フラッシュみたんだが空母ってすごいのか?
戦艦より強いの?
だれか熱く説明してください
うちの爺さんは傷痍兵となって日本に引き返したが、
大叔父さんはどこでかは忘れたが戦死した。
祖父母の金婚式の時に爺さんが弟が庭に亡霊で現れた翌日に戦死の訃報が届いたといってたよ。
885 :
日出づる処の名無し:2005/06/12(日) 12:35:12 ID:45GWY4kb
爺さんは軍医、カアちゃんの兄は海軍航空隊。
戦後は爺さんが台湾の日本人学校教師、カアちゃんの兄はブラジル移住。
戦争の話は聞いたことが無い、今でも戦争に負けたのが恥じだと思ってるようだ。
886 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 00:41:52 ID:EAcBxN+C
私のじいちゃんも、学生時代無理やり召集され、ビルマとか、南方戦線に送られた。
食料がなく兵器はアメリカ軍より悪いし、伝染病は流行るし、散々だったらしい。
そんな戦場で盲腸になり、野戦病院で切って貰った。麻酔も無しにやったらしく、
今の人と違い物凄い傷跡だ。無事生還できたのは、奇跡だと言っていた。宮城県地震が
有った時、帰ってこなかったら泥水を褌で濾して飲んできた人だから路上でも寝れるし
大丈夫だと父が言ってたら、平気な顔をして帰ってきた。若い時に外国に出たので、
晩年は、海外旅行は平気で一人で、台湾・ヨーロッパまで出かけていた。ビルマには、
軍事政権化で行けなかったのか、行きたくなかったのか行かなかった。国会中継を見ては、
政治家をくそ呼ばわりするのが趣味だった。自分の青春を奪った政治によっぽど恨みが有った
らしい。亡くなった時、喉仏がふつうのひとの2倍あると、火葬場の人がわざわざ説明してくれた。
健康でタフだったから、生き残れたのかな。
887 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 01:54:04 ID:e9/VFoh8
888 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 10:44:18 ID:qPP601L2
もう云っちゃいましたが。
樺太行ってたらしい。子供だったんで、なんお事やら・・って感じだったが。もったいない事した。
後悔してる。
俺達のじいさん達は
命と青春を懸けて日本を守った。守ろうとした。
俺達のおやじ達は
家庭を顧みず敗戦に荒んだ国を見事に復活させた。
俺達は 何をする?
俺は
考えが古くて、頑固で、背中が曲がって、時代劇に一喜一憂し、
たまに小遣いをくれるニッポンの暢気なじいさん達の名誉を守りたい。
身近なトコに勇者っているもんなんだよな。
団子とお茶で1日幸せなじじいだが、戦中はインドネシアにいたらしい。
多くは語ってくれないが。
しかし泣けるスレだ。
890 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 13:17:07 ID:DxaESujD
そうだじじいへの敬愛を持て、じじいは信念を持って戦ったのだ。
うちの祖父
満州で対ソの訓練してたけど、トラック諸島に居た第一艦隊(?)が全滅したんで
そっちに行くことになったとか。
ちなみに通信兵の下っ端(暗号を直接打つ係)で、何故か回天とかも作ってたらしい。
(前の隊の物資だけは、大量に残ってたそうだ)
あとで合流した沖縄の人と朝鮮人(多分志願兵)が、凄く勇敢だったってさ。
地元の人たちも塹壕掘りとか手伝ってくれたと言っていた。
ちなみに現在85歳で、赤旗と朝日取ってるけど戦争の話を喜々としてするヘビースモーカーです。
戦争のこと話したがらない元日本兵の爺さんって話せる事が無いんじゃないかなぁ。
別に強姦とか略奪とかしてなくたってかなり不安な状態に置かれてたわけだから
普通に慰安所は行くだろ。アメリカ軍は慰安所無かったけどベトナム戦争の時は
沖縄の売春婦がその役割をしてた。その頃のコザのダンスホールの写真とか見たけど
貧乏そうな黒人兵がそういう女連れてかなりヤケクソに踊り狂ってて痛々しかった。
すんげー激しく踊ってるしシートじゃそのままセックス始めるんじゃねーかって勢いで
女に抱きついてるんだけど誰も目が笑ってねーの。ほんと痛々しかった。
二次大戦にもなると闘いそのものもそんなヒロイックなもんじゃなくて敵の銃声が止むまで
ずっと塹壕に隠れてヒョイと頭を出しては闇に向かってメクラ撃ちしてまた隠れてっていう
繰り返しで何と戦ってるんだかサッパリ解らなかったって話を良く聞く。ずーっと不安で
セックスで気を紛らわし、語れる武勇伝も無く帰国って感じじゃ単なる人生の闇の
時代ってだけだから語るだけで暗い気持ちになるから何も話したくないだろ。そういう
陰鬱な状態に置かれた雑兵(敢えてそう言わせてもらう)こそご苦労様でしたと言いたい。
兵站を考えれば略奪も全くせずに済んだとは思えないし当時の地上戦で強姦が
全く無かった事は考え難い。欧州戦線は言うに及ばず日本でも沖縄戦では酷かった。
これを平時の感覚で人殺しだ強姦魔だ泥棒だと糾弾するやつってのはほんとずるいし
話したがらない爺さんにはそれ以上何も訊くべきじゃないと思う。全く罪を犯して無くても
負け戦が濃厚になってからはいじめとか酷かったっていうしとにかくどういうケースにせよ
話したがらないって事はそれがとてつもなく陰鬱な記憶なんだろうしそういう時代の闇に
巻き込まれた犠牲者だ。
何かスレ違いっぽくて御免。
>>633が俺の爺さんの話です。書いてからずっと読んでたけど
話したがらないって人が多いんでつい色々考えてしまいました。
893 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 04:59:29 ID:sEqLIP+o
普通の昔の日本人は、自分の弱みとか見せると、恥ずかしいと言う感覚があるし、
(だからこの年代の人は他人に頼らないから、生活保護を受けず餓死したりする。)
男がぺらぺら喋るのは、恥ずかしいと言う教育もされてきたんだろう。負け戦が惨めで
嫌いだと言う事もある。太平洋戦争は、日清・日露戦争と違って、大儀名分もなかったし。
でも長期的にみれば、アジアを欧米の植民地支配から開放したのに、万分の一ぐらいは貢献した
だろう。白人を追い出す姿を見て、インドネシアやベトナムやインドは自分たちもできると勇気づけられた。
中国や韓国には、功罪合い半ばだな。近代化を助け独立運動を支援したりいい事もやったが、差別や虐殺もした。
私の祖父も、家族の前では話したがらなかった。シベリアに抑留されたが数年たって無事復員した。
学生時代は、大正デモクラシーで、ロシア文学が好きで、リベラルな考えの持ち主だったらしい。
戦後は、教師だったので、当時の風潮として赤旗をとり、鉢巻をしてデモをやったそうだ。
でも左翼でもなく、まもなく毎日新聞に切り替えた。煙草は、いつも“しんせい”を吸っていて、
父は良く買いに行かされたらしい。天皇制とアメリカには批判的で、政治には関心が高く国会中継と
甲子園はよく見ていた。でも、アメリカ文化は好きで「コンバット」「ローハイド」などをよく見ていた。
いい意味で個人主義。家族を置いて、一人で山登りや海外旅行にいき、頑固で偏屈なところもあった。
地獄の体験をしてきたせいか、世の中をクールに皮肉を込めて見ていた。二度とだまされないと言っていた。
でも晩年は、平和な上り坂だった当時の日本を思いっきり楽しんで死んだと、父が言っていた。
894 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 07:26:48 ID:V3bxYWaM
895 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 07:49:49 ID:p8KKGXsI BE:201060465-#
父方ひいじいちゃんは和歌山で海軍の大佐をしてたなぁ
母方のじいちゃんは飛行機工場の工場長だった
896 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 08:00:32 ID:g/pLRnpq
満州で衛生兵
私の母方の祖父は横浜の船乗りだったそうで
戦争中も輸送船だかに乗ってたらしいけど
船が撃沈されてアメリカの捕虜になった。
英語が話せたから通訳として厚遇されたかわりに
戦争が終わっても一年ぐらい家に帰されなかったらしい。
船が沈んだ時点で戦死したとされ、お墓も立てていたから
突然何の前触れもなく「ただいま〜」と玄関から入ってきて
死ぬほど驚いたと母が言っていた。
その祖父は家に帰ってから一年ぐらいたった日の朝
母が起こしに行ったら布団の中で亡くなっていたそうだ。
本当の葬式を出しながら「家で死にたくて帰って来たのかねぇ」と
残された家族で泣きながら笑ったと母が言っていた。
世界平和と亜細亜開放のために戦いました。
899 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 13:10:19 ID:13kVpvZA
>895
ようやく高級、中堅クラスが出てきた。
当時の日本がピラミッド社会だったというのがよくわかるよ。
900 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 13:20:00 ID:0ib7QomL
>>898 私の祖父もです。
我々も頑張りましょう。
901 :
三国人を相手とせず:2005/06/14(火) 13:20:13 ID:CSMyTTm1
うちの家族は満州へ。町では評判の料亭。家も豪邸。全てを投げ捨て、
御国の為に駅馬へ。
大陸では当然圧勝だったから、敗戦が知らされ突如引き上げに。
匪賊にも襲われ散々な目にあったそうな。
そして没落。
今は父親ががんがん稼いでいるから、私は大学にいけるし、実際の事勉強できたわけさ
902 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 14:40:08 ID:0ib7QomL
>>901 >敗戦が知らされ突如引き上げに。
ウチの祖母も、在満中亭主(ウチのじいさん)を現地召集で関東軍に徴られ、
子供三人抱えて暮らしていたのだが、満州では終戦直前の時期でも、「日本
は、まだ聯合艦隊が健在だから大丈夫だ」って言い交わしていたらしい。
終戦と引き揚げは、全く唐突だったと。
903 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 14:55:43 ID:V3bxYWaM
戦争の話はよく聞いたことなかったんだけど
(祖父さん鹿児島なまりがきつい)
形見に弟が金時計をもらった。
葵のご紋に「贈 内閣総理大臣」って書いてあるけど
これどういう時計だろう? 知ってる人いませんか。
家のじいちゃんは警察で鑑識やってたらしい。
金属類回収令の一環で刀剣類を回収、一部を着服。
戦争終わるまで隠し持ってて、その後は刀剣収集家相手に金品と交換したとか。
906 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 17:13:22 ID:25LtrkWa
父方のじいちゃんは海軍パイロットだったようです。
母方のじいちゃんは陸軍でノモンハン事変に参加→南鮮へ転属→
終戦・・・と最初の戦闘以外、全く銃弾を撃ったことがねえ・・
・とぼやいていました。ノモンハンのことを語る時は辛そうでし
たけどね
#味方が火炎放射器で・・・とかロシア軍の戦車対日本のたこつぼ+あんぱん・・・
とか
母方の祖父は日本で一度陸軍に入隊したが、退役。
満州で文具店を営んでいたところ、再び召集され陸軍に。
斥候兵の過酷さをよく語ってたのを覚えてる。
父方の祖父も陸軍の軍人。床の間に勲章だか表彰状だかが飾ってある。
南方でわき腹に機銃弾を受けて後送。
広島で療養中に原爆落とされたが、運良く無事だった。
戦争のことはほとんど語らなかったな。
>>907 斥候を下命されるのは目端が利いて賢く、戦場馴れのした強兵です。
祖父上は精兵でいらしたに違いありません。
軍歌「日本陸軍」にも、斥候の労苦は謳われていますね。
「日本陸軍 −斥候」
或いは草に伏し隠れ
或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を
視察し帰る 斥候兵
肩にかかれる一軍の
安危や如何に 重からん
栄光の関東軍として、満州にいたようです。
で、引き抜かれる事も無く、満州にそのままいて、終戦時のどさくさに要領よく日本にも帰ってきました。
もう1人のおじいちゃんは、職人さんだったので、内地でひたすら腕を振るっているうちに終戦を迎えた
ようです。
何処に行ってたか分かりませんが
私が小さい頃は祖父の家に飛行機の格納庫がありました。
平野だったのでそこから零戦?が飛び立っていってたらしいです。
911 :
日出づる処の名無し:2005/06/15(水) 00:28:26 ID:2298+P2G
爺ちゃんの世代=国防優先(日本人憲兵がスパイを抹殺)
親父の世代=金優先(日本人スパイと在日朝鮮人スパイが手を組む)
俺らは今?=在日朝鮮人に日本を占領される寸前!!(いいのか?)
じゃあ何をする?=爺ちゃんの世代に戻り国防を優先するしかない!!
腐れた親父の世代の根性を元に戻せ。
外務省含む現役の政治家と官僚の世代は親父の世代と同じだろ?
戦後60年間経過した今年、俺らは仕事なんかしている場合じゃない。
60年で退職した。
ニートで当たり前。
政治と国防に目を向けろ。(マジレス)
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/asia/1118692382/l50
913 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 07:08:36 ID:BUElMVWC
>897
いい話ですね。
なんか朝のテレビ小説みたいですね。
914 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 08:02:52 ID:msRJxIyg
中国に補給部隊で行ってたらしい。
従軍慰安婦なんか世話になった事ないと言ってた。
つうかその辺の娘捕まえた方が早かったんだと(笑)
915 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 12:28:02 ID:kuJU8pV6
>>911 頑張ってくれたまえ。わしゃ疲れた...
漏れの母方の祖父は、南洋の戦線に送られたが、
ろくに戦わないうちにマラリアにかかって死に掛けて
そのまま送り帰されて来たそうな。
元々体の弱い人だったようで、母親が生まれて
しばらくして病気で亡くなってしまった。
父方の曽祖父は、日清戦争の時、曹長(?)で、、
最近、親戚に写真の修復を頼まれて、初めて
出征時の写真を見たが、椅子に座って、
杖にしたサーベルが小さく見えるような豪傑だった。
豪快な逸話には事欠かない人だが、戦場で
どうだったかは聞いていない。
>>902 やっぱ満州は平和だったんだね。俺の婆ちゃんは住んでた町を焼け野原にされて
何もやり返せない現状見てたしもう誰も勝てるとは思ってなかったってよ。近所に
家族を兵隊にやってる人が多いから負けるって言っちゃいけない空気だったけど
沖縄上陸あたりでその不文律も無くなってコソコソと「いつまでやるんだろね」
みたいな感じだったとのこと。
ここで南雲忠一の親戚にあたる漏れがきましたよ
>>869 調べてみた”日本生産合作社協会”ですね
農協と産業組合を合わせたような組織
中国農民経済の近代化を目指して設立された
村落間の抗争の仲裁から、教育、技術指導
種苗の配布、水利、災害対策、救援の計画立案を担い
無秩序な農村を経済的に組織化し自立させる事を、最終目的とする
えーと・・・それ、何てユニセフ?
中共もこれをパクって、戦後いろんな”合作社”を作ったが、鳴かず飛ばずというオチがw
俺も書いてみる。団塊2世だw
親父側の亡き親父は、ロシア方面の戦争に逝っていた。
多分樺太あたりだと思う。
銃を持っていたが、敵兵士を撃ったのかは不明。
最前線で無かったらしいので、ドンパチはやってなかったと思う。
15年以上前に親父から聞いた話なので、本当だったかは定かではないw
お袋側の亡き親父は、どうだったか知らぬ。それどころか、俺の家族で顔を覚えているのはいない。
戦争が終わった時に生きていていたのは、お袋&その兄の年齢でわかる。
ただ、お袋が物心つく前に亡くなっているから・・・
俺のGちゃん
アメリカ軍に勝つために万能バトルスール「ガチャピン」作ってた
でもガチャピンだけでは能力を100%引き出せないんだよ
だから支援バトルスーツ「ムック」が開発するんだけど
体の色、質感、頭のタケコプターなど
ちょっとスレ違いだがばあちゃんの兄貴が日露戦争に勝った時に生まれて
正義は勝つ、略して「正勝」って名前だったな。後に三高に行くしそういうインテリでかなり
左寄りの家だったんだがそういう家でも普通に戦争での勝利を祝ってたってことだね。
年齢的にも地位的にも召集は受けなかったんで戦争には行ってない。
924 :
日出づる処の名無し:2005/06/18(土) 22:40:05 ID:RygJB0Du
私の母方の祖父は徴兵された後、職業軍人になって、砲兵のプロとして、関東軍の中尉にまでなったと聞きました。
もうずいぶん前に他界しましたので、私が聞いた話もあいまいな点があることをお許しください。
聞いたところによると、東京渋谷の近衛野砲連隊(今の昭和女子大学)というところにいて、しばらく鬼軍曹してたそうです。
近衛というと凄そうですが、当時帝都に駐屯していた部隊は皆そう言われたそうです。
226事件のことはよく話してくれました。やはり大雪の日で、突然、上官にたたき起こされて、分隊を率いて、半蔵門まで
すっとんでいったそうです。そうとう混乱していたようで、皇道派の検問にもかかったのですが、あっさりスルー。
「こりゃ大変なことになった」と気が付いたのは、配置についてからことでした。
その後、砲兵下士官としてシナへ。関東軍に配属され、北支戦線の最前線で戦っているうちに少尉任官、
最終的には中尉として連隊の副官やっていたそうです。(出世が早いですが、上官がみな戦死されたのでしょうね)
なんでも蘆溝橋事件のとき現場にいたそうで、「あの時は死ぬかと思った」というほど激しい戦闘が行われたようです。
北京攻略は「みんな逃げたのでラクだった」んだそうです。
婆ちゃんも、なかなかすごい経歴で従軍看護婦をしていました。で、思わずホントかよ! と思うような出会いをしたそうでうす。
なんか爺さんの戦友の御子孫の方、このスレにいるかもしれませんね。
926 :
日出づる処の名無し:2005/06/19(日) 22:14:59 ID:uSMSSm22
ハタタテヤーハタタテヤー の爺様はどうなったんだ。
折角、漏れが調べて教えてっやたのに。
礼に一言もないのでは、世も末だ罠。
927 :
おかしくない?:2005/06/20(月) 00:16:03 ID:dS0d23W4
【日韓条約 知られざる交渉の内幕】〜NHK・BSドキュメンタリー(平成17/06/18)〜
◆ソン・ドンホ氏(80)について
ナレーション:ソンさんは昭和19年、日本軍の中国北地派遣部隊に配属されました。
当時軍隊では昌成トウコウ(東稿?)という日本名で呼ばれていました。
『臨時陸軍軍人(軍属)届 昭和20年3月』のアップ画像
・徴集任官(初年)の欄「昭和二十」
・役種の欄「一補」
・兵種の欄 判読不能(一文字で車へん?)
・官等の欄「二」
Q:階級は?
「一等兵だよ 一等兵を知ってるか?」
Q:誰がつれて行ったのですか?
「誰って? 令状が来たんだよ 赤紙ってやつだ」「君達は何もしらないんだなあ」
「訓練を受けて、身体検査を通過して、赤紙という令状が出たわけだよ」
ナレ:昭和19年朝鮮全土に徴兵制が実施され、11万人以上の青年が召集されました。
当時20歳のソン・ドンホさんは、一期生として中国大陸の戦場に送り込まれたと言います。
●ソン・ドンホ氏の放言
うちの部隊は朝鮮全土から集めた朝鮮兵だけの部隊だったんだ。
日本人は指揮だけで、実際は俺たちが全部やったんだ。
日本人の指示に従うしかないんだから、当時は・・・
日本の軍人には補償しても、韓国人には何も無い。(以下恨み節略
ナレ:ソンさんが住む村からは、36人の20歳の青年が全員召集されたと言います。
戦争から帰還し今も村に住む人は皆、調査を申請しました。
928 :
日出づる処の名無し:2005/06/20(月) 00:34:29 ID:D90DX9aD
うちのおじいちゃんは俗いう「神風特攻隊」だったらしい。
飛び立つ数日前に戦争が終わって助かったらしいけど、
前に飛び立った仲間の事を思うと悲しくなるってさ。
929 :
日出づる処の名無し:2005/06/20(月) 01:06:41 ID:msmw7lug
母から聞きいたのですが満州に数年間行ってたそうです。
朝鮮の人間は恐ろしいとかなんとか
うちの爺さんは零戦乗りやった。なんか零戦の精巧な模型(鉄製)を記念かなんかで貰ってた。なんか戦争行ってΖガンダムのカミーュ状態になっちゃってるが。