1 :
日出づる処の名無し:
俺の爺ちゃんは陸軍軍曹までいったらしい
自衛業阻止?
3 :
日出づる処の名無し:04/11/16 16:13:54 ID:lTJgZHxP
南洋庁勤務。家族をグアムから貨物船で本土に帰した後
サイパン島で玉砕。
最後は弾が尽き、兵隊みんな横一列で肩を組んで「ワショーイ」アタック。
米軍の機銃掃射であぼーん…だったらしい。
一等自衛業阻止
5 :
日出づる処の名無し:04/11/16 16:15:42 ID:+310lkqU
うちの祖父は、徴兵にはお呼びがかからなかったそうな。
6 :
日出づる処の名無し:04/11/16 16:19:14 ID:KFOY93gG
呉で訓練やってるうちに終戦だったかな。
でも戦友会のお呼びはかかってる、
徴用されて、戦艦武蔵の電球付けとかやってたそうだ。
背が低くて兵隊になれなかったらしい。
8 :
日出づる処の名無し:04/11/16 16:22:05 ID:ayGNtdNx
死んじゃって詳しく聞けないのが残念だ。
爺ちゃんの兄貴は海軍ってのは聞いたな。
どこ行ってたとか聞きたかったな。
軍艦乗り。
階級は軍曹か曹長かその辺りらしい。
10 :
日出づる処の名無し:04/11/16 16:22:55 ID:gw5Cjr23
戦中、万里の長城で撮った写真を見たことがある。
満州事変か日中戦争か、詳しくは忘れたけど
「長城を越えた」と話してた。
後でキンシ勲章だったかもらったって。
十数年前に亡くなったけど、
亡くなってすぐ後に、当時の宮沢首相の名で、
何か賞状もらってた。
今度帰省した時、ちゃんとみておこう・・・・・・
遺品の中に、満州事変の新聞記事があってビクーリ
軍人ではなかった。兵卒。
負傷して内地へ返され、戦争終了で生き残った。
今も、南方で喰らった弾が、体の中に残っている。
2度応召してたとか・・・・
最初は、近衛兵として、2度目は満州にいってたらしい。。。
爺さんの弟は、ビルマとグアムで戦死してる。。。
陸軍の衛生兵だったらしい。
軍服着てスキー履いてる写真を見た事がある。
戦後は国鉄員で、
定年まで努めてなんか勲章みたいなのもらってた。
小学生の頃亡くなったんだけど、
軍隊や鉄道の頃をもっと色々聞いておけば良かった…。
陸軍大尉で北支にて共産軍相手に戦ってたそうな。八路軍って言ってたな〜 軍刀の持つ所に忠臣倉みたく白い着れを巻いた写真に萌えたw
15 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:05:14 ID:5bVoAcd5
沖縄で戦死しました。遺骨も見つかっていません。
わたしの名前は祖父から一文字頂いたそうです。
祖父に恥じることなく生きていきたいと思います。
17 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:37:20 ID:AuRjnxaO
父方の爺さんは日露戦争時代の陸軍
母方の爺さんは飛行兵
ちなみに親父の従兄弟は翔鶴乗組員。
18 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:39:02 ID:TITvKqgJ
良スレのよかん。
19 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:42:34 ID:Q7cl++A7
じいちゃんは戦艦大和の部品作ってたらしい
あと、南の島でふんどし一丁で泳いでたり
でかいバナナを見て感動しながら仲間と食ってたって話しは俺が爺ちゃんちに行く度に聞かされる
20 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:44:54 ID:+J8KF3WE
うちのジーちゃん
シベリヤ出兵
21 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:45:01 ID:d4t5Cauy
俺の祖父は海軍の大尉でパプアニューギニアで終戦を迎えてC級戦犯になったでも正八位になってて勲章もいっぱい付けて軍服着てサーベル腰に付けて写ってる白黒の写真みたら誇りに思える。この国は先人の方々の尊い犠牲の上に成り立ってるんだと!
22 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:49:44 ID:AuRjnxaO
おまいらの爺さん達に心を込めて敬礼を!
怪談の類かも知れんが、ある旧戦場は夜になると未だに遠くでラッパの音や銃声、人間の声が聞こえてくるそうな。
戦後、各地を訪れる人は現地人から「この辺はまだ戦争は終わってませんよ」といわれるらすい
23 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:50:58 ID:ayGNtdNx
俺は爺ちゃんに名前付けてもらって
八紘一宇の紘が名前に入っている。いい意味だし誇りに思うよ
24 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:57:12 ID:KF9ZPNx9
>>23 君の名前「紘一」っていうんじゃない? 自民党の政治家の加藤紘一と同じ名前
の。。。君は愛国者だと思うけど、加藤紘一は愛国者とは、お世辞にも言えないなあ。。。
25 :
日出づる処の名無し:04/11/16 17:59:43 ID:ayGNtdNx
26 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:01:03 ID:xQZ/k/gF
憲兵隊の将校でした
27 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:01:43 ID:do2XI5IF
若い頃は一生懸命勉強して軍人になろうとしていたが、長男だからと親に許してもらえなかったらしい。
その後戦争が始まるとインドネシア辺りの船に乗り料理を作っていたらしいが、
後期になるとフィリピンで戦ってたらしい。
分かれ道があって部隊は二手に分かれ、もう片方の部隊は全滅という経験をしたそうだ。
あの時祖父がもう片方を選んでいたら織れは居なかったでせう。感謝しております。
>>1 オマイラって簡単にいうけど、戦争行ってる爺ちゃんを持ってる年代って40後半ですぜ。
陸軍曹長だと祖母に聞きました、仏壇にある写真は昭五式で軍刀を持っていました。
遺品の写真には駐支初等兵連隊と書いてありました。
写真の祖父はいくつか勲章を下げておりましたが今残っているのは勲七等瑞宝章のみであります。
私が生まれる前に事故で亡くなったので話は聞けませんでしたが、祖父のことは誇りに思っております。
30 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:15:32 ID:ayGNtdNx
>>28 20なんすけど^^;
だからいちおう「とか」ってつけてみました
31 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:22:57 ID:qSryFCps
シナ戦線で戦死、石になって帰国した叔父
祖父は心臓で早死
32 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:23:40 ID:29UATtwL
陸軍の経理曹長で酒保とかを仕切ってたらしい。
おかげで酒や食料には不自由せず、戦闘にも参加してないし
終戦時には除隊してた。うまくやったもんだと思うよ。
33 :
日出づる処の名無し:04/11/16 18:26:50 ID:xAq9SvXQ
なんか聞いた話ではバトルオブブリテンに参加してたらしい。
陸軍少尉で大陸の方に。
なんかの試験で合格して昇進したらしいが、
本人から直接聞いたわけでないので詳しくはわからず。
お馬さんの世話から砲兵(?)になったそうな…。
物心付いたか付かないぐらいに死んじゃったからよう…じぃちゃん…(つд`)
川西航空の下請け工場の経営者。
戦争の初期は2式大型飛行艇、末期の頃は紫電改の部品を作ってた。
機体の製造もやったらしいけど、B−29がやってきて工場を破壊されたところで終戦。
うちのじいちゃん、赤紙が来たものの
身長が規定に達しておらず出征せず・・・・。
でも身近なところで、中学のときの美術の先生(定年間際)
が特攻隊出身で、特攻前日に終戦迎えたって人がいたよ・・・。
その先生いつもゼロ戦(たぶん)の木彫りを彫ってたよ・・・。
戦友への弔いのつもりだったのかな。
このスレ見てたら思い出して切なくなった。
37 :
日出づる処の名無し:04/11/16 19:23:00 ID:XWUi7Tri
父方、母方ともに陸軍でした。
父方の祖父は士官学校卒で大尉まで昇進。
大陸で終戦を迎えて復員、今年春に94歳で亡くなりました。
母方の祖父は一兵卒からで、軍曹まで昇進。
大陸→台湾→フィリピンと転々とし、
インドネシアのハルマヘラ島で終戦を迎え復員。
今年で88歳、ボケるそぶりもなくまだまだ元気。
元気なうちに孝行して、当時の話もいろいろ聞いておこうと思ってます。
38 :
日出づる処の名無し:04/11/16 19:25:23 ID:Or6dqBK2
南京大虐殺
うちの他界した祖父は海軍大尉だった。
寡黙で、子供心に近寄りがたい感じがして
ロクに話もしたことなかったな。
もっと色んな話聞いとけば良かった。
軍オタ板で有名なスレの復活ですね
爺ちゃんは中野学校行ってた
41 :
日出づる処の名無し:04/11/16 19:28:36 ID:fF2cN2XF
じいさんは中国に出兵していた。
今も生きているから、戦争中の話しを聞けば詳しく教えてくれる。
じいさんの話しからもハッキリしているのは日本軍は南方進出の影響もあり
かなり少数だったってこと。
酷い時は本陣を10名くらいの部隊で守ってたらしい。
それでも国民党軍は進軍中をちょこちょこ狙うものの、本陣へは攻めて来なかったらしい。
日本軍を過大評価して、かなり恐れていたようだ。
共産党軍もいたが、全く手を出して来なかったらしい、ほぼ傍観を決め込んでる様子で、日本が進軍
すると同時に奥へ奥へと逃げるだけだったそうだ(なにやってんだか)。
中国で戦ってた相手は、殆どゲリラ化した国民党軍のみだったそうだ。
それが、何故か終戦と同時に共産党軍が現れて、解放軍を名乗って日本に武力解除を要求したり
戦勝軍面で振る舞ったらしいよ。
じいさん達は「あいつらは、最初から何もしてないじゃないか」と不可思議な心境だったそうだ。
何故か血を流して戦った国民党軍は疲弊してたのもあいまって、本土から追い出され、台湾に逃げたらしい。
そこで日本の撤退軍と多少小競り合いがあったらしい。
中国国民自体は傍観的で、けっこう協力的な人もいたそうだ。
今のイラクの状態と似たような状況らしく、国民は傍観者、戦ってるのは外国の軍隊とゲリラ部族といったような
図式だったようだね。
共産党ってほんとラッキーな奴らだよねえ、台湾が頑なのも頷けるな。
あとリアルな当時の話しを聞けば聞くほど、南京大虐殺はありえないし、必要ないとおもった。
42 :
日出づる処の名無し:04/11/16 20:22:57 ID:RhTlQeSV
うちの爺ちゃんは父方は3歳のときになくなったので不明。
母方はまだ元気で、南方で兵站の車輛整備をしてたそうだ。
戦後、半年くらいイギリス軍の捕虜になってたってさ。
43 :
日出づる処の名無し:04/11/16 20:32:04 ID:N/vpDTgB
うちの祖父は韓国?朝鮮?に出兵、
20歳のときの写真が残っている。
立派な日本刀を携えていた。
一番下からはじめて陸軍少?(忘れた)に位を上げて実家に帰ってきた。
尻に銃弾を受けて、立てなくてもう死ぬんだと思いながら地面を這って、救護所まで戻った。
・・・やはり激戦地で戦ってきたんだろう。あまり詳しく聞いていない。
それから神戸の造船所で軍艦製造する仕事もしていたと言っていたな。
軍でもらった食料は、友達にあげた。
実家に帰れば、いくらでも植えてあると思って。
ところが家に帰ってみれば、全て国に納めて何にも無くて、途方にくれたのだそうだ。
44 :
日出づる処の名無し:04/11/16 20:33:27 ID:IczZUf+y
うちの爺ちゃんも中国に出征しました。
兵役期間満了で真珠湾攻撃の1ヶ月前に帰ってきたそうだ。
再召集を受けましたが、門司で部隊編成中に終戦になったそうです。
毎年夏に冷やしそうめんに使ってる少し大きめの器が戦利品だと最近知りました。
爺さんは大陸で郵便局長を、曾爺さんは日露戦争に海軍で従軍したらしい。
曾爺さんは感状をもらったらしい。
残念ながら、詳しい話を聞いたことはない。
聞いておけば良かったと思う時もあるが、そういうことを聞けない、ちょっと近づきがたい
所のある爺さんだった。
話せば優しいし、別に怖い所は無かったんだが。
俺自身が聞くのが怖かったのかもしれない。
とても寡黙で、威張ることもなく、やさしいがべたべたすることもなく、いつも孤独を愛して、
今にして思うと、ちょっとハードボイルドな爺さんだったような気がする。
うちのじいちゃんは文字の読み書きが出来たんで内地勤だったそうだ。
でも、核投下後の広島に救援にいって被爆orz
癌で膀胱全摘後、元気にしてたんだが、
3年ほど前に肝臓やら脊髄やら再発して逝ったよ。
>>46 ×3年ほど前に肝臓やら脊髄やら再発して逝ったよ。
○8年ほど前に肝臓やら脊髄やらに再発した結果、年齢のため手の尽くしようがなくて、3年ほど前に逝ったよ。
爺ちゃんの弟が陸軍航空隊のパイロットで昭和17年に戦死
金鵄勲章をもらったと聞いて幼い頃の俺が「見せろ、見せろ」と騒ぎ
「空襲で家が焼けて貧乏だったから食べていくために売ってしまった」と婆ちゃんが泣いたらしい(記憶が無いが)
漏れの祖父は昭和十五年ごろに応召、静岡連隊の一員として南支戦線で戦っていたらしい。
体が小さかったせいで、歩兵には取られず輜重隊に配属され、蹄鉄工務兵を務めた。
終戦時は"リュウシュウ(漢字は分からない)"という場所に居たらしい。最終的には兵長まで昇進した。
反骨精神旺盛で、他の部隊の下士官とよく喧嘩する暴れ者だったが、年少者への面倒見の良い兵隊
と言う事で中隊長からの信任は篤く、中隊長が師団司令部に転属になった際に従兵として隊から特別に
選抜され、終戦まで行動を共にしていたという。
祖父の戦争経験は、基本的に「面白可笑しく」語り聞かされる事が多かった。
もしかしたら多少誇張も入ってたのかも知れないけどね…。
うちの祖父は朝鮮で国民学校の校長先生してたそうな
朝鮮生まれの父いわく
「周りの朝鮮人の子どもと、普通に日本語朝鮮語入り乱れて野山で遊んでた」
まあそりゃそうでしょうな
51 :
日出づる処の名無し:04/11/16 21:21:43 ID:J2+IdGIg
俺の爺さんは、宮崎県都城市で憲兵をしていた。
ひい爺さんは日露戦争の203高地で砲弾の飛び交う中
10数年ぶりの生き別れの親友と出会い、「よくぞ生きていた」とお互いに号泣したそうな。
なんていうのかな飛行機とかと音で通信するヤツ
あれやってたらしい結構偉かったんだぞって親が言ってた
53 :
49の続き。:04/11/16 21:31:07 ID:9h+yy2PP
ちなみに祖父や祖父の兄は応召が比較的早期で、支那戦線に送られた為無事生還できたが、
祖父のすぐ後に応召された弟は、南方戦線で戦死したらしい。
祖父は元々漁師だったが、日米開戦後は漁師仲間の多くが漁船ごと海軍に応召(当時の鰹漁船は
無線機の配備率が高かった為らしい)され、潜水艦や艦載機に大勢殺られてしまったらしい話も聞いた。
祖父は戦後に祖母と結婚し母を出産。一歩間違えば漏れはこの世に産まれていなかった。
今は多少ボケ気味だけど、それでもまだまだ元気なじーちゃん。本当にありがとう…。
>中国国民自体は傍観的で、けっこう協力的な人もいたそうだ。
これは漏れの祖父からも似たような話を聞いた。
祖父の場合は馬の治療に使う強力な葉チンを、怪我をした支那人によく分けてあげていたらしい。
最初は物凄く痛がるのだが、治りがとても早かったので偉く感謝されて、果物やらチャンチュウ
を沢山くれたらしい。
最前線以外では日本兵が支那人から食料などを強制徴発したなんて話も殆ど無く、
日本兵に親切にしてくれる者も多かったので、大体は何かと物々交換していたりしたらしい。
支那の民衆に対する暴虐な振る舞いなどは風の噂に聞く程度で、祖父が経験する範囲ではそういった
事例は全く見た事がなかったという。むしろ軍内での古年兵による初年兵虐めの方が遙かに深刻だった
らしく、祖父もそれに腹を立ててよく上の階級の兵と大喧嘩をして、中隊長を困らせていたらしい。
54 :
日出づる処の名無し:04/11/16 21:42:52 ID:Jlq1kPY6
赤紙は来なかった。一般庶民とは生まれが違う。
三代続く歯科医です。
爺さんは陸軍航空隊の歯科医師でした。明日、特攻に飛び立つ兵隊の歯科治療を
するのは何とも哀しかったそう。
そりゃそうだよな…。
56 :
日出づる処の名無し:04/11/16 21:44:32 ID:UXNCbW60
零戦で特攻する準備中に敗戦。
今も元気でクルマの運転もうまい。
57 :
日出づる処の名無し:04/11/16 21:46:38 ID:I7t8IDR7
爺さんは戦艦霧島に乗っておりました
爺さんが島に下りてすぐに霧島はアボーンしたと言っていました
祖父さんは出征してないんだが、祖母さんの兄さんが硫黄島で玉砕したらしい。
死んだ祖父さんは、B−29が撃墜された瞬間を生で見たとか。
59 :
日出づる処の名無し:04/11/16 21:59:26 ID:D6sLEUsy
サハリンで抑留されていたが、終戦後数ヶ月で日本に送還されたらしい
シベリアの強制収容所に送られていたら、俺は存在していなかった・・・
どこで戦ってたかは知らないが、胸を撃たれたらしい。
そのとき胸ポケットに入れていた写真(血痕と銃弾の跡付き)が今でも残ってる。
あ、ちゃんと生きて帰ってきましたよ。
俺が生まれる前に死んじゃったけど。
61 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:07:36 ID:nJt/i5lc
俺の爺さんは出征してなかったようだが、友達の爺さんの
戦争体験談を聞かせてもらったことがある。朝鮮総督府で
働いた後、満州に行ってソ連軍につかまってシベリアで抑留されて
たそうだ。なかなか壮絶な体験だけど現在はとても気さくで
孫の友人の俺にも気安く話してくれるいい人だ。気分が乗ってくると
「最近の日本はなっとらん」「チョンコロが」「安倍などまだまだ洟垂れ」とか
言い出して面白い。
62 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:08:25 ID:5CIn8l4I
うちの爺さんは脇腹に銃で撃たれたあとがあった。
ロシアで戦っていたと言うが、余り詳しくは話してくれなかった。
63 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:10:48 ID:9FiEGIh/
海軍工兵で高雄に配属されてたらしい
戦後もしばらくは台湾にいたそうだ
上官に毎日、毎日なぐられて、
手でなぐられ、軍靴でなぐられ、
なぐられなぐられの軍隊生活でした。
その結果、ばかな親となりました。
もう、死にました。
父方の祖父さんがパイロットだったと聞いた事があるなぁ。
ただ、訓練中に戦争が終わってしまったとか何とか。
もう亡くなってしまって、父もうろ覚えなのでよく解らなくなってしまった。残念。
二人とも、シナと南方戦線で戦死・・・
67 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:22:13 ID:Yi7beKpI
父方は中国で貿易商、母方は国内で医者。平時は選抜性だったからいずれも軍隊
経験なし。父方は結核で、母方は肺癌で、戦争前に亜ボーン。
父親は陸軍主計大尉として広東省で終戦。残務整理で最後まで残っていた。現地を
出発した時は国民党軍の学生部隊(良家の出で皆立派な体格をしていたそうだ)が
川岸に一列に並び、父に向かって敬礼してくれたそうだ。
親戚一同誰一人戦死せず全員無事帰国した。
68 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:23:35 ID:HbhmbS08
弾薬庫爆破させて重営倉で終戦を迎えました。
最前線のタワラにいた。
連日、イギリス巡洋艦の艦砲射撃が凄まじかったと言っていた。
内地帰還のために、最後の輸送船で中継地トラック本島向けて出航。
約一週間後、トラック本島に入港した際に、
部隊全員にタワラ玉砕の報が伝えられたとのこと。
その後は終戦まで鹿児島で内地勤務。生き延びた。
70 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:24:48 ID:Ngh/dBqD
98歳で亡くなったダンナの祖父は海軍の料理人。
ジョホールバルでメシ作ってたらすぃ。
くわしいことは知らんけど、
帰りの船に山本だかって人が乗ってるという偽情報のせいで
その船は爆撃されて、祖父の2人隣の人まで亡くなったらすぃ。
98で亡くなる直前まで、毎日ウマーなもんをたべさせてくれた。
戦争時に撮られてた写真の中の祖父は池面だ。
その孫であるダンナをみるたび、???が消えない。
72 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:35:34 ID:G1wcHs4U
祖父は四人兄弟。
うち二人は南方で戦死。
祖父ともう一人は中国へ行き、生きてかえって来れた。
祖父は負傷し(銃で打たれた?)、日本へかえらされた
船に、ぎゅうぎゅう詰めに押し込められたらしい。
ゴミみたいに転がされたらしい。
祖父がケガをした事は口コミでもう一人の兄弟に伝わった。(二人は別々の部隊だった)
口コミの情報だったため、もう一人の兄弟は、
祖父が生きてるのか死んでるのかよく分からなかったらしい。
海軍で補給関係の仕事についていたらしい。
自分が運んでいたから、一番良いメシを選んで食ってたと言ってた。
南方に行ってて現地の人(祖父は土人と言ってた)に
メシの世話になってた時期があるらしく、
その時、ある食べ物を「おいしい」と言ったところ、
以後それしか出てこなかったそうで、
祖母が何日か同じ食べ物を出すと、
「お前は土人か?」
と言ってたそうです。
あと階級はわからないけど、階級章は見せてもらった事があります。
布で出来たもの一組と、鉄で出来たもの一組計二組が、
80円切手貼って使うサイズの、茶封筒に入れてありました。
布製が正式なもので、鉄製は普段の服に付けるものだそうです。
74 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:37:34 ID:1JCILdOr
近所にセイロン沖海戦に行った人がいる。正しい名前がセイロン沖
かどうかしらんが、セイロン沖でのイギリス巡洋艦と駆逐艦だかに
急降下爆撃をして、そのじっさんの飛行隊が全弾命中させたんだとか
いってた。ミッドウエイも参加したとかいってた。赤城の一番下あたり
に便所があったんだとか、妙にリアルな話をきかされた。
衣笠に乗って沈没を経験した人も近所にいる。その人、大和にも乗った
ことあるって。それで、実は大和の主砲は、打てないんだって真顔で
いってたが、そりゃないよね?
まだ間に合うから、みんな戦争中の証言を聞き書きしておこう。
>>70>山本だかって
それって山本五十六じゃん!
詳しくはしらないけど、中国に行っていたみたい。
残っている写真をみると上海あたりだと思う。
いろいろ写真が残ってて、頭にターバンを巻いて
腰に拳銃をもった兵士?を写したものもある。
ただ、数十枚ある写真の中で、爺ちゃん(と思われる)が映ってるのは
一枚だけ。この写真だけ裏に「2599,9,10***ニテ写ス」と書いてあるけど
肝心の地名のところだけ、削られてる。
77 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:40:42 ID:wpA7pEJF
父方の祖父が、偉い人だと父が自慢している。
なんでも朝鮮人や中国人を差別せず、実力に応じて
昇格させていたらしい(日本人には白い目で見られたそうだが…)。
我が家の英雄です。
ハルビンでケンペー君やってた。伍長だったが、司令部付きだったので
結構はぶりがよかったらしい。酔っ払ったとき、よく「満人にアヘン吸引の実演をさせてみたとき」
の話をしていた。なぜか、終戦後、抑留もされずに(途中ソ連軍に拘束されたこともあるらしいが、)
みょうに要領がいいのか狡猾というべきなのか、なんとかごまかして逃げてきたらしい。日本に帰ってきたときは
ほかの復員兵のように軍服に制帽といういでたちではなくて、長髪で偽造パスポートみたいなもの(身元を朝鮮人と
偽って)逃げてきた。司令部つきの憲兵、という身元がばれていたら、おそらく抑留どころか、下手すると銃殺の可能性も
あったからだ。
80 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:46:53 ID:WHQioW+5
神風特攻隊。出撃直前に終戦しますた。
うちのじいちゃんは疎開してたらしいけど
あんたが生き延びたおかげで今の俺がいるGJ!
今は亡き祖父は背が高くて体も大きかった。ケンカも強かった。
ケンカに強くなる為にボクシングをやった。
志願して海軍の上等兵に。駆逐艦に乗った。
艦の調理担当の士官?に可愛がってもらって茹でタマゴを一度に10個食べさせてもらった。
南方に出撃し、敵に艦が沈められた時に必死になって近くの島まで泳いだ。
無人島にたどり着いた仲間は半分しかいなかった。
海を振り向いたら、何匹もの鮫の背びれと真っ赤になった海が見えた。
しばらく無人島で仲間と生活していたが、夜毎一人ずつ仲間が減っていった。
さすがに変に思い、ある夜に不寝番をしていたら大きな蛇がやってきた。
仲間全員で木や石で殴り殺した。腹を裂いたら人間が出てきた。
最後はドイツのUボートに助けられた。
Uボートの中で虫下しを飲まされたら、スゴイ虫が出てきた。
調子のいい爺ちゃんだったから、入隊してからの出来事は全部事実なのかは不明。
うちの祖父は
板垣征四郎の部下で技術屋だったらしい(大尉)
84 :
日出づる処の名無し:04/11/16 22:57:56 ID:IZGVFpQa
俺のじいちゃんは終戦前に徴兵。
入隊試験のとき、持ち前の運動神経活かしたらしいが、
くるくるバットをやってまっすぐ歩けず潜水艦勤務にまわされたらしい。
回天の説明も受けたって。NHKの「映像の世紀」がかかった時はつらそうな顔してた…
でも軍隊勤務してたことは誇りに思ってるってさ。
85 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:00:18 ID:JfW1+92+
陸軍一等兵。廣島で原爆にあいながら(爆心地から500b)
奇跡的に生き残り(直属の将校さんは死亡)、生存者の救出に奔走。
戦争に嫌気がさし戦後は朝日新聞信者に...
軍隊生活は将校さんに可愛がられてけっこう楽しんだとか
じいちゃん、シベリアにいたときの話しかしなかったな…。
まじめに働いたやつはみんな死んだとか、ロシア人の食わん蜂の子やゴボウを取って食ってたとか。
ちなみにロシア人は「スターリンがそれ食ったら死ぬと言った」という理由でゴボウを食わなかったそうな。
子供心にそんなバカな人間いるのかと思ってたが、今にして思えば…。
87 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:01:24 ID:55eCT4Ml
内地で穴を掘っていた。ただひたすらスコップで掘る。
どこかはわからないが、本土攻撃に備えて地下壕を掘っていたみたい。
病気で兵隊検査不合格だったうちの祖父に召集がかかる時点で
日本の敗色は濃厚だった。
片方はビルマで自動車舞台
もう片方は北海道で通信兵
ちなみに硫黄島玉砕まで通信してたらしい
曾祖父は、海軍の職業軍人で有名な軍人と一緒に軍艦に乗ってたらしい。
祖父は陸軍の徴用兵でフィリピンでマラリアにかかって病院船で終戦。
もう一人の祖父は陸軍に徴兵された後、工兵として訓練中に終戦。
漏れ、陸の予備。
90 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:05:30 ID:LUKsRCTv
俺の亡くなった父方の祖父ちゃんは
・農家の4男坊
・入り婿
・徴兵
・輜重兵
・万年上等兵
だっ!!!
でも寡黙に60年畑と田んぼを耕した大好きなじいちゃんだ。
91 :
70:04/11/16 23:06:09 ID:Ngh/dBqD
>>75 有名人なのか。 祖父の上司かと思ってた。
でもなんかエロイ人というのは聞いた。
毎日、そいつらの宴会料理作ってたんだって。
じゃ、将軍様の料理人みたいなやつか? それってイクナイこと?
私のことすごく可愛がってくれたから、なんか悪党っぽいことしてたんなら
ショボンだな・・
衛生兵。
腕を買われて当時中国で炭鉱を運営してた企業に引きぬかれて
そこで、雇われている中国人相手に医者の真似事をしたらしい。
94 :
91:04/11/16 23:24:52 ID:Ngh/dBqD
習ったのかも。
こんな私はおたんこナース。
硫黄島で戦死。少尉。
ばぁちゃんとは新婚2ヶ月だった。
96 :
95:04/11/16 23:30:37 ID:8n4B6pN3
先祖伝来の日本刀を軍刀仕立てにして
もっていったそうだ。その刀は西南戦争、日露戦争
にも代々うちの男たちがもっていったそうで、必ず帰ってこれる
縁起のいい刀だったそうだが。
じいちゃんの話になるとばぁちゃん
は今だに泣いてしまう。そんなに好きだったのか。
>>94 心配せずとも ものすごく名誉な事だと思われ
98 :
91:04/11/16 23:48:52 ID:Ngh/dBqD
>>97 ありがd。 とりあえず優しいジィちゃんのまま封印 しときまつ。
場違いなので逝ってきまつ。
99 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:49:02 ID:L9+OhtYD
父方の祖父の家は代々の武家だから若いのにそこそこの地位に居る人が多かったみたい
・祖父兄弟の長男:近衛兵で皇居守備(階級不明)
・祖父兄弟の次男:陸軍中尉(フィリピンで戦死)
・祖父:まだ高校生(当時では中学)の為末期に召集令状が来るが出頭日1週間前に終戦
母方の祖父の家は代々豪農の為か長男であった祖父が鹿児島で土木作業(農作業&蛸壺掘り)をしただけらしい
100 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:49:31 ID:88xigbCH
>>70 山本五十六は、日米開戦前から両国の体力を見据えて、アメリカ太平洋艦隊を
会戦と同時に叩き、その回復までの1年間で一気に勝利を積み重ねて、日本人の意地と
意気込みを見せた後に少しでもマシな条件で講和(まあ実質負けを認める)するという
作戦を画いていた、まあいってみれば、超軍師、超英雄。
まあ日露戦争と似た作戦だな、当時の国力ではそれが限界だったのだが。
結局移動中に待ち伏せ攻撃されて戦死されたわけだが、彼が生きていればもうすこしマシな
終戦だったかもな。
そんな山本長官の飯を作ってた爺さんなら、それは誇りに思うことだ。
オサーンイッパイダナ
102 :
日出づる処の名無し:04/11/16 23:53:31 ID:Yi7beKpI
父方の祖父は左腕がなくて、小さい頃はかなりビビってたなぁ。本当に失礼やった。
なにをしてたかは聞いてないや
104 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:10:25 ID:eZSfWdAF
母方の祖父
昭和14年10月に中支派遣軍の一員として従軍(陸軍の主計)
行った先の中国で軍票持って中国の村へ食料を買いに行くと
村までの光景は周囲の田畑で農民が耕作してるのんびりしたものだが
村で食料買って戻る時には田畑で耕作してた農民が
抗日ゲリラに早変わりして武器持って待ちかまえていた事が度々あったそうだ
何しろ一般人なんだか抗日ゲリラなんだか判別できないからこれには祖父も本当に参ったらしい
今日のイラクのニュース見て亡き祖父の思い出話を思い出し書いてみた
105 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:15:02 ID:oPbfbvsK
うちのじいさんはたぶん前線じゃなくって
衛生班とかそんなんだったようだ。
刀は子供の頃のこってたけど
歯のついていない、護身用というか、
そんな感じのだった。
あれ、とっておけばよかったな。
106 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:17:21 ID:UD6ZcIOo
海軍で軍医。
東南アジアの方に行っていたらしいが、
色白で仲間内からは「○○は女のなりそこないか。」といわれてたけど、
駐留していた現地の隣の村の女の子がうちの祖父に恋したらしく、
毎朝果物を持って、祖父に会いに来てくれてたらしい。
時々豚も連れてきてくれたから、皆で焼いて食べた。
もう何十年も前なのに、その現地の女の子の名前を、
祖父がまだ覚えてるんでいびっくりしたよ。
107 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:27:49 ID:kSzP7TSc
山本五十六の下で働いていた軍人を親戚に持つ人って意外に多いんじゃないか?
他でも結構書いたが、俺の親戚で蒼龍翔鶴と乗り継ぎ、珊瑚海で戦死した人がいる。
連合艦隊乗組員の遺族がいたら教えておくれませ。
108 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:28:36 ID:RP/Aj3wI
うちのじいちゃんは南京に行ってたが戦争体験の話を絶対口にしない。
俺が生まれる前、見知らぬ男がじいちゃんの前に現れ、戦争のことで
がなりたてていったということがあったらしい。
109 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:31:06 ID:EZbFsZI5
>>105 それは護身用ではなく、銃剣だと思うよ。
110 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:33:32 ID:JABEXXVX
ウチのじいちゃんは海軍だったらしい。
そのあとかどうかわからないけどヘリの部品も作ってたとか言ってた。
プロペラの部分の部品だとか。
うぉ、なんだこのID
全部大文字じゃん。
うちの祖父、数年前に他界した。
ボケる前に聞いた話だけど、従軍薬剤師としてマレーシアへ出征したらしい。
生前はマレーシアでコウモリを凧で釣って捕まえて食った話をよく聞かされた。
戦争の正義はともかくとして、アメリカには物量で負けたとよく言っていた。
思い出のマレーシアへもう一度行きたいと言いながらこの世を去ったけど、今の
自分だったら一緒に行ってあげられるのになと。
沖縄だ……憲兵中尉で、内地からきた軍人が戦闘前に飲み屋で
泥酔して暴れていたので、ドツキ倒したら、少佐の階級章が…。
「アッ…ヤバ!」と一瞬思ったけど、後の祭りと言うことで、そのまま
しょっ引いたと言う話を何度も聞いた。
その後で、逆に鬼中尉と呼ばれ、非常にショボーンな状態だったらしい。
ちなみに本人…まだ生きています…元気です…趣味は麻雀&玉突き
……………孫から巻き上げるな…じっちゃんorz…。
親父は自称、関東軍の情報将校
敗戦後、シベリア行きの列車から飛び降り、中国人になりすまし
知人の中国人のところで潜伏?。
その後、アカ狩をしていたらしいが密告でタイーホ。
銃殺刑の前日に刑務所?を脱走して、日本に戻る。
最期まで金日成を殺害出来なかったことを後悔していた。
死んでしまったので真偽のほどは分からんが
”戦争はいかん”という言葉が妙に印象的だった。
115 :
日出づる処の名無し:04/11/17 00:58:38 ID:ERWs6jT2
満州行ってたって聞いた。
補記)
昭和天皇が韓国の大統領(全斗煥だっかな)に謝罪をした番組で
泣いていたのも印象的だった。
117 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:01:34 ID:dRKB/tkW
仕官学校出て少佐だったそうな。
陸軍偵察機乗りで撃墜された事もあるとか。
無茶いい人で戦争の話はあまりしなかったそうだが、よく映画とかに出てくるボカボカ下士官殴るようなやつは実際居ないって言ってたそうな。
オレが小さい子供の頃亡くなったけど勲6等の勲章は形見かわりに貰ってる。
118 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:02:01 ID:oIgvnRAv
戦地へ行く前に終戦・・・。
戦争できなかったことを相当に悔しがっていて、
いつも「早くまた戦争にならないかなぁ」みたいなこと
口癖のように言ってたっけ。
因みに「チョーセン」が大嫌いだった。
119 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:02:39 ID:CoHXdwRt
83歳のじいさん。
満州へ言ったらしいが、穴の中に入って隠れてたって・・・。
従軍慰安婦とか相手にしてたのかな?
爺さんは中国、戦中は結構平和っぽい?話
爺さんの弟は輸送艦勤務。レイテの逆上陸作戦に参加。
食事後銃座の交代しようとしたら、銃座の人が戦死してたとか、
大和は本当にでかかったとか話してた。
121 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:08:12 ID:oIgvnRAv
姉が嫁に行った先のオヤジさんは中帰連だった。
生前はよくアカっぽいことを語っていた。
葬式では土丼タカ子から弔電がきた。
うちのじいさんが生きているうちに姉が嫁に行っていたら
絶対殴り込みに行っていたと思う(w
招集を受け、海軍陸戦隊として激戦地ニューギニアへ。戦死の通知から
2年後にひょっこり、帰ってきて家族を仰天させたらしい。
123 :
117:04/11/17 01:21:13 ID:dRKB/tkW
うちの爺さんは「激戦区にいたから」とかいう理由で、婆ちゃんに入る年金が多くなったとか10年前くらいに聞いた。
もう爺ちゃんとっくに死んでるし、婆ちゃんは戦後結婚したから何の関係もないし、金持ちだし・・・・・
結局は、政府がジジババの票が欲しくてばら撒いてる金だとか言ってた。 と、嫌な話で〆てみる。
あ、あと親戚に、英語が喋れて軍属の通訳やってた人が居た。結局捕虜になって、そのまま(この間よく解らん)アメリカで働いてそれなりに名を上げたみたい。
父方の爺ちゃん(この人は戦争行かんかったが原爆手帳持ってた)の葬式で第二次大戦の話で盛り上がって嬉しそうに話してくれたのがオレも嬉しかった。
じいちゃんの兄貴が、なんか満州に行ってたとか。
けっこうな遊び人で、「戦場に出しても役に立たん」と事務仕事させられてたそうだ。
125 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:23:33 ID:dRKB/tkW
母方の親戚は家一件分の金を軍医に払い、傷病兵って事にして帰国させたらしい。
家族も戦争始まった瞬間資産持って疎開して裕福に暮らしてたそうな。
なんだかなぁ・・・・・・・・・
俺の直接の爺さんじゃないんだが。
日露の時に中将っていう人が居るらしい。
それ以上は教えてもらってない。俺の親父はサヨ。orz
127 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:34:54 ID:tLLX8xpo
元帥の子孫が書き込みしたら爆笑する
128 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:36:18 ID:lmYXLuMI
母方の祖父はサイパンで戦死。
ばぁちゃんと結婚する時に「何があっても金の苦労はかけさせないよ。」ってプロポーズしたとか。
んで、ばぁちゃんの手元には未だに遺族年金が届き、質素ながらも生活には困ってない。
ばぁちゃんちに行くと、いつも「じぃちゃんが死んで何十年も経つけど、こうやって約束を守ってくれてる」と
孫(俺)に向かって誇らしげに話す。
129 :
日出づる処の名無し:04/11/17 01:38:19 ID:/UUbuN0h
父方のおじいちゃんは満州に行ってたそうな。
で、毎日毎日延々と歩かされてたらしい。
もう亡くなったけど、生前は「中国人、朝鮮人は信用ならん」とよく言って毛嫌いしてたとか。
戦中戦後、相当酷い目にあわされていたらしい。
ちなみに父方のおばあちゃんは「戦争時の事は思い出したくもない」とまったく話してくれない…
身近に戦争について話してくれる方がいる人が羨ましいわー。
うちのじっちゃんは、日本軍の情勢不利な頃、赤紙もらって広島に送られ訓練受けた。
そして広島市内の何やらとか言う港からただ「南方に行く」とだけ知らされ派兵されたそうな。
ところが、前線間近な頃、船内で腸チフスが発生。じっちゃんもそれに罹患。病院船に移されたらしい。病院船内で終戦。
じっちゃんは何も言わないが、俺的にはものすごく幸運だったと思う。広島で訓練受け続けてたんならそのままピカでアボーン、前線にそのまま行ってたらアボーンだったろうし。
復員で戻ってきたときのことを聞いても教えてくれない。じっちゃんの船は終戦後広島の港にに戻ったのかもしれない。じっちゃんは「その後」の広島を見たのかもしれない。
よくわからないけど、終戦直後の話はしてくれないうちのじっちゃん。今は曲がってしまったその背中に男の哀愁を感じる。
うちの爺ちゃんはラバウル島から潜水艦で日本に帰国する途中撃墜されて死んだらしい。
133 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:05:35 ID:X1pzB5Pl
風船爆弾飛ばしてたらしいです。
うろ覚えなんで今度帰ったらちゃんと聞いてみよっと。
134 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:18:48 ID:n7qMw9hZ
俺のじいちゃんは川重で飛行機を作っていたらしい
だから戦争には行っていない
政府から赤紙が着たので会社に持っていったら上司の電話一本で赤紙は無効になったそうです
135 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:40:39 ID:IRGi9pzV
近衛兵でした。皇居を守ってたそうです。
136 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:45:07 ID:k9ttfw7v
大陸で電線を守ってたらしい。電線を盗んで売り飛ばす輩がいたからとか。
137 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:47:54 ID:iMe9i4lf
日本軍では何もやってないな、両方とも。
片方の爺は国鉄の蒸気機関車の運転手。
もう片方は、室蘭の製鉄所で働いてたらしい。
138 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:49:54 ID:V3qF3UaK
うちの母方の祖父は近衛兵だった。射撃日本一の賞状や
得点評など、本家の仏間に額に入れられて飾ってある。
近衛兵は高身長な人ばかりだったらしい。
祖父は183.5cmあったという記録が残っている。
139 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:53:19 ID:8A42j0dF
うちの爺ちゃん、二等兵でナバウルってとこにいたらしいけど、
戦死だそうだよ。爺ちゃんの兄弟も全員死んでる。
既に死別した母方のじいさまは、満州で兵隊をやってたと聞いた。
満州でのことはあまり聞かなかったが、敗戦後、日本に帰るために
石炭車に身を隠し、船に密航してかなり際どい冒険の話を語ってくれた。
なんでもっと話を聞いておかなかったかなあ・・・
141 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:55:09 ID:TX79xdDr
うちの祖父は戦争の話しは一切してくれなかったのですが、小野田さんがルパング島で
発見され、日本に帰国する様子をテレビ中継していた時の出来事ですが・・・
テレビに向かって立ち上がり、直立不動の姿勢で敬礼し始めました。
母が「おじいちゃんこの人知っているの?」と聞いたのですが、何も答えずその姿勢のまま・・・
テレビに向かって敬礼を続けていました。
既に祖父は亡くなり、小野田さんと祖父がどのような関係だったか、今は知る由もありませんが、
祖父は中野の軍学校に行っていたと父は言ってました。
祖父は真面目に守秘義務を遂行したものと思っています。
142 :
日出づる処の名無し:04/11/17 02:55:57 ID:VnFo7vlo
母方の爺ちゃんは良く知らない。
父方の爺ちゃんは何処だったかは分からないが衛生兵やってたらしい。
今では両方とも鬼籍に入ってしまったので詳しいことは聞けないが、
爺ちゃんと一緒に住んでた叔母さんは朝鮮人は世界で一番汚い人種だって言ってた。
・・たしか小学校の先生やってた筈なんだが、叔母さん。
とりあえず爺ちゃんから色々叔母さんは聞いていたんだと思う。
その話を聞いたのは随分と昔で、人類皆兄弟的な教育を受けてた俺は、
何てことを言う人なんだと思ったけど、今思えば当然のことを言ってたんだなーと。
そしてそこに住んでる従兄弟は見事自衛隊に入った。
従兄弟には是非とも頑張ってもらいたい。奴こそ爺ちゃんの本当の跡継ぎだ。
143 :
日出づる処の名無し:04/11/17 03:11:20 ID:Zm7L1vL0
じいちゃんは海軍にいて、
出撃前に腹痛で出撃できなかったらしい。
上官のいじめが凄くて自殺者も多かったらしい。
ちなみにばあちゃんがじいちゃんと結婚したのは
海軍で東京住まいだったからだそうだ。
田舎から離れられれば良かったらしい。
当時の海軍さんは相当モテモテだったらしい。
戦争の話は直接しなかったな。
俺末っ子だし、長男の方を大事にしていたような気がする。
それとも俺の事も気にかけてたのかな、じいちゃん。
無口だったな、じいちゃん。
怖かったな、じいちゃん。
ここまで読んで思ったこと・・・
戦争を体験した御爺様、戦死なされた御恩爺さま、あなた方のおかげで私たちは安定した
平和を享受できています。
ありがとうございました。
145 :
日出づる処の名無し:04/11/17 03:46:56 ID:Q7di786f
うちの爺は背が高かったので騎兵隊だったらしい
146 :
日出づる処の名無し:04/11/17 03:54:56 ID:CfR0HvMA
父方の祖父は教員だったため戦争には行かなかった。
母方の祖父は満州鉄道の亜細亜号関係の職員だったらしい。
うちの祖父は満州新京の騎馬隊所属の獣医で、ささやかな牧場も経営していました。
戦争に対しては複雑な感情を持っていたようで、まだ子供だった私には詳しい話は一切せずに
逝ってしまいました。
その反動か母からは耳にタコが出来るくらい満州の話ばかり聞かされて育ちました。
レンガ造りの2重壁の暖房付きの家や、冬になって学校の校庭に水を撒くとそのままスケート
リンクになった話、満人の町へ行った時の怖かった話、凍死者の話、井戸端に立つ女の幽霊を
見た話、引き上げ列車がソ連軍の戦闘機に銃撃を受けた話。
引き上げ後の祖父は中学校の美術教師になり、端正な観音像を彫っていたのを憶えています。
148 :
146:04/11/17 04:13:42 ID:CfR0HvMA
>>146の補足。
母方の祖父が満鉄で働き、母も満州で生まれた。
そして命からがら引き揚げてきた。
そういった話を幼少の頃から聞かされていたので、
「満州」には妙な郷愁のようなものを感じる。
自分が暮らしていたわけでもないのにそう感じるのは、
母の回想を自分の記憶のように感じているからだろうか。
うちの母親(68)から聞いた話です。
実家の近所で、お金持ちの家があったそうです。
赤紙が来て息子を兵隊として取られるのが嫌だった親は、
息子の足を棒で何度も殴って歩けなくして、蔵に閉じ込めたそうです。
今で言えば、親馬鹿なのかもしれませんが、当時は矢張り非難を受けたとか・・・。
その息子さんは今でもご健在で、「こんな体にした親が憎い」と言っているそうです。
父方 兵器工廠で工員?
母方 関東方面で陸軍航空整備、後に広島にて被爆、去年鬼籍に。
母方の祖父はあまり多くは語らなかった、聞いたのは呑龍の整備やってた
って聞いた位。
戦後は亡くなるまで工場経営。
両祖父共に機会で指落としてたな・・・
151 :
日出づる処の名無し:04/11/17 04:23:45 ID:NJAofjcu
陸軍の技官だった、階級は不明だが輸送・通信に関わる、なぜか一回も戦闘には逢わなかった、
ずっと大連・新京(現・長春)間に居て終戦前に帰国、
なぜか空襲にも出くわさず横浜で仕事中に終戦を迎えた、
これからどうしようと主家(最初の奉公先)に顔出したら「これを持って行きなさい」と、
豪邸が買えるほどの退職金と車をもらったそうだ、
その後、主家は財閥解体であぼーん。
車は田舎では使えないので(まともな道がない)売ってしまった、
故郷に帰って先に疎開してた婆さんとささやかな商売を始める。
残った金だが、子供と養子(戦災孤児)を食わせていくには商売だけで事足りる、
根が貧乏人だから使い方がよく判らない、ってのもあるし、
「主家が下さった金だ、人様のために使い果たそう」
電気を寒村に引く事業に出資→三倍になって返ってくる(゚Д゚)ハァ?
電話を寒村に引く事業に出資→倍になって返ってくる( ゚д゚)ポカーン
「なんじゃこりゃー、増えてどうする」
近隣の村を繋ぐ道路を整備して学校を建て替え・・・やっと全部無くなった、ホッとした、
そんなつもりは無いのに地元の名士とか言われて、爺ちゃんも婆ちゃんも苦笑い。
六年前に大往生、いい爺さんだったけど・・・どんな人生だよ。
>>151 エエ話や…。
父方のじいちゃん
中国へ行ったらしい。実家に白い軍馬に乗った時の写真あり。
途中で肺をやられて帰国。その後、ずーっと農家です。
俺が生まれる前にトラクターの下敷きになって死んでしまった…。
母方のじいちゃん
こっちも中国へ。そして肺をやられて帰国。同じかよ。
そして大工を始め、会社をやってました。
壊疽か何かで右腕を失ったけど、ずーっと大工でした。
俺が小六の時に病死。
どっちも外孫だったんで詳しい話なんかは聞けなかったけど
親も聞いてなかったみたいだから話したくなかったのかも。
何はともあれ、無事に帰って来てくれてありがとう。
長い間お疲れ様でした。一緒に酒飲みたかったっす。
153 :
日出づる処の名無し:04/11/17 04:39:44 ID:8A42j0dF
>>151 そうやって美談風に仕上げてるけど、
どうせピストル堤 強盗慶太みたいに
主家から騙して奪い取った資産で
ヌクヌク暮らしてきただけだろ。
155 :
日出づる処の名無し:04/11/17 05:14:21 ID:8A42j0dF
>>154 何がブ左翼だよ。
自分らに都合の良い話ばっかしやがって、満州で子ども腹裂いてたくせしてよく言うぜ。
おまえらのジジイどもは悪いところは何もいわねーのな。そぅいうのダメだって言ってるんだよ。
うちのじーちゃんは戦死してるから言い様が無いけど、生きて帰ってきて、
誰も殺してないみたいな、聖人みたいな話信じられるかよ。
ひいおじいちゃんは、瀕死で帰国後、他界。
なぜかそれしか教えてもらえない。
おじーちゃんは、満州で馬に乗ってる写真が残ってる。
軍服来て、銃を肩にかけてた。
わりと暇な部隊だったらしく、無事帰ってきた。
157 :
151:04/11/17 05:35:18 ID:NJAofjcu
>153.155
気を悪くしたなら謝る、
確かに主家のおかげで危険なところに行かんで済んだという側面もあるね。
うちは恵まれてた、慎もう。
158 :
日出づる処の名無し:04/11/17 05:40:49 ID:BYPmqhg2
>155
戦争で人殺したからって、どうだっつーのさ。
戦争を経験してないってだけで随分エラそうだな。
団塊のメンタリティーそのまんまじゃん。
159 :
日出づる処の名無し:04/11/17 06:19:48 ID:8A42j0dF
>>158 アホカ。このすれ見てみろ。どこにも満州でやった作戦とか
米兵殺した話とかしてねーじゃん。ご都合主義なんだよ。
鉄砲の弾がもったいないから、捕虜は銃剣で刺し殺してたとか
そういうのバッカでてこなきゃおかしいんだよ。
おまえらのクソじじいどもは、自分の都合のいい美化した話しか
してねーの。それを認識しろって言ってるだけ。
父は予科練(っていうのか?)で終戦。機銃掃射ですぐ近くにいた友人が
頭を吹っ飛ばされたそうな。
叔父はシベリア帰り。ガリガリにやせて、手のひらが緑色に染まっていたというはなしだ。
なんでも、その辺に生えている雑草を手でもんで柔らかくして食べていたからだと。
うちの爺さんはあまり最前線に行く事はなかった。薬剤師だったからだ。
でも中国大陸に行き、どんどん北上していったそうだ。
途中で南京にも宿営したみたいだが、その年が、いわゆる南京大虐殺の1年くらい後。
その当時、その軍隊では中国人の荷物もちを雇っていたらしい。きちんと給料も払われた。
「ホントに虐殺があったなら、怖くて日本軍のところに仕事に来ないと思うんだけど」と、
南京大虐殺については、完全に否定的。
婆さんは日本赤十字社の看護婦。当時、病院船で、ベトナム、インドシナあたりから、
大連、そして現在の北朝鮮まで行ったそうだ。行動的な軍国少女。
(北朝鮮の入港は、それもあの清津(当時の読みでセイシン)だという)
清津での印象は、「自分たちより綺麗な身なりした、いいとこの奥様風のチマチョゴリを
来た女性たちが、いい家が立ち並ぶ街に住んでいた」だそうで。
植民地、強制連行?それは貧しい農村あたりで日本人や朝鮮人の女衒が「政府」を騙って
勝手にやって、親が娘を売ったとかではないの?が、祖母の見解。
それは別に半島だけじゃなく、日本の農村でもあったのではないか、という。
軍隊あるところに女の影はある。日本でも米軍相手に「パンパン」ってあったしね、と。
162 :
日出づる処の名無し:04/11/17 06:52:10 ID:LgpUQmlB
うちの爺ちゃんは xxxxxxx だから徴兵は免れた
という話聞きたい。
敗戦で全てがご破算になってしまったが日本でも徴兵忌避、免除
ずいぶんあったのではと想像してる。
163 :
日出づる処の名無し:04/11/17 06:57:49 ID:t1OwiTdT
空母の艦長。少将で終戦。
164 :
日出づる処の名無し:04/11/17 07:05:18 ID:fIg5zOmR
>>159 そんなに聞きたきゃ言ってやる。
漏れのじいちゃんは海軍に入隊して随分厳しい訓練を受けていたらしいが
戦地に行く船が無くて、待ってるうちに終戦だったそうだ。
母方のじいちゃんは目が悪くて戦争には行かんかったそうじゃ。
165 :
日出づる処の名無し:04/11/17 07:45:24 ID:8A42j0dF
>>164 だからそれがご都合主義だって言ってるんだよ。
五体満足で行く船が無い?それって徴兵忌避した非国民ジジイの典型的な言い訳だよ。
目が悪い?これも同じく言い訳。目が見えませんでいいものな。
なぜか終戦とともに奇跡が起きて目が見えるようになるという不思議な病気。
とにかく、おまえらが聞いた話はジジイどもの都合のいいように捻じ曲げられてんだよ。
そこいらを意識して書き込め。ジジイが言うには、と書け。事実じゃねーんだから。
それは、おまえらのジジイが人を殺しまくって、金盗みまくってたのに、それを美化して
言ってるだけなんだから。
よくジジイどもが美化するパターンをあげとく
現地の中国人に良くしてやってたから、引き上げの時に金をもらったのでそれで事業を起こした ×不正解!
正解は → 金持ちの中国人をブチ殺して金品を巻き上げてそれで事業を起こした。
特攻隊員だったが、飛行機が故障して飛びたてなかった。隊長に若いからおまえは行くなと止められた。 ×不正解!
正解は → 怖かったので、飛行場に隠れてました。
虜囚の辱めを受けずと思って、死のうと思ったが死に切れなかった。自分以外は自決してしまった。 ×不正解!
正解は → 上官を撃ち殺して投降しようとしてが口封じに全員殺した。
166 :
日出づる処の名無し:04/11/17 07:53:33 ID:t1OwiTdT
>>162 父方伯父は軍医大尉。戦地には行かず内地で白馬に乗っていた。
学徒出陣の叔父は台湾で陸軍少尉。高雄で警察署長をしていたハトコがいて、随分楽をしたとか。
ちなみに父は川崎にあった軍事工場の工場長。徴兵免除。社長が軍部に願い出たらしい。
健康なカラダで徴兵免除は珍しかった。コネだけでは難しかったらしい。
兄弟3人ともすでに鬼籍に入ったが父の空襲体験が唯一の戦争体験。
東京初空襲のとき、海軍航空司令部から「川崎はどうですか?」と、のんきに電話してきたという。
父は低空で飛び去る敵機を見て敗戦を予想したそうだ。昭和17年の春のことだ。
爺ちゃんは、軍需工場を経営してましたでつ。
でも、東京大空襲で灰燼に帰したでつ。
中国人に馬を売る→頭の良い馬なので爺さんの所に逃げ帰ってくる
中国人怒る→爺さんしらんぷり→また売る→また戻る→爺さん小銭がたまる
俺の爺ちゃんは結核のせいで戦地には行けなかった
それでも一時期軍務に就いていたみたいで、立派な軍服を着て馬に乗っている写真を見せてもらった事がある
何度も倒れて血を吐いたりして、ばあちゃんは看病で大変だったそうな
170 :
日出づる処の名無し:04/11/17 09:46:04 ID:wwXKwXl6
>>165 なるほど〜、シナやチョンの発言は逆にとれば正解なんだな?了解すました。
171 :
日出づる処の名無し:04/11/17 09:48:50 ID:bql+IdFb
うちのじーさんは、太平洋戦争当時大学生だったが、理系でしかも長男だったから学徒出陣しなくてよかったらしい。
運がいいといえばいいんだが…戦争の話聞きたかった気もする。
>>165 自分が卑しくて卑怯者でも他人が全部そうとは限らないもんだ。
173 :
日出づる処の名無し:04/11/17 09:56:44 ID:54OlWNP3
34歳でサイパン島で戦死したが、遺品には、中国人と思われる生首をずらっと並べて、
その後ろで旨そうに酒を飲んでいる写真があった。
174 :
日出づる処の名無し:04/11/17 10:00:35 ID:f7UP/T4o
お医者さん
でもなぜか撃たれたあとがある
医者も撃たれちゃうの?
176 :
日出づる処の名無し:04/11/17 10:07:20 ID:dIkoivKH
俺の爺さんもサイパンだけど、
日本刀で家ごと真っ二つにした瞬間の写真あるけど?
177 :
日出づる処の名無し:04/11/17 10:09:37 ID:5jJvV96+
>>173 あかぴ新聞に持っていったら高く買ってくれるかも。
178 :
日出づる処の名無し:04/11/17 10:26:37 ID:47dhINaB
シベリヤ抑留
「九死に一生を得た」といっていた。
向こうでは共産主義やソ連の悪口をいうと殺されちゃうんだ…と言っていた。
ソ連嫌いのようだった(あたりまえですよね。。。)
181 :
日出づる処の名無し:04/11/17 10:37:45 ID:/sVdsoRf
B-29を改造した特別な零戦で三機撃墜したそうです
海軍の軍人。階級までは聞いてないです。
戦艦大和に乗ったことがあるって言ってますた。
父方の祖父は、学校で練習してたら戦争が終わったといっていた。
母方の祖父は海軍。
私が生まれる前に死んでしまったけど(´・ω・`)
戦艦陸奥の大砲をつめる仕事をしていたらしい。
船内はとても広く、道に迷うと言っていた。
セーラー服を着ていたと聞いたので、階級はあまり高くないと思われる。
どこか無人島に着いた時、食料が無かったために、現地の人と物々交換をしたらしい。
日本側がタバコで、現地の方が食料を交換したみたい。ここら辺はうろ覚え。
現地の人が椰子の実を落とすのがものすごく上手なんだって。
184 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:04:49 ID:17ByDrja
8A42j0dF
まあ貴様が左翼なのはよくわかったw
自分らに都合の良い話ばっかしやがって、満州で子ども腹裂いてたくせしてよく言うぜ。
おまえらのジジイどもは悪いところは何もいわねーのな。そぅいうのダメだって言ってるんだよ。
うちのじーちゃんは戦死してるから言い様が無いけど
↑こんな事書いてるようじゃあ知能レベルも低いのうwどこに「満州で子供の腹裂いてた」証拠あんの?w
だいたい自分の孫に「俺は戦争で残虐な方法で敵ブッ殺してきたぜ!ゲハハハハ」
とか言うジジイがいんだアホ普通はオブラートに包むもんだろ、だから美しい話
になる、だけど貴様は自分のジジイに関しては「戦死してるから無罪放免」みたいな
書き方してるけどソッチのほうが都合よくねえか?自分の身内は問題なしで
他人の爺さんは非難しまくりですかw流石非国民は考えかたが違いますねwww
185 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:09:03 ID:dIkoivKH
落ち着け。ぶっちゃけどうでもいい。
笑いマーク多用する奴はリアル笑い者とかいうジンクスがあるらしい。
186 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:15:36 ID:SH4Ns1zV
父方:諜報部大佐
母方:陸軍少将
だったな。
いろいろ話をしたかったが早くに亡くなってしまった・・・
>>165 死人にくちなしってか?
たまたま自分のじいさんが死んでるだけで批判者になってるお前が最大のご都合主義者に思えるが。
188 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:37:21 ID:8dY3oyi0
母方のじいちゃん:飛行機の整備士だったので特に戦火に会った事が無いそう
戦争の話になると、いかに日本が極悪だったかと言うお話になる
戦後は国語教師になって日教組に所属
父方のじいちゃん:髪の毛を赤色に染めて長髪にしてたため、国家機関や警察機関から危険分子として24時間家に監視が張り付く
当時誰でも言えた初代天皇から昭和天皇までの呼称をただ1人言えなくて非国民扱い寸前まで行った
家の二階に陸軍中野学校出身者を泊めていた。中野学校出身者は訓練用飛行機で上空から手紙を
家の二階に窓の隙間を通して落として晩御飯の内容を注文していたそう
徴兵逃れのために、醤油一升を丸呑みして、二回徴兵逃れるも三回目の時に徴兵される
満州に行って、ソ連の日本兵狩りから逃れる為に朝鮮部落に逃げ込み現地朝鮮人に匿って貰う
2週間ほど隠れきったらしいが、とうとう発見されシベリア送りに
シベリアの捕虜収容所から4回脱走して4回とも失敗、最後の捕虜収容所では中国国境まで逃げてきたらしい、すげえ
ご飯は丼一杯の正露丸を食べて精魂つけてたらしい
強制労働させられた時も、率先して手を上げて労働やらせろとソ連軍兵士に言ったらしく、何するか分からんと言う事で
安全な場所での強制労働に従事、疲弊し切った日本人兵士は極寒の地に送られてほとんどが死んだそう
終戦直後には、なぜかでぶでぶに太ってシベリアから帰還、本人によるとシベリアで腹一杯のパンを食ってきたらしい
戦後は米軍兵士相手にカメラ売りつけて大もうけする商才を発揮
祖父は学徒出陣が大嫌いで、天皇は学徒出陣に関して責任をとれと言ってた
189 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:38:40 ID:8dY3oyi0
>>188 訂正
最後の捕虜収容所では
↓
最後の捕虜収容所からの脱走では
父方はフィリピンにいた、階級とかは知らない、隊長が土人に槍で殺されたらしい
母方満州、父方戦艦金剛
教師は兵役が短かったらしい。
このまえ戸棚を整理したらじい様が兵役を終了したときのアルバムが出てきた
>>153 発想がまんま両班観なのにはワロタ
日本では珍しい醜聞を普通に見聞きしてきたんだね。合掌
193 :
日出づる処の名無し:04/11/17 11:56:56 ID:T9kv32t4
をれの爺さん、両方ともぎりぎり戦争に行かずに済んだ(行けなかった)
世代なんだよな。をれが幼稚園のときに死んだ爺さんは田舎の爺さんらしく
「日本は悪くない」と言っていたそうだ。詳しく何を言っていたのかは知らん。
でもってをれが大東亜戦争肯定論(必要論とでも言おうか)に染まって行くのを
見て、親父は爺さんが乗り移ったかと思ったらしい。
ばあちゃんのほうはなんか女学校いってて、動員されて宮城の山奥から
川崎まで行って通信機かなんか作ってたらしい。両方父方。
>>165のジジイさんはさぞ立派な両班だったんだね。
たぶん、韓国人及び在日朝鮮人の多くは、
日本の爺ちゃんばあちゃんもみんな
>>165のような「両班」そのままだと信じて疑わないんだと思う。
だから併合時に日本側がしたとされる悪辣な嘘も、すんなり信じ込めてしまう。
母方のじいさんは陸軍の軍医で、大佐だったそうだ。
父方のじいさんは、駆逐艦の通信士だったそうな。
196 :
日出づる処の名無し:04/11/17 12:18:57 ID:dHpMFpwV
話は元将校さんや元高級軍人ばっかりじゃねーか。
生存率が高かったわけだ。
中国大陸に出征してて、
終戦時香港に居てイギリス(多分)の捕虜。
半年後日本に帰ってきてケコーンして親父誕生。
もう片っ方はまだ学生だったから、出征せず。
訓練はしてたらしいが。
曾祖父はインドネシアで早い内に戦死してる。
士官学校出身かなんかで、陸軍少佐でなんかの隊長クラスまで行ってる。
二階級特進した後に少佐なのか、死んだときが少佐なのかは知らない。
198 :
日出づる処の名無し:04/11/17 12:30:48 ID:A/2HMX//
俺のじいちゃんは、樺太で国境警備をしていたらしい。
1945年の段階で日露戦争の頃の大砲が配備されていたそうな。w
それじゃあ勝てないよなぁ・・・。
終戦を知らず、ソ連と戦った挙げ句に捕虜になって、
「小樽に連れて行ってやる」
と乗せられた船が、宗谷海峡でUターン。
日章旗が降ろされて、ソ連の国旗が翻り、北海道を目前にしながら
シベリアに連行・・・。
ちなみに豊原の電話交換手の女性達が自決してしまったという話を
じいちゃんにしたら、
「あいつらが勝手に死んでくれたお陰で、我々がどれだけ苦労したか!」
と吐き捨てていた・・・。
199 :
日出づる処の名無し:04/11/17 12:34:11 ID:QtBEohrH
じいさんの一人は在満(鉄道会社勤務。満鉄ではない。)中、
現地召集を受けて関東軍へ。
敗戦直後、ソ連軍の南下に追われながら撤収の途中、交戦戦死。
昭和20年8月20日戦死認定。戦死の認定が貰えて、せめて良かった。
もう一人は大阪の工兵連隊に応召。
原爆投下直後の長崎に、市街地整備の為出動。
二次被曝により被曝者認定。
その後無事復員、今も元気。被曝の影響も無しだし、連隊の半数は
その前に台湾へ動員、途中バシー海峡で米潜にボカチン喰って全滅
してるので、運が良い人だと言える。
食料庁の役人
>>196 当たり前。生きて帰ったから語り継ぐことができた。それだけのこと。
どうやら、ホロン部員や入部希望者が
活躍中のスレのようでつね。入部大歓迎ニダ
ホルホルホル〜
うちの曾祖父は、某連隊の連隊長で退役後に予備役として招集され南京にいった。
不審な中国人を捕まえたりすると地元の名士(顔役?)がすっ飛んできて、身元を証明して引き取っていったらしい。
本人は機銃掃射を受け足に大けがをして帰ってきた。
オレのじーさんは2人とも兵隊検査落っこちた
体が弱かったじーさん、弱視だったじーさん
2人とも長生きした
じーさんじゃなくて、大叔父にあたる方は、陸軍の結構いいとこだったらしい。
九州男児で、どうやって上陸する敵を防ぐか、残った戦力をどう集めるかと
やってる所で終戦したって。呆然としたって言ってたなあ。
今度また詳しく聞きに言ってこようと思ってる。
でもいきなりこんな話振るのもどうかだよな。(今までノンポリだったのに)
206 :
日出づる処の名無し:04/11/17 13:26:53 ID:pKS9yY/m
>>205 2ちゃんのこと教えてやり名よ。我々の蒙を啓いてくれるかもしれないよ。
207 :
日出づる処の名無し:04/11/17 13:41:01 ID:DAk9pLEr
ウチの死んだ爺さんは兵長?やってた。
戦争の話をするのが嫌いらしく(当たり前か)詳しく話してくれなかった。
一度だけ、上官の命令で敵の捕虜を殺したらしい。
命令は絶対服従だし、仕方がなかったんだろうけど・・
208 :
日出づる処の名無し:04/11/17 13:52:43 ID:srrl5rrQ
よくわからないが軍馬の世話してたが馬に蹴られて入院してたらしい
腕に入れ墨してたり養護学校の先生してたりする謎に包まれた人生だったようだ
209 :
日出づる処の名無し:04/11/17 13:54:58 ID:Y3ZIkdID
母方祖父は中国で伍長だった。
二度ほど死を意識した激しい撃ち合いを経験した外は、商業学校を卒業して
いたので被服倉庫の帳簿つけやら、比較的楽な部署にいたらしい。
すごく寒くてウン○した後はすぐカチカチに凍ってしまい、盛り上がって
くるのでツルハシで砕くそうだが、たまにカケラが顔に・・。
夏はさそりが出るので朝靴を履く前に、靴をさかさまにしてさそりを
出してから履いたそうです。
終戦後は運良く一番最後の引き上げ船に乗船出来、北海道に帰って来られた。
体があまり丈夫な方じゃなかったので、もしシベリヤ捕虜になっていたら、
生きて帰れなかったと思う・・って言っていた。
母方祖父の話しはあまり聞いていないがやはり、中国にいたらしい。
揚子江を死体が流れてくると臭くてすぐ分かったとか話していた。
満州や中国で砲兵やってた。
怪我したときに同じ部隊の仲間が全部フィリピンに行って全滅したらしい。
士官候補生
父方の祖父は、出征前に終戦を迎えたので無事でした。
既に四十路近くで、徴兵令状が来るのが遅かったみたいです。
戦後は、町の消防団(あるいは自警団)の創設に尽力して、昭和天皇から、
何かしらの勲章と恩賜の煙草を頂きました。
祖父の没後は、父が形見として、神棚に飾ってあります。
母方の祖父は、大陸に派遣されました。
階級はわかりませんが、炊飯係(長?)をしていたみたいです。
比較的、安全な地域らしく、戦闘らしい戦闘はしなかったそうです。
生前、祖父が語った、
「敗戦後、占領軍にキン○マ取られるかと思ってビビッた」
という話が印象的でしたw
あと、父方の祖父の弟は、ラバウルで、ブーゲンビル島の前線視察に赴く、
山本長官最後の姿をお見送りしたそうです。なぜか誇って語っていましたw
母方の祖母の兄(弟?)は、職業軍人で、ノモンハン事件で将校として参戦していたそうです。
戦後は、市議会議員になったとかならないとか‥。
最後に、母方の曾々祖父なんですけど、日露戦争の203高地で戦死していました。
今でも、皆さんに靖国神社に祀られていると考えると、何か身近な感じがしますねw
213 :
日出づる処の名無し:04/11/17 14:42:52 ID:7dXSmR19
俺の爺さん、零戦乗りだったみたい。
1回目は米軍の爆撃で鹿児島の飛行場の滑走路が大破したため出撃できず。
2回目は飛んですぐエンジントラブルで海に不時着、泳いで帰ってきたそうです。
3回目は明日出撃というときに、終戦。
運がいいのか悪いのか・・・
そんな、爺さんも10年ほど前に亡くなりました。
214 :
日出づる処の名無し:04/11/17 14:51:21 ID:ZGzcyjVU
満州で木の大砲作ってた
職人さんやったらしい。もちろん、弾が飛ぶはずもなく
こりゃ負けるわ。じーちゃんの名言
うちの母方のじーさんは大工で、予備役で銃の訓練も受けたけど、大工の方が
重視されて、内地勤務で戦場には行かなかったらしい。
しかも、あんまりやることなくて稲作ってたって。
父方のじーさんは物心ついたころにはすでにいなかったんで不明。
217 :
日出づる処の名無し:04/11/17 16:10:44 ID:pMAy4PXB
母方は大学→銀行→職安
父方は高校→満州→農民→市会議員
母方はかなりインテリで会うたびに戦時の話をするし嫌朝鮮。職安で朝鮮人無職の口が臭かったとよく言う。
ただ銃後の話ばっかで芋しか食えんかったが口癖
父方は死ぬまで戦時の話をしなかったからサヨかウヨかもわからん。満州で何をしたかもわからんし、行ったことも最近知った。
雰囲気的にサヨだったろうな。
218 :
日出づる処の名無し:04/11/17 16:11:11 ID:17ByDrja
>>215 他人の爺さんのエピソードはホラ扱いして自分の爺さんは
「死んだから無罪」みたいなアホだからまともに答えないだろうな
ちなみにウチのジーサンはようわからん、俺が生まれる前に死んでたから
なんでも田舎の石碑に名前彫ってあったらしいから英霊となって
散っていったんだろう、母方のジーサンとも戦争の話なんかしなかったなー
しないうちにガキの頃に無くなった、色々聞いておけば良かったな・・
軍医でした。
歯科のほうだけど。
220 :
日出づる処の名無し:04/11/17 16:24:29 ID:TLgBLf3i
父方の爺さん、大本営所属106部隊で風船爆弾を飛ばしてた。
因みに、爺さんの家は戦時中、高射砲陣地のあった跡地に建ってるが、
1機も落とせなかったらしい。
221 :
日出づる処の名無し:04/11/17 16:27:49 ID:pMAy4PXB
一人百殺神の子孫きぼんぬ
元軍人のカキコきぼんむ
80才以上で2chやってる人って何人いるだろ
>>222 もし本当に降臨すれば・・・神認定だな(w
224 :
日出づる処の名無し:04/11/17 21:18:13 ID:y3yz3ZLQ
>>70の、ダンナの爺が山本さんの料理を作ってたモノです
世間話ついでに舅にそのこと聞いたら、アルバムとか出してきて
危うく徹夜で歴史の勉強するとこですた・・(″д゛)ウヘェ
でも自分の家族が戦争に行かなきゃ行けないってどんな気分だろ
難しいことはよくワカンネだけど、戦争はイクナイ!
タンスの中に日本刀を隠し持っていた。
一杯飲むとスラリと抜き、蛍光灯の紐を切っていたよ。
>>225 それなにげにカコイイな。危ねーけど(w
227 :
日出づる処の名無し:04/11/17 22:08:18 ID:ZGzcyjVU
曾おじいちゃんはムッソリーニの友達だったらしい
石炭かなんか売ってたって言うてた
父方の祖父が陸軍の補給部隊にいたそうで、昭和20年にフィリピンで戦死したそうです。
229 :
日出づる処の名無し:04/11/17 22:22:07 ID:b+Rw2h+D
オレの母親は竹槍訓練受けたよ。
こんなもんでB29と戦えるかつうの。
230 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/11/17 22:35:36 ID:pKS9yY/m
>>229 ホント。その挙句漏れのお袋は長崎で被爆した。
231 :
日出づる処の名無し:04/11/17 22:38:33 ID:sr5Gk9hz
オレの爺さんは満州の補給部隊に所属してたそうな…。
階級はアムロ・レイと同じく、曹長。w
満期まで3ヶ月足りなくて、恩給が貰えなんだ…。(;´Д`)
232 :
日出づる処の名無し:04/11/17 22:43:28 ID:5PIq+Gud
シベリア捕虜だった。
マンシュー
234 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:03:02 ID:Qk6msH32
俺の祖父さん、シベリア出兵に行ってたよ。
お陰で結婚が遅くなり、30を過ぎて親父が生まれた。
退役軍人として、太平洋戦争の頃、
学校の軍事訓練の時間、教官をしていたらしい。
軍靴に足を合わせた為か、凄い外反母趾だったなあ。
>225
>タンスの中に日本刀を隠し持っていた。
我が家の何処かにも、軍刀がある様だ。
俺の婆さんは樺太にいた。ロシア軍が攻めてきたとき
防空壕に隠れていたが、ロシア兵が入ってきて
銃を乱射した。そのとき一緒にいた母親と3人姉妹の内の
一人が死んだ。男は外でロシア兵と戦っていたらしい。
この話は終戦後に起きたことだ。
236 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:22:10 ID:HbzxmZyM
俺の祖父さんは満州、樺太などで活躍していたそうだ。
少尉か中尉だったらしい。
もう年で死んでしまったがりっぱな人だったよ。
>49を書いたモンだけど…。
>159のリクエストにお答えして(?)
他のエピソード書くついでに、
祖父から一度だけ聞いた、一番残酷な話を書いておくわ。
祖父は輜重隊で基本的に最前線で戦う事は少なかったが、
それでも支那軍の待ち伏せを受けて凄まじい攻撃に晒されたり、
便衣兵に攻撃を食らったことはしばしばあったらしい。
よく「支那兵はチェッコって機銃もっててな、じいちゃんも撃った事あるけど、
兎に角日本のよりも性能が良かったっけなぁ…」という話や、
「敵の小銃は全弾打つとピーンって音がするんじゃ。
(恐らくガーランド小銃のクリップ音の事だと思う)
音が鳴ったら駆け出せ!と言われてるのに、要領の悪い兵隊はその音に気づかず
前に飛び出そうとするんで、大概狙い撃ちにされてやられるんじゃ」とか、
「日本の手榴弾は、紐抜いたら一旦パーンと足元の岩か何かで手榴弾の底をたたく。
で、いーーち、にぃのぉ、さん!で投げなきゃならん。支那兵は怖いもの知らずだから、
横着してすぐ投げるとすかさず拾って投げ返してくる。これで殺られたモンも結構いた」
という話を良く聞いたっけ。
炊事中に戦闘機の機銃掃射食らって部隊(特に馬)が大混乱、幸い戦死者はいなかったけど、
逃げ出した馬連れ戻すのに延々駆けずり回らなきゃならないわ、折角の銀飯が砂だらけになるわで
散々な目に遭った話とかもあったっけなぁ。
祖父の隊には騎兵銃が支給されていたらしく、「歩兵銃より軽かったけど、
わしは体が小さいから、こんな銃でも反動が痛かったっけなぁ…」とよく言っていた。
騎兵銃に関するエピソードで笑えたのが、銃剣の話。
ある時、食料として支那人と物々交換した豚を屠殺しようとしたという。
屠殺に銃弾を使うと中隊長に怒られるので、基本的には銃剣で突き殺さなければならないのだが、
豚も殺されるとあっては必死になって、下手な人間よりも遥かに早く逃げ回る。
あんまりにも逃げ足が早いので、祖父はいいかげんパシキレてしまい、騎兵銃を投槍のように
ブン投げた(小銃を粗末に扱うのは禁止です)ところ、見事に豚の尻に命中。
豚は尻に銃剣と小銃ぶら下げたまま、さらに激しく逃げ回ったという…。
漸く屠殺し終わったときには、銃剣は根元からひしゃげてしまっていたそうな。
仕方なく蹄鉄の補修工具で叩いて直したところ、刻印が潰れて見えなくなってしまったため、
夜こっそりと他の部隊の天幕に忍び込み、他人の物と取り替えてきてしまったらしい…。
他にも、祖父は馬と戯れてハァハァ出来る立場にあったため、夜間行軍中こっそりと自分や
後輩の兵の装具を全部馬の上に乗せてズルをしたり、予備の水筒を隠し持って片方にチャン
チュウ入れて行軍中に酒飲んでたり、後輩の兵を苛める将校の馬の蹄鉄を打つとき、わざと
蹄より長い釘を思い切り打ち付けたり(こうすると馬は暫くは大丈夫だが、徐々にちんば
引き摺るようになってくる。知らずに乗り続けた将校は落馬したり尻を痛めたり散々な目に
あうので、最後は泣く泣く祖父に頭を下げてきたらしい…)、やりたい放題やっていたらしい。
そんな訳で、戦後の戦友会でも何故か祖父だけは、上官だった人たちからも「○○さん」と、
「さん付け」で呼ばれていたんだとか…。
閑話休題。本題の残酷話に戻るわ。。。
ある時…行軍中に突然、隊列のすぐそばで爆発が起こった。
混乱に陥る隊内で、祖父がふと丘を見上げると、そこには手榴弾持った便衣兵が一人いたという。
(年齢とか、詳しい事は良く分からない…。だが、男だったらしい)
恐らく隊列を狙って投げて投げそこなったんだろうな。
祖父はすかさず騎兵銃を便意兵に向けて一発撃った。命中させるつもりは無く、
威嚇射撃だったらしい。すると、便衣兵は観念したのか投擲の姿勢を解いたので、
祖父は銃を構えたまま「降りて来い」と言って、便衣兵を投降させた。
その後…どういう経緯があったのかは分からないが、その便衣兵を処刑する事になったらしい。
ある将校(どうやら剣道の有段者だったらしい)が祖父に、
「おい○○(祖父の名前)、お前やってみんか?」と声を掛け、軍刀を手渡したと言う。
祖父は乗り気ではなかったが、「逃がしたら又仲間が殺られるかも知れんし、仕方ないか」
と考え、便衣兵の首に軍刀を打ち下ろしたが…。
所詮は体も小さく、剣術の心得の無い祖父の事。結局は首の肉を傷つけただけで、
殺す事は出来なかったという。死ぬに死にきれず苦しがる便衣兵を見かねたのか、
その将校は「○○、もういい。俺がやる!」と言って、祖父から軍刀を受け取り、
今度こそ一撃で首を刎ね飛ばしたという。
祖父はそれを見て、「やっぱり日本刀は剣道やってる奴じゃなきゃ、人を斬る事なぞできんなぁ」
と痛感したらしい。その話を聞いて、当時消防だった漏れは完全にビビってしまい、祖父に
「なんでそんな酷い事したのさぁ!」って問い詰めたんだけど、祖父は「今日殺さなきゃ明日
こっちが殺されるかもしれん。これが戦争だったんじゃよ。」と寂しそうな顔で言うだけ
だったっけ…。それ以降は、この手の人殺しの話は殆どしないようになった。
終戦後の武装解除の折、各兵につき軍足2足分の米を渡される事になったので、
祖父は軍足が破れそうになる程米を詰め、当時付き合っていた祖母の下に帰還したという。
祖父はその時、将校たちの多くが「支那兵に盗られる位なら…!」と男泣きに泣きながら
軍刀を足で踏み折って、土中に埋めていたのが強烈に記憶に残っていると語っていたっけ…。
これが俺が祖父に聞いた従軍体験の洗いざらい全部。
祖父の話は楽しい話も多かったけど、実際は凄惨な殺し合いを沢山見てきたのかもしれない。
そんな祖父の口癖は「大体なぁ。支那は日本の20倍もある国で、しかもアメリカが後ろに
ついてるんじゃ。爺ちゃんみたいな体の小さい人間も兵隊にしなきゃならん日本が、
アメリカに勝てる訳ないじゃろうが!」ってのだった。
実際戦争中にも似たような事を隊内で口走って、中隊長に「○○君!(やっぱり君付け
だったらしい…)そんな事言っちゃ駄目ですよ!」と良く窘められたらしい。
良く営倉やら軍法会議やらにならなかったもんだ。。。
逆にいえばそんな無茶苦茶で破天荒な兵隊やくざだったからこそ、
支那戦線から五体満足で生きて帰ってこれたのかもしれないけどね…。
241 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:25:17 ID:XaxvCgiB
中国に出兵しつつ、海上での仕事もしてたらしい俺のじいさんは陸軍なのか海軍なのかわからん
242 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:30:55 ID:ZXyY324W
俺のじいちゃんは、シナで戦ってた。銃撃を受けた傷跡を孫の俺に見せ
てあと鉛弾が3発身体に残ってるとニコニコしながら話してくれた。
243 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/11/17 23:40:20 ID:pKS9yY/m
>>241 作家の阿川弘之さんは海軍士官だったが、暗号解読の仕事で漢口にいたそうだ。
陸軍でも陸軍輸送艦勤務の人もいたし。
俺のじいちゃんは、近衛兵でした。
といっても、最近知ったんだけどね。
この前、蔵を片付けてたら凄いアルバムがでてきてはじめて知った。
そのおじいさんは南方で戦死して、ばあちゃんが再婚して蔵にしまったらしい。
245 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:45:21 ID:bSGPtHxD
徴兵検査に合格して海軍に入って
千歳に乗ってから愛宕に乗っていろんなとこ回って
んで魚雷で沈められたけど何とか助かって
それから一時期大和に乗って終戦は呉で向かえたらしい。
そのとき玉音放送を聴いたが、何を言ってるのかよく分からず、
「お、いよいよ一億総玉砕の始まりかー」と思ったとか。
>>237-241 乙。
バイタリティのある方ですね。
そんな話を聞けたなんて、読んでいてすごく羨ましかった。
俺の父方の祖父は九段にいるので、うんともすんとも言わない。
だから他人のこういう話を読むのが好きで。
みなさんもっといろんなエピソードおながいします。
九段にいる祖父は赤紙が来て護衛鑑に乗り、目的地に着く前に洋上にてあぼんらしい。
勇ましくも面白くもないが、それもまた一兵卒のお話ってことで。
247 :
日出づる処の名無し:04/11/17 23:51:34 ID:Mj3ithTB
祖母が他界したとき、遺品を整理していたら、祖父と思しき男性
(わたしが生まれたときに既に故人)の若い頃の写真が出てきた。
制帽から察するにどうやら鉄道工兵だったらしい。
現在、私はJRの工事事務所勤務。因果を感じたよ。
うちの爺ちゃんは徴兵されて出頭したものの、軍では玉音放送聞いただけで、もういいから
帰れと言われてすぐ帰ってきたと言っていた。ホントかなあ(w
当時18歳だったから、徴兵されてすぐ終戦、というのは不思議じゃないけど。
まあ、生きててくれてよかったよ。爺ちゃんの兄ちゃんは戦死しちゃったもんな(´д⊂
母方祖父:国鉄職員のため徴兵されず
母方祖父弟:昭和20年に沖縄で戦死
父方祖父:陸軍の軍人だったらしい。「樺太でどうのこうの」と言っていたが、
私が物心付く頃にはアル中で祖父を避けていたためあまり覚えていない。
251 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:12:06 ID:DWI+ClBy
母方のおばあちゃんの弟さんが、昭南島攻略に参加してたんだけど、
戦闘らしい戦闘がなかったそうな。インド人部隊とカチあわせたときは、
暗黙の了解で、お互い何もしないでその場を去ったって。
アンコールワットの近くに駐屯してたらしく、綺麗だったと言っていた。
元気なうちにもっとお話聞いておこっと。
俺のじいちゃんは中野学校出身です。
ときどき郵便物が届きます。
終戦時は22歳か23歳なので、階級は下の方じゃないかと思います。
たまに会合の連絡などで電話がきますが、皆さんとても礼儀正しい
話し方で、電話を取次ぐだけで恐縮してしまいます。
ただ、そろそろ亡くなる方が多いのか、数年前から電話がくることも
減ってきたように思います。
じいちゃんが死んだり呆けたりする前にいろいろ聞いとかないと。
満州で何か警備っぽいことしてたらしい
254 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:21:15 ID:qm1Axj9d
母方の祖父は皆が戦争に行く中自分だけのほほんとしているのもどうかと考え志願。
軍属として満州で匪賊を取り締まる仕事をしていたらしい
何でも大きい銃(なんていうかわからん)を馬に引かせてウロウロしていたとのこと
拳銃だしても匪賊はいうこと効かないけどライフルみたいのを出すとよく言う事を聞いたらしい
終戦後はハルピン駅で軍の皆がシベリアに向かうってときに軍の偉い人に「俺はシベリアなんか行かないよ」って言ったら「君は軍人じゃなくて軍属だ、行く必要はない、戻れ」と言われたらすい。
けっこう行かないことも我々が思うより簡単に出来たらしいのだが、当時の日本人はまじめだから決まったことにはヒヨコみたいについて行ってしまうんだと母が行っていた。
しかし、結局思いなおしたんかなんだかソ連に行ってウイスキーをつくらされていたとのこと。
ウイスキーをかき回す作業があるのだが、何時間もかき回していると飲んでもないのに酔ってきて大変だったって。
酒には凄く強かったが大変だったんだろうな。
その後無事に日本に戻ってきてくれて本当に良かった。
また、そのとき志願しなかった地元の人たちは後に南方に派遣されてほとんどが戦死してしまったとのコトでした
こんな言い方は英霊に申し訳ないのかもしれないが、そのとき志願してくれて本当に良かったと思います。
祖父はもう他界していますが、中国人は良い人が多い、ロシア人は最低だ でした。
255 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:23:30 ID:q9hT2x7y
うちの親戚の話な。
ガダルカナルでジャングルをさまよっていたら、
偶然知り合いの隊に会って「すれ違った」(?)
聞けば撤退するという。
急いで港まで隊をつれて走って、最後の船に間に合った。
とのこと。あまり有名ではないが、この件について本を書いて、
出版している。
256 :
254:04/11/18 00:29:18 ID:qm1Axj9d
母は社会党系の日教組教師。
宮尾登美子の本を読んで影響され「満州の人たちを虐待して無理やり労働させてたんでしょ」と言ったところ「仲間を虐待なんかできるか する必要もない お前が何言ってるんだか理解できん 彼らとは仲が良かった 」と返答したそうです。
祖母は戦時中から教師をやっていて、国のために戦う事を教育したそうです。
しかし、そのように教えた教え子の多くが戦死してしまってショックを受けた(と言っていた)らしく、戦後はサヨ系でした。
私がフィリピンやインドネシアで今でも独立記念日に日本人の絵が掲げられたり神風が祭られている話しをして写真を見せたりするのですが、信じられないようでした。
しかし、私が何を言っても「戦争は悲惨だ 絶対に日本は戦争をするべきではなかった」と言っていました。
父方の祖母も痴呆になってきて、父方の祖父の話は聞けない状況です。
今のうちに母方の祖母に戦時中の話しを聞いておこうと思います。
本当にあと10年が生の声を聞くラストチャンスだと思います。
257 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:30:02 ID:HH/nYbag
うちのじいちゃんが確か沖縄付近の海域で乗ってた戦艦が
撃沈されて命からがら救助船に助けられたとか言ってた
258 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:49:57 ID:aFo0YngE
親とかがあまり昔の話しをしてくれないから詳しくは知らないけど、
軍の仕事で沖縄からの疎開船に乗ってるところをアメリカの潜水艦に
撃沈されて死んだとかチラッと聞いたことがある。
259 :
日出づる処の名無し:04/11/18 00:54:37 ID:zFXHWM/c
父親は、大学出だけど、変人、共産主義。
しかし、母はマッカーサを、生で見たことある。
だからといって自分はまだ、20代。かなり遅い子。
260 :
258:04/11/18 00:55:28 ID:aFo0YngE
↑の話しは母方の祖父のこと。戦争中すでに40代後半だったそうだから
たぶん軍人ではなく徴用で。
父方の爺さんは、幼少の頃カナダに移民した。
しかし戦争の影響で向こうにいづらくなり、戦争が始まる前に帰国。
軍では英語が堪能だったため重宝され、内勤系の職務だったらしい。
戦後は英語が出来るため米軍との商売でプチ成り上がったと聞いた。
しかし私が3歳の頃になくなった。
これは父から聞いた話。願わくば本人から話を聞きたかったものだ。
面白い話を聞けたんじゃないかと思うと今でも残念。
母方の爺さんは、呉所属の陸軍。
前線に行くこともなく終戦を迎えたが印象深いのは
やはり広島の原爆投下2日後にはすでに救援隊?として
広島を訪れたことらしい。
私が小学生の頃ふいに爺さんが戦争の頃の話をしてくれた。
訓練とかの話を聞いてるのはよかったが、
広島を訪れたという話になった時
私は当時、広島教育会の左翼思想に影響されていたから
原爆の話は怖くて逃げてしまった。
それ以来話を聞く機会もないまま、10年位前に永眠。合掌。
当時の私の勇気のなさが恨めしい。
貴重な話を聞く機会はもうなくなってしまった・・・・
何だかだんだん独白スレになってきたなぁ…
263 :
日出づる処の名無し:04/11/18 01:00:24 ID:jy6Q5i6m
俺の母方の爺ちゃんに若い頃は、日本陸軍に所属した隊長だったらしく、
中国で散々、中国人を捕まえては日本刀で試し切りや斬首刑を指揮してた。
爺っちゃんと目が合うと殺されるので目が合った中国人は涙ながらに
土下座して両手を合わせて命乞いしたそうな。
俺の父方の爺さんの若い頃は、特高警察の刑事部長で、戦争反対論者や
社会主義者や共産主義者を殴る蹴る椅子で殴る火鉢で拷問をしてた。
俺の爺さんに見つかった人が全員殺されている。
俺w、 共産党支持ですw!
264 :
日出づる処の名無し:04/11/18 01:33:37 ID:iFyuqX7G
ウチのひーじぃちゃんになるんだけど、
戦争当時の日記がそのまま残ってて見せてもらったけど、
とにかく、食い物の話ばっか(w
十月十二日 イモ貰ウモ敵目前ニテ火ヲ使エズ生デ食ス
こんなのが9割ぐら(w
どんだけ飢えてるちゅーねん。
あと、ところどころに×印と数値が書いてある。
×印と数値が書いてあるのは、たぶん、殺害した中国人の数だろうと想像。
配給の何かかもしれないが。
合計128になった。もし、殺害した数なら、随分ひいおじいちゃんも頑張ったんだなと
ちょっと誇らしく思った。
265 :
日出づる処の名無し:04/11/18 01:40:19 ID:8ag46M6t
どれとはいわないが、かなり嘘くさいのもあるな
266 :
日出づる処の名無し:04/11/18 01:51:18 ID:iWX1PC0t
満州事変に出兵。
中尉で機関銃関係の隊にいたみたい。
双眼鏡で敵を観察していたら、
弾が左肘に命中。
その弾が跳ね返り隣にいた部下に当たり、
その部下は死亡。
爺さんは左肘の骨が砕け、
関節が動かなくなっていた。
俺の骨は弾も弾くと自慢していた。
その爺さんもだいぶん前に死んだ。
満州事変以前のアルバムには、朝鮮やソ連、満州(中国?)の姉ちゃんの
肩に手を回した写真が結構あった。
爺さんも若かったんだとその写真を見る度に思ったな。
267 :
日出づる処の名無し:04/11/18 01:55:46 ID:fMxj1ZPb
オレの祖父はナチの親衛隊。オレはハーフなので、これマジな話。40の時に精神を病んで自殺した。
268 :
日出づる処の名無し:04/11/18 02:29:43 ID:VQDkA6t1
祖父は支那、
伯父は回天訓練中に終戦。
269 :
日出づる処の名無し:04/11/18 02:52:59 ID:WHwF1jTP
私の父方の祖父は南方の基地(パプアニューギニアのどこからしい)にて
飛行場の整備を担当していたらしい。昭和27年に亡くなっているので
階級所属詳しい事は不明ですが、仏壇に飾ってあった写真から推測すると
陸軍の兵卒クラスではないかと思われました。(階級章に線が一本しかなかった)
日本軍の進出と共に南方へ赴き、まだ補給線が生きている事に酒の飲みすぎで
肝臓を痛め、内地へと帰還したそうです。それが元で早死にだったとの事。
母方の祖父は盛岡で警察官をしていたので兵役には取られなかった。
終戦後、進駐してきた米軍の兵士と親交があったそうで、母の話によると
実家に米軍の使っていたダンボールがあり、どうもそれには食料が入っていたそうです。
地方都市とは言え、終戦後の食糧不足のの時の事、米兵からの援助だったのだと思います。
祖父はそのお礼にと、家の伝来のものか詳しくは母も知らないそうですが、
その米兵に刀をプレゼントしたらしい。が、その米兵が帰国の途に着いた時、
船の中でその刀で持って自殺してしまったそうな。
母方の祖父はその後岩手県警の警察学校長を経て、地元で市長になったそうで、
私が就職する時、岩手県警なら口を聞いてやる(どうも祖父の教え子がまだ岩手県警に、影響を
持つ地位にいるらしい)と親戚から声が掛かった事があります。
双方の曾祖父母とも既に亡く、米兵の自殺に関しての真偽の程は確かではありませんが
そんな話を聞いています。
後、追加で。戦争当時の軍人の方々(敵味方問わず)の写真を時折TV等で見かけますが、何故皆さん
かっこいいのでしょうか?顔の美醜はありますが、男の私でも魅入ってしまうものがあります。
やはり様々な覚悟の差なのでしょうか?人を殺す覚悟、というものは持ちたくはありませんが
私もああいった表情が出来ればな、と思います。
270 :
日出づる処の名無し:04/11/18 03:00:46 ID:mex2MCA1
じっちゃんが、日本赤軍兵士ってのも、いるかもしんない?
271 :
日出づる処の名無し:04/11/18 03:05:38 ID:jyHdqHII
うちの父方のじいさんは陸軍だった。
大連へ出兵して銃撃戦の途中に撃たれたけど、
その弾は運良く水筒に当たって体を守ってくれた。
母方のじいさんはよく分からないけど出兵せずに済んだ。
田舎の近くにはガソリンタンク(?)が沢山並べておいてあり、
それを狙ってよく敵機が飛んできたそうな。
それで小学校に防空壕を掘ったけどそこは埋立地だったから
掘ると海水が溢れて来て使用不可。
結局見付からない様に這って山中に逃げ込んだってさ。
良スレだな!
273 :
日出づる処の名無し:04/11/18 10:14:50 ID:tF6D1OdE
うちの爺さんは、ノモンハンに一兵卒として
戦い、部隊は壊滅。
こんなばかげた戦争で殺されてたまるか!と傷ついた
戦友を背負いながら累々と死体の転がる戦場を
逃げたそうだ。
途中、サイドカーに乗った将校に誰何され
「こんなとこで何をしておる!原隊に戻らんか!」と
怒鳴られた爺さんは頭にきて
「自分の原隊はどこにあるんですか?あったら教えてください」
と怒鳴り返したそうだ。
将校は尚も憤然とした様子だったが、サイドカーの運転手が
自分の水筒を投げよこしてくれたことを
今でも覚えてるそうだ。
274 :
日出づる処の名無し:04/11/18 10:19:47 ID:yyamhvGu
275 :
日出づる処の名無し:04/11/18 10:43:54 ID:f8qpgTKH
276 :
日出づる処の名無し:04/11/18 10:47:39 ID:xyglL4T/
オレが小さい頃に、両親離婚しちゃってるんで詳しくはわからないが、
父方のじいちゃんはどうやら陸軍の将校だったらしい。
軍服で馬に乗ってる写真は見たコトがある。
少なくとも父方の親戚が一人戦死されたのは知ってるが、どこで戦死されたのかは知らないなぁ。
父方の祖父は、航空機(ゼロ戦というが、だいぶ昔に病死したので最早確認不能)工場勤務だったらすぃ。
母方の祖父は・・・聞いたこと無いな。一回聞いてみるとするか。
278 :
日出づる処の名無し:04/11/18 11:20:33 ID:y3m2NiZC
ばあちゃんは広島出身、もちろん、原爆体験あり
ピカッーって光るらしい。
さすがにあまり話したがらないな。
父方のじいさんは乗り込んだ船がいきなりあぼーんされて
九死に一生、そのまま終戦。
母方のじいさんは肺が悪くて兵隊検査に落とされた非国民w。
実は一番苦労したのは母方のばあさん。
終戦の年に14才で疎開の対象に成らず、やはり疎開しなかった
幼い弟を背負い妹の手を引いて空襲の中を必死に逃げ回ったらしい。
空襲が収まってから家に戻ったら、なぜかその一画が焼け残っていて
逃げなきゃ良かったって笑ってた。
280 :
日出づる処の名無し:04/11/18 11:25:30 ID:YmJrWxeP
支那のどこかで 宣撫工作をやてたらしい、戦後は米軍の李軍情報部に
拾われて キューバ危機のときソ連船の諜報活動をしてた
漏れも 和やかな家族連れという雰囲気をだすためソ連船に何度かつれて
行かれた
今は家族に看取られて幸せな往生をとげた
281 :
日出づる処の名無し:04/11/18 11:27:57 ID:dP5a7YNk
俺の父方の祖父は10代後半の頃、海軍に入隊すると白いご飯が食べられるという
理由で志願兵になった。
その後海兵団かなにかでしばらく教育を受けさらに海軍通信学校?で教育
を受け通信兵になる。
終戦直前に台湾に渡る(軍艦でなく普通の民間の船で)。
出撃を待っていたが日本の軍艦がことごとく沈没した後で乗る船もなく
訓練ばっかりやっていたらしい。
その後国民軍?が台湾にやってきて捕虜になり木材の運搬をしていたらしい。
まったく戦争らしい体験もせずに1年後に帰国。
282 :
日出づる処の名無し:04/11/18 11:34:59 ID:H3yUDNAh
俺のじいちゃんは研究者だかで満州で資源の調査をしていた。
陸軍所属になるのかな。
松根油の開発とかで内地に戻され、そこで終戦。
戦闘なんかしていないのに、なぜか戦犯で財産を一切合切没収されたとさ。
283 :
日出づる処の名無し:04/11/18 11:35:46 ID:yX48SmvB
父方の祖父は職業軍人で、麹町に住んでた。
出勤時はいつも迎えの馬に乗って行ったっていうから、
結構上の人だったと思う。
ガダルカナル島で戦死。
今も実家に「226事件」発生時の新聞のスクラップブックがあるよ。
「流れ弾に注意」とか普通に書いてある。w
じいちゃんは造船所に勤めていたので、最後の方まで戦争には引っ張られなかった
そうです。終戦の一年ぐらい前に資材がなくなって船も作れなくなり、徴兵されま
した。最初は海軍の水兵になったそうで、水兵服姿の写真もあります。でも、乗る
船もなかったので、九十九里浜で塹壕掘りばかりやらされ、陸軍だか海軍だか分か
らない状態だったらしい。塹壕掘りといっても、対戦車肉攻の準備で、ふとん爆弾
というのを背負い敵戦車に体当たりする訓練をやったそうです。ふとん爆弾という
のは、黄リンを詰め込んだ水難救助服のでかいのみたいなもので、それを身体に付け、
塹壕に身を潜め、敵戦車が近づいたら飛び出して行って先に信管が付いた鉄の棒で
敵戦車を突くと黄リンが数千度で燃え上がり、戦車ごと御陀仏というものだそうです。
銃を撃ったことはあるかと尋ねたら、射撃訓練はろくになかったそうです。
弾丸がなく、そもそも銃も何人かに一挺という有り様だったとか。靴も靴底が取れて
いて、スルメを貼ったのがあったそうです。短刀術というのを訓練されたそうです。
終戦直前に宇都宮師団に配属になりました。この師団は、東京に敵が来たら決戦する
ための最精鋭部隊で戦車隊などもあり、弾薬も食料も十分有ったので、敗戦になった
ときも全然降伏するつもりはなく、将校以下みんな「日本は負けても俺達は負けない。
最後まで戦うのだ」などと騒いで意気軒高だったそうです。
でもだんだん白けてきて、そのうちじいちゃんは生来のいたずらグセが出て、将校
たちの軍刀の鞘に醤油を流し込んで一晩で真っ赤に錆びさせたり、兵隊みんなで
上官をぶちのめしたりしたそうです。家に帰るまでの間、手榴弾を持ちだしては
近くの沼や川にぶちこみ魚を取って食べたりして楽しかったそうです。
うちのじいさんは整備兵?みたいなことやってたらしい。
東南アジアのどこぞの戦場に行く途中、船が魚雷にやられて
沈むなか、やけくそで甲板で大の字に寝ていたら上官に
命を粗末にするなとボコボコに殴られたらしい。
マラリア、赤痢、あとなんかわからん病気にかかりながらも生還した。
ニシキヘビやカメレオンは激ウマだったが、ナマケモノは
どうがんばっても不味くて食えなかったそうだ。
286 :
日出づる処の名無し:04/11/18 12:34:25 ID:Opvt5Ljy
海軍の教官だったらしい。
287 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/11/18 12:52:22 ID:4x7NG6fq
ひいじいさんの遺影が物凄い寒冷地仕様で飾ってある。
じいさんは動員で小倉にいたので、あの時晴れてたらガクブル。
父方:
陸軍近衛騎兵連隊中尉、戦前に病気除隊。その後海軍工廠の軍属。
母方:
海軍航空隊少佐(艦爆操縦員)。戦死。
290 :
日出づる処の名無し:04/11/18 15:27:37 ID:DpPLmOKc
>>282 多分、満鉄調査部勤務だ。
当時の日本のトップ・エリート。
凄いね。
でも、だから逆に私有財産没収の憂き目にあったんだろう。
気の毒に。
漏れの父方の祖父は震洋部隊に所属してた。
下田から出撃する予定だったそうだが、
一回目は出撃前に敵艦が帰り、
二回目は出撃後にエンジンの故障で流されたそうだ。
今も元気に生きてるが、もう10年以上会ってない。
駆逐艦の缶焚き。ポツダム少尉でつ。
父はインドネシアで通信兵、伍長とのこと。任地で除隊しプランテーション経営をし、
贅沢な生活を堪能したそうです。昭和22年に帰還後は、高等通訳試験に合格し、
GHQに勤務。かなりの高給で闇物資がいっぱだったそうです。父いわく、この頃
までの生活が一番良かったそうです。父は生前、現地除隊を秘密にしており、
戦線の悲惨さを私達に毎夜のごとく語ってくれました。じつは、これが嘘だとわか
ったのは死後です。きっと不甲斐ないと思っていたのだと思います。GHQ撤退後
は苦しい生活が続き、60代にして病死しました。10年病床に居ましたが、傍らに
スマトラ島に残した子供からの手紙を隠していたようです。
父の兄3名は、中国で戦死。南京陥落後、重慶近郊で病死して小さな勲章とな
って帰ってきました。あとの2名の赴任地等は不明です。
腰曲がってて、お呼びがかからなかったらしい。
年だったし。
父方:知らない
母方:半島から徴兵で来日、訓練期間中に終戦。
夫の父は、病気?で不合格。その兄(伯父)は海軍主計学校卒後、
海軍中将だったそうです。戦後は行方不明です。
297 :
日出づる処の名無し:04/11/18 15:54:47 ID:Oqg9dlnj
>57
うちの母方の祖父も霧島に乗っておりました。
57さんのところ同様に沈没する際は、陸上勤務であったとのことです。
父方は関東軍の兵卒です。
>>36 すごく亀だけど、ウチの祖父もそんな感じ。
志願したのに身長が足りなくて、整備兵?になったらしい。
確かに背は低いし、軍隊にいた時の写真もあります。
どんな基準で配属になったのでしょうか?
ちなみに、顔だけはキレイなので
セーラー服を来た胸から上の写真は、高畠華宵の美少年みたいですた。
オレのじいさんが乗ってた輸送船が戦地へ赴く途中、台湾沖で
撃沈されたそうだ。
さぞ無念だったろう。
300 :
日出づる処の名無し:04/11/18 17:45:07 ID:tF6D1OdE
>>299 爺さんのためにも山本七平、ある異常体験者の偏見を
読むことを薦めるよ。
アーロン収容所 会田雄次著 中公新書も嫁。
302 :
日出づる処の名無し:04/11/18 18:00:20 ID:DpPLmOKc
>>299 今度の時は、じいさんの分も戦って、武勲を建てような!
オレも一緒にやるぜ。
303 :
日出づる処の名無し:04/11/18 18:17:11 ID:5Nsi3NXs
ラバウルで病死。
生まれた子供の顔も見られなかった。
>>303 > ラバウルで病死。
> 生まれた子供の顔も見られなかった。
「ラバウル小唄」って軍歌は、小林旭の「さすらい」のメジャーコード版みたいだ。
「さすらい」自体、元は軍歌だったらしいけど。
ラバウルで明るく歌い、そして戦死していった兵士が、1962年に亡霊となって
「さすらい」という哀しい歌を流行らしたのだろうか・・・
うちのじいちゃんは傷痍軍人だったよ。
家には義足の人とか目の見えない人とか、傷痍軍人の仲間がよく遊びに来てたよ。
じいちゃんは・・・どこを怪我してたのかよく知らないんだが、足かな?
でも義足ではなかった。
戦地は多分南の方の島と思う。
307 :
日出づる処の名無し:04/11/18 19:04:31 ID:amN/9COT
知り合いの爺さんのいた部隊は南京に進撃した日本軍の一番最初だったそうだ。
爺さんの話では、南京に入った時には既にたくさんの死体が転がってたらしい。
大虐殺はでっちあげだと言ってた。
文が下手でごめんなさい。
うちの爺さんは視力が極端に悪かったので、45年まで徴兵されなかったら
しい。で、45年に甲府の第15連隊(だったかな)に配属され、九十九里
浜の防衛に当たってたんだって。
ちなみに小隊長は朝鮮人だったらしい。
309 :
日出づる処の名無し:04/11/18 19:09:51 ID:tIkQ8Klq
うちの爺ちゃんは、三等水兵から叩き上げの職業軍人。最後は特務大尉。
部下を殴れなくて、代わりに便所掃除とかを命令する心優しい人だった
らしい(婆ちゃん談)。勲章をいっぱいもっていたが、ほとんどは「参加賞」
だと言ってた。本物の日本刀を軍刀に仕立ててた。孫にはその価値がわか
らずダンボールを斬って遊んでた。
乗った艦で記憶にあるのは、巡洋艦「鬼怒」とか戦艦「扶桑」とか。
巡洋艦「最上」というのに乗ってたとき、僚艦の「三隈」というのに
衝突して、普段いたとこなら死んでたが、たまたま別のとこにいて
助かったらしい(ミッドウェー海戦のことですな)。
乗るフネ乗るフネ全部沈んだのに、しぶとく生き残った運のある人でした。
310 :
日出づる処の名無し:04/11/18 19:15:51 ID:3d5oBGRM
>>304 >>305 なるほどなあ。
「流れ者」の歌と言うよりは、
「出征兵士の悲哀」を歌ったと見る方が
実感を感じるよな。
俺の伯父はラバウルの整備兵。
任務で出かける時、残る部隊からこう言われた。
「お〜い!今日は餅をつくぞお!帰ったら食いに来いよなあ!」
で…、帰ったらその部隊は爆撃で全滅。
伯父は負傷して内地送還。
その伯父も亡くなって10年。
詳しく聞いておけばよかった。
合掌
312 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:03:36 ID:iWX1PC0t
うちの親父は70歳になるんだが、戦争を知っていると威張ってるくせに朝鮮やシナの嘘に
騙されまくり。
どうやら、戦争を知らない世代というのはこの辺りも入るらしい。
戦争体験のあるお祖父様のいらっしゃる人は、今のうちに話を聞いておいてください。
314 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:46:56 ID:USvMCaoi
親戚が中将だったが太平洋戦争で行方不明
315 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:49:37 ID:MKUjLBt2
落下傘部隊だったような
凄いのばっかだな、おい・・・。
2等水兵。17歳戦死。水兵長へ特進。なんかの勲章と天皇陛下から賞状いただいてる。
317 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:52:03 ID:BnfzKmb/
今一緒に仕事してる人が海軍にいたそうです。
もう1〜2年終戦が伸びてたら特攻してたかもしんなかったらしい。
整備兵?やってたとかいってたな。
潜水艦にも乗ったことがあるとか無いとか…
319 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:54:36 ID:VPXD1b+1
確か桜花っていう兵器で突っ込む予定だったらしい。
もし1週間降伏が遅れてたら俺は生まれてなかった。
320 :
日出づる処の名無し:04/11/18 20:58:30 ID:USvMCaoi
中将だった人はひいじいさんの弟らしく士官学校を卒業して陸軍に入ったらしい
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ちょ、ちょっと待って!!
|
>>307が今何か言った!!!
, ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,. ヽ─y────────────── ,-v-、
/;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 / _ノ_ノ:^)
/;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| / _ノ_ノ_ノ /)
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i / ノ ノノ//
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! ____/ ______ ノ
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. r(" `ー" 、 ノ
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l-、 ゙ ノ
_,-ー| /_` ”' \ ノ __ . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'"
| : | )ヾ三ニヽ /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ
ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ
昨日父母に話を聞いてみたところ、結核のお爺ちゃんの話は父方で、馬に乗っていたのは母方でした
父方の祖父は北京で倉庫を守る部隊に所属していたそうです。階級は伍長
母方の祖父は呉か宇品の港の方に勤務していたそうです。階級は少尉
このスレがきっかけで祖父の昔話に興味がわいたものの、父方祖父は既に他界
俺は祖父とはほとんど交流が無く、葬式の時もどこか他人事で泣くことはありませんでした。
今になって色々話を聞いておけば良かったと悔やむと共に
こうして孫と話をしないまま忘れられていく祖父の事を思うと涙が出ました
葬式から数年、今日やっと祖父のために本当に泣けた気がします。
母方祖父母、父方祖母も高齢です。今の内に色々話しておきたい
そして自分の子供にも伝えていきたい
中国の東北地方で軍医をやっていたと聞いている。
祖母の弟が特攻だった。
仏壇の軍服写真しか見たこと無いけど。
徴兵された後工兵になり、
憲兵学校卒業後内地にて勤務。
終戦時は憲兵軍曹だったらしい。
祖母は女子挺身隊で風船爆弾を作っていた。
竹槍つきながら「こんなんで勝つわけないよね」と言った。
玉音放送はラジオで聞いたらしい。泣いたそうだ。
皆すごいですなぁ・・・。
自分の父方の祖父は鉄工所で働いていたそうな?
とりあえず徴兵されて砲兵かなんかで満州にいってたそうな。
戦闘はなかったようで。任期を終えて帰ってきて暫くした所で
終戦だったそうな。今も小倉で暮らしてます。
本当に晴れてたら今いませんな。自分。
母方の方は戦争を知らないですね。年齢的に。
ちなみに今何処にいるかも知らないです。
けれどばあちゃんの家族の兄弟が殆ど戦死してしまったそうな。
今度機会があればまた話聞くかな・・・。
>307マジすか?
なんか、これって、本になったらイイと思う。
戦争に行った人、経験した人は今、もうじき亡くなってしまうもん。
電車男なんかより、意味があるよ。
329 :
307:04/11/18 23:38:13 ID:ikUscQQb
>>327 本当らしいです。
その爺さんは今でも頭はしっかりしてるし嘘を言うような人ではないので僕は信じます。
>>328 同意。誰かまとサイト作らないかなぁ。
>>329 そのような貴重な話こそ残すべき。ずっと黙殺されてきたのかよ・・・
祖父は軍医で東北地方にいたわけだが、軍隊が感染症の研究を行うのは当然のことで、その過程で犠牲が
出てもおかしくはないと話していた。
「防給部についてどう思う」と聞いたら、「軍人だよ。上官の命令は絶対なのだ。命令があれば動くのが軍人なんだ。
これは宿命なんだ」と言っていた。
>>328 禿同!
こういうのを待っていた!
だけどネタで書いてる人もいるんだろうなぁ…orz
334 :
日出づる処の名無し:04/11/19 00:33:30 ID:HqEqdhaJ
母方のじいちゃんは、大戦末期の南支(中国南部)に派遣され
軍ではトラックでの、物資運搬の軍務についてた。
もともと、気の強い人ではなかったため、軍務とはいえ、人を殺した
罪悪感にさいなまれたらしく、戦後は酒に逃げたり、仏教に凝ったり(慰霊の為)
した。
335 :
日出づる処の名無し:04/11/19 00:41:48 ID:dv9dMJsk
336 :
日出づる処の名無し:04/11/19 00:42:22 ID:YE5oMgZx
俺の母方の爺さんは鹿児島で特攻隊を送り出す大佐をやってたらしい。
もう15年前に死んじゃったけど、死ぬ前日まで散歩し、本を読むという元気な人だった。
しかし、今思い出すと、ものすごく戦争に関して後悔してたように思える。
忘れられない言葉は
「○○君(俺の名前)、一生懸命になり過ぎたらいかんよ。
ワシらは一生懸命になり過ぎて戦争なんかしてしまったんだから...」
当時はサッパリわからんかったが、なんか胸に残ってたので、今でも覚えている。
マジメ過ぎちゃいかん、うまい世渡りが必要、ということだったのかも知れんが...
この言葉を覚えているから、当時の軍人に悪気なんかないと思う。
337 :
日出づる処の名無し:04/11/19 00:52:32 ID:YE5oMgZx
父方の爺さんは新日鉄。(当時は富士製鉄?)
どんな仕事してたかは知らんが、結構人望はあったらしい。
開戦時、日本中が真珠湾奇襲のニュースで大喜びしてる中、
「バカな!日本は負ける!鉄鋼の生産量にどれだけ差があると思ってるんだ!」
と叫び、俺の親父は「何言ってんだ?」状態だったらしい。
で、戦争中は満州へ。そして、引き上げ時に財産をほとんど失った。
それを俺の両親は批判するが、無事に引き上げてきてくれたおかげで今の俺がある。
338 :
日出づる処の名無し:04/11/19 00:59:17 ID:HqEqdhaJ
父方のじいさんの話はリアルだった
銃撃戦で自分の両隣で鉄砲撃ってた二人が死んだとか
大空襲の際に、自分の目の前で女学生の頭に、爆弾の金具?
が直撃してスイカみたいに破裂したとか
シナ内陸で、木造船で移動していたが、船底が機雷で大破し
全員退避、水に飛び込めの命令が出たが、カナヅチだったじいさんは
飛び込めない、右往左往している間に一旦沈みかけた船は
再度浮上し、陸地に流され、じいさんは命を取り留める
一方、泳ぎ達者な兵隊は、重装備で水に飛び込んで片っ端から死んだ
・・・人間なにが幸いするかわからん。とじいさんが言ってた
339 :
日出づる処の名無し:04/11/19 01:01:18 ID:P29iVVBE
じぃちゃん・・・・元気かな・・・
うちのじいさんは、陸軍でノモンハンに行ってたらしい。
そんでじいさんを含めた2人を残して部隊が壊滅したらしい。
全滅した部隊の戦友が夢に出てくるとかって言ってたな。
大東亜戦争中は内地勤務でそのまま終戦
そんで今年の10月に戦友達の所に逝ってしまった(ノд`)
もっと戦争中のこととか聞きたかった。_| ̄|○
母親のほうは、海軍で、鳥海だっけかに乗ってたらしい。
こっちは小学生のころに亡くなってしまった。
いろいろ話を聞きたくなった時に、すでにいないってのはやっぱつらいな・・・
341 :
日出づる処の名無し:04/11/19 02:38:12 ID:RIzOnigI
母方の祖父も父方の祖父も戦時中は高齢で戦争には行かなかった。
それでも母方の祖父は徴用されて乗ってた船が撃沈されて戦死。
父方の祖父は鹿児島と沖縄の間のある島の出身で出撃して行く特攻
隊を船の上から何度も見送ったってさ。
自分の曾祖父ちゃんはパプアニューギニアに行っていたそうだ・・・
消防のとき聞いてみたら蜥蜴食ってたって言ってたよ・・・
その時長女の祖母ちゃんはまだ居なかったから、曾祖父ちゃんが英霊になってしまわなくて本当に良かったと思うよ・・・
343 :
日出づる処の名無し:04/11/19 02:57:37 ID:hU+FEyb9
父の年の離れた兄が南方戦線で戦死したそうです。
父がとても尊敬していた人物だそうです。
私は叔父の名前を一字いただきました。
344 :
日出づる処の名無し:04/11/19 03:00:36 ID:v4dBo9ZA
父方のじいちゃんは戦争行ってないけど、大叔父(つまりじいちゃんの弟)は沖縄で死んでる。
ばあちゃんが骨を取りに行ったそうな。
…若かったし、女を知らないまま死んだんじゃないかな…。
母方のじいちゃんは、憲兵の予備隊だとかそういうので大陸に行ってる。
俺が南部十四年式を「じゅうよねんしき」と読んだ時、「じゅうよんねんしきだ」と訂正してくれたっけ。
ついこないだ亡くなった。
うちの爺さんは陸軍でフィリピン方面に行っていたらしいです。
機関銃小隊の小隊長だったらしく、部隊撤退時にしんがりを務め
追撃してくる敵部隊と何度も激しい戦闘をしたそうです。
度重なる戦闘で味方は一人、また一人と倒れ、本隊も見失い、
自分も左腕に敵弾を受け何日もジャングルの中をさまよい歩くうち
左腕の銃創が腐り始め、腕がまったく動かなくなった爺さんは
部下に自分の軍刀を渡し「そいつで俺の左腕を切り落とせ」と命じ、
自分の左腕を失いました。
その後、撤退中の別部隊に運良く発見され何とか日本に帰ることが
出来たそうですが、撤退開始時に20人以上いた自分の部隊で
日本に生きて帰ってきたのは爺さんを含めて4人だけだったそうです。
「自分たちは国や家族を守るために必死になって戦ったんだ。
フィリピンで死んだ仲間もそうだし特攻で死んでいった方々もみんな
そういう思いだったはずだ。戦争はいかんことだが、あの戦争では
日本が一番極悪非道だったなどと言っている日本の批評家連中を見ると
胸が痛む。仲間の死は無駄だった、犬死にだったと言われてるようで
本当に悲しくなる。あいつらは断じて犬死になんかじゃない。」
そう言って目に涙を浮かべていた爺さんを思い出しました。
つらい体験だったんだね・・・
346 :
日出づる処の名無し:04/11/19 03:27:32 ID:GtQNyNxm
>>336と
>>345が
共に心を打つ。
死線を越えて、一見相反する感慨を得た
ように見えるが、通底する何かがある。
当時の気持ちを正直に正確に伝えるのは、
>>345だろう。
>>336は、その反省に立っている。
しかし、国家と民族の危機にあたって、
のらりくらりと非国民の一歩手前を歩くのも、
それはそれで辛かろう。
真面目に生きるとは、いつの時代も辛いものだなあ…
347 :
日出づる処の名無し:04/11/19 03:32:54 ID:5HHXiFw3
ア・バオア・クーでリックドムで出撃したらしい
ジオングは見てないと言ってた
348 :
日出づる処の名無し:04/11/19 03:39:02 ID:GtQNyNxm
>>336のじいちゃんは、
特攻隊を送り出す立場にいたから責任を
感じているのだろう。
>>345のじいちゃんは、実際に戦った立場だな。
経験者としては反省やその結論を語りたいのだろうが、
後進の我々としては、当時の事実や気持ちを知りたい。
349 :
日出づる処の名無し:04/11/19 03:41:32 ID:IgHWoH7c
外国で行軍中に薪運んでたけど後ろのほうだったから薪売ってパン買ってたって。
('A`)<・・・・
いや、いいじいちゃんですよ。
うちの爺さんは時計職人で軍用時計を作ってた。だから、召集されずに済んだ。
もう片方も戦況が悪化してから南方に行かされたけど、自転車屋だった(=チャリンコ直せた)から、前線に行かされずに済んだ。
この話を思い出すたびに「芸は身を助く」は真理だと思い知らされる。
おまいらも手に職つけといたほうがいいぞ。マジで。
351 :
日出づる処の名無し:04/11/19 04:23:40 ID:N2kH9Jlz
うちの曾祖父?は関東軍で南京まで行ったそうで、
大虐殺については、たくさん殺したけど、1万人程度じゃないの?
って言ってた。中国って兵と一般人の区別つかないから
撃ちまくったけど、ほんと、街中でしか戦闘にならなかったらしいし。
352 :
日出づる処の名無し:04/11/19 05:56:56 ID:KMRlRPAL
たぶん、戦争に行った人で「戦争はいけない」っていうのは
戦争が悪いって言うんじゃなくて
戦争によって有能な人や良い人がどんどんいなくなっちゃう
ってことなんだろうなぁと思う
>>303 > ラバウルで病死。
> 生まれた子供の顔も見られなかった。
うちのかみさんと全く同じ。
うちの爺さんちょうど厨房。
長崎で魚雷作ってて(三菱の工場 もしかしたら人間魚雷かもしれんけど、)、近くに爆弾落ちたんだけど、魚雷の影で助かったんだと。
で、山の上でピカドン(原爆)にあって、一緒にいた消防の弟だけが熱線を浴びてケツが焼けど。弟は一応、手帳は貰ってるらしい。
355 :
日出づる処の名無し:04/11/19 12:32:22 ID:eQ10ucmU
そういえば、満州だったかあまりにも戦闘が激しく
銃を撃ちっ放してて銃身が真っ赤になったって言ってたっけ。
水掛けて冷やしながら撃ちまくってたらしい。
やっぱりそんなもんだよな・・・
生きて帰って来てくれてよかったよ。
うちの爺さん将校クラスの運転手だったらしい。
あと満州で戦車も乗ったと言ってたな。
終戦間際に皇居周辺で、任務についていたらしいのだが
その事ついて、あまり話してくれない。
357 :
日出づる処の名無し:04/11/19 13:01:21 ID:Vyjt7tVd
みんなの爺ちゃん、えらいなあ‥
ウチは父方も母方も死んじゃったから,よく判らないけど、
親父やお袋から聞いた話では、両方とも徴兵で陸軍に行って
父方は中国戦線、母方はフィリピン戦線で終戦を迎えて復員
してきたって話だったよ。階級とか、何やってたのかは判ら
なかったけど、両方とも馬上で軍刀もってるカッコいい写真
が残っているんだ。
あぅ
文章が変なまま送信ボタン押してしまった。
× うちの爺さん将校クラスの運転手だったらしい。
○ うちの爺さん将校クラスの専属運転手だったらしい。
359 :
Dr.NO:04/11/19 13:06:36 ID:B3NzZ4gt
…馬上で軍刀って相当偉くないか?
360 :
日出づる処の名無し:04/11/19 13:16:06 ID:Rswm0FJ3
俺の爺ちゃんは高校の教諭をやっていたので徴兵されていなかったけど、
終戦近くに人員不足でついに赤紙が来た。
「三十路をこえた俺を徴兵するとは、いよいよ敗戦も近いと思った。」
とは爺ちゃんの談。
本土防衛のために鹿児島へ行って、そのまま終戦。
あと戦争とは関係ないけど印象に残った話として、爺ちゃんが日本大学の
学生だったときに偶然2・26事件の現場に遭遇してしまって、憲兵達から
誰何されたとのこと。(戒厳令が敷かれていたのを知らなかったらしい。)
「仕事とはいえ、あの横暴すぎる態度はいかん。あの頃から微妙にまずい
空気(雰囲気?)は感じた。まぁ所詮結果論だが。。。」とも言ってた。
教え子の中で散華された方もいたようで、時々寂しそうな表情をしていた
のを今でも思い出します。
>>36 俺の中学にも同じ過去の美術の先生がいた。
もしや、鼻に傷のある木村先生では?
362 :
日出づる処の名無し:04/11/19 13:24:00 ID:s8nXA11G
漏れの爺さんは15歳で敗戦をむかえた。戦争教育だけ受けて
本当の戦争の悲惨さをしらない。一番危険な戦争オタクだった。
363 :
日出づる処の名無し:04/11/19 13:25:30 ID:+lvfRCk9
海軍中佐だった
364 :
日出づる処の名無し:04/11/19 13:26:09 ID:Vyjt7tVd
>>359 そうかなあ?仕官学校行ったとか聞かないし。
せめて写真ぐらいカッコよく撮ったんじゃないかなあ?
でも自分として偉いなあと思ったのは、まだ生きてた時、
「兵隊に行くって怖くなかったの?」って聞いたら、
「日本の男は兵隊に行くのが当たり前だったから何とも
思わんかった」って言ってたこと。
本心はともかく、孫の前でそう言えるってことが偉いと
思いました。
うちの父のアルバム見ると、愛馬と撮っている写真の顔が一番嬉しそう。
事実、生前、愛馬(名前失念)との別れが辛かったと言っていたっけ。
飛行機乗りになりたくて英語を独学したけど、色盲で落ちたとか。
南洋ではマレー語をこなし、ドイツ語も覚えたらしい。
死ぬ前、よく港へ行って、アメリカ人や豪州の船員と話していたよ。
海を見つめている眼が忘れられない。。。
それから任地の仏印では、華僑の女性と恋に落ちて子供を作ったそうだ。
「フィアンセ何某」と書かれたラブレターが死後アルバムの間に挟まっていた。
きっと、インドシナに帰りたかったんだろーね。
367 :
日出づる処の名無し:04/11/19 14:19:33 ID:Vyjt7tVd
>>366 その後仏印では、インドシナ戦争やベトナム戦争が続きましたが、
お父上は、きっと心を痛めていらっしゃったんでしょうね。
368 :
日出づる処の名無し:04/11/19 14:31:45 ID:AyqI+2Je
漏れのじいちゃんの形見は勲章さ。漏れが小さい頃にもらったんだ。
渋い銀色がカッコよくて、桐の箱に入っている。友達に見せて自慢したりもした。
最近押入れを整理したとき、たまたま出てきたので懐かしく見ていると
「第○×連隊 体育大会 参加賞」
・・・・・・でもいいんだ。じいちゃんからもらったものだし。
私の祖父は満州で憲兵さんでした。
日本人の憲兵は大変尊敬されていて、引き上げるときには使用人だった人や
近所の中国人の人達は皆泣いてくれたそうです。そして、日本には無事帰れるか
分からないから、ぜひ子供は置いていくよう、きっと大事に育てるから、
と強く言われもしたそうです。しかし、うちの祖父母は自分たちの子供だから
どうなろうと最後までは一緒、と日本に帰ることにしました。2人いた子供のうち
1人は途中栄養失調で亡くなり、うちの母だけが生き残って日本に帰ってくることが
できました。
すべての財産を失った祖父と祖母は大変苦労し、祖父は数年で亡くなり、
祖母は女手一つでその後生まれた3人の子供(母と伯父、伯母)を育てて
くれました。
祖父母のおかげで、私は残留孤児二世ではなく、平和ぼけ日本人でいられます。
私も当時の日本人が立派だったからこそ、中国の人たちが多くの日本人の
子供を預かってくれたのだと思います。幸い私の母は生きて帰ってこられましたが、
当時の親切な中国の人々にも感謝したいと思います。
370 :
日出づる処の名無し:04/11/19 14:54:52 ID:+ur3kqFK
フィリピン、ミンダナオ島の激戦に参加。
戦友の大半は死んだらしい。
その戦友たちの形見を銃弾飛び交う中かき集め、
戦後、全国の遺族に返して歩いたそうな。
のちに市議に当選。
しばらく政治活動を繰り広げたあと、引退。
阪神大震災のちょうど2年前、1993年1月17日に75歳で逝った。
死後、勲六等(瑞宝章だったか単光旭日章だったか・・・忘れた)を受賞した。
賄賂を徹底的に受け取らなかったせいで借金だけを残してくれた。
正直、賄賂を受け取って欲しかったというのは内緒。
ちなみに曽祖父は、逝去したときに右派の国史学者(受け売り)・平泉澄氏から
曽祖父の死を惜しむ文を頂きました。
平泉澄
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/tokko-sisou3.htm 少し派手な家系に生まれたのにパッとしない俺はおそらく末代。
父型のじーちゃんは目が悪かった上に郵便局員なので戦時中もそのままポストマン。
母方のじーちゃんはデザイナー(つっても茶碗の絵柄描きw)だったので、戦時中は
戦闘機の設計図の図面引き。
372 :
日出づる処の名無し:04/11/19 15:19:59 ID:SPNAMSPJ
俺の爺さんは軍医。
二回応召して、一回目は中国。
多分、南京戦にも参加してると思う。
上海上陸して除州攻略にも行ってるらしいから。
二回目はインドネシア。
インドネシアの人は日本の兵隊にとても好意的だったそうだ。
終戦になると、銃を取ってオランダに抵抗するインドネシア人が続出したらしい。
戦後、インドネシアに行って、部隊で雇っていた賄いみたいな人と会って来たことがある。
中国戦線の写真がたくさんあって、
面白いのが、中国の農村の人たちとかも写っているところ。
兵隊にビビッているような、不安そうな顔したかわいそうな中国人親子の写真もあったが、
にっかり笑って、部隊の軍人と写ってる少年の写真や、
面白いところでは、部隊に物売りに来ていた行商の写真とかもあった。
南京事件云々はあったのかもしれないが、
毎日のように中国人の人と殺伐としていたわけではないようだ。
>>372 >中国戦線の写真がたくさんあって、
>面白いのが、中国の農村の人たちとかも写っているところ。
このスレを本にとか言うのもともかく、そういう写真こそ本にして世に出回るべきだと思うんだけどな。
探せばまだ市井に残ってると思うが、どうよ>出版社の中の人
374 :
日出づる処の名無し :04/11/19 15:27:43 ID:MHm1sRsx
中国語の通訳
給料3円だったってさ、凄いのかどうかもわからん
375 :
日出づる処の名無し:04/11/19 15:30:06 ID:FBBb+Mfh
親戚のじいさんから聞いた話。
支那で停戦、武装解除後、支那軍の日本兵狩にやられそうになった、特に手柄もなかった万年上等兵。
支那人の友達が危急を報せてくれて九死に一生を得、無事復員。
よく日本鬼子と言われるが、支那人とは普通につきあってたそうで、友達もたくさんいたそうだ。
大陸での日常は、一面で語れる構図ではないと思った。
じいさんは山口県人、聯隊が分れば終戦時にどこにいたか分るんだが。
376 :
日出づる処の名無し:04/11/19 15:36:42 ID:B6P8DyUL
陸軍で潜水艦に乗ってたっていってたな。そんなこともあるのか?
377 :
日出づる処の名無し:04/11/19 15:51:09 ID:ONYIE/bn
俺の爺さんも、フィリピンのミンダナオ島に戦争で行った。それが、我が家の唯一の海外経験なんだ。
俺のじいさんは、シナ事変に行って戻ってきてから、事故で死んだからなあ。
でも一応仏壇には伍長の写真があるよ。
まあ、ペーペーの兵隊だったけど、
それでも国とまだ生まれていない俺のためにたぶん戦ってくれたのは、嬉しい。
とはいえ、満州事件を起こした陸軍の上の方の奴らは糞だなあ。
歴史を学ぶたびにそう思う。
最近になって母に聞いたんだが、曾爺さんが飛行機工場の工場長で
戦中に胃癌で亡くなったんだが、後任に就いた人が戦後戦犯として逮捕されたらしい。
婆ちゃんの弟は満州にいて戦後シベリアに連れて行かれてそのまま消息不明。
>>351 今のイラクにいる米軍と同じで、ゲリラ戦を挑まれたら一般市民が
犠牲になるのはしょうがないことなんだよな。
だから、国際法でゲリラ戦が禁止されているわけだし,
スイスや韓国なんかでは、全員が兵役につくように義務付けられているわけだし。
ゲリラ戦を挑んだ中国政府こそが、本当は国際法上の南京の犯罪者
なんだけどな。
381 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:08:51 ID:D230O8S7
>>376 そんなこともあるのか?
ある。兵員や物資の輸送用として持ってたんじゃないかな?
382 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:12:02 ID:SPNAMSPJ
うちの爺ちゃんは、満州に行ってた階級はよくわからないが、
結構偉かったらしい。
地元の満州ねーちゃんを彼女にしてブイブイ(死語)言わせて
るのを何故か日本のばあちゃんに察知され、ばあちゃん命が
けで単身満州に渡り、爺ちゃん強襲。
一生頭があがらなかったとさ。
中華服着て、中国人のフリして写真撮ってたり、中国のおっさん
達と一緒に観光地らしきところで写真撮ってたり、白馬に乗っか
って写真撮ってたり、満州ねーちゃんに乗ってたり、何やりに行っ
たんだか。
384 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:24:04 ID:hkq5iMiX
うちの曾爺ちゃん、軍人じゃなかったけど、
満州で「甘粕部隊」ってとこにいたらしい。
何してたかは不明。今や知る人もなし。
映画でも撮ってたのかな?
しかし、相当金持ちだったらしい。
陸軍に戦闘機寄付したって聞いた。
しかし、国債で持ってた資産がすべて紙切れ。
引き揚げ後はかなり貧乏だったみたい。
385 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:31:17 ID:ErI8THle
>>384 甘粕部隊なんて面白そう。
うちの爺ちゃんはマレー半島の辺りに行ってたらしい。
体が小さく「丙」だったらしく、軍医のサポートだったらしい。
しかし行った時には戦闘も無く、終戦が終るまでずっと
平和だったらしい。部隊で死んだ人は、椰子の実が落ちてきて
頭直撃した人、一人だけだったらしい。家族には勇敢に
戦ってなくなったと説明したらしい。
親戚には特攻隊で体当たりで勲章もらってる人もいた。
386 :
370:04/11/19 16:38:43 ID:+ur3kqFK
>>377 実際に、お互い戦友の一人だったりね。
残念ながら確認する手段は無いけど・・・。
このスレって、通して読むとなかなか興味深いね。
388 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:52:39 ID:dNhmsG1w
爺ちゃん達がいなかったら今の日本は無いが、左向きになってる事を知ったら悲しむだろうな...
389 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:53:52 ID:mdqP/DBY
ラッパふきで肺炎で死亡
390 :
日出づる処の名無し:04/11/19 16:58:56 ID:Vyjt7tVd
だれか、柘植慶久氏のようなすごい戦闘体験を持ってる爺ちゃんの話知ってたら
聞かせてくらさい。
391 :
なつき:04/11/19 16:59:47 ID:cEzhO3RT
満州で補給部隊を仕切ってました
392 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:10:18 ID:uHejE8Z0
じいちゃん達かっこいい!それに引き替え俺ときたら
393 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:18:55 ID:lFCPw8Rj
うちのじいちゃんは火の七日間の時も戦っていた。
酸の海の戦いでしんじゃった。
生前は酔うと口から火を吐いたんだって。
うちの庭にはじいちゃんの形見の長い棒が置いてある。
>>392 がんがれ。じーちゃんたちの英霊がおまえを見守っている。
395 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:26:18 ID:dbAvnd7m
>>384 甘粕正彦かな。
特務機関かなんかにいたのかな。おたくの爺さん。
映画撮ってたなら、普通満映にいたっていうはずだしね。
396 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:26:54 ID:ZKWjEPM0
母方の祖父は南方で沈められて板切れに捕まっていたそうだ。
夕霧だかという船と、武蔵にちょいと乗っていたらしいが、武蔵は本人曰く態度が悪くてすぐに降ろされたそうだ。
398 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:37:47 ID:3tvxc2pZ
俺の叔父さんはヒィリピンで特攻して死んだ
零戦乗りの叔父さんはかっこよかったと思う
399 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:38:06 ID:4erTdw4j
人間魚雷だったらしい
400 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:41:54 ID:RIzOnigI
父方の祖父は戦時中すでに40代後半で戦争には行かなかった。
だけど潮の流れを熟知してる漁師だった為海軍から何かと呼び出されてい
たらしい。
あと祖父の住んでた島に視察に訪れた山本五十六元帥が上陸する時の水先
案内をしたり、浜に上がる時元帥をおぶったりしたそうだ。
祖父はオレが生まれる前に亡くなってるから直接は聞いてないが、山本元
帥はとても穏やかな人で、自分みたいな漁師にも優しく労いの言葉を掛け
てくれたと死ぬまで自慢してたそうだ。
だ。
401 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:43:29 ID:ZnXVA5uT
死んだ爺さんは衛生兵として中国だったか満州だったかに行ったらしい。
酔うといつも戦争の話をしていた。
当時はサヨに洗脳されかけてたので戦争体験を誇らしげに語る爺さんがウザかった。
今思うと爺さんは立派な愛国者だったんだなぁ・・・もっと孝行すればよかった・・・
402 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:46:26 ID:9FDaaSsP
爺さんに色々聞けてた人はいいな
403 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:47:18 ID:UvghAoBI
ウチの爺ちゃんに聞いたら
「朝鮮人がウンコしてたからさ、いたずらで覗いてやったら
ブチギレて追いかけてきてさ、慌てて逃げたなぁ。良い思い出だよ
戦場では?大して何もしてないw」
それだけかよ・・・ 。・゚・(ノД`)・゚・。
404 :
日出づる処の名無し:04/11/19 17:49:32 ID:dbAvnd7m
>>402 うむ。そうだな。
うちの爺さんなんかそんなかっこいい武勇談はない。
心臓に疾患があって徴兵検査で丙種合格と決まって
ニコっと笑ったら、軍医にしぬほどどつかれたとか言っていた。
情けない。。
405 :
400:04/11/19 17:52:35 ID:RIzOnigI
>>400 だ。って・・w
この話し実は今日聞いたばかり、すごく感激した。
うちは長寿の島なので年寄りは近所にたくさんいるから
ちょっとづつ話しを聞いていこうかなぁ。
結局、島ごとに全滅&玉砕が多いから生き残った人はわりと激しい戦闘体験はないのかもしれんね。
うちの爺さんはなにもいわなかったな。
唯一は自衛隊が見事に作戦失敗したときに、
「そんなことで国民の信頼を得ることが出来るか」
と言ったことらしい。
409 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:14:36 ID:dbAvnd7m
410 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:15:46 ID:aXzjZAjn
爺さんの弟さんだけど上海で戦死した。
白い軍服で軍刀を帯刀してる写真を見たことがある。
411 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:17:10 ID:Vyjt7tVd
>>407 そうかも知れないなあ。
生きて祖国の土を踏むだけでも大変なことだったろうに、
さらに激しい戦闘の中、生き残ることは至難の業だったんだなあ。
合掌。
うちの爺ちゃんは、満州で軍医やってました。防疫部隊にいたかどうかまでは知らんが。
413 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:19:52 ID:Vyjt7tVd
でも、硫黄島の激戦から生還した人の孫さんっている?
お話ききたいなあ。
>>412 漏れの祖父も軍医だったが、感染症の研究を行うことは当然だと言っていた。関東軍でハルビンに居たんだけど。
415 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:22:58 ID:dbAvnd7m
>>411 世界の歴史史上、これほど広範囲に徒歩で歩き回った集団は
稀有だろう。
しかも大半の死因は餓死かそれに起因する衰弱死、病死。
アメリカの将官が「日本ではもっとも愚かな人間が参謀肩章を
吊ってる」と皮肉ったのもわかる。
>414
漏れのじっちゃんは大連の近辺で、同じく関東軍、……のはず。
417 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:37:01 ID:Vyjt7tVd
>>415 爺ちゃんたちってば、足腰強いもんね、ものすごく。
でも爺ちゃんたちの多くが餓死・衰弱死・病死で死んだってことは、
兵站・補給が機能していなかったことの証明だよね。
参謀の責任はもちろん重いけど、軍全体の兵站軽視の思想が悲劇を
招いたんだと思います。
418 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:43:17 ID:tfvtTJIx
爺ちゃんは慰安婦相手に連日ハッスルハッスルだったってよ。
毎日違う慰安婦でチンポが休むヒマがなかったって。
高射砲の教官
420 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:45:36 ID:Vyjt7tVd
421 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:47:24 ID:RIzOnigI
>>407 学校の先生が「真面目で純粋に国を思ってた人ほど激戦地に
連れて行かれた・・・」と言っていたのを思い出した。
不真面目な奴は役に立たんし。
423 :
日出づる処の名無し:04/11/19 18:54:19 ID:O2s8s/Lp
俺の父方の爺ちゃんはシナ大陸で現地通訳をしていた。
連戦連勝だったので日本が降伏したって聞いて「ハァ?」
って感じだったらしい。
母方の爺ちゃんは逆で南方戦線でマラリアにかかって
現地の病院で治療中米軍の空襲等で九死に一生を得たらしい。
424 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:00:35 ID:9PbLcqZi
親父はまだ徴兵の年齢じゃなく、動員で攻撃機の試作胴体(既存機種の木製化)を作っていたそうな。
たまに胴体の中で寝転んで、風防の穴から空を見上げてマターリ。
そんで、たまに見つかって頭をゴンと拳骨でやられていたらしい(w
親父の兄貴は満州で砲兵のエライさん。
着弾位置を決める角度などを計算する機械を改良したりしてたそうな。
(数年前の入院で、麻痺が残ってもう会話ができない……)
敗戦で武装解除され、シベリア抑留。
ソ連兵に擦り寄る奴らが嫌いで、強気でソ連兵に接したり、ちょっとした機械修理を
してやっていたら、逆に頼られるようになったと言ってた。
>>413 ウチの爺様じゃないし、硫黄島帰りでもないけど
今年の終戦記念日に占守島帰りの人に話を聞いたよ。
426 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:04:44 ID:392cHjiO
俺の母方。
祖父は、通信の方とかなんとかで北海道に単身赴任。
家族は、サイパンで結構優雅に暮らしてたものの、敵が
攻めてきたので、幼い兄弟姉妹だけで船にのり、命から
がら日本へ。祖父は、戦後も元気で90超えて天寿をマットウ。
口癖は、ソ連許すまじ(北方4島のこと)
俺の父方。
父の次兄達が、南方(恐らくフィリピン)に向かう途中、
撃沈されたとのこと。今は、毎日夢の中で生きてる祖母
が、時々さめざめと泣く時は、この次兄達を思い出す時。
「どうせ、お国の為に死ねなかったのなら、(家に)おったら
良かったのに・・・」と泣く。
祖父は、最初はどこか解らないが、足を負傷し一度帰国。
終戦の直前に二度目の赤紙。そのままビルマへ。なにやら、
部隊のお偉いさんになったらしいが、祖父のものという穴の
あいたヘルメットを持ち帰ってくれた部下の話によると、
「つっこめ!!」という号令と共に、手で部下をその場にいる
よう制止、一人突っ込んでいき、全身蜂の巣になる。「○○さん
(祖父の名前)は、バカじゃ。エライんじゃから、号令だけして、
後ろで待っとったら良かったんだ」と、部下が祖母の前で泣い
てくれたそう。
サイパンから、船でどうやって日本にたどり着いたのかが、
本人達も恐怖と幼かったので今だに解らん。
このスレ読んでると泣けて泣けてしょうがない
じいちゃん、あなたはどこで何をやってきたのですか
なんで脚の付け根に銃の弾の跡があるのですか
お正月に家族であなたを訪ねて来た片足のないおじさんは誰ですか
なんであなたの子供達(私の母、叔父)はあなたのやってきたことを知らないのですか
なんで遺品の中に戦時中を思わせる品が全く無いのですか
じいちゃん、あなたやあなたの友人達をおとしめる
今の日本(とその近くの国)の風潮を私は絶対に許さないよ
南京で開戦した兵隊さんがレイテあたりに行ったんでしょ?
うちの大叔父は3人ともシナ戦線。一人は南京で病死。残りはレイテ。
残ったのは大きなお墓だけ。戦後直ぐに年金がおりずに苦労したらしい。
429 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:10:39 ID:i7Dyyl4e
男子たるもの黙して語らず。昭和天皇からしてそうだったね。
うん、だからこそ口に出したときの言葉の重みが違う
431 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:26:02 ID:hBXVUbVq
母方の曾じいちゃんは、軍医として日清・日露の戦役に従軍したらしい。
結構活躍したそうで、時の首相からじきじきにお褒めの言葉を頂いて、
それが生涯の自慢だったそうな。
その息子であるじいちゃんは、弱視と喘息で丙種におっこったみたい。
「裏から手を回しただろう」とかいろいろ言われたらしい。
そのせいか最近まで曾じいちゃんのことぜんぜん聞いたこと無かった。
父方のほうはよくわからん。満州で行方不明。
うちのじいちゃんはぺーぺーだったからな・・・。
満州かシベリアかで対空砲撃ってたっていうのは聞いた。
シベリアに抑留されてたからあまり当時のこと思い出したくないから多くは語らなかったな。
それに抑留中に小豆をずーっと食わされてたらしく
好物だった赤飯が二度と食えなくなったとも言ってたな。
433 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:36:24 ID:/oEWaqku
大陸のほうで通信兵をやっていたらしい。
今でも、孫の手とか自分の物にはモールスで名前を書いてある。
434 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:36:40 ID:RPBJsupB
<426
サイパン、テニアンも我が国の侵略された南方領土なんだがな…。
うちのじいちゃんは、ある駆逐艦の機関長さんだった。
撃沈されて、逝ったそうだ。
なぜか いまでも、じいちゃんの仏壇の前で寝ると
金縛りにあうよw
皆様の御祖父様方が一兵士であろうと高級将校であろうと、日本のために努力されたことに変わりは無い。
不肖ながら元一等空曹、最敬礼を贈らせていただきたい。
437 :
Dr.NO:04/11/19 19:47:31 ID:B3NzZ4gt
もと自衛官!?
父方→虚弱体質で兵役に落っこちる
母方→満鉄職員で、むこうでばあちゃんと結婚。
ばあちゃんは近所のロシア人や中国人のご婦人方に料理を習ってたそうな。
ばあちゃんの弟は少年飛行隊?かなにかにいたらしく、
酒飲むと「いつでも北朝鮮にいってやる!」と言ってます。
先輩達に続いて戦地に出られなかったのが今でもくやしいみたい。
439 :
日出づる処の名無し:04/11/19 19:55:33 ID:lem0TzOQ
父方の祖父は仕官学校出て最初は大陸へ南方作戦が決まって
本土へ一時帰還し南方へいったそうな。
大陸では諜報活動みたいなことやってたらしい、
南方へ行ってからはいろいろな島で転戦して最後は
ジャワ島で山岳要塞作ってる時に終戦だったといってたな。
終戦を知った時は麻雀しながら野砲を撃ってたらしい(笑)
そこから和歌山の紀伊港に引き上げてきて某デパートの支配人みたいな
ことやってたみたい。
生前の姿を思い出すといつも木刀振って鍛えてたな
そんな爺さんも二年前に風呂場で脳卒中で逝ってしまった、
俺は人口呼吸してみたけどもう冷たくなってた・・
爺さんの葬式に来ていただけた戦友の皆様には感謝してもしきれない。
日本人の高齢者が世界旅行が好きなのは、島国根性とか成金趣味だけじゃないんだね。
皆、それぞれの地域へ行って、自分自身の、そして配偶者の親戚の、そして先祖の行った
土や海を歩いているのだと思える。戦前戦時下は日本の領土は広かったし、今の人達より
グローバルな動き方をしている。 憧憬さえ感じる。
441 :
426:04/11/19 20:07:52 ID:392cHjiO
>>434 あ、はい。サイパンの日本人町に住んでたそうなので。
いや、サイパンから、本当に湖で使うボートってレベルの
船で日本で帰ってきたって言ってたんで、すげ〜・・・つか、
船で辿りつけるもんなのか・・って思ったもので。
父方のじい様、昭和初期の不穏な空気を察知して?日本鋼管へ就職、なので兵役なし。
母方のじい様は、なぞ。ただ、母親は樺太からの引き揚げ者。
幼く(3歳位)、余りその当時の記憶は無いそうだが、ソ連の艦砲射撃の恐ろしさは忘れられないと、聞いたことがある。
戦争なんて2度と起こさないようにしますと俺は誓うよ。
444 :
日出づる処の名無し:04/11/19 21:10:58 ID:lFCPw8Rj
こういうスレがヤフ板にあったな。
元兵隊の方もカキコミして下さったのだけど、
基地街が出て来て個人攻撃始めやがった。
結果、論争を嫌った元兵隊の方はいなくなった。
こうして貴重な情報元が一つ失われました。
父方の祖父は海軍の兵曹長で、部下に優しかったそうです。また、良くは
わからないのですが、陸でも戦ったそうです。ミッドウェー海戦にも参加し
山本五十六を遠くのほうから見たそうです。魚雷が自分の乗っている艦の
すぐ近くを通過したり、乗った艦が降りた後沈没したりしたそうです。
父が子供のときに、祖父に人を殺したかどうか聞いたところ、笑って
誤魔化したそうです。
祖父は死んでしまい、話をちゃんと聞かなかったことや、今の自分と同じ
ような考えだった祖父を少し危ない人だと思っていたことを、悔いています。
皆さんは、おじいさんとおばあさんをお大事に。
じっちゃんは、旧軍とゆーより、帝都を守る勇猛なる鬼の8機(機動隊)だったつよ。
全都ゼネストの最中、土砂降りの防衛庁前でゲバ学生と激突したことがあり、かれ
らがゲバ棒の先につけた5寸釘らよって、じっちゃまは眉間に名誉の負傷を受けた。
>>309 >三等水兵から叩き上げの職業軍人。最後は特務大尉。
すげえな。
多分日露戦争から従軍してたんじゃないの?
このスレ、まとめて出版したほうがいいと思うぞ。
戦争美化とか、そういうんじゃなく身近な親族の戦争体験を語り継ぐべき。
近いうちに我々も近隣の国の戦火に巻き込まれるかもしれないからな。
先達の体験談を今までとは違った観点で聞くべき時に来ているのかもしれない。
452 :
日出づる処の名無し:04/11/20 00:22:19 ID:t6YBh8cQ
>>397、遅レスですまぬが、よく調べたら夕立だった。祖父が書いた文に書いてあった。ガダルカナルで沈んだと。
ちなみに終戦時は呉にいたそうだ。
453 :
452:04/11/20 00:27:35 ID:t6YBh8cQ
再訂正。呉だと思いこんでたら江田島の学校だと。
よく読んでおくわ…
454 :
日出づる処の名無し:04/11/20 00:56:45 ID:F05zOLmw
通信兵で満州に行ったが、マラリアで本土送りになったらしい
455 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:02:46 ID:MiTY1Adp
死んだじいちゃんは南方で高射砲兵だったらしい。山本五十六提督をみたらしい。
死んだひいじいちゃんは日露戦争か中国の事変で背中に銃撃されて、死ぬまで
背中に弾が入ったまんまでした。銃で撃たれてたんだよ日本人も。ひいじいさんは
その痛みをしってたんだよ。
456 :
327:04/11/20 01:10:22 ID:g/XEuddN
>>333多分307氏との間違いですよね?
自分からは特にこれ以上は話す事もないけれども・・・。
今は元気ですよ。毎朝散歩で数キロ歩いてます。
中学生の時付いていってとても苦労した記憶があります。
一応合気道やってて運動はちゃんとやってたのに・・・。
後みのもんたの健康法にはまってますね。趣味はマジックで良く老人ホームに
いってやって見せているそうな。
以前はちと左向きでもあり、じいちゃんとウマが合わない部分もあったため
どうも仲良くできなかったし。結構くれている手紙やしてくれる話を鬱陶しく感じて
いましたや。最近はじいちゃんの父の話を書いてくれてました。
中学生の時皇居に天皇陛下の新年の挨拶を見にわざわざ上京していた
じいちゃんと行って、なんでいちいちこんな所にウゼーと思いつつ日の丸の旗
ひらひら振ってた記憶があります。今度帰ったらじっくり語らいたいな・・・。
20になったんで酒でも飲みながら。
>345氏
こんどあなたのお爺さんにあったなら
自分みたいな戦争もなにも知らない若造だけれども
ちゃんと貴方方を誇りに思っていると
少なくともそういう人間がいることをお伝え下さい。
あと長生きしてくださいとも。
マジで泣けた。話。
457 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:10:37 ID:MiTY1Adp
大陸の戦線に出征したひいじいちゃんが語ったのか
嫁にあたるばあちゃんが舅にあたるひいじいちゃんから、中国で友軍がかなり惨いことをしたと聞かされたようです。
しかしそれは純粋に日本人なのか朝鮮系軍人なの、わかりませんでした。
やっぱり中国には少し後ろめたさはあるようです。
458 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:19:12 ID:MiTY1Adp
ばあちゃんは米軍機に機銃掃射をうけて
あぜ道をじぐざぐに走って青笹の茂みに飛びこんでかくれた時の
笹に機関砲弾が当たった、ばばばばばばばという音が耳にこびりついて
いるそうです。今、戦闘機から機銃でねらわれて逃げ回る自分を想像してみて。
石原都知事はその経験があるみたいだけど。
459 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:25:14 ID:nZGZP7aQ
俺のじいさん,ビルマとか転戦していたらしい。
地元でサトウキビ盗んだことがあったのーとか笑って話していた。
それが今や,釣具屋のじーさんだよ。
460 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:30:22 ID:Smw/cUQv
入院中、隣のお爺さんが話してくれた。
大阪から広島へ移動させられ、数日後に
「市街で爆発があったため救援に行け」と言われ、
部隊から数百名派遣。そのお爺さんは命令により長崎へ移動。
結局、広島市街に救援に行った方は、殆ど被爆。
で、長崎へ到着する前日に原爆投下のため、
そのまま大阪へ帰されたそうな。。。
461 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:33:48 ID:ab2eG0Ed
うちのじいちゃんは長篠の戦いに武田軍で参戦したそうだ。
織田軍の鉄砲隊にやられて命からがら信濃に逃げてきた。
これからは鉄砲の時代だと言い残して一昨年亡くなりました。
462 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:34:38 ID:MiTY1Adp
東北の農村出の軍人はとにかく辛抱強かったらしい。
いま、自分にもその血が流れている。
463 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:41:55 ID:Ogl+zMgW
うちのじいさんは北陸で高射砲撃ち部隊の下っ端をやっていたそうな。
ある日高射砲の弾を運搬中に弾丸が突然暴発して左手をバックリやっちゃったんだと、
そんでもう役にたたねぇからって後送されて空襲を免れたんだと。
・・・至近距離の人間が死なねぇ程度の炸薬しか入ってねぇ高射砲って
効果あったのかな?・・・
464 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:48:38 ID:Kdda5LEA
小さい頃、爺ちゃんと一緒に風呂に入った折に戦争の話をせがんだ。
爺ちゃんは当時、日本の?鉄工所で働いて、その後満州に行ったそうな。
実戦に参加する機会はないままに終戦を迎えたとのこと。
「はだしのゲン」を読んだばかりの小学生の俺は、思わず南京虐殺について尋ねた。
中国で日本がかなりの蛮行に及んだという話は聞いていたらしい。
見たわけじゃないから実際のところは知らないが、時代を考えたら何があっても
不思議じゃないだろうな、と。
鉄工所にいた頃から「こりゃ負けるんじゃねえか?」と感じていたそうだ。
当時は負けたらえらい事になると思っていたが、
平和になった今振り返れば、負けてよかったというわけじゃないが、
万一あの当時の日本が太平洋戦争に勝利しても、今みたいな民主的な世の中には
ならんかっただろうとも言ってた。
俺はなにか複雑な気持ちになったことを覚えてる。
爺ちゃんにとって上官には尊敬できる軍人が何人もいたらしいが、(名前を複数あげたが覚えてない)
当時の日本政府や軍の体質なんかには結構批判的なことを言っていた。
465 :
日出づる処の名無し:04/11/20 01:51:04 ID:MiTY1Adp
艦砲射撃って、おっかないいんだって。
どでかい砲弾がヒュルヒュルヒュルヒュルヒュルドドッドオーーーン
この世の地獄だったって。
俺の父方のじいちゃんは陸軍少尉で、朝鮮の大田という所の連隊に居たそうです。
歩兵砲(速射砲)の砲手でした。
少尉任官前に甲種幹部候補生に合格したのでレイテに行かずに済んだそうです。
乙種に合格した人(軍曹になる人)はレイテで玉砕しました。
もし乙種になってたら・・・。ガクブル。
母方のじいちゃんは大正5年に渡満して、満鉄で請負師をやり、昭和19年に帰国したそうです。
今となってはただの紙屑ですが、満鉄や満電の株券が60枚くらい遺品として残っています。
一方、昭和八年に渡満し女中をやってたばあちゃんは、戦後の昭和21年に帰国。
その際、3人いた子供の内の2人を栄養失調で亡くしたそうです。
ちなみに、二人が知り合ったのは帰国してからです。
家には第一次世界大戦()の勲章などもあるのですが、誰の物かは判りません。
義理の伯父は陸軍で、詳しい話は判りませんが、
南方で乗っていた輸送船が米軍に撃沈されて亡くなったそうです。
疲れた感じの半袖の軍服に、しわの寄った略帽をかぶった写真が残っています。
>>458 機関砲× 機銃○
空から12.7mmの弾が大量に降ってくるなんて・・・考えたくもないな。
468 :
日出づる処の名無し:04/11/20 02:55:12 ID:MiTY1Adp
でもでも、零戦の両翼の20ミリの機銃はどうなの?
ところで20ミリってどこの長さなの?すいません勉強不足で。
469 :
日出づる処の名無し:04/11/20 03:13:13 ID:3BLOPqH9
>>435 じいちゃんは、オマイに言い残したいことがあるだべさ(w
父方、ボルネオで二等兵をしてたらしい。よく分からん。
母方、和歌山の方で塹壕堀。終戦時一等兵。
さびし過ぎ。
なので追加、
父方の大叔父、
一柱、ガダルカナルで戦死
二柱、扶桑乗艦、レイテで戦死。
地味と派手が生死を分けたみたいだ。
>>468 弾丸の直径、あるいは、銃口の内径でいいですか?
ちなみに、拳銃の38口径とか言うのは、インチ表示をこねくり回した呼び方のはず。
すまん、詳しい人が答えるまでの場つなぎでした。
472 :
日出づる処の名無し:04/11/20 03:32:54 ID:BBP8gry2
うちの爺様ははじめての徴兵で中国へ 上海の辺りに行ってた 南京にも例の事件の後行ったとのこと
(虐殺はあったかもしれないが大虐殺は絶対無いと言っている)
そのあと除隊になって 警視庁で皇族の警護
で また徴兵されて北朝鮮のほうに行き曹長になった
(朝鮮で独立運動なんて影も形も見なかったとのこと)
また除隊になって満州に移り 開拓団に属していたが軍歴を買われて兵隊学校の師範に
>429-430
禿堂。うちの糞じじーみたいな法螺吹きだと、
何が本当で何が法螺かさっぱりわからないから、何かと大変だよw
本当に悲惨な思いした人ほどしゃべりたがらない、というのはある意味本当で、
親父の大恩人だったある会社の社長さんが無くなったとき、親父は葬式の参列者に
話し聞くまで、その社長さんが元特攻隊員だってことを全く知らなかったらしい。
本当に優しい人で、虫一匹殺せそうに無いような人だったらしいんで、
とても驚いたんだとか。
だから親父は、何かと戦時中の話し語る祖父とすげー仲が悪かったりする。。。
旅行先で同席したおっさんに聞いた話も短かったが印象深かったっけな。
そのおっさんの親父さんは陸軍の航空隊員だったらしい。
陸軍も海軍も、機体の性能不足で共に米軍相手に苦しい思いをしたそうだが、
その親父さんは、生前特に海軍の航空隊員には、
「彼らはたとえ相手が十倍の数いても、臆することなく突っ込んでいく」
と本当にその勇気を敬服していたんだそうな。
その反面、航空隊員は出撃のたびに仲間がやられて、日に日に数がどんどん減っていく…。
出撃命令=自分か戦友の死 というのがある意味常態化していたせいか、その親父さんに
限らず、多くの航空隊員が「明日はわが身」とばかりに、非常に荒んだ生活をしていた
らしい、とも。
他の隊員、とりわけ地上勤務者相手に喧嘩なんかした日には、躊躇せず
即座に拳銃ぶっ放した…、その位神経が張り詰めた生活を送っていたらしい。
特攻隊員とは又違った視点から、どうしようもない現実に向き合っていたんだろうな…。
>>471 X口径なら、X/100inchということ。1inch=2.54cm
例
38口径=0.38inch=0.38×2.54cm=9.652mm
50口径=0.50inch=12.7mm
>468
>471
拳銃・小銃の場合は、基本的に口径=銃弾の外径、でOKよん。
大砲の場合は口径表示の意味がまた違うらしいんだが。
米国などはインチ表示、旧日本軍やドイツ・イギリスなどヨーロッパ圏は
_表示が多いんで、一見大きさの区別がつきにくいんだけど…。
米軍が機銃として良く使っていた 12.7mm=50口径=0.500in と覚えておくと
他の銃弾と比較するとき大きさの違いが分かりやすいよ。
つまりは1インチ=2.54cmって訳。
これに当てはめると
45口径=0.450in=1.143cm (米国)
38口径=0.380in=0.965cm (米国)
8mm南部=0.314in=約31口径 (日本)
9mmルガー=0.354in=約35口径 (ドイツ)
って感じになる。
8mm南部は撃ち易いけど威力が無いっての、なんとなく分かるでしょ?
俺の爺さんはニューギニアの生き残りだったが、戦争のことは何も言わなかったな。
墓場まで持っていかにゃならんことがいっぱいあったんんだろう。
477 :
日出づる処の名無し:04/11/20 05:17:23 ID:X8ztimi7
ウチのじいちゃん、南京でドクガス撒いて、一人で10万はやったぞ!
って自慢してたよ。
うちのじーさんは、
一人はビルマやらあの辺で転戦して最後は何応均だかなんだかと終戦時の降伏の折衝
もう一人は当時の内地。満州→台湾 でのらくろよろしく適当にやってたそうだ。
朝鮮人とか台湾人とかとなかよくなりいまだに親交あるが
現在の中国とか韓国の嘘八百に多少憤ってる。
つーか、占領したりしてた前線での狼藉はあったそうだが
激戦区で敵味方が分からないよほど腐った場所以外は軍規も厳しく略奪暴行は不可能。
そもそも、そんなのやるような狂気すらないんだと。
あったのは、それこそベトナム戦争下のベトコンと米兵の関係みたいなのは前線だけだろう。
ぶっちゃけあんまし変わらんのだと。戦争も途中から敗戦はみんなうすうす気づいてたらしいし。
阿呆な暴走部分ばっかクローズアップされるけど、下の方はやってることも感覚も今とほとんど変わらないらしいよ。
ただ、無知だったなあって言ってたぐらい。
感づいても何も出来ない流れまで、今の世の中と全部一緒だとさ
なんか、この見ての感想。
普通のじーさんたちの話って、だれかが残しとくべき話だよな。
ここの話みてたら、涙が出る話も、当時もみんな人間だったってこともわかるし、
それでひどいことをしてたり、してなかったり、現地の人とも笑えてたりしたこととかが普通に分かるよな。
ここで書き込んでるヤシらはみんな、昔話を知った上で話してるから、
思想の違いとかそんな下らんこと無視で、戦争について考えたことがあるんだろうな。
戦争に善悪つけるんじゃなくて、切ないとか、しないにこしたことないとか純粋に年寄りから受けるべきものが
きちんと伝わってそうなことが暗に伝わってきた。
それがいいとおもた。・゚(ノД`)゚・。
僕のじいさんは軍医で、親父も医者で、僕も医師だけど
このような話をしっかりと残しておくべきだね。
481 :
日出づる処の名無し:04/11/20 06:41:52 ID:sPtw6qGh
俺の父方の爺さんは南洋のナントカって島(名前は失念)に出兵。
凄い激戦地で、爆撃にあったとき防空壕に入ろうとしたが
満員で入れて貰えず、近くの林に身を潜めていたが
その防空壕に爆弾がモロ命中、中に居た人は全員死んだそうだ。
その内終戦を迎え、その島での生き残りは爺さんを含め、たった2人だったとか…。
戦後、同僚の遺品を遺族に渡して回ったそうだけど、それは辛かったらしい。
「なんであんただけが生きて戻った!」など、かなり悪口雑言を浴びせられたそうだ。
母方の爺さんは中国で戦死、というか病死。
従軍中に病気になって、手に負えなくなったらしく
そのまま戦地に放置されたらしい…。
写真を見ると恐るべき美男子で、近所でも「歌舞伎役者になれる」と
評判だったらしい。
爺さんの従姉妹が親戚中でも凄い秀才で、海軍将校にまでなったが(少将クラス)、
体が弱く、戦時中に病気でなくなったそうです。
482 :
日出づる処の名無し:04/11/20 07:12:33 ID:TRXYDkEd
俺の父方の爺さんは、18歳で志願して台湾→終戦だった。
飛行機の前で仲間達と笑顔で肩組んでる写真があるけど
なんというか、表現しずらが、本当にこの時代の人達はいい顔してると思った。
母方の爺さんは、大陸で中国軍(抗日ゲリラ?)と戦ってたらしい。
当時の事聞いても、「戦争は人間のする事じゃない」としか答えてくれない・・・
何度も言うが、漏れの祖父は軍医だった。「上官の命令は絶対だ。」としか言わなかった。今でも健在だが。。。
>>482 うちの親父のじいさんも台湾で上等兵やってた。陸軍かな。
大戦中は除隊していて家族連れて栃木の軍需工場勤務で事実上の疎開。
母親のじいさんは満鉄の技師やってて
敗戦で帰ろうとしたら懇意の中国人に送別会開いてもらったんだけど
何故か赤痢で倒れたらしい。その後ソ連軍に抑留された。
同じく抑留された日本人医師に嘘の診断してもらって
釈放されたといっていた。当時のことはやはり詳しくは語りたがらない。
>>481 将官クラスは凄い出世だね。
父方に陸士の一家があったが南洋に行ったのは全て戦死
それも玉砕なんかじゃなく、現地で病気→そのまま放置のパターン。
未亡人はまだ生きています。たまに電話くれます。
487 :
日出づる処の名無し:04/11/20 08:42:38 ID:x10FhrWd
ワシのジーさんは三菱で魚雷の開発(下っ端だが)してた関係で兵役免除。
でも、ヒージーさんは大正の初めに海軍に入隊。海軍航空隊の創立時期から
飛行機に関わり、真珠湾では空母加賀の整備の特務大尉、終戦時にはなんと
少佐までいったそうな。兵隊から進級するぶんでは最高位だって。
尚、真珠湾から帰って直ぐ内地航空隊へ転勤し、生き長らえたとのこと。
ジーさんの弟2人、陸軍士官学校に進んだが戦地には行かず。
逆にジーさんは長崎で原爆にあい、爆心地にもかかわらず奇跡の生還。
地下2階の水槽実験室に居たため。
488 :
日出づる処の名無し:04/11/20 09:04:32 ID:tM+QFVJ5
副艦長のじいさまが船下りた2週間後にその船撃沈された。
父ちゃんの方の爺ちゃんは徴兵されなかったらしい。
母ちゃんの方の爺ちゃんは戦争の話だけは絶対にしないんで分からん
490 :
日出づる処の名無し:04/11/20 09:36:12 ID:f8CGZfq8
うちの爺さんの姉は山本五十六一族の嫁にいった。
九州に来たら必ず立ち寄ってたそうだ。
491 :
日出づる処の名無し:04/11/20 09:46:10 ID:sPtw6qGh
>>486 >
>>481 > 将官クラスは凄い出世だね。
そうだね、海軍大学校(だっけ?)でも成績はトップクラスだったそうだ。
あっちの家系は今でも東大出身者が多くて、官僚も何人かいるみたい。
俺んちは平凡なリーマン家庭だが。w
南洋の島から生き返った爺さんにガキの頃
「おじいちゃん、人ころしたことある?」って尋ねた覚えがある。
確か笑って何も答えてもらえなかったような…。
今考えると子供とはいえ、残酷な質問をしたもんだ。
そんな爺さんも鬼籍の人。
辛い思い出からようやく解放されたんだと思いたい。
492 :
日出づる処の名無し:04/11/20 10:11:38 ID:tM+QFVJ5
新潟の片田舎から海軍兵学校に入り、開戦と同時に陸戦隊隊長として某島に上陸占領。
そのまま警備隊司令兼民政部長として、島を統治。
戦病死し、最終階級は大佐と聞いていたんだがググッてみると少将とある。
どっちが正解なんだと、死んだ父親に問いたい、問い詰めたい。
祖父について色々と調べたいんだが、どうすればいいやら。。。
俺も軍オタになりたい。
494 :
日出づる処の名無し:04/11/20 12:18:51 ID:X8ztimi7
>>493 沢山虐殺したから、特進しんたんだろうよ。
495 :
日出づる処の名無し:04/11/20 12:29:49 ID:L/qhhTYd
なんだあ?
死に損ないのじじいばっかじゃないか。
496 :
日出づる処の名無し:04/11/20 12:40:47 ID:SupnQ7JF
曾祖父は初出撃で沈没したあの空母大鳳の艦長。艦と運命を共にしようとしたが、
乗艦していた司令官に「命を無駄にするな」と言われたらしく泣く泣く退艦。
帰国したら新鋭空母を沈めたにも関わらず少将に昇進したそうだ。
その後内地の航空隊の司令をして終戦。漏れはそんな有名な空母の艦長だったなん
て知らなかった。もともと飛行機乗りだったらしく若い頃は長距離飛行の記録を持
っていたらしい。そんな曾祖父も10年前に90才で大往生した。
みなさん徴兵されて間もなく終戦になったうちの爺とは大違いですね。
いいスレだな。
皆ばらばらでいろいろな環境の人の経験談のはずなんだが、全部読むとしっかりと当時の日本のイメージが沸いてくるよ。
499 :
日出づる処の名無し:04/11/20 13:30:29 ID:sCtUWLaD
>>493 あんたの嫌いな米帝兵士を殺しましたが何かご不満でも?w
501 :
493:04/11/20 13:46:49 ID:aK2m8G0v
アンカーミス
>>494宛
つーか、祖父の統治は穏当なものだったと島の神父(もう死んだが)が証言してるんで、
あんたの期待どうりではなかった模様。
502 :
日出づる処の名無し:04/11/20 13:48:45 ID:wSZJurUQ
うちの死んだじいさんは零戦乗りで、うっかりして誤射で友軍の飛行機を
打ち落としてしまったそうです。
なんとかという偉い長官が乗られていた飛行機だったそうですが、味方に
知れたらやばいと思い、近くにいた友軍機も数機落としたらしいです。そして
報告するときに「アメリカの最新の飛行機にみんなやられてしまったぞい」
と嘘をついたことが心苦しいと言ってました。
靖国神社で眠るおじいちゃん、いつまでも日本をお守りください。
504 :
日出づる処の名無し:04/11/20 13:54:58 ID:KEU/SyUJ
505 :
日出づる処の名無し:04/11/20 13:59:39 ID:TE88Nd1B
帝国陸軍航空隊 中島飛行機より出向 軍属
多摩の山の中で、栄、誉エンジンの整備
工場で出来てくるのは、そのまま飛行機に乗せられないので
一度分解して、調整するらしい
506 :
日出づる処の名無し:04/11/20 14:46:07 ID:nJ+qnF6d
俺のじいさんは陸軍航空隊の整備兵だったらしい。
地元の飛行場(今はもう無くなってる)で勤務していたらしいが、
戦争末期に大阪へ行き空襲がひどく仕事にならず、すぐに帰って
来たと言っていた。
ちなみに婆さんは米軍の戦闘機に機銃掃射されたらしい。
麦わらの積んであるへ飛び込んだところ頭の上を弾がかすめていっ
たと言っていたが・・・当時十代の婆さんを機銃掃射するとは酷い
話だよ。
あと家に銃剣がしまってあると親父からも聞いた事があるが俺は
見た事がない。
507 :
日出づる処の名無し:04/11/20 14:56:45 ID:VlLdNwyM
うちの母方の祖父さんは、満州北部で砲兵軍曹をやっていた。
大砲と云っても高射砲を水平射撃するしかなく、陣地の最前線の入口真っ正面
に配備されて、「腕だけになっても守れ」と命令されてたみたい。
ソ連の戦車部隊が来たときは「もうだめぽ」と思って撃ちまくって
たら敵軍が左右に分かれて回り込み本部は壊滅。
その後、捕虜になってシベリア行きと相成ったんだが、
「戦争よりもシベリアの方がきつかった」が死ぬまで口癖だったな。
戦友の話を聞くと「ビンタの鬼軍曹」だったらしいが、俺には好々爺でとても想像がつかなかった。
508 :
日出づる処の名無し:04/11/20 15:02:55 ID:L/qhhTYd
>戦友の話を聞くと「ビンタの鬼軍曹」だったらしいが、俺には好々爺でとても想像がつかなかった。
クソウヨのマインドコントロールが解けたんだろ。
509 :
日出づる処の名無し:04/11/20 15:14:21 ID:plKADgrD
俺の家に家事のお手伝いをしてくれてたお婆さんがいて。
戦時中10代だったんだが、道を自転車で走ってるとアメリカの飛行機が追っ掛けてきて、
お婆さんに向けて機関銃を掃射してきたそうだ。
必死で逃げて怪我は負わなかったらしいが、上を見上げた時に、
にやにや笑う、飛行機に乗った白人と目が会ったらしい。
ウチの祖母は農作業中に空襲警報がなっても防空壕に入らないで作業を続けるような人でした。
曰く「爆弾を落とさないから」、まあ近くに横須賀基地があるんですし、そっちに落とすでしょうね。
B-29もよく見たと言っていました、「きらきらして綺麗だった」そうです(苦笑)
祖父はこのスレにも書き込みましたが陸軍曹長でした。
祖母は祖父に戦争の話をまったく聞かなかったらしく。俺が聞いても何も答えてくれませんでした。
そんな祖母も今年鬼籍に入り、私の家系に戦争経験者がいなくなってしまいました、もっと前から効いておけば良かったと思っています。
511 :
日出づる処の名無し:04/11/20 15:31:22 ID:r7uZoNy8
空軍でした。メコン川を下ったそうです。今93才かな?
512 :
日出づる処の名無し:04/11/20 15:54:23 ID:1iDFi1bj
陸軍士官学校卒業後、カンボジアなどの東南アジア地域での
対イギリス軍艦、及び基地にたいしての空爆を行っていました。
99式?名前は覚えていないが、爆撃機で陸軍支援。
ビルマで歩兵としても参加したそうです。
その後大陸打通作戦支援のために台湾で待機していましたが、
そのまま動けず、終戦を台湾で迎えました。
60年前、自分と同い年のじいさんが敵と戦っていたかと思うと
変な感じがします。
513 :
日出づる処の名無し:04/11/20 16:02:42 ID:R103rwx5
俺の爺さんは終戦時「二十歳」
でも戦争に行ったなんて話は聞いたこと無い
兵隊として召集されるのは何歳からだったの?
終戦後、銃殺刑だったらしい。詳しくは知らない。
515 :
日出づる処の名無し:04/11/20 16:54:48 ID:1MQtXFc0
うちの爺様は、中国に行ってました
本人は、あまり話したがらない人なんで詳しくは聞いてないですが
陸で通信をやってて、しかも軍刀を持ってたらしいのです
職業軍人でもないのに普通なんですかね?
516 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/11/20 17:00:12 ID:pbvyiG3G
>>515 職業軍人でもないのに普通なんですかね?
それ相応の階級であれば。
俺のじーちゃんは満州に行ってたらしい。
白い馬に乗ってたって自慢してた。
腹に銃弾の跡もありました。
教師をしていた親父が出征したときは生徒や同僚の教師、親戚が日の丸の小旗を振って
行列で送ってくれた。
既に敗戦の色濃く人数の割りにシラけた見送りだったのを当時小学生(正確には国民学校生)にも感じ取れた。
程なくして復員した親父から色々な話は聞いた筈だが「空腹」の話以外記憶に無い。
521 :
日出づる処の名無し:04/11/20 17:54:29 ID:XDn2Hj8f
キーワード:「南京」で検索
結果↓
>38 >41 >108 >161>203 >293 >307
>351 >372 >380 >428 >464 >472 >477 >520
>>508 軍隊にウヨもサヨもおますかいな。
ドイツの映画「es」でもレンタルしなはれ。
523 :
日出づる処の名無し:04/11/20 18:00:32 ID:ff7UanEw
当時の人口と比べても日にならないくらいの死者だし
中国側は人民のふりしていきなりおそうゲリラ戦法という
自国民さえも危機に陥る戦略を展開していたとの情報もあるが?
524 :
日出づる処の名無し:04/11/20 21:21:15 ID:sCtUWLaD
525 :
日出づる処の名無し:04/11/20 21:25:45 ID:4u181d8/
ない
父方の祖父は、どういう人物かよくわからん。
売れない画家で、戦争前に、俺の祖母さんと駆け落ちしたそうだ。
その後、曽祖父が祖母と、俺の親父を連れ戻した。
その後は、行方不明だ。
召集されて、戦死したのかも知れん。
母方のほうの爺さんは、教育訓練中に終戦になったらしい。
まだ健在だ。
527 :
日出づる処の名無し:04/11/20 21:50:54 ID:SupnQ7JF
528 :
日出づる処の名無し:04/11/20 22:16:58 ID:X8ztimi7
>>501 どこの島だよ(w
言えもしねーくせにウソつくな。
どうせサイパンかレイテで島民虐殺してたんだろ。
いいじゃないか、フライングタイガースのほら吹きと比べれば可愛いもんだろ。
>>528 良くも悪くも、旧日本軍では敵を大量に殺したから昇任する、というシステムではなかった。
そんなことも知らんでそんなこと吐いてるのか。
531 :
日出づる処の名無し:04/11/20 22:38:42 ID:sCtUWLaD
父方の祖父は、海軍省で経理をやってて兵役経験はなし。
物資欠乏の折にも、結構豊かだったそうです。
戦後は貿易商に。もうすぐ15回忌です。
母方の祖父はハルピンで新聞記者。終戦ぎりぎりに徴兵されて、ろくに
鉄砲も持たぬままシベリヤ送り。幸いロシア語ができたので、通訳をやって
重労働は免れた。
ワリと早く帰国できて、すごくラッキーでした。
シベリアで洗脳されたのか、戦後は社会党員になりました。
今年3回忌でした。
>528藻前はチョンかチャンか何かですかね。
君の爺様はどうでした?
このスレみてる香具師なら知ってると思うけど、
兵隊さんの復員時の本籍地都道府県庁(旧陸軍)もしくは厚労省(海軍)には
当時の人事資料が残されていて、申請すれば写しをもらえたりするみたいだね。
ちなみに漏れのじいさんは砲兵でした。
支那事変に3年ほど行っておりました。
>>526 あの時代に駆け落ちってすんげードラマチック・・・
535 :
日出づる処の名無し:04/11/21 05:04:01 ID:ZBhXuU78
>>533 どうせキ印に拉致されて孕まされたのがおまえのとーちゃんだろ。
いいすぎた。すまん。
最近、父親に聞いた事だけど、
俺の爺ちゃんの友達は、
「中国では住民を虫けらの様に扱ってた」て
よく言ってたらしい。
支那嫌いの愛国者の俺だが
生きてたら、詳しい状況をじっくり聞いてみたかった。
538 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:30:30 ID:Rmst5u5n
ここは立派な人とバカサヨ氏ねなスレですね。
539 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:32:43 ID:YRAhBdLE
うちの爺さんは、佐官で大戦を終えた。
以後、一切軍には関わらずに、軍人年金も受け取ってなかったそうだ。
爺さんは東北の田舎者だったからな。貧乏人が手っ取り早く人間になるには、軍が一番だったらしい。
540 :
539:04/11/21 08:34:45 ID:YRAhBdLE
書き忘れたが、海軍の軍人だった。
乗ってた船を沈められて死にかけたこともあるらしい。その時におった傷は、昔見せてもらったことがある。
541 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:36:53 ID:ZBhXuU78
ウチのじいちゃんはB級戦犯だけど巣鴨で処刑されちゃった。
捕虜虐待の罪だそうだ。なんで二等兵のじいちゃんが処刑されて、
隊長が処刑されないのかよくわからんかったとばあちゃんが言ってた。
542 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:42:45 ID:/fCrhHbN
うちのじいちゃんは技術屋として通信機器の設計、製造をやっていた。んでもって漏れの父親も技術屋
そして漏れもエンジニアの端くれ・・・・。代々技術屋の血が流れているらしい。(ひいじいちゃんは金物職人だった)
543 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:48:32 ID:ymiqX6GC
私のじいちゃんは軍医だったよ。
南洋で軍医してたから
現地の肌の茶色い娘を慰安婦にする前に
検査のときに最初にいただけたそうです。
おまけに肺病と偽って玉砕前に日本に帰ってきたという。
自分の隊の人全部死んじゃったから申し訳ないなーって。
じいちゃんの日記を書斎から掘り出したんでわかったことだが
結構グロい人だったみたい。
なんせ茶色い娘を(しかも12歳とかだろう)やりまくったもんだから
戦後もなんかそういうのが懐かしいみたいで
アフリカとかそのへんの黒っぽい女がテレビに出てくると
はりつくようにしてみてたのを思い出した。
ばあちゃんによると、外国旅行にいくと
行った先でかならず黒人とかムラトっていうの?
茶色っぽい混血の幼女を探しに出かけるんだとさ。
そんなじーちゃんのこと私はじいちゃんが死ぬまで
すごい尊敬してたし今も結構嫌いではないんだけど
なんかね?あんた、そのときいったい、
なに考えてたの?と小一時間といつめてみたかった気もするのでした。
544 :
日出づる処の名無し:04/11/21 08:49:56 ID:ymiqX6GC
だから、交霊とかできる人がいたら是非おしえてほしい。
今からでも問い詰めてみたいんですよ、これはマジで。
545 :
539:04/11/21 08:52:35 ID:YRAhBdLE
ちなみに、海軍の軍人だったのは、母方の祖父で、父方の祖父は同じ貧乏人でも要領が悪く何とか徴兵こそ免れたものの、代わりに満州の飛行機工場で家族連れて働く羽目になったらしい。
当然、終戦後は悲惨極まる現実が待っていたわけで、その当時すでに生まれていた伯母は、もう少しのところで中国の残留孤児になるところだったらしい。
ちなみに、母方の祖父と違い、かなりの三国嫌い。
546 :
日出づる処の名無し:04/11/21 10:12:55 ID:PvTRUGRb
うちは片方が近衛師団でずっと内地に、もう片方が支那事変で勲章もらって内地帰還・ずっと内地。
運いいなあ…。本土決戦あったら大変だったろうなあ。
547 :
日出づる処の名無し:04/11/21 10:57:22 ID:lA0RBPlx
軍隊って、運のいい悪い、要領のいい悪いがモロに人生を左右するみたいだね。
それから、「芸は身を助ける」って切実に感じた。
赤城に乗ってた
549 :
日出づる処の名無し:04/11/21 12:40:01 ID:93ENjJNN
亀レスで申し訳ないが
>>502にさらりととんでもないことが書いてないか?
((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
読んでると「お爺ちゃん」じゃなくて「曾爺ちゃん」と書いてる人がいるな。
曾孫がパソコンやるような年になったんだな。
うちの姪も甥も曾爺ちゃんには全く会えなかったわけで、そう考えると
元気な曾爺ちゃんに会えてラッキーだったな。
海軍で靖国丸だっけ、に乗ってたらしい。
兵曹長だったそうだ(どんな立場か知らんが)
自分の爺ちゃんではないが、散髪屋を長年やってた真面目
一筋のおじいさんに散髪中、よく話を聞いてたけど、その人は
台湾で整備兵をやっていたけど、入隊してすぐのペーペーだっ
たからか、終戦が近かったからかは分からないけど、いつも木
の模型をさわらされるだけで、本物には全然触れなかったと言
っていた。
あと、うちの爺ちゃんが健在な頃の碁打ち友達のじいさんが
戦時中南方に行ってたらしいが、食いもんが無くなって人間食っ
たと言っていた。
金玉は透明だったとかいろいろ、なんとか日本に帰られる事にな
ったは良いが、輸送船が撃沈されて、多くの仲間がうようよいるサ
メに食われたとも言っていた。
小学生の頃のことだけど、爺さん達が話してるのを横で聞きながら
青ざめてた。
ほんとにマジでどこをどう探しても食い物が無くて
死体だけはそこらに転がってる状況だったら、どうしようもないから多分俺も食うかも。でも金玉は食わないと思う。
冗談ではなくて、輸送船はほぼ全部沈められる。
おまけに戦時中のアメリカは捕虜を取らない方針。
うちの爺さん(母方)は終戦まで満州で衛生兵やってたらしい。
どこって詳しく聞かなかったけど、何たら防疫隊(?)って言ってた。
終戦間近には薬も底を突いてて、治療らしい治療が出来なかった…
って言ってたな。
書き忘れた。。。
終戦後、朝鮮経由で帰国しなくちゃならなくなって、大変だったとも言ってた。
朝鮮人が丸太を持って日本人狩りをしていて、袋叩きにあったそうだ。
日本人と分かれば見境なしで、自分は運が良かったほうだったって。
生前、風呂で見た爺さんの背中には無数のコブみたいなのがあって、
子供心に気持ち悪いと思ってたけど、今思うとアレって骨折の傷跡だったんだろうなぁ・・・
軍医で中国大陸におった。本人は何も言わないけども現地では人望があったらしい。
医師として軍人として国家に尽くした祖父を誇りに思う。
559 :
558:04/11/22 01:14:48 ID:MOsXvUvZ
敗戦を迎えたときも中国大陸に居たが、ソ連軍の振る舞いについて「あいつらから人間的なものを感じるのは
難しかった」と一言だけ呟いたのが印象的。
戦後も医師として働いた僕の父も、そして僕も祖父のような軍人にはならなかったが、同じような道を歩んでいる
。
父は6人兄弟の末っ子。それぞれ1902年〜1919年生まれだそうです。
16師団33連隊(南京の主部隊)にいずれも入隊。
詳細不明ですが、3人の兄が戦死、1人の兄が戦後戦傷死、残る1人
の兄は身体に鉛有り、60代で病死。
父は40代で私を作ったのですが、66歳で病死。
父いわく「3人の兄が死傷したのでシナだけは行きたくなかった。自分
は深草で入隊したがインドネシア赴任となって運が良かった」
と言ってました。
うちの爺ちゃんは満州に行ってました。
召集兵で、除隊時は伍長だった聞いた(階級章を見せて貰ったけど、消防の
頃なんでわからなかった)
戦闘が終わった後、戦友の血が混じった雪を溶かして飯盒で米を炊いた
という話が子供心に忘れられなかった……。
日本が南方に手を出さないでいれば良かったのに、と言っていたのは
今から思えば、関東軍にいたから出た言葉だったかも。
真面目で良い爺ちゃんでした……。
もっと話を聞いていれば良かった……。
うちのじいちゃんは兵隊に行ってて終戦時朝鮮にいた。
終戦になった時、釜山へ行けば日本に帰る船があるというので、部隊を
あげて行軍して釜山を目指した。
朝鮮人たちが暴れていて殺されるかも知れないので、隊列を崩さず、
整然と行進したそうだ。
町中とか人口の多いところはヤバイので、ひたすら駆け足。
途中、日本人の女の人が、道端から「兵隊さん、助けてよ」と叫ぶそうだ。でも何もしてやれない。振り向きもせず、隊列を組んだままひたすら走る。そうやって逃げて帰ってきたそうだ。
「引き上げのときは嫌なものをたくさん見た。」
これがじいちゃんの口癖でした。
具体的なことは何も話さなかったよ。
戦争の話では無いけど
今日、蕎麦屋で知らない爺ちゃんたちと健康関係の話をした
歩く事が良いという話題から、旧日本軍の歩行距離がべらぼうに凄かったという話へ
その爺ちゃんは学生時代、訓練で広島の西条と呉を徒歩で往復させられたらしい
おそらく距離にすると50〜60キロくらい。朝から晩まで歩き通し
当時は道が舗装されて無かったから靴が粗悪でもちゃんと歩けた
舗装した道路が痛くてこまった今やったら自動虐待でPTAが黙っちゃいないだろうなと笑った
別の爺ちゃんはガキの頃、福山の飛行場まで数時間歩いて行ってイナゴを取り
帰りも数時間歩いて帰ったそうだ
それだけ歩いてイナゴ食えばそりゃ長生きするわなと思った
564 :
日出づる処の名無し:04/11/23 03:31:41 ID:9im1Sf3l
上げていいですか?
良スレなので。
565 :
日出づる処の名無し:04/11/23 06:02:38 ID:cCKmGc2I
うちの爺ちゃん、南京で憲兵やってたそう。
南京憲兵分隊というところで、まあキツイ隊だったそうだ。
特に嫌だったのが、、やりたい放題やっている一般兵の粛清で
仕方ないから5人ぐらい処刑したって言ってた。
だからか、戦闘の時とか味方側から弾が飛んできて危なかったそう。
ちなみに、死んだ士官のほとんどが後ろから撃たれて死んでたそう(w
三八式歩兵銃の6.5mm銃だって言うのが丸分かりだったらしい。
ただ、士気も落ちるので不問に付されたが人気の無い士官は前に出ると
死ぬゾとよく話してたそうだ。
肝心の虐殺については、戦死者は3000人程度だと思う。って。
馬賊か一般市民かわからないのでとりあえず殺しちゃうってのはよくあったそう。
30万人って話については、そんな強ければアメリカに負けんよフハハハ。と
笑っていた。死んでからもう20年・・・
俺は17で母方の祖父も父方の祖父も70代前半なんで出兵はしてないけど
父方の爺ちゃんは志願兵になりたくて15?くらいに同級生と一緒に身体検査うけたらしいけど
身長とかが規定に合わなくて採用されなかったらしい
その後は川崎重工で飛燕とかゼロ戦の部品作ってたらしい
それで、戦争始った当初に上海上陸作戦に
岐阜の連隊も送られてて近所の人とか知り合いの人がケッコウ亡くなったって聞いたな
母方の祖父は集団就職で東京で就職して働いてて
そして東京大空襲を体験したらしい
空襲で職場も亡くなっちゃったから
故郷に帰ったって言ってたな
その御爺ちゃんのお兄さんがルソン島に陸軍の兵隊さん(階級は分からない)として行って
到着する前だか到着した後だか分からないけど
船で移動中に船が沈没して亡くなったらしい
567 :
日出づる処の名無し:04/11/23 07:22:18 ID:i+990qX0
>>547 人に聞いた話だから本当かどうかは知らないけど、最も多くの戦死者を出した県は
東北地方(何県か忘れた)と熊本県だったらしい。
実直で男らしさを尊ぶ県民性が逆に裏目に出た例なんだろうなと思ったよ。
一方1番戦死者を出さなかったところが大阪と聞いて妙に納得。
上記の事はあくまで人に聞いた話ですから関係者の方々はお気を悪くされませんよ
うに。
>>567 最も差別的待遇を受けていた県ね。
勝手に美化しないように
徴用で軍需工場に行ったんだが、東南海地震で工場が潰れてしまい
移動した工場が、今度は三河地震で倒壊してしまった。
結局、自宅に戻ってきたんだが、空襲で丸焼けになり
持ち出した着物や家財道具を、疎開してきた名古屋の連中に盗まれた。
踏んだり蹴ったりの戦時体験だったが、家を焼いたアメリカより
泥棒の名古屋人のが嫌いだったようで、死ぬまで「名古屋には悪いヤツしかおらん」とか
「名古屋なんか行かん」というのが口癖だった。
家族の中でただ一人招集されて、テニアン島で戦死した爺さんの弟のために
靖国神社へ行く時でさえ、名古屋から「ひかり」に乗った方が早いのに、
豊橋から「こだま」で行く徹底ぶりだった。
570 :
567:04/11/23 07:54:25 ID:i+990qX0
あともう一つ同じ人に聞いた話なんだけど、戦時中の事を語り合う年寄りの
集まりでの話し中『戦争中は食糧難で毎日お腹をすかしてたという話しだが
私は地方出身のせいか腹をすかしたことは無かったよ』とゆう話題が出た。
すると、その場にいたほとんどの年寄りが『私も』『私も』という事になっ
たそうだ。結局戦後本や雑誌等や人の話しで戦争中は食料難で辛かったとゆ
うのが大多数だった為言い出せなかった人がほとんどだったらしい。
この話しを聞いた後自分の親に祖父さん祖母さんの戦時中の食料事情で何か
聞いた事があるかと尋ねてみたら、うちの父方の祖父さんは戦時中家のすぐ
側の海から伊勢海老などを捕って食べてたらしい。
裕福な家でも無かったのに戦時中に伊勢海老w
父方の祖父は満州国軍の中校。
母方の祖父は体が小さすぎて徴兵検査不合格。
大正末期ののんびりした時代だったので村でも「まぁ、そんなもんか」程度の反応だったらしい。
伯父が呉海兵団で訓練中に終戦。
>>567 コピペだが。
--------
東京 第1連隊 兵士は粘り強さに欠けるが柔軟・合理性に優れていた。
仙台 第4連隊 夜襲訓練を専門に行う。東北に展開する部隊の中では最も都会的な部隊であった。
名古屋 第6連隊 此の連隊は大阪や東京の主要都市に対する対抗意識が強く、
それらの地域の連隊に対して独自性を発揮しようとする事が多かった。
金沢 第7連隊 兵士の気質は団結心に富んでいるとされた。
大阪 第8連隊 合理的な気質の大阪人から成る連隊で、西南戦争では最弱部隊として有名。
「またも負けたか八連隊」と嘲笑された。
大津 第9連隊 合理的な気質の京都人から成る連隊で、八連隊に次いで弱い連隊。
上記の歌に「それじゃ勲章呉れんたい(九連隊)」と続く。
広島 第11連隊 人間的に淡泊で、自由闊達と独立の気風に富んでいる。
丸亀 第12連隊 穏和・真面目・緻密である。
熊本 第13連隊 勇猛だが頑固一徹と反抗精神が強い。
また別のコピペ
-------
171 :名無し三等兵 :04/04/07 14:49 ID:ogi4u3qx
大阪の連隊はな、そらー新兵のシゴキは一流やったらしいで・・
たたき上げの軍曹がゴロゴロしとってな・・・
実戦になるわな。
矢折れ弾尽き、もう負けや、あかん、降参や。ちゅう場面にな
ここで目が血走って「明日早朝を期して最後の突撃を行う。
全員玉砕の覚悟で敵に一矢報いんとす!」とか言い出すのは
関東出身の実戦経験のない学校でたての頭でっかちの生意気な若造や。
きれい事の世界やな。
軍曹それきーとってな、「まだ、玉砕には早いと思います。
無策に兵を無くしては却って国の損失を招きます。どうか冷静に・・。」
上官直訴やな、「なにおー!貴様ー!」てな具合で兵の前でボコボコや
年下の、ことのわからん関東出身の上官にな。
いざ突撃っちゅう時にな、件の軍曹「えーかお前ら、ワシのあとについとれよー。」
関東の上官「突撃ー!天皇陛下バンザイ!」
軍曹「おまえら逃げー!はよ逃げー!天皇陛下万歳!逃げー!」
兵隊は、一瞬あの鬼の軍曹の言葉にびっくりしたけど、軍曹が弾に頭を砕かれたのを機に、
「天皇陛下万歳!」と叫びながらぱっと散って退散したちゅう話。
「あの軍曹以外やったらみんな玉砕やな・・・」取引先の78歳の会長の話や。
満州電力で技士
祖母のお兄さんは潜水艦伊号の機関兵だったそうです。
石ころになって帰ってこられました。
弟の方は飛行機の整備兵。
祖母の家はなかなかの家柄らしく、軍属だったそうです。
満鉄の職員だった親戚もいます。
祖父もまた飛行機の整備兵。
なにやら私はエンジニアの血が流れているようです。
このスレを見て、祖母から戦争の話を聴くようになりました。
祖父は私が物心付く前に死んでしまっていて、話は聴けず残念です。
この国と家族のために戦った方々に感謝いたします。
私はまだまだ若造ですが、あなた方の死を無駄にしないよう生きる所存です。
577 :
日出づる処の名無し:04/11/23 11:34:48 ID:F+qj/5i7
うちの爺さんは「伍長勤務上等兵」。
徴兵されただけのヒラの兵隊だと思うけど、上等兵に出世したのかな?
伍長付きの上等兵だったんだろう。
578 :
日出づる処の名無し:04/11/23 11:35:54 ID:izJDbKZ0
俺のじいちゃんは海軍で太平洋いったらしい
小さい船で助かったとか
鹿児島のほうで特攻隊に志願していた。
出撃する前に敗戦を迎えたらしい。
死ぬまでにもう一度鹿児島に行きたいって行ってたなあ…
俺のじいちゃんは満州で戦車に乗ってたらしい、どこの部隊かは分からんが川の
対岸にソ連軍が見えたそうな、その後試験を受け合格したらしく陸軍少年戦車兵学校?
の戦車長の教官として東京と静岡を行ったり来たりしてたそうだ
生徒の事故をかばって軍法会議にも出たとか、生徒に長男や一人息子がいる時はわざと
成績を悪くして戦地に送らなかったとか、不時着して帰ってきた特攻兵の面倒も見たとか・・・
大正生まれのそんなじいちゃんでした
じいちゃんの葬式の後その特攻兵がじいちゃんを探して電話をかけてきたらしく
亡くなった事を告げたら電話越しで泣いてくれたそうだ(祖母談)
戦争の事はあまり語りたくなかったみたいだったが色々と聞いとけば良かったと思う
皆勇ましいな('A`)
父方の祖父は、台湾に出兵途中に船内で終戦('A`)
向こうに到着して皆でのんびりして一ヶ月で帰国
台湾で騙された人が多かったので、「中国人は商売人」が口癖
母方の祖父は、南方に行くというので現地の言葉を勉強してたら終戦
終戦間際までやる気満々だったらしいな→軍部
福岡の九州飛行機という会社でエンジンがコックピットの後ろについていて
車でいうミッドシップみたいな戦闘機の研究・開発をしていたらしい。
完成直前で終戦してしまったらしいが、機銃も強力だったらしく
「実戦配備されていればB29なんて」とかよく言ってた。
本当にそんな秘密兵器があったのか怪しいが。
>583
おいおい、さらっといってるけど、それ震電の事じゃないの?
何かすごい流れになってる…
まだまだすごい話が埋もれてないかな♪
(ネタは勘弁して欲しいがw)
震電ってB-29対策の切り札といわれたあれじゃないか。すげえ・・・
航空機つながりで小ネタ投入。
そういえば、北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」に
「近くで、新型飛行機のエンジン実験がry」
とか言うくだりがあったと記憶しているが、
その実験場所というのが、現在の松本商業学園高校という高校で
開発実験されていた航空機というのが「秋水」だったりする。
(ちなみこの高校は少し前に放送されていた「白線流し」とか言うドラマで
ロケ地だった高校です。)
祖父は第一航空艦隊・第一航空戦隊の加賀で戦闘機搭乗員をしていたそうな。
その祖父の親父は陸奥で砲術をしていただと。
祖母の写真を整理していたら、写真が出てきてびっくりした。
思ったのだが、
それぞれの爺ちゃんが持ってる写真とか全部集めたらどれぐらいの量になるのかな?
すごい量にはなりそうな気がするがちょっと見たい気がする。
あ、あと思いだした。
確か、小学校の時の校長先生が翔鶴か瑞鶴に乗り込みだった。
592 :
日出づる処の名無し:04/11/24 03:47:05 ID:92pAHfha
>>425 yhu0Vem2様、レス遅くなってすみません。
占守島って、千島列島の北の方の島ですよね。
終戦後になってソ連軍が侵攻してきた話は大まかに聞いたことあるんですが、
実際はどんなだったのでしょう?もしよろしければお教えください。
ウチの祖父の場合 満州で高射砲兵。軍曹だった…らしい。
終戦直前にソ連兵が攻めてきてなんとか逃げ延び、山岳地帯に入ってから
一年近くして日本に帰ってきたと。
>>583 マジだったらそれすげぇよ。
594 :
日出づる処の名無し:04/11/24 04:15:23 ID:oGdr42ft
>>590 そういう写真って、死んだときに処分されてるの
たくさんあるだろうな。
どこか、うちで保存しますっていう機関があれば
みんな送ってくれるかもしれないのに。
596 :
日出づる処の名無し:04/11/24 05:40:04 ID:IsKrNDIt
597 :
日出づる処の名無し:04/11/24 05:52:11 ID:mPiu5jqf
おれの爺ちゃんは海軍で伍長だったらしく、小さい船に航空機用のエンジンを無理やり積み込んで
すんごい勢いで走り回っていたらしい♪終戦近くになったら、舳先に爆弾一杯積んでいつでも体当
たり要員だったらしぃ。
面白い話は、タイにいたときに食うもん無くて部下を3人連れて近くのバナナ畑に盗み食いにい
った時に、基地?駐屯地?がイギリスに猛爆撃されて、畑で見ていたらしい・・。帰ったら爺ちゃ
んたち4人と、基地で生き残ったのが2人だけだったらしく、生き残りだけで自慢のめちゃ速い船
で基地放棄して逃げたらしい♪
爺ちゃんナイス!
598 :
日出づる処の名無し:04/11/24 09:23:32 ID:kZCDVtDY
599 :
日出づる処の名無し:04/11/24 09:50:25 ID:kZCDVtDY
嫁さんの爺ちゃんは、今年で92歳になりますが、毎日、畑に出ていて元気です。
この間の休みに子供を連れて話を聞きに行きました。喜んで話を聞かせてくれました。
なんでも小作農の一人息子だったので召集されずに終戦を迎えたそうです。でも終戦
間際頃には、在郷軍人会を中心にした防衛軍が組織され、爺ちゃんも竹槍持って行軍
練習とかしたそうです。敵の飛行機に見つかりにくいよう、山の稜線の日陰を選んで
歩いたり、塹壕掘りもやったそうです。
本土決戦も覚悟していたそうですが、戦うことなく終戦を迎えられました。
東京裁判とか憲法9条とかはおかしいと言っていますが、ただ一つマッカーサーの
したことで評価しているのが「農地解放」だそうで、爺ちゃんが耕してた畑全部が
ホントに安く手に入ったそうです。
600 :
日出づる処の名無し:04/11/24 12:24:44 ID:Crq43BnC
>>577 あなたのおじいさんは、兵の中のエリートです。
伍長勤務上等兵、通称「伍勤」は、入営後一選抜上等兵の中から、
更に精勤兵を選抜して任命してた。
伍勤は除隊後村に帰ったら縁談が引きも切らないってなモテ方
だったとか。
伊藤桂一の兵隊小説にこの辺の話は良く出てくるよね。
チョン シナ奴らもっと殺しておけば良かった
今ごろ世界が良くなっていた
>>600 うちの爺さんは入営後2年で伍長だったらしい。上官から赴任地でこう言われたそうだ。
「君は優秀だから負ける戦で死ぬな」と。昭和18年当時で戦争に負けることは陸軍でも
判りきっていたという。通信兵だったからかな?
>>602 んで、現地除隊を推奨され、商社に入社したようだ。
爺ちゃんは大砲を撃ってた。
「大砲撃つのが巧かったんだよ」って言って、勲章を見せてくれた。
爺ちゃんはもう亡くなったけど、誇らしげだったのをよく覚えてる。
濡れの爺ちゃんは台湾総督府に居たと言っていた。
階級は判らんが、馬に乗ってる写真がある。
その頃親父が台北師範学校に通っていたようだ。
卒業後直ぐに終戦になったようだが、親父は白い軍服にサーベールぶら下げた写真がある。
少尉なのかな?
良く判らん。
>>44 関係ないけど、濡れ門司に18年住んでた!
>>599 ウチの爺さんは80歳を過ぎた今でも医師をやっています。午前5時ごろには起床して、午前9時には
自宅の隣の診療所を開けます。実質的な経営は父がやっていますが。。。
父方の祖父祖母ともに私が生まれる前に死亡。母方も4.5歳くらいで死亡。
父が昭和3年産まれで、終戦時は土浦の予科練にいました。
昭和19年に入隊したものの、飛行機(「93式中間練習機」通称「赤とんぼ」)に乗れたのは
2回だけ。
当然自分では操縦できず、教官の操縦で後座席に乗っただけ。
あとは毎日ひたすら穴掘り(塹壕、防空壕)生活(いわゆる土科練)。
昭和20年、特攻一歩手前で終戦。
その後はいろいろあったあげく、北の台地で飲食業を始める。
お客さんに、93中練を工場で作っていたという人がいて、夜遅くまで店を閉めずに語ってました。
実際に戦場へはいかなかったため、戦地での体験は聞けないけど、
それでも悲惨な話や面白い話しが、この場で書ききるにはちょと長すぎるくらいに、いろいろ聞けてます。
ここのスレ見ていて、同人程度でもいいから、父やそれ以外の方達の話を本に残したいなぁと考えはじめました。
もし他に作ろうとする方がいれば、是非協力したいですね。
うちの爺ちゃんが16歳の頃、満蒙開拓少年義勇軍というのの募集があり、爺ちゃんは
友達二人と絶対行くと約束したそうだ。しかし、爺ちゃんの母親が反対したので爺ちゃん
だけ行けず。行った二人は生きて帰って来なかった。
言い出しっぺの爺ちゃんだけ死なずにすんだ。
爺ちゃんが18歳の頃、少年戦車兵の募集があり、爺ちゃんは今度こそ行くぞと別の友達と
約束した。が、その時も母親の強硬な反対で行けなかった。少年戦車兵になった友達は
戦死した。爺ちゃん、いい加減みたいだけど、とにかく母親の反対がすごかったそうだ。
そんなところへは親が死んでから行けとか、どうしても行くと言ったら「私を殺して
から行け」とかどうにもならなかったらしい。
爺ちゃんは、20歳になって兵隊に取られ兵役に服したが、幸い戦地にも行かずにすみ、
いまも健在です。
ここまで書いて、爺ちゃんの母親(ひいばあちゃん)が必死で止めてくれなかったら今の
俺は存在しなかったかも知れないことに気づいた。
こんど墓参り行ったときひいばあちゃんの事を想いながら線香立てようと思った。
611 :
566:04/11/24 19:23:29 ID:EyHKL8A2
>>609 面白い話じゃないけど
父方の爺ちゃんが
不時着したゼロ戦があって
そのパイロットを救助したって自慢してたな
やっぱり軍人さんを助けるってのは
やっぱり自慢したくなることなんだな
>>611 ゼロ戦のパイロットならエリートだもんな。
613 :
日出づる処の名無し:04/11/24 23:55:36 ID:FTmarF2/
>>426 うちの母方の曾祖母の長男も24歳でフィリピンに向かう輸送船が
撃沈されて亡くなった。終戦の年だったそうです。
もしかしたら同じ船だったかもしれませんね・・。
ゼロ戦といえば、坂田三郎著「大空のサムライ」
本物のエースパイロットを知ることができる。
>>605 騎乗してサーベルってかなりの高級士官じゃないですか?
616 :
日出づる処の名無し:04/11/25 00:43:29 ID:qooxrzeF
ビルマかどっかで一族ほぼ戦死しました。
血を絶やさないように頑張ります。
喪だけど。
>>614 坂田じゃなくて坂井な、面白いかもしれないけど
B−17を最初に撃墜したのは自分だとか言ってるあたりちょっと引いてしまうな
618 :
ケンペーくん:04/11/25 01:21:24 ID:fKtiT8oC
母方の爺さんは大学行ってて、ずっと兵役が来なかったが昭和20年4月に満州に行った。
大学行ってたので、知識もあって通信の仕事をしていたらしい。6月過ぎにモンゴルらへんに移動。その頃は戦車に乗っていたらしい。なんか意外と自由があって(位もあったんじゃないかな?)、
日曜日はできうる限り近くの教会へ(クリスチャンなので)行ってたらしい。教会に来ている現地人はその時は、教会前に日本刀を置き私は敵ではないですよと丸腰でミサに出ていたらしい。そしてミサが終ったら、また部隊へ戻っていたとか。
で、終戦後、捕虜でシベリア5年間。よく生き延びたよ、ほんと。。。詳しく聞いてないので、こんな感じだったと思う。
父方のひい爺さんは、蒋介石と飯食うまでの位置にいたらしい。馬ももらっていたらしい。
俺のおやじ(6男坊)の兄弟の2番目は特攻隊へ志願。訓練中に終戦。
まあ、こんなところ。あいまいですまん。
619 :
日出づる処の名無し:04/11/25 02:20:50 ID:Rk7xVki+
爺ちゃんに昔の写真を見せてもらったのだが
顔が俺とそっくりだった・・・
近所のおばさんたちに爺ちゃん似だとはよく言われるがここまでとは
時代が違えば俺も写真みたいな格好して戦ってたんだろうなと思った。
620 :
日出づる処の名無し:04/11/25 02:43:15 ID:rAP5rGW/
うちのジイチャン海軍大将 名前書いたらすぐバレるから書かないが
10年程前に亡くなったが、うちの爺ちゃんは海軍で少尉さんだったらすぃ
爺ちゃん家の蔵の中に当時の軍刀とか隠してあったのを遺品整理のとき見つけたよ
622 :
609:04/11/25 03:27:22 ID:+hcx+w16
零戦の話題が少し出てるようなので、そのお話を一つ。
何年か前に映画の「トップガン」がTVで放送され、父も一緒に見てました。
放送終了後「俺は本物の空中戦を見たぞ」と父。その顛末を。
昭和20年某日、土浦上空で一機の零戦がP51戦闘機と空中戦を開始。
高度は地上数百メートルでの超低高度巴戦。
大戦末期には米戦闘機の性能についていけず、特攻専用機になったと言われる零戦。
だが低高度で、得意の巴格闘戦に持ち込めば話は別。日本軍パイロットの腕もかなりの物のようだ
目の前で繰り広げられた空戦は、すぐに零戦がP51の背後につく。
低高度での空戦の為に得意の縦機動を封じられたP51は、必死に逃げ回るだけ。
ぴったりと背後につき、虎視眈々と狙いを定める零戦。
パイロットにあこがれて予科練に入隊した隊員達の前で繰り広げられる生の空戦。
しかも我が零戦が圧倒的優位に立ち、今にも撃墜かという状況。
隊の仲間達と父、全員がギャラリーとなり、皆で大声出して声援をおくる。
あっという間にかたがつくと思われた空戦だが、敵のパイロットの腕もかなりのものらしく、必死で逃げるP51をなかなかに墜すことができない。
数分の間追いつ追われつの緊張感が続く中、ふいに「ポーンポーン」と響く音が・・・地上の対空砲火の音だ!
散発的に上がる対空砲がニ機の空中戦の合間で炸裂。そのうちの一弾がついにP51の背後で炸裂!やったか?!
零戦墜落・・・・・・
ギャラリー隊員総立ちで ( ゚д゚)ハァ?
P51の背後、通り過ぎたところで炸裂した砲弾が、後ろから追う零戦を巻き込んでしまった・・・・・・
ヒュ〜〜〜〜〜ッと音を立てるかのように落ちる零戦、パラシュートはついに開かず。
P51はそのまま無傷で逃走・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
父曰く「そもそも味方が空中戦やってるど真ん中に対空砲打ち込む馬鹿がいるか〜〜〜〜!!!」
まったくでございます・・・・・・
という顛末でございました。チャンチャン
ところでこの空中戦、日付さえわかれば日米双方のパイロットが調べれそうなんだよなぁ。ちと父に確認してみようかしら。
長文ご容赦、でわでわ。
満州に住んでて、軍の学校?通ってる頃にソ連軍が越境してきて前線に。
銃の一発も撃つ事がないまま敗戦してシベリア送りになったらしい。
最後に話、聞いたのが中学一年だかの頃だからな…漠然としか覚えてない。
624 :
日出づる処の名無し:04/11/25 07:46:25 ID:N+K1nzQM
うちのおじいちゃんはもう亡くなって詳しくは分からないんけど、
戦時中に警察官として平嬢に行ってたらしい。
それで、金日成がロシア(ソビエト?)から戻ってくるって情報が入ると、
警察官は全員下着をキレイなものに着替えて捜索に行ってたんだって。
その後終戦して半島から逃げ帰る時に長女を亡くし、必死に帰国したらしい。
金日成が死んだ時、アル中のおじいちゃんは
「あいつは悪いヤツなんじゃ・・あいつは悪いヤツなんじゃ・・」
と言ってたらしい。
>>624 スゴイなぁ
そういう話聞くと日本って本当に広い国だったんだなぁ
だって今は外国のところに警察官としてお爺ちゃんたちがいたって聞くと
不思議な感覚ですよね
>>625 爺さんは軍医だが、その弟さんは特高課所属だったそうな。県警察部あたりに勤めていたらしいんだけど、
亡くなる直前まで「アカは敵だ」って言っていたよ。
うちの婆さんの弟は静岡連隊というのに属し、北満に行ってたそうな。
兵隊は上官の暇潰しに歌などを歌わされるのだが、その爺様は音痴で歌が歌えない
ので、代わりにいつもニワトリの真似をしていたそうです。
聞いたことがあるのはそれだけ。
最前線の兵隊として何年も満州に行ってたんだから、聞けばいろんなこと話して
くれたろうに、、、、。去年亡くなりました。
>>624 キンニッセイは、一応抗日の英雄とかでかなり前からの伝説化されたもんで、
本人登場したとき、えれー若いんで、朝鮮人でも、あれがみんなニセモンだってすぐわかったそうですけどね。
シロアタマ山で生まれたとされるキンショウニチは実はソ連のキャンプで生まれていて、朝鮮語もまともにしゃべれず、
そのために人前でしゃべるのを遠慮してたらしいですしね。
俺の爺さんはろくでなし。
18歳で志願して大陸へ行ったらしいけど、終戦で帰ってきてからはずっと
自分がいかに勇敢に戦ったかとか周りに吹聴してた。俺もガキのころに嫌というほど聞かされた。
で、それから借金つくって行方知れず。見つけたら本気で殴ってやりたい。
出兵時の写真見ると、悲しいぐらい俺とそっくりなんだよな・・・吐き気がする。
皆さんの話聞いてると、いい爺ちゃんばかりで羨ましいですよ。本当に(;つД`)
ウチの爺さんはニューギニアの波部隊ってのの生き残り
631 :
日出づる処の名無し:04/11/25 11:11:12 ID:26VLxSgU
>>614 坂井三郎は確かに64機の撃墜機数は持ってるが、大陸でのスコアが多いことと、
いわゆる「ファイター・パイロット」とは言えない(自分でも「得意技は
落穂拾い」っていってるよね)タイプなので、本当のエースというには、
一寸抵抗がある。俺自身も昔ファンで、著作、関連作はみんな持ってるし、
ファンが多いこともよく知ってるから、水を差すようで悪いのだが・・・。
本当のエースって、例えば陸軍では檜、穴吹、海軍では西沢、岩本 各氏
じゃないかと思う。
632 :
日出づる処の名無し:04/11/25 11:13:06 ID:0mVb9w1u
>>631 田形竹尾さんはどうなの?飛燕に乗ってヘルキャットと渡り合ったみたいだけど。
633 :
日出づる処の名無し:04/11/25 11:38:39 ID:26VLxSgU
>>632 「飛燕対グラマン」の筆者、田形准尉!
彼は「先手必勝」がモットーの、素晴らしいファイター・パイロット
ですよ。
特攻経験も含め、深い人生哲学には感銘を受けますよね。
稼働率の悪い三式戦で、あれほどの空戦経験を培ったというのは
凄いと思いますね。
>>633 彼の人生哲学に感銘を受けた。ビバリ・ボースさんと語り合ったそうな。
壮絶な経験を淡々と語る。まさに大和魂の持ち主だ。
金沢で田形さんの講演があって行ったが、さすがだったよ。祖父は軍医で、僕も医師免許は持っているけど、
祖父は「田形さんは僕のような人間にはわからん経験をしておられる」って言っていた。祖父の方が階級は上
なんだけど、やはり今の日本人にはないものを持っておられるな。
635 :
市民派護憲教師 ◆3grbnDCXXQ :04/11/25 12:29:01 ID:9272jBtC
虐殺やレイプ、人体実験、略奪や搾取、自爆テロ攻撃などに関与した疑いのある元日本軍人は今からでも訴追すべきです。
うちの爺様は、終戦後に千島防衛で亡くなった。詳しい事は、分からないうえ墓に遺骨も無いよ。
638 :
日出づる処の名無し:04/11/25 12:37:30 ID:0xilALPH
>>625 うちのばあちゃんは、やはり戦中、朝鮮半島に住んでいた。(北らしい)
ばあちゃんのいた村は、日本人は警察官と小学校の校長とばあちゃんの弟(教員)、
そしてその家族だけだったそうで、強制連行や従軍慰安婦の話など聞くと、
「そんなことすると、朝鮮人に何されるか分からなかった。日本人はそんなことしないよ」
と、いつも言っていた。
学校でも、先生は生徒をよくかわいがっていたそうだ。
639 :
市民派護憲教師 ◆3grbnDCXXQ :04/11/25 12:40:36 ID:9272jBtC
朝鮮半島全土で何も性奴隷制度拉致や強制連行が行われていたわけではないでしょう。
640 :
日出づる処の名無し:04/11/25 12:53:22 ID:26VLxSgU
>>639 だまれ!この差別派欺瞞教師!!
「性奴隷制度」とは一体何を指しているのだ!
貴様の偏狭な価値観で測れるものなど何も無い。
何しろ、「性同一性障害者」を「変態」と定義づけ、「収容」しろ
などというヤツだからな。
貴様の大好きな「在日の方々」のケツでも舐めてチョワチョワ悦んでろ!!!
>>638 あなたのおばあさんが仰るとおりです。
日本は当時朝鮮で、朝鮮人を半島同胞と呼び、「一視同仁」の宥和策に
基づく善政を敷いていました。
その恩も忘れ、井戸に糞尿を入れたり、動物の死骸を放り込んだりして
日本人を困らせるのが彼らの常でした。
私の祖母は通化という半島に近いところに居ましたが、彼らはいつも
自分達よりもさらにマイノリティーであった「白系露人」の在住者に、
暴行を加えたり、嫌がらせを繰り返していたと聞きました。
日本の巡査が何時もそれを庇っていたと。
日本人は、半島でも大陸でも、卑劣なことなど何一つしていないのです。
>>639 構って君必死だなw
まぁ、お前は回線切って大好きなオナニーデモしてなさい
642 :
日出づる処の名無し:04/11/25 13:04:29 ID:4G2Zc+Je
うちの爺ちゃんは大連にいて結構偉かったらしい。
13回忌の時、爺ちゃんの部下だった方が遠方からたくさんやってくる
というので従兄弟と余興をやることになった。
婆ちゃんが日頃から爺ちゃんの生き写しだというので軍服を着て
みんなの前に出ようという事になった。
当日寺でお経が終わり大広間にみんなが集まっているなか
従兄弟が買ってきた(上野か通販だと)九八式軍以袴を着て(ブーツも履いたが流石に
土足で寺を歩かないでくれといわれ断念)
みんなの前にでるとそれまで顔を真っ赤に騒いで飲んでいた
老人達がビッとなって中には敬礼をする人もいた、
予想もしなかった状態になったので親父が余興だと言って
その場は収まった、おかげで色々爺ちゃんの若い話が聞けてよかった。
婆ちゃんを夜這いで落とした話や抗日ゲリラに追われ
逃げ帰った話など。その後婆ちゃんが写真館で一緒に写真を撮りたい
というので旧軍の格好のまま町を歩いた時は流石に生きた心地はしなかったが、
ああ、爺ちゃんはこの人に惚れたんだなと思ったら涙が流れた。
その後仏壇に死んでないのに婆ちゃんと撮った写真が飾られるなど
色々ありましたがその婆ちゃんも去年亡くなり今では立派な軍服オタに
なってしまった。話が微妙に関係なくてすまん
643 :
日出づる処の名無し:04/11/25 13:10:22 ID:26VLxSgU
644 :
日出づる処の名無し:04/11/25 13:32:50 ID:pdkvweRZ
>>642 そういや、大連でも抗日ゲリラ狩りと称して、
一般家庭を襲ってたな日本軍。
犯ったほうは良い話では、犯られたほうはたまらんな。
俺の爺さん潜水艦に乗っていたそうな。
しかし潜水艦に乗って生還した人ってかなり珍しいんじゃないか?と最近気づいた・・・
646 :
日出づる処の名無し:04/11/25 13:57:14 ID:9WeVMyxO
わしのじいちゃん南の小さな島
にいったんだって でもアメリカ
その島上陸しなかったので助かったらしい
帰ったら婚約してた女性が知らない男と結婚
していたらしい 悲しかっただろう
647 :
日出づる処の名無し:04/11/25 14:10:28 ID:rAP5rGW/
久しぶりにバカ狂師みたなーw
通信兵。
中国やビルマに行ったらしい。
649 :
日出づる処の名無し:04/11/25 14:39:41 ID:26VLxSgU
>>648 通信は兵科として、学科で賢い兵を選抜したらしい。
モールス暗記するだけでも一苦労だからね。
モールスの覚え方の一例を挙げると、
イ ・− (伊藤)
ロ ・−・− (路上歩行)
ハ −・・・ (ハーモニカ)
〜となる。要するに、「トン」「ツー」の音感を、言葉の語呂に合わせて
覚えるんだね。
イロハ全部覚えるのは、結構な苦労だと思う。
アルファベットは数が少ないから良いけどねぇ。
650 :
日出づる処の名無し:04/11/25 14:41:18 ID:60AZAJmI
597です。
うちのじい様ネタをもう少し。
日米開戦前は択捉島にいて、海防艦みたいな船の機関士してたらしく、そのときやたら威張る新任の上官がいて
その上官(中尉)が一緒に船に乗って訓練をすることになった時、冬の北洋の荒海でわざとに機関停止させ、バッ
テリーのケーブルを外し、「中尉殿〜すぐには直りません!もうしばらくかかります!」とかてきとーな事言って
機関不動状態を2時間もルンルン気分で続けて、「やっぱりダメです!曳船願います!」とか言って、ゲロンゲロ
ンな中尉殿をよそに機関室でテキトーに整備してるフリこいて、曳船が見えてきた時にケーブル接続!機関始動!
じい様ナイス!
それから半月ぐらいしてから、朝起きて泊地をみたらでっけー空母やら巡洋艦やらがいてビックリしたって♪
タイにいたとき、メコン河の水を飲み水として使うのに、毎晩ドラム缶に水汲んで一晩置いてドロを沈殿させて
上水を使ってたんだって。ある朝水を見にいったら「ウンコ」が浮いてて即行で投げたって♪
すこし真面目な話だと、シンガポールで伊型潜水艦と戦艦(艦名はしらん)を見て、艦内を見せてもらった時は
すごく感動したって。でも自分の自慢の船(無理やり航空機エンジン載せたバカ高速船)のほうが速いし、小回り
効くから乗る気も無かったって(って乗るのは自分で決めるんじゃないでしょww)。
そんなじい様も今は国内旅行が趣味♪「たまには海外でも行ったら?」って言うと「アホ!かね出して海外旅行
なんて行ってられんわ!若い時に散々海外行ってキレーな海見てきたしな。しかも全部タダで♪」なんてニコニコ
しながら言うじい様は可愛い♪
651 :
日出づる処の名無し:04/11/25 14:57:53 ID:d5q9AEjh
俺の祖母の兄が南方に行く途中で輸送船が沈められ、24歳で戦死してんだけど
写真みたら俺とそっくり・・。
年もほとんど同じなので複雑だった。
終戦の年の5月頃だったから、もう少し早く戦争が終わっていたら死ななかったのに・・。、
652 :
日出づる処の名無し:04/11/25 15:35:51 ID:oQnsR47b
みんな、これから戦中世代はどんどん他界するから
今の内に聞ける事は全部聞いとけよ
653 :
日出づる処の名無し:04/11/25 15:41:19 ID:Rr5HBvR9
死ぬしばらく前から夜随分うなされていたらしい。。。
ばあちゃんによると中支にいた時のことが原因だっていっていたが。
結局何ひとつ語らなかった。
654 :
日出づる処の名無し:04/11/25 15:50:16 ID:XHjxbZIQ
誰か霊感のある人にウチのじい様呼び出して欲しい・・・
また興味沸いてきたさ。
上にも書いたけど、漏れのじいちゃんの軍需工場。
東京大空襲で灰燼に帰した。
おんどりゃ〜〜あめこう!無事だったなら、いまでも漏れは
財閥の御曹司だったのに・・・
南方戦線でやたら歩かされる話
ドリアンだかの話
は山ほど聞かされた
もう一回聞きたいもんだ
657 :
日出づる処の名無し:04/11/25 17:07:44 ID:ZKnCfOTa
俺の家は共働きで、家での面倒は全て婆ちゃんが見てくれていた。
婆ちゃんの口癖は、「もったいない、もったいない。」だった。
暖かいご飯があるのに、いつも昨日の残りの冷ご飯を食べていたっけ。。。
何でも使えそうな物は保管し、菓子折りの包装紙まで保管してて母さんに怒られ
てたっけ。そんなに溜め込んで何に使うの!ってw
婆ちゃんが他界して5年の月日が流れ、正月に実家に帰った時、両親と酒を飲みながら
昔の話で盛り上がっていた時、母さんが婆ちゃんの宝物を発見した!って言って私の目の前に
持ってきた物は、爺ちゃんの遺書と写真。大掃除の際に仏壇の裏から発見したそうだ。
爺ちゃん?俺の知っている爺ちゃんではなかったので正直驚いた。っていうか誰だよ?って感じ。
それもその筈で、婆ちゃんの元旦那らしいが先の大戦で他界、婆ちゃんの再婚で出来たのが母だった。
俺はそんな事初耳だったので戸惑いながら遺書を読んだ。当時近代史の事など全く知らなかった左巻き
の俺だったが、遺書を読み終える頃には号泣。全ての点が線で繋がった感じだった。
遺書の細かい文面などの違いはあるけど要約すると、
「お前とは短い間であったけれども幸せだった。俺が死んだら必ず再婚してくれ。」
「俺は日本男子であるから義のために死ぬ。戦争は終わる。清く正しく幸せなれ。」
なんだかもっと素敵な文章だったんだけど。。。
インドネシアで行方不明というか、独立戦争に参加して行方知らず。。。
近代史を探ってる途中に2chに出会い極東に入り浸りw。
祖父のことではないが、4歳の頃に満洲から引き揚げてきた母のフトモモには
銃弾を受けた跡が残っている。一体どういう状況だったのか、決して語ってくれないが、
きっと大変な体験をして帰ってきたのだろう。その跡を見たのは俺がまだ3〜4歳の頃で
母が20代半ばの頃だった。白い肌に大きく円形にえぐられた跡が目立っていた。
>>あなたのおばあさんが仰るとおりです。
日本は当時朝鮮で、朝鮮人を半島同胞と呼び、「一視同仁」の宥和策に
基づく善政を敷いていました。
その恩も忘れ、井戸に糞尿を入れたり、動物の死骸を放り込んだりして
日本人を困らせるのが彼らの常でした。
私の祖母は通化という半島に近いところに居ましたが、彼らはいつも
自分達よりもさらにマイノリティーであった「白系露人」の在住者に、
暴行を加えたり、嫌がらせを繰り返していたと聞きました。
日本の巡査が何時もそれを庇っていたと。
日本人は、半島でも大陸でも、卑劣なことなど何一つしていないのです
何一つやらなかったわけではないだろ・・・・
何言っても、結局は米に欧州戦線の片手間に負けたんだし
形はどうあれ勝った側についたシナやチョンの勝ち
敗者が何言っても負け犬の遠吠え
悲しいけど
泥酔した祖父の口癖。
『わしゃあ空軍でのう、ぐらまんとかいう飛行機を500機ばかり叩き落してやったっけのう』
海軍で飛行機乗ってたのは本当らしいが、じいちゃんが酔い始めるとばあちゃんがいつも
『孫に嘘ついてもしょうがないでしょう』
とゲラゲラ笑ってたっけか。
ばあちゃんが言うには、ごく普通のパイロットだったらしい。
662 :
日出づる処の名無し:04/11/25 17:45:33 ID:8gUn+xz2
我が伯父は中国で中国人に日本軍の物資を横流ししていました。
おかげで、収容所でも優遇され、引き上げも一番
しかもお土産までいっぱいもらって、太って帰ってきたそうです。
我が一族の繁栄は伯父が持って帰ってきた土産より始まりましたとさ。
漏れのジイチャンは、陸軍の中にあった、士官暗殺やゲリラ戦を主体と特務機関に居たらしい。
そのあとインドネシア独立戦争に参加して右手の小指アボーン
664 :
日出づる処の名無し:04/11/25 17:49:25 ID:VO7Rh09Y
うちの祖父は航空会社のパイロットだったらしい。フランスと何か条約を結ぶ時にも運転したらしい
俺が生まれた時にはもういなかったから良くわかんないんだけど
665 :
日出づる処の名無し:04/11/25 17:52:23 ID:26VLxSgU
>>660 優先の結果敗れたとはいえ、多くの植民地を解放し、白人支配の世界勢力図
を塗り替えた輝かしい我国の功績の前に、瑕疵を敢えて求める必要は無い。
そして、支那や朝鮮をうらやむ必要も全く無い、
先人先達父祖の歴史を振り返り、新たな日本の未来を切り開く糧と成すべきだ。
666 :
日出づる処の名無し:04/11/25 17:53:56 ID:26VLxSgU
>663
中野学校…じゃないよな。
それだったらわかるか。
陸軍中野予備校…だったら嫌だなあ!
669 :
日出づる処の名無し:04/11/25 18:04:32 ID:HbUNpeMh
このまえうちの爺ちゃんと南京大虐殺のことで口論なりますた。
670 :
日出づる処の名無し:04/11/25 18:10:14 ID:YXdHrA6B
父方のは富山で防空隊だった。
母方は歯医者だったから兵役免除。
671 :
日出づる処の名無し:04/11/25 18:12:38 ID:d5q9AEjh
爺ちゃんの軍隊の写真があるけど、中国の若い小間ずかいの
少年なんかと笑って仲良く写真を写していたり、そんなにひどいことを
している印象はないけどなあ・・。
だから俺も南京大虐殺には懐疑的。
なんとか軍っていう中国の義勇軍が、絶対に死なない思想を持っていて、
死を恐れずに向かってくるからすごく怖かったって言っていたよ。
672 :
671:04/11/25 18:15:21 ID:d5q9AEjh
追加
その写真の少年はふっくらしていて、待遇はよさげだった。
>663>667
中野学校出身者多かったのよ 学徒兵で優秀な予備士官たち
スマラン事件に巻き込まれたり混沌とした状況もあったけど
その後スカルノはその人脈で日本と友好になったとじいちゃんに聞いたよ
674 :
日出づる処の名無し:04/11/25 18:35:01 ID:26VLxSgU
>>671 それは、「紅槍匪(こうそうひ)」のことです。
少数民族ですが、女性の月経の血で染めた真っ赤な槍を持っていて、
その槍を持って戦って死んだものは、直ぐに蘇ると信じていた模様です。
しかし、日本軍のどの部隊かは私も忘れましたが、その紅槍匪ですら
裸足で逃げ出すほど強かったとのことです。
貴方のおじいさんは、その部隊に居た勇士だったのかも知れませんね。
>>660 > 形はどうあれ勝った側についたシナやチョンの勝ち
> 敗者が何言っても負け犬の遠吠え
あのさ、スレ汚しで悪いけど、玉音放送の流れた15日の二週間後には韓国にGHQが
進駐してきてるの。そこで、総督府の日章旗を降ろして太極旗になっていたのを、GHQ
が日章旗に差し替えたんだよ。つまり、韓国は1948年までGHQの進駐下で日本自治領
という扱いだったんだよ。
ユカの祖父の叔父は731部隊だったょ
ウチの爺ちゃん、前線には出なかったらしい。
補給部隊の船で物資や兵士を運んでたとか。
んで、トラック島沖で乗り込んだ船が魚雷に沈められたが何とか生還。
その後、別の船に乗り込んだが、松山沖で機雷に触れて沈没。
背中に重傷を負って帰還。
「もう助からない」と言われたガキの頃の漏れの親父は、数珠を持って病院に行ったらしい。
まあ、死ななかったんですけどね。
さっき聞いた話ですた。
679 :
日出づる処の名無し:04/11/25 20:02:47 ID:VEPqUKTc
>>670 私の祖父は、関東軍の軍医ですた。
元々病院勤務医だったらしいが、徴兵かな?
歯科医は免除だったのかぁ。
死ぬ前に、いろいろ聞いておけばよかったよ。ジーチャンorz
731部隊は後の医療技術に貢献したんだって(^ー^)
大陸でクーニャン犯しまくってますた。
682 :
日出づる処の名無し:04/11/25 20:42:14 ID:CE5eMEq+
ウチのジイちゃんは軍人じゃなかった、消防隊員だったって聞いたな。
空襲のたびに防空壕に民間人を誘導しながら消化してたらしい。
母方のジイちゃんは海軍で横須賀勤務だったって言ってたな。
孫のオレにも余り話しをしてくれなくて、歯を見せることも無かった。
でも、やさしいジイちゃんで、たまに酔っ払った時にだけ話をしてくれた。
「戦艦武蔵に命令書を携えて乗艦したことあるんだぞー」って。
二人とも他界しちゃったけど、もっといろんな話聞きたかったなぁ。
じいちゃんはゲシュタポだっていってたょ(^^)
日本で言う関東軍かな
間違えた憲兵だ(^ー^)
685 :
日出づる処の名無し:04/11/25 20:51:49 ID:4bp+61HE
母方のじいさんは鉄道工兵
シベリア出兵組らしい
伯父は陸海軍どちらか知らないが
戦闘機のパイロット
死んでから知った
もう一人の伯父は海軍陸戦隊
長男だが海南上陸で戦死
南洋に行ってた。
右手の指2本吹っ飛んで帰ってきた。
指物職人だったんだけど、その後リハビリっつーか
指足りなくても仕事できるよう努力&工夫して職人に復帰。
70まで働いて引退。その後はのんびりしてたけど去年他界しますた。
『指吹っ飛んでもらった勲章』を大事にしていたよ。
敗戦後、トラックに積まれて運ばれた時、現地の人たちが笑いながら
「バカヤロー」と手を振ったそうな。
おれのじいさんはB-29をつくってたと言ってた。
688 :
663:04/11/25 21:45:21 ID:WIxhU05H
>667
部隊名はいくら聞いてもおしえてくれんかった。
くわしくは聞かなかったが、実験的な部隊で、中野学校や学徒兵や少年兵の中で特に優れた人物を抜擢して、
暗殺や破壊工作や近接戦闘のテク、身の回りにあるものを武器にする方法、隠蔽術、サバイバル術、敵軍の捕虜から押収した、武器や兵器の使い方や構造を徹底的に
叩き込まれたと言ってた。
ちなみにインドネシア独立戦争では現地民に格闘術や射撃、ゲリラ戦術を指導し、自らも最前線で戦ったといってた
右手の小指はオランダ兵に占領された村を開放するときにやられたといってた。
お小遣いたくさんくれたし、何でも買ってくれた優しいじいちゃんだったなあ。
689 :
663:04/11/25 21:46:14 ID:WIxhU05H
ああ、改行、滅茶苦茶だ逝ってきます・・・orz
爺ちゃんはルーズベルトを暗殺した。ばあちゃんは沖縄戦でバックナー中将
を狙撃した。爺ちゃんの弟は三発目の原爆を落としに来たB-29に練習機で体当たりして撃墜した。
>>688 旧軍の特殊作戦部隊所属だったということだよな? SASとか有名だけど、日本軍も非正規戦の重要性
を理解していたというわけね。
692 :
日出づる処の名無し:04/11/25 21:55:40 ID:0xilALPH
>>686 指2本飛ばされても、職人に復帰。
根性あったんだね、尊敬する。
うちの爺さんはライターの通信士で東南アジア飛び回ってたらしい。
交戦はゼロ。話聞く限りじゃ殆ど観光旅行のノリ。
サイゴンで山本五十六戦死の通信を通りがかりに立ち聞きしたとか言ってた。
いいのかそんなんで・・・
父方の祖父は警察官僚
各地の警察署署長のポストを廻った後
外患を取り締まる仕事をしていたらしい。
祖父が死んで随分経った後、部下だった方から聞いた
のだがゾルゲ逮捕に深く関わっていたようだ
親父が言うには殆ど家には戻らず、警視庁で一体何の
仕事をしているのだろう?と不思議に思ったらしい。
終戦と同時に退官し、慣れない手つきで百姓を始めた。
何度か復職の要請が有ったようだけど、その全てを断
り以後当時のことは黙して語らず。
百姓としてその生涯を終えました。
インフィニティ〜♪
うちの親戚の爺様が特高警察の刑事だったので、特高の拷問の仕方を聞いたこと
があるよ(うちの親から間接的にだけどね。)
取調べは最初はお手柔らかにやるんだって。
で、何だこんなもんか、と油断させておき、その晩独房の外で様子をうかがう。
そして寝込んで寝息を立て始めた瞬間にそっと独房に入って行き、いきなりぼこぼこに
殴る。半死半生になるまでやる。人間寝た瞬間に襲われるのはものすごい恐怖らしく、
悲鳴あげるわ震えるわ涙流すわしょんべん漏らすわの状態になるらしい。
これだけでたいていの奴は白状してしまうそう。
それでもまだ頑張るなら、その晩また独房のそばで様子をうかがっている。
そうすると相手は外に刑事がいるのに気付いてるし、寝ればまたやられると分かって
いるから、寝ない。
でも前の晩寝てないし昼間寝かせてないから、ウトウトッとする時があるらしい。
その時すかさず襲ってぼこぼこにする。
こういうふうに二晩やれば、相手は寝れないわ怖いわでノイローゼみたいになり、
絶対に白状するんだそうです。
こういう話はうちの親が子供の頃に聞かされたぐらいで、戦後も何年かたってからは
しなかったそうな。「俺も悪いことしたよ」とはよく言ってたみたいだけど。
>699
洗脳なんかと近いね。
古今東西の拷問の例と比べれば、暴力的ではあるが科学的だ。
まあ、誉められた話じゃないが。
701 :
日出づる処の名無し:04/11/26 14:07:17 ID:77GfuBEY
今は自白剤があるから注射一本で全部喋る。昔と比べて暴力は役に立たないものになってる。
今だからこそ昔を批判できるんだよね・・・
レス感謝
優しいけど厳しい祖父でした。
祖父の警察官僚時代の事は親戚も殆ど知りません。
聞いても
あの歳であの階級まで上がったのに勿体ないねぇ
本人は何も喋らなかったけど特高でね
とかそんな類の話ばかりで。
ただ、私がガキだった頃、刑事ドラマ夜明けの刑事(古っ!)
を一緒に見ていて「俺も警察に入りたい」と呟いたら「警察なんかに入るんじ
ゃぁない!」と一喝されたのは良く憶えています。
生きているうちに色々聞いておけば良かったと本当に後悔しています。
703 :
日出づる処の名無し:04/11/26 15:35:21 ID:KZthHakU
しかし、信じられんな。こんな世代が日本人にいたなんて。
うちの爺ちゃんは、兵を戦地に送ったり
負傷した兵を救護所まで運ぶ
軍用車の運転手だったらしい。
そのせいか、車の運転もかなり上手かったな。
具合悪くなって、病院まで
自分で車運転して行って86歳で亡くなった。
705 :
日出ずる処の名無し:04/11/26 16:03:38 ID:S6bPxyuz
俺の爺さんB〜二重苦、のウンコで家、燃やされちゃってバラックて別荘で
雨の日は洗面器と同居してたんだって。
706 :
日出づる処の名無し:04/11/26 16:27:24 ID:ccoF9PSL
漏れのじ〜チャン
特高 台湾で憲兵 終戦時戦犯指名 蒋介石が戦犯にあらずとして
死刑を免れるが 隊長は死刑
戦後は海上保安庁
>>696 >>702 利権のために平気で国を売るような馬鹿官僚に
御爺様の爪の垢を飲ませたいですね。
709 :
日出づる処の名無し:04/11/26 19:54:01 ID:jOHx0iI/
父方の大叔父はシベリアで抑留されて亡くなった。
先日亡くなった祖母(大叔父の妹)はずっとソ連を嫌ってたっけ。
710 :
日出づる処の名無し:04/11/26 20:01:39 ID:jOHx0iI/
あと職場が老人ホームなんで、年寄りから色々聞けるが、守秘義務でここには書けん…
>>709 私の場合と全く同じです。
広いシベリアのどこかに大叔父が眠っていますが、場所は不明。
祖母はソ連を嫌っていた。
712 :
日出づる処の名無し:04/11/26 20:09:42 ID:SO2u1oEL
>>711 爺さんは言わんが、婆さんはロシアのことを「ロスケ」と呼んでいるよ。
713 :
日出づる処の名無し:04/11/26 20:28:59 ID:jOHx0iI/
あんまり昔の世代のことばっかり言ってると朝鮮なんかと同じレベルになると思って私はあまり口にはだしませんが、腹の中ではロシアのやり方は嫌いではあります。
714 :
日出づる処の名無し:04/11/26 20:33:02 ID:KZthHakU
ロシアにも英雄はいたんだよね。
日露戦争のころは。
ミシチェンコとか。
★英雄が目白押し!だったな(藁
716 :
日出づる処の名無し:04/11/26 20:44:49 ID:jOHx0iI/
私は詳しいことは知りませんが、確かソ連って戦争終わってから北方四島かっさらったり、シベリア抑留したと認識してますが…
717 :
日出づる処の名無し:04/11/26 22:22:29 ID:oJ9orMpb
米英との戦いで息も絶え絶えの日本に
日ソ中立条約を破って一方的に宣戦布告した
そういや。なんでこいつらロシアの条約違反は裁かれんの
南京で中国人虐殺してたって。
酔うと真っ暗になってその話をはじめる。
一族引いてたなー。
戦友に戦後偉くなってる人が何人かいるみたいで、
そいつらの悪口も言ってた。
うちのじいちゃん 戦時中は満州にいたらしい
当時のことを聞けないままとうとう逝ってしまったが
満鉄にいた
そこではドイツ人も働いていた
すっごくいい暮らし(社宅に冷蔵庫があった)
騎兵隊所属
が、戦地へはいかず
という話は ばあちゃんから聞きだした
ちなみに昔
ばあちゃんから大量の満州国のお札をみせてもらった
引き上げの際
腹に巻いた帯に隠していたらしい(見つかると没収)
けれど苦労して持って帰ったお札も
日本では只の紙切れだったと愚痴ってた
ヤフオクに出せば売れるかね
720 :
日出づる処の名無し:04/11/26 23:07:14 ID:ZG1GuogL
輜重
目黒にいたとか。
721 :
山下:04/11/26 23:13:23 ID:HptMtJBV
俺の先祖はマレーの虎でした。
イエスかノーか!
722 :
隼太郎:04/11/26 23:20:13 ID:cVcchnZA
そういえば、人殺しの話を笑顔で語ってたなw
銃剣で三人串刺しにしたらしい。
みんなのおじいちゃんは何人殺してる?
漁船みたいな木造船で機雷の処理をやっていたそうな
でもって海上自衛隊でも掃海部隊に
本人は駆逐艦にに乗りたかったと言っていた。
724 :
:04/11/26 23:30:25 ID:cWFaP1/O
家の祖父は軍医、詳しい話はあまり聞いてないけど満州にいたらしい。所属・階級など
は不明、まあ今年91か92だから終戦当時は30才位だし見習いに毛が生えた位だと思う。
ただ自分が子供の頃から全くといって良いほど戦前・戦中の話ししないんだよね・・・
・・・不自然なほど。帰還する時、捕虜になって連行されて来たらしいのだがその折
洗脳でもされたのかなぁ?あるいは自分の子供が団塊世代で左翼気味だから孫の
我々もどうせ駄目だろうと諦めてるのか・・・・・・・・死ぬ前に聞いておかないとマズイ気がする。
726 :
日出づる処の名無し:04/11/27 00:52:19 ID:l/k/bYaC
>>702 マレーの虎猫殿
貴方のおじいさんはかっこよすぎる
漢だ。
>714
日本人は北方でひどい目にあわされたのは事実。それは忘れちゃいけない。
だけど、当たり前だけどソ連にも英雄はいた。
ヨーロッパの方だけどな。
別スレにも書いたんだが、開戦当時、ソ連はドイツに連戦連敗。
ソ連空軍も悲惨な状況だったらしい。
機銃弾を撃ち尽くすまでドイツ軍機を攻撃した後、最後は体当たりをしたんだそうだ。
昔、航空雑誌で読んだ記憶だから記憶違いだったら申し訳ない。
日本人はソ連の事を知らないと言えば知らない。
忘れちゃいかんが乗り越えなきゃいかん。
友好も大事だが、油断してもいけない。
そういうもんなんじゃないかな
728 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:05:59 ID:SQSB2hTs
背が低すぎて兵隊になれませんでしたウチの爺ちゃん
でも漏れは184cm。当時だったら…。
729 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:10:29 ID:PQgdwlb4
>>725 >あるいは自分の子供が団塊世代で左翼気味だから孫の
> 我々もどうせ駄目だろうと諦めてるのか・・・・・・・・
こう思っているお年寄りってかなりいると思うよ。うちの親モロ団塊世代だけど、おれが戦時の日本や日本人をほんの
少し肯定的に弁護しようとしただけでアレルギー反応を示すがごとく怒り出す。アレルギーっていうか、ヒステリーに近い
感じ。かなり怖いよ。。。まあ戦後の日本人っていうのは概してそういうのがスタンダートだったんだろうけど、そんな世の
風潮ん中では戦争経験談なんて話したくても話せなかったんだろうと思う。
戦後の反権力、反国家、左翼的思想に感化されて、親世代を徹底的に否定したがる団塊世代にとっては
じいちゃんらの戦争観、国家観なんて言語道断だったろうし、そんな相手と議論しても戦後の下らん思想をテンパって
振り回すばかりでいくら言っても分かってくれない。ならば初めからそういう話題は家庭には出さず、息子(又は孫)と険悪な
雰囲気になるのをおじいさん達は避けていたんじゃないかと思う。いままでいろんなお年よりに戦争経験談を聞いたが、そんな気がする。
730 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:13:54 ID:KtonGfOp
>>610 おまえのジジイみたいな売国奴がいたから負けたんだよな。
そして、おまえみたいな売国奴の血は今でも続くと。
悲しいな。
731 :
加藤隼人:04/11/27 01:17:47 ID:QbNgbE4u
732 :
加藤隼人:04/11/27 01:20:18 ID:QbNgbE4u
731 といえば、
皆さんピンときますよねw
733 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:20:44 ID:V8h8+REb
k;l;k
うちの爺ちゃんは戦場で映画撮ってたみたい。
735 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:26:59 ID:bHQJbx8J
736 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:28:45 ID:KtonGfOp
>>735 だな。南京で30万人も虐殺した国民は
言うこと番うな(w
世界遺産に登録されて恥を世界に晒せ(wwww
爺さんは砲兵だった。
中国で毒ガス弾を撃ったそうだ。
後で効果を調べに行くとばたばた死んでいたらしい。
この後は毒ガスの必要は無し。
煙幕弾を撃つと中国軍は
蜘蛛の子を散らすように逃げたって。
738 :
日出づる処の名無し:04/11/27 01:48:35 ID:tofR/Oh6
>>737 ガスの種類は? 結果として必要最小限の犠牲は必要であったということじゃないですか。
739 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:02:05 ID:KtonGfOp
>>737 最高だな。日本軍。
余った毒ガスは埋めていくしな。
740 :
加藤隼人:04/11/27 02:07:20 ID:QbNgbE4u
誇らしげに語ってんじゃねーよ。
人殺しの孫どもが。
もう、終了でいいかなw
741 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:08:08 ID:bHQJbx8J
>>736 南京には今も昔も南京虫しかいない(EU認定済み)
742 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:10:21 ID:bHQJbx8J
一人だけ汚名をかぶるのを避けて、いまだに日本でのうのうと生きてる奴の子孫がいる。
743 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:16:11 ID:tofR/Oh6
活字を使ったテロリズムを左翼は半世紀以上もやってきたのだ。こういう輩に屈するわけにはいかない。
南京虫や北京原人の一匹や二匹殺したってどうでもいい。
なんか文句でも?
745 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:28:15 ID:tofR/Oh6
テロリストを抹殺するのは軍隊として当然のことではないのか?
軍事行動の邪魔になるものは排除されて当然ではないか。
746 :
∩(・∀・)さげ(41) ◆SAGE/coEME :04/11/27 02:32:26 ID:dffwuHxb
>>KtonGfOp
ガキ。
南京で30万人も虐殺?
今頃んなこと言って、自分のバカ晒して、ごくろうなこった。
恥を晒してるのは、てめえだ。
ガキの反論は聞かねえ。
リアルで出て来い。
待ち合わせ日時書けや。こぞう。
↓
747 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:34:09 ID:bHQJbx8J
( ゚д゚)、ペッ
748 :
∩(・∀・)さげ(41) ◆SAGE/coEME :04/11/27 02:38:11 ID:dffwuHxb
>>744 南京虫や北京原人を殺したのは、シナの盗賊や軍人ですよ。
749 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:41:25 ID:KMQ5HyC9
父方の祖父は商人、母方は民間の工場長で、どちらも徴兵はされていない。
750 :
日出づる処の名無し:04/11/27 02:42:41 ID:bHQJbx8J
ゴキブリ掃除しただけだよ〜
_____
|____ \□ □
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/ /
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 ̄ (⌒ ⌒ヽ
∧_∧ (´⌒ ⌒ ⌒ヾ
( ; ) ('⌒ ; ⌒ ::⌒ )
( ̄ ̄ ̄ ̄┴- (´ ) ::: )
| ( *≡≡≡≡≡三(´⌒;: ::⌒`) :; )
/ / ∧ \ (⌒:: :: ::⌒ )
/ / / U\ \ ( ゝ ヾ 丶 ソ
/ / ( ̄) | |\ ( ̄) ヽ ヾ ノノ ノ
/ ( ノ ( | | \ ノ (
⊂- ┘( ) └--┘ ( )
UUUU UUUU
752 :
日出づる処の名無し:04/11/27 03:57:57 ID:KtonGfOp
>>746 学校で先生言ってたもんね。
コピーでプリントくれたもん。
日本兵が民間人を塀のある家にぎちぎちに入れて
下に油をしみこませた木屑を敷いて、全員焼き殺して
出ようとすると撃ち殺したそうじゃん。
あと、北京で30万人殺した時に、妊婦のハラを裂いて、
赤ん坊を銃剣で突き刺したそうじゃん。
あと、レイプしまくってそのあと撃ち殺したそうじゃん。
それで30万人も殺して、バカ晒しって、
日本人として反省は無いの?
ロスケにさらわれてシベリアで死んじゃいました。
754 :
日出づる処の名無し:04/11/27 04:25:57 ID:KtonGfOp
>>753 ロシアの領土でバンバン人殺してたんだから当然の報いでしょ。
自分達だって、日本に挑戦人を100万人も連行して働かして
ほとんど殺してしまったくせに。
755 :
日出づる処の名無し:04/11/27 04:37:20 ID:8hgkWgAn
>752
北京大虐殺か、初耳だな
詳細きぼん。
NG推奨
ID:KtonGfOp
ID:tofR/Oh6
ID:bHQJbx8J
ID:QbNgbE4u
ID:dffwuHxb
戦争の話題になるともったいぶって議論するやつがうるさくて、貴重な体験談を聞きだすことが出来なくなる。
父方の祖父は、父が生まれた頃にインドネシアへ行ってすぐに戦死しました。
亡骸は戻って来ず、形見の品のみです。
父は祖父の顔を知りません。
母方の祖父は背が低かったという理由で徴兵されませんでした。
この落差はなんなんだろう。
758 :
日出づる処の名無し:04/11/27 04:59:03 ID:KtonGfOp
>>755 ごめん。南京だった。
それにしても沢山ぶちころしておいて、
オレのじいちゃんはエヘン!
偉いんだぞ!!
なんてよくも言えたもんだな。
おまえらの親が中国人や韓国人を
虐殺してきたんだぞ。反省しろよ。
> 731 といえば、
> 皆さんピンときますよねw
アレジン?
蛭子さんがパクッた方?
760 :
日出づる処の名無し:04/11/27 06:45:58 ID:0Vjsg+8o
関東大震災の時、救援に帝都まで行った。
761 :
日出づる処の名無し:04/11/27 06:54:28 ID:KtonGfOp
関東大震災のときも朝鮮人皆殺しにしておいて
反省が足りないんだよおまえーら。
>>746 >>758 こんなクソ厨房に応援されなきゃ>して貰わなければ
自分達のアイデンティティー保てないわけネ。( ´,_ゝ`)プップッ
バカで低脳な民族はこんな所に来ないでオナニーでもしてろ!
764 :
日出づる処の名無し:04/11/27 08:43:46 ID:eCoiypLg
生き残りの話聞いたって意味ねえ。
安全圏でちんたらしていただけだろうが。
765 :
何だ:04/11/27 08:52:25 ID:7H2WwYcG
>>758 お前、本当にアホだな。
少しで良いから、歴史勉強しろよ。
祖父は特攻だった
映画みたいに「アカは殲滅すべきだ」とか時々言ってた
帝大時代に留学してきてた朝鮮や中国の学生と仲が良くて、「大陸は人材が豊富だから伸びる」と思ってたらしい
迷惑を掛けたくないので、相手を特定できる事は書けないが、
韓国の某界で重鎮として活躍していたご老体が私に語ってく
れた話。今は一線を退かれたようだが。
「日本が戦争中、韓国に酷いことをしたというのは出鱈目です。
昔の日本は併合国住民だった自分でさえ最高の教育を受け
させて貰えた。
その証拠に私の最終学歴は戦前の日本の○○帝国大学な
んです。
知識は人間を豊かにするということを私は知りました。だから
経済が大変な時期だったけど、無理して自分の子供は全員
留学させました。」
某電気メーカで対戦哨戒機搭載用電子機器の開発やってたらしぃ
>>730 おかしなこと書いてるなー(藁
610の爺様は、少年戦車兵や少年義勇軍に憧れた軍国少年
母親に反対されて志願するのを諦めたからって、何で売国奴になるの?
しかも二十歳で徴兵されて兵役を勤めてるじゃん
荒らしにしても程度が低すぎる。
ティムポの毛は生え揃ってますか?
771 :
日出づる処の名無し:04/11/27 12:14:14 ID:KtonGfOp
>>770 バカか!なんで母親に反対されてやめんだよ。
誘った友達はガンガン行ってるだろ。
意思が弱い売国奴だからできるんだよ。
死ぬのが怖かったんだろうな。へたれなやつ。
そういうやつの遺伝子が残っていくんだろうな。
>>771 在日チョンコに、日本人の精神論を語る資格はない。
休日は厨房の天下だな
771のティムポはまだツルツル、皮かむりです。
最近2ちゃんとオナニー覚えました。
775 :
日出づる処の名無し:04/11/27 13:01:51 ID:KtonGfOp
>>774 自分が包茎でオナニーばっかだから
そういう話にすぐするんだよな。
定期的に香ばしい方が訪れるスレですなあ。
良スレ認定みたいなものかな。
>自分が包茎でオナニーばっかだから
>そういう話にすぐするんだよな。
出たぁ!! モロお子ちゃま風言い返し(痣藁
>>728 小さくなけりゃ戦車兵になれないって聞くけど、小さすぎてもだめなのか
ここは議論する場所じゃない。
妙なのに反応して無駄に消費するな。
>610
それが母親の愛ってもんだ。
当たり前の事だ。
ある意味、当たり前の事をするのが大変な時代でもあったし、本当に大切な事を
命がけで真剣に考える必要のある時代だった。
戦地で亡くなった方たちにとって、戦いが終わった後に国がどうなるかは気がかり
だったと思う。
戦後復興もまた大事な使命だったんだ。
>610に限った事じゃないが、銃を持って戦うだけが戦争じゃない。
>>778 親類の一人が小さすぎてダメでした。でも軍属として大陸に行っています。補給関係だったそうな。
ホロン部員巡回スレですな
782 :
日出づる処の名無し:04/11/27 20:00:00 ID:gA4PKftn
軍務で半島にいた時、ロシア革命から逃れてきたユダヤ人難民が大勢いたといってた。
>>782 それって、「6000人の命のビザ」で有名な杉原千畝の助けた
ユダヤ人のことでは、、、
ロシア革命から逃れてきたといったら日露戦争の頃になっちゃうよ。
784 :
日出づる処の名無し:04/11/28 08:14:57 ID:lAz0A/+0
↑日露戦争は明治だぞ。ロシア革命は大正時代で、シベリア出兵の頃が正しい。
785 :
日出づる処の名無し:04/11/28 09:18:32 ID:/YputMHn
体が小さすぎると戦争行けなかったらしいですよ。
身長で150以下くらいだったかな。
1
>>783 問題ないですよ。
反日とか糞サヨは、千原氏本人が単独でやった功績ってことにして、日本人全体と切り離したいらしいけど、それは間違いです。
彼ひとりが勝手にビザをだしても、そんなことは止めようと思えば無理です。
関係した多くの日本人が彼らユダヤ人の状況に同情したからなされたことです。
日本政府の方針が反対であれば、途中の役人が蹴っちまえばすむことですよ。
ドイツの反ユダヤ政策には、天皇陛下の意向もあり、日本政府は賛成しない立場でありました。
日本の役人たちの協力と黙認もあり、ロシア、満州、上海、神戸を抜けて多くのユダヤ人はアメリカに出国しました。
787 :
日出づる処の名無し:04/11/28 10:00:05 ID:BzjakfE5
788 :
日出づる処の名無し:04/11/28 10:04:03 ID:XfqkjBB7
一日あたり何億円もの税金による費用をかけてイラクに駐留して
いながら、現地の人達から「期待はずれ」といわれ、かつ今回の
ように拉致された日本人が出ても何もできず、あまつさえ遺体と
なってからも危険だからと遺体収容も米軍に代行してもらう自衛
隊という組織は何のために存在しているのか?
これだけ大規模災害が増えてくると、やはり現行の自衛隊は
明確に災害救助と復興支援のプロ組織(サンダーバードのような
国際救助組織が理想か?)と現在の国内防衛のための自衛隊組織
に二分割し、更に自衛隊の中にカウンターテロリズムのための
専門チームを設けて、用途に応じて使い分けるのが国民感情とし
ても憲法との整合性からもいいのではないか?
今のように軍隊「的」なものが人道復興支援に行くから誰からも
理解、感謝されず命だけが危険にさらされることになる。
現在の中途半端な組織が中途半端に駐留期間を延長したところで
何の役にたち、誰に感謝されるのか?
789 :
日出づる処の名無し:04/11/28 10:48:47 ID:0wpEo1AI
>>788 別に、イラクのためってのはたてまえで
ホンネはアメリカ支援なんだから。
そもそもレンジャー組織と分けるなんて
のも妄想だよ。
警察を泥棒用と殺人用とヤクザ用に分けて
効率的に運用できるんですか?え?
791 :
日出づる処の名無し:04/11/28 11:09:53 ID:TSlF/fMd
おまいら、話が脱線しすぎ。
反日、自衛隊ネタは他所でやれ。
>>466です。
あのあと、甲種に合格したことについて更に詳しい話を聞きました
(もう鬼籍に入っているので親父に)。
兵舎って言うのは9時に消灯しっていたそうなんですが、
実際晩飯食べたり、後片付けしたり、銃の手入れしてたら9時になってしまうので、
勉強する時間なんか殆どなかったといいます。
そこで、じいちゃんは便所に深夜までこもって、その中の裸電球で勉強したそうです。
おかげで、若い頃から相当乱視が入っていたそうです。
当時のその他上官たちも、このような苦労を積み重ねていたのかと思うと、
学生身分の俺は「見習わねば」と思ってしまう。
あと、ちょっと話し外れるけども、親父が子供の頃、
父親がインパール作戦の龍兵団の生き残りだという人が居たそうです。
この兵団、1280人は玉砕したそうだですが、
なんでも、捕虜になった者などを含めて数人生存者が居たらしいのです。
そのうちの一人なんだとか。
まだ話があります。
父方、母方ともばあちゃんには弟がいたそうですが、
前者は戦病死、後者は徴兵検査の歳で腹膜炎を患い、
「徴兵に行きたい」と何度も
言いながら亡くなったそうです。
母方のばあちゃんにも更に詳しく話を聞きました。
製鉄所で有名な鞍山にいたそうですが、なんでも、
昭和8年、新聞に載っていた「女中さん募集」の見出しを見ていくことを決めたとか。当時17歳。
行くときはえらい家族ともめたらしく、水盃までしたそうです。
現地では、支那人が公開処刑されるのを見に行ったことがあるそうです。
憲兵が軍刀を振り下ろすと、首が「コロッ」と前に落ちて血が噴水のように出たとか。
ソ連(ばあちゃんは「露助」と言う。)については、「とにかくあいつらは良くない民族」と。
中立条約破って満州に進軍してきたときは、幼女から老婆までレイプしまくっていたそうですが、
ソ連兵の目の前で舌を噛んで死んだふりをすると、
何故か逃げて行ったそうです(しかも、このようなケースはたくさんあったそうとか)。
引き上げのときは、奉天の収容所でしばらくお世話になった後、所持品チェックをしていた米兵に、
女中をやってた頃に家の主人からもらった高価なバッグをひったくられたそうです。
更に、引き上げ船の中はぎゅうぎゅう詰めで、死んだ人は即行で海に捨てられていたとか。
到着先の佐世保では、引き上げてきた人各々が毛布1枚と1000円ずつをもらったそうです。
その後、復員兵の出迎えと、そのときに彼らに渡すおにぎりの炊き出しなどにも参加したそうですが、
その際にヒゲ伸ばし放題になった復員兵が「ありがとうございます、ありがとうございます…」と、
何度も泣きながらおじぎをしておにぎりをもらっていた姿が、未だに忘れられないと言っていました。
漏れのじいさんは南方のなんとかっていう小さい島に出兵
「こんな小さい島だったら米軍もみのがしてくれるだろう」とか言ってたけど、実際は物凄い艦砲射撃食らって逃げ回ったらしい
で、食い物が本当になかったから、死体食ったとか
焼くと黄色っぽい煙が出てバレるので、こっそり煮て食べる
上官も規則違反だが、どうしようもないので見てみぬ振り
結局は捕虜になって、戦後帰国
友人は「南京でチャンコロ殺しまくった」とか楽しそうに語ってるのを見て嫉妬したらしいw
795 :
日出づる処の名無し:04/11/28 19:48:03 ID:s9Sj+cMs
家のジイたん、シナにて特務、隻眼のケロロ軍曹ですた。
函館のええとこのボンボン、
五稜郭の氷を売っていた会社だったみたい。
ジイたんの親爺が酒飲みで会社を傾け、函館大火で完全に沈黙。
戊辰戦争の時の刀が、氷の引き上げの時けっこうgetできたみたいで
出征の時は名のある刀を軍刀に仕立て直して行ったとか
シナでは、万里の長城にのぼったとかアルマジロ喰ったとか
学校の先生にハァハァしてたとか、青春を戦地で謳歌したらしい
榴弾食らってメンタマが落ち、無理くり元に戻し逃げたと言っていた。
戦後の戦友達は、皆ヤクザ。
戦後も家のジイたんはモーゼルと日本刀で武装してますた。
あるとき娘である母さんと喧嘩して、たたッ斬ったると言って
それを抜いたそうな。文字どおりの刃傷沙汰にはならなかったが
昭和の気骨、此所にありでつな。
でも本当に優しいジイたんだった。ありがつう
父方の爺ちゃんは志願して入隊し満州で終戦を迎えてシベリア送りになってたよ。
どうにか生きて帰国した後は地元の公務員として働いてた。
父が小さい頃は家にヤクザが出入りしていたらしくガクガク((((゜Д゜)))ブルブルだったらしいw
俺の名前は爺ちゃんが付けてくれたんだけどかなり気に入ってる。
数年前に脳梗塞で倒れてからは入退院を繰り返してるよ・・・。
母方の爺ちゃんは身体検査で体重が足りなかったらしく兵隊さんにはなってない。
戦後は旧国鉄で整備士として働いてた。
天皇陛下が前立腺ガンを患われたのと同じ年に同じ病気で入院したけど
今は地元の遺跡の発掘とかウォーキングをする会に参加したりして元気にやってます。
797 :
日出づる処の名無し:04/11/28 20:54:56 ID:0wpEo1AI
>>796 さぞ満州で中国人を殺してたんだろうな。
シベリアで死ねば良かったんだよ。
そういう罪深い人間は。
その時の殺した中国人の呪いで脳血栓になったんだろうな。
苦しんで欲しいよ。ほんと。
うちも満州で終戦を迎えてシベリア送りのクチです。
捕虜なのに反骨の人だったからか、帰国がえらく遅かったそうな。
それでも何とか生きて帰国できました。
ただ背骨の付近に受けた銃弾のせいで、あちこちガタがきて大変だったとか。
傷痍軍人の認定は受けていたものの、年金だか恩給だかは一切貰わなかったそうです。
生きて帰ってこれただけで自分は恵まれている、というのが口癖でした。
祖母による家族の困窮話は良く聞きましたが、孫としては祖父の気持ちも理解できます。
799 :
日出づる処の名無し:04/11/28 21:41:09 ID:I+7REZx9
自分の脳内妄想で老人を呪える
0wpEo1AI程罪深い者もいまいW
年配の知人だけど、ベルリンの日本大使館付の海軍武官だった人がいる。
ソ連軍がベルリンへ突入する前に脱出して、オーストリアで米軍に投降したって。
日本へ帰ってきたのは46年。
海自ができたときに、現役に戻って、米軍から渡されたガトー級潜水艦に乗ったそうだ。
801 :
日出づる処の名無し:04/11/28 21:56:16 ID:CLdulmUr
「日本軍の小失敗の研究」光文社 760円。
面白いです。兵隊さんたちがどんなに勇敢でも、これじゃなあ・・・と思える内容。
802 :
オカ板より:04/11/28 21:59:17 ID:VyKTMGqE
これは俺が3〜4年前の夏、イタリアのローマで体験した話です。
俺は大学でイタリア文学を専攻していて、大学4年の時に休学して半年間ローマに留学してたんだけど、
その時にローマの郊外にある、エウルっていう穴の開いたチーズみたいなビル(参照:
www.mediawars.ne.jp/~tanimura/a_map/foreign/form/italy/eur.html)を1人でブラブラ
見に行ったんだ。
直射日光が凄くてめちゃめちゃ暑い日だったんだけど、ビルが建ってる所が高台になってて、街が見渡せて
涼しい風も吹いてたから、建物の影になってる所に座って一服しながら景色見てたのね。そしたら、ちょっと
前まで誰もいなかったんだけど、いきなり3つ揃えのスーツをバシッと着た小さい90ぐらいの爺さんが俺の
肩を後ろから叩いて、「よう!ロベルト、久しぶりだな!」って声かけてくるんだよ。俺も、不意打ちだった
もんだから、一瞬ビクッとしたんだけど、すぐに人違いかなと思って、その歳の割には元気のいい爺さんに
「あの、人違いですよ。ぼくは日本人ですし、ロベルトという名ではありません。」ってキッパリ言ったの。
そしたら、爺さんの方は、凄い嬉しそうな顔して「やっぱりロベルトじゃないか!」って益々大きな声で言い
だしたんだ。俺は、いよいよこのジジイぼけてんのかな?って思ったけど、まとわりつかれても嫌だなと思っ
たから、「だから、ロベルトじゃないって。普通の日本人はそんな名前じゃないよ!」って言ったら、爺さん
は笑いながら「そんな事は知ってるわい!」みたいな感じで事の経緯を話しだしたんだ。
以下、俺と爺さん談(イタリア語だったので、それっぽい口調になおしました。)
803 :
5-2:04/11/28 22:00:29 ID:VyKTMGqE
爺「もちろん、君の本名がロベルトじゃないって事ぐらい知ってるさ。君は見たところ日本人っぽいし、
わしは今年で92になるが、まだそこまで耄碌してないつもりだよ。君は昔、イタリアとドイツと日本が
戦争で同盟を結んでいたって事を、学校かどこか勉強した事があるかね?」
俺「もちろん、知ってますよ。僕だけじゃなく、日本人なら大抵の人は。」
爺「よろしい。わしは第1次、第2次と2つの世界大戦に最初から最後まで海兵として従軍したんだが、
当時はドイツや日本からこの地に派遣された、若い将校や外交官なんかと親睦を深めるためによくつるんで
飲みにいったりしたもんだ。お互い、言葉も文化も違うが、当時の我々にとっては、そんな事は大して重要
じゃなかったし、とにかく共通の敵がいる味方どうし、若かったってのもあるが大いに盛り上がったもんだ
よ。そして当時は、わしらみたいにつるんでた連中は、イタリア兵もドイツ兵も日本兵もみんな、お互いを親
愛の情をこめてロベルトって呼びあったもんさ!」
俺「はぁ…。でもまた、なんでロベルトなんっすか?」
804 :
日出づる処の名無し:04/11/28 22:02:20 ID:VyKTMGqE
>>592様
超遅レスで申し訳ありません。
その話というのは、元海軍で、船に乗りたくないという理由で陸上の航空基地勤務に転属したという方でした。
終戦時には占守島にいたそうで、ソ連の侵攻を目の当たりにしたそうです。
そして勿論シベリアに抑留され、強制労働をさせられたそうです。
そこでソ連兵の銃を見て「機関銃があんなにあるんだから日本が勝てるわけが無い、こっちは単発なんだから」と仰ってました。
ソ連兵は物を数えられないのが多かったらしく、薪をよくごまかしたり、石炭の中に石を混ぜてごまかしていたそうです。
その方は終戦記念日に靖国にコスプレで来る人を見て「気軽に将校の服を着てるが、その服の重さを知っていない」
と呟いておられました。
うちの爺ちゃんは満州か華北に出征してたらしい。
それで、尻に銃弾を受けて麻酔なしで手術したとか。
爺ちゃんは背が低くて、俺の母親によく息子が背が低いのは爺ちゃんのせいだって言ってたけど、
ばあちゃんはちゃんと兵隊に受かった立派な体格だって言ってた。
807 :
日出づる処の名無し:04/11/29 05:37:19 ID:jX4u3sGP
>>806 そういえばうちのじいちゃんも、
麻酔無しで肺炎の手術受けたって言ってたな。
軍医に
「日本男児なら我慢できるよな!」
みたいな感じのこと言われて、
「はい」としか言えなかったらしい。
背中の大きな切り傷見た後だったので、
ガクブルでした。
>>788 あなたは糞サヨマスコミの情報に汚染され杉です。
伯父が毒ガス部隊
このスレには爺ちゃんの背が低くて兵隊に行けなかったというヤシが多いな。
それで思いだした。
うちの婆ちゃんが娘の頃、隣に背の低い床屋の親父が住んでいて、兵隊になれなかった
のが、戦争末期に兵隊に引っ張られたそうだ。
近所の人は皆、「あんな寸足らずが兵隊に行くようじゃこの戦争は負けだ」と
笑ったそうな。
ぐぐってみると150センチ未満だと駄目みたいだね。
ttp://homepage1.nifty.com/zpe60314/se12.htm 徴兵検査+甲種とかでぐぐってみると結構面白い。
811 :
日出づる処の名無し:04/11/29 19:09:55 ID:aR7UXUzJ
既出だけど近衛兵って背が高いばかりじゃなくて、顔もある程度以上のレベルの
人だったんだね。あと親戚にアカがいないか徹底的に調べられたらしい。
うちの母親が言ってたけど近所のボケ爺さんが
「俺は今じゃこうだが、昔は近衛兵だったんだ・・」って口を開けば自慢していた
って話してたよ。確かに背がすごく高くて顔も整っていたらしい。
812 :
日出づる処の名無し:04/11/29 20:01:03 ID:SKNfkDOw
>>811 近衛兵の中にアカがいたら大変だ。それに顔もチェックされるのも常識。
そういえば「ゆりかごから墓場まで」って何って聞いたら、爺さんは「内務省」と答えた。
うちの爺ちゃんは満州で物資の輸送とかをやってたらしい。
というのも爺ちゃんは当時としては珍しく運転免許をもってたから。
前線にはいかなったらしい。
満州はすごく寒くて、立ち小便をするとすぐに小便が凍ってしまったとかなんとか
俺が1歳のときに亡くなってしまってるので、
お袋からの伝聞でしか話を聞けず残念だな。
>>813 自動車の運転免許を持っているのは珍しかった。
816 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/11/30 14:18:28 ID:Lr3uSPbN
>>813 逆に漏れの叔父は重慶に行ったことがある。熱くて有名だそうで、「上から落ちて
きた鳥が、地面についたときには焼き鳥になってた。」と言っていたので感心して
聞いたことがある。大人になって知ったことだがこれは有名なジョークだそうな。
餓鬼の漏れは見事に騙されたわけだ(藁。
817 :
日出づる処の名無し:04/11/30 14:24:35 ID:Xm9E9092
なんき…
,:::-、 __
,,r::::::::::::〈:::::::::) ィ::::::ヽ
〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
,'::;'::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::
l::::::::::::::::::l::::::::::●::::::::::::::●:::::ji
|::::::::::::::::::、::::::::::::::( _●_)::::::,j:l クマー!
}::::::::::::::::::::ゝ、::::::::::|∪|_ノ::;!
. {::::::::::::::::::::::::::::`='=::ヽノ:::::/
';::::::::::::ト、::::::::::::::i^i::::::::::::/
`ー--' ヽ:::::::::::l l;;;;::::ノ
【ラッキーレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です。
819 :
日出づる処の名無し:04/11/30 14:47:21 ID:Pg3pEoDY
ワシの爺ちゃんたちは二人とも戦争いってましぇん
そのかわり、大正生まれの父が(ワシは遅い子だったので・・)
旭川第二師団で幹部候補生としてサーベル下げてました
その師団はアッツ、キスカ島で戦闘してたのだが
運のいいことに、オヤジはちょうど肋膜を病んでいて
行かずに済んだんだと
もし行ってたら・・・あぼーんしてたでしょうね
ということはワシも生まれてないわけで
かなり上司に苛められたみたいだよ、顔がはれるほどたたかれたり
食事が一回いもふたつだったりさ
そのときは軍隊にいるのがすっごく誇りだったと言ってたけど
天皇陛下バンザーイ!の洗脳が解けるまでに50年かかったと
言っておりまひた
そんな父は今でもカラオケで軍歌歌ってよし!だわさ
戦後は英語がしゃべれたのでアメさんの通訳をしてたって
ビールとかももらってたらしい
そんで警察官になって警視正にまでなって、退職
まだしつこく生きてまふ
>>814 そうなの?
うちのじいちゃんは、
引き上げ時に免許書捨ててきたって言ってたから、
結構みんな持ってるものかと思ってた。
810でつ。
婆ちゃんの昔話その2
婆ちゃんの住んでいた町の町外れにすげー貧乏な桶屋があったそうです。
そこの息子は足が悪く、当然兵隊には行っていなかった。
ところが、戦争も終わりの頃、なんの間違いか召集令状が来たそうです。
貧乏なうえに子供の時からチンバチンバと馬鹿にされ、さらに兵隊にも行かず
肩身が狭かったのか、その息子は国家からのお召しにどえらく感激した。
出征前夜の送別会では、近所の人や青年団の連中を前に一人舞い上がっていたそうです。
「よーし、俺はやるぞ!」「うーっ!やってやる。やってやる。」「よーし。よーし。
よーし。」などと一人興奮して騒いでいた。
入営の日の朝は、家の前で見送りの人を前にきっぱりと「行きます」と挨拶して、駅まで
見送りの人たちとピョコタンピョコタン歩いていったそうだ。(普通は「行ってきます」
と挨拶するが、戦死の覚悟を決めた人は「行きます」と言ったそうです。)
そして即日帰郷を命じられ、何故か三日ぐらいしてから家に帰ってきたそうです。
うちの祖父は電気の技術士だったので、満州で通信兵やってたそうです。
技術系らしくあまり勇ましい活躍などは聞きませんでしたが
亡くなる前まで、毎年戦友会に出て旧交を温めておりました。
戦友の絆は強いなあと思ったものです。
うちの婆さんは戦時中田舎にいたんだが、食べ物には全く困らなかったそうな。
戦時中の思い出は?って聞くと、〜がうまかったとか食べ物のはなしばっか・・・
空襲もにも遭ったらしいけど、アメリカ軍が田んぼを海と勘違いしてよく機雷を落としてたらしい。
825 :
日出づる処の名無し:04/11/30 17:16:40 ID:EWi+D2nM
>>782 >それって、「6000人の命のビザ」で有名な杉原千畝の助けた
ユダヤ人のことでは、、、
ロシア革命から逃れてきたといったら日露戦争の頃になっちゃうよ。
別におかしいことじゃないよ。ロシアでは伝統的に反ユダヤ感情が強く、たしか
ポログラムだったかな、そんな名前のユダヤ人虐殺がかなり起こっている。
帝政ロシアが崩壊して、ソ連になってもユダヤ人虐殺を多発している。だから、
満州にもかなり逃げ込んできて、ハルピンや大連にはユダヤ人社会ができたんだね。
ユダヤ人殺しはナチスの専売特許じゃない。ナチスがユダヤ人迫害を始めても、
各国もそれほど大声で非難しなかったのは、多かれ少なかれ反ユダヤ感情があったから
じゃないかな。
は
826 :
日出づる処の名無し:04/11/30 17:17:54 ID:EWi+D2nM
俺の爺さんのエピソードだが、気に食わない上官の食事にフケをいれたそうだ。
いわゆる「フケ飯」。
ハルピンや大連は当時の国際都市で各国の租界があった。白系ロシアも多数住み着いて
いた。だからロシア系ユダヤ人社会があっても不思議でない。
朝鮮にユダヤ人社会があったなんて初耳です。
朝鮮は日韓併合により当時は日本。
ということは日本が彼らを受け入れ、在住を許したということになるわけですね。
そうなんだ。ふーん、、、
828 :
日出づる処の名無し:04/11/30 18:03:27 ID:5HCa8jih
南京大虐殺
>>820 実際に珍しかった。祖父の弟さんが持っていたんだけど、彼は今でいうところの大型U種を持っていた。
軍属で補給関係の仕事をしていたんだけど。
>>829 じいちゃん以外に話を聞く機会も無かったんで、
なんとなくみんな持ってるんだと思ってたよ・・・
ちなみにうちのじいちゃん
>>73 補給物資の輸送中に受けた襲撃の怪我で、
左手の中指が最後まで曲がらなくなってた。
832 :
日出づる処の名無し:04/11/30 19:52:53 ID:D8IhL5l8
漏れの母方爺さん、大工の棟梁
漏れ:”戦争中、なにやってたの?”
爺さん;”兵舎の修理・・・・”
漏れの父方の爺さん 床屋さん
漏れ:”戦争中何やってたの?”
爺さん、”兵隊の散髪”
2人とも小倉連隊だったそうな・・・・
もっと勇ましい話を聴きたかったのだが・・・
今年、親父が死んだ・・・納骨のとき、アチコチのお墓に
ニューギニア没とか、色んなことが刻まれている。
自分の親父が死んだ悲しさもそうだけど・・・・
その方々に思わず敬礼してしてしまった。
当方、厄年 42才 です。
833 :
日出づる処の名無し:04/11/30 20:06:02 ID:5HCa8jih
>>832 このスレが異常なんよ。士官や前線指揮官なんてそうそういやしない。
っていうかそういう「勇ましい」話じゃないとじいさん方もあんまり
話したがらないだろうしな。
うちの爺さんサイドカー運転したって言ってたが、
それも珍しいことなの?
ウチの爺様の遺影が伍長の階級章付けているんですが、軍刀を佩いて長靴を履いています。
九五式軍刀でも曹長以上だと思うのですが、こういうことってあるんですか?
837 :
ルンペン:04/11/30 20:47:59 ID:+dFMMSw9
アジアを解放しましたが、、、なにか?
朝鮮人は日本で犯罪ですか?
阿波丸に乗って死んだ。
>>835 ものすごく珍しいことです。
側車と言ってませんでしたか?
広島県福山市に実車が置いてある博物館がありますよ。
840 :
835:04/11/30 21:36:18 ID:hxLUgRon
憲兵だったといってました。
側車といってたでしょうか・・・記憶にありません、すいません。
842 :
日出づる処の名無し:04/11/30 21:47:35 ID:EWi+D2nM
>朝鮮は日韓併合により当時は日本。
ということは日本が彼らを受け入れ、在住を許したということになるわけですね。
そうなんだ。ふーん、、、
朝鮮にユダヤ人社会があったのではなく一時的な滞在で、いわば朝鮮(当時は日本)
経由で他の国に渡ったというのでは?
満州には朝鮮人移住者が数多くいたし、これは逆に言えば満州から朝鮮へ入ることも
可能だったと思う。ユダヤ人というよりユダヤ系ロシア人亡命者という事だ。
長崎にもロシア革命から逃れたユダヤ人のコミュニティがあったが
自然消滅してしまったというし。
843 :
日出づる処の名無し:04/11/30 22:24:49 ID:VQK6bdOP
昔は、写真撮るなんてめったになかったから、写真屋で貸衣装みたいなのを
貸してくれたのかも知れんな。
うちのばあちゃんも、田舎の農家の娘なのに、テニスのラケット持った写真があった。
テニスなんかしたことないってさ。
爺さんの話はもう書き込んだので、その他の親戚の話を。
父方のばあちゃんの弟は、京都の大学生で(京大じゃなかった)
学徒動員で輸送船で南方に行く途中、攻撃されて戦死。
兄弟で一番出来がよかったのにって、ばあちゃん悔しそう。
母方のばあちゃんの弟は、教師だったが徴兵されて、暗号の解読やってたそうだ。
>>842 半島人が騒ぐ創氏改名ってのは、満州で中国人に馬鹿にされないように日本人に化けるために朝鮮人が求めたものです。
改名しろやゴルァ!じゃなくて、改名されてくれニダが真実ですよ。
実際、上海とか中国の沿岸の大都市には、租界ってもんがあり、外国人がいっぱいすんでおりましたし、
満州にユダヤ人をどっさり集めて、ユダヤ国家をつくっちまえっていうフグ計画ってのもありました。
845 :
日出づる処の名無し:04/11/30 23:44:35 ID:MHkPWJZE
最近、オヤジから聞いてびっくらした話。
大叔母が南京で看護婦をしてたそうな。
しかも病院に山賊が侵入したのを女だてらに捕まえたとかで
新聞に載ったらしい。
846 :
日出づる処の名無し:04/11/30 23:57:54 ID:2MBMvdHo
除隊時の階級は陸軍の伍長で中国戦線で従軍していたそうです。
功七等の金鵄勲章を受勲した事を誇りにしていました。
847 :
日出づる処の名無し:04/12/01 00:46:06 ID:Zv2gbmUc
俺の爺ちゃんは15年くらい前に死んでしまったが高校の時にふと爺ちゃんの
足が凍傷で怪我してるのはシベリアいったからだと聞いたのを思い出して、
シベリア抑留本を読んで泣いた。今話せたら、爺ちゃんと語り合いたいな〜
848 :
日出づる処の名無し:04/12/01 01:06:06 ID:zZOl0o0k
このスレにどれだけ本物がいることやら・・・・
849 :
日出づる処の名無し:04/12/01 01:10:24 ID:/CUBNLun
終戦まで内地にいたのと若い兵士が瞬く間に死んでゆくのが影響してか
、敗戦時は大尉にまでなっていたそうだ。ちなみに医者だった。
敗戦間近がとにかく凄かったらしい。一月おき位に階級が上がっていって
、今思うと負ける事がわかってたからあんなに階級あげたんだな。って
言ってた。
850 :
日出づる処の名無し:04/12/01 01:12:52 ID:huRpyYof
死ぬと階級が上がる
上の階級がいっぱいでも、実際にいるわけではないから別に枠はいらない。
しかし、階級よりも大事な物があるはずだ
それを自分なりに見つけろ。
851 :
日出づる処の名無し:04/12/01 01:15:36 ID:XUiyDaOA
お前らのクソ爺は中国や朝鮮でたくさんの人を虐殺したんだよw
父方のじっちゃんは海軍で魚雷撤去?の仕事をしてたらしいです。
普通です。
母方のじっちゃんは韓国人で戦争前に日本へ仕事をしに来たらしいですが(強制連行ではない
その後の詳しい事はよく分かりません。
>>848 3割lくらいじゃないか?
>>851 チョンキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!
と言いたいところだが、俺の祖父は南京でやっちゃってる人だからあんまり言えない('A`)
結構前に死んでしまったが、祖母曰く「あんなこと(大虐殺)するような人じゃない。軍が無理矢理(ry」だとか
日記が市に保存されてて、何回か南京関係で取材されたことがあるらしい('A`)
854 :
日出づる処の名無し:04/12/01 01:28:45 ID:oG1SmWwT
>>853 7割の方ですか?
祖父さんは具体的にはどのようなことを「やっちゃった」んでしょう。
855 :
日出づる処の名無し:04/12/01 04:23:01 ID:zS+lVT5I
いまだに南京大虐殺があったと思ってる日本人がいるのか
>おまえらの爺ちゃんとか日本軍でなにやってた?
>>1 何を疑ってるんですか??
何もやってませんよっ!!!
百歩譲って何かやってたとしても
今罪に問うことなど出来ませんよね。そうですよね!!!!
違いますか?
人の過去を詮索するような、このようなスレは間違っているの
ではないでしょうか?
すいません。タイプミスで先ほどあげてしまいました!!
>>856 祖父は当時南京にいましたが、そんな話は聞いたことが
なーい!!!
うちの祖父は戦時中のことについては多くを語らなかったな。
いろいろな苦労があって思い出したくもなかったと思うよ。
殺したくて殺す奴なんていない。それが戦争だ。
「沈静」を「虐殺」なんていうのは正気なのか????
なんかこのスレ眺めていると皆さんの爺ちゃん方は皆偉い人ばかりだなーとおもた。
軍隊で一番下の階級てなん?二等兵とか?下っ端ば一番多いような気がするんですが
このスレでは見かけんな。
因みに家の爺ちゃんは捕虜になって帰ってきたという事位しか知らない。
どの国の捕虜だかは分からないし(多分ロシヤ)、階級も分からない(普通に考えて下っ端でしょう)
自分は昔爺ちゃんの話で「缶に草入れて水入れて塩振って煮て食った」
という部分しか覚えてない。当時の馬鹿な自分は「缶」という物がそんな昔に存在したんだー
という事でこの部分を覚えていた。(もっといろいろ聞いておくんだったな)
あと捕虜について一寸調べてみたんだけど、露は捕虜になった人はだいぶ亡くなったみたいだし
米は捕虜自体取らず殺してたらしいし、支那は言うに及ばずだと思うし、
何処の捕虜でも生きて帰れたと言う事はかなり運が良かったんだなと思う。
戦争の記憶? 忘れられないさ! だって子供や孫がひっきりなしに尋ねてくるんだから!
――石原莞爾。
中華連合=ACK包囲網(米中朝包囲網)
中国は日本から吸い上げたカネで日本弱体化工作をし続けたくて(吸い上げないと持たない)
米国は日本が成長し過ぎないように&日本での民間人大虐殺を正当化するために南京事件30万人説を捏造する中国を支持していて
朝鮮は赤貧かつ超見栄っ張り両班国家を維持しつつけるには、なんとしてでも日本からカネを巻き上げなくてはならなくて(両班の時代そのままに)
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.htm 都市空襲
米英との開戦までは、日本の軍隊がどんなに凄まじい戦闘を繰り広げても、本土の民衆が直接戦火に
晒されることは無かった。
日露戦争までは航空機が発明されておらず、その後の中国との戦争でも航空能力が乏しかったので、
制海権を失わない限り本土は安全だった。しかし、対米英戦に突入してからは様相が一変し、昭和19
年以降は日本本土四周の制空権・制海権とも敵に握られ、事実上、本土全体が戦場と化した。
それは日本の歴史上、かつて経験したことのない未曾有の大惨事であった。広島・長崎へ投下された原
子爆弾の被害者を除いても、およそ30万人に及ぶ民衆が、本土都市への空襲で亡くなっている。
米軍による空襲は、軍事施設などを目標とした精密爆撃と、日本国民の戦意喪失を目論んだ無差別な
都市爆撃とに区分され、後者の場合は日本民家の建築構造(木造)を研究し、「油脂弾」と「焼夷弾」によ
る焼き討ち的な攻撃方法をとっている。
本土では大部分の青・壮年男子が召集されて戦地に赴き、本土の都市に残る一般人の多くは女性、少
年・幼児、老人であった。
昭和20年3月9日夜半から10日未明にかけて、平均6トン以上の焼夷弾を積載した344機のB29
が東京の下町を空襲。先発部隊が江東区・墨田区・台東区の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下し
て火の壁を作り、住民の退路を断ったうえで後続部隊が約100万発の油脂焼夷弾やエレクトロン焼夷
弾を投下。死者、約10万人。
戦後、本土空襲の指揮官カーチス・ルメイ大将は回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は
全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作ってい
た。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをや
っつけて何が悪いのか…。」
昭和20年7月26日には、大阪市東住吉区田辺の空襲で原爆の投下訓練を目的とした模擬原爆(パン
プキン爆弾)が使用された。そして、広島・長崎・・・。
終戦前日の8月14日には、山口県光市の海軍工廠が空襲を受けた。8月14日の時点では当然アメリ
カも日本の降伏の意思を知っていた筈なのに。
しかも一旦上空を通り過ぎて注意をそらし、空襲警報が解除されてから引き返して来てからの爆撃方法
を取った。空襲の目的が施設の破壊ではなく、人命の損耗にある事が明らかです。この空襲では、地元
の女子挺身隊員を中心に約700名が亡くなっています。
元々アメリカは高高度精密爆撃を方針としていたが戦果は上がらず、攻撃の方法を無差別爆撃に転換し
た理由は下記の通りである。
「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、その国の国民である。国民全体が”この戦争は負けだ”と思わ
ない限り戦いは終わらない」
下町の部品工場を正規の軍需工場とみなし、その地域の民間人を交戦相手と位置付ける。
空襲の目的を施設の破壊ではなく、軍人以外の相手国民の人命損耗に置く。
これを民間人に対する虐殺ではなく、正規の軍事作戦として評価する。
これがアメリカの戦争理論である。
人的被害
被害状況
被害人数
総 数 668、315名
死 亡 299、485名←南京大虐殺30万人相当
重 傷 146、204名
軽 傷 167、318名
負 傷 31、298名
行方不明 24、010名
864 :
日出づる処の名無し:04/12/01 07:08:47 ID:zS+lVT5I
伝説の勇者( 米´_ゝ`)<丶`∀´>(`ハ´ )たちによって倒された魔王(´・ω・`) は二度とその力を取り戻すことの無いよう地下深く封印されたのでありました。
おしまい。
満州でペスト?になって戻されたらしい。
<丶`∀´>は(´・ω・`)側だと思うが。
867 :
日出づる処の名無し:04/12/01 08:23:11 ID:/ceHJFTf
徴兵されて鹿児島で終戦を迎えた。
生まれが北海道の祖父は(長男だったから?)戦地には行かなかったようだ。
もう無くなったんだけど遺品整理してたら陸軍のコート(?)が出てきた。虫食いだらけだったけどすげーしっかりした物だった。
祖母はパラオに詳しい。まるで行ってきたかのごとく。行ったのか?もうボケちゃって真相がわかんないんだよね…
今更になってもっと話を聞いておけば良かったと思う。当時俺に妙な自虐教育してくれた社会の教師がうらめすぃ。
869 :
日出づる処の名無し:04/12/01 12:20:12 ID:DHGwfrmt
爺さんの写真を探してたら結婚写真が出てきました。
婆ちゃんがえらく美人でした。
大陸での兵役を終えてから縁談があったらしいのですが、五勤がモテるというのは本当のようです。
870 :
日出づる処の名無し:04/12/01 12:21:12 ID:QBW4vHcV
じいちゃんはいってないが、おじさんがどこだったかに行く途中で死んだらしい
871 :
日出づる処の名無し:04/12/01 12:28:22 ID:4qNLZMgo
陸軍でさあ、小隊長まかされる人って一般大学卒でもいいの?
872 :
日出づる処の名無し:04/12/01 12:38:02 ID:X7c0LfrP
>>836 伍長で長靴帯刀とのことですが、おじいさんは憲兵隊勤務だったのでは
ありませんか。
憲兵は、上官の逮捕も場合によっては行うわけなので、「箔が付く」ように
様々な配慮をされていたようです。
拳銃も、本来は標準装備ですし。
>>869 伍勤は「村の宝」とか言われて、満期除隊(通称「満ちゃん」)の時は
村長以下出迎えみたいな感じで、物凄くもてたそうです。
縁談は勿論降るように来る訳です。
でも、それだけ選抜されるのは難しかった。
人格態度能力好感度全て揃ってなくちゃなかなか成れない。
凄く立派なおじいさんだったのでしょう。
873 :
871:04/12/01 12:52:03 ID:4qNLZMgo
うちのじいさん、軍刀が「関の孫六」だったんだってよ。最後のシベリア出兵
のため広島の方にいたとき終戦迎えてそのときどこかいっちゃっただって。
874 :
日出づる処の名無し:04/12/01 12:57:17 ID:X7c0LfrP
>>871 現役入隊後、一般の初年兵から幹部候補生を募り、試験にパスすると、
その成績により甲種(士官適)と、乙種(下士官適)に分けられること
になります。
甲種に合格しますと「予備士官学校」に入り、卒業後は見習士官を
経て、少尉に任官します。
ですから、一般大学卒、在学の人が入営して、上記のように甲幹を
志願して選抜されれば少尉任官後、野戦将校の場合は小隊長勤務に
適することとなります。
うちのじいちゃんは朝鮮で終戦を迎え、その後ソ連に連行されました。
連行途中、ソ連兵に言われて朝鮮の民家の前に置いてある壷を銃で
撃たされたとか言ってましたた。(単なるいたずらだと思いますが)
シベリア抑留では周囲の戦友が寒さなどでたくさん亡くなったのですが、
うちのじいちゃんは農家の出で馬の世話ができたため、シベリアではずっと
ポカポカの馬の側で寝ることができて、凍えずに助かったと言ってました。
それから、俺が子どものころ、シベリアを共に過ごした戦友と数十年ぶりに
再会して、抱き合って泣いてたのを記憶しています。なんでも、たまたま
うちの方に観光で来ていて、電話帳でじいちゃんの名前を発見したらしく、
電話をかけて来たそうです。(珍しい名字なので)
じいちゃんは大正13年生まれ。今年で80歳です。
俺のじいちゃんは中国で・・・これ以上は言えない
漏れのじいちゃんはカンネイ?カンネンか、そんな感じの中国の都市に行ってた
終戦の2年前にチフスで帰国
「大東亜では色々迷惑もかけたが良いこともした」と言ってた
徴兵されて満州の南の方へ。
上等兵として従軍していたらしいが、終戦後、無事帰国。
家に帰ったら、両親に楽しみにしてたスイカ全部食われてたって。
879 :
日出づる処の名無し:04/12/01 15:22:32 ID:X7c0LfrP
>>877 おそらく「建寧(けんねい)」でしょう。南支派遣軍でいらしたのでは
ないでしょうか。チフスとのことですが、水の悪い土地柄です。
>>876 「王道楽土」の理想郷建設のため、「五族協和」を導き、善行を沢山施され
たに違いありません。
お隠しになるとは、奥床しいことです。
爺さん海軍士官だった。
南方の海は凄く綺麗だったそうな。
881 :
zainichi:04/12/01 17:33:16 ID:VzAYa2bx
>>856 なんか必死だな。おまいの爺さんは一体
何をやらかしたんだw?
うちの爺ちゃんは海軍の通信士だった
爺ちゃんの兄ちゃんは硫黄島かサイパンで病死したらしい
>>859 二等兵ってそんなに長い間留まる階級じゃないのでは?
終戦数ヶ月前に急に大増員したってのならともかく、
終戦まで徐々にに動員されたのなら一番下っ端以外が多くても、
おかしくないと思いますが。
884 :
日出づる処の名無し:04/12/01 18:03:53 ID:RicMFzkw
父方の祖父はマレーで通信兵をやってたそうだ。一時恩給しか貰えなくて残念がってた。母方の祖父は特攻隊で訓練中に終戦。祖母は中島で飛行機作ってたようだ
885 :
日出づる処の名無し:04/12/01 18:11:33 ID:X80Ph1p4
うちの爺ちゃんは、衛生兵。
これは軍の話ではないのだが.....
うちの婆ちゃんが白血病になって
最期のときは病院から自宅に帰されて寝ていた。
それでとうとう臨終となり、
爺ちゃんは死亡の確認や死体の処理を自分でさっさと済ましてしまった。
あとから来た医者にこっぴどく怒られたらしい。
886 :
日出づる処の名無し:04/12/01 18:31:13 ID:KH7x9X8x
俺の爺ちゃんは結核患って帰ってきたよ。
結核治ったし
>>836 憲兵だったのかな、その写真の裏には「昭和九年、支那で」と書いてありました。
他の写真の裏には「駐支初等兵教育連隊」と書かれておりました。
889 :
日出づる処の名無し:04/12/01 19:55:33 ID:Xx612EGT
戦争末期になると喘息患者まで最前線送りになったくらいだから、相当せっぱ詰まって
いたんだろうね。
890 :
日出づる処の名無し:04/12/01 19:59:42 ID:hkP/sDQz
某島で玉砕する前に爺ちゃん一人だけ飛行機で帰還したらしい。
直前に本部から転勤の命令があったわけだから、卑怯とか言われる
筋合いはないのに、戦後いろいろ苦労したとか言ってたよ・・・。
891 :
日出づる処の名無し:04/12/01 20:12:59 ID:rk2/CDI8
マジレスだが、陸軍少尉でソ連と交戦して戦死。
日本にいい戦車があったらと思ったり。
そーいやあと数年でオレのほうが爺さんより年上になる。
892 :
日出づる処の名無し:04/12/01 20:50:21 ID:b9F/+quD
ウチの爺ちゃん、フィリピンに派遣されたけど、
毎日現地人レイプして歩いたって。
だから、おまえの親戚がフィリピンにはたくさん
おるかもしれんぞ!カハハハと笑ってた。
死ねばいいと思った。
>>892 別の意味で勇ましいな
漏れの祖父の義兄は、広島で被爆
100キロ離れた実家まで戻ってきて3日後他界
そのときの話や写真を見て育ったので、心情的に核だけは認められん
周囲の国がきな臭いから仕方ない部分もあるとは思うがな
894 :
日出づる処の名無し:04/12/01 21:16:22 ID:0hE+YbCa
>>893 被爆者の方の経験には今の僕らには想像できないものがあると感じているが、核兵器の怖さを知っているからこそ
核保有に踏み切るということもありだと思うが?
父方のジーちゃん、徴兵されて中国に行ってたらしい
戦争のことはあまり話してくれなかったな・・・・
て言うか話したがらなかったな
母方のジーちゃん、陸軍に入隊するも根室で終戦
「後少し遅かったら千島のどこかの島で確実に死んどったな」
って笑ってた、あと
「グラマンに鉄砲(小銃?)撃ってやったが、あら、当たらんな」ていってた
父方ジーちゃんの弟はニューギニアのビアクってとこで餓死したらしい。
ジーちゃん達ご苦労様、つらいこと一杯あったかと思うと素直にそう思うよ
897 :
日出づる処の名無し:04/12/01 22:56:32 ID:sG2aFb+m
大陸に行った父方の爺さんは「食料調達係り」だったと冗談交じりに話してくれます。
戦争中の話も食べ物の話が多く
飯盒の中に食用蛙を隠していたのが、夜中に蛙が鳴いてばれてしまったり。
ふんどし一つで蓮根を掘りに行って敵兵に穴を撃たれたり(勲章をもらったそうですw)
卵を盗んでる時に飛び出てきた中国人の婆さんを銃剣で突いてしまったり(さすがにこの話のときは泣きそうな顔をしていました、驚いて思わず刺してしまったそうです)
特に食料に困っていたわけではなかったそうですが、毎日乾パンとかでは飽きてしまうそうです。
南京攻略にも参加して「中国の人には悪いことをした」といってる爺さんですが、
うちの食器棚には満期除隊のとき大陸から持ってきたという食器がいくつかあります。
>574
祖父は双方とも日本人です。
満州国軍では「佐官」を「校官」と称しており、中校は中佐に相当します。
祖父の葬儀のときにまさか中国から弔電が届くとは思わなかった。
発信者は愛新覚羅溥傑その人。
899 :
九州男児@鄭成功生誕之地:04/12/01 23:06:07 ID:o9khyOJ9
>>892 君には本当に申し訳ないが、そんなやつにはマジでくたばれって思って
しまう。
>>898 げ〜っ!!溥儀の弟君。確かこの人は大行だったんだよね。
学徒動員で、船に乗ってたらしい。で、船が沈められて海を漂ってたらしい。
お疲れ様です。
あのときの犠牲になった人のお陰もあって今の日本があるわけだね。
>>892 本当かもよ。
朝鮮人は、戦時中は日本人として戦地に派遣されたんだからな。
うちの爺さんは将校として潜水艦に乗り、ミクロネシアへ
行っていたらしい。
海軍での生活、当時の呉の街、狭くて蒸し暑い潜水艦の内部、
戦艦・・・幼少時から色々と教えてもらった。
83歳で亡くなるまで、雑誌「丸」を毎月欠かさず読んでいた・・・
>>901 お前のその台詞は神風特攻で死んでいった朝鮮の方々を冒涜することにもなる
>>570 うちの親もそう。両親は対岸に、「日本で一番西にある駅」があった島
の生まれ。戦中も戦後も食生活に戦争の影響は感じられなかったそうだ。
ところでうちの爺さんは2人とも戦争には行っていない。
丁種合格くらいだったんじゃないか。
スレタイと違うが…。
母の話では海岸に兵隊さんや民間人の死体が、しょっちゅう流れ
着いてたらしい。漁網にもよく引っかかったそうだ。
母は子供だったので大人が近づくのを許さなかったそうだ。
(腐乱死体を近くで見たかったってことか?)
いつも、大人たちが丁重に埋葬していたようです。
村にはラジオが1台きり。玉音放送の次の日にはお墓の前で
号泣する人が何人かいたそうです。
905 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:20:40 ID:xRciA9LW
父方の祖父の兄は朝鮮か東北のほうにいたんじゃないかな。戦後シベリアに抑留されてたから。帰ってきたとき赤化思想が入ってて、赤狩りにあって仕事をなくしたことがあったそうな
906 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:23:46 ID:QWhYjtmq
舞鶴の海軍兵学校で終戦
907 :
Dr.NO:04/12/02 00:25:32 ID:nq9bKxBJ
>>905 はっきり満州といってくれよ。
日本の東北にいてなんでシベリア?と思っちゃったよ。
908 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:44:23 ID:H1sqWcCg
うちのじいちゃん(母方)は鉄工所勤務していたので、徴兵はされなかったそうな・・・
父方のじいちゃんは戦死なんだけれど、どこで戦死したのかは聞いていない、
ただ親父が樺太で生まれて本土に引き上げてきたっていう事は聞いた。
909 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:46:13 ID:rwXHqWC9
>>892 へー。やっぱそういうの多かったんだね。
うちの父方の、ひい爺ちゃんが満州に遠征したときも、
毎日現地人の娘をサラって輪姦したあと、殺して埋めてたそうだから
どこでもあったんだなぁ。こら恨まれて当然だわな。
日本兵ってとんでもなく野蛮で無軌道なんだね。
910 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:48:39 ID:H1sqWcCg
>>909 その日本兵には君の同胞も入っていたんだから、
脊髄反射のレスはやめておこうね。
911 :
日出づる処の名無し:04/12/02 00:53:10 ID:kF7eu4nS
サンタマリア島で轟沈。
正確にはばーちゃんの弟。
後継ぎが亡くなったのでばあちゃん旦那が亡くなったついでに帰郷して家を継ぐ。
そんな苦労をして継いでくれた家が私のせいで存続の危機。・゚・(ノд`)・゚・。
書きこんでから眺めてみれば
なんか半島の工作員みたいなのが多いな・・・・・
>>895 俺の爺さんも戦争中のことをあまり話したがらなかった。
戦争の話を聞こうと思って話を振るといつも同じ話で、
満州で真っ暗闇の中、敵に見つかりそうになり、穴(塹壕?)の中に隠れてやり過ごした時のこと。
敵は隣の穴まで確認にきて、爺さんが隠れていた穴まできたら召集がかかって去っていったそうだ。
俺が小学生くらいのときはわくわくしながら聞いていたが、今思えばとんでもない緊張感だったんだろうなと。
あの時見つかっていたら俺もいなかったんだもんな。
余談だけど、父方の祖父・祖母ともに農家だったので戦時中でも食べ物には困らなかったらしい。
TVや本でよく聞く戦時中の話とかでは食べ物に困って・・・。
ってのが多いからこの話を聞いたときはちょっと驚いたなぁ。
身近に実体験者がいたのに最近まで事実を知らなかったんだから恥ずかしい。
915 :
日出づる処の名無し:04/12/02 09:58:30 ID:k1ubzlmt
>>913 田舎の農家の人は食料に困った事なんて無かったらしいよ。
疎開してきた人にお金や宝石と食料を交換してあげたとか聞いたよ。
田舎の子供はm疎開してきた女子たちがあまりにも自分の周りの女と比べて
綺麗なのでびっくりしたらしい。
916 :
日出づる処の名無し:04/12/02 10:14:04 ID:jz+uhZ19
>ウチの爺ちゃん、フィリピンに派遣されたけど、
毎日現地人レイプして歩いたって。
だから、おまえの親戚がフィリピンにはたくさん
おるかもしれんぞ!カハハハと笑ってた。
死ねばいいと思った。
でも、レイプされて生まれたという人は、聞かないな。ベトナムには韓国兵の
レイプによって生まれた混血児が結構いるけど。
917 :
日出づる処の名無し:04/12/02 10:27:33 ID:HyoIWgoJ
北支のピー屋ではやりたくてやりたくてしょうがない
長蛇の兵隊たちがズボンずりさげて順番を待っていた。
中には堪らなくなって柱に抱きついてピストン運動し出す奴も・・・
北京で現地応召した小父さんの話し。
しょうがないと諦観したものの、あまりに浅ましい風景だった
としみじみ語ってくれた。
人間だから性欲処理の問題は永遠の問題だし、まして異国に
侵攻・駐留展開する軍隊の性処理は難問中の難問。
アメリカに占領され、それまで鬼畜扱いの米兵に股開いたパン助が
群がった日本は、占領しやすい国だったんだなあ。
うちの爺ちゃんは中学(旧制)時代は陸上の選手で、会社に入ってからは相撲部に入って相撲
ばかりとっていたそうです。食い物も家が農家で米をたらふく食っていた。
爺ちゃんは次男坊で形だけ東京の親戚の養子に入っていたので(一人だけ兄弟と苗字が違った。)、
東京で兵隊検査を受けた。その頃は東京ではもう食糧事情が悪くなっていて、検査に来た連中は
もともと都会人でひ弱そうなうえにヒョロヒョロ痩せているのが多かった。
爺ちゃんはその中で目立ち、検査の後まえに出されて「日本男児たるもの、お国にご奉公しよう
というならこういう体をしていなければならない。」と褒められたそうです。
もちろん甲種合格。即入営。「俺は現役兵だから」というのが爺ちゃんの自慢です。
検査の話で面白かったのが痔の検査。軍医の前で回れ右してケツを突きだして肛門を見せる
そうだが、爺ちゃんの前の奴が朝ケツをよく拭いてこなくて糞が付いていたので、軍医に
顔が腫れ上がるほどぶん殴られたそうです。
軍隊の訓練もなんてことなかったと言っていました。
それについてはまた今度。
919 :
日出づる処の名無し:04/12/02 10:37:48 ID:jYrNoVuR
やっぱ甲種合格ってのは大都市じゃないところでは一人前の男の
証みたいな扱いだったのかね。
>>917 >それまで鬼畜扱いの米兵に股開いたパン助が
>群がった日本
これはどうかと。
素人に手を出されないように玄人さんが頑張ったのが本筋ではないかと。
921 :
日出づる処の名無し:04/12/02 11:02:42 ID:k1ubzlmt
>>920 ばぁちゃんは普通の田舎の娘だったけど
アメリカの兵隊さんは人気あったみたいだよ。
ベッカムが好きなのと一緒な感じらしい。
汽車に乗って、席を譲ってくれたり優しくてびっくりしたらしい。
922 :
日出づる処の名無し:04/12/02 11:05:42 ID:j68RWa1E
随分玄人さんがいたんだね。
日本人女性のそこらへんに関しての嗅覚はかなり洗練されてると思うな。まあ、自嘲交じりだけど
>>919 なんかこいつ自分の体格にコンプレックスありそう(W
927 :
日出づる処の名無し:04/12/02 12:53:02 ID:OSE3c1z4
うちのおじいちゃん(明治43年生れで雑誌の編集やってた)は若い頃から共産党員だった。特に戦時中は憲兵や特高どもにマークされて色々と大変な思いをしたと親から聞いた。
亡くなるまで生粋の左翼だったよ。
928 :
日出づる処の名無し:04/12/02 13:30:40 ID:PZJvt42G
>>892 >>909 お前らの言うことがもし本当なら、ジイサンたちに人間的欠陥があるな。
どこの祖父が、孫にそんな話する?
「オレが強姦した」「殺して埋めた」
いくら戦場だといっても、まともな人間なら死ぬまで秘密にして、墓場に持っていくはず。
ということで、ネタに決定。
ホロン部はやることが単純で笑えるね(w
930 :
日出づる処の名無し:04/12/02 14:17:20 ID:QWhYjtmq
931 :
日出づる処の名無し:04/12/02 14:39:35 ID:/o7saP9I
>>922だが
東京周辺でも福生、横須賀、六本木辺りでは
今もぶら下がりをいっぱい見かけるが
あれも玄人と考えていいの?
>>929 でも、このスレはマジメな人が多いから・・・(ry。
933 :
日出づる処の名無し:04/12/02 16:30:22 ID:jz+uhZ19
米軍の評判がよかったのは、GHQの検閲制度と情報操作のせい。結構凶悪犯罪
が起こったけど殆ど報道される事も無かったし、被害者も泣き寝入り状態だった。
934 :
市民派護憲教師 ◆3grbnDCXXQ :04/12/02 16:33:32 ID:boeaqUtR
日本軍よりはマシですよ。
>>934 うむ、確かに君よりははるかにましだろうな。
936 :
日出づる処の名無し:04/12/02 17:25:42 ID:8v1dXN4o
>>934 性同一性障害者を「変態」と呼び、「収容」しろと唱える貴様よりは
はるかにマシだろうなぁ。
もう、「ら抜き言葉」以外で書き取りができるように成ったのか、差別教員よ。
かまって君キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
>>936 このセンセは教師じゃないですよ。ただのかまって君です。
元祖のセンセがいなくなった後で出てきた荒らしです。
939 :
市民派護憲教師 ◆3grbnDCXXQ :04/12/02 18:16:52 ID:boeaqUtR
>>936 しつこいですな。私は性同一性障害は百歩譲ってあげて、変態とは言いませんでしたよ。あなたのようなオカマやホモが『変質者で変態で異常性欲者』だと述べただけですね。社会を守るためには収容は妥当な措置です。
自分の爺様二人の事は以前に書いたので今回は高校の先輩について。
もう20年も前のこと、高校の卒業式の後に同窓会名簿が配られました。
家に帰ってつらつらと眺めていると、旧制中学時代の一学年全員がそれほどの
年齢でもないのに全員物故者でした。
最終卒業校と現住所等の欄には、海軍兵学校・比島沖戦死などと、全員が軍関
連の学校と戦死した地域(一部「諸事情により不明・戦死」の記述あり)が記され
ていました。
個人的な感想は省略しますが、その後、色々と考えを新たにして防府に航空学生
として着任しました。責任感ある航空機搭乗員となろうと。
かまって君こと、市民派先生が登場か。
このスレが、ほっとけないほどの良スレである証拠だな。w
祖父が所属していた隊は20人いたらしい。
で、その生き残りは俺の祖父だけ。
首の下あたりに銃で撃たれたあとがある。