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吾輩は名無しである:
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吾輩は名無しである:04/07/03 08:58
天才作家の二階堂黎人様が
>>2ゲットだ!
>>3はどうしてそんなことお申しになりますの?
>>4は、何と凄まじい告発であっただろう!
我々に与えたその衝撃は、まさに
>>5が鳴動し、
>>6がひっくり返る
ほどの大変動であった。白日の下にさらけ出された
>>7は、実に凄惨、
酸鼻を極めた事柄であったことか! これは、
>>8の言うとおり、
二重にも三重にも考え抜かれた、まさに地獄さながらの大犯罪だったのだ!
>>9 よくぞ私の正体を見破ったな、二階堂蘭子!
>>10 フフフ、ワタシハマジュツオウ
>>11 ゲドババァ!
「建築家たちの20代」[TOTO出版/東京大学工学部建築学科 安藤忠雄研究室=編]大体35回目くらいの再読
→現代の世界的建築家[定義。国際 コンペ=設計競技 で勝ち抜き名を上げている。
名建築を建設した。プリッカー賞=建築界のノーベル賞と呼ばれる を得た等]──たちが
彼らの20代を中心とした幼年・志学・学生・独立初期・建築家として成功・大成・現在それぞれの時代について語る。1998年東大講演を文章化したもの。
個人としては、安藤忠雄のそれもここでもう一度聞きたかったが、謙虚に聴き手に回っている。
大成してなお学生と共に学ぼうとする姿勢には深い尊敬の感情を覚える。
語り手はレンゾ・ピアノ、ジャン・ヌーベル、リカルド・レゴレッタ、
フランクO・ゲーリー、I・Mペイ、ドミニク・ペローである。
[個人的にいちばん期待してしまうレム・コールハースが欠席されたのは残念の一言]。
巻頭には冷静な視座からかつ熱のある安藤忠雄による序文。
巻末には現在東大建築アカデミズムを構成する方々の東大を中心とした教育についての対談が載る。
建築家を目指す学生や若者は言うまでもなく、
年長者や既に実務に就いている方達そして「建築家」を知らない方にこそ読んで欲しい。
なぜならそこには、正真正銘の自分らしさと創造的自由を勝ち得た希有な生の成功例が紹介されているから。
参考にならない点はおそらく無いと思う。
僕は、彼らに一様に見られるある種の「余裕のある構え」に最も良く学んだ。それは
20代をそれぞれの仕方で全力疾走で生き抜いた、学生及び社会人の鏡と言える
『真の知的エリートへの姿勢』が醸し出すものではないだろうか。
建築と人生に対する留保無い愛を持ち続け、学術と浮き世に対して客観的峻厳である。
彼らにそういった共通項を考えることもできる。
興味が湧いたらメディアや旅行を通して彼らの実作に触れるのが一番である。
そういった「ケンチク入門書」として優れているかもしれない。
建築は芸術であり科学である。文化であり文明である。
技術的高度さと哲学的意図を持ち合わせた日常的美術作品である。
だから我々は建築を通して、多様な『人間らしさ』に触れることになるのだ。
入門にも、志学にも、反省にも適切な一冊。
「愛と死との戯れ」(ロマン・ロラン/片山敏彦訳/岩波文庫)
→戯曲。フランス産。読んだ理由は知人の女の子(なんと5歳!)に薦められたから。
「ごくじょう」とのこと。なんでも母親に読んでもらっていたく感動したらしい。
早熟な子だ。というのも、この戯曲には人生の究極的なテーマが凝縮しているからである。
主要登場人物は三人。三人とも「愛を取るか、(愛ゆえの)死を取るか」のはざまで葛藤する。
ときはフランス革命。高名な老政治家、その若い妻。彼らの家に逃げ込んでくる
革命家はその妻の愛人である。密告され、追っ手は迫っている。愛か、死か。
愛とは何か。愛するなら生きるべきか、愛するなら死ぬべきか。
そして政治問題がある。政治とは「みんなの幸福」を目指すものである。
となると、ここには個人の幸福か、全体の幸福かという問題も出現する。
三人は迷いに迷う。ここには確かに「劇」がある。
彼らが下した結論は……、ネタバレになるからもちろん書かない。
ここで書いてみたいのは「なんだかな」と鼻白んでしまったわたしの心境。
なんだかな。小説も、演劇も、映画も、テレビも、エッセイも、なんだかなぁ〜。
結局は「愛」と「死」かよ。それしかないのかよ、どいつもこいつも。
どの本もどの映画も愛、愛、愛のオンパレード。
みんな、みんな、きみたちはぁ、世界の中心で何をしたいかー?
愛をバカにしようものなら袋たたきにあいそうなご時勢じゃあないですか。
せめてもとテレビをつけたら健康食品、健康グッズ、長寿の秘訣(=死にたくない)。
笑っちゃう。わたしなんか40まで生きてられたら十分。年金? いらないって。
すごいよね年金問題。みなさん必死で。80でも90でも生きていたいのね。
「愛」され「愛」しながら、ずっと永遠に「死」にたくない現代日本人に
この戯曲「愛と死との戯れ」は次のように語りかけていると思うのはわたしの屈折か?
死にたくないなら愛なんておやめなさい。
愛しているんなら早く死んでみせてくださいよ。
「春の夢」(宮本輝/文春文庫)*再読
→まえにこれを読んだのは大学に入ったばかりのころだったような気がする。
だからだと思うけど、上質な青春小説として記憶に残っている。
今回再読してみて、あららと思った。うわっ。
よく言えば荒削り、わるく言えばへたくそな小説。
大学で東洋哲学を受講しただけの(たいして頭も良くないという設定の)主人公、
哲也くんが「歎異抄」否定の仏法議論を友人とするは、輪廻転生に思いを馳すは……。
いくらなんでも不自然だって!
一言、「哲也は創価学会員であった」と書けたらすべて解決するんだけどね。
そして初期小説だからだと思う。
読んでいて恥ずかしくなるくらいに宮本輝の(しいては創価学会の)仏教観がでている。
「螢川」や「泥の河」で書くまいと自制していたものをすべて放り出したかのようである。
(続き)
登場人物のひとり磯貝は哲也に本を投げつけ言う。
「俺が投げたから、その本は井領(哲也)のところに飛んで行ったんや。
本が勝手に飛んで行ったんやないで。結果の前には、必ずその原因があるんや。
それが物理学の基本やろ。原因のない結果なんて、この宇宙にひとつとしてあるか?
あったら教えてくれ。(……) この世のいっさいの出来事は原因があるから結果があるんや」
両親をどちらもふしぎな鉄道事故で亡くし自らも重い心臓病を患う磯貝はつづける。
「なんで人間は、生まれながらに差がついているんや。それにも原因があるはずや。
そしたら、生まれる前に、その原因を作ったとしか考えられへんやないか。
そう考えるのが、一番理にかなってると思えへんか? ある人は金持の家に生まれる。
ある人は貧乏な家に生まれる。ある人は五体満足で生まれる。ある人は不具で生まれる。
あらゆる事柄に原因と結果があるのに、人間だけが、持って生まれたそんな差別に
何の原因もないと考える方がおかしいやないか。人間は覚えてないだけで、
この世以外の人生を、以前に確かに経験してるはずや。それで、いろんな借金を
かかえて死んだんや。それから眠って目を醒ますみたいに、また生まれてきた。
そやけど借金は消えていない……」(P106)
ここにわたしは宮本文学の原点を、見る。
宗教と文学のぎりぎりの接点を、見る。物語を生む豊かな土壌を、見る。
前世の因縁うんぬんと高額のツボをうっかり買ってしまう危険性まで、見る。
このツボと池田大作氏が同じかどうかはまだわからない。
8 :
吾輩は名無しである:04/07/04 10:00
美香とやら。
お前は美香板とやらで読了報告してりゃいいじゃねーかよ。
9 :
吾輩は名無しである:04/07/04 10:02
|.-──-、
| : : : : : : : : \
|: : : : : : : : : : : ヽ
|-…-…-ミ: : : : :',
| '⌒' '⌒' i: : : : :} 雑談は嫌なのか……じゃあコッソリ見守るヨ!!
| ェェ ェェ |: : : : :)
| ,.、 |:: : : :;!
| r‐-ニ-┐| : : :ノ
|! ヽ 二゙ノ イゞ‐′
| ` ー一'´丿 \
| \___/ /`丶、
| /~ト、 / l \
11 :
ガディワッツ ◆wCv9l5YJ26 :04/07/09 04:40
世界の中心で愛を叫ぶ 片山恭介
2ちゃんねるで語られる批判は如何に意味が無く馬鹿らしいものかということを実感させてくれた一冊。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」から剽窃したといわれるこのタイトルだが、
はたして剽窃を理由にシェハラザードのごとく夜なゝ批判を続けている彼らのうち、
いったいどれくらいの人間がタイトルの真意を理解しているのかおおいに疑問である。
たとえば次のような意見を先ほど見かけた。
「いつか、たとえばあと何十年かしたらセンター試験にでるかもしれないな。国語の問題でさ。世界の中心はどこか?
って問いが載ってる。それで気の利いた学生は一斉にオーストラリアって書き込むんだ。まさに悪夢だよ」
本当に悲しくなる。彼はエリスンを知ってはいてもバフチンをは知らなかった。
たとえば彼がナイポールの「中心の発見」を読んだとしても、まずいネスカフェが飲みたくなる程度だろう。
彼らは「中心」の意味を誤解しているのだ。それはオーストラリアではないし、エアーズロックでも断じてない。
そして、作家という人種を見くびりすぎだ。
彼らは簡単に人を煙に巻く、そうしてそっと理解できる人間にだけ解るように重層的な意味合いを滑り込ませる。
ひとつめの種明かしをしよう。中心を発見することにより他者性が発露する――バフチン
つまりここでいう「中心」とは「他人」の事なのだ。ここまで言ったら鈍い貴兄も、あらかたのことは解るのじゃないだろうか。
それでは二つ目の種明かしだ。白地や魯鈍の類じゃなければもう解っていると思う。すべてがネタである。
僕はがっかりするのが嫌でこの本を読んでいない。タイトルを眺めただけなのだ。テレビコマーシャルも少し見た。
そうして「好きだー!」と叫んだその男のその時の、どうしようもない孤独さを思って泣いたのだ。