356 :
コピペ:
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国より
●日本
1898年と1901年の事件は、アメリカが孤立を守ることを極めて困難にした。
同じころ、世界の舞台に登場してきた国が今ひとつあった。それまで何世紀もの間、
日本は中世的な生活様式を送ってきていた。支配階級であったサムライは、土地を保有し、
その見返りに軍役についていた。
彼らの心構えである武士道は、必要とあらば自分の家と自分たちの階級のために死ぬよう
に、彼らに教えていた。
サムライ階級の指導者であった将軍が、日本の実際の支配者であった。天皇は尊敬された
ものの、無視されることが多かった。武士階級の下には、農・工・商の三階級が存在した。
工、つまり職人は明らかに必要であった。農民は、税としてお金のかわりに用いられた米
を育てるものとして、重要であった。金をもうける商人は軽蔑された。そして、これら三
階級の人々はすべて、刀を差したいかめしいサムライの前には、頭を下げたのである。
357 :
日出づる処の名無し:03/09/29 19:07 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
このような体制は、日本人が外国人に対して国を閉ざしていたために、いっそう堅固
にされた。200年以上にわたって、ほとんど誰も外国人は日本には入れなかったし、日本
人も国外に出られなかった。それ以前には、中国風の様式が模倣されたが、今では模倣す
る相手がいなくなり、生活はほとんど変化をなくしてしまった。造花のように、日本は
つねに美しいいっぽう、つねに同じままだった。その結果、1800年には日本人は技術的に
見て、トルコ人よりも後進的になってしまった。日本人の祖国は、アジアの沖合いに浮か
ぶ、孤独な美しい牢獄ともいえるべきものとなった。
358 :
コピペ:03/09/29 19:09 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
眠れる森の美女は、彼女を愛する王子の接吻によって、息を吹き返した。しかし、
日本には、そのような快適な目ざめは訪れなかった。ロシア人(1804)・イギリス人
(1818)・アメリカ人(1853)がつぎつぎにやってきて、交易を求めたのである。
日本がそれを拒むと、彼らは戦争に訴えるという威嚇に出た。アメリカ人には、
日本が交易を拒み、外交関係の樹立を拒絶していることが、頑固でおろかな態度に思われ
た。1853年から53年にかけて、ペリー提督は、アメリカの艦隊の規模を拡大して、日本を
くり返し訪れた。
そしてしまいには、軍事行動に出るため、軍艦の準備を整えるよう命令するところまで
立ちいたった。中世に生きる人々が、近代的な大砲の銃口をながめなければならないこと
になったため、日本人としては、降参するほかなかった。
彼らの国は、銃口を突きつけられるなかで、「開国」したのである。
359 :
コピペ:03/09/29 19:10 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
すぐ隣の中国での状況は、開国の結果何が起こるかを、思慮深い日本人に示していた。
1840年から60年までの間に、中国の港の多くは、ヨーロッパ人の兵士や商人によって占拠
されてしまっていた。中国の法律は無視され、人々は侮辱され、皇帝の宮殿は焼かれたの
である。
日本は、中国より小さくはあったが、もっとよく組織された国であった。日本の戦争好き
のサムライたちは、このような取り扱いに激しく反発はしたものの、それに不平を並べた
てて時間を浪費しようとはしなかった。彼らは、西欧の優越性とは、船・鉄砲の質がよく、
よりよく訓練された軍隊を持っているという問題にほかならないことに、気づいた。
そこで、ヨーロッパの戦術を実験してみる試みが、多くのサムライによって始められた。
中には高炉を建設し、大砲の鋳造を開始するものもいた。日本最初の蒸気船は1855年に
進水した。その翌年には海軍が作られた。
1868年に将軍は倒され、新しい支配者である明治政府が、日本を19世紀の水準に引き
上げる仕事に乗り出した。
360 :
コピペ:03/09/29 19:10 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
その後の変化は目ざましいスピードで起こった。1873年には西暦(グレゴリー暦)
が、中国の太陰暦にかわって用いられるようになった。その7年後には、西洋式教育
制度が導入された。1890年には、君主の力を強調した、プロイセンをモデルとした
政府のスタイルが採択され、お金による納税が米による納税にとってかわった。
日本人はどこででも最善のものを捜し求め、目に入るものをまねていった。日本の
海軍をつくり上げたのはイギリス人であり、陸軍の再編成はドイツ人の手になった。
美しい日本の風景は、電信線や、鉄道・工場などが横切ることによって、傷つけら
れてしまった。
岩崎弥太郎のようなサムライは、三菱の造船所を建設したし、ほかにも、絹や
セメント・鉱山業などはじめたサムライたちもいた。政府は事業に着手し、ついで
それを私企業へと譲り渡していった。
こうした発展のための資金を得るべく、日本はできる限り輸出をおこなったが、
とりわけ繊維製品は重要な輸出品であった。
361 :
コピペ:03/09/29 19:13 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
日本が外国人をまねたのは、外国人を尊敬したからではなかった。彼らは、自分
たちをこれほどまでに手荒く扱った人々を打ち負かそうとして、外国人をまねたの
である。外国人専門家から十分に教わったとみるや、その専門家はすぐに送り返さ
れた。
その結果、日本は植民地にならず、新しい自国の力をすべて自国のコントロールの
下においておけた。力点は、戦争を思考する発展におかれた。
1894年には、日本は、28隻の近代的軍艦、十分に装備の整った造船所の一つ、速射
できる銃や魚雷をつくりうる機械とを備えたのである。国家予算の3分の1は、陸
海軍に費やされた。学校では、子供たちが軍国主義的な歌を習っていた。成人になる
と、男たちはみな兵役についた。天皇への絶対的服従が教え込まれることによって、
愛国心が助長された。
古くからの宗教・神道は、天皇が神の子孫であるとといていたため、力を盛り返した。
このようにして、サムライの戦う伝統が、国民全体に教えこまれたのである。
362 :
コピペ:03/09/29 19:13 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国 ●日本より
こうした日本の身ごしらえの結果まず苦しむことになったのは、中国であった。
1894年に、この両国は、朝鮮の支配権をめぐって争った。その結果起こった短い戦争
で、日本の近代的な軍隊は、中国側をたやすく打ち破った。
朝鮮だけでなく、満州と中国の一部も、日本軍によって席捲されたのである。
首都の北京が脅かされそうになったとき、中国は降伏した。1895年の下関条約で、
日本は、台湾と遼東半島の旅順とを獲得した。朝鮮は、中国の勢力から独立するもの
と宣言された。
しかし、日本にとって以外であったのは、フランス、ロシア、ドイツの三国が、これら
の条項を承認することを拒絶したことである。とりわけロシアは、日本が満州地域に進
出してくるのに反発した。三国は、戦いに疲れた日本に強要して、旅順をロシアに与え
させた。この三国干渉は日本人を激しく怒らせた。日本人は、中国の領土を手に入れた
がっている当の人びとによって、獲得物を奪われたと考えたのである。これに対する彼
らの回答は、もっと軍艦を建造し、ロシアを片付ける機会を待つことであった。
363 :
コピペ:03/09/29 19:14 ID:q0PvMnml
続き〜(教科書:イギリス) 5 新しく生まれた二つの強国
●日露戦争
ロシアの極東への拡張が続いたため、この機会と口実とは、すぐに生じた。たと
えば、1900年には、ロシアは満州全域に進出した。イギリスは驚愕し、これを一つの
理由として、日本との同盟に調印した。こうして、西洋の大国との対等な協力相手と
してはじめて認められた日本人にとって、この同盟は大勝利であった。日本は、満州
におけるロシアの権利のかわりに朝鮮における日本の権利を認めさせる取り決めをロ
シアに要求してもよいほど、自分たちは強大になったと、感じたのである。
しかしロシア人は、「ちっぽけなサル」と呼んでいた相手とこの問題を議論すること
を拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した。日本の反応は激しかった。1904年2月9日、
日本の駆逐艦が闇にまぎれて旅順港に入っていったとき、ロシア側は何の準備も整え
ていず、まるで平時のように船には燈がともっていた。また岸壁の大砲には、防護
カバーがかけられたままであった。日本側は、何の苦もなく、2隻の戦艦と1隻の巡
洋艦とを魚雷で沈めた。40年間の近代化の過程を経て、日本はここに強国の一つと
戦いに突入したのである。
364 :
コピペ:03/09/29 19:16 ID:q0PvMnml
続き〜教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国
●日露戦争より
実際、あらゆる点で有利であったのは、ロシアの「ゴリアテ」でなく、日本の
「ダヴィデ」のほうであった。制海権を手に入れれば、日本の軍隊は船に乗って戦場
にすみやかにおもむくことができたのに対し、ロシアの軍隊の移動は、荒野を横切る
8000kmにおよぶ陸路一つに頼らなければならなかった。この点の有利さはすぐに現実
のものとなった。日本の軍艦がロシア側を旅順港外で破り、日本の兵士はヤールー川
を越えて満州に攻めこんだのである。
制海権を握ったため、日本は他の軍隊を遼東半島に上陸させることも可能になった。
まもなく旅順自体が包囲されてしまった。ロシア側の立場は、これ以上悪くなりよう
がないところまできた。
ロシアの軍隊は、6週間にわたって家畜の通る道をたどってアジアを横切ってやって
来ており、彼らにとって戦争とは、家庭からの別離以外の何者でもなかった。士官の
中にさえ不満をいだくものがいた。
ある仕官は、「この戦争の目的、原因、それにそのやり方までもが、私には実にいや
に思われます」と家に書き送った。日本人のほうは、はるかに強い熱意をもって戦っ
た。彼らは西洋人を打ち負かしてやろうと決意していたのだった。
365 :
コピペ:03/09/29 19:17 ID:q0PvMnml
続き〜(
>>181より 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国 ●日露戦争より
秋には旅順も陥落し、ロシア軍は奉天に退かざるをえなくなった。それについで
やってきた冬は、厳しい寒さで、歩哨が持ち場で凍死してしまうほどであった。
激しい風が鋤で掘り起こしてある大地に吹くと、砂ほこりが雲のように舞い上がって、
太陽をおぼろにし、人々の目・鼻・のどに入り込み、銃を詰まらせた。このような荒地
では、車輪のついた車は動けなかったため、あらゆる装備は、馬や人間によって運ばれ
なければならなかった。
こうした恐ろしい状況のなかで、100万人にものぼる人びとが、長い戦いに従事した
のである。日中は、銃声がほぼ間断なく鳴り響いたし、夜になると、日本軍の突撃隊
が声も立てずに敵に襲いかかり、肉弾戦をいどもうとした。3ヶ月の後、勝利は日本軍
に帰した。
366 :
コピペ:03/09/29 19:20 ID:q0PvMnml
続き〜
>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国
●日露戦争より
ロシア側の最終的な惨劇は、海上で訪れた。戦争が勃発した当初、日本よりはるか
に強大だったロシアの海軍は世界中に散らばっていた。そのうち一艦隊はすでに日本
側に敗北していたし、黒海にいた艦隊は、ベルリン条約の取り決めで、黒海の外には
出られないことになっていた。
3つ目のバルティック艦隊は、戦場から17,000kmも離れたところにいた。絶望的な気分
になったロシア側は、このバルティック艦隊を、世界をぐるりと回って極東に送ること
に決めた。その途上のさまざまな地点における石炭の供給は、ドイツの一会社が引き
受けた。
367 :
コピペ:03/09/29 19:32 ID:q0PvMnml
続き〜
>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
5 新しく生まれた二つの強国 ●日露戦争より
この長い航海は、その出発点で危うく終わってしまいそうになった。英仏海峡を
南下中、イギリスの漁船の間を通りぬけた際、ロシア艦隊はそれを軍艦と見誤り、
発砲してしまったのである。実際の損害は軽微で、漁船1隻が沈められ、ロシアの
巡洋艦1隻が、自国の砲弾に当たっただけであったが、日本の人気が高かったイギリ
スでは、怒りの声が上げられた。それからしばらくの間、ロシア艦隊は、はるかに
強力なイギリス艦隊の尾行を受けた。しかし、幸いにも1発の砲弾も撃たれることは
なかった。その後は、石炭補給がロシア艦隊の悩みの種となった。
熱帯の気候のもとでも、水夫たちは呼吸を助けるために、くず綿の詰め物を口に入
れて働き、高い気温の中で、24時間もぶっつづけで重労働を行った。船は、主要な
武器の線が喫水線の下にくるまで石炭を積み、デッキの上にも石炭の山がつくられ
た。ロシア政府が2つ目の艦隊を送り、先の艦隊と一緒にすることを決定したため、
マダガスカルで、最大の遅れが生じた。
全艦隊が極東の海にたどり着いたときには、すでに1905年になっており、旅順は陥落
したあとであった。したがって、海上での勝利以外に、この長旅を報いあるものに
する方策はなかったのである。
368 :
コピペ:03/09/29 19:34 ID:q0PvMnml
5 新しく生まれた二つの強国 ●日露戦争より
1905年5月27日、疲れきったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。
ロシア側の動きのにぶい船は、日本の近代的な戦艦の敵にはまずなり得なかった。
日本側司令官東郷提督は、砲火を1杯に開きつつ、ロシア艦隊のつくった線の頂点
を横切って進むことができた。このTの横棒を欠くやり方は、蒸気船の軍艦にとって
の最善の攻撃形態であり、勝利はほぼ確実であった。日本軍の砲弾は、ツァーの軍艦
を木っ端みじんに打ち砕いた。
たった1時間の間に、8隻のロシア戦艦が沈められた。東郷は、1798年のナイルに
おけるネルソンの勝利以来もっとも大々的な勝利を勝ち取ったのである。
369 :
コピペ:03/09/29 19:35 ID:q0PvMnml
5 新しく生まれた二つの強国 ●日露戦争より
陸・海軍がともに破れたロシアでは、1905年に革命が勃発した。ぺテルスブル
クのプチロフ鉄工場の労働者がストライキに入り、黒海の艦隊の水夫たちが反乱を起
こした。
1905年1月22日の日曜日には、15万人の人々が平和的に行進し、ツァーに
謁見を求めようとしたところ、兵士が情容赦もなく、彼らを打ち倒した。しかし、
この血の日曜日事件の結果、ツァーは国民に国会開設を申し出なければならなくなり、
また講和の必要性も納得するにいたった。
アメリカ政府の助力も得て、ニューハンプシャーのポーツマスで、講和条約が結ば
れた。これにより、日本は朝鮮での優先権を認められ、南カラフト(樺太)を与えら
れた。満州と遼東半島でもロシアの勢力には、終止符が打たれた。
しかし、ロシアは金銭的な補償を支払うことを拒絶した。ロシア側に戦費を支払わ
せたいと望んでいた日本人は、これに憤ったが、彼らも疲れきっており、それ以上
戦いを続けることはできなかった。
370 :
コピペ:03/09/29 19:36 ID:q0PvMnml
5 新しく生まれた二つの強国 ●日露戦争より
これらの勝利が日本人に及ぼした影響は、普仏戦争における勝利がドイツ人に
与えた影響に似ていた。40年間で、日本は、ヨーロッパの大国を打ち破れるところ
まで、近代化を成し遂げた。日本はたちまちのうちに海外領土を持つ帝国主義国と
なり、西欧に対するアジアの人々の明らかなチャンピオンとなったのである。
日本人は、偉大な未来を夢見はじめた。彼らは、これほどまでに成功をおさめた
軍隊を崇拝した。日本は、危険なムードで、20世紀に直面したといえよう。
ヨーロッパが目覚めさせたのは、美女ではなく、巨人だったのである。
371 :
コピペ:03/09/29 19:36 ID:q0PvMnml
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941
アメリカの目覚め ●真珠湾 ●年表 ●さらに研究しよう
=========================================================
19 ●真珠湾への道
極東 1917〜1941
アメリカ合衆国は、ヨーロッパにおける混乱のすべてから、どうにか孤立を保って
おくことができた。ヴェルサイユ条約への調印を拒んだアメリカが、ドイツと講和を結
んだのは、1920年のことであった。
ハーディング大統領は、国際連盟について、「横の戸口からであれ、裏口からであれ、
地下室の入り口からであれ」それに入るつもりはないと述べた。アメリカ人の大部分は、
この態度を恐れるどころか、喜ばしく思っていた。
彼らは、そもそも第一次世界大戦に参戦したこと自体が、ばかげた行為であったと考え
ていたのである。大戦は結局自分たちの戦いではなく、アメリカは多大の損失をこうむ
っただけで、領土も獲得してはいなかった。戦争が終わってみると、アメリカには巨額
の貸付金が残ったが、連合国の大部分には、それを返済する能力も、意思もなかった。
多くのアメリカ人はこの状態に幻滅し、二度とこうしたことに巻き込まれまいと、決意
していた。
372 :
コピペ:03/09/29 19:37 ID:q0PvMnml
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
ヨーロッパについては、この政策は、近視眼的であったといえるが、極東に適用さ
れた場合には、悲惨な結果を招くもととなった。日本の人口は、近代化が開始されて以
来、着実に増大してきていた。1852年には1,700万人であった人口が、1910年には4,900
万人になり、その30年後には、7,200万人にも達していたのである。
しかし,日本はアメリカのカリフォルニア州よりも小さな国で、作物を育てることのでき
ない山岳地帯が多く存在していた。そこで日本の指導者たちは、近隣のアジア地域の中で
比較的人間の住んでいない地域に,国民を移住させる必要があると感じていた。日清・日
露両戦争における征服行動の背後には、こうした衝動がひそんでいた。
この動きは、第一次世界大戦中,ヨーロッパ諸国からの競合状態がなくなったことによっ
て推進された。日本は商船トン数を2,100トンから3,100万トンにふやし、安い商品、とり
わけ繊維製品を世界中に氾濫させた。また日本は中国を脅して、21か条要求を受け入れさ
せた。それは中国を日本の衛星国にしてしまうものといってもよい内容であった。
373 :
日出づる処の名無し:03/09/29 19:44 ID:m4DEOOsr
今日、SAPIO買ってる中学生見た・・・・。
まだまだ、希望がありますよ
374 :
コピペ:03/09/29 19:50 ID:q0PvMnml
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
アメリカ合衆国の歴代政府は,二通りのやり方で日本の力と影響力を抑えようとした。
まず第一に,アメリカは中国が21か条要求を無視すべきだと主張し、中国における門戸解放
が、友好諸国のすべてに対して実施されなければならないと強調した。
日本はこれを迷惑に思ったが、アメリカには強力な海軍があったし、中国は同盟国である
と考えられていたから、譲歩を行った。第二に、アメリカは、日本の海軍力が驚異的な
スピードでのびていくのを制限しようとした。
1921年のワシントン海軍軍縮会議において、日本は戦艦のトン数を制限するよう、説得
された。それ以降、各国戦艦の比率は、イギリス、アメリカの5に対して、日本は3に抑
えられることになったのである。
いっぽうイギリスも,1902年の日米同盟締結の理由となった状況、つまりドイツとの建艦
競争が存在しなくなった以上、この同盟をやっかいに感じるようになっていた。そこで
イギリスは,日英同盟にかえて四ヶ国条約ができるのを喜んだ。
この条約によって、英、米、日、仏の4カ国は、太平洋・極東地域における互いの権利
を尊重することを、約束した。その後でつくられた9カ国条約では、中国に利害関係を有
するオランダなどの他の小国も加わって、侵略に対して中国を守ることを保証した。
375 :
コピペ:03/09/29 19:51 ID:q0PvMnml
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
しかし、これらの取り決めはどれをとっても、日本の庶民の間では人気がなかった。
戦後のイタリア人と同様、彼らも、戦時中の同盟者によって欺かれ、当然もらえるべき
報酬を奪われたと感じたのである。
アメリカ合衆国との関係で言えば、1921年のジョンソン法によって、アメリカの日本移民
受け入れが停止されたことにより、日本側の不満は高まった。この不満は、ヨーロッパ諸
国のいくつかが、日本製品に対して輸入関税を課したことで、もっと一般的な反西欧感情
へと広がっていった。
こうした感情が強まっていくなかで、日本の陸海軍の指導者たちは、国内において生まれ
たばかりの民主主義の基盤を、しだいに掘りくずしていった。さまざまな将校グループや
秘密結社の影響も、国民をさらに攻撃的にしていくために用いられた。
このような人々にとって、中国が弱体であることは、絶好のチャンスであると思われた。
こうしたチャンスがいつまでも存在するわけはないから、中国が脅威となる以前に、今
すぐ中国を撃つべきだ、と彼らは論じた。
376 :
コピペ:03/09/29 19:52 ID:q0PvMnml
続き〜
>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
このような見解をもっとも強くいだいていたのは、満州にいた将軍たちであった。
満州では、日本の軍人と実業化が手を携えて、鉱山の開発、鉄道建設に働いていた。
彼らには、満州のほかの部分や、中国自体の富が、きわめて魅力的に映っていた。本国
から遠く離れたところにいた彼らは、日本政府にほとんど注意を払わなかった。たとえば
1928年、彼らの手先が全面的な戦争を引き起こそうとして、中国側の一人の首領を殺害
した。
しかし東京の政府は彼らを支持せず、この計画は失敗に終わった。ついで1931年、中国の
注意が大洪水のためにそれていて、ヨーロッパとアメリカの関心も経済的困難に向けられ
ている最中に、関東州にいた日本軍が奉天近くの鉄道を破壊する手はずを整え、それを
実行した。
この事件の責任は中国側に帰せられ、軍隊をさらに満州の奥地まで送り込むうえでの口実
とされた。しばらくすると、中国の都市、上海も、日本軍の爆撃にさらされ、これを止め
ようとする本国政府の指令は無視された。
377 :
コピペ:03/09/29 19:52 ID:q0PvMnml
続き〜
>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
満州侵略は、日中両国ともに国際連盟の加盟国であったところから、国際連盟に
とっての最初の真の試練の場となった。これが日本による侵略というケースであること
は、明らかだった。
しかし、残念なことに、国際連盟がやったことといえば、日本の行動を非難し、戦い
を「調査する」ための委員会を送ることだけだった。アメリカ合衆国とソ連は国際連盟
に加入していなかったし、イギリスには単独で行動するつもりがなかったから、中国の
運命は決まってしまった。
関東軍に関する限り九か国条約は何の価値もない一枚の紙切れに過ぎなかったのである。
関東軍は進撃を続け、1932年には、満州国と呼ばれる傀儡(かいらい)国家が、満州で
樹立された。日本区内では、この動きを支持する人々が内閣を倒し、首相を殺害した。
満州での成功に勇気づけられ、軍指導部が、軍部独裁を目指しているのは、明白であっ
た。ラインラント進駐のあった1936年と同様、1931年も、将来戦争が起こることがほぼ
確実になった年であった。
378 :
コピペ:03/09/29 19:53 ID:q0PvMnml
続き〜
>>181より( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 より
1930年代を通じて、日本の侵略は徐々に拡大していった。日本は西欧諸国に対する
聖戦の相棒として、中国を必要としていた。中国が日本と手を組むことを拒絶すると、
日本はついに中国に対する全面的な侵略を開始した。1937年7月7日、北京近郊のロ溝橋
(ろこうきょう)で、日本軍と中国軍の間の衝突が発生した。
この事件について中国側が謝罪したにもかかわらず、またそもそも日本軍がその地域に
いる権利はなかったにもかかわらず、このことは徹底的な攻撃を加えるための口実に使
われた。
日本本土では、この成り行きを心配している軍指導者もなかにはいた。日本軍が中国に
深入りしている間にソ連が満州に攻撃を加えてきたらどうなるだろうかと、彼らは考え
たのである。
しかしそれでも、結局現地の軍部の意見が通った。中国側は激しく反撃したが、うまく
いかなかった。一年も経たないうちに、中国の人口の多い地域は日本側の手に落ちてし
まい、中国国民政府は重慶に退かねばならなくなった。山に囲まれ、速い流れの揚子江
に守られたこの地において、中国政府は日本への挑戦をつづけることができたのである。
379 :
コピペ:03/09/29 19:54 ID:q0PvMnml
( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941
アメリカの目覚め
平和を愛するルーズヴェルトには、こうした事態が気がかりであった。
彼の国内政策を「ニューディール」と名づけたのと同様、彼は外交政策にも
別の名前を編み出した。合衆国はすべての国にとって「よい隣人」でありた
いと、彼は主張したのである。これはとりわけラテン・アメリカの国々に適
用された。
アメリカがこれらの国々に脅し(おどし)をかけたり、干渉したりした時代
は過去のものとなった。パナマには、より多くの自由が与えられ、ハイチか
らはアメリカの海軍が引き揚げられた。キューバ問題にアメリカが介入する
ことを可能にしていたプラット修正条項は、議会で撤廃された。
外交問題をめぐって、アメリカの役人がラテン・アメリカ諸国を扱う扱い方
は、丁寧さをました。ルーズヴェルトの大臣の一人は、通訳なしで交渉でき
るよう、スペイン語を学んだ。1933年には、ブエノスアイレスで開かれた
ラテン・アメリカ諸国の会議に、大統領自らが出席した。
380 :
コピペ:03/09/29 19:56 ID:q0PvMnml
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 アメリカの目覚め より〜
こうした動きは、ある程度の成功を収めた。しかし、残念なことに、いくら
丁寧な姿勢をましたところで、ヨーロッパや、極東における緊張状態を変えるこ
とはできなかった。
ドイツと日本が、ソ連に対して防共協定を結んだとき(1936)、ルーズヴェルト
は、この侵略的な2国間の友好関係に不安を覚え、アメリカ国民に危険な状態を
気づかせようとした。
1937年には、スペインと中国で起こっている戦争に触れて、ルーズヴェルト
は、「もしもこうした事態が世界のほかの部分で起こるようになった場合に、ア
メリカがそれから逃れられるとか、アメリカが容赦されるとか、西半球が攻撃さ
れることはないだろうとか・・・・・、だれも思ってはならない」と述べた。
ところが、この警告に対する反応は、ルーズヴェルトに敵対的なものであった。
彼の党である民主党の議員ですら、彼のことを戦争屋と呼んだ。その2年後に
第二次世界大戦が勃発しても、アメリカ人の孤立主義的なムードは変わらなか
った。
一般庶民は戦争にほとんど関心を示さず、将軍たちのほうは、助けがなくても
イギリス、フランスは勝利するものと思いこんでいた。
1940年7月になっても、ルーズヴェルトは、「われわれは侵略戦争で武器
はとらない、軍隊を送ってヨーロッパでの戦争に加わるつもりはない」と国民
に保証しなければならなかった。
381 :
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 アメリカの目覚め より〜
しかし、1940年のフランス敗北ごろから、アメリカ人の覚醒(かくせい)
がはじまった。ドイツ軍の力に驚いた議会は、初めて強制的な徴兵を採用し、
海軍拡大計画を立てた。大西洋では、アメリカの商船がドイツのユーボートに
沈められはじめたため、ルーズヴェルトは海軍の指揮官に、ドイツやイタリア
の潜水艦は「見つけしだい撃つ」ようにと、指令した。
他方では、イギリスが侵攻を撃退できるよう、送れるだけの軍需物資がイギリ
スに送られた。もっと重要な出来事は、カリブ海におけるイギリスの基地とひ
きかえに、アメリカの駆逐艦がイギリス海軍に与えられたことであった。
1年前であったら、このような援助は不可能だったであろう。現実が、ど
のようにひどい状況のもとにあるかに、アメリカ人もやっと気づいたのである。
1940年末に、アメリカ国民はルーズヴェルトを大統領に三選したが、これ
もかつてなかったことであった。
このように信任の票が寄せられたことに力を得たルーズヴェルトは、今度は有
名な、武器貸与計画を提案した。これによって、戦争が終わったあと返却して
もらうとの約束で、いろいろなものが、イギリスに送られることになった。
それらが破壊されてしまえば、アメリカのために用いられたのだと考えられる
ことになったのである。記者会見の席上で、ルーズヴェルトは彼特有の簡潔な
表現で、この政策を次のように説明した。
382 :
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 アメリカの目覚め より〜
隣の家が火事になり、自分の家の庭用のホースが400〜500フィートも離れ
たところにあるという状況を想定していただきたい。もし隣人が私の家のホース
を持っていって彼の家の消火栓につなぐことができれば、私は隣家の火を消す手
伝いをしたことになるだろう。
その際、私はいったい何をするだろうか。そうした作業をする前に、「お隣さん、
うちのホースは15ドルもします。私に15ドル払ってくださる必要があります」な
どと、いいはしないであろう。
実際にはどういった処理が行われるだろうか。私は15ドルを求めず、火が消え
たあとで、ホースを戻してもらうだけのことだろう。
このようにして、第一次世界大戦中の貸付金をめぐって前に生じたような
不満の種は、あらかじめ取り除かれた。1941年3月以降、イギリスとその同盟
国はアメリカ合衆国から物資の供給を受け、戦争の続行を援助してもらったの
である。
383 :
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941
●真珠湾
いっぽう、日本の指導者たちの間では、何をなすべきかについて論議が起こっ
ていた。ヨーロッパで戦争が起こったことは、第一次世界大戦のときと同じ自由を
日本に与えてくれるように思われた。彼らの気をそそるさまざまな可能性がまわり
じゅうにあった。陸軍の軍人たちは、中国、満州にいっそう進出していくことを望
んでいた。海軍の側は、南方へ進撃し、オランダ領東インド(インドネシア)の石
油を手に入れたいと思っていた。
日本にとっての主要な問題はソ連であった。1939年にはソ連軍の戦車が、満州と
の国境線で日本軍を打ち破っていた。ソ連が昔のように弱体でないことは、明ら
かになっていた。他面では、日本の指導者たちは、ドイツが戦争に勝つのは確実
であると思っていた。したがって彼らは、ドイツではなく自分たちが、極東にお
けるオランダ、イギリス、フランスの領土を手に入れる必要があると、強く感じ
ていた。
ソ連が攻撃してこないことさえ確信できれば、日本の陸海軍は、インドシナ、
シヤム(タイ)、ビルマ、マラヤ、オランダ領東インドに向けて南進し、日本
の工業界は、石油・すず・ゴム・ボーキサイトを手に入れることができるはず
であった。
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
この問題に解答を与えたのは、1941年6月におけるドイツのソ連侵入であっ
た。これにより、ソ連は西方国境で手一杯になったから、日本に関する限り、こ
の独ソ戦開始は、「進め」という信号に等しかった。1941年12月にはすべての準
備が整った。
日本の平和を愛する首相、近衛文麿(このえふみまろ)は退陣せざるをえなくな
り、その後には、非情な軍人で、「かみそり」というあだ名のついた東条英機将軍
が就任した。軍部の独裁体制を強いてしまえば、太平洋の支配権をめぐって日本
がアメリカ合衆国と挑戦するには、それに適した天候が到来し、十分な物資の補
給が確保されるだけでよくなったのである。
フランス領インドシナは、1940年6月にフランスが陥落したときに、すでに日本
に占領されていた。太平洋では、軍艦・飛行機、兵隊たちが、攻撃の準備を整え
た。年とった人ならば、日本が最初にヨーロッパの強国に挑戦した、旅順攻撃
(1904)のことを思い起こしたであろう。今や日本は、当時のロシアよりはる
かに強力な敵に挑戦しようとしていた。
385 :
コピペ:03/09/29 19:59 ID:q0PvMnml
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
フランス領インドシナが日本の手に落ちたとき、ルーズヴェルトは日本への
鉄くず輸出をすべて停止し、合衆国内の日本資産を「凍結」したため、日米間の貿
易は途絶えることになった。それでもなお、アメリカ大統領は、ヒトラーのドイ
ツのほうが日本よりも大きな脅威であると確信していた。
日本側はといえば、好戦的な意図をおおい隠そうとしていた。自分たちはただ平
和を望んでいる、と日本側はいった。もしもアメリカが、中国を説得し、戦いを
止めさせてくれれば、すべてうまくいく、というのである。
しかしルーズヴェルトの下の専門家たちは、日本側の暗号を解読し、重要なメッ
セージを読み取っていた。このころになると、日本の指導者に征服戦争開始の意
図があることを、大統領は心得ていたのである。彼は、他国民の領土を尊重する
よう、日本に求めた。交渉は、アメリカ側が日本に対し、戦争準備を止めるよう
改めて要求した11月26日まで、続行した。
その後東条は、戦争の前ぶれとして、外交関係を断絶した。この決定を述べた日
本側のメッセージはワシントンに届いたものの、日本大使館での暗号解読に手間
取った。その結果、この正確な内容がわかったのは、1941年12月7日(日曜日)
ハワイの真珠湾にあったアメリカ軍基地を日本の飛行機が爆撃する、わずか6時
間前になってしまった。
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
この計画の背後には、山本五十六提督がいた。彼は何年も前から、アメリカ
の潜在的な力は日本の力よりもはるかに強大であるから、日本が戦争に勝とう
と思えば、ちょうど1904年にロシア艦隊をやっつけた場合と同様に、戦争が始
まる以前に現存するアメリカ艦隊を破壊してしまう必要があると、主張してき
ていた。
こうした敵を打ち倒す力をつけるために、彼は航空母艦を中心とする艦隊をつ
くりあげた。この艦隊を用いれば、当時の飛行距離のみじかい爆撃機でも、効
果的な攻撃をしかけられる距離にまで、アメリカ軍基地に接近できた。「アメ
リカ艦隊の存在は、わが国ののど元に突きつけられた短剣のようなものである」
と、彼は記した。
この年の11月に、だれもいない北太平洋の波をかき分けて下って行った日本
艦隊は、誇り高い国の希望を運んでいただけでなく、山本提督の生涯の夢をも
運んでいたのである。
387 :
コピペ:03/09/29 20:02 ID:q0PvMnml
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
荒れる海上で船がゆれる中で、真珠湾攻撃の計画がパイロットたちに説明
された。これは不可能なまでに危険な計画に思われた。ある人は、これを聞いた
とき「ぞっと」したと、のちになって認めている。見つからずにハワイまでいけ
るチャンスは、本当にわずかしかなさそうであった。
しかし実際には彼らは幸運に恵まれていた。航海の前進を遅らせるものは何もな
かった。霧の中でも速度は保たれ、人間が海中に落ちても救助されることはなか
った。加賀や霞といった大きな船でも、偵察機に見つからなかった。その当時
から、批判者たちは、アメリカ側がこれほど軽率であったことを非難してきた。
しかし、実際のところは、アメリカ軍の司令官は、攻撃がかけられそうだとは
わかっていてもどこを攻撃されるかがわからなかったのである。オアフ島の南西
にいたアメリカ艦隊は、現に見当はずれの方角をパトロールしていた。
突っ込みたいところは色々あるけどそれでも日本の教科書よりは遥かに公平な
ところが泣かせるな。イギリス教科書。
日本が朝鮮半島を併合した時代は帝国主義列強(英・米・仏・独・露・伊・日他)
が争っていた時代であって、そういう世界の中で日本がどの様に判断し、どの様
に行動したのかを学ぶのが重要なのだ。
しかし、最近の歴史教科書は安重根だとか3.1などの併合朝鮮半島での犯罪レベ
ルの出来事を重要視し、帝国主義国家が群雄割拠する時代状況の中での日本の動き
と言う重要な視点は欠落している。
レーニンの帝国主義論もこういう時代状況認識から書かれている。
この様な世界情勢があったのだ、という認識を横に置き朝鮮半島の犯罪レベルの
出来事を重要視する考え方は、朝鮮半島の歴史であり、日本や世界の歴史ではない。
安重根に注目した記述は「伊藤博文の死」という重大事を軽んじている。
ケネディ暗殺によりジョンソンが大統領になりベトナム戦争の本格介入を行なった
という歴史を横に置き、オズワルドの個人経歴を教えるに等しいバカな話である。
こんな「半島史観」で物事を語っても何も意味はない。
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
日本の攻撃は、慎重に計画されていた。真珠湾のすべてが、海岸の勾配から、
潮の満ち引き、船の流れ、戦艦の位置にいたるまで、日本のスパイによって調べ
られていた。日曜日が選ばれたというのも、ウィークエンドにはいつもより余計
に軍艦が入っているという理由からの、意図的な選択であった。
ワシントンや太平洋艦隊には何かがわかっていたとしても、ハワイ自体にいたア
メリカ人は、危険にまったく気づいていなかった。ちょうど午前8時前に、第一
波の183機を率いた淵田美津男指揮官が基地の上空に到着したときには、おき
ているものさえわずかであった。水夫たちはそこここで、汚れた武器の掃除をし
たり、砲身についた露をぬぐったりしていた。
ワイキキの浜辺ではネオンの灯りがまだともっており、ラジオがダンス音楽を演
奏していた。港にはアメリカの軍艦がそれぞれ対になって錨を下ろしており、船
と船の間が密集していたので、淵田にはその幸運が信じられないほどであった。
その少し前にはアメリカのレーダー係が日本の機影をとらえていたが、その上官
が、これは見方の飛行機であると結論していた。
写真(転載者注:真珠湾の被害を近景から撮った写真・破壊された飛行機や爆煙の
立ち上る飛行機の写真) 真珠湾で炎上するアメリカ機
392 :
コピペ:03/09/30 00:48 ID:4YoP42LJ
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
その数分後、飛行機と船とに爆弾が降り注がれた。これは完全な奇襲であっ
た。何とか空に舞い上がれたアメリカ機は4機のみであり、それらもすぐに打ち
落とされてしまった。他の117機は地上で破壊された。淵田の部下は、軍艦の艦上
部分と水平になるくらいの高さまで突っこんで、爆弾を落とした。水はわきかえ
ったようにはじけ飛び、黒煙が立ちのぼって、船が爆発したことを示した。
アリゾナ号のボイラーと前部弾薬庫が破裂した際には、蒸気と煙からなる巨大な
雲が生じた。あわてふためいたアメリカ人は、いたいたしいまでの勇敢さを見せ
て反応したが、それによって損害はさらにましていった。デッキに駆け上り、赤
と黄色のしまのある日本機にむけてピストルを発射したりする者もいたのである。
ある一人は、ごみバケツのふたの陰に隠れて、機関銃を撃った。
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
170機からなる第二波の日本側飛行機が9時に真珠湾上空にあわられた
ときには、炎や煙を通して、壊されたアメリカ船を見ることも難しいほどにな
っていた。すでに4隻が沈んでおり、アリゾナ号も、1,000人の乗務員を乗せ
たまま燃えさかる油とともに沈もうとしていた。
しかし今回は、アメリカ側も激しい砲火を浴びせかけた。ある日本人パイロッ
トは、まわりじゅうで、「爆弾が花のように爆発していた」模様を語った。午後
1時30分にやっと日本側は引き上げた。
破壊されて使えなくなった戦艦は8隻、死者は2,403人にのぼった。その夜、
日本の潜水艦の一指揮官は、「真珠湾は火でできたもののように、空を赤く染
めている」と報告した。
394 :
コピペ:03/09/30 00:50 ID:4YoP42LJ
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941 ●真珠湾より
この事件は、それ以後アメリカ合衆国の歴史のなかで、赤く光りつづけて
きた。攻撃としては、この作戦は多くの面で失敗であった。 貯蔵されていた
大量の石油は手つかずのままに残り、その後の戦いでアメリカ艦隊が使うこと
ができた。また3隻のアメリカ航空母艦は、海上に出ていて真珠湾にいなかっ
た。したがってこれは、日本が必要としていたような破壊的な打撃を与えるに
はいたらなかった。
しかし政治的には、この結果、わずか数時間の間に、20年間にわたる孤立主
義がぬぐいさられることになったのである。世界の他の地域で起こっていること
が、自分たちには関係のないことだとアメリカ人は決して思わなくなった。
この日曜日の朝のように、アメリカ人が不意打ちを食らわされることも、決して
なくなった。淵田の飛行機が攻撃したのは1941年のことである。しかしそのと
き彼らが行ったことは、今日にいたるまで、アメリカ合衆国の政策に影響をお
よぼしているのである。
395 :
コピペ:03/09/30 00:51 ID:4YoP42LJ
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979年》)
19 ●真珠湾への道 極東1917〜1941
さらに研究しよう
日本とアメリカについては、第20、21、27,28章も参照しなさい。
柳条溝事件について述べ、その後の事態でなぜ国際連盟の力が試されたか、
またなぜ国際連盟が行動に失敗したのかを説明しなさい。
両大戦間に、アメリカ合衆国はどのようなやり方で日本の力と影響力とを
抑えようとしたか。こうした方策がどの程度成功したかについて述べなさい。
「とくにアメリカの中西部では,ヨーロッパははるかかなたの地と思われてい
たため,大部分の人びとが,当時アメリカのなしうる最善のことはヨーロッパ
からまったく手を引き,ヨーロッパの問題をヨーロッパの人間自身に解決させ
ることだと、信じていた。」ヨーロッパでの第二次大戦へのアメリカの「庶民」
の態度は,どのような出来事によって変わっていったかを述べなさい。
次のそれぞれについて、簡単な説明を加えなさい。
a) ルーズヴェルトの「善隣」政策 b) 防共協定
c) 武器貸与計画 d) 山本五十六提督
396 :
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続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ
●極東における第二次世界大戦
1941年にアメリカが日本に対して経済的制限を加えた結果,日本に残され
た道はただ二つだけになってしまった。
すなわち好戦的な計画を捨ててしまうか,それとも東南アジア全体を手に入れて,
産業上の原料供給地として開発していくかの二つであった。日本の攻撃的な指導者
たちに関する限り,第一の選択肢は問題外であった。第二の選択肢のほうは十分成
功する見込みがあるように思われた。
フィリピン、ボルネオ、モルッカ、セレベス、チモール、ジャワ、スマトラ、マラ
ヤ、タイ、ビルマの防衛は手薄であった。この地域に関心のあるヨーロッパ諸国の
うち、オランダはすでにドイツ軍に占領されていたし、アメリカ合衆国の準備が整
っていないのは明らかであった。また満州で日本に挑戦しても不思議でなかったソ
連は、ドイツの戦いに掛かりきりになっていた。
経験を積んだ日本の軍隊に対抗するものは、何千kmにもわたって散らばり、ばらば
らの部隊に分かれていた装備の不十分な軍隊にすぎなかった。また200隻もの軍
艦を有した日本海軍に対し、英米側が使いうる船は90隻のみであったし、飛行機
も、日本の7,500機に対し、1000機のみという有様であった。日本は意の
ままに軍隊を終結し、望む地点を攻撃することができた。
397 :
コピペ:03/09/30 00:53 ID:4YoP42LJ
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より
このような計画を脅かす唯一の要因であったアメリカ艦隊は、真珠湾攻撃で動
きがとれなくなったように思われた。真珠湾攻撃に続いて、日本の海軍機動部隊は、
南方に進攻し、フィリピン、マラヤ、タイ、ポルネオ、ウェーク島、グアム島、香
港を攻撃した。日本軍の攻撃はどこでも成功し、1941年12月の間だけで、
ウェーク、グアム、香港が陥落した。
マラヤやタイも日本軍に席捲され、極東におけるイギリス最大の基地であったシン
ガポールも、1942年2月に日本の手に落ちた。3月9日にはオランダ領東イン
ドが降伏した。
フィリピンでは、ダグラス=マッカーサー将軍に率いられたアメリカ軍が、果敢な
抵抗を行った。バターン半島とコレヒドール島で、彼らは何ヶ月もがんばり、日本
軍に多大の損害を与えた。しかし、食料や医薬品が欠乏してくると、病気が広がっ
ていった。バターンは4月に、コレヒドールはその翌月に降伏した。
1942年5月20日までには、イギリス軍はビルマ方面におしもどされており、
オーストラリアも日本の脅威にさらされていたし、東南アジアはすでに日本の支
配下に入っていたのである。
398 :
コピペ:03/09/30 00:54 ID:4YoP42LJ
続き〜( 教科書:イギリス《初版発行1968年 第9版発行1979》)
21 ●ミッドウェーから広島へ ●極東における第二次世界大戦より
これらの地域が征服されてしまうと、戦いの中心は海上へと移っていった。
海では、海軍による戦争の革命ともいえるべきものが起ころうとしていた。
真珠湾攻撃の成功と、プリンス・オヴ・ウェールズ、レパルスという2隻のイギ
リス戦艦が日本の爆撃機によって撃沈されたことは、海軍軍人、とりわけ山本五
十六が何年も前から主張していたことの正しさを立証した。すなわち、大砲を発
射する軍艦は時代遅れであり、近代的な軍艦というものは、砲弾ではなく飛行機
を飛ばす航空母艦であるという主張である。お互いに戦っている艦隊が相手方を
直接に見ることなく行う新しいタイプの海戦も、いまや可能になった。
ドレッドノートが戦闘のために列を組むこともなくなった。航空母艦は大きな輪を
つくるように集まり、そのまわりを巡洋艦や駆逐艦が防衛のためのスクリーンを
つくる形をとるようになった。急降下爆撃機や魚雷投下のできる飛行機が爆弾の
かわりとなり、活動範囲も80km以上になった。勝利は、多くの航空母艦を沈
めたほうに帰することになった。