1 :
名無し三等兵 :
2010/11/14(日) 04:39:36 ID:WZMRar0B 豊島沖海戦や黄海海戦での見事な逃走が有名な「済遠」の情報を求めます。 「豊島沖海戦」で「済遠」が突如先制攻撃、 その後逃走。 「黄海海戦」 においては前代未聞の敵前逃亡。 日清戦争における情報の書き込みも歓迎します。
2 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 04:41:46 ID:???
「豊島沖海戦」 戦力比 中国2:3日本 大日本帝国海軍第1遊撃隊3艦、豊島沖で清国軍艦「済遠」「広乙」で遭遇。 「済遠」が突如砲火を開く。 第1遊撃隊3艦応戦。 「済遠」遁走 「広乙」遁走→座礁→自爆沈没 清国軍艦「操江」と中国兵を輸送中の英国商船「高陞号」と遭遇 「操江」捕獲 英国商船「高陞号」撃沈
3 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 04:45:29 ID:???
「黄海海戦」 「揚威」火災→戦線離脱→座礁? 「超勇」火災→戦線離脱→沈没 「靖遠」火災 「経遠」第一遊撃隊に衝撃を試みる→大火災撃沈 「鎮遠」火災→松島に30.5cm砲弾を命中 「定遠」火災 「来遠」火災 「致遠」火災→沈没 「広甲」途中より敵前逃亡→座礁 「済遠」途中より敵前逃亡 「平遠」途中より参戦 「広丙」途中より参戦 「鎮南」戦闘に参加できず。 「鎮中」戦闘に参加できず。
4 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 04:48:59 ID:???
5 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 04:53:59 ID:???
6 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 04:59:35 ID:???
7 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 05:11:35 ID:???
中国の教科書による日清戦争における「黄海海戦」についての描写 中国(原文まま)の将兵は海軍提督丁汝昌のもと、 闘志をたぎらせて勇敢に戦った。 中でも致遠(清国巡洋艦)の艦長ケ世昌は将兵を指揮し、 勇敢に敵をやっつけた。艦が何箇所も被弾してフネが傾いたとき、 ケは全速力で日本軍艦に衝突するよう命じた。 彼は部下に「私たちは国を守っている。 命などとっくに度外視している。祖国に報いるのだ」と言った。 日本軍は形勢不利と見て腰を抜かして逃げ出し、 逃げながら魚雷を発射した。致遠は不幸にも魚雷が命中し、 たちまち沈没し、ケたち将兵は壮絶な死を遂げた。 黄海海戦は5時間以上続き、中国北洋艦隊の将兵は勇敢に奮戦し、 5隻の日本軍艦に重大な損傷を与え、 日本海軍はついに慌てふためいて逃げ出した。 黄海海戦は、中国人民が侮りがたいことを強烈に見せ付けた。
8 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 05:17:22 ID:???
方伯謙の言い分「私は艦隊を保全し、日本に消耗戦を強いるために あえて退却したんだ! もともとあなた方が「艦隊保全戦略」を無視して 日本艦隊に性急な決戦を強いたがために北洋水師は敗北した、 格なる上は済遠以下残存戦力を持って通商破壊戦を実施すべし!」
9 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 05:40:37 ID:???
清国は「定遠」「鎮遠」という二隻の戦艦を持っていた。 東洋一の堅艦と謳われた戦艦。 「黄海海戦」 鴨緑江河口沖で遭遇戦。 結果は中国側12隻中5隻沈没。 「定遠」主砲発射時の事故で艦橋が破壊され司令官負傷。 艦隊行動が取れなくなる。
10 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 06:01:30 ID:???
「威海衛の戦い」 「定遠」座礁 「来遠」撃沈 「威遠」撃沈 「靖遠」撃沈 「鎮遠」日本軍鹵獲 「済遠」日本軍鹵獲 「平遠」日本軍鹵獲 「広丙」日本軍鹵獲 操江・鎮東・鎮西・鎮南・鎮北・鎮中・鎮辺 日本軍鹵獲
11 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 06:07:09 ID:???
「豊島沖海戦」清国被害沈没1 「黄海海戦」清国被害沈没5 「威海衛の戦い」清国被害沈没4
12 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 06:11:50 ID:???
13 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 15:49:01 ID:???
>>1 そういうのは巡洋艦総合スレか日清戦争スレでやってくれ。
14 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 16:05:16 ID:???
「黄海海戦」
旗艦指揮不能
>>9 、敵前逃亡2隻
>>3 、衝角による衝撃はすべて失敗。
十字砲火をくらった挙句。
最後の1時間半は弾切れで一方的に撃ちまくられ、最終的に5隻沈没。
日本側沈没0の状態で中国側は勝ち(
>>7 )だと教えてる訳か。
15 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 16:13:24 ID:???
16 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 16:43:05 ID:???
17 :
名無し三等兵 :2010/11/14(日) 23:12:50 ID:???
戦艦 定遠,鎮遠 防護巡洋艦 超勇,揚威,済遠,致遠,靖遠 水雷巡洋艦 広乙,広丙 装甲巡洋艦 経遠,来遠,平遠 スループ 威遠 水雷艇 福龍
18 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 00:12:43 ID:???
19 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 01:42:45 ID:???
長崎事件で火種を作り。 「豊島沖海戦」で突如発砲、 遁走したふりして「高陞号」に誘導。 「黄海海戦」で敵前逃亡。 まるでどこかのスパイのようだw
20 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 02:13:17 ID:???
「豊島沖海戦」日本側先制と書かれた物もある。 7時52分、距離3000で吉野が済遠に発砲し、海戦が始まった。
21 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 02:35:04 ID:???
「豊島沖海戦」 英国商船「高陞号」が清国兵及び大砲を輸送していたことにより、 清国が天津条約に背馳し、日本の最後通牒を無視し、朝鮮領海内を突破し、 牙山に大兵力を集結させつつあったことを暴露した事件。
22 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 02:38:45 ID:???
明石書店 世界の教科書シリーズ2 「わかりやすい 中国の歴史」(中国小学校社会教科書)p98-99より [ 黄海大戦 ] 1894年9月のある日、わが国の北洋艦隊がちょうど鴨緑江口の黄海の大東溝(だいとうこう)を 航行しているとき、日本艦隊の襲撃に遭い、迫られて応戦した。たちまち、黄海の海面は砲声が 天を震わせ、硝煙がたちこめた。 中国の将兵は海軍提督 丁汝昌の指揮下に、闘志をたぎらせて、勇敢に戦った。戦闘中、丁汝昌 は身に重傷を負ったが、随員が彼を船室に担ぎ入れようとするのを拒絶して、あくまでも甲板に 座って士気を鼓舞した。致遠艦の菅帯(艦長の意味)ケ世昌は、全艦の将兵を指揮して勇往邁進 し、勇敢に敵をやっつけた。軍艦が何ヶ所も被弾して大きく傾いた危急のときに、ケ世昌は全速 力を出すように命令し、日本軍の主力艦目指して突進し、衝突して沈めようと試みた。彼は部下 に、「私たちは従軍して国を守っている。生死はとうに度外視している。私たちは犠牲になって も国威を盛んにできるならば、祖国に報いる目的を達せられる」と言った。日本軍は形成不利と 見て、腰を抜かして艦を操って逃走し、逃げながら魚雷を発射した。致遠艦は不幸にも魚雷が命 中し、たちまち沈没し、ケ世昌と艦上の200余名の将兵は壮烈な最期を遂げた。 黄海大戦は5時間余り続いた。中国の北洋艦隊の多くの将兵は勇敢に奮戦し、5艘の日本艦に重 大な損傷を与え、日本艦はついにはあわてふためいて逃走した。黄海大戦は、中国人民が侮り難 いことを、はっきりと示している。
23 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 04:24:24 ID:???
566 :名無しんぼ@お腹いっぱい:05/03/10 11:17:40 ID:pdyxMq8T0 日清戦争中においては常に主力に交じって行動していたが艦長の退嬰的な態度と、 整備の不良によって能力を発揮できず、黄海海戦においては戦局の中心から常に離れた位置にあって損傷もうけず 、主力の後退にともなって撤退した。結局済遠はほとんど無傷のまま威海衛で捕獲されることになる。 しかし損傷はなかったものの艦の状態は非常に悪く、手入の稚拙さを暴露した。 日本海軍に編入されたのちははじめ巡洋艦と称されたが、類別標準制定後は三等海防艦とされ、 日露戦争では第三艦隊に編入されて旅順封鎖に従事していたが二〇三高地陥落直前の11月末、触雷して沈没した。
24 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 04:38:46 ID:???
>「致遠号」巡洋艦は百年前の甲午海戦(黄海海戦)に参加した、
>管帯(艦長)ケ世昌が率いた戦闘艦である。
>この艦は1887年に英国より購入された。乗員編成は200人。
>甲午海戦中、日本海軍旗艦「松島」、「比叡」、「赤城」、「西京丸」等と
>前後して損傷を受け浸水するも、
>傷ついた旗艦「定遠」を護るべく「吉野」に衝角攻撃を敢行するが、
>「吉野」が「定遠」に放った魚雷を受け沈没。
>艦長ケ世昌は艦と運命を共にすべく救助を拒絶して乗員250人とともに黄海に没す。
>ケ世昌の壮絶なる最後の知らせは清朝宮廷を震撼させ、
>時の皇帝光緒帝は昭宗祠に「壮節公」として祀った。
>世間でも彼を英雄として思慕せざる者は無かったと云う。
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/210000.htm
25 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 05:29:04 ID:???
26 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 14:09:00 ID:???
「黄海海戦」清国海軍午後1時前後の状態 「揚威」火災 「超勇」火災 「靖遠」 「経遠」 「鎮遠」 「定遠」 「来遠」 「致遠」 「広甲」 「済遠」
27 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 14:15:36 ID:???
「黄海海戦」清国海軍第一合戦前の状態 「揚威」沈没 「超勇」沈没 「靖遠」 「経遠」 「鎮遠」 「定遠」 「来遠」 「致遠」 「広甲」 「済遠」 「平遠」参戦 「広丙」参戦 「福龍」他1隻参戦
28 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 14:35:12 ID:???
「黄海海戦」清国海軍第三合戦の状態 「靖遠」 「経遠」沈没 「鎮遠」 「定遠」 「来遠」 「致遠」沈没 「広甲」敵前逃亡 「済遠」敵前逃亡 「平遠」 「広丙」 「福龍」他1隻
29 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 14:52:13 ID:???
「致遠」が赤城に衝撃を試みる→沈没 その後「経遠」が第一遊撃隊に衝撃を試みる→沈没
30 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 14:58:45 ID:???
>艦長ケ世昌は艦と運命を共にすべく救助を拒絶して 乗員250人とともに黄海に没す。 ↑ 艦首からあっと言う間に沈んだらしいから 救助を拒絶してなんて暇がある訳がないw
31 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 15:09:50 ID:???
「致遠」沈没後「鎮遠」の主砲が松島に命中 「鎮遠」「定遠」6インチ砲弾弾切れ 日本艦隊一旦退避後、戻ってまた砲撃をはじめる。 「経遠」沈没
32 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 15:36:25 ID:???
中国と日本の記述に差がある。 日本「致遠」が赤城に衝撃を試みる→沈没 「経遠」が第一遊撃隊に衝撃を試みる→沈没 中国「致遠」が「吉野」(第一遊撃隊に衝撃を試みる)→沈没
33 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 16:01:57 ID:???
>彼は部下 >に、「私たちは従軍して国を守っている。生死はとうに度外視している。私たちは犠牲になって >も国威を盛んにできるならば、祖国に報いる目的を達せられる」と言った。 >(中略)ケ世昌と艦上の200余名の将兵は壮烈な最期を遂げた。 ↑ 素朴な疑問、いったい誰が聞いたのでしょう?
34 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 16:41:02 ID:???
鎮遠に乗り込んでいた(米海軍退役少佐)マッギフィン(Philo Norton McGiffin) のレポートの「経遠」と「致遠」をとり間違えた可能性もある。
35 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 16:56:22 ID:???
黄海海戦時マクギィフィンは鎮遠に副艦長として乗り込むが、右顔面に重傷をおい、殆ど失明してしまう。 旅順に待避した北洋水師は日本軍に囲まれ威海衛に回航を命じられたが入院中のマクギィフィンは そのまま水師を退役し、勲章を授与された。 帰国後マクギィフィンは近代海戦経験者として海軍に報告書を書き、新聞社のインタビューに応じている 北洋艦隊の砲弾不足、日本艦の性能の良さ、榴弾の有効性などを語っているが、 「清国水兵が弱兵だとは思わない。今回、日本艦隊が一方的に砲撃を加えることになったが、もし日本艦に 大量の砲弾が降りかかれば、日本兵も甲板の上でプルプル震えてるに決まっている!」ともいっている。 海戦での負傷の後遺症は重く、マクギィフィンは1897年2月入院中に拳銃自殺をしてしまった。 37歳
36 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 17:00:11 ID:???
ヘックマン(Heckman) 軍事顧問団の一人。 黄海海戦時、鎮遠砲術長として乗艦し、松島の被弾は、彼の砲撃によるものと伝えられている.
37 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 17:16:14 ID:???
マクギィフィン信用できね。 広甲と広乙間違えてるし。
38 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 21:10:26 ID:???
日清戦争時の清国艦艇に「〜遠」てのが多いけどどういう意味なの?
39 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 21:28:39 ID:???
神聖なる大日本帝国の弐チャンネルにシナ土人のオンボロ船のスレなんか 立てるな。汚らわしい。
40 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 22:13:41 ID:???
「済遠」はその後大日本帝国海軍の所属になるんだぞ。 オンボロ船は否定せんがw
41 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 22:22:58 ID:???
>>38 その漢字の通りだよ。
遠く(遠くの国)を鎮める(鎮圧する)鎮遠。
日本語に直した場合、違う漢字をあてる場合があるから意味の通らん艦名も
あるけど。
42 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 23:00:41 ID:???
マクギィフィン 仕官学校出たての24歳のぺーぺーを顧問に雇って副長にするってw しかも優秀じゃ無い方(12番以下)艦名間違えても当然という気がする。 ここ副提督も元ドイツの陸軍砲兵だしw
43 :
名無し三等兵 :2010/11/15(月) 23:07:41 ID:???
「済遠」は本当はこういう漢字 「濟遠」
44 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 02:49:13 ID:???
朱式八四式魚雷 ドイツ、シュワルツコップ社製で、口径14インチ、爆薬21キロ、 速力8ノット、射程300メートルの冷走魚雷。 実効射程距離は100メートル前後。 距離400メートルで2メートルから7メートルの誤差。 横っ腹見せている船には当たるだろうが突進してくる船に当たるなど 信じれんのだが。
45 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 04:11:42 ID:???
後続艦がいる状態で、どこに向かっていくかわからない魚雷は撃てんだろう。 マクギィフィンのレポートには魚雷の話など出てこないし。
46 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 04:25:11 ID:???
マクギィフィンのレポート自体、客観的な要素以外信用出来ない。 信用できるのは鎮遠に起こった状況のみ。 あとは艦隊戦の推移のみ。
47 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 09:16:39 ID:ubiwapRG
中国流の書き方でいくと 先ほど、我が大日本帝国海軍連合艦隊が黄海において大清帝国 北洋艦隊の艦隊と海戦を行い 巡洋艦4隻を撃沈。1隻を大破せしめ、 「靖遠」「経遠」「鎮遠」「定遠」「来遠」の5隻に重大な損傷を与え。 大勝利を収めました。 なお、わが国の被害は巡洋艦1隻が大破、他三隻が損傷をうけました。 以上速報でした。 となるw
48 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 18:16:27 ID:???
黄海海戦時、北洋水師のお雇い外国人は8人。 はっきりしてるのは 「鎮遠」2人(副艦長、砲術長) 「経遠」1人(機関長) 「定遠」1人(副提督)
49 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 18:27:31 ID:???
>>22 >>24 の文章は疑問が残る。
北洋水師の水兵は泳げない者が大多数の状態で撃沈されているにも関わらず、
艦長ケ世昌の言葉を誰が聞いて、誰が伝えたのか?
後続艦がいる状態で低性能な魚雷を吉野が使うであろうか?
マクギィフィンが戦友が乗った船。しかも同型艦でもない船と見間違うだろうか?
50 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 20:02:26 ID:???
>>8 多分この艦長は 通商破壊戦やっても分が悪くなると
さっさと逃げるんだろうな・・・
51 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 21:12:55 ID:???
中国は「威海衛の戦い」の戦いでの 魚雷ショックが大きかったんだろうと思われる。 旗艦が座礁さされた上に、 さらに翌日2隻が魚雷によって沈められたのだから。
52 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 21:30:05 ID:???
そして 脱出を命じた水雷艇・砲艦は捕獲されるか撃沈され、
鎮遠で反乱が起き
>>16 の電文。
提督自害。
そして自害した提督の遺骸をジャンク船で運ぶと聞いて伊東長官激怒。
鹵獲艦船の中から商船「康済号」と捕虜も解放して送らせる。
しかし清国の皇帝は提督の財産没収の上葬式もすることを許さんかった。
53 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 21:48:29 ID:???
54 :
名無し三等兵 :2010/11/16(火) 23:54:03 ID:???
55 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 00:13:08 ID:???
海軍兵学校成績80人中64番目
56 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 07:35:54 ID:???
>>5 wikiのデーター
ワロタw
なんだよ3cm魚雷ってw38cmに修正
57 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 19:03:33 ID:???
削除される可能性があるのでwikiより転載 ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会・ コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤ と知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。 武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。 長い間、アリアズナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、 2010年になって日露の研究者により架空の人物であったことが明らかとなった。
58 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 19:22:10 ID:???
広瀬武夫本人訳 深く敬い参らする武夫さん! 近頃弥久しく堪へ難き迄に待ち兼候后、私の手紙に対する御前様の御答を受取り申候。 御前様より御手紙や、御写真や、御画羽書に向つて、私は御前様に大なる感謝を捧げ参らせ候。 此等は皆私をして、大に大に喜悦せしめしものにて、私は御前様の私を御忘なきことを見申候。 唯遺憾に思はれ候は、御前様が御自身に付て御認め被下しことの、斯くも僅なることに有之候。 コハ御前様の為し遊され、御思案被遊、而て私の為には大なる面白味を呈することを、御予想遊され度と思ふことを、 意味するものに有之候。(御前様の近時に就て知ることは、私に大なる快感を与ふることを想像あれ、と云ふ義と被存候。) (中略) 私が兄なる「トーリヤ」(海軍士官なり)も、終に東より、しかも日本より、驚嘆をして帰着仕候が、 日本こそ○○○○○○○邦にして、真の極楽浄土とはこれなんと、語り居申候。 私は毫も日本が秀絶なると云ふことには、敢て疑を挿み不申候!!! 御前様は私が最も燃ゆる(燃ゆるの義迄の意味なし。所謂字義のみを云へば、 いきいき○○○○○○○○○○如き注意を以て、御前様に管にするものの総てに嘱目すると云ふことを、御記憶可被下候。 此訳は原○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ (武夫の近状、特に勤務上に付て○○○○○○○○○○○○○○○○自身の試験は昨日を以て終り、 抜群の好成績を得たることを報ぜり。) 私共一統は、しばしば御前様を思ひ出し候。 而て斯くも私共が御前様を見参をせたるに慣れたること故、御前様が私共と一処に在ざることをかなしみ申候。 特に私に於ては! 先は心底より御前様に万福(都て宜しかれと云ふ字義)を!深く敬ひ参らする武夫さん! 御前様の御手を取り申候。 御前様に私の誠実なる殷懃を。 (中略) 私の撮影仕候砌は、御前様に其写真を贈り参らすべく候。 尚ほ再び茲に万福を。 アリアズナ、コワリスカヤ
59 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 19:28:20 ID:???
>>57 コヴァレフスキー少将ではなくコワリスキー大佐という意味。
60 :
名無し三等兵 :2010/11/17(水) 19:30:04 ID:???
手紙の署名がアリアズナ、コワリスカヤ だからコワリスキー大佐が正解。
61 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 03:51:59 ID:???
日露戦争 1904/02/10 対露宣戦布告 1904/02/24 旅順口閉塞作戦@ 1904/03/27 旅順口閉塞作戦A 1904/04/13 ロシア太平洋艦隊マカロフ司令官戦死 1904/05/03 旅順口閉塞作戦B 1904/05/15 戦艦「初瀬」「八島」、旅順沖で触雷、沈没 1904/08/10 黄海海戦 1904/08/14 蔚山沖海戦 1905/01/02 旅順陥落 ロシア太平洋艦隊マカロフ司令官戦死 掃海を忘れて飛び出した勇将マカロフ、機雷に触れて旗艦とともに旅順の海に沈む。 ↑ おいw
62 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 04:06:01 ID:???
その前に仁川沖海戦 「済遠」出番なし
63 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 04:17:23 ID:???
機雷敷設中の駆逐艦4隻が、ロシア艦隊の駆逐艦1隻と遭遇、戦闘開始→撃沈。 マカロフ、戦艦「ペトロパヴロフスク」で戦艦5隻・巡洋艦4隻を率いて攻撃に向かう。 作戦終了後に帰還途中で「ペトロパヴロフスク」触雷、爆沈。マカロフ戦死。
64 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 04:21:29 ID:???
戦艦「初瀬」「八島」←もしかして、これは自国の機雷で沈んだのかw
65 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 04:29:12 ID:???
戦艦「初瀬」「八島」←もしかして、これは自国の機雷で沈んだのかw
66 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 05:01:47 ID:???
黄海海戦(日露) 東郷効果w ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦「レトウィザン」が浸水, 艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた. 海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが, 露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出) 三笠から放たれた砲弾が敵旗艦「ツェザレウィッチ」の艦橋に二発も命中. これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた.
67 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 05:09:15 ID:???
「血の日曜日事件」 ロシアも暴動多発状態だったのか。
68 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 05:58:01 ID:???
69 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:01:01 ID:???
70 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:12:37 ID:???
防護巡洋艦「済遠」 1904年 - 日露戦争に参加。 同年11月30日 - 旅順港外にて、二〇三高地砲撃中に触雷し、沈没。 203高地占領が12月5日なので5日前に沈没。
71 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:21:14 ID:???
旅順港のロシア機雷にふれて、水雷艇「暁」が爆破 ロストーノフ著ソ連から見た日露戦争 P.144
72 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:24:13 ID:???
>>71 と同著
五月二日(十五日)に、戦艦「初瀬」、「八島」、「敷島」と
巡洋艦三隻[実際は巡洋艦「笠置」と通報艦「竜田」の二隻]からなる
敵の艦船が旅順港に姿を見せた。
ロシアの沿岸監視所は、戦隊の動きを注意深く監視していた。
間もなく、一番後を進んでいた戦艦「初瀬」に爆発が起った。
軍艦はひどく傾いた。乗組員を助けようとして、ボートがだされた。
損傷をうけた軍艦に危険を犯して近づこうとした戦艦「八島」が間もなく
第二機雷に接触して、これまた爆破した
73 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:53:34 ID:???
74 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 06:57:46 ID:???
>>73 同著
敵艦隊の陣形が崩れたが、その反撃も凄まじく、特に旗艦三
笠は狙い打ちされて20余発の命中弾を受けて、死傷者が続出
した。東郷は前艦橋に立って指揮を続けたが、近くにも一弾が
炸裂し、すぐそばの伊地知艦長や参謀たちが負傷した。東郷は
鮮血のしぶきを浴びながら指揮を続けた。
島村参謀長は「長官! 司令塔内に入ってください」と叫ん
だ。司令塔は厚い鋼鉄で覆われ、はるかに安全である。東郷は
「司令塔は外が見えにくうてなあ」と答えたきりだった。
75 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 07:01:58 ID:???
>>73 同著
天皇皇后両陛下に拝謁した。天皇(原文のまま)から
バルチック艦隊を迎え撃つ方策について御下問があると、
東郷は簡潔にこう奉答した。
誓って敵の増援艦隊を撃滅し、宸襟(しんきん、天皇の
お心)を安んじ奉ります。
76 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 07:04:55 ID:???
>>73 同著
東郷は次のような訓示を行った。
我が砲数少なき場合に於いても、其の照準発射迅速確実
なるときはあたかも我が砲数を倍加せるが如し。黄海海戦
に見るに我の三発する間に彼一発するの比例なりし故に、
我が一門は彼の三門と対抗するを得べし。いはんや我が射
撃の連度ははるかに敵に優るあるに於いてをや。[2,p331]
77 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 07:38:32 ID:???
仁川沖海戦のさらに前に駆逐艦による旅順港の奇襲作戦してるな。 戦果はなかったが・・・
78 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:04:13 ID:???
>>63 「聯隊機密第286号」「聯隊機密第287号」
実行 第四駆逐隊
第五駆逐隊
第14艇隊司令
小田敷設隊司令
79 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:14:21 ID:???
日露戦争では公海上で本格的な機雷戦が行われるようになり、
日本海軍は敷設した機雷により、ロシア海軍旅順艦隊の旗艦「ペトロパブロフスク」を撃沈、
マカロフ提督は戦死した。
一方、日本もロシア側の敷設した機雷により戦艦「八島」、「初瀬」を失った。
この時、日本海軍は敷設した機雷で戦艦1艦をはじめロシアの艦艇を計6艦沈め、
ロシア海軍は係維機雷6,000発を敷設して日本の戦艦2艦をはじめ計10艦を沈めた。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E9%9B%B7
80 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:22:00 ID:???
攻勢機雷戦の応酬。 えげつなw
81 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:38:57 ID:???
機雷には「敷設水雷」と「繋維機雷」があり、 ここでは「繋維機雷」が使われたんだね。
82 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:46:33 ID:???
「擬似機雷」というものもあるのか・・・
83 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 09:52:30 ID:???
84 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 11:16:40 ID:???
「済遠」沈めたのは自軍の機雷かもしれない・・・
85 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 17:48:10 ID:???
突然の疑問?中国の文献にある。 日清戦争前に殺された 日本軍 中尉 崛本礼造とは何者?
86 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 19:08:56 ID:???
日本商民殺傷事件とは?
87 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 19:24:38 ID:???
88 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:35:44 ID:???
89 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:47:47 ID:???
90 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:54:19 ID:???
91 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 20:57:55 ID:???
清国 兵力 962,163人 大砲・機関砲 1、733門 軍艦 82隻 水雷艇 25隻 総トン数 8万5000トン 日本 兵力 240,616人 野砲・山砲など 294門 軍艦 28隻 水雷艇 24隻 総トン数 5万9106トン
92 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 21:05:28 ID:???
>>91 この戦力差で負ける清国とはいったい何なのだ??
なるほどこれは「眠れる獅子」だ。
93 :
名無し三等兵 :2010/11/18(木) 21:26:55 ID:???
94 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 01:26:37 ID:???
日本の教科書も信用できんとわかった。 上海事変に至る状況をなんにも教えてないじゃないか!!
95 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 01:30:47 ID:???
満州から目をそらさせる為の軍部の謀略だとよく言えたもんだw
96 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 02:12:39 ID:???
97 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 12:56:36 ID:???
98 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 13:31:46 ID:???
明治維新以降日清戦争まで 清・朝鮮に関係ある件 1873年(明治6年) 征韓論問題(明治六年政変) 1874年(明治7年) 台湾出兵 1875年(明治8年) 江華島事件、日清修好条規調印 1882年(明治15年) 壬午事変 1884年(明治17年) 甲申政変、 1894年(明治27年) 日清戦争
99 :
名無し三等兵 :2010/11/19(金) 13:41:39 ID:???
この時代 ベトナムも清国の一部だったんだ。 逆に台湾は清国ではなかったんだ。 日清戦争の前にフランスと戦争して現在のベトナムあたりを フランスにとられている。
>>72 二号機雷とわざわざ書いてる意味が解らない。
日本海軍はいろいろな機雷を研究してるが
↓これは大正時代。
海峡機雷 二電機雷 潜水艦用機雷 水中線機雷 防潜網用機雷 艦底爆発機雷
潜水艦用機雷(昭和4年5月 八八式機雷 として兵器に採用)
防潜網用機雷(大正14年に兵器に採用)
○○号機雷とは機雷缶の種類を指すものらしい。
日露戦争当時においては、単に 「機雷」 と言えば 「繋維機雷」 のことを指しています。 勿論、それ以外のものを意味する場合もありますが、 非常に少ないことは頭に置いてください。
日露戦争中の黄海の海戦(八月十日の海戦)で、 日本の駆逐隊が敵艦隊の前程を横切ったさいの偶然の出来事からヒントを得ている。 このときわが駆逐隊は戦闘に備えて上甲板上に置いてあった石炭叭を海中に投棄した。 これを見た敵側は、機雷の投下と勘違いして回避したのである。 その折の戦闘記事がロシアの新聞に掲載され
一号機雷の原型は明治四十一の開発といわれ、その概要は次のとおりである。 機雷缶は浮力三七キロの銀杏型浮標に吊下げられ、 既成電気啓開器による起爆方式を採用し、炸薬は下瀬六稜火薬四五・七キロ、 全備重量一二三キロ、水中重量二三キロ、外径四二五ミリ、全長八三〇ミリ、 連繋索の長さは一〇〇メートル、整深機構は吊下深度索によったが、 その索長は六・〇九メートルであった。 ちなみに吊下深度索には周囲二五ミリの柔軟鋼線が用いられていた。 一号機雷は大正十年九月に炸薬量を増大した改良型が制式化され、 それに伴なって在来型を一号機雷甲、改良型を一号機雷乙と称するようになった。 一号機雷乙は炸薬が下瀬成形火薬一〇キロとなり、機雷缶の全備重量は一九二キロに達した。 当然寸法も外径五〇〇ミリ、全長一、〇七〇ミリと大型化し、 浮標も蝉型をした浮力五七キロのものに改められた。 吊下深度索も九・一五メートルに伸びているが、連繋索の長さは変わらない。
歴史 1549 明の水底雷(記述) 1585 オランダが小舟に火薬を満載し放流(アントワープの戦い) 1776 米国ブッシュネルの浮遊機雷(米国独立戦争) 1797-1810 米国フルトンの係維機雷(フランス革命) 1829 米国コルトの管制機雷 1854 プロシアで最初の触角機雷(クリミヤ戦争) 1857 島津藩の水雷実験 1868 ドイツ・ヘルツ式触角 1914-1918 イギリスで最初の水中線機雷(第一次世界大戦) 1914-1918 ドイツで最初の沈底式磁気機雷(第一次世界大戦) 1939-1945 ドイツで最初の水圧磁気機雷(第二次世界大戦)
二号機雷乙電気機械水雷 1903
1904年2月8日 - 1905年9月5日 日露戦争
黄海海戦となった。この海戦で連合艦隊は旅順艦隊の巡洋艦3隻他を撃沈したが、主力艦を撃沈することはできなかった。
>>76 に尾ひれがついて
「百発百中ノ一砲ヨク百発一中ノ敵砲百門ニ対抗シ得ル」
になるのかw
百発一中の砲百門が同時に砲撃して相手に命中弾を得る確率は63.4%
一回目で全弾はずれても99門に減った二回目が63%、次が62.7%となり、
この時点で95.5%の確率で一発は当たっています。
井上成美に論破されてる。
「ペトロパブロフスク」 を撃沈したのは、第四駆逐隊が敷設したもの
外径は円筒形浮漂水雷に類し、内部に装薬、 水銀電路啓閉器機及び2個の艇用電池を具う。 水雷下部は二重となし、海水をして此間に入らしめ之に断電器を置く。 此断電器の利用は安全距離の長さある2条の単心電纜の装着に依り、 揚収時恰も電気即発水雷揚収時と同一の安全を得んとするに在り。 水銀電路啓閉器は70度の傾斜により作働す。 水銀を使っていて 傾き、振動で爆発するんだね。
海面から12吋に合わせたらしいから喫水線より下が3m以下の艦は
引っかからない。
>>71 はロシアの浮遊機雷だろうと思われるが。
日露戦争でロシアが使ったものは、醸成電池式触角型の機雷
120 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 11:48:53 ID:ob/bgkMQ
なんか中国のネット上に豊島沖海戦で 日本の艦に突然赤旗に上がって、船上の外国の船員に船を離れるように求めて、 すぐ発砲し撃沈して、この時、機関銃で海上でにいる清軍の将兵を機銃掃射して、 700人あまりを殺したとか書いてあるなぁ。 これはマジかい?
イギリスの船員及び、ドイツの雇い外国人の砲兵士官と、 清国人の兵士をどうやって区別して機銃掃射したのやら?
>120 リンク先を提示しないと何とも
中国の解釈で言うと 白村江の戦い 文禄・慶長の役 日清戦争 と日本と戦うのは日清戦争で3度目で 元寇はモンゴル帝国扱いで違うんだそうな。
>>120 唐老?さんというジャーナリストのスレに他の人のコメントとして
載っていたのだが、3日前に私が日本語でコメント欄に書き込みしたからなぁw
今見たらコメント欄全部消していた。
唐老鴨さんだ。なんで変換できんかったのだろう?
下午1?“高升”号被“浪速”??,此?日?竟用机??射在海上漂浮的清?官兵,最后殉?者?七百余人。下午2?“操江”?“秋津洲”追上也被俘?。
>>127 だめだね。中国語じゃ貼り付け出来ない。
黄海海戦 (百度中国語Ver) 10時23分、連合艦隊の第1遊撃隊は北洋海軍を発見。 30分、北洋海軍の鎮遠は日本の艦隊を発見。 12時05分、第1遊撃隊、北洋海軍に接近。 20分、北洋海軍は旗艦定遠は中央にくさびの形の陣形に。 50分、双方の艦隊の距離の5300メートル定遠砲撃開始。 第1遊撃隊は北洋海軍の5000メートルで左に転蛇。 53分、連合艦隊松島砲撃開始。定遠のメインマストに命中して、ブリッジ損傷、提督負傷。 13時頃、 第1遊撃隊は北洋海軍の右翼を砲撃。 13時20分、北洋海軍右翼の超勇・「揚威」火災。北洋海軍は比叡、赤城を大破させる。 第1遊撃隊は比叡、赤城を救出に向かう。 14時20分、西京丸被弾火災離脱。北洋海軍の超勇沈没。「揚威」座礁沈没。 14時30分、平遠は、松島の砲撃を受けてしばらく退避。 15時04分、定遠は被弾火災。 15時20分、致遠に第1遊撃隊の集中砲火沈没。済遠逃亡・広甲逃亡中座礁。 15時30分、松島被弾。 16時10分、靖遠・来遠損傷離脱。松島「各艦随意に行動せよ」と発信 17時頃、 靖遠・来遠復帰、靖遠指揮を執る。 17時30分、経遠沈没。松島「戦闘停止」を発信、離脱。
53分、連合艦隊松島砲撃開始。定遠のメインマストに命中して、ブリッジ損傷、提督負傷。 ↑ これ5300メートルの距離から3分後松島の副砲じゃ届かないってw 主砲は後ろ向きだし、一発も主砲当たってないからw
132 :
名無し三等兵 :2010/11/20(土) 23:04:01 ID:3H8nVDEY
清国海軍が松島が信号発したのは、解かったが内容までは把握してないことが 良く解かった。 連合艦隊が砲撃をはじめたのが13時以降距離3000メートルだからな。 自艦の砲撃の振動でブリッジが壊れたのは認めたくないんだろう。
これも東郷効果かw
豊島沖海戦(中国Ver)1 「済遠」「広乙」25日朝鮮の豊島の海域で、 日本の連合艦隊の第1遊撃隊“吉野”“浪速”“秋津州”と会敵。 7時20分双方発見、双方戦闘準備。 7時45分日本が不意打ち“吉野”砲撃 7時52分反撃開始 「済遠」西に逃亡。 「広乙」日本艦隊との間に割って入って煙幕を炊いて援護。 「広乙」に“浪速”“秋津州”砲撃で浸水させる。 「広乙」退避座礁。 「済遠」の副長死亡。 8時10分“吉野”“浪速”が「済遠」を追撃。 8時30分「済遠」清国の旗を降ろし白旗を掲げる。 「済遠」停船させようとしたが「済遠」は 「操江」と、中国兵と兵器を輸送中の英国商船「高陞号」のいる方に逃亡。 逃げながら砲撃。 12時38分“吉野”は「済遠」を追い接近。「済遠」“吉野”に3発砲撃。 “吉野”は被弾離脱。
豊島沖海戦(中国Ver)2 9時15分“浪速”英国商船「高陞号」を停船させる。 “浪速”士官を派遣「高陞号」に“浪速”についてくるように指示。 「高陞号」船長承諾“浪速”に追従しようとするが清国兵が阻止。 清国兵が船長を監視。 “浪速”から信号「船を離れよ」 「高陞号」再度派遣を要請。 “浪速”拒否。赤旗を掲げる。 「高陞号」のイギリスの船長・船員海に飛び込む。 清国兵、イギリスの船長・船員海に発砲。 “浪速“「高陞号」に砲撃、清国兵歩兵銃で反撃。 午後1時「高陞号」沈没。 清国兵2人捕虜にした以外清国兵射殺。イギリスの船長・船員海を救出。 ドイツの顧問von Hanneken少佐は岸辺に泳ぎます。 午後2時「操江」を“秋津州”が捕獲。 「済遠」威海に到着。 以上略
137 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 02:02:15 ID:X7mhIVjM
客観的な内容は中国のサイトの内容の方が信用できるような気がする。 特に時間の経過ごとに書いているものが多く解かりやすい。 ただ最後に泣き事だの、批判だのが入るからそれが非常にうっとおしい! 日本のは脚色混じりで書かれてることが多いので真実がわからん。
138 :
名無し三等兵 :2010/11/21(日) 02:20:38 ID:X7mhIVjM
一つ解かったのは、マクギィフィンは艦の見分けもつかん士官だと言うことだけは解かった。
しかし、機関銃なんて積んでないよな・・・ 37mm5連装機砲これ使ったのか? そんな勿体無いことせんよな? 個人装備でも機関銃はないよな・・・
MP18輸入するのは、もっとずっとあとだし。
海軍九二式機関銃なんてさらにもっとあとだし。
どっちにしてもこの時代で帝国海軍で機関銃というのは眉唾ものの話だ。
重機関銃は、 日露戦争においては初めて本格的に使用された。 短機関銃については、 世界で最初に実用化された短機関銃は、第一次世界大戦末期にドイツ帝国軍が開発したMP18。
だいたい中国人のイメージする。 日本海軍陸戦隊=サブマシンガン装備の陸戦隊というのは。 上海特別陸戦隊のイメージが大きいからだろう。
清朝軍の将軍や提督はこの年代になってもキョンシーみたいな格好してたのか。
>>147 「洋務運動」って聞いた事有るだろ?
外見は洋風なモノを取り入れても、中までは追いついてなかったって事だよ。
>>130 この頃の艦砲射撃の奥義は、アウトレンジじゃなく、近接猛撃だからな・・・
奥義じゃない 極意
洋務運動なんて歴史の教科書に載ってないからなぁ
10数年前に使っていた山川高校世界史の教科書にはちゃんと書いてあった
工業高校だったからな。 おまけに30年も前だw 日本史の授業はあったが世界史は授業自体なかったよ。
北洋海軍の艦には多管機関砲なる装備があったようだ。
軽防御で砲力重視の巡洋艦というベルタンのコンセプトは1904年から1905年の日露戦争までに前ド級戦艦に追いつかれ、 Jeune Écoleの概念は大いに疑われた。 日本では松島型の総合的な性能に満足できなかった。 フランスから日本に回航途中の「畝傍」が1886年12月に沈没した後、 ベルタンの去った後の設計はフランスよりむしろイギリスの造船所に注文された。 日本でのベルタンの本当の遺産は一連の近代的な造船所、特に呉と佐世保工廠の建造だった。 ちなみに日本で最初の近代工廠である横須賀海軍工廠は1865年に フランス人の技術者、レオンス・ヴェルニーによって作られた。
“Jeune École思想” 大型の戦艦に代わりに軽量、重武装の軍艦を使用する思想
豊島沖海戦の中国のサイト見てて、 なんか覚悟というか何と言うか。 日本人と中国人の感覚が違いすぎるなぁ。 壇ノ浦の戦いでもそうだが、この当時の日本人の感覚では、 海戦やって負けた場合、負けた側の選択肢は自分で落ち延びるか、 自決するかしかないよな。 相手が救助活動せんかったといって批判するのは・・・ ほんとになんか感覚のズレを感じるよ。
167 :
名無し三等兵 :2010/11/22(月) 19:07:10 ID:rBnqVkZn
>>166 でも、日露戦争ではロシア兵を救出してるよね。 蔚山沖海戦とかで。
高陞号事件でも、清国兵が降伏の意思を全く見せず、ボートに襲い掛かってくる始末だったから救出できなかったって話
(なんかの本で読んだんだけど、何の本かは思い出せない。ごめん)も聞いたことあるし、今となっては真相は分からないな。
>>167 たしかに蔚山沖海戦でロシア兵を救助してる。
ただし、これは相手が「シーマンシップ」という考えを理解している水兵だから
出来ることであってこんな考えをもっていない陸軍兵士だとなぁ・・・
無理だろ。
逆に日本人の場合だと救助拒否する士官もいると思うよ。
レスありがとう。高陞号事件について日本のサイトも探してみる。
>>170 >25日午前7時清国軍艦済遠号、イツニ[不明]出会せり。
>然るに我れワ[不明]対し、礼砲を発せず、且つ戦争準備の模様なるにより、即刻開戦砲撃す。
>1時20分間猛烈砲撃の後ち、彼れ1は牙山の方向2[不明]1は直隷湾に逃去れり。
これは、吉野が先に砲撃だが不意打ちした訳じゃないわ
>>170 多少変なことも書いてあるが公文書になっているものだけは信用に値すると思われる。
コンスタンチン・フォン・ハネッケン調書から
コンスタンチン・フォン・ハネッケンが把握している生存者170名。
コンスタンチン・フォン・ハネッケンが証言した総乗組人員1220名。
日本軍の証言から日本軍が捕虜にした清国兵2名。
清国兵死者数1048名。
同コンスタンチン・フォン・ハネッケン調書から あの時点で清国兵を救助などたわごと。
同コンスタンチン・フォン・ハネッケン調書から 「済遠」が高陞号とすれ違う際、白旗半旗で通過したのが証言されてる。
>>176 連合艦隊が北洋艦隊に近ずく為にアメリカの国旗を掲げただの
把握出来るはずもない日本人の戦死者の名前出してるだのうんざりした。
>>170 これが真実だろうね
七月廿九日午前二時四十五分発
同 午後八時五十分着
西郷海軍大臣 佐世保 平山八重山艦長
戦争模様報告すべき電信承知せり。
それは艦隊司令長官の電信を持来り。今朝鎮守府より発せり。併し小官の見聞する所を参考に供すべし。
二十五日午前七時、済遠号、廣乙号、牙山より出艦。操江号、英国旗を掲げたる運送舩コウシング<高陞>[印度支那気船会社の気船]、支那兵を載せ、太沽(大沽)より牙山に向い来る。此時吉野、浪速、秋津州、牙山に向い航進す。
丁度豊島の沖「ショパイヲール」[島名]の所にて出会いたれども、司令官に礼砲をなさず。又、二軍艦とも戦争準備あらわる<をなし、敵意を表する者と認む>。然れども場所狭き故、三艦は方向を転じ沖に出つ。
此時、浪速は直に済遠に迫るに、済遠は大檣に日本軍艦旗の上に白旗を加えて引揚[(欄外)白旗を加揚するは降伏を表するの信号なり]、依て浪速も発砲を見合す。
同時に運送舩、浪速の前を横切る。浪速は発砲し<彼の注意を引くの号砲>、止れ、錨を投ぜよ、の信号を為す。運送船は投錨し、英国旗を卸せり。
此信号の間に済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百「メートル」に来る<や彼れ水雷を発せしも当らず。故に> 浪速、側砲を発して之を撃ち、数回、回転打方をなす。吉野も亦済遠号を撃つ。
敵、遂に威海衛に向い、遁げ去る。吉野、秋津州、遁げ去るを追撃し、凡そ百哩余にして追付ず。
廣乙は秋津州と戦い、陸岸と浅瀬の間に遁げ込みたり。
又、運送船の船長は降れども、支那兵服従せず。浪速は先ず試に魚形水雷一個を発す。当らず<彼れの注意を促す為め> 遂に砲撃して沈没せしむ。生きしもの甚だ少し。
此戦に我れ一人の負傷なく、吉野は「ガーフ(斜桁)」を苅られ、「チャートルーム[海図室]」毀われ、浪速は敵弾丸「ガンルーム」[士官次室]と「メスルーム」[機関士室]を通し、機関室に落ちたれども破裂せず。
敵軍艦大破壊。運送船に陸軍人数、大隊長<四、中隊長十五>、兵員千百、野砲六、西洋人八。内英国人船長、同じく一等運転手外、一応取調浪速の端艇にて助く。頃は本艦に来る船長の話。
>>170 ハッケネンの調書途中からコウシングに関して沈没後から
<長いので前略>
遊泳中、余は我が船が沈没するのを見た。船尾が先ず沈没した。
この間、発砲が引続き、遊泳を試みるも助かる機会がないのを知った船上の兵士は、奮然これに応じて発砲した。
余は日本艦から端艇を降ろし、多数の兵士を載せて来るのを見て、我が船の残兵救助のためであると信じたのに、遺憾にもそれが誤りであることを発見した。
端艇中の兵士は沈没船上の残兵を射撃した。余は実に、その中の者が日本艦及び沈没船から狙撃されたのは事実である。
まさに沈没船の兵士から狙撃したのは、自分は死を免れず、寧ろ同胞もまた生かして置くべからず、との残忍な観念に基いたものであろう。
高陞号は水雷発射後、ほとんど半時間ばかりで全く沈没した。
高陞号はなお一層の好機会があったものと思う。即ち、現場に停船しないなら責を負え、と告げられた時に、その錨鎖を緩め、そして更に奇計を施して表に日本艦の命令に応じる意を示し、終に島の背に逃げることが出来ただろう。
このことは、時を失わず勧告した。しかし船長及び役員は、船に英国旗を掲げる事実が船を保護して、敢えて敵対の行いを受けることはないと確信し、遂にこの禍となり、同船の役員、水夫、及び兵士もまた皆この禍を共にしたのは、余の遺憾とするところである。
ただし、余の知るところでは、兵士中遊泳して生命を保った者、僅かに170名ばかりに過ぎず、そして他の西欧人で陸に達した者があるかは余のまだ知らないところである。
コンスタンチン・フォン・ハネッケン[サイン]
1894年7月30日
右は余の面前に於いてその姓名をサインした。
在済物浦 英国領事 W・H・ウィルキンソン
>>180 の内容はただこれがけのこと。
高陞の清国兵は海上の外国人を射撃した。
↓
日本軍の端艇中の兵士は沈没船上の残兵を射撃した。
182 :
名無し三等兵 :2010/11/24(水) 02:19:23 ID:FuppjFHS
>>176 から知り得た情報
定遠副艦長(副邦帯)英国人W.F.タイラー
>>170 電報
二月廿日午前九時五十分長崎発 十時五十分着 中村常備艦隊参謀発電
左の電報持来れり。
本日午前、全艦隊威海衛港に入港。劉公嶋砲台、水雷隊営、鎮遠、済遠、平遠、廣丙、鎮辺、鎮中、鎮北、鎮南、鎮西、鎮東、その他官衙、受取済なり。
鎮遠、済遠、廣丙には回航員を乗船せしむ。準備整い次第、鎮遠は一先旅順港に、其他は本邦に回航せしむる筈。
各所砲台及水雷衛所は旅順口海兵団の兵員を以て守備し居れり。
康済は武装を解き、丁汝昌の柩を回送せしむる為め彼れに与えたり。
[第一遊撃隊は修理の為め、吉野、秋津洲、浪速は佐世保に、高千穂は呉に、本日回航せしめんとす]
二月十七日 威海衛港
伊藤聯合艦隊司令長官
大本営
>>184 統計によると、黄海の海戦の中、日艦は平均的に11.17発弾が命中して、
北洋の各艦は平均的に107.71発弾が命中します。
日艦の大砲の命中率は北洋の艦隊の9倍以上にぬきんでます。
後半は無抵抗に撃たれまくったからな・・・
単純に比較するのは・・・
>>186 これじゃなんのことか解らないね。
戦争の賠償として日本の国家予算の4年分に相当する銀と
台湾とどこかはっきりしない地名の島を賠償金として清国からふんだくった。
>>173 は間違いだ
コンスタンチン・フォン・ハネッケンは総乗組人員って言っている。
よって清国兵死者数928名。
済遠(さいえん)
建造所 ドイツ、ステッチンのフルカン社、 清国巡洋艦。
明治13年 月 日起工 同16年 月 日進水 同18年 月 日竣工
北洋水師所属、日清戦争開戦明治27年7月25日の豊島沖海戦では
被害を受け遁走、9月17日の黄海開戦においても、弾丸数発を受
けると旅順港へ逃げ帰ってしまった。
明治28年2月17日 威海衛で捕獲。 同年3月16日巡洋艦として日本
艦籍編入。
明治31年3月21日 三等海防艦に類別。
明治36年12月 日 邦人保護で仁川、木浦に派遣。
明治37年2月7日 日露開戦、釜山沖でロシア船エカテリノ・スラプ
拿捕、のちに潜水母艦籍編入、艦名韓崎となる。
明治37年11月30日 旅順港砲撃中、雙島湾外で1424(午後2時24分)
に触雷、1427(午後2時27分)沈没。
明治38年5月21日 除籍。
ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun015.htm
海洋島付近激戦? 日清海鮮大孤山沖大激戦?
日露戦争 4月28日機雷をウラジオストク港外に敷設 5月12日水雷艇四八号が触雷沈没 5月14日通報艦宮古触雷沈没 巡洋艦「吉野」と「春日」が衝突し「吉野」沈没 5月15日初瀬、八島、ロシア側の機雷に触れ沈没 5月16日砲艦大島と赤城が衝突し大島沈没 5月17日駆逐艦暁触雷沈没
wiki豊島沖海戦に追加 ・(済遠・広乙)礼砲を発せず、且つ戦争準備の模様なるにより、即刻開戦砲撃す。 (七月廿八日午前八時四十五分発 伊東連合艦隊司令長官発 大本営宛抜粋) ・浪速は直に済遠に迫るに、済遠は大檣に日本軍艦旗の上に白旗を加えて引揚依て浪速も発砲を見合す。 (中略、この間高陞に構っており) 済遠号、浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百(メートル)に来る。 (七月廿九日午前二時四十五分発 平山八重山艦長発 西郷海軍大臣宛抜粋)
196 :
名無し三等兵 :2010/11/27(土) 05:21:37 ID:raxc/OQ+
「済遠」は統率がとれていなかったのではないか?
>礼砲を発せず 敵と認識している行為。 >浪速の艦尾に向い進んで凡そ三百(メートル)に来る。 白旗を揚げた上で停船せず。艦尾まで近寄って魚雷を撃ってくるなど言語道断。
198 :
名無し三等兵 :2010/11/28(日) 09:50:15 ID:+mxElNoD
背信行為。
ウラジオストークの艦隊は静岡県の御前崎まで通商破壊にきている。
日露戦争での海戦 仁川沖海戦 蔚山沖海戦 黄海海戦 コルサコフ海戦 日本海海戦
「李鴻章はあれは話せばいくらでも話の分かる男だから、あまりこちらから欲張らぬが良い」 日清講和談判に際して 勝安芳
204 :
名無し三等兵 :2010/12/03(金) 10:06:20 ID:hxKgpjxU
1904/02/09 仁川沖海戦 1904/04/25 ウラジオ艦隊、陸軍輸送船「金州丸」撃沈 1904/06/15 ウラジオ艦隊、常陸丸・和泉丸撃沈 1904/08/14 蔚山沖海戦
205 :
名無し三等兵 :2010/12/03(金) 10:23:13 ID:hxKgpjxU
1904/10/21 ドッガー・バンク事件
206 :
名無し三等兵 :2010/12/03(金) 10:26:46 ID:hxKgpjxU
1904/08/10 黄海海戦 1905/01/02 旅順陥落 1905/05/27 日本海海戦
佐渡丸 4月25日萩浦丸 4月26日金州丸 6月15日出雲丸・常陸丸 7月17日から8月2日6 隻のスクーナー撃沈 イギリスの蒸気船ナイト・コマンダー ドイツの蒸気船テア撃沈 1905年4月25日4 隻のスクーナー撃沈 グロモボイ触雷、大破
通商破壊する場合は乗員は置き去りにするべし。 ナイト・コマンダーに関してはあとに臨検した英国船籍の船に救助を依頼してる。
出雲丸じゃなくて和泉丸だな。
喜宝丸、第二北生丸、福就丸
奈古浦丸という船が最初らしい
二月一一日、青森県艫作(へしな)崎付近で、奈古 浦丸(一〇八四トン)撃沈、全勝丸(三二五トン)損傷
四月二 五日元山港内に停泊中の五洋丸(六〇一トン)撃沈、萩浦丸撃沈
二六日、新浦(しんぽ)沖で、陸軍運送船金州丸(三八五三トン)撃沈。
六月一五日、壱岐島沖で陸軍運送船和泉丸(三二二九トン)と常陸丸(六一七五トン)撃沈、佐渡丸大破。
七月二〇日、北海道沖で、高島丸(三一八トン)喜宝丸(一四〇トン)、第二北生丸(九一トン)の三隻撃沈
七月二二日、横浜沖でドイツ船アラビア号(二八六一二トン)拿捕、
七月二四日、伊豆半島の南岸でイギリス船ナイト=コマンダー号(四三〇六トン)、静岡県御前崎沖で自在丸(一九九トン)福就丸(二二〇トン)を撃沈、
六月二五日、野島崎灯台沖で、ドイツ船テア号(一六一三トン)を撃沈、イギリス船カルカス号(六七四八トン)拿捕。
ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/ryojyun-3.htm
合計撃沈13隻 奈古浦丸 五洋丸 萩浦丸 金州丸 和泉丸 常陸丸 高島丸 喜宝丸 第二北生丸 イギリス船ナイト=コマンダー号 自在丸 福就丸 ドイツ船テア号
なぜ、巡洋艦なんかで通商破壊戦ができたのか不思議だったが、当時の船は 軍艦や特殊な船以外、無線機積んでないんだ。
致遠の件は防護巡洋艦が、防護巡洋艦にラム戦しかけようとしたのか・・・
日露戦争で春日が誤って吉野に衝突。 春日は装甲巡洋艦だな・・・
>日本海軍はこの2隻の購入を図ったのであるがロシア海軍もこの2隻の購入を考えており、
>ロシア側の交渉が先にまとまりかけたので日本の同盟国であるイギリスが売買に介入し
>「ロシアに渡るよりは」と即金で購入してしまった。
>そこで日本はアルゼンチン側が発注してイタリアで建造中だった装甲巡洋艦「リヴァダヴィア」[Rivadavia]と
>「モレノ」 [Moreno]の購入を図り、こちらは無事に購入することが出来た。
ttp://military.sakura.ne.jp/navy/c_kasuga.htm
リッサ海戦では装甲巡洋艦が装甲巡洋艦にラム戦を仕掛けて沈めた。 非装甲巡洋艦が装甲巡洋艦にラム戦を仕掛けて、仕掛けた方が艦首を大破した。 結論、防護巡洋艦の場合、ラム戦を仕掛ける場合は敵船に乗り込んで白兵戦 を仕掛ける場合でないとするべきではない。 致遠の場合は、相手の艦の性能を知らず仕掛けたので、ただの無謀。
221 :
名無し三等兵 :2010/12/26(日) 08:32:39 ID:c4UaEHqb
魚雷に関して 1884年(明治17年)ドイツ製「朱(シュワルツコフ)式84式魚雷」 明治26年 英国製「保(ホワイトヘッド)式26式魚雷」
八四式魚雷 炸薬21kg 雷速22ノット 射程400 二六式魚雷 炸薬50kg 雷速25ノット 射程548.6 雷速22ノット 射程 731.5
墺国保社製 オーストリアホワイトヘッド社?
>>161 オチキス系列の3.7cm5銃身ガトリング砲だ
日本も使っている。
>>225 情報感謝
しかし 対戦車砲なみの口径のガトリング砲とは・・・
どんなんだろうね・・・
日本では明治40年6月まで機関銃の事を「機関砲」と公式には呼んでいた。
フランスのホチキス社の機関銃。日本では「保式機関砲」と呼ばれていた。
>>229 これは機関砲ではなく速射砲とよばれた物。
明治30年末、軍艦富士、八島2艦の着邦に依り、 茲に始めて45糎魚雷を見るに至りしものにして、 三〇式魚雷 と称せられるもの即ち之なり。
日清戦争時 八四式36糎魚雷・八八式36糎魚雷・二六式36糎魚雷
日露戦争時 三○式B型36糎魚雷・三二式36糎魚雷 三○式45糎魚雷・三二式45糎魚雷
1894年(明治27年)日清戦争 1904年(明治37年)日露戦争
機雷 英国製旧一号機雷 二号機雷乙電気機械水雷
爆薬 下瀬火薬 組成 ピクリン酸
火薬 汎用 黒色火薬 装薬 褐色六稜火薬
魚雷追加 三四式18in墺国保社製海峡防御用163本購入 三七式18in呉横佐で50本製造三二式改
「平遠」の艦長浅羽金三郎
★チ・ユアンChi Yuan.済遠(濟遠). [成語]異国を救い整えるを意味する. 「済」は「救済」、「遠」は「異国」を意味する.
マッギフィンは英語版Wikiによるとアナポリス時代に数々のいたずらによる 伝説を作っていると書いてあるが本当だろうか? 例その一 昔の球形砲弾を3階の階段の上から1階までボーリングよろしく放り投げた。
フィロ・ノートン・マクギィフィン(Philo Norton Mcgiffin)中国語表記、馬吉芬
コンスタンチン・フォン・ハネッケン (Constantin von Hannecken)中国語表記、漢納根
Folk Hero 民衆的英雄
眠れんかったから砲弾の1/4を最上階にもって行き階段の上から放り投げた。 注釈も何もにから検証のしようがない・・・
248 :
名無し三等兵 :2011/01/03(月) 02:08:48 ID:1MflC+z3
未だ沈まずや定遠は
定遠は自爆しました。
251 :
名無し三等兵 :2011/01/10(月) 07:17:15 ID:rme94YbI
漢納根=かのうねw
252 :
名無し三等兵 :2011/01/30(日) 03:41:33 ID:/9vxA+y+
ちえすとー
>>252 1895年2月5日夜半、戦果がまったくわからん状態で伊東連合艦隊司令長官がw
使えん船はさっさと処分するに限るのだが・・・ 日露戦争後、海防艦としてまで保有したのは何の為だろう。
>>254 済遠は日露戦争中に触雷で沈んでるんだが。
>>256 それなら「とにかく頭数が必要だったから」ってことに尽きる。
日清戦争終結時のロシア太平洋艦隊の勢力オンリーなら
ともあれ、規模は不明だけどヨーロッパ方面からの増援が
ある事は既定の事実とすべき想定だったから。
だからこそあれだけ必死になって金を工面して各所へ建造
発注も出している訳だし。
頭数だけの話だったのか、 まあ、隻数があれば精神衛生上はいいだろうが・・・ 実際は役にたたんのだが。
260 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 09:18:23 ID:+2iLrDbm
鎮遠 17年使ったのか 1895年2月17日 - 1912年4月6日 - 済遠 9年 1895年2月17日 1904年2月8日 広甲 1年 1895年2月17日 1896年2月18日
261 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 09:29:30 ID:+2iLrDbm
壱岐 17年 周防 17年 1922年ワシントン軍縮条約に基づき除籍され、解体が開始されたがその最中に浸水し転覆した 肥前 19年 石見 19年
262 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 09:33:23 ID:+2iLrDbm
丹後 11年→返還 相模 11年→返還
263 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 09:40:53 ID:+2iLrDbm
津軽 19年 宗谷 11年→返還 これは知らなかった 日中戦争での戦利艦 八十島 7年
264 :
名無し三等兵 :2011/02/18(金) 09:57:13 ID:+2iLrDbm
第二氷川丸の一件 駆逐艦「村雨」通信士右近謙二中尉「ハウ・メニ・ナイチンゲール」 タウジンハ船長 ! 駆逐艦「村雨」砲術長「看護婦を忘れてよく病院船の臨検が出来たね」 ワロタw
>>263 八十島(旧平海)は実際にはそんなに長い期間使ってないよ。
日中戦争中に爆撃で着底していた旧平海を捕獲して浮揚後
内地に持って行ったけど、かなり長い間放置していて、対米
開戦後に改装して海防艦として類別、その後二等巡洋艦に
変更。
>>265 ありがとう。
しかし海防艦→二等巡洋艦というのは珍しいですね。
阿蘇 27年
鈴谷 8年
269 :
名無し三等兵 :2011/02/19(土) 08:48:05 ID:qubAc3g9
旧式艦と戦利艦を処分しておけば 赤城が戦艦になってたかも・・・
>>269 ムリダナ
陸奥よりも凶悪な戦艦を列強がほっておくとも思えん
271 :
名無し三等兵 :2011/02/20(日) 06:26:38.29 ID:k+VknF31
予定では長門級3番艦が加賀で4番艦が土佐。 天城級2番艦が赤城だった。 海軍としては天城と赤城の船体を確保しておきたかったようだが・・・
級じゃない型だったorz
済遠の慰霊碑は・・・ない。 広丙でさえあるのに・・・ しかし、呉・佐世保の旧海軍墓地が公園なのに対して、 横須加だけは未だに墓地なんだね。
『和泉』石田艦長「威風あたりを払い肅肅として進航し来り、各艦は煙突を黄銅色に塗抹し、 遠路東航中焚火法は大いに練熟したと見えて煤煙を吐出せず」
アリヨールに命中弾6インチ以上で3百発超
沈没ロシア戦艦6隻。 ボロジノ、アレクサンドル3世、スワロフ、オスラビア、シソイ・ウェリキー、ナワーリン
小田喜代蔵 連繋水雷の発明者。
『朧』内藤中尉 「その日は艦の動揺がいかにも激しく、発射管を右舷正横に向けておきましたが、ややもすれば魚雷がのめって飛び出す始末。 丁度奔馬の轡に手綱を食はしたやうに左右から綱を採って、両端を水兵に持たせ、それに依って、辛うじて魚雷の奔出を防ぎ得ました様な次第でした。 自分は照準器についておりましたが、漸次時機が近づいてきましたから、狙いを定めて水雷を発射したのであります」
日本海海戦は砲撃だけで戦艦沈めたというのは嘘であったか・・・ アリヨールは沈んでないもんな・・・
斉射法を実戦で初めて実行したのは日露戦争の黄海海戦の連合艦隊ある。
イギリス海軍は、黄海海戦の観戦武官ペケナムの報告により、 斉射法による長距離射撃が実際にできることを知ることになった。
ロシアの技術者 「偉大なるかな装甲!」
284 :
名無し三等兵 :2011/03/15(火) 18:42:28.22 ID:8LAg+mA8
装甲age
ペケナム
Sir Thomas Pakenham、1757-1836. イギリスの海軍軍人、政治家
歴史に対して日本のwikiは真実を示していない場合があり、 他の物と比較が必要。
8 英国商船高陞号撃沈ノ事 B03030208100 外務省 英国商船高@号撃沈ノ事 豊島沖海戦ノ際帝国軍艦浪速カ 清国政府雇英国商船高@号ヲ撃沈セシメタルコトハ 開戦前ニ清国政府ノ為メ兵士及武器ヲ搭載セル局外国ノ 運送船タリトノ故ヲ以テ将ニ国際上ノ問題ヲ日英両国間ニ 惹起セントスルノ形勢ヲ生セシヲ以テ陸奥外務大臣ハ 本邦駐剳英国代理公使ヲ招キ告クルニ帝国軍艦浪速カ 高@号ヲ撃沈セシメタルノ事実ヲ以テシ且ツ他 日本件ニ関スル顛末審査ヲ遂ケタル末若シ帝国軍艦浪速ノ行為ニシテ 正鵠ヲ失セハ帝国政府ハ敢テ相当ノ補償ヲ怠ラサルベシト述ヘ 七月二十九日法制局長官末松謙澄ニ左ノ訓令 一 今回朝鮮国牙 山口ニ於テ撃沈シタル運送船ハ其船名ヲ何ト称シ清国船籍ニ属スルモノナルカ 又ハ他国船籍ニ属スル
日清戦役中豊島沖海戦ノ際撃沈シタル清国軍艦広乙号乗員英国軍艦二於テ救助一件 B07090878500 外務省 発第百号 受第一一一四五号 豊島附近海戦ノ際焼失シタル清国軍艦広乙号艦長以下 水兵ノ存命セル者七十余名ヲ英国軍艦アリチヤー及ポーポイスノニ艦ニ搭載シ 清国ニ送還方ニ付当地駐在英国総領事代理ヨリ別紙甲号写ノ通リ照会有之御@其文中セネバ 条約第六款第九款ニ従ヒ云々ハ同照会附属別紙英国艦隊司令長官公文中漂民云々ノ趣意ト @異ルノシナラスセオバ条約ハ@ニ赤十字社ニ@スル規@ヲ定メタルノシニテ 本件ノ如キ場合ニ適甲スヘキモニアニストヒ@@@本官ハ別紙乙号写ノ通リ 回答@@@右御会迄ニ申進候也 明治二十七年九月五日 特命全権公使大島@介 外務大臣陸奥宗光殿 11.9. gmo tegahon, seonl, sepl
アジ暦の公文書で残っているのは2つのみ。 7月28日 伊東連合艦隊司令長官発 大本営宛 豊島沖海戦詳報 豊島沖海戦の詳報 平山八重山艦長
豊島沖海戦の報告 柴中尉 七月二十七日発 只今富士川カクヲン群島ヨリ帰リ左ノ報ヲ特ヲ来ル 二十五日午前七時海戦アリ我軍大勝利ヲ得タ委細アリヨリ 釜山 柴中尉 参謀総長 ツヅキ 戦勝ハ豊島付近ナラン支那軍艦靖遠ハ 支那ニ広乙ハ牙山ニ
明治27年9月17日 黄海海戦戦死傷数(11月17日調査) C06061789400 @保病院 呉病院 入院
自27年至28年戦役死亡人名調書並死傷報告(4) C08040712700 佐第二六五四号 高等武官死亡御届 軍艦扶桑乗組 海軍少尉内崎徳 右九月十七日黄海海戦ノ際敵弾ノ為メ負傷之本府病院ヘ入院治療中ノ処 本日死亡候条此旨御届仕候也 明治二十七年十一月十二日 佐世保鎮守府司令長官柴山矢八 海軍大臣伯爵西郷従道殿 死亡証書 軍艦扶桑分隊士海軍少尉内崎徳 二十六年二月 右者明治二十七年九月十七日清国大羊河沖ニ於テ清国艦隊ト戦闘中 右前頭隆起部ニ複雑骨折ヲ負ヒ同月二十一日入院療養ノ処脳中膿瘍ヲ続ヒシ 昏睡ニ依リ同年十一月十二日午後四時十五分死亡致候此段致証明候也 明治二十七年十一月十二日 佐世保鎮守府病院長海軍々医大監吉田貞準 死亡証書 軍艦扶桑分隊士海軍少尉内崎徳 二十六年二月
明治27・8年 戦史材料 写真帖 C08040578200 日清戦争実記 第29編(明治28年6月7日発行) 神戸港各国軍艦輻輳 明治二十八年一月三十日我陸海連合軍威海衛攻撃ノ際 敵ノ陸上火薬庫爆裂ノ遠景 距離十海里ニテ望見 明治二十八年二月二十二日米国大祭日威海衛港内戦艦満艦飾及祝砲ノ景 四枚ツヅキノ内一 四枚ツヅキノ二 四枚ツヅキノ三 四枚ツヅキノ四 軍艦吉野後甲板戦闘後ノ状 明治二十七年九月十七日之レヲ写ス 捕獲水雷艇及浚渫汽船 内崎少尉 扶桑 内崎徳少尉 二七、九、一七 黄海海戦重傷 一一、一二死亡 瀬ノ口覚四郎大尉 27.7.17戦死 二十七年九月十七日戦死 少尉@@@橋口戸次郎 明治二十七年九月十七日黄海海戦ノ際軍艦比叡ニ於テ戦死ス 軍艦比叡軍医長
上 アジ暦 写真入りの公文書 見る価値有り
1月15日 米国発明の水中爆発物搭載汽船の件旅順口に向け出発 C06060272600 電信訳文 某汽船米国水中爆発物ヲ登載シ急二威海衛ヲ出発シ旅順口ヘ向フ筈ナリ 千八百九十五年一月十五日 上海発
28年1月1日 軍艦扶桑現状報告の件 C10125656800 扶桑艦長新井有貫||扶桑副長新島一郎 軍艦扶桑現状 報告 明治二十八年一月一日 清国大連湾碇泊 扶桑艦長新井有貫 要旨 著手竣工或ハ収受予定月日 船体船具 全備 兵器 全備 機関 全備 人員 入渠セル期日外底ノ現状 二十七年七月入渠塗替 役務差支ノ有無 役務ニ差支ナシ 軍艦扶桑現状 報告 明治二十八年二月一日 清国栄城湾 扶桑艦長新井有貫 要旨 著手竣工或ハ収受予定月日 船体船具 全備 兵器 全備 機関 全備 人員 兵曹二名機関手一名文員 入渠セル期日外底ノ現状 二十七年七月入渠塗替 役務差支ノ有無 役務ニ差支ナシ 軍艦扶桑現状 報告 明治二十八年三月一日 清国威海衛碇泊 扶桑艦長新井有貫 要旨 著手竣工或ハ収受予定月日 船体船具
28年2月1日 軍艦武蔵現状報告の件 C10125658200 武蔵艦長伊藤常作||軍艦武蔵艦長海軍大佐鹿野勇之進 現状月報 明治二十八年二月一日 武蔵艦長伊藤常作 要旨 著手竣工或ハ収受予定月日 船体船具 航行ニ差支ナシ 但予備ジブブムゲルンヤードシ?闘準備ノ為メ@羽尾使山 石炭庫ニ揚ヶ置リ一静動京戦闘準備ノ為メ艦内倉庫狭隘ニ付 佐世保知港軍庁ニシチ置リ 左舷「バウアンクル」台及 「オートルウヱー」下甲板船窓四ヶ所及右舷追撃砲門以上 本艦ノ手ニテ仮修理 機関 完備 兵器 完備 但前ア拾七拇克砲指導扞一 中ア同?車指導鉄取付螺施 右一月三十日威海衛碇皈之際破損ニ付艦内 ニ仮修理キナシ目下使用三居支ナシ 十七拇克砲附沛孤耳坐螺旋同上破損ニ付 目下線備品使用 人員 大機関士一名欠員少機関士一名過員大機関士欠員ハ少 機関ヲ以テ補リ二等
28年3月8日 軍艦天龍兵器亡失届の件 C10125670900 天龍艦長世良田亮 龍普第一〇五号 兵器亡失届 一十二拇克砲照準索眼杆座金物 参個 一同支挺ノ金物 一個 一同撃止鏈并照準索坐金蓋 一個 一短七、 五拇克砲々車輪 一個 一同要具筐 一個 一爆発管 参拾個 右ハ 明治二十八年二月十一日威海衛砲撃ノ際敵弾ニ由リ飛散紛失 明治二十八年三月八日 威海衛港 天龍艦長世良田亮 呉鎮守府司令長官有地品之允殿 龍普第一〇四号 兵器破壊届 一十二拇克砲橇盤前部右側 一同水力駐退機(円?、円?帽、喞子杆、喞子熕銅支基) 一同右側前部防衝具 一同左側前部橇車内方埋管并軸杆 一同右側砲車ニアル繋止鏈ノ支基 圏轍前部右方半心后部右方三分ノ一 一同右側前部底板駐鉄 一同右側前部@車并側又状 一短七、五拇
28年2月28日 軍艦愛宕火工品亡失届の件 C10125672900 愛宕艦長井上良智 愛普第六四号 火工器亡失届 主管者海軍大尉安田八束 一二号肥後信管爆発管 参個 右本年二月五日午前一時水雷艇援護ノ為メ 威海衛港東口日島砲台砲撃ノ際十二拇砲旋廻中艦動揺ノ為メ 同砲手一番団轍ニ蹣キ胴乱携帯ノ儘転倒右発管甲板ニ散乱ス依テ 「スカツパル」ヨリ海中ニ落失致候条此段御届仕候也 明治二十八年二月二十八日 愛宕艦長井上良智 横須賀鎮守府司令長官男爵井上良馨殿
客観的に状況を知るためには、公文書から発生した日より3ヵ月以内と 限定し抜き出すのが正解と思われる。
日清戦争時黄海周辺にいた諸外国の軍艦 英艦「アンダウテッド」 「クッセント」 「ジブラルタル」 「スパルタン」 米艦「ボルチモア」
威海衛への攻撃は第一回夜襲は10隻の水雷艇 衝突事故1 転覆、乗組員は全員死亡1 座礁1 小銃による被弾多数 当日戦果不明、翌朝定遠擱坐確認
第二回夜襲も10隻の水雷艇 5隻待ち伏せ 5隻突入 戦果 来遠転覆、 威遠轟沈 実筏轟沈
306 :
名無し三等兵 :2011/05/27(金) 18:59:52.10 ID:YdM0aCX1
軍艦済遠兵器取調表 28.6.27 軍艦済遠兵器取調表(1) レファレンスコード C06060114200 28.6.27 軍艦済遠兵器取調表(2) レファレンスコード C06060114300
29.8.25 軍艦平遠・広丙・済遠・鎮遠・鎮中・ 26号水雷艇搭載戦利品員数取調表並評価取調表の件 レファレンスコード C06060128400
蔚山沖海戦 出雲 吾妻 常盤 磐手 浪速 高千穂 明治37年1月1日〜明治37年12月21日 軍艦吾妻現状報告(2) レファレンスコード C10100486000
第16号 軍艦出雲破損箇所調査表 レファレンスコード C05110074800 第23号 軍艦常磐破損箇所調査表 レファレンスコード C05110075500 第31号 軍艦高千穂破損箇所調査表 レファレンスコード C05110076300
日清戦争の黄海海戦の要点は、大艦よりも高速性と速射性に優れている方が強かった。 威海衛の方は水雷艇のみを軍港に深夜潜入、攻撃させて勝った。 当時としては常識の範疇外の戦術。
致遠の1/350のプラモが発売されるって。だけど高いな。
>>315 買って得をするのはチャンだけだろ・・・・
致遠は・・・ 要らんがな
すでに砲弾を全て撃ちつくしたんだから、もう特攻以外にする事は無かろう。
特攻する目標を間違えている。 当時、世界最速の吉野。 また、20ktをキープしている艦隊に、まともな状態でも18ktしか出ない船で、 ラム戦仕掛けるのは無謀以外の何者でもない。
調べたら間違っていた。14ktキープであった。
致遠から見れば、吉野は斜め右前方から来て、 左に回頭、左方向に進んでいる。 船足の遅い日本艦は右側後方にいる。 致遠はカタログスペック上は清国最速の防護巡洋艦だが・・・
>20ktをキープしている艦隊 20kt以上を出せるのは吉野だけ。 それ以外は致遠と同じ18ktか、それ以下しか出せないぞ。 ただ、致遠は集中砲火を浴び、吉野に特攻をする時には 炎上&船が傾いていた。18ktを出せたとは思えないが。
ラム戦仕掛けるのは無謀だが、あのままいたとしても撃沈されるか、 済遠のように味方を見捨てて逃走する以外にないんだから。 あえて、特攻をした致遠の艦長の勇気は賞賛に値するだろう。 あの時の清に、致遠の艦長のように身を捨てる覚悟ができた人間は、 果たして何人いたのだろうか?
特攻じゃなくラム戦→白兵戦をしようとしたのだろう?
マクギィフィンのレポートでは、 広甲が赤城と西京丸に向かい攻撃を開始した。 ↓ 致遠は戦列から離れ、広甲に加わる。 ↓ 赤城に衝角突撃をかけんとした。 ↓ 遊撃隊4隻から、猛烈な射撃が浴びせられた。 ↓ 致遠は船首から海面に沈み、横転した。
上のサイト内に「“致?”?没的瞬?」という題名の写真のリンクがある。 黒い煙を煙突から吐きながら水柱の上がる海面を突き進む致遠。
>>326 もちろん「致遠」と「経遠」が翻訳時点で入れ替わってる可能性はあるが・・・
しばしば、なぜ我々は日本人に敗北させられたのだ?と問われる。 答えは簡単だ。日本人は我々より良い船をもち、豊富に弾丸をもち、 より良い将校と水兵をもっていたからだ。 だが、日本人も認める通り、弾丸の命中率は我々の方が良かった。 日本人の命中率は10%だが我々のは20%に達していただろう。 我々は広甲に50ポンド速射砲を3門もっていただけだ。 敵は無数に速射砲をもっていたようだ。日本水兵の勇敢さと、将校の敢闘精神は認める。 だが、非難を浴びている中国水兵のためにも一言いわせて欲しい。 彼らは、雨のように注ぐ速射砲弾の中で戦った。上甲板は血の海だ。 それでも彼らは戦い続けた。 マクギィフィンレポートより。
マクギィフィンはあまり信用出来ないなぁ。 日本軍が毒ガス使ったと言った張本人だからな。 さらにマクギィフィンは「日本兵も弾丸がなければ中国兵と同じく 甲板で隠れながら震えるだけだったろう」などと書いた奴からな。
「だ」がぬけたorz
暇だ。相違点を出しておこう。 「豊島沖海戦」まず答えが出てるもんから、 最初に撃ったのは? 清国では最初に撃ったのは日本側。 日本では最初に撃ったのは清国側。 検証後、最初に撃ったのは日本側。 浪速からの魚雷が英国商船「高陞号」に命中した? 日本側はほとんど表記なし、あっても浪速は威嚇で魚雷を発射したが、外れた とか・・・ 清国側(ハネッケン)の見解、魚雷が命中した。 疑問点、高価な魚雷を威嚇に使うだろうか? 停船している「高陞号」ならば充分に命中する条件が揃っている。
現中国では「高陞号」が沈む時に日本兵が機関銃(マシンガンw)で 海上でにいる清軍の将兵を機銃掃射したという表記がある。 日本側は表記はない 当時、清国側は救助活動しなかったとして批判し、撃沈したことを非難した。 ・ハネッケンの証言、端艇中の日本軍の兵士は沈没船上の残兵を射撃した。 ・検証の結果、この時代に兵士が携帯出来るサブマシンガンはない。 ・清国兵が沈没する船上から射撃しているので、救助せんかったというのは たわごと。
>・検証の結果、この時代に兵士が携帯出来るサブマシンガンはない。 この機関銃というのは、魚雷艇を追い払う為に搭載された 機関銃のことでは?それなら、清軍の将兵を機銃掃射するのは可能だけどな。
浪速の兵装にそのようなものは記載がない。 記載があるのは以下の通り。 26cm単装砲2基 15cm単装砲6基 4.7cm単装砲6基 水上魚雷発射管4門
揚威には11mm十連機関砲があったようだ。 27.11.16 佐世保鎮守府武庫 広乙号より捕獲品軍艦浪速より送付の・・・ 【 レファレンスコード 】 C06060110900
高陞は航海士にマニラ人が居たようだ。 1.朝鮮国豊嶋近海ニ於テ帝国軍艦浪速ノ為英国汽船高陞号撃沈ノ件 附末松法制局長官佐世保ヘ出張取調ノ件/分割2 レファレンスコード B07090653400
弾薬の消費(1)レファレンスコードC08040489000 4 / 50 豊島沖海戦に於いて、 吉野は15ポンド鋼鉄榴弾。12ポンド鋼鉄榴弾。3インチ鋼鉄榴弾。 を消費。 6 / 50 7 / 50 浪速は目標ごとに分けてる旋回、側砲、速射。 機砲という字が見られるが砲弾の種類まで書いてない。 我砲と言う字も見られるガトリング砲積んでる。 浪速の砲術長は広瀬勝比古 8 / 50 秋州島は15ポンド砲弾。12ポンド砲弾。47mm砲弾、1インチ砲弾。 を消費。
浪速の兵装はこっちが正解か・・・ クルップ 26cm(35口径)単装砲2基2門 アームストロング 15.2cm(35口径)単装速射砲6基6門 オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲6基6門 25mm4連装ノルデンフェルト砲10基40門 11mm10連装ノルデンフェルト砲4基40門 35.6cm水上魚雷発射管単装4門
11mm10連装ノルデンフェルト砲 なんで11mmで砲なのか謎だが・・・
機関銃というのは 「11mm10連装ノルデンフェルト砲」の事では? それならばハネッケンの言う、 「端艇中の日本軍の兵士は沈没船上の残兵を射撃した」というのは 必ずしも「たわごと」とは言わない。 またこの時代では「機関銃」が携帯できるという概念は無いから、 「機関銃」というのは、ガトリング砲の指していると思われる。 それに当時の軍艦は、魚雷艇を追い払う為にガトリング砲などが 搭載されていた。
>「端艇中の日本軍の兵士は沈没船上の残兵を射撃した」
↑
これに関しては「たわごと」とは言ってない。
沈没船上から清国の将兵が射撃をしているのでこれは当然。
但し、ハネッケン曰く
>>180 だそうだ。
清国側の救助活動しなかったとしての批判がたわごと。
こうして見ると確かに機関銃というのは 「11mm10連装ノルデンフェルト砲」だろう。 但し、コウシングに向けて使ったのは、 主砲、副砲、速射砲等、艦の全砲を使っての射撃。
>「端艇中の日本軍の兵士は沈没船上の残兵を射撃した」 端艇というのはカッターのこと。 カッターボートを下ろしてきて、日本兵が乗り込み歩兵銃かなにかで 射撃したことを指している。
ちなみに11mm10連装ノルデンフェルト砲というのはとてもではないが、 持ち運んでカッターに積んで撃てるようなものではない。
浪速が高陞に使用した砲弾の使用量 ただこんなもんではすぐに沈むはずはないので、 ハネッケンの供述した通り魚雷は命中しているだろうと予想する。 26cm砲弾×2 15.2cm砲弾×9 4.7cm機関砲弾×26 25mm ×660 11mm ×439
旋回=26cm砲 側砲 15.2cm砲 速射 4.7cm砲 機砲 25mm 我砲 11mm と仮定してだが
中国のサイトでは、致遠の話は、 吉野が定遠に向かって放った魚雷を阻止して当たったという話と 吉野が逃げながら致遠に向かって放った魚雷がまぐれ当たりしたという 話があるな、後者が大多数だが・・・ 日本では喫水線あたりに砲撃があたって沈んだとするものが主だ。
致遠型は小ぶりの船体に21センチ砲3門と15センチ砲2門だっけ? イギリス製にしては意外と砲が積んでいないんだな。 済遠の武装はもっと少ないんだから、攻撃手段が少ないのも この艦隊の敗北要因の1つだな。
致遠は防護巡洋艦としては武装は並。 主砲、副砲が速射砲じゃないんで旧式。 クルップ 21cm(35口径)連装砲1基+同単装砲1基 アームストロング 15.2cm(35口径)単装砲2基 5.7cm(47口径)単装速射砲8基 オチキス 3.7cm(23口径)5連装回転式機砲6基 45.7cm水上魚雷発射管単装4基
済遠は砲などの武装の他に、水雷艇を2隻搭載していた。 敗北要因というか日本海軍に勝つこと自体が無理ゲー。 砲の強化はされたが速射砲ではなく、2分半に1回しか撃てん砲で、 さらに満足に砲弾・火薬も支給されず。 船体自体も整備がちゃんとされていなくて、 カタログどおりの速力を出すことができない。 対して日本海軍は速力が早い船を集中運用し、砲弾の潤沢にあり。 さらに主砲・副砲が速射砲で、船体も整備がしっかりされている。 戦艦がないというハンディがあっても、 最初から清国海軍が勝てる相手ではない。
清国海軍と中国海軍が戦ったらどっちが勝つの?
中国海軍の定義を出してくれ。 どの時代の中国海軍だw
明治27年8月10日威海衛砲台砲撃
>>342 41/50黄海海戦分
43 海洋島戦に於ける松島の弾丸消費
32センチ鋼鉄榴弾3
通常榴弾1
強装薬3
弱装薬1
着発信管1
爆発管1
12センチ鋼鉄榴弾400
通常榴弾10
弾底信管410
敵弾食らって榴霧弾6とか飛び去るとか書いてある・・・
12センチ鋼鉄榴弾は撃ち尽くしてる。
日清戦争後にイギリスに発注した海天型は致遠型と比べると 武装が充実しているね。戦訓が読み取れている。 海天級防護巡洋艦 常備排水量:4,300トン アームストロング 1893年型 20.3cm(45口径)単装速射砲2基 アームストロング 1864年型 12cm(45口径)単装速射砲10基 10cm(-口径)単装速射砲22基 オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲3基 45cm水中魚雷発射管単装5門 吉野型に似ているかな。
オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲3基が余分。 速射砲があるのなら射程の短い砲はいらない
蔚山沖海戦 毀損(5) 【 レファレンスコード 】 C06091555300
内容のうち、35年式海軍銃の字が見える・・・
三十年式歩兵銃と、ほぼ同等品。
391 : 名無し三等兵 : 2011/05/30(月) 22:45:08.13 ID:??? [959回発言] 日本側公刊戦史によると、小口径砲弾は多少当てたけど、 大口径弾はリューリクの磐手への一撃だけ。 磐手はその後も普通に戦闘を続けており、中破というところか。 出雲:二十数発と最多の被弾。戦死2名・負傷17名。 吾妻:十数発被弾。負傷8名。 常盤:数発被弾。負傷3名。 磐手:被弾数発も、午前7時にリューリク主砲弾が副砲郭に命中。 誘爆して6インチ砲3門・12ポンド砲1門破損も、経戦可能。 戦死大尉以下40名・負傷砲術長以下17名。 浪速:戦死2名・負傷4名。 高千穂:負傷水雷長以下13名。
軍艦吾妻現状報告(2) レファレンスコード C10100486000 第16号 軍艦出雲破損箇所調査表 レファレンスコード C05110074800 第23号 軍艦常磐破損箇所調査表 レファレンスコード C05110075500 第31号 軍艦高千穂破損箇所調査表 レファレンスコード C05110076300 過去に貼ったっけ??
370 :
名無し三等兵 :2011/09/20(火) 03:41:56.35 ID:4gJnOTNI
371 :
名無し三等兵 :2011/09/20(火) 03:42:32.73 ID:4gJnOTNI
福田靖は好かん、ゆえに龍馬伝なんぞ見ん。 清の時代、中国にも「下関」という字を地名につかった場所が存在する。
馬関戦争とも呼ばれるな。 この時、四国連合艦隊から砲撃された前田砲台守備の奇兵隊のある兵卒が、 破壊された砲台を眺めて苦笑いをされたと言われる。 これが「馬関一笑」と言われ、後に「破顔一笑」と変わったとされる。
防府に10年住んでたけどあの頃は歴史に興味なんて無かったからなぁw
[破顔一笑]調べたが由来わかんねぇ。 四文字熟語ということは中国の故事からじゃないか?
違った洋員というのは外国人のことだ。 外交官もいる。
下瀬下瀬火薬 下瀬雅允(しもせ まさちか)と言う海軍技師が 発明したもので、ピクリン酸を用い、ピクリン酸が鉄に接触する と、敏感なピクリン酸塩を作り、3千度ぐらいの高熱を発して、 凄まじい勢いで爆発する。日本は、この火薬を最高の国家機密に したが、現実に当時世界で最大の威力を持つ火薬であった。 『完全勝利の鉄則−東郷平八郎とネルソン提督』 (徳間文庫、169頁;生出寿(おいで さとし)) 日本の下瀬火薬は、ロシアの綿火薬の2倍以上の威力がある 『完全勝利の鉄則−東郷平八郎とネルソン提督』 (徳間文庫、302頁;生出寿(おいで さとし)) 明治22年、海軍技師・下瀬雅允が、ピクリン酸による下瀬火薬 を創製した。 『連合艦隊の栄光と悲劇−東郷平八郎と山本五十六』 (PHP文庫、135頁;吉田俊雄)
この下瀬火薬には、ロシア艦隊は驚くと言うより、恐怖を覚えたようだ。 「日本側は、我が方に向かって、驚くべきと強力な火薬を充填した榴弾を ブッ放して来た。これは飛んで来る水雷そのものだった。・・・・・・なるほど、 敵の砲弾は、命中しても装甲帯を貫通するようなことはなかったが、 しかし、それの代わりに上部構造物を根こそぎ破壊し、諸装置を 粉砕し、火災を引き起こし、大砲や乗組員の戦闘力を奪い去った。 ところが、ロシアの方は、遅動信管(ちどうしんかん)を付けた 徹甲弾(てっこうだん)を使っていた。装甲の破壊には役立ったが、 装甲を貫いても、一定の深さまで達しないと炸裂しない。だから 穴は開いても炸裂しないことが多くなる。・・・・・・・そして疑いのないと 一つの事実は、ロシア艦隊は、敵の攻撃に悩まされながら、自身は 敵に対して、ほとんど何一つ損傷を与えていないことだった」(プリボイ『ツシマ』) 『連合艦隊の栄光と悲劇−東郷平八郎と山本五十六』 (PHP文庫、198頁;吉田俊雄)
まあ、パクリだったけどな
おれが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ その世界では有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だよ まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだね、 お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろ?
スレチだぜ
軍板自体がtokiサーバーからtoroサーバーに変わったんだね。
腹立つ、prin規制の次は携帯規制かよ。
大角岑生 明治35年(1902年)1月〜明治37年(1904年)5月「済遠」航海長
wikiの豊島沖海戦記事修正 操江をどうやったらCaojiangと読めるのか・・・ 適当すぎる。 広乙 Guangyi 操江 Tsao-kiang 高陞号 Caojiang
他方、清国側には、「済遠」が大破し、「操江」は「秋津洲」に鹵獲され、「広乙」も破壊された。 The Qing had 'Tsi yuen' severely damaged, the 'Tsao-kiang' seized by the 'Akitsushima,' and the 'Guangyi' destroyed. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
>>391 操江を現在使われているピンインで表記するとCaoJiangになる。
おなじく高陞はGaoShengとなる。
高陞Kowshing 第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を 命じて臨検を行うように発砲し、清国兵が停船命令に従わないため、 魚雷で「高陞号」を撃沈する(高陞号事件)。 Under the order from the commander of the first commando unit, Heihachiro TOGO, the commanding officer of 'Naniwa' requested 'Kowshing' to stop for inspection after warning fire, but when Qing soldiers ignored, he torpedoed the steamship (Kowshing Incident). - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
教えて頂き393氏には感謝だが・・・
oi・・・ 日本の公文書とは真っ向な英文が出てきたなw 日本の公文書では魚雷撃ったが外れたことになってるからな。
説明してくれるのはありがたいのだが、 翻訳する場合ピンインってあんまり関係ないからなぁ・・・
むかし、むかし、清国という国に北洋水師という海軍がありました。 あるとき隣国の日本と戦争になってしまいました。 北洋水師には戦艦が2隻ありましたが設備が老朽化してる上に 補給すらまともに出来ないありさまで日本海軍には到底かてそうにありません。 しょうがなく決戦をさけて戦力を温存し脅威であり続けようとしました。 しかし清国皇帝から決戦を強いられしょうがなく決戦をしたものの 案の定、大被害をこうむり、退避した威海にて壊滅してしまいます。 兵は反乱し提督は兵の命の保障と引き換えに降伏し自殺をとげます。 するとなんと清国皇帝は提督の財産を没収した上、葬式すらすることを許しませんでした。 結局、清国は戦争に負け賠償により弱体化しとうとう国が滅びましたとさ、 めでたし、めでたし。
hoshu
赤化
403 :
名無し三等兵 :2012/06/16(土) 20:18:55.50 ID:pFv0YqUU
長崎事件って、清が日本を威嚇しようとして起こした事件ってことになってるけど、 問題になった鎮遠、定遠は政治的事情から竣工から就役の間が空いた上、長距離の渡る回航で船体が痛んでいたからメンテしたくても、 中国じゃドック入りしてメンテ可能な造船所は皆無だし、アジア全体見回しても、 目ぼしいのはイギリス支配下の香港と当時躍進が目まぐるしい日本くらい。(艦隊の単純な戦闘力よりも、こういう周辺から固めていく当時の日本はホントに立派…) で、先に香港に依頼したら断られたから、やむなく佐世保に依頼したら大変な事になっちゃったって感じに思うんだど… 元々船乗りなんて気が荒いし、東郷なんかも言っているけど、 陸にしろ海にしろ近代軍隊に成りきれていない質に低い清の兵隊が、どうしようもなくて、ああいう騒動を起こすのもどうしようないことに思うけど。 (軍服すら、近代のモノじゃないし、ならず者みたいな奴集めざるを得なかったし、縁故採用が酷かったみたいだし、そもそも当時の清の軍人ってロクデナシがなるみたいな風潮…) 清側の首脳が両国の争いを避けたがっていたことは、清国艦隊の第二次回航も日中友好の為にと日本側から言い出したことで、 長崎事件の再演を避けたい李鴻章は対応に苦慮していたことからも伺える。 ついでに、日本から見れば清を倒したら露が台頭してきてって感じだけど、あの当時の清の艦隊の行動見ると、 長崎事件前直前に行っているのが朝鮮半島で揉めていた露西亜の港のウラジオストクで、日本よりも先ず露西亜が一大事っぽい感じ。 (そもそも当時朝鮮が露西亜に擦り寄っているから、それも脅威で相当な軋轢があったようだ。。) 何が言いたいかっていうと、要するに当時の清は、現代言われる程日本に悪意はなかったように思えるんだけどどうよ? wikipediaの記事とかも、あまりに偏り過ぎでアレ読んだら絶対に勘違いすると思うんだが…
>>403 そんなん言ったらロシアも同じよ
向こうさんの圧力が厳しいから極東に活路を見出しただけで
そこにたまたま日本があっただけに過ぎない
元々戦争すら起こす気もなかったしな。生存権確保でやむ得なかったのだ 日露戦争に勝った事でロシア=弱いという勘違いをするバカが居るが、 ロシアからしてみれば後ろを向いた状態で相手と戦ってるようなもん モスクワに上陸?無理だろうw
>>405 重慶すら占領出来ないのに
モスクワなんて…
wikipediaの記事って日本の言い分だけだろ。 あれ、以前はもっとひどかったんだぞ。
朝鮮の権力抗争の末に一方は中国、一方は日本に介入を頼み日清戦争が勃発した. これが正しい歴史か・・・
>>408 そして、もう一方はロシアに介入を頼んでいた。
だからこそ、清も強気に出ざるを得なかったわけで。
朝鮮が諸悪の根源か・・・
教えて頂き感謝。
中国の言い分だけを通すとこうなるという見本。 >国際法違反プラス卑劣な人種差別 とは片腹痛いw さらに奇襲だとはw
>>411 ライフリングが刻んである。
違和感をおぼえた。
そこは、ほぼ幕末onlyではないか。