1 :
名無し三等兵:
2 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 18:13:27.48 ID:???
1が2重になってる
まー史実も2回だったんだから今スレはこれでいいよね?
次立てるときは訂正しといて>スレ立てる人
3 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 18:19:05.44 ID:???
モンゴル人、高麗人の捕虜は皆殺し
南宋人は帰っていいよと、昔の人はよくわかってらっしゃる。
4 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 18:55:39.66 ID:???
元寇とノモンハンって似ているよね
長年お互い負けたと思ってたんだろ
5 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 19:02:43.77 ID:???
「やあやあ我こそは……うわー、毒矢だ!てつはうだー!!」って感じだったんだよな。
神風来てくれて本当によかったわ。
6 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 19:41:34.09 ID:???
朝鮮人ホイホイ
7 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 19:43:57.78 ID:???
原始的な一騎打ちじゃ集団戦法には勝てんわな。
8 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 19:52:51.56 ID:???
一騎うちが武士の戦法だったことは一度もない
中国古代史の一騎うち(あれもだいたい後世の脚色)を読みすぎた頭でっかちの皆さんが
武士も似た戦いしてるに違いないと思い込んだんだろう
9 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 19:58:34.33 ID:6NphIqCl
一度もないって・・
熊谷直実と平敦盛のは?
10 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 20:00:55.36 ID:???
11 :
名無し三等兵 :2012/07/02(月) 20:14:42.22 ID:???
一騎打ちはお互いの軍が同意の上で代表者だけが行う一種のパフォーマンス
それをあたかも軍勢全体が一騎打ちで戦う=武士の戦法かのように吹聴してる
のは、軍事に無知な左巻歴史学者どもだよ
12 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 20:17:33.64 ID:6NphIqCl
13 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 20:20:50.85 ID:???
14 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 20:33:39.94 ID:???
一騎打ちって決闘みたいなもんでしょ?
戦争は1対1で戦うもんじゃないし、戦法や戦術じゃないよな・・・
15 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:11:38.78 ID:???
バノックバーンのロバート一世の例からわかるようにヨーロッパでは
14世紀になっても一騎打ちで戦争の勝敗を決していた。
16 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:19:35.00 ID:???
>>9 あれは追撃戦の最中に起こったこと。
敦盛は別にあそこで熊谷の挑発に乗らず逃げても構わなかったんだけどね。
17 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:22:53.81 ID:???
>>11 しかも、そういう例は今昔物語の一例でしか起こってない。
少なくとも源平以降は完全に集団戦になってるよ。
軍記物として脚色が強い平家物語の中でさえ、名乗りや一騎打ちは
乱戦中での遭遇戦もしくは矢が飛び交う中で突入する際であって
その間他の味方が見守ってたり手止めて聞いてるわけでもない
18 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:26:03.72 ID:???
新スレが立つとが一騎打ちどうこう言うのはもうこのスレの様式美か?
鈴木スレの刀や騎馬武者云々と同じテンプレ展開が出来つつあるぞw
19 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:30:22.29 ID:???
じゃあこれまでに出てないようなネタを出せ
20 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 22:00:39.62 ID:???
いやお前が出せ
21 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 22:13:05.32 ID:NC1rKIqp
元軍は一旦船に戻ったことを後悔しただろうね。
22 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 22:55:45.92 ID:???
>>19 せっかく鷹島付近で軍船が見つかったんだしなあ
23 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 23:05:51.65 ID:???
4400艘の船団のうち、台風で沈んだのはどれくらいだろ?
東路軍は高麗兵が3分の2以上生き残ってるところをみると
東路軍900艘の船団のうち、600艘は無事っぽいし、
張キ率いる軍船も無傷だったらしいし、イェスダル率いる戦艦
数百艘も無事だったところをみると1,000艘以上は残ったのかもな。
そういえば、指揮官の溺死者もほとんどいないな。
24 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 23:25:14.59 ID:2LdX+qfB
>>16 >敦盛は別にあそこで熊谷の挑発に乗らず逃げても構わなかったんだけどね。
その通り!
逃げても構わないのに、一騎打ちを武士の習いとする頭があったからこそ逃げるのを恥じた。
25 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 23:31:19.81 ID:???
何も九州北部に上陸するだけが作戦じゃなかったはず。
暴風雨さえなければ、日本海沿岸あるいは瀬戸内海を東進して、
防備の薄い烏取や大都会岡山で上陸することが出来ただろう。
何せ日本側は小舟ばかりで元艦隊の長距離移動を阻止する手段など無いのである
上陸後は山城を築いたりして長期戦の体制を整えて、
上手くすれば、平野部で優勢な蒙古騎兵が日本側を殲滅する場面も見られたはずである
26 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 23:32:33.44 ID:???
きっとそうだったはず!
27 :
名無し三等兵:2012/07/02(月) 23:54:29.52 ID:???
>>25 >防備の薄い烏取や大都会岡山で上陸することが出来ただろう。
これのソースって何?中国地方には2万5千も軍勢がいるし、近畿には
六万の軍勢が控えてるのに、どうしたら「日本側を殲滅する場面も
見られたはずである」であるなんて妄想にたどり着けるの?
中国地方の軍勢に梃子摺ってる間に九州の軍勢と近畿からの軍勢に囲まれて
元軍が殲滅されるだけ。
>上陸後は山城を築いたりして長期戦の体制を整えて
これは笑えるな。どこの誰が指を咥えて元軍が山城を築くの見てるんだ?
てか、「何々だったはず」とか妄想はつまらんからチラシにでも書いとけよ。
28 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 00:03:39.87 ID:???
左な教師は本当にろくでもないよな
29 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 00:49:01.18 ID:???
>>24 どうしても一騎打ちが一般的だったことにしないと気が済まないの?
30 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 00:51:15.24 ID:???
高麗もまとめてボコボコにされたのが悔しい輩がいるんでしょ。
31 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 01:01:29.30 ID:???
そもそも14万の侵略軍が、碌に地方を占領下にする訳でもなく城作ったって
兵站キツくなるだけじゃね?二ヶ月もすれば餓死者続出かと
32 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 01:22:13.83 ID:???
日本海側ならまだしも瀬戸内海に侵入するには関門海峡抜けなきゃならんし
順当に九州から順に落としていくのがきち
33 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 01:33:22.02 ID:???
そして、その九州で橋頭堡さえ作れなかったんだから、お察しというヤツですな
34 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 01:45:53.74 ID:???
台風に感謝
35 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 03:10:17.90 ID:???
元軍は台風に感謝だな
まだ言い訳が出来るもんな
36 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 05:52:10.51 ID:???
>>29 どうしても一騎打ちが一度も無かったことにしないと気が済まないの?
37 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 06:04:47.13 ID:???
元史 巻七 世祖 至元九年
二月庚寅朔,奉使日本趙良弼遣書?官張鐸同日本二十六人,至京師求見。
高麗史 巻二十七 元宗三
元宗十三年、丁丑、趙良弼還自日本、遣書状官張鐸、率日本使十二人如元
日本史板で挙がってたが、幕府の交渉?
38 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 06:09:07.40 ID:???
>>3 ていうか捕虜の人数も日本史上空前の人数だし、民族別にカテゴリー分けして、
やったことを基準に処分を決めていったら、必然的にそうなっちゃったんだろう。
極めて合理的。
それを「日本人のゆがんだアジア観」とかなんとか歪んだ見方で寝言ほざくのが左巻き脳ちゅうか
特亜脳のばか。
高麗兵だけ厚遇して送り返せば満足なのかね?
39 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 06:21:14.32 ID:???
そうだよな
日本軍がバカ正直に名乗りを上げている間にてつはうや集団戦法にボロ負け
蒙古襲来絵巻がその証拠
夜になって"何故か橋頭堡も築かず"船に帰った元軍を暴風雨が襲い元軍は壊滅
それが後に太平洋戦争での無茶な突撃に繋がっていく
と学校では習ったよ
40 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 11:16:54.33 ID:???
でも日本人が異常に「神風」を信仰してるのは確かなんだから
やっぱ当時の人も「神風」に助けられたって思いは強かったんじゃないの?
41 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 11:37:28.08 ID:???
神風は寺社の宣伝だな
42 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 11:45:43.36 ID:???
>>41 いくら宣伝しても台風抜きで元軍を圧倒してたんなら
意味ないだろ
660年近くたって特攻隊の名称に使われるとか
宣伝でどうこうできるレベルじゃないから
43 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 11:46:58.40 ID:???
第4艦隊事件以降日本における気象学の研究が進んにで北太平洋の第4象限(日本のあるところ)は
大型台風の通り道でしかるべき時期にあの辺にいれば必ず被害が出る事は予測されていたんだよ(このことは極秘事項とされた)。
そのため日本海軍は台風対策が進んでいたしアメリカ海軍ではその対策はなされていなかった。
だから日本は米軍が本土に接近すにつれ颱風の到来を今か今かと待ち受けていたし、
実際フィリッピン沖で少なからぬ被害を出している。
神風にはちゃんとした科学的根拠があったんだよ。
ましてや弘安の役の時のいよいよ敵の総攻撃が始まるというう絶妙のタイミングで吹いたんだから、
鎌倉時代の人がこれは神風に違いないと思い込むのは当然だ。
その時点から思い出してみると文永の役の時にも風が吹いたことを思い出して後の神風伝説につながったんだと思う。
ちなみにオリンピック作戦と枕崎台風のタイミングがかち合えば3回目の神風が吹いたといわれている。
長文ごめんね。
44 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 13:06:20.45 ID:???
法則の濃いのが発動した。
45 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 13:40:47.46 ID:???
>>42 あのね、元寇で勝っても新しい領地が手に入るわけではないから、幕府も恩賞を出し渋ったのよ。
で、勝てたのは自分らの祈祷のおかげだと主張する寺社勢力と利害が一致したの。
八幡愚童訓とかで神威が宣伝されるのを幕府が止めなかったのにはそういう理由があるわけ。
あと神風特攻隊の名称だが、外敵が攻めてきても神々に守られた日本が必ず勝利する、
なんて戦前の気違いじみた神国思想の影響による命名なわけで、そんなものが参考になるとでも思ってるのか?
それ以前、例えば江戸時代の頼山陽の「日本外史」なんかでは神風なんて言葉は出てこず
日本軍の奮戦によって元軍を撃退したことになってるぞ
46 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 14:34:27.95 ID:???
>あのね、元寇で勝っても新しい領地が手に入るわけではないから、幕府も恩賞を出し渋ったのよ。
これって本当なのかなぁ。神風が寺社や朝廷で持て囃されたのは理解できるけど
幕府は、そういった寺社にも恩賞与えてるわけで、「恩賞渋ったから幕府は神風を主張した」とは
まるで逆の行動を幕府はとってる。
それに幕府の官吏のテキストとみられる『鎌倉年代記』では文永の役で武士団が元軍を実力で追い返した
ことが記載されてるし、神風を幕府が推したとはとても信じられないな。
47 :
46:2012/07/03(火) 14:48:51.12 ID:???
あっ、誤解されると嫌だから言っとくけど、俺は寺社の民衆教化が
神風伝説を生み出したって立場で、それに幕府は関わっていないって
立場だから。
48 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 19:02:57.87 ID:???
万一関与して発覚したら大スキャンダルになるのは目に見えてるから
(だって武家の代表であるはずの幕府が自分達の功績を否定する行動をするのだから全国の武士激怒だろう)
漏れもしたとは思えないなぁ
49 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 20:33:46.78 ID:???
そもそも文永の撤退に台風全然関係ないしな。
少なくとも書状を見る限り、当の武士達は自分達の実力で撃退したとハッキリ認識してるわけだし。
50 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 21:24:27.46 ID:???
当時戦いの前に神に祈るのは当たり前だし実力だろうがなんだろうが勝てば神に感謝するのが当然だろ
弓を射る時も南無八幡大菩薩と言ったとか言わないとか
51 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 22:21:06.66 ID:???
教科書も読んでいない人が多数いるようなので再掲しますね
tp://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume012.html
>モンゴル側が、優勢だったにもかかわらず
>撤退した理由については、諸説ありま す。
>(1) 暴風雨(大風)説
>(2) 初めの予定通りの撤退
>(3) モンゴル・高麗の混成軍の内部で 対立が起きたという説
52 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 23:08:08.31 ID:???
(1)暴風雨(台風)説
→暴風雨がきたのは撤退中であることは、高麗史元史から明らかです。
(2)初めの予定通りの撤退
→橋頭堡も築かず、すぐ後に第2波が控えていたわけでもないので戦術的に有り得ません。
また、高麗史におけるやり取りで予定通りどころか元軍がかなり切羽詰まってたのは明らかです。
(3)モンゴル・高麗の混成軍の内部で対立が起こった
→作戦の主導権はあくまでモンゴルです。実際にモンゴルの将軍の決定で撤退しています。
やり直し。再提出。
53 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 23:37:55.33 ID:???
>>51のページ書いた奴が「元史」も「高麗史」も読んでないのは確実だな
仮にも教育する立場の人間なら原典資料くらい当たれよと
54 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 23:38:34.51 ID:???
引用にやり直しもくそもあるかw
55 :
名無し三等兵:2012/07/03(火) 23:52:43.53 ID:???
>>53 この人は中世武士の研究家だからなそれだけに
>モンゴル軍の戦法は、日本の武士とは大きく違っていました。日本のように一対一で名乗りあって
>戦うのではなく、銅鑼や鐘の合図に合わせて整然と集団で戦うのです。
こっちのが注目
56 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 00:04:13.07 ID:???
??
57 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 01:41:41.85 ID:???
>>55 たしかにそのまま読めば日本の合戦では1対1の戦いですべてが決まるように読めてしまう。
なんか剣道や柔道の試合みたいに。そんなわけあるかい。此処での日本軍の戦いとモンゴル軍の戦いの相違は
もんごるぐんは銅鑼や鐘の合図に合わせて整然と大きな集団単位でで戦ったが
日本軍には銅鑼や鐘の合図はなくて小集団単位で各個ばらばらに戦っていたことだということが分かるようになっていない。
58 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 02:00:37.67 ID:???
分かるようになっていないってかこの人はそんなこと言ってなくね
59 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 02:41:06.31 ID:???
前九年合戦絵詞の中に陣中で陣太鼓を用いている描写がある
参考になるか分からんけど太平記には非常用に鐘を使ったという記述がある
(巻十七:去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ)
源平盛衰記にも寺院から鐘や太鼓を借りたとか
(巻三十五範頼義経京入事:平等院の御堂より太鼓を取寄、櫓の下にて打ければ大勢静りて)
60 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 04:18:11.69 ID:???
個々人が武士という戦闘階級で、下士官レベルの判断能力を持ってる武士団を
相手に、銅鑼や鐘が云々の意志伝達能力だけで勝てる訳ないと思うけどな
意志統一しての集団戦は普通に武士側もやってるし
元軍は基礎となる兵士が農民や狩人を徴用しただけの雑兵だからね
61 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 05:58:59.58 ID:???
>>40 弘安の役で「神風も助けてくれた」って思いはあった
でも「神風に助けられた」じゃない
元寇の後で日本の武威に対する自信が高まってることからも明らか
62 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 06:05:03.56 ID:???
元史が「官軍整わず」を敗因に挙げてるんだから、武士の方がモンゴル軍より組織戦術のレベルが
高かったのは間違いない
63 :
57:2012/07/04(水) 06:41:30.50 ID:???
ちょっと書き方が悪かったかもしれない。
つまりモンゴル軍はその場に高位の指揮官がいないと戦闘力を発揮できない(人の声での伝達範囲に限界があるため、いきおい単純な内容しか伝達できないが音のでかい鐘太鼓に頼らざるを得ない、部隊の大規模運用が可能)半素人集団と
日本軍はその場に高位の指揮官がいなくとも個々人が自立した判断で戦闘力を発揮できる(伝達範囲は人の声の届く範囲に限られるが複雑な内容の伝達が可能、部隊の大規模運用には不向き)プロ集団の戦いやったといいたいわけ。
あかんな。なんかまだ書いとることに矛盾がある気がする。
ごめんね。わしの文章力やとこれで精いっぱいですわ。
64 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 08:05:43.53 ID:???
つまり元寇はスパルタvsペルシャみたいな戦いだったのか?
65 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 08:38:45.96 ID:RWkDO6GO
組織という観点からは別の見方もできる。
日本軍は個々の戦闘力、判断力は高いかも知れないが、軍としての組織は
無いに等しい。(あったのは一族単位の集団だけ)
これに対し、蒙古軍は個々の兵士は半素人でも、軍としては10人、100人、
1000人、10000人を単位とする組織があった。逆に言えば、一族単位などと
いうものがないから、軍隊組織を作ることができた。
組織が変われば戦闘方法も自ずから変わる。
66 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 09:22:32.10 ID:???
>>65 いや、元寇当時の日本は守護の下に軍組織も整備されていたよ
「新御式目」
一、寄役所致自由合戦、
縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人以下輩也、
正嘉三年二月九日
「関東御教書」
蒙古人襲来対馬・壱岐、既致合戦之由、覚恵注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、
下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、
文永十一年十一月三日
だから鎌倉幕府軍は組織戦術でモンゴル軍に勝てた
67 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 11:14:51.92 ID:RWkDO6GO
>>65 それは別に否定しないが、組織に関してその二つの文書から言えることは、各御家人
(すなわち一族集団のトップ)が大将に直結しているということだけ。
そして一族集団の大きさはばらばらだ。
蒙古軍の階層的組織と較べられるものではない。
蒙古軍のは、近代的な軍隊に照らして言えば、分隊、小隊、大隊、その上に
連隊を抜かして旅団があるようなものだ。
さらにいくつかの”旅団”を束ねて軍が形成された。
68 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 11:47:35.67 ID:???
>>67 でも実際に戦ってみたらモンゴル軍の方が「官軍整わず」だったんだぜ。
結局基本は人なんだから、モンゴル軍の各階層の指揮官の戦術理解度が御家人一人一人より低い以上、
組織戦で鎌倉武士に勝てるわけないじゃん。
69 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 12:08:22.76 ID:???
まあモンゴル軍はそもそも言葉も通じぬ異民族の集まり。
戦闘序列きちんと整えて、言葉じゃなく鐘太鼓で動けるように訓練しとかんと、
たちまち烏合の衆だわな。
日本軍は何と言っても同一民族しかも西日本さらに九州中心多少の訛の違いはあっても、
お互い相手が何言ってるかわからんというようなことはないわな。
ただもしへたに全国からの増援が間に合ちゃったりしてたら、
言葉や習俗の違いから大混乱が生じて、そこを突かれて敗北していたかもしれん。
長くなった。ごめん。
70 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 12:13:34.24 ID:???
謝るなら「saga」を謝れっての
71 :
46:2012/07/04(水) 12:29:28.25 ID:???
大陸的な組織戦って古代の日本が取り入れてたんじゃね?
学者さんたちは大陸式の集団戦法を高く評価してるが
古代の日本はどうだったのかな。
まあ、白村江の戦いとか調べてみると、個々の豪族の連合体みたいな
感じっぽいけど。
72 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 13:24:58.98 ID:???
大陸式の軍隊が蝦夷に苦戦したから中世の武士団はあんな感じになったんじゃね?
73 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 14:28:00.05 ID:???
>>66 すまんが引用元を教えてくれないか?
文永年間の奴は遺文に記載されてるけど、式目が幕府法集成にも遺文にも見当たらないんだが
74 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 14:43:10.65 ID:???
>>73 福岡県史資料だよ
幕府法集成は勝手に年代不明リストに入れてるけどね
75 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 14:48:05.58 ID:???
>>894 「矛盾している」と言うだけなら誰でも出来るぞ
「どう矛盾しているか」を説明してみろ
出来ないだろう?つまり、矛盾していないんだよ
少なくとも、お前には矛盾点が分かっていない
単に印象操作したいだけだ
76 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 14:57:04.09 ID:???
77 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 16:20:39.31 ID:???
78 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 17:05:45.10 ID:???
>>51 NHK高校講座日本史は、ほかの部分はどんどん新しい研究に依拠した記述になっているが、
元寇だけは古色蒼然たるものだな…、三別抄を過大評価しすぎだ。
>一見、通交を求めているようですが、実は服属を要求しています。
>さもなくば「兵を用いるのは誰が好むだろうか」と軍事力行使もほのめかしています。
ここはしっかり断言してるのに。
それと「不可解」を半島情勢の無知みたいに非難めいた扱いをしてるが、正しく知ったところでどうしろと言うんだ。
79 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 17:08:23.74 ID:???
>もっとも、この季長苦戦の場面には、あとから加筆された箇所があると見られています。
>特に3人のモンゴル兵を他の場面のそれと比べるとよくわかります。
>おそらく季長の奮戦ぶりを強調したかったのでしょう。
この先生はいいかげんだなあ。ちゃんと加筆に触れてるのに、3人のモンゴル兵を絵詞のその場面から抜いたらどういう構図になるか触れてない
80 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 17:25:26.53 ID:???
しかも絵の下に書いてある竹崎自身の注釈がある意味
絵そのものより遥かに重要だってこともまるでわかってないよな。
81 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 17:38:13.90 ID:???
三別抄について学者さんたちのやってるインチキは史料の「公家たちは理解できませんでした」という記述を、
まるで鎌倉幕府も理解できなかったかのような誤解に意図的に誘導してること。
公家たちが理解できなかた理由は幕府から断片的な情報した与えられてなかったからで、
直接三別抄と対話できる幕府と公家たちの間には天と地ほど情報格差があったんだよ。
実際には三別抄と幕府の間には密接な交流があった。
1271年に元使・趙良弼が来日した際、博多で三別抄に襲撃されてそのまま大宰府に連行されてるんだよね。
その後も幕府は趙良弼との交渉で三別抄からの情報を外交カードとしてフル活用してるし。
82 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 20:04:44.55 ID:WQsnibdH
>>69 >まあモンゴル軍はそもそも言葉も通じぬ異民族の集まり。
まず高麗軍は基本的に高麗人から成る、高麗王国の軍隊だ。
蒙古軍の中核は蒙漢軍だが、蒙漢軍というのはもともとは漢人(中国人)から成る職業的戦闘集団だ。
それが女真族王朝の金国に仕えていたのが、蒙古に降伏して、そっくり蒙古軍に編入された。
ただし軍隊組織は蒙古軍式に改編された。
というわけで、文永の役の元軍は決して他民族寄せ集め集団ではない。
83 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 20:06:10.54 ID:WQsnibdH
84 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 20:55:58.62 ID:???
【蒙】漢軍って言ってるんだから、漢人だけではないだろう。
蒙古人も相当含まれてたんじゃね?
85 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 21:26:14.54 ID:???
>>66 文永の役じゃ菊池武房が総大将の策を無視して赤坂を攻略したりしてるが?
86 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 21:38:40.94 ID:???
>>85 だから菊池武房には幕府から恩賞が与えられてない
87 :
名無し三等兵:2012/07/04(水) 22:02:25.61 ID:???
だから全体の組織の統制が取れてないと言っとるんだが
88 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:14:30.10 ID:???
逆に言えばそんな統制取れてない軍に負けた元って何なの?
89 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:24:12.64 ID:???
だから歴史家も元軍優位と言ってただろ
90 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:37:46.23 ID:???
>>85 独断専行自体は功績を上げればよっぽどじゃない限り容認されるでしょ
その辺が訓令戦法のキモだし、意識してた訳じゃないにせよ、日本の武士団は
訓令戦法で行けるだけの下地があった訳だからな
>>89 元軍は劣位です。これは確実
91 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:45:23.01 ID:???
上陸地点に釘付けにされたまま1日で敗走した元軍が優位なわけないだろ
大惨敗じゃん
92 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:50:34.82 ID:???
>>90 総大将が戦う場所まで決めてんがな
それに
>>86によると菊池武房は恩賞が貰えなかったそうじゃないか
>>91 文永の役と書いてあろうが
93 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:57:07.78 ID:???
>>91 だから文永の役で元軍は上陸地点に釘付けにされたまま1日で敗走してるだろ
94 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:57:31.86 ID:???
>>92 上陸したのに橋頭堡すら築けずに1日で敗走したのは文永の時だろ。
95 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 00:58:17.27 ID:???
96 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 01:05:25.58 ID:???
>>89 あれ?お前その歴史家が不勉強だと指摘されたら
「この人は中世武士の研究家だから」とか言い訳してたよね?w
97 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 01:11:58.41 ID:???
>>94 文永の役じゃ上陸地点に釘付けどころか博多の目前の赤坂の丘の上に陣取ってんだろうが
>>96 は?お前何様だよどこの馬の骨とも知れない匿名のド素人と歴史家じゃ比べ物にならんわ
98 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 01:14:34.36 ID:???
集団戦術VS一騎打ちor個人戦は正しくないな。
正確には命令戦術の元軍VS訓令戦術の日本やね。
99 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 01:16:10.61 ID:???
>>97 その陣取った赤坂から一瞬で蹴散らされてるだろうがw
>>97 赤坂に進んだのなんて僅か100余騎の菊池に撃退されるような小部隊。
しかもそこが元軍の最高到達点なわけで元軍大惨敗としか言いようがないだろ。
>>98 訓令戦術は上官の意図を無視して行動する事じゃねぇぞ
そりゃただ統制が取れていないだけだ
>>99 上陸地点に釘付け説は諦めたのかw
>>101 元軍優位説は諦めたのかw
元軍の大部分は上陸地点に釘付けにされてたんだから表現として間違ってないだろ
>>97 現にその歴史家は元史も高麗史も読まず「撤退」理由に暴風雨を挙げるほどのアホじゃん
それでも学者先生の言うことだから疑いません全面的に信じます!
て言うなら好きにすればいいんじゃないの?
>>102 は?妄想はチラシの裏にでも書いとけよ
>>103 暴風雨説は八幡愚童訓由来だろ
そもそもここは軍板でであって日本史板じゃねぇんだよ
学説自体にケチ付けたいなら日本史板行けよ
元軍上陸地点から赤坂までたった3kmしかないんだな。
なるほど、これなら軍議の時に背水の陣を布くだの
議論になるわけだ。上陸付近に一日釘付けにされたんだろうね。
>>104 八幡愚童訓由来なら八幡大菩薩が元軍を撃退したことになるがw
八幡愚童訓は暴風雨説ですらない謎の白装束(笑)と龍神(爆)でっせwwww
久々にクソワロタwwww
>>101 そんな統率取れてない軍隊相手に「官製整わず矢尽きる」レベルまで消耗する元軍って何なん?
八幡愚童訓では船に逃げた元軍を大風が襲ったと書いてあるんだがこのスレレベル低過ぎるな
>>104 中村学園大学の佐藤鉄太郎氏が文永の役は武士の圧勝だったって論文発表してるよ。
で、その論文が発表されてから何年も経つのに他の学者さんたちは一人も反論しないんだわ。
だから軍板では最新の学説に従って文永の役は武士の圧勝だったという前提で議論するべきだな。
>>110 船に逃げたのは八幡神の化身の白装束の軍団に元軍が敗北したから。
八幡愚童訓での元軍の敗因は八幡神。敗走中の元軍に大風が襲ったと
書いてるだけで大風で敗退したとは書いていない。
>>112 へ〜その説が本当に学界で認められてるなら教科書の記述も変わってるはずだよね
>>113 アホか現代の学者が八幡神の化身の白装束の軍団の存在を信じて説を構築するわけないだろ
元史と読みあわせて船に戻った元軍が大風に遭ったのだというのが文永の役暴風雨説だろ
>>110 今はかうと見えし、夕過(カ)る比、 白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、
矢 さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏 し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、
松原 の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、 船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、
たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり、此事さき□(にカ)生捕[た] る日本人の、
其夜歸来て、かたると、今朝生捕 たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あやまり有へからす、
もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、
おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、 さはかりなる異賊ともの、
おち恐れて、あるひは、 つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威 徳厳重にして、
不思議、いよゝゝ顕然とあらはれたまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ
これで暴風雨説は苦しいだろw
>>115 高麗史などと読みあわせると、元軍が橋頭堡を構築できず撤退途中に暴風雨に
遭ったとなるわけだが。「暴雨風」で撤退など八幡愚童訓にも元史にも高麗史にもない。
そして、115は暴風雨説の根拠として八幡愚童訓を挙げた。よって、撤退理由は「八幡神」で
間違いない。
どっちにしろ、じゃあなんで元軍は船に戻ってそのまま退散したんだっていう。
>>118 八幡愚童訓によれば武士は元軍にボロ負けそこに謎の白装束の軍団登場
もちろん現代の歴史家は白装束の軍団なんて信じない
残るは大風
>>111 だから、命令系統がちゃんとあったからこそ違反者には恩賞出てないやん。
>>120 だからなんでその大風の前に船に戻ったんだっていう。
>>121 じゃあ菊池勢が暴走した事とそれを止められないような統制力しかなかった事は認めるんだな
>>120 なぜ元軍が海に逃げたのかを高麗史に照らし合わせると武士に苦戦したからだと
わかるわけだ。そして、大風が何時起きたかは高麗史に明確に撤退中と書いてるわけだ。
よって、八幡愚童訓での元軍敗因は「八幡神」となる。暴風雨は撤退途中であることは
他史料から明確にわかるからな。
>>
>>123 菊池は暴走したわけじゃなく大将のもとに馳せ参じる途中で元軍と遭遇した可能性もあるね
>>125 元史じゃなくて高麗史
しかもその高麗史には一旦船に戻ったとかじゃなくて
普通に撤退途中の出来事として書かれてるんだが
ここに書き込む前にもうちょっと勉強したら?
>>127 じゃあなんで恩賞が出ないんだよ
>>128 馬鹿が元史には矢が無くなった陣形が崩れたと書いてあるだろうが
てかさっさと日本史板に行けよ
>>129 菊池勢がどういう状況で元軍と戦おうが「息の浜で集結して元軍を迎え撃つ」という
日本側の作戦を無視したことに変わりはないだろ。
どっちにしろ、少弐氏の統制力が弱かったとしても、「まとまっていない武士団に敗北
した元軍」となるだけだけど。
元史の記述と暴風雨で撤退した説になんの関係もないだろ。さらに、高麗史の軍議と
照らし合わせると完全に「暴風雨で撤退した説」なんて妄想でしかないということになる。
>>130 無視という事は知ってたという事かじゃあやっぱ統制力の問題だな
遭遇戦は手柄にならないとかありえんし
そんなグダグダな軍が勝てるわけもなく元軍優勢がだったとなるだろ
八幡愚童訓と元史を合わせて読めば暴風雨説になる事は何度も説明だろうが
同じ事何度言わすんだよ
つか、先陣が辛抱出来ずに突っ走っちゃう事は世界中の戦争を見ても、特に
白兵戦主体の頃ならよくある事だし、仮にその類の事だとしても、特に
「だから統率力が低い」とはならんよ
この時代での統率力は士気の維持の方が大事だし。統制は二の次だな
猛将が強い時代だったんでな
これがもっと時代が降りて、近世に入ってくればまた違うがね
まあ、その近世でもしばしば、士気の低い戦列歩兵が騎兵や縦隊の突撃で壊乱している訳だがね
その戦列歩兵は「先走ったりせずに命令を聞く」という能力では、武士や騎士よりも上だった
しかし、前述の通り、そういう「命令を聞く能力」に長けた戦列歩兵は、突撃を受けると容易く
崩れてしまう傾向があった
何故崩れてしまうかというと、彼等は徴用された農民だったので、士気が低く胆力も無かったからだ
戦闘力を陣形によって発揮される攻撃・防御に依存していたから、という面もあるがね
こうした傾向は、圧倒的に進化した近代まで例を見る事が出来る。有名なのは西南戦争での抜刀隊だ
彼等は装備の優位、そして命令への忠実さは敵に対して上回っていたのに、士気の低さによって
何度も敗北した。要するに、装備と命令への忠実さで上回っていて尚、しばしば敵より弱かったんだ
つまり「しっかり命令を聞いていた」=「強い」とは限らないのだよ
元軍が仮に武士団より命令に忠実でも「だから、絶対に元軍は武士団より強い」という根拠には
毛ほどもならないのさ
134 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 08:47:42.23 ID:L0ugZu+N
>>84 蒙漢軍というのは蒙古漢軍、すなわち蒙古に属する漢軍の意味。
漢軍が金と蒙古、両方に分かれたからこういう言い方が生じた。
135 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 09:04:45.64 ID:L0ugZu+N
菊池が赤坂で元軍を撃退したのは、元軍の先遣隊たる高麗軍(の、そのまた先遣隊)
と、日本軍の先遣隊(本隊はまだ沖の浜)たる菊池勢との間の小競り合いだ。
その後に元軍本隊が上陸して来て、赤坂山は取られた。
赤坂山が取られたらどんな情勢になるか。
日本軍本隊を箱崎/博多に封じ込めたまま、元軍が空城状態の水城/大宰府に
突進することになるのだ。
だからその後の日本軍の戦いは、箱崎/博多を放棄して赤坂山の南西を守る
ことに転換した。(八幡ノ蒙古記「博多箱崎を打ち棄てて」)
そして一応これには成功して、元軍を赤坂に釘付けし、自らは水城に撤退する
ことに成功した。
その後に(あるいは赤坂戦の途中から)、元軍が博多/箱崎に入り、略奪した。
そしてここから(百道原ではなく)乗船して撤退した。
これが文永の役の戦闘経過だ。実に単純明快。
136 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 09:32:28.37 ID:L0ugZu+N
>>135 ごめん、訂正:
赤坂山の南西を守る → 赤坂山の南東を守る
>>134 ソースは?初耳だが。
>>135 赤坂に陣取ったのが高麗軍なんて妄想の域を出ない。
そもそも、高麗史に高麗軍が諸軍ともに戦ったと書いてるのだから、赤坂で高麗軍が単独で
戦ったわけがないだろう。
「日本軍の戦いは、箱崎/博多を放棄して赤坂山の南西を守ることに転換した。」
なんてどの史料にも無いし、(百道原ではなく)乗船して撤退したなんてのも
妄想の域をでない。元軍が博多で略奪したという記録も無いし。妄想に妄想を
重ねた文永の役の紹介をどうも。
それに早良郡から博多まで艦船を回漕して博多から撤退とか、軍議が夜にあって
撤退が決定してから、艦船群に連絡して博多に回漕して一日で撤退しなければならない。
現実的に不可能だろ。占領できたかもわからない博多付近に予め回漕していたなら話しは別だが、
戦況も分からないのに、早良郡付近から撤収して上陸軍の退路を失ってまで博多付近で停泊していた
わけがないだろう。大宰府の占領が目標なんだから、初めから博多から撤退する予定はなかったわけだし。
そもそも、たとえようやく武士団を博多から追い払ったとしても、軍議の時点ではまだ撤退は
決定事項ではないから、博多に艦船が回漕しているはずがない。であるのに、軍議では「焚船」が
議題に挙っている。つまりは上陸地点付近から元軍は前進ができていなかったという状況がわかるわけだ。
そもそも、艦船を回漕して軍議で「焚船」の主張があるのは甚だ可笑しな話だが。
それだと元軍が1日で撤退する理由が無い
博多が本当に略奪を受けたかも本来は不明瞭だし、八幡とかを信用して考察するのがそもそも駄目なんじゃないの
>>131 >八幡愚童訓と元史を合わせて読めば暴風雨説になる事は何度も説明だろうが
同じ事何度言わすんだよ
だから、高麗史などの諸資料を照らしあわせれば「暴風雨で撤退説」は有り得ないと
何度も言ってるわけだが?
140 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 11:09:45.30 ID:L0ugZu+N
>>137 >高麗史に高麗軍が諸軍ともに戦ったと書いてるのだから、赤坂で高麗軍が単独で
戦ったわけがないだろう。
「諸軍ともに戦う」は金方慶伝の戦闘記事の後の方で出てくる。その前は高麗軍単独で戦っている。
>「日本軍の戦いは、箱崎/博多を放棄して赤坂山の南西を守ることに転換した。」
なんてどの史料にも無い
訂正したが、南東ね。赤坂山と水城の間を遮断するという意味。
八幡ノ蒙古記を読めば、日本軍は博多箱崎を放棄して、この地域は真空状態になった。
その後赤坂山の麓の日本軍と山側の蒙古軍との戦いになる(追われた日本兵が赤坂の坂を駆け下りている)。
撤退する日本軍は赤坂山戦線から直接、水城に向かう。
これらをまとめれれば、前記のような解釈になる。
> 占領できたかもわからない博多付近に予め回漕していたなら話しは別だが
いや、あらかじめ回漕したと思う。とにかく、博多箱崎に蒙古軍が来たことは間違いない。
その証拠は略奪放火と船の碇。
もうひとつの解釈は博多敵前上陸(すこし前までの定説)だが、これがまた根拠がない。
(もし博多敵前上陸のソースを知っていたら教えて貰いたい)
合理的な解釈はあらかじめ撤退を考慮して博多に回漕し、博多から撤退したということ。
早期撤退も考慮に入れた両面作戦だったのだ。そうでなければあれほど手際よく行かないだろう。
141 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 11:17:06.25 ID:L0ugZu+N
>>138 >それだと元軍が1日で撤退する理由が無い
1日で撤退したのは日本軍の抵抗が予想以上に強く損害も大きかったから。
まっすぐ水城を獲るか、博多箱崎を焼いて帰るかの、後の方を取ったわけ。
夜中に乗船したのは、昼間のダンケルクをやりたくなかったから。
元軍とて、おっかなびっくりなのだ。
>「諸軍ともに戦う」は金方慶伝の戦闘記事の後の方で出てくる。その前は高麗軍単独で戦っている。
それだと「菊池が赤坂で元軍を撃退した」ではなく、「高麗軍が武士団を破った」となるはずだが。
それにその前節の高麗軍単独の戦闘は高麗軍の主将の金方慶が指揮を執ってるわけで、
「先遣隊たる高麗軍(の、そのまた先遣隊)」ではない。
また、節要では「諸軍、終日戦う」となっており、高麗史の「諸軍ともに戦った」とは終日、つまり
高麗軍が一日中ともに戦ってたということがわかるわけだ。つまり、高麗史の前節の高麗軍単独の戦闘は
赤坂での戦闘ではなく、別の日の戦闘であったということ。
そもそも、前節の高麗軍単独の戦闘は「道を分かって進んだ結果、高麗軍が単独で戦った」わけで
赤坂での戦いとするにはおかしい。なぜなら、早良郡から距離の無い博多目指して進撃するのに「道を分かって
進む」のは不自然極まりない上に道を分かった形跡が無い。よって、高麗軍単独の戦闘は博多湾上陸での
戦闘ではないということ。
>八幡ノ蒙古記を読めば、日本軍は博多箱崎を放棄して、この地域は真空状態になった。
その後赤坂山の麓の日本軍と山側の蒙古軍との戦いになる(追われた日本兵が赤坂の坂を駆け下りている)。
撤退する日本軍は赤坂山戦線から直接、水城に向かう。
八幡ノ蒙古記では水城に武士団が敗走したとなっているだけで、武士団が「赤坂山と水城の間を遮断した」など
書いていない。まして、赤坂以東に元軍が進入した形跡は八幡ノ蒙古記以外に無い。
八幡ノ蒙古記では、その後、白装束の集団が元軍を敗走させたことになってるだろう。
>とにかく、博多箱崎に蒙古軍が来たことは間違いない。
その証拠は略奪放火と船の碇。
たとえ元軍が博多を占領したとしても、夕方以降の話だ。占領してもいない博多付近に
元軍船が停泊していたわけが無いだろう。もし、元軍が負ければ、早良郡からの退路が
完全に断たれる。それに数万人も住んでいた博多に略奪や放火の記録は一切無い。
箱崎付近から少々の蒙古軍が上陸したのは、筥崎宮が焼けたことと筥崎宮付近から
碇石が発見されたことでもわかるが、これは赤坂から東進した元軍主力とは別で博多を
元軍が占領した証拠にはならない。
現に箱崎浜の目と鼻の先の筥崎宮くらいしか被害が確認されておらず、また、碇石を切り離して
急いで逃げていったことからも本作戦と言えるほどの規模ではなく、武士団の目を掻い潜って
略奪・放火しようと上陸し筥崎宮を焼いたものの、武士団が接近していることに気付くと碇石を
切り離して急いで撤収したに過ぎない。現に筥崎浜から上陸した元軍と武士団との間に戦いがなかったのが
何よりもの状況証拠だ。
昼間になったらダンケルク撤退戦になるほど危機的な状況だったのか
しかも、橋頭堡を捨てて撤退するほどの抵抗に会ったと・・・・
つまり、武士団に惨敗して命からがら逃げ出した訳だな?
八幡厨が論破されるのも日常風景になりつつあるな
そもそも精々1万以下の敵相手に3倍の兵力で攻めといて僅か1日で継戦能力を失う元軍って・・・。
そもそも八幡蒙古記の記述って、蒙古襲来絵詞の竹崎の注釈と矛盾しまくりーのなんだが。
例えば文永の役では竹崎は軍船を襲った事実は無いし
意気揚々と引き上げてきた菊池隊が何故か菊池意外全員死んだことになってるし
竹崎を救援して元軍追い散らした白石が敗走したことになってるし。
あと、八幡蒙古記以外の記録には赤坂と烏飼潟以外の戦闘に関する記録が無かったと思うんだが。
八幡ノ蒙古記だと、武士団は赤坂→博多筥崎→水城と後退に後退を続けてるが、
竹崎ら武士団の記録では逆に元軍が赤坂→鳥飼潟→百道原→姪浜
と上陸地点に後退していってるのが面白い。
149 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 14:20:20.71 ID:L0ugZu+N
>>142 >それだと「菊池が赤坂で元軍を撃退した」ではなく、「高麗軍が武士団を破った」となるはずだが。
>それにその前節の高麗軍単独の戦闘は高麗軍の主将の金方慶が指揮を執ってるわけで、
>「先遣隊たる高麗軍(の、そのまた先遣隊)」ではない。
高麗軍は元軍の先遣隊として先に上陸し、まず祖原山を占領して本陣とした。次にその一部
(すなわち先遣隊のそのまた先遣隊)をもって、その先の赤坂山を占領した。しかしこれは小部隊で
あるから菊池勢によって簡単に追い落とされた。
その後、竹崎や白石などの日本軍がさらに祖原山に向かって突撃した。しかし日本軍が祖原山を
奪回したという話はないから、金方慶伝が突撃して来た日本軍を撃退したと言っているのはこのときの
ことだろう。いずれにしても、八幡ノ蒙古記が記述する第二次赤坂山戦闘より以前のことだ。
>節要では「諸軍、終日戦う」となっており、高麗史の「諸軍ともに戦った」とは終日、つまり
高麗軍が一日中ともに戦ってたということがわかるわけだ。
節要というのは知らないが、字数の多い金方慶伝で見るのがよい。金方慶伝では「諸軍與戦、及暮
乃解」となっている。つまり諸軍がともに戦ったのは夕方に自然停戦になる前のこと、と取ること
もできる。
>つまり、高麗史の前節の高麗軍単独の戦闘は 赤坂での戦闘ではなく、別の日の戦闘であったということ。
確かに、その前の壱岐の戦いとどこで切れるのかが不明瞭で、いろんな解釈がある。私は「捨舟三郎浦」を
本土上陸と見る。
>「道を分かって進んだ結果、高麗軍が単独で戦った」わけで 赤坂での戦いとするにはおかしい。
「捨舟三郎浦」に続いて「分道而進」がある。これは元軍本隊が別の場所(恐らくより西方)に上陸した
と考えればよい。それならば別の道を進んだことに間違いはない。また植民地軍(たる高麗軍)に危険を
冒させて本隊の安全を図ることは大いにあり得る。
150 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 14:44:15.69 ID:L0ugZu+N
>>143 >たとえ元軍が博多を占領したとしても、夕方以降の話だ。
夕方かどうかは別として、遅い時間であることは私も言っていることで、意見が一致したようだ。
重要なことは、世の中で言われているような博多敵前上陸などは無かった、ということだ。
>占領してもいない博多付近に元軍船が停泊していたわけが無いだろう。
日本軍が撤退した後ならば停泊しても危険は無かろう。
また、まだ日本軍が博多を撤退していない段階に於いても、「ぐずぐずしている挟み撃ちするぞ」
という圧力をかける意味があるだろう。<沖合に停泊することで
>現に筥崎浜から上陸した元軍と武士団との間に戦いがなかったのが何よりもの状況証拠だ。
従来の説では、博多の沖の浜に蒙古軍主力が上陸し、日本軍と激戦を行ったことになっている。
しかしそんなことは無かった、という点に於いて私は君に同意する。
博多の日本軍はすでに撤退していたのだから、元軍が上陸しようとしまいと戦闘は起こり得なかった。
151 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 14:46:40.61 ID:L0ugZu+N
>>150 訂正
ぐずぐずしている挟み撃ちするぞ → ぐずぐずしていると挟み撃ちするぞ
152 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 14:51:47.75 ID:L0ugZu+N
>>144 >昼間になったらダンケルク撤退戦になるほど危機的な状況だったのか
>しかも、橋頭堡を捨てて撤退するほどの抵抗に会ったと・・・・
少なくとも元軍首脳はそのように考えたと思うよ。
それほどに武士団の抵抗が目覚ましかったということだ。
>>149 >竹崎や白石などの日本軍がさらに祖原山に向かって突撃した。しかし日本軍が祖原山を
奪回したという話はないから、金方慶伝が突撃して来た日本軍を撃退したと言っているのはこのときの
ことだろう。
これは根拠無し。節要に「諸軍が終日戦った」高麗史に「諸軍ともに戦った」と言っているのだから
元軍は一日中、高麗軍を含む諸隊がともに戦っていた事がわかる。
さらに、追撃していたのは竹崎や白石ら日本側であって、高麗史の言うように高麗軍が「分道而進」している時に
日本側から襲撃を受けたのではない。蒙古襲来絵詞では「分道而進」どころか、祖原に陣を張って日本側が現れるのを
逆に待ち受けていた。
よって、高麗史のいう「倭兵大敗」と竹崎と白石の戦闘は別のものであることがわかる。
>八幡ノ蒙古記が記述する第二次赤坂山戦闘
ん?なんだ?第二次赤坂山の戦闘って。八幡ノ蒙古記には赤坂での戦闘は1度しかないが?
そもそも、八幡ノ蒙古記のいうように菊池武房以外全滅したとすると、菊池武房の弟の有隆、康成
らや家臣団が生き残っている事実に反する。ということは八幡ノ蒙古記のいう赤坂の戦いは信用に
足るものではないということだ。
>つまり諸軍がともに戦ったのは夕方に自然停戦になる前のこと、と取ること
もできる。
>博多の日本軍はすでに撤退していたのだから、元軍が上陸しようとしまいと戦闘は起こり得なかった。
そう、俺もそう思ってる。高麗史や節要での「終日」という単語から判断して、
元軍は終日、諸軍協力して戦って、暮れに及んで自然停戦したのだ。
ここでも八幡ノ蒙古記のいうように博多を武士が放棄していれば「暮れに及んで
戦闘を解す」というような場面はなかったはずだ。戦闘を解すような相手が逃げさって
いるはずだからな。
>これは元軍本隊が別の場所(恐らくより西方)に上陸した
と考えればよい。それならば別の道を進んだことに間違いはない。また植民地軍(たる高麗軍)に危険を
冒させて本隊の安全を図ることは大いにあり得る。
それは原典を無視しすぎた解釈すぎないか。高麗史は三郎浦で船を捨ててから「分道而進」を進んだのであって
「分道而進」してから「捨舟三郎浦」したのではない。順序が逆だ。
諸軍ともに戦ったと言っているだから、上陸地点も同一と見て間違いないだろう。
また、蒙古襲来絵詞でも福田文書でも一代要記でも元軍の上陸地点は「早良郡」付近のみだ。
>日本軍が撤退した後ならば停泊しても危険は無かろう。
また、まだ日本軍が博多を撤退していない段階に於いても、「ぐずぐずしている挟み撃ちするぞ」
という圧力をかける意味があるだろう。<沖合に停泊することで
日本側が撤退した後ならね。ただ、日本側が博多に駐屯しているのに博多付近に回漕するなど
バカなことがあろうはずがない。元軍の退路は船でのみでしか確保できない。
それを放棄してまで、博多沖に停泊するメリットなどない。もし、博多の占領に失敗すれば
元軍は博多沖の艦船から救助部隊を待つ間、徹底的な掃討戦を受けるからだ。
もし、博多に回漕しようと思えば、博多を完全に占領した後でなければ危険極まりない。
155 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 18:28:50.10 ID:AV3Nvg+8
>>153 >節要に「諸軍が終日戦った」高麗史に「諸軍ともに戦った」と言っているのだから
>元軍は一日中、高麗軍を含む諸隊がともに戦っていた事がわかる。
高麗史節要を見たが、「諸軍終日戦」とあるだけで、「與」の文字がないな。
諸軍が一日中戦った、は当たり前のことだから「一日中いっしょに戦った」の証拠にはならない。
高麗史金方慶伝と合わせて一本、というのはダメだろう。
とりあえずそれだけ
>>132 総大将が何キロも離れたまったく違う場所を戦場に設定したのを勝手に変更したのを
先陣が突っ走った!?これはどう見ても確信的な命令違反だろ
統制より士気のが大事だと主張をするならその前に訓令戦法説を明確に放棄すべきだ
さもなくばただの話題そらしだろ
>>139 だから説そのものへの文句は日本史板でやれと何度も
>>156 アホ説をぶちまけておいて文句は日本史板で言えとはご立派ですねえ
しかもスレチでもなんでもないしw
説を軍事的に批判する
むしろ軍板向き
>>157-158 暴風雨説は俺が考えたわけじゃねぇよお前はスレの前に板を間違えてんだよ
高麗史によると〜のどこが軍事的なんだか軍の統制の話のがよほど軍事的だろ
つーか1人の命令違反者を基準に集団戦術できてなかったとか言われてもな。
近代戦ですら戦術レベルでの命令違反のケースとか割とあるのに。
>>159 菊池武房の勝手な行動に留まらず
竹崎季長のように手勢たった5騎で突っ込んで負傷戦果なしとかやってるのが当時の武士だ
>>161 そりゃ高麗史が〜しか言えないどこぞの馬鹿のことだ
163 :
名無し三等兵 :2012/07/05(木) 21:42:14.44 ID:???
へぇーその「集団戦術できてなかった」日本軍相手に,3倍の兵数でかかって
橋頭堡も築けずたった一日で夜逃げ同然に逃げ出すなんて、
「集団戦術していた」元軍ってよっぽど弱かったんだねww
先駆けって一番槍みたいなもんじゃないの?
>>163 まったく結論が先に来るうえに記憶力もない奴の相手は面倒だな
モンゴル側が、優勢だったにもかかわらず 撤退した理由については
>>51ですでにいくつか説が挙げられているだろ
しかし結論が先に来てる時点でおかしいと本人は気付けないのだろうか?
166 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 22:04:35.32 ID:AV3Nvg+8
>>154 >三郎浦で船を捨ててから「分道而進」を進んだのであって「分道而進」してから「捨舟三郎浦」したのではない
その通りだ。ただし別地点に上陸したのなら上陸そのものが「分道而進」だ。
>上陸地点も同一と見て間違いないだろう。
二万もの軍隊が混雑を顧みず同一地点に上陸するのか?
ノルマンジーとか、いろいろな上陸作戦を見ると、大部隊の場合多くの地点に分かれて上陸するのが普通だ。
これは混雑を避けて能率を上げると同時に、敵の防衛力を分散させる意味があるのだろうね。
文永の役の場合も数キロにわたる数カ所に上陸地点を比定する説が多い。
>もし、博多の占領に失敗すれば 元軍は博多沖の艦船から救助部隊を待つ間、徹底的な掃討戦を受けるからだ。
それもそうだ。考えて見るとぜんぶの船が博多に回漕する必要もないだろうね。
赤坂から百道原までは近いし。それこそ混雑を避ける意味もあるだろう。
しかし少なくとも博多を占領した部隊はそのまま博多から乗船しただろうと思う。
私の言いたいことの骨子は、博多・箱崎の敵前上陸は無かった、博多港の錨等は撤退時あるいは無血上陸時のものだ、
ということにある。
>>166 面倒くせえな…。
>高麗史節要を見たが、「諸軍終日戦」とあるだけで、「與」の文字がないな。
諸軍が一日中戦った、は当たり前のことだから「一日中いっしょに戦った」の証拠にはならない。
高麗史金方慶伝と合わせて一本、というのはダメだろう。
高麗史の軍議で忽敦と金方慶が同じ場所にいたのだから高麗史の「諸軍ともに戦う」というのは
疑う必要性は無い。それに節要のいうように元軍が終日戦ったのは蒙古襲来絵詞でも鎌倉年代記でも
でもたった1日の間に激戦があったことがわかるのだから疑う必要もない。
>二万もの軍隊が混雑を顧みず同一地点に上陸するのか?
元軍が今津からだろうが早良郡から上陸しようが、分かっていることは
元軍が上陸したのは早良郡以西ってことだけ。早良郡より広範囲から上陸した
としても、それが重要な事柄だとは思えない。元軍は東進するしかないわけだしね。
広範囲に上陸したからといって、赤坂の戦いが高麗軍の先鋒隊だとか鳥飼潟の戦闘が
高麗軍との戦いだとかいう166の考えを補強するものではない。
>博多港の錨等は撤退時あるいは無血上陸時のものだ、
ということにある。
であるなら、碇石を切り落とすという場面は想像できないな。
被害が筥崎宮のみであることとその近くから碇石が発見されたことを考慮する
と箱崎浜から上陸したのは大した軍勢ではない。上陸した元軍が筥崎宮のみを
焼き払って、敵軍がいない状況下で碇石を切り落として撤退するのは不自然極まりない。
それに高麗史に暮れに及んで戦闘を解したとあるのだから、八幡ノ蒙古記のいうように
日本側が博多を放棄したのではなくて、日本側と元軍は自然停戦したのだろう。
一騎打ちやってたとか戦術レベルが稚拙だったとか言うつもりはないが
当時の武士団を訓令戦術というのは無理あるんじゃない?
菊池さんは命令違反して赤坂の元軍に攻撃仕掛けて追っ払ったし
竹崎さんは少弐さんに先駆けの許可を得てたとはいえ
「味方待ってたら先駆けの功立てられなくなるじゃないですかやだー」って
後続の味方より先に突入してるし。
いやまあ、この2人以外は少弐さんの指示通りに動いてたみたいだけど。
>>169 個人がてんでバラバラの稚拙以外の何者でもないだろ。
そしてそんな武士団が命令系統が洗練されてる元軍になすすべなく敗れた。
撤退理由は
>>51の3だろ。多国籍軍だし、実際高麗史で内部分裂してる様子が書かれてる。
いい加減にしろネトウヨ。
>>167 なるほど。
自然停戦ということは日本側が決して戦術的勝利などしてないことは認めるわけだな。
あと、箱崎を元軍に焼かれたことも認めるんだな。
>>143 当時の博多って鎌倉、京都に次いで人口が多かったよね。
そんな大都市が焼かれたら京都や鎌倉にいた人の記録にも
「なんか聞く話によると博多が焼かれたらしいぞ」的な記述があってもいいと思うんだがあんのかな?
「なんか台風が吹いたらしいね。これ神風じゃね?」
って又聞きで書いてる勘仲記ですら博多が焼かれたとは書いてない。
>>170 高麗史の該当部分を読むと、総司令官である忽敦がすでに戦闘継続を断念しており
部下である金方慶が主戦論を唱えたけど却下されて、そのまま撤退となったとある
だからこの軍議は「内部分裂」説の根拠にはなり得ない
あと撤退の理由については忽敦本人が「兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍」
と語ってるわけだが、ここはスルーか?
しかもその「高麗史」は文永の役を元軍の敗退と総評してるんだがw
(十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人・・・「高麗史」巻八十七 表巻第二)
175 :
名無し三等兵:2012/07/05(木) 23:57:54.65 ID:L0ugZu+N
>>167 元軍が全て同一地点に上陸し、諸軍が終日肩をならべて戦った、ということにしたいのなら、
別にそれでもいいのだよ。私の言いたいことは:
元軍主力の博多・箱崎への敵前上陸は無かった。
元軍は全軍が西部海岸に上陸し、陸路で博多方面へ向かった。
ということにあるのだから、終日一緒に戦おうが、あるいは時間的に前後しようが、不都合はない。
ただ、
>八幡ノ蒙古記のいうように日本側が博多を放棄したのではなくて、日本側と元軍は自然停戦したのだろう。
これだと博多敵前上陸、したがって博多(沖の浜)での戦闘があったと言っているように見える。
それでいいのかな?
あと、「第二次赤坂山戦闘」についてはまた明日ね
何だかんだ茶化す奴が多いが、当時の武士が大小様々な
一族郎党単位(例えば竹崎の一族、白石の一族みたいな具合)で
てんでバラバラに戦う稚拙な戦術だったことは認めるわけだな。
>>171 >自然停戦ということは日本側が決して戦術的勝利などしてないことは認めるわけだな
武士団が元軍を壊走させたとは最初から主張していない。ただ、武士団が優位で元軍を
壊走させるまでには到らず、日が暮れるまでに決着がつかなかったという立場だけど。
>あと、箱崎を元軍に焼かれたことも認めるんだな。
うん。最初からそう認識してる。
>>175 >これだと博多敵前上陸、したがって博多(沖の浜)での戦闘があったと言っているように見える。
日本側と元軍は自然停戦したのは赤坂以西だ。
>あと、「第二次赤坂山戦闘」についてはまた明日ね
勝手にやってくれ。第二次赤坂山の戦いなんて171の頭にしかない仮想だし
八幡ノ蒙古記の赤坂の戦いの矛盾点は上でも述べたし
それに対して、仮説に仮説を重ねた話で対抗してくるのはわかってるし
俺がいちいち説明しても、永遠に終らないことが分かってる。
中身のない仮説ばかりの話は一々、反論するのが面倒臭くて適わない。
つまり上陸して箱崎を焼いたけど、その後武士達に撃退されて船に引き下がったってこと?
>>169 「訓令戦術」というか「訓令的だった」という感じだろうよ
実際に連勝して、1日で元軍を洋上に撤退させてる武士団を「稚拙な戦術」とか
「なす術なく敗れた」とか言ってる奴は無視して良い
そいつの頭の中では、きっとアレクサンダーもペルシア軍になす術なく敗れた
のだろうよ
>>183 命令違反が起きたら訓令的
勝手に突撃しても訓令的
訓令的ってのは無秩序をただ言い換えただけだろ
現代の軍隊ですら訓令が完全に守られることはない
中世の領主連合軍がこれだけ組織的に戦闘できたら大したものだよ
>>184 その「無秩序」な軍隊に元軍が何度も何度もボロ負けしたのは何でですかね?
明らかに実力差で連敗してますよね
訓令戦法の要点は「全体が目標を共有し、それに向けて各部隊が自立して判断して
行動し、連携を行う事」であって、いちいち一つ一つの命令を聞く聞かないで
推し量れる様な物ではないのだよ
そして、武士団には、意識してやっていた訳ではないだろうが、その様な下地が
あったという話をしたんだ
お前に言わせてしまえば、きっとNCWを導入してる米軍さえ「情報共有してるだけで
個々の部隊が好き勝手に動いてる無秩序な軍隊」になりかねないなぁ
187 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 09:04:45.82 ID:mZCLhgnk
>>178 >日本側と元軍は自然停戦したのは赤坂以西だ。
なるほど君の考えはわかった。
菊池勢が赤坂山の元軍を追い落として後、赤坂山は元軍の手に落ちなかった。
その情勢のまま自然停戦となり、元軍は百路原から乗船して帰った。
日本軍は博多から撤退しなかった。
その間に、元軍がゲリラ的に上陸して、箱崎宮などを焼いたことはあった。
こういう筋書きだな?
実はこれに類する筋書きが最近妙に流行っているのだ。
例えば「学術的」なものでは下記がある。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/17117/13/p1-36.pdf 君も恐らくこれに類する筋書き(恐らくウィキ)を読んで、それが頭にあるのだろう。
しかしこのような筋書きは全く現実感がない。恐らく軍事の専門家が見れば笑うのではないか?
このような筋書きが出てくるおおもとは、八幡の蒙古記に書かれた赤坂山戦闘と、
絵詞に書かれた赤坂山戦闘とを同じ一つのものと考えるところにある。
私の唱える「第二次赤坂山戦闘」説はこの二つを異なる時点の異なる戦闘と見るのだ。
詳しくは改めて。
188 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 09:25:45.39 ID:mZCLhgnk
>>167 あと、これがあった。
>上陸した元軍が筥崎宮のみを焼き払って、敵軍がいない状況下で碇石を切り落として撤退するのは
>不自然極まりない。
私は(すくなくとも一部は)博多港から元軍が乗船したという説なのだが、
暗夜に、大部隊が、馬も積み込んで乗船し、しかも夜明けまでに出港するのだ。
これは現代の軍事専門家が不可能と断じるほどの難事業だ。
一つの舟の乗船に対して与えられた時間的制約から、やむをえず碇綱を切る
ことは十分あり得る。
戦闘行動は終わって、あとは帰り着きさえすればなんとかなるという頭が
あったと考えれば、むしろ当然とも言える。
あぁ、パフォーマンスさんかw
ゲリラ的っていうか、奇襲的に小部隊を揚陸させるのは別に普通だし、傍に略奪
出来る場所があれば略奪しようとするというのも、特に変な所は無いだろう
大部隊を正面から堂々と揚陸させる方が不自然だ
つーか敵が待ちかまえている以上、居ないところ狙ってコソーリ上陸するしかないし
192 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 15:36:29.06 ID:mZCLhgnk
>>190 小部隊を揚陸と言ったって、一方で博多の日本軍は撤退していないんだろう?
そこへ、港の正面から、しかも碇の大きさから言って軽舟でもない本船で上陸するのだから、
もはや奇襲とは言えないだろう。それは敵前上陸だ。
>大部隊を正面から堂々と揚陸させる方が不自然だ
八幡ノ蒙古記は、大部隊が博多から上陸したとは言っていない。西から陸路でひた押しに
来て、博多箱崎にもなだれ込み、陣地まで構えたと言っている。
私はそれが真相だと思う。
日本軍撤退の後だからそれが起こり得た。
それを前提にすれば、博多港の碇は撤退時のものであろうと言うことになる。
もちろん、八幡ノ蒙古記が言及していない日本軍撤退後の無血上陸の可能性もある。
>傍に略奪出来る場所があれば略奪しようとするというのも、特に変な所は無いだろう
誰も略奪が不自然だとは言っていない。むしろ示威という意味では元軍の一つの作戦目的だ。
日本軍の博多撤退を否定しながら、一方で博多の略奪もあった、というのが不自然なのだ。
193 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 15:47:09.94 ID:mZCLhgnk
>>192 すこし誤解されそうなので補足。
日本軍が博多箱崎を放棄して赤坂山に集中した後に、元軍が陸路から博多箱崎に
入った。日本軍がいないから元軍が入るのは自由だった。
元軍の陸路侵入を前提にすれば、すなわち元軍の博多敵前上陸がなかったことを前提にすれば、
博多港の碇遺物は元軍の撤退時に残したものであろうと言うことになる。
こういう意味だ。
元軍にとっては、博多沿岸しか揚陸する場所がなかったのだろうから、敵前の
中で比較的守りが薄いように見えたのであろう筥崎宮に揚陸するのは別に
おかしな事ではない。例えば、博多沿岸の正面に艦隊を配して武士団を牽制して
おくなどすれば、戦術的にも有り得ない揚陸ではない
結局は即座に対応され、逃げ帰ったというだけの話でな
西から本隊が来る場合でも、陽動として博多に小部隊が揚陸する事は有り得る
結論としては、筥崎宮への揚陸には、特に軍事的なナンセンスさは無いと言える
また、中世の軍隊が、戦闘を放棄して略奪に走ったりするのは珍しい事では無い
精神鍛錬や一種の美学を持っている武士・騎士の様な戦闘階級ならともかく
農民の徴用兵やモンゴル兵などは、略奪が楽しみで戦争してるフシがある
よって、敵前にも関わらず略奪があった事は、特に不自然な事ではない
悪く言っても、浅ましい雑兵に相応しい振る舞いといった所だな
騎士だって十字軍で好き放題やったし
武士だって源義仲の軍勢が京都で好き放題やったしな。
増してや壱岐や対馬であんだけ好き勝手やらかした元軍なら尚更。
>>187 しっかし、毎日根拠もない妄想だけで、こんだけ長文書けるとかよっぽど暇人なんだな…。
>しかしこのような筋書きは全く現実感がない。恐らく軍事の専門家が見れば笑うのではないか?
このような筋書きが出てくるおおもとは、八幡の蒙古記に書かれた赤坂山戦闘と、
絵詞に書かれた赤坂山戦闘とを同じ一つのものと考えるところにある。
私の唱える「第二次赤坂山戦闘」説はこの二つを異なる時点の異なる戦闘と見るのだ。
詳しくは改めて。
何が「恐らく軍事の専門家が見れば笑うのではないか?」だ。誰も唱えていない第二次赤坂戦闘とか
言ってる187の方が嘲笑の的だろう。で、オカルト文献の八幡ノ蒙古記と実録の蒙古襲来絵詞を無理矢理
整合性をとろうとした結果、第二次赤坂の戦いなどという馬鹿なことが思い浮かぶのだろうが、
八幡ノ蒙古記では赤坂の戦いで菊池武房以外、戦死したとしているが、実際は弟らや家臣団が生き残ってる
事実から勘案すると、八幡ノ蒙古記の記述は明らかな事実誤認だ。で、なぜ、八幡ノ蒙古記は187の主張する
第一次赤坂の戦いを描いていないのかについては疑問はないのか?
それと、誰も187の「改めて」など待ってはいない。妄想はチラシにでも
書いてくれ。
>一つの舟の乗船に対して与えられた時間的制約から、やむをえず碇綱を切る
ことは十分あり得る。
戦闘行動は終わって、あとは帰り着きさえすればなんとかなるという頭が
あったと考えれば、むしろ当然とも言える。
なぜ、時間的制約があったかは考えないのか?日本側を撤退に追い込んだはずなら
時間的に制約なんてなかったはずだろう。まして、一日で撤退する必要もなかったし
軍議で焚船や敵軍が増えるであろうことに警戒して撤退を急ぐ必要もなかったはずだ。
結局、元軍の認識では日本側を大敗させ撤退に追い込んだという認識はなかったのだろう。
>>193 >日本軍の博多撤退を否定しながら、一方で博多の略奪もあった、というのが不自然なのだ。
博多では無く、箱崎な。博多に略奪や博多炎上などがあったら、当時の人々が記録に残さない
はずがない。しかし、そのような記述のある史料は一切無い。これらのことから博多の町は一切被害は
無かったと見ていいだろう。
ところが、博多の北西にある箱崎には被害の痕跡がわずかにある。このあたりから、元軍が上陸した痕跡があるのは
筥崎宮前の海上の碇石と筥崎宮が焼けことからわかる。しかし、筥崎宮が焼けたぐらいしか被害が確認されない。
よって、略奪目的か牽制目的かは不明だが、箱崎浜から上陸したのが対した軍勢の規模では無く、上陸を日本側に察知され、
碇石を急いで切り離して碇石を残して逃げていった程度にすぎないわけだ。
198 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 18:32:17.83 ID:vt7mt3yw
>>194 >また、中世の軍隊が、戦闘を放棄して略奪に走ったりするのは珍しい事では無い
>悪く言っても、浅ましい雑兵に相応しい振る舞いといった所だな
192で説明したのだが、また同じことを書いてるな。
元軍の掠奪は、軍紀の乱れで、雑兵が私的に掠奪したのではない。
軍として、作戦として掠奪放火したのだ。それが示威とか懲罰とか言う作戦目的の一つなのだ。
だから正史にも載る(ただ四境を虜掠して帰る、だったかな)。
外交の一手段と考えたのだろうが、それが日本に対して効果があったかどうかは別問題だ。
>>198 遊牧生活でよそから家畜とってくる延長なんだろうな
確かに高麗は屈服させたし
「そういう作戦だった」という根拠に乏しい。お前の想像じゃないか
1.雑兵が軍紀を乱して略奪に走ったのを指揮官が事後承認した
2.指揮官にそもそもの見境が無く、略奪に走った
3.陽動として派手に暴れて見せた
パッと考えるだけでも、示威行動以外の理由として、これだけ思い付く
四境を略奪というのも、博多の町全体の話かは甚だ疑問のある所だ
四境とは周囲一帯という意味であって、博多全域を指すとは限らない
もし文永の役で博多が焼き払われたなら、考古学的な発掘により痕跡が確認されてるのでは?
誰か知らない?
そもそも「四境を略奪」というのは博多の話なのか?
壱岐の話だとか、そういう可能性の方がずっと高いんじゃないか?
元史には九州上陸後の記述は基本的に無いのだし
高麗史にしても、上陸後の略奪の記録は無い
八幡愚童訓に至っては、著者にしてからが正確な戦況など知りようがない
立場・・・宮司とかだろうし・・・であり、丸でアテにならん
せいぜい、自分達の寺社が元軍小部隊の奇襲略奪を受けて被害が出たのを
針小棒大に言っているだけだろう
なんで当時の武士以外の人間の記録にすら博多が焼失した記述が一切ないのさ?
鎌倉幕府の情報統制能力はナチスドイツ並みだったとでもいうの?
てか、ここに来てまさかの示威目的説とは・・・w
>>202 しかも八幡蒙古記書いた奴って箱崎八幡宮の関係者ですらない
「京都の」八幡宮の関係者っていう説が一番有力じゃなかったか?w
「四境を略奪」っての箱崎の可能性もあるね。
博多以西の元軍主力に気を取られてる武士団を尻目に箱崎浜から
少々の元兵が上陸して放火。最後っ屁のつもりだったのだろう。
206 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 20:54:12.60 ID:vt7mt3yw
>>196 >なぜ、時間的制約があったかは考えないのか?
夜が明ける前に全軍乗船を終えて出航せよ。これすなわち時間的制約ではないか。
>日本側を撤退に追い込んだはずなら時間的に制約なんてなかったはずだろう。
それは我々の後知恵だ。その日の元軍にして見れば、確かに目の前の日本軍は去ったが、
本当に引っ返して来ないのか。あるいは今日の敵以外にどんな軍勢がいて、夜襲して来ないのか。
これらを知る手だてはない。
>結局、元軍の認識では日本側を大敗させ撤退に追い込んだという認識はなかったのだろう。
その通りだと思う。元軍は日本軍の力を過大評価したのだ。
だから、どうせ撤退するのなら自分たちに余裕のある間に、できるだけ犠牲の少ない方法で、
と考えた。それが当日夜間撤退の理由だと思う。
我々は元軍の力を過大評価してはならない。
207 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 21:10:43.20 ID:PRUfc6p1
凄まじかったんですね。
二等兵に通貨で定給が出る国民国家の正規軍の登場まで未だ500年もありますからね、仕出かした方が声高らかにやってやったぜとか記録する時代だったんですね。
ところで単純に解釈すると四境って四方(八方)の事なんじゃないですか?
あたり構わず全部掠奪したくらいの文意では?
208 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 21:17:13.78 ID:vt7mt3yw
>>196 >なぜ、八幡ノ蒙古記は187の主張する 第一次赤坂の戦いを描いていないのかについては疑問はないのか?
良い質問だ。私も以前は疑問に思っていた。しかしある一文に気がついてから疑問はなくなった。
それは竹崎についての、「船にかかりしほどは良くはたらけど」という文章だ。
これも、弘安の役のような海上襲撃戦をやってないのに、と最初は思っていたが、あるとき「船にかかりしほど」
というのは水際戦闘のことだ、と気がついた。実際に上陸用舟艇を攻撃したかどうかはわからないが、
鳥飼潟など、上陸地点から遠くない海岸での、初期の戦闘を「船にかかりしほど」という言葉で
表したのだ。
そして、八幡の蒙古記の筆者は鳥飼潟などの初期の戦闘についてはあまりよく知らなかった。
だからそれについては省略して、日本軍撤退直前の赤坂山攻防戦に集中したのだ。
そして「船にかかりしほどはよくはたらけど」という言葉は、目の前の赤坂山攻防戦「以外にも」
戦闘があったことを如実に示している。
209 :
名無し三等兵:2012/07/06(金) 21:23:53.45 ID:vt7mt3yw
>>207 >仕出かした方が声高らかにやってやったぜとか記録する時代だったんですね。
その通りと思います。我々は「侵略や掠奪は悪いことですよ」という先生方の教育が
染み付いているから間違えるのです。
>あたり構わず全部掠奪したくらいの文意では?
それでいいと思います。それが実際にどこだったかは別として。
>>186 >訓令戦法の要点は「全体が目標を共有し、それに向けて各部隊が自立して判断して
>行動し、連携を行う事」であって、いちいち一つ一つの命令を聞く聞かないで
>推し量れる様な物ではないのだよ
お前さんの言うところの訓令戦法とやらでは上からの命令は無視して各部隊がてんでバラバラに
好き勝手に戦っていいのかまったく奇天烈な指揮統制だなおいw
高級指揮官は細かい指示は出さず細かな指示は現場の指揮官に初めから委任する訓令戦術とは
まったく似ても似つかないものだ
いやまあ、確かに赤坂山以外でも戦闘はあっただろうがね。高麗史にも一応、記述があるし
しかし、だからって第二次赤坂山攻防戦だの、なんて話にはならんぞ
赤坂山戦以後の追撃戦の話だろ、その記述
>>210 いやいや・・・訓令に反しても有益と認められる事に関しては現場の独断専行が
認められるのが訓令戦法なんで
上からの命令に従わなかったから訓令戦法じゃない、なんて言ったら、WW1のドイツ軍
だって訓令戦法じゃなく、各部隊がバラバラに戦ってた事になるから
>>206 >それは我々の後知恵だ。その日の元軍にして見れば、確かに目の前の日本軍は去ったが、
本当に引っ返して来ないのか。あるいは今日の敵以外にどんな軍勢がいて、夜襲して来ないのか。
これらを知る手だてはない。
日本側が去ったのではなく日が暮れたことによる自然停戦による両軍の撤収だ。
元軍が警戒したのは「日が暮れて戦闘を解した」と言ってるのだから自然停戦であったためだ。
日本側を大勝させ、撤退に追い込んだわけではなかったからだ。
>元軍は日本軍の力を過大評価したのだ。
だから、どうせ撤退するのなら自分たちに余裕のある間に、できるだけ犠牲の少ない方法で、
と考えた。それが当日夜間撤退の理由だと思う。
「日が暮れて戦闘を解した」後の元軍は翌日に再び武士団と戦うことを嫌った。
それは日本側を過大評価したのではなく、自軍の損害が大きかったからだ。
軍議で自軍を「兵が少ない」、「疲れた兵」と称してることからもわかる。
ましてや、たった一日の戦闘で副司令官の劉復亨が負傷しているのだ。
武士団との戦闘をどうしても避けて、夜間のうちに姿を晦ましたかっただろう。
>>213 >これも、弘安の役のような海上襲撃戦をやってないのに、と最初は思っていたが、あるとき「船にかかりしほど」
というのは水際戦闘のことだ、と気がついた。実際に上陸用舟艇を攻撃したかどうかはわからないが、
鳥飼潟など、上陸地点から遠くない海岸での、初期の戦闘を「船にかかりしほど」という言葉で
表したのだ。
そんな根拠もないことで疑問が解けるとは驚かされる。船にかかしほどと言ってるのだから「船に攻めかかった」
という文意のままではないか。「船にせめかかる」=赤坂の戦い、鳥飼潟の戦いと解するのは曲解以外の何者でもない。
ましてや、竹崎や菊池らは上陸中の元軍に攻めかかったのではない。上陸を終えて、進軍してきた元軍を迎え撃ったのだ。
こんな曲解をする奴には久しぶりにお目にかかった。
逆に「船にせめかかる」という記述から八幡ノ蒙古記の著者が戦況を全く理解していなかったことを裏付ける記述であることが
わかる。先に述べたように、赤坂の戦いで菊池武房以外戦死したとあるが、弟らや家臣団が生き残っていることからも八幡ノ蒙古記の
著者が戦況を詳しく理解していたとは言いがたい。
215 :
213:2012/07/06(金) 21:48:55.17 ID:???
訂正
日本側を大勝させ→日本側に大勝し
>>212 >訓令に反しても有益と認められる事に関しては現場の独断専行が認められるのが訓令戦法
お前誰にこんなでたらめ吹き込まれたんだ?
現場がいいと思えば上からの命令なんて無視していいなんて組織があるかボケ
訓令戦術ってのは上級指揮官は訓令(大まかな作戦目標)を出し
細かな指示は現場指揮官に任せるというものだ訓令に反した行動は認められない
訓令も何も無いだろ・・・
源平合戦どころか前九年の役あたりでもう歩兵動員してそこそこ複雑な集団戦してるじゃんか
命令に反して先駆けした部隊がいたから統率取れてないだと?
そんな事くらいで統率取れてないと言うなら
アレクサンダー大王もハンニバルもフリードリヒ大王も
統率力不足って事になるわ
>>216 まだ納得がいかないというのであれば、統帥綱領でも読んでくれたまえ
それに、俺は「武士団は訓令戦法を採用していた」と言ってる訳ではなく
「武士団の指揮系統は訓令的だった」と言ってるだけだから
>>214 俺も菊池に関する記述と並んで八幡蒙古記をあやふやだと感じる理由はそこ。
竹崎自身が鳥飼潟の戦闘以外には参戦してないとしてる以上
文永において竹崎が「船にかかりし」場面なんて有り得ないわけだよね。
そもそも八幡蒙古記では竹崎が「船にかかりし」場面の後
例の赤坂での菊池の場面が書かれてるけど、描写もさることながら
まず第一に時系列が蒙古襲来絵詞に矛盾してるよな。
竹崎が戦地に向かう途中で菊池に会ったのは何なの?って話だし
第二次赤坂の戦いとやらがあったんなら、じゃあなんで八幡蒙古記には第一次(って言えばいいの?w)が書かれてないし
どっちにしろ矛盾してるよな。
中世の戦争なら命令違反なんてしばしばあるから
つーか近現代でもあるか
それが勝因になることもあるし敗因になることもあるし
それを挙げつらって各個人がバラバラに戦ってたとかアホか
>>217 平地で迎撃しろと言ったのに命令に反して何キロも離れた丘の上の敵に勝手に突撃した例を示してから言えよ
>>218 訓令戦法についての記述なんてどこにもないがな
もしこれの事を言っているのだとしたら元軍が赤坂に停止していた菊池の例はまったく合っていないし
命令違反は厳しく処分すると書いてあるだろうが
>最初の命令のときとは状況が変化して、命令が現状にそぐわず、かといって新たな命令を仰ぐ時間がない場合など。
>ただし、現場の指揮官の行為は、後できちんと査問を受ける。
>もし、最初の命令に従う方が正しいと判断されれば、それなりの罰を受けるし、
>最悪、命令違反として銃殺されることもあり得る。
>>223 攻撃しろって言ってんのに攻撃しなかったり
攻撃するなって言ってんのに攻撃したりなんて
充分重大な命令違反だと思うがね
でもそれくらい戦史紐解けばよくある話
そのシチュエーションに限定すれば確かに数は減るが、それがどうかしたのか?
>>219 統帥綱領では上級指揮官は細部に干渉しないこと下級指揮官は常に上官の意図を明察することとなっている
当然命令違反を推奨するなどとという馬鹿な規定はない
お前はどうか知らんがこんな輩もいるからな
>独断専行自体は功績を上げればよっぽどじゃない限り容認されるでしょ
>その辺が訓令戦法のキモだし
>集団戦術VS一騎打ちor個人戦は正しくないな。
>正確には命令戦術の元軍VS訓令戦術の日本やね。
>平地で迎撃しろと言ったのに命令に反して何キロも離れた丘の上の敵に勝手に突撃した例
7年戦争のザイドリッツあたりならやってそうな気がする
例えばカンネーの戦いなんか、あんな騎兵の機動、ハンニバルが全部仕切ったと思うか?
部隊指揮官の独断だろ
それをもって「勝手に動いてる。統制が取れてない」とか言うのか?
権限の委譲って概念がないのかねぇ…
>>227 カンネーの戦いの騎兵のどこに命令違反があったんだ?
包囲殲滅戦はハンニバルの十八番だろうが
>>228 菊池は権限の移譲なんて受けてないただの命令違反だろうが
>>229 右翼の騎兵が敵の背後をぐるっと回って敵右翼を挟撃なんて命令は出してなかったろうよ
ハンニバルは味方右翼が敵左翼を突破したらそのまま背後を塞いでもらうつもりだったろ
そもそも数百騎の先駆け程度の話じゃないか
数千の軍が命令違反で突撃とかなら大事だが
そんなもんで統制だ何だとよく盛り上がれるなおまいら
>>232 その程度をまるで全軍がバラバラに戦ってる、みたいに言う輩がいるから・・・
>>225 で、命令違反をしての独断専行の権限があるのは分かったのか?
そりゃ「推奨する。是非命令違反をすべきだ」と書いた規定は無いだろうよ
しかし、そんな事は権限の有無の話とはまた別の事だ
それと、統帥綱領はあくまで「訓令戦法の中に上級命令に対して命令違反の
権限がある」という事の例として出したに過ぎないからな?
何度も何度も言うようだが、武士団が明確な意図を持って訓令戦法を採用して
いた、などと言っている訳ではなく「訓令的だった」と言ってるのだからな?
>>229 左翼騎兵が一旦、敵前から下がりましたね
あんな命令をハンニバルは出してませんけどね
それこそ威力偵察だったんじゃないか?
勝手に戦端開いたとか言われる規模の行動じゃないし
あれ、左翼騎兵だったかな。まあ良いや
>>231 よく知らんが先に騎兵をやれという指示だったんだろ
>>234 統帥綱領は命令違反の権限なんて書いとらんがな
あと訓令戦法言ってたのは全部お前なのか?
で武士団が訓令的だったという根拠は?
>左翼騎兵が一旦、敵前から下がりましたね
>あんな命令をハンニバルは出してませんけどね
さあ細かい展開は知らんから何とも言えんがハンニバルは攻撃命令は直接出してたらしいな
>>235 威力偵察なんて概念は無かったろうけど
敵が弱かったから蹴散らしただけで
敵が強くても討ち死にするまで突撃するつもりは無かったはずで
さっさと逃げるつもりだったろうし
結果的に威力偵察的な作戦ではあるかもな
>>237 根拠もクソも、鎌倉武士は元から封建制の貴族階級兼戦闘階級だぞ
各戦闘に関する判断の権限に関しては、幕府や総大将の指示があるだけで
それに必ずしも絶対服従する理由は無かった
そういう、絶対服従を義務とする統制は、強いて言えば信長の軍団が
一番近いかもしれんが、日本には概ね存在しない
南北戦争のバーンサイドさんなんか凄いぞ
「あの橋は敵が標準合わせて待ちかまえてるから渡るなよ?絶対渡るなよ?」
って言ってるのに堂々と渡るからな
当然蜂の巣にされたが
どこの世界にも独断専行の指揮官はいる
うまくいけば猛将
失敗すれば戦犯
バーンサイドさんは小銃開発の技術者であって軍人ではないのに
無理矢理指揮官に抜擢されたんだから例としては不適切
>>239 武士は大将の命令に従う義務がなかっただって?
そんなんで組織が成り立つか
>>238 >威力偵察なんて概念は無かった
どうかな?
「なんか元軍が来たみたいだし、ちょっと様子見で攻めて来るわw」
「そんな手勢で大丈夫か?」
「大丈夫だってwヤバかったら逃げとくしwww」
くらいの発想はあったんじゃないか?
>>242 節度を守れば成り立つし、その証明が訓令戦法だろうに
戦史を見れば、命令違反の独断専行は幾つもあるが、全てが処罰された訳では全く無く
むしろ戦功を挙げた場合は賞賛されるケースが多々ある
ナポレオンの大陸軍の将軍の中に「陛下が追撃せよと仰ったから追撃しました」で
深追いして反撃を受け、大損害を出した軍団があってなぁ
絶対服従だと、逆に機能しなくなるのが組織の一面なんだよ
それを「絶対服従じゃなきゃ成り立たない」なんて・・・頭がおかしいんじゃないか?
>>235 赤坂の元軍に対して威力偵察を敢行する菊池。
元軍はあっさり敗走したかに思えたが、実はこれこそが元軍の罠。
追撃するであろう菊池をおびき寄せ殲滅するつもりであったが
菊池も異常を感じ取り、追撃をやめ一旦味方へ合流し情報交換。
って書くとすげー高度な駆け引きに見えるw
>>243 「大丈夫だ、問題ない」とか普通死亡フラグなのにw
>>244 節度を守ればってなんの節度だよ
訓令戦術では前線での細かな指揮を現場指揮官に任せているのであって
命令違反を犯していいなんて制度ではないと何度も言っているだろ
統帥綱領でも下級指揮官は常に上官の意図を明察することと書いてあるだろうが
上官の指示に従わず各部隊が好き勝手に行動したら軍は成り立たんし
よほど劇的な状況の変化でもない限り上官の命令は絶対だろうが
現に多くの軍で抗命には厳罰がかせられている
お前の説の武士団は内部統制が欠けて組織の体を無いしていない
実際の武士団はさすがにそこまで腐ってはいない
菊池が賞賛された事実はないし実際にあげた戦功すらも認められなかった
>>246 現場の細かな指揮ではなく、現場の判断だし、命令違反の権限は存在すると言ってるだろう
「高級指揮官の発する命令は、部下兵団の大なるに従い、各兵団共通の目的と協同作戦に
必要なる準縄を明示することを主とし、各兵団に独断専行の余地を与えて、遺憾なくその
全能力を発揮せしむるを要す」
という部分が読めんのか
「常に上官の意図を明察すること」というのは「上官の意図を考えろ」という意味であって
「上官の意図に絶対服従しろ」という意味ではない
「上官の命令に従わず」ではなく「上官の命令に全く従わず」の場合なら軍は成り立つまいが
「節度を守る範囲でしばしば命令に従わない」程度であれば、軍は充分に成り立つ
また、その様な事が出来なくては、近代軍隊において下士官・下級士官を置く意味が無い
抗命に対する罰も、実際にはケースバイケースだ
それに「武士団には統制が欠けていて組織の体を成していない」と主張しているのは
お前一人だけだ
それをお前自身が「そうではない」と言うのなら、つまりお前は、持論の誤りを認める訳だな?
また、孫子の兵法にも「将、軍に在りては君命も受けざるところあり」というのがある
上級命令に絶対服従じゃなきゃ軍隊じゃない、だなんてお前一人の妄想だよ
総論としては、たかが数百騎の先駆けをあげつらって「統制が乱れてた!」だのと
言うなど、ちゃんちゃらおかしいという事だ
>>247 高級指揮官の指揮範囲は各部隊共通の目的と協同作戦に必要な基準を示す事で
その先の細かな指示は各部隊の指揮に任せろという意味なんだがお前はどんな読み方をしたんだ?
上が決めた事が優先されるのは組織として当たり前だし
だいたいその文でも「余地を与えて」となっているだろうが
>しばしば命令に従わない」程度であれば、軍は充分に成り立つ
だからそれが統制力が低いつってんの
組織の体を成していないなんて言ったのはお前の説を評した時だけだ
最初からこっちは菊池の行動は明らかな命令違反だと言ってるだろうが
それを命令に従う義務がないなどとおかしなことを言い出すから
>>249 1万かそこらの軍で数百騎(さらに同数かそれ以上の徒歩兵が付く)規模の命令違反が起きれば大事だろ
>>250 「その先の細かな指示は」という意味の文言は無いし、実際の運用上でも、そういった
意味に限った運用の範囲内でのみ独断専行が認められた訳ではない
また妄想か。行間を読む気になるのは勝手だが、文章ぐらい「文字通り」の解釈をまずしろ
優先はされるが、優先されるという事は、絶対服従という意味ではない
その程度の事を「節度」という言葉を使って含めているのだが、読めないのか?
「余地を与える」というのは即ち「その権限を付与する」という事だ
統制力が低いだのと言った所で、そうしたお前の言う所の「統制力の低い」軍隊が
プロイセンのドイツ統一など、近代軍隊の統制の根幹を形成しているのは純粋な事実
リデルハートの著書にもその旨が書いてあるそうだ
お前が「そんな軍隊は統制力が低いんだ」などと主張した所で、実際に武士団が元軍に
快勝したのは事実であり、また、統制が乱れていたのはむしろ元軍だった事が資料からも
読み取れる
「命令に従う義務は無い」ではなく「必ずしも絶対服従する義務は無い」だ
その違いが何故分からんのだ?
数百っつーか百か二百くらいだろ
多くても三百超えないくらいじゃね
本隊と別行動で三百くらいで突撃しかけるなんてよくあるだろ
戦国時代あたりなら当たり前すぎて例をあげるのも逆に難しいレベルじゃねーか
それくらいで大騒ぎすんなよ
なんで現代の「こうあるべき」を
「だから当時の武士団もこうだったはず」につなげようとしてんの?
255 :
名無し三等兵:2012/07/07(土) 11:05:15.69 ID:NNKpHYU9
>>213 >それは日本側を過大評価したのではなく、自軍の損害が大きかったからだ。
それでもいいよ。私の言いたかったことを言ってくれている。
ただし、元軍にはまだ、見事な撤収作戦を実施するだけの余裕があったことも事実。
だから、「どうせ撤収するのなら余裕があるうちに」ということになる。
余裕が無くなってからの撤収はダンケルクになるからだ。
256 :
名無し三等兵:2012/07/07(土) 11:07:31.44 ID:NNKpHYU9
>>214 >>220 >>221 「舟にかかりしほどは」の「ほど」というのは時期という意味だ。「ほな、のちほど」の
「ほど」だ。だから「敵の上陸用舟艇を攻撃したこともあった、戦いのあの時期には」と
いう意味だ。鳥飼潟の戦いの延長として、海上の敵と、祖原山など陸上の敵との連絡を
絶とうとすればそんな局面もあっただろう。
「舟にかかりしほど」の解釈はともかく、著者がそのような言葉で呼んだ、過去の一時期の
戦いがあった。念のためだが「かかりし」は過去形だ。
その過去の戦いのなかで竹崎は良く働き、その前に菊池が赤坂山の敵を追い落として働いた。
これは竹崎の書いた絵詞から動かない。
それならば、今現在において竹崎が躊躇し(実は負傷しているのだが)、菊池が赤坂山に
向かって突撃している状況は、菊池にとっての「第二次赤坂山戦闘」に違いないではないか。
先入観を取り去って素直に読めばなんでもないことだ。
逆に、絵詞に書かれた菊池の戦闘が唯一無二であり、八幡の蒙古記の菊池の突撃がそれと
同じものであると言うのならば、菊池は朝方に一回だけ突撃してその後は一日中遊んで
いたことになる。それこそおかしな話だ。
菊池は強いことはわかってるし
命令違反したんだから
予備にまわされたんじゃね
恩賞も払わなくてすむ
>>254 菊池の先駆けを、武士団の統制の乱れであり、引いては武士団は統制の全く成ってないクズ軍団で
元軍にボロ負けしたんだ、と主張している人がいる所為なんですよ・・・
倭寇のころの日本軍は整然と統率されて縦横矛盾に明軍を蹴散らしていた
んだったよな
もしかして赤坂方面に出た連中は最初から遊軍的な扱いだったんじゃないのか
262 :
名無し三等兵 :2012/07/07(土) 13:14:18.37 ID:???
ワーテルローでのグルーシーは、ナポレオンの「プロイセン軍を追撃せよ」
の命令を馬鹿正直に守って戦局の転換点に主戦場へ駆けつけず、結果
フランス軍が敗北したんだよ
あのときグルーシーが戦機を読んでベアリアンスへ向かってれば、ワーテルロー
はフランス軍の勝ちだった。
だからナポレオン本人にも後世の歴史家にもグルーシーは酷評されてる。
命令はあくまでその時点での戦況に依るもので、その後の戦況如何により
各指揮官の判断で行動するのは19世紀においても常識だろ
>>260 東北や九州の場合は鎌倉時代からの守護がそのまま戦国大名になってるケースが多い。
政権抗争の中心だった畿内や関東は勢力の入れ替わりが激しいけどね。
先駆けは武士の誉れ
>>260 「武士達は一騎打ちなんてせずに普通に本気の元軍と戦って撃退した」
と言うとネトウヨ呼ばわりする奴がいるが
そのリンク先の奴みたいなのこそネトウヨと呼ぶべきだよな。
なんだよ勝ち目無いから玉砕戦法して元が震えあがったってw
武士バカにしてんのかw
元軍もバカにしてるwww
自滅的突撃にビビって洋上に逃げるなんて、本当だったら幾ら何でも士気低過ぎる
そんな訳ないだろ!www
>>252 >「その先の細かな指示は」という意味の文言は無い
高級指揮官の指揮範囲から漏れた残りの指揮範囲を指して言っている事ぐらい
>「余地を与える」というのは即ち「その権限を付与する」という事だ
「余地を与える」を「文字通り」の解釈をしたら
(高級指揮官の決めなかった)残った部分を与えるという意味だろうが
訓令戦術は現場指揮官にそれまでよりも広い採用範囲を与えると言うだけで
命令違反を認めているわけではない
命令違反が頻発する軍はろくに統制が取れていないというごく当たり前の事を理解するのにどんだけかかってんだよ
>>262 菊池の場合は状況の変化なんて起きてないだろうが
>>256 >「舟にかかりしほど」の解釈はともかく、著者がそのような言葉で呼んだ、過去の一時期の
戦いがあった。念のためだが「かかりし」は過去形だ。
その過去の戦いのなかで竹崎は良く働き、その前に菊池が赤坂山の敵を追い落として働いた。
これは竹崎の書いた絵詞から動かない。
「舟にかかりしほと」と言っているのだから、船に攻めかかったといっているだけであって
赤坂の戦い、鳥飼潟の戦いを総評したものではない。
また、竹崎が「船にかゝりしほと」はよく奮戦したが、「此所にいたりて、得かゝらす」と言っているが
竹崎が戦闘に参加したのは鳥飼潟までだ。「此所にいたりて」など無い。
よって、256のいう「船にかゝりしほと」を鳥飼潟の戦闘と解釈し「此所にいたりて」を後半戦とみるのは
事実に反するものだ。
まして、赤坂の戦い、鳥飼潟の戦いは上陸を終えた元軍を向かえ撃ったのであって
船に攻めかかったという八幡ノ蒙古記の著者は戦況を把握していなかったことを
裏付けている。
>それならば、今現在において竹崎が躊躇し(実は負傷しているのだが)、菊池が赤坂山に
向かって突撃している状況は、菊池にとっての「第二次赤坂山戦闘」に違いないではないか。
先入観を取り去って素直に読めばなんでもないことだ。
で、これのどこが素直に読めば「第二次赤坂山戦闘」となるのか?
何回読もうが、八幡ノ蒙古記の赤坂の戦い=「第二次赤坂山戦闘」とならないが。
八幡ノ蒙古記に竹崎の負傷の話なんて無いし、むしろ負傷し戦線を離脱したはずの竹崎が256のいう「第二次赤坂山戦闘」
の後に「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ」とあり、なぜか散々に戦っていたと捏造されていることからしても
この著者は戦況を理解していなかったことを裏付けている。
また、散々に戦ったはずの竹崎が蒙古襲来絵詞で「郎党らによる分捕りはなかったのかという安達の問いに対して「分捕りはなかった」と答えている。
八幡ノ蒙古記のいう「散々に戦って」いたはずなら、分捕りがなったはずがないだろう。
また、繰り返しになるが、八幡ノ蒙古記の著者がなぜ、256の言う第一次赤坂の戦いを描いていないのか?
他の戦況は現場を見ていなければわかろうはずがないほど、細かい描写で描いていたのに対して、256のいう第一次赤坂の戦いだけは詳しく知らなかった
はずがないだろう。256のいう第一次赤坂の戦いだけは知らなかったなんて、そんな解釈はご都合主義丸出しだ。
また、八幡ノ蒙古記の著者は赤坂の戦いで菊池武房以外は討ち取られたとしているが、武房の弟の有隆や康成や家臣団が生き残っている事実もある。
これだけ、実情と八幡ノ蒙古記の記述に矛盾があると著者が事実に基づいてこの書を記述したのでは無いことは一目瞭然だろう。
これでも八幡ノ蒙古記を信用しようとする成れの果てが、曲解に継ぐ曲解で八幡ノ蒙古記を信奉する256だけだ。
>逆に、絵詞に書かれた菊池の戦闘が唯一無二であり、八幡の蒙古記の菊池の突撃がそれと同じものであると言うのならば、
菊池は朝方に一回だけ突撃してその後は一日中遊んでいたことになる。それこそおかしな話だ。
全くもっておかしくはない。何も遊んでいたのは菊池だけではない。少弐資能や少弐経資の手勢が戦闘に参加していない事実もある。
これらの後方の軍勢に戦況報告を兼ねた菊池勢が合流したとみてもおかしくはあるまい。
また、遊んでいたというのも根拠のある事ではない。赤坂の戦いでは手柄をたて名を挙げたが、その後の
日暮れまでの戦闘には際立って活躍したわけではなく、名が残らなかった可能性もあるだろう。
そもそも、後者の方が戦闘に参加した武士の名が現代まで伝わっている例の方が少ない事実から
可能性としては高い。
>>268 お前の勝手な解釈に過ぎんな
文字通りの解釈をすれば「余地」=「指揮範囲から漏れた残り」とは限らない
余地はあくまで余地に過ぎない。解釈には大いに幅がある
「命令違反を認めてない」というのは、実際の運用上からも事実と異なる
査問を受ける事はあるが、概ね適切と思われる現場判断であれば、命令違反で
罰される事が無い場合も少なからずある
それに、俺は「節度を守れば」と何度も何度も何度も言っているだろうが
それが何故「命令違反が頻発する」などという話になっている?
全くの針小棒大・妄想妄言も甚だしい捏造だろうが。頻発するほど認めている訳ではない
それを何度言わせるんだ?お前は命令どころか、人の話もちゃんと聞けんのか?
また、「状況の変化」というのは「現場から見た状況・機会が、それ以前に知っていた状況・
機会と異なる事」であって、要するに「遭遇前に聞いていた情報と違う」場合でも「状況の
変化」の範疇に入る
その上で、赤坂山の元軍は菊池勢の先駆けで撃退出来るレベルであり、息の浜で待ち構える
必要の無い物だった
これは、充分に「状況の変化」と言えるだろう
>>271 「余地」=「残った部分」じゃなかったらなんになるってんだよ
少なくとも
>>252にあるような「その権限」などという意味にはならんぞ
>「命令違反が頻発する」などという話になっている?
お前がしばしば命令違反が出来なくては、近代軍隊において下士官・下級士官を置く意味が無い
と言いだしたんだろうが
丘の上の敵に遭遇する時点でおかしいだろうが
だいたいこの距離で「以前に知っていた状況・機会と異なる」などという情報の錯綜は普通ありえない
直に見えるのだからな
総大将少弐景資と菊池武房の間で敵の戦力評価が分かれ菊池武房が命令を無視して突撃した
あるのは状況の変化ではなく菊池の暴走だけだ
>>272 「余地」の中に「権限を付与する」というのが入るだろうが
「余地」であれば何でも良いのだから、独断という権限を与えても良い
また、実際に多くの軍でも、その様な権限は下級指揮官に付与されている
「『その権限』という意味にならないという根拠も無い。当たり前だな。文言の中には
そんな解釈に限定すべき部分が無い
よく読んでみろ。
「高級指揮官の発する命令は、部下兵団の大なるに従い、各兵団共通の目的と協同作戦に
必要なる準縄を明示することを主とし、各兵団に独断専行の余地を与えて、遺憾なく
その全能力を発揮せしむるを要す」
これだが、「必要なる準縄を明示すること」と「各兵団に独断専行の余地を与えて」が
「高級指揮官の命令範囲の、残った部分に限って独断専行を認める」と解釈される場合とは
「必要なる準縄の範囲内で、独断専行の余地を与える」という様な文言が必要になる
しかし、実際には「必要なる準縄を明示すること」と「各兵団に独断専行の余地を与えて」は
その様な文言が含まれていない
にも関わらず、これを「命令の範囲内での独断専行のみが認められている」と解釈するのは
自分勝手な解釈と言わざるを得ない
さらに、何度も念押しする様だが、実際の運用上も命令違反を是認される場合がある
だから、お前の解釈がおかしいだけなんだよ
それと、赤坂山での情報の錯綜は普通に有り得るからな
息の浜と赤坂山って、直線距離で3kmぐらい距離があるし、しかも丘によって、赤坂山の
元軍の全容は視認し辛い
双眼鏡があっても、錯綜する事は充分に考えられるね
更に言えば、植生を考えれば当時、赤坂山には木々も生えていただろう
それを「情報の錯綜など有り得ない」だの・・・よく言えた物だな
武士団は観測気球と双眼鏡でも持ってたのか?それとも千里眼の持ち主か
まあ、菊池の判断が正しかったかに関しては、どう評価しても構わんがね
どっちにしろ、あんな事をあげつらって「統制が乱れていた」とか言うんじゃないよ
>>273 >「余地」の中に「権限を付与する」というのが入る
「余地」が「権限を付与する」になったら元の文の「与えて」が重複するだろ
お前の主張は命令を無視した行動をとる事が前提で分が書かれているという時点で頭がおかしいとしか言いようがない
命令を守るのが当たり前だしだいたい統帥綱領に下級指揮官は常に上官の意図を明察することと書いてあるだろうが
赤坂の敵を見て(おそらく博多の西から)息の浜に移動したんだからもっと判断した時はかなり近かったはずだろ
距離にかかわらず元軍の全容は視認し辛いとしたらそりゃ菊池も同じ事になる
八幡ノ蒙古記の信用性なんて、それを種本にして作った八幡愚童訓よりはマシ程度のもんじゃないのか?
たしかに、博多が焼けた記述が無いし一騎打ち論なんて馬鹿げた論を蔓延させた記述もないけど、根本的におかしいんじゃないかって記述は多いしな。上にも出てる菊池氏のこととか
てか蒙古記自体書誌学的な研究はされてるのか?西田長男は文永当時の社官の定秀が書いたもんだとしてるけど、そうすると当事者資料としちゃかなり曖昧だろあれ
元寇の各史料を東日本大震災の記録に例えるなら
鎌倉年代記、帝王編年記→政府の公式発表
蒙古襲来絵詞、各種軍忠状→被災地の人間の記録
勘仲記などの日記→被災地以外の人間のブログ
高麗史、元史→海外メディアの記録
八幡愚童訓→「拡散希望!」系統のツイートもしくはアフィブログ
どれを信じるかはあなた次第です。
>>277 元史や高麗史は海外メディアじゃないだろ
一方の当事者なんだから
>>275 はぁ?そんな揚げ足取りにもならん反論?して来るやつ初めて見たわ・・・
じゃあ「余地」の中に「命令違反の権限」を含むと改めて書いておこうか
初めからそういう意味で言っているし、それが分からない文脈ではない筈だが
納得したか?
で、後述の文は反論のつもりなのか?
正しく、時として命令を無視する、される事も必要、というのが要旨の内の一つ
前提もクソも、そういう意味での文言だ
単純に命令を守るだけが下級指揮官の仕事ではないのは、もう近世・近代からの
常識であって、お前の頭が近世前期で止まってるだけだ
それに、前にも言ったが、意図を明察する、というのは「察した意図に絶対服従
せよ」という意味ではない
むしろ、そういう意味になった方がずっと危険だ。例えば「自分は上級指揮官の
意図をこの様に明察しました」と言って、大虐殺をした上で「上級指揮官の意図に
従っただけです」と言えてしまうからな
そんな事は有り得ない、と思うか?しかし、バターン行軍で辻の様な例も実在する
赤坂の敵を見て移動した、というのは根拠が無い
息の浜は当時の博多の街の西端であると思われるし、単に博多の街に本隊を置いて
いただけであり、それ以西には本隊を置いていなかったとも考えられる
そもそも、元々の武士団の集合地点は大宰府だし
「判断した時はもっと距離が近かった」などというのは、お前の妄想・願望に過ぎない
八幡愚童訓に関しては本当に「講釈師 見てきたような 嘘をつき」を地でいってるよなw
281 :
名無し三等兵:2012/07/08(日) 18:34:29.56 ID:vENzFVlv
>>270 ループになっているところはそこまでにして、とりあえず一つだけ。
下記は「菊池は朝方一回突撃した後、一日中遊んでいたのか?」という私の問いへの、君の答えだ。
>赤坂の戦いでは手柄をたて名を挙げたが、その後の日暮れまでの戦闘には際立って活躍したわけではなく、名が残らなかった
可能性もあるだろう。
>そもそも、後者の方が戦闘に参加した武士の名が現代まで伝わっている例の方が少ない事実から可能性としては高い。
その通りだと思う。
言い換えれば、いかなる記録も、全ての武士の全ての戦闘を記録することはできない、ということだよね?
これは「なぜ八幡ノ蒙古記には、菊池の第一次赤坂戦闘の記事がないのか?」という君の質問に対する答えになっている。
助かるよ。
「菊池の第一次赤坂戦闘」の記事じゃなくて「第一次赤坂戦闘」の記事自体が無いじゃん
信用に足る戦記で、かつその様な戦闘が実際にあったら、書いてあるはずでしょ
>>279 >「余地」の中に「命令違反の権限」を含む
そんな文言はないだろうが
だいたい命令を無視して好き勝手に行動していいなら余地(残り)じゃなくて全ての権限を与えることになるだろうが
>前提もクソも、そういう意味での文言だ
お前の意味不明な脳内補正をかけなきゃそんな意味にはならねえよ
>単純に命令を守るだけが下級指揮官の仕事ではないのは、もう近世・近代からの
>常識であって、お前の頭が近世前期で止まってるだけだ
下級指揮官の裁量権を拡大しただけで上級指揮官の命令を無視していいなんて常識はねぇよ
実際抗命罪はどこの国の軍隊にもあるだろうが
>赤坂の敵を見て移動した、というのは根拠が無い
元軍が赤坂に布陣したから息の浜に布陣する事に決めたんだろうが
日本側は元から息の浜にいたわけではない
>息の浜は当時の博多の街の西端であると思われるし
息の浜は博多の街の北だろ
>単に博多の街に本隊を置いていただけであり、それ以西には本隊を置いていなかったとも考えられる
>そもそも、元々の武士団の集合地点は大宰府だし
何が言いたいのか分からん
284 :
名無し三等兵:2012/07/08(日) 20:35:24.48 ID:vENzFVlv
>>182 書くかどうかは執筆者の方針次第だ。
ところで君は
>>154で、
>諸軍ともに戦ったと言っているだから、上陸地点も同一と見て間違いないだろう。
>また、蒙古襲来絵詞でも福田文書でも一代要記でも元軍の上陸地点は「早良郡」付近のみだ。
と言っていたよね。
八幡の蒙古記に、次の文章がある。
「されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百 道、赤坂まで乱入して、
松原の中に陣を取てそ居たりける」
地名は西から東の順で並んでいる。佐原というのは祖原で、「早良郡付近」だ。
この今津というのが、いろいろな資料で元軍の上陸地点とされている。今津には弘安の役の
防塁もあり、文永の役の時の上陸に鑑みてここにも築かれた、とされている。
今津は早良の西方にあり、早良からの距離は折れ曲がった直線で計って約12キロ、歩兵の3時間行程だ。
君はこの今津も、元軍の上陸地点と認めないのか?
285 :
名無し三等兵:2012/07/08(日) 20:39:11.82 ID:vENzFVlv
>>281 >これは「なぜ八幡ノ蒙古記には、菊池の第一次赤坂戦闘の記事がないのか?」という君の質問に対する答えになっている。
助かるよ。
何々の戦いが記録にあることと、戦闘に参加した武士の名が伝わっていないこととは全く違うわけだが。
大規模な戦いがあれば、福田文書等の文書類や蒙古襲来絵詞に「鳥飼」という激戦地がきっちり後世まで
伝わっている。
そして、八幡ノ蒙古記の著者は実際に戦場で戦った武士ではない。八幡ノ蒙古記をリアルに描写したければ
著者はしっかり調べたはずだろう。ところが、281のいう第一次赤坂の戦いは描かれていなかった(実際は事実に反するが
ちゃんと描かれている)。281がいう第一次赤坂の戦いの記述が八幡ノ蒙古記に無いとすると
281は八幡ノ蒙古記の著者が戦況を調べつくして書き上げたものではないと自分で認めてしまっているわけだ。
まあ、実際これだけ八幡ノ蒙古記の記述が実状に反しているということは、281の認めた八幡ノ蒙古記は戦況を
調べつくして書き上げたものではない、ということは正解なわけだが。
>>284 また、話を逸らしている。
>今津は早良の西方にあり、早良からの距離は折れ曲がった直線で計って約12キロ、歩兵の3時間行程だ。
君はこの今津も、元軍の上陸地点と認めないのか?
その件に関しては
>>167でも述べた。
貼っておく。
元軍が今津からだろうが早良郡から上陸しようが、分かっていることは
元軍が上陸したのは早良郡以西ってことだけ。早良郡より広範囲から上陸した
としても、それが重要な事柄だとは思えない。元軍は東進するしかないわけだしね。
広範囲に上陸したからといって、赤坂の戦いが高麗軍の先鋒隊だとか鳥飼潟の戦闘が
高麗軍との戦いだとかいう166の考えを補強するものではない。
287 :
名無し三等兵:2012/07/08(日) 22:04:01.27 ID:k8fO8WHe
>>286 念のためもういちど聞く。
今津を元軍の上陸地点として認めるのか?
イエスかノーかで答えてくれ。
>>287 分かっていない事を俺に聞かれても困るんだが。
話題を逸らしたいのか?
上陸地点が正確にわかっているのは元軍当事者だけなわけで
日本側の記録に「早良郡から上陸してきた」といっているのだから
博多に陣する日本側が西方の海上の元軍が上陸してくるのが見えた
日本側から見て一番最寄の地点が「早良郡」だったことがわかるだけだ。
博多の日本側から見えない早良郡以西の今津から元軍が上陸したかは不明。
まあ、早良郡から今津にかけて上陸していたところで元軍は東進するしかない
わけだから戦況をうかがい知るのに、たいして重要な問題なわけではないがな。
ID:k8fO8WHeにとっては分かりきった事なんだろうよ
自説を自信満々に
「イエスかノーか!?」
とは恐れ入るな
バカ丸出しだ
そんな山下大将じゃあろまいし・・・
>>284 余地とは「独断専行の余地」なのだぞ?
独断専行、という言葉が命令違反を含む事は、実際の運用上を見ても明らかだ
俺は何度も何度も「命令違反であっても、罪に問われなかった場合が少なからずある」
「節度を守れば」と何度も何度も言っているし、実際の運用の話もしているのに
それらは無視して「裁量権が拡大しただけ」と言い張るのは、何の反論にもなっていない
また、「節度を守れば」などの条件を出した上での命令違反が容認される場合を何度も
提示しているのだから「抗命罪が存在する」などという事も、やはり何の反論にもならない
お前は実際の運用例を無視し、極論ばかり唱えている
詭弁屋の典型的な例だ。実例を見ろ、そして訂正するんだ
「武士団は別に統制は乱れていませんでした」とな
また、武士団が博多以西にいた、という根拠が無い
お前の主張は、まず武士団が博多以西に本隊を置き、かつ息の浜に下がるという
流れが必要になるが、そんな描写は存在しない
よって、お前の主張には根拠が無いし、武士団の本隊が赤坂山の元軍の情報を
正確に察知していて、菊池と何の情報の齟齬もなかった筈だ、とする主張は
全くもって根拠に欠けると言える
別の可能性として、本隊は最初から博多にいて、以西に動いていないという可能性や
大宰府から博多に移動したのであって、博多以西にいた事はない、という可能性も
ある事を指摘したのだ
ともかく、お前の主張は根拠に甚だ欠ける、とな
292 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 08:29:54.91 ID:jnVz384v
>>288 なるほど、「日本側の記録」に載ってないことは判断を保留するということか。
立派な態度だ。
今津に言及している八幡ノ蒙古記も「日本側の記録」には違いないが、八幡ノ蒙古記
以外の日本側の記録、という意味なのだろうね。
ところで、関東評定衆伝というれっきとした公式記録に、24日に大宰府で合戦があって
異賊が敗北した、と書いてあるのだが、君はこれを信じるのか?
信憑性低い記述持ってくるのが得意な人だよな
それに関しては単に「太宰府から敵軍を撃退した、という報告が24日に届いた」
くらいの解釈でいいと思うがね
294 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 10:21:01.19 ID:jnVz384v
>>293 信憑性が低いと考える理由は何か?
もうひとつ、当時、大宰府で20日に起こった事件の報告が、どんな手段で
24日に鎌倉に届くのか?
つーか、仮に今津に上陸したとしても
お前の珍説が正しいことにはならんぞ
296 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 11:05:36.06 ID:jnVz384v
>>295 もういちど聞く。
関東評定衆伝が信憑性が低いと考える理由は何か?
大宰府で20日に起こった事件の報告を24日に鎌倉に届けたとすれば
その手段は何か?
これは今津とは関係ない。
関東評定衆伝は対馬が襲撃されたことは書いてるのに
20日の鳥飼潟の戦闘のことを書いてなくて、24日に太宰府で撃退したとある。
どういう経緯かはわからんが、書いた人が20日の鳥飼潟の戦闘があったという情報を
24日に太宰府で戦闘があったという風に勘違いしたんじゃないの?
298 :
295:2012/07/09(月) 11:36:32.20 ID:???
299 :
295:2012/07/09(月) 11:43:03.12 ID:???
途中で送信してしまった
で、信憑性が低いと言う根拠だが、単純な話で
関東評定衆伝以外はどの文献も「合戦は20日」と書いてあるから。そんだけ。
さすがに信憑性低いは言い過ぎだろ。
ただ、1305年の成立だし書いた人が上陸後の戦闘は20日というのを
24日に太宰府であったと勘違いしたという線は大いにありえるね。
他の記録でも少弐さんのアレだと弘安4年ってなってるし。
蒙古襲来絵詞の日付も大方、後から日付入れるの忘れてた事に気付いて
そん時に元号間違えちゃったんだろうね。
>>296 こいつ荒れてるな。論破されつくして話題を次から次にかえては
レスを続けてる。負けず嫌いもここまでくるとみっともない。
関東評定衆伝に「寄來太宰府與官軍合戰。」とあるが、「大宰府に攻め寄せてきた」
と書いてるだけで、大宰府で合戦したとは書いていない。
元軍が大宰府目指して「寄來太宰府」来たったのを日本側が迎え撃ったともとれるわけだ。
実際、元軍の目標は大宰府の制圧であったろうし、元軍が大宰府目指して「寄來太宰府」
たのは事実で間違いではあるまい。
24日は単なる誤記である可能性もある。日付の誤記など日蓮が29日に
元軍が攻めてきたと書いてあるようによくある話だ。
あ、俺は別に関東評定衆伝そのものが信憑性低いとはいってないからな
「24日に合戦」部分の記述だけは信憑性低いと言ってる
知らせた方法なんかどーでもいいじゃねーかw
話題逸らしに必死杉だ
とりあえず第二次赤坂の戦い説はどうするんだ
引っ込めるのか?
305 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 13:39:58.14 ID:jnVz384v
>>304 ぜんぜん引っ込めてない。
私は鳥飼潟決戦説ではなく、赤坂山決戦説を取るからだ。
再度占領された赤坂山を日本軍が攻めきれなくて、そのまま自然休戦、日本軍の
水城への撤退となる、という従来の説だ。
根拠は八幡ノ蒙古記だ。私は基本的に八幡ノ蒙古記を信じるのだ。なぜ信じるか
はそのうち書こう。
この筋書きなら24日大宰府合戦はあってもなくてもよい。
あったとするなら元軍が博多で二三日休養した後大宰府に遠征し、そこで
負けた後、博多から帰ったとすればよい。
なかったとするなら従来通り当夜撤退説を採ればよい。
「冬の嵐」などはすごい。鳥飼潟決戦説と24日大宰府合戦を両立させている。
読んで見るといいよ。「文永十一年冬の嵐」でぐぐればすぐ出てくる。
記録にあることはすべて事実、記録がないことは存在しない、という立場を
徹底すれば「冬の嵐」に行き着く。
君たちはそこまで徹底せず、じぶんたちの筋書きに合わないものは信憑性が
どうとか言って排除しているわけだ。「関東評定衆伝」を持ち出したのはそれを
試してみたのだ。
いずれにせよ、筋書きが先にあることは変わりはない。
306 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 13:49:09.96 ID:jnVz384v
>>305 補足:
従来の説、と言ったが私はそこに、博多敵前上陸なかった説をつけ加えている。
(日本軍博多撤退後の無血上陸は否定しない)
「主力の蒙古軍は博多の沖の浜に上陸しました」というのがどうも納得できない
からだ。またその根拠というのを読んだことがない。
根拠不明なのに既成事実になっている。
307 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 14:03:27.96 ID:jnVz384v
>>305 もうひとつ補足:
>いずれにせよ、筋書きが先にあることは変わりはない。
これは鳥飼潟決戦説も、赤坂山決戦説も、どちらも筋書きが先にあって
それに会わせて記録を取捨していることに変わりはない、という意味だ。
鳥飼潟決戦説とは、鳥飼潟の戦いが文永の役の決戦であって、それに敗れた
元軍は海岸に封じ込められ、そのまま乗船して帰った、という説だ。
この説は八幡の蒙古記を排除しないと成立しない。
単純に八幡の信憑性と他の資料との整合性が取れないだけです
他の資料と整合性の無い数少ない資料であり、また整合性が取れない理由も
おおよそ検討が付く資料である八幡を無理に信じ込む理由こそ皆無
大体、八幡を基本的に信じるなら、30人の白装束部隊が元軍を粉砕した後に海から
火柱が次々と立ち上り、元軍の艦隊を壊滅させた事をまず認めろよ
>>307 >私は鳥飼潟決戦説ではなく、赤坂山決戦説を取るからだ。
再度占領された赤坂山を日本軍が攻めきれなくて、そのまま自然休戦、日本軍の
水城への撤退となる、という従来の説だ。
根拠は八幡ノ蒙古記だ。私は基本的に八幡ノ蒙古記を信じるのだ。
妄想は聞き飽きた。八幡ノ蒙古記と実状に矛盾点ばかりあるのに
それを理解していながら、八幡ノ蒙古記を信奉するのは307くらいだ。
もっといえば「赤坂山決戦説」など八幡ノ蒙古記にも載っていない。
信奉している割には八幡ノ蒙古記の記述で気に食わない記述は無視する
307は自分のご都合主義の解釈を自省した方がいい。
>鳥飼潟決戦説とは、鳥飼潟の戦いが文永の役の決戦であって、それに敗れた
元軍は海岸に封じ込められ、そのまま乗船して帰った、という説だ。
この説は八幡の蒙古記を排除しないと成立しない。
八幡ノ蒙古記と実状に齟齬が多々あることは先に述べたが、さらに八幡ノ蒙古記の成立過程は
史書としての構成ではなく、八幡神の信仰へと導くために作成さらている。
史実と明らかに異なる記述が多々あるのに加えて、宗教書としての性格をもつ八幡ノ蒙古記に沿って
戦況を考察するのは感心できないな。
八幡ノ蒙古記以外からわかる実状は、戦闘記録があるのは赤坂以西のみであり、そしてそれらの戦闘記録から
概ね武士が優勢に戦っていたことがわかっている。
さらに、敵側の高麗史に「日が暮れたので戦闘を解した」とある点からも「敗北した武士が
水城に撤退」という八幡ノ蒙古記の記述は史実に反し、両軍はどちらが壊走するというわけでもなく
自然停戦したのだ。
史実は赤坂以西で武士が戦況を優位に進めながらも、「日が暮れた」ことにより両軍が自然停戦。
そして、自陣に撤収した元軍は軍議を開き、自軍の様子を「兵が少ない」、「兵が疲弊している」という
自軍の苦戦の認識のもと、翌日の日本側との戦闘を避けたいがために夜間に撤退を強行した。
八幡ノ蒙古記という信憑性の低い記述がある資料を排除すると、これだけ明快に戦況が理解できるのだ。
間違っても、何の裏づけも資料も無い「従来の説、と言ったが私はそこに、博多敵前上陸なかった説をつけ加えている。
(日本軍博多撤退後の無血上陸は否定しない)」なんていう妄想には辿り着かない。
資料的な裏づけがないということは妄想以外の何者でもない。
恐らく、矛盾点ばかりの八幡ノ蒙古記をベースにその他の資料とを無理矢理に整合性をとろうとした結果、八幡ノ蒙古記の記述すら
隔たっている珍説を唱えているのだろうがね。
312 :
311:2012/07/09(月) 16:11:44.30 ID:???
訂正
>間違っても、何の裏づけも資料も無い「従来の説、と言ったが私はそこに、博多敵前上陸なかった説をつけ加えている。
(日本軍博多撤退後の無血上陸は否定しない)」なんていう妄想には辿り着かない。
間違っても、何の裏づけも資料も無い「赤坂山決戦説を取るからだ。
再度占領された赤坂山を日本軍が攻めきれなくて、そのまま自然休戦、日本軍の
水城への撤退となる、という従来の説だ。」なんていう妄想には辿り着かない。
ぶっちゃけさあ「日本書紀に書かれてるから神武即位は紀元前660年」って言うようなもんだよねw
314 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 18:52:49.81 ID:wZ8Mmqvf
だいたい予想通りの反論で、面白い。
詳しいことは後にして、すこしだけ。
>八幡ノ蒙古記という信憑性の低い記述がある資料を排除すると、これだけ明快に戦況が理解できるのだ。
逆に言えば、八幡ノ蒙古記を排除しないと、鳥飼潟決戦説が成り立たない。
八幡ノ蒙古記が目の敵にされる理由がそこにある。
また、高麗史の都合の良いところだけを引いているが、高麗史の「倭兵大敗、伏屍麻の如し」
元史の「其の国に入りて之を敗る」をなぜ引かないのか。両史とも戦闘では勝った、という
認識が共通しているではないか。
これらが信用できるのは、負けた弘安の役ではこのような記述がないからだ。
そして重要なことは、八幡ノ蒙古記の記述は上記と整合するのだ。
>>314 >逆に言えば、八幡ノ蒙古記を排除しないと、鳥飼潟決戦説が成り立たない。
八幡ノ蒙古記が目の敵にされる理由がそこにある。
目の敵にされている理由が全く間違っている。
八幡ノ蒙古記が信頼されていないのは鳥飼潟決戦を主張したいからではない。
八幡ノ蒙古記が蒙古襲来絵詞などからわかる実状と余りにも矛盾点が多く
なおかつ、日本側の勝因を神の化身である「白装束の集団」に置いていることなどから
八幡ノ蒙古記が史実に基づいてかかれたものではないことがわかるからだ。
ところで、無視されたので、もう一度聞くが、八幡ノ蒙古記を信奉しておきながら、
八幡ノ蒙古記に載っていない「赤坂山決戦説」を唱えていることに疑問は湧かないのか?
>また、高麗史の都合の良いところだけを引いているが、高麗史の「倭兵大敗、伏屍麻の如し」
元史の「其の国に入りて之を敗る」をなぜ引かないのか。両史とも戦闘では勝った、という
認識が共通しているではないか。
高麗史の「倭兵大敗、伏屍麻の如し」 は上でも述べたが20日のことではない。
高麗史に「諸軍ともに戦う」や節要に「諸軍終日戦う」とあり、「日が暮れて戦闘を解した」
20日の戦闘は終日、元軍は諸隊が協力して戦ったのだ。
ところが「倭兵大敗」では高麗軍が単独で戦っており、「暮れに及びてすなわち解く」とは
別の日の戦闘であったことがわかる。そもそも、「倭兵大敗」で一時的に戦闘が終了しているのにも
関わらず、次の文節では「終日」「諸軍ともに」戦って、「暮れに及およびてすなわち解く」とあるのだから
「倭兵大敗」=「暮れにおよびてすなわち解く」とは別の戦闘であることは一目瞭然だ。
>これらが信用できるのは、負けた弘安の役ではこのような記述がないからだ。
ちなみに弘安の役に関して高麗史にも、このような記述がある。
「諸軍、大宰府に至りて累戦し、交すいして退く。蛮船五十艘随い至り、復び其の城に向かう」
弘安の役では大宰府どころか、まともに北九州の陸上に陣どることもできなかったはずだが
元軍は「大宰府に攻め込んで戦った」と事実に反する報告を忠烈王にしている。
このように元軍が平気で嘘の戦況報告をしていた事実もある。
>そして重要なことは、八幡ノ蒙古記の記述は上記と整合するのだ。
ちゃんと高麗史や元史を読んだか疑わしい発言だな。高麗史では「暮れに及んで戦闘を解した」と
自然停戦したとしているが、八幡ノ蒙古記では「武士団が博多箱崎を放棄して水城に撤退した」
との記述との整合性がとれていない。
また、元軍撤退の理由は八幡ノ蒙古記の「白装束の集団による夜襲」ではなく、「兵が疲れている」
「兵が少ない」とあり、元軍が苦戦したからだ。
高麗史と八幡ノ蒙古記では整合性はとれているとは言いがたい。都合のいいところばかり、つまみ食いする314には
整合性がとれているのだろうが。
>>314 それと、八幡ノ蒙古記と実状との矛盾点
>>269>>270が多くあるわけだが
どうするつもりだ?
矛盾点を無視して都合のいいところだけをつまみ食いするのか?
それと314は「ところで、関東評定衆伝というれっきとした公式記録に、24日に大宰府で合戦があって
異賊が敗北した、と書いてあるのだが、君はこれを信じるのか?」
としているが、314が認めるれっきとした公式記録に「異賊が敗北した」としているのを
君はこれを信じないのか?
それと以下の文に対して反論を待っているのだが、まだか?
忘れているようなので、もう一度貼っておくが。
>>そして、八幡ノ蒙古記の著者は実際に戦場で戦った武士ではない。八幡ノ蒙古記をリアルに描写したければ
著者はしっかり調べたはずだろう。ところが、281のいう第一次赤坂の戦いは描かれていなかった(実際は事実に反するが
ちゃんと描かれている)。281がいう第一次赤坂の戦いの記述が八幡ノ蒙古記に無いとすると
281は八幡ノ蒙古記の著者が戦況を調べつくして書き上げたものではないと自分で認めてしまっているわけだ。
まあ、実際これだけ八幡ノ蒙古記の記述が実状に反しているということは、281の認めた八幡ノ蒙古記は戦況を
調べつくして書き上げたものではない、ということは正解なわけだが。
>>291 >独断専行、という言葉が命令違反を含む
それはお前の勝手な解釈に過ぎんな
もしそうなら余地と範囲を限定した意味が無くなる
命令違反であっても、罪に問われなかった場合がある事と訓令戦術が命令違反を認めているという主張は
訓令戦術と罪に問われなかったことの関連性が示されておらず、何の反論にもなっていない
訓令戦術とは上級指揮官が前線の状況把握が困難となると予想された場合に下級指揮官に広い裁量権与える
事であって命令違反の罪を問わないなどというものではない
抗命罪が存在するという事は軍は基本的に命令違反を認めておらず
命令違反をしてもいいなどという馬鹿げた前提には立っていない事を示しているよって
>「余地」の中に「命令違反の権限」を含む
>独断専行、という言葉が命令違反を含む
などという主張にはそれ相応の根拠がなければ成立しない
>武士団が博多以西にいた、という根拠が無い
だから最初に「おそらく博多の西から」と書いただろ
息の浜の南には博多の町があって見通しが悪い赤坂の元軍を見るなら博多の西から見るのが
一番近いというだけの話だわざわざ遠くからしかも見通しが悪い場所から見る馬鹿はいないからな
そもそも地勢上の理由から赤坂での戦いを避けたのに状況の変化が起きると考える方がおかしい
だいたい馬を出せば30分とかからず連絡できただろ
319 :
名無し三等兵:2012/07/09(月) 21:17:48.98 ID:wZ8Mmqvf
>八幡ノ蒙古記に載っていない「赤坂山決戦説」
八幡ノ蒙古記に赤坂山決戦がないなどというのは、八幡ノ蒙古記を読んだのかどうか疑わしい。
まず二人の日本兵が蒙古兵に追われて赤坂の坂を駆け下りる場面がある。ということは山側、
すなわち山頂にはすでに元軍がいる。
すこし後に次の文章がある。
「されども蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まで乱入して」
ここに元軍の占拠地として赤坂の地名が入っている。
この後に例の菊池勢の突入があり、それに続いて皆がさんざんに戦う場面があり、「しょせん
武力及ばず」と撤退につながる。
その後に劉復亨の追撃と負傷の場面があるが、難を逃れた少弐が「水木城の方へ引き返す」。
これは赤坂の北を通る水城道上でのしんがり戦であることを伺わせる。赤坂山をはさんで
百道とは反対側である。
以上のように、八幡の蒙古記にこそ、赤坂山決戦が描かれている。赤坂山は、博多と水城と
の連絡を扼する、戦略上の要地であり、制高点なのだ(と軍事板らしく)。取られた日本軍
がやっきになって取り戻そうとした理由はそこにある。
そして取り返せないとわかったとき、日本軍は静かに水城へ撤退した。元軍ももはやそれを
追わなかった。これが戦いの交すい状態であり、「夕べに及んで乃ち解く」の実態だ。
ここで簡単に言って置くと、鳥飼潟の戦いは前哨戦だ。日本軍が力を入れだすと元軍の
先遣隊は後退したが、本隊が追求するに及んで増強され、形成は逆転した。それが
「蒙古しだいに強く」だ。そして形勢逆転後のことを書いている日本側記録は八幡ノ蒙古記
だけなのだ。
クドゥンが「何をもってかこれに加えん」と高麗軍を賞賛するのは、本隊が追求した後の
ことであると考えればよろしい。なにも一日中いっしょにいる必要はない。そして、高麗史は
元軍の記録ではなく、高麗軍の記録であることを忘れてはいけない。
もうひとつ、「捨船三郎潟」以降が本土上陸だろう。「三郎」は「早良(さわら)」か
佐原の音訳だろう。「三郎」の朝鮮語読みは「サムラン」である。
>八幡ノ蒙古記に赤坂山決戦がないなどというのは、八幡ノ蒙古記を読んだのかどうか疑わしい。
まず二人の日本兵が蒙古兵に追われて赤坂の坂を駆け下りる場面がある。
まず、二人ではなく「五、六人」の日本兵な。
そして、八幡ノ蒙古記の赤坂の戦いは決戦でもなんでもない。
菊池武房が「百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、
上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、
いかゝしたりけん、」
とあるように菊池勢100騎で赤坂の元軍に突撃を掛けただけだ。まさか、日本側は菊池武房が
総大将だとは思ってはいまい。100騎の突撃で「赤坂山決戦」など飛躍にもほどがある。
まして「取られた日本軍がやっきになって取り戻そうとした理由はそこにある。」など論理の飛躍も
甚だしい。
そして、その後に行われた軍議で元軍は自軍を「兵が少ない」としている。
まさか、319の主張する「元軍3万vs菊池勢100騎による赤坂山決戦」とやらで元軍は自軍を「兵が少ない」
と感じたと本気で考えているのではないだろうな?
これに対して鳥飼潟での戦闘は筑後、豊後、肥後、肥前の御家人など多くの御家人が参加している。
これの方がよっぽど「決戦」という名に相応しい。
>>319 >それに続いて皆がさんざんに戦う場面があり、「しょせん
武力及ばず」と撤退につながる。
ほう、なぜ鳥飼潟で戦線を離脱したはずの竹崎が、後半戦で八幡ノ蒙古記では
「大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ、」とあるのかね?
そもそも、鳥飼潟で戦功を認め合った白石と竹崎が、その後に協力して「散々に戦う」
のも不自然極まりないがな。
>そして形勢逆転後のことを書いている日本側記録は八幡ノ蒙古記
だけなのだ。
で、319がいうように日本側が形勢が不利となっていったのは八幡ノ蒙古記だけな
わけだが、その元軍がなぜ撤退したと書いているのだ?
神の化身である「白装束の集団」が撃退していることになっているが。
八幡ノ蒙古記の性格上、どうしても日本側が形勢不利にしておかなければならなかった
ことが白装束の集団の登場でもわかる。
さらに著者は、わざわざ文永の役をこう締めくくって自らの八幡ノ蒙古記の作成意図を
匂わせている。
「日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、
おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、
おち恐れて、あるひは、つふ(カ)れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、
不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ」(17オ)たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ」
まさに著者が神の威厳を示したいがために、武士団の存在や活躍を疎ましく感じていたことが上記の
文章に滲み出ているではないか。
>クドゥンが「何をもってかこれに加えん」と高麗軍を賞賛するのは、本隊が追求した後の
ことであると考えればよろしい。なにも一日中いっしょにいる必要はない。そして、高麗史は
元軍の記録ではなく、高麗軍の記録であることを忘れてはいけない
よろしいも何も「諸隊がともに戦った」「終日、戦った」と言っているのだから一日中一緒に
戦っていたとしか読みようがない。ましてや、元軍は東進するしかないのだ。
目的地が同一であるのに「分道而進」する必要はあるまい。
>「捨船三郎潟」以降が本土上陸だろう。「三郎」は「早良(さわら)」か
佐原の音訳だろう。「三郎」の朝鮮語読みは「サムラン」である。
確かに「早良」=「三郎」とする説があるが、俺はその説をとらない。
まず、「三郎浦に船を捨てて、道を分かれて進んだ」としているが
「諸軍ともに戦う」「終日戦う」戦闘では終日、諸隊が協力して戦っていたとする。
ところが、三郎浦に船を捨てて道を分かれて進む高麗軍は襲ってきた武士団と単独で
戦闘を行っている。よって、明らかに20日の戦闘ではないことがわかるわけだ。
20日の戦闘は終日(つまりは一日中)元軍は諸隊ともに戦っていたわけだからな。
そもそも、早良郡=三郎浦とした場合、上陸した元軍が道を分かれて進むのは不可解だ。
なぜなら、元軍が目指すのは東進して博多を目指すしかないからだ。
三郎浦とは壱岐での上陸地点のことを言っていると俺は思う。
どちらにせよ、「倭兵大敗」と「諸軍ともに戦う」は別の戦闘であり、高麗史と
八幡ノ蒙古記では整合性はとれていないことに変わりが無いがな。
ええと、日本中世史勉強してるだけで、軍事には疎い俺にちと教授してくれ
訓令戦術ってのは総大将の指針に沿って行動するのが大前提だけど、枝葉のことに関しては大前提に背かない場合に限って現地の人間に裁量権を与えるってことでいいんだよな?
>>276 八幡ノ蒙古記に対する書誌学研究は論文がないな。あと小野尚志は翻刻しただけで書誌研究はしとらんぞ
>>318 いや原文は「独断専行の余地」なんだけど
明確な関連性も何も、訓令戦術はナポレオンの命令戦術へのカウンターと反省から
発展した戦術であり、それはナポレオンの命令を愚直に守ったフランス軍将官が
受けた大損害に対する反省だし
独断専行・命令違反が少なからずあったプロイセン〜ドイツ軍の伝統的統制が
ドイツ軍の作戦成功の大要因である事はリデルハートも言及してるし
ドイツ軍のそうした伝統的統制は充分な根拠となる
それに、命令違反を許された事が訓令戦術と無関係なら、一体何故命令違反を
許されたんだ?
命令違反による独断専行は全て許されないという論理に立てば、その様な先例が
存在する事自体、論理が破綻しているじゃないか
お前の大好きな統帥綱領の一文も、その前後を出せば
凡そ兵戦の事たる、独断を要するもの頗る多し。而して、独断は其の精神に於いては、
決して服従と相反するものにあらず。
常に上官の意図を明察し、大局を判断して、状況の変化に応じ、自ら其の目的を達し、
得べき最良の方法を選び、以って機宜を制せざるべからず。
となっている
独断専行が上官の意図にのみ服従する物であれば、大局の判断や目的達成のための
最良手を自ら選択する事を求めるのは余りに不可解だ
上官の意図に沿う事が大局判断ではないし、目的達成というのも、上官の意図に限った
話ではない
それは過去の先例からも見て取れるだろう
或いは、お前は「独断は其の精神に於いては、決して服従と相反するものにあらず」と
いう文章にのみ過剰に解釈して「ほらやっぱり絶対服従なんだ」と言うかもしれないが
それなら「其の精神に於いては」という文章を入れる意味が無い
これはあくまで節度を説いた物であり、絶対服従である事を強調する物ではない
そして、俺は節度という事に関して何度も繰り返し説
>>324 途中で途切れてしまった。最後の行から
そして、俺は節度という事に関して何度も繰り返し説いている
また、根拠に関しては過去に先例がある事が根拠だ
それと、西から見ようが南から見ようが、当時の赤坂山の状況が遠目から判断
出来るとは思えないね。はっきりと「松林が茂っていた」事が書いてあるのだから
それと、状況の変化というのは「本隊と菊池勢での情報の錯綜」の事であって
赤坂山の元軍自体に、時間的に変化が起こらないとか、そういうのは全く関係無い
30分で連絡出来るというのも理由にならん
本隊に連絡した後、本隊からの連絡が来るまでに往復で1時間かかるし、本隊が
赤坂山に来るのは、伝令を発してから1時間以上後になるのは確実だし
その間、元軍が武士団本隊の、それも自分達の陣地への移動に気付かない可能性は低い
すぐに元軍は赤坂山の守備隊を増強し守りを固め、戦術戦略上の要地である赤坂山を
奪還する機会が喪失されてしまう
よって、連絡する余裕など無く、菊池が独断で先駆けを行う理由は充分にあったと言える
もっとも、菊池がそこまで考えて先駆けしたかは知らんがね
326 :
名無し三等兵:2012/07/10(火) 12:25:52.45 ID:JhjAxBsP
>>320 確かに、赤坂山を駆け下って逃げた日本兵は二人でなくて5,6人だった。
ついでに訂正:
三郎潟→三郎浦
夕べに及んで→暮れに及んで
追求→追及(追いついて合流すること)
その他は従来のくりかえしなので、過去の私のコメントを見てもらえばよいが、
金方慶伝について少し書いておく。
たしかに金方慶伝の戦闘経過は切れ目がわかりにくくて、どこまでが壱岐の戦い
なのかよくわからない。そして君の言うように「倭兵大敗伏屍如麻」を壱岐の戦い
の状況とする解釈も見たことがある。
しかしそれだと、最大の事件であった本土上陸戦の戦闘経過が「諸軍與戦及暮乃解」
のたった8字だということになる。それはいくらなんでもだ。
やはり「捨舟三郎浦」が早良上陸と見たほうがよい。「分道而進」は上陸地点を
含めて本隊の蒙漢軍とは別に進んだことを言っている。複数の地点に分かれて
上陸するのは大部隊の上陸作戦の常道だ。
その後、倭兵が中軍を衝いたというのは、分道而進の後に続いているからと言って
進撃中を襲撃されたと取る必要はない。占領と陣地構築が省かれているだけだ。
日本軍が高麗軍の陣地の中央突破を図ったが撃退されたということだろう。
その後に人名が数人出てくるが、全て高麗人だ。前にも言ったが、金方慶伝は高麗軍
の戦闘経過を述べているのであって、元軍ぜんたいのことは二の次だ。だからここで
現れたクドゥンが「何をもってかこれに加えん」と言っているのは、元軍のことでも
まして日本兵のことでもなく、高麗軍の働きを褒めているのだ。
327 :
名無し三等兵:2012/07/10(火) 12:26:54.27 ID:JhjAxBsP
ここまで高麗軍のことを書いて来たが、次の作戦会議につなげる必要上、はじめて
全軍について言及したのが「諸軍與戦及暮乃解」だ。そう考えればこの文章がここに
ある意味が分かる。
高麗史節要の文章は金方慶伝に基づいて、これを切りつめていることは明らかである。
そして節要の編者は、なにを思ったか「與」の字を「終日」に入れ替えて改変した。
そのような文章を持って来て、二つの文章にそれぞれ「與」と「終日」があるから
全軍が一日中いっしょにいたという合わせて一本方式がなりたたないことは言うまでも
なかろう。
君が合わせて一本に頼ってまで「一日中いっしょ」にこだわるのは、鳥飼潟戦闘の相手が
元軍の全軍であり、したがってこの戦闘が決戦であった、と言いたいためだ。
しかし、朝の8時ごろはじまった(八幡ノ蒙古記、辰の刻)という鳥飼潟戦闘において、
元軍が全軍揃っていたというのはあり得ない。上陸作戦はそんなに簡単なものではない。
半日ぐらいかかってだらだらと上陸が続くのだ。
だからこそ先遣隊が前面にあって危険をおかして頑張り、後続部隊はその後方に上陸する
必要があるのだ。そして高麗軍は日本軍に押されながらもその役目を果たし、蒙漢軍が
合流するまでの時間を稼いだ。蒙漢軍が合流して戦力が整った元軍が進撃をはじめて
以後の経過が、八幡ノ蒙古記に書かれているというわけだ。
絵詞と八幡ノ蒙古記はそれぞれ異なる時点の状況を述べているのだから、内容が一致しない
のは当然なのである。
何で謎の白装束軍団の大活躍と、海から次々と火柱が昇って元軍を壊滅させた事は信じないの?
329 :
名無し三等兵:2012/07/10(火) 15:29:23.26 ID:JhjAxBsP
>>328 それは太平洋戦争当時の兵士の手記に「天佑神助」と書いてあるから
その手記全体が信用できない、というのと同じだな。
鎌倉攻めの時新田義貞が剣を海に投じたら汐が引いた、と信じられた時代よりも
まだ前の話なのだ。
白装束ぐらいは当たり前。
神威なく日本が勝つのは不可能な状況になってるな
330 名前:名無し三等兵:2012/07/10(火) 16:21:11.74 ID:???
日本が勝ったのは神威のおかげと考えるのは不可能な状況になってるな
北条時宗のリーダーシップって凄いのか?
敵に向かって船で夜襲かけろとか、積極策を取ったみたり
さらには、イチイチ守っていると金がかかるから
高麗の元の小間使いの屠成虫の首を切って
さっさと第二ラウンド始めたりと、天才?!
>>324-325 >ナポレオンの命令を愚直に守ったフランス軍将官が受けた大損害に対する反省だし
だから下級指揮官の指揮権を拡充したんだろうが
>命令違反を許された事が訓令戦術と無関係なら、一体何故命令違反を許されたんだ?
自分が立証すべき事項を人に押し付けるなよそこがお前の主張の肝だろうが
>目的達成のための最良手を自ら選択する事を求めるのは余りに不可解だ
お前は本当に記憶力が悪いな上級指揮官が示すのは目的までだと何度も出ているだろうが
その先の手段を決めるのが訓令戦術での下級指揮官の仕事だ
もう面倒臭いからウィキでも読んでこいよ
>本隊に連絡した後、本隊からの連絡が来るまでに往復で1時間かかるし、本隊が
>赤坂山に来るのは、伝令を発してから1時間以上後になるのは確実だし
往復で30分という意味で言ったんだがお前赤坂から息の浜まで3kmとか言ってただろ
徒歩でも1時間とかからない距離だぞ
>>326 >しかしそれだと、最大の事件であった本土上陸戦の戦闘経過が「諸軍與戦及暮乃解」
のたった8字だということになる。それはいくらなんでもだ。
確かに元軍が優勢に戦っていたらいくらなんでも短文すぎる。
>朝の8時ごろはじまった(八幡ノ蒙古記、辰の刻)という鳥飼潟戦闘において、
元軍が全軍揃っていたというのはあり得ない。上陸作戦はそんなに簡単なものではない。
半日ぐらいかかってだらだらと上陸が続くのだ。
蒙古襲来絵詞に「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝのはたをたてならへて、
らんしうやうひまなくして、ひしめきあふ。」
とあり、緒戦の赤坂の戦いが終った直後には元軍は上陸を終えて布陣していたことが
記されている。その後に現場で元軍が布陣していた様子を実際に見た竹崎がそう言ってるわけだが
326の「上陸作戦はそんなに簡単なものではない。 半日ぐらいかかってだらだらと上陸が続くのだ。」
という妄想より、現場を実際に見た竹崎の言の方が遥かに信憑性が高いことは言うまでもあるまい。
また、「終日」「與」に戦った以上は、「暮れに及びてすなわち解く」では元軍は全軍が協力して
戦ったのだ。恐らく、326は「倭兵大敗」=鳥飼潟の戦いと解釈しているようだが、「倭兵大敗」と鳥飼潟では
戦況が余りにも異なっている。例えば、鳥飼潟の地を実際に制したのは日本側であったはずだが
高麗史では「日本兵の死体が麻の如く散っていた」とあるように、戦場を制圧したのは高麗軍としている。
これを同一の戦闘と見るのは余りにも早計だろう。
マジか…。長文書いたのに、間違って消してしまった…。
面倒くせえ…。ちょっと消えた文章を書いてちょくちょく
書いていく。
>>しかしそれだと、最大の事件であった本土上陸戦の戦闘経過が「諸軍與戦及暮乃解」
のたった8字だということになる。それはいくらなんでもだ。
確かに元軍が優勢に戦っていたらいくらなんでも短文すぎる。
しかし、「諸軍與戦及暮乃解」の後の軍議で元軍は自軍を「兵が少ない」
「兵が疲れているおり、大敵(日本側)と戦うのは完計ではない」とあり
元軍が苦戦していたことがうかがえる。
よって、自らが苦戦を強いられた博多湾の上陸以後の戦況を「諸軍與戦及暮乃解」と短文で評した
ともの考えられる。
>朝の8時ごろはじまった(八幡ノ蒙古記、辰の刻)という鳥飼潟戦闘において、
元軍が全軍揃っていたというのはあり得ない。上陸作戦はそんなに簡単なものではない。
半日ぐらいかかってだらだらと上陸が続くのだ。
蒙古襲来絵詞に「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝのはたをたてならへて、
らんしうやうひまなくして、ひしめきあふ。」
とあり、緒戦の赤坂の戦いが終った直後には元軍は上陸を終えて布陣していたことが
記されている。その後に現場で元軍が布陣していた様子を実際に見た竹崎がそう言ってるわけだが
326の「上陸作戦はそんなに簡単なものではない。 半日ぐらいかかってだらだらと上陸が続くのだ。」
という妄想より、現場を実際に見た竹崎の言の方が遥かに信憑性が高いことは言うまでもあるまい。
また、「終日」「與」に戦った以上は、「暮れに及びてすなわち解く」では元軍は全軍が協力して
戦ったのだ。恐らく、326は「倭兵大敗」=鳥飼潟の戦いと解釈しているようだが、「倭兵大敗」と鳥飼潟では
戦況が余りにも異なっている。例えば、鳥飼潟の地を実際に制したのは日本側であったはずだが
高麗史では「日本兵の死体が麻の如く散っていた」とあるように、戦場を制圧したのは高麗軍としている。
これを同一の戦闘と見るのは余りにも早計だろう。
>>332 それどころか高麗攻めることすら考えてた。
これはさすがに当時の幕府の支配力からして現実的じゃないから中止になったが。
>「分道而進」は上陸地点を含めて本隊の蒙漢軍とは別に進んだことを言っている。複数の地点に分かれて
上陸するのは大部隊の上陸作戦の常道だ。
前にも言ったはずだが、326は高麗史の原典を無視しすぎている。
「複数の地点に分かれて上陸」したのではなく、「三郎浦に船を捨て」て
それから「分道而進」したのだ。自分の都合の良い様に資料を改変するのは
良くない。
>その後に人名が数人出てくるが、全て高麗人だ。前にも言ったが、金方慶伝は高麗軍
の戦闘経過を述べているのであって、元軍ぜんたいのことは二の次だ。
そういうことだ。「倭兵大敗」は戦況全体のことを言っているのではなく、高麗軍が単独で
戦っていた末に「倭兵大敗」させたにすぎない。
また、20日の戦闘は「諸軍ともに戦った」「諸軍、終日戦った」とあることから
高麗軍が単独で戦った「倭兵大敗」は別の日の壱岐での戦闘だ。
>そのような文章を持って来て、二つの文章にそれぞれ「與」と「終日」があるから
全軍が一日中いっしょにいたという合わせて一本方式がなりたたないことは言うまでも
なかろう。
君が合わせて一本に頼ってまで「一日中いっしょ」にこだわるのは、鳥飼潟戦闘の相手が
元軍の全軍であり、したがってこの戦闘が決戦であった、と言いたいためだ。
元軍が「與」に戦ったことは、「日が暮れて戦闘を解し」帰陣した後、高麗の将と蒙漢軍の将が
揃っていたのだから、疑う必要はあるまい。また、「終日」戦ったことは蒙古襲来絵詞や関東評定衆伝など
諸資料からたった一日の間に激戦があったことがわかるため、これも疑う必要性はない。
疑う必要性がある者は高麗史と八幡ノ蒙古記とを無理矢理、整合性をとろうとしている326だけだ。
>だからこそ先遣隊が前面にあって危険をおかして頑張り、後続部隊はその後方に上陸する
必要があるのだ。そして高麗軍は日本軍に押されながらもその役目を果たし、蒙漢軍が
合流するまでの時間を稼いだ。蒙漢軍が合流して戦力が整った元軍が進撃をはじめて
以後の経過が、八幡ノ蒙古記に書かれているというわけだ。
高麗軍が先遣隊だの、326の妄想をさも事実のように書いているが
鳥飼潟=倭兵大敗ではないことは上述した。
また、高麗史や節要にも「ともに戦う」「終日戦う」とあることから
「高麗軍は日本軍に押されながらもその役目を果たし、蒙漢軍が
合流するまでの時間を稼いだ」との論も成り立たない。
>絵詞と八幡ノ蒙古記はそれぞれ異なる時点の状況を述べているのだから、内容が一致しない
のは当然なのである。
八幡ノ蒙古記とその他諸資料と矛盾点がかなり多くあるのは、「それぞれ異なる時点の状況を述べている」
からではない。八幡ノ蒙古記と実状が合っていないからだ。例えば、繰り返しになるが赤坂の戦いで
八幡ノ蒙古記は菊池武房以外は戦死したとしているが、実際は武房の弟の有隆や康成、家臣団が生き残っていたり、
鳥飼潟の戦いで戦線を離脱したはずの竹崎が、その後も散々に戦っていたとされたりして、実状と合致していない
からだ。
339 :
名無し三等兵:2012/07/11(水) 08:50:39.82 ID:X2jmb3ZK
>>338 相変わらず無理な合わせて一本方式に頼っているから、くりかえしになるので大体は過去の
私のコメントを読んで貰えばよいとして、
君の文章を読む前に私の考えが変わった。
>>326を訂正する。
「分道而進」は「蒙漢軍とは別のルートを進んだ」の意味に解したが、
じぶんで「金方慶伝は高麗軍の戦闘経過を述べているのであって」と大いばりで言って
いる主旨に合わない。
「分道而進」は高麗軍じしんがいくつかの部隊に分かれて進撃したことを言って
いるのだ、と気がついた。
仮に三つの部隊に分かれたとすれば、それはA)赤坂山攻略部隊、B)祖原山攻略部隊、
C)海岸進撃部隊の三つであろう。このうちB)祖原山攻略部隊は金方慶の本部でもある。
菊池はAが占拠している赤坂山を攻めてこれを追い落とした。AはBに向かって退却した。
CもまたAの援護が受けられなくなる状勢となったのでBに向かって後退した。あらかじめ
危なくなったらそうするように決められていたのであろう。
この状況で竹崎が到着して、まず海岸のCを攻めたが取り逃がし、目標をB(祖原山の本部)
に変えて突撃した。その後を継いだ白石も同じ方向に攻めた。それに続いた他の武士たちも
いたであろう。
これが金方慶伝の言う「倭軍中軍を衝き」であろう。三つの支隊を左軍、中軍、右軍と
呼んでいたすれば「中軍」はとうぜん祖原山の金方慶の本部である。
朝の8時で、高麗軍じたいがまだ上陸を継続中であったとすれば、人員は三つの支隊を
合わせて1000〜2000人であろう。各支隊はそれよりも少ない。そう考えればわずか100人の
菊池勢が赤坂山の敵を追い落としたのも無理ではない。
このように考えてくれば、金方慶伝の記述はますます日本側の記録と一致し、鳥飼潟戦闘の
元軍が高麗軍であったことが浮き彫りになるのである。
340 :
名無し三等兵:2012/07/11(水) 18:08:48.47 ID:X2jmb3ZK
>>339 訂正:
倭軍中軍を衝き → 倭兵突き至りて中軍を衝き
341 :
名無し三等兵:2012/07/12(木) 14:22:48.74 ID:Gipw1U3N
>>337 >高麗軍が単独で戦った「倭兵大敗」は別の日の壱岐での戦闘だ。
金方慶応伝については、実は現在のウィキもその解釈なのだ。ウィキは諸説併記して
引用元の原文も示しているから、一見客観的に見えるが、その実一定の傾向がある
から注意を要する。
金方慶伝の解釈はほんとうにそれでいいのだろうか。原文に当たって見よう。
「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、
倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、
倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一?矢、弱゚大喝、倭辟易而走、
之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、
何以加此、諸軍與戰、及暮乃解」
一見だらだらしているが、三つの戦場での戦闘の記述が、それぞれ地名で始まり、
戦果で終わると見れば、それなりに整然としている。すなわち:
入対馬島〜撃殺甚衆
至一岐島〜撃殺千余級
捨舟三郎浦〜倭兵大敗、伏屍如麻
である。
342 :
名無し三等兵:2012/07/12(木) 14:24:55.57 ID:Gipw1U3N
さらに、細かく見て行こう。
もし、捨舟三郎浦の後も壱岐の戦いの続きであると考えるならば、千余人も戦死した
日本軍がさらに高麗軍に突撃して来たことになる。壱岐島にそんな大きな軍勢がいた
とも思えない。
またすでに壱岐島に上陸して戦っているのに、改めて「捨舟」するのも変だ。
また、壱岐の戦闘で奮戦した人名を挙げているが、その同じ人物が三郎浦のくだりにも
出てくる。同じ戦いの中でこんな不経済な書き方をするとは思えない。
文章の後段は「三郎浦の戦い」という、壱岐とは別の戦闘を描写していると解する
ほうが自然である。ウィキの解釈は「諸軍與戦及暮乃解」を「後日」のこととして、
ここからが別の戦闘だと思わせようとしているが、無理である。
また前に言ったように、最大の戦闘である本土上陸戦がたった八字ということになる。
こんな無理な解釈をしなければならないところに現在のウィキの「傾向」を感じるわけだ。
343 :
名無し三等兵:2012/07/12(木) 16:44:14.23 ID:9rPOz+F3
344 :
名無し三等兵:2012/07/12(木) 17:31:13.88 ID:181CdBwJ
>>343 ウィキペディア全体がどうということはない。各項目の書き手しだいだから。
345 :
名無し三等兵:2012/07/12(木) 17:48:21.35 ID:181CdBwJ
そういう意味ではウィキの現在の「元寇」項目に現れている傾向、というべきだった。
>>339-342 文永の役で元軍が赤坂より東へ進撃してないのは諸資料から確定事項でしょ
だって博多の町が文永の役で損害を受けたなんて書いた文献皆無じゃん
博多に布陣してた日本軍が博多の町に何の損害も与えないまま苦戦することなんて不可能だし
当然、博多を放棄して水城に撤退なんて事実もない
だから九州の戦闘で元軍が優勢だった局面なんかないってこと
鳥飼潟の戦闘後、元軍と日本軍はそれぞれどこに引き上げたんだ?
>>347 史料だと鳥飼潟の戦闘に負けた元軍は百路原に退いてる。
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」
【福田兼重申状】
元軍はそのまま日本から撤退だろ。
一方の日本軍は敗退した元軍を海上まで追尾してる。
「二十日大宰府以三百餘艘之兵船發向賊船二百艘漂蕩神威力云々」
【歴代皇記】
一次資料である福田兼重申状はともかく、
歴代皇記の記述ってあてになるのか?
逆に聞きたいが、日本側は日が暮れたら防衛拠点の
水城以外のどこに引き上げるというんだ?
>>339 339は毎度のがら資料の独自解釈が酷すぎる。
>仮に三つの部隊に分かれたとすれば、それはA)赤坂山攻略部隊、B)祖原山攻略部隊、
C)海岸進撃部隊の三つであろう。このうちB)祖原山攻略部隊は金方慶の本部でもある。
赤坂山攻略に向かったのは「蒙古襲来絵詞」に確認できるが、BもCもそんな部隊の存在は
無い。
祖原山に元軍がいたのは事実だが、これが「祖原山攻略部隊」だとは限らない。
赤坂山から追い落とされた元軍と後続の元軍が祖原山で合流しただけという見方も
できる。現に蒙古襲来絵詞の流れはその通りだ。
そして、339のいうように鳥飼潟の戦闘=高麗軍との戦闘であるとすれば、なぜ本戦であるはずの
元軍との本戦に関する資料が八幡ノ蒙古記にしかないのか?
鳥飼潟が武士の記録から強調されているのは、鳥飼潟こそ文永の役における最大の激戦であったからだ。
>菊池はAが占拠している赤坂山を攻めてこれを追い落とした。AはBに向かって退却した。
CもまたAの援護が受けられなくなる状勢となったのでBに向かって後退した。あらかじめ
危なくなったらそうするように決められていたのであろう。
この状況で竹崎が到着して、まず海岸のCを攻めたが取り逃がし、目標をB(祖原山の本部)
に変えて突撃した。その後を継いだ白石も同じ方向に攻めた。それに続いた他の武士たちも
いたであろう。これが金方慶伝の言う「倭軍中軍を衝き」であろう。三つの支隊を左軍、中軍、右軍と
呼んでいたすれば「中軍」はとうぜん祖原山の金方慶の本部である。
これも独自解釈の上に、さらに資料からはうかがえない独自解釈を上乗せしている。
まず、資料からうかがえない祖原山に陣取ったのが高麗軍であるというのが根拠が無い。
そして、339は再び俺の言を無視して妄想を述べているが、竹崎が戦った鳥飼潟の戦場を
制圧したのは日本側だ。
福田兼重申状に「令懸落百路原」 とあることから元軍は百道原と敗走した。
ところが339が主張する「倭軍中軍を衝き」=「鳥飼潟」とした場合、高麗史の「倭軍中軍を衝き」は
「日本兵の死体が麻の如く散っていた」とあるように戦場を制圧したのは高麗軍とする。
これを同一の戦場ではないことは一目瞭然だ。
さらに、高麗史では「分道而進」している時に「倭軍中軍を衝き」の戦いが起こったとしているが
鳥飼潟での元軍は祖原一帯に「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝのはたをたてならへて、
らんしうやうひまなくして、ひしめきあふ。」とあり、日本側を待ち受けていたのだ。
以上の状況から同一の戦闘にしてはあまりにも共通点が少なすぎる。全く、別の戦闘と見るほうが正しい。
>もし、捨舟三郎浦の後も壱岐の戦いの続きであると考えるならば、千余人も戦死した
日本軍がさらに高麗軍に突撃して来たことになる。壱岐島にそんな大きな軍勢がいた
とも思えない。
またすでに壱岐島に上陸して戦っているのに、改めて「捨舟」するのも変だ。
討ち取った兵士数を誇張して伝えるのは資料によくある話で問題にする事ではない。
また、「捨舟」も別に不自然なことではない。
元軍は壱岐での戦闘は一日しか行っていない。ということは対馬のように全土を蹂躙すること
無く、壱岐での戦闘は海岸付近での戦闘に終始したということだ。
海岸線で襲ってきた壱岐の日本側主力を撃滅した後(撃殺千余人)、敗走する日本側を追って
「分道而進」した。そして、壱岐の残存する武士が「倭軍中軍を衝」いた。とみることもできる。
また、「倭軍中軍を衝」の戦闘は金方慶が大喝すると、日本兵が逃げていったとあるように
わずかな日本兵であったことがわかる。この金方慶の大喝で数千人もいたであろう鳥飼潟の武士団が
逃げていったと解釈するには無理がある。「倭兵大敗」とは、ごく小規模な戦闘であったということだ。
>また、壱岐の戦闘で奮戦した人名を挙げているが、その同じ人物が三郎浦のくだりにも
出てくる。同じ戦いの中でこんな不経済な書き方をするとは思えない。
壱岐の戦闘でも本戦の「撃殺千餘級」と壱岐の残存部隊の殲滅戦「倭兵大敗」とは
別の戦闘であるのだから、不経済な書き方ではない。さらに言えば、高麗史は高麗軍の活躍を
強調して書く性格であるのだから、その場で活躍した高麗の将を再び登場させても問題ではあるまい。
>文章の後段は「三郎浦の戦い」という、壱岐とは別の戦闘を描写していると解する
ほうが自然である。ウィキの解釈は「諸軍與戦及暮乃解」を「後日」のこととして、
ここからが別の戦闘だと思わせようとしているが、無理である。
また前に言ったように、最大の戦闘である本土上陸戦がたった八字ということになる。
俺は基本、ウィキの解釈をとる。軍議で「自軍が少ない」「少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、
多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである」とあったり、劉復亨が負傷したりと
「諸軍與戦及暮乃解」では元軍は苦戦を強いられた。よって、華々しい活躍をした壱岐の戦闘に比べて
元軍は思うように戦闘を進められなかった。
高麗史の性格上、戦闘の規模によって文章の長短が決まるのではない。高麗軍がどの戦闘でどれだけ活躍したか
に主眼が置かれている。また、軍議での元軍の切迫感と「倭兵大敗」では戦況が合致しない。
これらの理由によって、「倭兵大敗」=「壱岐の戦闘」で「諸軍與戦及暮乃解」=北九州の戦闘としても
なんら問題ないことがわかる。
>>349 それを言うなら元史や高麗史だって一次資料じゃないし
20日に元の艦隊が海上で漂流したってのは高麗史の記述と一致するだけじゃなく
実際に日本側も出航してなければ知り得ない情報でしょ
テンプレに参考書籍とか無いの?
次のスレでは欲しい
何スレいくか知らんが
>>336 異国征伐が中止になったのは「幕府の支配力」みたいな国内事情じゃなく、大陸情勢の変化が理由だろ。
当時は南宋が急速に瓦解してたから。
南宋が持ちこたえていれば日本の朝鮮半島侵攻は効果的だけど、南宋が滅びてしまえば日本単独で
元の軍事力全てを相手にすることになる。
幕府の支配力だけなら半島へ派兵自体は十分可能だった。
360 :
名無し三等兵:2012/07/13(金) 10:59:22.48 ID:T8aHYF6H
361 :
名無し三等兵:2012/07/13(金) 11:13:05.17 ID:T8aHYF6H
>>348 >>349 天皇の年代記を持ち出すなら、まさに時の天皇である後宇多天皇のときに成立した「一代要記」も
入れてもらわないとね。これもウィキ「元寇」にある。
同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、 宰府軍等背北了
宰府軍など敗北し終わんぬ
>>361 一代要記は解読が難解で載せてる史料集によって記述が違う
「背」じゃなく「皆」となってる史料集もあるし
本来は「太宰府軍皆北」コウ」で太宰府軍が元軍相手に北進したという記述じゃないの
363 :
名無し三等兵:2012/07/13(金) 13:58:14.09 ID:T8aHYF6H
>>362 「皆」でも意味は通じる。「北」は一字でも「背を向けて逃げる」という意味があるからね。
(だからこそ「敗北」と使われる)
かえって「皆」のほうが、「等」の字が生きて、文章としていいかもしれない。
「宰府軍などみな北(に)げ終わんぬ」
364 :
名無し三等兵:2012/07/13(金) 15:55:38.86 ID:T8aHYF6H
365 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 06:09:12.99 ID:dDYZWjx8
「御橋悳言著作集9 神皇正統記注解」も、「宰府軍等皆北ゲ了ヌ]の解釈だな。
即ち「さいふぐんなどみなにげおわんぬ」
<参考>「北」を漢和辞典(新漢語林)で引くと:
(1)きた←→南。
(2)そむく(背)。
(3)にげる(にぐ)。敗れてにげる。「敗北」
366 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 09:39:31.89 ID:dDYZWjx8
>>353 >「倭兵中軍を衝」の戦闘は金方慶が大喝すると、日本兵が逃げていったとあるように
金方慶が大喝したら日本兵が辟易して逃げたというのは、個人の武勇を「誇張して伝えるの
は資料によくある話で問題にする事ではない。」
>この金方慶の大喝で数千人もいたであろう鳥飼潟の武士団が逃げていったと解釈するには無理が
ある。
君は数千人同士が激突する、泰西名画の大会戦のようなことを考えているのか?
日本軍の戦い方は、それこそ蒙古襲来絵詞が示すように、5人ないし100人の集団が個々に突撃した
のだ。
恐らく金が大喝したら日本兵が逃げたというのも、金が大喝した時点でその突撃集団が限界に
達して後退しただけだろう。
数千人いなかったから祖原山の戦いではないという理屈はなりたたない。
367 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 09:40:20.02 ID:dDYZWjx8
>>354 >これらの理由によって、「倭兵大敗」=「壱岐の戦闘」で「諸軍與戦及暮乃解」=北九州の戦闘と
してもなんら問題ないことがわかる。
ひとつ気がついた。「諸軍與戦及暮乃解」が壱岐とは別の戦闘だとすると、この戦闘には場所の
記載がない。
場所の記載がなければ、 漢文の構成上、「諸軍與戦及暮乃解」もまた君の言う「壱岐の戦闘」の
延長になってしまう。
元軍は本土までは来なかった? 壱岐止まりだった? これが「いきどまり」の語源?
冗談は別として、我々は予備知識があるばっかりに解釈の落とし穴にはまる危険がある。
高麗史の記録はまったく予備知識のない朝鮮や中国の読者を対象として書かれていることを
忘れてはいけない。
20日に何があったのか・・・?
レスが無いとこを見るとどうやら武士勝利派が論破されたようだな。
やはり神威によって撃退したのが史実だな
そりゃあ、武士が負けたということにしないと神威を示せない。
神威で勝ってた場合
戦前右翼の大勝利で現代ネトウヨは涙目か
373 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 16:05:47.25 ID:2gDnsuic
あちらさん、また来たい言うとるんやけど、今度はどげん歓迎したらよかもんかのう。
煙硝肴に弾丸会釈、それでも聞かずに来るならば首に刀の引手物
375 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 16:55:28.93 ID:PkYsAjfY
三国志のドラマを見た感じ日本侍では太刀打ちできなさそうな印象を受けた。
戦術、企策計謀、戦技、体格、格好、罠等の面で。
それに対抗できるのは太平記の楠木正成だな
377 :
名無し三等兵:2012/07/14(土) 17:02:33.19 ID:FwS3OGaB
>>376 10万の大軍を寄せ付けなかったという点では赤松円心もな。
赤松氏ってアウトローを集団化して成功してるな。
墨攻の映画を見ると対空砲かないと辛そう
>>379 日本でもあれの呼び方を三国演義に統一して
歴史小説だということを明確にした方がいいと思うわ
(中国共産党が普及させた呼び方なのが面白くない向きもあるかもしれないけど)
三国志演義なんて八幡ナントカより滅茶苦茶だよな
演義の戦術って史実よりしょぼいとしか思えないが・・
>>375 なんでかんみんぞくはいちぶをのぞいてそのぶしよりはるかにすごいそうびや
せんじゅつをいみんぞくとのたたかいでいかせなかったのですか?
>>375 まぁありゃ男塾みたいなもんだからなぁ・。
仕方ないよ。
>>361 そのあと、一代要記も神威が元軍を追い払った事になっているね。
386 :
名無し三等兵:2012/07/15(日) 10:31:56.27 ID:Jji2i5D6
>>385 爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、
即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々
ここに同日いのこくばかり、兵船二艘いできて、暗天に合戦す、凡慮の及ぶ所
にあらず、これ神明のけぎなりとはかり知る、すなわち異国軍兵退散す、かの
兵船一艘これを留む、これに乗るところの人数六十人ばかり、云々
神霊談が出てくるのは、戦勝した敵軍がなぜ撤退したのか?と後世の人同様に
頭をひねるところからだと思う。
ただし、明らかに当日の夜に元軍が退散したと言っている。
「日本軍が水城へ撤退したというのも、元軍がたった一日で博多から撤退した
というのも、そのように書いているのは八幡ノ蒙古記だけなのです」
などという言説はウソである。
やはり日本軍は水城に撤退したのか
まぁ、
日本軍は元軍を叩き切れず時間切れ、撤退。
元軍は敵をしのいだが、戦闘の長期化を嫌い即日撤退。
の可能性はあるな。
389 :
名無し三等兵:2012/07/15(日) 16:44:45.79 ID:Jji2i5D6
舟二艘ぐらいなら実際に何かあって、それを見ていた人がいたのかも知れないね。
例えば民間の海上ゲリラとか、あるいは元軍の同士討ちとか。
それが撤退の原因にはなり得ないとしても。
元寇って言っても
兵隊のほとんどはチョンだったって本当?
>>390 さすがに全軍からすると一部
そもそも元の宮廷に入り込んで日本遠征軍を送らせるために
いろいろ運動したらしい形跡は見えるけど
勘仲記でも吉続記でも武士が敗北したとしてるな。
やはり武士が敗れたのは間違いない
396 :
名無し三等兵:2012/07/16(月) 16:04:44.55 ID:dMA2nLqI
鎌倉時代の刀は直剣か曲剣か?
室町以降と比べ反りは強かったはず
398 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 08:58:33.24 ID:3ggmskAk
「文永十一年冬の嵐」が主張する戦闘経過は:
赤坂山は城塞だから簡単に元軍の手に落ちなかった(日本軍が保持した)。
二十日の鳥飼潟戦闘で日本軍が勝利した以後、赤坂山の日本軍と、祖原山を
本陣とする元軍とのにらみ合いが続いた。
にらみ合いは一週間ほど続き、この間、元軍は軍事的優勢を保った。
二十四日には元軍が大宰府に遠征して日本軍と合戦し、元軍が敗れた。
元軍は二十七日に博多から撤退し、この際箱崎神宮などを焼いた。
ということらしい。
赤坂山を日本軍が保持し、博多を元軍が支配し、その間に大宰府合戦もあり。
これは軍事的に見てどうなの?
太宰府で合戦したのなら当の武士達の書状でもそういう記録が残るはずだが無いな。
>>392 勘仲記も吉続記も京の公家が聞いた風聞を記しているに過ぎないわけだが
現に当事者である九州の武士たちは普通に勝ったと認識してる
応永の外冦の時でさえ京では元軍再来だの風聞が広まってたんだからあてにならんわ
政府の公式発表を信じるか2ちゃんやTwitterの書き込みを信じるかだな。
どっちも信用できねえw
>>366 ちょいと忙しくてレスが遅れた。
>金方慶が大喝したら日本兵が辟易して逃げたというのは、個人の武勇を「誇張して伝えるの
は資料によくある話で問題にする事ではない。」
誇張だろうが、なんだろうが問題は金方慶が大喝すれば逃げるほどの日本兵の規模しかいなかったということが
注目される。つまり、高麗史の編纂者は「倭兵、突き至りて中軍を衝き」の戦闘はその程度の規模の戦闘でしか
なかったと考えていたことがうかがえるわけだ。よって、「倭兵、突き至りて中軍を衝き」を鳥飼潟での大規模な
戦闘とみている366の認識がそもそも間違っていることがわかる。
鳥飼潟と、「倭兵、突き至りて中軍を衝き」ではそもそも、戦闘経過すら違うから
鳥飼潟=「倭兵、突き至りて中軍を衝き」論を唱える366はもとから論外なわけだけど。
資料の誇張のなかで本質を見極めるっていうのは大事だよね。
それに、鳥飼潟での戦闘=「倭兵、突き至りて中軍を衝き」とすると
高麗軍中軍以外の左軍、右軍は何をしていたの?ってことになる。
>君は数千人同士が激突する、泰西名画の大会戦のようなことを考えているのか?
日本軍の戦い方は、それこそ蒙古襲来絵詞が示すように、5人ないし100人の集団が個々に突撃した
のだ。
残念ながら、俺も「数千人同士が激突する、泰西名画の大会戦のようなこと」など考えていない。
ごめんな。この点は「日本軍の戦い方は、それこそ蒙古襲来絵詞が示すように、5人ないし100人の集団が個々に突撃した
のだ。 」というのは俺の考えと一緒だ。ただし、個々の集団が後続から続々と参戦して最終的には数千の軍勢になった
という観点から「この金方慶の大喝で数千人もいたであろう鳥飼潟の武士団が逃げていったと解釈するには無理がある。 」
となるわけだ。
>ひとつ気がついた。「諸軍與戦及暮乃解」が壱岐とは別の戦闘だとすると、この戦闘には場所の
記載がない。
場所の記載がなければ、 漢文の構成上、「諸軍與戦及暮乃解」もまた君の言う「壱岐の戦闘」の
延長になってしまう。
残念ながら、そうはならない。20日の間に激戦があったことは蒙古襲来絵詞や
帝王編年記など諸資料と一致している上に、
「諸軍與戦及暮乃解」の後ろの文章が例の撤退に関する軍議だ。
撤退を議論する軍議に関する記述さえなければ、「諸軍與戦及暮乃解」=
壱岐の戦闘論も成り立つが実際はそうではない。
「諸軍與戦及暮乃解」と撤退に関する軍議とは密接に繋がっている。
間違っても、「諸軍與戦及暮乃解」=壱岐の戦闘の可能性はない。
>>403 日本側は数十〜百人単位でてんでバラバラに戦ってたってことだよね。
数で劣る側が命令系統がしっかりしてる敵相手にそんな逐次投入というか
そうとすら言えないバラバラな戦い方で勝てたというのがおかしいと思わない?
弓騎兵は生存性が高いし特に日本のは重装備だったからね
各個撃破される前に友軍が到着する公算が大きい
406 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 17:39:40.02 ID:3ggmskAk
>>403 >残念ながら、そうはならない。20日の間に激戦があったことは蒙古襲来絵詞や
>帝王編年記など諸資料と一致している上に、
>「諸軍與戦及暮乃解」の後ろの文章が例の撤退に関する軍議だ。
だから、その議論はすべて日本人の予備知識に基づいている。
現に君は蒙古襲来絵詞とか、帝王編年記とか、予備知識の出典まで
示しているではないか。
まったく予備知識のない朝鮮や中国の読者は、「諸軍與戦及暮乃解」の
戦闘がなんという場所で行われたかを、どうやって知ると言うのか?
繰り返しになるが、金方慶伝は日本人に読んでもらおうと思って書かれて
いるのではない。あくまでも朝鮮人および中国人の読者が対象なのだ。
そして中世の朝鮮人、中国人は蒙古襲来絵詞など聞いたこともないだろう。
407 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 17:50:31.48 ID:VXULUW6/
きっちりと隊列を組んで整然としているが、練度の低い軍は、
端から切り崩していくものである。
>>404 元側も一度に上陸できるわけでもないし
先鋒同士の戦い→赤坂
両軍本隊が出揃っての会戦→鳥飼潟じゃないの?
409 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 22:14:39.77 ID:3ggmskAk
>>403 >最終的には数千の軍勢になったという観点から「この金方慶の大喝で数千人もいた
であろう鳥飼潟の武士団が逃げていったと解釈するには無理がある。 」 となるわけだ。
私が言っているのは:
日本軍は100人前後の集団で個々に突撃したのであるから、そのなかのある集団が金方慶
の本陣寸前で限界に達して後退し、それを金方慶がじぶんの大喝のせいだと勘違いする
ことはあり得る、ということだ。
つまり、ある方面の日本軍の総計が何人であろうと、元軍が一度に相手にする日本兵の
数は100人のオーダーだと言うことだ。
だから金方慶伝の記述は、それが祖原山の戦いではなかったという根拠にはなり得ない。
410 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 22:37:42.39 ID:3ggmskAk
それはそれとして、鳥飼潟方面にほんとうに数千人の武士団がいたのか?
すくなくともそのことを明記した当時の記録はあるまい。
それではどうやって推計するか。
赤坂/鳥飼潟方面で戦ったことが当時の記録からわかる武士(リーダー)は、
菊池、竹崎、白石、福田、日田、都甲、このくらいだろう。
その合計は竹崎勢が5人、その他が100人と仮定すれば505人だ。
ところで君はたぶん、「鳥飼潟戦闘以外に記録に残っている戦闘はない、だから
鳥飼潟が決戦であり、それ以外の戦闘は無かった」という論法を用いるだろう。
この論法をあてはめれば、「鳥飼潟で戦ったことが当時の記録にある武士の名は
菊池、竹崎、白石、福田、日田、都甲である。これ以外の武士の名は鳥飼潟で
戦った記録がない。したがって鳥飼潟で戦った武士の総数は約500人と推定される」
ということも言えるわけだ。
私が500人と信じているのではないよ。あくまで同じ論法をあてはめればそうなる、
という話だ。
411 :
名無し三等兵:2012/07/17(火) 23:04:35.14 ID:3ggmskAk
>>402 見過ごしていたが、金方慶伝の「女真後期、乃発船、入対馬島・・」に始まる
戦闘経過の前の段に、軍編成の話が載っていた。
高麗軍を右軍、中軍、左軍に分けて三翼軍と称し、金方慶はみずから中軍を
率いた、とある。
これに続く戦闘経過に「分道而進」があり、「倭兵衝中軍」があるのだから
対応はおのずから明らかだな。
赤坂・鳥飼潟方面の元軍が高麗軍だったとすれば、竹崎が本陣らしいと見た
祖原山は金方慶の司令部であり、すなわち中軍であった。竹崎・白石が祖原山
に向かって突撃したことは、白石に追われた敵兵が祖原山に上ったことから
明らかである。その後も祖原山に向かって突撃した集団はいたであろう。
本陣であれば「良き首」が取れる確率は高いからね。
祖原山の本陣が中軍とすれば、その他に右軍と左軍がいた。それらの担当はわからない
が、それぞれ赤坂山と鳥飼潟(海岸)を担当したと考えることもできる。
412 :
名無し三等兵:2012/07/18(水) 20:28:23.71 ID:L7JmP8GU
横槍失礼
忠烈王が即位した年の高麗史の記録です。
この記録だと、一岐島を攻撃した夜に大風に遭っていることになります。
対馬と九州本土の戦いが完璧に消されています。
高麗史の編者が九州本土での敗戦を隠す意思を持っていた、あるいは記録が不完全だったので書けなかったと考えるのが妥当かと思われます。
(略)以蒙漢軍二萬五千?我軍八千?梢工?引海?水手六千七百?戰艦九百餘艘, 征日本.
至一岐島, ?殺千餘級, 分道以進, 倭却走, 伏屍如麻. 及暮乃解, 會夜大風雨, 戰艦觸巖崖, 多敗, 金?溺死.
解決かどうかはわからんがどうも向こうの史料だと壱岐での戦闘をメインにしてるみたいだな。
415 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 09:04:01.85 ID:C213fnVG
>>412 >>413 >>414 高麗史節要もそうだが(節要はダイジェストの意味)上記の元宋世家・元宋十五年
の文章は金方慶伝のダイジェストである可能性が高い。
用いられている文字は全て金方慶伝にある。ただし一部を入れ替えたり加えたりしている。
入れ替えた文字:分道而進の而→以
加えた文字:「走」の前に「却」、「崖」の前に「厳」
入れ替え・付加によって意味はあまり変わっていないが、他の文字が大量に省略
されていることの影響は大きい。
例えば地名の対馬と三郎浦が消えている。地名が消えると文章のすじがきが
変わってしまう。
漢文のダイジェストは、もともと簡潔な漢文の意味を曲げることが多いから、
たとえその方が都合が良かったとしても、原文より重視すべきではない。
このようなダイジェストの存在は、金方慶伝でさえ、より字数の多い原文が
あった可能性を窺わせる。
416 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 14:18:56.66 ID:C213fnVG
>>415 ごめん、「戦艦触崖」の「崖」の前に「厳」を加えたと書いたが、
金方慶伝は「戦艦触崖」ではなくて「戦艦触岩」だった。
「厳崖」だと特別な地形の場所で遭難したようになるが、「岩」なら単なる
座礁でもいいわけだ。
後からできた方の文章に余計な解釈が入っていると見られる。
417 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 14:44:02.86 ID:C213fnVG
ついでに「高麗史節要」の相当部分も載せておく。
『高麗史節要』「巻十九 」
「(元宗十五年十月)
十一日船至一岐島倭兵陣於岸上朴之亮
趙?逐之倭請降而復戰茶丘與之亮?撃
殺千餘級捨舟三郎浦分道而進所殺過當
倭兵突至衝中軍方慶拔一?矢励聲大喝
倭辟易而走之亮忻?李唐公金天禄申奕
等殊死戰倭兵大敗伏屍如麻忽敦曰雖蒙
人習戰以何加此諸軍終日戰及暮乃解方
慶謂忽敦茶丘曰我兵雖少已入敵境人自
為戰即孟明焚舟淮陰背水者也請復決戰
忽敦曰小敵之堅大敵之擒策疲乏兵大敵
非完計也而劉復亨中流矢先登舟故遂引
兵還會夜大風雨戰艦觸巖崖多敗金?墮
水死」
これは以前のスレの人が載せたもので、写真から文字に落としたと言っている。
したがって船至一岐島の前に対馬の記事があったかどうかはわからない。
なお十一日と日付が入っているのはもうけ物である。
注目すべきは終わりのほうの「遂引兵還」の前に「故」が入っている。その前の
劉復亨中流矢先登舟を受けているので、「故」が入ると、劉の負傷が撤退の理由
であったかのような文意になってしまう。これも後からできた文章の「余計な解釈」
だろう。
また難破記事はここでも「戦艦触厳崖」になっている。
高麗史は金方慶伝から直接ではなく、高麗史節要から間接にダイジェストしたこと
を窺わせる。
具体的な成立の時系列は知らないけどね。
418 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 17:00:15.88 ID:i7N2Eb9+
>>417 横槍2
高麗史節要の記述には明確に「十一日」と書いてあります。
この事は高麗史節要の編者が、文永の役が九州ではなく壱岐島で起こったと解釈していた可能性があります。
前のレスで誰かがこんな事を言っていました。
『まったく予備知識のない朝鮮や中国の読者は、「諸軍與戦及暮乃解」の戦闘がなんという場所で行われたかを、どうやって知ると言うのか? 』
まったく、その通りです。
高麗史は1451年に、高麗史節要は1452年に完成しています。
編者が1274年に起きた文永の役を詳しく知っているはずがありません。
まして戦場は外国である日本です。
頼みの綱の元史には、元寇についてはほとんど書かれていませんし。
もし、九州での戦いが削除されているのなら、「倭兵大敗伏屍如麻」の後に「我兵雖少」と書かれているのも納得できます。
壱岐島では日本は負け、九州では勝っているのですから。
419 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 21:09:21.02 ID:gi6d0Sd1
>>418 >この事は高麗史節要の編者が、文永の役が九州ではなく壱岐島で起こったと解釈していた可能性があります。
私もその可能性はあると思います。というか、「三郎浦」の重要性を理解しなかったので、簡単に削って
しまった、ということだと思います。
そして私は三郎浦は早良軍に違いない、と思っているのです。
>『まったく予備知識のない朝鮮や中国の読者は、「諸軍與戦及暮乃解」の戦闘がなんという場所で行われたかを、
どうやって知ると言うのか? 』 まったく、その通りです。
これを書いたのは私ですが、少し違う観点から言い直すと、次のようなことです:
まったく予備知識のない朝鮮、中国の読者が「諸軍與戦及暮乃解」を見たとき、冒頭から対馬島、一岐島
と地名で話が進んでいるのに、「諸軍與戦及暮乃解」には地名が付いていないので落ち着かず、その地名を
求めて文章をさかのぼって「捨舟三郎浦」に行き着き、なるほど、「諸軍與戦及暮乃解」もまた三郎浦
に関係する場所の話なのだな、と理解するであろう。編者もまた、それを予期して書いているであろう。
・・・このようなことです。
>編者が1274年に起きた文永の役を詳しく知っているはずがありません。
その通りですね。頼みの綱は金方慶伝しかない、と言ってもいいでしょう。上で見たように、
すべてのダイジェストの元は金方慶伝に行き着きます。そしてその金方慶伝は、かなり早い時期に書かれた
別の手記に依拠しているだろうと思います。
>壱岐島では日本は負け、九州では勝っているのですから。
日本軍が九州で勝ったとは言えないでしょう。いいところ痛み分けです。
そして相手の方は、弘安の役では勝ったと書かない元史が「入其国敗之」とはっきり書いている
のですから、「戦闘では勝ったが天災でやられた」という意識を持っていたでしょう。
420 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 21:13:02.50 ID:gi6d0Sd1
421 :
名無し三等兵:2012/07/19(木) 22:26:19.51 ID:i7N2Eb9+
>>419 横槍3
>そして私は三郎浦は早良軍に違いない、と思っているのです。
三郎浦については調べてみましたが、場所を特定できる手がかりはありませんでした。
ただ、壱岐島に「庄の三郎ケ城」という城があって、そこで戦闘が行われたそうです。
もし城の近くに浦と呼べるような場所があれば、そこが三郎浦と呼ばれていた可能性はあります。
>上で見たように、すべてのダイジェストの元は金方慶伝に行き着きます。
これについては、多少疑問があります。
元宋世家・元宋十五年の記録は卷二十八に書かれており、金方慶は卷一百四に書かれています。
順番で言えば、元宋十五年の記録の方が先に書かれたのではないでしょうか?
つまり、卷二十八を書いた段階で、記録から九州の戦いが抜けていたか、或いは故意に抜いたので、
まるで壱岐島だけで戦闘があったような書き方になったと考えます。
金方慶伝や高麗史節要には、時系列がはっきりしないが、戦闘に関わる記録を加えたと思っています。
まぁこればっかりは、いくら論争しても結論は出ませんが。
>いいところ痛み分けです。
元と高麗が口裏を合わせて、壱岐島の戦いしか記録に残さなかった、という可能性はあります。
(あくまでも可能性ですよ)
元・高麗軍が撤退を決断する時のやりとりは、まるで敗残の将の会話です。
しかも戦闘はたった1日だけしか行わず、夜陰に紛れて撤退しています。
なぜ元史に「入其国敗之」と書かれているのか全く理解できません。
それから、ちょっと疑問に思ったのですが、なぜ「攻其国」ではなく「入其国」なのでしょうか?
私は漢文が苦手なのでアホな疑問かもしれませんが・・・
422 :
名無し三等兵:2012/07/20(金) 13:26:13.58 ID:e7I7F1+M
>>421 >元・高麗軍が撤退を決断する時のやりとりは、まるで敗残の将の会話です。
>しかも戦闘はたった1日だけしか行わず、夜陰に紛れて撤退しています。
元軍の目的が膺懲のための短期作戦であったと考えた上で、その晩の彼らの
立場に立って見るならば、なぜ当夜撤退したかはよく理解できます。
私は「文永十一年・冬の嵐」に批判的な立場なのですが、元軍の撤退に対する
見方だけは大いに賛成です。
ただし冬の嵐は二十七日撤退説ですが、二十日でも二十七日でも短期であるのは
同じです。論文の末尾のまとめにありますから読んで見て下さい。
>なぜ元史に「入其国敗之」と書かれているのか全く理解できません。
戦闘では勝った、と考えているからです。
>なぜ「攻其国」ではなく「入其国」なのでしょうか?
敵国を侵略したことを表す、漢文のお約束だからです。
「入其国」でぐぐれば多くの侵略記事が出て来ます。
例えば日本書紀で、神功皇后の新羅征伐に「遂入其国中」と書かれていますが、
そのお手本は漢書高帝紀だとされています(岩波文庫日本書紀からの受け売り)。
>>422 横からスマンが、あんた詳しいな。
漢文がスラスラ読めるのか
入其国の意味とかよく知っているな゜ω゜)b
ここで妄言。
文永の役の指揮官は、最初から本気で日本と戦う気は無く、早い段階で撤退することを考えていた。
だから、九州で苦戦したら即座に撤退を決断した。途中で嵐に遭ったとしたら、それは不運だった。
何故って?
諸兄が蒙古の将軍で、皇帝から「4万の兵を与えるから日本征服してこい」と命じられたとします。
勝算有りますか? 無い場合、「自分には無理です」と断れますか?
425 :
名無し三等兵:2012/07/20(金) 20:19:08.91 ID:xvawjDV6
>>424 元は緒戦から日本側の動員力なんてわかんねーから4万でも大宰府ぐらいは取れると思ったんだろう
426 :
名無し三等兵:2012/07/20(金) 20:35:12.44 ID:7TavIgo0
>>422 横槍4
>元軍の目的が膺懲のための短期作戦であったと考えた上で
『元高麗紀事』「耽羅」至元九年十一月十五日条
先奉旨議耽羅日本事、臣等樞密院官詢問、有自南國經由日本來者耽羅人三名、
畫到圖本、稱『日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬』。臣等謂若先事日本。
未見本國順逆之情。恐有後詞。可先平訖耽羅賊寇。然後若日本國。果不放趙良弼等返國。
徐當再議。似無後患。又兼耽羅國王曾來朝。見今叛賊逐其主。占據城郭。義當先平
これを読む限り、元・高麗連合軍の目的は、大宰府の占領だったと考えるのが妥当かと。
>敵国を侵略したことを表す、漢文のお約束だからです。
すみません、漢文は不得意中の不得意です。(><)
427 :
名無し三等兵:2012/07/20(金) 22:22:47.67 ID:e7I7F1+M
>>426 どこにも大宰府を占領するとは書いてありませんが・・
モンゴル帝国の元は海上兵力など無きに等しかったし
諸将は南宋制圧を待ってからその兵力を投入すべきとの意見が大勢
しかし結局同時侵攻となって少数の兵力しか送れなかっただけ
4万で十分と思っていた訳では無くあの時点ではそれが精一杯だった
不十分と判っていても、敢えてあの時期に侵攻したと。何故だろ?
対南宋戦略の一環
「宋と日本とを討たんと欲するのみ」とは一体何だったのか?
432 :
名無し三等兵:2012/07/20(金) 23:44:43.42 ID:7TavIgo0
>>426 横槍5
>どこにも大宰府を占領するとは書いてありませんが・・
つまり「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」は、大宰府まで2〜3万の兵を率いて、ただ行って帰るという事ですか?
え〜っと・・・ 撤退時の兵力は?
大宰府を占領しないで撤退するのであれば、当然日本軍に追撃されますが。
実際に撤退に成功した、というのは無しですよ。
あれは、たまたま戦闘の終了が夕方になっただけですから。
そこで威力偵察(笑)説ですよ!
434 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 00:03:43.67 ID:7TavIgo0
>>433 横槍6
2万以上の兵を用いての威力偵察・・・ 蒙古スゲ〜!
でも、それなら大宰府を偵察してないから失敗ということですよね。
(今日はもう寝ます。お休みなさい)
435 :
433:2012/07/21(土) 01:23:38.67 ID:???
いや、俺も冗談で言っただけなんでwおやすみw
この威力偵察説や弘安の棄民説を最初に唱えた杉山氏は
一体どういう発想でこんな無理がありすぎる説に行き着いたのかね?
そりゃモンゴル様が普通にやって日本なんかに負けるはずがない
って発想だろ
結論はあれだけど、「日本征服を目的にした侵攻にしては変じゃないか?」という
視点は重要じゃないかな? 特に文永はいくら何でもずさんというか
武士と海を舐めすぎだろう。
>>437 確かに複数の視点から考えることは重要だと思う。
だけど、それがなんで「北九州に橋頭堡を築く」とかじゃなくて
「4万の兵力を投入し、本隊のない威力偵察」や「一日で軍の編制が乱れ矢の尽きる膺懲」って発送になるのかがわからない。
>>438 私にも判らない。だから、元の日本攻撃プランを妄想してみる。
最終目的は日本の服属または征服でいいのかな。
で、そこから4万出兵までの思考径路だけど、北九州に橋頭堡を得ることが目的ならば
少なくとも第二次遠征軍がやってくるまで太宰府なり他の拠点なりを維持できなければ意味がない。
しかし、第二軍を出す余力が当時の元にあっただろうか?
ということで珍説。日本を攻めることで日本が南宋支援の出兵を行うことを防ぐのが目的だった。
勝てば良し、勝てなくても日本は自国防衛を優先するから、南宋が期待する最後の援軍は消滅する。
問題は日本遠征より、その兵力を日本からの遠征軍(が来た場合)を迎撃する予備戦力とする方が
経済的ではないかという点を初め山積みだけど。
>>439 日本へ攻撃はヘタしたら日本からの攻撃を誘発しかねないと思うの…
441 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 09:09:27.37 ID:yuAvEW5F
>>432 あなたは
>>426で:
「日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬」
を示して、
「これを読む限り、元・高麗連合軍の目的は、大宰府の占領だったと考えるのが妥当かと。」
と言っているのだから、まず
「あなたが上記の文章をどのように読んだか」
を示すのが先ではありませんか?
>>439 「遠く離れた南宋に援軍を送るほどの力がある」と見なしてたんなら
「四万程度の兵力で牽制できる」という考えには至らないと思うの。
やっぱ大陸から離れた島だしそんなに強い軍はいないだろって感じで単純に過小評価してたんじゃない?
443 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 14:01:43.70 ID:yuAvEW5F
みなさんの参考のため、「文永十一年・冬の嵐」の、早期撤退に関するまとめを
引用する。
「蒙古高麗軍は十月初頭に合浦を出発した。高麗元宗の死去・葬儀、また軍船建造の遅れがあった
にせよ、他国への遠征としてはいくらか展望を欠いた行動だった。四万という数字も、のち弘安の
役の十四万人に比べれば、たしかに少なかった。早期の撤退は出発時点で宿命づけられていた。
蒙古・高麗は、日本人の意識に十分なだけの打撃を与えうれば、帰途についても差し支えなかった。
冬の嵐はタイムリミットを示した。すでに季節は安全な帰国を至上課題とするまでに至っていた。
翌文永十二年(建治元年、一二七五)春には、はやくも元使・杜世忠が長門に到着する。元(蒙古)に
とってはむろん予定の行動である。前年の攻撃はそのための第一弾であった。」
要するに:
*早期撤退を前提とした兵数であった。
*目的は外交の一手段としての膺懲にあった。
*帰航が困難になる季節が近づいていた。
ということだろう。
南宋攻略の為に出兵するようにと使者を出すも切られる
懲罰の為に4万で攻めてみたけど武士強すぎ
4万じゃどうしようもないし、このまま居座っても攻められて全滅するから即時撤退を決定。
帰路の途中で暴風雨。
早期撤退が前提じゃなくて過小評価すすぎてたんだ
4万の兵士を動員して早期撤退前提って…
日本側からしたら次来ても撃退出来ると判断するんじゃない?
戦闘には勝ったけど矢がつきたから帰った
って話はもう無くなったの?
>>446 その場合は、矢の見積もりが甘すぎないか?となってしまう。
まず焦点は「元は4万で日本を征服できる。少なくとも北九州を占拠&維持できる」と
本気で考えていたか否かですかね。
本気だったら日本を舐めすぎもさりながら、その程度で勝てる相手が南宋に味方しても
痛くも痒くもないという問題。別にもっと暇になってから攻めても良いじゃないかという問題が。
かといって、威力偵察だの膺懲だの言っても、返り討ち前提の軍を出すのはこれまたおかしい。
449 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 17:59:39.06 ID:QPTPMKIW
>>441 横槍7
>「あなたが上記の文章をどのように読んだか」を示すのが先ではありませんか?
私は漢文が苦手ですので、参照先に書いてあった訳文で判断しました。
原文:日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬
訳文:日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう
で、日本侵攻を計画していた樞密院の役人が、明確に上陸作戦の目的地が大宰府と言っていますので、
大宰府を占領、あるいは破壊するのが目的だったと考えます。
クビライの目的はあくまで南宋と日本を討つことでしたから。
ですから、目的が膺懲というだったのではなく、大宰府を占領あるいは破壊して、交渉を有利に
進めようとした、と私は考えます。
早期撤退を前提としたという意見には私も賛成です。
冬の日本海は荒れますから、最悪の場合、翌年の春まで元・高麗軍は飢え&日本軍と戦わなければなりません。
また朝鮮半島から冬の日本海を渡り、兵站を輸送するのは失敗する可能性が非常に高いです。
そもそも1269年の時点で「宋と日本とを討たんと欲するのみ」
としている以上、日本遠征は南宋攻略の一環に過ぎないのではなく
南宋と並ぶ次なる目的地に日本を定めたと考えた方が自然では?
周りの家臣から「南宋を先に片付けてからの方がいい」という意見が出たわけだが
南宋攻略の一環としての計画ならそもそもこんな意見は出ないでしょ。
>>449 基本現地で収奪するもんじゃない?
現代以前の軍隊は。
>>443 あくまでも武士の勝利・元軍の敗北を認めたくないという前提に立って、全てを結果から逆算しないと
出てこない妄想説としか言いようがないな。
>他国への遠征としてはいくらか展望を欠いた行動だった。
単に失敗という結果から後付けで言ってるだけの事。
>四万という数字も、のち弘安の役の十四万人に比べれば、たしかに少なかった。
4万というのは大軍だぞ。
当時の世界史的にも類例の殆どない超大規模渡洋作戦だ。
弘安の14万に比べて少ないなんざあたりまえ。
4万で失敗したから次は3倍以上の兵力を持ってきたんだろ。
弘安に比べて少なかった → 元軍は本気ではなかった → 膺懲が目的だった
こんな馬鹿げた論法が成り立つと本気で思ってるのか ?
>早期の撤退は出発時点で宿命づけられていた。
根拠不明。
大宰府制圧し九州征服できればそのまま居座っただろう。
>蒙古・高麗は、日本人の意識に十分なだけの打撃を与えうれば、帰途についても差し支えなかった。
>冬の嵐はタイムリミットを示した。すでに季節は安全な帰国を至上課題とするまでに至っていた。
根拠全くなし。
百歩譲って冬が迫り帰航が困難になる季節が近づいていたという言い分を認めるたとしても前に言った
ように九州征服して居座れれば問題ないし、何よりも大宰府制圧どころか橋頭堡すら築けず僅か1日の
攻防で夜陰に紛れて撤退する事を正当化する理由には全くならない。
膺懲なら、対馬を征服してそこに居座り「服属しないなら次は本土だ」とやるのが
兵力4万と限定されているなら、九州攻め込むよりまだマシじゃない?
略奪による膺懲が目的だと考えた場合…やっぱり失敗してないか?
対馬・壱岐は深刻なダメージを受けたが、元がそれに見合った略奪を得られたかは疑問だし
日本側の態度は硬化しまくったし。
文永の役の目的が
1 日本征服が目的であった場合⇒寸土を得ることもできていない。完全な失敗
2 日本を萎縮させ、服属させることが目的の場合⇒日本は徹底抗戦を決断。完全な失敗
3 略奪が目的だった場合⇒コストに見合う利益があったか解らない。保留
4 一応、威力偵察が目的であった場合⇒「日本は4万程度じゃ到底落ちない」という情報を得たことで、成功として良いのか?
棄民説は弘安の時だけで良いんでしたっけ? 高麗の国力を削ぐためとか主張している人っていますか?
457 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 19:40:15.44 ID:QPTPMKIW
>>451 横槍8
>基本現地で収奪するもんじゃない?
4万人の数ヶ月の食料を、収奪だけで調達できるか? これが疑問なんです。
似たような事例って他にありますかね?
幕府の主力軍どころか土着の在地武士相手に大宰府制圧どころか橋頭堡の維持すら出来ず、僅か1日の
戦闘で継戦を断念して夜陰に紛れて逃げ帰るのが「膺懲」とは片腹痛い。
当時、少なくとも数百隻に及ぶだろう大船を夜間に一斉に動かすというのは非常に危険な行動だった筈。
それでも夜が明ければ再び敵は攻めかかってくるからな、よほどそれが怖かったんだろう。
まあ実際敵が攻めかかってくる中で乗船・撤退するのは非常に困難だ。
下手をすると総崩れになって壊滅する危険がある。
夜陰に乗じての総撤退というのも背に腹は代えられない行動だったのだろうな。
「膺懲が目的であったか」と「膺懲を為し得たか」は厳密に区別しないとまずそうですね。
元は4万人で膺懲の用に足りると思っていたけど、上陸してみたら現実が厳しすぎて
現場司令官涙目というストーリーは、割と状況をよく説明できるかも。
一日で「こりゃ駄目だ」と見切りをつけて夜間撤退作戦を敢行したってのは、見方を変えると
凄い決断力だなぁ。もう少し戦えば状況が好転するかもと、根拠なく思って全滅するパターンなのに。
>>457 クレフェルトの補給戦によれば1704年のスペイン継承戦争時のイギリス軍が
計4万の軍勢の補給を現地で購入することで補ってるね。
時代も場所も違うから単純に否定出来ないんだけど。
461 :
460:2012/07/21(土) 20:15:21.51 ID:???
ゴメン
×否定
◯比定
>>459 そもそも「膺懲が目的であった」とする根拠がどこにも存在しない。
元軍の敗北や侵略性を何とか否定したいという意図があるとしか思われない。
「凄い決断力だ」というのは同意、冷静な判断力です。
まあ結局帰路に嵐に会って大損害を蒙るわけですが、これは結果論。
まあ嵐だけで済んだだけ良かったじゃないか
あのまま継続してたら、4万人が弘安の役みたいに船を失って武士団に殲滅されるんだぜ
464 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 20:53:28.18 ID:9tuSE23d
>>449 >原文:日本太宰府等處下船之地、倶可下岸、約用軍二三萬
>訳文:日本の太宰府周辺に上陸地から向かうには、軍勢約二、三万ほどが必要でしょう
訳文はほとんど誤訳に近いと思います。私ならこう訳します。
「日本太宰府等の処の下船の地は、倶に下岸して約二三萬の軍を用いる可し」
「太宰府(や博多)等への(これらの)上陸地は、いずれも接岸可能ですから、二、三萬の
兵を上陸させることは可能でしょう」
(や博多)を入れたのは、「等」の字があって太宰府にしぼっていないからです。
元の軍官から「太宰府辺りに二、三萬の兵を上陸させたいのだが、それは地形的に可能か?」
と問われた民間人が、地図を示しながら(画到図本)「これらの地点に上陸すれば可能です」
と答えている場面が想像されます。
そう考えるなら、この文章が作戦目的を明確に示すものとは言えないでしょう。
465 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 20:55:17.26 ID:9tuSE23d
>>449 >目的が膺懲だったというのではなく、大宰府を占領あるいは破壊して、交渉を有利に
>進めようとした、と私は考えます。
>早期撤退を前提としたという意見には私も賛成です。
>冬の日本海は荒れますから、最悪の場合、翌年の春まで元・高麗軍は飢え&日本軍と戦わなけれ
>ばなりません。
>また朝鮮半島から冬の日本海を渡り、兵站を輸送するのは失敗する可能性が非常に高いです。
太宰府を短期間占領してこれを破壊することも「膺懲」のうちです。
それを入れれば、あなたの書かれたことは100%私の意見と同じです。
文永の役の実行理由を、元の戦略に求めて良いのだろうか?
高麗が強く主張していたというから、そちらの要因を考えないと。
とはいえ、この時期高麗が日本侵略にここまでこだわる理由はおもいつかないが。
>>465 いくら何でも短期間過ぎない?
元軍が博多に来襲したのは文永11年10月19日。ユリウス暦なら11月18日だ。
冬の海を避けたいというには、あまりにも遅すぎる。
冬の日本海を渡るのを避けるのが作戦の前提なら、九州で冬越しする以外の選択肢は無い。
>>456 どっかのブログで高麗王朝の国力と軍事力を削ぐのが目的とか言ってた人がいたなw
そんな真似したら第2第3の三別抄が現れて余計厄介な事になるのは目に見えてるのにw
>>451 そんな簡単に征服地で現地調達出来れば、秀吉の唐入りで
「いくらワンサイドゲームで勝ちまくっても戦線が縮小していく」なんて現象は起こらねえよw
>>466 そりゃ日本を侵略して征服できれば自分達に対するモンゴルの支配が緩くなるのを期待できるし
モンゴル帝国内での高麗の立場を強化する事が出来る。
さらにモンゴルに対しては自分達は被支配民族だが、日本に対しては支配民族として振舞う事が
出来る。
理由ありすぎじゃないか。
現地調達が基本であるってことは
現地調達が容易であるって意味じゃないぞ?
あと近代以前の軍で後方から物資を
持ってくる事は相当困難なことじゃいか?電話も電信も参謀本部も無いんだから…
補足しとくと「困難」≠「不可能」な
472 :
名無し三等兵:2012/07/21(土) 23:42:55.69 ID:QPTPMKIW
>>460 横槍9
食料については、面白い記事を見つけました。
『また、モンゴル軍の携帯食はモンゴル式合理主義の結晶である。
軽量化を極めるため、羊の肉を極限まで圧縮したのである。
まず、羊の肉を乾燥させ、それを木槌でたたいてほぐし、脂肪分など余分な成分を排除する。
この工程を何度も繰り返すことにより、羊1頭分の肉が袋に入るほど圧縮されるのである。』
『また、この携帯食の袋の数で、遠征の期間までわかったという。』
これなら食料の心配は要らないですね。
問題は1日で矢が尽きた点ですが、モンゴル軍が大陸を移動するときは、どうやって矢を調達したのでしょうか?
やはり征服した土地で作ったんでしょうね?
>>472 矢はどうしたんだろうな?
恥ずかしながらよく知らないんだ。
考えつく所じゃ後方から持ってくる、
使用した矢を回収して再利用、
現地で生産、位かな?
どうやって補給するのかは知らないけど、1日分の矢しか持たずに
異国(しかも海越えの遠征で補給が期待できない)には普通来ないだろう。
1日で引き上げるのが当初からの予定だったとでも言うのでないなら
異常なほど矢を消費したか、輸送中の事故か何かで矢を失ったとしか思えない。
そもそも官製整わず矢が尽きってただの定型文というか比喩で
本当に矢が尽きたってわけでも無いんじゃねえの?
矢ばっかりたくさん積んでる補給艦のようなものがあって、それがたまたま沈んだりしたら矢が不足することもあるだろうが、
わざわざそんなリスクの高い輸送方法をとる訳ないし
普通に考えて、日本軍をナメてかかってたが予想以上に頑強に抵抗したから不足したんじゃないの?
>>466 むしろ元が最初に使者を高麗に送らせようとした時
あれこれ理由つけて断ったからフビライがブチ切れてる。
>>475 撤退の言い訳として矢がなくなりましたって言ったというのは十分考えられるな
牟田口なら「矢がなくなったら剣で戦え、剣もなくなったら素手で行け」とか言いそうだがw
>>469 あれは朝鮮があまりに不毛の地過ぎたから大幅に予定が狂った。
だから日本側も慶長の役では、もう日本からの補給キッチリ確保した上で攻める作戦に変更した。
唐入りで思い出したが教科書を鵜呑みにするというか、はてブ民に多いタイプの自称知識人には
なんで唐入りや日中戦争を明確に日本の完全敗北と定義する一方で
この2つの例以上に侵攻側が全く戦果を挙げられなかった元寇を
日本は勝ってなんかいない!って無理ありすぎな主張する人が多いのかな?
前者2つを戦略的敗北というのが理解出来るんなら、元寇は日本の完全勝利だとわかりそうなもんだが。
481 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 00:39:21.38 ID:pShgwtvu
>>464 横槍10
>「太宰府辺りに二、三萬の兵を上陸させたいのだが、それは地形的に可能か?」
上陸させるのは博多湾です。
ですから、なぜ博多湾ではなく大宰府という地名が書かれたのか理解できません。
482 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 00:40:04.25 ID:pShgwtvu
>>465 横槍11
>太宰府を短期間占領してこれを破壊することも「膺懲」のうちです。
これについては、少々考えを変えました。
私は兵站(特に食料)について、新たな情報を得ました。
472で書いたように、食料の心配はいりません。
ですから、元・高麗軍が春まで持ちこたえることを想定して進軍させた可能性があります。
また私は面白い2chのコメントを見つけました。
『同じ13世紀の第四回十字軍は対馬海峡の10倍の2000キロも海を渡り、文永の役の元軍の3分の1の兵力で、
水城より遥かに堅固なコンスタンティノープル攻略し、鎌倉日本より人口の多かったビザンツ帝国征服してるんだから 』
ひょっとしてクビライは、2〜3万の兵で九州北部ぐらいは占領出来ると思っていたのかもしれません。
そもそもモンゴル帝国の他地域への遠征を見ると四万は割と規模が大きい方じゃねえの?
>>482 横槍に横槍恐縮です。
想定していたと言うより、春まで持ちこたえるというか九州占領する気でいたとしか思えません
文永の役で博多に攻め込んだのは、現代の暦なら11月下旬です。冬の日本海を渡るのは避けるが
基本方針ならもはや冬目前という時期での上陸作戦はあまりにも危険です。
485 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 09:40:55.73 ID:Fy/8qkp3
>>481 >なぜ博多湾ではなく大宰府という地名が書かれたのか理解できません。
理解できないときはまず原文に戻りましょう。
「大宰府等下船乃地」
私もはじめは大宰府=下船乃地、つまり大宰府が海岸にあると誤解しているのではないか
と思いました。
しかしよく考えるとこれは「大宰府、博多などに属する上陸地」つまり大宰府、博多
などへ行く場合の上陸地という意味だと気がつきました。
江戸を攻めたいと思う人が「江戸等下船之地」すなわち江戸等へ行く場合の適当な上陸地
を問い、それに対して木更津海岸などを示して「ここなら大軍を上陸させられるでしょう」
と答える場合と較べて見てください。
別に大宰府が作戦の視野に入っていたことを否定はしませんよ。大宰府を取ってどうしよう
と言うのか、それについてこの文章はなにも伝えていない、ということを言っているのです。
486 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 09:42:54.26 ID:Fy/8qkp3
>>482 >私は兵站(特に食料)について、新たな情報を得ました。
>472で書いたように、食料の心配はいりません。
その羊スルメについては私も読んだことがありますが、それはモンゴルが1年単位で西方に
遠征していたころの話です。それに生きた羊も併用しています。
それに対して元寇のころの元軍はすでに中国化しています。羊スルメは兵の腹に合わないでしょう。
高麗史を読めば高麗が食糧を供出させられて苦しんでいますが、その食糧とは米麦です。
また明らかに長期作戦であった弘安の役のときに、6月ごろ軍議を開いて、「三ヶ月分の食糧を
積んで来たが、あと一ヶ月分しかない。どうするか」と議論しています。
文永の役のときはそれよりも少なかったでしょう。越冬用の食糧があったとは思えません。
487 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 09:47:17.65 ID:Fy/8qkp3
>>485 訂正:
「大宰府等下船之地」→ 「大宰府等処下船之地」
>>486 >高麗史を読めば高麗が食糧を供出させられて苦しんでいますが、その食糧とは米麦です。
浅学にして高麗の食糧事情を知らんのだけど、保存食として米麦以外用意できたの?
そもそも羊がいなけりゃ羊スルメの用意しようもないし…
489 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 10:01:31.87 ID:pShgwtvu
>>483,484
横槍12
元は他の国にどのくらいの兵を送ったのか知りたいです。(例えばベトナムとか)
ちょっとググってみたのですが、兵数は判りませんでした。
もし、ベトナムに1万ぐらいの兵しか送ってないのなら、ガチで九州を取りに来たんでしょうね。
1287年の第3次ベトナム侵略には、30万を超える兵つぎ込んだとか。
>>490 その数値のソースって何だろ?
元側?それともベトナム側?
多分ベトナム歴史教科書だな。
493 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 11:29:52.90 ID:Fy/8qkp3
元は第2次の時食糧不足で苦しんだので第3次の時は500隻の船に物資と
食糧(米)を積んで輸送した。この輸送船団をベトナム軍が襲って300隻を
焼いたので、食糧不足を恐れた元軍は撤退した。その撤退途中をベトナム軍が
待ち伏せして河上戦を行い、ほとんど全滅させた。
なんと言う海上護衛戦の大事さ
495 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 11:39:26.82 ID:Fy/8qkp3
元側の史料では一度目が3000、二度目が25000、三度目が90000だったはず>ベトナム
因みに東欧や中東は従来は十数万と言われてたが、これは後世の記録がソースで
実際は5万程度だったんじゃないかって説もある。
あとパガン朝やジャワの時は1〜2万程度だったね。
実際に一度に十万以上の兵力注ぎ込んだのは南宋と弘安の役くらいじゃね?
>>496 兵力見ると文永の時点で本気で
日本を征服しようとしてるね。
499 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 12:30:02.55 ID:pShgwtvu
>>485 横槍13
>しかしよく考えるとこれは「大宰府、博多などに属する上陸地」つまり大宰府、博多
などへ行く場合の上陸地という意味だと気がつきました。
えーっと、それだと「大宰府等」が目標だったということですよね。
クビライが南宋や日本を討つと言ってて、900隻の船を造らせて4万の人員を送り込んで、
その作戦の目標が大宰府等だったんですよね?
500 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 12:30:32.85 ID:pShgwtvu
>>486 横槍14
>それに対して元寇のころの元軍はすでに中国化しています。羊スルメは兵の腹に合わないでしょう。
あくまで非常食として携帯した、或いは船に積んだと思っています。
>越冬用の食糧があったとは思えません。
文永の役が起きたのは新暦の11月ですから、当然、日本では米の収穫が終わっています。
越冬用の食料は収奪して確保する計画だったと思います。
日本に当時強力な統一政権があったことがそもそも想定外で
少しタイミングが違えば日本側はろくに抵抗も出来なかった筈だからな
502 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 12:40:37.17 ID:pShgwtvu
>>496 横槍15
>元側の史料では一度目が3000、二度目が25000、三度目が90000だったはず>ベトナム
一回目が3000? マジっすか?
一回目の失敗を考慮して、二度目が25000人ということは、ガチで九州を取る気だったんですね。
ちなみにそれは元史に書かれているのですか?
503 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 13:46:19.14 ID:Fy/8qkp3
>>499 >それだと「大宰府等」が目標だったということですよね。
前にも言いましたが、「等」がついているから大宰府だけではありません。
それは当然、「博多および大宰府」でしょう。
短期作戦だから作戦の遂行は柔軟で、かつ司令官の裁量にまかされています。
すくなくとも博多、うまく行けば大宰府も、ということです。
しかしうまく行かなかった、すなわち日本軍の抵抗が予想より大きかった。
だから博多だけでも良し、と司令官が裁量したのです。
短期作戦だから目標を取ったとしてもその保持にこだわらず、破壊して引き揚げる
つもりだったでしょう。膺懲たるゆえんです。
ベトナムでも毎回、王都を焼いていますね。この部分を取り上げれば膺懲です。
(作戦ぜんたいとしては直接支配ないし軍政樹立をめざした)
そして第3回のときはベトナムは元軍をほぼ全滅、司令官を捕虜(のち謀殺)にした
にも係わらず、翌年にはすぐに朝貢使を元に送っています。
元は、膺懲の効果だけはあったな、と考えたでしょう。
日本に対しては元はまだ直接支配を要求する段階ではなかった。
まず第一段階として服属だけを要求していました。
それには膺懲で足りるだろう、と考えたのでしょうが、そうは行かなかった。
日本人のプライドが高かったからです。
元が過小評価したのは、武士の戦力よりも日本人のプライドの高さです。
504 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 13:50:07.11 ID:Fy/8qkp3
ちょっと言葉が足りませんでした。
結局、ベトナムは直接支配は免れました。
抵抗の結果として、服属だけで済んだ、と言えるでしょう。
>>503 短期決戦だから指揮官の裁量に任される、なんてことは無いでしょう。
逆に短期決戦だからこそ必ず達成しなければならない目標が与えられるのでは?
さらに日本人のプライド云々は失敗した作戦で敵の意志を挫ける、と元が考えていたとでも?
ついでにベトナム侵攻時の兵力に比べて文永の役の兵力が上回っているにいも関わらず文永の役が本格侵攻ではないとする根拠ご提示下さい。
>>503 要するにあなたの言う「膺懲」なるものは従わぬ相手を軍事的に打ち破って降伏させ、服属させる
という意味なわけね ?
なるほど、文永は弘安とは違い入植しての直接支配までは意図していなかった可能性がある。
日本が降伏して属国になる事を約せばそれで引き上げたかもしれない。
だが「膺懲」云々は侵略側の勝手な言い分で、「膺懲」される側にして見ればそれは明々白々な
侵略行為に他ならない。
文永の役において蒙古側は日本に侵略戦争を仕掛けて敗退。
僅か1日の戦闘で継戦不能と判断し夜陰に乗じて撤退したものの、帰路に嵐に会い大量遭難したと
いうわけだ。
507 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 14:59:01.45 ID:pShgwtvu
>>503 横槍16
>前にも言いましたが、「等」がついているから大宰府だけではありません。
それは当然、「博多および大宰府」でしょう。
あなたの言う「博多」とは何を指していますか?
大宰府周辺の町のことですか?
>短期作戦だから作戦の遂行は柔軟で、かつ司令官の裁量にまかされています。
短期作戦だったという根拠は何ですか?元史か高麗史に書かれていますか?
高麗史の李藏用伝に戦艦1000隻の建造を命じた時の記録に「朕征不庭之國」と書かれています。
「征」とは「短期作戦による膺懲」という意味では無いですよね?
>ベトナムでも毎回、王都を焼いていますね。この部分を取り上げれば膺懲です。
元軍がベトナムを完全に占領していた場合も膺懲ですか?
あなたの言う膺懲とそうでない戦いの違いを説明して下さい。
文永の役の出兵目的は、日本の滅亡であるか服属かの違いはあれど
「日本征服だった」、つまり、元の皮算用では4万の兵を送ることで
日本をは降伏または滅亡する。最低でも九州あたりはぶんどれるという
目算だったという考えに異論のある方はおいでですか?
「膺懲」とやらは、日本が元の属国でない以上、懲される筋合いはありませんから
服属要求という名の侵略でしかないでしょう。
509 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 15:25:32.45 ID:GYTGldYy
うーむ既に夏休みモードか・・・
終わるまでマトモな人来ないな
「服属」というのが元の領土になることではなく朝貢国になるというレベルだったという可能性はあるな
どちらにせよ戦略目的を達成できなかったんだから元の負けは負けだが
太宰府を抑える或いは九州を制圧した上で恫喝外交で服属させる
っていうのはあったんじゃない?
ベトナムの時も一度目はそれに近い形で実際に服属させる事に成功してる。
逆に言えば、その後の陳朝が結局元の重圧に耐えかねて
後に独立へと踏み切ったのを見れば、鎌倉幕府は最初から徹底抗戦を選んだのは大正解だ。
>>501 地方で反乱起きてもボンクラ貴族が右往左往して
何もできなかった10世紀頃なら危なかったかもな。
中央があんな調子でよく新羅や刀伊の賊を撃退出来たもんだなあw
武士の時代が来てなければ日本も朝鮮半島みたいな歴史を辿ってたかもな。
外国軍が日本に攻めてきたのって黒船を除くとこの元寇くらいしかないんだっけ?
もっと活発に攻めてきてくれたら江戸時代に入っても世界に目を向けていたかもしれないのに
>>512 あれだけの兵力を動員した元ですら無理だったんだから、他にやろうと思った国が無いんだろ
実際問題、動力船が出来る前の海上輸送の水準で対日戦とか無理じゃね?
まあ、小規模な侵攻なら応永の外寇とかあったけど
514 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 16:07:42.30 ID:Fy/8qkp3
>>507 >あなたの言う「博多」とは何を指していますか?
博多とは、現在の福岡市の沖の浜地区を中心として当時存在した港町を指します。
>「征」とは「短期作戦による膺懲」という意味では無いですよね?
日本に遠征して日本軍と戦えば征日本です。「短期作戦による膺懲」を含みます。
>元軍がベトナムを完全に占領していた場合も膺懲ですか?
>あなたの言う膺懲とそうでない戦いの違いを説明して下さい。
私が言う「膺懲」とは、敵国を屈服させることを目的として、敵国の生命財産に故意に
損害を与えることです。
だから膺懲には敵国を占領・支配することを含みませんが、占領・支配のための作戦と
並行、あるいはその一部として行うこともできます。
>>510 >「服属」というのが元の領土になることではなく朝貢国になるというレベルだった
>という可能性はあるな
可能性があると言うよりもそれが正解です。
フビライを当面満足させるには、「日本は大元帝国に服属します」と書かれた国書を
持った使節が大都に行きさえすればそれでよかったのです。
服属した後どんな要求が来るかはまた別の話です。
元は「膺懲」によってその使節が来ることを期待したわけです。
「ねちねち手紙なんか寄越すんじゃねえ。日本が欲しけりゃ掛かってきやがれこの玉無し野郎」
と回答すればよかったのに。
蒙古諸将「日本なんて、南宋締めた後でゆっくりやれば良いんじゃないですか?」
高麗王子「やだやだ。日本滅ぼして征服者になりたいんだい」
フビライ 「しょうがないなぁ。4万も送れば足りるだろう。ビビって服属してくれれば楽だけど」
そして出兵
忽敦 「ちょ…4万で落とせなんて無理、帰るぞ」
金方慶「まだ行けますよ」
忽敦 「まだ行けるはもう駄目だって事だ。全軍今夜撤収するぞ」
文永の役のあらましは以上?
>>512 元寇以降は大陸の王朝は完全にビビっちゃったからね。
スペインはじめヨーロッパは国内の兵力総動員しても
日本の半分かそれ以下程度だし、対馬の留守部隊にぼこられた朝鮮に至っては論外。
むしろ、大和朝廷時代に漢とか唐が仮に日本に野心持ったらヤバかったな。
幸い当時はまだ資源がそんなに産出しなかったから目つけられなかったが。
519 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 16:53:23.14 ID:pShgwtvu
>>514 横槍17
>博多とは、現在の福岡市の沖の浜地区を中心として当時存在した港町を指します。
沖の浜と大宰府では距離がありますね。
上陸地点から博多は目と鼻の先で、大宰府は5km以上離れています。
これを同じ目標とするには無理があります。
大宰府等とあるのだから、等とは大宰府の近くの水城を指すと考えたほうが自然です。
>日本に遠征して日本軍と戦えば征日本です。「短期作戦による膺懲」を含みます。
ですから、507で「短期作戦だったという根拠は何ですか?」と聞いたんですが?
>私が言う「膺懲」とは、敵国を屈服させることを目的として、敵国の生命財産に故意に
損害を与えることです。
では、元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと膺懲は、誰がどうやって区別するのですか?
>>518 その時代の日本は超ド田舎だったから侵略に対する抵抗力はなかっただろうが、超ド田舎ゆえに侵略しようとする国もなかったんだろ
とはいえ白村江の戦いの頃には万単位の兵力を朝鮮半島に派兵するだけの国力はあったようだが
521 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 16:59:09.38 ID:pShgwtvu
>>519 ×上陸地点から博多は目と鼻の先で
○海岸から博多は目と鼻の先で
>>518 その頃はむしろ日本の方が大陸というか朝鮮半島に侵攻してない?
524 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 17:41:17.43 ID:MSEC0F/B
>>518米とかを作るには地形がよくないとかわかってたから侵略する価値もないと思われてたんでしょ。
525 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 18:20:02.36 ID:ZbV6qNAo
>>519 >これを同じ目標とするには無理があります。
なぜ目標が二つあってはいけないのしょうか?
>海岸から博多は目と鼻の先で
博多そのものが上陸地点ではないかという質問ならばお答えします。
博多は本船を入れる港であって遠浅ではないから上陸作戦の適地ではありません。
博多を目指すならば、一番近い上陸地点は箱崎海岸だったでしょうね。
>短期作戦だったという根拠は何ですか?
それはこの板のメインテーマですから、簡単にお答えするのもなんですが、いちばん大きな理由は、
元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘だったのに早期に撤退したということです。
>元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと膺懲は、誰がどうやって区別するのですか?
区別する必要はありません。文永の役は元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘だったからです。
526 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 18:25:45.10 ID:ZbV6qNAo
もうひとつありましたね。
>大宰府等とあるのだから、等とは大宰府の近くの水城を指すと考えたほうが自然です。
もちろん水城を「等」に入れてもいいと思います。
しかし私の頭では水城はいわば太宰府の外堀であって、二つは一体のものです。
太宰府と水城との間は若干距離がありますが、大阪城本丸と同外堀との距離より近いです。
テキトーに攻めれば、「日本側が和平交渉の申し入れをしてくるに違いない」
って考えの元に、文永の役を起したの? フビライ犯は(´・ω・`)
528 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 20:46:32.12 ID:ZbV6qNAo
>>527 いや、「非戦闘員を虐殺し、都市を焼き払って痛めつければ、日本が恐れ入って服属希望の
使節を送って来るだろう」と、フビライ犯は考えた。
対馬、壱岐もその一環だった。だからあれだけ念入りにやった。
529 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 20:51:36.41 ID:ZbV6qNAo
補足。近代国家間の戦争じゃないから、別に講和会議なんて要らない。
さんざん戦争した間柄でも、けろっとして朝貢使節を送ればいいのだ。
ベトナムがやったようにね。
>>528 でも鎌倉幕府は遠征軍をボコボコにして
その後送られてきた「服属しろ」の使者に対しては
国書に代えて使者の首をもって返事にしたと。
>525 元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘だったのに...
素人で申し訳ないが、元軍はこの認識だったのですか?
>458 当時、少なくとも数百隻に及ぶだろう大船を夜間に一斉に動かすというのは非常に危険な行動だった筈。
それでも夜が明ければ再び敵は攻めかかってくるからな、よほどそれが怖かったんだろう。
とありましたので、「矢が尽きた」事を言い訳にしてお帰りになったと思っていました。
夜間撤退のリスク<翌日襲撃されるリスク と判断したんでしょうね。
文永でやったかは知りませんが、相手は夜討ち大好き民族の日本人。
日の出を待っていたら生きて帰れなかったかも。
>>529 ベトナムは最終的に追い出したものの途中3度首都占領されたわけで
大宰府すら一度も落とさせなかった日本には必要ない
民間レベルでは普通に交易してなかった?
元朝末期の頃は足利尊氏が使節送ってるし
>>534 そこはまぁ近代的な意味での国家とか民族といった意識のなかった時代だから、政府同士が国交断絶状態でも民間人同士は無関係に交易してたらしいけど
536 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 22:50:28.88 ID:pShgwtvu
>>525,526
横槍18
>なぜ目標が二つあってはいけないのしょうか?
2つあることが問題ではなく、距離が離れた目的を2箇所指す場合に、「等」で済ますのは不自然だと言っています。
距離が離れていれば、到達する時間も必要とされる兵力も違います。
>元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘だったのに早期に撤退したということです。
撤退の原因は、元・高麗軍が勝ったからではなく、矢が尽きて、これ以上の戦闘は不可能と司令官が判断したからですよね?
金方慶は「?孟明焚船, 淮陰背水也, 請復戰」とまで言っていますが?
翌日には日本軍から一方的に矢戦を仕掛けられる状況で、元軍が夜陰に紛れて撤退した状況を勝ったと言われても、「はぁ?」
と言わざるをえませんが?
>区別する必要はありません。文永の役は元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘だったからです。
では、ベトナムの場合は?
元史に戦敗之と書かれているんですか?
>しかし私の頭では水城はいわば太宰府の外堀であって、二つは一体のものです。
外堀と言うよりは、大宰府に到達するには必ず攻略しなければならない目標ですね。
水城の近くには小水城という防衛施設もあったようですので、これらを「等」と呼んだと思っています。
537 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 23:22:18.65 ID:Fy/8qkp3
>>536 >2つあることが問題ではなく、距離が離れた目的を2箇所指す場合に、「等」で済ますのは
>不自然だと言っています。
距離のいかんに係わらず「重要な軍事目標」という共通項があれば「等」に含めるのは全く
「自然」でしょう。
>撤退の原因は、元・高麗軍が勝ったからではなく、矢が尽きて、これ以上の戦闘は不可能と
>司令官が判断したからですよね?
私は「元軍が勝ったことが撤退の原因だ」とは言っていません。
「元軍が自軍が勝ったと認識したにも「係わらず」早期撤退したことが、短期作戦である
と判断する理由だ」と言っているのです。
>では、ベトナムの場合は? 元史に戦敗之と書かれているんですか?
ベトナムで王都を焼いたことは私が用いる「膺懲」の定義にあてはまります。
以前のコメントで書いたことをもういちどお読み下さい。
>水城の近くには小水城という防衛施設もあったようですので、これらを「等」
>と呼んだと思っています。
だから以前のコメントで書いたように、それでも構いません。
ただし博多が「等」に入らないというのは、上に書いたように「不自然」です。
538 :
名無し三等兵:2012/07/22(日) 23:32:36.05 ID:Fy/8qkp3
>>531 >素人で申し訳ないが、元軍はこの認識だったのですか?
そうです。文永の役について元史に、「入其国戦敗之」(その国に入りて戦って
これを敗る)と書いてあるのです。これは戦争に勝ったときの表現です。
ただしその後に、それにも係わらず撤退したことの言い訳が続きます。
>>537 失礼ながら、モンゴル側の計画を再検討されるべきでは?
貴殿が考える元の戦闘目的は何で、それはどの程度達成されているのか。
取りあえず北九州を攻撃すれば目標達成であって、後は冬の日本海で難破しないように
さっさと撤退するというのが元の行動計画で、文永の役ではそれが達成されたとお考えなのですか?
540 :
531:2012/07/22(日) 23:53:56.76 ID:???
>538 その国に入りて戦ってこれを敗る
有難うございます。負ける前に逃げたのだから、これはこれで正しいのでしょう。
現実の戦闘とは別に、報告書を読んだ元の役人は「膺懲できた」と考えて
再び使者を寄越したのかな?(負けたと思っていたら来んわな。)
幕府側にも「恭順を示すべき」と考える人がいるかもしれなかったので
背水の陣に自らを追い込んだのでしょう。
541 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 00:33:28.45 ID:3G4Z9gVT
>>537 横槍19
>距離のいかんに係わらず「重要な軍事目標」という共通項があれば「等」に含めるのは全く
>「自然」でしょう。
では博多の町と水城では、どちらが重要な軍事目標ですか?
博多の町は海の近くにあり、上陸後、すぐに火を放つことが出来ます。
しかし水城は、大宰府に至るまで必ず攻略しなければならない目標です。
どちらが重要な軍事目標かは明白ですよね。
>「元軍が自軍が勝ったと認識したにも「係わらず」早期撤退したことが、短期作戦である
>と判断する理由だ」
金方慶は「?孟明焚船, 淮陰背水也, 請復戰」と言ってますが?
これは、実際に戦場にいた金方慶が言いました。
「元軍が自軍が勝ったと認識した」のなら「請復戰」と言わないと思いますが?
>ベトナムで王都を焼いたことは私が用いる「膺懲」の定義にあてはまります。
王都を焼いたことが「膺懲」の定義にあてはまるという根拠は何ですか?
スレの100辺りにわいたキチガイを適格に射殺しててワロタww
そもそも博多が焼けたという記録は八幡蒙古記以外無いしその形跡も博多から見つかってない件。
544 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 09:54:13.40 ID:abPN046e
>>539 >取りあえず北九州を攻撃すれば目標達成であって、後は冬の日本海で難破しないように
>さっさと撤退するというのが元の行動計画で、文永の役ではそれが達成されたとお考えなのですか?
全くその通りです。欲を言えば「攻撃すれば」を「攻撃して十分な損害を与えれば」にしたいです。
>>540さんもいいことを言ってくれています。
>現実の戦闘とは別に、報告書を読んだ元の役人は「膺懲できた」と考えて
>再び使者を寄越したのかな?(負けたと思っていたら来んわな。)
545 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 09:56:40.25 ID:abPN046e
>>541 >では博多の町と水城では、どちらが重要な軍事目標ですか?
これは博多を「等」に含めることは妥当か?という議論ですから、それぞれに重要であれば
よいのであって、どちらが「より」重要であるかを議論する必要はないでしょう。
>>金方慶は「?孟明焚船, 淮陰背水也, 請復戰」と言ってますが?
岩波のこの部分の訳文は特に問題がないと思われるので、載せておきます。
「我が師少なしと雖も已に敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、淮陰の
背水なり。請う、復た戦わん」
つまり「すでに敵国に入っているから兵士の戦闘意欲は高い。これは焚船や背水の陣の故事に
おいて兵士の戦闘意欲が高かったのと同じ理屈である。戦闘を継続して戦果を拡大すべきである」
と言っているのです。
要するに継戦派と慎重派の論争であり、どこで戦闘を切り上げるかの論争なのです。
決して「負けたから悔しい。リベンジしたいから戦わせてくれ」と言っているのではありません。
まして、「兵士の尻を叩くために船を焼いてしまおう」と言っているのでもありません。
>王都を焼いたことが「膺懲」の定義にあてはまるという根拠は何ですか?
膺懲の定義を読んで下さっていないようなので、もういちど挙げておきましょう。
「私が言う「膺懲」とは、敵国を屈服させることを目的として、敵国の生命財産に故意に
損害を与えることです。」
王都を焼くことがこれにあてはまらないでしょうか?
恐ろしいほど日元間でしかものを見ないスレばかりだなw
南宋を完全無視とは軍板が趣味のカテゴリーにあるのも当然か。
「膺懲」だの「撃退」だの戦前の皇国史観による価値ゼロの議論をいつまで続けるのだ。
おっ、今度は棄民説くんも参戦か?
いやー夏だねえw
「その国の国史にそう書いてある」なんてのは、それが客観的事実であることの証明には一切ならない
が、それ以前にその国が本当にそう認識していたという証明にすらならない。
国史は後で編纂されるものだから敗軍の将の自己正当化の為の出鱈目な報告を真に受けて負け戦を
「勝った」と書く事はありえるだろう。
負けたと判っている戦いでさえ、自国の正当化の為に「勝った」と書くかもしれない。
だが現地レベルで文永の役を「勝った」と認識できる余地などどこにもない。
「高麗史」の記述や大宰府攻略はおろか橋頭堡の維持すら放棄しわずか1日で撤退しているという客観
的事実を見れば明らかだろう。
「元史」に「勝った」と書いてあるからそれが現地軍の認識で、にも係わらず早期撤退したのは短期作戦
であったからだ、とはどういう論理展開だ。
はじめに結論ありきで屁理屈をつけようとするからこういう滅茶苦茶な話になる。
「元史」の元寇についての記述がごく少ない事自体、これが蒙古側にとって触れたくもない戦いであった
事を物語っている。
それ言い出したら「鎌倉側が残した記録は都合の悪い事実を隠しており
貴族や僧侶の残した武士達が敗北したという記録が事実」
とも言えるんじゃなイカ?
550 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 15:21:35.36 ID:abPN046e
>>548 >わずか1日で撤退しているという客観的事実を見れば明らかだろう。
わずか1日で撤退したというのは「客観的事実」として認めるわけか。
「文永十一年・冬の嵐」やウィキは認めていいないが?
>>549 「蒙古側が1日の戦闘で継戦を断念し撤退した」ってのは日本のみならず「高麗史」の記述からも
確認できる客観的事実。
もし日本側の抵抗が脆弱なものであれば勢いに乗って大宰府攻略していただろう。
蒙古側が自分達が「勝った」と認識出来る根拠が皆無である。
>>550 >わずか1日で撤退したというのは「客観的事実」として認めるわけか。
それが現在の定説である。
日本側のみならず「高麗史」の記述でも終日戦い、その夜の軍義で撤退が決まったとしか読み取れ
ないから現時点ではそれに従うのが妥当だろう。
「文永十一年・冬の嵐」はそれに対する異説だが根拠があまりに薄弱に過ぎ到底まともに取り上げる
に値しない。
あとウィキが認めていないなどということは無い。
wikipediaの記述はほぼ定説に従ったもので、それに付け加える形で誰かが「文永十一年・冬の嵐」の
内容を異説として書き込んだに過ぎない。
しかもそれは「『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれが」あるとされ、「信頼可能な解釈、
評価、分析、総合の根拠となる出典を示」せとのタグが貼り付けられている。
553 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 18:39:40.93 ID:3G4Z9gVT
>>545 横槍20
>これは博多を「等」に含めることは妥当か?という議論ですから、それぞれに重要であれば
>よいのであって、どちらが「より」重要であるかを議論する必要はないでしょう。
「重要な軍事目標」と言い出したのはあなたですよ?
また、博多の町は海から大宰府への通過ポイントであり、あくまで目標は大宰府とその周辺の
防衛施設と見るべきです。
>要するに継戦派と慎重派の論争であり、どこで戦闘を切り上げるかの論争なのです。
切り上げるも何も、矢が尽きたのに、どうやって戦うんですか?
翌日には日本軍から一方的に矢戦を仕掛けられ、大打撃を受けることは誰の目にも明らかですが?
それから司令官の忽敦もはっきり自軍を「疲乏之兵」と言っていますね。
「忽敦曰, 兵法, 小敵之堅, 大敵之擒. 策疲乏之兵, 敵日滋之衆, 非完計也, 不若回軍.」
もし忽敦が「我々は目的を達成したから帰還しよう」と言ったのなら、私はあなたの主張に反対しません。
しかし、少なくとも現地で戦った将兵の会話から、日本に勝ったという意識は感じられません。
>王都を焼くことがこれにあてはまらないでしょうか?
私は「元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと膺懲は、誰がどうやって区別するの
ですか?」と聞きました。
あなたは「区別する必要はありません。文永の役は元軍が自軍が勝った(戦敗之)と認識した戦闘
だったからです。」と答えました。
私は「では、ベトナムの場合は?元史に戦敗之と書かれているんですか?」と聞きました。
あなたは「ベトナムで王都を焼いたことは私が用いる「膺懲」の定義にあてはまります。」と答えました。
つまり、あなたが決めた「膺懲」の定義に当てはまる戦いは、「膺懲」になるということですか?
では、最初の質問に戻ります。
元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと、膺懲の違いは何ですか?
554 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 18:41:58.76 ID:9+966Smz
>>552 >日本側のみならず
その日本側の記述というのは八幡ノ蒙古記/八幡愚童記しかない。
元軍の当夜撤退に関しては八幡ノ蒙古記を信じるわけか?
>現時点ではそれに従うのが妥当だろう。
その程度なら「客観的事実」は言い過ぎだろう。
555 :
名無し三等兵:2012/07/23(月) 21:06:18.48 ID:9+966Smz
>>553 >「重要な軍事目標」と言い出したのはあなたですよ
博多は民間施設であって防衛施設ではないから軍事目標ではない、と言いたいのかも
知れないが、軍隊の任務として民間施設を破壊するのであれば、その民間施設は軍事
目標と言えるでしょう。
また、博多と隣接する(約1km)箱崎にある箱崎神宮は幕府の守護神です。これを破壊
することは精神的打撃を与えることになります。
>切り上げるも何も、矢が尽きたのに、どうやって戦うんですか?
元史には言い訳が多いから、矢が尽きたというのを無条件に信じるわけではありませんが、
軍需物資の補給状況は、戦闘切り上げを決断する上での大きな要素でしょうね。
>もし忽敦が「我々は目的を達成したから帰還しよう」と言ったのなら、私はあなたの
>主張に反対しません。
その言葉は忽敦の意図をよく表していると思いますよ。
>少なくとも現地で戦った将兵の会話から、日本に勝ったという意識は感じられません。
意識はさておき、少なくとも暗夜の水際撤退という危険な行動を、日本軍に邪魔されない
程度には日本軍を痛めつけた、ということは言えるでしょうね。実際に成功したのですから。
>あなたが決めた「膺懲」の定義に当てはまる戦いは、「膺懲」になるということですか?
その通りです。ですから私が示した定義が妥当かどうかを議論すればよいのではありませんか?
>>554 >元軍の当夜撤退に関しては八幡ノ蒙古記を信じるわけか?
少なくとも「高麗史」の記述によってウラが取れている内容である。
事実かどうかを判断する大きな決め手は別の証拠によってそれが裏付けられるかどうかである。
しかもこれは高麗と言う敵対する相手方の資料による裏付けであり信憑性は非常に高い。
八幡ノ蒙古記/八幡愚童記は確かに資料的信憑性は低かろう。
神がかり的な記載は現在では信ずるに値しないだろうし、その他の記載内容の詳細にも疑問点
はあろうが全てが嘘を書いているわけではあるまい。
「文永十一年・冬の嵐」でも全てが嘘であるとはしていない。
そもそも「来襲した大量の元軍が翌朝には悉く消えていた」などという事実があれば、それは当時
の人間にとって不思議な出来事として記憶に残るだろう。
そしてこの手の伝承と言うものの多くは、それを合理化するために作られるものである。
>その程度なら「客観的事実」は言い過ぎだろう。
今書いたように「敵対する相手側によって裏が取れている」という事実は非常に大きい。
更にもうひとつ決定的な事がある。
もし2日目以降の戦闘が有ったのなら必ず存在するであろうその戦闘記録がどこにも存在しないの
は何故だ ?
日本はおろか元軍側にも存在しない。
ある事実が有ったのならば必ず存在するであろうものが存在しないなら、それはその事実そのもの
が無かったという有力な証拠だろう。
2日目以降の戦闘記録が無いのなら、それは初めから2日目以降の戦闘など無かったのだと考える
のが一番理に適っている。
通説・定説に対して異説を述べる場合、異説を述べる側に立証責任がある。
この場合、2日目以降の戦闘記録を探し出してそれを提示すればよい。
話はそれからだ。
>>555 暗夜の水際撤退を妨害するのは、中世の兵士ではかなり困難でしょうね。
危険というのは主に自滅する危険で、撤退中に襲撃を受ける危険は通常は少ないです。
日本人はびっくりするほど夜襲大好き民族ですから、危険=夜襲を喰らう危険と考えるのも
判りますが、いくら鎌倉武士でも毎回夜襲するわけじゃないでしょう。
558 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 00:05:42.83 ID:3G4Z9gVT
>>553 横槍21
>博多は民間施設であって防衛施設ではないから軍事目標ではない、と言いたいのかも
>知れないが、軍隊の任務として民間施設を破壊するのであれば、その民間施設は軍事
>目標と言えるでしょう。
私のコメントをよく読んでください。
「博多の町は海から大宰府への通過ポイントであり」と書きました。
あなたが以前書いた例で例えると「江戸を攻めたいと思う人が適当な上陸地を問い、
それに対して木更津海岸」と答えたとしましょう。
では千葉や船橋は何ですか?
目標ではなく通過ポイントですよね?
>また、博多と隣接する(約1km)箱崎にある箱崎神宮は幕府の守護神です。これを破壊
>することは精神的打撃を与えることになります。
元軍が箱崎神宮の存在意義を知っていたというのですか?
根拠は何ですか?
>元史には言い訳が多いから、矢が尽きたというのを無条件に信じるわけではありませんが、
>軍需物資の補給状況は、戦闘切り上げを決断する上での大きな要素でしょうね。
あなたは『元軍が自軍が勝ったと認識したにも「係わらず」早期撤退したことが、短期作戦
であると判断する理由だ』と言ったんですよ。
軍需物資が不足して戦えないから夜陰に紛れて撤退したのを「勝ったと認識した」と言うん
ですか?
559 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 00:06:48.85 ID:mv13qyZq
>>553 横槍22
>その言葉は忽敦の意図をよく表していると思いますよ。
彼の発言のどこが「意図をよく表している」のかを教えて下さい。
>意識はさておき、少なくとも暗夜の水際撤退という危険な行動を、日本軍に邪魔されない
>程度には日本軍を痛めつけた、ということは言えるでしょうね。実際に成功したのですから。
日本軍の兵力が元軍に勝っていれば、夜襲という選択肢もあったでしょう。
しかし、少なくとも開戦時は元軍の方が兵数は勝っていました。
ですから日本軍は、夜襲をかけて返り討ちに遭うリスクを避け、援軍を待ったと考えるべきで
しょうね。
>その通りです。ですから私が示した定義が妥当かどうかを議論すればよいのではありませんか?
私はあなたが「膺懲」を、どのように定義したかに興味はありません。
私は「元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと、膺懲の違いは何ですか?」と尋ね
ました。
答えて下さい。
もし元軍の意図が
「何でも良いから九州を攻撃してすぐに帰ることで日本を威嚇。冬の嵐が怖いからすぐ帰らないと」
等という訳のわからない物だとしたら、侵攻時期の決定が致命的に矛盾しませんか?
冬の日本海が怖いという知識があったら、現代の暦で11月下旬に九州上陸なんてふざけた日程は即却下でしょう。
逆に冬の日本海は怖いという知識がなかったら、怖いから短期で帰るという発想がそもそも発生しません。
561 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 00:20:33.18 ID:mv13qyZq
>あなたは『元軍が自軍が勝ったと認識したにも「係わらず」早期撤退したことが、短期作戦
>であると判断する理由だ』と言ったんですよ。
>軍需物資が不足して戦えないから夜陰に紛れて撤退したのを「勝ったと認識した」と言うん
横レスだが、戦争ではなく戦闘単位なら勝ちは勝ちでいいんじゃね
持ち込んだ全部の矢をつぎ込んでなんとか撃退して継続戦闘能力失ったとかでもとりあえずその場は勝ちってことで
563 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 10:46:44.06 ID:rA0yGRHK
>>558 >目標ではなく通過ポイントですよね?
第一に、軍事目標と通過ポイントは両立するでしょう。目標Aを攻撃して占領し、これを
「通過ポイント」として次に目標Bを攻撃することは、よくあることです。
第二に、博多は「通過ポイント」でもありません。八幡ノ蒙古記が述べるように、元軍が
今津、早良に上陸して赤坂山を取ったならば、元軍は博多をバイパスしてまっすぐ大宰府へ
行けます。元軍が博多を取ったとすれば、この線から分岐して陸路で行ったか、あるいは
別に箱崎に上陸したか、どちらかです。博多と大宰府は、あくまでそれぞれの目標だった
のです。
>元軍が箱崎神宮の存在意義を知っていたというのですか?
書き忘れましたが、箱崎神宮には日本軍の司令部が置かれていたし、博多には日本軍の
主力が集結していました。元軍もそれぐらいの情報は持っていたでしょう。博多と箱崎は
せまい意味での軍事目標でもあったのです。
>軍需物資が不足して戦えないから夜陰に紛れて撤退したのを「勝ったと認識した」と言う
>んですか?
第一戦は勝ったと認識したことと、矢が不足したので第二戦をあきらめて帰ることとは両立する
でしょう。ほんとうに矢が不足したとしての話ですが。
564 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 10:48:43.03 ID:rA0yGRHK
>>559 >彼の発言のどこが「意図をよく表している」のかを教えて下さい。
私はクドゥンの発言とは言っていません。「我々は目標を達成したから帰還しよう」という
あなたの表現が、クドゥンの意図をよく表していると言っているのです。
>しかし、少なくとも開戦時は元軍の方が兵数は勝っていました。
兵数で言うのなら、乗船するにつれて陸上の元軍はどんどん減って行くのです。手柄の欲しい
武士にとってはおあつらえむきの相手でしょう。それでも優しく見守っていたというのなら、
よほど痛めつけられていたのですね。
それとも、そもそも日本軍が元軍撤退の現場にいなかったのか、どちらかでしょう。
>元軍が占領・支配するつもりで攻撃して負けた戦いと、膺懲の違いは何ですか?
私はこの質問の意味が、いくら考えてもわかりません。
>>560 >何でも良いから九州を攻撃してすぐに帰ることで日本を威嚇。冬の嵐が怖いからすぐ帰らないと
それでいいんじゃないですか? 11月下旬にやって来た元軍の意図をよく表していると思います。
565 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 13:16:00.45 ID:rA0yGRHK
>>556 詳しく答えてくれてありがとう。
私はあなたが書いたことに、ほぼ全面的に賛成だ。
私も八幡ノ蒙古記の資料価値を認める。霊験談と記録とは区別して考えるべきだ。
したがって私は、もうひとつの重要な事件である日本軍の水城への撤退も信じる。
蒙古軍の当夜撤退と、日本軍の水城への撤退はワンセットだ。
この二つをワンセットにしてはじめて、戦闘経過が無理なく説明できる。
鎌倉幕府に元軍たいした事無いから逆に攻め込んだ方がよくね?と思わせるとは
素晴らしい威力偵察ですねw
全ては元軍の計画通りであり、作戦目標を達成した元軍の勝利
568 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 16:07:49.13 ID:WZBl4iBd
(´・ω・`)神風がなきゃ元の勝利でも良いけど、残念だが負けだ
博多の町がモンゴリアンチョップで額を割られた武士で溢れ返った
これが史実
570 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 18:07:01.88 ID:mv13qyZq
>>563 横槍23
>第一に、軍事目標と通過ポイントは両立するでしょう。目標Aを攻撃して占領し、これを
>「通過ポイント」として次に目標Bを攻撃することは、よくあることです。
つまり元軍は博多の町を攻撃して占領したということですか?
>第二に、博多は「通過ポイント」でもありません。八幡ノ蒙古記が述べるように、元軍が
>今津、早良に上陸して赤坂山を取ったならば、元軍は博多をバイパスしてまっすぐ大宰府へ
>行けます。元軍が博多を取ったとすれば、この線から分岐して陸路で行ったか、あるいは
>別に箱崎に上陸したか、どちらかです。博多と大宰府は、あくまでそれぞれの目標だった
>のです。
通過していないなら目標ですらないですよね?
また、博多を取ったとすれば、それは何という文献に書かれていますか?
>書き忘れましたが、箱崎神宮には日本軍の司令部が置かれていたし、博多には日本軍の
>主力が集結していました。
ではあなたが言った「精神的打撃」は関係ないですね。
元・高麗軍が武士が信心深い(戦の時だけかもしれないが)ことを知っていたという確証
はないのですから。
>第一戦は勝ったと認識したことと
では元・高麗軍はどの戦いで日本軍に勝ったと認識できるような戦果を上げたんですか?
571 :
名無し三等兵:2012/07/24(火) 18:07:34.48 ID:mv13qyZq
>>564 横槍24
>私はクドゥンの発言とは言っていません。「我々は目標を達成したから帰還しよう」という
>あなたの表現が、クドゥンの意図をよく表していると言っているのです。
クドゥンが「矢が尽きて戦えないから撤退しよう」と思ったか「我々は目標を達成したから
帰還しよう」と思ったか、誰にも判りません。
高麗史を読む限り、撤退理由は「矢が尽きて戦えないから撤退しよう」です。
>兵数で言うのなら、乗船するにつれて陸上の元軍はどんどん減って行くのです。手柄の欲しい
>武士にとってはおあつらえむきの相手でしょう。
元・高麗軍が本当に撤退しているか、それとも陽動作戦(大宰府・水城から兵を移動させる)
なのか後世の人間にしか判りません。
日本軍の目的は、大宰府の防衛なのだから危険な賭けはできません。
>私はこの質問の意味が、いくら考えてもわかりません。
あなたは『ベトナムで王都を焼いたことは私が用いる「膺懲」の定義にあてはまります。』と
言いました。
この作戦で元軍がベトナムを本気で占領・支配する目的で攻撃したが失敗した可能性もあるわ
けです。
しかし、あなたは「膺懲」だと言いました。
ではなぜあなたは元軍の失敗ではなく膺懲だったと判断したのですか?
>>569 赤坂と鳥飼潟が空中元彌チョップで額割られた元軍で溢れかえったが正解
というか、白装束という段階で眉唾。
ウィキペディアとノートの長々したのを読んできたけど、アホかと思った。
>>573 ノート見ると「フビライに侵略の意図は無かった。ソースは杉山(キリッ」
みたいなことを長々と書いてるアホもいるな。
>>562 いや、戦闘単位でも負けだろう。
日が暮れたから双方兵を引いたんで撃退したわけじゃない。
朝になって再度襲来されたら支えきれないと思って夜陰に乗じて逃走するのを「勝ち」と判断できる余地が無い。
これを「勝ち」と言うなど、喧嘩でボコボコにされた奴が「この辺で勘弁氏しといたるわ !」と捨て台詞残して逃走する
ギャグみたいなもんだ。
というか、一日戦っただけで戦闘目的(膺懲でしたっけ?)を達成したというなら
軍議で戦闘継続すべきだという意見は出ないのでは? 目的を達成したら
一刻も早く帰還しなければ渡海不能になってしまうという極めて時間制限の厳しい
作戦なんでしょう?
577 :
531:2012/07/24(火) 21:03:49.36 ID:???
「攻城にあたってはあらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に他都市への見せしめのために略奪された。
特に、降伏勧告のために派遣した使者が殺害されたり包囲中に主要な将軍が戦死した場合など、
報復として降伏した後でも住人が虐殺される例もまま見られた。」
との戦法を踏襲していたならば、一次侵攻に対する元軍の目標は下記だったのではないか?
1. 少なくとも、元軍が強大で降伏しないと酷い目にあうと認識させる。
2. 可能ならば太宰府まで進撃する。更に進めれば尚良い。
博多では短期間の戦闘だったとしても、対馬・壱岐・肥前に対しては
酷い(もんごい?)行為に及んでおり、最低条件は満たしたと考えたのでは?
逆に、日本側がもう少し降伏勧告に応ずると思っていたのに、
軒並み抗戦されたので、矢などが心細くなってしまったのかもしれない。
(無血入城できたらベストと考えていただろうね。)
>>577 降伏勧告⇒この場合は国書ですね
略奪 ⇒対馬壱岐ではあったと見るべきでしょう。博多では返り討ち?
579 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 10:45:58.23 ID:czKQiMdy
>>570 >つまり元軍は博多の町を攻撃して占領したということですか?
その通りですが、次の段で言っているように、大宰府への通過点としてではありません。
私の考えでは元軍はすでに赤坂を押さえているから、通過点としてなら博多を占領する
必要はありません。
また私の考えでは博多を攻撃したのではなく、日本軍が出て行った後に無血占領しました。
>通過していないなら目標ですらないですよね?
意味が分かりません。
>>563の私のコメントで足りていると思います。
>また、博多を取ったとすれば、それは何という文献に書かれていますか?
八幡ノ蒙古記です。
>ではあなたが言った「精神的打撃」は関係ないですね。
元軍もそのくらいのことは知っていたと思いますよ。使者の趙良ヒツはこの地域に
長期滞在していますから、海岸に立つこの目立って大きい建物のことは調べたでしょう。
また中国では膺懲行為として宗教施設、例えば敵の王祖の墓を破壊することがあります。
>では元・高麗軍はどの戦いで日本軍に勝ったと認識できるような戦果を上げたんですか?
高麗史に「倭兵大敗伏屍如麻」と記される戦いです。
これは素直に読めば北九州での戦いです。漢文は文法が簡単だから無理すればどのようにでも
読めますが、書く方では無理して読まれることを期待して書くわけではありません。
結局のところ、漢文は最も素直な読み方が最も真意に近いのです。
また上記の戦闘状況は、日本軍が戦死者の収容ができない状況で戦っているという点において
八幡の蒙古記の戦闘描写と一致します。
580 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 10:48:45.44 ID:czKQiMdy
>>571 >高麗史を読む限り、撤退理由は「矢が尽きて戦えないから撤退しよう」です。
繰り返しになりますが、戦闘に勝利して目的(膺懲)を部分的にでも達成したことと、
次の戦闘のための矢が不足していることとは、その両方が軍撤退の判断要素でしょう。
ただし元史の言う矢の不足を信用したとしてですが。
(蛇足ながら「又矢尽」は高麗史ではなく元史です)
>日本軍の目的は、大宰府の防衛なのだから危険な賭けはできません。
全くその通りです。そしてそのための最も手堅い作戦は全軍が水城に籠もることです。
戦闘終了後も日本軍の主力がこのへんでうろうろしていたら、日本兵が出払って空城に近いと
思われる水城に、元軍が抜け駆けする恐れがあります。
>ではなぜあなたは元軍の失敗ではなく膺懲だったと判断したのですか?
>>503 で私は:
>ベトナムでも毎回、王都を焼いていますね。この部分を取り上げれば膺懲です。
>(作戦ぜんたいとしては直接支配ないし軍政樹立をめざした)
と言っています。
また
>>514 では:
>私が言う「膺懲」とは、敵国を屈服させることを目的として、敵国の生命財産に故意に
>損害を与えることです。
>だから膺懲には敵国を占領・支配することを含みませんが、占領・支配のための作戦と
>並行、あるいはその一部として行うこともできます。
これが答えになっていると思います。
581 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 11:00:24.08 ID:czKQiMdy
>>576 >軍議で戦闘継続すべきだという意見は出ないのでは? 目的を達成したら
>一刻も早く帰還しなければ渡海不能になってしまうという極めて時間制限の厳しい
>作戦なんでしょう?
ライバル洪茶丘を意識した金方慶のパフォーマンスだった可能性もあります。
582 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 11:57:10.07 ID:dw+JSqcK
(´・ω・`)結局、元の出兵の目的はなんだったの
これも分からないのに言い合ってもなぁ
583 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 13:13:05.76 ID:6CjpLI5c
>>579 横槍25
>また私の考えでは博多を攻撃したのではなく、日本軍が出て行った後に無血占領しました。
つまり、あなたは赤坂に陣を張った元・高麗軍を、日本軍が破ったと言う蒙古襲来絵詞では
なく八幡ノ蒙古記や八幡愚童訓が事実だったという前提で主張しているわけですね。
すみません、あれを根拠に議論する人がいるとは思わなかったので。
で、日本軍の代わりに八幡神の化身と思われる白装束30人が元・高麗軍を追い払ったんです
よね?
>意味が分かりません。
>>563の私のコメントで足りていると思います。
要するに、これも八幡ノ蒙古記や八幡愚童訓の説を採って、元・高麗軍が赤坂から大宰府に
向かったことを前提に話している訳ですね?
で、日本軍の代わりに八幡神の化身と思われる白装束30人が元・高麗軍を追い払ったんです
よね?
>元軍もそのくらいのことは知っていたと思いますよ。使者の趙良ヒツはこの地域に
>長期滞在していますから、海岸に立つこの目立って大きい建物のことは調べたでしょう。
これも八幡ノ蒙古記や八幡愚童訓の説を採って、元・高麗軍が赤坂から大宰府に向かったこと
を前提に話している訳ですね?
で、日本軍の代わりに八幡神の化身と思われる白装束30人が元・高麗軍を追い払ったんですよね?
>高麗史に「倭兵大敗伏屍如麻」と記される戦いです。
>これは素直に読めば北九州での戦いです。漢文は文法が簡単だから無理すればどのようにでも
>読めますが、書く方では無理して読まれることを期待して書くわけではありません。
前にも言いましたが、元史、高麗史は九州本土での戦闘を完璧に削除している可能性があります。
「倭兵大敗伏屍如麻」は壱岐島での出来事である可能性はあります。
584 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 13:14:05.54 ID:6CjpLI5c
>>580 横槍26
>繰り返しになりますが、戦闘に勝利して目的(膺懲)を部分的にでも達成したことと、
>次の戦闘のための矢が不足していることとは、その両方が軍撤退の判断要素でしょう。
あなたが文永の役の目的が膺懲であるとした根拠は元史に「入其国敗之」と書かれているから
ですよね?
もし元史の編者が九州の戦闘を削除していたら、「入其国敗之」は壱岐島での出来事ですね。
>全くその通りです。そしてそのための最も手堅い作戦は全軍が水城に籠もることです。
ですから、日本軍が痛めつけられたから元・高麗軍が撤退するのを座視していたというあなたの
主張は正しくありません。
>これが答えになっていると思います。
Aという国がBという国を攻めました。
Bは王都を焼かれました。
さて、Aの目的は膺懲ですか、それともBの占領・支配ですか?
あなたの定義によれば、Aの目的は膺懲ですよね?
つまり、Aの目的が膺懲であれ占領・支配であれ、あなたの定義からは膺懲という答えしか導き出
せません。
それは正しくないでしょ?と言っています。
585 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 13:32:18.34 ID:czKQiMdy
>>580 補足です:
>その両方が軍撤退の判断要素でしょう。
これは判断要素がその二つだけという意味ではありません。
軍司令官にとって撤退という大事を決めるための判断要素は無数にあるでしょう。
前に出た、航海上の季節的な問題もその一つです。
また重要なのは、元軍もまた損害が大きかったことです。
その損害のなかには蒙漢軍トップの劉復亨もいます。劉は三人の副将の一人です
から、元軍にとってはかなりの痛手です。
判断要素は矢の不足たった一つではないし、たった二つでもありません。
586 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 14:08:52.87 ID:czKQiMdy
>>579 >日本軍の代わりに八幡神の化身と思われる白装束30人が元・高麗軍を追い払ったんですよね?
これがあるから八幡ノ蒙古記が信用できないと言って全否定するのは、太平洋戦争の日本軍兵士
の手記に「天佑神助」という言葉があるからその手記全体が信用できないというのと同じです。
中世の文献に霊験談が出てくるのは当たり前です。その数十年後に新田義貞は宝剣を海に投じて
汐を退かせたではありませんか。
八幡ノ蒙古記は、霊験談の部分を取り去って、残った部分を記録として読めばよいのです。
私は八幡ノ蒙古記に関しては、
>>556さんが言っていることに大いに賛同します。
>「倭兵大敗伏屍如麻」は壱岐島での出来事である可能性はあります。
無理して読んだ末にやっと得られる「可能性」に過ぎません。
上陸地点が二つ続いて、それぞれに戦闘記録が附属しているなら、次に出てくる地名は第三の
上陸地点と解釈するのがもっとも自然です。実際、壱岐に二つの上陸地点はありません。
それに壱岐にいた日本兵はたった百人です。それに対する戦闘記録としてあの量はバランスを
失するでしょう。
>ですから、日本軍が痛めつけられたから元・高麗軍が撤退するのを座視していたというあなたの
>主張は正しくありません。
私がいつそんな「主張」をしましたか?
私は八幡ノ蒙古記を信じるから、日本軍は水城に撤退したとしか考えません。
元軍撤退の現場にいないのだから「座視」さえしていないのです。
>>さて、Aの目的は膺懲ですか、それともBの占領・支配ですか?
その両方です。元軍は膺懲には成功したが、占領・支配には失敗したのです。
膺懲と言ってもただ焼けばいいのではありません。そのためには敵の抵抗を排除しなければ
なりません。膺懲もまた軍事行動であるゆえんです。
587 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 15:09:34.23 ID:6CjpLI5c
>>586 横槍27
>中世の文献に霊験談が出てくるのは当たり前です。その数十年後に新田義貞は宝剣を海に投じて
>汐を退かせたではありませんか。
新田義貞の敵を倒したのは、八幡神の化身と思われる白装束30人ではありません。あくまで新田
義貞が戦いました。
しかし八幡ノ蒙古記によれば、日本軍は負けて水城の戻り、結局、元・高麗軍を追い払ったのは
八幡様というストーリーですよね?要するに八幡神社関係のプロパガンダじゃないですか。
また八幡ノ蒙古記は、作者も書かれた場所も特定されていません。
そのような文献の記述を信じるのは危険ですね。
>無理して読んだ末にやっと得られる「可能性」に過ぎません。
では高麗史のこの記述(世家 卷第二十八 忠烈王)を「無理せず」素直に読んだらどういう意味ですか?
以蒙漢軍二萬五千?我軍八千?梢工?引海?水手六千七百?戰艦九百餘艘, 征日本. 至一岐島, ?殺千餘級,
分道以進, 倭却走, 伏屍如麻. 及暮乃解, 會夜大風雨, 戰艦觸巖崖, 多敗, 金?溺死.
>私がいつそんな「主張」をしましたか?
「それでも優しく見守っていたというのなら、よほど痛めつけられていたのですね。」
たしかに断定はしてないか。すみません、こちらのミスです。
>その両方です。元軍は膺懲には成功したが、占領・支配には失敗したのです。
ですから、A国の目的が膺懲ではなく占領・支配だった場合でも、あなたの定義では膺懲になってしまうでしょ?
あなたの定義はA国の目的を勝手に変えるんです。それは間違いでしょ、と言っています。
都合のいいところだけ採用するせいで何故撤退したのかだけでなく、何故博多が焼かれなかったのかも謎になってまいりました
589 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 15:46:45.37 ID:czKQiMdy
>>587 >しかし八幡ノ蒙古記によれば、日本軍は負けて水城の戻り、結局、元・高麗軍を追い払ったのは
>八幡様というストーリーですよね?要するに八幡神社関係のプロパガンダじゃないですか。
だからその八幡様関係の霊験談をぜんぶ取り去って、残りの人間くさい記録だけを読めばいい、と
言っているのです。
鎌倉攻めのストーリーが、宝剣投げの奇跡がなくても成り立つのと同じです。
プロパガンダだからいけないと言うのは、太平洋戦争の兵士の手記に「大東亜共栄圏」と書かれて
いるから手記全体が価値がない、というのと同じです。
八幡ノ蒙古記を信じないのも、結局は「日本軍が負けるはずがない」というナショナリズムから
出たものです。ナショナリズムは真実の探求を曇らせます。
>では高麗史のこの記述(世家 卷第二十八 忠烈王)を「無理せず」素直に読んだらどういう意味ですか?
どうしてこのような、無理な省略でコンテキストが曲げられてしまった文章しか出て来ないのでしょうか?
金方慶伝はあきらめたということですか?
>あなたの定義はA国の目的を勝手に変えるんです。
二つ以上の目的を持って遂行される戦争はザラです。
どうして戦争の目的が一つじゃないといけないのでしょうか?
590 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 15:49:25.58 ID:czKQiMdy
>>589 訂正:
八幡ノ蒙古記を信じないのも → 八幡ノ蒙古記を全否定するのも
148 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2012/07/05(木) 14:06:27.49 ID:???
八幡ノ蒙古記だと、武士団は赤坂→博多筥崎→水城と後退に後退を続けてるが、
竹崎ら武士団の記録では逆に元軍が赤坂→鳥飼潟→百道原→姪浜
と上陸地点に後退していってるのが面白い。
592 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 15:52:45.26 ID:nBbo4oWq
>プロパガンダだからいけないと言うのは、太平洋戦争の兵士の手記に「大東亜共栄圏」と書かれて
>いるから手記全体が価値がない、というのと同じです。
全然違うと思うぞー
593 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 15:56:40.43 ID:czKQiMdy
>>591 八幡ノ蒙古記は日本軍の撤退につながる終盤戦の記録、
武士団の記録は朝方8時ごろから始まった序盤戦の記録、
と考えられる。
両者が同じであるはずがない。
武士は役立たずで八幡の神威も無く何故元軍を撃退できたのか
595 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 16:37:49.78 ID:6CjpLI5c
>>589 横槍28
>だからその八幡様関係の霊験談をぜんぶ取り去って、残りの人間くさい記録だけを読めばいい、と
>言っているのです。
誰がいつ書いたか判らない文献の記録は、例え「人間くさい記録」でも信用するのは危険だと言って
います。
例えば、筆者が京都の八幡神社関係の人で、伝聞を基に京都で書いたのならあまり信用できないです
よね?「読めばいい」のではなく「信用できるか」どうかです。
>八幡ノ蒙古記を全否定するのも 、結局は「日本軍が負けるはずがない」というナショナリズムから
>出たものです
は? 誰がいつ書いたか判らない文献の記録を信用するのは危険だ、と言っていますよね。
なんでナショナリズムが関係してくるか理解できません。
>どうしてこのような、無理な省略でコンテキストが曲げられてしまった文章しか出て来ないのでしょうか?
>金方慶伝はあきらめたということですか?
世家と金方慶伝では、どちらが重要ですか?金方慶伝は悪い言い方をすれば付録です。
世家に1日で起きたように書かれている以上、金方慶伝の記述も1日で起きたと編者が認識していた見
るべきです。前にも言ったように、高麗史の編者は元寇を知らないはずですから。
>二つ以上の目的を持って遂行される戦争はザラです。
私は「A国の目的が膺懲ではなく占領・支配だった場合」と言いましたよね?
A国が、占領・支配という目的しか持っていなかったという設定です。
解りませんか?
596 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 17:48:02.50 ID:fKnRipym
>>「読めばいい」のではなく「信用できるか」どうかです。
八幡ノ蒙古記の信憑性については、私は
>>556さんと全く同意見です。
もうひとつ付け加えれば、八幡宮の宮司たちの避難記がありますが、その生々しさは実経験者で
なければとうてい書けないと思わせるものがあります。また、プロパガンダというのなら、
ご神体が避難所を求めてさすらう情けない姿がなんで八幡宮の宣伝になるのでしょうか?
この部分を信じるだけで、日本軍の箱崎博多放棄という重要事実を信じることになります。
>世家と金方慶伝では、どちらが重要ですか?
戦闘記録については金方慶伝のほうが重要です。なぜなら金方慶伝のほうが現記録に近いと考えられるからです。
逆に国内事情、元との関係については世家にしかない詳しい記録があります。それぞれに重要です。
>高麗史の編者は元寇を知らないはずですから。
それだけに原記録が重要なのです。原記録に近いと推定される記事を重視するということです。
日本書紀の読みかたにも同じようなことがあります。
>解りませんか?
なぜそのような設定をするのかが全くわかりません。
この件については今までの私のコメントで全て足りていると思いますのでこのへんでいいのでは?
597 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 17:51:57.05 ID:fKnRipym
なんでいつもこの調子で自国軍を否定する方向になるのか?と考えると
日本史にはちょいちょいおかしなところがあるという結論になってしまう
敵が来てる以上の情報は無い。この状態で誰がなにをしたかに、さして意味はない。
原発事故で沖縄まで逃亡した奴の記録を後世に読んだら、関東一帯は死体の山になってるんでない?(笑)
>>593 じゃあなんで八幡蒙古記には武士側の記録と一致するはずの序盤戦とやらの記録が無いの?
601 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 19:37:51.24 ID:6CjpLI5c
>>596 横槍29
>また、プロパガンダというのなら、
>ご神体が避難所を求めてさすらう情けない姿がなんで八幡宮の宣伝になるのでしょうか?
だいたいプロパガンダって、嘘だとばれちゃまずいでしょ?リアルにするものでしょ?
>戦闘記録については金方慶伝のほうが重要です。なぜなら金方慶伝のほうが現記録に近いと考えられるからです。
金方慶伝の記録に、「翌日」や「翌朝」のように壱岐島の戦いと九州本土の戦いを分ける単語は無いですよね?
>それだけに原記録が重要なのです。原記録に近いと推定される記事を重視するということです。
原記録とは何でしょうか?
>この件については今までの私のコメントで全て足りていると思いますのでこのへんでいいのでは?
足りてないから質問しているのですか?
私はそんなに難しい質問をしましたか?
602 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 19:48:40.63 ID:fKnRipym
>>600 それは、八幡の蒙古記の作者が、序盤戦についての情報をあまり持っていなかったからだと思う。
しかし記述している戦況とは別に序盤戦があったのだ、ということについてはヒントを残している。
それは竹崎他一名について「舟にかかりしほどはよくふるまいたれど」という言葉だ。
このあとここではおじけづいた、と言う記述が続く。
「舟にかかりしほど」と呼ぶ過去の戦闘局面があり、そこでは竹崎が立派に戦った、と言っている。
蒙古襲来絵詞と一致する。
ここで問題なのは「舟にかかりしほど」とは何か、という問題だ。
反蒙古記派の人はたちまち、文永の役では海上戦闘なんかなかった、それこそ蒙古記が不正確な証拠だと言うだろう。
しかし私は、この言葉で鳥飼潟戦闘を一般的に表したのだと思う。
だれかも言ったように、鳥飼潟戦闘は百道原から姪浜まで発展したのだ。そしてその時点で上陸はまだ続いている。
陸上の状況に慌てた元軍は小舟から援護し、日本軍との間で矢戦があっただろう。
この状況を「舟にかかりしほど」つまり「舟と戦闘した時期」と表したのだと思う。
簡単に言えば「水際戦闘のときには」ということだ。
八幡ノ蒙古記の作者は、水際戦闘があり、その時期に竹崎らが活躍したことは聞いていたが、それ以上の情報を
集めることが出来なかった。だからごく簡略に書いた。
あるいはご神体避難をもたらした博多箱崎放棄に関連する終盤戦だけが関心の対象であったから、それに重点を
置いて書いた。そういうことだと思う。
603 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 20:02:34.98 ID:fKnRipym
>>601 >原記録とは何でしょうか?
金方慶家の家伝のようなものだと思います。
編者は資料を集めるにあたって、列伝についてはそのようなものを提出させたでしょう。
そのなかで金方慶家の家伝は名文で詳しかったので、いろんなところで引用されたが、字数の制限か
なにかでめちゃくちゃに短縮された。
列伝のほうはさすがにあまり短縮するのははばかられたので、家伝に近いものが残った。
ということだと思います。見て来たような話ですが。
605 :
名無し三等兵:2012/07/25(水) 20:27:04.34 ID:6CjpLI5c
>>603 横槍30
あなたが私の質問を無視したので、もうあなたと議論するのは止めます。
ひとつ良いことを教えましょう。
私はYoutubeに「孤立した朝鮮史」というビデオをアップしています。
私がここに来たのは「孤立した朝鮮史2」を作る資料を集めるためです。
当然、元寇がテーマです。
あなたはここで不毛な議論でもしてて下さいな。
じゃーね。
もの凄く単純に考えると
1 元は4万の兵を送り込めば、日本を余裕で征服できると思っていた
2 実際、対馬・壱岐では問題なく勝てた(兵力差400倍あれば、高麗兵でも鎌倉武士に勝てるのだろう)
3 しかし、九州に上陸した時点で元の快進撃は止まり、一日で上陸部隊は壊滅。副司令官負傷?
上陸部隊を殲滅した日本軍が、元の軍船に攻撃を仕掛ける(船に掛かる)という惨状まで追い詰められる。
4 日本側の射程外まで退避した船の中でその夜、軍議が開かれた。総司令官は日本には勝てないことを認めて
金方慶の主戦論を排し、危険を冒して夜間逃亡を試みた(朝を待って日本軍の攻撃をもう一度受けるより
事故続出の方がまだ被害は少ないと判断したのだろう)
5 逃亡には成功したが、帰路で嵐に遭って大被害を受けた。
という流れなんじゃないか?
>>602 だからその竹崎の記録ではなんで「船からの援軍」とやらと戦闘した記述が無いんだっていう。
一日で逃げ出すという英断が、元高麗連合軍を壊滅から救った。
もしあと一日戦っていたら、つまり日本側が連合軍の停泊地を日中確認し
小舟の確保を済ませたら、翌晩からは夜襲の嵐で逃亡すらできなかっただろう。
>>606 >一日で上陸部隊は壊滅
「壊滅」したかどうかまではわからない。
多分「壊滅」というまでの打撃は受けていなかったと思われる。
>日本側の射程外まで退避した船の中でその夜、軍議が開かれた。
軍議が開かれたのがどこかは不明。
おそらく野営地もしくは湾内に停泊した船内であろうと思われる。
船に乗って退避したならその時点で既に撤退行動に入っている事になる。
それ以外はそのとおりだろう。
双方の記録と客観的事実に基づけばそういう結論しか出てこない。
>>609 即逃げるという所まで追い詰められていたなら、幹部は乗船している
そして少なくとも幹部の船は沿岸からの射撃を受けない距離まで
沖に出ていた可能性が大きいと思います。
…弘安のことを思うと、そのくらいしないと即日夜襲が飛んできますし。
611 :
名無し三等兵:2012/07/26(木) 10:02:38.73 ID:Aj6FxzFq
>>607 >だからその竹崎の記録ではなんで「船からの援軍」とやらと戦闘した記述が無いんだっていう。
菊池は赤坂の敵を追い落として、博多に戻った。
竹崎は退却する敵を鳥飼潟で追い、目標変更して祖原山を攻めた。白石がそれに続いた。
都甲、日田らは鳥飼潟の敵を百道原→姪浜の方向に追撃した。
上記竹崎の戦闘以降が一連の戦闘と見なされるのだと思う。
なぜなら実際はその前に菊池がいるにも係わらず竹崎が先陣として重んじられるからだ。
そしてその一連の戦闘のなかで、都甲、日田らは海岸で戦っているから船との間の矢戦が
あったと考えられる。つまり「船にかかった」。
そして八幡ノ蒙古記の作者は上記、竹崎の鳥飼潟突撃にはじまる一連の戦闘の時期を
「船にかかりしほど」という言葉でくくった。
「上陸用舟艇との交戦があった、あの時期」という意味だ。
「ほど」とは「時期」の意味だ。「ほな、のちほど」と言われる「ほど」だ。
ほな、のちほど。
>>606 壊滅したかまでは分からない
ただ矢のストックが尽きた(予想外に武士団の防衛線が厚かった)と見るべき
「矢が尽きた」は敗北の言い訳じゃないかと思うけど、本当に矢が尽きたとしたら
新たな疑問が生じる。
ガチで日本侵略する気=春まで戦い続けるつもりで準備した矢が、どれほど激戦したとしても
一日で尽きるだろうか? 極めて大雑把に模式化すれば、
矢の消費量=弓兵の数×戦闘時間あたりの発射数×戦闘時間
な訳で、一日に撃てる矢の数は、敵がどれほど多かろうと強かろうと、味方の射撃能力以上にはならない。
にも関わらず数ヶ月分は準備せねばならない矢が一日で尽きたということは
A 大量に用意していたのは鏃だけで、矢柄は現地調達するつもりであまりストックがなかった。
B 輜重を日本軍に奪われるなど、不測の事態で大量の矢が「使用した」以外の原因で失われた。
あたりの事態がないと考えにくくないか?
Aが妥当だな
正直日本を舐め腐ってたんだろ
北九州という古代から人口密度の高い地域に攻め入った元の戦略ミスも大きい
C 弓兵が少なかった
というのはどうだろう? 槍歩兵か何かで十分だと思って準備したけど
日本側はとんでもない量の弓兵を並べてきた。
これじゃ無理だ、編成を変えて出直そうと。
海を渡っての作戦でそんな楽観的に部隊を組織しない
陸戦以上に補給を受けられないんだから持てるだけの物資を持ち込むはず。
矢も鏃と矢柄を別にして準備するよりは矢として完成した状態を運用したほうが咄嗟の場合にもすぐさま使用できる。
Bの物資を敗走時に失うってのがまだあるんじゃないかな?
もしくは逆に、弓兵の損害が多すぎて矢はあれども射手が不足して戦いにならないってパターンかも
逆に何で日本側がここまで強かったのかが分からんな
高い人口密度と軍事政権ってのはあるだろうが対外戦争をバリバリやってた訳でも無いし
時折内戦をやってる程度なのに
>>618 一応対外戦争ではあったが、戦場が国内だったから国内戦のノウハウがそのまま使えたんでね?
モンゴルは安価で大量の底質な兵士を掻き集める国が相手なら強いけど
荘園制の軍隊で重装な鎧に弓馬を扱う高価な兵士のいる国では違った
ハンガリーに攻め込んだ時も同様の事態(矢が尽きる)が発生したんじゃないかと
元寇というと、元が持ち込んできた日本にない兵器や戦術が、という話に終始するけど
元から見た日本兵もまた「未知の敵」だったんじゃないか?
だって「重装甲弓騎兵」だぜ。異常に大型の弓とバカみたいに長い矢を使って、滅茶苦茶な
精度で射撃してくる。機動力と防御力は重騎兵、射程は弓兵だ。
軽装甲じゃ簡単にぶち抜かれるし、元に重装弓兵はいないから撃ち合いでは不利だ
しかも日本側は盾と一体化した鎧を着ているから、「盾を構えながら弓を引ける」。モンゴル軽装弓兵から見たら
「そんなのありか?」状態だろう。
622 :
531:2012/07/26(木) 21:30:01.64 ID:???
>613
だから、博多周辺での戦闘は短時間だったかもしれないが、それ以前に
対馬・壱岐・肥前で矢を消費している筈。
また、日本側の一部勢力は降伏に応ずると考えていたかもしれない。
軒並み徹底抗戦される事が想定外だったのではないか?
(降伏すると考える事自体が日本を舐めている、とも言える。)
日本に壊滅的打撃を受けたと元側の認識してたら、その後に使者を送ったりしない。
>>622 なるほど。一日じゃなく数日は戦っているはずと。
でも…日本を征服する≒鎌倉まで攻め上るつもりの軍が
その程度で力尽きてどうするんだと、元軍司令部に問い質したいところですな。
>>621 確かに弓騎兵は世界中に居るが騎射戦用に開発された鎧を纏う重装弓騎兵となると日本ぐらいだな
元軍の常勝戦術がこの重装弓騎兵に対して相性最悪だったってのが大きいのかな
狩猟民族である蝦夷との長い戦いの中で蝦夷の弓騎兵に対抗する形で作られた大鎧が
同じく弓騎兵が強みである元軍相手に威力を発揮したって感じなのかな
文永の役のあと対元で日本刀がお手軽切れ味増強の薄い作りに変化してるところからしても鎧の差はありそうだな
矢が早々に尽きるほどバカスカ撃たされたのも相手が硬いせいならわかりやすい
>>620 ハンガリーは蹂躙されてる。
ていうか当時のハンガリーは軽装弓騎兵メインのはずだから
ある意味モンゴルにとっては最もやりやすい相手
元の短弓も連射力、取り扱いには優れてるが威力が無いからな
毒矢で威力を補うようにしてるがそもそも鎧を貫通出来ないと意味無いし
>>626 すぐ退いたのはリーグニッツの戦いだったね
リーグニッツはポーランドだよ。
ハンガリーはモヒの戦い
≫625
鎧の隙間に当てるのに5本位の矢を消費するとして
内陸を占領するのに最低でも5万本は用意しないと厳しいだろうな
しかも致命傷与えられないと回復したら戦線に復帰してくる
>>630 で、致命傷を与えるまで武士の方も打ち返してくるし、切り込んでも来ると
そう考えると武士が圧勝したのも納得出来るか
ガラパゴス化した未知の戦術の前に元軍が敗北
律令軍が弓騎兵に苦戦して
対抗兵種として生まれたのが武士
>>623 まあ、日本の懐の広さと峻険な土地柄について
当時の(日本人も含めて)人々がどの程度正確に認識してたか、ってのはあるだろうけどな。
その点は、当時の技術の限界ということで、割り引いて考えてやりたい。
肥前の戦闘経過は知らないが、対馬・壱岐では日本側戦力は
元の100分の1以下じゃなかったか?それで消耗するかな?
数年前に東南アジアの人だったと思うが日本は島国だからすぐ見つかるだろうと
生き別れた親戚にノープランで探しに行ったら中々見つからずビザも金も切れて途方に暮れてた所を保護されたって話があったな
文永の役の時点で一国を滅ぼすには十分な軍勢だし
島国というイメージから日本の国土がそこまで広いとは思って無かった可能性はあるね
商人とかから最低限の情報収集をすれば
「博多から鎌倉まで?千キロくらいありますよ。街道は未整備で山地ばかりです」
「兵力? あいつら内戦で万単位の兵をぶつけ合ってます。その多くが侍と呼ばれる職業兵士で
バカみたいに長い弓とゴツイ鎧を着込んで馬に乗るという器用な戦い方を」
位は事前にわからないだろうか? これだけの情報があれば、4万派兵は死にに行くような物だと
判断できそうなものだが。
日本兵はとてつもなく弱兵だと思ってたのか?
4万で九州ぐらいは占領できると思ってたのかも知れん
少なくとも北九州沿岸を制圧すれば、対馬海峡のシーレーンを確保してピストン輸送でもっと増援を遅れるだろうし
ワールシュタットの戦いですらモンゴル軍は2万ぐらいだぞ
水夫も含まれているとはいえ4万って数は十分多いよ
文永の役の14万ってのは空前絶後の数
遊牧民族である彼らにとって、日本の人口密度の高さや交通の不便さや、渡海侵攻の困難さが感覚として全然理解できなかったんじゃないだろうか
マジで日本征服したいなら、どのくらいの戦力が必要だろう?
数年で全土征服を狙うなら、50万とかの馬鹿げた数の兵と
それを迅速に上陸させる手段が必要になって「これは無理」という
結論になっちゃいそうだが。
>>641 現地人使わないと到底無理だな
どうにか九州だけ占領して、九州民を懐柔してモンゴル軍に組み込むとか
東北から攻めて蝦夷を仲間に引き入れつつ南下でどうだろう
少なくとも完全に鎌倉幕府の勢力化にある北九州を攻めるよりはマシじゃないかと
クリスマスまでに東北を制圧しないと凍え死ぬことになるぞ
なんか、別の意味で棄民説を笑えなくなってきたな。
これだけの死地に放り込むなんて、自国の兵を殺したくして
仕方ないとしか見えない。
冷静に考えると元側に勝ち筋が無いな・・・
なぜか八幡愚童訓の記述ばかり流布される状況。
蒙古襲来絵詞と比べて全く異なる内容なんだけど
戦闘に参加した軍人より風聞で書いた僧坊が信用されるのか
しかも武士数百騎が敗退した一方で氏子?が30人で撃退したとかいい加減なこと書いてるのにだ!!
>>643 アイヌ攻めは元に朝貢してたギリヤークから救援求められて
援軍出した形だから対日本侵攻とはあんま関係無いんだよなあ。
>>647 福島原発問題に置き換えると
武士達の各種記録→政府の公式発表
八幡蒙古記や京都の貴族の記録→反原発団体関係者の拡散ツイートやブログ
どちらを信じるかはあなた次第です。
蒙古襲来絵詞は中世の絵巻にしては敵味方の模写が非常に精巧だよね
古今東西を眺めてもここまで活写してるのはないんじゃないの
軍事で飯が食える人々と戦うには
遊牧民は弱い
651 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 09:24:15.73 ID:DGbk7TcA
>>647 >なぜか八幡愚童訓の記述ばかり流布される状況。
>蒙古襲来絵詞と比べて全く異なる内容なんだけど
蒙古襲来絵詞は朝方の序盤戦、八幡ノ蒙古記は夕方の終盤戦、
「全く異なって」当然。
>>651 「夕方の終盤戦」なんて蒙古襲来絵詞には一切書かれていない時点でお察しください
>>651 劉復亨が狙撃されたのは鳥飼潟の戦いの後だよね?
八幡ノ蒙古記にも赤坂〜鳥飼潟、狙撃までの
同じ戦いと思われる記述があるけど内容が全く違わないか?
結局夕刻に30人で射掛けて退散したことを強調したいんじゃないのと
>>653 どちらかと言うと「夕刻の終盤戦」の実在を疑ってしまうよね
その頃は船に戻って軍議を開いてたんだろうし
元高麗側にも火矢を射掛けられたとは書かれてない
656 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 13:57:03.02 ID:DGbk7TcA
>>651 「夕方の終盤戦」なんて蒙古襲来絵詞には一切書かれていない時点でお察しください
朝方一回だけ突撃して負傷退場するまでの個人の手記に、夕方の戦況が書かれているはずが
ない。
>>654 >劉復亨が狙撃されたのは鳥飼潟の戦いの後だよね?
最近、劉復亨が百道原で負傷したとする説が流行っているが、その根拠はたぶん、「武藤系図」
の少貳景資の伝だろう。
「弘安蒙古出来時、蒙古大将於百道原射留ラル」
これは弘安の役のことと書いてあるのが弱点だ。
ところがここに援軍があらわれた。「新元史」だ。
「戦于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本将三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還。」
劉が百道原で戦って三郎景資に射られて落馬したと書いてある。日本の百道原説者が泣いて
喜ぶ内容だから、さかんに引用される。
では新元史とは何か。なんとこれは1920年代に中華民国の人が編纂したものだ。そんなものは
武藤系図などの日本の資料を参考にしたに決まっている。
劉復亨百道原負傷説は、相互引用によってできあがった説である可能性が高い。
>>655 >その頃は船に戻って軍議を開いてたんだろうし
日本軍は水城に引き揚げてしまった後だから、わざわざ窮屈な船に戻る必要もない。
博多の海岸か、それとも赤坂山頂で(赤坂には迎賓館などの建物があった)悠々と開いただろうね。
657 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 13:59:07.29 ID:DGbk7TcA
>>656 実際に負傷したのかはどっちでもいいけど
蒙古襲来絵詞には百道原で狙撃した事は書かれてないね
鳥飼潟の戦いのあと姪浜まで追撃したとしか書いてない
八幡ノ蒙古記と少貳武藤系図には流将と書いてるから百道原で射たのが劉復亨とは限らんわけだ
仮に百道原で狙撃した事自体が嘘だとすると
八幡ノ蒙古記より蒙古襲来絵詞の方が資料性が高いと証明されてしまう
>>656 八幡ノ蒙古記によれば「夕方の終盤戦」には竹崎も参戦して「散々に戦」ってるんでしょ?
それが本当なら蒙古襲来絵詞に描かれていないはずないじゃん
それどころかその他の当事者(武士)の書状からもそんな戦闘は一切確認できないし
「夕方の終盤戦」なんて宗教書の創作部分だと考えた方がよっぽど自然だと思うけどなあ
そもそも火矢を射掛けられて尻尾巻いて逃げたんなら
相当の混乱が予想されるが元高麗側にその記述はないし
翌朝になると忽然と博多湾から消えていたわけだよ。
4万の軍勢を夜間戦闘時間を差し引いた数時間で赤坂から港まで撤収させ出港したというのは物理的に無理がある。
姪浜まで追い詰められ這々の体で停泊した船に乗り込みそこで夜まで待機していたとする方が筋が通る。
661 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 15:56:31.05 ID:DGbk7TcA
>>658 >鳥飼潟の戦いのあと姪浜まで追撃したとしか書いてない
姪浜ではなく祖原山ね。また竹崎は鳥飼潟は通過しただけ。後の人が鳥飼潟〜姪浜で戦った。
>八幡ノ蒙古記と少貳武藤系図には流将と書いてるから百道原で射たのが劉復亨とは限らんわけだ
八幡ノ蒙古記は流将公、武藤系図は大将ね。どちらも劉復亨と限らないのはその通り。
>八幡ノ蒙古記より蒙古襲来絵詞の方が資料性が高いと証明されてしまう
上にも言ったが、蒙古襲来絵詞は限られた時期および地域での個人の手記であり、八幡ノ蒙古記
は終盤戦に重点を置きながらも一日の経過に目をくばって書かれた記録なのだから、比較すること
はできない。
少なくとも二者択一の問題ではない。
662 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 15:57:14.17 ID:DGbk7TcA
>>659 >八幡ノ蒙古記によれば「夕方の終盤戦」には竹崎も参戦して「散々に戦」ってるんでしょ?
>それが本当なら蒙古襲来絵詞に描かれていないはずないじゃん
細かい間違いはあり得る。また、竹崎勢5名のうち負傷したのは2名だから、残りの3名が
竹崎勢として終盤戦で戦ったと見ることもできる。リーダー格の武士個人の名前しか書かれて
いないのだから、それは勢(一族集団)を代表していると見られる。
>それどころかその他の当事者(武士)の書状からもそんな戦闘は一切確認できないし
全ての戦闘について「当事者の書状」が残ったという保証はどこにもない。
>「夕方の終盤戦」なんて宗教書の創作部分だと考えた方がよっぽど自然だと思うけどなあ
金方慶伝に、「及暮乃解」と書かれている以上、「夕方の終盤戦」は必ずあったのだ。
日本側の記録が、八幡の蒙古記を除いて欠落しているだけだ。
663 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 16:01:17.48 ID:DGbk7TcA
>>660 >そもそも火矢を射掛けられて尻尾巻いて逃げたんなら相当の混乱が予想されるが元高麗側に
>その記述はないし
劉復亨当流矢先登船、遂引兵還。
流れ矢に当たった劉復亨が先に船に乗った、最終的に兵を引き揚げて帰還した、という
高麗史の記述はむしろ整然とした撤退を思わせる。もちろん、日本軍は水城だから乗船の
妨害はしていない。
>4万の軍勢を夜間戦闘時間を差し引いた数時間で赤坂から港まで撤収させ出港したというのは
>物理的に無理がある。
赤坂から博多へ行こうが、百道原へ行こうが、せいぜい2kmだ。敵さえいなければ当時の人
にとってなんでもない。
一晩での乗船・出航は確かに信じられないが、よほどよく訓練された水陸両用部隊だったと
考えるしかないね。
>>663 >一晩での乗船・出航は確かに信じられないが
そもそも4万全部は上陸できてないってことかもな。
揚陸拠点を確保するために先遣を送る→激戦。安定した橋頭堡作れず→
そうこうしてる間に揚陸できた矢は使い切るわ副指令は負傷するわでてんやわんや
やむなく先遣を回収して撤収。4万のうち大半は船上待機。
とか
しひゃく〜よしゅうをこ〜ぞる
じゅうま〜んよきのてき〜
八幡愚童訓って作者不明で元寇から27年後に書かれてるんだろ。
しかも夜間に赤坂まで及ぶような大規模な戦があったなら
竹崎が全く触れてないのはおかしいと思うがな。
第一元軍にしても主戦派の金方慶が記録するだろ
そんな戦果があったら軍議で忽敦と洪茶丘に主戦論を諌められたりしねぇよ。
それとも日元高麗の三国の武将が口裏合わせて隠蔽したとでも言うのか?
八幡愚童訓も夜間に大きな戦があったとは書いてないしな
夕刻に火矢を射掛けたというだけ。
どうも ID:DGbk7TcAの都合のいい架空戦記の域を出てないなぁ
>>648ではないが
常識的に判断すれば当時の京都の公家や寺社勢力が
鎌倉幕府を牽制するための政治的プロパガンダだと思うんだが。
蒙古襲来絵詞なんて出鱈目だと
武士団なんて全然活躍できてない俺達の神秘的な力で元軍を押し返したんだと神風だと。
蒙古襲来絵詞に至っては少なくとも1316年以降の成立が確実視されてるがな
668 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 20:13:35.98 ID:UAHEXIrX
(´・ω・`)そりゃ四万人が上陸する訳ないでしょ、四万は動員数で皆が兵士じゃないんだから
金方慶も日が暮れて帰陣したと書いてるけど
そこんとこどうなん
竹崎と金方慶の記録を繋ぐと元軍が初戦で快進撃を続け赤坂まで占領した
しかし次第に元軍も疲弊して竹崎以下九州の御家人が沿岸まで押し返した
と見るのが普通じゃね?
>>663 4万を夜間船に戻すのは容易ではない。
でも撤退できたと言うことは、回収すべき4万の大半が死体になっていたのでは?
671 :
名無し三等兵 :2012/07/27(金) 21:42:17.85 ID:???
ところで当時の日本軍兵数の記述「○○騎」は本来の意味(=純粋に騎馬武者
のみの数)に捉えていいんだよね?
だとすると例えば対馬の兵力80騎は、徒歩の郎党・従者が1騎あたり3人
ついたとして300以上の兵力にはなる。
戦国期になると通例的に「○○騎」とは言っていても実際は雑兵含む全数
を指すようになってるからややこしい。
4万は水夫の数も含まれてる
1〜2万人は水夫じゃね?
撤退直前に夜戦をしたなんて記録日本にも元にも無いのに
674 :
名無し三等兵:2012/07/27(金) 22:38:33.50 ID:DGbk7TcA
>>666 >八幡愚童訓って作者不明で元寇から27年後に書かれてるんだろ。
終戦後27年後の昭和47年に書かれた太平洋戦争の戦記は信用できないか?
まだまだ記憶は生々しいし、関係者が生きているから嘘は書けないだろう。
>しかも夜間に赤坂まで及ぶような大規模な戦があったなら
なんで夜間のことを考えるのか? 高麗史によれば「諸軍与戦及暮乃解」で日が暮れるまで
戦って自然休戦したと言っているが、日が暮れるとは冬のことだから午後5時ぐらいじゃないか?
>八幡愚童訓も夜間に大きな戦があったとは書いてないしな
八幡ノ蒙古記は次のように記述する。
「軍(いくさ)、辰刻(午前8時ごろ)より、始りまりしが、日も暮れ方になりしかば、
あなたこなたにさヽやき事こそ多くなりにけれ、何事にかあらんと怪しみしに、しよせん
武力及ばず、水木城に引こもり、支えて見んと、逃げ支度をこそ構えたりけれ」
別に夜間ではなく、「日も暮れ方」までだ。その後は日本軍が水城に引き揚げ、
それを元軍も追わず、自然休戦になった。
元軍も追わずと言ったが、例外が劉復亨ひきいる小部隊による追跡だ。
>竹崎が全く触れてないのはおかしいと思うがな。
竹崎季長は誠実な人と見えて、自分が実際に係わった範囲しか書いてない。だから自分が
負傷退場すれば戦闘記録もそこで終わるのだ。また全体的な戦闘経過も対象外だ。
>>662 >金方慶伝に、「及暮乃解」と書かれている以上、「夕方の終盤戦」は必ずあったのだ。
いやそういう意味じゃなくて、八幡ノ蒙古記にあるような大規模な戦闘は創作じゃないかということ
鳥飼潟以降に戦闘の記録が無い以上、戦闘は無かったか、
あったとしても記録に残らないような小競り合い程度だったと考えるのが自然だと思う
>全ての戦闘について「当事者の書状」が残ったという保証はどこにもない。
もちろん保障は無いけど、赤坂の戦いのような小戦闘の記録まで残っているのに、
大将の少弐景資以下の日本軍が総力を挙げて戦い、その結果散々に打ち破られて総崩れとなるような
大戦の記録が全く残っていない、というのはかなり説得力に欠ける
>>674 八幡ノ蒙古記をやたら重視するのはなぜ?
蒙古襲来絵詞やその他御家人の記録と矛盾しないか
そもそも誰が書いてその人が戦地に居たのかも分からないし
「夕刻の戦闘」を八幡大菩薩の神書である八幡ノ蒙古記のみ根拠にするのは飛躍し過ぎだわ
当時の技術では上陸を事前に察知するのは容易ではなかろう。
夜明けと共にこっそり上陸したけど、日本側に発見されてからは
ボコボコに叩きのめされ、あちこちで追い回されて敗走を重ね
船あるいは海岸まで逃げたところで日没になり、ようやく日本側の
追撃が止まったという状況でも「及暮乃解」に変わりはあるまい。
678 :
名無し三等兵:2012/07/28(土) 09:48:27.55 ID:zwfJRulg
>>675 >あったとしても記録に残らないような小競り合い程度だったと考えるのが自然だと思う
小競り合いか大戦闘かは見方の問題だが、日本軍の水城への撤退を認めるか否かで分かれる。
>結果散々に打ち破られて総崩れとなるような大戦の記録が全く残っていない、というのは
>かなり説得力に欠ける
「総崩れ」というのは「潰走」のことで、軍全体が統制を失って逃散するような事態を言う。
八幡ノ蒙古記が記述しているのはそのような状況ではなく、日本軍が小集団による突撃を
繰り返しても敵を押し戻すことができず、戦意喪失して小集団単位で水城へ後退し始める
ような状況だ。
一方、元軍も疲労や損害が大きくて、後退する日本軍を追って壊滅させる意欲がなかった。
だから「総崩れ」「潰走」は起こらず、交スイ状態、すなわち自然休戦が起きた。
>記録が全く残っていない、というのはかなり説得力に欠ける
「全く」は言い過ぎだ。なぜなら八幡ノ蒙古記があるから。
戦闘に関しては、上にも言ったが、最も重要な事件は水城への撤退だ。これは同時に
博多・箱崎の放棄を意味する。
これについては時の天皇の回顧録である「一代要記」の、「宰府軍など皆逃げ終わりぬ」
が一致する。(字は北→逃、了→終に入れ替え)
679 :
名無し三等兵:2012/07/28(土) 09:49:07.87 ID:zwfJRulg
>>676 >八幡ノ蒙古記をやたら重視するのはなぜ?
唯一の詳しい同時代資料だから。
>「夕刻の戦闘」を八幡大菩薩の神書である八幡ノ蒙古記のみ根拠にするのは
前にも言ったが「八幡ノ蒙古記のみ」ではない。高麗史の「及暮乃解」がある。
>八幡大菩薩の神書である八幡ノ蒙古記
私は八幡ノ蒙古記をそのような神社の公式文書とは思わない。
読めばわかるが、ご神体避難記のところなどはまったくの私的記録のスタイルだ。
私は筆者がこの避難一行のなかにいたと思っている。だから戦闘記録については聞き書きだ。
ただし恐らくオブザーバーとして観戦した神社の関係者がいたと思う。
では私的記録である八幡ノ蒙古記を書いた動機は何か。私は純粋な記録衝動だと思う。
戦争とか、外地引き揚げとか、惨烈な体験をした人は、じぶんの体験を文書にして、他の人に
知って貰いたい、後世に残したいという衝動に駆られる。
だからこそこれだけ多くの戦記や引き揚げ手記が世の中にある。八幡ノ蒙古記もそれと同じ
ようなものだと思って読めばいいのだ。
日本側が水城に引き上げたのは日が暮れたからだろ
ここで軍事的な視点から先生方に教えを請いたい。
日本側が夕刻以降戦闘を止めて水城に引き上げたのが、なぜ日本不利の
根拠になるのか判らないのです。
暗視装置はもちろん強力な照明もなし。敵味方とも音が静かで発射炎もない
弓が主武器だから、松明なんて掲げたら狙い撃ちされる。
敵の発見も敵味方識別も極めて困難。中世の夜間戦闘って、そんな感じでしょう?
特別な奇策奇襲以外には、実施するべきではないと考えるのが普通じゃないでしょうか?
もちろん、保元の乱はじめ日本人は奇策奇襲としての夜討ちを多用する民族です。
しかし、それらは勝つため、あるいはより多くの恩賞を得るために「奇襲する必要がある」場合です。
文永の役で日本側が夜討ちを仕掛けるとしたら、今夜夜襲をかけないと負けるという危機的状況か
明日まで待ったら手柄首が自分のところまで回らないという場合(この場合は少数が抜け駆けするだけ)
の2つに1つだと考えます。つまり夜襲しない事は、むしろ日本側が明日普通に攻めれば勝てると判断していた
と推察するのですが、私はどこが間違っているのでしょうか?
日本側が元軍の兵力を過大に見積もって、内陸での抵抗を企図した可能性もあるな
初日に博多を抑えられず
日本軍は続々九州の武士が集結してたから撤退したんですよ
>>681 >日本側が夕刻以降戦闘を止めて水城に引き上げたのが、なぜ日本不利の根拠になるのか判らないのです。
根拠などありません。
昔から何としても武士が負けたことにしないと気が済まない連中が、日没に伴う戦闘中断と水城への引き上げ
をあたかも武士の敗走であるかのごとく印象付けようとしているだけです。
そもそも敵方である「高麗史」の記録からして「諸軍與戰、及暮乃解」「諸軍終日戰、及暮乃解」となっているだ
けで、これは「終日戦い日が暮れたから戦闘を解して帰陣した」という意味に過ぎません。
日本軍を敗走させたなどとはどこにも書いてないのです。
当時から戦国時代においてまで、一般に戦闘は日中に行い日が暮れれば兵を引くもので、夜通し戦うようなもの
ではありません (例外は有ります)
水城は蒙古侵攻時における防衛線として考えられていた日本軍の拠点であり、休息・補給の必要性からも主力
はそこに引き上げるのは当然でしょう。
もちろん敵と対峙している以上、最低限の物見や伝令は残している筈です。
夜襲については、これは戦術の一つであり、しかもあなたの言うように奇策奇襲に属する策なのですから夜襲を
かけなかったとして、だから何なんだ ? というだけの話です。
>つまり夜襲しない事は、むしろ日本側が明日普通に攻めれば勝てると判断していたと推察するのですが、私は
>どこが間違っているのでしょうか?
逆に言えば蒙古側は「明日普通に攻めて来られたら支えきれない」と考えていたでしょうね。
だから夜のうちに撤退したんでしょう。
世界最大最強の大元帝国の野望を挫いた伝説の大戦。
時宗ニー最高や。
686 :
名無し三等兵:2012/07/28(土) 16:08:42.84 ID:zwfJRulg
日本軍の水城への撤退を前提として議論するようになってきたのは非常に結構だ。
「文永十一年・冬の嵐」のように、日本軍主力が赤坂にがんばっていた、という説では
まったく戦闘経過のイメージがわかない。
もちろんこれは「敗走」ではない。「敗走」というと「潰走」に近く、敵に追撃され
ながらの無秩序な後退のイメージがあるが、文永の役の日本軍の水城入りはあくまで
自主的な撤退であり、また元軍の追撃もなかった(例外を除いて)。
しかしいずれにしても、日本軍主力が水城へ撤退することは自動的に次の結果を伴う。
元軍が博多・箱崎を占領すること
元軍が博多・箱崎を自由に処理すること(破壊するにしてもしないにしても)
元軍が妨害されることなく自由に乗船・撤退すること
どうしても「撤退」という言葉に執着したいようだな
だが前提だなんてとんでもない
あんたが何度論破されてもしつこいから皆が辛抱強く付き合ってくれてるだけだよ
じゃないと勝利宣言しかねないからなw
文永の役は博多を制圧して大成功だったんだな
>>687 以前、日本史板でパフォーマンスコンクールなる珍説唱えた人を
最終的にスルーした時は勝手に勝利宣言されたしな。
>>688 博多が占領されたなんて記録は無い
というか、数年懸かりで準備した4万の大軍で
博多を落とせれば大成功とは、びっくりするくらい消極的な作戦だなw
お答えくださった皆様、ありがとうございます。
ただ、
>>682様のおっしゃるように日本側が元の戦力を過大評価していたなら、それこそ夜討ちするのが
鎌倉脳筋という物ではないかとも思います。
さて、せっかくなので私も負けずに珍説を1つ唱えてみますのでご笑覧くだされ。
題して「文永の役日本圧勝説」
骨子としては
1 10月20日の戦闘は日本軍圧倒的優位で進行し、元軍は夕刻までに壊滅までは行かずとも決定的な打撃を受け
海岸(幹部たちについては船かも)に撤退を余儀なくされた。
2 日本側にとっては残念、元側にとっては幸運なことに日没となり、戦闘は自然に終了した。
3 日本側は水城で野営(日本人同士の戦いなら、ここで一発逆転を狙って夜討ちしてくるので警戒)
明日の戦闘で元にとどめを刺す事を期した。なお、赤坂で元軍を撃破していたとしても、野営を水城で行うのは
それほど異常でないと考える(夜襲対策として)
4 この時点で元の司令官、忻都に可能な選択肢は
A案 直ちに水城を夜襲する。
B案 夜明けを待って戦闘を再開する
C案 直ちに逃亡する
D案 夜明けを待って逃亡する
であるが、忻都は(おそらくB案を主張した)金方慶の主張を退け、C案を実行した。
というものです。これが意外にも諸々の状況を結構上手く説明できてしまうのではないかと。
(続く)
692 :
681:2012/07/28(土) 17:46:39.38 ID:???
(
>>691の続き)
以下考察(妄想?)
ア 日本軍が不利な状況で夕刻を迎えた場合、元軍はB案を選択し日本軍は夜襲を実施するでしょう。
これに対し実際には日本軍は翌日の決戦、元軍は逃亡を選択しました。
イ
>>686様が博多・箱崎を制圧される可能性を指摘されていますが、日本側がそれを気にしなかったのは、
元軍が既にその能力を失っていたからと考えます。もうひとつ、元が博多を制圧するためには当夜のうちに
夜間行軍して博多に至るか、夜明けを待って博多を攻める必要がありますが日本軍に見つからずに知らない
土地を夜間行軍というのは現実的ではありませんし、朝を待ったら日本軍との再戦(つまり「2日目の戦闘」)は
避けられません。つまり元に「博多制圧」はできないし、できないことは日本側にも見切られていたのでしょう。
ウ 忻都は『小敵の堅は、大敵の擒なり』という孫子の教えを引用して金方慶を諭している事に注目します。
元軍総司令官は、日本征服軍であるはずの自軍を「小」、九州武士団を「大」と認識し、この差は今後広がるばかり
であると考えていたのです。つまり圧倒的不利、どんなに頑張っても削り殺される。最悪、次の戦闘で皆殺しになる
位に危地な訳です
エ 多数の兵を夜間乗船させ、よく知らない夜の海を逃げるのは非常に危険な作業です。100人単位の死者が出ることを
覚悟する必要があるでしょう(陸上の兵たちを置き去りにして幹部だけ逃げる選択もありますが)。
敢えてそれを選択したということは、忻都が「もう一度戦闘すれば大敗は避けられない。数百人死んでも
その方がマシだ」と判断した事を意味します。
もし、元軍に日本軍を撃破出来る見通しがあるなら、翌日再戦して日本軍を撃退した後に乗船すれば良いのですから。
蛇足
文永の役は、結果的には威力偵察となったのかも知れません。この戦争で元が得た最大の戦果は、「日本手強し」という
情報だからです。
ディエップ並の成功ですね(棒
694 :
名無し三等兵:2012/07/28(土) 18:54:55.31 ID:n9m+s46V
>>691 元軍が赤坂以西の海岸にあって、もはや戦力を失っていたのなら、
なんで日本軍は博多に泊まらなかったのかな?
博多・箱崎には建物も多いし、ある程度の防備もあったと考えられるが。
食い物の余分が無いと泊まれない
敵の予備戦力がどれ程か分からないのに前線近くに留まる選択を選ぶほど勘頼りではなかったから
>>694 市街戦を嫌ったのでは?
元軍が乾坤一擲の夜襲を挑んできた場合、博多にいると街を戦渦に巻き込む。
周囲に建物がない方が夜襲してきた敵の発見も容易だし。
元側が相当の予備戦力を有している可能性は想定したかもね。
物見が「敵軍壊滅」を報告したとしても
「日本征服軍がこの程度の戦力の分けないだろ。常識で考えて」
と用心するのが正しい指揮官のあり方だろうし。
>>686 日本軍が決戦を意図した防衛線というのは水城であり、仮に一時的に博多・箱崎の占拠を許した事が有った
として、それが何だというのだね ?
逆にその程度の事しか出来ないという事は、元軍は上陸後ほぼ防戦一方で海岸線にはりつけのまま全く侵攻
できなかったという事だ。
元軍は大宰府はおろか水城にすら到達できなかった。
地図で見れば判るが、博多湾から太宰府までは約15キロ、水樹までは13キロ程度しかない。
当時は埋め立てが進んでいないから実際はもっと近かっただろう。
騎馬なら当時の馬でも30分もあれば着く、まさに目と鼻の先。
この程度の距離を突破して防衛線にたどり着く事すら出来なかったのよ。
相手は世界征服を目指してユーラシア全域を蹂躙していた大モンゴル帝国だぞ。
それが4万人、1000隻近い空前の大艦隊で襲来しながら殆ど何も出来ず、わずか1日で侵略を断念して遁走。
まさに完膚なきまでの敗北としか言い様がない。
懲りずに後日、3倍以上の兵力で再度攻めてきたときはもっと悲惨な目にあったんだけどね。
まとめると、
日没とともに双方兵を引いた時点で元軍はまだ乗船撤退していなかった、ということは主力はまだ博多湾周辺の
陸上にいたんだろう。
ならば博多や箱崎くらいは占拠な状況だったかもしれないね。
だから何 ?
>>694 勝ってるからって防衛線放棄して敵の前で寝始める軍隊がどこにあるんだよw
水城を拠点に福岡平野で戦う予定が敵が想定外に弱くて前線が上がり過ぎただけでしょ
あくまで拠点は水城だからそりゃ日が暮れたらそこに戻るわ
大体博多に駐留って予定にないのにどうするんだよ
ビジネスホテルでも探すのか
701 :
531:2012/07/28(土) 22:21:56.19 ID:???
>691
2.以降はそれが正しいと思いますが、
1.の「日本軍圧倒的優位で進行し、元軍は夕刻までに壊滅までは行かずとも
決定的な打撃を受け」について意見が分かれているのでは?
自分は、どちらかか圧倒的な優位となる状況ではなかったと感じています。
でないと、その後の双方の動きを説明できない。
>>701 説明できないとは具体的にどのあたりが?
逆に元の夜間撤退を説明するには、夕刻時点で元軍司令官が
戦闘継続を断念する、それも「次に戦ったら逃げることすらできなくなる」という
レベルの危機感を抱いている必要があります。実際に日本と戦って敗れたは
危機感への最も単純な解釈ですが、そうでないなら何か他の理由を見出さないと
元軍の行動を説明できなくなりませんか?
703 :
531:2012/07/29(日) 00:25:39.13 ID:???
>702
何度か書いていて(その度にスルーされているので)再度書くのは恥ずかしいのですが、
元側が「圧倒的に負けていた」と認識していた場合、
その戦闘の後に日本に対し、斬り殺される様な内容の使者を送るでしょうか?
日本側が「圧倒的に勝っていた」と認識していた場合、事前には準備していなかった
水際防御を、相当のリソーセスを費やして築くでしょうか?
また根拠は薄いですが、敵を圧倒していたら夜襲を仕掛けていた気がします。
(他者が抜け駆けしたり元が尻尾を巻いて逃げ出したら、
681の言う「手柄首が自分のところまで回らなくなる」からネ)
577で書いた通り、元側は「最低限の目標」を達成したから撤収したのでしょう。
同時に、これ以上滞在期間を伸ばしても、それ以上の戦果拡大は見込めなかった
(当然、被害は増える)と考えていた筈。
危険を顧みず夜間に撤収しているので、夜襲や翌日の戦闘でのリスクの方が
大きいと判断した訳で、武士側が圧倒的に負けていた事はないと思います。
704 :
531:2012/07/29(日) 00:41:28.20 ID:???
4万もの大軍で攻め込んで、目的を達成せずに撤退していた場合に
大問題になりませんか?(帰り際の自然災害は別の話。)
矢の数を見積が甘かったか、戦い方が稚拙だったか、
そもそも投入戦力が少なかったのか?
大敗していたら記録が残っているべき事項と思いますが、どうなのでしょうか?
(そして次回に東路軍だけで博多湾まで来ないのでは?)
日本の地勢や日本軍の装備編制について無知だったというのも敗因かも知れん
それなら2度目はいけると思ってもおかしくないし
706 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 02:52:42.53 ID:IhRR3Q2D
いや、個人が作ったオカルトサイトをソースにされても・・・
>>703 1 惨敗してなお、使者を送ってくるか
これは普通に送ってくるでしょう。孫子の言う「生間」です。鎌倉幕府は
それを見抜いたので処刑しました。元としては、これはこれで戦争の口実になります
なお、世界征服は元の国是なので、1度惨敗したから諦めるという選択はあり得ません。
2 圧勝した日本が、さらに防御を固めるだろうか。
固めます。鎌倉幕府の情報収集は過小評価されているようですが、文永の時点で元が外交使節を送る裏で
侵略準備を進めていたことを事前に知っていましたし、文永後の南宋の滅亡も知っています。再度の来襲は予想されていました。
そして一度敗れた元が再来する以上、前回より強力な兵力を整え帝国の威信を賭けて攻めてくることは当然に予想されます。
というより、前回惨敗したのと同程度の戦力しか寄越さないなんて常識的に考えてあり得ません。当然日本側には
「前回より強い敵」を想定した準備が求められます。北条時宗はその通りに準備を実行しました。
3 勝っていたら夜襲してないか、主に抜け駆け的な意味で
まず、夜襲の類型を考えましょう
A 不利な側が一発逆転を狙う夜襲
保元の乱で天皇方がやった夜襲ですね。
日本圧勝説に従えば、むしろ元軍が検討すべき策ですが、上陸初日の異国で警戒している相手には実施不可能でしょう。
B 敵の消耗を強いる夜襲
弘安の役で日本側が仕掛けた夜襲、一種のゲリラ戦ですね。これも大敵に対する計で、既に圧勝していれば不要です。
C 手柄首を狙っての抜け駆け
一ノ谷の戦いで熊谷真実がやらかしたケースですね。これはあり得ると思います。
ここからは想像ですが、抜け駆けは空振りした可能性があります。というのは夜討ちは夜明け直前に行うのが常法です。
特に手柄狙いの場合、大将に戦いぶりを見てもらわねばなりませんから戦闘中に夜明けが好都合です。
しかし、元軍は迅速な撤退により未明のうちに逃亡を完了しました。「消えた元軍」を発見したのは抜け駆け武士かも知れません。
>>704 文永の役の幹部たちは、弘安の役でも東路軍を率いています。
この間金方慶は一時失脚していたようですが、文永の役での敗戦との関係は不明確です。
彼らが処罰されなかったことをもって「元軍は作戦に成功した」という根拠にできるか。私は懐疑的です。
というのは、彼らはこれ以上ない位の大敗を喫した弘安の役でも処刑されていません。
弘安の役も元としては成功だったのでしょうか?
勝敗は兵家の常と曹操も言ってます。敗因が指揮官の責任に帰する所でないなら、処罰するのは不適当です。
そもそも4万の軍で日本征服して来いという計画が無謀すぎました。
報告を聞いたフビライは、「無理ゲーを強いて済まなかった」くらいのことを言ったかもしれませんね。
そして雪辱の機会を与えた…けれど再び惨敗したと。
弘安の役で東路軍のみ先行したのは、日本軍が太宰府から移動したという情報を得たからです。
この隙を突いて無防備な地に上陸しなければならないと考えたのは、先の敗戦の戦訓ではないでしょうか。
実際には日本軍は防備を固めていて奇襲上陸は失敗に終わるのですが
「空前の大兵力を持っていながら、後続の到着を待って正攻法より奇襲を選択した」
という判断自体が、14万の兵力を持っても勝てる自信が無いという東路軍幹部の心中を表しているかと。
710 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 09:51:11.46 ID:Xa1wdF5A
>>699 >日没とともに双方兵を引いた時点で元軍はまだ乗船撤退していなかった、ということは主力はまだ博多湾周辺の
>陸上にいたんだろう。
>ならば博多や箱崎くらいは占拠な状況だったかもしれないね。
>だから何 ?
いや別に。
元軍の博多箱崎占領を認めてくれればそれでいい。
認めない人もいるから書いたまでだ。
>>710 都市占拠可能な状況でしょうかね?
移動だって一瞬じゃない。
712 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 10:05:24.12 ID:Xa1wdF5A
>>711 八幡ノ蒙古記の言うように最後の戦場が赤坂だったとすれば、
赤坂から博多までは1〜2kmしかない。
また八幡ノ蒙古記は戦闘描写の途中で蒙古が箱崎にまで乱入したことを書いている
(博多を飛ばして)。
これは博多経由で箱崎に到達した意味かも知れないが、あるいはまた新手の元軍が
箱崎浜に上陸した意味かも知れない。
>>712 どちらも微妙な展開ですな。
まず赤坂から博多に移動して占拠し、即日撤退というのは行動としておかしい
(勝って占拠なら逃げる必要が無い、敗走中に都市占拠はもっと変)
しかも、博多占拠して当夜に逃げたのなら、博多に船を回航しなければならない
(あるいはそもそも上陸点が博多港?)
元の予備兵力が箱崎に上陸した場合でも、その予備兵力は一体何をしたのか?
強いて言えば敗残兵の回収?
714 :
699:2012/07/29(日) 10:30:49.66 ID:???
>>710 あ、すまん誤記があった。
× ならば博多や箱崎くらいは占拠な状況だったかもしれないね。
○ ならば博多や箱崎くらいは占拠可能な状況だったかもしれないね。
実際に占拠したかどうかは不明だ。
715 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 10:52:34.24 ID:Xa1wdF5A
>>713 >まず赤坂から博多に移動して占拠し、即日撤退というのは行動としておかしい
それは「なぜ元軍は一日で撤退したのか?」という基本的な議論に含まれる。
博多箱崎を無血占領することの労苦はこの日の作戦全体に較べれば小さいから。
>しかも、博多占拠して当夜に逃げたのなら、博多に船を回航しなければならない
博多を占拠した場合でも、博多と西部海岸と両方から乗船することはできる。
>元の予備兵力が箱崎に上陸した場合でも、その予備兵力は一体何をしたのか?
>略奪破壊を行った。これは目的を達成したという形をつけるためにも必要だった。
716 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 10:54:30.88 ID:Xa1wdF5A
>>715 訂正:
最後の行は引用ではないから > を削除
>占拠とは、土地や建物を占有すること
通りかかって略奪するだけじゃ占拠とは言えないと思うが
博多よりも内陸にある水城を防衛ラインにしているから博多は無防備に近い形だとは思うけど
718 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 13:08:06.29 ID:Xa1wdF5A
>>717 >通りかかって略奪するだけじゃ占拠とは言えないと思うが
言葉はなんでもよい。ともかくその土地に入って、自由に行動できたということ。
博多掠奪して満足してかえろうとしたら台風きた
この季節の福岡は日の出7時前後、日の入り17時前後。
この時間内に万単位(4万から水夫を抜けば3万前後か)を上陸させて
数カ所で日本軍と戦って、街を2つ占拠して、海岸に戻るまでやるとは忙しいな。
率直なところ「博多占領」が実際に起きた可能性は低いと思う。箱崎については
上陸地点(のひとつ)が箱崎で、上陸時に元軍が街に放火したというのはあり得るか
軍議の内容見ると元軍が数的不利を実感してたんじゃないかということ
日本についてどういう認識をしてたのか知らないけど
予想外に動員が早かった、時宗の危機意識の強さを読み取った。
722 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 16:26:14.13 ID:Xa1wdF5A
>>720 >この時間内に万単位(4万から水夫を抜けば3万前後か)を上陸させて
八幡ノ蒙古記によれば戦闘は午前8時ごろに始まったという。
それが蒙古襲来絵詞に書かれた戦闘だとすれば、この時間に西部海岸地域に、
戦闘単位が出現し、陣地が作られていた。
一代要記だったか、前日19日深夜に早良に上陸したと書いてあったのでないか?
元軍は夜を徹して揚陸していたのかも知れない。兵は何時眠ったのかという問題はあるが。
深夜の撤退と言い、だれかの書いたこととは相違して、元軍は暗夜を苦にしていなかった
ようだ。
>数カ所で日本軍と戦って、街を2つ占拠して、海岸に戻るまでやるとは忙しいな。
忙しいと言えば当日撤退じたいがもともと信じられないほど忙しい。
その点からは冬の嵐の27日撤退説を信じたくなる。
元軍が博多を占拠し、日本軍は水城に引きこもっていたのなら、それも成り立つが。
>上陸地点(のひとつ)が箱崎で、上陸時に元軍が街に放火したというのはあり得るか
それを認めるのなら博多はほんの1kmさき、間に障害物はなにもない。
日本軍が去って無防備の博多を元軍がどうするかは、それこそ自由だ。
>>722 暗夜を苦にせず、万単位が自在に上陸したり船に乗ったりできるというのは、流石に異常。
むしろ上陸中の浜辺で日本側の攻撃を受け、終日浜辺で戦っていたの方がまだあり得る。
証明もされてない妄想を書き垂れるだけならブログなりで一人呟いとけよ
>>721 これも疑問点の1つだな。
元の兵力は総数で4万、水夫除いた純粋な兵で3万前後。これはあまり異論ないと思う。
対する日本兵がこれを大きく超える数を動員できていたのだろうか?
「元史」「八幡愚童訓」は日本側兵力を10万としているが…
726 :
名無し三等兵:2012/07/29(日) 18:33:16.25 ID:qo6gmSzl
>>723 >むしろ上陸中の浜辺で日本側の攻撃を受け、終日浜辺で戦っていたの方がまだあり得る。
蒙古襲来絵詞は信じるのだろう?
それなら朝方すでに内陸の祖原山に元軍の陣地が設けられ、これも内陸の赤坂山に元兵がいた
というのを否定してはいけない。
また博多港に元軍がいたことは碇石という物的証拠がある。
>>725 仮に戦闘要員3万としても、
戦場の広さには限界があるし、揚陸可能な時間・面積にも限度がある。
3万の兵を揚陸するだけの地積が確保できなかったり、
日本側との戦闘で後続を揚陸させる暇が無かったりした可能性は高いと思うんだが。
上陸できた兵は全体の一部。後続は何らかの理由で船上で待機してた、と考えたほうが、
夜陰に紛れて、全軍で数万の兵を全部乗船させたと考えるより妥当じゃないかと。
先行する部隊は当然練度も高いだろうし。
10万というのは正確に数えた数じゃないだろ当然
夜通し水城に集結してくる後詰めの兵数がとにかく無数にいる。
大した建造物や照明もない昔なら10キロ以上先でもそれが見えた
その恐怖心や不安の表れだと思われ
そもそも日本全国の兵かき集めても20万いたかどうかな時代に
九州の一部(それも出陣拒否った御家人もいる中で)だけで10万も集まるわけがない。
文永の日本側の兵力は精々10000、下手すりゃ5000程度だろ。
もっともだが、上陸させたのが一部でも総兵力三万あったら
一万以下の日本軍を相手に「我が師は小なり」とか言うかな
奇襲に近い形で攻撃受けて日本側もそこまで数が揃ったとも思えないし
少数にボコボコにされたとは報告出来ないから10万居たと証言したんじゃないか
鎧の差でなかなか死なないのを敵が入れ替わってると勘違いしたか
我が師は小なりというのは
敵陣に続々と増援が到着するのを見越した発言では
>>586 >それに壱岐にいた日本兵はたった百人です。それに対する戦闘記録としてあの量はバランスを
>失するでしょう。
遅レスになるけど、壱岐の日本兵はあくまでも「百余騎」であって「百人」ではない
普通一騎には1〜4人の従者が付くから正規軍の総兵力は三、四百人くらいにはなると考えられる
しかも対馬や壱岐では島民も一丸となって防戦に当たって全滅したというから、
「倭兵大敗伏屍如麻」は別にバランスを失するほどの記述では無いと思う
>>734 300人いたとしても戦力比1対100ですな
そもそも、日本勢がそんなに強いならなんで壱岐、対馬で大敗してるんだ?
少なくとも、元軍が勝ったといえども大損害を与えているとかしないとおかしいだろ。
広大な博多で三万揚陸出来なかったなら、狭小な対馬、壱岐は尚更だ。
そのごく一部の揚陸兵力にも勝てなかったなら、世界一をうたう武士の戦闘力って何?って思う
民間人虐殺したのを「戦果」として報告してるんだろ
>>736 何をそんなに腐してるのか理解できんけど弘安の役で対馬でかなり手ひどく反撃喰らってるぞ
夕刻の戦闘で論破されて発狂したか
グリーンベレー1個分隊がせいぜいベトコン5、60人分の戦力と言われてたんだから、圧倒的な質の差があったとしても数が10倍もあればそんな差は簡単に埋められる
まあ、応永の外寇での朝鮮軍の前代未聞の体たらくに比べれば
対馬や壱岐を蹂躙出来る程度には元軍は強かったってことさ。
742 :
名無し三等兵:2012/07/30(月) 07:48:23.29 ID:MybIrQY9
>>734 そういう真面目なレスは歓迎だ。
>壱岐の日本兵はあくまでも「百余騎」であって「百人」ではない
>普通一騎には1〜4人の従者が付くから正規軍の総兵力は三、四百人くらいにはなる
戦国時代ならそれでよいが、元寇の時代はまだ騎馬武者のみが戦力だ。
騎射が基本的な戦い方であることは、蒙古襲来絵詞の絵を見てもわかる。だから「従者」はそもそも
戦闘について行けない。竹崎の後を一名の従者が走っているように見えるが、これは馬を射られて
やむを得ず徒士になった旗持ちであることが詞書きからわかる。
>「倭兵大敗伏屍如麻」は別にバランスを失するほどの記述では無い
私がバランスを失すると言ったのは、これが壱岐のことだとすると全体の戦闘記述のなかで量が
大きすぎると言うことだ。百騎を相手にした戦いの記述が105字(クドゥンの言葉を除く)で、
少なくとも1000騎を相手にしたであろうメインの戦いの記述がたった8字(軍議を除く)では
どうしようもない。
またこの「捨船三郎浦」以下を壱岐の戦いに入れるのは、ずっと後の「諸軍与戦」で突然切って、
これ以下を本土での戦いとする読み方であるが、この「諸軍与戦」が、高麗軍が先陣を承った
後にその他の軍が参戦するときに用いられることは、弘安の役の壱岐戦の記述に例がある。
「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下与戦」
「金周鼎が先に倭と鋭鋒を交え、諸軍が皆船を下りて共に戦った」
この例をあてはめるなら、文永の役の諸軍与戦もまた壱岐の戦いとなり、全部が壱岐の戦いに
なってしまう。「捨船三郎浦」で切ってこれ以下を本土戦とすれば、そんな不都合はない。
>>736 対馬も壱岐も数百人の守備隊しかいなかったのにどうやって大損害を与えるんだよ
あと武士の戦闘力が世界一とか誰が言ったんだ?
>>742 >戦国時代ならそれでよいが、元寇の時代はまだ騎馬武者のみが戦力だ。
それはちょっと極端に過ぎると思う。騎兵が主戦力であることは事実だけど、
当時でも従者は胴丸を着て薙刀を携帯する重要な戦闘補助要員だから
笹間良彦氏によれば平安時代後期頃には後世に言う足軽階級が発生しており、
保元物語などからもこうした下卒の戦場での活躍ぶりが確認できるとか
>百騎を相手にした戦いの記述が105字(クドゥンの言葉を除く)で、
>少なくとも1000騎を相手にしたであろうメインの戦いの記述がたった8字(軍議を除く)では
>どうしようもない。
高麗史はあくまでも高麗視点の記録であり、文永の役の戦闘経過を正確・公平に伝えようとしたものではないので
記述に偏りがあるのは別段不思議なことではない。
高麗軍が最も華々しく活躍したと思われる離島での掃討戦の記述に多くを割くのは普通だと思う
古今東西、自軍が勝った戦いは大々的に扱い、逆に負けた戦いの記録は簡潔になる傾向がある。
時代は変わるが、慶長の役における稷山の戦いで、明・朝鮮側の文献は一様に
緒戦での少人数の日本軍先遣隊に対する華々しい戦果のみを強調しており、その後日本軍に増援が来て
戦闘そのものに敗退してしまったことに関する文章はびっくりするほど短いという例がある。
また、日本側の本土戦に関する記録と高麗史の「倭兵大敗伏屍如麻」云々の状況が一致しないことも
両者が同じ戦闘を書いたものでないと考える理由の一つである
元の司令官が本土に到着してから殆んど記述してないのも怪しい
捗々しく進捗しなかったからだろうけど
所詮役人だからな
746 :
名無し三等兵:2012/07/30(月) 15:21:19.92 ID:MybIrQY9
>>744 >古今東西、自軍が勝った戦いは大々的に扱い、逆に負けた戦いの記録は簡潔になる傾向がある。
>緒戦での少人数の日本軍先遣隊に対する華々しい戦果のみを強調しており、その後日本軍に増援が来て
>戦闘そのものに敗退してしまったことに関する文章はびっくりするほど短い
それを日本側にあてはめればこういいうことになる。
「緒戦での少人数の高麗軍先遣隊に対する華々しい戦果については記録が多いが、その後本隊の
蒙漢軍が参戦してじりじりと押し戻され、水城への撤退に至る戦闘については極端に記録が少ない。」
なるほどよくわかるね。
>日本側の本土戦に関する記録と高麗史の「倭兵大敗伏屍如麻」云々の状況が一致しない
八幡ノ蒙古記の戦闘描写とは実によく一致している。
なにしろ、漢文を曲芸的に読まなければ成立しない説はそれだけでダメなのだ。
「諸軍与戦」以下が本土の戦いだなどという読み方を中国人に説明しても一笑に
付されるのではないか?
>>746 少数の高麗軍先遣隊の後に本隊の蒙漢軍が来たってソースは?
一日ともに戦ったんじゃなかったか?
>>746 九州本土にて明確に元が勝利したと記述された記録は?
芸術的な解釈を必要としない内容で。
749 :
名無し三等兵:2012/07/30(月) 20:33:09.04 ID:hgsqmlsz
>>747 >少数の高麗軍先遣隊の後に本隊の蒙漢軍が来たってソースは?
高麗史金方慶伝の文永の役の「諸軍與戦」と、同じく弘安の役の「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下與戦」 (金周鼎が先に倭と
鋭鋒を交え、諸軍が皆船を下りて共に戦った)との比較。
>>748 >九州本土にて明確に元が勝利したと記述された記録は?
高麗史金方慶伝の「倭兵大敗伏屍如麻」(これは「捨舟三郎浦」の後だから本土戦)
元史の「入其国戦敗之」
>>749 つまりいつも通り解釈の意見が分かれる
資料の自分に都合の良い部分だけを
自分に都合良く解釈しただけかw
>>749 上段は文永の役で高麗軍が先鋒を務めた、とどうしたら
解釈できる?
下段は壱岐のことだって意見が散々出てなかったか?
752 :
名無し三等兵:2012/07/30(月) 22:58:56.34 ID:MybIrQY9
>>749 >上段は文永の役で高麗軍が先鋒を務めた、とどうしたら解釈できる?
弘安の役壱岐戦の「周鼎先与倭交鋒、諸軍皆下與戦」
これは金周鼎という高麗軍の部将が「先に倭と鋒を交えた」すなわちまさに先鋒を勤めた、
その後に「諸軍皆下與戦」つまり高麗軍以外の「諸軍が共に戦った」つまり後続部隊として
参戦したことを言っている文章だ。
「諸軍與戦」という文にはそのような働きがあり、かつその前の文章と前後関係があることがわかる。
して見れば文永の役「捨船三郎浦」の後の「諸軍與戦」も決してそこから切れて別の文章になる
のではなく(もともとそんな無茶なことはあり得ないが)、前の文章を受けて、高麗軍以外の軍が
参戦したことを言っていると見られる。
前の文章とは「捨船三郎浦」に始まって「伏屍如麻」に終わる文章であり、「三郎浦」での金方慶の
活躍を述べる文章だ。その後にクドゥンの賛辞が入るからわかりづらくなっているが、それを
はさんで「諸軍與戦」が後続の軍の参戦を述べているわけだ。
というわけで、ここでの戦いでは金方慶軍が先鋒であり、先遣隊である。
>下段は壱岐のことだって意見が散々出てなかったか?
散々意見が出れば正しいのか?
その意見とは「捨船三郎浦」を壱岐への再上陸と見る見方であり、それは漢文として
あり得ない。
漢文としてあり得ない解釈をするのは何故かと言えば、それは「伏屍如麻」が本土のことで
あって欲しくない、せめて壱岐のことであって欲しい、という願望が働いているためだ。
願望で漢文を解釈してはいけない。
753 :
名無し三等兵:2012/07/30(月) 23:00:57.44 ID:MybIrQY9
>>746 >それを日本側にあてはめればこういいうことになる。
>「緒戦での少人数の高麗軍先遣隊に対する華々しい戦果については記録が多いが、その後本隊の
>蒙漢軍が参戦してじりじりと押し戻され、水城への撤退に至る戦闘については極端に記録が少ない。」
明・朝鮮側の記録はいずれも簡潔にとはいえ、稷山の明軍敗走を記録している。
一方、文永の役に関する武士の書状では、日本軍敗走についての記述は「記録が少ない」どころか皆無。
「簡潔に記されている」ことと「全く記されていない」では大違いでしょ
>八幡ノ蒙古記の戦闘描写とは実によく一致している。
一致しているのは誰が書いたかも分からないような宗教書のみで、
当事者である武士たちが残した一次資料とはことごとく一致しない。
以前の繰り返しになるけど、鳥飼潟以降に戦闘の記録が無いということは、戦闘は無かった、
あったとしても記録にも残らないような小競り合い程度だった。
当然、「八幡ノ蒙古記」にあるような日本軍の壮絶な負け戦なども無かった。
そう考えるのが自然だと思う
そもそも当時は負傷ですら戦功としてカウントされてたんだから
武士達の書状に後半の戦闘とやらの記録が一切無いなんて有り得ないと思うな。
勝敗に関わらず働いたのに申請しないのはおかしいよなw
やはりいくら矢を射ても全くダメージがない敵重装騎兵を相手にして、
対馬・壱岐は人海戦術の力押しでなんとかしたが
博多上陸戦は、1日目の時点でこりゃ駄目だというのが見えてきて諦めた
と言うのが真相だろう。
威力偵察という事にしておけば特に問題も無いだろうし
>>752 とりあえずいちいちレス付けずとも
過去レス読めの一言で済むから
そうしてもらうとして、
願望で資料を解釈・選択してるのは
あんただし、自分に都合の悪い
説や意見、質問を提示された時
ことごとく無視してるのもあんただな。
久しぶりにマジもんの壊れた
レコーダー見たなww
759 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 12:10:30.29 ID:7pvX5QwF
>>754 >明・朝鮮側の記録はいずれも簡潔にとはいえ、稷山の明軍敗走を記録している。
>一方、文永の役に関する武士の書状では、日本軍敗走についての記述は「記録が少ない」どころか皆無。
そんな具体的な比較をするのは抽象力欠如の現れ。
一方はある時間的範囲を見渡して述べる歴史記述、一方は幕府の書状というスポット的記録。
言わばビデオとスチル写真の違いだ。
それでも見たくない部分の取り扱いを軽くするという人情は共通する。しかしその現れ方が違う。
ビデオは軽くする部分を切り接ぎするが、スチル写真ははじめから撮らないか、あるいは撮ったものを捨てる。
だから残り方も違う。
>以前の繰り返しになるけど、鳥飼潟以降に戦闘の記録が無いということは、戦闘は無かった、
その論法がおかしいことを以前から言っている。
一方が「無い」というが、では他方はどの程度「有る」のか。数十件あるのならともかく、三、四件ではないか。
この程度で他方を「無い」というのは統計的に言っておかしい。というか、むしろ間違いだ。
鳥飼潟関係の書状がもともと20件、それ以降の関係の書状が5件あったとしよう。
20件が時間とともに失われて今の3〜4件になったのなら、同じような確率で失われた5件がゼロになっても
おかしくない。
記録が無いから事実も無かったということは証明されないのだ。
いや、現実には八幡ノ蒙古記という記録が「有る」ではないか。
760 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 12:12:25.09 ID:7pvX5QwF
>>754 >一致しているのは誰が書いたかも分からないような宗教書のみで、
>当事者である武士たちが残した一次資料とはことごとく一致しない。
前にも言ったが、戦闘の異なる時間帯のことを記録したものが一致しないのは当たり前、一致したらかえって
おかしい。
また八幡ノ蒙古記が宗教書だから信用できないと言うのはいかにも浅薄だ。
前にも言ったように八幡の蒙古記は宗教書ではなく個人的記録であるが、よしんば宗教書だとしてもそこに
含まれる歴史的事実を否定する必要はない。
例えば新約聖書は純然たる宗教書である。そこに書かれたいろいろな「奇跡」を信じるか否かは個人の
宗教心しだいだ。しかしそこに含まれる、例えばイエスの裁判などの歴史的事実は、歴史家の研究対象だ。
長ったらしいわりに中身の無いこと
日本がボロ負けじゃないのはおかしい
763 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 14:41:53.91 ID:p8ZDS6+A
ポロ負けだろ? 高麗の発音で
764 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 14:52:27.00 ID:p8ZDS6+A
>>757 >やはりいくら矢を射ても全くダメージがない敵重装騎兵を相手にして、
武士妄想というか・・
武士は馬を装甲していないから馬が弱点。
竹崎もその旗差しも、馬を射られて徒士だちになった。
徒士だちになったら重装甲がかえって仇、単なる動きの悪い弓歩兵に過ぎない。
竹崎は、もし白石が来なかったら自分は死んでいただろう、と言っている。
ここに死地をくぐった者の実感がある。
>>764 だから徒士だちになって武士は皮鎧を楽勝で貫通する刀持ってるし
後ろから援軍の騎兵も続々来るわけだからそれほど問題ではない
援軍が来なければ死んでたし、援軍が来るなら問題無い
ごく普通だな
>>765 >>764の言い方は極端にしても 大鎧が徒歩戦に不向きなのは事実だよ
それを補助するために徒歩の従者がいるわけだから
竹崎主従は五人全員が馬上という特異な例だけどね
768 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 18:37:35.30 ID:7pvX5QwF
>>767 >竹崎主従は五人全員が馬上という特異な例だけどね
突撃のときの全員騎馬は特別ではない。その証拠に白石勢の突撃も騎馬武者ばかりで、徒歩従者はいない。
騎馬武者5人の竹崎勢も、突撃前は2人の徒歩従者がいる。これは騎馬武者5人の共用なのか、単に
省略したのかはわからない。
弘安の役で竹崎が防塁の前を通る場面でも徒歩従者は2人である。そのうち一人は立ち止まっているので
無関係の人に見えるが、もとは走っている姿に描かれていた。
朝鮮出兵に例えると釜山を落とせずに逃げ帰るようなもんだから
北九州の地方軍に苦戦するようじゃ中国四国近畿関東の本格的な戦力相手にどうすんのという話し
771 :
名無し三等兵:2012/07/31(火) 21:45:42.90 ID:fS8oZoR7
(´・ω・`)つーか、なんで橋頭堡確保出来なかったの
>>757 負けたからじゃない?
常識的に考えて。
773 :
772:2012/07/31(火) 21:55:13.11 ID:???
ゴメン↑は771宛
まぁ開戦初日に、肥後からの部隊ですら到着して戦闘態勢に入ってるんだから
九州の北半分ぐらいの御家人は集まってただろうからなぁ
威力偵察だの膺懲だのが語るに足りないとしたら
何らかの理由で作戦継続を断念して逃げ出したしか残らないな。
危険な夜間出航まで敢行した以上、「何らかの事情」とは
翌日までそこに留まったら全滅しかねない事情としか考えられない。
……最も単純な解釈は「大敗した。盛り返す見込みは無い」か
制圧したはずの壱岐・対馬すら放棄してるわけだからな。
取るものもとりあえず退散したとしか思えん
多少なり余力があれば、少なくとも離島の1つくらい確保しとくのが当然だろ?
と思うんだが……
たらればの話になってしまうが、元は対馬と可能なら壱岐を恒久基地化するべきだったのでは?
壱岐を占領しても補給線を維持できないと判断したんだろうか?
当時の日本の海軍力って大したこと無いと思うんだが
でも日本からも近いしそれなりに準備してけば逆上陸は容易か
いや、壱岐駐留部隊の補給維持すらできないで
何が日本制圧だよ? と言わざるを得ないんだが……
>>779 渡海可能な時期がかなり限られるというのがネックなのかな?
壱岐・対馬に兵を駐留させても負担が増えるだけで制圧が難しいわけでもないしメリットもないでしょ
対馬壱岐で遊びすぎて(思いのほか頑強すぎて)、矢を消耗しすぎたというのはありえるな
たかが上陸・遭遇戦レベルで信じがたい損害が出て、
それを考慮するともし自軍と敵本体がガチンコしたら大敗することが予測できたから
ってところがほんとうのところなんでは
運動戦をやるつもりでいたら相手が陣地防御をしはじめたとかなら弾薬消費はかなり増えそうだなぁ
後の弘安の役の結果を知ってると、あっさり引き上げた文永の役において、元軍は正しい戦略判断を出した、
といって差し支えないな
>>783 文永の役での元軍の損害は13500という。内訳は判らない。
……例えば九州上陸初日終了の段階で1万くらい戦死してて、
「敵は明日以降さらに増援が来ます。どれだけ増えるか見当も付きません」
だったら逃げても良いよね。というか、逃げなきゃ駄目だよね。
>>786 たとえその数字が1/10であっても、1日、しかも会戦レベルでない散発先頭で出た損害として
かなりヤバイレベルなのでとっとと撤退となるだろうな
>>785 でも、文永の指揮官と弘安東路軍の指揮官って、ほぼ同じ面子…
また武士世界最強論ですか?
少なくとも元朝軍と比べたら明白に強いといっていいだろう
後世朝鮮出兵で更に補強されてるわけだし
威力偵察名目の棄民戦略にすぎないモンゴルになんとか神威で勝っただけで
やーやー我こそはのパフォーマンスコンクールしてたガラパゴス武士が強いわけが無い
錬度の高い重装騎射兵のオールラウンド軍種たる、武士の数をそろえられたこと自体、
日本の国土開発の進捗と、農産物の生産性の高さを物語ってる。
あと、国内では散々領地争いで戦ってても、外国軍に対して一致団結してたたかうだけの
統制力と忠誠心がとんでもなく高い、というのもあるなぁ…
794 :
名無し三等兵:2012/08/01(水) 10:14:58.40 ID:PY/2H524
幕府が号令かけても出てくるのは領地が足りない貧乏御家人、欲しいのは手柄だけだから
一回戦って手柄たてれば目標達成であとはおつきあい、痛い目に合えばもちろんあとは尻込み、
夕方になれば命令もないのに勝手に水城へ、総司令官が退却事後承認でみずからしんがり戦、
これが真相。
本当にに貧乏な御家人はなんやかんや理屈をつけて戦場に出てこない。
とにかく日本側は戦闘員が不足していた。京で強訴で逃げ出した警備役の御家人を
朝廷が幕府に処罰するよう要求した時、モンゴルとの戦争で武士が不足しているから
許して欲しいと弁解しているくらい。だから大和で逮捕された悪党のような犯罪者や
荘園の下司や甲乙人のような非御家人も動員している。
一方で竹崎のような一発逆転狙いの戦士がいたという事実のように当時の日本社会が矛盾に満ちていたのが
露呈したのが蒙古襲来だろ。その後の霜月騒動、北条の滅亡、南北朝内乱と続く歴史が証明している。
蛇足だが侵略軍が侵略先の現地軍(という名の民間人ゲリラ)に苦戦するのは後の朝鮮出兵や最近の
イラクやアフガンの例でも珍しくない。
>>768 >突撃のときの全員騎馬は特別ではない。その証拠に白石勢の突撃も騎馬武者ばかりで、徒歩従者はいない。
いや、特別だから。騎馬武者には薙刀を持つ徒歩従者が付くのが普通。
「蒙古襲来絵詞」だけでなく「前九年合戦絵巻」「後三年合戦絵詞」なども見てみることをお勧めする
白石勢の場合は全員が大鎧・兜着用の上級武士なので、従者は省略されたか、単に見切れているだけとも考えられる
九州の武士が武功を挙げると困る奴が大量にいた
壱岐って平地が多く水田開発がすすんでいて結構豊かだったはず。
江戸時代は平戸松浦家の穀倉地帯(約4〜6万石)として重要視
されていたから、元軍が1万ぐらい駐留しても養えると思う。
まぁ、住民皆殺しにしてたら耕す奴もいないが・・・・。
799 :
名無し三等兵:2012/08/01(水) 14:38:22.46 ID:PY/2H524
>>796 「徒歩従者が付く」ことには反対していないし、私もそう言っている。
突撃について行ったかどうかだ。徒歩ではついていけなかったのではないか。
他の絵巻も見たが、徒歩従者がついているのは進撃場面(まだ矢をつがえていない)
までだ。
矢をつがえて騎射している突撃場面ではもはや徒歩従者は描いてない。
徒歩従者は突撃が止まってちゃんばらに移ったころに追及していろんな仕事をやった
のではないか。その仕事がなにかが問題ではあるが。
>>791 お前らゴキチョンは日本に嫉妬しないと死ぬのか?
徒歩の従者は、討ち死にまたは負傷したのでは?
>>800 何を今更
彼らから反日をとったら何も残らん
>>799 主人(騎馬武者)の討ち取った首を回収する役
804 :
名無し三等兵:2012/08/02(木) 15:55:07.57 ID:MR6jv42O
>>803 主人が忙しければ主人の倒した敵の首を徒歩従者がちょん切る。
そのくらいの心得はある。
でも普段どうやって練習するのかな。
あと、絵詞の弘安の役では小舟に同乗して、敵の兵船を熊手で引っかける
役をしていたね
>>804 西股総生『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』からの孫引きながら、
「男衾オブス三郎絵詞」には
弓矢とる物の家をよく作ツクリてハなにかハせん、庭草ひくな、俄事ニワカゴトのあらん時乗飼ノリカイにせんずるぞ
馬庭のすゑになまくびたやすな、切懸よ、此門外を とをらん乞食修行者めらハやうある物ぞ、
ひきめかぶらにて かけたて―おもの射にせよ、
とあるそうで
意訳すると、鎌倉武士の屋敷の門前を通る乞食や修行者を捕まえて、訓練弾で弓の的にして、首切りの実践やっておけよ とヒデェ内容
807 :
名無し三等兵:2012/08/02(木) 18:00:07.61 ID:5DI5+x77
戦国時代の合戦の例では、二割も損害が出ると、
だいたい我先に逃げ出して壊滅する。
現代戦だって死傷2割って相当な損害だぞ
一応3割で全滅判定ってことになってるが実際そこまで死ぬことは少ないし
あと、小規模な部隊ほど低い死傷率で戦力を失う
1個分隊から1、2名の死傷者が出たら普通後退するし
809 :
名無し三等兵:2012/08/02(木) 21:19:33.88 ID:jLH0w+Y0
>>808 一個分隊8人で死傷1〜2って率でいったら12.5〜25%だろ
8人分隊は基本か?
812 :
名無し三等兵:2012/08/03(金) 08:28:03.86 ID:J0VMC3cZ
騎馬武者に付き人入れたら、それくらいの人数にはすぐなりそうな気もする。
813 :
名無し三等兵 :2012/08/03(金) 21:45:42.61 ID:???
もし騎馬武者2騎なら、徒歩従者各3人付いたとしてもう8人だからね。
竹崎の軍勢はかなり特殊な例。
竹崎本人が他の御家人に郎党に誘われたりしているからあまり形式にこだわっても
仕方がない気がするが。
例の人は日本史板の方に行ったみたいやね
ご苦労なこって
通りでこのスレが静かな訳だ
昔は11人班だったのに・・・
820 :
名無し三等兵:2012/08/04(土) 23:10:38.88 ID:pXvPigX0
>>817 逆。静かになってつまらないから向こうへ行った
821 :
名無し三等兵 :2012/08/05(日) 11:38:17.11 ID:???
文永での日本軍は5-6000騎というけどこれは騎馬武者の数だから、
一騎あたり3-4人付いた補助要員の内2-3人は非戦闘員の下人だとすると
残り一人が徒歩の郎党となり、戦闘員の総戦力としては10000程度、
ということなのかね
>>821 地元の戦闘でその比率だと、遠征の場合は戦闘員の比率は凄いことになりそうだ。
823 :
名無し三等兵:2012/08/05(日) 15:22:28.84 ID:wo69TAuo
輸送補給に必要な人員と兵糧は、
距離の二乗で増える。
輸送人員や牛馬もめしを食うから。
空中給油機に空中給油して、といった具合に、
爆撃機を航続距離の5倍くらいまで遠征させた図がどっかにあったはず。
空中給油機の数がとんでもないことになってた。
825 :
名無し三等兵 :2012/08/05(日) 18:32:23.88 ID:???
>>823 大東亜戦争のニューギニアにおける南海支隊のポートモレスビー攻略作戦が
まさにそうだね。
当地では駄馬道すら途中まで、オーエンスタンレー山脈にかかるあたりから
現地人が通る人道しかなく、臂力(人力)担送で膨大な輸送人員が必要になり、
それを確保せず進撃したため飢餓に・・・(ToT)
弘安の役では3ヶ月分の食糧を持参していたようだが、文永の時はどんな物だったのだろう
元軍はあの兵力の何を持って勝てると判断したのかな
攻撃して少し脅せば日本側が引き下がると?
いや、大抵の国は10万の兵隊叩きつければどうとでもなるだろ
10万もいらんわ
当時の普通の国なら3〜4万でどうとでもなる
3〜4万ごときなら本気出さなくても瞬殺できる日本が異常なだけ
そう、たまたまなんだよ...
もし源平合戦中に元寇来たりなば...
もし南北朝期に南朝が元軍に帰順したなら...
>>830 荒れていた日本が外敵を目にして一つにまとまり、結果同じことが繰り返されるだけ。
下手にウォームアップしてるからもっと悲惨な結末になるかも。
騎馬武者1人倒すために必要な矢の数が半端無くて、そのまま会戦になったら間違いなく矢の不足で負ける
と言うのはリアリティあるな
武士政権があり、国を割るような大戦争を経験しているのが大きかったな。
蝦夷と戦い続けていて対狩猟民族慣れしていたのも大きい
>>832 だとしたら、弘安の役で何らかの対策をしてきそうな物だが
>>837 どれほど名文の返書を書くより雄弁ですな。
「かかって来い」という意思表示としては。
839 :
名無し三等兵 :2012/08/06(月) 21:33:28.39 ID:???
日元両軍の装備(武器防具)・戦術面をまともに分析した本が欲しいね。
いいかげん「蒙古の短弓>>日本の長弓」「鉄砲・毒矢の脅威」
「集団戦術vs一騎打ち」といった"通説"(=軍事的考察のない妄言)を
論破するちゃんとした文献が望まれる。
誰がその首もって帰ったんだ
>>839 それは結構難しそうだ。
弓矢1つ取ってみても、単純に両国の弓を比べるだけじゃ意味がない
蒙古の弓で日本の鎧を撃ち、日本の弓で蒙古の鎧を撃って検証しないと…
>>835 弘安で色々準備したがやっぱりそれでも見込みが甘すぎたと
>朝鮮の弓はアジアでは最も優れている部類のもので、最大射程は約450メートル”との主張も見られるが
>英国のギャルウェイ卿によるテスト結果から世界最強の弓とされる19世紀のトルコ弓(角弓)であっても
>実戦用の矢を使用した場合の最大射程は約400mであり
>また米カリフォルニア大学のサクストン・ポープ教授による同大人類学博物館所蔵の世界各地の弓の実射テストによる結果でも
>トルコ弓の飛距離が257mおよび250mであったのに対し
>朝鮮弓そのものではないものの
>同系統の東アジアの角弓である中国弓(清朝)が91.4m
>モンゴル弓(タタール族)が82.3mおよび102.4mと同じ角弓であってもトルコ弓に著しく劣る。
>(なお、同実験における和弓は142.6m)
鎌倉時代に使われていた三枚打弓は鉄板を貫通するらしいから少なくとも元軍の鎧には効果あっただろうな
問題は対射撃戦用に作られた大鎧の防御力か
弓矢の射程で追い払った訳じゃなかろうに...
だいたい中世日本の兵器、装備が世界最強だったなら、なぜ世界制覇に乗り出さなかったの?
世界制覇に乗り出せなかった武士は弱い
>>843 だったら応永の外寇であんな醜態さらすはずないですよね?
海外遠征出来るまで国内情勢が安定していないから
元寇後も和弓にモンゴル弓の影響が皆無な点からして
元軍の弓は大した事無かったと思う
851 :
名無し三等兵 :2012/08/07(火) 21:37:20.25 ID:???
弓の構造・長さ、矢の材質・重さから考えて、どう見ても和弓>>蒙古弓
なのにな。
それに幼時からの武士の鍛錬を勘案すれば、徴募兵の漢軍(生粋の蒙古兵は
ごく僅かだ)と大差なのはより明白。
愚童訓あたりの妄言を考察無しに鵜呑みにして真逆の評価をしてきた
無知かつ馬鹿な偏向歴史家どもは恥を知れと言いたいよ。
俺が学生当時ですらちょっと考えればわかるようなことなのに。
モンゴルの弓は、湿気に弱そうだな。
>>852
接着剤の膠が湿気を吸うと剥がれてくるらしいね。
日本の合成弓は漆を塗ったりして湿気を防いでいるけど。
>>853 それも去りながら、弦が皮だか腸だかでできてるらしい。
これは濡れると伸びる⇒張力がた落ち
文永の役の日本側はお世辞にも統制が取れていたとは言えない状況だよな
抜け駆けしまくってろくに組織戦が出来ていない
まぁそれでも勝っちゃう訳だが
>>855 その辺も、「元軍は鉦や太鼓で整然と」と言われるけど
どの程度有効だったんだろ? 戦場全体に聞こえるような鳴り物だと
特定の部隊だけに呼びかけるのは難しいから「全軍ススメ」と「ひけ」
位しか合図できないんじゃ?
和弓は漆を塗った後藤紐で縛るからな
和槍も2重構造の柄に漆を塗った後、紐や金属の輪で固定するし
中国の槍矛は日本刀で柄を切り折られてたけど
日本の武器はそこら辺しっかり補強してる
>>856 大軍が同時に攻撃をしかけて同時に引く事が出来るってのが大きいんだよ
赤坂の戦いだって本当は博多まで引き寄せてから討つつもりだったのに
菊池勢が勝手に赤坂に進軍してしまった
本当なら各個撃破されてもおかしくない状況
でも勝っちゃったw
大軍なんて士気が低ければ、むしろ集団心理で恐怖が伝播して、すぐに崩壊するんじゃないの
ぶっちゃけ元軍って、少なくとも日本軍よりは士気低いだろ。農民や流民集めた雑兵が主力だし
まあ、それでも大陸では精鋭な方なんだろうが
少勢でも騎馬で突撃されると混乱するだろうし
乞食やならず者の寄せ集めなら一度崩れると立て直せない
>>859 日本でも後世だと法螺をつかったらいしてたからなー
元寇が、戦術面の改良をうながした面は否定しがたい
その後歩兵中心の戦術に移ったのは少なからず影響がありそうだね
歩兵中心になったのは要因が多過ぎて、元寇の影響は少ない方だろうよ
鎌倉時代にしたって、そこまで騎馬一辺倒ではなかったし
>>852 インド攻略が失敗したのも暑さというより
実は湿気が最大の問題だったのかもしれないね
騎馬武者1人に子飼いの郎党1人、2人という単位から
支配する国の村々から徴集して兵士に仕立てるやり方は元寇以降かもしれない
867 :
名無し三等兵 :2012/08/08(水) 21:53:49.74 ID:???
>>856 その「元軍は鉦や太鼓で整然と」ってのも、練度不足で士気の低い寄せ集め
だったからそうせざるを得なかったという面もあるだろう。
そうでもしないとまともに戦えないと言う。
一方の日本武士団は、共に鍛練を重ねた武士達と常に行動を共にする郎党で
ペを組み、以心伝心的に一丸で戦えた。
各家同士の連携は良くないとしても、これが武士団ごとの高い戦闘力を生み、
武具防具の優位と相俟って、菊池勢のように寡兵で大軍に勝てた要因に
なったのだと思う。
>>867 集団で整然と行動するという先方は日本では全く流行らなかったね
戦国時代でも備の単位である程度好き勝手行動するからな
それを見た宣教師から「日本軍は統制が取れていない」と言われてる
実際はそういう訳じゃないんだが
中世以降はともかく、古代の白村江の戦いは統率の悪さがモロに響いたケースじゃないだろうか
870 :
名無し三等兵:2012/08/09(木) 02:22:53.09 ID:GhfQ9rLy
対陣するやいなや、倭将の命令を聞かずに小舟で各個に突撃して、
唐軍に大破されたんだっけ?
871 :
名無し三等兵:2012/08/09(木) 08:27:01.45 ID:ewfnbQ5w
(´・ω・`)歴史が違うんだから戦い方も違うさ
鎌倉軍も寄せ集めなんだよ
単位が「素人の個人」と「職業軍人で構成された武士団」なのかが元と日本の違い
武士団は分隊〜中隊規模に相当する兵数と指揮官を有してるので
勝手に行動しても戦術戦闘能力には問題がない
大雑把な作戦レベルの方針にさえ従ってるなら進退自由にしたほうが効率的
扱いづらい封建領主に自然のままに自主裁量を与えたのが日本武士
貴族がどんどん没落して絶対王政化することで解決したのがフランス
王権が弱い段階で集団運用しようとして失敗したのがクレイシーなど百年戦争前半戦
18世紀欧州の戦列歩兵も兵員はわざと池沼ばかり集めたと聞いたな
何も考えるな判断するな、ただ鼓笛隊の音と指揮官の号令で前進後退発砲しろと・・・
>>870 白村江は戦闘前からgdgdだったからなあ
そもそも「なんで百済のためにわざわざ海渡らなあかんのー?」って感じだったし
百済は天皇家の祖宗の国だったからじゃないか?
祖宗の国の王家が人質よこしたりするのかぁ
879 :
名無し三等兵:2012/08/09(木) 22:18:27.74 ID:QYXOeq02
単に百済が日本の属国だったからでしょ
唐軍だって属国の新羅への援軍で来てたんじゃないか
新羅も元は日本の属国だったんだけどね
>>872 鎌倉側が職業軍人とか何を言ってるんだ…
信長軍が職業軍人だったから天下統一出来たとか痛い誤解する人は
いまでもたまにいるけど鎌倉時代までさかのぼるとか
職業軍人とは違うかもしれんが、戦闘階級だったろ
883 :
名無し三等兵:2012/08/10(金) 04:49:35.68 ID:URIfh3iP
10日ぶりにこのスレ見たら、なんか議論の質が大幅に下がってる...
スレ住民が入れ替わった??
八幡の記述は別の戦闘だの人が日本史板に移動してまたーりしてる
こっちは「低レベルな議論」を延々とやるから
彼は永遠に日本史板から出てこないでほしい。
どっちかを彼の隔離スレにしたいから
破綻した論理を延々書くだけで気色悪かったな
赤坂〜元軍撤退までにまた赤坂まで攻め入ったとかな
八幡を擁護するあまり戦闘をでっち上げる始末
888 :
名無し三等兵:2012/08/10(金) 13:15:46.68 ID:RDImOr5j
すいませーん、八幡ノ蒙古記を読んでみたいのですが、ネットで読めますか?
もし無理なら、八幡ノ蒙古記に元高麗軍の上陸地点と進軍経路がどのように書か
れているかを知りたいです。
よろしくです。
鎌倉武士なんて単語が並べ立てているんだからプロパガンダと馬鹿にしている八幡ノ蒙古記
と同レベルの輩が時代錯誤の神国思想を開陳する場であることをよく自覚しているな885は。
皮肉のつもりが自分が無知なことを晒しているな。
さあ次は弘安で中国人を皆殺しにしたことを誇りでもしたまえよw
??
神国でも仏国でも何でもいいから
夕刻以降に元軍が赤坂まで武士を押し返した一大決戦の証拠はよ
>>888 ネットにゃ出回ってないと思うぞ。読みたきゃ、小野尚志の本の翻刻か橘守部全集から見つけてくるしかない。
あと戦況に関する描写は大体でいいなら八幡愚童訓でいい。文字だの文章単位での違いはあるけど、あれの縁起だの牒状の抜粋だの抜いた体裁が蒙古記になる。
893 :
名無し三等兵:2012/08/10(金) 21:42:46.57 ID:egycycuu
韓国人ってさ、
モンゴル人だよな。
顔が朝青龍系だし。
元寇の残党だよな、明らかに。
朝鮮民族だと思ってるようだけど。
もしかして刀伊の方が日本に損害を与えてる?
>>890 訳:偉大な大モンゴル様がジャップサムライごときに負けるはずが無いニダ
大陸にありがちな、農民・流民を寄せ集めただけの軍隊相手に
勝ってきたというだけの、ただの騎馬民族だろう
冷静に考えれば、武士相手に「負ける筈が無い」などとは言えない
897 :
名無し三等兵:2012/08/11(土) 06:56:58.78 ID:DLnwGP+x
>>888 >八幡ノ蒙古記を読んでみたいのですが、ネットで読めますか?
ウィキペディア「元寇」の、下の方の参考文献のなかにあります。
いくつかに分かれて、「八幡愚童記」と交互に載っているから間違えないように。
>元高麗軍の上陸地点と進軍経路がどのように書かれているかを知りたいです。
進撃経路は2カ所にあります。
まず「今津、佐原、百道、赤坂」
次に「佐原、筥崎、宇佐」
佐原は早良と同じと思われます。今も内陸部に佐原の地名があります。
宇佐はどこかわかりません。
知っている人がいたら教えて下さい。
898 :
名無し三等兵 :2012/08/11(土) 11:08:12.29 ID:???
>>893 朝鮮人とモンゴル人は人種が違う。
モンゴル人や日本人は幼時80%が蒙古斑を持つのに対し、
朝鮮人支那人には20%しかいない。
899 :
名無し三等兵:2012/08/12(日) 01:00:15.30 ID:Ys4ZZzaS
>>897 ありがとうございます。
やはりネットでは、全部は読めないみたいですね。
八幡愚童訓諸本研究という本に収録されているようですが、我が町の図書館に
はありませんでした。
その本を買え!とは言わないで下さいね。(T−T)
進撃経路についての情報ありがとうございます。
八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞では、どこが違うのか調べてみたかったので、と
ても助かりました。
私なりに色々調べてみようと思います。
ご協力感謝します。
>>894 国防が停滞していた平安中期ならそうだろうな
新羅の賊とか刀伊とか応永の外寇とかって殆ど扱われないよな。
16世紀後半もスペインやポルトガルは割とガチで日本狙ってたけど
その軍事力の高さと距離の遠さから断念したって話も。
だから「日本は攻めこんでくる国も無いほどのド田舎」って前提で語られる。
何度も入寇くらって対馬は大変だな
>>901 当時は黄金の国ジパングだったしね
江戸中期までに鉱物資源ほぼ掘りつくしたけど
安全保障的にはさっさと枯渇させといて正解だった気がする
モンゴル兵が溺死したのは驚いた。
>>904 嵐の海でしょ?普通に溺れませんか?
それに、国民ほぼ全部泳げるのが当然の国ばかりじゃないでしょう。
906 :
772:2012/08/12(日) 21:57:53.68 ID:???
>>905 素朴な疑問なんやがモンゴル人って
海で泳げるのか?
海どころか水たまりにすら近付かないって話だぞ
泳ぎなんか練習してる暇があったら、馬と弓を鍛えんかい!
といわれるんじゃないかな。
でも主力は海洋民族南宋人でじょ?
弘安の役のいわゆる神風なら
闇夜に台風で、着衣どころか武装した状態で海に落ちたら
相当な水練の達人でも溺れると思うんです。
撤退時にも武装してたのか?
夜間+高波じゃ素っ裸でも溺れるだろ
天気晴朗ナレドモ波高シ
南洋と比べられないでしょ
スレ違いだけど
朝鮮出兵で足掛け7年半島連絡線を維持できたのは中々に凄いことなんじゃないかと
モンゴル人は泳げもしないのに、島国を攻めた愚か者で
武士相手に苦戦しているうちに溺れたんでしょ?
嵐とかが無くても、海に落ちたら死亡するような兵隊を
派遣してくる元は馬鹿なの?(´・ω・`)
あの状況じゃ泳げてもしょうがないような・・・
てか元の敗因はそこじゃないだろ
>>914 そりゃ唐入りの時は宇喜多゛泳いで参った゛秀家公がいたからな
>>916 せっかくだから、敗因はいずこにありと?
>>918 海上輸送力の不足、重装弓騎兵である鎌倉武士との相性の悪さとかかねぇ
あと大兵力がビーチングして展開できるような地積のある上陸適地が北九州には博多しかなくて、ここを固められたら詰みだったとか
戦意も低かったのかも知れん
軍船停泊させるなら博多より古代から日本の大陸派遣の本拠地になってる唐津の方が適地
元は大宰府を直撃したかったとしか思えない
上陸しても橋頭堡を築けず元側は敗走してる
逆に日本側は島に上陸して散々に元側を打ち破ってる
なんで、元側の質、量共に戦力不足だろうね
文永の役はどう考えても戦力不足で、元軍がどんなに頑張っても「どこで力尽きるか」の差でしかない
正に「小国の堅は大国の擒」状態だから敗因も何もないか。
弘安の役についてはまず、東路軍だけで先端を開いたのが大きいと考える。
東路軍の規模は文永の元軍とほぼ同じであり、指揮官も文永の役のメンバーと被りまくっている。
つまり東路軍の指揮官は世界で一番「この戦力じゃ日本には勝てない」事が判っている人たちのはず。
江南軍の大幅な遅れがあったとはいえ、前回より遙かに強固な防備を固めた日本軍と単独で交戦したのは
失策だろう。
上陸地点を読まれていたのも厳しいか。「十分な準備を固めた軍を相手に敵前上陸」は超のつく死亡フラグだが
これをやってしまった。
どう考えても、元軍は博多よりも、瀬戸内海をそのまま東進して播磨、あるいは日本海東進して越前で上陸→平安京急襲するのが最良だった。
元軍が大宰府を執拗に狙ったのは、日本側の情報操作により何らかの事実誤認があったものと思われる
いずれにせよ、日本側の防御体制は極端な九州北部偏重であり、
海上を往く元艦隊を阻止する手段が無い為、
元軍に裏を掻かれた場合、国難どころの騒ぎでは無かった。
>923
瀬戸内みたいな小島・暗礁・岩礁てんこ盛りの内海を
水先案内無しで抜けられると思うのか?
まともな海図なんて間違いなく無い時代だぞ?
日本列島の大雑把な形すらまともに分かってない時代だぞ?
やはり南宋が落ちるまで対日侵攻は見合わせるべきだったな
てか東路軍無しで江南軍だけのほうが良かったんでね?
>>926 常識的に考えれば日本征服は採算性が悪い。文永の時点で元の諸将は
貴殿同様南宋優先を唱えていたようだ。それを覆して日本侵略を決行したのは
高麗の王太子の強い意向…だというが、そんなに発言権大きかったのかね?
大きいのだとしたら、元の世界戦略とかとは別次元で発動した作戦かも知れない。
多分、東シナ海・南シナ海の支配や貿易圏を拡大するための海上ネットワークの繋ぎが目的で
もしかしたら九州一つ取るだけでも元はそれで良かったかもしれん
または「日本に東側にもう一つ大陸があるんじゃね?」と先見して・・・
>>923 元にそれができなかったのは、使者を斬った成果ですかね。
多分圧倒的武力で大宰府を抑えれば後は日本が小便ちびって平伏すと思ってたんだろう
中国地方や瀬戸内海の情報が手に入らなかったとかかなぁ?
日宋貿易は初期は敦賀、鎌倉時代には博多が中心だったそうだし
元が近畿直接ルートを考えるなら敦賀になるんじゃないかな
元もそうだが、支那の歴代王朝って、最初から貿易交渉だけすりゃ良いものを
変に拘って従属を求めたりして、諸外国との関係を悪化させて痛い目見るのが
得意だよな
中華思想って奴だ
瀬戸内には潜水艦で侵入すればいいよ
大陸に理解のあった松浦党虐殺して
海賊業者の恨み買いまくりな状況で瀬戸内海賊買収も出来んしな
>>933 清は江戸幕府が警戒していたが、空気を読んだよ。
>>933 今正に同じ過ちを繰り返そうとしてるなw
中国の王朝って大陸統一国家を作り上げていく過程を生きてるからな
隣接してるところは全部飲み込んでいく
他国とは隷属国であって、独立した存在は認めない、まさしく中華思想
たとえば清は鄭家水軍が鉄人隊、倭銃隊の存在を喧伝しており、
日本が武器類の輸出を黙認している経緯を知るかまたは疑っていたと思われる
また江戸幕府内部でも出兵論が強く、日本は明に同情的だったわけだが、
幕府が警戒していたような、薩摩藩支配下の琉球に対しての辮髪強要のような要求はしていない。
結局、国際情勢を判断できるか否かの違い
等というアホが居なかったのが勝因かなあ
>>941 弘安後の元側重臣の行動見ると
裏であの朝鮮野郎をのさばらせてたら我が国が危ういとか
悪口叩いてただろうことは簡単に想像できる
944 :
名無し三等兵:2012/08/19(日) 17:46:42.29 ID:wmnwsTCM
倭兵大敗って書いてるから損害は武士(笑)のが上だなww
やぁーやぁーとか言ってたら撃たれて死んだとさ(笑)
夕刻以降の戦闘についてどうなったの?
証明はできたか?
946 :
名無し三等兵:2012/08/19(日) 21:08:18.77 ID:wmnwsTCM
夕刻には水城まで後退してガクブルしてたら元軍は退却したんじゃん
関連書もよめねぇのか?小学生からやり直せ
>>946 じゃあ何で退却したん? そんなに勝っていたのに、橋頭堡を1日であっさり放棄するほど元の軍隊は間抜けだったん?
あと懲罰のためというのもなしね。4000程度ならともかく4万も投入して、しかも大宰府すら落としてないんでは懲罰にもならんから。
攻城兵器に頼らなきゃろくに城攻めも出来ないモンゴルが大宰府に挑めるわけがない
一方、対蝦夷でローマ人ばりの拠点構築を行った事から見ても日本側は拠点防衛もお手の物
防塁構築は当然の選択とも言える
950 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 08:38:08.26 ID:PltPIb1Q
>>947 >じゃあ何で退却したん? そんなに勝っていたのに、
勝ったからこそ撤退した。
どうせ撤退するのなら日本軍がいなくなった間に安全に撤退した方がよい。
中途半端に終わって日本軍が居残ったら引くにも引けない。
敵前の水際撤退は怖いから
博多も大宰府も落とせずに一日で退却とかどう見ても敗走だろw
952 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 09:33:12.49 ID:PltPIb1Q
>>951 敗走とか言葉はどうでもいいが、それを言うなら水城へ撤退した日本軍も敗走だ。
後宇多天皇の「一代要記」も「宰府軍など皆逃げ終わんぬ」と書いている。
(宰府軍等皆北了)
水城撤退ということはすなわち博多・箱崎放棄。
何度も言うが水城が防衛ラインなんだからそこに戻るのは普通だろ
もうこのスレも語る事無くなったな
昼間の戦闘で、一時的に上陸して橋頭堡を築いたが、
日本軍の実力もわかって、橋頭堡を維持できないと判断して、
放棄し、撤退したんじゃないかな。
ま、上陸してきたのが米軍じゃなくて良かっただ
>>952 水城で守りを固めた(これも事実化かどうかは不明だが)日本軍に対し
元軍は戦闘継続を断念して全面撤退と
どちらが戦略目標を達成した(勝利した)かなんて一目瞭然だよね
博多は掠奪されたの?
958 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:40:25.82 ID:PltPIb1Q
>>954 日本軍は博多の沖の浜に集結していたのだから目的は博多防衛にあったことは明らか。
その博多を放棄して元軍の手にゆだねたのだから、
どちらが戦略目標を達成した(勝利した)かなんて一目瞭然だよね
船に乗り込んで退却した側が戦略目標達成なのかw
万単位で兵員集めて街に半日入るのが戦略目標だったとしたら
なんていうか不思議な戦略を立てる国だとしか言いようが無いな・・・
960 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:55:34.65 ID:PltPIb1Q
>>959 属国が舟と、食糧と、漕ぎ手と、四分の一の兵員を負担するのだから
元にとっては屁でもない。
それで日本軍を叩き、博多を略奪して、日本が恐れ入って国書を送ってきたら
それでいいのさ。
その目論見が、日本側のプライドの高さであてが外れただけ。
はい、戦略目標達成ね。
961 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 11:57:54.33 ID:PltPIb1Q
>>959 防衛するはずの当の博多を敵手にゆだねて水城へ逃げたら、それが戦略目標達成か。
不思議な戦略だな
>>961 日本側にしたら、九州防衛が戦略目標で、博多は単なる作戦・戦術レベルの価値
元の戦略目標が、日本が恐れおののいて国書出すことにあるのなら
その手段としての博多一撃離脱は作戦目標でしかないぞ
>>960 博多が制圧されたなんて記録は無いわけだが
>それで日本軍を叩き、博多を略奪して、日本が恐れ入って国書を送ってきたら
>それでいいのさ。
はい根拠不明
クビライが「ちょっと脅してこい」と指示を出したというソースは?
元史に「軍の編成が乱れ、また矢が尽きたので撤退した」とあり
「高麗史」によれば金方慶が「焚船」や「背水の陣」の故事を持ち出して戦闘継続を唱え、
それに対して忽敦が「小敵の堅は、大敵の擒なり」と諌めて撤退を決定している
こうした元・高麗側の記録を見る限り、元軍は戦略目標を達成できないまま撤退した、
つまりは負けたとしか思えないじゃん
基本的に戦争なんてのは、
相手をバラバラにして、各小撃破する競争なんだから、
崩れたら、適当なところまで撤退して、隊を建て直すのは基本。
で、激しい戦いで両者とも一時退却して、隊をまとめる必要があった。
それが日本軍は水城であり、元軍は船であったと。
で、第二ラウンドの準備をしていたら、そのまま退却しちゃったということかな。
また妄想戦記をぶちまけてるのか
懲りないねぇ
あのモンゴル帝国が敗退するわけないという先入観で頭ん中一杯なんだろうな
武士が撤退してのはボロ負けしたから
モンゴルが撤退したのは予定通り
>>964 「小敵の堅は、大敵の擒なり」って、元側が「小」だってことだから
この時点で元側は自らが劣勢だとハッキリ認識してるってことだよな
中世の軍隊は略奪で物資を補うことを考えれば
船に撤退するという事がどういう意味を持つのか分かりそうなもんだが
船だの武具だの4万もの軍勢を動かすのにかかる軍費だって馬鹿にならんでしょ
日本をちょっと痛めつけて満足したんで帰ります?大宰府も落とせずに?
大体相手がそこまで強かったんなら幕府に異国征伐論なんて出てくるかね
971 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:31:28.46 ID:PltPIb1Q
>>966 >あのモンゴル帝国が敗退するわけないという先入観で頭ん中一杯なんだろうな
モンゴル帝国軍だって負けるときは負ける。金方慶伝の弘安の役の記述を読んで見よ。
「日本兵突進し、官軍は潰え、洪茶丘は馬を棄てて走る」
「斤都、茶丘累戦して利あらず」
とはっきり書いている。だからこそ勝ったときの:
「倭兵大敗し、伏屍麻の如し」
が信用できるのだ。
あのモンゴル帝国がと言うけど、モンゴルは弱国には強いけど強国には苦戦しておるよ。
日本は中世から世界の大国なんだから、あの程度の戦力では負けるのは当たり前。
973 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:40:34.25 ID:72H3SJKY
武士に勝算はなかったが蒙古は退却した
>>971 戦略レベルの話と戦術レベルの話をごっちゃにしてないか?
975 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 14:53:44.39 ID:PltPIb1Q
>>972 >あの程度の戦力では負けるのは当たり前。
そうそう、おおげさに言うことはない。まさに「あの程度の戦力」なのだ。
だから短期作戦用でしかない。
短期作戦であればいづれは撤退する。
たまたまそれが1日であっただけ。
そう言えばあのディエップ上陸作戦の計画でも、占領時間は「6時間」だったな。
976 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:00:29.53 ID:PltPIb1Q
ただし、「1日であっただけ」と言っても、それが計画だったとは限らない。
文永の役の元軍は頭と尻で切られていた。
頭は当初の侵攻予定がいろいろの事情で数ヶ月遅れたことだ。
尻は海峡が航行不能になる冬の季節だ。
この時期に発進した時点で短期作戦は約束されていた、という「文永十一年冬の嵐」
の指摘は正しい。
そして戦闘の結果、目の前の日本軍がいなくなった。
敵前の水際撤退をやらなくて済む。撤退するなら今だ・・・それが上陸後1日
という結果になった。
それだけのことだ。
一回目の上陸で日本側が負けた後、みずき(水城?)で水計を使った反撃予定だったとか小学校の先生が言ってた
その秘密兵器使って乾坤一擲の勝負かけようとしてたら、なんでか蒙古は船に帰ってしまって、そこで神風に云々
978 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:27:09.25 ID:M/LTrGwk
文永の役で、3万〜4万を投入して勝てないのも想定外ながら、
弘安の役の再挑戦で、14万人を投入して勝てないとは、
さすがに思わなかっただろうな。
遠征でこれだけの数を投入すれば、さすがに戦費で傾く。
世界史の常識的に考えて、日本側がこの倍近い数を投入できるとは
思わなかっただろう。
979 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 15:41:42.98 ID:M/LTrGwk
博多周辺の豪族が集まってきた程度なら、
14万もいれば、さすがに蹴散らせるはず。
だが、鎌倉幕府の元で、全国の動員体制ができていて、
各地から兵が送られており、
足りなければまだまだ兵を集められる状況にあった。
つまり、軍事的には想定外の先進国であったと。
だから、多分大宰府を獲ったとしても、その周りから攻められ続け、
いずれは撤退することになっただろう。
980 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 18:34:33.75 ID:Zw4MZHDe
>>978 >文永の役で、3万〜4万を投入して勝てないのも想定外ながら、
>弘安の役の再挑戦で、14万人を投入して勝てないとは、さすがに思わなかっただろうな。
文永の役で3万の兵で「倭兵大敗、伏屍如麻」の勝利を納めたと認識したからこそ、
弘安の役では14万の兵で征服、さらには屯田までできると判断した。
その判断が誤っていただけだ。
>>980 「倭兵大敗、伏屍如麻」という認識自体が誤りか、最悪虚偽報告だったんじゃ?
982 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 19:47:31.81 ID:3VtGqXQM
(´・ω・`)それはどの戦場の事を指してるんだよ、結果的に元は橋頭堡も確保出来ずに撤退してるんだし、大敗だなんて壱岐対馬くらいじゃないか
まさかと思うけど、文永の役は高麗王子の面子を立てるために
形だけ攻め入ったんじゃあるまいか。
>>983 面子のためだけに
あれだけの兵と船舶動員するって
どんだけ大散財なんだよ
985 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 20:22:15.40 ID:Zw4MZHDe
>>981 >「倭兵大敗、伏屍如麻」という認識自体が誤りか、最悪虚偽報告だったんじゃ?
そう思いたい気持ちはわかるが、八幡の蒙古記や福田兼重文書とも一致するし・・
>>それはどの戦場の事を指してるんだよ
金方慶伝で「捨舟三郎浦」(三郎浦に舟を捨て、=上陸し、)の後にあるから早良郡の戦場だな。
つまり鳥飼潟〜祖原山の戦場だ
986 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 20:23:53.56 ID:Zw4MZHDe
悔しいけど我々日本人は劣等だorz
>>985 しかし一方で、夜間逃走という結果との一致がなぁ。
たくさんの日本兵を薙ぎ倒したが、それが所詮小敵の堅でしか無いほど
日本側が圧倒的だったとでも考えるべきなのか…。
文永の役における元の動員兵力はおよそ4万、うち未帰還が13500と言うから
1/3が戦死または行方不明だ。戦死とそれ以外の死亡の比率は判らないが
現代の感覚なら、ほぼ壊滅したと言って良いだろう。
989 :
名無し三等兵:2012/08/20(月) 22:46:01.48 ID:PltPIb1Q
>>988 嵐で戦艦が暗礁に触れて多数が難破した、高麗軍の部将が溺死した、と言ってるのだから
未帰還者の大部分は海で遭難したんだろ。
まあ戦死だと思いたい気持ちはわかるがね。
>>985 福田兼重文書が高麗史と一致とかこじつけにも程があるわ
内容ちゃんと読んで理解しているか?
夜間撤退なんて超危ないマネ相当ヤバイ状況じゃないとやろうと思わんだろ
元軍に大した被害が無かったとは思えないんだが
遭遇戦になって、双方とも『かなりヤバイんじゃね?』って損害がでたんじゃない?
「倭兵大敗、伏屍如麻」は
大損害を受けた松浦党のみなさんのことって結論が出てただろ
994 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 09:24:28.06 ID:11rCSJ0K
>>990 >福田兼重文書が高麗史と一致とかこじつけにも程があるわ
>内容ちゃんと読んで理解しているか?
福田文書の後半は、大勢の中に駆け入って射戦し、矢を三本射立てられた、大勢に
囲まれたにも係わらず珍しくも命長らえ、首を取らせなかった、
となっている。普通はここまで引用しないから「百道原に懸け落とす」で、敵を
撃退して終わった印象になる。
よく読めば、元軍の後退に引き込まれて突入した武士が大勢に囲まれ、危うく首を
取られそうになったが珍しくも(原文:希有に)助かった、と言う、八幡ノ蒙古記で
おなじみの戦闘様相を述べているに過ぎない。そう言えば竹崎も同じようなことを
言っていたな。
福田が希有に命長らえた、ということは取りも直さず、それほど希有ではなかった
(つまり命を落とした)その他大勢の武士たちがいたことを意味する。
995 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 09:37:17.60 ID:11rCSJ0K
>>993 >「倭兵大敗、伏屍如麻」は大損害を受けた松浦党のみなさんのことって結論が出てただろ
そんなのはいくつかある希望的「結論」のひとつに過ぎない。
ウィキペディアは壱岐の戦いのこととしているな。
しかしこれらの希望的「結論」を引き出すには、ものすごく無理をして漢文を読まなくては
ならない。
学者たちまでがそういう無理な読み方をするのは、元寇となるとどうしてもナショナリズムが
紛れ込むからだ。
そんな漢文の読み方が、漢文の本場、中国で通るかどうか考えて見ればよい。
つまり、これもまたもうひとつの「ガラパゴス」なのだ。
>>994 あれはむしろ国内戦なら間違いなく首を獲られるような状況だったのに
元軍相手ではそうならなかったというのを表しているんだろ
もしかして、国内戦では大勢に囲まれる状況がなかったと思ってるのか?
997 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 10:21:17.08 ID:11rCSJ0K
>>996 武士びいきも苦労するな。
「希有に存命」これは効く。
「一般に不存命」の意味だからな。
『福田兼重申状』
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶)徒等、令懸落百路原」
(十月二十日に元軍と鳥飼塩浜に於いて合戦を行い、麁原山の凶徒が引き退いたので、
百路原に戦って追い払った)
『日田記』
「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ
姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
(日田弥次郎永基は文永十一年十月二十日に元軍と姪浜と百路原に於いて一日に二度合戦し、
大勝利した)
「日田記」「財津氏系譜」には百道原へと敗退した元軍は日田永基らに破られ、
さらに後退して姪浜でまた破られたとある
福田兼重など危うく討死しかけた者もいることから一進一退の激戦が展開されたと思われるが、
全体としては日本側が優勢で、後退していく元軍への追撃を繰り返していたことになる
1000 :
名無し三等兵:2012/08/21(火) 14:13:50.67 ID:11rCSJ0K
315 :日本@名無史さん:2012/08/11(土) 17:36:08.66
福田兼重申し状写しのオリジナル
福田兼重申状写「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、
各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、
馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、
希有仁令存命、不分取許也、」
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒百道原に引き退くにつき、
大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに箭三筋射立てられおわる、
およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
「右、去年十月廿日、異賊ら襲い渡りて早良郡に寄せ来たるの間、各々当所に相い向かうべく仰せ
蒙るの間、鳥飼潟塩浜に馳せ向かわしめて防戦せしむるのところ、彼の凶徒ら引き退くにつき、
百道原に懸け落とさしめ、大勢の中に馳せ入りて射戦せしむるの時、兼重鎧の胸板・草摺などに
箭三筋射立てられおわる、およそ大勢の中と雖も希有に存命せしめ、分取り許さざるなり」
せしめ、などと使役形になっているのは令の字で、謙譲語である。また分取りとは首をとること。
>>998の佐藤鉄太郎の読みがインチキなのは山は凶の誤記なのに山と凶の両方生かしていること。
これに原文のどこにもない祖原の地名をくっつけて祖原山の敵も退いたことにした。
こういういことを学者がやってはいけない。また引用を途中までにして印象操作している。
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