素朴な疑問です。
マタイ →ユダヤ人やユダヤ律法を守るキリスト教徒向け
マルコとルカ →ヘレニスト、異邦人と呼ばれるギリシア語話者向け
だとしても、なぜ新約はすべてギリシア語で書かれているんでしょうか?
それとも新約の原文は元々ヘブライ語だったんですか? んなことないですよね。
だとしたらユダヤ人あるいはユダヤ律法を守るキリスト教徒向けに“ユダヤ的な”
正当性をギリシア語で行なう根拠がいまいち分からない。これは一種の“啓蒙”なんですか?
もう一つ疑問点。ユダヤ国家の独立性にこだわるユダヤ律法に忠実なキリスト教徒が
排除されちゃったのはしょうがないとして、なぜ世界規模の視野を持つ「キリスト教」が
ローマ世界へと浸透してゆく際にイエスが“救世主”として認められ通用されちゃったか、
ということなんですが(まあここがキモですよね?)。まあ誰か一人ぐらいは“救世主”
というものが必要だったとして、
・イエスが救世主として認められること=すなわち「キリスト教」の誕生
という風に思えるんですけど。だけどみなさんの記述を拝見する限りでは、その実
イエスを聖別する根拠はユダヤの預言者であるヨハネの洗礼にしかないように見えるわけですが。
キリストを聖別視する根拠として、彼のおこなった奇蹟やら復活やらをべつにして何か
確固とした正当性というのは他にあったんでしょうか?だって奇蹟ならユダヤの預言者でさえ
行なっていたわけでしょう?
>>251 二つ目の疑問について。個人的な考えですが、別に正当性なんてないです。
いろいろと理論付けはなされてきましたが、要するに言ったもん勝ち。というか生き残ったもん勝ち。
最初の疑問について。うろ覚えですが、マタイのみアラム語で書かれていたはず。
アラム語はイエズス自身も使っていたと考えられる、大シリア一帯の商用語・共通語です。
律法を守るキリスト教徒中心のエルサレム教会もアラム語併用じゃなかったっけなあ。