パァスタァァァァァァァァ
953 :
名無し募集中。。。:2010/11/15(月) 17:40:00 ID:PWhqEoEe
>>947 乙です
開豁な砂漠で奇襲くらって、しかも戦車へとりつく島もなく壊滅とか・・・
ヘタリア凄すぎるwww
>>947 貫通不能な無敵戦車マチルダ、まんせーw
8.8cmFlak18「呼ばれた気がした」
956 :
名無し募集中。。。:2010/11/15(月) 21:28:04 ID:PWhqEoEe
90/53も忘れないであげて
37mm砲をジープに積んだのがあるけど、映像観るとサスがやばそうだった。
車載はブレダ20mmが好き。
>これは明らかに防御態勢で、既存のイタリア軍の基本原則とは異なっており、
>古風なナポレオン時代の、騎兵突撃への歩兵の防御策に近いものがありました。
この頃だと、開豁地で機甲部隊に襲撃された時の対策っていっても、こんなもんだったのかねぇ。
次スレは自衛隊におけるアメリカ製装甲車両か?
※スレが埋まりそうですので、過去レスの補足をさせていただきます。
>>947 この時のマレッティ戦闘団の戦車数には諸説あります。
又、英軍によるニベイワでの鹵獲戦車数を35両としている資料もあるのですが、
同資料はニベイワへ展開していたイタリア軍戦車数を20両とも記述していましたので、
>>947中には書けませんでした。
>>449 バリクパパンで120o海軍砲に撃破されたとされるマチルダですが、
155mm砲によるものという説もあり、そちらでは乗員の損害を戦死1名・小隊長以下数名負傷としています。
但し、120o海軍砲説の資料(第1機甲連隊の血統の“ニューサウスウェールズ槍騎兵”記念館)の方は…
@負傷者6名の姓名が全て記載されている
A第4小隊の動向も記載されている
(155mm砲説の資料では当日の第4小隊について記述が全くなされていない)
B当日の戦闘の時間帯が記載されている
(155mm砲説の資料では記載がなく、又、バリクパパン戦以外の箇所で、部隊名・日時の誤記が時折確認される)
…でしたので、
>>449では120mm海軍砲説の方を採らせていただきました。
【二十リーグ 二十リーグ 二十リーグ 前進】
“私はアレクサンドリアやサルームを目標にしているのではない。
目の前の英軍を攻撃せよと言っておるのだ。”
1940年8月10日、ムッソリーニはグラッツィアーニ元帥に厳命を下し、
9月13日朝、Berti将軍指揮下のイタリア第10軍によるエジプト侵攻が始まります。
イタリア第10軍は3個軍団(第21、22、23軍団)を擁していました。
そして、Bergonzoli将軍指揮の第23軍団がエジプト侵攻の先鋒となりました。
第23軍団は1個師団を完全自動車化、2個師団を半自動車化するに足るトラックを、
十分に供給されていました。
侵攻時の第23軍団の戦力は以下の通りでした。
@集成第1戦車群
Aマレッティ戦闘団
B第62歩兵師団“マルマリカ”…半自動車化
C第63歩兵師団“チレーネ”…半自動車化
D第1黒シャツ師団“3月23日”…完全自動車化
E第1リビア歩兵師団…非車両化
F第2リビア歩兵師団…非車両化
半自動車化師団は兵員を折り返し方式で輸送し、
非車両化師団は60マイルの道程を徒歩行軍しました。
9月16日夕、集成第1戦車群は第1黒シャツ師団“3月23日”及び第23軍団の全砲兵と共に、
シディ・バラーニ東南東へ達しました。
集成第1戦車群は歩兵支援用途のみに慎重に使用されます。
一方、マレッティ戦闘団はシディ・バラーニ西方に未だに留まっていました。
同戦闘団は組織上と補給上の問題を抱えており、十分に攻撃に参加出来ない状態でした。
イタリア軍は非車両化部隊の進撃速度を基準にしましたので、
日に12マイルしか前進出来ませんでした。
主目標のシディ・バラーニ到達後は進撃を停止し、以降は野営地の強化と補給線の整備に努めます。
イタリア第10軍の進撃距離は約100kmでした。
この時点での陸軍部隊の損害は戦死者120名・負傷者410名で、
若干数の戦車とトラックが機械的な故障で失われました。
空軍の損失は6機で、内2機は事故によるものでした。
12月8日の夜、イタリア第10軍はシディ・バラーニ近辺へ留まったままでしたが、
マルサ・マトルーフへ12月中旬に進撃すべく、作戦計画が練られていました。
英軍との接触は僅かで、彼らには総力を挙げて戦闘を挑んでくる意思はないだろうと考えられていました。
その頃、闇の中をイギリス西部砂漠軍6万名が密かに迫りつつありました。
※シディ・バラーニ。
ttp://www.inilossum.com/2gue_image/2guerr467.gif ※シディ・バラーニ。マチルダとイタリア軍砲座。
ttp://i23.tinypic.com/dfekox.jpg
大戦末期の帝国陸軍の戦車部隊の記録は絶望的になるなぁ・・・
集めても30台くらいしかいなくて、歩兵に攻撃をかけたらバズーカーと対戦車砲でフルボッコ。
撤退したらシャーマンに追いかけられて中隊全滅。みたいな話ばっかりだもんなぁ・・・
>>962-965 毎度乙です!!
貴方のお陰で凄まじい良スレになった
スレタイからはかけ離れた気もするがw
まぁ、問題あるまい
次スレはもし建てるなら第二次世界大戦前後のマイナー戦車話、ネタ総合とか?
日本軍絡みの外国製機甲兵器がいいな。
上海でのヴィッカース・クロスレイとか、戦後のM24とか。
本当に小さいのう
育ちましたなぁ
一発装填にしくじってるねw
>>964 三枚目はカルロ・ランチャ・フィウメだね
朝鮮戦争では、中共軍の人海戦術に多大な威力を発揮した、M16対空自走砲の12.7ミリ四連装銃って、第二次大戦中は地上部隊には使われた?
>>976 大戦末期に欧州で絶対的な制空権を握ってヒマこいてた独立の高射自動火器大隊が
歩兵支援に投入されてた希ガス
アジアでも制空権は握っていたけど、どうなんだろう?
アジアでは、そもそも欧州ほど高射自動火器大隊を見ない希ガス
>>924-925の補足です。
第132砲兵連隊は27口径75mm野砲を約30門(“イタリア軍入門”では32門です)装備していましたが、
ビル・エル・ゴビ戦の数週間前に、成型炸薬弾(初期型 )を少なくとも200発供給されていたそうです。
102mm海軍砲搭載トラック5両は“MILMART”(国防義勇軍沿岸砲兵)からの配属でしたが、
“MILMART”保有の7両からの抽出でした。
両軍の損害は以下の通りでした。
○第22機甲旅団:戦車42両、戦死21名、行方不明・負傷約70名
○アリエテ師団:戦車34両、車両3台、砲不明、戦死25名、行方不明・負傷177名
※ビル・エル・ゴビ戦(41年11月19日)の戦闘図が投稿されています。
ttp://forum.axishistory.com/viewtopic.php?f=56&t=162180
写真サンクスです。やっぱイタリア軍は黒羽ですよね〜
片手で6発持てるんすなw
>>924 >いくばくかのイタリア兵が投降してきましたが、
>英軍は誰一人として、イタリア兵の投降を受け入れようとはしませんでした
>(第22機甲旅団には、規模の大きな歩兵部隊の支援がなかったことが原因でした)。
>
>仕方なく投降兵は砲のもとへ戻り、再び戦闘を続けました。
>このようなことは砂漠での戦闘方針として、珍しいことではありませんでした。
なんだかなぁw
>>924 >(第22機甲旅団には、規模の大きな歩兵部隊の支援がなかったことが原因でした)。
これも初期イギリス機甲部隊の欠点だよね<歩兵部隊が少なすぎ
巨大な8.8 cm PaK 43/41を数十人がかりで押してる有名な写真は、
始めて見た時衝撃だったなあ。文字通り恐竜的進化って感じだった。
12.8cm Pak 44とか、もうなんだかねw
なんだかんだと来て、990を超えました。
軽量な50mmクラスまでの対戦車砲が使われ続けた理由だな
そんなもんで役に立つならいいけどドイツはそういう状況じゃ無かったし。
ドイツも難しい状況かもしれないが、このスレも難しい状況だぞ
次スレ建てるの?
俺は今建てられないから建てるなら誰か頼む
では1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。