じいちゃんや親父は日本軍の何部隊に所属していた?

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1名無しさん@お腹いっぱい。
 うちのじいちゃんは海軍で空母に乗っていたとか。詳しくはしらないんですが
2名無し三等兵:2001/07/10(火) 12:37
うちのじいちゃんは仙台出身で第二師団所属だった。
餓島、ビルマ戦線を戦った尊敬するじいちゃんだった。
ビルマでは第三十三軍参謀の野口殿によくは分からないが
助けてもらったとのことだよ。
3名無し三等兵:2001/07/10(火) 12:48
爺さんは鉄道技師。東京から名古屋や米原にかけて各地ではたらいてた。
終戦時は満鉄(満州鉄道)の技師やってた。
自分が係わっていた鉄道で命かながら本土へ帰還。
4三笠保存会員:2001/07/10(火) 12:56
>>3
え、うちのじいさんは満州で鉄道第二連隊にいたよ。
そのせいか蒸気機関車の運転免許(?)を持ってた。
おかげで母親はハルピンの官舎でお姫様暮らしで、
終戦前に食料豊富な長野県に帰国して戦争被害を
受けなかったため、いまだに戦争に負けたと思っていない。
5名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:02
うちのじいちゃんは、大日本帝国連合艦隊の
何かの司令官だったよ!!すごいの?
6名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:10
154701233863286
7名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:11
あげあげ
8名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:12
ぐううぉぉぉぉぉいい!!あげったらあげがえがげがえg
9名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:12
爺ちゃんの弟は
山城の第一砲塔配備だったそうな
だから戦没地はス…
10名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:13
日米開戦当日・・・・・・日本兵はかなり緊張していました。
これを馬鹿にしては絶対にいけません。
11大渦よりの来訪者:2001/07/10(火) 13:17
父方の祖父が海防艦「四阪」の軍医だったそうです。
出来が悪かったお陰で大型艦に載せられず、お陰で助かったと……。
12名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:32
うちのじいちゃんは空母龍嬢で整備長してました。
13名無し三等兵:2001/07/10(火) 13:37
 近衛第1師団歩兵1連隊です。上等兵として
勤務していたようです。
14名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:03
東京一聯隊の軍曹で重機関銃の指揮をしてました。
15名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:08
私の祖父はロシア解放第1師団(ドイツ国防軍第600歩兵師団)の分
隊長をしてました
16名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:15
ヘタレ関東軍に所属してたよ(親戚)ソ連侵攻前に内地勤務になった。
じいさんは呉の軍施設で働いてて原爆の直撃から免れた。
詳しい階級とかは聞かなかったし二人とも亡くなったからなぁ
17名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:25
>>15
詳細きぼーん。
18たりえ:2001/07/10(火) 14:37
右肩に弾創(誤字?)がある。横浜から参加?日の丸に寄せ書き
してあるやつもってて血もついててなんか胸がつまった。天皇?国からなんか感謝状みたいなの飾ってんよ
86歳でまだ車運転してる。でもこの前走ってて助
手席のドアあいて閉めながら走った話がばれ家族
に引退勧告された、でも乗ってる。
1915:2001/07/10(火) 14:44
詳しくは知りません
ウクライナ人の祖父は部隊が東部戦線に派遣されて以来還って来てない
から直接聞けないし、生き残った祖母(ウクライナ人)は戦場からの手
紙で祖父が分隊長をしていた事を知ったそうで、それ以外は知らないそ
うです
20名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:47
あの時代には珍しく車を乗りまわしていたせいか、トラックに乗って
中国北部で補給していたようだ。
21名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:50
爺さんの弟6人全員は硫黄島とサイパンで玉砕したそうです。
22>>19 :2001/07/10(火) 14:50
いわば敵側に夫がついたのに祖母さんはよく強制収容所にいれられなかったね
23名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:52
うちのじいちゃんは中島飛行機の木工技師だったよ
試作機の本物作る前に木で作って空洞試験とかやるそうな
24名無し三等兵:2001/07/10(火) 14:53
第二むっちり縄責めまんぐり部隊 第一小隊
25えび兄ちゃん:2001/07/10(火) 15:09
オイラのおじいさんは2人とも潜水艦の艦長をしてたよ。
オイラは潜水艦特集本でじいちゃんの写真も見たことあるよ。
因みに2人とも海軍兵学校出身!昔ならエリートってやつ!?
まあ終戦でリストラにあったようなもんですわな。
26名無し三等兵:2001/07/10(火) 15:11
>25
伊400系の艦長??
27えび兄ちゃん:2001/07/10(火) 15:14
>>26
違います。伊16系なのかな?あと呂号にも乗ってたよ。
もう片方は呂の100系かな?
28名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:20
うちの爺は、カリフォルニアの移民の子で、きな臭くなってきたので、帰国。
まだ勝ち戦をやってる頃に、満州にいって、満期で除隊。

鬼畜米英とか言われても、ピンとこなかったらしく、同じ郷里の中隊長さん
が、”希望の配属があれば聞いてやるぞ。”と言ったところ、

”わしゃ、訓練が無い所がええの。”と、思いっきり非国民な答えをかまして、
輜重隊でトラック転がしてたそうです。

”鉄砲をな、撃ったことがないんじゃ。”と、のんきなこと言ってました。
29名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:35
うちのじいちゃんは富山の第何連隊だっけ?にいて、支那に行った。
機関銃や小銃を直す仕事をしていて軍曹だったそうだ。

「日本も原子爆弾つくっとったんじゃ」とか
「支那は食べ物が多くて助かった」とか
「支那酒からアルコールを取って揮発の代わりにした」という話を聞いた。

いまだに健在なんで、今度みっちり話を聞いてこようと思ってる。
30名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:40
うちの爺さんは軍犬の訓練をしてたらしい
軍犬の餌は人間のよりはるかに良い物だったらしく、よくつまみ食いをしてたそうな
気に入らない上官にわざと犬をけしかけたりもしたそうです
青春時代はシベリアで捕虜として過ごしたらしいです。。。
31名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:41
うちの爺さんは関東軍。
陸軍大学出て、中佐で工兵隊だったらしいが、詳しいことは知らない。
中国で狙撃されて戦死→大佐昇進したそうだ。
32名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:48
うちの爺さんは南方に行った。
その時に小隊長の命を救ったそうで、めちゃくちゃ感謝されたそうだ。
その小隊長は戦後、仙台で医者になり、爺さんはたまに遊びに行ってた。
爺さんの兄貴は海軍少尉まで昇進して最後は駆逐艦といっしょにあぼーんされたとか。
駆逐艦の名前は思い出せんのじゃ。
仏壇にある爺さんの兄貴の写真、立派な軍服だった。
33名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:50
物故した叔父は学徒兵乙幹、野戦重砲観測下士でソ満国境、沖縄戦に備えた
輸送途中で腸チフスで入院、その後、平壌の陸軍病院で終戦を迎え、八路軍
に志願?38度線を越南して米軍に投降し内地送還。
34名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:54
うちの爺さんは支那派遣軍だったみたい
満期除隊後に再召集されたんで部隊はわからんけど、野砲撃ってたらしい。
でも終戦時は千葉の軍刑務所にいたんだと。
なにやったんだか・・・
35名無し三等兵:2001/07/10(火) 16:57
爺さんじゃないが、中学の担任の父親の話。
満州で終戦を迎え、とうぜんながらソ軍に捕まりシベリア行きへ、
途中で列車が止まり、みんな外に出させてもらった時に その人だけ
うんこがしたくなったのでちょっとした薮に隠れてしていたら
休憩が終わり、列車が出発。独り残されたそうです。
線路沿いを歩いて戻り、なんとか引揚船で帰ってきたとさ
36名無し三等兵:2001/07/10(火) 17:33
厨房の時の塾のセンセー、陸軍航空隊の整備兵だったそうだ。パレンバンに出撃する「空の神兵」を帽子を振って見送ったとか。
厨房の時の英語の教師の兄貴が瑞鶴航空隊で小隊長だったそうだ。フィリピンでグラマンに追っかけられている中隊長を救いに逝って返り討ちに会い、中隊長と一緒に靖国に逝ったそうだ。
37名無し三等兵:2001/07/10(火) 17:46
母方の祖父は配置はわからないが、大陸で陸軍の偵察機乗りだったそうだ。
飛行場の近くで懐中電灯使って空を照らしてた婆さんを、スパイ容疑で
憲兵が引っ張っていった話なんかをしてくれた。
葬式の後”丸”などの軍事関係書物が沢山出てきて、血なのかな?
と思わせてくれた祖父だった。
38名無し三等兵:2001/07/10(火) 17:50
じいさんは早くから大陸に送られて、帰ってきても
戦場のことは全然喋らなかったらしいのですが、ある時酒を飲みながら
「大陸じゃいっぱい人を殺した・・・。悪い事もたくさんした。友達もみんな死んだ・・・。」
とばあさんにぽつりと漏らしたそうです。
親は「南京か731じゃねえのか?」とか言っており、そうなのかと思ってましたが
最近、中国戦線は中国戦線で悲惨だったことを知り分からなくなりました。
ちなみに上等兵だったそうです。
じいさんの弟は帝大系の学校で物理の修士だったそうですが、
ビルマに送られたまま帰ってこなかったそうで。
時期的にはインパールの頃らしいですが家族は軍事に詳しくないので
良く分かりません。
ただ、叔母が「兵隊のカッコした泥の中で腹減ったーってもがいとる親戚の男が
とりついとる」とか占い師にいわれたので供養してるらしいですが、
僕はインチキ臭いのは嫌いなので判断に困ってます。
39名無し三等兵:2001/07/10(火) 18:01
じいちゃんは中国で転戦してました
40名無し三等兵:2001/07/10(火) 18:09
あのー、戦争体験スレッドって倉庫行きしたんですか?
41名無し三等兵:2001/07/10(火) 18:25
うちのじいさん、父方は独立工兵第9連隊所属で北朝鮮で編成。
18年に南方抽出になるけど、中隊だかがトラック島の部隊所属
になったので、無事に帰国。
戦後警察予備隊に第1期で入ってます。陸軍にいた頃に幹部候補
生になって終戦時曹長のポツダムで中尉。
母方は近衛歩兵第1連隊に昭和15年に徴兵。19年に病気除隊。
42名無し三等兵:2001/07/10(火) 18:27
うちのじいちゃんは、中島飛行機の小泉だか太田製作所だかで(どっちか忘れた)
銀河の車輪の取り付けをやってたそうな。
43名無し三等兵:2001/07/10(火) 19:32
うちのじいちゃんも中島飛行機に勤めていたそうです。
詳しい事は分かりませんが、夜間戦闘機「月光」の設計に関わっていたそうです。
操縦も出来たらしく、うちの弟が空自に入る事になった時最初は反対したのですが、
弟が「C-130を操縦したいから自衛隊に入る」と言ったところ、大喜び。
「おれも操縦したい」とあっさり賛成に回ってました。
44名無し三等兵:2001/07/10(火) 19:40
こういうの見てるとやっぱあの戦争は皆のじーちゃんで戦った、
と再認識できて楽しいです。

うちの爺さんには詳しくは聞いたけとなかったけど、シナ戦線で
「うちら(日本軍)が撤退するとチョンの連中仲間割れするから、
 で、よしと思ってまた攻撃すると仲良く反撃してくる」
っていってたけどこういう事実ってあるんでしょうか(初心者)
45名無し三等兵:2001/07/10(火) 19:47
うちのじっちゃんは信太山の高射砲陣地に勤務してた。
(戦争の)最後のほうは弾もなく、砲身内部の螺旋が擦り減ってまっすぐ
弾が飛ばないので、B29が上を飛んでても全くなにもできずに見ていただけ、
と逝ってた。(たとえ撃てても届かないってば)
46騎兵ラヴ:2001/07/10(火) 20:01
うちの爺ちゃんは輜重兵だったそうな。
体が鶴のように細かったから仕方ないんだろうけどね。
丸亀の連隊だか旅団の所属とか言ってたぞ。

で、大叔父は花の2水戦で
おにぎりを作ってたとの事。
47名無し三等兵:2001/07/10(火) 20:04
うちの爺さんは関東軍。
士官学校から、満州、ノモンハン、南方、内地とあちこち移動したそうだ。
書き残した日記によると、陸軍内では「剣道の○○」と有名だったそうです。
日記は、かなり細かい戦闘描写があって怖い。
遺品整理をしたときは、「極秘」と書かれた書類や装備品が山ほどでてきました。
中佐だったそうです。
48名無し三等兵:2001/07/10(火) 20:18
私の祖父の50回忌を3年ほど前にしました、満州国で大臣?をしていてA級戦犯で死刑になりました。勲章やら大礼服やら沢山あるのですがバッチリネームが入ってるので売るに売れません。なんだか悲しいです。
49名無し三等兵:2001/07/10(火) 20:31
師団軍医長でした。池部良が一時期部下にいたそうです。
ある日大陸で、夜間大休止のあと朝食のち行進用意したらば「軍医殿大変です。3中が全員ゲリしてます!」とのこと。
「何くったんだ?」「飯ごうメシと乾燥味噌溶いて、その中に農家が作っていたナッパいれて煮ただけであります」
…で、見に行ったら、ナッパの正体はなんとタバコの葉だったそうです。その日の行軍は流れてしまったとか。9年軍にいて、最後は少佐、ポツダム中佐で軍歴を終えて町医者になりました。“帝国陸軍薬局方”と銘打ったラベルのあるクスリびんがあったです。
50名無し三等兵:2001/07/10(火) 20:35
馬用の防毒面がどうたらこうたら言ってた。
今考えると詳しく聞いときゃよかった。
5152型乙:2001/07/10(火) 20:42
うとのじいちゃん 満州から引き上げ後
東レに入社したそうだ 騎馬兵だったそうだ
52名無し三等兵:2001/07/10(火) 21:02
漏れのじぃちゃんは、日中戦争から山砲隊にいて最後はビルマに行ったという話です
ちなみにインパール作戦1週間前に満期除隊になって、インパール作戦に行かずに済
んだ強運の持ち主です
53うへほ:2001/07/10(火) 21:07
母方の爺ちゃんは船員で航空機や潜水艦の脅威と戦ってました。
父方は木製飛行機の開発に従事してました。
54名無し三等兵:2001/07/10(火) 21:11
一人は二等兵で満州に行った…ちゃんと帰ってきた。
もう一人は少尉というくらいしか知らない。
55名無し三等兵:2001/07/10(火) 21:12
うちの祖父は広島の師団だったので
中国−マレー−シンガポール−ニューギニア
といって帰ってきました

・・・ニューギニアから帰ってくるとは昔はどうってことないと思ってたけど、
今考えるとすごいよ

それから銀輪部隊のチャリンコはニューギニアでは全く役に立たず
スポークを加工して釣り針に使っていたそうです
56名無し三等兵:2001/07/10(火) 21:55
母方のじいちゃんは、台湾に行っていたが、何をしていたかは知らない。
(昔、記憶違いかもしれないが二本線に星一つの階級章を見たことがある。)

父方のじいちゃんは、戦争に行っていない。年齢制限に
引っかかったらしい。
57名無し三等兵:2001/07/10(火) 22:20
56です。
皆さん結構体験談とか聞いているのにビックリした。
母方のじいちゃんは、体験談とか聞いても何も語ってくれんので
何かとんでもないことやってたのかとガキの頃は思っていた。
今聞いても話してくれないだろうな・・・・
58名無し三等兵:2001/07/10(火) 22:27
うちの祖父は東芝で、対潜哨戒機用の潜水艦探知機を開発してたんだって。
59名無し三等兵:2001/07/10(火) 22:36
うちのじいちゃん満州で憲兵やってたそうな、終戦のとき憲兵は恨まれて
みんな殺されたそうだが、じいちゃんは中国語が堪能だったので、中国人
に化けて脱出し、引き上げ部隊に紛れ込んで、帰国したそうな。
失敗していれば、漏れは存在していなかったかと思う。
60大渦より来訪者:2001/07/10(火) 22:42
そういえば、小学生の頃行ってた塾の先生が
「俺は近衛第一連隊の旗手をやってた。」
と言う話を聞いたときには偉くビビッタ。
………もっと詳しい話を聞いておくべきだった。
61じゃがいも:2001/07/10(火) 22:42
じい様(母方);大陸で三八式歩兵銃を担いでたことしか判りません、昨年死去。
ばあ様の弟(父方);大陸で撃墜され戦死した零戦搭乗員、昭和16年前半らしい。
          ばあ様も6年前に死去したので詳細不明。

ちなみに両親は子供の頃に、北九州空襲を逃げ切った世代です。
もし北九州に原子爆弾が落とされていたら、私も今ここにいなかったかもしれません。
62名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:07
うちのじいちゃんの弟(なんていうんだっけ?)
は日中戦争で戦死。昭和15年だから、太平洋戦争
の話ではないが。砲兵だったからあまり危ない配置
じゃなかったのに、中国人ゲリラに腹を撃たれて
苦痛の末亡くなったそうだ。部隊名は知らないが、
金沢出身なのでそこの部隊だと思う。墓には陸軍軍曹って
彫ってある。
63名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:15
>うへほさん

懐かしいコテハン復活age
64名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:19
ウチの爺ちゃんは関東軍の参謀だった。
その前は中野学校の教官だったと聞いている。
更に前は、特務で諜報活動をしていた。
お陰で、ソ連から戦犯指名を受けていて、終戦直前に満州から脱出し、
38度線を何食わぬ顔で越えて復員した。
因みに階級は中佐だったと聞いている。(故人なので伝聞)
65名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:20
うちの爺さんは中島飛行機でパラシュートの設計をやっていた。
赤紙は何度か来たそうだけれど、ド近眼だったので徴兵されずに
すんだとかいっていた。
その兄貴は帝国海軍駆逐艦の艦長だったそうだ。本人死去と爺さんが
痴呆症になってしまったため、艦名を確かめることはできず。
66名無し三等兵 :2001/07/10(火) 23:20
母方の爺さんは衛生兵?(呼び名知らない)で曹長だった。
父方の爺さんは沖縄で戦死したそうです。
これだけしか知りません。
67名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:24
>>62
中国人は許せん!
便意兵とかいって民間人に紛れて狙撃されたんだろう。
68名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:27
よくわからんが、機関銃の部隊にいた。
1mに3発撃つんだって、教えてくれた。
69名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:27
満州で気球爆弾作ってたみたい。今は遠いお空のお星様になったから
わからないけど。軍属ってやつかな。もう一人のじいさんは、研究室
でスコープを研究してたらしいけど、小さい頃、風呂で盲腸の跡を見
せて「アメリカ兵に銃剣で刺された」と小さい孫一同を騙してた。
70名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:31
親戚に元陸軍少将だった人がいる。貫通銃創があって、
怖がる俺に無理やり傷跡を見せるおちゃめな人だった。
だが戦時中は将官ということで威張っていて、自分で
靴下を履いたこともなかったそうだ。しかし少将ほどの
階級の人が敵の弾が飛んでくる戦線にいたのだろうか?
ポツダム進級というやつか?
71名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:34
お袋の姉貴(親子ほど年が離れている)の旦那、要するに伯父貴は知覧にいた。8月17日が出撃日だったそうだ。お袋の兄貴(これも親子ほど年が違う)は満州に行っていた。本土決戦に備えて釜山で輸送船を待っていたら敗戦になったという。もう少し部隊の移動が遅かったらシベリア送り、早かったら対馬海峡で魚の餌になるとこでしたね。
72夜があけチャックが開き:2001/07/10(火) 23:48
リアルタイムオンライン・提督の決断倶楽部<試案>・・・ベースは提決Wで登録制

1.10人1パーティで通常ゲームには3人参加するものとする。
(内訳)@戦略フェイズ時にはパーティを代表して1人が艦隊航空機の移動開発を
行う。A戦術フェイズ時には二人でコントロールする。その際ゲームスピードは2

2.戦略フェイズはターン制とし、各パーティ行動し終わると戦術フェイズに移る。(提
決Wと同じだが、全パーティが行動し終わるまで待たなければならない)

3.一旦ゲームが開始されると(開戦すると)どちらかが降服するまで抜けられないため
パーティの10人の中からプレーヤーを変わることができる。また各時間帯ごとにプレイ
できる人を募集しパーティを結成しなければならないものとする。プレイヤーが0になっ
たらそのパーティは自動的に降服したとみなされる。

4.プレイしていない人はプライベイトチャット等で戦略フェイズでプレイしている人に
アドバイスを与えることができたり、プレイヤーの交代の相談をすることができる。
73夜があけチャックが開き:2001/07/10(火) 23:49
sumaso
スレチガイだったヨ欝山車農
74名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:54
俺のじいちゃん、終戦直前に満州で赤紙。
練兵中に終戦。
ソ連に降伏し、シベリアに送られる。
2年で病気になり、日本に帰国できた。

穏和な祖父だったが、俺の前でたった一回だけ
「こいつは殺せ!」といったことがある。
見るとTVの中のゴルバチョフ書記長だった。

それほど、シベリアでは苦しかったらしい。
75名無し三等兵:2001/07/10(火) 23:56
爺さんは知覧で整備兵をやっていた。本人は特攻兵を志願したらしかったが、
上官から「お前は整備兵になれ」といわれ、整備兵になったそうだ。
76対尾:2001/07/11(水) 00:02
バイト先の社長の父親がフィリピン・ルソン島からの生還者らしい。
もうかなりのお年でボケているが、社長のほうから話を聞いた。

・腹部に3発の銃弾を受け、内一発はまだ体内にある。(.30−06か?)
・見張りをしていた時に敵機が来たので慌てて見張り台から飛び降りた時に
 かかとを骨折。よって歩行が大変らしい。
・フィリピンに輸送される時「絶対に見るな!」と言われたカバーのかけられた
 対空砲を好奇心に負けて夜中こっそり見たら木製のデコイだった。(よくある
話だが・・・・・・)

その他にもいろいろとあるらしいのだが、なにせボケではしょうがない。
残念。
77名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:05
うちのじいちゃんはナチス親衛隊長
78名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:07
俺のばあちゃんはアメちゃんのパンパン。
79名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:07
>>74
僕の叔父も満州で捕虜になってシベリア抑留経験者だ。
もしかしたら同じ収容所だったかもね。
80:2001/07/11(水) 00:12
うちの爺ちゃんは、昭和2年生まれ。
予科錬で出兵に向けていたときに終戦を迎えた。
81名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:13
別板で書いてて思い出した。

俺の大学の恩師は鹿児島出身だったんだが、祖父が薩摩軍として
西南戦争に従軍したらしい。その方、城山で壊滅した後も3年間九州の山中に
潜伏してたらしいよ。

あと、中学生時代の恩師に機関銃手だった方もいた記憶がある。
授業中に撃つ真似をされたことがあったけど、今から思えばあれは
92式かなあ。所属はどこだろう?久留米かな。
母の長兄はビルマで戦死。
82名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:14
うちの親父は満州に行ってたそーです。昭和14年生まれだけど。
外で小便するとその場で凍ったとか。ウソ臭い。
8379:2001/07/11(水) 00:16
>>81
おいおい奇遇にしても程があるぞ。
もうひとりの叔父もビルマで戦死だ。
84親父は:2001/07/11(水) 00:19
幼年学校の生徒。
85名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:23
うちの爺さん、本土決戦に備え、帰ってきたところで終戦。
強運な人だったんだなと尊敬してしまいます。
8674:2001/07/11(水) 00:28
>>79
奇遇ですね。
しかし、確かシベリア抑留兵は60万人で、
うち5万人がかえってこれなかったんだよね。

だから、結構いるとおもう。
あの三波春夫もリベリア抑留兵だからね。

ところで、軍事板の方で分かる方が
いらっしゃったら、教えていただきたいのですが、
NHKの映像の世紀だったかで、ドイツの捕虜は
30万人でシベリアに送られ、その全ては祖国に
帰ってこなかったとやってたと思うんだけど、こ
れって合ってる?。

だったら、俺たちの祖父はまだマシってこと?
87:2001/07/11(水) 00:31
祖父はビルマで戦死しました。
ミートソン付近の戦闘についてご存知の爺様いらっしゃんませんか?
88名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:34
親戚の爺さんは、憲兵だったらしい。聞いた瞬間ギョッとした。
シンガポールで色々美味しかったらしい・・・。
89名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:43
ウチの爺さんは海軍陸戦隊に居たと言ってた
敵の攻撃が激しく後退する時は死んだ戦友を背負って弾除けにしたと言ってたなぁ
門司か下関の海軍基地にもいたらしい
90名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:45
父方のじいさんは大陸とか南方とか行っていたらしい。特務曹長だったと聞いた。

母型のじいさんは軍隊にいたことはあるらしいが(万年伍長だといってた)、
大戦前に辞めて学校の校長をやっていたそうだ。
9179:2001/07/11(水) 00:56
いろいろ聞いてみたいこともあるんだが、シベリアから帰ってきてから
すっかり人が変ってしまって当時のことはあまり話したがらないんだよ。
よほど過酷だったんだろうな。
92名無し三等兵:2001/07/11(水) 00:56
うちの祖父は半島>大陸沿岸部>シンガポールと流れて最後はラバウルで終戦。
船舶工兵の伍長で本土に引き上げ。ただ、実家が長野だったのと、自作農(地主)
だったおかげでその後は比較的楽だったらしい。
ラバウルの戦友会会報を読んでると、終戦前あたりは食べ物に関する記述がやた
ら目について、やっぱ兵站って大事ね、と思わされたのが中学生の頃。

ただ、本人は地主のボンボンだったせいで軍隊生活はなかなか馴染めなかっ
たと述懐してます。そして、今も深夜になるとうなされて悲鳴を上げることがある。
一体どんな体験をしたのか、面と向かって聞く勇気はさすがにないよ。
93名無し三等兵:2001/07/11(水) 01:03
うちの母方じいちゃんは、砲兵隊の少尉でブーゲンビル島で
終戦を迎える。確か第六師団。砲弾もなく切込みとかして
いたのでろうか?戦後は大学に入りサラリーマン。
じいちゃんの兄が、学徒出陣組で陸軍中尉。
戦後は自衛隊に入り、方面総監にまでなる(マジです)
思えば、その人に頼めば、基地見学とか簡単にできたので
あろうが、今や故人。戦時中は中国にいたらしい。
94名無し三等兵:2001/07/11(水) 01:19
西部ニューギニア、ワイゲオ島にはなんて部隊がいたのでせうか?
95ナチスのように、殺そうとして殺したのではないのですが...:2001/07/11(水) 01:20
>74&86
大戦中の全期間で、ソ連軍の捕虜になった、ドイツ兵は約300万人。
そのうち約100万人が、抑留中に死亡したと推定されています。
最も凄惨な例は、スターリングラードの戦いで捕虜になった第6軍の将兵達で、
降伏した約9万1000人のうち、「12年半」の抑留後、故国の地を踏んだのは、
約5000人にすぎません...
9645/85式改:2001/07/11(水) 01:22
私の父方の祖父の兄は何処の部隊か分りませんが、特攻部隊に配属されて帰ってきませんでした
97名無し三等兵:2001/07/11(水) 01:27
>>86
それはスターリングラードで捕虜になったドイツ兵のことでしょう。確か6000人ぐらいは生きてドイツに帰ったはずだが。ソ連では当然日本人よりドイツ人捕虜のほうが待遇が悪かったからね。
98名無し三等兵:2001/07/11(水) 01:51
数年前仕事で一緒になった爺さんはフィリピンで狙撃兵をしていたそうだ。もっと話を聞いておけば良かった。
99名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:06
うちの死んだ爺さんは野戦重砲兵第5連隊第3中隊に所属してたらしい。
遺品の湯のみにそう書いてあった。
他には何も知らない。
一体どこに行って、第何師団所属だったのかとか興味があるね。
生前にもっと聞いておけばよかった。
100名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:06
母方の祖父
一式陸攻乗りで、中尉だった。制空圏を失った台湾と本土の物資輸送の任務についていた。
大戦末期、特攻隊に志願したが、8月15日出撃予定で終戦となる。飛んでたら漏れは生まれて
なかった。

母方の祖父弟
関東軍にいたらしい。満州ではおしっこをしたら地面が凍るという葉書など
が残っている。曹長で終戦。シベリア抑留中に病死。

父方の祖父
特高警察にいた為、内地にいました。

父方の祖父弟
陸士卒の大尉。水戸連隊に所属しており南方のペリリュー島にて玉砕。
101名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:19
政治思想に耐性があり、国同志のパワーゲームに基づいたニュートラルな視点があります。
102名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:30
爺ちゃんは予科練止まりで瀬戸内海で小さなボートの練習
をしてました。震洋だったんじゃねえか?と思ったのは
つい最近のことです。
103名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:40
うちのじーちゃんは根室のほうでタコツボ掘ってたそうです。
上を艦載機のタマがとんでったといってました。

下宿のおばちゃんの姉婿さんはシベリアで指を7本失ったそうです。
まぁ生きてただけ幸いです。
104名無し三等兵:2001/07/11(水) 02:50
高田第58連隊
105名無し三等兵:2001/07/11(水) 03:21
うちの父は陸軍少年戦車兵
静岡の富士宮市にありました
当時は入学するのには物凄く狭き門で、県内で1000人近く受けて
5人しか合格しなかったそう
九七式中戦車を操縦してたそうですが、19年入隊のため
後半は主に軍需工場の輸送などにかかわり
そのまま終戦 営門伍長って言うらしいですね
あと一期早かったら満州か南方前線に送られていたと言ってましたが、
殆ど輸送船とともに沈められた人も多いとか

母方の兄には特高警察出身だった伯父も居たり
歩兵連隊でフィリピンで戦死したりした方もおります
最近その方の戦地からの葉書を見せてもらったのですが、どの葉書も家族を
気遣うことが書いてあって涙が出ました
106名無し兵曹長:2001/07/11(水) 03:31
>>99
野戦重砲第5連隊(以下野重五)は九州出身者により北九州は
小倉で編成された15cm榴弾砲24門装備・二個大隊兵員約
2400名の野戦砲兵隊で、S19年5月までは満州第6771
部隊として関東軍指揮下にあり、ソ満国境興凱に駐留してい
ました。
その後ビルマ方面の戦力増強部隊として移動命令が下り、朝鮮
釜山・門司を経由し7月仏印サイゴン着、陸路バンコク経由で
10月上旬、ビルマに到着。ビルマ方面軍直轄部隊森6771部隊
となったが、まもなく第一大隊は連隊から抽出され独混24旅
団所属となり、さらに第二中隊は独混29旅団指揮下に入った。
その後はインパール作戦失敗後の悪化する戦況の中で、各大隊
とも悲惨な撤退戦を闘い、敗戦。英軍による武装解除後、マン
ダレー収容所に収容されS22年6月に復員しました。この時
の復員者数は866名だそうです。
107888get:2001/07/11(水) 03:36
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108名無し三等兵:2001/07/11(水) 06:50
>>2殿
同じ頃、三十三軍の参謀やってた辻ーンには助けられなかったの?
東条英機とけんかしてビルマに飛ばされたんだよねー。

(ところで、野口氏が書かれた「回想ビルマ作戦」読まれましたか?)
109父親は沖縄原住・・・地元民:2001/07/11(水) 07:20
沖縄小緑飛行場で軍に協力。仕事は高射砲陣地や航空機用バンカーの造成。
「機械に頼らない手作り」という「誇り高い」お話にトホホな気分。
(あとは命からがら逃げ回る毎日だったもよう)
110名無し三等兵:2001/07/11(水) 07:28
79と74は親戚
111名無し三等兵:2001/07/11(水) 10:32
みんな騙されるな!書き込むと年がばれるぞ!
まあ、それはさておき
俺の母方ひい爺様の部隊はマラリアの脅威に晒されていたらしい。
100人ほどの兵員の内生き残ったのはひい爺様を含めて2人だったとさ。
112名無し三等兵:2001/07/11(水) 11:19
祖父の兄がノモンハンで戦死。詳細不明。
戦車に轢かれた、との話もある。
113名無し三等兵:2001/07/11(水) 18:01
家の町内会の爺さんは、陸軍航空隊の戦闘機乗りで、ニューギニアを
転戦し本土防空でB29を迎撃していたらしい。乗った戦闘機も一式戦隼、
二式戦、三式戦飛燕など各機を乗っていた。階級は伍長で、今も元気で
かつて自分が乗った戦闘機のラジコンを自作して富士川で飛ばしてる。
114  :2001/07/11(水) 18:04
ロシアで捕虜生活を送ってた(カワイソ
115名無し三等兵:2001/07/11(水) 18:45
父方の爺さんは技術者だったためか、兵隊に取られた形跡がない。
母方の婆さんも、兵隊には取られたが、平時だったため、戦争には行っていない。
ちなみに近衛歩兵第三聯隊だったそうな。戦争中は学校の先生をやっており、
末期は生徒達を引き連れて、足柄の山中に疎開していたとのこと。
父方の婆さんの弟は、陸士出のパリパリの将校だったらしく、戦後は公職追放が解けたら、
すぐに自衛隊に入った。「おっかない叔父であった」と父の弁。
庭の竹を軍刀で切ったのを見たことがある。
116115:2001/07/11(水) 18:47
>母方の婆さんも、

バァさんは兵隊にゃ取られませんナ。爺さんの間違いです。
117名無し三等兵:2001/07/11(水) 19:00
母方の大叔父は近衛騎兵聯隊で訓練中に馬に蹴られて逝ったらしい。
118名無し三等兵:2001/07/11(水) 19:02
びっくりしたyo。>>115
119名無し三等兵:2001/07/11(水) 19:38
じいちゃんは、確か大尉で輸送隊かなんかの中隊長?やってたらしい
出征先は大陸やったかな・・・
120名無し三等兵:2001/07/11(水) 19:55
俺の曽祖父は戦車第2師団隷下戦車第11連隊に所属
ソ連の千島・樺太侵攻時に戦死したらしい
121名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:06
お爺さんが将校だった人って結構多いんですね。
僕の祖父は両方とも僕が物心付く前に逝ってしまってたので
何も分からないです。残念
色々聞きたかったんだがなぁ。
122名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:10
父方の祖父はインパールの生還兵。
そのサバイバル体験談には強烈な印象を受けた。
今でも同じく生還した仲間達と体験記を本にしたりしてる。
毎年のミャンマー巡礼も欠かさない。
今度もっと詳しく話を聞いてみようっと。
123ミリ屋哲:2001/07/11(水) 20:14
旭川の連隊にいた、と逝っていたから、終戦時には釧路に移駐していた
27連隊だろう。
漏れの祖父は、終戦当時としては老兵過ぎたから、実戦には逝っていない
とさ。
124名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:19
俺の叔父さんにあたる人の話なんだけど…
南方の島(名前忘れました)で戦死されたそうです。
階級は伍長だったけど、これって戦死してから上がったりしたのかな?
125名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:29
よくは知らないが、最初は中国、
米軍は次は台湾に来るに違いないって事で最後は台湾にいった。
しかし、米軍はこずにそのまま終戦、生還したって。
126名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:34
私は1943年頃に実戦へ
飛行第一師団司令部の百式司偵乗りだったが、P公に撃墜されてもうた
その時の銃撃で左手首切断という重傷を負ってしまったのじゃ
今も私は鬼畜米英を憎んどる
127名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:42
うちのじい様は四川省。
田舎の公民館に村の戦没者の戦没地名と一緒に額になってる。
それこそ日清戦争時代からずらっと何十名か並べてあるが、
機銃掃射の犠牲になった人間を含めて8割以上が太平洋戦争の犠牲者というのがなんともはや。
128888get:2001/07/11(水) 20:52
モーニング娘。(。忘れないでね)部隊
ナンチャッテ
129右翼少年:2001/07/11(水) 20:53
小学校の頃に聞いた話!
当時のクラスメイトの父は特攻隊の生き残りって言っていた。
九州から、沖縄に向けて出撃したって言っていた。
ところが途中でエンジントラブルで引き返したと・・・
そんでそのまま終戦! 一緒に出撃した仲間は全員戦死って言ってた。
130名無し三等兵:2001/07/11(水) 20:55
おやじの従兄ですが、南方で輸送艦の対空砲手やってたそうです。採用理由は『遠視』だそうで、照準器の類いは使わず、親指を突きだして照準を決め、あとはぶっ放す。・・無事に復員したそうです。
131名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:04
オレのジイちゃん、南方で軍医だったあらしくて、たぶんジャワとか
言ってた。なぜか軍馬にのに、軍刀を持っている写真が
あったが、所属はわからんか?????
132名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:10
真珠湾の奇襲で一番最初に撃墜されたのが俺の爺ちゃん。
133名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:12
>>132
それは自慢しても良い
134888get:2001/07/11(水) 21:15
俺は無視かよ(三村風に
135名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:18
うちの十ちゃまは、
どこぞの技研でレーダーと無線電話機の研究を
やっていたそうです。
台南空に行って坂井さんとも喧嘩したことがあるそうです。
その後厚木に行ったら負傷した後の坂井さんが
居て涙しながら酒盛りしたそうです。
退官でポツダム少佐だそうです。
136名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:19
追記坂井さん直筆の年賀状が毎年来てました。
137名無し三等兵:2001/07/11(水) 21:27
俺の爺さん当時には珍しく180以上身長があって
腹も出てたから、趣味で集めてた日本刀持参で勇んで従軍しようとしたら
軍服の寸法が無いって追い返された。
体がでかい一般企業も雇ってくれないから弁護士になって平和に暮らしてたらしい。
食料も有るところには有って、横流ししてもらってみんなでただ食いだったらしい。
138名無し三等兵 :2001/07/11(水) 21:29
うちのジジイは駆逐艦でボイラー焚きをやってたそうだ
最後は乗る船が無くなってポナペという島で、陸に上がって鉄砲を担がされて
終戦間際に、少尉殿にしてもらったそうだ
139名無し三等兵:2001/07/11(水) 22:01
今は亡き父方のじいさんに子供の頃聞いたんだけど、
中国で山砲?の砲兵で伍長だった。
上海?とかの市街戦では誰もいない民家から酒かっぱらって飲んだりして
面白かったって言ってたな。食べ物も豊富だったらしい。
ただ、俺が「中国人殺したの?」って聞いても
答えがかえってきた事は無かったなぁ・・・・
140名無し三等兵:2001/07/11(水) 22:06
 うちのおじいさんは沖縄の方の島で食事作ってたらしい。
 葬式の時に来ていた昔の戦友という人に聞いた。
 沖縄本島に配属された人はみんな戦死したらしい。
141死式疾風:2001/07/11(水) 22:25
うちのじいさんは予科練にいるとき終戦を迎えてしまいました。
142名無し三等兵:2001/07/11(水) 22:41
うちの祖母の兄は昭和22年にシベリアで病死しました。
143政治委員:2001/07/11(水) 22:45
父方の祖父はラバウルの海軍部隊で中尉で敗戦を迎えたそうです。
母方の祖父はインパール作戦の時の感状によると、橋梁部隊にいた
らしいです。双方とも生きて帰ってこれましたが、90年代に二人とも
死去しました。
父方の祖父はよく海軍の話(技術関連の部隊らしく、飛行機関係が主)
をしましたが、母方の祖父は戦争の話は一切しませんでした。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/11(水) 22:52
うちの祖父は、帝国海軍第一航空艦隊第一航空戦隊の加賀の戦闘機隊にいたそうな。
14574:2001/07/11(水) 23:22
>>91
まあ、うちの祖父も「人間あつかいされなかった」
とつぶやいていまいした。

>>97,95
ありがとうございます。
ドイツも攻め込んだとはいえ、辛い仕打ちですね。
146名無し三等兵:2001/07/11(水) 23:28
うちの爺さんは陸奥に乗っていた。
柱島で爆発する前に降りたので、
命拾いをしたそうな。
147:2001/07/11(水) 23:40
技術者だったため徴兵を逃れて、赤とんぼを作っていたそうな。
148:2001/07/11(水) 23:49
>>108殿
辻参謀のことは言ってなかったなー。
じいさんが助けられたってことで、野口参謀の「回想ビルマ作戦」は読んだよ。
あれ読むと、敵と戦う以外に軍内部にも争いがあるのがよーくわかる。
辻参謀の評価は色々あるけど龍陵会戦時の勝股大隊の指揮や、メイクテーラ会戦時、
三十三軍の任務変更をめぐっての田中方面軍参謀長との対決は辻氏じゃなくちゃ出来ない
って感じだよね。なんかの本に書いてあったけど、大本営参謀じゃなくて、野戦軍や師団
参謀だったらかなり有能な幕僚じゃないかと思うよ。
あと最近は、方面軍の後参謀の「ビルマ戦記」と餓島に派遣された井本参謀の作戦日誌をよんだ。 
149名無しの学生:2001/07/11(水) 23:54
俺のじいちゃんは
終戦の日
沖縄に従う部下を連れて
二度と帰らない飛行をしたよ・・・
俺の苗字は宇垣・・・
150名無し三等兵:2001/07/12(木) 00:28
うちのじいさんは、陸軍で飛行機の整備をやっていたよ。部隊は64戦隊、加藤隼
戦闘隊だったそうだ。隼の1型は強度不足で欠陥機だってよく言っていた。
151名無し三等兵:2001/07/12(木) 00:34
うちの爺さん軍需工場の事故で片目失明して、おかげで招集されなかった。

運いいんだよね?
152ななし:2001/07/12(木) 00:37
あげ
153初心者:2001/07/12(木) 00:55
私の伯父(1921年生まれ)。
戦争中は最初満州にいて、南方転用でハルマヘラに行き、モロタイ島への斬り込みにも参加したらしいけど、伯父の所属は第何師団になるんですか?。教えてください。神戸出身で多分現役入隊だと思います。
154名無し三等兵:2001/07/12(木) 00:56
私の祖父は結核にかかって徴兵が延期されました。その後、結核が治って北海道で徴兵されましたが、部隊の軍旗を積んだ輸送船が潜水艦に沈められて結局終戦を迎えました。もし輸送船が沈められなかったら、沖縄に送られて玉砕していただろう、と言っていました。
<<151さんといっしょで運が良いのでしょうか?
155名無し三等兵:2001/07/12(木) 01:08
うちの爺様、満州で飛行機乗りの訓練を受けていたらしい。燃料が無くてろくに飛ばなかったそうだが。
で、宮崎に帰ってきて特攻する気満々(宮崎あたりにそういう基地があったんですよね?)だったのだが、ギリギリ終戦。
特攻してなくて良かったよ。
156標定射:2001/07/12(木) 01:09
京都深草の野砲連隊。師団は「垣」だっけ・・。
何度も負傷して、
終戦時は、飛行団所属だった。
157名無し三等兵:2001/07/12(木) 15:46
一緒に住んでる祖父が、「長門」に配属されてて、第一分隊所属(一番砲塔)だったそうだ。
どんな任務か?と聞いたら
「艦橋の人間がくたばった時、砲を発射する役。ゆえに普段は体のいい雑用係」と行ってた。
後に訓練教官に変わったが、ほとんど新兵と一緒に塩田で配給用の塩を作ってたとの事。

今もたまに裏話を聞かせてくれる。
158名無し三等兵:2001/07/12(木) 16:14
↑その裏話とやらキボーン
159名無し三等兵:2001/07/12(木) 16:53
漏れの爺さんは最初は中国戦線だったかな。
かなりの激戦区だったらしいけど何かの試験を受けて合格、将校に。
んで九州の大分かどっかで特攻部隊の中隊長をしてて終戦だったかな。
たしか部隊の機種は97式重爆だったと思う。
160名無し三等兵:2001/07/12(木) 17:54
爺様は旭川27連隊の伍長。
最初の応集(時期不明、写真では昭5式を着ている)では
92式重機を担当。
2度目は大戦末期。ソ連参戦後の緊急応集と思われるが
不確実。根室の海岸のタコツボで破甲爆雷を抱えて3日間
待機していたところで終戦になり、爆雷を一ヶ所に集めて
爆破処分したそうな。
161名無し三等兵:2001/07/12(木) 17:54
電気の技術者だった爺さんは、無線やら電探の実用試験やら航法の教官をしてたそうな。
場所は中央線沿線だとか言ってた。たぶん陸軍。

もう一人の爺さんは海軍技官。追浜で橘花の試験に立ち会ったとか。
162名無し三等兵:2001/07/12(木) 18:10
母方のじいちゃんが中国の方で軍医。
ばあちゃんの父親が大尉で、勲章もらったそうだ。
それからばあちゃんの義兄は、
1人が加賀に艦爆(攻?)乗りとして乗り込んでミッドウェーで死亡。
真珠湾にも分隊長として参加したそうだ。
(私が持ってた仮想戦記の中に名前が載ってたらしくて、ばあちゃんがそれ読んで喜んでた)
もう1人は同じく海軍の基地戦闘機乗り、で終戦直前に乗ってた輸送機が落ちて死亡。
あともう1人いるんだけどその人は知らない。


……今度詳しく聞いてこよう。
163名無し三等兵:2001/07/12(木) 18:12
太平洋戦争の話ではないが…。
最近、遠縁にあたる家で「うちの家系はね、昔、『軍神・橘中佐』という歌があって…」と、そこのジジイが偉そうに話し始めた。
オレは「おおっ!」と思って身を乗りだして話を聞いていたら、
「…その歌に出てくる杉野兵曹長が唯一の有名人」というオチで、思わず首を吊って逝ってしまいたくなった。
もちろん、それ以来、親戚づきあいは断っている。
杉野はい〜ず〜こ〜♪
164名無し三等兵:2001/07/12(木) 19:28
>>162
って、聞いたみたら加賀のパイロットは死んでなかった……。
ちゃんと生き残って、戦後海自の幕僚長になったそうです。
165ロボット当番兵:2001/07/12(木) 19:40
>149
誰も反応しないけど、ネタじゃないよね!!すごいなぁ。
でも、宇垣提督の孫なら、、、2ちゃんねらーとしてはかなり年長??

太平洋戦争以外ネタ。祖母の叔父(って漏れから見たら何て言うのかな?「遠縁」?)は、
日露戦争に従軍して、福井は武生の連隊(金沢師団隷下)から203高地に行き、
ロスケに取られた連隊の軍旗を、片腕吹っ飛ばされつつも奪還して金鳶勲章をもらったらしい。
「道関(みちぜき)上等兵」って言うんだけど、戦前は絵本とかにもなってたくらいの有名人だった、
と祖母が語っていたのを思い出す。

「すぎのーはいずこーすぎのーはいずやー」ほどメジャーじゃないけど、歌もあったらしくて聞かせてくれた。
166名無し三等兵:2001/07/12(木) 21:42
ウチのバアちゃん、長江沿いの野戦病院で勤務していたらしい・・・
当時の戦争は男の人だけしか行かないと思っていたオイラに大きなショック・・・
167名無し三等兵:2001/07/12(木) 23:22
爺さんは、巡洋艦「足利」の乗組員でした。
168名無し三等兵:2001/07/12(木) 23:26
第8師団第8砲兵旅団軍曹
169名無しの学生:2001/07/12(木) 23:34
>149
すいません
ネタもいいところです・・・・
170名無し三等兵:2001/07/13(金) 00:21
我が祖父は客船空母「隼鷹」の乗組員だったそうです。
何でも部屋だか風呂が客船用なので立派だったとか。
祖父がこの艦に乗っていたおかげで今日の私があります。
姉妹艦「飛鷹」に乗っていたら私は生まれておりません。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 00:26
>>164
それだったら、そちらの義兄様と家の祖父は知り合いだったかも?
172名無し三等兵:2001/07/13(金) 03:42
俺のじいちゃんは痔がひどかったので兵隊には取られなかったそうです。
173名無し三等兵:2001/07/13(金) 05:20
うちは19年入隊訓練中ひよこ狩りが来るんで九州>水戸>仙台に移動
途中独逸機と独逸人に会ったらしい。印象に残ってるのは「独逸機はいいぞ」
と「筑波山に来たアメ公はなかなか落ちねんだ(後にグラマンと判明)祖父さんは
飛燕に乗ってたらしい」あと仙台には飛燕がいっぱいあったとも言ってた
あと「少尉はいいぞ女が違う」とも言ってたよ
174名無し三等兵:2001/07/13(金) 07:48
沖縄で徴兵されてフィリピン侵攻時に輸送船撃沈されて足怪我して本土で療養。
その後南方に送られず、そのまま終戦。
幸運でした。
175名無し三等兵:2001/07/13(金) 08:30
うちの兄貴の同僚の女性のお爺さんなのだが、昔、張作霖爆殺事件の話しをして
いた時、妙に興味津々な顔で話しを聞いているので「こういう話し好きなの?」
と聞いたそうだ…そしたら彼女一言、「河本大作って私のおじいちゃん」
…ウソのような本当の話し。
更に別の女性で珍しい苗字(きさき)の方が、私のおじいちゃんはミッドウェイ
で戦死したと話しだし、後日戦死者名簿(珍しい名前だから二人はいないと考え)
をあたったら重巡「三隈」の艦長だった…
176技術軍曹の孫:2001/07/13(金) 19:57
父方の祖父は第二飛行場大隊所属で機関砲の整備をしていたらしい。新設部隊だった為古参兵が少なくて良かったと聞いたことがある。
各地の飛行場を転戦した後、終戦時に中国で捕虜になった。 戦役の感想は「負けた戦争は惨めなもんじゃ」
177名無し三等兵:2001/07/13(金) 20:08
丸亀第十二連隊でした。
178名無し三等兵:2001/07/13(金) 20:11
マレーシアで鉄道関係の軍属してた。
結構よろしくやってたみたい。
179名無し三等兵:2001/07/13(金) 20:11
水戸近辺だと水戸連隊になるの?
180アルザス:2001/07/13(金) 20:24
 私の爺さんの弟は、終戦近くにニューギニアの方へ飛ばされていたそうだ。 目が悪くガリガリの丙種で
軍の会計をしていたが、人数合わせの為出兵。 日本を離れる前に、曾爺さんが大叔父さんに視力に見合
った眼鏡を作ってくれ、おかげで夜間に飛行場奪回の作戦に参加しても銃を撃つのに不自由しなかった
そうだ、視力は左0.2、右0.8、だから左のレンズがやたら分厚い。
 ちなみに射撃の腕前は今も健在で、私のエアライフルで凄まじい命中能力を持つ。
 ちなみに前の「戦争体験」で、元特攻隊員の爺さんにヤキ入れたのと同一人物。
181名無し三等兵:2001/07/13(金) 20:26
大日本帝国陸軍第329内密連合支援部隊にじいちゃんはいた!
だから、僕は、鼻高いよ♪
182名無し三等兵:2001/07/13(金) 23:49
>>大日本帝国陸軍第329内密連合支援部隊
それは、どんな部隊だったんでしょうか?
183名無しさん:2001/07/13(金) 23:52
今日は会社の帰りに靖国のみたま祭りに寄ってきました。
おじいさんの団体が提灯を見ながら、
「この辺が航空部隊だねえ」と感慨深けでした。
関係ないレスですみません。
184名無し三等兵:2001/07/13(金) 23:55
うちのじいチャンは鹿児島だけどどこの部隊だったんだろう?
大陸にも南の島にも逝ったって話してたけど・・・
誰かわかる?
185名無し三等兵:2001/07/13(金) 23:57
うちの爺ちゃんは鹿島航空隊で
二式水戦に乗っていました。
その爺ちゃんがこの間「ジパング」を見てしまって一言。
「二式はこんなに速くない。」
186ありえん:2001/07/14(土) 00:08
>>184
終戦時の所在地はどこ?鹿児島で編成されたの?
歩兵だったら調べられるけど。
187名無し三等兵:2001/07/14(土) 00:51
母方の祖父は40才過ぎてから応召され大陸に送られたが
腕の良い床屋さんだったので前線に出ず高級将校の髪を刈り
終戦時も捕虜になる前に隊長等と日本に帰国出来た。
その時に毛布と白米をリックに詰め、母は久し振りの白米で
腹を壊したと云ってました。
家は神田だったから空襲をうけて燃えたが人的被害はゼロ。
父方は戦国時代に負けて帰農して以来、戦場に出た事は無く
4月13日の東京城北地区の空襲でもうちの一角だけ被害が
なかった。よって父方は物的・人的被害はゼロ。
ただ占領軍が進駐して来た際に国防婦人会の幹部だった祖母が
「戦犯で逮捕されそうなのは女のあたしだけかい!?」と
戦後しばらく心配してたと伯父に聞いた事がある。
188ななし:2001/07/14(土) 01:11
島田戦車隊。そいで、シンガポールを陥落させて57年後
に俺が産まれた・・何か少し運命的だな。
189名無し三等兵:2001/07/14(土) 01:26
爺さんが飛行機の設計をやっていたらしいが、詳しく聞く前に逝ってしまった。
190名無し三等兵:2001/07/14(土) 01:49
爺さんが毒ガスを造っていたらしいが、詳しく聞く前に逝ってしまった
191名無し三等兵:2001/07/14(土) 02:04
ばあさんの弟が沖縄で戦死したらしい。
「らしい」ってのは母親からきいたから。
ばあさんはいまだにその話を自分からしようとはしない。
こっちからも聞けない。
192名無し三等兵:2001/07/14(土) 02:09
うちのじいちゃんは96陸攻で機上機関員(?)かなんかとして、重慶爆撃に参加。
対米開戦後は南方にいて、古鷹乗り組み。
撃沈されてなんとか助かった後は
岩国にいて終戦を迎えたそうです。
193名無し三等兵:2001/07/14(土) 02:26
俺の爺様は、沖縄に送られたんだけど
途中でアメ公の銃撃にあって病院送り。
そのおかげで助かったらしい。
その病院でも重傷者は全員自決。
爺様は松葉杖ついて必死こいて逃げたそうだ。
(その後、部隊は全滅)
姫路の実家には戦死の知らせが来て葬式までやった。
その後、沖縄各地を逃げまくって捕虜に。
昭和22年に本土へ帰ってきたらみんなびっくりしたんだと。
194兵隊ではないですが:2001/07/14(土) 03:05
父方の亡祖父は、南方と本土を結ぶ輸送船の船員だったそうです。
何往復かするうちに、乗り組んでいた船が潜水艦から魚雷を食らった
り(不発。けっきょく船腹に刺したまま経由地まで続航)船団の船が
雷撃を受けたのを目撃したり(水柱が崩れたときには船体も消えていた
そうです)海は綺麗だったがもう散々な航海だったそうです。
乗組んでいた輸送船は、祖父が年季が明けて下りた直後の航海で一度に
3本の魚雷を受けて轟沈したそうな...。
船や船団の名前等は聞けませんでした。(祖父がしまいには半泣きに
なっていたので。)
195ななし上等水兵:2001/07/14(土) 03:33
今年の5月に自分の祖父が亡くなりました。
そのお通夜の時、枕元に祖父の戦時中の軍事郵便
がありました。そこには「南支派遣代○○○○磯
岡隊」(番号は忘れました。)と書かれていまし
た。
 祖父は不整脈があった為、正規の徴兵には参加
しておらず,この磯岡隊も後方部隊のようです。
 「南支派遣○○○○磯岡隊」について何か知っ
てる人情報キボン!
196軍属:2001/07/14(土) 03:42
うちの爺さん(両方)共に大学で建築工学をやっていたので  建設会社に就職。<戦前
開戦前に 軍から(たぶん海軍)の命令で台南基地の造営をやっていたそうな。
末期になると本土決戦の為の基地造営のため本土送還した。
軍属ってヤツですな。

親父の従兄弟が対戦末期に予科練に入って 特攻の訓練受けたそうな。
8.17に特攻決行される予定でした。生きて帰ってきた運のいい人。
197一等自営業:2001/07/14(土) 03:58
当方のオヤジは志願で自動車部隊に配属され中支に従軍。
真冬のエンジン掛けは、クランクを回すとき親指を飛ばされない
ように、こう持つとか。肥え溜回収はツルハシでやるので、破片が
飛んで口に入ったとか聞いた覚えがあります。
マレー進撃で南下中、飛んでくる砲弾が目視できたとか、シン
ガッポール手前で流れ弾を肩に受け、麻酔無しで手術された。
本国送還後、士官学校に推薦入学して憲兵になり、シンガッポ
ールで憲兵中尉のとき兵長の兄貴と偶然再会した話。
(二人で写った写真があった)
米軍空襲で灯火管制下で真っ暗な道を女に会うためバイクで飛ば
して、牛車とぶつかって交通事故起こした話や。同僚が米軍
パイロットの首をはねる立会人やって、そのせいでB級戦犯になり
巣鴨プリズンに二年間拘留された。その前には英軍管理の捕虜
収容所で歯ブラシ一本で庭掃除をさせられた。

終戦のとき、メチルの自棄酒のんで同僚が失明した話など。
憲兵の仕事では第五列の取り締まりだったそうです。中尉ってのは
責任が軽く、いい加減遊べる階級だったらしいです。
198名無し三等兵:2001/07/14(土) 05:54
母方の祖父と父方の祖父は中尉と軍曹として同じ甲府49連隊に配属されていました。
どちらも戦争を生き延びましたが、この事は双方没後、遺品のアルバムから判明しました。
小さな頃から「おじいちゃんは足を機関銃で撃たれた 今でも傷が残っている」と祖母から
聞いていたので、辛そうで詳しい話を聞き出す事がどうしても出来なかったのです。
この事は、多分当人同士は戦後も気が付いていないだろうと家族から聞きました。
もう少し早く気が付いていれば、お互い色々な話が出来たのかもしれないと少し悔やんでいます。

>>197
>中尉ってのは 責任が軽く、いい加減遊べる階級だったらしいです。

そんな悲しくなる事、書かんで下さい。
199一等自営業:2001/07/14(土) 06:03
スンマセン。
でも憲兵中尉だったんで、権力かさに遊んでいたと思います。
なんたって私のオヤジなんで、要領がいいんで士官学校では
トップで、恩賜のナントカ貰ったなんて言ってました。
軍隊は要領だ!が口癖で、、戦後はダメ人間でした。息子の
私が言うんですから間違いないです。私もダメ人間だった・・・
200名無し三等兵:2001/07/14(土) 06:09
士官学校の恩賜って銀時計では?
201名無し三等兵:2001/07/14(土) 06:13
>>199

私も少し書き方がつっけんどんだったと反省しております。すみません。
私の祖父(母方)も「軍隊にいた時が一番楽しかった」と言っていた
と没後、祖母から聞きました。
軍医でしたのであまり無茶はしていないと思うのですが…。

PS
「パールハーバー」スレのアレは自分です。ウケて頂けたみたいで
なにより… ;-)
202一等自営業:2001/07/14(土) 06:30
帯剣とか日本刀とか言ってましたが、本当のところ
わかりません。親父の実家にあるのかな?
現在はボケて不明です。そろそろかな・・・・
お袋の話も面白い話で、終戦直後に日赤の看護婦で引き上げ船に
乗務して、香港、上海回ったそうです。帰国後に実家に戻り
父親の薦めで福島県で最初の婦人警官になったと聞きました。
こっちのほうがビックリでした。

現在のお袋の旦那さんは習志野で編制された戦車部隊勤務で、
戦友会は白梅会といってまだ何名か健在のようです。部隊が
中国に派遣されたが、その後部隊の戦車を南方に持って行かれて、
本人は沖縄からの学童疎開の輸送船に乗務して沖縄戦の数日前に
出航して無事だったと聞きました。(陸軍でも海軍転属かな?)
戦後は埼玉の親戚から米を貰ってせんべい焼いて(闇やもやってた)
一財産築いたようです。
当時の資料があったら頂戴と伝えてあります。
203名無し三等兵:2001/07/14(土) 07:45
>>199
>でも憲兵中尉だったんで、権力かさに遊んでいたと思います。

貴殿のお父上を批評する気はありませんが、やや諧謔的に脚色されているのではと
思われます。いくら末期とはいえ、憲兵将校は選りすぐりの人物が選抜されています。
かなり重要な地位で『責任が軽く、いい加減遊べる階級』でも『権力かさに遊ぶ』こと
ができる立場でもあるはずはありません。
たぶん、戦中の事を選抜的・諧謔的に話されておるのではと拝察いたします。
なお、昭南島憲兵隊中尉でB級戦犯とのことですが、間違いありませんか。
204一等自営業:2001/07/14(土) 15:45
>203
どうも。
中尉の階級にかんしては、中西センセイからの聞きかじりです。
オヤジは軍人としては叩き上げで有能な人材で、英語、インドネシア語が
堪能でした。県で一・二番の成績ながら高校(当時の大学ですか)への進学
を止められてヤケで福島の連隊に入隊したと聞いてます。勤勉実直で成功へ
の階段を昇っていたのでしょう。戦後はひどいもので三十何年ぶりに会った
実母も、その苦労が話しに出てきます。おじに言わせると戦争で人間が
変わったと言ってました。完全な人格破綻者でした。

B級戦犯でチャンギ刑務所に収監されてから日本に移送されて、巣鴨プリズン
でA級戦犯の誰かと同じ房に短期間いたと、言ってましたが何十年も前なんで
名前は忘れてしまいました。AとBC級が別けられた時期なのでしょう。
B級戦犯であるのは間違いないと思います。なんか資料をお持ちですか?
父親の名前は光男です。姓は同じ小林です。
205名無し三等兵:2001/07/14(土) 16:14
爺さんはミッドウエー海戦時、古びた巡洋艦?の乗組員でした。
あの海戦は日本が必ず勝てる海戦だったので、爺さんいわく
戦艦大和も連れてきて大名行列の艦隊を組んで作戦に当たった
そうだが艦内ではすでに完勝ム―ドでミッドウエーを攻略すれば
昭和17年末には海軍はアメリカ沿岸まで達し戦争が終ると仲間と
楽勝ム―ドで酒を飲んでたそうです。
しかし、結果は歴史でご存知のとうりの完敗で
旧式の巡洋艦だったのでかろうじて敵艦上機の爆撃を受けず無傷だった
ので爺さんは即座にカッター漕ぎ、沈みかけた赤城から顔面蒼白の南雲
司令と盲腸手術後の淵田飛行長と報道特派員を救助し、カッターのオ―ル
を漕ぎながら「悔しいな 悔しいな」と大粒の涙を流しながら泣いたそうです。
戦後派、赤城から救助した新聞社特派員と「大東亞戦史」の執筆に当たったそうです。
206共和国の名無しさん:2001/07/14(土) 16:30
うちの祖父は
陸軍航空隊の整備兵だったらしい。
階級は軍曹だって・・・かなりの出世ですね・・・
207:2001/07/14(土) 21:57
うちの家系は祖父の兄弟三人が軍隊に入り、町から表彰されたらしい。
祖父の兄はどこへ入ったかは不明。
祖父は海軍に昭和五年一月入隊。
横須賀海兵団(?)四等機関兵団(?)第三十四分隊第三班へ配属。五月卒業。
昭和六年五月海軍機工学校卒業。(第五十五期工術練習生)
その後、巡洋艦川内(?)へ配属。機関兵(ボイラー焚き)をやってたらしい・・・。
終戦と共に郷里に帰るが三年後(?)他界。
祖父の弟は憲兵隊に入隊。終戦時に山へ逃げる。
現在は家から近い場所にて耳は遠いが元気。
なんで祖父の学校所属が分かったかというと両方の卒業アルバムと昭和五年海軍大演習記念
アルバムが今年他界した祖母の家から出てきたから。
ところでこんなアルバムの写真を乗っけてくれる所ってありますか?
アルバムには卒業者全員の写真、住所(懸、市町村まで)、昭和5年(?)の宮城県県人会写真
戦艦金剛の甲板にて撮影などがあります。
みなさん興味は有りますか?
208名無し三等兵 :2001/07/14(土) 22:36
うちの爺ちゃんは関東軍でノモンハンに従軍。
偵察部隊だったためか抑留もされず無事帰国。
曰く「空軍は圧勝だったが、陸軍はコテンパンに負けた」
ってよく言ってた。あと、脱走したソ連兵捕虜捕まえた
時の写真が残っててめちゃかっこよかった。終戦時中尉。
209名無し三等兵:2001/07/14(土) 22:39
↑ノモンハンから帰れるとは奇特な人だ
210名無し三等兵:2001/07/14(土) 22:39
結局、戦争で誇りたいのは何時の時代も同じなのね。
211208:2001/07/14(土) 22:44
>>209
え、そうなん?爺ちゃん今でも楽しげに話すけど・・・
ちなみに今でも健康そのもので、軍記物の補筆とかしてます。
212B17G:2001/07/14(土) 23:35
>>208殿 そうなんですよ。爺ちゃん大切にしましょう。
>>205殿 機動部隊司令部員を救出したのなら、巡洋艦名は”長良”と思われます。
213名無し三等兵:2001/07/15(日) 02:06
>207

ありまくりです。アップして下さい!
214F91:2001/07/15(日) 02:18
わたくしのおじいさまは、
大日本帝国101空挺師団にいたんだって。
それで、アッツ島を爆撃して、アッツ島の英軍を全滅させたんだ!
101空挺師団の大隊長だって。
215名無し三等兵:2001/07/15(日) 02:20
>>214 すごい!もっと詳しく教えてください。
アッツ島に興味があります。
216名無し三等兵:2001/07/15(日) 02:20
>>208
偵察部隊って、東捜索連隊の生き残りなら、ただもんじゃない
と思うぞ。
217F91:2001/07/15(日) 02:22
メンドクサイ・・・。明日ね♪
寝るわ・・・。教えて欲しかったら、
¥2300 よ。
Z・・・Z・・・・・Z・・・Z・・Z・・Z・・・Z・・・Z・・・Z・・・・。
218名無し三等兵:2001/07/15(日) 02:24
私のおじいさんは
「大日本帝国連合艦隊司令長官」だったらしいです。
戦争・軍事にはあまり詳しくないのですが、
これはどういうものなんですか?
219名無し三等兵:2001/07/15(日) 02:50
>>218
おじいさんのお名前をどうぞ
220名無し三等兵:2001/07/15(日) 03:07
うちの爺ちゃんは、海軍にいてレーダーの研究をしていたらしい。
終戦時、大尉だったとか。
221名無し三等兵:2001/07/15(日) 09:02
うちのとーちゃんは終戦当時国民学校の五年生だったが、中国地方(日本だよ)の三機編隊のゼロ戦が飛んでるのを見たことがあるそうな。航路からして大陸から南方へ行く途中だったらしい。手を振ったら両翼を振って答えてくれたそうな。
222221です。:2001/07/15(日) 09:04
(日本だよ)の×
(日本だよ)で〇
スマソです。
223じょばんに:2001/07/15(日) 13:24
みんなえらいさんやのー。
うちの祖父は砲兵上等兵で満州で馬賊相手に野砲を撃っとったそうな。
戦闘よりも、厳しい気候と馬の世話が大変だったと言っておりました。
太平洋戦争中はもう内地に帰ってきておりました。
224ありえん:2001/07/15(日) 13:26
>>221
うらやますい。総天然色で見たかったよ。全部。

でだ、6年前くらいの終戦記念日の深夜にフジでやってた榛名(だったのかなあ)のカラー映像録画した人おりませんか?
お願い、ダビングしてちゃぶだい。
特攻隊上下巻をお礼に。
225名無し三等兵:2001/07/15(日) 13:35
>218 山本っていう名字で・・・名前は、私は知りません。
226右翼少年:2001/07/15(日) 13:59
>218
山本さんなら間違いなく五十六さんでしょう。
これは、凄い遺族の方が出てきました。
ぜひ、遺品などの画像のアップをお願い致します。
227名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:02
731・・
228名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:07
母方の伯父は沖縄で戦死。
第24師団(山兵団)所属。
229名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:16
>>218 間違いました。
連合艦隊の何かで。
五十六司令長官ではない・・・と思います。
230名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:16
うちのじっちゃんは、ニューギニアに行ったらしー。
231名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:20
うちのじーさんは田中角栄と同じ部隊だったとよく話す。
232名無し三等兵:2001/07/15(日) 14:24
うちのじいちゃんって何か、まだ元気だ!
たしかーガタルカナル島で、戦死しそうになったんだって。
ガタルカナル島にいたらしいから、メシに関してはうっさい!
233名無し三等兵:2001/07/15(日) 15:03
日本海の海でおぼれそうになったところを
見方のせんかんに助けられたんだってさ
234名無し三等兵:2001/07/15(日) 15:10
うちの爺ちゃん日本海海戦に出たって。
まだ健在。
235名無し三等兵:2001/07/15(日) 15:14
>>234
黄海海戦って言ってなかったっけ?
236名無し三等兵:2001/07/15(日) 15:40
うちのじいちゃん戦争中、四国のなんとか寺(名前忘れた)とか言う部隊に
いたそうなんだけど
訓練きつくて脱走して、憲兵に追いかけられて
最後に追い詰められて四国山地のどこかの崖から飛び降りて自殺したそうな
残されたばあちゃん達は戦争中それはそれは惨めな思いをしていたそうな
故郷に居づらくなって戦後すぐに上京してきて、
息子の一人が(オジサンが)実業家として成功したおかげで今ではそれなりに裕福に暮らしている
今だから言える我が一族の寂しい戦中の思い出です
237名無し三等兵:2001/07/15(日) 16:17
>>236
四国でなんとか寺といえば善通寺(ゼンツウジ)では?
確か師団が置かれていたはずです。
>訓練きつくて・・・・
そういう人は全国に何人もいたと思います。
戦死した方々に対するのと同じ気持ちで、ご冥福をお祈りします。
238:2001/07/15(日) 23:19
>213さん
おすすめのところがあればすぐにメールで送りますが・・・。
239名無し三等兵:2001/07/15(日) 23:42
家の爺ちゃん憲兵隊だったんだって
240名無し三等兵:2001/07/15(日) 23:46
満州で高射砲部隊から飯係にさせられたらしい。
241125@追加:2001/07/16(月) 00:09
私の祖父が死んだ後、昔の上官の人が来てくれて祖母とした会話。

昔の上官 「いや〜、○○君にはよくケツを蹴られましたわ。」
祖母 「主人がとんだご無礼をいたしましたようで、申し訳ありません。」
昔の上官 「いやそうされてよかったと思っとります、そうされてなかったら
      私は多分死んでいたでしょう、私みたいに怖がって
      じっとしていた奴はみんな死んでしまいましたから。
      なぜか前へ前へと進んでいってた者の方が生き残っとるとです。」

というような内容のやり取りをしたと祖母が言ってました。
「キンシ勲章」という勲章をもらったそうなんですが、
どういう物なんでしょうか?
よろしければ教えてくださいお願いします。m(__)m
242名無し三等兵:2001/07/16(月) 00:13
うちの爺さまは非常に立派な戦闘機搭乗員で2度の被撃墜を生前自慢してた。
243名無し三等兵:2001/07/16(月) 00:51
>>242
何度落とされても敵に挑む戦闘機乗りとしての使命感と、生還できる運
両方兼ね備えてたというのは、確かに立派な戦闘機搭乗員ですね。
244名無し三等兵:2001/07/16(月) 01:38
>>241
「金鵄勲章」武勲を立てた将兵に贈られる勲章で、明治23年制定。
功一〜七級で、初めての殊勲の際は、将官は三級から、兵隊は七級から。
ドイツで言うところの騎士十字章だね。お爺さんは何らかの戦功を立てられたのでしょう。
245名無し三等兵:2001/07/16(月) 02:23
>>221
なんか涙出てきた。状景が目に浮かぶ。いい話だ。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/16(月) 09:06
ウチのひい爺さんは近衛兵だったんだけどじいさんは輜重隊。

この落差が大好き。両方とも地方の校長先生で一生を終えたんですけど

やはり軍隊向き不向きってあるんだなーと思う。
247名無し三等兵:2001/07/16(月) 11:12
近衛の輜重隊もありと思われ。
248名無し三等兵:2001/07/16(月) 13:15
父方のじいさんは皇宮警察をへて陸軍に入って満州にいってたらしい。
ばあちゃんも一緒にいってたみたいで、おやじは満州生まれだ。
話が聞きたくとも、じいさんは10年以上前に逝ってしまっていて本人からは
聞けない。
おやじに聞こうにも、じいさんに折檻で実銃をつきつけられたことがあったらし
しく、復員後も生活に苦労してたみたいなので苦労話しかきけない。
少佐だったと言う話だが、ホントかどうかもわからない。
249名無し三等兵:2001/07/16(月) 14:53
うちの母方の爺ちゃん、戦艦長門の一番主砲の何かを担当してて、フィリピンかどっかの海で戦艦武藏
が目前で米機の標的にされてて必死で援護射撃したらしいです。その後米艦隊を発見して、空母か何か
に2〜3発主砲弾をぶつけたらしいです。(遺品の日記より)その後戦艦大和に配属が変わり、帰って
来てません。で、叔父は松山で飛行機に乗ってて、出撃の見送りに行っていた奥さん達の頭上をしばら
く旋回し、南の空に消えた後、空から純白の絹のマフラーがふわふわと落ちてきて、それを唯一の遺品
にしてます。もう黄ばみが出ていますが、マフラーには、奥さんと子供さんの名前が刺繍されてました。
高校生の時見せて貰ったのですが、涙が止まりませんでした。
250きーさん:2001/07/16(月) 15:07
うちの爺ちゃんは…日本軍…というか、
入間の陸軍航空士官学校で訓練受けてたそうです。
結局、通信の訓練をやっている頃に終戦になり、
入間から、親戚の居る木更津の方まで、始終
歩いて帰ったとか。
無茶しよるというか、足が強いっつーか、
中学時代は体操部に居たっつーか。
251163:2001/07/16(月) 16:53
スマソ。『軍神・橘中佐』ではなく『広瀬中佐』の方だった。
252アヒャ-リ:2001/07/16(月) 17:06
うちのじいちゃんは満州に行って
無事戻ってきた

それぐらいしか知らん
253名無し三等兵:2001/07/16(月) 17:38
 うちの亡くなったおじいちゃんは、韓国にいたらしいが、途中で東京のほうに移ったらしい。
 通信兵になりたくて試験を受けて合格したが、祖父は小柄だったので
『おまえのようなちっこい奴は通信機を担げない』といわれ、経理になったらしい。
 小食だったのでメシのとき少なくするように配膳の兵にいったら、それを見た事情を
知らない人が、上官のメシを少なくするとは何事だとその兵をボコったらしい。
 階級は軍曹、終戦後も残務処理をしたらしい。
254名無し三等兵:2001/07/16(月) 17:45
おれのじいちゃんデルタフォース
おれのとうちゃんテキサスレンジャー
255名無し三等兵:2001/07/16(月) 17:52
姉ちゃんはチャーリーズエンジェルか?
256名無し三等兵:2001/07/16(月) 19:24
>>249
うちのじーさん、長門の砲術長?だったらしい。
復員したけど、負傷のせいですぐに死んじゃった。
257名無し三等兵:2001/07/16(月) 20:14
うちのじいちゃんは航空隊の整備兵だったらしい。
ラバウルにもいたという話だが。
あんまり戦争のことは話したがらなかったな。
258名無し三等兵:2001/07/16(月) 21:56
age
259名無し三等兵:2001/07/16(月) 21:59
>>245
その後の彼らの運命を考えても涙がでるかも
260名無し三等兵:2001/07/16(月) 23:40
うちの
大叔父様は、なんか101空挺師団に入っていたらしいです。
だれか知っている人いませんか?101空挺師団ってどんなものなんですか?
26174:2001/07/16(月) 23:43
良スレage
とくに
>>236
に涙した。
262ダメダメ!みんなわかってないねー:2001/07/16(月) 23:45
じいちゃんは、ばあちゃんのダンナなんだよ。そんなことも知らないんですか?
馬鹿?
263名無し三等兵:2001/07/16(月) 23:46
お前らの爺さんは日帝の尖兵となりアジアを軍靴で蹂躙した悪魔だ!!
264:2001/07/16(月) 23:46
アメさんの?
265名無し三等兵:2001/07/16(月) 23:47
うちの死んだじいちゃんは、満州に出兵していた。
まあ、普通だと思うけどその時の写真が今の自分にそっくりで
びっくりしたよ。砲兵だったらしいけど。。。
それより、友達のじいちゃんが元海軍大将だったらしいです。
それで昔直接会ったことがあるんだけど、昔の面影がなく
とてもやさしいじいちゃんでした。
266名無し三等兵:2001/07/16(月) 23:48
すみませんーーーーーーーーーー!!

誰かーーーーーーーーーーーーーー!

101空挺師団をご存知の方いませんかーーーーーーー?
267名無し三等兵:2001/07/16(月) 23:49
>>263
Vakaか?君は。
その時代はそうしなければ生きられなかったんだから。
君の国にもそういう時代はなかったのか?
268:2001/07/16(月) 23:57
うちのじい様は海軍にいて、マリアナ沖海戦に参加。航空母艦「大鳳」で
(名前うろ覚え)機銃を撃っていたそうだ。その後沖縄付近の島で終戦を
迎えたそうだ。その兄さんは陸軍でインパール戦線に。どっちもなんとか
生き残り、帰ってきてくれました。
269:2001/07/16(月) 23:59
101空挺師団ってのはアメリカ軍の空挺部隊の事だよ
270266:2001/07/17(火) 00:00
え?じゃあ、何でじいちゃんが101空挺師団に所属していたんですか?
 出兵はせず、満鉄で機関士してました。家族は揃って、いまの釜山
に住んでました。戦後、生き残って帰ってきました。
272名無し三等兵 :2001/07/17(火) 00:02
死んだ祖父からよく戦争の話は聞いたなあ。
 満州で寝ているときに靴下を盗まれて凍傷になった。
 上官が男色家でよくせまられた。嫌だったので、上官が寝ている隙に顔に小便を
 かけて、上官が怒ったら「自分は寝ぼけて小便をする癖があるので」といった。
 シベリアの抑留所から生死をかけた脱走。
 などなど。

 当時の自分の印象としては「満州は寒い」だったけど、今考えてみるとかなり面白い
 話があるなあ。あ〜もっと聞いとけば良かったな〜 
273名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:09
で さん じゃあ、なんで、じいちゃんが
101空挺師団だったんですか?
274名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:17
私の伯父さんは、陸軍で、はじめ満州、その後南方に移動して、ラバウルあたりの高射砲部隊で終戦。
全盛期のラバウルの航空隊のパイロットは凄かったと言っていた。
275名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:21
じいちゃんはアメリカ人でアメリカ軍兵士として戦ったのでは?
276浪人参謀:2001/07/17(火) 00:22
京都第16師団の騎兵連隊々長(大佐)
陸士卒・・・俺は浪人。
277101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:23
>>275 うーんじいちゃんは、日本兵!なんでかな?
278101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:24
101空挺師団ってどんなものなんですか?
これをきけばわかるかも!?
279名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:26
>>278
もしかして陸軍か海軍の落下傘部隊に所属していたのかな?
「空の神兵」だったとか…。それだったらすげーや。
280:2001/07/17(火) 00:30
じいちゃんは日系人だとか?
281ありえん:2001/07/17(火) 00:30
空挺師団という名称はなかったと思われ。
終戦時、飛行師団13個、航空師団4個あったと思われ。
飛行師団はいわゆる戦爆偵、航空団だが、航空師団って何かわからん。
輸送部隊かな?
情報不足スマソsage
282101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:31
>>279 よくわかんないけど101空挺師団だったらしいです・・

>>280 日系人ですけど?
283:2001/07/17(火) 00:35
じゃあ、徴兵されたんじゃないかな?日系の部隊とかも
あったそうだし,その類かも。
284名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:35
家の爺さんは駆逐艦に乗っていたらしいが、船を沈められ海に飛び込んだものの、潜水艦の脅威から助けてもらえず溺死したそうです
285101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:35
え?じいちゃんアメリカ兵だったってこと?
286名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:35
うーん、101空挺っていうと82空挺とともに有名な米軍師団
なんだけどなあ…。
287101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:37
>>101空挺師団と82空挺師団とは何をする部隊なんですか?
日系人もいたんですか?
288名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:38
祖父は「ライアン」って名前なんですってオチだろ。
289101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:40
ライアン?プライベートライアンの・・?
だから!うちのじっちゃんは、日系人なんですよ!
ランアンでは、変でしょう?
教えて!
290ありえん:2001/07/17(火) 00:40
蘭印攻略戦は第3飛行集団の空挺「部隊」が降下作戦を実施。
重爆から降りたんだよね?
とすると第7飛行団、飛行第12・60・98戦隊かな。
101戦隊ってあったのかねえ?
それとも空挺部隊は100番を使っていたのかね?
怪情報垂れ流しで欝だ、さいなら。
291名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:41
俺の爺ちゃんは大卒だったんで、士官待遇で招集かけられたらしい。
で、ビルマで偵察任務中、イギリスの偵察隊と遭遇。銃撃戦になって戦死した。
婆ちゃんは、戦後になって遺族会の案内で現場まで行ってきたそうだ。

インパールとかでの悲惨な話を知っているだけに、敵との撃ち合いで死ねた分だけ
良かったのかな、と思う。
生きて帰れてたら最高だったんだけどね。
292101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:42
ちょっと待ってください!
じゃあ、本物のアメリカ軍101空挺師団にじいちゃんがいたってことは
考えられないんですか?日系人部隊もいたって言ってたじゃないですか?
293:2001/07/17(火) 00:42
「101空挺師団」で検索かけてみれば?
294101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:46
あと、調べてもわからなくて気になったんですけど。
101空挺師団って、何で101なんですか?なんで1半端なんですか?
295:2001/07/17(火) 00:47
特に意味は無いんじゃないかな。
296101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:48
え?じゃあ、最初に出来たのが「1空挺師団」で次が「2空挺師団」
で・・・・・「101空挺師団」まできたのではないのですか?
297名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:49
あ〜ガキくさ・・・シッシ
298101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:51
>>297 うちのじいちゃんの勇気ある戦死をけなすなんて最低ですよ。
299名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:51
>>292
 実際、日本軍だったの?米軍だったの?
101空挺だとたぶん米軍だけど…。
300:2001/07/17(火) 00:53
米軍兵士として戦ったんでしょ?きっと。
301101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:53
よくわかんないんですけど・・。
第二次世界大戦に加わった兵隊ってことは確かです!
・・・うーん、米軍だったのかなぁー?
あのー、日系人も米兵になれるんですか?
302101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:55
あと、自分は全然軍事に詳しくないんですけど、
フランスで戦死したらしいんですけど。
日本軍は、フランスにいったんでしたっけ?
303名無し三等兵:2001/07/17(火) 00:56
空挺師団は特殊な訓練をするし、輸送機などを持っていなければ
ならないので100個も作れません。
物資豊富な米軍でも数個師団(正確にはよく知らん)しかありま
せん。
師団は一応通しナンバーがついていますが、(欠番や飛んでいる
場合も多い)そのうち82と101がたまたま空挺なのでしょう。
304ありえん:2001/07/17(火) 00:56
ねたのにほいがしてきた
305今まで黙っていたが・・・:2001/07/17(火) 00:56
おまえさんはアメリカ人なのだよ
306:2001/07/17(火) 00:57
詳しい訳では無いが、徴兵されたなら日系人も米兵になれると思う。
ところで、お祖父さんはどこで戦死したの?
307101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 00:58
>>304 ネタじゃないですよ。じいちゃん戦争で死んだって
親から聞いたんですよ!だから良くわからないんです!
自分も軍事に詳しくないし。だから、知りたい。
308ありえん:2001/07/17(火) 00:59
だから空挺師団という名称はないってば。
309名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:00
フランスで戦死なさったならば、日系人として米軍に所属して
戦われたことは間違いないと思います。
 それならば101空挺師団も大いに考えられます。
 一般的に日系米人の部隊というと442部隊が有名ですけれ
ど、101空挺師団にいたということは、職業軍人だったので
すか?
310:2001/07/17(火) 01:00
フランス・・・。考えられるのは日系二世部隊とかだが….
311101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:01
>>309 あんまりじいちゃんのことは、詳しくないんですよ。
自分が生まれる前に死んだから。
あのー第二次世界大戦でフランスに日本軍が行ったことはないんですか?
312:2001/07/17(火) 01:02
何かそれを示す遺品とか詳しい話とかある?
313:2001/07/17(火) 01:03
日本軍はそんな所へ行ってないし行く理由が無いよ
314101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:05
何でですか?もし日本兵だったら、そこで戦死したのかも!!
違うなら米兵だと思います。
ってことは101空挺師団に日系人がいたんですよね???
315名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:06
アンタ「!」「?」つけ過ぎ。
いつもここで叩かれている人ですね。
316309:2001/07/17(火) 01:07
第二次世界大戦でフランスで戦ったとすれば、アメリカ軍、イギリス
軍(英連邦を含む)、フランス軍、カナダ軍、ドイツ軍といったとこ
ろです。日本軍は潜水艦くらいしか欧州には派遣していませんので、
日本軍とは考えにくいです。
317101空挺師団の娘:2001/07/17(火) 01:08
>>314
デイブ!いい加減にしなさい!
あなたは日本人じゃないのよ!
318一等自営業:2001/07/17(火) 01:10
日系人の部隊は43年には”第100大隊(日系)”だけ。
44年には”第442戦闘団”で連隊規模。第100大隊は
この第3大隊に編入されました。全員志願でこれヨーロッパ戦線ネ。

太平洋戦線では日系人2000〜3000人が情報部所属で
対日戦の心理・情報戦に加わってます。

第82空挺師団と第101空挺師団は第二次大戦のパラシュート
部隊で、第二次大戦当時はこの二個師団だけです。101のナン
バーは世界の軍隊で試験運用から始まる部隊に付きます。米軍の
場合は名誉称号でしょう。
自衛隊でも101遊撃隊ってのがあります。有事にはレンジャーを
まとめて編制するための番号だけの部隊と言われてますが、実態
は違います。レンジャー以外の〜〜の局地的決戦投入部隊です。
エジプトでは対テロ部隊が101特殊部隊となってます。

第二次大戦では空挺部隊にいたのかどうかわかりません。
たぶん、間違いと思います。海軍には数名いたようです。
朝鮮動乱では日系人も多数参加してます。
319一等自営業:2001/07/17(火) 01:13
でも、もし101にいたのならビックニュースだね!
320101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:13
>>318 質問していいですか?空挺師団ってどんなことを
する部隊なんでしょうか?
321名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:15
輸送機から落下傘降下して敵地で後方かく乱や重要施設の占拠
などが任務と思われ。
322いままでの総合すると:2001/07/17(火) 01:15
ところで、君いくつ?
323名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:15
101にいたんだろ日系人の101空挺師団だろ
これおかしいか?
324名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:17
>>322 25歳。
325大渦よりの来訪者:2001/07/17(火) 01:17
もしも本当ならあなたのおじいさんは米軍のスーパーエリートです。
だから、あなたが言い出してもみんなあんまり信じられなかったのです。
326101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:17
>>322 27歳ですけど・・?
327101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:18
>>325 なんで、米兵だとスーパーエリートなんですか?
328101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:20
スーパーエリートって戦死しにくいのではないんですか?
じいちゃんは戦死しましたけど?
329:2001/07/17(火) 01:20
≫318
ありがとうございます!うろ覚えがはっきりとなりました。
御詳しいんですね。
330とりあえず:2001/07/17(火) 01:20
101空挺師団で、ヤフー検索してみれば?
331一等自営業:2001/07/17(火) 01:21
>>323
日系移民は敵性国民という法律が施行されて、本土の移民は
強制収容されたのです。誰でも知ってると思うけど・・・
イタリア、ドイツ系はこの法律適用外だったんです。

第100大隊は法律施行前にハワイで編制されました。
332名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:22
なんか読解力ないですね
333:2001/07/17(火) 01:22
何か遺品とか、話とか聞いてないの?
334大渦よりの来訪者:2001/07/17(火) 01:25
>>327
米軍の中でもスーパーエリート、と言う事です。
ただし、空挺部隊と言うのは任務の内容上異常に死亡率が高いのです。
敵地のど真ん中にあまり荷物を持たずに降下するわけですから、
あまり強い武器も持って行けないわけで……これじゃ長生きできませんね。
335名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:28
101空挺師団だ撃つなー
キミはライアン二等兵だね
よし
336101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:31
そうですか。では、じいちゃんは、日系人米兵で101空挺師団にいて、任務中に
空挺部隊というのは死亡率が高いために戦死した。
これは、どうでしょう?
337名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:32
それは十分にありうるのでは。
338:2001/07/17(火) 01:35
これでいいんじゃないかな。後は墓参りでもするといいよ
339名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:35
あっしのじっちゃんはなー
えーとーぉ
米軍に殺されたんだー
だーかーらーなー
ゆすさねーぞ
101空挺師団めー
340101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:36
>>338 わかりました。でも、何か文句ある人とかいないんですか?
341名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:36
つーか888のアホでしょ。
しかし詳しいヒトもいるんだねえ。
342名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:36
>>340 文句ー?一応いいんじゃないかな。多分・・
343名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:39
>>340
正直どうだっていい・・・・・・
344名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:41
判ってよかったね。
345ありえん:2001/07/17(火) 01:42
>>340
あなたの両親は日系2世ということ?
おじいさん101空挺にいたってことはおばあさん日本に戻ってくるのかなあ?
漏れって疑いすぎ?
346:2001/07/17(火) 01:43
めでたしめでたし・・・と
347101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 01:43
サンキューベリーマッチ☆
寝ます♪
348名無し三等兵:2001/07/17(火) 01:46
まだ何かホザいてるバカがいますけど。
どうしますか?
349一等自営業:2001/07/17(火) 01:47
パールハーバー以前に入隊し、空挺に所属していたら
可能性はあるでしょうけど、身体検査で身長が足りない
ので、はねられる可能性が大きい。
開戦してからは空挺に在籍してるのは、心理的に難しいと
思いますね。反日感情はヒドイ物だったようです。

三島さんの例なら、基礎訓練中に成績優秀で推薦で空挺に
入ってるが、身体検査では脱いででたたんだ制服の上に
上がって身長計測パスしてる。その後特殊部隊に推薦でいっ
てます。推薦されるのはかなり名誉ですな。
これはベトナム戦争当時です。

101空挺の話はなにか小説のネタ作りでしょうか?
それなら、余程軍事的常識を研究しないと無理でしょうね。
350名無し三等兵:2001/07/17(火) 11:41
質問!あのー、日本兵や米兵って給料あるんですか?
351名無し三等兵:2001/07/17(火) 11:46
>>350
質問はこちらにどうぞ。
●初心者歓迎スレを立てる前にここで質問を5●
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=995256485
352ロボット当番兵:2001/07/17(火) 16:53
誰かこの若者(101の孫)に、自分がどれほどの幸運に恵まれたのか、
100%理解させらせる自信のある人はいますか??

自営業センセ直々のレクチャーとは。。。
353101空挺師団の孫:2001/07/17(火) 17:41
またきました。
>>352 なんで101の孫が幸運なんですか?
354名無し三等兵:2001/07/17(火) 17:51
101空挺師団 VS 82空挺師団

結果はどうでしょう?
355名無し三等兵:2001/07/17(火) 18:02
俺様のじいちゃんはなーーーーー
えーーーーーーーとなーーーーー
うーーーーんとなーーーーーーー
ガタルカナル島で激戦してたんだぞぉぉーーーーー
すごくない?米軍太平洋艦隊とガタルカナル島で最終決戦したんだい@@
356名無し三等兵:2001/07/17(火) 18:12
じいちゃん太平洋戦争に行っていませんのですが?
これは、普通ですよね?
357のびた:2001/07/17(火) 18:22
ドラえも〜ん。米兵がキスしてくるよぉ〜!
358 :2001/07/17(火) 18:36
戦地に行かずに各務原でずっと戦闘機(飛燕)作ってました
359名無し三等兵:2001/07/18(水) 00:07
せっかくの名スレが馬鹿一人のせいで崩壊しかけていると感じるのは俺だけか?
誰とは言わねぇけどよ
360:2001/07/18(水) 00:10
まったくだ・・・。
361ライアン二等兵:2001/07/18(水) 00:20
質問!>>360 あんた何歳?他の人も教えて!
ここに来る人ってどのくらいの歳の人が多いんですか?
362名無し三等兵:2001/07/18(水) 00:34
さっそく馬鹿が一匹釣れた
363"管理人"です:2001/07/18(水) 01:16
警察官とも話し合いを持ってますので、変な発言はご遠慮ください。
>>362
364花の子ルンルン:2001/07/18(水) 01:16
731部隊でペスト菌を撒いてた。
以上!んじゃ
365名無し三等兵:2001/07/18(水) 01:21
>>359
流れをさえぎる話には何事も無かったかのように対処すれば
良いだけ。
そうすれば、すぐに軌道修正されるよ。
366flak:2001/07/18(水) 01:21
で、話を戻すと、
・父方
祖父 徴兵検査直前に働いていた鉱山で落盤事故発生。片足小指がなくなって
   松葉杖ついて検査に行ったら「あんたは受けなくて良い」で生き残る
他  ほとんどシベリアで死亡とのこと

・母方
祖父 まだ年齢が達してなかった。青函連絡戦に乗ってるときに機銃掃射されたことあり。
367イエネコ:2001/07/18(水) 01:32
俺にじいさん、海軍の機関士で南方に行ってたみたいだけど、どの船とか
どこに行ってたとかはわかんない。復員してしばらくしてから(マラリアの後遺症?)
家族で食べた刺身に自分だけあたって死んだ。家には土人と一緒に写った写真が
あるよ。
368花の子ルンルン:2001/07/18(水) 01:35
>>367
そのマラリヤはおいらのGChanの仕業だ。スマソ
369名無し三等兵:2001/07/18(水) 05:22
第13独立部隊に所属して囮の役割を果たした・・・と聞いていますが。
370名無し三等兵:2001/07/18(水) 05:51
空気読めよ。しかもつまんねぇ。救いようがねえな。寝ろ。
371名無し:2001/07/18(水) 10:40
戦争、戦争責任を考える上で、参考になるHPをご紹介させて頂きます。
http://www4.ocn.ne.jp/~aoitori/sensou.html(私のHPです。戦争体験談)
中国帰還者連絡会(元本兵による加害行為の証言など)
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/
372名無し三等兵:2001/07/18(水) 10:46
戦争責任だー?洗脳されてる奴に言われてもなあ。
373名無し三等兵:2001/07/18(水) 11:04
父方
 祖父は戦争にいかなかった。目が悪かったのが原因だと思うけどよくわからない。
祖父の兄弟(本家入れて4〜5人)は戦死者なし。で、本家とうちの祖父以外は
男がみんな戦争でなくなった親戚筋などに養子へ。

祖父
 満州→上海→岩手→水戸の近くで本土決戦の準備中に終戦。
徴兵だったけど技術士官になって戦車の整備をしていたといっている。
終戦前日に汽車で東京に出る途中、石岡で米軍の空襲にあった
とよく話してくれる。
374なな〜し:2001/07/18(水) 13:11
>372
でも可哀想だよ。好きで洗脳されたわけでもないのに、やってもいないことを、
何十年も「あれもやった、これもやった、私は罪人です。」って言って回ってるんだから。
この人達の人生ってなんなんだろうねぇ。

それとも、あれはあれで「私はなんて正直な人間なんだ!」って自己陶酔に浸れて、
止められない止まらない状態になっちゃうのかな??
375名無し三等兵:2001/07/18(水) 13:40
>>359 うん!アンタだけだと思う@
376給料知りたい人:2001/07/18(水) 14:36
あのー・・・日本兵や米兵って給料・・・ってあるのでしょうか?
377名無し三等兵:2001/07/18(水) 14:37
うちのじいさんは近衛の歩兵だった。
378名無し三等兵:2001/07/18(水) 15:13
母方の祖父が日露戦争に行ったのだが、人生観が変わったのか、帰ってきてから半年ぐらい、何もしないでフラフラしてたそうだ。
部隊はわからなかった。
379名無し三等兵:2001/07/18(水) 15:15
日本兵ってトイレ行きたくなったらどうするんですか?
380ライアン二等兵:2001/07/18(水) 15:24
>>379 俺は戦闘開始してから中隊長・・・トイレ・・・
っていって助かったことあるぞ!
381名無し三等兵:2001/07/18(水) 15:39
う〜ちの爺ちゃんは関東軍〜♪
382ロボット当番兵:2001/07/18(水) 17:09
>380
まさか廬溝橋事件の原因は貴様じゃないだろうな!?
383ライアン二等兵:2001/07/18(水) 18:50
>>382 あ!俺だった!ひゃ〜・・・
384ライアン二等兵:2001/07/18(水) 18:52
>>382 ってなにいっとる!俺は、米兵だ!
しかも、ヨーロッパ戦線専門だ!
兄弟が全員死んだんだよ・・・。
385宮崎スレの人:2001/07/18(水) 18:56
>ライアン二等兵

勘違いするなぶぁーか、有名人気取りか。
386ライアン二等兵:2001/07/18(水) 18:58
>宮崎スレの人

文句書くヒマあったら自殺の練習でもしてろ
387名無し三等兵:2001/07/18(水) 19:00
俺の母親の方の爺さんはインパール作戦の生き残りでした。
でも、俺が生まれる前に病気で死んじゃった。
388ライアン二等兵:2001/07/18(水) 19:02
なんかこう見ていると、運のいいおじいちゃんがおおいのでは・・?
もっと派手にヤバイじいちゃんっていないのか?
389宮崎スレの人:2001/07/18(水) 19:03
>ライアン二等兵

はいはいわかりました、あなたは自殺幇助がうまいですね
警察につかまらないようにな(藁
390宮崎スレの人:2001/07/18(水) 19:04
ラピュタの時代設定が爺さんの世代だね。
391名無し三等兵:2001/07/18(水) 19:26
身内じゃないけど、中・高の英語の恩師が海軍出身で長門に乗ってたそう。
暗号解読をやってたとか話をしてくれたことがある。
初歩の暗号解読の方法を教えてもらった。
(乱数の使用頻度からアルファベットを割り出す方法)
この人の昼食がすごくて、完全な英海軍式。
職員室で、ティーカップで紅茶を入れて、
籠に入れた黒パンにジャムを塗って食べてた。フルーツつき。

大学の時の武道の師範、すでに故人だがこの人は昔悪名高い特高で、
終戦時、何に使っていたんだか、血のついた軍刀を山に埋めにいった
という話だった。
漏れが教わっていた頃は既にボケかけてて、話を聞くという
雰囲気にはならなかった。
392ライアン二等兵:2001/07/18(水) 19:26
戦争に行って全体的に生き残る確率は何%??
393名無し三等兵:2001/07/18(水) 19:33
>>392
質問はこちらにどうぞ。
●初心者歓迎スレを立てる前にここで質問を5●
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=army&key=995256485
394ライアン二等兵:2001/07/18(水) 19:35
>>393 細かいこと気にすんな!中隊長の許可はおりてる!
395ライアン二等兵:2001/07/18(水) 19:37
sage
396名無し三等兵:2001/07/18(水) 19:39
「ライアン二等兵」「宮崎スレの人」は荒らしです。無視・放置でお願いします。
397ライアン二等兵:2001/07/18(水) 19:41
隊長へ報告

俺は中隊長の命令でやっていることであります。
荒らしではありま三千円!
宮崎スレの人は、100%荒らしであります!
398名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:09
うるせーよ
このド厨房が
399名無し三等兵 :2001/07/18(水) 20:14
 うちの父方のじいさんは航空戦艦伊勢に乗っていた。
 昭和19年から南洋のナウル守備隊へ。
 ナウルでは通信担当だったらしく、タラワ玉砕の際、タラワの日本軍からの
最後の電信を受信したという。タラワでは通信機が故障し、非常用の通信機からの
電信(平文)だったそうだ。内容は、

「ツウシンキコショウ アンゴウショオ ヤキ ゼンイントツゲキス
 テンノウヘイカ バンザイ」
(通信機故障 暗号書を焼き 全員突撃す 天皇陛下万歳)

だったそうだ。涙が出てきそうだ。
じいさんは終戦後、オーストラリア軍によって抑留。ナウル守備隊の多数は
マラリア、アメーバ赤痢によって命を落とした。
よく生きて帰ってくれたと思う。それと同時に、帰ってこられなかった人たち
の冥福を祈る。決して忘れてはならないと思う。
400名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:53
うちのじいさん
第十三師団山田支隊
軍板の方なら分かりますよね
401名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:55
731部隊です(爆)
402名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:56
>>400
その部隊ってたしかなんき・・・うぐっ!
403名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:58
虐殺者め!
404名無し三等兵:2001/07/18(水) 20:59
>>402
内緒ね!な・い・し・ょ!
405名無し三等兵:2001/07/18(水) 21:40
父方祖父−出征はしたらしい。弟は戦死
母方祖母−職業軍人。母5歳の時ノモンハンで戦死

母方からお年玉が貰えなかったから、
辻ーンについては、笑って語れないよ(マジ)。
406名無し三等兵:2001/07/18(水) 22:16
親父は当時小学生だったそうだが、B-29の焼夷弾攻撃を避難先で見てて、
きれいだな、と思ったそうだ。
親父の一番上の兄は出征して戦死しているようだが、
爺さんも婆さんも何も話してくれない。親父もよく知らないそうだ。
407名無し三等兵:2001/07/18(水) 22:38
うちの祖父は、駆逐艦の機関長、大尉でした
408名無:2001/07/19(木) 05:35
おばあちゃんの弟が、中支那防疫給水部にいました。えらく鬱だった。
409名無し三等兵:2001/07/19(木) 09:16
 俺じゃないけど、大学の時の友達のじいさまは
ノモンハンの生き残りだったらしい
410名無し三等兵:2001/07/19(木) 10:03
父方の祖父
大連で満鉄職員として働いていたが、現地で徴集される。
その後、ソ連軍の捕虜になりシベリアに抑留される。
運のいいことに爺さんはボイラー技師の資格を有していたので、
他の仲間が、激寒の地で強制労働(主に農作業)に従事している間、
暖かいボイラー室に居ることが出来た(強制労働免除)。
また、ソ連兵から食料なども分けて貰った。
その際、ソ連兵に「必ず、ここ(ボイラー室)で食べて行け!」と言われたが、
懐に隠して仲間の所に持ち帰ったそうだ。
その後無事に帰還して、僕が生まれてからしばらくして他界した。
爺さんは身体が丈夫な方ではなかったので、ボイラー技師の資格を持っていなかったら強制労働で死んでいただろうと言っていたそうだ。

母方の叔母
朝鮮半島にて僕の母を出産した後、母の父にあたる人(結婚はしていなかったようだ)は戦死。
戦後、日本に引き揚げ、米陸軍防諜部隊(CIC)のメンバーと結婚。
その後、二人でアメリカに。
義理の爺さんの職務内容は、GHQが雇う日本人の身元調査だったそうだ。
既に義理の爺さんは死んでいるが、婆さんは爺さんの軍人恩給(将校だったので額が良いらしい)等で、地元の高級住宅地で悠々自適に生活している。
そして、今でもアメリカの自宅地下室には、爺さんの仕事の関係の機密書類が山ほどあるそうだ。
ちなみに、祖母の父は特高だったそうだ。
411ロボット当番兵:2001/07/19(木) 12:01
>408
中支ならそれは本当の防疫給水部だったんじゃないの?関東軍のがヤバいのであって、
防疫給水部そのものは、特に大陸では重要なセクションでは??
412ライアン二等兵:2001/07/19(木) 12:07
うちのじいちゃんは、南北戦争に行ったらしいです。
ごく普通の部隊だったらしいのですが、
おんなじ人いらっしゃいませんか?
413名無し三等兵:2001/07/19(木) 13:35
母方祖父:ミッドウエーでやられた、空母飛龍の生き残りです。海兵卒後*年目で
     ようやく海軍士官らしくなれたと思った頃だったとか。
父方祖父:文官です。満州で帝国大学にて教職についていたそうです。
414名無し三等兵:2001/07/19(木) 18:29
うちのじいちゃんは呉で訓練中に終戦。原爆投下についてなにも話さない。
救助にでも行ったか?
高校の同級生のじいちゃんの兄が海軍中将で、フランス駐在武官だったらしい。
415名無し陸軍大将:2001/07/19(木) 19:44
>>411
関東軍以外にも、731部隊は北・中・南支那、シンガポールの防疫給水部の中に兄弟部隊を構えていた。きみ、軍オタじゃないね。そんなの常識よ。
416名無し三等兵:2001/07/20(金) 11:46
うちのじいちゃんは予備飛行学生出で特攻隊員だった。
出撃数日前、公用で外出して長崎で被爆した。
爆風で吹っ飛ばされて大村の海軍病院に入院。
その間に仲間は出撃。
じいちゃんは行かずに済んだ。
でも被爆者になった。
被爆手帳も持っていた。
しかし原爆症の症状はなにも出ずに、電車の半額パスとか住宅補助とかかなりの特典を受けていた。
じいちゃんの友達は広島で被爆。
この人は陸軍だった。
この人も原爆症の症状はなにも出ず、特典を受けていた。
結構、いろいろ特典があったみたいで、酔っ払うとふたりで原爆で得したって話してた。
被爆手帳を持っているといろいろ特典や補助があったようだ。
戦後、戦友が被爆手帳が欲しいから被爆したことにしてくれと頼まれたそうだ。
どうもその日に居たと証言してくれる人が何人かいると被爆手帳がもらえた様だ。
じいちゃんはやっかいなことに巻き込まれると嫌だからと断ったそうだけど。
でも被爆直後の長崎、広島はすごかったんだそうだ。
じいちゃんはピカっと光った直後、物凄い力で吹き飛ばされた。
しばらくして気が付くと周りの景色が全然、変わっていた。
俺は三途の川まで飛ばされたのかと思ったそうだ。
ヨロヨロ歩いていると死体がいっぱいあった。
どういうわけか、傷も無く寝てるように死んでる人ばっかだったそうだ。
ただ爆風のせいか、服が吹き飛ばされて裸やズボンだけの死体が多かった。
広島にいた人も、そうだそうだと言っていた。
417陸軍伍長:2001/07/20(金) 12:08
うちのじい様陸軍で、タイビルマ戦線にいたそうな!ちなみにタイのどこだかの基地で食いもんなくて、近くのバナナ畑に部下5人連れて盗み食いに行ってる最中にイギリスに爆撃受けて基地は全滅に近い状態になったらしい・・・。その後の死体処理が大変だったそうな。
418名無し三等兵:2001/07/20(金) 13:27
ウチのじいさんの中支戦線の話が、好きだった。
田んぼで、よくスッポンを捕って食べた話。
漆器のオマルを間違って使って、
現地人に笑われた話。
軍隊って楽しい所だと思っていた。
419無名四等兵:2001/07/20(金) 13:41
うちのG3は教師。だから徴兵はされなかったそうだが、いよいよとなると
学校に軍人が来て教師達も訓練を受ける事になった。
ところがどうした人事のミスか、やってきた軍人はうちのG3の教え子。
無論昔の事、「三歩下がって師の影を踏まず」の頃の話。
教え子の軍人さんの困った事。ウラでこっそりG3に
「立場上命令をしなければなりません。申し訳ありません」と言われたそうな。
420名無し三等兵:2001/07/20(金) 14:18
705空の陸攻隊で、通信科にいたらしい。
横須賀時代に倉庫の屋根裏で盗み食いした話や、
メチル飲んで運ばれた兵隊の話なんかをしてたな〜。
亡くなった時に、兵隊時代の写真を大量に貰ってきて、
友達に見せて自慢してる。
421名無し三等兵:2001/07/20(金) 14:32
>>419
なんかいい話で砂。G3という表記もチョト笑ったカコイイ。
422名無し三等兵:2001/07/20(金) 14:47
うちのじいちゃんは、満州で特務だったらしい。
秘密のベールに包まれているため詳細は不明。
厨房のころ死んじゃったから何も聞き出せなかったよ。
シベリアに抑留されたけど最後まで正体を隠し通せて
処刑されずに帰れたんだって。

もう片方は大卒理系エンジニアだったので
八幡製鉄所で働いていたそうな。
423名無し三等兵:2001/07/21(土) 21:45
age
424名無し募集中。。。:2001/07/22(日) 03:51
もう亡くなっちゃったけど、父方の爺ちゃんは
徴兵されて、メレヨン島で餓死しかけてたって言ってた。

オヤジがいつも「戦争が8月で終わらなかったら、
俺もお前も存在しなかった」っていわれてしんみりする。

調べたら独混第52旅団がそこにいたことを知って
軍ヲタになってちょっとヨカタと思った。
425名無し三等兵 :2001/07/22(日) 11:55
うちのじいちゃんは満州にいてシベリア抑留。
みんなばたばた死んでったそうだ。7日間水だけですごしたりしたそうです。
母方のじいいちゃんはサイパン島で戦ってたそうで。
戦友が死ぬ時だれも「天皇陛下万歳」なんていわずに
家族のことや母親の名前をつぶやきながら死んでいったそうです。
426名無し三等兵:2001/07/22(日) 13:31
age
427名無し三等兵:2001/07/22(日) 14:03
私の祖父は日露戦争で旅順攻撃をしていました。
428名無し三等兵:2001/07/22(日) 14:37
小学校時代の恩師のご主人は100式司偵の偵察員だった。
沖縄の偵察に出動していたらしい。
429名無し三等兵 :2001/07/22(日) 15:12
母方の祖父は昭和20年春、33歳で関東軍の根こそぎ動員に引っかかるもなぜか7月下旬に召集解除。
ソ連軍が侵攻するさなか、内蒙古に住んでいた家族を引き連れ無事内地へ。
引揚げ列車が通過する鉄道沿いでは一定の間隔で日本兵が立哨しており、反日ゲリラの襲撃から
避難民達を守っていたそうです。
関東軍は避難民を守らず壊走したように聞いていましたが、中にはこんな例もあったようです。
「あの兵隊さんたちは無事内地は帰還できただろうか。そうであってほしい。」と、今は亡き
祖母が昔話しておりました。
430名無し三等兵:2001/07/22(日) 15:13
>>425
貴方も相当のお年ですね。
431名無し三等兵:2001/07/22(日) 15:14
>>430
ハァ?
432430:2001/07/22(日) 15:21
>>431
427の人に逝ったつもりでした。ウツダシヌ
433431:2001/07/22(日) 15:27
>>432
なるほど、確かに相当のお年だね
434名無し三等兵:2001/07/22(日) 15:36
1から読んでみたけど、長門の縁がある人が結構多いですね。
435名無し三等兵:2001/07/22(日) 22:00
うちのお爺ちゃん、准尉さんだったらしいけど、
ニューギニアのバロム島で餓死しました。
召集された時すでに44歳で、もう年だったから一際早くに亡くなったらい。
昔、生き残られら方の一人が家に来られ、
この時はまだ埋葬できました、
その後はもう穴を掘る体力すら誰にも残っていなかったので遺体はそのまま...。
と、話してらした。
200人位いて、4人しか生きて帰ってこられなかったらしい。
生きていたら、いろいろ話を聞いてみたかったな。
436名無し三等兵:2001/07/23(月) 00:26
>>216

>偵察部隊って、東捜索連隊の生き残りなら、ただもんじゃない
>と思うぞ。

↑すいませんなんすか東捜索連隊って??
437名無し三等兵:2001/07/23(月) 00:39
確か機関銃の部隊でヤップ島に行ったけど、米軍が来なかったから助かったって。時々急降下爆撃されたらしい。
満州にいたこともあって、当時満州では虎が出たらしい。
438名無し三等兵:2001/07/23(月) 00:45
うちの爺ちゃんはソ連の捕虜でした。
まだ生きてる。
439名無し三等兵:2001/07/23(月) 00:52
旧日本軍の存在自体が悪だからな。
中国でレイプと集団リンチばかりやって来たんだろ(笑)。
440名無し三等兵:2001/07/23(月) 00:58
>>436
たぶん、第一次ノモンハン事件で壊滅した、第23師団の捜索隊
(他国では偵察大隊か)のことでしょう。

確か、殆ど生き残りはいなかったのでは…
441名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:06
三沢海軍航空隊
442436:2001/07/23(月) 01:09
最初にノモンハンレスした者ですが
爺ちゃんはノモンハンで偵察部隊で生き残った
中尉です。(帰国後少尉より昇進)
タフな人には見えないですが、きんし勲章をいくつか
漏ってて、私が中学入学したときに「もういいだろう」
って見せてくれました。
ちなみに本人はゼロ戦が大好きで、今でも軍記物で
ゼロ戦の挿絵とか書いてます。
443440:2001/07/23(月) 01:37
恐らく、井置中佐の第23捜索隊(東中佐の第23捜索隊が壊滅した後編成)
にいらっしゃったのでしょうね。

井置中佐の捜索隊は第2次ノモンハン事件に終止符を打ったソ連軍の
8月攻勢が始まった時、日本軍の最右翼(北端)に配置されていたのですが
ソ連軍の包囲を突破して脱出しています。

井置部隊も70%を超えるような損耗率だった筈ですから、強運の持ち主
なのでしょうね。
444440:2001/07/23(月) 01:38
>>443>>442さんに対するレスです
445名無し三等兵:2001/07/23(月) 01:41
>439
実際うちのじーさんもやってたかもな、
山羊を女の代用としとった話は聞いたけど・・似てるらしい(w
満州で歩兵しとった程度しか知りません。門司港から船乗ったとか断片的。
なんせ俺のじーさんやから呑気にやってたらしい。
446 :2001/07/23(月) 01:46
じいさんじゃないが、じいさんの兄弟が、
南方戦線の原油地帯制圧の落下傘部隊におったそうな。
そこで戦死したらしいけど。
447名無しさん三等兵:2001/07/23(月) 01:47
>>442
ノモンハン戦ですか。苛酷な経験をされた方なんですね。
その偵察部隊、他の人もレスしてましたが捜索第23連隊だとすれば、
生き残った人はほとんどいないでしょう。
アルヴィン・D・クックス著「ノモンハン 4」朝日文庫,1994の巻末には、
その部隊の幹部将校の名簿がありますよ。
お爺さんのお名前もあるかもしれませんね。
448農民:2001/07/23(月) 02:35
うちの爺ちゃん身体検査で不合格
で戦争に行ってないって言ってた
爺ちゃんは歯が悪い以外は健康でした。
こんなことあるんですか?
449名無し三等兵:2001/07/23(月) 02:40
あ、うちの親父の方の爺さんも一回も戦には行ってない。
何でだろ。
450名無し三等兵:2001/07/23(月) 02:57
うちの爺さんは、身長でひっかかって不合格だったとか
平均身長の低い時代だったのに…
いまだに半信半疑
451名無し三等兵:2001/07/23(月) 02:58
婆さんの弟:
歩兵第百四十五連隊に配属。サイパンに逆上陸をかける作戦のため、
出発地の横浜へ。が、横浜で待機中に逆上陸作戦が中止となり、そのまま
小笠原兵団に編入、硫黄島へ。
硫黄島中部、大阪山〜千鳥飛行場の争奪戦にて戦死。

爺さんの弟:
配属先不明。
ニューギニア島ソロンにおいて戦死。

親父:
故郷の海で遊泳中、グラマンF6Fの機銃掃射に遭遇。
おそらく、その頃日本沿岸を北上していた米第3艦隊、空母ランドルフ
搭載機による攻撃。
岩場の陰に逃げ、難を逃れた。
452名無し三等兵:2001/07/23(月) 03:33
うちの爺さんは当時、小樽で港湾関係(内容不明)の仕事をしていた
関係で戦争に行かなかった。(昭和19年8月病死)
もっとも、暁部隊とか言う輸送隊に徴用されてたらしい。

父の兄(当時20代前半)も国鉄で働いてた為、徴兵されずに済んだら
しい。(婆さん談)
父の話では、父親の居ない家庭の長男は徴兵されなかったとか言って
たけど、本当かどうか・・・・
その代り、昭和20年に父(当時14歳)が無理やり少年何とか兵に志願さ
せられたそうだ。

あと、爺さんの弟は兵役に付いてけど、ケガが原因で除隊し漁師をやって
いたが漁船と共に徴用され、終戦の一週間前に横須賀沖で戦死。
45374:2001/07/23(月) 04:27
>>450
私の祖父も身長制限で兵隊にとられなかった(1回目)。
本人が言っていたんだけど、ある程度の身長より
高くても、低くても駄目らしい。
行進したとき、身長がバラバラだと格好悪いからだとか。

といっても、大戦末期にはそんなこと関係なしに兵隊にとられたけど。
454nanasi:2001/07/23(月) 09:45
>>453
陸軍の徴兵基準は152センチ
455ロボット当番兵:2001/07/23(月) 10:00
>>415
うーん、気付くのが遅れた。鬱だ。「常識」不足ですまんね。

しかし、全ての「防疫給水部」=「森村誠一のアレ」じゃないだろ??
だから408氏は必ずしも鬱になる必要はあるまい。
第一本当にアレの関係者だったんなら家族にも黙ってるだろうし。
456大渦よりの来訪者:2001/07/23(月) 10:46
>>455
悪事を働いたのは本部だけで、支部部隊は、
ひたすら水をろ過しつづけると言う地味な作業に従事していたはず。
だから、不味くは無いはずだよ。
「防疫給水本部」ではなく実働部隊のほうならむしろ栄誉かと。
457名無し三等兵:2001/07/23(月) 12:25
そうではない話を、父に聞いたことがあります。
父は、し江作戦(しが変換できませんでした。くさがんむりに止です)参加していたのですが、
抵抗が激しいときに「防疫給水班」が、でてくると言っていました。
その場合、その村落に有るものには一切手を触れないようにと、命令されたそうです。
どのようなことが行われていたのか、分からないように、
一般の兵士は、後方に下がらせられたので、詳しくは知らないようでした。
もう、なくなりましたので、私もそれ以上は知りません。
458名無し三等兵:2001/07/23(月) 13:00
>>457
う〜ん。 あえて 良い方へ良い方へと想像すると、

 単純に戦闘が激しくって洗浄が汚物だらけになり
(そこらじゅう死体や汚物だらけで水場も汚染されて)

疫病が発生した、

その処理のために一般の兵が下げられて
(その際に、何もさわってはいけないと言う命令が出る)、

防疫給水舞台が前に出て消毒処理を行う、と言う事じゃないか?

毒ガスを撒くのなら砲兵のガス弾やなんやの一般兵科の扱える者があるし、
細菌兵器だったらそんなに近接したところで使うだろうか?
459ロボット当番兵:2001/07/23(月) 16:31
>>456
私も同じ認識なのですが、457氏の話は、「撫順もの」にしては生々しいですな。
しかし458氏の言うとおり、いくらなんでも細菌兵器を使った地区に、
ワクチンも打たないで兵力を投入、、、しないとは言い切れないですもんね。

どう判断してよいのやら。
460457:2001/07/23(月) 17:54
解りにくかったようで、ごめんなさい。
一般の兵隊では埒があかないときに、「防疫給水班」が、出動する。
ということで、後かたづけといういみではありません。
私はその前後で「三光」という言葉をおしえてもらいましたので、
戦闘後は、火をつけるのが普通だと思っていました。
その方が単純に言えば、簡単でしょう。

私は、軍事のことには全く疎いので、この話の真偽については、何もいえません。
いえ、教えて欲しいくらいなのです。
461名無し三等兵:2001/07/23(月) 18:34
ひたすら水を濾過する部隊の話は聞いたことがあるな。
親類の者がニスホとか言う部隊に居たらしい。
で、石井式濾水器とやらで水を綺麗にして、部隊や現地人に配って歩いていた模様。
お陰でもらいが多く、食い物に困ったのは本当に戦争末期の末期だけ。
南方でのんびりやっていて、ときたま爆撃を喰らう程度で済んだとも。
462ロボット当番兵:2001/07/23(月) 19:17
>457
フォローありがとうございます。ううむ「三光」ですか。ちょっと撫順のにほひがしてきたかな。

確か「焼光・奪光・殺光(だったかな?)」で「焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす」
という意味(だったかな?)だそうですが、並べてみるとわかるとおり、「光」という字に、
「〜し尽くす」という意味は、少なくとも日本語だと無いですよね。

このあたりあまり詳しく調べる機会がないのですが、個人的には「三光作戦」という言葉は、
中共か国民党が抗日宣伝のために広め、戦後撫順他で洗脳された人達が持ち帰り、
日教組・朝日新聞他が日本に根付かせた言葉なんじゃないかと思っております。

「焼くな・奪るな・殺すな」という日本軍の標語はあったそうですね。
無論そういう標語ができたということは、そういうことをする兵隊がいたということではありましょうが、
日本軍が組織的に方針としてそういうことをした、ということとは、大分性格が異なると考えます。

>戦闘後は、火をつけるのが普通だと思っていました。
「匪性集落」すなわちゲリラの根拠地(もしくはその疑いがある)のでない限り、
普通の村をいきなり襲って焼く、なんて意味の無いことはしなかったんじゃないでしょうか?
戦争しに行ってたわけですからね。

村が無くなると物資や苦力も徴発できなくなって、
困るのは当の日本軍です。だから、「必ず焼く」ってことは無かったのではないかと考えます。

まぁ、他にも意見は出てくることでしょう。

>461
それが本来の「防疫給水」の仕事ですよね?731部隊の看板は、隠れ蓑だったわけで。
463名無し三等兵:2001/07/23(月) 20:30
>>460
ちょっと粘着だけど許しとくれ・・・

一般の部隊で埒があかないほど強力な敵が待ちかまえて居るところで
悠長に毒ガスまいたり、細菌撒いたりしにいけるものだろうか?
即効性でかつ広範囲を素早くカバーできるような毒がすや細菌?をまくにしても、

とりあえず敵を制圧する強力な支援部隊とかなしにそれが出来るのだろうか?

まるで魔法使いが一瞬にして敵をやっつけてしまえるかのような
物々しい雰囲気が・・・非現実的なような・・・
464442:2001/07/23(月) 22:07
>>443,>>447
産休です。
早速調べてみます。かなり珍しい姓なのですぐみっかりそうです。
あと、ノモンハン後に逃げたロシア人捕虜捕まえてジープに括り
付けてポーズ取ってる当時の新聞の写真、今でも大事にファイル
してます。でも本人はあくまでゼロ戦乗りになりたかったって
いつも言ってますが・・
465ななし:2001/07/24(火) 01:30
私の祖父は、レイテ島での生き残りでした。(10年ほど前に亡くなりましたが。)
当時は少尉、高千穂隊(落下傘部隊?)所属で、大岡昇平著の「レイテ戦記」にも
名前が載っています。
相当の激戦区だったようで、祖父の部隊は祖父を除いて全滅。
「生き残ってしまった」という自責の念は、終戦後かなり尾を引いていたようです。
お酒を飲んでは逝ってしまった仲間をおもい、泣いていたそうです・・・。

そして祖母の一家は平壌からの引揚者。昔、母からよく「私のお母さんは、
女とわからないよう、丸坊主になって船に乗ってね、命からがら逃げて帰って
来たんだよ。」と聞かされたものだけど、当時幼かった私は、なんで女と
わかるといけないんだ?と思ってたものでした。
466:2001/07/24(火) 01:33
私の祖父は横須賀の軍港で会計してました。
そこで英語の勉強してましたが,上司に「ばかか」といわれただけでなんも障害はなかったです。
戦後教科書は「英語を戦時中ならったら処罰される」とか子供たちに洗脳してますし
少年Hでも警察にエンパイアステートビルの写真もってるだけでつかまったとかいう嘘の記述もしてます。
それでうちの祖父は英語を勉強していたおかげで
戦後,GHQで会計して,そのごパラオ諸島でGHQにつれられてはたらきにいきました
467名無しさん三等兵:2001/07/24(火) 02:33
>>465
レイテ戦の生き残りですか。
この世の地獄を目の当たりにされたのでしょう。
日本軍地上部隊の実に97%が戦死してますからね。
「レイテ戦記」は何度も読んだことがあります。
ひょっとすると、あの絶望的な軍司令部脱出行に参加された方なのでしょうか。

私の親戚では、母方の祖父の弟(海軍陸戦隊所属)が南方で戦死しています。
今ではTMDの実験場として利用されている、クェゼリン環礁というところです。
生存者はほとんど無きに等しく、遺骨も遺族の手に戻ることはありませんでした。
468真面目:2001/07/24(火) 03:07
ワシの爺さんは駆逐艦「太刀風」の照準手をしていたそうな。
時は大正10年代。太刀風自体が大正11年の就役らしいから、いずれにしてもワシントン条約下の
のんびりした時代で、オフの時はいつも甲板から釣りをしていたと聞いた。
射撃訓練でもらった賞状とアルミの勲章なら宗家に腐るほどある。
469名無し三等兵:2001/07/24(火) 03:58
>無足昆虫

うじ虫とかですね。
470469:2001/07/24(火) 04:01
>>469
スレ違いじゃボケェ!!
471大渦よりの来訪者:2001/07/24(火) 04:07
>>462
三光作戦は、日本ではなく中国側がつけたとされる名前ですので、
日本の軍人だった方がそう言う呼び方を使うのはおかしいかと。
ちなみに、この「三光」と呼ばれた作戦に対応しそうな作戦は存在しないそうで、
戦災デッチアゲ疑惑の時に一番最初に例示される物のひとつです。

………まあ、当地での日本軍の行動に何の問題も無かったとするのもアレですが、
ちと信じがたい物の一つである事も確かです。
472特になし:2001/07/24(火) 05:11
おじなんだが、ルソン島にいってた。
戦車第二師団の生き残り。自身は九七式軽装甲車にのっていたそうだ。
おじ曰く
「37ミリ何発当てても、M4には無駄だった」
「刺突爆雷使ったけど、危なっかしくて、M4に近寄れなかった」
「8月15日は斬り込みに行ってた」
そうです。
473くーにゃん:2001/07/24(火) 06:16
防疫給水部についてコメントします。皆さん、これだけの軍オタなのに、本をあまり読んでいないのに驚いてます。まあ、この手の専門書は読みにくいけどね・・。
455、6>>「全ての防疫給水部=森村誠一のアレじゃない」ですが、北支那・中支那・南支那・南方軍防疫給水部には731のような細菌戦実戦部隊が装備されていましたし、その各支部・支隊も作戦によっては実働部隊と化したようです。。731は実験が主で、実戦に出て行くのは上に書いた防疫給水部の中の特殊部隊が中心になった模様。特に南京の中支那防疫給水部の中の特殊部隊については、他に比べて実態解明が進んでいて、常石敬一『細菌戦部隊と自決した二人の医学者』(新潮社)・同『標的イシイ』(大月書店)や『季刊戦争責任研究15・16等』に掲載されている一連の文章に触れられています。また、731の各支部(各地の防疫給水部)も似たようなことやってたのは、滝谷二郎『殺戮工場731部隊』(新森書房)に詳しい。なお、細菌戦に関係した下のほうの衛生兵たちは、上官であった医師に口止めされながらも、けっこう色んな事をしゃべっています。それはイイおもいをした医者と比べて、下級の衛生兵たちはものすごい罪の意識をもったからで、墓に入る前に吐き出さずに入られなかったのだと思います。常石氏は罪の意識から中支那防給にいた医師が自殺した件を丁寧に追っている。
 したがって「ひたすら水をろ過しつづけると言う地味な作業に従事していた」ものも多いけど、その組織の中で特殊任務についたものはペスト蚤作ったり、細菌入り毒饅頭作ったり、色々やってたんですね。「悪事を働いたのは本部だけ」ではないし、ひいては各地区の航空隊だって細菌散布に関わってるし、けっこう大規模に悪さしてるようですよ。
474くーにゃん:2001/07/24(火) 06:25
わたしはココ、良質スレだと気に入ってます。軍事板が冷静なのは最初、なんだか以外だった。中国板なんか荒らしの嵐なのに。
ココで一つ一つ、戦争で亡くなっていった方の記録を拝見していると、軍歌とは思えないほど悲しく美しすぎるメロディ、まるで賛美歌のような、「海ゆかば」の楽曲が聞こえてきそうです。
475くーにゃん:2001/07/24(火) 06:30
補填。
「一般の部隊で埒があかないほど強力な敵が待ちかまえて居るところで 悠長に毒ガスまいたり、細菌撒いたりしにいけるものだろうか?」との意見がありましたが、セッカン作戦にせよ何にせよ、だいたい細菌戦は撤退戦で行ってるのですよ。撤退時に井戸に毒入れたり、細菌入り饅頭撒いたり、ペスト蚤散布したり。その点お忘れなく。敵がいなくなる空白遅滞を作ることが目的とされたようですが、実際には日本軍兵士がいっぱい罹患して、疫病で死んでる。ほんと、わが国がいかにアホであったか・・。情けない。
476名無し三等兵:2001/07/24(火) 07:10
うちの爺様は、海軍所属で名前は分からないのですが船に乗っていたそうです。
南のほうをぐるぐるして、最後は台湾で終戦を迎えたらしいです。
家には内閣総理大臣からもらった大きな賞状と金の懐中時計と銀杯ってのがあります。
賞状には、海軍二等下士官って書いてあるんですけど偉かったほうなんでしょうか?
日本軍の船の大砲はぼろくて、一回弾撃つと砲身が引っ込んだままになったなんて言ってました。
大砲を水平にして撃つと、弾が水切りみたいに何段も飛び跳ねて面白かったなんてことも言ってました。
魚雷を食らって船が沈んじゃって、戦闘機に機銃掃射された時に、一個所に固まってた奴等は撃たれて死んだそうです。
台湾では、米に船引き上げたらその船で帰って良いよって言われて、一生懸命引き上げたけど
その船どっか持っていかれたらしく、そんなことが2回もあってかなりむかついたらしいです。
アメリカ人とは野球、ビリヤード、台湾人とは麻雀をしたって言ってましたよ。
すごく優しい爺さんなんで、長生きしてほしいです。爺さん孝行しないとな・・・
なんか、文章下手でごめんなさい。もっといっぱいあるんですけど、やめときます。
477名無し三等兵:2001/07/24(火) 07:11
↑面白そうだからもっと書いてくださいな
478大渦よりの来訪者:2001/07/24(火) 09:09
>>473
そこまでは詳しくないですが、一応知っていましたん。
………貴殿が書きこまれるまですっかり忘れてたけど。
取材対象者がほぼ全員運撫順収容所の出身者なので信用できない、
と言う話を聞いたので脳裏から削除していたのですが、
本当の所はどうなのでしょうか?
………こう言う話が多いと何がほんとで何が嘘なのやら、
さっぱり判らなくなってしまいます。
479名無し三等兵:2001/07/24(火) 11:43
広島の第5師団,機関銃の2番手だったとのこと.
終戦時は台湾で穴掘り
480くーにゃん:2001/07/24(火) 12:13
>>478
「取材対象者がほぼ全員運撫順収容所の出身者」というのは嘘。だって撫順収容所にいた人たちで防給関係者はほとんどいないよ。ソ連に送られて裁判になった731関係者の供述調書だったら、まだ別に存在するけどね。
481名無し三等兵:2001/07/24(火) 12:41
ウチのじいさま、航空関連の技術者で
終戦の三ヶ月前にたらふくすき焼き食べた事自慢してた

すくなくとも戦時中は食料にこまることはなかったそうな
482うき:2001/07/24(火) 13:26
うちのじーちゃんは、陸軍中佐であかつき部隊ていうとこに
おったらしい。どういうとこかはしらないけど
しってる方はなんか、書いてください
あと、迎賓館で大平陸軍大将ともあったこともあるらしい
ほかにも、大臣や軍人さんが何人かいたらしい
483名無し三等兵:2001/07/24(火) 13:43
皆、知っているんだね・・・
俺も今度、聞いてみる事にするよ。
現在でも電車代が免除されたり、国からお金が出たり、
他にも特権有るの?
484疲れきった兵士:2001/07/24(火) 14:04
うちの祖父ちゃんは機関銃手だったそうな。
たしか、38式のボルトアクション機構を、
極端に嫌っていたような記憶が、、、、。
485ロボット当番兵:2001/07/24(火) 18:03
>>473
ふむふむ。勉強になりますな。「季刊戦争責任研究」はどっかで別の号を見た記憶があります。
号によっても違うのでしょうが、私が見た号は、「教員」「団体職員」の執筆者がいたので、
私の中では「日教組・代々木・中帰連モノ」に分類されてますね。また大月書店も、代々木の色が濃い出版社だと理解しています。
無論だからと言って全てが無価値ってことはないですし、私も本多勝一は南京モノ含めて一通り読んでますが。

細菌兵器を撤退戦で使ったというのは理にかなってますね。納得しました。
また医官の口は固くても、下士官・兵はそうでもない、というのもわかる気はします。
日本兵の罹患については、特攻作戦をやるような軍ですから、あっても不思議はないと思いましたが、
やはりやはりあったんですか。鬱だなぁ。

しかし貴下のハンドルを見ただけで、正直なとこちょっと構えてしまうのですが。。。


>>482
シベリアに抑留とかされてない?「暁」違いだといいんだけど。
486名無し三等兵:2001/07/24(火) 18:35
うちのじいちゃんは陸軍士官学校で卒業してすぐ終戦したそうなと聞いてる。
まだ健在だから今度話きいてみよう
487名無し三等兵:2001/07/24(火) 18:40
俺のじいちゃん国内で憲兵やってた。
488くーにゃん:2001/07/24(火) 18:51
485>>  私、女です。女が軍事板いたら変?
489ロボット当番兵:2001/07/24(火) 19:02
>>488
いや、それ自体は別に変だとは思わないし、ネカマでも構わないのですが、
よりによってこのネタに中国語ハンドルでレスがつくと、、、ちょっとね。
490名無し三等兵:2001/07/24(火) 19:14
なるほどねえ。
まあ、devil's advocate でもうひとおし。
<戦術的に?>

撤退戦だったらなおさら、そんな悠長なことやるのかいな・・・てことです。
 いつ敵が追撃してくるかもわからんのに、戦闘部隊を下げて
防疫給水部隊みたいなほとんど戦闘力がないに等しいであろうものを殿にするのかしら?

細菌って取扱も難しそうだし(活かしておく工夫とか)
 当の取り扱う将兵だって特別な装備が(防菌服とか)が必要だろう。

<情報戦の観点から?>
 それに、赤筒や青筒について国際連盟に訴えることを躊躇しなかった蒋介石は
細菌戦について大々的にキャンペーンを張るはずだがどうだったのか。

南京だの百人切りだのについてはあれだけ大騒ぎして犯人探ししたのに
日本軍の細菌戦一般についてもっと叩かなかったのは実に不思議だ。

日本軍を追撃して、占領した村で訳の分からん饅頭があったから
ぱくついたらばたばたと変な病気で皆死んでいく、となったら
やっぱりこれは「ネタだ! やった!」とプロパガンダ担当者は
躍り上がって喜ぶはずなんだが・・・

(それにそれだけひろく細菌戦やっているんだったら、必ず敵の偵察部隊に
 変なことやっている部隊がいる、ってばれてたはずだ・・・)

731については米軍と情報の取引があったから、
中華民国は黙っていろとされた、
と言うことなのかも知れないが、戦時中の、一般の戦場での話はまた別であろう・・・

<逆に、戦後の日本でもっと早くネタにならなかったのは何故か?>

当該部隊よりも周辺の部隊での噂や憶測が・・・

<中国軍側の対策があったはずだが・・・その記録は?>

中国軍だってバカじゃないから
「日本軍撤退後の地域で、饅頭の拾い食いは厳禁!」
とかいう回覧を回したはずだし、そうしたことの資料も見てみたい。

<更に古文書には類例はないのか? 民族の記憶から幽霊がでてくる・・・>

明・清のころはもとより、中華の史書では
「撤退した敵の軍隊が毒を撒いた、井戸を汚した、疫病を流行らせた」
の類の文書はないのか?

なんて・・・ ああおれ性格悪い・・・
491くーにゃん:2001/07/24(火) 19:21
気にしない、気にしない。
で、私の父の兄は終戦時、陸軍幼年学校にいてみんなで集団自決を考え、先生にとめられたそうです。
492くーにゃん:2001/07/24(火) 19:33
490> 蒋介石も国際舞台で日本軍の細菌戦について大々的に述べてます。外交官の顧維欽が欧米諸国で言いまわってるし、それでアメリカが中国に医薬品をたくさん回したし。当然国民政府(蒋介石)側の軍隊だって、細菌戦に対抗する防疫大隊などがつくられてます。
 それから、撤退戦時「戦闘部隊を引っさげて」行ったのではなく、戦闘部隊よりずっと最後部にいて、特殊部隊は少人数の単独で行っている。しかも毒饅頭ばら撒きなんで中国人の格好をしてやったらしいよ。ところが疫病は電車とか行商人とか、さまざまな人の往来であっという間にはやるわけだから、日本軍にも蔓延してしまった。
 中国側で細菌戦に激しく抵抗したりしたのが国民党側のエリート軍医らだったから、かれらは戦後、台湾に行っちゃって、そのへんの事情を知るものが共産中国にあまりいなかったから、南京などほど騒がなかったんではないか、と思われます。
493くーにゃん:2001/07/24(火) 19:35
これ以上、ここでやるのはなんなので、名無し三等兵さん、別スレたてますか?
494名無し三等兵:2001/07/24(火) 19:39
満州で歩兵連隊の通信兵。
これが、笑える.通信と言うから、無線機を操作していたかと思いきや
なんと、有線だそうだ.
戦場では、無線は信頼どが低いので、通信には長い長い線(電線みたいなもの)
を引くのだそうだ.
495 :2001/07/24(火) 20:15
>>482
俺のじいちゃんも暁部隊所属だったよ
広島にいたんだけど、原爆投下時は偶然東京へ出張中だった
投下直後の広島に帰ったから、被爆して戦後は苦労したみたい
496名無し三等兵:2001/07/24(火) 22:34
>>494
そりゃしょうがいないですわ。
通信関係で一番進歩していたと思われるアメリカでさえ、無線機はいざという時に
役立たずだったみたいだからね。
「コンバット」もその辺りは嘘っぱちだったようですな。

信頼性のある無線機は馬鹿でかい奴で高級司令部用だし、前線の通信兵はさぞご苦労
されたことでしょう。
497名無し三等兵:2001/07/24(火) 22:40
じいさんの弟
習志野の戦車2連隊

昭和13年徐州にて戦死
498名無し三等兵:2001/07/24(火) 23:35
うちの爺ちゃんは通信兵でなんやエリートだったらしい
終戦3日前には、ポツダム宣言受諾を知っていて 大いに泣いたそうです
499名無し三等兵:2001/07/25(水) 00:06
叔父が戦車兵だった(師団名等不明)。終戦直前に、大陸に輸送される為に
部隊ごと呉だか門司に向かったらしいが輸送船がなく、待機してるうちに終戦に
なったと言ってた。んで、生前常々「チハじゃー勝てん」とのたまってました。
で、その叔父の従兄弟は学徒出兵の際に予備少尉となって、ニューギニア方面
に輸送中、ボカチンくって戦死したそうな。なんでも神宮の出陣学徒壮行会に
参加してたらしく、「親戚中で見に行った」とこれまた叔父が言ってました。
その叔父も昨年逝ってしまいましたが・・・
500ロボット当番兵:2001/07/25(水) 18:30
>>490&492
「防疫給水部スレ」「撫順ネタについて考えるスレ」なんて立てると、軍事板以外からも目に付きやすくなるから、
ここで「じっちゃんの派生ネタ」として済ませた方がよいと思います。

蒋介石側が言わないことに不思議はないと思う。戦後の国境内戦をにらんで、
旧日本軍に対して「怨報以徳」(語順に自信なし)だったから。
日本側もこの恩を忘れることなく、昭和40年代まで旧軍有志の軍事顧問「白団」
を送って、国民党軍士官に軍事教育を行っている。

しかし、無かったことまであったことにしてしまった八路の赤匪共が、
何も言わなかったというのは、本当にあったんなら確かにおかしいね。


>なんて・・・ ああおれ性格悪い・・・
いんにゃ。そんなことはない。確かに撫順のかほりがするネタを扱う時には、
貴下のような確固たる姿勢が必要かもしれん。見習わなくては。
なんだかんだ言って私も厨房工房と日教組と仲良しだったからなぁ。
教育を押さえられると恐いね。完全に刷り込まれてるもん。

>「日本軍撤退後の地域で、饅頭の拾い食いは厳禁!」
そりゃ無理だ。特に共産側は雑軍ばっかりだったんだから、軍紀もクソもあるもんかい。

とりあえず「森村のアレ」でも読み直してみるかな。
501くーにゃん:2001/07/26(木) 05:49
当番兵さん、「おかしいな?と思うネタは徹底検証」の姿勢は大いに同意!
「以徳報怨」だよん。それから共産党側も白団ほどの高官は使ってないけど、内戦期に日本人を八路(のちの解放軍)の中で使ってます。
あと、戦中の中共の新聞「紅旗日報」とかに「日本軍が細菌ばら撒いた」って記事はでてる。だから戦時中から八路側が知ってたことは確かなんだけど、わたしも不思議なのは中共が戦後、細菌戦をどうしてそれほど騒がなかったか。確証が無いからいっちゃいけないんだけど、朝鮮戦争の細菌騒ぎって、双方がやったんじゃないのか?とか疑っちゃうよなー。
502名無し三等兵:2001/07/26(木) 08:37
呉の海軍施設で働いていた。原爆の雲も見たそうだ
503名無し三等兵:2001/07/26(木) 10:11
祖母の原爆の影がまだのこってます。
504名無し三等兵:2001/07/26(木) 10:15
TO502

お気の毒です。
505名無し三等兵:2001/07/26(木) 11:17
白骨街道から生還したそうです。
506名無し三等兵:2001/07/26(木) 12:50
ども。粘着三等兵です
>>501
ネタもとに対する一部の人の偏見が凄いから些か言うのがためらわれるが、
今週発売のサピオに 国民党の細菌戦について断片的な記事があった。
(勝岡氏の 中韓の教科書についての 記事)
支那事変勃発とほとんど同時に作戦を開始しているようだから、
どうもこれは731みたいな人体実験はともかく
「細菌戦」自体は双方もやっていたようだ・・・

くーにゃんさま
>撤退戦時「戦闘部隊を引っさげて」行ったのではなく、
>戦闘部隊よりずっと最後部にいて、
>特殊部隊は少人数の単独で行っている。
>しかも毒饅頭ばら撒きなんで中国人の格好をしてやったらしいよ。

これは戦術として日中ともに取りうるスタイルだと思いますが、

>>457 に記されている状況とはそぐわないものだと思います。
>>457 を読む限りでは、 一般の部隊が下げられ、
 それと交替で明らかに防疫給水班という「部隊」が出る、わけで、
 くーにゃんさんのおっしゃっているような形なら「特務」とか「便衣での挺身隊」
 と、当時呼ばれたのではないでしょうか

>>501 朝鮮戦争の米軍による細菌戦については
ttp://www.geocities.com/Tokyo/Flats/2847/Yamato8.htm
と言う説もあるが、 ネットで引っかかってくるのは
731−米軍 のラインばかりだ。
しかし、それぐらいのことはやってもまあ不思議はないような気がするな、リンク先。

しかしほんとの所どうなんだろうね??
507子コモ:2001/07/26(木) 13:48
緒戦のマレー半島でイギリス軍にケツ撃たれて帰ってきてそのまま退役。
おかげで生き残ったうちの爺さん。
通信兵だったらしいが、どこの部隊にいたのか分からないYO。
俺が10歳の時に他界。
508名無し三等兵:2001/07/26(木) 15:42
爺さんは内地でどっかの守備隊にいたそうだ。
終戦までずっと日本国内にいて、実戦経験なし。長男だったからかもしれん。
その弟は、一人は特攻隊員として死に,その下の弟は広島の軍関係の工場に
動員されて原爆で爆死。
小さいときに死んだからあんまり詳しい話は聞けてない。
509名無し三等兵:2001/07/26(木) 16:08
ていうか、中国軍に細菌戦やる設備があったんか?

どう考えても鹵獲した日の丸兵器使ったとしか思えん
510名無し三等兵:2001/07/26(木) 16:10
なぜなら、防毒面その他はどうしたのか。とかね。
小銃すら満足に無く、弾もないんで玉蜀黍撃ってたような軍隊なんだけど。
511名無し三等兵:2001/07/26(木) 16:23
ワシの父方のひいじいちゃんは日露戦争で203高地攻略に参加。片足失って帰ってきた。
そのおかげで父方のじいちゃんは英雄の息子という扱いで衛生兵になり、安穏と終戦迎えた。

母方のじいちゃんは海軍の人で満州で訓練した後内地の工場で「回天」をつくる技術者だったらしい。
終戦時中尉だったそうな。

で、203高地攻略に参加したひいじいちゃんのもので、秘密兵器「〜砲」というのと一緒に映った写真があるのだが、名称知ってる人いたら教えてプリーズ。
512名無し三等兵:2001/07/26(木) 19:55
>>511
画像をアプしてたもんせ。
513Armando:2001/07/26(木) 20:04
自分の祖父は戦時中満州のハルピンで憲兵伍長だった。酔っぱらうと「満人に
阿片吸引の実演をさせたことがある」とよく言っていた。(確かその当時
関東軍が阿片栽培を大規模で進めていたはずだ。)ハルピンだから、ひょっとすると
731にも噛んでいたのかもしれないが、そのあたりのことをほのめかすと妙に
顔色が変わった。いまじゃタダのボケ老人だけどね。
514名無し三等兵:2001/07/26(木) 20:06
わたしの祖父(83)関東軍の通信兵をやってたそうですが、ソ連が攻めてきたうえ、無線が壊されてしまったので拳銃と手榴弾で立ち向かったそうです。で、弾丸がきれてからさっさと小部隊で勝手に投降したそうです。祖父の腕には敵の拳銃で撃たれたときの傷がありますが、それ以外は大したけがもなかったそうです。
515452:2001/07/26(木) 20:17
>>482
>>495
陸軍運輸部・船舶司令部隊の様ですね。

http://www.google.com/search?q=%8B%C5%95%94%91%E0&hl=ja&safe=off&start=0&sa=N
516名無し三等兵:2001/07/26(木) 20:30
うちのジイサンは多摩のほうで零戦つくってたが空襲のたび丸焼けだったそうな...
517名無し三等兵:2001/07/26(木) 20:54
ウチのじいちゃんは、連合艦隊の上陸のさいに艦隊砲撃を
する係りだったらしいんですけど、これは
なんと言うものなんですかねー・・・?
今でもよくわからないんですよ;;;
518ロボット当番兵:2001/07/26(木) 21:05
>>511
所属部隊はわかりませんか?金沢師団隷下ではありませんか?

>母方のじいちゃんは海軍の人で満州で訓練した後内地の工場で「回天」をつくる技術者
もしかしてこの人は戦後鉄鋼メーカーに勤めて、ステンレスの大量生産法を発明して勲章もらったりしてませんか?

だとすると我々は遠い親戚かもしれませんな。私の方のネタは>>165 です。
519ロボット当番兵:2001/07/26(木) 21:30
>>501 >>506
ネタが危険な割には周囲からもほどほどに構われつつ、マターリ続くという珍しいケースですな。

>「以徳報怨」だよん。
どうにか字だけは合っておりましたか。それにしても逃げを打っといてよかった。ほっ。

>内戦期に日本人を八路(のちの解放軍)の中で使ってます。
もともと「アカ」で、戦地に送られて速攻寝返った人とか、撫順以外のところでも、
もっとマイルドに懐柔されていった捕虜とか、たくさんいたようですね。

通州事件に代表されるように、自分達がやったことをそのまま拾ってきて、
場所と時間だけ変えて「東洋鬼がやった」っていうのは、赤匪宣伝部の最も得意とするところだから、
「自分達もやってたから言えなかった」というのは多分当たらないでしょう。

ttp://www8.cao.go.jp/ikikagaku/index.html
まぁ↑こんな風に50年も経ってから騒ぎ出して金むしろうとしてるくらいだから、
そのうちネタにしてやる、と思ってるうちに機を逸したのかな??

もしかしてこれから言い出すんだったりして??
もう生存者は年齢的に難しいから、後遺症に苦しむ生存者の子供・孫とか、
戦後の取り調べ資料(無論Made by 撫順)とかが、今年の秋くらいから続々「発見」されたり。。。
もちろん日本では朝日と筑紫が大騒ぎ!!・・・シャレで済まないところが恐い。

>しかしほんとの所どうなんだろうね??
一方の当事者にはやってないことまでやったと言うのもいる一方で、
他方の当事者は全員自分達に都合の悪いことは絶対言わないんだから、
「ほんとの所」は永遠に薮の中だわねぇ。

ソースの質と立場に注意しつつ、右も左も読みながら、
「自分なりの解釈」をそれぞれが作っていくしかないと思います。
それにはこういうところに出入りするのも実に有益ですよね。
520ロボット当番兵:2001/07/26(木) 22:08
>>503
あの銀行の階段の上の、、、ですか?
521名無し三等兵:2001/07/26(木) 22:59
うちのじいさんは、支那語(本人曰く)の通訳として、南支派遣軍(?)付き
軍属として憲兵隊に従軍、それから台湾総督府にもどったあと、応召で台湾に
て穴掘り。
 香港競馬場で、敵の空襲があり、本当は伏せたかったが、一応プライドがあ
り(周囲は香港の人々だったとのこと)軍刀に手を掛けたまま不動で敵軍機に
対峙していたらしいが、本当はちびりそうだったらしい。

 そんなじいさんも、今は老衰で来年まで持たぬかもしれぬ。

 死ぬまでに嫁の候補生を連れてこいといわれていたが、この
年で結婚を考えていた彼女と別れてしまい、引き合わせる事が
できそうにないが、許すかあと数年長生きするかどちらかにし
てくれ。と言いたい。

母方の祖父は応召されず、15年前他界。我が家は戦死者が
一人もいなかったんだよね。繁殖速度が遅かったせいもある
けど。(終戦時祖父30代後半、オヤジ9歳)

乱入すまそ。
522名無し三等兵:2001/07/27(金) 01:39
何か面白い秘話なんかが聞きたいage
523名無し三等兵:2001/07/27(金) 01:48
前に類似他スレで書いたが、妻の叔父がもと船乗り。
戦前は客船の船長で、英語ぺらぺらダンスも上手で背も高い。
時々いるカッコいいご老人だ。
んで戦時中は駆逐艦乗りで、戦艦大和の沖縄特攻についていき、
被害を受けて夜中にやっとの事で帰港したんだそうな。涼月だっけ?

そう思って戦記で調べてみたら、涼月の前部区画の話で鬱になったよ。
524くーにゃん:2001/07/27(金) 03:00
506の粘着三等兵さんのご意見ですが、少人数単独の毒饅頭ばら撒き作戦と、大規模なペスト蚤撒布などの「一般の部隊が下げられ、それと交替で防疫給水部隊が出る」作戦は別であって、両方とも違う場所で、防給中の細菌を扱う特殊訓練経験積みの衛生兵によって、なされていたようです。毒饅頭については高槻の大阪医科大学長だった人物が証言しているし、ペストについては前掲書籍に証言者多数。
 日本軍がこんなヤバイことをやってたのは、もはや否定しがたいのですが、不思議なのはだれか「やめろ」って言えんかったんかい?ってところです。金ばっか食うし、なんでこんなマッドサイエンティスト軍団を野放しにしてたんだろう?
 それから国民政府側も毒ガスについてはずいぶん「研究」していて、戦時中に出版された毒ガス関係の中国語書籍はたーくさんあります。
525くーにゃん:2001/07/27(金) 03:02
523のおじいさま、すてき。
526名無し三等兵:2001/07/27(金) 03:12
ていうか、中国が「細菌戦」が出来たとは思えん。

弾薬すら不足してるのに。
527名無し三等兵:2001/07/27(金) 03:43
>>523
可能であれば詳細きぼん。
528:2001/07/27(金) 05:20
そーいえば、帝京大の阿部って、731だったって
ミドリ十字の基幹社員も本731が多いんだってよ。
ただ記録が抹殺されているから、調べようがないとか・・・
529名無し三等兵:2001/07/27(金) 12:48
書店で立ち読みしたグランドパワーには日本軍の
化学戦装備の特集があった。
第1次大戦の戦訓もあって化学戦ってのは禁止はされてても
どこの軍隊でも通常戦の感覚だったんだろうな。
生物兵器もその延長線上にある感覚で、
今みたいな猛烈な拒否反応がなかったのかも。
530名無し三等兵:2001/07/28(土) 01:20
age
531523:2001/07/28(土) 02:01
女房の叔父にはなかなか会う機会がないんでリクエストにはお応えできそうにない。スマソ。
夜になって佐世保に戻ってきたって話にもっと突っ込めば良かった。

涼月の件は下の優良サイトの涼月の項に詳しい。件の叔父が当事者でないのはもちろんだ。
読むと鬱になるので覚悟するように。
ttp://www.venus.dti.ne.jp/~jam/dd/dd_frm.html
#このサイトは軍事板で知ったんだよなあ。
532名無し三等兵:2001/07/28(土) 08:17
うちのじーちゃんSは年齢超過で不採用、父方は知らないが母方は炭焼きやってたそーな。母方の義伯父も理由不明だが内地で炭焼き。自慢できないが、生きてるだけでめっけもんだから、カキコしたよん。
533名無し三等兵:2001/07/28(土) 08:21
ほかでもカキコしたけど、とーちゃんの従兄が満州で歩兵。敵軍のライフルくすねて使っていたそうだ。支給のライフルよりも命中精度が高く、おかげで無事に復員。
534名無し三等兵:2001/07/28(土) 10:55
>>524
粘着三等兵でありますっ!(1:「話がループしてしまった?」)

毒饅撒きや井戸に黴菌は日中ともやり合っていたようなであることは認識しておりますし、
前投稿( >>506 )でも「その方法は戦術的に有りうる」旨は認めておりますっ!

ただそうすると、 そもそもの疑問

>大規模なペスト蚤撒布などの「一般の部隊が下げられ、それと交替で防疫給水部隊が出る」作戦
に関連した体験談として述べられた>>457 の状況
 (一般部隊がてこづるような強敵にあたると、上記のような形で防疫給水部隊が出ること)

 に関するわたくしの疑問 >>463
 (そんな強敵のいるところに戦闘力に乏しい防疫給水部隊がのこのこでていくのだろうか?)

 はやはり解決いたしません・・・

 ところでペストのみって、時限式のカプセルか、とか、現地の人が拾って開けてみてくれるような容器に入れた上で撒いたんですよね?
 でないと、撒いた当人が蚤を運んで自軍に帰ってきてしまう・・・
それとも、車両や装備や体中を蚤取粉で真っ白にして作業したのでしょうか?
それとも部隊ごと車両や装備や体中を洗浄する設備があったのでしょうか?
防疫給水部隊だから然るべき用心をしたうえでやったのでしょうけれど・・・
535名無し三等兵:2001/07/28(土) 10:58
漏れの爺様は国鉄の研究所で研究をしておった。
大東亜戦争の時にはいいとしだったのに
志願しようとして祖母とだいぶもめたようだ。
あんでも軍刀まで買い込んだらしい。
(その軍刀はマッカーサーの命令で持っかれてそれっきり)
536名無し三等兵:2001/07/28(土) 10:59
粘着三等兵でありますっ!(2:「国民党軍が細菌戦を行っていたこと」)

ところで私が >>506 で驚いていたのは
国民政府側が
 「 細 菌 戦 も 行っていた、しかも支 那 事 変 の は じ め の 頃 から」
ということなんですが。

>>524 で くーにゃんさまがおっしゃっていた
>それから国民政府側も毒ガスについてはずいぶん「研究」していて、
>戦時中に出版された毒ガス関係の中国語書籍はたーくさんあります。

ということですが、上海事変の時の写真で海軍の陸戦隊がガスマスクをして備えているところが
ありましたし、まあ、そんなもんだろうと思ってはいますが。

粘着三等兵でありますっ!(3:補遺)

 (ちなみに >>525のような言い方はないでしょう。
  最新軍事技術や情報や製品については、中国は当時の欧州軍需産業のお得意さんですし、
 ドイツの軍事顧問団を受け入れていたりしますから、十分に流入していたし、
  中国の軍需産業については当時の産業レベルで可能な限りの最善を尽くして居たはず、
 と想像しています。
  以上を前提にすれば「毒ガス戦」自体彼らにとっても常識であったでしょう。
  >>526 も 、それを言うなら日本軍だって、心配のないくらいに充分な砲弾や弾丸を
 持っていたとは言いにくいでしょう、と言っておきます。)
537名無し三等兵:2001/07/28(土) 11:18
>>536

細菌戦スレでもたてれ、いい加減ちとうざし。
538名無し三等兵:2001/07/28(土) 12:08
>>537 スマソ ではやめます。
539くーにゃん:2001/07/28(土) 22:05
粘着三等兵さんへ> うん、迷惑だから、これ以上やるなら他にスレ立てよう。最後に・・ペストは空中散布で、蚤をアワと呼び、蚤を繁殖させるネズミ(モチと呼んだ)と蚤床の小麦ごと一緒に低空飛行で撒布。ま、このへん、たーくさん本が出てるから、自分で読んでごらん。書ききれないので、やるならスレ立ててね。
540名無し三等兵:2001/07/28(土) 23:18
曾祖父さんは、日露戦争の時の聯合艦隊司令長官だったそうです。
541名無し三等兵:2001/07/29(日) 01:49
それじゃ元に戻って続きを

ウチの爺さんは、東京高商出の予備仕官で19師団の輜重兵連隊付き少尉
中学の同級生が部下の下士官にごろごろ居たそうな。
で、フリピンに移動する際には、留守部隊に残され移動しなかった。
そのまま北朝鮮で終戦を迎えて戦闘することなく復員。
542名無し三等兵:2001/07/30(月) 15:15
age
543名無し三等兵:2001/07/30(月) 15:17
>540
 氏ね
544名無し三等兵:2001/07/30(月) 17:27
じいさんはよく夢にうなされてた。戦時中の夢だったんだろう、
「○○!(戦友の人名?)がんばれ!」
とか、「××であります!」
「わー!やられた!」
とか大きな声で言うもんだから、はじめはかなりびびった。
その内ボケはじめて、俺を見て、誰かに似ているのか
「○○大尉殿!」
とか言って直立不動で敬礼するんだよな。悲しいやら可哀相やらで涙が出た。
そんなじいさんも数年前他界した。戦争の話は聞いてない。
部隊名もわからないが大変な経験をしたんだろう。
葬式に戦友が何人か来たらしいから、聞いとけばよかった。
545名無し三等兵:2001/07/30(月) 18:06

                Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                ( ・∀・)<>>北朝鮮が自衛隊に降伏したから文書を作成しなけりゃいかんので静かにしてくれる
             _φ___⊂)__ \>>
           /旦/三/ /| 
        | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |    \
        |105_HEAT/     \____________
        連絡:将校以外のセンコス出入りを堅く禁ずる
546またも負けたか@:2001/07/30(月) 18:16
身内の話じゃないが大学の後輩にじいさんが大阪第8連隊の連隊長だった
という強烈な奴がいた。決して威張れる経歴じゃないはずなので、マジか
と思われ。
547幽多漏:2001/07/30(月) 19:26
高校の先生で、特攻隊になるための訓練でグライダーに乗ってたって言ってた先生いたにょ。小学校の教頭は側面の対空機銃がまだ高射砲だった頃の大和に乗ってたそうな。口癖は「宇宙を飛ぶヤマトじゃないぞ」でした。
548名無し三等兵:2001/07/31(火) 02:39
父方の祖父は日清・日露に参戦し金鵄勲章などをいただいたそうです。
田舎では珍しい軍曹だったと聞いています。確か陸軍だったと思いますが,
古すぎて詳しくは分かりません。

叔父(父方,長男)は陸軍でした。大陸で部隊が包囲され,援軍を呼びに伝令として
一人立候補し,任務を果たしたそうです。そのとき撃たれ戦死されました。
このときの金鵄勲章が有りました。確か支那事変の頃です。

叔父(父方,次男)は海軍で水雷艇に乗っていたらしいです。
南方(セレベス島?)で機雷か何かにより撃沈,亡くなられました。
命日前後に沈んだ水雷艇から「鴻級 雁 1945. 7.16 戦没」
あたりじゃないかと思うのですが,ご存じの方おられないでしょうか?

父も私も遅く生まれたようで,祖父が明治初期の生まれ,父が昭和6年生まれ,
私は昭和53年生まれの23歳です。昔,父から聞いた話なので間違っているかもしれませんが。
機会があったら勲章について調べてみたくなりました。
549名無し三等兵:2001/07/31(火) 11:25
>>544

学生の頃、ボケて兵隊さんに戻って道行く大学生に、”貴様らそれでも云々”
と注意しまくっていた爺さんがいた。

あまりに逝っちゃってて、道行く人みんなに絡んでいたので、見かねた友人
が、”きさまどこの部隊か!!”と聞いて、官、姓名を聞いた後、”自分は○○
中尉である。自宅に戻り命有るまで待機せよ。”

と言ったら、その爺ちゃんは、直立不動で敬礼して、帰っていった。

そこまでやる友人も凄いが、なんか一寸複雑だった。
550名無し三等兵:2001/07/31(火) 11:35
旧日本軍は存在自体が悪でした。
ここに載ってるのは全部下らない話。
551無名小姐:2001/07/31(火) 11:39
550>> だったら来ないで下さい。わたしはココは優良スレだと思う。歴史研究や究明の方法の一つが、聞き取り。子や孫がおじいちゃんの昔の話に耳を傾けるのは、とても有意義なことです。その話が本当か嘘か(誇大な話や嘘もある)、見抜く知識があれば尚更よし。
552名無し三等兵:2001/07/31(火) 11:58
ジイサンは陸軍の技術士官(おそらく。階級は不明)。
シンガポールで様々な機器の耐久耐高温テストをやってたらしい。
その後、北方にもテストのために赴任したが、テストのための機材が
到着せず毎日マージャンやってたらしい(笑)
終戦は内地で。疎開した工場を行脚して回ってるときに8/15日。

伯父が海軍の偵察機乗り。フィリピンで水偵に乗り
沖縄戦で銀河に乗って特攻機の先導してたとか・・・
その後、木更津だかで操縦士の訓練をするために行ってたんだが、
飛ばせる練習機がすでに無くて塹壕掘ってたら8/15日になったらしい。
亡くなる半年前に病院のベッドで銀河のプラモを作り、
「これはいい飛行機だった」とぽつんと言ってたのが印象的。

あと小学校の時の担任が潜水艦乗りだったなあ。
553名無し:2001/07/31(火) 13:57
俺のじいちゃんは、なにやら、どっかで、飛行機から潜水艦を見つける装置を
作くっとったそうです。
554名無し三等兵:2001/07/31(火) 16:18
うちの祖父は満州で通信兵してました。写真班だったようですが、
爺さんが話すのは「大陸で井戸を掘った」「大陸を馬で駆け回った」
ということくらいです。その後、終戦の一年前位に祖母と私の母とそ
の兄弟と共に引き揚げ船で帰ってきたそうです。
555名無し三等兵:2001/08/01(水) 00:44
友達のじいちゃんが、大和の艦首にある菊の紋章を最終出撃直前に洗った、と
言って偉く自信持ってるんだけど、、、すごいのかなぁ?
556名無し三等兵:2001/08/01(水) 02:15
うちのじいちゃん(故人)は赤城の補給参謀だった。

>>549
ワラタ。行動も昔に戻っちゃうんだね。
557名無し三等兵:2001/08/01(水) 02:36
私の父方の祖母は新潟出身なのですが,兄が応召されて中国戦線で戦死したとのこと.
第何師団だったのでしょうか?どなたか候補を教えてくださいませんか?
また祖母の父は戦艦三笠に水兵として乗り組んでいたそうです.

あと母方の祖父の弟は沖縄戦で戦死,神にきわめて熱心に祈っていたにもかかわらず
かなわなかった祖父はそれ以来無神論者になったとのことです(神主の息子なのに).
558名無し三等兵:2001/08/01(水) 03:18
>>557
何郡?
559557:2001/08/01(水) 03:20
郡名は今すぐにはわかりませんが,
現在は燕市或いは三条市になっているはずです.
560名無し三等兵:2001/08/01(水) 04:03
>>557
ふーんなら南蒲だな。あそこらへんは村松連隊→新発田連隊だな。
と言う事で2か13だな。

ただ時期によって違うからなあウチの県は。
ウチの爺様は北魚なんで高田連隊逝きのはずだが朝鮮の19師団逝き・・・
561 :2001/08/01(水) 04:29
北海道で訓練中に終戦
562名無し三等兵:2001/08/01(水) 06:45
うちのじいさんりくぐんたいしょうそこどけそこどけおうまがとおる
563名無し三等兵:2001/08/01(水) 06:59
うちの親父に聞いた我が祖父は、戦艦陸奥の高射砲兵だったそうな。それで、
出撃する艦隊を家族みんなでどっかの岬までいったらしい。でも、当時6歳だった
親父は、たくさんの船の中のどれが陸奥かわからんかったそうな。結局それが
親父の祖父の最後のおもいでなそうな。
564名無し三等兵:2001/08/01(水) 08:02
じいさんの戦争話聞いたのは後にも先にも、ガキの時に一度聞いただけなのでちょっと記憶に自信ないけど・・・

父方の祖父は中国の方で補給部隊(?)にいたって言ってた。
なんか馬に乗ってる写真とか仲間と一緒の写真とか見せてもらった記憶が。
「馬が死ぬと、もれてきたガスがくさいんだわ」とか、仲間との思い出とか(メシの話が多かった気が)、子供用に当り障りの無い話をしてくれた。
やっぱ幼い孫に、命のやり取りの話とかは聞かせたくなかったんだろうか。もしくは戦闘しなくてすむような部隊だったとかかしらん。
一番気合入れて話してくれたのは、夜中国軍と祖父の部隊がすれ違った話。
夜なのでお互い味方だと誤認したのか、戦いたくなかったからかしらないけど、
「あとであれが中国軍だって知ったよ」って笑ってた。
戦後は国鉄で働いて、10年程前に天寿を全うしました。

母方の祖父は戦時中は名古屋の軍需工場で働いていたそうです。
爆撃を受けた時、働きに来てた女学生が亡くなったとかそんな話だったかな。
戦地にはいってないので、あんまり悲惨な目にはあってなかったみたい。
こっちはまだ元気。脂ぎってます。

今思うと、色々話を効いておけば良かったと思うよ、当時を知るためにね。
565名無し三等兵:2001/08/01(水) 08:12
戦争、戦争責任を考える上で、参考になるHPをご紹介させて頂きます。
http://www4.ocn.ne.jp/~aoitori/sensou.html(私のHPです。戦争体験談)
中国帰還者連絡会(元本兵による加害行為の証言など)
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/
566名無し三等兵:2001/08/01(水) 09:29
父方の祖父の場合:
中島・武蔵野工場でエンジン製造→いつの間にか終戦
という幸せなパターン。でも軍隊向きの体格だったため
ご近所で後ろ指刺されまくったそうな。故人。

母方の祖父の場合:
昭和19年招集→通信兵の訓練→大陸勤務→直後に敗戦→シベリア抑留
という無惨な経歴。帰国した日、座薬を菓子と間違って食べた伝説あり。
しかし今でも「あれは本当に美味かった」と申しております。
567名無し三等兵:2001/08/01(水) 09:31
スレッドの趣旨がわかってないヴァカがまだいるな↑
568名無し三等兵:2001/08/01(水) 09:32
>>567>>565へのレスです。>>566さん、すみませんでした。
569名無し三等兵:2001/08/01(水) 15:09
age
570名無し三等兵:2001/08/01(水) 15:09
age
571名無し三等兵:2001/08/01(水) 15:11
たまねぎ部隊
572557:2001/08/01(水) 15:12
>>560
ありがとうございました。
573名無し三等兵:2001/08/02(木) 12:59
age
574名無し三等兵:2001/08/02(木) 13:07
うちのじいさん(父方)はパプアニューギニア戦線で戦死されました。
陸軍砲兵隊の中尉でした。
当然ながら、遺骨、遺品(戦地での)は無く、最後に来たのは100円
札が数枚国から支給されました。
575名無し三等兵:2001/08/02(木) 22:20
gsgs
576名無し三等兵:2001/08/03(金) 11:34
なんか、どれもしみじみする良いスレだ。

565ジャマだよ。
577名無し三等兵:2001/08/03(金) 13:20
ベンゼン中尉の戦争体験も聞いてみたいぞ
578名無し三等兵:2001/08/03(金) 13:39
妄想だから無限大にあるでしょ
579windows:2001/08/03(金) 13:52
経理
580557:2001/08/04(土) 01:23
>>574
沖縄戦で戦死した祖父の弟も,遺骨も遺品も戻ってこなかったそうです.
まだ20か21だったのに...名前の書いた木の札が遺骨の代わりだったそうで.
581俺の爺さん:2001/08/04(土) 06:58
なんか爺さん思い出す良スレなんで、一つ思い出話。
厨房の頃爺さんが、「おまえ海外旅行したことあるか?」って聞くから、
「なんで?」って聞いてみたら、「俺は行ったことがあるぞ〜」って自慢した。
んで「どこ行ったの?」って聞いたら「ボルネオとか」俺はなんでそんなマイナー
なとこに!って思って理由を聞いたら「あはは、戦争でだよ。」なんて言ってた。
興味があって何してたのかって聞いたら、陸軍の飛行機に乗ってたらしい。
どの部隊かわかんないんだけど、爆撃機みたいだった。
ある日爆撃のため飛んでいたら、前方に敵戦闘機を発見して「あ〜もはや
これまで・・・。」と横を見たら近くに飛んでた護衛の戦闘機の人がこちらに
向かって敬礼して突っ込んでいった。あらかたやっつけてくれたらしいが、
こちらに一機突っ込んできて機銃で撃ってきた。「あ〜ほんとにこれまで」と
思ったら、爺さんは生きていて後ろの人が撃たれた。「いや〜あの時助かったよ。」
なんてその時は言ってたが、爺さんが病気入院してる頃婆さんに、
「これでやっと○○に会える。その後の日本を伝えることができる。」って言ってたらしい。
そして死ぬ2時間ぐらい前俺も聞いたけど、うなされてたのか、
「○○大丈夫か?絶対に死ぬな!このままボルネオに必ず戻ってやる!
戻って見せるから、絶対に死ぬな!いいか。俺の声に答えろ!まだやることが
あるだろ?死ぬな!」とか「着いた!着いた!着いたぞ!下だ!見ろ!見たか!戻るって言っただろ?
どうだ?答えろ!」
そしてほんと死ぬ前に「おぉ、また会えたな!やっとおまえの場所にこれたよ」
って言ってその10分後に逝っちゃった。ネタだと思うかも知んないけど、
泣きじゃくってた俺の耳に鮮明に残ってる。これ書いてるだけでもあの時を思い出す。
素晴らしくかっこいい爺さんを持ったなぁとある種誇りを感じた。
なぜか金鵄勲章も持ってる。だけど、
爺さんが昏睡状態に入る前俺と最後に交わした言葉が、
「○○!絶対にいい女と結婚しろ!間違えるな!」だったよ・・・。
ここもネタじゃないから。でも懐かしいな!
稚拙な文章で長文レスでスマソ。
そして
582名無し三等兵:2001/08/04(土) 07:03
うちのじいちゃんは軍隊生活中はずうっと病気で入院していたって。
高崎の連隊?だったそうでし。
そんな兵隊さんもいたんですな。

運がいいのか悪いのか92歳で大往生しました。
583581:2001/08/04(土) 07:03
陸軍の飛行機で二人乗りだったらしいんだけど、なんて言う飛行機
なの?場所はボルネオ近辺なんだけど、部隊はなんて言うんだろ?
あと金鵄勲章をもらえる基準ってなんだろ?誰か知っている人が
いたら教えて下さい。
長文・稚拙・教えて君で重ね重ねスマソ。
584>583:2001/08/04(土) 07:58
「二式複座戦闘機 屠龍」だと思います
58545/85式攻:2001/08/04(土) 08:13
>>584

爆撃機って書いてあるだろ!
586名無し三等兵:2001/08/04(土) 08:29
・97軽爆
・98軽爆
・98直協
・99軍偵(襲撃)
この辺かな陸軍の2人乗りは
・99軽爆
これだと確か3人乗りだけど
それとも、もっと大きい爆撃機かな?
587名無し三等兵:2001/08/04(土) 09:33
どっかに移して取っておきたいな、このスレ。
58845/85式改:2001/08/04(土) 09:36
>>585
警告!!!
私の偽者が最近横行してるようだが、何故ちゃんとした固定ハンドルを
使わない?
そんなに自分のResに自信無いのか?
それともふざけてけなしてるだけか?
どちらにしてもはっきり言って迷惑だ
次からは「名無し三等兵」として投稿しろ!!!
589名無し三等兵:2001/08/04(土) 09:54
>>581
朝から鼻の奥がきゅうんっと来たよ。
うるうる。
お爺さまと戦友殿に合掌・・・
590名無し三等兵:2001/08/04(土) 10:01
前の方のレスで
「玉砕命令が出たけど部隊を引き連れて逃げ回って
 無事生還、他の部隊の生き残りから”何故死ななかった?”
 とひどい目にあった」ことを「思想教育のせい」
っていうけど、それだけ、というのはちょっとちがうとおもうなあ・・・

他の部隊の生き残りだって、「図らずも生き残ってしまったことの後ろめたさ」
「何故あいつが死んでおれが・・・」「でも生きていたのはたしかにありがたいが・・」
というような混沌とした気持ちでいるところに、
自らの意志で生き残ることを選択した人間が出てきたら、
とおもうと、こりゃよほど人間が出来ていない限り席を同じくすることは
むずかしかろうなあ・・・
591名無し三等兵:2001/08/04(土) 10:25
>>581
朝から大泣き。
陳腐な表現で非常に心苦しいけど日本版「メンフィスベル」って思った。
戦闘機乗って一人で死ぬのもアレだけど、複数搭乗で目の前で戦友が死ぬのとか見るのもキツイな。。。
戦争ってやっぱりヤだ。

ウチの父方の爺ちゃんが農家出身だったので満州で騎馬兵だったそうだ。
軍モノ好きの親父が爺ちゃんの写真の軍刀指しながら「馬に乗るからこれ普通のより短いねんで。」
とかウンチク語ってた。俺が生まれてすぐ死んじゃったので戦争中の話は直接きけなかったけど
親父が爺ちゃんから良く聞かされた話が夜の暗闇の中でその辺の水溜りの水で米炊いて、朝目が覚めたら
水溜りじゃなくて敵兵の血だまりだったとか
いつも営舎の門限に遅れた時は事前に細工した肩章の星の縫い目に藁を一本差し込むと
パっと見上官の肩章に見えるので営舎の外で上官に出会っても怒られるどころか敬礼されたりしたそうだ。

母方の爺ちゃんがトラック諸島で戦車長だったらしいが戦争の話全くしてくれなかったので詳細は不明。
おととし亡くなったのでこれから遺品色々探ってみてみます。
592名無し三等兵:2001/08/04(土) 10:31
限りなく名スレ。
593名無し三等兵:2001/08/04(土) 12:41
あげ
594名無し三等兵:2001/08/04(土) 12:43
あげ
595名無し三等兵:2001/08/04(土) 12:43
age
596マジックルーラー:2001/08/04(土) 12:44
爺@父方:商船で沖縄方面にて戦死
爺@母方:四日市燃料工廠
597名無し三等兵:2001/08/04(土) 14:23
age
598あらら:2001/08/04(土) 14:34
爺@父方

第五航空艦隊司令部の下のどこかの部隊で主計兵。
南方勤務を希望するが、便が無かった模様。
終戦時、ぎんばいしてこなかったのか遺品はジョンベラ帽
だけ。
599ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:37
最近、このころの日本に興味を持ち始めたので
爺さんに色々聞いてみました。
600ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:38
以下はうちの父方の爺さんの話です。

昭和18年12月、東京にいる大学生全員が学徒兵として召集される。(第14期学徒兵)
同月、2等水兵として海兵団へ入隊、呉、佐世保、舞鶴、横須賀、へと配属される。
爺さんは佐世保へ配属。
3ヶ月の軍事訓練を受け合格者は少尉に昇格。
三重航空隊へ配属。
3〜4ヶ月の基礎訓練を受ける(学科のみ)
パイロット、偵察、船、要務など適正配置がおこなわれた。
爺さんはパイロットに適正ありとされ、宮崎の富高航空隊へ実地訓練を受けに行く。
3ヶ月の赤とんぼでの実地訓練後、適正な機種へと配属。
1式陸攻、97艦攻、99艦爆、零式艦上戦闘機など。
爺さんは99艦爆に乗りたかったが零戦のパイロットとなる。
戦闘機乗りは全員、大村航空隊において零戦の飛行訓練を受ける。約100名。
訓練後、全員が特攻要員となる。
ある日、教官が全員に対して強制はしないが特攻希望者は前に出ろといい、
全員が前に出たそうです。(ほとんどしかたなく・・・と思う)
100人中で20人が特攻隊員に選ばれ、爺さんを含む6人は352空に配属
残り74名は練習航空隊のある北海道、東北方面、百里基地等へ転属。
601ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:39
昭和20年3月、特攻隊を送りだした後
大村航空隊からの352空・6人と岩国航空隊からきた4人は、
本土防衛のため最前線基地となった築城航空隊2039部隊に合流
爺さんは戦闘309。
戦闘機は零戦52型。
築城航空隊はもともとは訓練用の飛行場でしたが本土防衛における最前線基地にするために
隣接した所に新しい飛行場が造られ、兵舎はカモフラージュのため桃の畑の中に造ったそうです。

林正俊という特攻隊員が特攻前夜、酒を飲み日本刀を振り回して暴れたそうです。
また特攻に出撃する中に少年兵(予科練兵16〜17歳)が編隊を組んで飛んで行くが
まだ技術が未熟なため編隊は崩れふらふらして飛んで行く姿は見るに見かねたとのことです。
しかも白菊というおんぼろ練習機だったそうです。

昭和20年3〜4月にかけ空襲が激しくなり、7月まで毎日のように爆撃を受け、
出撃しようにも敵・発見が遅く警報が鳴った時にはただ飛行機を隠すのが精一杯だったと言ってました。

7月、空襲のため防空壕に入る。泥だらけになり土の中から出てくると、
近くの百姓の家が燃えている。爺さんと部隊長は隊に戻ろうとすると
百姓いわく、「なぜ逃げるのか、火を消してくれ。」という、しかし軍の規則により
すぐに戻らなければならなく、切ない思いであったと言ってました。

この頃、基地の近くで発光信号を送っているスパイ(朝鮮人)がいたが、
捕まえることができなかったそうです。
602ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:39
爺さんはよくテスト飛行をやっていました。
鹿児島、宮崎等から修理した飛行機を築城航空隊まで運んでいたそうです。
途中で6〜7千メートルまで上昇したりしていろいろなテストをしてたそうです。
たまに機体が振動したりしてかなり恐ろしかったといってました。
しかし特別手当がもらえたので皆で酒を飲んだそうです。

零戦には20ミリ機関砲が装備されていたが、供給不足もあったが、なにせ重くて
戦闘能力は落ちるし、命中させるのにかなりの技術が必要だったらしいです。
後に13.7ミリ機銃に変ったが、B29の防護壁は50センチぐらいあり、これも役立たず。
雲が出ているとき、B29が高度を下げてくる、巨大な機体が雲の隙間から見え発射しても
人がBB弾で撃たれるようなものとのこと。
ある時、B29が墜落した現場に行き防護壁の厚さに驚いたそうです。(対空放火による撃墜)

B29迎撃機の雷電という機種。
急上昇して攻撃できる性能があったが、前は見えないしカンで飛ぶしかない非常に危険な
飛行機だったそうです。垂直に上昇して行くように見えたそうです。
この飛行機に乗るパイロットは学徒兵が多く、職業軍人である兵学校の奴らは危険過ぎるから
と乗らなかったそうです。
603ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:40
南方方面で零戦を操り活躍した坂井三郎という撃墜王。
佐賀の北川副出身で爺さんの2〜3歳先輩。
英雄とされたのであまり事実を語る人少なく、父親が小さい時は「すごい人がいたんだ。」
と思っていたそうですが、爺さんに聞くところによると、まともに戦わないで、すぐに逃げるというか
一人だけ上昇したりして、他が戦っているのを見ながら、上から攻撃をしていたそうです。
仲間を囮にして敵を撃墜していたとのこと。(爺さんの南方帰りの戦友たちの話)

ちなみに爺さんの伯父は海軍少佐で、犬養毅(木堂)の2件隣に住んでいたそうです。
(新宿の大久保、いまの歌舞伎町、昔は海軍幹部がたくさん住んでいた海軍の町、陸軍は明治通り
を隔てた現在の統計局のある若松町あたり)・・・私邸。
犬養毅、岡田啓介、爺さんの伯父と並んで住んでいたそうです。

爺さんの男兄弟4人の中で3人が軍隊にいきました。
長男は自動車部隊に入隊。この人は頭の良い人ですぐに幹部候補生の試験に受かり
少尉としロシア軍の暗号解読のため満州の通信部隊に配属されるはずであったのですが。
外地へ行く前に休暇を与えられ帰宅中、盲腸になり入院・手術。満州行きは中止。
もし行っていたら戦死、又はシベリアへ抑留されていたであろうとのこと。
三男は陸軍の航空隊に入隊。
昭和20年8月15日、特攻として沖縄方面に出撃するはずであったのですが。
幸いなことに終戦を迎え命びろいをしました。
家に戻ると曾爺さんいわく「なんで生きて帰ってきた、俺は恥ずかしい。」といったそうです。

終戦の日、爺さんたちの飛行隊長は部下を残し自分だけ零戦に乗って実家のある静岡へ
飛んで行ったそうです。無法状態というか・・・。
また、爺さんの友達で海軍少将の息子、海軍松山航空隊に所属し、水上機のパイロットだった人は、
特攻に2度出撃するが2度とも帰還。理由はわからない。
この人も終戦の日、水上機で松山基地から佐賀の唐津まで飛んで唐津の海に着水し
帰宅しているそうです。
604ミスター・ポーズマン:2001/08/04(土) 21:41
長々と失礼しました。
605名無し三等兵:2001/08/04(土) 21:54
俺の爺さんは8年ほど前に死んだんだけど、戦中は中国に行っていたらしいと
父が言っていた。
爺さんは、陸軍の下士官で現地では苦力(クーリー)を使ってたそうなので第一
線の部隊ではなかったのかも知れない。
クーリーとは大変仲良くやってたようで、「また会いたい」と言ってたそうだ。
今頃はあの世で再会し、中国酒で乾杯してるのかもしれん。
父方は祖父も含め下戸ばかりなので飲茶かもしれないが。
俺の父は祖父にとっては遅くできた子で、俺は孫としては幼すぎたので直接話す
機会が少なく、幼児の頃(4歳位か?)両親が出かける時に留守番で来た祖父と
遊んでて、祖父がレゴ飛行機と船を作って航空母艦の説明をしてくれたこと位しか
記憶にない。
そのおかげで軍オタになったわけだが(w
しかし、その後の祖父の記憶は反戦的な言辞しかないな。
606591:2001/08/05(日) 00:01
あれから爺ちゃんの遺品調べようとしたんだけど見つからなかった、、、
それで代わりにお母んに色々話聞いたんだけどちょっと驚愕の事実が。
南方の前線(場所は失念)で爺ちゃん達の戦車隊が敵の砲撃に晒されて
爺ちゃんの乗る戦車に被弾して出火して操縦不能になったそうな。
戦車長の爺ちゃんは搭乗員に脱出を促したけど既に装填手は絶命。
小銃の弾が飛び交う中を生き残った人らで命からがら脱出してる最中に
一緒に逃げてた同級生(階級は爺ちゃんの下)が被弾。
とりあえず他の部下を先に行かせ、同級生の手を握りながら同級生の最後を看取ったそうな。
その時のいまわの際の約束が「かならず国に帰って俺の妹の事をよろしく頼む」だったそうで
終戦後同級生の遺骨を持って神戸の同級生の実家に行き、そこでその妹に出会い約束どおり結婚。
その妹がおれの婆ちゃんなんだそうだ。
あんまり俺には戦争の話しないまま亡くなったので25年間生きてきて初めて聞いた話が
これだったのですげぇびっくりした。
このスレ見なかったらこのまま何年も聞けなかった話かもしれないかと思うと>>1に感謝。
この調子で色々爺ちゃんの話俺なりに調べてみようと思った。
またなんか出てきたら書きます。
では長文ゴメソ
607辻ーン:2001/08/05(日) 00:06
爺ちゃんの弟は一式陸攻乗りだったそうな、
だけど負傷して内地にもどってきて広島の病院に居たけど
あの夏に、、、、

ってきいたんだけどウロ覚えて良く覚えていません、
広島に陸軍病院なんてあったんすかね、、、
機会があったら調べてみるよ、、
608名無し三等兵:2001/08/05(日) 00:12
>>607
広島には陸軍衛戍病院がありました。
609名無し三等兵:2001/08/05(日) 00:23
一式陸攻なら海軍だろ?
海軍病院に入院してたんじゃないか?
610名無し三等兵:2001/08/05(日) 00:24
>>590
 そのレス、私も読みました。(今探したんですがちょっと見あたりませんね。)

 590さんの気持ちも分かるんですが、私は正反対に、その玉砕命令に反して部隊を
生還させた方は当時としては大変勇気があり、よい上官だったのではと思った次第で。

 玉砕命令が出てるくらいですから、その戦闘の勝敗の帰趨は決しており、その命令に
従って死んでも、無駄死にと思われ。
 これは現代的な感覚なのかもしれませんが、死ぬことは戦争の「目的」では無いと
思うのです。
 同列に論じられることかどうか疑問は残りますが、ハリコフ戦でSSのハウサー将軍が
ヒトラーの死守命令を無視して撤退していますし、バルジの戦いではヨッヘン・パイパーが
「車両を持って後退せよ」を無視、部下共々脱出に成功し、後日、剣柏葉付騎士十字章を
受章しています。
 まぁ、同じドイツでも戦争末期には後退した将兵を処刑したり、懲罰部隊に放り込んだり
してるようですから、上記の例が特殊なのかもしれませんが、日本とドイツでは「兵隊の
命の重さ」が少々違うようですね。
 私は、その玉砕命令を無視した部隊の兵卒たちは、命令を無視した上官に感謝していると
思いたいですね。
611辻ーン:2001/08/05(日) 00:27
海軍病院もあったのかなぁ、、、

やはり調べ直さないとねぇ、、4歳の頃に聞いたからおぼえてない、、、
でも田舎の蔵はまむしが出るっていうんだけど、、、、
612シェールマン:2001/08/05(日) 00:28
じいさんは徴兵制で兵隊に受かりませんでした。
そのかわり、長男を兵隊に出した。
ンで、中国大陸で飛行機の整備兵をしていたとか。
また、B29(かな?ほんとに。この世代って4発爆撃機は全部B29だし)
とかが飛来して死ぬほど怖かったそうな。

そういえば衛星放送(ファミリー劇場)で遊撃戦ってやってるけど、
なるほどアメリカの爆撃って脅威だったんだな。
613610:2001/08/05(日) 01:51
 先程はスレのテーマとチト方向違いのレスをしてしまったので・・・。
 私の祖父は17年ほど前に他界いたしましたが、香川の農家の何男坊に生まれ
当時のありがちなパターンで、陸軍に入隊、職業軍人で主計になったそうです。
 最初はどうも善通寺か丸亀にいたようですが、北樺太保証占領(尼港事件後か?)に
参加しているようです。
 その後近衛師団(この当時のものらしい正装した写真が残っております)にも一時
いた模様で、大尉あたりまで昇進したようです。
 その後、昭和13〜15年頃に祖母が4人の子を残して病死したためか、一時除隊して
いたようですが、太平洋戦争中は既に40歳を越えておりましたが召集され、フィリピンに
送られました。
 幸い、米軍上陸直前に満期除隊となりほとんど最後の輸送船で日本に帰還したそうです。
どうやらその後戦争末期にまた召集されたようですが、内地勤務のうちに終戦を迎えたようです。

 子供の頃から、祖父はよく戦争の話をしてくれましたが、自分の経験談は少なく、木口小兵の話や
日露戦争の話が多かったですね。
 軍用品では、九四式拳銃のホルスター、サーベル、弾薬盒(小さいので九四式用か?)軍用毛布、
水筒などがあり、ほとんど私がもらいました。多分今も実家のどこかにあるはずです。
 そういえば、真鍮でか何かで出来た、重いホイッスルがありました。とにかくごつい代物で、
小学校入学前の私には音を出すことが出来ないものでした。
 祖父曰く、それは樺太でソ連の戦車兵がくわえたまま死んでいたのを持ってきたそうで、私が持ち出して
なくしてしまったときは、酷く怒られました。

 ・・・しかし今になって考えてみると、私は「良いイワン」と間接キスですか?・・・
 それ以前に、北樺太に旧陸軍が行った時にソ連に戦車があったんでしょうか?尼港事件後の保障占領と
いえば、まだ1920年代前半です。そのころに辺境の樺太にソ連戦車がいたというのが、今ひとつ
よく分からず・・・どなたかご存じの方がいらっしゃったらお教えいただきたく。
614厨房:2001/08/05(日) 03:23
うちの爺さんは二回も戦争で中国に行って階級は軍曹。
・・・・・古参兵って奴?
615581:2001/08/05(日) 03:54
>>584-586
わざわざ、教えていただきありがとうございました。
陸軍、二人乗り、爆撃機なので、586さんが教えていただいた
どれかだと思います。
今年のお盆には栃木の婆ちゃんちに行って、爺さんのお墓参りを
したいと思います。
616名無し三等兵:2001/08/05(日) 04:05
うちの祖父は戦争に行けなかったのだが(地元有力者の息子だから…。本人は行き
たかった、情けない話だ、と嘆いている…)大叔父は第七師団第28連隊一木支隊
の一員として、ガダルカナルで戦死しております。もう一人の大叔父はシベリアへ
抑留(無事帰還) 一木支隊の話は知っていたが、同窓会の記念誌みて自分の身内
にいたと始めて気が付いた。
617名無し三等兵:2001/08/05(日) 04:52
>>606
凄いなあ。そんな話もあるんだね。
「月光の夏」みたいだ。
詳細について判明すれば紹介してください。
618名無し三等兵:2001/08/05(日) 07:29
うちの親父は開戦前に山梨の航空学校にいたらしく
(適正なくて飛行機には乗れなかった)地元に帰ってから開戦になり
陸軍の航空隊に徴用されて軍属の身分で飛行機の整備をやってた。
軍属だから恩給はもらえないらしいがおかげで赤紙もこなかったし
戦地に駆り出されることもなく、希望通り飛行機に乗ってたら
きっと生きてなかったろうから今となっては良かったかもしれない。

当時の写真は一杯あるけどその頃のことはほとんど話さないから
きっと、よっぽど嫌な目にあったんだと思う。

特攻機の整備も随分したって言ってたけど部品も燃料もない
整備不良のまま送り出して、半分くらいは多分敵のとこまで
行けなかったんじゃないかってさ。

敗戦になって正式な軍人じゃなかったからか?アメリカ軍の飛行機の
整備も一時したらしいけど、あちらの飛行機を触って
これじゃ絶対勝てなかったって言ってた。
619ななしさん:2001/08/05(日) 09:42
俺のじいさんは戦争中台湾にいたそうだ。
敵は来ないし、食料は豊富だし、のんびりしてたらしい。
かなりの数の慰安婦がいたらしくて、結構戦友と通ったらしい。
じいさんは絵を描くのが趣味だったので、慰安婦を描いた絵を沢山見せてもらった。
慰安婦にも色々いて、サービスのいい奴とかぼったくりの奴とかいたそうな。
或る日戦友が慰安婦にマジで惚れちゃって、
「あの子は親に売られてきた可哀相な子だ・・・なんとかしたい・・」
とじいさんに相談したそうだが、じいさんは
「おいおい、いちいち同情してどうするんだよ、
こんな職業の女、みんなそんな境遇の女ばっかだろが?」
ということを言って思いとどめたらしい。
でも、戦後その戦友と慰安婦は結婚したそうな。
その後もじいさんの部隊は戦場に行かず、マターリと終戦まで過ごしてたそうな。
「戦って死んでいった兵隊には申し訳ない・・・」
って言ってた。
620名無し三等兵:2001/08/05(日) 13:05
トシがばれるが親父の話。
朝鮮生まれの親父は応召して平壌近くの飛行場にいたとか。
飛行機乗りじゃなくて、聴音機係りと聞いた。ラッパみたいなの
左右二つを耳にあて爆音を聞いて位置を計る、ってことらしい。
「頭の真後ろで音が聞こえたらそれが方向」ということだが。
そんなの映画とかでは見たことないし、一般的なモノだったのか?
応召前は経理屋だったので、終戦直前に京城の軍の経理学校へ
行かされ、そこで武装解除。
「あのまま平壌にいたら帰れなかったかも」とのこと。
叔父(親父の弟)は釜山で応召したらすぐ終戦。婆ちゃんが
「もう会えないと思ってさんざんご馳走して、涙ながらに
送り出したのに十日で帰ってきた」と笑い話にしてた。
母の二人の兄は国鉄勤務だったので、技術屋だった上の伯父は
鉄道部隊とかで満州へ。実戦経験なし。下の伯父は南方へ行った
のだが戦闘しないまま終戦、捕虜。21年6月に帰ってきたとか。
ということで我が家の男どもは一切修羅場は知らないらしい。
ところが女の方が凄くて、父の姉は嫁ぎ先が満州奥地。
夫は戦病死。(インテリだったのでいじめ殺された可能性もある
らしい)。それを知らずにいたため、なだれ込んできたソ連軍に
追われながら夫の消息を気にしつつ、生まれたばかりの乳飲み子を
逃走中に亡くし、坊主頭で男装し、中国人に匿われながら引き揚げ
てきた。自分が小さい頃、よくソ連を罵るのを聞いたから、
赤軍の残虐行為を目の当たりにしてたみたい。
母も東京いて5月の大空襲で焼け出されてる。親戚もずいぶん空襲で
死んだらしい。非戦闘員の戦争体験の方が凄みがあるなんて
ヒドイ話だよ。
621名無し三等兵:2001/08/05(日) 13:16
聴音機はのらくろに出てたよ
622名無し三等兵:2001/08/05(日) 13:16
俺の爺さんビデオで見せしめ射殺されてた…鬱
623名無し三等兵:2001/08/05(日) 13:52
自分のじいさんのおいは、昭和15年ごろ、中国で97重爆(らしい)
に乗って、爆撃中に被弾、帰還不能となって突撃し自爆。

おい2号は、華北戦線で脚を負傷して友軍に置き去りにされた。
中国軍に負傷した同僚が串刺しにされる中、隠れることに成功。
後、友軍に合流するが、治療が遅れた為足をひきずる結果にな
った。

おじは満州で下士官にかみついて、ぶんなぐられて死亡。
記録上は牡丹江で戦病死。

鬱じゃ・・
624名無し三等兵:2001/08/05(日) 14:01
>>622、623
うむむ、それは何ともキツいっすね…
御冥福をお祈り致します…
625名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/05(日) 14:46
たった一年間ベストを尽くす生活体験は、人生の運命を大きく変え将来の貴重な財産となり、自己実現欲求を満たし、生き甲斐を感じ、幸福な生涯が約束される。むりをしないで高い学力をつける合理的システム。 能力別少人数クラス編成(5〜35名位)個別特訓・責任指導 の両国予備校をどうぞご検討ください。http://kaba.2ch.net/test/read.cgi?bbs=company&key=989668891&ls=50
626名無し三等兵:2001/08/05(日) 15:44
遠いけど、俺のバーチャンの叔父の教え子に長門の機関長がいたらしくて、
長門内を見学させてもらったらしい。
昭和14年ぐらいのとき。
627名無し三等兵:2001/08/05(日) 16:04
祖父ちゃんはサイパン島の一兵卒だったそうだ、
とにかく怖くて機銃を撃ちまくっていたって行ってたなぁ。
でもあまり戦争の話はしたくなかったみたい。

今年で13回忌になります。
628名無し三等兵:2001/08/05(日) 16:20
age
629名無し三等兵:2001/08/06(月) 13:01
>>583
>>244に書いてあるよ
630名無し三等兵:2001/08/06(月) 14:19
age
631名無し三等兵:2001/08/06(月) 14:24
旧制中学→陸士→恩賜の時計ゲット
632 :2001/08/06(月) 15:25
 うちの爺様鉄道隊で内地。
 本家の曾爺様の兄貴旅順で戦死。
633んさしなな:2001/08/06(月) 15:46
ちょうど良さそうなスレ見付けた・・・・・・
「南海派遣洋第九三五八部隊」って陸軍の部隊に祖父が所属していたのですが、この部隊
の正式名称とかを御存知の方はいらっしゃらないでしょうか。
見た軍事郵便は少し滲んでいたので、誤字かもしれませんけども。ちなみに徴兵時には
秋田県に居住しておりました。
また、祖父は東部ニューギニアのリニホクという場所で戦没者の列に加わりました。
リニホクについても場所を御存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さいますよう、
宜しくお願いいたします。
くれくれ君ですみません。
634名無し三等兵:2001/08/06(月) 18:29
age


635名無し三等兵:2001/08/06(月) 18:35
あげ
636名無し三等兵:2001/08/06(月) 18:59
じっちゃんはテロリスト。
1945年8月16日にホワイトハウスとクレムリン宮殿を
同時に爆破する予定だった。
637名無し三等兵:2001/08/06(月) 22:52
age
638名無し三等兵:2001/08/06(月) 22:53
このスレももうすぐ終わりかなっ!
639名無し三等兵:2001/08/06(月) 22:56
大村航空隊
撃墜0、被撃墜1
640名無し三等兵:2001/08/09(木) 06:28
じーさんは理化学やってたが戦争協力を拒否したんで何度か命がやばかったらしい。
海軍中将に知り合いがいたんで、なんとか助かったんだと。その中将の名前聞いときゃ
よかったな。
641名無し三等兵:2001/08/09(木) 06:33
陸軍歩兵近衛連隊、2・26事件で即満州に左遷だったそうな
642名無し三等兵:2001/08/09(木) 07:34
俺のじいちゃん、呉で伏龍の訓練受けてた。
殉職者続出だったそうな。
643:2001/08/09(木) 07:58
砲兵連隊で満州にいました。
644名無し三等兵:2001/08/09(木) 08:39
うちのじいちゃんはラバウルに行ってたらしいが
その時乗っていた船が沈められたらしいが本当なのだろうか?
船のの名前は何とか月とか言ってたような
だれかその辺で沈んだ船しりません?(藁
645名無し三等兵:2001/08/09(木) 16:34
>644
 ラバウル近辺と言えば、ソロモン海だからね!
 もの凄い数の軍艦や輸送船その他が沈んでるから
 せめて時期や艦名が分かれば・・・
 でも本当だと思うよ!
 俺の大叔父さんも、フィリピンで輸送船に乗船中雷撃食らって
 沈没したって言ってたもん!(米軍に救助されてそのまま捕虜になり
 実戦経験無し)
 ちなみに何とか月って言うと多分、駆逐艦だと思うよ!
646既出ならスマソ:2001/08/09(木) 16:41
>>642
幻の特攻戦記 「伏龍」隊員の戦中・戦後史

http://www.tokyo-np.co.jp/tokkou/index.html
647名無し三等兵:2001/08/09(木) 16:59
age
648名無し三等兵:2001/08/09(木) 17:17
騎兵隊(マジ)
649名無し三等兵:2001/08/09(木) 18:48
7○1部隊。それ以外語ってくれませんでした。
650名無し三等兵:2001/08/09(木) 19:00
ある海防艦の見張り。
敵の潜水艦の魚雷を発見して上官にほめられたときの話を得意げに語ってくれたよ。
魚雷は輸送船に向かってたんだけど、その報告のおかげで助かったんだってさ〜♪
その後、戦争後半になって機雷に接触して沈没したんだってさ〜
651名無し三等兵:2001/08/09(木) 19:16
うちの祖父は重擲弾筒分隊に所属してました
なんでも擲弾の誤爆で大怪我を負い、それが元で亡くなったそうです
復員して来た私の友人の父親がそうおしゃってました
652名無し三等兵:2001/08/09(木) 23:52
age
653名無し三等兵:2001/08/09(木) 23:55
レーダー開発部隊って海軍にありましたか? 死んだ爺ちゃんは、そんなこと言っていたんですが...
654名無し三等兵:2001/08/10(金) 00:00
>>650
海防艦大東ですか?
655名無し三等兵:2001/08/12(日) 04:53
ネタが尽きたか?age
656名無し三等兵2:2001/08/12(日) 05:19
>>97
正解。
でも、帰国した6000人も五体満足とはいかなかっただろうね・・・。

うちの父方の爺さんは、特攻の順番待ちの中『終戦』を迎えたそうな・・・。
飛行気乗りになりたかった爺さんは「お前は飛行気乗りになれ!!」と父に言い聞かせたらしい。
そして父は海自に入隊。現在、50才を過ぎ2佐にもなったけど現役飛行気乗りです。
父は私に「自衛隊に入らないか?」とよく聞いてきましたが、私の回答は「NO!」
成人して母から聞いた話によると、父は泣いていたそうです・・・。

お盆なのに実家に帰れなくてゴメンナサイ・・・。
貴方の孫は元気に暮らしています。
657名無し三等兵:2001/08/14(火) 00:04
小泉首相靖国参拝記念age
658RAMカンガルー:2001/08/14(火) 00:38
>4殿
その祖父殿はまだご存命でしょうか。
いや、大陸で日本兵が白兵で突撃してオランダ製の装甲列車を分捕ったというのが
当時の雑誌に載っていたので、ひょっとして分捕ったあと配備されたとかがわからないかなと思いまして。
ちなみにその雑誌によると大砲2門、機銃二門だそうで、写真は掲載されていませんでした。
(オランダから輸入とは中国軍って金持ち?)
659RAMカンガルー:2001/08/14(火) 00:40
ウチのじいさんの従姉妹の嫁ぎ先に憲兵になったのが居た。
南方勤務としかわかりませんでしたが、戦後高校の保健体育の教師になった。
で、なんでだか性病に詳しく、授業でも詳しく話したとか。
なんで?と思ったら、結構前線で流行ったことがあったからとか。
660名無し三等兵:2001/08/14(火) 02:01
トシがバレバレでハズイのだが、俺の親父は、陸軍で徴集されて
満州へ。終戦後はシベリアのバイカル湖あたりの強制労働所に抑留
されて、帰国したのは、昭和25年だったそうだ。

同じ宿舎?に、帰国後巨人軍監督になった水原氏がいて、「アイツ
も俺のことは、憶えてる筈だ」とか言ってたな。

もう8年ほど前に死んじまったが、戦時中のハナシは、全くしなかった。
葬式の時、戦友?だったジイさんが、「シベリアに行って、生きて帰って
きただけでも大したものだった」と弔辞を述べていたのが印象的だった。
661名無し三等兵:2001/08/14(火) 02:14
家のじーさんは、伊勢とかいうのに乗ってたそーだ。伊勢ってどんな?
662名無し三等兵:2001/08/14(火) 02:22
>>661
戦艦です。
663名無し三等兵:2001/08/14(火) 09:06
うちの死んだじーちゃんは、空技廠にいたらしい。
父の言うには、「極秘」だのとスタンプされた図面が家にいっぱいあったそうな。
でも、同居してた叔父が全部捨てたって・・・。
もったいないことするなー!
664名無し三等兵:2001/08/14(火) 11:24
うちのじーさん兄弟は八幡製鉄所に勤めていたから徴兵されなかったそーです.
665名無し三等兵:2001/08/14(火) 12:38
うちのじいさん、陸軍大佐。私が生まれる前に死んでます。
日露戦争からの職業軍人。
戦後は戦時中のことは黙して語らずだったらしい。
やはり、自分の信じた思想の崩壊は辛かったのか?

生きてれば、いろいろ話を聞けたものを。
いや、生きてたら今の自虐戦争論を嘆きまくってたかな。
666名無し三等兵:2001/08/14(火) 12:52
俺のジー様は、千葉で高射砲撃っていたみたいだ。
友達のジー様は、なんとポートモレスビー攻略の生き残りらしい。
マジならすげー
667名無し三等兵:2001/08/14(火) 13:13
ウチの祖父はキスカ島の守備隊にいて、例の無血撤退を
経験しています。
668名無し三等兵:2001/08/14(火) 16:08
俺のひいひいおじいは戊辰戦争で上野〜五稜郭まで先陣切って無傷だったらしい。
669ほのぼの爺ちゃん:2001/08/14(火) 16:41
俺の父方爺さん、シャバでは床屋さん。
赤紙来て九州の小倉へ駐屯
孫の俺 ”戦争では何やってたの?”
爺ちゃん ”いつもとかわらんよ 兵隊の頭刈ってた”

俺の母方爺さん、シャバでは大工の棟梁
赤紙来て九州の鹿児島へ駐屯
孫の俺 ”戦争では何やってたの?”
爺ちゃん ”いつもとかわらんよ 兵舎建ててた”

2人とも上官に可愛がられ、旧日本軍にありがちなイジメ
にもあわず、無事に故郷へ帰ってきた

教訓 ”地獄の沙汰も手に職次第”
まあ、孫の俺としてはもうちょっとカッコイイ話を
期待してたんだけどネ(藁
670イペリット大尉:2001/08/14(火) 17:01
母方の祖父な毒ガス部隊
父方は憲兵
どっちもどっちやな
671名無し三等兵:2001/08/14(火) 17:50
うちのジーさん中国でトラック転がしてた。
うちのカーちゃんのおじさん
  満鉄の諜報部員
で中国人になりすまして潜入してたが、顔の洗い方で日本人と
ばれて命からがら逃げてきた。
 日本に引き上げてくる時に李香蘭?と一緒になり
カーちゃんの実家に李香蘭を何日か泊めたとか言ってた。
 ホントかどーかはよくわからん。
672名無し三等兵:2001/08/14(火) 18:14
うちのじいちゃんは、沖縄の南大東島に住んでた。一応、飛行場があってウルシー
への特攻機(銀河?)の出撃基地と勘違いされて米軍艦載機と艦砲射撃でぼこぼこ
にされたらしい。上陸用舟艇も、近づいてきたが断崖絶壁で上陸されずに終戦まで
無事だった。自決用に青酸カリも用意してたそうだ。
673名無し三等兵:2001/08/14(火) 18:22
私の伯母は陸軍士官学校にて沖縄戦で悪名高い牛島中将の秘書だったそうだ。
ほんまか?
ちなみにその伯母、戦後は厚木で米軍に奉公したのでした。
674名無し三等兵:2001/08/14(火) 18:55
>>667
先日、浅草の映画館で、キスカ撤退の映画見たよ。三船俊郎のね。あれ見たらジーちゃん泣いちゃうだろうね。
675名無し三等兵:2001/08/14(火) 19:43
うちのじいさん死んでもう16年にもなるが、生前話してたのを断片的に。

・召集令状で19年に出征
・輸送艦に配属、25ミリ対空機関砲担当
・潜水艦の攻撃を受け沈没(場所がわからん)
・その後連合軍に救助され仏印で捕虜生活を送る。22年に帰国

P-38を撃墜したことが有るってのが自慢で、捕虜時代の食事で「バナナの味噌汁」ってのが
よく出てくる回顧話だった。これくらいの情報で少し絞り込めるかな?
676名無し三等兵:2001/08/14(火) 21:00
うちの爺さん、武蔵に乗っていた。レイティ沖海戦で沈んだが生還。その後、輸送船サントス丸も沈んだが
生還。その後、台湾の高雄で敗戦を迎えた。
生きていて良かった。でなければ、オレがいないよ。
677名無し三等兵:2001/08/15(水) 10:14
スレには関係ないが、今日は終戦記念日ということで
うちの戦死した遺族のお墓にも心をこめてお参りをしてきたよ
678名無し三等兵:2001/08/15(水) 10:55
>>677遺族の使い方がおかしかった・・・・・
遺族とは我々のことですね・・・・・・(鬱 逝ってきます
679名無し三等兵:2001/08/15(水) 12:43
73●部隊
680667:2001/08/15(水) 13:03
>>674
実は以前テレビで『キスカ』をやった時(20年以上前)、
祖父と一緒に見てました。ウチの祖父は泣いちゃいませんでしたが(笑)、
『野砲を分解して船団の接岸予定地点まで持っていったけど、来ないんで
また陣地に持って帰って組み立てて…ということを何度もやった』って
言ってました。
あと、ミッドウェイにも行ってるって言ってました。天竜に乗ってた
らしいんですが、天竜ってミッドウェイに参加してましたっけ?
因みに今年98歳。元気です。
681名無し三等兵:2001/08/15(水) 17:34
>>671
サクラ大戦の李紅蘭ではぁはぁ…
682名無し三等兵:2001/08/15(水) 17:56
うちのじいさん、
一人は南方に派遣されたが、特に戦闘は無く帰ってこれた
もう一人は工場勤務中に硫酸を体にあびて入院していたため徴兵は免除だったそうだ
683名無し三等兵:2001/08/15(水) 19:13
じいさんの親戚は
沖縄戦で玉砕したそうです
684名無し三等兵:2001/08/15(水) 23:10
>>676
それは幸運な方ですなあ。
大事にしてあげてください。
ひょっとして映画「軍艦武蔵」に出演されてました?
685名無し三等兵:2001/08/15(水) 23:15
>>683
情けねー死に方だね
そのジジィは
686名無し三等兵:2001/08/15(水) 23:16
>>675
海軍じゃなきゃ陸軍の船舶砲兵なんだろうけど・・・。
その船が潜水艦に沈められたのは何年の話?
687675:2001/08/16(木) 21:20
>>686
レスありがとう。
あ、海軍だよ。
で、2回撃沈されてて、一回目は友軍に救助されて配置換え、
2回目は20年に入ってからって言ってたと思う。
俺、軍事好きだけど、オタってほど詳しくないんだ。
なんか無性にじいちゃんが懐かしくなってポストしたんだけど、
気にかけてくれてうれしかったよ。
688676:2001/08/16(木) 21:30
武蔵自体の生き残りもあまりいなかったようですが、
2回も沈んで助かったのはいくらもいなかったそうです。
映画だか何かをつくとかで、爺さんにインタビューに来た人がいたな。
沈むときの状況を根堀葉掘り聞いていたな。おれもいっしょに聞いていた。
あれ、映画になったんですか、全然しらなかったな。
今も、かなり元気な方ですが、身体にはそこら中、傷が残ってます。
沈むときの傷だそうです。
とにかくひどい戦争だったと言ってます。
689名無し三等兵:2001/08/16(木) 22:21
うちの父方の爺さんは、陸軍大佐で輜重連隊長だったそうです。
ニューギニアがとこかにいって、部隊はほぼ全滅したそうです。
本人は、転勤で日本に帰ってきたらすぐに、マラリヤを発症して
亡くなったそうです。
690名無し三等兵:2001/08/16(木) 22:32
>>640
うちの爺さんも細菌の研究してたが軍事協力断ったせいで40過ぎで徴集されたよ。
鼻疽菌の研究しててその辺では権威だったそうで、石井が直々に満鉄の研究所
まで協力要請にやってきてたそうだ。ドイツ語が出来たので抑留されたが
通訳をしていたそうだ。やはり終戦後は荒れて婆さんを殴っていたらしい。
それでもいい爺さんだったそうだ。
691名無し三等兵:2001/08/16(木) 22:41
オレの爺さんは、西南戦争時、警視隊に属していたとのこと。
692名無し三等兵:2001/08/16(木) 22:47
母方の爺様は海軍に徴兵されて輸送船に乗り込んでたそうな。
なんでも南方での作戦中に撃沈されて漂流中を友軍に救助されたと
言ってたな。酷い傷跡があって、夏でも長袖のシャツを着ていたのを
思い出すな。
693名無し三等兵:2001/08/17(金) 00:19
>581さん
お話を読んで泣きました。
素晴らしいおじい様でしたね。
お話して下さって、有難うございました。
694693:2001/08/17(金) 00:27
ごめんなさい。わかりづらかったですね。
>>581
有難うございました。
695名無し三等兵:2001/08/17(金) 00:34
母方の祖父さんは南方に向かう船に乗る前に伝染病に掛って病院で終戦を迎えたそうな。
当然部隊は玉砕。
その兄は南方から一度生還するも再度南方へ玉砕。
弟も玉砕。6人兄弟で生き残ったのは2人・・・。

父方は北海道に居たらしいが詳細不明。
696名無し三等兵:2001/08/17(金) 02:02
十年程前に亡くなられたお爺さまは
恥ずかしながら歩兵第八連隊に所属しておりました。
恥ずかしながら満州にて仮病を発病し、満州の病院にて花札やサイコロなど
興じておった様であります。
慰問に訪れた「リコウラン」という女性とのツーショット写真に
恥ずかしながら元気そうな笑顔で写っております。
(白い軍服を着ております。写真は今も神棚の下に飾ってあります)
恥ずかしながら終戦後は無事に日本に戻り、博徒・音頭とり・ひも
として不自由無い暮らしを満喫していました。
神國日本が戦争に負けたのは、うちのお爺さまのせいです。
(うちのお爺さまがそう言ってました)
697名無し三等兵:2001/08/17(金) 03:06
久留米師団
勝ったという昔話以外きかされなかった
698684:2001/08/17(金) 03:45
>>688
武蔵の生存者はそれぞれ苛酷な運命を辿ったようです。
さんとす丸の遭難も悲劇ですが、ルソン島に残留させられ地上戦闘と飢餓で亡くなった方も
大勢いるようですね。

ドキュメンタリー映画「軍艦武蔵」は、公開当時結構評判になったような記憶があり
ます。
大映からビデオが発売されていて僕も持ってます。まだ入手可能かと思いますが。
699名無し三等兵:2001/08/17(金) 06:21
>>696
それはそれで一代記としてお見事かと。合掌。
700676:2001/08/17(金) 21:56
>696
このような兵隊さんばかりだったらよかったのにな。
701名無し三等兵:2001/08/17(金) 22:02
うちの祖父はフィリピンで戦死。
父がまだ祖母のお腹の中にいた時のことでした。
702しょちくれ:2001/08/17(金) 22:49
うじのじいちゃんは一年戦争時はザク乗りで、、、、じゃなかった。
マジネタで行きます。
うちの母方のじいちゃんは中支(シナのことだろうか?じいちゃんはそう言っていた)
で看護兵でした。捕虜になることも無く、終戦で帰国。
しかし、>>689のおじいさんと同じで、帰国してすぐにマラリアを発症。
田畑を売って医薬品を購入。九死に一生をえたそうです。
「布団を何枚重ねても、寒い、寒いと言って震えていた」
とはそのとき看病したばあちゃんの言葉です。
そのじいちゃんも今年で88です。長生きしてほしいもんです。
703名無し三等兵:2001/08/17(金) 22:52
よぼよぼのジジイども。
死ね
704名無しさん@お腹いっぱい.:2001/08/17(金) 22:59
>>703
オマエだけ死ね。
705名無し三等兵:2001/08/17(金) 23:01
>>705
お前は消えていいぞ、死ね
706しょちくれ:2001/08/17(金) 23:04
そのじいちゃんの家には、じいちゃんの兄弟の位牌があるのですが、
位牌の隣に飛行服を着た小さな金属製の人形がありました。
母に聞くと、じいちゃんの弟は飛行機のりだった、聞きました。

数年前、じいちゃんの家に行ったとき、仏壇の上に引き伸ばした写真が
飾ってありました。双発の飛行機の前に飛行服を着た軍人が並んでいます
子供の頃には気が付かなかったのですが、その下には文字が書いてありました。
そこには、「沖縄特攻 桜花隊 一式陸攻の前にて」 操縦士長 ○○(じいちゃんの兄弟の名前)
との文があり、その隣の額縁には、「勲六等瑞宝章」(うろ覚え)とかなんとか書かれた額縁が
ありました。
707しょちくれ:2001/08/17(金) 23:09
ところで、スレの趣旨とは少し離れるんですけど、
>位牌の隣に飛行服を着た小さな金属製の人形がありました。
飛行服を着て、敬礼している人形なんですが、皆さん見たことあります?
なんとなく気になって。  
708名無し三等兵:2001/08/17(金) 23:35
うちの爺ちゃんは徴兵されて九州にいたときに終戦を迎えたらしい。
つまり闘ってない。
ちなみに近所の家の爺ちゃんは切り込み隊長(?)っていうので
死んだらしい。
切り込み隊長って具体的には何するの?
709名無し三等兵:2001/08/17(金) 23:36
じいちゃん警察官で、軍には入らなかったらしい。
まさか特高だったわけではないよな。あまり過去を語らないのだが。
なんか聞くのが怖い。
710名無し三等兵:2001/08/18(土) 00:03
>709
程度の差はあれ、国民生活を監視するのが仕事だったからね。
あまり言いたくないと思うよ。良心がある人ほど。
711名無し三等兵:2001/08/18(土) 00:13
>708
 玉砕間際に、敵陣に切り込む事です。
712名無し三等兵:2001/08/18(土) 00:47
うちのジーサン
東京の高尾山の近くの洞窟の中で毎日飛行機のエンジンの調整をやってたそうだ
何でも女学生や子供が作る飛行機でエンジンがまともに動くのが少なかったので
いったん地下壕に飛行機集めてばらして組み立てなおしたそうだ。
80歳まだまだ元気だぞ
ちなみに戦後しばらくはアメリカ軍基地で働いてたそうだ。
713名無し三等兵:2001/08/18(土) 01:32
うちの爺ちゃんは軍医だったです。。
714名無し三等兵:2001/08/18(土) 01:40
現場監督をやってたときの作業員のオヤジは元陸軍伍長、シベリア抑留経験があるらしく
工事現場に因縁をつけに来たヤクザに一喝 大正生まれの軍人は今でも強い
715名無し三等兵:2001/08/18(土) 02:12
家のじいさんは、徴兵されて宇都宮で訓練を受けてからガダルカナル島に送られるはずだったらしい。
訓練が終わり、九州まで移動したところで餓島が陥落。
行き場を失ってそのまま内地を転々とし、広島の通信隊に配属された。
ここで原爆にあったが爆心地から五キロ離れていないようなところにいたのに無傷。
(前日、夜間待機だったため昼は仕事が休みで兵舎で寝ていたらしい)
広島には昭和二十一年の二月までいたらしいが、当時の広島の様子を聞いても
「あれは地獄だった」としかいってくれなっかた。
実家に帰れた時には家族に原爆で死んだものだと思われていて幽霊に間違われたといっていた。
じいさんは物持ちのいい性格で、今でも軍隊で支給された水筒を持っている。
716名無し三等兵:2001/08/18(土) 03:20
>>702
中支って北支とかと同じ用法で,中国の中部を指すのでは?
黄河以南長江以北でいいのかな?
717しょちくれ:2001/08/19(日) 03:11
>>716
来月、米寿の祝いなんで聞いときます。あと、勲章も。
718名無し三等兵 :2001/08/19(日) 03:55
祖父:東部第六部隊 陸軍軍曹
祖父の兄:マーシャル群島ウォッチェ環礁にて飛行場建設中、
     米艦載機の機銃掃射を受け、戦死。
      
719名無し三等兵:2001/08/19(日) 04:43
叔父さんが海軍仕官候補生で美保にいるときに終戦。
私は自衛官で配属、実感なし。
720名無し三等兵:2001/08/19(日) 04:56
>>718
ウォッゼ環礁ではなかったかな?細かくて申し訳ない。
祖父の弟も昭和19年2月、同じマーシャル諸島のクェゼリン環礁で戦死した。
721718:2001/08/19(日) 07:17
>>720
ご指摘ありがとうございます。
祖父も亡くなって久しく、うる覚えにて申し訳ありません。

この方(祖父の兄)のことは生前、祖父からよく聞きました。
気難しかった私の祖父が、「尊敬していた」と言っていたのを思い出します。
当然遺体は返らず、今もこの島のどこかに眠っているはずです。
720さんのお爺様の弟様も同じマーシャル諸島で戦死されたそうですが、
日本を遠く離れた南洋の島々で戦い、そして亡くなられた人々を思うと、
ただ頭が下がるばかりです。

いつの日か、私はこの島を訪れたいと思います。
722名無し三等兵:2001/08/19(日) 17:22
親戚が近衛兵だったが。歩兵第●連隊から転属したんだとか。
723名無し三等兵:2001/08/19(日) 17:27
>715
ひょっとして、第14師団かね、あそこは大戦末期に爆撃うけて
うちのおぢさん便所にはいってて助かったっていってた!
72452型丙:2001/08/19(日) 17:33
じいちゃんじゃなくて、ばあちゃんの話で恐縮ですが
大阪大空襲のときばあちゃんは徳島にいたのですが
東の空が真っ赤だったそうです。
小学校のときの担任の先生は 奈良
にいたそうなのですが
生駒のほうから灰がたくさん降ってきたそうです。
駄文スマソ
725名無し三等兵:2001/08/19(日) 18:08
母の実家が漁業産業なので、親戚で戦争いったのは海軍が多い。
大叔父は、サイパン島で玉砕って、墓石に書いてあったけど
もしかして、南雲忠一の部下だったのかな?
726名無し三等兵:2001/08/19(日) 20:10
age
727名無し三等兵:2001/08/19(日) 20:21
うちの爺ちゃんは甲子園の近くで高射砲をやっていたとか。
728名無し三等兵:2001/08/19(日) 20:46
>709
うちのじいさんも警察官でした。しかも特高
戦中はそれなりにぶいぶい言わせてたらしい
が転勤の辞令がでたとき娘(私の母ですね)が病気になったので、
泣く泣く一般職(っていうのか)のおまわりさんにしてもらった
その時は俸給が下がったりといろいろ不満があったらしいが、敗戦で
かつての同僚が公職追放食らったりしているのをみて、人間何が幸いするか
わからんなーといってたらしいです。
729720:2001/08/20(月) 02:14
>>718
>>721
こちらこそ、丁寧なレスをいただき恐縮です。

>日本を遠く離れた南洋の島々で戦い、そして亡くなられた人々を思うと、
 ただ頭が下がるばかりです。
同感です。
昨年死去した祖父の弟は18歳で戦死したそうです。平和な時代に生きる私にはその
胸中を図り知ることは出来ませんが、さぞや無念であったろうと思います。

>いつの日か、私はこの島を訪れたいと思います。
祖父は昭和61(1986)年にクェゼリン環礁訪問を果しています。生前、もう一度
あの島に行きたいと申しておりました。
是非、大叔父様やお爺様のためにもその島で慰霊をなさって下さい。
730名無し三等兵 :2001/08/20(月) 02:32
>>727
>高射砲をやっていた
それは大変な技だ
731名無し三等兵:2001/08/20(月) 03:15
うちの爺さんは舞鶴に何年か勤めた後。
37部隊?に配属され、ルソン島に向かう途中
海南島の近くで敵の潜水艦に船を沈められたけど、上手いこと助かり。
その後、上海近辺の飛行場に転属され
そこで終戦を迎えたそうです…
732名無し三等兵:2001/08/20(月) 05:04
>>731
731GETおめでとう。
733名無し三等兵:2001/08/20(月) 05:23
白団
734名無し三等兵:2001/08/20(月) 10:56
父方のじいさんは工学博士で運輸省(当時の名前は知らない)の技官だったので、徴兵されなかった。
一度チンタオに港の設計に行ったことがあると言っていた。
終戦が近くなって九州大学に移ったので東京大空襲を逃れたらしい。

母方のじいさんは海軍少尉、本土決戦に備えて九州に配備されていたので、実戦を経験する前に終戦。
735CUE:2001/08/20(月) 11:27
うちの父は陸軍の飛行場守備隊にいました。満州です。
736名無し三等兵:2001/08/20(月) 11:39
親戚が昭和19年海軍兵学校入学。
当然実戦経験なし。戦後大学入って企業を戦場に活躍。
まあこれも日本のために戦ったことになるのかな?
737名無し三等兵:2001/08/20(月) 12:06
軍属・技術科技師
連合艦隊所属第十一設営隊に所属
昭和17年6月にガダルカナル上陸。
臨時滑走路の整備を7月に終えた後に8月に米軍の空襲
と上陸前後に負傷の為、輸送船で脱出。フィリピン経由で
横須賀上陸後、終戦まで技術教官として過ごす。
戦後、警察予備隊を経て定年まで自衛隊の技師として所属。
と言うが、いまいち不明の点多し…
738名無し三等兵:2001/08/20(月) 12:09
祖父の名は貴三郎といいます。
739 :2001/08/20(月) 12:40
俺のじいちゃんは中支にいったらしい
貴様、何になりたい?
はい、歩兵になりたいであります!
と答えたらしい

会社の社長のおやじは終戦時○軍の大将
名前書いたら会社名バレそうなんでやめとく
740無礼者!余は皇太子だ!:2001/08/20(月) 12:45
もう、忘れたい過去
741ななし三等兵:2001/08/20(月) 13:24
父方の曽祖父:農学者だったので国からの命令で大陸や痩せた土地でも育つ作物の研究をさせられていた。
父方の祖父:まったく不明だが南方戦線で従軍中船を沈められたが運良く助かりそのまま終戦。
母方祖父:一番俺が話を聞いた人だが長くなるので従軍記録だけ記載します
     香港・南仏印・荊州・一旦除隊・平壌(終戦)
     従軍中の話を聞きましたが祖父の結論は戦地では上官の言うことなんか聞かなかったそうです。
742名無し三等兵:2001/08/20(月) 17:09
俺の場合は親父なのだが
支那事変から従軍していたらし
「軍通信の通信兵」だと威張っていた。
「南京事件はしょうがなかったんだ」
「南京城を包囲して48時間後に無差別攻撃を加えると」
「通告したのに支那軍は籠城してたから...」
とか言ってた。
途中南方に転進して(ニューギニア方面の小さい島)
軍通信なのになんでへんぴな所に行くんだど聞いたら
激怒して「各部隊が南方の島々に分散配置したんだから
司令部も例外じゃない」と言ってた。
自慢話は
「一時通信出来なくなって海底ケーブルが切れたのかと思って
海岸まで見に行ったら軍通信のケーブルのすぐ横に師団通信の
ケーブルがいつの間にか敷設されていた」と言っていた。
どうも混信するらしい。
「師団ケーブルを敷設した将校に文句を言って除去させた」
どうも上官を脅したのがよっぽど嬉しかったみたい。
当時俺は師団と軍の関係がわからず話が見えなかった。
で何個師団で軍になるのだ?
743名無し三等兵:2001/08/20(月) 18:01
満州で女子を犯しては殺し〜の繰り返し
744名無し三等兵:2001/08/20(月) 20:15
age
745nanasi。:2001/08/20(月) 20:18
おひさしぶり。おいしい。
さきほどはありがとうございました。しかし、また疑問が増えてしまいました。
xの変域が0≦x≦1なのに、aの変域はa≦0や1≦aがあんですか?
x=aでは?
それと、2次関数y=2ax−x二乗(0≦x≦1)の最大値を求めよ。がわかりません。
詳しい、解説、を願いします。
746名無し三等兵:2001/08/22(水) 02:34
>>742
>「南京事件はしょうがなかったんだ」
このぶんせつからいくと、南京での話はあったのですか?
無かったのですか
まぁ、人数はでっちあげでしょうが
747名無し三等兵:2001/08/22(水) 03:32
うちのじいさんは、シナいったよ。で、帰ってきてお役所勤めてたけど
終戦間近にまた呼ばれて沖縄戦に向かってたんだけど玄界灘で
足止めされてそのまま終戦を迎えたんだって。
 機関銃持ちで重たいわ、しんがりやらされたで、愚痴ってたけど5年前他界。
748747:2001/08/22(水) 03:36
そうそう詳しい部隊は知らないけど姫路は「鷺」だの岡山は「烏」
だの言ってたな・・・・。じいさんは「烏」とか言ってた。
 まだガキだったからよく覚えてないんだけど、まさか童話の中の軍隊じゃないんだから
烏隊とか、メルヘンな部隊ないよな(ワラ
隠語みたいなモノだったのかなー。
749名無し三等兵:2001/08/22(水) 03:55
>>746
742さんじゃないけれど、前後の流れからすると南京攻城戦
そのものの事を言っている様に思う。
750名無し三等兵:2001/08/22(水) 04:25
石油会社を経営していた
戦争の事は何も話してなかったけど
重責だったと思う
751名無し三等兵:2001/08/22(水) 05:02
曾祖母の兄
京大卒後すぐ日露戦争野戦鉄道車輌班長(軍属・中尉待遇)として出征するも乗船した佐渡丸が撃沈。
児玉総参謀長に車輌責任者として随行した時はかなり緊張したと後年のエッセイに記述。
九死に一生を得、その後満鉄参事役技術研究所長→大連市会議長となる。

母方の大叔父
自動車免許なのになぜか大発艇長となりツルブへ。兵員物資の輸送を行う。
しかし撤退となり、めでたくマラリアの体でラバウル島1200キロを横断。

母方の祖父
専門学校で電気工学を専攻していたため、瀬戸内海洋上で電探による索敵に従事。
角度30〜40度しか探知できないレーダーに不満を持つ。
752752の続き:2001/08/22(水) 05:21
父方の祖父
化学会社勤務のためなぜか衛生兵となり平壌でまたーり軍隊生活。
食いたいものを腹一杯食い、上司の軍医とだべり、夜はキーセンを上げる。
終戦時平壌では軍人はジュネーブ条約で優先的に帰国できる説と
シベリア送りになる説が上がり、多くの軍人が前者を信じる中
軍医は「協定違反でつっこんできたソ連が今更ジュネーブ条約なぞ守るか」
と民間人に化けて逃げるように勧め、祖父はそれを信じて朝鮮に1年留まって帰国。
曰く
「軍隊は要領。特技を生かした兵種につけ。とりあえず歩兵は最悪」
「名誉の戦死も空襲で死ぬのも同じ戦争の犠牲。兵隊だけ偉いわけじゃない
死にランキングつけるのはナンセンス。小泉は武道館だけ行けばいいだろ」
「死にたくないが兵隊やってる以上いつかは死ぬと思った。
けど死んだら靖国に行くなんて考えた事も無い。死んだら仏になるのが当然」
ちなみに祖父の兄は戦死ですが、今年靖国に初めて逝くと言うので
「宗旨替えしてお兄さんの弔いに行くの?」と聞くと
「テレビで毎日ニュースやってるから、どんなんだか見物しに行ってくる」だとか。
こんな祖父を許してやって下さい。
753阿呆:2001/08/22(水) 05:25
うちの祖父の祖父は天皇直属の近衛兵だったそうで
写真をみたら白い馬にまたがってカコヨカッタ。
しかし末裔が2chのくだらないスレに朝方に書き込んでるなんて・・・
・・・・か・い・か・ん・・・・
754名無し三等兵:2001/08/22(水) 06:14
かぜのなかのんがつ〜
ほすくずのんらめき〜
みんなどこえいった〜
みまもるひともなくて〜
755名無し三等兵:2001/08/22(水) 09:45
田舎に帰ったとき戦車と写ってる写真を見た。
陸軍だったんだろーなー。
ちなみに鹿児島です。
756名無し三等兵:2001/08/22(水) 10:38
>>748
姫路城が白鷺城
岡山城が烏城
と呼ばれたことに由来するのでしょう。
姫路城は要塞という観点で見てもなかなか良く出来てる。

#うちの爺さんも烏でした(笑)
757名無し三等兵:2001/08/22(水) 12:32
あげ!
758名無し三等兵:2001/08/22(水) 13:00
>>752うちの爺さんの兄も似たような境遇で、同じようなこと逝ってた。

中国で捕虜になってたとき、一日分の食料が片手一杯分の米と岩塩
少々だったそうな。当然それではたりんから、地元の人と物々交換で
手に入れてたって。メシの量は条約違反だな(ワラと語ってた。
爺ちゃんじゃなくてその兄の話だけど。

爺ちゃんが内地の少尉で、兄が外地の伍長だったかな?
2人とも徴兵。
759極東ロシアSu27:2001/08/22(水) 15:45
2年前に旅先の北京で会ったおじいちゃん(大分県宇佐市の人)は,第23師団所属だったそうです。
昭和19年頃にルソン島かレイテ島のどちらか(どちらだったか忘れてしまいました)を転戦したそうです。
「空襲よりも艦砲射撃の方が遥かに怖いよ」と何度も強調されていました。
結局,米軍に押しまくられて敗残兵として逃げ回っていたそうです。
第23師団というとノモンハン戦のイメージが強いのですが,フィリピンでも苦戦したんですね。
何と不幸な師団かと気の毒になりました。
760名無し三等兵:2001/08/22(水) 16:28
うちの祖父は憲兵だったらしいですね
たまに会話の断片から判明なのですが
自分がチキンのせいかそこから詳しい話は聞けません
祖母も聞いたことが無いという話ですから
多分ずっと聞くことは出来ないと思います
761名無し三等兵:2001/08/22(水) 18:39
ウチの爺さんは愛知出身で・・・・・
いわゆる南京のアレに参加しています

が、今でもよく涙ながらに語ります
確かに殺しはしたがそこまではやってない・・・と

中帰連には戦友が沢山居るそうですけど
戦後会いに行くと別人だと思った人があまりに多いとか

一昨年、永眠しましたが遺書には南京の真実を語り継いでくれと
ありました
762名無し三等兵 :2001/08/22(水) 20:22
みなさんのじいちゃんの家に総理大臣から送られた
感謝状みたいなの無い?
私のじいちゃん、がくに入れてます
先の大戦では〜、大変ご苦労され〜 みたいな文面だったと思う
763名無し三等兵:2001/08/22(水) 20:37
子どものころの火傷が原因で戦争にいっておりません。
田舎で炭焼きしてたって。
764名無し三等兵:2001/08/22(水) 20:43
海軍の上等兵だったそうです。
ミッドウェイいったり、ガタルカナルで陸戦隊になったり、
菊水作戦で雪風乗ってたそうです。
765名無し三等兵:2001/08/22(水) 21:04
おれの爺さん、陸軍所属だったらしい。

戦地はシンガポール方面だったって聞いたな。

退役時には少佐だった。
766名無し三等兵:2001/08/22(水) 21:10
>>764
転々としすぎ。嫌われ者か?
767ななし三等兵:2001/08/22(水) 21:31
>>752
741だけどうちの母方の爺さんが正にその話と同じ事を聞いてシベリア送り説を信じて生還しているよ。
シベリア送りの汽車に乗せられる直前同じ部隊の者と示し合わせて逃亡を計画して成功したらしい。
確かに死んだら仏だよね。
768名無し三等兵:2001/08/23(木) 00:58
>>759
ルソンでしょ。
高木俊郎が本書いてる。
769名無し三等兵:2001/08/23(木) 15:57
age
770名無し三等兵:2001/08/23(木) 16:16
age
771じーちゃんは准尉であります:2001/08/23(木) 18:20
だいぶ前に、うちのじーちゃんに、「どんな戦闘機乗ったの?」ってきいたら、
「隼、飛燕、零戦・・・・」
って、これどういうこと?
当時は消防で知識無かったけど、今思うになぜ陸軍機と海軍機が?
もう確かめられません。
ちなみに、洋上で被撃墜の生還者ですが、泳いで帰ったと言ってい
ました。

なんか知っている人いない?
772752:2001/08/23(木) 19:25
>>758 >>767
やっぱり同じような境遇や考え方の人っているんですね〜、感慨。

ひいばあさんのお兄さん間違ってた。
彼は日露戦において輸送車輌の責任者だった。
児玉大将が司令部と第3軍を往復していたというのは
軍板住民によく知られた話だけど
児玉大将が乗ると必ず車輌事故が起きるというので
かなり萎え、部下たちと「事故親爺」と陰口を叩いていたらしい。
他にも梨本宮、伏見宮、桂太郎、伊藤博文の死体など
色々な貴賓の満州横断に車輌責任者として
満鉄副総裁と共に随行したそうな。
773名無し三等兵:2001/08/23(木) 20:25
>>748
詳しいことはいま手元に資料がないのでわかりませんが
師団の通称ではないでしょうか?
ほかにも「鯉」(第5師団でしたっけ)とか「祭」といったものがあります。
774名無し三等兵:2001/08/23(木) 20:45
うちのじいちゃんは、親曰く商船!でも
同じ船名の擬装船を「丸」にて確認・・・
非戦闘艦に乗っていたと思ってたから見つけてびっくり!!
775ZB26:2001/08/23(木) 21:13
母方の伯父さんは第6師団都城第23連隊に入隊。
昭和17年1月の中国戦線で,斥候として行動中に敵機関銃の連射を食って戦死したそうです。
母親に「中国のどの辺なの?」と聞いたら「中支」と言うことで,具体的な地名はわかりません。
どなたか,戦史に詳しい方で,上記の部隊・時期から地域を推定してくださる方はいませんか?
776ななし三等兵:2001/08/23(木) 21:30
>>775
多分その時期なら上海派遣部隊じゃないかな?
777マウス:2001/08/23(木) 21:49
俺のじ−ちゃんは通信兵だッたそ−な
んで本国から八丈島へ飛行機で向かう時
途中、グラマンがいかく射撃してきたとゆ−
話しを聞いたことがある
778ZB26:2001/08/23(木) 23:38
>>776
ありがたふござひました。
母親を冬にでも連れて行きます。その上海派遣部隊について概要等がわかれば
教えてください。
779名無し三等兵:2001/08/23(木) 23:40
関東軍かなんかで対中戦争やってたってさ。
機関銃かついでた軍曹らしい。
780ななし三等兵:2001/08/24(金) 21:52
>>775さん
多分以下の編成だったと思われます。
第6師団谷寿夫中将・歩兵第36旅団牛島満少将・歩兵第23連隊 岡本鎮臣大佐
781名無し三等兵:2001/08/24(金) 22:57
母の叔父が蒼龍に整備兵として乗っていました。
ミッドウェイの直前で下りていて命拾いをしたようです。
782特務曹長:2001/08/25(土) 00:03
母方の祖父は高知44連隊に入隊後衛生兵として独立混成5旅団(桐兵団)に配属満期除隊後いったん帰国後再度召集今度は第55師団衛生隊に召集されビルマに行きそこで終戦を迎えてそうです中国の話は家族によくしたようですがビルマに話はあまりしなかったようです
783名無し三等兵:2001/08/25(土) 00:41
>>782
55師団は師団長がウルトラDQNだった部隊だ。
激戦に従事した部隊でもあり、あまり話もしたくなかっただろうな。
784名無し三等兵 :2001/08/25(土) 01:25
>>775
亡くなったうちの祖父さんも都城二十三連隊で伍長か軍曹だった。
ブーゲンビル島で終戦を迎えたようだ。
この島は激戦地で部隊はほぼ壊滅状態。
祖父さんは命からがら生き延び、ジャングルを逃げまわっていたらしい。
米軍が井戸に毒を入れたので雨水を飲んですごしていたと言っていた。
そういえば腹に貫通した銃創があったな。
785ZB26:2001/08/25(土) 17:27
>>780
ななし三等兵様ありがとうございました。凄い知識ですね。
それとお詫びなのですが,戦死の時期が間違ったいました。実際は,
昭和18年3月だそうです。申し訳有りません。

>>784
どこもそうでしょうが二十三連隊は,地元では勇猛を謳われています。
しかし,南方の補給もない戦線では流石に苦戦したらしいですね。
無くなった英霊に合掌。
786名無し中隊長:2001/08/25(土) 22:35
age!
787名無し三等兵:01/08/26 19:35 ID:ycUf8Qn6
age
788中国留学生:01/08/26 20:37 ID:gWBbamys
曽祖父が張作霖とともに爆殺されました。
789名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/08/26 23:35 ID:DnUADan2
うちの祖父は観音寺の師団だったそうだが、師団名はよく判らぬ。
もしかしたら広島だったかもしれん。

グアムからラバウルに行って、インパールに投入されたそうな。
うちの祖父はラバウルで負傷して、そのまま除隊になったが、
インパールに行った人たちは、殆どが戦死したそうな。
790名無し三等兵:01/08/26 23:49 ID:JG2uz2mw
私のじい様は第一師団・佐倉連隊、よく知られているように
レイテ島です。詳細は全く不明ながら補充兵として原隊を追ったので
レイテにつく前に海没した可能性が高いと思う。
親戚の多数が同じ佐倉部隊に配属されたが南方に出陣した
人で生還者は一人もいない。
唯一出陣の2週間前に軍医の試験に合格して軍医学校に
進んだ人だけが生き延びた。
791名無し三等兵:01/08/26 23:55 ID:4zlL9EZM
うちの祖父は憲兵隊で満州などにいったそうですが、あまり話したがりなせんでしたね。
なにか嫌なことがあったみたいで・・・
その弟もシベリアで抑留されてて、凍傷で左足の指が全部欠けてます。
792名無し三等兵:01/08/27 00:41 ID:IjhAsW2c
うちの祖父さんの兄貴が憲兵だったって。なんでも仏の憲兵って言われてたんだって。
頭が良かったらしく、獣医(軍馬のね)か憲兵か迷ったらしいんだけど憲兵の試験受け
たとか。獣医になっときゃ良かったのに・・・。
何でも試験に落ちたら自殺する気だったらしく、ペンの尻のトコに青酸カリ(ペンキ工
場かなんかで貰ったらしい)を入れてたんだって。
そんな大叔父もつい五日前くらいに亡くなってしまった。合掌。
793名無し三等兵:01/08/27 04:55 ID:SdQQinHk
ウルップ島守備隊。
終戦でソ連に抑留され、ウルップ → 樺太で
強制労働。
23年、帰国。
時々、当時の話を聞くことあるけど、実に淡々と
話すんだよね。だから余計に胸を衝かれるのよ。
794大叔父はピアノ弾いていた:01/08/27 05:18 ID:2iy4OJRA
大叔父が海軍航空予備士官。
レイテおいて神風特別攻撃隊「大和隊」指揮官として戦死。
(当時海軍中尉・死後2階級特進で少佐)
関行男大尉より以前に特攻に出撃したが、
直衛機による戦果確認がなく、軍令部発表は関大尉より後になる。
神風特別攻撃隊の戦死公報では1番先頭に名前が書かれているのに、
旧・海兵出身者からは特攻隊1号扱いされていません。航空予備士官の側からは、「あいつが本当は1号だ」と言われております。海軍出身でも海兵卒の人の本や論文では、関大尉が1号、その他では大叔父が1号扱いになってます。
795名無し三等兵:01/08/27 07:43 ID:0846emMY
母方 徴兵されて満州へ その後近衛師団にいたとか そういうことあるのか?
父方 祖父は大地主だったので、免除なんもしてません
父方の分家 神風特別攻撃隊で戦死

>>794
戦果が確認できなかった(未帰還)だけで、関大尉じゃないみたいですね。
たしか、神風特別攻撃隊零の男とかいう本がありましたよ
796名無し三等兵:01/08/27 10:01 ID:fZ.YrG5Q
よくわかんないけど中隊を満州へ行った。
その後すぐに日本に戻って陸軍士官学校で教えてたらしい。
でもそのあと自分の部隊がどっかの島で全滅しちゃったらしい。

・・・もっとちゃんと聞こう。

今は自衛隊の世話してる
797796:01/08/27 10:02 ID:KyVTfDts
職業軍人だったとか
798名無し三等兵:01/08/27 10:06 ID:KyVTfDts
ひーじいさんは近衛兵だった
799大渦よりの来訪者 ◆8An/neko :01/08/27 10:34 ID:0.rMnTGU
友人の祖父に当たる人物が中国戦線で悪戦苦闘した人で、
補充兵をつれたまま中国大陸を約一年間ぐるぐる歩きつづける、
という羽目に陥った人だったらしい。
で、「幻の鉄兵」と言う本の作者。孫である友人に譲っていただいた。
しかし、こういった戦友会の出しているような本を、
軍オタとして中途半端な人間が貰ってしまっても良いのだろうか…。
くれた当人は、「興味がある人間が持っているのが一番」と言ってくれるが…。
800名無し三等兵:01/08/27 16:19 ID:XIqCQTlg
age
801初孫:01/08/27 17:07 ID:agQ56Z8s
格闘技板からきました。
うちのじーさん(故人)は情報局特務大尉だったらしい
東宮大佐付で強行輸送や諜報活動に従事していたらしい
802名無し三等兵:01/08/27 17:13 ID:7h8YnRj6
うちのじいちゃんは父母両方共にどちたも兵役にはついてなかったみたい
体、弱かったんだ
803名無し三等兵:01/08/27 20:44 ID:dY9/bdNQ
38連隊
804名無し三等兵:01/08/27 20:49 ID:sk3nQElM
少年兵で神戸のほうで掃海艇に乗ってた
805こんなもんで:01/08/27 21:16 ID:r6eha5DU
父親
海兵78期。
大村連れて行かれ、数ヶ月で終戦。

大叔父
東北帝大医学部で陸軍嘱託学生。
軍医少佐で終戦。
終戦時は高崎陸軍病院勤務。

あとは知らん。
きっと、一兵卒だったんでしょう。
自慢話、聞かないもん(藁
806名無し三等兵:01/08/31 07:52 ID:pIXh0BZ2
age
807名無し三等兵:01/08/31 09:29 ID:oQA1wynk
関東軍で表向き通訳をやっていたらしい・・・
808名無し三等兵:01/08/31 10:59 ID:1lbem4CI
>807
それって拷問係?
809名無し三等兵:01/08/31 11:22 ID:2gl8/q2o
俺の親戚のおっさんは空母瑞鶴(いや、翔鶴だったかも・・・)にのってたらしいぞ
整備士だってさ
珊瑚海海戦のときも当然いたらしい
いろいろそのときの事を聞いて楽しかった
810名無し三等兵:01/09/01 03:55 ID:a7TNq6iY
祖父は第九師団管区出身で、終戦時台湾にいた。
ということはやはり九師団らしいが、沖縄にいたという話を聞かないし
台湾に移る途中、輸送船が1隻をのぞいて悉く撃沈されたという。
九師団でそういうことはあったのですか?
811名無し三等兵:01/09/01 04:01 ID:N/XS95Vk
横須賀海軍工廠
812名無し三等兵:01/09/01 22:12 ID:SlYinqaU
>809
 その時の話しいろいろ聞きたい物ですな!
813:01/09/01 23:29 ID:XXgTlti.
うちの爺ちゃんは、シナで騎兵隊に所属していた。
突撃して足を鉄砲で射抜かれて帰還したそうです。
814名無し三等兵:01/09/01 23:46 ID:onLvcm36
漏れのばあちゃん(数年前に天寿まっとう)は応召陸軍上等兵の
じいさんと見合い結婚する前に重巡高雄の下士官とつきあってた
ことが自慢だった。
「なんたって、海軍さんだよ!」
ってね。
815名無し三等兵:01/09/01 23:50 ID:onLvcm36
>>814
エスだったのか。おめーのばばあ。
816ハルゼー機動部隊:01/09/04 11:51 ID:duq08qNI
爺ちゃんは「風船爆弾の制作を指揮して、あわや戦犯になりかけた」が口癖
将校だったらしいが、あんまり軍人時代の話は詳しくは語ってくれなかった
817名無し三等兵:01/09/08 22:46
age
818名無し三等兵:01/09/10 01:42 ID:R5yg9n1c
漏れのジイ様は、陸軍の輸送部隊でフォードのトラックに
乗ってたそうだ。
自動車学校の教官みたいな感じで、エンジンの構造とか
教えてたとか言ってたな。
復員後、自動車免許取った時、おかげで実地試験は免除
だったそうだ。
819名無し三等兵:01/09/10 02:05 ID:8EIHcAi.
母方のオジイはラバウルにいたそう。
父方のオジイは終戦まで生き延び、南方からの期間途中乗っていた
フネが沈没(詳細不明)。遺品も無く葬式をすませた約2週間後
ひょっこり帰還。大騒ぎになったらしい。最終階級は曹長。

両人ともみまかった後なので、細部不明。
820名無し三等兵:01/09/10 03:43 ID:iop5yzrA
うちの爺ちゃんは足撃たれて捕虜になったそうだ。
詳しくは聞いてない。今は寝たきり。
821名無し三等兵:01/09/10 03:53 ID:7bxaq4lQ
うちの爺ちゃんは近衛師団で中国戦線。近衛師団って
とっても名誉なんだって。最終階級は曹長。職務は
暗号。
822名無し三飛兵:01/09/10 04:46 ID:rmbsOkk6
 最近知ったんですがうちの祖父の弟で
騎兵として北支に出ていた人がいました。
 まだ生きていてしっかり話もできるのですが
戦争の時の話を始めると止まらなくなるそうで
他の親戚はあまりその話題には触れないみたいです(藁
823uhhh:01/09/10 07:35 ID:cWKVJscQ
山本五十六を送り出したそうだ、戦死の知らせも一番早く聞いたらしい。
部隊はわからん。
824名無し三等兵:01/09/10 09:12 ID:ta1MFW2E
731部隊にいたらしい。詳しくは知らないが。
825ハルゼー機動部隊:01/09/10 11:04 ID:qTNTLu4g
>>823
在ラバウルか、ラバウル近辺の島の部隊なのは間違いないだろう
826名無し三等兵:01/09/10 11:08 ID:bb9577.6
母方の祖父は北支に、父方の祖父は南方に居たらしい。
どちらも令状もらって出征。詳細不明。
827名無し三等兵:01/09/10 11:20 ID:NQCgvJhM
うちのじいちゃんは戦艦武蔵の通信係だった。家には武蔵の模型がかざってあるよ。
日本刀もたまに手入れしてる。家には戦争の写真集がたくさんあって、沖縄戦が多かったよ。
828 :01/09/13 11:15 ID:6sWocka2
父方の祖父は広島の海軍兵学校に入学したみたい。
艦長になってイタリアとか行ったて。
当時、日本が野蛮だとか馬鹿にされないように、海外に行くときは
テーブルマナーとか厳しかったみたい。
日本にいるときは小笠原礼法とか言ってたかな・・?
ビリヤードが得意だったらしいけど、もう死んじゃった。
829名無し三等兵:01/09/16 13:12 ID:tjOyNr/c
うちももっと色々聞いておけばよかったです。
戦艦に乗ってたって話は聞いたことあるんですが、
艦艇ならなんでもかんでも戦艦って言う人って多いから。
830名無し三等兵:01/09/17 21:10 ID:RmBdORFo
名スレ保全
831名無し三等兵:01/09/21 00:10 ID:yTNn/gdo
age
832名無しさん@お腹いっぱい。:01/09/21 00:33 ID:eWM6zisg
曾祖父が、重巡洋艦に乗っていて、南の海でアメリカの潜水艦に
沈められた、と祖父が言っていました。当時の階級は少佐か中佐で、
三十六、七での死だったそうです。小さい頃に聞かされた話で、
祖父も亡くなってしまったので、何という船に乗っていたのかも、もう分かりません。
もっと聞いておけば良かったという意見に激しく同意。残念・・・。
833名無し三等兵:01/09/21 00:35 ID:CFx./9iE
これはいいスレだねー
全部読むのに疲れましたが・・
自分も早速調べてきます。
834名無し三等兵:01/09/21 00:39 ID:e.mFIP62
うちは陸軍関係ばっかり。
海軍って徴兵ではとられないの?
835名無し三等兵:01/09/21 01:14 ID:ddVF/oaY
ひいじいさん
某藩士→屯田兵→旭川第7師団(日露戦争で広島大本営まで南下)それで終り
じいさん
徴兵期間のみ上等兵で終り
親父
陸士・海兵無理やり受験させられ合格するも旧制高校行って終戦
おれ
ただのリーマン
下級武士の家系とはこんなもんです。
836通りすがりの者:01/09/21 11:15 ID:0YS9MybE
伯父はニューギニアに連れていかれてマラリアで死にましたが、遺骨も遺品の一つも
帰ってこなかったさうです。
親父は昭和20年1月に招集され樺太で暗号電文を受信する部局にいたさうですが、
その後転属になり大阪城で宿営中、広島に原爆が投下されました。
それから、2,3日後に広島市内で治安維持活動をしたそうですが。詳しいことは
親父の口から聞いたことがありません。数少ない親父の戦友の話では、遺体の収容
作業だったようです。
親父にとって20歳で体験した惨状を忘れたかったのか、かつての戦友ともほとんど
付き合いが無かったようです。
837名無し三等兵:01/09/21 12:06 ID:9MrdPjRs
うちの死んだジジィは海軍の潜水艦のボイラー係だったそうです
でも雷撃機に撃沈されたらしいです、生きてる時その話をたまにしてました
838うちは:01/09/21 12:15 ID:2aIiXIuI
じいさんは陸軍の職業軍人で、ノモンハンにも出ていた。
このことは多く語らないが、その後、大陸を転戦し、運良く内地に帰還し
敗戦まで若松で穴掘り指導
839名無しのすーぱぁまん:01/09/21 12:31 ID:QKstGe6E
うちの祖父は、海軍陸戦隊で、八丈島に駐屯してました。 そこで、たこつぼ掘ってたら、終戦だったとか・・・
840ななし:01/09/21 12:36 ID:nj5Ne/8Q
叔父さんはボルネオ島で戦死した
841名無し三等兵:01/09/21 12:44 ID:rNVv/Q/A
>>837
う〜ん、ネタなのかなぁ。
潜水艦のボイラーって?撃沈されたって・・・
842防人:01/09/21 12:56 ID:2BCkVmGM
うちのじいさんは、十四師団(関東軍)で満州にいました。
ソ連参戦時の戦闘で捕虜となりシベリアに6年抑留していました。
843 :01/09/21 14:11 ID:xxZoG6Xw
ビルマ行ってたそうです。
今でもミャンマーのことビルマって呼んでます。
844名無し三等兵:01/09/21 18:55 ID:zUu9UBDM
祖父は小倉の高射砲陣地にいたという。
農家の戸主だったため帰農を命じられ家に帰ったら
小倉の陣地やられちまったと。

母方の祖父は虚弱で軍に入ってない。
横浜空襲の後 様子見にきたら 焦げた死体がゴロゴロ転がってたと。
845名無し三等兵:01/09/21 19:30 ID:k1Q4pyaM
戦争中は「てんのう」って役職してました。
いまは知りません。
846名無し三等兵:01/09/21 19:31 ID:BGy.4HdA
ウチの爺チャンはスマトラいってたそうな。
陸軍の輸送部隊でトラック運転してたとか。
詳しい事は死ぬまで教えてくれなかったのでよくわからんが。
そういうの調べるところってあるんですか?
847名無し三等兵:01/09/21 19:37 ID:/peAS4HA
ウチの爺ちゃんは満鉄で機関車の運転してたらしい。
848名無し三等兵:01/09/21 19:45 ID:0z56f3LM
はやぶさ(?)って戦闘機乗ってたみたい
849 :01/09/21 19:47 ID:ZyEmIrKM
うちの爺は紫電改乗ってたかもしれない。
850名無し三等兵:01/09/21 19:48 ID:joPBQJ12
満州の警察。詳細は絶対に教えてくれない。

「はやぶさ」は、一式戦隼です。陸軍の戦闘機です
851名無し三等兵:01/09/21 19:50 ID:/DceR5lQ
朝鮮総督府の下の、日本専売公社だか塩専売公社。
あまり面白い話は聞かなかったけど、当時の軍票と円札、遺品でもってます
852名無し三等兵:01/09/21 19:53 ID:/DceR5lQ
>850
満州警察なら、おもしろそうですね。もちろん巨大官僚組織だから、
平和で普通の事務官、警備官ということもありましょうが、それなりの
謀略機関もかかえていたし、阿片、暗殺とかも噂話くらい、きいていたでしょうね
853yhvh:01/09/21 20:08 ID:KroRd07w
うちの爺ちゃんは背がたりなくて、「あんたは15におってがんばってくれ」
と言われたそうです。
爺ちゃんの弟は特攻にいってたんだけど、出撃の直前に戦争が終わって帰って
来たそうです。
婆さんの兄弟も2人中国に行って無事帰ってきました。
帰国したときにはたくさんの荷物を持っていたそうです。(支給品?
854名無し三等兵:01/09/21 21:21 ID:In9KBJnw
ウチの叔父は、中国(満州だったかな?)で騎兵隊みたいなのしていたとか。
そん時、上官に殴られて片耳聞こえなくなってしまったとか。
父から聞いた話なので詳細は不明。生まれた頃には既に鬼籍に入られていたんで。
帰ってきたとき、853さんとこと同じように、大荷物抱えてきたそうな。
その後、実家でマターリと農業と林業やってて、ガンで亡くなったんだけど
結構早期でガンだと気が付いていたにもかかわらず。「この命は戦友たちから
貰った命。元々、自分は戦地で死んでいた筈だから」とかいって、頑として
手術しようとしなかったらしい。
855名無し三等兵:01/09/23 15:35 ID:4s9hh9e6
うちのジジィは満州で情報がどうとか言ってたが、何部隊なんだ?
ボケちゃってるからわからん(ワラ
856名無し三等兵:01/09/23 18:40 ID:ZQ.u91vk
初めてここのスレにきました。そういえばうちの自慰ちゃんは、
どこにいったんだろ太平洋戦争時20代後半から30代全般ぐらいの年齢
場所は中国にも言ったしトラック諸島にも行ったそうです。
中国に行ったときは、中国の町は城壁に囲まれてて待ちから銀を
たくさん盗んできた。といってた。つぼに入れて城壁の外側に埋めたとも
言っていた。楽しそうに話してたが、内の母はそれは犯罪だよと祖父の
いないところで僕に言い聞かせてた。
 ところでどこの城壁に埋めてきたんじゃー。あと、中国人はめちゃくちゃ
弱かったとも言ってた。
 その後トラック諸島に行くのだがそこからは最悪だったそうな。捕虜の米兵がかわいそうだっ
たんで、逃がしてあげたりしたそうだ。
補給がないは環礁の内側には、米軍の軍艦がびっしり浮かんでたみたい。ねずみを食ったりして
生き長らえてたんだと。その後、米軍につかまって滑走路の舗装(土を固めただけ)
をしたそうだ。なかなか帰らしてくれないので、食ったら腹を壊す実を食って
伝染病を装って本土に病人として帰還したんだと。
 
857名無し三等兵:01/09/23 18:48 ID:ZQ.u91vk
856だけど、階級は、伍長だったとおもう。部下も何人(10人くらい?)かいたみたい。
いきてたらまた。詳しい話聞きたいけど。もう何年も前に死んでるから。
小学生のころの記憶がたよりなもので、かなり適当です。
858名無し三等兵:01/09/23 18:55 ID:ZQ.u91vk
俺思うんだけど。テレビとかで最近、神風特攻隊の話とかするじゃない。
なんか、かなり信用できないんだよね。あの人たち国のためとかこの上官の
ためならとか、やっぱり少しは思ってたわけじゃない。でも、うちのじいさんの
話を聞いてみるとどうも美化されているようにしか思えない。まず特攻隊
に選ばれたのは、かなりのエリートなわけで、一般の兵士とは、全然考え方も違う。
トラック諸島に行ったときは米軍との戦闘よりも、食い物みんな死んだそうだ。
恋人残してきたぐらいの年齢の人なら言いが。妻と子供がいたうちの爺は何が何でも
生きて帰ってこなきゃいけない。としか考えてなかったみたいだぞ。
859名無し三等兵:01/09/23 19:04 ID:ZQ.u91vk
足打たれる爺ちゃん多いな。まぁほか打たれたらもうこの世にはいないか?
というか俺も存在してないかな?
860名無し三等兵:01/09/23 19:19 ID:GfwmKL9w
>859
そういや、妖怪漫画で知られる水木しげる氏は手が一本無かったな・・
南方で兵士だったらしい。
861名無し三等兵:01/09/23 19:22 ID:ZQ.u91vk
>>752いや内の爺もそんな感じだったよ。歩兵だったけど......
...やっぱり最悪だったそうです。要領はよかったみたい。

ほらプラトーンのバーンズの腰巾着みたいな感じだったと思う。
性格からして。
862名無し三等兵:01/09/23 19:30 ID:mIhNM10I
私の祖父は憲兵をやっていたそうで、
満州に行き、戦車に乗ったという話を聞きました。
最終階級は伍長らしいです。
・・・これだけで特定するのは難しいですね。
後ほど祖父の遺した日記等で詳しく調べてみようと思います。
863名無し三等兵:01/09/23 19:44 ID:ZQ.u91vk
不思議なのは、孫のおいらには、そんな戦時中の話を語ってるのに
息子と娘には、そんな話しなかったみたい。おじさんに爺ちゃんが
生きていたときに、戦争の話を良く聞かされてたのでその内容を
話したがまったく知らなかった。なんでだろ、戦争が終わって
家族を養うために忙しかったせいもあるのかな?
864名無し三等兵:01/09/23 20:09 ID:ZQ.u91vk
しかし軍事版でまともなスレがあるもんですね。
865七氏:01/09/23 20:13 ID:tHh.QttM
祖父の弟は特務機関にいた。それで仏印に行ったという。
866名無し三等兵:01/09/23 20:16 ID:LZEw3QUA
俺の叔父さんは二人行った
一人は陸軍、一人は海軍
陸軍の叔父さんは軍曹で通信担当だったらしい。
インド方面の作戦に参加したらしいが、インパールには参加しなかったらしい
参加したら、たぶん死んでいただろうと言ってた。
塹壕線で移動中前の人と後ろの人が機銃掃射でやられたらしく
自分は運がよかったとも言っていた。
海軍の叔父さんは特攻に選ばれ、出撃したがエンジントラブルかなんかで
結局基地に戻り、次回の出撃を待つも終戦。
飛行機を埋めて隠したりしたらしい。
でも何故か写真に叔父さんと一緒に写っている飛行機は水上機。
867名無し三等兵:01/09/23 20:38 ID:iIdDiz7E
爺さんは満州にいて水道局だかに勤めてたらしいけど、
その後シベリアに抑留されてたとしか知らない。
10年くらい前に死んだ。
軍属の人達のみ抑留されたのだったら爺さんは現地で徴兵されたんだろうか?
生きてるうちに色々聞いとくんだったなぁ…。
868名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/09/23 21:03 ID:upFkj/qs
死んだと判るなら良いよ〜。
うちの婆さんの弟は、日本の銀行勤めで、満州の現地支店に転勤。
その後に徴用されて、行方不明。

その人、中国語が出来たので、満州軍の特務に徴用されてスパイとして
敵の地域に派遣されたらしい。
靖国に祀られるでもなく、軍人恩給が付くでもなく、残された家族は相当
苦労したようだ。

>866
水上機でも特攻は行われたよ。
何しろ赤とんぼと言われた練習機に250キロ爆弾を積んで特攻に行った
ものもあったんだから。
869友達のじいさん:01/09/23 21:05 ID:ZsZH9MSs
悪名高き731部隊の将校(医者)。
未公開の貴重な写真燃やしちゃったそうな。
870793:01/09/24 08:07 ID:eGBeWttU
そういえば、ソ連に抑留された爺さん、小隊長(少尉)だったらしいが、
ダモイしてからGHQに呼ばれたらしい。何事かと思っていってみたら、向
こうのソ連軍の情報提供を求められたとさ。
ソ連兵はさかんに、(得撫島の気候が)ハラショー。と言っていたらしい。
「奴らにとっちゃあ暖かくて快適な楽園なんだろう。だから北方領土なんか
まず還さないぞ、ロスケは。」と言っておりました。
871名無し三等兵:01/09/26 22:09 ID:7U5OEFy.
age
872名無し三等兵:01/09/26 22:19 ID:jorukYpM
祖母の兄が陸軍で100式司令部偵察機に乗ってたらしい。なんでもF6Fに追っかけられたことがあるとか。
873名無し分隊士:01/09/26 22:29 ID:g1r/C85k
秘匿名”灘9801部隊”ってわかる方おられますか?
ボルネオに駐留していた部隊です。
僕の祖父はそこの司政官->現地召集されたようです。
874名無し三等兵:01/09/26 22:42 ID:ELZnzahA
うちのじいさんは近衛兵として皇居を守ってた。しかし当然敵と戦う事など無いの
で、来る日も来る日も富士山で演習ばっかりやってたらしい。野戦砲部隊だった
らしいが当然上官も全然戦死しないので昇進せず上等兵で終戦になった。
875対潜5期:01/09/26 22:51 ID:JPLtMZPE
昨年死んだ親父。回天、回竜。
何故か生き残って天寿全ういたしました。
876名無し三等兵:01/09/26 23:02 ID:/xSYJ9I2
洩れの「ホントの」爺ちゃんは、写真でしか見たこと無い。
陣地で機関銃を前に胡座かいてる写真とか、巨大な城門に登って
皆でマンセーしてる写真とか。
あと、実家には南京占領記念の盃がある。洩れの「本当の爺ちゃん」
の形見だそうだ。
今のこる材料からみると、洩れのじーちゃんその時代にそこにいた様だ。
婆ちゃんは、戦争については洩れには何も語らず、6年前に召された。
877名無し三等兵:01/09/26 23:07 ID:nVb0a88o
うちの爺は軍需工場の工場長だったそうな。
だから、お年頃のはずなのに赤紙は来なかったらしい。
零戦の工場(三菱か?)だったらしいが、資料は全部処分してしまって、
何にも家族に話さないで10年前に逝ってしもうたわ。
全くもって残念。
そして、その息子(親父)は図工の時間にグラマン作っていたらしい。
零戦作れ、零戦を。
878名無し三等兵:01/09/26 23:07 ID:ai47JKH.
近衛聯隊も動員されなかったか?
879ハロゲン:01/09/26 23:23 ID:o3eiRywI
母方の祖父が陸の職業軍人(下士官)でした。
・過去二回失敗している満州-ソ連国境付近の密林調査に行き無事帰還。えらい人に誉められる。
・連隊(?)の射撃大会で優勝。連隊長から賞品としてブローニングをもらう。
・市場へ豚を買いに行ったら中国人の大金持ちと仲良くなって豪邸でご馳走してもらう。
・100式司偵の偵察員として出撃。エンジン故障で墜落するも3人とも無事でしばらく無人島生活。
いろいろ話してくれたんですけど断片的なことばかりですね。かなり壮絶な体験もしたらしいです。

あと、昇進試験(?)の作文で「花」というお題が出た時、祖父は「花は桜、桜こそ
日本軍人の…」という模範的な回答を書いて提出したのだが、何を勘違いしたのか
「花といえばチューリップ、チューリップといえばオランダ…」と書いた同期が
あとで滅茶苦茶怒られていたという話も笑いながらしてくれました。

「南方で食べたドリアンはすごく美味しかった」と言っていた祖父も3年前に鬼籍に入りました。
880ロズウェル@星の変人移民変:01/09/26 23:44 ID:3pF3LyUo
ほお、皆さんずいぶんと、貴重なお話
ありがとうございます。
で、自分の祖父は、満州で機関銃小隊で一等兵
…ということしか知らないです。
まあ、最初聞いたときは、なぜかランボーのように
マシンガンぶっ放す格好とダブったものですが
ぜんぜん違うっすね!!
自分は岡山出身(無論祖父も)ですが
で、岡山県出身の兵隊はせこくて要領が良かったと聞いて
激しく鬱になった厨房のころ。
881標定射:01/09/27 00:54 ID:Ye.pFu2s
自分の父は、生前ほとんど詳細な戦歴を語りませんでした。
かろうじて聞いた話から、砲兵かな?でも飛行機の話もあったし・・・程度でした。
体中に傷跡があり、勲章も二つほど残っています、職業軍人だったみたいです。

没後、恩給局提出の書類下書きを発見し確認したところによると、
野砲兵第22連隊(京都)から、野砲兵第21連隊を経て、(なんと!)第3飛行
師団に出向、飛行25戦隊(部隊番号が2〜7で家の電話番号と同一)で終戦。
積年の疑問が解けました。
どうして、危険な飛行隊に移ったのか知れませんが、結果的にはそれが幸運だった
ようです、原隊の砲兵連隊は、レイテとインパールで全滅していますから。
882特操:01/09/27 13:07 ID:c6ze2Ios
特別操縦見習士官というやつだったよ。
動員されたクチ。東条の「天皇陛下万歳」をスタジアムで聞いたのかな?
戦時のことを語らない。無理に教えてくれというのもね・・・
戦後はサヨとして活動。今は某地方の文化人?として公民館で公演やってたりする。
883名無しさん:01/09/27 13:17 ID:TflPRz4o
父の高校時代の担任が、矢矧の乗務員だったそうな。
沖縄の時には、たらふく海水を飲んだそうな。
884名無し三等兵:01/09/27 19:27 ID:w54oeRMU
うちは両親とも満州生まれ
どっちも一家揃って満州に行ったらしい
父方のじい様は建築家で満州警察の仕事もしてて、溥儀から杯を貰ったそうな
戦後は天井裏に隠れてロシア兵の取調べをやり過ごした。「俺は何も悪いことはしてない!」って言ってついて行ったきり帰ってこなかった同僚もいたようだ。
日本には中々帰れずにあっちに何年もいたんだが、運が悪ければ親父は残留日本人孤児だったかも。
885新城直衛:01/09/27 20:17 ID:AijSEHsc
親父は海軍兵科予備学生出身の元中尉・・・
「雑木林」の砲術士だったとのこと。
乗艦が沈んでマルヨンに廻されて、直に終戦だったとか。
886名無し三等兵:01/09/28 01:10 ID:hQb36bWQ

 鉄砲に実包を入れて報道関係の記者を護衛したとき始めて「戦争やったんやなぁ」と、
実感したとか・・・。ちなみに、その後中国でマラリアにかかり帰国、しばらくして 終戦となった
そうです。所属部隊がその後、アリューシャン(??詳細は不明ですが)に行ったそ うで殆どの
戦友は戦死されたそうです。(確か「暁部隊」だったかな??記憶曖昧)

 この話しは一度聞いたきりなんで、もう少し詳しく聞きたかったのですが聞く前に爺さんが
亡く なりました。


 母方の、爺さんは今も健在で戦時中は陸軍工兵工廠造兵局(あってるかな?)に居 たらしい
です。なんでも巨大な旋盤で砲身を削っていたらしく機械工作の話しには今でも詳し いです。
 高射砲の砲身だったかな??
 私が、工業高校の機械化に進んだのを一番喜んでくれてたのを今でも記憶してます。
887:01/09/28 03:31 ID:hQb36bWQ
忘れてた、爺さんは重慶に行ったと言ってました。
888イギ−:01/09/28 03:38 ID:yaTLXrbs
船長で海賊に襲われたことがあるらしい。
889あのー:01/09/28 04:03 ID:ohtGbyz2
>>887
をいをい(笑)、重慶に行けたのだったら日本兵じゃないぜ。

日本人なら共産党員か脱走兵か・・・他国外交官
890名無し三等兵:01/09/28 09:46 ID:McKNI6pI
うちの爺さまは 近衛師団にいたらしいです。中国へ行った近衛師団の連中は中国軍になめられ
るから 徽章をはずせと言われたそうです。近衛はどうも弱かったみたいです。肺病になって内地
に帰ってきて 再召集で宇都宮連隊で終戦で上がりだそうです。
891890:01/09/28 10:02 ID:inTEZuzI
>>878 874みたいに内地にいた 連隊とうちの爺さまみたいに中国へいった近衛連隊
もある 近衛連隊は何個か連隊があったので 運命がそれできまちまうのは ナエー
892名無し三等兵:01/09/28 10:08 ID:taknfDUQ
関東軍憲兵隊・・・・
残虐非道を尽くしたそうです。
戦後は中国との貿易をする商社を作り、経済発展に寄
与する事で贖罪してました。
893名無し@お腹いっぱい:01/09/29 03:11 ID:xyB1oYWE
うちの祖父は南方に3年間いたそうです。
どうも、嫌な思い出だったらしく、実際に聞いたのは、海南島にいたことがある。
飛行場を建設していたら、B−29を見た。前線に送られるはずだったが、
輸送船が撃沈されて、立ち往生してしまった。
海軍の陸戦隊関係で、舞鶴から出撃した。階級は最終的には准尉くらいだった
らしい。軍刀を持って写っている写真を見たことがある。(母の話。)

断片的な話くらいでスミマセン。
結局、祖父からは詳しい話を聞けないままに、鬼籍に入ってしまいましたが、
祖父の口癖は「軍人は嫌いだ!」だったそうです。
894名無し三等兵:01/09/29 04:45 ID:pZJpMWRk
爺さんじゃないのだけど、俺のばあさんの生涯は大波乱。
死んでから知ったのだが、ばあさんは日本人従軍慰安婦だった。(元々赤線にい
たらしい)
満州にいたが、ソ連侵攻で関東軍は逃亡。
ばあさんたちは自決用の手投弾と共に置き去りに。
だがばあさんたちは自分たちで逃亡を開始、その間知り合った中国人に保護され
る。
その後その中国人と結婚するが、国共内戦で国民党員の夫が戦死。
上海にたどり着いたときに、そこで爺さん(日本人)と知り合いやっと帰国。
帰国後に結婚。
親父が生まれたそうな。
親父もこの話は親戚から聞いたらしいから、細かい点は判らないけど、映画みた
いな人生だと思った。
昔の日本女性は強かったんだね。
895名無し三等兵:01/09/29 21:17 ID:DVbcOBtA
本当に色んな人生があるんですねぇ。
そうそう、うちの家系、殆どの対象者が学生兵役免除やなにやらで戦争行ってないです。
しかも父方母方共にッて言うのが…ネタにならねぇ…。
4回(つまり16年間)大学生してた奴もいるし。
特に兵役逃れではなく、法務官か外交官志望で色々研究してたらしいんですが。

たとえば。
母方のじいちゃん、元々体弱い上に理系大学生だったのでギリギリの時に
陸軍から召集が来たそうです。
しかし、行ってみて兵役検査を受け終わった時点で「お前なんか使えねえ」と
軍人さんに宣告され(結核持ちだったらしくて)研究室へ逆送還。
しばらくして、今度は海軍からお呼び出し。
今度は検査の途中で「兵器の開発でもしてろ。来んな!」と一発殴られて
帰ってきたそうです。
仕方がないから、大学で研究と小学校の代用教員やってたら戦争終わったみたいです。
しかも小学生より体が弱く、大学の軍事教練の時は軍備の中身を友人らが分担して
持っていってくれていたと言う悲しくもほほえましいオチ付き…。

例外として。
唯一、職業陸軍人で部隊長だった父方の大叔父は、大陸へ上陸作戦展開直前に船ごと沈められて
まだ日中戦争初期だったので、盛大な鎮魂祭ののち、ある寺に部隊全員の銅像が祀られているです。

こんな家もあるです。…っていうかそう言う人って他にいないんでしょうか?
戦後、じいさんは戦地に赴いた友人らに会うのが少し後ろめたかったそうです。
896名無しさん@眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/09/29 21:30 ID:8Bh8/hbM
>>895
うちの父方は色々ありました。
(ラバウルで空襲にあって負傷した上、マラリアに罹って、台湾の陸軍病院に
入院していたときに、知合いの医者に出会って、その人の口利きで内地送還
の決裁貰った口です。
お陰でインパールに屍を晒さずに済みました。
それでも、良く戦友会には顔を出していたみたいですけどね。)

母方の爺さんは、電炉メーカーの経営者一族でした。
「鉄は国家なり」の時代ですから、その経営に携わっていた祖父は、軍需省
関係に強力なコネを持っており、その伝手を頼って徴兵猶予を受け、お国の
ために働くように言われたそうです。

とは言え、良い時代は続かず、昭和20年の大阪空襲で(母曰く)大邸宅は
見事に灰になったそうです。
897名無し三等兵:01/09/29 21:45 ID:sg6dBVXc
>>896
君のお母さん、旧姓中山?
898ポツダム少尉:01/09/29 21:51 ID:o7xGTRiE
九○久○米の南方守備隊であります
陸士卒の差別に対抗するため途中から○野に志願いたしました
一年先輩に小○田少尉がおられたそうであります
899名無し三等兵:01/10/02 18:48 ID:pc4wJqTY
うちの大叔父のうち一人は大学出のため予備役将校に任官、第一師団(玉兵団)の野砲兵第一連隊に所属、セブ島で戦死。米軍の砲撃か火炎放射を受けたらしいです。

もう一人は歩兵で、終戦前後にタイ国内の野戦病院で戦病死。
900名無し三等兵:01/10/02 20:50 ID:cWTvxESw
母方の祖父は戦地には逝かなかった。
徴兵されて訓練中に終戦とのことだが、
要領が良く、二枚目だった祖父は上官から可愛がられ、
秘書のような仕事をしていて過酷な訓練は受けたことが無く、
食べ物や酒も上官から貰っていたそうです。
家が資産家だったことも関係あるかもしれないですが。
終戦直後の大変な時代のときも、楽しそうに海水浴してる写真があります。
サングラスをして俳優みたいでした。とにかくかっこよくて、
現代でも十分通用するくらい男前でした・・・

その奥さんとなる人は、(祖母)結構悲惨だったようです。富山に住んでいた
のですが、富山大空襲(1945、8、2)で姉が行方不明となり、
焼け焦げ、蝿のたかる死体ひとつひとつを確認して、姉を探し歩いたそうです。

今も二人共元気です。
901名無し三等兵:01/10/02 20:55 ID:ny8.aNOg
父方の祖父は、

九州で食いつぶして、大陸渡って、なんとか満鉄にはいって、ソ連参戦後応召、捕虜になって、ハバロフスクで病死

母方の祖父は、姫路の工兵連隊で山下中将のもとではしかけまくったあと、除隊
902873:01/10/02 21:00 ID:y5cxlWYs
祖母の形見の”愛國婦人会のたすき”があります.
祖父を南方ボルネオに送り出し,二人の子供
(母と叔父ね)を抱え,銃後の守りについていた苦労
を思うと涙が出ます.
903名無し三等兵:01/10/02 22:10 ID:y6g.Ta2I
オレの爺さんは、砲兵として満洲事変に従軍し無事帰還。 その後は佐世保の海軍工廠にて、武蔵の健造に携わっていたらしい。
904朝酒:01/10/03 08:08 ID:AtxzR4uc
爺ちゃんじゃないんだけど俺の父ちゃんの兄貴は満州に出兵して
最前線で(モンゴルの方か?)戦車の弾に当たってあぼ〜んしたって。

もちろん遺骨なんか残らなかったって。。。
905名無し三等兵 :01/10/03 08:24 ID:/qjr5ff.
俺の母方の爺さんの弟は行軍中に軍馬に蹴られて亡くなられ、「戦死」
扱い。父方の婆さんの弟は3人いたが、一人は船上の見張りで戦死
もう一人は「どうていこ(?)作戦」で戦死、もう一人も何故だか知らんが
戦死し結果的に三人全滅。「プライベート羅慰安」見て「そんな事有る
わけ無いだろ」とか思ってたが、身近にあるとはこの間までシラナンダ。
906名無し三等兵:01/10/03 08:33 ID:YcoPPZzc
もう、7回忌も済んだから、いいだろ。
父方の義理のおじさん、大阪4師団の、それも歩兵8連隊。
長かったらしいですが、最後はタイのバンコックから復員。
4師団は、南方総軍の総予備として、タイ南部に展開してたそうです。
弱兵で使い道ないと、もっぱらの評判で、持て余れてたそうです。
後でしりましたが。
叔父さんは、炊事軍曹してたそうで、たっぷり肥えてたんで、内地の
人たちは、びっくりしたそうです。
907名無し三等兵:01/10/03 08:48 ID:TNmc/.2k
母方の祖父。軽巡洋艦「球磨」というのに乗ってて沈没の憂き目に逢う。
船尾か船首の方向に傾いて沈んでいったが祖父は機関室かなんかに乗っていたので
海に飛び込む時間があったらしい。そして仲間数人とともに木片などにつかまって
海を漂う。お互い励ましあってはいたがそのうち傷ついたものから順番に力尽きて
おぼれてゆく。結局祖父を含めて3人ほどが救助される。
この話は本人から直接聞いた。

父方の祖父。20年6月召集。広島の大竹か竹田の海軍で救護兵?海軍だが船がない
ので、主な仕事は防空壕掘り。
908名無し三等兵:01/10/03 09:25 ID:mzcUmZAE
もうひとつ。
高校の時の、体育の先生。幹侯出身の陸軍少佐で、最後は大隊長だったそうです。
ほかの先生が、あの人が一番階級上だ、校長なんか上等兵だよ、いってました。
今から、考えると、あれは校長くさしていたのかな。
時々、戦争の話してましたが、ひとつだけ、いまだに覚えてます。
なんでも、北支で八路軍(中共軍)と戦っていて、村落に掃蕩の為
はいるときのことです。
よく、地雷が埋めてあって、危険なので、捕虜の八路兵(パーロと
発音してました)銃剣で追いたてて、安全確認したそうです。
そのときは、なんなく、聞き過ごしましたが、今となっては、凄い。
909名無し三等兵:01/10/04 10:03 ID:UE2.m3kE
906
ウチも第四師団だったよ。最初は内地の学校に分遣されて将校の馬番とかもやってたらしい。
それで905みたいな話だけど、
馬の身体検査の時じいさんの馬の後ろにうっかり並んだ兵隊が馬の後足に蹴られて
目玉が飛び出して死んだって。
「ありゃーわりことしたなぁ」
ってかなり悔やんでる。
そのあと元の連隊に戻ってからはやはり南方にいった。
終戦前は戦車に体当たりする訓練ばっかりしてたようだ。
なんか今でもじいさんが
「ボルネオ」とか「パナナ」とか言うと
普通の人と発音が違うような感じするよ。
910名無し三等兵:01/10/04 10:42 ID:p8jqcP9g
うちの家系は戦地にはいっていない。
ちょうど祖父も父も兵役年令外だった。

かよっていた大学の経営学の教授は、重巡洋艦「愛宕」の主計長だったそうで
戦闘時には艦橋にもよくいたそうな。
前から海軍に興味があったので
わざわざ教授の事務室まで行って個人的に話を聞いた(^^;)
「こんなことを聞きに来たのは君が初めてだ」とかいって喜んでいた。

第三次ソロモン海戦で、敵味方入り乱れての大夜戦を経験した。
敵駆逐艦が機関砲で撃ち込んでくるほど至近距離の戦いだったそうだ。

トラックで山本五十六長官にも会ったそうだ。

その後内地に配置転換したためなんとか生き残った。
それが無ければパラワン水道で撃沈されてたろうな。。。

生き証人の話は本で見るよりリアリティがあってよかった。
911名無し三等兵:01/10/04 20:08 ID:6ZGKSZXI
うちの祖父は肺の病気を患っていたため、最初は徴兵対象外だったらしいが、戦争
末期になってついに徴兵された。
入営するときは付き人が1人付いていき、祖父の父親が「もし最初の身体検査で帰
宅を命じられたらしばらく向こうで遊んで来い」と1〜2ヶ月は温泉で遊べる金を
持たされたそうな。
結局身体検査では引っかからず、入営できたので金は付き人に持たせて返した。
(当時は地主で、かなりの金持ちだったらしい)

入営後、各地を転々とし、大阪城にあった部隊の司令部通信隊に居た時は大阪城
の天守からB−29を見たと言っていた。
その後四国の八幡浜の陣地に転属となり、そこで終戦。米軍の放送と大本営の放
送をこっそり聞いてどっちが正しいんだろう、と同期兵と話していたそうです。

ちなみに外泊許可をもらって帰郷した帰り、列車で京都まで来ると大阪が空襲く
らって大混雑、いつ列車が出るか解らないので待合室で寝ていたら外出許可証等
の書類などを入れたカバンを盗まれた。切符と財布は軍服のポケットにいれてお
いたので無事だったが、駅にいた憲兵に報告したらこっぴどく叱られたらしい。
まあ、憲兵も忙しかったのか、さっさと基地に帰れと言われ帰ったが、基地でも
叱られたらしい。もっともすでに下士官だったので殴られずにはすんだらしいが。
もっとも、祖父は書類よりもカバンにいれておいたお握りを盗られた方が悔しか
ったと言っていたが(笑)。これが終戦1週間前。

終戦時は伍長。いまだ健在。
912名無し三等兵:01/10/04 20:17 ID:STKE.1Mc
731でやばいことやってました。
その写真も今は灰となり、地に戻りましたが。
913名無し三等兵:01/10/04 21:51 ID:4dUDNW9s
>910
良い先生につきましたな.
短期現役主計科士官には超優秀な人が集まりましたからな.
有名どころでは中曽根元総理など.

>戦闘時には艦橋にもよくいた
戦闘記録を取るのは主計長の役目でした.
兵科よりも客観的に戦況を観察できるだろうとの配慮からだそうです.

艦が損傷を受けて,総員退去となった暁に,ご真影を守護するのも
主計長の役目でした.
914名無し三等兵:01/10/04 22:10 ID:nD/n.eis
じいちゃんその1は戦争には行ったらしい。詳しいことは教えてくれず
いつも喋りすぎてうるさいくらいの人なのにポツリと
「戦争はよくないね」と言ったのが印象的で、それ以上聞けなかった。
じいちゃんその2は薬剤師だったためか戦争には行かず、
空襲にそなえて庭に穴掘ってたという話をしてくれた。それだけ。
915イーグル羅武夫:01/10/04 22:24 ID:ZugcCfmw
外地人でーす。

うちのじーさまは、外地の海岸に「米兵上陸を海岸で阻止するため」に「地上むき出しブロック塀の四畳半ぐらいのトーチカ」を作ってたらしいっす。
ガキのころから軍事でしたが、それを見てもトーチカにはとても思えませんでしたがなー
まじ、ブロック塀に使うすかすかのブロックでっせ
916名無し三等兵:01/10/05 04:32 ID:ILoID1zQ
先日、偶然に、親戚のじいさまが元海軍で雪風に乗っていたと知って驚きました。
それからは実家に帰るたびに、そのじいさまにいろいろ話を聞いています。
考えてみたら・・・ じいさまの乗った艦が雪風でなかったら、と考えると、
何か、感慨深いものがあります。
917名無し三等兵:01/10/07 18:12 ID:1ri5uVRM
>916
色々聞いてできればよもやま話のような本にしてみては?
それが無理でも軍事板にスレを立てて色々聞かせて欲しいです。
夢・独り言板で日記系式ってのもいいかも。
918916:01/10/09 02:01 ID:/LcHUyeU
>917さん
レスありがとうございます。
私は似非ナチ太郎のため、まさしくじいさまの話は豚に真珠でして、聞いても史実と
照らし合わせられないことのほうが多くて難渋していました。
これを機会に、いろいろ勉強している次第です。
じいさまに聞いた話を、メモにまとめてはいるのですが… 今度、MDでも持っていって
また最初から全部、話してもらおうとか考えております。
919名無し三等兵:01/10/09 02:06 ID:Rz5cmlGc
 死んだ親父は南洋団連調査部というところの軍属だったらしいの
ですが、これはいったいどういう組織だったのでしょう?
920名無し三等兵:01/10/09 02:12 ID:QPbrpKZk
うちの祖父はニューギニアのウエワクあたりに行ってたそうです。
聞く限りでは大規模な戦闘がどうの、というより
ただひたすら密林のなかをサバイバルしてたようです。
宣撫をしていたと言うことで時々思い出したように
英語が出来てよかったと言っているのが印象的ですな。
ホントはもっと色んなこと聞いておきたいんだけど
ただ、やっぱ思い出したくないこともあるだろうからなぁ・・・。
でもお墓の中にひとり抱えてって欲しくはないし。
921名無し三等兵:01/10/09 02:19 ID:xfzPE4x6
うちの爺ちゃん(故人)は
ロケットの誘導装置の研究技師でした。
922名無し三等兵:01/10/09 02:27 ID:fJZ/QNUU
>>921
その人がもっと頑張っていたら、
なんて思ったらいけないんでしょうね。
923名無し三等兵:01/10/09 03:03 ID:J22/agko
うちの爺ちゃんはあの河南作戦に参戦後、タイ→ビルマ、フィリピン、台湾方面を転々とし行く先々でマラリア
に感染したそうだ(3回も)。
周りの仲間がマラリアで次々に亡くなっていくのにうちの爺ちゃんは二週間安静にすると
完治したそうだ。
当時、中央大学の法学部を卒業したため本来は陸軍将校の一人に昇進してたそうだが
戦争終わったらとっとと帰りたかったらしく、辞退して陸軍曹長で留まったそうだ。
924850:01/10/09 17:52 ID:31yCtj56
その後、日本に帰って、板付基地(福岡空港)の近辺に住んでたらしい。
朝鮮戦争の時、ツインマスタングも見たといってた。
925名無しでGO!:01/10/09 18:05 ID:GXzwMOGo
誰か 次のスレッドつくってください 鉄いたの住人より
926名無し三等兵:01/10/09 18:10 ID:hmVVAi6w
俺のジイちゃんは潜水艦のってたそーな
WW2のときね
伊なんとかってやつ
927タイガー:01/10/09 18:12 ID:nHndBqBg
うちのじいちゃんガダル化なるからかえってきた。
928名無し三等兵:01/10/09 18:23 ID:Rz5cmlGc
>927 すごい!

俺の爺ちゃんは重巡熊野に乗ってたらしい。
運の良いような悪いような...。
929名無し三等兵:01/10/09 18:32 ID:5KVeDINk
父方祖父:陸大卒。最期は関東軍参謀部。かのS氏やA氏とともにシベリア13年?抑留。
     そのころの話はめったにしない。対ソ戦がどーのこーのと言ったら無言で殴られたことがある。
母方祖父:こっちは内務官僚。戦犯にとられず、終戦後は警察予備隊の創設にかかわる。
     この人もそのころの話はしてくれない。後輩の「G」やら「S」やら呼び捨てだったのが印象的。

双方とも鬼籍に入っている。
930 :01/10/09 18:39 ID:7mY1bfOY
931名無し@戦前さん:01/10/09 19:16 ID:.VGjyqzc
親父は書いたので、こんだ爺さんをかきます。
爺さんは戦前(真珠湾前)が現役なのでよー
わからんがシナ事変ぐらいまで「特務艦 香取」って
駆逐艦か軽巡洋艦かどのクラスかよくわかりませんが
勤務。当初主計畑からコックさんに転じました。横須賀に
すみシナ事変でリューマチスにかかり退役。昭和54
年まで長生きした。もっと話聞いておけばよかった。
932名無し三等兵:01/10/09 19:51 ID:Kx.aZykw
満州行ったらしいよ。
アメリカの銃は性能悪かったらしいけど
近くにくると分裂したって言ってた。
うちの爺ちゃん今年90ぐらいだけど
今年の初め死んじゃった。合掌。
933名無し三等兵:01/10/09 19:51 ID:K3SdHKR2
陸軍中野学校教官・・・
934眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/10/09 20:15 ID:8g2W4CDA
>928
そうかぁ?陸兵でしかも、初期に配属された人ならあんまりすごいとは
思わんが。

漏れの父方の爺さんも、ガダルカナルというかラバウルだったけど…。
確かに空襲はすごかったらしい。
B17から投下された爆弾の破片のお陰で頭を凹ませて帰ってきたよ。
三度も召集されて、最後は兵長。
よく軍人時代の日記を拝ませていただきました。
935名無し三等兵:01/10/09 20:19 ID:gTi4DD3Y
皆様申し訳有りません
私の母方の祖父の家には共産党員が居た為
赤紙が来なかったそうです。

ただ正義感の強かった祖父の兄は
「余所の家の子が皆戦争に行ってるのに家からは誰も出ないなんて申し訳が無い」
と志願、露助に捕まりシベリア抑留で死んだそうですが。

>933
素晴らしい
936名無し三等兵:01/10/09 23:15 ID:sJEXFO1s
香取は練習巡洋艦ですね.
兵学校を卒業した候補生達が乗り込んで,沿海,後に外航と
実践で鍛えた場です.
候補生がいじけることなく存分に力量を発揮できるように,
優秀(=大人の分別をわきまえた)な下士官兵が配属された
そうです.
主計科は庶務・会計・衣糧を担当していたので,コック=主計
兵です.(もっとも士官室の供食には軍属のコックも乗ったフネ
があったそうですが)
937名無し三等兵:01/10/09 23:21 ID:vJHb74XM
とうとう1000近くまで伸びたな。こんなに多くの話が出ているが、
このうち何割かはネタなのだろう。軍事版住民の人口がそんなに多いとも思えないし。

だが本当らしく書けるというのも流石に軍事版住人というところか。
938名無し三等兵:01/10/10 00:30 ID:7n6VG1Fc
いいやん。ネタにせよなんかほとんどを信じたい気分。
939931:01/10/10 00:37 ID:GtgxKQpk
>>936
ありがとう。死んだ爺様もうかばれる。
親父は海兵でした。
940身内じゃないけど:01/10/10 00:58 ID:360tYtpo
うちの近所に
足場を組まないでハシゴだけ使って塗ってくれる
ペンキ屋さんがいるんだけど(価格通常の半額以下なので大繁盛)
その人97歳の爺様が一人でやってるのよ
冬の最中、毎日毎日、さびた自転車をキコキコ漕いで山道(うち山なんで)登ってやって来る
その爺様と話して聞いたんだけど
戦時中、爺様なんでも中卒で一兵卒で満州で戦って、ロシアの捕虜になってシベリヤで抑留されたそうな
そのときに肺炎で左の肺なくして、片肺のみでペンキ屋続けてきたんだと
爺様、戦時中は文字も読めないほど学がなくって、自分がどんな戦争で戦って、どんな状況で捕虜になって、釈放されたか全然分からなかったんだと
戦後、帰国して猛勉強をして文字を習い、自分が戦った第二次大戦がどんなものだったのか知ったそうな
帰国してからは苦労したらしく、学もなかった為、仕事もなく、シベリヤ抑留中にロシア人に教わったペンキの塗り方のみを頼りに
ペンキ屋でがんばって生きてきて、今では孫も生まれてとても幸せな毎日だそうだ
戦争の体験談というと、政治家や士官の話ばかりなんだけど、多くの名も無い一兵卒にもドラマがあったんだなと感心した。
941名無し三等兵:01/10/10 00:59 ID:pA.DXdL6
ちなみに香取の姉妹艦、鹿島の名は海自に引き継がれています。
今の防大卒業生や幹部候補生学校を修了した将来のアドミラル
達は かしま で海上生活の一歩を踏み出します。
942名無し三等兵:01/10/10 02:17 ID:hc0SnOhY
知人の曽祖父は高須四郎だそうです。すげえ!
あ号作戦大失敗だだねとはいえなかった(藁
943名無し三等兵:01/10/10 03:39 ID:QHfHhwnY
 叔父は関東軍の下士官で、最後まで満州にいたため、敗戦後はソ連に
抑留。立派な共産主義者となって帰国した。関東軍も大和魂の注入が甘
かったな。
944名無し三等兵:01/10/10 04:34 ID:NYDbX3FE
うちの家族は戦時中はみんな満州にいました。
祖父は鉄道の機関士、祖母は従軍看護婦をやっていたそうです。

「敵の捕虜をひざまずかせて斬首する時、剣のヘタな兵が力任せに一刀両断にしてしまうと
頭部を失った体が上に跳ね上がるため、血があたり一面に飛び散って汚いが、
剣の達人がやると首の皮一枚だけ残して斬り落とすため、頭の重量に引っ張られて
死体は穴の中に巧くストンと落ちる」
「ちょん斬った首を毎日通る道の街路樹にぶら下げて晒し者にしていた。
日に日に腐って解け崩れていき、最後は真っ白な骨になって綺麗だった」
などなど、幼少時の私にとってはかなりのトラウマ話を聞かせてくれました。
でも一番インパクトがあったのは、若い兵とのケンカの仕返しに、
夜中酔いつぶれて寝ている隙に、ちんこに針金を結びつけてやったという話かなあ…
(当然朝になると…ヒイイ)
945名無し三等兵:01/10/10 05:41 ID:89T0eg4I
母方の祖父ちゃんは日露戦争で三笠に乗ってた事は聞いたが、太平洋戦争でどうしてた
のかを聞く前に亡くなってしまった。
946名無し三等兵:01/10/10 10:50 ID:73Z5jvtE
欧米のこういう掲示板ってないんでしょうかね?
「オレのジイちゃんはノルマンディーに参加したぜ」とか
「B29の搭乗員だった」とか
「ナチス親衛隊だったとか」
そういうの読んでみたいっす
947名無し三等兵:01/10/13 18:43 ID:tRa92zP6
欧米は総合掲示板じゃなくて一つの戦闘ごとに戦友会みたい
なのがあるみたいです。D-Dayとか硫黄島とか。
海軍は艦艇ごとです。
948名無し三等兵:01/10/14 06:05 ID:y1Bjsv99
うちのじいさんは満州で航空機の整備をやってたらしい。
凍った川でスケートしてたことや、日本の戦車の弱さを楽しそうに語ってくれた。
949名無し三等兵:01/10/14 07:11 ID:dQXyo/HA
祖父は揚子江から南下してスマトラまで行ったそうな。
ワニ皮の財布をいまでも大切に持ってる。
(自分で仕留めたワニの銃弾が当った部分の皮で作ってある)

うちは農家の旧家なんだけど、
地区の出兵前の兵士の寄宿舎になっていた。
ある日の事、皆に振舞おうと畑から採ってきた
トマトが無くなっていた。どうしたのだろう?と思ってたら、
まだ1歳の娘が口のまわりを真っ赤にしていた。
皆で大笑いした後、ちょっとしんみりしてしまったそうだ。
その子がわたしの母です。
950名無し三等兵:01/10/14 10:24 ID:rQFt5gjT
オヤジの説では、東京出身者の部隊は弱かったそうだ(オヤジも東京出身)。
都会の楽しみを知ってる人間には、戦争なんて無理。
飢えに苦しんでいた東北の田舎者のほうが職業軍人にはむいていたそうだ。
951名無し三等兵:01/10/14 10:37 ID:aFUYFSQG
軍人じゃありませんが、それに近い組織ということで。
家の爺さんは満鉄ハルビンの駅長でございました。

親父の話では
「敗戦直後に大勢の大人と一緒にソ連へ捕まったが、数日後(日本行きの港)大連へひょっこりやって来た。ほかの捕まった人達は、その後シベリア送りになったらしいがな・・・・
その間のことや解放された理由について聞いてみたが、とうとう死ぬまで教えてくれなかったな」

・・・・・とのこと。
一体何を売ったんだろう。ハルビンつうことは731部隊関連か?
952名なし三等兵:01/10/14 10:41 ID:2mgoIycz
じいさんは、原爆の投下時に広島の港で働いていたらしい
完璧な陸軍軍人なのに船の機関室にいて助かったと聞いた。
その後広島市内に行き遺体の収容作業をやったという。
遺体は炭になっており人一人、スコップで雪をかく様にトラックに
積んだと言っていた。 最後はガンで逝ってしまった。
953名無し三等兵:01/10/14 15:56 ID:cwM4OEDu
すげえ、まともに1000近くまできてる。
このスレ、名スレ2001アワードノミネート確実だね。
954名無し三等兵:01/10/14 16:10 ID:E/IRzZSr
母方の祖父の話はなんか格好良いのあったかな(汗
特攻隊の編成選抜をする時
『長男は外れろ』とか色々基準があったらしい(祖父は次男なので思いっきり残った)
『泳げる奴』って項目があったので泳げないフリをすれば外れると考えたらしく
カナヅチのふりして誤魔化そうとしたらしいがばれちゃったとか笑
行く前に終戦になったらしいけど真相は墓の中。
核落ちた直後の広島にも行ったらしいけど全然喋ってくれなかった。
955952:01/10/14 16:27 ID:4j0co1wU
他にもいろいろ言っていたなぁ。
連隊じゃ受領した歩兵銃の照準を合わせるような事をしたとか
北支じゃデパートの貴金属を・・・・・としたが上官がミンナ持っていったとか
実家じゃ北支からいろんな物を送ってくるが、書家の書とか絵とかじゃ
腹の足しにもならんとか言っていたそうだ。
956名無し三等兵:01/10/14 16:53 ID:pv0lQA7f
ビルマで工作部隊だったそうです。何をしていたのか、ばあちゃんにも、かわいい孫の
俺にも絶対教えてくれない、戦争の事は何も喋らずあの世に行っちゃいました。
957もう六十かぁ:01/10/14 18:14 ID:cLTVMATG
家の親父は
沖縄戦が起きる少し前に何かの作戦のために夜中に神奈川の軍港に帰ってきた 
と、生前言っていたなぁ。しかし、仮に沖縄に残っていたら俺は存在しなかったのか・・・
ちなみに親父が帝国海軍のどの部署だったかは覚えていない。部下はそこそこいたらしい。
958名梨:01/10/14 18:22 ID:ds70HiCd
うちの祖父は両方とも獣医で少尉だったよ。
母方のほうはシベリア抑留になった。
父方のほうはまだ存命で、前「馬を酷い扱いをする中尉を殴ってやった」
とか言ってた。
二人とも中国戦線だったので、今の自分がいるのかも・・・
959名無し三等兵:01/10/14 20:04 ID:dgnycHGL
祖父や父ではないんですけど、
大叔父さんが阿南惟幾です。
960名無し三等兵 :01/10/14 20:04 ID:x3CfCHbN
母方の祖父は昭和20年にビルマで病死したそうです。
戦争中の祖父の事を祖母が存命中に詳しく聞いておけば良かったと
このスレッドを読んで後悔しています。
一度どの部隊に所属していたか聞いたのですが忘れてしまって。。。
母の記憶では麻布の兵舎で会ったのが最後で、
祖父におぶさりながら両脇にずらっとベッドが並ぶ部屋に入ると
寝ていた兵隊さん達が起き上がり
一斉に母(当時5歳)を見たのがたまらなく恥ずかしかったそうです。
兵隊さんからアメをもらうなど楽しい時を過ごし
祖父と別れる時には風邪をひかないようにと
襟巻きを直してもらったと母から聞きました。

父方母方ともに生まれる前に祖父が亡くなっている私には
おじいさまとの思い出がある方がうらやましいです。
961名無し三等兵:01/10/14 21:03 ID:wHFJuqe1
自分の母親の兄−つまり自分の伯父にあたるワケですが、
歩兵第238連隊に所属していたそうです。
その連隊はニュ−ギニアで全滅したそうです。享年24才。
962名無し三等兵:01/10/15 20:56 ID:EpGQYgsX
俺の大叔父さんは終戦時満洲にいたんだけど、その時のゴタゴタに紛れて軍服二着GET!!したらしい。
というか、した。
だって俺ん家にまだあるもん・・・刻印は九八式昭和十七年製四号。
963へんくつ海軍好き:01/10/17 21:48 ID:xWKBGxuw
うちのじいさんは志願で対米開戦前に海軍入りし、下士官だったせいか「榛名」
に配属されたまま12月8日をマレー沖で迎え、インド洋、ミッドウェーにお出
かけ。その後ガ島に赴き、曰く「ガダルカナルを撃ってきたんじゃ」どうやら副
砲の内の一門の指揮にあたっていたらしいのですが、細かい事は進んで語っては
くれません。ただ今でも気持ちよく酔っ払うと「レイテでアメリカの駆逐艦が煙
幕を張りよるのを撃ったんじゃ」とのたまいます。(だからいろいろいわれてる
栗田中将きらいじゃないんですよね。あの時撃沈された艦の後の悲惨な事。)そ
の後「榛名」と共に内地に帰りしばらくして、大和のお供を終えた後の「初霜」
に転属。触雷して沈没した時はやむなく数キロをおよいで生還。
いまだに一日6時間以上の山仕事をこなし、毎年の「榛名」戦友会にかかさず参
加する頑健きわまりない「大正生まれの古老」であります。
964名無し三等兵:01/10/17 22:03 ID:AkGGb4JC
>>959
(・∀・)カコイイ!
俺の曽祖父(母の祖父)は満州戰、中国戰線、沖縄戦で戦った。
有川少将(戦後中将に昇格)という名前だが、沖縄戦では同郷の
牛島大将や長中将があまりにも有名なので雲隠れ…。(−_−)ウツダシノウ。。
965名無し三等兵:01/10/17 22:12 ID:aYnGPitZ
うちのおじいちゃんは、陸軍航空隊の整備兵だったんだってー!たしか97部隊
とか言ってたなあ。(浜松の)
966名無し三等兵:01/10/17 23:41 ID:jVKdOhWh
祖父は大陸で歩兵をしていたそうで…。具体的な話を聞く前に亡くなりました。
銃弾が鼻先をかすめた話や、銃剣で突き刺されそうになった話など、
親父から又聞きで聞いております。

また、親戚のじいちゃんなのですが、
開戦時「比叡」の2番主砲塔で砲塔の旋回手?だったそうです。
(針と針を合わせて回路が通じるようにする作業をしてた、とのこと)
ハワイ、インド洋、ミッドウェイ等、機動部隊の護衛であちこちに行ったと言っておりました。
第3次ソロモンの時は砲塔内部は安全だったが、
総員退艦で表に出たらもう滅茶苦茶で、大変な事になっていたと…。
その後は高雄に乗り組み、レイテに出撃したけれども、
魚雷を食らってシンガポールに逆戻り。あとは終戦までシンガポールだったようです。
(いや、終戦後もしばらくは向こうにいたみたいですが)
あの時魚雷が当たってなかったらレイテで戦死してたかも、といつも言っておりました。
まだ健在ですが、そろそろ呆け始めてしまってるとの事です…。
967名無し三等兵:01/10/17 23:45 ID:bmwc3zY4
中学校の頃の担任(女性・社会科)の義理の父親(旦那の親父)が、
A級戦犯の松井大将だったって。
先生自ら話してたよ。

ウチのじいさんは、徴兵(戦前)で千葉の鉄道連隊でSLの運転手やって
その後、陸軍の技術本部に就職(昭和10年頃?)し、事務職してた。
ソ満国境やシベリアに航空写真撮りに行く仕事もあったそうで、
いつも当時独身のじいさんが選ばれたって言ってた。
何で?って聞いたら、呆れた顔されて
「何時死ぬか分らない仕事、妻子持ちはやらないだろ?」とのこと。
その後、実家に戻ったら速攻で赤紙もらって中国の武漢に行かされたそうな。
もともと泰麺鉄道に派遣される予定が行くに行けず、帰るに帰れない状態で
仕方無いから軍部が地元住民から略奪するのを防ぐような仕事してたって。
そんなんで終戦後も地元で歓待されて帰国した時には、でっぷり肥ってきたそうな。
ガキの頃に、戦争でも海外に行けていいなぁ、なんてDQNな事言ったら
ボソッと、「海外ったって、生きて帰れるか分らないから楽しくもないよ」って
言ってたのが印象に残ってます。

じいさんは2年ほど前に亡くなりました。
968名無し三等兵:01/10/18 02:17 ID:5chC2pZi
うちのひいじいさんが近衛兵で、
じいさんはそのコネで危険な所に行かずに済んだとか
たしか、内地で通信に従事していたらしい
969名無し三等兵:01/10/18 17:28 ID:mGQForcj
母方の祖父は電気技術者だったので戦闘には出なかったが同じ部隊に作曲家の
山田耕作がいて戦後GHQに接収されない様に大量のレコードなどを預ったそうです
(子供の頃、アパートの玄関にレコード山積みしてたのは覚えてる)
970名無し三等兵:01/10/18 18:08 ID:aGxAVy3u
母方の祖父は重巡「利根」に乗り組んでました。
利根は最後どうなったんですか?沈みかけの写真があるんですが。
971名無し:01/10/18 19:00 ID:5jVlVNby
 俺の義理の叔父はビルマで特務機関に所属していた。
主に北ビルマで少数民族の宣撫工作をしていた関係でビルマ人の工作員と
仕事をしていた。
で、俺が23歳の時、タイビルマ国境の少数民族の村をトレッキングしていたとき
うっかりビルマ側に入ってしまい、山道でビルマ人の部隊に遭遇してしまった。
緊張しながらも平静を装って部隊(50人くらい。特殊部隊のような)の通過を
待ってると、その内の後尾の一人が俺の顔をマジマジと見ながら突然、日本語で
「日本の方ですか?」と話かけられた。 動転して「はい!!」と答えると相手
はニコリと微笑み、「懐かしいです」と言った。
何がなんだか頭が混乱したが、その後この人と2日間行動を共にしてビルマの
山中を旅して分かれ、タイに戻った。
                  (奇談は続く・・・・)     
972名無し:01/10/18 19:11 ID:LXy8IDnA
(・・・・・続き)
実はこの方は戦時中、日本軍とともに戦ったらしく、北ビルマで
俺の地元の部隊とともに行動していたとわかった。当時のいろんな
話を聞き、日本語も完璧だった。 実は義理の叔父もビルマで戦って
生還していたことは知っていたのでそのことも話が弾んだ。
戦後もビルマ軍一筋で働いてきたとのこと。
ビルマにくることがあればマンダレーの自宅にぜひ寄ってくれと
住所を教えてくれた。 もしできたらぜひ日本の戦前の歌のカセット
テープを送ってくれとも言われた。名前は「アウン・テイン」さん。

で、チェンライに戻り、すぐ叔父宛にこのことを手紙に書いて
送ったらちょうどビルマ慰霊団に参加、出発する直前だった。
叔父は空港でカセットを買い、ビルマ慰霊の合間にマンダレー
に寄って住所の家に行った。

そして会った瞬間・・・「あっ! お前か!!!!」
973名無し三等兵:01/10/18 19:18 ID:YNPmrvn8
うちの父方の祖父は、名古屋で戦車に乗ってたとか言ってました。
チハの運用上の苦労話とかいろいろ聞けて楽しかった記憶があります。
セルモーターのギアがすぐボウズになったとか。
もう随分会ってないけど、未だに東名高速をパワステも付いてない旧車で
かっ飛ばして、豊田から岐阜まで通勤してます。

ちなみに母方のじーさまは国後の高射砲部隊にいたそうです。
本土決戦に向けて九州に移動する途中、釧路で終戦を迎えたそうで。
一便先に出た船は雷撃されて沈んだとか。怖い怖い。
974ロンメル太郎:01/10/18 19:21 ID:8eFU8oF5
この前、田舎に帰ったとき。

「肉をパイナップルに漬けて
 柔らかくする方法を日本に伝えたのは俺だ!」

いきなり何を言い出すかと思ったが、とにかく話を聞いた。

「あのな、ジイチャンな、中国に戦争に行ったんだわ。
 それでな。パパイヤが生えてるんだわ。
 それでな。そこでな。パパイヤの汁に漬けて、
 肉を柔らかくする方法を教わったんだ」

「ちょっと待ってじーちゃん。
 なんで中国にパパイヤが生えてんの」

「いや、生えてるんだ。桂林の辺りにナ」

「…(まぁそういうこともあるのかもしれん)」

「それでな。帰ってきてから、役人になって、
 農協の人間にその話をして、日本にはパパイヤがないから、
 それをパイナップルでやったらどうかと言ったんだ。
 それがうまいこと当たってナァ」

「…(信じていいのか)」
975名無し三等兵:01/10/18 19:31 ID:3Gk+8p1p
私の祖父や曾祖父、大叔父などは全て徴兵されなかった。
何でだろう?戦時中は20〜40歳台だったはずなのに。
唯一戦地へいったのは義理の大叔父だけ。
義理の大叔父は戦前(開戦直前くらい)に志願で陸軍に入り、騎兵となり南支へ。
そして昭和17年に戦死した。当時1等兵で戦死で2階級特進で兵長。当時22歳。
976名無し三等兵:01/10/18 20:07 ID:FQ79EtL+
んー、なんかエライ軍人サンばっかしだけど、
ウチのじーさんは、大砲作れって渡されたお金と部下つれて、
行った先の島でずーっとイモ作ってたっていってた・・・非国民?
977名無し三等兵:01/10/18 20:10 ID:b8Mqkq78
大阪の陸軍第13飛行部隊。
学徒でいったうちの親父のいたところ。
978 :01/10/18 20:37 ID:qpxERbon
教えてクソで申し訳ないけど
このスレみたいな話をやってるサイト、誰か知らない?
979名無し三等兵:01/10/18 20:50 ID:8BNyhopm
そろそろ新スレの用意をしないと。
980眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/10/18 21:39 ID:1P4ShZbb
>975
何年か前のNスペでやってたけど、田舎の場合、各村毎に徴兵割り当て人数
が来るそうな。
んで、必要な人数を各戸に割り当てるのだが、まず跡取り息子は除外する。
んで、当然実力者の息子は除外する。
最後に、徴兵担当者と懇ろになっている知合いの息子は除外し、残ったものを
選って、召集令状を発送したらしい。
流石に戦争末期にはそんな悠長なことが出来なくなったと思うが…。

後、軍の偉いさんに知合いが居た場合、即日除隊してくれることもある。

前にも書いたけど、漏れの祖父はラバウルで負傷して台湾の陸軍病院に入院した
時、偶々、そこの病院に曾祖父(この人も医者だった。郵船と満鉄の…)の知合いが
内科の偉いさんで赴任していて、
「もう2回も徴兵されていい加減義理は果たしたろう。
 カルテにマラリアと結核と書いておこう。
 内地の病院に転院しろ、そこの院長は俺の後輩だから良きに計らってくれる。
 んで、除隊手続きを取るように…。」
と言われて、呉の病院に転送されて暫くして除隊になった。
そのままご奉公してたらインパールの土となっていた。
981名無し三等兵:01/10/18 21:56 ID:ZV0fRMIX
>979
そうですね。
とりあえず前スレと言うことで、ここへのリンクをして、
あとは参照リンクした方がいいようなスレッドとかありますかね?
982名無し三等兵:01/10/18 22:37 ID:i4l/axGi
近所に居た老人 戦争中 東京は錦糸町にて、潜水艦のバッテリーを
作っていたとか言ってました。1日100個程作って、良品は1〜2個位だとか。
残りの不良品は全部ハンマーで、叩き壊していたとか。
あと 1日数回 工場で働く工員さん達を整列させて、殴るのが日課だとか
言ってました。これが一番の重労働だそうで、最後は革靴で殴ってたとか
言ってましたが。終戦になった時 真っ先に工場から逃げたそうで。
一応は陸軍に属していたと言ってましたが。
983名無し三等兵:01/10/19 13:04 ID:t0kvJeBb
新スレ立てるの?アゲ。

ついでに私の祖父の話。
上海で補給(?)の任務についてたとか、母から聞きました。
トラックの運転手をやっていたもので。
軍服姿の写真も残っていますが、坊主頭でも結構いい男だった(笑。
日の丸の旗に寄せ書きしたのとか、大掃除にて発見。
終戦前の上海の状況をご存知の方がいましたら、教えてくださると幸いです。
984名無し三等兵:01/10/19 14:24 ID:dizlovQI
詳しくは知らんがうちの爺ちゃんは中国に偽金をばらまきに行った
985turkey business:01/10/25 00:25 ID:Q5hHrrsI
ウチの母方のじいちゃんは戦艦伊勢に乗っていたらしい。
戦時中に(確かマラリアで)病没したので詳しくは知らないが。
(航空戦艦への改装前に亡くなってたみたい)
そう言えば黄ばんだ伊勢の写真が実家にいっぱいあったなぁ。
今度帰省したらまた見せて貰おう。 満艦飾の写真もあったハズ。
(…捨ててねぇだろうな、ウチの親。 モノに無頓着だから不安だ…)
986名無し三等兵:01/10/25 00:37 ID:psj5EE83
うちの大叔父は満州で兵隊やってました。といっても年いって招集された
歩兵なので大したことはしていません。しかも19年頃に本土に帰ってきて、
そのまま地元で塹壕掘ったり芋を作ったりしていたら終戦。
満州の思い出話というと、
夜になると隙をうかがっては兵営のまわりのクリークを超えて街のストリ
ップ小屋にいった話とか、白系ロシア人のストリッパーが「ぱっ」と脱ぐと
その場の男達が一斉に「アイヤー!」と叫んだとか、それにあわせていっし
ょに叫んでいたとか、馬鹿な話をよくしてくれました。なんか情けない。
987名無し三等兵:01/10/25 00:53 ID:MihuJMgn
親戚のお婆さんは弟が
特攻隊員だったって
いまでも誇りに思ってる
988新潟県人:01/10/25 19:29 ID:WZ0pIujd
先月、ばあちゃんが亡くなっちゃった。
その時親戚の家で写真整理をしていたら40年前に亡くなった
ばあちゃんの旦那、ストレートに言ったらじいちゃんが所属
していた軍隊の除隊記念のアルバムが。
じいちゃんはサイドカーに乗ってました。
旭川の何部隊って言ったかな?ミリタリは詳しくないんで。
989:01/10/25 19:38 ID:Cv/fG7Bs
うちの近所の爺さんは駆逐艦「竹」の乗組員だったそうだ。
990名無し三等兵:01/10/25 19:50 ID:9p9rvjPV
ウチのじいさんは大和の大砲を作っていたらしい。
しかし.ボケているので真相は不明。
991名無し三等兵:01/10/25 19:56 ID:WZ0pIujd
ウチの祖父は第34か35連隊にいた可能性大。
ただ、本人ボケちゃってて話聞けないのが残念。

でも、家自体は戦火を潜り抜けて生き残ってるんで、倉を漁れば
軍服一式揃って出てくる……かもしれない。
あんま期待してないけど、5円札とかがたまに「発掘」されるんで。(w
992名無し三等兵:01/10/25 23:43 ID:USHILj4T
うちの祖父は北京陸軍病院勤務でした。
がしかし戦局が悪化する前に病気に罹って内地へ。

なので”李香蘭達が慰問に来た話”とか
”民間の中国人と薬と食べ物の交換した”とか

余り悲惨な話が無い。(ま、それはそれで良いのだが)

しかし大阪大空襲の焼夷弾の落下が
「キレイだった」と言った時は…。

ちなみに祖母はその中を逃げ惑っていたらしい。
こんな二人がよくケコーンしたものだ(w
993名無し三等兵:01/10/26 00:28 ID:+c5ufGbc
お初です。私の爺ちゃん、満州の大砲?砲兵でした。
なんか、やたら力があった兵隊?(なんか言ってたな・・何とか兵?)
だったらしいです。ロシアが夜中に、いきなり攻めてきたとか・・・・
その後、日本に帰ってきて、最後は新潟の部隊だったとか。
みなさん方の、おじいさまも、強者揃いですね。
994名無し三等兵:01/10/26 00:41 ID:3hMVQWPm
よろしかったら新スレ立てましょうか?
タイトルは、
「じいちゃんや親父たちの戦争体験談スレッド 第2章」 とか?
995眠い人 ◆ikaJHtf2 :01/10/26 00:49 ID:pQgEkN+V
>994
一応、こんなスレ有るけど…。
ttp://yasai.2ch.net/test/read.cgi/army/1003947943/
「第二次大戦時、君の父や祖父は何をしていた」
996名無し三等兵:01/10/26 01:09 ID:3hMVQWPm
>995
おっと危ない。(汗 ご指示、感謝します。
そのスレにもいくつか、書き込みがありましたね。じゃあ、そっち上げますか?
997  :01/10/26 04:57 ID:7IrWVAZt
997
998名無し三等兵:01/10/26 05:47 ID:IzC9ZaJf
998
999名無し三等兵:01/10/26 05:47 ID:mLDNaG/B
999
1000名無し三等兵:01/10/26 05:47 ID:lGgiZogU
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