それにしても、意味が通じない。
まさか、記憶に感覚が含まれないとか感覚の記憶は存在しないなんてことはないし。
とすると、実際に経験した時と後で記憶してる時とでは感覚に差異があるってことか。
そんなのは当り前の一般論だし、そんな風に解したとしても、やはり意味が通じない。
記憶の感覚が経験した時の感覚と異なることがあるとして、
それが「過去のほうで、僕らに余計な思いをさせない」とどうつながるのかサッパリ。
何で「言葉がなければ、思い出は余計な思いはさせないのか」が出てくるのかもサッパリ。
一向にわからせてくれない。こんなのは読解ではない、勝手な感想だ。
曖昧でわからぬものを曖昧なままわかったつもりになってるだけに見える。
>>322 感覚的に読んだらよけいわからん。その感覚が異なってるんだからな。
しかし、君が感覚的に読んだその読み方を分析することはできよう。
分析すれば、その感覚に同感はできない者でも、どんな経路でその感想が出たか理解はできる。
325 :
287:05/02/02 15:43:34
>>323 「例え」に突っ込みをいれてるが、あんたバカか?
含蓄についていってんだ。俺の考えじゃねえよ。
お前みたいなバカにわかるよう、図式にしてやろう。
「A(小林のテキスト)」=「1(以下、数字は解釈)」「2」「3」……
「1」≠or≒「2」「3」……
まともに議論する気が無いなら、去れ。
326 :
287:05/02/02 15:45:52
>>324 そんなことしたら
「勝手な感想だ。
曖昧でわからぬものを曖昧なままわかったつもりになってるだけに見える。」
って言われるんですが。
どうすればいいですか? やってみてくださいよ。
>>325 「例え」って譬喩か?
比喩は似たところがあるから比喩として通じる。
どこが似てるかサッパリわからん譬喩を出されても理解に苦しむ。
そもそも「記憶は何かを経験した時の感覚がなくなったもの」の意味がわからんと言ってる。
わからんものをわからんもので比喩されても、やはりわからん。
328 :
287:05/02/02 15:49:46
「例え」があなたにとって拙かったから図式にしてやっただろう。
そもそも「含蓄」について書いたんだ。
そしてこの警告は二回目だぞ、書くのは。
>>326 君しか感じてない含蓄とやらを私に分析しろってか。無茶な。冷静になってくれ。
単に
>>321は分析になってないので、もっと客観的に説明し直せばよろしい。
>>328 あの「図式」(精確には「図式」ではないな)で何がわかるのか?
述べたいことが何かあるなら明瞭な言葉にしてくれ。あれで通じたつもりになられても困る。
「そもそも「含蓄」について書いたんだ」――書いたから何なのか?
含蓄について分析を書くと、意味の通らない文を書いてもいいわけではあるまい。
↓全く論理の飛躍で意味が通じない。
「僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いを
させないだけなのである。」
でも、現に僕らは過去を飾りがちなのだし、その飾りは「余計な思い」なんですけど。
331 :
287:05/02/02 16:21:18
書いたからなんなのかって、含蓄を書けって言う注文だったでしょ。
だから書いたのに、忘れたか、或いはスレを読んでないか、、、
冷静になってみる。
無常という事に、このような文があると、先ほども引用した。
「僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いを
させないだけなのである。」
過去を飾りがちではなく、過去が余計な思いをさせていない、ということは
わかる。しかし、それは何故か、全くもって書かれていない。
それどころか、過去が人であるかのようなものの言い方だ。
この文においては、
1)言わんとすることが書かれていない
2)「僕らに余計な思いをさせない」というメタファー
この二つが機能していることとなる。
そしてこの二つの機能が、大よそ含蓄の機能を果たしている。
まず(2)にで「僕らに余計な思いをさせない」「過去」というものに、
ふと足を止める。過去が余計な思いをさせないとは、どういったことか、と。
この(2)が導入部分となり、自然と(1)の方向へ歩みだす事になる。
しかしご存知の通り、人はそれぞれ認識と言うものが違うので、
(2)による導入で読み手は四方八方の方向へと歩みだす。
しかし当人はそれが(1)、つまり言わんとした事だと、信じてやまない。
もし、言わんとしたこと(1)をあらかじめ書いていたとしたら、
川の流れが決まっているように、自然と(1)の方向へ流れるであろう。
そこでのメタファーは導入ではなく、ただのメタファーとしてしか機能しない。
332 :
287:05/02/02 16:29:49
後半
もし小林が「僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いを
させないだけなのである。それは過去の働きが云々……」
と、過去の分析を書いたならば、誰もが小林が判るというであろう。
しかし、そこに面白さはあるであろうか。
小林はわからん、面白くないと言う人があるが、
それはメタファーの導入(2)から、言おうとした事(1)を自らの手に
よって探し出せなかった人がそう思うのである。
言わんとした事(1)が無かった時のメタファーほど、軽いものは無い。
>>331 >(2)による導入で読み手は四方八方の方向へと歩みだす。
>しかし当人はそれが(1)、つまり言わんとした事だと、信じてやまない。
この「当人」とは「読み手」、「言わんとした事」は「小林の言わんとした事」でいいな。
で、だ。そんな風に「信じてやまない」のは、小林と一体化したつもりになってる読者だろ。
小林と距離を取った冷静な読み手には、「四方八方の方向へと歩みだす」とは
どうとでも取れる曖昧さでしかない。さもなくば、どうしても意味の取れない勿体ぶりであるかだ。
そしてそんなものを含蓄として有り難がる気には到底なれない。
334 :
287:05/02/02 16:40:40
いいですか、「小林の言わんとした意」を受け取るんですよ?
距離をとるということは、「小林の言わんとした意」に「自分の意」が
介在しているではないですか。それは小林の意を読んだ事になりますか?
あなたはいつも誰とも一体化しようとしないから、成長しないんじゃない
んですか?
そもそも僕の意見も、あなた方が自分の尺度(意)でよんでるから、僕は四苦八苦
しているわけで、
「ほうほう、そう思うわけか、僕はこう思う」で、ハイ終わり、のはずなんですよ。
じゃあ僕はなぜ「ほうほう、そう思うわけか」と言わないか。
僕と一体化してくれないからですよ。
いつまでモニタの前に座らせる気ですか。パソコン消させてください。
>>332 >それはメタファーの導入(2)から、言おうとした事(1)を自らの手に
>よって探し出せなかった人がそう思うのである。
当り前。探し出せないからこそ、わからん、つまらんと言ってる。
わからないものも、最終的にわかればこそ、面白くなるのだ。
で、君の読みでは小林が「言おうとした事」って何なの? その分析をしてくれと。
それが小林の文章から当然解読可能なもので、しかも意義あるものでなくては、小林を擁護できない。
あとメタファーって言葉の用法が不精確みたいだな。
>>334 曖昧でわけのわからん文章には到底一体化できんよ。小林にも君にも。
ボクをわかって、何でわかってくれないの……ってか。甘えるな。
337 :
287:05/02/02 16:49:11
>君の読みでは小林が「言おうとした事」って何なの?
自ら探し出した言わんとする事(1)。
つまり、読み手によって違うという事。
だから判るには、勝手に作るより他ない。
僕に小林を擁護する気持ちもなければ義理もありませんよ。
だって、小林の文章から当然解読可能なものはないと、
上の分析で言ったではありませんか。
本当に読んでる?
書き損か……
338 :
287:05/02/02 16:51:37
>>336 甘えではない、当然だ
突っ込んで逃げる、お前の方が甘えがある。
曖昧で意味がわからんから一体化できない、その気持ちを分析して書けよ。
339 :
287:05/02/02 16:53:12
ほら、早く
俺の言っている事は正論だろ?
>>336よ
>>337 >だから判るには、勝手に作るより他ない。
勝手に作ることを判るとは呼べない。
何とでも読み取れる文章なぞ、意味は無い。
そんなものに「一体化」しなければならぬ義理もないだろ。
君の読み取りで何かいい意味が見出せるなら価値を認めてもいいが、
それすら提示されないのでは、お話にならない。
>>338 ナニ昂奮してんの。どうわからないかは
>>330に書かれてあるぞ。
悪文を書いてわかってくれと主張するのは読者に過重な負担をかける甘えだ。
342 :
287:05/02/02 16:58:52
>>340 だからさあ、含蓄から話ずらさないでくれる?
しつこいの、嫌い
お前もさ、勝手に作ることを判るとは呼べないその理由を
分析して書けよ。
>「君の読み取りで何かいい意味が見出せるなら価値を認めても云々」
だから、今の議論の中心は
「僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いを
させないだけなのである。」
っていう例文じゃないの。含蓄なの。
そして含蓄を分析しろといったのはアンチ小林である、おまいらなの。
だから、あれがどんな含蓄を持つと読んだのか、その読みを書きなさい。
>>342 君はそれをひとに理解できる形でいっぺんも書いてない。
344 :
287:05/02/02 17:04:54
>>341 もう一回冷静になってみる
>>330 僕は、過去が余計な思いをさせないのが、まるで僕らが飾り勝ちのように
みえてしまう、という風に読んだ。
その飾りは「余計な思い」とまでは、考えなかった。
それは君の、自力で考え出した「書こうとした事」(1)に該当。
みなさん、これが含蓄で発生した意見の違いですよ。
色々な読みがあるでしょう?
345 :
287:05/02/02 17:06:12
>>342 例文に即してそれがどんな含蓄を持つ(と読む)かを示さずに、含蓄が分析できるかよ。
色々に読める文章です、では分析ではない。その色々がどれどれかを具体的に記述せねば。
347 :
287:05/02/02 17:08:11
もし含蓄がなく、小林が
>>330のように
「でも、現に僕らは過去を飾りがちなのだし、その飾りは「余計な思い」なんですけど。」
と書いたら、僕もそう考えざるをえなくなる。
348 :
287:05/02/02 17:09:02
>>344 >それは君の、自力で考え出した「書こうとした事」(1)に該当。
はあ? もしそれが小林の「書こうとした事」なら、
小林は矛盾した意味の通らぬ文章を「書こうとした」ことになるぞ。あり得ない。
>過去が余計な思いをさせないのが、まるで僕らが飾り勝ちのように
みえてしまう、
「余計な思いをさせない」のが何で「僕らが飾り勝ち」につながるのか、意味不明。
350 :
287:05/02/02 17:15:55
>>349 >小林は矛盾した意味の通らぬ文章を「書こうとした」ことになるぞ
これについて、もうちょい聞かせてください。
まだなんとも返答しようがない。
>過去が余計な思いをさせないのが、
>まるで僕らが飾り勝ちのように みえてしまう
本当は過去が余計な思いをさせないのだけれども、
まるで僕らが過去を飾っているように思える。
だが、その飾っているような感覚は、本当は違う。
でした。
ちなみにこの読解にツッコミを入れるのは構わんけど、
小林にツッコミを入れた事にはならんし、
含蓄論にツッコミを入れた事にもなりませんよと、あらかじめ記す。
>>350 僕らは現に過去を飾りがちだって事実があり、これは否定できない。
もし過去が小林の述べるごとく「余計な思い」をさせないのならば、
僕らが飾りなんて「余計な」ものを過去に附すこともないはず。
これは端的に矛盾した、意味の通じない文章である。
>本当は過去が余計な思いをさせないのだけれども、
>まるで僕らが過去を飾っているように思える。
言葉の順序を置換しただけで、全然説明になってない。
「けれども」と「まるで」の間が飛躍なので、そこを埋める筋道を出しなさい。
また、こんな無意味な読解しか出ないものを含蓄ある文章として擁護することはできない。
含蓄とは言葉通りの意味に足して深い意味を持つことだが、そもそも言葉通りの意味が取れないのだし。
352 :
287:05/02/02 17:30:03
追記・書き手と一体化することについて
>>300が
>でも、現に僕らは過去を飾りがちなのだし、
>その飾りは「余計な思い」なんですけど。
と言った。
もし僕が僕の尺度で、冷静に見たとしたならば、
「過去は何の思いもさせません」
と頭ごなしに言ったであろう。
しかし、僕は
>>330の文を一体化して読んで、
要するに
>>330の認識に立ち回って読んだ結果、僕は
「ははん、さてはそれはサウダーデか、ノスタルジーだな」と
思った。そして自分の考えは、真実のようなものとは少し
離れてる事を悟った。
だから、よく読むには、認識に立ち回って、一体化するのが
一番正しいのであって、一体化しない限りは
何も得るものが無いし、読んだって意味が無い。
>>352 一体化してしまっては批評などはできない。
ふつう「僕らが過去を飾りがちなのではない。」と来たら
「僕らは過去を飾りがちだ」って通念の否定として読むだろ。
それがノスタルジーにはよくあることってのも、一体化などせんでもすぐわかる。
それ位が読めない287の読解力が劣弱なんだよ。
で、小林の文はいつもながら通説を引っ繰り返して逆説を吐いてるだけ。
355 :
287:05/02/02 17:44:36
>無意味な読解しか出ない
でも、出たのは事実ですよ。
そもそも物凄い解釈を打ち出すほどの読解力は持ってません。
それに文句を付けるのは、人格否定、ただそれだけ。
それでも一応、言い直した文を書いておく。(ちょっと変えてるかも)
過去は何もしないと、ヴィジョン(光景)しか思い浮かばない。
余計な事とは、まざまざと見て聞くような、経験である。
その余計なものを省いたら、残るのはヴィジョンだけだ。
そのヴィジョンは過去にあるものではない、今現在、我々が
妄想しているものである。過去が妄想させているのではない。
だから、過去は本当は、何も感覚を与えないものだ。
>もし過去が小林の述べるごとく「余計な思い」をさせないのならば、
>僕らが飾りなんて「余計な」ものを過去に附すこともないはず。
小林がこう思って書いたのなら矛盾は無い。
矛盾を感じてるのは、小林のこの文を読んで、一体化し、違うと
感じた読み手。
>>355 >でも、出たのは事実ですよ。
それで、出たから何なの? だからって含蓄があることにはならないよ。
下らん解釈しかできん文を書く奴、そいつが人格否定されても当然だし。
>過去は何もしないと、ヴィジョン(光景)しか思い浮かばない。
それが美化されたビジョン、既に飾られた光景であることも珍しくない。
>今現在、我々が
>妄想しているものである。
妄想とは事実を飾るもの、よって「僕らが過去を飾りがちなのではない」と矛盾するので読解として不可。
>小林がこう思って書いたのなら矛盾は無い。
僕らが現に過去を飾りがちだって事実に反する。その矛盾を全く説明できない。
よって小林は矛盾を矛盾とも感じずに書くバカってことになるぞ。それでいいのか。
357 :
287:05/02/02 17:53:38
結局287の読解は支離滅裂で、含蓄云々以前に、言葉通りの意味すら取れてない。
この子に説明させるのは無理だよ。
小林がわかるし面白いとか言ってる奴もこんなのばっかなのか。
359 :
287:05/02/02 18:04:07
>そいつが人格否定されても当然
だからあなたがやってるのは人格否定のみで
不毛な反論ということ。
反論は誰だって出来るんです。猫も杓子も。
自分の考えを書いて
>妄想とは事実を飾るもの、よって「僕らが過去を飾りがちなのではない」と矛盾する
もう言葉、文字、ただそれだけしか批判できなくなったんですか。
妄想は事実を飾るもの。そうですよ。なんでそれが
「僕らが過去を飾りがちなのではない」との矛盾に繋がるんですか。
過去のビジョンは、過去が与えているものではない。例えば
15XX年、誰々が何々をしたというような「現在」の「史実」が
与えている。それを人が、僕らが飾り勝ちなものだと
取り違えている、本当は現在の外的なものが妄想を生んでる。
こう書いたのです。
>よって小林は矛盾を矛盾とも感じずに書くバカってことになるぞ。それでいいのか。
それでいいのか、と確認されてもなぁ。
馬鹿だったんじゃないの?
結局小林秀雄がわけわからん勿体ぶった文章書くからいかんのだ。
わかってない癖にわかったつもりになってる287の読解ぶりを見て、
その害悪がよくわかった。読者を惑乱させた、罪は大きい。
361 :
287:05/02/02 18:06:17
>>360 すぐ議論を終わらせようとするのはアンチの悪い癖では
>>359 自分の悪文と非論理を棚に上げて、批判されたくないなんて、そんな道理は通らんよ。
>妄想は事実を飾るもの。そうですよ。なんでそれが
>「僕らが過去を飾りがちなのではない」との矛盾に繋がるんですか。
後者は、過去の事実を僕らは(想起の際に)飾りがちだってことを否定してると取れるだろ。
だから前者の「妄想は事実を飾る」と相容れず、矛盾する。
過去や歴史を現在が構成した「妄想」とする見方があるのはわかるが、それが
「過去のほうで、僕らに余計な思いをさせないだけなのである」とどう結びつくのか、説明が無い。
>馬鹿だったんじゃないの?
だとしたら、馬鹿の文章を含蓄だ何だと有り難がるのは誤りだな。それでいいんだな。
>>361 単に君が論ずるに足りない相手だってことだよ。
前後の文脈を出しておく。287の読解は論外だ。
「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には
大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備
えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って
来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない。そんなものにして
やられる様な脆弱なものではない、そういうことをいよいよ合点して、歴史はいよいよ
美しく感じられた。…(中略)…
歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、
動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、そ
の意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去の方で僕ら
に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物であることから
救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。
多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚し
くして思い出すことが出来ないからではあるまいか。」
365 :
287:05/02/02 18:31:05
>後者は、過去の事実を僕らは(想起の際に)飾りがちだってことを否定してると取れるだろ。
>だから前者の「妄想は事実を飾る」と相容れず、矛盾する。
妄想することは、過去を飾らない。別次元、今現在という次元で起きていて、
過去の次元には行き様がない。ただ、それが「過去を見ている様」に錯覚
してしまう、過去の次元で過去を感じる、要するに過去を飾っている
と勘違いしてしまう。
>だとしたら、馬鹿の文章を含蓄だ何だと有り難がるのは誤りだな。それでいいんだな。
ご自由に。
僕が自分でそう思わなければ充分です。あなたがなんと思おうと、
誤りだと教科書に載せようと、メガホンで広告しようと、全部のスレに
小林は馬鹿だと書こうと、僕はそう思っちょらんので。
>「過去のほうで、僕らに余計な思いをさせないだけなのである」とどう結びつくのか、説明が無い
説明なんかいりませんよ?
「現在」あるものが妄想させると書いたのですから。「過去」は無関係。
思い出すか、否か、ただそれだけ。
>>365 >小林は馬鹿だと書こうと、僕はそう思っちょらんので。
おい、
>>359で「馬鹿だったんじゃないの?」と書いたのは、お前だぞ。
だから「だとしたら」、と
>>362で書いたのがわからんのか。
自分の言葉に責任も持てないなら、議論する資格は無い。
はあ、疲れた。
もう逃げるとしよう。
世の中は馬鹿ばっかりって判って、安心したし。
充分だ。
結局まともに論議したのは
>>364だけであった。
付き合ってくれて感謝する。
あとの一言言って去っていった、あるいは
>>363の様に
得意げになっているアンチ小林の文学ヲタは、哀れんでやるのにも値しない。
どうぞ僕に反論してやってくれ。
見ないけど
>>365 >説明なんかいりませんよ?
お前の過去観を聞いてるんではない。
小林秀雄の文章に即してその文に説明をつけろと言ってる以上、説明は要る。
「僕らが過去を飾りがちなのではない」を過去とは全て現在から構成することだと読解したとして、
それが「過去のほうで、僕らに余計な思いをさせないだけなのである」と結びつかない。説明せよ。
>>367 >結局まともに論議したのは
>>364だけであった。
そこで「論外だ」としりぞけられてるのも読めんとは。文盲か、こいつ。
371 :
255:05/02/03 00:16:36
レスが増えているので驚いて見てみたら、結局相変わらずアンチが信者を
批判しているのに終始。
ここに来ている小林を読んでもつまらないと言ってる奴は何なんだ?
つまらなかったら他の作家を読めばいいのに。
2ちゃんねるのレスを見て小林が面白くなるなんて期待してたら大甘だよ。
小林スレとは無関係に、たまたまW.ジェイムズを読んでいたところ、
上の方のやり取りを連想させるくだりがあったので、紹介しておきます。
「世界が提出すると信じられている一定不変の謎にたいする決定的な
そして完全な答は、真理そのものという観念であると考えられている。
一般人に伝えるためには、答が神託じみていればいるほど効果的である。
神託的な答というものは、それ自身、その深遠な言葉が含んでいると
想像されるものを開き示すよりもむしろ覆い隠して、
いわば第二次の謎として人々に驚嘆の念を起こさせるからである。
世界の謎にたいする一切のいかめしい一語の答、例えば、神、一者、
理性、法則、精神、物質、自然、極性、弁証法的過程、観念、自己、大霊、
などというような答が、人々の称賛をほしいままにしてきたのは、
そのような神託的な役割によるのである。」
(岩波文庫『プラグマティズム』175頁)
「批評家失格」の最後の断章はこうだ・・・「この世の真実を、
陥穽を構えて、捕へようとする習慣が、私の身について此方、
この世は壊血症の歌しか歌はなかつた筈だつたが、その歌は、
いつも私には、美しい、見知らぬ欲情を持つてゐるものと聞えたのだ。
で私は、後悔するのがいつも人より遅かった。」
この文章の作り(統辞)には、以前から、ランボーの詩の余韻を
感じていたのだが、まさにランボーの翻訳と平行して書かれたもの
であることを、今回年譜で確認した。
ランボーのようなヴィジョンを小林(に限らず我々全て)に要求するのは
野暮(無理)である。が、この口吻(いいっぷり)は、斬新だろうか。
むしろ嫌味を感じないだろうか。
374 :
255:05/02/03 10:09:31
全く逆なことを言われているので書きます。
小林秀雄のすごさのキーワードは「自然」にあると前に言った意味はこうです。
小林秀雄の言うことはいつも正しい(と思わせてくれる)。自信を持っていつも言っている。
その自信はどこから来るのか。視点が狂っていないからだ。
その視点はどういう視点かというと、「自然」をいつも見失っていないというところにある。
ここでいう「自然」というのは本当の自然=nature。
神や哲学や何々主義や一切の観念論と関わりない「自然」をいつも見失っていない。
小林秀雄の強さはこういうところにある。
謎めかした言葉、神託じみた答え、などとはむしろ全く反対のところにいた人物です。
小林秀雄は天衣無縫と言おうか、『観念論』という呪術に囚われなかった
稀有な人と言おうか珍しい評論家なんだよね。
結果として相手がどんな権威や権力を持った人間であろうが歯に衣着せない
批評をするからな。彼は『権威』ではあったがそれは周囲の人間が勝手に
そうしたのであって彼自身は『権威』を傘に着て神々しく論評に励む
ような人ではなかったんだよね。
イデオロギーを一切拒否するする姿勢を生涯持ち続けた
という意味なら、あなたの言うとおりかも知れませんね。
そのこと自体は立派だと思います。ただし、
書かれた文章の多くは永続性がないと思います。
377 :
吾輩は名無しである:05/02/03 21:02:35
>>374
それって否定神学以前に単なるトートロジーって気付いてる?
「コバは正しい」
「視点が狂っていないからだ」
「それは自然を見失っていないから」
「自然というのは本当の自然のこと」
「だからコバは正しい」
で、「本当の自然」ってなに?
なにが「本当の自然」なのか基準を示せないのなら、コバが対象にしている当のものが
「本当」の自然かどうかを判断できないって分かってる?
馬鹿信者の面目躍如ですな。
その「本当の自然」をどのように小林が「記述」しているのか、
他人が共有できる「言葉」でそれを表せない議論は全て貧しい神秘主義と一緒なんだよ。
>神や哲学や何々主義や一切の観念論と関わりない「自然」
このように「○○ではない」
「(「自然」でもなんでも好きなものを恣意的に何でも代入できてしまう)何か」
というかたちでの思考は否定神学。
378 :
吾輩は名無しである:05/02/03 21:19:56
>>371
>つまらなかったら他の作家を読めばいいのに。
「俺は小林を理解している!」とうそぶいたこいつの結論がこれか。
287のマジメさは嫌いになれないが255はクソ信者の代表だな。
俺は小林的言説をいちがいに否定はしないけど、
その劣化コピー版「信者」の哀れなまでに貧相な俗物ぶりは特筆に値する。
「非難は易いが称賛は難い」に尽きるな、このスレは。
あ、それでもいいんじゃないかな、次スレのタイトル。「ニヤリ、ニヤリ」の
意味が誰にも通じなかったようだから。
【非難は易いが】小林秀雄【称賛は難い】
ベストセラーって何冊からをさすのでしょうか?
次スレ、
【言うは易し】小林秀雄【行うは難し】
とかはどうよ。
>>374の自然うんぬんは単に小林の宣長論のずさんな要約だろう。
「理解してる」などと言いながらそんなことだったのか。
お粗末すぎる。
383は「ずさんな要約」より「ずさんな受け売り」のが良いな。訂正。
非難に不満だったらちゃんと称賛してみればいいのに。
なぜか誰もやらない(できない)。
「私は、後悔するのがいつも人より遅かった。」
「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいいじゃないか。」
小林秀雄さんは、後悔というような非生産的な心理過程を抑制して、
宿命という観念に置き換える傾向があるようですね。
アホクサ。呼び名を変更しただけでは。
称賛するなら、誰か
>>364引用のわけわからん文章を明快に読解してみせろや。
マルクス主義運動が壊滅して、戦争に突入したはいいけれども、
すでに敗戦を予期せざるを得ない状況になってきた。
おびただしい死者たちこそがこの国を作りつつあるのだ。
これは予感された挽歌である。
「多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を記憶で一杯にしている
ので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。」
のところは小林の悪い癖が出ている。自分は並みの歴史家と感性が違う、
と言っているだけ。
>>388 称賛を「明快」に解説することは難しい。あるいは「明快に称賛」した時点で
それは称賛ではなくなっている、とでも小林なら言うのかな。
272 :255:05/01/31 19:25:57
ごまかすとか逃げるとか言われるけど、俺は小林秀雄のどこがすごいか
自分で読んで答えを持っている。
それは教えたくない。本当に答えを求める人間なら教えられたくないでしょう?
すぐに答えを求めて教えられて何の喜びがあるのか。
ファミコン世代はすぐに答え、結論を得て安心して、飽きて次の課題に移る。
小林秀雄のすごさはそう安易に済まされるにはもったいなさすぎる。
>>391 えらく大きく出たなとほめてやりたいところだが日本語おかしいぞ?
>小林秀雄のすごさはそう安易に済まされるにはもったいなさすぎる。
「すごさ」を安易に「済ます」?「すごさを済ます」?はぁ!?
「すごさ」は「もったいなさすぎる」?「すごさはもったいなさすぎる」?
馬鹿かオメェは。顔洗って出直して来い。
391にしても、信者に詰め寄りたがるアンチにしてもそうだが、ある文学の
素晴らしさ・くだらなさが誰にでも納得できるものとして「証明可能」と
考えているところがそもそも幼稚に過ぎる。
>>393 こういう見解からしてすでに小林秀雄に典型的なものだ
>>393 言葉にして公表する以上、しかもその言葉が評論であるなら猶更、
なるべく多くの人に理解される表現を求めて文章を練るのが当然だ。
むろん言葉に限界はあるが、その限界まで突き詰めない安直な神秘化が小林(とその愛読者)に著しい。
396 :
吾輩は名無しである:05/02/05 11:45:29
>>395 >なるべく多くの人に理解される表現を求めて文章を練るのが当然だ。
そうかな?
どういう読者を想定して書くかいろいろあるだろ?
「改造」に発表する場合、「文藝春秋」に発表する場合、「朝日新聞」に
発表する場合、それぞれ書き方がちがったはず。少年少女向けに書いたのもあるぞ。
>>396 だから何? 一般論でごまかすなって。
初出誌の性格上から読者層に多少の限定があったところで
小林の売文稼業は特殊な狭い範囲の読者を対象とする雑誌だけで営まれたわけではないぞ。
問題の「無常といふ事」の初出は『文學界』だ。
しかもその後単行本になった。少部数限定版の詩集とかとは話が異なる。
信者一人説諭出来ないアンチが、
「他者」云々を語るのがちゃんちゃらおかしい気もするが…。
>>むろん言葉に限界はあるが、
>>その限界まで突き詰めない安直な神秘化が小林(とその愛読者)に著しい。
小林が安直である事の証明をしてくれ。
愚人が陥りがちな「安直な神秘化」に対する警句は理解出来るが、
そこで小林を引き合いに出す理由が解らない。
>>394 確かにそうも言えるだろう。しかし、典型的だから何だというか?その先を言明せよ。
>>395 「しかもその言葉が評論であるなら猶更」というところに、「評論」というもの
に対する狭い思い込みがある。「なるべく多くの人に理解される表現」という
ものについて君がどのくらい深く考えているか疑問である。試しに、その
「なるべく多くの人に理解される表現」を達成した評論を一つでいいから挙げて
みてくれ。小林秀雄の評論はそんなものは鼻から目指してはいない。そもそも
小林は「茶碗」という言葉でさえ人それぞれ思い浮かぶところが全く違うという
驚きと絶望から批評を始めた人間である事を忘れてくれるな。
もう一つ。
380が言っている「非難は易い」というのは、如何なる場合においても
非難というものは相手を知れば知るほど不可能となる、という意味だ。
つまり非難するには、ひたすら相手への理解を拒むだけでよい。
薄っぺらな理解と、多少の頭の回転さえあれば、世の中のどんな事象でも
非難することは可能である。しかし、称賛が難いのは、相手を本当に理解
することだからだ。家族や親友でさえ本当に理解することが如何に難しいか
を反省してみよ。
くどいようだが。
小林秀雄の本当の愛読者なら、「無常といふ事」のような文章は、小林秀雄と同じく
「キザ」だと感じているはずだよ。ただ、それでももってその人物を断罪したり、縁を
切ったりしないだけさ。それが本当の愛読であり、人との「付き合い」じゃないか?
それでももって > それでもって
403 :
吾輩は名無しである:05/02/06 00:29:45
「絶賛」というのはむつかしいよね。それこそ「批評や非難を承知の上で」
やらなければいけないことなのかもしれない。
達成した理想例を挙げられないのは、言語に限界がある以上、当然だぞ。
>>399 だからって、端(ハナ)から限界に向けた努力を抛棄する小林が偉ぶる理由になるか。
知れば知るほどアラが見えて、批判しやすくなるのが普通。
>>400 393の「知る」とは「お知合」になることらしい。そら知人は批判しにくいな。あほらし。
何で「本当の愛読者」なんかにならなくてはならないのか?
>>401 その価値が小林にあると勝手に前提してるのが、受け容れられない。
そんなのただの、恋は盲目あばたも靨、ではないか。
>>398 では
>>364を例に、小林の文章が神秘化でないことを示してみるがいい。
説明抜きの気取ったきめつけばかり。
理解に苦しむ、矛盾した論理性無視の、不明晰な曖昧文である。
これに反論するには、あの文から明瞭な意味を読み取り、筋の通った説明をすればよい。
できるかな?
>>405 「Aである事を証明しろ」という問いに対して、
「Aでない事を証明しろ」と返答されるとは思わなかった。
>>説明抜きの気取ったきめつけばかり。
そりゃ、あんただ。
>達成した理想例を挙げられないのは、言語に限界がある以上、当然だぞ。
それは違う。理想を挙げられないのは単に君の意気地の無さにのみ
起因する。「言語の限界」などという、君が心から感じてもいない幻想
を盾に、君の理想を選択する勇気を放棄しているだけさ。
「君の言うところの」限界まで突き詰めたものを挙げよと言っているのだ。
小林秀雄よりも言葉をつき突き詰めていると君が「信じる」ものを挙げれば
いいのだ。日本人で小林秀雄以後の作家・思想家で挙げてみよ。
もちろん、小林より優れた言語表現は存在しないなどということが
主張したいわけではない。誤解するな。それこそ「言語の限界」が骨身に
しみていない人間のやることだ。
あくまでも、君がその具体的な名前と作品名をここで口にする事が大切
なのだ。それができないのなら、君のいう「言語の限界」はやはりただの
寝言だ。
>393の「知る」とは「お知合」になることらしい。そら知人は批判しにくいな。あほらし。
「知る」ことは確かに「お知合」になることさ。馬鹿馬鹿しい。
いま議論しているのは「知る」ことではない、「理解」することだろう。
勝手に言葉を変えないでくれ。小林秀雄に倣えば「信ずる」といっても
いい。しかし、君にとって「信ずる」とは「知ることを拒否する」ことらしい
から、おそらくは通じまい。「読む」ことがただの「お知合」になることに
終止しているのは、まさに多くの「アンチ」(小林秀雄に限らず)が実践
しているところではないか。
>知れば知るほどアラが見えて、批判しやすくなるのが普通。
それは単に君の精神と、君の人間関係の貧困さを物語っているに
過ぎない。それが「普通」だというならそれでも構わないが、そんな
「普通」は犬にでも食わせておけ。
>何で「本当の愛読者」なんかにならなくてはならないのか?
>>401 >その価値が小林にあると勝手に前提してるのが、受け容れられない。
わかった。アンチには突拍子もない「強迫観念」があるのだ。「愛読者に
ならなくてはならない」なんて言ってやしないし、その価値を「受け容れろ」
などと誰が主張したか。それとも君は他人が人知れず見出した価値にまで
ケチをつけたいのかね?君は君自身の理想を君自身の責任のおいて
ひたすら追求せよ。
>恋は盲目あばたも靨
この言葉にどのくらい深く感じ入ることができるかが、その人間の読書経験
の深浅を表わす。
>理解に苦しむ、矛盾した論理性無視の、不明晰な曖昧文である。
>これに反論するには、あの文から明瞭な意味を読み取り、筋の通った説明
>をすればよい。
「"正しい"ことなんて子供にでも解る」
411 :
吾輩は名無しである:05/02/06 15:47:41
小林秀雄の論理(ないし没論理)は、
ようするにヘーゲルが批判する「美しき魂」でしょう。
>>410 >「"正しい"ことなんて子供にでも解る」
意味不明の決め科白を弄するのが小林流だな。
子供にも解るから何なのか?
子供にも解るなら、なぜいまだ小林の文章を説明できないのか?
>>409 >それとも君は他人が人知れず見出した価値にまで
>ケチをつけたいのかね?
人知れず? その割には小林秀雄の虚名は大きいな。
どんな価値だか小林の文に即して明瞭に言語化してみなってんだ。
それがもっともだと思ったら誰もケチつけやせん。
小林がスゴイスゴイと担ぎ回ってるが、それに納得ゆかんから訊いてるんだよ。
「人知れず」なら、こんなところにも出てこず、独りで信心してろや。
>>408は、結局、「知る」ことを人間関係から離して思考できないのね。
だから「知る」を「お知合になる」ことにしちゃってるんだな。
知識を得ることはその対象とは赤の他人だって出来る。
理解するとは共感したり同情したりすることとは同じではないぞ。
>>407 理想ではなくても小林の評論よりマシなのならあるわな。
で、それを挙げる必要が何であるわけ?
小林が曖昧な文で安直に神秘化してるってことに、他の例が何の関係がある?
小林秀雄から話をそらす気なら無駄だよ。
>小林は「茶碗」という言葉でさえ人それぞれ思い浮かぶところが全く違うという
>驚きと絶望から批評を始めた
で、スッカリ言葉で説明するのを諦めて、そこから無内容な気取りに逃避したわけかい。
信者「小林はスゴイぞ!」
非信者「どこがどうスゴイの?」
信者「読めばわかる」
非信者「読んだけどわからん。ねえ、どこ?」
信者「俺にはわかるんだ」
非信者「わかるなら説明して」
信者「説明に何の意味がある。つまらないなら読まなきゃいい」
非信者「ハア?」
>>412 >>330みたいな誤読に対しては「反論」ではなく「説明」が必要な様だ。
要約:
過去(故人)は美しく思われるのを、余人は過去を美しく飾るからだと考えている。
しかしそうではない。
今という時を生きている際には目にする事の出来ない、
過去として完結する事で、のっぴきならない相が見えてくるからである。
飾られていない、なまの姿が現れるからである。
これに対して330の様に「現に過去を飾りがちだし」なんて言うのは、くだらないトートロジーでしかない。
アンチであるのなら、安吾の様に
「否、今生きている人間にだってのっぴきならない姿だ!」
と吠える位の否定をすべきだ。
>>418は不可。
「僕らが過去を飾りがちなのではない。」の説明ではあっても、それにつづく
「過去の方で僕らに余計な思いをさせないだけなのである」の説明になってない。
「飾られていない、なまの姿」が美しいかどうかすら大いに疑問で、決めつけられても納得できない。
「くだらないトーロロジー」なんて言葉では現に飾りがちである事実を否定できないし。
あんた解説者、失格ね。
>>419 根本的に文章を読めないみたいだな…
例の一文は、「過去を飾りがちである」というのは錯覚だ、と主張してる文章なんだよ?
「決めつけ」が納得できないのなら、それだけ吠えてればいいんだよ。
矛盾だとか、そういう話じゃない。
つーかこの種の読解に問題のある輩が多いから、
「読むしかない」って話になるんだろうけど…。
平易に書けよ、という非難は正しいんだがな。
青山二郎も「懐柔なポーズ」なんて非難してたな。
×懐柔
○晦渋
>>420 勝手な「主張」など取り上げるに値しない、なぜ「錯覚」かを説明してなくては。
どうして過去が「余計な思いをさせない」のか、言ってないよな。
>>421 青山二郎の言ったのは、
お前のはお魚を釣る手つきだけだ、釣り上げたためしがないぞ、って奴では。
で、青山先生に揶揄された小林秀雄は泣いてしまったとさ。あら、みっともな。
大岡昇平の回想にあるね。
>>423 どこまで説明しなきゃならんのか…
まぁ、失格された解説者だから低レベルな読解だとは思うが、
過去として完結する、という見方は、
キルケゴールの「死者を恐れよ」というニュアンスじゃないか?
流行りの言葉で言えば「他者」と言っても良い。
それを「美しい」と形容するかしないかは、個人の審美観だからどうにもならんわな。
俺に関して言えば、そんなものを有り難いとは思ってない(若いからか知らないが)。
小林が「過去を清算する」とか、安易な歴史主義を嫌っていたのは、
概念にまみれた現代風の「飾り」をするからだろう。
動かし難い「過去」をアレコレと細工しようとする連中を蔑視していた。
(で、動かし難い死物ばかり取り上げる小林を、安吾は認めなかった)
>>424 青山二郎文集を読んでみ。
たぶん、小林に対するもやもやがスッキリする。
小林と違う意味で難解な文章だけれどもナ。
補足
>>小林が「過去を清算する」とか、安易な歴史主義を嫌っていたのは、
>>概念にまみれた現代風の「飾り」をするからだろう。
こういう連中は「過去を見てるワケではない、観念を見ている」というのが小林流。
まぁ、あまり上手い言い方ではないがな。
大岡昇平「再会」より、青山二郎が小林秀雄にからむ場面。
……
「お前さんには才能がないね」
……
「お前のやつてることは、お魚を釣ることぢやねえ。釣る手附を見せてるだけだ。そうら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。ほうら、だんだん魚が上つて来るぞ。どうぢや、頭が見えたらう。途端、ぷつつ、糸が切れるんだよ」
……「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」
……
「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か、水中に棲息すべきではない象、象が上つて来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつつ、糸が切れるんだよ」
小林の思はせぶりな無内容をいかにも見事に譬喩してゐる。
>理想ではなくても小林の評論よりマシなのならあるわな。
>で、それを挙げる必要が何であるわけ?
>小林が曖昧な文で安直に神秘化してるってことに、他の例が何の関係がある?
>小林秀雄から話をそらす気なら無駄だよ。
話をそらそうとしているのは君だ。一体「小林が曖昧な文で安直に神秘化
してる」というのが「定理」か何かだとでも思っているのかい?もちろん
「小林は安直ではない」も定理じゃないさ。問題は、何故君が小林を
「曖昧な文で安直に神秘化してる」と考え、小林の読者がそうは感じないか
というところにある。それを議論するためには、まずはお互いの「信仰」を
告白する必要があるじゃないか。
あるものを「好きだ」とか「素晴らしい」とか、つまりは感動を公言すること
には、常にある種の「後ろめたさ」が伴う。感動する者はいつも無様だ。
しかし、彼はそれに全責任を負っている。一方、アンチは常に自分は棚上げ
なのさ。そういう後ろめたさから必至に自分を守ろうとする批評や議論ほど
卑怯なものはない。少なくとも小林にはそういった類の「卑怯」は一切ない。
だから小林の批評はある意味常に無様だ。無様だが、責任を負った男の
発言には魅力があるのだ。発言の「内容」なんて探そうと思えば古今東西
どこにでも転がっているさ。またいくらでも矛盾するだろう。しかし、人間を
動かすものは決してそんな「内容」などではない。
418の言うように、安吾の否定が人を動かしたとすれば、それは、あくまでも
彼の「無様」さにある。
>>425 >流行りの言葉で言えば「他者」と言っても良い。
わかってない癖に言葉を濫用するな。
その反対で、何をしでかすやらわからない「生きてゐる人間」こそが他者だ。
>動かし難い「過去」をアレコレと細工しようとする連中
そんな連中が存在するとする以上、「僕らが過去を飾りがち」な事実は否定できない筈だ。
結局、どうして過去が「余計な思いをさせない」のかは、説明しない(できない)のな。
>>330 飾りたければいくらでも好きなように飾れる程度の過去もあれば、飾りたて
ようとすればするほど飾ることが困難に思えてくる過去もあるというに過ぎ
ない。つまり過去への尊敬の念の深浅であって、小林が言いたいのは
無論後者だ。そこには「ドストエフスキイの生活」で得た歴史観がある。
「余計な思いをさせない」くらいの「過去」を経験してみたければ、己の
もっとも尊敬する歴史的人物の伝記を精魂込めて書いてみればよい。
小林の揚げ足を取ろうとする議論の馬鹿馬鹿しさは、小林の言う「歴史」や
「過去」というような言葉を、「林檎」とか「蜜柑」とかいう言葉の如く扱ってし
まうところにある。ここで小林が言っている「過去」とは、「赤い」とか「黄色い」
とかいって済ませられるようなものではない。それは常に小林自身の経験と
尊敬の念で染色されているのだ。それを読み取らないからただの空論に
見えてしまう。もっとも、中学生でも知っているような一節にしか目を通そうと
しない論者には、そんなものは読み取れるはずもないが。
>>428 「信仰」は小林信者だけにしてくれ。宗教論争に持ち込むなよ。
小林は、青山二郎も言った通り、手附きだけ見せて核心を釣り上げぬままだ。
それこそ「卑怯」な逃避なのであり、神秘化なんだと知れ。
>>430 あんな過去もあるがこんな過去もあるってか。都合のいい場合わけだな。
でも残念ながら、小林の文章は全称命題で言切ってるよな。非論理的だからか?
読んでみればいい、書いてみればいい、なんて愚劣な経験主義は、言葉を無みするものだよ。
>小林自身の経験と
>尊敬の念で染色されているのだ。
つまり自分だけの体験からくる思考を自分にしか通用しない言葉で以て、
一般論めかして語る詐術ってことだな。
それを信者が好き勝手に崇めて深読みしてくれるんだから、読者に甘えた話さ。
>>428 >感動する者はいつも無様だ。
>しかし、彼はそれに全責任を負っている。
後段に異論あり。
責任を負ってるのなら、その感動がどんなものであるのかの説明責任を果してほしい。
単に無様に感動しておいて開き直ってるのでなければ、
当然己れの知った所を他者に説明しようとするはず。
そして説明に成功したとき、はじめて評家の責任を果したと評せるのだ。
小林はカッコつけて感動してみせるばっかり。あれは無責任だよー。
あんた、神田でどうとか、道頓堀でどうとか、そういうフレーズしか目に入っていないでしょ。
あれは蓮實重彦が「メロドラマ」って批判したよね。
>>436
要は芝居が臭いんだよな、小林は。それに騙されて見蕩れる読者も読者だ。
信者批判を小林批判だと思ってる馬鹿がいるようだな。
>自分だけの体験からくる思考を自分にしか通用しない言葉で以て
当たり前だろう。言葉を一体何だと思っているの?
>一般論めかして語る詐術
君のように、過去や歴史に関する「一般論」が存在すると無邪気に
考えている読者には詐欺とも見えようが、どんな言い方、言い切り
方をしていようと、言葉で表現された世界には厳密に言えば「一般
論」なんてものは存在しない。それが歴史や過去について書かれた
ものであれば尚更だ。それとも、「あくまでも僕自身はこう思うんだ
けどさあ・・」とか「僕が経験したところに限って言えばね・・」なんて
フレーズをいちいち挿入していれば気が済むとでもいうのかい?
だったら、君も今後そうやって発言せよ。
>それを信者が好き勝手に崇めて深読みしてくれるんだから、読者に甘えた話さ。
「信者」とか「崇める」とかいう余計な言葉を馬鹿の一つ覚えのように
挟むのはいい加減やめないか。それを打ち込むたびに君のシナプス
が一つ又一つと崩壊しているはずだよ。ま、それはともかく、読者の
「深読み」を必要としないような作家や思想家は嘗て一人も存在しない。
「深読み」こそ読書の真髄である。要するに君が求めているのは単なる
「マニュアル」だ。それを自覚せよ。
>信者批判を小林批判だと思ってる馬鹿がいるようだな。
信者批判をすれば男が上がると思っている馬鹿がいるようだな。
>>440 言葉を発話者の所有物だと思ってる君の方がどうかしてる。
小林ですら、ひとたび口にされた言葉が意味する所が発話者の意図の外に出ることに気づいてたのに。
>>その反対で、何をしでかすやらわからない「生きてゐる人間」こそが他者だ。
「他者」は死んでる生きてるに関係しねぇよ。独自定義するな。
>>結局、どうして過去が「余計な思いをさせない」のかは、説明しない(できない)のな。
説明してるつもりなんだが、上の様な定義の曖昧におんぶだっこした反論を続ける限り、無理。
中学生相手に教えているならともかく、2chでそこまで労力さけてらんねぇ。
このスレ、男っ前ばかりッスね!
>>443 独自定義ではない。文脈を想起しろや。「無常といふ事」だろが。
「生きてゐる人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。何を考へてゐるの
やら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた
例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間と
いふものは大したものだ。何故、ああはつきりとしつかりとして来るんだらう。まさ
に人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつつある一
種の動物かな」
認識者の主観に取り込まれることを拒否して外部にあるものが他者だろ。
>>440 言葉は如何なる事象をも一般化してしか語れないものだよ。
いかに独自の特有性(singurality)を籠めて語っても、
言葉にされた瞬間、聞く者には一般化されて届くし、一般化されぬ限り他者には理解されない。
個別の固有性に迫り切れないそこにこそ、言葉の限界があるわけ。
393は都合の悪い批判は無視するんだね。
体験しなきゃわからん、本人にならなきゃわからん、
――だったら言葉なんか要らないぢゃん。
>>430
遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪なる言葉もない。
――小林秀雄「様々なる意匠」
>>442 >言葉を発話者の所有物だと思ってる君の方がどうかしてる。
そんなこと微塵も思っていないが?
>小林ですら、ひとたび口にされた言葉が意味する所が発話者の意図の外に出る
ことに気づいてたのに。
それはすでにオレが主張したところなんだがね。
>>399
>>446 >言葉は如何なる事象をも一般化してしか語れないものだよ。
まさにそう言ってるじゃないか?
>いかに独自の特有性(singurality)を籠めて語っても、
>言葉にされた瞬間、聞く者には一般化されて届くし、一般化されぬ限り他者には
理解されない。
何を当たり前のことをもったいぶって言ってるんだい。今問題なのは、Aによって
発せられた言葉が、BとCにまったく異なった理解をされる場合があるということ
だろう。Aの言葉は発せられた瞬間に「一般化」されるのじゃない、Bに届いた
瞬間にBによって特殊化され、Cに届いたときにはCによって特殊化されるのだ。
>>447 どれのことを言っているのか?返答して欲しいのなら、もうすこしまともな
対話をしてほしい。都合の悪い批判なんて一つもない。単に揚げ足の取り
合いになりそうな批判を無視しているだけだ。
>>448 >体験しなきゃわからん、本人にならなきゃわからん、
>――だったら言葉なんか要らないぢゃん。
ある作家を理解したいのなら、せめて10年かけて全集を熟読せよ、と
言っているだけだ。そこまでやる気がないのなら、黙殺するのが礼儀
である。
>>感動する者はいつも無様だ。
>>しかし、彼はそれに全責任を負っている。
>後段に異論あり。
>責任を負ってるのなら、その感動がどんなものであるのかの説明責任を果してほしい。
>単に無様に感動しておいて開き直ってるのでなければ、
>当然己れの知った所を他者に説明しようとするはず。
だから存分に責任を果たしたじゃないか。死ぬ間際まで書きつづけたじゃないか。
>そして説明に成功したとき、はじめて評家の責任を果したと評せるのだ。
それが成功したかしないかなんて全然問題じゃない。君が失敗していると思うのは
無論君の自由だが、失敗したことは無責任とは違う。失敗を晒している以上、小林は
十分に責任を取っているのだ。
>>454 >だから存分に責任を果たしたじゃないか。死ぬ間際まで書きつづけたじゃないか。
はあ? 意味不明な文章をいくら書いても責任取ったことにはならんよ。
失敗を晒したままにするのを無責任って呼ぶんだよ、普通は。
君も、早く説明責任を果してね。死ぬまで書けとは言ってないんだからさ。
>>451 >>言葉は如何なる事象をも一般化してしか語れないものだよ。
>
>まさにそう言ってるじゃないか?
されど393の
>>440にて曰く、
>言葉で表現された世界には厳密に言えば「一般
>論」なんてものは存在しない。
自分の書いた文章すら忘れたか。そんな取り乱さず、落ち着いて読み直せや。
>>453 だから何で小林にそこまで手間かける程の価値があると勝手に前提にしてるのさ。
その価値があるってことを説明しろっての。
だいたい小林秀雄自身が時評でけなした作家達につき「10年かけて全集を熟読」したとでも?
黙殺すべきだったとすれば、それをしなかった小林も罪は免れないし無責任だわな。
「説明しろ」とか「責任とれ」とかキモい奴だな…自分を何様だと思っているんだろうか。
>>455 過去もいろいろ、責任の取り方もいろいろさ。
君は君で「普通の無責任」とやらを糾弾し続ければ
よいじゃないか。死ぬまでやれとは言わないが。
>>456 オレの書き方がまずかったのかもしれないが、
「言葉は如何なる事象も一般化できない」というのと
「どんなに言葉を尽くしても言葉で表現されたものは
"一般論"ではない」というのと、確かに同じではない
けれど、言わんとした事はそう違わないつもりだった
のだがね。一般化とか一般論とかいう言葉の捉え方
が君とオレとで食い違っているのだろう。で、結局君
が何を主張したいのか、さっぱり分らないんだが。
>>457 だから強迫観念を押し付けるのはやめてくれと
言っているだろう。なんでオレ自身にとって価値がある
ものについてオレが「勝手に」前提するのがいけないのか?
あるいはその説明を君に強要されなければならないのか?
君は誰かにその前提を保証してもらえないと、何事にも
価値を見出せないわけかい?手間をかけるのはオレの
自由だ。しかし君にその手間を強要しているわけじゃない。
君がもし小林を理解したいと願うのなら、それくらいは
最低努力してみよと勧めているだけだ。君が小林など
理解する価値はないと思っているならそれでいいじゃ
ないか。その説明をいちいちオレに求めるな。どうも
誤解しているようだが、オレは君たちが小林を無視する
ことについて何の感情も持っていないよ。「読んでみれば
いいのに」とさえ思っていない。それよりも、他に面白い
ものがあるなら是非教えてほしいと思っているだけだ。
なんの皮肉もない。
>だいたい小林秀雄自身が時評でけなした作家達につき
>「10年かけて全集を熟読」したとでも? 黙殺すべきだった
>とすれば、それをしなかった小林も罪は免れないし無責任
>だわな。
だから全集を隅々まで読んでみろよ。ありゃ、お前、「金稼ぎ」
だよ。自分でそうはっきり明言してるんだから間違いない。
時評で貶した作家達を小林は本当に「理解」したいなんて
願っていないよ。だれが全集なんか読むものかね。そんな暇は
ないさ。「小林秀雄」という看板で堂々と人を貶し、それを皆が
喜んで読む、そして金が入る。ちっとも無責任じゃない。立派な
商売だよ。しかも、小林は、他人が心から感動しているものに
対してケチをつけたようなことは一度もない。そこが肝心だ。
>あんな過去もあるがこんな過去もあるってか。都合のいい場合わけだな。
無論あるさ。
(以下再録)
小林の揚げ足を取ろうとする議論の馬鹿馬鹿しさは、小林の言う「歴史」や
「過去」というような言葉を、「林檎」とか「蜜柑」とかいう言葉の如く扱ってし
まうところにある。ここで小林が言っている「過去」とは、「赤い」とか「黄色い」
とかいって済ませられるようなものではない。それは常に小林自身の経験と
尊敬の念で染色されているのだ。それを読み取らないからただの空論に
見えてしまう。もっとも、中学生でも知っているような一節にしか目を通そうと
しない論者には、そんなものは読み取れるはずもないが。
>でも残念ながら、小林の文章は全称命題で言切ってるよな。非論理的だからか?
全称命題で発言したから何なの?
(以下再録)
それとも、「あくまでも僕自身はこう思うんだけどさあ・・」とか
「僕が経験したところに限って言えばね・・」なんてフレーズを
いちいち挿入していれば気が済むとでもいうのかい?
だったら、君も今後そうやって発言すればいい。
>読んでみればいい、書いてみればいい、なんて愚劣な経験主義は、言葉を無みするものだよ。
「自伝を書けば分る」と言ったのは無論比喩だ。自伝を書いた小林の
苦労と発見が自伝を書かない読者にも伝わるところが言葉の素晴らし
さじゃないか。そういう経験のどこが愚劣なのか。「説明してみろ」と
「証明してみろ」しか叫ばない君等のほうがよっぽど言葉を無みしている
と思うがね。
464 :
吾輩は名無しである:05/02/07 00:47:55
393はすごい粘着だな。自分の考えしか認めない人間なんだろ。
というわけで、二日間お邪魔させていただいたがこれにて失礼するよ。さようなら。
thank you, sir (393)
小林が自伝を書いたのか???
書くわけねぇだろ。おれをだれだと思ってやがるんだ。
「余計な思いをさせない」小林秀雄様だぞ。
>>463 自伝を書いた小林の苦労と発見が自伝を書かない読者にも伝わる
ところが言葉の素晴らしさじゃないか。
ぜひ出版元を教えてくれ、つーか「伝記」の間違いじゃねぇの?
この責任を取ってください >393
「責任を取るには僕は死ねばいいんですから」という言葉が小林にはあるぞ。ぜひ死んでください。
472 :
吾輩は名無しである:05/02/07 01:48:46
責任を取るべきは小林秀雄の良さを証明してくれとか言ってた馬鹿だろう。
393はすでに粘着死した模様です。
>464
粘着なのはむしろアンチでしょ。貴方方に認めるべき考えなんて何もないじゃない。
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>>393:::::::::::::::
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:.... .... .. . く / 三三三∠⌒>:.... .... .. .:.... .... ..
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... ..:( )ゝ ( )ゝ( )ゝ( )ゝ ムチャシヤガッテ・・・......
.... i⌒ / i⌒ / i⌒ / i⌒ / .. ..... ................... .. . ...
.. 三 | 三 | 三 | 三 |
... ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪
476 :
吾輩は名無しである:05/02/07 04:22:55
>>393粘着の指摘にいちいちに賛成するわけではないが、やはり
>>393は腐るほどある信者的言説の一つにすぎなかった。
「小林は分かっている」「そして自分はその「小林は分かっている」ということを分かっている」と見下ろすのみで、
「何が」分かっているのか、手がかりを示そうさえせず「対話(?)」は不毛な終結を迎えることになる。
誰か「小林信者の習性」テンプレ(っつーのかな?)でも作ってよ(笑)。
477 :
吾輩は名無しである:05/02/07 04:37:08
ところで
>>393の語る「他者」の根本的な欠陥。
> 443 :吾輩は名無しである :05/02/06 20:26:56
> >>その反対で、何をしでかすやらわからない「生きてゐる人間」こそが他者だ。
> 「他者」は死んでる生きてるに関係しねぇよ。独自定義するな。
> 445 :吾輩は名無しである :05/02/06 20:32:20
>
>>443 > 独自定義ではない。文脈を想起しろや。「無常といふ事」だろが。
> 「生きてゐる人間などといふものは、どうも仕方のない代物だな。何を考へてゐるの
> やら、何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解つた
> 例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間と
> いふものは大したものだ。何故、ああはつきりとしつかりとして来るんだらう。まさ
> に人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつつある一
> 種の動物かな」
> 認識者の主観に取り込まれることを拒否して外部にあるものが他者だろ。
「何を言ひ出すのやら、仕出来すのやら分からない存在」として「言葉」によって表象された時点で
それは「他者」ではない。
「認識者の主観に取り込まれることを拒否して外部にあるものが他者」と言葉にすることで、
すでにそのようなものとして「認識者の主観に取り込まれ」ている。
現に
>>393の立場を補強するために都合よくその「他者」の存在が「使われて」しまっているわけだからさ。
そういう、言葉の複雑さ、「現実」の複雑さといっても良いんだけど、
そういったものに全く出会えず(または出会っているのだがそのことを理解できず)
一人「他者」(=小林)を所有した気で悦に入るノー天気さがアンチの感情を逆撫でするんだろうね。
478 :
吾輩は名無しである:05/02/07 04:44:51
「小林は分かっていない」「そして自分はその「小林は分かっていない」ということを分かっている」という虚勢と苛立ちから信者を見下ろすのみで、
「何が」分かりたいのか、手がかりを示そうとさえせず「攻撃(?)」は不毛な終結を迎えることになる。
誰か「小林アンチの習性」テンプレ(っつーのかな?)でも作ってよ(笑)。
信者って胡散臭いから嫌い。アンチって貧乏くさいからもっと嫌い。
480 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:03:57
>>478 まぜっかえすにしてももう少し知性とセンスが欲しいね(苦笑)。
小林信者を馬鹿にしているからと言ってアンチ小林ではないんだよ。
あまりに悲惨な読解についひとこと言いたくなってるだけでさ。
テクスト(などというちょっと恥ずかしい呼称を
>>478のような馬鹿相手の場合使わなければならないが)
に対する身振りに「信仰」と「否定」以外のものを想像もできない君の貧しい知性と感性は
勧善懲悪の時代劇に感涙する老人のようで実にほほえましいが。
481 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:08:33
まぜっかえすにしてはオリジナルに知性とセンスがなさすぎましたね(苦笑)。
「信者は胡散臭い」「アンチって貧乏くさい」
そして外野からそんなこという
>>479はずるい。
483 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:13:12
>>481 そういう煽りを思いついた時にやっと生きてる実感が感じられるのかな、君の場合?
だってここに集まってるやつらって、二三をのぞいてみんな外野じゃん。だから漏れも外野でいいのだよん。
485 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:18:07
このスレで信者の現れるのを今か今かとじっと待ちつづけてる時にやっと生きてる実感が感じられるのかな、君の場合?
486 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:21:35
>>484 >>482は「外野だから」ずるいのではなく
「外野からそんなこと(
>>479のような)いう」のがずるいと言っているんでしょ。
「外野であること」を否定しているのではない。
つか、そうやって応答している時点ですでに「外野」ではないのかもしれないが。
487 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:26:22
>>485 そうなんです!
1年365日、24時間ずっと
このスレで信者の現れるのを
今か今かと
じっと待ちつづけてるんです!!
って、んなわけないだろ(笑)
君の書き込みってオリジナリティ皆無だね。
「○○くんも持ってるんだもんママあれ買ってぇ〜」なんつって困らせたタイプ?
488 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:36:02
かくして487は延々とブラウザのリロードを繰り返すのであった・・・・・(おわり)
489 :
吾輩は名無しである:05/02/07 05:57:11
そうなんです!
延々リロード繰り返しちゃったよ。
責任とってよ。
てか、いやしくも木林スレなんだからさあ、
煽るにしても
せめてもう少し
メロドマラティックかつ優雅に
お願いしたいね。
490 :
489:05/02/07 06:00:57
あのさ、俺もさ大人なんよ。会社員。
でさ、会社で無視されてんの。みんなに。キモいから。
でね、俺が言いたいのはさ、別にさ、まぁいいんだけどさ、2ちゃんねるでさ
こんなとこでもさ、無視されるのねってことなの。
もうさ、いんだけどさ。最近さ、セブンイレブン、きこりの切り株
いっぱい売ってんじゃん。なんか。何であれ最近、復刻?意味わかんね。
ホント。でもさ、小林秀雄ーーー!とか店内で叫びたくなるんよ。
393は本物のバカ!
>>461に曰く、
>「言葉は如何なる事象も一般化できない」というのと
>「どんなに言葉を尽くしても言葉で表現されたものは
>"一般論"ではない」というのと、確かに同じではない
はああ? 相手の文章を全く逆に読んどるぞ。
>>446は「言葉は如何なる事象をも一般化してしか語れないものだよ。」と書いた。
「一般化できない」ではなく「一般化しかできない」だ。
この読解力の無さは致命的。それで小林秀雄だけは読めてるつもりかいな。
信者「小林はスゴイぞ!」
非信者「どこがどうスゴイの?」
信者「読めばわかる」
非信者「読んだけどわからん。どこよ?」
信者「俺にはわかるんだ」
非信者「わかるなら説明して」
信者「説明に何の意味がある。つまらないなら読まなきゃいい」
非信者「ハア?」
以下繰り返し
493 :
吾輩は名無しである:05/02/07 10:34:41
信者という呼び方はいいかげんやめてもらえないかな。
ただ好きで読んでいる愛読者もいるので信者と言われると抵抗ある。
小林秀雄は信仰対象となるような教義を持っていたわけでないし。
愛読している人たち同士のやりとりならもっとなごやかにできると思うし。
愛読するあまり批判できなくなったらそこから信者だな。得てして自覚がないが。
495 :
吾輩は名無しである:05/02/07 10:54:49
>>493 ここは愛読者の会ではない。批判もアリなのは当然でしょ。
信者は責任とれ!
信者は説明しろ!
信者は謝罪しる!
498 :
吾輩は名無しである:05/02/07 11:17:09
>>496 了解。ただ批判するには相当理解しなければね。俺には無理だな。
まあ批判するより称賛する方が楽だよね。わけもわからず有り難がっとけばいい。
オッとこれは信者のことで、まともな愛読者のことではないよ。
500 :
吾輩は名無しである:05/02/07 11:43:39
491なにが「この読解力の無さは致命的だ」だよ。ただの誤読じゃねぇか。ンなことでいちいち青筋立てて勝ち誇るなよ、若造。だからおまいら貧乏くせぇんだよ。
501 :
吾輩は名無しである:05/02/07 11:50:33
493なにが「愛読している人たち同士のやりとりならもっとなごやかにできると思うし」だよ。死ぬまで徒党組んでろ、爺い。だからおまいら胡散くせぇんだよ。
502 :
吾輩は名無しである:05/02/07 11:57:22
>>500 まあまあ若い人もそれなりに関心もってこのスレを読んでるわけだから
そんなに怒らないで。
愛読者も小林秀雄のどこがそんなに好きなのか語らないといけないね。
俺の場合は心根の優しさが好きだ。女子供、心の傷つきやすい人の味方でしょ、
小林秀雄は。「考えるヒント」の中の「忠臣蔵」、「本居宣長」の中の源氏論
なんか読むとそういう感じがしたよ。
>>502 違うと思うよ。
そのやさしさは、いわばヤクザがカタギに対するものだ。
小林は論敵倒すために庶民を仮想上の味方に付ける戦略を採っている。
「インテリは実はバカ」
こういうレトリックを濫用しすぎなところが俺は萎える。
その一言で論争を起こし、客を取っていることが見え見えなんだよね。
評論内容は一流だと思うけど、
俺はそういう小林秀雄の基本的態度が鼻につく。
オブスキュランティズムよりもたちが悪いと思うよ。
だって、今読むと、小林こそが韜晦したインテリに他ならないし。
しばしば吐露しているインテリ批判に見られる隠れた自虐性には、
自己憐憫の心性を感じてしまう。
なんか、頭からざっと読んでみたんですけど、パターンがあって笑えますね。
ドン・キホーテみたいなのが突然参上(287とか393とか)してきて、それを
やんややんやで潰しにかかる。キホーテ敢無く退散、やんや連は次のキホーテ
を待ち伏せ、みたいな。
>>505 簡単だよ。俺自身、小林の愛読者だからね。
重要な評論家であることは間違いない。
けど、小林読者特有の盲目性にはおおいに疑問がある。
批判的に読む奴が単なる小林嫌いと思うのは単純だ。
>>503 ちょっとわかるな。小林ってよく「○○主義者にはわからないだろうが」って
文末につけるでしょ。それって一体誰なの?っていつも突っ込みたくなる。
小林って実は2ちゃん的かも。煽りの天才。んで、「そういう小林秀雄の基本的
態度」がかえって世の中に受けたんじゃないの?2ちゃんが繁栄している
のがその証拠。
508 :
吾輩は名無しである:05/02/07 12:29:19
論争を起こして文壇で生きようとしたということは後年小林が自分で
書いていたね。
もひとつ。「小林読者特有の盲目性」っていうのは、も少し検討すべきなんじゃ
ないかな。ここでは単に貶して潰して終わりだけど、確かにそれはあって、しかも
ほかの文学者の愛読者にはあまり見られない(と思う)。で、それは単に「信者は
アホ」とかいうことじゃなくて、小林の文学そのものにその「盲目性」を開花
させる(へんな言葉だけど)強い磁力があって、愛読すればするほど「アホ」
になっちゃう、っていうような。だから「アホ」な信者は、ある意味、よく読んで
るとも言える(場合もある)わけで。
外在的な分析になるけれど、
高校教師や企業人のような、
大学インテリに抵抗がある読書人にとって、
小林のインテリ批判が心地よいんじゃないか?
知は力という現実があるから、
大学人は自分にわからないことを言っていて、
なんか偉そうだという潜在的不満がこうした読者にはある。
そこを小林秀雄は「王様は裸」と喝破する。
すると読者が溜飲を下げるわけだ。
もちろんこうした芸が成り立つ背景には、
小林秀雄自身がかなり学者の本を勉強したということがある。
だから小林読者には一定の知識が身に付くわけだ。
けれども「インテリをやっつけて庶民の現実に回帰する」
というエンターテイメントは、
やはり読者にそれ以上の探求をやめさせてしまう。
あらゆる読書人に余暇があるわけではないから、
小林のようにパッケージされた形で知識人のエッセンスを与えることには、
大きな意味がある。
けれども小林愛読者は往々にして、
当該分野(宣長、ドストなど)について読書を深める、
ということにはなりにくいのではないか。
511 :
吾輩は名無しである:05/02/07 12:52:51
小林の読者特有の盲目性というのはたしかにあるな。
磁力というか惚れさせるような力が文章にあるんだろうな。
「この世のことはどうでもいい、どうか後世をお助けください。」
現代人は鎌倉時代の生女房ほどにも無常ということがわかっていないね。
常なるものをみうしなったからね。
無常ということがわかっていた鎌倉時代の生女房は、
常なるものをはっきりととらえていた。
「常なるもの」って、弥勒信仰のことかしら?
>>512 生女房(子供ですよ)がその言葉の意味をわかって使っているわけないです。
念仏は「わかる」かどうかとは関係がない祈りの言葉だからこそ力を持つ。
そこに小林は着目したわけです。
そこであなたが現代人批判にいきなり飛躍する根拠は何ですか?
512は小林の「無常といふこと」のパロディーのようなものです。
この著名な文章の末尾が「(現代人は)常なるものをみうしなった」で、
小林が現代人批判にいきなり飛躍したのと等価です。
私の結論は、「無常といふこと」は一種の祈りなんだなぁ、です。
515 :
吾輩は名無しである:05/02/07 14:32:33
「無常という事」は唯物史観批判だと思って俺は読んでいた。
小林にとって歴史は事実の積み重ねだった、それ以外に何物も
付け加えないことが小林の歴史観だった。どこかの生女房ほど
にも事実の体験をしていないくせに歴史の発展法則だのの理論
で歴史を知ったような気になっている現代人はおかしい
ということを言いたかったのではないか。
小林の前期の仕事を総括するなら、唯物史観批判の側面があるでしょう。
それが前提にあるので、中期(戦中から戦後にかけて)の文章にも
それが通底してはいますが、後期の審美家とは違って、
中期には祈り(あるいは美しい絶望か?)が見られる、と解釈します。
多様な読み方を許すのは、相当のレベルの作品だということでもあります。
517 :
吾輩は名無しである:05/02/07 15:46:09
>>516 祈りとか美しい絶望?とか意味が解りませんね。
何を祈ったのでしょうか。
518 :
517:05/02/07 16:18:17
いや、あなたのおっしゃるとおり多様な読み方があっていいわけで、
何かに対する祈りが読み取れるということでいいです。
粘着はやめますね。
>>505 ドン・キホーテかもしれないけど、287や393みたいに
「継続的に」発言してるやつはまだマシだよ。
有象無象のアンチ君がこれに噛み付くのは仕方ないとしても、
他の小林読者が相変わらず口をパクパクさせてるだけなのが情けないよね。
小林の愛読者は「信者」というより「臆病者」ってのが、
このスレの最大特徴なんじゃない?
信者だったら殉死してみろってんだ。
っつーことで517もがむばってね♪
>>517 あえて言えば、
知識人の雄たる私も(あなたも)、鎌倉の生女房ほどの
信仰を持ち得ない(後世が信じられない)、という絶望、
今次の戦争で敗れたとしてもせめて人々が堕落しないように、
との祈りです。
522 :
517:05/02/07 17:05:30
>>521 ありがとうございます。
またあとで感想書きます。
523 :
517:05/02/07 21:41:04
「無常という事」を読み直してみたけど、祈りとか絶望とかいう
感想は僕には思い浮かばなかった。
やっぱり唯物史観批判というか時間という現代人の観念がおかしい、
現代人は鎌倉時代の生女房ほども確固たる生活感を持っていない、
そういう小林秀雄の気持ちを強く感じた。
ここでは思い出すことの大切さが強く書かれている。
思い出すことは自分だけが知っている自分史であり、余計なことを
思わせない過去(歴史)とともに大切にしていかなければならない。
小林はここでそれ以上のことは言っていないのではないでしょうか。
信者→俺はわかっているよ派
アンチ→ありじごく
このスレ→ありじごくの巣
信者を批判したからといってアンチ小林ではないんだよ派→ずるい
524→だからなに?
>>523 「祈りとか絶望」を読んだ516です。確かにこれは穿ち過ぎの可能性は
あります。しかし今さら唯物史観批判は眼目ではないと思います。
文末の「常なるものを見失った」をどう解釈するか。
「無常」という言葉を単純に否定しただけのレトリックかも知れませんが、
言葉の綾が別の意味を帯びて来ていそうです。
発表が昭和17年6月とあります。それこそ、初出と単行本掲載の決定稿との
相違があれば、是非とも知りたいところです。(近々調べようか。))
私も(30年)ぶりくらいで再読してみて、一言芳談抄から引用された言葉が
最も重みを保っていると思いました。
あと、「思い出す」ことの強烈な具体例が、
一言芳談抄から引用された言葉である、ということも
重要だと思います。この文に始まり、これで終わっているわけですから。
(単なる外枠設定というようなものではないでしょう。)
528 :
517:05/02/08 09:42:18
>>526 手元に本がないので引用が違ってると思いますが、
「現代人はどこかの生女房ほどにも無常をわかっていない。
常なるものを見失ったからだ」
この末尾の言葉ですね。
ここでいう「常なるもの」は日常の生活実感と僕は捉えました。
鎌倉時代の生女房は必死で生き、当時の世の中にほんろうされ、
仏教に救いを求めた。その生活実感と現代人の生活実感とはなんという
違いがあることか。現代人の方が本当の生活実感を持っていないのだ。
「常なるもの」、すなわち本当に生きている実感を現代人は失っているのだ。
こういう意味だと思います。うまく言えてないですが。
無常という言葉は仏教的意味合いを帯びているけど、それにはとらわれないで
読むのがいいと思います。
>>528 もしその程度の凡庸な教訓を述べるための文章だったとすれば、
なんであんな持って回った言回しを多用せにゃならんかったのかが不審になるぞ。
530 :
517:05/02/08 10:18:40
>>529 たしかに思わせぶりな言い回しをしていますが、これは小林自身が
好んだ、良かれと思った表現だったのでしょう。
若い頃に中原中也や富永太郎という純正の詩人たちと交友した
詩人としての痕跡があると見ます。
それから「凡庸な教訓」と感じられるのは、それは僕の説明が下手なためです。
お許しを。
つまり……良かれと思って良くないことをする小林? なるほど。
もっと散文精神を!
>>528 「ここでいう「常なるもの」は日常の生活実感と僕は捉えました。」
(516が続きを述べます。自分の中で確定したわけではありませんが。)
「常なるもの」は「(信仰が与えてくれる)永遠の意識」と捉えたほうが
文脈に合っているような気がします。戦時下という異常事態下にあって、
「常なるもの」を見失った現代人を高所から非難するのでなく、
小林本人もそれを見出せないでいるという悲嘆がこめられている
(あるいは悲嘆がこめられていると深読みできる)のではないでしょうか。
(516続き)
いや、小林本人は、一言芳談抄の言葉を不意に、歴々と思い出し、
そこに常なるものを感じ取ったとも受け取れます。
その場合は、自らは日本古典文学に常なるものを見つけた、
ということになりますね。後世を助けたまえという祈りとともに。
535 :
517:05/02/08 13:16:00
>>533-534 美しい読み方ですね。
ただ、小林が提出した「無常」とか「常なるもの」とか仏教めいた言葉に
まどわされがちな文章なので、そのあたりを気をつけて読まなければ
ならないと思います。小林自身はここでけっして自身の信仰告白めいた
ことは言っていません。鮮やかに「一言芳談抄」の言葉を思い出したとか、
川端康成と「生きている人間は動物か」と会話したとか、現実的な体験しか
書いていませんね。「後世を助けたまえ」と祈ったのはあくまでも鎌倉時代
の生女房です。小林ではありません。
生女房は世の中に振り回され不幸だったろうが、生きている実感は現代人
よりはるかに強く持っていた。こういう小林の主張が僕には強く印象に残ります。
>>535 「一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。」
なぜ固定する?
「歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」
どうして動かない? 動かないのが何が美しい?
何の説明もぬきにした高飛車な断言。
これが「信仰告白」でなければ、教祖のご託宣だよ。
537 :
517:05/02/08 17:15:23
>>536 小林は当たり前のことを言っているにすぎません。
「一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。」
歴史は過ぎ去った事実の積み重ねだから動かしがたいのは当たり前。
このあたりは小林自身も唯物史観という歴史の新しい見方に多少影響され、
動揺したことがあることをうかがわせます。だから「見れば見るほど」というのは
新しい見方をしてみたが、歴史はびくともしないものだったということでしょう。
「歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。」
これも当然のことを言っているだけ。「のっぴきならぬ」とか「美しい形」とかは
言葉の綾です。過ぎ去ったものが動じるはずがありません。美しいと感じるのは
小林の主観です。さびしいとか悲しいとか感じる人もいるはずです。
全く「信仰」など表明している文ではないです。
>過ぎ去ったものが動じるはずがありません。
いや、見れば見るほど過去の真相がわからなくなってくるのが歴史研究の第一歩だよ。
その過程を素っ飛ばして断定したがるなら唯物史観に凝り固まった連中と同じだな。
>>537 「動じない」ものは「美しい」と断ずる想念こそ、小林の「信仰」でしょ。
小林が川端に語ったのも信仰告白だから、川端も挨拶に困って返辞できなかったのでは。
>>530 散文に詩を持ち込んで美学化する、特に戦争をも美学化したことが小林の汚点。
cf.森本淳生『小林秀雄の論理――美と戦争』(人文書院・2002)
「歴史」とか「信仰」とかの概念が互いに重ならないまま
やりとりしているように思えます。
「見れば見るほど動かし難い形と映って来る歴史」という、小林が
抱いたイメージは、歴史家の言う「歴史の真実」ではありません。
「当時の生女房の言葉が現在に生きるような鎌倉時代の歴史」
「死者が美しく見えるような歴史」
これは(偏っているにしても)ある種のものの見方であって、
「信仰」とは以って否なるものと考えます。
542 :
水戸の馬鹿:05/02/08 18:28:02
小林秀雄と中原中也には長谷川泰子との性生活について語って欲しかったな!!
>>541 >歴史家の言う「歴史の真実」ではありません。
ふむ。では何であるのか、「小林が抱いたイメージ」とは。
それを言ってくれなくては小林の文章の読解にならないでしょ。
反論を受けつけない偏ったものの見方を「信仰」と呼ぶのは順当な比喩かと。
544 :
吾輩は名無しである:05/02/08 18:36:38
小林秀雄はパクリ作家!
>>544 E・H・カー『ドストエフスキイ伝』のこと?
>反論を受けつけない偏ったものの見方を「信仰」と呼ぶのは順当な比喩かと。
せめて「迷信」とか「迷妄」とか「妄信」とか「盲信」とかって言ってよ。
言葉をもっと大事に使おうね。
>>544 & 545
そういうことは、小林の「ドストエフスキイの生活」とカーの「ドストエフスキー」
を自分で精読してからにしようね。
>>543 偏ったものの見方はやはり「偏見」でよいでしょう。
「信仰」には「救済」という積極的な何かが付帯するはず。
「小林が抱いたイメージ」についてはもう少し考えてみます。
>544
そう思うなら、カーをパクって「ドストエフスキイの生活」以上の伝記を自分で書いてみてごらん。
>>546 「迷信」や「妄信」は、「信仰」の一種だが。
「無常といふ事」が宗教的なものに接近したのは紛れもない。
坂口安吾に「教祖の文学」と評されたこともあり、「信仰」と呼ぶのは自然だ。
なんでそこまでかたくなに「信仰」と呼ばれるのを避けたがるのか。
信者のアポロジーに見える。
いくら改稿したからって、小林秀雄がカーからと断らずに盗用したのは事実なんだし。
論点は逸らせるけど、パクったのは否定できないんだ。
>>547 >偏ったものの見方はやはり「偏見」でよいでしょう。
だから
>>543で「*反論を受けつけない*偏ったものの見方」と書いたのに。
突飛なことを理性的検討を拒んだ定言命題の形で断言されては、
信仰としか受け取れない。美による「救済」願望もあるみたいだし。
小林自身は「今の信仰軽蔑という風潮はみんな批判意識の不足から
来ている」って言ってるよ。だけど、ここで皆が口を揃えて言ってるのは
「信仰は批判意識の欠如だ」ってことで、ぜんぜん逆なんです。
それに対して小林は「信じるという行為を無意識なものだと
思っているのは現代意識の甘っちょろさだ」とも言ってる。
そういうことをちゃんとふまえた上で議論しないとぜんぜん面白くない。
「そんなこと言ったって、お前の信仰はやっぱり批判意識が欠如してる
じゃねぇか!」って言うのはいいさ。だけど、それを主張するために
散文詩みたいな「無常といふ事」の一フレーズに固執して、
「現国」レベルの読解でちまちま揶揄したって、つまらんじゃん。
そうは思いませんか?
>>552 ぜんぜん逆?
それは小林がいつも世間の通説をひっくり返した逆説を吐くからでは。
で、どうしてそんな逆になるかは相変らず説明せず決めつける一方でしょ。
「そういうことをちゃんとふまえ」るって、
なぜそんな小林の逆説を正しいものと前提にしなけれぁならないの?
>>552 そんなこと言って、「現国」レベルでない読解を小林擁護派は誰も示してくれませんから。
信者は無根拠に賞讃するばっかで「現国」レベルの読解すら出てきませんから。残念。
とりあえず553は無視ね。
個人的には「現国レベルの読解」より「無根拠に賞讃」のほうがまだマシかな
って思うけど、んなこといってもはじまらんわね。ほんと残念て感じ・・
まえに「たんと反省するがいい」が補筆だって話が出たけど、ああいう指摘が有意義だよね。
>>555 都合が悪い指摘は無視ですか。
通説を引っ繰り返しただけの小林の逆説を、何で信奉しなきゃいけないのかね。
うん、無視です。
つまり反論を受けつけず、討議を拒否すると。それが信仰だってのよ。やはり信者か。
だって、ぜんぜん人の文章読んでないんだもん。話したいならそれからにしてね。
>>553、558、560
おそろしく頭悪いな。ほんとこわいよ。魔女狩りにとり憑かれた村人Aってかんじ。
他人に通じない独り善がりの文章を書いて、わからん奴が悪いと罵る。
小林信者は小林の悪癖を見事に踏襲してますね。
わかってほしけりゃ、なんで「信仰軽蔑という風潮はみんな批判意識の不足から来ている」なんてことになるのか、言ってみろ。
反論できないからってごまかしちゃいかんな。
>>564 「独り善がり」ってほどの文章じゃないでしょ(笑)
>>567 556は完全無視したほうがよいと思われます。
だから「ふまえる」とか「前提」の意味が違い過ぎるのよ。
>>570 ではどう「ふまえる」わけ? そこが肝心なのに、何も言ってないね。
なんで
どうして
ごまかさないで
説明して
どうも粘着アンチは野党らしい。
まともに回答すればいいのにしないからだね。逃げるから追及されるんでしょ。
信者のは所詮わかってるふり、わかってるつもりだからさ。
詰め寄られると誤魔化すしかないんだよ。
>>548みたいに。
なんか、粘着アンチって痛々しいね。
541に追加
(1)「歴史の新しい見方」(2)「歴史は見れば見るほど動かし難い形」
(3)「歴史はいよいよ美しく」(4)「鴎外は歴史の魂に推参」
(5)「歴史には死人だけしか現れて来ない」(6)「多くの歴史家は一種の動物に止まる」
以上が「無常といふこと」の「歴史」の全てです。
一般の「歴史」ではなく「死人しか現れない歴史」というところに特異性があります。
小林が、敗戦を予感し、歴史というものの捉え方を局限したためでしょう。
ですから、彼は美学にゆきつかないし、歴史学にもゆきつかないままです。
でも、文学の存在意義は意外とそのような偏見(?)にあるのではないでしょうか。
>一般の「歴史」ではなく「死人しか現れない歴史」というところに特異性があります。
ならなぜ特異な歴史としてではなく歴史全般を全称命題で語ってるのかな。
誤解を招く拙劣な書き方でないとすれば、何か狙ってる魂胆があるわけでしょ。
>小林が、敗戦を予感し、歴史というものの捉え方を局限したためでしょう。
飛躍してるので、なぜ「敗戦」が導き出されるのか説得的でない。
>ですから、彼は美学にゆきつかないし、歴史学にもゆきつかないままです。
「ですから」がまた飛躍。歴史学はさておいても、美学にゆきつかないとする理由は不明。
曖昧なまま語って解説したつもりになられても困る。
579 :
517:05/02/09 09:56:40
小林の言葉の使い方が独特で解りにくいのですね。
小林が言う「歴史」は「歴史」というより「過去」と言った方がいい。
「歴史」というとどうしても社会科学のイメージがつきまとい、どうしても
どういう切り口で解釈するか人間の頭の作業になってしまう。
小林が言っている「歴史」は「過去」のことであり、それはいつどこで何が
あったかの累積にすぎず、動かしがたいのは当たり前。
タイムマシンができてタイムトラベラーが行き来しない限り「過去」は変わらない。
「過去」のことを言っているのに小林は「歴史はいよいよ美しく」とか「歴史の魂」
とか自分独特の審美用語を持ち込むから文章の意味が解りにくくなる。
解りにくく深遠な装いを持たせて自分の文章の価値を高めさせようとした意図もあると思うけど。
>>579 何だ、単に過去は既定であるってだけの話だったの?
それにしてはあんまりひどく捏ねくったもんだね。
581 :
517:05/02/09 10:13:21
>>580 歴史という言葉自体がそもそも解りにくいのですね。
小林もいろいろな歴史の理論書、歴史資料などを読み込んだうえで、
自分なりに歴史について考えを突きつめて、「歴史は動かしがたいものだ」
という一番シンプルな歴史のイメージを持ったのでしょう。
過去が動かないってのは「当たり前」すぎる。問題はそこでなくて、
なぜそれを「美しい」だのそれが「餘計な思ひをさせない」だのと
わけわからんことを述べてるのか、でしょ。
583 :
517:05/02/09 10:39:48
>>582 当時の小林にとって歴史は繰り返しのきかない過去の事実の累積
であるということはとても大きな発見だったのだと思います。
前にも書いたようにそういう歴史を美しいと見たのは小林の主観にすぎません。
「過去」も歴史的操作を加えれば若干の動きを生ずる。
それが「余計な思いをさせない」ことの例として、
鎌倉時代の一言芳談抄の言葉が一気に迫ってきた
という体験を冒頭に持ってきた。
「此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へ。」
がそれほど圧倒的だったということ。
「歴史は動かしがたいものだ」という歴史のイメージを持ったのは、
それこそ、作者が危機の中にあったからだと思う。
>>583 当時は、小林の主観にとっては、か。
つまり――
今となっては、また我々読者にとっては、もはや無価値な文だと?
まあ1940年代当時としても凡庸な見方で、到底「発見」とは評せない気がするけど。
それとも、逆説ばかりひねくってた小林には却って凡庸な常識が珍しく見えたのかな。
>>584 >それが「余計な思いをさせない」ことの例として、
「それが」は「それに対して」「それと反対に」の意味のつもりなの?
587 :
517:05/02/09 10:56:37
>>585 無価値な文だとは思えませんね。
何よりも文学として非常に魅力的な文であること。評論としてはだめだろうけど。
それから思い出すことの大切さはわれわれの人生にとってもとても大切だと思うし。
また、生きていることの鮮烈な実感を持つことの今の難しさについても反省
させられる。自動人形のような生き方を強いられている今の世の中ですから。
あんた、それだと小林が「人生の教師」ですから。残念。
>>587
>>587 >何よりも文学として非常に魅力的な文であること。
ならその魅力をこそ説き明かすべきでないかな。無価値な歴史観を語るよりも。
590 :
吾輩は名無しである:05/02/09 11:11:22
517は、この文章が戦時中のものであることは当然ご存じ?
当時は唯物史観どころか「世界史の哲学」が席巻していたのだよ。
591 :
517:05/02/09 11:22:44
>>589 魅力を感じるというのは個人的なものなので説き明かすというのはどうも。
強いて言えばリアリティーを感じるということですね。
「蕎麦を食べながら」とかのあたりは好きです。
592 :
517:05/02/09 11:26:59
>>590 戦争にこの文章を結びつけるのは問題があるような気がしています。
「世界史の哲学」、ぴんと来ません。H・G・ウェルズとか?
>>591 個人的って……
唯あなた一人だけが感じる魅力で、他の人とは全く共有できず重なりもしない独自な感覚なわけ?
そんなわけないよね。だとしたら語れるはずだし、それを語るのが文藝批評の面白味であるはず。
>>592 何でウェルズが出てくるんだよっ。
これで517が全然背景をわかってないことがハッキリしたなあ。
当時『文學界』でも「近代の超克」を論じただろが。
596 :
591:05/02/09 11:51:41
>>593 魅力を語れと言われれば自分の感想をだらだらと述べるしかないですが、
それだとこのスレの人たちに失礼ではないかと。
正直に少しだけ言うと、小林秀雄には教えられることが多いです。「人生の教師」として
あがめていることはないですが。
それから魅力を感じているのは解りにくい、解き明かしたい、読んで解ってやろう
という意欲を湧かせる文章だからというところもあります。
「徒然草」(小林が「無常という事」と同じ頃に発表した文)もどうしても解らない
ところがあり、何十年も自分の中で未解決。それがまた魅力でもあります。
597 :
517:05/02/09 12:38:09
↑上のも517でした。
>>594 当時の時代背景と「無常という事」はそんなに関係があるのでしょうか。
本文を読む限りそんな気はしませんでした。よろしければ教えてください。
「近代の超克」は文学者が何人も集って語った会談録を富山房百科文庫で
持っています。小林が「利口な奴はたんと反省するがいい」とか日本の
古典文学や骨董に傾斜した理由を語ったり、重要な記録ですね。
これが小林の全集に入っていないのはおかしいですね。
「利口な奴はたんと反省するがいい」は戦後の『近代文学』創刊号の座談会で
戦中の『近代の超克』とは別だ。何を混乱してるのやら。
599 :
517:05/02/09 12:49:31
577です。
「無常といふ事」の魅力の一つとして、一言芳談抄の言葉を
不意に思い浮かべるところで、「当時の絵巻物のように」云々
というような比喩があったと思いますが、比喩の収まり方が
卓抜だと感じました。
あと、末尾の「常なるもの」が多義性を帯びていることも、
曖昧さを難ずるのでなく、肯定的に捉えています。
601 :
吾輩は名無しである:05/02/09 14:02:41
当時の時代背景なしには、この文章に迫力は生まれなかった。
それをわからない517こそクズ歴史家。
そこで、雑誌初出が、現在我々の読んでいる文章と同一か否かが
かなり大きな問題になるわけです。
それから、「無常といふこと」第5段落に、
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」というのは宣長の抱いた
一番強い思想だ、
とありますが、宣長は古事記伝でこんなことを述べているのでしょうか?
603 :
517:05/02/09 15:28:04
>>602 そういえば小林の宣長についての言及はこの「無常という事」でが
最初のはずですね。
「古事記」を読もうと思いどうせ読むなら宣長の「古事記伝」でと思った、
とのちに言っています。
>「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」というのは宣長の抱いた
一番強い思想だ、
これはこの当時の小林の宣長についての要約だったのでしょう。自分の考えを
無理やり宣長からひっぱり出した感じがあります。もちろん「古事記伝」の
原文にはこんな言葉はないでしょう。
「無常といふ事」について、雑誌初出(『文学界』昭和17年6月)と、
我々が通常目にする単行本収録文との相違は、あるでしょうか。
このことが気になって、先日調べたのですが、予期に反して、
ほとんど相違のないことを確認しました。
強いて挙げるなら、次の個所になります。いずれも内容変更を伴うものではありません。
(1)現行「又、或る日、ある考へが突然浮び、偶々傍らにゐた川端康成さんに
こんな風に喋つたのを思ひ出す。彼笑つて答へなかつたが。」
初出「又、或る日、ある考へが突然浮び、偶々傍らにゐた川端康成さんに
こんな風に喋つたのを思ひ出す。彼も屹度覚えてゐてくれてゐるだらう。
聞いて、彼はそんな風に笑つたから。」
(2)現行「僕等が過去を飾り勝ちなのではない。
過去の方で僕等に余計な思ひをさせないだけなのである。」
初出「僕らは過去を飾り勝ちなのではない。
過去は僕らに余計な思ひをさせないだけなのである。」
「当麻」の初出(『文学界』昭和17年4月)と現行の文章との相違は、
「無常といふ事」よりも大きいのですが、いずれも文章の密度を
高めるための改変であって、内容的な変化はありません。
最重要の個所のみ、相違点を紹介してみましょう。
現行「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩す現代の美学者の方が、
化かされてゐるに過ぎない。」
初出「彼の教には、美しい形を編み出さうとする自然人の真実さが
鳴り響いてゐるのであり、彼の「花」の観念の曖昧さに就いて
頭を悩す現代の美学者の方が、皆戸惑つてゐるのである。」
606 :
吾輩は名無しである:05/02/14 18:28:48
上の書き込みに関連して、少し前に刊行された(『阿修羅の辞典』という
ちょっと変わった)本から引用してみます。
はな【花】 「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。」
という命題に例示される世阿弥の美的理念。大東亜戦争中のある日、
能の鑑賞を済ませた小林秀雄が、翻訳されて間もないグールモンの
断章を借用しつつこれに「花」を付加したところ、印象的な名文句が
生まれた。例:@「この世の中には「美しいもの」はあるけれども
「美」はないのである。」(グールモン『沙上の足跡』堀口大学訳)。
A「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。」
(小林秀雄「当麻」)。
607 :
吾輩は名無しである:05/02/14 22:07:35
>>604-605 グッジョブ!
内容に大差ないとは言えニュアンスが違いますね。
いずれも初出時の方が良いように思えました。
605の続きです。
「当麻」は、冒頭部分と末尾の部分とに、多く手が加わっています。
折角の機会ですので、その個所を紹介しておきましょう。
他にも変更点がありますが、冒頭・末尾の改訂に比べると些細なものです。
(現行)
○梅若の能楽堂で、万三郎の当麻を見た。
○僕は、星が輝き、雪が消え残つた夜道を歩いてゐた。何故、あの
夢を破る様な笛の音や大皷の音が、いつまでも耳に残るのであらうか。
夢はまさしく破られたのではあるまいか。白い袖が翻り、・・・
(・・・)
・・・彼はさう言つてゐるのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する
顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了ふがよい、彼が、
もし今日生きてゐたなら、さう言ひたいかも知れぬ。
○僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。あゝ、去年の雪
何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。
僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。
(初出)
○先日、梅若の能楽堂で、当麻を見て、非常に心を動かされた。
当麻といふ能の由来についても、万三郎といふ能役者が名人であること
についても、僕には殆ど知識らしい知識があるわけではなかつた。
が、そんな事はどうでもよかつた。
○何故、あの夢を破る様な笛の音や大皷の音が、いつまでも耳に
残るのであらうか。そして、確かに僕は夢を見てゐたのではなく、
夢を醒まされたのではあるまいか。星が輝き、雲が消え残つた夜道
を歩き乍ら、そんな事を考へ続けてゐた。白い袖が翻り、・・・
(・・・)
・・・彼はさう言つてゐるのだ。
○観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、
お面で隠して了ふがよい、彼は恐らくさう断言したいのだ。
僕は、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。去年の雪何処に在りや、
いや、それはいけない思想だ、それより俺はずゐ分腹が減つてゐる筈だ。
僕は、再び星を眺め、雪を眺めた。
610 :
吾輩は名無しである:05/02/15 20:16:32
>>608-609 現行文より初出文の方が意味がわかりやすい傾向にあるようですね。
かっこよさでは「当麻」は現行の方が上回ってると思った。
最後から2行目「それはいけない思想だ」「そんなところに落ちこんではいけない」
後者の方がかっこいい。
611 :
吾輩は名無しである:05/02/16 06:45:04
たしかにかっこいいけどさ
そのかっこよさは健全ではない
612 :
吾輩は名無しである:05/02/16 09:28:52
去年の雪何処に在りや、
いや、それはいけない思想だ、
ヴィヨンの詩を掲げ、それをいけない「思想」だという。
なぜここで「思想」という言葉を使ったのかわけわからん。
「思想」ではなくただそういう詩の一節が浮かんだだけだろうに。
>>612 雪、それは好ましいもの。
去年の雪、それは好ましいが過ぎ去ったもの。
何処に在りや、は雪を捜し求める行為。
雪何処に在りや、というのなら首肯されるが、
過去に向かって好ましいものを追い求めるのは「いけない思想」
まさに小林のエクリチュール、というのが漏れの解釈。
あなたがアンチ小林であるのならば、あなたの血液型はA型
小林秀雄は太宰治と同じ東大文学部仏文科の出身だが太宰が一度も
学校に来なかったのに比べて勤勉にも学校にはちゃんと出席して
優等生だったらしい。小林先生が翻訳した事で有名なアルチュール・
ランボーを評して先生は「ごくごく勤勉な人だった。」と言った
らしい。詩人や評論家は勤勉な人の方が向いているのかもしれない。
小説家は碌に学校にも来ない太宰みたいな人が良いのかもね。
能の当麻が筆者の内面にもたらしたように、
過去がそのまま現在に生きるのをよしとする。
去年の雪今いずこ、という叙情的耽溺は、
目下の筆者にはいけない思想(考え方)だ。
小林は、「歴史」とか「思想」という言葉を
一般とはちょっと違った意味で使っている。
>>613 そんなカッコつけが「思想」なのかね。
>>614 ナニ言ってんの。小林は怠惰な学生だったよ。
618 :
吾輩は名無しである:05/02/16 13:27:01
>>615 同感。
こぞの雪今いずこなどと感傷にひたる俺ではいけない、という気持。
それにしても小林は「思想」という言葉を安易に使うよな。
もし小林秀雄語彙辞典なるものができたとしたら、
たぶん「思想」という言葉の使用頻度が一位に来るというのが俺の予想。
619 :
吾輩は名無しである:05/02/16 13:35:39
フランス語の「パンセ」という語を念頭に置いていたんだろうな。
その場合、もっと気楽なニュアンスが混じる。
まあ小林は「思想」という単語を広範な意味で捉えていたのだろう。
曖昧で抽象的だから使いやすい言葉だしな。
622 :
吾輩は名無しである:05/02/16 13:54:14
>>619 naruhodonaruhodo
penser desune
623 :
吾輩は名無しである:05/02/16 13:58:45
むしろ名詞のpenseeね。
後ろから二番目のeにアクサンテギュ。
しかし日本語で書く以上、フランス語の含意に頼るのは邪道。
625 :
吾輩は名無しである:05/02/16 14:05:26
邪道を禁じたら、小林秀雄が成り立たなくなります。
この人がやっているのは、
仏文脈+骨董+後知恵の国学の使い分けだろ?
むろん小林秀雄は邪道。
むしろ外道か。
安吾との対談では、「小林さんは正道じゃない。」という安吾に対して
「どこにいったい正道があるのか。」と切り返していたな。
「外国語の含意に頼るのは邪道」とは限りません。
たとえばハイデガーが難解なのは、ギリシャ語では普通の言い回しを
わざとドイツ語に持ってくるような書き方をするのが一因だそうです。
同様のことで日本語を豊かにできるなら、邪道ではないでしょう。
で、話は変わりますが、
フランス語の histoire は「歴史」と「物語」の両方の意味を持ちます。
これが、小林の「歴史」の使い方がちょっとおかしい原因ではないか、
と私は思想しますた。
もちろんハイデガーだって邪道だが。そんなもんで擁護できるわけあるか。
西田哲学の奇怪な日本語を批判しておきながら、自分でもやってりゃ世話無い。
631 :
吾輩は名無しである:05/02/16 14:37:26
おかしいといえば「常識」という言葉の使い方も小林はおかしいぞ。
とおれは思想する。
時代の混乱がそのまま言語の混乱に反映される、という小林流の考え方からすると
小林の文章も、時代の混乱をやはり反映していた、といえる。混乱を体現し、乗り越え
られれば、その文章は単なる混乱の反映ではなく、時代を表現したものとなる。
小林の文に、そこまでは要求しない。時代の混乱にぶつかって、くだけた残骸のような
文からでも、混乱のありようは感知できる。
ところが書いた時代から何年も経ってから改稿してるんだよね。
>>632
改稿したら、その文は当時の反映ではなくなるというわけかな。過去は現在に
生きているという小林の思想からすれば、改稿によって過去の反映が、文から
完全に失われるということもない。過去はあくまで現在から見られた過去。
人間の記憶は、過去の機械的な再現ではなく、思い出はほのかに潤色される
その潤色された思い出のごとくありたいと、文は改稿されるのであろう。
どのように改稿されたのか、実物の文にあたって、検証し、議論することは
改稿を議論するにあたり、必要ではあるな。
改稿はもういいんじゃね?
>>634 つまり「過去を飾りがち」ってことだわな、それは。
だいたい何故「過去は現在に生きているという小林の思想」を前提にして受け容れなきゃならんのさ。
…象に向かって、おまえの鼻はなぜ長い、と尋ねるような、あるいは山登りに
向かって、おまえは何故山に登るのかと問うような愚問をかぶせてきたか。
愚問に対しては、愚にもつかぬ返答しかできんな。
こちらが、小林の考え方が、常識的であり、至極もっともであると思っているからさ。
そちらが、そうは思えないというのは、そちらの勝手で、当方の感知するところではない。
そういえば、小林の「常識」はfouである、といったのは柄谷だったか。小林には
「常識について」という講演だったか、エッセイだったかがあるから、小林の使う「常識」の
中身を検討するには、それにあたるのが一番速い。トマス・ペインの「コモンセンス」の話が
前振りで、論はデカルト思想の検討により成り立っている。柄谷は、小林の思想の拠って立つ
ところをベルグソン=デカルト主義と規定し、それは大筋で間違っちゃいないのだろう。
しかし、デカルトとベルグソンはずいぶんと違う思想家のように思われる。ベルグソンは
近代科学批判の文脈にそって、オカルトにもずいぶんと傾倒したようであるし。オカルトは
非常識の世界の話であるが、非常識の世界に深い関心を持っているものは、正しく「常識」を
発語できないと決めつけるのは、早急だよ。
むしろ、なぜ小林信者は長くもない豚の鼻をなぜ象の長い鼻と見るのか、ってことだよ。
>>638
豚と象を見間違えるというのは、普通ありえねーな。そりゃたまたま、そいつの
目がおかしかっただけだ。
たとえのどこかのカルトに属する信者だろうと、きわめておかしな信条の虜である変わり者で
あろうと、豚と象は、普通、見間違わない。こういう例を引き合いにだして、常識についての言説は
カルト信者にも最低限の「常識」は分有されている、という。
ところが実地に見るのと違って文章の上でとなると、
豚を象と、月をスッポンと、見誤ることがしばしばあるんだな。
そこが批評のむつかしいところよ。
まあ、小林も見間違いはよくやっている。ゴッホ論でも見間違いをしたというし
ベルグソン論を放棄したのも、途中で見間違いに気がついたからだというし。
単なる間違いを、ご託宣のように奉るのは、確かにばかばかしい。
「本居宣長補記」にこうありました。
「彼は、現在の己れの心のうちに甦り、己れの所有と化した過去しか、
決して語った事はない。」
宣長でなく、自分のことを語っているようです。
人間、根本の発想は変えようがありませんね。
ホント、進歩が無いね。
>>645 なのになんでこんなに人気があるんだろう?
>>646 読者に批判力が足りないから? 小林教祖がそれにつけ込んだ気取りで陶酔させるから?
そりゃぁ、一般の読者よりは小林さんの方が読みが深いだろうて。
ドストエフスキーの作品論なんか、一般の読者には書けない。
>>647 教祖は遥か以前に他界しているのに、現存しているような書きぶり。
アンチを装った信者とみたw。
小林のパラダイムでいまだに議論しているから、
影響は大きいんだろうな。
>>648 深読みはしばしば見当外れな偏見による独断に過ぎない。ロラン・バルトの浅さの美徳を知れ。
>>640-641 大岡昇平「再会」より、青山二郎が小林秀雄にからむ場面。
……
「お前さんには才能がないね」
……
「お前のやつてることは、お魚を釣ることぢやねえ。釣る手附を見せてるだけだ。そうら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。ほうら、だんだん魚が上つて来るぞ。どうぢや、頭が見えたらう。途端、ぷつつ、糸が切れるんだよ」
……「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」
……
「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か、水中に棲息すべきではない象、象が上つて来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつつ、糸が切れるんだよ」
652 :
吾輩は名無しである:05/02/17 19:48:13
青山二郎との会話は楽屋裏みたいなものだからな。
泣かされたとかケンカしたとかいう話は興味はあるけど、だからなんなのって
いう程度で終わってしまう。
小林秀雄の表舞台である作品そのものに切り込んでほしい。
>>650 それも一つの意見でしかないよな。
浅読みは「見当はずれな偏見による独断」を排除できるものかね?
どのように読んだところが保証はないわけだろう?
>>652 「お魚を釣ることぢやねえ。釣る手附を見せてるだけだ。」てのは、適評だろが。
>>654 アナロジーは所詮アナロジー。適評ではありません。
>>653 すると、小林の深読みも一つの意見でしかなく、尊重する理由が無くなるわけで。
>>655 アナロジーとか比喩にも、当ってるのと見当外れとがある。
青山の比喩は小林のイタい所を見事に突いた適評で、
だからこそ小林も泣いたし大岡昇平も書き留めたはず。
>>656 小林の意見を深いか浅いか判断するのは読み手だね。ただの意見でもいい。
おれはいい意見だと思うだけだ。
すると2chで見られる、えげつないあおりに感情を害されるとすれば
それは適評だからということになるわけかな?
>おれはいい意見だと思うだけだ。
あなたの貧しい主観なんて聞いてないよ。
それを或る程度共有できる形にまで言語化してくれなくちゃ始まらない。
独断を神秘化して主観に立て籠るのは小林と小林信者の悪い癖。
>>658 理由がないというからさ。すきなだけ、というのは十分返答になっている。
使っている言語が日本語であればね。○×で割り切ろうとするのはアンチの悪い癖。
で、後半は反論できないわけね。
議論するには役不足なアンチだなあ。
>>659 あんたが好きなだけってのが、どうして他人にまで小林の論を前提させる理由になるかね。
後半って? イチャモンにまで相手しろと? まさか本気で言ってたの?
学者と官僚に西田批判が述べられている。
善の研究は好きなんだが、西田の孤独が健全でない、と言っているのが
納得できない。
小林の論難は、デカルトにしろニイチェにしろ、反定立があったから健全
だったと読めるのだが、西田が弁証法思考をまっとうしていたのは善の研究
を読めばあきらかだと思う。この点ご意見を伺いたい。
662 :
むつを:05/02/17 23:43:31
僕の彼女が言った言葉です。「ねえねえ、ニーチェってどんなこと言ってるの?」
>>660 日本語が読めない人ですね。
適評ではないと言う見解をあなたの好きなアナロジで反論しただけだよ。
で、それはいまだに反論になっていないわけだ。いちゃもんというのは
まさにあなたの発言のようなものを言うわけ。
逐語訳でも用意してもらわないと分からないとみえるね。
不毛だからこのけんは引き下がります。
「学者と官僚」の西田哲学批判ね。小林自身にも当て嵌まるのを自覚してないのかね。↓
>西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。
>自問自答ばかりしている誠実というものが、どの位惑わしに充ちたものかは、神様だけが知っている。
>この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれておらず、勿論外国語でも書かれていないという奇怪なシステムを作り上げて了った。
>>662 キリスト教の倫理を弱者とし、それに反する強者を超人と言った。
プラトンが国家論で理想の君主による独裁政治を是としたけれど、
超人というのはこれを指しているような気がする。
真偽はともかく、女とチャットならこれで十分話題を次へ進められると思う。
にくいね。
>>664 引用どうも。
小林に当てはまるかな?
西田批判がほかに比べて分かりにくい。
読み取れていないというのはあるかもしれないが、
こういう批判をする前提として、何か心当たりありますか?
>>667 『善の研究』しか読んでないわけ? あれは明治末年の旧作に過ぎない。
「学者と官僚」が発表された昭和十四年頃、西田哲学・京都学派が猛勢をふるったでしょ。
その時代背景とその頃の西田幾多郎の文章を照合したら?
それに「弁証法」なんて言っても、独我論的な自問自答止まりでないの。
>>668 基本的にあれが西田の弁証法の記述で一番良くできたもの。
さえも、読んでないみたいだね。
小林のことが聞きたかったんだけどね。
読んだところで誰もが「良くできたもの」と見做すとは限らない。
信者にはそれがわからない――小林信者も西田信者も。
「おれはいい意見だと思うだけだ」とか言って、自分の読みに固執し
それ以外の読みの可能性を考慮しない。なるほど「自問自答ばかりしている誠実」だな。
>>670 それなら独自の論を展開できるかというと、そうではなくて
分かるように説明してくれなきゃイヤ、みたいな依存型の
女の子的な発言もどうかと思うよ。
女の子ならがんばっちゃうけれど、ひねた男はイヤ。
(一部不適切な発言をしております。才色兼備の大和撫子様お許しくださいw)
>>651 「感想」では、水の中にいる象をつりあげようとしたんだろーなー。
>>673 と、見せかけただけ。
「釣る手附を見せてるだけ」なんだから、本気で釣り上げようとはしてない。
>>674 お前、青山二郎の小林評、ちゃんと理解してるの?
まさか大岡の引用で済ましてるって訳じゃあるまいね。
辰野同席の座談会でも読んでみろよ。
青山の意見にも適切なものと不適切なものがあるわな。
>>651には同感するが。
>>675 表向きの座談会なんかではあまりキツい批判は抑制するからな。
678 :
黄門:05/02/19 22:46:39
まあ、小林秀雄には長谷川泰子との性生活について触れて欲しかったな!
679 :
吾輩は名無しである:05/02/21 17:13:59
「釣る手つき」にしては対象に肉迫している。
専門外のモーツァルトもピカソも相当いいところまで行ってると思う。
ほとんど釣り上げてるのじゃないか?
ランボー論は出発点だが、いまだにあれを超えるランボー論は少ないはずだし。
いまベルクソン論の「感想」を読み始めたけどこれも面白いよ。
また木っ端香具師・秀雄の啖呵売に騙された人が。↑
681 :
吾輩は名無しである:05/02/22 07:30:11
泰子 で思い出したけど 「女に買って持ってく 穴子寿司を懐に入れて ポンポン蒸気に乗って 揺れが…」云々 の件があったけど 明らかに大川を渡る情景だと思われるが 叙情がいいな。浅草 駒形あたりに 女囲うヤサがあったのかな?
682 :
水戸の馬鹿:05/02/24 17:02:03
681>>穴子寿司を買って持ってく女は泰子?
なんでそんな下らんレスをつけるんだ?
684 :
黄門:05/02/25 23:18:03
683>>意味がわからん!
685 :
吾輩は名無しである:05/02/26 02:46:14
小林の評論なんて東大出たか在学中かこれから東大行こうと思っている
中高生か仕事上読まなくてはならない関係者以外読んでもしょうがないよ
まぁわかっているとは思うけど
686 :
吾輩は名無しである:05/02/26 02:49:25
>>685 全然わかりません。
何故なんですか?少し具体的に説明してもらえますか。
687 :
吾輩は名無しである:05/02/26 03:55:33
無視しときゃいいんですよ!誰でも小林さん読めばいいじゃんか!!
読んでもつまらんし、面白がる奴には害があるし。
689 :
吾輩は名無しである:05/02/26 04:28:11
もうちょっと具体的に説明しろよ
小学生じゃないんだからよ
たんなる感想なら書き込むなって
さんざん既出。
>>685 まあ、東大→学校 と読み替えればいいよ。
東大にこだわれるほど東大じゃなくなってるしな。
つまり、学生さん必読の書ってことだな。
ちょっと褒めすぎ(プ
で、社会にでたら関係者はも一回読めってか
アンチですらこうだ。況やシンパをや。
小林も幸せなヤシ...
692 :
黄門:05/02/26 15:16:34
685>>でも俺は読んでるゾー。今でも大学入試の国語の問題に出るのか?「無常ということ」とかが。
693 :
吾輩は名無しである:05/02/26 22:40:58
当時、東大出の文学士の間では先輩同輩の女寝取るのが流行っていたらしいな
エリートの世界ではそういう規範は緩いからね
小林も軽い気持ちで年少自称詩人の女に手出したつもりが
これがマジ通り越してキチガイだったんでやっと逃げたけど
我利勉で点数足りてれば生きる道の開ける
しらけ秀才小林が始めて生きるに必死な低学歴の世界知ったのは間違いない
そこで「女は唯一、俺の成熟できる場所だった」となるわけだ
学歴パラダイムの頂点から
中也泰子とのつきあいで覗いたよるべなき低学歴の生の深淵
との往復運動が小林の評論活動なんだ
わかりもしない詩わかるふりして中也持ち上げたのは最低の義理だろ
香具師小林の面目躍如ってところか
中也の思い出に、死期の近づいた中也が『ボーヨー、ボーヨー』と呟くのを
低学歴(詩人)の肉体を理解するのはなんと辛いんだと慨嘆する所があるが
そりゃわかるまいよ。
694 :
黄門:05/02/27 10:52:27
693>>これ書いた人の年齢を知りたい。俺の予想
では昭和一桁生まれの方だと思うが。しかも、職業は
著述業だな!!
695 :
吾輩は名無しである:05/02/28 11:24:36
小林秀雄の女関係なんて興味ないよ。
書いてあるものを読めばいいだけ。
東大と関係ある人しか読まないなんてのも馬鹿らしい。
ホリエモンの知性のない顔と小林がなにか関係あるか。
696 :
吾輩は名無しである:05/02/28 18:06:12
小林秀雄のベルクソン論を持ってたのって誰?
697 :
う。:05/02/28 20:15:56
小林が古く不正確であることに気がついた時は、困った。
698 :
吾輩は名無しである:05/02/28 23:03:17
坂口安吾>>>>>>>>小林秀雄
699 :
吾輩は名無しである:05/03/01 05:16:00
エェ━.∧━━.∧━━!?
/,_ ┴─/ ヽ , 、 ,、
(・_.,》.'(・_,》)ミ ヽ . / L--/ l、エェーーーー!?
/ ,,__,ニ、、 ノ( | (・;;》 (・;;》 | /L--/l、 エェーー!?
| Y~~/~y} `, ~ | |y-,‐vi`ノl | (・.》 (・.》 l /L--/l、エーー!?
| .,k.,.,!,.,.,r| ,! く |, kl r| i ^< | 'fT~ヲ x | (・〕_(・〕x| /L/l エーー
/ <ニニニ'ノ \ / (二二‐ ' \ / l==_」 < ,l fmヨ ! L 〔゚fヲ゚.〕
700 :
吾輩は名無しである:05/03/05 00:26:48
小林秀雄など、ネオコンの走り。
701 :
吾輩は名無しである:05/03/06 09:19:19
白州正子の回想記によれば、小林は始めは青山二郎のことを
「あいつは天才だ」と評価していたが、いつまでたってもまともな
仕事をしないんで、しまいには見切りをつけた。
青山はバーかなんかで泣きながら「小林が俺を見捨てた」と延々
愚痴っていたそうだ。
702 :
黄門:05/03/06 11:48:55
白州正子って小林が憧れたむっちゃんじゃないよね?
703 :
吾輩は名無しである:05/03/07 01:35:47
白洲の回想だけど世間はそう見るだろうが青山と小林はそんな簡単なもんじゃないと思う。青山の魅力はなにもしないでしているとこでそこを一番分かってたのが小林だった気がしますが。それらを承知で白洲は書いてるので果して額面通り受け取っていいものかどうか…。
704 :
吾輩は名無しである:05/03/07 01:55:26
>>703 >青山と小林はそんな簡単なもんじゃないと思う
俺もそう思ってる。
大岡の回想による、青山の「お魚を釣る手付き」評で小林が泣いたって話だけで
喜んじゃう人達がいたりするから、それへのカウンターとして紹介しただけ。
青山と小林の関係にしても大岡と小林の関係にしても相互依存的な複雑なもんだよ。
だからこそ当時はまだ良かれ悪しかれ「文壇」なり「趣味の共通了解」なりが
一定の機能を果たしていた等と言われる訳でもあるしね。
>>703 そんな親切すぎる深読みは、青山や小林を大した連中と崇めるのでなければ
全然納得できないな。
所詮どちらも、下らないことで馬鹿にし合って、優越感を競ってる俗物どもだよ。
粘着に俗物呼ばわりされちゃおしまいだな、小林も青山も。
707 :
吾輩は名無しである:05/03/07 05:24:40
自分の名前冠した文章を人に読ませようって輩が俗物で
ないわけないだろ
漏れが不思議に思うのはそんな当たり前の事を
なんであげつらっうのかって事だ
なんか根本的に思い違いしてるんじゃないの
しかし昔からいたんだろうね売文を有難がるのは
小林も馬鹿らしいと思いつつ
『志賀直哉』の冒頭でわざわざ誤解なきようと自分で俗物宣言してるからな
池田大作に俗物だって言えば悪口になるかもしれんが小林秀雄に俗物って
罵倒しても始まらないっての
自分の名前を冠することのできない文章を2ちゃんねるに書き込んで
人に読ませようって輩(つまり2ちゃんねらー)は、
自分の名前を冠した文章売って人に読ませることのできる輩に比べ、
このアタイがそうであるみたいに、徹底的な愚物だと思いましゅ。
709 :
吾輩は名無しである:05/03/07 12:42:08
小林こきおろしも賛美も
小林のくだらなさがよくわかっていないと思いまちゅ。
>>707 その当り前のことが、言ってやらんと信者どもにはわからんからね。
かつて平野謙がわざわざ「大俗物・小林秀雄論」を書きたいと言ったごとく。
711 :
吾輩は名無しである:05/03/07 22:57:41
だから小林秀雄はネオコンの走り
712 :
吾輩は名無しである:05/03/07 23:05:06
>>709 きました「俺はわかってる」派
なぜかこのスレに定期的にあらわれますね
713 :
吾輩は名無しである:05/03/07 23:07:03
でゎお約束
>>709 で君には小林の何がわかってるの?
714 :
吾輩は名無しである:05/03/07 23:55:55
>>709の反応として予想されるのは…
「小林は余計な事を語らずに読めといっているんだよ」
というような陳腐な精神論に持って行くか話をそらす。
又は逃亡。
715 :
吾輩は名無しである:05/03/08 00:19:08
ごく単純に考えて、小林の読者は例えば以下の4パターンに分けられるだろ。
1.小林の書いたものを理解している信者
2.小林の書いたものを理解していない信者
3.小林の書いたものを理解しているアンチ
4.小林の書いたものを理解していないアンチ
1.と3.の議論は面白いけど、殆どこのスレには見当たらないよな。
2.と4.の言い合いばっかだから、苛つくんじゃねーの?
「しょせん2ちゃんだから」ってーのもつまんねー話だと思うよ。
1=3>2>4
なぜなら2は1か3になる可能性があるが、
4はいつまでたっても4のままだからな。理解ろうとする気がないんだから。
つまり4は逝ってよしってことだ。
717 :
吾輩は名無しである:05/03/08 03:34:55
>>715も「わかってる」派か 笑
そこまで言うのなら君が小林の何をどう理解しているのか説明しちくれ
という君は、じゃあ主観的に「分かってない」で読んでるわけ?
それどういうことか想像がつかないんだが。素朴な疑問として。
719 :
吾輩は名無しである:05/03/08 04:38:05
>>718=709=715?
709や715のように「わかってない」「理解していない」などと大上段に構えて決めつけるなら
じゃあそういう自分はわかってるの?って疑問が出るのは当然だと思うが
それが何で「君は主観的にわかってないで読んでるわけ?」になるんだ?
話をそらすなよ 笑
いや、別人だけど。
自分で分かってないと思っていながら何か言える人がいるのかと
思っただけ。
しかし小林秀雄すれって、いつ見てもけんか腰だよね。故人の人徳?
722 :
吾輩は名無しである:05/03/08 05:07:37
>>720 あ、そう
「自分で分かっていないと思っていながら何かいえる人がいるのか」は君の誤解だ
「他とちがって俺は理解している、と大口叩く709=715?はじゃあどういう理解をしてるわけ?」ってことだ
ちゃんと読解力身に付けとけよ
生きていくのが辛そうな人だな↑
724 :
吾輩は名無しである:05/03/08 06:00:53
↑お前もな
まあまあ...
小林スレにいるだけでも、最近小林秀雄を読み始めた漏れなんかからすると
一応内心はすげえな、と思っているわけよ。
かっこよくクールな応戦を見せてよ。
シンパは当然だろうけど、アンチからしてもいまだに気になる存在なわけだな。
どういうところが魅力的(論破したい)と思わせるんだろうか?
評判の高い「モオツァルト」なんかだと、当時日本語で読めるものとしては
抜群だったかも知れず、他のモーツァルト文献を知らない人は優れた批評と
思うかも知れないが、その後50年に亘って日本に紹介された翻訳物や、
専門の音楽評論家(吉田秀和さんとか井上太郎さんとか)の書き物に比べる
と、評価が下がる。他の評論も大体同じ。芥川の諸作が短編小説の入門で
あるように、評論の入門用ではないか。その中で古典として残るのを選ぶ
のが、われわれの役目。もち、私は「無常といふこと」に一票を入れる。
727 :
吾輩は名無しである:05/03/08 13:57:04
ロータリークラブとかにいるような、
中小企業のおっさんとかが、
珍しく古典に手を出すときに、小林秀雄を読んだりしている。
良くも悪くも教科書に載るような文章だ。
>>727 ブコフで、すごい異臭を放つ、髪の毛ゴワゴワのおじさんが大江を読んだりしてる。
でも、教科書には載せたくない文章だ。
729 :
吾輩は名無しである:05/03/08 17:52:17
で、709=715は?
まさか逃げたなんてことないよね!?
一人相撲乙
731 :
吾輩は名無しである:05/03/08 21:02:43
負け惜しみ乙
715での書き方はちょっと乱暴だったから訂正するよ。
言うまでもないことだけど、こういう分類は四象限のグラフを想定してる。
X軸の両極をそれぞれ「理解している/いない」、Y軸のそれらを
「信者/アンチ」としてるわけ。あんまり気の利いた分け方じゃないけど。
だから含みとしては、完全な「理解/無理解」「信者/アンチ」ってのは、
事実上あり得ないから、四極限に達してる人はいなくて、誰の書き込みも
大体四つの象限内のどこかにマッピングされるだろうっていう考えがあったわけ。
で、まあ、そんな訳だから、例えば俺自身の自己認識は2.に近くて、
より正確に表現すれば「小林の書いたものを出来る限り理解したいと思っている
小林ファン」って感じになると思う。
俺が面白いと思うのは、特定の批評家や思想家に惹かれる場合によくある
「ねじれ」の構造。例えば、小林に惹かれて読み始める時は、何らかの
先入観や期待を持って読み始めるよね。
でも読む前から小林の思想が分かっているなんて事は殆どあり得ないから、
そうした先入観や期待は必然的に良くも悪くも裏切られざるを得ない。
そして、何らかの程度の理解に達した時は、事前には思ってもみなかった
小林像が現れて来る。この繰り返しなんだよな、優れた書物を読むってことは。
逆に言えば、そういう読書体験を与えてくれる本じゃないと面白くない。
上手く言えたかどうか分からないけど、そんな訳で今の俺には小林(に限らないけど)
を「読む」ことの方が楽しいね。議論より。
あと、718の言ってる事は面白い。例えば誰かが1+2=7って答案用紙に書いたとして、
その人が「間違ってる」と言えるのは、その人が頭の中で行なった思考の運動と、
紙の上の言葉(数字や記号)が「同じ」だと見なす場合だけなんだよな。
「様々なる意匠」の冒頭部分に通じる話だけどね。
あと、俺は709じゃないよw
色んな視点があるのは判った。だが、小林という一批評家の辿った思考の道が先のような彼の作業で見えなくなっているという事はやはり残念だと思ってしまう。でもそれを知った後でも彼の批評の一部が僕にとっては今だに輝きを失わないのも事実なようだ。
とって決定的な意味を持つものか否か。問いの焦点はそこなのではなかろうか。僕は最初ここでの話を読んで驚いた。が、小林の内部でそれがどんな意味を持っていたのかが判らない内は倫理的な判断は控えたい。彼にとって思考の道筋とは何だったのか。無だったのか。
またへんなのがあらわれましたね
─認める。確かに変な奴、かも。でも、ここは“へんなの”的な人で構成されてる場所。違うかなあ。“へんなの”を競い合うショーみたくも思えます。むしろ“へんなの”じゃなきゃ来るなでもないへんなのだから面白い。と思う。
737 :
吾輩は名無しである:05/03/09 23:11:44
コイツを正面切って論破した人って坂口安吾だけ?
738 :
吾輩は名無しである:05/03/09 23:29:37
>>737 最初に論破したのは宮本顕治
身内では妹にも論破されてる
人殺しと身内かあ...
>>737 ヲイヲイ、まさか「敗北の文学」が「様々なる意匠」を押さえて、「改造」の懸賞論文に
選ばれたことを称して、「論破」などといってるのではあるまいな。ふたつの論文の
間に「論戦」とよべるような繋がりなどありゃせん。それとも、本格的な論争をあの
二人が戦わしたことがあるとでもいうんか。
正面切って論破した人って
既出。寺田透。
筑摩の文学全集(クリーム色のやつ)の付録作家論を見よ。
>>741 >>195のことか。「論破」というよりは、「批判」という形容の方が適切に聞こえるが。
「批判」に対して、小林が「反駁」をしていないから、論破されたことになるのである
という主張であるなら、それは如何なものかと。現代企画室「小林秀雄を<読む>」と
いう本には、寺田はもとより、吉本隆明、作田敬一、柄谷行人、高橋悠治、田中英道の
各論者による小林批判がのっており、批判者はすべて小林を「論破」しているのである
とあえて主張することも不可能ではない。これほどまでに、各人各様に「論破」の対象と
なったことは、小林にとって名誉なことであり、むしろ、その影響力の大きさを開示して
いるとさえいえよう。
後、直接の批判者としては、中野重治とか、戸坂潤などをすぐに思い出す。
論戦として有名なのは、むろん正宗白鳥との「思想と実生活」論争であるな。
こんなくだらない論争が有名であるのはおかしい、ということで、浅田彰が
これまた、この論争に批判をくわえていた。浅田はどちらかといえば、正宗
白鳥よりであったように記憶しているな。
×作田敬一 → ○作田啓一
745 :
吾輩は名無しである:05/03/12 04:33:30
「思想と実生活」論争なんて
今じゃ起こりようがないな
昔の人は誇大妄想だったんだね
武田鉄矢みたいなのばっかりだったんだね
まあ、なんでそういう論争が現在おこりようもないのか、もう少し考察を加えてみたら?
「思想と実生活」論争は、トルストイの思想と実生活をめぐって起こった論争である。
そこで、トルストイの思想はいかなる思想であるか考察しなくてはならないわけであるが
あまり長々と議論してもしかたないので、トルストイの思想は絶対的な平和主義の思想であると
無理矢理に要約してしまう。トルストイは平和主義者の偉大な思想家として、世界中の知識人に
尊敬されていた存在であった。今、文学者にそのような役割を期待するというのは、センチメンタル
であり、文学の使命を誇大妄想的に誇張していると、われわれは考えているから、トルストイを
めぐる論争も、われわれの目にセンチメンタルで誇大妄想的と映るのであろう。
747 :
吾輩は名無しである:05/03/12 12:06:50
正宗白鳥は、トルストイがどんな偉大な思想を持っていたにせよ
カミさんのヒステリーが恐くて家出してのたれ死んだ、人生なんて
そんなもんだ、しょせん思想は実生活に勝てやしない、ハッハッハッ
と笑った。小林がそれにかみついた。どうしてそんな皮相な見方しか
できないのか、トルストイもドストエフスキーも私生活に欠点は多か
ったが作品はどんなに偉大であるか。実生活に思想が勝てなければ
そんな思想は意味はない。また白鳥が、青臭いことを言うな、実生活
にもとづかない思想などないだろう、という風に論争が続いたのだね。
前のスレで既出だけど、小林が使う「思想」という言葉には注意が必
要で、フランス語のパンセ(pensee)が念頭にあるようだ、だから
この論争でも「思想」はむしろ「思索」という意味で考えた方が良い。
748 :
吾輩は名無しである:05/03/16 21:06:31
この前、久しぶりに鎌倉に行って、小林秀雄が晩年暮らしていた例の
スウェーデン式の家を見に行ったんだけど、アパートか何かに建て替えられ
ちゃってて、跡形もなかったよ・・・
その後、東慶寺に行ってお墓参りしてきました。
749 :
吾輩は名無しである:05/03/16 22:07:18
連投ですいませんが、まだ今でも鶴岡八幡宮裏の山の上の家ってありますか?
御存知の方、みえましたらよろしく。
750 :
吾輩は名無しである:05/03/16 23:54:13
吉田秀和のエッセイか、丸谷の朝日のエッセイ嫁!
751 :
恐れ多くも:05/03/17 21:54:20
>>749 小林秀雄と関係あんのか?「むーちょ」だったけ?
あの女の正体は?
752 :
吾輩は名無しである:05/03/17 22:12:54
八幡宮裏の山の上の家は、小林秀雄が亡くなって一年ぐらいした時に一度だけ行ったんだけど。
当時、私みたいなやつがたくさんいたらしい。
妹の高見沢潤子が書いていた。
ちなみに、その後、奥湯河原の加満田にも由布院の玉の湯にも行った。
私みたいなヤツが当時はウヨウヨいたらしい。
753 :
吾輩は名無しである:05/03/17 22:18:13
晩年に住んでいたスウェーデン風の家の庭には、小林先生が愛した桜の木もあった。
私が行った時には、奥さんも亡くなられた後で、小林の表札以外に外人さんの名前の表札がかかっていた。
賃貸に出ていたのだと思う。
残念ながら、今はその家はもうない。
なんかミーハーっぽくてかわいいな、おまえら
755 :
吾輩は名無しである:05/03/17 23:02:45
小林秀雄に関しては、我々の世代は文学そのものもさるものながら、
「人生の教師」という見方をする者が多かった。
生き方に憧れた。
だから小林先生の家を見に行ったり、常宿としていた所に自分も泊まったり、
鎌倉の行きつけの店(天ぷらのひろみや寿司の大繁など)に食べに行ったりした。
そういう者が続出した。
熱烈なファンが多かった。
もちろん北鎌倉の東慶寺へ墓参りするファンも後を断たなかった。
>>755 だからそれをミーハーっていうわけだ。
「花」の美しさというようなものはない、と言い切った小林はどう思うだろうか。
いいじゃん別に。減るもんじゃなし。
小林詣でと小林が書き残したものへの理解の進み方との間には
特に関係はないだろ。
もしも「花」の美しさというようなものがあるとしたらどうだろう。
「花」の美しさというようなものはない、は真理ではなく気分に
結びついた流動的な一命題だったとしたら?
759 :
吾輩は名無しである:05/03/18 13:36:13
小林先生も何度か三重県松阪市の本居宣長の墓に行っている。
>>758 そりゃ小林のあの短い文章だけを読んだって、
自分なりの答えも見つからないんじゃない?
世阿弥の「花伝書」読んでみたらどうかなあ。
761 :
尚子の彼氏:05/03/20 00:39:54
>>751 「ムー公」だった。坂本睦子。野野上慶一「想いでの小林秀雄」(新潮
社、2003年)に出てる。
762 :
吾輩は名無しである:2005/03/27(日) 21:16:11
小林秀雄の文体と富永太郎の文体は似ている。当時の外国文学摂取の一端が理解でき、面白い。
763 :
恐れ多くも:2005/03/30(水) 23:26:41
>>732,
>>745 いいですなあ!!この分析は同時代の人に見えますが、
いずれにせよ、私は長谷川泰子さんとの性生活について
知りたいです。あの頃はまだスキンはそれほど流通していなかった
はずだし?!
しかし文章は酷いね。
読みにくいったらありゃしない。
>>764 そういうひとは綿谷やばななあたりで。
今時の若い人には合わないだろ。言ってることも古いと思うし。
絵や音楽も古典しか取り上げられてないからな。
でも、年取ってくると小林のよさが分かるよ。
まあ、全集の目次だけは見とくといい。
一生付き合っている人がゴマンといる評論家だからね。
766 :
吾輩は名無しである:2005/03/31(木) 13:32:04
小林の文章の読みにくさの一つに読点の使い方がヘンだという
のがあると思うが。俺だけかな。
767 :
吾輩は名無しである:2005/03/31(木) 13:45:03
あれもフランス語の関係詞を意識しすぎたからだと言われている。
日本の古典美の人にいつの間にか転じたから気付かれることも少ないが。
770 :
吾輩は名無しである:2005/04/09(土) 00:06:10
小林秀雄は贋物中の贋物。ハッタリだけで世渡りしてきたウンコ野郎。
一見独創的に見えるが実際は凡庸の極み。ドストエフ、印象派画家、
アマデウスなど、評価の確立したアカデミックなものだけを対象とする。
「てやんでー、べらぼーめ」と口調だけは江戸っ子風だが、権威の柱に
しがみついているだけで、自分で大海に泳ぎださないチキン野郎。
所詮は芸術マーケットにおいて、すでに高値のついた品にお墨付きを与える
だけの「追随的鑑定家」にすぎない。自分で相場を張って、無名の天才を
発掘する才能なんて全くない。だから、こいつはマーラー、クリムト、
チャーリー・パーカーなどの大天才にはただの一言も触れられなかった。
どうだ、わかったか。小林秀雄などというウンコをありがたがっている
ばかものども!
>>770 現在から過去を振り返ってみる場合の視点について、もう少し掘り下げてみるべきじゃないかな。
すくなくとも小林の言葉を操る技術には端倪すべからざるものがあると思うよ。
まさか、今時彼の著作から情報を引き出そうとしているわけじゃないでしょ。
このスレを見るたび思うのだが、
小林秀雄の言葉って、それを否定するにしてもかばうにしても、
とにかく人を攻撃的にさせる力があるんじゃないか?
「言葉を操る技術」というよりは、「言葉で人をカッとさせる」
技術の持ち主であるような。
773 :
吾輩は名無しである:2005/04/09(土) 10:46:04
>>771 「批評家」としての役割という意味では、
770が言っていることは後知恵ではないと思うが。
というのも、小林秀雄が何かを褒めたとき、
その時点で既に評価が定まっている対象であることが多いのは端的に事実だから。
774 :
773:2005/04/09(土) 10:47:42
だから、「真贋判定者」として弱いのは事実でしょう。
むしろ小林は、アカデミシャンを踏まえながら
素人に古典の魅力を説くのが天才的にうまかった啓蒙家ですよ。
マーラーは音楽家、クリムトは画家、チャーリー・パーカーも音楽家。
小林の本業は文芸批評家であって、絵や音楽について論じたのは
「気まぐれ」、「文芸批評家の独白」であると自ら述べているのだから
音楽批評、絵画批評の分野で独創性に欠けると批判しても大して
痛いところを突いたことにならない。中原中也や大岡昇平が世に出る
うえで小林が果たした役割は少なからずあろうが、これを「無名の
才能を発掘した」といえるなら、小林も世に新しい才能を送り出す能力が
皆無であったとはいえないね。そもそも無名の天才を発掘するという
大事業は、ひとりの批評家が一生のうちに可能かどうかというくらい
希な出来事だ。
777 :
この紋所:2005/04/12(火) 23:32:47
>>775=
>>776 同一人物だろう!しかも小林、中原と同世代
!!明治39年から大正5年生まれくらいかな??
おいらの死んだ親父と同年代!!なるべく長く生存して
若い人たちに「文化」を伝えてください!!
因みにおいらは団塊の世代です。
、、、団塊の世代ってやっぱりバカなんだ。
>>774 なにを選んでいるか、よりはむしろどう論じられているかに興味があるな。
何を選んでいるかというところから弱さを引き出せるとも思わないな。
新しいものを発見するのもいいし、手垢のついたものの再評価でも、別にかまわんのじゃないか?
面白いんだし。
>>777 同一人物ではないよ。それにそれほどまでには年とってないよ。
781 :
吾輩は名無しである:2005/04/14(木) 22:26:07
小林が依拠したアカデミズムは、現代美術の世界ではすでに消滅した
と言っていいと思う。音楽でも次第に侵食されている。カウンター・
カルチャーを許容しながらアカデミズムの正統は空洞化した、あるいは
しつつある。この状況がまるで見通せなかった小林秀雄が一流の鑑定家
であるはずがない。
アカデミズムに心を寄せる者でも、チャーリー・パーカーやエゴン・シーレ
を愛好する者はもはや異端とは見なされない。異端を忌避した小林は、いまや
古臭い古典主義者でしかない。
>>781 小林が泉下の人となってから20年以上も経っているんだけれど、
その対応ぶりには頭が下がってしまいます。
まるで、小林が現前しているようですね。
小林が反論してくれたらどんなに幸せだろうと思うと思わず微笑んでしまいます。
小林を大変よく理解されていらっしゃるんですね。
ギガワロス
古典とはもともと古臭いものなのだから、古臭い古典主義者などという形容は無意味であるね。
古典が無価値であると言明出来ない限り、古典主義者が無価値であると言明することはできない。
785 :
この紋所:2005/04/16(土) 01:11:19
786 :
吾輩は名無しである:2005/04/19(火) 02:05:05
>>770 〉自分で相場を張って、無名の天才を 発掘
それは東大出には無理だ木に拠って魚をもとめるようなもんだ
あげ
788 :
吾輩は名無しである:2005/05/07(土) 00:30:35
著作集を買ってみたいんですが、新潮社から出てる奴でいいんですよね?
現代仮名遣いに治してある奴で。
789 :
吾輩は名無しである:2005/05/07(土) 12:12:12
>>788 「小林秀雄全作品」でOKです。脚注もありがたい。
舊字舊假名も讀めないのかよ。しやうがないな。
>790
野嵜降臨乙
792 :
吾輩は名無しである:2005/05/07(土) 18:47:40
>>789 ありがとうございます。値段も比較的安くていいですね。
>>615 あなたいい解説するね。
小林ファンには半ば分かったようなことかも知れないけど、
それでもスラッとそう書ける人はあまりいない気がする。
794 :
吾輩は名無しである:2005/06/10(金) 06:24:53
高校生の頃から10年以上振りに読み返していますが、未だに判りません。
その間、近現代の哲学・思想に接してきて、それなりに経験も積んできましたが・・。
「私の人生観」とかまでは理解できますが、「感想」以降は自分にとっては未だ謎です。
どなたか、例えば「信ずることと知ること」を解説してくれないでしょうか。
>>794 所詮小林は思はせぶりっこなんだから、無理してつきあはなくてもよいでせう。
796 :
吾輩は名無しである:2005/06/10(金) 14:08:00
思わせぶりっこか
いいね。
797 :
吾輩は名無しである:2005/06/10(金) 22:17:29
「思わせぶりっこ」と喝破できる根拠は・・。
「信ずることと知ること」とか「私の人生観」なんて、逆に「思わせぶりっこ」は出さないんじゃないか?。
ちょっと行き過ぎている気がする。「無常ということ」までなら「ぶりっこ」で済ませられるかもしれないが。
現象=意識=記憶=歴史〜これらすべてが脳髄の形質的運動でない。脳髄はアンテナ及び受像機に過ぎない〜みたいな論って、思いっきりオカルトだと思うけど。
オカルトっぽくても、それもちらつかせただけ。所詮ベルグソンの受け売り。
言葉のあいまいさに寄りかかって、互いに誤解しあいながら、
理解しているという幻想を持てるってのは、幸せなことですね(笑
\ /
 ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彡川川川三三三ミ〜
川|川/ \|〜 プゥ〜ン
‖|‖ ◎---◎|〜
川川‖ 3 ヽ〜
川川 ∴)д(∴)〜
川川 〜 /〜 カタカタカタ
川川‖ 〜 /‖ _____
川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \
/ \__| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
| | ̄
801 :
吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 15:51:35
「信ずることと知ること」
なんて、ドイツ観念論の議論の典型的な焼き直しですよ。
ヤコービとヘーゲル。もちろん小林は前者に近い。
「信ずることと知ること」は、そこで言及されている
ベルクソンの話と柳田の書き物の価値を認めればよいので、
特に小林独自の発見はないと思います。
803 :
吾輩は名無しである:2005/06/12(日) 16:38:16
小林は「独自の発見」という観念をあらかじめ攻撃しているので、
自分の文章が叩かれてもへっちゃらです。
小林秀雄の柳田国男読解は誤読もいいところとは、夙に佐藤健二等から指摘あり。
小林流に読まれては柳田爺さんもいい迷惑さ。
小林流に読まれてうれしかった人はほとんどいない。
誤解がない読解はありえない
一般論による開き直りでは、小林の読解力不足を擁護できない。
>>806
大事なのは、知ることです。
>>807 己の内省の無い所には進歩もないものよ。
なるほど、それで小林信者には進歩がないのかね。
ううむ、小林についてはアンチよく勉強しているね。嫌味の利いた口答えもうまいしw
アンチ小林=小林信者
と認定してあげましょう。
元信者、が正解。
なるほど、つまり反小林にならぬ小林読者は信者どまりで全く進歩がない、と。
>>810 単に小林信者があまりに勉強不足なだけ。それでアンチが相対的に知ってる風に見える。
信者は、小林以外をロクに読まないから小林批評の難点にも気づかないわけ。
やはり、信ずる前によく知ることだ。
815 :
814:2005/06/13(月) 08:49:48
ううむ、そう言葉どおりに受け取らなくてもいいんじゃ...(笑
とりあえず、小林はヘーゲルもヤコービもほとんど読んでないだろうから、「小林の論はヤコービを
下敷きにしている」といわれてもハァ!?ってなもんだったろうな。
「信じることと知ること」で扱われている柳田の述作は、「故郷七十年」と「遠野物語」と「妖怪談義」
の三つ。冒頭にとりあげられたベルクソンの理論は、団子である三つの述作を貫く串という仕組みに
なっている。小林の読みの失敗とは、ベルクソンの理論に柳田を引きつけすぎているか、小林による
ベルクソンの読みが間違っているか、ベルクソンの理論が間違っているかのいずれかだ。いずれにせよ
小林の論は「感想」の失敗から「本居宣長」にいたる中継点として位置づけられる。
818 :
吾輩は名無しである:2005/06/15(水) 06:01:22
ベルグソンについて誰か教えて。
「小林秀雄の読み」だとなんか神秘思想っぽい気がするけど・・
>>817 これまでなぜか読んでなかった「本居宣長」買ってきました。
819 :
吾輩は名無しである:2005/06/16(木) 01:53:25
小林さんは保田與重郎さんのようなものではないでしょうか。
もちろん文体は違う。
ただ小林さんとその読者との連なりの形が、與重郎さんとその賛美者、批判者との
関係に似ているような気がするのです・・・。
わかると云う人も、その理解の多くを曖昧さ、
それは別に悪い意味ではない曖昧さの上において感じとっているように思われます。
それは筆者の共感を掴み取られた人が、その筆になお一層の理解を馳せられると云う、累乗化のような形です。
そう云っては大方の文学がそうだと云われそうですが、
殊にこの両先生にあっては、その連なりの形が際立っているようで。
前にどなたかがレスされたことかもしれませんが、ふとそんな気がしたのでレスしました。
長文失礼しました。
小林さんには教養主義の名残のようなものを感じますが、
保田さんは伝統的な文人(そんなのがあれば)のような気がします。
821 :
吾輩は名無しである:2005/06/17(金) 13:41:59
>>819 理解の多くを曖昧さの上において感じ取っている、とおっしゃるが、
小林の文章はそんなあいまいなものではない。
直観を重んじて論を進めることが多いからそう誤解されるのだと思うけど。
>>821 論証してみなよ
今のままだとそのレスも曖昧。
823 :
吾輩は名無しである:2005/06/17(金) 22:26:53
新潮不定期連載中の橋本治「小林秀雄の恵み」はいいよ。
>>819 おい話が逆だ。後進の批評家だった保田與重郎が先行する小林秀雄の(悪)影響を受けただけ。
825 :
吾輩は名無しである:2005/06/18(土) 14:15:56
(悪)影響!
小林秀雄って何故こんなにアンチが多いんだ。
昔の受験国語でよっぽど嫌な思いでもしたのか。
826 :
吾輩は名無しである:2005/06/18(土) 14:22:46
小谷野敦は小林秀雄のことを「日本の文芸評論を非論理的にした元凶と評していますが
どう思いますか?
>>826 エピゴーネンで小林を批判してもしょうがないんじゃないのかね。
小谷野君の気に入らないところは、周辺だけ突っつくところだ。
彼も若いんだし、若者に迎合するのはよいが、
本質に迫るという意味では小林の敵にはなれない。
柄谷なんか、あれだけ小林を批判しながらも、
しばしば小林を引用して、持論を補ったりしてるもんね。
マルクス可能性の中心なんか、それが顕著。
批評のスタイルや形式を批判するだけで終わっている連中は、
永遠に小林を乗り越えることはできないと思うよ。
日本の古典に関しては、先行する小林秀雄の方が
後進の保田與重郎の影響を受けた。
悪影響かどうかオレにはわかん。
ちょっと疑問。保田の影響だってのは何からわかるの? 典拠求む。
>>827 で、その「本質」とやらは何なの。それを説明できなきゃまたしても神秘主義だ。
>>828 だから柄谷はダメなんだよ。小林の(悪)影響から脱し切れなかった。
>>823 「橋本治さんまで小林秀雄について語るっていう現状が、どう見ても健康でない。
それはあらゆる人が漱石について語る――これは糸圭批判になるかもしれないです
けれど――状況に似ている。」……(蓮實重彦)
鼎談「「一九六八年」とは何だった/何であるのか?」『思想読本11 1968』43頁
>>831 ものごとの本質の捉え方を云々するのが評論でしょう。
小林の天才的なところは、ある対象の視座を的確に発見しているところだと思う。
無論森羅万象を語れるものではないし、個人の好みもあるだろうが、
未だに人をひきつけるのはそのへんでしょう。
ひとつの芸術だから、わからなくとも詮のないことだとは思うが。
柄谷君が悪いとは思わない。彼もいい視座を見出す能力があると思う。
>831が評価しているのはどなたかな?
小林が日本の古典にのめりこんだのは、
ご時勢ということもあろうが、
保田の目覚しい諸論文に啓発されたから、だろう。
>>833 だから、その本質って何のどんな本質さ? 具体的に語れなきゃご託宣を奉じるに過ぎん。
>>834 だから、その「だろう」と推定する典拠は何? 双方の類似点はどれに見られる?
>>833 小林秀雄に対しては、本質論ばかりで現象論が足りないって批判が戦前からあるね。
矢崎弾『過渡期文藝の断層』など。
本質ばかり論ってたら、それはそれで評論としては未だしなのよ。
>>835 小林の作品を読もうというのに言葉の意味を理解していないし、
人の書いたものを理解しようとする姿勢が見られないね。
お経じゃないんだから、まず理解する。それから反論だね。
何の本質よって疑問は馬鹿としか思えないね。お宅はその一本槍だね。思考が単純でいいけれど。
>>836 そんなことができるなら隗よりはじめてごらんよ。論ということばをどう考えているか知らないけれど、
本質だけ、あるいは現象(これは単なる具体的な事例という意味にしかとれないが)だけ
を述べる評論がありうるか?
まあ、2レスともアンチかシンパの暇人かわからないけれど、ループしてるよ。
レベルは単なる馬鹿だな。10年ぐらいROMらんと駄目なんじゃないの?
自分の見解は何も示せない単なる馬鹿だね。典拠は?何?それじゃ駄目、だと(笑
よく恥ずかしくないね。
>>837 理解できてるんなら説明できるはず。
ところが小林信者はただ読め読めとしか述べられない。正にお経の如く聖典化する。
理解させようとする姿勢が見られないね。
>>837 質問されると何ら自分の具体的な見解は示せず、抽象論に逃げてばかり。
小林信徒はいつもそれ。ループするのは具体論に踏み込まないから。
840 :
吾輩は名無しである:2005/06/21(火) 13:18:16
アンチは性格悪いからかまわない方がいいよ。
論証しろとか具体的な見解を示せとかそんなことしてやる義理はない。
>>840 そのようだね。なんくせつけるのが趣味かな。
馬鹿よばわりしたのはちょっと失礼だったかな。謝っておこう。
中島敦のゴジョウ出世のほうだったかな、それを思い出して笑ってしまった。
それがでも楽しいんだろうね。
たしかにそちらに説明する義理は無い。
>>840 しかしこちらも、無意味に勿体ぶるのを聞かされる義理は無いわけだ。
ま、真っ当な批判も難癖としか聞こえない信者には蛙の面に小水かね。
小林秀雄を読むならその贊否論を併せて読むのが当然なのに、無知は怖いよ。
843 :
吾輩は名無しである:2005/06/21(火) 23:37:39
「真っ当な批判」を読んでみたいものだ。
844 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 00:31:23
>>827 小谷野は小林本人を批判しているよ。非論理的だとして。
読みもせず利いた風な口を利くのはどうなの?
小谷野が「若者に迎合」しているとは何を根拠に?
だからそれが周辺だと言っても分からんのだろう。
いくらいいねじ回しでもサイズが合わなきゃ役にはたたんさ。
846 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 00:55:39
また馬鹿小林信者登場か。
さんざん繰り返されたパターンと一緒だから馬鹿信者はスレ読み返してみたら?
>>833を読むと、「小林の天才的なところは、ある対象の視座を的確に発見しているところだと思う」とある。
「対象の視座を的確に発見」とは一体全体どんな意味なんだろう?
「対象の視座!?」「視座」は「対象」にではなくて「視る側」にある物だと思うが……。
随分エラそーなことを言うくせにマトモな日本語も書けないのである。
しかもその面妖な「対象の視座」とやらを「発見」(「視座」は備わっているもので
「発見」するものではないと思うが)するのが小林が天才的たる所以だそうで、一体この人が
小林の何をどんな風に読んでいるのか理解に苦しむが、例のごとく馬鹿信者のいつもの倣いで
具体的なことは何ひとつ言えずに「小林は分かっている!(そしてその事が
分かっている
俺様も「分かっている!」。しかし一体「何」を「分かっている」のかは説明できない)」と繰り返すだけ。
ホントに、笑っちゃうほど馬鹿信者はいつもパターンが同じで、大体この後の流れとしては
「信者は結局説明できずに叩かれてぶつぶつ言い訳しながらFA」となるんだけど今回もそうだろう。
過去レス位読もうと思わないのかな?
847 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 01:04:25
>>845 釣りですか?
「小谷野が若者に迎合」は何を根拠に?
「エピゴーネンを批判しても仕方ない」とあるから「小林本人を批判している」と指摘したのだが日本語読めますか?
読みもせずに小谷野を批判する貴方と小林を読んで批判する小谷野、さて果たしてどちらが正しいでしょう?
馬鹿には釣りは無理だから分不相応なことはやめた方がいいですよ?
>>846 >「対象の視座!?」「視座」は「対象」にではなくて「視る側」にある物だと思うが……。
そのとおりだ。で?
これでこの文脈は終わっているだろう?あとは御託だから。これでなにか反論を期待しているのかね?
日本語に不慣れなのはどちらだと思う?
まあ、分かる分からないということを云々しても詮の無いといっているだろう?
それなのに、分かりかたは自分が納得できなければ承知できないそうだ。この御仁は。
自分に厳しいのかとおもったんだが、どうもそうではないらしい。
まるでだだっこだね。自分の理解できないことが存在すると仮定してごらん。
すべての疑問は氷解だ。自分の限界を認識すれば良いだけだ。簡単だろう?
別に小林はテンソル解析を書いているわけじゃない。
基礎的な勉強がまだ不足しているんじゃないのかね。(笑
849 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 01:49:40
>>840も
>>842も何が「本質」なのか説明する義理はない、ということで合意に達しているようだが、
他人の意見を否定した上で、小林は「本質」に迫っている、と断言したわけだから、
断言した側は説明を求められて当然であって、理性的な対話をするのなら当然説明する義務がある。
根拠も説明もなくただ感情にまかせて人の意見を否定するだけなら荒らしと変わりない。
>>840に「論証しろとか具体的な見解をしめせとかそんな義理はない」とあるけどそんなことは書いてない。
「義理」ではない。「理解していない」「馬鹿」と相手を否定する言葉を吐いた以上、
何を「理解していない」のか説明の「義務」があるのは当然でしょう。
説明しようとすらせず「アンチは性格悪い」「なんくせつけるのが趣味かな」と根拠不明な事が書いてあるが、
根拠も理由もなく「お前は分かってない」「馬鹿」というのは間違いなく「いんねん」であって「性格悪い」
「馬鹿」のすることであるのは疑問の予知無しでしょうね。
850 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 01:52:42
>>848さん。あなたは久々の大物ですね。
ここしばらくわあなたが当スレの中心となることを断言しましょう。
期待してますよ。
よく分からないけれど、
まずは「本質」なるものについての小林の考えを検討してみようじゃないか。
小林が「本質」なるものが存在すること、それに至ることができると考えているのでなければ、
ここでの「本質」をめぐる議論は無意味なものになってしまうよ。
だから、一度この問題を小林のテクストに沿って考えて、
その上で、小林の「視座」について論じていこう。
「真贋」なんていうテクストもあったと思うが、手始めにはこれを読めばいい?
852 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 03:39:26
>>851 「本質」についてというよりは848のアホな言説をめぐっての議論では?
しかし、自らの言説もろくに開陳できない。
そのくせ他者の発言に期待するというのか...
あきれ果てた「言論乞食」だな。
まあ、小林の全集も安く入手できるようになったし、
ひとつ読破してみたらどうだろう。認識も改まるかもしれないよ。
結論が出ましたね。
小林秀雄はもはや無価値となったと思います。
小林がポスト構造主義を己の思想の中に織り込んでいれば、今でも通用しただろうに…
>>818 「小林秀雄の読み」以外でも、ベルクソンは神秘思想家であると一部より非難されてきたぞ。
ジュリアン・バンダの「知識人の裏切り」におけるベルクソン批判あたりが代表的なんでないかい。
「精神のエネルギー」には〈生者の幻〉と〈心霊研究〉という一章もある。
「本質」についての議論はまったく不毛もいいとこだね。「本質を直知する批評家」という評は
河上徹太郎あたりの評をなぞることによって再生産されるわけだろうけど。初期においては
たまねぎの本質を追求するために、たまねぎの皮を剥いていけば、後には何にも残らない、という
「本質の追求」という行為を揶揄した言説もある。後年、「直知する精神」という表題の小林論を
見たとき、小林は表題を見ただけで「中身を読む必要はもうないんです。」といったそうだ。
ここから強引に推理すると、文芸批評の領域における「直知する精神」とは、膨大な作品の海に溺れずに
批評家商売をするために必要なあるもの、といえそうだ。絵画や音楽の領域においては「直知する
精神」とは、また別の意味を持つかもしらん。
>>832 どうして自分の視線が健康であると、無条件に信じられるのか、とかいう蓮實の江藤淳に
対する批判があったけど、「健康」の一語を持ち出すなら、当然その批判の矛先は自分の
ところに跳ね返るよ。
前に、小林は、ヘーゲルやヤコービは読んでないだろうといったけど、ヤコービの名前が
批評の作品中にないことからそう推論したまでで、やはりいろんなもの読んで下敷きにしてる
ことは間違いない。ドゥルーズあたりまではフランスの思想文学を読んでたらしい。ドゥルーズは
ポスト構造主義の思想家だそうだが、ドゥルーズを読めば自動的にポスト構造主義者になるかと
いえばそんなことはないし、ポスト構造主義とは構造主義を超える思想であろうが、ただ超えて
いこうとするだけで、どこに着地するのかはさっぱり明らかでないし、そもそも構造主義とは
実存主義の反動としてみるのが、もっとも理解しやすいという話もあるし、要するにイズムが
どうこうといって、思想を理解したつもりになるのは愚かじゃないの? という話になるわけだ。
858 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 10:14:56
859 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 10:18:37
>>856 832の蓮実の発言にどう関係あるの?
単に蓮実を批判したいだけなら蓮実スレへどうぞ
>>859 >>823が
>>832にコメントをつけたから、その
>>832にまたコメントをつけたまでだ。
ハスミンは小林批判の急先鋒であるから、小林に対する批判についても論ずるなら
必然的に無視するわけにはいかないんだよ。
861 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 10:57:35
蓮実氏は小林の何が悪いと言ってるのですか?もしよろしければお教え下さい。
862 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 10:59:04
>>860 だからそれが832の蓮実のコメントの内容になんの関係があるの?って聞いてるんだけど。
856にある蓮実の江藤に対する言葉(?)は、蓮実が「自分の視線の健康を無条件で信じてはいない」ってことでしょ。
たしかに蓮実は小林を批判してる。
でも蓮実の小林批判を問題にせずに(できずに?笑)、いくら蓮実の悪口書きたいからって、
小林秀雄と関係もないつながりも良く分からない話持ち出しても、やっぱり小林信者は馬鹿だなと思われるだけじゃん。
それが分からないのかな?頭悪すぎじゃない?
>>862 あれは、別に悪口でもなんでもないが、悪口にみえますか。ずいぶんと悪意に満ちた毒々しい
口吻だね。そんなに興奮しなさんな。
まあ、江藤も小林も保守的文化人として分類されるから、小林に対する批判に対して、江藤への
批判に対する反批判をもってするのは、同様の類型に属する思想(この場合は、いわゆる保守思想)に
ついての批判と反批判の類型をなぞるであろう、というのがひとつ。
もひとつ。「健康」という語が発語されたのが、小林についての発話中であろうと、江藤についての発話中で
あろうと、語の分裂と二重化を回避しているなら、同じ意味をもつということ。さもなきゃハスミンは白痴であると
いうこと。れでぃ?
864 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 11:21:25
>>861 俺がおぼえてるのは『小説論=批評論』に入ってた小林論かな。
小林は絶対的な差異を否定性を媒介にした相対的な優位の元に語ってしまっている、てな感じだったかなあ。
『本居宜長』において、小林は小賢い理屈・「漢心」をしりぞけ「自然(じねん)」を賞揚し
自分もその宜長に倣うとしているがその背後には説得への意志が隠れている。
小林は「私は説得しない(=私には漢心がない)」と読者を説得しようとしている。
そしてその説得は、漢心に無縁な者への否定を通じて読者の宜長に対する「嫉妬」を媒介に行われている。
大体こんな感じだったかなと思うが定かではない。
他にもあったかどうかはおぼえがないから
>>860にきいてみて(笑)?
865 :
吾輩は名無しである:2005/06/22(水) 11:27:38
>>863 >>861さんの質問に答えてあげたらどうですか?
それとも蓮実が何を言ってるのか理解もできないのかな?笑
ではのちほど。
866 :
861:2005/06/22(水) 11:28:40
>>864 難しいですね。蓮実氏らしいと思いました。
背後に説得の意志が隠れているというところはよく分かりました。
ありがとうございます。
>>864 「表層批評宣言」にある、いわゆるランボー体験とよばれるものについての批判かねー
まず思いつくのは。まあ、ハスミンにとっちゃ、小林の批評は「メロドラマ」(それも貧弱で
貧相な)以外の何者でもないだろうし、俺もそうであるということをまったく否定するつもりは
ないんけどな。いずれにせよ、ハスミンの小林への評価は、貧しいメロドラマに対する
生理的な嫌悪感が、まず最初にあるんだろう。無論、生理的に嫌悪することが悪いとはいわないよ。
みなさん蓮實重彦「批評とその信用 初期小林秀雄の姿」を読んとらへんの?
高橋康也編『批評の創造性』〈21世紀 文学の創造〉岩波書店・二〇〇二年二月、所収。
例によって人を喰った、意表を衝く着眼から論じてはるわ。
これが、纏まった形ではいっちゃん新しい蓮實による小林論やろな。
読んとらへんの? → 読んどらへんの?
ついでに。小林信者は、わかったつもりなだけの酢豆腐やね。
わかっとることを示せず逃げるばかりや。
>>848
「およそ半世紀間のその著作歴は、さながら殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を
呈する。この人の生涯を評して、批評の可能性の追究だの、認識の魔との格闘だの、
なにかと凝った言葉が選ばれがちだが、人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を
工夫することに明け暮れたといったほうが実態に近いかもしれない。」(以下略)
向井敏『文章読本』
「向井敏は、殺し文句、という冷やかしの一語を鍵語(キーワード)として、王様は裸、
と史上はじめて、頌辞ではない真っ当な批評を記したのである。」
「小林秀雄には独特の文学観がなく、作品論では広津和郎その他先人の鑑賞眼を踏台に
した。小林が独創性なくして大批評家になりえた理由を、その手口を、向井敏が遂にと
きあかしたのである。」
谷沢永一『書物耽溺』
872 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 11:42:14
人を悩殺し驚倒させ感服させる名文句と、その内容を分けて、内容を批判(パクリ)。
本人が生きてたら鬼の首をとったように批判する気がする。
人を悩殺し驚倒させ感服させる名文句を生み出すことこそ文学。
文句の向こう側に何かがあるとする考えって哲学者でさえ(デリダとか?)批判してるんじゃないか。
だから、無理やり向こう側を別の言葉にすると、直観とか神秘主義とかになってしまう。
詩>批評>小説>(哲学?)って考えてた人だから。
873 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 14:24:58
874 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 16:17:28
小林秀雄ね・・・・w
>>872 「殺し文句には殺し文句の作法めいたものがあって、説明や描写や分析や
感想を平らかに述べつつ、ここぞという切所で抜き打ちに投げこむのが
効果的とされているようだが、小林秀雄はそんなことには頓着しない。」
前出・向井敏『文章読本』
つまり批評を詩語で埋め立てたト。だから小林は批評家失格なんだよ。
>>872
877 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 17:34:59
もっと散文精神(廣津和郎)を!
878 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 18:41:36
>>876 詩語で埋め立て〜同感。
例えばランボーについて書いたものとか批評でもなんでもない。
論述でなく啖呵だってよく言われるよね。
昔、小論(受験当時)書いたら教師に「独断的文章だ」と酷評された。影響受けてたんだろうな。
今回は日本語大丈夫とまで言われちゃったし・・。
>>878 878=872なのか。同感するなら、小林は駄目ってことなんだが。
日本語読解力、大丈夫か? 早く小林の(悪)影響を脱しろ。
880 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 19:08:03
批評になってないっていうのは昔から言われてた。
でも、
「詩語、啖呵だから小林秀雄は駄目」だと言ったら、本当に全否定だよね。
曖昧でレトリカルな文章でしか語れないこともあるんじゃないか。
各批評家、読者が斬新な評価をした気になる事で
自身の自己同一性を見い出す。
その対象はそれにより益々正典としての地位を固める事になる。
882 :
吾輩は名無しである:2005/06/25(土) 20:06:29
>>881 そういう意味ではランボーとかゴッホって格好の題材だ。
小林秀雄はロートレアモンとかネルバルとかバタイユとかは読んだのだろうか。
まあ、丸谷才一とか鷲田小彌太も悪口かいてるし、小林の悪口書いてる連中を探すのに苦労はしない。
みなよほど小林秀雄に抑圧を感じているんだろうね。ハスミンなどは、既に何回か小林批判の文を
書いているのに、二十一世紀になってもまだ小林への批判を書くことになるのかと、小林によって抑圧を
被った範囲が広大であり、その及ぼした影響が持続的であることにまず感動する。二十世紀においての
「本居宣長」批判で処理は終了したのかと思いきや、二十一世紀になっても批判の修辞を編むことを
余儀なくされるとは。
しかし、たいていの批判は、「小林は詩人だから」の一言で無効になっちゃうんだよね。「詩人」の
一語は、未だに強力な破壊力を保持していると見える。これに対抗できる一語はなんだろう、「芸術家」
くらいかな。だから、小林への批判をなすものはみな思わず知らず「芸術家」の一語に引き寄せられて
しまうんだね。なかなか強力なトラップですね。
むろん詩人なんて屑です。だから小林は駄目なんです。
>>880 >曖昧でレトリカルな文章でしか語れないこともあるんじゃないか。
一般論でごまかすな。
明晰に語れること・語るべきことまで、のべつ幕無しに殺し文句を繰り出して述べようとしたから
「詩語で埋め立てる」と批判されてるんだよ。
意気地無しめ。
>>886 詩人なんて屑だよ、特に批評文においては。
批評もできる詩人も存在するが、それは詩人から脱け出てるとこがエラいわけ。
「詩人」になってしまったら、みんな屑。詩を超克する意志無くして詩人面すんな。
>>887 その「批評文」とやらは自動車についての批評とか、パソコンについての批評のことかいな。
「批評文」とはむろん、批評の対象なくしては機能しないんだから、批評の対象をまず限定
しないとね。限定してみなよ。
>それは詩人から脱け出てるとこがエラいわけ。
他のあらゆる批評文の分野でこんなことが当てはまると思うのかいな。オーディオについて
批評文を書くものはオーディオ機器を製作するものよりエライとか、自動車についての
批評文を書くものは自動車を製作するものよりエライとか。むしろ逆だろう。
>>888は、比喩で思考する人が論理を失する好例だね。
出してくる例はすべて見当外れ。
いいか、似非詩人クンよ。
詩も批評文も、同じく言葉で書くものだ。道具を作る例とは話が異なる。
しかし、詩の言葉で書き連ねたって批評文でございとは名乗るに値せぬ。
批評にはまた批評の言葉が要る。肝心なのはそこのところだ。
篤と考へたまへ。
>>889 >道具を作る例とは話が異なる。
道具を作る例がおきに召さなければ、ソフトウエアでもいいよ。記号の集積であるから
形あるものとは少々ことなるね。料理の教科書について批評するひともまた、教科書を
書いた人と同じく言葉を使っているには違いない。(んー、どちらもうまい例えではないかな。)
>詩も批評文も、同じく言葉で書くものだ。
>批評にはまた批評の言葉が要る。
どこが肝心なのやら、これだけじゃちっともわからんね。道具の製作者もまた製作に
必要な言葉をすべて駆使し、発話するわけだろう。そして製作者も批評家も言葉を
使用しているには違いない。文学批評の分野においてとりわけて肝心なこととも
思われない。
道具は言葉で作るのか? 道具の材料は言葉か? あほかお前は。
>>890
>>891 言葉もまた一種のマテリアルであると考えれば、何も不思議なことはないよ。
印刷された媒体、すなわち本は延長も重量も備えた物体であるし、液晶モニターに写る文字も
また一種のマテリアルともいえる。材料は単なる物体ではなく、製品となるまでに、もろもろの
情報や発話によって媒介されずにはいられない。言語芸術がそれほど、これらの媒介の
ありように比べて特権的とか思ってるのかいな(笑い
本は言葉ではないし、紙やインクや液晶も言葉の伝達媒体であって言葉ではない。
で、オーディオ機器や自動車は言葉ってマテリアルで作ってるんだってかい?
あほらし。非論理的な詩人の空想にはついてゆけまへんナ。
>>893 >批評にはまた批評の言葉が要る。肝心なのはそこのところだ。
要するに、このテーゼがくだらないと、そういうこっちゃ。
仕事に集中した職人は口も利かずに道具を作り上げるけどねー?
>>892
>>895 小林は「職人の沈黙」を特権化するけど、これに対して、ハスミンは「沈黙を特権化するのは
錯覚である」とか何とか確か批判していた。どうやら、ハスミンの批判を超えて、ふたたび沈黙が
特権化されたようだ。ごくろーさん。
「言葉では簡単に言えるが、実際はそんなもんじゃない。」
では実際とは何ものか。
「その言葉は単純だ。もっと複雑な言葉もある。」
>>896 あいにく、いま問題なのは道具ではなくて批評(の言葉)のことですから、残念。
論理を曲げて話をそらしたってダメよん。
>>894 詩語で埋め立てた文章なんかでも、批評文として認めてよいと?
>>897 「口も利かずに」って何だよ。沈黙してるという意味じゃないの。
おいおい、肝心な修飾節をあたかも発話しなかったかのように、とぼけるというのは
如何なものか。
口も利かなくても、思考してるなら、職人の仕事もまた、言葉によって媒介されてるかもよ。
もっとも、黙ってるから本当にそうかどうかは、職人の脳をこじ開けないとわからんわけだが。
>>898 いいんじゃないの? 詩語で埋まった文章だけが批評であるというのはアレだけど。
その程度認められないのは、キャパが小さいんじゃないの。
>>899 で、だからって道具の材料は言葉か? 言葉抜きで道具は作れないか?
ごまかすなって。道具の比喩は不適当だとさっさと認めて、批評に話を戻せ。
>>900 すると詩に対して批評の自立性はどうなる?
少なくとも小林秀雄は批評を自立させたなんてウソになるね。それでいいかい。
>>903 小林が「詩に対して」批評を自立させた、という話はあまり聞いたことないなあ。
詩的な喚起力の強い文章で、独自の魅力をもつ文芸批評を書いた。
それによって大量の読者を獲得し、文芸批評という市場を発展させることに
貢献した。 功績としてあげるなら、こういうところだろう。 小林以前の批評家
たとえば樗牛や白鳥の批評文は、詩と区別のつかない曖昧なもので、小林以降
そうでなくなったというのは、どうにも実態とかけ離れたストーリーに見えるね。
>>904 こんな議論やって、「勝った負けた」とすぐ言い出すようじゃ
お里がしれるというもの。:-)
>>905 「詩に対して」なんて、故意の強調で話を捩曲げてはいかんね。
小林は批評を自立させたかに見えたが、実は詩への従属に過ぎなかったってことよ。
その詩ってのも、フランス象徴詩のいい加減な理解によるバッタ物で……
>>908 単なる批評の自立性ではなく、詩に対しての批評の自立性といってるのに
それを指摘したら「話を捻じ曲げ」かよ。いい根性してるね。
批評を従属させるほど、強力な詩なぞ小林に書けたはずがない。小林の詩が
どれも下手糞だということを指摘すれば足りるね。
この程度の議論でも、比喩を濫用して論理を乱すのと、どっちが馬鹿?
>>906
>>910 お手前の発言のどこに論理が? かといって比喩すらまともに扱えなさそうだし。
俺の比喩が気に入らないというなら、なんか気の利いた比喩のひとつもいってみなよ。
>>909 じゃあ「せめて」小林ほどの「詩」を書いてみせてくれや。
馬鹿馬鹿いって腕を振り回すのは餓鬼でもできるからさ。
>>909 はあ? 小林の批評は詩語で埋め立てたものだってことで話が進んでたのではないの?
誰が小林の書いた詩作品の話をしとるかね。
世に所謂「(単なる)批評の自立性」が実は詩への従属であったってことを言ってるでしょ。
初めから詩に対してのみ自立性を獲得しようとしたとか獲得した、なんて誰も言っとらん。
>>914 >詩的な喚起力の強い文章で、独自の魅力をもつ文芸批評を書いた。
従属とか独立とか言う話は別にしとらんが。『世に所謂「(単なる)批評の自立性』なんて
いってないで、具体例を引用して味噌。
>>907を再読せよ。
>>911 もし私の比喩が下手だとしても、君の道具の比喩が不適当だった事実は揺るがないよ。
別問題を混同するなや。その程度の論理関係もつかめないから批判されるのだと悟れ。
>>915 その引用は君自身が書いたのではないのかね? 引く意味が解らんね。
小林が批評を自立させたってのは、文学辞典類の定評だよね。
創造的批評とか言ってさ。むろん、それは蓮實重彦も指摘する通り「信用」ならない。
>>916 「不適当」であるのは「揺るがないほどに確実」であると言い切りますか。だいたい比喩なんてものは
適当であったり、不適当であったり、その中間であったり、いずれにせよ現物の影であるのだから
いろいろな方向から光をあてれば、それに応じて比喩における形象も変化するのは当たり前。
「ゆるがないほど確実な比喩」なるものが存在するとでも思ってんのかね。プゲラ
>>917 じゃあ、その「文学辞典の定評」ではどうなっているのか。ひっぱってこいや。
>小林秀雄 1902‐1983
>こばやしひでお
>
>評論家。東京神田生れ。東大仏文科卒。在学中富永太郎,中原中也らと交遊。1929年《様々なる意匠》で文壇に
>登場し,《アシルと亀の子》などの文芸時評で地位を確立,プロレタリア文学の観念性,私(わたくし)小説の
>脆弱(ぜいじゃく)さを激しく批判,近代日本文学の再検討に向かった。1933年武田麟太郎,林房雄,川端康成ら
>と《文学界》を創刊,《ドストエフスキイの生活》を連載した。このころ《私小説論》を発表。太平洋戦争勃発
>(ぼっぱつ)のころから古典芸術,音楽,造形美術,歴史の世界に没頭,それらは戦後,《無常といふ事》
>《モオツアルト》(いずれも1946年)にまとめられた。《ゴッホの手紙》,さらにドストエフスキー作品論などで
>芸術家の創造活動を探究,外遊後《近代絵画》を刊行。また日本文学の伝統を考察,1977年《本居宣長》を完成した。>批評を独立した文学に高め,多方面に影響を与えた。1967年文化勲章。全集がある。
>
>マイペディア(C)株式会社日立システムアンドサービス
「批評を独立した文学に高め」とは書いてあるが、詩から批評を独立させたなんて書いてないぞ。
そう書いてある文学辞典の項目をもってきなさい。
ちぇっ、整形を一部ミスっちまったよ。
>>918 一般論で逃げるのがお好きやね。
具体的に
>>888の道具の比喩が不適当でないことをよう説明せえへんのやろ。
>>922 どうやら「比喩」方面一本に的をしぼって、後は総退却か。
じゃあ、どう不適当なのか、適当な比喩は具体的に何か、縷々語って
ちょーらいな。まあ、こちらとしては
>>918より先に戦線を進めるつもりは
ないのでよろしく。
>>920 「批評を独立した文学に高め」とあれば、他のどのジャンルからも独立した、と取るのが普通だな。
にも拘らず、
>>900の解釈によれば、小林の批評文は詩には従属してたってことになる。
それでいいのか、って
>>903は問うたわけだ。
繰り返すが、初めから詩に対してのみ自立性を獲得した――なんて言ってない。よく読め。
>>924 おいおい、
>>900のどこに「従属した」などという言葉がでてくるんだよ。
かなーり無理してませんか、その解釈。
>>925 900によれば、「詩語で埋め立てた文章なんかでも、批評文として認めてよい」。
するとその批評文は、詩への従属ではないか。批評を自立させたって小林評とは撞着する。
――この、どこに無理があるかね?
>>926 「言語の物質性」という概念をどう捉えるか、というだけの話だよ。もともと「言語の物質性」という
概念がヤクザな概念だから致し方ないね。言語は物質である。言語は物質でない。ふたつの
テーゼは、同時に成り立つとも言えるし、成り立たないともいえる。すべては物質であるという
立場からすれば、言語もまた物質でなければおかしいしね。そういう立場からすれば、言語が
言語であるがゆえに、他のマテリアルとは異なるという立場もとりえないと、こうなるわけだ。
柄谷が小林の初期批評を評価するのも、この「言語の物質性」という曖昧な概念が小林の
初期批評において提示されていたればこそだ。批評の主題自体が、唯物論についてのもろもろの
言説より干渉されているのだから、不確定的にならざるえないわけだよ。
>>928 はあ? 言葉の物質性云々の空論はどうでもいい。もっと散文的で、即物的な話だ。
道具は言葉で作るものってことにはならないってことを言ってる。
そしてそもそも
>>888の道具による比喩は、批評の言葉を問題にできてないから不適当だ、と。
>>927 批評文中において、詩的な表現をつかえば、即その批評は詩に従属していると?
たとえば、どのくらいの割合で詩的な表現が混入されていれば、批評は詩に従属
しているといえるのかな。百ページの批評中、一行でも批評的表現でない詩的な
表現が混入していれば、その批評は詩に従属しているとでもいう心算かね。
ある批評文が詩的ならざる批評的表現に埋め尽くされているとして、その批評が
結局見当はずれで、感傷的であるということもあるし、詩的な表現でほとんど
埋め尽くされていても、非感傷的で正鵠を射ているということもあるんだよ。
>>929 「適当でない」「適当でない」と壊れた機械のように繰り返すだけじゃなくて、もっと
面白いこといいなよ。だんだん飽きてきたぞ。
932 :
吾輩は名無しである:2005/06/26(日) 08:32:22
もう929はスルーしないか。
詩語批評批判の流れの中に一人異物だ。
批評が自立しようがしまいが、どうでもいいような気もするけど。
それを成し得た(と言われている)小林秀雄の政治性、文学界への抑圧力等がアンチの気に障るんだろう。
確かに小林を読んで悩むより、竹田現象学とか読んだ方がインスタントに先に進めて効率がいいのは事実。
東洋的な気質としてありがちだが、最初から非論理、超論理の世界に逃げ込むのはよくない気がする。
>>887 小林の影響まるだしな啖呵だな。「超克する意志」とか言い出してらァ。
つーか前々から「残念」とか侍入った言い草して煽ってる低脳がいるが、
自分の言語センスが恥ずかしくねーのかな。
>>930 前半の、詩的表現の占める割合の話は無意味。既に「詩語で埋め立てた」と言ってるんだから。
後半、一般論でかくかくでもあり得るししかじかでもあり得るなんてのも、無意味。
小林の批評文って具体例に対して、詩(誤った詩観にせよ)への従属を認めるか認めないか、が問題。
>>933 > つーか 侍入った 低脳
> 自分の言語センスが恥ずかしくねーのかな。
>>932 もう900番台だし、埋めに入ったところで問題はない。
>>934 「適当でない」を「見当はずれ」といいかえただけ。ダサ…
>>935 「文学辞典の定評」から、小林の批評は詩に従属しているという文節をひっぱって
きてから口を開きなよ。脳内君。
>小林の批評文って具体例に対して、詩(誤った詩観にせよ)への従属を認めるか認めないか、が問題。
君ごときが誤ってるとか誤ってないとか決められると妄想しているなんぞ片腹痛い。
言い捨てるだけじゃ何だから、代表的ないくつかの批評作品について、それが詩に従属している
といえるかどうか、検討してみるとしよう。
「私小説論」や「ドストエフスキイの生活」は詩に従属しているか否か検討する、とかな。
「私小説論」のどこが詩に従属しているのか俺には見当がつかんし、「ドストエフスキイの
生活」等は、江川卓だのバフチンだのを知っている我々からすると、作品自体の分析が
あまりなく物足りないかもしらん。カーを下敷きにしてると指摘もされた。それらの弱点は
あるが、自立した伝記的批評をめざすという作品の意図ははっきりしている。批評作品に
おいては、対象となる作品、作者についての、資料の読み込みという作業が必要であって
詩の創造にはそんなものは必要ない。資料の読み込みが不十分だとか、対象の資料が
古いという批判はあるだろうが、資料の読み込みが土台にあるにもかかわらず、それが
詩に従属しているなどといいだすのは、見当違いもいいとこ。
939 :
吾輩は名無しである:2005/06/26(日) 21:35:12
批評が自立なんかするわけないじゃんか
自立したらそれは批評じゃない
人の褌で相撲とりやがってこの乞食とか言われすぎたんで
自立なんて言ってみたくなっただけで
対象に依存しない批評などありえない
何故殊更自立なんて言いたがるのかさっぱりわからん
940 :
吾輩は名無しである:2005/06/27(月) 00:55:05
>>939 いくら資料を調べたって関係ない。かくも関係ないことばかり持ち出すのは論理が弱いね。
どう調べたかは問題でなく、それを表現する言葉が詩もどきだって批判でしょ?
おっと「
>>939」は
>>940の誤り。
しかし
>>939も解ってないな。
対象に依存するしないではなく、それを述べる批評言語が他ジャンルの語に依存するか否か。
おっと「
>>939」は
>>938の誤り。
しかし
>>939も解ってないな。
対象に依存するしないではなく、
それを述べる批評言語が他ジャンルの語に依存するか否か。
小林信者には論理に弱い人が多いの?
>>939 自立性というのは、文芸批評の自立性という意味もあるし、文芸評論家という職業の
自立性という意味もある。後進の文芸批評家にとっちゃ、後者の確立は重要ですよ。
学者や小説家の余技にしかすぎなかった文芸批評というジャンルを独立させた
という功績ね。 これも詳しく検証してみれば神話であるやもしらん。
>>942 手がふるえてる? ちゃんとリロードできてる? 意味がわからないよ?すでに壊れたね?
とりあえず、何か具体例を挙げて論じてみ。
>>943 もはやそんな独立は失われていますが…
昨今ではライターの宣伝文しか存在しないじゃん
>>944 そうなんだよねー、だから小林が自立性を確立したかのように見えた、という方が実情に
近いのであるやもしれぬ。「近代文学」が失効して、「近代文芸批評」もついでに失効したと
いうのがわかりやすいストーリーかな。カッコつきの「近代文学」が失効しても、文学自体が
失効したわけでないなら、批評というジャンルもまた失効にはいたらない。新聞雑誌の
批評から、アマゾンにおけるもろもろの書評の存在にいたるまで、批評という営為に
対する需要はつきることがない。これは批評という営為自体のもつ性質であって
小林が批評の自立性を確立したというのが正しかろうとそうでなかろうと、その性質は
かわらないというのが一番適切なようだ。
>>943 詩を対象にした批評は詩に依存するかどうかってのと
その批評文が詩的表現に満ちて批評的分析総合が無いのは詩に依存するってのとは
別の話だよな。それを混同するなってことよ。まだわからんか?
>>946 小林秀雄の文における「詩」と「批評」を、具体的に文を引用して分析したのは
柳父章の「文体の論理」あたりではないかと思うが、そのくらいの分析の労苦も
払わず、詩と批評の依存関係のなんのと振り回すのは、まさに抽象的言語の外皮を
被った通俗批評そのものの実践ですな。
自分で具体的に作品を例示して分析するつもりはどうもなさそうであるから、返答の
仕方をかえてみよう。詩と批評の依存関係がどうのこうのというからには、詩とは
何か、批評とは何か、その相違とは何かについて、そちらは明快に了解できている
というわけだ。ならば、詩と批評の違いは何か、いってみな。明快にその相違を定義
できれば、単なる通俗批評から一歩ふみだせるというものだ。
>>947 その前に、論理を取り違ってたのはもう理解できたのか?
そこを片づけないとまた錯綜するだけでしょ。
詩と批評の定義云々も、最初に出たとき問題にせずなぜこんな後になって訊いてるんだ?
>>948 三日もレスがないから、てっきり、もう氏んだのかと思っていた。
(あるいは、すでに自分は氏んでいることに気づいていないだけ?)
>その前に、論理を取り違ってたのはもう理解できたのか?
単なる比喩に論理の取り繕いも何もないもんだ。
>詩と批評の定義云々も、最初に出たとき問題にせずなぜこんな後になって訊いてるんだ?
そらー、自信満々で、
>>889において、詩と批評の違いを断言していなさってるからね。
完璧に批評と詩の違いを理解なさってるもんだとばかり思っていたよ。あれだけ自信たっぷりに
いうんだから、さぞ立派な定義を既に用意しているんだとばかり思っていた。議論するうちに
どうやらただのハッタリにすぎないと見当がついてきたから、質問してみたまでさ。
三日以上かかって、詩と批評の相違について一言半句も述べられないようじゃ、単なる
論のきっかけである
>>889も、単なるハッタリ、こけおどし認定する以外ないね。
小林における詩と批評の中心的な観念は、ボードレールから導入したというのが一般的な
理解であって、小林の批評概念を批判するには、当然小林によるボードレールの読解、あるいは
ボードレール本人の文まで批判の射程にいれるべきなんですな。ボードレールのワグネル論における
批評家と詩人についての文くらい知ってるだろ、いくらなんでも。小林における詩と批評についての
観念を批判しようというなら、当然、ボードレールによる批評と詩人の論を批判せねばならないわけだ。
では、ボードレールによる論を引用して批判してみなさい。もういくつも機会を与えてるんだが
ちっとも回答がないからつまらんね。キャッチボールになってないよ。柳父章くらいもう読んだ?
951 :
吾輩は名無しである:2005/07/02(土) 00:24:37
>>949 やっぱりまだわかってないのか。
論理を取り違ったとは、
>>946が別の話だと言ってることだよ?
それと、「批評文を詩語で埋め立てた」と言ってずっとそれには疑問が出なかった以上
既に了解済みと受け取るのが自然だろ。いまさら質問するのは、話をそらすため?
>>951 そんな貧相な言いがかりにいちいちつきあう義理もないが
・さっさと「詩」と「批評」を定義するか。
・小林秀雄は詩から批評を独立させたという文学辞典の定評を引用するか。
・柳父章の「文体の論理」における詩、批評概念について論ずるか。
あるいはその他の小林秀雄における詩と批評を論じた文を提示するか。
・ボードレールにおける詩と批評の観念について論ずるか。
どれでもいいから、やってみな。
(無理なのはわかってるけどさ。せめて勝利宣言だけは派手にやってみなよ。)
ま、とりあえず詩と批評についての主要な論点の提示はこんなもんか。
953 :
吾輩は名無しである:2005/07/02(土) 21:38:06
>>952 >・ボードレールにおける詩と批評の観念について論ずるか。
ヴァレリーも。
あと、小林は無視したみたいだけどバタイユなんかも思いっきり詩語批評。
小林秀雄の文学観って、あの世代にしては古すぎるんだよな。
特にフランス文学に関して。
>>984 意図的に無視したというわけじゃないだろうな。ブルトンを読んでいたからという
わけではなさそうだが。小林はシュルレアリスムが嫌いだから、バタイユについては
シュルレアリトの亜種である程度の認識であったやもしらん。もっとも呪われた部分と
いう発想に、まるで無縁であったというわけではない。ランボーが呪われた詩人であるなら
ベルクソンは呪われた哲学者だ。小林が描くところの芸術家は、ほとんどみな呪われた
芸術家として立ち現れる。観客はときに呪われた芸術家の蝋人形が展示してある見世物
小屋を見物しているような気分になることもあり、そういう観客の気分は中村光夫が
代弁していたりする。その理由をいろいろに分析することも可能であろうが、見世物小屋の
管理が行き届かなくなるほど小林が手を広げすぎたのが理由だ、と俺はごく単純に考えてる。
>>954 いかにも思わせぶりな口調ながら、まるで内容がない発言というのは、実にいじましく
見えるものだ。「あの世代にしては」といいながら、名をあげるつもりは何故かなさそうであるし。
渡辺一夫や河盛好蔵や中島健三にくらべて、小林の文学観が特に古いとは思えん。古いというなら
十九世紀初頭に生まれた文学者の文学観はみな古いといえばすむことだ。渡辺一夫なぞラブレーに
取り組んでましたよ。近代以前ですよ。戦前ではプルーストやジョイスに人しなみに応接し
戦後はサルトルやカミュについての感想を書いてるんだから、ジャーナリスティックな関心は
持ち続けていただろうな。ジャーナリスティックな関心を文学から差し引けば、何が残るかは
心もとないことであるね、現在においても。
>>956 君こそ無内容の極致。
渡辺一夫のラブレーには、同時代性がちゃんとあるだろう?
R・フェーブルとかバフチンとか。
そういうトリヴィアルな話がしたいのではなくて、
要するに、
フランス文学の読み直しを迫るような読解に乏しいんだと思う。
958 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 06:54:52
渡辺一夫に対する小林の劣等感はそうとうなものだったらしいね
大江健三郎に渡辺はキチガイだと言ったら大江が泣き出した
何十年間の怨念を弟子にぶつけるのも小林らしいけど
それであの厚顔無恥な大江が人前で泣き出すってんだから
やっぱり小林の口は只者じゃないね
>>952 問題を順番に片づけないで、自分の聞きたいことだけ質問するわけね?
960 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 12:59:09
小林秀雄に関しては、沈黙の他、何が可能か、僕は考えます。
961 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 13:05:11
論理的思考を武器に小林をけなそうとしている人たちはそもそも小林に付き合わなくても
いいのだと思う。他にも立派な思想家や科学者がおおぜいいるだろうからそちらへどうぞ。
>>961 それって最悪の開き直りだろう。
半ばファン・半ばアンチだが、あんたみたいな読者が多いのが小林の害毒だな
963 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 13:46:34
>>961 批評である以上最低限の「論理」が求められるのは当然じゃないの?
詩的な表現や比喩、飛躍や断定が必ずしも許されない訳ではないにしても、
読む者が論理的にアプローチできないようなものはやはり批評ではなくて
「芸」にすぎないし、そのような「芸」はメロドラマにすぎない、
と断言してしまうことが批評においての最低限の「倫理」ではあると思う。
961さんの小林に対する姿勢はまるで骨董品を愛でる好事家みたいじゃん。
小林本人が、961のようなファンを好んだからね…
実際の小林秀雄は、できるだけ論理的に書こうとしていると思う。
けれど、自分の文章を論理で吟味されたくない、という防衛が、
妙な韜晦趣味になっていて、しかもそれがファンを魅了した。
次スレではそのへんについても論じていくといいと思う。
965 :
961:2005/07/04(月) 16:10:39
けなすことを目的にここに来てる人がいる気がしたので言ってみた。
僕は好きだから読んでる。それだけ。
欠点を指摘すること=けなし
という発想はやめましょうや。
「批評する者は批評される」の原則に忠実なスレなんだよ。
相手を嘲笑う態度だけは、いただけないけどな。
間違っていたのならば、指摘すればいい。
足りないのならば、足せばいい。
968 :
961:2005/07/04(月) 20:17:53
>>966 小林の批評は愛する対象を批評する。ランボーにしてもドストエフスキーにしても
モーツァルトに対しても。
ランボオUで言っているね。「人の真実の心というものは、自分が世の中で一番好きだと
思っている人の事を一番上手に語りたいと希っているものらしいが、そうは行かぬものらしい」
小林は生涯好きな対象の人物のことを上手に語りたかったのだと思う。
>>968 信者だね〜
彼の得意技と弱いところを両方知った方が良いぜ
970 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 20:58:40
>>968 だからさあ、今は小林の姿勢の是非が問題になってる訳でさ。
「小林は
>>970 是非を問われるものではなく、ただ「こうだった」と示される類の代物だろう>姿勢
切り口によって見え方も違うし、示しきれるものでもないが。
972 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 21:54:57
誤爆〜。
>>968 だからさあ、今は小林の、そういう、対象に距離を置かない、批評的
というよりは詩的なスタイルの是非が問題になってる訳でさ。
そういう流れで「小林は対象に愛情を〜」なんて言われても
循環論法になっちゃって何とも応答しようがないよ。
例えば『本居宜長』にしても、宜長の思想について冷静に客観的に
記述するような論考ではなくて、対象に同一化することを目指した
ような作品で、これは968さんの言う「愛する対象を語る批評」
ということではあるとは思うんだけど、ただでもどこかで対象への
愛情を裏切るような客観的に突き放した部分がなければ、それは批評
じゃなくて「詩」「うた」にとどまってしまうんじゃないの?っていう話でさ。
信者の内だけで通じれば良いのなら「詩」「うた」でも構わないんだろうけど、
残念ながら「批評」である限り信者でない人間を相手にして
有無を言わせないだけの論理性や散文性は要求されるんじゃないかな。
もちろん、小林が目指したのは散文的な「正しさ」とは別の物なんだろうけどね。
973 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 22:03:41
>>971 「姿勢」はただ示されるもので是非が問われるものではない!?
日本語の意味がわかりません。
うーんなんだか意味も分からずただ小林の言葉を繰り返しちゃってるだけの
小林信者のようで、ひょっとしてこのスレでも
アンチに論破されてた人ですか?
示しきれないものは示せない!?
僕は自分の考えていること「全て」を表現しきれないと思いますが、
それはイコール「何も表現できない」になっちゃうのかな?そんなことないよね?大丈夫?
う〜〜〜〜〜む、また馬鹿信者降臨なのかなあ……苦笑。
あまり馬鹿なこと書くのは控えて下さいね?馬鹿馬鹿しいから。
974 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 22:14:14
>>978 米国に対する、靖国問題に対する小泉総理の「姿勢」。
女性や在日外国人に対する石原慎太郎都知事の「姿勢」。
「姿勢」は示されるだけのものだから、いくら慎太郎が女性や
三国人を否定する発言を繰り返そうがその是非は問われなくなっちゃうの?
そんな訳ないよー(ToT)
975 :
吾輩は名無しである:2005/07/04(月) 22:16:11
>>974はカギカッコ付きの「三国人」に。
なんか俺が「三国人」って言葉使ってるみたいだ。
>>973 姿勢とは、露になった倫理観だ。
倫理は事実問題に属する。
事実問題は権利問題とは性質を異にするため、明確な規則をもとに真偽や是非を問うことができず、
有効な批判を加えることも非常に難しい。
しかし、不可能ではない。
>>974の挙げた例についても、それらに対して有効な批判をすることは可能だ。
しかし、こうした問題を介して名無し同士で向かい合うことが、どれほど困難なことか。
これはインターネットをうろつく者であれば、誰でも一度は感じることだろう。
まあ、書き込んでから「そういえば、そこにあえて切り込んでいくのが批評家だったな」と思ったのだけれど。
>>973氏やその他の方が、小林秀雄の批評家としての姿勢に対する批判を、真剣にやるつもりだというなら、
971は余計な一言だった。
年寄りじみたいらんお世話だ。忘れてくれ。
ああ、でも最後に、一つだけ。
あまり人を煽るものではないよ。
結局はそれが、全てをつまらなくしてしまうから。
>>972氏がやっているように、小林秀雄の批評の有効性を問い、
その批評自体の有効性をまた誰かが問う。
馴れ合いでも煽り合いでもなく、殺伐としていながらもこの上なく密着した状態。
そのためには厳格な論理と深い読み込み、そしてなによりも真摯な姿勢が必要になる。
そんな風にスレが進展していくなら、それは素晴らしいことだ。
978 :
961:2005/07/05(火) 01:11:31
>>972 >小林の、そういう、対象に距離を置かない、批評的
というよりは詩的なスタイルの是非が問題になってる。
そうでしたか。流れをよく読んでいなかったもので。
しかし、小林の文体がそんなに問題になるのかな。
客観的、明晰な批評文が好きなら丸山真男や蓮実重彦
を読めばいい。小林の語り口が抵抗あってそれを批判す
るのは小林を読む入り口にとどまっていて実際は小林の
中身に踏み込んでいないと思えるけどどうだろう。
979 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 01:22:03
>>978 おいおい。もっかい読み直せ。
突っ込みどころが満
980 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 01:49:55
「三国人」ってはじめてぐぐってみたけど、別に差別用語じゃないやん。
ていうか、これ日本人が差別されたってことやん。唖然…。
---------------------------------------------------------------
三国人という名称は敗戦直後のドサクサで生まれた。日本国籍を離脱した韓国人たちは自分達は『戦勝国』であると主張。
日本でも米国でもない『第三の国』という意味で彼らは誇りを込めてこの言葉を使い始めた。
つまり、在日韓国人は自分の意思で日本人とは平等じゃないと選択した『外国人』だよ。
そして、朝鮮人の愚連隊が結成され続け復讐が始まった。各地で駅前の一等地の不法占拠、居住者への暴力、商品の略奪。
白昼堂々と日本人女性が強姦され続けた。日本の警察は『外国人』『三国人』である朝鮮人に手出しできなかった。
現在、駅前の一等地にパチンコ屋が多い本当の理由、ヤクザに韓国人が多い理由がこれだ。
つまり、彼らはうまく白を切っているが『三国人』は日本の暗黒社会の住人で悪事の限りをつくしていたんだよ。
大勢の日本人女性が強姦され、人生をだいなしにされたんだよ、三国人のせいで。「銀座警察」『東声会』に関する本を読め。
>>968 まず、詩的な部分がどう有効なのか、具体的な読み方などをあげて説明してみてはどうでしょう。
「詩的な部分が有効ではない」という批判に対して反論するなら、議論を成り立たせるためにも、そうした努力は必須です。
「詩の有効性は説明できるものではない」と言い切ってしまえば、それまでかもしれない。
が、それは「わかってないな」と鼻で笑う挑発行為に等しい。
すれ違うしかないと判断したなら、まず自身が沈黙をたもつべきでは?
感情をおさえ煽りを謹むことと同様に、無駄な言葉を費やさないこともまた、議論の上では大切な事。
>>980 イメージと気持ちの問題だけで議論してる人に
何を提示しても無駄だよ…妄想と観念の世界で生きてる人達ですから…
ミイラみたいなもんだな…
都合の悪いソースは完全に黙殺するからね
集団スルーか、ウヨとかレッテル貼りして論点づらしするよ
予言しとく、↓ソース
>>957 >>956の文中、一番トリヴィアルな部分に突っ込みにしか突っ込みをいれられないとはね。
トリヴィア合戦では、検証の手間を無闇に増えるだけだからねー。
>同時代性がちゃんとあるだろう?
サルトルやカミュについて語ることは同時代性の存在を証しなかったとでも?
まあ、同時代性という言葉を無批判に盲信して使っている様が目に浮かぶよ。
バフチンについて言えば、「ドストエフスキーの創作の諸問題」は1929年に書かれている
そうである。小林が「ドストエフスキイの生活」を書き始めたのは1935年であり、執筆開始に
あたって手に入る限りの資料を読んだということだが、バフチンを読んだ形跡はない。それも
そのはず、バフチンの著作が陽の目を見るようになったのは、1960年代にはいってからのことである。
小林が「ドストエフスキイの生活」を書き出したときに、バフチンが読めなかったのは、文学的には
偶然のことであり(読んだと想像して、どういう影響を受けたかは、俄かには想像しがたいが)
後に陽の目を見て、学者の注目を集めるようになったのも文学的には偶然だ。渡辺のラブレーに
同時代性がある、というのは単に渡辺がバフチンの影響を受けたという話であろう。文学史の
読み直しをせまる読解と称されるものは、九割方環境と偶然の産物であるから、文学史を書き換えて
やったと自負する当人が考えるほど価値が認められないのが普通である。小林がたとえ乏しくても
本当に、文学史の読み直しをせまるような読みをやっているんなら、それだけでもう文芸批評家の
氏名は十分に果たしているとしかいいようがない。
>>959 議論の経過を簡潔にまとめただけさ。くだんない揚げ足取りしかやらない相手に、いつまでも
拘泥しても仕方ないからね。
>>958 小林が渡辺をキチガイと評したからといって、どうして小林が渡辺に怨念を持っていた
ことになるのかわからんね。渡辺の他無数の連中がキチガイと評されているというのに。
そもそも、大江は本居宣長を読解するに当たって、レヴィ=ストロースとロシア・フォルマリズムに
全面的にのっかっている。大江の読解が見当違いでないなら、小林の著作が同時代的な批評方法に
対して開かれていることは証されたわけだ。 さもなきゃ大江の読みが馬鹿であるか、方法的
読解に耐えることをもって同時代性があることを証するというやり方が、曖昧でいい加減なもので
あるかだ。
986 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 13:31:52
次スレ立てました。
[批評とは]小林秀雄[無私への道]
987 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 17:53:15
アホなスレタイつけんなよ
988 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 19:35:15
すいません985の日本語がわかりません!誰かわかる人いる?
989 :
吾輩は名無しである:2005/07/05(火) 19:40:11
あと983もわかんないね
990 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 12:41:50
>>976 何がいいたいのかさっぱりわからん文章だな。
こっちは、「姿勢というものは是非を問われるものではなくただ示される類の代物」
だという貴方の主張(?)がまったく意味不明だ、と言ってるんだけど。
問いかけにマトモに答えようともせず、思わせ振りな文章で煙にまこうとしてるようにしか見えないんだけど、
無理して意味ありげなこと書いてもまったく板についていないし醜悪なだけだからやめたほうがいいですよ。
文章は簡潔にそして明解に。貴方の文は「文章読本」のたぐいで「やってはいけない例」
の筆頭にあげられるような文章です。
さて、「姿勢の是非を問う」ことは可能なのか?可能じゃないのか?ごまかさずにはっきり答えること。
>>971でこちらの書き込みに異をとなえてきたのは貴方な訳ですから、こちらの反論に答えようともせず、
また自分の誤りも認めず、ただ一方的にこちらを煽り呼ばわりしてFOしてしまうようなら、
貴方こそ単なる煽りだということになってしまうと思いますがどうでしょうか?
991 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 12:48:02
>>978 スレぐらいちゃんと読んでから書きこんでください。
つか蓮実の文体が明晰で客観的!?蓮実読んだことないでしょ?
しかもなんで丸山昌男が?丸山って文芸批評家だっけ?
そして、誰も小林の「文体」や「語り口」だけを取り上げて問題にしているわけではありません。
とにかく、貴方はスレをちゃんと読んでください。
話はそれから。
992 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 12:49:35
>>980 三国人が差別用語なんてひと言も書いてませんがどうかしましたか?
つかコピペ?
993 :
吾輩は名無しである:2005/07/06(水) 12:53:19
>>982 そうかコピペなんですね。
しかしコピペでいったいどんなメッセージを伝えようとしたのか……。
謎は深まるばかり。
>>990 事実問題と権利問題は一般的なわけ方ではなかったかなー。
それにしたって、議論のやり方くらい知っといて欲しいもんだが。
わかりやすくすると、つまりはこういうことだ。
批評家としての姿勢の是非を問うことは、原理上は不可能であるが、事実としては可能。
「正しいか間違っているかは決められないが、どっちが強いかは決められる」と言い換えてもいい。
このとき「強さ」とは説得力のことをさす。
なお、「どっちが強いかを決める」議論において重要なのは、相手はもとより、自分の言葉や態度に対しても常に批判的であること。
この誠実さを欠けば、議論は成り立たなくなり、単なる口喧嘩に堕する。2chにおいては、その傾向が特に強い。
どちらか一方「馬鹿」だの「低脳」だのを使っている限り、議論によって「どちらが強いか」を決めることは不可能だ。
これは小林秀雄がどうこう以前の、議論にまつわるちょっとした注意事項。
「是非を問われるものではない」という言葉は、それまでの流れをくんでのこと。
>>976も踏まえて「下品な言葉を使っている限り、是非を問うなんて高級なことはできない。批評家気取りは黙ってろ」と言い換えてもいい。
煽り云々は
>>973を受けてのこと。
もちろん、貴方が本気で
>>973が挑発的でないと信じているなら、こちらは頭を下げるしかないが。
解されない皮肉ほど阿呆らしいものもない。
もう寝る。