【自虐】小中高歴史教育の体験 6時間目【反日】

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465日出づる処の名無し
ちょっと>>457に関して長文レスします
長文uzeeeeeeeeeeeの人は、無視してください。
半分のふるさと イ サンクム
〜中略〜
「キマちゃん、ようく聞きんさい。うちらが朝鮮人ということは、キマちゃんも知っとるでしょう。
 日本人はええ日に"もんつき"を着る。それが一番立派な服だから。
 朝鮮人の一番りっぱな服は、このチマチョゴリよ。今日はキマちゃんが賞状をもらうから、
 お母さんがいちばんきれいなチマチョゴリ着たんよ。朝鮮人が朝鮮人の服を着るのは当たり前のことじゃけ、泣きなさんな。」
「知らん。知らん。いやや。朝鮮服は朝鮮で着ればいい。なんしに日本に来て着るんや。そんな服、
 ええ服じゃない。みっともない。恥ずかしい。」
私はまた声を出して泣いた。
母は、なかなか泣きやまない私を、ひざの上に抱き上げた。
「キマちゃん。お母さんは日本に来たくて来たんじゃない。そのまま、朝鮮で朝鮮服を着ていたかったんだ。」
母の声は少し潤んでいた。
「昔、朝鮮は立派な国だった。日本の人に、学問をおしえてあげるほどりっぱな国だったんよ。
 そのうち、日本はあんまり力が強くなって欲を出し始めた。支那は、もと清国というたが、日本は
 清国と戦争をして勝ったんよ。その次、ロシアと戦争して、また勝った。朝鮮は、ちょうど真ん中
 に挟まれて、この戦争でずいぶんと迷惑したんよ。日本は、その勢いで、とうとう朝鮮を自分の国
 にしてしもうた。朝鮮人は、もちろん反対した。日本の警察や兵隊が、文句言う朝鮮人は、みんな
 捕まえた。たくさんの人が、牢屋に入れられたり、財産とられたり、拷問にかけられてけがしたり、
 死んだりした。」
466日出づる処の名無し:04/11/07 20:56:54 ID:WXCpq2he
私は息をのんだ。当時、母がどんな語り口で話したか、一語一語そのとおりに再現することは難しい。
しかし、確かなことは、一年生だった私にも分かるように筋が通っていたし、それは、私の脳裏に
焼き付いたように残っている。母の声には熱がこもっていた。
「お母さんは、お母さんのお父さんと二人で住んでいた。つまり、その人はあんたのおじいちゃんに
 当たる人よ。おばあちゃんは、お母さんが三歳のとき、赤ちゃんを産んで死になさった。女の
 赤ちゃんもすぐ死んじゃった。お母さんは、おじいちゃんと二人で寂しかったけど、おじいちゃんに
 ずいぶんかわいがられたんよ。おじいちゃんは、朝鮮の国が日本に取られたといって、とても
 悲しんだ。ため息をついたり、泣いたりした。おじいちゃんだけじゃない。朝鮮の人は、皆悲しんだ
 でも力がなかったから、どうしようもなかったんよ。」
私の涙は、とっくに乾いていた。
「こらえきれなくなった朝鮮の人たちが、独立のため万歳運動を起こしたんよ。」
「万歳運動って何する運動?」
「それはね、朝鮮の人が望んでいるのは独立だということを知らせるために、旗行列をしたことよ。
 みんな手に手に朝鮮の旗を振りながら、独立万歳を叫んだ。市が立つ日は、たくさんの人が
 集まるから、おじいちゃんは市に行って、列の真っ先に立って万歳を叫んだんよ。日本の警察や
 兵隊が、たくさんの人を撃ったり、切ったりした。朝鮮の人は、なんにも武器がないから、
 けが人や死人がたくさん出た。」
「おじいちゃんは?」
私はおじいちゃんが心配になっていた
467日出づる処の名無し:04/11/07 20:58:35 ID:WXCpq2he
「おじいちゃんは、撃たれたのか、切られたのか、血がいっぱいついた服を着て、夜、お母さんを
 見に帰った。でもね、お母さんを強く抱きしめた後、すぐ出て行った。よろよろしながら。
 それが最後だった。おじいちゃんは死んだんよ。隠れていてしんだのか、捕まって死んだのか、
 分からん。家族は、たった九つだったお母さんしかいないから、探すこともできんかった。お墓も
 造れんかった。おじいちゃんは、お墓もない。お母さんはおじいちゃんのお墓参りもできん。」
母の声を詰まらせながら、私を抱きしめた。体が激しく震えていた。
アボジ(父)が帰ってきた。娘が生まれて初めて賞状をもらう日だから、ほうびを買って、昼時間に帰ってきたのである。
「どげんした。なんがあたったんか?」
父は立ったまま、きいた。母は、父をちらっと見て、また話を始めた。
「キマちゃん。お父さんもね、お父さんの家の田んぼを日本人に取り上げられたから、仕事がなくなっ て日本に来とるんよ。お父さん、苦労しとるよ。きつい仕事しとる。」
「なんで、こないな子供に、そげんな話するんか。子供をいじけさせるな。」
父は、怒った声で母をとがめた。母は、きっと顔をあげた。
「キマの運命です。この子も朝鮮人じゃけ、これから先、つらい思いをします。ほんとうのことを
 知らせとかんと、もっといじけます。」
母が母自身について語ることは、めったになかった。後にもこの先にも、この日、母は最も多くのことを話したのである。
母が語ったところによると、おじいちゃんが亡くなった後、一人になったオモニは、遠い親戚の世話に
なったり、近所の家の人の親切を頼ったりしていたが、十三歳になったとき、ある人が日本に来るようになって、オモニを連れてきた、ということである。
私の頭が混乱した。最もショックだったのは、オモニが幼くして独りぼっちになったということである
九つの時に。今の私と同じ年に。今、私がお母さんのようになったらどうなるだろう。かわいそうなお母さん。その夜、私は布団の中で、独りぼっちだった母を思って忍び泣いた。
468日出づる処の名無し:04/11/07 21:06:20 ID:WXCpq2he
〜欄外〜
万歳運動
「三・一独立運動」のこと。
一九一九年三月一日、ソウルで民族代表が日本からの独立を求める
独立宣言を発表した。
これをきっかけに、人々は「独立万歳(トンニンマンセ)」を叫んで市内を
デモ行進した。この運動は、日本の支配に苦しめられていた民衆の
共感を得て、朝鮮全土に広まっていった。

以上です。