2 :
日出づる処の名無し:05/01/25 10:33:28 ID:yTrdiTW1
海軍にいたというのは聞いた事がある。
3立てるなよw
の,3get?
うちのひい爺ちゃんが乃木希典の下で日清戦争に出兵したらしい。
結構な楽勝ムードで、銃を撃つのが楽しかったそうだ。
詳しい話を聞きたかったが、俺が物心持つ前に鬼籍に入った。
前スレにちょっと書き込みしてレスももらったんで、今度会ったら聞いてみようと
意気込んでいた親戚の大叔父が亡くなったと連絡が来た。
もっと話聞きたかったよ、色んな事がいつも遅いよ自分…。
6 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:01:51 ID:u4ugrZFj
俺の死んだ叔父ちゃんは、朝鮮・シナで、犯しまくり・やりまくり・殺しまくって
来たと言ってた。戦争は人狂気にさせるのか。その叔父ちゃんは物静かでそんなことを
するようにも見えなかった。恐ろしいことだ。
7 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:04:28 ID:cS2vpfDr
>>6 貴様は日本軍に雇われた朝鮮人軍夫の係累だな。
日本軍の威光を笠にやりたい放題だったらしいからな。
国に帰れ。
日本に異民族は必要ない。
8 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:15:12 ID:z8mbBh1p
>>7 朝鮮人だろうがなんだろうが、
「日本軍人」
ですよ。日本軍人がレイプしたことには変わりない。
都合の良い時だけ、朝鮮人を「日本軍」から
外して語るのはどういうもんかねぇ。
うちのじーちゃん軍隊に入ったことないな
>>8 んじゃ、日本軍がしでかしたレイプについては、
日本政府、韓国政府、北朝鮮政府が連帯責任を
負うってことでOK?
11 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:25:13 ID:z8mbBh1p
さっそく議論してる。ここではスルーしてください。
13 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:43:30 ID:94BmZvjx
上官の命令で女を調達した事があったと言っていた。
14 :
日出づる処の名無し:05/01/25 15:48:33 ID:bL/qHtr8
なんか指揮する立場ではあったとしか知らんなー・・・。
うちのは戦艦に乗っていたとききます
あんまり詳しくないのですが
大和ではないです
昔の国の名前を使った船だって幼稚園の時に聞きました
軍人の学校出たからエリートだと聞いた事あります
そんな事を思い出しました
文京区にあった爺さんの家は今韓国人が経営するビルになってます
大学に入るこの年になってから無償にそういう事がきになります
16 :
日出づる処の名無し:05/01/25 16:11:05 ID:u4ugrZFj
まぁなんだ、その、やっぱり、戦争は「ヤリ得」ってこと。
やられないように、ガードを固め、必要であれば、うって出るくらいの
意気込みがないと、ことのあとに、泣き言を言うハメになる。
泣き言を言っても同情はしてくれるけど、それで納得することはできないもの。
教訓「やられる前に、ガードしよう。やられたらやりかえそう。」
うちの母方の祖父は士官学校出て、九州で戦闘機の教官やってたらしい。
でも祖父は自分が生まれる以前に亡くなってるので詳しいことはわかりません。
祖母の話もあやふやだしね。
名簿とかの資料で調べられるんかな。
18 :
日出づる処の名無し:05/01/25 16:17:19 ID:ENKvls4h
うちのじいちゃんは満州で軍医だったらしい。まあ、所詮力が全て
見たいなとこあるよな。共産党じゃなくて米に占領されたのが
せめてもの慰めか。アメリカがまともだったらなー。
日本軍じゃないけど
ばあちゃんの通ってた学校の校庭に米軍の戦闘機が墜落したと聞いた
20 :
日出づる処の名無し:05/01/25 16:22:05 ID:sp1Lr459
自分の祖父は中華民国に後方支援軍として徴兵する最後の年に徴兵で行ってきました。
なんだか1度だけ頭に銃弾がかすって死に掛けたようです、今でも元気に毎日散歩してるから耳以外ならほぼ正常なためはっきりと思い出せるようです。
21 :
OrcishSerjeant:05/01/25 16:27:37 ID:AyrrdVUO
軍隊に入った話題しか駄目かね?
とりあえず、漏れの母親は満州産まれ。
一歩間違えば漏れも残留孤児の子供となっていた。
しっかり、日本へ連れて帰ってくれた、祖母に感謝!
祖父は民間人だったが、抑留経験者らしい・・・
じいちゃんは高知の兵隊さん訓練学校みたいなとこで終戦を迎えたらしい。
本人は他界しているので詳しいことはわからず。
ばあちゃんの話。
広島かどっかその辺の工場へと働きに行っていたそうだ。
しかし、戦争でばあちゃんの村の男手が徴兵で少なくなったので、働き手が欲しいと
村長が工場長に頼んで高知へ帰ってきたらしい。
その時、大阪→和歌山→船で帰ってきたらしいが、大阪でトコロテンのお店に
すごい行列ができてたのが印象的だったそうな。
当時は食糧不足でトコロテンでも大人気だった、とのこと。
23 :
日出づる処の名無し:05/01/25 17:13:21 ID:u4ugrZFj
7 お前は南洋の土人の立派な血を引く末裔であることを、お前の
廻りの人間は皆知ってるぞ。
いまさら、水臭い。かくすな。かくさなよぉー。
よぉー、イヨマンテ。大統領。
u4ugrZFjって、毎日これ系のスレで同じ様な事言ってるな。
池沼?
俺のじいちゃんは軍にはいなかったけど、成層圏飛行ができる軍用機の開発をやってた。
終戦直後、会社の配慮で電器工場の工場長に左遷され、公職追放を免れる。
数年後、日本の航空機開発は禁止されたまま、失意のうちに死亡。
ちなみに、理系だと戦争に行かないですむということで、ウチは代々理系ばかり。
26 :
日出づる処の名無し:05/01/25 17:24:50 ID:cS2vpfDr
今は亡きわたしの祖父は自ら志願して海軍に入った、と母から聞いたことがある
確か大戦末期だったかな、祖父の乗っていた船が被弾して、その破片が足に当たったそうで、それの後遺症で祖父は右膝を曲げられなかったよ
ひいじいちゃんは横浜で将校付きのコック(戦後は進駐軍の将校付き)をしてて
階級も結構高かったらしい
一方、婿養子のじいちゃんは中野学校出身で階級は低かったらしい
ひ孫(孫)にまで「あのチキンスパイが!」「婿養子は地獄」ともらしておりました
29 :
日出づる処の名無し:05/01/25 19:25:30 ID:CFZYUIiy
うちのじいちゃんは、毒ガス攻撃に備えていたが、自分が毒ガス
すって強制送還になった。かなりの後遺症残った。
30 :
日出づる処の名無し:05/01/25 19:31:32 ID:0Pxe+b83
CFZYUIiyのじいちゃんって毎日プロフィールが変わるなw
CFZYUIiyって池沼?
31 :
前スレ989:05/01/25 22:02:04 ID:K0EWALD0
>1
スレ立ておつかれさまー。
NGワードも明記していただいて、ありがとうござる。
>30
CFZYUIiyの婆ちゃんは離婚・再婚を繰り返してるから、爺ちゃんが10人以上いるんだよ。
かわいそうだから、そっとしておいてやろうよ。
32 :
日出づる処の名無し:05/01/25 22:18:12 ID:O76y2/Fc
満州で中国人と仲良くなって蒸し饅頭?アンマン?みたいなのとか
一緒に食べたり楽しかったって言ってた
戦争の話聞いても楽しそうにそんな話ばっかするから不思議だった
あんまり軍隊内でいじめにもあってないみたいだし無事に帰ってきた
小学校の低学年まで、戦争の話が好きでじいちゃんに良く聞いてたな。
海軍に所属、四季列島の春島に行ってたらしいです。
港で働いてて、いろんな軍艦見た話は聞いたけど、
あんまり覚えてない。
うろ覚えだが、飛行機が来て機銃掃射した話とか、
出航する軍艦の甲板で、乗組員が敬礼して出て行った話とかしてた。
終戦前には復員して帰ってきた。
勲章も貰ったらしいが、GHQが来る、ということで、捨てちゃったらしい。
もう20年も前に鬼籍に入った。
自分の記憶に間違いがあったらスマソ。
34 :
日出づる処の名無し:05/01/25 23:10:02 ID:j2ph6tpV
父方のじいちゃんは、貿易の仕事でブラジルにいて、日米開戦の後、
生まれたばかりの俺の父を連れて外交官の交換船みたいなので
日本へ帰ってきたそうな。
パナマ運河が閉鎖されたので、東回りで喜望峰通ってきた。
途中、何度も敵船に遭遇しそうになったとか。外交官扱いだから、
攻撃はされないはずなんだが。
帰国してからは国の物資の流通の仕事をしていたので軍隊経験はナシ。
身長もなかったし。
東京ローズをよく知っていた、といってたな。
おだやかな優しいじいちゃんだった。
35 :
日出づる処の名無し:05/01/25 23:18:15 ID:Zl7E9xAd
父方の祖父は、大工であったが、徴兵されて、中国で戦死。祖母によれば、
祖父は、カエルが食べれなかったので、栄養失調で死んだとの事。
墓には、戦友が持って帰ったという「中国の石」が入っている。遺骨を持って帰るのが
難しかったそう。葬式時、私の父が遺骨を持って歩いた時、皆が、頭を下げていたそう。
母方の祖父は、一家で中国に移り住み、軍で事務関係の仕事を中国北部でしていたらしい。
終戦を迎え、一家は船にて帰国。当時幼子(私の叔父か叔母)もいたが、病気したのか、亡くなったらしい。
私の母は、中国で生まれている。一歩間違えば、中国残留孤児であった。
母方の祖父は志願し終戦時には少尉までになったそうです。
父方の祖父は赤紙で徴収された後、通信兵として訓練を受け
戦地に向かう船に乗船するため、港まで列車で移動中に
終戦を迎え駅について終戦となった事を教えてもらい、
再び同じ列車に乗り帰還したと言ってました。
どっちのじいちゃんも戦地には赴いてない。
じいちゃん其の一は、空挺師団の教官(肩書き忘れた)だったので
兵士を送り出す役目だったとか。存命なんで詳しく話を聞こうと思う。
じいちゃん其の二は、馬政局長だった。軍馬の管理をしてた。
馬政局は2度設置・廃止されてるけど(大正〜明治、昭和〜終戦)
歳から考えると後期かな。当時は優秀な軍馬を増やそうと
品種改良・輸入など必死だったらしい。
こちらはとっくにあぼんしてるけど、今なら聞きたい事いっぱいあったのになあ。
38 :
日出づる処の名無し:05/01/26 01:40:34 ID:RLDe5N2Z
大連でレイプしてました。
よく酒の席で、おまらな、中国人と仲良くしろよ。
おまえらの親戚おんねんからな!がははは(w
とよく同じ話をしてました。
39 :
日出づる処の名無し:05/01/26 01:52:41 ID:BFLaoStE
40 :
日出づる処の名無し:05/01/26 01:53:37 ID:AA90ZtnF
うちの爺さんは中野学校にいますた。
南方かどっかに投入される前に終戦だったらすぃです。
43 :
日出づる処の名無し:05/01/26 08:33:49 ID:rM5PrLFw
うちのじいちゃんは、性奴隷を拉致るのが任務だった。
部隊ごとにノルマがあって、達成しないと罰を受けたから必死だったとか。
44 :
日出づる処の名無し:05/01/26 09:03:13 ID:VFDwysZP
うちのじいさんは特命憲兵で、朝鮮人軍夫の取り締まりをしていた。
日本兵の名を語って、支那の人民へ悪行乱行を働くので、日本軍は
凄く迷惑をしていた。
それを取り締まってたんだって。
特に婦女子への狼藉が目に余るので、正義の聖戦の名に掛けて、朝鮮人
軍夫を徹底的に摘発したらしい。
支那の姑娘達は、「日本大人(リーベン・ターレン)」とじいさんを
呼んで、慕ったそうな。
45 :
日出づる処の名無し:05/01/26 09:16:52 ID:7vUV5ck5
海軍で偵察機に乗ってた
日本軍はな、戦争中誰一人レイプなどした人間はいないんだよ!
首掻っ切って遊んでた奴はいるがな
>>35 漏れと同じような感じだったのね。
母を連れて帰ってくれた祖父、祖母に感謝しる。
漏れの場合既に鬼籍(T_T)
>>47 俺の親父も中国残留孤児の報道を観るたびに、「一歩間違えば
俺もああだった」と言っています。戦中の満州生まれ。
祖父(父の父)は満鉄職員でした。
49 :
日出づる処の名無し:05/01/26 12:59:42 ID:Os7sUA0U
あ、うちの母もそうでつ。
ジイサンがシベリア送りになってて、ばあさんが女手一つで生まれたばかりの
母を連れ帰った。
引き上げ船の中で、次々と子供や赤ん坊が死んでいったけど、ばあちゃんの
母乳がよく出たから生き帰れた、といってた。小さくてやせたばあちゃんなのに。
じいちゃんが死んで、今は老人ホームに。
50 :
日出づる処の名無し:05/01/26 13:18:26 ID:urrSKmFn
片方の爺ちゃんはゼロ戦の整備員
もう片方はシンガポールで駐屯してた、んで向こうに子供が居るらしい
顔も見たこともない親戚ってどんな奴だろ
51 :
日出づる処の名無し:05/01/26 13:24:03 ID:CzFh6Cl3
オレの先祖は青森の米兵収容所の偉いさんだった
結構いい人だったそうだが戦後極東裁判で死刑判決受けた(゚∀゚)アヒャ
うちの爺さんインドネシア辺りにいたっぽいんだけど、よく生きて帰って来れたな…。
昔、ジャングルの蟻の特集をTVでやってて
「これに噛まれると痛いんじゃ」、とか言ってたのを聞いた覚えがある。
いや、まだ生きてるんだが戦争の話を詳しくは聞いた事無い。今年86歳。
53 :
35:05/01/26 20:58:09 ID:APIFlSUt
>>47 そうだね。感謝しなくては・・
あまり考えた事がなかった。ありがとう。
が、既に母方の祖父・祖母は鬼籍に入ってしまった。
そして、私の母も3年前に亡くなってしまったが。
祖父は中国語がかなり出来たようだ。
農家の次男だったから、たいした財産もなく、一念発起して、中国に渡ったらしいが・・
父方の祖父は、長男との事だが、どうやら本当の長男が別にいるらしい。
なんでも戦争に反対して、牢獄に入っていたそうだが・・
(母の葬儀にて、父の親戚が言っていた。父も長男とばかり思っていたそう
非国民扱いでも受けて、いない事にされていたのかな?)
54 :
日出づる処の名無し:05/01/26 21:41:31 ID:TS3u66JE
うちの母方のじいちゃんは支那に3回。
父方は事情により招集されず。
父方:特高の平刑事
母方:仁川で学校のセンセ
双方公職追放。。。orz
56 :
日出づる処の名無し:05/01/26 22:59:59 ID:qOSD08HU
爺さんは大陸出兵。
馬に乗って移動し、機関銃だかを撃ってた。
伯父さんは志願して、回天の訓練。
本当は、飛行機乗りになりたかったらしいけど、
ぶっちゃけた話、飛行機もなくなりかけてたんで、
回天に配属されたそうだ。
双方、運が良すぎて武運に恵まれず、
無傷で帰郷。
男手が足りなくて人に貸してた畑は、
戦後の農地解放で人手に渡り、
国債も紙に化けた。
・・・戦後、爺さんは、
近所の半島系住民が来ると、
嬉しそうにカタコトの半島語で会話してたそうだ。
あっちで、覚えたらしい。
57 :
日出づる処の名無し:05/01/26 23:00:47 ID:qOSD08HU
ちなみに、爺さんは日露、
伯父さんは、大東亜。
58 :
日出づる処の名無し:05/01/26 23:03:03 ID:qOSD08HU
・・・補足2。
爺さんってのは、もちろん、
曽祖父ね。
59 :
37:05/01/27 00:24:18 ID:eX4rO/YI
今日はじいちゃんにたくさん話を聞いてきた。
士官学校を出て、教官として各地の飛行場を転々として
戦闘機乗りをたくさん送り出したそうだ。
飛行場の片隅にはバラックが建ってて
常時20人ぐらいの朝鮮人を詰め込んでた。
飛行場の整理などをやらせてたけど、3度の飯がきっちり出て
町にいる朝鮮人よりよっぽどいい待遇を受けていたそうだ。
他にもたくさんエピソードが聞けて有意義だったよ。
話してるじいちゃんも生き生きしゃべってたっけ。
ついでに昭和18年発行の国史教科書があったので土産にもらってきたw
60 :
日出づる処の名無し:05/01/27 01:30:16 ID:lrKraVmO
俺も爺ちゃんにたくさん話きいた。
でも、爺ちゃんの父ちゃんの話しなのだけど。
凄い一杯中国で人殺しをして、勲章たくさんもらったって言ってた。
ぼくの家系に勲章をもらった人が居るなんて凄い誇らしくなった。
自分たちから関心をそらすための、大阪叩きが効かなくなったら次は捏造物語ですか
朝鮮人やサヨでも色々と考えるんですなぁ、まるで人間並みだ
62 :
日出づる処の名無し:05/01/27 01:34:30 ID:VDbYuUrU
大砲の軍曹だった。おかげで耳が悪くなったらしい。
63 :
日出づる処の名無し:05/01/27 01:49:33 ID:P67AY+rE
・・・そういや、
関係無いけど、俺のオヤジが分家するときに、
「軍国の母」とかいうタイトルの、紙芝居をもらってきてたのを、
先日、発見した。w
戦前には、こういうのが、
普通にあったらしい。
64 :
日出づる処の名無し:05/01/27 02:06:59 ID:VoUemUCy
俺は生き恥を晒している・・・・。が口癖だった・・。
65 :
日出づる処の名無し:05/01/27 09:25:04 ID:29hebHgD
工兵として南に渡って不発弾処理中に片目うしなってたなじいちゃん。しかも引き上げのときに奇跡で帰ってこれたらしい友達上官はみんな死んだって豪快に笑って話してくれた。
66 :
OrcishSerjeant:05/01/27 09:35:19 ID:49LcECPY
>>47 礼には及びませんよ。
気が付くいたのはあなた自身が物事をしっかり受けとめられたからだからです。
逆に事実を事実として受けとめられず脳内妄想なり教条なりを
繰り返す人たちいるじゃないですか。
この板に限りませんが・・・
>>64 松本零次の戦場漫画シリーズみたいな台詞ですね。
詳しいこと書いてないから分らないけど、戦友の死を沢山見たのだと
想像します。
ガダルカナル島へ行き、氷川丸で帰ってきたらしい。
もう亡くなってて詳しい話が聞けないのが残念。
68 :
日出づる処の名無し:05/01/27 12:15:26 ID:9eX+rk9x
ウチの曽祖父は南方に行くも、
すぐに負傷。病院でたらふく食ってぶくぶくになって帰ってきたため。
痩せ細っているだろうと思い、飯を大量に用意してた曽祖母(存命。94歳)は
開いた口が塞がらなかったとか。
しかたないので、その大量の飯は近所に配ったそうです(笑
俺が生まれた時にはとっくに逝ってたので、遺影しか残ってないけど
かなり痩せてる写真です…、どんな感じだったんだろ。
…最近手を合わせてみたりするテスト。
父方 陸軍 ニューギニアで戦闘機乗り
母方 陸軍 満州で戦闘機整備
父方の婆さんの 弟 海軍 高雄
軍隊手帖はっけん!
手帖の中に勲章はいっとった!
日記を見るに、ジイサン関東軍だったのかな
上海の戦闘とか重慶基地防衛戦とか書いてある
あとはわけのわからん地名の戦闘や補給任務や防衛戦ばかり・・・
終戦の半年前くらいに呉の防衛隊に回されとる所を見ると、更迭されたんかな?
71 :
日出づる処の名無し:05/01/28 13:47:04 ID:wuVDh/50
敗残兵には尊敬の念などもてない。
>>71 まあ、朝鮮人には「Good Loser」だとか「敢闘精神」だとのいう概念は理解できず
ともしかたないですな。
73 :
日出づる処の名無し:05/01/28 14:20:16 ID:QPGZlJpN
↑別名「負け惜しみ」ともいいまつ(w
74 :
日出づる処の名無し:05/01/28 14:33:47 ID:4XkttGKc
陸軍中佐勲三等瑞宝章。
関東軍にいたが、ロシア軍の急進から逃れ、9月中旬までには九州にたどりつく。
逃げ足が速いということは大切だよね。
75 :
日出づる処の名無し:05/01/28 14:44:01 ID:FcG+NMOF
爺さんは国鉄の職員だったから徴兵なし。
婆さんの兄弟は海軍少尉でどの艦に乗ったか聞いてないが、
名誉の戦死を遂げたそうな。
76 :
日出づる処の名無し:05/01/28 14:53:26 ID:Wjg68A0E
父方の祖父はチュウシ?とか言う中国に行って
お腹に銃弾を受けて日本に帰ってきたけど
その後病気で死亡。
父方のばあちゃんから、ばあちゃんの父親のことを少し聞いた。
八幡製鉄所に勤めていて、ずっと景気は良かった。
戦争中は米軍の捕虜も仕事に使っていた。
人によっては厳しく労働させたりしていたが、
曾じいちゃんはそんなことなかったので日本が負けてからは
その米兵からパンとか石鹸とか色々貰っていたらしい。
ちなみにばあちゃんは朝鮮人が沢山来たのは戦後。と言っていた。
母方の祖父は軍では高射砲台?とか言うところにいた。
外地には行ってないんだって。
この間実家の倉庫で、陸軍退営記念って書いてある
緑色の杯が出てきたよ。軍人さんはみんな貰うのかな。
77 :
日出づる処の名無し:05/01/28 15:33:08 ID:vRcpjTZV
おじさんのGチャンは日露で戦前スパイだったよ。カッコイイ!メンコにも戦時中はなってたらしい。
79 :
日出づる処の名無し:05/01/28 15:49:45 ID:EhshEKEJ
うちの爺ちゃんではないが以前、上総一ノ宮に泳ぎに行った帰りの
電車で、隣の爺ちゃんがガダルカナルに行った話をしてくれた。
集団で泳いでる最中に機銃掃射されてみんな死んだ、と言う話なのだが、
青春の回想からなのかなんなのか、終始、目が輝いて楽しそうに言う
のでこちらは少し混乱してしまった。
人の生き死にの話ですまなそうな悲しい顔をするのも、お決まりの
くだらないモラリズムから来るのではないかと、そんな顔をした自分を
少々疑ったりもしたが、
さすがに爺ちゃんのほうは達観して自分などではもはやわからない領域に
すっかり落ち着いた穏やかな感情を持っていたのだろうと、今では思う。
自分は生き残って健康で歯も全部ある、と終始にこやかでした。
80 :
日出づる処の名無し:05/01/28 16:33:48 ID:5ZuJmtKw
うちのじいちゃんは、南の方で機械を直してたって言ってたなぁ。
戦車とか直してたのかな?
日本に帰ってきたからは、バス会社で修理工をやってたらしい。
詳しく聞こうと思っても、一昨年死んだんだよな。
死ぬ前に聞いとけばよかった。
うちのお婆ちゃんは、長崎の原爆被爆者。
玄関にいたら、急に空が光ってドン!と音がしたかと思うと、家の裏口の方で倒れてたらしい。
お婆ちゃんはまだ健在。
家の祖父は天皇陛下の近衛連隊に所属していた、
という話は聞いたが、詳しい話を聞く前に亡くなった。
祖母のほうはよく分からん。母方の祖父は
薬学を専攻していたとは聞いたが、俺が生まれる前に
鬼籍に入っちまったからなぁ・・・
>>80 お婆様はお元気でしょうか。うちの母も長崎で被爆しています。爆心地から少し
離れていたのと家の中にいたのとで無事でしたが、いまだに当時のことは話し
たがりません。赤血球の数もかなり低いままです。
83 :
日出づる処の名無し:05/01/29 09:32:30 ID:s246sxjc
>>81 俺の母方の祖父も(俺が赤ん坊の頃死んだ)近衛兵だった。
背が高くて男前だったから近衛兵になったと自慢だったらすい。
84 :
日出づる処の名無し:05/01/29 11:19:29 ID:fLFsxw8i
父方の爺さんは戦争行ってなかったらしい。
母方は憲兵だったとか。
でも、すごい口が堅くてまったく話そうとしない。
戦後、その憲兵の集まりがあっても
一度も行かなかったとか祖母が話してた。
85 :
日出づる処の名無し:05/01/29 11:53:36 ID:IjzmxUzM
86 :
日出づる処の名無し:05/01/29 12:41:34 ID:xUUEtyDl
先人達ってずいぶんひどいことしたんだね。
87 :
英霊はかく語りき:05/01/29 15:13:15 ID:yTacvlYO
じいさんを語れない何百万の「生まれざる子」の鬼哭が欺瞞の山河に響く。。。
生き延びた者たちの子孫の口のなんとかまびすしく軽々しいことか。
88 :
英霊はかく語りき:05/01/29 15:20:46 ID:yTacvlYO
じいさんを語れない何百万の「生まれざる子」の鬼哭が欺瞞の山河に響く。。。
生き延びた者たちの子孫の口のなんとかまびすしく軽々しいことか。
89 :
日出づる処の名無し:05/01/29 15:31:04 ID:9xg0VA5R
1
日本国の為に戦ったよ
90 :
日出づる処の名無し:05/01/29 15:46:34 ID:1yKfRWPD
父方の爺さんは技術者で、朝鮮や満州で採鉱をやってたらしい。
当時は羽振りがよかったらしいが、戦後は無一文で帰ってきた。
母方の爺さんはリーマンだったが戦争末期に兵隊に取られたらしい。
もう40も過ぎてて、国内にいたそうだが、田舎の方で食糧事情がよく、
婆さんや母は飢えてガリガリだったのに、戦後、丸々太って帰ってきたそうだよ。
2人とも命までは落とさなかったから、運がいいのかもしれないけれど、
それなりに戦争にもてあそばれた人生だったな。
あと、2人とも殺しとかには関わってないみたいだ。
ちなみに、どちらの爺さんも俺が生まれたときにはすでに他界していた。
爺さん海軍少尉だっつってたな。勲章もあるし本当だろう。
まだ餓鬼で一緒に寝てたころ、戦地の話を色々聞かされた。
子供に隣で「戦友が地雷踏んで足飛んだから、担いで運んだ」なんて話を聞かせるなよ、と今は思うがw
母方の爺さんは、大陸に通信兵として従軍しシベリア行って帰還。後電力づとめ。
帝国陸軍の軍手もらったので、俺は自分は練習船でも使ってた。
父方の爺さんは、横須賀で機関銃作り、日本の戦闘機は見たことがなかったとか、
当時の軍艦少年。後教員。
曾爺さんたちは父方の二人しか分からないんだが、一人は日東紡の技師、一人は足が悪くてそもそも軍隊に行けなかった。
なんか市役所の係官のところに頼み込みに言ったんだが断られて、泣いて帰って来たと葬式の時に言われた。
93 :
日出づる処の名無し:05/02/03 17:02:45 ID:gqpYCD0t
東京帝国大学名誉教授で1952年に文化勲章を受賞してる。
戦争には行ってない、というより行ける年齢じゃないな。
94 :
日出づる処の名無し:05/02/03 17:55:27 ID:KdqugaGE
じいちゃん 今病院で胃に穴に流動食、寝たっきり。
シベリア抑留。中国では腸チフスで日本に家族に死亡の葉書がきたそう。
シベリアの事戦争の話はほとんど聞くことなかった。
しゃべれるうちに聞いとけばと。
ただ体力はその時代の人よりあった、と思う。
95 :
日出づる処の名無し:05/02/03 18:03:25 ID:MfJdoJrg
>>80 >>82 ここの初代スレから度々カキコしているものですが、俺の祖母の姉も被爆しました。
鳶職の棟梁さんの家に嫁いでいたそうですが、
夫婦共々落ちてきた屋根の下敷きになって亡くなったしたそうです。
その後、その棟梁さんの弟子が、棟梁さんの家にあった金目のものを全部盗って行ってしまったそうです。
酷いものですが、被爆後のゴタゴタの中ではそんなことは日常茶飯事であったのかもしれないと、
俺は考えています。
>>96 その場合、俺だって何をやらかすか自信がありません。正しく生きたいと願って
いますが。
98 :
日出づる処の名無し:05/02/04 16:31:15 ID:w8B887ax
くたばったじじは、俺がこどもの頃よく言ってが意味がよく解ららないまま
聞いた話。「朝鮮やシナでは、殺したしやりまくった。運よく憲兵に捕まらなかった
から生きて帰れた。バレて、生きては帰れないところに転属させられたヤツもいた。」
と。俺はジジの作り話と思ってるけど、ホントかどうか今では聞けなく
なってしまった。俺の家は一応葉隠れ武士の血筋だ。関係ないけど。
99 :
日出づる処の名無し:05/02/04 16:47:53 ID:vexg/LYg
>>98 おまえは朝鮮人軍夫の孫だな。
やつら、日本軍の威光に隠れて、やりたい放題だったらしいじゃないか。
おまえの中にもその卑怯卑劣な半島の血が流れて居るんだな。
100 :
日出づる処の名無し:05/02/04 17:29:17 ID:ejCsBVtR
サイパン?かどっかのジャングルで隠れてたらアメリカ人に見つかって
そのアメリカ人殺しちゃったらしい
この話聞いたの消防の頃だからめっちゃ怖くなった
でも隠れてる時かえるとか食ってたらしい
ん〜詳しい事は知らないが
台湾で警官か何かをやってたらしい
ひとりごと。
「一応葉隠れ武士の血筋」
って、いったいどんな血筋なんだろうね。おれら日本人には分かりようもないな。
台湾にいったらみんなバナナ買ってるよな?
>>98 >>102 佐賀ではないが、九州士族の一員として…。
「一応葉隠れ武士の血筋」 って、「佐賀藩士の末裔」と思わせたいんだろうが
本物の佐賀藩士の末裔が、「葉隠」を葉隠「れ」なんて間違えるわけない罠。
それに、日本軍は酷い事をしていたと言いたいんだろうが…
>「朝鮮やシナでは、殺したしやりまくった。運よく憲兵に捕まらなかった
>から生きて帰れた。バレて、生きては帰れないところに転属させられたヤツもいた。」
>と。俺はジジの作り話と思ってるけど
ここで、「民間人殺害」や「強姦」は、軍として処罰していた事を証明している罠。
105 :
15軍:05/02/05 21:37:28 ID:wP8AklRm
インパール作戦に行ってました。その後の「断」作戦とイラワジ川会戦に参加したって。
終戦後は「ムドン収容所」→接収された日本軍の空母で帰還との事。
工兵隊だったらしい。
塹壕掘ったり橋を架けたり。
戦後も土木のプロとして県庁で橋の設計などをしていた。
設計者にじいちゃんの名前が残ってる橋が沢山あるのが俺の自慢。
107 :
日出づる処の名無し:05/02/05 21:47:43 ID:fdtdG6Gc
佐賀藩士の子孫だと公言するかのような偽報告は、華麗にスルーがお約束。
108 :
日本刀命:05/02/05 21:51:05 ID:lPL8Ieqn
上官のパシリしてたみたいです。いま後ろの居間にいますけど。
うちのじじは特攻隊行く予定だったけど終戦が先に来た
110 :
sage:05/02/05 23:51:02 ID:SN2E76d4
祖父は終戦近くに徴兵されて海軍だったかな
出港した直後にガス欠&座礁し帰還その後修理と準備に手惑い
気づけば終戦。
兄弟も海軍で、確か戦艦に乗ってたらしいが、
ミッドウェー海戦で戦死したみたい
111 :
15軍:05/02/05 23:55:50 ID:wP8AklRm
まだ生きてるんだ。いいなー。生きてたり、名前が残ってるってのはさ。
いろんな話をもっと聞いとけばって思ってるよ。戦友会もとっくに解散
してるしね。
うちの曾爺ちゃんは近衛兵とかいうのをやってたらしい。
イケメンじゃないとなれないらしいのが謎…
113 :
日出づる処の名無し:05/02/06 00:24:55 ID:128nkPWu
特高に付け回されいじめられていたとか。そのために引越しもした。
入営しても昇進できず、空襲と農地解放で預けていた土地も失う不運。
「レイテ沖で負けたようだ」なんて漏らしたものだから、さらに特高
の取調べを受けたとか。そのせいで警察は嫌いだったようだが、戦後
は一貫して自民党員。筋金入りの自由主義者だったようだが・・・。
「非国民」すれすれだったと思ったのか、祖父母ともあまり話してく
れなかった。日本人・朝鮮人・アメリカ人それぞれの醜さに慨嘆した
んだろうと思う。何時の世でも真面目な人もおれば悪いことをする人
もいる。人の生き様は一般化できないし、レッテルを貼って決まるもの
でもない。
家のじいさんは確か通信兵で半島に行ったらしい
でもすぐ敗戦でとんぼ帰り
115 :
日出づる処の名無し:05/02/06 00:56:34 ID:OqcDqdYR
近衛兵は、顔だけじゃなくて、
体格も立派じゃないと駄目だよ。
116 :
日出づる処の名無し:05/02/06 00:57:15 ID:OqcDqdYR
農地解放で、貸してた土地とられた家って、
けっこうあるのな。
117 :
日出づる処の名無し:05/02/06 02:04:45 ID:0OJFDj0o
爆撃機に乗ってた。志願兵だけどあまり熱心に戦争はやらなかったみたい。
敵基地に落とす爆弾を敵基地まで飛行すると撃墜される危険があったから海に捨ててきたとか言っていたし。
118 :
日出づる処の名無し:05/02/06 03:03:30 ID:OqcDqdYR
状況が悪けりゃ、爆弾を持ち帰ることもある。
着陸時に、衝撃で爆発する危険があれば、
海に捨てるのは通常の対処。
119 :
日出づる処の名無し:05/02/06 03:12:08 ID:2HyCBTEB
母方の祖父は沖縄戦に参加して戦闘中爆弾の破片?が目に刺さって失明した。
もう鬼籍にはいってしまってそのころの話を聞くことはできないが私の家に来て
お酒を飲むと父方の祖父とともにそのころの話を要していたのを覚えている。
父方の祖父は満州で通信兵?みたいなことをやっていたらすぃ。こちらの祖父はまだ
生きているのでこんど時間があるとき詳しく聞いてみたいと思います
120 :
15軍:05/02/06 09:36:08 ID:94VrqfYU
そういえばウチも農地解放で土地取られたっていってっけ。
121 :
日出づる処の名無し:05/02/13 18:54:22 ID:Te7kzZEl
今日爺ちゃんに話し聞いたけど、朝鮮のソウルに行ってたらしい。
日本が負けて朝鮮から帰るときプサンの港に行ったらしいんだけど
その時、港の道路?の周りには日本の兵隊が帰るために沢山集まってたんだって。
で、爺ちゃんもこれ待ってたらかなり遅くなるなぁ・・・って思ってたら
何故か中隊長がドンドン先に進んで船に乗り込んだらしい。
もちろん爺ちゃんや爺ちゃんの同僚たちも付いてって船に乗り込んだ。
これが今でも謎だなぁ・・・って言ってた。
122 :
日出づる処の名無し:05/02/13 19:10:57 ID:F2QaNtfV
父方の祖父は戦時中は大学生で、麻布獣医大学に通ってた。
祖父との関係は、父が死んでからギクシャクしていたが
その日は酒の勢いもあって、色々な話を聞けた。
東京大空襲の時に友達と焼夷弾の雨の中を逃げ惑ったとか
祖母は敵戦闘機の機銃掃射で死にそうになったとか。
いろんな事を教えてもらったよ。
そしてその後は、「あの戦争は自衛のための戦争だった」とか
「朝日新聞はダメだ」とか突っ込んだ話もした。
祖父は俺の一番尊敬する人だ。
頸動脈から鮮血が、私の持っている三十ccのコルベンのなかにポタリボタリと
流れだしましたが、しばらくするとぴたりととまりました。「ビタカン四本」。
少し離れたところで、この残虐行為を指揮していた大山少佐がさけびました。
ビタカン四本打っても、男の鮮血をしぼることはできません。「鬼子ッ!」
男は、憎しみの火と燃える一言をしぼりだすとスーツと顔色が変わり、呼吸
がとまりました。「解剖刀をよこせ」細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、
上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るのこぎりをひいて
肋骨をひき切り、内臓の全部を露出させました。 私は命じられるまま、そ
の男性の解剖されて切り刻まれた臓器の肉片を、培地の入ったシャーレにピ
ンセットでぬりつけたり、増菌培地の入ったフラスコに入れる作業をおこな
いました。
ニ十分後には、男の肉体は切って切って切りさいなまれ、血のしたたる肉の
塊として解剖台上に散乱しました。私たちは、この惨殺死体を見て満腹した
狼のようにフーツと太い息をすると、大山少佐、細田中尉、江川技手、私と
いう順にとなりの休憩室へともぐりこみました。これが生体解剖の一部始終
です。
こうした生体解剖は、同時にいくつかの班でやっておりました。夜遅く、
宿舎の風呂に入ると、部隊員の間で、「お前のところは今日何本倒したか」
「おれのところは二本だ」というような言葉がよくかわされました。隊員の
間では、その日に生体解剖された「マルタ」を数えるとき、何本といういい
方をしていたのです。生体解剖で殺された人たちの死体は、特設の高い煙突
のある焼却炉で灰も残さないように焼いていました。
このようにして二カ月足らずの間に、私は、五名の中国人を殺害してしま
いました。今思えば、恐ろしくも恥ずかしいことであるのですが、当時の私
は、まさに「日本鬼子」そのものでした。(篠塚良雄『日本にも戦争があった
七三一部隊元少年隊員の告白』より。元七三一部隊隊員篠塚氏の告白)
爺ちゃんたちの生きた時代はたいへんだね。
原爆投下は新兵器の実験みたいなものだった。実験のため広島・長崎の非戦闘
員20万人以上が死亡。
戦後ソ連が行ったシベリア抑留では、飢え・過労のため少なくとも6万人が死
亡している。酷使したあげくの虐殺に等しい。
中国人や朝鮮人は自国民に対して無慈悲なのが痛い。
文化大革命では各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人〜
2000万人とも言われている。
北朝鮮は現在国民の大多数が飢餓線上にあり、道端に行き倒れの死体が転がっ
ているのが日常の光景。座して死を待つよりと国外逃亡者が続出しているのは
周知のとおり。いっぽうで支配階級はたらふく食って喜び組と、、。
123・125は、共産党系の出版物や細菌戦国家賠償請求訴訟原告団の宣伝にば
かり目を向けず、
半島にいるお前の同胞のこと考えろや。
みんな大変だったんだな。
位が上の方でも中少尉か大学生か(帝大教授は別として)。
うちの爺ちゃん、軍人じゃないけど
満州鉄道で、装甲列車運転してた。
203高地(日中戦争でも激戦地だった。。。ほんと?)
への兵員輸送途中で、襲撃され、機関士補が、破裂した蒸気弁
から噴出した超高圧蒸気にふっとばされて、即死。一人で、運転
せざるをえなくなって、はっちゃけた。。。らしいw
203高地に名前が彫ってあるさうなので、親父が元気なうちに一度
見にいってみたいっす(満州から引き上げる時に勲章も埋めてきた
らしいので、それも。。。)
129 :
日出づる処の名無し:05/02/23 18:23:27 ID:FTv0IEdc
父方の爺さんはシベリアで捕虜。
母方の爺さんもシベリアで捕虜。
130 :
日出づる処の名無し:05/02/23 18:23:43 ID:d9qlOhVx
近衛兵って、もてたんだろな。
どのくらいもてたんだろ?
誰か爺さんにいないか?
うちの爺ちゃんは満州だか行ったらしい。
で、上官のお気に入りだったらしく、いつも酒の相手を
していたと婆ちゃんが言ってた。
あと陸軍から貰った賞状見たいのがあってそれが
かっこよかった。
普通の賞状は植物のつる?みたいのが枠というか縁取り
されてるけど、陸軍のそれは確か下のほうに戦車の絵が
あってあとは爆弾の絵とかで縁取りされてたよ。
デジカメ無いのが悔やまれる。
132 :
日出づる処の名無し:05/02/23 20:31:57 ID:2KDq4vs0
父方の爺ちゃんの部隊は、沖縄に向かう汽車の中で、「広島が、敵の新兵器で壊滅的な状態となった為、片付け(?)をする。」と言われたらしい。
原爆な訳だが、本当に瓦礫の平野(この表現が印象的だった)だったと聞かされた。その時、武器工場で埋まっていた鉄砲の玉が暴発、膝にヒットした。傷跡を見せてもらった事がある。
母方の爺ちゃんは、身長が異常に低かったらしく、兵隊検査で落ちた(笑 初めて聞いた時、大笑いした。
別に非国民なんて言われる事はなかったってさ。だけど、近所中の野良仕事を手伝う状況になったって聞いた。
父方の爺ちゃんはひどい喘息だけど、刈りだされたんだし…何が基準か分からん
133 :
日出づる処の名無し:05/02/23 20:47:17 ID:aYYKs9K4
うちのじーさんは回天にのる予定だったみたい。でも、訓練中に終戦をむかえたみたい。今だに当時の白い制服らしきものと日の丸に仲間と書いた寄せ書きみたいのがとってある。携帯からですいません
134 :
日出づる処の名無し:05/02/23 21:46:16 ID:xlGw7RRM
うちの爺さんは20年2月26日にフィリピンで死んだ。
ジャングルの中をさまよって最後は自分の手榴弾で自爆。
部隊では9人しか生きて日本に帰れなかったらしい。
今週の土曜日には靖国に行ってきます。
南無〜
うちの自慰チャン逓信兵だったらしい。
逓信兵ってのがどんな仕事なのか聞く前に死んでしまったな・・・。
呉の海軍工廠の現場責任者だったらしい(当時40)
一昨年100余才でおっちんだGさんは、酒に酔うと
「ロスケにゃー勝ちよったが、ありゃーいかんかった(謎)」とよくクダまいていた。
Gさんの家の床の間には錆付いててもう抜けない軍刀がずっとかざってあった。
俺が子供のころから既にさびついてたが、振り回して遊んでたらすっげえ怒られた。
3年前の秋、Gさんが縁先で吊るし柿を作ってる最中、急に心臓が止まったらしく
腰掛けたまんま眠るように死んでいった。
夕食時にうちの母ちゃんが煮物をもってくまでGさん死んだのわからなかった。
かあちゃんがあわてて俺とヨメに連絡くれたから、仕事ほったらかして急行した。
忘れもしないよ。そのときのGさんの格好がだ。
縁側の雨戸にもたれるように背筋を伸ばして、ななめに腰掛けた縁側の板間から
まっすぐに床の間の軍刀のほうを向いてたんだよ。
なんかうまくいえないけどなあ、100歳超えてるからいつ死んでもおかしかないなと
心の準備は20年以上も前にできてたんだけどな、あの姿見たらなんでだろうな?
俺しばらく涙とまらんかった。
湿っぽいレススマソ…
誤爆
一昨年って2年前の秋になるのか・・・じゃあ違う、3年前の秋が正しい Orz
>>129 同じ収容所で親友になり、いつか子供たちをケコーンさせようと言う話になったとか…
ってドラマは無かったんですか?
うちのじいちゃんもシベリア、食べ物がなくって、大変だったらしい。
しかも隊長が武家の出で、やたら威張ってるくせに無能。
みんなから嫌われてたって。
で吹雪の中食べ物探して行進してると、横から攻撃うけて捕虜になった。
みんな倒れてる中、隊長は一人切腹しようとしてたらしい。
ロスケは「ハラキリ」がどうとかって、騒いでた。
それで結局、「やめとけ」って止められてた。隊長は腹出したせいで凍傷になったって。
収容所の中でも、呻くは騒ぐはでロスケも困惑気味だったそうだ。
じいちゃんはそれを傍目に、ピロシキ(゚д゚)ウマー
仲良くなったロスケといろいろと話をしてたらしい。
子供たちをケコーンといった話もでたかもね。ほとんどは、女の話だったそうだが。
終戦後は何回かはがきを出したが、ロシアのほうも大変そうで返事は来なかったそうだ。
あーあと、やたら寒かったので強制労働はそんなに苦痛ではなかったとか。
どちらかというと、夜寝る時とか仕事(強制労働)なしの日が辛かったって。
おいおい下っ端ばっかかよ。官吏、将校はいねえのか?
特定されるのに言うわけ無いだろ馬鹿。
>>140 レスをちゃんと読めよ、尉官の方もおられるよ。
ヲレの爺さんも広島近隣で被爆した。隣に居た同僚は数メートルぶっ飛ばされたそうだ。(爺さんはトラックの陰に居て助かった)
その後すぐに市内へ救援に向かったんだが、司令部は全壊。当日はあまりの高熱に中心部へは入れなかったんだと。
市内へ向かってる途中にすれ違った、避難してくる人々の姿は…言うまでもないよな。
ある程度軍の指揮系統が整ったところで、遺体を運ぶためのリヤカーを近隣の町から集める担当になったそうだ。
でも、集めた遺体を処理する場所が確保できなかったために、近隣の島々へ遺体を輸送することに…
海には市内の川から流れてきた遺体がいたるところに浮いていたそうだ。
当初は島々の防空壕に遺体を入れて入り口を埋めてたが、あまりに数が多いために周辺の畑にも埋めていった。
地面から何か突き出てると思ってよく見ると、人間の手足だったんだと…
あれだけの壊滅的な被害を受けながらもすぐさま軍の指揮系統が回復していたというのは流石だなと思うよ。
ちなみに爺さんはその後急遽関東方面への配置換えを命じられた為、私物も持たずに移動したのだが、
安否を心配した家族が入れ違いでやってきて、本人が死んだもんだと思い込んで置いてあった荷物を「遺品」として持ち帰ってしまったので
爺さんの荷物だけ新任地に届かなかったという悲しい出来事が…
PS 被爆時にぶっ飛ばされた同僚は、その時できた腹の傷があっという間に悪化してお亡くなりになったそうです(−人−)
144 :
日出づる処の名無し:05/02/25 06:51:21 ID:NtiSL8kn
そういやぁ漏れが小学生の時爺ちゃん近衛兵やってたって言ってたなあ。あのころは反発してばっかりですまんかった。もっと色々聞いときゃよかった(⊃Д`)
>>140 佐官もいるよ。
将軍ならともかく佐官、尉官程度で特定されるか?
146 :
日出づる処の名無し:05/02/25 10:26:53 ID:kwozeSGV
爺ちゃんは体が弱かった事もあり兵役を免れましたが、
爺ちゃんの兄さんは工兵で専科の架橋の物資を肩に担ぎ
運搬中におでこに銃弾を浴び散華致しました。
工兵は工事作業員同様の扱いで武器は持たず最前線だった
そうです。
戦死した国は中国だそうです。
俺はビルマ(ミャンマー)で工兵隊にいた人の話を聞いたことがある。
工兵は大工さんや左官屋さん、土工などの出身者がほとんどだった。その人は東大出身者
だったが、初年兵教育を終えたとき、大学出身者は幹部候補生の試験を受けるのが普通
なのに受けなかった。「私は一兵卒として戦います。」と言って受験を断ったため、反戦
思想を持っていると睨まれ、ビルマの最前線、それも工兵隊に送られたそうだ。
工兵隊は最前線で丸腰で行動するため、損耗率は異常に高かった。
その人のいた部隊は600人ほどだったが、生きて帰ってきたのは5人だそうだ。
そのうち一人は手も足も失い、達磨のようだという。
その人も左の手の指が二本しか無かった。渡河作戦中に機関銃弾で吹っ飛ばされたとか。
渡河作戦の時は、工兵隊は川に飛び込み、両側から肩に足場板みたいなのを担いで橋を作る。
その上を兵隊がダーッと走って行くわけだが、敵は橋の上の兵隊を狙わず、橋を担いでいる
工兵を狙う。自分たちを狙ってバンバン弾が飛んでくるのに、工兵はジッと橋を担いでいる
しかない。弾が当たって一人が流れてしまうと、次の工兵が飛び込みそこを担う。
機関銃でバーッとやられると何人も死に、川の水が真っ赤になるそうだ。
前線に速射砲などを引っぱり出すときは、工兵が敵弾に身をさらしながらツルハシや
スコップで地盤を整える。歩兵みたいに伏せているわけじゃなないので、一門の砲を
備え付けるために何人もの工兵が死ななければならないらしい。本当に消耗品扱いだった
そうだ。工兵たちも、自分たちは生きて帰れないものと諦めていたようだ。
その人が何故生きて帰れたかというと、周りの八つぁん熊さんみたいな工兵たちが「お前
は生きて帰れ」と守ってくれたからだという。当時の東大卒はエリートだった。
工兵たちは将校になることを拒んだ真のエリートに優しかったらしい。
行軍中、敵との小戦闘があって何人か死ぬ。そういうときは埋葬している暇がないので、
戦死した兵隊に日の丸の旗を被せ四隅に石を置くだけで行軍を続ける。
その日の丸の旗が夕陽に映えている様は、悽愴とも何とも言い様のない光景で、今でも瞼から
離れないと語っていた。
他にも聞いた話は多いのだが、今回はこれくらい。
148 :
日出づる処の名無し:05/02/27 21:48:57 ID:2pq7AwJB
俺の爺は除州憲兵隊の通信部隊にいた
日夜スパイを追っていた。華僑、ソ連のスパイなど色々と捕まえたそうだ
149 :
日出づる処の名無し:05/02/27 22:37:42 ID:gSvDZuQg
いわゆる、狐狩りな。
電波の発信源を、
数箇所で受信して、
絞り込む方法。
操作を妨害するイギリス人(?)に対して、
捜索した結果、送信機が出てこなかったなら、
有名なハラキリを見せてやるってタンカを切って、
見事に送信機を発見した逸話とか、読んだことがある。w
150 :
日出づる処の名無し:05/02/27 22:38:31 ID:gSvDZuQg
訂正
操作→捜査
ちなみに、この話は、
上海だったかなぁ・・・。
記憶が曖昧。
151 :
日出づる処の名無し:05/02/27 23:27:51 ID:IO+zKgqS
オトンの爺ちゃんは漏れ誕生前にあぼーんだが
婆ちゃんの話じゃ視力不足で末期に徴用
海軍鬼の館砲で訓練の後、輸送船団で南征
途上米潜に先頭船と殿船を食われる
グラマン(機種不明)に襲われた際、館砲出身の爺が対空射!
視力の悪い爺に実力を見た上官は二度と射手をさせなかったとか・・・otl
到着先は蘭印スンバ島首都ワインガップ
任務は炊事(鬼の館砲出て炊事かよ・・・)
現地は平和そのもの
原住民にトウモロコシ貰うが泥がイヤで食わないとかバナナは皮が有るから衛生的だし食べたとか贅沢そのもの
現地人に貰った種モロコシを川原で栽培したり、将校馬借りて村を散歩したり
有名なワインガプ慰安所についての情報は得られず(生きてても聞きずら・・・)
オトン(当時小ニ)が学校の授業で爺に手紙を書いたがナンと届いて返事がきたらしい(オトン談)
敗戦後は仲良くなった村人の娘がセーラー服をジャンバーに仕立て直してくれたり
現地の織物を貰ったり、上官の拳銃や時計(綺麗な完全品と外装が錆びてる完動品)を土産に武装解除
しかし拳銃は当然ながら綺麗な時計はアメちゃんにお取り上げ(外装錆び付は獲られないので個人的な戦利品か?)
土産は武器以外の軍装とセイラー改造ジャンパー、錆びた時計にスンバの織物とマラリヤ
飢餓状態の内地に丸々太って復員するが
「なんでメシが無いんだ!」と怒り出す始末(爺サマよ・・・)
そんな爺も漏れの生まれる数年前に脳溢血で他界、話を聞きたかった・・・
152 :
日出づる処の名無し:05/02/27 23:34:53 ID:aRaSHuvP
>>8 > 朝鮮人だろうがなんだろうが、
> 「日本軍人」
> ですよ。日本軍人がレイプしたことには変わりない。
> 都合の良い時だけ、朝鮮人を「日本軍」から
> 外して語るのはどういうもんかねぇ。
じゃあ日本人扱いの徴用、徴兵も問題ねーじゃん。
朝鮮人を強制連行なんてありえねーじゃん。
都合が良い時だけ外してるのは朝鮮人じゃねーの?
153 :
日出づる処の名無し:05/02/27 23:51:28 ID:gSvDZuQg
でも、確かに、
しっかり日本人としての自覚を持たせることができなかったのは、
日本の恥だわな。
154 :
日出づる処の名無し:05/02/28 00:09:52 ID:egOCnz7t
爺ちゃんは、陸軍で修理部門の、結構上のほうだったらしい。(少佐ぐらい?)
敵地で、戦車隊が潤滑油切れで止まった時、ヤシの木から油を抽出する方法
を発見したとか・・。
うちの爺ちゃんは鉄道聯隊にいたというのだが
満州に行った後、スマトラに行ってそこで終戦に
なったと言っていた。
もう他界してしまったので、確認しようがないのだが
鉄道聯隊が南方に送られると言うことがあるのか疑問
もっと聞いておくべきだった
うちのGちゃんはフィリピンで船を作っていたらしい。
薄っぺらなベニヤ板で人が一人入るくらいの(ようは特攻のお船?)
親族の新年会でそのことを涙ながらに話していた。
その船に乗っていく若い兵隊さんのことや
弾が雨霰と振る中、友達が自分のすぐ隣でパタンと倒れた・・とか
人が撃たれた瞬間ってすごいゆっくり感じるらしい
戦争は二度とするなと何回も言っていた。
でも俺ら孫にはもっと話してくれた。
2回目の赤紙のときは今の天皇陛下の幼稚園の送り迎えを警護してたんだぞ〜とか。
フィリピン沖で船が難破したときに目の前にあったおひつを持って海に飛び込んだとか。
(木で出来ているので浮く上に、中には食料が入っている・・それで生き延びたらしい)
157 :
日出づる処の名無し:05/02/28 20:12:23 ID:fYmWU5AU
遠縁の爺サマだが、戦前は東京に出て鉄工所でトラックの運チャン
大戦初期、陸軍に動員され米比攻略に従軍し輜重運転兵
バギオ(だと思ったが・・・多分)で作業中に
米機の爆撃に遭い破片を頭に受けて散華
158 :
日出づる処の名無し:05/02/28 20:23:02 ID:JuD/LMcB
おれの父親は志願して海軍に行った。
潜水艦でソナー担当だったといっていたが、おかしいと思って20年くらい前に問いただした。
嘘だった。
爆雷を投下する船、なんというんだ?駆逐艦よりもっと小さい、ボートみたいなものらしい。
あの訓練をしていたといっている。これも嘘っぽい。
とにかく訓練中に敗戦。
戦後機雷の撤去にかり出されたら、隣の班が事故で全員死亡。
これは本当らしい。
159 :
日出づる処の名無し:05/02/28 20:39:25 ID:UrjtYZrQ
当時の日本軍兵士って、やってることから察すると、オウム信者
みたいだったんだろうな。アジア各地にいる中国人を徹底的にポアするように
命じられたんだし。
160 :
日出づる処の名無し:05/02/28 20:50:02 ID:oqNNFqGb
シベリア連れて枯れてたらすぃ
161 :
日出づる処の名無し:05/02/28 21:04:13 ID:Jr6fwqGP
聞いた話では、母方の父は南京攻略後〜インパール前夜まで
陸軍第16師団の参謀本部詰めの後
本土へ転属。京都の高射砲師団の師団長まで行って終戦。
終戦、免官後は家業だった燃料事業を行いつつ
舞鶴で満州からの引き上げ本土支援事業を行い昭和44年心不全で永眠。
父方の実父は開戦時点からマレー攻略等一線で
陸軍飛行士として大戦参加、ソロモン航空撃滅戦で戦死。
母親を大阪空襲で失った後京都で煙草商を行っていた
叔父である養父に引き取られ中学卒業まで育てられる。
中学を卒業後、母方の父が行っていた燃料事業の会社に就職。
あとはお察し。
>>159 おい、ココを何処だと思ってるんだ?
地球市民とやらはスレタイも読めないのかヴォケ
163 :
日出づる処の名無し:05/02/28 23:06:22 ID:rywJNnIg
紫電改に乗って南方洋を飛んでいました。
4回出撃して2機撃墜。2回は空振りだったそうです。
ゴキブリ駆除してたのだが何か?
GJだったろ?
母方の父は終戦近くになって、南の島に出兵。
人を殺す前に足を撃たれて米兵に捕虜にされた。
家が広島にあったのだが、これのおかげで被爆を免れ、しかも怪我の治療までしてもらって
日本に帰ってきた。
軍人としては最低かもしれないけど、よかった。誰も殺さなくて。感謝してます。
166 :
日出づる処の名無し:05/03/01 00:26:21 ID:D0E0fwfT
母方のじいちゃんとばあちゃんは満州に行った。何を求めて行ったかは知らん。
じいちゃんは徴兵されて陸軍少尉になりシベリアに抑留され終戦後に生還。
孫のオレには戦争のことはなに一つ話さずに死んだ。
ばあちゃんはソ連に終われ帰国。
俺の叔父が引き上げ船で死んだらしい。
やっぱ俺には戦時中の話はせずに死んだ。
ちなみに母は日本生まれ。叔父叔母はみな満州生まれだ。
167 :
日出づる処の名無し:05/03/01 00:38:10 ID:Ybr6n+uV
168 :
日出づる処の名無し:05/03/01 01:24:05 ID:CxbsHx2e
うちのじーさんシベリアに連行されてたらしい
大陸でレイプと首はねしてました
向かいさんじゃないよw
爺さんは、ビルマ(旧ミャンマー)で連隊長付けの運転手やってた
小さな手帳に小さな字で日誌があって、輸送船で昭南着とかいろいろ書いてある
運転手は前線にはあまり出ないので、楽だったらしく、ジャングルで取った大蛇の
皮とかを見せてもらったことがあるな
んなもん土産に持って帰れたのも、インパール作戦とかよりも前に帰国できたから
だろうけどな
戦艦でコック
やましたてんどん
死亡
うちのじーちゃんの兄貴は
陸軍少尉ですた…
玉砕なされましたが。
ちなみにじーちゃんは肺を悪くして戦争を逃れたそうです。
あと、うちのばーちゃんは女学生時代に
国防挺身隊に所属し「戦闘機」作ってますたw
173 :
日出づる処の名無し:05/03/01 03:59:27 ID:C6vKavdO
をい、「女子挺身隊」じゃねえのか?
「国防」は「婦人会」だろ?
174 :
日出づる処の名無し:05/03/01 04:57:19 ID:kUEaJv1Q
>>165 捕虜になるのは恥ではありませんよ。
とにかく生きて帰れたおかげで、今日あなたが存在しているのですから。お爺様に感謝を!
175 :
日出づる処の名無し:05/03/01 05:05:37 ID:H0UfZ/dx
輸送中に爆撃され戦死しました
ちょっと前、蔵を親戚一同で掃除したら、沢山勲章でてきました。
戦死はほとんど対アメリカの海軍所属のパイロットでしたね。
大陸進出の方は、ほとんど御存命ですね。
ちなみに先祖が旗本だってことがわかった
おっ尉官が増えてんじゃん。佐官以上はいないかね?中佐以下ならまず身元バレんぜ。
178 :
日出づる処の名無し:05/03/01 14:51:39 ID:UZOPvW+A
召集されて、一平卒として南方の小島に駐屯、
やる事なくてずっと釣りばっかしてたらしい。
179 :
日出づる処の名無し:05/03/01 14:57:38 ID:fjDQX1dg
やりまくり・殺しまくりの軍隊生活で、ぜんぜん反省すらしないで、こないだ
大往生した。それが、じいさんだ、
180 :
日出づる処の名無し:05/03/01 15:07:08 ID:Hxufz/CX
おじいさんは海軍兵学校で数学の教官してますた。
曽祖父は大将、祖父は大佐
父方は通信兵
母方はよく知らんけどシナ大陸を歩き回ったとか何とか…
183 :
日出づる処の名無し:05/03/05 01:03:06 ID:yU1AYXI4
祖父はロシア人コーオーター
味方の日本兵に射たれて足を無くした
損害賠償請求していいか?
184 :
日出づる処の名無し:05/03/05 01:09:25 ID:SKHi2LXH
後ろから?
185 :
日出づる処の名無し:05/03/05 01:18:58 ID:yU1AYXI4
祖父は既にこの世にいないのでどの方角から射たれたかは分からない。
祖父は日本人離れした顔なので遠くからなら前からも充分ありうる
それ聞いたとき日本が負けて良かったと思ったよ。
軍隊が廃止になってね。
186 :
日出づる処の名無し:05/03/05 01:22:26 ID:zk3D3xRy
>>185 損害賠償というより普通に補償はされてないのか?
だとしたら請求しろよ。
それとも、自軍に撃たれたってことでそれに追加したいのか?
187 :
日出づる処の名無し:05/03/05 01:26:24 ID:yU1AYXI4
その辺の事は詳しく知らないけど
片足なかったから障害者年金は貰ってたけど
軍人なんとかは(あまり詳しくないので名前しらないスマソ)
貰ってなかった気がする。
188 :
21歳:05/03/05 01:53:18 ID:emFRxoDK
聞く前に他界した
ビルマ方面輜重兵
190 :
日出づる処の名無し:05/03/05 05:31:42 ID:DXyO4HAh
母方の祖父は私が6歳の時に亡くなったので、母からの又聞きですが、
赤紙で徴兵され、南方の島に行ったそうです。
衛生状態が悪く病気になり、そのまま置いていかれそうになったのですが、
軍医の方がとても良い方で上の人を説得して日本に返してくれたそうです。
軍医の方も無事に帰国することができたそうで、家族で何度か御礼に行ったそうです。
このこと以外祖父は戦場でなにがあったのか話さなかったそうです。
もし、この軍医の方がいなければ母は生まれておらず、私もいませんでした。
なにより祖父が大好きだったので、この方にとても感謝しています。
191 :
日出づる処の名無し:05/03/05 06:08:10 ID:83QYsGKD
うちの祖父ちゃんはもう死んじゃったんだけど、陸士出身、終戦時大尉で中隊長
だったらしい。どこの部隊かは知らないけど。
ちなみにおじいちゃんの教育はものすごく厳しかったです。小学生のときから
毎週日曜日の朝、近所の禅寺に座禅に行くことを強要されてて、寝坊したり
サボったりしたら竹刀でぶん殴られました。柄と鞘は陸軍時代の軍刀のもので
刀身のみ本物の日本刀ってのを持ってた。俺が小学生のとき、学校で女の子を
泣かして先生が家にクレームに来たとき、お祖父ちゃんは「女を泣かすような
やつは日本には要らない」とか激怒してその刀を抜いて・・・。本当に斬られるかと
思ったよ。
でも尊敬してたよ。英語もドイツ語も中国語もペラペラだった。スキーも釣りも
お祖父ちゃんから教わった。あと、お祖父ちゃんにはよくキャンプに連れて行か
れた。シュラフだけ持って山に入って食料は現地調達。過酷な、野戦訓練さな
がらの「キャンプ」だった。今、俺は文明が滅んでも、川で魚を獲り、山で木の
実を採り、生きていける自信がある。それは御祖父ちゃんのおかげ。
192 :
日出づる処の名無し:05/03/05 06:45:18 ID:1Ur2AYD1
俺の死んだ祖父ちゃんは、関東軍隷下の平壌師管区、憲兵隊曹長である。
終戦でシベリア送りにされるところを、命辛々38度線を越え復員したのだが、
惜しくもGHQにC級戦犯で逮捕され巣鴨プリズンで数年過ごした。
その後会社を設立、かなり財も成した。 文句あるか。
193 :
日出づる処の名無し:05/03/05 06:48:21 ID:3TWNBQo2
うちのじいさんは、軍医として召集され、最初は中国、次はインドシナへ出征しました。
中国戦線の話ですが、普段は現地の農民といざこざなくやっていても、
いざ戦闘になって味方の誰々がやられた、となると、
『こいつもあいつらの仲間か・・・このやろう!』と頭にくるそうです。
戦闘の後などは、現地の農民が、部隊の便所から屎尿を貰いに来たりしても、
戦闘の後で気が立っているので、ムカムカして殴ったことがあった、と言ってました。
じいさんは南京戦にも参加しており、南京陥落の時は南京城外にいたそうです。
南京事件のことなどを語る時もあり、国民党は市民はもちろん、部隊まで放棄して逃げてしまったので、
大量の捕虜が出てしまったらしく、それを殺したんじゃないか?と言ってました。
俺的には、まあ人数はわからんが、捕虜の不当な処刑はあったんだろ、って感じですね。
インドシナでは食料に困って、蛇だの南方の動物だのを鉄砲で撃って食べた、とか、
バナナの木に登ってもいで食べた、とか、南方の話はやたらと牧歌的なものばっかりでしたね。
あと、うちのじいさんの出征した地域では親日感情が強かったらしく、
部隊駐屯地には、現地の子供が遊びにきたりしていたそうで、戦争後、40年くらい経って、戦友会かなんかで、
当地に行った時に、その時の子供にあったりして、泣いて懐かしんでましたね。その時の写真もあって、
戦争なんだか、海外協力隊なんだか・・・みたいな雰囲気でした。
終戦の時には、現地の住民が、オランダがまたやってくるから、と言って、抵抗運動しようとしたらしいです。
が、日本は敗戦したわけだから、勝手に協力するわけにも行かないし、現地の人たちは、
何の装備ももっていないしで、じいさんの部隊のお偉いさんがオランダと現地の人たちとの仲裁をやったそうです。
終戦の時には、師団長から服毒自殺をするから自殺薬をくれと言われ、それはできないというと、鉄砲で死んでしまったとか。
うちの実家の神棚の社には、その師団長と、中国での戦友、
あと、じいさんは軍医大尉だったので馬引きがついていたらしく、
その上等兵の、戦死された三人の名前が書いた紙が入っています。
194 :
日出づる処の名無し:05/03/06 00:45:29 ID:b6yemw4V
俺のじっちゃんは、昭和19年に17才で海軍に志願したんだって。
日本各地の海軍航空隊の飛行場で滑走路の整備や塹壕掘りが主な仕事。
内地勤務だけで実践経験はなかったんだけど、終戦後も武装解除されずに、そのまま警察隊に編入。
そして、「俺たちは戦勝国民だ!!」とか喚いて武器庫を襲って大暴れしてた朝鮮人暴徒と銃撃戦やってたんだって。
そのときに使ってた三八式歩兵銃の弾頭を見せてもらったことがある。
195 :
ヽ(´∀`)ノ:05/03/06 03:00:37 ID:LKggxz/O
漏れの爺さんは勤めていた三井の技手(爺さんはギテと呼んでいた)として
比島へ派遣されていた。
田村少将率いる日本軍の統治下にあった当地で(銅山か化学工場かハッキリしないが)
現地人を雇って、仲良くやっていたそうだ。
<59年同報会手記から以下抜粋>
>私共にとって忘れ去ることのできない比島の生活はあれから、はや四十年の
>永い歳月が夢のように流れていきました。
>それは苦しい想出であり又尊い体験でもあって、つい昨日の出来ごとのように
>おもわれてなりません。
>今頃あの懐かしい北部ルソンの山岳地はどんなになっているでしょうか。
>機会があって、健康に差し支えがなかったら、もう一度、是非訪れてみたいもの
>といつも胸の中に夢を描きつづけています。
196 :
ヽ(´∀`)ノ:05/03/06 03:01:04 ID:LKggxz/O
>私の知人(カナダ人)の弟(ケベック在住)が、今年の六月の上旬単独でマニラ
>に行くといって成田空港を発ち、そのまま消息が絶え大騒ぎになりました。
>ところが当の本人は家族や兄が心配していることも知らずに、マニラから北部
>ルソンの山岳地、反政府ゲリラの拠点を訪れ、ゲリラと日夜行動を共にして
>七月末、無事に東京の兄のところに帰ってきました。
>彼の体験談の一部を紹介しますと、次のような有様で現在の比島の実態を窺う
>ことができます。
>北部ルソンの山岳地には、共産ゲリラと単なる反政府ゲリラがいて、政府は
>これらのゲリラを一括して、共産ゲリラと呼んでいます。
>現地住民は全く野獣同然の取扱いで、軍人や役人の要求がたとえ不当、不正な
>ことでも、これに従わない者は情け容赦なく射殺され、又財産を奪われることが
>日常茶飯事のように行なわれています。
>このように地方の農山村に一歩足を踏み入れると軍人や役人の横暴は実に目に余る
>ものがあります。住民の生命、財産を守るためにやむを得ず銃をとって戦って
>いるのが反政府ゲリラです。文明も文化も、進歩もなく昔のままの生活がいまも
>続いている現状です。今後も依然として続くでしょう。
>今思えば現地人はマンカヤンにいるかぎり平和で、生命も財産も何等危険に晒される
>ことはなく、いとも安全に生活ができたあの当時のマンカヤンは、三井マンによって
>山岳地に打ち建てられた桃源郷ではなかったでしょうか?
>今となってみれば、大きな夢を描いて活躍したあの頃のことは、それは限りない
>若き日の思い出であります。
>そして歳月は流れ、年老いた今の生活の中に、希望と喜びに輝く忘れ得ない皆さんの
>顔が、いつもなつかしく浮かんで参ります。
>皆さんのご健康とご多幸をお祈りします。
結局、この工場は戦争中あっさりと爆撃でなくなっちゃったみたいだけどね・・
197 :
日出づる処の名無し:05/03/06 03:02:47 ID:VSh6d1kK
うちの爺さんは海軍少尉だったてよ
輸送船団の将校で敵が来ると逃げまくったって言ってた、
まあ、輸送船だしねぇ・・・。
199 :
日出づる処の名無し:05/03/06 03:31:44 ID:sSmcXLto
父方の爺様は(国鉄?)鉄道技師だったんで徴兵は無かったらしい
関東近辺をあっちこっち転勤してた様だけど
で、父も鉄道車両の設計技師に
その息子の俺は自動車関連の技術屋
そういう血が流れてるんですかね?
余談だが、親父殿は社内で行われたT-1のロールアウトの式典を
仕事サボって(?)見てたって言ってたな
母方の爺様は中国のどっかの村で豚を見つけてきてバラして焼いて
隊の連中と食ったというのを楽しそうに話してた
200 :
日出づる処の名無し:05/03/06 04:00:22 ID:9gUWbHNA
満州の貿易の会社にいたらしい
羽振りが良くて 21名の中国人を部下にしていたが
終戦で形勢が逆転
終戦と同時に中国軍の飛行機が飛び回り 略奪や強姦が発生
会社には4組の日本人がいたが 行方不明に・・・
使用人の中国人が毎日 飯を要求
買い物籠の手ぬぐいの下に 短銃を忍ばせていたそうだ
飼っていた鶏の生き血を平然と飲むのが怖かった(叔母)
中国人のヤクザ(頭領)に金つかませて
上海から帰国できた
叔母さんは あやうく残留孤児になるところだったらしい
日本海軍は輸送船団に護衛をつけなかったからね。
物資輸送の任務を考えれば逃げるのが鉄則。
父方の祖父はシベリア抑留に行ってた。
凍傷寸前みたいなこともよくあったそうだ。
ずいぶん前に聞いた話なのであいまいだが、火だかお湯だかであたためようとした時、
ロシア人が「それだとなまにえ(?)になってかえって悪くなる。
こうやってしばらく暖めてからにしたほうがいいぞ。」みたいな事を言って、
毛布で祖父の手をしばらくこすってくれたらしい。
乾布摩擦のような感じなんだろうな。
ほんとに大変だったらしいけど、
幸いにも祖父のいた所は他に比べればましだったらしいです。
父方の祖母は長崎にいたそうだが、
原爆投下一週間前に地元に帰ってきていたので
難を逃れたと言ってた。
じいちゃんばあちゃん、二人とも生き残ってくれてほんとにありがとう。
>火だかお湯だかであたためようとした時、
>ロシア人が「それだとなまにえ(?)になってかえって悪くなる。
>こうやってしばらく暖めてからにしたほうがいいぞ。」みたいな事を言って、
>毛布で祖父の手をしばらくこすってくれたらしい。
なんかお前に感謝したい
いい話をありがとう
204 :
日出づる処の名無し:05/03/08 02:49:37 ID:/Ur7F5xt
敵と言えども同じ人間ですな。
他にも暖かい話キボン
205 :
日出づる処の名無し:05/03/08 03:11:50 ID:fSQS8mgr
母方の祖父は満州で設計士をしていた。
設計した建物の前で記念撮影をした写真があるが、
あの建物今でもあるのかなぁ。
満州の冬の寒さで子供達が病気になったため
戦争が終わる前に日本に帰国した。
206 :
日出づる処の名無し:05/03/08 23:56:14 ID:QtuPYt+4
祖父は回天の部隊入ってたらしい。
もう少し戦争続いてたら死んでたそうな。
曾祖父は中国に当時スパイ活動に行ってたらしい。
本当かどうかはしらないけれど、祖父の方は事実。
うちのひいじいちゃんは軍医だったよ。悲惨だったって
俺の爺ちゃんは中国の部隊にいて、とにかく歩きつづける毎日で退屈だったそうだ
そん中で一番良く覚えているのは部隊の上官が捕虜の首を斬る場面だと田舎に帰るたびに聞かされる。
「とにかくな、刀身がほとんど見えない、ピャッって線が走ったかと思ったら
もう首が落ちるんだ、ありゃ示現流だな(ほぼ原文)」
さて今年も聞いてくるかな
209 :
日出づる処の名無し:05/03/12 03:44:08 ID:m+P82x/w
>>208 歩き続ける退屈な毎日で、どうやって捕虜が出るんだよ・・・と。
うちの爺さんは海軍に志願したそうな。
もっとも、大戦末期の志願だったんで、横須賀から外に出たことが無かったとか。
そいや、最近昔の軍服を着て記念写真撮ってたが、
そういう商売があるのか?
ウチの爺ちゃんは満州で憲兵だったらしい。
地元の人と仲が良かったらしく、敗戦時匿ってもらって無事に帰ってこられたそうな。
漏れが産まれるずっと前に病死したから婆ちゃんの話だけどな。
212 :
日出づる処の名無し:05/03/12 08:40:05 ID:xqs6Pu/g
an Imperial Guard
213 :
日出づる処の名無し:05/03/12 09:13:04 ID:NGoCqe6+
ウチのじーさんは今の芸大出身の
音楽家だったらしいんだが、
身体が弱かったので兵役検査は落ちたらしい。
(そのせいで親父が高校生の頃逝くんだが)
しかし九州出身だったので、
それは親戚筋には極めて不名誉な事。
なので陸軍の軍楽隊に志願し、
指揮者として参加したそうな。
中国やらへも行ったらしい。
階級はよく解らんが、
親父の記憶によればピストルとサーベル?を
持っていて家にもよく将校が遊びに来てたらしい。
結局、一回も戦闘には参加しなかった(出来なかった)んだと。
214 :
日出づる処の名無し:05/03/12 09:21:26 ID:pr6Ya8FY
>>213 水島っ! 一緒に日本に帰ろう!!
でつね。
215 :
日出づる処の名無し:05/03/12 09:23:06 ID:ltFWgWNO
216 :
213だけど:05/03/12 09:29:08 ID:NGoCqe6+
戦後、思いっきり左にかぶれた親父が
「親父、あの侵略戦争で人を殺さなかったんだね!」
と言ったら、じーさんは
「それでも日本人として戦争に加担した事には変わらん!」と
一喝したらしい。カッコイイ!(笑)
217 :
日出づる処の名無し:05/03/12 09:33:29 ID:wTJgDTvb
うちの家系は麻布連隊にいたのがいたしか、解からない。
218 :
日出づる処の名無し:05/03/12 09:35:32 ID:BXb7wPrV
ウチのじいちゃんは兵役検査に落っこちて
一度も軍というものに在籍したことがないらしい。
弱視のせいらしいけど、ひいじいちゃんが元中佐で
従四位だかの位までもらってたらしく、「裏で手回したんだろ」と
いわれのない中傷を結構受けたとか。
しかし、弱視といっても晩年のじいちゃんの趣味はゴルフだったし、
生活してて目が悪いそぶりなんて見たことなかったし、
兵役検査ってこんな程度でも落ちるもんなのかと疑問に思ったこともアル。
かといってひいじいちゃんは軍で手柄立てたことを誇りにしてた人らしいし、
裏に手を回して息子に兵役逃れさせる人ではなかったみたい。
何がなんだかよくわからん。
219 :
日出づる処の名無し:05/03/12 19:27:05 ID:aJqkuEIv
視力検査で、
ウソついたんだろ?
220 :
日出づる処の名無し:05/03/13 01:43:27 ID:Ek45nR1E
オトンの実家に帰省する度興味を引く曾爺の墓石
帝國陸軍一等卒 ○田 ○夫 (一等卒で誇らしく書くのも・・・)
軍ヲタな漏れは婆に聞く、すると
「朝鮮征伐に行ったんよ、勝ち戦だから勲章貰ってきた」と婆
当時の反日教育の申し子な漏れは(朝鮮植民地にした戦争でもあったんかな?習わなかったが)
とスッキリせぬまま一人で自己完結
最近帰省した時良くみたら墓石の脇に勲八等と彫ってある、騎兵連隊、奉天会戦とも
それって朝鮮征伐ってよりオロシヤ征伐では・・・
復員後は大工として過したらしいが第三軍歩兵だったら漏れは生まれてこれんかったかな?
221 :
日出づる処の名無し:05/03/13 04:05:33 ID:1S/1hGHB
>>220 オトンの実家は農家だろ?
戦後もしばらくまで、農村は桁外れに貧しかった。
陸軍一等兵なら立派な方だ。
庄屋のせがれも二等兵が多かった。
つまり、地位の逆転だわな。
戦前の貧乏人が出世するなら、
軍人か教師しかないぞ。
やる気さえあれば、だが。
曾祖父さんはそれなりに優秀で、
郷土の誇りであった訳だが。
そういや俺の爺さん戦後に叙勲断ったらしい?
戦時中にもらったのをもう一度もらう気はなかったのかも。
大臣名の入った表彰素直にもらったみたいですが。
長らく物置にしまわれていたらしいが、今はあるじの居ない部屋で額に入れられてます。
223 :
日出づる処の名無し:05/03/13 15:44:04 ID:DuuQm9kJ
元パリ・マッチ特派員アルフレッド・スムラー著
「日本は誤解されている」
「別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も
嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったこと
に注意しておかなければならない」という記述がある。
最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
(中略)
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。
224 :
日出づる処の名無し:05/03/13 16:17:48 ID:no7gJ4zn
>>220 騎兵は偵察とか高度な任務だから馬鹿には勤まらん。
大したもんだよ。
225 :
糞豚:05/03/13 16:36:42 ID:a5JTapOX
スパイ教育受けていたらしい。
中野サンプラザみたいなところで。
227 :
糞豚:05/03/13 16:38:06 ID:a5JTapOX
228 :
日出づる処の名無し:05/03/13 16:41:09 ID:ytCCIqyA
糞豚さんは犯罪者家系だから仕方ないです。
229 :
日出づる処の名無し:05/03/13 18:35:32 ID:zvPmqh26
船のボイラーふかしてました。
230 :
日出づる処の名無し:05/03/13 18:43:02 ID:g8IN9/W5
飛行基地の警備してました。
米軍機を落としたそうで、痴呆症になってから
何度も少年のように目をキラキラさせて話してくれました。
まともだった頃、一度も戦争の話はしてくれなったのは
戦後日本の風潮の所為だろうなと思います。
いつもニコニコしてて、優しい爺様でした。
今はばあちゃんと一緒に天国に居ます。
おれの、じいちゃんは陸軍中尉でシンガポールに行ってたよ。
輸送中に魚雷をうけて、海面にまる半日漂っていたらしい。
そのとき戦友も多く死んだらしいけど、サメに食われそうに
なったり、さとうきびを腹いっぱい食べたりした話をうれしそう
に話してくれたわ!
親は自虐史観から抜け出せそうも無いので、おれら孫の世代が
がんばらんとな!天国のじいちゃん安らかに。
232 :
日出づる処の名無し:05/03/13 19:02:52 ID:Jq8+AHWS
私の父方の祖父は満州に2回出兵、その後朝鮮で終戦を迎えたとの事
朝鮮からの帰国は壮絶だったらしい・・・
233 :
名無し:05/03/14 01:11:16 ID:8EY1kwbQ
このスレ勉強になるなぁ。
日本が残虐な事したとかいうサヨク話じゃなくて、直接じいちゃんばあちゃんから話を聞きたいよ。
ちなみに私の祖母は、若い頃満州で働いていました。
例の事件が起こる何日か前、急に日本に帰らなければいけなくなり、急遽帰国。
危なかった……。
じいちゃんは、長男だったため戦争に行ってません。
長男は行かなくてよかったのかな?よくわからんが。
学校では級長やってたらしく、朝礼で「かしらー、なか!」とか号令
してた。意味は知らん。アメリカの民謡なども学校の先輩から密か
に教わって歌っていたとか。原爆のきのこ雲をリアルタイムで見たとか
自慢げに話してくれたよ!あの時代の人たちはあの戦争をサヨクの方々
のように悲観的にとらえていない!耳を傾けるべきは、祖父母の言葉だ!
ほんとにこのスレおもしろいなー。
235 :
日出づる処の名無し:05/03/14 22:09:04 ID:gjgkEr2g
京都で馬の世話
236 :
日出づる処の名無し:05/03/14 22:44:32 ID:XbEsyjBS
じいさん飛行機に乗る一歩前だったらしい、ショボイ、訓練機に乗ってる写真は見たけど、特攻隊に志願はしたが乗る飛行機が無かったって
>>234 じいちゃんは長男だったが招集されたよ。そして、妻子を残して逝ったよ。
じいちゃんの弟は志願兵として、じいちゃんよりも前に出征してたそうだが。
ところでじいちゃん、今度あなたの孫が結婚するよ。
桜咲く靖国神社に報告しにいくから待っててね。
238 :
日出づる処の名無し:05/03/14 22:51:39 ID:OblebUaR
>1
おまいトシはいくつだ?
現場を数多く見てきたのか?
おまいにとって気持ちのいいセンズリプロパガンダに
うっとりと酔ってるだけだろが
さっさと射精せーや
目が覚めるド
ばあちゃんは中島飛行機で飛行機製作手伝いしてた
240 :
日出づる処の名無し:05/03/14 23:05:44 ID:+Uf8Bueq
祖父は軍医少佐、部隊は近衛師団でした。
241 :
日出づる処の名無し:05/03/14 23:31:49 ID:CFsq3NxG
伯父ちゃん、飛行機、もう無かったって。
んで、回天の訓練中に、終戦。
うちの父方のじーちゃんは船の工場で働いて
うちの母方のじーちゃんは船の中でコックをやっていたらしい
そしてばーちゃんは山の中で広島の方を見たとき
キノコ雲が見えたらしい
人権擁護法案成立がほぼ確定と知ってゲンナリしています。
他スレにも書いたのですが、国籍条項の堅守を願っています。
2ちゃんねらーの方々には抵抗運動を最後まで頑張ってもらいたいものです。
えー私の祖父はインドから何故か生きて帰ってきました。
死ぬまでカレーは食べなかったそうです。
おそらく戦線が激化する前に兵役が終わり、帰ってこれたのでしょう。
確認していないので真相は分かりませんが…
244 :
日出づる処の名無し:05/03/15 00:33:46 ID:5B4E9ypJ
陸軍なら、カレーに縁が無くても、不思議ではなく。
>>245 >>243の爺様は、インドカレー絡みで何か悲しい思い出があるんじゃないか?
>死ぬまでカレーは食べなかったそうです。
の一文がとても気になる。
246 :
日出づる処の名無し:05/03/15 00:59:27 ID:BjwyREhc
犬の調教やってたそうです
>>1 しかし野犬は野犬だと言っておりました
247 :
日出づる処の名無し:05/03/15 01:05:48 ID:z53okna6
うちのおじいさんは満州で保安隊としていっていたみたい。
もう亡くなってしまったので詳しく聞けないのが残念。
終戦後、シベリアに抑留されて戦争がはじまってから
7年後、命からがら帰ってきたそうです。
あばあさんによれば帰ってきたときは骸骨のように
生気のない死んだような目をしてしばらく過ごしていたそうです。
確かテープに体験談を録音していた記録が残っているはずなのですが
どこにあるかは不明。探してみます。
248 :
日出づる処の名無し:05/03/15 01:09:00 ID:5B4E9ypJ
ぜひ。
うちの爺ちゃんはフィリピンでやりまくり犯しまくりタダマン三昧の日々
を送っていたそうな・・・・今の俺もフィリピンパブに入り浸ってやりまくり
の日々を送っていられるのも爺ちゃんたちのおかげです。
250 :
あひるyou:05/03/15 04:26:24 ID:5dKaJ3dy
父方祖父・・・爆撃機に乗ってインドネシアへ行ったらしい。旗色悪くなる前に
内地へ帰還。国内の飛行場で任務についていたが、戦争末期に爆撃に遭い
至近弾のせいで耳が悪くなったらしい。艦載機に追っかけられて死ぬ
かと思ったらしい。所属・階級は不明だす。
母方祖父・・・海軍のコック。駆逐艦に乗っていたらしい。こちらも魚雷が爆発
したときに耳を悪くしたらしい。漂流中サメに怯えてたとか。ちなみに
祖母や母より料理上手でちゅ。やっぱり所属・階級は不明。軍人恩給
もらえるのにもらっていない漢だす。小渕総理の名前の銀杯はあり
まつた。
251 :
日出づる処の名無し:05/03/15 07:04:20 ID:Xs8LGi3w
>>249 おまえの爺さん当時11歳だったろwww
>>1 父方の祖父
済州島でマターリ終戦を迎える。
父方の祖母
工場で働く、祖父が楽してたのを根に持ってる(笑)
母方の祖父
駆逐艦に乗ってたらしいが撃沈され何日か漂ったが生還。長兄、次兄が戦死した中曾祖母に
「よりによって一番帰ってこなくていいのが…」
と嘆かせた。
じいちゃんは通訳してたらしい
中・英語が話せるみたいだが聞いたことないや
254 :
日出づる処の名無し:05/03/15 08:42:51 ID:UajwOWTX
なんか満州で馬に乗ってたらしい
255 :
日出づる処の名無し:05/03/15 08:44:11 ID:UajwOWTX
母方の祖父は朝鮮で農園を経営していたらしい。
256 :
日出づる処の名無し:05/03/15 09:24:56 ID:smSze+Ts
くーにゃんをレイプしてました
257 :
日出づる処の名無し:05/03/15 09:51:26 ID:QtfLEf7x
人間魚雷にされそうになった。
258 :
日出づる処の名無し:05/03/15 11:22:50 ID:6xjt8B1h
うちのじーさんは硫黄島で玉砕したよ。
年齢も年齢だったから、ナカナカ召集されなかったんだけど、
いよいよ不味いって戦況になって赤紙が来たらしい。
「俺みたいなジジイ呼ぶようじゃ、もうだめなんだろうなあ」と言って、
覚悟を決めて出征したそうだ。
このまえばーちゃんが95で大往生した。
じーちゃんの命日とされてる日(正確には判らんから)の数日前。
ちゃんとひ孫の顔も見ていった。
今頃じーちゃんにひ孫の報告でもしてるんだろうか・・・
260 :
日出づる処の名無し:05/03/15 18:38:29 ID:5PKHqcOy
>>255 韓国が条約を反故にしたら農園の資産を請求できるね。
261 :
日出づる処の名無し:05/03/16 22:09:40 ID:9qSdDnVu
じいちゃんは通信兵だた
262 :
日出づる処の名無し:05/03/16 22:18:45 ID:hZWUl308
松型駆逐艦の艦長やってた。
地上配置に異動後に撃沈された・・・
263 :
日出づる処の名無し:05/03/16 22:18:55 ID:MIFNFW3H
母方=衛生兵だた。(明治35年生まれ)
父方=まだ子供だた。(昭和3年生まれ)
当時30くらいで資産家だったから、戦争には入ってないらしい。
つーか、オトンが生まれたのが1945年の8月16日だ。
逆算すると戦争中にどこにいたかわかるなw
まぁそんな過去の華族も、オトンが店つぶしてしまい俺が生まれたころには中流階級以下になってたがなw
>>1 オレの祖父は野砲8連隊つー部隊の電信係(?)だったらしい。
フィリピンのルソン島に行っていたとかどーとか。
今もピンピンしてるから時々、戦争の話を聞かせてもらってる。
「オレは運良く南方に行ったから、そこら辺の食料を集めて生き延びることができた」
ってのが口癖。
267 :
日出づる処の名無し:05/03/16 23:20:36 ID:9qSdDnVu
じいちゃん兄弟の長兄(今も生きておられます)は満州に行ってたみたい。ソ連軍に捕まりシベリアにいた。日本に帰国した時は赤化思想に染まってたそう。戦前に勤めてた郵便局は勿論 復職不可だた
じいちゃん、陸軍とだけ聞いていた。
海軍だったら死んでいた、と言っていた。
目の前で軍艦が沈んだらしい。
足に弾が幾つか残っていて、触ったら不思議な感じだった。
ばあちゃんは広島で働いていた。
被爆した従兄弟を引き摺って実家に帰ったらしい。
あんまり原爆の事は話さないからよくは知らないけど、蛆がわいて死に掛けだったとだけ聞いた。
うちのばあちゃん長崎で当時結構離れた学校にいたから
被爆は免れたけれど、帰り道にたくさんの人が倒れていて
怖かった。という話を又聞きしたな〜。
270 :
日出づる処の名無し:05/03/17 00:18:27 ID:ywbwGIzW
父方のジーサンは大阪にあった東洋最大の兵器工場ではたらいてたらしい。
母方はアル中だったんで、徴兵されず。
とーちゃんは学徒出陣して・・・
・・・なにもする前に終戦で帰ってきた。
ミャンマーで病死。じいさん24歳。
じいさんが永遠に24歳なんだね
274 :
日出づる処の名無し:05/03/17 07:00:07 ID:66UEMQIW
私の祖父は職業軍人であった
朝鮮独立運動家を虐殺したり若い女をさらって売春婦にしたりしていたそうだ
戦時中は食料が乏しかったのかと聞いたところ
朝鮮人の女や子供を殺して食べていたので食料には困らなかったと言っていた
特に妊婦の腹を裂いて取り出した胎児は珍味であったそうだ
当時韓半島にいた日本人はその胎児を刺身にして食べたそうだ
(∇∀∇)<いい加減にしてね。
( )
| | |
(__)_)
>>274 もっと面白い作り話にしないと、誰も反応してくれないよ。
またぎきなのだが、俺のじーちゃまは通信兵だったらしい。
母親から聞いたことだがね。
で、それに対する母親のコメント
『前線に出ないで適当にやってたんでしょ』
だそうだ。
後方部隊ってとんでもなく重要なハズなんだけどな。
278 :
日出づる処の名無し:05/03/17 15:35:03 ID:4I8GdZr7
・・・母ちゃん、
そりゃ、酷いよ・・・。m
たった今お線香上げに来たお爺ちゃん(母方)の話ですが、
赤紙来て青森の軍港で働いてたそうです。
戦争時のことはめったに喋らない代わり、日本の悪口も言わない爺ちゃんです。
でもケツバットだけはトラウマらしいです。
爺ちゃんと一緒にお線香上げてくれた義理の叔母(叔父の奥さん)のお父さんは満州へ行ってたそうです。
ちなみに今日は、カッターナイフ外交ネタで和気あいあいと盛り上がりますたW
280 :
日出づる処の名無し:05/03/17 16:49:43 ID:4I8GdZr7
・・・考えてみれば、
戦後の言論状況って、
戦中のことを、
肯定的に話せない状況を、
生み出しちまったんだよな。
今でも。
・・・つかまあ、
現状と、話に聞く戦中の「悪事」の落差に、
違和感を感じたから、調べる気になった俺だが。w
281 :
日出づる処の名無し:05/03/17 17:34:34 ID:TWOXjMMt
うちのじいさんは、中支に行ってたらしい。衛生兵っていってたかな。
なんか中国人は背中に傘さしてマヌケな格好で戦闘してたらしく、あんな奴らに絶対負けるわけないっていってたw
で戦利品?として接収したアメリカ製のトラックが日本製のと全然馬力が違って驚いたらしい。
>>277 そんなこたーない。
通信兵って結構命がけ、通信兵の死傷率って結構高い。
敵に真っ先にねらわれるのは通信所だから。
283 :
日出づる処の名無し:05/03/17 17:56:44 ID:Gs49hLMr
うちの父方の爺様は長男で体も弱かったんで本土で防空壕ばかり掘っていたらしい。
284 :
日出づる処の名無し:05/03/17 18:07:11 ID:ste93y0b
母方の祖父はシンガポールで通信兵してました。
父方の祖父は空母で主計兵でした。
285 :
ヌルハチ:05/03/17 18:20:36 ID:mMCRO7Iu
286 :
ヌルハチ:05/03/17 18:22:04 ID:mMCRO7Iu
ついでにこんなことも、恥ずかしくて孫には言えなかったようです。
287 :
ヌルハチ:05/03/17 18:22:52 ID:mMCRO7Iu
288 :
日出づる処の名無し:05/03/17 18:42:45 ID:e6LcFctK
回天に乗せられそうになったが、
運良く燃料が足らなくなり セーフ!
289 :
日出づる処の名無し:05/03/17 18:55:50 ID:f4bpvIiU
平日は銀行員、週末は教会でラッパ吹いてた爺様が徴兵喰らったのは昭和19年。
札束とラッパしか持った事無い爺様は出征直後に大陸で捕虜となり、昭和25年に無事帰国。
大陸でもラッパ吹いてたって言ってたし、たぶん三平師匠のような役立たずの軍人だったのだろうw
それでも竹下総理の頃だったか金杯貰ってたな。嬉しそうだった。
290 :
日出づる処の名無し:05/03/17 18:56:39 ID:4DcC4zyP
家のじいちゃんは、18くらいで志願してまず高岡の兵舎で訓練を受けたそうだ。その時期に高岡が
空襲されて、市は焼け野原になっちゃったんだって。じいちゃんは、兵舎に焼夷弾が降り注ぐ中、
竹ぼうきで火を消してまわったらしい。焼夷弾の落ちて来るスピードはすさまじく、三階建ての
兵舎の屋根から一階まで突き抜けるくらいで、直撃されれば無論死んじゃうんだけど、怖がってる
場合じゃなかったらしい。若い兵隊のほうが肝が据わってて、家族のいる上官たちは穴の中で震えて
たらしいけど、今思えば仕方ない事だって言ってた。
その後は内地勤務だったんだけど、東南アジアでの戦局が不利になってくると、民間の船を徴用して
物資を運ぶようになり、一応下士官になったじいちゃんはそれに乗って日本とインドネシアあたりを
何回か行き来したらしい。でもある時潜水艦に攻撃されて、じいちゃんの船以外の仲間の船がみんな
沈められちゃったとか。救助できた兵隊は少しだけでたくさんの人が死んでしまったらしい。その事を
思い出すと今でもつらいんだって。で、内地に戻ってきたころ終戦。
終戦後は苦労して今では立派な資産家だけど、亡くなった人のことを考えると気の毒だ、戦争はもう
こりごりだってさ。ちなみにばあちゃんはまだ小さくて、高岡の空襲を遠くから見て喜んでたらしい。
291 :
日出づる処の名無し:05/03/17 18:59:55 ID:4I8GdZr7
遠くから見りゃ、
花火みたいなもんだからね。
292 :
ヌルハチ:05/03/17 19:00:32 ID:aE+9GlMK
母方のじいさんは、若くして駆逐艦とともに戦死
父方のじいさんは、生前、腹に銃撃を受けた後を見せてもらったことがあるが
満州で特務機関、今で言うスパイみたいなことをしていたらしい
戦局悪化で、大陸で生まれた漏れの父を連れ本土へ帰国
一歩間違ってたら、漏れの父は残留孤児に
gj!
294 :
日出づる処の名無し:05/03/17 19:02:25 ID:4DcC4zyP
そういや家のじいちゃんは(別にウヨじゃないけど)朝鮮人は嫌いだって言っていたな。終戦後の日本人を
馬鹿にした態度や、そこかしこで大声で喚いたり泣き叫んだりする感情表現がイマイチ気に食わなかった
らしい。戦前は子供に駄菓子売る仕事をする朝鮮人とかもいて、日本人とは結構うまくやっていたらしい
んだけど・・・戦争が終わった混乱に乗じていろいろ嫌われるようなことをしたみたいだね。
ネットウヨの朝鮮人嫌いのコピペも、まるっきりウソってわけでもないみたい。
295 :
日出づる処の名無し:05/03/17 19:06:14 ID:4I8GdZr7
・・・でもね、
俺の田舎辺りでは、
在日、つか旧日本人の半島人は、
屑広いとかしてて、
大陸帰りの爺ちゃんは、
懐かしそうに、カタコトの半島語で、
相手して、配給の食糧とか交換してたとさ。
連中の場合、極端に、
優勢な奴に従って、態度変える習性があるらしいから・・・。
・・・っても、そういう人たちは、どうしたかな。
帰っちゃったような気がしないでもない。
戦後は戦後で、また・・・。
296 :
ヌルハチ:05/03/17 19:06:30 ID:aE+9GlMK
中支戦線で散々殺しまくっても総額一兆六百六十億も貰ってれば誰も国に文句は
言わんわな、そりゃ。中国から嫌というほど責められて、その原因を作った連中が
我々の税金でのうのうと生きているのかと思うと非常に腹が立つ。
297 :
日出づる処の名無し:05/03/17 19:15:13 ID:4DcC4zyP
家のじいちゃんはほろ酔い気分になると、よく「とにかくいい時代になった」みたいに言うね。
漏れらの周りの若い人は「もう日本だめぽ」とこぼすけど、じいちゃんにしてみりゃ毎日爆撃
うけたり食いモンがなかったり、わけもわからん戦争に徴兵されないだけでずいぶんましな世の中
なんだろうな。
やっぱり生の体験談を聞くと、戦争を美化したり、安易に軍備の拡大と国威の発揚を結びつける
考えには賛成しかねるな…この辺は人それぞれだろうけど。
漏れは大人になってからせがんでじいちゃんの若い頃の話を聞かせてもらったので、いろいろ
知れて良かったと思うよ。みんなもじいちゃんが元気なうちに少しでも話を聞かせてもらった方が
いいと思うよ。
298 :
日出づる処の名無し:05/03/17 19:18:11 ID:3E4WmBLS
俺のじいさんは陸軍法務大佐。もちろん東京帝国大学法学部卒。
軍法会議議長、つまり軍隊の裁判官だ。
もう一方のじいさんは陸軍二等兵。馬のウンコ取る役。
両者の違い歴然
299 :
日出づる処の名無し:05/03/17 19:28:36 ID:4DcC4zyP
なんか戦前戦中の歴史観についてはごちゃごちゃ議論があるけど、やっぱりひとつの時代を善悪や成功・失敗みたいに
単純に色付けすることはできないよな。酷い思いをした人もいれば、わりと気楽にやっていた人もいるんだし。
当たり前って言えば当たり前だけど、教科書問題で議論している知識人とかに限って、そういう時代の多角性を失念
している人が多い希ガス。あるいは分かってるんだけど世論を自分の思想に沿うように持って行こうとしているのかな。
とにかくじいちゃんとかに話を聞いてみるほうが、朝生見てるよりよほど役に立つよ。
じいちゃん達の名誉は守りたいと思う。
301 :
日出づる処の名無し:05/03/17 23:54:55 ID:hw/rspVj
家のおじいちゃんは、20で徴兵され旭川から朝鮮、満州経由で山東省に、
機関銃中隊の初年兵として行きました。
戦争の話になると、「中国の水はそのまま飲むと、必ずげりするからでっかいかめに水溜めて、
上のほうだけ飲む」、とか「中国兵は、農民の格好をしてるから
鉄砲を持っていたら兵隊と判断する」とか、いろいろ話してくれます。
ある日、「敵を見つけた」と連絡があり、歩兵2,30人で出向いたところ倍以上の敵兵に待ち伏せに遭い、
おじいちゃんの部隊が到着したころには、歩兵部隊が全滅していたと・・・
ぼくが、「それは、自分で見たの?」と聞くと、「そうだよ、日本兵はみんな裸にされてた」と・・・
後で、スパイがいたということが判ったらしいです。
それでも、中国人は好きでも嫌いでもないと言っています。
302 :
301:05/03/18 00:30:55 ID:cQG8r782
終戦に近づくにつれ、物が不足してきて、階級章は両襟ではなく胸に1個、
補充兵の水筒も、ブリキから竹筒に変わっていったそうです。
終戦後、中国と北朝鮮の国境付近でソ連兵に捕まり、食料庫にあった米を船に積み、そのまま、シベリアへ。
食べ物は黒パンとスープだけ。靴下代わりに足に布を巻き、トラックで作業所へ行くんだそうです。
作業中に、抜き打ち持ち物検査があったらしく時計や写真も盗られたといってました。
お祖父ちゃん曰く、「ソ連には何にも無かった。木工所に運ばれる木には、王子製紙の刻印あった」
「自分は北国出身だからいいが、東京出身者や、寒さに不慣れな人もいて可哀想だった」と
お祖父ちゃんは、終戦から3年後に帰ってきました。
いまでも元気で雪かきしてます。とにかく、戦争中のことはゲートルの巻き方から馬に積む荷物、部隊の構成まで、
よく憶えています。それだけいろんな意味で思い出深いのでしょうか。
303 :
日出づる処の名無し:05/03/18 00:46:34 ID:IHh8Ja+X
>>302 おまえのジジイも人肉食ったって言ってたろ
毎年、お盆の迎え火の時はおにぎりを握ってお供えしている。
うちのじいさんの兄はニューギニア辺りで戦死したらしい。
補給線が届かず、おなかが空いていたんだろうねえ
と、ばあちゃんが言ってた。
305 :
糞豚:05/03/18 01:01:33 ID:w00CtDQ8
>303
それは南方へ行った日本兵。白豚、黒豚の話。食ったらしいのは事実みたいね。
306 :
日出づる処の名無し:05/03/18 01:01:38 ID:+sPgjGuX
海軍だったと思う。
で、フィリピン沖で沈没。
一度何故か、シンガポール経由でマレーシア
に家族で行った。漏れが小学生ぐらいの時。
正直、コノ手の話は家でできない。
親父が腹の中にいる時、祖父は戦死したので、
親父に聞いてもわからないし、話したくないみたい。
祖母にも聞けなかった。ただ、網本をやっていたので
田舎の近所の人が覚えてた。話を聞くと、帰ってきて親父をしこんで
また、出兵したみたいだ。それぐらいしかわからない。
ちゃんと調べてみる。
大陸で工兵やってたらしい。
小6のあまり興味のない頃に聞いたもんでうろ覚えだが
ジープにのって移動できて楽しかったとよ。
酒の席になるとおじいちゃん流中国語講座が毎回開かれてるよ。
まんとうまんとう言ってるw
308 :
日出づる処の名無し:05/03/18 02:20:49 ID:PgHIgOg0
>>302 >ゲートルの巻き方から、馬に積む荷物、部隊の構成…
オマイ、それ「図入り」でワープロ打ちして
本にしてやれ。
爺さん喜ぶし、オマイんちの歴史書や
後世の史料になるぞ。
母方の祖父が大工で軍属。ソロモンで戦死。
飛行場作ってるときに殺されたか、雷撃で船ごと沈められたか・・
箱に一枚紙入ってただけだって聞いた。
>>301 >それでも、中国人は好きでも嫌いでもないと言っています。
なんかホロリときた。
301さんのじいちゃんのでかさに乾杯。
元気に長生きして欲しい。
311 :
日出づる処の名無し:05/03/18 05:23:42 ID:nmMW40wM
オレのじいちゃん憲兵
終戦後、アメ兵に石投げて袋叩きに・・・
男だ
312 :
日出づる処の名無し:05/03/18 05:32:54 ID:I9DDib0Y
313 :
日出づる処の名無し:05/03/18 05:33:58 ID:CMHMTXDL
曽祖父:日本海海戦に従軍。勲章だらけの写真が母方の実家にある。
祖父:陸軍中尉。鉄道第八連隊の中隊長。
俺:ニート
うわああああああああああああああああああああ!!!
314 :
日出づる処の名無し:05/03/18 05:48:07 ID:I5Na8/H0
叔父が空軍で戦闘機に乗ってたらしい。
終戦後そのまま自衛隊で勤務していた。
もう他界したが兎に角目つきが鋭くて酒が強い記憶しかない
なぜか、松本零士の戦闘シリーズ漫画をこよなく愛していた
九州男児のオジキでした。
戦闘機や戦艦の写真は見たが、戦争の話は殆どしてません。
じーちゃんは満州にばーちゃんと住んでて、軍関係のバスやトラックの運転手をしてた。
大陸から引き上げてくる船の中で、親父の一番上の兄貴が亡くなったそうだ。
>>312 こういうやつは論破しようとしても無駄。
いかに理路整然とした正論を説いても、自分が正しいと言う強い意志(思い込みとも言う)があるから。
むしろ生暖かく笑いながら見てるのが、こういう連中を一番腹立たせる。
>>313 ガンガレ(><;
>>314 後学のため補足しておくと戦前の日本に空軍は存在しませんよ。
いわゆる空軍にあたるのが海軍航空隊と陸軍航空隊。
陸海で別々に飛行機を管理してた(と思う)の。
318 :
151:05/03/18 18:39:06 ID:ZpsXzDwv
>>151 >>157 >>220 皆、漏れのカキコです
暫く見ない間にレスついててビクーリ
>>221 >>224 ありがd、ガキの頃は賛否でもなく「二次戦前の一等兵かぁ」程度でしたが
戦歴を知った時から尊敬する先祖でつ
叙勲理由を是非知りたいトコロ
オトンは戦後上京し騎兵連隊発祥の地に住む(明治大帝命名の市)
しかし、爺→海軍の飯炊き 叔父→空自の幹部食堂の調理長
これで陸自にもウチの家系から飯炊き出せば三軍制覇(何の?)なんだが・・・
>>301 >靴下代わりに足に布を巻き
そりゃ、ロシア名物ポルチャンキでつね
ロシア軍の伝統(現ロシア連邦はどうだろ?)らしいでつ
320 :
日出づる処の名無し:05/03/18 19:08:07 ID:nhTZhTl5
さっきCSのディスカバリーチャンネルで、イギリス軍に視点をおいた
太平洋戦争の番組を途中から見たんですけど、日本軍による捕虜の扱いが
かなり酷かったものと描かれていたんですけど実際はどうだったんですか?
「捕虜を逆さ吊りにし、意識を失っても戻るまで待ちそれを繰り返す」
「捕虜を輸送中の日本軍艦が砲撃に遭い日本兵だけ救命ボートで逃げ
捕虜たちは木のイカダで漂流させられた。」
「日本軍は強制労働のため大量の捕虜を日本へ送った。」
などのないようでした。
321 :
日出づる処の名無し:05/03/18 19:10:12 ID:noQf4VVZ
韓国とかもベトナムで30万人殺したんじゃないの
うちの爺さんは志願兵で
幸いにも(といっていいかな)終戦まで内地勤務でした。
最終階級は准尉。まさに兵からのたたき上げ。
対米戦争前までは、仙台陸軍教導学校に行ったあと
戦車の車長として訓練したりしており、
(こんときのエピソードは中々面白かった。)
太平洋戦争中は、内地で連隊本部付下士官やったようです。
暗号解読もやってたと聞きました。
>>320 実際のことなど体験者じゃないとわからんよね
しかしイギリスの爺さん達は未だに日本人嫌いが多いのは本当
亀
>>282 だよなぁ。。。
もう半身不随になってしまって久しいじーちゃまだが、確か左わき腹に弾痕があったような。
ちなみに、母方の爺様は軍人にも軍属にもなってなかったらしい。
俺に似て阿呆なこと抜かしながら小説書いていたそうだが。
あと、母方の親族に、法事の時市長が来るような軍人さんがいたらしいが、詳しくは知らない。
少なくとも将校レベルと思うのだけど。。。
325 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:00:43 ID:Tr9bMO5g
父方のジイちゃんは海軍の将校だったらしい。
いつ死んだかは聞かされていない。
この間父方の婆ちゃんが鬼籍に入っちまったから
もう詳しい事は聞けねぇな・・・
母方は不明。
お袋が生まれた時から所在不明。
私生児だったらしい
326 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:07:11 ID:FjzQWf8d
満鉄で働いていました。
帰国後、通信会社に入社。
その後、社名変更後、重役になりました。
327 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:08:51 ID:FjzQWf8d
もう片方は、フィリピンで戦死。
ばあちゃんは一人で子供3人を育てました。
>>320 終戦後に武装解除した丸腰の日本兵にしたことを棚にあげて・・・・
329 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:28:38 ID:gg4OzD3Z
塹壕?でバンバン撃っていて、仲間が乗り出して撃たれたんだそうな。
で、反射的に自分も乗り出して仲間を塹壕?に引き込もうとした瞬間、
攻撃くらって塹壕で爆発。で、全滅。
じいちゃんと、撃たれた戦友二名だけ結構な怪我したものの生き残り一旦送還。で、終戦。
要約するとこんな感じの話だったな。もっと長い話だった気がするが。
もう一人の爺ちゃんは体弱かったから?機械屋さんやってた。
大きい車輪の付いた機械で金属を加工していたらしいが詳細は不明。
終戦後に婆ちゃんと一緒に三国人に家ごと消された。
お袋姉妹と、曾婆ちゃんが生き残って苦労したとか。
母方の亡祖父は、家族で舞鶴に面会に行った時に豆を煎っていたそうです。
幼かった母は、豆を煎る任務なんだと思ってたらしい。
父方の祖父の事は早くになくなったので良く知りません。
父の、ずっと歳のはなれた長兄が特務機関で働いていました。
331 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:42:33 ID:h1UBLdCp
父方の祖父は、立命館大学に在学中、大日本共産党に入党、32年テーゼ???に反対し、反主流派に参加、活動資金稼ぎに銀行強盗を繰り返し、入獄!
当然、立命館大学を退学。恩赦で出所後、京都大阪下関朝鮮と略奪を繰り返しながら、満州へ渡り、シベリア出兵の時に置き去りにされた日本軍人をリーダー
とする日本人、旧ロシア貴族、朝鮮人、中国人で構成された、総勢50人くらいの馬賊に参加。満鉄や関東軍を襲撃する毎日でした。
また活動資金稼ぎの阿片を売りに、上海の大世界にも、何度も行っていたそうです。
しかし8月9日のソ連侵攻の時、総攻撃を受け、半数の死者を出し、ほぼ全滅。
特に旧ロシア貴族が、T34に馬で、次々に突っ込み死んでいったそうです。
332 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:47:21 ID:t2c2jRAO
333 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:52:08 ID:h1UBLdCp
続き
ロシア貴族の方は、いつも領民のことを考えていたそうです。
その後、国民党に合流、長春防衛作戦に参加しましたが、八路軍の包囲を受け、生き残りの半数が、餓死!
しかし長春城の城壁を、残存兵力と国民党軍で突破、何万人もの避難民を連れて、まだ国民党の勢力地だった華南へ向かいました。
そして、国民党の都落ちに同行して、台湾へ渡り、高雄から帰国しました。
帰国後は、旧友の野坂参三と再開し、炭鉱の労働運動を指揮、しかしその甲斐も無く閉山となりました。
その後は、保守王国の石川県で、共産党の候補として、県議員に何度も立候補するも落選。
赤旗販売店店長をしていましたが、反成田空港運動に参加、管制塔を地下の下水道を通り抜けて進入する作戦をたて、成功。
また刑務所へ行く!
出所後は、赤旗販売店店長で人生を終えました。
馬鹿な一生でした。
334 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:54:51 ID:t2c2jRAO
>>333 馬鹿っちゃあとんでもない大馬鹿だが、
そこまで壮絶な人生を歩んだのだとしたら、
それはそれで豪快な人生だな。
336 :
日出づる処の名無し:05/03/19 01:59:38 ID:c+On/5+m
明治大学卒業後中島飛行機?で働いたあと南方に飛ばされて、
水がないために便までもガチガチになり重度の便秘になやまされた。
果物は美味かったらしい
337 :
日出づる処の名無し:05/03/19 02:17:26 ID:Gds+31SG
じいちゃんの4人兄弟のうち3人が海軍だったらしい。
東南あたりの海で眠ってる・・・。
曾ばあちゃんいわくやさしくて勉強熱心だったって。
じいちゃんは軍需工場が空襲にあって壊滅したんで帰ってきたらしい。
>>320 資料を見る限り「日本軍よりマシ」みたいだが。
終戦間際で配給もままならない状況なのに捕虜収容所で餓死者がでたという話がない。
南方の収容所の扱いが最低限だったのが事実だったとしても、
日本兵はバタバタと死んでいったというのが事実だからね。
339 :
日出づる処の名無し:05/03/19 23:03:30 ID:ofXf5QTM
こんな板があるなんて初めて知った。
漏れの大伯父はキリスト教(カトリック)の神父をやっていて、南方で戦死したというはなし。
軍隊の中では、普通に十字を切っていたりしたらしい。
そういったところはかなり寛容だったということ。
ずっと戦争の話をするのはタブーだと思ってたけど、じいちゃん自ら少しずつ戦争体験を話してくれるようになった。
じいちゃんは2回出兵した(陸軍)
階級聞いたけど失念。
港?で出航待ちしている時、1つ前に出ていった船が撃墜されたらしい。
戦後はシベリア抑留され栄養失調のため?帰国。
家に帰ってきたときのじいちゃんは、軍服も体もすごく汚れていて、
ぼろ雑巾のようだった、とばあちゃんが昔話してくれた。
じいちゃんの部屋には天皇陛下の写真(額入り)と
抑留の時の慰労状(海部元総理からの)が飾ってある…
船は撃沈されるもの
うちのじいちゃんは若くして士官学校に入り,
終戦時は確か海軍中尉。
機雷長だか砲雷長だか良く分からないけれども,そういうことをしてたらしい。
家には技術大会(?)の表彰トロフィーもある。
印象に残っているエピソード。
ある日,地元の小学生がじいちゃんにインタビューに来たんだ。
お年寄りに話を聞こうみたいな,学校の課題だったんだろう。
その時,子供たちは戦争についてどう思うかって聞いたんだ。
うちのじいちゃんは,
「戦争は悪いことだ」「今は平和な世の中になって良かった」
なんて言ってた。子供たちが相手だったからそういったのかもしれない。
でもそれは,確かにそうも思っていたかもしれないけど,本当の本音じゃなかったと思う。
なぜなら,俺に戦争の時の話をしてくれたじいちゃんの目は,いつも輝いていたからだ。
軍艦に乗っていたこと,マレーシアに行ったこと・・・いろんな話を聞かせてくれた。
お国のために戦った,それを誇りにしていた。中学生だった俺にもそれは感じられた。
でもそれを,世間で言うことは,戦後の雰囲気の中で言うことはできなかったんだろう。
戦後は公職も追放され,細々と農業をしてきたようだ(これは親から聞いた)。
拍手喝采で戦地に送り出され,終戦後は世間の冷たい目,仕打ち。辛かったに違いない。
当時中学生だった俺にはそこまで理解はできなかった。
でもじいちゃんは俺にだけは多くの体験談を聞かせてくれていた。
じいちゃんはもう逝ってしまったが,忘れちゃいけないことだと思う。
うちの爺さんは国鉄だったんで満鉄敷設に行ってたみたい。
大した戦闘は無かったらしいが、ゲリラ襲撃なんかされると
真っ先に護衛の兵隊が退却するって怒ってたな。
連れていったヤクザまがいの人夫の方がよっぽど根性あったらしい
勲章で遊んで頭張られた時、親父も軍刀で遊んで折檻された話聞いて笑ったなぁ
不敬な子孫ですまんね爺ちゃん
344 :
日出づる処の名無し:05/03/20 18:02:09 ID:lqUdODHx
爺病気 爺苦しむ 爺極限状態 爺死ね
ニヤニヤニヤニヤ
345 :
日出づる処の名無し:05/03/20 18:13:15 ID:wmF/kwO1
母方の祖父はフィリピンのルソン島で戦死(陸軍伍長)
父方の祖父は輜重兵として東南アジアに出征した。陸軍兵長。
戦後1年間英軍の捕虜になったが無事に日本に生還した。
戦死とは酷い話だ。
俺は朝鮮と中国は大嫌いだ。
あいつらはうざい。劣等民族だ。
我々大和民族は朝鮮人や中国人を支配すべき
誇り高き民族だ!
アジアの盟主は我々大和民族だ。
自分の祖父の兄が満州に行っていた、負傷して本国に帰ってきた。
戦友の腕が目の前で吹っ飛んだらしく、その切断面がトマトの切断面に
似ていたらしく未だにトマトが食べれない、それほど衝撃的だったらしい…。
347 :
日出づる処の名無し:05/03/20 18:46:34 ID:gl77XA8c
えーと、母方の爺ちゃんは海軍だったらしい。詳しくは知らぬが除隊後警察官になって勲五等もらった。
母方のばーちゃんは町工場で働いてたらしい。
父方の爺ちゃんは中国で後方の警護をやってたらしい。
戦闘になったことはなかったそうだが、
戦後の帰還が大変だったそうだ。
蒋介石がすんなりと兵隊を帰してくれたおかげで爺さんが帰ってこれたと
親父は今でも蒋介石に感謝しとるよ。
オーストラリアでホームステイした家が中国系(香港からの人)で
家に蒋介石のメダルが飾ってあった。
親父がホストファミリーと会ったときに
涙を流しながらそのときのことを語らってたよ。
醤油をいっぱい飲んで病気して戦争に行かなかったとか言ってたような・・・
349 :
日出づる処の名無し:05/03/20 19:04:37 ID:inTDoyZ8
父方祖父は通信兵。広島宇品から出航。マレー半島に向かったことだけ知ってる。軍役が9年だったから一時恩給で済まされたことを残念だったようだ
350 :
日出づる処の名無し:05/03/20 19:17:02 ID:lMyq6KVs
うちの祖父は軍医でした。
支那での長い行軍中
病気や怪我の人達とずっと寝起きしていたわけだが、
横に寝てた人が急に叫んで起き上がって、驚いて見ると、その人は死んでいた、とか
よくあったらしい。
なんか例えがロウソクの火だったので
怖くて忘れられない。
351 :
日出づる処の名無し:05/03/20 19:27:12 ID:P1dy1NTo
俺の爺さん長男なのに空軍に志願して出兵したらしい。
座椅子に座って居眠りをしているのかと思ったら動かず
自慢の禿げ頭をピカピカに光らせて息絶えておりました。
上官の立場という責任上、自ら出撃することが許されず
若い志願兵を特攻隊として送り出した事が悔やまれた。
と一生、語り続け将棋盤を前に老衰で死んで行きました。
その時の耳当てつきの飛行帽が、いまも僕の宝物です。
352 :
日出づる処の名無し:05/03/20 19:52:47 ID:wmF/kwO1
>>351 釣りだと思うが日本に空軍は無いのだが。
じいちゃんは京都の特高にいますた。
戦後公職追放orz
自己の欲望を満足させるための邪魔になるからといって、生きている
人間の子どもを……ようやく舌がまわりはじめたなんの罪のない赤ん
坊を、煮え湯の中に投げこんでしまったのだ。
わが子を気づかい、必死に釜に駆け寄ろうとする母親を、「餓鬼を
片づけりゃ、今度はお前をゆっくり……」と私は勝ち誇った頬をゆが
めて腰を蹴り上げると、母親は壁に当たってオンドルに転がった。「
フンッ」と鼻を鳴らして、「お前がおとなしくしねえからだ」と、わ
が子の名を呼び救いを求めて悲痛な叫びをあげる母親を、「なんとわ
めこうと百年目だ」とばかり口をふさごうとした。その手へ歯をもっ
て逆らう手ごわい抵抗に、ますます野獣の本性を現した私は、頭から
布団をおっかぶせ、その上に馬乗りになって、身悶えするのをついに
蹂躙したのだ。
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/isida_goukan.htm
355 :
日出づる処の名無し:05/03/20 20:02:53 ID:e+iP26gv
父方は、海軍の士官だったけど、台湾総督府にいたらしい。
生前は、よく台湾に出かけたり、台湾の昔の同僚が遊びにきたりしていた。
台湾っていうと高砂義勇兵を思い出すのですが
おじいさんは、高砂義勇兵と縁とかありました?
357 :
日出づる処の名無し:05/03/20 23:40:20 ID:P1dy1NTo
>>352 あ、そうなの?飛行機乗りだったと聞いたから勝手に空軍だと思ってた。
358 :
日出づる処の名無し:05/03/21 00:05:05 ID:XaPM9rjS
日本には海軍航空隊と陸軍航空隊があるだけです
アメリカも同じで日米が航空戦力を独立軍にしたのは戦後です
(艦載機は海軍のまま)
359 :
日出づる処の名無し:05/03/21 00:08:57 ID:OQv8bP5P
父方のじーちゃんは 国鉄の蒸気機関車の機関士だった。
叔父の1人は大学で演習中 腸チフスだったんだが…。軍医の誤診でマラリアと診断され
その後 親父の兄弟姉妹も感染して何人か亡くなった。
父親と14歳はなれた一番上の姉の旦那は支那で陸軍の情報将校をしていたが
終戦3ヶ月前に九州へ その後 パージを受けていたけど警察予備隊をつくる準備段階で呼ばれ
定年まで自衛隊へ。
母方のじーちゃんは仲買だったんだけど 戦時中 糖尿病で死亡。
このスレの話、まとめると一冊の本ができるな・・・
祖父の体験談みたいな感じで。
それはさておき、以前書いた祖父の戦車戦の演習の話。
戦車には、車長・操縦手・砲撃手の3人が乗り込むらしいが、
車長は天蓋から身を乗り出して、下にいる操縦手に指示を出すのだが、
その指示の出し方が、足で蹴ってするそうだ。
つまり右に行きたければ足で右肩を蹴り、左折だと左肩を蹴る
という具合。
しかし、ときどき熱が入りすぎて思いっきり蹴ってしまい、
部下の肩を痛めて上官から注意されることもあったとか。
あとは、秋になると演習ついでに松茸狩りを毎日のようにさせられて
その日の夕食の松茸にうんざりしたとか
同じ町にある工兵大隊とは仲が悪く、しょっちゅういざこざがあったとか
聞かされました。
ちなみに、母方の祖父は沖縄で整備兵やってて死にかけた体験をし、
叔父の養子先の祖父はシベリア抑留を経験しているという
ハードな体験をしてますが、その話はまた後日。
シベリア抑留経験者
>>360 いい話が多いからいい本になるとは思うが、裏の取れない話ばかりでしかも日本ではご法度の太平洋戦争記とあっては売り上げ見込めなさそう・・・・・・。
小林よしのりの力を借りて大きく取り上げてもらうなどすれば別だが、下手に思想が入った本にしちゃうのもスレ違いのような気がするしな。
>>361 コヴァはもうダメだと思いますよ。期待できない。
最近の言動見てたら。
でも、貴重な話が多いから、このままスレ落ちしたあとちょっと
もったいないかなと思いましたので。
本はあくまで仮定の話です。
363 :
日出づる処の名無し:2005/03/21(月) 19:23:40 ID:r/db7y6b
私の祖父は韓半島在住であったが
目が悪く兵役に就くことが出来なかった
しかし日本軍に入って虐殺やレイプしたかったので
目が良くなるように朝鮮人を殺して目をえぐって食べたらしい
364 :
日出づる処の名無し:2005/03/21(月) 19:33:13 ID:Z69BHkrU
>>298陸軍法務官は文官だよ、謂わば現代の検察官の役。
軍法会議議長(裁判長)も判士(裁判官)も兵科将校が臨時で勤める。
365 :
日出づる処の名無し:2005/03/21(月) 20:24:05 ID:WZetSEbZ
うちのじーちゃん(10年前に死亡)。10代の時に志願兵(?)として出兵。
どこに行ったなど詳しくは知らないが、米の捕虜になって米大陸に連れてかれたと。そこでコックやってたとこないだ法事の時聞いた。
その後無事帰国、農家の5男坊だったため婿に出される。
うちはじーちゃん両方とも婿。昔はそういう家多かったのかな?
ばーちゃんが元気な内にもっと色々聞いとこうと最近よく思う。
彼岸なので3連休、母方の祖母の家にお参りに行ってきた。
で、そっちのじいちゃんは南方に行っていたらしい。
本人はすでに死んでるので詳しいことはわからず。
帰ってきてからマラリアで高熱が出て大変だったって。
>>363 オマエが嘘を書いているのは判っているのだが一応言っとく。
書いているのは、オマエの爺さんのことだよな。それは、
日本人を貶めるまえに、オマエ自身を貶めているんだぞ。
判ってるか?
368 :
日出づる処の名無し:2005/03/22(火) 08:14:32 ID:Di292ioP
近所のじいさんはシベリアに抑留されてて、「シベリアは寒いな」って言ってたら、
ロシア兵に「日本は暖かいのか?」と聞かれ「日本は太陽が二つあるから暖かいぞ」と
冗談で返したら本気にされたとかw まあ、そのロシア兵もギャグでやってたのかも知れんけど。
一般庶民の教育程度はかなり低かったみたい。
無事帰国し、村に通じる坂道をテクテク登ってくるのを、当時小学生だった俺の親父が目撃したとさ。
369 :
日出づる処の名無し:2005/03/22(火) 08:16:46 ID:Di292ioP
訂正つーか付け足し。
ソ連の一般庶民の教育程度はかなり低かったみたい。
父母双方の祖父ともに公立小学校の教員。
教育者の動員はわりと後の方だったらしく、赤紙来たのは終戦間際。結局出征しなかった。
戦中は、成長した教え子がどんどん出征していって、戦死しただの、帰ってきたけど足失っただの
そんな話がどうしても耳に入ってきて、とにかくそれがつらかったとの事。
逆に、無事戻ってきて顔を見せに来てくれた時は本当に嬉しかったそうだ。
戦後も定年まで教員を続けたが、死ぬまで戦争についてどう教育されているのかが
気になっていたらしく、お盆帰省の度に我々孫世代を捕まえては、戦争についての
記事や論文を持ち出して読ませ、お前の本心からの感想や意見を述べよ!と議論を
吹っかけるので、少々煙たがられていたw 自分はそんな祖父が嫌いじゃなかった
から良く話したけど、祖父の思想ポジションは右でも左でもなかったように思う。
…あ、そういや日教組は毛嫌いしてたな。「政治活動より直接子供に力を注げ」と。
>320
イギリスは日本にだいぶやられたし、日本にやられたせいで植民地を失った。
日本をやっつけたアメリカに比べると、元イギリス軍人はかなり根に持っている。
また、ヨーロッパではナチスをやっつけた事を無条件に良い事とする都合上、
日本にも厳しい。
逆さ吊りの捕虜は、良く解釈すれば、なんらかの尋問だったのかもね。今とは
その辺の感覚が違うし、尋問の素人ほどそういう事をやりがちだ。
救命ボートとイカダは、ないものはないんだから仕方ないだろ。何もなく海に投げ
出されて亡くなってる方たちもいる訳で。
最後の強制労働については、注意が必要だ。
捕虜には人道的配慮をしなければならない−つまり飯を食わしてやる必要が
あるが、その代わりに強制的に労働を課す事は許されている。
食う分だけ働いてもらう、ってだけだ。
>333
単に信じるものが違っただけだ。
信じるもののために命をかけて戦うのは立派な事だよ。
>342
戦争は悪い事だし、平和になったのは良かった事だよ。
だが、時に戦争は起きるし、戦わなければならない時もある。
きっと、どちらも本心だったんじゃないかと思うよ。
>362
確かにすべて失われるかもしれないと思うと残念だね。
>365
農家の5男だと農地を分けてもらうのは無理でしょ?
反対に婿をもらう方は男手が必要だよね?
つまりそういう事さ。お互いのために良い事だよ。
>369
ソ連は貧しかったからな。帝政時代から苦労してるし。
日本みたいな国はまれだよ。
だからといってソ連人をフォローしようとも思わないんだが。
>>365 戦前は今と法律違うから基本的に長子相続。
当然婿の需要もあったわけです。
俺の爺さん長男だったのに親が病死して叔父&従姉妹に相続を持って行かれたらしい。
しょうがないから体一つで軍隊入り。
結構昇進したのだが敗戦で振り出しに戻る。
その後戦後復興の産業戦士として活躍。
人生いろいろだね。
>>373 それはそれは。
うちは電車の整備技師で何もなし。ただ広島だったので
原爆の衝撃波で家が倒壊したらしい。被害はそれだけ。
戦後6・7年後に広島市から功労(?)かなにかで表彰されたとの事。
主として戦争より復興でがんばったらしい。
一度軍事板に投下した奴を再利用www
俺の父方の祖父は戦時中満州にいて、戦場には出ていない。
戦後、シベリアに抑留され、その間ジャガイモばかり食わされていたということで、今でもジャガイモは食えない。
現地の古老が彼を屋上に連れて行ってこういった。
「あの立派で頑丈そうな建物は帝政時代に立てられ、あっちの今にも潰れそうなのは革命後のものだ。
だからあんたも、国に帰ったら共産主義なんか広めさせちゃいかんよ」
彼をもっとも悲しませたのは不味い食事でも日に日に倒れていく友人でもなく、ロシア人にへつらう情けない日本人の姿だった。
ヒトラーの亡霊がスターリンを批判する小説を書き独房にぶち込まれ、出てきたら
「このトロッキストが!」
と、トロッキーの名もろくに知らない日本人に囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けた。
ドイツ人は、
「次はイタリア抜きでやろう」
といいつつ、平気でヒトラーを讃える歌を歌っていた横で。
そして五年目に帰国。多くの日本人が代々木に入党しに行った。港で厚生省から千円(今で言うと10万円程度)もらったのに。
ロシアでは想像も出来なかったような美味いものをその金で存分に食えたのに。
やがて彼は教職につき、当然日教組と摩擦を作った。それが、彼の戦争の始まりだった。
一方母方の祖父は、瑞鶴に乗ってラバウルに行き、氷川丸で帰った。
ラバウルではごく標準的なパイロットだったらしい。
スコアは単独で8機、共同で18機。エースであることは間違いない。
ついでにいうと、俺がその数字を知ったのは、アメリカのサイトでだ。
ある日の出撃で彼は被弾した。気がつくと右手が吹っ飛んでいた。それでも左手一本で不時着し、麻酔なしで
腕を切断する手術を受けた。そして帰国。入院した病院の看護士が、俺の祖母だ。
退院後山形で教官になる。もしかしたら特攻隊を訓練していたのかもしれないが、それを聞く勇気はない。
幸いなことかどうかは知らないが、一人前になる前に戦争が終わった。戦後も彼らとの付き合いは続き、
今ではその教え子の訃報が届くようになった。
敗戦。進駐軍に没収されないように軍刀を故郷の北海道の山に埋めた。
バイク、囲碁、将棋、麻雀に没頭する遅い青春を謳歌した。弟はなぜか海上自衛隊の航空部隊に入った。
イラクに行く自衛隊について話したことがある。
「死んだら幾ら位でるんだ」
「一億だってさ」
「それなら安心だ。昔は名誉の戦死といっても、一銭も出なかったから」
エースとしての過去を根掘り葉掘り聞いてくる人が多かった中、彼はそんな思いを持っていたのだろう。
377 :
日出づる処の名無し:2005/03/29(火) 02:31:59 ID:Z29evGmr
イラクで死ぬと1億もらえるのか・・・
1億欲しそうだな。貰っても使えないぞ。死んでるから。
379 :
日出づる処の名無し:2005/03/30(水) 18:12:11 ID:JiI9aDeG
祖父に戦時中は大変でしたかと尋ねたが
祖父は戦時中は愉快であったと言っていた
私は不思議に思いその訳を尋ねたところ
戦時中は韓半島で虐殺や略奪やレイプし放題で
祖父は思う存分朝鮮人民をレイプして虐殺して財産を略奪したと言う
裸一貫で韓半島に渡った祖父はわずか一年で一億円の財産を作ったらしい
又大日本が韓半島を支配したら私も朝鮮人民を虐殺して財産を略奪したいです
380 :
日出づる処の名無し:2005/03/30(水) 18:24:39 ID:+vx6iG30
うちのじいちゃんは陸軍の航空隊で整備やってたとか。
うちのばあちゃんはアメ公の飛行機に殺されかけたとか。
381 :
日出づる処の名無し:2005/03/30(水) 18:30:20 ID:MgEccbLw
空軍(海軍所属)だったみたいですね。
重慶とかアメリカとか爆撃してたらしい。
勲章持ってましたよ。
382 :
日出づる処の名無し:2005/03/30(水) 19:19:55 ID:2XTQAouT
〜九七式中戦車「チハ」〜
___
|--∞-| ← これ俺のじいちゃん
(Y・∀・)つ
─┬=====┬─┬─┬
ヽ┴-----┴ 、/_ /
. ==||:|: :|: 「r-┴──o
____________ |:|:__ :|: ||--┬┘ ̄
|ミ/// / ~~|ミ|丘百~((==___
.└┼-┴─┴───┴──┐~~'''''-ゝ-┤
((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三)
ゝ(◎)(◎)(◎)(◎) (◎)ノ三ノ──ノ三ノ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
383 :
日出づる処の名無し:2005/03/31(木) 18:51:29 ID:du0HhlPK
>>381 過去レスでも既出だが、1945以前の日本に空軍はありません
海軍航空隊でしょうね
重慶爆撃では九六式陸上攻撃機が有名です
>>379 韓半島・・・?
そんなところ、地球上に存在しないぞwww
細かい事は解らんが、
俺の死んだ爺ちゃんは終戦時、陸軍中佐で満州の何処かの司令部にいたらしい。
なんか通信か暗号(?)を担当していたらしい。
若い頃、中国の何処かの川で渡河中に敵の攻撃を受け、しかも泳いでる途中に肩と太ももを撃ち抜かれたらしい。
生前足は普通(?)だったが、腕は確かに不自由だったね…よく生きていたもんだよ。
火葬したとき、太もも付近から小さく、とがった金属塊が出てきて、驚いた想い出がある。
まあ、爺ちゃんが生き延びてくれたおかげで今の俺がある訳だが…
そして本当かどうか解らんが(爺ちゃんが言ってたから多分本当かも?)終戦の半年前に、
陸軍の双発爆撃機(機種は不明)便乗して、岐阜の各務ヶ原(?)に帰還。最後は北海道に転属されて終戦。
今だに爺ちゃんの形見の軍刀残ってるよ。
↑
誤× 太もも撃ち抜かれたらしい
正〇 太ももを撃たれたそうな。
スマヌ、書き間違えた。
韓半島と言った時点で在日じゃねぇか。
日本人なら朝鮮半島という。
自分も負傷
兄貴戦死で酒が手放せないようでした
390 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 02:32:05 ID:Vg0tHozv
在の芳しいレスは華麗にスルーが基本
父方は、中国で戦ったそうだ。
母方は、鹿児島で終戦を迎えたそうだが
その時の部下は自分の子供ぐらいの歳の子が
多かったといってた。
それで解散する時、鍋とかの物資を
その子らに持って帰らせたとさ。
あと、知り合いのじい様は、長崎の原爆投下時
壕内工場で働いてて、惨状の中を歩いて脱出したそうだ。
後に被爆の後遺症か皮膚病で苦労したらしい。
392 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 11:23:49 ID:41OOGMIG
父方の爺ちゃんは陸軍で兵隊をしており、満州で馬に乗っている軍服姿の写真を、小さいときに
見せてもらったことがある。
いわゆる「日本の名誉回復」には消極的だった記憶がある。
いまのオレは典型的なコヴァだけど、爺ちゃんには爺ちゃんの人生経験があったわけで、それに
立脚した爺ちゃんの生き方は否定できない。そんなことしたら神の視座から祖先を断罪するバカサヨ
と同じレベルに堕してしまう。
「爺ちゃんには爺ちゃんなりの視点があった」ということは忘れてはならないと思う。
393 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 11:26:39 ID:K72MKAt8
オレの親父の父は、群馬で八百屋をずっとやってて
母親の父は千葉で漁業やってたけど海軍に行ってエンジニアやってたと
394 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 11:32:23 ID:RIc2E7rI
うちのじじいは大鳳とかいう船に乗っておったそうだ。
マリアナ海溝で沈んだそうだがなぜか生きている。
>>394 スゲエ!!
初陣で撃沈した伝説の空母だ!!
396 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 12:07:44 ID:BiomJZ2/
陸軍軍曹。南支を転戦する間、自分の部下の面子が二順しちゃったそうだ。
自分も手榴弾の破片で頭蓋骨が変形する重症、太股にも銃弾が姦通した痕
がある。戦後は大工をしながら戦争孤児になってた兄の息子(我がオヤジ)
を拾って育てた。一男二女で末の娘だけ実子。
今は杖がなきゃ歩けない、時代小説だけが楽しみな爺さん。
397 :
日出づる処の名無し:2005/04/09(土) 12:38:51 ID:tVvx0HsI
国家の生命線、炭鉱技術者だったじいちゃん・・・
その仕事の重要性からずっと兵役を免除されてたけど、終戦2週間前になってついに召集された。
炭鉱労働者が次々に召集されていく中で、なんで技術者だけが・・・という批判が高まっていたらしい。
ま、結局、訓練だけで済んだわけだが。
うちの爺ちゃんは佐世保で艦船の修理をしてた。艦首のちぎれた駆逐艦が応急処理の板を張り付けたまま入港してきた事もあったそうな。
じいちゃんは船を作っていたから召集されなかったが
祖父ちゃんの長男(つまりおじさん)は召集されたが
すぐに終戦したから乗ってきた列車で帰ってしまった。
>>398 佐世保で艦首切断入港の駆逐艦っていうと、凉月かな。
父親の方の爺さんは台湾で水道工事(井戸掘り?)をしてたらしい
仏壇に爺さんが台湾から持って帰ってきたと言われている写真もたくさんあったけど
この間婆さんが死んだ時に全部焼いた
結構、興味深い写真があったんで、欲しかったんだけど、周りの親戚が「気持ち悪いから焼いちゃおう」と言ってるのに「くれ」とも言えなかった
(何とか大将って書いたえらそうな軍人の写真とか、山と積んだ頭蓋骨の前で偉そうに軍人が立ってるのとか・・・)
この写真、子供の頃に見たときはその日の夜夢に見て眠れなくなったんだよな・・・
402 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 17:13:16 ID:AC024CkB
うちの祖父は韓半島で半島人を・・・
という電波はともかく、うちの祖父はどこかの航空基地で学校で言う給食当番
みたいなのをやってたようです。
そこが攻撃された時、祖父は戦闘機に追いかけられたと祖父が(笑いながら)言ってました。
その後は捕虜になったかどうかは分かりませんがちゃんと生還、去年の夏に亡くなりました。
403 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 17:14:56 ID:7kHKB7zv
ウチのじいちゃんは元赤軍派
ご愁傷様です
405 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 17:15:50 ID:IeZEUfTc
ウチのじいさんは満州開拓士で大陸にいて
露助シバきに行ったよ。
406 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 17:23:31 ID:KOfa5ti9
金鵄勲章ってのがうちにあるんだけどさ。
勲七等等八級とかなんとかかいてあったよーな・・・すごいんか?
よーわからんけど天皇陛下にモラタ。っていってますた。
去年の夏しんじゃったけどなー。
407 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 17:59:50 ID:KOfa5ti9
功七級だった。
あとなんか盃もでてきたぞ、なんだこれ。
亡くなった祖父は南方の島に行ってた事しかわからん。
昔から家族にも戦争中の話は全然しなかったらしく、
「なんか辛いから思い出したくないみたい」と親が言ってたので
聞いちゃいけないのかなと思って一度も聞かなかった。
南方って激戦地が多い気がするけどどこ行ってたんだろう。気になる。
409 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 18:22:17 ID:YkyP1PCn
高校時代の英語の先生ノンちゃん(本人がそう呼べと)は特攻隊だった。
訓練が終わって北海道に配属されたら、新米が乗る飛行機は無く、
特攻隊に志願すれば飛行機に乗れるって事で志願して、トンボ帰りで東京に。
そして、到着したら終戦・・・・ただ、基地内は「終わらせない」って雰囲気だったらしく
しばらく立て篭もってたら、高松宮が「やめれ」って説得したので泣く泣く止めたと言ってたよ。
その後ノンちゃんは先生になるんだけど、俺の高校に来る前に校長してたヤンキー女子高を
すっかりマジメな学校に変えちゃった有名な先生だった。
うちも夏場はパンツいっちょで授業受けてるようなロクでもない男子校だったんだけど、
ノンちゃんはいつも黒板をビシッ!と叩いて、「そんなんで特攻隊になれるか!」とか叫んでた。
俺はノンちゃんが好きだったから、パンツいっちょでシビれてたなぁ。
>>402 俺の爺ちゃんは、その電波の言う韓半島、つまり朝鮮半島に居ましたよ。
日本人ですが、半島の大田という所で瓦屋を営んでいた家(もともと、香川に店を構えていた)に
大正14年に生まれ、日韓両国語をマスターしていました。中等学校は日本の学校を出ましたが、
軍隊生活に入ってからは、韓国語を理解していることからか、再び大田に戻り、現地の歩兵連隊に所属。
軍では速射砲(歩兵砲)の砲手として、少尉まで昇進。小隊長をしていたとのこと。
少尉任官前、甲種幹部候補生に合格したのですが、かたや不合格となり軍曹に昇進した人たちは、
皆レイテ島に・・・。そう、玉砕です。じいちゃん、合格してくれてありがとう。でなきゃ、俺いないよ。
このことについて爺ちゃんは生前、「合格するには、やはり勉強が必要だったが、普通に規則どおり1日を過ごしたら、
就寝時間までに勉強する時間なんて殆ど無かった。だからわしは消灯語に、便所にこもってそこの裸電球で勉強した。
おかげで、若い頃から乱視になってしまった。」とのこと。結局、戦闘地域に行くことはありませんでした。
あと、戦争終わってからも、職場に行くときは軍隊で使ってた飯ごうを弁当箱にして持っていってたそうです。。
現物を見せてもらったことがあるのですが、あれは結構便利よさそうだった(中蓋があり、それにおかずを入れることが出来た)。
鬼籍に入ったのは15年前ですが、臨終のころには、半島からたくさんの朝鮮人の友達が見舞いに来ました。
じいちゃんは、生前こう語っていました「何で朝鮮人はこんなになったんだ。あの頃は、みんな仲良くやってたのに。
でも、やっぱり俺は朝鮮と朝鮮人が好きだ」と。
更に、俺が学校で受けた偏向教育(慰安婦、連行、創氏改名)を話すと「そんなことはありえない」と。
411 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 18:39:27 ID:On9Sw84d
うちの爺さんは人間魚雷でした。広島の陸軍の暁部隊に所属していて、
陸軍のちゃっちい潜水艇に乗っていたとか。これから出陣という時に原爆に
あったそうだ。例の黒い雨を浴びてしまい被爆しました。
その後広島市内に入り、死体処理やケガを負った人達の世話をしている間に
自分も倒れてしまい、原爆病院に2年厄介になったようです。
今でも被爆の影響があるのかしらんが、爺さんは手術の時全身麻酔ができない。
自分は被爆三世ですが異常は今のところなさそうです。長文ですまん。
412 :
日出づる処の名無し:2005/04/11(月) 18:43:44 ID:rGDbAm8M
うちの爺さんは重巡足柄に乗ってロンドンに行ったらしい
うちの爺様はシンガポールで美味しい果物食ったって言ってた。
>>410 うちの親父は戦後直後の生まれ。いわゆる団塊世代。
西日本の片田舎で育ったらしいが、中国人や韓国人がごく普通のお隣さんだったそうです。
特に何もかわらんよ。ということらしい。
ちなみ今、差別差別と言いまくる連中を軽蔑してます。
特に日本人の方を。
関東生まれの私には良くわからん話し。
祖父は戦前から三菱長崎で働いてた。腕利きの造船工だったらしいよ。
戦時中3回も召集令状が来たのに海軍が掛け合って全て撤回させた事があったとか。
片っ端から造船工を召集されると海軍は困ると説得したらしいんだ。
こんなケースは余りないんじゃないのかなあ?
でもね、祖父は召集されずによかったなんて一言も言わなかったな。
ご承知のように長崎は核攻撃を受けましたからね。
同僚の殆どは瞬時に死亡、祖父も危うく死ぬとこだった。
召集されて戦地へ行った方がマシだったかもしれんと晩年ポツリと呟いてた。
ガンで亡くなったけど被爆の影響があったんじゃないかとうちの家族は疑ってる。
418 :
日出づる処の名無し:2005/04/12(火) 17:19:32 ID:AS2iPJeM
>416
現女王の父君の戴冠式に派遣されたらしい
うちの爺ちゃんは築地の生まれ。
銀座通りで行われたヒットラー・ユーゲントの行進を見たそうです。
すげえカッコよかったそうです。
母方の祖父
真珠湾攻撃に参加していたといっていた。
船か何かの乗組員で通信兵?をしていたと聞いたことがある。
印象的なのは戦争の話をしてくれた時に「日本が負けたのは無計画な戦線拡大と暗号が解読されたせいだ」といっていたことかな?
現在89歳でいまだ車の運転するぐらい元気ですw
今年の夏靖国神社は少し遠いので近所の護国神社に一緒にいってこようと思っています。
父方の祖父
東京医科歯科大学の前身の学校の歯科の方通ってたらしくちょうど2.26事件の時に講義を受けていたらしく放送で知った とかいってたな。
しかも銃弾がとんでこないように壁際で授業受けていたとかいってた。
そのあと赤紙きたらしいが歯医者だから特別あつかいされずに2等兵で出兵したっていってたらしく本人は不満がってたと祖母が話してた。
その後大陸の寒くも暑くもないちょうどいい温度のところで機関銃の整備みたいな仕事してたとか言ってた。
終戦後は別になにもなかったのごとく帰ってきて祖母を驚かしたそうだw
なんも怪我もしなかったので国からお金がもらえないと笑いながら話していたのが一番印象に残ってるかな?
その祖父も今年の3月に他界しもう話を聞けないのが残念で仕方ないです。
>>420 >現在89歳でいまだ車の運転するぐらい元気ですw
孝行してあげてください。機会をつくって、真珠湾当時の詳しい話
なんかもヨロシク。
家のじいさんが言ってたわ。
シナ人は自分の良い様に話を持っていくのがうまい、
朝鮮人はいくらでも嘘をつくって。
424 :
日出づる処の名無し:2005/04/13(水) 22:44:09 ID:TQgUVgqk
>>421 長文&変な文法なのによんでくれてありがとうございます。
>>孝行してあげてください。機会をつくって、真珠湾当時の詳しい話
なんかもヨロシク。
近いうちに遊びに行こうと思っているのでそのときにでも聞いてみたいと思います。
また時間があれば書かせていただきますのでそのときはよろしくお願いします。
426 :
日出づる処の名無し:2005/04/13(水) 22:57:01 ID:M4cTny+5
爺さんが(満州駐留?・陸軍)言ってたけど敗戦当時の中国人の変わりようが凄かったって言ってた。
親戚の叔父はい号作戦中?(現ミャンマー・陸軍)病死したらしい
427 :
日出づる処の名無し:2005/04/13(水) 23:08:56 ID:dQrovbQo
国内警備の騎馬兵
親父から聞いた話だが、うちの祖父は陸軍で台湾に終戦まで居たらしい。
内地帰還から数年後、病死。(騎馬兵だったが、階級は不明)
うちの婆さんは痴呆ではないが、戦争の記憶は愚か、自分の旦那の記憶も
忘れてやがる…。
429 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 09:25:30 ID:pjlvbQba
俺のおじいちゃんはロシアで捕虜になったとかいってたな〜
詳しくは知らんが
430 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 09:35:04 ID:NKKqDvpT
こないだ横井少尉が日本に帰ってきたときのVTRを見て「恥ずかしながら生きながらえて
おりました。」っていったのはよかったが、結婚してグアムに行きアロハ着てサングラスして
「わしゃ長いことこんなところにいて損した。」っていったときは正直がくーんだったなあ。
431 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 09:39:51 ID:W36f314U
うちのおじいちゃんはせん後の生まれです…というのは嘘。
父方の爺さんは国民学校出て国鉄職員。終戦時16歳。その兄は軍楽隊だった
けれども、開戦直前に転科させられてマレー作戦に従軍、戦死。
母方の爺さんは何も語ることなく逝ってしまわれた。
432 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 10:10:41 ID:v5TUk6bX
怪我して戦場から帰ってきた事は聞いた
上官が部下を殴るときに靴を使ってたとかも聞いたな
433 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 10:39:57 ID:xUPRPBwT
ぅちのお爺ちゃん、海軍でセーラー姿が似合ってる。おまけにハーフみたぃだからかっちょぃぃょ。
今思い出しても吐き気がするが、2ちゃんねるなどのVIP掲示板では、高遠さんら人質への悪質な
誹謗中傷だけに留まらず、人質が殺されるのを楽しみにしているかのような書き込みがあふれていた。
犯行グループの声明で「三日以内に自衛隊を撤退させないのなら人質を生きたまま焼き殺す」と
あったことに関連して、「バーベキューま〜だ〜?」というような書き込みも多く見られたが、
こうしたことを書き込むVIP住民が一体どういう神経をしているのか全く理解に苦しむ。ネットで
罵詈雑言を書き散らすだけでは飽き足らないのか、解放を願う3人の家族の下には、「死ね」
「自業自得」等というような電話やFAXが殺到した。
人質事件発生直後から、私やNPO法人PEACE ON代表の相澤恭行さんの依頼で、何人ものイラク人が
人質の解放のために動いてくれたのだが、彼らにバッシングのことを伝えたら「信じられない…
VIPPERはなんて冷たいんだ」と絶句していた。正に「国辱」ものである。
http://reishiva.exblog.jp/2502511/
特攻帰りです。その後近鉄で電車の運転手を
436 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 11:03:38 ID:cljyZhzb
その昔、30年ほど前だろうか。
確か「バトルフィールド」ってアメリカ製TV番組
があったなあ。例の「コンバット」放映期の前。
日米の干戈を交えた兵士同士が、どこでどう戦った
のかを忠実に追ったドキュメント番組。番組の最後に
兵士同士が握手して、友好を誓い合った優れもんだった。
日本製番組で「戦友」ってのもあったなあ。覚えてる人
いる?
437 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 11:31:19 ID:LDknkog1
俺のじいちゃんのいた分隊、南洋のどっかの島で陣地構築で
ぐったり疲れて寝入って→分隊長以下そのまま捕虜収容所。
じいちゃんが鉄砲撃ったのは、戦地に行く前だけだったらしい。
438 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 11:38:42 ID:VakJGoIX
>>437 同じ捕虜でも、シベリアじゃなくて良かったなぁ。
440 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 15:43:35 ID:/PnBlDKB
俺の祖父の従兄弟は捕虜としてシベリアに抑留された。
端整な若者だったが、終戦後数年してやっと帰国した時には
「誰だかわからん位顔が腫れ上がってジャガイモみたいにボコボコ」だった。
と爺さんが言ってた。
441 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 15:48:23 ID:rLx687HF BE:40505933-
家の祖父さん(父方+母方)は国内組
442 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 16:50:53 ID:oavdXl6J
うちの爺さんは満州でふくらはぎに流れ弾くらって、「足がもげたかと思ったわぃ」とか言いながら傷跡を見せてくれた。
あと終戦したことを上官に報告に行ったら、上官は「そうか…」とだけ言ってご飯を食わせてくれたらしい。
戦争に行ってなかったら原爆で死んでるようなとこに住んでたからある意味幸運だったとか、なんとか。
ばあちゃんも軍需工場に動員された話を良くしてくれた。空襲の時の避難方法とか。
せっかく修理した戦闘機が空襲で大破炎上した時の話や、
陸軍より海軍のお兄さんの方が格好よくて、憧れてたって話も面白かった。
今は当時から考えると夢のような暮らしが出来て幸せだ、と何度も言われたよ。
うちのばーちゃん、滋賀の田舎だけど一度、アメ公の戦闘機が飛んできたことがあるらしい。
年端もいかぬ姉弟、田んぼの畦を走って逃げたが銃撃されたって言ってた。
無抵抗の子供に打つんだよ、空から。当たって死んでりゃ虐殺だわ。俺もこの世にいないな。
死んだジーチャンは海軍の少年なんとか。鹿児島にいたらしい。鹿野谷?よく知らん。忘れた。
食事係をやってて(2名ここへ!っていわれたら何をさておき飛んでいかねばならんらしい−それでその係)、特攻兵の最後の晩餐の給仕をやってたそう。
なんだかんだと言っても皆(特攻兵)食欲無くて当時にしてはすんげーごちそうが一杯残る。
あんこの山だとか牛タンだとかあったって聞いた。
そんなのをちょろまかして上官に献上してたって。もちろんルンルン兵隊生活。
非国民だな。orz
終戦は長崎にとんでもない爆弾が落ちたとかでここも危ないって噂で必死で汽車にしがみついて帰ってきたとか言ってたな。
ばーちゃんの兄はどっか南方の戦地(忘れた)で後頭部に銃弾が命中したがヘルメットの中を銃弾がするりと回って前の兵隊の背中に当たってその人は即死だったそうな。後頭部にハゲがあって何時でも見せてくれた。
へ、ヘルメットを…なんだって?
どういう現象なのか誰か説明してくれ
ヘルメットの後頭部に弾が当たったけど、
運が良くて、彼のお爺さんは助かったんだわな。
で、それと、ほぼ同時に、
自分の前にいた戦友が、
背中に弾を受けて死んだわけだ。
その二つに関連があるか分からないけど、
彼のお爺さんは、自分のヘルメットにあたった弾が、
前にいた戦友にあたっちまったんだと、
理解したんだろうね。
まあ戦場じゃ、いろんな偶然(弾が、
胸ポケットのジッポーに当たったりとか)が起きるらしいから、
そういうことがあっても、不思議じゃないけど。
>443
非国民とか言ってやるなよ。
ただ、その日、その日を一生懸命に生きただけだろう。
その頃はまだ子供だったんだろうしな。
もう少し戦争が長引いてたら、戦地で亡くなってたかもしれないんだから。
なんか大尉までのぼって自分の父ぐらいの年の兵を、横須賀で訓練したらしい。
終戦後、じいさんの訓練を受けた連中が同窓会(?)に招いたが、
「自分の父ぐらいの年の人を訓練するのは気が進まなかった。海軍はもう嫌」と断ったらしい。
448 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 19:53:19 ID:FrVwmv0G
俺の本当の爺ちゃんは特攻隊だった
残された幼い頃のオヤジは養子になった
若死にしてまあ、徴兵の軍歴だけだ。
450 :
発掘屋Q2w9qXIE ◆KoFun.M6Z. :2005/04/14(木) 22:37:02 ID:W6GSE4sS
おれの実の爺さんは
>>322で語ったが、
母方の祖父は、沖縄で整備兵やってて、
米軍の戦闘機に追いかけられて、小学校の校庭を逃げ回ったそうです。
で、転んだ直後に機銃掃射されて、銃弾が頭の横と腰をかすめたそうです。
叔父の養子先の祖父は、シベリア抑留されました。
帰ってきた人の中には、真っ赤に染まった人も多かったようですが、
爺さんは死ぬまでロシア(旧ソ連)を恨み続けていました。
>>436 似たような話して、
昔テレビでやってた、硫黄島の日米合同慰霊祭は
感動物でした。
451 :
日出づる処の名無し:2005/04/14(木) 22:46:33 ID:UQeKxiac
某中部地方で訓練中、どちらかの脚を撃ち抜かれて
結局出征しなかった、と聞いたことがあるな
ダライラマ14世の言葉
「全体主義の中で情報の自由がない状況は困難を生み出し、複雑な状況
を作り出す。開かれた社会ではない状況下で、様々な問題が生じている」
454 :
日出づる処の名無し:2005/04/15(金) 00:21:40 ID:udM4mqmg
うちの爺ちゃんは、出兵してないが、兄弟はいろいろあった。
南方への補給船の乗組員で、潜水艦に沈められて、島で玉砕。
朝鮮半島にいってた人(民間人)で、いまの北朝鮮との国境付近から
南の港まで歩いたとの話とか聞いたことがある。
15年位前に、小学校の宿題で「戦争の話を聞こう」とかいうのがあって
じいちゃんに話聞いたら、ウチの実家は群馬にあんだけど、当時群馬にあった
中島重工?で飛行機?の整備をやってたそうだ。
だいぶ昔に聞いた話だし、本当かどうかは分からんが。
うちの爺ちゃんはスマトラに行ってたみたいだ。その前は中国。
左足に3箇所くらい撃たれた後が残ってた。
>>426 >敗戦当時の中国人の変わりようが凄かったって言ってた。
それは、満州で女中をしていたウチのばあちゃんも言ってた。
ばあちゃんは、鞍山という製鉄が盛んな所に住んでいたのだが、
敗戦後、日本人が支那人に木刀でリンチにあってるのを何回も見たと。
そのかわり、ばあちゃんとかの女性は襲われなかったそうです。
俺の爺ちゃん、第百八師団の歩兵第五十二連隊で分隊長をやってた。
足撃たれたからまともに歩けないけど、数年前にパソコン習ってメール始めたりして元気だ。
>>410です。爺ちゃんについては語りましたが、父方のばあちゃんのお兄さんと、
その親父さん(つまり、俺から見ると曾爺さん)について、今日話を聞いてきますた。
お兄さんは、関東軍の幹部候補生で伍長だったそうですが、
昭和19年、25歳の若さで結核で亡くなったそうです。
内地には帰らず、満州で亡くなったとか。ちなみに、戦闘経験は無し。
今日が命日でしたので、ばあちゃんと一緒に墓参りに行ってきました。
曾爺ちゃんは明治時代の海軍で、士官だったそうです。
巡洋艦「生駒」の乗組員で、世界中の海に行ったとか。こちらも、戦闘経験無し。
隣の家に95歳の元気な爺ちゃんがいるので、
その人に今度は話を聞いてみたいです。
>>459 なんか凄い環境だなw
ご健在でおられるうちにお話を窺ってきて下さい。
461 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 02:40:03 ID:FvLOczDv
あげ
戦時中の話はダークで書きしろがない
463 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 02:59:11 ID:38AZ49Tm
満州で飯作ってたらしい、みんなでキャンプ行った時の手際がすばらしかった
10年前に85で亡くなったが、戦争の話はあまり聞いていなが、
中国で軍馬の世話などをしていたらしい。
渡河のとき馬が暴れないようにするのが大変だった、と話してたのは覚えている。
遺品の中に中国で撮った写真もあり、ガスマスクをした馬の写真は怖かった。
10代の私がモロに進歩的反日かぶれで「自衛隊反対」「日本は被害者面しているが、
きちんと軍国主義と侵略の加害者としての自覚はあるのか?」
「北方領土なんて戦争のドサクサでどうしようもない。だいたい日本が
メチャメチャやったのにどの面下げて島返せなの?」
という状況だったので、あまり話さなかったのかもしれない。
ジイちゃんたちがやってきたことを悪いと肯定するのはいやだなぁ。
ジイちゃんたちが頑張ったから今の日本があるわけだし。
そんなうちのじいちゃんは明治40年生まれで
戦争中も工場で何かを作っていたらしい。
分家の長男は陸軍に所属し、21で亡くなった。(とお墓に刻まれていた)
分家の人はもういないので詳しい話が聞けなくて残念。
466 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 23:27:21 ID:8C/PYjlz
祖父母の実家には満州鉄道の写真(機関車)と歌が飾ってあった。
祖父は大学卒業後、満州鉄道の幹部候補生として採用されたらしい。
当時の満鉄幹部候補生はT大ばっかりの中で祖父だけ地方の旧帝大だったそうだ。
(祖父は柔道の全国大会で優勝していたので、体育会系として
重宝されたのかもしれん。それでも私より高学歴だが。)
35歳の時点で、中国の満鉄地方支部(ホウテンだったか長春だったかは
うろおぼえ。)で工場長だったらしい。
当時子供だった親曰く、夏は涼しく、冬はセントラルヒーティングで快適だったそうな。
近所の凍った湖でスケートをエンジョイした、とか言っていた。
中国人のお手伝いさんが10人くらい住みこんでいて、
同じ飯を食べてた記憶があるといっていた。
祖父は、「ラストエンペラー」で陰謀を企む坂本龍一演じる甘粕大尉という人と
面識は有ったらしい。ただし祖父の知る限り甘粕氏は映画関係の仕事がメインで、
満州国の皇帝に陰謀しかけるほどDarkでDeepな役割という認識ではなかったそう。
祖父は、インフラ系の若手官僚なので満州の政治の裏舞台までは知らない。
その後、敗戦で帰国。国鉄の幹部として働く話があったらしい。
ただ、農地改革で不在地主は土地没収される、ということで地元に帰って農家になった。
その後、在村地主であっても土地没収ということで土地あぼーん。
祖父はその後、中学の教師(数学)になり、農業と兼業で糊口をしのいだらしい。
一切自慢とか、昔を栄華をひけらかすようなことはしなかった。
質素で寡黙で頑固なじいさんだった。毎朝マラソンと
乾布摩擦wを欠かさなかったな。
一時、反日思想に染まっていたのであまり話を聞き出さなかったけど、
もっと生きている間に聞いとけば良かったよ。もっと知りたかった。
母方、父方のじいさま、両方とも体格が悪くて(結核だったのかも)終戦間際まで呼ばれなかったそうだ。
父方のじいさまは終戦後に軍の事務局?に行ってみたら「もう戦争終わったからいいよ・・・」って言われたらしい
ひいじいさまは日露戦争に行ったようだけど、詳細はよくわからない
468 :
466:2005/04/17(日) 23:36:01 ID:8C/PYjlz
>一時、反日思想に染まっていたのであまり話を聞き出さなかったけど、
私が、反日思想に染まってた、ってことです。中学のころですが。
恥ずかしい。
469 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 23:46:16 ID:z9hhZI/z
父方のじさまは信太山の第4砲兵連隊で迫撃砲だか何だかの訓練やってたらしい。
満州にも行ったことがあり、写真も見せてもらったが信じられないような厚着で
写っていた。(40センチ位あるんじゃないかという靴が印象的)
徴兵されて行ったはずだが最終階級は「曹長」で、下士官では最高だと自慢してた。
母方のほうは商売やってて算盤が達者で、「明石」とかいう船(艦種不明)に
乗り組んで航路計算をやらされていたとのこと。なぜか詳しく話したがらなかった。
今は双方とも故人。
470 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 23:46:30 ID:spwqJeY+
「日本はなぜ敗れるのか − 敗因21箇条」山本七平
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかったこと。然るに作戦その他で兵に要求されることは総て精兵でなければ
出来ない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でも出来る作戦をやってきた。
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった。
三、日本の不合理性、米国の合理性
四、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力無し)
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する。
七、基礎科学の研究をしなかった事
八、電波兵器の劣等(物理学貧弱)
471 :
日出づる処の名無し:2005/04/17(日) 23:50:09 ID:spwqJeY+
「日本はなぜ敗れるのか − 敗因21箇条」山本七平
九、克己心の欠如
一〇、反省力無きこと
一一、個人としての修養をしていないこと
一二、陸海軍の不協力
一三、独りよがりで同情心が無い事
一四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついたこと
一五、バシー海峡の損害と戦意喪失
一六、思想的に徹底したものがなかったこと
一七、国民が戦いに厭きていた
一八、日本文化の確立無き為
一九、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
二〇、日本文化に普遍性無き為
二一、指導者に生物学的常識が無かったこと
軍隊の上司に殺された。[…カモシレナイ]
父方の爺ちゃんは、2回戦争に駆り出されたが無事に帰ってきた。
戦場では、右翼が言っているような理想は通らんとつぶやいてたよ。
まぁ、世間で言われているような残虐な行為もあったらしい。
でも生き延びるため仕方なかったとも言っていた。
その爺ちゃんの兄は今でも現役バリバリの右翼活動家。
今も当時の理想を唱えてる。弟が何を言っても
皇軍がそんなことをしたというのを認めようとしない。
一方、母方の爺ちゃんは戦地で病死。
婆ちゃんは、非人間的なことをさせられる戦争で
病死などという人間らしい死に方で良かったと言っていた。
474 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 00:11:34 ID:Yjq0r8Cw
>>473 1億人(当時は1億人いなかったが)いればどんな人間だっていますからね。
「戦場における『人殺し』の心理学」によれば80%の人間が対人発砲できないという。
残り20%の内、5%の人間は殺人を愉しみ、罪悪感を覚えないという。
この手の人間は生まれながらの殺人鬼であり犯罪者だが、筆者の考えでは人間に対する
共感を持っているならば優秀な警官、特殊部隊隊員になれるとも。
虐殺をした人間は居る。必ず居る。そいつは間違いなく戦争犯罪者だ。
しかし大半の人間にはそれは出来なかった、ということも事実の筈だ。
あらゆる戦争が示しているように。
うちの爺ちゃん近衛兵やってたとか言ってた。
南方の島でドンパチやってマラリアにかかったとも言ってた。
けど近衛兵がそんなとこ行ったんだろうか…?
今、高齢で病に伏せてるからそんなことも聞けないが。
476 :
愛国坊や:2005/04/18(月) 00:20:56 ID:bMxQqDFh
艦隊参謀やってた。
477 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 00:22:41 ID:QVVzfZeT
じーちゃん 教育者。
B戦犯 で訴追も無罪になったらしい。
478 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 00:22:50 ID:Yjq0r8Cw
>>475 本土決戦戦力として本土に温存されていない限りは南方に送られた。
しかし南方に到着できれば未だマシで、「日本は何故敗れるのか」に有るようにバシー海峡で
すし詰めの劣悪な低速輸送船の中で米潜水艦の雷撃により僅か15秒間で沈み3,000名が
死亡していくという殺戮が無意味に繰り返されていた。
コレに対する大本営の対策は皆無だった。ただただ無為に兵士を死亡させていった。
そして南方に着いても銃は無い。食料も無い。ただ、餓死するのみだ。
精神主義で全く補給・兵站を考慮しない、作戦立案能力に欠如した大本営の命令で無為に日本兵士は
死んでいった。
南方の島に辿り着けて、ドンパチ出来て、そして生きて帰って高齢まで生きながらえ、孫がインターネット
してるんだから随分と恵まれているんじゃないか?オレの爺はブーゲンビルで死んだよ。遺品も遺骨も
全く何もない。
479 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 00:28:40 ID:xEHufs7A
あちきの
父方の爺ちゃんは終戦間際に徴兵されて、戦地に行く船が沈んで
そのまま還らぬ人となったとか。
地元の神社のまとめ役やってた人だから、戦地に出る前に死ねて
それはそれで良かったのかもしれない……
481 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 00:34:50 ID:xEHufs7A
僕のじいちゃんのpapaは、たどり着く前にやられたそうです。 無念。
よく知らんが陸軍らしい。ゆかりの日本刀がある。
生きて帰ってきたけど俺が生まれる前に病死
うちのじいちゃんは戦争には行かなかったが、軍の要請でケシを栽培していたそうだ。えらく儲かったらしい。
484 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 01:05:14 ID:LC7g0eWl
うちの爺さまはシベリアで捕まってた。
で、終戦間際だったかに、病気とか怪我の人間は内地に帰れるってチャンス
があって、うちの爺さまは超元気だったんだけど、
何日か飲まず食わずで通して、死ぬ寸前って演技をして面接官
みたいなやつを騙して内地に帰ってきたことをしょっちゅう自慢してた。
それとロシア人の呼び名は「露助」がデフォだった。
485 :
484:2005/04/18(月) 01:15:22 ID:LC7g0eWl
それと、シベリアに抑留される前の軍属だった時は、部下のことを
人を人と思わない上官がいたらしくて、その上官のお茶とかに糞とか
小便混ぜてストレス発散してたらしい。
486 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 01:25:50 ID:2yU0mX4E
たおれちゃならない、祖国の土に
たどり着くまで、その日まで…
487 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 01:29:26 ID:l6XJbxQk
輸送船に乗ってました。フィリピン沖で撃沈、そのまま海の藻屑に・・・。
ただ、後に中共の治めることになるクソみたいな大陸や、あのおぞましい半島に
眠る羽目にならずに済んだだけ、マシだったのかもしれません。
488 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 01:30:23 ID:zwmZjG20
うちの伯父さん(故人)は大陸で戦ってた。
最前線では無かったようだが、それなりの戦闘は経験してきたらしい。
おれが子供だったせいもあるだろうけど、あまり色々話してはくれなかったな、
あってもただ淡々と部隊内で経験した生活はこうだったよ、みたいな話だけで、
語弊があるやも知れないけど、迫力ある戦争談は聞けなかった。
純粋?な戦闘部隊には配属されていなかったのだろうか。
上官との折り合いが悪く出世できなかったと聞いたが、今思うと報復人事みたいので
前線に飛ばされる事なかったのかな、ちなみに同期が殆ど尉官クラスになって
いたのに(昇進の機会はあったようだが)曹長だった。
一番不思議なのは一番最後の復員船で帰ってきたのだけど、入隊時は敵対国だから
しょうがない程度の気持ちから、復員時には中国が嫌いになってた事。
490 :
487:2005/04/18(月) 01:44:50 ID:l6XJbxQk
失礼。大陸で死んだ人も多いんだよね。私個人の「私観」ということで勘弁してください。
そうとでも思わなけりゃ、やってられなくて・・。
>>488 帰ってこれたのは良かったですね。中共の言うことは全てデッチアゲですから、
中国戦線ではおおむね、民衆は日本軍に対して悪感情は持ってなかったみたいです。
ただ、当時はまだ国共内戦の状態でしたから、配置された場所によっては嫌な思いも
したでしょう。
「中共の治める中国なら無条件に好きになってたはずだ」みたいなこと言うのは、
>>489みたいな馬鹿だけ。
491 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 01:59:25 ID:8a3xYrAv
母方の伯父(故人)があの「予科練習生」だった。
実戦前に終戦になったんだと。
「同期の桜」を若い連中が酔っ払って歌ってた事に激怒してたなあ。
ちなみに何故かパチンコはプロはだしだったそうな。
492 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:00:48 ID:fkZ0Duy1
祖父はシベリアで捕虜となり6年間帰ってきませんでした。
しかし、あちらでは捕虜たちの上官だったらしく、
しかもその当時には珍しく運転免許まで持っていたということで、
ロシア兵には可愛がってもらってたそうです。
でも、上官だった祖父は部下をいじめていたらしいです。
生前祖父は周りにいじわるなことをよく仕出かしてくれました。
死ぬ最後は、「ああ、ようやく死んだか」と家族・親戚が安堵。
ただ仕事はすごく出来る人で出兵する前に、家族が路頭に迷わないように、
お金と株を残していったそうです。
でも終戦後、株はなんの価値もなくただの紙くずに・・・・。
祖父との思い出はいっぱいありますが、
祖父はよく天皇陛下の唄をうたって聞かせてくれました。サビの部分だけですが
こんな唄でした。
天皇陛下の恩のため〜♪
>>492 くだらん。
作り話までして必死ですね反動右翼
俺の話は本当だ
じいさんなんてとっくの昔に死んじまってたんで
話なんざ聞いたことねえ
495 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:08:53 ID:fkZ0Duy1
>>493 ほんとうだよ。
6年間捕虜だったときに、疎開先で父が生まれたんだよ。
唄だって、小学生のとき祖父が歌ってたの聞いてたもん。
はいはい。
497 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:23:34 ID:LgKHdKMR
うちのじさまは徴兵されもしなかった・・・・・(´・ω・`)
498 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:25:48 ID:gEb2PfMp
じいちゃんは盲腸になり日本に送り返された。
またしょうも無い嘘をぬけぬけと・・・。
500 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:28:39 ID:fkZ0Duy1
>>496さん、すぐに右翼と結びつけるのやめてくれませんか?
聞いたこと見たままのことを書いているだけなんだけど。
祖父とのの思い出を書くだけで、右翼だといわれちゃうなんてねぇ・・・。
天皇の歌だかなんだか知りませんが、そんな歌を歌ったり聴いたりしている
奴は右翼以外に居ません。
じいちゃんっても、俺のじいちゃんまだ50歳だからなぁ。
侵略戦争の当事者たちを語るスレなど言語道断。
今後の書き込みを一切禁止すると共に、このスレの即刻削除を要請します。
504 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 02:57:26 ID:0cJzmlYV
マニラ郊外で米軍の捕虜になりました
505 :
皇軍兵士:2005/04/18(月) 02:59:15 ID:+mKuuwuw
満州で政府の役人してて、その後シベリアに行って戻ってきたとか言ってた気がする。
満州で役人・・・
なんだかものすごい粘着のコテハンがいついてますね。
しかもageてるし。
みなさん気にしないで書き込みしてください。
509 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 07:30:51 ID:BHu0rngP
「赤紙受け取ったその日に玉音放送聞いたわいw」だとw
510 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 07:47:19 ID:gQURTRUf
>>488 後方(兵站)部隊の曹長っていったら一番良い役目じゃない。
うちの爺さんは逓信省の役人で、札幌地方局の電信担当者だった。
軍隊にいってなくても勲章(非軍人用)はもらっていたな。
もう亡くなって随分経つが、よく考えると札幌局では、あの有名なサハリン
の電話交換手との最後の交信の話があるのね。
爺さんから色々聞いておけば良かったと思うよ。
511 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 08:18:13 ID:hzba65/N
うちの爺ちゃんはシナでボランテアしてました
『手鼻』『纏足』『アヘン吸引』『人身売買』
『人間を食べること』はだめよと
512 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 08:31:28 ID:XIDSnpT9
うちの爺ちゃんは婆ちゃんと共に旧満州で医者やってたよ。
中国人に「ものを食べる前に手を洗え」と一生懸命教えたそうだ。
中国人の衛生観念の改善に貢献してたって事。
でも満州から日本人が引き上げたら、元のモクアミだったろうね。
満州(中国東北部)の人も、テレビ見るようになってきてから少し
変わってきたそうだね。
自分たちがいかに不潔な生活をしているか気付いてきたらしい。
テレビ見て、「人間って風呂に入るんだ、、、」とか思ったりして(藁
514 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 10:18:36 ID:z3Fln/0b
俺の祖父は中国人ブチ殺しまくって部下を一人も死なせず帰ってきて勲章貰ったと。んでも酒飲み過ぎて癌になって亡くなったと。ある意味男らしいお方だこと……
満州に行く前は、登研で風船爆弾やらレーダーの研究開発をしていたらしい
で、満州に行って終戦になってシベリア抑留
今は自分史みたいなのを書いてるよ
父方は若死にで何もやっていない、
母方は徴兵検査不合格で何もやっていない。
517 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:03:13 ID:T6n8nvpu
うちのじいちゃん、9年間大陸に居たと言っていた。
夜中に時々、大声で悲鳴を上げて飛び起きている。
母方の祖父は商船学校卒業して働いてたら徴兵で海軍に行った。戦艦勤務を
経て陸軍御用船に配置転換。シンガポールでデング熱にかかり現地の病院に
留まってたら、自分をおいて出航した船が帰りに雷撃を受けて沈められたらしい。
父方の祖父は名古屋大学出て川崎(戦闘機の)で働いてた。飛燕作る工場の
工場長やってたら空襲にあったらしく、工員を全員避難させて自分が逃げようと
したら防空壕に爆弾が直撃して辛くも自分は助かったらしい。
どっちも寸でのところで助かったみたいでした。父方の祖父は去年永眠。
519 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:12:43 ID:VciK/PXo
俺の爺ちゃんは日本人に拉致されて奴隷みたいに強制労働させられて死んだと
親父が言ってた。
520 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:15:24 ID:SQ7fpnOU
ウヨ/サヨ関係無しに戦地に赴いた祖父たちのことを静かに語っているだけのスレなのに、
>>501や
>>503みたいなこと言って意図的に煽る奴は、アク禁依頼の対象ですな。
521 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:42:10 ID:9eznL2Th
たまたま発見したのでカキコ
うちのじいちゃんは朝鮮で国境警備をやってたらしい。
たまたま朝鮮に行く用事のあった親戚が、同じ郷里ってだけでばあちゃんを引き合わせて即結婚。
戦争の話とかはあんまり聞いてないけど、すごいでかいトラの足跡を見たとかゆう話は聞いた。
朝鮮で一人子供をもうけたけど終戦で朝鮮から引き上げるときに、お乳がでなくて餓死したらしい。
今もし生きていれば60くらいのはず。ちょっと内陸のほうにいたから引き上げの時は乞食みたいになって帰ってきたと言ってた。
今でも彼岸の時には賽の河原の歌を歌ってます。
522 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:52:35 ID:PE/wRfCM
>>520 マアマア、鳥取は頭の可哀想な人だからヌルーするべし。
と、思ったが祖父、祖母の話に「ほら吹き」等人間として許せないな、鳥取はジパングに反動右翼なんて言ってたが、思った通り基地害だな。
523 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 12:59:13 ID:p6ZkjZg6
こんな所にまで鳥取◆の毒電波が!笑鳥取もキチガイだが笑どっかのスレにサヨがドラゴンボールを批判するカキコがあって見てみた、マジ大爆笑したよ。元気玉は危険だとか…なんかつまらんお笑い番組見るよりバカサヨのカキコの方が笑えるのは俺だけ?
524 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 13:02:47 ID:ZcM82NFT
台湾から本土決戦に備えて四国に配置換えそこで終戦
高知の海岸近くで米軍の上陸部隊の本土上陸に備えて穴掘ってた
と言ってました
525 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 13:08:42 ID:TWQKysqT
今おかんの親父の話を聞いてきた。
農家の長男は優遇されてたらしく、戦地には行かなかったそうだ。
北海道で農業の手伝いをして、そのあとに和歌山で防空壕を掘ってたら終戦。
>>521のじいちゃんの弟は大陸に行ってて帰ってきたら目が怖かったらしい。
今では普通の気のいいじいちゃん。
このスレ荒らしてるのは、上の方で在日であることがバレた基地外。
朝鮮ネタがやりにくくなったので今度は中国ネタで荒らしてるわけだが
チョンの基地外だから今後は
チョン吉
と呼ぼうぜ
父方の祖父は赤紙きたとき死んだら女も抱けないからと一晩で1万円つかって
遊びまくった江戸っ子、母方は海軍の将校で横須賀にいたと聞いている。
528 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 13:54:12 ID:AYdRo4Mr
死んだ爺さんは戦車連隊にいて、ミンダナオ島で終戦を迎えたそうです。
自慢は「チハ改」でM4を撃破したことです。多分、嘘だと思うが。
母方の爺チャンは戦争いきたくないって靴職人になったらしい
愛知の豪族の血筋で藤原の子孫だってよく言ってたよ
そこらへん疎いから本当かわからんけどさ
子供ら(俺らの親ね)からはあんまり好かれてなかったみたいだけど
孫にはすごい優しい爺ちゃんで遊びにいくと家の一角を改造した所で
双眼鏡のパーツ作ってたなぁ・・・モノ作る過程見るの大スキだったからいつも傍で見てたよ
父方の爺チャンは軍の食糧関係の仕事してて
当時はかなり裕福だったらしいのですが父が子供の頃交通事故で亡くなってしまい
それからは散々だったそうです・・・おかげで俺のオヤジはバリバリのアダルトチルドレンになってしまったw
530 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 16:13:02 ID:tRXXePfo
母方の爺ちゃん(健在)は、南方で戦ってた。
食料などの補給も耐え、川に手榴弾投げて浮いてきたワニ食ってたらしい。
ある日、水飲みに場を離れて戻ってきたら、干してた服が銃弾で穴だらけだったらしい。
その時まだ母ちゃん生まれてないから、もし弾が当たってたらガクガクブルブル・・・
今の俺は当然いない・・・。
531 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 16:19:13 ID:ti0VUk8/
俺の爺さんは大きな農家の長男。
伍長で採用された。
同期に伍長になった中で、大卒でないのは爺ちゃんだけだったというのが自慢らしい。
南国の島にいって大砲の担当してたらしい。
いまだにすんごい頑固で、キチガイみたいに人の話をきかないので家族中から嫌われている。
母方の祖父は、自動車第32連隊に、被服兵として召集
支那で英霊になられ、靖国に合祀されました
叔父は、松山海軍航空隊で予科練中、終戦
伯父は、江田島繰り上げ卒業で、回天塔乗員に、葉月の17日に、出撃予定の中、終戦
二人とも故人になりました
なお伯父は、長門なんか大和の半分しかないと、、、大和厨房でした
艦隊勤務に、あこがれてたんだろうね
535 :
日出づる処の名無し:2005/04/18(月) 17:08:31 ID:tHvv64Oa
某艦の通信係だったと聞いた。暗号を記した本は鉛で出来ており
沈没する際に隠匿のため海中へ堕ちるようになっていたらしい。
父方の爺さんは上官の娘と結婚しました。そんなわけで父方の親戚は元軍人さんが多かった。
婆さんの一番上の兄はフィリピンで病死。
今では、怒濤の進軍とかやり放題の日本軍とかいろいろ言われているが、
たくさんの傷病者をだしたことも事実なんだなと思いました。
ちなみにその人の連れ合い(つまり未亡人)はまだ存命。
家の婆さんよりよっぽどしっかりしていて、たまに電話が来ます。
うちのじいさんは、サイパンで亡くなりました・・・
母方のじいちゃんは科学学生だったからとか何だとかで、
ギリギリになって東北の防衛にまわされて結局戦闘に突入せず終戦。
でも死ぬかもしれんからってウチのばあちゃんと子作りしてってウチの母ちゃんが生まれた。
ばあちゃん曰わく『本土決戦にならないんだったらもう少しフリーでいればよかった(要約)』だそうな。
…ちなみに父方のじいちゃん(漁師)はその頃南方戦線を転々としていた。
嗚呼、身分の差が産む物は大きい。
「少年H」で、たった一人のH少年を米戦闘機が銃撃しながら
追いかけまわしてきたくだりがあって
ホントかよwと思ってたけど
ホントにシューティングゲーム感覚のやつがいたんだね。
>>539 戦争体験を語る番組では、そういう有名人が必ずでてくる。
いたんだ…どころでなく、かなり多いのでは。市民に対して
大規模な無差別爆撃するくらいだし。
>>539 うちのばあさん「グラマンに追われてたんぼに転がり込んで逃げた」って言ってた。
四国の片田舎で今でも人口少ないとこだけど、そういう粘着みたいのはあったみた
い、しかも老若男女問わず。
一応、田舎でも攻撃目標のルート上なら通るし、ルートはできるだけ安全な場所に
設定する。
日本は何もできずに爆撃されたように思えるが、それなりにがんばって撃墜してる。
また、帰りの飛行機は弾丸や爆弾を使いきって帰る事になってる。
だからといって、民間人を狙い撃ちするのがまともな行為とはいえないが。
>>539 NHKスペシャルで、カラー映像の太平洋戦争をやってたけど、
その番組の中に、田舎の民家や走っている機関車、
さらには海岸を逃げ惑う漁師さんらしき人を超低空で銃撃する
シーンもありました。
あの映像は忘れられない・・・
動くものは何でも撃ったらしい、まぁ、最後の頃は。
戦略的に叩くものもなくなってきて、護衛で飛んできた戦闘機は遊んでたんじゃないの
下で逃げまどう日本人にはたまったものではないが
民家を走っている機関車、に見えた。
空襲や原爆は政策だとしても
民間人ピンポイント銃撃は偵察中の個人的な暇つぶし。
今みたいにバレやしないし。
うちのオヤジも、カツオブシに襲われて(P-51ムスタングのこと)、
ミシンの縫い目が追い駆けて来た(機銃弾の弾着のこと)って
よく言ってた。
漏れの婆様は、土崎空襲で布団被って逃げたって言ってた。
製油所が燃えて空がまっかっかだったそうな。
549 :
日出づる処の名無し:2005/04/22(金) 03:25:20 ID:e7ZempaM
前に住んでた町は戦争関係なく祭りやってたらしい。(まったく・・)
550 :
正統市民派:2005/04/22(金) 03:29:05 ID:Wq2fWUnH
へ?日本がアジア侵略?なにそれ
☆朝鮮双方の合意で平和的に合併
☆満州、満州族の清の皇帝溥儀と清朝臣下による国家建設サポート(ジョンストン卿の証言)
☆東南アジア・インドでは植民地支配の欧米列強と交戦(タイとチベット以外は植民地)
☆日中戦争は英米が背後にいる蒋介石の国民党に戦争を仕掛けられやむなく応戦・防衛戦争
開戦責任日本に無し(あの東京裁判でも日本の開戦責任を立証できなかった)
ついでに
☆真珠湾攻撃は先制攻撃でなく既に
日中戦争にアメリカの正規軍がゲリラとして入っていました。
アメリカの上院で証言がでています。
中国を物資と軍によって支援した時点で国際法的には中立ともいえません。
日本対して先制攻撃をしたのはアメリカです。
日本はアジアを侵略してません!
みなさん正しい知識を持ちましょう!
551 :
日出づる処の名無し:2005/04/22(金) 03:31:33 ID:o3OESAHz
じぃちゃんは潜水艦乗りだよ。何故か肩に銃創あるけど。
こんなかにも、じいちゃんと闘った奴いるんだろうな。
そんなじいちゃんも今年の冬老人ホームで一人ぼっちが嫌だってゆう言葉残して死んだ
陸軍の100人程度の隊長だったじいちゃんは満州行ってたって。
相手は人民丸出しで攻撃したら余裕だったらしいけど、
命令を遵守して戦闘しなかったってさ。
553 :
日出づる処の名無し:2005/04/22(金) 04:41:25 ID:J7IMc1gK
岡山の工兵で支那事変の時に大陸へ出兵し、一度日本に帰ってきて再度徴兵されてラバウルに行って、生きて帰ってきた。
中国北部で駐屯してた、黄砂で肺をやられて広島の呉に帰ってきた。
爺さんが居たところでは運良く最後まで戦闘自体起きなかったらしい。
国が戦地に軍隊を派遣することを「出兵」と言う。
兵士が戦地に赴くこと、または召集令に従って入営することを「出征」と言う。
>>553とか「出征」のつもりで「出兵」を誤用する奴大杉。
このスレ勉強になるなあ (´-ω-`) y-゜゜゜
557 :
143:2005/04/22(金) 23:32:27 ID:43MIx48z
先日、祖父が他界しました。
定期入院中でそろそろ退院するかと言っていたのに…
母親「病院お見舞い行ってるの?」
ヲレ「いや、最近忙しくて行く暇無い」
と会話した数時間後でした。
心臓発作で危ないと聞いた時には現実感ありませんでした。
原爆の後遺症か、原因不明の病でよく入院していたのですが
生命力だけは人一倍あるようでとても元気なイメージしか…
こうして改めてカキコしてると、どうしようもなく後悔の念が湧いてきます。
もっと色々な話を聞いておけばよかった…
この人が生き残ってくれてたから今の自分があるんだな…
なんでもっとお見舞い行かなかったんだろう…
ほんとに、ちくしょう ちくしょう
皆も後悔しないように、今できることを面倒くさがらずに、ほんとに…
>>557 その後悔の気持ちはきっと祖父にも伝わっていることでしょう。
その分しっかりと生きてください。いつでもアナタを見守っていてくれてることでしょう。
559 :
日出づる処の名無し:2005/04/23(土) 06:46:07 ID:mgJcY6K/
俺の爺ちゃんは、父方、母方両方とも20代〜30代を
大正〜昭和初期をやり過ごし兵隊に行くこともなかった。
親父は、内地で新兵訓練が済んで船を待ってる間に終戦。
因みに俺は1970年生まれ、親父44、お袋36のときの作。
自分の親が旧軍経験者だという同世代の奴にあったことなし。
560 :
日出づる処の名無し:2005/04/23(土) 07:00:21 ID:fMq+yk2n
俺の爺ちゃんは、明治〜大正の海軍。巡洋艦筑波に乗っていた。
当時の艦長は山路一膳とか鈴木貫太郎。
爺ちゃんの兄貴は日露戦争で陸軍。100年前に奉天で戦死。
561 :
日出づる処の名無し:2005/04/23(土) 07:27:20 ID:mQFNK7KO
爺ちゃんは確か中国の方から最後は南方に行ったらしい。
体がでかいから大砲担いでたとか。俺が生まれる前に死んだからよくわかんない。
曾爺ちゃんは台湾で憲兵。
563 :
日出づる処の名無し:2005/04/23(土) 07:36:59 ID:kXLkNw5g
漏れの爺ちゃんはバンコクの陸軍野戦病院で死んだ。
>>559 同士!オレは1969年生まれで二親とも40歳位のときの所謂恥かきっこ。
同年代の親はみな、戦中時はまだ子どもだったね。
父親は海軍に志願し、訓練中に終戦、
母親は女学校の奉仕活動で原爆被災者の治療
(バタバタ死んでいったそうだけどね)を手伝ったそうだ。
565 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 01:38:37 ID:cIZlrNWB
566 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 01:41:02 ID:YULUM/la
母方の爺さんは上海にいたらしいけどね。終戦時35
父方の爺さんは長崎にいたらしいけどね。終戦時18現在78
567 :
天野最高:2005/04/30(土) 01:42:32 ID:WeX20Sqw
天野さんとやらは、どこに行けば会えるんですか?
かなり某雑誌にて有名ですし、今日、私神戸の人間なんですが
たまたま 2チャンネルのハングル板の話題になって
彼の(天野 修二)話題で盛り上がったんです。
最近、極東板にいるようですが。。。。
よろしくお願いします
568 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 01:58:09 ID:PKLESSnT
俺の爺さんは戦争が嫌で
徴兵の健康診断の前に醤油を一ビン飲んで
仮病をしたのだが、生まれ持った健康な体のために
余裕で徴兵されてしまった。
海軍入隊後に事故?で指を切断する
そして速攻で除隊。
その後は名誉の負傷として国から金をもらえたとか・・・
569 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 02:01:32 ID:cIZlrNWB
>>568 日本軍って思いやりが結構あったんだな。 指一つで帰してくれるなんてw
指なくても自爆攻撃はできるからなw
570 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 02:11:26 ID:YULUM/la
そういや去年同じ高校だったヤシの爺ちゃん、海軍兵学校を7位で卒業したらしい
すごくね?
母方の爺ちゃんは海軍陸戦隊、1943年ソロモンで戦死。婆ちゃんは
22歳にして戦争寡婦になったので、戦後復員した二番目の爺ちゃんと
再婚。こっちの爺ちゃんは元陸軍歩兵部隊で、シベリア強制労働中に
ヘルニアと結核になったので結果的に労働を免れて生き残ったそうな。
1947年復員時25歳。
父方の爺ちゃんは戦前に病死、9人兄弟の末っ子である父の長兄は
陸軍歩兵、1943年南部仏印で戦死。享年22歳。次兄は学徒出陣->
海軍特攻隊で1945年沖縄沖で戦死。享年20歳。
ちなみに終戦時父は満4歳、母は満1歳。兵隊に取られた親族はほぼ
満遍なく戦死してるな。
>>541 よく似た話聞いたことがある。
俺の故郷、四国のど田舎。ガキの頃、戦争の話聞くのが好きだった。
その内の一つに、グラマンってのかどうか知らんがズングリした戦闘機が
ヒラヒラする洗濯物を、遊びか人間と間違えたか分からんが、撃ちまくってきたんだと。
573 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 05:50:42 ID:cBEQjaUc
うちの爺ちゃんは朝鮮行ったって。捕虜?を柱にくくって銃剣の練習として殺したこともあるって言ってた。あと従軍慰安婦についても聞いたけど、あいつらは朝鮮の業者が集めきた娼婦だって。
?なのが、あの当時って朝鮮人の捕虜っていたん?戦ってないんだよね?
父親の田舎に南京に行ったというお爺さんがいたが、中国兵を何人か処刑したとのことだった。
穴を掘ってその前に座らせ、日本刀で首を落とし、穴に放り込んでそのまま埋めたとか。
でも一般市民は殺していないとのことだった。
>574
漏れの曾爺さんもそんなこと言ってた。
中国兵を何十人も殺して,穴を掘って死体を埋めたそうだ。
しかし,土の下から血がしみ出してきた。
消石灰を大量にかけたが,それでもしみ出てきたそうだ。
576 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 10:45:56 ID:rA2Dgytr
戦争に行った人に聞いた話だが、
娼婦館のようなところで女を買うことができたらしい。
今のソープのようなもので、たまにロシア女がいて、ロシア女は中国人より高値だったそうだ。
577 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 10:54:58 ID:heSLzK2m
>>仮病をしたのだが、生まれ持った健康な体のために
>>余裕で徴兵されてしまった。
>>海軍入隊後に事故?で指を切断する
海軍は「志願制」なんだが・・・
>>543 >その番組の中に、田舎の民家や走っている機関車、
>さらには海岸を逃げ惑う漁師さんらしき人を超低空で銃撃する
今、B級戦犯・岡田資中将の法廷記録を描いた
大岡昇平の「ながい旅」というノンフィクション作品を読んでいるのですが、
その中に機銃掃射と爆撃を受けた機関車に乗り込んでいた
鉄道会社の職員二人が証言台に立つシーンがあります。
何でも、近くに軍事施設など何も無い田んぼのど真ん中の線路上で
米戦闘機三機から攻撃を受け、十人ほどが亡くなったそうです。
579 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 13:49:51 ID:zSk0hI87
当時の米軍機の機関銃と言うとほとんど口径12.7mmですね。
それで人を撃つのは(戦闘行為中の敵兵に対してさえ)違法行為ですよ。
580 :
日出づる処の名無し:2005/04/30(土) 14:46:22 ID:1uAshPO/
うちの爺様は公務員だったんで朝鮮に派遣されていた。
裁判所勤務だったので、当時にしては立派な日本人官舎があったとのこと。
一緒に現地へ行っていたばあ様の話によると、近所の朝鮮人達が官舎に通ってきて
掃除や食事の用意をし、あと年長(といっても小学生くらい)の朝鮮人の子供達は
日本人の幼い子供達の面倒をみてくれていた。互いに習慣や衛生観念がかなり違うので、
戸惑うことも多々あったが、仲良くやっていたという。ばあ様は永い間そこにいたので
簡単な内容なら朝鮮語を理解することもできたし、少しは話せたようだ。
私が今は亡きばあさまから聞いていた併合された朝鮮の様子は、のんびりしていて
戦争中とはいえ、どこかのどかな様子すら伺えるものだった。慰安婦問題については聞いたことが無かったが、ある日、近所の朝鮮人が当時まだ
10歳くらいの娘を売る、という話があったそうだ。ソウルの朝鮮人に金で買われたと。
どういう目的かは不明だったが、おそらく家事手伝い(おしんみたいなやつ?)に
使われるのだろうということだったが、よく判らなかったらしい。まあ、それ位貧しかったのだろう。
日本人宿舎にいつも遊びに来ていたその娘が不憫で、ばあ様たち日本人妻達が娘の親に
直談判した結果、その時はかろうじて娘は売られないで済んだ。
ばあ様が朝鮮の話をするとき、そこには傲慢さなどは微塵も感じなくてただ、単に若き日に永い間生活
した土地と人々に対するノスタルジックな思いがあるように感じた。そこがたまたま朝鮮半島であったというだけで。
私は子供心に、朝鮮の話ばっかでウゼー!しかも登場人物の名の多くが金(笑)さんだったので訳解らなくて、
もういいよ!と思ったこともあるが、今になって思えばもう少し生き証人であるばあ様の話を色々と聞いておけば
良かったと思う。
日本が降伏後、人々はなだれの様に帰国を急ぎ、残された日本人の多くがあちこちで朝鮮人達に土下座しろと言われた
らしい。もっと酷い扱いを受けたり、殺められた人達もいるだろうが、すぐに帰国できた爺様、ばあ様からの
直接の話としては聞いてない。
併合自体を美化するつもりは全くないが、戦争という大きなうねりの中では、いつも一般人は一寸先はどうなるか
判らないという意味において、ゲーム板上のひとつの駒のような存在ではないだろうか。
>>573 ゲリラか山賊じゃないのか?
将軍様のパパは白頭山に根城をおいて
八面六臂の活躍をしてたらしいし。
基本的にあげるのはなんかうそ臭いのが多いなぁ。
父方のじいちゃん、ふすまの絵とか着物の絵を書いてた人で
体弱くて軍隊にはいかんかったらしい。
母方のじいさんは、ものごころついたときは死んでたので知らない。
583 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 00:22:41 ID:ApFRINGN
父方のじいちゃんは衛生兵やってたらしい。代々薬剤師の家計だからかな?
母方のじいちゃんは満州に行ってたらしい。物凄い寒くて小便すると出した途端凍りついたらしい。
母方の爺は、祖母が病で倒れた時に三日間碌に寝ずに看病した結果、
逆に自分が疲労でぶっ倒れて両耳の鼓膜を手術で除けるよーな障害持ちになっちまったそうだ。
今も障害者認定貰って生活してる。
父方の爺は今年で77だから戦時はまだ子供〜青年期だったとさ。
祖母は両方とも去年なくなったからわかんね。
585 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 01:36:37 ID:mM3Uq8vf
俺のじいさんはどうやら身長が低くいことが原因で出兵を免れたとかなんとか。
俺も遺伝で背が低いが、今になっては何の得にもならんorz
横須賀海軍基地でなんか偉い人だったらしぃ。
自分より若い人が特攻して行く様が辛かったらしく、
後年何度もうなされたとか。
587 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 02:57:04 ID:FbclWAVF
>>585 それあったみたいだ。ウチの爺さんもチビだったから検査で落とされたってさ。
チビだけでなく、ヒョロヒョロだったから「使い物にならん」と言われて返されたらしい。
少年の日の爺さんは「オレは役立たずか・・・」と落ち込んだらしい。
588 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 03:05:01 ID:oWba+3iJ
俺の爺さんの小隊は
フィリピンで敵が多すぎて前に進めずに引き返してきた
そこにその爺さんの甥っ子のいる若い小隊が突っ込んで
全滅
やはり年の功?
589 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 03:07:19 ID:b3BrU7Go
>>583 薬剤師なら、大卒で、薬務士官だから、衛生兵には、ならない
基本的に化兵か、防疫給水部
590 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 03:22:21 ID:CSpQ/kf/
俺のじいちゃんは沖縄でグラマンを2機撃墜したらしいでも隊はじいちゃん残して全滅したって
折れのじぃちゃんは、昭和天皇を見ると決まって「この糞が!」という人でした。
今はいないけど、なんかわかるような気がします。
オレのじいちゃんは北支那で戦いその後日本降伏
ロシアに捕虜にされシベリア抑留
もう一人は硫黄島で戦死
593 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 04:46:40 ID:O/m7LTX6
俺のじいちゃんは、朝鮮人女を連行する役割だった。
594 :
日出づる処の名無し:2005/05/02(月) 05:15:11 ID:mppyNXpv
俺のじいちゃんは南方戦線で戦闘機乗りだったらしい。
で、被弾して、欠片がケツや背中に残ってたって。
軍には、いってない。戦争成金で、田園調布にやしきがあった。
戦争中に工場を空襲されて、無一文になったけどね。
じいちゃんは、よく、「天皇は、利用するもんだ」って言ってた。
よく、シナ料理屋につれてってもらったなあ。シナ大好きだったから。
>>568 絵に描いたような、非国民だな。
それにしても、聞き飽きた醤油飲みの話を臆面もなく書き込むとは。。。
まあ、戦争の生き残りの子孫が作った戦後日本、ということでいえば、
運がよい、したたか、ズルして生き延びた、仲間を裏切って、いきのびた、
というような、よく言えば生命力のある先祖の子孫だからこそ、戦後の復興
、奇跡の高度成長を成し遂げることができたんですね。いい悪いは別にして。
>>597 今そんな事を言っても仕方ないし。ガイシュツな話する奴も良かろう。
と、それはさて置き、俺の爺さんの弟の戦中の話でも。
俺の爺さんの弟は、潜水艦に補給などする潜水母艦に配置されたらしい。
とある日の戦闘で、その潜水母艦も米軍からの対艦攻撃に晒される。
対艦攻撃機の襲ってくる様は、蜂が巣にたかるような有り様だったと言ってた。
爺さんの弟は、対空砲(? の銃座で弾を補給する係りをしてた。射手は上官。
弾は船の下の方にある弾薬庫から人手で運ばれてくるのだが、
いつしかその補給が止まってしまった。
上官に「下行って弾持ってくるように言って来い」って言われて銃座から降りて
弾薬庫の方へ行くと火災が発生して、ガスが出てみんな死んでしまってた。
(詳しい話はよく分からんかったけど、そう言ってた)
で、とにかく上官に報告しに戻っていったら……さっきまであった銃座が吹っ飛んで
無くなってた。そうこうしてる内に船が魚雷食って沈没。
爺さんの弟は、(そこが沖縄の沖だったので)沖縄まで泳いでなんとか生き残れた。
んなの因果で生き残れるかなんて分からんもんだね。
その後は、前線に出される事はなくて、内地に戻ることができた。(経緯は聞いてない。
ただ、帰郷は許されず東京の寺で人目を避けての生活を強いられたらしい。
前線で見たことを人に話されるのは軍として都合悪いらしく、爺さんの弟以外にも
そういう生活をしてた人もいた。この頃、沖縄戦とかか?
この時期に爺さんが弟に面会に寺へ行ったんだが、寺に居る軍の衛兵には
「そんな奴は居ない」って追い返されそうになったらしい。で、問答してたら
その側を弟がリアカー引いて側を通りかかってw、流石に衛兵も折れて
寺の離れで人目を避けて一晩だけ会わせてくれたとさ。
あと、東京の寺に行く鉄道も駅長に袖の下通してやっと乗せてもらえたなんて話もあった。
(うちは東京の隣県)
爺さんから聞く昔の話で、割と好きなお話。まあ、こんな事もあったらしいってことで。
親戚の爺は軍医。その息子は麻酔科医
>572
遅レススマソ。うちの田舎は高知の西の方、遙か西ですね。まぁそんな目に
遭った祖母も今じゃ週5でスポーツに勤しんでる様で何よりです
603 :
日出づる処の名無し:2005/05/04(水) 04:01:12 ID:qs4FqYDz
>>602 愛媛ですが同じ四国人(`・ω・)人(・ω・´)ナカーマ
うちの爺はやっぱり機銃掃射に遇って、逃げ回ってて田圃の用水路に落っこちた挙句、
足首に酷い捻挫とあちこち打撲して助けがくるまで用水路で半分水に漬かったままうんうん唸ってたらしいです。
ちょっと恥ずかしそうに話してたのが印象的でした。
爺はもうトイレに立つのも億劫なくらい足腰弱ってしまってますが、あと6年で白寿なので良く生きた方ですな。
漏れもオヤジ方が四国人家系(落武者らしい・・・)。
漏れの場合、じいさんは奉天(今の瀋陽?)で満鉄の職員。ちょくちょくB-29の空襲に
遭ったらしい。終戦間際は日本軍もなめられていた様で、超低空で来た戦闘機の搭乗員の
顔が見えたらしいですわ。
ある日、撃墜されたB-29から落下傘が降りてくるのが見えたもんで、みんなで竹槍持って
追っかけたところ、降りてきたのが女性兵だったらしい。じいさん一同で叩き殺したみたいです・・・
で持ち物を調べたら、上着のポケットからかなり詳細な爆撃ポイントの地図が出てきたのを
見て驚いたって言ってたなぁ
このスレ読んでるとやっぱり爺さんらの戦争経験者の話は真実味があると思うね。
やっぱり戦争時は色々あっただろうと思うと、話を聞くのにもつい気が引けてしまうものだが、
こうしてしっかり覚えてくれてる人がいるっていうのは話した側の爺さんらも
話した甲斐があるって思ってくれてるのかもしれん。
年月が経つ度、戦争を経験したことないどころか、
戦争経験者から話を聞いたことのない人も増えて来るんだろうなあ。
そうなった時に、このスレの住人は貴重な語り部になるのかもな。
うちの爺さんもそろそろ歳だから、その内ちゃんとした話を聞いておきたいと思うよ。
606 :
日出づる処の名無し:2005/05/04(水) 08:52:42 ID:gpRMarBP
ニューギニアで諜報活動してた。
敵のスパイをよく捕らえてたっていってたな。
607 :
559:2005/05/04(水) 09:04:40 ID:QBqz78XU
自分の親が旧軍経験者ってのは、漏れと
>>564だけかw
爺さんとかだと結構、郷愁をもって話すのかねぇ。
ウチの親父は、内務班の古兵の鉄拳制裁が理不尽だったとか、
乗るはずだった船が日本に戻ってくる途中で敵の潜水艦に沈められてヨカッタとか、
訓練の真っ最中にうんこしたくなったけど(当然)便所に行かせてもらえず、
うんこダダ漏らしした挙句、気を失うまで助教の上等兵に殴られたとか
そんな話しかしてくれたことがないなw
608 :
日出づる処の名無し:2005/05/04(水) 09:38:07 ID:3I6KxVTG
うちの職場に、以前働いていたお年よりがよく来るのだが、
かつて大和の乗組員だったそうだ。
まだ、話を聞いたことがないから、今度じっくり聞いてみるよ。
609 :
日出づる処の名無し:2005/05/04(水) 10:52:35 ID:rQrKGP98
皆さんのお祖父様方には申し訳ないみたいなんですが、ウチの死んだ爺ちゃんは、
2回召集されて、1回目は戦地に行く前に訓練中の怪我で帰されて、2回目の召集の
時は古参兵扱いで結構顔がきいたらしい。中国に行ったが、兵站部にもぐりこんで、
物資のちょろまかしやって、食うに困らなかったとか言ってた。その物資で現地の
女性とよろしくやってたとかも聞いた。敗戦が決まって帰国する時に、生意気な上
官を仲間と語らって舟から日本海へ突き落とそうとして土下座させたとかも。
ま、若い頃は極東組の組員だったらしいからちょっと暴れん坊だったんだな。
610 :
日出づる処の名無し:2005/05/04(水) 13:02:43 ID:r0i4RQd9
左翼って日本人としての誇りが無いのかい?
といってみるテスト
611 :
602:2005/05/04(水) 14:30:29 ID:ivvlhSrX
>603
これからも是非孝行してあげてください。
>605
海軍にいた俺の祖父は、俺が子供の頃よく近くの浜辺に連れて行ってくれた。
夏になるとそこで地元の子と泳いでたんだけど、祖父だけはいつも白い服来て
絶対水には入らなかった。海軍にいたぐらいでスポーツも出来る人だから泳げない
はずないから不思議に思ってた。そしたら母親からついこの前その真相を聞かされ
た。
「あの海はお祖父ちゃんの知ってる人や仲間がたくさん亡くなってるから、だから
泳ぎたくないんじゃないかな」
それを聞いた時、真夏の陽炎が上るぐらいのクソ暑い日でも、日傘一つ指さず
俺を見守っててくれた祖父に改めて感謝しましたよ。まぁ聞いちゃいけない事も
あるかもしれないけど、知ってるからこそ労る気持ちが強くなるならそれもありかと
思います。
島田紳助 著書 タイトル「いつも心に紳助を」 毎日新聞社 刊
P147
武器は全部やめる。パトリオットも買わんと。来るなら来い、もういいです。
うちは最後まで平和憲法を守る。世界で類を見ない、憲法第9条を守りながら、
無抵抗で死んでいくことが、我々のメッセージだと。
P148
憲法変えて、確立した平和憲法のもとで、無抵抗で戦おう。
無抵抗で死んでいこう。そうすることが一番や。今あらためて、そう、思いますね。
無抵抗な人間には大義名分は成り立たへんのやから。
北朝鮮に経済制裁なんかしたらいかん。怒りよる。大義名分が成り立ってしまう
もん。経済制裁する、日本も一緒にやる、それだけで向こうは攻める理由が
できるもん。
613 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 01:10:31 ID:GljSRwUN
>>612 ワロス
無抵抗を唱えるヤツが女性に手をあげるのかw
>>613 多分彼の中では女性は人間とみなしてないんでしょうよ。
報告スレなので、議論は謹むようにお願いします。
アホの紳助の話は他所のスレで盛り上がって下されば幸いです。
616 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 16:48:42 ID:5up8JnjJ
うちの爺さんは国鉄の職員。
その兄貴は海軍少尉。
うちの爺さんは揚子江を上って
チャンコロを退治しました
うちのじいさんは父方は女学校の校長で、
母方は九州で国鉄用の炭鉱の技術主任みたいなことやってたらしい。
母方のじいさんの兄弟に、戦争に取られた人が居たが、
中国で塹壕の穴掘りばっかりやっていて銃は一発も撃たんかったと笑い話を聞いた事がある。
徴兵されて、土木作業ってのは輜重兵だったのかな?
>>618 工兵だったのでは?
うちの爺さんが工兵が一番かわいそうだと
言っていたのを思い出したよ
>>619 工兵って、爆弾抱えてトーチカに突っ込む人みたいなイメージだよな。
漏れの親類からは想像できん。www
621 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:25:55 ID:OaweRo/S
最前線で塹壕掘ったり、橋作ったり
でも敵から丸見えだから狙い撃ちのイメージだけど
622 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:27:34 ID:G74lgcyA
反日のチョンを20人拷問して内8人を殺した。
じいちゃんGJ。
623 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:31:38 ID:XYv5xA+y
>>621 じいちゃんも工学系つーか、炭鉱の発破の技師だったらしいからね。そうかも。
でも、銃は一発も撃たんかったというのは、漏れ的には、戦場には行かなかったと解釈してるんだが。
因みに、中国戦線の武装解除は、蒋介石軍の下で比較的穏やかに進んだようですね。
漏れも、大陸で苦労したという話は聞いていない。
624 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:33:07 ID:XYv5xA+y
625 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:37:25 ID:yNhEmHj0
徳之島出身のうちの爺ちゃんは、人間魚雷に乗って…。発射寸前で終戦を迎えた。
626 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:43:31 ID:adkUGlOL
中国で子供と遊んだり、飯盗んだり、女から逃げたりだったらしい。
627 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 18:45:05 ID:XYv5xA+y
>>626 >女から逃げたりだったらしい。
いまどきの外国駐在員と一緒だ。www
>>622,
外地の野戦憲兵だとしても、20人拷問8人殺害なら、C級戦犯で処刑されてる。
朝鮮は植民地だったから,統治後はスパイ摘発も過酷ではなかった。
支那派遣の野戦憲兵(所謂軍令憲兵)は情報収集の為かなり過酷な拷問を
やり多数の憲兵がC級戦犯として処刑されている。
629 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:07:34 ID:G74lgcyA
628
日本人はやはり残虐だ。アジアの人に迷惑をいっぱいかけた。
日本人である事が恥ずかしい。日本人は朝鮮人にやはり謝るべきだ。
なにが謝罪するのは朝鮮人だ、右翼は悪魔だ。
先祖の罪は、子供の罪でもある。私は心を入れ換え朝鮮人に謝っていこうと思う。
630 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:09:54 ID:OaweRo/S
誰かに朝鮮ホイホイ置いたな
631 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:10:05 ID:XYv5xA+y
自作自演のチマチョゴリ。
頭隠して、乳隠さず。
>>628 しっかり、中共に洗脳されて帰国した人もいなかったっけ。
それで毎日新聞社から本出してたような希ガス。
633 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:20:33 ID:XCqRv+ro
呉の軍港に居た。もう制空権なかったから時折グラマン来襲。
撃ち合ってたら急降下爆撃喰らって爆弾の破片が頭を貫通して死んだ。
以上が軍から説明されたばあちゃんのまた聞き。本人はお袋ですら
物心つく前に死んでるから細かい事は不明。ばあちゃんは教師だったんで
生活には困らなかったが一応死ぬまで軍人恩給は受けてた。額は知らんが
今でも日本軍の予算でうちに金が入ってきてるんだなぁと思うと変な感じだったよ。
634 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:29:45 ID:k+617go/
>628
日本語の使い方がヘン。ニダ!
635 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:37:52 ID:PhjRcMA3
日華事変で中国に行ったじい様。
市街戦があって、銀行に篭城したらしく、札束にまみれて寝たらしく
少し持ち出してくればよかったと言ってた。
筋肉質で水泳が全く駄目だったじい様。
揚子江付近を木造船で移動中、船が座礁(機雷に触れたらしい)
船底に穴が開いて、乗船が沈み始めた。
総員、陸地まで泳げとの命令が出て、皆飛び込んだ。
が、カナヅチのじい様、飛び込むに飛び込めない。
「ああもう死ぬんだ」と船の甲板でモタモタするうちに
沈みかけてた船が浮き上がる(木造船で尚且つ、乗員が減ったので)
しばらくして船は自然に岸に流れついた。
ふと周りを見ると、水練の上手な仲間の兵隊さん達が皆溺れ死んでいた
「人間どんな欠点が幸いするかわからん」生涯そういってた。
636 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:40:01 ID:XCqRv+ro
633は母方の話だが、父方は招集されなかった。・・・けどここに書いて良いのかな?
まぁいいや書いちゃえ。今もある某大企業の朝鮮支社に居たんで親父は京城生まれ。
終戦の4歳まで朝鮮に居たが基本的に日本人社会で育ったから現地人との接点は
家で雇ってたお手伝いさんだけだったとの事。で、そのお手伝いさんが一度真っ赤な
とんがらしだらけのオニギリをくれたんだって。「朝鮮ではこれが当たり前だよ」と
言われて試しに食べてみたら辛すぎてひーひー言ってたらそれを見てそのお手伝い
さんは笑ってたとの事。今思えば子供相手に鬱憤晴らししてたのかもなぁとか言ってたが
普段は普通に子供として可愛がられてたし朝鮮の食い物が辛いのは基本だから
本当の所はどうだか解らんとも言ってたし別に「やっぱチョソはひでーな」とか
そういう風に盛り上がるために書いたんじゃないんでそこんとこよろしく。
あと引き揚げで上陸したのは下関だったんだが列車が広島を通る時に全部窓を
閉めさせられて車内が暗くなって怖かったのを憶えてるとのこと。それが広島だったって
のも後になって知ったことだし流石に4歳じゃ細かい事は解らんかったそうだが
じいちゃんは「まぁアメリカさんも見られたくなかったんやろな」と言ってた
637 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:45:23 ID:PhjRcMA3
少しスレの趣旨とは違うけど
先日の韓国で「植民地時代に日本軍に協力した親日派を糾弾する」
法案が出来たが、その法案成立に尽力した議員が、
自身の祖父が日本軍の憲兵だった事が判明して
議員辞職においこまれるということがあった
せめてたった60年程度前、自分家のじい様がどんな地位にいたか
知っておいたほうがいい
>>632 いますね、「ある憲兵の記録」と言う本を、遠藤という元憲兵曹長が書いています。
中共で洗脳されてますな、元憲兵の団体(憲友会)の人に昔聞いたけど遠藤氏
の評判はよくなかったです、教えてくれた人は、大陸の九江憲兵隊にいた元憲兵准尉です。
639 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:51:11 ID:XYv5xA+y
>>638 dクス。
手元に本が無いが、読んだよ。
拷問のシーンは、日本人らしくリアルだったな。
逆に、中韓の捏造がいかに激しいか良く分かった。
640 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 19:55:08 ID:7K5ZCdPR
俺の爺さんは熊本で、時期的にも南京事件の時は現場にいたと思われる。
ただ、もうこの世にはいない。
元気なうちにもっと話しておけばよかった。
641 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 20:00:09 ID:PhjRcMA3
641さん
ウチも母方の祖父が南京付近にいたらしい。
詳しくは話さなかったけど、よほど大変だったらしく
(戦争末期)
復員してから仏教にはまったり、酒におぼれたりした
地獄をみたらしい
642 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 20:01:05 ID:G74lgcyA
南京でシナ人を多量に殺し、中国の人口抑制に努めた。
643 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 20:13:16 ID:OWuB/C/Q
母方の祖父。
満州にいたと話してくれた。
あと1週間ぐらいで最前線に送られるところで終戦。
ソ連が来る前に急いで帰ってきたらしい。
後20年ぐらい前に我が家でもう一人のじいちゃん(父方)の
法事で、このじいちゃんとそのほかの兵隊経験者の
じいちゃん達が集まり、酒も入って大盛りあがり。
軍歌までみんなで歌い出しちゃったと母が言っておりました。
当時ワタクシは4つぐらい。
すでにじいちゃんはこの世にいませんが、
とても優しいいいじいちゃんでした。
あまり戦争については話さなかったけどね。
うちのじいちゃん
満州に行ったが
もともと体が強くなく
肺に病を患って亡くなってしまったそうな。
南無
645 :
日出づる処の名無し:2005/05/05(木) 23:55:32 ID:ABeWwF/Y
母方のじいちゃんは看護士で父方のじいちゃんは満州(当時ね)で船造ってたって。
じいちゃん曰く『日本は勝つもんだと思ってた。不利だったなんて聞いたことなかっ
たのに急に終戦、敗戦と言われてわけがわからなかった。』
と言っておりました。父方は長崎なんだが原爆投下の状況は詳しくは知らん。
母方の爺ちゃんの弟は大和と一緒に海に沈みました・・・
647 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 00:32:40 ID:13t175TH
>>645 満州でも海外だしそんなもんだったのかなぁ。俺のばあちゃんはご近所みんなもう
負けるって解ってたってよ。それでも家族が前線で命張ってる人が多くて気の毒だから
表立っては言わないって不文律があったんだけど、沖縄上陸あたりでもうそれも
崩れて「もう駄目だなこりゃ」ってみんな普通に話しだしてたとのこと。大阪から愛媛に
疎開してたんで憲兵とかあんま居ないし空襲とかよく知ってたし、そういう環境では
そうだったんだって。
648 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 00:43:00 ID:NWeNd5R0
母方のじいちゃんは通信兵だったと聞いた覚えがあります。
父方のじいちゃんは電気技術者として日本に残っていたらしい。
残って何をしていたのかは忘れましたが、戦後、銀座辺りの復興に
貢献したとかで土光さんから賞状を貰ったと聞いたことがある。
649 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 00:55:14 ID:TfB8RZW3
大手繊維会社に勤めていた祖父は工場長として満州へ赴任。
太平洋戦争が始まってすぐに国内に戻ってきたので、満州での混乱には巻き込まれなかったらしい。
特に戦争の話はしなかったので、兵隊にとられなかったのか。
|-`).。oO きっと満州の工場はヨシフが持って行ったのだろう…
650 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 01:14:13 ID:cow+UQJb
満州つながりで・・・
うちの母方の祖母は、近衛所属の実の父が若くして他界したため、満鉄の社員である叔父に引き取られて満州にいた。
暮らし向きはものすごくよかったみたいで、15〜16歳位のとき(昭和18年)の写真では振袖を着てお茶をたてたり、琴のお稽古をしている様子が写ってた。
終戦の直前か直後に本土に帰ってきたようだが、その琴や着物を持って帰ってきてた。
その当時の帯が残っているが、素人目にもいい仕事の帯だった。
特定の立場にある人は特別のルートで無事帰ってこれたんだな。
その祖母も、戦後結婚してうちのおかんと叔母を産んですぐに他界。もう50回忌も終えてしまった・・・
651 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 01:21:06 ID:auKFm6GG
もう40年近く前に、近所の床屋のおいちゃん(とその友達)たちの
満州での兵隊生活の話を聞かされてた。もうほとんどおぼえてないが
可愛い姑娘の話を楽しげにしていたことだけは忘れない。
クーニャンって何???と思ったからだが
スレとはちと違うな
俺が生まれた時にはじいちゃん普通に死んでて直接きいたわけじゃないが衛生兵やってたとかなんとか。
その時にみんなで上官に媚売ったりするのはやめようぜって約束して
じいちゃんは律儀にそれ守ってたら媚売ってないのは自分だけで
他のやつはみんな媚売りまくりだったらしいw
おかげで全く昇進できなかったんだとか。
ただそれで昇進しなかったおかげで助かったとも言ってたらしい。
そんなじいちゃんの死に様はけっこうすさまじく
急に起き上がって
「○○○○(←名前)もう駄目であります!」といって倒れた瞬間心臓止まったらしい。
なんかすげえかっこいいと思ってしまった。
653 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 01:42:56 ID:g4U60bbF
父方母方双方共適齢期を過ぎてた為徴兵されず。
戦時中に歳の離れたおさな妻を貰って子作りしてたw←父方母方どちらとも
父親も母親も戦時中生まれだけど母親なんてすぐ下の弟とは同学年w(誕生日誤魔化したけど)
じいちゃんはシベリア帰り。
ペーペーだったらしい。
帰ってきたら子供たちが大きくなってて驚いてた。
一度、戦友が訪ねてきた。
「生きとったんかーー。探したんやぞ。」
じいちゃんは大喜びだった。じいちゃんの母親と妻はごちそうをいっぱい作った。
凄い絆を感じたわ、と私の母は思い出して言う。
戦争の話は家族には一切しなかった。尋ねても悲しそうな顔をするだけ。
いつも物静かなじいちゃんだったが、
子供たちがおかずに文句を言った時には烈火のごとく怒った。
物を投げてまで怒った。
「寒いから起きれない」などと言ったときにも。
お茶碗が古くなって欠けてしまい、新しい豪華なものを買ってきても、
じいちゃんは古いのを死ぬまで使い続けた。
じいちゃん、単なるケチかと思ってたけど、
戦争でつらかったんだね。シベリアで寒かったんだね。お腹すいてたんだね。
何も知らなくてごめんね。
私たちのために戦ってくれたすべてのじいちゃん、
本当にありがとう。
655 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 01:46:57 ID:IksoyetT
爺ちゃんでなく親父なのだが、中国で他の部隊が大量殺戮やった為、その虐殺死体の処理した話しを子供の頃に聞かされた。
かなり酷かったらしく、女性の死体のあそこに棒切れなんか突っ込まれていた、なんて話をしていた。
>>653 自分の父系の曽祖父と同じだなぁ…;
ちなみに頑張りすぎて、私の父と、父方の祖父の一番下の妹(父にとっての叔母)が同い歳とかいう…
曽祖父ちゃん、一体何歳まで頑張ってるんだオイとおもったorz
657 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 02:25:33 ID:6y1qrtO3
確か母方の祖父は陸軍に所属してて1944年ぐらいの頃は黒龍江省にいたらしい
斥候に出たら狙撃されて現地ではどうしようもなく本国に送還されて療養
なかなか治らず入院先でそのまま終戦を迎えたらしい
玉音放送を聞いて泣いていたら隣で聞いてた友人が切腹してたそうだ
爺さんが酒を飲むたびにその話をガキの頃から延々と聞かされたよ
658 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 02:43:32 ID:KCrLbUuy
うちの家族は戦争逝った香具師いない。
造船所とかだと徴兵免除だったってw
これでも東洋鬼子になるのか?wwwww
659 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 09:31:15 ID:cVMkTomX
俺の父方の爺さんは予科練に志願して、日本海軍の航空隊で爆撃機(一式陸攻)のパイロットだった。
母方の爺さんも日本海軍で空母・赤城の船員だった。
看板から海面へ落ちた同僚を、すぐさま看板から飛び込み助けて海の河童と呼ばれていたらしい。
660 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 10:25:11 ID:clDWWBum
拷問ぐらいはあっただろ。どこの国でもやってるんだから。
オレのじいちゃんは、部隊の隊長だったらしく、
敵に攻められた時、堀のようなところに落ちて、
それでも、とりあえず突撃突撃言ってたら、自分だけ生き残ってたらしい。
日本軍人でも、いろんな人がいるんですね。
>>659 赤城の飛行甲板から水面までってかなりの高さだぞ?
改装後の下部甲板だったんかいな
662 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 12:58:23 ID:uCPpjyhZ
父方のは当時50近くなのにも関わらず応集し、南方に向かう途中撃沈され海の藻屑に( ´Д⊂
母方のはニューギニアから帰還し、漏れが2歳の時に死んだ。
彼は踏切事故のヒデブ死体を見ても平気だったが、何故か犬が怖かったそうだw
663 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 13:55:48 ID:2RRwTv88
うちのじいちゃんは、トーチカとか野戦滑走路とかを作る人だった。
なんて言うのか知らんけど(工兵?)戦時中、コンクリのミキサーに指を挟まれて、
左の3本がない。急いでコンクリの中に手を突っ込んで、指を探し出した
らしいけど、結局くっ付かんかったそうな
このスレ見てたら俺も祖父が何してたのか知りたくなって
母に聞いてみたら
母方の祖父は消防隊員をやってて父方は分からないけど外国に行ってたらしい
詳しい話は聞けなかったけど父方の祖父は70を越す高齢になっても山登りをして
でっかいマツタケや栗を採ってきたり
「年金だけで暮らすのは暇でしょうがない」と言って鴨狩りのバイトをしたり
蛇酒を造ったりと凄い行動力を持ってた。
背中にあるもの凄い切り傷の跡を「敵兵にやられた」と言いながら見せてくれた
ていうか俺をからかうのが好きで、俺が祖父の入れ歯を水に浸けたら
「冷たい冷たい!」とか言って何も知らない無知な子供だった俺をよく怖がらせてたw
665 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 16:38:10 ID:cVMkTomX
>>661 看板から海面までの高さは分からないけどそういう風に聞いたよ。
当時は現在の感覚では想像つかないくらいデンジャラスな事も平気で皆さんやってたみたい‥w
父方の爺さんも予科練生の時にケンスイや握力や記憶力など現在では有り得ないくらい相当、強化訓練させられたみたいだしね‥。
例えば、爆撃機とか多数の命や任務が係ってるから、右手が負傷すれば左手で、左手が負傷すれば足で操縦が出来る様に徹底的に叩き込まれた(足でハサミが自在に使える程)って言ってたよ。
爺さんになってもガタイの筋肉はマジ凄かったw
赤城の飛行甲板から飛び込んだんなら物凄いダイビングだけど、
甲板って言っても上甲板下甲板、色々あるからね。
スカッパーから飛び込んだんなら、意外に海面に近いだろうし。
667 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 16:45:34 ID:EvP5OcTo
うちの爺さんインドネシアだって。
食い物はドリアンが採れたら御馳走。
飲み物は水溜りの泥水。
長男だから帰ってきたけど、
「帰ってもブタ小屋の世話するしかない。帰ってもろくなことがない」
と語っていた一番仲良かった四男の戦友は
独立義勇軍となって原住民といっしょに戦ったらしい。
そんで向こうでヒーローになったとさ。
そんな爺さんも90歳で去年死んだよ。
668 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 16:56:01 ID:EvP5OcTo
知り合いの爺さんの話。
ちょうど虐殺時期に南京にいたらしい。
「虐殺?そんなものねーよ」
「結構シナ人とは仲良くやってたんだぞ」
「食い物くれたし」とか言ってたよ
669 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 17:05:39 ID:gD6hkQWk
無抵抗の中国人をいっぱい殺し、餃子にして食べたって言ってた。
朝鮮人と中国人とでは微妙に味が違うって。
子供は美味だとも言ってたな。
妊婦の中の胎児はさらに美味だって。昔の日本はかっこいい。 今じゃ考えられない。
戦争中、性欲処理として朝鮮人の女性をまわして、はらませたとも言ってた。ざまあみろチョン。
死んだ戦友の頭枕にして寝てたとか言ってった
671 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 17:21:45 ID:U4TC/NNy
陸軍に召集されるのが嫌だから大学辞めて海軍に
失言によって激戦地へ
重巡洋艦摩耶にのってレイテ沖で見事沈没
すぐに戦艦武蔵に救助されてまた沈没
その後どうやってか知らんが日本に帰国
現在90
672 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 17:49:05 ID:Qh9UyfaJ
うちの母方の爺さんは、徴兵の身体検査(?)のときに
身長が足りなかった為、数日後に家に帰ったとオカン
が言っていた。当時は「非国民」とか言われて肩身
がせまい思いをしただろう・・・。
673 :
日出づる処の名無し:2005/05/06(金) 18:19:15 ID:+16kAVIg
どこでかは忘れたけど、夜中に川で水汲んできて飯盒でご飯炊いたらめちゃまずかった。
翌朝川を見たら血でまっかに染まっててもどしたって言ってた。
かーちゃんのじーちゃんが。
埼玉県旧大宮市でB−29迎撃作戦に参加していた
>668
俺の親戚のじーさんも、南京に行ってたはずなんだが、ことあるごとに
「馬賊退治の武勇伝」
を語ってた。一番盛り上がるのが、苦労して捕まえた馬賊の大量処刑のくだり。
即席の刑場を作り、捕まえた馬賊を一列に並べて銃殺。人相の悪い悪党が死ぬたびに、
中国の一般市民は大喜びだったと言ってたが、たぶんそれが南京大虐殺の正体なんじゃ
ないかと今になってみれば思う。
676 :
日出づる処の名無し:2005/05/08(日) 02:44:14 ID:P1JGDdxX
終戦後、インドネシア独立戦争に参加した旧日本軍兵士のいまを取材した番組です。
(インドネシアの独立宣言に記された日付は、西暦ではなくて皇紀が使われている。)
テレビ朝日系列 テレメンタリー
http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/ 「ジャピンドわれアジアに死す」〜インドネシア残留日本兵悔恨の生涯〜(2005年5月9日放送)
2005年2月20日、インドネシア残留日本兵伊丹秀夫さん(83歳)が亡くなり、
ジャカルタの英雄墓地に葬られた。第二次大戦の終戦後独立戦争に参加した
日本兵は約1千人、半分が戦死し、残り400人が日本国籍を捨ててインドネシア人として生きた。
現在残るのは10人。その一人志田安雄さん(84歳)は、1964年から取材してきた人だ。
田中幸年さん(97歳)と一緒に独立戦争で戦死した仲間の墓を探してきた。鬼籍に入った
仲間の中には、妻子を捨てた者もいる。41年前、帰国して老父母と涙の対面をした故吉永速雄は、
のちに日本で死にたいと語った。その子供や孫は、今日本に出稼ぎにきている。
残留日本兵は今、「人生の選択は正解だった」と語る。しかし、胸の奥には、深い悔恨と
罪の意識が埋もれている。独立戦争で戦死した友のことを日本の遺族へ伝えなかったこと、
日本にいる妻子を捨てたことだ。41年にわたる取材によって、戦争が個人に沈潜している姿を浮き彫りにする。(制作:朝日放送)
放送時間は『系列局での放送時間』を参考に…。
http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/contents/broadcast/index.html
当時のソウルで技師やってた。
敗戦と同時に広大な土地と莫大な財産が没収された。
ばあちゃんは韓国人だったから、ばあちゃん名義の財産だけは残った。
家で飼ってたシェパードの子犬が家から脱走して、
当時子供だったうちのお袋がそれを探しに出かけたら、
空き地で現地人に焼かれて食われていたらしい。
それ以来一家で韓国人を嫌悪していたそうだ。
爺さんが一昨年に88歳で死んだ時、棺桶へ千人針とか一緒に入れてたけど何処に行ったかは不明。
子供の頃に戦争へ行った時の体験談を聞いたのだがうろ覚えだし('・c_・`;)
葬式の時にアルバムその他を整理している時に聞いた話だけども、ひじいちゃんの代から経営していた
会社が戦時中は兵器を作っていて戦後GHQに解体されたと言う事らしいので、ひょっとすると第二次
大戦には行ってないのかもしれん。
父方の爺様→既に50くらいだったので在郷軍人。
母方の爺様→造幣局勤めで戦争に参加せず。
これだけじゃつまらないので親父の兄(伯父さん)の話。
長男→南方戦線、ガダルカナル島に出兵し戦死。
次男→同じく南方戦線、フィリピンへ移動中輸送船が沈んだらしく、今もって死んだ場所は不明のまま。
ルソン付近『らしい』と言われたそうな。
どちらも遺骨なんぞ残ってないので、爪と髪が遺品として骨壺に収められているそうな。
婆様がお彼岸とか事ある毎にオハギつくって仏壇にお供えしてたのは覚えている。
『二人とも甘いものなんて食べられなかっただろうから』とか言って。
関係ないが、親族に陸軍大臣がいたらしい(多分血縁的には相当薄いと推測されるが)。
そしてそれらの影響か、ウチら親子は自衛官になりましたとさ。
一体何代軍人続けてるんだウチの家系(武士→帝国軍人→自衛官)。
して伯父さん、親父はともかく俺みたいなチャランポランが自衛官なんてやってていいんですかil||li _| ̄|○ il||li
681 :
日出づる処の名無し:2005/05/08(日) 10:39:51 ID:aITcC7Lh
大蔵省専売局勤務
戦争には行っておりません・・・
知り合いの爺さんは空母の瑞鶴に乗ってたらしい。
空襲があれば乗組員の血ですべるために、甲板に大量の砂蒔いてたらしい。
あとは艦載機の着陸用のワイヤーが切れて、甲板から首だしてた戦友二人の首飛んだって言ってたな
>677
本人たちはそう断言してたし、あとで調べて分かったことなんだが。
中国の馬賊(共産党および国民党の抗日ゲリラ)は、本当に山賊とかみたいな略奪行為を
やってたらしい。
娘を犯され、家を焼かれ、財産を奪うために父母が殺され、抵抗した兄弟が殺されるという
状態だった。
そういう田舎の貧民の群を追い払い、山賊を大量に捕まえては見せしめに処刑する日本軍
の処刑ショーには、手弁当を携えた現地の都会の中国人が集まってきてたようだ。
いかにも人相が悪いやつが処刑されるたびに、子供は喜び大人は拍手喝さい。
そりゃ日本でもオウム真理教や連合赤軍の連中が捕まって公開処刑されたら、見に行って
拍手喝さいするヤツ続出だろ。
確かに中国人は殺したが、殺したのは多くて数千人(実数は数百人だろう)しかも馬賊という
「ただの犯罪者」だったんだよな
まあ、中国の革命軍は全部一度は山賊になるから、
684 :
日出づる処の名無し:2005/05/09(月) 23:49:14 ID:2BvkARZD
うちの爺さんは、海軍所属で、機関室にいたらしい。
戦争中もずっと機関室だから全然戦争してるって実感がなかったって言ってた。
初めて戦争が実感できたのは終戦後北海道沖から帰港中に、ロシアの攻撃を受けて船が沈んだ時だったって。
だからいまだにロシアのことは大嫌い。
それをガキのころから聞かされていた俺も、ロシアは嫌いになった。
その爺さんも、まだ体は丈夫だけど、ボケてきてる。
先日もちょっと目を放した隙に、勝手に犬の散歩に出て行ったきり帰ってこれなくなった。
家族で探しに出たけど、なかなか見つからなくて、4時間くらいたってからやっと見つけた時は、
家から10kmくらい離れたところで、犬はバテてるのに爺さんはピンピンしていて自分が迷子になっていることすら気づいていなかった。
改めて軍隊上がりの人間というか、うちの爺さんのすごさを知った。
最近になってもっと戦争中の話を聞いておけばよかったと思う。
685 :
日出づる処の名無し:2005/05/09(月) 23:52:57 ID:r3y7kOq/
片方は軍医、もう片方は医学生
うちの爺さんは91歳(1998年)まで生きてたが、
台湾でマラリアにかかって死にかかったが、
春菊(みたいな葉っぱ)の味噌汁だけなぜか飲めて餓死をまぬがれたり、
その入院していた病院が空爆される数日前に移動していて助かったり、
(そこの看護婦がいい人だったらしく、死んだのをかなり悲しんでいた)
戦闘機の機銃掃射?で同僚と2人で便所に逃げ込んだら、その同僚は
首を打ち抜かれて死んでいたが、自分は助かったり、
いろいろと運がよかったみたいだ。
あと、小型の機関銃みたいなのを持たされていたらしい。
でも「あんなのじゃ飛行機なんかに当たるわけない」とかいってたな。
あと、ばあちゃんは、夜、寝る時にTVのスタンバイランプ(赤いやつ)が
ついてると血相をかえて「こわいからけしてくれ」といってたよ。
687 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 04:17:25 ID:Sm+ZKsBg
うちのじーちゃん、関東軍だった
んでシベリアに抑留されてたらしいよ
よく生きて帰ってきたもんだ
688 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 04:29:03 ID:myWh7c8x
うちの爺さんは空母の艦長。終戦の時は少将だった。
91歳まで生きていたよ。
689 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 09:07:55 ID:jbRUj67T
>688
すごいなあ
政治的な面も含めて全ての生き証人じゃん
いろいろ話を聞いていたら教えてください
690 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 12:59:53 ID:myWh7c8x
その空母は沈んだらしいんだけど運命をともに出来なかった
ことを悔しがっていたそうだ。漏れは子供だったから優しい
爺さんというイメージしかない。
691 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 14:09:21 ID:ER0ES80u
近所のおじさんは硫黄島でアメリカ・オーストラリア兵をがんがんに撃ちまくったと言っていた。
あと親戚の話で、福岡付近に日本兵に空から打ち落とされたアメリカ兵が死んでいて
服はつなぎ一枚だったらしいい。アメリカも実際は物資に困っていたとのうわさが流れたらしい。
うちのじいさん
ノモハン事件の前満州で戦車隊長
日本に戻り近衛の騎馬隊長
陸軍参謀→上海転属(何してたんだろう。)→終戦
戦犯にされる可能性があったため、数年間中国人にかくまってもらった
数え90才で没。当時の中国人は今と違ってちゃんとした人達だったんだな。
>691
墜落したアメリカ人は九大病院で生体実験されたんだよ。
これはまじで。
知り合いの瑞鶴乗ってた爺さんが言ってた
親父は、学徒動員とやらで一時期北海道に行ったそうだ。
牧場で絞り立てミルクを振る舞われ、土鍋に入れて熾火にかけて温め、
ちょっと外に出て、戻って鍋の蓋を開けたら
白いミルクの表面が一面真っ黒になるほどに、ハエがわんさとたかってたそうだ。
戦争時の事というと、なんかそればっかり話してたな・・・
爆撃とかよりそっちの方がショックだったようだ。w
695 :
694:2005/05/11(水) 17:11:47 ID:MHvK8JgG
ああすまん。「日本軍で何してたか」ってスレか。
戦争中にって事と勘違いした。スレ違いスマソ。流してくれ。
697 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 21:24:44 ID:RbfikS86
698 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 21:28:03 ID:1rSmu7R0
>>692 当時の中国人は日本支配地域のほうが安全だと知っていたから恩返し
したのだろうね。中共が負けてれば、今頃中国もまともな国になっていた
のだろうなぁ。
699 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 21:38:03 ID:LKAzAs71
漏れのとうちゃんや爺ちゃんが日本刀で、
10人ぐらいやったのなら、
漏れは誇りに思う。
700 :
日出づる処の名無し:2005/05/11(水) 21:39:49 ID:KybgdJrr
各ニュース板、ハングル板、極東板、東アジアニュース板などにコピペ援軍お願いします。
〜戦艦大和を二回目の沈没の危機から救おう〜
■大和の危機
戦艦大和の精密模型で話題になった「大和ミュージアム呉市海事歴史科学館」が
「アジアの戦争被害者の立場を考慮する市民団体」によって「戦争を美化する危険
性がある」などとして「展示内容の見直しを求める文書」を突きつけられています。
こういった団体に毅然と対応しない結果として何が起こるか、我々はよく知っています。
しかしながら、歴史科学館の戸高一成館長は「展示は固定したものではない。検討する。」
などとコメントしており、このままでは展示の変更や、大和の隣に「アジアの被害者」の展示
パネルが並ぶ可能性が高いと思われます。
大和を守る二度目の戦いにいまこそ参戦をお願いします。後方支援部隊はコピペで戦力
の結集を呼びかけてください。
■支援先
「大和ミュージアム呉市海事歴史科学館」
住所 737−0029 広島県呉市宝町5−20
TEL (0823)25-3017
FAX (0823)23-7400
E-mail
[email protected] ■元スレ
【社会】「戦争美化の危険性」 市民団体、戦艦大和の展示に見直し要請…広島・呉★2
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1115802883/
うちの爺ちゃん陸軍大尉だったって聞いた
俺の大叔父は軍医で戦艦に乗ってたらしい。
じいちゃんは理系学生だったからぎりぎりで召集されなかったらしい。
知り合いの瑞鶴の爺ちゃん呉で生大和見たらしいが、
「大和ホテル」って言ってたな。戦闘にはでない、エアコン付き、
食事の時は楽隊が音楽流しながら飯食うなんて言ってたな。
あと呉で一人の若い水兵が駆逐艦爆破して自殺した、なんて言ってたよ。
うちの母方の爺ちゃんは、南方で航空兵やってたらしいんだが、
孫の俺には愉快なホラふき爺だったんで、本当に航空兵かどうかは
わからん。
ただ戦争へ行ったのは確か。
705 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 08:46:44 ID:LAVnoZzZ
うちの爺ちゃんは俺には全然戦争の話をしてくれなかったな〜
俺の前では、いつもニコニコ笑ってて、時代劇が好きで、お菓子ばっかりくれる爺ちゃんだった。
でも晩年、病院の看護婦さんには戦争のときの話をよくしてたらしい。
俺に話してくれればよかったのに
706 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 09:02:05 ID:c5N7OC3G
うちの爺ちゃんは中国でブタの丸焼きを兵隊仲間と焼いてたな。
写真のこってる、子供のころその写真みてブタの丸焼きにあこがれたもんさ・・・。
707 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 09:18:01 ID:iEHAVYMN
爺さんは兵役で大陸に行ってたらしい
何をしてたかはわかりません、たぶん普通の一兵卒。
親には共産党がいかにあかんか悪口みたいな事をよく言っていたようです
大陸帰りは共産党嫌いになるとかあるのかな?
708 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 09:19:19 ID:4v0Ila2t
逆に共産党に洗脳されてマンセーになることもあったやに聞くが。
709 :
706:2005/05/12(木) 09:22:32 ID:c5N7OC3G
>>707 うちの爺ちゃん、
中国人が日本兵の右の耳から左の耳に針金を通して、
城壁からぶら下げてやがったって言ってた。
そんなんみてるから、大陸いった人は共産ギライになるんでわ?
「まぁ戦争やからな、基地外にならな、基地外になった敵に殺されるだけや」
とも・・・(−−;
711 :
706である709:2005/05/12(木) 09:39:13 ID:c5N7OC3G
じゃぁ中国人ギライになったんでそ(^^;
712 :
707:2005/05/12(木) 09:59:12 ID:iEHAVYMN
>じゃぁ中国人ギライになったんでそ(^^;
うーん、どうなんでしょ?
祖父が日本に帰って来たのは戦後2.3年後とは母が言ってましたが
その間になにかあったのかな
母方の祖父は子供が全部女姉妹だったので詳しい事を余り話さなかったようです
戦争関係の物も一度家を引っ越す時に全部処分したそうなので何も残ってないようですし
ただ共産党の悪口はよく言っていたそうですが
713 :
706:2005/05/12(木) 10:25:00 ID:c5N7OC3G
なんか、戦中のヒトで共産ギライな人おおいよね。
会社の社長、戦中派なんだけど、
めちゃくちゃ共産嫌ってた。
戦後の自分としてはそのへん分からないんだけど、
やっぱり戦争中の経験とか実体験で、
キライになったんでわ・・・と(^^;
714 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 10:33:09 ID:0Q7uYtfw
>>713 つか当時の共産党ったら体制転覆・共産革命を実力で狙う超危険分子だぞ。
嫌われて当たり前。
日中戦争で、昭和15年位に大陸へ。
自分が小6の時に亡くなったから直接はなしは聞いてないけど
残ってたスケッチブックを見ると遺跡だのふるい建造物だのが
細かくスケッチされている。
分隊の食事を作ってるクーリーに「描かせてちょ」といったら
おもむろにタバコを取り出して気取ったポーズを取った、と但し書きのついた
絵とか。(そのクーリーは拾った千人針を手ぬぐい代わりに頭に巻いてたり
豆むいてたりしてるのを何枚か描かれている)
屯所のスケッチや日付付きの大火事の記録等、
小さい手帳にスケッチしながら過ごしているうち
小競り合いで左手と片足に銃弾を受けて陸戦病院へ。
そこでも病室の窓や屋上からの風景をスケッチして(さすがに線がぶれてたが)
回復するも手足に後遺症が残ったので本土へ帰還。
その後絵(芸術じゃなくて職人系)で飯を食う様になり、戦災孤児を
20人近く内弟子として引き取り、独り立ちするまで育て上げた。
内弟子は現在フランスで画家になってたり故郷ではそれなりに知られた画家だったり
何故か虫プロで働いたり、祖父と同じ職人系画家として組合で実力者になってたりしてる。
葬儀には仕事関連から恩を受けた人から、物凄い人数が集まった。
祖父が生きてたらもっと色々聞くんだけどな。
716 :
ホセゴンザレス:2005/05/12(木) 11:48:47 ID:tPvtOv28
じいちゃんは、第一次大戦でタイにいたがマラリヤで帰国w
タイの病院で、椰子の葉っぱで作った団扇で扇ぎながら楽しそうに笑う
写真が印象的だった。
帰国後、私の父が身ごもった状態で、支那事変で盧溝橋にいたようです。
3年後に帰国、父と始めて対面するも、大東亜戦争開戦で朝鮮から満州に
渡った模様。教官をしていたようです、なんかの勲章もらってるみたい。
717 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 11:51:37 ID:nLMcuNsX
うちのじいさんは、シナはあんまり嫌ってなかったな。
それよりソ連が大嫌いだと言ってた。あいつらは卑怯者だと。
718 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 11:52:08 ID:gt+C16P9
戦地には行かず終戦した。
719 :
ホセゴンザレス:2005/05/12(木) 11:53:31 ID:tPvtOv28
>>715 私の爺さんと接触あったかもね。爺さん今生きていれば105歳
94歳で亡くなったが、90代で125ccのバイクに乗り
いつも日本刀の手入れをしていた・・・
720 :
日出づる処の名無し:2005/05/12(木) 12:03:24 ID:l1Ch+c90
爺さんはシベリアに行ってた。75くらいで、ぽっくり死んだ。
前日までちょっと風邪気だったけど、毎日原チャリのってて元気だったのに、まさかって感じだった。
でも、自分としてはあこがれる死に方だった。
ばあさんは戦争中は苦労したとか愚痴ってたけど、
じいさんは戦争の話はしなかった。
ばあさんから聞いたけど、じいいさんがシベリア抑留から帰ったとき、世話になったって戦友がたずねてきたそうだ。
じいさん露助の目を盗んで芋をとってきて、戦友にも分けて食おうとしたと。
そんとき戦友は火を焚いて焼こうとしたって。
したら、ばか、火い焚いたら見つかるだろって、生で食えって言われたって。
それ聞いて、爺さんやるじゃん。
しぶとくて、危険察知力が高かったんだなって思った。
うちの父系じいさんは軍医。シナあたり行ってたらしい。
母系じいさんは整列写真の軍服からみて陸軍だろうか?
瀕死のアメリカ人捕虜を嫌々殺したって話を母から聞いた。
そのじいさんの兄弟は南方にいって行方不明。
噂では日本人に食われたとの事。
他にも親類のじいさんどもは特攻寸前で終戦やら、シベリア行ってた人やら、
中国で塹壕掘りやらいろいろ話がある。
特攻隊に選ばれたり志願したりって
かなりのエリートなんだよね?
>>722 エリートなんかおらんやろ。
極少数の歴戦の勇士が赤とんぼの大群を引っ張っていっただけ。
いや、瑞鶴に乗ってた爺ちゃんと世間話してて
俺戦争中に生まれてたら、飛行機乗りになってたよ!
とかほざいたら、
アホ!飛行機乗るには勉強もできて(有名国立大卒業)体力も一流じゃないとなれねえよ!
と、言われたもので。
特攻隊員志願以前に、飛行機パイロット、搭乗員は厳しい選抜を抜けて
来ているんでエリートと言えば、エリート。
727 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 02:11:22 ID:ZmwZvlp+
>>725 そういう人材が枯渇したから17歳とかの即席パイロットでも出来る特攻になったのでは?
729 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 02:22:08 ID:wefua6SS
730 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 02:38:47 ID:9QT+0A1F
>>720 家のおじいちゃんもシベリアで捕虜になってたって。
一列に並ばされて、延々雪道を荷物を運ばされて。
弱った人は倒れて置き去り、、。
おじいちゃんは前の人の荷物(砂糖)の袋に穴あけて舐めながら歩いたって
言ってた。
そのせいか糖尿だったよ。
でもロシアの悪口とかは一切言わなかったなあ。
すごく優しい人でした。
アメリカの捕虜になって、記念写真とか撮ってた。
当時の米軍の革ジャン持ってる、スゲー重い。
732 :
青山原宿国際法 :2005/05/17(火) 02:42:32 ID:PwxbAlhe
(ーー英国軍艦がフランス沿岸で遭難信号を発し、救助に駆けつけたフランス船を拿捕した
という話がーー)
もし本当の話なら、疑いなく背信の例であり、これは許されていない。
他方、以下の例は完全に合法な奇計であり、(第一次)世界大戦で起ったことである。
1914年10月の終わり、ドイツの巡洋艦がダミーの第4煙突を偽装して正体を隠し、
日本の旗を掲げてマレー国ペナン港の警備艇を、その汽笛にも答えずやり過ごした。
そしてロシア巡洋艦ゼムシュクに全速で向かい、日本の旗を降ろしてドイツの旗を
掲揚した後に砲撃、水雷攻撃で撃沈した。(注1)
733 :
青山原宿:2005/05/17(火) 02:44:08 ID:PwxbAlhe
注1 Fleisehinann in Liszt, § 63, ii (n.), accuses the British cruiser Baralong of misuse
of a neutral flag and her crew of shooting the crew of a German submarine
after capture; see literature cited by him, and also Fauchille, § 1395 (40);
Perrinjaquet in R.G., xxiv. (1917) pp. 137-142; Rocholl in Strupp, Woert., i. pp. 113-
114; Spaight, Air, p. 45; Buchan, History of the Great War, ii. pp. 384-5, and
J. A. Hall, Law of Naval Warfare (1921), p. 117 (last two cited by Spaight, op. cit.).
The British Government made an offer to the German Government to submit
the Baralong accusation together with three British accusations of cruelty
against Germany to an inquiry by naval officers of a neutral State, but the offer
was not accepted, which Rocholl (supra) regards as a mistake: Parliamentary
Papers, Misc., Nos. 1 and 7 (1916), Cmd. 8144, 8176.
734 :
福岡県太宰府市:2005/05/17(火) 03:29:18 ID:8JVJawTt
長崎か四国のどこかにいて、相当成績が良かったらしくて「近衛兵」だったってきいた。
敗戦後には戦犯扱いになってどこかの収容所に連れて行かれた。飢えと過労で死にそうになったらしい。
出てきた後は福岡の炭鉱の監督になってお金には困らなくて長男だったおじさんの離乳食はてんぷらだった。
炭鉱の監督同士でマージャンやりながら子守りしてたらしい。ある時に炭鉱が爆発して大勢亡くなったけど
じいちゃんは大した怪我もなく生き延びた。
でも、おととしの八月に他界した。そのころ後輩と酒を飲みながらサークルの時期部長になる時の話をしてたら、母からの着信履歴とメッセージ、「おじいちゃんの心臓が止まりました」病院に駆けつけたらすでに霊安室に運ばれてて死に目に会えなかった。
そのころにはもう呆けてたけども亡くなる何日か前にお見舞いに行った時ははっきりと
「これからはおまえたちの時代だからしっかりやりなさい」
って。みんな泣いてた。
葬式は日蓮式で行われた。遺産のことで親兄弟がもめてた。日蓮のお坊さんの「宗教とかお金とかはよけいです、死んだ人にどれだけ思いやれるかです」
という言葉思い出して自分は「じいちゃんがうるさがるから外でやれ」って言った。
みんな黙ってしまって、少し悪い気がした。
なんか一番上しか関係ないけどじいちゃんのこと思い出してたら過剰に書きすぎた。
でも何か誰かに伝えたくて。ごめんな、みんな。
近衛兵は、能力だけじゃなくて、
外見も良くないと、なれなかったってな。
736 :
福岡県太宰府市:2005/05/17(火) 04:01:32 ID:8JVJawTt
ええ!それはびっくり。じいちゃんの若いころの写真知らないけどいい男だったのか。
でも身長は高くて体格は良かったよ。骨太だったし。
でもばあちゃんずーっと泣いてて今年に入って心労で入院したから頼もしい人だったんだろうなあ。
737 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 04:21:15 ID:vS0uEgzY
父親の兄
一人目サイパン島で玉砕当時一等兵
二人目伊号潜水艦機関長南方で戦死。潜水艦だったので場所も日時も不明
三人目一式陸攻の腹の機銃座。桜花を抱く前に終戦。
738 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 04:54:42 ID:ChY/EReD
ウチの爺ちゃんは特攻隊で出撃時に飛行機故障。
直している間に終戦、命拾いしたと生前言っていたよ。
739 :
日出づる処の名無し:2005/05/17(火) 05:12:35 ID:eGUnecP4
ウチの爺も近衛兵
1902年生まれ
172cm
740 :
日出づる処の名無し:2005/05/18(水) 21:08:48 ID:DbqB7knX
あ、そういえば俺の曽祖父も近衛兵だったな。明治天皇が白馬で出かける時に
後にズラーっと黒馬の兵隊が付いてる写真あるじゃん。あの中の一人だったらしい。
顔は知らんけど母方はみんな顔いいし背も高いからそれなりにイケメンだったんだろうな。
家柄的にはド田舎の旗本。旗本だから悪くは無いけど所詮田舎侍だし特別良くも無い。
741 :
日出づる処の名無し:2005/05/18(水) 21:42:07 ID:0aZfRcYf
ウチの祖父は父方、母方とも兵役適齢期をいわゆる「戦間期」に過ごしたラッキーな御仁。
父方の爺さんは教員で短期現役兵制度のおかげで楽勝だったらしい。
母方の爺さんはそもそも兵隊に取られなかったそうな。
大東亜戦争中は流石に食生活は貧しくなったが、田舎だったから飢えるほどではなかったらしい。
フィリピンのマニラに従軍して、負傷兵をおぶったらしい。
743 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 13:21:40 ID:pNZ0SXb6
>>696 697遅レスすまそ。海外出張で昨日帰った。
沈んだ空母はタイホウとかいう新型艦と母から聞いた。
その前はそう龍の艦長で、もともとはパイロット。大正末期に中国まで飛んで記録を作ったそうだ。
「蒼龍」と「大鳳」ですか。
すごいですね。
祖父は海軍でマーシャル諸島クエゼリン島で負傷し帰国。左手だけの傷痍軍人だった。
母方の大叔父は3男がミッドウエーで4男がニューギニアでそれぞれ戦死。
祖父や大叔父は我が家の誉れであり僕の誇りでもある。
僕も立派な日本人になりたい。
祖父は満州で警察官をやっていた。
玉音放送を聞いた時、悔しくて日本刀折ったって言ってた。
その後、夜中にロシア兵が官舎にやって来て祖父を連行。
抑留列車から飛び降りて脱走。見つからないよう夜中に移動し、途中で中国人から満服を借り
現地の人に変装をし、なんとか日本へ戻ってきたらしい。
そんな祖父も昨年他界・・・。もっと話を聞きたかった。
日本軍じゃないが、書いてみた。
歴史的な史料価値のあるスレだな
今メダルオブホナー・ライジングサンやってるけど日本兵怖すぎ。
ていうか日本刀のみで、銃持ったやつに切りかかっていくからむちゃくちゃ勇気あるよな
749 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 22:43:30 ID:TEIOOgYt
俺の爺様は中国で捕虜になったんだけど
夜中に脱走したってさ。ほんとかよ
750 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 22:49:05 ID:2JIY7BQ9
人殺し。
751 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 22:50:01 ID:FmUplj+/
父方の祖父は元々商船の船長だったから海軍。
階級は良く知らない。結構偉いとこにいたらしい。
戦闘に参加してない。
母方の祖父は陸軍の歩兵。in中国。
川で死体のふりして戦闘機をやり過ごしたり
中国人と仲良くなったりしてたらしい。
752 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 23:02:52 ID:fAhtv9bb
遅レスだけど、パイロットのことでいいかな。
俺のおやじは零戦のパイロットだったが、よく選抜試験などの話をしてくれたよ。
知能、体力共に一流の学生でなければ、パイロットにはなれなかったって。
予科練の甲飛12期までは、志願制だったらしいが、13期からはほぼ強制になったらしい。
パイロット不足が前線で目立ち始めたころだったようだ。
学生で成績、体力共に優秀な子が学校から推薦されて受験したようだが、
倍率は相当高かったらしい。
だから、13期の俺は選りすぐりの飛行兵だったんだと言いたいわけだが・・・
753 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 23:32:25 ID:gbB75emA
754 :
日出づる処の名無し:2005/05/20(金) 23:42:27 ID:ophOkqUl
俺の祖父はティモール島に居たそうだ。
東ティモール独立のときに自分の居た島田と語っていたが、
大した話を聞く事も無く歿させてしまったな…。
755 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 00:18:31 ID:TxgL8Abs
私の祖父は旧関東軍の将校で私の父親は旧満州生まれ(昭和14年12月)
とても寒い土地で家のドアが2重になっていたのが印象に残っているようだ。
父の弟は内地で生まれたそうなので(昭和17年)そのころには内地に帰って
いたようです。
戦後C級戦犯として公職追放となり苦労があったそうですが、死んだ兵隊が良い兵隊
と言っていたのが印象に残っています。
って死んだみたいな書き方ですけど96歳酉年で未だ健在です。
756 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 00:32:06 ID:u/i6hvws
757 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 00:32:59 ID:ngn2/pjW
俺のじーちゃんは俺が2歳になる前に死んじゃったのでお通夜の時のことしか覚えてない。
当然戦争帰りなんだけど、なんかとにかくソ連が嫌いで嫌いで仕方ない人だったらしい。
そんかしまわり皆が韓国毛嫌いしてる中でウチの一家だけそうでもなかった、ってんで
近くに住んでた韓国人一家が引っ越す時にウチにだけ御礼言って去ったと言う話をばーちゃんから聞いた。
758 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 00:53:01 ID:XwGsfKaD
うちのじーちゃんは満州から帰ってきて沖縄行って戦死してるんだが
なんか悪いことしてたんだろうな・・・
759 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 06:13:22 ID:2dle83y0
うちのじさまは
満州に行って戦争が終わったことも知らず
ソ連(アメリカだと思ってたらしい)と戦っていた、
で
結局、隊長さんが降伏することを決めて
降伏したって言ってました。
後は日本に返してくれると思っていたら
3年3ヶ月の強制労働・・・
なんか、昨日まで元気だった友達が
朝起きると死んでいた・・・みたいなこともたくさんあったって言ってた
760 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 08:18:11 ID:WRhJwjeF
わしのジーさん、10年前に死んだけど
空母「加賀」に乗って真珠湾に参加したとのこと。
飛行機整備で帰還後、内地の航空隊に転勤になり
命まっとうしたとのこと。真珠湾攻撃の時は飛び出す飛行機に
あらん限りの声を出したと言っていた。
761 :
日出づる処の名無し:2005/05/21(土) 08:24:52 ID:ko4O7RUO
うちのじーちゃんはスマトラ島でイギリス軍と戦ってたらしい
イギリス軍の戦闘機を落としていたらし
じいちゃんは満州に行ってたらしい。詳しい話聞けばよかった…五年前に亡くなったが、その頃はまだ世界情勢に興味の欠けらもない高校生だったな俺orz
なんか翼が紙で出来た戦闘機の写真を見せてもらった記憶が。すごいやさしいおじいちゃんだった。
戦後は新幹線のトンネルの設計をしていたらしい。地質学者だったようで。
父方は結構親戚一同戦死してる@中国
ほとんど唯一じいちゃんだけが生き残った。
開拓団の一員で俺の父は大陸生まれ。
母方のじいちゃんはガダルカナルに行った。
撤退する時、「動ける者だけ見張りにたつように」
と言われて足怪我してたけど真っ正直な
じいちゃんは見張りに向かったそうだ。
実は見張りと言うのは建前でそのまま撤退。
じいちゃんよりも元気だったけど
見張りにたたなかった人たちはそのまま
取り残されたらしい(´Д⊂
>758
教科書を鵜呑みにしてる?
うちの爺さんも満州に居たけど、
亡くなるまで満州で出来た中国人の友人数人と文通してたよ。
途中で中国の反日政策が強くなって滞りがちになったけど
亡くなった時には弔電が来た。
残されてるスケッチを見てても、虐殺や虐待なんてかけらもない。
満州の人をスケッチしてるのも何点もあるけど
皆おだやかな顔してるよ。
勿論戦争だからある程度の暴挙はあったとおもうけど
証拠もなしにそんな風に思われてたら
おじいさんが可愛そうだよ。
証拠があるならともかく、無いなら信じてあげなよ。
766 :
765:2005/05/21(土) 14:37:01 ID:1COrvch9
あ、弔電が電報だったかどうかはわからん。
自分小学生だったので詳しいことは判らなかった。
中国日本間で電報出来るのかどうかわからんので
電話か手紙だったのかも。今度聞いてみる。
もれの爺さんは伍長だったと思い込んでたけど
よく聞いたら「伍長勤務上等兵」だったw
前線にはでたことないらしい。
768 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 15:26:57 ID:5IatEiLX
祖父が死んでもう四年を過ぎる。
祖父が存命の頃は、あまり歴史に興味が無く、たいしたことは聞かなかった。
今分かるのは小さい頃に聞いた満州に行ってたって事と、仏間に飾ってある
靖国神社の前で、祖父が所属していたと思われる山砲兵第19聯隊と書かれた集合写真だけである。
769 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 15:48:00 ID:ZKuvZ84i
立川の基地で、飛行機を整備していたんだか、開発していたんだか、そんなところ。
名古屋から立川に来て、今でも同じ場所に住んでる。
770 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 15:49:20 ID:GIuzKtID
真心込めて・・・
2ch宗教板いじめ撃退法
771 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 16:37:55 ID:mGJmslUQ
>>767 「伍勤」は、一選抜のエリート兵ですよ。
メンコの数で星を増やした伍長よりも優秀。
おじいさんを誇りに思うと良いですよ。
772 :
767:2005/05/30(月) 17:00:59 ID:yGrs78uJ
>>771 あ、そうなんだ!ありが?ォ
そういえば婆さんやおじさんやらが誇らしげにいってたような気もするw
ガキの頃はたかが上等兵なのに?と思ってたが・・・
773 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 17:27:37 ID:mGJmslUQ
>>772 伍勤は、同期入営の中でも、学科も実務も考課がトップの、僅か数名のみしか選ばれないんです。
伍勤に選ばれると、満期で除隊し、故郷に帰った後、縁談が引きも切らないっていう逸話が、山の
ように残っているくらい価値がありました。
勿論、地元の村では、村を挙げて祝うんですよ。
775 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 18:30:52 ID:mGJmslUQ
>>774 私は
>>771=
>>773ですが、そのHPの人じゃありません。
でも、お陰でいいHPを知ることが出来ました、有難う。
覗いてみましたが、凄くよく調べて書いてるんで、驚きました。
立派なおじいさんの血は、あなたの体にも流れているのですから、あなたも
その内立派な働きをなさるに違いありません。
お互い頑張りませうw
776 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 19:06:26 ID:PdxBdd6M
777 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 19:24:20 ID:z2z5WvCx
爺ちゃんの話は一度だけでも腰をすえて聞いておくべきだね
うちの爺ちゃんは伏龍特攻隊だったらしい
それを明かしたのは死ぬ3日前だったな
なんでも、秘密の部隊だったからそれまで秘密にしてたらしい
横須賀で玉砕するはずが本土決戦がなくなってお役ごめんになったそうな
戦争終わって60年たつのにず〜っと秘密にしてたので驚いたね
今までそこらにもいるただの爺ちゃんだと思ってたのに、
小野田さんもびっくりな大日本帝国軍兵士が立ち現れたので衝撃だった
ちゃんと聞いておけば話しの種にでも出来たのに、惜しいことをしたな
爺ちゃんが生涯忠誠を誓っていた大日本帝国に敬礼!
みんなの爺ちゃんも、実は日本国に取り残されてる帝国軍兵士かもしれないよw
778 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 20:01:24 ID:Kd8eEBhQ
オレの叔父さんは、土浦の志願の予科練出でゼロ戦のパイロットをしていた。
最初は北支で戦い、その後台湾で特攻隊にいたが、相当優秀だったらしく
出撃させてもらえず、作戦関係をさせられていたらしい、戦友がつぎづと特攻
していくのに自分だけが出撃できず、生き残ったことがトラウマになったのか
戦後の人生はめちゃくちゃでした。
会社を経営していたので、結構金回りはよかったのですが、バクチは打つわ女は囲うわ
で、いつも会社はやくざにおどされ人手に渡りそうになりました。
そのたびに親が、借金を払い、又その繰り返しです。
この叔父の長兄は海軍大学出身で終戦時には、中尉でしたが、めちゃ叔父は終戦時少佐
でした、休暇で実家に帰ると少佐は馬に乗り付き人がつくみたいです、その手前
長兄が弟に最敬礼を、しなければならなかったようです。(兄貴悔しい)
その為戦後この兄弟は、いつも喧嘩ばかりしていました。
そんな叔父も亡くなり葬式の時は、当時の戦友が5人位列席してくださいまして
棺を日の丸の旗で覆い直立不動の敬礼で送ってくださいました。
その光景を見ながら国家の為に命を投げ出した人々生き残った人々、色々な人生
色々な戦後があるんだなぁと思いながら、やっぱりこの人たちは犠牲者なんだと
思いました。最近の中韓の抗日ぶりを見ると、はらわたが煮えくり返る思いですが
結局は、行くも地獄帰るも地獄で、その結果は結局日本国民が負わなくてはならないのです。
779 :
日出づる処の名無し:2005/05/30(月) 20:05:34 ID:CzqjDOKT
うちの祖父さんは満州の後シベリア行ってたらしい。
偏平足だったから戦線には参加せず上官の運転手やってたって言ってた。
結構旨いもの食わせてもらってたみたいで
シベリア生き残れたのはそのお陰かなって言ってた。
戦友がかなり死んだみたいで、そのことを話すときは辛そうだ。
どこの国の悪口も言わないが戦争だけはいかんと言う。
もれは激動の時代を生き抜いた祖父さんと祖母さんを尊敬してる。
今度帰省したらもう一度膝突き合わせてその話しをしよう。
780 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 00:16:32 ID:E8yrxFHp
ほしゅあげ
781 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 04:26:52 ID:331webP4
じいちゃんとテレビ見てて南の島での日本兵の玉砕の場面がでてて芸能人が悲惨ですねーって言った後に俺が犬死じゃんって言ったら、いきなり無言で湯呑み投げつけられた。
782 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 11:13:17 ID:jk4y1WUf
>>778 でも、戦わねば成らない時には、毅然として戦いましょう。
勝った戦の後でも、傷は残ります。
しかし、矢張り負けた後とは全く違います。
豊かさを追い求めるために戦うのではなく、弱いものや名誉を護るために
戦いましょう。
英霊は、我々の父祖は、そう言っていると思います。
783 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 19:59:58 ID:1cDPNH+Z
あの時代があって、今の時代がある。
今の豊かな社会があるのは、
日本人の中に残った一握りの【誇り】のため。
賛美はしない。卑下もしない。誰のせいにもしない。
でも、たった60数年前、その身を犠牲にしてくれた方たちへの
感謝なくして、ラーメンも寿司もコロッケすらも食えない。
いま君の目がぱっちりと開き、どんなカタチであれ世界を認識できる
その奇跡は、昔の人のおかげであること。
ちょっとでもそう想えば、彼らも報われると信じている。
784 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 20:18:31 ID:4vKqm+wK
俺のじいさんは台湾で警官だった。
婆さんは北チョンで電報打ち。
どちらも待遇はヨカタとか。
じいさんは終戦後、台湾から引きageたが前の引きage船が不発魚雷でアボンしたとか。
785 :
日出づる処の名無し:2005/05/31(火) 20:24:32 ID:Gj1URiQu
うちのじいちゃんは満州で鉄道をひくための
土地の買収をやっていたらしい。
なので、とんでもない所には行っていない。
じいちゃんの親は少将で、日露戦争のときの英雄で
絵本にもなったと聞いた。
だから、じいちゃんは比較的安全な仕事になったんだろう。
このころから、縁故ってあったんだねぇ。
786 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 03:27:13 ID:XP/FpM/C
父方の祖父はもと軍人だったそうだが、父が幼い頃に
病死しているため、詳細は不明。
母方の祖父はリーマンで、徴兵はされなかったそうな。
787 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 03:39:17 ID:fxqG9BgL
徴兵されて満州にいたが終戦の前に病気で戻されて、
終戦のときは百姓してた。
788 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 04:06:02 ID:+j6zKSjH
以下のようなことをしていた人もいるはずですが、
勇気ある報告を期待したいスレですね。
週刊朝日平成9年10月17日号
ニューギニアで旧日本兵が行った残虐
「母はこの飯ごうでゆでられて・・・・」
>「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。
>日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。
>母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、
>この飯ごうでゆでられました」
>「家族が日本兵に切り殺されて飯ごうでゆでられ、
>あげくに食べられた」という証言は、バラスさんだけではなく
>複数の人から聞かされた。
>「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。
>翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を
>見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けて
>あったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。
>肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」
>「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、
>ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。
>それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。
>母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」
789 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 04:55:23 ID:enNa5lBT
鬼畜だな
790 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 05:07:45 ID:BcgruKWm
うちの爺さんはハルピンの国境警備隊にいた。終戦間近にロシアに捕まって
シベリアに送られドイツかポーランドかの国境近くまで行ってシベリア鉄道の
建設をやらされたと言っていた。まわりでは死者が相当数出たらしい。
おれの爺ちゃんは日中戦争の時に戦車の操手やってた
砲手が下手糞であんまり戦果あげられなかったって言ってた
792 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 08:59:33 ID:Jn3u8n3A
>>788 嘘っぽい理由其の一
食人は、支那人の文化で日本には存在しない文化なんだが
嘘っぽい理由其の二
>母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、
>この飯ごうでゆでられました
この食べ方は、もろに支那人の文化。
嘘っぽい理由其の三
コレが最大の理由だ。
>週刊朝日平成9年10月17日号
〜〜
残念でした。朝日に証拠能力はありません。
793 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 09:22:00 ID:091uXu/W
朝鮮人に飯食わしてやった。
海軍でアジア旅行。
スマトラが懐かしいと。現実は置き去りにされたらしい
口癖がサンベル鳴る寺の海峡
795 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 09:31:27 ID:bIPfd7ZC
796 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 09:50:29 ID:IiAq13Zm
>788
こいつは、各スレで これを垂れ流して、この手の記事に
抵抗力のない人々を翻弄してるみたいだが おれがじっちゃんから
聞いた話は、満州で 共産軍に日本人が襲われた村を開放したさい
女のつめに油を塗って突き刺し火をつけた遺体をみた話をしていた。
敵は人間じゃない と思ったそうだ。
軍が命令したのか、一部の個人の犯罪かは知らんが 戦争は人を狂気
に変えていくに変わりない。
じっちゃんたちの武勇伝を語る場なのにすみません。。。。。。
797 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 10:44:56 ID:/jlyvofu
軍隊じゃないけど俺の爺さんはセメントなんかの技術者で満鉄に勤めてた。もう死んじゃったけど当時の満州についてはまともに語る事が出来ないのが悲しかったらしい。
戦争に負けて引き上げる前後、ソ連兵の略奪が酷かったって話も聞いた。
798 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 10:53:06 ID:WcFn2Gp5
じいちゃんはパラオで一発も撃たずに戦死。
余りやる気なかったみたい。
兄ちゃんが将校でまさか自分が戦場に行くとは思ってなかったらしい。
将校の方が戦って死ぬと思ってたらしい。
ひいじいちゃんは日露戦争行ってた。どんなことしたか小さかったし聞いてないか覚えてない。
家の玄関にキンピカのプレートがあったような。
日露戦争に行ったのは誇りだったそうだ。母方のじーちゃんが言ってた。
それはとても記憶にある。
じ〜〜ちゃ〜〜〜ん orz
799 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 10:56:05 ID:W/5yUN/l
農地解放でひどいめにあった
小作人にただ同然で土地を取られて、働きに
出なくてはならくなったらしい
今では数千坪の小地主です
800 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 11:02:18 ID:WsjLU9aQ
俺の爺さんは満州開拓団、現地召集で入隊
戦後はシベリア抑留・・・
俺の母親は昭和20年8月生まれ
婆さんは生まれたばかりの母を連れて何とか帰国
爺さんはシベリアでのことはほとんど話してくれなかった
ただ、とにかく寒かった、生きて帰れるとは思わなかった・・・と言っていた
801 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 12:05:12 ID:Hwrs5F+X
母方の爺様は鉄工所で働いていたので徴集は無かったみたい。
父方の爺様は戦死。
(親父に聞いてもどこで戦死したか教えてくれない)
祖父じゃないが血族で戦死した奴や腕を失ったやつが多くて
友人とその話題になったときに
「お前の先祖は勇敢な奴が多いな
でもなんで血を受け継いだお前はこんなにもヘタレ人間なんだよ・・・」
家の爺様は、なんだか銃剣道(?)が凄くうまくて
士官に教えるため国内に残ったらしい。
駿河湾近辺の基地に居たらしい。
毒ガス兵器の実験の被験者になったらしいw
マスタードガスみたいのを腕に塗った後
すばやく処理して直すみたいな事やったとか
言っていたなぁ・・
終戦後、大量の毒ガス兵器をある場所に
置いたらしいのだが、ここじゃ言えん・・(´Д`;)
804 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 13:26:11 ID:LMvf00zX
俺が中学の頃、学校の課題の一つでじいちゃんに戦争の頃を聞こうとしたら
じいちゃんに
「いくら孫でも軍事機密は話せん!」
と言われました。
そんな祖父も他界して10年が経ちました。
じいちゃん、いったい何してたの・・・・orz
805 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 13:28:05 ID:0HIKLpWt
すばらしいじじいだ
806 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 13:38:06 ID:0HIKLpWt
日本の誇りとも言うべきじじいだ。
807 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 14:38:04 ID:f3YA8dkB
>791
じいさんが、戦車操縦手だったんだぁ。。
砲手が余程下手糞だったんだね(泣)
戦車砲って1発目はそれても2発目は必ず命中するんだけどね。
それはね、直接命中法って言ってね、1発目の弾着を目盛り上に記憶して
その目盛りで目標を撃てば必ず命中する訳なの、だからその砲手は
ほんとに下手糞で、じいちゃん悔しい思いしたんだろうね。
809 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 14:42:23 ID:0HIKLpWt
鉄の棺桶のブリキ戦車で砲弾撃ち合うんだから怖かったろうな、勇気あるじじいだ。
810 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 15:02:56 ID:GnGIct4r
>>804 すごい!ゾルゲみたいな共産党スパイかもなw
うそうそ。
たぶん重要なポストだったんだろうよ。
811 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 15:04:58 ID:0HIKLpWt
ゾルゲなんてますます恐ろしい、反骨じじいだ
812 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 15:07:13 ID:GnGIct4r
オレのじいちゃんは満州の農地開拓業者で働いていた。
右手が曲がってたから召集されなかったらしい。
満州も朝鮮も当時は治安が良くて祭りとか結婚式とか満人と朝鮮人と良く
一緒にやってたらしいよ。今なんであんなに反日なのか良くわからないらしい。
一緒に畑耕したりがんばってその土地を良くしていった仲なのに・・
(これは写真がのこってるからそのうちアップしたい。数十枚はあるかな。当時の写真)
>>809 もちつけw
鉄の棺桶なのにブリキなのはカコヨスギw
814 :
日出づる処の名無し:2005/06/04(土) 15:09:29 ID:0HIKLpWt
良心的じじいだな
>>808 ( ゚Д゚)ハァ?
本気でおっしゃっておられる?
>>812 反日は軍と為政者がやってる人気取りの産物だからね。
当然日本の出先機関もそれに同調。
戦後に恨みを買っていたのはむしろ戦後政府。
今でも東北部では日本人の人気は結構ある。
言葉にすると収容所送りだから誰も口にしないけど。
口が裂けても戦後の圧政の方がひどかったなんて言えませんよ。そりゃ。
817 :
日出づる処の名無し:2005/06/05(日) 14:21:57 ID:w+HUUPN/
口裂けじじいだ
>812
見たい。
うちはスケッチしか残ってないんだけど
探したら出てくるかな…。
>>818 俺の家には義理の叔父が昭和17年に南方で撮り、こちら宛に送った近影の写真くらいしかない。
しかし、死んだ爺さんの家に行けば戦前の半島で暮らしてた頃の写真が山ほどあると思うので、
俺も探しときます(俺の爺さんの話は、前スレの
>>466>>792でつ)。
821 :
日出づる処の名無し:2005/06/08(水) 19:49:31 ID:NaBiz6ff
カメラじじい…
822 :
日出づる処の名無し:2005/06/08(水) 19:50:40 ID:NaBiz6ff
アーンドどっかのエロ息子
823 :
日出づる処の名無し:2005/06/08(水) 21:32:40 ID:7ECl76zV
父方の祖父は理系の優秀な技術者だったらしく、兵役の対象にならず工場で
兵器研究してたらしい。
母方の祖父は満州での役人。引き上げ時は相当つらかったって聞いたな。
いまでは両方とも他界してます。
824 :
日出づる処の名無し:2005/06/08(水) 21:49:29 ID:5/17PHYx
ビルマに行って、その後、満州あたりで日本語の先生。
数年前まで赤い封筒に入った年賀状きてた。
小学校の頃な。
海軍で月光乗ってた教師と陸軍で大隊長やってた教師が居てね。
口も聞かなきゃ、目も合わせないくらい仲が悪かった。
826 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 17:19:24 ID:xXZumHDg
祖父は頭が良かったので
「おまえは戦争に行かなくていい。
工場で働け」と上官に命令されて
呉海軍工廠で戦艦大和などを作ってたそうです。
827 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 17:26:34 ID:bJkjtKn0
3人の叔父の話だけど、
一人は中国戦線で戦車乗りだったけど、終戦時に満州でソ連に捕虜にされた。
シベリア抑留組。
2人は同様に満州で捕虜にされたが、将校だったんで今のウズベキスタン
あたりにつれていかれ、比較的ゆっくりとビルなんか建設してたらしい。
828 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 17:40:31 ID:bjr9u5Yd
うちの爺ちゃんはサハリンでロシアと戦ってた
母方の爺ちゃんは馬に乗っての斥候だった、偵察中仲間が撃たれて死んだらしい、爺ちゃんも腕に2発くらった
父方の爺ちゃんもサハリンでロシアと戦ったみたい、結構狙撃が上手くて後方支援担当だった
俺が小さいとき猟師についていったが飛んでる鷹を打ち落としたのは見たことある
すごいよりその時は鷹が死んだのに泣いた覚えがあるな
829 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 17:56:58 ID:pZB7EAVb
爺ちゃん上官の命令で中国人の首切り落としたらしい
死ぬ間際の中国人が助けを求める夢を何度も見たらしい
830 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:03:50 ID:pZB7EAVb
爺ちゃん飛んでくる弾が見えて全部避けてたらしい
831 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:11:22 ID:YcLak3ZV
父方の祖父は背が低くて甲乙丙で丙種だったけど
終戦間近に徴兵されて中国中部で物見に出て死んだと
近所の復員された方が言ってたらしい
832 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:15:34 ID:JGu/u1Ly
うちのばあちゃんは大久野島で働いていたんだって
833 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:17:13 ID:p4/bWxZN
爺さんの兄弟だけどシベリア抑留されて帰ってきた
834 :
あおい:2005/06/09(木) 18:17:59 ID:2P33+XSZ
うちの母方の爺さんは輸送船?に乗っていたらしい。船を三回沈められて三回助かったらしい。そんな強運の持ち主だったが、オレの生まれる前に糖尿で亡くなってしまった。
うちの爺様は陸の曹長だったそうで、親戚中から
「アノぼんくらが何故曹長にまで・・・」と不思議がられたそうだが、
ニューギニアからの帰還途中に乗ってた船が潜水艦に殺られて、
家には遺髪が届いてそれを棺に入れて葬式をしたんだと。
でもその1月後、爺様は五体満足で帰宅してまた家族親戚を驚かせたとか。
その爺様もこのほど2度目の葬式であの世へ旅立ちました。
そして今でも思うんです、誰の髪の毛が届いてたんだろうと。
836 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:53:38 ID:3Vr2wOYw
爺さんは衛生兵として主に南方戦線で活躍
戦地でも木炭車が走っていたそうな(w
837 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 18:54:38 ID:EgxBkkmc
838 :
日出づる処の名無し:2005/06/09(木) 19:01:39 ID:3Vr2wOYw
839 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 11:52:19 ID:9tKOWnw6
>>830 リーブス的じじい。
>>835 スケープゴートじじい。
名立たるじじい達を敬えおめえら。今の日本があるのはじじい達のおかげだ。
840 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 12:40:00 ID:zhPKpOY5
爺さんはシナに行ってたらしいけど。
ある夜、クリークの対岸に爺さんの母が立っているのが見えたそうだ。
後にその夜は、母が息を引き取った夜だったらしい。
まあ、勘違いかどうかとかは謎ですが。
他はこれといった戦争の話は聞いてないのは、爺さんが気が弱く無口の所為かも。
今日はせっかくの休みなんで、爺さんの墓参りでもしてこようかなあとか、
感じた・・・。
841 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 12:45:56 ID:9tKOWnw6
それは感動的な霊感じじいだちゃんと敬えよ。戦争を戦った世代はそれはもう立派な人たちなんだぞ。
842 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 13:10:35 ID:xwce+3kj
うちの母方の爺さんは職業軍人で戦後はシベリアに6〜7年抑留され
ボロボロになって帰ってきたそうな
それが元で早死にでしたね
ただ軍人恩給の額はハンパなかったそうです
ばあちゃんは遺族年金のお礼にと死ぬまで毎年靖国参拝してたそうな
爺さんは母に戦争の話をする事はなかったそうです
843 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 13:43:43 ID:T79Mi7Hg
曹長ってエラいのか?オレの曽祖父は東京帝大教授だったから、下級官吏としか思えん。
844 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 13:46:10 ID:6LGSK9mZ
うちの爺ちゃんは関東軍だったな。
生き延びて、田舎で林業やってた。
後、あまり関係ないが、結構な男前だったよ。
>>843 曹長は偉いですよ。
下士官の最高位です。
その上は陸軍では准尉(海軍だと兵曹長)で、準士官となります。
曹長がどのくらい偉いかというと、曹長から、軍刀の佩用が認められます。
「曹長刀」という軍刀もあったのですよ。
>>845 その上の特務少尉だと、「兵隊にとっての将軍」だからな。
推して知るべしだと思われ。
大学出のポッと出少尉なんか、内心ビビリまくりのはず。
高級将校でも、無碍には扱えないクラスですよ。
まあ、佐藤大輔オタの俺が言っても信憑性は無いか(苦笑
847 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 15:14:29 ID:R0bPT60s
うちのG様、憲兵だったお
ほんとに酷い事したと遠い目で話してくれたお
詳細知りたい人いるか?
848 :
::2005/06/10(金) 15:34:34 ID:NSBFvfZN
今やっているラジオ日本(1422KHZ)のミッキー安川のずばり勝負で
今日のゲストは元民社党委員長の塚本三郎さん。
塚本さんチョン国大統領をノムチョンと言っているニダ。
ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン
ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン
ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン
ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン
ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン、ノムチョン
849 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 15:40:58 ID:396j+5B4
俺の爺ちゃんは、台湾で役所勤めの公務員だったらしい
戦争中、日本が食糧不足の時も台湾では全く食料に困ることはなかったってさ
>>847 憲兵と言えば、スパイの取り締まりも任務だからな。
実際、国民党も共産党も一般市民を装ってゲリラ活動していたしな。
いつ普通の市民に背後から撃たれるかと思うと、爺さんたちの苦労は思うにあまりある。
興味はないね。
俺の爺ちゃんは震洋特別攻撃隊だった
852 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 16:07:19 ID:29euoVxb
母方の祖父は、戦争のお仕事で、中国の南京に行った!
と、子供のころから言われていました。
10年ほど前がんで亡くなったので、もう話は聞けない。
南京占領1〜2年後だと思う。
853 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 17:31:40 ID:Dsw0nSmQ
父方の爺さんは年だったので軍の精密機械のようなものを作っていたらしい。
母方の爺さんは年だったがギリギリ召集。ウズベキスタンで捕虜生活。
帰国後捕虜生活で何を洗脳されていたかをGHQか?どこかに話しに行くと小遣いが
もらえたそうだ。そして酔うと「ユダヤは悪、1ドルは100円になる」と言っていた。
旦那の父さんは15年に一度、その後もう一度戦争に行ってる。南方で、
トロピカルフルーツが好きになって帰ってきた。ただドリアンは人間の食べるものではないと言ってた。
上等兵あたりだったらしい。当時の写真見せてもらったらびっくりするほどハンサムで
姑が寒流ブームにはまらない理由がよくわかった。
皆さん他界。近所や親戚の大正生まれお爺さんも亡くなる方が多くなってきたので
戦争の話はドンドン聞けなくなるのが残念。
854 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 17:33:54 ID:7mhFnlfv
私の祖父は、大学を落ちて浪人している時、招集され、地獄のビルマ戦線に行かされた。
衛生兵だったが、軍隊内の苛めは凄まじく口に靴下を詰め込まれ半殺しになるまで、
殴られたらしい。犬掻きは、できる様になったが、人格が崩壊して帰ってきた。気に入らない
事があると、祖母を半殺しの目に合わせ、父に暴力を振るうのは、日常ちゃはんじだった。
殴り方も玄人なので、祖母は医者に頭を縫ってもらい、父の鼓膜は切れた。年寄りなのに、
切れるとヤクザと殴り合いの喧嘩をして、定期も現金もすべて取られ、つめをはがして帰ってきた。
晩年は、親友とも仲たがいをし、葬式には30年も教壇に立っていたのに、同僚も教え子も親戚も来ず、
金目当てできた2番目の妻の一族郎党ばかり。財産は、退職金も遺族年金も全部、連れ合いに持っていかれ、
誰もお墓を見ようとしない。書斎には、アウシュビッツのユダヤ人の死体の山とか、陰部に棒を突っ込まれた、
強姦された女の写真の雑誌が一杯あった。ビルマでした事が、懐かしかったのか?とにかく戦争関連の事は、
好きで、「コンバット」とか良く見ていたと父がよく言っていた。平和な時代に育った私たちには、理解できない
生き方だった。
855 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 19:10:40 ID:R0bPT60s
>>854 その血を引いてることに誇りを想えよ
まず「日常ちゃはんじ」と書いてる時点でお前も狂ってるのがよく解る
うちのおじいさん戦闘機の整備士だったらしい。
整備した戦闘機に友が乗りそのまま帰ってこない・・・
最終的には燃料は片道分、余分な装備は取っ払い軽量化。
「何百人という仲間をワシの整備した戦闘機で死なしてしまった・・・」
「ワシが殺したのと同じだ」って涙を流しながら語ってくれた。
うちのじじいは普通の陸軍歩兵隊
満州行って、特に戦闘せずに終戦で戻ったらしい
現地人から略奪しまくって、「金目のモノ隠してやがった中国女の
ピアス引っ張って、耳引きちぎってやったよw」
とか笑いながら話すのはちょっとヒイタ
シナとかがいまだ怒ってんのもちょっとわかるかもw
あと、食料が全然なくて、握りこぶしくらいのなめくじをゆでて食ったら
思いのほかウマくて、たらふく食べたら次の日全員ピーピーの下痢w とか
今だから笑えるおもろい話はいっぱいあるので話してて飽きない
858 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 20:01:35 ID:v1Xw5gam
859 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 20:05:16 ID:v1Xw5gam
>>857 なんか嘘っぽい。満州のどこだ?
じいさんに隊長の名前と所属部隊聞いてみろ。
860 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 21:26:06 ID:7mhFnlfv
私のおじいちゃんも戦後大陸から無事復員できたと言っていた。何をしてきたかは、
家族の前では、話さない。やはり戦争関係の本は、好きらしく懐かしいのか、書斎に一杯ある。
当時のインテリは、キリスト教だったらしく、家は仏教だが、洗礼名を持っているし、それから
社会主義に嵌ったらしく、本棚は聖書と共産党宣言と、パリの赤い血のような歴史本と、一億人の昭和史
・野火・黒パン捕虜記・ゼロ戦・ドイツ軍の参謀本部などミリタリーブックが一杯。勝手に入ると怒られる
ので、留守の時こっそり入り、アウシュビッツの様な残酷な写真集を怖い物見たさで、子供の頃から見ていた。
おかげで、戦争の事は同年輩の友達よりは詳しくなった。一度中国人に鬼畜の事をしたと言っていたが、教えて
くれない。今は左翼にも飽きたらしいが、なんか矛盾している人だ。
861 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 21:28:55 ID:sntFmNDA
昔の記憶によるとうちのじいちゃんは満州に行ってたっぽい
それだけですが…
伝聞+スレ違いの可能性があるが
随分前に父親と従軍慰安婦について話し合って、父親が
「○○のおじさん(父方の血縁者)は戦地に行ったら慰安婦が居たって言ってたぞ」
と言ったので
「それが従軍慰安婦の証拠は? 金貰ってる証拠の裁判例について言ってあげよっか?
そもそも戦場に居れば即従軍慰安婦認定? 追軍慰安婦という意見はなし?
日本と朝鮮のハーフの子供は? ベトナムには韓国とのハーフが大量に取り残されてるけど何か?
子供が居ないって事は犯った後殺したんだよね? もしそうなら今生きてる奴等は何? なんで生き残ってる?」
と激しく詰問したら逃げられた
まんまサヨ人間でした。学校の先生はサヨ嫌いに変わったので安心ですが
ちなみに本人(○○)さんは一ヶ月程前に他界
かなりの高齢だったし、記憶もしっかりしたものじゃなかったらしい
他界する前に直接話しを聞いて見たかった
863 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 21:57:28 ID:aJ0oUYGd
爺さんの兄弟や友人も死んだのだから、
あまり喋りたく無いのは、よく分かった。
そりゃ、色々あっただろうな。
負けちゃったからかなあ。
864 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 22:02:36 ID:nrNTK2Aw
うちのじいさまは尋常出ただけで農家の息子なのに
衛生兵で天津の病院にいたらしい。自慢してました。
仲間は床屋の息子とか中等を出ている人たち。
途中で帰ってきてひいばあちゃん驚かせたり
曹長?になって部下も持ったらしい。
朝に陸軍の訓辞?を部下に暗唱させたそうなのですが、
自分も覚えてなかったので適当に済ませたそうな。
戦争も末期になると病院の仲間も次々と戦線に送られましたが
じいさまは最後まで天津にいて終戦を迎えたそうです。
自分は運が良かったとよく言っているじいさまは
今でも裏の畑で野菜を作っています。
(基本知識が無いので?ばかりですいません。)
865 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 22:09:06 ID:DHXMVkS3
うちのじいちゃんは神主やってて
兵隊さんには行かなくて
終戦間際には造船所で、でっかい潜水艦作ってたそうだ。
もしかしたら、伊401かも
そんで、作業中にグラマンの機銃照射うけて
造船中の潜水艦の甲板を走って逃げたら
穴が空いてて、甲板から艦底まで落ちてケガしたそうだ。
866 :
日出づる処の名無し :2005/06/10(金) 22:16:48 ID:pUc/l/Tp
親しくしている学校の先生のじいちゃんの話なんだが、そのじいちゃんは学徒動員?で呉の工廠に行っていたとのことです。
でそこで伊号潜水艦(たしか102か103といっていたと思うが、記憶が定かでない。)をつくっていたそうな。
そのじいちゃんいわく「今考えてみれば学生が潜水艦を作っているんだからそりゃあ負けもするわな」と、臆面もなく話していました。
ちなみに、その時あき時間を利用してドッグ入りしていた軍艦を見に行っていたそうな。
それによると榛名はもう見学のし放題だったけど、大和はドックに掛けられた桟橋?の、所に憲兵がいたそうで、道具を持って修理をするふりをして見学にいったとかで・・
こんど、尾道のセットに連れて行こうかと画策をしております。
867 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 22:28:24 ID:YyTaRU1T
知り合いのおじいちゃんは、中国で戦ってたんだけど、慰安婦の写真を
ブロマイドみたいに何枚もアルバムに貼って保存していたって、言ってたよ。
彼女達全員にお世話になったのかどうかは不明だけど。
これ聞いて、何しに逝ってたんだか、と思うけど、
やっぱ慰安婦ってマドンナだったんだなと実感した。
俺の父方の両親は戦争中に病気で亡くなった。親父とその妹が、
親戚に引き取ってもらえなかったら、蛍の墓だった。
母方のじいちゃんは農家の長男で戦争行っていない。
けど、その兄弟は、特攻隊とかもいてみんな戦死した。
868 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 22:42:44 ID:U8L++Fq3
母方の祖父は高齢だった為、戦争には行ってないそうな。母親が結婚する前には祖父、祖母とも
死んでしまったそうな。もちろん漏れは会った事すらない。
父方の祖父は徴兵じゃなくて志願して海軍に入ったそうな。もちろんかなり下っ端だとおもう。
通信兵をやってたらしい。シベリアじゃなくて南方の方で捕虜になった。
うちの家系は寒いのが苦手なので、シベリアだったら死んでたな。
父方の祖母の方は女工?として広島に行く予定だった。なんかの理由で行けなくなって被爆は免れた。
学校では本当に竹やりやらバケツリレーの訓練をしてたらしい。
漏れには「今考えたら、竹やりで勝てるわけねーよな」と言ってた。
それで終戦の日は学校(旧制女学校)に来るように言われたらしいが、
「何で負けたのに行かないかんのぞ」と言って無視したそうな。
祖父母とも健在だが祖父は寝たきり、祖母はかなり元気。今度あったら話し聞こうと思う。
869 :
日出づる処の名無し:2005/06/10(金) 23:47:19 ID:v1Xw5gam
爺ちゃんの兄弟全員アメリカの空爆で殺された
かわいそうな爺ちゃん
>>869 貴重なお写真UPありがとうございました
>>869 写真、拝見しました。
ありがとう御座います。
皇紀2600年は父親が生まれた年で、祝賀式典に大きな腹を抱えて参加したと
亡くなった祖母が言っていた事を思い出しました。
873 :
& ◆MXqqE0rkcM :2005/06/11(土) 01:57:40 ID:sstG3q2L
日本叩きの方々は、在日の方なのか、中国のスパイなのか?
スパイどのくらいいるんだろうね。結構おくってるよね。きっと。
中国だもん。
中国の付け焼刃的な工作員が、
どれだけいるか分からんけどね。
確実に、ここを見て、
翻訳して、報告してると思うよ。
冗談でなく。
北朝鮮に関しては、
総連関係かな。
あと、日本のマスコミ関係者も、
少なくとも、個人的に見てるのは、
間違い無い。
妄想?
そうかもね。w
常に妄想を飼いならして、
想像力が及ぶ限り、
あらゆる事態を想定するのは、
情報が氾濫する中で、
波乗りするための知恵だわな。
あらゆる事態を想定して、
自分好みの方向に、
物語を引っ張ってける奴が、
情報を制すってことで。
875 :
日出づる処の名無し:2005/06/11(土) 08:26:32 ID:QCQv3q1X
>>874 中国や日本のマスコミが見てるとしたら
氏ね と一言送っておきたい特にマスコミ
マスコミなど金と数字しか気にしないゴキブリだろ?
ってゴキブリに失礼だな
876 :
日出づる処の名無し:2005/06/11(土) 08:30:32 ID:HvNxzS7X BE:168893055-
ウチの爺さんは中国戦線で戦ってたといっていた。
スモウで朝鮮人に大技を決めて勝った武勇伝やら、夜目が利くので斥候として活躍した話を聞かされた。
終戦後引き上げする時に、朝鮮人の暴徒達に日本人女性がレイプされるのを何も出来ずに見ていて悔しい思いをしたとも語った。
朝鮮人はろくでもないなあ・・・。
878 :
日出づる処の名無し:2005/06/11(土) 09:31:59 ID:GDN1zGu2
ウチのじいさんは近衛兵だった。台湾で魚の研究しておった学者だったんで戦力にならなかっただけだと思う。
結構、台湾人もボロクソに言っていた
879 :
日出づる処の名無し:2005/06/11(土) 10:54:18 ID:rO4NoTJ3
幼稚園の園長が海軍の戦闘機海苔だったな
通っていた当時はそんなこと知らなかったが
「とにかく目だけは大事にしなきゃいけない」みたいなことを散々いっていた記憶がある
敵よりも先に見つけなきゃ自分が墜とされちゃうもんね、納得
ウチの母方の爺さん、シベリアで捕虜になったって言ってたな。伍長だっけな。
扱いは酷くなかったが寒いのと食い物ないので参ったって笑ってた。
父方の爺さんはフィリピンで戦ったって聞いてたが、詳しくは聞いてない。
今はどっちも他界したのだが、
戦地に行った爺さん達ってのは、老いてもどこかで漢を漂わせてた思い出がある。
>>880 激しく同意。
ウチの母方の祖父も満州〜シベリアのコース。
母親はムロン満州育ち。
残留孤児帰国の第一陣の頃は、本気で号泣しておった。
「母ちゃんも一歩間違ったらああだった」って。
祖母が必死で子供二人連れて帰国した。
祖父は終戦後数年でやっと帰国。
じーさんってのは基本的に孫に甘いが、甘い中にも凛とした所のある人でした。
10年前他界したけど、祖父は俺の理想の男です。←ホモぢゃないぞ。
882 :
日出づる処の名無し:2005/06/11(土) 19:51:25 ID:Wqf7OzJ0
保守
フラッシュみたんだが空母ってすごいのか?
戦艦より強いの?
だれか熱く説明してください
うちの爺さんは傷痍兵となって日本に引き返したが、
大叔父さんはどこでかは忘れたが戦死した。
祖父母の金婚式の時に爺さんが弟が庭に亡霊で現れた翌日に戦死の訃報が届いたといってたよ。
885 :
日出づる処の名無し:2005/06/12(日) 12:35:12 ID:45GWY4kb
爺さんは軍医、カアちゃんの兄は海軍航空隊。
戦後は爺さんが台湾の日本人学校教師、カアちゃんの兄はブラジル移住。
戦争の話は聞いたことが無い、今でも戦争に負けたのが恥じだと思ってるようだ。
886 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 00:41:52 ID:EAcBxN+C
私のじいちゃんも、学生時代無理やり召集され、ビルマとか、南方戦線に送られた。
食料がなく兵器はアメリカ軍より悪いし、伝染病は流行るし、散々だったらしい。
そんな戦場で盲腸になり、野戦病院で切って貰った。麻酔も無しにやったらしく、
今の人と違い物凄い傷跡だ。無事生還できたのは、奇跡だと言っていた。宮城県地震が
有った時、帰ってこなかったら泥水を褌で濾して飲んできた人だから路上でも寝れるし
大丈夫だと父が言ってたら、平気な顔をして帰ってきた。若い時に外国に出たので、
晩年は、海外旅行は平気で一人で、台湾・ヨーロッパまで出かけていた。ビルマには、
軍事政権化で行けなかったのか、行きたくなかったのか行かなかった。国会中継を見ては、
政治家をくそ呼ばわりするのが趣味だった。自分の青春を奪った政治によっぽど恨みが有った
らしい。亡くなった時、喉仏がふつうのひとの2倍あると、火葬場の人がわざわざ説明してくれた。
健康でタフだったから、生き残れたのかな。
887 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 01:54:04 ID:e9/VFoh8
888 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 10:44:18 ID:qPP601L2
もう云っちゃいましたが。
樺太行ってたらしい。子供だったんで、なんお事やら・・って感じだったが。もったいない事した。
後悔してる。
俺達のじいさん達は
命と青春を懸けて日本を守った。守ろうとした。
俺達のおやじ達は
家庭を顧みず敗戦に荒んだ国を見事に復活させた。
俺達は 何をする?
俺は
考えが古くて、頑固で、背中が曲がって、時代劇に一喜一憂し、
たまに小遣いをくれるニッポンの暢気なじいさん達の名誉を守りたい。
身近なトコに勇者っているもんなんだよな。
団子とお茶で1日幸せなじじいだが、戦中はインドネシアにいたらしい。
多くは語ってくれないが。
しかし泣けるスレだ。
890 :
日出づる処の名無し:2005/06/13(月) 13:17:07 ID:DxaESujD
そうだじじいへの敬愛を持て、じじいは信念を持って戦ったのだ。
うちの祖父
満州で対ソの訓練してたけど、トラック諸島に居た第一艦隊(?)が全滅したんで
そっちに行くことになったとか。
ちなみに通信兵の下っ端(暗号を直接打つ係)で、何故か回天とかも作ってたらしい。
(前の隊の物資だけは、大量に残ってたそうだ)
あとで合流した沖縄の人と朝鮮人(多分志願兵)が、凄く勇敢だったってさ。
地元の人たちも塹壕掘りとか手伝ってくれたと言っていた。
ちなみに現在85歳で、赤旗と朝日取ってるけど戦争の話を喜々としてするヘビースモーカーです。
戦争のこと話したがらない元日本兵の爺さんって話せる事が無いんじゃないかなぁ。
別に強姦とか略奪とかしてなくたってかなり不安な状態に置かれてたわけだから
普通に慰安所は行くだろ。アメリカ軍は慰安所無かったけどベトナム戦争の時は
沖縄の売春婦がその役割をしてた。その頃のコザのダンスホールの写真とか見たけど
貧乏そうな黒人兵がそういう女連れてかなりヤケクソに踊り狂ってて痛々しかった。
すんげー激しく踊ってるしシートじゃそのままセックス始めるんじゃねーかって勢いで
女に抱きついてるんだけど誰も目が笑ってねーの。ほんと痛々しかった。
二次大戦にもなると闘いそのものもそんなヒロイックなもんじゃなくて敵の銃声が止むまで
ずっと塹壕に隠れてヒョイと頭を出しては闇に向かってメクラ撃ちしてまた隠れてっていう
繰り返しで何と戦ってるんだかサッパリ解らなかったって話を良く聞く。ずーっと不安で
セックスで気を紛らわし、語れる武勇伝も無く帰国って感じじゃ単なる人生の闇の
時代ってだけだから語るだけで暗い気持ちになるから何も話したくないだろ。そういう
陰鬱な状態に置かれた雑兵(敢えてそう言わせてもらう)こそご苦労様でしたと言いたい。
兵站を考えれば略奪も全くせずに済んだとは思えないし当時の地上戦で強姦が
全く無かった事は考え難い。欧州戦線は言うに及ばず日本でも沖縄戦では酷かった。
これを平時の感覚で人殺しだ強姦魔だ泥棒だと糾弾するやつってのはほんとずるいし
話したがらない爺さんにはそれ以上何も訊くべきじゃないと思う。全く罪を犯して無くても
負け戦が濃厚になってからはいじめとか酷かったっていうしとにかくどういうケースにせよ
話したがらないって事はそれがとてつもなく陰鬱な記憶なんだろうしそういう時代の闇に
巻き込まれた犠牲者だ。
何かスレ違いっぽくて御免。
>>633が俺の爺さんの話です。書いてからずっと読んでたけど
話したがらないって人が多いんでつい色々考えてしまいました。
893 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 04:59:29 ID:sEqLIP+o
普通の昔の日本人は、自分の弱みとか見せると、恥ずかしいと言う感覚があるし、
(だからこの年代の人は他人に頼らないから、生活保護を受けず餓死したりする。)
男がぺらぺら喋るのは、恥ずかしいと言う教育もされてきたんだろう。負け戦が惨めで
嫌いだと言う事もある。太平洋戦争は、日清・日露戦争と違って、大儀名分もなかったし。
でも長期的にみれば、アジアを欧米の植民地支配から開放したのに、万分の一ぐらいは貢献した
だろう。白人を追い出す姿を見て、インドネシアやベトナムやインドは自分たちもできると勇気づけられた。
中国や韓国には、功罪合い半ばだな。近代化を助け独立運動を支援したりいい事もやったが、差別や虐殺もした。
私の祖父も、家族の前では話したがらなかった。シベリアに抑留されたが数年たって無事復員した。
学生時代は、大正デモクラシーで、ロシア文学が好きで、リベラルな考えの持ち主だったらしい。
戦後は、教師だったので、当時の風潮として赤旗をとり、鉢巻をしてデモをやったそうだ。
でも左翼でもなく、まもなく毎日新聞に切り替えた。煙草は、いつも“しんせい”を吸っていて、
父は良く買いに行かされたらしい。天皇制とアメリカには批判的で、政治には関心が高く国会中継と
甲子園はよく見ていた。でも、アメリカ文化は好きで「コンバット」「ローハイド」などをよく見ていた。
いい意味で個人主義。家族を置いて、一人で山登りや海外旅行にいき、頑固で偏屈なところもあった。
地獄の体験をしてきたせいか、世の中をクールに皮肉を込めて見ていた。二度とだまされないと言っていた。
でも晩年は、平和な上り坂だった当時の日本を思いっきり楽しんで死んだと、父が言っていた。
894 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 07:26:48 ID:V3bxYWaM
895 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 07:49:49 ID:p8KKGXsI BE:201060465-#
父方ひいじいちゃんは和歌山で海軍の大佐をしてたなぁ
母方のじいちゃんは飛行機工場の工場長だった
896 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 08:00:32 ID:g/pLRnpq
満州で衛生兵
私の母方の祖父は横浜の船乗りだったそうで
戦争中も輸送船だかに乗ってたらしいけど
船が撃沈されてアメリカの捕虜になった。
英語が話せたから通訳として厚遇されたかわりに
戦争が終わっても一年ぐらい家に帰されなかったらしい。
船が沈んだ時点で戦死したとされ、お墓も立てていたから
突然何の前触れもなく「ただいま〜」と玄関から入ってきて
死ぬほど驚いたと母が言っていた。
その祖父は家に帰ってから一年ぐらいたった日の朝
母が起こしに行ったら布団の中で亡くなっていたそうだ。
本当の葬式を出しながら「家で死にたくて帰って来たのかねぇ」と
残された家族で泣きながら笑ったと母が言っていた。
世界平和と亜細亜開放のために戦いました。
899 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 13:10:19 ID:13kVpvZA
>895
ようやく高級、中堅クラスが出てきた。
当時の日本がピラミッド社会だったというのがよくわかるよ。
900 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 13:20:00 ID:0ib7QomL
>>898 私の祖父もです。
我々も頑張りましょう。
901 :
三国人を相手とせず:2005/06/14(火) 13:20:13 ID:CSMyTTm1
うちの家族は満州へ。町では評判の料亭。家も豪邸。全てを投げ捨て、
御国の為に駅馬へ。
大陸では当然圧勝だったから、敗戦が知らされ突如引き上げに。
匪賊にも襲われ散々な目にあったそうな。
そして没落。
今は父親ががんがん稼いでいるから、私は大学にいけるし、実際の事勉強できたわけさ
902 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 14:40:08 ID:0ib7QomL
>>901 >敗戦が知らされ突如引き上げに。
ウチの祖母も、在満中亭主(ウチのじいさん)を現地召集で関東軍に徴られ、
子供三人抱えて暮らしていたのだが、満州では終戦直前の時期でも、「日本
は、まだ聯合艦隊が健在だから大丈夫だ」って言い交わしていたらしい。
終戦と引き揚げは、全く唐突だったと。
903 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 14:55:43 ID:V3bxYWaM
戦争の話はよく聞いたことなかったんだけど
(祖父さん鹿児島なまりがきつい)
形見に弟が金時計をもらった。
葵のご紋に「贈 内閣総理大臣」って書いてあるけど
これどういう時計だろう? 知ってる人いませんか。
家のじいちゃんは警察で鑑識やってたらしい。
金属類回収令の一環で刀剣類を回収、一部を着服。
戦争終わるまで隠し持ってて、その後は刀剣収集家相手に金品と交換したとか。
906 :
日出づる処の名無し:2005/06/14(火) 17:13:22 ID:25LtrkWa
父方のじいちゃんは海軍パイロットだったようです。
母方のじいちゃんは陸軍でノモンハン事変に参加→南鮮へ転属→
終戦・・・と最初の戦闘以外、全く銃弾を撃ったことがねえ・・
・とぼやいていました。ノモンハンのことを語る時は辛そうでし
たけどね
#味方が火炎放射器で・・・とかロシア軍の戦車対日本のたこつぼ+あんぱん・・・
とか
母方の祖父は日本で一度陸軍に入隊したが、退役。
満州で文具店を営んでいたところ、再び召集され陸軍に。
斥候兵の過酷さをよく語ってたのを覚えてる。
父方の祖父も陸軍の軍人。床の間に勲章だか表彰状だかが飾ってある。
南方でわき腹に機銃弾を受けて後送。
広島で療養中に原爆落とされたが、運良く無事だった。
戦争のことはほとんど語らなかったな。
>>907 斥候を下命されるのは目端が利いて賢く、戦場馴れのした強兵です。
祖父上は精兵でいらしたに違いありません。
軍歌「日本陸軍」にも、斥候の労苦は謳われていますね。
「日本陸軍 −斥候」
或いは草に伏し隠れ
或いは水に飛び入りて
万死恐れず敵情を
視察し帰る 斥候兵
肩にかかれる一軍の
安危や如何に 重からん
栄光の関東軍として、満州にいたようです。
で、引き抜かれる事も無く、満州にそのままいて、終戦時のどさくさに要領よく日本にも帰ってきました。
もう1人のおじいちゃんは、職人さんだったので、内地でひたすら腕を振るっているうちに終戦を迎えた
ようです。
何処に行ってたか分かりませんが
私が小さい頃は祖父の家に飛行機の格納庫がありました。
平野だったのでそこから零戦?が飛び立っていってたらしいです。
911 :
日出づる処の名無し:2005/06/15(水) 00:28:26 ID:2298+P2G
爺ちゃんの世代=国防優先(日本人憲兵がスパイを抹殺)
親父の世代=金優先(日本人スパイと在日朝鮮人スパイが手を組む)
俺らは今?=在日朝鮮人に日本を占領される寸前!!(いいのか?)
じゃあ何をする?=爺ちゃんの世代に戻り国防を優先するしかない!!
腐れた親父の世代の根性を元に戻せ。
外務省含む現役の政治家と官僚の世代は親父の世代と同じだろ?
戦後60年間経過した今年、俺らは仕事なんかしている場合じゃない。
60年で退職した。
ニートで当たり前。
政治と国防に目を向けろ。(マジレス)
http://tmp5.2ch.net/test/read.cgi/asia/1118692382/l50
913 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 07:08:36 ID:BUElMVWC
>897
いい話ですね。
なんか朝のテレビ小説みたいですね。
914 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 08:02:52 ID:msRJxIyg
中国に補給部隊で行ってたらしい。
従軍慰安婦なんか世話になった事ないと言ってた。
つうかその辺の娘捕まえた方が早かったんだと(笑)
915 :
日出づる処の名無し:2005/06/16(木) 12:28:02 ID:kuJU8pV6
>>911 頑張ってくれたまえ。わしゃ疲れた...
漏れの母方の祖父は、南洋の戦線に送られたが、
ろくに戦わないうちにマラリアにかかって死に掛けて
そのまま送り帰されて来たそうな。
元々体の弱い人だったようで、母親が生まれて
しばらくして病気で亡くなってしまった。
父方の曽祖父は、日清戦争の時、曹長(?)で、、
最近、親戚に写真の修復を頼まれて、初めて
出征時の写真を見たが、椅子に座って、
杖にしたサーベルが小さく見えるような豪傑だった。
豪快な逸話には事欠かない人だが、戦場で
どうだったかは聞いていない。
>>902 やっぱ満州は平和だったんだね。俺の婆ちゃんは住んでた町を焼け野原にされて
何もやり返せない現状見てたしもう誰も勝てるとは思ってなかったってよ。近所に
家族を兵隊にやってる人が多いから負けるって言っちゃいけない空気だったけど
沖縄上陸あたりでその不文律も無くなってコソコソと「いつまでやるんだろね」
みたいな感じだったとのこと。
ここで南雲忠一の親戚にあたる漏れがきましたよ
>>869 調べてみた”日本生産合作社協会”ですね
農協と産業組合を合わせたような組織
中国農民経済の近代化を目指して設立された
村落間の抗争の仲裁から、教育、技術指導
種苗の配布、水利、災害対策、救援の計画立案を担い
無秩序な農村を経済的に組織化し自立させる事を、最終目的とする
えーと・・・それ、何てユニセフ?
中共もこれをパクって、戦後いろんな”合作社”を作ったが、鳴かず飛ばずというオチがw
俺も書いてみる。団塊2世だw
親父側の亡き親父は、ロシア方面の戦争に逝っていた。
多分樺太あたりだと思う。
銃を持っていたが、敵兵士を撃ったのかは不明。
最前線で無かったらしいので、ドンパチはやってなかったと思う。
15年以上前に親父から聞いた話なので、本当だったかは定かではないw
お袋側の亡き親父は、どうだったか知らぬ。それどころか、俺の家族で顔を覚えているのはいない。
戦争が終わった時に生きていていたのは、お袋&その兄の年齢でわかる。
ただ、お袋が物心つく前に亡くなっているから・・・
俺のGちゃん
アメリカ軍に勝つために万能バトルスール「ガチャピン」作ってた
でもガチャピンだけでは能力を100%引き出せないんだよ
だから支援バトルスーツ「ムック」が開発するんだけど
体の色、質感、頭のタケコプターなど
ちょっとスレ違いだがばあちゃんの兄貴が日露戦争に勝った時に生まれて
正義は勝つ、略して「正勝」って名前だったな。後に三高に行くしそういうインテリでかなり
左寄りの家だったんだがそういう家でも普通に戦争での勝利を祝ってたってことだね。
年齢的にも地位的にも召集は受けなかったんで戦争には行ってない。
924 :
日出づる処の名無し:2005/06/18(土) 22:40:05 ID:RygJB0Du
私の母方の祖父は徴兵された後、職業軍人になって、砲兵のプロとして、関東軍の中尉にまでなったと聞きました。
もうずいぶん前に他界しましたので、私が聞いた話もあいまいな点があることをお許しください。
聞いたところによると、東京渋谷の近衛野砲連隊(今の昭和女子大学)というところにいて、しばらく鬼軍曹してたそうです。
近衛というと凄そうですが、当時帝都に駐屯していた部隊は皆そう言われたそうです。
226事件のことはよく話してくれました。やはり大雪の日で、突然、上官にたたき起こされて、分隊を率いて、半蔵門まで
すっとんでいったそうです。そうとう混乱していたようで、皇道派の検問にもかかったのですが、あっさりスルー。
「こりゃ大変なことになった」と気が付いたのは、配置についてからことでした。
その後、砲兵下士官としてシナへ。関東軍に配属され、北支戦線の最前線で戦っているうちに少尉任官、
最終的には中尉として連隊の副官やっていたそうです。(出世が早いですが、上官がみな戦死されたのでしょうね)
なんでも蘆溝橋事件のとき現場にいたそうで、「あの時は死ぬかと思った」というほど激しい戦闘が行われたようです。
北京攻略は「みんな逃げたのでラクだった」んだそうです。
婆ちゃんも、なかなかすごい経歴で従軍看護婦をしていました。で、思わずホントかよ! と思うような出会いをしたそうでうす。
なんか爺さんの戦友の御子孫の方、このスレにいるかもしれませんね。
926 :
日出づる処の名無し:2005/06/19(日) 22:14:59 ID:uSMSSm22
ハタタテヤーハタタテヤー の爺様はどうなったんだ。
折角、漏れが調べて教えてっやたのに。
礼に一言もないのでは、世も末だ罠。
927 :
おかしくない?:2005/06/20(月) 00:16:03 ID:dS0d23W4
【日韓条約 知られざる交渉の内幕】〜NHK・BSドキュメンタリー(平成17/06/18)〜
◆ソン・ドンホ氏(80)について
ナレーション:ソンさんは昭和19年、日本軍の中国北地派遣部隊に配属されました。
当時軍隊では昌成トウコウ(東稿?)という日本名で呼ばれていました。
『臨時陸軍軍人(軍属)届 昭和20年3月』のアップ画像
・徴集任官(初年)の欄「昭和二十」
・役種の欄「一補」
・兵種の欄 判読不能(一文字で車へん?)
・官等の欄「二」
Q:階級は?
「一等兵だよ 一等兵を知ってるか?」
Q:誰がつれて行ったのですか?
「誰って? 令状が来たんだよ 赤紙ってやつだ」「君達は何もしらないんだなあ」
「訓練を受けて、身体検査を通過して、赤紙という令状が出たわけだよ」
ナレ:昭和19年朝鮮全土に徴兵制が実施され、11万人以上の青年が召集されました。
当時20歳のソン・ドンホさんは、一期生として中国大陸の戦場に送り込まれたと言います。
●ソン・ドンホ氏の放言
うちの部隊は朝鮮全土から集めた朝鮮兵だけの部隊だったんだ。
日本人は指揮だけで、実際は俺たちが全部やったんだ。
日本人の指示に従うしかないんだから、当時は・・・
日本の軍人には補償しても、韓国人には何も無い。(以下恨み節略
ナレ:ソンさんが住む村からは、36人の20歳の青年が全員召集されたと言います。
戦争から帰還し今も村に住む人は皆、調査を申請しました。
928 :
日出づる処の名無し:2005/06/20(月) 00:34:29 ID:D90DX9aD
うちのおじいちゃんは俗いう「神風特攻隊」だったらしい。
飛び立つ数日前に戦争が終わって助かったらしいけど、
前に飛び立った仲間の事を思うと悲しくなるってさ。
929 :
日出づる処の名無し:2005/06/20(月) 01:06:41 ID:msmw7lug
母から聞きいたのですが満州に数年間行ってたそうです。
朝鮮の人間は恐ろしいとかなんとか
うちの爺さんは零戦乗りやった。なんか零戦の精巧な模型(鉄製)を記念かなんかで貰ってた。なんか戦争行ってΖガンダムのカミーュ状態になっちゃってるが。