文永の役で元軍が日本軍によって赤坂より西の鳥飼、百道原に押し込められたまま逃げ帰ったってのは
史料から確定してる事実
953 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 17:49:30.06
>>953 蒙古襲来絵詞、日田記、福田兼重申状、大友頼泰覆勘状写(都甲文書)だよ
>>943 俺が教科書で習った時は亀甲船とか銅像が載っていたが
まさに、虚妄の「英雄」なのか。
教科書執筆者は史学者ではなく、バイト君が書いてんだなw
>>955 スレ違いになるが、亀甲船を本当に使ったかは疑わしい。
ただ、李舜臣が「あの戦で一番頑張った朝鮮の将」であることは
正しいんじゃないかな。相対的な意味で。
957 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:07:23.33
>>954 >蒙古襲来絵詞、日田記、福田兼重申状、大友頼泰覆勘状写(都甲文書)だよ
いずれも戦い全体のほんの一部だな。
蒙古襲来絵詞の文永の役部分はご存知の通り。
福田兼重申状は百道原まで行っているが大勢の中に駆け入って矢を受け、「稀に存命」すなわち
「珍しくも命助かった」と言っている。珍しくなかった武士はやられたんだな。
都甲文書はただ鳥飼潟で戦ったことがわかるだけ。
日田記は百道原と姪浜と2回行っているが、ただ駆け通っただけかも知れない。それに家伝の類いだ。
ぜんぶ合わせても「確定した事実」にはほど遠いな。
>>957 ほんの一部じゃなく、それが元軍博多湾上陸後の戦闘の全てだよ。
だって他の場所で戦闘があったという史料が無いじゃん。
あきらかに確定事項だろ。
普通(の国内戦なら)確実に死ぬような数相手に突撃したけど
敵があまりにも弱かったので生き残るという珍事が起きました
だったりして。
960 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 20:38:21.83
>>958 全てだと言う根拠はなにもないが、全てだとしても私が言ったことは成り立つ。
「元軍そのまま撤退した」「日本軍水城へ撤退しなかった」の証拠にはなり得ない。
>>960 他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
そのまま撤退した元軍を追って日本軍は兵船300艘で追撃してるのに水城へ撤退したわけないじゃん。
>>956 朝鮮ではマシな人か。
そういえば元寇に関しては、朝鮮の将軍とか
紹介しないのは優秀なやつがいなかったんだろうな
963 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:06:43.86
>>961 >他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
では、数千騎いた日本軍の中でたったこれだけしか戦っていないのか?
>兵船300艘で追撃してるのに水城へ撤退したわけないじゃん
また兵船300艘か。もはや信仰だな。
>>962 金方慶すら知らんのに書き込むとか信じられんな。2回の戦争で散々強硬意見した
イノシシのように見えてここの日本万歳教連中の言うところの「敗戦」で損害を抑えて帰還した
ようなことは評価する目も持たん節穴か。
古くは白村江、新しくは南方諸島での玉砕の損害がわかるように外征の失敗が全滅同然
の惨状を呈するのは珍しくないのに。殺した数でしか戦争を評価できんようでは鎌倉時代の
御家人の価値観と変わらんな。
965 :
日本@名無史さん:2012/11/20(火) 22:25:27.97 BE:271898922-2BP(0)
>>955 幾つかの戦闘で勝ったのは事実。日本軍に戦術転換させてるのも事実。
それ以降、体勢を整えた日本軍に勝ててないだけ。
勝った朝鮮の将軍が他にほとんどいないんだから、朝鮮で英雄扱いするのはある意味当然だろう。
だって、他の英雄っていったら、誰だかわからない侍大将を道連れに崖に飛び込んだ売春婦ぐらいしかいないんだぞ。
>>964 文永の早期撤退に関してはクドゥンを誉めるべきだし
弘安に関しては、ほぼ壊滅やろ
てか白村江が全滅なら文永の役も十分全滅レベルの敗北じゃねえかw
結果的には1/3程が戦死または行方不明だったようだが
日本に留まって戦い続けた弘安では、9割以上が未帰還だったことを思えば
文永の役は損害を最小限に抑えたと言えるのではあるまいか。
2009年
「小泉に騙された!言ってることはよくわからんが、民主党なら、この閉塞的な社会を打破してくれそう。」
↓
2012年
「民主に騙された!言ってることはよくわからんが、橋下なら、この閉塞的な社会を打破してくそう。」
↓
2016年
「維新に騙された!言ってることはよくわからんが、今度出来る新党なら、〜〜〜」
↓
2020年
「新党に騙された!言ってることはよくわからんが、今度の新・新党なら、〜」
↓
以下無限ループ
>>963 残念ながら日本軍の追撃も史料的に確定事項だからな。
仕方ないから俺も妥協するよ。
20日、日本軍は兵船300余艘で敗退した元軍を追撃した。
そして、兵船に乗り切れなかった日本軍が夜になると水城に撤退した。
これなら文句ないだろ。
ageバカ
>>957>>960>>963…「パフォーマンスコンクール」、通称「パフォ」と呼ばれる基地外
大宰府決戦説を唱えるも、軍板で完全論破されて日本史板の巣に逆戻り
>>964…「棄民くん」(在日説あり、杉山説信者)
特徴…「御家人の奮戦」を勝因に挙げると狂ったように噛みつきます
武士が活躍するのがよほど気に食わないらしい
パフォコン君ってここの出身だったのか
弘安で10万近くの将兵を見捨てて自分達だけ逃げ帰った事を評価って
元の海上戦力を事実上壊滅させちゃったのに
仙石秀久は長宗我部の戦力の削減と自らの無傷での撤退を成功させた名将です(キリッ
>>963 >では、数千騎いた日本軍の中でたったこれだけしか戦っていないのか?
関ヶ原の戦いの書状が残ってるからといって、書状の人物しか戦っていたことに
ならんわけないだろ。
それよりも、関ヶ原の戦いは本当は信濃国で起こっていた!と主張するならそこでの
合戦記録が無ければ、無いと断定してもいいよ。
>また兵船300艘か。もはや信仰だな。
八幡ノ蒙古記信仰にとりつかれてるのはどこの誰だったっけ?(それも八幡ノ蒙古記の自分に
都合のいい記述のみを信仰)
976 :
サガミハラハラ:2012/11/21(水) 08:50:56.26
話がそれるが、もし日本が大和朝廷時代の任那を失わずに保持していたとしたら、元寇の攻撃をもろに受けたとおもうのであるが、
それに対しどのくらいの抵抗ができたのであろうか?
簡単に任那を放棄したであろうか。
977 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 08:56:39.20
>>961 >他に戦闘があったという史料が無いというのは、立派に全てだと言う根拠だよ。
これを裏返せば戦われた全ての戦闘には史料が残されているということだ。
では聞こう。
1)20日の鳥飼潟戦闘より前に起こって、松坂党が打撃を受けた戦闘があったということは
一般に認められている。この松坂党の戦いについてはどんな「史料」が残されているのか?
2)日本軍が300艘の軍船で壱岐まで追撃して元軍を破ったという華々しい戦闘については
どんな「史料」が残されているのか?
あ、何百年か後に書かれた単なる年代記じゃなくて、福田文書のような戦功関係の同時代史料
のことだよ。
978 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 09:40:02.52
>>977 ごめん、書き間違った。
松坂党 → 松浦党
>>977 松浦党は20日の鳥飼潟戦闘の前の戦闘で打撃を受けたんじゃないよ。
松浦党の山代諧が対馬で戦死してるけど、肥前の山代諧が10月5に対馬に居たわけないんだから、
鳥飼潟戦闘の後で敗退した元軍を壱岐対馬と追撃する際に打撃を受けということ。
「山代 廣生諧字彌三郎。文永十一年。蒙古合戦討死。干對馬。」
『松浦党大系圖』
で、山代諧の戦死については息子の山代栄に恩賞与えらえた同時代史料残ってる。
「将軍家政所下 肥前国恵利
(山代栄)亀丸
右依亡父山代諧三郎諧昨年蒙古合戦勲功賞、所被宛行他者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下」
980 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 13:18:05.49
>>979 2)については答えがないな。答えられないのかな?
もういちど質問を載せておこう。
2)日本軍が300艘の軍船で壱岐まで追撃して元軍を破ったという華々しい戦闘については
どんな「史料」が残されているのかな?
あ、何百年か後に書かれた単なる年代記じゃなくて、福田文書のような勲功関係の同時代史料
のことだよ。
>>980 だから、2)についても松浦党が元軍追撃してたって史料出したじゃん
982 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 13:31:20.73
>>981 元軍を壱岐対馬へ追撃して撤退に追い込むほどの戦闘を松浦党だけでやったのか?
他の武士たちは行かなかったのか?
>>982 菊池氏も追撃戦に参加してたよ
「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
『菊池系圖』
「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
『菊池系圖(別本)』
984 :
六朝書生:2012/11/21(水) 13:56:16.88
蒙古人席捲歐亞 為禍之深 史所僅見也 即吾國亦未倖免而貴國敗之 是天意乎
日本軍は追撃戦もやってたかもしれないってこと?
それなら元軍が夜間の撤退に拘った理由が理解できる。
元軍が中世では絶対に避けられていた、かなり危険な玄界灘の夜間出航を強行したのは
日本側の追撃を逃れるためだったってことだな。
日本軍に圧勝しましたけど、慌しく、めっちゃ危険な夜間に天候も見計らいもせずに
出航しましたよ!とか全然説得力無いし。
元軍は海の向こうの危険より陸上にいる方が危険と判断したってことでしょ。
スレの寿命が終わる時に
時宗も最後の仕事を終えて旅立ちます・・・
>>976 兵站線が長すぎてモンゴル軍が陸伝いに半島南部へ投入可能な兵力なんてごく僅かだよ。
恐らく1万人以下。
唐は海軍力があったから半島南部の百済も征服できたし、大和朝廷にも勝てたわけで。
半島のその他の地域が全部モンゴルに帰順して率先して協力するようになれば別だけど、
それまでは海運に支えられた日本の方が圧倒的に有利。
988 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:07:30.93
>>983 系図じゃだめだ。いつ書き込まれたものか全くわからない。
福田文書のような勲功関係の同時代史料を出せと言っただろ。
結局10月5日に対馬で討たれた山代諧以外には無いんだな。
じゃあ壱岐追撃はなかったんだ。君によれば記録のない戦いは無いんだからね。
それにしても系図の書き込みが全くあてにならないことがよく分ったよ。
少弐景資の百道原敵将射殺もこれでますます信憑性なくなった。教えてくれて有難う。
>>988 系図は立派な史料じゃん。
菊池氏の活躍が目覚ましかったことや、松浦党の犠牲者が多かったことは、他の史料だって認めてること。
疑う理由がないでしょ。
壱岐対馬への追撃がこれだけ明確な証拠として残ってるのに現実から目を背けちゃダメね。
990 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:21:22.07
>>958 >ほんの一部じゃなく、それが元軍博多湾上陸後の戦闘の全てだよ。
>だって他の場所で戦闘があったという史料が無いじゃん。
「それが全て」というのが「鳥飼潟周辺でしか戦闘はなかった」と言い換えていいのなら、
それには私は全く賛成なのだよ。
なぜなら、祖原山も赤坂山も百道原も、すべて鳥飼潟の周縁部にあるのだから。
だから日本軍が夕方まで戦って遂に自然休戦になり、赤坂付近から水城街道を撤退して行ったとしても、
その直前まで鳥飼潟戦闘を戦っていたことになるわけだ。
また博多で戦闘が行われたことも無かった。なぜなら元軍が博多に上陸したとしても、それは日本軍が
博多を放棄した後の無血上陸だから。
鳥飼潟しか戦闘はなかった。全く賛成。
991 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:28:49.85
>>989 >系図は立派な史料じゃん。
一般論で言ってもだめ。
そりゃ、誰が誰の子かは系図でわかる。(それさえ捏造されるのはザラだが)
しかし個人名につけて書き込まれた事績はいつ書き込まれたか全くわからない。
極端なこと言えば江戸時代に書き込まれたことだってあり得る。
何度も言うが勲功関係の同時代史料を出してくれればそれでいいのだよ。
なければ壱岐追撃もなし。
>>990 日本軍が博多を放棄した後、元軍が博多に上陸したら、博多が被害を受けたとを裏付ける史料が何一つ
存在しないなんてことは有りえないな。
つまり、日本軍の博多放棄も元軍の博多上陸も一切無かったってことは史料上証明されてること。
もう一度念押しとくけど、日本軍の博多放棄も元軍の博多上陸も一切無かった。
もうそろそろ現実見ようぜ。
>>991 山代諧が対馬へ追撃して勲功受けてるだろ。
菊池氏の系図だって別々に伝わった2系統が、それぞれ元軍を対馬まで追撃したと記してるんだから、
文永の役においてそういう事実があったとしか考えられない。
994 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 20:53:17.53
>>993 >山代諧が対馬へ追撃して勲功受けてるだろ。
いいや。山代諧は10月6日の対馬防衛戦で戦死したのだ。
同時代史料によればね。
系図はダメ。
>>994 元軍博多上陸説には、そもそも何の史料も存在しないじゃん。
あんたが系図はダメとか言える立場じゃないだろ。
何の史料も存在しない妄想守るために、現実に存在する史料を否定するとかおかしいだろ。
「元軍博多上陸は妄想でした」「日本軍は対馬まで追撃してました」って認めろよ。
996 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 21:01:41.68
>>992 「それが全て」「鳥飼潟しか戦闘は無かった」であっても
両様に解釈し得ることがわかってもらえればそれでいいのだよ。
つまり「鳥飼潟しか戦闘はなかった」ことから、一義的に「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」が
導かれることは無いのだ。
それをそのように言っているのが「蒙古襲来絵詞に見る日本武士団の戦法」だ。
読んでみるとよくわかるよ。
このあたりが勝ち勝ち山の震源地だと私は見ている。
>>996 両方の解釈なんてあり得ない。
「鳥飼潟しか戦闘はなかった」ことから、「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」という
結論しか出てこないじゃん。
>「元軍そのまま撤退」や「日本軍の水城撤退なかった」
こんなの元軍が危険な夜間撤退を強行してるんだから証明できてるじゃん…
13kmも向こうの水城に敗走した日本軍を尻目に慌しく、天候も見計らいもせず
危険な夜間出航なんてする必要はないし。
元軍は危険な夜間出航して海の危険に乗り出す賭けに出る方が、陸にいる武士の方が危険と考えたってこと。
999 :
日本@名無史さん:2012/11/21(水) 22:39:06.34
>>998 元軍も苦戦していたってことだよ。そんなの誰でも言ってることだ。
苦戦していたからこそ撤退を考えた。
どうせ撤退するのなら、日本軍が水城へ撤退してくれて、困難な水際撤退が妨害されない
今夜こそが撤退のチャンスだと見たのだ。
>元軍は危険な夜間出航して海の危険に乗り出す賭けに出る方が、陸にいる武士の方が危険と考えたってこと。
これは全くその通りだと思うよ。
昼の敵はやっつけたが新手が夜襲して来ないとは限らないし。
危険な夜間出航と言ってもたった一隻座礁の犠牲で済ませたことは元軍の練度の高さを示している。
まあ嵐を予測したかどうかはわからないが、今と違って天気予報があるわけじゃなし。
別に不自然なところはないね。
1001 :
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