1 :
日出づる処の名無し:
2 :
日出づる処の名無し:04/03/15 23:45 ID:Cc6gOeQ7
楽しみにしてるぞ。
>>1 いい企画だと思う。
だからこそ、あんまりageて訳わからんの呼び込まないほうがいいと思うよ
4 :
日出づる処の名無し:04/03/15 23:52 ID:dz+Un+GN
>>1 朝鮮人についての所見を聞いておいてくれ。
その性質、付き合い方等。
>>1 ガンガレ、楽しみにしてます。爺様によろしゅう。(無理はせんといてな)
6 :
1:04/03/16 00:09 ID:9sCp2Pm0
早速レスTHX↑
>>4 え〜既にちょこっとは聞いてるが、今週末また詳しく聞く。
既に聞いてるとこは、微妙に主題がずれてるかも知らんが、こんな質問をした。
なんか北朝鮮の外交官だかなんだかが「ジャッ○」連呼した時の話だ。
漏れ「朝鮮人は日本嫌いみたいだけど、ジーチャン朝鮮人隣に住んだら嫌?」
祖父「別に」
漏れ「あっちは嫌な感情があるみたいだけど?」
祖父「だって俺ぁヤツラ顎で使ってたもん」
だそーだ。祖父的には特に嫌な感情があるわけでもないらしい。
ただあくまでうちの祖父の話、これはサイト見る上でも重要
そこんとこヨロ。
真珠湾攻撃に至るまでの間の世情と言うか、世間一般の戦争に対する
期待値と言うか、感覚って聞けるかな?
新聞が煽って「戦争やれ〜!」ってムードを作ってたとか、
国民も・・・そうだな、通州事件が報道されて「許せん」とかなって、とか
結構、当時の日本国民ってのは、わりと「キャンペーンに呼応しやすい」とか
なかったろうか?それも結構「いさましい方へ全力疾走」みたいな。
よいサイトを開設してくださいました。楽しみにしています。
あまり無理をなさらずに。
終戦後、帰ってきた軍人に対する「日本人」の反応をうかがえれば
と思います。
宜しくお願いします。
9 :
1:04/03/17 02:33 ID:G3sX5RVe
とりあえずなんかUPしたらageます・・・・
先週聞いた第二回前編をUPしますた。
>>7 それは聞いて意味があるかどうか微妙・・・・
というのは、祖父はその頃、朝鮮総督府で働いていたので、
日本にいなかったのですな。日本のことには疎かったかと。
>>8 帰ってきた軍人に対する日本人の反応・・・はまだ聞いてないなぁ。
逆の帰ってきた軍人の反応に関しては、↓
帰ってきたら、居間の座布団の上に知らない1歳チョイくらいの子供が寝ている。
どこの子だべぇ・・・と祖父が思い、祖母に聞いたところ、
どうやら自分の次男。存在をその時初めて知ったらしい。
ようするに戦争行ったら連絡なんてとれないから、基本的に浦島太郎だったらしい。
10 :
日出づる処の名無し:04/03/17 02:43 ID:ujR75XB5
うちの爺ちゃん兄弟多い上に腹違い
別に虐められてたわけじゃないけど迷惑だろうと軍に志願
飛行学校出た後南方いって還ってきた。
話結構面白いけどこっちからふらないとあんまり話してくれないのだ。
11 :
日出づる処の名無し:04/03/17 03:23 ID:YHJjnqMR
これだけは聞いて欲しい!
大東亜戦争に至るきっかけは石油等の資源をアメリカに絶たれたからだという
事は日本国内でも報道されてたから、それに対して世論が戦争やむなしと
国民の精神が一丸となっていた雰囲気だったと思うが、敗戦後に突然
連合軍によって「国民は軍部に騙されていた」となった時、国民の反応は
どうだったのかが知りたい。東京裁判の影響も大きいだろうが、
どうしてここまで日本が自虐史観に陥ってしまったのかを時系列的にお願い
しますだ。
>>11 俺のじいちゃんは、「誰でも薄々は気づいてた」って言ってた。
新聞もラジオもホントのこと言ってないってのも、
この戦争には多分勝てないってのも。
13 :
日出づる処の名無し:04/03/17 10:34 ID:oH2f9Hfc
私の家は先祖代々水戸藩の貧乏武士なのだが、祖父が満州で兵隊(暗号などを作成する所)
だったとき(伍長)旧水戸藩ということでかなり優遇されたらしい。ちなみに、
祖父はお偉いさんの近くにいたので特に危険な目にもあわず帰ってきました。
きつかったのは厠。満州は寒いのでウンコが凍ってしまうらしい。それをアイスピッグ
みたいなもので割るらしい。割るとき自分の顔とかに飛び散ってそのまま暖かい部屋
に戻るとそれはもう猛烈に臭かったらしい。特に変わった話では有りませんがどうでしょうか。
個人的に水戸藩うんぬんのところがほんとかどうか知りたい。祖父は十年程前に他界しました。
>>11 >大東亜戦争に至るきっかけは石油等の資源をアメリカに絶たれたからだという
>事は日本国内でも報道されてたから、
要は「経済封鎖」をされた、って事ですわな。イラクなどと似ていて。
それをなぜか、歴史の時間以外では教えてくれないのは、欺瞞だよね。
15 :
1:04/03/18 01:42 ID:bf+yojsb
サイト多少見やすくした。
ほんっと多少。
更新を心待ちにしてるイカレテル方は、
第二回のソースを見ると、後編のあらましが、
走り書きレベルでまとまってない状態で見れます。
この調子なら、質問レスしてくれた
>>4,
>>7,
>>8,
>>11,
>>13の質問
今週土曜日に、全部聞けそうです。無論追加も受付中
ちなみに、
>>13 満州でウンコにまつわる話はうちの祖父もしてまして。
すごかったらしいです・・・
これはそのうちサイトにUPしま・・・
16 :
マガモーテ:04/03/18 02:08 ID:W8HqWZtb
>1
サイト見ました。
2回目に「甲府48連隊に入隊」という部分がありましたが、
甲府だと、49連隊ではないでしょうか?
同じく大正3年生まれの、わが父の原隊が甲府49連隊でした。
17 :
日出づる処の名無し:04/03/18 10:34 ID:ubGypcUa
>17何かお間違いではないですか。
>15
この間どっかのサイト見てたら南京城の方もすごかったらしいよ、ウンコ。
弾が飛び交うから匍匐前進するんだけど、ウンコだらけでたまらないって。
おじい様によろしくね。うp楽しみにしてます。
19 :
1:04/03/20 14:14 ID:qExApHUb
>>16 今日聞いてきます。
49連隊のほうが圧倒的にGoogleでHitするので、
間違いなく祖父のボケであると思われますが、一応。
つーことで今日聞いて明日UP
質問事項は
>>15参照
20 :
1:04/03/20 17:16 ID:rmtMDR/R
実家にて祖父と対談中。
とりあえず真っ先に48連隊でなく、49連隊だったことを確認した。
サイトのほうは帰宅後即更新する。
22 :
1:04/03/20 21:58 ID:qExApHUb
回答だけさきにこっちに書いちまいまふ。
>>4 朝鮮人についての所見を聞いておいてくれ。
その性質、付き合い方等。
祖父:
朝鉄の時の話になるが、向こうはやっぱり占領しにきたと思ってるわけだ。
日本人とはやっぱりちがう、包容力を持って付き合わなければならない。
時には拳骨も必要だった。おれぁ24〜25だったが、使った現地の人間はみんな40以上で、
やっぱりきちんとした指導力っつーもんが必要だったなぁ。
ただでさえ、向こうには、日本以上に年上を敬うってのがあんだから。
お互いに理解力が必要だった。
扱うには、頭なでなで舐められない程度に扱うんが楽だったなぁ。
>>7 真珠湾攻撃に至るまでの間の世情と言うか、世間一般の戦争に対する
期待値と言うか、感覚って聞けるかな?
祖父:
当然やったってかなわねぇってのはみんなわかってた。ちょっとでも考えてりゃな。
海軍のほうはそのことをよくわかってた。陸軍が暴走しちまったんだろうなぁ。んでも真珠湾攻撃したのは海軍だしな。
んで、だ
戦争しろ戦争しろっつーのはやっぱ右翼とか陸軍だぁな。軍に逆らえる時代じゃねぇんだ。
戦争しろって口先だけでも言っておかなきゃいけねぇ時代だったんだよ。
軍とかは万が一にかけてたんだろうな。
23 :
1:04/03/20 22:03 ID:qExApHUb
>>8 終戦後、帰ってきた軍人に対する「日本人」の反応
祖父:
洗先に上陸したときには、邪魔者がけーってきたって扱いだったな。(終戦から)1年間も向こうに行ってて帰ってこれなくってなぁ。
日本全国どこいっても、米や飯がねーんだからしょーがんねぇだろ。
>>11 敗戦後に突然連合軍によって「国民は軍部に騙されていた」となった時、 国民の反応はどうだったのかが知りたい。
祖父:
戦争中だって、騙されたふりしてるだけだっただぁよ・・
ただ、それを口に出したら憲兵にとっつかまる。 そんな時代だったんだぁよ。
戦死者だって大勢いたんだ、ばれてねぇわけねぇ。
みんな知ってたんだ。昭和19年の夏くれぇには、「もうこれは勝てねぇ」と。
それを大本営の発表が正しい。と。それに抵抗したらつかまっちまう。
だから、騙されてたわけじゃねぇ・・・ふりしてただけだからな・・・
なんもかわりゃしねぇんだ。
んで、なんでこんな左翼教育になっちまったか?だ。
アメリカの終戦後の教育指導がそうなってたからな。 それに迎合していかなかったら、冷戦の中、日本はやっていけなかったわけだ。
だが、その後ソ連が崩壊しちまってな、あれでずいぶん予定と変わっちまった。 だが教育は変わってねぇわけだ。
>>13 祖父が満州で兵隊(暗号などを作成する所)だったとき(伍長)旧水戸藩ということでかなり優遇されたらしい。そういうとこはあったのか?
祖父:
内部事情よくわかんねぇけど、母体が関東軍。 気持ちは士族、要するに侍だぁ。近しいところは引っ張るってのはあったんじゃねぇかな。
>>16 あれ、おら48ってったか。わりぃわりぃ、甲府49連隊だ。
以上。サイト更新は明日かな。
24 :
日出づる処の名無し:04/03/20 22:26 ID:Nw1vDjK/
いい企画だ。
俺もどこかのスレで
「年寄りの話、聞いとけ。んで、記録しろ。」と言った。
こんな具合に公開されるのは、大歓迎だ。
応援するぞ。
>戦争中だって、騙されたふりしてるだけだっただぁよ・・
やっぱりそういう時代だったんだなあ
26 :
11:04/03/20 23:00 ID:vsbRFukZ
えっと
>>11で質問をお願いした者だが・・・
1には御爺さんに聞いてもらって感謝する。
だが、ちょっと質問の内容を誤解されちまってるようだ。
日本は日清戦争も日露戦争もセキュリティの為に戦ったわけだが、
大東亜戦争も自衛とアジア解放の為に戦ったわけだよな。
当時の国連では日本が有色人種で唯一加盟し、そして常任理事国であった。
その国連の中で日本は、世界に先駆けて「人種差別の撤廃」を強く主張していた。
多くの国はそれに同意したが、アジアの植民地で膨大な収奪による自国の潤いを
保っている国としては、それを容認できない。当然の主張をする日本とそれを
疎ましく思った列強国は決裂。日本は国連を脱退した。列強は日本の国力を貶める
ために資源を絶たせるというとんでもない行為に及んだ。度重なる外交手段でも
列強の態度が変わらないことがわかると日本は国の防衛も為とアジアの解放に
大東亜戦争に踏み切った。日本国民もそういう理由を知っていたから軍部に声援
を送ったわけだが、敗戦後は占領軍により「日本は領土拡張の野望を持って
侵略戦争をしたのだ。国民は軍部に騙されていた。」と徹底的に宣伝した。
要するに、戦争の目的自体を占領軍のオオボラによって変えられてしまった
国民の様子を知りたかったんだが・・・、良かったらまた次の機会にでも
御爺さんに聞いてもらえるか?
>>1
27 :
1:04/03/21 00:27 ID:LHV3u8Uo
>>26 っと、いうと、
「戦争中の軍部のハッタリ」でなく
「戦後のGHQの洗脳」に関して聞いて来いってことっすか?
興味深く読みました。
震災の頃のことなんかも聞いてもらえるとうれしいです。
「その頃、ホントに何千人も朝鮮人がいたのか?」とか。
当時のひと(戦後の情報に惑わされないひと)が、当時どんな風に感じていたかとか。
(留学生に言わせると、本国では何十万も殺したことになっているらしい...
民団だって6000と言っているのに<それでもかなりの誇張があるけど)
海軍の方が判っていた、というのは、やや戦後の情報が入った上での判断であるように
思われます。海軍がかなーりヤル気満々だったのは史実として明らかなようですから。
まぁ、時間がたって考えがいっさい変化しないひとなんて、いないでしょうけど...
(祖父のハナシを聞いて、メモをとっていても感じることです、その頃は別のこと
考えていたろう?と思うことも、しばしばですから)
30 :
28,29:04/03/21 04:36 ID:5YmxEziM
いや、余計なこと書きました。
これからも頑張って更新させていってください。
期待して待っております。
8の質問をしたものです。
ご回答ありがとうございました。
みながみな諸手を挙げてその帰還を喜んでもらえたというわけではないのですね。
中にはもう死んだものと思われていた人もいたでしょうから。
しかしながら、祖国のため、家族のために戦い、やっとの思いで日本の地を踏んだ人たち
には少々酷な出迎えでもあるかと思います。
帰還された方々の気持ちを思うと、やりきれない気分になります。
これからもよろしくお願いしますね。
32 :
じじい:04/03/22 18:37 ID:RxMWzdlL
これはデリケートな問題じゃから答えてもらわなくてもいいんじゃが、
気になるのは慰安婦などの軍規の問題じゃな。
ワシは慰安所自体を否定はせん。
二十歳前後の若者が明日死ぬかもしれんという所で
道徳を説いても無意味じゃろう。
職業娼婦は認められておったんじゃし、
ベトナム戦争でのアメリカ軍にもそういう所はある。
今のイラクはどうじゃか知らんがな。
今の平和な時代から当時の状況を非難しても的はずれなこともあるじゃろう。
それで、聞きたいのは
「中国軍に比べて日本軍の軍規は守られておった」
という事を読んだことがあるが、どうなんじゃろう?
もちろん日本軍も強姦や略奪をしたという話を聞くが、
中国軍は更にひどかったと聞く。
だから、日本軍が来ると喜ばれたということも読んだのじゃがどうなんじゃろう?
答えにくく、質問しにくいかもしれんが、このような話を聞く機会は少ないので、
できればよろしくお願いする。
33 :
24:04/03/23 03:29 ID:afk8Tcfe
「可愛いスウチャン」と言う歌がある。
お国のためとは言いながら
人のいやがる軍隊に
召されて行く身のあわれさよ
可愛いスウチャンと泣き別れ
私は昭和30年代に映画(たぶん、「二等兵物語」あたりか?)で
この歌を聞いた。第3連は「志願して出るバカもある」と歌われた。
この歌は徴兵された者の実感なのか?
実感であるとすれば、どのような出身階層に多かったのか?
について、聞いてくだされ。
いま、寝る前に最期のリロードをしてこのスレを見つけました。
サイト、少しだけ拝見しました。
大変興味深い企画だと思います。
今後もちょくちょく覗かせて頂きます。
このスレ偶然見つけた、、
僕の祖父(家族全員ね)も戦前から北朝鮮に行き、戦後引き上げて来ました、
でも
>>1のじいちゃんよく生きて帰って来れましたね、引き上げ時日本人は
ロスケ、朝鮮人にかなり殺されたと聞き(しかも面白半分に、)
38度線までたどり着けた日本人は少なかったのでは?と聞いてます
(平壌脱出組)実際平壌から38度線までたどり着くのに
1年かかったそうです。うちの親父など栄養失調で何度も
死にそうになったとのこと。祖父は30年ほど前に他界しましたが、
祖母は90になるけどボケもせず健在なんで、
遊びに行った際でも詳しく聞いてみます。
うちの父親はよっぽどひどい目にあったのか、この件については
話してくれません、、、
37 :
:04/03/24 00:16 ID:l86CtVss
>>36 うちのじいさんも、シベリアにいたんだけど、何も教えてくれない。
「人に喋れる奴は、大した体験はしてない」って言ってる。
>>37 とりあえずなんとかして聞き出しとけ。
記録もしっかりな。
39 :
24:04/03/24 01:06 ID:d+vq7mBG
>>37 聞き出すテクニックとして、
ここで仕入れた話をして
じいさんの感想を聞く
と言う手があるな。
>>39 おれの曾祖父がそうなんだが、あの頃の生まれだからかねぇ。
「棺桶のフタに釘が打たれるまで黙っとくって決めたら黙ってるもんだ」
と、最近の内幕暴露的な(いろいろな)報道見て、そういうのよ。
そういう「決心」しちまってると、なかなか教えてもくれねーってとこはあるよ。
話すと思い出す→思い出すこと自体が苦痛→だったら黙ってよ、みたいなの。
追記。
曾祖父は南方からの帰還だったんだけど、
食糧が無くて、3日も何も(本当に何も)食えずに敗走戦って状態だと(逃げ回れば体力使うわな)、
とうとう自分で尻の肉を削いで食った、なんてのもいたそうだ。
で、化膿して死ぬ、と。
「それでも名誉の戦死になってるヤツの遺族に、本当はこうだった、なんて言えねいしな」
「でも、どっかで喋っちまったら、回り回って遺族の耳に入るかもしれんし」
とか、そういう言い方しとったなぁ。
>>41 興味半分や自己宣伝のために聞ける話じゃないってことですね。
でも大切な話ですから少しでも正確な情報を残しておきたいですね。
1さん、がんばれ。
>>40 遺書代わりに原稿に書いておいてもらうという方法もある。
亡くなってからでないと読めない。
原稿を守秘義務のある弁護士に託してもらう、というテもありますわな。
「私の生前には絶対に開けないように」との条件をつけて。
いいなあ・・聞けるじいさんがいる香具師は・・
漏れのじいさん両方とも、シナと南方で戦死しますた( TДT)
下記のような事が実際あったのか聞いてください。
====
中国東北部でのとあるキャンプでの話です。これは過去の裁判記録もしくは
著作物からの引用ではなく私の親族からの証言です。
新米の兵士がキャンプに赴任してきたとき、一つの慣例ともいうべき行事が
あったそうです。昔の武士社会でもあったように、度胸試しというか試し
切りというか 中国人を処刑させるとき、新任の兵士を首切り役に任じてい
たそうです。その例に漏れず本人もその任に預かることとなり、ついては
先輩にアドバイスしてもらったそうです。
「こいつらは人間ではない家畜と同じだから我々と同じ血が流れていると
思うな」
まあこれは極限状況での一場面であり、新人を思んばかっての言葉の綾とす
ることも可能でしょうが、しかしそれを差し引いても本人からすれば後生に
なっても私に伝えたぐらいですから印象的でかつ象徴的な言葉として本人は
受け取り、また極限であるからこそ人の本音というのが一瞬にでも露呈され
たのではと思われます。
後になって知ったそうですが、処刑は単なる名目であり、実の目的は新人の
度胸試しだったということです。(もちろん処刑にあたってはちゃんと法に
則った形で行ったそうですが)
ついでに処刑の対象となった人は、民間人か軍人かの判定が怪しかった人も
多数いたそうです(この部分は私にも分かりません。只の民間人まで民兵と
して故意にでっちあげたか誤って処刑してしまったかそれとも本当に民兵だ
ったかは定かではありません)
繰り返しますが、これは被害者からの話ではなく、加害者である我が親族の
生身からの伝承であります。
47 :
46:04/03/24 21:18 ID:KgRvnHLf
これについてもお願いします。ちょっと生々しい証言ですが、このスレの住人の
皆さんの意見もお聞きしたい。
====
同じことを私も、「北支」帰りの本人から聞きました。いざとなったときビビら
ないための訓練に 人間と思うなと言われて殺したそうです。
初年兵の時に、綺麗な娘のいる家庭へ押し入り、上官が犯して 最後に局部に刀
を指して殺すのを、家の外で見張り役をさせられたそうです。親の前でそれをやり、
最後に一家皆殺しにしたんですって。もちろん相手は民間人です。対等の人間と
しての扱いではありません。今も、彼は「支那人」と呼びます。
>>47 >綺麗な娘のいる家庭へ押し入り、上官が犯して 最後に局部に刀を指して殺すのを、
これって、当時は「日本兵」だった「朝鮮人」の行動パターンそのものでは?
メンタリティーが日本人のそれじゃないし。
>>48 同意。
かつてナチスドイツ統治下の環境で、ユダヤ人に許可証を発行して逃がした
先人様がおられました。
>>47 てゆーか、度胸試しの話が本当ならその新兵はそれまで支那人を
「同じ人間だ」と思っていたんだろうし、つまり当時の日本人の
認識も今の日本人とさほど変わらないぐらい民度が高かったという
証左にしかならんだろう。
それなのに、同じ時代の同じ日本人が綺麗な娘のいる家へ押し入って
強姦して陰部に刀を刺して平気な心理でいられるハズもあるまい。
平時には支那人を「同じ人間だ」と思っている人間が、そんな極端に
鬼畜のようなことができるほど変貌すること自体おかしくない?
「綺麗な娘」というあたりに恣意的なものを感じるなあ。
一言、
「支那」という言葉自体に差別的意味はありません。
ご自分で検索して調べてみて下さい。
53 :
24:04/03/25 00:48 ID:qYqHqxma
>>46 あんた、奇妙なこと書くな…。
あんたの親族が「本人」で、実行者なら、
あんたが「本人」にきちんと聞いて、
あんたが真偽を確かめる問題ではないか。
真と認める根拠をたしかめたなら、それをここで報告する事はかまわんよ。
あんたの態度には、「怖い者もの見たさ」や自分で確認する事への
恐れと無責任さやがあって、気に入らん。
ここは確かに「匿名掲示板」だが、真面目に取り上げようとしている。
米軍のように「キャンプ」等と言う言葉も、うろ覚えの浮ついた気持ち
が表れている。
あんたのような生半可な発言が、世にくだらないデマを
はびこらせ、世を害するのだと知れ。
おっ、いいねぇ。
極東板で、生き証人の証言(音声)を集められないものかと思案したことあるわ。
戦争経験者の集いみたいなところに協力してもらってさ
55 :
1:04/03/25 01:12 ID:3RarnOkJ
え〜、仕事が忙しくて見に来なかったらなんか深そうな質問がきてますね。
>>46 あくまで「うちの祖父」が体験した過去で、この件に関して、近しいところを
書きます。こっから下は祖父談です。
・「支那人」が今は蔑称なのか、へぇ〜〜、別におらぁ「ちゅうごく」って
言うより「しな」の方が言いやすいしな。別に考えたこともねぇよ。
・おらっちは討伐行ったらそこらの倉庫勝手に開けてとってくる役目だぁ。
徴発ってやつだな。それやんねーと食いもん無くなんだからしかたあんめぇ。
たまにある杏の実が唯一の楽しみでなぁ・・・・杏の花見ると思い出すよ。
・戦争ってのは多かれ少なかれ、欲望を利用するだぁ。
わけーやつらは溜まっちまってたえらんねぇから女買ってたし、
そんなのもネェとこには羊つれてくやつとかもいたなぁ・・・しゃーねーんだよ。
「今現在だと」ざっと関連するとこはこんなとこですか。
あくまで「徴発」に関して話す祖父のそぶりを見て、
少なくとも祖父の周りでは、世に言う残虐な事件があったとは、
到底思えません。
私には、杏が甘くて嬉しかった。と、懐かしそうに話してる祖父が
今私の実家に居ます。としか言えません。
ただ、祖父も「死ぬ前に話とかなきゃなんねぇ事もある」と、言っています。
それがどんな事なのか、まだわかりませんし、聞くためにサイトを立ち上げました。
ちなみに、祖父が戦ってた八路軍ってとこは、
「軍服なんぞ無く、一般人のカッコをしてた」
らしく、
>>46の言う「民間人か軍人かの判定が怪しかった」つーのは、
イスラエルでカラシニコフ振り回してる農家のオッサンが軍人か民間人か?
って問題に近い気がします。
祖父じゃなくて祖母から聞いた話でもいいか?
戦争でもなくて関東大震災なんだが。
上野にいた祖父母を助けるために祖母の父親(俺から見た曽祖父)は
大八車で大混乱の上野まで駆けつけて、祖父母を大八車に乗せて神田まで
逃げたそうだ。もう地震は収まっていたんだが、それでも余震と、何より
地面が柔らかく波打って何度も足を取られたんだと。(液状化現象か?)
曾祖母も面白いエピソードがあって、娘時分に、あんまり我がままだというので
横浜市長宅に行儀見習のために女中奉公させられたんだと。
その市長の家には同じような行儀見習の娘が他にも何人もいて、厳しく
立ち振る舞いや料理裁縫などを仕込まれたらしい。
そんで祖母自身は娘の時分に2.28事件を体験している。
習い事をしていてその日も外に出ていたんだが、雪の降る
とても寒い日だったそうだ。軍人が白い息を吐きながら
鬼のような厳しい形相で、普段は特にどうということもない
通りにまで出て足早に何人も往復していたそうな。
情報らしい情報もなかったけど、何か恐ろしいことが起きたんだと
いうことは分かって、家に辿り着くまで生きた心地がしなかったそうだ。
最近はオームがサリン撒いた5分前の電車に乗って事なきを得たウチのババ…(;´д`)
もっと面白い体験談も聞きたいから長生きしてくれ……。
読み直したら2.28事件だってなによ……。
2.26事件の間違いだよ……。
ゴメソ…(T^T)
58 :
日出づる処の名無し:04/03/25 01:32 ID:Lrq2HJO3
2.28事件 なんとなくおかしくてわらっちゃいました
枕を涙で濡らす真夜中……_| ̄|○イヤーン
もう寝ます……。
60 :
24:04/03/25 01:46 ID:qYqHqxma
>>59 おまい、
当時の祖父母や曾祖父のおよその年齢・職業や身分も
ざっと紹介しないと、
他人には情況が判らんぞ。
寝る前にもう一度覗いてよかった。
曽祖父は神田で大工の棟梁やってたそうだ。
江戸っ子で人格者で葬式には近所の人が皆葬式に来てくれたそうだ。
実家が上野でそこに曽祖父母が住んでいたと。
で、そこに大震災が起こったわけだ。
祖母は今80歳。東京生まれの東京育ち。
所帯持って目黒に。当時は畑の広がるド田舎だったそうだが。
2.26事件は娘時代の話。
その後乳飲み子の長男(俺の父親)を抱えて長野に疎開したり、そこの
村長の屋敷に疎開してた高名な絵師に長男の節句の祝いに絵を描いてもらったり、
(我が家にこの絵がまだある。描いてもらったときにまた面白い話があったとか)
色々波乱万丈だったらしいなあ。
この祖母さんの姉の旦那が新婚半年で召集、満州だの南方に転戦のあげく戦死。
祖母さんの姉はあっという間に戦争未亡人になってしまった。
この姉が亡くなった時に、旦那が戦地から送ってきた写真や勲章、手紙がごっそり出てきた。
俺も見たが、1〜2mもあるつららの前でにっかりその旦那さんが笑ってたり、その着てる
服も装備が何つうか、教科書や歴史モノの雑誌で見たとおりで、ちょっと感動した覚えがある。
奥さん(祖母の姉)あてに戦地から送った手紙も検閲があったろうに、お前に生きて
会いたいっていう気持ちがひしひしと伝わってくる文面でな…。ちょっと読んでて涙ぐんだ。
それらの遺品は私が死んだら管理しきれないと祖母が言うので靖国神社に持っていった。
本当はご遺族が持っているのが一番いいんですが……と神社の人は言ってたそうだ。
ちなみに頼めば遺品はいつでも見せてくれるらしい。
俺もいつか靖国にお参りに行ってこようと思ってる。
ってもうこんな時間か……。明日早いのに……。がっくり。もう寝る。本当に寝るぞ!
62 :
時世:04/03/25 03:07 ID:y8OgJ4Ik
うちの祖父の兄は、戦争に熱狂してたって。
だから大政翼賛会の選挙も、ずっと支持してたって。
けど負けるのはわかってた。負けるのはわかってたけど、「日本がやらなきゃ」って
アジアへ対する義憤があったっていってたよ。
>>46 普通、あのころの人が「キャンプ」とは言わないんじゃないのか?
>>47 ああ、よく支那畜が日本人なんかにやってたな。終戦後の満州に限らず、
そもそもの発端「通州事件」がまさにそうだった。
あの時の現場写真を掻っ払って、中南海がデマ記事作って世界中に飛ばしてたし。
>>58 台湾とごっちゃ、と言うのはほほえましいので、これは許されることにしようではないか。
>>61 最初が満州(つうか北支)なんだろうね。
確か、出身県ごとで行先が(最初は)決まっていたはずだし。
北支から分割されて、南方へ回った組は、各務原で南方向け部隊と混成になって
名古屋港から出発のはず。よく世間の話題で言われるニューギニアで戦死、と言う
大変リスクの高い、つまり戦死者の数が多かった戦闘だったケース。
うちの死んでしまった、じいさんは北支那で憲兵やってたとかなんとか
言ってたんですけど、北支那って今で言うとどこらへんの地域なんでしょうかね?
何も語らず亡くなったので、わからんことだらけです。
69 :
56:04/03/25 13:33 ID:qoZFAMpK
何度もすまん。夜中に書いたんで混乱があった……。
名称が間違っててすまん。
神田に住んでたのは曽祖父。上野に住んでたのはその曽祖父の両親だ。
頭悪くて申し訳ない……。
>>66 知らなかった。一番ワリを食ったケースだったのか。
祖母や家族に話してみるよ。ありがとう。
爺さんはニューギニア島の守備隊衛生兵だったそうだ
戦局の悪化によって米軍が進撃してきた時、戦闘機が墜落して爺さんの前方100m程度に落ちた
急いでいってみると搭乗員が必死に助けてくれと言ってたらしく、包帯を巻いてあげて
爺さん一人だったからコソっと逃がしたそうだ
その時、戦闘機乗りはライターを差し出したんだとさ
ライターが上官に見つかったらヤバイと思って必死に隠してたそうだw
今も爺さんはそのジッポーで煙草吸ってるよ
>70
>今も爺さんはそのジッポーで煙草吸ってるよ
(・∀・) イイネ!
>55
>・戦争ってのは多かれ少なかれ、欲望を利用するだぁ。
>わけーやつらは溜まっちまってたえらんねぇから女買ってたし、
>そんなのもネェとこには羊つれてくやつとかもいたなぁ・・・しゃーねーんだよ。
女を「買う」、ないところでは「羊」。
強姦なんてしてないんだね。羊連れて行くくらいだから「従軍」慰安婦なるものも
なかったんだろうなあ…と想像します。
>>70-71 ジッポーって、構造が単純で頑丈だから、中身を詰め替えれば
ずーっと使えるんだよね…。
だからこそ、キャンプや雪中登山とかでも必携品なわけ。
しかし、ずいぶんと年季の入ったジッポだねぇ。いい話だなぁ。
73 :
24:04/03/25 15:19 ID:qYqHqxma
>>69 ヘエ、おめえんとこ、ひいじいさんが神田の大工(でえく)か?
戦争の事だけじゃなく、
「江戸っこ」文化についても、記録しとけよ。
おめえ、その有り難み、あんまり分かっちゃいめえがよ。
一言いっとくぜ。
>>71 俺の田舎じゃ、じい様たちに酒が入ると、
やれ俺は何人ヤっただの、
やれ俺は何人孕ましただの言い出して
子供心ながらに「イヤだなあ・・」って思ってたけどな。
だから俺は従軍慰安婦ってものも当然あったんだと思うよ。
>>74 うーん、なんかすごいこと聞いちゃったけど…慰安婦はいた。きちんと雇用されているね。
71で言っているのは俗に言う従軍慰安婦。連れ去られたとかって言ってるやつ。
おじい様たちがお話しているのは「強姦」したってことなのかな?
そうならば詳しいお話を伺いたいのですが。
>>74 ないだろ。なんで「だから」になるのかわからんなw
>>75 ほとんど死んじゃったから詳しいことは分からないんだけど、
「便所みたいに女が並んで」とかも言ってたし、
「地の嫌がる娘っこを」とかも言ってた。
だから、強姦も従軍慰安婦もあったと思ってる。
中学、高校のころは、そんな話を聞かされるのがとにかくイヤだったよ。
そんな話ばっかじゃないんだけどね。
下ネタ大好きなじい様たちばっかりだったよ。
キミのじい様は強姦魔かもしれんが それも軍法違反。処罰対象だったぞ。
それに民間業者だったら従軍とはいわんぞ。キミはなんか勘違いしてないか
79 :
:04/03/25 16:45 ID:KYSOgiCU
>>74 「俺は何人孕ました」って妊娠がわかるまで、長期間強姦した女を
一人で囲ってたのか?(藁
>>78 俺には嫌な話だったから、詳しいことは分からんよ。
じい様たちが処罰されたかどうかも知らない。
話から察するにされなかったみたいだけど。
民間がどうとかも分からないな。
ただ、「タダでできた」みたいなことは言ってた。
それと、今考えればじい様たちの話に「慰安婦」とかの言葉はなかったな。
その当時はそんな言葉がなかったのか、あえて使わなかったのか。
とにかく詳しいことはよく分からん。たぶん誰もわからないだろう。
処罰がどうとか、民間だからどうとか。
だから、今になってイチャモンつけられてもどうしようもないってのもあると思う。
反論の仕様がないよな。分かんないんだもの。
分かるのは、酒にようと嘘か真かそんな話をするじい様の集団が
俺の田舎にいたことってだけ。
それからどういう印象を持つか、でしか当時を察することはできない。
>74
「俺は何人孕ました」って妊娠がわかるまで、長期間強姦した女を
一人で囲ってたのか?(藁
あ、「何人」だから少なくとも数人の強姦した女を、一人で妊娠が
わかるまで囲ってたんだな。
ますます、すげーや(驚
きっとそのじい様たちは戦争中、スルタンみたいな生活していたんだろう。
千夜一夜物語の世界だな。(w
82 :
46=47:04/03/25 17:25 ID:AwIkxx/8
皆さん、ご意見ありがとうございます。
>>74氏にはもう少し詳しく聞いて措いて欲しかったですね。
>>46-47はある掲示板(消滅)に2年程前に書き込まれたものなのですが、
>>46の文章の書き手を仮にA氏と呼び、
>>47の文章の書き手をB氏と呼ぶ事
にしてもう少し彼らの文章を紹介してみることにします。皆さんを考えを
是非お聞かせ下さい。
>>1氏や
>>36氏のおぢい様の意見も聞きたいですね。
スレ汚し失礼。
【B氏の書き込み2】
処刑するに値する人間であったかどうか、疑問ですが・・・・
彼は、西暦では語りません。支持政党は自民党ですが、この前の衆議院議員選挙
(参議院議員ではありません)のときは白票を投じたと言っていました。
どうしても「中国」とも「韓国」とも言えんと言っています。息子さんに批判さ
れて、息子の言い分がよく分かるけれど、ワシラの時代が終わらんと、どうにも
ならんそうです。 時代は、学徒動員より前のことらしいです。
テープは無理です。もう一度初めから語って下さいというだけでも無理でしょう。
棺おけに持っていく話や。まだ誰にも話したことがないし、これからも言うつも
りはない、といいながら、それ以外のいろんなことも話します。
夫にすら見せない、纏足の女性の足を見たこと。「見られたら切腹ものや」のに、
無理やり見たとか。。
質問するにも、上手なタイミングがいりますが、私には話したくて話している様子
ですから、出来ると思います。私とは、考えが違うのはお互いに知っています。あ
るいは、だからこそ語るのかもしれません。私は、彼個人を人殺しだとか責める気
持ちを持たないどころか、人間として尊敬もしています。しかし、どうしようもなく
つらくなることはあります。生の差別心を見せられる時です。そんなときも、ほと
んどは反論せずに聞いています。私の顔色を見て、彼がそれ以上を言わないでいて
くれますから。自分の差別心を理性的には否定しながら、「わしらは身に染み込ん
でるから、死なな治らんねん」といいます。それを追求しても仕方がないと私は
思っています。
83 :
46=47:04/03/25 17:26 ID:AwIkxx/8
【B氏の書き込み3】
お友達である お爺さんも、「支那人は立派だと」も言います。学のある人は大人
だったと。通訳として使っていた支那人、招かれて自宅へ行った学者の家 誉める時
にも、彼は支那人と言います。
でも、やっぱりチャンコロと言うのとさして違わないニュアンスで語ることが多いです。
まして最近日本で起こっている中国人の犯罪などを語る時は、民族性だといわんばかり
の語り口調になります。
84 :
46=47:04/03/25 17:26 ID:AwIkxx/8
【A氏の書き込み2】
私が聞いたのは東北部としか聞いておりませんし、調べたら所属部隊や体験した時期も
明らかに出来ましょうが、話の内容が内容だけにこれ以上は明らかにするつもりはあり
ません。(本人の名誉にも関わることですし、内輪の話として聞いたことを亡くなった
本人の了解も得ず他人に話したという私の負い目も感じますのでご勘弁いただきます)
因みに彼は軍刀を拝せられたので、一般の兵士とは少し違った環境であったように思い
ます。戦後は公務員として働き、退官後の老後生活を送る中のとある日(お盆に私が家
族に連れられ帰省した折りだっとと思います)その話を聞いた記憶があります。
少し過激な内容ではありましたが、私は全てが極悪非道であると旧日本軍を規定はして
おりません。むしろ皇軍としての規律は世界中の当時の軍隊としてはトップの部類に属
するとは思いますし、またその厳しい規律も諸国の軍隊よりは全体的に良く守られてい
たとの認識があります。
>遊びぢやないでせう。
よくぞ言ってくれました。
通常の感覚が麻痺するそうです。あのクローズドな空間、非日常的な集団生活、途切れ
ることのないある種の緊張状態では私にも彼らの行動を一方的に非難できるかといえば
自信がありません。
でもはっきりと言いますが、本人からすれば「遊び」が入っていたということなのでよ。
ついでに思い出しましたが、切り取られた頭部は「西瓜」と呼んでいたそうです。
85 :
46=47:04/03/25 17:28 ID:AwIkxx/8
【A氏の書き込み3】
それが企業内で行われた事であって、極々一部においてのみ起こった事象としても我々が
彼らを平等に扱っていないとする反証としては妥当であるとは思えません。私が挙げた例
が日常茶飯事的に行われていたかと言えばそうでもないし、民間レベルでの友情もあった
し、非常に恐れられていたとする憲兵も凡そ今の警察官以上に頼られていた存在であった
ように聞いております。日本軍が駐留するようになり、それまでの治安が嘘のように良く
なったことも聞きますし、また旧日本帝国が行った統治政策も教育、社会インフラの整備、
産業育成等プラスの面が多々あるのも承知しております。
だからといって決して平等に扱ったと言える待遇を彼らに与えていたかと言えば無理があ
ると私は思います。人間として生きていく場合に尊厳というものがありますが、親から
代々与えられた名前を公に名乗れなかったというのは、人間としての扱いをしていたと
する根拠を覆すのに充分な例だと思いますが・・・。
そして我々と全く同列に扱う事を大多数の我々は許さなかったというのが、本当のところ
ではないでしょうか?
【B氏の書き込み4】
これは、南京の話ではなく「北支」の話です。南京事件の時の 兵士の証言ビデオは私
も見ましたが、全く違う話です。よく比べてみて下さい。私の仲良しのお爺さんの実際に
たちあった話です。
86 :
46=47:04/03/25 17:28 ID:AwIkxx/8
【B氏の書き込み5】
そのお爺さんの話でも、「軍律厳しい」という言葉はよく出て来ます。ただ、それは軍隊
内の規律という意味合いが強い気がします。親の目の前でレイプして一家皆殺しにした
上官も、そのせいではなかったようですが、別件で処罰を受けたということです。ただ、
現地の人に対する蛮行に対して、どれ位厳しい規律があって、それが守られたかどうかは、
疑わしいと思っています。
【A氏の書き込み4】
更なるトピずれになるのですが、私は以前に支那人とチベットに関して意見交換した
ことがあります。対する人から返ってきた内容はおおむねこうでした。
「恐ろしく前近代的で非科学的かつ野蛮な彼等の宗教は悪である。でも我々の寛容さ
でその宗教ですら庇護し、なおかつ我々がかの地を豊かにせんがため我々も血と汗を
流しながら同胞と協力しあい、現実に以前よりは遥かに恵まれた環境になりつつある
のだ」と・・・
旧日本帝国が植民地支配をしていたときの口実と類似性を見い出すことはできませんか?
今のチベット人でも入植してきた漢人にたいし友情も抱く人もいれば、中共の政策を良し
とする人も、積極的に同化する事に賛成な人もいるのです。
だけれども私はそれに反発する人たちに共感するのです。
私ははっきりチベット問題に対して中共を非難したいのですが、しかし非難する前に我々
の過去をも誤りとしなければ我々が矛盾を抱えることにはなりはしませんでしょうか?
もちろん当時の列強による植民地支配の時代と現代とを簡単に比較するには問題もある
のですが、でも本質はさほど変わらないのではと思うのです。
このような事もあり、わたしは自国の歴史に誇りを持つ反面、過去の歴史に対し批判も
行わなければ国際的発言も意味をなさないと思っているわけです。
87 :
46=47:04/03/25 17:29 ID:AwIkxx/8
【A氏の書き込み5】
私がこの話で注意を引く部分は女性の局部に云々といったくだりであります。有名な通州
事件のように現地人による日本人に対する屠殺においてはあきらかに単なる殺人・レイプ
事件とはことなり、なんらかの怨恨が犯行の動機の一つと見なされるような証拠が認めら
れたようです。そのうちの一つに先ほどのような惨い方法での殺害があったようですね。
彼等の身内が日本軍により殺されたとか、財産が没収されたとかの推測が彼等に対しては
容易に推測出来るのですが・・・
お話の内容を伺うに、少なくとも3人以上の犯行、そして小隊内における組織的犯行によ
るものと推測されますが、何かしらその犯行は単なるレイプ以外の目的があったのでしょ
うか?それとも現地の盗賊による犯行に見せ掛けるための偽装工作だったのかな?
そうであるなら日本兵が外に出て見張りをしていたというのだから現地の人の服装を偽し
てまでの用意周到なる行為であったのかな?むろん当時の軍律であれば連帯責任として、
全員が銃殺刑間違い無しだと思うのですが・・・
もちろん軍による性的犯行と言うのは現代でも在日米軍による犯行などにより
イレギュラー的にでも起こりうる犯罪だとは思うのですよ。
わたしが俄に信じがたい犯行としたのは冒頭に申し上げた部分なのですが
もしよろしければ、あなたの知人に再度お聞きしていただけませんでしょうか?
個人的に非常に興味をそそられる話でありますもので・・・。
88 :
46=47:04/03/25 17:30 ID:AwIkxx/8
【B氏の書き込み6】
予備知識の無い状態で私が聞いて、理解した内容は単なるレイプ目的で、偽装とか他の
目的とかか、考えずに聞きました。見張りの服装も、特に変えたとは聞き及んでいません。
一人の上官が、初年兵何人かを見張りにつけたんではなく、何人かの上官の仕業だと記憶
しています。おそらく小隊全部でと言うようなことだったと思うのですが、ともかくこち
らの理解力が、どの程度であったか、自信がありませんし。自分では、顔色変えずに聞く
ことにしているのですが、その時の衝撃から考えて、自分の顔色にまで自信がありません。
単に聞き役に徹していました。質問などは全くしていません。もう一度質問しに行きますが、
自然な状況にしたいので、しばらく待ってくださいね。頑張って聞いてみます。
【B氏の書き込み7】
入隊3ヶ月の初年兵であった時に、三年兵と四年兵がやったことだということです。
管理職に当たる、将校(仕官と同じなんだそうですね。私は兵隊の位も知らんので、会社
組織に直して話してくれました)になんで訴えへんかったのか聞いたら、そんなことをし
たら、殺されてたかも知れん、との事でした。人が来たのでそこまでしか聞いていません。
娘さんには、人殺しとか言われて、孫には軍隊へ行った話もしないでくれと言われている
そうです。元軍人どうしよく集まったのは、言わずともお互いに分かり合えるものがあ
ったから・・・・・平和の中で育った人間には、殺さなければ殺されるあの状況を絶対に分か
ってはもらえないと。それでも、人を刺し殺した感触は、絶対に忘れることが出来ないと、
こんなことは今日ではなく、以前に聞きました。
>>81 ニュアンス的には「囲ってた」ような言い方だったよ。
詳しいことはよく分からん。
>>74 おまえ、そーゆー時って、威勢良く見栄張ってるって言う
「アルコールの入った仲間内の馬鹿話」特有な状況「も」あるって
理解しとけ。
厨房や工房が「なんとなく童貞じゃなくなった、と思わせぶりたい」のたぐいと
大した違いが無い、ってことが凄く多いんだぞ。
隣組とかで飲み会になって、帰り道々改めて問うたら、
「ありゃぁ言ったもん勝ちだ。実際、任地なんか似たり寄ったりの部隊だのに、
誰も知りゃせん。ほんどなら、ほかのモンが本人をからかっとるわな」
と聞かされて、ほっとするやらアホくさいやら馬鹿馬鹿しいやら情けないやら・・・
91 :
日出づる処の名無し:04/03/26 01:02 ID:qiuBN9e1
それと。
だらだらとコピペを繰り返している46=47
漏れ個人としては、スレ荒しだと思ってます。
ひさびさ良スレなのに、勿体ないつうか、
どうしてもこうなるんだろうねぇ。
誰でも、どんな意図を内包してでも
書き込めるわけだから。
実際、「身内に聞いた見た」「近隣の老人に聞いた見た」と、肉声ベースで進むはずが、
どこのなにとも解らないページのコピペだ。それも「消滅した」と言うなら、何でもありだよね。
これでスレの進行方向が崩れて、並のスレになっていくんだろうな。
漏れもID変えて、左巻き市民派あたりのページからコピペ原稿集めて貼ってみようかな。
掲示の意図、なんてどうとでも書けるし。
92 :
1:04/03/26 01:14 ID:I09Obqb0
いやあの・・・・
>>46-47&
>>82-88 正直、どれが質問だかわかりません。
さすがに「これ読んでこういうことがあったか祖父に聞け!」と言われましても
祖父は目が悪いので、ノートPCのディスプレイを長時間見せるわけにも行きませんし、
体力を考え、1回1〜3時間だけしか対談できませんし、質問できません。
んで、祖父の話は飛び飛びになるので、
このあいだの少量の質問ですら2時間ほどかかりました。
できればもう少しまとめてからお願いします。
簡潔に。
>>92 当分は、無視してていいんじゃない?
>>91の言う通り、あれは「荒し」か「煽り」だろ。
本気で聞きたいなら、最初から、まとめた箇条書きにでもして来るもんだよ。
94 :
日出づる処の名無し:04/03/26 06:43 ID:Y6h9VcoF
>>89 全部でどれだけの日本人が当時大陸にいたのかは私にはわからないけど、
100万人以上いたんじゃないのかな。
その中で例えば100の強姦略奪例をあげても彼等全員を描写しきれない。
もちろん、100の善行例をあげられても同様ね。
でも、(例えばの話)強姦略奪例だけを100挙げられても
日本人は!日本軍は!と十把一絡げに論じることはおそらく間違っている。
根本的に法と軍規が施されていた事実はうごがしがたいのだから。
もちろん、全く無かった!と主張するのもどうかと思うけど。
>>77 「便所みたいに女が並んで」
慰安所にしきりがなくて慰安婦が並んで寝てたってことじゃないのか?
「地の(土地の、か?他の、か?)嫌がる娘っこ」
自分の意思に反して慰安婦として売られたのもいたわけだから
「嫌がる」=強姦とも言えんわな。まあ強姦の可能性も否定できないが、
それは普通に犯罪者だ。強姦という犯罪があったことは従軍慰安婦が
いたこととは結びつかない。
ちなみに前提だけど、「従軍慰安婦」という言葉は後世の造語で、リアルタイムでは存在しない。
97 :
名無しの孫:04/03/26 11:40 ID:bfkosHzr
おいらのじいちゃんの話
当時の事を知る人がほとんどいなくなってしまったので、確認できない。
だけど、ここなら何かがわかるかもしれないと思って書きます。
亡くなったおいらのじいちゃんは、防疫部隊で武昌まで行っていたらしい。
当時の支那は不衛生で、敵の武器よりも水や食料のほうが怖かったらしい。
九州大学医学部でチフスなどの伝染病を研究していたじいちゃんは、
防疫部隊に配属、上海から上陸して前線に向かったらしい。
らしい、らしい、ばっかりでもうしわけないが、おいらも母親やばあちゃんからの
聞き伝えでしか知らないので勘弁して欲しい。
98 :
名無しの孫:04/03/26 11:53 ID:bfkosHzr
こんなエピソードを聞いた。
当時、じいちゃんの所属する部隊の誰かが、現地の女性といい仲になってしまったらしい。
ところがその誰かさん、内地には妻子が居て、いろいろあった挙げ句その女性と心中してしまった。
心中だと戦死じゃないから軍人恩給が出なくなり、残されたご家族は苦労する事になる。
そこでじいちゃんは部隊長の許可をもらい、死亡診断書は疫病による病死として提出した。
悪い事はできないもので、それが発覚、じいちゃんと部隊は最前線に出る事に。
その後幸か不幸か自身もマラリヤに感染し、内地に送還。療養中に終戦。
事実かどうかはわからないけど、
とりあえず書いてみました。
99 :
名無しの孫:04/03/26 12:01 ID:bfkosHzr
ageちまった。大変失礼しました。
じいちゃんは戦前から支那が大好きで、戦争が終わったら上海に渡って開業したいと言っていたらしい。
じいちゃんの実家やばあちゃんの実家からの猛反対で実現しなかったけど、生まれた娘(おいらの母)や
息子(同じくおじさん)には向こうにちなんだ名前を付けたという事だ。
じいちゃんが死んで20年、おいらが3歳の時に卒中で呆けてしまったので、まともに会話をした記憶はない。
じいちゃんは戦後、支那での話はほとんど口にしなかったらしい。
100 :
日出づる処の名無し:04/03/26 12:08 ID:JHkHOY8G
終戦間近、祖父は九十九里浜に配置されていたのですが
ご飯の話が面白かったです。
当時の祖父がいた部隊では
米と大豆を一緒に炊いていたそうです。
名前が大豆飯と言っていたのですが
これを作るときは当番制になっていて
当番になった人は、炊いたご飯とは別に
炊いた後のお焦げも食べていたそうです。
因みに、お焦げは美味しかったそうですが
大豆は時間が経つと固くなるのが難点だったそうです
あーそういえば俺の名前も中国にちなんだ名だねー。
じじぃは中国でデパートとかいろんな店を立ち上げて
儲けまくってとにかくインフラを作るっていう軍の仕事だったらすぃ。
なんでそれが軍の仕事だったのかは全然わかりまてん。
親父の名も「正義」っていうそれ計の名前だし。
※僕の名前は勘弁ね。
102 :
24:04/03/26 14:02 ID:7xquN0MU
103 :
日出づる処の名無し:04/03/26 14:23 ID:1EEUJGGm
戦後すぐ、食料のないとき
台湾の人がよくバナナをくれたらしい。
よほど感謝しているらしく
私が台湾に行くとき、いつもその話を私に言う。
でも、むっちゃ嫌韓。
戦時中、じいさんが中国からお宝をどかーっと送ってきたとばあさんが言ってる。
中国の旧家から××したんだって。
確かに家の蔵に収まりきらないくらい中国の陶器や書画骨董が押し込んである。
出所がわかったらやばいから鑑定団が近くに来たときも黙ってた。
うちの祖父は戦前上海に行ったことがあったらしい。
それでこんなこと言ってた。
「いつの日かシナの軍が上海にぎょうさん来てな、それで大砲とか撃って来たんや。
もう怖かったで、うちの方にも砲弾が飛んでくるんヤ。仲良かった外国人の家
には砲弾が当たったらしくてな。でも不発だったんやけどね。」
ちなみに祖父は軍人ではありません。
「ほんでしばらく経ったら陸軍が助けに来てくれたんや。陸戦隊かどうかは
知らんけど。強かったで〜ほんま、あっという間にシナの軍を駆逐したんや。
海軍も来たらしくてな、艦砲射撃しとった。艦砲って言うのはすごいもんでな、
遠くにいるのに音が体を振るわすんや。」
自分が思うにこれは第二次上海事変だと思うのですが、どうでしょう。
戦時中、うちの祖父は巡洋艦の「青葉」に乗ってた時があったそうです。
その時の話でとても変わったおもしろい(?)砲術兵がいた話を
してくれました。その海兵は海軍暦も長く、どっしりとした体格で
腕力は空手か何かの教官をしていたらしくすさまじいもので
学歴も早稲田だったとか・・・・
しかし、海軍の規則とかが大嫌いで一度そのことで問題をおこし
同僚を一人殺してしまい軍法会議にかけられましたが優れた砲術が
あったために殺されはされなかったそうです。
その優れた砲術は本当にすごかったらしく砲弾を片手でわしづかんで
(砲兵の規則で素手で砲弾を持つことは危険なため禁止されていた)
やるために時間もあまりかからず連発で発射でき命中率もよかったそうです。
しかし服装のことで(海軍帽などを横にかぶったり刺青を首にいれたり)
陸兵に馬鹿にされそのことでキレてその場で撲殺してしまい
二度目の軍法会議にかけられ射殺されることになったそうですが
それは表向きで実は海軍がひそかに逃がしてやったとかやってないとか
駄文でした
107 :
日出づる処の名無し:04/03/26 20:53 ID:7xquN0MU
サイパン島だと思うが、
南洋諸島の日本軍の軍事基地が
警戒の手抜かりのおかげで米軍の空襲を受けて大きな被害を
出し、司令官は更迭された。そのころの話だが、
ある時、空襲跡の穴だらけの滑走路に零戦が数機着陸してきた。
穴をよけて滑走路を蛇行しながら着陸してきたそうだ。
離陸も同様にして、飛び立って行ったそうだ。
「あいつら、ドエラク腕のいい奴らだったなあ」
と、それを見ていた彼は慨嘆していた。彼とは、バイト先の事務長で、
南方で米軍の捕虜になって英会話を覚え、戦後は英会話で
食ってたそうだ。20年前の話。
108 :
日出づる処の名無し:04/03/26 21:56 ID:bltF5FrJ
>>94 もちろん一括りにするつもりはないよ。
ただそんな話しを聞かされたっていう体験談のつもり。
他にもいろんな話を聞いたしね。
戦争と関係ない話では、昔の映画事情。昔はニュースとエロ映画ばっかだったって言ってた。
普通の映画なんか誰も観ないんだって。
手回し式の短篇映画も、影絵みたいなアニメも、エロばっかだったってさ。
よくNHKなんかで昔の映像なんか紹介してるけど、じい様に言わせればあんなの嘘っぱちだとさ。
あの頃のエロ映画はどこ行ったんだろな、って言ってた。
俺の母方の曽祖父は、日清日露の戦争に軍医として従軍し、
時の首相からじかにお褒めの言葉を戴いたこともあったそうな。
しかし、その息子である祖父は、弱視のため丙種で徴兵を落っこちてしまった。
そのため「お医者様の家は得ね」とか嫌味言われて、結構白い目で見られたとか。
はだしのゲンみたいな露骨な嫌がらせはなかったそうだが、
「戦争に行かない奴は卑怯者」見たいな空気が、多少は在ったらしい。
111 :
日出づる処の名無し:04/03/26 22:27 ID:7xquN0MU
多少は、ではなかろう。
「一家の大黒柱」をとられた家族や
ダンナをとられたカミサンの気持ちを考えてみな。
戦地に行かないなら、「ごくつぶし」扱いは仕方あるまい。
いのちだけは、安全なのだから。
いやいや面白いスレっすね
漏れは浅学なんでいい質問が思い浮かびませんけれども・・
因みにウチのじいちゃんは石川の学校でまったりと校長やってたそうです
空襲もなかったみたいだし外に行ってた人から見ればぬるい、のかなぁ?
>>108 さすがにNHKでブルーフィルム流すわけにもいかんのでは(汗)
男衆が集まるとどうしても下がかった話にいっちゃうようなので
1さんみたいに1on1の方がじっくり聞けるやも
うちの祖父は軍属だったようだ。10年以上前死んだので詳しい話はしらない。
天津で祖母、母と3人で住んでいた。終戦時8歳だった母は国民学校通っていたが、
近所の中国人の子たちとも良く遊んだらしい、祖母が「(中国語で)日本の子供遊ぼうよ」と
よく来ていたよと生前言ってた。
祖父はいこじなところがあった人なので日本人と中国人、朝鮮人は同じとか対等に扱うような
人ではなかった筈だが、そんな家にも子供が遊びにくる様なら民族が違ってても結構仲良く
やってたんだろう。
非常に興味深いのでさっそく読ましてもらった、これからも
>>1とお爺様に期待している
あとさ、じいちゃん大切にな。
115 :
日出づる処の名無し:04/03/26 22:58 ID:7xquN0MU
>>112 おまい、もっとよく考えろよ。
校長やってたなら40−50代だろ?
その歳で兵隊に引っ張られるっつう事は、
破れかぶれの負け戦なんだよ。
「本土決戦」でのゲリラ戦の参謀役が、
校長さんの役どころだな。
じじいやガキが出陣するっつうことは、
戊辰戦争の会津藩や二本松藩で知られる。
白虎隊や二本松少年隊はガキなんだぞ。
おまい、もっと勉強せんとアカンぞ。
116 :
日出づる処の名無し:04/03/26 23:08 ID:EqTReW4U
>>1 君の爺さんエリートじゃないか。湘南中学って、今の湘南高校。
慎太郎の先輩だよ。
117 :
110:04/03/26 23:19 ID:HYZghkeo
>>111 「ごくつぶし」扱いというよりも、
「親のコネで徴兵逃れをした」と思われたらしい。
んで、家ぐるみで白い目で見られたんだと。
従軍慰安婦という言葉が出る度に怒ってた事を憶えてる。
売春宿がしつこく回ってついて迷惑してたと。どこにでもついて来たらしい。
119 :
日出づる処の名無し:04/03/26 23:40 ID:7xquN0MU
なるほどね。
商売になるんだろうなあ。
韓国で「従軍慰安婦」とかで道ばたにころがって
泣き叫ぶ婆さんも、その中にいたのかねえ?
船を沈められて死に損なった
マラリアにかかって死に損なった
目の前に爆弾が落ちて死に損なった
らしい
>>102 すでに左巻き絶好調な昭和30年代を出して、煽ってみたものの
スルーされて、なおこだわる。・・・珍しい真っ赤っかサヨだなぁ。
なりたてホヤホヤの媚中サヨか?おまえの諸先輩たちは、
もう少しオトナだぞ(プゲラ
122 :
1:04/03/27 00:58 ID:WgLtmg7X
>>102 え〜と、申し訳無い、一応会社員なので、実家に行くのは毎週土曜日だけの為、
まだきけてねーっす。つーことで今日聞くリスト
>>28 >>32 >>33 んで、まぁ今回は質問も少ないんで、
「戦争でその頃ぁ辛かったけど、今なら笑える」
みたいな話を中心に聞こうかなと思ってます。
こういうことのほうが歴史に残らんしね。
以上
こっそりサイトUP
123 :
1:04/03/27 01:18 ID:WgLtmg7X
ちっと気になったし、あれる原因だと思われるので、サクッと止めに入ります。
>>121 極右極左右翼左翼右より左よりど真ん中
正直、私はどうでもいいです。
ただ単純に、過去が知りたい人で、悪意が無ければ、
極右だろうと極左だろうと、質問をしてほしいです。
祖父が答えれそうなことなら、
質問のあった日の次の土曜日、祖父に聞いてきます。
私に土曜日の別の予定が無ければ。
>>95 言葉足らずでしたね。申し訳ない。
じい様の話は要するに、軍隊の中には
女が便所のように並んで、タダで男の相手をする小屋があったそうな。
だけど、みんなそんなのより土地の女のほうがいいんだって。
じい様が死んで、何年か経ってから俺は「従軍慰安婦」という言葉を初めて聞いて
ああ、じい様の言ってたあの小屋のことか、と思ったわけです。
後から文句言われても、仕方ないような話だったんだもの。
違うならごめんよ。
とにかく話を聞かされてたときは、「俺の従兄弟が中国にいるかも知れないのか・・・」
と思春期真っ最中の俺は嫌な気分だったんだ。
>>109 「エロかもん」とか「やらしかもん」(九州なので)とか言ってたなあ。
当時は何て読んでたんだろ?
ぜひ
>>1にはこういったエロ事情も聞いてほしいな。
なんか俺、エロばっかだなあ・・・
126 :
日出づる処の名無し:04/03/27 21:15 ID:V8eLO9TM
質問があるんだけど、敗戦直後の混乱期に在日が国内で暴れ回ったよね。
そのとき、農家の人を殺したりして、農家を乗っ取ったっていう例はあるの?
なんか、いかにも半島系って感じの農家があるんだけど、、。名前的にも、、。
スレ違いかも知れませんが、詳しい人いたら教えて欲しいなぁ。
127 :
1:04/03/27 22:29 ID:WgLtmg7X
>>28 祖父:そんな何千人も居たかどうかは知らん。
少なくともおらっちの家の周りには居なかった。
んでもその頃東京の方から、(朝鮮人に関する)噂が流れてきてな、
襲われたら返り討ちにするって為に、若い25〜30くらいの人が
日本刀もってほっつきあるってたのは見たな。
>>32 中国軍に比べて日本軍の軍規は守られてたらしいな。
実際、俺んとこの隊で、強姦とかは無かったな。
暇な衛生兵とかがやったって話だが、
隊でそんなことやったとこなんぞ知らんなぁ。
>>33 1銭50厘の紙っきれで死にに行かされるんだ、嫌に決まってらぁ。
でも、やんなきゃなんねぇんだ。
以上、またサイトは明日にする。
>>127 一カ所だけ。
多分、「一銭五厘」である。10厘=一銭。
>>127 爺さんには申し訳ないが、赤紙が一銭五厘って言うのは間違いじゃないか?
召集令状は郵便じゃなくて地域の役所から直接届けられるわけだけど、
(そんな大切な書類が郵便で届けられるわけがない)
届ける人が何時何分に届けたとか詳細な記録が残るくらいだから、
世間でよく言われるように「たったの一銭五厘で死にに行かされる」と言うのは
違うと思うんだが。
>>129 当時は本籍地と現住所が離れてる人が大勢いたので、
郵便で送ることも多かったんだと。
131 :
1:04/03/28 20:01 ID:j1lH3ae4
>>128 失礼。たしかに一銭5厘といっていた。
指摘THX
>>129 とりあえず郵送だったそうな
つーか、戦争末期のほうは赤紙といっても赤くなかったらしい。
133 :
129:04/03/30 19:39 ID:kb47EYmk
134 :
日出づる処の名無し:04/04/01 19:54 ID:++Qh9kEa
定期保守上げ。
135 :
日出づる処の名無し:04/04/01 22:27 ID:6IlQ8ESh
母方曽祖父(母方祖母の父)、元海軍軍人(階級は知らん)。
昭和初期に30過ぎで退役し結婚、帰農。戦争には一度も出なかった人。
70過ぎまで生きて老衰と心臓病で大往生。
囲炉裏で燻して作る自家製ハム入りの「海軍カレー」と「肉じゃが」が得意料理だった。
母方祖父、農家本家長男。職業軍人を夢見て叶わなかった人。
昭和18年17歳の時、夜中に家出を試みるも既に父親に気付かれており
自宅から4キロの地点まで逃げた地点で
ゆうゆうと馬に乗って追いかけて来た父親と男衆に囲まれあっけなく捕まる。
蔵に押し込められた上、朝まで父親にボコボコに折檻されてしまった。
上手く逃げ切れたところで軍に入れた筈もないけど、未だに口惜しくてならないと
時折問わず語り。
136 :
戦後民主主義はクソだと言った偉大なる祖父:04/04/01 22:51 ID:SVA34hnv
137 :
1:04/04/03 00:06 ID:zrkd9bnn
諸般の事情でサイト更新を先週行えませんでした。陳謝します。
更新は今週分とあわせて行います。
んで、今週は皆さん質問無いんすかね
ん、1さん。
爺ちゃん以外の戦争体験はありなのか?
139 :
日出づる処の名無し:04/04/03 00:53 ID:BC/9xJgP
ホシュしとかんと。
140 :
1:04/04/03 02:49 ID:zrkd9bnn
>>140 dクス
うちの爺ちゃんは戦争当時まだ子供で、B-29の爆撃受けてた。
ある日防空壕に逃げる途中で目の前に焼夷弾が落ちてきた。
もうダメだと思ったが実は不発弾。目の前の地面に刺さっただけでそのまま防空壕にたどり着けた。
で、毎日雑草やらを食ってたと。(その頃婆ちゃんは田舎で白米食ってて、後に聞いたときは心底羨ましかったそうだ)
あとは爺ちゃん兄。特攻隊出撃前日にストレス性らしい蕁麻疹大量発生。
そこで上官が「どうせ死ぬなら実家の畳の上で死んで来い」と除隊。療養中に終戦・・・・。
で、もう一人の爺ちゃんは日中戦争の時陸軍歩兵で、補給部隊にいた。行軍の際落伍して前線には行かなかったらしい。
めんどくさいからわざと落伍したとも・・・・('A`) 戦闘には遭遇した事が無いって。
>>137 戦後の三国人の暴動について聞いておいてちょ。
どれだけ日本がえらい目に合わされたか記録よろ。
>>137 あとは植民地化されたなどとほざくチョソが山盛りいるが
半島に対してどれほどの文明化・投資等がなされたか爺っちゃんの私見を。
チョソは欧米諸国がやったような植民地にありがちな手ひどい扱いをされていたのかどうかという点を聞いておいてちょ。
つまり朝鮮併合に関連するあらゆる事を聞いておいてちょんまげ。
144 :
1:04/04/04 00:40 ID:MI25wwB2
>>142-143 え〜と、142に関しては聞けまへんでした。
終戦して1年は日本いませんでしたしな。
143に関して。
祖父:鉄道に関してだけ言えば、あすこ(朝鮮半島)じゃ満鉄がはじめてだべ。
んでおらっちが行ってた朝鉄。交通のインフラつー意味じゃ全然整ってなかったんだなぁ。
それを整えたっつーのは、まぁ日本のおかげだろーなぁ。
まぁ、賃金は向こうの奴(朝鮮人)のほうが安かったとか、上のほうの職につけねぇとか、
そーゆーのはあったけど、そんなん今の大卒と高卒のちげーみてーなもんだ。
奴隷みたいな扱いはされてねぇと思うよ。
鉱山に強制連行とかよく言ってっけどよ、俺達だって戦場に強制連行されたんだ。
なんの違いがあるのかと思うよぉ。
だそーだ。
サイト更新は日曜に帰ってこれたらやりまふ。
このスレの存在、今日はじめて知り、興味深く読ませてもらいました。
朝鮮総督府の役人であったとあるので、朝鮮について聞きたいと思います。
当時の朝鮮人に聞いたほうがいい質問もありますが、聞く機会もないので、内地から
赴任してきた日本人の目でどういう風に見えたかだけでも聞けたらありがたいです。
質問>
朝鮮語は街中で堂々と話されていたのか。
ハングルは使われていたのか。
創氏改名についてどう思うか。
朝鮮の人たちにとって、内地の日本人や天皇陛下はどういう存在だったのか。
朝鮮の人たちにとって、自分が大日本帝国臣民であることをどういう風に思っていたか。
朝鮮の独立運動は、朝鮮の庶民にとってどういう風に思われていたのか。
>>145 1じゃないけど、まあお目汚しに。
朝鮮総督府下の逓信系小役人が父親だったっつーのが、俺の祖母さん。
半島で暮らしていたときのことは、けっこうしっかり憶えている。
官邸をあてがわれていて、常時住人くらいの朝鮮人使用人が居たとさ。
朝鮮語は、屋敷内でも別に普通に使っていたそうだ。
実際日本語を喋れるのは一部だったと。
だから外部のことかは、自然と耳に入らなかったんだと。
一般日本人のほとんどは、半島実情に無関心でもあったと。
印象なのは、屋敷内で働く使用人朝鮮人たちが、他(どこかの村だったらしい)には
何故か威張っていたこと。
地元村らしいところは貧しく、子供はボロ姿で歩いていて、ロクロク飯も食ってないような痩せっぷり。
ある日、祖母さんは、庭を散策していて、屋敷内に入り込んだ村の子供を見つけたんだが
知られると、その子供はボコられるし、かといってハラ減って動けなさそうなのも放置でけんというんで、
部屋にとって返して、自分用のおやつのリンゴを持ってくると、
わざと一口囓って投げたんだそうだ。
他に、もし見つかったら、捨てた・・・と言えるように。
子供は、あっちゅー間に掴んで逃げていったが。
二度と来ることはなかったそうだ。
147 :
1:04/04/05 01:16 ID:K/yMHJXt
一応サイト更新age
ハングルに関してはなんか使ってたと言ってたなぁ。
祖父の現場監督時代は、とりあえず両方使ってる奴と仕事してたそうな。
もいちど次回にききまふ。
>>146 ちと外れるが、リンゴの逸話で思い出したもんで。祖父の話。
祖父は戦前から戦時中にかけて北京におった。
独り者だし、当時の「ニッポンダンジ」でもあり、当然のこと料理なぞできやしない。
とは言え、給金はそこそこ貰っていたので三食外食したところで困るフトコロではなかったそうだ。
出前で汁ソバを注文することもあったそうだ。で、小僧さんが配達に来るんだが。
「日本の出前と違っててな、食い終わるまで小僧が帰らないで待っとるんだ。
で、だな。ソバがうまくても、全部食っちゃいかんし、汁も全部飲み干したら駄目だ」
「なんで?残ってる方が失礼だて、ウチでも洗ってから軒先に丼出せ言うだろ」
「少し残してな、小僧に『おまえにやるよ』言うんだ。するとな、謝々!ってニコってして
一息に飲み込んでしまう」
「残飯じゃないか」
「味を盗む、言うこともあったろうが、当時は小僧のメシはソレだったんだ。だから、全部
綺麗サッパリ食っちまう客の処には配達行きたがらないし、そういう客はケチだと陰口を
叩かれたもんだ。
「給料つーもんがあったろうに」
「住み込みだと給料は無い」
冗談だろうと思ってオヤジから聞いたが、オヤジも子供の頃同じコトを聞いた、と。
ボケてたわけでも、孫をおちょくった訳でもなかったようで。そして、オヤジの補足。
「でも哀れに思って沢山残すと、店に戻って告げ口するから、次に店に食いに行くと、
コックが不味かったのか?とか聞くんだ。で気まずくなるので、あまり残せなかった」
とも言ってたなぁ。だそうで。
>>1 さんへ
ニュー速板から来た名無しです。HP見せていただきました。
ニュース極東板は怖いヒトのスクツと思っていたのですが(失礼
公正に事実を語られる >>1さんの姿勢は素晴らしい。
記事も大変、勉強になりました。
ありがとうございました。ぜひ、末永く ご活躍ください。
150 :
145:04/04/05 15:29 ID:uYwz56PF
>>146 どうもです。
当時の朝鮮の雰囲気がうかがい知れて興味深いですね。
他にもエピソードがあったら聞きたいものです。
>>1 次回を楽しみに待っております。
では。
151 :
日出づる処の名無し:04/04/05 16:29 ID:XnOQhj0D
>>150[戦時下の朝鮮]
黒田勝弘「韓国人の歴史観」文春新書p.49-50.抜粋
韓国の歴史教科書で1940年代が「空白」に近いほど簡単な記述に
なっているのには、いくつかの理由がある。
この時代こそ韓国人の日本に対する「協力」が最も進んだ時代であり、
「韓国の歴史」としては本当に思い出したくも触れたくもない時期
だったからである。教科書もいうように、この時代はまさに韓国人を
日本人にしようとした時代であり、実際に韓国人の多くは日本人に
なりつつあった。
「危うく日本人になりかかった韓国人」
これは当時を生きた韓国人の多くがそう証言している。
特に当時少年だった韓国人たちは戦時体制下の教育で意識は
90%以上、日本人だったと言っている。
筆者の知り合いの韓国人の証言によると、昭和19年の1944年春、
留学先の東京から一時帰郷した時、ソウルの韓国人街だった鍾路の
映画館に入ったところ、ニュース映画で上映される日本軍の戦況
に関するニュースに観客が熱狂する様子を見て驚いたと言う。
彼によると当時の東京の映画館でさえこれほどではなかった。
彼は「韓国人もとうとう日本人になってしまったなあ」と
複雑な心境になったと語っている。(続)
152 :
日出づる処の名無し:04/04/05 16:44 ID:XnOQhj0D
(続き)韓国の歴史教科書には日本に対する「協力」の文字
はいっさい登場しない。国定史観としての「抵抗史観」
からすれば当然である。日本支配時代は「韓国人の歴史」
としては抵抗あるのみであって、協力などあってはならない。
あったとしても、それは見たくないし、しかもその協力は
すべて強制によるものでなければならないのである。
いわゆる従軍慰安婦問題で韓国側が「強制」にこだわるのも
同じ背景である。誤解を恐れずに書けば、従軍慰安婦の本質
もまた、戦時体制下の圧倒的な日本人化の流れの中での
「協力」現象だったと言うことができるだろう。
しかし「韓国人の歴史」としては、「協力」ではなく
「強制」でなければならないのである。
歴史において最も重要なものは想像力の問題である。
例えば従軍慰安婦問題でも相手が日本軍将兵で日本軍の
管理下というのは、当時の歴史状況からすればひょっとして
悪というよりむしろ相対的には善と言う位置づけではなかったか
というのが、歴史への想像力である。
「日本軍による保証」はむしろ安心と安全の証しになった
のではないかという訳だ。(引用おわり)
153 :
日出づる処の名無し:04/04/05 17:42 ID:XnOQhj0D
出稼ぎを目的として「密航」して日本に来た
在日朝鮮人が、
「強制連行」によって仕方なく日本に来させられたと
主張するのは、
>>152と同根の発想である。
朝鮮人に支配的な儒教の「祖霊信仰や身分制度」による
価値観では、歴史的事実を認めれば「在日は背徳の民」
である。そこで「強制連行」というウソをでっち上げて
「民族教育」を行い、民族的自尊心を得ようとするのだ。
同じく、韓国・北朝鮮では「在日は出稼ぎに出かけた
食い詰め賤民の子孫」だから、半島では差別されるのだ。
漏れの母親は満州生まれですが、なにか?
155 :
11:04/04/05 18:43 ID:GA7jk+Ep
>153
以前に韓国語学校@ソウルに通っていた時の話。
その学校には多くの若い在日韓国人も来ており母国語の勉強をしていた。
在日A:「で、日本のどこから?」
在日B:「○○」
A:「あ〜、○○と言えば××会社のあるところ、それはやっぱり強制連行で。
ウチの祖父も強制連行で無理矢理・・・」
B:「え?いや、その・・・(言いよどむ」
Aは常々、日本人を敵視する発言をしており、自分(日本人)が在日の
グループに混じって遊んでいることも気に入らないようであったが(それは
別に構わないのだが)在日社会の中でも「ウチの先祖は強制連行で来た
のではない!」とは言いにくい風潮があるのかなあ?と感じた次第。
スレ違いスマソ、ふと思い出したので。
157 :
日出づる処の名無し:04/04/05 21:00 ID:XnOQhj0D
在日はウソで固めた「強制連行」伝説をでっち上げることでしか
自尊心を持ち得なかった。
「民族教育」を放棄しなかった事が、原因だ。
「民族教育」には「民族の誇り」が必要だ。
誇りを持つためには、ウソでもでっち上げねばならない。
その結果、日本の売国勢力と組んで、
やりすぎた。
在日は「背徳の民」である。
158 :
456:04/04/05 22:09 ID:Jl7ZH/Wu
スマソ、チョソ叩きだけが目的の香具師や、コピペ主体のカキコは別スレで
おながい。ツマラン。
>>155 人が読み、人が解釈したものを、人に聞き、また解釈して、スレに書く。
こんな流れでモノゴトが進むスレに、
>>26の文章が、赤の他人にとって
まず、読みづらい
次に、解釈しにくい
更に、項目が多いように見える
と言うことを気づくべきである。
最終的に応える相手は「屁理屈を24時間こね回すのが楽しい青春小僧」ではない。
無礼であるが、黄昏の時代に入ったご老体である。
意味が斟酌できるだろうか?
>>26
160 :
日出づる処の名無し:04/04/06 01:10 ID:KxhZ6/RB
まぁ、まったりやれよ。
>>26について少し。
恐らくは当時の日本国民も、大東亜戦争に理想はあっても戦略
などないことをうすうす感じてはいたんじゃないかな。
ただ、少なくとも「自分の国の戦争」ではあった。
軍部の降伏は即ち自国の敗北と思っていたはずだ。
大勢の同胞を死に追いやる戦争をしたのは自分たちだという後ろ
めたさもあったのではないか。
GHQはそれを印象操作して、「軍部が国民をだましていた」という
構図を作り出し、国家権力と大衆心理を乖離させた。
責任者を自分たちから切り離し、これを糾弾することで自分は
免罪される。そういう「肩の荷の降ろし方」を教えられそれに甘ん
じた以上、戦後体制への移行というのは必然だったのかも知れん。
俺は戦後の人間なんで、これはあくまでも想像だが。
>>161 中共も軍国主義と日本軍民とを切り離したりしているしね。
国民が悪くない、悪いのは為政者だというのは、古今東西、
大政変を乗り切る際の決まり文句だ。
戦後の輿論が印象操作で迷走していても、異とするに足りない。
それを正そうという動きが出て来たのは慶賀すべき事態である。
163 :
日出づる処の名無し:04/04/07 00:17 ID:cXawcipj
良スレあげ
164 :
検閲:04/04/07 00:35 ID:L0tGjuGh
>>162 軍国主義→一部の軍国主義者
日本軍民→日本の人民
>>159 なにを持って君がそこまで言えるかは知らないが、
私の質問には多くの項目などありはしないが?
1の御爺さんに質問した内容はただ一つ、日本が自虐史観に陥るきっかけに
なった最も大きいと思われる戦争の大義についてだが、これをGHQによって
事実を完全に捻じ曲げられた事について、国民の反応を聞きたいというだけだ。
ただ、それには質問の背景というものを説明した上でないと漠然としたものに
なってしまう恐れがあるので、簡単ではあるが流れを書いたつもりだ。
その辺は聞き手である肝心の1も
>>27で理解してくれているように見えるが。
166 :
1:04/04/08 01:23 ID:tfQDonxO
まぁまぁ、マターリいきましょう。
>>165 >その辺は聞き手である肝心の1も
>>27で理解してくれているように見えるが。
その返事が無かったので、聞いてなかっただけです。
今週末聞きます。
>>165 べつに
>>159の肩を持つってわけじゃないけどさ。
あんた、3行に一回空行作って作文してみろ。
はっきり言うと「読みにくい」から「読まずに飛ばしたくなる」んだ。
>>166 度々で悪いがお願いする。
楽しみにしているよ。
>>167 それならそれで無理に読まずに飛ばしてくれれば良い。
幸いにも1は読んで理解してくれているわけで。
みなさん、大人になって、またーりと行きましょう。
せっかく、当時の話をきけるのですから。
170 :
1:04/04/10 17:20 ID:hmu+ZeD8
すんません、今日は聞きにいけねーぽ
明日行きま
いいんよ、1よ。
都合良いときにな。
無理せんでな。
172 :
日出づる処の名無し:04/04/11 10:10 ID:VdYepG7I
そうそう。
マッタリいきませう。
173 :
1:04/04/11 17:16 ID:khQji2ee
今実家に電話して「今から行くぞゴルァ」いうたら
「おら今日体調わりーからダメだぁ」
だそーで・・・
すんませんがまた来週ぽいっす・・・・
伯母は妊娠中に北支から引き上げる時、国民中共両方から殺されそうになって、
そのたびに日本人引揚者に助けてもらったそうだ。
一番最初に逃げたのが将校だったと。
>1様
お爺様体調が悪いのですか?心配ですね。
ご自愛くださいませとお伝えください。
少し趣旨がずれてるのかもしれませんが
お爺さまの子供の頃の一般的な
遊び(どんな遊びがあったのか、遊び方や遊び歌など)
食生活、様式(戦前のおかず、洋食は食べていたのか、ちゃぶ台などあったのかとか)
おやつ(駄菓子屋などあったのか)
などどんな生活であったのか知りたいです。
また、お爺様のお爺様の世代というのは、幕末の時代を生きた侍達が生きていたとおもわれます。
お爺様は、江戸時代の人と接した最後の生き証人といえるわけですが、その世代の人達の
思い出話を聞かせていただければ幸いです。
>176
あ、盲点だった。漏れもそれ知りたい。
178 :
日出づる処の名無し:04/04/16 10:26 ID:MpUm7lgR
http://yonosyobou.ld.infoseek.co.jp/sadakiti.html 定吉むかし語り
東川定吉・著
A5判、二百五十六ページ、上製本。税抜き定價・壹萬圓
--------------------------------------------------------------------------------
本書の著者は大正二年生まれの石工。兵役は鐵道隊で支那事變に從軍。北支で鐵道建設と
運營に携わる。戰後、石工を自營。後に病を得て、車椅子生活三十年の後、平成五年、逝去。
闘病生活中に書きためた「定吉留書」を抜粋して、編集したものが本書である。
内容は多岐にわたり、大正初めの伊賀の北と南の子供の遊びの違ひ、小學校生活など、幼
い頃の思ひ出や聞いた話、、石工の丁稚修行の樣子や遊びなど青年の頃の思ひ出、昔の古老
の話、、兵役訓練の樣子、從軍の兵隊の樣々など軍隊内での體驗、支那での體驗と觀察、闘
ひの樣子、新聞報道と現實、軍隊内での噂、歸國後の徴用生活、結婚、應召、敗戰の日のこ
と、戰後の生活、發病、闘病生活、先祖のこと、兩親のこと、古老から聞いた昔のこと、親
戚近隣のこと、自分の信条、その他身の回りの出來事への感想、詩歌など。
定吉が支那事變從軍中に戰地で蒐集したタバコの空き箱と包み紙、タバコカードの一部を
カラーページほかで紹介してゐる。當人はタバコを吸はなかつたので、中身は戰友にあげて、
カードや箱を貰ひ集めたとのこと。箱の中には、日軍管理工場の製品、占領處理印らしい印の
あるものなどは、支那事變における戰地經營の實物資料として極めて貴重な物である。
他に、支那人が葬儀の時に焚く、冥土のお金、聞喜城の日軍トーチカの冩眞、運城の鹽池の
冩眞がカラーで、北支の太原神社、羊の遊牧、支那女の纏足、井戸、などの珍しい冩眞もあり。
俺のじい様の話。
中隊付きの銃工兵で、
行軍の訓練とかはせずに銃の構造や電気やエンジンの勉強ばかりしていたから、
普通の歩兵として訓練していた連中とは相当体力に差がついていたらしい。
行軍訓練の時にはついていけずに辛かったと言う話。
ちなみに、実弾演習のときに擲弾筒で放たれた弾が、
なぜか司令部の方に飛んでいき、みんなで一斉に伏せたことがあったという。
幸運にも不発弾だったそうだけど、もし爆発していたら…。
当時の生活状況なんかを聞いたけど、
「別になんもかわっとらん。飯も食えた」だって。
昭和19年に徴兵されてシナへ行ったけど、
大して生活に変化があったわけではないらしい。
ただ、衣料品の質が悪くなったり手に入りにくくなったりしたというだけ。
180 :
日出づる処の名無し:04/04/16 22:23 ID:zcZkCzhU
父方の祖父は呉の軍港育ち。
戦争中は防空壕ほりをしていたが
ピカの落ちた後の市内に入って被爆
181 :
日出づる処の名無し:04/04/16 23:06 ID:Yo1oxAr8
ヨレて継ぎの当たった軍服 芯が抜けてヘタった軍帽
薄汚れ色あせた階級章
持ち物は手擦れて型の崩れた事務鞄 鍍金が剥げかけた指揮刀
薄くなった頭には白いものが混じり、手入れの行き届かない口髭
いつまでたっても少佐に昇進しない出世街道外れのやっとこ大尉殿
子供5人を抱え家計はいつも火の車・・・・
まあうちの祖父ちゃんなわけだが
>>174 一つ言うておくが。
逃げた、と見るのは勝手だが、「武装解除のために集合かけられて」そのままシベリア送りってのも
沢山おった現実もあることを・・・まぁ聞く耳もつわけもないかも知れないな、お年だし。
そう思いたいくらい大変な引き揚げ行でもあったろう。
そして、武装解除を拒否して地下に潜行し、匪賊に落ちぶれてまで闘った連中もおるわけで・・
どっちも悲劇だぁね。
旧関東軍(特に宇都宮連隊)が真っ先に大陸から退転(w したのは
そいつらも認めていたくらいの事実。
「上官の命令に逆らえなかった」の一言で。
シベリアに抑留されたのも。
馬賊に落ちぶれたのも。
八路軍に抵抗し続けたのも。
みな尉官以下。
184 :
1:04/04/18 20:39 ID:m1fLdNr8
>>145 >朝鮮語は街中で堂々と話されていたのか。
>ハングルは使われていたのか。
祖父:日本人がいれば日本語だったけど、俺達は朝鮮語なんて覚えてないが、
馬鹿にされてる言葉だけは覚えてったよ。叱らなきゃなんねぇからな。
普段は日本語で話はしてたけど、彼ら同士は朝鮮語だったなぁ
>創氏改名についてどう思うか。
祖父:日本人が命令したぁとか言ってるけどな、
命令はされてねぇな。ほとんどの人がかえたぁな。
ただ、日本人だって自分の言いたいこと言えねぇ時代だっただぁ。
政府の言うことは、その時代だと全部命令に「聞こえた」わけだ。
強要はしてねぇが、そんな空気は流れたんじゃねーかな。
>朝鮮の人たちにとって、内地の日本人や天皇陛下はどういう存在だったのか。
祖父:天皇陛下はあがめなきゃいけねぇって指導はしてた。
同じ国民として扱っていかなきゃいけねぇからな。
むこうがどう思ってたかはわかんねぇな。
185 :
1:04/04/18 20:44 ID:m1fLdNr8
>>27 っと、いうと、
「戦争中の軍部のハッタリ」でなく
「戦後のGHQの洗脳」に関して聞いて来いってことっすか?
終戦直後のことは(いなかったから)わかんねぇけどよ。
(勝った方の都合のいいように歴史が改ざんなりされることは)しょうがねぇよ。
日本は戦争に負けたんだ。勝ったほうが正義になっちまうんだなぁ。たとえ嘘でもな。
186 :
1:04/04/18 20:47 ID:m1fLdNr8
>>176 お爺さまの子供の頃の一般的な遊び
(どんな遊びがあったのか、遊び方や遊び歌など)
祖父:一般的な遊びってのか
ガキ大将ってのが俺達の頃はあってな、年上のヤツが遊ばせてくれたよ。
んでガキ大将ってのが大人になったら、その下がガキ大将になんだ。
今見たく隣の家との境に壁なんてねぇころだからなぁ。
小学校低学年は、面子とかべーゴマであそんだなぁ。
ベーゴマはうちの近所に駄菓子屋があってな、そこで売ってただ。
小遣いは、うちなんか金回りがよくなかったからな、10銭とかを
必要な時に親にせっつくだぁよ。月に2回5銭つ、もらってたな。
小学校高学年になるとな、三角ベースとかな。
食生活、様式(戦前のおかず、洋食は食べていたのか、ちゃぶ台などあったのかとか)
:メインは焼き魚だな大抵。まぁ海が近くにあるからな。
コロッケなんかもあったな(家の隣で売っていた)
食う所は、今みたいにイスとかそんな器用なもんなくってな。
みんなちゃぶ台だぁよ。お膳ってやつだ。
187 :
1:04/04/18 20:48 ID:m1fLdNr8
↑上の続き
おやつ(駄菓子屋などあったのか)
:おやつなんてくったかなぁ・・・
芋くれぇなもんだべ。駄菓子屋はあったな。10銭なんてつかえねぇ。
駄菓子には1回2銭か3銭だなぁ。
売ってるものは、せんべいとかビスケットみてぇなのとかな、
あんこの入った菓子とかな。あとだんごな。
などどんな生活であったのか知りたいです。
また、お爺様のお爺様の世代というのは、
幕末の時代を生きた侍達が生きていたとおもわれます。
お爺様は、江戸時代の人と接した最後の生き証人といえるわけですが、その世代の人達の
思い出話を聞かせていただければ幸いです。
祖父:俺が生まれたのは、1914年だぁな。
んで、親父が明治22〜3年ごろ産まれで、
その前のおラッチの爺さんは・・・ギリギリ江戸時代か。まぁそう言われりゃそうだな(笑)
そのころぁ寿命が短くてな、つれあいが亡くなったら嫁さんもらうだ。
爺さんは3人嫁さんがいたなぁ。んでまぁおらっちの親父の兄弟はみんな女親がちげーだ。
親父の兄弟は・・・何人かなぁ・・・9人か、いっぱいいらぁ(笑)
大沢の(親分の母)とこは、おらっちの親父とは女親がちげぇだぁ。
さらに難しくしてるのは、おらっちの親父は、親父の兄弟の養子に入ってるだぁ。
んでま(長いしうちわネタなので略
おらっちの爺さんはまーえれぇ働きもんだったぁなぁ。
江戸時代っつーとまー語弊があるかもな、生まれたのは江戸時代かもしらねぇけど
育ったのは明治だなぁ。職業?百姓だな。
188 :
1:04/04/18 20:48 ID:m1fLdNr8
以上、サイトはそのうち更新しま
189 :
145:04/04/19 14:19 ID:+wkiJrcp
どうもです。>1
当時の雰囲気を知るのにとても参考になりますね。
創氏改名の話など、やはり、当時の時代の雰囲気を理解していないと
誤解の元になりますよね。以前、どこかの雑誌で元朝鮮総督府の役人
だった人にインタビューしてましたが、同じようなことを言ってました。強
制はしていないけど、変えた人は多かったって。
「同じ国民として扱っていかなきゃいけねぇからな。」というのも、示唆的
ですよね。日本の朝鮮統治の性格が垣間見えると言うか。
>>187 ぢい様、「1914年」と言ってるの?元左翼とか?学のある人なの?
極東板の看板も、年次表記が西洋暦。画竜点睛を欠くね。
ベーゴマや面子って大正時代には既に流行ってたのか。ベーゴマって
米独楽なんだよね?
ひとつ、軽い質問。戦前も「チョン」は使われてたの?
191 :
1:04/04/19 22:22 ID:+Jz/IJr9
192 :
190:04/04/19 22:33 ID:MMKGrK4p
>>191 ベーゴマについては私の勘違いのようですね。
>燃料投下
そう受け取られても仕方ないかも知れませんが、それらは私の率直な
感想であり、疑問です。西暦使ってるのですか?あなたのおぢいさん。
193 :
190:04/04/19 22:51 ID:MMKGrK4p
>>192の補足
補足して措きます。ひょっとして皮肉を言っていると思われたかな。
それはないですよ。率直な感想であり、疑問です。愚問だと思われる
なら流して下さって結構。
「チョン」についてですけど、これは戦前には「朝鮮人」の意味では
使われていなかったという事の確認の為の質問です。「ヨボ」なんてのも
いわれる程、使われてはいなかったと思うのですが、どうなんでしょうか?
ベーゴマについてはそのうち調べようと思って先延ばししていたのですが、
八割九割方「米独楽」、即ち「アメリカ独楽」だと思い込んでいました。
どうやら違っていた。
要するにオジイサンは戦後に占領軍が嘘をついて国民を洗脳しはじめたのを
ちゃんと知ってたわけ?その上で仕方ないって言ってるの?
195 :
1:04/04/20 23:57 ID:S7mXaHz2
>国民を洗脳しはじめたのをちゃんと知ってたわけ?
祖父は「洗脳し始めた」という瞬間が解るほどの政府高官だったわけではありません。
ただ、報道や、私の父が小学校で教わってきたことが、
「何か違う」と思う事は多かったようです。
ですが、
「戦争に負けるって事はそう言うことなんだぁよ」
だそうで。
私が祖父からこの言葉を聞いたとき、思った事ですが、
祖父達、というかその当時の日本には、GHQに抵抗する気力も、体力も無かったのではないかと。
んで、その時の気持ちが解るのは、やはりその時に居た人間だけなのではないかと思うわけです。
アメリカの横暴に関してどう思うか?という質問に関して、
「戦争に負けたんだから仕方が無い」
とりあえずこんだけ重たい「仕方が無い」ってのは滅多に無いんじゃないかと。
今「なんでそんなこと許した!」って言うのは簡単だぁな。
ああ、なんか分かる。
「閉された言語空間」に当時の国民感情みたいなものが断片的に出てくるが、それを読むと
「悔しいと思ったところでどうにもならないやるせなさ」みたいなものは伝わってくるから。
俺の死んだぢいさんによると戦後、軍隊を離れ帰郷する前、殆どの人が
これからは軍隊のない平和な世の中にしなければならないみたいな事を
いつてたらしい。洗脳以前の話だ。
因みに俺のぢいさんは馬鹿野郎、軍隊は必要なんだといったらしい。
左翼も朝鮮も大嫌いだったのだが、何故だか支那人はいいといってた。
台湾人の事だったのだろうか。よく聞いとけば良かった。
>>197 ウチの爺さんも戦前の北京を知っていたクチだが、中共になるまでの支那は
一般民衆は金の亡者と言うより「通貨を信じない」社会観があるだけで、
人情そのものは廃れてなかった・・・と言うようなことを言ってたそうだよ。
その爺さん、北京で病を得て伏せっていた時、部屋を借りていただけの
支那人が、薬やら食い物やら気を遣ってくれたと。で、ある夜、階下で
壁を壊している支那人は、そこからゴールド(金)を取り出してた、と。
その場面を見てしまった手前、後で聞いたら、医者への支払いにする為だったと。
そして、金は何代もに亘って「通貨」の代わりに貯め込んでいる、文字通り
貯金なんだ、と聞かされたそうだ。
為政者が変わると、通貨を反故にされることが続いたので、誰も通貨を
貯める対象と思っていない、とか。回復してから、仕事先に前借りして
イロつけて返したそうだけど。
そういう体験もあってか、中共になるまでの支那と中共支配下の支那は
ぜんぜん違う、と生きていた頃は言っていたそうだよ。
199 :
1:04/04/24 18:36 ID:3kC5sIgl
申し訳無いが、私が風邪を引きまして、
祖父に移すと大事なので今週更新なしで。
>199
無理せんで寝れー。
今は天候変わりやすくて危険だな・・・俺もやられ気味だしorz
☆
★
無理せずゆっくり続けて下さい.
と言いつつ、首を長くして待ってます...
ほしゅ
祖母から聞いた話ですが、曽祖父は台湾総督府に勤めて
いたそうです。戦争が激化してからは、曽祖父が森林関
係の部署にいた時に世話をしたどっかの部族の長の家に
疎開したそうです。近所の山の中に小屋があって、覗い
てみたら人間の首がいっぱいあってびっくりしたって言
ってました。
>>205 台湾原住民には敵の首を刈ってそれを飾っておく習慣を持った部族がいたというが、
日本の統治時代になってから禁止されたはず。
昔の首が小屋にしまってあったのかな。
>>205 首狩り小屋を見てると、突然人の気配がして、族長さん
でびっくりしたそうです。族長さんは首狩りが廃止にな
った物語を話してくれたそうです。
少し前に偉い長老がいて、「今度通った人を最後に、首
狩りはやめよう」って話をしたそうです。それからしば
らくして、人が来て最後の首狩り!ってやって、首を確
かめたら、なんと!その長老さんでした。心打たれて首
狩りの風習をやめたそうです。
「日本にやめさせられた」って言うのが癪に障るから、
でっちあげた伝説なんでしょうか?
ホシュ
>>207 いやちょっと待て
それって通り魔つーか無差別攻撃じゃないの?
敵の首じゃないのか?
>>209 そうですね。普通は敵の首を狙うものなんですか?
211 :
日出づる処の名無し:04/05/13 09:54 ID:jjONeLTC
age
>>207 それって本当に台湾の話?
アフリカで宣教師が、というバージョン見たんだけど。
私の祖父は当時広島の西条にある農学校に通っていたんですが
原爆が落ちた後、学友と一緒に被害者の救助のために広島に入ったところを
被爆したそうです。原爆の被害は言葉じゃ言い表せないほど酷く、
原爆の影響で私の祖父は今でも足が悪く、父の兄弟のうち2人は生まれてすぐ亡くなり、
もう1人の伯母も耳に障害を持って誕生しました。五体満足に生まれたのは父だけです。
そんな祖父ですが戦時中朝鮮人に酷い目に合わされたらしく今でも朝鮮嫌いです。
ただ、中国やタイ、マレーシアなどの国々についてはべた褒めしておりました。
>>212 一応、祖母は族長さんから聞いた話として教えてくれました。
あたりまえですが、僕が直接聞いたわけではないので、
詳しく聞かれても正否の判断はできないです。
僕の祖父は当時呉の軍港に居たらしい
(祖父は海軍の兵隊で昇級試験に受かり研修の為呉にいたとのこと)
原爆が落ちたときはものすごい閃光だったそうです。
教育隊がにわか救援隊となり広島に行き被爆
それから2〜3年くらい出血するとなかなか止まらなかったらしい
(祖父曰く広島に入って何日か経つと虫に刺された所から血が出て止まらくなり
白い制服(セーラー服か?)が真っ赤になった。)
原爆手帳を申請するも部隊が広島へ救援に行った記録が見当たらないことや
その症状が原爆との因果関係がはっきりしないため貰えなかったようだ。
祖父は朝鮮人とイタリア人に対して良く思ってないようでした。
(ニダーとは復員後の仕事上でもトラブルが多かったから。
イタリア人についてはわからないと親父)
以上長文スマソ
星
>>215 自分の祖父も呉の軍港にいたそうです。
土木技術者ということで何やら建設の仕事をしてたらしい。
原子爆弾が落ちた時に、窓からピカッっと閃光が入って、
その後にドーンっと音と共に窓ガラスが割れたそうです。
最初にキノコ雲を見たときには化学工場の爆発だと思ってたらしく、
どうやらそれがアメリカの新型爆弾と分かったのはその後とか。
幸運にも基地内建設の仕事があったため救助には行かなくてすんだけど、
救助に向かった友達はその後何年かしてから、みんな死んでしまったとか。
>>215さんのおじいさんは、被曝しても症状が軽い方だったのでしょうか。
よかったですね。
218 :
:04/05/22 12:32 ID:cJnTET5z
ヒロポンうって図面書いてたらしい。なんの図面かしらない
いい話も悪い話も聞く前に逝ってしまったから
親戚に聞けばいいか
保全
221 :
日出づる処の名無し:04/05/26 23:53 ID:Ol0XlyB5
age
222 :
日出づる処の名無し:04/05/27 04:12 ID:KYbjpgIf
いいスレだ(ノ_・、)
>>215 お爺様がイタリア嫌いなのは
三国同盟のうち一番最初に降伏して
あげく寝返って元同盟国に宣戦布告してきて、
ちゃっかり戦勝国に収まって賠償金までせしめてるからでしょ。
224 :
215:04/05/29 01:14 ID:C/JHPLY6
215です
>>217さん
どうもありがとうございます。
多分症状が軽かったのだと思います。
その話になると「これでもまだ自分はいいほうだった」と言ってましたので。
もう数年前に亡くなってしまったので詳しい話が聞けないのです。
>>218さん
当時はヒロポンは違法でなかったようですよ。
戦後の数年は薬屋さんで売っていたようですしね。
>>223さん
祖父がこの世の人でない為確認しようがありません
父に聞いてきても「よくわかんねけど親父はイタリア嫌いだったなぁ」としか言わないので
個人的には
>>223さんが言っていることが原因では?考えていますが本当のところはどうなんだろう
みなさんのご先祖(というには余りにも近い先祖だが)は、
玉音放送について何か感想をもってませんでしたか?
TVとか当時の回想シーンだと、大抵ラジオの前で直立不動で整列して
聞いたりしてますが、うちの家族からは玉音放送についての感想を
聞いたことがないもんで。(尋ねたことはあるが、覚えてないとのこと)
もっとも祖母に至ってはラジオが果たして村の集落にあったのかも
定かではないのですが・・
>>225 もう亡くなってしまいましたが、ばあちゃんに聞いたことがあります。
村の小学校?の校庭に集合して、村民みんなで聞いたそうな。
雑音が多くて何を言っているのかわからず、放送が終わってから校長先生だか
えらいさんが説明していたとの事。
いっしょに連れられていった当時5歳だった親父は何一つ覚えていない・・・
227 :
日出づる処の名無し:04/06/03 16:16 ID:GBFlk7sN
age
この間亡くなった内の爺さんは、通信兵だった
体が華奢だったんで、上官から試験を受けるように勧められて
超難関だったけど、なんとか合格出来たと言っていた
始めは中国で勤務した後、内地に戻って後進の指導を行い、
しばらく後からは、南方戦線を点々したけど、なんとか無事に帰ってきた
通信兵は「生ける兵器」と呼ばれて、色々と厚遇されたって言ってたな
普通じゃ貰えないような栄養のある食事とか、煙草とかもあったらしい
ただ、通信機器が半端じゃなく重くて、さらに修理も全部自前でやるから
本当に大変だったらしい。爆弾が身近に落ちて十メートル以上吹っ飛ばされた
時もあったけど、機器はしっかり抱き抱えてたと言ってた。
うちのじーちゃんは「大東亜戦争は日本の大勝利だ!」と言い切りました。
230 :
日出づる処の名無し:04/06/03 18:44 ID:6dF24kYn
おい、
>>1のじいちゃんの話しがある程度まとまったら
本にしよう。貴重な記録だど。
当時の空気がつたわってくるようだ
231 :
日出づる処の名無し:04/06/05 20:38 ID:bwCoE1FR
>>229 軍事的な意味では、勿論日本の負け
政治的で言えば、アジアは解放されたんで日本の勝利(つか大東亜の勝ち)
全体的に言えば、政治的に勝った上に、国体を維持したまま国際社会に復帰出来た
のだから、一方的な負けって事はないな
まぁ、日本から強制分割された上に、民族分裂の憂き目に遭った朝鮮が
一番の負け組かもね。そこんとこは、少し同情する。
そういえば、俺の祖父さん、物凄い外反母指だったよ。
支給される軍靴が足を合せた為、そうなってしまったんだとか。
シベリア出兵で外地に行き、太平洋戦争の頃は在郷軍人として、
学校の軍事教練の教官をしていたそうな。
戦争については、何にも話さなかったなあ。
あと、オフクロは女子挺身隊として、軍需工場で働いたそうな。
一生懸命作業をしていたら、監督に褒められ、表彰されたそうだ。
日本の勝ちでなく、欧米からの搾取から開放された東南アジア諸国の勝ちなんじゃない。
たとえば必修科目で日本語が教えられていれていたり、東アジア地区の外交の席では
日本語を使うとかなっていれば勝ちだと思うけど
234 :
233:04/06/05 23:57 ID:Xl2m6QuC
へんてこな日本語でスマソ(´・ω・`)
235 :
通りすがり:04/06/06 02:51 ID:4GuMVM/k
>>207 の補足説明
A. 義人呉鳳の話
唄にもなった義人呉鳳の話 ツオウ族に伝わる伝説
清朝時代、嘉義に呉鳳という、原住民に慕われていた役人がいた。
彼は首狩りの悪習を廃そうと、懸命に原住民を説得した。しかし、原住民はもう我慢出来ない。
今年こそ首狩りをさせろとつめよった。呉鳳は言った。赤い頭巾をした老人がとうるから、
その首を狩れと。 原住民たちは喜んで、言われたとうり老人の首を狩った。
その首は誰あろう呉鳳その人であった。
呉鳳の命を捨てての説得に、原住民たちは首狩りを止めた。
この話は戦前の日本の修身教科書に載っており、台湾の道徳の教科書にも
記載されていたが、原住民の、「子供には、呉鳳の犠牲心より、首狩りの
ほうに興味がいき、我々のイメージを損なう」との抗議で削除されました。
そしてこの呉鳳伝説は実は漢民族側の口述を元に語られていると言う点が
ツオウに取っては面白くない様でも有る。
ツオウ側からは呉鳳は「ツオウから搾取する悪人だった」
「昔、疫病が流行ってツオウの人口が激減したのは呉鳳の祟りのせいだ」
などなど、この伝説はツオウ側からは結構否定的に受け取られている。
後、原住民の中でも自ら首狩の風習を捨てられたのはツオウだけだと言う点も
「別に(漢民族である)呉鳳に諭されて首狩を止めた訳ではない」と言う
ツオウ達の主張が有ると思われる
(ツオウは漢民族と古くから交流していたらしいが漢民族には常に悩まされていたらしい)。
さりげなく枢軸国側のタイがアジア一番の勝組みだろう
>>225 勤め先の学校で聞いたらしい(祖母は教師だった)。泣き崩れる人も
いたし、おばあちゃんは「敵が本土に来るのだから、当然、死を決意した」
って言ってた。
まあ終戦前から、どんどん徴兵された人が死んでいくし、「こりゃ負けるな」
とは思ってたらしい。でも真面目な人にそれを言うと「どこで憲兵が聞いてるか
分からないから言っちゃだめ!」って怒られたのだとか。
若い教員仲間とは、休み時間に皆で将来の夢を語り合ったんだって。
その話を聴いたときは、戦争中でもちゃんと青春はあった、と、人間の営み
そのものに感動した思い出がある。恋愛もあったようだしね。
>>237 むしろそういう時こそ恋愛は熱いのだと思うが
終戦直後の秋だか冬、アメリカ人の女性が「民主的な教育を教えるため」
という名目で、祖母の学校にやってきた。通訳の日本人が語る「民主主義」。
いままで使っていた教科書は、塗りつぶされた。
でも、祖母はアメリカ人に酷いことされて殺されるのだとばかり思っていた
ので「アメリカ人は敵に対して心が広いなあ」と思ったらしい。英語教育が
無くなる前に学生やってたから、少し英語も分かってたし、あまり悪い印象
は持ってなかった。
学校には女教師が、自宅にはGHQのアメリカ軍人が来たので地元の名士が
集まって接待したらしい(屈辱的だ)。軍人は家に上がるとき、靴を脱がなかった。
でも私の曽祖父はそれに対して何も言わなかった。仕方ないけど何か悔しい。
ていうか何でウチなんかに来るんだよ・・w
>>238 そうかもね。祖母に私の恋愛相談をしたときも、祖父との
出会いとか(恋愛結婚だった)教えてくれたし、親戚や友人
のことを教えてくれた。見合い全盛の時代にも、恋愛は
あったのだ・・。当たり前のことだけど、ビックリした。
ていうかスレタイ「祖父に聞く」なのに、
女から見たヘンなこと書いちゃったね
:.`∵;:・(゚д゚ ) ブファァッ!
>>239 上前淳一郎の「読むクスリ」(文藝春秋)にも、似たような話が出てくるね。
日米間で、アマチュア無線のSQL(交信記念)カードを交換しあっていた2人の少年。
ところが東京が大空襲に遭って、日本側の少年は疎開した。
それからしばらくしたある夜のこと、少年一家の泊まっている家の玄関を、
進駐軍のMP(憲兵)が叩く音がする。政情不安で事件が多発していただけに
(さながら今のイラクのように)何ごとか、と身構えていると、なんとくだんのMPは、
日本の少年とSQLカードを交換しあった、当のアメリカの少年だった。
わざわざ日本側の少年の住所を訪ねてきたところ、あたり一面焼け野原だったので
もしかして空襲で死んでしまったのでは、と心配し、MPの姿に尻込みする
周囲の人に聞きまくって、やっと少年の疎開先を訪ね当てたのだという…。
考えてみれば今の10代ぐらいからは
自分の祖父母・両親や教師・上司たちに戦争話を直接聞く機会が無いんだよな
あったとしても彼らの祖父母世代は終戦時でも
まだ少年少女の頃だから先の大戦について
空腹、徴用、疎開、空襲、戦後の荒廃といった暗い記憶しか無くて
下手したら真っ赤な左翼思想に染まっている世代だな
年寄り=酒飲んだら軍隊話して軍歌を歌いだすってイメージも過去のものとなるんだな
同時に彼らが知る戦争の真実も忘却されていく一方になるんかねぇ
団塊の世代に孫が居る世の中だしな
246 :
日出づる処の名無し:04/06/09 23:35 ID:L/T6q/ZJ
資料や又聞きではない生の戦争体験談を聞けなくなる日も
刻一刻と近付いてきたんだねぇ・・・・
帝国軍兵士として戦った世代に代わって
悲惨戦争体験しか記憶に無い世代と
左翼志向の強い世代が今後の年寄りで主流を占めるようになるんだな・・・
俺のじーちゃんは結構偉いほうだったらしい。
いつも言ってたのが「韓国人は何故あんな事言うのか?」だった。
俺が物心ついた時にはもう他界し、今となってはその本意を知る事は出来ない。
他に記憶にあるのは
「中国人は良い人が多く韓国人はタチが悪いから注意しなければならない」
「韓国人は自分の家を自ら燃やして全部日本人のせいにする」
最も印象深いのが、
じーちゃんが戦争で使っていたブリキの弁当箱が猫の食器なっていた事だ。
生死を共にしたものが家の片隅に忘れられたように置かれていた光景は今でも鮮明に焼きついている。
もっと長生きしてくれれば話を一杯聞けたのに・・・。
248 :
日出づる処の名無し:04/06/13 14:56 ID:XJ9VpVPt
>>1 のサイトは更新されてないようだが飽きたのか?
じさーん達が逝く前に話し集めないと伝聞の切れ端だけでは
世に出せないぽ。
249 :
日出づる処の名無し:04/06/19 15:44 ID:d/iHYKZB
捕手
250 :
250 :04/06/19 20:28 ID:8pPw6FMO
父方の祖父
当時県庁職員で平壌近郊に出向。朝鮮人のお手伝いさんや知り合いがいたのだが
終戦を境に激変。財産すべてを強奪される。たった1人だけ豹変しなかった朝鮮人宅に
逃げ込む。帰還船がいる港(釜山?)まで命辛々の逃避行だったそう。
母方の祖父
志願兵。日米戦争以前から支那大陸に於いて戦う。戦争末期に一時内地勤務となる。
その時に祖母と久々の再会。「今度の戦争で兵隊を辞める」と言い残し、硫黄島へ。
戦後、政府役人?が祖母のところへ硫黄島の砂と石ころを持参。遺骨が収集出来なかった為。
ここで質問なんですけど、九州の部隊がなぜ硫黄島に飛ばされたのでしょうか。硫黄島守備隊の
ほとんどが九州出身と聞いたのですが。バロン西も鹿児島ですよね。
251 :
日出づる処の名無し:04/06/26 04:09 ID:JCv6sYXp
捕手
252 :
日出づる処の名無し:04/06/28 11:08 ID:G+Le/DQd
>>1氏カンバック期待上げ
>>247 >「中国人は良い人が多く韓国人はタチが悪いから注意しなければならない」
意外な感じがします。もっと詳しく聞きたい。
>>247ではないが
うちの家族も中国人(華僑)に対しては好意的だが
朝鮮人には否定的でした。とにかくロクなもんじゃない、と。
同時に露助やアカも嫌いでしたが露助はさすがにそこらにゃ居ないからね。
>>252 俺の祖父もロスケ、チョンは嫌うがシナの悪口は余り言わなかったな
祖父の駐留していた地域の住人は日本軍に対して結構好意的だったみたい
仲良くなった現地人に中華料理を教えて貰った話とか楽しそうに語ってたよ
当時の中国は国民党、共産党、日本の三国志状態で勢力が割れてたから
今思われているように中国全土・全国民が反日一色なんて事は無かった・・・んかな
255 :
日出づる処の名無し:04/07/01 22:54 ID:lEqe99dY
>>1氏はどこに行ったの?
うちのじいちゃんは亡くなってるし、戦争の話は聞いたことがない。
馬の世話をしてたってのは聞いたんだけど。
戦いには参加してないのか?
小学校の頃、近くのお年寄りに戦争の話を聞いて
きましょう、という夏休みの課題があった。
ただ、話が話だけに、くれぐれも、話したくないという人が
いたら、無理に話を聞かない事、というのは何度も釘を指されていた。
で、僕は盆で帰省した時に祖父に聞いたんだけど答えてくれなかった。
あまり喋りたくないから、って。
銃後にいた祖母の話より、兵隊の経験がある祖父の話の方が聞きたかった。
でも、仕方がないな、と思って諦めた。
後日、祖母が何かの用事で僕の家に来た。
祖母は「戦争の事だったらおじいさんの方がよく知ってるんだけど」と言った。
でもおじいさんは戦争で辛いことがたくさんあって話したくないのだと。
だから祖母の話を聞いた。
祖母は空襲で逃げた経験があったらしい。
それで、もう何度も死ぬ思いをしたから、戦争が終わった後は、貧しかったけど
もうあんな思いをしなくていいのだと思うとそれだけで幸せだったらしい。
あと、祖母はこう付け加えた。
おじいさんは話したくても話せないような怖い事を経験したから、もう絶対
戦争は嫌だし、自分の子や孫が戦争に行くような事がないようにしたい、っていう事を
僕に伝えてくれ、と。
祖父は、例えば拉致被害者家族である地村さんのおじいさんみたいな、そんな気さくな
人物だったので、その人が口をつぐむだなんて…とすごくショックだった。
下手に祖父の経験を全て聞くよりも僕の中には戦争への恐怖が生まれたかもしれない。
…まさか祖父がそれを狙っていたわけではないだろうが。
まあそれから色々とあって今でも教育勅語なんて見ると鼻で笑っちゃうような、
そんな青年に成長したのでこの板の反応からすれば「反日ブサヨク」に見えるのだろうが、
「チョンは一人残らず氏ね」なんていう「お笑い愛国者」にはなりたくないので別に気にしていない。
>>256 軍人勅諭をならまだ分かるが何故教育勅語なのか
258 :
日出づる処の名無し:04/07/03 02:37 ID:NSl0m4It
そりゃ個人的に家族が被害にあったとか
部隊の同僚たちが斃れていくのを目の当たりにした人間が
戦争なんて絶対にイヤだ!!と反戦平和思想に傾倒していくのはある意味仕方ない
戦争経験世代の左翼は戦後生まれの左翼よりかは幾分理解はできる
でも同情はしても同調はしないけどね
教育勅語は、別に今でも通用する内容だと思うがな。
中国に関して言えば、
台湾系を混同してるのかな。
大陸にしても、
戦争が「終わった」段階、終戦時にも、
相変わらず日本が優勢だったし。
261 :
日出づる処の名無し:04/07/03 03:22 ID:U+C95dVR
>>256 戦争体験者が「戦争なんて、もうイヤだ!」
と言うのは、よく分かる。
しかし、それでは、個人としてはともかく、
社会として済まない事もある。
「平和憲法」の延長として、日本は「スパイ防止法」を
持たない。金日成はこの日本の事情に注目していて、
「発覚しても、微罪にしか問われない」として、
「日本人拉致」を指令した。
これが、「金日成の秘密教示」だ。
「もう、戦争はイヤだ!」が行き着いた先は、
つまり朝鮮になめられる事になったと言う事だ。
李承晩の竹島占領もしかり。
こうした反論を予期して、戦争体験者は黙る。
卑怯と言えば、卑怯である。
262 :
日出づる処の名無し:04/07/03 05:16 ID:b+LQxwJz
俺の母は長崎で被爆。不思議と近所にいた白人宣教師達が数日前には
本国に帰っていたらしい。神戸の震災の時もそんな噂があったし、なんだろうね?
あと、アメリカ兵は優しかったって。父は、樺太からの引き上げなんだけど、
ロシア人は子供でも殺しまくったってさ。
>>250 半島帰りの人から話を聞くと、朝鮮人のことよく言う人はいないね。
朝鮮の文化はなどと尋ねようものなら、朝鮮人にそんなものはないと
吐き捨てるようにいうし。−−−聞いた人は文化人のような人。
264 :
日出づる処の名無し:04/07/03 11:06 ID:U+C95dVR
>>262 >数日前には本国に帰っていた
無理だろう。
白人宣教師の国籍は知らんが、交戦中だぞ。
しかし、「白人宣教師」がスパイで、
原爆投下前に、避難指令が出ていたことはありそうだな。
265 :
日出づる処の名無し:04/07/03 11:17 ID:sxFEk0Wk
俺のまわりのお年寄りや、亡くなった戦中世代の父とか、
旧日本軍や、昭和天皇を悪くいう人ばかりで、困った。
一部、戦争アレルギーやトラウマになっている人がいても、
実体験してる彼らには反論できないし. . . . . 。
266 :
265:04/07/03 11:20 ID:FkjXmZMc
と思ったら
>>256がもっとちゃんと、その辺の事を書いていた。
失礼。
267 :
265:04/07/03 11:25 ID:TrrATpeR
反戦、戦争回避は、憲法とか法律で決めずに、政治家に頑張ってもらう
というのが俺の考え。
そうすればみんな政治意識が高まって、投票率も上がるだろう。
268 :
261:04/07/03 11:30 ID:U+C95dVR
>>266 俺が言いたいのは、
「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
と言う事だ。
個人の体験やトラウマは痛切だが、
それに囚われると、歴史・国・社会を誤る。
「平和憲法」の派生事項が、金日成の「日本人拉致」だ。
269 :
日出づる処の名無し:04/07/03 11:37 ID:t8mvvXCI
戦前生まれの年寄りは、敗戦の惨めさは知っていても
侵略されて一方的に蹂躙される惨めさは知らないだろうし。
>>263 正論の読者投稿欄とか読むと必ずしもそうではないような。
272 :
日出づる処の名無し:04/07/04 00:49 ID:Ha52T0al
うちの祖父は陸軍兵曹でフィリピンに行ってたらしい。
アメリカ軍の機銃で仲間の兵隊がどんどん殺されていく中を走り回って生き延びたそうだ。
帰ってきた後は家(うちの地方は爆撃が少なかったので被害なし)に帰って戦友と工場で働いていたらしい。
当時服をたんすごと盗まれて服が無くなり軍服でしばらく生活していたので家にまだ軍服が残っている。
うちの祖父はもう亡くなってしまったので、生き証人ではないが、
例の南京陥落の時に南京にいたらしい。
虐殺については聞いたことがなかったが、便衣隊の恐ろしさについては語っていた。
歩哨に立ってもどこに敵が潜んでいるか、戦々恐々だったらしい。
普段は中国の人たちとも仲が良かったらしく、中華風の服を着て気取っている写真まで残っている。
恰幅も良く、ひげも生やしていた祖父は、中国の人から「大人」と呼ばれた、とうれしそうに語っていた。
歴史で聞く日中戦争のイメージと微妙に異なって、不思議な気がしたことを覚えている。
274 :
日出づる処の名無し:04/07/04 02:36 ID:8avuSEP2
俺の祖父やその知り合いの方から聞いた話、そしてここの書き込みを見ても
何故か支那に関しては彼らは良いイメージを持っているケースが多いみたいね
今じゃシナ人みなが日本を怨み抗日に燃えていたと日本でも中国でも教えられてるが
実際のところ日本支配地域に関しては住民たちと友好的な関係を築いていたみたい
そりゃ最前線では国民党軍、共産軍、その便衣兵達と熾烈な戦いを繰り広げていたがね
戦後に共産党政府が大陸支配してから徹底的な弾圧と洗脳教育で
そういった事実は闇に葬り去られてしまったようだ
275 :
日出づる処の名無し:04/07/04 02:59 ID:lX/y2GT1
で、誰か
韓国光復軍(puと戦ったという
おじいさんはいませんか?w
「教育勅語」の口語文訳
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、
日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の
道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、
見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物と
いわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて
助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、
そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、
職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、
また、法律や,秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、
真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、
また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、
さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければ
ならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、
また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、
私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、
心から念願するものであります。
ttp://www.meijijingu.or.jp/intro/education/index.htm
>>256です。
僕がおまけで書いた教育勅語云々についてレスを書いていたら長くなってしまいました。
もともとスレ違いでもあるので、この板の別のスレを使おうと思います。
教育勅語の復活を望むスレ
http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1086508740/ に僕の教育勅語への考えを書きました。
よかったらみて下さい。
スレに即した内容を付け加えておくなら、祖父も祖母も沖縄の出身、だという事です。
戦後まもなく関西にきて(舟で来たらしい。ボロ舟だったので何度も死を覚悟したとか)、
以後定住(ちなみに関西にはそのような人が京阪神を中心に実に多い)。
このスレには珍しく戦争を絶対的に否定する考えの持ち主なのは、沖縄戦の惨状というものも
少しは関わっているのかもしれない(祖母は実際に沖縄戦を体験した)。
>>1からずっと見ていくと沖縄人のコメントはないようだが、僕の祖父母は例外的かもね。
実際、「沖縄の人ほど戦争を嫌がる人はおらん」とは祖父母とも言ってました。
>>274 漏れの祖先も北支、中支だった。
一人は敵に撃たれ、銃創がもとで終生片足に不自由したが、
支那人を悪く言わなかったよ。
自分の名前をな、上海あたりの人はこう発音したぞなんて、
嬉しそうに話していた。
漏れ自身も中国に行ったり、第三国で
多くの支那人諸君と話す機会に恵まれたり、
世話になったりしたよ。
「日本小鬼」てのを刷り込まれている一方で、
それはそれ、実際の付き合いはまた別ってな感じの香具師がほとんどだった。
中には「これが日本小鬼か。イメージ違うな」って思ったのもいたようだが。
中共政府の非道には断固反対するものだし、
身内を一人、共匪にさらわれたりもしているが、
支那人には悪い印象はない。
うちの親戚のおばあさんの首相の靖国神社に関するコメントをひとつ
このおばあさんは、戦争未亡人で、テレビでこの問題があがったときに言ったセリフ
「国のために戦った人達に対して、国の元首が参拝しないとは何事だ!!」
このおばあさんは、今は亡くなって昔話を聞くことはもうできないのだが、
この家に行くと、その息子さんが靖国神社の本を大事そうに書棚に入っているのが印象的で、
観念的ではあるのだけども、この人達にとって靖国神社は、戦地で亡くなった者の魂が帰るところに
なっているんだなぁと感じるわけです。
ま、遺族の方の靖国への思いはいろいろあるのかもしれないけれど、
私は親しかった、このおばあさんの感情がスタンダードで信じられるものかな。
支那に関して言うとですな、
かのハルノートに以下のような要求があります。
「重慶にある国民政府以外の支那政府を否認せよ」
当時支那大陸には複数の政府が濫立してるような情況であって
ここでいう重慶の政府というのは対日抗戦を目指していた
蒋介石の国民党。
日本は親日的な汪兆銘の新南京国民政府とすでに講和を成立させて
支持していたという情況だったのでアメ、というか(ハルノート自体
ロシアのスパイの作ったものということらしいが)米英ソの庇護下で
反日の蒋介石だけをみとめよと日本につきつけてきたという事情があり
まあこの項目も他の項目同様日本としては飲めなかったわけですが…。
まあ何を長々描いてるかというと、支那大陸は当時まだ混沌とした
情況であって、支那大陸の連中全部が反日一枚板ってわけではなかったって
ことですな。汪兆銘のような勢力に属さずとも、国民党や共産党の
ろくでなしどもに酷い目にあわされてた連中もいただろうし、そうした
人々はむしろ規律正しい日本軍が駐在してる情況のほうが望ましかったと
いうような話しもあるくらいですし。
一枚板じゃねーや一枚岩だった。
市井の人というのはとかく記録を残しにくいものなので、
伝聞にしろ匿名にしろ、こうして体験談を残すのは、
歴史的に意義があると思います。(スレの本題からははずれてるかもしれないが)
将来、もし共産中国が崩壊して後であってさえも、
日中戦争時の中国が一枚岩だった、という「伝説」のみ残るかもしれないのは、
イデオロギーによる歴史の損失のように思えます。
昭和の初めに日本の行った戦争について考えるときに、
証言が得られるのは、そろそろタイムリミットかもしれませんね。
>>282 > 日中戦争時の中国が一枚岩だった、という「伝説」のみ残るかもしれないのは
実際には「中国」なんてまとまった国家意識さえなかったような状態で
あったでしょうにね。
#余談ですが、あの時代の支那の反日は満鉄の日本との共同経営を蹴られて
怒った米国と蒋介石によるプロパガンダの影響もあり、逆にいえば
プロパガンダが必要な程度にまとまってなかったともいえるわけですが。
しかし、それに遡って、満州鉄道の経営については日本も資金繰りが
苦しかったようだしアメリカとの共同経営については一旦まとまり
かけたということもあり、もし、ここで共同経営がなっていたら、
その後アメリカに延々といびられ続けて戦争に追い込まれることも
なかったかもしれず。
まあ、歴史にIFは禁物ですが。
保全
hoshu
★
眞珠灣攻撃を知つた日の事を思ひ出して、敗戰直後に高村光太郎が書いた詩
宣戰布告よりもさきに聞いたのは
ハワイ邊で戰があつたといふことだ。
つひに太平洋で戰ふのだ。
詔勅をきいて身ぶるひした。
この容易ならぬ瞬間に
私の頭腦はランビキにかけられ、
昨日は遠い昔となり、
遠い昔が今となつた。
天皇あやふし。
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の聲でみたされ、
陛下が、陛下がと
あへぐ意識は眩いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
詩をすてて詩を書かう。
記録を書かう。
同胞の荒廢を出來れば防がう。
私はその夜木星の大きく光る駒込臺で
ただしんけんにさう思ひつめた。
http://cgi.members.interq.or.jp/asia/showashi/cgi-bin/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=1127&e=res&lp=1122&st=0 1127 re(3):「拉致問題」の油断出来ない点(2)
2004/7/12(月)20:47 - 会員番号40 -
>昭和の時代には、現在のような「潰乱状態」は考えられませんでしたね。
>昭和天皇の御威徳というか御威光というか、
>そういうものが「精神的な歯止め」になっていたのでしょうか?
>まるで「箍が外れた」ような世の乱れというものはなかった。
御指摘の通りに思います。
私の世代は祖父が戦争に行った世代です。もっとも、私の祖父(父方)高齢で
内地勤務、母方は足が悪く徴兵の対象外でしたが。
私の体験ですが、日教組の酷い先生でも、戦地に行った祖父を持つ私達に対して
「貴方達のおじいさんは、アジアで悪いことをしたんだよ。」とは言いませんでした。
会社の重役など現役で働いていた訳ですからね。自分よりも年上の保護者や祖父達に
一定の配慮があったように思います。
むしろ左翼達は、先帝陛下の崩御を心待ちにして、準備をしていたと思います。
里中満智子(この字でいいのでしょうか?)というマンガ家が、平成2年頃に
「昭和天皇の健在の頃は、日本の『罪』について書けなかった。」とNHKで言って
おりました。まさに本音でしょう。
「昭和天皇が崩御すれば、箍が外れるだろう。」と予想をして「準備をしていた」
と私は思います。そして現在も(恐れ多い事ですが)精神的文化的な柱の美智子皇后
と政治的な柱の石原慎太郎氏の身に、万が一の事が起こる事を心待ちにしている気が
します。きっと、もっと大きな箍が外れる事でしょう。その時のために準備し、
布石を打っていると思います。
http://ex5.2ch.net/test/read.cgi/korea/1090913706/449 【電波】本音で話そう日韓朝Part93【禁止】
449 :マンセー名無しさん :04/07/29 13:54 ID:JU1Xd66x
おれの死んじまったじいさんは、大正に生まれて満州にも一平卒として赴き、
帰国してから戦後の混乱を生き抜いてきた。
戦争が大嫌いな人で、満州の話などまったく口にしなかった。
人格者でやさしくて、おれの憧れの存在だった。
でもおれが3年前、友人と韓国旅行に行くといったとき、
じいさんは悲しそうな目で、そうか、時代には逆らえんなあと、独り言を言ってた。
土産はいらんぞ!といわれた。
おれは尊敬するじいさんが差別主義者なのかと、愕然としたまま今日まで来たが、
気管支炎者さんやvenomさんのおかげでじいさんを正当化することができました。
まだまだガキなんで勉強します。
291 :
日出づる処の名無し:04/08/01 21:59 ID:/RfmoOuo
良スレage
292 :
日出づる処の名無し:04/08/03 22:24 ID:td86WvlL
このスレでは支那人の評判は悪くないのにアジアカップで台無し。
>>292 いや、元から良く思ってない人は多数いるよ。
ただし隣の電波民辱があまりにも強烈だったため、
目立たなかっただけ。
中共に支配されるようになってから55年、
支那人のキチガイ度は祖父の時代にくらべて
3倍くらいになってるのではないか。
296 :
日出づる処の名無し:04/08/10 20:26 ID:uHAa+BCH
保守
297 :
日出づる処の名無し:
祖父はもう亡くなっているから、過去に聞いた話を。
祖父は満州で兵隊さんをやっていたんだけど、下っ端ってことで
現地の人とのコミュニケーションを良く取っていたらしい。
だから、満州の言葉が話せた。昔、覚えたという言葉を聞いたことがある。
上司に当たる人はもちろん、現地の言葉は話せないから、
現地語の罵声語でこっそりと文句を仲間と言っていたらしい。
さらに、祖父は満州での中国軍との戦いで左眼と左腕を失い、戦地で
役に立たないからと日本へ戻らされたんだけど、その帰りの船で、
ある看護婦が一人の男を妙に熱心に介護していたのを見たんだと。
仲間とは、あいつら出来ているんじゃないかと噂していた。
案の定、内地に戻ったら、その男と看護婦は結婚したらしい。
しかし、数年の後には結核で男は亡くなったそうだ。
また、戦後、満州で知り合った友人と商売を一緒に始めないかと誘われたことが
あったらしいが、祖父は婿養子として来ていたため、農業をやっている家は裏切れないと
断ったそうだ。
祖父は婿として家に来た時、改名したらしい。理由は近所に同姓同名の人がいたから。
当時は郵便システムが整っていなくて、誤配達が多かったので、そんな理由で
改名が認められたようだ。
あとは、祖父がお酒を飲んで酔っ払っていたとき、農地改革で小作人に良い土地ばかり
取られたと愚痴を言っていたのが印象に残っているかな...