982 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 11:22:37
→使わなければならない、という箇所が、やはり開かれた運動を阻むと思います。というのは、主体に倫理的方向性を強いてゆくでしょう。主体に倫理的方向性を強いる、という所がかつての左翼運動と変わってないのです。これはそもそもカントの命法が反‐物象化の→
983 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 11:27:54
→思想として読み替えられることからこうなるんだと思うのですが。つまり、やはり柄谷においてはカントはマルクスの補完として採用されているに過ぎなくなっている。そのような読み替えは自由を産まないと僕は思いますよ。
アソシエーショニズムは社会主義ではありません。
それは自由主義と社会主義を止揚したような『第三の社会思想』です。
自由の互恵制=アソシエーションは人格同士に強制力を与えません。
たとえばからたにさんがタバコを道端に捨てたからって、
それは他人からの倫理的監視以外の理由で
――つまり自律した主体によって――制限される筈はないのです。
社会主義と異なるのは、個人対個人の関係が自由をゆるしあう前提に置かれていることです。
>>981-983 カントもマルクスも自分の言いたいことの援用するのに
読み替えてるだけなんで本人はずっといい加減だし、
そもそも旧来の「運動」に荷担するつもりなんてさらさらない人でしょ。
>>985 最近になって言ってることって、
消費=生産協同組合っていうのは、トフラー(←元トロツキスト)の”プロシューマー”と似てるし
アソシエーショニズムだって、アメリカのマネジメント思想に通じる。
蓮實との対談「闘争のエチカ」では、「トフラーとかドラッカーとか、
あんなのをアメリカの知性だと思われちゃ困る」みたいに言ってたけど
案外、この辺の学者と柄谷が最近言い出したことは近いんじゃないの?
ただ、日本の知識人は、ヨーロッパを持ち上げ、
アメリカ(東部はギリギリ・セーフで認める)を馬鹿にする
っていうポーズの人が多いから、
形だけでも西欧哲学史の裏づけを欲しがるんで、
そういう人向けには良いんじゃないか?
若い人は、もう「アメリカよりヨーロッパの伝統のほうが上」って
あんまり思ってないだろうけど。
「アジア的発展段階」をもじって言うなら、
現代社会は「アメリカ的発展段階」やな
988 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 01:00:35
寅栗って本、高いね
からたにさんの認識が間違えているのは、
福利主義は資本の拡大による環境破壊しかもたらさない、という点だよ。
福利主義の究極は調整効率の最適化=厚生だからだよ。
従って福利主義は環境問題を解決する、現在見つかった限り唯一の筋道だよ。
功利的名誉が環境福祉を方法に用いるのは想像に難くない。
だからカント的自律法が福利主義より上位にある、という論旨は正しくない。
むしろ両者は互恵共存しなければならない、かたわ思想です。
カント的自律法は内面を、福利主義は対外活動を指導するような文明思想ではないの。
近代文学=小説が社会思想の伝播装置として終焉し、
代わりに春樹的娯楽商品がポストモダンちっくな言葉の戯れに走るだけ。
よって、『知的な私』は文学に今後興味を持たないだろう。
これが柄谷さんの近代文学終了論旨だよね。
ぼくは実際のところ、文学の究極は『日常文』にあると思うよ。
それまで、文面の理想的範例という価値は保ち続ける。
文学が知的階級の思想的娯楽としてではなく、
純粋な「文体の知的実験」になる歴史的な流れは寧ろ、
哲学的エクリチュールに威圧され続けて来た文芸にとって非常な高尚化だと思う。
文学は語法を操る技術の美学として再定義されるべきだ。
そこから現代文学は新たなカタチで蘇生する筈だよ――恐らくは、
小説=再現的虚構のそれより遥かに高等で知的な『概念構成の芸術』として。
既成思想は、そこではもはや単に文体へ利用されるものに過ぎない。
New Association Movementの活動は趣味の議論だと思う。
それは大衆社会に対して今後もまったく影響を与えられない。
デリダが半永久の脱構築趣味の中で自己充足したような、「諦念」の残滓だ。
政経的に観ればNAMは単純に、閉鎖的思想界でキチガイじみた発想を騒いでいるだけだよね。
柄谷さん自身、「指導の象徴」として記録されればいい、としか思ってないでしょう。
共和主義(Associationism)の実践は
不買や生協を直接勧めたり、政治参加(engagement)したりすることによるのではなく、
ただ『大衆啓蒙』に見い出される。
なぜなら民主制国家の本質は世論の質だから。
もしリベラリズムを超えた地平が大衆世論に自覚されるならば、主権の止揚により
その時こそまず社会内共和体が自発的に形成される筈だ。
その輪はすぐ各国とnet workし、とある共栄圏ができあがる。
それが世界共和国の始まりになる。
992 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 02:46:37
>>もしリベラリズムを超えた地平が大衆世論に自覚されるならば
って随分時代がかった言い方やね大むかしやんw
リベラリズムのはるか前段階の自己決定も自己支配も達成できない衆愚に
何をかいわんやって話。
ネットに書きこめる程度の知力があれば、もう立派なネティズンだよ
995 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 10:28:29
NAM京都シンポジウムで浅田彰はNAMを資本主義を越えるものでなく、補完するものの一つとして解釈しているが、これは誤解じゃないですか?同じシンポジウムで柄谷は資本に転化しない貨幣、てことをNAMの運動としている。こんな初歩的な段階で誤解している→
996 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 10:31:33
→人をよく柄谷と並べて出席させたと感心する。浅田の発言自体は面白いんだけど、浅田の“資本主義の補完としてのNAM”は、柄谷も怒るでしょう。それでも浅田と同伴やめないところがまた面白いけども笑
おいおい、一体いつの話してんだよ・・・
柄谷セン生
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。