1 :
名無し三等兵 :
2010/11/18(木) 19:33:45 ID:YZR3Qju9
2 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 19:41:49 ID:???
4 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:29:54 ID:cgDE8S4T
5 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:35:34 ID:???
君たちは何故、戦車の中に百貨店など作ろうとするのかね?
6 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:36:32 ID:YZR3Qju9
>>5 『戦車の上』じゃなかったけ? どっちでもいいか。
7 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:45:30 ID:???
>>1 さん乙
前スレは素晴らしいスレだった
>>3 居たのかよw
>>7 しまったHNが(^^;
面白いのでずっとROMってたのですが・・・
9 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 21:10:59 ID:???
まぁ、まさかの良スレだったからな
10 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 23:15:15 ID:???
鹵獲M3の話からだいぶそれたが貴重な話を定期的にあげてくれる人が居たし 今回もその流れで
11 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 06:57:16 ID:???
ソ連と言えば、戦車や自走砲が有名ですが、装甲車で有名なのは何?
12 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 08:06:32 ID:???
13 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 13:14:07 ID:???
重機の射撃で破壊されるアレですか
14 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 13:51:14 ID:+l0Lk9nk
アメリカのM2中戦車とかマイナー。やたらと機関銃の数が多い。
15 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 15:41:52 ID:???
>13 装甲車なら普通だロ>>重機であぼん
16 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 17:03:02 ID:???
>>14 なぜアメリカ戦車があのレベルなのか不思議に思うような仕様だよな
17 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 17:16:50 ID:???
ソ連ではT60やT70軽戦車が、装甲車の代わりをやってたのかな?BA-64Bって他の国の装甲車に比べると うーん( ̄〜 ̄;) だよね。
18 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 17:21:19 ID:???
10t以下なのに攻撃力も防御力もチハたんどころかチヘたんよりも上なあたりがもうね >T-70
19 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 18:39:11 ID:???
44年以降の末期になると型落ちT-34-76も偵察部隊で使われているな
20 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 18:43:28 ID:???
>>19 その頃にはドイツの装甲偵察大隊にもパンター小隊が増強されたりしてるな。
建制じゃないけど。
21 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 18:48:50 ID:???
>>16 あれは戦車開発のノウハウを得るためのテストベットですから。
95式軽戦車と同じ時期の開発だし。
最終的にはM3軽戦車のベースになるわけですから設計は優れていたと思いますよ。
22 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 18:51:46 ID:???
>>19 ソ連軍は偵察にバレンタインを偵察に使ったりしているので
生存性の低い兵器を偵察に使うのを好まないんじゃないかと思います。
23 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 18:58:10 ID:???
M1コンバットカーからM2軽戦車、M3軽戦車、M5軽戦車はあんまり上ブレしてないけどm M2中戦車からM3中戦車、M4中戦車はけっこう上ブレしてる希ガス
24 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 19:00:18 ID:???
>>22 ソ連軍の教範だと、偵察のやり方自体が、
偵察部隊はとりあえず敵に突っ込めや、
師団参謀が後方や飛行機から敵の様子は見とくから、
みたいな感じだからなぁw
25 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 19:08:49 ID:???
装甲車を調べて気付いたんだけど、M6スタッグハウンドって、装甲厚が最大約30ミリあって、37ミリ砲積んでる、って事は旧日本陸軍の戦車にヒケを取らないって事?
26 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 19:12:10 ID:???
27 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 19:21:57 ID:???
見ました。装甲厚が最大約65ミリに75ミリ砲…チハたんの立場は
28 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 19:55:48 ID:???
無い。
29 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:22:33 ID:+l0Lk9nk
東条英機が独立混成第一旅団に変なケチをつけなければ・・。
30 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:22:54 ID:???
あとSd.kfz.234シリーズとか… ちなみに ハ号とタメ張れるモノ=M2HMG搭載JEEP(どちらも有効射程内のあらゆる距離で相手を撃破可能) という時点で既に終わってる気もする
31 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:33:20 ID:???
この類の重装甲車が戦車を撃破した記録とあるの?重装甲車>軽戦車?
32 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:40:51 ID:???
重装甲車じゃないが、タミヤのM8グレイハウンドの説明書に、バストーニュの戦いで M8がパンターだかティーガーの後ろに回り込んで撃破した、と 書いてあったと思ふ。 街中で機動力を生かした戦い方だな。
33 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:58:07 ID:???
34 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:58:47 ID:???
【戦闘団は一日にして成らず】
“1940年6月16日、西部砂漠では初となる戦車同士による遭遇戦が生起しました。
開豁地で英軍機甲部隊に襲撃されたD' Avanzo戦闘団は、方陣をもってこれに抗しましたが、
D' Avanzo大佐は戦死し、戦闘団は惨敗を喫しました。”
イタリア参戦から4日目の6月14日、
英第4機甲旅団の一部隊と王立ライフル兵団第1大隊がリビア領内へ来攻します。
英軍は既に放棄されていたMaddalena砦を1発も撃つことなく占拠し、
残存していた18名の守備兵を捕虜とします。
更にCapuzzo砦が僅かな抵抗の後に流血無しで英軍の手に落ち、
226名のイタリア兵が捕虜となりました。
6両のタンケッテが反撃してきましたが、
ボーイズ対戦車ライフルが即座に1両を撃破します。
2日後の16日、英第11軽騎兵連隊の2個小隊がSidi OmarとCapuzzo砦の間で、
イタリア軍の2つの縦隊を発見しました。
※Capuzzo砦(緒戦の頃の撮影ではありません)
ttp://www.nzetc.org/etexts/WH2Mech/WH2Mec18b.jpg
35 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 20:59:28 ID:???
前日の6月15日16:00頃、イタリア第10軍の高級将校がGabr Salehを訪れ、 戦闘団編成に関する命令を伝えてきました。 戦闘団は占拠されたCapuzzo砦への進撃路沿いに英軍を一掃した上で、 捕虜を数名獲得することになっており、その為にも十分な歩兵が含まれることになりました。 D’Avanz大佐が指揮に当ることになり、十分な弾薬、糧食、飲料水を準備した後、 22:00、戦闘団はGabr Salehを出発します。 Bir Gibniで現地守備隊の数名が道案内に加わりました。 16日5:00、Sidi Omarで休止した後、06:30に前進を再開しました。 右翼は1個軽戦車中隊が占めていましたが、そのタンケッテはSidi Omar到着迄、トラックで搬送されていました。 これはその当時、イタリア軍の全ての戦車に常用されていた方法で、 長距離行軍による装甲車両の整備の煩雑さを回避する目的がありました。 そして、ひとたび敵と接触するや戦車は降ろされることになっていました。 左翼は軽戦車1個小隊と自動車化歩兵1個中隊が前衛を務め、 その後方に戦闘団の残余が続行しました。 これを遠望した英第11軽騎兵連隊の装甲車は、別々の部隊の縦列と勘違いしました。
36 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:00:09 ID:???
ここでイタリア軍に信じ難い錯誤が続けて生じます。 左翼前衛が英装甲車数両の存在を報告してきましたが、 D’Avanzo大佐はそれを右翼のタンケッテ中隊だと思い込みました。 すぐに英装甲車だと判明し、左翼前衛の2個歩兵小隊はトラックから離れました。 やって来た英装甲車は空のトラックには手出しせず立ち去りましたが、 自身の任務が完了したと判断したトラック運転兵は、英装甲車を避けて西方へ退避します。 これによって前衛と縦隊の一部は混乱し、この退避するトラックに続行し始めました。 この状況を憂慮したD’Avanzo大佐は、彼らを引き止めるようAndolfato大尉(リビア歩兵大隊長)へ命じます。 最初にAndolfato大尉は砲兵隊を輸送していたトラックのもとへ行き着きました(砲の積載により足が遅かった為です)。 直ちに77mm砲が荷台から降ろされ、英装甲車へ向けて発砲しました。 L3軽戦車は増速したロールス・ロイス装甲車の迎撃を試みますが、無視されます。 遂に縦隊主力は包囲されました。 数分内に一帯は大混乱となります。 戦闘団主力(砲兵中隊、歩兵、何両かのタンケッテ)は英装甲車に動きを封じられつつ包囲され、 残余は3つのグループに分かれ、別の英装甲車隊の追尾を受けつつ撤退して行きました。
37 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:00:49 ID:???
Andolfato大尉は20分以上掛けて、ようやく後退中の3グループに追い付きます。 何両かのトラックは、英軍との最初の遭遇地点から15kmも離れたSidi Azeizへ達していました。 奇妙なことに、非常に足の速いロールス・ロイス装甲車が、 最高速度45kmのランチア3ROを補足出来ませんでした。 この3グループは大尉によって再編成されます。 その戦隊は約70名の兵員で構成され、弾薬、糧食、飲料水を積んだ何両かのトラックが含まれていました。 この時点でAndolfato大尉はD’Avanzo大佐のもとへ復帰しようとしますが、 英装甲車隊の行動の前にそれを断念し、北方のAmseatへと向かいます。 出発前に彼は、第1リビア師団司令部へ戦闘団の状況を報告しました。 大尉はAmseat飛行場近辺で英装甲車隊を発見し、進路を変更しました。 Gambutで沿岸路へ到達し、バルディアへ向け数Km進んだところで再び敵部隊を発見しました。 それは英第11軽騎兵連隊C中隊の所属部隊で、丁度27両のイタリア軍トラックを撃破し、 イタリア第10軍工兵隊指揮官のLastrucci将軍を捕虜としたところでした。 再びAndolfato大尉は進路を変え、 El Adem経由でGabr Salehへ帰還することを決心します。 その道中で、大尉はトブルクの第10軍司令部への出頭を求められ、 司令部で報告後、翌日になってようやくBir Salehへ帰還しました。 一方、包囲されたD’Avanzo戦闘団主力は方陣を形成して抵抗しました。 装甲車、ヴィッカースMkVIBに続いて2両の巡航戦車Mk.Iが参入したとき、事態は絶望的となりました。 タンケッテは全車撃破され、完全に一方的な展開に陥ります。 しかし、戦闘団は名誉を保って戦闘を行ない、砲兵は砲側で倒れ、歩兵の多くも戦死し、 D’Avanzo大佐は降伏を拒否して戦死しました。
38 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:01:30 ID:???
この遭遇戦の敗因は多くの優秀な将校により分析されましたが、
D’Avanzo大佐へ責任を押し付けようという上層部の思惑が見え隠れしていたにも拘らず、
彼が基本原則に反していたからではないと判断されました(方陣の形成は独特ではありましたが)。
L3軽戦車を宛てがわれていた以上、D’Avanzo戦闘団の運命は避けようがなかったことが明白でした。
Luigi Sibille将軍(リビア第1師団長)は報告書で以下のように述べています。
@L3軽戦車は基本原則とは異なる方法での展開には不向きである。
AL3軽戦車は砂漠地帯で5km以上の作戦行動に従事させるには不向きである。機械的な問題が生じ破損しやすい。
Bトラックで搬送中は、戦車が無線体系から切り離されてしまう。
CL3軽戦車の機関銃では敵の装甲車両の装甲を貫徹出来ない (但し、戦闘団のL3軽戦車は徹甲弾を保有していませんでした)。
D自動車化砲兵は砲を運搬するだけでなく、車上射撃も可能にすべきである。
E歩兵が降車した後の問題を避ける為にも、自動車化輸送部隊は訓練を受けた将校に指揮されるべきである。
@はD’Avanzo大佐がL3軽戦車を基本原則とは異なった方法で展開したことに対する提言で
(L3軽戦車の能力の限界を指摘したかっただけで、大佐への責任追及という意味ではないのでしょう)、
Aは既に1936年のエチオピア侵攻時に証明され、1938年5月のリビアでの演習時に再度指摘されていました。
Dは運搬目的の車載砲についてのもので、車上から射撃可能とすべきとする提言でした。
基本的にWWI時のオーストリア製の砲がトラックに積載されましたが、砲のホイール構造に原因があったとされます。
それらはトラックでの牽引を禁止されていました。
リビア駐留師団とその他地域の自動車化師団は砲を車載化しており、
他の歩兵師団使用のトラックよりも高速での運搬が可能な型(Dovunque)が使用されていました。
※イタリア軍の砲車載化例(運搬用)
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/artillerie/cannone152-37/4.html
39 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:02:11 ID:???
L3軽戦車は無線通信手段を持っていましたが(但し、全車装備ではありません)、 自動車化歩兵との連絡手段がありませんでした。 これは戦闘団の戦力発揮の機会を著しく削ぐ結果となりました。 又、自動車化歩兵が降車した後のトラックは現場に無用の混乱を巻き起こし、 指揮官が防御態勢に陥らざるを得ない結果を招来しました。 D’Avanzo戦闘団は形こそ諸兵科連合の態をなしていましたが、 それに相応しい訓練は受けておらず、中戦車と対戦車砲の欠如も致命的でした。 開戦時、北アフリカでは対戦車砲が不足しており、徹甲弾の備蓄量も僅かしかありませんでした。 一片の命令だけで真の諸兵科連合部隊が出来上がるものではないということを、 D’Avanzo戦闘団は身をもって証明する結果となりました。
40 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:05:43 ID:???
前スレでレスしましたD’Avanzo戦闘団について、補足をさせていただきました。
41 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 21:19:04 ID:???
>タンケッテのトラック運搬。 これは日本軍も同じだな。長距離自走すると壊れるからorz
42 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 00:56:35 ID:???
>>41 まあ長距離移動には度の戦車でもトランスポーターを使いたいが、
敵と接触する可能性のある最前線で使用するのはなあ。
ポーランド軍はTKシリーズ用に戦車の動力で走行可能な貨物車を開発してるね。
43 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 02:57:30 ID:???
>E歩兵が降車した後の問題を避ける為にも、自動車化輸送部隊は訓練を受けた将校に指揮されるべきである。 歩兵部隊と単なる輸送部隊を組み合わせても、前線で戦闘行動可能な自動車化歩兵部隊にはならんのだなぁ。
44 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 03:03:59 ID:???
イタリア軍には自動車化輸送部隊は訓練を受けただけの歩兵部隊 「自動車化可能師団」というのがあったなぁ。 「自動車化」に勘違いしたドイツ軍にえらい目に合わされるんだっけ。
45 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 09:24:31 ID:juK/e+/M
やはり日本陸軍が独立混成第一旅団を解散したのは間違いだった。 アレは本物の自動車化歩兵部隊じゃった。
46 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 09:50:47 ID:???
旧日本陸軍の九十二式や九十四式装甲車は、キャタピラー式だがスピードより不整地走破能力を重視した為?あとイギリスのダイムラー装甲車が東南アジアに来てたみたいだが、交戦記録か捕獲記録ってあるの?
47 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 10:24:46 ID:???
>>46 92式は不整地云々がでかいかも知れず、あとは被弾への脆弱性みたいな側面もあるかも
94式は前線で使う装甲牽引車なのでそもそも後方の路上機動は考えてない設計
(長距離移動の際は鉄道とトラックで輸送するのが基本…結局自走してることが多いけど)
48 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 10:28:14 ID:???
追記 不整地つーか舗装道路でもなければ、移動速度は無限軌道車のほうが結局速かったりする 日本陸軍の戦場を考えた場合 程度のいい(きちんと転圧されてボコボコ穴開いてない)砂利/コンクリ舗装道路はごく少ない 全般的に履帯付きの方が向いてたんだろうね
49 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 11:01:44 ID:???
不整地走破能力を高めるなら、6輪や8輪にするって考えは無かったなかなぁ?って考えていたら、その当時の日本の技術力で信頼性が高い、4WDや6WD、8WD、独立懸架とか出来たのかって思った。
50 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 13:56:11 ID:???
九一式広軌牽引車にタイヤ履かせて走らせてるな。 AWDじゃないけど。
51 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 14:05:14 ID:juK/e+/M
九三式装甲自動車に一式47mm戦車砲を装備する新型砲塔を搭載すれば・・。
52 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 19:32:23 ID:???
イタリア軍の装甲車 AB40/41 は4WD、4WS、4輪独立懸架 という高級車仕様なんだね。戦車は今一つだがね。
53 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 19:50:30 ID:???
ドイツのSdkfz.222もそだよね? つーか、非装甲のKfz.69もそうだっけ?
54 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 20:48:03 ID:pusAY1NU
軍じゃないけど、装甲車っていうと警視庁の特型警備車が真っ先に思い浮かぶわ。 小さいときに図鑑で見たすりこみかな。
55 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 20:57:46 ID:???
>>53 Kfz.69はクルップ・プロッツでは?
Horch 108 typ 1a / Kfz. 31のことかいな?
56 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:00:49 ID:???
イギリスって、ダイムラー装甲車、AEC装甲車、M6スタッグハウンド装甲車等々、軽戦車より防御力や攻撃力が同等かそれ以上の装甲車があるのに、スチュワート軽戦車を使ってるのは何故?
57 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:10:47 ID:???
装甲車は不整地じゃつかえないから 平地じゃないところは無限軌道の方が機動力が高い
58 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:11:15 ID:???
59 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:53:33 ID:???
【遥かなる祖国】
1940年4月12日、自由ポーランド軍カルパチア旅団がシリア・ホムスで創設されます。
カルパチア旅団はフランス山岳歩兵旅団をモデルに編成され、
当初の構想では、バルカン半島への連合軍の上陸時に投入されるものとされていました。
旅団の偵察隊はカルパチア槍騎兵連隊でした。
フランス降伏後の6月30日、旅団はフランス支配地域からパレスチナへ離脱し、英軍と合流します。
そして、Latrunを拠点にした旅団は、英軍兵器で再装備され再訓練を受けました。
10月、旅団はエジプトへ移動します。
そして、捕虜収容所の警備やアレクサンドリアの守備陣地の構築に当りました。
自由ポーランドはイタリアとは未だ交戦状態にありませんでしたので、
英軍はカルパチア旅団を前線へ投入することは出来ませんでした。
41年1月12日、英陸軍に則った編成が完了し、
呼称が独立カルパチア・ライフル旅団となります。
その後、ギリシャ戦線に投入されるべくハイファ港へ移動しますが、
最初の派遣部隊が船に乗り込む前にギリシャ戦は終了しました。
その後、ドイツ・アフリカ軍団の攻勢に伴い、
遂に旅団は、より前線近くのマルサ・マトルーフへ移動しました。
@パレスチナ・Latrun。カルパチア旅団の野営地。
ttp://www.kki.pl/piojar/brygad/brygad/palestyn/palest4.jpg Aエジプト。カルパチア槍騎兵連隊所属・騎兵中隊。
ttp://www.kki.pl/piojar/brygad/brygad/palestyn/palest5.jpg
60 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:54:14 ID:???
61 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 21:54:56 ID:???
1943年、カルパチア槍騎兵連隊はポーランド第2軍団の広域偵察隊となります。
そして、スタッグハウンドMk.I、Mk.II、AA(対空型)が装備車両となりました。
又、連隊の1個砲兵中隊はM3自走砲(75mm砲)を装備していました。
12月、英第8軍指揮下のポーランド第2軍団はイタリアへ上陸しました。
自由ポーランド軍は44年2月から前線へ投入されます。
そして、カルパチア槍騎兵連隊も、サングロ川戦線防衛戦、モンテ・カッシーノ戦、
アンコーナ奪取に参加し、45年4月21日にボローニャへ入城しました。
戦後、ポーランド第2軍団は改編され、
カルパチア槍騎兵連隊は第2ワルシャワ機甲師団隷下となります。
連隊はシャーマンを装備し、スタッグハウンドは第12ポドルスキ槍騎兵連隊へ譲渡されました。
45年8月15日、部隊はロレト近郊でアレクサンダー将軍とアンデルス将軍の閲兵を受けました。
しかし、46年に自由ポーランド軍将兵のポーランド市民権は共産政権に剥奪されます。
47年、第2ワルシャワ機甲師団は解体され、
カルパチア槍騎兵連隊は故国へ足を踏み入れることなく消え去りました。
○45年5月、ボローニャ。カルパチア槍騎兵連隊のスタッグハウンド。
ttp://i114.photobucket.com/albums/n260/Lancer44/IMG_0252.jpg
62 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 23:51:28 ID:???
>>32 は、バストーニュじゃなくてサン・ヴィトの戦いでした。
タミヤの解説では、ティーガーUを25mの距離から、
英語版ウィキは米陸軍機甲学校の記録を基に、ティーガーTを25ヤードの距離から、
後ろ側から3発のAPC弾を撃ち込んで撃破、と書いてあります。
63 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 00:13:29 ID:???
カルパチアンランサーが装備してたIII号戦車は写真を見るとJ型前期型だな
64 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 00:38:51 ID:???
>>63 訂正ありがとうございます。
※
>>60 補足:1942年10月時点のカルパチア槍騎兵連隊の装備装甲車両は、以下の説があります。
@キャリア:数両不明
Aマーモン・へリントン装甲車(Mk.II):数両不明
BスチュアートIII:4両
Cロールス・ロイス装甲車:2両
D鹵獲III号戦車:数両(イラストの注釈でもそうですが、8月時点では3両という記述が目に付きます)
E鹵獲AB-41:1両
65 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 07:28:34 ID:???
軽戦車や装甲車の主任務である、偵察って車両単独で行うの?それとも歩兵が随伴する?ソ連のT70は乗員2名だからタンクデサント前提っぽいが、あと威力偵察と普通の偵察の違いは?
66 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 11:17:09 ID:???
威力偵察=敵に攻撃を仕掛け、相手の戦力を図る。
67 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 12:55:14 ID:???
偵察機だとカメラとか積んでるけど、偵察用の戦車って、何か積んでたりするのかな?
68 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 13:34:38 ID:xwm6kcKC
威力偵察は火力偵察ともいい、敵に撃たせてどの程度の火力があるかを偵察する。特によく偽装されてる重火器。 こちらからは探り撃ちをする。歩兵は随伴しないが必要なときは何人か下車して偵察する。 普通の偵察は地形偵察や陣地偵察、迂回路、障害物の有無、敵兵の配置の確認で隠密に行う。 偵察用戦車はカメラや双眼鏡、無線機はないと困る。なければスケッチで・・。 パットンとかは威力偵察にみせかけてそのまま全軍潜入攻撃とかが得意だったらしいが自分が騎兵だからだろう。
69 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 14:25:37 ID:???
部隊名がなんか好きなポーランド騎兵。
>>64 見事なまでのお下がり鹵獲品編制の中でスチュアートが光っている気がするw
70 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 19:59:08 ID:xwm6kcKC
チハ以下の装甲、三式中戦車以上の火力、そしてM1A1以上の最大時速89km/hを誇る、 M18ヘルキャットはバストーニュでティーガー数両をふくむ24両を一方的に撃破したという。
71 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 20:06:18 ID:???
あれは最大速度を知ったときは、ほんに驚いたもんじゃった
72 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 20:46:43 ID:???
グレイハウンドがティーガーUをやったって話は都市伝説とか聞いた事が パンター絡みは知らない、そして真相も知らないw このスレなら誰か知ってそうだが
73 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 21:30:02 ID:nQQrdm9t
パットンのその遣り口は岩石スープ作戦て云うんだよな。
74 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 21:33:07 ID:???
>>70 すげえ機動力だな
第二次世界大戦時に履帯でそんだけ速度出るなんて、地味にオーバーテクノロジーだな
75 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 21:40:23 ID:???
>>72 撃破されたのは燃料切れで放棄されてた車両って話もあったと思う。
実際、発見して全力で攻撃して近寄ってみたら放棄されてた車両だったって話はよくあったらしい。
76 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 22:10:26 ID:xwm6kcKC
M18ヘルキャットのサスはクリスティ方式だからむしろソ連戦車に近い。 半装甲自動車・半戦車
77 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 22:45:56 ID:???
え、トーションバーだと思ってた
78 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 22:58:38 ID:???
79 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:26:44 ID:???
軍曹楽しそうw でも日本で三式中戦車とか動かしたらたぶんショボンヌな性能なんだろうな……
80 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:32:40 ID:???
土浦の武器学校にトラックのディーゼルエンジン+レストア費用寄付すれば 喜んでレストアしてくれるんじゃね? 足回りとか全部新規起こしになるかもしれんが・・・w
81 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:35:07 ID:???
>>49 94式6輪トラックだったら6x4だとは思うが
「くろがね」こと95式小型自動車が日本初の4x4だそうな。
82 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:44:28 ID:???
>>80 それよりも戦時中に試作されたという御料車を復元してもらいたい。
トラックのシャシにディーゼルエンジンという仕様だったらしい。
83 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:48:30 ID:???
>>82 三式中戦車は現物が公開展示されてるから、八九式乙みたくレストアされる目もあるかも知れんが
現物のないものは無理だろう
84 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 23:54:51 ID:???
放棄された車両が滅多打ちにされてる例は戦争末期には多いな パンターとかには特に多い
85 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 00:32:21 ID:???
露助が鹵獲した独戦車で戦死者の墓地を踏み荒らしてる写真に絶句したことがある
86 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 00:32:26 ID:???
【未知との遭遇】 1941年2月初旬、ベダ・フォムでイタリア第10軍は壊滅しました。 英軍は2カ月で500マイル進撃し、戦死500名、行方不明55名、負傷1,373名の損害で、 伊軍10個師団を壊滅させ、伊兵130,000名以上を捕虜とし、中戦車180両、軽戦車200両以上、 砲845門を鹵獲しました。 2月20日15:00頃、近衛竜騎兵連隊のマーモン・へリントン装甲車3両から成る偵察小隊が、 エル・アゲイラ近くの沿岸路を進んでいました。 彼らは、西方の丘の背後から砂塵が近付いて来るのを目にします。 しかし、イタリア軍残余部隊は10日程前にトリポリへ向け遁走した筈でした。 英偵察隊には砂塵の下にあるものの正体は分かりませんでしたが、 “敵”であろうということは予想出来ました。 そして、砂塵の主は敵装甲車だと判明し、英偵察隊はこの敵と射撃を交わしながらすれ違いました。
87 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 00:33:07 ID:???
「なんてこった、奴らを見たか?ドイツ軍じゃないか!」 ウィリアムス中尉(小隊長)は言いました。 それは第5軽師団・第3偵察大隊の3両の8輪重装甲車でした。 3両の英装甲車は反転し、独装甲車3両へと向かいます。 1両が路上を直進し、他の2両は道の両側の砂地へ展開したところ、 独装甲車隊も同様な行動を取ってきました。 路上では2両の装甲車が撃ち合いながらすれ違い、 砂地では4両の停止した装甲車が、互いに射弾を敵へと送り込みます。 遂には全車離脱しましたが、まだ力強く射撃を続けていました。 再度、3両の英装甲車が独装甲車隊の前を横切り、双方共に隊形を整えます。 これまでに、互いに1発の命中弾も無く、死傷者は出ませんでした。 誰の目から見ても決着はつきそうにもありませんでしたので、 両偵察隊は威風堂々、自軍の前線へと戻って行きました。 この奇妙な戦闘が、DAKと英軍との初めての遭遇でした。
88 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 00:35:20 ID:???
89 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 11:30:57 ID:???
遭遇したドイツ軍の8輪装甲車って、sd/kfz 231or232のどちらだろう?
90 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 13:51:24 ID:28jp5CtW
一式砲戦車もノモンハンで捕獲したBT戦車を参考にしてクリスティ方式にしていれば、 時速60kmくらいでたんだろうな。
91 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 13:54:17 ID:???
500馬力のエンジン用意できないとな。
92 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 14:00:39 ID:???
砲戦車にそんな機動力はいらんだろ。どうせならハ号にのっけてやってくれ。 というかハ号って複雑な形し過ぎでしょ、バルジで済まさずT-34みたいな面構成は出来なかったのか。避弾経始は考慮してるんだから。
93 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 15:14:52 ID:???
スペックより運用だろ
94 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 15:34:17 ID:???
95 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 16:32:45 ID:???
ゼロと同じで当初そんなにたくさん作るつもりじゃなかったから生産性は重視してなかったとか チハやテケも避弾経始のために曲面多用したりリペットの先を削ったりして生産性落としてるし
96 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 17:36:22 ID:???
>>89 「ジャーマン・タンクス」みると232の量産は1942年5月以降だそうなんで、
231じゃね?
97 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 17:56:26 ID:???
>>90 クリスティ式を作るには
短くて強靭なコイルバネが必要なので、日本では無理だろ。
98 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 18:03:51 ID:???
>>92 少しでも細かく削って軽くしたかったんじゃないかな。
どうせリベットで手作業で組み立てなんだし
下手に単純な面構成にしたら
パーツ当たりのサイズが大きくなって作業性が悪くなりそう
99 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 18:32:11 ID:???
>>92 所詮、フレームで基本形作ってそこに鋲打ちで鋼板付けてく手法だもの
単純な面構成にしたって大して手間は変わらんよ
あと、あの被弾径始は小銃弾の防禦に実に役立ったみたいなことを書いてる人もいる
>>99 いやいや充分短いってw
日本戦車のシーソー式の長さと比べてみw
【そして彼らは途方に暮れる】 ※
>>86-87 の後日談です
イタリア参戦時から名を馳せていた第11軽騎兵連隊とは異なり、
1941年初頭になってキレナイカへ投入された近衛竜騎兵連隊(KDG)は、
古兵から砂漠戦の経験を学ぼうと必死でした
(彼らは“King's Dragoon Guards”を捩って“King's Dancing Girls”とも呼ばれていました)。
2月20日、エル・アゲイラ近郊にて、
近衛竜騎兵連隊の偵察小隊は独軍・8輪重装甲車と交戦し、
初めてDAKと遭遇した英軍部隊となります。
その頃、エル・アゲイラの砦は無人地帯になっていました。
何故なら、近衛竜騎兵連隊には歩兵部隊の支援が無く、
砦を夜通し保持することが不可能だったからです。
その為、日が射し始めるとマーモン・へリントン装甲車は荒廃した砦へと向かい、
砦の周辺の丘陵を監視所として占拠していました。
この任務には、ボフォース40mm機関砲搭載の1両のトラックが付き従っており、
それは“ポムポム・トラック”と呼ばれていました。
“ポムポム・トラック”の指揮は豪州人のローリー中尉が執っていましたが、
彼は17歳で傭兵となった経歴の持ち主で、軍紀には無頓着で危険を省みない人物でした。
○41年11月、トブルク包囲戦時。近衛竜騎兵連隊のマーモン・へリントン装甲車。
ttp://www.qdg.org.uk/cmsimages/history/MarmonHarringtonArmouredCar_n.jpg
2月24日払暁、英偵察隊は再び砦へと向かいます。 縦隊はウィリアムス中尉の装甲車小隊が先頭で、その後ろにショート伍長の装甲車が位置し、 最後尾はローリー中尉の“ポムポム・トラック”でした。 突然、縦隊は砦から高初速砲の射撃を浴びせかけられました。 機関銃も唸り声を上げ、アレン伍長の先頭車が停止します。 咄嗟にショート伍長の車両はハンドルを左へと切りましたが、 彼が仰天したことには、最後尾のローリー中尉の“ポムポム・トラック”は、 砦へ向けて最高速度で突進して行ったのです。 髪と擦り切れた半ズボンを風になびかせつつ、ローリー中尉はフェンダー上に腰掛けていました。 全速力の“ポムポム・トラック”はそのまま先頭車も追い越しましたが、 機関銃弾に運転席を貫かれ、運転兵が戦死しました。 すぐに、ドイツ軍の8輪重装甲車とオートバイ部隊が丘を騒々しく下り立って来ました。 彼らはローリー中尉以下3名を捕虜とすると、撃破されたマーモン・へリントン装甲車を牽引して、 西方へと姿を消しました。 かなり後に、彼は(※原文では誰を指しているのかが不明です。恐らくショート伍長ではないかと思われます) イタリア軍のとある捕虜収容所で、ローリー中尉と偶然出くわしました。 彼は中尉に尋ねました。「どうして、あんな車の進め方をしちまったんですか……?」 不機嫌そうに豪州人中尉は答えました。「あん時はなぁ、俺は勝ち戦だと思っちまってなぁ……。」
>>101 シーソー式は筒の中で左右で分割されてるよ
>>102-103 乙です。マーモンヘリントンはMkIIかな?ボーイズ対戦車ライフルとブレンだと心許ないなあ
ロールスロイス、モーリス、マーモンヘリントン、ハンバー、ダイムラー、ランチェスター、AEC イギリスの装甲車覚えきれねえ
108 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 21:09:28 ID:28jp5CtW
いやー戦車の上で喚くリーアーメイの美声聞いてたらまた英語勉強する意欲湧いてきたわ。 実にすばらしい発音と表現力だな。
>>105 なかなか興味深い動画ですね。
>>106 DAKとの初遭遇戦時と直後の戦闘時の武装は、ボーイズ対戦車ライフル&機関銃と記述されています。
Mk.IIIは41年5月生産開始らしいので、おっしゃる通りMk.IIなのでしょう。
>>107 アメリカ製だがM6スタッグハウンドが抜けてるぞ。ダイムラー装甲車、スタッグハウンド、AECを見てると装輪軽戦車って言っても差し支えなさげに見える。
【頭上の敵機】 1941年6月15日、枢軸軍包囲下のトブルクを解囲すべくバトルアクス作戦が始まり、 英軍は初陣のクルセーダーを含む各種巡航戦車90両、歩兵戦車100両を投入しました。 ハルファヤ峠へ前進した戦車隊は、88mm高射砲により大打撃を被りましたが、 第4機甲旅団残余の約80両のマチルダに先導された中央縦隊は、Capuzzo砦へ向け進撃中でした。 その進路上には88mm高射砲は全く存在しませんでした。 McGinniley軍曹はマチルダ3両からなる戦車小隊の指揮官でした。 Capuzzo砦の残骸が視野に入る頃、彼の小隊は獰猛なシュトゥーカに捕捉されます。 独パイロットを惑わせるべく、操縦手はジグザグ運転を試みました。 急降下音と共に爆弾が投下され、辺りは爆煙に包まれます。 シュトゥーカが去った時、小隊はMcGinniley軍曹の車両だけしか存在しませんでした。 他2両の乗員の消息は、以後は全く不明となります。 その内の1両の車長のStrodwickは軍曹の友人でした。 軍曹は独歩兵と砲兵が陣を構える砦の軍墓地内へ、 同軸機銃を射ちながらマチルダをガラガラと押し進めます。 砲煙の中、砲陣地で1両の独トラックが慌てて走行しているのが見えました。 そのトラックから運転兵が飛び降り、他の兵員達が我先にと荷台に群がっている中、 彼は一門の野砲を救うべく、ただ一人で砲を引き上げようと試みました。 そのドイツ兵がトラックの後部に身を飛び込ませた時、マチルダは僅か50bの距離に迫っていました。 「奴は騎士鉄十字章の保持者だろうな……。」Strodwick軍曹は束の間にそう思い、 そして、叫びました。「機関銃!撃て!」
しかし、何事も生じませんでした。 McGinniley軍曹が砲手のScotを見やると、 彼は照準眼鏡に目を当てつつ、トリガー上で激しく手を振っていました (※勇敢なるドイツ兵を目の当たりにして、一瞬、撃つに忍びなくなったのかもしれません)。 仕方なく軍曹は手を伸ばし、代わりにトリガーを押しましたが、 手元が定まらず、機関銃が唸る代わりに主砲弾が撃ち出されてしまいました。 砲弾はトラックの運転手かエンジンのどちらかに直撃し、トラックは停止します。 バラバラと荷台から兵員が飛び降り、我に返った砲手は機関銃弾を浴びせ、 彼らは倒れ込みました。 その瞬間、マチルダに衝撃が走りました。 2発の50mm対戦車砲弾が操縦手席正面に命中した為で、これらは貫通しませんでした。 更に重砲弾が車体上で炸裂します。 マチルダの装甲は無傷でしたが、衝撃で2基のエンジンの片方が破損しました。 エンジン区画は煙と炎で満たされ、乗員はハッチを開けると消化剤を吹きつけます。 エンジン1基はドライブシャフトが折れていましたが、 速度がより遅くなるとはいえ、マチルダは片発運転が可能でした。 彼らの戦車はCapuzzo北郊に展開している中隊の後を追って、 のろのろと進んで行きます。
その道中で更なる命中弾が多数あり、エンジンが停止しましたが、 幸い再始動出来ました。 Capuzzo到着時、彼らのマチルダの外観は完全に“裸”でした。 天幕、糧食箱、シャベル、前照灯、予備覆帯、 その他諸々の付属物全てが消え去っていました。 指揮官協議中にシュトゥーカが再び飛来します。 McGinniley軍曹が砂の中から頭を上げた時、 中隊長と他2名の指揮官は死体となって横たわっていました。 このシュトゥーカが戻って来ましたので、軍曹は乗車のもとへと走り、 車体の下へ体を潜り込ませました。 その時、操縦手がエンジンを始動させ、軍曹の顔には排気煙が直撃します。 彼は後部へ這い出すと、ハッチの中から車内に飛び込みました。 シュトゥーカの爆撃下、大地は揺れ動きます。 50℃の暑さの中、彼らは砦へと到達しましたが、そこにはいくらの価値も感じられませんでした。 6月16日の終わりには、第4機甲旅団のマチルダは17両へと減少し、 同じく多数の戦車を撃破された第7機甲旅団は、投入可能戦力が21両の巡航戦車となっていました (※但し、修復中でカウントされていない戦車が他にそこそこ残っています)。 翌日、独第5軽師団による迂回包囲を恐れた英軍は撤退し、バトルアクス作戦は終了します。 英軍脱出回廊はマチルダ2個中隊によって保持され、彼らは一日中全ドイツ師団を阻止し続けました。 英軍は戦死122名、負傷588名、行方不明259名を出し、巡航戦車27両、マチルダ64両を喪失しました。
>同軸機銃を射ちながらマチルダをガラガラと 榴弾があああああああ
116 :
名無し三等兵 :2010/11/24(水) 13:20:28 ID:tlQWOIcE
マチルダって実は歩兵師団用駆逐戦車なんだよね。
機銃で歩兵支援考えてるし大口径の砲を積んだCSが同行する前提、 駆逐戦車とかの考えに当てはめるのは間違い。
マチルダTは、機関銃による歩兵支援が主任務だな。 マチルダUはそれに対戦車能力を追加。で、こっちがメインになっちゃった。 CSの主任務は発煙弾の発射で、重要な攻撃用ってわけじゃないし。 ちゃんと榴弾で歩兵支援をやろうとしたのがチャーチルの初期型。
イギリスの戦車ってなんだってあんな風にどれもカッコワルイの?
ここから引用 809 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/05/31 10:34 ID:??? 1917年4月段階でのWW1参戦各国の日産砲弾生産量 露11万発、オーストリア16万発、英29万発、仏31万発、独44万発。 この時、日本は月産10万発が可能だろうと推定されているにすぎなかった。 ソースは山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館1997p52 ここまで引用 前スレ827のってこれかな。20年後はもっと差が開いてたんだろうな・・・泣ける
ダイムラー装甲車の動画にも写っていたが、マチルダU戦車の砲塔の側面に筒が二つ程斜めに付いているが、何?
122 :
名無し三等兵 :2010/11/24(水) 21:06:27 ID:tlQWOIcE
『マチルダさん、マチルダさん、マチルダさん、マチルダさん、マチルダさん、マチルダさーん』 『マチルダさーん』
【サハラ戦車隊】 ※過去レスの補足です 1940年6月16日、北アフリカにおいて、 L3軽戦車装備のD’Avanzo戦闘団は英機甲部隊に惨敗を喫しました。 バルボ元帥は本国へ中戦車の派遣を要請します。 開戦時、イタリア軍は3個機甲師団を有しており、アルバニアに第131機甲師団“チェンタウロ”、 北イタリアに第132機甲師団“アリエテ”、第133機甲師団“リットリオ”が展開していました。 そして、M11/39中戦車を装備していたのは、アリエテ師団と東アフリカ駐留の中戦車大隊(24両)でした (※チェンタウロ師団も装備していたとの説も目にしましたが、真偽は私には分かりませんでした)。 6月28日にバルボ元帥は不慮の死を遂げますが、 7月6日、待望のM11/39中戦車72両(70両説もあります)が北アフリカに到着します。 これらはアリエテ師団からの抽出で、第1中戦車大隊、第2中戦車大隊として派遣されて来ました。 7月8日、デルナでマレッティ戦闘団が創設されます。 これは1個中戦車中隊、1個軽戦車中隊、1個自動車化歩兵大隊、自動車化砲兵、補給隊から成っており、 北アフリカ駐留伊軍における、真に“使える”最初の戦闘団となりました。 7月の終わりにはリビア駐留イタリア軍は強力になりつつあり、 前線では、何両かのM11/39中戦車が2個歩兵師団を支援すべく展開していました。 更にイタリア軍砲兵の技量が高まり、攻撃的になりました。 アウトレンジで攻撃を仕掛けて来る優秀なイタリア軍砲兵は、英機甲部隊にとって難敵で、 彼らは以前のように容易く勝利を収められぬようになってきました。
8月5日、伊戦闘団のM11/39中戦車は、英機甲部隊との初めての遭遇戦で勝利を収め、 英戦車2両を撃破し、2両を鹵獲しました。 鹵獲した巡航戦車Mk.Iは中戦車隊に組み込まれます。 伊軍は3両のM11/39中戦車が損傷しましたが、これらは後に回収・修復されました。 8月29日、イタリア第10軍はValentini大佐指揮の集成リビア戦車団を創設します。 これは3群から成っており、以下のような編成でした。 第1群(Aresca大佐指揮) @第1中戦車大隊 A第31軽戦車大隊 B第61軽戦車大隊 C第62軽戦車大隊 第2群(Trivioli大佐指揮) @第2中戦車大隊(1個中隊欠) A第9軽戦車大隊 B第20軽戦車大隊 C第63軽戦車大隊 第3群=集成Maletti戦車大隊(Maletti大佐指揮) @第2中戦車大隊からの1個中隊 A第60軽戦車大隊
M11/39中戦車は、西部砂漠で英機甲部隊に伍していける事が明らかとなりましたが、
運用上の問題点はいくつかありました。
そのことについて、Aresca大佐は以下の点を挙げています。
@照準眼鏡の遠距離戦での性能不足
A各車両に無線装置が装備されていない(※L3軽戦車同様、指揮官車のみ装備でした)
B整備修理施設の不備
C整備員の技量不足
D戦車回収車の不足
同様に学んだ戦訓について、以下の3点を挙げています。
@航空偵察機による直協が必要である
A捕虜尋問の為、英語が話せる将校を1人は部隊に含めるべきである
B対戦車砲を部隊に同伴させるべきである
@については既存の基本原則の再確認、
Bについては敵装甲車両の脅威に抗すべく、スペイン内戦時から既に提唱されていたことですが、
逆に言えば、この期に至っても徹底されにくかったということなのでしょう。
○40年9月、イタリア軍が鹵獲した巡航戦車Mk.I。第62軽戦車大隊で再使用。
ttp://2.bp.blogspot.com/_KezhQ6waZT0/SiaCUmgHDoI/AAAAAAAAQBI/IoFqsJ6be9s/s1600-h/trhyhuilk.jpg
>アウトレンジで攻撃を仕掛けて来る優秀なイタリア軍砲兵 イタリア軍砲兵って、短射程の旧式砲が多かったせいか、 こういうフランス砲兵的な運用ってめずらしいよね。 火砲は何を使ったんだろう?
マチルダのアンテナに旗がついてたりするけど、指揮官車? どの車両がどの旗付けるとか誰か教えて……
129 :
名無し三等兵 :2010/11/24(水) 22:10:15 ID:u/Lb1y4Y
>>127 申し訳ありませんが、具体的な砲種迄は分からないです
( 個人的には
>>129 氏が挙げておられる75/27や77/28辺りかと思っています)。
2ポンド砲、対戦車ライフル、機関銃装備の英装甲車両には、
技量の上がった伊軍砲兵は危険な相手となったようです(この時期のCS型巡航戦車は煙弾のみ装備だったと記憶しています)。
英軍襲撃隊に25ポンド砲の持ち込みが確認されることもあるのですが、攪乱目的の襲撃が多い為か、
装甲車両のみということになりがちではあったようです。
>>130 75/27や77/28辺りで25ポンド砲をアウトレンジとな?
>>131 相手が18/25ポンドだったら強装できないし仰角制限もあるんで
イタリア側が75mm野砲で先鋭弾だったら良い勝負(200mぐらいしか違わない)
山砲だったら叶わないけど。
>>132 それでもアウトレンジはむずかしいような…
134 :
名無し三等兵 :2010/11/25(木) 06:41:30 ID:azpEwPiM
しかし徹甲弾だけの歩兵師団用戦車に発煙弾だけの巡航砲戦車ってなあ・・。どんだけ単能と言うか固定的というか・・。 貴族の子供がおもちゃの兵隊で遊んでる感覚なんだろうな。 アウトレンジとかはお互いの砲列の高低の関係とかもあるんじゃなかろうか。 陣地選定が巧妙になったとか・・。
※
>>37 補足です
この時のD’Avanzo戦闘団のタンケッテの数ですが、
英軍は29両としていますが、イタリア軍サイドでは16両としています。
どちらが正しいのかは神のみぞ知るですが、伊軍の挙げる数字の方に分があるのかもしれません。
(前スレで伊軍側の挙げる数字をもとに> 12両のL3軽戦車は陣外で哨戒に当ります
と書きましたが、この他に右翼縦隊に4両がいまして、それも含めると全16両となります)。
又、伊軍側ではこの時に英軍が25ポンド砲を持ち込んだと認識している向きがあるのですが、
英装甲車両隊の支援には牽引2ポンド対戦車砲・1個小隊(第3王立騎馬砲兵連隊)しか当っておらず、
これは明らかに2ポンド対戦車砲を誤認したものだそうです。
巡航戦車Mk.Iは伊軍側は2両としていますが、英軍は8両投入したとしています。
これは英軍の挙げる数字の方に分があるのかもしれません。
>>131 誤解を招く書き方だったようで申し訳ありません。
>>124 に、
>優秀なイタリア軍砲兵は、英機甲部隊にとって難敵で
と書きましたが、その頃(40年7月下旬)の英軍襲撃部隊は装甲車両だけで構成されることも多かったようで、
その襲撃隊が伊軍砲兵にアウトレンジされたという趣旨の話です。
(※又、野砲付きで襲撃隊を派遣することがあっても、長駆して○○を装甲車1個中隊で奇襲、
更に××も戦車1個中隊で襲撃と分遣している内に、砲の支援の及ばない部隊が出てきてしまったようです)。
以下は第7軽騎兵連隊史による、英2個戦車中隊がイタリア軍の3つの砲座と遭遇した時の話ですが
(M11/39中戦車が前線に出てくるようになった時期の話です)、
英戦車は停止をするとイタリア砲兵の確実な標的となり、停止をしなくても的とされ、
逆に、車載機関銃で反撃しても遠距離では効力が無く、遂には引き返すよう命じられます。
その一方で、第6王立戦車連隊から増援が送られることになりましたが、
日が暮れてきましたので、英軍は夜襲を企てました。
その夜、英戦車は機関銃を射撃しながら突進したのですが、イタリア砲兵に激しく応射され、
更には3両のM11/39中戦車が突撃してきて、1両は体当たりをしてきましたので、英戦車隊は再び後退します。
ここで、ようやく25ポンド砲が長距離射撃を始めました
(※この25ポンド砲は増援と思われますが、最初から英戦車中隊に付属させていたのなら、
日中の攻撃法も自ずと変わったのでしょう)。
この時期、英軍が技量の上がった伊軍砲兵のアウトレンジを脅威に感じたというのは、
英軍の襲撃隊の編成と襲撃方法にも原因があるようです
(※他にも徹甲弾だけの2ポンド主砲、煙弾だけのCS型といった装備面も含めまして)。
イタリア参戦から1カ月半以上が経過し、伊軍が英軍の手の内を理解し始めたことによって、
英軍のその辺りの問題点が顕在化した結果のような気がしないでもありません。
>>135 >右翼縦隊に4両
左翼縦隊の間違いです。訂正させていただきます。
>>136 英連邦軍の初期の機甲襲撃では、野砲が随伴せず、戦車にも榴弾がなかったので、
敵砲兵に苦労したってことだね。
>英戦車は停止をするとイタリア砲兵の確実な標的となり、停止をしなくても的とされ、
>逆に、車載機関銃で反撃しても遠距離では効力が無く、
ってことですね。
そりゃ車載機関銃なら砲兵にアウトレンジされるわなw
伊軍砲兵の技量の向上って、たぶん野砲等で動目標を捕捉する技量のとこだと脳内補完。
もちろん直接照準でね。
>>114 >英軍は戦死122名、負傷588名、行方不明259名を出し、巡航戦車27両、マチルダ64両を喪失しました。
しかし、大損害だよなぁ。はるばる喜望峰まわりで運びこんだんだろうに。
M13/40中戦車って、中戦車って言う割にスチュワート軽戦車より軽いし装甲も薄いんだよね。旧日本陸軍の砲兵の先生ってイタリア軍じゃなかった?
仏軍じゃないの?
>>140 まあM3軽戦車は当時の軽戦車としては装甲が厚いからな。
M3中戦車も大体同じ装甲厚だし。
>>141 弾道学とか要塞系はイタリアだった気がする。
>>140 一応、榴弾威力だけは倍以上ある。榴弾が配給されていたかは不明だけど。
なんか機動力と砲塔前面の装甲厚除くと、チハとチハ改の中間みたいな戦車だ…。
>>139 いや、タイガー船団が地中海横切って、バトル・アクス発動じゃね?
>>126 整備関係やっぱり穴だったのか。
独伊とも欧州仕様戦車なのにどうして伊戦車は壊れるのか
以前イタリアスレでちょっと振ってみたことがあった疑問だったんだけど。
いくら戦車使おうとしてもモータリゼーションが進んでないとかで
社会的も人材が薄かったのかねぇ。
『枢軸万歳』で戦車兵が間に合わなくてメーカーの工員に兵隊の格好させた
とかあったなぁ。
あと、伊軍に鹵獲されて使用される英米戦車ってのも聞かないなw
>>134 英国はどういう訳か兵器調達整備の組織がやたらお役所仕事なだけだと思う。
海軍の有り余ってる2pdrの弾はちょこっと直すとかで流用出来なかったのかねぇ。
>>139 最重要戦区なので地中海突っ切って持ってくる。
>>146 あれはずーっと使ってて艦艇のボフォースへの装備更新に影響があるくらい
在庫があったと言う話だったかと。
>>145 まあ軍関係者が「参戦はマジ勘弁」って言ってたのに、
ドイツがフランスを席巻するのを見てドゥーチェの理性が欲望に負けてしまっての参戦だからなあ。
あの国の自動車産業は基本(『紅の豚』的な)職人的工業なので、その辺が大変だったのでしょう。
まあマチルダ2とかも湾曲部は職人がグラインダーで整形とかやってたらしいが…。
>>142 スペイン内乱の実体験も無しに軽戦車であれだけ厚くできたのはなぜなんだろう?
150 :
名無し三等兵 :2010/11/26(金) 01:54:40 ID:fybDK/0v
>>149 第二次大戦緒戦の戦訓を参考にしたんだと思う。
要は列強の37mm級対戦車砲に対抗できる装甲を施しただけの話じゃないかと。
M3は第二次大戦勃発後に開発されて、試作完了40年半ば、生産開始は41年に入ってから。
無印は1年ちょっとしか生産されてないし、M3A3まで含めても生産期間2年半なんだよな……。
>>149 スペイン内戦でM2の装甲が25mmに強化され、
第2次大戦緒戦でさらに装甲強化の必要があるとされて、
正面装甲が38mmになったそうだ。
ちなみに最大装甲厚の50mmはM4とかと同じで車体最前面らしい。
まあ38mmあれば当時の軽戦車としては十分だが。
砂漠の戦いって海戦に似てる。実際英軍戦車は旗艦を見立てたそうだ。
有名な逸話、イギリス兵捕虜「高射砲で戦車を撃つのは卑怯だ!」ドイツ兵「高射砲でしか撃ち抜けない戦車を使用するのは、もっと卑怯だ!」
でも高射砲って初速が速くて装填も速い。 対戦車砲に必要な能力を十分の備えてるんだよねぇw
156 :
名無し三等兵 :2010/11/26(金) 10:40:33 ID:gDjmRCNR
水平撃ちすると壊れる88式7センチ高射砲 具体的にどこが弱いの?
>>156 特に駐退機。
無理な軽量化のため、対空射撃中でも破損が多かったそうだ。
158 :
名無し三等兵 :2010/11/26(金) 11:50:06 ID:gDjmRCNR
砲口制退器とかでかいぜんしないか
159 :
名無し三等兵 :2010/11/26(金) 13:06:46 ID:1LoQ99um
スペイン内戦にはへミングウェイみたいな左翼アメリカ人も大勢参加してるからそれが教訓として役に立ったのかも知れにア。
【マイ・スウィート・ハニー】 ※第3王立戦車連隊に所属していた南アフリカ人将校の回想です 幸いにも翌月と翌々月(1941年)は物事がテンポよく進みましてね。 何か裏でデカイことが始まっているといった、漠然とした印象を我々は持ちましたよ。 ギリシャ戦での損失を補充すべく、新兵が毎週到着していましたし、 8月には新たに戦車が送られてきましたからね。 スマートですばしこいクルセーダーを見たんですが、 あれはエジプトの余所の連隊に行っちゃいました……。 私たちのモノではなかったんですよ。 ウチは、公式にはM3軽戦車…略して『スチュアート』として知られている米国製の戦車を受領しました。 それ迄は旧式のA10、A13、それと何処かの戦争博物館か展示会から引っ張り出されたかのようなA9でさえ、 何両か使っていたんです。 こいつらは、移動式のプレハブ住宅みたいに重厚で角ばった外見をしていましてね。 そして脆弱でありました……。 最悪な場合ですと、1マイルか2マイル以上のどんな強行軍でも履帯が壊れましたよ。 それと急転回すると履帯が外れることもありました。
その年の初め、第3王立戦車連隊の60両余りの戦車がギリシャ戦に投入されましたが、 直接の敵対行為で損傷したのは半ダースにも満たなかったんですよ。 残り全ては履帯の損傷か機械的な故障で放棄されたのです。 マケドニアとテッサリアの峠や隘路に故障車が点在しましてね。 車載機関銃は外したんですが、手付かずの車両もありました。 連中は敵に対しては何の役にも立ちませんでしたなぁ……。 軍じゃ誰も、熟慮して連中を運用しませんでしたからね。 でもね、私は今でも、あいつらのことを思い浮かべるのが好きなんですよ。 幾分冷え冷えとして狭苦しい居場所を、宿無しのギリシャ人貧農一家に提供してるんじゃないかってね……。
新しい戦車がやって来るというのは、私達にはそれはそれは重大な関心事でしたよ。 新婚夫婦が新居を検分するとき以上のものなんです。 戦車と一緒にやって来た米軍技術団にも魅了されましたね。 スチュアートは、テキサスくんだりからやって来た珍妙な仕掛け機械に見えました。 1対のブローニング機関銃がウエスタン風味を強調していましたし、 馬にまたがったすらりとした“テキサス人”といった感じがしましたね。 主兵装は同時期の英戦車と同様の豆鉄砲でした。 しかし、正面装甲は私達の軽戦車や巡航戦車なんかよりは厚みがありましたよ。 エンジンと履帯は乙なもんでした。 操縦手はエンジンカバーを開けた時に、仰天して息を飲んでいましたね……。 単純な航空機用エンジンが戦車に突っ込まれていまして、 放射状のシリンダーとプロペラみたいな1個のファンという外観でしたから。 燃料に関しては補給部門に新たな問題をもたらしました。 エンジンを効率的に働かせるには、航空機用のハイオクタンのものが必要でしたので……。 でもまあ、これは私達の問題ではないですし、彼らとの合意は取れていましたからね。 エンジンの次には、私達の関心は完全に履帯に集まりました。 英陸軍にはあんな物は無かったですから……。 何しろ、履帯の1つ1つにソリッドラバーが取り付けられていたのです。 英国の戦車設計部門の畜生共は、なんでこのようなことを全く思い付かないのか、 あれを見た後で、私達は訝しんだものですよ。
すぐに私は1両のスチュアートに乗り込んで、ヘリポリスの外へと向かいました。 砂漠の砂地で高速度試験を行ないましたが、上手く行けば時速40マイルぐらいが出ましたよ。 同環境で、III号戦車やIV号戦車は上手くやって時速20マイル程と知っていましたから、 元気付きましたね。 その後、操縦手のホエーリーに話して、急転回を数度と急停止をやらせてみました。 何事も起きずに満足しましたよ。 あの戦車は、良く調教されたカウボーイ用の馬のように扱えました。 「よーし、履帯の一つを脱落させてみるか。」私はホエーリーに言いました。 ホエーリーは多様な転回を試し、ホッケーの試合後のスケートリンクのような岩場に戦車を乗り込ませたんです。 「よろしい。俺達は砂漠をすり減らし始めてるようだな。」とうとう私は操縦手に叫びましたよ。 野営地に戻ると大勢が待っていました。 戦車から這い出ると、みんな幸せそうにニコニコしていましたよ。 「なあ、ホエーリー。こいつをどう思う?」私は操縦手に尋ねたのです。 彼は、すっかり“テキサス人”の虜になっていましたからね……。 ホエーリーは微笑みながら、さらりと言いましたよ。 「愛いヤツであります。」(“It's a honey sir.”) その瞬間からでしたよ、英軍で『ハニー』と呼ばれるようになったのは……。
乙ー こういう実際に乗り込んだ人間の視点はいいねぇ
北アフリカ戦線初期のイギリスの主力戦車はバレンタインでオッケー
166 :
名無し三等兵 :2010/11/27(土) 13:29:27 ID:Skef9xba
イギリス兵も自軍の初期型巡航戦車に対しては司馬遼太郎並みの憎悪を抱いていたんだな。
167 :
名無し三等兵 :2010/11/27(土) 13:56:46 ID:+MVMhE9n
私がミリオタに成りかけの昭和50年代半ばの頃、ドイツ電撃戦の立役者である強力な機甲師団ということで、V号戦車やW号戦車が主力と思っていた。 年を重ねて深みにはまっていくと、U号戦車、35(t)、38(t)が大部分でV号やW号が少数ということがわかり、へぇーと思った。 仏派遣英国軍もマチルダUが主力と思っていたら、アラスの戦いに参加した16台しかなく、重機装備のマチルダTが殆どだった。ソ連もBTシリーズだし日本のチハも遜色ないじゃん!1940年辺りまではと思う今日この頃であった。
でも日本も40年頃までチハよりハ号の方が生産量多かったような・・・
チハは遜色ありまくりだとおもうけどナァ 速度がいまいち出ない(実は出せない、が正しいか)割に装甲は薄いし。 なにより本格的に生産されたのは41年4月~44年3月あたりですよ。 40年の段階での主力は八九式とハ号、捜索連隊はまだハ号が回ってこずテケ車とTK。 電撃戦(西方)辺りの時期の現実は日本だってそんなもんなんです。
まあ装甲厚25mmは37年当時の他国の戦車もそんなもんだと思うが、短57mm砲はどうしようもない つくづく日本は支那としか戦争できない国だったんだなぁと
>>160-163 乙。なんかそこここに戦車に対する愛着が感じられる文だなぁ。
巡航戦車は妙な菱形砲塔積みだすまでは結構好きなんだけど
それ位のT〜Vあたりの資料ってあんまり無いんだよなぁw
> 英国の戦車設計部門の畜生共
これは良く聞くw
戦車に限らず第二次大戦前夜から戦中にかけてイギリスは艦船も航空機も迷走してるように思える。 第一次大戦前頃からフランスやドイツに技術力で抜かれつつあったのだけれど生産力で補えてたのが、二次大戦辺りでははっきり遅れをとっている。 個人的にはグダグダしたそこらへんの駄作も味があって好きだけど、実際それらに命を預ける兵隊さんには………
ドイツ戦車兵も愚痴りたかったんじゃないかな。こんな訓練用戦車(T号戦車)や繋ぎ戦車(U号戦車)で戦争おっぱじめるなよって。U号戦車の20ミリ機関砲は榴弾があって陣地破壊には使えたらしいが
【好きなのを選んでね】 ・訓練用戦車(対戦車火力皆無) ・つなぎ戦車(機関砲搭載) ・チェコからの貰い物一号 ・チェコからの貰い物二号 当たりが出たら三号戦車が貰えるよ!
四号は?
【“強敵”と書いて“とも”と読む】 1941年11月、クルセーダー作戦時のシディ・レゼク近辺での出来事でした。 今や戦場は、所々で英兵と独兵が入り混じっていました。 ブラッドショウはクルセーダー3両から成る小隊の指揮官で、 所属中隊の休止の為に、一帯の索敵に当っていました。 クルセーダーは燃え盛る戦車の間を巡り回りましたが、辺りには死傷者が倒れ伏していました。 そのとき、片足を引き摺りながら歩いている一人の男の姿が、ブラッドショウの目に入ります。 彼は男の側に戦車を寄せ、呼び掛けました。 「イタリア人か?」 その男は大変流暢な英語で答えました。 「いやいや、私は血に飢えた酷たらしいイタリア人なぞではないのだ。ドイツ人さ。」 明らかに、ブラッドショウを困惑させようとしての返答でした。 そのドイツ兵は負傷していましたので、ブラッドショウは彼を戦車に乗せました。 主砲の下に腰掛けたドイツ兵に飲料水を与えたところ、彼は英国煙草をお返しにくれました。 「君たちの補給隊から頂いたブツさ。」 ドイツ兵は言いました。
ブラッドショウは約1000ヤードの彼方に、数両のドイツ装甲車の姿を認めました。 便乗させていたドイツ負傷兵はクルセーダーから降り立つと、 そちらへ向かってよろよろと歩み始めました。 ドイツ負傷兵を引き留めようと、クルセーダーの砲手が威嚇射撃をしましたので、 ブラッドショウはインターコムで叫びました。 「撃つな!奴を撃ってはいかんぞ!」 ドイツ負傷兵は振り向くと、敬礼をしつつ厚かましくも呼び掛けてきました。 「次はロンドンで諸君とお目にかかろうではないか。」 ブラッドショウは言い返しました。 「ベルリンでだろ。」
翌日、シディ・レゼクでの混沌とした戦況は連合軍に好転してきました。 しかし、ブラッドショウのクルセーダーは直撃弾を受け、 彼は車外へ脱出しましたが、臀部を酷く負傷していました。 藪の中に身を横たえたブラッドショウは、 自車がドイツ軍陣地によろめきながら激突するのを、ぞっとする思いで見つめました。 それは、死者である閉じ込められたままの操縦手の運転によるものでした。 殆ど歩行の出来ないブラッドショウでしたが、 その後すぐに、友軍戦車に拾い上げられました。 彼はキャンバスと竹で出来た負傷者搬送具に包まれた上で、 戦車の装甲外面に括り付けられました。 ブラッドショウの頭だけさらけ出した状態で、戦車は最寄りの野戦病院へと向かいます。
彼らは尾根越えの道筋を辿りました。 それは、その日早くに前進した英機甲部隊が採ったルートで、 独歩兵隊の守備地点を迂回していました。 その独歩兵隊は掃討によって隠蔽陣地の殆どを失っていましたが、 理由あって、ブラッドショウを搬送中の戦車は、 それらのドイツアフリカ軍団兵の真っ只中で、少しばかり停止しました。 戦車にチキンのように括り付けられていた無力なブラッドショウは、 塹壕の切れ目にいた一人のドイツ小銃兵と目が合いました。 それは1bにも満たない近距離でした。 ブラッドショウには全く為す術がありませんでした。 彼はドイツ兵に微笑みかけました。 すると、ドイツ兵は微笑み返してきたのです。 そして、戦車は野戦病院へと動き始めたのでした。
学研の戦史シリーズ「北アフリカ戦線」にも書いてあるんだが、ドイツにとって北アフリカ戦線は、どうでもよい戦線だったらしい。 何故ならメインは東部戦線で北アフリカ戦線は、イタリアが戦線離脱しないようにするための尻拭いであるからだそうな。 だからこそロンメルは、ヒトラーからの干渉を気にせず好きに戦えた。そのかわり慢性的に補給不足だったけどね。 親衛隊もいなくある意味交戦規程に則った戦いが行えた稀な戦場だったかもね。
「砂漠の狐を追え」は良くできたフィクションだったんだな、と上の事例で再確認した。
>>180 決して君のことを疑ってる訳じゃないことをまず言っておきたい。
その上で、もし良かったら
ドイツ側のそう言う発言した事例とかが載っているか、と
もし載ってなかったらその記事書いたライターの名前教えてくれ。
英側の状況や意図を知っていると俺ごときでも近視眼すぎる見解に思えるんだが、
それでも当時のドイツ側指導層がそうだったとしてもおかしくない。
ただ、ライターの見解だったらその人は回避したいので。
130だが今、学研の本がないのでライターの名前は分からない。 しかし個人的には、その記事には賛成してる。ドイツは東部戦線に影響を及ばさなければ良いって感じだったと思う。現にドイツは東部戦線から兵力を抽出しなかったし。 ただロンメルが優秀だったから、ヒトラーは変な期待をしちゃったけどね。 結局チャーチルが自国民やアメリカに、アピールしたかったんいやないかな。戦争に協力しろ!とかもっと援助しろ!とか
補給不足ってか受けられる補給を考えて行動しないロンメルさんが悪いよね OKWから基地外呼ばわりされてるし
その辺の話の大元は「補給戦」やね。
>>181 ロンメル自身が妻宛の手紙でそんなことを書いてる。
>>183 どうかな。英軍の攻勢も補給が続かなくて下がってるし
全般的に兵站劣勢な側が取れる手としては
攻勢防御というのは悪い案でもないわけで
DAKの取った一連の動きは理解できるよ。
>>182 ありがとう。
当時の英側(というか、アランブルック)の意図としては、
1.独を屈服させ、戦争を終結させるためには欧州大陸への上陸が必要である。
2.上陸、その後の進撃を考えると大きな戦力が必要である。これは自軍戦力の補充拡大みならず
米を引き込むことで幾分簡単になる。
3.上陸そのもの、上陸後の補給、を考えるとこれらのための大変な数の船腹量が必要である。
4.船舶は国民生活の維持にも必要不可欠であり、各植民地の保持、戦力の補充拡大のためにも、
現状では3の為の船腹など米を引き込んだとしても調達出来ない。
5.4で必要とされる船腹量を増大させている最大の原因は、スエズ運河→地中海を使用出来ず、
喜望峰回りとなっていることで、長くなった海上交通線で必要輸送量を維持するために
船腹量が裂かれている。
6.よって、地中海を安定させ海上交通線を確保することこそが最重要である。
てな感じなんだ。(『参謀総長の日記』参照)
だからアフリカ・イタリアで戦争やるのは実は結構重要な上陸阻止要因だったりする。
もっとも、対ソ戦線とバランス取らないといけないのは仰る通りで
ロンメルはコスト度外視でやり過ぎだし(『補給線』で見たあのトラックの量はどうよ)、
陸軍脳なドイツ上層部はここまで考えてなかったとしても全く不思議じゃないけど。
(でも、チャーチルもここまで理解出来てたか疑問があるし、アランブルックも陸軍さんだ)
>>185 ありがとう。
まあ、それでこそロンメルだ。
>>183 攻勢に出るなって命令されてなかったんかね。
>>185 補給線が細すぎて攻勢に出ても維持できないんだわ。
ドイツが背後を取られるまでお互い攻めあぐねたわけで。
何もしなくても変わらなかっただろうなぁ。
ロンメルは対仏戦で戦死しとけばよかったんだよ
190 :
名無し三等兵 :2010/11/28(日) 08:47:55 ID:9Lo040FE
>>186 個人的にそのアランブルックが言っている地中海が重要っていうのは違うと思う。
イギリスにとって重要な海はアメリカと結ぶ大西洋だと思う。モンティが戦車のハッチから上半身を出している、有名な写真にしても、その戦車はシャーマンだしね。
結局イギリスはアメリカのジュニア・パートナーということを認めたくなかったじゃないかな。
>何もしなくても変わらなかっただろうなぁ。 いや防御といえど攻撃行動を複合しないと持ちこたえられない。
>>190 そうか。ただ、一応英国は米の説得も含めてこの方針に従って動いてる。
ちょっと難しく考えすぎてる気がするんだが、
「地中海が国家的に大西洋より重要」ということでなくて
「上陸とその後の進撃のための船腹を確保するには地中海が重要」
って話。米→英は一応モノ流れてるし、戦前と距離が変わる訳じゃないから。
193 :
名無し三等兵 :2010/11/28(日) 14:26:38 ID:U4YaMyw8
そもそもドイツはイタリアの参戦自体必要としていなかった訳だから、スエズ運河云々は跡付けの理由だと思う。 ギリシャ・ユーゴ作戦だって想定外だった。ロンメルへの命令はスエズ攻略ではなくリビアの防御だった。 リビア防御のためにも積極的に作戦することは必要だったが、ケッセルリンクやシュトゥデント、つまり空軍はマルタ攻略が先だと思っていた。 しかしロンメルは空挺作戦は素人なので面白くない、みたいな感情論もあったのでは?
ロンメルが病欠してる時にやってきて、心臓発作で死んだのってだれだっけ? 名前が思い出せない(´・ω・`)
>>193 その望まれぬ参戦で、スエズが陥ちなくても地中海航路が使えなくなって
英が上陸不能になるほど大きな負担を強いていたという話。
まあ、そう言う視点もあるってことで。
>>194 シュトゥンメじゃなかったっけ?
>>195 その人だ。ありがとう。
ってかカワイソス(´・ω・`)
>>196 あの人は待ち伏せにびっくりして発作で死んじゃったからねえ(´・ω・`)
そういう場合って戦死扱いなのか戦病死扱いなのかただの死亡なのかどうなんだろう?
>>195 アメリカの本音はトーチ作戦とかはやりたくなくて、直ぐにでも大陸反抗作戦をやりたかったみたかったみたいだね。
イタリア上陸作戦のせいで、フランス上陸作戦が1年遅れたっていう米軍将校もいたし、
スターリンもトーチからイタリア上陸作戦は全然評価してなかったしね。あんなの第2戦線じゃない!とかね。
【明日は我が身】 独第5戦車連隊は英第7機甲旅団を再度攻撃中でした。 年若なWerner Fenckはすっかり心を落ち着けていました。 装填手の彼は老練なWendt軍曹の指揮下にあり、 軍曹からは動じる気配が全く感じられなかったからです。 彼らは射撃を開始しました。 戦闘中、装填手は外界を目にすることの出来ぬ唯一の乗員で、とても快適とは言い難い部署でした。 Fenckは砲弾を砲身へ押し込みます。 暑く汗まみれな中、硝煙と共に空薬莢が排出され、コルダイトの悪臭が鼻を衝きます。 「命中!」誰かが突如、叫びました。 エンジンは力強く鳴り響きます。 Wendt軍曹の乗車は1両の新型巡航戦車のもとで停止しました。 乗員は無線手を除き、全員車外へと飛び出します。 その哀れな“悪魔”(※巡航戦車)は、いくらか傾斜面のある部位で構成されており、 酷くは損傷していませんでした。 軍曹たちは、このメキリでの伝説上の戦利品を漁り始めました。 しかし、食用品、飲料物、煙草はこれっぽっちも無く、 多量の地図だけが、“Aldridge少佐”との印のある図嚢に収められていました。 彼らは失望したまま自車両へと戻りました。 勝手な行動を取ったとはいえ、軍曹はやはり小隊長の身でありましたし、 数分に渡って、中隊長が無線で激しく彼らを罵っていたからです。 軍曹たちが手に入れたのは、“お小言”だけでした。
そうしている間にも、Wendt軍曹は再び先頭を切って戦車を進ませます。 彼らは敵戦車群へ向けて最高速度で疾駆し、何度か激しく砲撃を加えました。 砲手は1両の敵戦車へ全射弾を命中させます。 一方、小隊は四散しました。 軍曹の車両のみが数百b進みましたが、 そこで彼は、敵戦車の背後で配置に付いている対戦車砲と、 砲を牽引して走行している複数のトラックを目にしました。 「止まるな!そのまま撃つんだ!」軍曹は叫びました。 その瞬間、妙な角度で垂れ下がる砲身の姿が彼の目に映りました。 1発の命中弾が砲身の下部を粉砕したのです。 最後の瞬間、軍曹は砲手の襟首を掴んで、引っ張り上げることが出来ました。 車内では1発の2ポンドAP弾が凄まじい音を立てていました。 「俺の両腕が……、両足が……。」砲手が苦痛の呻き声を挙げていました。 砲手の“グランパ”(※ニックネーム)以外の乗員は全員無傷でした。
2ポンド砲弾は戦車の底部に転がっていましたが、それは垂直な正面装甲を貫いたのでした。 無傷のWendt軍曹はまさにその背後に立っていたのですが、 まことに驚くべき弾道でした。 彼らは負傷した砲手を引っ張っていきました。 “爺ちゃん”は破砕された装甲の破片で酷い傷を負っており、両足の骨は粉砕されていました。 「“爺ちゃん”は死にました……。」無線手が言いました。 「おい、クズ野郎!“爺ちゃん”は不死身なんだ!脈は診たのか?」軍曹は言いました。 「……いいえ。」躊躇いがちに無線手が言いました。 彼らは、大きな血溜まりの中で横たわっている、その東プロイセン人を見つめました。 弾け飛んだボルトの頭は、彼の首筋の静脈を切り裂いていました。 やがて、装甲救急車が彼らのもとへやって来ます。 軍医は真っ先に砲手を診断し、その他の診断も終えた後で言いました。 「最初に“爺ちゃん”を診たんだが、彼の容態はより難しくなっているね……。」 この経験の後、Wendt軍曹の敬愛していた中隊長は騎士鉄十字章を授与されましたが、 軍曹と無線手は、攻勢が破綻したことをふと耳にします。 彼の脳裏には、第5軽師団がシジ・オマールとシジ・スレイマンへ向けて突破した際の、 ロンメル将軍からもたらされた言葉が浮かんでくるのでした……。 “これが、この戦いの転換点である。”
>>198 アメリカの、というかアメリカ陸軍あたりの欧州反攻派はそんな感じ。
まあ、所属してた国やら組織も自分とこの都合があるから
色々見方はあるってことだと思う。
特に欧州行った米軍はほぼ英の都合で動いたようなもんだから。
当時は戦時体制が整ってないから基本的に統一見解が無くて
自分の部署から物見て話するんでそうなっちゃってたんだと。
一番手強かったのはアメリカとしての理に適ってるキングだったそうだ。
あ、ごめん。横切っちゃった。
最初の方は、クルセイダーでも出たのかな 一応、2ポンドでも効くんだなぁ。
避弾経始の考え方って、ソ連以外では重要視されなかったのかな?ソ連ではBTシリーズからなのに、ドイツはパンサーから、アメリカはチャーフィーからじゃん。
車内容積的な問題じゃないの?
>>205 ソミュアやFMC36は避弾経始を意識してるし、アメリカはM4の正面装甲が明らかに。
マチルダ2なんかも相当苦心して整形してる。
ドイツも綺麗な面構成のハーフトラックや装甲車は猛烈に避弾経始を意識してる。
210 :
名無し募集中。。。 :2010/11/29(月) 21:56:53 ID:ed5Vg9oF
チハだって曲面を多用した構造にして避弾経始を意識してるよ リベットまでも・・・
フランスのメーカーで、パナール、ルノー、オチキスは現在もあるが、ソミュアは何処にいったの?
212 :
名無し三等兵 :2010/11/30(火) 20:48:23 ID:tKjfO0SB
>>211 サヴィエムに吸収されたはず。うろ覚え……
【虎よ、虎よ!】 1943年4月、チュニジアに於いてニュージーランド部隊はティーガーと初めて遭遇します。 4月8日、英第8機甲旅団と共にNZ第7対戦車連隊Q小隊(17ポンド砲×2)は、 独戦車群と3000ヤードの距離で遭遇しましたが、その中には1両のティーガーも含まれていました。 Logan軍曹は25発のAP弾を射ち込ませますが、効果はありません(※遠距離でもあり当らなかったようです)。 独戦車隊の反転時に、17ポンド砲にAP弾が1発命中しましたが、砲側員は無事でした。 Q小隊は暴露した砲陣地から後退しました。 翌日の9日、左翼で守備に就いていたNZ第31対戦車中隊X小隊は、 13両の独戦車の攻撃を受けます。 4門の6ポンド砲が応戦し、2門の砲側員が倒される間に、 IV号長砲身型2両を撃破しました。 3番砲で唯一の残存員となったKeatingは、1両のティーガーを戦闘不能とすることに成功します。 そして、英第8機甲旅団の戦車が到着し、落胆した独戦車隊は後退して行きました。 その後、KeatingはDCMを授与されます。
次にニュージーランド部隊が“虎”と出遭ったのは、イタリアに於いてでした。
@44年7月22日、NZ第5旅団はトスカーナ地方Villa Bonazzaで、1両のティーガーと遭遇します。
シャーマン数両が撃破されましたが、このティーガーを放棄させることに成功しました
(※その際の話は前スレで投下しましたが、“7月”を“6月”と誤記していました。訂正させて頂きます)。
A7月23日、Strada近郊に“虎”が出現し、シャーマン数両が撃破されました。
第32対戦車中隊の17ポンド砲1門が、“H2”地点で1両のティーガーを攻撃します。
彼らは2400ヤードの距離で、ティーガーの側面に3発の命中弾(※内2発は弾かれたようです)を与え、
砲塔の作動しなくなったティーガーは後退していきました。
8月2日、“M2”地点の1門の17ポンド砲から、
塀の後方400ヤードの位置に、ティーガー1両が存在しているとの報告がありました。
しかし、その車両の爆発後、正体はIV号長砲身型であったことが判明しました。
その日の遅く、San Michelでティーガー1両がNZ歩兵隊を攻撃してきましたが、
5.5インチ砲の正確な間接射撃によって、上手く押し返すことが出来ました。
※今回のレスは『KIWIS VS. TIGERS』から主に引用しているのですが、
@は記載されておらず、AをイタリアでのNZ部隊とティーガーの初遭遇戦としています。
○44年7月23日、Taranelleから程遠からぬ地点で撮影。鹵獲ティーガーと第18大隊員(ママ)。
ttp://mp.natlib.govt.nz/image/?imageId=images-10002&profile=access ※NZ国立図書館の収蔵写真で、キャプションでは“第18大隊員”となっているのですが、
第18機甲連隊員の誤記かと思われます(かなり前に歩兵大隊から機甲連隊へ改編済みです)。
翌日の8月3日、第31対戦車中隊の2両のM10が、第28“マオリ”歩兵大隊の近接支援に当っていました。
その時、1軒の大邸宅の側で、NZ部隊のシャーマンが1両のティーガーに撃破されます。
2両のM10はティーガーを仕留めるべく、射撃位置に就きました。
ティーガーの弱点の側面を狙って、建物を通り越して1発のAP弾が撃ち込まれましたが、虎退治に失敗します。
“虎”はゆっくりと横切り、砲塔をM10へと向けました。
88mm砲弾がM10の1両を吹き飛ばし、砲手のGoodwinとHitchcookの両名が戦死します。
もう1両のM10は逃れ去りました。
45年4月9日、Senio川の独軍防衛線に裂け目が生じ、
NZ第24歩兵大隊は撤退中のティーガーと遭遇します。
D中隊の兵士達がBarbiano村の抵抗拠点を掃討していましたが、
彼らは3両のティーガーがよろめきながら走行しているのを、廃墟から目にしました。
道路脇の溝に飛び込んだNZ兵の傍らを、ハッチを閉じたままのティーガーがゴロゴロと通り過ぎていきます。
彼らは通り過ぎるティーガー各車の後部へ、PIATを撃ち込みました。
損傷を受けた1両が、半マイル先で放棄されていました。
○44年8月1日、San Casciano in Val di Pesaを通過中の、NZ第2師団第7対戦車連隊所属のM10。
ttp://mp.natlib.govt.nz/image/?imageId=images-15591&profile=access ※NZ第7対戦車連隊:連隊本部、第31、32、33、34対戦車中隊、第39重迫撃砲中隊、第5観測小隊
WWIIでの使用兵器:2・6・17ポンド対戦車砲、18ポンド野砲、4.5インチ榴弾砲、75mm仏製野砲、4.2インチ重迫撃砲、M10
その間、ブドウ畑と溝を通り抜けていたA中隊は、 Barbiano東に於いて、前照燈を点して前進中の1両のティーガーと出遭います。 霧のため視界は限られており、PIATを発射したものの命中はしませんでした。 この移動中のティーガーのエンジンデッキには、独歩兵が跨乗していましたが、 Pountey伍長がトミーガンで彼らを車上から追い落とし、4名を捕虜とします。 その後、もう3両のティーガーがPIATの射程外へと逃れ去りました。 NZ第5旅団の歩兵は、第504重戦車大隊のティーガー20両の詳細な配置図を鹵獲します。 それらの戦力はニュージーランド第2師団へと向けられていました。 4月11日、Santerrio川を越えたマオリ歩兵大隊の橋頭堡へ、ドイツ軍が反撃を行ない、 その際に1両のティーガーが廃墟脇近くに停止していました。 ニュージーランド兵はティーガーに忍び寄り、履帯に対戦車地雷を仕掛けましたが、 “虎”は損傷すること無く立ち去りました。
翌日の12日、Massa Lombarda付近で、ティーガー1両がマオリ歩兵大隊を攻撃し、 精度の高い榴弾射撃を加えてきました。 NZ第5野砲連隊の25ポンド砲の弾幕に圧倒されたティーガーは、後退していきました。 ニュージーランド部隊は戦車、歩兵、5.5インチ砲、豪州空軍や他の連合国戦闘爆撃機の協同によって、 第504重戦車大隊を打ち負かしました。 Sillaro西での最高潮に達した3日間の激戦に於いて、何両かのティーガーがその骸を晒しましたが、 この時、NZ歩兵はPIATで至近距離から虎狩りを行ないました。 第504重戦車大隊の残存ティーガーは、ニュージーランド部隊前線から撤退していき、 チュニジアに始まった“キウィ”と“虎”の2年に渡る闘争劇は、ここに幕を閉じました。 ※先にも書きましたように、今回のレスは『KIWIS VS. TIGERS』からの引用が主ですが、 45年4月9日のSenio川渡河後の、NZ部隊とティーガーその他独軍AFVとの戦闘につきましては、 『続ラスト・オブ・カンプフグルッペ 』に秀逸な特別寄稿が載せられています。
219 :
名無し三等兵 :2010/12/01(水) 15:05:04 ID:K01YxBL7
>>212 >>213 ありがとうございます。第二次大戦中に仏最良の戦車を作っても、駄目なんですね。
【イタリアの異邦人】 イタリア軍は実験混成中隊を北アフリカ戦線へ展開しようと考えました。 それは1個装甲車小隊、1個ルノーR35小隊、1個ソミュアS35小隊から成る予定でしたが、 その時点では十分な供給量が得られなかったので、装甲車のみ前線へ投入されました。 1941年2月以来、イタリア軍は124両(又は127)のルノーR35、32両(又は33)のソミュアS35、 2両の砲塔無しルノーB2(f)をドイツから供与されました。 ルノーR35とソミュアS35は3個戦車大隊(当初は第131機甲連隊隷下、後に独立大隊)のみで使用されます。 @ソミュアS35は、予備パーツが全く無しの状態でサルデーニャへ送られ、 41年12月以来、Delianovaの第200戦車大隊(2個中隊)の装備車となります。 そして実戦に参加しないまま、イタリア休戦後はド・ゴール部隊へ引き渡されました。 AルノーR35は41年12月以来、シシリーの第101&102戦車大隊(各3個中隊)の装備車となりました。 43年7月のハスキー作戦時、ジェラへ上陸した米軍の橋頭堡へ第101戦車大隊は反撃を試みます。 凄まじい艦砲射撃と爆撃を生き延びた、約10両のR35が市街へ突入しましたが、 レンジャーの1門の37mm対戦車砲、数門のバズーカ、手榴弾の前に市街へ追い出されました。 結局、彼らの最初の反撃は20分で頓挫します。 最終的に、シシリーのR35は全て破壊されました。
Aのジェーラは初日の街に降下した第82空挺師団との戦いかな。R35使ってたのか。 次の日やってくるHG師団の戦闘は有名だけどこんな戦いもあったんだね
私は、オチキスH35とルノーR35の区別がつきません。どうしたら宜しいでしょうか?
単に見慣れてないだけ。
226 :
名無し三等兵 :2010/12/02(木) 13:55:06 ID:HLWCkJzU
わかります。私もカヴェナンター巡航戦車とクルセイダー巡航戦車の区別がつきません。 あと九七式中戦車改と一式中戦車の区別もつきません。
R35:モコモコボコボコしている。 起動輪がスケルトン、サスのバネにもこもこカバー付き。 キューポラ・砲・操縦席が「く」の字状に配置。 H35:ややすっきりしている。 起動輪が皿型、エンジンデッキが傾斜 砲の下に操縦席。 カビナンター:ラジエーターと転輪数、リアのフェンダーやエンジンデッキ 一式中戦車:溶接、車体前面装甲形状、エンジンデッキ
チハ改……ヘッドライトが1つ、戦場写真に映っている チヘ……ヘッドライト2つ、終戦後の集合写真か国内の写真にしか写ってない
>>223 交戦相手は、10日早々に上陸したダービー大佐指揮の“X”フォースのレンジャー隊だそうです。
彼らは即座に2個の沿岸砲台を破壊し市内を一掃しますが、早朝に伊軍の反撃を受けました。
それは、ベルサリエリ第155オートバイ中隊と戦車隊の支援を受けた、第4“リヴォルノ”師団の歩兵によるもので、
115&117高速道から殺到しました。
彼らに向け、駆逐艦Shubrick(DD-639)と軽巡洋艦Boise(CL-47)から艦砲射撃が行なわれ、
戦車数両が撃破されましたが、これをルノーR35ではなくL5戦車とする説もあります
(※リヴォルノ師団には1個大隊のセモヴェンテda47/32も付属していたようですが、
この時の反撃に使用されたのかは分かりませんでした)。
米軍は鹵獲したイタリア軍の砲1門を押し出し、埠頭から37mm対戦車砲をジープで運んで来ました。
突入してきたR35は、2両が焼夷手榴弾の直撃を受け、1両は対戦車砲で撃破され、
その他も市内から追い出されます。
米軍は多大な損害を出しつつも、午前半ばにはジェラの市街を完全に支配しました。
そしておっしゃる通り、HG師団が米兵を海に追い落そうと、翌日やって来ます。
○シチリア、鹵獲後のL5戦車。
ttp://www.modellismopiu.net/m+gallerie/main.php?g2_view=core.DownloadItem&g2_itemId=305075
>>216 > WWIIでの使用兵器
野砲と榴弾砲がすごくお下がりっぽい気がする。
こんなので対戦車戦闘やったのか
>>221 >B砲塔無しB2(f)
前歴に凄く燃える物がある。
>>226 カヴェナンターは車体前方にラジエータがついてる。
炭火焼グリルみたいな板があるでしょ?あれがラジエータの装甲カバー。
232 :
名無し三等兵 :2010/12/03(金) 00:06:23 ID:m7m2k4FA
ドイツのオストヴィント、ヴィルベルビントは現代の航空機にも通用するものなの?
234 :
名無し三等兵 :2010/12/03(金) 00:45:18 ID:D2thIWWv
まあ低空レーダーと連動してレーダー照準射撃できるようにすれば・・。 タマタマの威力自体はゲパルトとも大差ないんじゃ・・。
たらればなんて意味は無い。
>>229 上陸したレンジャーの方ですか。やるなあ。L5は30年代半ばに37mm連装砲に改修したタイプですね。
>>229 >リヴォルノ師団には1個大隊のセモヴェンテda47/32も付属
ドイツ軍の国民擲弾兵師団にヘッツァー大隊付ける、みたいな運用だな。
>>238 シュナイダーと書かないところがいやらしいなw
>>230 NZ第7ATRの最初の部隊は英国内で創設されました(NZには対戦車砲もその人員も全く存在しなかった為でもあります)。
これはNZ対戦車中隊と呼ばれ、後に第34対戦車中隊となります。
Aldershotで訓練後、1940年にMaadi野営地(エジプト)で第4野砲連隊と合流しました。
次に第31、32対戦車中隊がNZ本土で創設されましたが、
英国から2ポンド対戦車砲を取り寄せるのは困難でしたので、
WWIの残り物の18ポンド野砲と仏製75mm野砲を装備して訓練に励みます。
40年2月末、ワイオールで最初の実弾射撃を行ない、5月2日にウェリントンを去りました。
第7対戦車連隊本部と第31&32対戦車中隊はHelwan(エジプト)に於いて、
第33、34対戦車中隊と初めて出会います(第33は別行動でNZから、第34は上記のような経緯から)。
そして第7ATRはギリシャ戦に投入されますが、第34のみ2ポンド砲をポーティー化していたようです。
ギリシャ戦やクレタ戦の後、第7対戦車連隊はエジプトで戦力回復を図り、再装備されました。
この時に照準器関係を改修した18ポンド野砲が追加されています。
この時点で第31、32、33、34の各中隊は、2ポンド対戦車砲3個小隊・18ポンド野砲1個小隊編成となりました。
4.5インチ榴弾砲はどのような使われ方をしたのかは分からないのですが、
訓練時のみか初期のギリシャ戦辺りで使用され、撤退時に遺棄したのかもしれません。
旧式野砲&榴弾砲の対戦車兵器としての活用は、伊軍でもよく行われました。 42年3月、キレナイカのSaunnu地区に於いて、EP弾(初期型成形炸薬弾)の試験が行われました。 各2門の75/27野砲と100/17榴弾砲から鹵獲クルセーダーへEP弾が撃ち込まれ、 550ヤードの距離で、75/27の射弾は正面・側面装甲ともに破砕、貫通しました。 100/17の方は正面装甲を崩壊させ、砲塔を吹き飛ばしました (※75/27野砲のEP弾は、既に4カ月前にアリエテ師団が実戦で使用していたようです)。 EP弾は同砲の徹甲弾(100/17用にも用意されていたようです)よりも明らかに効果が上と認められ、 後にはグラントやシャーマンにでさえ十分な威力を発揮します。 そして、より強力なEPS弾も登場するのですが、どちらも供給量が少ないのが難でありました。 イタリア軍は75/27野砲に関して、最大距離700bから対戦車戦闘を行ないましたが、 多数目標の場合は、300-400bで射撃を開始することが推奨されていました。 100/17用のEP弾は42年半ばには前線向けの供給が可能となったようで、43年5月にはEPS弾が登場します。 42年5月(11月とする説もあります)、ドイツ軍も100/17のEP弾をT-34でテストし、その威力を認めました。
仏、ソの軽戦車は乗員2名なのに、戦車運用の研究が、進んでいなかった米のM2軽戦車は4名なのは何故なの?
運用してなかった訳じゃねーからなあ。 ルノーFTとかフォード3tとかT1とかで不利を悟ったりしたんじゃね?
M2+37ミリ砲+装甲=M3軽戦車 でオッケー?
それM2A4じゃね
それじゃM2A4とM3軽戦車の装甲厚以外の違いは?
>>246 装甲強化に伴う重量増加に対応した車体全長と誘導綸接地の足回り
M2A4は海兵隊によって、少数がガダルカナルで使われたり、イギリスにも行ってるみたいだが、
>>160-163 に出てくるスチュワートがM2A4って事はないよね?
>>248 英語版Wikipediaによると
北アフリカに送られたM2A4は第七軽騎兵連隊、第二戦車連隊ぽいから
南アフリカ軍ではないと思われ
【ムッソリーニの息子たち】 1941年11月19日、クルセーダー作戦開始2日目に、 ビル・エル・ゴビで英第22機甲旅団と伊アリエテ師団が交戦しました。 そして、12月初旬、枢軸軍はガザラへ向けて退却を始め、 後衛の伊軍部隊と追撃を図る連合軍が、再びビル・エル・ゴビで戦闘を行ないました。 このときの伊軍部隊は以下の通りでした(但し諸説あります)。 @“ファシスト青年”連隊第1大隊(1000名)…174地点 A“ファシスト青年”連隊第2大隊(660名)…182地点 B第8ベルサリエリ連隊(1000名) C1個軽戦車中隊:L3軽戦車×12 D1個中戦車中隊:M13/40×? EMILMART(国防義勇軍沿岸砲兵):102mm砲×2(恐らく、トラック搭載砲) F1個対戦車小隊(第9ベルサリエリ連隊):ベーラー47mm対戦車砲 G1個対空砲中隊:ブレダ20mm機関砲×4 Hゾロターン20mm対戦車ライフル×30 英軍の計画では、第11インド歩兵旅団が伊軍陣地へ攻撃をかけることになっていました。 彼らは、バレンタイン16両、野砲&対戦車砲各1個中隊、ボフォース機関砲2個小隊で増強されており、 第7中砲連隊も支援に当ることになっていました。
12月3日12:00、雨の降りしきる中を英軍砲兵は伊軍陣地へ激しく砲撃し始めます。
第11インド歩兵旅団は22:00に行動を開始し、翌朝07:10に伊軍陣地を攻撃しました。
174地点と182地点の2つの目標の内、174地点の守備は脆いと思われましたので、
第2大隊“クィーンズオウン・キャメロン・ハイランダーズ”が僅か3両のバレンタインと共に向かいます。
第2/5大隊“マラータ軽歩兵”は13両のバレンタインの支援を受けながら、182地点を容易に奪取します。
そして、250名のイタリア兵を捕虜とし、多くの戦利品を獲ました。
しかし、174地点は予想とは異なり、守備隊の“ファシスト青年”第1大隊が頑強に抵抗し、
“キャメロン・ハイランダーズ”と“マラータ軽歩兵”の両大隊は多大な損害を被りました。
バレンタインも“ファシスト青年”兵士の近接攻撃によって、撃破されるものが出てきます。
5日の攻撃にも失敗したインド旅団でしたが、夕暮れ前に突然、その眼前にDAKの戦車が出現しました。
右翼を第15装甲師団の43両が、左翼は第21装甲師団の6両が、
“マラータ軽歩兵”大隊の2個中隊の部署を奔流の如く押し通り、
174地点の“ファシスト青年”隊と合流しました。
数分に渡って現場はカオス状態となり、枢軸軍はこの地を保持し、
英軍は翌朝まで混乱状態となります。
インド旅団の救援には英第22近衛旅団が向かいました。
この戦闘でのインド旅団の損失は、戦死約300(死傷:将校25名、下士官兵450名という説もあります)、
バレンタイン12両でした。
○41年12月4-5日、ビル・エル・ゴビ周辺の戦闘図
ttp://www.nzetc.org/etexts/WH2Tobr/WH2Tob68a.jpg
>>251 乙
守り抜いた青年ファシスト連隊の兵士はドイツ軍の戦車を見て歓喜しただろうなあ。
ところで「青年ファシスト」連隊って、後のドイツの「ヒトラーユーゲント」師団みたいな感じなのかな?
>>252 若年層の義勇兵から成り、似ているのかもしれません。
部隊は41年7月にトリポリに到着します。
第二次エル・アラメイン会戦時はシーワ・オアシスにいたようで、
最後はチュニジアの地で終焉を迎えました。
機甲師団への改編が決定されており、書類上の扱いもそのようになったようですが、
戦車を1両も持たず、実態は歩兵師団のままで終わりました。
師団編成表は資料によって異なる面もあるのですが、一例を挙げておきます
(オスプレイ「カセリーヌ峠の戦い」内の“第13青年ファシスト歩兵師団”は“第136”の誤記かと思われます)。
第136歩兵師団“ファシスト青年”
○第136歩兵連隊“ファシスト青年”
○第8ベルサリエリ連隊
○第136砲兵連隊
○第88対空中隊
○第25工兵大隊
○第53医療隊
○第105カラビニエリ隊
○第45野戦郵便隊
※“ファシスト青年”兵士とベーラー47mm対戦車砲
ttp://www.ww2incolor.com/d/487665-2/bir_el_gobi_3
すごい良スレだなぁ 東部戦線も取り上げ欲しいけど
原氏は少佐時代に横置きコイルスプリング挟み込み式のベルクランクサス開発してあっつーまに中将になったな。 でも驕らずに42年にはトーションバーを紹介してるところが技術屋だわ
>>254 たびたびの転載をお詫びします。
622 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2010/12/07(火) 20:57:37 ID:???
>>620 他にも面白そうなものをピックアップ。
列強兵器技術の教訓 日本機械学會誌 1942年7月号
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110002452485 米英仏ソ伊独各国の戦車を中心とする兵器・軍需産業の概観。
ソ連以外は実地で見たものの評価だが、
ソ連についてはおそらくドイツ経由の情報から考察していると思われる。
原氏はドイツ一押しでイタリアもそれなりに評価するとともに、
ソ連への過小評価に警鐘を鳴らしている。
その他連合国への評価はお察しください。
戰時下独逸の兵器技術を見て 日本機械学會誌
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110002448186 1941年11月の講演を記事にしたもの。
山下将軍の遣独軍事視察団について行った時のドイツ軍需産業や兵器研究への所見。
ドイツの工業動員や生産方式、研究・実用化された新技術についても紹介している。
>>256 多分ドイツに行って実際に見て感動したんだと思う。
上で紹介した文章でも触れられている。
【甘ーい生活】 ※
>>160-163 と同一人物のクルセーダー作戦時の回想です。
その日は停止している間、無為なまま警戒態勢を取って疲れましてね。
私たちは眠らないようにと必死でしたよ。
午後も半ば、第5王立戦車連隊が敵縦隊を攻撃するというので、その支援に引っ張り出されました。
敵は南西約4マイルの地点を移動中とのことでした。
私の小隊が尖兵として、その方角へ5マイルほど進んだのですが、
敵の兆候は何ら確認出来ませんでした。
すると北西からの敵の攻撃を予期した旅団が、やいのやいのと煩く復帰しろと言ってきましてね。
私たちはその“地獄”へと向かったのです。
先につけた履帯の跡を辿って、本部へと急いで逆戻りしましたが、
本部の戦車と車両は日差しの中、眠たげに佇んでいましてね……。
視界には何ら脅威となる動きは見られなかったのでした。
10分ばかり後に、今度は私たちは東へと急行しました。
「敵大縦隊、南東へ。」という報せが来ましたもので……。
でも、この内容だけで十分に把握出来ましたよ。
砂漠の北から南へと、密集した車両の流れがゆっくりと横切っていました。 それは旧約聖書の出エジプトのような有り様でしたよ。 戦車をターレットダウンの状態にして、私は頭と肩と双眼鏡だけを地平線上に露出したまま、 約2000ヤードの距離で敵縦隊を入念に観察したのです。 夕暮れを背に、全てがくっきりと見て取れました。 歩兵を載せたトラック、何百もの兵站車両、痩せた骨格の大きな牽引88mm砲も若干数……。 そして、戦車や装甲車は1両だに視界内には存在しなかったのです。 私は88mm砲へと再び視点を切り替えました。 砲側員は砲の各部位や牽引車にのんびりと腰掛けていましたね。 連中は縦隊の中程をゆっくりと進んでおり、それ以外に任務が無いことは明らかでした。 彼らがあのバカでかい砲で戦闘行動に入るには、良くて5分かかりますからね。 私たちが連中のもとへ達し、蹂躙するには、その半分の時間で十分なのです……。
私は連隊本部へと無線の周波数を切り換え、“果報は寝て待て”の指揮官へ状況を話しました。 彼が感謝していたこととは明らかで、別の声でも報告が入ってきましたよ。 旅団(※英第4機甲旅団)は3個連隊でドイツ軍縦隊左翼から攻撃を仕掛けることになり、 「ハニー」軽戦車が先導したのです。 ハリーの「ハニー」が私の横に並び、私の小隊の車両がもう一方に位置し、そして突っ込みました。 私は挟撃を図ろうと彼らに両腕で指し示し、敵縦隊の右側へ通り抜けました。 それから舞い戻って包囲を試みたのです。 実に爽快な突撃でしたよ! 密集した多量の敵車両は恐慌状態に陥り、砂漠中を慌てて走り回っていました。 すぐにこちらの全機関銃が、彼らへ意地悪くペチャクチャと喋り始めましてね。 1門のバカでかい88mm砲が轟々と通って行き、その運転手と砲側員の顔を連中の肩越しに見たんですが、 それは恐怖で引きつっていました……。 この類の砲は私たちには厄介な敵さんでしたから、こちらも減速するわけにはいきません。 私には悪どい策略がありましたしね。 その88mm砲を追い越し、空弾倉のリボルバー拳銃を示したのです。 反対方向からも戦車がやって来て、砲の進路を妨害しましたので、私は自車の砲塔内へ潜り込みました。 長々とした敵縦隊の全てが、今や全力で疾走していました。 敵車両は玉石や溝に構わず砂漠を走りまくり、それを我が戦車隊が追い詰めていたのです。
私は自分の小隊に少しばかり戻るよう命じ、通り過ぎる全てのものに射撃を加えました。 それは至福の10分間でしたね。 私たちは辺りを巡回しながら放棄されたトラックへ射撃を加え、 両手を上げたままぶらついているドイツ兵たちを捕虜としました。 放棄されている2門の88mm砲に特に気が惹かれましてね。 その大きさに私たちは呆然としましたよ……。 3000ヤードの距離で我々の戦車を吹き飛ばすことが出来たのも、無理はありませんな! 突然、ハリーの声が空中を伝わってきました。 1両のドイツ戦車を目にしたというのです。 私たちは敵戦車のよく見える位置まで共に車両を押し進め、内密に話しました。 「ハリー、あれはIV号戦車だな……。ぶちかませれるか?」 「俺の勝ちさ!」 「よーし、それではこうしよう。俺がヤツの正面を騒々しくうろつくから、 お前は背後に回って至近距離から1発お見舞いしてやれ。チャンスは1回こっきりだぞ。」 「了解!」 我々は、互いに反対方向へと移動したのでした……。 ※残りは後日、投下させていただきます。
乙です。敵さんのパレードに突っ込むのは楽しいだろうなあ。 次回wktkしながら待ってます
※
>>259-262 の続きです。
あっぱれにもIV号戦車は、ただ1両で私たちの南の斜面をゆっくりと登ってきました。
約1000ヤードの距離まで来ましたが、何処で何をすべきか分かっていなかったようで、
あてもなく彷徨っていましたね……。
でも、私たちにとっては十分に脅威でしたよ。
私は隠蔽を試みることなく斜めに車両を進ませましたが、
命中弾を喰らわずにすむ十分な速度でしたし、遠距離でもありましたからね。
敵戦車の正面約400ヤードの地点まで、やぶに覆われた砂丘上を直進しました。
その地点に到達してから、数発射撃し牽制しました。
ドイツ戦車長が私からの警告に気付かないわけはなく、
すぐにIV号戦車は停止し、その砲塔が回転して私の「ハニー」へと指向されました。
ハリーの「ハニー」が大きく回り込んで、ドイツ戦車の後ろを取ってやって来るのが、右肩越しに見えました。
そして、ドイツ戦車の砲口から煙と共に砲弾が飛んで来るのも目にしましたが、
あの状況では、いかなる射撃にも失敗はありえるものだとは思えませんしね……。
私たちの車両は砂丘上にあり、IV号戦車の砲塔は真っ直ぐに指向されました。
私は「ハニー」をハルダウン状態に保ち、手早く射弾を送り込みました。
その度に、ハリーの「ハニー」がIV号戦車の背後に忍び寄っていくのが見えましたね。
遂に、ハリーの「ハニー」がIV号戦車の後部に体当たりをして、右手に位置しました。 1発の敵砲弾が、ちょうど私の真ん前の砂上に転がっていましてね……。 煙が晴れてハリーの戦車を再び見やると、IV号戦車の背後20ヤードに満たない位置で停止し、 間髪入れず37mm砲口が閃いたのです。 すぐにIV号戦車の砲塔のハッチが開き、白布を手で振っているのが見えましたよ。 戦車長がハンカチを打ち振りながら姿を見せ、残存乗員が続きました。 私は通話機で言いました。 「この野郎!よくやったじゃないか、ハリー!……主よ、また何という死への恐怖を私に賜れたことか。」 彼は静かに言いました。 「ありがとうよ、ボブ。で、こいつらは本部へ送って、それから車内を検分してみるかな。 糧食のチョコレートが少しはあるかもしれんぞ。」 殆ど全てのドイツ戦車は、大変美味で滋養豊かなチョコレートを戦闘糧食として積んでいましたからね。 それは私たちのお気に入りの戦利品だったのです。 意気消沈の2日間の後でのことでしたから、私たちの士気は高揚し、幸甚の至りでした。 大佐はハリーへ無電で祝辞を寄せ、部隊の戦車が再集結し始めたと話していましたよ。
【君の名は】 ※
>>160-163 と同一人物のクルセーダー作戦時の回想です。
闇の中を徐々に小隊、中隊の各戦車が集結し、指揮戦車の背後で隊形を整えました。
私たちが、落伍者の為のぼんやりとした砂漠の灯火のもとで待機していると、
3人の人影が現れ、戦車縦隊の方へと進んで来ました。
私が彼らに大声で呼びかけると、3人は歩を早めて私の「ハニー」のもとへとやって来ました。
でも、幾分驚きましたよ。
連中は武器を高々と両手で掲げていましたから……。
彼らは足首まで丈のある長く暗めのオーバーコートを着用しており、
それは北アフリカでのドイツ軍の支給品でした。
連中が側に寄って来たとき、私は戦車によじ登って乗るよう手振りで示したのです。
彼らは敏速に登ってきて、後部の暖かなエンジンルームの上に腰を下ろしました。
ヤッコさんたち、押し黙ったままでしたね。
縦隊は夜間行軍時の通例通りに動き始めました。
私は砲塔上で外部を凝視していたんですが、砂塵対策で目を細めていないといけませんでしたよ。
そして、不快な疑念が湧き起こり、私は頭を後ろに向けたのです。
それは、連中がまだ武器を隠し持っており、変心して私を背後から撃ち、
戦車を奪って人知れず逃走するかもしれないというものでした……。
私がそう思わなくても、捕虜というのは戦車兵には常に厄介な存在でしたからね。
とにかく後頭部を撃たれたくないですから、私は砲塔から下り立ち、
連中と正対しながら腰掛け、足を車体の端でぶらぶらさせていました。
トミーガンをラックから引っ張り出し、これ見よがしに脇に置いてです……。
すぐに捕虜の一人が立ち上がり、オーバーコートを脱ぎ始めました。 私は驚きましたよ! 砂漠では日が没するやいなや、冷え込みが大変厳しくなりますからね……。 もっと驚いたことには、彼は身を乗り出してコートを私の剥き出しの膝に覆い被せたのです。 それは意図的ではなく、何気なく出た自発的な仕種だと確かに思えました。 私はこの3人は不運なイタリア人で、給仕人か従者として市民生活を送っていたのだろうと、 飛躍して結論付けましたよ。 私たちはリビアに数多くのイタリア軍部隊がいるのを知っていましたし、 その機甲師団を打ち破ることを切望していましたからね。 でも、どういうわけかウチの部隊はイタリア軍と戦場で相見えたことはなく、 お相手はドイツ兵とその戦車だったのです。 私はイタリア語について何も知りませんでしたよ。 知っていたのは“グラッツィエ”と“グラツィアス”の二つに、 降伏要求された場合に備えての“ノン、ノン”だけです。 とにかく、私は彼にオーバーコートを返そうとしたのです……。
突然、この哀れな3人組に相済まない気になってきましてね。 寂しい心持ちでしたよ……。 その男は手振りで熱心に主張していました。 そして、自分の履いている長ズボンと私の薄っぺらなカーキ色の半ズボンを指し示しました。 私も手振りで辞退したのです。 それから、私は彼らの一人一人を指差しながら言いました。 エンジンの咆哮音の中でね。 「イタリア人?イタリア人?イタリア人?」 彼らの表情からは狼狽と厭わしさが見て取れました。 そして、3人揃って断固としながら言ったのです。 「ナイン、ナイン!アフリカコーズ!ドイッチュ、ドイッチュ!」 私は再び彼がオーバーコートを掛けてきても、それ以上は断りませんでした。 そして、思ったのです。 『畜生、“最優秀民族”だな……。』
>>268 乙
ドイツ人気配りも優秀だなw
4号戦車は1両で何をしてたんだろうなあ。
砂漠や草原みたいな広漠とした場所で戦ってると部隊は結構バラバラになっちゃうみたいだけど、
そんな感じかな?
270 :
名無し三等兵 :2010/12/09(木) 00:02:54 ID:wZsEMOzE
ドイツ人は凝り性と聞いていたが、鹵獲したKV-2にキューポラを移植してるのには笑ってしまった。
あれは好きみたいでT34とかソミュアとかに気楽にくっつけてるな
>彼らの表情からは狼狽と厭わしさが見て取れました。 ワロタw
豆知識:ドイツ戦車を降参させるとチョコレートが手に入る でもドイツ優勢の頃だけだろうな流石に
>>273 あーその博物館行ったらクルセーダーにけん引された状態で展示してあったなあ。そのタンク。
解説版に中身の図とか後退禁止のイラスト(バックするとタンクがワンワンみたいになる)とかが
書いてあった。
>>273 イギリスも戦車用増槽あるんだね。ちゃんと中から操作して投棄できるんだろうか?
>>276 内部操作で投棄出来たのかどうかは、申し訳ないですが私には分からないです。
余談ながら、クルセーダーMk.Vの場合は内部500リッター&補助136リッターにトレーラーの545.2リッターとなり、
一方の燃費(※条件は分からないのですが……)は2.8リッター/kmとなっているようです。
マチルダUのMk.Vですと内部181.8リッター&補助163.6リッターにトレーラーの545.2リッターとなり、
燃費(※こちらも条件は分からないのですが……)は2.2リッター/kmとなるようです。
>>278 履帯跡を消す装置は結構うまく働いてる感じだね。
跡をたどって敵機が来ると困るから必要だったんだろうなあ。
モンティに比べて日本での知名度の低いスリム閣下…… ブリテンの今村といった感じで好きなんだけどなぁ。
以前、東部戦線もお願いします!というすれがあったが、東部戦線だと凄惨すぎて、ほのぼの出来る話は少ないと思う。捕虜になったら強制収容所で死ぬまでこき使われ、パルチザンが魍魎跋扈する所では騎士道精神や陸戦規定に沿った戦いは期待できないもんね。
炎上したT-34の弾薬庫に誘爆して砲塔がぶっ飛ぶシーンが凄いな
>>282 そらソ連にとっちゃ本土決戦なんだから仕方ない。
でもほのぼの話は結構あるよ。
戦車系は全然知らないけど。
レンドリでアメリカから供与を受けた「フォードGPA」じゃね? アメリカ軍じゃウィリスジープとの比較であまり受けが良くなかった車両で 数千台のまとまった数がソ連に送られてる。 映画インディジョーンズにも出て来てたよ。 赤軍はこれがお気に入りで、戦後は「GAZ-46」ってコピー車両を 国産している。 「ドニエプル渡河作戦」でググってみ
【我々のボーイズは戦えるのか】 1941年12月15日、第701戦車駆逐大隊はケンタッキー州フォートノックスで編成完結し、 翌年6月11日、部隊は北アイルランドのベルファストへ到着しました。 11月8日、B中隊・C中隊・偵察中隊の1個小隊がトーチ作戦に参加し、オラン付近に上陸します (大隊残余は12月10日に北アフリカへ到着しました)。 11月16日にチュニジアへ向け前進を開始し、6日間の行軍後、 11月22日にB中隊と1個偵察小隊がフェリアーナへ達しました。 フェリアーナで、B中隊長はガフサの町へ突入・占拠することを命じられます。 B中隊は歩兵や砲兵の支援なしに町へ接近します。 それも敵情を全く把握すること無しにでした。 2個小隊のM3GMCが展開して市街へ至る道を射撃しましたが(中隊長は抜け目なくM6GMC小隊を予備としていました)、 驚くべきことに、損害無しでこの攻撃は成功します。 この任務は戦車駆逐部隊の運用ドクトリンとは全く異なった手法で達成されましたが、 第701は“初めて実戦を経験した米軍戦車駆逐大隊”という栄誉をものにしました。 M3GMCは前進すると、エル・ゲタール近郊で敵戦車を待ち伏せました。 これはWWUにおける米軍と独軍の装甲戦闘車両同士での初の交戦となりましたが、 短時間で決着はつき、米軍は1両も損失せずに独戦車4両(5両とする説もあります)を葬り去ります。
翌日、B中隊はスベイトラへと向かいました。
静かな朝の中、カセリ−ヌ経由でタラへの北上を図る独軍分遣隊がスベイトラ付近にいました。
前日にB中隊がエル・ゲタールで撃破したのは、ガベス経由で北上を図った別の分遣隊だったのです。
この独部隊はもう一方の分遣隊が辿った運命を知っており、南下して米軍を迎撃するか北上するかで迷いましたが、
ようやく予定通りにタラへの北上を決心したのでした。
しかし、エル・ゲタールから100km以上も離れたこの地へ、なんとB中隊の方からドイツ軍へ挨拶にやってきたのです。
そして、B中隊は11両の敵戦車を撃破しました。
3両の敵戦車を撃破した最初の戦闘行動で、B中隊は400名の捕虜を得ていました。
そして、今回の一連の作戦行動で15両の戦車を撃破したと主張しました。
フード野営地へ帰還後、戦車駆逐学校での教官達は“生徒達”を評価しつつも訓戒しました。
「お前ら、戦車駆逐部隊をこんなやり方で運用してはいかんぞ。
大半のケースでは今回のようなやり口は通用せんのだからな。」
ガフサとスベイトラでの遭遇戦の結果は戦闘参入への景気付けとはなりました。
しかし、作戦初期段階における戦車駆逐隊の能力を推し量る試金石とは成り得なかったのでした。
○スベイトラ
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p290.jpg
43年2月14日に開始された“春風作戦 ”と世に知られる枢軸軍の攻勢中に、
彼ら(戦車駆逐隊)の実力を推し量る機会が訪れます。
ここでは他の米軍部隊と共に戦車駆逐隊も必要とされていましたが、
この戦闘に加わった戦車駆逐隊は分散配置されていました。
急行中の第601&701戦車駆逐大隊を待ち受ける運命は過酷なものとなります。
2月14日早くに始まったシジ・ブ・ジットへの独第10装甲師団(ファイド峠から)と第21装甲師団(メジラ峠から)の突進は、
米第1機甲師団A戦闘団と共にいた第701戦車駆逐大隊A中隊を一蹴しました。
日没少し前に独第10装甲師団と第21装甲師団の先鋒はシジ・ブ・ジット西で合流します。
翌日、第701戦車駆逐大隊C中隊は戦闘団と合流し、シジ・ブ・ジット奪還の反撃へ参加します。
しかし、独軍の兵力を過少評価した上、偵察も無しに1個戦車大隊と1個機械化歩兵大隊を主戦力とする部隊が、
防御態勢を整えたベテランの2個装甲師団へ差し向けられたのですから、結果は明らかでした。
先頭のアルジャー戦車大隊は、待ち伏せていた数門の対戦車砲と4門の88mm砲に前面から叩かれた上、
両側面からは各1個戦車大隊に挟まれ、ワジへと追い立てられたあげく40両のシャーマンを喪失します。
罠に気付いて反転した4両のみが生き残り、機械化歩兵を引き連れて戦場を離脱しました。
2月16日、第601戦車駆逐大隊の1個中隊に満たない戦力がスベイトラ防衛に従事します。
この部隊は第1機甲師団B戦闘団の保持する主要防御地点で守備に就きました。
彼らは効果的に独戦車へ砲火を浴びせます。
すぐに、より以上のお返しがやって来て、戦車駆逐隊の警戒部隊が非武装車両で後退し始めました。
警戒部隊の狼狽振りと逃走を目にし、M3GMCの乗員の士気は挫かれます。
砲火の中、陣地転換を図った際に、彼らは潰走してしまいました。
○シジ・ブ・ジット
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p415.jpg
死んだシベリア帰りの祖父がソ連軍は水陸両用の車を使ってたって言ってたがそれがフォードGPAか
292 :
名無し三等兵 :2010/12/12(日) 17:37:02 ID:0aAsPMWQ
前線1km当たりの火砲 日本軍(支那)3門 日本軍(サイパン)5門 米軍 68門 ソ連(クルスク会戦)280門 ソ連(ベルリン攻撃)600門 \(^o^)/
あ や き ま ↑ 秋山シャッフル
【里子も大切に】 カセリーヌ峠の戦いから約1カ月経った1943年3月23日に、 エル・ゲタールで米第1歩兵師団の砲兵隊の前哨を務めていた第601戦車駆逐大隊は、独第10装甲師団の57両の戦車と交戦します。 このとき、同大隊は未だM3GMCを使用していました。 M10装備の第899戦車駆逐大隊A中隊が増援として向かっていましたが、 交通面での問題と地雷原の為、遅れて到着しました。 戦車駆逐隊は30両の敵戦車撃破を報告しましたが、自らも21両のM3GMCと7両のM10を失います。 戦車駆逐大隊が独立戦力で投入されたこの戦闘が、本来のドクトリンに則った最初で最後の交戦機会となりました。 北アフリカ戦当時から上級司令部は戦車駆逐大隊を各師団へ配属する傾向にあり、 師団では、戦車駆逐大隊を中隊・小隊単位で分散して大抵は使用しました。 ある部隊はチュニジアで歩兵小隊の支援に当り始め、アンツィオでは2個の戦車駆逐小隊が独立戦車大隊に組み込まれ、 同様に第45歩兵師団付属になったりしました。 そして、このような分散配置は兵站上の悪夢をもたらしました。 理論的には、軍・軍団から戦車駆逐大隊HQへ補給物資が供給され、各中隊・各小隊へという流れだったのですが、 分散配置させられた隊は、温食や歯磨き用品といった基本的な物を調達するのにしばしば苦労しました。 軍も軍団も戦車駆逐大隊もそれらの補給網を隅々まで維持出来なかったからです。 師団配属となっていたある戦車駆逐隊は、師団から弾薬と燃料の補給を要請してもらったのですが、 彼らが受領したのは75mm砲弾とガソリンでした。 M10の3インチ砲とディーゼルエンジンに、それらの品は似つかわしい物ではありませんでした。
>>287 そうですね。6輪ならDUKWかもしれませんが
4輪なので、フォードGPA或いはGAZ-46かもしれませんね。ドイツにもシュビムワーゲン等の水陸両用車があるのに
中国戦線で黄河や揚子江を擁する日本軍は、水陸両用車は興味なかったのかな?
>>294 乙
変な物資もらったら文字通り/( ^o^ )\状態だな。
師団からは「物資もらってきてやったんだからさっさと働け」とか言われかねんし・・・。
>>295 GAZ-46は戦後だってばよ。
>>286 の動画に関しては有り得ない。
あと黄河とか揚子江ってのはラインだオーデルだって
ドイツで言う大河とは幅がぜーーーーーーーーんぜん違う。
シュビムワーゲンやGPAでも渡れない事は無いだろうが
普通は船だよ。
細かい特徴を見る限りGAZ-46でもGAZ-011でもないGPAだな。
アメリカのDUKWはドーバー海峡渡れるみたいですね。実際渡ってフランスに上陸したDUKWってあるのかな?
>>290 素人ぶりに英軍もあきれたんだろうなあ。
その後のカセリーヌからタバッサまでは英軍がわざわざスチュアート編成分遣隊よこして殿してるんだよね。
ドーバー海峡の最狭部は約34km 特に荒海じゃないし、常に流れの有る川を渡るより楽な気がする。 遅いしペラペラだから戦時にやったらいい的だろうけどw
【必死なんだよ】 ※
>>160-163 と同一人物のクルセーダー作戦直前の回想です
10月初週に実弾演習の為、私たちはカイロ-ファイユーム道の西の不毛地帯で野営に入りました。
小隊内、中隊内で課題を少しばかり取り入れたコンペが催されましてね。
小隊毎にファイユーム道の西の広大な射撃場へ送られたのです。
私には十分に試してみたい一つの案がありました。
それは敵対戦車火器…特に新顔の88mm砲によって思い起こされたものでした。
この砲は不運な結末に終わったバトルアクス作戦中に、我々の戦車に大災厄をもたらしましたからね……。
彼は3000ヤードで我を撃破出来るのに対し、37mm砲と2ポンド砲の最大有効射程距離は1200ヤードがせいぜいでした。
連中は私たちがダメージを与えられる距離に達するまで、単純計算で1800ヤード分の余裕があることになります。
1800ヤードというのは長距離です。なにせ65800インチもあるわけですから……。
私の心の中は二つの問題で占められていましたよ。
どうすれば敵に十分に接近出来るのか、その場所で十分に長く生残する為にはどうすればいいのかってね。
装甲板に十分な防御力がないのは明らかでしたし……。
88mm砲に砲塔を貫通されない為には如何にすべきか?
答えはただ一つ、“機動力”にありました。
それも、とてつもない機動です。
同時期、私は行進射の可能性は徹底的に無視していました。
ハルダウン出来る可能性がないときは、やれと教育されていたのですけどね。
私は自分の小隊に、目標を標定したあとでのほぼ自動的な手順をシステム化しました。
まあ、有利な状況の場合という条件付きでしたが……。
まず、最初の命令は『操縦手、全速前進!』です。 走行中、砲手(※英軍のハニーは臨時に砲塔内へ下がった副操縦手が兼務)は照準器で目標を視認し続けます。 次の命令は『操縦手、停止!』で、これは操縦手、砲手、装填手が聞きます。 戦車が止まるやいなや、砲手は私の命令無しに目標へ発砲します。 発射音が合図となり、操縦手は戦車を再発進させます。 停止してから再発進まで約4秒です。 私は戦車の進行方向を指示します。 演習中、私はこれが適切な方法であると確信しました。 戦車が生残するには火力や装甲以外に、機動力も必須な条件なのです。 言うまでもありませんが“機動力 ”というのは、ただ速いという意味だけではありませんよ。 ただ、私はコンペでは全く勝てなかったのです……。 でもね、潜伏せずとも自分の砲を有効射程内から撃つことが出来ましたから、満足したもんです。 それも公明正大にして積極的なやり方でですからね! 私は標的場に潜り込んだのですが、非常に面食らいましたよ。 4両の戦車が轟々とやって来て正確に射撃し、逆に狙いを付けられるほど長くは1箇所に留まりませんでしたからね。 私は地形が許す限り、これらの戦術がいつでも活用出来るだろうと望みを持ったのです。 とにかく、被弾機会を減少しようとも努めましてね。 あなた方はハルダウンに代わりうる程のベストな戦闘態勢は無いとお思いでしょうが、 戦闘の多々な様相に於いて、私はハルダウンが良いとは思わなくなりました……。 戦車長はハルダウンよりもターレットダウンで展開することを、完全に好む傾向にありましたよ。
【元気の源】 ※
>>160-163 と同一人物のクルセーダー作戦時の回想です。
曇天の中、東方からの日差しで私は目覚め、不承不承ながら全縦隊の方へと移動しました。
私たちはマグカップ1杯の茶をいれる許可を得ましたが、これは砂漠戦ではもっとも重要な慣例でありました。
貴重なガソリンがどれほど使用されたかは神のみぞ知るですが、続く作戦行動中もやかんを持参し続けましたよ。
ガス欠の戦車と共に連隊がくすぶっている間は気落ちしたとはいえ、
将軍たちや旅団長は勿論、小隊長や兵卒でさえ“1杯の茶”の士気への効果を認めていましたし、
茶は意気阻喪など決してもたらさなかったのです。
11月18日に引き続いての、ぞっとするような幾たびもの昼夜、
一時的に停止したときや戦闘中断の際に、戦車兵は砲火の下で茶を沸かしました。
戦闘が小康状態になるや、必然的に司令部のもとへ無線で呼び出す声がいくつも聞こえてきましてね……。
「JAGO、JAGO、聞こえるか。2回呼んだぞ。お茶にしてもいいか?」
エル・ゴビ近辺での作戦中、多くの日数をそこで過ごした後でのことでした。
私たちの連隊の無線周波数で、特徴あるドイツ訛りが聞こえてきたのです。
「BALO、BALO、聞こえるか。あんたら、お茶にしてもいいからな。」
連隊全員が笑い転げてる間、戦闘は中断されました。
私は疑いませんよ。何人かは笑いながら死んだんだろうってね……。
英国人さすがだな。ドイツ人もやるな。
砂漠って自分達の生活域とかけ離れてるから、ある種冷静でいられたのかも。 でもこれじゃ太平洋で死んでいった日本人の説明にはならないか。
面白いなあ。ドイツ人もユーモアのセンスがあるんだな
米軍の戦車駆逐大隊ってのは読むところ軍か軍団直轄ぽいけど
英の対戦車連隊(といっても多分2個大隊以上が一緒にいることは
ないんじゃないかと)はどのあたりなんだろう?
歩兵旅団だと機関銃大隊が旅団の予備っぽいんだが。
>>302 ピックアップトラック(改)で渡った某車番組を見たけどわりかし波はあったぞ。
これは排水ポンプついてるらしいからええけどw
英の対戦車連隊は師団砲兵隊下 米の戦車駆逐大隊は歩兵師団下
波のぉ〜谷間に命の華ぁがぁ〜
>>309 米戦車駆逐コマンド→機甲軍や歩兵とは別個の半ば独立した存在
大隊をまとめた「独立戦車駆逐集団」が軍および軍団の直轄
歩兵師団だけでなく機甲師団その他にも分遣される
314 :
名無し三等兵 :2010/12/16(木) 20:44:59 ID:84Fa5VGQ
エゲレス様の歩兵師団は下級部隊直轄の火器がお嫌いなようで、迫撃砲一つぶっ放すにもめんどくさそうな編制だが大丈夫だったんだろうか?
その為の支援中隊と支援分隊である
赤軍は、水陸両用車が陸にあがったら、どのように使ってたんだろう?フォードGPAでは乗れる人員も少ないし、荷物も運べなさそうだし。
シュビムワーゲンが雑多に使われてた処を考えればそのまま足に使われるだろ。 要は陸上も走れる船ではなく水上を渡れる車なわけだし。
しかし、作戦行動の滑り出しは全く上々の首尾で、すぐに部隊はピルゴス東へと達します。 ここで彼らは二の足を踏みました。 独軍に鹵獲された砲は、そこから指呼の間の何処かで路上を監視していると言われていたからです。 第5ニュージーランド歩兵旅団副官の精力的なドーソン大尉は気短にも腹を立て、 先頭車の軍曹を軽くいなし、彼のことを嘲笑いながら前進を急かしました。 「何の心配もいらんよ。あってもせいぜい小火器に過ぎんだろう。」 軍曹は目抜き通りを戦車で押し進んでいきました。 最後の角を曲がったとき、彼の車両は被弾します。 それは、道路脇の共同墓地の囲い塀に位置した2門の砲から放たれたものでした。 致命傷を受けながらも銃手は応射して、内1門を撃破します。 別の射弾が、引き返そうとした2両目の戦車へ命中しました。 結局、先頭車は撃破されます。
今や上空には敵機の姿が見えましたが、ファランも伍長も無力でした。
ブンブンと怒り狂う蜂の如きメッサーシュミットの群れが、2両の軽戦車へ付きまとい、
灼けた金属片が砲塔内の乗員の顔面へ飛散します。
彼らは敵機に急降下を躊躇させるべく、高い木の下で停止しました。
しかし、それも無益なことだったのです。
遂にファランの戦車は敵機の群れを振り切ろうと、手負いの雄牛の如くバンブー林の中へ闖入したのでした。
右腕と両足を負傷して捕虜となったファランでしたが、アテネで療養後の8月には松葉杖で歩行可能となります。
彼は何回かの脱走の企てに失敗しましたが、1人の哨兵が気を逸らした隙に、まんまと逃げ失せました。
ファランは友好的なギリシャ市民達と渡りをつけ、3名の豪州兵&英兵と共にピレウス港からエジプトへと出港します。
ボートの燃料が2日で尽きた後、漂流10日にしてアレクサンドリア沖40マイルの地点で英駆逐艦に救助されました。
○クレタ島、撃破されたヴィッカースMk.VI軽戦車
ttp://www.nzhistory.net.nz/files/images/stories/crete/crete-018.jpg ※英第3軽騎兵連隊はB中隊がジャワへ送られますが(シンガポール行きからの変更)、到着後すぐに降伏します。
その他は北アフリカ戦に参加した後、44-45年にイタリアで作戦行動しました。
軽戦車というより豆タンの部類なのに(´・ω・)カワイソス
>>320 乙
カーデンロイド豆戦車の発展型でボフォース40mmやメッサーシュミットの20mmを耐えるのは難しいねえ。
たぶん37mmの対戦車砲だと思うよ>ボフォース
カーデンロイドはTKたんの親戚だっけ?
大伯父さまです。
TKSの一部車両が搭載したゾロターン(Solothurn)20mmFK 機関砲はアホ見たく強力で、徹甲弾を使えば300mで25mm 500mでも20mmの装甲を軽くブチ抜いたらしい。 こんなのに待ち伏せされたらドイツでも1号・2号戦車あたりは たまんねっす。
>>326 実戦でも35tとかが待ち伏せされて痛い目にあってる言われてるな。
ただ今ポーランドで出てるTKS本を読んだりググったりして調べたんだが、
有名なローマン・オルリック見習士官の名前は本やポーランド語版のwikipediaには出ていなかった(ちなみに彼の所属は第71装甲大隊)。
撃破された3両の35tも所属が第11戦車旅団なのか第65戦車大隊なのかはっきりしない。
ちなみに実際に搭載されたのは国産型の20mmFK model A/wz.38だったそうな。
英国も戦前は、ガーデンロイド豆戦車、ヴィッカース6t戦車と 良いのがあったのにどこで道を誤ったのか… そういえばポーランドの6t戦車コピー版は全然ダメだったの?
7TPは49両ずつ2個の軽戦車大隊と11両の独立中隊に分けられて 第1はダンツィヒ回廊の近く、第2はワルシャワ西方、独立中隊はワルシャワ防衛に付いていた 第2大隊は9月4日から5日ドイツの第1、第4機甲師団相手に戦って戦車・装甲車の撃破33両、大隊は戦力が半減した、だって 双砲塔型は訓練部隊からワルシャワ防衛に移されたが活躍してないとか
>>328 砲架がよく見えないけど、どう使うんだろう。
重いからオートバイに乗せた支援火器なのか、単なる自走対空砲なのか。
というかタンデムで乗ってるとこからして乗車戦闘は無理そうだ
双砲塔の7TPって一見、全周回に隙無し! 二目標同時攻撃OK!の素敵なアイデアに見えるけど 単一目標に火力を集中しようと思ったら ほとんど前しか撃てないんだよね。 それぞれの砲塔・銃塔の射手はお互いがどこ撃ってるかわかんないし。
イギリス人「ほら、こんなに手頃なのに多砲塔ですよ。労働者と戦いながら戦争にも勝てます」 ソ「おお、党内抗争しながら敵とも戦えるのか、買おう」 ポ「わーいこれでドイツと戦いながらソ連とも戦えるぞ、買おう」
>>331 ttp://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/denmark/Nimbus20mm.jpg 射撃姿勢はこんな感じらしい。
>>330 第1軽戦車大隊は8月30日にポーランド回廊に配置され、
ダンツィヒが対独協力をしたら鎮圧することになっていたが、
9月1日にウーチの東に移動した。
上級部隊の指揮官が運用方法を分かっておらず、
その後は数日をドイツ軍と衝突しながら無為な移動に費やしたが、
ドイツ軍に損害を与えつつ9月9日時点での損害は13両(うち5両は夜間移動中に放棄)に抑えている。
その後一部は分割されて歩兵部隊の逆襲支援などを行ったが、
大隊主力20数両は後退してヴィスワ川を渡河し補給と整備を受け、
ワルシャワ装甲・自動車化旅団と合流したのち、
ドイツ軍包囲を突破し、ルーマニア国境へ脱出するために歩兵・騎兵を支援して進撃したが、
Tomaszow Lubelskiへの夜襲を含めた数日にわたる攻撃に失敗して20日に降伏した。
>>332 ソ連もポーランドも双砲塔型にそれほど期待してなかった気がする。
ポーランドの双砲塔型はヴィッカース6t戦車から砲塔を持ってきた奴だけだし。
【古きをたずねて新しきを知る】 1939年、英近衛竜騎兵連隊(KDG)は“クィーンズ・ベイズ ”連隊と共に騎兵としての地位を失い、 新たに創設された王立装甲軍団(RAC)の先任連隊となりました。 KDGと“ベイズ”の先任連隊は、通常は“ライフガーズ ”と“ロイヤル・ ホースガーズ ”なのですが、 この時点では後者2つは未だ騎馬部隊でした。 39-45年の近衛竜騎兵連隊の装備AFVは以下の通りでした。 @Mk.VIB軽戦車(39/9-41/1) Aマーモン・へリントン装甲車(41/1-43/2) BA.E.C装甲車(42/11-43/5) Cハンバー装甲車(43/2-43/11) Dダイムラー装甲車(43/11-45/5) Eスタッグハウンド装甲車(43/12-45/5) ※43年9月初めから75mm自走砲(M3ハーフトラック)6両も装備 40年11月16日、リバプールを発った近衛竜騎兵連隊は、ダーバン経由で翌月23日にポートテウフィークへ到着し、 12月30日に主力がポートサイドで陸揚げされた後、列車も利用しながらTahag野営地へ辿り着きました。 41年1月1日、KDGはマーモン・へリントン装甲車へ装備転換することを告げられます。 ※KDGと“クィーンズ・ベイズ ”が王立装甲軍団所属となったのは上記の通り39年ですが、 KDGは37年にインドのセカンダラバードで最後の騎乗パレードを行なってから、機械化のため38年に本国へ帰還し、 “クィーンズ・ベイズ ”は35年に最後の馬を手放し、機械化への道を歩み始めています。
装備転換中にKDGは第11軽騎兵連隊への増援として、1個中隊をリビア砂漠へ派遣するよう、突然、求められます。
1月27日、B中隊がTahag野営地を出立し、2月2日にメキリの第11軽騎兵連隊本部へ到着しました。
彼らは敗走中のイタリア第10軍の退路を遮断し、ベダ・フォムの戦いの勝利に貢献します。
2月14日、B中隊は14機のBf110に襲撃されました。
KDGは4名が負傷しますが、ボフォース機関砲と装甲車のヴィッカース機関銃の対空射撃により2機を撃墜します。
これがリビア砂漠に初めて姿を見せた独空軍機でした。
その日遅く、第11軽騎兵連隊の車両1台がJu87の直撃弾を受けて撃破され、翌日も空襲が続きました。
2月18日、KDGと随伴の何門かの対空砲、英空軍の4両の装甲車のみが、アジェダビア以西に存する英部隊となりました。
第7機甲師団は労をねぎらう休養と再装備の為、カイロへと後退していたのです。
20日に豪州第17歩兵旅団がアジェダビアへ到着した際に、KDGは豪州第1軍団の指揮下に入りました。
同日、KDGのC中隊所属のウィリアムス中尉らがエル・アゲイラへと進みましたが、
その際に、英軍部隊として初めてDAKと遭遇したことは、
>>86-87 の通りです。
翌日、未熟であったBf110の攻撃水準が向上します。
22日にはケリー中尉が負傷後に死亡し、リンジィ少佐、フォスター軍曹、フィンドレーが負傷しました。
24日、エル・アゲイラの砦でDAKの待ち伏せを受けて一敗地に塗れたことは、
>>102-103 の通りです。
27日、C中隊は数機のメッサーシュミットに激しく攻撃され、装甲車とトラックを共に3両ずつ失い、
デルメージ大尉と他9名が負傷しました。
※2月14日のBf110は1機撃墜、2機損傷という説もあります。
第106王立騎馬砲兵連隊所属のボフォース機関砲3門、鹵獲ブレダ機関砲、小火器で応戦したとなっています。
その後も北アフリカで戦闘を続けた近衛竜騎兵連隊でしたが、
43年9月24日早く、サレルノへ上陸します。
KDGは前進し、サルノ線へ達しますが、橋梁は全て破壊されており、
浅瀬の対岸には強力なドイツ軍が布陣していました。
B中隊員のラウエルは1人の狙撃兵によって重傷を負い、後に死亡します。
9月29日、B中隊の小隊右手に1両の独軍8輪重装甲車が現れました。
小隊は発砲しますが、先頭のハンバー装甲車のトリガー機構が故障します。
このハンバー装甲車は被弾し、クラウザーとタロックの両伍長が戦死し、エヴィンス伍長は負傷しました。
10月1日、何名かの米歩兵と共にいたスコット・グレイズは独軍が撤収したことに気付きました。
早速、A中隊の2個小隊が前進し、トッレ・デル・グレーコ、レシーナ、ポルティチを通り過ぎ、
09:30にナポリへ入城します。
トッレ・アンヌンツィアータからナポリへと連隊残余が続きましたが、
喝采する群衆によって花と果物が雨あられと車両へ浴びせかけられ、祝福されました。
A中隊がナポリ一番乗りの栄誉を満喫している頃、B中隊は市の東と北へ向かいました。
彼らは独軍将校が乗ったスタッフカーを捕らえ、トラック1両を撃破します。
王立工兵が倒木の路上障害物を除去した後、カッセルズ中尉は市北郊のラ・ロトンダへ進みますが、
広範囲に渡って破壊工作がなされていましたので、そこで停止しました。
ベイリー橋の架橋や障害物&地雷の除去を工兵がどれぐらいの速さで行えるかが、
イタリアでの如何なる進撃も左右するということを、KDGは早々に学んだのでした。
○43年10月1日、ナポリに入城した近衛竜騎兵連隊A中隊のハンバーMK.IV
ttp://www.desertrats.org.btinternet.co.uk/images/Pictures/KDGACNaples.jpg
10月3日、C中隊がサレルノへ上陸し、5日に連隊と合流します。
悪天候によって前進はかなり阻害され、橋梁や道は度々爆破されました。
10月6日、ボルツルノ川の線へ達しましたが、そこには強力な敵部隊が配置されていました。
C中隊のスミス中尉が渡河可能地点を見つけるべく、ボルツルノ河口へ偵察任務で派遣されます。
任務は成功しましたが、帰還途中に中尉を乗せたダイムラー偵察車は地雷を踏みました。
彼は戦死し、メイソンとマーフィットの両名が負傷しました。
マーフィットの傷は致命的なものでありました。
10月8日、近衛竜騎兵連隊は荒天の中をナポリ郊外へと後退します。
休養期間中、リンジィ少佐はリチャードソン中尉の助力を得ながら、馬を集めるべく奔走していました。
彼は装甲車では作戦困難な地での哨戒に、騎乗兵を活用しようと思いついたのです。
英第10軍団は賛意を示し、如何なる動物や機器も徴発出来る委任状を少佐へ与えました。
彼はさまざまな馬8頭をまず駆り集めましたが、内1頭はアオスタ公爵夫人のもとから徴発した馬でした。
後に公爵夫人の馬は、『高価にして保護された動物』という理由で返さねばなりませんでした。
王室の厩舎から2頭の馬を獲得したことについては、異議は出ませんでした。
部隊の訓練はヘルヤー大尉、ケント伍長、再び馬に囲まれて歓喜状態の少数の古参騎兵によって行われます。
10月31日、リチャードソン中尉が初めて多くの騎乗兵を引き連れ、山中を哨戒しました。
○ロッカモンフィーナで哨戒中のKDG騎乗兵(※馬は糧食運搬にも使用されたようです)
ttp://www.qdg.org.uk/cmsimages/history/patrolroccamonfina.jpg ○43年イタリア戦線。米第5軍の同じく臨時編成の騎乗偵察兵。
ttp://www.olive-drab.com/images/army-horses-mules_lastcav_02_700.jpg
339 :
名無し三等兵 :2010/12/20(月) 21:43:29 ID:XVNSoj8H
騎馬隊カコヨス 今でも警察に馬が居るね
341 :
名無し三等兵 :2010/12/21(火) 12:21:04 ID:iTglwsCX
双砲塔と言えば、アメリカのM2A2もだよね。 当時の巨乳女優にちなんで「メイ・ウェスト」と言われてたらしいが M2軽戦車もヴィッカース6t戦車ファミリーですよね。
砂漠なんだから、馬じゃなくラクダにして欲しかったな。
【来た、見た、撃たれた】 クルセーダー作戦時、第7軽騎兵連隊は第2、第6王立戦車連隊と共に第7機甲旅団隷下でした。 彼らはクルセーダーのみならず、少数の旧型A10&A13巡航戦車も装備していました。 1941年11月21日、第7軽騎兵連隊はシディ・レゼク飛行場奪還を図る独第21装甲師団と交戦します。 ティム・パルマーは折りしも目にしたものを、決して忘れることはないでしょう。 彼は1発の高初速弾が自分めがけて飛来するのをチラリと見ました。 射撃中の敵戦車もたまたま一瞥しましたが、それは彼方に存在してピンの先のようでした。 その瞬間は高速シャッターを切っているかのようで、 即座に大きな物体が彼の正面に来たかと思うと、イヤフォンと共に制帽が何処かへ行ってしまいました。 貧弱な2ポンド砲の有効射程内に入れるよう、パルマーは操縦手に前進を命じます。 そのとき、左手の彼方に、エジプト国境上で称賛された巨大な砲の1門がかすかに認められました。 それは牽引されていましたが素早く停止し、兵員が飛び降りて慌しく砲を戦闘配置に就けようとしました。 「あいつを喰おう。」 パルマーは砲手に言います。 砲手は正面切って牽引車を射撃し、最初の一撃でそれを吹き飛ばしました。
辺り一帯で小さな榴弾が炸裂しており、それらは1両の敵戦車から撃ち出されていました。 と、何かがパルマーの戦車に当たります。 砲火に捕えられたのですが、この被弾はまだしも悪くはありませんでした。 というのも、即座に別の1弾が砲塔のギアに命中し、砲塔は不動となってしまったからです。 降車したパルマーは、取り残されて無傷のままでいた何両かの戦車の1両に出くわしました。 彼はその戦車上に座り込むと、操縦手の覗視孔越しに手信号で指示を与えます。 それはとち狂った思いつきではありましたが、結果的にパルマーの命を救いました。 1発の重々しい徹甲弾が命中して車内へ跳飛し、中の乗員は全て戦死したからです。 もはや、彼の所属連隊は戦闘部隊としては存在していませんでした。 中隊長、小隊長は空しく次席指揮官へ呼び掛けます。 「指揮を引き継げ!我、被弾す!」 それらへの応答は殆どありませんでした。
連隊本部は3両のV号戦車と近距離で撃ち合っていました。 その本部戦車2両は旅団司令部や師団司令部と無線連絡を保っていましたが、撃破されます。 旅団司令部自体も、無益に連絡を試みている軽騎兵の戦車に囲まれて、混戦の渦中にあったのでした。 C中隊長のコングリーヴ少佐は、手にしていたマイクを1発の徹甲弾によってもぎ取られ、 アンテナも同様に失くしていました。 連隊指揮官のフレデリック・ビヤス中佐は、1発の50mmAP弾により自車砲塔内で果てていました。 この段階において、連隊戦力は戦車12両へと減少していました。 今や楔型隊形をとった独戦車隊1個が、取り残された軽騎兵連隊とシディ・レゼク飛行場の間を突進してきました。 次席指揮官のフォスディック少佐は、打ち砕かれた連隊残余を1本のワジ経由で南東へと引き連れます。 何両かの戦車は砲を損傷しており、他も残弾は無く、全車が負傷者を車体上に乗せ運搬していました。 彼らは敵砲兵の射撃に悩まされましたが、北西方向へ戦車をごろごろと押し進めます。 パルマーは、この戦闘では3両目の乗車となるクルセーダーに搭乗していました。 目指すは飛行場です。
シディ・レゼクの第7機甲旅団の3個戦車連隊の内、第6王立戦車連隊のみがトブルクへの出撃を先導しましたが、
巧みな配置の砲陣地により粉砕されました。
第2王立戦車連隊は第15装甲師団相手に勇戦しましたが、手順通りに消耗し始めていきました。
彼らが有効射程内へ詰め寄ろうと空しく努めている間に、
50mm砲弾は1500ヤードの距離からその装甲を破壊していきます。
一日中、通信手はしゃがれ声で叫んでいました。
「他2個旅団はいずこにありや?」
第7機甲師団長のゴット将軍の姿は、師団司令部には見出せなかったのでした。
彼は何処かの部隊へ出掛けたままだったのです。
遂に、誰かか師団長へどうにか状況を知らせ、第4、第22機甲旅団は直ちに北上するよう命じられました。
しかし、その時点では両旅団は弾薬と燃料の補給を受けている最中でありました。
彼らは抜群の技量を示した2個独装甲師団の後衛と“走行競技”の最中に遭遇します。
救援の為に北上した第4機甲旅団がちょうど10マイル進んだところ、そこには対戦車砲列が待ち受けていました。
ハニーのすばしこい走りも全く意味を成さず、撃ち合っている間に日没となります。
他方の第22機甲旅団は、確かにその姿がシディ・レゼクから一見されたのですが、北西へと走り過ぎて行きました。
軍団の戦闘日誌によると、彼らは辺鄙な“4239地点”及びその他から来る敵の一掃へ向かったと見られています。
そこにはアリエテ師団が一時的に留まっていましたので、その可能性は在り得たのでした。
○シディ・レゼク近辺戦闘図
ttp://www.btinternet.com/~ian.a.paterson/Maps/sidirezegh_battle_map.jpg
そうしている間にも、パルマーは4両目の乗車を失います。
彼はV号戦車の50mm砲と互角に戦える射程内から発砲しました。
しかし、敵戦車からの射撃は無情にも正確だったのです。
通信手と共に砲塔内にいたパルマーは、敵戦車が接近し、停止し、発砲するのを目にしました。
その飛翔して来た1個の物体は、ガランガランという金属音と共に砲塔壁を貫通し、突き刺さります。
通信手は全く恐怖することなく車内に倒れ込みました(※次の文からすると、既に事切れていたという意でしょうか?)
次弾は正面装甲を貫通し、又、その不運な通信手の正面へ打ち当りました。
操縦手は恐慌の余り、車内から飛び出して浅慮にも砂漠を駆け出します。
3弾目は砲を損傷させました。
パルマーが脱出したちょうどその時、小旗を翻した1台の大きなスタッフカーが飛行場を一直線に横切って来ます。
そのオープンカーには一人の人物が直立していました。
それはジョック・キャンベル准将その人で、かつてカプッツオでの作戦行動中に初めて“88 ”と遭遇した彼は、
今や師団支援群の指揮官でありました。
○キャンベル准将(※左人物)
ttp://www.desertrats.org.btinternet.co.uk/images/Pictures/Jock_Campbell.jpg
>>343 乙
パルマーさん初弾でよく死ななかったなあ。
太平洋戦線開幕の頃には、もうイギリス軍て歴戦なんだよな。 うーむ、彼らにM3を与えると日本側が敵わないわけだ。
>>341 M2軽戦車って37mm主砲に同軸の他
車体の四方に7.62mmM1919機銃がくっ付いたやつね?
もし戦国自衛隊の世界に放り出されるなら
とっても無敵かもw
それはM2中戦車
>>351 M2A4ならその説明で半分間違ってない
後方左右には銃ないけどな
M2で始まったシリーズもM3A3やM5A1まで行くともはや別物
偵察戦車としては終戦まで使われてるし、息が長いよな〜
チハの次はスチュアートを愛でる日が来る。 砲身と防盾、照準口の辺りが顔に見える。小振りな体、真にすばしっこい足。 理想はM5で結実し、M24でまともになり、M41で潰えた。
M41は高性能なんだろうけど、可愛らしさがない。
60口径76.2mm高初速砲、出力500馬力で最高時速70km/hだからな… 大戦中の戦車とは時代が一つ違ってるもの
戦車より前に戦車の名前が紹介されてるだろーが・・・
>>359 リンク先飛びながら見てたらルノーFTとか菱形戦車とか今でも稼働状態なのがあるんだな
【嘘だッ】 ※1942年、ガザラ戦前後のエピソードです デイビッド・パリー中尉は、高射砲を対戦車戦で活用したいと望んでいる砲兵将校でした。 彼はビル・ハケイム近辺で、部下の無線通信手が拾い上げた平文での交信を傍聴する機会に恵まれましたが、 それは友軍の1両の偵察車と後方司令部とのやり取りでありました。 そして、その交信内容は長年に渡ってパリーの耳に焼き付き、いくぶんか彼の十八番と成り得たのでした。 偵察車:『南に砂塵。部隊と思われる。』 司令部:『君の南に部隊はいない。絶対にいない。』 偵察車:『南の砂塵が大きくなってきた。間違いなく部隊だ。』 司令部:『繰り返す。君の南に部隊はいない。絶対にいない。』 偵察車:『薄煙を通して戦車複数を確認。W号戦車と思われる。』 司令部:『繰り返す。君の南に部隊はいない。絶対にいない。』 偵察車:『W号戦車複数がハッキリ確認出来た。自動車化歩兵も一緒だ。ドイツ軍大部隊だ。』 司令部:『(いらいらしているかのように)絶対にいない。絶対にいない。君の近辺に部隊はいない。』 偵察車:『W号戦車を数えている ── 1、2、3、4、5、6、7 ── ドイツ軍大部隊は疑いなくいる。絶対にいる…エル・アデムへ時速約30マイルで向かっている。』 司令部:『(がまんしているかのように)君の地区に部隊はいない。』 偵察車:『敵に見つかった。こちらは砲火の下だ(砲弾の炸裂する暗騒音)。繰り返す。敵大部隊だ…』 司令部:『(うんざりしているかのように)君の地区に敵部隊はいない。』 偵察車:『間違いなくアフリカ軍団がエル・アデムへ高速度で向かっている。こちらは砲火の下…(沈黙)』 それが偵察車からの最後の送信でした。
ひっでえw でもまあ訓練用架橋資材一個で攻勢かけたり、900人で一個師団に突撃かます軍隊もあるわけだし……
この司令部要員は銃殺でいいだろ・・・
偵察車は義務を果たしたのにな。南から装甲師団が回り込んでくるとは思っても見なかった頭の固い司令部
>>357 冒頭からたくさん出てくる中戦車はM13/40
車体側面ハッチが操縦席側についてるのでM15/42ではなく、
調べると機銃マウントのボルトの数などでM13/40とM14/41が見分けられるようだ、けど
イタリア語のWikipediaでも混同されているので意外とどうでもいいのかもしれない。
(ボルト数が多い方がM13らしい)
42秒あたりで出てくる自走砲は75/18
M13とM14のシャーシをそれぞれ使った型があるようだけど見分けつかない。
フェンダーで見分けられる人がいるのかも。
54秒は指揮車両ぽいけどよくわかんね。
ダミー砲ではなく連装機銃が付いている。
2分38秒あたりの2カットはM11/39中戦車
2分49秒あたりからは自走砲L40
あとは装輪装甲車(たぶんAB41に分類するのが正しい)とか自走砲75/18とか指揮車両とか
残骸になってる中戦車(たぶんM13/40)とか。
ちなみにcarro armattoは「戦車」semoventiは「自走砲」なので
形式を特定する手助けとはならない。
まあ田宮のプラモがそういう商品名で一応形式もあってるので正しいかもしれんが。
そうだったのか てことはカッロベローチェは快速車ってわけか
>>365 54秒と3分46秒の車両は同型かな。これはM13か14をベースにした砲兵観測車だったはず
M13系列には他にダミー砲塔を載せた無線指揮車も存在する
M13とM14の区別はイタリア軍ファンにとっても職人芸レベルなんですよ
>>366 CV=カッロベローチェ=快速戦車(後にカッロレッジェーロに表記変更)
L=カッロレッジェーロ=軽戦車(レッジェーロは『軽い』の他に『軽快な〜』という意味もあるので快速とも訳される)
M=カッロメディオ=中戦車
P=カッロペサンテ=重戦車
因みにイタリアの戦車は『(戦車の種類)(戦車の重量)/(採用年)』で表記されている
M13/40の場合『40年型13t級中戦車』となる
自走砲の場合は『(ベースとなった車体型式)de(搭載砲の口径)/(搭載砲の口径長)』となる
そういえば13tだったのね…
【我らの鋼鉄の墓とならん】 ※1943年、チュニジア戦での逸話です 米戦車将校のロバート・ムーアは、シジ・ブ・ジットでの完敗に終わった戦闘には参加し損ないましたが、 スベイトラ防衛戦では乗車が撃破されるまで戦い、ベンソン隊と共に新たな戦車で戦列復帰しました。 1個中隊での突撃に加わったムーアは、エル・ゲタールでの戦闘中に大尉へと昇進します。 彼はその際の自身の戦闘の模様を記述したのでした。 『……私たちは砂漠を横切って出発しました。 峠は7~8マイルに渡っていましたが、我々は呆けていましてね……。 5両の独戦車が居る狭い一本の峠道へ下り立ったのですが、砲火の拳骨がこのとんでもない所業を中断させたのでした。 通行出来るのは一箇所しかなく、そこには地雷が敷設され封鎖されていました。 その上の丘には歩兵と砲兵観測班が陣取っていたのです。 我が大隊の任務は峠を通り抜けることでしたが、峠の正面に沿って約400ヤードの小さな尾根がまさに続いておりました。 私へ発砲したのは、ほぼ間違いなくW号戦車でしたね。 奴はこちらの右履帯を破壊しました。 そのときは他方の履帯がまだ動作していましたので、戦車は回転して停止したのです。 私のシャーマンはそのW号戦車へ右を向けていました。 砲手がそいつへ約4発送り込みましたが、そこにそれ以上は独戦車はいませんでした……。』
しかし、そのW号戦車は撃破されていなかったのでした。 それは彼のシャーマンへ次の射撃をすべく、場所を転換しました。 『……それで、私は壊れた履帯と共にそこに居座っていましたからね。どこへも行きようがありませんでした。 連中が今度はどこからやって来るのか、私たちは把握しようと努めました。 奴が射撃したとき、こちらはあいつを視認しませんでしたよ。 2発目は操縦手と副操縦手が出入りするハッチを通り抜けていきました。 それは私が二人に「脱出しろ!」と言い、彼らが穴の両端に諸手を掛けて身体を持ちあげたときだったのです。 その砲弾で、操縦手の手の親指と4本の指は引き離されてしまいましてね……。 彼は病院へ下がったとき、約140の鉄片を手から除去したのでした。 操縦手は病院へ着くまで、走るのを止めようとはしませんでしたよ。 とにかく、操縦手と副操縦手は脱出しました。 3発目は砲塔表面で跳ね返ったのです。 跳ねたとはいっても、それは傾斜面に当って照準器を粉砕していました……。 「照準器が消え失せました。」砲手が私を見上げて言いました。 「脱出しよう!」私は言ったのです……。』
『……なんとか私は脱出し、4発目が照準器を通り抜けました。 そして、装填手は…出口にいました。 彼はハッチ上の私の太ももへ頭をもたげました。 砲弾は装填手を真っ二つにし、砲手の頭部をもぎ取ったのでした……。 そのように私は2人の人員を失い、3人で脱出したのです。 戦車は炎上しましたよ。 その晩、私はそこへ戻って、装填手の半身を回収したのです。 彼は未だ息があったのですが、病院へ搬送する前に絶命したのでした (※装填手に息があったというのは脱出時の話で、すぐに絶命してそのまま車外へ残したのかと思われます。 夜間にその上半身を回収したのでしょう。恐らく車内に残ったであろう下半身は、以下の砲手と同じ運命だったような気がします)。 他方の砲手に関しては、我々が見付けた大きな部位は腰でありました。 彼の身体の残りは戦車の中で燃えてしまったのです。 私は別の戦車を手に入れるまで、任務がありませんでした。 勿論、翌日には新たな戦車を受領しましたけれどもね……。』
372 :
名無し三等兵 :2010/12/25(土) 15:48:06 ID:1jCC9mXj
イスラエルの戦車兵は認識票を足に付けるんだよね。上半分が吹っ飛ぶことが多いから……
毎回GJです なんとも壮絶だな……神経が麻痺するなこりゃ
>奴が射撃したとき、こちらはあいつを視認しませんでしたよ。 カリウスが危険だろうがなんだろうが戦車長はハッチあけて敵情見てろってのはそういうことなんだな
>>375 後ろにトレーラー引いてる火炎放射仕様は活躍したんだろうか
合言葉は TANKS! だ。
>>377 自分で調べて「これはトルディかなあ」と突き合わせていくのが楽しいんだぜ
380 :
名無し三等兵 :2010/12/26(日) 14:10:28 ID:WUaMWZdO
TEST
>>376 世界的に見ても最初期の火炎放射戦車だから性能はそれ程でもない・・・・
ただ第二次エチオピア侵攻では、陣地に篭った兵やゲリラ兵焼き払うのに役立った模様
というか、エチオピア兵が山岳地帯等でのゲリラ戦を得意にしていたから投入されたようなもんだし
第一次侵攻時に6倍程の戦力で部隊を各個包囲撃破されたのが余程トラウマだったようだ
後このL3火炎放射戦車にはタンクを車体に搭載したタイプもある
油の圧縮効率が上がって射程が延びた反面、小さな車体では油の搭載量が限られてしまい放射時間は短くなった
>>382 サンクス。対エチオピア用だったのかorz
>>383 スペイン内乱やロシア遠征軍にも投入されたという記述はある
ただどの程度活躍したかは不明
そもそも火炎放射戦車は射程が短く元となる戦車の装甲も脆弱だから、各国の戦車搭載火気が
強力になるにつれ前線での活躍が困難になっていった
パルチザン相手の治安維持任務なんかでは活躍できたかもしれない
またイタリア軍は戦車以外のトラック改造型装甲車にも火炎放射器をつんでいたしので、こいつを
重用していたかどうか・・・・
見直さなかったから変な文章になってしまった! ○火炎放射戦車は射程が短く、CV33lfの場合は元となった戦車の装甲も脆弱だから ×そもそも火炎放射戦車は射程が短く元となる戦車の装甲も脆弱だから 他の部分もおかしいけどもう言いや 因みにスペイン内乱に投入された火炎放射戦車はCV35ベースだったようだ
387 :
名無し三等兵 :2010/12/28(火) 15:32:53 ID:O8TrRiMI
チハたんの変速機ってシンクロ付いてたんだろうか? もしかして選択摺動式とか?
シンクロは付いてません。 クラッチを使わない回転合わせで変速する熟練操縦者が、たくさんいました。
T-34みたいに、ハンマーで叩いてギアを入れるのと、どちらが良いのだろう?
【純度100パーセント】 第二次エル・アラメイン会戦前の枢軸側防衛計画において、 可能な場合はイタリア歩兵隊はドイツ軍部隊に挟まれました。 そして、イタリア軍の決意を強固なものにすべく、お互いの司令部は近くに位置させました。 これはドイツ人の多くがその盟友を軽んじるという兆候ではありましたが、概して交渉は誠心誠意行われました。 アフリカ装甲軍の見解では、イタリア軍の弱点は貧弱な装備と稚拙な統率にありましたが、 よく準備された防御施設と適切な指揮を与えれば、彼らは申し分なく戦うであろうと思われていました。 そして、サンドイッチの原則は機甲部隊にも拡張されました。 第21軍団の後方には第15装甲師団とリットリオ機甲師団が、 第10軍団の後方には第21装甲師団とアリエテ機甲師団が控置されます。 ドイツ軍のイタリア戦車隊への評価は良でありました。 『私のドイツ兵への評価は大変分かりにくいものだ。』逆に、伊軍のピエロ・サンティーニ大尉は書き記しています。 『機械化歩兵は確かに好戦的だが、彼らの根底には人間性と夢想的で感傷的な何かが保たれている。 ゲーテの如きあの国の基本的な特性が存することを、誰も否定は出来ない。』 『これに反して降下猟兵は100l“ワグネリアン”だ。 人を不安にさせ、居丈高で、全くもって間近に迫った大災厄といった感じだ。』
【頭部にご用心】 ※1942年5月27日、ガザラ戦の際の逸話です
英第8軽騎兵連隊C中隊長のハケット少佐は部隊に警戒態勢をとらせました。
グラント戦車へ機動の余地を少しばかり与えるべく、彼は中隊(※ハニー装備。A・B中隊がグラント)を前進させます。
かろうじて暖機の時間が与えられ、さらに1マイル南の丸みを帯びた稜線の緩い傾斜面を彼らは驀進しました。
その途上、連隊指揮官が無線連絡をしてきました。
「新たな報告を得た。既に敵は“ブレナム ”を通過したそうだ。」
(※ブレナム=偵察機の目を欺くべく無人で放置された防衛陣地で、枢軸軍の攻勢時に守備隊が詰める予定でした)
マイクのスイッチを切って悪罵だけが返されました。
彼らがガチャンガチャンと戦車を走らせると、イヤフォンが再びパチパチと音を立てます。
「予期したよりも、もっと早くに会敵するだろう。接触したら直ちに報告せよ。」
その時、部隊は丘の頂きを越えましたが、前方の広く平坦な砂漠は巨大な砂塵の下にありました。
“全世界の血に飢えた戦艦艦隊 ”の如き何かが移動していました。
先鋒には鏃隊形の2個戦車連隊が滑るように進み、その背後に薄煙を通して自動車化歩兵、砲兵、対戦車砲が見てとれました。
少佐は無線機であっさりと言います。
「現在、交戦中。」
それから、彼は自車のアンテナに小さな黒旗を掲げました。
それは、いにしえの海軍と騎兵隊の伝統に於いて“攻撃”を意味したのでした。
○44年3月、ジョン・ハケット。(中央人物。左右にモントゴメリーとアーカート)
ttp://horl.yolasite.com/resources/hackett.jpeg
ハニーの操縦手は速度を上げます。
彼らは、ハニーの速度の優位性に不規則なジグザグ走行を取り込んだ機動システムを作り上げていました。
操縦手は足を踏み込んだまま、右レバーを引いて5つ数えます。
それから左レバーを操作して3つ数えます。
そして、再び右レバーを操作していくつかの奇数か偶数を数えます。
その結果、コンチネンタルW-670エンジンの馬力と相まって、
射撃の達人にしか命中弾を与えられぬような尋常ならざる機動をハニーは見せたのでした。
さて、ハケットの身に何が起こったのかというと、彼は全く興奮して黒旗をたぐり込むのを失念していたのです。
それは常に敵戦車の注意を引きつけたのでした。
彼のハニーが射撃すべく停止した間に、1発の砲弾が操縦手席の装甲を貫いたのです。
彼らは車外へ飛び出ると、酷く負傷した操縦手を席から引っ張り出します。
そのようなことを炎の中で行ないましたので、ハケットはいくらか火傷を負ってしまいました。
○第8軽騎兵連隊のハニー
ttp://www.desertrats.org.btinternet.co.uk/images/Pictures/8thHussar_Honey_Desert.jpg
ハケットの中隊の1両のハニーが通り過ぎました。 と、彼はそのハニーのエンジンカバーへ飛び上がり、砲塔後部へしがみついたのです。 片手は車長の髪を引っ掴んでいました。 戦場の喧騒も遠ざかるかの如き、凄まじい絶叫が上がりました。 ハケットがその哀れな男の頭を捻ってみると、それはヨエルという勇敢な軍曹だったのです。 軍曹は直近の標的の方向へ向かっていたところでした。 後に、彼はハケットへ語ったのです。 「あそこには掴む所など大してありゃせんのです。 中隊長に髪を引きむしられて、とてつもなく痛みましたぞ。 自分はずっと涙目で、標的など全く見れなかったですからな。」 C中隊へ、少なくともグラントが暖機して戦闘配置へ就く迄、ドイツ軍を遅滞させるようにとの命令が無線で届きました。 しかし、それは遅きに失したのです。 集結したドイツ戦車隊の砲火の前には、すばしこいハニーでさえ次々と撃破されていき、残余は後退しました。 そして、グラントは慢心したドイツ戦車隊の虚を突いて許容範囲以上の損害を与えはしたものの、 第2波のティーゲ中佐の巧みな側面攻撃によって、大部分は機動する前に犠牲となりました。 又、この日、同じ第4機甲旅団隷下の第3王立戦車連隊は、僅かにグラント5両、ハニー8両へと損耗したのでした。
>>385 スペイン内戦序盤の1936年10月29日、
Arman率いるソ連軍のT-26戦車15両はセセーニャの近辺にあった
ナショナリストの陣地を攻撃、これを蹂躙したが、
その直後3両のCV35が逆襲を行ったためスペイン内戦初の戦車対戦車の戦闘が行われた。
CV35のうち2両が機銃装備、残る1両が火炎放射機装備だったが、
火炎放射型は放射有効射程内に入ろうと突進したものの撃破され、
残る2両のうち1両はT-26に押されて溝に落ち、ひっくり返ってしまった。
このようにT-26戦車隊は大きな活躍をしたものの、歩兵支援を無視して突進したため、
共和国軍の歩兵が村を占領できず、戦闘はナショナリストの勝利に終わった。
ちなみにこの戦闘ではT-26が対戦車地雷で損傷したり、
市街戦中に火炎瓶で撃破されるなど、新しい対戦車兵器が活躍した戦闘でもあった。
395 :
394 :2010/12/29(水) 11:28:00 ID:???
出典は最近出たオスプレイの "Spanish Civil War Tanks: The Proving Ground for Blitzkrieg" 1号戦車の各種改造型の写真や、T-26との大きさ比較ができる出ていたりして楽しい。
>>390 ゲーテとかワーグナーとかなんやねんサンティーニ大尉ヽ(`Д´)ノ
ここでのワグネリアンは国粋主義的なものを言うのか
スペイン内戦には、T26の他、BT-5も派遣されてるがそちらの記述は?あとフランコ側のドイツ軍が余りにも性能差があるので、戦車狩りをしたらしい。
>>397 BT-5は1937年8月10日、国際戦車旅団の車両として50両が送られた。後述するがこれが最後の大規模な戦車援助。
これ以外のソ連によるスペインへの戦車投入はすべてT-26。
快速戦車として設計されたBT-5はその目的で使用するため後方に温存されていたが、
1937年10月初旬、サラゴサへの途上にあるfuentes de ebroという町へ共和国軍が攻勢をかける際、
48両の戦車(おそらくBT-5)が投入された。
作戦はかなりずさんなもので、戦車隊は攻勢前夜、
夜間に50kmも移動して攻勢開始地点に向かわなくてはならなかったうえ、
突撃時に歩兵を跨乗させていくことになっていた。
ソ連の軍事顧問や戦車将校はこれに反発したが、
作戦開始まで時間がなかったため計画を修正できず、
時間がないため偵察する暇もなく、さらに対戦車兵器を含む敵の状況は戦車隊に知らされなかった。
戦車隊の攻撃は昼過ぎに開始された。
戦車隊は一斉射撃を行った後高速走行に移ったが、跨乗する歩兵は揺れる車体から次々と振り落とされた。
さらに味方歩兵には戦車隊の攻撃情報が伝わっておらず、味方の塹壕を超える際に歩兵と戦車が撃ち合うことになった。
塹壕を超えてようやく敵に向かって進撃したものの、前面には急斜面が広がっており、登坂可能な地点を探すのに苦労した上、
どうにか上がってみると敵陣の前には水路が張り巡らされたサトウキビ畑が広がっていた。
そのような状態で進撃に難儀しているところに、ナショナリスト側の野砲や対戦車砲による攻撃が行われ、
跨乗していた歩兵は大半が振り落とされていたため地歩の確保もできず、
弾を撃ち尽くした戦車隊は後退して行った。
結局攻撃は失敗し、48両中19両の戦車が失われた。
BT-5がスペインに援助され、上述の攻勢が失敗して以降、ソ連からの戦車に対する援助は人的にも物的にも急速に減少して行った。
>>397 1号戦車が徹甲弾を使用してようやく150mからT-26の装甲を貫通できる一方、
T-26は1km先から1号戦車の装甲を貫通できたため、
手慣れた乗員に距離を取って戦闘されると1号戦車の勝機は薄かった。
CV35は言うまでもない。
そのため多くの枢軸戦車が戦車戦によって撃破された。
一方で共和国側はドイツのPaK36などの砲によって多くの戦車を失ったほか、
上級指揮官の戦車戦術に問題があったため、大量のT-26がナショナリスト側に渡った。
1937年後半には1号戦車1個小隊につきT-26を1両支援に付けられるようになり、
1938年の第1戦車大隊(ナショナリスト)はT-26と1号戦車の数量比が1対2だった。
400 :
名無し三等兵 :2010/12/30(木) 16:53:51 ID:LrL+cs8t
>>400 ハカリスティが付いたT28、良いですね。
フィンランド軍は何でも大事に使います。
【とある英軍無名戦士】 ※1941年12月1日、クルセーダー作戦時のニュージーランド部隊の逸話です 行動開始時にはNZ兵は総員士気旺盛で、トブルクから英軍歩兵戦車が独軍戦車隊へ近接するものと思っていました。 敵との距離が300ヤードに満たない距離となってでさえ、NZ第30野砲中隊が左翼へ砲火を開く迄、 兵士の殆どはそのことにいささかも疑念を抱いていなかったのです。 炎上する車両と戦車によって巻き起こされた埃が展望を覆い隠し、 独戦車隊がNZ第6野砲連隊と几帳面に交戦する迄、戦闘は長く中断されました。 そして砲手の視界を奪うべく多量の煙弾が使用されました。 2門の対戦車砲が1、2発射撃した後に撃破されましたが、 B小隊2番砲はこれを免れ、厚みを増す薄煙の中で発砲を継続しました (※これらはNZ第31対戦車中隊B小隊の4門の2ポンド砲の内の3門で、南へ射界を設けていました。 4番砲だけは北向きです)。 B中隊とD中隊(※NZ第20歩兵大隊)、それに迫撃砲(※3インチ迫・5門)は、 自動車化歩兵及びいくらかの付属オートバイ兵と交戦し、それに少なからぬ損害を与え、 敵は明らかに混乱状態に陥りました。 又、独軍の数門の砲も狙い撃たれ、正面射撃によってそのどれもが戦闘行動をとれませんでした。 独戦車隊がニュージーランド野砲へ集中している限り、陣地は安泰でした。 しかし、NZ第20歩兵大隊のクィルター大尉は最後もそう遠くはないと悟り、それに準じて旅団へ報告したのでした。 バセット大尉は彼に、歩兵戦車が反撃する迄の30分、陣地を保持するよう言いました。 そして、クィルター大尉はこの情報をオア少佐と小銃中隊へと伝えたのでありました。
それから旅団との連絡は絶たれ、独戦車が歩兵大隊を攻撃した時、撤退の許可を得るのは手遅れとなったのでした。 状況が絶望的だと見て取った、オア少佐よりも老練な指揮官は退却を進言しました。 しかし、オアは第20歩兵大隊の指揮を執っているだけですので、その責任は突如として途方もないものとなってしまいます。 そして、陣地を保持せよとの旅団命令を無視するというのは、この状況下での彼にとっては思いも寄らないことでした。 未だ、第29&第48野砲中隊がドイツ歩兵と最後の絶望的な戦闘を演じていたとき、 独戦車の関心は第20歩兵大隊へと転じ、左翼から斜めにB中隊へと接近しました。 そのとき、何名かのNZ歩兵による防衛の為の勇敢な行為が見られました。 ロックヘッド軍曹は60ヤードに満たない距離から1両の戦車の覗視孔をブレンガンで射撃し、 車載機関銃の応射を受けるまで、それは止むことはありませんでした。 レッキー兵卒はボーイズ対戦車ライフルを全弾撃ち尽くし、より多くの弾丸を取りに行きました。 W号戦車が怒りながら砲塔を回転させて、75mm砲弾を射ち込んで彼を殺害する迄、その射撃は続いたのでした。 その時に、彼の“象撃ち銃”もグシャグシャとなったのです。 それから、B中隊は持ち場毎に侵食されましたが、独戦車は非常に慎重に振舞いました。 若干名の独歩兵が近くを続行したものの、彼らの残りは小火器射撃によって窮地にありました。 中隊の殆どの部署が最後まで射撃し、正面に夢中になったNZ歩兵は、不意に戦車によって捕虜にされました。 独戦車乗員は驚くほどに思いやりがあり、彼らの射撃による不必要な死傷者はごく僅かしか出なかったのです。
次はC中隊と大隊本部の番でした。 ‘I’軍曹は戦車に包囲される前に地図、命令書、暗号書を破棄します。 その行為は砲声を耳にしているだけのC中隊を激しく失望させました。 しかし、煙をすかしても何も見えません。 突然、3~4両の戦車が東方に現れました。 「それから、戦車指揮官らしき人物が“上がって出ろ”とだけ言ったのです。」 後に、ある兵士は悲しそうに述べたのでした。 A・C中隊は共に、許可さえあれば急斜面を乗り越えて離脱することは容易でした。 しかし、戦車が煙の中からぼんやりと現れたときには手遅れだったのです。 A中隊も又、失われたのでした。 ギルモア大尉は捕虜となった後、本部北東の救護所で負傷者の世話を継続して行なっていましたが、 勘違いした後続戦車に撃たれて戦死しました。 D中隊は敵が現れるたびに激しく射撃されていました。 よって、独戦車がやって来た時の挫折感はA・C中隊のものとは同一ではなかったのです。 にもかかわらず、右翼端のウィルソン中尉は自分の小隊へ投降の命令を下すのに骨を折ったのでした。
最後まで射撃していたのはA小隊の2番砲でした(※B小隊の誤記かと思われます)。 その砲は残存砲員が負傷した後、ボンバルディア・マーシャルがただ一人で操作していました。 マーシャルは4月のギリシャ戦で負傷し、捕虜となったことがあったのでした。 そこでの体験を嫌悪した彼は、7月に脱走した後、再び捕虜となることは決してないと誓言していたのです。 彼は言葉通りに本当にそこに留まり、片手で砲を射撃し続け、最後は戦車に轢き殺されたのでした。 ドイツ兵は確かに彼に多大な感銘を受けたようでした。 何故なら、ドイツ軍がこの地点を占拠していたのは短期であったにもかかわらず、 マーシャルを埋葬する労を厭うことはなく、一本の十字架に“とある英軍無名戦士”と銘記していたからです。 ボンバルディアという只のニュージーランド兵の埋葬に彼らは一手間かけたのでした。
合掌。
>>387 に便乗
M4中戦車の変速機は常時噛合だったはずだけど、シンクロは入ってたのかな?
後、虎戦車の半自動変速機についても教えてエロい人!
>>400 T-28って見た目ほど重鈍じゃないのな。ちょっとびっくり
>>407 英語版WikipediaだとM3リーの段階でシンクロメッシュて書いてあるな
T28の転輪は小さいのが沢山ついてて整備性は悪そうだけど、映像を見ると滑らかに 動いてるね。 チャーチルも同じように小転輪が山ほど付いてるけど、あちらも機動性は良いそうな、遅いけど。 レンドリースされたロシア軍でも好評。
>>407 T-28は見た目鈍重そうだが、装甲と主砲を強化した改良型でも32tで、
500馬力のエンジン積んでるから出力重量比はT-34/85と同じくらいある。
>>409 小転輪たくさんはサスがきちんとしてれば路面追従性が良くなるからね。
ロシア軍はT28が好きだね。 転輪をクリスティータイプの大直径転輪に挿げ替えたタイプを試作したりしてる。
414 :
名無し三等兵 :2011/01/02(日) 00:16:15 ID:aqza+Ja3
>>411 どうせなら1945年まで改良を続けて多砲塔のままで使い続けてほしかった
【味方にも気を付けよう】 ※1943年3月末、チュニジア戦時です 先鋒の戦車の中には、砲塔の背後にNZ歩兵を跨乗させたビル・クローズ大尉のクルセーダー中隊がおりました。 彼らが最初のドイツ軍砲手と遭遇した時のことを、大尉は述べています。 『……我々を弾幕によって揺さぶった上に幻惑して、奮闘していました。時には彼らを轢いて押し潰したのでした。 しかしながら、程なくして最初の防御線を迂回した時、対戦車砲兵が息を吹き返してきたのです。 何両かのシャーマンが被弾して、炎の中で爆発しました……。 私は自車の前面に一撃を感じたのですが、乗員の1人が貫通していないと大声で知らせてくれて、安堵したのです。』 まもなく、彼は標的を探すべくハッチを開けた砲塔内で立ちました。 すると、近くの待避壕から1人のドイツ兵が狙いを定めて発砲したのです。 その射弾はアンテナで跳ね返りました。 ドイツ兵は2発目を撃つ前に、戦車後部のニュージーランド歩兵の1人に撃ち倒されたのでした。
しかしその後、戦車指揮官と“乗客”の関係は即座に悪化します。
『……私は随分と興奮しまして、手榴弾を何発か投擲しようと思い立ったのです。
砲塔内には6発入りの収納箱が1つありました。
しかし、移動中の戦車の砲塔内から手榴弾を投擲する訓練を、私は受けていなかったのです。
それに私は、砲手が砲塔を旋回させたことを失念しておりました。
最初の手榴弾は戦車背後のニュージーランド歩兵の中に落下し、跳ね返ったのでした。
誰も負傷しなかったのですが、歩兵の1人が私にトミーガンを向けていました。
私が再度投擲を試みようとするなら、何事が起きるかを示したというわけです。』
夕暮れ時、英戦車はTebaga峠道を通り抜けました。
2500名のドイツ軍捕虜が追い出され、両手を上げながら戦車の間をよろよろと歩き始めます。
しかしながら、誰も敗北を認めている風ではありませんでした。
24時間、ドイツ歩兵は峠道両側の丘陵(※英側209高地)を奪還しようと試みました。
丘はNZ第28“マオリ”歩兵大隊所属のMoana Ngarimu少尉指揮下の30名に満たない兵力が保持していました。
マオリ貴族の血統の少尉は、丘を下っての吶喊突撃を短機関銃を腰だめ射撃しながら指揮し、
独軍の最後の攻撃を粉砕します。
もう10日程で25になるところであった彼は戦死し、ヴィクトリア十字章を授与されました。
その他の場所では、独第21装甲師団の僅かばかりの戦車が孤立し、分断されました。
彼らは脱出路を啓開すべく、ホロックスの戦車隊の背後を奇襲しましたが、誰も通り抜けられなかったのでした。
○Moana Ngarimu少尉
ttp://www.nzetc.org/etexts/MacHist/MacHistP014b.jpg
>>418 乙
まあそりゃあ車長が自分らに向かって手榴弾投げてきたらブチ切れるよな。
てか戦車って護身用銃器のほかに手榴弾も積んでたのか。
>>419 陸自の車両にも手榴弾用ラックがあったはず
>>415 ホーン・スイッチ、あんなところに付いとるのね
>>418 ティーガーの戦記にも似たような話が出てくるな。
規定を無視して機銃に弾を装填してた車両が暴発で前車の跨乗兵撃ち殺してしまう。
敵と会う前に戦車兵と歩兵の仲が最悪なことになったとか
まだマシな方じゃないかな・・・
ドイツの戦車は割と初期から全周視察可能な キューポラをつけてる例が多いけど ソ連の初期のT34とかアメリカのM4なんかでもそうだけど 横や後ろでドンパチやってる兵士が敵か味方かなんて 戦場の混乱の中じゃわかりっこないよねw
>>76 遅レスにも程があるが、クリスティー式なのは前身であるT49とT67で、T70と量産型M18はトーションバー。
>>427 キューポラがあっても戦車のすぐ側は死角なんで、結局ハッチから乗り出さないといけない。
何かが居るのかさえわからなければ仕方ないが 敵か味方かわからないものが間近に居るのがわかっている状況で わざわざハッチを開けて身を乗り出すバカは居ないと思うぞ。 その為に死角が出来難いようにキューポラ以外にも直視孔や ピストルポートって物がある。
ドイツ戦車長は危険であってもやたら身を乗り出して、または下車してまで観測を行いたがる傾向が。 カリウスも偵察は大切だと言ってたな。
砲隊鏡まで持ち込んでたのはカリウスだっけ?
戦車の中からの視界なんてたかが知れてるよ。 パヤオみたいに雪の積もったガラスにのぞき窓のサイズで穴開けて 車運転してみるといい。 全周で死角が無いように見えても実際は見えない場所だらけだから。
見えなきゃ見えないで構わん 何でそんな危ないマネする必要が有るんだwww
それを怠った場合、戦車ごと失われるから。
プロホロフカ戦車戦で、突進してくるT-34群の中に取り残された一輌のIV号戦車が、後ろを見てない敵を順に撃って仕留めていき、結局生き残った例もあるしな。
真後ろに回られてM8グレイハウンド如きに撃破された キングタイガーの例もあるわな
>>434 危ない真似って
>パヤオみたいに雪の積もったガラスにのぞき窓のサイズで穴開けて
>車運転してみるといい。
のことではなかろうか
>>430 そして狙撃される。
日本の戦車兵として有名な西住氏も偵察に出た時に銃撃されて死んでるね。
アメリカの駆逐戦車がオープントップだったのも、砲塔の三人が全周監視して先手をうつため。 結局、危険であっても肉眼に勝るものはなかったんだろうな。
>>439 でも市街地に放り込まれたり砲撃を受けたりすると大変だから
カバーする装甲板が改修でついてるね。
まあSPRみたいに火炎瓶とか上から入れられたらえらいことだからねえ。
>>440 砲塔にハッチが1つしかないタイプか。
脱出は大変そうだ…。
フランス戦車の動画をみて思ったんだが、砲塔後部に車長用の座椅子みたいのがあるの?
どれの事を言ってるのかわからんけど 開いたハッチに腰掛けてるだけじゃね? そんな写真なら俺も見たこと有るけど。
444 :
名無し三等兵 :2011/01/05(水) 17:04:11 ID:q6pXYHPX
>>414 の動画でシャールとソミュア、ルノー、オチキスの最近のやつ
これってフランスの戦車だけなの?他国の戦車では余りみないような気がする。
普通の戦車は砲塔の上にハッチ付けるからなあ。 この時期のフランスだけの特徴じゃね?
あの姿勢が取れるか?って事だったら ドイツのヤクパン・ヤク虎・キンタあたりは出来そうだな。 要は後ろにハッチがあればいい訳で。
仲間由紀恵が居る以外はSPでもなんでも無いなw
あ、誤射152mm榴弾砲級wゴメンw
後にハッチがあっても前方視界が取れる訳じゃないから、 まあ意味は違うだろうな。 たぶん色々と計算してあるよ。 座り心地を良くしながら視界や防弾も確保するような角度とか。
上面ハッチから首だけ出して周囲確認できれば、 砲塔後面のハッチから全身出して、頭を砲塔より上に上げて周囲確認しなくて良いからなぁ。
イスラエルが戦訓をもとに開発した、ハッチ全体をすこしだけ持ち上げた状態で固定、 それをヘルメットをかぶった感じに頭を出し周囲を直視できるタイプがベストだと思う。
ふと見ると、そこにはナグマホンの戦闘室を載せたチハが!!
>>455 この戦車、ボービントン戦車博物館だと戦間期の戦車と一緒に展示されてるから、
周りのヴィッカース軽戦車とかと比べて凄い浮いてるんだよなあ。
【イギリスの優先権90l】 1944年12月19日、近衛竜騎兵連隊(KDG)の先遣隊はギリシャ・ピレウスへ1隻のLSTで到着しました。 王国旗を翻した1隻のギリシャ曳船が先導して入港しましたが、 それはただ、共産主義者のギリシャ人民解放軍(ELAS)の1門の砲による砲撃をもたらしただけのことでした。 曳船は沖合いへと逃げ戻り、直ぐに1隻のギリシャ潜水艦が入港してELASの砲へ射撃しました。 LSTはそれから停泊し、ELASの如何なる干渉も受けずにKDG先遣隊を揚陸させたのでありました。 参謀は近衛竜騎兵連隊へ、ある広野を割り当てたのですが、 リンジィ大佐としてはそのような扱いを受けるとは思ってもみませんでした。 連隊はカラマキ飛行場端周辺にある、爆撃によって損傷した数軒の空き家へと移動しました。 翌日、KDGは2マイル南のグリファダの兵士宿舎へと移ります。 それは、ファリロンの近くでもありました。 ※44年12月初めのギリシャ軍事力配置 アテネ政府側:山岳旅団4000、神聖大隊500、都市警察3000、X隊1000 英軍:歩兵旅団3個(インド)9000、空挺旅団2000、機甲旅団1000、歩兵1000 ゲリラ:ギリシャ民族共和同盟(EDES)10000、ギリシャ人民解放軍(ELAS)50000
英軍からすると、全ての武装集団の機構が非常に疑わしく、政治団体に至っては更に怪しいものでした。 対立している軍はELASでしたが、これは実際には規律の行き届いた急進的な一団で、 ギリシャ共産党(KKE)の指導を受けていました。 彼らは如何なる制服も着用せず、主に密かな狙撃に依存し、構成員が誰だかは分からず、 その居場所が掴めない存在だったのです。 アテネには前線の類いはありませんでした。 KDGの周辺にも背後にもギリシャ人民解放軍は浸透していたからです。 日中の海からアテネへの目抜き通りは、装甲車だけにしか安全ではありませんでしたが、 夜間には、兵站車両の隊列が妨害されずに通り抜けていました。 多くの英軍施設はアテネ周辺で最も適切と思われる場所に位置していましたが、 内戦の最中の敵性地区で自身がどう判断されるかということは全く考慮外の選定でありました。 12月21日と22日、アテネ南東のイミトスの鋳造所に位置する王立電気機械技術工兵(REME)の作業所を、 KDGのB中隊は救援しました。 橋梁が1つ爆破され路上が封鎖されていましたが、結果的に3名のELASが殺され3名が捕虜となります。 しかし、240名の人員と130両の車両を安全地区へと連れて行くことになりました。 翌日、多くの哨戒が実施されます。 ドレル中尉はブーラへの哨戒で3名以上のゲリラを殺害し、3名を捕虜とした上に、彼らの本部1箇所を破壊したのでした。 他の哨戒隊は、チャーチル、イーデン、アレクサンダー元帥をアテネへと護衛しました。
ボクシング・デーの12月26日、ELASはカラマキ飛行場を襲撃します。 KDGの歩哨2名が負傷し、仕掛けられた爆薬によって装甲車1両が爆破され、 乗員3名全員が負傷しました。 バリとコロピのゲリラ根拠地へ哨戒が行われ、その結果として26日にダイムラー装甲車1両が爆破されます。 29日には2両のダイムラー装甲車と1両のダイムラー偵察車が爆破されました。 これらは幸いにも乗員は無傷でした。 12月31日、別の救援作戦が成功しました。 それは第50王立戦車連隊の120名の人員を安全地区に連れて行くもので、 彼らはアテネの東10マイルのパリニの通信所を部署としており、そこはアテネ-ロンドンを直結する唯一の局でした。 路上封鎖された数箇所が狙撃兵の銃火によってカバーされていましたが、 一掃した結果、14名のELASを殺害し3名を捕虜としたのでした。 戦闘は飢えた一般市民への食糧供給を完全に途絶させましたので、 各中隊は無料配給所を設置して、毎日1000食を提供します。 45年1月4日、ペリステリのELAS根拠地へ襲撃が行われ、 スピットファイアが機銃掃射で近接支援を与える間に、A中隊は路上封鎖を排して橋梁を無傷のまま確保しました。 C中隊が別の橋を占拠し、それからC&D中隊はペリステリへと突進します。 ELASの兵士はスピットファイアの容易い標的となり、丘陵へと逃走しました。 KDGは6台のトラック、44挺の小銃、500ポンドのダイナマイト、弾薬箱を鹵獲し、死傷者50の損害を与えたのでした。
1月初め、ELASはアテネから撤退します。 6日の払暁、KDGは第40王立戦車連隊の1個中隊、第2ベッドフォードシャー・アンド・ハートフォードシャー大隊、 支援隊と共に、アッティカ地方の全てのELASを一掃すべくテーバイへ向けて出立しました。 D中隊が先導し、エレウシス湾までは容易に到達します。 エレウシスでは道は土手道に沿って爆破されており、その地点は迫撃砲と小火器に監視されていました。 やがて、2個小隊が守備隊の背後への迂回路を発見し、何名かを殺害し8名を捕虜とします。 その2個小隊は工兵の路上修復を援護する為、戻りました。 D中隊は敵で一杯のアスプロピルグスへと移動し、これらを即座に丘へと追い払いました。 連隊残余はエレウシスへ入城しますが、四方八方から抵抗されます。 掃討は装甲車と戦車によって行われ、いくらかの捕虜を得ましたが、 歩兵による組織的な掃討は翌日に持ち越されました。 B中隊はマンドラとマゴラの村落の掃討へ派遣されましたが、そこで抵抗に遭いました。 第40王立戦車連隊からの1両のシャーマンが地雷で爆破され、B中隊の2個小隊の背後の道は封鎖されます。 暗くなってから彼らは脱出し、やって来た1両の戦車が擱座したシャーマンを牽引していきました。 リンジィ大佐は、夜間は部隊をエレウシス市外の小型飛行場で過ごさせることに決しました。 KDGの戦闘日誌では、ギリシャ作戦から超然としている米国への厭わしさが多く語られることになります。
1月7日、エレウシスを掃討すべく第3ギリシャ山岳旅団が到着しました。 そして、KDGのC中隊が先鋒となって英軍はテーバイへと前進します。 小山の多い土地を通行しましたが、最初の14マイルは何ら抵抗はありませんでした。 3個の支援小隊が高地を掃討している間に、尖兵小隊はオイノイの村でいくらかのELASを奇襲します。 この両方の行動は敵に死傷者を生じさせました。 更に半マイル進みましたが、そこの峠の入り口で道が爆破された上に、 エレウテラエの古い城砦の周囲の陣地から射撃を加えられ、部隊は停止しました。 天候の悪化にもかかわらず、RAFのスピットファイアは近接航空支援を与え、 全ての装甲車と戦車がコミュニストの陣地を射撃します。 ELASの兵士は多くの死傷者を出しましたが、大変勇敢に持ち堪えたのでした。 遂には日暮れ時となりましたので、リンジィ大佐は夜に備えてエレウシスへの撤収を決心し、 30名の捕虜を連れて戻りました。
1月8日14:00にテーバイへ入城したKDGですが、9日にアテネへの帰還命令を受け、 10日に宿舎のあるグリファダへ帰着します。 彼らはELASの470名を捕虜とし、222名を殺害し、車両9台、砲8門、機関銃10挺、小銃150挺、弾薬・爆薬75トン、 50~1000`の各種爆弾195個を鹵獲したのでした。 1月13日、連隊はグリファダからアテネ北東10マイルにあるキフィシアの素晴らしいリゾート地へと移動し、 各中隊にホテルが割り当てられました。 しかしその翌日、マカートニー少佐がアテネから戻って誰何された際、対応を誤って哨兵に撃たれます。 彼は負傷して死にました。 数日後には、連隊員のピックルがギリシャ哨兵に撃ち殺されます。 4月18日、近衛竜騎兵連隊はピレウス港で乗船してエジプトへ向かい、同月23日にカイロ郊外の野営地へ到着しました。 そして、5月23日にはエジプトを去り、シリアとレバノンへと自力走行で北上します。 そこでは、支配回復を目論むフランス当局と独立を求めて憤慨するアラブ人との間で騒動が生じており、 ギリシャ駐留時と同様な任務がKDGを待ち受けていたのでした。
朝鮮戦争に先駆けてこんな戦いがあったとは。 ドイツが降伏しても「俺たちの戦いはこれからだ!」って感じですね。
【疑わしきは全て】 ※1944年9月、イタリア・ゴシック線での緒戦です クィーンズ・ベイズ(第2近衛竜騎兵)のC中隊は、両側に深い溝のある進入路を通行中に困難な事態に陥りました。 左翼のジェンマーノ尾根と正面のクローチェからのドイツ対戦車砲兵による痛烈な射撃によって、 僅かしか前進出来なかったのです。 後方の連隊本部と無線連絡を保っていた戦車1両が撃破され、直ぐに更なる3両を喪失しました。 そして、C中隊がコリアーノへの曲がりくねった道を登った途端、 “ジャーマンバズーカ”(※後述も含め、恐らくパンツァーファウスト)がもう1両を破壊し、車長は戦死します。 他2両はスタートラインを越えるやいなや、部隊残部との連絡を失いました。 その道路沿いでの一連の出来事の戦訓を、中隊次席指揮官のマクベール大尉は後に想起します。 『……我々は何もかも悉く機関銃で掃射した ── 垣根、溝、家屋、干し草の山 ── 実際に、敵が隠れていたかもしれないあらゆる場所を。』 (この2両の戦車がある村落と出くわした際) 『浪費家の銃手が角の家の戸と下部の窓を機関銃で掃射している間に、榴弾をその家に撃ち込んだ。』 そして、戦車長がトミーガンで上部の窓を掃射したのです。 2両目の戦車の背後の溝から1人の“ジャーマンバズーカ”兵が飛び出しましたが、 中隊長のヒバート少佐は拳銃でこれを撃ち倒しました。 ※クィーンズ・ベイズ連隊の主装備は75mmシャーマンで、8月6日に南伊の野営地を出立して北上しましたが、 アンコーナの南約20マイルに達した際に、新型76mmシャーマン12両を交付されました。
これらの戦術は成功と判明しましたが、尾根の南頂上に位置するサン・サヴィーノ村の北で、 この2両の先導戦車は1両のW号戦車を通り越してしまったのです。 道路沿いの北縁で、ナーバス状態の英戦車兵は全方位からの射撃に曝されました。 『W号戦車が忍び寄るのが想像出来た…そして、背後から我々を驚愕させんと目論んでいることも。』 角を回ったところでマクベールの戦車は大胆にもW号戦車へと立ち向かうべく、全速後進したのでした。 ドイツ戦車兵が応じる前に、彼のシャーマンは15ヤードの距離で発砲します。 敵戦車は撃破され、その乗員は戦死しました。 それから、ヒバート少佐の戦車が被弾しましたが乗員は脱出します。 道は前後方向とも封鎖されていました。 この状況に味方の砲火までが覆い被さってきましたので、2両の戦車乗員は最善の策として退避したのでした。 敵戦線後方へ突出した彼らが味方の戦線へ帰り着けたのは、2日後のことでありました。 『我々の戦車は直撃弾を被ったと思われる。』マクベールは報告します。そして、2週間後に彼は戦死したのです。 その他の場所では、僅かに前進したか全くしなかったかのどちらかでした。 車両を喪失したヒバート少佐への増援としてA中隊が派遣されましたが、これも敵砲火で停止します。 右翼では第10軽騎兵連隊が猛烈な迫撃砲火に捕捉され、6名の戦車長が負傷しました。 多大な損害を被ったクィーンズ・ベイズ連隊は、残余をもってウェルド少佐指揮の1個混成中隊となりました。 連隊が得た捕虜の身元からすると、当面の敵は第26装甲師団と第29装甲擲弾兵師団でした。 又、コリアーノの陣地を保持する為に第1降下猟兵師団が来援したのでありました。
サン・サヴィーノを奪取せんと、第9槍騎兵連隊がクィーンズ・ベイズと第10軽騎兵の部署を通過しようとした際、 2両の戦車が雨裂で転覆し、何両かは丘の斜面で行動不能となりました。 そうしている間にも夜の帳が下り、その地を保持する為に歩兵が呼び出されます。 しかしながら、如何なる歩兵旅団も支援陣地内には存在しなかったのでした。 路上渋滞によって遅延した彼らは、遥か後方にいたからです。 翌朝、第9槍騎兵連隊B中隊(※戦車9両)がサン・サヴィーノを攻撃し、他2個中隊がその支援に当ります。 最初の内、彼らは歩兵の到着を待っていましたので、攻撃開始は予定の1時間後となりました。 前方からの砲火を避け、戦車は共同墓地の端へと到達しますが、 尾根終端の南に位置する村落の左手では、2両の戦車が途上で行動不能となったのでした。 厄介な狙撃兵と“ジャーマンバズーカ”兵から道路を保護する為、 モファット伍長は砲塔無しハニーのブローニング銃で路上掃射が出来るよう、巧みに車両を操縦します。 数分の後、ハニーは被弾して乗員は戦死しました。 戦車兵が喉から手が出るほど欲していた支援を与えるべく、第1王立ライフル兵団の歩兵小隊が到着しました。 “ジャーマンバズーカ”兵が戦車に忍び寄ると、ジープに搭乗した1人の砲兵観測員が砲火を導きます。 ドイツ兵は追い詰められましたが、引き続き数時間に渡って陣地を保持していました。 そして、英戦車は共同墓地一帯を確保したのでした。 クィーンズ・ベイズ、第9槍騎兵、第10軽騎兵は第2機甲旅団隷下で、同旅団は第1機甲師団に属していましたが、 英第8軍がゴシック線で14000名を失った結果、補充の問題から9月末には独立旅団となります。 クィーンズ・ベイズの損失は戦死が将校5・下士官兵18、行方不明が下士官兵5、負傷は将校6・下士官兵54でした。 9月18日にはベイズに補充人員が到着し始め、その数日後には戦車も新たに届きます。 そして、1個小隊当りの76mmシャーマンと75mmシャーマンの比率は1:2となったのでした。
【見果てぬ夢】
イタリア王国陸軍・第31戦闘工兵大隊元指揮官のドミニオーニは、後に回想します。
それは1942年7月10日のエル・アラメインに於ける、伊戦車部隊によるテル・エル・エイサ再奪取の企てについてでした。
攻撃部隊には第101歩兵師団“トリエステ”の第11戦車大隊第3中隊が選ばれました。
颯爽たる熱血漢のヴィットリオ・バルガレリ大尉によって中隊は指揮されます。
彼の19両の中戦車はマルサ・ハムラの岩山のもとへ一列縦隊で進むよう命じられました。
そして、岩山から目標のトリグ33の斜面迄、乾湖の底の平地を2マイルに渡って横切るわけです。
中隊が平地に姿を現すやいなや、豪州軍の6ポンド対戦車砲と25ポンド砲が射弾を雨あられと浴びせかけてきました。
湿気てはいるものの堅固な粗砂と塩の表層を履帯がしっかりと捉え、戦車は着実に前進します。
彼らは被弾を避けるべく激しくジグザグ走行し、徐々に近接しました。
数両の戦車が、丘からほぼ1マイルの地点で急停止させられます。
それから中隊は分離し、一団はワジにカバーされた進路で尾根を登るべく南へと向かいました。
その他は情け容赦無しに遮蔽物の無い平地を横切って、どんどん進んだのです。
○パオロ・カッチア・ドミニオーニ
ttp://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/immagini/caccia2.gif ○42年7月、テル・エル・エイサ。豪州第9師団の6ポンド対戦車砲
ttp://cas.awm.gov.au/item/041955
車体から火焔と煙を吐き出しながら、1両、又1両とイタリア戦車は撃破されていきます。
ただ1両が生き延び、孤独な身で狂ったように進みました。
それは走り上がって尾根へ到達し、頂を越えて反対斜面へと姿を消しました。
目標を越えた戦車と乗員は、豪州軍の前線背後で共に果てたのでした。
その車両のナンバープレートはRE3700で、4人の乗員の名は忘れ去られました。
結局、作戦参加した19両のM13&M14の内、17両が失われたのです(※2両は故障等で脱落したのかもしれません)。
語り部のドミニオーニは、1949年7月にRE3700ナンバーのM13/40を発見しました。
それは悲壮な突撃の終末点となった地雷原に未だ横たわっていたのです。
彼はその車両をトリグ33の記念碑に加工しました。
そして、その砲は見果てぬカイロの方角を今も指し続けているのです。
○エル・アラメイン、イタリア共同墓地のRE3700号車
ttp://preservedtanks.com/Handler.ashx?UniqueID=1156&Size=E
>>470 >○エル・アラメイン、イタリア共同墓地のRE3700号車
画像が観れませんね?
>>471 繋がったり繋がらなかったりで何か不安定なようです。
google画像検索でサムネは出てきますので、よろしければ下記ワードでの画像検索をお試し下さい。
『Italian Cemetery El Alamein M13』
※2枚目当りに出てきます(砲塔と車体上部だけが本物を流用といった車両の方です。後の方に出てくる足回りも本物の車両は違います)
>>464 スカウトカー装甲車との比較のために撃破されて(´・ω・`)カワイソス
>>469 乙
6ポンド砲と25ポンド砲は厳しいなあ。
泣ける話だ。
連投で申し訳ないが、ドイツの装甲車は防弾仕様じゃないバルーンタイやみたいだが 装甲車のタイやってキャタピラと比べて耐弾性はどうなの? 地雷に対しては、タイやの方が良いみたいだが
>>474 8輪車は重厚で独特の雰囲気があっていいね。カワイイのも好きだけど。
>>475 耐弾性は知らないけど、暑さによる破裂防止に砂漠地帯では停止時にタイヤに覆いを掛けるという記事は見たことあるなぁ。
>>477 なんか映画「遠すぎた橋」の機甲偵察指揮官を思い出した
英国の4輪装甲車の種類が多いのは何でだろう? ガイ装甲車、ダイムラー装甲車、ハンバー装甲車、AEC装甲車 スタッグハウンド装甲車、これにスカウトカーを入れると凄いよ。 米国みたいにグレイハウンド一本っという訳にはいかなかったのかな?
一本化しなきゃ→新たにコベントリー装甲車開発というのも素晴らしい
>>479 イギリスに限らずヨーロッパの場合はアメリカと比べて企業の統合や規格統一がそれほど進んでいなかった。
だからある種類の兵器が大量に必要になると、それぞれのメーカーの生産能力や技術力を考慮しつつ、
色々な兵器を開発する(或いは開発させる)ことになる。
英仏独の戦車開発をみると、結構メーカーの都合で似たような兵器が並行生産されている。
トラックもイタリア・日本を含めてその傾向がある。
アメリカみたいに部品の互換性が高かったり、メーカーの生産能力が高ければ、
M4みたいにバリエーションの範囲内に収まって別の兵器にはならない。
ソ連のT-34みたいに設計段階で製造工程に余裕を持たせれば、
メーカー(工場)の生産能力の差をそれほど考慮しなくてもよくなる。
大戦期のイギリスは航空機メーカーもやたら沢山あったよな。 専業、非専業含めてヴィッカース、デ・ハビランド、ブリストル ホーカー・シドレー、ボールトンポール、ハンドレイ・ページ、フェアリー等々 アメリカのビッグ3みたいな企業とは規模が違うけど どこもそれなりにレベルの高い成功作を生産してる。 戦車は意外と質的にも量的にも 「これがイギリスの主力にして代表作!」って物が無い気がする。
初期〜中期が、「マチルダ」「バレンタイン」「クルセーダー」「M3グラント」。中期〜後期が「チャーチル」「クロムウェル」「M4シャーマン」。装甲車と同じように複数の英国メーカー+米国だね。
それ以前の巡行戦車のA9、A10、A13、カヴェナンターといった有象無象も忘れないでください。
英国でまともな巡航戦車は「コメット」、まともな戦車は「センチュリオン」じゃない?しかしセンチュリオンの最高速度が35Kmというのは目をつぶってね。
WW2に限ればどっちも投入が遅すぎて大した役に立ってない。 一番使えたのはファイアフライだろうな。
>>484 TOGやヴァリアント、キャバリエにブラックプリンスといった有象無象も…。
大戦間のヴィッカースMkI/II・6tなんかは当時にしちゃ凄い出来なんだけどなあ。 フラーの計画1919を縦割り官僚制度が極端に目的別にしちゃったのが
生産数の多さでいけば「バレンタイン」なのかな。
ここまで俺の好きなアーチャーなし 後ろ向きだからダメですか、そうですか・・・
バレンタインの数が多いのは、ソ連向けの量産を続けたせい。 連中、クロムウェルの貸与を断ってバレンタインを希望してた程だったから。
P-39といいバレンタインといい、WW2ソ連の援助兵器に対する好みはいまいち理解出来ないところがあるな。 自分たちで作る兵器は解り易い傑作揃いなのにねえ。
>>492 いや、P-39は未だ理解出来るでしょ、アレには大口径機関砲
ついてるし、低空ではそれなりに良い性能が出るし。
ただ、バレンタインはねぇ。
機械的信頼性が好評だった、と言う記述を見たことは有るけど、
それ見た時はホントかよと思った。
イギリスの基礎工業力舐め過ぎなんでないかい
バレンタインってA10ベースだけどAナンバー付いてないんだな。 あと意外と手ごろにまとまったバレンタイン本が無い。 オスプレイのNew Vanguardからも出てないし。
バレンタインはエンジンが民間向けのバスやトラックにも使われてるような、安定したやつだから、当時の英国製にしてはトラブルが少ない。 ソ連軍も歩兵直協戦車として使ったわけだが、それまでのT-26よりずっと装甲も厚く頑丈だったし、その点で好評だったのなら納得。
バレンタインの生産数、英国6855台 カナダ1420台 ロシア向け英国製2394台、カナダ製1420台。マチルダUの生産数2890台
各形式の累計でおおよそ5万4千台のT-34を生産した ソ連にしてみれば結果的にはゴミみたいな台数だな。
そのうち43年までの大半を占めるT-34-76が何台生産されたのか出してみれ。
機械的信頼性が高い。 強力な武装。 航続距離が長い。 ロシア軍がP39を愛した理由は、沢山ありますね。 M4を物凄く信頼してたのは分かるとして、チャーチルもえらい大事に使ってる。 なんでだろ?
KVに匹敵する頑強な重戦車だったからじゃねーかなと。
バレンタインはソ連が一番ピンチだった1942年、南部に投入(イランルートで送られた)されて貴重な時間を稼いでくれたわけで。 太平洋では中高度で零戦にボコられたP-39も低空では本領を発揮。対地攻撃用どころかBf109やFw190相手に互角にやりあうエース達の乗機になっている。
バレンタインが供与され始めた41年暮れは、ようやくT-34が戦力化し始めた頃でまだT-26やBTもかなり残ってたからなぁ 戦力的には優れたT-34も居住性や信頼性は最悪だし、シャーマンの供与はまだで他の供与戦車といえばリー・グラントとかだから相対的にものすごくいい戦車に思えたとしても不思議は無い スチュアートも供与されててこっちも優秀そうに思えるけど、ガソリンエンジンだった点がソ連軍ではかなり問題だったらしい
ロシアの悪路では、チャーチルの複雑な足回りの整備がめんどくさそうだね。 悪路で苦労したはずなのに、1944年のフィンランド侵攻にまで持ってきてるから、よほど気に入ってたのか。
あんな幅の狭いキャタ履いたイギリス戦車が 雪のロシアの大地を機動する姿がどうしても想像出来んわ。 どこが好評だったんだか。
バレンタインは装甲厚の割りに20tにも満たない軽量さのおかげ(プラモで比べてみるとわかるがサイズもチハと大差ない)で、意外と雪中での機動性も悪く無く、ソ連側の報告でも履帯に滑り止めがあったらもっといい、とのこと。 また装甲板の材質が良く、ロシア製のように被弾時にホプキンソン効果で装甲板内壁が剥離して飛び散り、乗員を殺傷することもなかった。 だた2ポンド砲にせよ6ポンド砲にせよ徹甲弾しか用意されてないのは不評。
【へし折られた角】
伊軍戦史部によると42年6月30日時点で、中戦車の保有数をアリエテ師団は40両、トリエステ師団は30両としていますが、
7月3日朝の伊第20軍団の報告では、それらの走行可能車は15両とされていました。
この7月3日、ロンメル将軍は英第13軍団を分断すべく、
アリエテ機甲師団とトリエステ自動車化歩兵師団をアラム・ナイルへ送り込ませるよう、伊第20軍団へ命じます。
彼は払暁後の強行偵察によって敵陣地を確実に包囲するよう第20軍団に指示しましたが、
もしも、アリエテ師団がこの指示を受けとっていたとするのなら、師団は命令を遵守しなかったことになります。
そして又、アリエテ師団は敵と接触すべく移動した際、基本的な警戒対策を取らなかったのでした。
出発してまもなく、アリエテ師団の戦車は英第4機甲旅団と遭遇します。
第132砲兵連隊とその他部隊の約48門の砲からなる師団砲兵は、戦車から引き離されました。
○42年7月3日、アリエテ師団のルート
ttp://www.nzetc.org/etexts/WH2Egyp/WH2Egy25a.jpg
07:00数分過ぎに、その動きはアラム・ナイルのニュージーランド部隊から視認されました。 そして、07:15にはNZ砲兵中隊4個がその集結した敵主力へ砲門を開いたのです。 NZ砲兵の標的はアラム・ナイル北東約4マイルに位置していました。 アリエテ師団砲兵は応射しましたが、すぐにNZ砲兵中隊が優勢であることが明白となりました。 そこで直ちに、ウィアー准将は歩兵での近接戦闘による攻撃へ専念する為、NZ第2師団司令部を呼び出したのでした。 この時分、グレイ准将がNZ第4歩兵旅団残余と共にムナシブから移動しました。 彼の出発はアラム・ナイルからの報せによって早められ、NZ第19歩兵大隊が先頭に立ち、 予備には旅団護衛小隊が当り、最後尾には旅団司令部という配置で進みました。 アラム・ナイル東2.5マイルを通るHimeimat-Alamein道をグレイは選択しました。 道伝いに3マイル進み、偵察隊は約4マイル北に敵が存在することを察知します。 NZ第19歩兵大隊はA中隊が前衛、B中隊が右、D中隊が左後方、キャリアが警戒幕といった構成で、 奇襲を掛けるべく3マイルを最高速度で走行しました。
スチュアート大尉指揮下のキャリア隊が最初にイタリア部隊と接触します。 それは主力のもとへ赴こうとする車両の小グループでした。 攻撃は敵兵が士気阻喪する程に迅速で、紙片か白い布切れが打ち振られます。 そして、今や銃剣を装着して徒歩で進撃するNZ歩兵の前にイタリア投降兵はやって来たのでした。 捕虜を捌いた後、最初に到着したNZ歩兵達は鹵獲車両の側で停止しました。 敵主力からの激しい砲火によって釘付けとなったからで、キャリア隊はその旨を報告し、支援要請します。 すぐ後ろにD中隊を従えたA中隊が、主要な敵抵抗拠点の東南東約900ヤードに位置する低い尾根へと移動しました。 今やイタリア兵は、機関銃や迫撃砲と共に激しく射撃していました。 NZ第2機関銃中隊の小隊が制圧を試みます。 敵側面へと移動する中隊の頭越しに1個班が射撃を加え、他は南から支援射撃を行ないました。 大隊の3インチ迫撃砲と4門の2ポンド砲も又、前方へと持ち込まれます。 イタリア砲側員を妨害する小火器射撃による支援を受けながら、敵との交戦は行われました。 3両のイタリア戦車は後退した途端、2ポンド砲と交戦する羽目に陥りました。 支援砲火の展開に伴って、A&D中隊は尾根を越えて前進し、敵砲火に曝されながらも斜面を下ります。 南からはB中隊が出現し、アリエテ師団の抵抗は崩壊しました。
>>510 >“アリエテは敵に対して真剣な抵抗を示さず、撤退は迅速”
うわあ・・・
イタリア軍って奴は・・・
>>511 まあ第2次大戦は参戦前から戦意が最低っていうやばい状態だからね。
エチオピア戦争やスペイン内戦介入で国が傾いて国民が厭戦気分だったのに、
ドイツのフランス電撃戦見てそれまでは軍や政財界の意見聞いてたドゥーチェの欲望と焦りが理性をわずかに上回ってしまった。
そこから先はお察しください。
伊軍は機甲系の部隊をわりかし拡充してるけど よく戦車兵の教育が間に合ったもんだと思う。
イタリアのロシア派遣部隊は勝っている時は強いですけど、負けだすと・・・
はぁ?小土星作戦以後もちゃんと粘って戦ってただろ さっさと逃げ出したのはルーマニア軍やハンガリー軍で、イタリア軍は両軍が撤退した後の穴を突かれて包囲されかけたから撤退したんだよ それでも山岳軍は粘り強く戦ったし、包囲網突破に成功した部隊もあった
ルーマニア軍は景気が良い話は無いですね。 第一次大戦といい、第二次大戦といい、異常に死傷者数が多い。
位置がわるいからなあ。 WWIではどうにか勝ち組にのれて領土拡張できたけど… WWIIで回り全部枢軸。ロシアは共産化という状態になっちゃったからなあ。 しかもハンガリーとブルガリアとソ連に領土とられるし。 失地回復狙ってバルバロッサについて逝ったらご覧のありさまだよ。 もっとも、うまいタイミングでソ連に寝返れたから、 ハンガリーとブルガリアに取られた領土は回復できたけどね。
すまん、変な風になった(^^;
ルーマニアだS-IIaとかR-1とかTKHのプラガ系とルノーR35か。 と思ったら3、4号供給されてるのね
P.43量産の暁には
三式改や五式もたいして変わらんよ。
>>524 確かにスペックは計画予定値でしかないが・・・・
注目すべきはデザインだな、丸みを残したM13系列のシルエットと比べると
P.26より更に洗練されたシルエットになっている
傾斜装甲を多用した砲塔は低く、履帯幅は広い
WW2後期のイタリア戦車はT-34ショックの影響をかなり受けているようだな
>>524 少なくともそれを可能にする砲・装甲・機関はあった…
チト・チリ・チヌ改の場合砲が試作試験中というのが一番の癌
522って、どこの国が作った動画だろ?戦車長がリボルバーの拳銃持ってたり、手榴弾がポテトクラッシャーじゃなかったりと 少し変。
投稿者がドイツの訓練用映像と書き込んでるね 押収した後、英語音声を後で重ねたんでしょう あとは信号拳銃とEihGr39卵型手榴弾
回答ありがとうございます。信号拳銃って殺傷能力あるのかな。後部ハッチってフランス戦車だけかと思ったら、パンサーにもあるんだね。
>>526-527 実際45tあったパンターの例を見ても
>>524 のリンクに書いてあるスペックをクリアして
「30t」に納めるのは夢みたいな話だと思うぞ。
そういう事じゃないのか?
重量を問題視したいなら、スペックを列挙して最後に 「これで重量は30tかw」などと強調するだろうフツーは。
俺は言葉の順序じゃなくてリンクを見て言ってるのだが 実際の話、無理っぽいじゃんかw
>>531 パンターよりは若干小柄だし、40t以下になら収められたかもね
まぁ計画車両である以上30tジャストではなく30t級という意味だったのかも試練
>>533 何をどう思っての無理なんだ?
重量の問題を抜きにすれば、当時のイタリアの技術なら造るのは可能だろう。大量生産はできそうにないが
なんで都合良く「抜きにして」語らなきゃならんのよ? じゃあ何でも有りじゃんかw
必死だなぁ 力抜けよ
必死?何に?おまえがじゃね?俺は冷笑しながら書いてるけどw
ちょっと追い詰められると すぐ必死だの顔真っ赤だの言い出すバカって 軍板にも居るのねwww
なんか意思疎通のノウハウを学べなかった人がいますね。
しかも本人は意識出来てないよな。
このスペックを30tに収めるのは無理って所には同意するが 他の部分は技術的に可能だろうという意味で言ったんだ と真面目に返すのもあほらしいが・・・・ 急に変なの湧いたな
だから、それを30tに納めるのも「技術」だろ。 何でそこだけ都合よく無視して語りたがるのかって意味だよ。 自己矛盾に陥ってるぞw 真面目なだけにバカっぽい。
添削してあげるよ。
531の段階で例えば
・文例
>>526-527 パンターの重量が45tになっちゃった事を考えると
>>524 のリンクに書いてあるスペックを実現するのは
30tでは無理じゃあないだろうか?
こういう風に書いておけば、まず間違いなく同意の言葉を得られただろう。
過去のレスの代弁という形をとるより自分の意見を表す事を心がけよう。
技術のって部分の解釈が両者間でずれてんだよ 戦車全体に対して使用してるのと 砲、装甲、動力等に対して使用しているの 個々の開発は可能だが、総合すると計画値どおりにはならないって だけの話でなんでそこまで話をこじれさせることができるのか つーか実車が計画値より重くなったり、開発中に重量増えていくなんて他国でも良くある話だろ
スペックが数値で並んでるだけで、ちょっとでも物を知ってれば 導き出せる帰結だと思うが、言葉の順序にこだわって 難癖つけるバカが沸いて叩かれて 引っ込み付かなくなっただけじゃん。 アホくさ
ついでに 俺は言葉の順序じゃなくてリンクを見て言ってるのだが 実際の話、無理っぽいじゃんかw これも添削してやってよ
>30t 420ps 40km/h >前面装甲80から100mm 側面50mm >主砲は75mmまたは90mmか・・・ これだけのデータしかないんだろ 個々になら可能に決まってるじゃん たったそれだけの事を主張するのに 何を頑張ってるんだか。 纏め上げるのが「技術」ってもんだ。 バカみたいw
暴れてんのは
>>524 で順番云々いってるのとは別じゃね?
重量を問題視したいなら、スペックを列挙して最後に 「これで重量は30tかw」などと強調するだろうフツーは。 ・これに対する答えとして 俺は言葉の順序じゃなくてリンクを見て言ってるのだが 実際の話、無理っぽいじゃんかw ・問題点は重量じゃないというように答えているのに これだけのデータしかないんだろ 個々になら可能に決まってるじゃん たったそれだけの事を主張するのに 何を頑張ってるんだか。 纏め上げるのが「技術」ってもんだ。 バカみたいw ・最終的な答えがこれである
>>547 はなっから、言葉足らずでしたと謝ればいいものを・・・・・・
伸びてると思ったら何やってんのよ…
イタリア軍スレからパルチザンが出張してきたんでねぇの
良スレが火病一人で……
一人で一行連投してる子は見えないわからないと思ってやってるのかな? こう言う手合いはどっちにしても自分の捨て台詞で終わってないと 勝った気になれない、よく居る阿呆だから相手にする奴が負け。
俺は
>>551 だけだがな
他の一行は一人かどうかはしらんが
556 :
553 :2011/01/14(金) 18:23:50 ID:???
些細な事でこんなに荒れるとは・・・
清涼剤のつもりで挙げたのに、荒れる火種になってしまったみたいで
なんかごめん
因みに重量約26tのP.26/40とP.43を比較した場合
【P.26/40】 【P.43】
全長:5.8m 5.15m
全幅:2.8m 3.14m
全高:2.52m 2.24m
最大装甲厚:60mm 80〜100mm
流石に30tジャストに収めるのは無理だろうが、最大装甲が80mmで主砲がP.26と同じ75/34の場合
40t以下に抑えることはできそうだ(それでもギリギリの数値だろうけれど)
最大装甲100mmとか砲塔を拡大した90/53砲搭載のP.43bisの場合は40t超えそう
>>558 海外の有名な模型サイトに投稿されたものらしい
サイト名は忘れてしまったが、今でも閲覧できるみたいよ
>>561 前に誰かがレスしてたけど、洗練されたシルエットだね
伸びてると思って見に来たらこの有様かいな。 平日の昼間から無駄に熱いのが居るんだな。
逆に考えるんだ。 平日の昼間だからこそ無駄に熱い奴がいると
>>565 M11/13は整備が大変そうな防循だなあ。
P.43はものすごくT34の影響受けているなw セレラ・サハリアノ快速中戦車を量産すればよかったのに
>>566 ギリシアの山岳地帯で随分な損害を出したって話は聞いたことあるけど、
えらいとこまで戦車を引っ張ってたんだなぁ。
イタリアの戦車って山岳考えてたんだっけ。
>>569 イタリアは山岳地帯だから豆戦車以上の運用はできない!
っていう言説が戦前は強かった。
ところがスペイン内戦でCV33がほとんど活躍できなかったのに、
ソ連のT-26やCV33と一緒に送った試作8t中戦車が抜群の働き。
それで中戦車作らんとやばいってことでM11以降が出てくるんだが、
いかんせん工業力が限界に…。
>>569 一つ、
イタリアの戦車が軽量なのは、国境、国内両方に山が多いというのが一因である
狭い山間の道を進むのに大型の戦車は不都合であった
二つ、
国内のインフラの整備がまだまだ徹底されていなかった
ムッソリーニ政権では幹線道路アウトストラーダの設置や鉄道の電化が急速に進められたが
そうしたインフラ整備は大都市間を結ぶものが優先されていた為、南部の田舎では道や橋の作りが脆弱で
大型の戦車の運用に耐えられないと考えられていた
三つ、
イタリアは長細い国土を持つが故に、国内全域に戦車を配備するのは財政的な問題も含めて難しい
上記の脆弱なインフラの影響もあり、イタリア軍では戦車や大型の砲をトラックに積載して
戦場まで運ぶという方法がとられていた。当然戦車が小型で軽い方が都合がいい
因みに現在のイタリア軍でも地理的、財政的問題から北は戦車、南には装甲車部隊が中心となって配備されている
四つ、
工業力と財政的な事情から。上記と少しかぶる部分もあるがご容赦を・・・・
懐事情がけして良いとは言えず、工業的にも未熟なイタリアが戦車を大量に導入するには、小型で機構が単純な豆戦車の方が都合が良かった
WW2のイメージからは想像が難しいかもしれないが、ムッソリーニ政権では当初軍拡が進められていた
これは『一流の軍隊を持っていなければ一流の国家とは言えない』『殴られた時殴り返す力があって初めて対等な外交が成立する』という彼の政治観も影響している
で、取り合えず大量の戦車を所持しているという形だけでも整える為に、安価で量産しやすいカッロベローチェ型戦車が主力として採用された
五つ、
イタリアはWW2前のエチオピア侵攻とスペイン内乱への介入で国庫を大量に消費しており装備の更新が滞っていた
イタリア軍の装備を見ていると、1930年代中盤辺りで行進の止まっている装備が多い
戦車以外にも小銃や機銃、大砲、航空機や艦艇もまた例外ではない
特に、イタリア軍では空軍、海軍が陸軍よりも優先されがちだった為に余計に更新が遅れている
三方が海で一方が山という国土事情と、戦間期における主な戦闘がリビアやエチオピアといった植民地における対ゲリラ戦であったことも優先順に影響している
M13/40について書いたもの見ると散々だな。 鋼板を曲面に曲げてリベット接合する砲塔は生産性が悪く 板バネが露出したサスペンションは華奢で走行性能が劣り 2つしかないハッチは乗員が順番に乗り込まねばならず 緊急脱出も困難でしばしばいたずらに犠牲を増やし 英軍戦車には威力不足の主砲はドイツのそれと比較して照準精度も決して高くない ベンチレータの無い砲塔は交戦中でもハッチを開け放しておかないと 連続射撃を困難なものにした〜等々 後になってドイツ軍が運用したP-40とかの評判はどうだったんだろう?
とは言え、イタリア軍も豆戦車以上の戦車の必要性を痛感
スペイン内戦時の教訓からM11/39の開発を進め
世界的な軽戦車開発の流れにあわせてL6/40の開発を進めていた
M11はアンサルド社が1929年頃から英国戦車を参考に開発していた12t級試作戦車をベースに開発が進み
39年に採用された
『主砲である40口径37mm砲は当時としては高い対戦車戦闘能力を有していたが、車体の固定砲塔に搭載されており実用性が低い』と貶す
資料が多くあるが、イタリア軍部もそうしたM11の問題点を十分に理解していた
しかし、新たな中型戦車(後のM13/40)開発までの繋ぎが必要であった為M11の暫定的な配備を決定した
それ故M11の生産期間は39年〜40年の短い期間で生産数も100輌程度であった
アンサルド社は1936年に三種類の5t級試作戦車が製作。この内3号車を改良したものが6t級試作車輌は各種試験を経て
翌年L6/40として採用された
1940年に陸軍から583輌が発注を受けるも、WW2参戦後の逼迫した状況からL6と同じ型の20mm機関砲搭載で
戦車よりも生産性が高く安価なAB装甲車の生産が優先された為、本格的な配備は翌年までずれ込んだ
そしてその頃には急速に発展した各国戦車の性能と比較して力不足となっていた
結局量産数は283輌に留まり、キャンセル分は自走砲L40 47/32に改造されたりM41 90/53用弾薬運搬車のベースとなっている
>>567 何故だかわからないが内防盾が露出しているというのがイタリア軍戦車、自走砲の特徴でもあったりする
稼動部分が敵の小銃弾を噛んでしまい不具合を起こしやすいとか
>>568 当時はP.26の開発が平行して行われていたし、他にも自走砲や装甲車の開発があったからキャパ越えで開発計画は中止されました
>>573 確かにそうした問題点はあるが、イタリア軍を散々にしか書いていない日本の資料は短所を過大に長所を過小に書くか
長所自体を書いていないってのが大部分だから頭っから信じない方がいいよ
ていうか、換気の問題は砲塔外して車体に18口径75mm砲載せたセモベンテの資料でよく見るが、M13も同様だったという話は初めて聞いたぞ
良ければどこの出典か教えてくれ
おれ個人としては、M13/40は当時のイタリアの事情にマッチしていたという意味において優秀な戦車だと思っている 確かにハッチが二つしかなく、車内も狭い為住居性が悪かったし、リベット留め装甲は溶接装甲に比べれば脆かった エンジン出力はM11より若干向上しているが、それでも出力不足で最大速度は31.8km/hしか出なかった M11と同じ足回りは砂漠での高速移動時に履帯が外れ易いという欠点があった そもそも履帯幅が狭いイタリア戦車は、砂漠では履帯が砂に埋まり易かった 当初は砂漠用装備である防砂フィルターの搭載が間に合っていなかったのでマシントラブルが続出した
しかしだ、主砲である32口径47mm砲は当時としては優秀な対戦車戦闘能力を持っていたし これを搭載した砲塔はイタリア初の油圧駆動式全周旋回砲塔で、手動による旋回も可能としていた 装甲はリベット留めながら車体前面30mm、砲塔前面40mmと当時の世界標準クラスだった なぜリベット留め装甲だったのかと言えば、工業面の遅れから電気溶接工の数が不足しており、 国内での大量生産にはむしろリベット留めの方が向いていたからだ またリベット留めは破損時にバーツ毎に交換可能という経済的に優れた面もあった。これは懐事情の厳しい イタリア軍にとっては重要な要素だ 足回りの設計をM11から流用したことは開発期間短縮に大いに寄与した ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも出力が低く複雑な構造をしているが燃費が良く 破壊されても炎上し難いという特徴もあった 砂漠で見られた多くのマシントラブルも本国やその周辺地域で運用する分には幾分かマシだったはずである 何よりも注目すべきはその開発から戦線投入までの早さである 1938年からM11の最終開発と平行して開発が行われ、イタリア参戦後の40年7月には生産が開始されている この様にM13は当時のイタリア軍の事情にマッチしたベスト・・・とは言わないがベターな選択の上に成り立っていると考えられる 良くイタリア軍の戦車開発は後手に回っていると言われているが、よくよく見れば、その時々に必要とされるスペックを最低限に 満たした戦車を開発し、投入しているとも受け取れる 自国産戦車での対抗が難しいわかると生産がキャンセルされた車体に既存の砲やそれを改造した砲を載せて自走砲として運用するなど 変に適応性が高いのもイタリアの戦闘車両の面白いところだと思う
>>578 イタリアへ帰還できた兵士たちは喜んだでしょうね。
581 :
573 :2011/01/16(日) 13:43:42 ID:???
>>575 手元にあるのはグランパ・PANZER・グラフィックアクション
その辺のどれかで見た記憶だな。
何冊もあるんで何号の何ページまではちょっと。
ベンチレータが無くて不評云々って記述は
手近なとこだとタミヤのプラモのインスト解説にも載ってるよ。
旧キットの方な。
ベンチレーターが無いのは日本軍戦車も同じだが、そっちは大丈夫だったんだろうか? 両軍の戦車共に、エンジンに付いてるファンが戦闘室の方から空気を吸い込んで換気する(イタリア戦車のプラモを見ると、戦闘室と機関室の仕切りに金網の部分がある)らしいが。
>>582 旧軍戦車も苦労しているよ。
精神力でどうにかなるレベルじゃなかったため、戦闘中ですらハッチを開けていたとかいう話もあるし。
>>578 騎手がいない騎馬が哀愁を誘うなあ。
しかしイタリア他南方にいた同盟軍諸国軍に比べると、
ほぼ同じ時期を北部戦線で過ごしたスペインの青師団は
比較的無事に帰ってきてるな。
>>582 確か『戦車隊よもやま話』だった気がするんだが、
操縦席のあたりは空気が滞留するんで大変だったらしい。
一応煙で空気の流れを調べるとかはやっていたみたいだから、
何も考えてなかったわけじゃないと思うんだけど、
上の方は
>>582 で満足してたのかねえ。
「戦車隊よもやま物語」という本に、 主砲で無く機関銃の連射で、機銃手が酸欠起こしたエピソードがあった。 エンジン切って長時間停車して戦闘していたため起きたようで、 あわててエンジン始動して換気をしたら、意識が戻ったそうだ。
>>583 、584、585
なるほど、やはり不十分でしたか。
レンドリースで供与されたM3A2シャーマンに乗っいてたロシア戦車兵の話。二基のパワフルなエンジンのファンにより通気が良過ぎて、
冬はヒーターが効かないくらい寒く、同時に毛皮のつなぎも支給してくれたのも納得、だったそうな。
M3もM4も車内は広いから、寒いでしょうね。 車内で焚き火でもしそうな気がする・・・ロシアなら・・・
イタリア戦車についてありがとう。 良い週末が送れたよ。
やっぱ初期T-34とかBTとかだろうか。>ペリスコープ
バレンタインとかクルセイダーとかイギリス戦車にもよくあるし、スチュアートみたいに初期にはキューポラがあったのに廃止した例もある。 イギリス軍軽戦車のキューポラは装甲が薄く、直撃弾で車長の首が持ってかれるので廃止。
自分で識別できるようになると楽しいぞ。
ルーマニア軍に撃破されたソ連軍の第563独立戦車大隊
>○ナッジ軍の2両のイタリア“タンク”。トラクターから改造 これが良いですね。 ロシアのオデッサ戦車みたいだ。
>>594 前進するM13/40壮観だね
関連動画も面白いのがあるなぁ
シャールB1bisの写真集買ったんだが、あれハンドル操行なんだな。 固定砲だからきちんと配慮されてるわけか。
ドイツの虎1とかもハンドルだっけ? パンターやT34は左右のレバー操行かな。 戦車はどっちが多数派なんだろ。 俺は重機も動かすんだけど左右二本のレバーに慣れちゃうと あれがハンドルなんて考えられないわw
>>594 34秒辺り、手前に並んでるのはL40自走砲
54秒辺りの戦車はM13/40サイドフェンダーの形から第2生産グループ以降か?
ただ一部第一生産グループと思しき形もあるが画質の問題もあり判別は難しい
1分9秒から写っている機銃はブレダM30軽機銃
1分30秒の小型の砲はおそらく32口径47mm砲
2分10秒頃から写っているM13も第2生産グループ以降。時期的に見て第3生産グループの可能性も
2分55秒の重機関銃はフィアットM14/35?
3分6秒に81mm迫撃砲
3分10秒からの大砲も47mm砲と思われる
3分32秒の短機関銃はベレッタM38A
3分44秒の大砲は37口径152mm砲だろう
4分38秒のアルピーニがシュワローゼM07/12らしき重機銃を背負っている
間違いもあるかも試練が、こんな感じかな?
航空機はスレチなので今回は見送る
>>594 34秒辺り、手前に並んでるのはL40自走砲
54秒辺りの戦車はM13/40サイドフェンダーの形から第2生産グループ以降か?
ただ一部第一生産グループと思しき形もあるが画質の問題もあり判別は難しい
1分9秒から写っている機銃はブレダM30軽機銃
1分30秒の小型の砲はおそらく32口径47mm砲
2分10秒頃から写っているM13も第2生産グループ以降。時期的に見て第3生産グループの可能性も
2分55秒の重機関銃はフィアットM14/35?
3分6秒に81mm迫撃砲
3分10秒からの大砲も47mm砲と思われる
3分32秒の短機関銃はベレッタM38A
3分44秒の大砲は37口径152mm砲だろう
4分38秒のアルピーニがシュワローゼM07/12らしき重機銃を背負っている
間違いもあるかも試練が、こんな感じかな?
航空機はスレチなので今回は見送る
ブルドーザーみたいにレバーで曲がりたい方向のブレーキをかけるのは旧式戦車。超信地旋回なんて構造上不可能。 ステアリングで操作できる方が運転が容易で操行装置が高度。ティーガーとかチャーチル、クロムウェル、コメットなどのブラウンメリット式操行装置は大戦中には先進的だった。 現代では大抵の戦車はオートマになってるが、ロシア戦車は相変わらず左右のレバーでそれぞれの履帯を操作するものが多い。
>601と>602は何が違うの?
ページ更新しても書き込みが反映されなくて、もう一度送りなおしたらこの様だよ 言わせんな恥ずかしい! ・・・・・・・ほんとに恥ずかしい
601を読んだら、昔サンケイ何チャラが出していた赤本の「拳銃・小銃・機関銃」に、イタリアの小銃と機関銃は最悪で、評価できるのは拳銃と短機関銃ぐらいと書いてあったのを思い出した。 最悪の理由は、口径変更の真っ最中に戦争突入→複数の弾薬・口径の存在。6.5ミリは威力不足。 機関銃にオイルポンプがありオイル漏れが激しい。最後のは記憶があやふやなため間違っているかも・
その本だと日本の機関銃の評価も同様に低いよな。
608 :
名無し三等兵 :2011/01/20(木) 20:14:18 ID:OGHb9zox
>>607 十一年式軽機関銃も単発機関銃とか呼ばれていて、肝心なときに弾が出ずに分隊全滅なんてこともあったそうな。
>>603 流石ブリテン様∩(・ω・)∩
確かプリセレクタ方式という紳士の香りただよう仕様だったと記憶している。
ルノーBは戦前で無段階変速可能な流体継ぎ手型オーバーラップ式変速機付き 開発話知りたいなあ
そうだ!俺良い事思いついた! やっぱ大馬力をスムースに伝達するクラッチやミッションを作るのって 大変だから、戦車はモーターで駆動すればいいんじゃね(・∀・)?
いやいや 原子炉積んで蒸気タービンのほうがもっといいよ
ドイツに帰れwww
電気モーターったらサン・シャモン突撃戦車とかFCM2Cとかだろ
電源はどうすんだよ。 バッテリーでも積むの?
>>599 そんな本があることに驚いた。
>>606 『雪の中の軍曹』読む限りブレダの重機は良い鉄砲の様だったけど。
SMGが良いのはこれにも書いてあった。主人公の愛銃(でもパクられる)
>>614 現代のハイブリッドカーに先駆けたガスエレクトリック、ディーゼルエレクトリック駆動を知らんのか?
グロッテが1931年に提案した1000t戦車、らしい。 (GP別冊ソビエト・ロシア戦闘車輌大系(上)より)
>>617 ちょっと笑った。
何だよこの戦艦w
怪獣映画か?
>>606 エチオピア侵攻やスペイン内乱への介入で小銃弾の更新が間に合わんかったんやな。悲劇なんやな
だから大戦中は小銃と軽機は6.5mm弾を再生産して通したんだ
カルカノは長距離での安定性や威力は7.35mm弾に劣るが、反動が軽いことから有効射程内では命中率は良かったんだと
ブレダM30に関しては擁護の仕様がない
作りが脆い上に構造が複雑だ。装填作業は見たことあるがやたら面倒そうだったw
・マガジンフォロワーのレバーを引いてから、右側に横向きに取り付けられた直型弾倉を根元から前方へ折って弾倉を開く
・取っ手付きの保弾板を弾倉に差込み、取っ手を外してから弾倉を閉じる
・射撃を始めると保弾板が左側へスライドしていく
・全て撃ち終わるとレバー操作で保弾板を右の弾倉内へ戻すフォロワーレバーを引いてから弾倉を開け、保弾板を取り替える
兵からも嫌われており、鹵獲したブレン軽機関銃を使用していた部隊もあった
RSI軍ではMGを支給されていた部隊も多い
M37重機関銃は構造がM30に近いが、保弾板は装填した反対側から排出される為少しは使いやすかったようだ
一連射で弾切れになるから、装填手が大変そうだけれど・・・・・
射程や威力、銃身の廃熱などはそれなりのもので、終戦後も生産が続けられている
素人考えではベレッタにやりゃせりゃ良かったんじゃないかと思うんだがなぁ・・・・・・
M30に関しては、こんな面倒臭い作りになったのは車載機銃としても使用可能なよう考えられた結果だという話がある
狭い車内に大量の薬莢がばら撒かれると、兵が怪我したりマシントラブルの原因になるからだとか
M37は採用時期が7年ずれている上に車載型もあるからようわからん
※イタリア陸軍の装備解説
ttp://www.youtube.com/watch?v=K5idhmYZcF4&feature=related
>>622 T35はドイツのマウスあたりと比較するとまだ小さいよな。
まあ比べてどうって話じゃないけど。
馬鹿でかいけど装甲は大戦初期の水準だからペラペラで
全長が長いから旋回半径も大きく、いい的だったようだ。
その写真もそうだけど、パレード以外はドイツ軍にやられて
でかいのやっつけたぜ♪って感じの記念写真ばっかり。
よくそんなもん量産したわ。
ドイツの多砲塔戦車も見た目はごっついのにKVだかにイチコロで殺られて赤軍戦車兵が ( ゚д゚)ポカーン ってなったらしいな。
T35はパレード向けだね。 あれが次から次へと赤の広場を疾走する。 さぞ、見物だったろう。
ドイツ軍唯一の多砲塔戦車であるNbfzも 見た目は大変に強そうだけど、 ペラペラでちょっと実戦に出せる代物じゃない。 後方占領地でのプロバガンダや現地軍の士気を鼓舞する時 「演説の台」として活躍したらしいw 何を間違ったか東部戦線で前線に出された実車が 一撃で粉々にされたのは周知の話。
いわゆる「5号戦車(仮)」ね 英仏が多少ビビってたな まだほんのちょっとしかいない火炎放射戦車にもビビってたし あとジークフリート線とか謎の殺人光線とかハッタリは立派なドイツの武器だ
パウル カレルのバルバロッサ作戦文庫本に、 作戦開始当初、南方軍集団の部隊がT-35が出たってウワサでパニック起こしたなんてあったぞ。 戦前の宣伝が効いてる。
パンフロのタクティクスモードに 一個だけT35が出てくる話が有るけど いっつも真っ先にショボい対戦車砲にやられて クソの役にも立ってくれないな。
赤い星は浪漫だよ同志。
大戦期の戦車の開発と量産で一番凄かったのは 赤い星の人たちかも知れんな。 T28、T35、T100、SMKとかアホな物を実現しちゃうかと思えば 斬新で合理的なT34を大量生産。 ドイツが人気だけど、戦車の開発は結構訳のわかんない迷走してるんだよな。
実戦投入前にT-34の性能を疑問視してた奴も結構いたみたいだしね
>>632 T-28程度ならイギリスもやってる(初期の巡航戦車)からそこまでアホではないと思う。
とT-28を全力擁護。
実際当時の技術を集めた優秀な戦車だったと思うんだが…。
T-35と違ってある程度の改造までなら耐えられたし。
T28は多砲塔戦車として良くまとまってますね。 ドイツ軍は捕獲したT28はほとんど使ってなかったみたい。 例によってフィンランド軍は愛用してますけどね。
T28のスペックは大戦初期の物としては凄いと思う。 後付で色々な主力戦車と比べたら、そりゃショボいさ。 主砲も短くて威力は無いし、たかだか7.62mmDT1挺の為に 独立した銃塔なんていらないよ。 バカでかいのに30tを切る重量は装甲の薄さゆえだし 車高も高杉。 戦車を大量に動員して突破を図ろうなんて戦術さえ 無かった頃のコンセプトだもん。 スオメンは鹵獲した5台のT28を偉く気に入って 1950年代まで大事に使ってたらしいなw
主砲、装甲ともに日本の戦車より上だし機銃も砲塔を旋回しないと使えないよりは常に使えた方がいいなw
戦術や練度も大きいだろうな。 ドイツの電撃戦初期の主力だった2号・3号・35t・38t あたりは日本の戦車とスペックで大差無い。 逆にそれよりずっと重装甲なフランスの戦車や BTやKVを持つ赤軍は押しまくられてた訳だし。
T-28はスッペクよりも装甲の加工技術を見てあげるべき。
>>638 本気でそう思ってるなら砲の性能を比べてみることをお勧めする
第一次大戦以来ずっと継続的に運用されてきたフランスの戦車隊が ナチの軍拡以降の歴史しかないドイツの戦車隊に全体的な単純な錬度で負けてるわけ無いだろ 優れてるのは戦術運用だけだよ もちろん独ソ戦ではドイツの方が上だけど
「負けてるわけ無い」と思うのは勝手だが、それは実際に資料で確認してからの書き込みなのかな?
一度の実戦は100回の訓練に勝るなんて言い回しは よく聞くけどな。
普通なら訓練期間が長い方が錬度も高いはずだが訓練内容そのものに問題があった場合はそうとも限らんなぁ
パイロットの錬度も戦車兵の錬度もドイツが劣っている それは歴史から常識的に考えれば明らかなことで妙な伝説に騙されてる連中以外はみんな認めてるだろ
つまり資料で確認はしてない、と。
大体どういう資料だよ 錬度は数値化できるもんじゃないだろ 抽象的な比較しか出来ない で、常識的に言えば継続的な訓練の出来ている側が有利なのは当たり前 教育の土台はしっかりしているいないはとても重要 ドイツのパイロットは戦前の急ごしらえな訓練の事故でかなり犠牲が出来たのは電撃戦の幻とかに書いてあるね
だから「フランス軍兵士の練度は同時期のドイツ兵に劣るものではなかった」と具体的に語られ、訓練の様子が書かれた資料だよ。パイロットなら平均飛行時間とかな。
フランスとドイツを比べておまえが威張ってる趣旨がわからない。 おまえフランス人なの?おまえの手柄なの? 角の立たない書き方しろよ。 大人だろw
これが大人の書き込みかよ・・・ 子供なら仕方ないが。
何かしら負け惜しみを書いて返さないと居れないあたりは 確かにガキだな。
てめーらはドイツ人なのかよって感じだ いやここに限った事じゃないんでいいけどさ
思い込みからきた演説なんぞ誰も聞きたくない、ってただそれだけの話ですが。
その言い方が反感煽ってるんじゃねーの? どっかの戦史研究家かおめえ ただのアホだろw 「誰も」って何人の代表つとめてるんだよ。 笑わせんなw
>>636 主砲は当時の3号戦車くらいの攻撃力はあるよ(´・ω・`)
KT-28は確かにしょぼいけど、L-10は威力十分だし、
6割以上の車両がL-10に換装してる。
エンジンが大きいこともあって車体が大きいのはそうだし、
機動力もだいぶよろしくないけど、
装甲も強化されたし、出力重量比なら一番重い改良型でもT-34/85より多少悪いくらいには収まってる。
どちらかと言うと整備のしにくさと人材不足の方が問題だった気がしなくもない。
まあ銃塔の中の人は大変だったろうけどね(´・ω・`)
T28のプラモを目の前に置いてしみじみと見る。 これ、車内通話機とか有ったのかな? 前方左右の銃塔とそれに挟まれたドライバーズコンパートメントは ほとんど独立状態だ。 車長が居るであろう主砲塔は一段高いところにあるし 戦闘で騒がしい中、良くこれで各乗員が連携出来たな。 いや、出来てなかったのかもw T35とかもっと酷かったろうな。
3号や38(t)がスペックで当時の日本戦車と大差ないと言われると違和感が…… ああそうか、37mm砲x1、最大装甲厚、最大速度、程度で並べると似たようなものって意味か…… 1941年6月頃ってと日本の戦車連隊主力はハ号で次に多いのがチハ 場合によってはテケ車や八九式がまだ中隊編成で残ってる頃か 配備数はともかくとして実態を考えると……
ヴィッカース6t戦車から大して進歩してない走行装置のチハたんを3号と同じにしないでw
チハの足回りは猿真似じゃない、というか「新しいものを求めて猿真似する」努力すらしてないと言うべきか 94式軽装甲車で6t戦車のを猿真似して調子よかったから以後使いまわしてるだけ 以後結局終戦まで新しい足回りは開発しようとすらしてない……
せいぜい数十両の試作型の後に出来たE型の足回りは 結局3号突撃砲として延々と生き続けたんだから話が早いもクソも無い
ついでに言えば複列転輪とかになって見た目変わりはしたが 以後の戦車や突撃砲は全て(4号車体以外全部か)トーションバーだおね 戦前の投資がずっと生きたと見るべきでしょ チハ以降、日本戦車がシザーズ式の限界にたちまち行き当たったのを見るとなんというか、せつない チト・チリのシザーズ式2個っていろんな意味でアイデア賞ものだと思うけど 他にどうにかならなかったんか、と思う
三式はフロントヘビーでサスがすぐにお亡くなりになったらしい。 四式の走行試験の結果は良好だったらいいけど、ホントなのかなぁ……
>>661 一応トーションバーの開発に着手はしていた件について
担当者が事故で殉職してパァになったね。
>>661 トーションバーは研究してたが技術持ってた人が試験走行中に試験車もろとも事故死して中断してしまった。
サスペンションは色々言われるけど、大戦中は国ごとに方式がかなりバラバラな気がする。
戦車のサスペンションに関する詳細な評価ってあまり見たことが無いなあ。
戦後になるとほぼトーションバーで一部油圧みたいな感じだけど、メルカバはコイルスプリングだね。
・・・6t戦車はリーフスプリングの複式ボギーだろ。
あんた〜の時代〜は良かったぁ〜♪
それより変速機はいつまでスライド式を使うのかと>帝国陸軍
シザーズ式はどっちかって言うとフランスの薫りがするような気がする
KVとかISUとか、大重量をシンプルな足回りで支えてますね。 乗り心地や、いかに。
シンプルといううか… あれは高度なトーションバーで 当時のソ連ではオーパーツ扱い 一方その頃英国では歩兵戦車にジャパニーズタイプの懸架装置を採用したのであった (名前からすると日本の技術かと思っちまうが外観が似てるだけ)
>>672 スウェーデンから輸入したランツベルク軽戦車のトーションバーを参考にしている。
>>659 八九式がヴィッカースE型を元にしてるのはともかく、チハとヴィッカース6tに何の関係が?
高マンガン履帯は6t由来じゃなかった?
677 :
675 :2011/01/26(水) 23:44:25 ID:???
違った、日本が輸入し八九式の原型にしたのはEじゃなくてC型だ。Eだと6tのことになってしまう。 で、6tは1両輸入してハ号の参考にしたんじゃなかったか。
固定用ではなく調整用ボルト類だと思う
この時代の防盾カバーって何で出来てるの? 写真見た限りでは分厚い布に見えるんだが・・・
685 :
675 :2011/01/28(金) 21:42:04 ID:???
防水性のある帆布(キャンバス)だと思う。
注連縄を巻いてやりたくなるなw
687 :
名無し三等兵 :2011/01/29(土) 01:07:42 ID:jklPk3Ov
>>683 かなまら祭りにこれで参戦だ!
オージーの間に合わせ戦車でもゴム履帯か、いいなー
米国戦車の真似だからな。 日本は英国戦車の真似だからああなった。
>>657 T-28の場合、銃塔は近づいてくる歩兵を適当に撃退させてればいいのだろうけど、T-34の場合、76mmの主砲は歩兵支援、
37mm副砲は対戦車戦闘と、明確に役割を分けてるのが見て取れるしなぁ・・・
一人で3門を別々の目標に向けながら指揮するとか、ちょっと勘弁してって言いたくなるw
>>685 キャンバスか、なんかすぐ穴開いたり燃えたりしそうだなぁ
まあそういった問題は土嚢や擬装着けてても同じだろうけれど
>>690 てか防循カバーをつけてる戦車があまりない気がする。
写真では写ってるの少ないよね キャンバスカバーの役割って言ったら塵埃や泥除け? プラモのパーツだとコメットやシャーマン(M3、M3 4A1)用なんかがあるね
M41/46/47/48/60/103、センチュリオン、T-54/55/62/64/72/80/90、PT-76、 他にも探せばあるだろうけどまあ一時期の流行だったのは間違いない。 防盾と砲塔の間に細いカバー付けてるのもあるだろうし。
>>694 KVU×1
KVT×2
BT×2
T40×2
カチューシャ×1
なんと豪勢な・・・
諸君らは、そんなに百貨店を作りたいのか!という スターリンの言葉が聞こえそうだ。
百貨店というよりスクラップヤードだなw
飛行甲板を(ry 上面図に期待してはいけないんだろうかw
>>657 ちょっと遅いけどさんきゅ
そのサイトはなかなか詳しいな。
飛行潜水艦を計画したソ連ならやってくれるはず! 戦後もジェットエンジン搭載の戦車で消火活動とか無茶苦茶ですわwww
T-40、T-60、T-70M、T-80はエンジンが車体の後ろになくて、 右側に置いてあり、砲塔が左側に寄ってる。 エンジンが左右にあったT-70なら砲塔は中央に付いていたかな? よくわからん。
クライスラー製マルチバンクエンジンはいらんかね?
良く知りもしないのに背伸びして、完璧なシャーマンを作ろう とか思って35スケールのタミヤのシャーマンと海外製の インテリアキット、洋書なんかを買い込んでプラモ製作にトライした事が あったけど、航空機用の空冷星型エンジンがゴロっと入ってるのには 流石に笑ったわ。 なんかふと思い出した。
>>706 最初からシャーマン完璧版なんて地獄突入フラグだろJK
今はタスカが有るとはいえ、バージョンの細かい分岐は或る意味
ドイツ戦車以上だからなぁ。
全バリエーションを揃えたら、いつの間にか機甲大隊が部屋に駐留していたでござるの巻
【ギリシャでの賭け】
1940年10月28日、イタリア軍のギリシャ侵攻が開始されました。
イギリスは39年の宣言によってギリシャを支援せねばなりませんでした。
10月末、最初の英連邦遠征軍がクレタ島スダ湾に派遣され、ギリシャ第5クレタ師団は本土防衛に引き抜かれました。
41年1月29日、ギリシャ首相メタクサス将軍が急逝し、チャーチルはバルカン諸国連合計画復活の好機とみなします。
彼はギリシャ政府に強く迫り、ついに自分の案を飲ませました。
2月12日、チャーチルは中東方面軍総司令官ウェーヴェルに長文の電報を送り、
直ちに前進を停止し、キレナイカには最小限の兵力だけを残して他はすべてギリシャ移送の準備をするよう命じました。
3月2日、ラスター作戦が発動され、7日に最初の英連邦遠征軍がギリシャ本土に上陸します。
ピレウス港とヴォロス港に上陸した遠征軍はユーゴスラビア国境へと北上しました。
遠征軍は豪州第6師団&NZ第2師団の2個歩兵師団、対空部隊を含む2個中砲連隊、
英第1機甲旅団(第3王立戦車連隊&第4軽騎兵連隊)から成り立っていました。
第3王立戦車連隊は北アフリカ戦線で使い古された巡航戦車52両を装備し、
第4軽騎兵連隊は52両のMk.VI軽戦車を保有していました。
機甲旅団はモナスティル峡谷の道をカバーするよう、フロリナからエデッサ間の低地に分散配置されます。
その領域東側の多くは湿地で重車両への障壁となっており、
使い古された覆帯で予備部品の無い戦車の移動に制限を課していました。
○NZ第19歩兵大隊を歓迎するアテネ市民
ttp://mp.natlib.govt.nz/detail/?id=11752&recordNum=140&t=items&q=greece+1941&l=en
A10は敵に多数の損害を与えたものの、覆帯の損傷と予備部品の欠乏で多くの車両が行動不能となりました。
その機関銃は取り外され、対空用としてトラック後部に積み込まれました。
アリアクモン線南の撤退は道路封鎖の混乱の真っ只中で行われました。
燃え盛る車両、遺棄された装備、哀れな無表情の避難民と非武装のギリシャ兵の縦隊…
ダンケルクの時点で敗北の汚点と恐怖の全ての面がさらけ出されたわけですが、
ダンケルクとは対照的に、上級司令部は撤退を確実に予期していませんでした。
地形が許す限りは何処ででも、歩兵師団は機甲旅団の支援無しに後衛として活動を継続していました。
機甲旅団の戦車無しの乗員は機関銃やその他歩兵装備を支給されます。
彼らの役割は後衛部隊の背後に位置し、敵降下兵へ対処することでした。
残念ながら、戦車から取り外した無線装置の運搬車は吹き飛ばされており、
通信手段はオートバイ伝令兵に限られていたのです。
4月21日、英連邦軍のクレタ島とエジプトへの撤退が決定されました。
50000名が逃れたものの、12000名が捕虜となり、全ての戦車と装備の大部分を喪失します。
一方、ギリシャに兵力を抽出して最小限の戦力のみ留めたキレナイカでは、
トブルクに包囲された小兵力を残して、4月11日迄に英軍はエジプトへ放逐されたのでした。
○41年4月、遺棄されたA10
ttp://h-4.abload.de/img/bundesarchiv_bild_101i2wf0.jpg ○伊軍に鹵獲されたギリシャ軍使用タンケッテ。
開戦前にイタリア潜水艦に撃沈された巡洋艦エリのイラストとそのことへの“復讐”が書き込まれる。
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr579.gif ※ギリシャ軍は作戦期間中にタンケッテ45両以上を鹵獲。第19自動車化師団の戦車隊は公式にはMk.VI軽戦車装備。
但し、殆どのソースはタンケッテ27両装備とし、1つだけタンケッテ18両&残りがMk.VIとするものがあります。
他に英供与のブレンガン・キャリアを装備していました。
イタリア軍ってやつは・・・ ギリシャ軍にも負けるのか・・・
>>694 まてよこれ・・・wikiにも載ってるってことは、どっかのオタがネタで作ったコラ画像じゃ
なくって、何らかの計画案に基づいてるって事か・・・?
こんなもの見せられたら、スターリンでなくてもキレるぞw
スターリンのオルガンにひっかけてオーケストラか
>>711 初期のマチルダIIもそうだけどこの時代の英戦車のキャタピラって面に穴あいてるだけで坂で滑りまくりそうだな
米軍のM3リーなんかもキャタピラの接地面は ペタンコのゴムじゃなかった? って事はグラントも。 アフリカじゃあれで何とかなったんでしょ。
>>718 M3・M4系の履帯には
・つるぺた(T41,T51)
・への字型の凹凸があるタイプ(T48)
・平行に細かく溝のあるタイプ(T49)
がある
いやそんな程度じゃなくて十種類以上あるから。 ゴム付きで北アフリカで使われた物だと、漢字の「王」の字みたいなWE210があるね。
それはカナダ製のシングルピン型。ギアの歯数も多い物を使っている。
HVSSの幅広タイプ以外は基本的に互換性があるんだよね? (´・ω・`)すごい
>>717 チャーチル・カーペットレイヤー「出番か!?」
【ダルマチアの“バラクラバ”】
1942年10月17日18:00、ダルマチアのPoloj近くのシベニクとヴォディツェ地区に於いて、
第14連隊“アレッサンドリア騎兵”指揮官のアントニオ・アイモーネ・カット大佐は困難な状況の中で待機していました。
チトーの第2&第4プロレタリアート旅団が丘陵を占拠して、Perjasicaへのイタリア軍の退路を遮断し、
包囲を試みていたからです。
しかし、大佐はq.243とq.249線に沿っての守備配置に自信を持っていました。
彼は中央陣地を保持し、第3軽戦車群“サン・ジュスト”の第3中隊(※L3装備)の支援を受けながら、
守備線内部で指揮を執ることが可能でした。
そして、第13歩兵師団“レ”の第23砲兵連隊所属の75mm砲4門が、
q.317とq.258間で敵と相対して展開していました。
このような次第で、パルチザンは攻撃の為には高所から降り下らねばならなかったのでした。
遡ること1年半の41年4月13日の復活祭当日に、アレッサンドリア騎兵連隊は豪雨の中、ユーゴスラビア国境を越えました。
第1快速師団“エウジェーニオ・ディ・サヴォイア”、
第2快速師団“エマヌエーレ・フィリベルト・テスタ・ディ・フェッロ”、
第3快速師団“アオスタ公アメデーオ王子”の3個快速師団はDelnice、Lokve、Zelesinaへ達し、
4月15日にはGomirje、Cakovac、Vrbovskoへ到着します。
2日後、彼らはユーゴスラビア軍後衛を側面攻撃したのでした。
最初の数週間、アレッサンドリア騎兵連隊は軍団と師団司令部のあるザグレブ南西のカルロヴァツに駐屯していました。
しかし、強力な抵抗運動が成立した為、新生のクロアチア独立国による統制は困難であり、
彼らには追加任務が課せられることになったのです。
その後の非対称戦は敵味方双方にとって、困難かつ血生臭いものとなりました。
○第3軽戦車群“サン・ジュスト”のL3(※41年夏、ロシア戦線)
ttp://www.italie1935-45.com/RE/photoscopes/chars/cv3/25 '.jpg
42年10月初め、第57歩兵師団“ロンバルディア”と第22歩兵師団“アルプス猟兵”がダルマチアから移動させられ、
OgulinとVinica間を攻撃するパルチザン師団の狩り立てに充てられます。
10月6日の騒動の際はそこそこの砲火が交わされただけでしたが、
12日と13日のPerjasica地区の偵察では全区域に数千名のパルチザンが存在すると見積もられたのでした。
10月17日15:15、アレッサンドリア騎兵連隊前衛の第1中隊が前面と側面から攻撃を受けます。
この戦闘に第3軽戦車群“サン・ジュスト”のL3が介入しました。
無線通信が途絶えるや、アイモーネ・カット大佐は第1快速師団“エウジェーニオ・ディ・サヴォイア”の
次席指揮官マッツァ将軍へ伝令を送ります。
彼は第81黒シャツ大隊に攻撃を命じますが、数に勝り巧みに配置されたパルチザンはそれを阻みます。
第1快速師団参謀長のサルスティ少佐がPrimisljeへの前進命令の確認の為、到着しました。
そして、その任務の目的はPerjasicaから13:00に出発するというものでした。
それは前日、支隊がKorava川に架かる橋の高所で攻撃を受けた際と同様の任務で、
その時は支隊は基地へと帰還したのでした。
しかし、サルスティ少佐は考え直し、師団長のLomaglio将軍と協議することにしました。
アレッサンドリア騎兵連隊は、既に1859年と1866年のイタリア統一戦争の際にその名を高らしめ、
今はLomaglio将軍の第1快速師団隷下にありました。
ユーゴスラビア侵攻時、第1快速師団はフェデリコ・フェラーリ・オルシ将軍の快速軍団に属し、
快速軍団はアンブロシオ将軍の第2軍の下にあったのでした。
○フェデリコ・フェラーリ・オルシ(※40~42年、快速軍団長。42年10月、第10軍団長時に北アフリカで地雷で戦死)
ttp://i48.tinypic.com/209m6md.jpg
18:00、前面と側面からの敵の攻撃に晒されたアイモーネ・カット大佐は、
そのまま塹壕陣地に留まる許可をマッツァ将軍から得ます。
しかし、師団長のLomaglio将軍からは撤退命令が直接下されたのでした。
師団長は暗闇の訪れと時間、砲や馬といった装備の重量に対する認識が甘かったのかもしれません。
支隊先頭にいたアイモーネ・カット大佐の案は、北西約1.5`に渡って進路を啓開し、
それからPerjasicaへ向かって右折するというものでありました。
第3中隊のラファエル・アルチェッラ中尉は想起します。
『アレッサンドリアは窮地にあった。スピードとその奇襲効果が損害を抑えたのだ。しかし、700名の10lは死んだ。』
このPolojの地で、アレッサンドリア騎兵連隊は軍旗(※vexillum)を先頭に掲げ、総員突撃したのです。
敵は猛烈な射撃と手榴弾で応じました。
後にアルチェッラ中尉は言います。
『パルチザンは木々に通した鉄線に手榴弾の撃発装置を差し込んでいた。悪辣な罠ではあったが、致命的だった。』
部隊は第1中隊が尖兵、第3中隊が左、第2中隊が右で菱形隊形を構成しました。
中央には機関銃中隊と本部中隊が位置し、第4中隊は後尾砲兵隊の防御に当ったのです。
○アレッサンドリア騎兵連隊第13突撃砲群のセモヴェンテ47/32(※ロシア戦線。42年8月に同隊の19両がロシア着)
ttp://i47.photobucket.com/albums/f185/StirlingLowery/EasternFrontSemovente.jpg
第1中隊によって突撃の口火が切られ、すぐに中央と両翼が続きました。 第2中隊は指揮官のAlciator中尉を失います。 第4中隊は南へ3度突撃を敢行し、20名のみが砲兵を援護しながら離脱しました。 同中隊指揮官のヴィナッチァ中尉は敵への突撃の先頭に立っていましたが、 彼の姿が再び目にされることはありませんでした。 連隊が3つの障壁の1つ目を越えた後、第1中隊指揮官のペトロニ大尉は胸部に敵弾を受けます。 そして、彼は2つ目の障壁に達するや顔面を撃たれたのでした。 生存者全てが集結した後、先頭に位置していたアイモーネ・カット大佐は軍旗を機関銃隊に託し、 3つ目の障壁を乗り越えた集団を率います。 砲兵と第4中隊は実質上撃破されましたが、支隊は18日01:00にPrjasicaへ到達しました。 騎兵連隊は70名が戦死し、61名が負傷しました。 砲兵隊は1名が戦死し、12名が行方不明となりました。 黒シャツ大隊は4名が戦死し、30名が負傷しました。 75mm砲4門は失われたのです。 パルチザン側は33名を捕虜とし、L3戦車1両、砲2門、トラック7両、機関銃9挺、 小銃122挺を鹵獲し、自身の損害は僅かに戦死5名・負傷8名と主張しています。 上記のデータは幾分かは疑わしく、恐らく検証不能なのかもしれません。 しかし、当該地域住民はこの出来事がパルチザン側にも又、流血を強いた戦闘であったことに同意しています。 これは約10年後に、この戦闘に関する地域住民へのインタビューで再確認されたのでした。
その後の上層部の会合中、第2軍のロアッタ将軍はLomaglio師団長のあの時の命令に触れることはありませんでした。 それよりも、兵士の評価とPolojでの突撃の栄光が語り継がれることの方をロアッタは望んだのです。 アイモーネ・カット大佐は、もしも連隊が待機したなら少なくとも損害の一部は回避出来たであろうと確信していました。 続く数ヶ月間、第14連隊“アレッサンドリア騎兵”は第12連隊“サルデーニャ騎兵”と共に、 対パルチザン戦に従事しました。 43年1~2月、彼らはヴォディツェ地区にあり、5月には第13歩兵師団“レ”と共にGobjik区域に展開していました。 イタリア休戦後、第1快速師団は本国へ帰還することが出来、9月13日に解体されたのでした。 42年10月17日のPolojでのアレッサンドリア騎兵連隊の突撃が、イタリア騎兵最後の騎乗突撃となりました。 砲兵と1個騎兵中隊が失われたものの、支隊の殆どはPerjasicaへ無事に到達しましたので、 彼らの騎乗突撃は成功したものと見なされるべきなのでしょう。 約2ヶ月前の8月24日にロシア戦線イスブシェンスキで敢行されたサヴォイア騎兵連隊の騎乗突撃と比較すると、 Polojでの騎乗突撃はパルチザンに対して成され、正規軍は展開していませんでした。 結果として完全なる戦術的勝利は妨げられました。 ことによると、それがアレッサンドリア騎兵連隊の突撃があまり知られていない理由なのかもしれません。
バレンタインの冬用履帯は同志のお気に入りだったらしいね。 ソ連らしいといえば、らしい。
>>733 姫さんは泥に弱いからね。スカート無しで走れないから凍ると大変そうだ。
736 :
名無し三等兵 :2011/02/04(金) 15:23:11 ID:vRZJ1MZy
>>730 間違えました。訂正させていただきます。
×第12連隊“サルデーニャ騎兵”
○第12連隊“サルッツォ騎兵”
42年春、第67ベルサリエリ装甲大隊は第5ベルサリエリ連隊(※チェンタウロ機甲師団)抽出部隊を含めて創設され、
2個中隊と本部から成っていました。
そのL6/40は全車がRF-1無線機を装備しており、指揮戦車にはRF-2無線機が追加されていました。
42年8月下旬、部隊は歩兵支援の際に何度か交戦します。
ヤゴドニイで2個小隊が戦いましたが、その後、同地でソ連軍の本格的な反撃がいくつかありました。
とはいえ、多量の戦車を装備している敵部隊は遥か遠くの地でした。
すぐに別の攻撃があり、対戦車ライフルによって13両のL6/40部隊はその9割近くを失ったのです。
1941年の後、東部戦線での戦車戦闘の様相は長足の進歩を遂げており、
L6/40はソ連やドイツの戦車にかなり遅れをとっていました。
L6/40が適していたのは偵察、連絡、保安任務だけでした。
この車両の弱点によって多くの損害が生じましたが、補充車両は無く、予備部品も送られてこなかったのです。
戦車15両に減少した大隊は、遂には後方へと下げられますが、前線に戻らねばなりませんでした。
僅かにドイツ砲22門の支援を受けただけで、12月11日から大規模な戦闘が行われたのです。
大隊はガジュキアとフォロノヴォで数多くの精鋭部隊と機甲部隊に抗し、更なる大打撃を被ったのでした。
そして、年の暮れのスカシルカヤへの退却時に実質上壊滅したのです。
全期間に渡って相対的に劣った装備で任務に当ったことを考慮に入れると、
大隊戦車乗員の能力は優れたものでした。
42年夏以来、ソ連軍は何両かのL6/40を鹵獲し、1両はクビンカ戦車博物館に展示されています。
○ロシア戦線のL6/40指揮戦車
ttp://2.bp.blogspot.com/_CbwnjooteyI/SSzxCVgOklI/AAAAAAAActw/0xSiBpzUqMg/s1600-h/10.jpg ○クビンカ戦車博物館で展示中のL6/40
ttp://farm3.static.flickr.com/2798/4386654000_98c78811b6.jpg
続ラスカンにも、L6軽戦車装備のドイツ軍部隊の話がちらっと出てたな
>>738 乙
しかし大隊の装備両数変遷がよくわからんorz
今月のパンツァーとグランドパワーは個人的に面白かった。
砂漠のヴィッカースMk.1中戦車とか砂漠のカヴェナンターとか。
>>741 書き方が悪かったようで申し訳ありません。
大隊全戦力55両(又は58両)
↓
ヤゴドニイで、その内の13両から成る部隊(2個小隊)が対戦車ライフルによって9割近くを喪失
↓
その後、大隊全戦力は15両迄に消耗し、後方へ
>>743 度々申し訳ありません。
ヤゴドニイの戦闘は最初は2個小隊(9両)で始まり、後にもう4両が加わり、13両のときは3個小隊規模です。
745 :
名無し三等兵 :2011/02/04(金) 22:52:11 ID:tpRnBidL
マナイタ戦車と読んでしまい、チハに同情しました。。。。
流れをぶった切って申し訳ないが、T17「ディアハウンド」装甲車の画像持っている人居ませんか?ググっても出てくるのは「スタッグハウンド」ばかりなもので
>>747 ありがとうございます。見た目は、グレイハウンドとスタッグハウンドの良い所取りに見えるんだけどね。
>>749 第3軽戦車群“サン・ジュスト”はおっしゃる通り、師団戦車大隊です。
40年8月の編成表では第3快速師団隷下となっています。
42年3月、第3快速師団の改編時に編成外となり、ロシアから帰還したようです。
その後、10月迄のどの時期に第1快速師団隷下となったのかは私には分からないです。
>>749 このところ、間違いばかりで申し訳ありません。
第3快速師団の戦車隊が“サン・ジョルジア”で、第1快速師団の戦車隊が“サン・ジュスト”でした。
“サン・ジュスト”は第1快速師団隷下でずっとユーゴスラビアに展開していたようです。
同じ戦車隊だと私は誤認識していました。訂正させていただきます。
>>749 蛇足ながら、
第1快速師団→軽戦車群“サン・ジュスト”
第2快速師団→軽戦車群“サン・マルコ”
第3快速師団→軽戦車群“サン・ジョルジア”… 42年3月編成外
となるようです。
>>750-752 いえいえ、ありがとうございます。
なんでイタリアの戦車隊にフランス野郎の名前がと思ったら、
聖人の名前で綴りからして違うとか、調べて勉強になりました。
編制地の聖人とかだったり。
>>751-752 妙な読みですので、再度の訂正を。
×サン・ジョルジア
○サン・ジョルジョ
【八月の砲声】
1942年、2年目を迎えたロシア戦線。
前年派遣のCSIR(イタリア・ロシア派遣軍団)は大幅に増強され、同地のイタリア軍は第8軍となります。
これはARMIR(イタリア・ロシア戦線軍)と呼ばれました。
しかし、この新設された軍にも相変わらず機甲師団の姿は見受けられなかったのでした。
中戦車もセモヴェンテ75/18も派遣されなかったのです。
この改編や中戦車等の欠如は、ジョヴァンニ・メッセ将軍には容認出来ないものでした。
ロシア到着の当初から、彼は機材や人員の補充に関して不満を持っていました。
前年、ムッソリーニとヒトラーが部隊の視察でロシア戦線を訪れた際に、
メッセは“イル・ドゥーチェ”へ苦情を申し立てたのでした。
思い通りの戦いをするには、更なる補給品と兵器、十分な戦車支援が必要であると彼は述べたのです。
基本的にムッソリーニはメッセの苦情を受け流しました。
そして、今や新たな師団が次々とロシアへ送り込まれ、この戦線のイタリア軍は230000名に及んだのです。
この兵力展開はメッセの受け入れ許容数を超えており、彼は精力的に苦情を申し立てました。
『我々はかろうじて60000名を維持出来ますが、どのようにして200000名以上に補給をするのでしょうか?』
ムッソリーニはメッセを解任します。
メッセは北アフリカへ派遣されました。
○ロシア戦線でのイタリア軍画像
ttp://mvsn.forumcommunity.net/?t=10600754
42年6月28日、ブラウ作戦が始まりました。 イタリア第8軍はドネツ河を越えた後、ドン河目指して進撃します。 枢軸軍の計画に於いて、セラフィモヴィッチ近くの交差点の奪取は重要でした。 そしてソ連軍も又、その重要性を認識していたのです。 月は7月から8月へと変わり、イタリア軍はドン河を横切る交差点攻撃の束縛から解放され、 見事な技量の独第578連隊による攻撃を支援します。 第3快速師団“アオスタ公アメデーオ王子”のベルサリエリ部隊は砲兵の支援のもと、前進しました。 ロシア兵の機関銃が火を吹き、迫撃砲も射撃を始めましたが、彼らの進撃を食い止めることは出来なかったのです。 ベルサリエリ部隊は迅速に前進し、援護射撃と純然たる勇気でもって、ソ連軍守備陣地への侵入を図りました。 彼らの後に続いた車両が支援を与え、ソ連兵は後退したのです。 それは血に塗れた戦闘でしたが、今や橋頭堡はイタリア軍の手中にありました。 しかしながら、この戦略的拠点を巡る戦いがまだ終わったわけではないことを、彼らは知っていました。 この重要戦区の再奪取を図るべく、ソ連兵は戻ってくるのでしょう。 そして、今時分は攻撃を先導する戦車を持ち込んでいることでしょう。
ソ連軍は反撃を開始するや、セラフィモヴィッチを囲む区域に戦車集団を投入します。 イタリア軍の対戦車砲はごく僅かで、又、これらの鋼鉄の獣に対して効果が無いことは判明していました。 この戦車の集中攻撃を食い止める火力はイタリア部隊には無かったのです。 前衛陣地は放棄され、伊軍は後退したのでした。 8月20日、第2歩兵師団“スフォルツェスカ”の持ち場をソ連軍が7個大隊で攻撃します。 この日の戦闘は、イタリア部隊がゆっくりと後退して終了しました。 21日、イタリア軍は反撃しますが、ソ連軍は別の10個大隊が既にドン河を渡って到着していました。 伊軍の反撃は激しい抵抗に遭い、失敗します。 “スフォルツェスカ”師団はサヴォイア騎兵連隊と第63&第79黒シャツ大隊に援護されながら後退しました。 翌日、ソ連軍は攻撃を仕掛け、イタリア軍を潰走させようと試みました。 2箇所の重要拠点を存する新たな防衛戦が構築され、 バルボ騎兵集団(※サヴォイア騎兵連隊、ノヴァーラ槍騎兵連隊、騎砲兵連隊)はこの2つの拠点を援護すべく行動し、 ソ連軍に対する幾多の索敵に於いて、これと交戦しました。 ソ連軍は防衛線を強襲します。 イタリア軍は火炎瓶で対戦車戦闘を行ない、いくつかの地区を保持しました。 これは勇気の要るハイリスクな攻撃でしたが、この即席防御法はソ連戦車を食い止めるのに有効でありました。
この8月22日の戦闘は熾烈なもので、敵味方双方が多大な損害を被りました。 この戦闘期間中に於いて、ドイツ対戦車部隊はよく任務をこなし、多くのソ連戦車を葬り去りました。 ドイツ戦車も又、敵を食い止める支援火力提供という点で秀でていました。 改めてドイツ兵は、その能力が優秀であることを証明したわけです。 ドイツ兵とイタリア兵は、この戦闘の重大な局面で良く任務を遂行したのでした。 損害は多かったものの、枢軸軍は撃破されなかったのです。 ドン河防衛戦の第1段階は終わりを告げました。 この22日に増援が到着しました。 第3快速師団“アオスタ公アメデーオ王子”と“モンテ・チェルビーノ”山岳スキー大隊、 独第179連隊が合流したのです。 8月23日朝、枢軸軍は反撃を開始しました。 ソ連軍は後退し、再編成され、新たに突撃を開始します。 流れを食い止める為、バルボ騎兵集団が投入されました。 ノヴァーラ槍騎兵連隊はソ連軍が後退する前に、敵の展開地区深くへと潜入することが可能でした。 この作戦行動で彼らは多くのソ連部隊と交戦し、それによって他地区への圧力が軽減されたのです。 サヴォイア騎兵連隊も同様の任務に就きました。 彼らはイスブシェンスキへ向かったのです。 ※残りは後日、投下させていただきます。
イタリア人じゃなくてムッソリーニ抜きでやるべきなんだよな実際
ヘタリア言うてバカにするのはソ連軍と戦って死んだイタリア兵に失礼だわな
東方派遣のイタリー軍って補給はどうしてたんだろうか? 車両足りたのかな?
イタリアの戦場ってどこでも戦車自動車火砲が足りないのに
あんまりいらない歩兵が送り込まれてきて頭数だけ増えて
補給が間に合わなくなる印象があるなぁ。
そんな中で第1快速師団をユーゴに貼り付けっぱなしなのが解せない。
しかし読ませて貰ってるとイタリア軍は騎兵の使い方上手いんじゃないだろうか。
>>759 それが漁夫の利できて良い気がする。
フランコみたいに立ち回ってればイタリアにとっては良かったんだと思う。
>>758 乙です
ソ連軍相手によくまぁ騎兵部隊を上手く投入してるもんですな
>>759 ムッソリーニは政治は出来ても戦争は出来ない男だからな
バトルオブブリテン、東・北アフリカ戦線、ギリシャ戦線、ロシア戦線
主要国の中じゃトップクラスの赤貧国家だというのに手を広げすぎだよ
この中で意味あるのなんてせいぜいギリシャくらいだろうに……
>>761 全く足りてない
元から戦争の準備も出来てない、軍部の大部分が反発する中参戦を強行したから
生産体制も戦略物資の備蓄も殆ど無いような状態で戦ってた
だもんだから当初のロシア遠征部隊指揮官であるメッセは増援に対して反対だったし、
初期の北アフリカ戦線指揮官のグラッツィアーニは車輌、銃・砲火器の不足、補給体制欠如等を理由に長躯エジプト
間での遠征を拒否していた
>>762 メッセ将軍のころから自動車化歩兵や騎兵等機動力の高い部隊を組み合わせる事で、戦車の不足を補いつつ機動戦を展開していたからね
そしてロシア、アフリカ両戦線共に火炎瓶(火炎瓶の底に手榴弾を取り付けるなど)や回収した対戦車地雷を用いた白兵戦で多数の戦車を撃破
兵器の不足をマンパワーで補うような戦い方をしている
兵器の不足をマンパワーで…どこかで聞いたフレーズだな。マンパワーを精神力に置き換えると
>>759 ドゥーチェを抜いても上にいるのは優柔不断な国王だぞ。
てかあの時代のイタリア政治家はどうなってるんだろうか?
ドゥーチェの理性がフランス戦の時欲望を押さえていれば…。
ドゥーチェいなかったら内戦か共産化だろうしもう少し評価されるべき
【進み行くは六百騎】 ※
>>755-758 の続きです
1942年8月23日、騎砲兵で増強された第3騎兵連隊“サヴォイア”は213.5高地へ達しました。
そこはイスブシェンスキ近くの重要拠点で、ソ連軍が確保していました。
連隊は陣取っていたソ連軍の激しい抵抗に遭い、野営すべく後退したのでした。
そして、翌日の朝の出来事で、サヴォイア騎兵連隊の名は人々の記憶に残ることになるのです。
サヴォイア騎兵はイタリア軍部隊の中でも、かなり由緒のある栄光に包まれた連隊でした。
1692年、サヴォイア公にして後のシチリア王、次いでサルデーニャ王となったヴィットリオ・アメデーオ2世によって、
サヴォイア騎兵連隊は創設されました。
1699に解体されましたが、直ぐに1701年に再創設され、同年からのスペイン継承戦争に加わります。
1799年のサヴォイア家のサルデーニャ島への逃亡時に、再び解体されました。
1814年、ヴィットリオ・エマヌエーレ1世によって連隊は再建され、
イタリア統一戦争に加わり、1870年9月20日にローマへ入城しました。
そして、1918年11月3日にはウーディネへ入城したのでした。
WW2でのサヴォイア騎兵連隊の最初の作戦行動は、41年のユーゴスラビアに於けるものでしたが、
すぐにメッセ将軍のCSIRに加わることになったのでした。
CSIRは、連隊の親部隊である第3快速師団“アオスタ公アメデーオ王子”の他に、
第9歩兵師団“パスビオ”、第52歩兵師団“トリノ”から成っていました。
そして、後に第63黒シャツ連隊“タリアメント”も加わります(※8月)。
連隊はロニーゴの宿営地で短期間過ごした後、列車でルーマニアへ移動しました。
それから騎乗したまま、カルパチア、モルドヴァ、ベッサラビア、ウクライナと1200`の行程を35日間で進んだのです。
連隊員は1日8-10時間、鞍に跨っていたのでした。
9月末に連隊はドニエプル河岸へ達し、10月20日のスターリノ占領に寄与します。
42年3月、第3快速師団の完全自動車化に伴い、同師団から騎兵連隊が外されました。
その結果、第3騎兵連隊“サヴォイア”、第5槍騎兵連隊“ノヴァーラ”、第3騎馬砲兵連隊“VOLOIRE”は、
騎兵集団“バルボ”を形成することになります。
○部隊を見送るメッセ将軍
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr1038.gif
8月24日03:30、コモリ軍曹率いる6騎の偵察隊が、
周囲のヒマワリ畑にソ連部隊が機関銃と共に潜んでおり、前哨を一部包囲していると報告してきます。
それは機関銃、迫撃砲、砲を装備した約2000名(※or2500)からなる第812シベリア狙撃連隊でした。
偵察隊の射撃にソ連兵は応射したのです。
この時、サヴォイア騎兵連隊は全く孤立していました。
友軍部隊は50`の彼方です。
このような状況で取るべき行動はただ一つ、それは敵への攻撃でした。
この時のサヴォイア騎兵連隊の戦力は600騎で(※他に650or700とする資料もあります)、
個人装備はサーベル一振り、カルカノ騎銃か作戦初期に鹵獲したソ連短機関銃を1挺、何発かの手榴弾というものでした。
そのヘルメットには、1706年のマドンナ・ディ・カンパーニャの戦いで連隊が奪い取ったフランス軍旗由来の
黒十字が記されていたのです。
連隊指揮官は有能なアレッサンドロ・ベットーニ大佐でした。
ベットーニはF.デレオーネ大尉指揮の第2中隊を敵左翼側面へと進ませます。
○M33型ヘルメット(サヴォイア騎兵連隊)
ttp://i80.photobucket.com/albums/j170/peter_suciu/italian_m33_savoy_big1.jpg
第2中隊は敵左翼への迂回に成功しました。 『サヴォイア!サヴォイア!』 第2中隊は叫びながらソ連軍左翼へのサーベル突撃を敢行し、仰天する敵兵へ発砲して手榴弾を投げつけます。 ソ連兵は応射し、慌てて迫撃砲の支援を要請しようとしました。 その瞬間、イタリア軍支援機関銃の猛射と共に、下馬していた残りの連隊員もソ連軍正面へ発砲したのです。 徐々に敵の抵抗が激しくなってきました。 第2中隊への負担を軽減する為に、シルバノ・アバ大尉の下馬した第4中隊が敵正面へと向かいました。 この攻撃は成功しましたが、ベルリン五輪での近代五種競技・銅メダリストのアバ大尉は戦死したのです。 敵の混乱状態を目にした後、ベットーニ大佐はフランチェスコ・マルチオ大尉の第3中隊に 敵正面への突撃を命じます。 『殆ど愚策。』 これが、この戦闘に参加していたジャーナリストのオスバルド・パガーニによる、第3中隊突撃への意見でした。 マルチオ大尉は即座に腕を失います。 第1騎兵群指揮官のアルベルト・リッタ・モディリアーニ少佐は、留まって負傷しました。 重傷を負っていた少佐でしたが、部下を鼓舞すべくサーベルを抜いて突撃方向を指し示します。 これが兵士を勇気付け、あいついで突撃がなされ、遂に敵第二線へと達したのでした。
イタリア騎兵が守備線内に入り込むや、ソ連部隊は壊乱状態となります。 陣地内で、轟きと共に馬を馳せている騎乗者が、壕内へ発砲したり手榴弾を投擲しているわけですから、 ソ連兵は自身が別の時代に迷い込んだと思っているかのようでした。 敵大隊本部がイタリア騎兵の手に落ち、政治将校を含む士官達が捕らえられました。 ソ連兵の何百名かは修羅場から逃げおおせましたが、残りは捕虜となります。 09:30には全てが終わり、サヴォイア騎兵連隊はこの戦闘で勝利を収めたのでした。 その証の雄叫びが上がります。 『サヴォイア!』 ソ連軍の損害は戦死が約150名、負傷が約300名、捕虜が約500名(or600)で、 砲4門、迫撃砲10門、機関銃約50挺が遺棄されていたのでした。 イタリア軍の損害は戦死32名(内、士官3名)、負傷52名(内、士官5名)でした。 正規軍に対するものとしては、このイスブシェンスキでの突撃がイタリア騎兵最後の騎乗突撃となったのです。
8月22日のイタリア軍への増援到着以来、ドン河での戦闘は第2段階に入っていましたが、
ソ連軍は第3快速師団への攻撃によって、北部で勢いを取り戻そうと試みました。
彼らは2個ベルサリエリ連隊に対し、4個狙撃連隊と1個親衛連隊を投入します。
最初の攻撃をイタリア守備部隊は跳ね除けますが、ソ連軍は包囲を試みるべく、側面で機動戦を展開しました。
この動きは成功し、ソ連軍はイタリア軍からBachmutkin市を奪取したのでありました。
ここでの戦闘に、イタリア軍はサヴォイア騎兵連隊とベルサリエリ第1オートバイ中隊を展開し、
優位を回復しようと試みたのです。
彼らの戦い振りは模範とするに足るばかりか、それ以上のもので、
ソ連軍を食い止めるだけではなく、押し返したのでした。
イタリア軍は反撃を押し進め、ソ連軍は後退を続けます。
イタリア軍はソ連軍にとって重要な226高地を確保しました。
ここに位置していたソ連軍前進観測班は、イタリア軍前線の大部分へ砲火を導くことが出来たのです。
ソ連軍は大いなる優位点を失いました。
続く2日間、Bolskojで戦闘が継続されましたが、
手練れの第2山岳師団“トリデンティーナ”の到着によって、イタリア軍前線は補強されました。
ソ連軍は封じ込まれ、この夏のドン河戦区に於ける攻防戦は終わりを告げたのです。
一連の戦闘でのイタリア軍の損害は、戦死1100名、負傷5500名でした。
○トリデンティーナ山岳師団のベーラー47mm対戦車砲
ttp://img65.imageshack.us/img65/7506/foto1tridentina.jpg ○ドン河戦区、L6/40(※
>>738-739 で配備数を55or58としましたが、他に31、40という説もあるようです)
ttp://img687.imageshack.us/img687/2004/image004bjm.jpg
やるなあサヴォイア騎兵連隊。この後「雪の中の軍曹」につながっていくわけか。 売らなきゃ良かったなあの本
>>771 >このような状況で取るべき行動はただ一つ、それは敵への攻撃でした。
かっこいいねえ。
>>771 >個人装備はサーベル一振り、カルカノ騎銃か作戦初期に鹵獲したソ連短機関銃を1挺、何発かの手榴弾
鹵獲短機関銃ってことはペペシャかな
ペペシャとサーベル装備したロシア平原のイタリア騎兵ってだけで夢がひろがりんぐですわ
これが突撃かますのか
ロシアもコサックとかモンゴル騎兵投入してるね。 タイフーンが失敗した後の反撃でコサックは活躍し、戦線の隙間を浸透してよく後方を襲撃撹乱した。 でもやっぱり正面突撃は無謀で、モンゴル騎兵なんかは機関銃や歩兵砲に固められた陣地線で一個連隊壊滅とかやらかしてる。
>>749 >>762 元はユーゴでイギリスが支援するパルチザン組織の武装発起に対抗する形で独伊で軍隊出してこれを鎮圧した
でもユーゴ併合の後も既存のパルチザン、チトー派共産党系パルチザン、旧ユーゴ軍将校の組織した反抗組織がいがみ合いながら
サボタージュやテロ攻撃で暴れまわる内乱状態に陥った
またギリシャでも亡命政権によって支援されたパルチザンが活動を活発化させていた
この為、派遣部隊は縮小どころか更に増員されることになる
今のアフガンとか見てもわかるように、パルチザンによる非正規戦闘が多発すれば、大規模な部隊を常駐させて対応するしかない
ユーゴで既に「兵站が貧弱で全土鎮圧できる数の歩兵を常駐させられない。 仕方が無いので少数だが足のある火消し部隊を置いておく」状態になっていたのでは…
いくらパルチザンと正規軍で戦力差が有るとは言え、ライフルや手榴弾、元軍人が煽動する集団なら軽砲くらい装備していただろう それらの集団相手に非正規戦を行うのに歩兵を投入するなら2倍3倍の戦力じゃきかんのでは? 歩兵鎮圧する場合、倍以上の歩兵ぶつけるよりも装甲車部隊ぶつけた方がよっぽど効率いいって寸法だろう
街中のパトロールや戦闘の勃発した地域へ急行する為の脚 敵の火線に晒されながらも攻撃を継続できる防御力 早期に目標を鎮圧する為の火力 何より精神的な威圧感の高さ これらを考慮すれば、歩兵師団を大量に投入するより、快速師団を投入した方が役に立つ まぁ、こんなところで効率的な判断下すなら、もっと別のところでも効率的な運用しろよと・・・・・・
ロシアは遠すぎるし北アフリカ〜は陸海空で連合軍とガチでぶつかるわけだし、ユーゴが唯一マトモな運用出来る戦場だったのだしょう
【そして誰もいなくなった】 ※
>>755-758 、
>>769-774 の続きです(これが最後です)
1942年11月19日、ソ連軍の天王星作戦が発動され、ドン河沿いの枢軸軍戦線には鉄の嵐が吹き荒れます。
そして、12月11日発動の小土星作戦によって、イタリア第8軍はソ連軍3個軍の猛攻に曝されたのでした。
何日間かの激戦の後、イタリア第2&第35軍団の残存部隊は後方へ退却します。
しかし、イタリア第8軍左翼の3個山岳師団は、ハンガリー第2軍と共に持ちこたえていたのでした。
43年1月13日、第2山岳師団“トリデンティーナ”、第3山岳師団“ユリア”、第4山岳師団“クネーンゼ ”、
第156歩兵師団“ヴィチェンツァ”は、未だドン河沿いの守備陣地を保持していました。
ソ連軍は、イタリア山岳軍団の北西に陣取るハンガリー第2軍を撃破します。
そして、ドイツ第24軍団も押しやり、イタリア山岳軍団を孤立させたのでした。
しかし、精鋭のイタリア山岳軍団が手強い相手であることを、ソ連軍は再び思い知らされます。
3日間に渡り、山岳軍団はソ連軍の猛攻に抗しました。 ソ連軍は歩兵の一波を突撃させると、その後に更なる一波を投じます。 イタリア兵は何度も何度も同じ苦痛を味わいますが、集中砲撃と小火器射撃でこれを撃退しました。 国防軍最高司令部(ドイツ)はイタリア山岳軍団に死守を命じていましたが、 軍団長のガブリエル・ナスキー将軍は、己の部下への死を意味する命令に盲従するわけにはいきませんでした。 1月17日、山岳軍団が包囲撃破される前に、彼は撤退命令を下したのです。 極寒の中、彼らの数百`に及ぶ逃避行が始まります。 そして、ユリア山岳師団、クネーンゼ山岳師団、ヴィチェンツァ歩兵師団は撃破されました。 トリデンティーナ山岳師団だけが、未だ殆ど無傷でした。 30000名以上が後退していたのですが、その殆どはイタリア兵から成り、 ハンガリー兵とドイツ兵の生き残りがこれに加わっていました。 彼らは2縦隊で自由への逃避行を試みたのです。 トリデンティーナ山岳師団兵が先導し、ドイツ装甲車&戦車と共に縦隊左側面を防御していました。 情け容赦の無いソ連部隊は、行軍する兵士達に通行税を課します。 続く15日間に於いて、トリデンティーナ山岳師団は敵を20回以上撃退したのでした。 精錬なるアルピーニは、勇気でもって毎日戦闘を行ったのです。
1月26日、ソ連軍が保持する最後の拠点がイタリア山岳兵の目に写りました。 それはニコライエフカ村でした。 ここを越えれば友軍戦線へ辿り着けるのです。 攻撃の為にイタリア兵は残存火砲を送り込みましたが、砲弾残数は僅かでした。 事前砲撃はなかったのです。 アルピーニとドイツ兵から成る尖兵が突撃するや、ソ連戦闘機隊が空から舞い降りて機銃掃射を加えました。 前衛陣地のソ連兵が、村の直前で攻撃を中断したかに見える枢軸軍部隊へ射撃を始めます。
深い雪の中で、多くの枢軸兵が機関銃と対戦車砲によって撃ち倒されていきました。 枢軸兵の進撃は続行されます。 ソ連軍陣地は、手榴弾を投擲したり単に走り越えたりする突撃部隊によって奪取されました。 激戦の後に、アルピーニとドイツ兵は鉄道の停車所を確保します。 そこはソ連軍が第一線の火点としており、ここから村が窺えたのでした。 兵士達は全力疾走で突撃し、家屋内のソ連兵の射撃によって多くが撃ち倒されます。 それらの家々で凄惨な戦いが始まり、枢軸尖兵は村内半ば以上を進みましたが、 主力が到着する前に停車所へと押し返されたのでした。 危ういまでに残弾は乏しかったのですが、彼らは再び駆け出します。 ここでは何時間も激戦が続き、尖兵達は自暴自棄に陥りつつありました。
別の攻撃を仕掛けていた主力は、ソ連守備隊によって村へ到達する前に窮迫していました。
ここを突破出来ないなら、部隊はソ連軍増援に背後を衝かれ、罠に嵌って撃破されることでしょう。
今や、それが非常に現実味を帯びてきたのです。
トリデンティーナ山岳師団指揮官のLuigi Reverberi将軍は、周囲の兵士達の表情を窺いました。
彼らは明らかに恐慌をきたしていました。
Reverberiは身を翻すと、まだ稼動していた3両のドイツ戦車の1両によじ登ります。
そして、召き寄せた兵士達を車上から見下ろしました。
日が没する中、残照を背にしながら彼は叫んだのです。
『トリデンティーナ、アヴァンティ!』(トリデンティーナ、前へ!)
ドイツ戦車兵が攻撃を先導すべく車両を進めました。
即座にアルピーニも発奮し、総員突撃したのです。
○Luigi Reverberi
ttp://digilander.libero.it/avantisavoiait/Gen_REVERBERI.gif
Reverberi将軍が跨乗した戦車は他2両と合流し、村内へ連続射撃を行ないました。 ソ連軍の応射は最初は激しいものでしたが、すぐに弱まり、アルピーニの集団突撃により沈黙します。 Reverberiは戦車から飛び降りると拳銃を抜き放ち、大声で部下達を激励しました。 枢軸兵は進撃を続け、ソ連兵は村から遁走します。 皮肉な事に、ソ連軍は自身がよく使う人海戦術によって敗れ去ったのでした。 激戦ではありましたが、ニコライエフカは陥落しました。 枢軸兵は村内で一夜を過ごし、その後は問題なく行軍します。 2月1日、アルピーニの勇士達は友軍戦線へと辿り着いたのでした。 しかし、生還者達の苦痛はまだ終わってはいませんでした。 戦傷、凍傷、栄養失調で長期入院する者が多かったのです。 凍傷部位の切断は、多くの兵士達に辛苦の体験を永続的に思い出させることになりました。 41年にイタリア軍がウクライナの地に初めて足を踏み入れて以来、30000名以上が戦死しましたが、 その内の21000名は小土星作戦によってもたらされたものでした。 その他に54000名が地獄のような捕虜収容所で息絶えることになるのです。 小土星作戦で包囲されたイタリア軍130000名の内、脱出出来たのは45000名だけでした。 43年3月、残存部隊は本国へ帰還することになり、ロシアの地からイタリア軍部隊は姿を消したのです。 ロシアでの作戦は、前線部隊が指導層の無計画ぶりと物資窮乏に気落ちしながらも、 驚くべき勇敢さを示したというものでした。 そして、遺憾ながら高価な代償を支払うことになりました。 しかし、彼らの払った犠牲はイタリアの敢闘精神の不朽の証でもあるのです。
変な投下の仕方になって申し訳ありません。
乙です 生き残っていたドイツ戦車が何なのか気になる・・・
邪推だが3/J後期とか4/F1なら普通に凄いな。 4/F2なら神話っぽく感じる。
この時期の最貧戦線だし四号長砲身みたいな新鋭車両は少ないんじゃないかと思う 38チェコ戦車とかでは
801 :
796 :2011/02/10(木) 20:40:58 ID:???
【パリから来た男】 ロシアへ侵攻した枢軸軍の内、イタリア軍はウクライナ住民にそれほど悪い記憶を残しませんでした。 41年8月、CSIRがドニエプル近くへ進撃していた際に、兵站上の問題が生じます。 それは、イタリア軍へ投降したがる膨大な数のソ連軍捕虜を抱えたからで、 彼らはドイツ軍の捕虜になることを望んではいませんでした。 夜間、無傷のソ連部隊が投降すべくイタリア軍陣地へ忍び寄り、到着するや両手を挙げつつ “Dobry Italianski”(善良なるイタリア人よ)と口にすることもありました。 これらの投降兵にとって不運だったことに、イタリア軍は後送先の捕虜収容所を管理しておらず、 ソ連投降兵はドイツ軍へ引き渡されたのです。 涙を浮かべたソ連兵達が、ドイツ軍へ引き渡さないで欲しいと懇願していた情景を、あるイタリア兵は記憶しています。 この引渡しの噂はソ連軍内へ知れ渡ったらしく、ソ連脱走兵がイタリア軍前線へ現れることはなくなりました。 一方、同じ枢軸軍のハンガリー軍ですが、こちらは地元住民に悪い記憶を多く残してしまったようです。 そのハンガリー軍の第101独立戦車中隊は、占領地での保安任務に就いていました。 42年半ば、中隊の実質上の創設はフランスでなされます。 人員は第1独立戦車大隊から抽出され、彼らはパリ近郊で訓練を受けます。 部隊は15両のオチキスH39、2両のソミュアS35を装備していました。 ※ハンガリー軍が15両のオチキスH39を受領したのは44年という説もあるのですが、 それですと第101独立戦車中隊の動向と合わなくなる気がします。今回は42年受領説を採らせていただきます。
ロシアに行ったイタリア軍って、イタリア本国が降伏した後も戦ってたの?
ドイツの捕虜収容所行き
>>804 派遣イタリア軍は
>>793 で書かれてるようなかんじかと
AS42サハリアナ部隊なんかは44年まで東部戦線で戦ってたらしい
>>806 その部隊、休戦後にドイツ側についた義勇兵だったんですな
このスレではムッソリーニは良く言われないが、ハンガリーのホルティ、スペインのフランコ、軍人だがフィンランドのマンネルへイムってどうなんだろう?
>スペインのフランコ 凄惨な内戦後、独ソ戦にまともに参加しなかったのは評価できるのではないかと。 >フィンランドのマンネルへイム 掛け値なし、救国の英雄。 軍事と政治のバランスが見事。 >ハンガリーのホルティ よく知りませんので、どなたか、どうぞ・・・
>>810 当時として仕方がなかったでしょうが、今の眼で見ると勿体ない限りですね。
今でも維持費が出せずに朽ちていくまま放置や処分されてしまう物は多々ある…
そのクリスティ、陸軍がいろいろ研究した最終型のT4E2っぽいな。限定採用されたけど 1943年にスクラップかあ。その頃いとこのT34は東部戦線で活躍しまくってるのがなんとも物悲しい
【我が友・バデージ】 ※
>>769-774 の補足です
1941年のCSIRのロシア侵攻時、ボローニャ生まれの23歳のアルバーノ・カステッレット砲兵中尉は、
第3騎馬砲兵連隊“Voloire”に属していました。
42年3月、第3騎馬砲兵連隊“Voloire”は、第3騎兵連隊“サヴォイア”、第5槍騎兵連隊“ノヴァーラ”と共に、
騎兵集団“バルボ”を形成します。
42年夏-秋、カステッレット中尉は次のような体験をしました。
「私達はサヴォイア騎兵連隊と共に、ドネツ-ドン河間の果てなきステップを長距離騎乗行軍しました。
真に暑く、気温はしばしば40℃かそれ以上に上昇したのです。
水だけは給水車で我々の元へ運び込まれていました。
水は1日当り1gが各員に支給され、馬には隔日で給されたのです。
常に渇している哀れな馬に水が到着した時は、疝痛を避けるべく彼らが少しずつ飲むよう抑制し、
そのことに大変な労力を費やしたのでした。
9月の末頃、部隊はノヴァーラ槍騎兵連隊の支援を命じられました。
ある日、後退するソ連部隊を捕捉すべく行軍していた際、
大きな納屋のある村へ到着したのです。
指揮官は、私達の2両の弾薬車の隊と疲弊した何頭かの馬を後方に残した上で、前進しました。
ボド大尉は、私に一昼夜村に留まり、翌朝追求するよう命じたのです。」
「同日の午後、私の元へ下級将校が到着し、部隊へ合流すべしという命令を伝えてきました。 その将校は、翌日に部隊を追求することになっていました。 私は壮麗なアイルランド産栗毛の7歳馬のバデージ号に跨り、 先行の多数の馬が通り過ぎた跡を辿りながら、草原を速足で前進しました。 しかし、果てなきロシアの平原ではよくあることですが、 夕暮れの後には、あっという間に夜の帳に包まれてしまうのです。 3時間そこそこの後、突如として私は闇の中に1騎でいることになったのでした。 月は出ておらず、草原に形作られた騎馬部隊の通過跡はもはや識別不能でした。 私の右と左で自動火器の射撃音がしました。 このような状況に於いては、己の部隊と出会うよりもソ連兵の手に落ちる可能性の方が高いと、私は理解していました。 私は馬首をめぐらすと、バデージに全てを委ねることにしたのです。 手綱を緩め、静かな速足で漆黒の闇の中を約3時間ばかり進みました。 気付けば、全家屋の戸が閉められている廃村にいたのです。」
「しかしながら、バデージはどんどん進み、閉ざされた戸の前で立ち止まりました。 村を占拠しているのがイタリア軍なのかソ連軍なのかは分からなかったですから、 私はいくらか躊躇した後で下馬し、胸をドキドキさせながらノックすることにしたのです。 戸が開いた時、私はそれが残置した馬と砲兵と守備の槍騎兵がいる、あの納屋であることに気付きました。 私は大きな溜め息と共に、自分の美しい栗毛馬の頭を抱きしめながら呟いたのです。 『ありがとう、バデージ。』 バデージ、私の哀れな友よ。 撤退時の悪夢の中、君の身に何が起きてしまったのだ? いつまでも私は、君のことを追憶するだろう。 私は連隊に着任した時に、君を割り振られたのだ。 平時でも戦時でも、君は誠実な僚友であったのだ。」
818 :
名無し三等兵 :2011/02/12(土) 19:29:26 ID:tGdfOPTv
うーん じゃペタンも
1942年てT34ショックでPak38/40以外にゲルリッヒ砲やらPak36(r)やら手当たり次第に作ってる頃だな。 イタリアにPaK97/38供出してたのか。太っ腹だな
>>820 太っ腹つーか、かなり無理しての見栄張りだろうな
捕獲兵器ならフィンランド他にも転売してるよ、ドイツ。
>>817 泣けるなあ。でもドイツ軍のセバストポリ撤退時よりはまだいいな。
兵士たちがくるぶしまで溜まった血の海の中で号泣しながら馬を撃ち殺してったみたいだから
一応M18はクリスティー式で再従兄弟みたいな感じじゃなかったか
と思ったらトーションバーですた。ちゃんと調べるべきだなあ
M18ヘルキャットの前に二つあった試作戦車駆逐車がクリスティー式だった。
とーしょんばあ(´・ω・`)なんか可愛い M18ってちゃんと速度活かした使い方されてたのかな……
M10等の駆逐戦車は、装甲が薄い為、撃ち合う事が出来ないから待ち伏せ攻撃が主っていうのを見た事がある。
アレは超高級対戦車砲だからなー 金持ちはすげぇや
速いのは武器だよなあ どんな大破壊力の武器も当たらなきゃそれまで 1000〜1500mも離れてればチョロチョロと動いたり 止まったりする物に 一発必中なんて至難の業だもん。 当たらずの内に無理矢理距離をつめて大物を撃破するのがソ連式 距離が詰まるまで待ち伏せてやっつけるか、無理だとわかったら 高速ですっ飛んで逃げるのがアメリカGMC式 ・・・とかw
GMCの機動力は、敵戦車が出たという知らせを受け、急ぎ駆けつけるためのもの。 やっぱ脚の早い一見戦車っぽく見える対戦車砲なのだな。
WW2参戦前のアメリカってのはひどく暢気で自国が世界大戦に巻き込まれたり 海外に兵力を派兵するなんてのはありえないみたいな風潮でして。 だもんでドクトリンも「米本土に上陸してきた敵軍を迎撃する」ってのが基本 だもんで 歩兵と中戦車が防衛戦を引いて敵軍を食い止める ↓ 強力な敵が現れてピンチになったらGMCが騎兵隊のごとく登場して撃破 ↓ 敗走する敵を軽戦車と機械化歩兵が追撃これを海に叩き込む みたいなことを考えてたそうな
ハンガリーは主力が国産化したイタリアの豆戦車だったから喜んだろうな
ところで74式に口を出した空冷厨の人って原氏? 他所の国で空冷2ストなんてあったんだろうか……
>>835 一応その、スレタイに則って、他のスレで聴いた方が良いと思うよ
【バー川の貂】
1944年8月29日、スロヴァキアで蜂起が始まります。
進撃するドイツ軍と蜂起軍との最初の戦闘の一つは、スロヴァキア北西部のジリナとマルチンの間で生じました。
Mala Fatraの尾根を横切るバー川の狭い谷を、スロヴァキア軍とフレンチ・パルチザンが守備しました。
それらのフランス人の殆どは捕虜収容所からの脱走者で、
スロヴァキア山岳地帯で活動しているパルチザンに加わったものでした。
彼らの指導者のGeorges de Lannurien大尉は、第1チェコスロヴァキア・パルチザン旅団から来ていました。
8月31日、フレンチ・パルチザンは、バー川向かいのStarhrad城旧跡に面した
Domasinの山の斜面に壕を掘ります。
2個のスロヴァキア大隊(約400名)は、道や鉄道トンネルの上の高所に陣地を設営しました。
しかしながら、左岸地点はソ連将校のVelicko指揮下のパルチザン部隊が守備を約していたのですが、
不明な理由で彼らは展開しなかったのです。
守備隊は機関銃、小銃、手榴弾、2門の3.7cm対戦車砲、3両のLT-38、1両のマーダーVH型を装備していました。
装甲車両は、鉄道トンネル内やフランス人陣地背後の道の曲がり角に潜伏していたのです。
防御線後方8`程の地点には、数門の10cm榴弾砲が展開していました。
○蜂起支援の為に飛来したソ連軍機
ttp://img90.imageshack.us/img90/7435/pict5479ix9.jpg
8月31日朝、ドイツ軍偵察隊がStrecno谷へ向け前進しましたが、 砲兵射撃と機関銃火によって停止し、後退していきました。 最初のドイツ軍の攻撃は、装甲兵員輸送車を従えたW号戦車が先導しました。 戦車は谷間深く侵入し、フレンチ・パルチザンの近接戦闘によって行き足を止められます。 フランス人はDomasin丘の斜面から、手榴弾でもって戦車縦隊を攻撃しました。 A.Poupetの操作する3.7cm対戦車砲は、先頭戦車に命中弾を与えます。 2両目のW号戦車も損傷を被り、ドイツ軍は後退を始めました。 遂に、マーダーVの7.5cm砲がトンネルの外を窺い、3両目のW号戦車に一撃を加えたのです。 その間にも、ドイツ歩兵の一部は川を渡渉し、全く守備されていない左岸を即座に確保しました。 彼らはStarhrad城旧跡地区に射撃陣地を設け、右側面から迫撃砲弾と機関銃火がフランス人陣地を捉え始めます。 フレンチ・パルチザンは多数の死傷者を出しました。 午後、6機のJu-87D-3がスロヴァキア軍のSlajchart大隊の守備陣地を叩きました。 空襲と激しい側面射撃の組み合わせの前に、フランス人とスロヴァキア大隊は撤退したのです。 彼らはDomasin丘とRakytie丘の間にある森の中に、新たな防御線を築きました。
840 :
名無し三等兵 :2011/02/14(月) 22:06:53 ID:SpsqVVM5
誰か慰霊碑に手を当てて泣いているアメリカ兵?の画像知らないか? 慰霊碑のむこうに戦友がいるやつ
しらん
>>839 マーダーの活躍が素晴らしい
きっとマーダー神と称えられたろう
>>680 トランスミッションの事でふと思ったんだが、パンターのトランスミッションのアクセスパネルは一体何処にあるんかねぇ?
パンターの整備性の悪さは有名だけど、もし操縦手・前方機銃手のハッチからしかトランスミッションを弄れないのならそれも整備性を悪化させた要因の一つ?
・・・て、全然マイナー戦車の話じゃねぇや・
操縦手と無線手のハッチが付いてる車体上面のパネルを外すのだ。
>>845 操縦手・無線手ハッチの周辺の一回り大きいパネルラインがそれ?
それでも、整備はやりにくそうですよな。
・・・・・・そして余計に分からんのがヤクトパンター。
ルーティーンの注油や簡単なメンテはそのまま
中からやるんだな。
ミッションまるっと交換する時は
>>845 ちゃんの言うとおり。
森の中でFamoのリカバリートラックと一緒にみんなで
わいわいと交換中の有名な写真が有るよ。
焼くパンはねえ、砲を外して、砲基部の装甲カラーを外して そこから抜き取る以外に無いだろうなあ。
>>848 うわぁ、メンドクセェ・・・
ヤクトパンターって、フロントヘビーな上に運用上頻繁に信地旋回する必要があったから、トランスミッションが逝きやすかったって話だが。
>>849 焼くパンは俺の想像ね。
どうみても天板は溶接してあるし
底部にはそんなにでっかいアクセスパネルは無いし。
ひどい話だよ・・・w
>>850 そもそもパンターの車台はトーションバーサスペンションなんだし、底からトランスミッションを抜くなんて選択肢はありえんなぁw
・・・・・・なんというか、なぜドイツが戦争に負けたのか、よく分かった気がする。
ティーガーなんて砲塔外さないといかんからなあ。 中隊に可動戦車が3両だけとかになるわけだわ
I号FとかII号Lもパネルがないからそんな感じなんだろうな。 米ソだとM24とかT70みたいに軽戦車だから傾斜装甲にパネルがあってもいいやって感じだけど
パンターのトランスミッションの重整備は砲塔外して分解しないと無理のようです。
最善か無かw
M11/39の37mmは徹甲弾だけ搭載してて榴弾は搭載してなかった、って話をどっかで見たんだが、 本当かね?
37mmの榴弾なんて威力は知れてるよな。 爆発力は手榴弾程度じゃね? ま砲弾自体に運動エネルギーがあるから 比較は出来ないだろうが。 英軍の戦車砲にも似たような話があったっけ。
>>859 94式歩兵砲の37mm榴弾の殺傷半径が、だいたい7〜11mって言われてるね。
単純に機関銃を掃射するよりは強力だろうけど、確かに物足りない。
>>860 どの国の制式兵器?>94式歩兵砲
94式37mm戦車砲の間違い?
日本の37mm榴弾なら効果半径は5-7mしかない
M11自体が初めからM13の繋ぎとして生産され 47mm砲が35年ごろには配備開始されているから 37mm砲もM11搭載のもの意外殆ど配備されていない 榴弾の数がそろえてあったかすら怪しい・・・・・・
採用当時はポピュラーな口径だし他国も榴弾積んでるからさすがに徹甲弾のみってのは。
>>574 に書かれてるベースになった12t級試作戦車も固定戦闘室に45mm榴弾砲搭載のミニブルムベアみたいな
突破戦車なんで、その思想の流れなら榴弾載せてるはず。
864 :
名無し三等兵 :2011/02/15(火) 20:50:23 ID:V2sY3Xe+
>>842 持ってたらくれないか?
スレ違いなのはわかってるけど どうしても欲しいんだ
頼む、誰か
>>855 下は砲身長の話で、公式データだとライフルが彫ってある部分だけで長さを
出してるから、制式名称にある口径比と、このサイトに乗ってる砲身長が違うって言ってるはず。
870 :
名無し三等兵 :2011/02/15(火) 21:41:32 ID:V2sY3Xe+
>>866-869 本当に有難う ずっと探してたんだ、一度見たらなんか忘れられなくてさ
そして本当にスマン 勝手な理由でスレの趣旨を壊してしまって
本当に有難う
うぜぇ
おい、カス共!真のカスとは俺様のことだ!喧嘩すんじゃねぇ! チハたんぶつけっぞ!
じゃあ自分は、グレイハウンド用意します。
【老兵と士官候補生】 1940年のフランス戦時、仏軍首脳部はルノーFTの老朽化をよく認識しており、 それらの大隊を主に予備として保持していました。 ごく僅かな例外を除いて、ルノーFTが大いに戦闘を行なったという例は見られませんでした。 恐らく、FTが関わった中でもっとも有名な戦闘は、シャトー・ティエリーで生じました。 フランス戦車学校が速成した大隊に、ルノーFTの1個中隊が含まれていました。 中隊はマルヌ川南岸沿いの陣地を保持し、要の橋梁はルージュ士官候補生指揮の1両のFTが占めていたのです。 6月10日、2両の装甲車に護衛されたドイツ軍自動車縦隊が、川を越えようと図りました。 ルージュ士官候補生はドイツ軍の射撃によって戦死する迄に、約10両のトラックと車両を撃破したのでした。
【“SOMUA”といた日々】
1940年9月、セネガルで自由フランス軍が上陸を図ったメナス作戦が失敗します。
ヴィシー・フランスは連合軍の次なる攻撃から植民地帝国を防衛すべく、
アフリカに近代的な戦車から成る1個中隊が必要であると、ヴィースバーデン休戦委員会の説得に成功しました。
ドイツ人はそれを、ド・ゴールの脅威に対するダカール植民地への増援と見なしていましたが、
フランスの真の目的は、戦闘に耐えうる機甲部隊を枢軸の監視外で創設することにありました。
41年9月1日、第12アフリカ猟兵独立集団(※42年2月15日からは第12アフリカ猟兵連隊)が創設され、
11月にセネガルへ運ばれます。
中核となるのは1個オートバイ中隊で、
これは1個本部と4個小隊(※第2&第5アフリカ猟兵連隊から抽出されたサイドカー13両)から成っていました。
しかしその前に、部隊向けの23両のソミュアS35戦車が、既にフランスから発送されており、
こちらは7月19日にセネガルのティエス港で降ろされていました。
それらはセネガル行きの前にアルジェリアのオランへ届けられ、カサブランカ行きの列車に載せられていたのです。
そして、乗員が訓練されていました。
○セネガル・ティエスでのオートバイ部隊
ttp://storage.canalblog.com/71/28/729732/52715265.jpg
セネガルで多くの時を安穏と過ごした後、第12アフリカ猟兵連隊は自由フランス軍へ加わることになります。 43年1月21日、連隊はオランへ戻り、2月8日にアルジェに到着しました。 2月20日、Gribius大尉指揮の第2戦車中隊がチュニジア戦線へ送られます。 その地で、第2戦車中隊は第12アフリカ猟兵連隊第7中隊として、第19フランス機甲集団に組み込まれました。 アフリカでのフランス軍は変則的で、フランス機甲集団は異質な部隊から成り立っていました。 第19フランス機甲集団 ・第5アフリカ猟兵連隊第1中隊…バレンタイン戦車 ・第12アフリカ猟兵連隊第7中隊…ソミュアS35戦車 ・第9アフリカ猟兵独立集団第4中隊…M10GMC ・1個スチュアート軽戦車中隊 機甲集団は3月17日のガフサへの攻撃を皮切りに、チュニジア作戦の最終段階に於いて戦闘を行ないました。 5月、ソミュア中隊は最後の作戦に従事します。 それは、南部から進撃する英第8軍を支援して、ボン岬半島を遮断するというものでした。 そこへは200000名以上のドイツ&イタリア部隊が、見込みのない海路での撤退に望みを託して集結しており、 チュニジアの“スターリングラード”となっていました。
5月9日、ソミュア中隊は攻撃を開始しますが、最初の内はまともな抵抗に遭遇しませんでした。 第2小隊は第1小隊の2`後方を続行します。 第2小隊員は、先行した仲間の辿った運命を目撃しました。 彼らは偽装したW号戦車に葬り去られたのです。 その瞬間、Baillouは4つの閃光を目にしました。 そして、飛び散る金属片とたなびく黒煙、2両のソミュアを焦がす炎も見えたのです。 この広々とした地では、ソミュアの47mm砲は遠距離のW号戦車には無力でした。 Baillouはシャーマン戦車を1両でも装備していたならと、後に想起するのでありました。 第1小隊の2両のソミュアが撃破され、他3両はそのスピードのおかげで逃げ切ることが出来ました。 後に撃破された2両から6名の焼け焦げた戦死体が見付かり、 1両からは12発の75mm砲の命中弾が確認されたのでした。
5月10日、ドイツ兵が手を挙げ、ソミュア中隊の戦闘行動は終了します。
部隊はボン岬への前進を続行しましたが、その際にドイツ兵の集団の前を行進しました。
Baillouが見た印象では、ドイツ兵は落ち込んでいるようには感じられず、
少し軽蔑したかのような笑みを浮かべながら、フランス部隊を眺めていたのです。
彼らは自分達が未だに支配民族に属し、この2年間、エル・アラメイン〜トリポリ〜チュニジアの砂漠に於いて、
イギリス人に苦難を強いてきたのだと、フランス兵に語りかけているかのようでした。
軍帽の下に碧眼と日焼けした肌を持つドイツ兵は、兵士の見本と映りました。
Baillouは彼らに感銘を受けたのでした。
5月11日、Sainte Marie du Zitでイタリア軍兵站部が中隊の手に落ちましたが、
イタリア兵の態度はドイツ兵とは異なり、親切にも員数より多くの朝食を供してくれました。
エスプレッソ、焼きたての小さなパン、特別配給としての缶詰が積み込まれた素晴らしい3両のトラックを、
イタリア兵が運転して続行し、共に行進したのです。
この同じ11日、第19軍団のフランス部隊が独第21装甲師団の残存部隊を粉砕し、
その2日後、北アフリカの全枢軸軍は降伏しました。
チュニジアでの戦闘期間中、ソミュアは4両が失われ、19両が生き残りました。
その内の17両を第7警備連隊第1中隊へ引き渡し、第12アフリカ猟兵連隊は米国製戦車で再装備されることになります。
しかし乗員は、S35戦車を手離す前に“SOMUA”と印されたプレートを引き剥がし、
受領したシャーマン戦車へ溶接したのでした
(※Baillou氏の回想では、引渡し時のソミュアを13両としています)。
○第12アフリカ猟兵連隊のソミュアS35
ttp://storage.canalblog.com/50/04/729732/53893475.jpg ○43年6月、チュニスでの戦勝パレード。手前にソミュアS35
ttp://storage.canalblog.com/14/12/729732/53893227.jpg
>>865 サンクス!
まだまだ大まかにしか訳せないもので、困りものだよ
同じ47/32砲でもフィアットとブレダで威力違うのもその辺が理由なのかしら?
そういえばイタリア陸軍は、海軍の旧式砲や沿岸砲を結構な数配備しているよね
L3/38の13.2mm機銃も、海軍が20mmに更新する前の機銃じゃなかったけ?
砲の更新が間に合っていないのを補う措置か……
>>876-880 乙です。
フランス戦車はトランプの小隊マークがなんつうか力が抜ける・・
しかしこのクラスの砲塔でも一人用とか大変だなあ戦車長
はぁとのマークを初めて見たときは驚いた。戦争する気あるのかとw
フランス軍って電撃戦で死者5万、行方不明者・捕虜190万出してたような
>>885 後の南フランスでの戦いも入ってるのかな。
アラスの戦いで、ロンメルに88ミリ砲を使わせたのは、マチルダではなくシャールb1bis。
でも第3軽機械化師団ってソミュアとオチキスじゃねえの 補充はルノーBだったのか
見た目に似合わずハンドル操作でヌルヌル動くフランス戦車ステキです。
890 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 06:28:06 ID:XEF6WPor
やっぱりメシはイタリア軍の方が上手そうだ。
平時だと飯が一番美味いのって フランス>イタリア>ロシアあたりがベスト3かね? ドイツ料理とかイギリス料理が美味いってあまり聞かないな。 アメリカは不味い話の方が多いw 戦時中だと、レーション(野戦携行食)が一番マシだったのって やっぱアメリカ? って戦車に関係ねーなw
記憶モードで適当に 砲兵観測3突だっけ? スペインのロケット3突。 ガス戦車 なんか砲塔小さい。合成かダミー? 木炭戦車 石炭蒸気機関戦車 スウェーデン作だったかなあ 連装KV初めて見た スターリンがイラっとした関連 渡河仕様は戦後かな?
上から6番目ってボイラー積んでんのか。でかい車体だなあ。
砲が連装のKV-1は最初の試作型、突撃砲みたいなのはKV-7-IIだな。
【人民戦車が行く】 1942年1月23日、ボスニアのRakici村で、 僅か152名のパルチザンがイタリア軍縦隊を待ち伏せました。 短時間の交戦の後、L3/33タンケッテ1両と操縦手1名がパルチザンの手に落ちます。 後に、この操縦手はパルチザンの許に留まることを決意したのでした。 翌日、イタリア軍は再び攻撃に出ましたが後退し、タンケッテを更に喪失したのです。 4月27日、パルチザンはPrijebojへの攻勢中にタンケッテを使用しました。 ウスタシャの守備隊は不意を衝かれ (ウスタシャはタンケッテを目にした時にイタリア軍だと誤認した上、対戦車防御の準備をしていませんでした)、 即座に後退します。 翌日、タンケッテはPlitviceのウスタシャの守備隊に対して用いられます。 この戦闘中、タンケッテ1両がウスタシャが塞いでいたホテルの扉へ体当たりをしました。 ウスタシャへの攻撃中、1両は酷く損傷しましたが、後に修復されます。 タンケッテは対戦車訓練にも用いられたのでした。
43年4月、イタリア軍がリカの陣地から撤退を開始し、
4月10日、パルチザンはこれを追撃しました。
パルチザンの歩兵と戦車は、OtocacからSenjへ後退するイタリア軍縦隊を攻撃します。
その時に、1両の伊軍AB41装甲車がパルチザン戦車隊を待ち伏せていました。
パルチザンのタンケッテ2両が乗員もろとも撃破され、H39は損傷したのです。
続くゴスピッチ守備隊への攻撃で、パルチザンのタンケッテ1両が対戦車砲で失われました。
2ヶ月間のパルチザンの春季攻勢で、戦車中隊は6名が戦死し、11名が負傷したのでした。
6月、中隊はDrvar近郊で、もう1両のオチキス戦車を鹵獲します。
イタリア休戦後、クロアチアでのパルチザン最高司令部の為に、戦車大隊が創設されました。
大隊はタンケッテ(L3/33&L3/35)22両、装甲車7両、H39戦車1両、L6/40戦車2両、
人員約100名から成っていました。
Ogulin近郊のGeneralski Stolでの戦闘中に、装甲車両同士の興味深い交戦が生じました。
パルチザンのAB41が偵察に出たのですが、ドイツ軍歩兵縦隊と出くわしました。
ドイツ兵は、このAB41を明らかに自軍のものだと思っていました。
AB41は発砲しましたが、その瞬間、後方の曲がり角から3両の独戦車(ソミュア&U号戦車)が
出現したのです。
AB41は射撃を8回手早く行なった後、独戦車へ損傷を全く与えることなしに後退しました。
面白いことに、このAB41の乗員の一人のJohann Jorgensenは、ドイツ軍からの脱走兵でした。
○パルチザンに鹵獲されたL6/40
ttp://www.wwiivehicles.com/yugoslavia/foreign/l6_40_01.jpg ○パルチザン保有のAB41
ttp://img174.imageshack.us/img174/7775/fiatab401ly4.jpg
映画「ネレトバの戦い」とか「風雪の太陽」が見たくなったな。 DVDもBDも無いんだよな。
>>902 映画は結構見てきたつもりなのに知らなかった!
出来たら詳細教えてぐぐれかすとか言わずに。
あなたの目を通した話を聞きたいのです。
ダンケダンケー
【バグダードへの進軍】
1939年9月、イラク王国は英国との条約規定により、ドイツとの国交を絶ちました。
しかしながら、40年3月にラシッド・アリが首相に就任します。
彼と汎アラブ主義者達は、ドイツとイタリアに特に親近感を抱いていたわけでもなかったのですが、
汎アラブ・反植民地主義の政治的目標を達成する為の支援を、枢軸が与えてくれる絶好の機会だと認識していました。
そのような次第で、40年6月にイタリアが参戦した際には、
イラクはイタリアと国交断絶はしなかったのです。
チャーチルとしては不愉快な事でした。
40年7月、英国の国威を示すべく1個旅団をインドからバスラへ移駐させることになりましたが、
これは東アフリカでの作戦の為、スーダンへ送られました。
12月迄に、ラシッド・アリを排除せよとの英国からの要求の声はますます大きくなり、41年1月、アリは失脚します。
後任は、汎アラブ主義者ながらロンドンには好都合な人物でした。
3月末、ラシッド・アリと“ゴールデン・スクエア”(アラブ民族主義者の大佐4人による結社)は
クーデターを敢行し、4月3日にアリは首相に返り咲きます。
チャーチルには不快の念だけが残ったのでした。
○ラシッド・アリ
ttp://img3.imageshack.us/img3/5476/rashidaligaylani.jpg
RAFの第4飛行訓練学校は、ハッバニーヤのユーフラテス川沿いの鉄柵に囲まれた区域に位置していました。 部隊は、オーダックス:32(or30)機、オックスフォード:29(or27)機、グラディエーター:9機、 ゴードン:8(or7)機、ヴァレンティア:3機、ブレニムMk.I:1機、ハート数機(or49)から成っていました。 41年半ばの基準に於いてでさえ、これらは惨めで無用なジャンクの集まりでした。 400名の英歩兵が新たに到着したハッバニーヤ空軍基地でしたが、 現地徴集兵(殆どがアッシリア人、アラブ人とクルド人も含まれる)の1個大隊、 RAFの装甲車18両も守備に就いていました。 そこには守備隊の妻子も居たのです。 イラク軍は4個歩兵師団(1個師団はクルド人監視の為にキルクーク、2個師団はバグダード、 1個師団はバグダード南方にそれぞれ駐留)、1個機械化旅団(タンケッテ16両、クロスレイ装甲車14両、 2個自動車化歩兵大隊)、河川砲艦4隻、航空機60機(英、米、伊の機体)で構成されていました。 イラク部隊は、境界線から僅かに1000ヤード離れた、ハッバニーヤ飛行場を見下ろす断崖上に布陣しました。 それらの戦力は以下のようなものでした。 ・1個歩兵旅団+2個自動車化歩兵大隊 ・1個自動車化砲兵旅団(3.7インチ榴弾砲12門) ・1個野砲旅団(18ポンド砲12門、4.5インチ榴弾砲4門) ・装甲車12両 ・1個自動車化機関銃中隊 ・1個自動車化通信中隊 ・1個対空・対戦車中隊
パレスチナからハブ・フォース(主力は英第4騎兵旅団で、アラブ軍団の部隊と
“トランスヨルダン・フロンティア・フォース”を含む)がハッバニーヤへの圧力を軽減すべく到着しました。
インド旅団もバスラに上陸し続け、ゆっくりと北上を開始します。
5月19日、ハッバニーヤの連合軍はバグダードへゆっくりと進撃を始めましたが、未だ無勢でした。
枢軸軍機は、27日(又は26、28日)に到着したイタリア軍の12機(or11)のCR42も含め、到着し続けますが、
その航空作戦は、機材と燃料の著しい不足により大きく妨げられます。
5月22日02:30、ファルージャでイラク第6歩兵旅団(第3歩兵師団)が反撃を開始しました。
03:00、イラク軍はファルージャ北東郊外へ達します。
市内へ侵入したタンケッテ2両は即座に撃破されました。
払暁に英軍は反撃し、イラク部隊を市北東へ押し返します。
イラク軍は南東郊外への攻撃に切り替えましたが、何の進展も見られませんでした。
10:00、英軍にハッバニーヤから増援が到着し、18:00には残存イラク兵は逃走するか捕虜となったのです。
英軍はタンケッテ6両を鹵獲し、街は平穏を取り戻したのでした。
30日、ハブ・フォースはバグダード郊外へ達します。
バグダードにはイラク軍1個師団がおり、守備隊の数は20000名に達していましたが、
英軍は人員1200名(or1450)に砲8門、RAFの数両の装甲車と非常に弱体でした。
しかしながら、英軍は航空優勢を確保していました。
ラシッド・アリは兵士への月給17000ディナールを着服してペルシャへ逃亡します。
イラクの抵抗は崩れ、5月31日に停戦協定が結ばれ、親英政権が樹立されました。
枢軸軍航空隊は撤退し、イラクの対英戦争は一ヶ月で幕を閉じたのでした。
○イラク軍クロスレイ装甲車
ttp://www.oto6.free.fr/6roues/militaire/Iraq-Crossley-PeregrinPascual.jpg ○イラク軍CV33
ttp://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/Iraq/Iraq-LV33-PeregrinPascual.jpg
>>909 > オーダックス18機、オックスフォード9機、ゴードン6機
あのオックスフォードが光り輝いてるw
915 :
名無し三等兵 :2011/02/21(月) 22:40:49.73 ID:xAgKGwnu
英戦車の中でもクロムウェルの活躍って聞かないよね。 欧州で虎に(゚д゚)ウマーされて朝鮮で走りまわってただけのイメージ……
その割に綺麗な稼動する実車が台数残ってるけどな。 早々と前線から下げられたのが生き残ってるのかな?
>>916 投入時期や部隊的にあんまり損耗しなかったからでは。
チャリオティアとか作るくらいには余ってたんだし。
チャリオティア、見てる分にはかっこいいんだがなあ…。
装甲ペラペラとか戦闘時指揮官は外に出るとか色々無理してる感じが…。
クロムウェルは、ヴィットマンのヤラレ役として活躍してるじゃん。
第30軍団のクロムは快速を生かして地味に活躍している。 82空挺との邂逅はあんま速度関係ないかも知れんけど
>>908 アッシリア人か。紀元前なら2千両近い戦車軍団持ってたな・・・
チwャwリwオwッwトwwwwww
ヒント:メルカバ
>>909 >サヴォイアSM.79、ブレダBa.65、ノースロップ8A、オーダックス
何とまあ、バラエティに富んだ機体構成だ事・・・
このスレは、マイナー飛行機もカバーするのか(笑)
【バルカン戦車隊】
1920年、ユーゴスラヴィア軍は8両のルノーFT-17をブルガリア駐留フランス軍から入手しました。
1930年に48両のFT-17とM26/27を購入し、ユーゴ軍のルノーFT系列の保有数は計56両となります。
1936年、それらの車両で第1戦車大隊が創設されました。
大隊は3個中隊から成り、各中隊は3個小隊(1個小隊×5両)で構成されました。
中隊はそれぞれ戦車1両を予備として持ち、大隊戦力は48両でした。
40年にルノーR35が到着する迄、大隊は1個中隊のみを訓練に用い、残りは予備となっていました。
ルノーR35を受領後、旧式のルノーFT系列は3個の独立戦車中隊として展開したのでした。
ルノーFT系を装備した3個の独立戦車中隊は、各3個小隊(1個小隊×5両)から成っていました。
41年4月6日、枢軸軍がユーゴスラヴィアへ侵攻します。
4月11日、セルビアのトポラ近郊で、ユーゴ軍1個戦車中隊と1個対戦車中隊は、
ドイツ軍戦車集団に抗しますが、ユーゴ軍戦車中隊は多大な損害を被り、M26/27は全てが失われました。
又、何両かは燃料欠乏の為、乗員の手によって破壊されました。
翌12日、ポジェガ=スラヴォニアから運ばれたM.Markovic大尉の自動車化砲兵中隊が、
Mladenovac郊外で独第11装甲師団を食い止めることに成功します。
ユーゴ砲兵は負傷したり捕虜となる前に、7両のドイツ戦車を撃破したのでした。
FT-17を装備した1個中隊が、マケドニアに展開していました。
その内の1個小隊はStracin周辺で激しく抵抗し、これを打ち破るのにドイツ軍は航空支援を要したのでした。
2つ目の小隊はスコピエで交戦することなしに失われ、
3番目の小隊は、恐らくギリシャへと撤退したのでした。
○41年4月、放棄されたルノーM26/27とFT-17
ttp://h-3.abload.de/img/bundesarchiv_bild_146-uidr.jpg
1941年4月10日、ユーゴ軍第1戦車中隊(ルノーFT-17を恐らく16両装備)はザグレブに於いて、
戦わずしてドイツ軍に降りました。
独軍はこれらのルノーをスクラップとするよりも、ウスタシャへ供与することにしたのです。
7月1日、ザグレブのクロアチア参謀本部はドイツ軍に、
イタリア軍から戦車を受領する迄、25両の鹵獲旧ユーゴ軍戦車を借用出来るかどうか尋ねました。
10月10日迄に、クロアチアはポーランド製の18両のTKSをウルスス・エンジンと共に受領していました。
12月31日の時点で、クロアチア機甲部隊は人員100名から成り、TKSを18両装備していたのでした。
42年6月1日付の英情報部の報告書に、クロアチア軍は12両の旧式ルノー戦車を保有しているとの記述がなされます。
これらは解体されて砲塔が移されるか、装甲列車に組み込まれるかのどちらかで、
地上での通常用途に用いられることは全くありませんでした。
42年秋、クロアチアはハンガリーのタンケッテ10両と予備のコバクス・エンジン15台、
機関銃弾50万発を得ます。
この時期、クロアチアはドイツから20両のLT-34を受領しますが、
それらは先ず、シュコダの工場でオーバーホールをせねばなりませんでした。
シュコダが受け取ったLT-34の状態は酷いもので、
戦車はスクラップとなり、クロアチアへは届けられなかったのです。
※上記の他に、イタリアからタンケッテを10両受領との資料もあります
○41年、ウスタシャのタンケッテ
ttp://www.ww2incolor.com/d/439946-1/IMAGE035 ○42年夏、Kupres防衛戦時のウスタシャの装甲車
ttp://www.axishistory.com/fileadmin/user_upload/n/ndh-ustasha-tank-bosnia.jpg
43年2月14日のドイツ軍の報告書に、クロアチアは約40両の軽戦車を保有していると記述されました。 43年遅く、イタリア休戦後にドイツ軍が鹵獲したL6/40若干数がクロアチアへ供与されます。 12月15日、ドイツ軍はクロアチアが保有している装甲車両の種類について、 T号戦車、ルノーR35、L3としています。 飛行機で逃亡したクロアチア参謀本部のIvan Babic中佐は、 44年1月15日、イタリアの連合軍情報部に、クロアチア山岳旅団と猟兵旅団は“フレンチ・オチキス”(H39?)、 “ウルスス”(TKS)、“アンサルド”(L3)を装備していると語ったのでした。 44年晩春、クロアチアはセモヴェンテ47/32若干数を受領します。 それらの恐らく4両を超えない車両は、ポグラヴニク親衛旅団の砲兵隊に配備されました。 同じく春、数両のオチキスH39がドイツ陸軍経由で供給され、山岳旅団と猟兵旅団へ割り当てられました。 ザロガ氏はこれを10-16両の可能性があるとしています。 44年中頃、ドイツはクロアチアへSdKfz.251を12-15両供給したとする戦後ソースがありますが、 このことを裏付ける書類は未だ見付かっていません。 44年秋、戦後ソースのいくつかはV号戦車N型20-25両をクロアチアが受領したとしますが、 これも裏付けとなる書類は未だ見付かっていません。 同じく秋、クロアチアは数両のW号戦車を受領しました。 戦後ソースで、これをF型10両、G型5両とするものもありますが、 あいにく裏付ける書類は未だ見付かっていません。
1944年12月1日、ドイツ軍はクロアチア軍保有装甲車両を85両としています。
45年1月、この地域でのソ連軍とブルガリア軍の進撃を食い止めるべく、
ドイツ軍供給の戦車を装備したクロアチア軍がスリイェム戦線へ赴きました。
これらはW号戦車であった可能性があります。
それが敵戦車へ抗すべく、“前線”へ送り出せる唯一のクロアチア戦車でした。
但し、これはあるベテラン兵の回想に出てくる出来事で、書類上の裏付けは欠いています。
クロアチア機甲部隊の主な疑問は、
戦争終結の何ヶ月か前に、突如として現れるV号戦車とW号戦車に関するものです。
それらは本当に存在したのでしょうか?
もしそうなら、何処から戦車は来たのでしょうか?
どのクロアチア部隊へ配されたのでしょうか?
いつ、供与されたのでしょうか?
乗員はクロアチア人だったのかドイツ人だったのか、どちらなのでしょうか?
各型何両だったのでしょうか?
一つの可能性として、これらは45年4月終わりにザグレブへ向かって撤退する迄、
オシエク地区で行動していた3個のドイツ警察戦車中隊に配備されていたのかもしれません。
彼らは43-44年、オーストリア製ADGZ、オチキスH38、パナール装甲車、ルノーR35を装備していましたが、
45年に何両かのV&W号戦車を取得している可能性があります。
その人員は主にドイツ人とドイツ系クロアチア人でした。
もう一つの可能性は、それらの神秘的な戦車は、渋滞に巻き込まれたドイツ軍戦車隊のものだったというものです。
45年5月初め、スロベニアを経てオーストリア国境へ撤退する際に、クロアチア部隊にドイツ軍戦車隊が紛れ込み、
それを目撃した証言者のベテラン兵がクロアチア戦車隊と思い込んだというものです。
○クロアチア軍のものとされるW号戦車
ttp://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/croatia/CRIVg.jpg
>>925-929 乙です。
T-32、スコダ名S-I-d。ミニV突みたいで好きなんですよこれ。ホルもこんな感じになったんじゃないかと想像したり。
しかし結局ドイツが捕獲するとは。ルーマニアも使ったみたいだけどこれが供給されたんかな。
>45年1月、この地域でのソ連軍とブルガリア軍の進撃を食い止めるべく
ブルガリア戦車師団て丸ごとドイツ供給装備なんだよなあ。
写真と同じG型も使ってて同じ黒軍服着てるというカオス状態。
T32いいっすね。なんだかジブリチックな希ガスる
>>925 乙
ケグレスサスペンションのFTだ。
ユーゴでの使用が有名だけど、ポーランドも使ってる。
ルノーFTを更新しようと5両購入して試験したが性能が大して変わらず、
結局それ以上購入されてない。
>>927 の訂正です。
>イタリアからタンケッテを10両受領との資料もあります
×10両
○15両
ハンガリーからの受領数を誤って書いてしまいました。
【20世紀のチャリオット】 1919-20年、ギリシャはルノーFT-17をフランスから輸入しようとしましたが、 当時のギリシャは小アジアでの軍事的冒険に乗り出していた為、 フランスはその輸出を認めませんでした(※発注数は25-30と言われています)。 いくつかのソースでは、ギリシャはその後もこれらのルノーFT-17を受領しなかったとしますが、 1920年代後半に1両のルノーFT-17を評価用に得たとするソースもあります。 そして、ギリシャは何両かのルノーFT-17(※恐らく10両)を発注し、 1929-30年頃に届けられましたが、それらの正確な数は分かりません。 1940年10月28日にイタリア軍がギリシャへ侵攻した際、 ギリシャはルノーFT-17を11両保有していたと、いくつかの書籍では述べられています。 1926年、ギリシャは確たる考えなしに戦車連隊を創設しようと思い付きました。 この案は長続きしなかったのですが、審査と実験の為にルノーNCを1両購入しました。 これは1929-30年頃に届けられます。 1930年代の間、ルノーNCは広範囲な試験で用いられ、最終的にスクラップとなったようです。 実はこのルノーNCは、上記の20年代後半に評価用に受領したとされるルノーFT-17と同一車両なのかもしれません。 様々なソースが、この車両の正体を混同しています。 又、1920年代後半に、ギリシャは明らかに1両のフィアット3000をイタリアへ発注していますが、 いくつかの書籍ではこの事は無かったものとしています。 これは上記のルノーNCとFT-17を混同したのと同じようなケースなのでしょう。 試験用に購入されたフィアット3000は、1940年以前にスクラップとなるか、運用停止となったものと思われます。
その間にも、ギリシャは1920年代に何両かのピアレス装甲車をイギリスから購入していました。
英国はアイルランドで、それらをさほど必要としなくなったからです。
これらの車両はその後10年以上に渡って、ギリシャでの各クーデターで使用されました。
1923年、ヴィッカース社はピアレス装甲車10両の販売契約をギリシャと結んでいますが、
それらが新車なのかアイルランドで使用されていたものなのかは、ハッキリしません。
ギリシャの払った額は£7,162.00で、これらの装甲車は1935-38年に運用を停止したものと思われます。
1930-31年、ギリシャは2両のカーデン・ロイドMk.VIをトレーラーと共に入手しました。
費用は£2,900.00で、1929年のギリシャ国内での審査の後に購入しています。
1931年、ギリシャは2両のヴィッカースMk.Eを入手しますが、
1両は機関銃塔を2つ持つA型、もう1両は47mm砲を備える単砲塔のB型でした。
費用は£11,897.00で、発注は1930年11月2日になされ、1931年8月22日に到着します。
この2両はギリシャへ到着した後、追加費用で通話装置が取り付けられました。
これら2両ずつのタンケッテとヴィッカースMk.Eは、短命に終わった戦車大隊を形成します。
又、1941年に第19自動車化師団の軽戦車中隊が装備していたとされますが、
それはありそうもないことで、既にスクラップとされたか仕舞い込まれていたものと思われます。
○ギリシャ軍ピアレス装甲車
ttp://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/greece/Gre-Peerless.gif
1930年代中頃、ギリシャはオーストリアへ何両かのADGZ装甲車を発注しました。 しかし、ドイツのオーストリア併合時に外国からの注文は全て取り消され、 ギリシャはこれらを受け取ることはありませんでした。 しかしながら、少なくとも一人の著者がこれを誤認し、その著書にADGZ装甲車を保有していたと記述しています。 ギリシャのソースによると、 1937年、同国は14両の6d又は7d軽戦車を、フランスかイギリスもしくは両国へ発注しましたが、 発送準備の出来た1938年に、差し迫った戦争に備えるべく接収されたとなっています。 それらの正体は分かりませんが、仏戦車よりも英国のヴィッカース型の可能性の方が高いと思われます。 そして、これらは発送されることは無かったのですが、いくつかの著作では誤った記述がなされています。 1940-41年の作戦期間中、英国は数多くのブレンガン・キャリアをギリシャへ供与しました。 しかしながら、ドイツ軍のギリシャ侵攻により、割り当て予定数の完全供給はならなかったのです。 100両が供与され、第19自動車化師団は77両を使用しました。 同師団へ配備された以外の23両の内、14両は訓練中隊を形成しました。 他9両の行方は不明で、届けられなかったのかもしれず、輸送中に喪失した可能性もあります。 もしくはこの9両が、第3戦車大隊軽戦車中隊(※第19自動車化師団)の9両の“ミステリー”戦車に 該当するのかもしれません。
蘭印軍は100両以上(or73)のヴィッカース軽戦車を英国へ発注していました。 彼らは英国が発送を中止する迄に、20(or24)両を受領します。 蘭印は代償として中古のマーモン・へリントン装甲車49両を受け取りました(※この話は前スレで投下しました)。 英国は1941年初め、この蘭印向けヴィッカース軽戦車をギリシャへ40両供与することにしました。 それらは第19自動車化師団の巡航戦車連隊(※大隊)を形成する予定でしたが、 ギリシャ降伏により発送されることはありませんでした。 結局、これらの“ダッチマン”軽戦車は英軍が本土で訓練車として使用します。 しかしながら、英国は又、第19自動車化師団新設に向けMk.VIB軽戦車を供与することで合意していました。 これは作戦終了時迄に届かなかったとも、それらの内の6又は9両は実際に届けられたとも、 ギリシャ駐留の英第4軽騎兵連隊がその装備車から4又は6両を譲渡したとも言われています。 英第4軽騎兵連隊が譲渡したという説については、ギリシャは最終的に少なくとも1両のMk.VICを受け取っており、 第4軽騎兵連隊の装備車52両が全てMk.VIBであることから、可能性は低いのかもしれません。
1940年10月28日、イタリア軍がギリシャへ侵攻する迄に、ギリシャ軍が保有した戦車は以下の通りでした。 @ルノーNC(又はFT-17)×1(※恐らく既にスクラップか運用停止) AルノーFT-17×10(※恐らく既に存在せず。さもなくば運用停止) Bフィアット3000×1(※恐らく既にスクラップか運用停止) Cカーデン・ロイドMk.VI×2(※恐らく既にスクラップか長期間運用停止) DヴィッカースMk.E×2(※恐らくモスボール状態か効果的な運用は出来ず) しかしながら様々な書物では、これら全ての戦車が、 アルバニア戦線で最初の数ヶ月間、活動したと記述しています。 ですが、ギリシャのソースはこの見解を裏付けてはいません。 とはいえ、作戦初期のギリシャ軍がこれらの老朽化した時代遅れの戦車と共に、 強大なイタリア軍へ勇敢にも戦いを挑んだとする考えは、ロマンチックなものではあります。 作戦期間中にギリシャ軍が得た装甲車両は以下の通りです。 @L3×45以上(※約35両を部隊運用、その他は部品取り用) Aブレンガン・キャリア×100(※供給予定数は約180両) BヴィッカースMk.VIB又はMk.VICもしくは両方×4-10
1941年4月6-9日、第19自動車化師団がドイツ軍と交戦した際の模様を、 何人かのギリシャ指揮官が述べています。 第19偵察群は、3個の隊から成っており、 それぞれの隊は1個キャリア小隊、1個サイドカー混成分隊、軽中隊からの1個小隊で構成されていました。 偵察群のボーイズ対戦車ライフルは、2両のドイツ戦車を擱座させたのです。 第192&第193自動車化連隊の2個の軽戦車中隊(※L3装備)は、 テッサロニキ近郊へ対空挺部隊として分遣されたのでした。 第192自動車化連隊の指揮官は、 部隊のL3は役立たずで、作戦行動を全く取らぬままテッサロニキで放棄されたと語っています。 第191自動車化連隊の軽戦車中隊は連隊と共にいましたが、 同連隊は東マケドニアの師団群の予備として扱われていました。 従って作戦行動の機会は無く、それ以上の言及はなされていません。 4月6日の午後遅く、第192自動車化連隊の第2ブレン・タンク大隊(※ブレンガン・キャリア装備)の縦隊は、 ギリシャ・ユーゴ国境近くの路上で、約50機のスツーカによる激しい空襲を受けました。 大隊は2両のブレンガン・キャリア、10両のオースチンを失い、 将校2名戦死・5名負傷、下士官兵15名戦死・50名負傷の損害を被ったのでした。 特に第2キャリア中隊が甚大な損害を被り、実質上撃破されました。 師団はこの損害補充の為に、分遣していた第192&第193自動車化連隊のL3軽戦車中隊へ、 その車両を放棄した上で、人員のみが国境付近へ来るよう命じました。 L3を放棄した彼らは、4月8日朝に第192自動車化連隊のもとへ到着し、 第2キャリア中隊は再編されます。 そのような次第で、この後、L3の作戦行動は見られなかったのでした。
ノモンハンで補給もままならない第二十三師団がソ連の戦車を多数撃破したようなもんで 防禦側である限り戦車の有無はあんまり関係なかったってことか 問題は対戦車火器 当時であれば有力な軽量平射砲か……
装甲15ミリくらいまでなら平射歩兵砲でもなんとかなるからなぁ。 対戦車砲があれば30ミリくらいまでいける。
うろ覚えだけどノモンハンの報告書で 日本軍の対戦車砲の偽装の巧みさに触れられていた。 BTの装甲が薄すぎ!1000m以下なら何でも貫通とも書いてあった気がする。 あとBTの主砲は日本軍の戦車をどこからでも殺れるとも書いてあった。
30年代半ばの長砲身45mmはチート級
>>940 イタリアの素人軍団に較べてドイツの戦争プロフェッショナル具合ときたら凄いよね。
村上春樹がギリシャに行ったときに年寄り連中がイタリア軍がダメすぎて逆に哀れんだって話してて吹いたわw
そうかスマン。ギリシャが地味なんでついついそっちの話に
>>945 あの時代だと、57mmあたりの砲は歩兵支援用の短砲身砲で、対戦車砲は37mmが主流。
で、その中にあっての、ソ連のT-26とBT-5の45mm対戦車砲は、単純に37mm砲よりも口径が大きい
ってだけでも十分優位性があるのだろうけど、スペックはどんな感じだったのかな。
貫通力が高くなったのは当然だが、榴弾の炸薬がずっと多くなり威力を増している。
ソ連軍の運用のしかた次第では、T-26最終型やBT-7でV号、W号を局地的にやっつけた事は出来たんじゃない?
グレイハウンドでキンタを撃破した例も実際あるからなあ。 そんな特例や都合のいい戦法混ぜて語るんなら 殆どなんでも有りになるだろ。
T-26は、ドイツとかで改造され自走砲とかになってるが、BTはないよね?
BTを改造したのはフィンランド軍くらいかな。 BT42は良い形だねえ。
>>952 短延期榴弾はちゃんと炸裂しますよ
戦車に打ち込んでも
ちょっと何言ってるのかわからない。
だろうね。
話が噛み合ってないなw
>>949 オスプレイの"Spanish Civil War Tanks: The Proving Ground for Blitzkrieg"
によれば、37mm砲1-Kの榴弾の炸薬が20gだったのに対し、45mm砲K-19のそれは倍の40gだったとしている一方、
Mikhail Baryatinskiyの"Light Tanks"だと、37mmPS-2の炸薬量は22gでほぼ同一だが、
45mmK-20の炸薬量は118gだったとしており、前者が対戦車砲、
後者が戦車砲の話であることを考慮しても隔たりがある気がする。
しかし榴弾の炸薬量が大幅に増加し、支援射撃が効果的になったのは事実のよう。
75mmよか76mmのが炸薬量減ってたりするね
初速を速くすると弾殻を厚くしないといけないから
一式中戦車チヘの強敵M5スチュアートが積んでいた37ミリ砲は、M3軽戦車が積んでいた37ミリ砲より、どのくらい強力になった?
最初の100台のM3軽戦車が積んでたM5型37o砲はM6型より砲身長が5インチ短いとなってるね 後の生産分はM5軽戦車と同じM6型だね
【カサブランカ】
1942年11月8日のトーチ作戦時、連合軍の3つの任務部隊の内、モロッコへは西方任務部隊が向かいました。
モロッコでの上陸地点は3箇所で、サフィ(ブラックストーン作戦)、フェダラ(ブラッシュウッド作戦)、
メヘディア(ゴールポスト作戦)でした。
上陸前日の7日夕刻遅く、連合軍シンパのBethouart准将(カサブランカ師団長)は、
連合軍が翌8日に上陸するとの伝達を受け取ります。
彼はドイツ軍休戦委員会の委員一同を逮捕させました。
又、上陸が予想されるラバト海岸へ連合軍に対する連絡将校を派遣します。
そして、自身も1個大隊と共にラバトへ向かい、軍司令部を占拠して軍司令官を追放しました。
Bethouart准将はMichelier提督とNogues将軍に、
自身の出した連合軍への非抵抗命令を支持してくれるよう要請します。
Nogues将軍は日和見を決め込みました。
Michelier提督は、配下の哨戒機と潜水艦が連合軍船団の接近を認めなかったことから、
Bethouart准将は連合軍上陸が間近だと錯覚しているか騙されたのだろうと思いました。
連合軍船団の接近が認められないとするMichelier提督の言に安堵したNogues将軍は、
連合軍上陸の第一報が届いた際も、コマンド部隊の奇襲程度に認識したのでした。
彼は形勢待ちから反連合へと姿勢を切り替え、
部隊に上陸阻止命令を出し、Bethouart准将を反逆罪で逮捕したのでした。
○Bethouart将軍
ttp://www.ordredelaliberation.fr/images/compagnon/bethouart.jpg ○Nogues将軍
ttp://www.generals.dk/content/portraits/Nogues_Charles-Auguste-Paul.jpg
フランス船団が海上で第34任務部隊と遭遇し、拿捕されましたが、
司令部へ警報を発することが出来ました。
フランス軍のサーチライトは米駆逐艦が発砲した際に照射し、破壊されます。
フェダラの海岸防衛戦力は以下のようなものでした。
・フェダラ砲台:100mm砲×3、13.2mm連装対空機関銃×1
・Pont Blondin砲台:138mm砲×4(or3)、13.2mm単装対空機関銃×1
・75mm砲×2
・第102沿岸歩兵中隊
・ルノーFT-17×3
・モロッコ狙撃兵×約100
11月8日07:13、フェダラのフランス軍は砲火を開きました。
軽巡洋艦ブルックリン(CL-40)と4隻の駆逐艦は138mm砲台を攻撃します。
砲台に対して大量の砲弾が撃ち込まれましたが、命中したのは2発だけでした。
138mm砲1門と観測所が破壊されます。
駆逐艦マーフィー(DD-603)が被弾し、3名の戦死者と25名の負傷者を出した同艦は退避します。
09:30、歩兵突撃により、Pont Blondin砲台は奪取されました。
○フェダラ港
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p140.jpg
メヘディアの砲台には138mm砲が2門ありました。
ここでは3両のルノーFT-17と歩兵が反撃を開始し、米部隊を海岸へ押し返します。
米軍のトラスコット将軍は、上陸用舟艇の乗員を歩兵として戦わせるべく、徴集しました。
遂に、強大な艦砲支援の後に138mm砲台は奪取されました。
しかし、その後の48時間、米軍海岸堡は薄く不安定なものだったのです。
カサブランカから200`離れたサフィの砲台には、130mm砲×4、75mm砲×2、13.2mm対空機関銃×2がありました。
ここの港は中戦車を揚陸出来たのです。
サフィへの上陸は仏軍の抵抗が全く無いことを願いながら、支援砲火無しで行われました。
しかしながらフランス軍砲台は射撃し、連合軍艦船は応射しました。
連合軍指揮官のハーモン将軍が到着した時、
その突撃部隊はフランス狙撃兵によって海岸で釘付けにされていました。
上陸地点の殆どを確保出来たのは、予定よりも遅くなってからのことでした。
空母艦載機が仏軍増援部隊のトラック縦隊を撃破します。
11月8日午後、サフィは降伏しました。
サフィ港で、米第2機甲師団はシャーマン戦車約55両を揚陸出来ました。
他の海岸堡ではスチュアート戦車を陸揚げしたのです。
11月10日、サフィ周辺の残存守備隊が制圧され、
ハーモン・フォースの大半は、カサブランカ攻囲軍に合流すべく急行しました。
○上陸日午後、サフィ湾
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p99.jpg
米海軍機はモロッコ駐留のフランス軍機を撃破しようとしました。
米軍の172(or174)機と比較するとフランス飛行部隊はより少ない戦力で、
戦闘機に関しては、米軍の108(or111)機のF4Fに対し、仏軍は86機のD520&H-75でした。
米艦載機による空襲時、殆どの機が地上で駐機していたにも拘らず、フランス軍機は反撃します。
カサブランカ上空でVF-41のワイルドキャットは、GCU/5の古臭いH-75の迎撃を受けました。
4機のワイルドキャット、3機のドーントレス、7機のH-75が撃ち落とされました。
GBT/32の5機の爆撃機(ダグラスDB-7)とGBI/33の全機(※Leo451装備のGBI/23の誤記?)は地上で撃破されます。
ポールリョーテでは約10機のD-520と6機の爆撃機が地上で撃破されました。
1機のD-520が少なくとも2機のF4Fを撃墜しましたが、そのD-520も被弾し、
操縦士は脱出しました。
○42年11月、第34.2任務群の空母レンジャー(CV-4)上で機銃テスト中のワイルドキャット。
ttp://www.history.navy.mil/photos/images/g30000/g30362.jpg
11月8日の午前中、仏戦闘機はフェダラの海岸を機銃掃射し、何隻かの上陸用舟艇を撃破しました。
12:30、仏爆撃機は損失無しに海岸堡を攻撃しました。
11月9日、5機のH-75(GCU/5)が再び海岸を機銃掃射し、
それから、10機のLeo451(GBU/23)、3機のDB-7(GBT/32)、護衛の15機のH-75(GCT/5)による
大規模な空襲がなされました。
数隻の輸送船と上陸用舟艇に損害を与えましたが、主要艦艇には命中しませんでした。
VF-9のワイルドキャットが迎撃し、仏爆撃機は無事に帰還しましたが、H-75は4機が撃墜されます。
ワイルドキャットの損失は1機でした。
14:00、米軍機が駐機中のDB-7×4、H-75×5、D520×6を奇襲し、
その後、モロッコのフランス飛行部隊は無力化しました。
サフィでは、サンティ(ACV-29)の艦載機が上陸部隊の支援に当りましたが、
その技量は未熟で、31機の内21機は機位を見失い、地上への不時着を余儀なくされました。
○サフィの小飛行場でのサンティからの艦載機
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11月8日の上陸後、9日の状況は米軍にとって未だ際どいもので、特にメヘディアの海岸堡が危険でした。
この日は軍事レベルでも政治レベルでも重要でした。
モロッコとフランス本国のやりとりは勿論、アルジェのダルラン提督と米軍司令部の交渉があったからです。
トーチ作戦前に自由フランス軍のジロー将軍を受け入れてはいたものの、
ド・ゴールを厭う米国にとって、ヴィシー軍の動向を左右出来るダルランは利用価値が大いにありました。
ダルランが北アフリカでこのような状況にあった時、フランスのヴィシー政府は、
もしも仏軍が連合軍へ十分に抗戦しないなら、独軍が自由地区へ侵攻するであろうと恐れていました。
ペタンが北アフリカのヴィシー軍は上陸部隊に全力で抵抗しているとドイツを説得している間、
ダルランは米軍と交渉していました。
11月9日中、米軍は海岸堡の安全確保と拡大を図り、いくつかの小戦闘が生じました。
そして、米第2機甲師団のシャーマン戦車がサフィからカサブランカへと移動中でした。
フランス軍は敗北することもあれば、勝利を収めることもありました。
あるフランス装甲車群は米兵を捕虜とする機会が2回あり、又、4両のスチュアートを鹵獲したのです。
○42年10月20日、バージニア州ニューポートニューズ。
トーチ作戦に向けて船積み前の米第756戦車大隊のスチュアート。
ttp://www.756tank.com/756m5s.jpg
フランス軍はカサブランカ周辺の守備を固め、道路封鎖します。
・東
@第6セネガル狙撃兵連隊第3大隊…ラバト〜カサブランカ道
A第6モロッコ狙撃兵連隊第2大隊…106号道
B90mm高射砲×4…Ain Sebaaに対戦車砲として配置
C生残海軍兵×4個小隊…Ain Sebaaの増援部隊(各員小銃保有、分隊毎に軽機1挺、中機1挺、手榴弾10個装備)
・南
○第6モロッコ狙撃兵連隊第3大隊…マラケシュ道
・南西
○モロッコ植民地歩兵連隊第2大隊
・西(El Hank近く)
@第6モロッコ狙撃兵連隊第1大隊
A90mm高射砲×4…対戦車砲として配置
11月9日、陣地はドーントレスに攻撃されますが、この空襲にさしたる効果はありませんでした。
○トーチ作戦時、空母レンジャー上のドーントレス
ttp://www.airgroup4.com/torch-sbd-1.jpg
メヘディアに上陸した米軍は困難な状況にありましたが、
海岸へ達したフランス軍の多くの反撃に直面することになりました。
スチュアートの支援を受けた米第60歩兵連隊第1大隊は、
数両のルノーR35&オチキスH35支援下の第1モロッコ狙撃兵連隊第1大隊の攻撃に晒されます。
4両のスチュアートと2両の仏戦車が撃破されましたが、米軍部隊は米海軍機の介入により救われ、
仏軍の攻撃を阻止しました。
米軍はメヘディアを4回奪取しましたが、4度押し戻されました。
11月10日、フランス歩兵は反撃し、8日に喪失した138mm砲台を取り返し、
灯台と海岸の一部も奪取します。
しかしながら、米軍は戦車攻撃により、遂にメヘディアとポールリョーテを確保出来たのでした。
ポールリョーテの飛行場は、モロッコで唯一のコンクリート滑走路を備えていました。
11:30、いくつかのフランス部隊が未だ包囲されていましたが、
最初のP-40が奪取した飛行場へ陸揚げされます。
○42年11月、P-40を輸送中のシェナンゴ(ACV-28)
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p168.jpg
11月10日払暁、カサブランカ東のAin Sebaaでは、
スチュアートの支援を受けた米歩兵がセネガル狙撃兵大隊と海軍兵を攻撃しました。
仏軍90mm高射砲の射撃によって、
米迫撃砲部隊は頻繁な陣地転換を余儀なくされる程、多くの死傷者が生じましたが、
激しい艦砲射撃により90mm高射砲は無効化されました。
11:00、仏部隊はAin Sebaaを去り、主抵抗線へ移動しました。
2個海軍兵小隊は損失5割で、包囲され降伏します。
他部隊は秩序正しく撤退しました。
2隻のフランス通報艦“Commandant Delage”と“Gracieuse”は、その100mm砲で米軍の攻撃を阻止しますが、
重巡洋艦オーガスタ、駆逐艦エディソン(DD-439)、ボイル(DD-600)、ティルマン(DD-641)、
ローワン(DD-405)を前にして、逃走せざるを得ませんでした。
ここで米軍は攻撃を停止し、サフィで陸揚げされたシャーマン戦車の到着を待ちました。
11月10日、アルジェのダルラン提督が連合軍との停戦に応じました。
午後遅くに、そのことを人伝てに耳にしたモロッコのNogues将軍は、
休戦協定実現迄、連合軍への積極的抵抗を止めるよう部下に命じます。
11日迄にヴィシー軍と連合軍の戦闘は終結しました。
その後、米軍はカサブランカへ入城したのでした。
○11月11日14:00、フェダラ。休戦交渉の為、Nogues将軍(左)と面会するガイ大佐(中央)
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-MTO-NWA/img/USA-MTO-NWA-p172.jpg
フランス軍、えらい抵抗してますね。 大したもんだ。
乙 フランス軍補助艦艇(´;ω;`) そしてルノーFTが強い。
たしか、トーチ作戦の時、砲台は、コマンド部隊揚陸にやってきたコーストガードの警備艦2隻位沈めてるよな。
大型砲塔に75mm積んだルノーFTも反撃してるよね
あんな華奢な車体に、75ミリ砲なんか載るの?
確かに載っているけど…… 乗りたくないな。絶対、車内が狭いだろこれ
ベンチレータらしきものが見えない 一発撃ったらケムケムだなw
第一次大戦型戦車にそんな物は無い。砲塔後ろのハッチを開けて換気するんじゃね?
【10対1の戦い】 1940年のフランス戦時、ソミュアS35の強力な47mm砲は、 ドイツ戦車を遠距離で撃破可能だったのに対し、 ドイツ戦車の砲がソミュアの装甲に抗することは、甚だ困難でした。 フランス軍で最良の部隊の一つは、恐らく第1軽機械化師団でした。 同師団は長期に渡って良く訓練されており、全乗員の士気は高く、 その乗車を熟知していたのです。 戦前、第1軽機械化師団は、師団単位での演習と戦車・歩兵・砲兵の協同演習を行っていました。 これはフランス軍機械化部隊の最良の手本でした。 それとは正反対の存在として、第7胸甲騎兵連隊が挙げられます。 こちらは1940年5月に創設されたばかりで(※先代は1919年に解体)、 その戦車は新品でしたが、乗員の80lも新兵だったのです。 5月18日、第4胸甲騎兵連隊(※第1軽機械化師団)の12両のS35を装備した中隊は、 モロッコ狙撃兵連隊の1個中隊と第4竜騎兵連隊第3大隊第13中隊と共に、 Jolimetzの町を保持することになりました。
終日、フランス守備隊は 独第5装甲師団の半数(※戦車約120両、大量の歩兵、野砲、対戦車砲、航空支援)の攻撃に晒されます。 先ず1両のS35が偵察中に損傷し、Quesnoyへ送り返されました。 その後は、11両の仏戦車だけが町を確保していたのです。 当初、ドイツ軍の戦車と部隊は、避難民の縦隊に身を隠しながら攻撃してきました。 ソミュアと竜騎兵は、森へ向けてささやかな反撃を行ないます。 多少の損害を被ったドイツ軍は、W号戦車を優先して町へ繰り出してきました。 この日の終わり、町は完全にドイツ軍に包囲されたのです。 10対1の戦闘で、フランス軍は10両のソミュアを喪失しました。 ドイツ軍は26両の戦車を失い(※一時行動不能を含む?)、その大半はW号戦車でした。
単純には言い切れないが、ソ連とドイツ戦車の装甲はペラりで、英国とフランスは厚めと言うのは面白い。
フランスとソ連はドイツよりも重装甲・重武装の戦車を それなりの台数揃えてたのに緒戦でボコられてるんだよね。 やっぱ戦術の差って事なのかねえ。
ほんとに単純には言えないと思うぞ。 ソ連も戦訓から装甲を厚くしようとしてたけど それ以前に生産した戦車が万単位で残っていただけだし イギリスも初期の巡航戦車はせいぜい30mm程度だったし。
孤立したフランス戦車の周りをII号が走り回って撃ち込んでる映像見たことあるけど 一人乗り砲塔はマジでダメと思ったわ
1940年にドイツ以外の3人乗り砲塔ってKVとマチルダIIぐらい?
T-35とT-28も。砲塔バスケット付きだぞ。
その頃のKV-1は戦車長兼装填手と砲手の二人砲塔。そこに戦闘中役目のない補助操縦士兼整備士が加わる。
マチルダは装填手が無線手兼ねてて忙しそう
ソミュアの無線主は装填を”手伝える”
>>991 多砲塔があったんですね。バスケットとは意外。
ソ連はまぎれもなく戦車の先進国だよ。 まあイギリスの後追いだろうけど。
999
>>994 スレ立て乙!
戦車のパイオニアだったイギリスは、なんであんなことに…
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