日本陸軍におけるM3軽戦車

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738名無し三等兵
>>647補足

WWII緒戦の米極東陸軍・臨時編成戦車集団へのキャリアの配備数ですが、
フィリピン陸軍・軽機甲師団(PALAD)の公式サイトですと、
ユニバーサルorブレンガン・キャリアが15両(他部隊が何両装備したかは不明)となっていました。
又、マレー向けのキャリアを流用したというのはザロガ氏の「M3ハーフトラック」がソースですが、
上記サイトですと、香港守備隊のカナダ大隊向けに発送したものが開戦時にフィリピンに到着し、
カナダ政府との協議の後に、米極東陸軍が取得したとなっています。

どちらの説が正しいのかは分かりませんが、
太平洋経由だったということを考慮すると、本来は香港向けだったとするのがしっくりくるのかもしれません。
但し、フォード・カナダで製造されたキャリアが、
太平洋経由でマレーへ運搬途中であったという可能性もないとは言い切れませんので、
今のところは判断を保留しておきます。

米陸軍の公式レポートでは、
マニラへ到着した逃走英船からキャリアを40両取得したとなっており、
ブレンガンは付属していなかったそうです。
当初の計画案では機関銃を装備させた後、航空隊地上勤務兵を乗員として2個中隊を編成し、
スチュアートの作戦行動時に、偵察隊として活用するものとされていましたが、
そのような状況での使用機会は、ついぞ訪れることなく終わったそうです。
739名無し三等兵:2010/10/29(金) 19:16:00 ID:???
米軍レポートによると、これらのキャリアは12月24日に北部ルソン部隊のもとへと移動し、
当初は2個戦車大隊へ各15両、北部ルソン部隊司令部へ10両が配備されたそうです。
これですと全40両中、30両が臨時編成戦車集団に装備されたということになりますから、
上記のPALAD公式サイトの挙げている15両という数字とは異なります
(もしかすると、PALAD公式サイトでは1個戦車大隊への配備数を、戦車集団への配備数と語認識しているのかもしれません)。
北部ルソン部隊へは、米極東航空軍の兵士とフィリピン民間人がキャリアを運転して運びました。

戦車部隊配備のキャリアは、最終的に損傷戦車から取り外した機銃などで武装されたそうです。
後に、キャリアの約半数が歩兵師団と第26騎兵連隊へと引き渡されました。
バターン撤退後に何両のキャリアが残存していたのかは不明ですが、
第26騎兵連隊のキャリアがバターン戦時の記録上に現れます。
ちなみに第26騎兵連隊は、ルソン島北部で対戦車砲無しで日本軍戦車と遭遇した際に、
後の日本兵と同じように、手榴弾をハッチから投げ込もうとしたり、
覗視孔に銃を撃ち込むなどして防戦に当ったそうです。

スチュアートと第26騎兵連隊
ttp://www.boerner.net/jboerner/wp-content/uploads/2010/03/26th_Cavalry_PI_Scouts_moving_into_Pozorrubio.jpg
ケソン市、AFP博物館で展示中のブレンガン・キャリア
ttp://smg.photobucket.com/albums/v477/jvsv/Living_History/Artifacts/5Bren_Carrier.jpg
42年1月16日、モロン村での日本軍(第65旅団とする記述を目にしますが、西海岸ですので歩20でしょうか?)への第26騎兵連隊・Ramsey小隊の突撃。
米軍史上最後の騎兵突撃となりました。米軍騎兵は34年4月にサーベルが廃止されています。John Solie画。
ttp://www.johnsolie.com/home.cfm?dir_cat=78185