1 :
1 :
2010/05/08(土) 13:43:10 ID:JXG1JHba
2 :
名無し三等兵 :2010/05/08(土) 13:45:00 ID:???
四十年勤め上げた會社を退職し早二十年、何やら張り合いの無い日々を送る内、 大學生 の孫に「退屈しのぎに遣って見たまへ」と勸められた弐チヤンネル。 當初は「こんな電腦掲示板、何たる幼稚加減」と莫迦にしてゐたものの、 遣つて見ると存外に面白ひ。 華やかな色彩の髪と目を持つうら若き乙女に「ゆとり乙」と何度と無く罵られるにつけ、 食ふや食はずやで慌しく過ぎ去つた學生時代が自ずと思ひ返され、 「戰爭さえ無ければ、小生もこのやうな青春が送れたやも知れぬ」 と獨りごちることも屡々。 すつかり虜となつた今では、孫の部屋から白銀色の電腦計算機をせしめては 書齋に篭もり 存分に「祭り」を堪能する毎日を送つている。 「小四女兒遺棄事件」なるスレツドを拜讀した際には、その餘りに不憫な境遇と過酷な 運命に落涙し、臺所で葱を刻む家内に「かような理不盡が許されていいものか!」と 熱辯を振るって呆れられる始末。年甲斐もない、とはこのことと後で赤面することしきり。 下手の横好きとは云へ「繼續は力なり」の言葉通り、最近ではブラクラの回避やコピペの 管理にも慣れ、「好きこそものの上手なれ」を座右の銘として弐ゲツトに勵んでいる。 同年代の友人達が癡呆や重い病に惱まされるなか、老いて尚矍鑠としてオフ會に向かえるのも、 ひとえに弐チヤンネルのおかげかと思えば、再三に渡る「半年ROMつてろ」の罵り文句も、 何やら「まだまだ死ぬには早いよ」と言われているやうで愉快極まりない。 ひとつ間違えれば自らが乗り込んでいた機體と同じ名前を持つコテハンに出會える日を 樂しみにしつつ、今日もデスプレヱに向かう。 それでは、弐ゲツト。
3 :
名無し三等兵 :2010/05/10(月) 07:30:56 ID:???
新スレ誰も来ないな…
4 :
名無し三等兵 :2010/05/10(月) 13:12:47 ID:???
前スレもそうだったけどネタが無いと停滞するからな 一度流れ始めると一気に流れたりするが
5 :
名無し三等兵 :2010/05/10(月) 13:17:02 ID:???
ハン板に自称塾生が湧いてた、 岩国藩の藩主の分家だって言い出してたw
6 :
名無し三等兵 :2010/05/10(月) 22:06:07 ID:???
そろそろ、戦争体験を語れるおじいちゃん自体も減ってるからね。 たまにネタが投下されたら、骨の髄までしゃぶりつくすくらいじゃないと。
7 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 09:33:57 ID:zpHy3IJ2
火葬場で見たばあちゃんの骨は、ほとんど形なかったけどなぁ なんか台の上に白いものがところどころ残っているって感じ あれって骨壷に一部だけしか入れないから火力強めって事だったのかしら? 関東だと全骨を入れるから、全身標本みたくきちんと出てきたと友人が言っておったが
8 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 12:46:03 ID:???
うちは香川だけど同じ感じだったな。 亡き祖母は、昔俺がWL飛龍作ってるのを見て「戦争が終わった頃こんなんで遊んでたら コラ!言うて叱られたもんやで」とか言ってたなァ・・・
9 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 14:40:32 ID:goQfMapo
ひょんな事から 矢矧にて天一号作戦を17歳2ヶ月で戦い生き残った方と 知り合った 私が通りますよっと
10 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 17:26:11 ID:???
>>9 あなたのような方をお待ちしておりました
是非、詳しいお話を聞かせてください。
11 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 18:18:41 ID:goQfMapo
それでは その方とは20年程前から仕事上での知り合いでした 何年か前の金融危機問題で私の会社も少々損害があり その方も失職 信用組合理事長でした 最近殆ど会うこともなかったのですが 今日突然に相談したい事があるとの事で見えました コピー用紙を20枚程お持ちで 表紙に 〔天一号作戦記録〕 私は17歳2ヶ月で沖縄特攻艦隊の戦闘員として戦艦大和と共に戦った 巡洋艦 矢矧 乗組 元海軍二等兵曹 ○○ ×× とあるでは有りませんか!!!
12 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 18:25:04 ID:???
13 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 18:44:31 ID:goQfMapo
事後承諾を頂けるものと確信して はじめに 年の流れは早いもので、昭和20年8月15日の終戦から65年が過ぎた。 海軍に入ってから67年が過ぎ、沖縄特攻作戦に参加してから65年が 経過した。 私も80の坂を越した。戦艦大和と共に沖縄作戦に参加し 大和の最後 を見届けた生き証人としての生存者も残り少なくなってきたし、語り部 として、書き残すこととした。戦後 復員は、戦争体験については話す 機会もなく又特別話したいとも思わなかった。それにはいくつかの理由も あるけども、次のことが重くのしかかっていたのかも知れない。
14 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 19:04:10 ID:goQfMapo
ひとつは、海上特攻艦隊の戦闘員として出撃しながら「生きながらえて 帰った」ことの自己嫌悪があった。生きて帰らぬ「特攻」の名のもと 一日の戦闘、それも数時間のうちに、3,721名の戦友を亡くした。 その遺族に対する済まぬ気持ちがそうさせたのかも知れない。 それに特攻の失敗と 特に大和沈没の機密漏洩を恐れての処置からか 軍部は、生還した我々を上陸させることもなく、佐世保港外の横瀬島の 仮兵舎に監禁?した。 それと3,721名の戦死者については、特攻攻撃の命令を下しながら只の 1名も特攻戦死扱いをしなかった。なぜか? 私が言いたいのは、当時の戦況からして、作戦そのものが特攻であり、 その時すべてが特攻であったと思う。
15 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 19:24:55 ID:goQfMapo
連合艦隊にいる身としては明日は我が身と常にかんじていた。 それが結果において、戦死の戦友については一人も特攻扱いの二階級特進 に任ぜられることはなかった。戦後の記録では航空特攻は3千余名その他 1千名と聞く。我々の「連合艦隊」最後の特攻艦隊、大和以下10隻の作戦は どう評価されたのか? 航空特攻については軍令部の「天一号作戦」発令による命令特攻であった。 数時間の戦闘で、3,721名の戦死は余りにも多すぎたのか?−−−と 勘ぐりたくもなる。 以上で 序は終わりです
16 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 19:34:28 ID:???
B級グルメすれにすんべ。
17 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 19:48:58 ID:???
私は76才の老人で自分が東京大空襲から生還した者です。で、お爺さんの 戦争体験は日露戦争の奉天会戦です。 祖父は騎兵下士官でロシア軍の狙撃を受けて首に貫通銃創を受けました。 左右に1センチでもずれていたら頚動脈か、頚椎をやられて名誉の戦死でし た。 抗生物質の無い時代に助かったのは寒い満州だからだそうで、気温が高けれ ば当然壊疽になっていたとのこと。 まあ勝った戦いですから祖父にとっては自慢話の種です。 父は習志野の野戦重砲の下士官でしたが、日中戦争が始まる前に退役してし まい戦争体験はありません。 息子はプラモデルが好きで、平気で日米英の戦闘機を作っていますが、私は ちょっとと思っています。
18 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 20:05:51 ID:???
>>15 + +
∧_∧ +
(0゚・∀・) ワクワクテカテカ
(0゚∪ ∪ +
と__)__) +
19 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 21:22:10 ID:???
ID:goQfMapoさん。 どうもありがとうございます。
20 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 21:28:29 ID:???
>>17 ご自身の体験も語っていただけたら幸いです
期待してます
21 :
名無し三等兵 :2010/05/11(火) 21:34:04 ID:???
>>17 奉天会戦ですか。
是非とも聴きたいです。
22 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 00:10:48 ID:???
お、なんだ。突如盛り上がってきたな。 さいわいスレの進みも遅いので、ゆっくりじっくり聞かせて下さい。
23 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 10:36:06 ID:corM/lf7
矢矧生き残りの続きです コピー用紙の表題を見た瞬間ドキッとしました。私の認識では、矢矧は爆沈して 生存者は殆どいない でしたから。早速あるものをとりに二階へと走る私。 戻ってきた手には未完成の「世界の艦船 連斬矢矧」のフルコンプリート一箱。 絵を見て「私は四分隊(測的分隊)に配置され、菊水作戦では左管制器付き、分隊派遣の 派遣の艦橋伝令の配置。この艦橋の後ろ甲板で旗手をしてました」
24 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 10:59:25 ID:???
変なのが来るかもしれないのでsageを進言します (E-mail欄にsageと入れていただければ)
25 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 11:15:24 ID:corM/lf7
一枚に約900字で19枚プリントしてあるが、残念乍一太郎で入力してある。 私は一太郎は全く判らない。仕事がMacメインのためです。 一太郎のデータもtext書類に変換できるのか知らん? ご本人は 「海軍特別練習兵」(海軍特別年少兵)2期生として18年7月佐世保第二海兵団入隊 卒業と同時に「横須賀海軍砲術学校」測的科測的班 普通科 特第二期生となる 横砲卒業時に恩賜の時計授与された 所謂トップ卒
26 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 13:25:14 ID:???
とりあえずE-mail欄にsageを入れて、後は名前欄に「矢矧の人」とでも入れてもらえると判別しやすいのでありがたいです
できれば名前の後ろに「#(何か適当な言葉)」と入れてもらえればなり済ましも防止できます
>>25 一太郎を起動できる環境があるのならコピー&ペーストでメモ帳に張り付ければいいと思います
27 :
矢矧の人 :2010/05/12(水) 14:55:18 ID:???
>>26 有難う御座います
続きをどうするか、協議します。
暫くお待ち下さい。
28 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 17:48:34 ID:???
お待ちしております。
29 :
名無し三等兵 :2010/05/12(水) 20:39:11 ID:???
郵便局でとなりのおじいさん二人が話していたのを 聞き耳立てて聞いた話。 「終戦まで台湾で偵察機で偵察員していたので、 (ほとんど実際の戦闘経験は)無いのですよ。 それで、終戦でしばらくは(捕虜収容所)にいて、 半年ほどして、やれ日本に帰れるとなって、帰国の準備をしていたら、 部隊の中で捕虜虐待の嫌疑がかかって、 私の部隊だけ台湾に残された。」 「それで、本当に虐待はあったのですか?」 「(ちょっと怒った声になり)知らないよ、戦争だし解らないよ。 とにかく、周りの皆が帰国していくのに残されて、残念だった」 このような話を横で聞きました。
30 :
名無し三等兵 :2010/05/13(木) 21:06:18 ID:???
お袋の叔父さん、4年間シベリアに抑留されていた。 帰国したてのころは母親に対して、「働かざるもの 食うべからず」とか吐いていたらしい。洗脳はあった みたいね。
31 :
名無し三等兵 :2010/05/13(木) 21:33:18 ID:???
シベリヤ帰りで洗脳されたと言えば 三波春夫さんもだいぶ洗脳されたと、ご本人が言っていましたね。
32 :
名無し三等兵 :2010/05/13(木) 23:21:26 ID:???
>>30 >働かざるもの食うべからず
いやいやw 洗脳されなくても普通の考えだろw
33 :
名無し三等兵 :2010/05/14(金) 00:04:45 ID:???
>>30 それ一般常識だからw
しかも聖書の言葉なんだなこれが
34 :
名無し三等兵 :2010/05/14(金) 02:56:19 ID:???
うちのじいさんもシベリア帰りで「働かざる者食うべからずってな」とか言ってたが なんかニュアンス的に「働かざる者(弱って動けなくなった奴)食うべからず(配給はやらん)」みたいな言い方してたな 今度田舎帰った時にでも詳しく聞きなおしてみるが
35 :
30 :2010/05/14(金) 03:37:40 ID:???
体が悪くて働けない母親に対して言っていたそうな。 しばらくして真人間に戻ったらしい。
36 :
名無し三等兵 :2010/05/14(金) 03:40:42 ID:???
シベリアの労働収容所帰りより、中国共産党の捕虜になって「教育」を受けた 方が偏向が強いって聞いたことがあるんだけど、経験者を見たことある人は 居ないかな?
37 :
名無し三等兵 :2010/05/14(金) 04:26:40 ID:???
>>36 うーん、洗脳受けても、日本の復興を見て帰国後すぐに洗脳が解けたというから
リアルで見た世代ってかなり限られると思う。
38 :
名無し三等兵 :2010/05/14(金) 14:59:49 ID:???
>>37 日教組が中帰連の「証言」巡業を学校でやってるから、日教組の強い公立学校に
通っていたら、遭遇してるかもしれない。
私の実家辺りでは、「集落」の意味での本来の用法に沿った「部落」を使い続けていて
校歌斉唱も国旗掲揚もやっていた保守県だったから、そういう見世物には縁が無かった。
39 :
名無し三等兵 :2010/05/15(土) 16:24:38 ID:???
うちのじい様は満州かどこかへ行ったあと、久留米で学校の教官やってた。 早くに死んじゃったから詳しいことはまったく聞けていない・・・ で、スレ違いなんだけどばあ様のお兄さん?が硫黄島で戦死したそうだ。 こんなド田舎からも硫黄島へ行く人いたんだーと思った。 おまけにちょっと不思議な話で、ちょうど終戦の2ヶ月前、その人が挨拶にきたそうだ。 でも硫黄島の戦いはとっくの昔に終わっているし、戦死したはずじゃ・・・!? 昔の人は「いおうじま」じゃなく「いおうとう」って言うんだね。
40 :
名無し三等兵 :2010/05/15(土) 17:28:21 ID:???
アメリカのアホダラが読み間違えただけで、今でも「いおうとう」だよ。
41 :
名無し三等兵 :2010/05/15(土) 17:32:31 ID:???
42 :
名無し三等兵 :2010/05/15(土) 17:57:39 ID:???
>>39 住民の呼び方が「いおうとう」で、元住民の要望で国土地理院に登録されている
正式な呼称も、つい最近「いおうじま」から「いおうとう」に変更された。
43 :
名無し三等兵 :2010/05/15(土) 20:24:00 ID:???
長崎にもいおうじま (伊王島) が。
44 :
39 :2010/05/15(土) 20:45:35 ID:???
確かにばあちゃんは「いおうとう」が正しい呼び方って言ってました。 正式な呼称もそちらに変わったんですね。ありがとうございました!!
45 :
名無し三等兵 :2010/05/16(日) 20:24:40 ID:???
ナイフの銘柄にも Iwojima があったろ。
46 :
名無し三等兵 :2010/05/18(火) 20:34:03 ID:???
私の高祖父(母方の祖母の祖父)は生粋の軍人一家出身で モールス信号が出来たためしょっちゅう戦地に送られていたそうです あまりにしょっちゅう戦地に送られるため 「あの人は何か悪いことをしてそのせいで戦地に送られている」 という噂がたつほどだったらしく 詳しくは分かりませんが日露戦争や第一次大戦にも行った可能性があるとか そんな高祖父は第二次大戦のあとシベリアに抑留され アルコール中毒になり帰国してからも結局アルコールが手放せず 最後は野垂れ死にだったと聞いています ちなみに高祖父は那須の勤務でかなり高い階級にまでなったとか……
47 :
名無し三等兵 :2010/05/19(水) 00:05:16 ID:???
合掌。
48 :
名無し三等兵 :2010/05/21(金) 22:47:50 ID:???
建前だの美化だのなんと言われようが白色人種の世界支配の野望に真っ向から 立ち向かい大東亜共栄圏に八紘一宇の大理想を掲げた先輩方を尊敬し誇りに想う気持ちは変わらない。
49 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 01:26:08 ID:???
>>48 つか、露骨な人種差別と闘ったというのは紛れもない事実なんだよね。
戦後になって世界的にもかなり改まったせいで知られてないけど。
50 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 10:38:37 ID:???
ほんとマジな話日清日露大東亜戦争の凄まじさとか戦後のソニーやトヨタを始めとする優秀な メイドインジャパン製品のブランドの確立とか勤勉で真面目な国民性と 高度成長期に経済大国日本のイメージとかこういった日本の働きがなきゃ たとえどんな平和な時代がこようとも東洋人のイメージ=中国人で なめられまくりだっただろうな。
51 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 16:23:29 ID:???
そうだね 諸民族平等の原則を提案してもアメリカに邪魔されちゃったしね。
52 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 20:26:08 ID:???
と、妄想してる間に、アメリカは黒人が大統領だけどな。
53 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 21:07:05 ID:???
今更ねw
54 :
名無し三等兵 :2010/05/22(土) 21:08:51 ID:???
それでもアメリカで黒人奴隷が解放されてから140年以上すぎての快挙だしな
55 :
名無し三等兵 :2010/05/23(日) 08:56:50 ID:???
リンカーン「奴隷を解放します」 黒人「開放するのはいいけど、仕事とか生活の保障は?」 リンカーン「・・・・・・」 その後の歴代大統領「・・・・・・」 1970年代までこんな感じ
56 :
名無し三等兵 :2010/05/23(日) 09:06:31 ID:???
ハルノート突きつけられた時逆に黒人の権利と人種差別撤廃に植民地解放を 突きつけたらよかったのに
57 :
名無し三等兵 :2010/05/23(日) 21:28:40 ID:???
>>56 黒人? 何の話? 白人以外が程度の多少の違いはあっても
全般に差別されてたんだけど、根本的に勘違いしてない?
58 :
名無し三等兵 :2010/05/23(日) 21:45:49 ID:???
白人による黒人差別は宗教的な観点から言って尋常じゃない。 白人から見て黄色人種への差別はあくまで見下すとか侮蔑とかその程度の レベルだけど黒人に対しては殺意すら覚える人間がいる。 KKKみたいな組織が存在してる事実
59 :
名無し三等兵 :2010/05/24(月) 00:58:28 ID:???
スレチ
60 :
名無し三等兵 :2010/05/25(火) 17:35:43 ID:???
今から25年ほど前にカナダへ行ったのだが その時に二人の朝鮮系カナダ人と話をしたんだ 一人はバンクーバーの小物売り場のオーナーで、オレのタドタドしい英語から日本人と思ったようで 訛りのある日本語で話しかけてきた 中学校時代の社会科の教師がバリバリの共産党員だったので オレはその朝鮮系カナダ人が日本人の小僧に対して文句でも言ってくるのかと身構えたんだが 予想に反して非常に好意的だった 二人目はモントリオールの売店で働いている朝鮮系カナダ人だった ケベックはフランス語なので全く話せず、相手も英語が殆ど分からなかったので会話は混迷を極めていたのだが その時にその人が「日本語を話せますか?」と比較的流暢な日本語で話しかけてきたんだ その人は、戦前戦中を朝鮮半島で日本人と一緒に日本人の先生の授業を受けたと言っていた その人が言うには、朝鮮人だとバカにされた事は無かったと言っていた そして、日本人と喧嘩になっても先生は決して贔屓はせずに悪い方を叱ったと言っていた 二人の朝鮮系カナダ人と話をした事で オレが中学校で教わった話は何だったんだろうと思うようになり それ以降、自分なりに戦前戦中の日本を学ぶ気になったんだ。 長文すまん。
61 :
名無し三等兵 :2010/05/25(火) 20:29:30 ID:???
昔の韓国の大統領だかが子供時代日本統治時代田舎の農家で義務教育を推し進めてた 政府の方針と対照的にその人んとこ含め親連中は大事な労働力である子供を学校に行かせたくない風潮の中 日本人の役人が「日本でも朝鮮でも次代の国を担う子供に大切な教育を受けさせないとは何事だ!」 と言われ嫌々行かされたとこ成績がいいので日本人の教師がもっといい学校を 推薦してくれてまたそこでも日本人に褒められてとかやってくうちにとんとん拍子に エリート教育受けさせてくれたなんて話を聞いたことがある
62 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 00:09:47 ID:???
63 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 15:02:23 ID:???
日本の植民地政策は欧米の植民地政策と根本的に違ってたからね。
64 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 16:07:30 ID:???
パクチョンヒ大統領を売ったKCIA部長も、元日本陸軍の整備兵だったしね。
65 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 18:49:45 ID:???
倒産寸前の隣の会社を土地建物従業員込みで吸収合併し従業員教育から 何から何まで1から指導し直しさらに資金投入までした日本と 敵対的に会社を乗っ取り重役をほとんどリストラし従業員をあくまで下請け の末端として搾取し続けた欧米
66 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 19:59:51 ID:???
(スペイン・ポルトガル)、英国・フランス・オランダ・アメリカ・・・ の植民地経営も まるで違うから一括りにせんほが・・・
67 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 20:12:35 ID:???
それらの国々の経営方法は異なると言うよりも時代が違うんじゃねえの?
68 :
名無し三等兵 :2010/05/26(水) 23:45:38 ID:???
メキシコに住み着いたアメリカ人が独立を宣言 ↓ メキシコは軍隊を送って、アラモ砦のアメリカ人全滅 ↓ 「リメンバー・アラモ」を合言葉にアメリカはメキシコと戦争 ↓ アメリカが勝利。カリフォルニアやテキサスがアメリカ領に。 ↓ カリフォルニアから金が出てゴールドラッシュ、 テキサスからは今も石油が出続けている。 ↓ メキシコ大統領の言葉 「かわいそうなメキシコ。あまりに神から遠く、アメリカに近い」 スペイン支配化のキューバで独立運動、アメリカのメディアは、スペイン軍が独立派を虐殺していると報道 ↓ アメリカの戦艦メイン号を自国民保護の名目でキューバへ派遣、スペインの反対を無視して入港 ↓ メイン号、停泊中に謎の爆発で沈没、アメリカの新聞はスペインの仕業と書きたてる ↓ スペインは両国合同の事故調査を提案するがアメリカは拒否 ↓ 「リメンバー・メイン」を合言葉に、スペインに宣戦布告。 この時、すでに戦闘は始まっていたので、アメリカ議会は布告日時を5日さかのぼらせた ↓ アメリカが勝利し、キューバ独立。実質、アメリカの支配下に(その搾取が苛烈だったので、後のカストロ革命につながる)
69 :
名無し三等兵 :2010/05/27(木) 09:40:23 ID:???
>>61 その大統領の下で大臣やっていた人がじいちゃんの知り合いだった
当然、日本語ペラペラで、よくお忍びで日本に来ていたらしい
日本大好きだったから
でもその人の家族は今は韓国に残っていない
みんな留学や結婚で海外へでちゃった
韓国はいろいろあったからね…
70 :
名無し三等兵 :2010/05/27(木) 20:54:55 ID:???
>>69 今の韓国はまともな神経持った国民が普通に暮らせない国だからね・・・
いわゆる軍事政権時代が全部悪かった訳ではなくて、赤化の防波堤でもあったんだけど
それを覆した結果が今の体たらくだもんな。
71 :
名無し三等兵 :2010/05/27(木) 21:27:14 ID:???
未だに徴兵制だしね。 その代わり、韓国の男性は皆体つきが良い。 昔の日本もそうだったんだろうね。
72 :
名無し三等兵 :2010/05/28(金) 05:57:28 ID:???
以前一度こちらに書かせていただいたんですが(と言っても2〜3年前) 私のじい様は歩兵23連隊の生き残りでした。 2等兵で入営して、終戦時は少尉でした。 終戦後、マラリアを患いながら帰還しましたが、昭和40年代に事故で亡くなるまで、戦争の話は一切しなかったそうです。 最近、中国戦線の戦闘記録がびっしり書かれた軍人手帳やら、都城連隊の営舎や中国でのスナップ写真やらが大量に出てきまして。 しかるべき場所に寄贈して鑑定や戦史研究などに役立てていただければと思っています。 参考までに、どのようなところに持ち込めば、鑑定や研究に生かしていただけるか、伺いたいのですが・・・
昔のアメリカは白人内部の差別も酷かった 特にアイルランド系 移民の世代がすすむに連れどんどん平均身長が下がっていったほど 栄養失調でね ケネディも結局暗殺されたし
74 :
名無し三等兵 :2010/05/29(土) 01:40:17 ID:???
区別を通り越して差別を持ち込んだキリスト教徒の思想には世界中で迷惑してまんなあ
75 :
名無し三等兵 :2010/05/29(土) 13:50:26 ID:???
世界中に出かけてキリスト教を広めたヨーロッパだが 最近では同化しないイスラム教徒の処遇に困っているみたいだね
76 :
名無し三等兵 :2010/05/29(土) 18:43:40 ID:???
>>74 あなたの言う「キリスト教徒の思想」って具体的にはどんなん?
教えて。
できれば、参考文献や出展付で。
77 :
↑ :2010/05/29(土) 20:51:21 ID:???
クリスチャン参上w
78 :
名無し三等兵 :2010/05/29(土) 23:57:11 ID:???
>>72 とりあえず地元の大学とかで聞いてみたら?
79 :
名無し三等兵 :2010/05/29(土) 23:59:04 ID:???
>>76 各国の植民地化の先兵として大活躍したことが「思想」の内に入るのかな?
80 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 11:39:49 ID:???
白人 「遠い異国に行ってきましたがそこに肌の色の違う人間らしき?生き物がいたんですが あいつらはどうしましょうか?」 ローマ法王 「きやつらは神のご加護を受けてる我々とは全く違う生き物だから 煮るなり焼くなり何してもおk」 区別や差別通り越して識別してたのが当時の白人キリスト教国家
81 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 14:50:01 ID:???
>>80 ルイス・フロイスもこんな感じで日本に来たのかもしれんが
その時に彼と逢ったのが信長だもんなぁ
ルイス・フロイスはたまげただろうなぁ
うっかり信長の機嫌を損ねたりしたら、自分達が煮たり焼いたりされちゃうもんな。
82 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 15:37:08 ID:???
>>81 そもそも新大陸の場合 先に白人が持ってきた病原菌で文明国家が衰弱していた
旧大陸でもある程度の規模をもつ国家に対しては西欧勢力はなかなか征服できなかったし
キリスト教も根付いてはいない
例えば東南アジアでは部族国家程度だったフィリピンやインドネシアの一部くらいだろ
布教が根付いたのは
インドシナや朝鮮みたいな弱小でも制圧できていない
インドシナだって産業革命後にやっと征服だしね
日本なんて絶対征服できたはずないw現実にイスパニアやポルトガルの援助受けてた大友は
キリシタンアレルギーの島津に滅亡寸前に追い込まれたしw
83 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 16:11:24 ID:???
ぶっちゃけ産業革命以前の欧州はよくて中堅れべるだからね 純粋な軍事力でも島津家vsイギリス、武田家vsフランス とかでも勝てたのではと本気で思う
84 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 16:37:54 ID:???
>>83 島津は半島において殿軍務め 追っ手の大群殲滅してますからね
マジでジャカルタやルソン征服できてたでしょう単独でw
85 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 17:25:30 ID:???
>>84 すると、日本が400年程前に海外進出に本腰を入れていれば
世界の共通語が日本語になってた可能性があるのかな?
86 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 18:37:24 ID:???
やっぱ本能寺が歴史の転換点だな 信長の性格上天下統一後海外進出は必然だったし外洋航海能力に長けた 南蛮製の船を輸入するなり船大工留学させるなりしてそのうち日本独自に 船つくって海外進出で大英帝国と覇権争いしてたろうな
87 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 18:48:47 ID:???
保守的な徳川が天下取ったのがその後の日本の命運を分けたね まあプラス思考で見るなら鎖国したからこそ良かった点も多々ある。 そうでなければ数多の海外の文化が流入してきてかなり違った国になってて 鎖国日本が育んだ江戸や大坂の町人文化の浮世絵歌舞伎落語とかあったかどうか
88 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 19:00:21 ID:???
スレチ
89 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 19:46:58 ID:???
>>88 まぁ、そう固い事をおっしゃらずに
おじい様のおじい様のそのまたおじい様のお話だと考えれば
強ちスレチではないと謂う事でどうかおひとつ。
90 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 19:53:59 ID:???
スレチ・ガイ(1880〜1958) 99 9999 9(スレチ)9 9((()))))9 999()()999
91 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 21:30:56 ID:???
>>80 冗談になってないからね。
そういう要素を抜かしちゃったら、歴史的な事柄を公平に認識することはできないんだよね。
92 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 21:33:37 ID:???
>>85 無理無理。
占領政策が下の下で反発されまくった挙げ句、風土病でバタバタ倒れて消滅が落ち。
93 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 21:37:42 ID:???
>>86 何千年来米作り一本槍できてたんだから、牧畜狩猟系統のような
「手慣れた上手い飼い方」ができなくてダメになるのが落ちっしょ。
↑
植民地政策って煎じ詰めたらこれじゃない。
94 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 22:08:42 ID:???
ローマ帝国やモンゴル帝国オスマン帝国などの軍事力を背景にした大幅な領土拡大国家や 中世以降の世界中を植民地にし大帝国を築き上げた欧州各国など歴史上他国を 征服し一時代を築き上げた例がいくらでもあるのにあまりにも日本に対して自虐的だし 過小評価しまくってるな。 戦後日本人は自信持たないよう自虐的思想になるよう教育されたと聞くが ほんとそう思うわ。
95 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 22:39:58 ID:???
>>92 おおよそ百年に亘って続いた戦国時代を戦い抜いて生きた
当時の戦国武将はそれほど軟では無いんじゃないの?
占領地で反発を食らうのは当たり前だし、信長の叡山焼き打ちや一向一揆弾圧を知れば
それほど不可能だとも思えんがな。
96 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 23:08:32 ID:???
>>94 客観的に観察できないようじゃ、いつまで経っても何をやってもダメ。
>>95 武力だけはね。それだけじゃ持つわけがないんだから。
「手慣れた上手い飼い方」ができないのが致命的。
97 :
名無し三等兵 :2010/05/30(日) 23:50:48 ID:???
>客観的に観察できないようじゃ、いつまで経っても何をやってもダメ。 客観的に観察するのと日本はこうだからこうだめになりああだめになりと すべてマイナス思考に考えるのとは違う。 そして日本人が素直に客観的に観察した結果が日本の繁栄に結びついた。 >武力だけはね。それだけじゃ持つわけがないんだから。 「手慣れた上手い飼い方」ができないのが致命的。 武力で強引に統治した例も多々あるし「成功したとは言わないが」 朝鮮出兵の例があるからそう考えるのも仕方ないがあれだってボケ老人秀吉の ろくに作戦練ってないようなやり方で苦戦しただけで 「まあ明史には秀吉死ななかったら負けてたろうと言う記載があるが・・」 日本の戦国時代が武力のみの力任せの戦ばかりじゃないと言うのは承知の事実だし そもそも日本が手馴れた上手い飼い方できない前提で語るのはどうかと・・・ まあなんにしてもそれこそ白人国家のように成功と失敗を繰り返し植民地経営のノウハウを 築き上げていくわけだから日本だけが絶対に失敗すると言う前提で語るのは やめてくれないか。
98 :
名無し三等兵 :2010/05/31(月) 00:18:56 ID:???
>>97 いや、だから、適性が全く欠けてるんだから、植民地を統治するなんて
分不相応の妄想は最初から懐かないのが賢明というだけのこと。
現にそんな妄想は捨て去って、曲がりなりに来てるわけで。
何でそれがマイナス思考ということになるのか意味不明なんだけど、
何か根本的に勘違いしてない?
99 :
名無し三等兵 :2010/05/31(月) 10:14:58 ID:???
>いや、だから、適性が全く欠けてるんだから、植民地を統治するなんて >分不相応の妄想は最初から懐かないのが賢明というだけのこと。 だからはなから適正云々ないと決め付けるなっての。 極東の小さな島国が明治維新やって日清日露に勝って戦後経済大国になるなんて 昔主張してたら鼻で笑われるような事成し遂げた例もあるんだし >現にそんな妄想は捨て去って、曲がりなりに来てるわけで。 >何でそれがマイナス思考ということになるのか意味不明なんだけど、 >何か根本的に勘違いしてない? まあスレ違いの流れに乗っかる俺も褒められたもんじゃないが 歴史にIFはないと言うがあえてそれを妄想して楽しむのも歴史の 楽しみでもあるがあなたのレス見てて次から次へとあまりに過小評価しすぎ なのに疑問を感じたもんでね。 まあ十人十色様々な意見があるからなんとも言えないけど極度な保守的思想の 徳川の鎖国政策ではなく信長だったら・・・ と決して不可能ではない話を机上の空論で終わらせれば言いだけの事
スレの流れに乗っからせていただきやすw てか純粋な軍事力で言えば通常動員能力数万程度の欧州の一国ですらそれぞれ成功してるから 通常動員能力50万あり世界で圧倒的な保有量の鉄砲保有と言う軍事力にプラスアルファ ヨーロッパみたく経験地積み重ねるだろうし成功しないわけがない 勤勉で柔軟な性質だから本気で植民地獲得競争に参戦してたら東南アジアは確実に 日本商人の影響下で現地人からも貿易で儲けた一流の商人が出現したりして 軍事的にも民度的にもアジアが舐められる状況には陥らなかったかと
でも領土にするより商圏押えて 権益擁護のための拠点確保くらいで十分でしょう 宗教や華夷に拘らない日本人なら華僑よりも優位に立てる可能性がある 元和以降の浪人たちと堺や博多の 徳川に乗り遅れた商人層なんかを東南アジアに送れば 華僑ならぬ倭僑の勢力圏は確保できてたでしょうね 明治維新より早く日本にも産業革命起きたかも 残留日本兵なんかも見事に現地に根をおろしてるわけですから
ここで山田長政再評価すべきですよ
で明治になって現実に直面しふと世界を見渡すと世界中が白人の奴隷状態で 帝国主義だのロシア南下だので焦って色々やって大東亜戦争へと続きましたとさ
久し振りにスレが伸びてるとよろこんで見て見れば・・・ お前らまとめて消えろ!
>>99 いや、維新後の成長は、幕末期に短期間在住しただけの外国人でも、
見るべきところが分かってるいわゆる具眼の士はちゃんと見通しているから。
その延長で押し通すこと自体が、統治の適性に全く欠けてるということ。
>>72 遅レスだけどうちの母方の祖父も写真好きだったんで戦地で撮った写真がずいぶん残ってました。
祖父が機関銃を構えていた写真が印象に残っています。兵技中尉で大陸の兵器廠勤務だったので
動作試験の写真だったのかなぁ、といまは思います。
でも、祖父が亡くなったときと祖母が施設に入ったときにあらかた整理されて…。
軍隊時代の指揮刀(刃無し)も出てきたけどそれも売り払われるし…
(ρ_:)
>>106 平成になって22年も経つと
悲しい事ですが、激動の昭和の遺品が失われてしまうのは
仕方が無い事なのでしょうね。
>>105 ↑
この人なぜそこまで必死に日本の植民地統治の適正に欠けてると言い張るのか謎だ。
>>106 本当にほしい人の元にいたほうが遺品も喜ぶよ
>>103 信長が本能寺で死ななかった歴史なら明治維新無しで和洋折衷な文明になった可能性はあるんじゃないか?
東南アジアまで足延ばしてる前提なら欧米諸国との接触もあっただろうし
「眠れる獅子がちゃんと目を覚ませたら」くらいの影響力は出てたかもしれない
>>108 「因循姑息な発想を根底から改めて開化な発想に切り替えよ」ということじゃよ。
俺の先祖が信長の家臣の行き着けの酒場の飲み友達の近所の住人の末裔が勤めてる 会社の上司の担当する取引先の会社の警備員のいとこのはとこの友子の友達はピーよこちゃんだ!
>>110 いや日本の勢力圏が東南アジア一帯に広がってることが重要だろ
華僑にとって代わってたかも
華南沿岸部から移民が出て行ったのが清の中期以降
その前に日本が基盤きついている可能性が大きい
なんだかんだ行っても日本人は現地に適応する能力が大きいと思う
旧日本兵しかり 戦後の商社マンしかり
1500年代後半の日本が戦国時代の韓国(朝鮮)での歴史記録には 頻繁に倭人や倭寇(日本人海賊)の話があり何度も小規模戦闘があった事実はある。 倭人による諜報活動も相当あり朝鮮ではかなり迷惑していたよう。明も同様と思われ。 日本人海賊が大名達の間諜の代わりをして情報を信長等に売っていたのは当時の流れとしては自然の事ではないか。 当時モンゴルに 信長の密命で間諜 乱破(忍者)として送り込まれ 結局は日本に帰らず 先祖が日本人で信長の手紙を持っていたモンゴル人が発見されたという話は今から30年位前に テレビのバラエティーニュース番組で見た記憶がある。 おそらくその後 事実などの確実な検証はされずに 風化してしまったお話だと思われ。 諜報活動自体は元々極秘任務であり 残念ながら完全な記録での諜報戦の記録はほぼ残っていないのではないではないか? その当時 日本の商売人がルソンなど様々な外国に航海して 日本人街を形成していた事を 考えれば相当の数が送り込まれたのではないではないだろうか。
>>109 一番寂しいのは蔵前橋の上でランドセル背負って笑っている祖父の幼き日の写真ももうないだろうということ。
千葉県へ越したときにこんな田舎の小学校に通いたくないってごねて元々住んでいた蔵前の小学校に通わせてもらえだんだ、
って自慢していたのが思い出に残っていて…。
スレ違い失礼
まあ人が亡くなってその人を知ってる人も徐々に亡くなって忘れ去られてくってのは 有史以来繰り返されてきた事だからねえ・・・ しかしおじいさんも自分の遺品やエピソードに対してここまで思い入れを 抱いてくれる孫がいてくれるなんて幸せ者じゃないか
オレの伯父が昭和12年に戦死して靖国神社に祭られているのだが ある日、内の親父が「生きていた兄貴を知っているのは俺だけになっちゃったなぁ」と言っていた 伯父は、徴兵で陸軍に入隊して直ぐに支那(詳しい場所は失念)に派遣されて戦闘中に爆死したそうだ 戦死報告の後に、じいさんとばあさんは靖国に赴いて白木の箱を持ち帰ったと言っていた 親父曰く「箱には石ころしか入って居なかった」伯父は何でも直撃弾を受けたそうで跡形もなかったらしい その話を親父に聞いてからオレは親父の代わりに(親父は体が不自由な為)靖国神社に合祀証明書?を発行してもらった それを親父に見せたら、涙ぐみながらいつまでもその証明書を撫でていた 伯父は満19歳で戦死したので、配偶者も子供も居ないから せめて甥のオレが伯父さんの事は忘れないようにしようと思う。
自演乙
長い事合ってない知り合いのじいさんが今も存命なんだがなんと226事件に参加したらしい。 凄いやさしくていいじいちゃんだったぞ。 今度話聞きに行きたいな
>>120 兵隊としてだとしたら、事件後ずいぶん苦労しただろうに…。
うちの親戚は226の時に非常線張ってる兵隊に追っ払われた程度だからなぁ。
柳家こさん(変換できない)師匠も226に参加したらしいね 226事件中に将校に「おまえ落語をやれ」と言われて落語を演じたらしいが 緊張していてまともに話せなかったそうな それを聞いていた将校が「つまらん!」と言うと「そりゃそうでしょう、演じてるあたしが一番つまらんのですから」 と答えたそうな。
うちの爺ちゃんは旧制一中に通学していたもんで、 226の時は学校にいたけれど、途中で帰らされたとか言っていたなぁ。 当日、学校へ行けたというのが不思議だわ。
226の時、東京湾に停泊していた戦艦長門の主砲が桜田門に照準を合わせていたらしいけど 罷り間違って皇居に誤爆でもさせたら海軍のお偉いさんは全員切腹だったろうな それにしても井上成美は本当にぶっ放す気だったのだろうか
そういや、「国会議事堂近くの空き地に撃ち込んで照準の調整をして」から 長門の主砲で国会議事堂ぶっ飛ばした仮想戦記があったな。どこに撃ち込ませたつもりだったんだろう。
>>125 その手の話は基本ノリともっともらしさだから、本当に空き地があるかどうかは関係なかったりする。
SF大会に参加してみろ、架空戦記作家の面々が酒飲みながらその手の話してるの聞ける事があるから。
その世界には空き地があったんだろう。歴史が違えばそのくらいの差は出るさ って思わないとフィクション楽しめない
128 :
名無し三等兵 :2010/06/10(木) 07:57:00 ID:mMN9RuX7
無理やり空き地作ったかもしれないし
中大兄皇子と中臣鎌足軍の編成と兵力と武器は?
>>124 実際ぶっ放されていたら虎ノ門の呉服屋で丁稚をやっていたおじさんはかなり危なかったな
「敵兵を捕虜にしたらどう処置すればよいか」と将校に聞かれて 「煮て食います」と即答したら、この子は見所があると激賞された ギャグで言ったのに…
>>122 プロだ、筋金入りのプロだ。
って、ホントにいったら下手すると撃ち殺されるんじゃないかな。
先祖の位が従二位でした
>>133 それが、爺様の戦争体験となんか関係あんのか?
日本人エリートのシナへの留学廃止を決定したそうです
贈位されたのかも知れない、戊辰戦争で
うちの嫁の話 空襲の後、幸い爺さんの家族は全員怪我一つなく助かったけど、 家が心配になった爺さんが息子である叔父さんに家の様子を見に行かせた らしい。 あとから爺さんが行くと、青タンを作った息子の叔父さんが、よく分からん 人たちに半焦げになった家から叩き出されそうになってたらしい。 あわてた爺さんはその連中を棍棒でぶん殴って追っ払ったらしい。 しかし後で聞くとこんな風に親を亡くした子どもが、こういう「連中」に家やら 土地を強引に奪われるってことが結構普通にあったようだ。 だから爺さんは死ぬまで半島系の人間は大嫌いだったそうな(笑) 因みに負傷しながらも家を守った叔父さんは、今でも一家の英雄です(笑)
そういや父方のばーちゃんは元日赤の看護婦で終戦後は進駐軍?の病院船?で働いてたそうな。 遊びに行ったとき当時の写真ちょろっと見たらGI?との写真があったような。 話し聞いておきたいけど無理だろうな…
19歳の春、陸軍特別幹部候補生として飛行学校を卒業、航法士として飛行第62戦隊へ配属。 四式重爆撃機「飛龍」を主体とした特攻部隊だった。800キロ爆弾2本を積み込んだト号機へ搭乗、昭和20年の夏、沖縄周辺にいる米機動部隊にめがけて出撃した。 当日、雲が低く雨のため低空飛行で索敵を余儀なくされた。海面すれすれで敵レーダーから逃れた。 結局、視界不良で敵を発見できず、燃料を使い果たしたので九州の基地に戻れなかった。 不時着したのは徳之島の基地だった。 その後も悪天候が続き、再び出撃できないまま終戦を迎える。 現在85歳の祖父。元気なうちに沢山話を聞いておこう。
うちの母方の祖父(故人)は満鉄勤務で、ダイヤグラム作成の指導のために留用されていたらしい。 ソ連軍が進駐してきた際に、近所で兵士による強姦等があったため、当時20歳の祖母は早々に帰国し、 本人も当時の事を周囲にあまり話していなかったようなので、詳しい状況は分からないが、 給料は貰えていたそうだし、留用された人としては恵まれた環境だったようだ。 勤めを終えて帰国の際、一人で担いでいけるだけの荷物しか持っていけなかったので、 ライターのフリントが、かさばらなくて日本で高く売れると聞き、有り金をはたいて買って帰った。 実際フリントは当時で1万円もの大金になったが、ご存じの通り当時は金より物の時だったため、 その金が役にたったのは、だいぶ後になってからだったという。 ちなみに晩年は、時刻表からダイヤ図を書き起こすのを趣味としていた。 亡くなったのが私が小学生の頃なので、今となっては詳しい話を訊けなかったのが残念でならない。
随分前になるが爺さんに自衛隊の基地祭に連れて行ってもらった時に 戦時中はボダンコーつうとこの近くで戦ってた事をしったな デカイ車が見れるとか、祭りだから食い物が(ry とかに釣られて連れて行って貰ったと思うんだが 気付いたら爺さんが自衛隊の制服きたオッサンと話が盛り上がってて まだガキだった俺を完全放置してたから未だに覚えてるな
牡丹江? よく帰ってこれたね。
>>122 最後のやりとりは寄席で追加したんだろうな。それもまたプロか。
43 :本当にあった怖い名無し:2007/12/13(木) 20:24:06 ID:dKLAdvqDO 男性が短命ってスレが幾つか有ったので火器庫。 私の家系も似たり寄ったり、曾祖母、祖母、出戻りの母、六人の伯父(母の兄弟は三人)曾祖父は泰緬鉄道工事の際、 流行り病で死亡、祖父はガダルカナル初期に負傷し帰国後死亡。 二十歳の頃、級友にシャクブクってのを受けた。 宗教嫌いな俺は当然断ったのさ、すると。 「お前の家は真ゴンだろ!真ゴン宗は主人が立たないんだ、お前は早死にする。」 突然怒鳴るので驚きましたが俺が知らなかった我が家の宗派何故?知っていたのでしょう? 実際に男性が短命なのは事実っぽいんだけどね。 信仰するなら、池田先生の所なんだな。
戦時中や戦後直ぐに男性の死亡率が女性より高いのはごく普通の事だと思うけど
147 :
名無し三等兵 :2010/06/17(木) 17:11:44 ID:7aYFt6IV
>>140 重爆撃機でも特攻してたんか…
800キロ爆弾積んだ飛行機に直撃されたら、大型空母でもひとたまりもなかっただろなぁ
祖父は戦死した。終戦直後は恩給などもらえなかった。祖母は曾祖父と曾祖母に父を預けて、働いた。当時は男尊女卑だ。女はまともな職にはつけない。戦争は暗い。残された遺族も不幸な目にあう。俺が言えるのはそれだけだ。
149 :
名無し三等兵 :2010/06/17(木) 20:44:46 ID:EadjYgim
>>147 桜爆弾「飛龍に一トン爆弾搭載」
は、結構有名だよ。 あと、銀河 一式なんかも特攻隊があった。
空母に届く前に殆ど落とされたらしいけどね。
150 :
名無し三等兵 :2010/06/17(木) 21:24:33 ID:XjFYY2dh
うちの祖父(東北生まれ)は、伍長として南方で終戦を迎えた。
祖母は、東京生まれで将校の兄(漏れの大叔父)がいたが、中国戦線で戦死。
東京大空襲で東北へ疎開したまま戦後になって祖父と出会ったそうだ。
中学時代の国語の教師は、東京生まれだが、疎開したまま戦後になって教師になった。
疎開したまま東京に戻らない人がどれだけいるのだろう・・・。
>>148 恩給がもらえなかったとは、終戦後しばらくは生死の確認が取れなかったとか?
公職追放組だろ。
153 :
名無し三等兵 :2010/06/17(木) 23:15:50 ID:XldvJ3nW
じいちゃんwww
>>144 だろうね。間違ってでも冗談なんか通じる雰囲気ではなかったろうし。
まあ、腹の底で思った、ということはありそうだけど。
>>150 昭和21年2月からGHQの指令により、重度戦傷病者以外に対する軍人恩給は停止されていた。
独立回復直前の昭和27年4月に、戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定により
遺族への給付が再開され、翌年8月だったかに恩給法の改正で軍人恩給が復活した。
>>149 戦果はアレだし不謹慎な物言いだが
航空特攻はまだマシな扱いかもな
文字通りの陸上特攻は悲惨すぎる
>>156 七生報国の気概なくて何の天皇の赤子ぞ。
我等一億火の玉となりて皇国の社稷とならん。
今や一億火の車
>>150 >疎開したまま東京に戻らない人がどれだけいるのだろう・・・。
帰ってはみたものの、朝鮮人に土地を強奪されてたから、止むを得ず別の土地で就職した人も多かったのだろう。
パチンコ屋が駅前の一等地に多いのは 終戦のドサクサで住み着いちゃった朝鮮系の人達がパチンコ屋を始めたかららしいね。
161 :
名無し三等兵 :2010/06/19(土) 00:17:15 ID:YIiT4lnX
話ぶったぎるけど スレ立てする前に確認せずに立てちゃって、誘導されたんでこっちきた 昨日じーちゃんが逝った 戦時中シベリアや満州いったとか子供の頃に聞いた 詳しいことはわからない ただ腹に銃痕残ってて それも名誉の負傷だと聞いて 国からもいくつも賞状や銀杯貰ってた 捕虜としても扱われたらしい 俺が子供だったから詳しいことは話してくれなかったけど 大好きだったじーちゃんの記憶のほとんどは戦時中のこと 他に書き込むべき板がわからずに ただ ここに書き込んだ
シベリア抑留経験者は戦後に国から銀杯を押しつけられて終わりだ。マジ糞 ちなみに俺のじいさんはグリンピースを見ると抑留を思い出して泣く
>>161 ご愁傷様です。
昨日ってことは、まだお葬式も挙げてないんでしょ?
いまは側にいてあげなさい。
164 :
名無し三等兵 :2010/06/19(土) 06:24:18 ID:IPQnpqm9
>>140 手塩にかけて育成したパイロットをすぐに特攻に投入だなんて、やっぱり旧軍上層部は糞だったんだな
ところで航法士て何?
うちの近所にある、戦死者の巨大な墓碑の前に、小さく「この墓地を管理されている方がありましたらご連絡ください。」 って寺の看板が立っていた。
>>162 「シベリア抑留経験者」のうち、恩給欠格者の場合ね。
167 :
名無し三等兵 :2010/06/19(土) 18:20:19 ID:BdZACnPS
>>164 船で言う航海士だろ
当時はGPSとかも無いからコンパスで方位見たり空から地上とか夜空を見て
機体は今どこを飛んでいるかってのを調べる奴だよ。
航海士は海上勤務者じゃないかな。
>>140 ト号の生き残りですか。
対潜哨戒機用の搭載機器の開発してたらしい。
俺が中二のころ他界したうちの祖父は、衛生兵として満州に行っていた。 病院勤務がほとんどだったらしいが、それでも爆弾背負って戦車に突っ込む訓練はやらされたとか。 散髪が得意で、「故郷じゃ床屋をやっていたんだ」などと言って仲間たちの髪を切ってあげてたらしい。 親戚のじいさんは空襲中、零戦が凄まじい急降下をするのを「おお、すげえ!」と見ていたら、その零戦が そのまま墜落したと言っていた。 そのとき「なんかこの戦争、負けるような気がした」そうな。 まあ、本土が空襲された時点で……。 で、そのじいさんも徴兵された。 基地に米軍機が飛来して防空壕へ逃げようとしたとき、機銃弾が尻をかすめ「やられた!」と叫んだ。 隊長が駆け寄ってきて「撃たれたのか!? どこをやられた!?」と尋ねてきたので、 「ここです!」と尻を見せたら、「なんともなってないじゃないか!」と言って二発ほどぶん殴られたらしい。 「むしろ殴られた傷の方が重傷だったよ」と笑っていた。
>>168 船でいう航海士の役割を飛行機でやってるのが航法士だ、って説明をしてるところに
>航海士は海上勤務者じゃないかな。
ってどんだけバカなんだよ。
博学の方が降臨されましたか・・・
やつは単に文盲なだけ
そういえばシベリア抑留者に一時金を支給する特措法が成立したんだな 報われる人もいるだろうか
175 :
名無し三等兵 :2010/06/20(日) 22:26:57 ID:p3gmFGKE
15年くらい前、深夜に乗ったタクシーの運転手さんが陸軍の落下傘部隊員だった。 それを知ったきっかけは、運転席の後ろについている防護用のプラスチックの透明板が ついていない訳を聞いたから。 明確には覚えていないが、「死ぬ時は、死ぬんです。」 様な事を言い、寡黙な人だったけど長距離だったもので、ちょっと話をしたら、 編隊を組んで出撃し、親友が乗った機だけ撃墜された事、乗機が銃撃を受け、隣の人その他 多数がやられた事など、短かく話してくれた。
ニューブリテン島やラバウルで照空灯兵やったり爆弾砲中隊で伍長やってた我が祖父 奇遇にも職場の同僚の曾祖父が今村均陸軍大将だったという
179 :
名無し三等兵 :2010/06/21(月) 11:49:36 ID:dBDwohGN
ネトウヨの創作話って気持ち悪い
>>179 お前もヨハネスブルグで修羅場経験してこい。
181 :
名無し三等兵 :2010/06/21(月) 12:42:27 ID:OqFTkni+
兵士の写真や最終階級や勲章が金色?の額縁に入っており、召集から復員までの説明が書いてあったのを祖父宅で見たことがありますが、そなたも同じような額縁を見たことがありましたか?
祖父の話によると、10万円かかったとか。
>>155 サンクス。
辛かったのでしょうね。
>>159 返還を要求する裁判を起こさなかったね。
>>175 10年くらい前まではタクシー運転手の方に軍隊経験者がいましたね。
よく話を聞いたものだ。
現在は、もうお年を召したので降りてしまっている。
>>181 画材屋の大きいところへ行くと今でもそういうのを入れる用の額をオーダーメイドで扱ってる
184 :
名無し三等兵 :2010/06/22(火) 00:21:24 ID:VsrbLWDs
俺の父方の祖父は一式戦:隼を設計に携わってたらしよ。 他にもいくつか設計に携わっていたみたいだけど戦時中ってこともあって家族にも極秘だったらしい。 1944年の空襲で亡くなったから俺も会ったことはないけどさ。 年は20代後半で結構若かったみたい。 正直、去年祖母が亡くなったときに親父から始めて聞かされたときかなり驚いた。 どうせなら祖父が生きている内に話聞けばよかったな・・・・。 ちなみに母方の祖父はフィリピン戦線での生き残りらしい。 なんでも右足?に機関銃の弾がずっと入ってたんだってさ。 その祖父も俺が生まれる前に亡くなったから何も聞けずじまいだけど・・・。
781 名前:名無しさん@七周年 投稿日:2006/12/20(水) 20:17:15 ID:U+KzDhYG0 まぁ、書くか YS-11Mの機上整備員です 週1の定期便(硫黄〜南鳥)で行くのですが 偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ。 硫黄の隊員かなと思ってたのですが 先輩、いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね! あ、お前も見たのか。。。。。下に降りたらローマスに その話してみろ。 ロードマスターに上記の話をしたらどうも旧軍の霊らしいと 日の丸を見て友軍が来たと歓迎してくれてるようだと。 その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから見ることが無くなりました。 今も、定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子、水、酒 弁当を1組積んで飛んでいきます。 こういう話も、有る定期便か硫黄に向かうとき天候悪化で 滑走路が見えずもう1度トライしてだめなら帰ると言うときに 硫黄の滑走路端に灯りが見え無事にタッチ Pが礼を言いに行くと誰もサーチライトとかを付けてないと
32 名前: サギフエ(熊本県)[] 投稿日:2010/06/21(月) 18:07:00.62 ID:K0E6sbpe [3/3]
>>26 前出のYS-11M機上整備員です。
実体験ですが
数年前の夏、無事に定期便も終わり硫黄島から厚木の帰り便
大きな荷物もなく便乗者は海保職員1名。
天候晴れ、風微風。定刻に離陸なのですがいつもより
滑走距離が長い、Pも変だナーという顔。
夏の日差しの機内ほど程よい温度で弁当の後
やることもないので機内でお昼寝。
しばらくして人のざわめきというかひそひそ声で
ふと目がさめ機内を見回しても海保さんが寝てる姿しか。
改めて寝直すと
「これで国に帰れる」「友軍機が来てくれて助かった」
とはっきり。流石に目が覚めて後部貨物室を見回しても
なにも。。。。海保さんもやや青ざめた顔で
「聴きましたか?」と2人そろって前に逃げ込んでPにその事を
報告。
Pが「それで重かったのか、お盆も近いし」と。
その後何事もなく厚木に。
機体点検をしてると耳元ではっきりと
「連れて帰っていただき有り難う御座いました!」
187 :
名無し三等兵 :2010/06/22(火) 03:59:27 ID:BvjQrwxs
あ
ネトウヨの創作話って気持ち悪い
まださまよってるんだな。何か泣ける・・・・・
硫黄島はうちの職場でも行く人いるけど、その手の話は多いよな。 寝てると部屋の隅に薄ぼんやりと白い人影のようなものがとか。 たいがいは「いろいろあるからなぁ」と思わせぶりな笑みを浮かべて終了だけど。
192 :
名無し三等兵 :2010/06/22(火) 12:45:09 ID:BvjQrwxs
20万も死んだ俺の沖縄じゃそんな話さっぱり聞かないのに、なぜに硫黄島だけ頻繁に出るんだよw さっさと成仏しろよ糞日本兵どもw
一人十殺、自爆禁止、怨念が篭ってるんだろう
>>175 ブッシュパパって父島で撃墜されたときに落下傘でおりていったが、同僚の落下傘がひらかず、目の前で墜死したりしたそうだな。
ちなみに日本軍は落下傘でおりていく米兵を銃撃して止めをさすということできらわれていた某松X零Xあたりの糞漫画には
絶対あげられないエピソードだけど日本軍も大概である大空のサムライなんてフィクションですよええ。
>>192 嘉数高台、浦添城址、南部戦跡のガジュマルが
茂って薄暗くなってるような場所はヤバイそうだぞ。
あと、慰霊の日は(丁度明日だな)は海に行ったり
水遊びしたりするのはお奨めできないとも。
まあ、沖縄の年寄りは頻繁にユタ買いして先祖に尽くすし、
南部戦跡には県にもよるが定期的に本土から慰霊団が訪れてるんで
特攻隊なんかも今頃は後生で毎晩海ブドウをアテに久米仙かっ喰らって
気の向いたときだけ内地に帰るという具合にマターリしてるんでしょうよ
…って言うか何年沖縄に住んでるからそのテの話に疎いの?
>>192 ねーきみ本当に沖縄の人なら、あちらのことばでも書いて見せてよw 話はそれからだ。
198 :
名無し三等兵 :2010/06/22(火) 13:58:07 ID:BvjQrwxs
>>197 20万もまーちゃんわんぬ、うちなーじゃうんぐとーる話さっぱり聞かねぇいぬんかい、なぜんかい硫黄島やっさーけ頻繁んかい出るんだしよw
へーく成仏してしちゃさい糞日本兵どもw
これでよいか?ヤマトのチョン顔どもw
試すと判るが方言は漢字と送り仮名の組み合わせで書くとなんか格好悪い。 って言うか、米統治時代に内地への就職に不利になるというんで県内の 教育者が方言札なんてのを作って方言を根絶したりしたんで、小官のように さらにその子の世代になるとウチナーヤマトグチしか喋れん。 また、うちの父親の実家がその教育者だったもんで、 せいぜいリスニングができる程度だよ。
慰霊の日が近いからなのか、沖縄のブサヨが沸き出したね。早く成仏して下さい。
慰霊の日て明日?沖縄県民の忠義と戦いぶりは牛島さんも誉め讃えてたはず…
左に傾くように仕向ける同調圧力ってもんがあるんだよ。 …そこで、広島・長崎やグアム・サイパンより自分が酷い目に遭ったんだと 声高に主張するようになっちゃうともうおしまいだが。
>>198 今日もハロワ行かずに泡盛のんでいるのね。 明日はちゃんと行こうな無職君。
ひい爺ちゃんの兄貴が沖縄で特攻戦死してるんだけど、沖縄の人って特攻隊をどう思ってるんかね?
205 :
名無し三等兵 :2010/06/22(火) 15:48:15 ID:BvjQrwxs
>>204 米軍にすぐに叩き落とされたハエですw
ヤマトと言う腐った糞から生まれたクサいクサいハエですw
犬死にご苦労www
あーほんと気持ち悪い
日本軍がいなければ沖縄は平和だったのに
まあ、独立でもしたら? 米軍も自衛隊も追い出せるぞ
>>204 特攻隊に関連した映画で「俺は、君のためにこそ死ににいく」という作品があります。
この監督は沖縄出身の方ですが、特典DVDの監督インタビューの中に沖縄人としてどのように捉えているかをお話されているところがあります。
機会があれば本編と特典DVDをご覧になられては如何でしょうか。
>>208 そんな映画があったのか
早速TSUTAYAで借りて来ます。ありがとう!
とりあえず
>>205 は氏ね!
ID:BvjQrwxs こんなクズが沖縄の人々の総意な訳がないだろう。 こいつ1人がゴミなだけ。 以後相手にしないように。
ただし、このテの輩は声ばかり矢鱈にでかいからな。
わざわざ上げてID出して、ご苦労様ですね。
どこぞのサヨク板あたりから派遣されて来たんでないの? 戦果報告のためと考えればわざわざID出したままで煽ってるのも道理が通る。
ハインフェッツ氏はどちらからおいでで?
>>213 もうさっきの馬鹿の話ししないでくれ。気分が悪いわ。
俺も今日は南西の方角に黙祷を捧げよう
慰霊祭の中継見てるとイライラしてくるな
うちの伯父は今日が命日だ。帯広兵団だったと思う いつ死んだのか分からないから、結構多くの人の戦死日は今日づけになってると思う
昭和帝が戦後出来るだけ早く沖縄を訪問されていたら 沖縄県民の本土に対する感情も今とは違ったものになっていたかもしれないなぁ 当時の日本政府にも昭和帝にも色々と事情が有ったのだろうけど 「沖縄県民かく戦えり後節特別のご高配を賜らん事を」が早くに叶えられていたらなぁ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20100623/CK2010062302000065.html 二十三日の沖縄慰霊の日を前に、県立大師高校(川崎区四谷下町)で二十二日
沖縄戦を指揮した旧日本陸軍の牛島満中将の孫で、東京都大田区立嶺町小学校教諭の
牛島貞満さん(56)が、沖縄戦の歴史などを伝える講演を行った。牛島さんは「意見の食い
違いを、戦争ではなく人間の知恵で解決しなければいけない」と訴えた。 (堀祐太郎)
同高校では、川崎や鶴見など臨海部に住む沖縄出身の生徒が多く通うこともあり、二年生が
総合学習で沖縄戦について学んでいる。二年秋の修学旅行では実際に沖縄も訪れている。
講演会で牛島さんは、二年生約二百人を前に「沖縄戦では、鉄血勤皇隊やひめゆり部隊
などみなさんと同年代の若者が犠牲になった」と語りかけた。米軍撮影の記録フィルムや
牛島さんが撮影した体験者のインタビュー映像を上映しながら戦禍を伝えた。
沖縄防衛の司令官だった牛島中将らの自決で、沖縄の組織的戦闘は終結したとされる。
祖父に向き合い「南部に撤退したことで住民への被害が膨らんだ」と指摘、米軍の本土上陸を
遅らせるための「捨て石作戦」と呼ばれる地上戦の実態を、生徒たちに伝えた。一方で、祖父が
戦争のさなかに米国の小説を読んでいたひめゆり部隊の女子生徒をしかりもせずに見守った
エピソードや、家族思いだった人柄を紹介。牛島さんは「軍隊は住民を守らない」「戦争は人を
変える」と強調し、平和の尊さを訴えた。
二年三組の権瓶奈津海さんは「弟を亡くした人の体験談などを聞いてつらかった。戦争ではなく
話し合いで解決することが大切だとあらためて考えさせられた」と語った。
>>220 そもそも昭和47年まで日本じゃなかったんだから早期訪問は無理だろう。
それに昭和50年の皇太子殿下御訪問では火炎瓶のお迎えをうけたわけだし。
そういや、国体の時に国旗をポールから引きずりおろして 火を付けたDQNも未だに英雄扱いされてるからなぁ…
>>222 確かにそうなんだが、昭和27年には日本の主権は回復しているのだから
沖縄がアメリカ領で在っても訪問できなかったのかと思ったんだ
まあ、アメリカだって潜在的主権は認めてたしな。 ただし、朝鮮やフィリピンに対して使ったのと同じ 方便で沖縄人を大和民族に侵略された被害者として 扱うプロパガンダを盛んにやってましたが。
おじいさんのおじいさんの、おじいさんの…そのまたおじいさんの代には、 ヤマトタケルの東征とやらを受けて、関東はヤマト朝廷に侵略されたわけ。 そんなところに、今は統一・日本国の首都があるけどね。 沖縄もがんばれ。
昨日平日なのにあんなに集まる「市民」って本当に沖縄に住んでいる人なのかなあ・・・・。
>>224 「アメリカの支配下にある沖縄」をアメリカにお伺い立てて訪問してたら、
永遠に沖縄は返還されなかったろうな。
>>227 復帰の後に、社会党系の連中によって「植民地」にされたから、自治労から生活保護を
受給斡旋してもらって、動員されてるよ。組合専従で働きもせず税金を貪っている奴ら
も監視役として参加して居るだろうし。
>>229 そんな連中に渡す金は何処から捻出しているんだろうなぁ?
あんまり言いたくは無いが日本を敵視する輩には日本からお引取り願いたいものだ
>>230 >自治労から生活保護を 受給斡旋してもらって
ごめん、書いてあったね
自治労って公務員系の労働団体だろ? 違う世界つまり、無職のパンビーの生活保護に口だせるはずがないと思うのだが。
>>232 自治労は地方自治体、つまり県や市町村の職員が所属する労働組合
生活保護の支給を決定するのは市町村
あとはわかるな?
ああ要するに、生活保護認定が一種の取引になっちゃっているんだろうな。 そういう活動頼むよみたいな阿吽の呼吸で
235 :
名無し三等兵 :2010/06/28(月) 00:37:57 ID:h90d30aN
スレ違いもいい加減にしろ糞ども
この後准尉となり最後はニューギニアに送り込まれフィンシュハーフェンの戦いに行ったらしい。まあ、戦後は現地で大トカゲを捕まえて食べたとかいう話くらいしなかったな。
くらいしかしなかった、の間違いやねw
フィンシュハーフェンと言えば、彩雲の彼方の著者の田中三也さんが彗星で 強行偵察したところですね
240 :
名無し三等兵 :2010/06/28(月) 16:50:03 ID:3bWHlppo
>>137 GJでしたね。
そういえば、既に在日に乗っ取られた土地は、戦後になっても返還の声はあまり聞かないね。
疎開するたびに自分の土地であるという証拠の書類を持っていったか役所に昭和1○年時点で誰の土地なのかわかる資料があったはず。
それなら、返還を求める裁判を開くことができると思う。
敗走後密林の中で仲間たちが次々に死んでいった経験とか、戦後生まれの子供に話したところで分かるはずもない、という思いはあっただろうな。腹の中に言葉を呑み込んで生きてたんじゃないかと。
>>241 同じ環境に放り込まれて、否応なしにやらされたら、何とかなってるんじゃない?
>>243 生まれつき病弱なんですよ。心臓が良く無いのでもうあまり生きられないと思います。
今でかい顔しまくってる中国人民解放軍の先祖を大陸各地でシバキ回ってたらしい
>>245 人民解放軍の先祖って事は八路軍か
対ゲリラ部隊なんてあったのか。かっこいいな
自分なりの人生を精一杯生きて、御先祖に恥じることなく死んで行ければそれでいいのですよ。日本人は ←結論
ま、色々ありますな。 ←でくくってしまう
250 :
名無し三等兵 :2010/07/01(木) 07:12:25 ID:0U5hv3Fc
うちのじーさん東南アジアの戦線にいったらしいが、無傷で帰って北。 バァちゃんと結婚したくて死ねなかったと言っていた。 ものすごく足が速かったのを見込まれて、伝達とかする役割だったらしい。 何回もマトになったのに、一発も当たらないとかマジキチ。 今でも足は速い。大正生まれなのに住民運動会でリレーのアンカーやってる。 凄すぎ。そして死ぬ気配がない。
なんだその人外っぷりw 元気で長生きしてくださいとお伝え下さい。
sugeeeeeee
253 :
名無し三等兵 :2010/07/01(木) 19:48:23 ID:luxsZuyi
別に凄くもない
>>250 そりゃ凄いな。電線が吹っ飛ばされてまともに通じないようなところを走り回らされたんだから、
足が早いだけでなくてカンも凄いわけね。
>バァちゃんと結婚したくて死ねなかったと なんだ、野生のフラグクラッシャーか。
256 :
名無し三等兵 :2010/07/02(金) 07:39:56 ID:ONcVy0a5
亡くなったおじいさん(母の父)の写真が実家から出てきた。 陸軍の歩兵でラクダにのっていた。 母に聞くと中国で戦っていたらしい。で昭和18〜19年ぐらいに日本に帰還し除隊。 戦局的によく除隊できたなーと思った。聞くと年を取りすぎていたとか。 ちなみに姫路の連隊 父に弟がいたが、1944年11月フィリピン東海上で戦死。
うちのじーさんは 10年前に死んだけど上海で特務関係の仕事していた 麻雀が滅茶苦茶強くて 生きてる時(かなり昔)は有名な右翼がたくさん家に遊びに来ていたらしい
漏れのじーちゃん中国軍の格好をして中国軍を錯乱させた特殊作戦に参加したらしいんだけど、ホントにそんなのあったのかな?
>>256 うちの祖父も昭和18年6月30日に召集解除で除隊しているよ。入営昭和13年12月。
でも昭和19年9月1日付で再召集…。
260 :
名無し三等兵 :2010/07/02(金) 12:25:30 ID:LZJI+a2X
うちのじいちゃんは左翼脳でよく反戦運動してたってばぁちゃんが言ってた。それ以上は何も教えてくれない でさ、うちのばぁちゃんも左翼っぽい考え方で 小さい頃の俺に「日本人は悪い事をたくさんした」って何度も言ってきたし皇室の事も悪く言ってた。 ほんで、特に朝鮮人にはたくさんひどい事をしてきたって言ってたわ 右翼脳の俺の親父と何度も喧嘩してたよ。そうこうしてるうちに俺が成人して、成人式が終わって家に帰ると 親父が俺に「今のおまえのじぃちゃんは本当のじぃちゃんじゃない。あれは朝鮮人だ」 「幸い、俺達にあいつと同じ血は流れてないが、俺はお袋を朝鮮人に盗られた。戦死した本当の親父に合わせる顔が無い」って言ってた
261 :
名無し三等兵 :2010/07/02(金) 12:58:06 ID:LZJI+a2X
続き じぃちゃんは戦死したらしい。 俺の本当のじいちゃんは職業軍人らしく、部下がいっぱいいて、終戦後は何人も家に部下の人が挨拶しにきたらしい 左翼脳のばぁちゃんに変わってまだ子供だった親父が対応してたらしいだけど どうやらかなりの熱血野郎だったみたい。みんな何度も殴られたって言ってた。 でもじぃちゃんは兵卒じゃ使っちゃいけない薬とか食べ物をこっそり回してくれたらしくて みんなお礼を言ってくれたらしい。 じぃちゃん……。おばあちゃんが朝鮮人に盗られちゃったよ……。ほんとすみません。
前の彼女から聞いたは話。 彼女の爺さんは中国に征ってたらしんだが、グループのなかに霊感の強い男がいたという。 あるとき目的地にむかうのに道が二つに分かれた。 件の男がそっちに悪霊がいるからこっちからいこうといったが、いやいやこちらのほうがよかろうということで意見が分かれ結局二手に別れてむかったらしい。 彼女の爺さんは霊感の男のグループと同行、無事と到着できたが果たして、もう一つのグループは敵の待ち伏せに遭って全滅したという。 どこまでホントかわからんが、ある程度、元になる実話があったのかも知れない。。
>>72 都城歩兵第23連隊ですか!
私の母方の祖父も宮崎県出身で実家には、兵隊時代の写真がたくさんあったとかで、おそらく23連隊ではなかったかと思っています。
日清戦争では威海衛一番乗りを果たしたり、日中戦争でも杭州湾上陸、徐州作戦、武漢三鎮作戦などの大作戦に参加し、漢口では一番乗りの栄誉に浴しまた大東亜戦争でもブーゲンビルの陣地を終戦まで守り通した武勲赫々たる郷土部隊ですね。
日本の為に戦った父祖の残してくれた貴重な資料!
是非とも大切にまた有用に保管すべきです。
私も素人にてよくわかりませんが、防衛大学や地元の護国神社、或いは靖国神社などに問い合わせては如何ですか?
貴重な資料が日の目を見て、日本の為に成りますように心から願っております。
>>72 遅レスですが
東京近県なら
・防衛研究所
・昭和館
・しょうけい館
・靖国神社
などでしょうか。
それ以外でしたら、
都道府県の博物館や郷土資料館
また、自衛隊の第8師団司令部のある北熊本駐屯地には防衛館(資料館)があるそうです
理不尽な上官に対して軍刀を抜いて反論したという爺ちゃん 亡くなる前にもっといろんな話を聞いておきたかったな
266 :
名無し三等兵 :2010/07/02(金) 20:34:35 ID:ONcVy0a5
>>259 Wikiによると、うちのおじいさんが所属していたのは、
第10師団歩兵第39連隊かな?
昭和12年 日中戦争に参加
昭和13年 徐州会戦に参加
昭和15年 チャムスに駐屯
昭和19年 フィリピンバターン半島へ派遣
ラクダに乗っていたのは駐屯していた時かも。
あとバターン半島へ派遣される時に除隊されたんかな。
除隊されずに行っていたら、間違いなくフィリピンの土になっていただろうし
当然おかんも俺も生まれていなかったわな。
ちなみにじいちゃんは除隊後、しばらくぶらぶらしていて、戦後は紙芝居屋で
生計を立てていたそうな。
じーちゃん謎だらけ 教官の記録、視察の記録、時々本国と現地を行ったり来たり 色々残っているものの、「何をしていた」とか語らない人だった 戦後に同僚は国内最高位の某国立大の教授になったりで 学問やらにも関わってたのは間違いないけど グライダー教えたり、サバイバルしながらの行軍を教えたり 現地の言葉や文化を教えたりもしてたそう (戦後連れ帰った身寄りを無くした部下の方々の談) 現地の都市部で軍服着て馬に乗った写真もあれば 基地みたいな少し荒れたところで同僚と肩組んで写った写真もある 中将や少将といった人らと撮影した写真もたくさん。 関西のど田舎出身なのに関東の士官学校に編入させられて その頃の話などもたくさんある 「常に全てにおいて首席だった」と村の人は言うし 本人も「やれるだけやったらそうなる」とよく言っていた ほんとに謎の人だった。
>>266 紙芝居がいけなくなってからは恩給でどうにかなったのかな。
恩給の復活時期と紙芝居が廃れた時期はだいたい重なるから…。
退潮のなか紙芝居で食いつづけていたならみごととしか。
271 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 00:05:33 ID:6H9OBKGr
>>270 恩給は貰っていないそうです。
母によると、軍に所属していた期間が短かったとか。
職の方は、紙芝居屋→養鶏場経営で食いつないだそうです。
母を含む子供が就職してからは、養鶏場経営をやめ、子供の賃金に頼っていたらしい。
今でも母は「若い時に稼いだ金は全部両親にとられた!おしゃれとかしたかったのに!」と
いうのが口癖です。
>>265 坑命罪で重罰ですな
終戦後ならただの恫喝
>>271 苦労されたんですね。
復員が同時に生存のための戦いの始まり、って人はずいぶんあったでしょうね。
うちの祖父も復員の半年後に父親(曾祖父)を亡くして、母親と嫁と弟妹抱えて
そこへ子供が加わって苦労したそうです。
こないだじいちゃんの墓参りに行ったんだけど、墓石に 昭和十六年三月十六日伊号一七ニ潜水艦ニ乗艦ソロモン諸島方面海戦ニテ戦死ス 享年二十七才 って書いてましたが、ソロモンっていうと南方で戦死したということですか?フィリピンあたり? ばあちゃんが死んだじいちゃんの事をあまり話さなかったのでなかなか聞けずじまいでしたので教えてください。
>274 とりあえずソロモン諸島でググれよ。フィリピンより東、オーストラリアのちょっと上だ。
>>275 早っ、ありがとう。
遠いところで亡くなったんだなぁ;l
ウィキより
伊号第一七二潜水艦 ← 伊号第七二潜水艦から改称
1937年(昭和12年)1月7日竣工(三菱神戸)
1942年(昭和17年)11月10日 サンクリストバル島付近で
米掃海駆逐艦「サウザード」の爆雷攻撃を受け沈没。
>>274 昭和十六年三月十六日まだ太平洋戦争始まってないけど
278 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 18:30:07 ID:IZJmdcJ0
ウチの祖父は近衛兵だったのですが、終戦まで皇居で警備にあたってました いろんなインターネットサイトを見ると、近衛兵でも南方の方に出征したり千葉県で演習してた部隊もあったそうですね 最後まで皇居で警備した人たちは、近衛兵の中でもエリートだったのでしょうか?
近衛師団は全国の師団 から選抜された優秀な 将兵で構成されたから な。 親戚一党鼻が高いくら いの名誉だよ。
280 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 19:56:00 ID:n1K9mv+8
母型 横須賀の海軍工廠で飛行機の開発だか何かやってたらしい 父型 どこで死んだか不明 分るのは墓石に刻まれた「陸軍准尉」のみ 恐らく二階級特進で准尉になったと推測。
東京大空襲の夜…。 俺の祖父と祖母は、二人にとってかけがいのないもの、 一度失ったら二度と戻ってこないものを失った。 祖父「うっ…これが、女の中と言うものなのか!?」 祖母「ひぎぃっっ、痛杉!」 …遠く、いや、すぐそこで、家と人が焼夷弾で焼かれる音が鳴り響いていたと言う・・・。 二人とも死を覚悟したが、新婚、初夜―セックスは続けるしかなかったのである・・・。
282 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 20:18:32 ID:Yuxbt+P9
母方が潜水艦乗りで、1隻やったそう。中尉。 とにかく換気システムで困ったらしいです。 父方は陸軍で関東軍だったらしい。少佐。 極寒のなか警備は辛いそう。
283 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 20:39:22 ID:IZJmdcJ0
>>279 その話は俺も聞いたよ
ウチの家柄はあんまりよくないんだけどなw
じいちゃんは農民の出身だからよー
284 :
名無し三等兵 :2010/07/03(土) 23:16:54 ID:6H9OBKGr
近所で薬局を営んでいたじいさん(故人)は、元軍医。 末期のビルマ撤退作戦で、英軍に捕捉され部隊はほぼ全滅。 じいさんは気絶しているところを捕らえられ捕虜となった。 将校待遇とまでは行かなかったが、軍医という事で扱いはよかったらしい。
>>278 父の知り合いのじいさんが昔
「こんど戦争があったら近衛師団に入ったほうがいいよ」って言ってたw
徴兵検査での甲種合格組の中から、学業・体力・人格・体格に優れて、 思想信条や友人親戚に問題を起こした者が無いと分かり、更には地元 有力者からのお墨付きが付いて始めて入営→近衛 なので徴兵されて地元の連隊ではなく、東京の近衛師団に配属されて、 長期休暇の初めての帰省で家に帰れば見合いの申し込みがどっさりと 溜まってた、なんてのは良くある話。 見合いの釣書としては「兵役は東京の近衛師団で務めました」の一言で 田舎では大モテ間違いなし。もちろん地方限定だけど。東京はまた別。 同じ近衛でも東京組は地方からの選抜組の気力・体力に圧倒されて、 営内では小さくなって過ごしていた、なんて話もあるぐらい。 も一つ。太平洋戦争の開戦以前は、徴兵されたと言っても入営して訓練 に明け暮れて、二年で満期除隊となるのが普通。入営時期は半年ごとで、 初年兵と呼ばれる二等兵の期間は次期入営者が来るまでの半年間。 その後一等兵になり、優秀者は除隊時に昇進し営門上等兵で帰郷する。 初年兵の内に選抜された上等兵候補者の内、最も優秀な者は二、一等 兵を最短一年で終え、二年目を上等兵として迎え、更に半年で伍長勤務 に昇進した。上等兵候補者の内、除隊までに上等兵になる者が6割、伍勤 は中隊の兵卒(初年、二年目合わせて120名)に1〜3名という狭き門。 上等兵で帰郷するだけで「真面目・優秀・体力に優れる」という軍のお墨付 きなのだが、伍勤を経た者には更に除隊時に下士官適任証が付く。 再招集の際には他の古参兵とは扱いが違い、下士官となるエリートである。 なのだが、上等兵が帰郷すればモテたという話は多いが、伍勤がモテる、 という話は何故か少ないw 下士官不足で再招集の可能性があまりに高い(と言うか間違いなくされる) のと、非常に狭き門の為に周りの扱いは「同じ兵卒なのに」と嫉妬含み、 本人のプライドも高く「伍勤は生意気」という評価が定着してしまった。 つまり見合いの相手として選ぶには不人気だったのである。
287 :
霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk. :2010/07/04(日) 20:53:01 ID:ffMEEDpz
>286 徴兵検査での甲種合格組の中から、学業・体力・人格・体格に優れて、 >思想信条や友人親戚に問題を起こした者が無いと分かり、更には地元 >有力者からのお墨付きが付いて始めて入営→近衛 >なので徴兵されて地元の連隊ではなく、東京の近衛師団に配属されて、 >長期休暇の初めての帰省で家に帰れば見合いの申し込みがどっさりと >溜まってた、なんてのは良くある話。 >見合いの釣書としては「兵役は東京の近衛師団で務めました」の一言で >田舎では大モテ間違いなし。もちろん地方限定だけど。東京はまた別。 >同じ近衛でも東京組は地方からの選抜組の気力・体力に圧倒されて、 >営内では小さくなって過ごしていた、なんて話もあるぐらい。 >も一つ。太平洋戦争の開戦以前は、徴兵されたと言っても入営して訓練 >に明け暮れて、二年で満期除隊となるのが普通。入営時期は半年ごとで、 >初年兵と呼ばれる二等兵の期間は次期入営者が来るまでの半年間。 >その後一等兵になり、優秀者は除隊時に昇進し営門上等兵で帰郷する。 >初年兵の内に選抜された上等兵候補者の内、最も優秀な者は二、一等 >兵を最短一年で終え、二年目を上等兵として迎え、更に半年で伍長勤務 >に昇進した。上等兵候補者の内、除隊までに上等兵になる者が6割、伍勤 >は中隊の兵卒(初年、二年目合わせて120名)に1〜3名という狭き門。 >上等兵で帰郷するだけで「真面目・優秀・体力に優れる」という軍のお墨付 >きなのだが、伍勤を経た者には更に除隊時に下士官適任証が付く。 >再招集の際には他の古参兵とは扱いが違い、下士官となるエリートである。 >なのだが、上等兵が帰郷すればモテたという話は多いが、伍勤がモテる、 >という話は何故か少ないw >下士官不足で再招集の可能性があまりに高い(と言うか間違いなくされる) >のと、非常に狭き門の為に周りの扱いは「同じ兵卒なのに」と嫉妬含み、 >本人のプライドも高く「伍勤は生意気」という評価が定着してしまった。 >つまり見合いの相手として選ぶには不人気だったのである。 霞ヶ浦の住人の訂正。 平時の陸軍の入営時期は、年1回でした。海軍は2回でした。
288 :
霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk. :2010/07/04(日) 20:56:29 ID:ffMEEDpz
>284 :名無し三等兵:2010/07/03(土) 23:16:54 ID:6H9OBKGr >近所で薬局を営んでいたじいさん(故人)は、元軍医。 >末期のビルマ撤退作戦で、英軍に捕捉され部隊はほぼ全滅。 >じいさんは気絶しているところを捕らえられ捕虜となった。 >将校待遇とまでは行かなかったが、軍医という事で扱いはよかったらしい。 霞ヶ浦の住人の疑問。 「薬局を営んでいたじいさん(故人)は、元軍医」が疑問です。 軍医ではなくて、薬剤師ではなかったのではないですか?
医師が薬局営んじゃいけねえのかよ
元衛生兵かも?いくらなんでも、本当に元軍医なら病院(診療所)をするのが普通だ。
291 :
霞ヶ浦の住人 ◆iQXTBGahk. :2010/07/04(日) 21:06:21 ID:ffMEEDpz
>289 :名無し三等兵:2010/07/04(日) 20:58:54 ID:??? >医師が薬局営んじゃいけねえのかよ 霞ヶ浦の住人の回答。 薬剤師の免許がないと「薬局営んじゃいけねえ 」です。
>>291 >薬剤師の免許がないと「薬局営んじゃいけねえ 」です。
そんなことは無いぞ。薬剤師が従業員にいればOKだ。
>>290 島唯一の診療所の医師が軍医上がりのインチキ医者で、「軍隊ではあたりまえ」って注射針の使い回しをしたせいで、
肝疾患での死亡率が全国平均の5倍、ってところがかつて瀬戸内の某所にありましてね……
そういやガキの頃世話になった町のお医者さんは、フィリピン帰りの元・軍医殿だったな 注射が嫌で泣いて騒ぐと、「日本の男ならこんぐらい我慢せえ!!」 とか怒鳴られて物凄い怖かったw でも帰りには風船とか、安いオモチャをくれる優しい人だった。
>>291 昭和50年代まで、医薬分業法の抜け穴により、医師本人が行う場合に限って、
医師が調剤やってました。
上で近衛師団の話が出たので 自分の祖父はあまり戦争の話はしたがりませんでした 私の祖父は大学を出た後すぐに学徒出陣で近衛師団に配属 スマトラ島へ行ったらしいので第二師団だと思います 日本の戦争が終わっても人知れずフィリピンやらの独立戦争に巻き込まれ戦い、戦い、戦い… 帰国後はずっと日本兵の帰国を助ける運動に身を投じたらしいです
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5611003 7分40秒から
http://rasiel.web.infoseek.co.jp/voice/hitler1933.htm より訳
Deutsches Volk, gib uns vier Jahre Zeit, dann richte und urteile uber uns!
Deutsches Volk, gib uns vier Jahre, und ich schwore dir:
So, wie wir und so wie ich in dieses Amt eintrat, so will ich dann gehen.
Ich tat es nicht um Gehalt und nicht um Lohn, ich tat es um deiner selbst wegen.
ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ。しかるのちに我々を判断せよ!
ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ。私は誓おう。
この職に就いた時と同じようにこれからも私は進むという事を。
私は給与や賃金の為に行動するのではない、ただただ諸君らの為にのみ行動するのだ!
>>294 近所のでかい病院の院長先生が元海軍軍医でした。
えらいいかつくて怖い先生だけど、腕は確かだったなあ。
そりゃ、若い頃に数こなすし対応した怪我の種類も相当あるだろうからなぁ
情報公開とか思いやり、親切が良い医者の条件に挙げられる現代だけど、 それ以前の問題として幅広い症例の知識と、難しい場合に迷わない判断力 が何より「腕が良い」と言われる条件だろうね。 実戦の従軍経験がある軍医ってのは、鍛えられた場数と必要とされた決断 の厳しさが桁違いだ。何しろ船医なら、その場に専門家は自分しか居ない。 ミスをフォローできるスタッフも、疲れたら変わってくれる同僚も居ない。
軍医に「幅広い症例の知識」があるか、ってのは疑問だ
でも医者としてのプライドに負けて自分じゃ対処できない症例を引きずるような印象はないな あくまで個人的な印象だが
>>301 外科まわりがメインになりそうな気がする
慣れない土地で風土病にかかる(内科領域の)患者もいるだろう。 それなりに幅の広さが求められる場面も多いわな。 今でも、救命救急やってた医者は、対応力あるよ。何か来るか分からん現場で鍛えられてるからな。 あと小児科。「患者が子供」というだけで、何でも持ち込まれるし、 お母さんも子供もパニックで何言ってるか分からんし、しかも体力的に弱い。 「子供が好き」程度で小児科になると、先に死ぬのは医者だな。
kp
職場の定年間近の人から聞いた話だが内容に大きな間違いがあるため恐らく 二つ三つの話がごっちゃになってるだろうから予め断っておく。 その人の友人の祖父が戦艦長門の艦長をやっていたがその人は祖父が大嫌いだったと言う。 理由はと言うと日本海海戦で沈めた敵艦からたくさんのロシア海軍軍人が漂流していて 部下に命じてロープを下ろしたという。 しかし必死によじ登るロシア軍人達が上りきろうとする時部下が笑いながら持っていた軍刀で ロシア軍人の腕を切り落とし叩き落しそれでも命からがらの彼らはよじ登ってこようとし それでも部下は軍刀でロシア軍人を次から次へと叩ききっていったらしくその光景を艦長は何も言わず止めず黙って 見ていたらしくその一件以来その人は祖父の事が大嫌いになったらしい。
>>306 真偽以前にどうやってこの話がつくりあげられたのかに興味がある。
日露戦役時長門は存在してないから他の艦とごっちゃになってるな 日露の時は武士道と騎士道の名残が残ってる最後の時代と言われ乃木将軍らの 美談も多く伝わってるがとは言え戦だからいろんな事はあっただろう ましてや当時の日本人からしたらロシア帝国と言う得体の知れない赤鬼連中が 世界最強の艦隊を率いてわざわざ世界を半周して日本の海に攻めてきて退治しなきゃならない なんてどんな妖怪話だよ!なんて事だろうし当時の日本人からしたら現代人には 想像できない胸中だったろうな
あの当時の海軍で軍刀ってそんなに持ち込めるの? シベリア抑留をやられたから、どっちもどっちだとは思うけど
「うわ!赤鬼だ!・・・」 頭のどっかのネジが外れた 「あはははははははcjふ;ぃj::llgr(*゚∀゚)死ね」 こんな感じ?
日本人ならやりかねんけどな
>>308 306をよく読め長門の艦長してた友人の祖父ではなく
そのまた祖父だからひいひい爺さん
その爺さんが何かの船に乗っていたときの話だと思う
(嘘か本当か知らないが)
日本語でおk
年代的に60くらいの人の友人の祖父だから日露ではないだろうな 恐らくWW2の時の出来事だと思われ・・・
317 :
名無し三等兵 :2010/07/06(火) 20:28:02 ID:XN2oI7EK
太平洋戦争でロシアの船なんて沈めてねえから
>>316 大和が沈没したときに、救命ボートに乗ろうとした兵の手を士官が切ったという真偽が定かでない話とごっちゃになってる気がする。
>>318 それだ
知り合いの友人の祖父という時点で怪しさMAXだなぁとは思ったが
>>306 「職場の定年間近の人」
↑
「その人の友人」:年齢差は特に断ってないならまあ同年齢と推定
↑
「その祖父」=「戦艦長門の艦長をやっていた」人=Aさんとする
↑
1:その人=Aさん=は「Aさんの祖父」が大嫌いだったと言う。
2:その人=話の当人である友人=は「その祖父=Aさん」が大嫌いだったと言う。
つまり職場の定年間近の人の友人である長門の艦長の孫は自分の祖父が嫌いだったと言う事だろう
まるで 友達のお兄さんの知り合いのスーパーハッカー みたいだ
323 :
名無し三等兵 :2010/07/07(水) 13:25:13 ID:65MzhwtD
友人?である自分に対してどうどうと、お前の祖父は人殺しだから大嫌いだ! というのもどうかと思うが? そこまで面と向かって言うのは友人ではないと思うのだけれども
324 :
名無し三等兵 :2010/07/07(水) 13:47:51 ID:vZOVctmB
言ってる事がよく分からんな エスペラント語で頼む
百済王分家の臣民としては古代朝鮮語でおねがいします。
あなたのおにい様の初体験を教えて
>>323 釣りだと思うがマジなら日本語勉強しろw
こないだの父方の祖母の葬式で初めて知ったんだが父方の祖父は落下傘部隊だったらしい 所属は空輸挺身第二連隊第一中隊とのこと 階級は曹長、准尉直前に終戦 日記の奥のページに回想録があったので手書きでコピペしてみる 昭和13年:徴兵検査(明石) このとき20歳 昭和14年:徴兵検査(春川) 昭和15年:大邸歩兵八十連隊入隊 昭和16年:下士官教育(篠山) 昭和17年:パレンバン降下作戦(2.14) 昭和18年:パラオ、ペリリュー島駐留、スマトラに転進 昭和19年:スマトラ、シボロンボロン駐留、内地帰還 *おそらく宮崎県川南または福岡県小倉 昭和20年:終戦、復員式(9.2) 戦争に関しては以上だ
追記、父方の祖母の兄が艦で航空機の整備をしていたらしい 艦名は知られている限りでは阿武隈、榛名、飛龍 ミッドウェーでは駆逐艦に助けられたらしい 艦の所属順は分からないが終戦まで生き残ったことから阿武隈が最後ではないだろう なんか直系の唯一の男子である俺が自分の境遇を恥じるいい機会になった
330 :
名無し三等兵 :2010/07/07(水) 23:09:53 ID:vZOVctmB
>>329 立派なご先祖様に負けないようにガンバレよ!!
>>330 励ましは極めてありがたい
しかし「空の神兵」の一族の家督としてのプレッシャーに押し潰されそうだ
>>331 関係ないよ
君のご先祖様が立派だからといって、君がニートやフリーターで悪いことはない
英霊たちには申し訳ないのだが、学者だった祖父はいろいろ研究していて ジャワ島で「土人の踊り」(ママ)を見た翌日、飛行機に乗って帰るとき 軍刀を忘れて、気づいた人が離陸前の飛行機まで持ってきてくれたそうだ。 本人は戦後も長生きして老衰で死にました。まあ、もともと軍人でなかった という事で勘弁してくれ。軍の命令で研究していた軍属という奴ですね。 あまり細かく言うと特定されちゃうけど、兵器関係の研究ではありません。
>>324 ヤフルト ←ヨーグルトの意味だそうで、それしか知らん。
>>321 世代の関係と、戦艦の艦長であり得る年齢からいって、
Aさんは「日本海海戦の頃に生まれた」人でしかないはずなのだよ。
今の政界や財界はびこっているのは軍族 後方に隠れてのうのうと生き延びてきた連中 そりゃあ恥ずかしくて戦争体験なんて語れんわな そもそも実体験してないし
>>336 はびこるって、終戦の年に二十歳だった連中がいま八十五歳なんだが。
「はびこる」ほど生き残ってはいまい。
そう考えると元海軍主計中尉だった中曽根さんはすごいな 小泉さんに引導を渡されなければ、死ぬまで現役議員を続けて 政界に“はびこる”気満々だったんだからな
中曽根の場合、息子が後継者としてはいまいちだからな。わしが現役でいるうちに三代目の目をと思い やめられなかったんじゃないの。
>>339 秀忠より家光に期待を掛けてた家康みたいなもん?
憲法改正の歌 作詞中曽根康弘
http://www.youtube.com/watch?v=x21PiXfWxSg 一
鳴呼(ああ)戦(たたか)いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す
平和民主の名の下に 占領憲法強制し
祖国の解体計りたり 時は終戦6ヶ月
二
占領軍は命令す 若(も)しこの憲法用いずば
天皇の地位請け合わず 涙をのんで国民は
国の前途を憂(うれ)いつつ マック憲法迎えたり
三
10年の時は永くして 自由は今や還りたり
我が憲法を打ち立てて 国の礎(いしずえ)築くべき
歴史の責を果たさんと 決意は胸に満ち満てり
四
国を愛す真心を 自らたてて守るべき
自由と平和民主をば 我が憲法に刻むべき
原子時代に遅れざる 国の理想を刻まばや
五
この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり
マック憲法守れるは マ元帥の下僕(げぼく)なり
祖国の運命拓(ひら)く者 興国(こうこく)の意気挙(あ)げなばや
この歌を作った血気盛んな元帝國海軍軍人である若き日の中曽根議員が アメリカを始め中国韓国に土下座しまくる売国左翼政治家になってしまうとは 一体全体何があったんだ?
346 :
名無し三等兵 :2010/07/09(金) 21:50:53 ID:/O81KxWS
>>344 武力戦争の準備なんかに金使うくらいなら、経済戦争にいそしむほうが得だと気がついたからじゃない。
雨さんはうまいよね。戦前の軍拡がとどのつまりは市場開放・資源獲得レースにあると気づいて さくっと自由貿易体制に切り替えて西側諸国の最大市場を解放した。 ものの見事に共産国家は熱い戦争になる前に東側陣営の大半がこけてしまった。 自国が機能不全になる前に「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」とぶちあげたケ小平はマジ天才。
自分の死後のことは気にしないだろうが、それまで抑え込んでいた中共人という厄済を 元安の不均衡貿易と共に世界に解き放ち、全人類の怨嗟の的になったことは、 繁栄の期間の何倍かの排斥の歴史を負うことに繋がるよ。
>>344 十代に左翼にはまらないのは馬鹿
二十代で左翼にはまっているのは馬鹿
まあそういうことだろう。
うちのじいちゃんの話をばあちゃん聞いた事があるから書く じいちゃんは徴兵されてから浜松で訓練して満州に行った 満州では飛行場の警備などをしていたと思われる(高射砲が話に出たので推測) 終戦後はソ連軍の捕虜となりシベリアに送られたものの 手先が器用だったのでソ連兵の髭そりをしてなんとか生き延びて帰還 おばあちゃん曰く、「あんな小柄な人がよう生きて帰ってきたて」だそうな
特技があると生き延びられるんだな
>>353 うちの親戚は工兵で測量ができたから楽できた、ってきいたな。
355 :
sage :2010/07/12(月) 03:25:17 ID:H8aU7O22
俺が爺さんから聞いた話を書こうと思う、 爺さんが亡くなって十数年経つし、俺も子供だったからうろ覚えだが… 爺さんは駆逐艦の躁舵手をしていたそうだ、 艦名、作戦などは「わすれちゃった」とか言って教えてくれなかったが、 今にして思うと言いたく無かったかもしれん、 対空砲火が始まると後ろに立ってる艦長の声も聞こえない程うるさく、 それでも艦長の声を耳を凝らして聞き、舵を右に左にきっていたそうだ、 最後は旗艦の盾となって魚雷を食らって沈んだそうだ、 爺さんは燃え上がる艦橋から同僚と二人、艦長に海に投げられて助かったそうです、 艦長の最後の言葉は「お前たちは死ぬな!」と言って燃える艦に入って行ったそうです。
支那ではちょっと小銃チラつかせば女とヤリ放題だったって 旦那や子供が見てる前での5〜6人での和姦は最高に興奮したらしい
和姦なら別にいいが。
さすが菊の御紋 陛下の御威光 支那女もメロメロ
>>356 可哀想な奴だな・・・
それ発覚したら厳罰もんだから普通の兵士はやらないし、それを防止するために慰安所があったんだがな。
にもかかわらず、そういう事が出来て、あまつさえ自慢気に話せるって事はどういう出自なのか言わなくても分かるよな?
普通の兵士はやらないねぇ 戦争美化すんなよ、強姦くらいあって当たり前だ 慰安所が出来たのもそういう背景からだろ だいたい、中国戦線で軍規なんか守ってたら戦争できないの知ってるだろ? 日常と戦場はぜんぜんちがう 時代が違う 意識が違う 今の感覚では理解できない 部下を棍棒で思いっきり殴ったり、すぐに鉄拳制裁したり、銃剣で人ぶっさしたりそんな生活今の俺らに想像できるか?
>>356 そういうことをする皇軍の誇りが無い奴は、エラの張ったつり目の大柄な男だったそうだよ。
日本人の犯罪率は0%!ってやつですか?分かります
>>356 それはお祖父さんの話?
戦時中が非日常なのは当然だけど、きついな。
>>356 みて思ったのが、他人にSEX見せつけるってどこから来た文化だったんだろうかという疑問だな
っていうか孫と強姦・輪姦について語り合えるってある意味すさまじいじい様だな
まぁ、中国兵やロシヤ兵やアメリカ兵の強姦話が出てくるんだから日本兵のがあってもある意味不思議じゃないよね
大伯父のエピソード。 開戦を控えペンキで艦名を消していたら、オのところでペンキなくなり、「ボロ」となったという話を母はきかされたらしい。
やたらに釣られているがどうしたんだろう
第二次世界大戦の米兵やベトナム戦争時の韓国兵の混血児は大量に居るのに 絶好のゆすりネタのはずの、日本兵の混血児がなぜか出てこないんだよな 偽残留孤児やその偽家族があれだけ出てくるんだから、本当に強姦があったなら 混血児がたかりに来てもおかしくないだろう。
そりゃそんな事実が無かったからに決まってるだろ 我らが皇軍の軍律の厳しさ・規律を遵守する精神は世界一 支那女などには触れることも無かったと聞いているぞ かの国の人と勘違いしてるんじゃないの?
またネトウヨの検閲かw 自国の歴史に正面から向き合えよw
日中戦争が侵略戦争つう定義なんだが、文句を言いたいなあ 上海事変で蒋介石に誘い込まれたから進撃したのであって 満州以外に侵略する意図は持ってなかったんだよ 出来ることならやりたくなかった戦争 それが日中戦争だよな
>>370 で、そう言うお前は当然、その史観に基づいて中韓に土下座して謝りに行ったんだよな?
やってないなら大口叩くなよ。
皇軍のレイプは綺麗なレイプ
>>373 良い核と悪い核があると主張する某団体とどこが違うのか。
375 :
名無し三等兵 :2010/07/13(火) 11:02:37 ID:NSeAf+T8
祖父は戦闘中に敵(米兵)の傷をなぜか手当して背負って隠れてたことがある 別の戦場で、祖父が怪我して歩けない状態になりあきらめてたら 祖父が助けた米兵が偶然いて、傷を手当してくれた それから日本にきてくれて歩けない祖父を背負って祖父の家まで送ってくれた 父が言うには190くらいの身長で祖父を置いてすぐ帰ったらしい 祖父のくびにはスコップで叩かれたあとがくっきり残ってたらしい 上官に反抗ばかりしてたとか・・・
うちの嫁のじいさんの弟さんは、武蔵の乗員だったそうな(当然、戦死された) うちのじいさんは南方方面で補給船の船長さんだったそうな 親父たちにお土産として失敬したバナナとか あげてたらしい
うちのじいちゃんはとにかく上官に殴られた事しか話さなかったなぁ 自分が関わってないことでも、目の前にいる奴を殴る、虫の居所が悪いと殴る 俺たちの扱いは牛馬以下だったよって、戦争にまさか負けるとは思わなかったけど 負けたのが決まった時は、周りを気にして泣いたけど、心の中で万歳三唱小躍りしたって
379 :
名無し三等兵 :2010/07/13(火) 21:43:44 ID:+Lk5tOR6
取引先にいたおじさんの話ですが、 その人は、陸軍の落下傘部隊にいて、ビルマ、インドネシアなどを転戦していたそうです。 開戦中ごろまでは、すぐに戦闘になることは少なく、待機が多かったそうです。 待機中は、暇かというとそうでもなく、兵は、駐屯地の警備その他で外出無し。 下士官も、いつ出動が掛かるか解らないので、駐屯地の近辺のみ、しかも二人以上でしか 許されなかったとの事。 外出しても、憲兵が煩くて、つまらなかったと言っていました。 それでも、終戦間際は、落下傘部隊に入る前に居た部隊は全滅、おじさんも落下傘部隊が解隊、 一般部隊に編入になり何度死ぬかと思ったそうです。
380 :
名無し三等兵 :2010/07/13(火) 22:35:02 ID:Fpe+fvVy
2年前に鬼籍に入った爺ちゃん 海軍で高射砲の砲長をしていた あんなアリみたいな大きさの目標に照準合わせてあたるはずがないとぼやいていたが …海軍の高射砲?
帝国海軍は「高射砲」ではなく「高角砲」と呼称する、という以外は特におかしくないが。
>>380 文字盤の文字が判読できなかったんでタイプが不明だったが、
精工舎の懐中時計の画像いろいろ見て回ってたら確定できた、
PRECISIONって鉄道時計じゃないかw
普及品を御賜時計に使用する訳ないからパチもん確定だなw
89,000円で落札されちゃってるけど…見なかったことにするか。
年代がインチキでなければ、鉄道時計としてそれなりの価値があるんじゃなかろうか?
>>387 実際に鉄道で使用されたのなら裏蓋に、使用した鉄道を識別する文字ないしは
標章と管理番号の類が刻印されてる。
それが無い上に怪しい文字が刻印されている。
裏蓋が丁番で開閉するようになってるが、見て回った範囲では
PRECISONの鉄道時計の裏蓋は分離式で、開閉式の物は無かった。
民間販売用にそういう仕様があったのなら、骨董品としてそれなりの値が付くだろうけど、
分かる範囲でこういろいろ弄ってると年代すら怪しいと思う、
てか、大切に保存されていた恩賜時計ならともかく、使い倒される鉄道時計なら全体的に綺麗過ぎる。
へたすると戦後に民間向けに販売されたタイプかもしれん。
>>388 高級懐中時計は戦中に生産中止になっている。
>>384 がupしたムーブメントの画像はエキセレントという全く違う時計のもの。
それに、吊り金具がΩ型で裏蓋が蝶番式の19セイコーも存在するよ。
これは間違いなく戦前の19セイコー。
そもそも、裏蓋二重式で吊り金具がΩ型15石は一般には市販されなかったら
しいし、鉄道用は7石で、ケースも違う。
三島由紀夫が学習院主席でもらった御賜時計がどうやらこのタイプらしい。
>>384 ですね。字が間違ってるし。
というか、あるいはそういう字体も存在しているかも知れないけど、
「日本では使ってない」、あたりが落ちかな。
>>389 字が間違ってるんだけど、そういう字体の本物も実在したということ?
25 名前:雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ [sage] 投稿日:04/12/20 02:30:40 ID:O9rSQcwI 知り合いの話。 仕事で東南アジアへ行った時のこと。 赴任先の街は樹木生い茂った密林に面しており、大戦中はその森から山にかけて、 日本軍が激しい戦闘を繰り広げた過去がある。 仲良くなった現地の同僚が、食事に招待してくれた。 香草がかなりきつかったみたいだが、それでも料理は美味しかったという。 食事後に大人同士で歓談していた。 お互い片言の英語で会話していると、いきなり耳に飛び込んできた日本語がある。 グンソウドノ、グンソウドノ 微妙に発音がおかしかったが、確かにそう言っている。 見れば、家の子供たちがそう言いながら追いかけっこをしていた。 怪訝に思い同僚に聞くと、あれはお化けごっこをしているのだという。 山近くの森の中で、夜になると「グンソウドノ」と叫ぶような声が聞こえるのだが、 現地ではそれをお化けの声としているのだそうだ。 その場に居合わせた者は誰一人、それが日本語だと気がついていなかった。 現地組は他にも、こんな叫びが聞かれると教えてくれた。 「オイテカナイデ」「ミズクダサイ」 彼は強引に話題を変え、それ以上その声について触れなかったという。
30 名前:雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ [sage] 投稿日:04/12/21 05:34:18 ID:ESX/XeOI 私の体験した話。 仕事で山奥の農家に出入りしていた時のこと。 土工作業が長引いてしまい、終わる頃には日が疾うに暮れていた。 黒々とした山を眺めながら施主と話をしていると、乾いた破裂音が聞こえた。 ぱぁん! 爆竹ですかねと施主に振ると、さらっととんでもない返事が返ってくる。 「いや、ありゃ銃声だよ」 驚く私に、親父さんは次のような話をしてくれた。 日露戦争が始まる直前、この山の近くに練兵場があった。 徴兵されたばかりの新兵には訓練に耐え切れない者も多く、脱走者が相次いだ。 脱走兵の内何人かはこの山に入り込み、持ち出した銃で自殺したのだという。 その時の銃声が、毎年同じ時期に山に響くのだそうだ。 「わしの親父も聞いていたというから、もう随分になる。 丁度この時期になると、いまだにぱんぱん鳴ってるなぁ。 延々と自殺し続けてるのかもしれんのぅ」 呆然と暗い山を見渡したが、それ以上何も聞こえない。 その現場が終わるまでに、私はもう一度だけその音を聞くことになった。
29 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:04/12/21 01:01:10 ID:kD3YBUxb 西丸震哉のたしか『未知への足入れ』という本に似た話があった。 (以下うろおぼえ) 彼はパプアニューギニアだったかに現地の人の味覚調査に行った。 現地の人が、「このあたりの森は夜になると幽霊の叫び声がする」という。 どんな叫び声なのか、と西丸氏が問うと、現地の人は 「シカリシロー」「ガンバレー」等々と聞こえる、という。 もちろん彼らはそれがどういう意味か知らない。
硫黄島じゃ普通にあるらしいよなその手の話
>>397 宿舎で寝てると部屋の隅に白い陰がとかな
不肖!宮嶋が特別に許可を得て地下壕で一晩過ごしたけど何もなかったらしいんだよなw でも、知人の自衛官が遺骨収集に同行した時は、キャンプファイヤーで火を取り囲んだら、 一部誰も座らない場所があって人が入れ替わっても誰もそこに座ろうとしないんで 後から周辺に座って人になんで空けてたの?って聞いたら 空きスペースなんてなかったよ?と答えが帰ってきたそうで、 あからさまな霊体験はしてないが、やっぱりあそこはそういう事あるよと言ってた・・・
硫黄島は、天皇さんの慰霊以後収まったという話だけど?
もう死んじゃったけど、近所に硫黄島生き残りのお爺さんがいました。 NHKが報道してた米兵との交流慰霊祭?にもちょっと写ってたりした。 遺骨収集には必ず参加してた。 この人の話では 現地での収集は形ばかり。役人が先導して壕の入り口付近だけを捜索。 入り口から数メートルへんをチョコチョコ掘ったり水筒などを拾ったりして終わり。 少しでも奥へ行こうとすると「危険ですからやめてください」と叱られる。 役人特有の「とりあえずちゃんとやってますからねー」みたいな、形だけで 済まそうという腹が見え見えなんだそうだ。 中がどうなってるのか分かってるのは俺たちだけ、俺たちが死ねばもう 誰も骨を拾ってやることはできない。生きている間に本当の収集をやらせて もらいたい、といつも云っていたそうだ。 靖国神社がどうのこうのと議論されることがあるが、骨を本気で拾ってやる ことすらせずに何が英霊だ御霊だと思う。 日本は情けない国だと思うよ。
>>402 茶化す訳ではないが
戦争に負けると謂う事はそう謂う事だと思う
勝った戦争ならば国を挙げて遺骨収集をするだろうが
負けてしまった戦争の事は早く忘れたいとの気持ちが強いと思う
オレの親戚にも陸海軍への従軍経験者は何人かいたが
何処へ出征したか詳しい事を知るのは、大抵本人が鬼籍に入ってからだな
本人だけでなく当時を知る家族も戦争の話はしたがらなかったもんな
10年ほど前に亡くなったおじさんは、一度目の召集で大陸に行き
二度目の召集は昭和18年のラバウルだった
何とか無事に帰還できたけど、晩年はラバウルで罹患したマラリヤに苦しめられたみたい
生前のおじさんは無口で温厚な人で、戦争中の話を聞いた事は無かった
ラバウルに行ったのが昭和18年だから、相当辛い思いをしてきたと思う
でも、おじさんも家族もその時の話をした事は一度も無い
もし先の戦争が勝ち戦だったら、辛い経験をしてきたおじさんでも
少しは戦争の話をしてくれたかもしれない
>>402 落盤で犠牲が出たりしたときに責任問題になるのがいやなんだろうな
そういう問題ではないと思うけど…
ニューギニアあたりもひどいらしいね
海岸からちょっと入ったあたりでちょこちょこっと探しておしまいとか。
>>403 たしかに勝ち戦なら遺骨収集ももっと予算と組織が付いて大々的にやれたんだろうな。
遺骨収集に勝ち戦も負け戦も関係ないだろ。 徴兵して戦死させた国民に対する国家としての誠意の問題だ。 アメリカでは、ベトナム戦後何十年経っても、米兵の遺骨が見つかると 引き渡しを要求し、アメリカに戻した遺骨は大統領が出迎え厳粛な セレモニーが営まれる。「この兵が誰かは分からないが、祖国に対する 最大の功労者の一人である」といった賛辞が大統領によって読み上げられ、 星条旗で覆った大きな棺に入れられて戦没者墓地に埋葬される。 ベトナム戦争はアメリカにとって勝ち戦ではなく、忌まわしい記憶だろうが、 それでもやることはやっている。
しかし、真珠湾に沈んでいる遺骨は、「わざと」回収していない。
>>406 勝ち負けは関係ありまくりだよ。
革命とか称して自分等のいうことに従わない者を圧殺することを宗旨とする宗教団体が、
勝ち続けている間は封殺されていたところ、敗戦後に跋扈して、そういった行為に難癖を
つけて妨害しまくったという歴史を知らないか、知っていて故意に目を逸らしてる?
>>402 もう20年以上前になるかな?TBSの報道特集で、顔が怖いので料治直矢と「鬼瓦コンビ」
と言われた堀宏がニューギニアの白骨街道を訪ねるドキュメンタリーがあった。
番組の構成としては、
1.ニューギニアの白骨街道にはいまだに日本兵の遺骨が収集されず野ざらしに
なっているという情報が有る。
↓
2.厚生省に取材すると、「そこは何度も遺骨収集しているので、遺骨はもうありません。」
↓
3.堀宏、現地を歩く。ちょっと歩いただけで野ざらしのご遺骨が次々と・・・
鬼瓦の堀宏が「こんなのあんまりだ。酷過ぎる・・・」と号泣。
↓
4.取材結果を踏まえ、厚生省に遺骨収集の再開を要求するが、厚生省はあくまで
正式な遺骨収集で遺骨は全て収容したというスタンスで、再収集する考えは無い
との回答。
強面のいい歳したオヤジジャーナリストが遺骨を拾いながらボロボロ泣いている姿は
印象的だった。
続く
411 :
410 :2010/07/21(水) 02:22:28 ID:???
>>410 続き
当時の空気というか雰囲気というかは、戦後1970〜80年代前半くらいまでは
ご遺族も若く、多くの遺骨収集団が組織されて海外に出かけていた。
で、当然そういうご遺族が海外に行く以上、政府・・・というか敢えて名を挙げないが
某政権党・・・も知らん顔出来ないので担当省庁の厚生省の役人を同行させたり、
収集団を主催させたり。
ところが戦後40年も経つとご遺族も高齢化して南方のジャングルを歩くような
収集活動は難しくなると、これ幸い?と政府による収集活動も終息方向へ。
私見だけど、この遺族の高齢化と遺骨収集活動の終息するのと反比例して
政治家の靖国参拝ってのが色々騒がれるようになった気がするんだよね。
これ以上はアレなんで書かんでおくわ。
終息なんかしてねえよ。ちょっとは調べてから物書け。
そこで民主だの自民だの社民だのいいだすと途端に煽りくさくなることには気づいた方がいいと思うぞ
>>414 個人でできる事にが限界が有る。できるんだったらとっくに解決してるでしょ?
できないからどうしても国や役所のサポートが必要になる訳で、そうなると政権
の思惑とか政策がからんでくるのは当然だと思うが。
>>410 TBSがやってる時点でやらせを疑うべきだろう。人骨が日本兵であると特定できる根拠
はあったのか?
他人の骨をかっぱらったら後から国際問題になるだろう
靖国神社に関しては朝日新聞の方針だから、遺骨収拾とはリンクしない
>>416 あの頃の報道特集がなんと言われてたか知ってるかい?骨太の番組作りで
日テレのNNNドキュメント等と並んで「民放の良心」とまで言われてたんだぜ?
ご遺骨周辺には鉄兜等の遺品が散乱、軍靴を履いたままのご遺骨もあったと
記憶。
それ以前に太平洋戦争の激戦地で日本軍がボロボロで敗走して「白骨街道」と
呼ばれているルート上にご遺骨がゴロゴロ転がってたら、日本兵の物と考える
のが常識的じゃね?
何時になったら一般社会で ごく普通に遺骨収集の話が出来るようになるんだろうな 職場の昼休みに、その手のニュースが流れていても殆どが無関心 オレがそれとなく話を振ってみても良くて「ふーん」で終わり 人によってはあからさまに怪訝な顔をするものもいる このスレでカキコしているように、へんな言い方だが一般社会で同じように 話が広がるような雰囲気が醸成されないかぎり 国を挙げて、先の大戦で亡くなった方々の遺骨収集活動が進む事は無いんじゃないかな
でもオマエら、遺骨収集やったことないだろ? オレはあるぞ。
kwsk
kwskもなにも、元厚生省援護局の職員だからね。毎年一度は必ず行ける。 なぜか北方専門だったから、ロシアに1ヶ月送られて、ひたすら掘る。並べる。写真撮る。焼く。のループ。
宗男の悪行について教えろよw
とりあえず先の大戦を風化させる方向で日本全体が動いてる以上、遺骨収集だのなんだのは進まんままだろうな どうにか進めようとするたびに「グンクツがどうの」とか言い出すだろうし 最後には結局「謝罪と賠償と独島」に行きつくだろうし
>>423 その前に官房会計という壁があり、その向こうには財務省主計局という名の厚い壁が立ちはだかる
ハニ垣みたいに自民党総裁経験者には主計局出身いたよね 福田とか、宮沢とか。 あいつら在任期間中にそういうのスルーしたからだよ。 残念だったね 世の中やっぱり民主党だよね。
>>425 そもそも省内で潰されていた可能性もある
援護系はそもそも外様な上に、社会・援護局なんて名目で生活保護や社会福祉やる局の中に混ぜ込まれてるし
本来なら防衛省内か内閣に恩給や遺骨収集を取り仕切る専門の組織ががあって
しかるべきだと思うんだが
「戦争放棄」で建前上は戦争とはもう無縁になったゆえか…
万万が一に日本と他国の間で小競り合いが起き 陸海空の何れかの自衛官に犠牲者が出たとしたら 日本人はどんな反応を見せるのかな? 国を挙げて哀悼するのだろうか、それとも我関せずの態度をとるのだろうか オレの伯父さんが昭和12年に大陸で戦死したときは じい様とばあ様は靖国神社に行き白木の箱を持ち帰ったそうだ そして田舎に帰ってきたじい様とばあ様を村の人達が迎えてくれたそうだ 今年もあと数週間で8月15日がやって来るんだよなぁ
>>427 その頃は戦死者が出たら「名誉の戦死」で大々的に迎えられたらしいからな。
うちの近所の墓地にその頃戦死した上等兵の巨大な墓碑がある
そこの墓地で一番背が高い墓碑
こないだそこ通ったらその墓碑の前に「この墓碑の管理者がいたら連絡をください」
って趣旨の白い立て札が立っていた…
>>427 日教組が大喜びで「こいつの親は人殺しなので死んで良かった」とクラス会でリンチするだろう
>>427 状況によるでしょ。北朝鮮の船に沈められたってことになれば、それなりに怒ると思うよ。
相手がロシアだと、モゴモゴするかもしれないけどw
>>429 殺人罪でしょ。 向こうの兵士にも家族がいるんだよ。 人の命は地球よりも重いんだよ。
友達を君は銃でうてるかい?僕には撃てないね。
まず話し合い。それで解決できなければ無防備都市宣言をしてこの国は非武装中立宣言すれば
いいと思います。
非武装中立という名の生贄にはなりたくないな むしろ非武装中立を実現できた国がかつてあっただろうか?
スレチ
インドネシアで義勇兵として戦った小野さんにしろ 戦後に台湾に密航までして戦った根本中将にしろ 昔の日本人は義理堅かったんだね
>>431 マジで言ってるのなら死ね非国民
頭がお花畑な左翼の稚拙な論理をまき散らかすな
昔は
>>431 のような発言を見聞すると頭が沸騰したもんだ。
年をとったら、少し変わった。戦死された英霊諸氏は、
>>431 のような発言や
>>437 の発言を見て、「自分の考えを堂々と言えるような世の中になったことは
日本の進化だなー」と感じているのではないかと。
もうすぐ8月15日だね。
オジキの墓参りに今年も行こう。もう一人のオジキは昨年他界した。海軍陸戦隊
から学校に行きなおして戦争終結時は回天乗組員。
弟である俺のオヤジは、話がループしながらも兄を今も尊敬していることが
わかったよ。
オレは毎年この時期に子供を連れて靖国神社に行っている 子供が小学生だった頃は「ここにお前達の親戚が奉られているんだよ」と言っても ピンと来なかったようだが、最近では「いつ靖国へ行くの?」と聞くようになった 子供達は子供達なりに靖国神社の存在意義を知るようになったみたいだ それはそれで嬉しいのだが、図体がでかくなるにしたがって 神社の境内に在る茶店のラーメンを一人二杯も食べるようになってしまった
>>438 そりゃ、戦後民主主義の誤謬に取り込まれれるよ。
思想信条の自由は保証されてしかるべきだが、
公衆の面前で他人の親族を誹謗する権利までは保証されてないよ・・・
>>440 他人の親族を誹謗した人を非難する権利もまた保障されている
といえるかもしれないが
節制のない言論は言論の自由そのものを滅ぼしかねないしな
統帥権干犯問題のように
戦前の言論統制の時代に憧れを抱くような奴が 言論統制されることは当然のこと、因果応報 言論の自由は、それを尊重しない者にまで無制限に許されるものではない
>>442 > 言論統制が行われていた旧ソ連や現在進行形で言論統制が行われている中共に
> 憧れを抱くような奴が言論統制されることは当然のこと、因果応報
>
> 言論の自由は、それを尊重しない者にまで無制限に許されるものではない
>
うちのじーちゃんシベリアで抑留中に腰に障害のこって、日本引き揚げてきてからも白浜の陸軍病院分院にしばらく入院してたらしい その病院は今でも名前は変わってるけど病院としてのこってるらしい 温泉療法だったって
>>445 全部が全部って訳ではない。結核の療養所・・・サナトリウムから国立病院になったところも多い。
>>446 つうか陸海軍病院出身の国立病院なんて一部だろうなぁ、と思っていたら
陸海軍病院と各種療養所をまとめて国立病院にした、って経緯を知って驚いた。
陸海軍病院自体が国立だったからな
恐怖の旧日本軍731部隊へようこそ
731部隊に殺されたコリアンたちかわいそう・・・・。
731部隊ってのは謎の多い部隊だよね 森村誠一著作の悪魔の飽食に書かれていた事が事実だとすると 何でBC級裁判で大量に裁かれなかったんだろう? 戦後の石井四郎の所在もはっきりしないしね
>>451 アメリカと裏取引したから。膨大な人体実験のデータをアメリカに渡す代わりに
戦犯として追求されないようにしてもらった。
悪魔の飽食自体は誤認やら事実関係が不明だとかで真偽かなりあやしい代物だけどね 映画版の「黒い太陽731」とか実験シーンが有り得無さ過ぎて笑った記憶がある いくらなんでも真空の中に人間入れたらケツから腸がニュルニュル飛び出すとか人体構造無視しすぎw
人体構造が明確になったのも 731部隊での人体実験での賜物
「ブギャアアアハハッハハハハハアッッッッ!!!ハライテwww わ、ワライジニするwwwww」
>>450 抗日ゲリラの中にコリアンがいれば同感だね。
その一方で、半島や本土で「日本人」として祖国に奉公していた人もいる。
犠牲者の大半は中国人だろ?なんでもかんでもコリアを被害者にすんなよ。
みっともない。
>>454 >いくらなんでも真空の中に人間入れたらケツから腸がニュルニュル飛び出すとか人体構造無視しすぎw
宇宙開発の事故だかで、そんな事はないって今では分かってるのにね。
世間は夏休みか 中学校の頃祖父母の家へ遊びに行くと、いつも戦争の話聞こうとしてたっけ でもどこか申し訳ないような気がしていつも遠慮がちに聞いてたな そしてテレビに流れているのはいつも高校野球だった
ノモンハンでは石井部隊は腸チフス菌をばらまいて 金鵄勲章を貰ってるからね
461 :
名無し三等兵 :2010/07/29(木) 00:33:22 ID:CihQ6k5W
生前、大日本帝国軍人だった爺さんが アメリカ人の発するリメンバー・パールハーバーと言う言葉に酷く憤慨していた。 そこでリメンバー・パールハーバーと言ったら やらせのトンキンおまえもな! とか、上手く言い返したい! 勿論英語でだが日本の歴史に残るような 反撃の名セリフを誰か教えてくれ。 盆に帰ってくる爺さんのためにもヨロシク。
満州事変起こしといて言えた義理か。
>>463 そう思うなら自分の私財を投げ打って中韓に謝罪してこい、
条約で決着済みと考えててる俺たちに同意を求めるな。
8月に新たな謝罪をするようだから賠償の話もでるだろうね。
466 :
名無し三等兵 :2010/07/29(木) 01:56:33 ID:/PcUFW/+
スレ違いだったらすまん・・ 今、手元にじい様の軍事手帳があるんだが・・・・ 正確に読めねぇ〜〜〜ww 旧漢字むずいw 需要があれば書き込みます。<(__)>
466が横書きの文章を左から右に読んでいる、に500ドン
468 :
名無し三等兵 :2010/07/29(木) 04:20:29 ID:/PcUFW/+
>>467 残念、すべて縦書きだw
旧漢字だじ、じいちゃん達筆だし、読みにくいぜw
おじさんとこ行ったら軍隊手帳ぐらい残ってるかなぁ 入営時の写真カードケースにいれて保管してたから ただ、戦友会の名簿が食器棚の前に落ちていたのはちょっと…
>>468 接写モードで写真撮ってうpってくれれば解読くらいできる猛者が現れると思うよ
ちなみにスレはここで合ってる
うちの爺様は、終戦後引き上げの際に部隊で兵隊とわかるものは全部埋めて来たと言ってた。 手帳も埋めたといってたなぁ・・・ 本人曰く、陸戦隊の上等水兵だったとの事。 手帳があれば色々爺さんのこと知ることが出来たのにな〜
オレの伯父さんは海軍にいたんだが 終戦と同時に全てを海軍に返したと言っていた 伯父さんのかぶっていた“大日本帝国海軍”と書かれた水兵帽が欲しかったのに・・・。
>>472 終戦当時に子供だった人がいってるみたいに見える。
まさかねえ・・・
ネトウヨの創作話って気持ち悪い
ドラえもんの戦争話が パパの子供の時じゃなくて 爺さんの子供の時になっていたのは 驚いた。 年取るわけだ。はあ
ということは伯父さんのビルマで像に合った話も改変されるのかな すでに無かったことになってそうだが
>>478 流し読みで象とあるべき所が像なの見落としてたw
>>479 突っ込み損ねても、まだあるぞ?
「像に合った」ってのも、何かの像にピントが「合」った?と突っ込めるけどね。
481 :
478 :2010/07/31(土) 01:46:25 ID:???
>>480 レンジファインダーかw
二重の像が重なって一つになるとピントが合うんだよな。
俺のライカは目が悪いせいもあってか像が見にくいんで
ピントがイマイチ合わせにくい。
カメラ談義のスレじゃないんで、とっとと帰ってもらえますか
ビルマで仏像か何かにピントが合ったという昔話ではないのか?
いつまでもくだらなすぎるよ
この流れで「おまいら、クイズ ピントにピントっ!て知ってそうだな」という流れにどうすればナルト思う?
@ ←なると
.サスケェ・・・・・
>>487 「象印クイズ ヒントでピント」だよ。
「ピントに」じゃなくて「ヒントで」な。
>>482 、MじゃなくてRなんで古いせいか視度調節してもハッキリと見えないんだよね・・・
>>483 、一眼じゃないけどデジカメは持ってるよw、レトロ趣味で半分アイテム化してるんだよw
ここらでウチの爺さんは従軍カメラマンだったて報告者は出てこないかな・・・
現役当時には「家一軒」の値段だったやつかな? レンジもカビて駄目になってるのが多そう。
492 :
名無し三等兵 :2010/08/02(月) 12:32:33 ID:merL0aA4
うちの祖父ちゃんは海軍第九三八航空隊の所属でショートランドやラバウルに行ってたみたい なんでも戦争が始まりそうだということで昭和16年の5月に海軍に入隊 駆逐艦(艦名は分からないけど2000トン級で乗員220名くらいのやつ)で訓練したあと予科練に入って訓練 昭和18年の7月11日に九三八空の所属になったらしい まぁ戦局の悪化に伴って内地に戻ってそのまま終戦を迎えて今に至るみたいです
493 :
名無し三等兵 :2010/08/02(月) 21:45:11 ID:oSrnKPT/
私の母方の祖父は共産党員でした。 2回戦争に行ったのでかなりの軍事恩給をもらっていました。 戦闘で、胸から背中にかけて銃がつき抜け、軍事病院で生死を彷徨いましたが 無事生還しました。 97歳の時、大腸が破裂して入院しました。意識が朦朧としているので 病院を軍事病院だと勘違いして、軍事病院にいた頃に意識がタイムとリップし 國に対する怨念を唱えていました。
母方のばあさんが日本軍から隠れるため村の人と一緒に洞窟に隠れていたのだが そこで誰かが大蛇に襲われて食われたとのこと。
あ、フィリピン人です
フィリピン壮絶だな
中韓と違ってフィリピン人は奥床しいのか 先の大戦で一番の激戦地だったのに、あからさまな反日運動はしないよな 日本人としては助かるけど。
歴史が、スペインの植民地から米西戦争でアメリカへ そして日本へ、だからな
最後は旧宗主国のアメリカに見捨てられて スプラトリーは中国に侵略されてしまいましたものね フィリピンで残地作戦をしていた小野田さんを 時のフィリピン政府は何の処罰もせずに日本に返してくれた そんな心優しいフィリピン人に幸せが訪れますように(-人-)
上のレスみたいに外国の話しとかないのかなぁ…
>>497 マルコス独裁政権にしこたま金を掴ませたからだよw
>>499 アメリカが見捨てたんじゃなくて、フィリピンがアメリカ軍出てけって後先考えずに
追い出した挙句の結果なんだが・・・
火山の降灰が撤退の原因だろ。
重要度の低下と経費の問題だよ。
>>503 それが決定打になったけど、その前に反米デモやりからかしてただろ。
ああいう反米デモは世界中でやられている。 産廃や葬儀場などのデモと一緒。 悪いけどあんなの鼻くそほどの効果もないからw
反米デモはアチコチで起きてるが、それを政府が放置してフォローしなかったから フィリピンは米軍が出ていったんだろうが・・・ 米が世界情勢の変化もあって、デメリット差し引いても駐留するメリット無しと判断したせいでもあるが。
火山降灰が決定打と自分でいっている癖してフォローしなかった云々と矛盾することをいってるようだが、 実際に使用不可能になっているんだからデモ云々とは関係ない。 もしかしてデモの実績づくりとしたい関係者ですか?
だんだんスレの主題がずれてるようなので、投下。(じいちゃんじゃなくてばあちゃんだけど気にしない。) 家のばあちゃんは新潟の出なんだが、6歳の頃に終戦を迎えたそうな。 で、昭和20年の4月か5月に友達と下の弟と一緒に海岸近くの道路で遊んでたら、日本軍の戦車部隊が通りがかったんだと。 ばあちゃんと女友達は驚いて家の中に隠れたんだけど、男友達と弟は戦車に向かって手を振ったり、声援を送ったりしてた。 んで、また別の日に道路で遊んでたら、またまた日本軍の戦車部隊が通りがかった。 家に戻ろうとしたんだけど、男の友達と弟に「一緒に見ようよ」って言われて、その場に留まった。 でも、やっぱり怖いから男友達の手を握って、一緒に戦車部隊を見送ったそうな。 ばあちゃんが男の人と手を繋いだのがあの時が初めてだったらしい(残念ながらその男の子は後の俺のじいちゃんにはならなかった)
ついでに、じいちゃんも似たような経験をしたらしい。 ただし、じいちゃんは戦車に向かって「乗せてくれ〜!!」って追いかけたらしいぞ。 まぁ、乗せてもらえなかったんだけども。 んで、その後じいちゃんの親父にめっちゃ怒られたらしい。
おお、たしか米軍の房総半島上陸に備えて300両ほどの日本軍の大戦車部隊が 新潟から千葉に移動したという話があるくらいだからな
ゴミ性能のチハたんが移動したからって何に役にたつの? 300台の棺桶ができるだけだろ・・・8/15にギブアップしてよかったじゃないか。
チハたんだって対歩兵戦闘くらいはこなせるよ! 地面に半分埋めてトーチカの代わりにもなるよ! 自走砲よりツヨイヨ!
チハたん バンジャーイ!
─┬=====┬─┬─┬ ヽ┴-----┴ 、/_ / ==||:|: 乃 :|: 「r-┴──o ____________ |:|:__ :|: ||--┬┘ |ミ///ロ-D/ ~~|ミ|丘百~((==___ . └┼-┴─┴───┴──┐~~'''''-ゝ-┤ ((◎)~~~O~~~~~O~~(◎))三)──)三) ゝ(◎)(◎∩◎)(◎)(∩)ノ三ノ──ノ三ノ // | | ミ //Λ_Λ | | | |( ´Д`)// ばんじゃーい! \ | | lヽ,,lヽ ミ | ( ) やめて | と、 ゙i 落としたら装甲へこんじゃう
チハたんハァハァ(;´Д`)
8月だっつーのに、ドジっ娘扱いして! 枕元に化けて出るぞ!
>>513 重機関銃で壁面撃ち抜かれるトーチカ。。。
写真好きのじいちゃん入院した。 頼まれて古いアルバムを探し出して届けることに。 陸軍だったとは聞いていた。 アルバムをぱらぱらとめくってみたら、 旧逓信省飛行学校〜陸軍〜進駐軍の航空機など 撮影日、機体名、被写体の氏名、注釈まで付いた数百枚 最後は米軍輸送機前での幼少の親父の姿だった。
いまのうちに聞ける思い出をなるべく聞いといてやれ。
テス
522 :
名無し三等兵 :2010/08/09(月) 12:30:23 ID:GcUCRvrb
海軍だな。 生まれが大正13年だから、二十歳ぐらいか。 浜松で塹壕(タコツボかも)掘ってるうちに戦争が終わったそうだ。 大叔母が訪ねていったら、顔が腫れ上がってて驚いたそうだ。
>>518 じいさんの兄が戦車の通信兵だったらしいけど
「弾丸が戦車内に飛び込むと車内を跳ね回って大変だった」とか聞いた記憶がある。
あとは いたずらで金属の定規を送信キーにはさんでビヨーンと弾いてものすごい勢いでト連送したら
「速過ぎて意味不明。再送信せよ」と返事が来たとかw
526 :
525 :2010/08/09(月) 20:39:29 ID:???
申し訳ありません 写真が逆になっていました
>>518 そんなチハたんでも一応あればマシじゃないかなぁ
少なくとも軽機1丁と小銃3名に1丁、他はご想像にお任せします…な装備で
コチラからは絶対に仕掛けず(中略 でも敵は止めてね
的なハードル高すぎる命令も少しは楽に…心理的な意味で…
俺が生まれる前に死んだので会ったことはないんだが、 父方の祖父が海軍でエンジニアしてて、一度も戦地に行かず無事かえって来た。 生前の口癖が「一生懸命勉強しろ、戦争になったら学の無い人間や いくらでも代わりのいる人間から戦地につれていかれるぞ」 だったそうな。
曽祖父が89でまだ健在。大東亜戦争ではシナ戦線で戦った。 んで試しに小林よしのりの本読ませたら 「バカバカしいヨタ話」だと鼻で笑ってた 水木しげるの戦争物よませたらボロボロ泣いた んで、班長殿から毎日殴られて云々と愚痴ってたw
530 :
名無し三等兵 :2010/08/09(月) 23:21:53 ID:eu5q0ZpS
大正6年生まれのうちの母方の爺ちゃんもまだまだ元気だ フィリピンのミンダナオにいたけど、山に篭ってた為に情報が曖昧で部隊が完全に降伏したのが10月末 お盆に帰省するとまた長い戦争話を聞かされるのが欝だw
>>530 気合いを入れて拝聴しろ。
本にまとめて家宝にしろ。
>>530 それ、一辺録音しとけんで暇な時に書き起こししろ。
長い間に記憶が書き換わっていたとしても生で聞ける貴重な資料だぞ。
>>525 写真が粗すぎて読みづらいけど・・・
対潜直衛後帰艦揚収中飛行機翼○を海中に没・・・? ○員魚取りに行く 機雷爆発させて獲る
・・・船のような陸のような???
>>528 うわ、説得力があるというか何というか・・・
文字通りに必死の覚悟で勉強せいという話ですな。
>>525 オレも頑張ってみた。
>>533 船(巡洋艦)かなぁ。
第二警戒隊対潜直衛
■■■■海面方探敵攻撃
■■■■敵機現れたる状報あり
対潜直衛終了後帰艦揚収
中 飛行機■■を海中に没す
午後
■の■■第二警戒隊の対潜
直衛に出発 揚収中状況不良
のため■■■■■■失敗■■
午前
第二警戒隊の対潜直衛
観測機二機(?)〇七〇〇発艦
午後
一二〇〇第二警戒隊の対潜直衛
この度(?)の■■異状な志(し)
一三〇〇より■員 魚取りに
行く 機雷爆発させて獲る
536 :
530 :2010/08/10(火) 05:28:28 ID:???
>>531-532 一応爺ちゃんも戦記を書いて戦争体験を後世に残そうとしてるみたいだから、帰省した時読んでみるよ
うちのじい様は徴兵されるも丙種合格(身長145cmだったため) 兵役を逃れ中島で戦闘機造っていたそうだ。 百式呑龍を造っていたらしいが 終戦間際は物資が不足したために 木材で造っていたそうな 最終的には資料すら消されたが 御年84だが先も長くなさそうなので 質問ある方は早めにどうぞ
>>535 対潜水艦行動なら駆逐艦ぽいけど
観測機は巡洋艦以上しか持ってないのかな。
540 :
名無し三等兵 :2010/08/11(水) 20:10:24 ID:hjBdoTvG
>>530 おまえの糞爺どもは原住民を殺して喰ってたんだろな
ジャップはさっさと死ねよ
541 :
まし72非戦主義 :2010/08/11(水) 20:48:14 ID:VyWDDodn
>>540 そうなのか。
ならばその時日本人だった半島人も一緒にさっさと死なないと駄目ってことだな。
>>539 護衛空母みたいなのも一応いなかったっけ?
横須賀の海軍工廠で働いていたらしい ある日建物の二階から空を眺めていたら艦載機が空襲にきたそうで 建物のすぐ横を艦載機が低空飛行したときにパイロットの顔が見えたそうな で建物が機銃掃射されたらしく屋根から弾が貫通して床も貫通したらしい で爺さんあわてて逃げて生還。 戦後は何故か鉄くずよりも皆布団を持ち帰ったんだと Q工廠で何をしていたの? A飛行機の風洞実験とか。 Q研究していたの? A俺は作る方だった。 Q何を作っていたの? A俺は零戦以外ワカラン Q戦後鉄くず持ち帰れば売れたんじゃない? A邪魔になるし誰が買い取るんだ ちなみに爺さん戦後は国鉄に勤務。今も健在。 後指が一本無い。本人はウサギに食われたと言っていたが・・・・。
>>539 一応空母もいた。
大鷹、沖鷹、神鷹、海鷹、雲鷹辺りの小型改造空母
>>544 中島飛行機の工場では賃金の代わりに部品バラして配ったらしいぜ。
ソースはじい様
>>545 空母には観測機はいないし、搭載機を「揚収」しないだろ。
そういえば祖父が生前、戦時中の大陸にて九二式重機関銃を扱ったって話とかしてくれたな。 『九二式重機は目方が60kgあったんだぞ』 『俺らが突撃すると、シナ兵は戦わないで慌てて逃げ出す』って もっと色んな事を詳しく聞いておけばよかった…
NHKの証言シリーズ見てると、90歳越えてても みなさん凄いはっきりしてて、元気だね。 過酷な戦争戦い抜いてきたからなのか、単に元気な人選んで聞いてるだけなのか。
目方て何すか?
>>550 体重、重量とかそんな意味じゃないかな〜 なんとなく
ところでうちの爺さん
ようやく戦後保障(現金)もらえるのに拒否するって言ってる・・
なんかこだわりがあるんかなw
流れぶった切ってスミマセン。戦争体験1。 私の祖父は現在83歳です。 建築学を学ぶ大学生だったため、徴兵は免除され、勉学に励んでいたようです。 ある日、空襲で大学の校舎が焼けました。授業はあるのか、教授は無事か…そんな騒動の中、祖父は友人5人と「休暇だ、奈良に旅行に行こうじゃないか」と夜行列車で奈良へ行ったそうです。 着いた先で山登りをしていると、空軍の山田兵曹と名乗る男が5人を見つけ、 「貴様ら学生は何だ!たるんどる!今から気合を入れる」と全員にビンタ! その後山をランニングさせられた後、強制的に空軍基地でアルバイトさせられることになりました。 白米がお椀に一杯でてきて、タバコも吸えて、ああ軍人っていいなあと祖父は思ったそうです。 クリスチャンだったので天皇は神とは思っていなかったようですが…。 空軍では、基地の設計を手伝い、また山田兵曹が字が書けなかったそうなので妻への手紙を代筆し、神風特攻隊として選ばれた丁種(一番下位、主に聾唖者)を大空へ見送り… そうして8月15日、基地で終戦の知らせを聞いた祖父は、ゴミを回収するトラックの荷台に隠れて抜け出し、そのまま貨物列車に乗って関東に帰ってきたそうです。 その後、米軍(GHQ)が日本に入ってくるようになると、大学で学んだ英語力を生かし、米軍基地でバイトをしていたそうです。 ちゃっかりしてますね! 大学で教える設計や数学のレベルの高さにアメリカ人は驚いたとか。 そのまま外資系に就職し、転職してキャリアアップした祖父は、昭和30年代にマイホーム・マイカー・固定電話・ペットの犬(スピッツ)をゲットし、一大財産を築いた…はずなのですが あれ? お、お金は・・・? なぜ競馬新聞が机の上に・・・? とまあ、そんな話です。長文失礼しました。
>空軍では、基地の設計を手伝い、また山田兵曹が字が書けなかったそうなので妻への手紙を代筆し、神風特攻隊として選ばれた丁種(一番下位、主に聾唖者)を大空へ見送り… ウソを平然とつく身内を恥に思った方がいい
祖父その2と、その兄の戦争体験です。 祖父(存命なら83)は大学生だった為徴兵免除で勤労奉仕へ。農作業をしていたそうです。 祖父の兄(86)は一旦は甲種で徴兵されたものの、一週間で除名・除隊! 母親が「うちの子を返してください」と手紙を書いて連れ戻しに行ったそうです。強すぎる。初代モンスターペアレントか?? その後新潟県へ勤労奉仕へ。山間の小さな家でホームステイし、玉音放送もそこで聞いたそうです。 「なんだかガーピー言って全然何を言ってるか分からなかった」そうですが、どうやら終戦らしい。 「おお!戦争が終わった!って嬉しかったね〜」 そこで祖父をどうやったか呼び寄せて、現在の赤倉観光ホテルで兄弟揃って戦争が終わった記念の祝杯をあげたそう。それが8月22日。 なんだか教科書的なイメージだと、国民全員が「天皇は神!」と崇め、終戦したら涙涙…と思い込んでいましたが、そうでもないようですね。 特に祖父やその兄の世代は、天皇を崇拝することに懐疑的だったのかな、と思います。 生まれたときから日本は貧しく、ひもじく、また日本が勝ちそうだとか云う報道も子供心によく分からなかったらしく、う〜ん。我が家は神道なんですけどね。
>>554 そのくだりは嘘なのですかね?
私自身、細かい戦争の知識は分かりませんから伝え聞いたことをそのまま書かせていただきました。
ご了承ください。
>>556 >空軍では、基地の設計を手伝い、
旧日本軍は陸軍・海軍で各々航空隊を持ち、空軍は存在しない。
まぁこれだけならわかりやすく表現したといえなくもないが
>また山田兵曹が字が書けなかったそうなので妻への手紙を代筆し、
士ならいざ知らず、曹で字が書けない=読めないのは作戦伝達上重大な障害となる。
あり得ない。
>神風特攻隊として選ばれた丁種(一番下位、主に聾唖者)を大空へ見送り…
航空機の操縦は「特殊技能」だ。
乙種ですら地上特攻に使われた例はあっても、航空特攻に使われた事実はない。
さらにその下、訓練の意思伝達で苦労する聾唖者は航空兵になれない。
特攻を愚弄している。
孫を喜ばせようと思ってか、ホラにホラを重ねて脚色した挙げ句、
どうしようもないデタラメの羅列と化してる。
他のエピソードが信用に価すると思うかね。
テス
>>557 ここに書き込んでる以上おかしいところがあれば突っ込むのは当然だが
もう少し落ち着いて書いてみたらどうだろうか
どうやら書き込みの方は純粋に聞いたことをそのまま書いただけで時々
現れるむやみに当時を悪しきざまに書く連中とは違うようだが
夏の勢いに当てられてるなかれ
>>559 × 悪しきざま
○ 悪しざま
× 夏の勢いに当てられてるなかれ
○ 夏の勢いに当てられるなかれ
もう少し落ち着いて書いてみたらどうだろうか
>>296 学徒出陣で近衛師団って初めて聞いた。
その話はほんとなの?
>>561 そもそも大学を出たあとなら「学徒出陣」にならないと思うが。
うちの親父は勤労動員で、本人曰く25mm対空機関砲を作っていたそうな 軍事工場では訳も分からぬような理由でぶん殴られるし 軍事工場への行き帰りにはグラマンに機銃掃射されていたそうだ 昭和20年8月15日の朝に工場へ行くと「本日、ラジオにて重大な放送がある」 と言われてから、お昼の玉音放送を聴いたそうだ 玉音放送の意味は良く分からなかったらしいが、とにかく戦争が終わった事だけは何となく理解出来たそうで その時に思ったことは「あーっ、これでやっとぶっ飛ばされずにすむ・・・。」だったそうだ。
>そもそも大学を出たあとなら「学徒出陣」にならないと思うが。 卒業を繰り上げて出陣という事例は有ったようだよ。
565 :
名無し三等兵 :2010/08/13(金) 20:23:05 ID:HttpbdMl
学徒出陣のような緊急事態に追加したような軍勢の中から 近衛師団に入れるなんてことあったんだろうか
566 :
名無し三等兵 :2010/08/13(金) 20:29:32 ID:NipNhpMX
ないない
大卒で近衛師団自体、平時でもあまり聞かないよね。 だから近衛師団って田舎の農民ばかりなんだろうと思ってた。 大卒だと基本的に将校なわけで、近衛師団の将校に そういう中途半端な予備将校みたいなのを使うわけないしね。
近衛で教育してから員数師団ならあるがね。山本七平とか。
>>548 まあ、そういうものだよね。実際に聞いていても、全然分からないから憶えれらなかったということもあるだろうし。
>>554 故意のウソではない、単なる何かの間違いでしょ。
少し足りないせいでそういう可能性を思い当たらないのだろうけど、もうちょっと頭を使わないと、
いつまで経っても駄目だぞ?
ボケ老人とか嘘つき老人もいるから要注意。 他人のやった良いことを自分のやったことのように語る老人もいる。
>>572 これだけのデタラメを「単なる何かの間違い」と思えるなら
自分の足りなさを自覚したほうがいい。
なんでそんなに偉そうなの?w なんかムカつくw
専門板に書き込んでおいて 明らかな誤りを指摘されて逆ギレっすかw
578 :
名無し三等兵 :2010/08/14(土) 18:16:58 ID:6aBC2RRo
ちょっとホラが多すぎる話だね。 うちのオヤジに見せた。(昭和3年生れ) 年をとって、わけが解らなくなったんだろうと首を振っていたよ。
ごめん。アゲちゃった。
580 :
名無し三等兵 :2010/08/14(土) 21:00:58 ID:6da5JIeO
まてまて554。 真偽はともかくとして大変興味深い話だ。 一旦航空兵として活躍した後に空襲などで耳が不自由になり、後方配置していた 者が、再度特攻配置になったかもしれないし。 なにしろ軍隊の世界は広すぎる いろいろあってもおかしくない。
581 :
晒しあげ :2010/08/14(土) 21:09:02 ID:???
>真偽はともかくとして なんですかこの愚鈍は
「興味深い」話でさえあれば、ウソでもデタラメでもいいそうなw
>>553 のあからさまにおかしい点を指摘されてるだけなのに
指摘を罵倒したり元ネタに書かれてもいないことをでっちあげたり
これほど必死になって擁護するのかさっぱりわからん
スレチだったらすまん。 おじいちゃんは私が小学生の頃に他界したので、あまり詳しく聞けなかった上に、 小学生でも分かるような説明で話してくれたので詳細が曖昧。 このスレに挙がっているような話と比べ物にならないんだけど。 おじいちゃんのお兄さんは飛行気りになりたくて志願したらしい。 でも入営してすぐに病気になってしまい「俺は敵を見るまで死なんぞ!」 って言いながら亡くなったらしい。 お墓に「陸軍○○病院にて死亡」的な事が書いてあった。 その○○の部分がどうしても思い出せなく、色々検索しても分からなかった。 ちなみに愛知県なんだけど。 おじいちゃんのお兄さんには会ったこと無いんだけど、どうしても気になる。
>>584 陸軍病院で死亡なら、厚生省に記録が残っていると思われ。
問い合わせてみたら?
586 :
名無し三等兵 :2010/08/14(土) 21:34:45 ID:TgoZZCfS
このスレいろんなとこから引用してんのな
>>548 なんて俺が全く違うスレでたまたま書き込んだのだぜ
まぁシナ兵の件以外はそのままだからいいけどさ
ちゃんと後世に伝えておいてよ
近衛師団とか航空兵とかエリートだなぁ… ウチの爺さんは東北の寒村出身でしかも三男なもんだから 開拓団で一旗上げようと満州へ渡ったんだが、現地で徴兵され訓練を受け 「お前らは今すぐにでも第一線に耐えられる(ry」ってので まだ若い爺様は張り切って向かったら、土木作業(穴掘りとかだったらしい) ちなみに、このときの場所は近いデカイ街だとコンシュンってとの近くだったようだ 話がズレて、このときにエライ気が合った人がいたんだが 爺様が別の部隊になった為に音信不通で死んだと思っていたら 数十年後に山菜取りに行った時に、山であった人と話し込んでいるうちに 同じ満州からシベリア抑留の経験者だったようで、その話の中で ヒョッコリ○○(気が合った人)の名前を出したら、 「なえだ、ほれ○○(街の名前)の○○のごとだんねが?」ってので んなバカなってので綴ってもらったら確かにその名前 しかも爺様の生まれた村と比較的出身が近くで 「んだら、行ってみだらいんねが」ってので向かったら お互いに顔だけで、おお、あんどぎの!!って分かったようだ 他にも爺さん結構盛り上がったり沈んだりして話してくれたんだが 華々しい経歴とか戦果も無い上に、あんま纏め切れる力が無いので略orz
>>585 ありがとう。
その手があったか!
しかし親に隠れて個人的に調べてるのでお役人様に問い合わせるってちょっと怖いw
もしお墓行く機会があったらちゃんと見てみます。
(今家族が分裂してるのでお墓にいけないので)
>>585 陸軍の話を厚労省に振られても知らんだろ。
本籍地の都道府県だよ。
>>589 いや、旧軍の戦病死者も戦没者として厚労省で掌握している。
陸軍病院の記録は厚労省に移管されてるはずだから、
氏名と病院所在地がわかればおそらく追跡できる。
逆に本籍のほうには死亡した事実しか残されない。
死亡した病院名まで記録されているとは限らない。
あ、病院所在地というのは、愛知県というだけでも追えるはずって意味ね。 病院数は限られてるから。
592 :
名無し三等兵 :2010/08/14(土) 22:06:16 ID:TgoZZCfS
うちの死んだ爺さんも東北の寒村出身でしかも尋常小学校卒なもんだから難しい読み書きには苦労したらしい けど持ち前の体力と根性と器用さそして世渡りの上手さで軍曹まで昇進した 満州行ったりハルビン(爺さんの発音は必ずハルピン)に行ったそうだ
>>590 だから、陸軍について戦没者の情報を含む軍歴を管理してるのは本籍地の都道府県なのよ。
海軍なら厚労省でいいんだけど。
>>593 ああそういうことか。了解。
すまんかった。
595 :
525 :2010/08/14(土) 23:14:53 ID:???
特設水上機母艦です Gちゃんは、二座水偵の操縦員、「ゲタばき野郎」でした あの手帳(海軍日記)、ご覧になりたい方いらっしゃいますか? シリーズ化してみようかなぁ
ぜひお願いします
厨の妄想スレ
病院勤めなんだけど、担当の患者さんが17歳時、長崎の造船所で被爆されたとのこと。 シンヨウ?の燃料タンクに生ゴムをはる工程に従事されていたらしい。 なんでも防弾用だったとか。何重かにはるだかぬるだかしていたこと、ゴムは黒かったこと、ゴムには繊維が入っていて伸びすぎないように?なっていたとのこと。 被爆時敷地が影になっていたおかげで全く外傷がなかったこと。食料は大豆おにぎりばかりだったことなど話された。 素人なのでこれくらいですまん。ところでシンヨウとはなんぞ?
>>598 特攻用モーターボート「震洋」だな。
たしかに三菱長崎造船所でも造っていた。
防弾装備していたとは貴重な情報だ。
震洋のレプリカが遊就館に展示されているよ
>>592 > 爺さんの発音は必ずハルピン
ってば、満州から引き上げてきたという大叔父とかも、そういう風に言ってたような気がする。
おめえら二人ともしつけーぞ。チョウセンジンか。
妙高にマリアナ沖海戦〜シンガポールで終戦迎えるまで乗艦。 一番怖いのは潜水艦だと常々言ってるよ。 魚雷喰らって艦尾が吹っ飛んだ時にはもう駄目だと思ったらしい。 大和を見たときにはデカいだけで不細工な船だと感じたといってたよ。 戦艦だと長門型がやっぱり馴染み深くて好きみたいだった。 もし、この中に乗組員に配られた?[軍艦妙後記]っていう本を持ってる方がいたら シンガポールで泥酔して、上官の足に戻してしまった残念な水兵の描写があるので 気が向いたら調べてみてください。 祖父です・・・ 昨日久々に会ってきたんだが、 昔あげた1/700の妙高のプラモを大事に飾ってくれていた。 未だに世界一美しい船は妙高だと言って譲らない・・・鳥海だろ常考・・・ 甲子園見ながらどっちが綺麗(かっこいい)か1時間近く話してしまった。 ちなみに祖父の兄達は、阿武隈・雲龍に乗っていたらしい。 もう身体がだいぶ弱ってるみたいだったけど、 良くなったら大和ミュージアムに連れて行く予定。
幹部候補生として学校に残れた爺さんは本当に運が良かった(実力とも言う) もし成績が悪かったら硫黄島に送られて玉砕して 戦死者リストに名前すら載らなかった若者達の一人になってたよ
608 :
名無し三等兵 :2010/08/16(月) 23:56:12 ID:IEVv8JJ6
うちのひい爺ちゃんなんて散髪屋だぜ? 行きたくもない戦に召集されて、妻子残してフィリピンで死んだよ
うちのお爺ちゃんは、満州に行ったらしいけど、一言も話してくれない。
私は貝になりたい、も散髪屋だったな。
611 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 00:28:43 ID:iJXqqN2L
昭和18年に予科練に入った爺ちゃんは、ご多分に漏れず先輩の過酷な集団イジメにあったそうだ。 「お前らみんな、そこらの木に抱きついて蝉になれー」って言われて、ミーンミーンって言いながら木に飛びつくんだってさ。 木から落ちたらフルボッコ。 こんなの、パイロットになる訓練と、何の関係があるんだか。 そんな爺ちゃんは、飛行機が足りなくて、特攻に行かなくて済んだ。 子どもたちには、全く戦争について興味を持ってもらえないまま死んだ。
612 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 04:27:32 ID:uGkF8N9T
>幹部候補生として学校に残れた爺さん 意味が分からない。幹部候補生って陸軍甲種幹部候補生って意味? 普通に硫黄島に皆行ってるじゃん。 それとも若すぎて幹部候補生の教育中に終戦てこと?
613 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 09:18:50 ID:WqKwTKt8
満州で軍用機の整備兵やっていたらしい。 ソ連の捕虜になったけど仲間と一緒に移送中に列車から飛び降りて逃げたと。
>613 列車から飛び降りて逃げた後の話のほうが面白そうだな。 どう大陸を珍道中、海を渡って命からがら日本へたどり着いたか。 次回訊いといて。
615 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 10:54:05 ID:Hf3WPzuj
田舎の爺ちゃんから、トラック島から氷川丸で復員した話は生前はよく聞いた。
616 :
525 :2010/08/17(火) 11:35:22 ID:???
95水偵で訓練、訓練、また訓練…
うちのじーさんは飛龍乗り。ミドウェイからの帰還兵 対空砲を海中に撃ち込んで魚雷に対処した話しはへぇと思った
>>140 それが事実ならばw飛行第62戦隊は☆有名な部隊なので☆☆
沖縄方面に出撃したのが何月何日か?wお答え願いたい?w
w
Gちゃんは戦艦榛名に乗ってて、フィリピンかどっかで米軍の船を見つけて追い掛けてたら、大和に「おいコラ勝手に前に出るんじゃねーよタコ」みたいな事を言われたらしい。未だにGちゃんは「大和に乗り込んどった連中の所為でうんたらかんたら」言ってるけどホントかな。
622 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 18:18:09 ID:qumj15mY
満州やハルピンに行ったのを語ってくれた爺さんでもうちのおふくろ(爺さんの娘)には戦果は語らなかったそうだ 敵を撃ったか?とか殺したか?等の問いには答えてくれなかったそうだ 俺もその手のことは問わなかったけど たぶん・・・語りたくないことがあったんだと思う
>>615 氷川丸って山下公園にあるあの船ですか?夜になると電飾されてる船?
そんな歴史があったなんて知りませんでした…
624 :
名無し三等兵 :2010/08/17(火) 20:01:04 ID:K2vGH7Rs
>>584 の話は県以外はうちところとほとんど同じだ。
まさか親戚かと思ったけど親戚はごく少ない。
書いたのはいったい誰なんだ?
それともやっぱり赤の他人の偶然の一致?
>>621 レイテ海戦のサマール沖か・・・? >空母部隊追撃戦
榛名はバトルオーダーに入ってたっけか。
サマール沖海戦で米軍機が撮影した主砲最大仰角で米国艦船に肉薄する榛名の写真を見た事がある。その事じゃないかな。
>>622 人を殺したこと自体が、「語りたくないこと」だろ…。
敵だから殺して良いなんて、戦争の時だけだぜ?まして平時に自慢できるようなことじゃねぇ。
628 :
名無し三等兵 :2010/08/18(水) 08:33:59 ID:VzTG9t/k
ガキの頃聞いた祖父の話だと、妖怪達も日本の為に戦ってくれたそうだw 天狗様が米軍機を引き付けてくれて、日本の飛行機が帰還できた話とか、当時はワクワクしながら聞いたなw
学生だったけど、兵士として駆り出され、配属が決まるまで、基地で待機中に戦争終わって、家に帰ったと言ってた。 笑い話のようだが、末期に駆り出さたってことは神風系の部隊に配属されたかもしれんってことだったのだろうか?
さて? そうとも限らんだろ。 うちの爺さまも三度目の応集んときは基地待機だけで戦地に行く前に終戦だったらしいし。
ネトウヨの創作話ってほんと気持ち悪い
>>627 三十数年前、俺の消防の時のクラスメートはなんかの拍子に、爺ちゃんは戦争で4人殺したって言ってと話してたな。
幼心に非常時とは言え、そんな事は自慢気に子供に聞かす話じゃないだろと思ったよ。
今ならどこの所属で何処に送られてどんな戦闘に参加して武勲挙げたのかって聞くんだろうな・・・
>>622 最終位置がハルビンならば、ウチの爺様と面識が有るかもね
差し支えなければ一部伏せてでも良いので通称番号や
転属の有無等々を…流石にダメかなスマソ
>>538 捏造した事実無根のレスをw丁稚上げるw
キモブサ童貞乙w
>キモブサ童貞乙w 久々の御降臨ですなぁ
明らかに捏造や創作されたと分かる話を書き込まれると、突っ込み入れたくなる気持ちはよく分かるぜ
641 :
名無し三等兵 :2010/08/19(木) 18:51:33 ID:qGcQ3Ti6
>>633 ハルピンが最終かはわからないです
爺さんは13年前に79歳で亡くなったので
日本は戦に負けたんだからこんなもの持ってても意味ないみたいなこと言って勲章や軍隊時の物、免許など全て大陸に捨ててきたそうです
沖縄って反日がすごいね もう行きたくない
>>634 ついアツくなって書いてしまった
通称番号や他詳細を、はマズすぎたなスマン
>>641 鬼籍に入られていましたか…
大陸で、という事は最終位置は恐らくハルビンではない
ハルビン(のみならず満州)で破棄(武装解除ではない)したのなら
憲兵であった事が第一に考えられるが、
コレについては余り書きたくない為、申し訳ないが略させて頂く
最後に、634氏宛でも書いたが、633での書き込みは軽率だった、本当に申し訳ない
そらー島津氏に征服されたのに始まって大戦時は本土防衛の名目で捨て石にされた挙げ句に米さんに占領され、 返還後も安全保障の名の下に基地を押しつけられて今に到ってるんだから当然っちゃ当然だろ。 俺も沖縄に転勤した当初は「ないちゃー(内地の人、つまりよそ者)」呼ばわりされたこともあったけど、親しくなるにつれて親戚みたいに扱ってくれたよ。 個人レベルではいい人達だと思う。
あんな土人どもは中国にくれてやればいい
>>644 ないちゃー」なら「内地の人」ぐらいかな。
おれなんか「ヤマトンチュー」って呼ばれたぜw
>>639-640 恐れ入りますm(__)m
ところで、8月16日に靖国神社へ参拝しました。平日でしたが若者が多数おり、私も二十歳前後のお姉さんと、A級戦犯について語りましたな。
>>548 そういえば子供の頃おじいちゃんの古い写真見せてもらったときに軽機を構えている写真があった。
今から思えば修理品か何かの動作試験だったんだろうなぁ。
たぶん捨てられてる。
>>646 ヤマトンチュで「本土の人」ウチナンチュで「沖縄の人」
特に蔑称だったり尊称だったりはしないよ
北海道でも「本土から来たか!」と言われるな。
道民だけど「本土」とは言わんな。「内地」って言うけど。
>>604 若いのにボケ老人みたいなセリフと言われて悔しくて悔しくて涙目の情けない奴 乙
内地とか本土とかなんなの。こっちはそんなつもりないのに
つい、最近まで北海道開発庁、沖縄開発庁があって、かつて外地にやっていたようなインフラの整備等をしていたからな。 国土交通省の発足で内局に編入されて、今だにその手の事業は継続してるらしいが・・・
うちのじいちゃんは三井商船だったかの船乗りで船の上で野球とかボクシングしてたと言ってたな。 戦争中は海上で機銃掃射にあったらしく、甲板でスコップ抱えて隠れたと話していた あとは横浜?だったかで船停めてたら敵の戦闘機が来た話もしてたような じいちゃんの弟は中国人を銃剣でぶち殺した話と、船が撃沈されてボートか泳ぎでどっかの島に流れ着いて助かった話をしていた(宮古島だったかな?) 助かった自分は死んだ仲間に申し訳ないと号泣して、じいちゃんが弟を慰めてたのを覚えてる。今から15年前くらいに聞いた話だから記憶曖昧 他の戦争話とか外国の話はじいちゃんが話し出すと 「わかいもんに言うもんでねぇ!!」 ってばあちゃんキレるから聞けなかったわw 弟もじいちゃんも死んじまったけどな
帰省した時に、大陸で戦死したひい爺ちゃんの写真見せてもらったけど、男前過ぎてワロタw 寒いとこにいたからなのか、モコモコして凄い暖かそうな軍服と、モコモコフサフサがついた帽子被ってたよ 片手に銃持ってたから、兵舎内で撮ったんだと思うけど、 下っ端の兵でも写真て結構自由に撮れたんだね
659 :
名無し三等兵 :2010/08/24(火) 00:22:54 ID:YWbMHgPC
暇だったので検索してみたが… 陸軍特別攻撃隊振武隊 天翔隊 XXXXXX隊長以下6名 滞在期間:昭和20月7月 出撃出来ず終戦 *うち1名は8月13日に飛行訓練中事故により戦死。 は?隊長だったの???この人まだ存命ですよ。同姓同名かも… 陸軍にいて中国にも行って来たと聞いたけど…
660 :
名無し三等兵 :2010/08/24(火) 00:38:30 ID:tdoDbuNZ
数年前に亡くなった父は昭和20年時点でほとんど国営の軍需会社の 工場の現場社員だった。17年に兵役解除され復職していた。 最近年金機構から送られてきた書類に(母が遺族年金受給中)父のその 年の標準月額が明記されてあり10千円とあった。 ちょっと調べると当時の大卒銀行員の初任給が70円位とあり 約140倍の給与をもらっていたことになる。 当時28歳で高等小学校卒の父が何故高給になっていたのだろう。
>>660 「標準報酬月額」のほうが年金支給の都合上、なんらかの換算がされた結果の額なのかもしれないし、
1945年の大卒初任給なんて、まともな統計があるとも思えないけど。
>>660 物価や平均賃金の上昇に伴う再評価率とかなんかいろいろあるらしい
そうでないと終戦前後といかなくても例えば狂乱物価の前に納めた年金は
雀の涙になるとか
大正生まれの母方の祖父 昭和14年3月 高崎歩兵八十五連隊に入隊、満州へ送られる 祖父の所属していた部隊の任務は国境警備で、ソ連越境紛争によるラクダ山事変?に借り出される 昭和17年6月 近衛第一連隊に転属。その後除隊 昭和18年11月 再招集がかかり東部第66連隊に入隊後、独立混成第一連隊に転属 昭和18年12月 南方派遣軍としてカビエンに上陸。横須賀からトラックまでは戦艦「大和」に便乗 昭和20年11月 ラバウルの捕虜収容所に移動 昭和21年2月 復員。復員船となった空母「葛城」に乗って内地に帰ってきたらしい 最終階級は伍長で、勲八等瑞宝章と支那事変従軍記章を授章する 徴兵前は砂利や石炭を運ぶ運送会社でトラックの運転をしていたため、戦地では輜重兵として補給を担当 一度も敵と戦ったことがないと言っていた そのせいか知らんが、戦時中の従軍体験を聞くと8割強は現地の食べ物の話だった あと「ラバウル小唄」をよく歌っていた
高崎は十五連隊では?
>>660 厚生年金保険では年金額の計算に際して、昭和20年代末以前の期間の
標準報酬月額は(年金額の計算の)基礎とはしないと規定されております。
砕けた表現かつ極端な例を用いますと、月給10銭でも月給10万円でも
一律に「1万円だった」ものとしてみなされます。
【蛇足】杉並区の機構本部から送付された「厚生年金の加入記録のお知らせ」
のことだと思いますが、もしかして、上述の説明が全く記載されて無かったとか・・・(汗
666 :
663 :2010/08/26(木) 01:15:44 ID:???
>>664 母方の実家に保存してある祖父の軍歴簿?みたいなものには「高崎歩兵八十五連隊に入隊」って書いてあった
もしかして軍歴簿の方が間違ってるのかな?
>>665 質問した者ですが、そのような説明は一切見当たりません。
しかし、「一万円だった」ものとみなすって随分乱暴ですね。
確かに17年の6月から20年の8月まで一律10千円になってます
一万円にした根拠を激しく知りたい。一万というのは現在での年金支給計算に
使用されるてるわけです。物価の上昇は仕方ないにしてもこれでは換算が精密に
されていないことになります。20年代の限らず30年代〜現在まで全て支給の
計算は洗い直しを都度に実行して計算をやるのが筋ってもんです。
これ問題にしてやろうかな。
>>667 昭和30年代分以降についても、当時の月給に再評価率をかけて、現在の価値に直した上で計算されてます。
とりあえず「年金 再評価率」でぐぐるといろいろ出てくる。
窓口にカチ込むのは調べてからでも遅くはあるまい。
南方に出征してたじいちゃんに聞いてみた 「おじいちゃん従軍慰安婦て本当におったんか?」 「そんな言葉は知らんけどワシらはP屋って言うてたな。」 「P屋て何?」 「まあ業者と一緒に来てる職業売春婦やな。日本人も朝鮮の人もおったわ。」 「そんでその人らに酷い事してたんか?」 「そんな事するかいな!ワシら嫌われたら相手にして貰われへんねんで。脱いだ靴もすぐ盗られたし。」 「それから?」 「ワシの順番来てズボンもサルマタも脱いでさあこれから言う時にやな…」 「何かもうええわおじいちゃん…」
>>667 なんか勘違いしているようなのでちょっと。
昔の標準報酬月額がみなし1万円なのは「救済措置」なのね。
なんせ、終戦時の陸海軍大将が”年”俸で約6600円。
厚生年金の標準報酬月額に直すと500円になる訳で。
(軍人は最短恩給年限を満たしていれば恩給対象となるので
厚生年金の老齢給付の対象ではありませんが、「高給取り」の
一例として提示しました。)
で、みなしで一万円となった標準報酬月額ですが、年金額の
計算の基礎にはなっておりません。つまり加入月数のみが
考慮されます。
結論としましては、「みなし一万円」が及ぼす影響は、
受給者世代の内の圧倒的多数の方には有利に働き、
同世代の超高給取りと現役世代全般には不利益な
制度といえます。
※付記
ちょっと前のレスであげられていた「再評価率」は全く関係ありません。
再評価の率がどうこうではなく、そもそも考慮の対象外なものですから。
年俸6600円で高給取りか・・・ 知識として知ってはいてもやっぱ具体的な数字で見るとすげえな
>>671 しかし、現代のように、アメリカ人の目で見ると「罰金」にしか見えない強烈な累進課税や
相続税がないから、手取りが凄いし、資産家は資産の桁が違ったそうだ。
その分で、ある程度以上の地位なら必ず人を雇う=給料を払う=とか、部下に食事を
奢ってやるとか、自前でやるのが当たり前だったとのこと。
家政婦を頼むんじゃなくて女中を置いてるんだもんな。
>>672 戦前の花街を持たせていたのもそういう手合いだしな
あとは庭に凝ったり屋敷に凝ったり書生を飼ったり
東京の大手庭園の元をたどるとたいがいが岩崎家
>>663 余計なお世話かもしれんし
当方の記憶違いなら申し訳無いのだが
経歴、所属が正しいならば階級まで出すと特定されかねんぞ
巡洋艦に乗って敵の商船を拿捕しようとしたら 反撃してきたんで砲撃で撃沈したあと生き残りを 救助して捕虜にしたけど 収容所が満杯だったんで商船の捕虜を全部処刑 ソ連軍より酷くね?
婆さんの体験なら知ってるが…
ばあちゃんがたの体験もかもーんだよ
>>680 うちの婆ちゃんは戦争というと決まって食糧難の話だったな
あとは女学校時代の卒業旅行で徴用されてた?でかい客船に便乗させてもらった話
たぶん昭和17年頃か
船の上で撮った集合写真は今でも残ってる
うちのばあちゃんその頃小学生だったかな 山に農作業の手伝いに行ったりしてたらしい 近所の橋のたもとにあった散髪屋が爆弾で吹っ飛んで店の女の子が爆死した話はよく聞いた
>>682 うちの方は、郡山の工場を爆撃にきた飛行機が目標上空で落とせなかった
爆弾を投棄するのが、自分とこの畑の上だったんで農作業ができなかった、と聞いた。
焼夷弾ではないから普通に爆発するとか。
だから、戦争が終わった時の感想は、これで安心して農作業に精を出せる、だった。
栃木で特に戦火にさらされなかった叔母達は口を揃えて言うのが 「毎日、毎日、かぼちゃばかりで今でもかぼちゃが嫌い」との事。 母は戦後生まれなのでぜんぜん覚えてないとの事。 一番上の叔父さんが南方で戦死したが、 じいちゃんばあちゃんにとっては話したくない思い出でよく聞けなかった。
>>684 うちはホッケとホッキ貝だな
父親がいつも痛んでまずくなってるのばかり喰わされていたので
我が家の食卓にはホッケの干物が出てくることはなかった
ばあちゃん話に便乗。長文ごめん。 うちのおばあちゃんは生まれも育ちも広島なので、原爆の怖い話を沢山聞いた。 ほんとの家は広島市内だったんだけど、プチ疎開みたいなものをしていたらしく 原爆投下の日は少し離れた場所で農作業をしていたらしい。 でもキノコ雲はすごく大きく見えたというし、ばあちゃんのおじいちゃん(私から見れば 曾々祖父)はもうほとんど耳が聞こえなくなってたのに、「今の音は何じゃー!」と 慌てて外に出てきたらしいから、すごい遠くにいたというわけではないみたい。 おばあちゃんは被爆者手帳持ってるし。 投下の日から3日後くらいに市内に入って、被爆した人の看病(人手不足だったから?)を したと言っていたけど、「もう身体の裏も表も分からんような酷い火傷をして、蛆の湧いた 人間の世話をするんよ、今となってはどうしてあれに耐えられたのか」と回顧していた。 そんな祖母は第二次大戦のどんなに凄惨な資料写真を見ても、 「こんなもんじゃありゃすまい」の一言で一刀両断にする。そらそうですよね… 私は母が忙しいときは家で祖母とずっと一緒だったので、小さい頃は戦争の話ばかりだったなぁ。
祖母から聞いた事があるのは、戦前から戦中にかけて、町の鉱山に、家族連れの朝鮮人労働者が沢山働きに来てた事。 配給の食糧だけでは足りないのか、女子供達が食べ物をもらいに町の集落を歩き回っていた。 身なりが乞食みたいに汚く、身体を洗う習慣が無いのか匂いもひどいので嫌われていたが、 なんか可哀相だったので、味噌や大根を分けてあげたが、姑に見つかり『おら達家族の食い物も少ねえのに、わざわざ朝鮮人に分けてやる必要はねえ!!』 と酷く怒られたらしい。 それから、祖父がフイリッピン(フィリピン?)に出征した時は村の氏神様に毎日通って、武運長久を祈願した。そのおかげなのか、元気で帰って来てくれた。でも、同じ南方方面に出征して行った、村の若者達のほとんどが帰って来なかった。 終戦間際には、何も無い田舎にもグラマン機の編隊がしょっちゅう現れる様になって、 撃ちはしなかったけど子供を追い回してからかったり、橋や防空監視所に機銃掃射をして行った なぜか村の墓地を猛爆撃された時があって、なんであんなとこを狙ったのか不思議だったらしい
>>687 >終戦間際には、何も無い田舎にもグラマン機の編隊がしょっちゅう現れる様になって、
撃ちはしなかったけど子供を追い回してからかったり、橋や防空監視所に機銃掃射をして行った
なぜか村の墓地を猛爆撃された時があって、なんであんなとこを狙ったのか不思議だったらしい
基本的に搭載した爆弾や機銃段は母艦に持って帰れないからじゃないかな。自分の地元もよそに
攻撃に行った艦載機が天候不良のために目的地に投下できなくなって、帰りがけに猛爆撃くったそ
うだし。
戦闘機の機銃掃射があった話は俺の通っていた小学校にも残っていたな 爆弾捨てるのはともかく銃撃なんかは任務中の遊びかストレス解消だったんじゃ ないかと思えてくる
>>676 それと同じことを重巡利根の乗組員だったと言う
お爺さんがNHKの深夜便戦争特集で話をしてた
>なぜか村の墓地を猛爆撃 ごく好意的に考えれば、「安全だから」かもね。 家や森に落としたら燃えちゃうし、田畑には人もいれば食糧もあるから民間人にダメージがある。 水域に落とすと、処分にならないかもしれない。 墓なら、日本でも石造りだし、死んでる人しかいないから。 …考えすぎか。
村の墓地をなにかの準戦略目標と見間違えたとか? 沖縄のお墓をトーチカと間違えたアメリカ軍の話は聞くことがあるけど和式墓地はあんまりきかないね
>>690 昭和20年に5歳ぐらいだったおじいさんか
>>687 > 墓地を猛爆
場所によるけど、本土決戦の上陸予定地の近くとかなら陣地と勘違いしてとかありそうだ
B29なら爆弾投棄だろうけど艦載機だとそれぐらいしか
あとは手頃な目標が見あたらなかったんで訓練がてら襲撃したのか
どうにしても、迷惑千万な話には違いないな
祖先の霊に呪われてしまえ
墓地を猛銃撃 想像でしかないけれど。 墓地だと、石がたくさん使われているだろ。それを50口径で撃ちまくったら。 着弾の瞬間が、特殊効果を使ったかのような猛烈なものになって「おもしれー!」と なったからじゃないかいな? はじけ散る卒塔婆、兆弾となって飛び交う曳光弾、崩れ落ちる墓標。 もうむっちゃくちゃ。
多磨墓地は244戦隊の飛燕の退避所として使われていたから文句言えんのよね… デスペレートな状況で単能に特化した迎撃機の異形な格好良さを押井守が力説してるが、その待避所が墓地の中とか、もうなんと言ったらいいやら。
祖先たちの霊的な守護に期待したんだろ このころならまだそんなに荒れてる墓とかないだろうし
墓地を間違って基地と読んでたりしてな
…は!
日本が新型戦艦「タケゾー」を作ったってか
ダイワとかシンノウとかさ。
岡山県が保有する兵器 Zガンダム 1 竹やり 無制限 ぽっとん 無制限 ウラン 少々 ちくわ笛 1 岡山県に存在する軍事基地 八つ墓村 獄門島 岡山城
亡くなった祖父の軍歴を調べたいんですが、厚生省に窓口があるんでしょうか。 満洲事変、支那事変、大東亜戦争と3度応召を受けましたが、関東軍の鞍山独立守備隊(独立歩兵第六大隊?) にいたのだけはわかっています。 調べ方を教えてくれないでしょうか。
>>706 もとの陸軍の軍人の場合、退職時の本籍地都道府県、
もとの海軍の軍人の場合、厚生労働省に軍歴が保管されていることになっています。
ただし、都道府県によっては終戦時に必死こいて燃やした、とか、
戦後に県庁が火事で全部燃えた、等の理由で現物がない場合もあります。
各都道府県では援護主管課が担当窓口になりますが、具体的な担当課名は都道府県ごとに違うので、
特定されない程度に都道府県名くらい出せば誰か教えてくれるかも。
709 :
名無し三等兵 :2010/09/11(土) 00:02:38 ID:Afqbj/X8
>>689 去年の夏にNHKで特集されてたの見たんだけどそれかな。
それとも小学校への銃撃ってよくあることだったのかな?
その特集はとても悲惨な話だったが、遊び半分だったら狂ってるとしか言いようがないな。
うちのばっちゃ、秋田のド田舎の出身で 開戦も終戦もニュースでしか聞いたこと無いって 終戦後に進駐軍が来るって聞いたけど結局自分では一度も米兵を見たことが無いとか言ってる
>>687-689 大戦末期には米軍の戦闘機も相手がいなくて
「動く物なら何でも撃て」という命令が出ていたらしい。w
ガンカメラの記録にも民間人を銃撃している映像があったな。
私の父は小学生の時に、遊び半分のような機銃掃射を受けました。 田圃に飛び込んで、助かったそうです。
713 :
名無し三等兵 :2010/09/11(土) 00:21:40 ID:K48+mp9K
乗り遅れだけどばあちゃん話 長崎出身なんだが、今はもう亡くなったうちのばあちゃんが家から原爆の 空に立ち上る煙を見たそうだ。でも家があるのは長崎市内から地図で 直線結ぶと海を隔てて30kmくらい離れてるとこで、もちろん市内が見えるはずはないから、 キノコ雲はそんなに大きかったのかと驚いたもんだ。
と言うより、着艦時のリスクを少しでも減らすため、弾薬を消費してから 帰還したかったから適当にブチ巻いてたってのが多いって話。 日本軍機が来たら? 逃げれば追いつけなかったんだよ…
うちの田舎を走る鉄道の橋脚や、古い屋敷の土蔵に、グラマンが撃った弾痕が残ってるけど、大人の拳よりデカイのな 橋脚の弾痕なんて厚さ50ミリの鉄板を貫いてんの あんなんが人間に当たったらって考えると恐ろしいわ…
フィリピンでタコツボ生活してた爺様の話だと 運悪くグラマンの機銃掃射が当たったタコツボの住人は 銃弾の衝撃で血を撒き散らしながら穴から弾け跳んだらしい
>>717 朝鮮戦争の時に車載の12.7mmで銃撃したら敵兵が真っ二つになって吹っ飛んだ、
なんて話が残っているぐらいだしな。
>>713 30kmっつうとそれこそ大村湾の向こうか…
成層圏まで昇ったって言うからな
>>705 備州岡山城鉄砲隊の
火縄銃 大筒のたぐい
を追加
当時大学生だったじいちゃんの話 旧日本軍が毒ガスや兵器を作る研究員育成ために理系の学生を残して 文系の学生から学徒動員していったので理系のじいちゃんは戦争には行かなかった 広島に原爆が落ちた時、まだ落ちたばかりで何の爆弾か分からない状況下で 教授達が「あれは原子爆弾でしょうね」「ついに落とされてしまいましたか」と 話しているのを聞いたそうです。 ばあちゃんはあまり戦争の事は話さないけど戦争当時女学生で源氏物語などが読むの禁止されて つまらない本ばかりで嫌な時代だったと言ってた
祖父じゃなくて大叔父の話だが、戦時中は横須賀の海軍工廠で軍艦を作っていたらしい 俺が趣味で作ってるウォーターラインシリーズを何隻か見せたら 「この艦は見たことあるぞ」と言って「信濃」「翔鶴」「天城(雲龍と勘違いした?)」「長門」を指差した まだ健在なので機会があったら「信濃」のことを聞いてこようと思う
725 :
雪風 :2010/09/14(火) 20:12:26 ID:???
うちのじいちゃん、大学卒業して少尉の位を貰えるはずなのに、少尉なんかになったら生きて帰ってこれないと思い、大学は卒業してませんと嘘を言い2等兵で満州へ渡り、無事日本へ帰ってきました。 じいちゃん、ありがとう。
727 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 01:02:19 ID:jBeO3mC/
ウチのクソジジイは日本が戦争になると素早く大陸奥地に避難して日本を見捨て、 朝鮮戦争あたりで日本に戻って戦争特需で大儲けした。 口癖は「御国の為とか言って死んだような要領悪いだけのバカにはなるな」「戦争 に負けたら途端に被害者ヅラしたロクデナシ」とかこんなのばっかり。 はっきり言って一族の面汚しなんでくたばりやがった時も葬式はせず(やっても人 が来ないしw)一族の墓にも入れず無縁仏として処理しました。
>>727 遺産を遺してくれたなら、いいおじいさんですね。
>>716 遅レスな上に既にレスしてくれた人と内容が重なるけど
軍歴証明書なら本人死亡の場合は
近親者がそれを証明する書類と共に申請すれば発行されはず
兵籍簿は現在の状況だと都道府県にもよるが本人以外は難しいかも
蛇足になるがS20時点で在満の部隊であったならば多少は分かるが
所謂根こそぎ動員でS20/1に編成完了した連隊、または隊から
S20/7に配属転換、編合があった場合等々、謎の異動も多々有るから
もし情報を提供して、かつそれが間違っていたとしても苦情は受け付けられないけどな
>>729 >>716 です。
本人は死亡しているのですが、母方の祖父です。戸籍が別なので私が調べることはできるんでしょうか。
関東軍にいて、昭和20年の何月かに南方への転属のため済州島で待機。ということしか分かっていません。
第58軍隷下の何れかだろうけど 実際の所属部隊または隊までは分からんな 通称番号か通称隊名等が分かれば固有部隊名が分かるが無理かな
>>726 うちの爺ちゃんは二等兵で満州へ送られて、兵隊でこき使われて終わるのは嫌だというので
幹部候補生をうけて士官になったよ
真逆だな
>>730 親の戸籍に入っているなら自分の、抜けてるなら母親の戸籍謄本は取っておいた方がいいかもしれないね
謄本で祖父から自分までたどれることが証明できれば問題ないんじゃない?
つうか窓口がわかっているなら電話で聞くのが手っ取り早いと思う。それが一番間違いない。
いい担当なら丁寧に教えてくれる。
734 :
三重県民 :2010/09/15(水) 13:35:38 ID:???
当方仕事柄お年寄りとの関わりが多いのですが、 10年前、大阪で80歳前後のご老人と知り合った折、 「戦時中は造船所で駆逐艦を造っていた。菊という艦名で、出来が良かったので海軍から表彰を受けた」 と聞かせていただいたのですが、当時浅学ながらも「菊って大戦前の駆逐艦だったような?」 と思ったのですが、似たような艦名の駆逐艦があったのでしょうか? 造船所は大阪か堺だったと記憶しております。
俺の祖父は、みなさんの御祖父様みたいに凄い人じゃない。 分かってるのは歩兵第222連隊に所属していて、ビアク島で戦死した事くらい
>>733 レスありがとうございます。
母親の戸籍で、たどれますね。
祖父は済州島待機中に結核になって、長崎の病院に移りました。
所属部隊は、海の藻屑になったのかどうかまで聞いていません。
737 :
名無し三等兵 :2010/09/15(水) 16:54:50 ID:ODul4dcu
>>735 歩兵第222連隊ってたしか岩手だっけ?違うか
>>735 国(故郷)のために命を失ったんでしょ?
それだけで十分凄い人だと思うけど。
>>730 >>733 がレスしている通り
広島県在住なのだが爺さんの本籍地(岡山)の県庁に電話で問い合わせたら
本人との間柄を証明できる戸籍謄本を添付してくれと説明を受け
なおかつ郵送で申請書類を送ってくれた。
その際申請理由など聞かれたが迅速に対応してくれたよ
>>725 前彼が軍オタで影響受けたって書いてあるじゃん
中身も史実ベースに英霊系の妄想してるだけだし
>>734 松型駆逐艦で「菊」がつくフネは全部建造取りやめになってますな。なにか勘違いしたんでしょうか。
742 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 07:38:10 ID:weA0Mk0H
743 :
名無し三等兵 :2010/09/17(金) 13:25:13 ID:sZRwydOe
あいつらのせいで戦に負けたんだし、頑張ってねえだろ
>>734 菊月は…と思ったら睦月型ですし。
似たような音の船だったのかもしれないですね。
桐とか。
でも桐は横須賀工廠…。
お年寄りの記憶は混ざってしまったりすることがよくありますからね…。
未公表の秘密駆逐艦「菊」のことだろう。 五式金盾装置や、試製噴進砲「海燕」を搭載していたと聞くが、 製造者自らがその秘密を語るとは…!
独立混成92旅団工兵隊て戦車隊ですかなぁ・・。 歩兵の軍曹だったったけど戦車と一緒に包頭から洛陽城攻略に出たそうなんにゃけど・・。 けどまぁ、現役入れたら4回入営して生き残ってんだから・・・。 現役で満州、1回目で南京城攻略、漢口城攻略、2回目が開戦の時のバータン半島、3回目で 洛陽城・・・。 いったい何処歩いていたんだと・・。
開戦の時のバータン半島は連隊で留守番だったそうだけど・・ 出た人たちは全滅。
俺の爺様の家は田舎の山奥の村なんだが土地の名家(今は絶えた、というか村が消滅した)だったんだ。俺も小さいころだったからうろ覚えなんだけど、爺様に戦争の話を聞いても一切話さなかった。 なんでも村から兵士を送り出す役職だったらしい。残っている写真には馬上で、サーベルを帯刀している物があることからそれなりの地位にはいたっぽい。 もう亡くなってずいぶん経つけど、はっきり覚えているのは爺様の左のこめかみに拳銃の銃口の痕がくっきり残ってたって事。それについてもついぞ一言も語られたことは無かった。親父に聞いても聞いたことが無いっていうから誰にも言わなかったんだろう。
チハの三菱製エンジンは、ばら蒔かれたピアノ線を絡ませてしまうと動けなくなるほど非力だった 最初にそのことに気が付いたソ連軍の中の人はえらかったと思うが、 連隊長からそのことを連絡された関東軍本部では「え、だってチハって戦車だろ?」って絶句したそうだ なんでそんな非力なエンジンが採用されたかというと、三菱陣の芸者攻勢が功を奏したらしい ちなみに日本軍もソ連の真似をしてピアノ線をぱら撒いてみたら、相手側のBTは平気で乗り越えてくるし、 逃げ惑う日本側のチハは自分で仕掛けた罠に自分で引っかかって、てんやわんやのテラワロスだったとか 動けなくなったチハを歩兵たちが皆して押したので、チハは歩兵支援車と呼ばれたそうな
ピアノ線で行動不能はエンジン馬力だけじゃなくて、足回りとか履帯の構造がからんでそうな気もしますが・・・
751 :
名無し三等兵 :2010/09/20(月) 15:12:22 ID:GPjP/ota
ヘタレのシナ兵相手には大活躍のチハです!!
752 :
名無し三等兵 :2010/09/21(火) 01:32:53 ID:zG1Xu0s6
僕の祖父は海軍の上等兵で特設病院船「牟婁丸」という船に乗っていました。祖父は その船に乗ってトラック諸島に行った時、戦艦大和を見たそうでとても大きな船だったと言っていました。 その後「牟婁丸」はフィリピン沖で米軍機の攻撃を受け沈没。祖父は材木につか まって漂流しているところを味方の駆逐艦に救助されたそうです。 祖父は負傷しており傷病兵として内地に帰還させられ、そのまま終戦を向かえたそうです。 祖父が乗っていた特設病院船「牟婁丸」をネットなどで調べたのですが、この船が どのような船だったのかよく分かりませんでした。どなたか牟婁丸について何か知って いるという方がいましたら、牟婁丸の事を教えて下さい。 長文スミマセンでした。
低速のトルクが不足していたのか トランスミッションが悪いのか
母方のひいじいさん辺りが軍医として日露戦争に行ったとか。 掘り下げてみればどうやら江戸時代から続く医者の家系だったと聞いた。 俺?あぁ無職だよ
755 :
三重県民 :2010/09/21(火) 13:08:10 ID:???
レスくださった方々ありがとうございました。 おそらく記憶違いなんでしょうねえ。 今となっては正確な艦名を知る術はなく… ちなみにそのご老人、駆逐艦をドックで係留中に鋼鉄のワイヤーが切れたのが飛んできて、 指の先が飛んだとか((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル 他にもいくつかネタがありますので、まとまったらかきこします。
757 :
名無し三等兵 :2010/09/21(火) 23:36:17 ID:zG1Xu0s6
>>752 です。
>>756 さん情報ありがとうございます。
祖父は思い出したくないこともあるのか牟婁丸についてあまり多くは語ってはくれ
ませので、とても助かりました。また、田舎に帰った時に祖父から話を聞こうと思います。
>>734 大阪で海軍艦艇なら藤永田か・・。
陽炎型:黒潮 - 夏潮 - 浦風 [II] - 谷風 [II] - 舞風
夕雲型:巻雲 [II] - 長波 - 大波 - 玉波 - 藤波 - 朝霜 - 秋霜
松/橘型:梅 [II] - 桑 [II] - 杉 [II] - 樫 [II] - 楢 [II] - 柳 [II] - 樺 [II] - 桂 [II](未成)
第31号哨戒艇はどこの改造だったんだろうか・・。
759 :
名無し三等兵 :2010/09/22(水) 13:15:05 ID:SiDPajuD
うちの爺さんは南方で全滅した部隊ただ一人の生き残りだと聞いたなあ。 目玉がひとつなくて義眼だったらしい。
オラの爺ちゃんは満州に行ってた 冬には弁当の御飯が真ん中まで凍るとか、小便出した瞬間凍るとかそんな話をしておった 済州島に集められていた時に終戦 通信兵だったから玉音放送を無線機で直接聴いたと言っておった 食べ物がなくて、伝書鳩を潰して食ったそうだ 納豆の臭いが大嫌いだったが、何かの臭いと似ていたんだろうか 撃った撃たれたの話はしなかった 爺ちゃんの従兄弟の一人は衛生兵だったが南方で戦死、義理の弟はシベリアで抑留された 爺ちゃんの部隊は済州島で再編されて南方に送られる予定だったらしく、終戦になってなかったら死んでいただろうが 済州島からの引き揚げだったので早く戻れたという事だから、本当に人生は紙一重だなあと
うちのじいちゃんも満州だったらしい オンドルなんて地理の教科書でみたっきりだったがじいちゃんの話に出てきて思い出した
>>760 私の祖父と同じ部隊かもしれません。満洲から済州島で待機中に、結核になり大村の病院に送られ終戦を迎えた。
部隊名とか分かりますか?
765 :
760 :2010/09/22(水) 15:16:07 ID:???
>>764 あら、済州島では一緒だったんですかね。
部隊名、婆ちゃんに聞かないとわからんので後で聞いてみるね(聞いてわかると良いけど・・・)
でも、オラんとこは岩手だけど静岡の人と同じ部隊になるかしら?
>>765 岩手ですか。済州島に相当数集まっていたんでしょうね。
南方に行く船の手配もできなかったのでしょうかね。
767 :
760 :2010/09/22(水) 15:48:45 ID:???
>>766 ちょっとググってみたけど、関東軍第17方面軍管下第58軍が済州島で終戦を迎えているようです。
第58軍の下は第96師団、第111師団、第121師団、独立混成第108旅団、第12砲兵司令部とありますが、
同じ師団にいなかった確率の方が高いようですね。
まあお彼岸なんで、実家に行って聞くだけ聞いてみますか。
祖父じゃないけど小学校の担任が元海軍中尉さんだった 授業の合間に話してくれる戦争の話にみんな夢中になったな 山下大将のイエスかノーか!の話とか精神注入棒の話とかよく覚えてる よく悪さしてスリッパでひっぱたかれたりしたけど優しい先生でみんな大好きだった 今なら軍国主義者で暴力的な問題教師だなW
うちの小学校の頃の校長は学徒出の海軍少尉で、震洋特攻隊員だったらすい
たしかおじいちゃんは特攻機【白鵬?】に乗ってアメリカ軍の船に特攻を果たそうとしたのですが 失敗して、海に不時着しました。その後アメリカ兵に救助されて捕虜になったそうです。
駄文すいません、思い出しながらタイプしたらめちゃくちゃでした。
>>770 それは「白鵬」ではなくて「白菊」でないかい?
白菊隊で出撃して生還したというのはかなり幸運なお方ですよ
773 :
名無し三等兵 :2010/09/22(水) 19:03:52 ID:zCcxN9pq
白菊特攻隊は戦死52人、捕虜2人だよ しかも捕虜2人の名前は分かってるから、誰の孫だかすぐに特定できる訳だがw
猪口ちゅう国賊参謀が100機ほど試しに特攻させたらしいぞ。 高知と徳島から都合100機。 いまからでもS級戦犯で裁判かけられないものかのう。
775 :
三重県民 :2010/09/22(水) 20:39:23 ID:???
>>758 お詳しいのですね、わざわざ調べてくださってありがとうございます。
艦名はおそらくご老人の記憶違いだと思います。
時期は日中戦争〜終戦だと思います。
天皇陛下の表彰状をもらった艦とのことでしたが…
樅型駆逐艦 菊は川崎造船所なので違うとおもわれます。
別のご老人のお話
戦争末期30代で奥さんを置いて応召、フィリピンに送られ、米軍と交戦なさったとのこと。
火器の物量差がとてつもなかったそうで、敵の砲撃・銃撃になすすべがなかったそうです。
ある日パンパンパンと銃撃を受け、戦友と逃げ回り、物陰に身を隠したがいつまでも銃声が止まない。
思い切って顔を上げてみると、竹やぶが火事になって燃え盛っている。
竹のパンパン爆ぜる音を銃声と聞き間違えていたんだとか。
>>775 川崎の泉州工場はどうでしょうか。
堺の近くだし、基幹工員は川崎神戸から送り出しですし。
菊は川崎神戸ですひ。
>>776 川崎って地名だと思ってました…浅学な私。
ただ、菊って1920年ですよね。
ご老人の年齢を計算すると、少々合わないのです。
1999年時点で80代でいらっしゃったので…
また別のご老人
戦後シベリアに抑留され、散々な目に合われたとのこと。
戦友の死に目に何度も合われたそうです。
ある日ソ連兵に森に連れて行かれ、日の丸の旗を焼くことを強制されたそうです。
その時以来、あらゆる神の存在を信じられなくなったとおっしゃっていました。
うちのじいさまは戦争行ってないんだよな。 大正生まれで田舎の農家の五男だか六男だかそんなへんだから 何故招集されなかったのかは謎だが、三菱の工場で陸攻を生産してたそうだ。 米軍が爆撃に来ると、周りの高射砲陣地がバンバン撃つんだけど 全然届かなくて、高射砲弾の破片の方が危なかったと言ってたな。
大した話ではないけど… うちの祖父の話 満州に出兵して、中国と北朝鮮の国境あたりの山中で司令部の護衛してたそうです 望遠鏡?で一応異変ないか見張ってるけど山奥過ぎて何も起こらなかったらしい そんな中負けたと聞き 司令部はさっさと引き揚げてじいちゃん残された(ちなみにじいちゃん一度も戦ってません) その後ロシアの捕虜になり、その辺の木を毎日切ってたらしい じいちゃん曰わく 昨日切った木をその辺に置いといて、今日切ったふりをしてサボれた ロ助は手を後ろに組んで喧嘩する(すぐ手を出してしまうかららしい) そんな中、じいちゃん労働中に腰を強打して働けなくなったので満州鉄道に乗って帰って来た(役立たずといわれらしい) 因みに他の人たちが後どうなったかは知らないらしい おじさんの話 徴兵されて、算盤が得意な者はいるか?と聞かれ、手をあげたら(勉強は得意で良くできてたらしい) 勉強する部隊とやらに入れられて終戦までずっと勉強してたらしい もちろん戦地には行ってません 祖母の話 地元は田舎なので空襲もなく、畑や田も沢山持っているので食べ物にも特に困らなかったそうで… そんな地方だけど戦後進駐軍は見回りに来てたらしい 赤ちゃんを、ベイビーベイビーと言って遊んでいたらしい 何かみんなの祖父母は色々大変なのにうちの祖父たち何もしてませんね…
780 :
名無し三等兵 :2010/09/23(木) 08:43:02 ID:woBgbBfm
日本軍には衛生兵っていたの? フィリピンで戦死したうちのひい爺ちゃんの写真見た事あるけど、軍服に十字が付いた腕章つけてた。 でも軍医では無いと思います 看護婦さん達と布団干したり、洗い物してるすごく楽しそうな写真もあった
うちのじいさまが工兵隊で軍曹やってた時に 毛ジラミは水銀軟膏でイチコロですって衛生兵が言ってたらしひ
>>779 シベリアに抑留されて苦労されていると思いますが・・・
>>780 いましたよ。
良い機会だから調べてみたら?
良い供養になると思うよ。
>>780 日本軍だと、兵役義務を果たすのは当然だけど、人は殺したくないなあ…(´・ω・`)って人が衛生兵に志願する傾向が高いとか。
暴れる負傷兵を引きずらなくちゃならんので、普通の兵士より高い体力が要求されるそうですよ。
785 :
760 :2010/09/23(木) 23:06:37 ID:???
婆ちゃんに聞いたが部隊名はわからんと言われてしまったです。
教えてもらわなかったような事を言ってましたが、さて。
という事ですまん。
>>766
>>785 ごくろうさまです。
祖父は亡くなり、祖母も部隊名まではわからないんですよ。
祖父が元気なうちに、いろいろ聞いておくべきだったと悔やんでいます。
うちの母方の祖父は、東京生まれの商家のボンでモボだった。 しかし曾祖父の郷里九州に帰った後徴兵されたので、 方言を使わず都会風な振る舞いの祖父は、何かと目の敵にされたらしい。 乗馬をしていたので馬の扱いに慣れていて、通信兵で大連へ。 30過ぎて徴兵されたので 「俺を兵隊にとるようでは、この戦は負けるだろう。」と言っていたそう。 南方に移動する前に終戦、帰国後は少し酒が過ぎて、早くに亡くなった。 父方の祖父は、父とは祖父と孫ほど歳が離れていて徴兵はされなかった。 炭鉱町で空襲が酷く、町内でいち早く防空壕を掘って、家財道具を避難させた。 真似してご近所も次々に壕を掘ったけど、空襲で焼夷弾で焼かれて、 残ったのは祖父の作った防空壕だけ。 その壕の中に、父は伯母さんに背負われて半身水浸しで避難した。 家が焼けるときに祖母が持って逃げたのは、枕と下駄だったこと、 祖母の指に焼夷弾で火がついて、いつまでもゆらゆらと燃えてたこと、 焼け出された次の日には、祖父は有り合わせの材料でバラックを立てて 家族を養ったこと、空襲の後、滑り台の下に集められたご遺体、 爆撃された病院、何故か砂糖には困っていなかった等々、時々父が話してくれる。 父方の伯父さんはトラック島に行った。動くものは何でも食べたと言っていたらしい。 大叔父は南方で戦死。 母方の大叔父は従軍牧師。 存命のうちに、詳しく訊いておけばよかったと思うこと多々。 大雑把な話ですまんです。
>>782 うちの大叔父もシベリア行ってたが苦労した、と言うほどではなかったそうだ。
今年は自筆の年賀状が来ていたので元気らしい。
シベリア抑留と言っても行き先も幅広いし、兵隊になる前の境遇も様々だから
ステレオタイプ的とらえるのもよくないのかもしれない。
でも、「つらかった」「苦しかった」系の話だけが残っていくんだろうな…。
東北の寒村で粗食と重労働に耐えてきた人にとってシベリア抑留は
どんなものだったのかとふと考えてしまう。
場所によるのかなぁ その東北の山村出身者だけどやはり抑留はキツかったようだ 抑留されていた場所はホルモリンってとこね 略歴は所謂根こそぎ動員で入営→挺進大隊へ転属…が この転属のお陰?で交戦無で終戦 武装解除後は11/30まで満州で線路の幅工事 ユウガイシャでシベリアへようこそ! 作業中の肋骨骨折と熱が下がらなくてもうダメ…ってとこで 作業に使えねーから日本へカエレ!!で帰国、抑留期間は約2年
シベリア抑留といいながら中央アジアに送られた人も いるからね。
させられてた作業も森林の伐採から劇場の建設までさまざまだしね
父方の大叔父がシベリアのどこかで眠っています。
発表された名簿にも名前が無かった。
>>788 酷い所もあればマシな所もあり、運に左右されていますね。
うちの名古屋のじいさんはシベリアに抑留されたらしくて、自分では見てないけど馬に乗ってる写真があったらしい。 馬に乗るって事は士官ってこと?
どうだろうね。輜重隊でも馬使うからな。
795 :
793 :2010/09/25(土) 22:10:28 ID:???
>>794 帯刀してた?って聞いてもよく覚えてない(母)そうだから、そっちかも。
大陸には行ってた筈だよねシベリアに送られたし。
見舞いに行って帰るとき、凄いきっちりした敬礼をしてたのを今でも覚えてる。
あんまり喋らなかったから、ちょっと気になった。
うちのじいちゃん大陸で野砲の隊にいたらしい 馬の世話当番で「馬の方がおまえらより値段が高いんだ!」という事を言われたって言ってた あと敵機から細菌兵器ばらまかれたとか言ってたけど状況がよくわからないので誤認か誤報のような気がする 細菌兵器とか化学兵器って「使ってる」事が相手にばれないようにやるもんだよね?
797 :
名無し三等兵 :2010/09/26(日) 06:09:51 ID:PrN4e9Lc
俺は栃木の田舎もんだけど、ひい爺ちゃんは宇都宮の歩兵第二連隊だった 大陸からパラオのペリリューへ転進後に連隊は玉砕したみたいだけど、 現地人や米軍からも戦いぶりを讃えられてるって話聞くとなんかうれしいね いつか慰霊の旅に行くのが夢
>>788 現役兵は大丈夫だったらしいけど
年を取った召集兵は耐えられない方が多かったらしい
ペリリューの戦が讃えられてるとか言う話は、ウヨの自作自演だから勘違いすんな。パラオの国旗は日の丸を参考に…とか言うのもウヨの作った気持ち悪いガセネタだからな
このスレの話も殆どウヨの捏造だ。
ペリュリューの戦いは・・・・決して米軍も軽視しているわけではないと思うよ。 両軍の戦死者に黙祷。(比率日本8 米軍2)
>>795 後になると下士官でも帯刀するから区別は難しいな。
>>798 それ妙に納得
30過ぎると耐久力落ちるからな…
昔の軍人って皆帯刀してんの?
>>804 士官以上は原則。徴兵出身の幹侯あがりは脇差しを軍刀仕立にしたりもした。理由は、「重いから」。
ニューギニアでのうちのひいじいさんの話。 『ハマヘラから持ってきたサクサクも尽きて、あっち逃げこっち逃げ、遂には囲まれて、あっちはこんな体した豪州兵や。 もうろくなもん食っとらん、歩きもできん。 もう駄目やおもて、しゃあない最後やしタバコもらおて、 「シガレット、プリーズ」ゆうたんや。 こう見えて京都帝大やで、え。 豪州兵の野郎、俺が足も立たんと思いよったんやの、こっちまで来て煙草くれよった。 それで、お、こいつは話がわかる思ってや、 「モア、ボイルドライス、アイム、イート、ナッシング」 ゆうたんや、それが良かったんやな、近くまで連れてってもろて、ヤシの小屋で米炊いてな、塩振ってくれたんよ。 うまかったなあ』 そのせいか、うちの家系のおにぎりはかなりしょっぱいらしい。 運動会で友達にあげたら「うわしょっぱ」て言ってたし。
808 :
名無し三等兵 :2010/09/26(日) 21:53:31 ID:kUrlarsr
今回の尖閣諸島の件で うちの84歳になるおばちゃんも怒てってワロタw ちなみにじいさんは爆撃機か何かの無線兵で中国に行ってたw ばあちゃんは高校?で英語の授業受けられるはずが 戦争でなくなったてのが口に出さないけど悔しそうな感じ。
>>78 7
>母方の大叔父は従軍牧師
キリスト教の牧師じゃなくて僧侶じゃないのか
旧軍に従軍聖職者っていたの? 制度があったならば知りたいです。
祖父じゃないけど親戚 戦艦大和に乗ってたという。 ホラだと思ってたら、 吉田満の「戦艦大和ノ最期」にも出てる人だった 最近亡くなった。
>>812 大和乗ってた人って案外多いと思うよ。
乗組員だってずっと同じ艦じゃなくて、定期的な試験と言うか希望調査で陸上勤務とか他艦へ配置転換とかざらにあったそうだ。
戦時中もそれは変わらず、俺のじいさんはトラックに居た大和から内地の軍学校にいったぜ。
>>797 ペリリューで玉砕した歩兵第2連隊は茨城県の水戸だろ
宇都宮にあったのは歩兵第59連隊
まあどちらも同じ第14師団隷下だがな
>>812 あれか、菊水の前に下船した「長男、若しくは家督を継ぐ役にある者」に当たる人だったのか?
>>815 一緒に突っ込みました。
「傲岸不遜の○○中尉」と書かれて怒ってたらしい
いいじいちゃんじゃないか。
819 :
名無し三等兵 :2010/09/28(火) 06:35:22 ID:/Iw4zNEL
旧軍には和尚はいたけど牧師なんていない
救世軍かな?
>>818 珍しいですね。キリスト教界隈も戦時中は弾圧されないためだったり、
むしろ積極的に協力することで社会に受け入れられようとしたりで
あれこれあったとは何となく聞くこともありますが。
従軍牧師だったということは、戦後も牧師をされていたのかもしれませんが、
差し支えなければ何派でした?
822 :
名無し三等兵 :2010/09/28(火) 13:13:06 ID:/Iw4zNEL
だから従軍牧師は旧軍にいねえっての 阿保か
ボランティアじゃない?
「従軍」とすると軍に雇われていたことになるからね。 その表現は正しくない。 恐らくはボランティアで戦地に赴いて慰問活動をしていたのでしょう。
ちなみにWikipediaによれば、僧も神職も牧師も関係なく徴兵の対象になっていたというから、 徴兵した後で「そういう経歴なら、この仕事をしたまえ」という流れなのかなぁと妄想。 「牧師として従軍」ではなく、「従軍ありきで牧師の職能を活かした」という感じ? 別に宗教戦争だったわけじゃなし(つか組んでたのキリスト教の元締めがあるイタリア)、 将兵にキリスト教徒だっていたでしょ。
828 :
818 :2010/09/28(火) 18:17:41 ID:???
>>821 少し調べてみました。日本基督教団のようです。
軍に派遣されたのは間違いないようですが、所属は民生部。
戦後も色々と国の仕事を手伝っておられたようです。
しかしご本人が度々訪れていた我が家では、
普通に従軍牧師と言っていたんですよ
名前を晒せば、そのような記述を幾つか示せるのですが
さすがに控えたいので…
何れにせよ、皆さんのレスで非常に稀な事だというのが分かりました。
まぁ、「軍で牧師の仕事をしていた」んだから従軍牧師でもあながち間違いってわけでもないような 本来の従軍牧師の仕事とは違うだろうけど
>>828 ありがとうございます。今でも教団なんですね。
いわゆる「戦争責任」関係は、教団ではずいぶんデリケートというか
トラウマな話題になっている様子なので、そのような証言は貴重な話だと思います。
細かい用語の違いは、普通の人はあまり気にとめませんから、
そこは仕方がないと思います。
だね。強硬に「従軍牧師などいない!」と言い募ることではないわ。
>>829 葬式よりは宣撫がメインだったんだろうと想像する。
>828 いい話を聞かせてもらった、初めて知ったよ
うちの祖父ちゃんは戦争の話全然しなかったなぁ。 小笠原にいて、危うく硫黄島に行かされるところだったと病床でぽつりと話したくらい。 ハワイ生まれハワイ育ちで、十代半ばで日本に帰ってきてその後戦争突入だったから、 真珠湾攻撃とか複雑な心境だったんじゃないかな、と今になって想像する。 英語が堪能だったので軍の情報部?通信部?みたいなとこにいたようだと 他の親戚に聞いたことがある。 戦後GHQに通訳やってくれないかって勧誘されたけど、断ったって祖母ちゃんが言ってた。 しかし三つ子の魂百までというか、我が祖父ながら立ち居振舞いファッションが外国紳士だったな、 パナマ帽とか綺麗な水鳥の羽根がついた帽子とか沢山持ってた、お洒落な人だった。
小笠原から船で内地に強制移住させられたお祖母ちゃんだが 戦争の話より、父親とヤった同級生の話ばかりする。
837 :
名無し三等兵 :2010/09/30(木) 12:03:27 ID:DK6Ozvn6
近親相姦だな
>>827 ドイツもイタリアもキリスト教国だし。戦時中弾圧されたという話も聞かないな。
ドイツ人の神父とかはそのまま日本に居たみたいだし。
>>838 戦時中のキリスト教会への風当たりはなかなか強かったらしいぞ
諸々の宗派に別れていたのを無理矢理一つの教団に纏められたり
その名残が今の日本基督教団
あとは礼拝前に御真影への礼拝が義務づけられたりとか
米英のスパイだと疑われたりとか
下っ端の警察はカタカナ=英米だからな
キリスト教の本山はイタリアなんて言ったところで黙れ非国民!で殴られて終わるような気がする。
共産主義者のような扱いを受けたわけではないにしても
キリスト教徒であることは要注意人物の要件たり得ただろう
そうなると逆に積極的に協力することで認めてもらおうという方向性も
発生したりでそれが敗戦でトラウマになる。
道徳だか国語の時間に特高に指をつぶされた神父に育てられた少年の話があったな
>>838 ドイツは、ナチスが国内でキリスト教会を弾圧してるよ。
キリスト教と言っても様々な団体がありまして、弾圧食らった所もあれば 積極的に協力した所もあり・・・ 従軍牧師の写真もたくさん残ってますね。
映画の陸軍中野学校で キリスト教の協会経由でイギリスだかに情報を送っていると謂った物語が有ったな
>>841 ドイツのカトリックはナチのユダヤ迫害を認めていたとか
>>839 うち日本基督教団だけど、以前いらっしゃった教会員の方で
旧きよめ教会派の牧師の娘さんがいたんだが、当時はえらい苦労されたらしい。
戦争に非協力的だったから、つって教団からも特高からも責められたり。
>>840 その少年はバスの運転手になって神父を親指立てて停留所じゃないところで
降ろしてくれるんだよね。
仏教団体で戦争に非協力的だったところはないの? 殺生禁止なんだし、非暴力主義を唱えちゃうとか。
>>845 教会の百年史とかあると何かしら書かれてるね
>>844 そして戦後ナチスが逃亡するのにカトリックルートを使ったりしてな
教会も宗派が多いからな
何せドイツは宗教改革の本場だ
ナチスは始め教会に対して敵対していたが、権力奪取の過程で 教会の協力が必要になったので方針転換した。
じゃ流れを読まずに。 ウチのは六大学から学士入隊、一年早く生まれていたら記録映画で有名な学徒動員に入っていたので、本人曰く 「多分死んでいただろう。」 であった。実際、親しい先輩は誰も帰ってこなかったそうである。 近年まで「徴兵があればこんな軟弱にはならんのに。」と俺に向かってよく言っていたが、731だの虐殺だのとマスコミに乗るようになり、だんだん世間が変わってしまったせいか、さっぱり言わなくなったものである。 入隊は都内のシチョウヘイ(変換せず)で実戦はなかったが空襲は激しく焼夷弾が降ってくるわ、B29は落ちてくるわ、パラシュートで少年兵が降りてくるわと忙しい毎日であったという。 3月の大空襲は兵舎の屋根で皆見ていたそうだ。 自分も死ぬと思っていたので真っ赤に焼けている夜空を見ても感慨は湧かず、ただ綺麗だ。と思ったという。 大空襲翌日、死体を片付けに出されたということを一度だけ話したことがある。 この年代は長命な人が多いのか、当時の部隊の仲間で今だに旅行をしておる次第。 まったく長生きはするもんだね。
うちのばあさん尖閣諸島関連のニュースが流れる時 ゴミ溜めのハエを見るような目で見てるよ 恨み言しか浮かばないから今じゃあのニュースになるたびTV消してる 自分がそういう関連の話をするたびばあさんは 「気分悪くなるから聞きたくない」といつも止めるんだけど この間じゃあばあさんは悔しくないのか聞いたら 「品性の無い人種にまともに相手してやるのはこちらの品格を落とすだけ。(悪口合戦になるのが見え見えだから) だからあんたも自分から相手を罵るのはやめなさい。 でも慰安婦とか南京虐殺とか真実は違うのに、自分で日本を悪く言う日本人がいるのは悲しい」 って、初めてこの間ポツリと話してくれた 戦後の在日を見てるから中韓をよく思ってないのは知ってたけど 慰安婦が奴らの大嘘だって知ってたのにもちょっと驚いた きっと心の奥に押し込めてあるだけで本当は色々と言ってやりたいことあるんだろうな・・・
南京攻略とか満州事変のときに提灯行列をしてはしゃいでいた世代はそうなんだろうな 沖縄だって、もともとは日本じゃなかったのにねw
チベットもウィグルも、もともとは中国じゃなかったのにねw
慰安婦が大嘘ってのは「従軍慰安婦という名前じゃなかったから」云々の戯言の話か。
「朝鮮半島から強制連行された性奴隷」なぞ存在しないという話じゃないのか
慰安婦の被害者が名乗り出ているのに、そんなこと言うんですかw
↑偽装GIFだけど、そんなに怖くなかった…つか、むしろワラタw
>>858 2ch見始めた頃を思い出して懐かしくなった
862 :
名無し三等兵 :2010/10/02(土) 08:03:16 ID:pfqXbFZ2
慰安婦の給料て多い奴だと、今の価値で5、6千万円稼いだらしいな たった一年でさ
ほぼ親が女ぜんに売り飛ばしたようだな・・。
その字は冗談なのか?
>863 にょぜん→単語一括変換不可 じょぜん→単語一括変換不可 おんなぜん→単語一括換不可 めぜん→愛ぜん おなごぜん→女衒 読めた!
ぜげん て読むんだお( T_T)\(^-^ )
>>862 今の価値で?
慰安婦の給料は軍票だ
額面がいくらになろうと、今の価値ではタダの紙切れにしかすぎんよ
現代の高級ソープ嬢は年間幾ら位稼ぐんだろうな?
身体精神が丈夫ならもうちょっとあるだろうが500も稼げれば上等だろう。それも一年保つかどうか。
当時の慰安婦の収入は陸軍中将(少将かも)より 多かったって話は聞いたことがある。
稼いだ分は取られて行くようになってんの。タコ部屋みたいな仕組みだから。
>>869 年収500万?
意外と少ないんだね、なのになんでソープはあんなに高いのだろうか?
月収だろ
874 :
872 :2010/10/02(土) 18:10:46 ID:???
だよねー 心身共に削ってる割に「やっすー」と思ったが そんな筈ないわな 納得、納得。
風俗嬢の生涯年収なんてわずかだよ、実質4〜5年だからな。 そのうち稼げるのは1〜2年じゃないのかな。劣化が激しいし、劣化したら高級店は入れない。 高級店に入れても客を付けてもらえないと収入無いんだよ。
>>871 そりゃないだろ
故郷に金送って、立派な屋敷を建てた慰安婦多いらしいから
慰安婦で蔵建てた? 俺は伝説のたぐいとおもう。もちろん仕送りした娘は居ただろう。まあソースキボんぬだな。
兵隊向けの慰安所は一日に2,30人相手させられたなんて言うからな 今より一人あたり単価が安かったとしても数こなす分稼げそうだ
いや、慰安婦とやらの給料は当時の日本軍の百倍でry
20歳で召集されて大陸行ったうちのじっちゃんも、もしかしてそこで童貞卒業したのかしら… 帰って来てから、うちの婆ちゃんと結婚して10人子供作ったw
>>872 店が取ってるからに決まってるでしょ。
キャバだの風俗だのは皆そうだよ。
心身共に削ってるのに給料安い仕事はいっぱいある。
そういやどっかの遊郭だかにいた女の人の手記かなんかで、もうすぐ特攻に出撃するとか言う人が「死ぬ前に男になっとけ」と上官に連れられてやってきたが 「自分はきれいな体のまま死にたい」と結局手を握って母を思い出す以上はしなかったとかいう話があったな お前らももっと童貞に誇りをもてよ?
>>878 >兵隊向けの慰安所は一日に2,30人相手させられた
手コキとか素股じゃなくて本番でかよ…壊れちゃうだろJK
たとえ本人が望んで就職したにしてもひどくね?
水木しげるの漫画でもピー屋の前に行列ができてたな 別に行きたくないという兵士になぜか行けという上官 しかも部屋に行きつく前に「もう無理」って言われて歌でお別れ
日に何十発受けてても、運が良くて、なおかつ精神と身体が丈夫なのは帰ってこれたわけだろ。 慰安婦はネトウヨの聖域だからそっとして置いてあげな。
今年90になる俺の爺様は、若い頃は帝国空軍の少佐で南海上にて30の航空機を 率いて米グラマン100を見事撃墜したと話してくれた。 そんな祖父がを、俺は心から誇りに思う。
キャッチャーボートでアジを狙うような豪快な釣りだなw
>>883 昔豊田穣の小説に「慰安婦はお女郎よりも下」なんて台詞があったのを思い出す
南方で慰安婦やって帰ってきた人が観音様建てる話もあったっけ
兵隊さんと一緒に玉砕した慰安婦も居たとか謂う話を何かの本で読んだ 兵隊さん「ここはもう駄目だから外へ逃げろ!」 慰安婦 「ここで兵隊さんと一緒に死にます!」 こんな感じだったのだろうか?
ビルマの菊兵団か龍兵団の戦記にそんな話があったかな。 もっともそんな耳触りの良い美談じゃないぞ。 こんな前線近くにまで一緒に来て大丈夫かと慰安所だか女郎屋だかの経営者に聞いたら 「日本軍はこれまで負けたことが無いから大丈夫」と言って付いてきた。 もちろん部隊は潰走して後退するのだが、その途上で幽鬼のようなボロボロの姿になった女を見ましたとさ。 当然構う余裕なんか誰にもないからその後の消息は不明だが、おそらく死んだのだろうよ。
891 :
名無し三等兵 :2010/10/03(日) 17:51:43 ID:sRHpcla/
当時使われていたコンドームはたしか突撃一番だよな
>>889 映画・大日本帝国 でそんな場面があったような記憶が。
>>886 もうちょっと詳しく聞きたいなその架空戦記
なんだつまらないな。 シベリア抑留で親しい戦友を売って先に帰国した奴や、元関東軍でソ連参戦 したから満州移民を放置して逃げてきた奴や、広島・長崎で廃墟跡で火事場 泥棒した椰子とかいないのかね? 憲兵隊で非国民をでっちあげてノルマ上げてたせいでいまだに軍人年金もら ってる椰子とかもいるじゃん。
中国にいた拉孟守備隊でも最後の籠城戦で女のひと残ってたらしいね
既に亡くなった祖父は、「扁平足だから兵隊に行かなくて済んだ」と言っていましたが、本当ですか? 終戦時で、たぶん35歳くらい。出征するかわり、王子の工場あたりで働いていたらしいです。
扁平足はどうかなw 自分の祖父は右腕に大怪我をして障害が残り、肩より上に腕が上がらなくなったので 戦地には行かずにすんだらしいが
家庭事情などなどで行かなくて済んだ人もいたそうだ。 逆に町内の仲が悪く、通常なら徴兵から外されるような中年が徴兵されたというのを聞いた事がある。
うちの爺さんはチビ過ぎて戦争行かなかったみたいだけど、 流石に大戦末期には召集令状が届いて、こりゃ二度と帰れぬ南方送りだなとガクブルしてるうちに終戦w
うちの爺さんも身長が足りなくて行かなかったそうだ。 でもその弟さんは支那事変勃発直後に召集、一度除隊で帰ってきたがすぐに再召集され 終戦後シベリア抑留。 昭和23年になってようやく帰還できたという不遇の人だった。 俺が高校生の頃に亡くなってしまったので詳しい話は聞かずじまいだったが、 「俺には青春時代というものはなかったよ」と、しみじみと語っていたのが印象的だった。
>>897 偏平足で思い出した。
ジェイムスサーバーの短編集で、
「偏平足のため兵役は免れた」という話があったよ。
偏平足って、兵隊さんは務まらないのかな。
偏平足は歩行に適さないと考えられていた。 なので義務兵役であるけれど、全員が徴兵されるとは限らない国ではあり得る。
爺ちゃんが抑留者というか英国の捕虜だっただけど、ソ連に抑留された人たちとは関わらないらしい 翁『同じ抑留者でもソ連に抑留されたものとは絶対に口をきかない あれはもう同じ旧軍人ではないよ』 昔その意味が分からなったけど今日ようやく意味がわかったよ
人の嫌がる軍隊に志願で入った人間はともかく、徴兵されて後シベリア抑留された人は一層気の毒だな。
くわしく。
>>907 長文になるが…
ソ連に抑留それた人はソ連各地で過酷な強制労働された
労働環境も生活環境も過酷であった
ここまでは、当たり前のことで既出
問題は、ソ連は捕虜に対して共産教育を施した
過酷な生活な環境で洗脳的に行われた共産教育のお陰で、復員兵の中に共産主義者が生まれた
日本に帰国した共産主義者の抑留者は各地で共産運動を展開したから
GHQはこのことを恐れていた、しかしGHQ占領下では赤狩りが行われていたため共産主義が根付かなかった
そこでソ連はGHQが撤退したあと捕虜を帰国させることで日本の共産化を謀ったな
特に高級参謀などには徹底した共産教育を行いソ連のスパイとして使っていた
俺の爺ちゃんは天皇を排除する共産主義が嫌いだったから、共産教育を受けたかもしれないソ連の抑留者との接触は避けたと思う
爺ちゃんの同郷の同級生にシベリア抑留者がいるが、死ぬま爺ちゃんは会うなかった
部落でもシベリア抑留の人達はすごい差別を受けていたらしい…
有名な事件でラストボロフ事件があるよ…
悲しいね…
誤字すまん パソコン不得意だから
どっちかというと日本に共産主義者が根付かなかったのは、GHQや日本政府の影響じゃなくて 正にシベリア抑留で辛酸を舐めた抑留者が、ソ連とそれに媚びへつらった一部の捕虜に 抜き難い嫌悪感を抱いたのが原因だけどね。 そりゃあちらの教育だのは皆受けさせられたが、それで多くがどうこうなるわけじゃなかった。 爺さんは同級生に会わないで勿体無いことをしたな。
>>910 当時はシベリア抑留者=赤化認識が変に広まっていたんだと思うよ
だから差別されていたらしい
シベリアで死ぬ目に会って帰ってきたら差別されて まあ日本人の国民性はアレだね
赤に染まった捕虜にも酷いのがいましたし・・・ 帰還船から「消える」事もあり・・・
赤で無くても酷いのは居るわけなんだよね
戦時中に威張ってた上官やら古参兵が仕返しを受けるのは各戦線で共通してる。 それだけ酷いのが居たんだろうな。
うちのじいさんは少尉だった 鉄拳制裁を受けたことはもちろんあるが 自分の鉄拳を振ったことはないと言っている 小隊長だから先頭に立って敵機からの爆撃の中を出ていったのに 後からついてくると思った部下たちが壕の中に隠れていてイヤんなっちゃったよ と今でもボヤく江戸っ子
昔・・・媒体を思い出せないんだが読んだことがある。 シベリアからの復員船、乗船開始から故国が見えるまでの間は、収容所と同じく プロパガンダの嵐、つるし上げ(なんだっけ?)捲りだったそうだ。 入港したら、そのまま警察だか市役所だかにデモ行進掛けると息巻いて。 でも、入港したら。みんな、パーッと故郷に直行!だーれもデモなぞしなかったと。 捕虜同士が、互いに信用なぞ出来ぬまま、フネに揺られていたんだろーね。
「洗脳されたふり」してた人は多いだろうね。 疑心暗鬼で。 何年もたってから「もう大丈夫だ」と思えるようになったかも。 苦しかっただろうな。
>>910 うちの親戚でシベリア帰りの人がいたが、その人は予備隊ができてすぐの頃に入隊したらしいよ。
ただ、身内に話してなかったらしくあとで騒動になったらしい
生きて帰ってきたのにあんなところに入ったら朝鮮に送られる!って
アカだ反共だ以前に農家の次男以下は居場所もなかったろうからとおもっている
結局身内の伝手で蚕糸関係の工場で働いていたけどそこも蚕糸産業の
壊滅で倒産していろいろ大変だったらしい
親父のところに毎年直筆の年賀状が届いてくる
>>918 船がソビエトの港を出るまでは赤い連中は強い。
が、岸を離れると日の丸組が息を吹き返して、赤い連中を吊るし上げるなんていう船もありました。
そのまま海に放り込んだ事もあったそうな。
>>921 アーロン収容所にも似たようなエピソードはあったな
思い当たる節のある士官は船室に閉じこもって一人では決して出ようとしなかったとか
三波春夫さんがシベリヤで大分赤化されたと自身が仰ってましたね 帰国して浪曲士に戻ったけど浪曲の内容が何となく政治臭くてうけなかったと
染まる奴は染まる 反発する奴は反発する 変わらない奴は変わらない
925 :
名無し三等兵 :2010/10/05(火) 22:26:12 ID:cgUZplhD
おじいさんじゃないけど、母の姉の話。 大戦当時は女学生で、姫路の小さい造船所で主にモーターボードのペンキ塗りをしていた。 姉の許婚は、広畑製鉄所勤務。 終戦間近、造船所は空襲警報が鳴らないままグラマンの編隊に襲撃され壊滅。 多数の死傷者が出たが、姉は逃げる途中にどぶに落っこちて助かったとか。 許婚の方は、空襲警報があったので付近の山に退避。 B29による本格的な爆撃で、高射砲が迎撃したが、届いていなかったとか。 あと姫路に川西航空機があるのに、なんで迎撃機が飛ばないんじゃと怒っていたらしい。
総括だ!思い出した。 某マンガの一節「日本兵は平気で仲間を売るからな(信用できねえ)」 いろいろ考えさせられる。
>926 滝沢聖峰の「幻の豹」収録の「ウクライナ混成旅団」だったっけ
漏れの爺さんは海防艦144号と駆逐艦「菊」に乗ってて両方とも撃沈されたが生き残った。 どっちがどっちか忘れたが、飛行機と潜水艦にやられたそうだ。
930 :
名無し三等兵 :2010/10/06(水) 06:27:04 ID:oDV9dg+w
このスレって五人くらいで回ってそうだよねw 毎回新しい話考えるのも大変でしょう?w
931 :
↑ :2010/10/06(水) 06:35:57 ID:TrmhvYBE
うちの、おじいは近衛兵だった、終戦の日は大島でザンゴウヲ掘っていた 東京にいた部隊は大変だったらしい、も〜死んでいるので、それ以上聞いていない。
本人ならともかく、家族の体験談なんて、そうそうあるもんじゃない
>>931 終戦時に大島(伊豆大島?)に居たというなら、それは近衛連隊ではないんじゃ?
近衛師団に在籍したことは有るというなら分かる。
祖父じゃなくて大叔父の話だが 大叔父は召集された後にインパール作戦に従軍したが 作戦開始直後に膝に被弾して後方送りになり、地獄のインパールから生還することが出来た 終戦後もしばらく軍の病院に入院したあとに復員したのだが、家族や近所の人たちは大叔父が戦死したものだと思っていたらしく 家に帰ってきたら「○○(大叔父の名前)が化けて出たー!」と大騒ぎになったとか この直前、俺の祖父は友人と一緒に闇市から帰宅したところで、家族に「さっきそこで兵隊さんを追い越してきた」と話していたのだが 祖父が見た兵隊さんは大叔父のことだったという(夕方だったため顔までは分からなかったとか)
>>927 ご名答! あれの参考資料のなかに、そういう記述があるんだろうな。
937 :
名無し三等兵 :2010/10/06(水) 18:41:05 ID:q2a8z0P6
テスト
>>934 すごい幸運でしたね。
私の亡くなったじいさんばあさんも満州開拓団で、
双方が双方とも死んだものと思っていたが、
ハルピンで双方が夢だと思ったと言っていました。
大陸で百人斬りに挑戦した椰子はいない?
いませんので、さっさと祖国にお帰り下さい
>>939 通州事件で残虐非道の限りを尽くした中国人はいない?
942 :
名無し三等兵 :2010/10/07(木) 19:40:38 ID:qcUnKRUL
俺が生まれてすぐ亡くなった祖父の従軍の話を祖母にしてもらったが、 ・出征先は中国 ・ロバに乗っていた ・こっちの銃は単発なのに、相手はマシンガンの様に撃ってきた この戦争は勝てないと思っていた ・1944年3月帰還、除隊 ぐらいだった。
>>939 あれは、取材の記者に戦意高揚とかいわれて、ほらを吹きまくっただけのガセネタ武勇伝だからね。
>>943 たとえホラだったとしても、本人がそう「自白」したことは認めるんだなw
じゃあそれが元で処刑されても、自業自得の自己責任でしかないわなw
別に数を百人斬ってなくても捕虜の殺害自体は、本人が戦中に知人への手紙で書いてたり証言してるからね。
捕虜の殺害ならどこの国の軍隊でもやってるわな 一般市民の殺害もどこの国の軍隊でもやってるわい
だからその容疑で捕まって、証拠が出てきたので有罪になって処刑されるのは別に不当でも珍しくもない。 何処の国の軍隊でも有ることだ。
そうだな。外道な行為なのには違いないが
捕虜は捕虜でも、武器も制服も捨てて逃げ隠れしてた 便衣兵だがな。つまりゲリラ。当時の国際法でも、 ゲリラは裁判なしで即刻処刑がデフォ。
そんな国際法は無いし、日本軍の記録に「平服を着た兵隊が攻撃してきた」とか 「便衣兵だから処刑した」という記録は無い。 「敗残兵を処理した」、「掃討した」とかしか書いてない。 後、兵隊がただ平服着てるだけで、おまけに武器も捨ててるんじゃ便衣兵にはならないから。
爺さんは元海軍信号兵。 今は自分の小舟で漁師をしているが、 海の上では海軍の仲間と手旗信号で会話していた。 手を大きく広げないで胸の前で「手旗を書く」。 爺のくせに、その時ばかりはカッコイイと思った。
最近、娘(中3)が物凄い勢いでミリオタ化しつつある。 で、この盆に実家に帰省した際に祖父(娘から見れば曽祖父)の軍歴について尋ねられた。 「たしか、日中戦争から2回徴兵されて、軍曹でトラック島で20年の6月に戦病死したはず」と答えていたら、母が引出し をひっ繰り返して祖父の遺品を並べてくれた。 確認してみると。出征は3回だし(支那事変従軍賞もあった)、最終階級は伍長(これはもしかして戦死で1つ上がったと かあるのだろうか)だし、戦没地はタラワだしで、あっていたのは20年の6月に戦病死したと言う事だけであった。 子供のころに、今は無き祖母に聞いたはずなんだが、オイラの記憶のいい加減さには笑うしかなかった。 軍人手帳を開いてみたら、祖父から祖母に宛てた、走り書きのような手紙が何枚か出てきた。 どれも、自分が元気である事と、簡単な用事と、最後にほんの付け足しのようにそっけなく「貴女もお体に気をつけて」と それだけなんだが、本当に書きたかった事は、この最後の一行なんだろうなぁ、という事が、ありありと伺えた。 「〜私はこれから南の方へ行かねばなりません。しばらく手紙を書く事が出来ません。貴女もお体に気をつけて」という のが、内容的に最後の手紙だと思われるが、これを見たときは、思わず娘の前で涙を落としそうになってしまい、大いに 困った。 ところで、祖父の手柄話の類は聞いた事が無いんだが、『勲7等桐葉賞』って勲章は、どういう性質の表彰なんでしょうか。 勲7等は、ランクで言うと一番下だよね?
953 :
名無し三等兵 :2010/10/08(金) 21:35:49 ID:SxfUY1Rk
以下 父親の話 小父(存命)はゼロ戦乗りで開戦当初トラック島で輸送機の護衛 していたが 家(横須賀)の近かくに移って後 中島でテストパイロットしてたらしい 飛行機壊すとヤバイからテスパイには それなりに技量あるヤツが任命されてたらしいが ホントかね?終戦直後は「飛行機に乗れなくなる」ってキ○チガイみたいだったってさ 横須賀時代 家に遊びに来てた小父の友人は皆戦死したらしい
954 :
952 :2010/10/08(金) 21:39:24 ID:???
飲みながら書いているので、多分戦没地を間違えているんだと思うが、何処が正しかったかがどうしても思い出せない。 不肖の孫としては、次の帰省の時に、再度確認したい。
軍歴証明取って見れ・・・。
気になるだが、家の婆さんを少しでも楽をさせたいと思って旧軍の年金制度を調べてんるんだが絶望的だわ うちの爺さんは満州に居たんだが、年金って貰えないよう 満州軍、日本陸軍、関東軍か分からないけど年金が貰えない 証明する者も引き上げた時には、肌身一つでなにももってなかったらしい 婆さんの生活は成り立っるけど、苦しいことには変わりないよね
>>953 テストパイロットに技量が必要なのは本当だよ
アクロバット飛行とかもテスト内容にあるし、軍用機ならなおさら
遺族年金のことかそれとも恩給のことか。
>>958 恩給だと思う
婆さんが言うには軍人の時に政府に積立していたお金のことらしい
>>953 テストパイロットは命がけだもの。
秋水(メッサーシュミットMe163)の犬塚大尉とか、さ。
小父さんだって、技量も精神も素晴らしい人なんじゃない?
開戦前から搭乗員で、横須賀に異動ならば空技廠かな。 その後、中島飛行機でテストパイロット。 技量の高さが知れますね。
遺影には、二階級特進後の階級書くの? 親戚、憲兵大尉と、硫黄島戦死の陸軍曹長なんだけど。 内地か外地か知らんが、憲兵で死ぬって、戦死より戦犯としての刑死の方が多いのかね? 他は、満州からギリギリ本土帰還命令で転属になって シベリア抑留をまぬがれた陸軍通信兵だった人とか、 当時の通信兵はそれなりに頭良くなきゃ選ばれなかったんでしょ?
>>963 なるほど助かります
今度婆さんに尋ねてみます
ちなみに靖国に軍神として合祀されるのにも厳然としたきまりがありました。
坂本龍馬も靖国に祀られてるんだっけ?
連合艦隊司令長官だった古賀長官は祀られてないよね。 事故死だったかららしいけど。 でも戦死したわけでもないヒデキ閣下は祀られてるよね。 靖国で祀られるのにどんな厳然とした決まりがあるの? 適当に決めてんじゃないの?
ん、そだよー。
>>967 戦後は事故死した自衛官でも護国神社に祀られたりしてたんだよな
不思議だ
戦前戦中は陸軍省・海軍省認定の戦没者が通知されてる。 戦後は昭和30年代くらいまでは、援護法による戦没者認定の結果が都道府県から横流しされて自動的に合祀されてた。 その後は目立たないと靖国神社が気づかないから合祀されない。
もし現役自衛官が他国と交戦中に戦死したとして その自衛官が「戦死時は靖国神社に合祀をキボン」と書いていたら 靖国神社に合祀されるんだろうか?
>>971 生前、本人の口や書面で「合祀しないでクリクリ」と書かない限り、
勝手に合祀されるというだけのはなし。
973 :
名無し三等兵 :2010/10/10(日) 20:00:59 ID:6ccVqKHO
953です 戦争末期は飛行機も粗悪になってきて、簡単なテスト飛行中にエンジンが火を吹く 事故もあったそうです。僚友の機が火を吹いて着陸したもののコックピットが開かず焼け死ぬ 様を上空を旋回しながら見守るしかなかったって聞きました。 戦後は「あんな地べたを這い回るモンなんて」って言って車の免許はとらないままでした。
末期は粗製乱造でしたしね。 中島の社内テストも大変だったでしょう。
国際基督教大学の本館の下にさ、すんげえ広い地下道&地下空間が広がってるんだよね。 たしか、地下三層だったと思う。 んで、あそこん敷地は元・中島の研究所だったんだよなあ・・・。 何が残されてるんだか。 これ、マジで情報だかんね。
立ち入り禁止になってる?
爺様に第二次世界大戦の時の話をきいたけど、ドイツの捕虜になった、寒い所へ戦争に行ったしか言わない… 寒い地域でドイツ兵の捕虜になる場所って何処かわかる方いますか? ばぁちゃんは痴呆でもうわからないそうで…
>>976 うん、立ち入り禁止で、しかもワザワザいかめしいフォントの英語で
Restricted Area; NO ENTRY
とか書いてある。
一応、大学側で年に一回調査とかはしてるみたいだが。
>>977 それは満州でソ連(ロシア)の捕虜になったの間違いじゃないかと。
それでシベリアや中央アジアの収容所に連行されると、同じく捕虜になったドイツ兵が居たりした。
>>977 連合軍側の方だったんですか?
ナチの収容所も北部ドイツとか
ポーランドに散在していたようですひ・・。
ポーランドのは収容所は収容所でも違うやつのような…。
うちのじい様。 地元で200年ほど続くお店の跡取りであるばあ様と結婚、子供二人が産まれてから赤紙が届いた。 で、出兵したんだけど(どこに行ったのかは不明)その1週間後終戦を迎えた。 だから無事に帰ってきて寿命を全うして亡くなったんだけど 徴兵されたのが昭和20年。 じい様大正6年生まれ。 だから徴兵されたのは30近かったことになるんだけど なぜそんな遅くに徴兵されたのだろう。 今では祖母も亡くなったので誰にも聞けない。
731部隊か?
>>982 末期は年齢関係なく根こそぎ動員だったからだね。
>>982 ウチのじいちゃんは満州開拓団。
満州開拓団は徴兵は免除されていたけど、
終戦三ヶ月前に徴兵されました。
当時、30近かったんじゃないかな?
末期はそんなもんらしいですよ。
>>982 徴兵って一度で終わるわけじゃなくて、現役で入営して期間勤めて予備役になったあとに再召集されることもある。
987 :
982 :2010/10/11(月) 13:56:43 ID:???
>>984-986 なるほどありがとう。
うちの親はじい様が帰ってきてから産まれたから親にも聞けなかったんだけど
末期はそんなもんだったんだね。
他の人のじい様方みたく軍人手帳があるのかすら解らないし、蔵も取り壊してしまったから遺品もないし
じい様が生きてるうちにもっといろいろ聞いておくんだったよ。
うちの母方のひいお爺さん(ニューギニアで戦死)は、階級が兵長だったらしいですが、隊の中でどんな役目だったんでしょう? 二等兵なんかの教育係的存在? 召集されるまで静かな山村で、炭焼きをして暮らしていました。 戦地からたった一度だけ届いた手紙には、故郷の家族を毎日想ってる事と、椰子の木陰で休む兵隊を面白おかしくスケッチした平和な絵、隊では数少ない重機関銃を取り扱っているんだぞという事が書いてあったらしいです。 祖父がまだ国民学校の生徒だった時に召集されたみたいで、戦死の時は30歳過ぎだったみたいです。
989 :
1 :2010/10/11(月) 23:38:29 ID:???
>>988 小隊の中の班長補佐くらいの役割だったみたい
適当にググっただけでなんだけども
>>989 乙です
ごめん、こっちにかけないと思って新スレに先に書いてしまった