1 :
1 :
2010/08/15(日) 13:46:32 ID:5Q9Tz0ed
2 :
1 :2010/08/15(日) 13:47:05 ID:5Q9Tz0ed
●以下の証言者・記者・作家の発言及び記述は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。 ・ 東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。中国じゃ未だに真実扱い ・ 中山重夫…段列兵の立場で虐殺目撃談を語ったがそもそも現場に居合わせるのは不可能だったことが判明 ・ 富永博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明 ・ 舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するという カッコつけかました仮想戦記な内容であっさり× ・ 曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を 調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙された ・ 田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。 後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状 ・ 太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる) により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった ・ 富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」 と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読 するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた ・ 上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」で しかもそんな命令が出たという史料は一切無し その他 秦賢助(従軍作家)、今井正剛(朝日新聞記者)、本多勝一(朝日新聞記者) 、 鈴木二郎(東京日々新聞記者) 、石川達三(作家) 、アイリス・チャン(作家・政治活動家) ティンパーリ(マンチェスター・ガーディアン中国特派員:国民党中央宣伝部顧問)、中帰連 ●捏造が確認されている史料・報道 紅卍字会埋葬記録(人数水増し)、崇善堂埋葬記録(全くの捏造)、朝日新聞「宇和田日記」報道
3 :
1 :2010/08/15(日) 13:47:27 ID:5Q9Tz0ed
以下の事件はいずれも大虐殺と呼ばれていません ソ連秘密警察によるカティンの森事件:ポーランド人2万5千人を裁判無しに銃殺(文民含む) 韓国軍によるベトナム戦争時の悪行:ブガツ省で3万5千人を拷問の上に皆殺し(殆ど文民) ソ連によるシベリア抑留中に死亡した日本人:軍民合わせて25万4千人、行方不明・推定死亡者9万3千人 ドイツの捕虜収容所で死亡したソ連兵320万人 米軍による東京大空襲の死者10万人(1945年3月10日だけの死者数) 米軍による広島原爆投下による死者23万7062人(2004年8月6日時点) 米軍による長崎原爆投下による死者13万4592人(2004年8月9日時点) カティンの森事件以下の犠牲者数を、ことさら大虐殺と強調する事は歴史的に見ても バランス感覚に欠けた主張と言えます。ましてや文民殺害を目的としていない、若しくは 文民の犠牲者が僅かな事件に関して、大虐殺と名前が付く事は非常に例外的なのです。
4 :
1 :2010/08/15(日) 13:47:46 ID:5Q9Tz0ed
●当時、南京での日本軍の殺戮行為は第一報こそ新聞等で報道されましたが、その後は 全く記述がありません。むしろ殺戮の記述は訂正されているのです。 『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…過去の主な出来事の南京の項目で 出てくるのは昭和2年の南京暴行事件(第一次南京事件)である。南京大虐殺の記述は無し。 『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938/2月発行…日本軍による 掠奪・強姦・破壊の記述あり。殺戮の記述は無し。 『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938/夏季号…日本軍による 恐怖の支配の記述あり。殺戮の記述は無し。 『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938/4月発行…金と掠奪品と女を求めて隈なく町を歩き 回る日本兵の記述あり。殺戮の記述は無し。 日本軍の殺戮行為の報が、一時期、新聞・雑誌で書かれていたのは事実です。しかしやがて噂は 収束に向かったのです。 ●支那事変1周年の蒋介石の声名 1938/7/7 漢口 《(略)戦場や、日本占領地域では、資源財産の計り知れない損失に加えて、経験豊かな 数限りない青壮年、婦女子、年老いた人々が、大量殺戮、強姦、その他の無慈悲な蛮行を 免れることができなかった。(略) 広東を例にとろう。この町は過去2週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。 機関銃が悪魔のように狂いまくり、家屋が粉々になり、市民の血や肉が飛び交った。(略)》 これは「友好国への声名」の中で、「日本人の残虐行為」という章の中の文言です。 後に30万人が虐殺されたと主張する南京を挙げずに、数千人の犠牲者の広東を例に挙げてます。 つまり南京大虐殺とは作られた事件なのです。1938/7月にティンパーリの、『WHAT WAR MEANS The Japanese Terror in China』が英国で出版され。1938年末にその漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』 が支那で出版されました。ここからプロパガンダが始まったと言っても過言ではありません
5 :
1 :2010/08/15(日) 13:48:22 ID:5Q9Tz0ed
【名言】5次資料693氏抜粋
>先史研究では資料の要素が少ないがゆえの苦労がありますが、
>ここで話題の南京は70年程前のことですよ。
>文字資料の残存は豊富で、証拠と成り得るモノが消滅した割合も少ないでしょう。
>「証拠を示せ」と言われ、その証拠に疑問が提示されれば、堂々と反論なさればよい。
>根拠のない推論ではなく、他の資料との組み合わせで。
>できないならば、通常、自論に疑問が生じるはずです。
>
>自論の証明とは客観性を獲得することです。
>資料の解釈を1つの方向に揃えてしまえばいいわけではありません。
>読み取れる事実1つ1つの組み合わせから構成されるものが論ですから、
>論者のみに自明の論では、無意味というよりもはや滑稽、
>客観性を獲得する為には守らなければならない姿勢があるのです。
【名言】4次資料947氏
>疑問を取り除いたとは、自論に資料の解釈を近づけることですか?
>論は、資料の解釈から形成されるものです。逆なのです。
>根拠とする資料を提示しない姿勢を度々非難されています。
>また、提示した資料について矛盾などを指摘され、
>その矛盾点を解消しないままに再び根拠として提示するなど、
ついでに
★716 名前:K−K@南京事件資料集[
[email protected] ]
根拠無く、専門家の見解を否定するのであれば、それはトンデモ論と言わざるを得ないでしょう。
あなたが何か主張したいのであれば、それなりの根拠を提示しなければ説得力はありません。
それが出来ない以上、議論に決着がついたと考えるべきかと思います。
6 :
1 :2010/08/15(日) 13:48:41 ID:5Q9Tz0ed
7 :
1 :2010/08/15(日) 13:48:58 ID:5Q9Tz0ed
■ ■ ■ 注意事項 ■ ■ ■ 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#**】という文字列を見つけた場合、それに対してはレスを返さないで下さい。 通称koueiという人物、若しくはkoueiを模倣した荒らしです。議論は不可能かつ削除依頼の邪魔になります。 この【言論チンピラ妄言解毒対策レス#**】の#**は定型文の番号になっています。 例えば#45は「都合の悪い質問はスルーですか? 繰り返し質問します。(以下略)」です。 今のところ#211まで確認できているので、211種類の定型文があるようです。 つまり永遠に答えは返ってきません。その時々で最も適した定型文を コピペしているだけなのです。しかも延々と繰り返します。 このkoueiなる人物は、このスレだけでなく他スレ・他の掲示板・国会議員のHPにも出没しています。 既に誰もレスを返さず放置を徹底しているスレもあり、その後現われなくなる等、対策が功を奏しています。 荒らしに付き合うのも荒らしと同じ行為と考えて下さい。 可能ならば、『妄言解毒対策』などをNGワードにすることをお勧めします。
8 :
1 :2010/08/15(日) 13:49:15 ID:5Q9Tz0ed
ストローマン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 ストローマン (straw-man)とは、議論において対抗する者の意見を正しく引用せず、あるいは歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。
語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことから。そのまま直訳して「わら人形」「わら人形論法」とも言う。
概要
相手の意見を誤解していたり、正しく引用することなく歪めたり、誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。
このばあい第三者から見て一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。
これは論法として誤謬(論点のすり替え)であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)であり、意図的におこなっていればその実態は詭弁である。
しばしば感情に訴える論法と共に用いられる。また相手の発言のうち、反論するのに都合の良い部分だけをとりだして反論することをクオート・マイニングとも呼ぶが、クオート・マイニングはストローマンの一種である。
マスメディアにおいて対抗意見を充分に取材せず、独自に解釈した反論を両論併記などの形で用いることは、故意でないにしろストローマンに繋がるものである。
しかし実際にはこうした手法はしばしば報道に取り入れられている。
ストローマンの手順
相手の意見を歪めた説明を相手が提示したものとして引用する。
これに対する自らの反論を示し、論破されたものと扱う。
相手の意見に同調する不完全な擁護意見を持ち出し、充分な主張・再反論がされたように見せかける。
批判されて当然である(本来無関係でも一見関係のありそうな)問題や考え方を創造し、さも相手側の意見はこれを象徴するものとして強く非難する。
簡単な例:
A氏「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏「そうは思わない、子どもが外で遊ぶのは良いことだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」
9 :
1 :2010/08/15(日) 13:49:35 ID:5Q9Tz0ed
■ 詭弁のガイドライン十五条+5 事実に対して仮定を持ち出す ごくまれな反例をとりあげる 自分に有利な将来像を予想する 主観で決め付ける 資料を示さず自論が支持されていると思わせる 一見関係ありそうで関係ない話を始める 陰謀であると力説する 知能障害を起こす ありえない解決策を図る レッテル貼りをする 決着した話を経緯を無視して蒸し返す 勝利宣言をする 細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる 新しい概念が全て正しいのだとミスリードする 全てか無かで途中を認めないか、あえて無視する。 勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。 自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する。 より重要な課題を急に持ち出し、今までの議論をなかったことにする。 電波を発する。 【悪魔の詭弁術】 みんなやってるよ── バンドワゴン・アピール ご存知のとおり、この問題のそもそもの原因は… ── 決め付け 逆に教えてくださいよ、ぜひ── 質問に質問を返す(カウンタークエスチョン) 主張を証明できないなら、その主張は嘘だ ぜったいまちがいないよ── 憶測にすぎない話を、事実であるかのように話す 言っていないことを言ったことにする、そしてそれを攻撃する── わら人形テク 「すべて」と「一部」を混同し、一部でもってすべてとするテク(○○人はみんな△△だ!) 質問のすりかえ、そしてすりかえた質問に答えるテクニック
10 :
1 :2010/08/15(日) 13:49:52 ID:5Q9Tz0ed
以後、個人的おまけw
652 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/01/09(水) 15:44 ID:v6msr+Jx0
あけましておめでとうございます。
南京の戦時国際法解釈については
ここがおおむね私の見解と同様なので参考にしてください。
ttp://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/nankin.htm 肯定論者によれば、南京に限らず、軍服を脱いで、兵士かどうかわからないように撤退する敵軍に対しては、それを掃討する自軍は、その一人一人に軍事裁判をかけなければ攻撃を加えられないという結論になります。
これが妥当かどうかは、これを読んでいる第三者にゆだねるとしましょう。
11 :
1 :2010/08/15(日) 13:50:10 ID:5Q9Tz0ed
【便衣兵がゲリラであることについての拙稿】 ネット上ではよく、摘出された便衣兵(便衣化した正規兵)は、【戦闘】状態ではなかったから捕虜の資格を保持しているという主張が見受けられます。この点について拙稿ですが、反論と整理をしていきたいと思います。 まず、前提として、便衣の状態で【戦闘】行為を行っていた場合には、交戦資格を得られないことは、両者の間では異論は無いことを確認しておきたいと思います。 一応理由を簡単に言っておきますと、戦時国際法においては、軍民分離原則を採用しているところ、 正規兵が一般人と見分けのつかない便衣の状態で交戦しますと、相手側の軍隊は、正規兵と一般市民の見分けがつかなくなるため、 一般市民への被害が出てしまうことを防止するために法は便衣戦術を禁止した趣旨であると思います(他には、攻撃目標を明確にすることにより、戦闘の早期終結を図る)。 問題は、【戦闘】行為とはどういう状態であるか【戦闘】の定義が、両者の間でずれがあり問題になっていると思います。 便衣兵に捕虜の資格があると主張する説は、便衣の状態で具体的な害敵手段を起こした段階で捕らえた場合にのみ捕虜の資格を得られないと極めて限定的にとらえています。 これに対して、便衣兵に捕虜の資格はないと考える説は、これより広い概念でとらえ、抽象的に戦闘状態であるときととらえています。 これはハーグ陸戦協定を根拠とすることができます。 第五章 休戦 * 第36条:休戦は、交戦当事者間の合意をもって作戦行動を停止するものとする。 期間の指定なき時は、交戦当事者は、いかなる時点においても再び交戦を開始する事が可能である。 ただし、休戦条件に順じ、所定の時期にその旨を通告すべきものとする。 * 第37条:休戦は、全般的、もしくは部分的に行うことを可能とする。 前者は、交戦国の作戦動作を停止し、後者は特定地域において交戦軍のある部分間を停止するものとする。 休戦(戦闘状態の停止)というのは36条によって両者の合意が必要であると規定しております。 また、37条に、特定地域において交戦軍は戦闘を停止するということができるとあるので、南京に限定して、休戦ということは可能ということになります。 南京戦において、両軍が休戦の合意が成立していないということは歴史的事実です。また中国側の南京守備隊が全面降伏(ハーグ35条)した歴史的事実もありません
12 :
1 :2010/08/15(日) 13:50:29 ID:5Q9Tz0ed
休戦が成立したとしても期限の定めが無い場合には相手に通告していつでも攻撃再開できますので、そもそも休戦が成立していない場合には、両軍はいついかなるときにでも攻撃することは可能な状態にあるといえます。 つまり、休戦も降伏もしていない南京の守備隊(兵士)がいる時点において、南京は依然戦闘状態であるといえるのです。 降伏していない軍服を着ている兵士は、そのまま攻撃を加えることができるのに対し、便衣の人間を一般市民か兵士か吟味してその後に攻撃しなければならないとすれば、 便衣兵戦術は有効な手段となり、一般市民を盾とする便衣兵戦術を防止できず、一般市民を戦闘にまきこむのは明白であります。これは文民保護を定めているハーグ法の趣旨に反することになり妥当でないと考えます。 (そもそも南京は防守地域(ハーグ25条)だったので、軍民無差別攻撃が認められており、日本軍による軍民選別の法的義務は存在しません。降伏勧告を無視し南京を戦場にした中国側の責任は大変重いものと考えます。) 以上から、降伏も休戦もしていないのに便衣の兵士が保護される法的根拠は皆無であり便衣兵はゲリラであると結論づけられると思います。 小川法務官の日記には、以下のように記されています。 「◎十二月一日 中支那方面軍軍律、中支那方面軍軍罰令及ビ中支那方面軍軍律審判規則発令セラル… 戦闘中ハ反逆者タル帝国臣民以外ノ人民ニ対シ直ニ之ニ適当ノ処分ヲ為スコトヲ得シモ 敵国トノ戦闘休止ノ状態ニ至リタルトキハ戦争中ノ如ク適宜処分スルハ穏カナラザレバ 一種ノ軍政タル本則ニ基キ軍律ニヨリ帝国軍ノ利益ヲ保護セントスル趣旨ニ出タルモノナリ」(p.90) ここから、戦闘中においては、軍律裁判は不要。 戦闘休止状態になって初めて軍律裁判が必要であるといえます。 南京攻略戦においては、休戦協定は結ばれていませんので、軍律裁判は不要であったと結論付けられます。 ただ、入場式以後*は掃討作戦は一段落しており、休戦状態と同様の状態とみなし、軍律裁判は必要と考えます。 (*修正:戦闘詳報には24日まで掃討作戦は続いていた模様よってそれ以降) 日本軍もおおよそそのような処置がなされたのではないかと考えます。 この点についても、日本軍は適法に行動していたのだとおもいます。
13 :
1 :2010/08/15(日) 13:52:39 ID:5Q9Tz0ed
以上テンプレ+αでした
この後は持論も議論も論拠もない大虐殺被肯定(?)派の担当者の方が
「真 相 は 捕 縛 し た 不 正 規 敗 残 兵 3 万 以 下 を 処 断 す る 際 の 手 続 き 上 の 不 備 に 過 ぎ な い 」
と文字通りに『 南 京 大 虐 殺 は 嘘 』であり
しかも
『 3 万 人 を 越 え る 説 を 唱 え る 者 は 肯 定 派 で す ら な い 』となり、
肯定派の某氏の言葉を勝手に拝借するなら『 本 ス レ に 於 い て は ト ン デ モ 論 支 持 者 』としか言いようがない
と書き逃げコピペで親切丁寧に説明してくれます
それでは大虐殺被肯定(?)派の担当者の方、業務規定の通りに毎度お馴染みの論破済みコピペをどうぞ。
こんな感じ(↓)でw
-------------引用開始------------------------------------------------------------------------
否定派によると「学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎない」そうです。←ここ大事。 ←
>>5 のK−K@南京事件資料集[
[email protected] ] 氏は否定派だそうですw
さて、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようとしても、軍事的必要性の在った場合と、4条件違反者が
敵対行為の現行犯だった場合以外での無裁判処刑は違法です。残念ながら学者・有識者の見解は、東中野
を含めてことごとく裁判が必須との事です。
------------中略-----------------------------------------------------------------------------
まとめ
南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも
犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。
-------------以下は感想文なので略-------------------------------------------------------------
追記、しかも肯定派テンプレの筈なのに肯定派スレッドでは全否定されている模様です(苦笑
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1230937596/722-726
丸MARU 1989年6月号 通算515号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第6回 P200 徴発という名の略取 南京攻略が決まった十二月一日、この日も上海から南京にかけては天気の良い日であった。このとき南京には七つの師団の部隊が向かっており、最後に上海戦に参加した第十六師団は常州から丹陽に向かおうとしていた。 第十六師団は師団司令部が京都にあり、京都、福知山、津、奈良の連隊で編成されている。北支の戦火が広がって、一ヵ月ほどした八月には天津に派遣されたけれど、戦いの中心が上海に移った ためつい二週間前、大連から船に乗って揚子江河ロの白茆口や滸浦鎮に上陸したばかりであった。 上陸した滸浦鎮一帯は、南船北馬といわれている通り、クリークが縦横に走っている。北支では黄色っぽい土地がどこまでも続くだけであったので、十六師団の兵隊はだれもがその違いにとまどった。 常州まで進んだとき鯖江の部隊と一緒になったけれど、常州を出発するときには別れ、鯖江の連隊は丘陵地帯を西に進み、第十六師団は運河に沿って北西の丹陽をめざして進むことになった。 丹陽に向かう幹線は運河である。運河の他に鉄道と自動車道路も走っているけれど、昔からの運河がいまも交通の中心となっていた。この運河は大運河とも呼ばれ、隋の時代に煬帝が造ったもの P201 で、すでに千三百年もの間、主要な交通路として使われていた。運河が造られるときには苛酷な作業のため何百万人も死んだといわれ、工事の規模では北にある万里の長城と並び称されているものである。 ふつうならば舟で運河を進むのであるが、いたるところにいる中国軍と戦いながら進まなくてはならないので、第十六師団は舟を曳くために運河に沿って走っている道路を進んだ。 この日、第十六師団の四つの連隊のうち、福知山の部隊が先頭になり、福知山連隊のうちでも、第三大隊が前衛をつとめていた。 このため後衛にいた第一大隊の山室分隊は昨日と同じように一日中歩くだけであった。時折、部隊の上を日本の飛行機が丹陽に向かって飛んで行くのが見えた。 山室分隊たちは、夜九時ごろ呂城鎮を通過したが、まだ休みという声はかからなかった。ここでは昼に戦闘があったらしく、あちらこちらに日本軍と中国軍の戦った跡が残っていた。夜十時に大王 廟付近の小さな部落に着いたとき、命令が来て、ようやく今日はここに宿営することになった。 命令と同時に兵隊たちは食事の用意に入った。部落での宿営なので、さっそく民家に入って食べ物を探しはじめた。徴発である。 ほとんどの中国人は逃げるときに食べ物を隠して行く。徴発といってもそれを探すのであるけれど、いくら中国人が上手に隠しても必ず見つけだした。探す方が隠す方よりはるかに真剣だからである。 山室部隊の分隊長である山室正三伍長は毎日探
P202 しているうちに、中国人がどういう場所に隠すかわかるようになってきた。 中国人は食べ物をほとんど家の外に隠す。日本兵の意表をついたつもりなのだろうが、どこの家でもそうなので日本兵にとっては意表をついたことにならなかった。 しかむ隠し方が不自然なのですぐにわかる。中国人が隠す主な方法は地中に埋めるという方法であるが、埋めた後、その上に草で×の印をつけておいたり、棒を立てておいたりする。また、草を 積み上げて隠すこともある。だから不自然に盛り上がっている草があってどけてみると、ほとんどといってよいほど食べ物が現れた。どれもが一見してすぐわかるほどで、見つけるたびに、中国人 は自分で隠した場所を忘れてしまうからなのだろうかと不思議に思った。 もちろん、いつも見つけることができるわけではなく、何も見つけだせないこともたびたびあった。そんな時は、見つけだせないのではなく、何も隠されていないのだと思っていた。 間もなく一人の兵隊が小豆をみつけてきた。いつも徴発してくるものは、南京米、甘薯、漬け物などと決まっているが、小豆ははじめてなので、山室分隊の兵隊たちは大喜びした。さっそく煮て おかずにすることにしたが、それでもまだ余ったので、その分は南京米と一緒に煮ることにした。 小豆は料理前にしばらく水につけておかなくてはならないが、少しでも早く食べたいし、食べたらすぐに寝なくてはならない。悠長なことはしておれないので、水につけることもなく飯食炊さん にかかった。山室分隊は予備隊として後方にいるので、飯倉炊さんの火に気をつける心配もなかった。いつものように明日の朝と昼の分とあわせて三回分を炊いた。小豆飯というので、兵隊の一日の疲れはふっとんだ。 食事が終わると、それぞれ藁などを探してきて寝る用意をはじめた。戦場での最大の楽しみは食べることで、その次が寝ることである。食べる時と寝る時が一度にやって来るこの時間は、一日のうち最も楽しいときであった。 藁も何もみつけだせなかった者はそのまま寝た。戦場では師団長であろうが、旅団長であろうが、藁が最上の布団であった。すでに十二月に入っていたが、二十歳そこそこの兵隊は風邪もひか ない。戦場というので寝ていても緊張しているせいかもしれなかった。 六時間ほど寝て、十二月二日は暗いうちに起こされた。 この日は山室分隊の属している第一大隊が先頭に立つことになった。先月末は無錫で三日間休み、さらにその後三日間は後方を進んだので、第一線に立ったのは七日ぶりであった。 分隊長の嘆願書 まだ真っ暗な六時に、第一大隊は大運河に沿って丹陽に向かった。 七時を過ぎると、ようやく明るくなりはじめる。まわりは麦畑で、ところどころ桑畑もある。揚子江岸に上陸して以来の同じような風景だ。 昼近くになり、先を進んでいる尖兵が敵と遭遇したらしく、前方から撃ち合う音が聞こえてきた。あたりいちめん平坦な地で、遥か向こうには丹陽の町らしい建物と林が見えてきた。 丹陽は唐の昔からの町で、大運河の要路として栄えてきた町である。絹織物の産地でもある。南京から百キロも離れているが、上海から南京に向かう平坦コースにあたっていたから、ここには南京 防衛の防御線が築かれていた。すでに相当の中国軍がここで日本軍を待ち受けているらしかった。 近づくにつれて林の向こうには、古びた高い塔がはっきり見えてくる。日本軍は遮蔽物は何もない所を進んでいるので、中国側からは日本軍が手にとるように分かるようであった。迫撃砲が林の 向こうから激しく撃たれることからそれが想像できた。 午後になり丹陽の陣地直前まで進んだ福知山連隊は、いよいよ連隊砲で中国陣地めがけて砲撃をはじめた。その後、重機関銃隊の射撃がはじまった。 重機関銃隊の分隊長である山室伍長は、いつものように重機関銃の前に立った。目標を指示し、効果を確認するためであるが、分隊長が立つ場所は中国側から最も目標となりやすく、それだけ日 本軍の中では最も危険な最先端である。そのためこの場所は銃側即墓場といわれていた。 日本の兵隊の中では東北や九州の兵隊が素直で我慢強く、日本陸軍の中でも特に精鋭な兵隊といわれていた。都城の連隊がその代表である。一方、東京や大阪の兵隊は軟弱で都会ずれしてお り、東北や九州の兵隊と比べ格段に落ちるといわれていた。京都の第十六師団もそんな弱い部隊の
P203 一つといわれていた。 しかし、山室伍長は自分を勇気のない、弱い兵隊と思ったことはなかった。 山室正三は丹波で何代も続いた旧家に生まれた。父は村長で、生家は村一番の大きい家であった。家の隣は村の集会所で、さらにその隣には鎮守の森がうっそうと茂っていた。山室家は村の中 心にあり、この東八田村全体が山室家を中心に動いていた。 そういう家に四人兄弟の末っ子として生まれ、色の白い小さい子供ではあったけれど、小さいときから元気があった。 二十歳になった三年前、徴兵で軍隊に入ったときも、子供のころの元気な性質は変わらず、特別に兵隊が好きだったわけではなかったけれど、兵舎の中では立派な兵隊として認められた。 入隊して間もなく、山室一等兵も満州に行った。満州に行ったときも、命が惜しいとか、戦争が怖いなどと考えたことはなかった。 満州から戻ってしばらくして満期除隊したけれど、除隊したときのことを考えてもいなかったので再び学校に通いだした。 除隊して一年ほどした頃、蘆溝橋事件がおき、山室正三は再び召集された。 今度の事変は、満州とは違っていた。相手は満州の匪賊ではなく、中国の正規軍である。しかも、中国は日ごとに反日になって、日本は長年築いた国益をおびやかされている。国民はだれもが そう思って心配して、この戦いに日本軍は必ず勝たねばならないと思っていた。 そういうところへ召集されたから、山室正三は召集されたことを喜び、自分が行って必ず中国軍に勝ってみせると心に誓った。 召集され、福知山連隊に行くと、連隊はあわただしく出陣の準備をしている最中で、その兵隊たちはすぐに北支に向かって行ってしまった。山室伍長たち一部の兵隊は留守部隊として兵舎に残された。 喜んで入営しただけに、自分だけが残されたことにがっかりし、多くの市民に見送られていった兵隊をうらやましく思った。 山室正三が留守部隊に残されたのは、現役時代の上官がたまたま留守部隊にいて、かわいがられていたため残されたのであったけれど、それが山室正三には不満であった。 やがて中国に行った部隊から戦死者、戦傷者の知らせが留守部隊に入ってきた。そんな知らせを聞くたびに早く戦場に行きたい気持がつのった。 然し、戦死傷者が多くなれば留守部隊から補充部隊が編成されるはずである。 山室正三は補充部隊が編成されたら、まず一番に選んでもらおうと思った。選んでもらうには自分の気持ちを前もって知ってもらわなければならない。そのため仲間二人と嘆願書を書くことを思いたった。 仲間の二人は山室正三より二つほど年上で、同じように召集されて留守部隊に残され、残されたことを憤慨していた。自分たちの気持ちを知ってもらうためには血の嘆願書を書くことであった。 嘆願書を書こうとした時、特別の気負いもなく左手の小指を剃刀で切った。戦場に行きたいという気持ちだけが強く、半分ほど切ったけれど痛いとは感じなかった。小指をしぼるようにして血を 出し、右の人差し指につけて、早く戦場に行かしてくれるように、と書き、最後に自分の名案を書いた。 血の嘆願書を書いたのは山室伍長ら三人だけではなかった。留守部隊には同じように、血の嘆願書を書いたり、血判を押すものが何人もいた。
P204 血の嘆願書のせいか、十月に六十三人の第一次重機関銃補充隊が編成されたとき、山室伍長はその一人に選ばれた。 すぐに北支に向かい、部隊に追いついて第一大隊の第一機関銃中隊第四小隊の第七分隊長を命ぜられた。 そんな兵隊だったからきわめて勇敢な下士官だった。まわりでどんなに激しく敵の銃声、砲声がひびこうが気にならなかった。自分では戦争は命がけのスポーツのようなものだと思っていた。 突然の追撃命令 丹陽の敵陣地は町の前方一キロほどの所にあったが、重機関銃の猛射のあと、各中隊はトーチカに突撃し、重機関銃隊もすぐにそれに続いた。 五時半ごろには町の前方にある陣地を占領し、その後も町の中心に向かって攻撃を続けた。大運河から流れる濠が丹陽城を囲んでいて、町の中心部はその城の中にある。攻撃を続けながら夜八時 には城の一角まで進み、最後の攻防になった。 それから数時間、中国軍は抵抗したけれど、夜の十一時ごろになり、ついに丹陽城から敗退していった。 すでに真夜中だったので、連隊はその場所で夜を明かすことになった。山室分隊は奪った敵の陣地で寝ることにした。 壕の中で数時間寝たと思ったら四時には起こされた。中国兵は丹陽城から一人残らず逃げたようであったが、改めて掃討しなくてはならないというのだ。山室分隊は明るくなりはじめるころに、濠にかかる橋から城内に入った。 城内に入ってみると。二万はどの市民はほとんど避難していなかった。町は逃亡のさいの混乱と、日本軍の砲撃で荒れて、日本軍の飛行機による爆撃の跡もあった。いたるところに「打倒日本 帝国主義」「契不売買日貨」といったスローガンの書かれている紙が貼られていた。 それを見て、中支の中国人は北支と全く違うと感じた。北支ではまったく見られない光景であった。南では蒋介石の威令か行き渡り、反日の教育が徹底していると聞いていたが、考えていた以上 のものであった。北と違うのは風景だけではない。気を引きしめなければならないと思った。 午後二時には丹陽を出発し追撃に移った。丹陽城内にめぼしいものは何も残っておらず、中国兵が略奪していったのは明らかだった。その証拠に中国兵は持てるだけ持って逃げるが、間も なく持ち切れなくなると捨ててしまう。追撃戦になると、そういうものが必ず道路に捨ててあった。今日もそうであった。最初に捨てるのが毛布、水筒、靴、帽子などで、なかには魔法壜なども捨ててあった。 その後に捨ててあるとしたら、こうもり傘である。中国兵は雨が嫌いで必ずこうもり傘を持って逃げるというが、疲れるとこうもり傘も捨てる。 何を持ちすぎたのか、弾、軽機関銃、手榴弾などが落ちていることもめずらしくなかった。 最後まで持っているのが食べ物で、南京米、缶詰、餅、菓子などである。食べ物はすべて日本軍が利用したけれど、菓子といっても中国の菓子は甘くないものが多かった。山室伍長はもともと甘 党だったので、菓子というと喜んで拾ったけれど、いつもがっかりさせられた。 丹陽を離れるにしたがいクリークは少なくなる。夕方六時には丹陽から二十キロほどの白兎鎮に着いた。白兎鎮は小さな部落で、ここも城壁で囲まれていた。 南京攻略の命令は昨夜上海派遣軍から各師団に出されていたが、第十六師団では、遅れている弾や食糧が来るのを待って、準備をととのえてから攻略に移ることに決まった。津や奈良の部隊はまだ 丹陽にいる。そこで先頭を行く福知山の部隊は白兎鎮に留まり、上からの命令を待つことにした。 そんな上の方針はすぐに伝わってくる。途中さまざまな推測が入り、兵隊たちにはそのまま伝わることはないが、誰がいうということもなく一週間くらいはここにとどまりそうだとなった。 福知山の連隊は白兎鎮でとりあえず休養をとることになったため、山室分隊では四日朝早くから徴発に出かけた。 朝方、徽発に出かけた兵隊たちが戻ってきたのは夕方であった。豚、鶏、南京米、甘薯などいろいろなものを徴発してきた。たちまち分隊は大騒ぎになった。 ところが昨日まで食べるだけで満足していた兵隊も、今日のように徴発品がたくさんあるとかえって不満が出てくる。久し振りに肉を食べられるというのに一人の兵が野菜も食べたいと言い出し た。一人がそう言い出すと、しばらく食べていないので誰もが急に野菜を食べたくなった。人間のぜいたくはきりがないものである。食べることだ
P205 けが兵隊たちの唯一のぜいたくであったから仕方がないのかもしれない。 野菜もたまには徴発できるが、この辺りには、日本にあるような大根はなかった。 山室伍長は大根が特に好きだったのて野菜の話になると高槻大根を思い出した。丹波の近くにある高槻という部落でとれるおいしい大根である。 同じ丹波生まれの兵隊が、山室伍長の大根好き を知っていて、 「高槻の大根を食べたいなあ」 と言った。丹波では高槻大根が有名だったから、それを聞いてすぐにあいづちを打つ者がいた。高槻大根の名前を聞くと、山室正三は目の前 にあるごちそうを食べなくとも大根だけは食べたいと思った。ないものだけにむやみとほしくなる。 不満は食べ物だけに限らなかった。近くにあるクリークの水が濁っていると一人の兵隊か言い出した。きのうまでは浮いている死体を押しやって水を汲み、それで飯を炊いていた。そうやっても 平気だったのに、今日は四キロほど先に水のきれいな部落があると聞いてわざわざそこまで行くことになった。 そんなことをやってしばらくのんびりしていると、突然、夜九時になって、句容の敵が退却したので追撃、という命令が来た。一週間ものんぴりできると思っていた兵隊たちはあわてた。 句容は二十キロ先で中国軍の陣地があるところだ。いよいよ第十六師団も本格的に南京攻略に向かうことになったのだ。 句容への攻撃には、福知山連隊の他に、同じ第十六師団の京都の連隊も向かうことになり、夜中の行軍が始まった。 山室分隊は真夜中の三時に句容郊外に着いた。 句容への攻撃は五日の早朝から始まった。句容も町の中心は城内にあったので、ここへ攻撃が集中された。 飛行場もあり、丹陽より防御は堅かったけれど、日本軍は昼までに城内に攻め入り、占領した。句容もそうであったが、日本軍は戦えば必ず勝った。 山室分隊は城内に入らず、郊外にとどまったままで、その夜は郊外に宿営した。 この日の夜中から句容は冷え込み、翌六日は零下五度という寒い日になった。句容だけでなく、太湖から南京一帯が寒気におおわれ、あちらこちらに氷がはった。山室分隊たち第一大隊は午前六 時に宿営地を出発し、句容城には入らず、そのまま句容から北西十二キロにある湯水鎮に向かうことになった。 (つづく)
丸MARU 1989年7月号 通算516号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第7回 P198 若き分隊長の不安 南京攻略命令が下ったとき、宇都宮第六十六連隊の高松分隊は太湖の近くを進んでいた。 太湖は上海と南京の間にある大きい湖で、宇都宮の先頭部隊がこのあたりを通ったのは一週間以上も前のことである。 高松伍長を長とする十数人の一団は、その先頭部隊より一週間ほど遅れて進んでいたことになるが、彼らは自分たちが今どこを進んでいるのか皆目わからなかった。ただ他の部隊が進んでいる方向に従って進んでいた。 高松分隊の分隊長であった高松半市は大正元年、宇都宮郊外の農家に生まれた。当時、宇都宮には第十四師団司令部があり、栃木、茨城、群馬、長野の各県を管轄していたが、関東地方で師 団司令部があるのは東京の他に宇都宮だけで、そのため宇都宮は軍都として知られていた。 昭和八年。二十一歳をむかえたとき、高松半市は宇都宮の第五十九連隊に入隊した。半年ほど基本教育があった後、初年兵は満州の奉天に連れていかれた。満州国ができて二年目に入ろうとして いたときで、ここで警備を兼ねて訓練することになったのである。 満州に移って半年の訓練の後、昭和九年には匪賊討伐に出るようになった。高松半市はこのとき P199 はじめて戦闘を経験した。最初の戦闘は雪原の中で匪賊と対峙したときで、この日の戦いは一日中続いたが、上官の話ではこれほど抵抗する匪賊はめすらしいとのことだった。 その年は戦いのため、満州国のあちらこちらに行き、錦州や山海関にも行った。山海関は万里の長城の基点て、ここを見たのが最大の日本へのおみやげだった。 それをみやげに六月に日本に戻り、まもなく一時帰休になった。除隊するときは下士官適任証を与えられ、次に召集されるときは下士官として勤務するということであった。 除隊して三年目の夏、蘆溝橋事件が勃発して、第五十九連隊には八月に動員命令が下り。現役兵と除隊したての若者が動員された。 それから二ヵ月して、上海での戦況がきびしくなったため、宇都宮で再び連隊が編成されることになった。現役兵や二十三、四歳になる除隊したての若者はすべて北支に行っていたため、新しい 連隊は予備役と後備役で編成することになり、高松半市も召集された。 このとき編成された師団は、すでに北支に行っていた第十四師団の上に百をつけて第百十四師団と命名された。各連隊も水戸が百二連隊、高崎が百十五連隊、松本が第百五十連隊と、もともとそ こにあった連隊に百をつけて命名された。宇都宮の連隊も本来なら百五十九連隊と命名されるはずであったが、軍縮で廃止されていた六十六連隊の軍旗が残っていたので、宇都宮の連隊だけは六十六連隊の名前を使うことになった。 高松半市が召集されて連隊本部に行くと、さっ
P200 そく分隊長を命ぜられた。第六十六連隊第一大隊第四中隊第一小隊の分隊長である。確かに三年前に除隊するときは下士官適任証をもらい、次に召集をうけるときは下士官に昇進するということを 聞いていたが、連隊本部に行くまでは分隊長になろうとは思ってもみなかった。 召集された人はほとんど家庭を持っている人で、三十歳前後の人が多かった。連隊本部では四年前に入営したときの若さあふれる風景は見られず、在郷軍人会の集まりのようであった。十数名 からなる高松分隊も三十歳過ぎの人が多く、二十五歳の高松分隊長が一番若かったほどである。 分隊の中からは 「おまえが分隊長をやるのか」 という声があがった。 三十代の兵隊からは、若い高松分隊長は頼りがいがないように見えたらしい。 しかし、高松分隊長から見れば、三十歳半ばの人たちでいったい戦争ができるのだろうかという不安があった。やはり二十一、二歳の若さと比べたらみなぎる力がない。兵力としてはどうしても劣ってしまう。そう思った。 連隊は、連隊長の山田常太中佐と三人の各大隊長、それに一部の大隊副官だけが現役てあった。師団長も予備役の末松茂治中将が現役に復帰して親補されていた。中隊長以下も予備役か後備役で あったが、高松分隊が所属した第四中隊長は後備役の手塚清少尉だった。少尉が中隊長というのも高松分隊長は聞いたことがなかった。 召集されて一週間後、高松上等兵は伍長に昇進した。何もわからないまま列車で大阪まで連れて行かれ、そこで数日訓練を受けた後、船に乗せられた。船に乗って上陸したのは杭州湾だった。 第六十六連隊が杭州湾に上陸したのは十一月十日から十一日にかけてのことである。第百十四師団はこの上陸作戦で最後に上陸した。すでに杭州湾には十一月五日から第、一陣が上陸して内陸部に 進んでいたため、第六十六連隊が上陸するころは敵もなく上陸はスムーズにいった。 上陸付近はクリークが縦横に走っていた。クリークが道路の代わりを果たして、小船が交通機関である。クリークに沿って小道があるだけで他にまともな道路はなかった。 上陸したものの、戦闘もなく、銃声も聞こえなかった。高松伍長には宇都宮の生活がまだ続いているようにしか思えなかった。 ところがのんびり進んでいた数日後、クリークに浮かぶ小舟の中に中国人の家族らしき数人が死んでいるのが見えた。高松伍長が上陸してはじめて見る死体だった。家族は小舟に乗っていて撃た れたものらしく、銃弾が舟をつきぬけていた。そのためクリークの水が小舟の中に入ってきて、それを死体から流れた血が赤く染めていた。小舟の中は何人もの血で真っ赤になり、その色は、曇天 のまわりの風景の中てひときわあざやかだった。 たおれている家族はなぜ撃たれたのか? 中国軍が撃ったのか? 日本軍が撃ったのか? 市民でもやられるのか? まわりにいる誰もわからない。わかったことは、現実は生半可な気持ちではいけないということてあった。 落伍兵にとぶビンタ 満州で戦った日からすでに三年がたって戦場とは縁のない生活を送っていたから、高松半市は、召集されて戦場に行くことになっても日常の延長に考えていた。
P201 宇都宮駅に見送りにきた家族の真剣なまなざしに違和感を覚えもした。列車の中でも家族のまなざしが気になっていたが、舟の中の死体を見て、自分が隣りあわせにしているのは死であることを 認識しないわけにはいかなかった。そして、家族のまなざしが今さらながら理解できた。戦場に来たらやるかやられるかだけだとその死体を見て思った。何とかなるだろうと思って宇都宮を出た が、そのときはじめて命は捨てたものと思わなければいけないと思い、そして、国の為に諦めなくてはならないのだと思った。 そんなことがあって第六十六連隊でも戦闘が始まり、自分たちの小隊長がたおれたとか、兵隊のだれかが死んだと聞き、一層その気持ちが強まった。 それから数日して、分隊の一人が病気でたおれた。もともと丈夫な兵隊ではなかったが、急激な訓練と船上での生活、さらに上陸してからは連日雨が続いたため急に体力が衰えたものらしい。負 傷なら軍隊で教えられた手当てのしようもあるが、原因がわからないためどうしようもなかった。 やはり予備役、後備役の兵隊は大変だと思っていると、手塚中隊長がやってきて、 「回りは敗残兵も多いだろうから分隊全員で野戦病院のあるところまで護送せよ」 と命じた。それまでは頼りなさそうに見えた中年の中隊長であったが、一人の兵隊を気づかっで、てきぱきとした処置を下すのを見て、高松伍長は感激するとともに、それまで中隊長に対して 持っていた不安が一瞬にして消えた。 適当な担架がなかったが、分隊は手わけして洋車を見つけてきて、病院のあるところまで急ぐことになった。 はしめはばらばらだった分隊の気持ちも、上陸や護送を体験してだんだんまとまってくるようになってきた。高松伍長は分隊長とはいえ一番若かったため、全員と物事を相談して進めた。それも分隊をまとめるのに役立った。 分隊が数日ほど戻ると野戦病院があり、たおれた兵隊をそこに頼むことにした。 兵隊を頼むと、分隊は休むこともなく三度同じ道を進むことになったが、回りの兵隊は見知らぬ兵隊ばかりであった。 それでも数日ほど進むうちに、ようやく宇都宮の兵隊に会うようになった。ところが、分隊の出会った宇都宮の兵隊はいまにも倒れそうな兵隊ばかりであった。 そのころ、先を行く宇都宮連隊では、強行軍のため、体力のない兵隊や年をとった兵隊はつぎつぎ落伍していった。落伍しそうな兵隊には中隊長命令でびんたがとんだ。すでにやさしい言葉も激 励も役に立たない。兵隊の反発心だけが唯一の頼みであったからだ。 それでも何人かは落伍していった。落伍した兵たちは落伍しながらも追いつこうとし、どうにかこうにか最後に一団となってすすんだ。その一団を揶揄して“第十三中隊”と称していたが、高松分隊が会ったのはこの一団であった。 十二月一日に南京攻略命令が下りたとき、高松分隊はこうして落伍部隊と進んでいた。このとき連隊の主力は太湖近くの宜興を出発し、 陽を目指していた。百キロ以上も先である。 高松分隊はひたすら第一大隊に追及しようと急いだが、第一大隊も戦いながらも前進しているので、なかなか追いつけなかった。上陸したとき持っていた食べ物はすでになく、杭州湾に上陸でき なかった輜重部隊は上海に迂回していたため、食べ物はすべて現地調達するしかなかった。 高松分隊が進む途中の民家によく漬け物があった。漬け物の次に見つけたものは甘薯であった。このため高松分隊はほとんど漬け物と甘薯だけの食事を続けていた。 たまには粉や玄米が見つかることもあったが、それはめすらしかった。現地調達の場合、お金を払うようにとお金を渡されていたが、中国人はほとんどいなかったのて、お金を払うことはなかった。 高松分隊が落伍部隊と一緒に進んだのはわずかの間で、まもなく、彼らを追い越した。そうやって進むうちに別の一団に追いついた。その部隊はしんがりの第三大隊第九中隊だった。ようやく本隊に追いついたことになる。 しかし、そこで聞いた話によれば、第一大隊ははるか前方を進んでいるということだった。 連隊の主力は、十二月三日、 陽に進んだ後、深水に向かい、さらに七日には 水を出発して秣陵関に向かっていた。予備役や後備役からなる部隊であったが、鯖江や福知山の部隊と同じ速さで 進んでおり、南京への距離も鯖江や福知山の部隊とほぼ同じであった。 高松分隊と連隊の主力の距離はほとんど変わっていなかった。
P202 空きっ腹の総攻撃 十二月五日の午後、鯖江第三十六連隊は淳化鎮にある中国の防御ラインの第一線に到着した。こ のとき、西坂上等兵の第二大隊は後衛を進んでいた。 敵の第一線には歩哨がいるだけであったが、五百メートルほど先には掩蓋壕がある。このあたりは摩盤山を越したとはいえまだ平坦ではなく、なだらかな丘が続き、掩蓋壕の先にはさらにトーチカも見えた。 すでに掩蓋壕やトーチカの前方は射界清掃がしてあり、日本軍が現われれば、狙い打ちできるようになっていた。 中国の主都南京では十一月十九日に首都衛戌軍が編成され、唐生智が最高司令官に就任した。首都衛戌軍は、南京城だけでなく、南京の外郭陣地まで投入され、ここ淳化鎮には二千名から三千名ほどの第八十三軍が守りについていた。 日本兵が現われたとわかると、中国軍は掩蓋壕やトーチカから猛烈に撃ってきて、日本軍はただちに第一大隊と第三大隊が展開して応戦した。 連隊長は、中国側の陣地を見て、陣地は堅固だが兵力は多くないから攻め落とせると判断した。まもなく、一気に攻め落とせとの命令が第一大隊と第三大隊に出された。 日本軍の本格的な攻撃が始まったが、何力月も前から準備していた中国軍の防御は堅く、またたく間に日本軍には死傷者が出た。トーチカにあたつた日本軍の弾ははね返されるばかりで、鯖江第 三十六連隊はそこではじめて、堅い地面を掘って壕をつくらなければならなかった。 夜遅く再び、明日には攻め落とすようにとの連隊命令が第一線に届いた。 戦いは一昼夜にわたって激しく続き、翌六日の夕方、ようやく第二線ともいうべき掩蓋壕やトーチカを破った。しかし、その先にはさらに堅固なトーチカがあり、攻撃ぼその夜も続行された。 三日目の七日になって予備隊として後方にいた、西坂上等兵たちの第二大隊がいれかわりに攻撃の第一線に立った。 すみやかに敵を突破し、一気に南京城まで進め、との連隊命令である。しかし、中国軍はトーチカの銃眼から日本兵が現われるのを待っていて、第一線に立った西坂上等兵が銃の先に鉄兜を のせて上に突き出すと、一斉に鉄兜を目かけて撃ってきた。 「カンー カンー」 と続けざまに弾が鉄兜にあたり、敵の反応のすばやさに手も出なかった。第二大隊は、奪った中国軍の掩蓋壕、あるいは小さな丘の死角を利用して匍匐前進するだけであった。 第六中隊長は、下士官から上がってきた人で物事を慎重に考える人であった。この敵を見て、 「むやみに攻撃しても、いたずらに死傷者をふやすだけだ」 と指揮班の兵隊たちにいった。 中隊長はすでに四十歳に近く、部下には常に命を大切にといっていた。そのため、上からの命令に対して行動が慎重になることがあった。その指
P203 揮ぶりを、他の中隊の中にはずる賢いという人もいたが、西坂上等兵には、よく状況判断のできる人に思えた。今日も中国軍の精神力は日本軍とどっこいどっこいである。今は堅固な陣地を築いて いるだけ中国軍は有利だから、このような状況では無理な攻撃はせす、総合的に勝っている友軍の火力を生かすしか方法はない、と西坂上等兵は思った。 何度か連隊命令が発せられたが、この日も攻め落とすことはできなかった。淳化鎮に来てからすでに三日もたっていた。脇坂連隊長は、 「こんなところで三日もぐずぐずして諸君にはずかしい」 と連隊本部と同行している新聞記者に語った。しかし、中国軍の銃撃が激しいためカメラマンは写真すら撮れず、状況がきびしいことはカメラマンや記者がよく知っていた。 この日の午後になって山砲と軽装甲車が来たので、改めて八日に総攻撃を行うことになった。 連日晴天が続いていたが、十二月八日は特に良い天気で、ぽかぽかした小春日和であった。昼までには山砲の準備もすみ、まもなく総攻撃が始まろうとしていた。総攻撃にはまず第二大隊が突撃することになっていた。 西坂上等兵は、淳化鎮に到着したとき持っていた食糧を昨日まで食べ尽くし、今日は朝から何も食べていなかった。輜重部隊は遅れており、トーチカだけの戦場では何も徴発できなかった。それ は西坂上等兵だけでなく、この日の脇坂連隊長の昼食も茄でた甘薯だけである。しかし、突撃を前に、西坂上等兵は空腹は少しも感じなかった。代わりにからだが震えてしようがない。 鯖江を出発するときに二百二十名いた第六中隊は、このときは七十名に減っていたが、全員、敵のトーチカから死角になっている窪地まで進んで中隊長の攻撃命令を待っていた。いつもだと伝令 などにとぶ指揮班の兵も、今日は全員突撃である。 西坂上等兵もいっもの軽機関銃を三八式歩兵銃にかえ、銃の先に剣を着けて命令を待っていた。突撃をすれば中国兵から格好の標的になるかもしれないが、そうなっても自分だけは助かると思っ た。というよりむりやりそう自分に思わせた。そう思わなければとても突撃などできなかった。 午後一時五十分、一斉に山砲の砲撃がトーチカに向けて始まった。飛行機からの爆撃も行われた。山砲による砲撃は十五分も続き、やがて砲撃の最後を示す発煙弾が打ち上げられた。それを砲 隊鏡で見ていた中隊長が、 「突っ込め!」 と叫んだ。 その声に中隊は全員が突撃した。第六中隊だけでなく、第二大隊の各中隊も一斉に飛び出した。酉坂上等兵はそのとき自分が何をしようとしてい るのかわからなかった。さきほどまで頭の中にあった敵の射撃のことも忘れて、ただ、敵のトーチカに向かって全速力で駆けていた。 突撃と同時に軽装甲車も一斉に進んだ。左翼から迂回して後方から中国軍をはさみ撃ちするつもりであった。駆けながら西坂上等兵は左の網膜のすみに五、六台の軽装甲車が見えたような気が七 た。小春日和の丘陵地帯に繰り広けられる歩兵と軽装甲車の一斉突撃は壮大なパノラマだった。 今までにない砲撃とそのあとの歩兵の突撃により、さすがの中国軍も動揺をしだした。その上、軽装甲車が逃げ場を断つように進むと、それまでは日本兵を身動きさえさせなかった中国軍が崩れ 出した。まさに歩兵操典にあたる攻撃体形である。いったん崩れはじめると、中国陣地はあっと
P204 いう間に崩れ出した。中国兵は、逃げながら手榴弾を投げてきたが、あらぬ方向で爆発するだけであった。第二大隊はつぎつぎトーチカになだれ込んだ。 しかし、西坂上等兵の飛び込んだトーチカには死守するつもりの中国兵がいた。西坂上等兵は飛び込んだ勢いで中国兵めがけて銃剣を突き出した。一瞬ひるんだ中国兵の手榴弾攻撃と西坂上等 兵の剌突は一瞬の差で、中国兵は手榴弾を投げる暇もなくたおれた。 第二大隊に続いて第三大隊も突入し、日本軍はつぎつぎトーチカを占領していった。 四日にわたって抵抗した中国兵ではあるが、いったん崩れ出すと総崩れになり、主力はあっという間に退却してしまった。 山砲の砲撃が始まって一時間後の二時五十分には淳化鎮一帯が日本軍のものになった。 連隊長の危機一髪 しかし淳化鎮を落としたが、喜んでいる暇はなかった。ここで一息いれているうちに敵が体勢を立て直して、再び陣地にたてこもれば日本軍の犠牲が大きくなる。一気にこのまま攻め込むのが得 策だという連隊長の判断であった。そのため西坂上等兵たち第二大隊と第三大隊はそのまま中国兵を追った。 淳化鎮から四キロメートル先の高管頭にも中国軍の陣地があったが、西坂上等兵ら先頭の部隊は左に迂回して、そこからさらに四キロメートル先の上方鎮に向かった。後方の陣地まで一気に進 み、敵に体勢を立て直す暇を与えないためであった。そのため高管頭は後続の部隊にまかせた。 西坂上等兵たちが素通りした高管頭の中国軍は戦車を中心にした兵力で、後続の第一大隊、連隊本部が遅れてくると猛烈に攻めてきた。戦車は濃い緑色で塗られた真新しいドイツ製のもので、日本 の運搬を主任務とする軽装甲車とは違っていた。 このとき日本はドイツと防共協定を結んでいたが、一方、中国もドイツとは友好状態が続いていた。そのため中国軍は陣地構築など戦術面の指導を仰いだだけでなく、戦車、銃などの武器もドイ ツ製のもので装備していた。日中戦争はある面では日独の戦いであった。 急進する先頭部隊を追っていた脇坂連隊長、連隊旗手などは戦車が現われたとの情報にあわてて一軒屋に避難した。間もなく胴体に青天白日旗を描いた戦車が現われ、一軒屋から五十メートルの ところまで来た。一軒屋を狙えば連隊長以下はひとたまりもない。 しかし、戦車は連隊長らが隠れているのもわからずそのまま先に進んでいった。そして後続の部隊を狙に撃ちした。 連隊本部と進んだ朝日新聞の浜野嘉夫カメラマンは、中国の戦車が日本兵をなぎ倒すのを見て、これを撮ろうとして胸を撃たれた。 「何処かやられた」 といいながら浜野カメラマンは同僚のいる建物 に戻るやいなや息たえた。戦車は追ってきて、浜野カメラマンの逃げ込んだ煉瓦壁の建物に猛射かに浴びせた。朝日新聞の記者たちは浜野カメラマンの死骸を抱いたまま、揺れる部屋でなす術もなかった。 戦車を中心とする一隊は撃つだけ撃つと反転していった。朝日新聞の記者たちは九死に一生を得た。戦車が去ると、こんどはさらに別の数百人の一隊が第一大隊を攻めてきた。高管頭と上方鎮の 間四キロメートルは敵味方入り乱れての混戦になった。 浜野カメラマンの戦死はしばらくして連隊本部に知らされた。二週間前、無錫で、連隊長についてきた朝日新聞と読売新聞の記者が死んで、さらにここに来てカメラマンの死である。それを聞い た連隊長は、 「記者を殺すために戦争をしているのではない」 と撫然としていった。 このころ、先に進んだ西坂上等兵たちの部隊はすでに上方鎮を占領していた。さんざんあばれまわった中国軍の戦車は高管頭と、上方鎮の間で日本軍のはさみ撃ちの形になった。昼間は手出しで きなかった日本兵は日没とともに戦車に肉薄攻撃し、サイドカー、貨車などとともにことごとくとらえた。 浜野カメラマンの遺体は、その夜、同僚たちの手で荼毘に付された。 混戦は夜になると一層激しくなった。 中国兵は青っぽい軍服を着ているので、昼は日本兵と区別がつくが、暗くなると区別がつかなくなる。背格好がほとんど同じだし、話すイントネーションがちょっと聞くだけでは、日本語か中国語かわからないからである。 おまけに日本兵と同じ三八式歩兵銃を持っている中国兵もいる。その
P205 ためいたるところで日本兵と中国兵が入り乱れていた。暗闇の中でドイツ風のヘルメソトだけが目安であるが、逃げる中国兵の後ろ姿があまりに日本兵に似ているのでとうとう撃てなかった日本兵もいたほどである。 上方鎮がすでに日本軍に占領されていると知らないで退却してきた中国兵八十名が日本軍に殲滅された。 暗闇の混戦の中で、西坂上等兵は上海でのことを思い出した。蘇州河渡河作戦のときだから十一月上旬のことである。すてに日本軍が占領しているとも知らず、中国軍の炊事班が炊きたての食事 を運んできたことがあった。西坂一等兵たちは炊事班を一撃でたおし、満足に食べていなかったので大騒ぎしてそのご飯をいただいた。兵隊たちにとって中国兵をたおしたことより、ごちそうが大収穫だった。 ご飯をいただいてから数日、こんどは明け方、西坂一等兵の第六中隊が占領していた建物に中国軍が大挙して戻ってきた。これもまだ日本軍に占領されたとは思っていなかったのだ。軽機関銃を持っていた西坂一等兵 は彼らを見ると夢中で撃った。あとで数えてみると、五十人以上がたおれていた。そのことを思い出しながら、中国兵はいつも敵情判断が不充分な兵隊だと思った。 夜の十時ごろになりようやく中国軍はばらばらに退却していった。もうまとまって日本軍を攻めてくる中国軍はいなくなった。上方鎮から南京城まではあと十キロメートルほどで、暗闇の中に南 京城方面だけが明るく見えた。 淳化鎮の攻略が始まって戦闘は四日も続いていた。今日も昼から休みのない戦いて、だれもが疲労困憊していた。しかしここまで来て今さら休もうとする者はだれもなく、このまま不眠不休で進 むことになった。出発にあたって、連隊は体勢を立て直し、西坂上等兵の第二大隊は第二線に退いた。すでに真夜中で、暦の上では十二月九日になろうとしていた。 出発することになったが、辺り一面は漆をながしたように真っ暗であった。暗闇の中を進むと、南京に退却する中国兵が隊列にまぎれ込んでくる。中国兵は、日本兵がここまで来ているとは思 わず、退却する中国兵ど思っているらしかった。日本兵も中国兵がまぎれ込んでくるとは思わず、日本兵と中国兵はだんご状態になって進んだ。 しばらく進むうちに一人の中国兵が話しかけてきて、言葉が違うのではじめて中国兵とわかり大騒ぎになった。あわててクリークに飛び込む中国兵もいた。疲れきっている日本兵の中には、話し かける中国兵に適当にあいづちをうつだけで気づかないものもいた。 上方鎮より四キロメートルほど進むと高橋門があった。昔はここに南京城の外郭の門があった。今はその面影はないが、ひろい意味からいえばここから南京城である。付近の家は燃えており、つ い先ほどまで多くの中国軍がいたことがわかる。南京城はますます近くなり、城内が燃えているのが遠くにはっきりわかった。(つづく)
否定派によると「学説の裏付けのない主張はトンデモ論に過ぎない」そうです。←ここ大事。 さて、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようとしても、ハーグ陸戦条約の4条件違反者が敵対行為の 現行犯であった場合以外での無裁判処刑は違法です。学者・有識者の見解によると、便衣兵を捕らえた 場合はことごとく裁判が必須との事です。 『「南京事件」の探求』北村稔 立命館大学教授 歴史学者(中国近現代史) 2001年 P101 筆者の見るところ、「ハーグ陸戦法規」の条文とこの条文適用に関する当時の法解釈に基づく限り、日本 軍による手続きなしの大量処刑を正当化する十分な論理は構成しがたいと思われる。両者の論争は 「虐殺派」優位のうちに展開している。 「板倉由明『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 1999年 まぼろし派の人は、捕虜などを揚子江岸で銃殺もしくは銃剣で刺殺したのは、虐殺ではなく戦闘の延長と しての戦闘行為であり、軍服を脱ぎ民服に着替えて安全区などに潜んでいた「便衣兵」は、国際条約の 「陸戦の法規慣例に関する規則」に違反しており、捕虜の資格はないゆえ処断してもよいと主張する。 しかし、本来、捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきもので あって、第一線の部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。 『昭和史の論点』秦郁彦 歴史学者(日本近代史)・法学博士 2000年 P96,97 南京事件の場合、日本軍にもちゃんと法務官がいたのに、裁判をやらないで、捕虜を大量処刑したのが いけないんです。捕虜のなかに便衣隊、つまり平服のゲリラがいたといいますが、どれが便衣隊かという 判定をきちんとやっていません。これが日本側の最大のウイークポイントなんです。・・・捕虜の資格がある かないかはこの際関係ありません。その人間が、銃殺に値するかどうかを調べもせず、面倒臭いからせず にやってしまったのが問題なんです。 『現代歴史学と南京事件』吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 2006年 P70 もちろん、正規軍の場合でもこの四条件の遵守が求められており、それに違反して行われる敵対行為は、国 際法上の「戦時重罪」を構成する。しかし、そうした国際法違反の行為が仮にあったとしても、その処罰には 軍事裁判の手続きが必要不可欠であり、南京事件の場合、軍事裁判の手続きをまったく省略したままで、正 規軍兵士の集団処刑を強行した所に大きな問題がはらまれていた。以上が私の主張の中心的論点である。 続く
『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1931年版 凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審間すべぎものである。 然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。 「北支事変と陸戦法規」篠田治策 国際法学者 外交時報84巻通巻788号 1937年10月1日 P54,55 軍律に規定すべき條項は其の地方の情況によりて必ずしも劃一なるを必要とせざるも、大凡を左の所爲あ りたるものは死刑に處するを原則とすべきである。(略) 六、一定の軍服又は徽章を著せず、又は公然武器を執らずして我軍に抗敵する者(假令ば便衣隊の如き者) (略)而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれぼ、 殺伐なる戦地に於いては動もすれぼ人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることあるが為めである。 「南京の支那兵処刑は不当か」東中野修道 亜細亜大学教授 政治・思想学者 『月曜評論』 2000年3月号P55 その違反者は、「死刑に処するを原則とすべきである」(54頁)が、処刑の前に「必ず軍事裁判」(55頁)に かけるべきであると篠田博士も注意を促していた。 これは当然であったろう。便衣隊の一人として狙撃などに従事するときは、囚われたときのことをあらかじめ 考慮して、自分は便衣兵ではなくどこそこの市民であり、名前(偽名)、住所、家族関係は次の通りという言い 分を用意していたであろう。そこで相手の弁明を査問して、事実関係を明確にしない限り、良民が菟罪に苦 しむことになるから、「軍事裁判」ないしは「軍律会議」(昭和十二年十二月一日「中支那方面軍軍律審判規 則」)の手続きは、氏も言うに、「不可欠」であった。 しかしそれはあくまで安全地帯の支那兵が便衣兵であった場合の話であった。 おまけ 『世界戦争犯罪事典』秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一 文藝春秋 2002年 軍律会議は国際的に慣習化されており、日本も既に日清戦争の時からこれに類するものを設置していた。 軍律会議は、軍の作戦地域などにおいて、軍司令官以上が作戦の遂行上公布した軍律に違反した日本人 以外の人民を審判するため設置されるもので、(中略)当時は、中支那方面軍、上海派遣軍、第一〇軍に そ れぞれ軍律会議が置かれていた。したがって、便衣兵は捕虜の資格がないとするのであれば、軍律会 議で 審判し処断すべきであり、第一線部隊が処断してよいものではない。 しかし、軍法会議、軍律会議は、本来少人数の違反者を対象にしたもので、多数の捕虜集団や便衣兵の集 団を裁判したり審判することを想定していないので、実際にはこれらの集団を裁判し審判することは能力的 に不可能に近かった。だからといって、能力的に不可能だったから、第一線部隊の殺害が不法殺害ではな い、として許容されるものではない。
佐藤説をもってしても敵拘束兵の無裁判処刑は違法です。 「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P314-315 学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。 (略) 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険に さらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要が る例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけ ドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが 知られている。 この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。 例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」 に関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。 もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたなら ば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。 (略) ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜 の継続的存在により、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則が ある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明し ている。 学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。 どこにも一旦拘束した兵を無裁判で処刑してよい、あるいは攻撃対象を移動させ改めて攻撃を続行しても 問題ないと書かれていません。 むしろ敵兵拘束により、“交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされ” る場合以外は、助命を拒否できないと書いてあります。また、“捕虜の継続的存在により、死活的な重大危 険にさらされる場合”、“学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきで あるというものである”と説明しています。 さらに、“極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らか”な場合の助命拒否は戦争 犯罪になるそうです。いったい否定派はどこをどう読んでるんですかね。
「南京事件 − 虐殺否定論の動向)」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 1999年6月5日講演より 二、南京事件をめぐる論争について (2)国際法の無視による虐殺の否定 これらは国際法の歪曲ですが、もうひとつは国際法の無視です。これは何度言ってもこの主張を無視するんですけど、 彼らが言うのは便衣兵ですね。資料8を見てください。小林よしのりさんのマンガ。「便衣兵 − つまりゲリラである」、「軍 服を着ていない、民間人との区別がつかない兵である」、「国際法ではゲリラは殺して良い」、「ゲリラは掟破りの卑怯な手 段だからである」。いい加減にしてほしいんですけど、ちょっと一言説明しておきますと、ゲリラ、民兵、義勇兵というのは 国際法の中では主流ではなかったんですね。(中略)もう一度見なおしてください。4つの条件を満たしてのみ、民兵や義 勇兵には交戦資格が与えられる。だから捕虜になった場合でも、人道的に処遇されるということです。まあ第一項はいい ですよね、責任者がいる。ところが、第二項の遠方より認識しうべき固着の特殊徽章を有すること。たとえば都市ゲリラの 場合、民衆にまぎれて、市民に紛れて行動するわけですよね、私はゲリラですってワッペンをつけて回るバカはいないわ けで、これはゲリラの活動を規制する面があるんですね。当時の国際法自体がです。国際法は目安として重要なんです けれども、国際法自体が歴史性というものをもっていて、特に戦前の国際法はゲリラという形をとって現れるような、民族 的抵抗を抑え込む役割を果たしていた。その歴史性ということを考えにいれないといけません。しかしそれを押さえた上で もやはり当時の国際法からみても無理な主張を彼らはしています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 便衣兵というのは1932年、昭和7年の第一次上海事変の時に登場してくるんですね。これは便衣という一般人の服で すね、これを中国の学生や労働者が着て、正規兵も少しいたようですけど、民間人の服を着て、上海で一種の都市ゲリラ をやる。単独で行動して拳銃で狙撃したり手榴弾を投げる、これを便衣兵というんですね。そういう民間人の服を着てゲリラ 的な行動をする戦闘者、これが便衣兵です。これは当時の国際法の解釈では、現行犯でですね、手榴弾を投げてきたり、 拳銃で狙撃してきたときは、現行犯で正当防衛で反撃できますけど、処刑するにはこれもやっぱり国際法上は軍事裁判の 手続きが必要なんですね。小林よしのりは国際法上は殺してもよいと書いていますけれど、これは全くの間違いで、軍事裁 判の手続きを経て、初めて処刑ができるわけです。それはそうなんで、民間人の服を着て、武器ももってないのに、お前は 目つきが悪いからゲリラだろうとか、まあ南京ではそういうことで殺しちゃったんですけど、そういうことをやると大変なことに なるわけですね。事実、第一次上海事変の時には、日本の外務省の電文の中に残ってますけど、かなり誤認というか、間 違って一般人を殺してしまった。日本人の居留民が自警団みたいのを作って、自分たちで検問をやって、通行人を処刑しち ゃう、殺害しちゃうんです。外国人まで間違えて殺害した例があって、これは日本の出先の外交官が本省に報告してますけ ど、かなり間違えて一般人を殺してしまったのです。そういうこともあるから、当時の国際法の解釈でも、間違えて良民を、冤 罪の良民を殺してしまう場合もあるから、必ず軍事裁判の手続きを経ないと処刑できないんだというのは、当時の日本軍の 常識でもあった訳ですね。ところが、南京でやったことは、まず厳密にいって、便衣兵という戦闘者はいません。多少散発的 な抵抗はあったと思いますけど、『南京戦史』をみても、先ほどの『証言による南京戦史』を読み返してみたんですけど、難民 区の掃討に当たったのは第9師団の第7連隊という連隊で、その上の旅団長の副官の談話が載ってましたけど、城内に入 って難民区に入っても、殆ど抵抗はなかったということを言ってるんですね。だから中国軍の便衣兵による抵抗は無かった。
戦時重罪犯であるだけで即決処刑を可能とする学説・見解は存在しません。 『上海戦と国際法』信夫淳平 国際法学者 丸善 1932年 P114,P125-126 現交戦法規の上に於て認めらるゝ交戦者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団 (Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負ふ者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の 特殊徽章を有し、(三)公然兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守するといふ四条件を具 備するもの(正規兵も是等の条件を具備すべきは勿論である) 然るに便衣隊は交戰者たる資格なきものにして害敵手段を行ふのであるから、明かに交戰法規違反である。 その現行犯者は突如危害を我に加ふる賊に擬し、正當防衞として直ちに之を殺害し、叉は捕へて之を戰時 重罪犯に間ふこと固より妨げない。 便衣隊の害敵手段行使現行犯は正当防衛として直ちに之を殺害し、又は捕へて之を戦時重罪犯に間う事と言って るだけで、交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。因みに南京で確認できた便衣隊は5,6人。 『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P81 伝統的な戦時国際法は、戦闘員資格をもつ正規軍による敵対行為だけを適法とし、文民等その資格を欠くもの はもとより、正規兵であっても不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は交戦法規に照らして 違法としてきた。 不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。 『戦時国際法論』立作太郎 国際法学者 日本評論社 1944年版 P62 上述の正規の兵力に属する者も、不正規兵中、民兵又は義勇兵団に後述の四条件を備へざることを得るもの ではない。 正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然是を具備するものと思惟せらるるのである。正規の 兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失うに至るのである。例えば、正規の兵力に 属する者が、敵対行為を行うにあたり、制服の上に平人の服を着け又は全く交戦者たるの特殊徽章を付したる 服を着せざるときは、敵により交戦者たる特権を認められざることあるべきである。 正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。 続く
「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317 一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められない ので、攻撃できるのである。安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに、 それを しなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認 される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れる ならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪 行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜 の資格がないことは既に歴然としている。 安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しい為、正当な捕虜の資格はなく、軍律審判の対象たる戦争犯罪行為である とし、逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。 「南京事件と国際法」吉田裕 一橋大学教授 歴史学者(日本近代史) 『南京大虐殺の研究』 1992年 P95-125 しかし、『南京戦史』の主張に従って、難民区内に本来の意味での『便衣兵』が多数、潜伏していたと仮定しても、 その殺害を正当化することは、国際法上不可能である。なぜなら、国際法の上では『便衣兵』の処刑には正規の 軍事裁判の手続きが必要であり、軍事裁判の手続きを省略した殺害が許容されるのは、その『便衣兵』が敵対行為 の『現行犯者』であった場合に限られていたからである 便衣兵が敵対行為の現行犯者であった場合は軍事裁判の手続きを省略できると言っているのであり、戦時重罪犯で あるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。 ※因みに吉田裕は南京に便衣兵は居なかったという説を唱えている。 即決処刑を許容するのは信夫淳平と吉田裕で、信夫は便衣隊の害敵手段行使現行犯の場合、吉田は便衣兵の敵対 行為現行犯を具体的に指摘している。これらの現行犯以外での即決処刑については言及してない。 佐藤和男が現行犯とする安全区への逃げ込みは、正当な捕虜資格が得られないと言っているだけで、軍律審判の対象 であるとの事。この行為に対し即決処刑してよいとは言ってない。佐藤が許容する殺害とは逃走する敵兵への攻撃である。 筒井若水と立作太郎は、4条件を備えていない正規軍は交戦者たるの特権を失い、違法であると言っているだけで、 4条件を備えていないからといって即決処刑してよいとは言ってない。 つまり、どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。戦時重罪の構成により直ちに殺害できる 場合がある、若しくは交戦者の特権を失うと言っているに過ぎない。学者・有識者の見解で、戦時重罪犯であるだけで 即決処刑を可能とする説は存在しない。
佐藤和男の言う違法な虐殺行為ではない潜伏敗残兵の摘発・処刑は、何人だったのでしょうか。 検証してみましょう。 「南京事件と戦時国際法」佐藤和男 国際法学者 『正論』 2001年3月号 P317 兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得 ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣 兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における 一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。 したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。 先ず、兵民分離査問(12月24日〜1月5日)での潜伏敗残兵の摘発人数を見てみましょう。 佐々木倒一少将私記 1月5日 査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約2000、旧外交部に収容 このうち何人が解放されたかというと、 読売新聞 1938(昭和13)年1月10日 敗残兵一掃のため行われた難民調査は、暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名と その他のものは安民居住の証を与えられ、今では大手を振って城内を歩けるようになった 兵民分離査問で摘出された敗残兵は2000人、うち1600人は良民証を与えられています。残りが全員 処刑されていたとしても400人が最大値です。 佐藤和男の言う「潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」は、最大でも僅か 400人。否定派の無裁判処刑合法論は、僅か400人の処刑が合法であるという論だったんですね。
否定派が言う「日本は極東軍事裁判の諸判決を受け入れたのであり。裁判そのものは受け入れていない」は、はたして 本当でしょうか。単純に言えばサンフランシスコ講和条約の accepts the judgments の訳の問題です。では政府見解を 見てみましょう。 外務省 歴史問題Q&A 問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。 1.極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦後、連合国が日本人の重大戦争犯罪人を裁くために設置された裁判で、28名 が平和に対する罪や人道に対する罪等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けた ものです。 2.この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、 極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない と考えています。 ~~~~~~~~~~~~ ~~~~~ 平成18年2月14日 衆議院予算委員会 小泉総理大臣 「極東国際軍事裁判所の裁判については、法的な諸問題に関して種々の議論があることは承知している が、我が国は、日本国との平和条約第十一条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾している。御指摘の答弁は いずれも、この趣旨を述べたものであり、その意味において相違はない。」 麻生外務大臣 「B級戦犯、C級戦犯含めまして、複数の裁判所の決定に皆従うという意味で、ジャッジメンツというぐあい に複数になっているというように理解するのが正しい英語の理解の仕方だと存じますので、裁判所の判決ではなくて 裁判を受諾したというように、サンフランシスコ講和条約第十一条はそれを意味しているものだと理解しております。」 安倍官房長官 「今申し上げましたように、私は、もともとの正文である英文を引用してジャッジメンツと申し上げたわけで ありますが、政府においてはそれは裁判ということで訳しているわけでありますが、基本的には、要はこれは何を我々は 受諾をしたかといえば、先ほど申し上げましたように、この判決について、またこの法廷もそうなんですが、それも含め て我々が異議を申し立てて損害賠償等々をする、そういう立場にはない、こういうことではないだろうか、こう思います。」 政府見解ではjudgmentsを裁判としている事がお判りいただけたと思います。 そもそも、「判決」を受け入れるのと「裁判」を受け入れるのとでは何の違いもありません。判決を受け入れるという事は、 その判決理由や裁判所の管轄権をも受け入れることを意味し、判決理由や管轄権を認めず、刑の執行のみを受け入 れるという事にはなりません。また、もし刑の執行の受け入れのみを要求するのでであれば、サンフランシスコ講和条約 第11条には accepts the sentences と書かれていた筈です。
否定派は支那兵は投降していないと言いますが、実際には各部隊で投降を受け入れています。さらに、指揮官自身が捕虜 として認識していた事が下記の史料から判ります。しかしその後捕虜は殺害されているのです。 ○&●=1次史料、△=2次史料(1次史料の補足として記載) ○第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集T』 12/13「【俘虜】ぞくぞく【投降】し来り数千に達す」 ○第16師団長 中島今朝吾中将日記 『南京戦史資料集T』 12/13「十二日夜仙鶴門堯化門附近の砲兵及騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有し たるが如きも其後漸次戦意を失ひ【投降】するに至れり」 △第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言 『偕行』(証言による南京戦史)『南京大虐殺の証明』 12/14「私は梶浦俊彦中隊長とともに、自動車で仙鶴門鎮へ走り、部隊を点検しました(略)われわれは墓地を利用して、接近 する一部の敵と相対しました。やがて友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃【投降】してきました。 その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しま した。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。【俘虜】の数は約一万(戦場のことですから、 正確に数えておりませんが、約八千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに 銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。」 ※仙鶴門鎮付近(堯化門附近)の投降兵7,200人は南京城内に護送され収容されましたが、残りの捕虜はこの様になりました。 ↓ ●第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』 12/10〜12/14 [俘虜]将校14、准士官・下士官兵3,082 [備考] 1、俘虜は処断す 偕行『南京戦史』によれば太平門で1,300人を処断、他の場所で1,796人を処断 続く
○第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『本当はこうだった南京事件』 12/13「午前七時〇分予定ノ如ク行動ヲ起シ機関銃ヲ斉射シテ聯隊主力ノ城門進入ヲ掩護スルト共ニ同時ニ当面ノ掃蕩ヲ開始 ス…掃蕩愈々進捗スルニ伴ヒ【投降】スルモノ続出シ午前九時頃迄ニ三百余名ヲ得友軍砲弾ハ盛ニ城内ニ命中スルヲ見ル」 △第114師団歩兵第66連隊第一大隊第4中隊第1小隊長代理 小宅伊三郎曹長証言 『丸』(城塁 兵士達の南京事件) 12/12「それでも中国兵は三三五五【降伏】してきたので、私のところで検問して後に送った。(略)あとで千二百の【捕虜】が いて、他の隊が捕まえた【捕虜】二、三百も合わせると千五百人(偕行『南京戦史』では1657人)になると聞いた記憶がある」 ※上記の捕虜はこの様になりました。 ↓ ●第114師団歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報 『南京戦史資料集』 12/13「午後三時三十分各中隊長を集め【捕虜】の処分に附意見の交換をなしたる結果各中隊(第一第三第四中隊)に等分に分 配し監禁室より五十名宛連れ出し、第一中隊は路営地西南方谷地第三中隊は路営地西南方凹地第四中隊は露営地東南谷地 附近に於て刺殺せしむることとせり(略)各隊共に午後五時準備終り刺殺を開始し概ね午後七時三十分刺殺を終り連隊に報告す」 ○第13師団山田支隊長(第103旅団) 山田栴二少将日記 『南京戦史資料集U』 12/14「他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば【投降兵】莫大に して仕末に困る(略)【捕虜】の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり」 ○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日] 「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は(略)それが 皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求め ているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜 だけは到頭食はせることが出来なかった」 注:山田支隊が捕らえた投降兵は軍服を着用しています。便衣兵ではありません。 ※上記の捕虜はこの様になりました。 ↓ ●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾(仮名)少尉陣中日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 12/16「【捕慮兵】約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映 12/17「【捕虜兵】の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった」 ●第13師団第103旅団歩兵第65連隊歩兵砲中隊 菅野嘉雄(仮名)一等兵陣中メモ『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 12/16「夕方より【捕虜】の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」 12/17「【捕虜】残部一万数千を銃殺に付す」※この部分の筆記をNNNドキュメントで放映 ●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆(実名)上等兵陣中日記『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』『南京事件』 12/18「昨夜までに殺した【捕リョ】は約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ」 12/19「揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし」
否定派が挙げる即決の軍事裁判を検証してみましょう。 >・ラーベの日記にも即決の軍事裁判が行われた事が記されている。 ラーベの日記 12月17日 『南京の真実』 P124 軍政部の向かいにある防空壕のそばには中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の軍事 裁判によって銃殺されたのだ。日本兵たちは町をかたづけはじめた。山西路広場から軍政部までは 道はすっかりきれいになっている。死体はいとも無造作に溝に投げこまれた。 先ず説明すべきはラーベの日記は1次史料ではありません。日記は1938年にラーベがドイツに帰国し た後に加筆されたもので、さらに出版の為に編集までされた2次史料で3等史料です。1996年に出版さ れました。現在では日記の検証が各所で行われ、数々の矛盾と誤認を指摘されています。また、日本 語訳に誤訳が多い事でも知られています。では「中国兵の死体が三十体転がっている。きのう、即決の 軍事裁判によって銃殺されたのだ。」という箇所のドイツ語原文はどうなっているのでしょうか。日本語訳 の「軍事裁判」では漠然としているので、軍事裁判の内、どのような裁判であったのか考察してみます。 30 Leichen von chinesischen Soldaten, die dort gestern standrechtlich erschossen wurden. 訳「(戒厳令下の)即決裁判により昨日そこで撃たれた支那兵30の死体。」 Standrecht+lich(〜の)は厳戒令の;(戒厳令下の)即決裁判による;ですが、この即決裁判には正式 な裁判という意味はありません。standrechtをドイツ語版のWikipediaで調べます。 Standrecht bezeichnet im Wehrrecht den Zustand, bei dem die von den zivilen Behörden ausgeübte Gerichtsbarkeit auf den höchsten Militärbefehlshaber übergeht, dem ein Kriegsgericht zur Seite steht, das so genannte Standgericht. 訳「シュタントレヒトは防御状態の呼称です。これにより当局によって取り締まる管轄権は軍の最高司令 官に権限が委ねられます。そして軍法会議という制度が設置されます。いわゆる即決裁判です。」 この文章は戒厳令の説明文ですが、前後の文脈によりStandrechtを即決裁判または即決軍法会議と訳 す場合がある事も確認できています。さて、ラーベはStandrechtと書いていますが、ドイツでの軍による 正式な裁判はMilitärgerichtsbarkeitになります。ラーベは日本大使館及び日本軍と接触していて、軍の 情報を得られる立場にあったのに、1938年以降に加筆されている日記においてもMilitärgerichtsbarkeit と書けなかったのです。ラーベはこの銃殺体がどの様な経緯で撃たれたのか知らなかったし、その後も 情報を得られなかったわけです。Standrechtは正式な裁判ではない即決裁判ですが、ドイツと違い日本 は即決裁判を行える軍の規則はありません。したがってラーベが(戒厳令下の)即決裁判と書いていたと しても、そのような制度がない日本軍が即決裁判をしている筈がなく、裁判が在った根拠になりません。
否定派が挙げる合法な処刑を検証してみましょう。 >・南京国際委員会の第37号文書第185件にも日本軍の処刑を「合法な処刑」と記載されている。 南京安全区委員会文書 「第三十七号文書」 『南京大残虐事件資料集 第2巻』 P114-115 第百八十五件 一月九日朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全区内の山西路にある中央庚款大廈の 真東にある池で、日本軍将校一名と日本兵一名が平服の一市民を虐殺するのを目撃した。 クレーガー氏とハッツ氏が現場に着いた時には、男は割れた氷がゆれ動く池の水に腰までつかって 立っていた。将校が命令を下すと、兵士は土嚢の後に伏せて、男に向けて発砲し、男の肩に弾丸が あたった。再度発砲したが弾は外れ、第三弾で男は死亡した(1)。(クレーガー、ハッツ) (1)われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあま りにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである。そのうえ、このようなやり方は、 われわれが日本大使館員たちと個人的に話し合ったさいに何回も言ったような問題をひきおこすので ある。つまり、安全区内の池で人を殺すことは池の水をだいなしにするし、そのため、地区内の人々に たいする給水量が大幅に減少するのである。このように乾燥が続いており、水道の復旧が遅れている さいに、これはきわめて重大なことである。市による水の配給は非常に手間どっている。(報告者注) 「平服の一市民を虐殺するのを目撃した」と書かれている事から軍律審判の判決による処刑と推測する 事はできますが、合法的な死刑執行としか書かれてなく、どこにも軍事裁判が行われていたとは書かれ ていません。合法としたのもクレーガーとハッツがそう感じただけで、両者とも死刑に至る経過を知りま せん。 また、この処刑が合法であった可能性はありません。軍律審判の判決による処刑であれば、中支那 方面軍軍律審判規則によって、検察官の指揮に依りその執行は憲兵が為す事とされていますが、男に 向けて発砲したのは兵士です。検察官(検察官は法務官の中から所管軍法会議長官によって任命される) を将校と見間違えたとしても、憲兵と憲兵以外の兵科は帽子が全く違い、憲兵の帽子は将校と似ている ので、この兵士が憲兵であった可能性はありません。検察官と憲兵それぞれ見間違えるとしたら将校二名 と思うか、将校一名と兵士一名のうち、将校が発砲したと思う筈です。つまり、この場に居た日本兵は検察 官と憲兵の二名ではなかった事になります。したがってこの処刑が合法であった可能性はありません。
南京事件初心者用FAQ @ 便衣兵とは何ですか? Ans.広義と狭義があります。広義は、一般市民と同じ私服・民族服などを着用した中国兵士(Wikipedia)で、 狭義は、抗日義勇軍・新四軍・遊撃隊のように当初からゲリラとして編成された部隊(偕行『証言による南京戦 史』)です。また、狭義の便衣兵は便衣隊・ゲリラ部隊と同義として使われ、広義の便衣兵はハーグ陸戦条約 4条件違反者という意味が内包されます。※このFAQでは広義の意味での便衣兵を使います。 A 便衣兵は捕虜になれないのですか? Ans.なれます。但し必ずなれるとは限りません。このような議論で否定派は立作太郎の『戦時国際法論』の 一節を引用します。「正規の兵力たるときは、是等の条件は、当然之を具備するものと思惟せらるるのである。 正規の兵力に属する者が、是等の条件を欠くときは、交戦者たるの特権を失ふに至るのである。」 どこに捕虜になれないと書いてあるのでしょうか。交戦者たるの特権を失うと書かれているだけです。交戦者 の特権とは捕虜として扱われる権利だけではなく様々な権利があります。特権を失うとは、ゲリラ戦に至った 場合、現行犯はその場で処刑されても仕方がない、間諜と間違えられても仕方がない、文民と間違われて 刑法犯とされても仕方がない、こういった場合に権利を主張できないという事です。また、捕らえた敵兵をいつ から捕虜とするかは指揮官の自由裁量ですから、4条件違反者であっても捕虜にして構いません。なぜなら 4条件違反者を捕虜とする事を禁止した条約・慣習法は存在しないからです。何れにしても立作太郎は便衣兵 を捕虜としてはならないとは言っていません。 簡単な例えで説明しましょう。正規の交戦者が着替えている最中に無抵抗で敵軍に捕らえられたとしましょう。 (戦場に居たのですから捕らえられずにその場で射殺される場合もあります。これは違法ではありません。今は 捕らえられた場合を考えてみます)この者は捕虜になれないのでしょうか。答えは「捕虜になれる」です。軍人が 軍装ではなかったり武器を携行していなかったといえども、これを罰する条約・慣習法は存在しません。4条件 違反者が害敵手段を採れば戦争犯罪になりますが、4条件違反者が戦場に居ただけでは犯罪になりません。 不審者として拘束される事はあっても即決処刑はできないのです。指揮官の裁量次第では捕虜にもなれます。 因みに、1929年ジュネーブ捕虜条約において、【第一条(俘虜の語義)本条約は第七編(或種非軍人に対する 条約の適用)の規定を害することなく左の者に適用せらるべし。(一)陸戦の法規慣例に関する千九百七年十月 十八日の「ヘーグ」条約付属規則第一条、第二条及第三条に掲ぐる一切の者にして敵に捕へられたる者】と されており正規兵又は之に準ずる非戦闘員であれば、捕えられた場合、捕虜としての扱いを受ける権利を持ち ます。日本は1929年ジュネーブ捕虜条約に署名をしていますが批准はしていません。しかし、南京戦時に国際 法上の捕虜の定義が確立されており、ハーグ陸戦条約を批准している以上、ハーグ条約でいうところの捕虜は 1929年ジュネーブ捕虜条約で定義された捕虜となります。したがって便衣兵であっても投降してきた場合や降伏 した場合は、戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束されるか、指揮官の裁量次第で捕虜になれます。
B 便衣兵を捕らえた場合は即決処刑(無裁判処刑)してよいのですか? Ans.いいえ。便衣兵は交戦者資格がないので即決処刑して構わないという解釈は、ハーグ陸戦条約に より否定されています。害敵手段・攻囲及砲撃の章で下記の禁止事項があります。この禁止事項は相手側 の交戦者資格有無に関係なく禁止されています。※ハーグ陸戦条約上は、交戦者資格無き者は捕虜にな れない、交戦者資格無き者は条約の規定から外れるとは一切書かれていません。 第二款 戦闘、第一章 害敵手段・攻囲及砲撃 第二十三条 特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外特ニ禁止スルモノ左ノ如シ ロ 敵国又ハ敵軍ニ属スル者ヲ背信ノ行為ヲ以テ殺傷スルコト ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト チ 対手当事国国民ノ権利及訴権ノ消滅、停止又ハ裁判上不受理ヲ宣言スルコト 便衣兵(交戦者資格無き者)であっても背信の行為を以って殺傷する事はできない。便衣兵であっても武器 を捨て投降してきた者を殺傷する事はできない。便衣兵であっても助命しないと宣言してはならない。便衣兵 であっても権利及び訴権を奪ってはならない。また、裁判を行わないと宣言してはならない。よって、捕らえた 便衣兵は戦時重罪犯として裁判が行われるまで拘束しなければなりません。 チの対手当事国国民には、民兵・義勇兵団を含む交戦者が含まれます。国民とは住民の意味であるという 解釈はできません。ハーグ陸戦条約では住民・人民と、国民を使い分けて記述されています。 対手当事国国民:the nationals of the hostile party 住民・人民:the inhabitants 陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約の前文に次の記述があります。「人民及び交戦者」。この部分の原文は、 the inhabitants and the belligerents となっています。では、ハーグ陸戦条約における国民とは何でしょうか。 国民が住民の意味であれば、チの項の原文はこうなっている筈です。the inhabitants of the hostile party しかし実際は違います。国民(nationals)=住民(inhabitants)+交戦者(belligerents)と考えるのが自然です。 因みに権利及訴権の原文は law the rights and actions ですから、訴権に限らず法的な行動全てを指します。 否定派は「捕獲した大量の便衣兵を裁判にかける事は能力的に不可能であった」と原剛も認めていると言い ますが、原剛は「だからといってこれが合法であったとは言い難い」と書いています。では、全員を裁判にかけ る必要があったのでしょうか。兵士は指揮官の指示に従っているだけなので、部隊に戦争犯罪行為があった としても兵士全員を裁判にかける必要性はなく、部隊を統率していた指揮官がその責任を負うのであり、通常 は指揮官のみの裁判で済みます。便衣兵全員を裁判にかける事は不可能であったから処刑したという理屈 は成立しないわけです。
C 便衣兵を捕らえた場合は本来どのように対処すべきだったのですか? Ans.便衣兵はハーグ陸戦条約の4条件違反者ですから、捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の 判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われるまでは拘束される事になります。裁判の種類は 中支那方面軍軍律審判規則第十条により、特設軍法会議になります。罪状は陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則 第一条違反となり、適用される法律は陸軍軍法会議法になります。罰則も陸軍軍法会議法に定められた規則 に依ります。この特設軍法会議は1938年1月初旬に設置されるのですが、この時に中支那方面軍と上海派遣 軍、第十軍の管轄区分を定めた「中支那方面軍に於ける各軍法会議の事務取扱に関する件」を松井軍司令 官が制定します。この規定によると「陸軍軍法会議法第一条乃至第三条及第六条記載の者に対する被告事 件を審判」する事になっており、第六条の記載にこう書かれています。「本条は、戦時又は事変に際し軍事上 の必要に基き第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如何なる犯罪であっても總て軍法会議に於て裁判 権を行ふことが出来得る旨を規定したるものである」つまり、自国の軍人に限らず、敵国軍人・軍属であっても 戦時におけるあらゆる犯罪を管轄する司法権限を有するという事です。 例外もあります。捕らえた者が軍人か民間人か判断できない場合(便衣兵嫌疑者)は、軍律審判で真偽を判 断するしかありません。間諜(スパイ)嫌疑者も、軍人か民間人か判断できない場合は同様に軍律審判で判断 するしかありません。軍人と判断されれば次は軍法会議での裁判となり、民間人と判断されれば釈放されます。 尚、占領地の住民の犯罪は中支那方面軍軍律により、軍律審判による行政処分を受ける事になります。 また、軍法会議により支那兵が死罰となったとしても、刑の執行は陸軍軍法会議法第五百二条により陸軍 大臣の命令がないと出来ません。 裁判の対象になるのは全ての便衣兵ではありません。捕らえた部隊全員が便衣であれば部隊の指揮官が その責任を問われ、軍服を着用した部隊にあって個々で便衣に着替えていた場合は個人に責任が問われま す。前者の場合、指揮官以外を捕虜とする事も出来ます。余談ですが南京戦時、国民党軍人・軍属のうち軍服 着用者は2割程しか居なかったと言われています。そもそも制服を支給されていなかったのです。したがって殆 どの場合、部隊の指揮官のみを裁判にかければ済む事になります。
D 安全区で捕らえた便衣兵は文民保護というハーグ条約の主旨に反しています。即決処刑は合法になりますか? Ans.なりません。ハーグ陸戦条約のどこにも兵民分離違反について書かれた条文はありません。否定派が条 約の主旨をまるで条文の如く吹聴しているだけです。これは否定派のダブルスタンダードで、ある時は条文に書か れていないから合法と言い、またある時は条文に無い条件を当てはめます。該当条文が無ければ、4条件違反 以外の違反行為はありません。但し国際慣習法としては問題があります。しかしゲリラ活動の為の潜伏ではない ので、安全区に潜伏していたのを発見されたとしても、正当防衛としてその場で射殺しない限りは通常の戦時重 罪犯として対処しなければなりません。実際に安全区内で捕らえられた便衣兵について、ゲリラ活動を示唆する 記録はありません。捕らえられた便衣兵に関してはどの記録を見ても武器を携行していないのです。ゲリラ活動 の記録も若干はありますが、それらの記述では「便衣隊」「ゲリラ部隊」とされており、ここでいう便衣兵とは別の 存在です。(掃討戦時に物陰から射撃された記録はありますが、射撃した兵はその場で殺害されており、射撃し た兵が便衣兵であったという記録はありません。掃討戦時に攻撃された例では兵を捕らえておらず、応戦してい ます。また、不意に手榴弾を投げられ、拘束兵が逃走を図った記録もありますが城外の出来事です。これらは戦 闘の延長ですので敵兵の殺傷は合法となります。しかし安全区で捕らえた兵が抵抗したという記録はありません。) 軍装を放棄し、便衣でいる事自体が害敵手段という見解は、この件には当てはまりせん。害敵手段とは戦争の 目的を達成する為に敵に対して行う暴力的または策略的行為ならば、安全区に逃げ込んだ便衣兵は戦争目的 達成に何ら寄与する事はなく、武装も放棄しているのですから、件の便衣兵に当てはめるのは無理があります。 また、文民保護の観点でいえば、否定派は防守地域であれば軍民無差別攻撃して構わない、南京を占領下に 置くまでは城内で兵民問わず何人殺害しても合法と言いますが、この論法こそ文民保護を無視しています。安全 区で捕らえられようが安全区外で捕らえられようが便衣兵への対処はAns.Cの様に実施されなければなりません。 E 捕らえた便衣兵は裁判後、処刑されたのですか? Ans.いいえ。裁判が行われた記録はありません。公式記録にないどころか、嘘を吐く事ができる証言でも裁判 に参加した者も見た者も居ません。南京戦に参加した兵の日記・メモ・手記の記述にも裁判に参加した者も見た 者も聞いた者も居ません。また、極東軍事裁判松井石根判決文に「このようにして、右のような捕虜三万人以上 が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった」とあります。 松井石根裁判での弁護側反証に以下の様なやりとりがあります。中山証人:安全地区内に一部の敗れた兵が 潜んでおりまして、しかも武器を持って潜んでおったのでありますから、これを探し出しまして、すなわち軍法会議 にかけて処断したという事はあるいはあったと思います。それを大袈裟に伝えられたものと思います。サトン検察 官:彼らが射殺される前に、軍法会議にまわされたのは幾人でありましたか。中山証人:数は覚えておりません。 この中山証人が本当の事を言っている保証はありませんし、実情を知っていたのか判りません。何れにしても 「あるいはあった」「覚えておりません」との証言から判るように推測で言っているだけです。そもそも城内で摘出さ れ刺射殺された兵は6670人であり、数が合いません。その後の判決でこの主張は一切認められなかったのです。
F 軍事的必要が在った場合は捕虜を殺害してよいとの学説がありますが南京戦時に適用できますか? Ans.適用できません。南京戦時に軍事的必要は国際慣習法として成立していませんでした。下記を参照下さい。 「いわゆる南京事件の不法殺害」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 『日中戦争再論』 2008年 P143-145 また、第一次世界大戦前後にドイツで唱えられた、軍事的必要 ( 危機 ) の場合、国際法規慣例の遵守よりも 軍事上の必要性が優先するという「戦数論(Kriegsrason)」を援用して、大量の捕虜・便衣兵の殺害は危機回避 のため正当であると主張する論もあるが、多くの国際法学者はこの「戦数論」に反対している。立作太郎もこれを 認めることは、「戦時法規の自殺に外ならぬ」と言い、さらにこの論は「交戦法規全般の拘束力を微弱ならしむる ものである。此説はドイツの一部の学者の唱道する所に止まり、国際慣習法上に於て認められたる所ではない のである」と論じている。南京占領時の日本軍は、当時の「戦闘詳報」・「陣中日誌」・将兵の日誌などを見る限り、 捕虜や便衣兵を殺害しなければならないほど、危機に瀕してはいなかったのである。したがって、たとえ軍事的 必要 ( 危機 ) 論が一部に認められていたとしても、この論は適用できないと言わざるを得ない。 『戦争法の基本問題』田岡良一 国際法学者 岩波書店 1944年 P122 従って「戦数は否定されていない」と主張する場合でも、それは必ずその正当化となる根拠を示した上で主張され なければならず、ここで否定された肯定論とても「緊急権」を根拠としているように、単に「戦数によって戦争法を 逸脱出来る(ことは否定されていない)」などと主張することは許されるべきではないと思う。 『国際法辞典』筒井若水 国際法学者 有斐閣 1998年 P72 クリークスレーゾン 独Kriegsrason 第一次大戦前に主としてドイツの学者によって唱えられた考え方であるが、戦争法はそうした必要を既に組み込ん だものであり、濫用を正当づけるための口実として使用されるおそれがあるとして批判が多い。 『現代戦争法規論』足立純夫 国際法学者(国際人道法) 元防衛大学教授 啓正社 1979年 P28 第1次及び第2次世界戦争を通じて、Kriegsraisonの主張及びその実行はしばしばドイツ軍により行われた。国際 法学者の大部分は既に第1次世界戦争以前からこの主義に反対している。 『オッペンハイム国際法論 第3版』ロナルド・F・ロクスバーグ 1920年 「投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない、第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵 に対して、第二は、敵の戦争法違反に対する報復として、第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容 すれば、彼らのために軍の行動の自由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合においてである」 南京戦前の第4版(1926年)では「第三は、緊急必要の場合において・・・」以降の部分は削除されています。つまり、 南京戦の時点で緊急必要の場合(軍事的必要)における助命拒否は国際慣習法として認められていなかったのです。
G 捕虜は戦時復仇の対象として殺害したと考えられますか? Ans.考えられません。戦時復仇は交戦相手に戦争法規を将来遵守させる目的に限り、戦争法規の禁止または 制限に反する措置を許されるというものです。国民党軍が南京から撤退している状況下では交戦相手に対し、戦争 法規を将来遵守させるという目的を失っています。交戦相手が復仇の措置を知りえない場合、復仇を行う事はでき ないのです。復仇自体は南京戦時に認められた行為であり、現代の国際法においても復仇として行われる行為の 違法性は阻却されますが、復仇に至る過程と復仇の手段及び範囲は理に適っていなければならないのです。 下記を参照下さい。 『現代国際法入門』エイクハースト・マランチェク 成文堂 1999年 P573 復仇は、国に戦争法の遵守を強制する、延いては実際上国際法一般の遵守を強制する主要な手段の1つであ る。 復仇は、通常は違法行為であるが、しかし復仇が向けられる国が行った先行違法行為より合法とされる行 為である。すなわち、それは、先行違法行為に対する一種の返報である。復仇は、他の救済手段(たとえば、抗 議および警告)が失敗に終わったときにはじめて使用される。 『戰争と國際法』立作太郎 国際法学者 東京外交時報社 1916年 P35-38 戰時復仇は戰時に於て行ふものであつて、敵國政府叉は軍隊の交戦法規違反の行爲叉は敵国私人の不正 なる敵對行爲に應じて、敵國、敵軍叉は敵人に対して加ふる所の惡報である。理論としては、敵をして將來に於 いて交戰法規を遵守せしめ、若くは不正の敵對行爲を行はざらしむる目的を以て、叉は敵の既に行ひたる交戰 法規違反の行爲、若くは其他の不正の敵對行爲の結果を復舊し、不正行爲を行へるものを處罰せしむる目的 を以て行ふべきものと為すのが、學者の唱ふる所であつて許多の學者は戰時復仇が交戰法規違反の救済の 手段としてのみ之を認むのであると稀するのである。(略) 交戰國の一方が交戰法規に違反せる場合に於て、他方の交戰國は交戰法規の遵守の義務を解除せらるる 者であるか否かは一の問題である。或る學者は一方の違反は他方の交戰者に對して、交戰法規を遵守するの 義務を解除すると爲すのである。(リユーダー・ホルツエンドルフ 國際法提要第四巻二五五頁)若し此の説が正 しいとすれば、復仇手段は對手國の違反行爲の救済の目的を以て之を行ふに限らずして、苟も對手國に交戰 法規の違反あれば此方も亦交戰法規違反の行爲を行ひ得ると爲さねばならぬ。併しながら假令對手國が違反 行爲を行ふも、直ちに此方の交戰法規遵守義務が解除せらるるのでは無くして、其の救済を求むるを得るに至 るのみであるとの説が最も有力なのである。(ウエストレーキ 國際法戰時一一四頁)此等の見地より見れば復仇 は對手國をして將來に於て交戰法規を遵守せしめ、若くは敵の己に行へる交戰法規違反の行爲の結果を復舊 せしむる目的を以て行ふべきものであると言はねばならぬ。
●を使って連続投稿か、工作員って本当にいるんだなw
47 :
< :2010/08/16(月) 20:58:18 ID:Z8j+E2ZP
>>26-43 論破され、木っ端微塵になったガラクタ自己解釈にすがり続ける肯定派♪クスクスクス・・・(・∀・)
オイラだったら恥ずかしくて、とても真似出来んワ・・・(笑
>交戦者資格無き者というだけで即決処刑してよいとは言ってない。
>不正規軍の適法な構成員資格を満たさない者の敵対行為は、違法と言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
>正規の兵力に属する者が四条件を欠くときは、交戦者の特権を失うと言ってるだけで即決処刑してよいとは言ってない。
>逃走する敵兵は投降したとは認められないので攻撃できるが、逃走する敵兵以外を攻撃してよいとは言ってない。
>戦時重罪犯であるだけで軍事裁判の手続きを省略できるとは言ってない。
>どの説も戦時重罪犯であるだけで即決処刑が可能とは言っていない。
>何れにしても立作太郎は便衣兵を捕虜としてはならないとは言っていません。
書いてない事を "禁止事項" へ勝手に脳内変換をしてのける "肯定派自己解釈" を何度でも粉砕する♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
48 :
< :2010/08/16(月) 20:59:53 ID:Z8j+E2ZP
まずは 【 前提 】 を戦時国際法の権威色摩力夫氏の著書から抜粋・・・(´・ω・`) 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P129』 ・・・ 【 前提@ 】 軍隊の活動が想定される地域には、原則として制限がありません。国際法から見て、地球上どこへ行って も活動することができます。何故なら、国外であっても国内であっても、外国との間に武力紛争が起これば、 自動的に「戦時国際法」が支配するからです。もはや、原則として「平時国際法」の言う主権侵害という問題 は起こりません。せいぜい政治的あるいは道義的な次元の侵略という問題がありうるだけです。 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P277』 ・・・ 【 前提A 】 現行の「戦時法規」の基本的な枠組みは、一九〇七年のハーグ陸戦法規と一九四九年のジュネーブ 四条約との二本の柱です。 ●前提@とAより、戦場において支配される法理は 【 戦時国際法 】 であり、1937年当時の南京戦にお いては、【 一九〇七年のハーグ陸戦法規 】 が適用法となる・・・(´・ω・`) では、具体的に軍隊と戦時国際法との関係を見てみる・・・(´・ω・`)
49 :
日出づる処の名無し :2010/08/16(月) 21:01:41 ID:iOMbFJN/
まずは、日本軍の犯行現場に行けよ。議論はそれからだ。 自分の足で行くことは大事だ。
50 :
< :2010/08/16(月) 21:02:21 ID:Z8j+E2ZP
軍隊と戦時国際法との関係は、下記戦時国際法の権威色摩力夫氏の見解が非常に重要になる・・・(´・ω・`) 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P126』 「軍隊」の権限は、「ネガ・リスト」方式で規定されます。ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、 これは禁止されるという項目が列挙されたものです。つまり、「原則自由」、「原則無制限」であって、例外 的に制限されることがあるという考え方です。そして、この場合、制限とか禁止にあたる制限的な否定項目 は、主として国際法による規制です。 もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠 牲者保護のルールです。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。それでは、何故、軍隊 の権限は原則無制限かというと、これは軍隊の本質から当然導かれてくるものです。 軍隊は軍事上の必要に応じて、未知のよその土地に出かけて行って活動せねばならないことがあります。 また、自国内で侵略に対する自衛のための武力行使であっても、平時の法秩序がいつの間にか一時停止 に陥り、それが戦時の法秩序に置きかえられてしまいます。従って、いずれにせよ、平時の国内法でがんじ がらめに拘束されていない組織でないとものの用に立ちません。どこでも通用する権限を当然に持っていて、 軍事的必要に応じて柔軟に情勢判断により、それに対処できるものでなくてはなりません。それは、つまり 軍隊です。それ以外にあり得ません。 他方「警察」の権限は、「ポジ・リスト」方式によって規制されます。ポジ・リストとは、してよいこと、しなければ ならないことが列挙されたリストです。つまり、「原則制限」の考え方です。 ●【 軍隊 】 とは、【 ネガ・リスト方式で規定される 】 のであり、即ち、戦時国際法及びこれを補完的に 規制している国内法に 【 これだけはしてはいけない、これは禁止されるという項目 】 でない限りは、 【【【 「原則自由」・「原則無制限」 】】】 である・・・(´・ω・`)
51 :
< :2010/08/16(月) 21:07:56 ID:yvQRcLwo
軍隊が 【 ネガ・リスト方式で規定される 】 事は非常に重要であり、繰り返し記載されている・・・(´・ω・`) 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P144』 軍隊の権限規定は、「ネガ・リスト」方式ですから、原則無制限です。国際法で明示的に禁止されていない限り、 法的には何でもできる筈です。軍事的必要に応じて、刻々変化する客観的情勢に応じて、いかようにも対処で きる筈です。そうでなくては、軍隊の態をなしません。役に立ちません。ひょっとすると無用の長物となってしまい ます。法的に明示的に認められていない限り何もできないのであれば、それは警察であって軍隊ではないので す。 ●軍隊の権限は、【 国際法で明示的に禁止されていない限り、法的には何でもできる筈です。】 とまで明言 している。戦場において国際法上に明記が全く無い "戦争犯罪者をわざわざ裁判にかけなければならない" とするチン論は、戦時国際法の権威から判断すれば、正に笑止千万と言ったところだろう・・・(´・ω・`) 肯定派がノイローゼの如くコピペ繰り返している "〜即決処刑してよいとは言ってない" 等という自己解釈は、 戦時国際法の権威から見れば、失笑物のチン解釈でしかないのだ・・・(´・ω・`) ●また、【 法的に明示的に認められていない限り何もできないのであれば、それは警察であって軍隊ではない のです。】 を見ても判る通り、池沼中間派の自己解釈は 【 軍隊 】 と 【 警察 】 の区別がついていない 惨めな "" 勘違い "" だと言えるだろう・・・(笑
52 :
< :2010/08/16(月) 21:08:39 ID:yvQRcLwo
更に下記は国際法違反の有無を解釈する上で非常に重要な見解だろう・・・(´・ω・`) 『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P228』 条約の解釈に疑義が生じたとき、その疑義を解いて事案の解決をはかるとき、何を基準にするかという問題 があります。即ち、条約の解釈の基準は何かということです。これは、まことに単純明快に答えることができます。 条約の解釈の基準は、ずばり、「立法者の意思」なのです。立法者というのは、二国間条約の場合であれば、 その条約の両締約国です。多数国間条約であれば、その条約すべての締約国です。いずれにせよ複数です。 もし、両締約国の間に意思のくい違いがあれば、国際紛争が生じます。それから先は国際紛争解決の手段に 訴える他ありません。いずれにせよ、立法者の意思がオールマイティなのです。ここのところが重要なポイント です。 疑わしきは「主権」に有利に解釈されなければなりません。 条約の解釈も、慣習法の解釈も、いずれにせよ疑義が生じた場合は、前項で述べたように、その直接の当事者 となった主権国家が行う解釈は十分に尊重しなければいけません。どちらとも解釈し得る場合でも、当事国が主 張する限度において、それに有利な解釈の方に軍配をあげざるを得ません。 ●日本政府は今日に至るまで "便衣兵や支那拘束兵の殺害が違法であった" 等とは一言も主張していない。 ●即ち、池沼中間派が自己解釈してる "裁判を行わずに殺害したから虐殺だ" は、日本政府が公式に違法性 を認めた発言が無い限り存在し得ない解釈であり、単なる池沼の "思い込み" でしかない・・・(´・ω・`)
53 :
< :2010/08/16(月) 21:11:55 ID:yvQRcLwo
最後に、"捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われ
るまでは拘束される事になる" とのナマポ自己解釈が国際慣習法上でも存在しなかった事を確認する・・・(´・ω・`)
【 リーバー法:『国際人道法』 有信堂 藤田久一著作、P13 】 ※グースさん、お借りします・・・(´・ω・`)∩
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/page006.html 「パルチザンは武装し彼らの軍隊の制服を着用する兵士であるが、敵占領地域に侵入するため主要部隊から離
れて行動する部隊に属する。彼らはもし捕えられれば捕虜のすべての特権の資格を有する」(81条)としつつ、委
任も受けず組織された敵軍に属さずまた戦争に継続的に参加するのでもなくしかもさまざまの方法で敵対行為を行
うものまたはその分隊は「公の敵ではなく、それゆえ捕えられれば、捕虜の特殊な資格を有せず、公道での盗賊ま
たは海賊として即決処分されねばならない」(82条)とした。
●上記にある『委任も受けずに組織されたパルチザン』は、正にのちに言う『戦争犯罪者』の事であり、その者に
対しては即決処分を認めている・・・(´・ω・`)
●ちなみにこの『即決処分』に裁判的な意味合いを含まない事は、下記法令からも確認できる・・・(´・ω・`)
『違警罪即決例 1885(明治18)年9月24日公布(太政官布告第31号)』
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ikeizaisokketurei.htm 第2条 即決は裁判の正式を用いず被告人の陳述を聴き証憑を取調べ直ちに其言渡を為すべし
このリーバー法に対しては、国際法学者信夫氏は 【 非常に高く評価 】 している事も記しておく・・・(´・ω・`)
『戦時国際法提要(上)信夫淳平著 P353』
その規定事項は当時にありて戦時国際法上の一般周認の陸戦関係の重要な諸原則を網羅して漏らさず・・・
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
以上より、"捕らえた戦争犯罪者は裁判が行われるまで拘束される" などとする自己解釈に正当性は全く無い
と言えるだろう・・・(´・ω・`)
54 :
< :2010/08/16(月) 21:22:44 ID:yvQRcLwo
>>47 >>48 >>50 >>51 >>52 >>53 完全沈黙し、反論できないクセに "木っ端微塵になった残骸コピペ" にすがり続ける哀れな肯定派♪・・・(・∀・)
無駄で無意味で無益の集大成だったオマエの人生そのものだよな♪・・・(・∀・)
他の肯定派ですらドン引きしてしまうお粗末な自己解釈のオンパレード♪・・・(・∀・)
まだ生きてたんかよ???♪・・・(・∀・)
さっさと自殺しちゃえよ♪・・・・プププププププm9(^Д^)プギャーー
>>49 場所もわからないのに行けるわけ無いだろw
中国人の行っていることが本当なら、どうして数十万人の死体が出ないんだ?w
結局、民間人の虐殺はなかったってことでいいのかねぇ?w
兵士がどうのこうのという程度のことしか出せないってことかねぇ?w
それも違法であることが全く証明できないレベルでw
56 :
< :2010/08/16(月) 21:24:53 ID:yvQRcLwo
精神が病んだ肯定派がスルーし続けている質問をまとめて曝しアゲ♪ニヤニヤ・・・(・∀・) 【スルー@】:捕らえた戦争犯罪者は裁判にかけなければならないとする戦時国際法の提示をヨロ♪・・・(・∀・) 【スルーA】:"投降してない事が害敵手段" に該当するのに、何故、"投降せずに、逃亡・潜伏する事は害敵手 段とは言えない" のですか?♪・・・(・∀・) 380:> "害敵手段は行ってないが、投降してこなかった 《 便衣兵 》 " は、一体どうなるのですか? 投降してこない事が害敵手段だろアホw ↓↑ 299:安全区に逃げ込んだ丸腰の便衣兵は自軍への合流目的ではなく、退路を絶たれた為の逃亡・潜伏であ るから戦争の目的達成に何ら寄与していません。したがってこの逃亡・潜伏は害敵手段とは言えません。 【スルーB】:陸軍軍法会議法条文の中に、捕らえた戦争犯罪者は裁判にかけなければならないとする条文の提示をヨロ♪ 627:>陸軍刑法も軍律も関係が無いのなら、便衣兵処刑及び捕虜殺害は "国内法違反" ではないでOKだよな♪ 陸軍軍法会議法違反なので国内法違反だなw 【スルーC】:スイス『民間防衛』を引用したと言う事は、便衣兵は "平服またはにせの軍服を着用した破壊工作者" という ことでOKなんだよな♪・・・(・∀・)
57 :
< :2010/08/16(月) 22:22:29 ID:yvQRcLwo
58 :
< :2010/08/16(月) 22:24:20 ID:yvQRcLwo
精神が崩壊してる事も自覚できないナマポ中間派し質問♪・・・(・∀・)∩
>>26-43 ← いつまでこのぶっ壊れた自己解釈にすがり続けるの?♪・・・(・∀・)
59 :
< :2010/08/17(火) 00:04:26 ID:sjDdoaA3
>>26-43 自分の過去レスでトドメを刺してた事にまだ気付かないのか?馬鹿中間派♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
チン論貴公子吉田の情報伝聞で 【 色摩力夫氏 】 の名前を出した事がトドメになってたのさ♪・・・(・∀・)
チン論貴公子吉田が引用するほど肯定派にとって都合の良い解釈を色摩力夫氏が提示したというのに、
肯定派のソースには全く色摩力夫氏の見解文が引用されていない。それが不思議で直接本を読んで
確かめたのさ♪・・・(・∀・)
そしたらまぁ、オマエのチン解釈にトドメを刺すどころか憲法九条信者のチン論を 【 パシフィズム 】 と軽
蔑する見解まで載ってたw これじゃあ肯定派は引用出来んワナ・・・(笑
オマエ、色摩力夫氏の著書を持ってるんだろうが♪だからとっくに知ってたろうがwwwwwwww
完全論破されたコピペをまだ貼るの???まだ貼るの???まだ貼るの???まだ貼るの???w
論破されたコピペを貼り続けて恥ずかしくねーの?オマエ???wwwwwwwwww
koueiと一緒じゃん♪wwwwwwwwwww 喧嘩なんかせずに似たもの同士で仲良くやれよ♪wwwwwwwwww
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
60 :
< :2010/08/17(火) 00:08:32 ID:sjDdoaA3
オイラの次のターゲットは、南京戦に関してはチン論を極めた秦の著書・・・(笑 あの馬鹿が何を書いたのか確認してやるよ♪・・・(・∀・)
61 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 00:14:02 ID:dRuH4CtV
中間派ボロボロwワロタw
前スレの纏め 城塁はK-Kがソースとしたけど2次資料3次資料だw
>>51 >●軍隊の権限は、【 国際法で明示的に禁止されていない限り、法的には何でもできる筈です。】 とまで明言
> している。戦場において国際法上に明記が全く無い "戦争犯罪者をわざわざ裁判にかけなければならない"
> とするチン論は、戦時国際法の権威から判断すれば、正に笑止千万と言ったところだろう・・・(´・ω・`)
はい、ここが間違いw "戦争犯罪者をわざわざ裁判にかけなければならない"という条文は無いが、ハーグ陸戦条約に
第一條 締約國ハ其ノ陸軍軍隊ニ對シ本條約ニ附屬スル陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則ニ適合スル訓令ヲ發スヘシ
と書かれており、これに基づき中支那方面軍軍律が定められ、その中支那方面軍軍律審判規則により、
第十条 本令に別段の定めなき事項は陸軍軍法会議中特設軍法会議に関する規定に依る
と明記され、この条文に基づき「中支那方面軍に於ける各軍法会議の事務取扱に関する件」を松井軍司令官が制定している。
この規定に「陸軍軍法会議法第一条乃至第三条及第六条記載の者に対する被告事件を審判」する事になっており、第六条
にこう書かれている。「本条は、戦時又は事変に際し軍事上の必要に基き第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如何
なる犯罪であっても總て軍法会議に於て裁判権を行ふことが出来得る旨を規定したるものである」と。戦時国際法により
国内法での裁判に導かれるます。この事は馬鹿が引用した文章にも書かれている。
“ もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠牲者保護のルール
です。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。”
としっかり書かれてますね。自爆乙w そもそも犯罪者を裁判によって罰する事は文明国が認めた法の一般原則であるから
戦時国際法以前に国際法の根幹を成すものである。これが法治国家の原則であり当時から日本は法治国家だった。
都合が悪くなると法の大原則をすっ飛ばし、具体的な条文がハーグ陸戦条約に無いからとそんな決まりはないと言い張るw
条約ってのは国と国との約束事であって、その約束事に合わせて国内の規則を定めるんだけどw そんな事も知らないの?
さらにミスリードを暴く。色摩力夫はこう書いている。 “ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、これは禁止されるという項目が列挙されたものです。つまり、「原則自由」、 「原則無制限」であって、例外的に制限されることがあるという考え方です。そして、この場合、制限とか禁止に あたる制限的な 否定項目は、主として国際法による規制です。” つまり裁判をしてはならないと書かれてない限り、文明国が認めた法の一般原則に基づき、犯罪者の裁判は必須という事。 ハーグ陸戦条約のどこに裁判をしてはならないと書かれてるんですかねw 戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、 してよいこと、しなければならないことであり、「原則制限」の考え方で警察。馬鹿だから頭の中で逆になったんだな。自分で 戦争犯罪者をわざわざ裁判に“かけなければならない”と書いておきながら、これだけはしてはいけない、これは禁止されるという 項目である「原則自由」「原則無制限」の方に入れてしまうんだからw
>>53 >最後に、"捕らえた場合は戦時重罪犯として軍事裁判の判決により処するのが本来の手順でした。裁判が行われ
>るまでは拘束される事になる" とのナマポ自己解釈が国際慣習法上でも存在しなかった事を確認する・・・(´・ω・`)
>
> 【 リーバー法:『国際人道法』 有信堂 藤田久一著作、P13 】
アメリカの国内法ですがwww どこが国際慣習法なんだよw そんなに無知晒すのが楽しいんですかw
> 『戦時国際法提要(上)信夫淳平著 P353』
> その規定事項は当時にありて戦時国際法上の一般周認の陸戦関係の重要な諸原則を網羅して漏らさず・・・
それは原則を網羅しているからだろ。信夫淳平は戦時犯罪者の現行犯逮捕時以外でも交戦者を捕らえた場合は
即決処刑してよいと言ってるのかよ。どこで信夫がそんな事言ってるの?ソースプリーズ。
>>54 >完全沈黙し、反論できないクセに "木っ端微塵になった残骸コピペ" にすがり続ける哀れな肯定派♪・・・(・∀・)
>無駄で無意味で無益の集大成だったオマエの人生そのものだよな♪・・・(・∀・)
どの辺が論破されてるわけ? お前の妄想だろw 前レスでお前の妄想ミスリードが暴かれてるぞw 妄想で精神を
安定させてるのかw
>>56 横レスだが
@:愚問。前レスで論破済み。裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
A:退路を絶たれた為の逃亡・潜伏(しかも武装を放棄している)と戦術的に投降してこない事は全く別。その設問だけで違うと判るけどw
B:愚問。しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
C:リンク先ぐらい貼れよ馬鹿。その文を引用した前後の文脈見なきゃ判るわけねーだろw
>>57 >そもそも内藤氏の定義に忠実に分類すれば、ラーベ日記は「一等史料」にあたり、ドイツに帰国して加筆された部分が「二等史料」となるはずである。
それを出版の為に第三者が編集したら三等史料ですがw 編集時にラーベは他界しておりラーベは出版された本の校正をしていない。
ラーベが加筆修正し続けた日記と記述が同じかどうかさえ判らないw
内藤智秀氏「史学概論」
一等史料は、史実の発生当時、同所において責任者が自ら作成した文書類で、例えば当該責任者の日記・書簡・覚書の類の
如きはこの中に入るのである。
二等史料は、史実発生当時の同所に、最も近き場所、最も近き時、又は同じ場所で時間が幾分異なるもの、又は時が同じで、
場所が幾分異なる所で、責任者が自ら作り上げた報告とか、日記・遺言・覚書・追記類の如きもの、ないしは後日に作り上げた
日記とか、随筆類の如きがこの中に入るのである。例えば当事者が後日、暇を得て作成した文書類などがそれである。
三等史料は、前の一、二等史料を材料として作成した伝記とか、家譜の如きがその中に入るのである。もちろん、この場合人物
も年代も場所も違っているのであるが、編纂の方法が正確である限り、これは三等史料というべきであろう。
では否定派に質問です。現在世の中で『ラーベの日記』として知られている出版物は何等に分類されるでしょうかwww
ついでに肯定派テンプレが何故か足りないので補完しときます。
H 捕虜と俘虜の違いは何ですか? Ans.戦前は捕らえた者を総称して捕虜と呼んでいました。捕虜のうち、公式に扱われる者は俘虜と呼ばれます。 また、「戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という」(秋月達郎)とする解 釈もあります。戦後は俘虜という言葉が使われなくなった為、従来の意味の俘虜であっても捕虜と記される事が多 くなっています。戦前の捕虜と俘虜の使い分けの例が下記文章です。 飯沼守少将日記(上海派遣軍参謀課長) 1937年10月9日 『南京戦史資料集』 P142 歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追踉する夜襲)“俘虜”を作る如くす敵動揺の兆あるに乗し来る者は“捕虜”と すへし、彼等は日本軍に捕らわれは殺さると宣伝しあり之を是正すること 尚、南京戦2ヶ月前に俘虜の扱いに関する訓令が発せられていました。 戦闘二関スル教示 上海派遣軍第十三師団司令部 1937年10月9日 『南京虐殺の徹底検証』 P93,94 11、俘虜ノ取扱二就テ 多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スル ラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍 ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人 員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。 しかし支那事変は日本側・国民党側双方とも、戦争ではなく地域紛争であるという立場を採っていた為、上記の訓 令が発せられた後、俘虜の名称を努めて避ける様、下記の通達が出されました。厳密に言えば、戦争ではないの で俘虜という名称は使えなかったわけです。 交戦法規ノ適用二関スル件 次官通牒陸支密第一七七二号 1937年11月4日 『南京戦史』 P339 日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品、“俘虜”等ノ名称ノ使用或ハ軍 自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言 動)ハ努メテ之ヲ避ケ これらの経緯は、南京事件の史料を読み解く上で知識として頭の片隅に置いておかれる事をお勧めします。
まとめ 南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。それでも 犠牲者が3万人を越える事はないでしょう。3万人以下とはいえ、これだけの人数を無裁判で処刑すれば虐殺 と呼ばれても仕方がありません。 しかし否定派は当時は他国の軍隊も捕虜を無裁判で処刑していたと反論をします。他国もやっていたとすれ ばその国も虐殺をしていた事になるだけで、他国もやっているからいいという事にはなりません。対手国が戦争 法規を無視してるとしても文明国である日本は遵守義務があるのです。単なる手続き上のミスである、処断が 処刑とは限らないという反論に至っては愚の骨頂というしかありません。もはや否定派の反論は肯定派の主張 を歪曲するか、肯定派を十派一絡げにし、市民大量殺害の記録は無いから南京事件は無かったと言い張るし かないのです。そうしなければ中間派(中・小虐殺派)に言い返す言葉が無いからです。市民にも相当の犠牲が あったでしょうが戦争である以上、市民の犠牲者は出ます。しかし組織的に市民を殺害した証拠はないので市 民殺害を以って南京事件の本質とする理由がありません。肯定派でも市民大量殺害説を唱える者は少数です。 否定派は存在しない大虐殺肯定派に対しシャドウボクシングをしているのです。また、広島・長崎への原爆投下、 都市への空襲の方がはるかに残虐であり大犯罪と言いいます。これには同意しますが、だからと言って南京で 日本軍が犯した犯罪が相殺されるわけではありません。戦争犯罪はどれも酷く、南京事件もその中の一つです。 前掲した様に、否定派がいくら無裁判処刑を合法化しようと試みても、学者・有識者の見解はことごとく裁判は 必須との事です。もはや無裁判処刑合法論は破綻し、この期に及んで合法論を唱える者は無教養と言わざるを 得ません。追い込まれた否定派の中には裁判が在ったと主張する者も居ます。裁判が在ったとする根拠は、無 裁判で処刑された証拠が無いからと主張する有り様です。処刑の記録があり、その処刑に対しての裁判記録・ 証言が無いのだから自明なのですが決して認めません。およそ論理的とは言えない主張です。或いは詭弁と知 りながら言っているのです。 別の観点から見れば、否定派は信じたい事以外は認めない思考停止状態に陥っていると言えます。その傾向 は無裁判処刑合法論以外でも、証言についての反応で見られます。例えば処刑を見たという証言は検証できない と言い、処刑など見た事もないという証言は無条件で信じます。当たり前の話です。処刑は城外で行われました。 城内に居た者は見れる訳がありません。また、処刑の場に立ち会った者は日本軍の中でも僅かであろう事も付け 加えておきます。処刑を見た者と見なかった者、相反する立場が共存していても矛盾しません。 他にも、陥落直後に城内で飲食店や露店が営業していたから南京は平和であった、だから虐殺など在り得ない と言います。しかしこれも城外での処刑が無かった証拠にはなりません。このように否定派の主張は全く非論理的 であり、2択にならない条件を2択に誘導し、虐殺は無かったと詭弁を使います。証言は証拠にならないというの なら、一切の証言を無視すべきです。持論に都合のいい証言は信じ、そうでないものは切り捨てるといった手法 では、その史実探求に誠実さは望めません。日本が過去において過ちを犯したと思いたくないのは判りますが、 史実の探求に感情論を持ち込んではいけません。
>>69 >他国もやっているからいいという事にはなりません
やっていない他国って何処ですか?自分がやったことを棚に上げるなんて下劣すぎますよねw
72 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 10:05:45 ID:dRuH4CtV
「しなければならない」は警察というのなら、「裁判にかけなければならない」も警察なのでは?
>>69 >南京事件とは捕虜の無裁判大量処刑です。敵拘束兵の処刑記録は探せばいくらでも出てきます。
交戦中の敵兵が犯罪を犯してもそれは日本軍には何の関係もありません。
投降も降服もしていない敵兵は、正規兵だろうが便衣兵だろうが単なる交戦中の敵兵です。
「交戦中の敵兵を攻撃してはならない」などという法律はありません。
「攻撃してはならない敵兵」は投降・降服した場合のみ。
しかし白旗を挙げ両手を上げて出てきてもそれだけでは捕虜になれません。
降服を受け入れるかどうかは日本軍が判断します。
受け入れないと判断すれば攻撃は続行されます。
仮に受け入れたとしても、武器を隠し持っていたり、指示や命令に従わなかったり、反抗、逃亡を図れば射殺されます。
「捕虜の無裁判大量処刑」=「交戦中ではなかった」=「投降・降服が受け入れられていた根拠」をお願いします。
「敵拘束兵の処刑記録」=武器を隠し持っていたり、指示や命令に従わなかったり、反抗、逃亡を図った記録がありますが?
74 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 12:11:51 ID:/Ac9JISW
で、右翼って、いまだに日本軍兵士の犯行現場分からないの? 日本語読めないのかな?都合の悪いことをスルーしているだけか。
75 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 12:19:07 ID:hMmfxbiX
サリンの散布現場を自分が見てないから、 サリン事件はなかったと言ったいるようなもんだ。
76 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 12:34:04 ID:IGfEphm1
まあ、オウム信者はいまだに麻原は無罪だと信じている。 それと同じだろ。
77 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 12:54:08 ID:j09lo8No
犯行現場は南京だけと思っているのか? 日帝はアジア全体で一千七百万もの人を虐殺してるんだぞ。
78 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 12:59:45 ID:dRuH4CtV
何故か肯定派の皆さんが必死のようですがw 肯定派の皆さんには最大の捕虜殺害事件といわれる幕府山事件の犯行現場を特定して頂きたいのですが?w 出来ないのですか?w
>>73 >「捕虜の無裁判大量処刑」=「交戦中ではなかった」=「投降・降服が受け入れられていた根拠」をお願いします。
各部隊で投降を受け入れ、さらに指揮官自身が捕虜として認識していた根拠が
>>34-35 にありますがw
>「敵拘束兵の処刑記録」=武器を隠し持っていたり、指示や命令に従わなかったり、反抗、逃亡を図った記録がありますが?
数例しかないじゃん。南京での全ての敵拘束兵殺害は、反乱・逃亡が原因であったと一次史料で証明してみろよw
80 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 13:05:51 ID:dRuH4CtV
ずい分必死ですねwもう少し冷静になられては?
>>79 数例有れば十分ですね、他の中国兵も反乱を超すだろうって疑う根拠
起こされてからじゃ遅いからなw
82 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 13:26:54 ID:dRuH4CtV
「裁判してはいけない」と書いてなければ「裁判は必須」になるのですか?wwww ご自分で書いてておかしいと思わないのですか?w
>>79 >各部隊で投降を受け入れ、さらに指揮官自身が捕虜として認識していた根拠が
>>34-35 にありますがw
南京城内に護送され収容された投降兵7,200人の事しか書いてありませんが?
>34
>○第16師団第30旅団長 佐々木倒一少将私記 『南京戦史資料集T』
>○第16師団長 中島今朝吾中将日記 『南京戦史資料集T』
>△第16師団佐々木支隊所属独立攻城重砲兵第2大隊 沢田正久中尉証言
>※仙鶴門鎮付近(堯化門附近)の投降兵7,200人は南京城内に護送され収容されましたが、残りの捕虜はこの様になりました。
>●第16師団歩兵第33連隊戦闘詳報 『南京戦史』
戦闘詳報と称するシロモノであり、真贋不明の怪文書でしかありませんが?
南京戦史
『戦況の進捗状況とチグハグ』『了解し難い部分』『その表現は極めて異様である』
板倉由明氏
「Tが戦闘詳報に、自分の聯隊の武勇伝を創作して書き込んだものとしか思えない。」
「この戦闘詳報が信頼性の低い、後日改ざんされた疑いのある文書なのである。」
東中野修道氏
「つまり、処刑命令なるものは阿羅氏も消去法で推定するように、第一大隊戦闘詳報執筆者の創作であった。これが唯一考えられる可能性のように思われる。」
>>83 でありながら
>数例しかないじゃん
と、自分の主張では全ての事件で反乱があったとしないといけないという。民主党政権並みに身勝手だよなぁ
>>79 >35
虐殺を実行したはずの第4中隊小宅伊三郎曹長の証言
『「南京虐殺」の徹底検証』P108
『戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。』
>○第13師団山田支隊長(第103旅団) 山田栴二少将日記 『南京戦史資料集U』
>○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
日本軍に死者が出ていますので、反抗した捕虜を鎮圧しただけですね。
それとも「反抗した捕虜を鎮圧するのは違法」という主張ですか?
>●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第4中隊 宮本省吾(仮名)少尉陣中日記 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
>●第13師団第103旅団歩兵第65連隊歩兵砲中隊 菅野嘉雄(仮名)一等兵陣中メモ『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』
>●第13師団第103旅団歩兵第65連隊第7中隊 大寺隆(実名)上等兵陣中日記『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』『南京事件』
執筆者の氏名どころか実在さえ不明な架空戦記が証拠ですかw
実名であっても発言及び記述が虚偽であった例などいくらでもありますが?つ>2
脳内妄想をいくら事実と言い張っても説得力などありませんがw
>>84 確かにw
>79名前: 日出づる処の名無し [sage] 投稿日: 2010/08/17(火) 13:00:35 ID:2tpF3zXL
>数例しかないじゃん。南京での全ての敵拘束兵殺害は、反乱・逃亡が原因であったと一次史料で証明してみろよw
ID:2tpF3zXLも自分でこう主張していますし、やはりここはID:2tpF3zXLご自身で
『南京での全ての敵拘束兵は、各部隊で投降を受け入れ、さらに指揮官自身が捕虜として認識していた』と一次史料で証明してもらいましょうw
つくづく肯定派は『他人に要求する事は相手も要求できる』という事が理解できていないようでw
87 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 18:48:14 ID:ZnhpfbPh
不勉強なので教えて欲しいんだけど、 「南京事件があったことは認める。でも謝る必要はない」 というような主張をしてる人っていますか。
88 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 19:06:44 ID:iaBUQTmi
>>87 その南京事件自体が曖昧なんで本当は何があったのかこうして議論してるわけで。
謝罪云々は事実が明らかになってからの話。
君が南京事件について真実を知ってるのならば是非教えてくれたまえ。
89 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 19:12:54 ID:ZnhpfbPh
俺は何も知らんよw 仮に○万人殺してたとしても、当時の世界情勢から見て、 とくに悪いことじゃない、的な文脈での議論っていうのは無いのかな、と思っただけです。 保守論壇で言われてそうな気がするんだけど。
内容の問題じゃないかねぇ。 単純に、何万人殺そうが「合法的ならば」文句の言われる筋合いはない、って感じか。 人道的に問題あるかもしれないけどねぇ、その辺はもはや感情論。 たとえば、戦闘中に「兵士」を殺したのであれば、別に問題はないはず。 その辺を難癖つけて違法だったとか言う奴は居るんだけどねぇ。 もちろん肯定派に。 ただし、違法だったという証拠は今のところ一つとして出されていない。 ま、肯定派は「合法だった証拠を示せ、無いから違法だ」と言うトンデモ理論を出してくるけどな。 少なくとも何があったか、資料があまりにも少なすぎてわからない。 事実がわからない以上、わからないことに対して今の時点で謝る必要はない、ということか。 もちろん南京大虐殺が事実であると証明されたのならば別だけどね。 「誰がいつどこでどのように殺害したか」わからないのに、勝手に他人が謝罪しても意味がないと思うんだよなぁ。 えん罪だったらどう責任とるのかねぇ?
91 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 19:36:34 ID:iaBUQTmi
>>89 仮定の話をしてもしょうがない。
戦闘で兵士が死ぬ事だってあるだろう。
ただ、そこに不法行為があったのならば、きちんと事実を明らかにする必要はある。
君の言うような単純思考の人間はここにはいないよ。
92 :
日出づる処の名無し :2010/08/17(火) 19:45:30 ID:gDAgKpnd
うんこ
肯定派
94 :
< :2010/08/17(火) 20:02:36 ID:sjDdoaA3
>>63-66 この池沼中間派は、逆上すると "自分のレス" と "相手のレス" の見分けがつかなくなるパニック症状に陥いる事は
前スレの戦闘詳報関連レスでも確認済み・・・(笑 病気だから仕方ないんだよな・・・(笑笑笑笑
オマエの精神状態が議論に耐えられるものか、再確認させてもらうワ♪・・・(・∀・)
>>65 :@:愚問。前レスで論破済み。裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
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↑ ↑ ↑ ↑
●【1回目】:前スレの一体どこにこんなレスを書いてたん?♪・・・(・∀・) レス番挙げてみ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1279548194/ さっさと書けよ♪何度でも聞くぜ♪どのレスで書いてたん?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
幻覚でも見てたんか?♪それとも悔しくて悔しくて悔しくてウソ付いたんか?♪・・・(・∀・)
こんなウソついて恥ずかしくねぇの?オマエ?・・・・プププププププププm9(^Д^)プギャーー
オマエのチン解釈は片端から虱潰しにしてやるよ♪まずはこれからいくど〜〜〜〜♪・・・(・∀・)∩
★まずは池沼のレスを曝し上げ♪・・・(・∀・)
>>64 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、「原則制限」の考え方で警察
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
●【質問】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は 【【【 裁判にかけなければならない 】】】 ← 『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
全部虱潰しにしてやるが、オマエがお望みのものがあれば先にレスしてやるぜ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
95 :
< :2010/08/17(火) 20:29:44 ID:sjDdoaA3
だらだら全部書いてもしょーがないから、残りは後な♪・・・(・∀・) オマエの大発狂を楽しみにしてるぜ♪・・・(・∀・)
96 :
< :2010/08/17(火) 21:33:26 ID:sjDdoaA3
>>94 >>65 :@:愚問。前レスで論破済み。裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
↑ ↑ ↑ ↑
●このスレ中の前レスにあるのなら尚の事レス番頼むワ。どこにあるんだよ・・・(笑
無残な自己解釈のオンパレードだが、オマエの脳内では中支那方面軍≪軍律≫が国内法と解釈されてたんか?・・・(笑笑笑
“ もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠牲者保護のルール
です。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。”
丸MARU 1989年7月号 通算516号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第7回 ?P198 若き分隊長の不安 南京攻略命令が下ったとき、宇都宮第六十六連隊の高松分隊は太湖の近くを進んでいた。 太湖は上海と南京の間にある大きい湖で、宇都宮の先頭部隊がこのあたりを通ったのは一週間以上も前のことである。 高松伍長を長とする十数人の一団は、その先頭部隊より一週間ほど遅れて進んでいたことになるが、彼らは自分たちが今どこを進んでいるのか皆目わからなかった。ただ他の部隊が進んでいる方向に従って進んでいた。 高松分隊の分隊長であった高松半市は大正元年、宇都宮郊外の農家に生まれた。当時、宇都宮には第十四師団司令部があり、栃木、茨城、群馬、長野の各県を管轄していたが、関東地方で師 団司令部があるのは東京の他に宇都宮だけで、そのため宇都宮は軍都として知られていた。 昭和八年。二十一歳をむかえたとき、高松半市は宇都宮の第五十九連隊に入隊した。半年ほど基本教育があった後、初年兵は満州の奉天に連れていかれた。満州国ができて二年目に入ろうとして いたときで、ここで警備を兼ねて訓練することになったのである。 満州に移って半年の訓練の後、昭和九年には匪賊討伐に出るようになった。高松半市はこのとき ? P199 はじめて戦闘を経験した。最初の戦闘は雪原の中で匪賊と対峙したときで、この日の戦いは一日中続いたが、上官の話ではこれほど抵抗する匪賊はめすらしいとのことだった。 その年は戦いのため、満州国のあちらこちらに行き、錦州や山海関にも行った。山海関は万里の長城の基点て、ここを見たのが最大の日本へのおみやげだった。 それをみやげに六月に日本に戻り、まもなく一時帰休になった。除隊するときは下士官適任証を与えられ、次に召集されるときは下士官として勤務するということであった。 除隊して三年目の夏、蘆溝橋事件が勃発して、第五十九連隊には八月に動員命令が下り。現役兵と除隊したての若者が動員された。 それから二ヵ月して、上海での戦況がきびしくなったため、宇都宮で再び連隊が編成されることになった。現役兵や二十三、四歳になる除隊したての若者はすべて北支に行っていたため、新しい 連隊は予備役と後備役で編成することになり、高松半市も召集された。 このとき編成された師団は、すでに北支に行っていた第十四師団の上に百をつけて第百十四師団と命名された。各連隊も水戸が百二連隊、高崎が百十五連隊、松本が第百五十連隊と、もともとそ こにあった連隊に百をつけて命名された。宇都宮の連隊も本来なら百五十九連隊と命名されるはずであったが、軍縮で廃止されていた六十六連隊の軍旗が残っていたので、宇都宮の連隊だけは六十六連隊の名前を使うことになった。 高松半市が召集されて連隊本部に行くと、さっ
?P200 そく分隊長を命ぜられた。第六十六連隊第一大隊第四中隊第一小隊の分隊長である。確かに三年前に除隊するときは下士官適任証をもらい、次に召集をうけるときは下士官に昇進するということを 聞いていたが、連隊本部に行くまでは分隊長になろうとは思ってもみなかった。 召集された人はほとんど家庭を持っている人で、三十歳前後の人が多かった。連隊本部では四年前に入営したときの若さあふれる風景は見られず、在郷軍人会の集まりのようであった。十数名 からなる高松分隊も三十歳過ぎの人が多く、二十五歳の高松分隊長が一番若かったほどである。 分隊の中からは 「おまえが分隊長をやるのか」 という声があがった。 三十代の兵隊からは、若い高松分隊長は頼りがいがないように見えたらしい。 しかし、高松分隊長から見れば、三十歳半ばの人たちでいったい戦争ができるのだろうかという不安があった。やはり二十一、二歳の若さと比べたらみなぎる力がない。兵力としてはどうしても劣ってしまう。そう思った。 連隊は、連隊長の山田常太中佐と三人の各大隊長、それに一部の大隊副官だけが現役てあった。師団長も予備役の末松茂治中将が現役に復帰して親補されていた。中隊長以下も予備役か後備役で あったが、高松分隊が所属した第四中隊長は後備役の手塚清少尉だった。少尉が中隊長というのも高松分隊長は聞いたことがなかった。 召集されて一週間後、高松上等兵は伍長に昇進した。何もわからないまま列車で大阪まで連れて行かれ、そこで数日訓練を受けた後、船に乗せられた。船に乗って上陸したのは杭州湾だった。 第六十六連隊が杭州湾に上陸したのは十一月十日から十一日にかけてのことである。第百十四師団はこの上陸作戦で最後に上陸した。すでに杭州湾には十一月五日から第、一陣が上陸して内陸部に 進んでいたため、第六十六連隊が上陸するころは敵もなく上陸はスムーズにいった。 上陸付近はクリークが縦横に走っていた。クリークが道路の代わりを果たして、小船が交通機関である。クリークに沿って小道があるだけで他にまともな道路はなかった。 上陸したものの、戦闘もなく、銃声も聞こえなかった。高松伍長には宇都宮の生活がまだ続いているようにしか思えなかった。 ところがのんびり進んでいた数日後、クリークに浮かぶ小舟の中に中国人の家族らしき数人が死んでいるのが見えた。高松伍長が上陸してはじめて見る死体だった。家族は小舟に乗っていて撃た れたものらしく、銃弾が舟をつきぬけていた。そのためクリークの水が小舟の中に入ってきて、それを死体から流れた血が赤く染めていた。小舟の中は何人もの血で真っ赤になり、その色は、曇天 のまわりの風景の中てひときわあざやかだった。 たおれている家族はなぜ撃たれたのか? 中国軍が撃ったのか? 日本軍が撃ったのか? 市民でもやられるのか? まわりにいる誰もわからない。わかったことは、現実は生半可な気持ちではいけないということてあった。 落伍兵にとぶビンタ 満州で戦った日からすでに三年がたって戦場とは縁のない生活を送っていたから、高松半市は、召集されて戦場に行くことになっても日常の延長に考えていた。
P201 宇都宮駅に見送りにきた家族の真剣なまなざしに違和感を覚えもした。列車の中でも家族のまなざしが気になっていたが、舟の中の死体を見て、自分が隣りあわせにしているのは死であることを 認識しないわけにはいかなかった。そして、家族のまなざしが今さらながら理解できた。戦場に来たらやるかやられるかだけだとその死体を見て思った。何とかなるだろうと思って宇都宮を出た が、そのときはじめて命は捨てたものと思わなければいけないと思い、そして、国の為に諦めなくてはならないのだと思った。 そんなことがあって第六十六連隊でも戦闘が始まり、自分たちの小隊長がたおれたとか、兵隊のだれかが死んだと聞き、一層その気持ちが強まった。 それから数日して、分隊の一人が病気でたおれた。もともと丈夫な兵隊ではなかったが、急激な訓練と船上での生活、さらに上陸してからは連日雨が続いたため急に体力が衰えたものらしい。負 傷なら軍隊で教えられた手当てのしようもあるが、原因がわからないためどうしようもなかった。 やはり予備役、後備役の兵隊は大変だと思っていると、手塚中隊長がやってきて、 「回りは敗残兵も多いだろうから分隊全員で野戦病院のあるところまで護送せよ」 と命じた。それまでは頼りなさそうに見えた中年の中隊長であったが、一人の兵隊を気づかっで、てきぱきとした処置を下すのを見て、高松伍長は感激するとともに、それまで中隊長に対して 持っていた不安が一瞬にして消えた。 適当な担架がなかったが、分隊は手わけして洋車を見つけてきて、病院のあるところまで急ぐことになった。 はしめはばらばらだった分隊の気持ちも、上陸や護送を体験してだんだんまとまってくるようになってきた。高松伍長は分隊長とはいえ一番若かったため、全員と物事を相談して進めた。それも分隊をまとめるのに役立った。 分隊が数日ほど戻ると野戦病院があり、たおれた兵隊をそこに頼むことにした。 兵隊を頼むと、分隊は休むこともなく三度同じ道を進むことになったが、回りの兵隊は見知らぬ兵隊ばかりであった。 それでも数日ほど進むうちに、ようやく宇都宮の兵隊に会うようになった。ところが、分隊の出会った宇都宮の兵隊はいまにも倒れそうな兵隊ばかりであった。 そのころ、先を行く宇都宮連隊では、強行軍のため、体力のない兵隊や年をとった兵隊はつぎつぎ落伍していった。落伍しそうな兵隊には中隊長命令でびんたがとんだ。すでにやさしい言葉も激 励も役に立たない。兵隊の反発心だけが唯一の頼みであったからだ。 それでも何人かは落伍していった。落伍した兵たちは落伍しながらも追いつこうとし、どうにかこうにか最後に一団となってすすんだ。その一団を揶揄して“第十三中隊”と称していたが、高松分隊が会ったのはこの一団であった。 十二月一日に南京攻略命令が下りたとき、高松分隊はこうして落伍部隊と進んでいた。このとき連隊の主力は太湖近くの宜興を出発し、?陽を目指していた。百キロ以上も先である。 高松分隊はひたすら第一大隊に追及しようと急いだが、第一大隊も戦いながらも前進しているので、なかなか追いつけなかった。上陸したとき持っていた食べ物はすでになく、杭州湾に上陸でき なかった輜重部隊は上海に迂回していたため、食べ物はすべて現地調達するしかなかった。 高松分隊が進む途中の民家によく漬け物があった。漬け物の次に見つけたものは甘薯であった。このため高松分隊はほとんど漬け物と甘薯だけの食事を続けていた。 たまには粉や玄米が見つかることもあったが、それはめすらしかった。現地調達の場合、お金を払うようにとお金を渡されていたが、中国人はほとんどいなかったのて、お金を払うことはなかった。 高松分隊が落伍部隊と一緒に進んだのはわずかの間で、まもなく、彼らを追い越した。そうやって進むうちに別の一団に追いついた。その部隊はしんがりの第三大隊第九中隊だった。ようやく本隊に追いついたことになる。 しかし、そこで聞いた話によれば、第一大隊ははるか前方を進んでいるということだった。 連隊の主力は、十二月三日、?陽に進んだ後、深水に向かい、さらに七日には?水を出発して秣陵関に向かっていた。予備役や後備役からなる部隊であったが、鯖江や福知山の部隊と同じ速さで 進んでおり、南京への距離も鯖江や福知山の部隊とほぼ同じであった。 高松分隊と連隊の主力の距離はほとんど変わっていなかった。
P202 空きっ腹の総攻撃 十二月五日の午後、鯖江第三十六連隊は淳化鎮にある中国の防御ラインの第一線に到着した。こ のとき、西坂上等兵の第二大隊は後衛を進んでいた。 敵の第一線には歩哨がいるだけであったが、五百メートルほど先には掩蓋壕がある。このあたりは摩盤山を越したとはいえまだ平坦ではなく、なだらかな丘が続き、掩蓋壕の先にはさらにトーチカも見えた。 すでに掩蓋壕やトーチカの前方は射界清掃がしてあり、日本軍が現われれば、狙い打ちできるようになっていた。 中国の主都南京では十一月十九日に首都衛戌軍が編成され、唐生智が最高司令官に就任した。首都衛戌軍は、南京城だけでなく、南京の外郭陣地まで投入され、ここ淳化鎮には二千名から三千名ほどの第八十三軍が守りについていた。 日本兵が現われたとわかると、中国軍は掩蓋壕やトーチカから猛烈に撃ってきて、日本軍はただちに第一大隊と第三大隊が展開して応戦した。 連隊長は、中国側の陣地を見て、陣地は堅固だが兵力は多くないから攻め落とせると判断した。まもなく、一気に攻め落とせとの命令が第一大隊と第三大隊に出された。 日本軍の本格的な攻撃が始まったが、何力月も前から準備していた中国軍の防御は堅く、またたく間に日本軍には死傷者が出た。トーチカにあたつた日本軍の弾ははね返されるばかりで、鯖江第 三十六連隊はそこではじめて、堅い地面を掘って壕をつくらなければならなかった。 夜遅く再び、明日には攻め落とすようにとの連隊命令が第一線に届いた。 戦いは一昼夜にわたって激しく続き、翌六日の夕方、ようやく第二線ともいうべき掩蓋壕やトーチカを破った。しかし、その先にはさらに堅固なトーチカがあり、攻撃ぼその夜も続行された。 三日目の七日になって予備隊として後方にいた、西坂上等兵たちの第二大隊がいれかわりに攻撃の第一線に立った。 すみやかに敵を突破し、一気に南京城まで進め、との連隊命令である。しかし、中国軍はトーチカの銃眼から日本兵が現われるのを待っていて、第一線に立った西坂上等兵が銃の先に鉄兜を のせて上に突き出すと、一斉に鉄兜を目かけて撃ってきた。 「カンー カンー」 と続けざまに弾が鉄兜にあたり、敵の反応のすばやさに手も出なかった。第二大隊は、奪った中国軍の掩蓋壕、あるいは小さな丘の死角を利用して匍匐前進するだけであった。 第六中隊長は、下士官から上がってきた人で物事を慎重に考える人であった。この敵を見て、 「むやみに攻撃しても、いたずらに死傷者をふやすだけだ」 と指揮班の兵隊たちにいった。 中隊長はすでに四十歳に近く、部下には常に命を大切にといっていた。そのため、上からの命令に対して行動が慎重になることがあった。その指
P203 揮ぶりを、他の中隊の中にはずる賢いという人もいたが、西坂上等兵には、よく状況判断のできる人に思えた。今日も中国軍の精神力は日本軍とどっこいどっこいである。今は堅固な陣地を築いて いるだけ中国軍は有利だから、このような状況では無理な攻撃はせす、総合的に勝っている友軍の火力を生かすしか方法はない、と西坂上等兵は思った。 何度か連隊命令が発せられたが、この日も攻め落とすことはできなかった。淳化鎮に来てからすでに三日もたっていた。脇坂連隊長は、 「こんなところで三日もぐずぐずして諸君にはずかしい」 と連隊本部と同行している新聞記者に語った。しかし、中国軍の銃撃が激しいためカメラマンは写真すら撮れず、状況がきびしいことはカメラマンや記者がよく知っていた。 この日の午後になって山砲と軽装甲車が来たので、改めて八日に総攻撃を行うことになった。 連日晴天が続いていたが、十二月八日は特に良い天気で、ぽかぽかした小春日和であった。昼までには山砲の準備もすみ、まもなく総攻撃が始まろうとしていた。総攻撃にはまず第二大隊が突撃することになっていた。 西坂上等兵は、淳化鎮に到着したとき持っていた食糧を昨日まで食べ尽くし、今日は朝から何も食べていなかった。輜重部隊は遅れており、トーチカだけの戦場では何も徴発できなかった。それ は西坂上等兵だけでなく、この日の脇坂連隊長の昼食も茄でた甘薯だけである。しかし、突撃を前に、西坂上等兵は空腹は少しも感じなかった。代わりにからだが震えてしようがない。 鯖江を出発するときに二百二十名いた第六中隊は、このときは七十名に減っていたが、全員、敵のトーチカから死角になっている窪地まで進んで中隊長の攻撃命令を待っていた。いつもだと伝令 などにとぶ指揮班の兵も、今日は全員突撃である。 西坂上等兵もいっもの軽機関銃を三八式歩兵銃にかえ、銃の先に剣を着けて命令を待っていた。突撃をすれば中国兵から格好の標的になるかもしれないが、そうなっても自分だけは助かると思っ た。というよりむりやりそう自分に思わせた。そう思わなければとても突撃などできなかった。 午後一時五十分、一斉に山砲の砲撃がトーチカに向けて始まった。飛行機からの爆撃も行われた。山砲による砲撃は十五分も続き、やがて砲撃の最後を示す発煙弾が打ち上げられた。それを砲 隊鏡で見ていた中隊長が、 「突っ込め!」 と叫んだ。 その声に中隊は全員が突撃した。第六中隊だけでなく、第二大隊の各中隊も一斉に飛び出した。酉坂上等兵はそのとき自分が何をしようとしてい るのかわからなかった。さきほどまで頭の中にあった敵の射撃のことも忘れて、ただ、敵のトーチカに向かって全速力で駆けていた。 突撃と同時に軽装甲車も一斉に進んだ。左翼から迂回して後方から中国軍をはさみ撃ちするつもりであった。駆けながら西坂上等兵は左の網膜のすみに五、六台の軽装甲車が見えたような気が七 た。小春日和の丘陵地帯に繰り広けられる歩兵と軽装甲車の一斉突撃は壮大なパノラマだった。 今までにない砲撃とそのあとの歩兵の突撃により、さすがの中国軍も動揺をしだした。その上、軽装甲車が逃げ場を断つように進むと、それまでは日本兵を身動きさえさせなかった中国軍が崩れ 出した。まさに歩兵操典にあたる攻撃体形である。いったん崩れはじめると、中国陣地はあっと
P204 いう間に崩れ出した。中国兵は、逃げながら手榴弾を投げてきたが、あらぬ方向で爆発するだけであった。第二大隊はつぎつぎトーチカになだれ込んだ。 しかし、西坂上等兵の飛び込んだトーチカには死守するつもりの中国兵がいた。西坂上等兵は飛び込んだ勢いで中国兵めがけて銃剣を突き出した。一瞬ひるんだ中国兵の手榴弾攻撃と西坂上等 兵の剌突は一瞬の差で、中国兵は手榴弾を投げる暇もなくたおれた。 第二大隊に続いて第三大隊も突入し、日本軍はつぎつぎトーチカを占領していった。 四日にわたって抵抗した中国兵ではあるが、いったん崩れ出すと総崩れになり、主力はあっという間に退却してしまった。 山砲の砲撃が始まって一時間後の二時五十分には淳化鎮一帯が日本軍のものになった。 連隊長の危機一髪 しかし淳化鎮を落としたが、喜んでいる暇はなかった。ここで一息いれているうちに敵が体勢を立て直して、再び陣地にたてこもれば日本軍の犠牲が大きくなる。一気にこのまま攻め込むのが得 策だという連隊長の判断であった。そのため西坂上等兵たち第二大隊と第三大隊はそのまま中国兵を追った。 淳化鎮から四キロメートル先の高管頭にも中国軍の陣地があったが、西坂上等兵ら先頭の部隊は左に迂回して、そこからさらに四キロメートル先の上方鎮に向かった。後方の陣地まで一気に進 み、敵に体勢を立て直す暇を与えないためであった。そのため高管頭は後続の部隊にまかせた。 西坂上等兵たちが素通りした高管頭の中国軍は戦車を中心にした兵力で、後続の第一大隊、連隊本部が遅れてくると猛烈に攻めてきた。戦車は濃い緑色で塗られた真新しいドイツ製のもので、日本 の運搬を主任務とする軽装甲車とは違っていた。 このとき日本はドイツと防共協定を結んでいたが、一方、中国もドイツとは友好状態が続いていた。そのため中国軍は陣地構築など戦術面の指導を仰いだだけでなく、戦車、銃などの武器もドイ ツ製のもので装備していた。日中戦争はある面では日独の戦いであった。 急進する先頭部隊を追っていた脇坂連隊長、連隊旗手などは戦車が現われたとの情報にあわてて一軒屋に避難した。間もなく胴体に青天白日旗を描いた戦車が現われ、一軒屋から五十メートルの ところまで来た。一軒屋を狙えば連隊長以下はひとたまりもない。 しかし、戦車は連隊長らが隠れているのもわからずそのまま先に進んでいった。そして後続の部隊を狙に撃ちした。 連隊本部と進んだ朝日新聞の浜野嘉夫カメラマンは、中国の戦車が日本兵をなぎ倒すのを見て、これを撮ろうとして胸を撃たれた。 「何処かやられた」 といいながら浜野カメラマンは同僚のいる建物 に戻るやいなや息たえた。戦車は追ってきて、浜野カメラマンの逃げ込んだ煉瓦壁の建物に猛射かに浴びせた。朝日新聞の記者たちは浜野カメラマンの死骸を抱いたまま、揺れる部屋でなす術もなかった。 戦車を中心とする一隊は撃つだけ撃つと反転していった。朝日新聞の記者たちは九死に一生を得た。戦車が去ると、こんどはさらに別の数百人の一隊が第一大隊を攻めてきた。高管頭と上方鎮の 間四キロメートルは敵味方入り乱れての混戦になった。 浜野カメラマンの戦死はしばらくして連隊本部に知らされた。二週間前、無錫で、連隊長についてきた朝日新聞と読売新聞の記者が死んで、さらにここに来てカメラマンの死である。それを聞い た連隊長は、 「記者を殺すために戦争をしているのではない」 と撫然としていった。 このころ、先に進んだ西坂上等兵たちの部隊はすでに上方鎮を占領していた。さんざんあばれまわった中国軍の戦車は高管頭と、上方鎮の間で日本軍のはさみ撃ちの形になった。昼間は手出しで きなかった日本兵は日没とともに戦車に肉薄攻撃し、サイドカー、貨車などとともにことごとくとらえた。 浜野カメラマンの遺体は、その夜、同僚たちの手で荼毘に付された。 混戦は夜になると一層激しくなった。 中国兵は青っぽい軍服を着ているので、昼は日本兵と区別がつくが、暗くなると区別がつかなくなる。背格好がほとんど同じだし、話すイントネーションがちょっと聞くだけでは、日本語か中国語かわからないからである。 おまけに日本兵と同じ三八式歩兵銃を持っている中国兵もいる。その
103 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 09:44:05 ID:wd/ZEmzy
戦時国際に「裁判をしてはいけない」と書いてないから「裁判は必須だ」と主張してた肯定派の方は消えたのですか? 普通であれば、「裁判をしてはいけない」とは書いていないのなら「裁判をするかどうかは自由だ」とは解釈できても、「裁判は必須だ」との解釈にはならなあと思うのですがwwww
>>94 やはり否定派は日本語を知らない様だ。通常「全部虱潰しにしてやる」という言い回しはしない。普通は
「全部虱潰しに○○する」と書く。こう書かなければ主語・修飾語・述語からなる文章にならない。
恐らく虱潰しの正確な意味を知らないで使っているのでしょう。さすが無学で貧乏人の在日がなる
朝鮮右翼が書いた文章ですね。
105 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 13:03:42 ID:QSOQdAEq
「裁判」とは厳正な判断をするためにあるのであるわけなのだから、「裁判 をしてはいけない」という決まりなどありえないわな。 「裁判をしていけないと書いてないから裁判をしなければならない」とか 抜かす奴は大バカの一言(笑)。まともな理屈が通用しない挑戦論法だわな。
106 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 13:09:21 ID:QSOQdAEq
挑戦論法→朝鮮論法
しかし肯定派の主張を丸呑みしたとしても「捕虜の殺し方が悪い」程度の事件なんだよな で、これを批判しているのが、原爆落としたアメリカと文化大革命やらかした中国って一体何の冗談だ?
そもそも「裁判にかけることができる状態」とは捕まったか投降・降伏した状態でしかありえないわけで。 裁判を受けることができるのは捕虜資格所有者と交戦相手が認めた者のみ。 ただ捕まったから、投降・降伏してきたからといって捕虜として認められるわけではない。 【佐藤和男氏『南京事件と戦時国際法』】 【「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らない】 例え支那兵が勝手に「捕虜になれる」と思って投降・降伏してこようが、無抵抗だろうが、非武装だろうが、拘束されようが、日本軍が支那兵の勝手な思い込みに付き合って捕虜としての待遇を与える必要はどこにも無い。 「投降・降伏を認められなかった敵兵」とはただの「交戦中の敵兵」。 白旗を揚げようが、勝手に武器を捨てようが、無抵抗を装うが、攻撃をためらう理由は無い。 ハーグ陸戦法規 第32条: 交戦者の一方が他方との交渉を行うため、白旗を掲げて来た者を軍使と規定する。軍使、及び、それに随従する喇叭手、鼓手、旗手、通訳は不可侵権を有す。 第33条: 軍使を差し向けられた部隊長は必ずしもこれを受ける義務は無い。 「捕虜の無裁判大量処刑」と言うのなら、処刑された「捕虜」が『捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者』だという証明が必要なんだが。 今までそれを証明できた肯定派なんて存在したか?www
109 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 13:52:04 ID:wd/ZEmzy
>>104 日本語の添削をするなら、「戦時国際法に裁判をしてはいけないとは書いていないから裁判は必須だ」などとトンデモ解釈をしてる肯定派の方では?w
あなたには肯定派の解釈が普通に思えるのですかwwwwww
110 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 16:11:20 ID:iXiWP3SD
>>104 日本語では文脈でだいたい分かるような主語はよく省略される。
普通の日本人ならこれくらいのことは子供でも感覚的に理解しているはずだが?
111 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 17:40:05 ID:EsNl6u0a
日本語がわかっていない孤独な肯定派が一匹フルボッコワロタw
112 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 18:23:03 ID:iXiWP3SD
>>104 主語の省略でなければ倒置かもしれない。
どちらにしても前文においてその内容が記されているから間違った日本語では無いな。
>>110 >>112 述語が抜けてんのを指摘してるんだがそれさえも否定派は判らないのか?
やっぱり朝鮮右翼なんですね。
>>113 どうでも良い所しか突っ込めないんですね、本論じゃフルボッコですからw
115 :
< :2010/08/18(水) 21:02:41 ID:kM34d5EA
>>113 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
じゃあ、『してやる』 ← これは何?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
116 :
< :2010/08/18(水) 21:05:35 ID:kM34d5EA
117 :
日出づる処の名無し :2010/08/18(水) 21:09:33 ID:jWQp+gyW
>>113 スレ違いな日本語講座はもういいから、南京大虐殺の決定的な証拠だせよw
P205 ためいたるところで日本兵と中国兵が入り乱れていた。暗闇の中でドイツ風のヘルメソトだけが目安であるが、逃げる中国兵の後ろ姿があまりに日本兵に似ているのでとうとう撃てなかった日本兵もいたほどである。 上方鎮がすでに日本軍に占領されていると知らないで退却してきた中国兵八十名が日本軍に殲滅された。 暗闇の混戦の中で、西坂上等兵は上海でのことを思い出した。蘇州河渡河作戦のときだから十一月上旬のことである。すてに日本軍が占領しているとも知らず、中国軍の炊事班が炊きたての食事 を運んできたことがあった。西坂一等兵たちは炊事班を一撃でたおし、満足に食べていなかったので大騒ぎしてそのご飯をいただいた。兵隊たちにとって中国兵をたおしたことより、ごちそうが大収穫だった。 ご飯をいただいてから数日、こんどは明け方、西坂一等兵の第六中隊が占領していた建物に中国軍が大挙して戻ってきた。これもまだ日本軍に占領されたとは思っていなかったのだ。軽機関銃を持っていた西坂一等兵 は彼らを見ると夢中で撃った。あとで数えてみると、五十人以上がたおれていた。そのことを思い出しながら、中国兵はいつも敵情判断が不充分な兵隊だと思った。 夜の十時ごろになりようやく中国軍はばらばらに退却していった。もうまとまって日本軍を攻めてくる中国軍はいなくなった。上方鎮から南京城まではあと十キロメートルほどで、暗闇の中に南 京城方面だけが明るく見えた。 淳化鎮の攻略が始まって戦闘は四日も続いていた。今日も昼から休みのない戦いて、だれもが疲労困憊していた。しかしここまで来て今さら休もうとする者はだれもなく、このまま不眠不休で進 むことになった。出発にあたって、連隊は体勢を立て直し、西坂上等兵の第二大隊は第二線に退いた。すでに真夜中で、暦の上では十二月九日になろうとしていた。 出発することになったが、辺り一面は漆をながしたように真っ暗であった。暗闇の中を進むと、南京に退却する中国兵が隊列にまぎれ込んでくる。中国兵は、日本兵がここまで来ているとは思 わず、退却する中国兵ど思っているらしかった。日本兵も中国兵がまぎれ込んでくるとは思わず、日本兵と中国兵はだんご状態になって進んだ。 しばらく進むうちに一人の中国兵が話しかけてきて、言葉が違うのではじめて中国兵とわかり大騒ぎになった。あわててクリークに飛び込む中国兵もいた。疲れきっている日本兵の中には、話し かける中国兵に適当にあいづちをうつだけで気づかないものもいた。 上方鎮より四キロメートルほど進むと高橋門があった。昔はここに南京城の外郭の門があった。今はその面影はないが、ひろい意味からいえばここから南京城である。付近の家は燃えており、つ い先ほどまで多くの中国軍がいたことがわかる。南京城はますます近くなり、城内が燃えているのが遠くにはっきりわかった。(つづく)
>>119 毎回お疲れ様です。
これって表紙が付いていて、表紙にも「第一大隊戦闘詳報」と書かれていたんでしょうか?
まあ、内容を見れば「部隊名不明」としか判断できないのは理解できますがw
児島氏は表紙が付いていたのに、内容を確認して「部隊名不明」と判断したのか?
それとも表紙が付いていなかったので、内容を確認して「部隊名不明」と判断したのか?
どちらなんでしょうねw
>>115 ヒント
『してやる』は動詞「する」の連用形に付く助動詞。「する」自体は特定の動作・状況を表す言葉ではない
ので、普通は「する」の前に動作・状況を表す言葉が入る。「全部虱潰しにしてやる」の場合は「虱潰し」
に何をするのか書かれていないので、動作・状況を表す述語の抜けた文章という事になる。日本人は
こんな言い回しをしない。
>>116 >【虱潰し】 ⇒ 物事を片端から一つ一つ落ちのないように処理すること。
「全部虱潰しにしてやる」は、何を片端から一つ一つ落ちのないように処理するか書かれてませんが。
反論のつもりですか?
122 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 10:05:11 ID:T6FCyrkC
>>121 お粗末な日本語添削などせずに「戦時国際法に裁判してはいけないとは書いていないから裁判は必須だ」とするトンデモ解釈を再考するべきなのでは?w
本題と関係ないところに粘着し続けるのならK-K氏と一緒ですよw
123 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 10:06:18 ID:T6FCyrkC
>>121 悔しいのは理解できますが自重くださいねwwww
>>122 >>64 にこう書かれてますが。
>つまり裁判をしてはならないと書かれてない限り、文明国が認めた法の一般原則に基づき、犯罪者の裁判は必須という事。
裁判をしてはいけないと書かれてないから文明国が認めた法の一般原則により犯罪者の裁判は必須になるんでしょ。
法治国家にあって捕らえた犯罪者に対し私刑が許される訳ないでしょう。そんな事さえ判らないんですか?
因みに64は私の書き込みではないので悪しからず。
>>124 つまり裁判をせずに処刑をしたアメリカやオーストラリア、イギリス、中国、ドイツ、ソ連も文明国じゃない、とw
お前の言う文明国って何処の国なんだよ
>>120 コピー本の表題はうろ覚えです。次回に確認します。
資料室が付けた補強表紙には第一大隊戦闘詳報とありました。
コピー本の表紙で気になったのは「軍事機密」「軍機」などの表記が全くなかったことです。
同時期の114師団関連文書を確認しますと赤いゴム印で「軍事機密」とあるもの、
ガリ版で最初から「軍事機密」と刷り込んであるものがありました。
コピーしたときに赤が飛んだ可能性もありますが赤ゴム印の痕跡がコピーにまったく残らないのはおかしいです。
宇都宮の原隊で保管されていたもの数部のうちの一部なら必ず表紙に「軍機」を示すものが有るはずです。
アメリカ軍接収のリファレンスNO.は付いていませんでしたので返還文書ではないことは確認できました。
127 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 13:34:18 ID:T6FCyrkC
>>124 「裁判が必須」なら「裁判をしなければならない」ということであり、
>>64 のレスを確認すると「しなければならないは軍隊ではなく警察」と書かれておりますが?w
軍隊である日本軍が「裁判をしなければならない」のですか?w
>>121 お前日本人じゃないだろw
状況文脈が分かってれば省略して助動詞「する」だけで日本人ならわかるわw
虱潰しにしてやるで検索すれば普通に引っかかるしw
日本語習ってる外人が教科書通りじゃないからって文句言ってる感じだなw
>>124 あのねー南京の便衣兵は犯罪者だから処刑されたんじゃなくて捕虜資格のない敵兵だから殺されたのw
だからこの場合は戦場で軍事対象(敵兵)の認定に裁判が必要かどうか?
犯罪行為の認定に裁判は必要だが軍事対象(敵兵)の認定に裁判が必要とかいう珍論なのw
便衣兵摘出の様子を調べれば犯罪の立証でなく敵兵の立証をしてるのがわかるしなw
>>126 ますます怪しいねw
詳報も所有者は誰かから貰ったものでしたっけ?
普通に捏造物と考えるのが妥当な感じだなw
画像の001.JPGにはっきり歩兵第六十六聨隊命令とあるので 児島氏がすべてを閲覧していたなら 簡単に歩兵第六十六聨隊第一大隊と特定できるはず。 秦氏は児島氏に対して資料の一部しか開示していないのではないだろうか? 全部を開示すると都合が悪いことでもあったのでしょう。
131 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 17:12:21 ID:T6FCyrkC
>>124 どうして黙ってるのですか?w
軍隊である日本軍が裁判をしなければならないのですか?w
>>127 >「しなければならないは軍隊ではなく警察」と書かれておりますが?w
裁判をしてはならないという規則が無い限り、犯罪者を裁判で裁くのは文明国が認めた法の一般原則と書きましたよね。
それに警察関連の法規に裁判をしなければならないと書かれた条文が在るんですか?警察関連の法規に裁判をしなければ
ならないと書かれた条文があるから検察は起訴してると思ってるんですか?そんな条文無くても検察は起訴してますが。
>>129 >状況文脈が分かってれば省略して助動詞「する」だけで日本人ならわかるわw
だったら
>>94 の文章で、虱潰しに何をするのか
>>94 の文中にある単語を使って具体的に書けばいい。何故それが出来ないんですか?
>便衣兵摘出の様子を調べれば犯罪の立証でなく敵兵の立証をしてるのがわかるしなw
敵兵と確認が取れたら正規兵は俘虜となり、不正規兵は個々に裁判をかけられるか指揮官が裁判にかけられる事になりますね。
全部肯定派テンプレに書いてある様ですが。
133 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 20:04:14 ID:tlkxYBY4
肯定派の日本語解釈が逝かれ過ぎてる件w 日本語解釈力が逝かれたヤツじゃないと南京大虐殺を信じることはできないと証明されましたw
>>132 だからその文明国って何処だよ、日本の敵は全部お前の言う非文明国だと言う事か?
それじゃ野蛮な国と戦っていたんだから日本が何をやっても問題ないなw
135 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 21:43:17 ID:Q2yKEt6+
極悪非道残忍な日本軍兵士の犯罪一覧表 (1972年 日本戦争犯罪史 NO.12より) 他国への不法侵入 延べ 1200万1252人 虐殺(軍人、民間人合計) 1448万3242人 強姦 234万1456件 強姦未遂 878万1234件 拉致(性奴隷) 23万4902人 拉致(強制徴用) 294万4952人 放火 34万3090件
>>132 > だったら
>>94 の文章で、虱潰しに何をするのか
>>94 の文中にある単語を使って具体的に書けばいい。何故それが出来ないんですか?
見苦しいなw
討論してるんだから虱潰しに「反論」してやるでネイティブは理解してるんだよw
> 敵兵と確認が取れたら正規兵は俘虜となり、不正規兵は個々に裁判をかけられるか指揮官が裁判にかけられる事になりますね。
> 全部肯定派テンプレに書いてある様ですが。
間違ったテンプレに意味ないだろw
大体敵兵殺すのに裁判が必要なんだ?ハーグで禁止されているのは投降した捕虜資格者の殺傷だ。
捕虜資格のない敵兵を裁判して殺さなきゃいけない法的根拠をあげてみろよw
137 :
1 :2010/08/19(木) 21:49:24 ID:tjOn05UA
>>134 救いがたい程の馬鹿さ加減ですね
「一般原則」なのですから日本以外の文明国は守っていたと言うことです
常識で考えて下さいね、現実逃避でしか自尊心を守れない否定派には難しいとは思いますけど(苦笑)
138 :
< :2010/08/19(木) 21:55:10 ID:dG+0neDq
139 :
< :2010/08/19(木) 21:55:56 ID:dG+0neDq
>>132 同じだろうが♪馬鹿♪・・・(・∀・)
●【質問】:"法の一般原則に基づき、軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合、裁判をしなければならない"
『Yes』 or 『No』?・・・(笑笑笑笑
●【 国際法の規制 】の中に、"法の一般原則に基づき、軍隊は捕らえた戦争犯罪者を裁判無しで処刑しては
いけない"等の規制があるんか?・・・(笑
※おい♪馬鹿♪ちなみに中支那方面軍≪軍律≫は国内法じゃねーからな・・・(笑笑笑笑
『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P126』
「軍隊」の権限は、「ネガ・リスト」方式で規定されます。ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、
これは禁止されるという項目が列挙されたものです。つまり、「原則自由」、「原則無制限」であって、例外
的に制限されることがあるという考え方です。そして、この場合、制限とか禁止にあたる制限的な否定項目
は、主として 【【【 国際法による規制 】】】 です。
もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠
牲者保護のルールです。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。それでは、何故、軍隊
の権限は原則無制限かというと、これは軍隊の本質から当然導かれてくるものです。
140 :
< :2010/08/19(木) 21:58:13 ID:dG+0neDq
>>137 :「一般原則」なのですから日本以外の文明国は守っていたと言うことです
↑ ↑ ↑ ↑
●日本以外の国は、
"法の一般原則に基づき、軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判をしていた"
の証拠をヨロシク♪・・・(・∀・)∩
>>119 >>126 超重要資料乙・・・(`・ω・´)∩
オイラも今じっくり確認しているところ・・・(`・ω・´)
>>140 更に頭の悪い人がいる様ですね(哀
>●日本以外の国は、
> "法の一般原則に基づき、軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判をしていた"
> の証拠をヨロシク♪・・・(・∀・)∩
何処の国も行っていなければ「一般原則」として認められない、という実に単純明瞭な事実に気がつきませんか?
つまり一般原則となっていること事態が証拠で、既に証明は終了しているんですよ
残念でしたね(苦笑
142 :
< :2010/08/19(木) 22:10:06 ID:dG+0neDq
>>141 軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は裁判にかける事が "法の一般原則" だというのなら、
諸外国軍隊はこの原則に基づき、必ず戦争犯罪者を裁判にかけていたのですよね?♪・・・(・∀・)
143 :
< :2010/08/19(木) 22:14:02 ID:dG+0neDq
>>141 何故絶句しちゃうの???????wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は裁判にかける事が "法の一般原則" だというのなら、
諸外国軍隊はこの原則に基づき、必ず捕らえた戦争犯罪者を裁判にかけていたのですよね?♪・・・(・∀・)
144 :
< :2010/08/19(木) 22:16:11 ID:dG+0neDq
オマエのレス、今後使わせてもらうワwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ★141 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/08/19(木) 22:02:57 ID:tjOn05UA 何処の国も行っていなければ「一般原則」として認められない ↑ ↑ ↑ ↑ 軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は裁判にかける事が "法の一般原則" だというのなら、 諸外国軍隊はこの原則に基づき、必ず捕らえた戦争犯罪者を裁判にかけていたのですよね?♪・・・(・∀・)
145 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 22:18:16 ID:T6FCyrkC
肯定派本気モードの涙目wwww
146 :
日出づる処の名無し :2010/08/19(木) 22:24:10 ID:tlkxYBY4
肯定派…死んだな…
>>137 例えば東部戦線は双方併せて50万の捕虜が殺されたとされているが
裁判は可能なのですか?
不用意なこと書くからw
149 :
< :2010/08/19(木) 22:27:22 ID:dG+0neDq
マジで
>>137 のレスをありがとヨwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>126 確かに、中身を見ればはっきりと「歩兵第六十六聨隊命令」とありますからこれで「部隊名不明」というのはおかしいですね。
いくらなんでも児島氏が中身を確認していないはずはありませんし。
しかも児島氏が1984年に『日中戦争 3』でこの戦闘詳報に触れた後、吉田裕氏も1985年の『天皇の軍隊と南京事件』で
「部隊名不明」「旅団名不明」「ある部隊」「記載されているという」としていますから、やはり部隊名は不明のままですね。
もし表紙にも「第一大隊戦闘詳報」とあれば、中にも「歩兵第六十六聨隊命令」と書かれているのに、児島氏も吉田氏も「部隊名不明」と判断したという事ですね。
「軍機」の表記も無いとなると、やはりこの戦闘詳報はとことん怪しいですね。
軍機のゴム印がない理由として、宇都宮での保管時に他の部隊と合本状態で保管されていて 合本表紙に軍機のゴム印があり、第一大隊戦闘詳報にはゴム印が押されなかった場合が考えられます。 しかしこの場合、藤沢氏には合本の和綴じを外し第一大隊戦闘詳報のみを渡したことになり これはいくらなんでもありえない。 また、原本が和紙にガリ版の油性インクなら水に浸かっても乾かせば多少和紙が伸びるかもしれないが 文字が流れることはなく、破棄する必要はない。 ほんと考えれば考えるほど不思議なことばかり。
>>136 >討論してるんだから虱潰しに「反論」してやるでネイティブは理解してるんだよw
>>94 の文中に反論という単語は入ってません。推測に過ぎませんね。「虱潰しにしてやる」でググってもこのスレが一番上
にくるくらいだから、いかに通常は使わない言い回しか分かります。「虱潰しにしてやる」と文中に書かれたURLも僅かしかない。
通常は使わない言い回しと認ざるを得ないでしょう。否定派の一人が文法を知らなかった事がそんなに悔しいんですか?
多分朝鮮右翼が書いてるんだから庇う義理もないでしょうに。それとも自演ですか。
>大体敵兵殺すのに裁判が必要なんだ?ハーグで禁止されているのは投降した捕虜資格者の殺傷だ。
それをしているから問題なんでしょう。
>>34-35 の投降兵が非正規兵だったとどこに書いてあるんですか?もっとも非正規兵
が交戦をしていれば戦争犯罪なのだから刑罰を課す為には裁判が必須ですけどね。
>>152 君の論だと無差別爆撃やったアメリカやイギリスは文明国じゃなくなるよなw
あの当時の文明国は具体的に何処だったのか教えてくれよ
何時になっても国の名前答えてくれないよね、ホントは一つも文明国が無くなるって思っているんじゃないの?
>>152 うんまあ、「不正規兵」とは書いていないけど「正規兵」とも書いていないようなw
ま、言葉遊びはこれくらいにして、まじめな話、仮に犯罪として「どこの国の法律で裁くのか?」と言う問題があるような。
この時点で南京は占領下に入っていない以上、日本の法律では裁け無いはずだが。
一応、緊急時における犯罪者の処罰として裁判なしで処刑してもOK、と言う解釈もあったはずだが。
ついでに言うと、「裁判をしていない」とも書いてはいないよなぁ、
>>34-35 は。
即刻処刑ってのはなく、軍律裁判を行う時間的余裕はあったはずだがな。
「やった」と書いていないから裁判をしていないってのは、ちょいと早合点過ぎると思うのだがなぁ。
裁判なしでの処刑命令書ってのは存在するのかい?
カティンの森事件におけるスターリンの命令書のように。
私は裁判をしたかどうか、まずはそこから検討し直すべきだと思うのだがねぇ。
>>142 > 軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は裁判にかける事が "法の一般原則" だというのなら、
> 諸外国軍隊はこの原則に基づき、必ず戦争犯罪者を裁判にかけていたのですよね?♪・・・(・∀・)
犯罪者を裁判によって量刑を決めるのは文明国が認めた法の一般原則なのだから、戦争時に限らず法治国家
であれば犯罪者は裁判により量刑が決まります。現代においてもどの法治国家であれ、この法の一般原則に
基付き、判決で刑罰若しくは無罪が確定します。敵国交戦者の戦争犯罪を軍法会議で裁く規則(陸軍軍法会議法)が
当時から在ったのに、南京戦時の非正規兵に対して一切の裁判を行わなかった事が問題なんですけど。
また、ドイツは日本にない即決裁判制度が在ったので敵兵に対しても普通に裁判をしてましたが。
因みに十六師団の法務将校もこの様な認識でいました。
第十六師団捕虜取り扱い要領
「敵の軍人、軍属でわが軍の手中に入った者は、国際法上の捕虜である。捕虜は戦時国際法と陸軍の規定にした
がって取り扱わなければならない。捕虜を捕らえたらただちに上級部隊に報告し勝手に処分してはならない。
必要な尋問が終わったら、軍司令部に開設される捕虜収容所に護送しなければならない。捕虜の給養はわが国の
給養と原則として同一であるべきこと、捕虜の労役の制限、とくにわが軍の作戦に協力することを強要してはならない。
捕虜の処罰は、法令に基づき、わが軍の軍法会議または罰権を有する将校により行われるものであるから、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私的制裁は許されない」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第十六師団法務将校原秀男少佐作成
>>153 >あの当時の文明国は具体的に何処だったのか教えてくれよ
つ【
>>69 】
> しかし否定派は当時は他国の軍隊も捕虜を無裁判で処刑していたと反論をします。他国もやっていたとすれ
>ばその国も虐殺をしていた事になるだけで、他国もやっているからいいという事にはなりません。
>また、広島・長崎への原爆投下、
>都市への空襲の方がはるかに残虐であり大犯罪と言いいます。これには同意しますが、だからと言って南京で
>日本軍が犯した犯罪が相殺されるわけではありません。戦争犯罪はどれも酷く、南京事件もその中の一つです。
近代以降どの国でも多かれ少なかれ無裁判処刑をしていただろうが、文明国のうち敗戦国となった日本、ドイツ他
が裁かれ、同じ事をやっていた戦勝国は糾弾されなかっただけの事。敗戦国だろうが戦勝国だろうが無裁判処刑が
違法行為である事は同じ。戦勝国側にも違法行為が在ったと訴え続けるのはけっこうだが、だからといって日本軍
の犯罪が相殺されて罪が軽くなる事はありません。
典型的な論点ずらしですね。このスレは南京大虐殺を論じているのだから他の国は関係のない話。
>>154 >うんまあ、「不正規兵」とは書いていないけど「正規兵」とも書いていないようなw
つ
>>35 >○朝日新聞 1937年12月17日朝刊 [南京にて横田特派員16日]
> 「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で【捕虜】にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は(略)それが
> 皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求め
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> ているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜
> だけは到頭食はせることが出来なかった」 注:山田支隊が捕らえた投降兵は軍服を着用しています。便衣兵ではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>>156 いや君の言う文明国か非文明国かという基準について問い正しているだけですよ
「無裁判処刑より野蛮で卑劣である無差別爆撃を平然とやったアメリカイギリスは非文明国なのですね?」
と聞いているだけなのですから、この質問にしっかり答えてくださいよ
もう一度聞きます「無差別爆撃のアメリカ、イギリスは非文明国ですよね?」
あとホロコーストのドイツは文明国なんですか?
裁判だけを基準にするって君頭おかしいんじゃないの?
159 :
日出づる処の名無し :2010/08/20(金) 08:21:52 ID:vFv/pi7M
>>155 さっさと答えてくださいよw
法の一般原則に基づき、軍隊は捕らえた戦争犯罪者を処刑する時は裁判をしないといけないのですか?w
160 :
日出づる処の名無し :2010/08/20(金) 08:46:04 ID:OL0wNIWg
つーか、日本軍の犯行現場がなかったアジアの国々を探す方が 大変だぞ。なんせ、日帝はアジアの人々1500万人を虐殺した んだから。
>>157 軍服を着用しているからと言って正規兵とは限らないわけでw
軍服を着ていれば常に正規兵とでも思ってるの?
そもそもあくまで「軍服なども整然と統一された」と書いてあるだけで、“着用していた”などとはどこにも書かれていないわけでw
統一されていた軍服を脱いでいたかもしれないってのにw
そういう言い方をするのであれば、いくらでも言葉遊びができるって話ですなw
肯定派の欠点は、書いていないから逆が成り立つ、と思っているところですよ。
肝心の「裁判をしたかどうか」について反論なしと言うことであれば、キミも認めていると認識してよろしいですかねぇ?
>>161 つうか山田支隊の分は、反乱起こしたんだから射殺は正当ですよね
すげよーば。肯定派はこうして墓穴を掘って行くっていう見本だな。 また、けっして間違いを認めないという良い例でもある。w
164 :
日出づる処の名無し :2010/08/20(金) 12:15:07 ID:vFv/pi7M
ご自分で言葉遊びをやって自爆するのがお得意のようでw
166 :
日出づる処の名無し :2010/08/20(金) 18:20:06 ID:vFv/pi7M
沈黙する肯定派w このスレに肯定派は1人しかいないことが証明されてるわけですねw
167 :
< :2010/08/20(金) 23:21:53 ID:p0rOMRIo
>>155 オマエ、koueiに似てるだけでなくK-Kにもそっくりなんだな・・・(笑笑笑笑
南京大虐殺を信じる南京ゴキブリ達は、み〜んな思考回路がK-Kに似てくるんだな・・・(笑
●【質問@】:ドイツでは "法の一般原則" に基づき、戦争犯罪者を処刑する場合は必ず
即決裁判等にかけてたの?『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
≪『陸軍軍法会議法註解』田崎治久著、軍事警察雑誌社 第六条≫
本条は、戦時又は事変に際し ≪軍事上の必要に基き≫ 第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如
何なる犯罪であっても總て軍法会議に於て ≪裁判権を行ふことが出来得る≫ 旨を規定したるものである。
●【質問A】:上記陸軍軍法会議法において、『軍事上の必要に基き裁判権を行ふことが出来得る』とは
"法の一般原則に基づき捕らえた戦争犯罪者を裁判にかけなければならない" と言う事なの?
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●【質問B】:諸外国軍隊は法の一般原則にに基づき、捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判を
していたの?『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●【質問C】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合、法の一般原則に基づき、必ず裁判をしなければならないの?
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
168 :
日出づる処の名無し :2010/08/20(金) 23:47:16 ID:OL0wNIWg
南京大虐殺を否定するのって、世界中でも日本のごく一部の右翼 の少数派なのに。。外の世界を知らんやつらはこれだから。。 オウムの中で麻原は無罪って叫んでいるようなもんだぞ。
ふと思ったんだが。 バルジの戦いでスコルツェニー率いるドイツ軍コマンド部隊が、連合軍兵士の軍服を着用して後方攪乱したことがあった。 で、連合軍はこいつらを捕まえたあと、裁判なしでその場でぶっ殺したわけだ。 これを連合軍による戦争犯罪だの虐殺だの言われてるとか、俺は聞いたことないんだが?
第一大隊戦闘詳報
http://www1.axfc.net/uploader/N/so/107862.zip PASS:nanking
この中から命令関係を抜き出した。
一 午前一時三十分左記聨隊命令ヲ受ク 歩六六作命甲第八十四号 歩兵第六十六聨隊命令 十二月十三日午前零時二十分 於南京南門東南高地
(略)
下達法 命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
二 右聨隊命令ニ基キ大隊命令ヲ下達ス
(略)
下達法 命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
三 午前四時三十分左記聨隊命令ヲ受ク 歩六六作命甲第八十五號 歩兵第六十六聨隊命令 十二月十三日午前三時十分 於南京南門東南方高地聨隊本部
(略) 連隊長 山田中佐 下達法 命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
四 右聨隊命令ニ基キ大隊命令ヲ下達ス (略) 下達法 命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム
五 (略)
六 (略)
七 午后零時左記聨隊命令ヲ受領ス
聨隊命令ノ要旨 (略) 聨隊長注意事項 (略) 参謀注意事項 (略) 經理部注意事項 (略) 兵器部隊注意事項 (略) 副官部注意事項 (略)
八 午後二時零分聨隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
左 記
イ 旅團命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
其ノ方法ハ十数名オ捕縛シ銃殺シテハ如何
ロ 兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迠監視ヲ附シ置クヘシ
ハ 聨隊ハ旅團命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
貴大隊ノ任務ハ前通リ
九 (略)
十 午後十時0分左記聨隊命令ヲ受ク 歩六六作命甲第八十六號 歩兵第六十六聨隊命令 十二月十三日午後九時零分 於南京南門北方千五百聨隊本部
(略)
連隊長 山田中佐 下達法 命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム 注意 (略)
十一 (略) 十二 午後十一時左ノ聨隊命令ヲ受ク 歩六六作命甲第八十七號 歩兵第六十六聨隊命令 十二月十三日午後十一時0分 南京南門北方千五百聨隊本部 (略) 連隊長 山田中佐 下達法 先ツ要旨ヲ各別ニ下達シ次テ(?)命令受領者ヲ集メ口達筆記セシム 十三 午後十一時四十分 左ノ大隊命令ヲ下達セリ (略) 大隊長代理 澁谷大尉 下達法 口達筆記 十四 (略) 他の聨隊命令と比べると (八)の連隊長命令が如何に異様かよくわかる。 歩六六作命甲第XX號はないし、下達法もない。 それに (八)の命令は、聨隊命令ではなく聨隊長からの命令になっている。 これは素直に読むと聨隊長の独断命令ではないか?
172 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 01:56:41 ID:w5ZNExDs
>>171 >イ 旅團命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
旅團命令とある以上聨隊長の独断命令とは考えにくい。
というか、独断命令をわざわざ正直に戦闘詳報に記録するだろうか?
まあ、この戦闘詳報が本物と仮定した場合の話ではあるがw
そもそも対応する歩六六作命甲第XX號が存在しない以上、この戦闘詳報自体の信憑性に欠ける。
>>162 >つうか山田支隊の分は、反乱起こしたんだから射殺は正当ですよね
自衛発砲説は全て二次史料、未だに戦友会の創作話に騙されている馬鹿発見w
175 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 10:35:48 ID:cnVwOpTn
>>174 匿名個人日記(デッチアゲ)を一次史料と思ってるおまえは大バカだわな(笑)。
>>150 > しかも児島氏が1984年に『日中戦争 3』でこの戦闘詳報に触れた後、吉田裕氏も1985年の『天皇の軍隊と南京事件』で
> 「部隊名不明」「旅団名不明」「ある部隊」「記載されているという」としていますから、やはり部隊名は不明のままですね。
これ読む限り、吉田氏は「記載されているという」だから、自身で確かめていないようにしか読めないんだが
> もし表紙にも「第一大隊戦闘詳報」とあれば、中にも「歩兵第六十六聨隊命令」と書かれているのに、
> 児島氏も吉田氏も「部隊名不明」と判断したという事ですね。
何で「二人共、実際のものをみて確認したのに部隊名不明と判断した」かのように書いているんだ?
実際にモノを見て不明と言ったのは、上の記述からは児島氏だけとしか読めないだろう
>>174 捕虜が反乱したことは誰もが認める事実。「自衛発砲説」なんて言って、あたかも自衛発砲じゃないと印象捜査しているが無駄だ
それに捕虜人数が多ければ多い程日本軍に危険があるんだから「自衛発砲説」を強化するだけの話だぞ
>>177 >捕虜が反乱したことは誰もが認める事実。
どこが事実なんだよw 最初に捕虜が暴動を起こしたと書かれた記述は全て二次史料で、これが既に創作。
一次史料では最初に発砲があり、その後捕虜が騒然となり逃げ惑ったという記述。日本兵の死も味方に
撃たれた事になっている。
179 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 18:04:30 ID:uzeDiU8Z
軍隊の命令に「いかが?」なんて文句があるわきゃないわな(笑)。
>>178 「反乱はなかった」と言っているソース持ってきてくれw
お前惨めすぎだわ
>>173 仮に「全部殺スヘシ」が旅団の方針であれば隷下のすべての部隊に命令が伝達されているはず。
しかし、旅団本部に捕虜の処遇を問い合わせた部隊のみに発令した可能性は残る。
十三日午後二時以前に旅団本部が隷下のすべての部隊の捕虜の状況を把握していたとはおもえない。
問い合わせが有れば逐次各部隊へ発令したとも考えられない。
隷下の部隊すべてに発令されたと考えるのが普通。
隷下の部隊がどれだけ有るかというと以下
歩兵第127旅団
-歩兵第102連隊(水戸)
--第1大隊
---第1中隊 第2中隊 第3中隊 第4中隊 機関銃中隊
--第2大隊
---第5中隊 第6中隊 第7中隊 第8中隊 機関銃中隊
--第3大隊
---第9中隊 第10中隊 第11中隊 第12中隊 機関銃中隊
--歩兵砲中隊
--連隊砲中隊
--連隊機関銃中隊
-歩兵第66連隊(宇都宮)
--第1大隊
---第1中隊 第2中隊 第3中隊 第4中隊 機関銃中隊
--第2大隊
---第5中隊 第6中隊 第7中隊 第8中隊 機関銃中隊
--第3大隊
---第9中隊 第10中隊 第11中隊 第12中隊 機関銃中隊
--歩兵砲中隊
--連隊砲中隊
--連隊機関銃中隊
この中で「全部殺スヘシ」を受令したのは66連隊第一大隊のみ。
>>180 >「反乱はなかった」と言っているソース持ってきてくれw
無かった事の証明を求めていいのなら先に南京事件は無かったと証明しろよ。証明できたらこのスレは終了だなw
話を戻すが問題は反乱が先で発砲したのか発砲が先で捕虜が逃げ出したかだろ。パニック状態になり逃げ惑う捕虜
の行動は反乱とは言わないし一次史料に反乱の記述はない。先に発砲していれば最初
から処刑するつもりだったという事だ。揚子江の中洲に舟で移送したら対岸から射撃されたというのも二次史料
だけで出る話で、一次史料にそんな記述はない。どんだけ騙されやすいんだよ。無知は惨めだなw
183 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 21:42:39 ID:rqlfbECm
極悪非道な日本軍兵士って、ウオーって奇声を上げて叫びながら 犯行におよんだんだよね。
184 :
< :2010/08/21(土) 22:01:07 ID:C9Nj0gI/
>>182 人格破綻を引き起こしている肯定派が "人格を入換えて" 再登場・・・(笑笑笑笑
逆上すると "自分のレス" と "相手のレス" の見分けがつかなくなるパニック症状は治ったのか?・・・(笑
>>65 :@:愚問。前レスで論破済み。裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
↑ ↑ ↑ ↑
●【2回目】:こんなレスが一体どこにあるの?♪・・・(・∀・) レス番挙げてみ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
こんなウソついて恥ずかしくねぇの?オマエ?・・・・プププププププププm9(^Д^)プギャーー
>>64 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、「原則制限」の考え方で警察
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
↑ ↑ ↑ ↑
●軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならないの????
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
ぶっ壊れたコピペを狂ったように繰り返し貼り付けるところはkoueiと一緒♪・・・(・∀・)
都合が悪くなったらすぐ逃亡するところはK-Kと一緒♪・・・(・∀・)
肯定派の精神構造なんざ、み〜〜〜んな同じなんだよな♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
まだ貼るの?(・∀・)まだ貼るの?(・∀・)まだ貼るの?(・∀・)まだ貼るの?(・∀・)
これからも気が狂ったように永遠に貼り続けるんだよね♪♪♪♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
185 :
< :2010/08/21(土) 22:03:01 ID:C9Nj0gI/
>>182 オマエの精神構造もkoueiやK-Kと一緒♪・・・(・∀・)
喧嘩せずに仲良くやれば?♪・・・・ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
>>184 >●【2回目】:こんなレスが一体どこにあるの?♪・・・(・∀・) レス番挙げてみ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
文中にわざわざ前レスって書いてあるから
>>64 でしょ。
>つまり裁判をしてはならないと書かれてない限り、文明国が認めた法の一般原則に基づき、犯罪者の裁判は必須という事。
>ハーグ陸戦条約のどこに裁判をしてはならないと書かれてるんですかねw 戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、
>してよいこと、しなければならないことであり、「原則制限」の考え方で警察。馬鹿だから頭の中で逆になったんだな。自分で
>戦争犯罪者をわざわざ裁判に“かけなければならない”と書いておきながら、これだけはしてはいけない、これは禁止されるという
>項目である「原則自由」「原則無制限」の方に入れてしまうんだからw
論破されて何も言い返せなくなると質問返しするんだな。判りやすい馬鹿ですね( ´,_ゝ`)プッ
右翼・保守・極右・正論読者・産経新聞読者・サピオ読者・愛国者・ 国粋主義者・独裁主義者・復古主義者・歴史修正主義者・軍国主義者・ 民族主義者・武士気取り・国士気取り・通り魔予備軍・文学的変態・ 言論チンピラ・ネットチンピラ・台湾系右翼たちに質問します。 論破開始 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#41】 南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
188 :
< :2010/08/21(土) 23:35:46 ID:C9Nj0gI/
>>186 論破されて何も言い返せなくなると都合の悪い質問から逃げるんだな。判りやすい馬鹿ですね( ´,_ゝ`)プッ
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
↑ ↑ ↑ ↑
●【3回目】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならないの????
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
189 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 23:37:50 ID:FCB30q2E
>>182 はいはい、反日至上主義者の常套手段である主張責任のスリカエね(笑)。
違法だと主張するおまえが明確な根拠を示すべきだわな。
単なる「又聞き」はいいから、虐殺現場に立ち会った具体的な証言をもってきな。
それがないこと自体が「南京大虐殺はでっちあげ」の証拠だわな。
190 :
< :2010/08/21(土) 23:42:41 ID:C9Nj0gI/
>>186 自分で書いていながら自分が書いたレスの意味も理解出来ていないとはどんだけナマポなんだよ?・・・(笑
●自分で
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
↑ ↑ ↑ ↑
●【3回目】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならないの????
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
191 :
< :2010/08/21(土) 23:44:54 ID:C9Nj0gI/
>>186 『Yes』 or 『No』 でいいんだぜ?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
何故黙ってしまうの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
何も言い返せなくなると狂ったようにコピペを繰り返すんだよね。判りやすい馬鹿ですね( ´,_ゝ`)プッ
プププププププププm9(^Д^)プギャーー
192 :
日出づる処の名無し :2010/08/21(土) 23:46:09 ID:FCB30q2E
>>186 運用実績のない戦時国際法など持ち出してなにがいいたいんや(笑)?
おまえが勝手に違反や!と吼えとるだけやないか。
当事国であるシナが「国際法違反や!!」と損害賠償請求したことなどあらへんから、
国際法違反行為などなかったでしょうな。
で、当事者でないおまえがなにいってんの???
そこまでして日本ならびに日本民族を貶めたいかね??
おまえは人間のクズだわな。
193 :
< :2010/08/21(土) 23:56:51 ID:C9Nj0gI/
>>189 >単なる「又聞き」はいいから、虐殺現場に立ち会った具体的な証言をもってきな。
>それがないこと自体が「南京大虐殺はでっちあげ」の証拠だわな。
探せばすぐ見つかるけどw
伊達郡証言 第9中隊所属伍長
虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位 の桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。
重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。笛の合図一つで銃撃を開始し、一〇分間位 続いた。銃撃は一回
だけだった。重機関銃は三−四丁あり、軽機関銃、小銃も加わった。この時、我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。
死体処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、二日目は次の日に片付けた。
宮本省吾 歩兵第65連隊第4中隊少尉
十二月十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の
間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、
捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。
十二月十七日
本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后
晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者
を出してしまった。
中隊死者一傷者二に達す。
黒須忠信 山砲兵第19連隊第V大隊段列・上等兵
拾二月拾六日 晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ 、二三日前捕慮(虜)
せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、
自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーん
うーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事
は今まで中にない珍しい出来事であった
>>188 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#202】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「便衣兵を殺すのは、国際法違反者への合法的な処刑である、兵士が一般市民を装うのは、
ハーグ陸戦協定条約附屬書23条で禁じられた「背信の行為」に当たるからだぁぁぁ!」
d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
実は23条には「敵國又ハ敵軍ニ屬スル者ヲ背信ノ行爲ヲ以テ殺傷スルコト」とあります。背
信の行為を使って「殺傷スルコト」を禁じているのであり、単に平服を着ることを禁じてい
るのではありません。また、たとえ国際法違反者であっても処刑には裁判を必要とします。ok
>>189 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
>>193 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#47】
その人たちは中国が発表する南京大虐殺の被害者数に対して異議ありと
言っているだけであり、南京大虐殺はなかったなどという意味のことは
言っていませんよ。南京大虐殺があったことを肯定した上で中国が発表
する南京大虐殺の被害者数に文句をつけているだけなのです。ok
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
197 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 00:06:45 ID:hIy+fcUM
>>194 匿名かよ(笑)。デッチアゲそのもんやんけ。
198 :
< :2010/08/22(日) 00:07:11 ID:n4YtNICt
199 :
< :2010/08/22(日) 00:11:47 ID:n4YtNICt
>>194 ここに湧いてる肯定派は 『Yes』 or 『No』 も答えられないの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
●【4回目】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならないの????
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>198 朝生で作る会の会長と幹部合わせて三人が、「南京大虐殺は無かったとは主張したことは無い! 被害者数に意義ありといっている!
ただそれだけのことだ! 確かに南京大虐殺と言われている事件はあった! しかし我々はそれを南京大虐殺ではなく、南京事件と呼
んでいる!」と言っていました(うろ覚え) そして作る会の教科書が正式に出版されると中国政府はさっそく文句をつけてきました。
しかし南京大虐殺は無かったなどという意味は作る会の教科書に記述されておらず、他の教科書と比較して異口同音に南京大虐殺
を認めた記述だったことが各局テレビの特集で明らかとなりました。このとき中国は件の教科書をじかに確認しておらず、恥をかいて
しまいました。 つまり作る会の教科書は他の教科書と同じように南京大虐殺があったことを認めています。
朝生での発言と全く矛盾していないと言うことです。ok
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#42】
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
201 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 00:19:24 ID:hIy+fcUM
>>194 おまえさんからするとデッチアゲの可能性大有りの戦後匿名証言は一次史料になんのか(笑)?
さすが反日至上主義者だのぉー
202 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 00:23:33 ID:hIy+fcUM
肯定派は追い込まれるとkoueiになりすまします。 今のkoueiはおそらくトンズラK-Kでしょう。
>>201 >
>>194 >
> おまえさんからするとデッチアゲの可能性大有りの戦後匿名証言は一次史料になんのか(笑)?
> さすが反日至上主義者だのぉー
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#42】
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
204 :
< :2010/08/22(日) 00:26:26 ID:n4YtNICt
205 :
< :2010/08/22(日) 00:30:13 ID:n4YtNICt
>>194 なぜ黙ってるの?ここに湧いてる肯定派は 『Yes』 or 『No』 も答えられないの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
●【5回目】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならないの????
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>204 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#48】
その人は中国が発表する南京大虐殺の被害者数に対して異議ありと言っ
ているだけであり、南京大虐殺はなかったなどという意味のことは言っ
ていませんよ。南京大虐殺があったことを肯定した上で中国が発表する
南京大虐殺の被害者数に文句をつけているだけなのです。ok
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
207 :
< :2010/08/22(日) 00:40:08 ID:ZdPgZ/sI
>>206 だから聞いてるんだけど?どうして答えないの?♪・・・(・∀・)
【3回目】:論破開始します♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
渡部昇一氏が "南京大虐殺はなかったなどという意味のことは言ってなかった" とする証拠を
出してください♪出来ますよね?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80 渡部は月刊『WiLL』2007年4月号においてもふたたび、田中正明の捏造した松井日記の南京についての
記述を根拠に、「南京大虐殺は無かった」と主張している。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
●南京掃討戦による犠牲者が出ていたと認める事と、南京大虐殺があったと認める事は全く別次元の認識です。
koueiはそれを認めようとせず、すべてを "南京大虐殺" へこじつけているだけです・・・ok♪(・∀・)b
>>207 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#50】
それは君の読解力に問題があるその人は中国が発表する南京大虐殺の被
害者数に対して異議ありと言っているだけであり、南京大虐殺はなかっ
たなどという意味のことは言っていませんよ。南京大虐殺があったこと
を肯定した上で中国が発表する南京大虐殺の被害者数に文句をつけてい
るだけなのです。ok
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
209 :
< :2010/08/22(日) 00:42:43 ID:ZdPgZ/sI
>>208 どうして答えないの?♪答える事が出来ないの?♪・・・(・∀・)
【4回目】:論破開始します♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
渡部昇一氏が "南京大虐殺はなかったなどという意味のことは言ってなかった" とする証拠を
出してください♪出来ますよね?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●南京掃討戦による犠牲者が出ていたと認める事と、南京大虐殺があったと認める事は全く別次元の認識です。
koueiはそれを認めようとせず、すべてを "南京大虐殺" へこじつけているだけです・・・ok♪(・∀・)b
210 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 00:44:02 ID:0B242vmr
211 :
< :2010/08/22(日) 00:45:02 ID:ZdPgZ/sI
>>194 >>26-43 まだ貼るの?まだ貼るの?壊れたコピペをまだ貼るの?♪・・・(・∀・)
狂ったようにまだ貼るの?♪・・・(・∀・)
koueiのようにまだ貼るの?♪・・・(・∀・)
壊れた自己解釈をまだ続けるの♪・・・(・∀・)
君もkoueiと一緒だね♪喧嘩なんかせずに仲良くやりなよ♪・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
212 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 00:50:08 ID:0B242vmr
>>209 そいつはニュース議論板の南京スレで「パールのようなもの」と呼ばれていたアホです(笑)
koueiではなく「パールのようなもの」と呼んであげましょう(笑)
213 :
< :2010/08/22(日) 00:52:13 ID:ZdPgZ/sI
>>212 そんなヤツがニュース議論板に湧いたのか・・・w
どこでも論破され、一所に落ち着く事が出来ないんだな・・・(´・ω・`)
214 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 01:04:43 ID:0B242vmr
>>213 いえ、かなり前にニュース議論板で↓のコピペを繰り返すだけのアホだったんだよ
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
で「パールのようなもの」って呼ばれる様になった
が…koueiなりすましツールを手に入れて華麗な変身を遂げた…という訳です
時々頓珍漢なコピペをするのはkoueiなりすましツールに欠番がある為です
本物のkoueiと遊びたければニュース議論板の方の天皇関連のスレに時々現れますよ
本物のkoueiなら「パールのようなもの」とは違い、多少なりとも会話らしきものも出来ます
215 :
< :2010/08/22(日) 01:09:39 ID:ZdPgZ/sI
>>214 "kouei" コテがまだ生きてたとは・・・(笑
と言う事は、論破されたチン論肯定派がスレ荒らしをして議論を
し難くするために使ってるという事か・・・(´・ω・`)
論破済みコピペを繰り返す池沼肯定派と一緒に現れたもんな・・・(笑
肯定派なさけね・・・(´・ω・`)
216 :
< :2010/08/22(日) 01:12:47 ID:ZdPgZ/sI
>>194 >>26-43 なぜ黙ってるの?ここに湧いてる肯定派は 『Yes』 or 『No』 も答えられないの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
●【6回目】:"軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならない"
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
217 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 01:14:04 ID:hIy+fcUM
このスレでボロクソにやられたK-K、トラ猫、やまんばあたりがなりすましてる 可能性大だな。もしかしたら核心かも??
>>214 「パールのようなもの」名付け親ですが、使って貰えているなら光栄です
いやあ、最初に書いたのはこのスレなんですけどね
219 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 01:22:11 ID:0B242vmr
>>218 あ、そうでしたっけ?
失礼しましたm(_ _)m
koueiのなりすましはたぶんあのアホでしょうね(笑)
220 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 01:33:56 ID:0B242vmr
たしか「パールのようなもの」がボコボコにされてたスレで、誰かがkoueiの【言論チンピラ妄言解毒対策レス集】を貼り付けたんだよね そしたら「パールのようなもの」が消えて、koueiのなりすましが登場したと記憶してます koueiのなりすまし=「パールのようなもの」ですよね(笑) バレバレ過ぎるw
222 :
日出づる処の名無し :2010/08/22(日) 11:34:44 ID:qgsjyuXD
>>217 そいつらみんな同一人物という噂もあるなw
口調を変えてるだけで内容は全く一緒www
223 :
< :2010/08/22(日) 23:49:54 ID:AmGY4G3s
特にK-Kとトラ猫は書いてる事が全く一緒・・・(笑 この二匹は間違いなく同一だな・・・(笑
224 :
< :2010/08/23(月) 00:13:53 ID:jAaF/nLh
>>26-43 >>186 >>194 進歩も成長も無い団塊馬鹿クサヨ池沼肯定派?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
逆上すると自分が書いたレスの意味すら判らなくなる "分裂症状" は治療不可能で医者もさじを投げたか・・・(笑
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>186 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察。
●【7回目】:"軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合は法の一般原則に基づき裁判をしなければならない"
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
何故黙ってるの?『Yes』 or 『No』でいいんだぜ?・・・(´・ω・`)
壊れたコピペをまだ貼るの?・・・(´・ω・`)
狂ったようにまだ貼るの?・・・(´・ω・`)
koueiや "パールのようなもの" みたいにまだ貼るの?・・・(笑
ヘタレと逃げっぷりが完全にイタについたな・・・(笑
K-Kや朝鮮人と同類♪相憐れんで仲良くやれよ・・・(笑
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
丸MARU 1989年8月号 通算517号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第8回 P200 危機せまる南京城 南京は、昭和二年、そのころ国民党内で最も力を持ち出してきた蒋介石によって中華民国の首都に定められた。 かつて明の首都であったため、南京には明の時代の古い城壁か残っていた。城壁の長さは三十五キロにわたっており、高さが十五メートルほど、厚さも十メートルほどの立派なものであった。こ こに大小二十ほどの門があり、なかでも東にある中山門、南の中華門、西の水西門、北西の 江門などは特に大きい門である。 城壁の北西側を揚子江が流れ、反対側は小高い山や丘が続く。北東にある山が烏龍山、東にある山が紫金山で、南には雨花台と呼ばれる丘がある。 市民の七割は城内に住んでおり、さらにそのほとんどが昔からの繁華街であった南半分に住んでいた。北半分は野原であったけれど、首都に決められるとともに広い道路が整備され、大きい政府 の建物が建てられるようになった。やがて外国の領事館が置かれるようになると、いかにも首都らしいたたずまいをみせ出した。明の故宮跡には中山東路が走り、国民政府の建物、日本領事館、首 都飯店などの建物が立ち並んだ。 城外では、 江門を出て揚子江の舟着き場まで P201 が下関と呼ばれて大きい街を形成していた。ここには上海からの鉄道の終点があり、南京の玄関口でもあった。船か列車で南京に来ると、 江門を通って南京城内に入る。 首都に定められたころ、南京の人口は三十数万人ほどで、上海と比べると、ずっと小さい市であったが、首都に決められてから毎年のびて、蘆溝橋事件がおきるころはほぼ百万になっていた。 しかし、蘆溝橋事件がおき、八月に上海に飛び火して、いわゆる第二次上海事変がおきると、南京から避難する人が出始めた。日本軍の飛行機が南京の軍事施設や飛行場を爆撃すると、避難に拍 車かかかり。最初の一ヵ月ほどで二十五万人ほどが避難した。このとき避難した人は、裕福な人だけで、中には香港まで避難した人もいた。 十一月上旬、上海が日本軍の手におちると、南京は再びあわただしくなった。 南京を防衛するための南京衛戌軍が編成され、司令官に唐生智が就任した。南京死守が叫ばれ、国民政府の機構は、軍を除いて、漢口と重慶に移されることになった。市民も揚子江を渡って対岸 に避難し、あるいは、揚子江から船に乗って上流の九江、漢ロに避難した。特に船で上流に逃れる人が多く、船着き場は毎日ごったがえしていた。 上海方面で負傷した兵は列車や車で南京に運ばれたけれど、前線から運び込まれる負傷兵は日をおうごとに多くなり、それまで治療にあたっていた医師や看護婦だけは足りなくなっていた。 そのため、列車で南京駅に運び込まれても、負傷兵はそのまま放置されたり、プラットホームに寝かされたままになりだした。すでに初冬を迎え
P202 ていたけれど、何千人もの負傷兵は冷たい風や雨の中にさらされ、うめき声は遠くまで聞こえ、異臭もあたり一帯をおおった。 やがて医師や看護婦も南京から避難し始めたので、南京に運び込まれたものの、そのまま息絶える負傷兵が相次いだ。 十一月も終わり頃になると、前線から撤退した軍隊が南京の街を横切り、揚子江を渡って退却していった。一ヵ月で、数十万の市民が避難していったが、それでもまだ二十万以上の市民が残っていた。 避難する人に比べて船が足りない上、軍隊が現れたので、下関は大混乱になった。チケットを手記することができない市民も船に殺到するため、船は揚子江の真ん中にとどまったままで、ジャン クが船着き場に接岸して乗客を船まで運んだ。それでもいつのまにか船まで来るので、船員はホースで水をかけて船にしがみつこうとする市民をふりほどかなければならなかった。 十二月に入ると、市当局も避難することになり、馬超俊市長は、アメリカ人たちが作った国際難民委員会に食糧とお金と数百人の警察官をゆだねた。市関係者は去り、南京は無法地帯となっ た。南京に残っている市民は、上流に避難する船賃すら持っていないような貧民ばかりで、避難して空き家になっている家から略奪を始めた。 一方、日本軍の中では、南京攻略が下令された三日後、上海派遣軍司令官に朝香宮鳩彦中将が親補され、十二月六日、朝香宮はあわただしく上海に到着した。軍中央部では、南京攻略を一月中旬 ごろと考えていたが、南京城攻略時期が予想をはかるに越えると考えられるようになっていたからである。 朝香宮中将の上海派遣軍司令官親補とともにそれまで上海派遣軍司令官を兼任していた松井大将は中支那方面軍司令官専任になり、六日、朝香宮中将を上海に迎えた後、七日には蘇州に進んだ。 松井軍司令官以下はこの日はじめて復旧した鉄道で参謀たちとともに移った。朝香宮中将は蘇州より先の無錫に車で向かった。 蘇州に移った松井軍司令官はこの日、隷下の軍に軍紀を一層きびしくするように命令を出した。南京城攻略を目前にひかえて発令された軍命令は次のようなものである。 「部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬神帰服せしめ、苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。 掠奪行為をなし、又、不注意と雖火を失するものは厳罰に付す」 さんざめく日章旗 そのころ、日本では、旗屋がうけに入っていた。支那事変が始まり、兵士が出征するたびに旗やのぽりの注文が来たからである。 出征が決まると、知人や親戚は「祝・出征 武運長久」と書いたのぼりや旗をこぞって贈った。旗屋は注文通りに文字を書いて作り上げる。ところが召集から出征までがわずかなため、作りあげ る日にちがない。そのためどの旗屋もてんてこまいで、小僧さんを何倍もふやして旗作りを行っていだ。旗屋をやってビルを建てないところはないとか、満州にまで支店を開いたという景気のいい 話があちこちで聞かれた。支那事変が始まって一ヵ月半ほどした九月十八日には警視庁が、商人の暴利を取り締まるという声明を出すほどの景気であった。 その上、保定陥落、上海陥落などが続き、そのたび旗行列、提灯行列が行われた。旗屋はますます忙しくなり、いくら粗製濫造の旗でも材料が不足したり、製造が間にあわなくなっていた。 提灯は本場名古屋で作られ全国に運ばれた。 そこに、南京追撃という大ニュースである。もし南京が陥落すれば今までにない大がかりな旗行列、提灯行列が行われるだろうと、旗屋、提灯屋ではますます忙しくなった。 南京追撃が下令になったころ、国民の間でも南京陥落は昭和十三年の年が明けてからと見られていたが、日本軍の快進撃が続き、そのため旗屋も日を追うごとにあわただしくなっていた。東京で は毎日三十万枚の旗が作られていたが、行列用手旗の小幅のさらし生地が足りない。そこで下帯用の生地を使う店も出て、生地がないので紙の旗まで作られる始末であった。 東京府の国民精神総動員実行部は府下の全市区町村長に、南京が陥落しても支那事変が解決するというのでもないので、仰々しい祝賀催し物を行わないように、と市民の祝賀熱に水を差すような 談話を出したか、江陰陥落、丹陽陥落、句容陥落と連日新聞で日本軍の快進撃が報道されるので、府の指導はなんのききめもなかった。 福知山の山室分隊が句容を出発した十二月六日
P203 には、全国あちこちで祝賀催し物の準備が始まった。 会津若松の連隊が江陰を後にした十二月七日、朝から警視庁に旗行列、提灯行列の許可願いが殺到しはじめた。日立製作所が八千人の行列、東株(現東京証券取引所)が七千人、東京女高師(現お 茶の水女子大学)が一千五百人といった具合で、警視庁は南京が陥落すれば許可すると伝えた。また、行列の許可願いだけでなく、戦勝祝賀会のため、東京会館はじめホテルや料亭に予約が次つぎ入り始めた。 一方、街では、まずカフェーが「祝南京陥落」ののぼりを立て、続いてデパートが「歳末大売り出し」を「祝勝大売り出し」に変えてお祝い気分を盛り上げた。銀座、神田、上野、新宿など東京 の盛り場には大きい幕が飾られ、商店は店頭に日の丸を掲げだした。 鯖江の連隊が淳化鎮を攻略した十二月八日になると、商店街だけでなく、会社や銀行も旗やのぼりを飾り、「祝南京陥落」のアドバルーンがあげられ、一層お祝いムードがかきたてられた。昭和 初期の長い不景気から立ち直りだしたころであったから明るいムードは全国にあふれていった。 光華門の竪陣 十二月九日午前五時、まだ夜が明ける前、不眠不休で行軍していた鯖江の先頭部隊は、ついに南京城まで数百メートルという地点に到着した。後方を進んでいた西坂上等兵も夜が明け始める頃、 北西に黒々とした陰のようなものを見た。そこは南京城の東南の城壁だった。水平一面を無言の城壁がおおっている。それを見たとき、西坂上等兵は上海以来一度も感じたことのない無気味さを感じた。 鯖江第三十六連隊が到着した城壁のまわりは幅百三十五メートル、水深四メートルの濠に囲まれていた。情報によると濠には水がないということであったが、実際の濠は深く水をたたえ、ここか ら攻撃することはとてもできない。そのためすぐそばの光華門に通じる本道から攻撃を行うことになった。 第三十六連隊が暗闇の中を光華門外に展開し始めると、突然城内からサイレンが鳴り響き。照明弾が打ち上げられた。二、三分の間あたりは昼間と間違えるほど明るくなった。本道の片側にある 街灯も点灯され、城壁から中国軍が一斉に撃ってきた。中国軍は、郊外の陣地が崩れると光華門を閉め、攻撃の準備をして待っていたのである。 日本軍はあわてて街灯を撃ち、そばにある物陰に隠れた。再びまわりは暗くなった。 城壁を囲む濠の外側には土手があり、土手のたもとには防空学校がある。連隊本部と第二大隊はこの防空学校に入った。学校内の電灯はまだついており、中国軍はここからもあわてて逃げたことがうかがえた。 攻撃を命ぜられた第一大隊は光華門に通じる本道上に大隊本部を置き、第三大隊は防空学校の西南方面に構えた。 第三十六連隊ではまず山砲で光華門を砲撃することになった。しかし、城壁は一つ二十キロもある煉瓦が積まれ、城壁の厚さは十メートルほどもある。山砲の攻撃ではびくともせず、煉瓦のかけらがころげ落ちるだけであった。 光華門の扉にしても鉄でできており、内側に土嚢、木材がぎっしり積まれている。扉のほうも山砲の砲撃に一部が壊れただけであった。 山砲の攻撃がむりだと分かると、工兵隊が城壁を爆破することになった。 光華門の前には戦車壕や鉄条網などが何重もある。工兵隊は援護射撃の中、これを排除して光華門まで進んだ。しかし、工兵隊の仕掛けた爆雷で
P204 も門の一部が壊れただけで、それもまもなく中国軍によって内側からふさがれてしまった。こうなるとあとは攻めようもなかった。 光華門の防衛にあたっていたのは蒋介石の護衛部隊である教導総隊であったが、中国軍は光華門を守っている兵隊だけではなかった。第三十六連隊は一気に光華門まで進んだため、淳化鎮から城 壁までを守っていた多くの中国軍をそのまま残してきた。 これら中国軍が光華門から城内に入ろうとして、背後から第三十六連隊を攻撃してきた。このため光華門の教導総隊には第一大隊があたり、城外の敵には第三大隊があたることになった。 午後一時ごろ、城内に逃げこもうとしてやってきた五百名の中国兵が防空学校を攻撃したのをはじめ、この日の午後から翌十日の午前にかけては城外のあちらこちらで戦闘が続いた。 西坂上等兵たち第二大隊は予備隊として、飛行場のそばの民家に入った。防空学校からそのそばの飛行場にかけては農家が点在し、周りは畑である。西坂上等兵は数日間ほとんどまともに食べて いなかったので、民家に入ると急に空腹感に襲われた。もちろん手元に食べ物は何もない。 あちらこちらを探すうちに畑に玉ねぎを見つけたので、焼いて食べることにした。それまで玉ねぎを焼いて食べたという経験はなかったが、今はそれがてっとり早い料理方法であった。生ではか らい玉ねぎが、焼くとまろやかな甘さにかわってしまう。野菜に飢えていたこともあったが、焼いて食べた玉ねぎのせさは何ともいえないものであった。 鯖江連隊が光華門に迫った前日、他の部隊も相当進み、南京城からほぼ二十キロメートルの地点まで進んでいた。第十三師団が鎮江、第十六師団が湯水鎮、第九師団が淳化鎮、第百十四師団は楊 山、第六師団は板橋鎮の近く、また国崎支隊は太平から揚子江を渡りつつあった。日本軍は南京城を取り囲む形となった。 大隊長の憤死 一方、八日早朝、中国軍では、南京を死守するはずの蒋介石が飛行機に乗って南京から脱出した。蒋介石が南京から去ると、それまで躊躇していた軍や、一国民政府の高官も一斉に南京を離れ出 した。南京に残ったのは、唐生智と約十万の首都衛戌軍だけになった。 揚子江よりの城門以外は閉じられ、城門の防御に力が注がれただけでなく、城内の主要な道路にはバリケードが築かれ、たとえ城門が破られても、城内で抵抗する準備もととのえられた。 日本軍はまだ南京城を攻撃するまでにはなっていなかったが、このような状況では中国軍の抵抗がむだなのは明白だった。 南京城は淳化鎮などの郊外の丘陵地帯とちがい大都市である。住宅もあれば明の孝陵、中山陵などの歴史的遺物もある。また城内には一部市民も残留している。このまま南京が戦場になれば被害 は甚大なものになる恐れがあった。 日本軍がほぼ包囲態勢をとったのをみて、松井軍司令官は、南京を戦災と混乱にあわせるのは忍びないと思った。そのため中国が降伏すれば平和裡に南京に入ろうとした。また、松井軍司令官は 南京にある第三国の権益の損傷も恐れていた。 南京にはアメリカの大学、女子大、病院などがたくさんあった。その一帯には多数の市民がいるはずである。そのために、国際法の斉藤良衛博士を同行させていたが、南京が戦場になれば第三国 の建物だけが無傷で残るというのは不可能に近い。 そこで松井大将は中国軍に降伏勧告をすることにした。 松井大将とともに蘇州に来ていた軍司令官付の岡田尚はこの日、降伏勧告文書を中国語に訳すように参謀から命ぜられた。 この降伏勧告のビラは数千枚印刷され、九日昼、南京市内にばらまかれ、十二月十日の昼を回答指定日にあてられた。 降伏勧告のビラは城壁のそはにいる西坂上等兵たちのところにもとんで来た。中国語がわからなくとも漢文なのでおおよその内容はわかった。そして降伏が勧告されたことは直ぐに連隊にひろまった。 脇坂連隊長の祖先に脇坂淡路守安照がいた。浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件をおこし、赤穂藩が取り潰しになったとき、赤穂藩を請け取りに行った大名である。そのとき、城代家老の大石内蔵助 は脇坂淡路守安照を城内に案内し、おとなしく引き渡しの目録を渡した。 南京城降伏勧告の話が伝わると、脇坂連隊長こそ城の明け渡し役にぴったりだという話が兵隊の中からおきた。こうなったら城代家老にあたる南
P205 京衛戌軍司令官唐生智はおとなしく明け渡すべきだ、と兵隊たちはいいあった。 とはいうものの、金壇、天王寺などを見ている兵隊たちにとって中国軍がおとなしく南京城を明け渡すとは考えられなかった。それどころかだれもが南京も最後は放火され、すべて略奪されるに違いないと思った。 南京衛戌軍司令官唐生智は湖南を基盤とする軍閥で、蒋介石より二歳年上である。昭和二年に蒋介石が国民党内の争いのために下野して日本に行ったとき、唐生智はその後釜を狙ったことがあ る。しかし、その野望はすぐに破れ、蒋介石か日本を去った数日後、入れ代わるように日本に亡命した。 それから十年。中国は蒋介石の時代になり、唐生智はその下で軍事委員会の委員になっていた。 そして今回は南京衛戌軍司令官という役回りを命じられていた。軍事委員長である蒋介石は南京を死守するように、との命令を残したまま脱出しており、唐生智が独断で降伏を受け入れることはできない。そうすれば自分の首がとぶ。 回答指定日の十日の正午、日本軍は中支那方面軍の塚田攻参謀長、通訳の役目の岡田尚らが中山門外で待ったが中国軍の使者は現れなかった。 この知らせを聞いて松井軍司令官は心から落胆した。 再び日本軍の攻撃が始まった。第十三航空隊による南京城の各門への爆撃も行われた。 十日の午後三時、鯖江第三十六連隊も山砲での城門攻撃を再開した。鯖江連隊は九日朝に城壁まで進んでから攻略は遅々として進まなかったが、再開とともに脇坂連隊長は、第一大隊に、夕方までに城門に突入するよう命じた。 西坂上等兵が宿営している場所からは光華門が手に取るように見える。中国軍の攻撃も激しく、城内や城壁上からさかんに撃ってくる。夕方には防空学校の屋根も吹きとばされた。防空学校の中で は死者が相次ぎ、連日従軍僧の読経が続いていた。 午後五時近く、再開された山砲の砲撃により光華門の一部が壊れ、土嚢や瓦礫の急な坂ができた。ちょうど防空学校の屋根がとんだころであっ た。城内突入の機会を狙っていた第一中隊は躊躇なくこの坂から入り、続いて第四中隊も突入した。 光華門は二重になって、その奥行きは二十メートルほどもあるが、第一中隊と第四中隊は外側の門を占領し、崩れた土嚢の上に日の丸の旗を立てた。はじめて南京城の一画に日の丸が立てられたのである。 この日の丸は防空学校にいる毎日新聞と読売新聞のカメラマンによって撮影され、すぐさま自動車、飛行機と乗り継がれ日本に運ばれた。光華門の一部が占領されたことは城内の唐生智司令官に も伝えられ、唐生智司令官は午後六時にそれを認めた。 屋根を吹き飛ばされた連隊本部からは、続いて、あくまで光華門を死守せよとの命令が出された。これをうけて五時三十分、光華門外にいた伊藤義光第一大隊長は、みずから第三中隊を率いて光華門に突入することにした。 突入に先立って、伊藤大隊長は連隊本部に電話連絡をしてきた。 伊藤大隊長は陸大入学のため大隊長から学生になったばかりを急きょ一ヵ月前に呼びもどされたところであった。電話口に出た鈴木連隊副官に、これから突入する旨を伝えた。伊藤大隊長は五年 前の第一次上海事変に出征して左眼を失っており、いま再び決死の光華門突入である。 連隊副官は数時間前、第一大隊に全滅を賭して光華門を確保すべし、との命令を起案した人だけに、伊藤大隊長の決意を聞くと感極まってしまった。 そのとき、近くにいた連隊長から連隊副官に、「大隊長に何をしているのだといえ」 という激しい言葉がとんだ。 電話を切ると、連隊副官は涙で、「大隊長はこれから突入します」 と連隊長に伝えた。 城壁上からの中国軍の銃撃の中を伊藤大隊長は第三中隊を率いて自ら突入したが、城門にたどり着いても中国軍は城門の上と城内から機関銃、手榴弾などで激しく攻撃してくる。第一大隊は陣地 を拡大するどころか、光華門内の土嚢の陣地を確保するのが精一杯であった。 第一大隊の兵は次々たおれていった。午後九時には伊藤大隊長も手榴弾の直撃をうけ、城門内で戦死した。命令どおりの死守であった。(つづく)
丸MARU 1989年10月号 通算519号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第10回 ?P208 一晩中鳴りひびく砲声 福知山連隊は、南京城東方十五キロほどの所で二日も阻まれていたが、ようやく八日までに中国陣地を制圧した。 九日は朝七時、制圧した梅塘から出撃し、第一大隊が先頭になって大城山、大連山などの三つの小高い山を進んだ。しかし、山越えは山室分隊たち重機関銃隊にとってたいへんな行軍である。二 十キロ以上もある重機関銃を四人で担ぐのてあるが、四人の歩調が揃わなければならないので、それまで度々経験した冷たいクリークを渡ることよりはるかに苦しかった。しかも中国軍が松林の中 に隠れて撃ってくるので、交戦しながらの山越えであった。 しかし、これらの小高い山を越えるといよいよそこは名実ともに南京であった。 前方には小さな丘が続き、その北よりにはひときわ目立つ山がある。この山が南京城の北東に接している紫金山で、紫金山のふもとには白く長い階段と塔が見える。中国革命の父である孫文を祭 ってある中山陵と、元を倒した朱元璋のいわゆる明の孝陵である。明は三代目の永楽帝が都を北京に移したため、ほとんどの皇帝の陵は北京に残っているけれど、初代の朱元璋は明をおこしたと き、南京を首都と定めたので朱元璋の陵だけが南京にある。 南京市に入ると中国側から撃ちだされる迫撃砲 ? P209 が落下しはじめた。福知山連隊は迫撃砲の中を進むことになり、五キロほど進んで、夕方蒼波門に達した。 夜になり山室分隊は爆撃されて壊れた家に入ることになった。中国陣地に近付いたため、中国陣地からは銃撃も始まり、砲声と銃声が鳴り響き始めた。 十日朝になると、福知山連隊は蒼波門から馬群に向かった。途中の丘陵や松林などはすべてが中国軍の拠点で、ここから撃ってくる中国軍と戦いながら進む。進むにつれて中国軍の抵抗は激しく なり、日本軍と中国軍は入り乱れるようになり、山室分隊がこの日進むことができたのはニキロほどで、ようやく夕方、紫金山ふもとの中央運動場近くまで進んだ。 中央運動場は六万人も収容できる大きい近代的な運動場で、全国大運動会などがひらかれたところである。あたりはまばらな松林が続き、政府高官や高級軍人の別荘などの立派な建物も建っている。 山室分隊はグラウンドのそばの立派な洋館に宿営することになった。洋館は中国軍の中将の家らしく、立派なものであったが、入ると、部屋の中のめぼしいものは中国軍が持ち去ったあとで、ど の部屋もくまなく荒らされていた。 中国軍はこの夜も砲撃を止めるようすがない。昨日もそうであったが、夜になるとかえって激しく撃つ。夜の砲撃は相手の位置を正確にとらえることができず、その効果も確かめることができな いので日本軍はめったなことでは撃たないが、中国軍は恐ろしさのためむやみと撃っているようで
P210 あった。 兵隊たちはいつものようにすぐに食べ物を探し始め、食事の用意にかかった。火や煙を中国軍に発見されないように洋館の陰で炊くことになり、炊いたその場で食べ始めた。 食事を始めたとたん近くでまた迫撃砲が作裂した。そのため皆は頭から土をかぶったけれど、それでも誰も食事をやめるものがいない。迫撃砲が近くで作裂したくらいではかまっていられないのだ。 食事が終われば後は寝るだけで、山室伍長は久し振りに椅子の上に寝ることになった。 しかし、寒さと砲撃の音でなかなか眠れない。 真夜中、あまりに寒くて目が覚めると、中国軍の砲撃は依然やまず、近くで作裂するたびに家が震え、窓からは作裂する迫撃砲の火が見える。 一晩中寒さと砲撃の音でうとうとしていたが、十一日は午前七時、まだ暗いうちに起こされた。 中央運動場からその先の中山門前にかけても小高い丘が続いていて、この丘にはトーチカや塹壕があり、ここからひっきりなしに中国軍が撃ってくる。山室分隊たち第一線部隊はここに向けて進むことになった。 日本軍の野砲はこの日前線まで進み、午前九時から中国軍に砲撃を始めた。軽戦車も近くまで進んできたが、軽戦車は鉄条網、地雷などのため思うように進めなかった。 昼になり、山室伍長は昨夜炊いておいた南京米を食べたが、南京米は寒さで生の米のように堅くなっていた。温かいうちはなんとか食べられるが、いったん冷えると全くまずい。 そんなことを思いながら急いで食事をしていると、突然、敵の迫撃砲が二十メートルほど後方で作裂し、一緒に食事をしていた橋本一等兵が右人差し指、野村一等兵が顔に破片を受けて負傷した。 山室伍長はこのときも運よく怪我ひとつ負わなかった。鉄帽の中に御守りを入れて、千人針の腹巻きをしめていたが、これが守ってくれると確信していたから、近くで何か爆発しようが気にならない。 午後二時になると、第四中隊とともに紫金山の南に連なる西山の攻撃に向かうことになった。西山は中山門からほぼ東、ニキロほどの所にある小高い丘で、中山門を守るように聳えている。この 西山を越せば、目の前は中山門である。 西山の攻撃に移ると、西山の北側にある紫金山からはさっそく迫撃砲がきた。何発目かの迫撃砲が桜井一等兵の背嚢に破片が当たり南京米が散乱したが、連日、最前線にいる山室分隊にとって生 と死は紙一重で、恐れる者は誰もいなかった。 午後三時過ぎに西山の八合目ほどまで進んだが、頂上に行くにしたがって中国軍の抵抗は頑強になる。福知山連隊は麓からしらみつぶしに西山を進んだわけでなく、そのためまだあちこちに中 国兵が残っており、今日しゅうには攻めきれそうもなかった。 敵味方、至近距離で対峙 まもなく上から、現在地に壕を掘るように命令がきた。今夜は掘った壕で過ごそうというのである。 早速、壕を掘り、入ることになったけれど、敵とは直接距離にすれば二十メートルほどである。 松林がさえぎってお互いに顔は見えないが、中国軍側からは手榴弾がとんできたり、チェッコ銃の弾がとんでくる。山室分隊のいる壕は最前線なので前方からだけでなく、後方からも中国兵の弾がとんでくる。 敵味方があまりにも接近しているので、相撃ちを避けるため合言葉を使うことになった。合言葉は「おおの」と「にしざき」で、連隊長と大隊長の名前からとった。 月が早くも明々と出た。掘った壕に入ったが、寒い上に山頂からの攻撃が続いて心の休まる暇がない。夕食も生の南京米をかじるだけで、紫金山から西山にかけては砲声がうなりつづけている。 山室分隊は空腹と睡眠不足に加え疲労が重なっていたけれど、暗い壕の中で、全員、国のためなら命を捨てても惜しくはないと語り、不満を訴える者はいなかった。山室伍長は、南京を落とせば 日本に帰れると励ました。山室分隊をささえるのは若さと国を思う気持ちで、二十四歳の山室分隊長が最も年上で、あとは二十二、三歳の若者である。 この日まで第十六師団では、津の部隊が紫金山の第二峰を占領し、奈良の部隊は紫金山の北側を迂回し、京都の部隊が中山陵の麓まで進んでいた。結局、中山門の正門に向かっていた福知山の 部隊が最も南京城に接近している。その福知山の部隊の中でも、西山を攻めた第四中隊と山室分隊
P211 たちの重機関銃隊が最も最前線に進んでいた。 一方、第十六師団と並行して進んだ第九師団の富山の連隊はこの夜、中山門からやや南よりの城壁前まで進出していた。中山門前から南はちょうど深い堀になっていて、その堀の直前まで進み、 城壁からの突入を狙っていた。このままでは、第十六師団より早く中山門を攻めるかもしれない。 南京城を象徴する紫金山を攻撃している第十六師団には上海派遣軍のほうから何度も激励がきており、それだけに最も進んでいる山室分隊たちの責任は重いものがあった。 山室分隊が、暗闇の中を偵察すると、壕から五十メートルほど右のほうに中国軍が掘った壕があった。しっかりした壕であったので、夜明とともにここから攻撃しようということになり、十二日 午前四時にこの壕を改修しはじめた。山室伍長は分隊の半数を新しい壕に移し、機関銃を据えた。 五時五十分ごろ川勝一等兵が、 「分隊長、外套を前の壕に置いてきます」 といった。川勝一等兵は第一補充隊として、山室伍長と一緒に来た兵である。夜明けにはまだ一時間以上もあるので、 「今のうちに行ってこい。明るくなれば危険だからすぐ帰れ」 と山室伍長は答えた。中国兵と日本兵は入り乱れているが、それまでの経験から中国兵は夜が明けるまで攻撃はしてこないだろうと考えたからである。 ところがちょうどそのころ、十人ほどの中国兵が闇の中を山室分隊のもといた壕の背後に迫って きていた。近くにいた日本兵がこの一団に気付き声をかけると、日本語で、 「友軍だ」 と答えた。日本軍は友軍だと思って一瞬安心すると、油断したすきを狙って一斉に撃ってきた。 日本兵はつぎつぎ倒れ、六人が即死した。ちょうどそこに川勝一等兵が戻ってきて、右胸を銃剣で剌されてたおれた。 中国軍の夜襲に回りの日本軍はすぐに反撃し、中国兵は六人が殺され、残りは逃亡した。 中国兵が襲ってきたとの報告が山室伍長のもとに届いたのは川勝一等兵が行って三十分もしてからである。山室伍長がかけつけると、何人かの兵とともに川勝一等兵がたおれていた。雑嚢をはず してやると、まだ体は温かかったが、顔は蒼白で、即死だったと思われた。山室伍長は、あのとき止めておればと悔やんだが、悔やんでももう遅かった。 真昼の南京城攻略戦 十二月十二日、鎌田上等兵たち都城の連隊は暗いうちから南京城の西南角をめざして攻撃を始めた。南京城の南にひろがる丘陵の端から城壁前までにはわずかに建物があり、中国兵がこもってい たが、丘陵地帯にあるようなトーチカや塹壕はなく、午前九時には城壁前三、四百メートルまで進むことができた。連隊砲もその後を進み、城壁を目標に砲撃準備を整えた。 一方、中華門をめざした熊本の部隊は城壁から二千メートルほどの地点で中国軍にはばまれ、それ以上進めなかった。 このため、野重砲は急遽昨晩の方針を変え、熊本連隊についていた第二中隊をも都城の連隊に協力させることにした。第六師団てはそれまでむしろ中華門に重点をおいてきたが、状況から西南角 に重点を置く方針に変えざるをえなかった。 十時になり、牛島旅団長は都城の連隊に対し、午後四時を期して城壁を奪取せよとの命令を出した。 支援する野重砲は十時四十分ごろにはすっかり西南角城壁を攻撃目標とする準備を整えた。 都城連隊ではそれまで第二大隊と第三大隊が第一線になって進んでいたが、攻撃が始まる直前になって、突入路が狭いため第三大隊が先頭になって突入することになった。 第二大隊の兵隊は三日間にわたり第一線で戦ってきただけに、いざ突入というとき第三大隊に先陣を譲ることになって残念がった。 第三大隊の鎌田上等兵は自分で一番乗りしたいという強い気持ちがあり、第二大隊の気持ちが痛いほど分かったが、その一番乗りまでには連隊全休の協力があってはじめてできることて、一番乗 りする兵はたまたまその順番に巡り合わせた兵隊であることを知っていた。もともと西南角は大分の連隊が攻める予定だったか、途中から、都城連隊が攻撃することになったものである。また都城 連隊でも本来ならそれまで第一線だった第二大隊が先頭になって攻撃するはずだった。それが第三大隊が攻撃することになったのは、すべて巡り合わせだと思った。 第三大隊が突撃することになり準備を進めるう
P212 ちに第三大隊の中でも鎌田上等兵の第九中隊が先頭で突入することになった。これを聞いて鎌田上等兵は、いくら巡り合わせとはいえ自分の巡り合わせに喜び、こうなったからには少しでも早く一番乗りしようと思った。 西南角からの突撃にはまず城壁を破壊し、さらに城壁の前を流れるクリークを渡らなければならない。クリークの幅は二十メートルはあり、中ほどは相当深いように見えた。そのため工兵隊が橋 を架けることになった。この間、鎌田上等兵たち第九中隊は、城壁上での中国兵との銃撃戦にそなえて掩体として土嚢を作ることになり、それぞれ米袋などに土を入れ、五キロほどの土嚢を作り始めた。 土嚢を作ってから鎌田上等兵たちは城壁上と左前方から撃ってくる中国軍の銃撃に応戦しながらクリークの前まで進んだ。そうするうちに、中華門と西南角の中間を目標にしていた大分の連隊が 目標とする城壁前まで進んできていた。 大分の連隊は城壁まで進んで野重砲が配属になっていなかったので、城壁前まで進むとそのまま城壁攻撃に移ることにした。まず第三中隊から六人の決死隊が選ばれ、竹梯子を登って城壁上まで 登ることにした。梯子は二つの梯子を結び付けたものであるが、十数メートルもある城壁では城壁の上から四メートルのところまでしか届かない。そこで決死隊はそこから煉瓦を登ることにした。 決死隊は城壁上から撃ってくる中国軍と銃撃戦を行いながら城壁の上まで登った。中国軍の守備は薄いとはいえ、守備についていた中国軍も必死で、そのため六人の決死隊のうち五人がたおれ た。それでも大分連隊は新しい決死隊を送り込み、十二時二十分になり、城壁上に日の丸を立てることができた。城壁上を占領してその上に日の丸を立てたのは日本軍の中では初めてであった。 その地点から五、六百メートルほど西南よりの城壁の前で鎌田上等兵はこの様子を見ていた。鎌田上等兵の所から城壁に梯子が架けられるのは見えたか、兵隊が梯子を登っていくのは見えなかっ た。兵隊が梯子を登っていくとは考えもつかなかったからやがて城壁上に日の丸がはためくのが見えたとき、それは梯子の先に日の丸の旗が結わえ付けられたものと思った。しかし、ともかく、城 壁上には日の丸がはためいているので都城の兵隊も早く城壁上に攻め登らなくてはとあせった。 水西門や城内の清涼山から撃ってくる中国軍の砲撃は激しく、このまま城壁突入しても成功はむずかしいように思われた。 中国軍の砲撃に対して日本軍からも砲撃が行われ、あたり一面すごいうなりが響いている。三時ごろになり、連隊砲、野砲の城壁への攻撃が始まった。攻撃は正確であったが、城壁の上部は幅十 五メートルもあり、煉瓦で覆われている。一つ一つの煉瓦は長さ九十四センチ、幅八十八センチ、厚さ三十六センチもある大きいもので、少しも崩れなかった。 そうするうちに工兵隊が高梁の藁を束ねたものを運んできた。藁の長さは三、四メートルほどあり、それを直径一メートルほどの太さに束ねたもので、これを次々つないで仮橋にするというの だ。工兵隊は束をクリークに投げ込むと、一人一人クリークに入り、水中から高梁の東を支えた。体を敵にさらしたままで、仮橋の支柱になるのだ。すべての準備はととのった。 四時三十分、今度は野重砲の一斉射撃が始まった。野砲や連隊砲ではびくともしなかった城壁であったけれど野重砲の十五榴弾の一発が命中すると、とたんに最上部が大きく崩れた。砲撃は三分 間続き、五十二発中四十発が命中し、城壁はあっという間に幅十一メートルほどにもわたって破壊された。十五メートルほどの厚さの城壁は半分ほどえぐり取られ、十八メートルの高さのうち上部 の半分以上が崩れ落ちた。落ちた瓦磯が城壁の下に積み重なり、それを見ていた鎌田上等兵は、崩れた瓦磯から登れば登れるだろうと思った。 後方からはまだ連隊砲などの日本軍の砲撃が続き、城壁の前て爆発するものもある。砲撃の最後を示す発煙弾が撃たれたのかもしれないが、野重砲のすさまじいうなりと、城壁が崩れる砂塵など で鎌田上等兵には今が突撃のときなのかどうかわからなかった。 そのとき、近くにいた萩原軍曹が飛び出し、高梁の橋を渡り始めた。高梁で作った橋は一人を支えるのが精一杯で、また、一斉に渡れば狙い撃ちされるので一人ずつ渡るしかなかった。萩原軍曹 が無事渡り終わろうとするころ、もう一人の兵が飛び出した。 そうやってつぎつぎクリークを渡っていった。途中、敵の銃撃でたおれる兵もいたが、十人ほどが渡った。後方からは、破壊口を広げて登りやすくしようと、連隊砲の砲撃は続いていたが、十人 ほどが渡ったころ、鎌田上等兵も五キロほどある土嚢と四キロの銃を持って飛び出した。
P213 仮橋はもともと浮いている藁を水中から工兵隊が支えているだけだから、足をのせるたびに揺れる。左前方からの中国軍の銃撃は続いており、日本軍の砲撃による瓦礫の破片も前方から飛んでく るので、これらを避けなければならない。その上、土嚢と銃を持っているからうまくバランスを取らなければ渡れない。そう思ったとたん、鎌田上等兵はバランスを崩してクリークの中に落ちて しまった。それでも銃と土嚢だけは離さなかった。しかも、渡り始めたところだったのでクリークは胸までの深さだった。鎌田上等兵は夢中で高梁にすかりつきはい上がった。 再び高梁の橋を渡り始めた。 クリークの中ほどは深いので工兵隊も水中から支えるわけにはいかない。足を踏み出すたびに高梁の橋は沈み、左右に揺れる。バランスを取りながらようやく二十メートルほどのクリークを渡った。 クリークを渡り切るとそこから城壁まではさらに五十メートルほどある。左前方にいる中国軍はクリークを渡った日本兵を狙って撃ってきており、クリークを渡ってもまだ危険な状況は続いて いた。クリークを渡った所では真っ先に渡った萩原軍曹が砲撃の破片で足をやられてたおれていた。城壁近くでは清武一等兵がたおれていた。左から来た弾が清武一等兵のこめかみから目に抜け たらしく、眼孔から目玉がたれさがっていた。目玉がこんなに大きいものかと驚いたが、それも一瞬のことで鎌田上等兵は城壁へ向かって走った。 城壁前まで来ると、左からの中国軍の銃撃には死角になり、銃撃の心配はなくなった。 しかし、クリークをはさんで見たとき、城壁前の瓦磯は斜面をなし、簡単に登れそうに見えたが、いざ登ろうとすると、ほとんど垂直で手をかける先から瓦礫が崩れだした。 鎌田上等兵は十数メートルの瓦礫をほとんどすいつくようにして登った。手と足はすがりつくのに精一杯だったため、肩とあごで銃と土嚢を押さえなければならなかった。登る時間は一瞬のよう に感じたが、実際は数分間かかったのかもしれない。そのころになってようやく後方からの砲撃がやんだ。城壁上には激しい日本軍の砲撃のため、一人の中国兵もいなかった。城壁上にあったトー チカの中で五人ほどの中国兵が死んでいた。 城内を見下ろすと城壁近くまで民家が密集していたが、近くから撃ってくるということもなかった。城壁は内側もほぼ垂直で、何本かの竹梯子がたてかけられてあった。中国軍は先ほどまでこの 竹梯子を使って城壁上に登り降りしていたらしかった。 第九中隊の兵隊たちはすぐに持っていた土嚢で西南角の方と中華門よりの方に掩体を作り、軽機関銃をすえ、中国兵が攻めてきても応戦できるよう準備を整えた。時に四時四十四分であった。依 然、日本軍の野重砲は城内の中国軍砲台をめがけてすさまじいうなりをあげていた。 第九中隊の兵隊はつぎつぎ登ってきたが、半分以上が城壁上に登ったころ、後方にいるはすの牛島旅団長が登ってきた。牛島旅団長は少将であり、既に四十九歳である。まだ中隊長はおろか、 大隊長も連隊長も登ってくる前で、城壁上はいつ中国軍の逆襲が行われるかわからないときである。城壁の下で旅団長を見つけた中隊長が止めようとしたが、旅団長は大丈夫だといってそのまま 登ったというのだ。鎌田上等兵たちは牛島旅団長が登ってくるのを見て、驚き、そして感動した。 牛島旅団長は、この春、少将に進級し、第三十六旅団長として鹿児島に赴任して来た。都城と鹿児島の連隊を統べる旅団長である。 鹿児島にいたとき、牛島旅団長はどんなことがあっても怒ることなく、兵隊一人一人を暖かく包みこんでくれた。第六師団の先遣隊として南京に向かって進む間も気軽に兵隊たちに鹿児島弁で声 をかけ、強行軍で疲れている兵を励ました。旅団長に声をかけられた兵も、遠くから旅団長を見るだけの兵も牛島旅団長の下の一兵士であることを誇りにしていた。 戦場では旅団長も兵隊も同じ生活をするが、牛島旅団長は朝になると兵隊たちと野原に並んで用をたすこともあった。三日前、牛島旅団長が一人で朝の恒例の用をたしている最中、突然四人の中 国兵が現れた。旅団長はそれを見ると、手招きして中国兵を呼んだ。旅団長の雰囲気にのまれたのか、中国兵はおとなしくついてきた。まさに無手勝流で、四人を捕虜にしてしまった。それ以来、 旅団司令部ではこの中国兵を使役として使うことにした。そのような旅団長だったから、旅団長が来たからにはたとえ中国軍が逆襲してきても必ず撃退できると兵隊たちは思った。間もなく中隊長 も城壁上に登ってきて、そこで中隊長の発声ではじめて万歳三唱をした。牛島旅団長も大声で万歳を三唱した。まだあたりは明るかった。(つづく)
丸MARU 1989年11月号 通算520号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第11回 P200 ″敵前逃亡″をはかる中国兵 南京城にある十九の門のうち、日本軍が最も早く攻撃を始めた光華門では中国軍も死に物狂いで守り、攻防戦は十二日で三日目に入った。門の外では鯖江連隊の第二大隊と第三大隊がいつ自分たち の出番が来るかと待っていたが、十二日午後二時になり、第二大隊に対して、第一大隊に代わって攻撃し光華門を占領するように命令か出された。 光華門の中の日本軍陣地を守っていた第一大隊では、第二中隊長の竹川中尉が竹川集成中隊として残っているすべての兵隊を指揮することになり、その竹川中隊を、新しく参加する第二大隊の 檜皮少佐が併せて指揮することに決した。しかし、第二大隊もそのときは二百名足らずで、戦力としては中隊と殆ど変わらなかった。 ともあれ攻撃命令が出ると、第二大隊は早速光華門に補給を図った。しかしこの作戦はことごとく失敗した。 夕方になり重砲の砲撃が再開され、城壁の一部が崩れた。城門の外にはたそがれがせまってきた。第二大隊では夕闇を利用して城門内にいる兵隊に補給を図ろうとした。夕闇がさらに濃くなっ たころ、数十人か弾薬と食糧とともに城門に突入することになった。西坂上等兵もその一人に選ばれた。 P205 間もなく突入の命令が下り、伊藤中隊長以下の突撃隊が光華門に向かった。 夕闇を利用した突入は成功した。 突入した数十人が光華門に入っでみると、城門の中はいたるところに日本兵の死体があった。生存者も傷つき、数日間は何も食べていなかったためほとんど生きる屍であった。しかも城壁上から は中国軍が休みなく攻撃をしてくる。西坂上等兵は、日本兵の死体の衝撃と頭の上から来る中国兵の攻撃で我を忘れた。ひたすら生存者の看護を続けた。 宇都宮の連隊は十二日の朝から南京城外の南にある雨花台を攻めていたが、まだ雨花台の半分以上は中国軍が確保していた。十一日の夜も砲声は一晩中頭上でうなり声をあげていて、夜も昼もな かった。高松伍長は既に二日もまともに食事をしていなかった。所持している食糧はなかったし、後方から補給されることもない。辺りの丘陵には塹壕の他にたまに畑があるので、運がよければ野 菜が手に入ることがあり、それが食べ物であった。もちろん洗って食べるということはできないので、泥を落として生のままかじる。この野菜よりももっとまともな食べ物は中国兵の持っている ものだった。中国兵は南京米を鍋で炊いて、そのときできたこげを雑嚢のようなものに入れていた。塹壕の中には多くの死んだ中国兵がいるので、死んでいる中国兵の持っている袋を探し出 し、こげを見つけだすのだ。わずかなこげであったが、それが最も食べ物らしい食べ物て、見つければ、これを皆で分けて食べあった。 昼になると第四中隊が連隊の予備隊から第一線
P206 に出ることになった。高松伍長の所属している中隊である。しかしそれまで予備隊にいたといっても第一線とは数百メートルしか離れておらす、しかも中国軍の確保している塹壕と日本軍の占領し た塹壕は入り乱れていたから第一線も後方も殆ど差はなかった。 第四中隊が第一線に立つことになったけれど、中国軍の撃つ迫撃砲が度々近くで破裂しているため中隊の統制はとれていなかった。そのためさしあたって小宅第一小隊長代理が高松伍長たちの第 一小隊とさらに第三小隊を指揮して、城壁突入部隊を援護していた第三中隊の右翼に進むことになった。宇都宮連隊の中で最も右翼の位置である。 第四中隊が第三中隊の右翼に進むと、前方に鉄道線路とクリーク、そして城壁が見えた。城壁を前にしていた第三中隊は、宇都宮連隊の中では最も苦しい戦いを続けていた。中隊長以下悲槍な形 相で、第四中隊は声をかけることもできなかった。 しかし、第百十四師団の中では第三中隊よりさらに苦しい戦いを続けている部隊がいた。第三中隊の左側で南京城を攻めている水戸の連隊である。 南京城の南側は第百十四師団と第六師団が攻めていた。第百十四師団の西を攻めた第六師団は、第百十四師団より早く城壁まで進んだため、第六師団の前にいた中国軍は第百十四師団の前方に移 った。そのため、第百十四師団はもともと第百十四師団の前方にいた兵隊のほかに第六師団の前にいた兵隊とも対峙することになった。第百十四師団の中では水戸の連隊が最も第六師団よりを進ん だため、水戸の連隊が多くの中国兵の攻撃を受けることになり、中華門近くまで攻めながらたびたび逆襲され後退するという戦いを続けでいた。だから水戸の連隊とくらべれば宇都宮の部隊は楽であった。 いよいよ高松伍長は最前線に進んで戦うことになった。最前線に立つと、敵の様子が分かるのは自分の両脇数十メートルと、その前方だけである。頭の上を中国軍の砲弾と日本軍の砲弾が飛び 交っていて、中国軍が激しく抵抗していることだけがわかる。前線は膠着状態で、目の前に城壁が見えるが、城壁まで進むのにどのくらいかかるのか皆目見当 かつかなかった。城壁前のクリークまではあと一キロメートルもなかったが、宇都宮連隊がここまでの三キロメートルを進むのに三日かかっている。 それでも前方にいる中国軍の様子はよく分かった。中国軍には督戦隊がいて、その督戦隊は、戦場で尻込みをしていたり、戦線から逃げようとする兵隊がいる と、後ろから容赦なく射殺する。しかも督戦隊は精鋭の兵隊から編成されている上、強力な銃を持っているのて、狙われた兵隊は抵抗ができない。そのため、士 気のない中国兵でも督戦隊が現れると死に物狂いで攻撃してくる。 その督戦隊を、南京城壁を前にして高松伍長は初めて見た。 中国軍は激しく日本軍と戦ってきたけれど、後ろはクリークや城壁て逃げ道がなかった。日本軍の攻撃はなかなかはかどらなかったけれど、それでもじりじりと攻めており、こ のままでは最後に中国軍が全滅するのが目に見えていた。そのため中国軍の中には戦闘意欲をなくしている兵隊がいた。その兵隊を後方や城壁上から督戦隊が狙い撃つのだ。高松伍長が狙おうとし ていると、突然督戦隊に撃たれて中国兵がたおれる。話には聞いていたけれど、非情な督戦隊に高松伍長はおどろいた。
P207 そうやって少しずつ前進していった午後三時ころ、突然、前方にいる中国兵が白っぽい旗を振った。何かの合図なのか、それが何を意味しているのか高松伍長には分からない。日本軍からは攻撃 が続いており、城壁上の中国軍からも日本軍を撃ってきている。白っぽい旗がまた振られたようだ。 降伏の合図なのかと一瞬思った高松伍長は、しばらくして撃つのをやめた。すると、数人の中国兵が高松伍長の方向に向かって歩いてきた。中国兵は日本側に逃けても助かるものなら助かりたい と思っているらしかった。すると城壁土の督戦隊がその兵隊たちをめがけて撃ってきた。督戦隊からみると彼らは敵前逃亡であり、射殺するだけである。高松伍長は、逃げてくる中国兵を見て督戦 隊が狙うのは当然のような気がした。もちろん日本軍も逃げてくる中国兵めがけて撃ち続けている。日本兵にとっては、中国兵は南京城を死守するつもりで、降伏してきたとは思われず日本軍側 に向かってきた中国兵は攻撃を続けていたのだ。それに、戦いの途中急に戦いをやめたといわれても、戦友を失っている日本兵の気持ちとしては戦いをやめるわけにはいかない。 高松伍長とは離れた先頭で指揮していた小宅小隊長代理も前方に白いものを見た。小宅小隊長は、白旗らしきものが見えると、その方向にむかって手招きをした。それを見た督戦隊は城壁上から小宅小隊長を狙ってきた。 しかし、最初の中国兵が日本側に逃げたと分かると、それに続く中国兵か現れてきた。 高松伍長に向かった中国兵はそのまま進んで、やがて高松伍長の前に現れた。 目の前に中国兵が現れた高松伍長は、戦いどころではなくなってきた。中国兵が立っているところは督戦隊から見えるところで、高松伍長も危なかったので、そのまま中国兵を後方に連れていった。 降伏してきた中国兵は、あちこちにおり、中国兵は自然と同じ場所に集められ、やがてその数は数百人にも達した。後方に連れてきて中国兵の攻撃から安全になるとはじめて高松伍長たちは落ち 着いた。そこで中国兵の持っている武器を放棄させた。自動小銃、軽機関銃など日本兵より立派な銃を持っている者が多く、放棄させた重機関銃などで兵器の山がてきた。 武器は放棄させ、一安心はしたけれど、言葉が通じないので、混乱は続いていた。中国兵の中にはふてぶてしい顔をした者や、隙あらば飛び掛かってきそうな様子を見せている兵隊がいる。不安 にかられた高松伍長は中国兵の巻脚絆をはずさせ、それで二人ずつ手を縛った。高松伍長だけでなく回りにいる日本兵も同じように思ったのか巻脚絆で縛りだした。巻脚絆といっても厚めの布で あるからほどこうとすればすぐにほどけるもので、気休めにすぎなかったけれど、そうするより他に方法はなかった。 高松伍長はそれでも心配だったので、縛った中国兵を線路のそばに座らせた。 しばらくすると、雨花台の方に工場として使われていた建物があり、そこに中国兵を収容したら
P208 どうか、という話がおきたので、野外よりはと、そこに収容することにした。 引き続き高松伍長たちが中国兵を監視することになり、工場だったという建物まで中国兵を連れていくことになった。 夜になると、捕虜を監視していた高松伍長たちに食糧が届いた。高松伍長たちがまともな食事をすることができたのは三日ぶりである。日本兵たちはその一部を中国兵にも食べさせることにし た。ところが驚いたことに、中国兵はどの兵隊も元気よくきれいさっぱりたいらげたのである。戦いの途中、簡単に逃げてくる中国兵にも驚いたけれど、日本軍に捕まってもこれほど食事がすんな り喉を通るのかと高松伍長はますます中国兵の気持ちが分からなくなった。 夜が更けるとともに建物の中はさらに騒がしくなりだした。督戦隊から逃れてくるときはおとなしい中国兵であったけれど、督戦隊から逃れろと、元の中国兵に戻り、そのため建物では監視の 日本兵と一触即発の状態になった。中国兵の中には建物をゆさぶってあばれる者や、壊して逃亡をくわだてる者もいた。それを見た日本兵の中には、戦友をやったのはこいつらだ、と中国兵に斬 りかかる兵もいた。城壁前の戦いが工場跡の建物の中で再開されたようなもので、建物は一晩中騒然としていた。 高松分隊たちは寝ないで中国兵の警備にあたることになった。しかし、二日にわたりまともに寝ていないので、誰もが体力の限界を越えていた。ときがたつにつれて、高松伍長は意識が朦朧とな り、中国兵があばれたら大変だという気持ちがあつたけれど、こうなったらもうどうでもよいという気持ちの方が強くなっていた。 建物の回りにはまだ抵抗している中国兵がおり、日本兵と中国兵で混乱していた。特にクリークの前は中国兵と日本兵が右往左往して、言葉を交わさないと、敵か味方か全く分からなかった。 第百十四師団の中では、既に右翼隊となった高崎と松本の連隊が、東南にある雨花門から城内に入り、城門一帯を完全に占領していたけれど、水戸と宇都宮の左翼隊ぱとうとうこの日までに城壁を落とすことはできなかった。 光華門をめぐる攻防戦 中山門外にある西山の山腹で一晩過ごした福知山連隊の山室分隊たちは、十二日の夜明けとともに頂上をめざして攻撃を始めた。 攻撃は順調に進み、第二中隊の援護もあって、正午過ぎには西山の頂上を占領することができた。 しかし、西山は南京城東側を守っている中国軍にとって城外最後の砦なので、午後になると兵をまとめて反撃をしてきた。しかも、死に物狂いの反撃て、近くにある紫金山や張学良の邸宅からも福知山連隊を狙って撃ってくる。 中国兵の反撃は強力で、山室分隊たちは占領した場所を確保するために、再び陣地を築かざるをえなかった。今日こそ西山を占領した上に中山門を攻撃しようと思っていたけれど、確保するのが 精一杯で、そのためこの日も西山にとどまることになった。 それでもこの日、山室分隊には久しぶりに乾麺包半袋と味噌、缶詰の配給があった。ここ一週間ほど前線では毎日一キロかニキロしか前進することかできなかったので。遅い輜重部隊も追いついたのである。 この夜も一晩中中国軍の砲撃が続き、砲声がやむことはなかった。特に迫撃砲はたびたび近くに落下し、真夜中には十メートルほど近くに落下した迫撃砲て山室分隊全員が頭から土をかぶった。 夜になって横になると、山室伍長も疲れを感じた。しかし、こうやって怪我もなく日本のため天皇陛下のため戦ってこれたことに感謝せすにはいられなかった。自分を守ってくれたのは神様か、 自然の力なのか、鎮守の森なのか、あるいは親なのか、とそれぞれにおもいを巡らした。そして、それらすべてが自分を守ってくれていると思うと心が生き生きとしてきた。生死の境におかれてい たため、いつもと違って感謝の気持ちでいっぱいになっている自分に驚きもした。 揚子江右岸を進んでいた仙台と会津若松の部隊のうち、仙台の部隊だけは十二日炭渚鎮に来たとき、揚子江を渡ることになった。先に揚子江を渡った部隊と一緒になり、南京の背後に向かうため である。残った部隊は山田栴二旅団長以下、会津若松第六十五連隊、山砲一大隊、騎兵一大隊にな
P209 つた。 午後になりこの部隊に、南京の揚子江沿いにある烏龍山と幕府山を攻めるように命令が下った。 烏龍山と幕府山は南京城と揚子江の間にあり、この山にも揚子江に向けた砲台がある。揚子江岸最大の要塞があった江陰を無事通過した海軍の砲艦は、その後揚子江左岸から撃ってくる敵と交戦 しながら、この日の午後には烏龍山下流にある閉塞線まて到達していた。 また、烏龍山の砲台は揚子江だけに向けられているのではなく、内陸にも向けられている。その砲台が紫金山の北側から南京に向かった奈良の連隊をも砲撃していた。揚子江沿いに攻めていた会津若松第六十五連隊にこの砲台攻撃 命令が出されたのは当然である。 しかし、鳥龍山は炭渚鎮から二十キロメートルも先である。このため部隊は命令が出るとただちに出発し、十二日の深夜に烏龍山のふもとまで進んだ。 西南の城壁上にいた中国兵は、十二日午後、いったん城壁上を水西門のほうに退却したが、砲撃がやみ、夕闇がせまると態勢を立て直して攻めてきた。喚声をあげて城壁上を走りながら進む姿は、遠くの城壁上にいた大分連隊の兵隊にも見えた。 大分の連隊は竹梯子で登ったため、城壁上を占領したのはわずかな兵隊で、中国軍の本格的な反撃があったらもちこたえられるかどうか危ういところであった。そういうときに城壁上を中国軍の兵隊が進んできたのである。 大分の兵隊よりさらに水西門側にいた都城の鎌田上等兵たちは土嚢を掩体にして、進んでくる中国兵を待ちうけた。 このとき、すでに野重砲の観測兵たちは第九中隊と踵を接するように城壁上に登ってきていた。そのため城壁上を攻めてくる中国兵に対してまず野重砲が砲撃した。 都城連隊の中でも、まだ第九中隊しか城壁にたどりつくことができない状況の中で、野重砲の観測兵たちが城壁上まで観測地点を進めたことは勇敢なことで、こうして中国兵は撃退され、都城の 部隊も大分の部隊も無事だった。野重砲の活躍には後に第六師団長から賞詞が授与された。 城壁上を攻めてくる中国軍は野重砲に撃退されたけれど、南京城内からは破壊ロの日本兵をめがけて砲撃が続いていた。中華門を目標にしていた熊本の連隊はまだ中華門に達していなかった。ま た、大分の連隊では城壁上まで登った兵隊はごくわずかであった。そのため南西の破壊ロにいる都城の部隊だけが中国軍の標的であった。 これに対して日本の野重砲も中国軍の砲台のある清涼山を砲撃し、夜の十時半ごろまで砲撃は続いた。 城壁上を攻めてきた中国兵は撃退されたけれど、完全に夜のとばりがおりると中国軍の攻撃が再開された。牛島旅団長は避難しようともせす、第九中隊を督戦する。何度目かの夜襲のとき、中 隊長はむりやり牛島旅団長に城壁上のトーチカに避難してもらった。 夜が更けるとともに夜襲は小規模に、そして間遠になってきた。 鎌田上等兵は城壁上で中国兵の攻撃にそなえているうちは夢中だったが、中国軍の攻撃か一段落すると急に寒さを感じてきた。クリークに落ちたとき軍服がびしょぬれになっていたからである。 そこで城壁の上で死んでいる中国兵の服をはぎ取って羽織った。 中国軍の攻撃は小規模になったけれど、真夜中まで続いていた。
P210 城壁上にひるがえる日の丸 十二月十二日の昼すぎに、大分の第四十七連隊が城壁上まで登った。夕方には都城第二十三連隊が西南角の城壁を破壊し、城壁上を占領した。また、第百十四師団の高崎と松本の部隊も夕方には 東南角の鉄道出入り口から城内に入りつつあった。日本軍が最初に城門攻撃をした光華門では攻防が三日目に入っていた。 このため唐生智南京衛戌軍司令長官は、南京城防衛もこれまでと観念し、南京からの脱出を決意した。自らは?江門方面から脱出するとともに、南京防衛にあたっていた全軍に、日本軍の包囲を 突破して南京を脱出するように命令した。 この命令は一斉に各門に伝わり、十二月十二日午後十一時を期して総退却が行われることになった。 夜中になり各門の守備についていた中国兵は命令通り日本軍を攻撃しつつ撤退を始めた。 十二月十三日の午前一時になり光華門の鯖江第三十六連隊ではあらたに連隊長命令が発せられた。午前八時、夜明けとともに光華門総攻撃を行うという命令であった。八時から十時までの二時 間、重砲により城壁を攻撃して瓦礫による斜面をつくり、一方、山砲などによる城門への砲撃を行い、十時とともに檜皮少佐以下第二大隊が一斉に城門に突入するというものである。 既に光華門に突入していた西坂上等兵は光華門内の土嚢と瓦礫の中で夜が明けるのを待った。回りは真っ暗でだれがだれか分からない。門の中は日本兵の死体がごろごろして死臭、異臭がみなぎ っていた。あと数時間でいよいよ最後の攻撃である。中国軍の抵抗が強ければ第二大隊にも第一大隊と同じ運命が待っている。鯖江を出発するとき、脇坂連隊長が、 「みんなの命は連隊長がもらった」 と訓示したことが思いだされた。上海でも、淳化鎮でも、何度か危ういときがあったけれど、いよいよそのときが自分にもきたのかと思った。 西坂上等兵はまんじりともせす光華門の中で夜の明けるのを待っていたが、刻々と緊張の度が高まるにつれて、城門上は反比例して静かになってきた。嵐の前の静けさというのであろうか。 しばらくして、伊藤中隊長が、 「指揮班長、ようすを見てこい」 と命令した。指揮班にいた西坂上等兵は指揮班長に従って城門内の瓦礫を登った。 途中から城門の煉瓦に足をかけて城門の上まで登って、そろそろと頭を出した。中国兵が待ちうけていれば、一発で殺される。中国兵にわからないように、しかも城壁上が見えるまで頭を出さなければならない。 ぎりぎりまで頭を出すと、中国兵の動く影は見えない。薄気味悪いほど静かで、どこからも手榴弾はとんでこない。そこでさらに頭を出して見たが、城壁上には一人の中国兵も見えなかった。 既に中国軍は全員撤退していたのだ。連隊長命令が出て、いよいよ、と決死の覚悟でいただけに
P211 西坂上等兵は拍子抜けしてしまった。二人はすぐに瓦礫を降りて中隊長に報告をした。 中国軍が撤退したという報告に第二大隊はただちに城門の外に出た。そして城門左の崩れた城壁から登った。竹川集成中隊は右側の崩れた城壁から登った。やはり中国兵の抵抗はなかった。 城壁上に登り、鯖江連隊は完全に光華門を占領した。まだ回りは真っ暗で、時刻は四時過ぎであった。 午前五時になると、土手下の工兵学校にいた連隊本部も軍旗を奉じて光華門に登ってきた。連隊本部が城壁上まで登ってきたとき、鯖江連隊は始めて皇居を遥拝し、万歳を三唱した。兵隊たちは 持っていた日の丸の旗をそれぞれ城壁上に立てた。立てられた何本かの日の丸の旗は光華門の上ではためいた。 やがて十三日の朝が白々と明け始めてきた。西坂上等兵は光華門の城壁の上に立って南京城内をながめた。城内の何カ 所かからは黒煙が立ちのぼり、天に冲していた。いつものように中国軍が退却するにあたって放火した煙であるらしかった。城内からは何ひとつ音が聞こえてこず、静かである。 城門内にいるとき、西坂上等兵は、中国兵がどこから撃ってくるかわからなかったから常に防衛の姿勢をとっていた。瓦礫の中で十時間もの間小さくなっていたがもうその必要はない。城壁上で は思い切って背伸びをした。何度も何度も背伸びをした。 そこへ同じ中隊にいた従兄弟の高橋太重郎伍長がやってきた。従兄弟は、西坂上等兵を見ると、 「元気で運の強い男だな」 と言った。半分あきれているような言い方だった。 従兄弟にそういわれたけれど。西坂上等兵は何故かむやみに嬉しかった。ついに南京城を攻略したのだ。嬉しくて仕方がなかったのだ。 連隊長命令ては、城壁を占領した後、引き続き城内の敵を攻撃することになっていたが、光華門上から見るかぎり城内には敵は見えなかった。中国兵の死体もほとんどなかった。中国軍は引き上 げるとき、中国兵の死体をも運んだのであろう。 しかし城内は城外と違って建物が密集しているから中国軍は建物の中に隠れているのかも知れない。上海では中国兵は建物に拠って戦ったからあ りうることである。もしそうなれは城壁攻略よりめんどうな戦いになるかもしれない。西坂上等兵は門の上でそう思った。(つづく)
丸MARU 1989年12月号 通算521号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第12回 ? P208 中国兵はどこへ消えたり? 都城連隊の鎌田上等兵はほとんど眠ることもなく城壁上で十三日の朝を迎えた。寒かったけれど、緊張で眠気も空腹も感じない。城壁は占領したものの、城内の中国軍との戦いがひかえてお り、夜が明けると、他の中隊も破壊ロから登ってきた。新しく登ってきた兵隊は、揃うとそこから城内に下りて、町の中心に向かって進んでいった。 鎌田上等兵たちは彼らを見ながらそのまま城壁上で守りにつき、しばらくしてから城壁上を西に進むことになった。 進んでいく途中、城壁上には昨夜の夜襲でたおれた中国兵が何人も死んでいるのに出会った。しかし中国軍からの攻撃はどこからもなく、そのまま一キロほど城壁上を進み、水西門まで行ったところで、城内に下りた。 水西門は楼門の造りで、門は三重からなる立派なものであった。水西門から入った城内は水西門大街という繁華街になっており、繁華街の通りには土嚢が積み上げられ、陣地が築いてある。しか し、土嚢から撃ってくる様子はなく、中国兵は一人も見当たらない。建物のいくつかは昨日の日本軍の砲撃で壊れていて、一人の市民もみあたらない。 ?P209 繁華街を注意深く進み、水西門一帯に中国軍がいないとわかると、鎌田上等兵たちは中国軍の砲撃の拠点であった清涼山に向かうことになった。弘法大師が修行したという有名な山である。 清涼山は南京城壁よりやや高いくらいの小高い丘で、六門の重砲があった。 ここにも中国軍はいなかった。夜半まであれほど激しく砲撃し、何度も夜襲を繰り返していた中国兵は一体どこに逃げていったのだろうか。わずか数時間の間で中国軍はかき消すように消えていた。 鎌田上等兵たちの城内掃討地区は水西門近くの一画だったので、清涼山まで行くとそこまでにして、しばらくしてから水西門まで戻ることになった。 結局、鎌田上等兵は城内で一人の中国兵も見ることなく、この日は水西門近くの民家に宿営した。 一方、中山門外の西山の陣地で寝ていた山室伍長たちは、十三日のまだ暗い午前六時、突然、命令を受け取った。中国軍は退却した模様なのでただちに追撃せよ、との命令である。わずか数時間 前までは中国軍と激しく撃ちあっていただけに、中国軍が退却したらしいという話にはすぐさま信用できず、山室伍長は驚いた。ともあれ山室分隊は頂上付近の塹壕にいたので、追撃の準備をして急いで丘を下りた。 下りると、そこは中山門に通じるアスファルトの中山公路である。西山にいた他の重機関銃隊にも同じ命令が届いたらしく、つぎつぎに西山から下りてきた。重機関銃中隊は中山公路上で一緒に ?
P210 なると揃って中山門に向かうことになった。もう夜が明けようとしている。 昨夜、午前零時を過ぎるころ、福知山連隊の中で予備隊として後方を進んでいた第二大隊の将校斥候が中山門に向かった。暗闇を利用して中山門に向かうと、近付くにしたがって中国軍の守備が 手薄になっていく。中山門にたどりつくと、一帯は静かで、中山門の守りについた中国軍は撤退している様子であった。斥候はただちに引き返して第二大隊本部に報告し、報告を受けた第二大隊で は西山にいる第一線部隊を追い越して中山門まで進んだ。 中山門に進んでみると、中国軍からの攻撃はなく、中国軍は中山門から完全に撤退していたことがわかった。 結局、中山門の最後の攻防戦は福知山連隊のだれもが意識しないまま十二日で終わっていたのである。 第二大隊が到達した中山門は三つのアーチが並んでいて、どれも厚い鉄の扉で閉じてあり、内側には土嚢がうず高く積み重ねてある。そのため門からは入れなかったけれど、三日間にわたる野砲 による砲撃で中山門脇の城壁が崩れ、瓦礫で急な坂道ができていた。 第二大隊はここから中山門に登り、このとき城門の扉に「大野部隊占領 十二月十三日午前三時十分」と記した。 中山門占領の知らせは連隊本部に届けられ、大野連隊長は病気で日本に返っていたので連隊長代理の青木少佐以下が六時過ぎ中山門に登った。 山室分隊たちに直ちに追撃せよとの命令がきたのはそのころである。 結果として中山門占領に遅れてしまうことになった山室分隊たちが中山門に向かって進むと、中山公路の道路脇にあるプラタナスの並木はことごとく切られ、道路に押し倒されていた。道路のま わりにある竹林の竹も根本から切られ、切り口は矢のように尖っている。中国軍は日本軍の進撃をくいとめようと考えられる限りの防御を施していたのだ。 そういう光景を見ながら中山門までくると、中山門上には日章旗がはためいていた。 中山門外までくると山室分隊たちは、城壁の外でしばらく待機させられた。 しばらく待機して、午前一時半、これから城内掃討を行うという命令が下った。 山室分隊たちは中山門脇の瓦礫の坂を登った。 中山門の上にはトーチカがあり、あちらこちらに砲撃でたおれた中国兵の死体があった。トーチカには重機関銃の銃眼があり、ドイツ軍の指揮で一年は持ちこたえられるようにしてあるという噂がまんざらでもないと山室伍長は思った。 山室分隊たちは中山門の上まで登ると大声で万歳三唱をし、すぐに瓦礫を下りた。 城内に入ると、中山門からは幅十数メートルの立派なコンクリート道路が真っすぐに伸びている。約ニキロメートルにわたって伸びているこの道路は中山東路といい、数年前に作られたもので ある。山室分隊はこの中山東路の両側を二手に分かれて進むことになった。
P211 軍服を脱いで市民に変装 中山門から数百メートル進むと、明の故宮がある。南京城が建てられたのは明の太祖朱元璋がここを首都と定めた五百七十年ほど前で、そのとき、この地に宮殿が建てられた。即ち紫禁城で、 八百メートル四方の豪華な宮殿である。しかし、その後、明の首都は北京に変わった上、清、中華民国と変わり、今はわずかに石の柱が残っているだけで、それだけから宮殿は想像もできなかっ た。あたり一面は野原で荒涼としている。しかも遺跡は中山東路で二つに分断されていた。 故宮から進むと左手に飛行場があり、右手にはポツンポツンと建物が建ち始める。建物はほとんどが軍の建物で、蒋介石の住まいがある励志社もある。 中山東路を進んで行くうちに、数機の飛行機が上空高く飛んできた。制空権は完全に日本が握っていたので、山室伍長がのんびり見上げると、やがて飛行機は日本兵を狙うように真上まで来て、 突然、爆弾を投下した。爆弾は近くで爆発して、兵隊たちはくもの子をちらすように逃げだした。 飛び去っていく飛行機をよく見るとやはり日本機である。日本機は、まだ日本軍が城内まで進出しておらず、中国兵だと思って爆撃したらしい。戦闘の最先端ては仕方ないことだが、もし友軍の 爆撃で命を落とすのではいくら死を覚悟しているといってもあきらめきれないと日本機を見ながら思った。 幸いなことに負傷者はだれもいなかった。 さらに進むと、中山東路を横切って流れるクリークがあり、近くにはトーチカがいくつもあった。中国軍は中山門が落とされてもさらに城内のこの辺りで戦おうとしてトーチカを作ったものら しい。城外のプラタナスの伐採といい、城内のトーチカといい、幾重にも防御がはどこされているのにはただ感嘆するだけである。 しかし、トーチカの回りには一人の中国兵も見当たらない。山室分隊はじめこのとき城内を進んでいる部隊は中国軍に撤退命令が出ているなどとは夢にも思っていない。緊迫してくる。 城内のクリークを超えるころから道路の両脇に建物が建ち並びはじめた。いよいよ中心街にさしかかり、山室分隊は慎重に進んだ。完全を期すためには建物一つ一つを掃討しなくてはいけない が、迅速に進まなければならなかったから通りに面した大きい建物だけを調べて進んだ。 進むにつれて、道路にチェコ銃が投げ捨てられたり、軍服が脱ぎ捨てられているのに出会いだした。中国兵は市民に変装して建物に隠れているのかもしれない。さらに緊張した。 そのうち予想した通り軍服を脱いで市民を装っていた中国兵が何人かすつ建物に隠れているのを発見した。発見と同時に福知山連隊は一斉に撃った。一瞬でも遅れたほうがやられてしまう。 中国兵をたおすと、そのままに進む。 中山門から入って二時間ほどたったころ、道路かロータリーになっている所にぶつかった。福知山連隊の担当掃討区域は、中山門とロータリーを結ぶ線から北側一帯である、そこで山室分隊はロ ータリーから右に折れて、同じようにコンクリート舗装の道路を進んだ。中山路である。中山路を進むと、急にざわざわと人の気配がし
P212 てきた。やがて通りの左側にある建物に黒山のように人々が群がっているのが見え出した。近付くと女や子供だけで、男はほとんどいない。彼らは避難した市民らしく、 ホッとしたようすで福知山連隊を見ている。中には喜んで手を振っている人もいる。一帯には赤く卍の形を染め抜いた長い布が張ってあり、この布の張られた区域が 避難区域であるらしかった。 しかしこの中にも中国兵は隠れているのではなかろうか。便衣に変装している中国軍と撃ち合った直後だけに、彼らを見た福知山連隊の兵隊たちはそう思った。 十二月に入り南京市長の馬超俊が南京を離れ、役人たちもつぎつぎ去っていったが、このとき、南京城内には二十数人の第三国人が残っていた。布教活動を行ってい たアメリカ宣教師やアメリカのミッション系大学で教えていた大学教授、さらに南京で商売をしていたドイツやイギリスの商人たちである。彼らは第三国人ということで 日中両国から身分を保障されていたためドイツ人のラーベを委員長に難民区国際委員会を作り、南京に残った市民を助けようとした。難民区国際委貝会は城内に国際難民 区を設け、ここで食糧などを与えようとし、中国政府と日本政府に難民区を認めるよう要請した。 この申し出に対して、中国側は市政府関係者がほとんど避難していたので渡りに船と認めた。しかし、日本側は、南京城内はやがて戦闘地域になるだろうと予想しており、難民区を設けるといっ ても戦闘地域とはっきり区別できる目印もないし、また、国際委員会は実力が伴わないので、中国兵が難民区に隠れようとした場合、阻止できないだろうとの理由で認めなかった。 それでも難民区国際委員会は難民区を設けたので、日本軍は隷下部隊に命令して難民区を砲撃しないようにした。 南京に残った市民の多くは食糧と身の安全を求めて難民区に集まった。この地域にはアメリカ人所有の大学や中学校があったので市民が集まるのには便利であった。難民区に集まった市民の数は 十二万ともいわれたから、南京に残った市民の八割ほどがここに集まったことになる。 市民は生活に必要なものだけを持って集まったが、狭い地域だけに雑踏、喧噪をきわめていた。それでも中国人は戦乱なれしていることもあり、難民区内にはすぐに難民相手の店が現れたり、大 道芸人が芸を始め、若い湯女がマッサージする支那風呂も開かれた。この難民区で実際手足となって働いたのは慈善団体である紅印字会の人々で、山室分隊が見た卍を染め抜いた布は紅卍字会の印であった。 光華門を占領した鯖江連隊 しかし、難民区では日本軍が恐れていることがおきていた。 昨夜、撤退命令が出たとき、城内の中国軍は、光華門や中華門と反対の揚子江側にある 江門や興中門に向かった。しかし既に各門は防衛のため内側に土嚢を積んで開かないようにしてあったた め、いざ逃げようとしても大軍が逃げることはで
P213 きなかった。一つの方法として、城壁の上から縄や布をたらしてこれを伝わって逃げようと考えられた。しかし逃げまどう多数の中国兵がわずかな縄や布に一斉に飛び付いたため、混乱が起き、滑 って城壁の下に墜落し、その上に別の中国兵が殺到して下敷きになって圧死する者が相次いだ。城壁を超えて撤退した兵隊はいたけれど、しかしそれは一部で、多くは逃げ切れなかった。 逃げ切れなかった中国兵は市街地に戻り、軍服を脱ぎ捨て、市民に変装して難民区に入り込んだ。難民区の前の中山路や中山北路に脱ぎ捨てられた軍服は何百、何千という数に達した。軍服だ けでない。軍帽、脚絆、銃、手榴弾なども捨てられた。 難民区国際委員会は、中国兵が便衣に着替えて難民区に入り込もうとすると、日本側が反対した理由を知っていながら中国兵を積極的に受け入れた。これは完全に日本に対する敵対行為である。 しかし、難民区国際委員会の後ろにはアメリカ、イギリス、ドイツ政府が控え。しかも難民区の建物の多くはアメリカの建物である。日本軍は敵対行為だからといって簡単に難民区国際委貝会を非難するわけにはいかなかった。 難民区域は金沢の連隊の担当だったので、山室分隊はこれらの建物に入らず、中山路を挟んで反対の地域の掃討を続けた。 中山路を進み、やがて左折すると中山北路になる。中山北路に進むと、大きい建物に中国軍がたてこもっていた。城外に逃げ切れないと判断した中国軍の一部がまとまってたてこもったのである。 中山北路の建物にはこういった中国軍のグループがいくつかあり、福知山連隊も近くの建物を利用して本格的に攻撃した。 まもなく日が暮れ、そのため山室分隊は途中で掃討を切り上げることになった。最前線から戻った三階建ての庚姦祥百貨店に宿営することにした。 百貨店内に入ってみると、貴重なものや高価なものは何もなかったが、下着、タオルなど日用雑貨が残っており、それらは兵隊にとって宝石などよりも貴重々ものてあった。半月以上も風呂に入 っていなかったから下着は汚れほうだいである。兵隊たちは大騒ぎして思い思いのものを身につけた。 光華門は十三日朝、鯖江連隊が占領したけれど、この門からは鯖江連隊の他に同じ師団の敦賀連隊も入ることになった。 西坂上等兵たち第六中隊はしばらく城壁上にとどまったのち、掃討のために城内に入っていった。光華門のまわりは殆ど建物はなかったけれど、城壁に沿って光華門の西側にある通済門方面 に進むと市街地になる。しかし辺りは静かで、市街地を進みながらその静けさは昨日までと比べるとあまりにも対照的なので落ち着かなかった。住民は一人も見掛けることなく、中国兵もいない。 家はどこも空き家で、多くの家は既に略奪されてめぼしいものは殆ど残っていないようであった。 西坂上等兵たちは光華門から一キロメートルほど進み、城内を南北に走る鉄道線路の手前まで行 ?
P214 つた。その先は第百十四師団の掃討地域である。 結局、この地域では何もなく二時間ほどで戻ってきた。 南京城内での第一夜であったその日、西坂上等兵たち第六中隊は線路近くの申家港の壊れた建物に宿営することになった。 はじまった中国兵の処刑 南京城を南から攻めた宇都宮の第六十六連隊は十三日朝、城壁の外で中国軍と対峙しながら中華門から城内に突入しようとしていた。中華門は第六師団の中でも遅れていた熊本の連隊が前夜遅 く、正確には十三日午前一時過ぎに占領していた。しかし、東から中華門に向かった水戸と宇都宮の連隊はその前にいる中国軍を攻め切れず、先頭の水戸連隊は多くの犠牲を出していた。閉ざさ れた中華門の前で戦っていた中国兵は、逃げ道がなく、しかも彼らには撤退命令が届いていなかったため、水戸や宇都宮連隊相手に死に物狂いで戦っていた。 それでも中国軍には補給される弾薬、食糧もなく、まとまって戦い続けることはできなくなり、次第に数人単位になっていった。 日本軍が中華門からやや東によった城壁に砲撃を行うと、城内や城壁上の中国軍側から反撃はなかった。水戸や宇都宮の先頭の兵隊たちは十時過ぎ中華門の東よりの城壁から登った。そしてその まま城内に入っていった。 第百十四師団では高崎と松本の部隊が前日の夕方、中華門からさらに東よりの雨花門を占領したため、この日師団司令部は雨花門前方に進むことになっていた。宇都宮連隊のうち第二大隊は師団 司令部の護衛をしており、師団司令部とともに雨花門方面に移った。十時過ぎに中華門よりの城壁を占領すると、宇都宮の連隊本部も城壁上に進み、第三大隊は連隊本部とともに城壁上から城内 に入っていた。このとき、連隊旗護衛中隊である第一大隊の中の第二中隊も連隊長とともに城内に入った。 残る第一大隊でも第一、第三、第四中隊のうち、第一、第三中隊の一部も城内に入っていたため第四中隊を中心とした兵隊だけが中華門前で抵抗している中国兵と戦っていた。第四中隊も早く 城壁前にいる敵を殲滅して城内に入らなければならなかったが、昨日とらえた中国兵の管理もしなければならなかったので作戦は進まなかった。 昨日から中国兵の管理をしていた高松伍長は、十三日の朝を迎えると、いったい自分たちも満足に食べていないのに、この中国兵にどうやって食べさすのだろうかと思った。 まもなく、中国兵管理のため第四中隊の作戦が進まないので、中国兵を百名位ずつ第一中隊と第三中隊に分けるようにとの命令が高松分隊たちにきた。 とはいってもだれが第一中隊と第三中隊を指揮しているのか、また、指揮官がどこにいるのか分からず、命令が出されたとはいえ、すんなり実行されるような状況ではなかった。 それでも兵隊が連絡に走りまわり、とりあえず、第四中隊が管理していた中国兵の一部を第一中隊と第三中隊に分け、分けた方も分けられた方も中国兵を管理しながら中華門まで進むことになった。 各中隊に分けてみたけれど、第四中隊では中国兵の管理に手をとられて作戦が進まないのは変わりなかった。 午後になり、突然、高柳第二小隊長代理が、
P215 「中国兵を処刑する」 といった。 これ以上中国兵をかかえていても戦闘のさまたげになると考えたらしく、それを聞いて高松伍長 は、中国兵に食べさせるものもないのでそれより方法はないと思った。やるかやられるかの戦闘中だし、彼らを釈放すれば昨夜からの行動から見て日本軍を後方から攻撃するのははっきりしていた。 高柳小隊長代理は処刑命令をすると、自ら持っていた軍刀を抜いて中国兵に斬りつけた。 中国兵は日本軍側に逃げてきた後、素直に従ったり、あるいは、反抗したりしたけれど、多くは逃げたときから観念していたらしく、高柳小隊長代理が斬りつけるのを見てもおとなしくしていた。 その場に居合わせた第四中隊の兵隊は五十人ほどである。兵隊と捕虜の数の割合は一対二ほどなので、高柳小隊長代理が斬りつけるのを見ると、居合わせた兵隊も同じように一人か二人の中国兵に斬りつけた。斬るといっても、中国兵のほとんどは 冬服を着ていたので斬殺することも刺殺することもむずかしい。高松伍長は、高柳小隊長代理が斬りつけるのを見て、刺殺することが一番だと思い、中国兵の後ろから後頭部に銃剣を刺した。 一撃で中国兵は絶命した。 銃剣は中国兵の後頭部から深く入ったので、引くとそのま死体が持ち上がった。そうやって二人の中国兵を刺殺したが、この方法が中国兵のためなのだと思った。 だれかが、「戦友が死んだのはこいつらのせいだ」 と叫んだ。中国兵に斬りつけながら、そのとき、だれもがこれで戦友の仇を取ったと思った。終わった後、円匙で土をかけた。 他の中隊もそれぞれ中国兵を殺したけれど、第一中隊は時間がないので、小屋に中国兵を入れたまま灯油をかけて殺そうとしたため、巻脚絆のとれた中国兵が逃げたと後で聞いた。 中国兵の管理はなくなったが、まわりにはまだ中国兵がいて撃ってくる。高松伍長たちは中国兵との戦いを続け、ようやく夕方になって終わった。 翌十四日、高松分隊は城内掃討のため中華門から城内に入った。入るとき、城壁とクリークの間数十メートルの道路には隙間なく中国兵の死体があるのが見えた。城内に戻ろうとした中国兵であ るが、城門が閉まっていたため城内に逃げることができず、日本軍からうちだされる砲弾が作裂する中で死んだものである。 第四中隊は城内に入ったけれど、既に入っていた部隊の掃討が済んていたため敵兵は一人も見ることなく、数時間後にそのまま城外に戻った。 午後五時になると師団司令部が中華門から入り、市政府に司令部を置いた。(つづく)
249 :
日出づる処の名無し :2010/08/24(火) 22:47:22 ID:U9osMG80
右翼って、日本軍兵士の犯行現場も見ずになかったなかったって、 よく言い張れるよね? 例えるなら、アメリカ人が原爆投下を見てなかったから原爆投下は なかったとか、 オウム信者が、サリン散布現場見なかったから麻原は無罪だ って言っていうようなもんだよね?
>>249 全然違うねぇw
現場を見なくとも、と言うか現場を見ようが見まいが「証拠」が無ければ事実とは言えないだろw
それとも南京大虐殺は原爆や地下鉄サリンと同じくらいの証拠があるとでも?w
たとえば裁判官は殺人事件について現場を見なくてもあったかどうか判断しているんだがなぁw
「現場を見ても居ないのによく判断できるな」と裁判官に言うつもりなのかねぇ?w
まあ、そこまで言うのであれば、当然、原爆投下と同じくらいの証拠を見せてくれるんだろうねぇ?w
それにしても単発で同じ台詞の繰り返ししかできないほど、肯定派の質は落ちたのかねぇw
>>242 >兵士たちの「南京事件」 城壘
阿羅健一氏が書いたこれ読んでみたかったんだ。以前「丸」を古本屋で探そうかなとか思ってたわ。
歩66連帯第一大隊第四中隊の戦闘詳報は小宅伊三郎曹長が書いていた筈。
>>248 の処刑を同じ中隊に
居ながら知らなかった事になる。それとも知っていて書かなかったか、あるいは阿羅健一がどちらかの
証言を改竄したかだな。
253 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 14:51:29 ID:2/U2S7dg
おらおらウヨども、佐藤和男の説は間違いだとさ日本近代史板に詳しくかいてあるから反省しろ 896に詳しく書いてあるからな 特に顔文字野郎反省しっかりみるように
どう読んでも机上の空論です。本当にありがとうございました。
255 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 16:27:21 ID:2/U2S7dg
ウヨくん達は往生際が悪いな 戦数論は古いし支持されてないことは明白だ、例えば国際法辞典や足立純夫氏が書いたよ 明白な事実だ。 さらにユスコーゲンス的色彩の濃い人道法なんからみてもマイナーな存在には変わりない 分かったかねうよくん達、とく顔文字くんは猛省した方がいいぞ
256 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 16:39:48 ID:rplLiXAw
>>255 しょせん学者のタワゴトですが(笑)。
ま、捕虜=俘虜だといってる大バカにはなにいっても無理だわな。
おまえは笑われるための存在でしかないわな。
>>253 極東板でとっくに議論し尽くした話を、さも新説が出たかのように自慢するバカw
>>253 >おらおらウヨども、佐藤和男の説は間違いだとさ日本近代史板に詳しくかいてあるから反省しろ
自分の無知を大声で叫ぶバカw
http://nankinrein.hp.infoseek.co.jp/page027.html 戦数論の正しい解釈
なんとなく釈然としない方も多いと思いますのでここで再度説明します。一般的な戦数反対論は軍事的必要原則を認めた上でその適用範囲が広すぎる事を問題にしています。
ですから戦数反対論をもって軍事的必要原則を否定するのはそもそも無理と言えます。
戦数反対論は佐藤説に対する反証にはなり得ません。
259 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 20:29:49 ID:Lou+Xmep
テレビが撮影した映像はたとえ原本を撮影したものであっても「戦後作成された二次史料」。 「戦後作成された二次史料」が放送され、「放送された画像」と同一だからといって原本との同一を証明するものではない。 A(原本)、B(撮影された画像)、C(放送された画像)があったとして、C(放送された画像)がB(撮影された画像)と同一であっても A(原本)=B(撮影された画像)という証明は全くされていない。 さらに、「A(原本)の中身が正しい」という証明も全くされていないw それどころかA(原本)そのものを確認した人物もいないw 思考能力ゼロの馬鹿は「A(原本)の中身は正しい=A(原本)=B(撮影された画像)=C(放送された画像)」とでも言いたいのかw
261 :
< :2010/08/25(水) 21:46:47 ID:ul0gWHI+
はて?・・・(´・ω・`)
このスレで『戦数』が議論になってたか?・・・(´・ω・`)
>>253 ID:2/U2S7dg ← この耄碌した団塊馬鹿は何を妄想してシャドウボクシングをしてるんだろ?・・・(´・ω・`)
おまけに何?このお粗末な日本語は?・・・(笑
↓ ↓ ↓ ↓
>>253 : 顔文字野郎反省しっかりみるように
262 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 22:03:10 ID:E/cJAl+6
>>261 チョンコだからしゃーないかもってとこ。
こいつタラリだよ。
263 :
< :2010/08/25(水) 22:10:45 ID:ul0gWHI+
>>262 脳内極左団塊耄碌ジジィランキング1位の "タラリ" かwwwwwwwwww
まだ生きてんのかよ?アイツwwwwwwww
>>260 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
>>259 >260を借用させてもらうと、馬鹿はこう主張しているのかw
↓
「真っ赤なニセモノA’=B(撮影された画像)=C(放送された画像)=誰も見た事の無いAは正しい!」
病院へ行って精神分析してもらえよw
266 :
日出づる処の名無し :2010/08/25(水) 23:15:15 ID:E/cJAl+6
>>263 ワシは「タラリ」より「APEMAN」を1位に推すかな(笑)。
>>260 >テレビが撮影した映像はたとえ原本を撮影したものであっても「戦後作成された二次史料」。
そんな定義はない。一次史料であるならそれを撮影しようが一次史料には変わりない。後年編纂
された物が二次史料で、同時代史料が一次資料という分け方しか存在しない。
例えば偕行『南京戦史』の中で当時の記述をそのまま載せた場合は一次資料、後年の証言を
書き起こした文章は二次史料。偕行『南京戦史』の当時の記述部分の文章を撮影しようがネット
でアップしようが一時史料には変わりない。
丸MARU 1989年9月号 通算518号 兵士たちの「南京事件」 城壘 連載第9回 P200 体が震えてとまらぬ 南京郊外にある湯水鎮は、もともと温泉の出る保養地であったが、歩兵学校、砲兵学校、蒋介石別邸などが建てられて、軍事施設地として有名になった。行政区域として南京ではなかったが、こ こから南京城までは中山公路というアスファルト道路が二十キロにわたって続いており、一続きであったから、ここから南京といってもさしつかえない。 福知山連隊は十二月六日の昼近くに湯水鎮の近くまで進み、山室分隊は軍事施設の一つてある砲兵旅団の兵舎に入った。兵舎は石でてきている立派な建物で、まわりにある建物も丹陽や句容など の民家とは違い、いよいよ南京に近いことが感じられた。福知山連隊だけでなく、京都の連隊も到着し、一帯は日本兵であふれ出した。 福知山の第一、第二大隊は湯水鎮でしばらく休んでいたけれど、南西にある梅塘と呼ばれる小高い丘に向かうことになった。ここから南京に攻めるためである。 梅塘に向かう行軍は夜行軍になり、夜中の二時になり、ようやく大休止となった。兵隊たちは夜行軍に疲れていたので、命令とともに寝るだけで、徴発する気持ちにもならなかった。真っ暗な 上に、徴発できるものも見当たらない場所であっ P201 た。 三時間半ほど寝たあと、ふたたび梅塘に向けて出発した。寝る前に何も徴発しなかったため、山室伍長の朝食は生の甘薯一個だけである。小さいときから甘薯が嫌いで、芋といえば焼き芋を食べ たきりであったけれど、今日ばかりはそうもいっていられない。 しかし、かじると、空腹には何にもましてごちそうで、いつもならどうしても食べられない芋がおいしく感した。 この日第一大隊は後退し、先頭に立った第二大隊が梅塘を攻めた。 梅塘には首都防衛軍の一部隊が陣地を築いて、日本軍の南京への進撃を防いでいる。陣地は堅固でそう簡単には落とすことができず、そのため翌八日は、交代で山室分隊たち第一大隊が第一線に 立つことになった。山室分隊たちは神洞村の先にある中国軍のトーチカを攻めることになったため午前四時に起き、夜明けまでに第二中隊と敵のトーチカの正面に陣地を作ることになった。 しかし、夜が明けるころになってもまだ陣地は完成せず、夜が明けると、日本軍を発見した敵は攻撃を始めてきた。山室分隊は壕を掘りながら中国軍と戦うことになった。 七時五十分、山室伍長のそばにいた奥山上等兵が頭を撃ち抜かれて倒れた。 壕は九時になって出来たが、敵の攻撃は激しく、形勢は少しも変わらない。陣地ができて数十分後、今度は山室伍長の隣で指揮をとっていた第二中隊の曹長が胸を撃たれて即死した。十一時に は虫の息だった奥山上等兵も分隊が見守る中、息
269 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 00:03:06 ID:GNNeK+7J
>>267 検証できないものは一次だろうが二次だろうが史料価値はないわな(笑)。
P202 をひきとった。 奥山上等兵が死ぬのを見届けながら山室伍長は、仇をとらなければ奥山上等兵がうかばれないと思った。 それでも形勢は少しずつ日本軍に有利になってきた。 午後一時になり、第四中隊がトーチカに突撃することになり、山室分隊の重機関銃が援護することになった。 第四中隊の突撃は成功し、午後二時になると、完全に制覇するために、重機関銃隊の牧小隊長が、 「わが小隊もトーチカに向かって行くぞ」 と叫んだ。 五十メートル先には五つのトーチカがあり、まだここから中国軍が撃ってきている。重機関銃隊もここまで攻めて行くというのである。 それを聞いて山室伍長は思わず体が震えた。 それまでどんな攻撃命令がおりても、無心の境地というのだろうか、無我夢中というのだろうか、何も考えることはなく、体が震えるということもない。それが今度だけは体が別の生き物のよ うに震えてくる。怖いという気持ちはなかったが、意識の下で恐怖の観念が生まれたのか、体だけが別の生き物のように震えた。 しかし、震えはすぐに止まり、止まるとともに今までになかったほど気合がみなぎってきた。そのとき、これが武者震いというものかと思った。 突撃になると、山室伍長が先頭になってトーチカに向かった。 飛び出したとたん敵が撃ってきた。そう思ったとき、山室伍長の顔に血と肉片がとんできた。見ると一緒に先頭を走っていた糸井上等兵が左掌、足立上等兵が右腕を撃ち抜かれ、その血と肉片であった。 苦しむ二人を急いで敵から見えないところまで連れていき、二人をそのままにして山室分隊はふたたびトーチカに向かった。 決死の突撃は成功し、やがてトーチカをすべて占領した。二人を野戦病院に送ることができたのは、五時になってからである。 その夜遅く奥山上等兵を火葬にしたが、敵と対峙している最前線では火や煙が敵の目標になって 火葬はできない。そこで後方の部落まで進んで火葬した。 山室伍長は火葬しながら、死んでも敵の的になるのだから、死ぬのなら体ごと吹き飛ばされるのがよい死に方だと思った。 しばらくして、分隊は占領した陣地の壕の中で寝ることになった。最前線では火を使うこともできず、食べ物もない。いつもはまずいといいながら食べる南京米、中国の漬け物、あるいは支那味 噌が思い出される。ポロポロして、箸では食べられない南京米や、日本の味噌と醤油を一緒にしたような支那味噌であるが、今日だけは恋しくなった。 この日の戦いで山室分隊は奥山上等兵、糸井上等兵、足立上等兵の三人がたおれ、新しく編成しなおさなければならないような状況になったが、ちょうど夜になり予備銃手が到着した。そこで山 室伍長は分隊の編成をしなおし、新しい山室分隊は分隊長以下十四名編成になった。 牛島旅団長の意見具申 十月六日、溧水まで来た都城の連隊は、しばらく宇都宮連隊のあとを進み、その後西に向きを変え、南京と蕪湖を結ぶ鉄道京蕪線に向かった。飛行機の偵察から、京蕪線を使って中国軍がひんぱ んに兵の移送を行っていることがわかっており、ここを遮断し、南京を包囲するためである。 南京城のすぐ南は幅二十メートルほどのクリークが流れ、そのクリークの外側には台地があり、二、三キロ続いている。この台地は高いところで百メートルほどであるけれど、一面の台地でな く、丘と丘の間は谷間になっていたり、平地もある。民家だけでなく、墓地もあって、台地の中を城壁の東南角近くから出た京蕪線が南西に向けて走っている。このなかの主な丘が雨花台、八二高地などである。 この台地にはいたるところにトーチカ、塹壕、戦車壕、鉄条網があって、地雷が埋められ、砲がそなえられ、一つの要塞をなしていた。南京城の南方を守る最後の砦である。 八日に京蕪線に向かった都城の連隊は、谷里村、謝家口などで中国軍と戦い、京蕪線のそばにある板橋鎮の近くまで進んだ。 九日も第一大隊と第二大隊が第一線となり、早朝から板橋鎮を攻撃した。板橋鎮は湯水鎮、淳化鎮、将軍山と連なる南京郊外の陣地で、首都衛戌軍が守りについている。連隊はここを落としてさらに京蕪線と平行に進んだ。
271 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 00:12:01 ID:GNNeK+7J
>>267 そもそもだな、生き証人も多数いた70年程前の近代出来事、しかも国家組織による大規模行動なんだから、
史料云々いう以前に、疑問を挟む余地のない物的証拠があってあたりまえ。それがないこと自体がデッチアゲの証拠だわな。
そんな単純なことが理解できんかね(笑)?
>>267 原本が確認できないなら一次史料だろうが二次史料だろうが意味は無いw
「撮影した画像」=「原本」とどうやって証明できるんだ?
チャーチワードが発見したというムー大陸の粘土板と同じ。
チャーチワードが解読したと言ってるが、実際に中身がなんと書いてあるのか不明w
しかもチャーチワードが主張しているだけで実物を見たものはいないw
「誰も原本を見た事はありませんが書いてある事は本当です。私が言ってるんだから間違いありません!」
「誰も原本を見た事はありませんがテレビに映っている物は本物です。私が言ってるんだから間違いありません!」
典型的な詐欺師の手口だなw
板橋鎮から四、五キロ進むと民家が点在する西善橋になり、このあたりから南京城の南側を守る最後の砦になる。 連隊はこの台地を進み、氵壬汪家村まで到達した。この日進んだ距離は七、八キロで、南京城まであと五キロである。鎌田一等兵たちの第三大隊は第 一、第二大隊と一緒になってからずっと予備隊として後方を進んでいたけれど、この日もその隊形は変わらない。 十日も第一線部隊が早朝から城外の台地を攻めた。 この日の攻撃は台地の中ほどにある安徳門を目標にしていたが、この辺りから中国軍の守備は堅くなり、第一大隊は蚕業試験場高地、第二大隊は宗家凹地域までしか進めなかった。一日かかって 進んだのは一、二キロほどで、しかも第一大隊長が負傷するという激戦である。 同じ第六師団の右翼隊は都城連隊などの右翼隊より遅れていたけれど、九日夜遅くからこの日未明にかけて将軍山、牛首山を攻め、昼には台地正面前まで進んだ。牛首山や将軍山は台地のさらに 南側にある小高い山で、早く到着した第百十四師団が攻めあぐんでいた中国軍陣地である。 第六師団の中ではさらに遅れていた大分の連隊も追いついてきて、右翼隊の台地の攻撃に加わった。しかし、正面の防御は堅く、右翼隊は、台地左端を進んだ左翼隊ほど進めない。 夕刻、第六師団司令部から命令がきて、右翼隊の熊本、大分の連隊が城壁中央の中華門から西南角までを攻め、左翼隊の都城、鹿児島の連隊が城壁の西側にある水西門、漢西門を攻めることになった。 この師団命令を受け取った左翼隊の隊長牛島満旅団長は、城壁の西南角前方にいる都城の連隊にそのまま西南角を攻撃させるよう意見具申した。 意見具申は認められて、都城の連隊が西南角を目標にすることになり、熊本の連隊が中華門、大分の連隊がその中間を目標にすることに変更になった。 鎌田上等兵はこの日も後方にいたので第一大隊の激戦は知らない。南京城内に降伏勧告のビラがまかれたので、回答待ちのため戦闘は行われなかったものと思っていた。 十二月十一日、第六師団の各連隊は引き続き未明から台地を攻撃した。 都城連隊の第一大隊はこの日さらに大隊長代理も負傷するという激戦をくり返し、ようやく華麗寺まで進んだ。第二大隊は砲兵の協力で安徳門を攻め落とした。この日の進んだ距離も前日と同じ 一、ニキロであったが、ようやく台地の端近くまで進むことができ、いよいよ城壁が目の前になった。城壁まであとニキロメートルである。 夕方になり、都城第二十三連隊では、第三大隊と第一大隊が交代する命令が出された。二日間にわたる激しい戦いで第一大隊、第二大隊は相当消耗していたため、ずっと予備隊として後方にいた 第三大隊が第一線に立つことになったものである。 鎌田上等兵にとり第一線は久しぶりであった。すでに光華門では鯖江の連隊が城門を一部占領し攻防をくり返していたが、もちろん知る由もない。十二月に入ってからは、ただひたすら、南 京、南京、と考えて進み、ぜひ南京一番乗りしたいと思っていただけに、城壁を目の前に第一線に立つことができて心から喜んだ。 鎌田上等兵は、兵隊になってまだ一年であったが、七月末に出征してがら実戦は四ヵ月を経験している。戦場に出て一ヵ月もしない九月二日に北支で左大腿部を撃ち抜かれた。貫通銃創だけなら
>>267 >例えば偕行『南京戦史』の中で当時の記述をそのまま載せた場合は一次資料、後年の証言を
>書き起こした文章は二次史料。偕行『南京戦史』の当時の記述部分の文章を撮影しようがネット
>でアップしようが一時史料には変わりない。
偕行『南京戦史』は一次史料?二次史料?
どっちだと主張するつもりだ?
>>274 > 偕行『南京戦史』は一次史料?二次史料?
> どっちだと主張するつもりだ?
偕行『南京戦史』に書かれている当時の記述は一次史料で戦後の証言は二次史料という事では。
>>269 >>271-272 一次史料であるならそれを撮影しようが一次史料には変わりないと指摘しているだけだが。
間違いと正してるだけなので史料価値だの物的証拠だの関係ないレス付けないで下さい。
それとも指摘自体が間違ってるとでも?
では一次史料を撮影して公開したらそれは二次史料になると書かれたソースをどうぞ。
>>276 >一次史料であるならそれを撮影しようが一次史料には変わりないと指摘しているだけだが。
一次史料である事が誰にも証明できないんだがw
まさか「一次史料であると主張すれば一次史料だ!」なんて主張じゃないよなw
>>276 >では一次史料を撮影して公開したらそれは二次史料になると書かれたソースをどうぞ。
>259
>NNNドキュメント兵士達が記録した南京大虐殺
これは一次史料(w)を撮影した映像によって後から作成された編纂物w
撮影された日記@、日記A、日記B、日記C………を編集して「兵士達が記録した南京大虐殺」という映像が作成された。
史料
ウィキペディア
二次史料
二次史料とは、同時代史料以外の(一次史料などによって後から作成された)編纂物などのこと。
つまり、個別に撮影された日記の映像を編纂して戦後になって作成されたもの。
>259そのものが二次史料w
さて、それでは、
@日記とやらが一次史料であること
A内容が正確であること
これを証明してもらおうかw
当然ソースもなw
>>278 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#197】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「日記が証拠になるなら、俺が日記に30万殺したって書けば大虐殺だぜぇぇぇ!」
d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
国も立場も多種多様な人々が、日記以外にも様々な資料に同種の事態を記しています。『南
京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』という382頁もある本でさえ、それらの氷山の一角に過ぎ
ません。執筆者の死後に発見された日記も沢山あります。それらに匹敵する量と質の日記を、
書けるものなら書いてください。ok
P204 後方移送でも内地送還でもなく、少し休んですぐに原隊復帰である。このときの戦いは、第三大隊が第一軍司令官香月清司中将から感状をもらったほどの戦いであった。戦場に出て早々そういう経 験をしている鎌田上等兵にとって、戦場が怖いという思いはない。ただ早く南京を攻め落としたいという気持ちだけであった。 第一大隊と交代して第一線に進むと、前方には南京城壁が見えてきた。 夜になり、第一線部隊に、明日、南京城壁奪取という命令が師団司令部からきた。 師団司令部と共に進んでいた新聞記者たちは、その命令を聞いて、日本軍は昭和十二年十二月十二日十二時に南京城に日の丸を立てるだろう、などと予測した。 城壁前には東から西に熊本、大分、都城の連隊が並び、鹿児島の連隊は昨日から迂回して城壁の西側に回っていた。 重装備のため追撃が遅れていた野戦重砲第十四連隊の第一大戦は九日から参加していたけれど、城壁攻撃のため第二中隊が熊本の連隊を、第三中隊が都城の連隊を支援することになっている。 第六師団司令部は、中華門と西南角の二ヵ所から城壁破壊をして突入しようとしていたのである。 しかし、台地は完全に日本軍がおさえたわけでなく、まだ中国軍が確保している陣地もあった。また、台地から城壁前まで後退した中国軍は城壁前の建物にこもっている。城壁上にはトーチカが あり、城壁の途切れる西側にもまだ無傷の中国軍がいる。その上、城内の砲台からも日本軍めがけて砲撃をしている。そのため明日の城壁突入は簡単にはいかないと予想された。 この夜、城壁前は一晩中、中国軍からの砲声、銃声がやまなかった。 南京城いまだ陥ちず 十二月九日に鯖江三十六連隊が光華門に達したことは十日に日本中に報道され、気の早い人は霧雨の東京で提燈行列をはじめていた。そして、十日夕方、光華門に日章旗が翻ったニュースはすぐ にラジオから日本全国に流れた。それを聞いて日本中が沸いた。明治座の舞台の上では、役者が万歳を唱え、感極まって泣き出したほどである。夜になると有楽町にあった朝日新聞の電光ニュース には、「光華門突入」の文字が流れた。 十一日は朝からラジオが第三十六連隊の光華門突入を伝え。「殊勲一番乗り、脇坂部隊」 「南京城に日の丸」といった号外や新聞報道が相次いだ。東京市内の小学校ではどの小学校でも朝礼の ときに万歳三唱を行い、光華門突入の知らせに、国民はこれで南京が陥落したという気分になっていた。 銀座と並んで東京の二大繁華街であった浅草もお祝いムードがいっぱいだった。映画街の真ん中には「祝南京陥落」の塔が建てられ、浅草観音様の境内にはたくさんの小旗がはためいた。仲見世通りには紅提燈が飾られた。
>>278 撮影したシーンは編集するだろうが撮影した日記・メモ自体は編纂されていないので、この場合は史料を編纂した
事にはならない。テレビプログラムの編集と史料の編纂は全く違う話。日テレは番組内で史料編纂したとでも?
日本語が不自由な様ですね。
282 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 02:54:51 ID:3WmOEUCY
南京大虐殺があったことは、世界的に定着していることである。 すべての百科事典に載っている。 広辞苑、大辞林などの辞書にも載っている。 歴史の資料集にも載っている。 現在は教科書にも載っている。教科書から消し去っても、 ほかの書物に載っているから同じである。 「南京大虐殺がなかった」説は、ネットの世界だけの話である。 他では、広まらない。
>>282 南京大虐殺は「嘘だけど」世の中から消えないよって主張ですね
そりゃ事実ならそんな心配必要ないはずですからw
>>281 >撮影したシーンは編集するだろうが撮影した日記・メモ自体は編纂されていないので、この場合は史料を編纂した
>事にはならない。
原本が不明なのに「撮影した日記・メモ自体は編纂されていない」とどうやって証明できるんだ?
証明できるならやってみろw
>テレビプログラムの編集と史料の編纂は全く違う話。日テレは番組内で史料編纂したとでも?
>日本語が不自由な様ですね。
日記という一次史料(w)をカットしたり、つなぎ合わせたりして編集したものは史料ではないという主張かw
肯定派の主張に従うとますます史料としての価値はなくなるなw
第一、番組内で史料編纂どころか、どれだけカットされたり、異なる内容が加えられたか不明。
某テレビ局は某都知事の発言をカットしたり、発言とは異なるテロップを流したりしたがw
「テレビ局はそんなことはしない!」などという脳ミソお花畑の住人ならそのまま現実から眼をそむけて眼を開けたまま寝ていろw
原本を確認すれば撮影した日記・メモ自体が編纂されているかどうかは確認できるが、原本は存在自体が不明。
誰も原本を確認して検証できないのに「撮影した日記・メモ自体は編纂されていない」と断言できるのは日本語以前に論理的思考能力が不自由としか言えないw
「テレビで放送された映像は編纂されていません!誰も原本を見ていませんし、確認もできませんが、テレビ局が放送したんだから間違いなんてありません!」
こういう主張か?(嘲笑)
<リビジョニスト(歴史修正主義)論法・年金編> 1 証言は証拠にならない 「年金払ったって言う本人の証言は証拠にならない」 2 公文書こそが唯一の証拠 「年金記録は社保庁のデータベースには存在しない」 3 証拠書類が本物であるという証拠をだせ 「領収書は本物であるという証拠が必要」 4 あったならあったという証拠をお前が出せ,こっちが出すと悪魔の証明になるから不可能 「年金払ったなら,払ったという証拠を出すのは受給者,社保庁は何の証拠も出せない 払ってない証拠は悪魔の証明だから」 5 以上のことから一切の証拠が存在しないためホロコーストは存在しなかった. よってドイツは謝罪する必要なし. 「以上のことから一切の証拠が存在しないため,年金は払われていなかった. よって国は年金を支給する必要なし」
286 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 04:33:22 ID:3WmOEUCY
こんな2ちゃんねるでいくら、「南京大虐殺はなかった」と主張しても、 屁にもならない。 博士論文でも書いて、大学に出してみれば。学会で認められることが先だ。
287 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 09:44:09 ID:tmTvvjX1
>>286 ないものをどう証明しろと??
幽霊はいないという博士論文があるのかね(笑)??
つかキミは日本語能力に問題ありだわな。
P205 夕方六時からは日比谷公会堂で祝勝記念大講演会が三千五百人を集めて行われ、そのころ夜九時まで営業していたデパートは夜になると電飾提燈を飾り、ニュース劇場の入り口には「祝南京陥 落」のビラが貼られ出した。 十二日の日曜日になると、さまざまな祝賀催しは全国で行われた。 東京では祝皇軍南京入城のビラがまかれ、一千名からなる音楽大行進が靖国神社から皇居、陸軍省、日比谷公園をパレードした。銀座の通りは日の丸と軍艦旗で埋まっている。後楽園では「百万 人の大合唱」と題する催しが行われ、君が代、進軍などの大合唱のあと、人気レコード歌手がつぎつぎ登場して歌った。 この日ついに警視庁は一般の祝賀催しは差し支えないと発表した。 しかし、日本国内の騒ぎとはうらはらに光華門の攻略は予測を許さない状況であった。鯖江部隊が光華門に到達したとき、光華門防衛にあたっていた中国軍の教導総隊は五百人ほどであったけれ ど、その後つぎつぎ増強され、千人ほどに増えていた。中国軍は、光華門以外ではまだ城外の紫金山や雨花台などで日本軍と戦っていたから、どうしても光華門を死守しなければならない。 そのため中国軍は十一日になると、防戦から一転して積極的に攻めてきた。城門の上から城門内の日本陣地に木材と油を投げ込み、日本軍を火攻めにした。その上、催涙ガスも投げてきた。城内 からは戦車が城門内の日本兵めがけて撃ってきた。 この中国軍の攻撃に城門内の第一大隊は瓦榛と土嚢で掩体をつくり、自分の体を守るだけである。食べ物はなく、弾もほとんど尽きていた。弾を補給しようと光華門に向かって駆ける兵は、城 壁上の中国軍から恰好の的になってたおれていった。 一方、光華門城外ではこの日、遅れていた重砲が到着した。輜重部隊の一部も到着し、西坂上等兵は久し振りに米の飯を食べた。しかし、この米が行き渡ったのは城外にいた第二大隊と第三大隊にだけで、城門の第一大 隊には届かない。握り飯をつくって第一大隊に持って行こうとした兵は途中で撃たれ、握り飯は道路にころがった。 光華門に突入したものの、すでに一日半も日本軍の攻撃は止まったままである。 十二月十二日は早朝から、到着した重砲の砲撃と飛行機による爆撃で、一気に光華門を攻め落とそうと攻撃がはじまった。 重砲の砲撃がはじまると、今までびくともしなかった城壁の上部が崩れはしめた。 これに勢いを得て、城門内にいた兵の何人かが瓦礫の一番上から城壁の上に攻めのぼった。この決死隊はいったんは城壁上を占領しそうな形勢になったが、日本軍の砲撃がやむと中国軍も反撃に 転じ、ほどなく奪い返されてしまった。いくら決死の覚悟でも、十分に武器を持たない十数人で数百人を攻めるのはむりである。この攻撃でそれまでなんとか形をなしていた第一大隊は中隊の形も なさなくなり、これ以上攻撃する力はなくなってしまった。二日前、最初に突入した第一中隊八十人は八人になっていた。 揚子江沿いに進むことになった会津若松第六十五連隊はそのまま揚子江右岸を進み、十二月十日に鎮江に入った。鎮江は上海、南京などを含む江蘇省の省都で、昔からの大きい町である。まだ上 海の町が影も形もなかった平安時代、ここが揚子江下流では一、二を争う都市で、遣唐使の阿倍仲麻呂が、
P206 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも と日本への思いを詠んだ所である。 鎮江はすでに数日前に善通寺の天谷部隊が攻略して、天谷部隊はそのあと揚子江を渡って揚州に向かっていた。会津若松第六十五連隊が鎮江に入ったとき、街はあちらこちらが焼け落ちていた。 上海の防衛が危うくなったころからあわてて作ったと思われるトーチカが半分作られたままになっている。二十万ともいわれた市民もほとんど疎開して、逃げ遅れたのか逃げようともしないのか、 農民のような乞食のような格好をした者がわずかにいるだけである。 十一日には鎮江の先の高資鎮に進んだ。 この日、郷里の福島県では脇坂部隊が前日光華門に突入したとラジオで報じられていたため、県民あげてのお祭り騒ぎが行われていた。 光華門突入のニュースには日本中が沸いていたけれど、南京に部隊を送っている県では特別の騒ぎだった。福島県では昼に旗行列、夜は提燈行列が行われた。連隊本部のあった会津若松では内地 送還された負傷兵が旗行列に加わり、花火も打ち上げられた。 しかし、第六十五連隊にとって南京はまだ四、五十キロも先にあり、南京陥落は別世界の出来事であった。 決死の守兵強し 病人護送のため原隊復帰の遅れていた宇都宮の高松分隊は、原隊のあとを追い続けていて、ようやく追いついたのは前方に南京城が見えるところだった。 部隊に追いついてみると、すでに一刈勇策大隊長は牛首山の戦いで負傷して、渋谷仁太大尉が代わりに指揮をとっている。中隊長の手塚清中尉も抹稜関の戦いで足に貫通銃創を受け、平沢新次郎 小隊長が中隊の指揮をとっている。平沢小隊長が中隊長代理となったため、第二小隊は連隊本部にいた高柳清平准尉が指揮をとっている。わずかばかりの間に指揮官が全く変わっていたのに高松伍 長はびっくりした。高松分隊が戦うこともなく後方を追及し続けている間、第一線は想像もできない戦いを続けていたことを知らされた。 宇都宮の第百十四師団は第十軍のなかで、最後に杭州湾に上陸したけれど、その後一路、太湖方面に向かった。そして、南京攻略命令が出た後はまっすぐ南京に向かった。そのため南京攻略命令 直後は鯖江や福知山の連隊と比べ、ほとんど同じ速さで南京に向かって進んでいた。しかし、七日、八日に揚山、銀尨?山を攻めあぐねて遅れをとった。まもなく追いついてきた第六師団と戦闘地 境の協議を行い、九日に将軍山を攻め、十日の朝、ようやく蔴田橋に進んだ。南京城まであと四、五キロの所である。 しかし、蔴田橋の先の花神廟から城壁までの間は雨花台と呼ばれる丘陵地帯で、うねった地形を利用してトーチカや塹壕がつくられ、南京城南側の最後の砦となっていた。南京城外の防御線では最も堅いものである。 雨花台を前にして、第百十四師団は十日から水戸と宇都宮の連隊が左翼隊となり、高崎と松本の連隊が右翼隊となり攻めることになった。雨花台を越えればそこは中華門から東南角までの城壁で 第百十四師団の目標とする城壁である。 十日朝から雨花台に向けて攻撃が始まったとき、第百十四師団司令部は、師団のなかで最も早く進んでいた左翼隊に主眼をおき、師団の目標を
P207 中華門よりの城壁と考えていた。 左翼隊の水戸と宇都宮の連隊が花神廟から雨花台の攻撃に移ると、さっそく中国軍は激しく砲撃してきた。中国軍は花神廟の先にある白家水洞にトーチカや、塹壕などの一大陣地を築いており、 ここには迫撃砲も何門かある。日本軍が攻めてきた場合を想定して、距離を測定していたので、中国軍の迫撃砲、重機関銃は正確だった。 しかも、自家水洞から雨花台一帯を守っていた中国軍は中国軍の中でも一、二を争う精鋭の八十八師で、この中には自分の体をトーチカの鎖にしばりつけ、死んでも南京城を守ろうとする若い兵 士が何人もいた。このため、水戸、宇都宮の連隊では攻撃にうつったとたん、つぎつぎ死傷者が出た。このまま攻めてもただいたずらに死傷者を出すだけである。 結局、水戸と宇都宮の連隊のこの日の攻撃は失敗に終わり、夜にはふたたび?田橋まで引き揚げざるをえなかった。 自家水洞の中国軍を攻め落とすことはむずかしいと考えた師団司令部は、高崎、松本の右翼隊に主眼をおいて南京城の東南角を中心に攻めることに変更し、野重砲なども右翼隊に差し向けることにした。 高松分隊が原隊に復帰したのはこういうときである。第四中隊にもどってみると、だれもが連日の戦闘で殺気だっていた。高松伍長は杭州湾に上陸して中国人の死体を見たときに、命を捨てる気 持ちでいたけれど、彼らの気持ちとは比べものにならず、自分たちが全くのんびりしていることを知った。 しかし、そんな気持ちのずれもわずかの間だった。中国軍から撃ち出された迫撃砲に高松分隊のいた場所はたちまち修羅場になり、その一撃は高松分隊の気持ちを第一線の兵士と同じようにした。 いったい花神廟までもどった宇都宮の連隊はそこで態勢を立て直し、真夜中になってあらためて攻撃をはじめた。 中国軍からの砲撃は一晩中やまず、百雷のようにあたり一面に響き、高松伍長には、頭上の空気が震えているように思えた。 十一日、日本軍は白家水洞へ砲撃をはしめたが、いぜん、中国軍からの砲撃は正確である。 中国軍の塹壕はいたるところにあり、日本軍と中国軍は錯綜している。高松分隊は最前線ではなかったけれど、せまい戦場では最前線も後方も同じである。高松伍長は頭も上げられず、小便も寝たままで行うという一日を過ごした。 宇都宮連隊はようやく夜になり白家水洞まで進んだが。食事のため火を焚くこともできず、激しい砲声で寝ることもできなかった。 (つづく)
丸MARU 1990年10月号 通算531号 兵士たちの「南京事件」城壘 連載22回 ? P208 極東軍事裁判にみる南京事件 南京での戦から半世紀がたち、極東軍事裁判が終わってからも既に四十年という長い年月が過ぎた。そのときの極東軍事裁判の膨大な記録は、文書でそっくりそのまま残っており、また裁判の様 子をたんねんに撮ったフィルムも現存している。法廷でのやり取りは四十年たった今でもほぼ再現できる。 極東軍事裁判が開かれているとき、日本人は敗戦からくる衝撃だけでなく、毎日が食べることに追われていたから、その裁判を、勝てば官軍、と半ばあきらめて見ていた人がほとんどであった。 しかし、四十年に及ぶ年月は、裁判という名前にかかわらず不公平さに満ちあふれていたことや、強制された儀式であったことをあらかた消してしまい、いま再現できる極東軍事裁判は、表面上のものだけである。 記録というものは、たとえそれが虚偽に満ちていたものであっても、存在することでひとつの力を持つ。特に極東軍事裁判の記録は、分厚い辞典の十冊分にもなる膨大なものである。それを見 ただけで、ただ盲目的に信頼する人も多いだろう。 私は現在残っている膨大な記録の裏にある極東軍事裁判のもう一つの面を関係者から直接聞きたいと思った。特に南京事件についての一面を。 極東軍事裁判の南京事件における関係者といえ P209 ば、責任者として絞首刑になった松井石根大将と、その弁護を引き受けた伊藤清、大室亮一、上代琢禅の三人である。 この三人の弁護人が松井大将の弁護を引き受けるいきさつはこうだった。 極東軍事裁判の日本弁護団団長は鵜沢聡明が引き受けていたが、この鵜沢弁護人が各被告の弁護人について奔走し、伊藤清と親しかったことから、伊藤清に松井大将の主任弁護人を引き受けてくれるように依頼した。 伊藤清は鵜沢聡明の依頼を引き受けることにし、松井大将の主任弁護人となった。しかし伊藤清一人では不十分だったので、伊藤清は旧知の大室亮一と上代琢禅に手伝いを頼むことにした。こ うして三人の弁護人は決まった。 三人ともそれまでの松井石根とは全く面識がなかった。このうち、大室弁護人は既に横浜で行われていたBC級裁判の弁護人をつとめていて、そして昭和二十三年十二月には法務省人権擁護局長 になったから、実質的には伊藤清と上代琢禅の二人が松井大将の弁護にあたった。 裁判が始まると、主任弁護人は常に法廷にいなければならない。そのために伊藤弁護人は法廷から動けず、上代琢禅弁護人と打ち合わせをする場合は常に法廷内で行った。王代弁護人は三十代と 若かったこともあり、必然的に証拠集めなど外の仕事を中心にやるようになった。 絞首刑となった松井大将はもちろんのこと三人の弁護人も既に亡くなっているが、上代弁護人は三年前までは健在で、亡くなる直前、会って話しを聞くことができた。
P210 そのとき、上代弁護人は八十歳を迎えようとしていたが、まだ第二東京弁護士会所属の弁護士として第一線で活躍していた。話しを聞いてまもなく死ぬなどとは思えないほど元気であった。 上代弁護士から最も聞きたかったことは、弁護人たちは極東軍事裁判をどのように考えていたのか、すなわち、それはまともな裁判であると考えていたのか、あるいは単にセレモニーとしてとらえ ていたのか、ということであったが、その他にも尋ねたいことは。いくつかあった。即ち、極東軍事裁判の南京事件についての記録を読むと、中国側は数多くの証言を提出しているが、弁護側はこれ に積極的に反対したり反対尋問をせず、結果として中国側の証言を認めた形になっている。これらの証言はあまりにも南京の実情とはかけ離れているが、松井大将や弁護人はどのように聞いていた のであろうか。また、松井大将は冒頭陳述で事件を否定しているが、のち日本軍の残虐行為を認めているような証言もしている。極東軍事裁判の記録を読むかぎりではそうである。本当はどうであ つたのか。尋ねたいことはこういうことであった。 約束の日に上代弁護士の事務所を尋ねた。虎ノ門から新橋にかけては弁護士事務所が並んでいるが、上代弁護士の事務所はその一画にある。 案内された部屋に入ると、部屋は弁護士の部屋らしく、三方が法律書で囲まれ、大きい机の向こうには弁護士らしい知性をただよわせ健康そうな肌をした上代弁護人がいた。 数ヵ月前から私が聞きたいことは書面にして差し上げていたので、上代弁護士は私の訪問の主旨はよくわかっていたはずである。会うまでに数ヵ月もかかったのは上代弁護士から簡単に返事が貰 えなかったからである。最初手紙を差し上げたけれど、良い返事は貰えず、その後、私を上代弁護士に紹介してくれた人や質問の内容を何度か手紙に書いてようやく会えることができたのである。 一言でいえば、歓迎されざる訪問であった。 挨拶がすみ、歓迎されていないことから私はやや躊躇し、さて何から尋ねようかと思っていると、突然、上代弁護人の方から話し出した。 「東京裁判は一言で言えば演劇です。法律家から見れば裁判として全然問題になりません。常識外のことでした」 執務机の向こうで上代弁護士は立つたままこう言った。年でもあり、弁護士という職業柄言い方はソフトであるが、言っている内容は厳しいものである。私は驚き、あまりのことに返すべぎ言葉がなかった。 すると、上代弁護士は続けた。 「東京裁判の性格というものは、法廷が開かれてすぐに清瀬弁護人が管轄権の動議を提出しましたが、これにつきると思います。 裁判所はそのときこの動議を却下しましたが、最後までその理由を述べることができませんでした。こういう中での裁判ですから裁判の名に値しません。 それは私か学んだ刑法理論か通用しない裁判でした。 毎年、暑い夏になると、南京事件があったとかなかったとかそれぞれの立場から発言があります
P211 が、私はそれを聞くたびに胸が塞がる思いがします。松井大将は死刑になりましたが、誰が南京で大虐殺があったと考えていますか、誰も南京で大虐殺があったと思っていないでしょう。東京裁判 がどういうものかわかっているなら、論争がおこるのはありえないことです。毎年、夏の論争にはむなしくなります。 南京事件に限らず、東京裁判で取り上げられたものはすべて私が学んだ刑法理論が通用しない裁判でした。今、南京事件について論争している人は、法廷で繰り広げられた演劇を事実と思いこんで論争しているのです。 南京事件を歴史的事実として論争しているのならなにをかいわんやです」 最後の方はほとんどあきらめているように述べた。 上代弁護士の言ったことは、清瀬一郎、林逸郎、滝川政次郎など東京裁判で弁護人をつとめた人達が裁判後に書いた手記などと同じである。これらの手記はよく知られているが、しかし、活字 を通して知ることと、このように直接言葉として聞くのとでは全く違う。しかもその言葉は厳しさを持っている。 「そうですか」 ようやく私か一言いうと、上代弁護士はさらに続けた。 「東京裁判を詳しく知りたいのならパール判事の判決書をごらんください。パール判事の判決書には日本人弁護人の考え方が述べられています。 パール博士は法律的に日本人の考えを代弁しています」 こういいながら、上代弁護士は法律書が並んだ書棚から一冊の本を取り出し、頁をめくった。何度も読み返していると見えて、ところどころ赤くアンダーラインが引いてあるのが見える。 裁判記録にない弁護人の発言 極東軍事裁判には連合国十一力国から一人ずつ判事か選ばれたが、インドを代表してパール判事が判事団に加わった。パール判事の意見は少数意見であったため、判決には全く反映されなかった けれど、時がたつとともに評価され出した。パール判事自身は裁判が終わってから帰国したが、その後再び来日している。 「パール判決書の最後の部分に東京裁判についての見方が要約されています。 読んでみましょう。 『感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は教育的というよりは、むしろ興行的なものであった』 『時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった時には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう』」 上代弁護士はこのようなパール判決書の最後の部分を読み、そして読みおえると再び私の方に向かって言った。 「パール判決書のこの部分は名言だと思います。後世はパール判決書をきっと評価してくれるでし 裁判官は判決について何も述べないことになっていますが、東京裁判に関して、私は法律家とし て弁明には意味がないと思っています。そういうことを理解した上でおたずねください」 極東軍事裁判に関する上代弁護士の考えはこのようなものであった。上代弁護士から見れば、私も極東軍事裁判という演劇について論争している一人である。上代弁護士が、毎年夏の論争にはむなしくなります、と話したことは私に対する非難でもある。 このようにはっきりと極東軍事裁判が演劇であったと言うのなら、これまで手紙で差し上げていた質問を改めて尋ねるのも無意味である。私は上代弁護士が話したことを頭の中でもう一度思い返してみた。 そうやってしばらく私が沈黙していたので、上代弁護士はさらにこう言った。 「東京裁判というものは裁判に値しないものでした。勝者が敗者を裁いただけのことです。ただ涙をのむしかなかったのです」 私はもうおいとましようとした。 すると上代弁護士は、既に私か差し上げていた質問に対し、これも一方的に答えた。私は上代弁護士が言うことをただ聞くだけであった。 上代弁護士が答えたことは、私の質問ととも。に列記するとこういうことである。 質問一 多数の中国側の証人が日本軍の残虐行為を証言したが、なぜ弁護側は反対尋問をしてその偽証をあばかなかったのでしょうか。 「日本軍が南京を占領したとき兵隊による不道徳
P212 はあった、と弁護側は考えていました。それは戦場の常です。南京に限らず、上海でもあったでしょう。古今東西戦場ならどこでもあることです。 弁護側は、この兵隊の不道徳に対して松井軍司令官に責任があるかどうかという点で争うつもりでいました。つまり、不道徳は不道徳で兵士の問題であり、戦場ならどこでもあることですから、 松井軍司令官の責任はないとおさめようとしました。数人の参謀しかいない軍司令官に責任はないと考えていました。ですから、事実や数で争うつもりはなく、中国側が主張する不法行為などをつ ぶすことは最初から考えていませんでした。それで反対尋問はしなかったのです。 法廷で述べられた数多くの証言についていえば、私はまゆつばで聞いておりました。今、記録を読んだ人がどう受け取るかわかりませんが、当時、法廷では皆がありえないことだと考えていま した。まわりの誰もがそのときの証言を偽証だというのを知っていました。だから全然問題にしていませんでした」 質問二 中国側から提出された証拠に対して、これもなぜ中国に行って検証するなどしなかったのですか。作られた証拠が明白だとしても積極的につぶすべきではないでしょうか。 「最初、埋葬表など見せられたとき、これは全くありえないことだと思いました。それは他の証拠についてもいえます。 しかし、検証は裁判所から許されないし、そういう申請を出したとしても、裁判所は却下しま す。東京裁判を普通の裁判と考えること自体が間違いなのです」 質問三 南京にあった金陵大学のスミス教授は南京陥落後に南京市の戦争被害に関する調査を行った。その報告は市民の被害を示してはいるか、中国側の提出した証言や証拠が桁はずれに膨らま されていることを示している。弁護側はこれを提出しようとは思わなかったのですか。 「スミス教授の統計につきましては弁護側が用意しましたが裁判所が取り上げなかったのです。軍令など公文書は取り上げましたが、その他の弁護側が提出するものはとりあげてくれませんでした。 証拠集めや証人の依頼は私がやり、中山寧人さん(当時、中支那方面軍参謀)などの証人のアフィダビット(宣誓口供書)も私が作りました。 証拠となるものならなんでもと思い、宣撫班の写真や絵葉書なども集めましたが採用になっていません」 質問四 全体として、弁護側の証人や証拠より検察側の証人や証拠が数量においてまさっていると思われますが。 「弁護側のものは裁判所が却下することが多かったのが一つ。 それと、武藤さん(章大佐、当時中支那方面軍参謀副長、のち陸軍省軍務局長、極東軍事裁判で被告の一人になり、絞首刑になる)の考えですが、中支那方面軍の下に上海派遣軍として第十軍があり、上 海派遣軍の司令官が朝香宮でしたので、兵士の不道徳行為の責任が朝香宮にいかないようにしようということになり、そのため証拠をぽかすような
P213 ことがありました。ですから、松井大将に有利な証拠でも提出しなかったものがいくらでもあります。 また証拠、証人集めに走り回った私として、復員局は持っている資料を見せてくれて協力的でしたが、それ以外の所は冷たいものでした。協力的だったのは軍関係者だけでした」 質問五 松井大将は南京でどの程度の残虐行為があったと考えていたのでしょうか。虐殺を認めていたような記述、発言もありますが。 「松井大将は、軍隊がああやって南京まで行ったのだから、軍紀に反するようなことや不道徳はあったと考えていましたが、虐殺があったとは考えておりませんでした」 こういいながら上代弁護士は、裁判が終わってから松井大将が上代弁護人に贈った漢詩の内容について説明してくれた。詩は五言絶句である。 囚窓当両歳 如夢仏心安 裁鬼将来襲 何時到涅槃 「この句にあるように、松井大将は東京裁判を裁鬼と表現しています。松井大将にとって東京裁判は裁鬼と表現するほどのものだったのです。ですから裁判所の主張は認めてはいませんでした。 しかし、松井大将は裁判で自分に関する事実だけを述べ、刑に対しては弁明しませんでした」 質問六 極東軍事裁判の被告にはアメリカやイギリスの弁護人が一人ずつついて、松井大将にはマタイス弁護人がついていましたが、マタイス弁護人とどのような働きをしたのですか。 「マタイス弁護人は熱心にやってくれましたが、日本人と感覚が違っていたので困りました。我々が集めた証拠を無駄だと提出に反対したり、基本路線でも食い違いがありました。それはアメリカ流の弁護士だから仕方ないと思います」 以上が私の質問に対する上代弁護士の答であった。 極東軍事裁判後、南京事件はしばしば話題になつた。しかし、関係した弁護人たちはほとんど発言しなかった。裁判当時、新聞を賑わした中国側の証拠や信憑性がいかはどのものだったのか、も っともよく知っていた人たちであるからもっと発言してしかるべきだと思われた。しかし、なぜ発言しなかったのかは上代弁護士の説明が説き明かしてくれた。それは、極東裁判は演劇であり、言 及する価値すらないからだというのだ。 上代弁護士の話しは膨大な裁判記録には載っていない。しかし裁判の実態を伝える話である。 上代氏はそれから一年ほどして亡くなった。多分、これが南京事件についての最後の発言であったに違いない。(つづく)
296 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 13:46:32 ID:3WmOEUCY
○「南京大虐殺はなかった」説を唱えている、歴史学者はいるの ○もしいたとしたら、その学説は学会でどのように評価されているの こんな所で、主張しても何にもならないよ。 本を出版するか、博士論文を出すか、どちらかだ。 やることを間違えている。
>>296 学会とかw
非常に単純な質問だけど、「肯定派学者は学会においてどのような評価を受けているの?」w
と言うよりも、そもそも「南京大虐殺は学者によってどのような定義なの?」w
過去に慰安婦問題というねつ造事件もあったからねぇw
まずはそのあたりを確認したいものだよねぇw
299 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 17:11:06 ID:wACLHoZv
>>296 「幽霊はいない」説を唱えてる学者はいるの?
もしいたとしたら、その学説は学会でどのように評価されてるの?
ないことは証明できませんし、あることが証明されなければなかったということです。
あったという明白な証拠を探してきなさい。
やることを間違えてる。
300 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 17:41:30 ID:58+T0vmt
すべての出版社の中学校と高校の日本史教科書に載っているそうだ。 下は、清水書院の中学校歴史教科書の記載。 日本軍と中国民衆 日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。日本軍は、占領した地域で物資や労働力を徴発し、食糧などもその地で確保した。このため物資の略奪・放火・虐殺などの行為もしばしば発生した。とくに南京占領にさいしては、 捕虜・武器を捨てた兵士、老人・女性・子どもまでふくめた民衆を無差別に殺害した。戦死した兵士もあわせたこのときの死者の数は、多数にのぼると推定されている*注。諸外国は、この南京大虐殺事件を強く非難したが、当時の 日本人のほとんどはこの事実さえ知らなかった。こうした日本軍の行為は、中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。 *注:このときの死者の数については、数万人、十数万人、30万人以上などと推定されている。
301 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 17:51:04 ID:58+T0vmt
「南京大虐殺はなかった」説の実績は、ゼロ。 教科書や百科事典などに載せてもらったという実績はゼロ。 「南京大虐殺はあった」説の実績は、数十億冊とか数百億冊とかいう 膨大な数にのぼる。 悔しかったら、広辞苑にでも載せてもらうように頼んでみな。
>>301 それほど確固たる説の筈の癖に、論戦やると悉く敗退する肯定説って何?
教科書に載っているから事実だと言うつもりなのだろうかw 「慰安婦」や「ねつ造石器」など、事実と反することですら載っていたというのにw つーか、沖縄集団自決ってのも、『載っていないのはおかしい』と集会開いて力業で教科書に載せたんだがw ちなみに教科書に書いてある“南京大虐殺”を、なぜか肯定派は示せないんだよねぇw > 捕虜・武器を捨てた兵士、老人・女性・子どもまでふくめた民衆を無差別に殺害した。 実際に女性子供を無差別に殺害した事実は存在しないんだけど?w いやまあこれが定義というのならこれで論争してもいいけど、なぜか市民無差別虐殺からは逃げ出すんだよねぇ、肯定派はw 学者はこのあたりについてどのような証拠を以て事実と主張しているのかねぇ?w 実績とは数の問題ではないんだけどなぁw それが通るのであれば、聖書に書いてあるのは全て事実と言ってもいいのだろうか?w その程度も分からないような連中には、何が事実かを考える力など無いんだろうねぇw
>>303 > 実際に女性子供を無差別に殺害した事実は存在
しています。支那軍の犯行だけどw
305 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 18:40:13 ID:58+T0vmt
その分野については、その分野の専門家の言うことが一番 信頼できる。南京大虐殺についても、そういうことで 専門家の定説が教科書に載っているということだ。 これは、すべてのことについていえることだ。 経済のことについては、エコノミストに。 法律のことについては、法律家に。 地震のことについては、地震学者に。
>>305 笠原の専門は中国近現代史であるから軍事、国際法に付いては黙っていろ、と言うことですね。
>>305 その専門家が誰一人南京大虐殺証明できないのは何故なんでしょうね?
南京大虐殺が嘘なのか専門家が無能揃いなのか
>>305 信用するとかしないとかの問題じゃないだろうにw
「事実は何か」と言うことについては、「その判断を証明すれば」専門家だろうがそうでなかろうが何の意味も持たないんだがw
つーか、南京大虐殺の専門家とか、いったいどういう人なんだろうねぇw
「自称」は勘弁してもらいたいよなぁw
慰安婦とかも教科書に載っていたわけだが、自称「専門家」がいかにいい加減だったかがよく分かるわけでw
石器ねつ造は、その専門家はほとんど見抜けず、暴いたのは毎日新聞記者だったからねぇw
旧石器時代を証明する石器を発見したのは、無名の一青年だったしw
事実とは、信用とは全く関係ないんだがなぁw
309 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 19:57:06 ID:58+T0vmt
>信用するとかしないとかの問題じゃないだろうにw 医者だったら信用して治療してもらう。弁護士だったら信用して 相談する。 >旧石器時代を証明する石器を発見したのは、無名の一青年 高校生が化石を発見したというのもある。 しかし、そういうのは単に発見した、というだけの話である。 見つけたものがどういうものであるかがわかり、 どういう意味を持っているかまで考察して、業績になるのではないか。
>>309 医者は病気治せるし弁護士は裁判で弁護できる
未だに証明できない南京専門家って存在価値有るの?
311 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 21:05:55 ID:58+T0vmt
日中共同歴史研究では、 ・日本側 2万から20万人 ・中国側 30万人以上
>>311 それを総合すると「何が起こったのかさっぱり判らないが、とりあえずあったことにしようか」程度の話だなw
研究って名前を付けるのすら恥ずかしい
313 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 21:54:21 ID:K0wjM5j+
>>311 要するにデッチアゲだから確かな数字はでんってことだわな(笑)。
315 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 23:01:02 ID:58+T0vmt
このスレのタイトルは間違い。 下は、ブリタニカ百科事典より引用。 日中戦争中、日本軍が南京占領に際して行った中国軍捕虜ならびに民間人に対する集団殺戮・暴行事件。 日本軍による残虐行為は南京入城時の1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが、これらの蛮 行は同年11月杭州湾上陸以後、翌38年1月まで続いた日本軍による一連の徴発、殺戮、略奪行為の一部で あった。中支邦派遣軍司令官松井石根は捕虜の殺害を厳禁していたが、師団あるいは連隊レベルの将校 たちが命令をきかず、大規模な殺害を引き起こした。それは満州・中国における日本軍の「下克上」現 象、つまり既成事実をつくって上層部の承認を強要するといういう行動様式の典型的な実例である。こ の大量殺戮については多くの証人がおり、また中国人犠牲者と外国人とによる詳細な史料が残されてい るにもかかわらず、日本の右翼勢力は過小視し続けてきた。一部の者は残虐行為が行われたこと自体を 否定した。しかし、第2次世界大戦後の日本人学者の調査により、戦後の極東国際軍事法廷ならびに中 国国内で開かれた各種法廷への提出記録が物語る犯罪行為のすさまじさが確認されている。犠牲となっ て殺された人の数を確定することは不可能である。推定値も、多いほうでは法廷での提出記録の30万人 から、少ないほうでは日本の軍事史家泰郁彦による4万人とかなりの開きがある。しかしすべての証言を 勘案してみると、殺害された人数は15万人を下らないであろう。そのほかに4万人の女性が日本軍人の集 団暴行を受け、また無数の食料品や衣料、住宅その他の物資が略奪ないしは破壊された。日本軍部隊に よるこの3ヶ月間の蛮行の凶暴性は、ナチスの強制収容所における残虐行為にも比せられよう。大戦後、 多くの将兵が本件あるいは同種の犯罪を理由に処罰されたが、この残虐行為をするなと命じた松井石根 が事件の責任を負わされて処刑されたことは歴史の大いなる皮肉である。その他の高級将校ことに朝香 宮鳩彦(あさかのみややすひこ。上海派遣軍司令官)や中島今朝吾(第16師団長)、あるいは長勇(上海派 遣軍参謀)などの下級将校のほうが直接的責任ははるかに大きい。
>>315 >1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが
これが事実というなら、日本の主要南京研究者は何人も腹切る必要出てくるなぁw
317 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 23:51:04 ID:58+T0vmt
日中共同歴史研究@ 4)南京攻略と南京虐殺事件 参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対して いた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再 三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた20。 11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令 官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中の トラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を 制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍 は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占 領した。 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際 安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼 き払われた21。 国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退に は蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、 当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤 退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。しかし、計画通 り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗 残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。
318 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 23:53:24 ID:58+T0vmt
日中共同歴史研究A 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定 して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しか し、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発 生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判にお ける判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判 軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究 では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数 に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計 など資料に対する検証の相違が存在している25。 日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日 本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ26、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。そ の結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ 切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった27。
319 :
日出づる処の名無し :2010/08/26(木) 23:54:41 ID:58+T0vmt
日中共同歴史研究B 虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側 に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍 紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略 奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている28。戦後、 極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問わ れ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤り と、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった29。南京国際安全区委員長のジ ョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と 懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた30。 さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大き な影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を 政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している31。
320 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 00:21:31 ID:RsNqvLnz
そんな大規模事件でありながら明確な物証はただの一つもないわけな。 よって、デッチアゲとしかいいようがないわな(笑)。
>>315 >日本軍による残虐行為は南京入城時の1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが
>>317 >この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際
>安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼
>き払われた
たった2つの史料出しただけで矛盾だらけなのは如何な物でしょうか?
一番被害が出ていた時期に住民は避難していたんですねw
>>317-319 専門家と言っているけど、日中共同研究では「南京大虐殺の専門家」は居ないはずなんだけど?w
専門家が行っていないのに、日中共同研究における南京大虐殺の記述は信用できるとでも言うつもりなのかねぇ?w
そのへん、どうなの?w
323 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 00:32:33 ID:OjccpvNY
日中共同歴史研究C参考文献 20 南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。 21 孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72−73、83 頁。笠原十九司『南京事件』岩波書店、 1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集1 アメリカ関係資 料編』青木書店、1992 年、387−388、390、394、431−432、473−475 頁など)。 22 唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』(増補改訂版)偕行社、1993 年)623−26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘 もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権 の研究』中央大学出版部、2005 年、281−82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第1 年」116−18 頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240−41 頁)。 23 唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討 ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70−71、76、78 頁。 臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、83−85 頁)。 24 秦郁彦『南京事件』中央公論社、2007 年増補版、317−19 頁。 25 日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T、U』(増補改 訂版、偕行社、1993 年)であり、第16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、 歩兵第30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。 26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し 来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石 射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。
324 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 00:33:56 ID:OjccpvNY
日中共同歴史研究D参考文献 27 前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398−99 頁。 28 前掲、秦『南京事件』103−07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原 剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139−55 頁)。 北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54−68 頁。笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995 年、25−54 頁。 29 孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987 年)153−58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第1 年」113−22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と 中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214−41 頁。 30 ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社、1997 年、83−90 頁。なお、日中の「建設的対 話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉 傑ほか編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年、139−68 頁)。 31 臼井勝美「日中戦争と軍部」(三宅正樹編『昭和史の軍部と政治(2)』第一法規出版、1983 年)74−5 頁。
325 :
< :2010/08/27(金) 01:17:00 ID:8htvwRsO
オマイラ、あっちでスゲー資料をもらったゾ・・・(´・ω・`)∩
内閣法制局総発第142号 昭和56年10月1日
自治事務次官殿 内閣法制次長 茂串俊
http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/siryoukan/youjiyougokannkei/houreikannjisiyou.htm 法令用語改正要領の一部改正について(通知)
昭和29年11月25日付け法制局総発第89号の法令用語改善の実施要領の「法令用語改正要領」の一部を,
差し当たり,別紙のとおり改正し,昭和56年10月1日付け内閣法制局総発第141号の「法令における漢字使
用等について」と併せて実施することとしたから,お知らせします。
(C) 次のものは,それぞれ他の一定のことばにいいかえる。
・・・・≪俘虜→捕虜≫・・・・
●公文書で≪俘虜→捕虜≫に言葉が置き換えられたのは昭和29年11月25日以降・・・(´・ω・`)
南京戦を語るにおいて、"俘虜=捕虜" は完全にチン論と化した・・・(´・ω・`)
講談社パル判決に収録されてるマッカーサーの極東国際軍事裁判所設立宣言には「捕虜ヲ虐待セル者ヲフクムイッサイノ戦争犯罪人」とあるんだがな ちなみに判決文中は俘虜 陸軍刑法に「捕虜」があるわけでもなし、法令用語としては違う根拠って何? 日記(笑)ですか
327 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 06:43:54 ID:OjccpvNY
日中共同研究での「南京大虐殺」の部分の担当者は、波多野澄雄と庄司潤一郎と なっている。 波多野澄雄は、家永訴訟で国側証人になったり、文部省の教科書検定に 携わったりしているから、自民党政府に近い人物のようである。 このような学者でも、南京大虐殺は認めているということである。
328 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 06:50:47 ID:OjccpvNY
庄司潤一郎は防衛省の研究官である。
329 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 07:00:41 ID:OjccpvNY
庄司潤一郎は保守系雑誌「諸君」に論文を掲載したことがある。
>>322 >
>>317-319 > 専門家と言っているけど、日中共同研究では「南京大虐殺の専門家」は居ないはずなんだけど?w
> 専門家が行っていないのに、日中共同研究における南京大虐殺の記述は信用できるとでも言うつもりなのかねぇ?w
>
> そのへん、どうなの?w
右翼・保守・極右・正論読者・産経新聞読者・サピオ読者・愛国者・
国粋主義者・独裁主義者・復古主義者・歴史修正主義者・軍国主義者・
民族主義者・武士気取り・国士気取り・通り魔予備軍・文学的変態・
言論チンピラ・ネットチンピラ・台湾系右翼たちに質問します。
論破開始
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#41】
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
332 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 07:29:55 ID:OjccpvNY
波多野澄雄と庄司潤一郎は、自分たちの研究結果を論文にしたわけではなく、 日本の南京大虐殺の研究成果を紹介したのである。 これは、南京大虐殺の研究者ではない研究者のほうがいい。
>>332 あーあ、語るに堕ちちゃった。
門外漢が他人の成果をピックアップして紹介しただけなら、何の意味もないねぇ
334 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 07:45:53 ID:OjccpvNY
>>332 >門外漢が他人の成果をピックアップして紹介しただけなら、何の意味もないねぇ
そんなことはない。もし南京大虐殺の専門家が担当したら、自分の主張
しか言わない。専門ではない歴史家が担当したほうがよかったのである。
彼らは、南京大虐殺の専門家ではないが、どの説が有力かは理解できるだろう。
第一線の歴史家なのだから。
>>334 なんで自分にレスしてんの?
もっと落ち着かないと、他の読者を説得できるようなレスはできませんよ。
東京裁判以降にも、何回か国際戦犯法廷ってっ開かれたけど、正直、たいして国際平和の 促進に貢献している制度とはおもえないね。 ユーゴの戦犯法廷とか、フセインの戦犯法廷とか、だいぶ判決はだいぶ偏ってる印象だし ルワンダ国際戦犯法廷なんてのは、兵士ひとりを起訴しただけで、責任者は誰も処罰されて ない印象だしね。 要するに欧米等の大国に都合の良い結果を正当化する結果にしかつながらない制度だよね。
>>318 >「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計
>など資料に対する検証の相違
これがわかってるのに、なんでこれについて具体的に討論してこないんだろうね
なんのための共同歴史研究なのか。「○○なスタンスの学者が担当したから・・」とかどうでもいい。
問題は議論の中身、そしてそれがない。
338 :
< :2010/08/27(金) 20:45:03 ID:8htvwRsO
>>326 はて?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
オイラの確認してるソースでは≪俘虜≫と書かれてるんだが?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
『外務省 極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について』
■
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html 「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を
有するものに非ざるも吾等の≪俘虜≫を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては
厳重なる処罰加へらるべし」
●"常識" 的に考えれば、【外務省ソース>>>>>>>>>>>>・・・・・・>>>>>>>>>>>本】 なんじゃねーの?w
もしかしてまた"瞬殺?""瞬殺?""瞬殺?""瞬殺?""瞬殺?""瞬殺?"♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
悔しい?悔しい?悔しい?悔しい?悔しい?悔しい?悔しい?悔しい?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
プププププププププm9(^Д^)プギャーー
何もかも "論破されまくり" の哀れな肯定派・・・(笑
339 :
日出づる処の名無し :2010/08/27(金) 21:48:51 ID:DjmRQBhV
>>338 おまえが挙げたのはポツダム宣言
おれが挙げたのは違う文書で
>マッカーサーの極東国際軍事裁判所設立宣言
文字も読めないほどのお馬鹿さんだったのか
質問にすっとぼけたうえアホ晒すとは、聞くだけ無駄なようだ
>>339 まずはッカーサーの極東国際軍事裁判所設立宣言の全文を出してみなよ
http://www.amazon.co.jp/dp/4061586238/ 共同研究 パル判決書(上) (講談社学術文庫 (623)) [文庫] 東京裁判研究会 (編集)
登録情報
文庫: 880ページ
出版社: 講談社 (1984/02)
言語 日本語
ISBN-10: 4061586238
ISBN-13: 978-4061586239
発売日: 1984/02
パール判事は英語で判決書を書いたはずだから訳出は東京裁判研究会でしょうなあw
>>338 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
343 :
< :2010/08/28(土) 01:36:29 ID:iRpZINgJ
>>339 米国人であるマッカーサーが "捕虜" と書いてたとでも言うワケか?♪w
それともポツダム宣言では "俘虜" と書いてるが、マッカーサーは "捕虜" と宣言していたとでも
言うワケか?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
南京大虐殺を信じる事が出来る程の逝かれた頭を持つ肯定派の宇宙脳は計り知れんワ・・・(笑
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
344 :
< :2010/08/28(土) 01:39:23 ID:iRpZINgJ
>>342 これやるよ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】112次資料
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1279548194/ 232 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/03(火) 19:26:00 ID:NsLnFA29
東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
234 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/03(火) 20:04:37 ID:NsLnFA29
お前はあれが正当な手続きによってなされたものだと思っているのか
パールが何言ってようが関係ないんだよ
事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
345 :
< :2010/08/28(土) 01:50:35 ID:iRpZINgJ
>>342 【★言論ファシスト高麗棒子の子孫 "kouei" ヽ<#`Д´>ノ 逝ケメン学者のファビョーン哀号★】
NHKのテレビで、パール判事は「戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」
と言ってたんだ〜〜〜〜!!!!テレビが証拠だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!ヽ<<<<<<#`Д´>>>ノ
●爽やかオイラのカウンセリングアンサー♪・・・(・∀・)b
東京裁判は南京大虐殺肯定派が "否定" しています。
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】112次資料
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1279548194/ 232 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/03(火) 19:26:00 ID:NsLnFA29
東京裁判とか持ち出して、肯定派の足を引っ張るのはヤメロカス
お前みたいな馬鹿がいるから否定派が調子づくんだ
234 名前:日出づる処の名無し[] 投稿日:2010/08/03(火) 20:04:37 ID:NsLnFA29
お前はあれが正当な手続きによってなされたものだと思っているのか
パールが何言ってようが関係ないんだよ
事実関係なんか無視で結論ありきなんだからよ
牛蒡食わせたのが捕虜虐待で有罪とかやってた裁判なんか持ち出すと、
逆効果だと言ってるのが分らんのか低脳
●今時、テレビが言ってた事が "ソース" になると思っているオマヌケさんはkoueiぐらい
でしょうね・・・ok♪(・∀・)b
○y一~~ 論破完了サンキュー☆
(|,へ
」 ○| ̄|_
346 :
< :2010/08/28(土) 01:58:26 ID:iRpZINgJ
>>339 マッカーサーはポツダム宣言第10項を根拠として、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣
言を発表したんだよ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
そんな事も知らんかったんか?バカめ!・・・w
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html ポツダム宣言 第10項:
「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに
非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」
1946年1月19日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣
言を発表し、同日、マッカーサー元帥により承認された同裁判所の条例が公布された。
347 :
< :2010/08/28(土) 02:15:45 ID:iRpZINgJ
ところで、"法の一般原則" などという脳内自己解釈に最後の希望を見出そうとしていた 池沼型肯定派は自殺したんか?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
348 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 03:34:16 ID:PY3mBBuY
ID:iRpZINgJ
全く
>>326 への返答になってないな
法令用語改正以前に法令用語として捕虜と俘虜が区別されてたという根拠は?
おまえは根拠なしに違うはずだという思い込みで極東国際軍事裁判所設立宣言に、
「捕虜」とあるはずがないやいとダダをこねてるだけ
法令用語としての区別がなければ、マッカーサーの宣言が「捕虜」の記述でも何らおかしなことはない
つうことで、法令用語改正以前に法令用語として捕虜と俘虜が区別されてたという根拠は?
349 :
< :2010/08/28(土) 03:51:18 ID:iRpZINgJ
350 :
< :2010/08/28(土) 03:57:37 ID:iRpZINgJ
>>348 ついでにオマエが "確実に間違った解釈をしている" 点を再度指摘してやる・・・(´・ω・`)
マッカーサーはポツダム宣言第10項を根拠として、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣
言を発表した・・・(´・ω・`)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html ポツダム宣言 第10項:
「吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに
非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」
1946年1月19日 連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、極東国際軍事裁判所設立に関する特別宣
言を発表し、同日、マッカーサー元帥により承認された同裁判所の条例が公布された。
●つまり、『・・・吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人・・・』の箇所は、ポツダム宣言文から
引用したものであって、マッカーサーが自分自身の解釈を示したものじゃないんだよ♪・・・(笑
判ったか?・・・(´・ω・`)
>>348 http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/maliana.html このソース原文は自分で探せw
<乙事件関係者に対する処遇の件>(新・東洋思想引用)
1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む
理由
(1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや否やの判定は困難なるも少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
(2)相手は必ずしも敵兵と見なし得ず 特に土民は敵に非ざること明瞭なり。又クッシング中佐が果たして米国政府の命を受け戦闘行為をなしつつあるものなりや否や不明にして正規の敵兵として断定しえず。
(3)何等相手の訊問等を受け又は自己の意志を拘束せられたる事実を認め得られざるを以て相手に降伏せるものと認め得ず
(4)仮に広義的に一時俘虜の経路を辿られるものとするも海軍大臣に於て其事実を知り、かつ何等利敵行為等なく責任を調査するの要を認めざるを以て査問会にて更に調査の要なし
2、関係者を軍法会議に附する要なしと認む 法律上の罪を犯したりと認むべきものなし 即ち
(1)事件発生は操縦者以外は不可抗力なりしこと
(2)「敵に降り」たる事実を認め得ず
(3)利敵行為なし
(4)軍機保護法に触るるが如きことを為しあらず
3、処置
前諸号に依り関係者を問ふべき筋なきものと認むる所、従来敵国の俘虜となりたる者に対しては其の理由の如何
を問わず極端なる処置を必要とするが如き理外の信念的観念を以て対処したれる事実あり。
故に今次の処置は 右の根本的観念を破壊せざること肝要にして(従来の観念を変更せんとせば重大問題を惹起
すべく、かつ変更すべきにあらずと信ず)之が解決の途は一つなり即ち海軍当局の方針を明確にならしむる点之な
り。(新・東洋思想 戦争責任の探求−日本兵捕虜;帝国海軍最大の失態「海軍乙事件」引用)
352 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:12:49 ID:NAlKRj2p
私の親父は、南京事件が会った当時、満州の大連というところで 新聞社に勤めていて、事務をしていた。 多くの記者と友人で、彼らから虐殺のことを聞いていたと言っていた。 父は、もう亡くなったが、生きていれば96歳になる。 父は、新聞社を辞めて、一家挙げてブラジルに移民した。しかし失敗して 2年ほどで、満州の大連に帰ってきた。 大連で、似顔絵描きの仕事をするようになる。しかし、これも失敗して 関東軍防疫給水部というところで雑務の仕事をするようになる。 しばらくここで仕事をしていたが、数年後インドネシアに従軍することになる。 ここで終戦を迎えた。 父が周囲の人によく話していたこと。 大連、新聞社、関東軍防疫給水部、ブラジル、インドネシアなどのことである。 防疫給水部の人体実験は、知らないと言っていた。しかし、本当 にしらなかったかどうかはわからない。 南京虐殺は、記者から聞いたりして、知っていたと言っていた。 インドネシア人は、オランダ人も日本人も嫌っていた、と言っていた。
↑ 実際に南京にいて、見たことも、聞いたことも無いと言ってる記者もいる。 不確定なことで、あるとは言えないだろ?
354 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:32:17 ID:NAlKRj2p
記者からフィルムや写真を見せてもらった、ということだ。
355 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:40:24 ID:I5i6bcQp
>>354 それらが単なる戦死でなく虐殺だという根拠は?
おまえもドアホよのぉー(笑)。
356 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:50:00 ID:NAlKRj2p
見せてもらったフィルムは、南京市内の至る所の 死体が散乱している様子を詳細に撮影したものだったそうだ。 それと、記者の話などからだろう。 とにかく、当時私の父や新聞社は、 南京で虐殺が行われている、という認識があったことだけは確かである。
357 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:53:33 ID:I5i6bcQp
>>356 それらが単なる戦死でなく虐殺だという根拠は?
おまえもドアホよのぉー(笑)。
358 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 11:54:34 ID:NAlKRj2p
とにかく、当時私の父や新聞社は、 南京で虐殺が行われている、という認識があったことだけは確かである。
359 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 12:00:50 ID:NAlKRj2p
私は、南京大虐殺があったとかなかっとかはいってない。 事件当時、私の父は、満州にいて、南京大虐殺を知っていた、 と言っていた、ということを述べているのである。
360 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 12:17:47 ID:N3uOMcEY
362 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 13:07:08 ID:NAlKRj2p
私は、南京大虐殺があったとかなかったとかはいってない。 事件当時、私の父は、満州にいて、南京大虐殺を知っていた、 と言っていた、ということを述べているのである。
>>352 南京では戦闘があったから、死体がごろごろしているのは当たり前ではありませんか。
その死体は、戦闘により死亡した兵士なのか、それ以外の原因で死亡した死体なのか、
どうやって区別するのですか?
>>363 >
>>352 > 南京では戦闘があったから、死体がごろごろしているのは当たり前ではありませんか。
>
> その死体は、戦闘により死亡した兵士なのか、それ以外の原因で死亡した死体なのか、
> どうやって区別するのですか?
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#120】
「宣伝と誇張を、できるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は、
日本軍がその占領した、ある地域の一般民衆、はたまた
戦時ふ虜(捕虜)に対し犯したものであるという証拠は
圧倒的である」
NHKスペシャル2007/8/14
パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判知られざる攻防〜 抜粋
>>364 またアンタですか。
>>345 を読んでくださいね。
○y一~~ 論破完了サンキュー☆
(|,へ
」 ○| ̄|_
>>365 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#45】
都合の悪い質問はスルーですか? 繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
>>366 あなたに教える義理は無いので、自分で調べてください。
○y一~~ 論破完了サンキュー☆
(|,へ
」 ○| ̄|_
>>367 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#63】
私が調べても一人も発見できませんでした。その学者が存在すると抗弁を繰り返す人に対して質問しています。ok
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
>>368 繰り返しますが、あなたに教える義理は無いので、自分で調べてください。
○y一~~ 論破完了サンキュー☆
(|,へ
」 ○| ̄|_
>>369 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#63】
私が調べても一人も発見できませんでした。その学者が存在すると抗弁を繰り返す人に対して質問しています。ok
繰り返し質問します。
南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
371 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 14:30:04 ID:IPa83LgY
図書館に行って、百科事典や史料集で南京大虐殺を調べましたが、 「南京大虐殺はなかった」とか書いてある本は一冊もありませんでした。 このスレッドの人達は、図書館で調べなかったのですか。
「南京大虐殺はなかったというフレーズを使っている本」があるかなんて 調べる前に、1970年代から現在まで、中国や日本のいわゆる大虐殺派の歴史学者が言ってきたことに 反論する本を調べればいいんじゃないの わんさかみつかるぞ
373 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 17:05:12 ID:Upd62XLn
>>371 「幽霊はいない」という本がないとの同じだわな(笑)。
374 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 17:08:03 ID:Upd62XLn
>>362 おまえの親父は誇大妄想狂だったんじゃない?
身内の恥さらして楽しいか(笑)?
375 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 17:30:21 ID:IPa83LgY
教科書、百科事典、広辞苑や大辞林などの辞書、史料集、資料集 など子供や一般の人が調べる本は、すべて「南京大虐殺はあった」 と記されている。全世界で、数十億冊は出版されているだろう。 「南京大虐殺はなかった」が記されている事典などはゼロ冊である。 家永第三次訴訟でも、南京大虐殺の記載は認められた。
376 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 17:40:01 ID:IPa83LgY
出版社の担当者は、教科書、事典・辞典類などの執筆を 「南京大虐殺はなかった」と主張する者には頼まない。 日本には、何千人という歴史学者、何万人、何十万人という 歴史の教師や大学の史学科出身者から批判されてしまうからだ。 「南京大虐殺はなかった」は、歴史の専門家や歴史愛好者や知識人 の支持をほとんど受けていないのである。
377 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 17:42:07 ID:IPa83LgY
>>376 出版社の担当者の心情を勝手に憶測して、
それを根拠にして「南京大虐殺はあった」なんて主張する人は珍しいですね。
最近の肯定派はここまで劣化してしまったのか。
379 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 18:13:57 ID:IPa83LgY
「肯定派」と「否定派」などに分かれていない。 南京大虐殺を否定する人がいることを、最近知った。 それで驚いて、投稿しているわけ。 図書館に行くと、南京大虐殺は、どの本にも書いてますよ、と。
380 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 18:23:09 ID:V1jijBeD
ID:iRpZINgJ
つまり違うと断定出来る根拠はないと
後はついでだが、おまえはいちいち人の言い分を曲解するな
区別なく使われていたなどとは書いてない
国際法国内法共に条文が「俘虜」の時点では、それが一般的になるのが当たり前
だがマッカーサーの特別宣言には「捕虜」とあるのだから、
法令用語として意味の上で違いはないだろうと言っている
それとポツダム宣言とマッカーサーの特別宣言は「違う文書」
こっちが出典書いたのにもかかわらず、てめえで手抜きして、
「違う文書」のポツダム宣言持ってきて言い掛かりつけんな
>>351 > このソース原文は自分で探せw
> <乙事件関係者に対する処遇の件>(新・東洋思想引用)
ネットの転載なうえおまえは本文を確認してないんだろうな、論外
> 1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む
> 理由
> (1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや否やの判定は困難なるも少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
文中で個別に定義されておらず、捕虜と俘虜が法令用語として違う根拠になってない、論外
>>379 で、その「南京大虐殺」とは具体的にどう書いてあるか、キミ、分かるかねぇ?w
中国側の言うとおりに示してあるのはかなり少ないはずなんだがなぁw
そもそも教科書の場合は「近隣諸国条項」の問題もあるからねぇw
実際に肯定派の根拠となる資料とやらを調べれば、いかにいい加減なものが多いかよく分かるんだよねぇw
当然、そこまで調べた上で発言しているんだよねぇ?w
過去にそういう専門家とやらが「慰安婦問題」をでっち上げ、大嘘を繰り返していたことがあるからねぇw
慰安婦も教科書に載っていたんだけど、結局はインチキと認めたのか今の教科書では載っていないんだよなぁw
ついでに言っておくと、教科書に載せない場合は圧力をかけてくる連中もいることをお忘れ無くw
「沖縄の集団自決」を教科書に載せないとなった時、集会で人数集めて出版社側に圧力をかけてその記述を乗せた経緯もあるからねぇw
まあ、そこまで言うのはかまわないけど、もしもえん罪だったらどう責任とるの?w
慰安婦問題で責任とった奴は居なかったし、ねぇw
無責任な発言は勘弁してもらいたいものだよなぁw
証拠を出して明確な事実を突きつけるのならともかく、他人の意見の陰に隠れて無責任に人を人殺し呼ばわりして、
えん罪だったらどう責任をとるのか答えてもらいたいよなぁ。
その覚悟がキミにはあるのかねぇ?
>>380 >捕虜の定義と称すべきもの無く
もうだめぽWWW
>>379 大戦に関する事件って嘘だらけなんだぜ。日本は戦争法規に従って戦った軍隊だとバレると
アメリカや中国がやばくなるんだわ。奴等こそ法規無視の無法軍隊だったからね
後、関係ない朝鮮人まで戦勝国気取りで日本を非難している
奴等は日本人と同じ事していたんだから、日本軍を擁護しないといけない立場なのにね
>>381 「”広義の”南京大虐殺」って言い換えます。w
385 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:03:49 ID:Upd62XLn
>>380 学問的素養の問題だわな。おまえはバカすぎる(笑)。
ま、肯定派のデタラメぶりを露わにするには貴重な存在だけどな。
386 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:07:35 ID:Upd62XLn
>>384 なるほど。本人の意思に基づかない殺害=虐殺という論理ですな。
それなら確かに南京大虐殺はあったことになる(苦笑)。
388 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:20:01 ID:IPa83LgY
南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 1937年(昭和12)12月13日、上海(シャンハイ)派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)・第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州(こうしゅう/チューチョウ)湾上陸)の2軍団 からなる中支那(しな)方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)が、中国の首都南京を攻略した際、中国軍の捕虜・敗残兵および一般市民に対して行った大残虐事件。この事件を欧米ではナンキン・アトロシティーズNanki ng atrocitiesとよぶ。日本でも1970年ごろから南京大残虐事件、南京大虐殺とよばれるようになった。 「大虐殺」の実態 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣 (べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市 民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見 せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り 広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団 体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推 測される。 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭 (ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従 軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。
389 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:25:41 ID:IPa83LgY
ブリタニカ百科事典 南京大虐殺 日中戦争中、日本軍が南京占領に際して行った中国軍捕虜ならびに民間人に対する集団殺戮・暴行事件。日本軍による残虐行為は南京入城時の1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが、これらの蛮行は同年11月杭州湾上陸以後、翌38年1月まで続いた日本軍による一連の 徴発、殺戮、略奪行為の一部であった。中支邦派遣軍司令官松井石根は捕虜の殺害を厳禁していたが、師団あるいは連隊レベルの将校たちが命令をきかず、大規模な殺害を引き起こした。それは満州・中国における日本軍の「下克上」現象、つまり既成事実をつくって上層部の承 認を強要するといういう行動様式の典型的な実例である。この大量殺戮については多くの証人がおり、また中国人犠牲者と外国人とによる詳細な史料が残されているにもかかわらず、日本の右翼勢力は過小視し続けてきた。一部の者は残虐行為が行われたこと自体を否定した。し かし、第2次世界大戦後の日本人学者の調査により、戦後の極東国際軍事法廷ならびに中国国内で開かれた各種法廷への提出記録が物語る犯罪行為のすさまじさが確認されている。犠牲となって殺された人の数を確定することは不可能である。推定値も、多いほうでは法廷での提 出記録の30万人から、少ないほうでは日本の軍事史家泰郁彦による4万人とかなりの開きがある。しかしすべての証言を勘案してみると、殺害された人数は15万人を下らないであろう。そのほかに4万人の女性が日本軍人の集団暴行を受け、また無数の食料品や衣料、住宅その他 の物資が略奪ないしは破壊された。日本軍部隊によるこの3ヶ月間の蛮行の凶暴性は、ナチスの強制収容所における残虐行為にも比せられよう。大戦後、多くの将兵が本件あるいは同種の犯罪を理由に処罰されたが、この残虐行為をするなと命じた松井石根が事件の責任を負わさ れて処刑されたことは歴史の大いなる皮肉である。その他の高級将校ことに朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ。上海派遣軍司令官)や中島今朝吾(第16師団長)、あるいは長勇(上海派遣軍参謀)などの下級将校のほうが直接的責任ははるかに大きい。
390 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:26:09 ID:Upd62XLn
>>388 日本には出版の自由が憲法で認められているので・・・
で、その内容が真実だという証拠はどこにあるんだ?
キミの祖国では辞書・教科書に書かれていることは真実だとされてるみたいだな(笑)。
391 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:27:53 ID:Upd62XLn
392 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:35:23 ID:IPa83LgY
エンカルタ百科事典 南京大虐殺 ナンキンだいぎゃくさつ 日中戦争で日本軍が南京で中国人に対しておこなった無差別の大量虐殺事件。中国では南京大屠殺(とさつ)という。1937年(昭和12)12月、松井石根(いわね)大将を指揮官 とする日本軍中支那方面軍が中国の首都南京を占領した際におきた。軍人・捕虜・一般市民など、虐殺された中国人は数万人とする説から43万人とする説まであるが、少 なくとも20万人以上であったと推定されている。 1937年7月7日の盧溝橋事件後、日本と中国は全面戦争に突入し、日本軍は上海・華北にしだいに戦線を拡大したが、抗日統一戦線をきずいた中国軍の頑強な抵抗で苦戦 を強いられた。11月の上海攻略後は物資補給のために略奪をくりかえし、敗残兵狩りを理由に、一般民衆に対しても暴行・虐殺をおこなった。12月13日に南京を占領した 際に、多数の捕虜を不法に虐殺。その後数週間にわたって、南京城内外で敗残兵狩りや、一般市民に対する略奪・強姦・放火・虐殺をくりかえした。 この日本軍による蛮行はアメリカなど世界中で報道されたが、日本国民には知らされず、第2次世界大戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)ではじめて明らかにされた。東 京裁判で中国側は日本軍によって殺害された中国人は43万人と発表、判決でも、最初の6週間に南京とその周辺で20万人以上が殺害されたとしている。南京攻略戦を指揮し た松井石根はその責任を問われて死刑になった。
>>392 図書館で調べたと言いながら、全部テキストが揃っている不思議w
初心者装ってもバレバレなんだよ
394 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:44:07 ID:IPa83LgY
広辞苑 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、 あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。
396 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:46:08 ID:IPa83LgY
大辞林 ナンキンだいぎゃくさつ 【南京大虐殺】 日中戦争さなかの 1937 年(昭和 12)12 月から翌年 1 月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。このとき殺された中国人の数は、極東軍事裁判では二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜四〇万人とされる。
397 :
日出づる処の名無し :2010/08/28(土) 19:49:34 ID:IPa83LgY
大辞泉 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争初期の昭和12年(1937)、南京を占領した日本軍による、中国軍捕虜や一般市民に対する大規模な略奪・暴行・虐殺事件。
各辞典の出版年度を入れてくれ。
Wikipediaのほうが、この問題については、そのへんの事典よりよっぽど信頼がおけるな。 どの辞典も南京虐殺論争については何も触れてないし。
401 :
< :2010/08/28(土) 20:31:56 ID:iRpZINgJ
>>380 380:ポツダム宣言とマッカーサーの特別宣言は「違う文書」
↑ ↑ ↑ ↑
●【1回目】:マッカーサーの特別宣言では "捕虜" との言葉になってるとする証拠をよろしく♪・・・(´・ω・`)∩
初めて聞いたワ・・・(笑 米国人であるマッカーサーが "捕虜" なんて言葉を使うわけねーだろ♪アホw
ダダをこねても無駄無駄・・・(´・ω・`)
≪俘虜≫はちゃんと定義されてるよ〜ん。下文中のどこかに "俘虜=捕虜" って書いてるの?・・・(´・ω・`)
『舊俘虜取扱規則』
■
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/furyoki01.htm (明三七、二、一四 陸達二二) 改正加除 明三七陸達一六七、明三八同七、大三同三一
第一条 :本規則に於て≪俘虜≫と称するは帝国の権内に入りたる敵国交戦者及条約又は
慣例に依り俘虜の取扱を受くべき者を謂ふ
つーか、このソースで即死だろうがw さっさと諦めろw
<乙事件関係者に対する処遇の件>(新・東洋思想引用)
1、関係者を俘虜査問委員会に附する要なしむと認む
理由
(1)捕虜の定義と称すべきもの無く 従って乙関係者が俘虜となりたるや否やの判定は困難なるも
少なくとも相手より俘虜と取扱を受けたる事実は無きものと認む
つうことで、南京戦当時、法令用語として捕虜と俘虜が区別されていなかったという根拠は?・・・(笑
402 :
< :2010/08/28(土) 21:00:36 ID:iRpZINgJ
右翼・保守・極右・正論読者・産経新聞読者・サピオ読者・愛国者・ 国粋主義者・独裁主義者・復古主義者・歴史修正主義者・軍国主義者・ 民族主義者・武士気取り・国士気取り・通り魔予備軍・文学的変態・ 言論チンピラ・ネットチンピラ・台湾系右翼たちに質問します。 論破開始 【言論チンピラ妄言解毒対策レス#41】 南京大虐殺はなかったと主張する学者は実在しますか? もし実在するなら名前を挙げてください。
「月はグリーンチーズでできてる」(非常にばかげている事のたとえ話)ということ肯定し、証明しようという学者などいない。 当然、それを否定し、証明しようという学者などもいない。
>>401 僅か5スレ前の108次まで捕虜と俘虜は同じと思っていて肯定派に違いを教えてもらった馬鹿がよく言うわw
まるで昔から知っていたかの様に書き込んだりして恥ずかしくないのかよwww
顔文字
108次60 名前:<[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 23:40:58 ID:F/LR9NTB [5/6]
>>59 【質問】「Yes」or「No」で答えてくれ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
【 捕虜 】 ≠ 【 俘虜 】 なのですか?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
↓
肯定派
88 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 23:41:56 ID:I9u/eXAg
>>60 > 【 捕虜 】 ≠ 【 俘虜 】 なのですか?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
否定派ってのは無知ばっかだな。
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎 PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
他に、公式に扱う場合は俘虜とする見解もある。
つまり、戦前においては【 捕虜 】 ≧ 【 俘虜 】
肯定派が教えてやらないと何も知らないのかよ否定派は。何がニヤニヤだ馬鹿w
否定派の言ってる事がころころ変る例www
108次77 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 10:38:29 ID:k46/jlHm [1/3]
>>59 >捕らえた者は4条件如何に関わらず捕虜だろ。
国際法学者の学説に正面から喧嘩を売っているなw
108次78 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/04/15(木) 13:42:25 ID:NtdPWYH3 [1/2]
>>75 捕虜とは「捕虜資格があるもの」の事なんだがw
法を無視してどうするんだろうw
俘虜取扱規則
第一章 通則
第一條 本規則ニ於テ俘虜ト稱スルハ帝國ノ権内ニ入リタル敵國交戰者及條約又ハ慣例ニ依リ俘虜ノ取扱ヲ受クベキ者ヲ謂フ
108次120 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/04/17(土) 00:46:03 ID:5gTmppwV [1/7]
>>119 >戦時重罪に問われないのは俘虜であって捕虜ではない
何だこのトンデモ説は?
肯定派は「俘虜は戦時重罪に問われないが、捕虜は戦時重罪に問われる」とでも言いたいのかw
節操無さすぎだろw これが肯定派に教えてもらってからは「捕虜と俘虜は意味が違う」と180度変るんだから笑えるwww
否定派沈黙w あまりの恥ずかしさに誰も書き込めないのかwww
408 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 19:10:31 ID:ghOI1mQZ
規制は解けたかな?
捕虜虐殺? みんなやってたw 一緒w
410 :
< :2010/08/29(日) 20:21:19 ID:HbsOYBSL
>>405 >>406 そりゃ、オマエら肯定派にも言える事じゃねーかwwwwwww
以前は "捕虜" と "俘虜" の違いを述べてたのに、今は "捕虜=俘虜" になったワケか?wwwwwwww
自分が書いてるレスの意味が理解できないとは哀れすぐるぜwwwwwwww
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
そしてまた余計な資料を出して、自分の首を絞めてらwwwwww
それが判ってねーから "池沼" 呼ばわりされるんだよwwwwww
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
411 :
< :2010/08/29(日) 20:24:35 ID:HbsOYBSL
>>405 >>406 池沼が "謙譲したソース" を使ってやると、
【 帝国の権内に入りたる = 大日本帝国において拘束される 】
とも解釈でき、当時の国際法に照らし合わせてもこの解釈に矛盾は無い♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
『舊俘虜取扱規則』
第一条 :本規則に於て≪俘虜≫と称するは 【 帝国の権内に入りたる 】 敵国交戦者及
条約又は慣例に依り俘虜の取扱を受くべき者を謂ふ
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、【 相手国において拘束される 】ものを俘虜という。
●【 帝国の権内 = 大日本帝国 】と解釈して全く矛盾は見当たらない♪・・・(・∀・)
一方、当時の日記等に書かれている "捕虜" が、『相手国(=大日本帝国)において拘束』された
とする証拠は一切無い♪・・・(・∀・)
●つまり、秋月達郎氏の解釈と合わせれば明確に "捕虜≠俘虜" だ♪・・・(・∀・)
また、明確な保護規定が定められている≪俘虜≫に対し、一切保護規定が定められていない "捕虜" が
同じなどと言う事はない♪・・・(・∀・)
『舊俘虜取扱規則』
第二条 俘虜は博愛の心を以て之を取扱ひ決して侮辱虐待を加ふべからず
●戦地において虜となった "捕虜" に関しては保護規定が一切無し♪・・・(・∀・)
無駄無駄♪南京戦当時においても "捕虜=俘虜" だったとする証拠を提示出来なければ
単なる池沼肯定派の自己解釈でしかない♪・・・ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
412 :
< :2010/08/29(日) 20:48:26 ID:06qdjRn1
>>405 >>406 マジでワロタ・・・(笑笑笑笑
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、【 相手国において拘束される 】ものを俘虜という。
●大日本帝国において拘束されたとする根拠が無ければ、≪≠俘虜≫wwwwwwwww
あまりにも判り易く ≪捕虜≠俘虜≫ と書いてるのに、何でオマエが引用してんだよ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
>>410-412 結局5スレ前まで捕虜=俘虜と思っていた事に対しては何も言い返せない訳ねw
ところでこのスレで誰が捕虜=俘虜と言ってるわけ? またシャドウボクシングしてんの?w
あー
>>380 がそう言ってるわけね。じゃそいつと2人でずっと議論してろよw ついでにお前さんが捕虜=俘虜と思い込んでた証拠なw
108次51 名前:<[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 23:06:17 ID:F/LR9NTB [4/6]
★「板倉由明『本当はこうだった南京事件』推薦の言葉」原剛 軍事史研究家 軍事史学会副会長 1999年
捕虜ならば軍法会議で、捕虜でないとするならば軍律会議で処置を決定すべきものであって、第一線の
部隊が勝手に判断して処断すべきものではない。
●【 罪状が不明 】にもかかわらず、捕虜を軍法会議にかけられるワケがない・・・(笑
↓
108次59 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/04/14(水) 23:37:26 ID:G9EDoxsl
》51
> ●【 罪状が不明 】にもかかわらず、捕虜を軍法会議にかけられるワケがない・・・(笑
俘虜じゃなくて捕虜と言っているから軍法会議にかける事も出きるけどなw
捕らえた者は4条件如何に関わらず捕虜だろ。
次官通牒陸支密第1772号昭和12年11月4日
交戦法規ノ適用三関スル件
(略)日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルルカ如キ言動(例へハ戦利品、"俘虜"等ノ名称ノ
使用或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セルト公称シ其ノ他必要己ムヲ得サルニ非サル二諸外国ノ神経ヲ
刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ(略)
飯沼守少将 上海派遣軍参謀課長日記抜粋 10月9日)
参謀長に訓示指示の後すべき事項
(略)歩戦協同不十分なり(敵の夜襲に追踉する夜襲)"俘虜"を作る如くす敵動揺の兆あるに乗し来る者は"捕虜"と
すへし、彼等は日本軍に捕らわれは殺さると宣伝しあり之を是正すること (略)
つまり、捕虜を軍法会議にかける事は可能。俘虜じゃないから戦時重罪としても問題ないんだけどwww
当然、罪状がなければ軍法会議にかける事は出来ないが、では何で裁判もせずに処刑したんだろうねー。
これってどう考えても違法だよなw
415 :
< :2010/08/29(日) 22:00:51 ID:06qdjRn1
>>413 何を言い返す必要があるん?・・・(笑
肯定派の理屈が使えるから利用してるだけなんだが?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
肯定派の言い分を利用するやり方は、オイラが得意としたやり方なんだが、
それがどうかしたん?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
>>413 :ところでこのスレで誰が捕虜=俘虜と言ってるわけ?
↑ ↑ ↑ ↑
●" 捕虜 ≧ 俘虜 "でもなかった事が証明されてるんだが?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
↓ ↓ ↓ ↓
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
●まだ日本語が理解できないのでちゅか?wwwwwwwww
肯定派が提示していた日記等の記載の "捕虜" とは、単に戦地において虜となった
支那兵の事であり、大日本帝国において拘束された ≪俘虜≫ とは異なる事が判明
したワケなんだが?wwwwwwwwwwwwwwww
また論破?また論破?またまた完全論破?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
416 :
< :2010/08/29(日) 22:11:04 ID:06qdjRn1
>>414 な〜んだ♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
"捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は裁判にかけなければならない"
のチン論を、狂った様にコピペし続けてた池沼かよwwwwwww
まだ生きてるの?まだ生きてるの?どうしてまだ生きてるの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
自己解釈が完璧にぶっ壊されたのに、まだ生きてるの?wwwwwww
発狂してしまった馬鹿池沼がまたループしてら・・・(笑
●何度も何度もループを続ける哀れな肯定派が沈黙する質問♪・・・(・∀・)
"捕虜" を裁判にかけず処刑して、一体何の戦時国際法に違反するの?♪・・・(・∀・)
>>415 >何を言い返す必要があるん?・・・(笑
そりゃ捕虜=俘虜と思ってたんだから言い返せないよなw
>肯定派の理屈が使えるから利用してるだけなんだが?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
肯定派に捕虜と俘虜の意味は違うと教えてもらったという事ですね。
>肯定派の言い分を利用するやり方は、オイラが得意としたやり方なんだが、
>それがどうかしたん?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
得意とか馬鹿じゃねw そういうのは揚げ足を取ると言って誰でもやってるし、誰でも出来る事だけどw
>>413 >結局5スレ前まで捕虜=俘虜と思っていた事に対しては何も言い返せない訳ねw
肯定派が自分で持ち出してきたネタに突っ込まれて自爆しているだけだなw
肯定派が自分で「捕虜≠俘虜だ!」と言い出す
↓
否定派に「それは違うんじゃね?」と突っ込まれるw
↓
肯定派が根拠らしきものを並べ立てるw
↓
否定派に「それだと捕虜=俘虜じゃね?」とさらに突っ込まれるw
↓
肯定派が「捕虜≠俘虜などとは言っていない!」と前言を翻すw
↓
肯定派「お前ら肯定派が教えてやらないと何も知らないのかよw」
↓
自分で出したネタで論破されたのに勝利宣言w
肯定派が持ち出してくるネタがことごとく否定派に論破されているだけw
419 :
< :2010/08/29(日) 22:25:28 ID:06qdjRn1
>>417 肯定派の馬鹿どもがご丁寧に "俘虜≠捕虜" の資料を提示してくれたおかげで
下のソースを全滅させてやれたわw アリガトヨ♪・・・(・∀・)
>中沢三夫氏及び佐々木元勝氏証言 馬郡付近の投降捕虜約3〜4千名(証言による南京戦史)・・・2次史料
>成友少佐、鵜飼敏定氏証言 下関にて投降兵約5〜6千名の捕虜(証言による南京戦史)・・・2次史料
>中島今朝吾日記 「約七八千あり尚続々投降し来る」(南京戦史資料集1)・・・1次史料
>佐々木少将私記 「捕虜ぞくぞく投降し来り数千に達す」(南京戦史資料集1)・・・1次史料
>山田栴二少将日記 「投降兵莫大にして仕末に困る」「一四、七七七名を得たり」(南京戦史資料集2)・・・1次史料
>宮本省吾(仮名)陣中日記 12/16揚子江岸で捕虜約3000人射殺(南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち)・・・1次史料
>菅野嘉雄(仮名)陣中日記 12/17揚子江岸で捕虜約1万数千人銃殺(南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち)・・・1次史料
420 :
< :2010/08/29(日) 22:33:20 ID:06qdjRn1
>>417 これ、肯定派の方から出してきたんだけど?♪・・・(・∀・)
どうするん?こんな資料を出してしまって?wwwwwwwww
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
●≪捕虜とは戦地において虜となる者≫
対して
≪俘虜とは相手国において拘束される者≫
●≪捕虜≫と≪俘虜≫は全然違ってた事が書かれているんですけど?wwwwwwwww
秋月氏の資料は、今後、≪オイラが使う資料≫となるだろう♪・・・(・∀・)
ありがたく思え!wwwwwwww
>>415 >●" 捕虜 ≧ 俘虜 "でもなかった事が証明されてるんだが?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
恥の上塗り乙w 捕虜という集団の中に俘虜の資格を持つ者が居るのだから捕虜≧俘虜で合っている。
集団を集合に言い換えれば捕虜⊃俘虜でもいい。
捕虜≠俘虜は捕虜の集団の中に俘虜は決して含まれない事になり、明らかな間違いw
捕らえられた者(捕虜)の中に相手国において拘束される者が含まれるという条件を無視した馬鹿の考え方w
>>419 捕虜であって俘虜ではないので捕虜の中で戦時国際法違反者は裁判が必須だし、そうでない者は俘虜と
して扱われるだけだがw どこが全滅してんの?w 又妄想ですかwww
因みに佐々木少将私記は捕虜ではなく俘虜だけどなw
で、俘虜=捕虜と思い込んでいた事の対しての言い訳はないのかw 無知乙www
>>420 そんなの109次から肯定派テンプレに入ってるけどw 今頃気付いたのかw
つ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1275573620/88
>>416 >●何度も何度もループを続ける哀れな肯定派が沈黙する質問♪・・・(・∀・)
> "捕虜" を裁判にかけず処刑して、一体何の戦時国際法に違反するの?♪・・・(・∀・)
既に何度も何度も答えてるんだがお前が記憶障害だから何度言っても忘れてしまうだけだろw
戦時国際法違反ではなく只の国際法違反です。文明国が認めた法の一般原則に違反してますね。はい論破完了w
423 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:15:00 ID:E/ZqF5mi
>>421 >因みに佐々木少将私記は捕虜ではなく俘虜だけどなw
はぁ??なにいってんだおまえ(笑)。
俘虜がなんで投降するんだ??よく読めバカめ!
佐々木は捕虜=俘虜と勘違いしてただけだわな。
424 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:18:21 ID:E/ZqF5mi
>>421 >捕虜であって俘虜ではないので捕虜の中で戦時国際法違反者は裁判が必須だし、そうでない者は俘虜と
>して扱われるだけだがw
ハーグ条約のどこに「戦時国際法違反者は裁判が必須」と書いてあるんだw
又妄想かw
>>421 >で、俘虜=捕虜と思い込んでいた事の対しての言い訳はないのかw 無知乙www
で、結局自分で持ち出してきた「俘虜=捕虜」という証明はひとつもできないとw
無能乙w
427 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:35:28 ID:E/ZqF5mi
>>421 裁判が必要なのはスパイだけだわな。捕虜であろうが敵兵なら殺害しても
もんだいないわな。
428 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:42:11 ID:MRMcAkcp
否定派と肯定派に分かれていると、錯覚しているネットウヨ。 分かれているなら、教科書には載らない。 邪馬台国畿内説と九州説。論争になっているから、 どちらの説も載ってない。 数など、論争の内に入らない。
429 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:44:44 ID:E/ZqF5mi
>>421 >恥の上塗り乙w 捕虜という集団の中に俘虜の資格を持つ者が居るのだから捕虜≧俘虜で合っている。
集団を集合に言い換えれば捕虜⊃俘虜でもいい。
捕虜≠俘虜は捕虜の集団の中に俘虜は決して含まれない事になり、明らかな間違いw
俘虜は収容されて始めて俘虜なので、捕虜の中に俘虜はおらんわな(笑)。
430 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:45:20 ID:MRMcAkcp
広辞苑 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、 あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。
431 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:46:34 ID:MRMcAkcp
大辞林 ナンキンだいぎゃくさつ 【南京大虐殺】 日中戦争さなかの 1937 年(昭和 12)12 月から翌年 1 月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。このとき殺された中国人の数は、極東軍事裁判では二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜四〇万人とされる。
432 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:47:24 ID:E/ZqF5mi
>>428 日本には学問の自由が認められていることを知らない大バカめ。
キミの祖国には国定教科書しかないから理解できんわな(笑)。
433 :
日出づる処の名無し :2010/08/29(日) 23:50:29 ID:E/ZqF5mi
>>430 日本には出版の自由が認められてることを知らない大バカめ。
キミの祖国では辞書の記述はすべて真実だとされてるから理解できんわな(笑)。
434 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 00:09:11 ID:nfFiB8Km
>>421 >恥の上塗り乙w 捕虜という集団の中に俘虜の資格を持つ者が居るのだから捕虜≧俘虜で合っている。
集団を集合に言い換えれば捕虜⊃俘虜でもいい。
捕虜≠俘虜は捕虜の集団の中に俘虜は決して含まれない事になり、明らかな間違いw
犯罪者は警察に逮捕された段階では「被疑者」、拘置所の段階で「被告人」、刑務所の段階で「受刑者」となる。
被疑者は全て被疑者であって、被疑者の中には被告人はもちろん受刑者は含まれない。
「捕虜」は捕らえられた者の全てであり、俘虜収容施設の段階で初めて「俘虜」になる。
よって、捕虜に俘虜は含まれない。OK?
435 :
< :2010/08/30(月) 00:37:27 ID:zKtXj7SJ
>>421 馬鹿が発狂して、おまけにフルボッコ状態wwwwwww
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
≪捕虜≫ = 戦地において虜となる者
≪俘虜≫ = 相手国において拘束される者
●≪俘虜の資格を持つ者≫でも、≪相手国において拘束≫されなければ≪俘虜≫
ではない事が書かれているんですけど?wwwwww
日本語大丈夫ですか?wwwwww
436 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 00:42:21 ID:IRz5yxTH
大辞泉 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争初期の昭和12年(1937)、南京を占領した日本軍による、中国軍捕虜や一般市民に対する大規模な略奪・暴行・虐殺事件。
437 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 00:45:48 ID:IRz5yxTH
辞書に書かれていることは、知識人の間では事実として認識されています。 もし事実でないならば、訂正されます。
438 :
< :2010/08/30(月) 00:48:52 ID:zKtXj7SJ
>>422 まだ "法の一般原則" などというチン論にすがり付いてる馬鹿肯定派♪・・・(・∀・)
>>422 :戦時国際法違反ではなく只の国際法違反です。文明国が認めた法の一般原則に違反してますね。はい論破完了w
↑ ↑ ↑ ↑
●完全に "アウト" !・・・(笑
南京戦において、戦場では≪戦時国際法≫が支配します♪・・・(・∀・)
『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P126』
「軍隊」の権限は、「ネガ・リスト」方式で規定されます。ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、
これは禁止されるという項目が列挙されたものです。つまり、「原則自由」、「原則無制限」であって、例外
的に制限されることがあるという考え方です。そして、この場合、制限とか禁止にあたる制限的な否定項目
は、主として国際法による規制です。
もっと具体的に言えば、戦時国際法の特異な部門である「戦時法規」、即ち害敵行為の制限及び戦争犠
牲者保護のルールです。これに補完的に国内法による若干の規制がありえます。それでは、何故、軍隊
の権限は原則無制限かというと、これは軍隊の本質から当然導かれてくるものです。
『国民のための戦争と平和の法 色摩力夫著 P129』
何故なら、国外であっても国内であっても、外国との間に武力紛争が起これば、自動的に「戦時国際法」が
支配するからです。もはや、原則として、「平時国際法」の言う主権侵害という問題は起こりません。
>>422 ○y一~~ 論破完了サンキュー☆
(|,へ
」 ○| ̄|_
439 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 00:49:52 ID:nfFiB8Km
>>437 わかった、わかった。おまえさんは知識人だのぉー(苦笑)。
440 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 00:50:02 ID:IRz5yxTH
「南京大虐殺はなかった」説は、小林よしのりの漫画に載っています。 要するに、漫画の世界ということですね。 漫画と現実は違うのですよ。知らなかったのですか。
441 :
< :2010/08/30(月) 00:59:03 ID:zKtXj7SJ
>>422 チン論を曝しまわってる恥ずかしい恥ずかしい肯定派が答えられない質問集♪・・・(・∀・)
≪『陸軍軍法会議法註解』田崎治久著、軍事警察雑誌社 第六条≫
本条は、戦時又は事変に際し ≪軍事上の必要に基き≫ 第一条に記載したる以外の者に対しても、亦如
何なる犯罪であっても總て軍法会議に於て ≪裁判権を行ふことが出来得る≫ 旨を規定したるものである。
●【質問@】:上記陸軍軍法会議法において、『軍事上の必要に基き裁判権を行ふことが出来得る』とは
"法の一般原則に基づき捕らえた戦争犯罪者に対し裁判をしなければならない" と言う事なの?
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●【質問A】:諸外国軍隊は、法の一般原則にに基づき、捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判を
していたの?『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●【質問B】:軍隊が戦争犯罪者を処刑する場合、法の一般原則に基づき、必ず裁判をしなければならないの?
『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
442 :
< :2010/08/30(月) 01:03:25 ID:zKtXj7SJ
>>422 情けないの〜♪情けないの〜♪♪・・・(・∀・)
団塊世代のナマポクサヨが、ネトウヨの若造にコテンパン♪・・・(・∀・)
もう自殺した方がいいんじゃね?♪・・・(・∀・)
他の肯定派にどれだけ迷惑をかけてるか自覚できないの?♪・・・(・∀・)
悔しいの?♪・・・(・∀・)
悔しいの?♪・・・(・∀・)
悔しくて悔しくて眠れないんだね♪・・・(・∀・)
26-43 ← この惨めな惨めな自己解釈は、間違いなく後に、このスレの "笑い話" になるだろうなw
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
443 :
< :2010/08/30(月) 01:07:05 ID:zKtXj7SJ
421 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 22:59:49 ID:IbnUGCe/ 422 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 23:10:58 ID:mUXz+JHD ↑ ↑ ↑ ↑ ●IDが違っても、書き込み方が全く一緒wwwwwwwwww 孤独な池沼肯定派が必死の自己演出wwwwwwww ホント、恥ずかしい老人だな、オマエは♪ニヤニヤ・・・(・∀・) プププププププププm9(^Д^)プギャーー
>>437 >辞書に書かれていることは、知識人の間では事実として認識されています。
>
>もし事実でないならば、訂正されます。
つまり、辞書に書かれていることは
『知識人の間でしか事実として認識されていない』
『事実とされるのは訂正されるまでの間だけ』
ということかw
石器捏造事件も学会で認められ教科書や辞書にも載っていたけど、今では真面目に口にする者はいないw
しかし捏造がばれるまでは事実と信じられていたw
知識人や辞書がどうであろうと真実とは何の関係もないという見本w
しかも南京は知識人どころか、素人の「死体はどこ?」「殺された人数は?」「殺害場所は?」「実行した部隊は?」といった質問さえまともに答えられないw
しかしネタが辞書しかないって肯定派はどれだけ辞書が好きなんだよw
というか辞書しか縋りつくものがないって事かw
ミジメだね〜www
445 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 01:19:22 ID:IRz5yxTH
1億人が使っている本。それが辞書。小学生から老人まで。 学者もヤクザも使っている。男も女も使っている。 教科書もそう。すべての人間が使う本である。 小林よしのりの本は、マニアしか読まないの。それも、 現実の話とはみんな思ってない。 ところが、思っている奴がいる。それが、ネットウヨ。
446 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 01:21:44 ID:IRz5yxTH
辞書や教科書は正確さが命。 漫画は、馬鹿馬鹿しさが命。
>>446 なるほどなるほどw
と言うことは、慰安婦は事実だったと、こういう訳ですなw
過去に教科書に載っていたからねぇw
ずいぶんといい加減な「正確さ」ですなw
たかが漫画の言っていたことより、ずいぶんと正確な話だことw
それ以上に自分で調べもせずに権威主義に頼っているキミが一番哀れだねぇw
げらげらげらげらw
キミ、南京大虐殺とか何も知らないでしょ?w
448 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 01:41:58 ID:IRz5yxTH
物理学について、物理学者に勝てるか。100%勝てない。 経済学についても、地震学についても同じだ。 歴史学についても同じだ。教科書や百科事典は、学会で定説に なっているものに基づいて書かれている。だから、そのまま信じていいの。 そういうのを疑っていたら、きりがない。時間が1憶年あっても足りない。 また、一般人が専門家に勝てる訳はないのである。 特別優秀な人間が長い間かかって考えたものと、頭が悪い人間が ちょっとだけ考えても勝負できるはずがないのである。 訳はないのである。
449 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 01:44:46 ID:IRz5yxTH
449 訂正 訳はないのである→削除
450 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 01:55:52 ID:IRz5yxTH
東中野は、裁判の判決文の中で、「学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」 と屈辱的なことを言われている。
>>448 >また、一般人が専門家に勝てる訳はないのである。
石器捏造事件という現実を無視してるなw
現実を理解できないからありもしない妄想にしがみつくんだろうなあw
>>448 歴史学の場合は学者に勝てる場合が往々にしてあるのだがw
単純に証拠を見つければいいだけの話w
過去にいろいろ事例があるわけでw
最近だと、石器ねつ造か?w
学者たちはほとんど見抜けず、ねつ造を暴いたのは毎日新聞w
ついでに物理学者に勝てるかという話も、例えば相対性理論などを発表したときはアインシュタインは学者ではなかったが、ねぇw
経済学の専門家が常に勝てるなら、今の日本はとっくの昔に不況を脱しているだろうにw
地震学を持ち出した意味は分からんけどなw
地震は未だ余地が出来ないのに、何を以て勝った負けたと見なすのかよくわからんw
キミの言っていることは単なる権威主義、自分で調べようともせずに信じているだけの、学問という行為を侮辱する行為だねぇw
小林よしのりは、たかが漫画家だったが慰安婦問題では学者とやらに勝っていたと思うけどねぇw
薬害エイズも、どこかの専門家よりも調べまくって、ついには国に謝罪させていたようなw
結局、キミの言うことはデタラメでしかないってことだねぇw
証拠や証明を出せない以上は、専門家など意味がないw
信じるべきは専門家ではなく証拠や証明、ってな話だねぇw
その程度も理解できない奴に、歴史がどうのこうのと言ってほしくはないねぇw
>>450 ええと、地裁の話を持ってこられても、ねぇw
高裁で言われているのならともかくw
キミは高裁より地裁の方が判決文が優先されるとでも思ってるの?w
地裁はたまに変な判決が出るからねぇ、だから前例主義にも当てはまらないw
地裁の結果など、高裁以上に行った裁判では無意味なんだよねぇw
その程度も分からないのかねぇ?w
そんなことくらい誰でも知っていることのはずなのに、それすら知らない人に「学者を信じろ」とか言われてもなぁw
キミ、これからの人生、何度だまされるんだろうねぇw
自分の手で少しは調べてから発言してもらいたいよなぁw
なにより、南京大虐殺は殺人犯のレッテルを貼るんだが、当然、その貼られた奴がえん罪だったら誰か責任をとるんだろうねぇ?w
そこまで信じるのであれば、キミ、責任を負って発言してみるかい?w
454 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 06:27:16 ID:IRz5yxTH
数冊の南京大虐殺を否定する本を読んで、 歴史家になったつもりでいる馬鹿ウヨ。 すべの史料、文献を読んで博士論文を書いてから、歴史家を 名乗りなさい。
>>454 でも、一向に証明できない歴史学者って無能過ぎるな
奴等は何で証明できないの?
456 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 06:31:18 ID:IRz5yxTH
2ちゃんねるで投稿すれば、世間を納得させることができたと 錯覚しているネットウヨ。こんなスレを読む人は、数人しかいないの。 本を出すとか、博士論文を出すとかしなさい。
>>456 ねえねえ、何で答えてくれないの?
証明できない歴史学者って無能だよね
458 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 06:37:07 ID:IRz5yxTH
2ちゃんねるは所詮ど素人同士の井戸端会議でしかないの。 定説を覆すには、学会に対して新設を出さないといけないの。 ここで投稿する前に、論文を世間に発表しなさい。
>>458 お前が空っぽだから何も答えられないんだろw
460 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 07:10:03 ID:IRz5yxTH
私は、南京大虐殺関係の本は一冊も読んだことがないし、 読むつもりもない。百科事典で読んだので十分。 世間の大半の人は、そうしている。 学者に短時間で挑戦しようとしても無理。 時間的、能力的に無理なの。 自然科学、社会科学、人文科学などすべての分野で 専門家のことを信じないと生きていけないの。
461 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 07:11:57 ID:IRz5yxTH
広辞苑 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、 あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。
462 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 08:21:17 ID:3suukFgV
>>460 キミがどう思おうがそれは勝手だけどねぇw
それをこちらに押しつけないでいただきたいねぇw
まあ、君の話が通じるなら、
“政治は政治家という専門家が行うのであって、国民はどんなことがあろうが文句を言うな”
と言うことだよなぁw
と言うか、専門家って何?w
自称でもいいのかい?w
辞典を書いていなければ専門家じゃないのかねぇ?w
秦センセの主張は無視ですかそうですかw
ま、詭弁は勘弁してくれ、と言う話デスなぁw
464 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 08:57:45 ID:IRz5yxTH
「南京大虐殺はなかった」と記載されている辞書、百科事典を一冊あげてみろ。
「○○がない」と力説している辞典、百科事典を教えて
466 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 09:10:16 ID:IRz5yxTH
すべての百科事典は南京大虐殺はあった、と記載している。 もしなかったと思うなら、「事実ではない」とか記述されているはずである。 世界で一冊もないのである。
467 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 09:12:25 ID:IRz5yxTH
「南京大虐殺はなかった」という広告を出そうとしたが、 ワシントンポストとニューヨークタイムズに断られてしまった。
>>426 俘虜=捕虜と言ってるのは日本近代史板の肯定派だろw ここの否定派に捕虜と俘虜の意味は違うと教えて
やったのは肯定派w 否定派は108次まで捕虜=俘虜と認識してました。 つ
>>406 www
>>429 >>434 日本近代史板の前スレで否定派はさんざん「捕虜≧俘虜」を使っているわけだが今度は全否定ですかw
相変わらず節操がないのう。言ってる事がころころ変わっても矛盾を感じない程馬鹿なの?
>>435 >馬鹿が発狂して、おまけにフルボッコ状態wwwwwww
発狂してフルボッコ状態はお前だろw 過去スレで捕虜=俘虜と思い込んでいた事が晒されてそんなに悔しいの?w
>>438 >「軍隊」の権限は、「ネガ・リスト」方式で規定されます。ネガ・リストというのは、これだけはしてはいけない、
> これは禁止されるという項目が列挙されたものです。
戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれてないので、文明国が認めた法の一般原則に基づいて犯罪者の刑罰は
裁判によって決める事になりますねw
>>466 「はずである」とかいいから「○○がない」と力説している辞典、百科事典を教えて
>>468 「捕虜≧俘虜」って、お前数学0点だろw
471 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 09:58:42 ID:IRz5yxTH
下は、日本大百科全書(小学館)より引用。 首の長い怪獣ネッシーが住むというが、氷河時代に完全に氷床の下になり激しい氷食を受けた湖底に、古い時代の残存動物がいるとは信じがたい。怪獣論議に加え、山あいに静かに横たわる湖は、スコットランド観光の一中心地となっている。
472 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:02:40 ID:IRz5yxTH
河童(かっぱ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 水陸両棲(りょうせい)の妖怪(ようかい)。空想上の生物。
>>466 はい、大嘘大嘘w
最初しか記述を読まずに判断する、典型的な馬鹿の見本ですなw
日本大百科全書(小学館)
http://100.yahoo.co.jp/detail/南京大虐殺/ > 被虐殺者の数については、中国政府が約30万説をとっているが、日本の国内では、10数万から20万前後とする説、
> 4〜5万とする説、1万前後とする説、『事件そのものの虚構説』などの諸説が存在する。
百科事典に書いてあるのは単に「議題の説明」であって、あったか無かったかで書かれているものではないだろうにw
「南京大虐殺とは何か」が書かれているのであって、事実かどうかは別問題w
他の辞典も、その話がどのように議論されているかという部分を省略しているだけw
そんなことも分からないのかねぇw
別の例で見てみようw
けいあん‐の‐おふれがき【慶安御触書】(大辞泉)
慶安2年(1649)江戸幕府が公布した触れ書き。全32か条と奥書よりなる。年貢の確保をめざし、農民統治のため日常生活をこまかく規制したもの。
しかし今では違うんだよねぇ、これw
「無いもの」のはずなのに、なぜか書いてあるという不思議w
百科事典なんてこの程度だ、それをありがたがっている奴の気が知れないねぇw
はい、論破、とw
サンキュー
474 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:19:57 ID:IRz5yxTH
残念でした。日本大百科全書では、「大虐殺」の実態では、 下のように記述してます。20万人説を採用しております。 「大虐殺」の実態 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣 (べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市 民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見 せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り 広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団 体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推 測される。 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭 (ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従 軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。
>>474 それは肯定派の洞が書いた部分だからねぇw
ちゃんと[ 執筆者:洞 富雄 ]になっているじゃないかw
実際はその議論についてどのような論争が繰り広げられているか、そこまで読んでもらいたいよなぁw
あくまで実態というのは「南京大虐殺という話がどういうものか」と言う程度ものであって、
その後に論争として「いろいろな説がある」と言うのが日本大百科全書が採用したものデスよw
ちゃんと
1. 「大虐殺」の実態
の次に
2. 「大虐殺」をめぐる論争
が書いてあるじゃないかねぇw
そこは無視ですかそうですかw
ちなみにその部分を執筆している吉田裕は確か肯定派w
まあ、公平と言えば公平かねぇw
なんだ、キミ、そんなインチキなことしか言えないのかw
論破されまくって大変だねぇw
げらげらげらげらw
476 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:27:56 ID:IRz5yxTH
日本大百科全書では、いろんな説があるとしながらも、 20万人説が本文になっている。
>>468 文明国が認めた法の一般原則
>信義誠実原則は、まず国際法の解釈において作用する。ウィーン条約法条約31条は、条約は誠実に解釈されなければならないと規定する。
>これは、自国の表明した意思に正直、忠実に、かつ相手国の利益や立場を合理的に考慮して条文を解釈しなければならない、という意味と
>解される。履行についても、国際義務は誠実に履行しなければならないとされる(国連憲章2条1項、条約法条約26条)。これも、自国が表明
>した意思に正直、忠実に、かつ相手国の利益や立場を考慮して義務を履行しなければならない、という意味と解される。
条約を誠実に解釈してを守れって言うのが「文明国が認めた法の一般原則」だろ。
日本軍は批准していたハーグ陸戦条約に従っていたんだから何の問題もない
478 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:33:22 ID:IRz5yxTH
本当に論争になっているなら、一つの説だけ載せるということをしない。 「南京大虐殺がなかった」という連中が出てきた社会現象について 述べているだけである。
>>476 なんだそれw
キミの妄想を押しつけないでいただきたいねぇw
洞の話も一つの説として取り上げているだけにすぎんよw
と言うか、どれか一つの説を取り上げでもしないと、どういう議論がされているのか分からないからねぇw
それだけの話w
まあ、「否定も含めていろいろな説がある」、これが日本大百科全書の結論と言うことでいいんだねぇ?w
キミが個人的にどこが本文と思おうが、それはこの国では思想の自由が認められているから勝手だけど、ねぇw
はい、論破、とw
サンキュー
>>478 でもな、辞書色々見れば判るとおり、執筆者によって事件のあらましが全然安定していないんだよな
つまり南京大虐殺には定説など存在しない。これほど大規模な事件なのにあり得ない話だよね
元が捏造だらけで研究者でもどれが真実か判断しかねているんだよ
>>478 どういう議論がされているかと言うことについて、肯定派の誰かの議論でも取り上げない限り説明にはならんだろw
否定派ってのは、そういう主張を否定しているのだからねぇw
「肯定派」がいて「否定派」がいる、と言うことを理解できないのかねぇw
何度も言うが、キミがどう思おうが勝手だけど、どれが正しいかと言うことについては結論は何も述べていないんだよねぇw
それとも「これが事実だ」と言う表記が書かれているの?w
是非とも教えてもらいたいねぇw
キミの妄想は聞き飽きたからさぁ、根拠を以て示してごらんよw
482 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:41:19 ID:IRz5yxTH
南京大虐殺の本文に載らず、 社会現象としての南京虐殺論争に一言載せてもらって、 狂喜乱舞するネットウヨ。 あまりにも悲しいよね。
>>482 とりあえず、キミが嘘つきだと言うことはよく分かったけどねぇw
デタラメばかりのべて、論破されまくって、まだ語れるキミの恥知らずな頭の中を一度のぞいてみたいねぇw
結局、「ネットウヨ」とか言いたいだけだろうねぇw
そのネットウヨに論破された今の気分はどう?w
ぷぷぷぷw
484 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:50:13 ID:IRz5yxTH
日本大百科全書で、「南京大虐殺はなかった」説は紹介されてますか。 一言も紹介されてません。
南京大虐殺はなかった、というのが世界の常識になるからどうでもいい
486 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 10:55:50 ID:IRz5yxTH
日本大百科全書では、「大虐殺」の実態では、 下のように記述してます。20万人説を採用しております。 「大虐殺」の実態 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣 (べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市 民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見 せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り 広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団 体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推 測される。 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭 (ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従 軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。
>>484 >>464 で
> すべての百科事典は南京大虐殺はあった、と記載している。
2時間もたたずに自説を変えるのですかそうですかw
で、
「すべての百科事典は南京大虐殺はあった、と記載している。」
これは間違いだったと認めますか?w
まずはキミが自分で主張していたことが本当だったかどうか、そこから始めてほしいねぇw
都合が悪くなったら問題をすり替えて逃げるってのは勘弁してもらいたいねぇw
で、間違いだったの、どうなの?w
キミが言っていたことだからねぇ、キミ自身が答えなければ、ねぇw
ぷw
488 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 11:10:43 ID:IRz5yxTH
ワシントンポスト、NYタイムスは、「南京大虐殺はなかった」 という広告の掲載を拒否しております。 文科省は、新しい教科書を作る会の「南京大虐殺はなかった説」 の教科書への記載を拒否しています。 最高裁は、南京大虐殺の教科書への記載を認めています。
489 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 11:12:20 ID:IRz5yxTH
ブリタニカ百科事典 南京大虐殺 日中戦争中、日本軍が南京占領に際して行った中国軍捕虜ならびに民間人に対する集団殺戮・暴行事件。日本軍による残虐行為は南京入城時の1937年12月13日から15日にかけて最も激しかったが、これらの蛮行は同年11月杭州湾上陸以後、翌38年1月まで続いた日本軍による一連の 徴発、殺戮、略奪行為の一部であった。中支邦派遣軍司令官松井石根は捕虜の殺害を厳禁していたが、師団あるいは連隊レベルの将校たちが命令をきかず、大規模な殺害を引き起こした。それは満州・中国における日本軍の「下克上」現象、つまり既成事実をつくって上層部の承 認を強要するといういう行動様式の典型的な実例である。この大量殺戮については多くの証人がおり、また中国人犠牲者と外国人とによる詳細な史料が残されているにもかかわらず、日本の右翼勢力は過小視し続けてきた。一部の者は残虐行為が行われたこと自体を否定した。し かし、第2次世界大戦後の日本人学者の調査により、戦後の極東国際軍事法廷ならびに中国国内で開かれた各種法廷への提出記録が物語る犯罪行為のすさまじさが確認されている。犠牲となって殺された人の数を確定することは不可能である。推定値も、多いほうでは法廷での提 出記録の30万人から、少ないほうでは日本の軍事史家泰郁彦による4万人とかなりの開きがある。しかしすべての証言を勘案してみると、殺害された人数は15万人を下らないであろう。そのほかに4万人の女性が日本軍人の集団暴行を受け、また無数の食料品や衣料、住宅その他 の物資が略奪ないしは破壊された。日本軍部隊によるこの3ヶ月間の蛮行の凶暴性は、ナチスの強制収容所における残虐行為にも比せられよう。大戦後、多くの将兵が本件あるいは同種の犯罪を理由に処罰されたが、この残虐行為をするなと命じた松井石根が事件の責任を負わさ れて処刑されたことは歴史の大いなる皮肉である。その他の高級将校ことに朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ。上海派遣軍司令官)や中島今朝吾(第16師団長)、あるいは長勇(上海派遣軍参謀)などの下級将校のほうが直接的責任ははるかに大きい。
ID:IRz5yxTHは、あたかも朝鮮人のような論法だね。 自分で考えない特徴のようなヒトだ。こういうのが、サヨク(左翼ではない)になるんだね。w
491 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 11:16:59 ID:IRz5yxTH
エンカルタ百科事典 南京大虐殺 ナンキンだいぎゃくさつ 日中戦争で日本軍が南京で中国人に対しておこなった無差別の大量虐殺事件。中国では南京大屠殺(とさつ)という。1937年(昭和12)12月、松井石根(いわね)大将を指揮官 とする日本軍中支那方面軍が中国の首都南京を占領した際におきた。軍人・捕虜・一般市民など、虐殺された中国人は数万人とする説から43万人とする説まであるが、少 なくとも20万人以上であったと推定されている。 1937年7月7日の盧溝橋事件後、日本と中国は全面戦争に突入し、日本軍は上海・華北にしだいに戦線を拡大したが、抗日統一戦線をきずいた中国軍の頑強な抵抗で苦戦 を強いられた。11月の上海攻略後は物資補給のために略奪をくりかえし、敗残兵狩りを理由に、一般民衆に対しても暴行・虐殺をおこなった。12月13日に南京を占領した 際に、多数の捕虜を不法に虐殺。その後数週間にわたって、南京城内外で敗残兵狩りや、一般市民に対する略奪・強姦・放火・虐殺をくりかえした。 この日本軍による蛮行はアメリカなど世界中で報道されたが、日本国民には知らされず、第2次世界大戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)ではじめて明らかにされた。東 京裁判で中国側は日本軍によって殺害された中国人は43万人と発表、判決でも、最初の6週間に南京とその周辺で20万人以上が殺害されたとしている。南京攻略戦を指揮し た松井石根はその責任を問われて死刑になった。
幽霊(ゆうれい) 日本大百科全書(小学館) 死者の亡霊がこの世に現れるものをいう。 これはいったいどの学者が書いているのかねぇ?w 大槻教授、涙目だなぁw 書いてある以上は、当然、幽霊ってのは存在すると確定していいんだよねぇ?w そんなことを主張している学者とやらは聞いたこと無いけどw 素晴らしい!w 百科事典万能主義者、万歳!w ぷw
>>493 条約を誠実に解釈すれば、条約に書いてあること以上の義務を負わせて非難するのは「信義誠実の原則」に反するだろ
何故日本「だけ」が条約を超えた義務を履行しないといけないんだ?
495 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 14:39:03 ID:IRz5yxTH
最も高校生、大学生、社会人に使われているのは電子辞書。 これに一番使われている辞書は、広辞苑。 大辞林、大辞泉を採用しているものもあるが、これはネットで使われている。 ブリタニカ、マイペディアは電子辞書に搭載されている場合も多い。
496 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 14:43:47 ID:IRz5yxTH
平凡社が出しているコンパクトな百科事典「マイペディア」の「南京大虐殺」 の記述 1937年12月南京を占領した日本軍による虐殺・略奪事件。中国軍は日本軍入城前に撤退していたが,日本軍は1938年2月までに約20万人,中国側の発表では43万人の中国人を虐殺。
事典なんて「これはどういう意味か?」を調べるものであって、それがあったかどうかってのは関係ないんだよねぇw 「幽霊」なんて項目も、その存在の有無にかかわらず明記されている訳だしw いやまあ、これらの“定義”で肯定派と議論してもいいんだけどねぇw 困るのは間違いなく肯定派だねぇw 今まで日本軍の民間人虐殺の証拠は一度たりとも出てきたことがないんだからねぇw ぷw
>>494 >
>>493 > 条約を誠実に解釈すれば、条約に書いてあること以上の義務を負わせて非難するのは「信義誠実の原則」に反するだろ
> 何故日本「だけ」が条約を超えた義務を履行しないといけないんだ?
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#202】
ヽ(#`Д´)ノネトウヨ ファショショーの慟哭★
「便衣兵を殺すのは、国際法違反者への合法的な処刑である、兵士が一般市民を装うのは、
ハーグ陸戦協定条約附屬書23条で禁じられた「背信の行為」に当たるからだぁぁぁ!」
d(・∀・)y一~~イケメン学者のアンサー☆
実は23条には「敵國又ハ敵軍ニ屬スル者ヲ背信ノ行爲ヲ以テ殺傷スルコト」とあります。背
信の行為を使って「殺傷スルコト」を禁じているのであり、単に平服を着ることを禁じてい
るのではありません。また、たとえ国際法違反者であっても処刑には裁判を必要とします。ok
499 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 16:28:04 ID:IRz5yxTH
証拠には人証と物証があり、人証(証言) が中心になることを知らない、ネットウヨ。
>>499 肯定派証言者ばかり取り上げて、否定派証言者を取り上げないダブルスタンダードはいかがなものか?w
つーか、肯定派証言者の言うとおりであれば、死体という確実な証拠が出てくるはずなんだがねぇw
検証で確定した犠牲者ってのは未だ居ないはずなんだよねぇw
あ、特に民間人、ねw
ま、過去に慰安婦という「証言者がねつ造していた」事例もあるので、ねぇw
そもそも証言だけで人を殺人犯に出来るとでも思っているのかねぇ?w
それも人によって全然違う証言なんだけどなぁw
それにしても元気だねぇw
これだけ論破されていて、自分の説が間違っていたことを認めず、問題をどんどんすり替えて逃げる様は、こちらから見て実に楽しいw
これが肯定派脳と言う奴なのかねぇw
ぷw
>>500 > 肯定派証言者ばかり取り上げて、否定派証言者を取り上げないダブルスタンダードはいかがなものか?w
【言論チンピラ妄言解毒対策レス#82】
【政府】
日本政府は南京大虐殺を裁いた極東軍事裁判の判決を国家として受け入れており、南京大虐殺を国家として認めて
います。また、「中国に対する過去の侵略と植民地政策を反省している」というのが95年の村山談話以降、政府の公式
見解で、この点は小泉首相もことあるごとに強調しています。羽田内閣の時、永野法務大臣は「南京大虐殺は捏造」と
発言したことが問題となってクビになり、ついには羽田内閣もぶっつぶれました。
【法律】
南京大虐殺は極東軍事裁判で有罪となりました。この裁判で死刑になった松井大将は証言の中で虐殺の事実を認め
ていました。戦後日本の賠償訴訟(「七三一部隊」被害者損害賠償請求訴訟,東京高裁判決,1999.9.22)でも南京虐殺
の事実認定がなされています。また、南京虐殺否定本でウソツキ呼ばわりされていた中国人女性が否定本の著者を
訴えていた事件では、この著者の敗訴が最高裁で確定しました
【学術】
「南京大虐殺」の事件の存在自体を否定している歴史学者は一人もいません。(「否定説はほとんどの歴史家の間
では受け入れられる傾向はない」ウィキペディア「南京大虐殺論争」)。日本の歴史事典、百科辞典類で、南京大虐殺
の事件を否定ないしは存疑として記述しているものは一つもありません。日本の教科書にも事件に疑いを差し挟んで
いるものは一つもありません。アノ「作る会」の教科書でさえ、他の教科書と同じように南京大虐殺を認めた記述をし
ています。以上のように南京大虐殺否定論というのは、右翼の人たちが、学術的にはお話しにならないようなデタラメ
な検証を根拠に、勝手に言い立てているだけのことであって、日本でも公の場では全く認められていない、アングラ的
言説に過ぎません。ただ、このアングラ説にとびついた漫画(ゴー宣)などのせいで、漫画しか読まないような若者はこ
ちらが真説と思いこんでしまったようですが。
502 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:01:46 ID:DNCcYu9b
503 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:19:28 ID:IRz5yxTH
人証(証言)が証拠でないと思っていた馬鹿ウヨ。
504 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:20:31 ID:DNCcYu9b
>>493 条約を誠実に解釈すれば、戦闘中に分が悪くなったので命乞いをする投降者を
必ずしも受け入れる必要はありませんわな(笑)。そんなバカげたことがまかり
とおるなら、大量投降して相手の戦闘能力無力化(俘虜の食料・管理に忙殺される)
が可能となるので、人数が多いほうが勝ちとなるやんけ。まさに中国軍は無敵になるわな(笑)。
>>493 >条約を誠実に解釈すれば、敵国・敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷したり、兵器を捨てた
>自衛手段を持たない投降者を殺傷する事などとても出来ないと思うけどw
自衛手段を持たなかろうが、投降してこようが、日本軍がそれを受け入れる義務はありませんがw
ハーグ陸戦条約
第32条: 交戦者の一方が他方との交渉を行うため、白旗を掲げて来た者を軍使と規定する。軍使、及び、それに随従する喇叭手、鼓手、旗手、通訳は不可侵権を有す。
第33条: 軍使を差し向けられた部隊長は必ずしもこれを受ける義務は無い。
>>503 人証(証言)が証拠だと思っているバカサヨw
少なくとも法治国家では証言者が不明では証拠にならないw
507 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:25:06 ID:DNCcYu9b
>>503 物証のともわぬ人証など信憑性に欠けることを知らぬ馬鹿サヨ。
おまえの理屈でいうと「いったもん勝ち」になるわな(笑)。
あぁ、おまえ百科事典くんか?基地外だからしゃーないの。
508 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:30:32 ID:IRz5yxTH
証言者数が多いほど、飛躍的に証言内容の信頼性が高まるということを 理解できない馬鹿ウヨ。
>>508 ところが、一つの現場に複数の証言者が殆ど居ないんだよな
幕府山事件の様に複数居る場合でも、否定派肯定派が入り交じっている例がある
つまり複数の証言で信憑性が高まった事例が皆無なんだよ
510 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:35:07 ID:IRz5yxTH
マイペディア 南京大虐殺 1937年12月南京を占領した日本軍による虐殺・略奪事件。中国軍は日本軍入城前に撤退していたが,日本軍は1938年2月までに約20万人,中国側の発表では43万人の中国人を虐殺。
511 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:35:53 ID:IRz5yxTH
マイペディア 南京大虐殺 1937年12月南京を占領した日本軍による虐殺・略奪事件。中国軍は日本軍入城前に撤退していたが,日本軍は1938年2月までに約20万人,中国側の発表では43万人の中国人を虐殺。
512 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:36:39 ID:DNCcYu9b
>>508 キミの祖国では嘘も百篇つけば真実になるからな(笑)。
513 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:46:24 ID:IRz5yxTH
加害者と被害者の両方の膨大な数の証言があることを理解してない、馬鹿ウヨ。
514 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:54:20 ID:DNCcYu9b
>>513 デッチアゲだと気づかない百科事典くん(笑)。
515 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 17:57:48 ID:IRz5yxTH
証拠についてはプロである最高裁が認めている、南京大虐殺(家永第三次訴訟) を知らない間抜け馬鹿ウヨ。
516 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 18:03:12 ID:IRz5yxTH
馬鹿ウヨよ。一日百回読め。 南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 1937年(昭和12)12月13日、上海(シャンハイ)派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)・第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州(こうしゅう/チューチョウ)湾上陸)の2軍団 からなる中支那(しな)方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)が、中国の首都南京を攻略した際、中国軍の捕虜・敗残兵および一般市民に対して行った大残虐事件。この事件を欧米ではナンキン・アトロシティーズNanki ng atrocitiesとよぶ。日本でも1970年ごろから南京大残虐事件、南京大虐殺とよばれるようになった。 「大虐殺」の実態 占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩(そうとう)戦では、戦意を失った多数の中国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣 (べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市 民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視(べっし)観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見 せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り 広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪63%に及び、中国人は南京に処女1人もなしと称したという。日本軍は遺棄死体8万4000と発表したが、現地の慈善団 体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて15万5337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推 測される。 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇(ちょういさむ)中佐は南京の埠頭 (ふとう)地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従 軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。
>>516 いやむしろ、洞の本とかまずは読めw
その上で資料とか調べた上で、事実かどうか考えろw
秦センセの本とか笠原のとか、まずは読めw
話はそれからw
読んだこともない奴が、百科事典を根拠に南京大虐殺が事実とか言ってもなぁw
キミの言葉を借りるなら、「専門家でもない奴の言っていることなど聞く耳持たない」ってかw
まあ なんというか がんばれ、お前がどこまで行けるか見てみたくなった。 たぶん一生同じ町内をウロウロしてるんだろうけど。
519 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 18:20:18 ID:IRz5yxTH
投資家なんだよ。 今は、欧州の株価を見ている。 2ちゃんねるは、ついで。
まあ、南京大虐殺はあったというのは、現代日本社会における多数意見であるとはいえるかもな。 といっても、多数意見だから絶対的真理であるとは限らないしー、ひっくり返る可能性もないとは いえないね。 いわゆるコペルニクス的転回というやつだねw
522 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 18:53:39 ID:IRz5yxTH
櫻井よしこは、テレビで「親や祖父の世代の悪事を追求すること はやめよう」と言っていた。小林よしのりも、同様のことを言っていた。 「南京大虐殺はなかった」というより、「南京大虐殺のことは 忘れよう」ということのようだ。 しかし、事実は事実として伝えないといけない。それが答だ。
>>522 何も証明されていないのに何で「事実」なの?
それとも歴史学者が無能だから証明できていないの?
524 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 19:12:17 ID:IRz5yxTH
小林よしのり、櫻井よしこは、「南京大虐殺はなかった」 と言っているのじゃないの。 動機が、真実を知りたいということではなく、事実を隠したいということだ。 最初から間違っている。
事実なら捏造写真ばら撒かんでもいいのにな
526 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 19:39:17 ID:IRz5yxTH
「南京大虐殺はなかった」と言っているのは、ネットウヨクだけだろ。
527 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 19:44:59 ID:DNCcYu9b
>>526 あったという証拠が皆無だから。キミが出せるなら英雄になれるよ(笑)。
528 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 19:47:46 ID:DNCcYu9b
>>519 南京大虐殺があったなんていってる輩は投資能力ゼロだわな(笑)。
つか、おまえあ単なる社会不適応者だわな(爆笑)。
529 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 19:59:02 ID:IRz5yxTH
ネットウヨクは、歴史家じゃない。 ただの日本の恥さらしである。
530 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 20:04:09 ID:DNCcYu9b
>>529 おまえは投資家じゃない。
ただの社会不適応者だわな(笑)。
531 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 20:24:55 ID:IRz5yxTH
ネットウヨもここで投稿していたら、詐欺師の訓練ぐらいにはなるかもしれない。 犯罪者養成スレ。
532 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 20:30:55 ID:IRz5yxTH
2ちゃんねるに投稿して、 歴史家気取りの馬鹿ウヨ。
>>494 >条約を誠実に解釈すれば、条約に書いてあること以上の義務を負わせて非難するのは「信義誠実の原則」に反するだろ
敵国・敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷してるし兵器を捨て自衛手段を持たない投降者を殺傷してますね。
条約に書いてあること事を守ってないんだからペナルティを受けて当然ですが。もっとも戦争に勝てばペナルティ
は無いけどね。
>>504-505 実際に投降を受け入れ、指揮官が捕虜として認識していた事例が
>>34-35 現実を受け入れてようよw
534 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 21:08:06 ID:DNCcYu9b
>>533 敵兵だからの一言。国際法つーの敗者のみに適用されるええかげんなものってことな(笑)。
自軍の被害を避けるために攻撃をやめ捕らえただけだわな。俘虜収容施設に入って初めて俘虜な。
ところで軍閥国民党はハーグ条約批准してたんか(笑)?
535 :
日出づる処の名無し :2010/08/30(月) 21:28:49 ID:DNCcYu9b
>>533 >兵器を捨て自衛手段を持たない投降者を殺傷してますね。
命乞いしている敵兵を殺すことを国際法は禁じていません。
非情ではありますが戦場の常としかいえませんね。
536 :
< :2010/08/30(月) 22:24:37 ID:zKtXj7SJ
>>477 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
んっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっとにどんだけ馬鹿だったんだよ!wwwwwwwwww
『杉原高嶺』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E9%AB%98%E5%B6%BA 日本の国際法学者。京都大学名誉教授。北海道大学名誉教授。専門は海洋法、
国際司法制度の研究など。法学博士(東北大学、1976年))(学位論文「国際司法裁判所の研究」)
http://homepage2.nifty.com/basso_continuo/lecture/international_law/resume02.pdf 杉原高嶺『現代国際法講義』(有斐閣)
法の一般原則が国際法の独自の法源をなすかどうか、学説上はいまだ定説はない。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
↑ ↑ ↑ ↑
●"法の一般原則" が国際法の独自の法源になるとは決まってないのに、
一体誰が "戦争犯罪者を無裁判で処刑する事は法の一般原則に≪違反≫する" なんて
決めたんだよ!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
●諸外国軍隊は、"法の一般原則"に基づき、捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判
をしていたのか?裁判をしていたというのなら、その≪証拠≫を出してみろ!♪・・・(・∀・)
ププププププププププププププププププププププププププm9(^Д^)プギャーー
537 :
< :2010/08/30(月) 22:26:16 ID:zKtXj7SJ
>>468 肯定派の言質が利用できるなら、何ぼでも利用してやるYO〜♪・・・(・∀・)
今後も遠慮なくオマエが "謙譲" した下ソースを使ってやるワ♪ありがたく思え♪・・・(・∀・)
『奇跡の村の奇跡の響き』秋月達郎(小説家) PHP研究所
戦地において虜となるのは捕虜といい、相手国において拘束されるものを俘虜という。
≪捕虜≫ = 戦地において虜となる者
≪俘虜≫ = 相手国において拘束される者
即ち、≪俘虜の資格を持つ者≫でも、≪相手国において拘束≫されなければ≪俘虜≫
ではない♪ よって ≪捕虜≠俘虜≫wwwwwwwww
●この逝かれた肯定派の日本語力・・・(笑笑笑笑
>>468 :戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれてないので、文明国が認めた法の一般原則
に基づいて犯罪者の刑罰は裁判によって決める事になりますねw
@≪普通の人の解釈≫
戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれていないから、裁判をするのは構わない。
A"逝かれた肯定派解釈"
戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれていないから、裁判をしなければならない。
●オマエは "A" の解釈が "まとも" に見えるのか?wwwwwwww
"しなければならない" になるのなら、それは軍隊ではなく警察だとオマエも書いてるじゃん♪wwwwww
>>64 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、「原則制限」の考え方で警察
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
>>508 >証言者数が多いほど、飛躍的に証言内容の信頼性が高まるということを
>
>理解できない馬鹿ウヨ。
昔、肯定派で同じような事をほざいていたバカがいなかったかwww
肯定派ってのはなんで現在、過去、未来、通じてみんな同じような結論になるんだw
論理的思考能力が欠如しているとしか思えないなw
539 :
< :2010/08/30(月) 23:15:14 ID:zKtXj7SJ
>>536 こっちの方が正確な表現だな・・・(´・ω・`)
●"法の一般原則" が国際法の独自の法源になるとは決まってないのに、一体誰が
"戦争犯罪者を無裁判で処刑する事は、法の一般原則より国際法に≪違反≫する" なんて
決めたんだよ?♪・・・(・∀・)
このソースも今後は≪オイラの資料≫と化すだろう♪・・・(・∀・)
ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
>>539 あのさ、一般原則にも色々あって「平和に対する罪」まで一般原則だと主張する輩に向けて「そんな事あり得ん」と言っているだけで
「信義誠実原則」(と「衡平原則」)は、どんな状況であろうが成立しなくてはいけないって言う原則の一つです
要旨は「条約をねじ曲げて解釈してはいけない」という話です
つまり条約を批准しているにも拘わらず、国内法に展開する時に解釈をねじ曲げたってことが有った場合
その国内法の適用を見合わせる話です
今回奴が何でこんな物を持ち出したのかさっぱり判りませんよね。
日本の軍律などがハーグから逸脱しているとは到底思えませんから
541 :
< :2010/08/31(火) 00:06:18 ID:m3pjvA+g
>>540 うむ。同意・・・(´・ω・`)
戦場を支配する戦時国際法に書いていない事に言及しても
意味は持たない・・・(´・ω・`)
池沼肯定派が引用してる吉田チン論たるや、
お粗末な歴史学者の自己解釈感想文・・・(´・ω・`)
≪国際法学≫に関して言えば、オイラ達も吉田も同格だしな・・・(´・ω・`)
>>541 奴は「衡平原則」の定義「条約は誠実に解釈されなければならないと規定する。」の「誠実に」を「人道的に」と拡大解釈して
「人殺しは違法ニダ」という論法に持っていこうとしているんじゃないかな
いやあ、この解釈自体が「衡平原則」に反していることは言うまでもないのですがw
543 :
< :2010/08/31(火) 00:26:48 ID:m3pjvA+g
>>542 自己解釈の塊だから、そんな事を妄想してたとしても不思議ではないな・・・(´・ω・`)
何せ、こ〜んな自己解釈を平然と曝すヤツだもんな・・・(笑
↓ ↓ ↓ ↓
"戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれていないから、裁判をしなければならない。"
>>542 ×衡平原則
○信義誠実原則
コピペしていたんでつい・・・
545 :
< :2010/08/31(火) 00:51:20 ID:m3pjvA+g
>>544 OK・・・(´・ω・`)∩
さっそく新スレでは池沼肯定派が発狂コピペを貼ってた・・・(´・ω・`)
546 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 05:00:06 ID:64FHXTH3
肯定派と否定派に分かれていると思っているネットウヨ。
547 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 05:01:12 ID:64FHXTH3
数冊の本を読んだら歴史家になれると思っているネットウヨ。
548 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 05:14:31 ID:64FHXTH3
2ちゃんねるで歴史家になれると思っているネットウヨ。 2ちゃんねるは、所詮井戸端会議。
549 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 08:01:34 ID:64FHXTH3
広辞苑 ナンキン‐だいぎゃくさつ【南京大虐殺】 日中戦争で南京が占領された1937年12月前後に南京城内外で、日本軍が中国軍の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、 あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件。
>>534 >自軍の被害を避けるために攻撃をやめ捕らえただけだわな。俘虜収容施設に入って初めて俘虜な。
そんな理由あるかよw ソース出してみろ。捕らえないで攻撃を続ければいいだけだろ。
>ところで軍閥国民党はハーグ条約批准してたんか(笑)?
中華民国がハーグ陸戦条約に加入していた事も知らずに書き込んでたのかw そんなに自分の無知を晒すのが楽しいの?
>>537 結局108次までは捕虜=俘虜と思い込んでいた事に対する言い訳は出来ないわけねw そりゃ そうだわな。
今さらそんな事思ってなかったと言っても108次を見られたらバレちゃうもんなw
ところで誰が
“戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれていないから、裁判をしなければならない”
なんて書いてるの?
俺が書いたのは
“戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれてないので、文明国が認めた法の一般原則に基づいて犯罪者の刑罰は
裁判によって決める事になりますねw ”
だからな。捕虜のうち交戦規定に違反していない者は裁判にかける理由がありませんがw 裁判が必要なのは
犯罪者の処罰を決める場合だけですけど。相手の解釈をねじ曲げないと反論出来ないわけですねw
551 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 11:00:51 ID:HB1FqW19
>>550 おまえは無知極まりないのぉー(笑)。学問的素養の問題だわな。
加入と批准の違いを知らぬ大バカめ!そんなに
自分の無知を晒すのが楽しいの?
552 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 11:04:31 ID:HB1FqW19
>>550 なんで戦場で敵兵殺すのに裁判が必要なんだ(笑)??
553 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 12:17:11 ID:HB1FqW19
>>550 ところで交戦規定違反者ってたとえば便衣兵のことか??
で、便衣兵って犯罪者なのか??だとしたらその罪と罰を
定めた刑法はどこにあるんや??
国家間の約束である国際法を根拠に個人を裁くことなど
誰にもできませんけど。ましてやハーグ条約批准している
文明国の日本ですから、法の大原則である罪刑法定主義に
反したことなどするわけありませんわな。
で、非文明国たる中華民国=軍閥国民党はハーグ条約批准してたんか(笑)?
>>511 >加入と批准の違いを知らぬ大バカめ!そんなに
>自分の無知を晒すのが楽しいの?
つ
http://homepage2.nifty.com/childrights/international/crc/faq_crc.htm *加入(accession):「批准」と同じく、条約の規定に拘束される(条約の規定を法的に遵守する)
意思があることを正式に宣言する行為です。「署名」という手続を省いている点で「批准」と異なって
いますが、国際法上の効力は「批准」と変わりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
加入と批准で効力に違いがあると思っているお前は相当な馬鹿だなw
>>552 >なんで戦場で敵兵殺すのに裁判が必要なんだ(笑)??
戦闘中の敵兵と戦闘終了後の敵拘束兵の区別も出来ない馬鹿なんですねw
>>553 >ところで交戦規定違反者ってたとえば便衣兵のことか??
>で、便衣兵って犯罪者なのか??だとしたらその罪と罰を
定めた刑法はどこにあるんや??
無知乙w 刑法で出来る事は占領下の民間人を軍律違反者として裁ける程度。便衣兵はハーグ陸戦条規の第一条違反者
として陸軍軍法会議法で裁かれるんだけどw 罰則規定も陸軍軍法会議法に記載されてますが何か?w
>>554 >戦闘中の敵兵と戦闘終了後の敵拘束兵の区別も出来ない馬鹿なんですねw
交戦者資格保有者以外は、ハーグ陸戦条約上区別はありませんよね
つまりあんたが言う様に4条違反者を裁判に掛ける必要があるというのなら
普通の敵兵を攻撃するのに裁判が必要になっちまうだろうがw
556 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 14:37:51 ID:kIbn1BYD
虐殺の数は南京入城後の分も含まれてるんだが?
558 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 17:55:46 ID:P+1l3mOc
>>554 無知はおまえや。国内法すら整備していないシナに日本を非難することなど
できんわな。ま、確かにシナは戦時国際法違反をもって日本を非難などしと
らんけどな。
はぁ??戦闘終了ってなに?休戦か停戦でもしたんか??戦闘中に捕獲しtだけやないけ。
なんで敵兵を日本国内法でさばかなかんのや??根拠条文挙げてみなはれ(笑)。
勝手に刑法をつくらないように(笑)
559 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 18:10:35 ID:P+1l3mOc
>>554 第4条:本条約が正式に批准された際には、1899年7月29日のハーグ陸戦条約に代わるべきものとする。ただし、本条約に批准しない国においては前述の条約が適用される。
批准国日本はハーグ条約に直接拘束されませんけど(笑)??
敵兵を軍法会議にかけなければならないとする国内法規をあげてくれなはれや。
おまえは救いようのないバカだわな(涙)。
>>557 つうか中国の主張は入場以降のみ。でも、全然それらしき物が証明できないから
無理矢理入場以前も虐殺だと言い張っているのが肯定派です
中国の主張すら嘘だと言い張る肯定派って一体何物なんだ?
561 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 19:00:57 ID:64FHXTH3
肯定派と否定派に分かれていると思っているネットウヨ。 だったら、教科書などに載らないよ。 邪馬台国の畿内説、九州説。どちらも教科書には載ってない。
>>561 ところでネットウヨって何?w
キミの脳内妄想を語られてもなぁw
ネットウヨなんて言葉、一般社会でまともに使われていないと思うけどねぇw
誰と戦っているのかは知らないけど、そんな妄想をこちらに押しつけるのは勘弁してもらいたいねぇw
げらげらげらげらw
564 :
< :2010/08/31(火) 21:22:57 ID:m3pjvA+g
>>550 まだそんな "息苦しくなる様な言葉遊び" をやってるの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
『Yes』 or 『No』も答えられないのに、まだ "論破されていない!" と言い張るの?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
●【質問@】:戦時国際法に裁判をしてはいけないと書かれてないので、軍隊は、文明国が認めた法の一般原則
に基づいて、犯罪者の刑罰を決めるときは裁判をしないといけないの?『Yes』 or 『No』?♪
※前レスには "しなければならない" になるのなら、それは軍隊ではなく警察だと書いてるが?♪・・・(・∀・)
>>64 :戦争犯罪者を裁判にかけなければならないというのは、してよいこと、しなければならないことであり、
「原則制限」の考え方で警察
>>65 :裁判に“かけなければならない”という考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w
>>65 :しなければならないという考え方は「原則制限」であり、軍隊ではなく警察w 読解力のない馬鹿乙w
●【質問A】:諸外国軍隊は、文明国が認めた法の一般原則にに基づき、捕らえた戦争犯罪者を処刑する場
合は必ず裁判をしていたの?『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
※諸外国が捕らえた戦争犯罪者を処刑する場合は必ず裁判をしてたとする証拠をヨロ♪wwwwwwwww
●【質問B】:軍隊が捕らえた戦争犯罪者を無裁判で処刑する事は、文明国が認めた法の一般原則により国
際法に≪違反≫する事になるの?『Yes』 or 『No』?♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
※ "法の一般原則" は国際法の法源となるワケではない様だが?♪・・・(・∀・)
杉原高嶺『現代国際法講義』(有斐閣)
http://homepage2.nifty.com/basso_continuo/lecture/international_law/resume02.pdf 法の一般原則が国際法の独自の法源をなすかどうか、学説上はいまだ定説はない。
565 :
< :2010/08/31(火) 21:23:39 ID:m3pjvA+g
>>554 バカめ!wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
軍法会議法とは軍法会議開廷のための 【 手続き 】 を定めたものだ!ドアホ!wwwwwwww
『旧陸海軍軍法会議法の制定経緯 山本政雄』
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j9_2_3.pdf すなわち軍法会議とは、現代の最高裁判所に相当する大審院を頂点とした通常裁判所とは別種の、
帝国憲法で設立を認められた特別裁判所であった。そして、その裁判所の構成と司法権行使の手
続きについて定めた法律が、本稿で考察する1921(大正10)年制定の陸軍軍法会議法及び海軍軍
法会議法だったのである。
『旧陸海軍軍法会議法の意義と司法権の独立 山本政雄』
http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/05.pdf この軍法会議法が規定する、常設軍法会議3における基本的訴訟手続は、戦地での裁判を想定し
た特設軍法会議4における例外規定を除いて、概ね旧刑事訴訟法の規定に整合されていた。
【 ※注意:刑事訴訟法 ⇒ 刑事訴訟の手続きについて定めた法律 】
すなわち、大正デモクラシーの風潮下で成立した陸海軍軍法会議法とは、一般法の規定に整合し、
被告人の人権擁護と司法権の独立を宣明した、民主主義的な刑事裁判を規律する法律であった。
●軍法会議法の一体何処に "ハーグ陸戦条規の第一条違反者である便衣兵" に対する罰則が
記載されてるんだよ?!wwwwwwwwwww
566 :
< :2010/08/31(火) 21:24:31 ID:m3pjvA+g
>>550 、554
『秋月達郎氏の解釈』も『杉原高嶺氏の解釈』も『戦時国際法の権威色摩力夫氏の存在』も、
み〜〜〜んなオマエからぶん取ってやったワwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
オマエからぶん取ったものでオマエを崩壊させるこの快感wwwwwwwwwww
悔しいか?悔しいか?悔しいか?ァハハハハハハ( ゚∀゚)八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \〜♪
それでも "ボクちゃんはまだ論破されてない!" んでちゅよねぇぇぇぇぇ〜〜〜♪wwwwwwww
だから意地を張って次スレにも早々に "ボロボロ論破済み自己解釈コピペ" を貼ってしまいますたwwwwww
死んでも認めたくないんだよな♪ "論破された" 事をさ♪
つまり、オマエは自分自身を "拒絶" してるんだよ!wwwwwww
それが "自己崩壊" ってヤツなんだよ!wwwwww
肯定派はみ〜〜〜んなこの道を辿って自己崩壊していったのさ♪wwwwww
オマエもチンカスK-Kやバカチョンタラリや発狂コピペkoueiと同じ道を辿る運命なんだよ!wwwwww
プププププププププm9(^Д^)プギャーー
戦時における便衣兵の取り扱いは、捕らえた側の裁量範囲でそ。 帝国陸軍が身分を詐称して交戦相手に逮捕されたら厳罰・即時処刑も避けられない。 対抗勢力が「そう」と定めたのであれば、そういう処遇になるだけ。 ハーグ条約や、それ以外の国際協定では非戦闘員および明確な軍人の扱いを定めたもので それ以外の便衣兵・パルチザンはすべて犯罪者に区分される。 まずもって軍法会議は自国の現役将兵及び特定条件を満たした文民に適用されるもので、 捕虜や非軍属戦時犯罪者については軍律法廷による裁判扱いになる。 便衣兵は軍律法廷によって処断される種類の逮捕者。 アメリカだと戒厳令発令下での軍事審問委員会で扱われると思われる。
568 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 22:24:06 ID:P+1l3mOc
ここのタコ踊りも終わりか(笑)?
>>550 >
>>534 >>自軍の被害を避けるために攻撃をやめ捕らえただけだわな。俘虜収容施設に入って初めて俘虜な。
>
>そんな理由あるかよw ソース出してみろ。捕らえないで攻撃を続ければいいだけだろ。
もうとっくに論破済みの話を懲りもせずもちだすとはw
【世界の】「南京大虐殺」は嘘【常識】93次資料
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1252251645/l50 >690
>
ttp://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k02.html >【質問】
>日本軍における,捕虜の管理責任はどこにあったのか?
>【回答】
>捕虜の置かれている状況により,所管がその都度変わった,と内海愛子(恵泉女学園大学教授)は述べる.
>日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となる。
>
>【陸軍大臣管轄下】の【正規の俘虜収容所に収容されて】、はじめて「俘虜取扱細則」による【「正式な俘虜」】になり、捕虜の待遇を定めた条約の【「準用」の対象】となる。
>
>つまり肯定派はその「捕虜」が日本軍によって収容所に収容された「正式な俘虜」である証明が必要w
>
>当然、『「交戦法規を遵守し」、「自分の意思で投降」もしくは「降服」していて、「武装解除に応じて」、「所属、階級、氏名」を答えて、
>「逃亡、反抗せず」、日本軍が「投降」「降服」を受け入れ、収容所に収容されている状態』、であれば「正式な俘虜」と言えるかもw
>
>肯定派から日本軍に殺害されたのがそういった「正式な俘虜」だった証拠が示されたことは無いw
570 :
日出づる処の名無し :2010/08/31(火) 23:12:50 ID:P+1l3mOc
>>554 ハーグ条約を批准していないシナ軍の便衣化は明らかに国際法違反であるが、
それをもって日本軍は裁判にてシナ兵を裁くことなどできんわな。
ハーグ条約を批准している日本軍は国内法を遵守していれば、なんら問題はないわな。
捕虜虐殺をもって国内法にて処分された日本兵はいないようなので、ハーグ法違反行為
などなかったんでしょうな。
>>569 >もうとっくに論破済みの話を懲りもせずもちだすとはw
論破されてるのは否定派の様ですがw
99次638 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 17:29:37 ID:zNIm/O1y [4/5]
さてと、キチガイにとどめを刺しておくか。お前が持ってきた内海愛子著の
>POWの解釈の違いにも注目しておきたい。 日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、
>はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となる。(中略)
>大本営は陸軍大臣の示す収容所に捕虜を輸送する。捕虜の輸送が終わり、収容所に収容されてはじめて先に述べた
>ように陸軍大臣の管理下の捕虜、すなわち軍政が管理する捕虜となる。
は、管理区分上、“軍政の”正式な俘虜になると言ってるだけなのだが、この軍政の「正式な俘虜」と言ってるだけの文を、
南京戦時の軍令捕虜に当てはめ、俘虜収容所に入る前は捕虜じゃないとした。そんな馬鹿げた理屈が通用すると思った
のか?捕虜は指揮官が捕虜と認識すれば捕虜だ。当時の日記で指揮官が捕虜と認識していた証拠ならいくらでも出てくるわw
それに、明らかに俘虜管理部が設立して以降の捕虜を扱った機関とその資料であるのに、南京戦時の捕虜を扱いに当て
はめて何を言いたい訳w 昭和13年の出来事を昭和16年以降に設置された“正式の俘虜収容所”に収容されるかどうかで
語っちゃう訳?どんだけ時空を捻じ曲げた自己解釈だよ。ここまでしないとお前等の無裁判処刑合法論は成り立たないって訳かw
“正式の俘虜収容所”とは何かを示した文があるのでコピペしとく。著者の立川京一は防衛研究所第1戦史研究室主任研究官な。
ア 俘虜収容所令(1941年12月23日)
前項の最後で述べたように、最初に「俘虜収容所令」が公布されている。同令は、陸軍大臣が必要に応じて、その定めに
よって、その統括する捕虜収容所(正式の捕虜収容所)を設置することを定めている。捕虜収容所の管理者は軍司令官または
衛戍司令官である。所長以下、所員、下士官、判任官の文官が職員として捕虜収容所の業務や事務にあたることとされている。
また、軍司令官や衛戍司令官は必要に応じて事務補助者を派遣できる。
(日本の捕虜取扱いの背景と方針 立川京一)
>>555 >つまりあんたが言う様に4条違反者を裁判に掛ける必要があるというのなら
>普通の敵兵を攻撃するのに裁判が必要になっちまうだろうがw
意味不明。ここまで前後の文章に繋がりがない文は珍しいな。どういう理屈で繋がってんだよw 戦地で交戦中に
4条件違反者を攻撃してはいけないという決まりは無いけどw そもそも捕虜の話をしてるんだから拘束した後
という前提なのにそれも理解出来ませんか?
>>558 >確かにシナは戦時国際法違反をもって日本を非難などしと
らんけどな。
さらっと嘘吐くなw
南京軍事法廷で谷壽夫は死刑になったわけだが、根拠法としてハーグ陸戦法規第四条第二項、第二三条第三款・
第七款、第二八条、第四六条、第四七条が挙げられてるわ馬鹿w