>>950 家康を怒らせる?
三成というライバルがいてまだ天下取れるかも分からない家康に
どれだけ譜代大名が付いて来るかも不透明な時期にどうやって秀吉に逆らえるの?
どれもが後付けの評価だな
>>949 傭兵はヨーロッパの話で日本は領民からの徴発がメインでは
何か誤解があるようだけれど『一揆』とは連合体と言う意味で、ムシロ旗を立てて武装帚することでは無いよ? 村々が連帯して
領主に要求を突き付ければそれが一揆であり、大抵は武装蜂起となる前に要求が通るか、領民と領主の間に妥協案が締結されて
争いは回避された。
もちろん要求の背景に、武力蜂起も含めた実力行使があったのは事実だけれど、それはむしろ少なかったし、一揆としては既に
半ば失敗した例だ。
あとこの時代の“戦争”と言うものを、現代の感覚で推し量るのは間違ってると思う。秀吉の政策に日本統一があり、そのために
大名同士の争いを禁じ、刀狩りを行ったのは事実としても、それは豊臣政権の確立と暴力の独占のためであって、平和や身分の固定は
むしろ副次的なものだろう。
武士たちは合戦を悲惨なものと捉えるより、むしろ犠牲を伴う祭りのように感じていたのではないかな? それこそ御柱祭りか
何かのように。少なくともやる気と上昇意欲を持っていた大名は、嚴戦気分とは遠かったはずだ。割に合わない努力が嫌だっただけで。
>>952 豊臣政権の金庫番でしかなく、自身の領地・勢力をほとんどもたない三成が
関八州の主である家康に対抗できるわけなかろう
秀吉が最大勢力をもつ大名たる家康に強く出られなかったのは事実でしょ
家康に頭一つ下げさせるのに秀吉がどれだけ苦労したとおもってるんだ?
考えてみれば、豊臣秀吉も徳川家康も、政策としては旧来型の“征夷大将軍+幕府”型の統治を目指してるんだよね。逆に織田信長は
絶対王政と言うか、自分のお家が日本全国を統治してなきゃ気が済まない。あるいは単純に、戦国大名の延長上に
日本の支配を考えており、尾張一国を統治するように、日本を統治する積もりでいたかのようだ。
だから簡単に国替えを命じるし、配下の武将はあくまでも家臣であって、一国の大名として敬意を払ったりはしなかったのだろう。
>>953 い戦国時代も末期になると専業傭兵で溢れてたんだよ
秀吉や家康の時代はそれら失業者が洛中に溢れて治安が悪化したから
無理矢理帰農させたりね
>>954 上段は江戸時代の地方藩の話しじゃね?
一向門徒なんてオラが殿様に要求したいなんて可愛いもんじゃなく本格的な軍事組織だった
硝石は堺から直で供給されてたしね
戦国時代の一揆は国人や農民等の組織化の事を指すが
江戸時代の一揆は実質百姓一揆のみってだけの話じゃねーかそれは。
百姓一揆蜂起自体は戦国時代からあったろう。
決死度が全然違うけどさ。
>>958 そこらへんは温度差があるね
ただ戦国時代は純粋な農民の反乱より宗教組織の外郭団体といったほうが近い
江戸時代はむしろ直訴されるほどの悪政を敷く藩は幕府に取り潰されてたわけで
秀吉にとっては帰順後の家康は信頼してる重臣
確かに野心家な家康を完全には信用してはないが
自分の存命中に反逆されることは考えてない
大老の徳川 前田 毛利 小早川 上杉 宇喜多に対する秀吉の信頼は
代々の譜代や一門を持たない豊臣にとっては貴重な重臣
>>959 一向一揆は百姓一揆には分類できないだろう。
当時の寺が村社会で大きな力を持ってたのは確かだが必ずしも一揆の中心になるわけじゃないし
>947
平和になってうんたらかんたらとか、平和ボケ時代の偏向歴史番組をソースに
ナニ寝ぼけたこと言ってるんだ?という感じ?
福島正則なんかは、改易されたのも徳川政権では目立った奉公もしてないから
それもしょうがない、ということを言ってるし、江戸初期までは戦国末期に戦功で
国持ちになった大名始めまだまだイケイケドンドンだろ。
>>924 朝鮮語の標準文法が定まったのは20世紀で、それを定めたのが
朝鮮総督府なのは秘密ですね、わかります。(・∀・)
>>914 鍋島も侵攻初年の夏場はそう思っていても、一冬越したら
心変わりしてたような気がしないでもないけど、どうだろうね。
>>961 いやいや
当時一向門徒はただの地元の有力者じゃないよ
戦争ばかりの世相でアノミー化した連中を洗脳したカルト集団
門徒の構成員も従来の地縁血縁で結ばれた村人じゃなく
方々から有能な人材を掻き集めたネオコミュニティーだった
>>965 一向門徒限定の話をしてるんじゃなくて百姓一揆=宗教一揆じゃないと言ってるんだよ。
>>966 そんなの郷土史に載る程度の小さい規模だね
大名の軍隊とタメ張れるような代物じゃないし
>>967 だからそのレベルの話をしてるんだが・・・
百姓一揆が国人衆や大名と張り合える程大規模になった事はないでしょ。
>>968 そういうのは一揆と言わず強訴と言った
地元の代官と示談して終わり
江戸時代初期に起こった島原の乱は、藩主を打ち首にするという厳しい処置を行った
江戸時代を通じて、大名を切腹はともかく、打ち首にしたのは、この島原の乱の時だけだ。
これには島原の乱の原因が、キリスト教以前に島原藩の厳しい年貢取立てが原因だと幕府側は見て取ったからだと思われる
外様大名だった島原藩は、江戸幕府に擦り寄るために、幕府に対して自藩の分を超えた石高を伝えていた。
結果、幕府は、島原藩の石高を見誤り。島原藩に対して相応額を超える負担を強い続けた。
それを補うために島原藩は農民に対する高い年貢を納めることを強要した。
この事実が島原の乱につながり、乱の後でそれを知った幕府が激怒したらしい。
ま、要するに幕府としても、大規模な一揆に繋がるような圧政を行う大名を無視はしなかったわけだな
>>970 それ島原藩の地元を省みない重税にキリシタンが付け入ったんだよ
戦争するための装備一式を提供したのがキリシタンだった
何もないただの農民集団なら早々に島原藩に鎮圧されてたろ
幕府軍も当初武器弾薬の揃った組織的な戦闘集団とは思ってなかった
だから板倉重昌が戦死する羽目になったんだろ
>>969 戦国時代の話でなんで代官が出てくるんだ
戦国時代にも普通に代官いるけど
戦国時代にだって代官はいたよ。
そもそも戦国時代の村は葱村と言って、自検断を持った自治組織だ、しかも一定の軍事力を持った。
それと百姓一揆と強訴は排他関係ではないよ。
上にも書いてあるが、一揆でまとまり、その上で強訴をしたり武力蜂起を起こしたりするんだ。
この武力蜂起も一くくりに一揆と呼ばれるからややこしいけど、本来なら
>>968 の書いている
>そのレベル
まで含めた概念なんだ。
ただし戦国時代の場合だと、士農工商がまだ未分化だったし、地元有力者が指導してると、そのまま下克上になったりした。
>>975 排他関係というより二つは同じ物だろう。
一般的に武装蜂起を一揆と呼んでるだけで
>>976 一向一揆と普通の一揆を一緒にするとややこしくなるよ
前者は地元の利益を代弁する強訴とは性格が違うものだし
一揆という言葉に左翼的ロマンを掻き立てられるんだろうな
日本で一国を揺るがすようなアンシャンレジームに対するプロレタリアートの大革命があったとかw
>>972 組織的かも知れないが、あまりにも愚策だ。
援軍や長期化による戦況の改善のアテもないのに、原城に篭城を続けるなど
包囲の挙句に崩壊するのは当然だ。
こんな事、軍事の初歩の初歩のそのまた初歩だよ。
それが分からないなど、素人戦術もよいところ
>>970 >江戸幕府に擦り寄るために、幕府に対して自藩の分を超えた石高を伝えていた。
擦り寄るためってのは違和感があるな
石高は大名の格を決める物(当然、格に応じた負担が課せられるが)
分不相応な格を求めた結果だろう。
薩摩藩なんかも、かなり背伸びした石高で出して外様では前田家に次ぐ家格になってる
>>977 一向宗、改め浄土真宗だけど。
この団体はいまでも政治に口を挟むよ
創価学会とか立正佼成会のような比較的、新しい団体ならともかく
伝統的な宗教団体で政治にあれこれ口を挟むのは浄土真宗だけだ。
権力に擦り寄らねばどうにもならないってのを、骨身にしみている団体だな
我が家は先祖代々浄土真宗だし。
菩提寺が浄土真宗で、そこの和尚とは家族ぐるみの付き合いだから
いまさら宗旨代え何てできないけど、こういう実態を知ってから、出来たから代えたくなっているのが正直なところだな
「秀吉へは逆らえない空気があった」と言ってる奴は、
学生時代に習った歴史の勉強を鵜呑みにしてる厨房です。w
豊臣政権は一枚岩ではなく、不穏分子がゴロゴロ居ました。
反乱が起きないような仕組みを作った江戸幕府のほうが上手(うわて)です。
>>975 ねぎむらってなんだよw
惣村だろ、高校日本史レベルだぞ
>>980 家格の序列は前田>伊達≧島津>その他国持外様が通例だったよ
島津は琉球通信使を連れてきた当主は官位が一段上がった
忠臣蔵で、悪役として討たれる吉良上野介の吉良家は、家格で言えば赤穂浅野家どころか徳川家よりも上との意見もあるけど
何しろ、もともと吉良家といえば、儀礼を司る非常に歴史のある家だったからな
当然だ、将軍家も高家として遇せざる得ない家柄だからな。経歴偽装の成り上がり将軍家とは違う
室町幕府があった頃ならの話だろ
エーとですねぇ
石高は何も米の収穫だけで決まるもんじゃありません
それじゃ松前なんか零になっちまう
島原は鎖国まで南蛮貿易で潤ってたんですわ
そりゃもう長崎での貿易高が日本で三番目くらいに
儲かりまっせぇ!
それを基準に家格を決めてるから
鎖国だからって石高を下げたら身分まで低くなってしまう
武士ったって足軽なんかのいわゆるサンビン侍は
雨でも傘を差せないし下駄も履けず裸足ですわ
そりゃあもう身分差による惨めさってのは収入どころじゃない訳で
武家奉公人は中間でも若党でも武家以外には仕えたがらなかった
例え大店の商家の方が実入りが良くたって
武士の端くれかその金魚の糞の方が良いよと
大名だって同じことでんなぁ
いやぁ〜。
ここでの議論を聞いていて思ったのだが、血筋による統治ってのは血筋による恩讐も必然的に継承するものだね。
何しろ、古い血筋によって、身分を決めたりするのだから
もともと敵対関係にあった血筋は、どうしても下にせざろう得ない。
そうなれば下にされた連中は、そのままでは我慢できるかと、恨むようになる。
先祖の恩讐なんてものは、しょせんは感情の問題だから
やはりそれだけでは長続きしない、政治とか現実の利権がなければ、続かないものだけど
封建制度ってのはそういう下地があるのね
991 :
名無し三等兵:2011/06/19(日) 09:32:55.42 ID:W5BjskAz
>>962残念ながら当時の文献も多数その番組ででてる。「秀吉それ狂せるか」という内容の手紙まで
出されてる。釜山から平城までの兵站路でどれほどの兵士が脱落してるかまで詳細にその当時のデ
ーターが出てる。表立って秀吉のやってる事に不満顔する奴っていると思う?表面上は服従の態度
とるだろうよ。
>>991 ストーリーありきでそれに都合のいい史料を並べるだけのTV番組鵜呑みにするなよ。w
>釜山から平城までの兵站路でどれほどの兵士が脱落してるかまで詳細にその当時のデ
ーターが出てる。
初耳だな。そんなものがあるのなら是非示してほしいモノだが。
993 :
名無し三等兵:2011/06/19(日) 10:13:55.62 ID:W5BjskAz
>>992日本側の資料だった。逆に歴史群像では朝鮮の住民が朝鮮の悪政を憎んでいて
日本側に協力してたらしいが。半島の連中のいう日本が住民を拉致したという話も
実はその協力者を放置するとトンでもない災厄が訪れるので日本側が日本に連れて
行ってやったらしいが。
陶工とかの特殊技能を持った奴を選んでさらってきたからなあ、その説はどうだか
>>988 松前藩は石高ゼロだよ
藩格は幕府が一万石以上格としてる
国力は10万石以上だけど
島原が南蛮貿易で儲かったって話は聞かない
肥前では平戸 佐世保 長崎 名護屋 松浦とかは天然の良港で有名
島原は諫早湾は遠浅で港湾として使えず島原辺りも大きな入江がなく漁港レベルしか難しそうだが
>>993 朝鮮人捕虜は後の講和条約締結時に大半は帰してあげたよ
残った陶工とかは日本に永住することを選んだ人たち
>>993 歴史群像はバックナンバー揃えてるけどそんな記事みた記憶ないぞ
他誌のまちがいでね?
島原は平戸・相神浦松浦が堺商人とつるんでポルトガルと揉めた後に当該人との取引港として選定された
大村氏や筑前商人の出資で長崎が貿易港として開拓されると、客足を取られて島原は徐々に海外貿易港としては衰退していったが
国内流通の基点ではあり続けたし、イエズス会の一大拠点でもあった
>>991 でもその手の出兵反対とか疑念の手紙も、実は朝鮮征伐が終わってから書かれたって物も多いからなあ
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