>>141 え、そうなんだ……
目録を見ても創世、出エジプト、ヨブしかなかったから
てっきりそれしか出してないのかと思ってました。
絶版になったのなら、復刻してほしいですね。
現状は中途半端すぎでしょう。
ヨシュア記キボンヌ
147 :
吾輩は名無しである:03/03/20 03:49
岩波で創世記、出エジプト記を読みますた。
が、出エジプト記最後の方の
くだくだしい「〜の指示」ってあたりはうんざりしました。
マニアはああいうのが面白いんですかね?
アロン達はあんな長たらしいから待ちきれなくて
「金の小牛」を作ったんでしょうか。
普通の聖書読んでんのかと思ったらわざわざ岩波なんかで読んでんのか。
だるい事するなあ。
文語版なら福音を時々読みます。
でもバッハの「マタイ」「ヨハネ」
を聞く時間の方が多い
(ドイツ語わからんのですが)。
150 :
吾輩は名無しである :03/03/21 02:37
旧約については岩波文庫と同じ関根正雄の訳が教文館から出ている。
こちらは旧約全部がそろっている。
岩波文庫のものをだいぶ加筆訂正したらしい。
但し箱入りのハードカバーで値段が高い。
なんかの聞きかじりだけどダヴィデって羊飼いの「少年」でしょ?確か12歳くらいの。
ユダヤとか全然知らんが、土民とかの割礼って成人の儀式にやるらしいし、
ダヴィちゃんも年齢的に割礼未満のお年頃だったんじゃないの?
まあ少年にしちゃマッチョすぎるか。
152 :
吾輩は名無しである :03/03/21 09:48
>>151 聖書の中に初めて出てくるのはそれくらいの年
でも王になるのは大人になってから
153 :
我輩は名無しである:03/03/21 14:55
ダヴィデはゴリアテのことを「この割礼を受けていない者(=神の民ではない者)」と
呼んでいるからダヴィデ自身は割礼ズミ
当時のユダヤの習慣では男の子は生まれて何日目かで割礼を受けることが定められていた
たぶんはミケランジェロの彫刻からダヴィデを想像してると思うけど
ギリシャ時代から文明人は包茎、野蛮人はムケチンであらわすのが
美術の習慣なんだよね。
ギリシャ人の意識ではズルムケは野蛮のあかし、当時運動は全裸でするものだったから
ギリシャの運動選手はわざわざ先っぽを縛ってたそうです
文明人は挙手
ω・`)ノシ
シュタイナーの「ルカ福音書講義」を読んで、かなり驚いた。ヨハネよりもだ。
156 :
我輩は名無しである:03/04/12 20:38
4福音書の比較はおもしろいよ
有名な山上の垂訓がルカにしかないこととか、
最後の晩餐がヨハネだけ日取りが違ってるとか
かえって信者さんの方が知らないかもしれない
教会は矛盾や都合の悪いことは隠すからね
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
158 :
吾輩は名無しである:03/05/10 18:06
あげ
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
結論「それは、マタイ福音書がラビ的ユダヤ教との決別宣言、
異邦人布教への転向宣言であったからだ」
フランス文学総合スレッド↓において、
http://book.2ch.net/test/read.cgi/book/1047088363/251-253 「マタイがユダヤ人やユダヤ律法を守るキリスト教徒向けに福音書を書いたのなら、
なぜ新約はすべてギリシア語で書かれているのか。
マタイが、ユダヤ人あるいはユダヤ律法を守るキリスト教徒向けに
"ユダヤ的"正当性をギリシア語で主張する根拠がわからない」
という疑問がありました。
これに「マタイのみアラム語で書かれていたはず」
と私がレスをつけ、さらにこれに対して
「ルカ以外の福音書は、ヘブライ語で書かれたものを
ギリシャ語に翻訳(それも直訳)した形跡がある」
という引用レスがなされました。
ここへ来て板違いも大概になってきたので、
話を続けるためにこちらのスレに移って来たわけです。どうぞよろしく。
さて。まず、仏文スレ252での私の発言が間違っていたことを認めねばなりません。
どうやらマタイ福音書についてもアラム語背景説↓は間違いのようです。
「アラム語背景説 福音書は元来アラム語で書かれ、のちギリシア語に翻訳されたという説。
(後略)」(キリスト教大辞典編集委員会『キリスト教大辞典』p40 教文館)
「最初の三つの福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカは共観福音書と呼ばれ、
同じ源泉について書かれたとされています。最初にマタイ福音書がアラム語
(当時のユダヤ人の日常語)で書かれ、それがギリシア語に翻訳されて今日に伝えられた
とする説は、かつてはかなり有力でしたが、今日この説を取る学者は極くわずかです。
替わって、最初に書かれたのはマルコ福音書だとする説が断然優勢になっています」
(高柳俊一『聖書を読む 1 マタイによる福音書』p5-6 筑摩書房)
とあります。どうやら私の知識というか教育が古かったようですw
では、アラム語でないとしたら、仏文スレ253で引用されている
http://www.nunochu.com/bible/faq/z_greek.html の記述のように、マタイ福音書ももともとヘブライ語で書かれていたのか。
「マタイ福音書は、伝統的には『十二弟子』のなかの『マタイ』(マタイ一〇章3節)が
著者であるとされ、その権威の重さと内容の充実から、四福音書の筆頭にあげられる
に至っている。この『マタイ』著者説を支えるのは、マルコ福音書の場合もあげた、
二世紀中頃近くのヒエラポリスの司教パピアスである。彼によれば、『マタイは
ヘブライ語で(主の)ロギア(言葉、発音、詞の複数形)を集大成した』という。
しかし、この『ロギア』がマタイ福音書である可能性はまずない。マタイ福音書は
決してヘブライ語からの翻訳ではなく、はじめからギリシア語の作品であることは
現在疑う者がいないからである。そもそも、著者はどこでも名乗ってはいない。
ここでも事情はマルコ福音書の場合と同じであって、今の我々には無名の、おそらく
ユダヤ人キリスト者である人物が著者である」(佐藤研 訳『新約聖書1
マルコによる福音書 マタイによる福音書』p237 岩波書店)
また、『キリスト教大辞典』p1017にはこうあります。
「しかし、このパピアスの証言は、マタイ福音書のひとつの試料であるイエスの
語録について言われたものであっても、この福音書全体についていわれたものではない。
結局、この福音書の著者は、福音書の内容から推定して、パレスチナの事情と
ユダヤ教徒とに通事、ギリシア語を語るユダヤ人キリスト教者であったと
いえるだけである」(秋本 徹)
マタイ福音書自体があらかじめヘブライ語で書かれたわけではなさそうです。
では、なぜマタイ福音書はいきなりギリシア語で書かれたのか。
なお、このへんの論議については増田、村瀬、山口『新聖書注解 新約1』(いのちのことば社)
p61-65の「一 著者問題」がくわしいです。ちなみにこの本は「著者=マタイ」寄り。
以下ちょっと寄り道。いろいろな書誌研究の結果、
まずマルコ福音書が成立したことがわかっています。
「したがってマタイとルカがそれぞれマルコを参考にしながら、しかしマタイとルカは
一方が他方を参考にせずに、つまり互いに知らずに、執筆していることになる。
(下の図)」(加藤隆『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』p161 大修館書店
マルコ こんな感じ。
↓ ↓
マタイ ルカ
「ところが、マルコにはないがマタイとルカに共通に認められるテキストはかなりの
量にのぼる。(中略)このことからマタイとルカは、マルコ福音書とは別にイエスの
言葉が集められた資料を手に入れて参考にしている可能性が大きいと考えられるのである。
このイエスの言葉の集められた資料は、『資料』を意味するドイツ語のQuelleの頭文字を
とって『Q』あるいは『Q資料』と呼ばれている」(同上p161-162)
マルコ Q こんな感じ。
↓ \ / ↓ 「したがってマタイとルカは、マルコ福音書と
↓ X ↓ 『Q資料』を手に入れて、互いには直接依存せずに、
↓ / \ ↓ それぞれの福音書を執筆していたことになる」(同上p162)
マタイ ルカ
そして、このマルコ福音書はギリシア語で書かれているのです。
ではなぜギリシア語で?
「マタイの福音書の一大特徴は、旧約聖書からの引用が圧倒的に多いことである。
(中略)これはユダヤ人がユダヤ人に書いている証拠でもあるが、それをまた
裏付けるかのようにイエズス・キリストがアブラハムの子孫であることを示す
系図をもって、マタイの福音書は始まっている。しかしその結尾は、全世界に
福音を宣教するために弟子達を送り出すという福音の世界性を持って終わっている。
そこでは偏狭なユダヤ主義は完全に克服されている。マタイの強調するユダヤ的
要素にも関わらず、彼の真に意図していることは、キリスト教が世界性を
持っていることを示すことにあったと言える。」(『新聖書注解 新約1』p65-66)
つまり、マタイのグループは「律法を守るユダヤ人キリスト教徒集団」でありながら、
異邦人への布教に方針転換を計ろうとしていたのです。
さらに、
「マタイが福音書を書いている相手は、彼の共同体(教会)である。(中略)
つまり弟子達はこれから、異邦人相手の伝道に乗り出そうというのである。
(マタイ28章18-20節、21章3節参照) そのためのアイデンティティ確立と
振舞いの指針の書が本書である。(中略)具体的にはマタイの教会が聖書の
成就体であり、『真のイスラエル』であるということである。(中略)しかし
この主張は同時に反面、現に存在している『肉』のイスラエルは『偽』のイスラエル
でしかないという批判を内包している。(中略)そこからユダヤ教、現実には
『ファリサイ派が』圧倒的主体になったラビ的ユダヤ教への批判・断罪が生まれる。
それはイエスの物語の中の『ファリサイ派批判』となって投影される。(中略)
他方、マタイの共同体がこれから異邦人に向かうとすれば、当然その異邦人たる
ローマ人によって処刑された人物をメシアとして崇めるというのは問題無しとしない。
したがって、マタイ福音書の受難物語では、ピラトゥスがイエスの無実を確信し、
(異邦人は)イエスの死には責任がないことを明言することになっている。(27章24節)
そしてその背面の事実として、ユダヤの民はイエス殺しの責任を全面的に
担わされるに至る(27章25節)。」
(『新約聖書1 マルコによる福音書 マタイによる福音書』p239-240)
すなわち、マタイ福音書ははラビ的ユダヤ教への決別宣言でもあったのです。
まとめ。
ユダヤ人に語っているはずのマタイ福音書が、どうしてアラム語でもなく、
ヘブライ語でもなく、ギリシア語で書かれたのか。
マタイ福音書は、「ユダヤ律法を守るキリスト教徒」としてのマタイのグループが、
ラビ的ユダヤ教を否定し異邦人への布教を開始することのマニフェストであった。
そしてそのマニフェストは異邦人の言葉、
ギリシア語で書かれなければならなかったのである。
てな感じでしょうか。
福音書関係はあまりよく知らない私にもいい勉強になりました。
質問してくださった方サンクス
168 :
吾輩は名無しである:03/06/07 11:08
仏文スレの251です。
http://books.rakuten.co.jp/jinbun/NS/CSfLastGenGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=1050885&rbx=X ↑なんだ「新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか」という本がすでに出ていたんだね・・・
最初からこの本を参照すればよかった。てか、この書籍のタイトルが頭に残って
いたから先の疑問が浮かんで来たんだろうが・・・
160-166さんの長ーい引用文を含むレスはなかなか勉強になりましたよ。さっそく
現物に当たってみることにします。
たしかに
http://www.nunochu.com/bible/faq/z_greek.html で言っているのは、「福音書は実際に最初にヘブライ語で書かれたものが
ギリシア語に翻訳されたのか、あるいは最初から直接ギリシア語で書かれたとしても、
ヘブライ語の資料(それが『Q』資料であることは上記のサイトでも言及されていますが)
を参照しながら書かれた」ということなので、上のレスで引用された説とは矛盾しないと思います。
ところで、
>>166の結論には説得力があるように思いますが(というか、まあ予測できる範囲の
解答だとは思いますが)、なぜ162-166さんが「マタイ」福音書にこだわる
のかがちょっと理解しかねるのですが。
たとえマタイ福音書が旧約からの引用が多く“ユダヤ的”な性格が濃厚だったとしても
書誌的にいえば最初に書かれた福音書はマルコ福音書なわけだし、マタイ・ルカは
マルコの記述を元にして記述されたことはあなたのレスでも書かれていることです。
またマルコの執筆者もマタイと同様、「無名の、おそらくユダヤ人キリスト者である人物」だと
されています。こうした書誌的な事実を併せて考えると、
マタイ福音書だけを取り出して、その原始キリスト教の「ラビ的ユダヤ」に対する
反駁や近親憎悪を説明するのはやや短絡的かと思われるわけですが…。
むしろマルコ福音書まで遡って、そこに描かれている原始キリスト教の持つ社会思想などを踏まえた上で、
「マタイ」書記者はその中にあってある個人的な意図をもってこの福音書を書いた、と
読み解くべきではないかと思うのですが・・・
しかし正体不明の福音書書記者の個人的な意図など、その人物が分からない以上
詮索してもあまり意味がないとも思えるのですが。w
その後、なんの回答もなしかよ。
170 :
吾輩は名無しである:03/07/14 06:18
てか、どうして色んな聖書学の本を参照しておきながら、ぬのちゅーとか何とかいうDQNなサイト
未だに信じてんの?
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
172 :
吾輩は名無しである:03/07/19 14:22
age
(^^)
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
お・・おなら・・・ぷ・・う・・。
176 :
吾輩は名無しである:03/10/08 20:54
177 :
吾輩は名無しである:03/10/25 18:17
結論として文学いちずな人間はいちおう聖書を読んだことあるが
それだけで終わるか、
マニアックな知識を求めるかのどっちか
標準的な文学がわからなくなる
DQNな信者がこのスレにいるぞ
>>177 文献学の話をしてた奴らが間借りしただけだろ。
信者信者言ってると自分がどっかのカルト信者扱いされるぞ。
179 :
吾輩は名無しである:03/12/21 22:25
レシピは役に立った。
今日、教会の人が来て僕に「世界で一番偉大なひと」という本を
渡してくれた。
182 :
吾輩は名無しである:03/12/22 12:36
宗派によって聖書の内容が違ってる事があるってほんと?それはなぜ?
統一される前に宗派が分かれたからでは?
184 :
吾輩は名無しである:03/12/28 04:43
>>182 使ってる聖書(翻訳)が違うから、と言う場合もあるだろうし、
あと、何を正典、外典とするかがそれぞれ違ったりするから、とか。
原文にできるだけ忠実な聖書っていったら、何だろう?
原文にできるだけ忠実な聖書の日本語訳版っていったら、何だろう?
>>186 新共同訳は持っているよ。
八木誠一の著作に感化されたんだが、同訳は「原文に忠実」とは言えないようだ。
新約聖書に限って言えば、使われている語彙は2千といくらだから、
新約聖書用のギリシア語辞典でも買って来て、
ヒマな時にでもぱらぱらめくればいい。
おれはやったことがないが。
今さらだが、
>>186は
>>182-183へのレス。
「旧約聖書略解」「新約聖書略解」ごと新共同訳に乗り換えるのはしんどい。
>>188 君はなぜ聖書に関心があるんだい?
俺は新約に描かれたイエスに興味があるんだが。
コーランもお経も読んでいるので、何とも言えない。
>>190 何か返答になっていないようだが。
世の全ての聖典を読んでいるわけでもあるまい。
コーランとお経はコーランとお経であって、聖書ではない。
なぜ、聖書を読むのか?
それを自己分析できないようでは、作家志望者としてはちと問題ではないのか?
聖書を読むのに理由が必要だとは思わなかったのです。
以後、発言は控えます。すみませんでした。
193 :
吾輩は名無しである: