561 :
某研究者:2007/06/06(水) 06:50:38 ID:9sKfDRf9
562 :
某研究者:2007/06/06(水) 07:39:01 ID:9sKfDRf9
http://www.m-matsu.com/egypt/study/cleopatra.html >クレオパトラの死後、インドで母親の死を知らないカエサリオンの元に、オクタウィアヌスから使者がやってきました。使者はカエサリオンに向かって言いました。
>「あなたの母上は生きておられます。今すぐエジプトに戻って、一緒にエジプトを再建なさい」 カエサリオンはこの言葉に疑いを持たず、すぐさまエジプトに帰ります。そこでカエサリオンは捕らえられ、命を奪われてしまいます。
>しかし、オクタウィアヌスは、クレオパトラがアントニウスとの間にもうけた3人の子供は、手厚く保護したのでした。
カエサリオンがインドに逃げていたとは
知らなかったが
エジプトに戻らなかった場合は
後でローマの後継者争いに
利用される可能性も有った訳だろうか
563 :
某研究者:2007/06/06(水) 07:54:00 ID:9sKfDRf9
564 :
某研究者:2007/06/06(水) 08:03:35 ID:9sKfDRf9
アントニウスがパルティアに敗れた時点で
クレオパトラもアントニウスを見限らなかったのかだが
パルティアはローマより強いと
考えて居たのかどうかだが
565 :
某研究者:2007/06/06(水) 08:13:55 ID:9sKfDRf9
少しでも勝ち目のある方を選んだから海戦になったんだと思うが。
敵が10倍強い陸戦と5倍強い海戦でどっち選ぶかったら、海しかないわな。
567 :
某研究者:2007/06/06(水) 17:23:45 ID:3lTP/ma5
568 :
某研究者:2007/06/06(水) 17:30:56 ID:3lTP/ma5
http://homepage3.nifty.com/odyssey/31c8c001.html >オクタウィアヌス軍は、歩兵7万、騎兵1万2千、名將アグリッパが4百隻の艦隊を指揮した。アントニウス軍は、歩兵10万、騎兵1万2千、5百隻の艦隊を率いた。
陸戦でもどうにも成らぬ様な兵力だったのかどうかだが
>春になると、島々を占領し、アンブラキア湾を包囲した。味方からは、トラキア王らが離反した。陸上戰に持ち込んでも、勝ち目はなかった。生き残る道は一つ、敵の包囲網を突破して、脱出することであった。
この段階では無理だったのだろうか
(海戦が得意なアグリッパ相手に海で戦うよりは
陸で戦った方がましと言う事は
無いのかだが)
569 :
某研究者:2007/06/06(水) 17:36:42 ID:3lTP/ma5
>姉アントニアは、ドミティウス・アエノバルブスと結婚した。妹アントニアは、皇妃リウィアの子ドルススと結婚した。妹アントニアからクラウディウスとゲルマニクスが生まれ、
>ゲルマニクスからガイウス(カリギュラ)が生まれた。ティベリウスの死後、カリギュラは第3代皇帝となり、クラウディウスは第4代皇帝となった。
>姉アントニアの子、ドミティウス・アエノバルブスは、ユリア・アグリッピーナと結婚した。アグリッピーナから、ネロが生まれ、第5代皇帝となった。
>アントニウスは、エジプトで非業の死を遂げたが、その末裔は、皇帝となり、ギリシア文化を愛し、比類なき生を繰りひろげた。
アントニウスの子孫は何人もローマ皇帝に成って居る様だが
余り良い者は居ない訳だろうか
571 :
某研究者:2007/06/06(水) 19:26:33 ID:3lTP/ma5
572 :
某研究者:2007/06/07(木) 01:21:00 ID:zmyUFJO6
共和制が科学文明成立の条件等と言う様な
ゲームも何処かに有ったかも知れぬが
共和制のローマよりイスラムの方が
科学は進歩している訳だろうし
此れは果たして正しいのかだろうし
帝政ローマと共和制ローマ何れが
経済を進歩させたのかどうかだが
無能な皇帝が出て来る確率と
衆愚政治が行われる確率とでは
何れが高いのかと言う事だろうか
573 :
某研究者:2007/06/07(木) 07:50:36 ID:zlOr4vMo
574 :
某研究者:2007/06/07(木) 09:13:45 ID:zlOr4vMo
まあしかしアントニウスが勝利しても
アウグストゥス以上の政策は
行えたのかだろうし
共和派等に暗殺される可能性も
有ったかも知れぬし
クレオパトラを良く思わない勢力も
ローマには多い訳だろうか
(例のクレオパトラに東方領土を与えると言う
遺言等を取り消さねば
可也の反発を招くだろうし
領土を与えぬとすればクレオパトラと戦う羽目にも
陥るかも知れぬが
後者の方がリスクは少ない訳だろうか)
575 :
某研究者:2007/06/07(木) 09:55:57 ID:ejW+/oDE
576 :
某研究者:2007/06/07(木) 10:32:40 ID:ejW+/oDE
577 :
某研究者:2007/06/07(木) 10:36:33 ID:ejW+/oDE
http://www37.tok2.com/home/tourfortwo/iran/iran08.htm >アレキサンダーは、部下がキュロスの墓を暴いたのを憤り、犯人を見つけだして死刑に処したという。墓には「我つとに汝の来らんを知れり。我はペルシアを統治せしキュロスなり。
>我をつつむ僅かなる土を嫉むことなかれ」の文字があった。キュロスは、やがて墓荒らしにやってくるであろう者に、暴かずに静かに眠らせてくれと、請うているのであった。アレキサンダーは無常を哀しみ、
>あらためてキュロスの言葉を、ギリシア語で彫りこませたという(『プルタルコス英雄伝』)。
>イスラムの襲来にも、この墓はのこった。ギリシア語の功ではない。その後ソロモンの母の墓だという伝説ができて、ソロモンを尊ぶモスリムが、敬して侵さなかったのだそうだ。
部下が勝手に暴いた訳だろうし
アレクサンダーは此れを修復させて居る訳だろうか
http://ikokunotabi.web.infoseek.co.jp/iran2/iran28.htm >アレキサンダー大王はキュロスを尊敬していたのでこの地を征服したとき墓を荒らしてはならないと命じている。
アレクサンダーはキュロスの墓を破壊するなと
命じていた訳だろうか
578 :
某研究者:2007/06/07(木) 10:57:47 ID:ejW+/oDE
579 :
某研究者:2007/06/07(木) 11:07:23 ID:ejW+/oDE
http://japonikkla.exblog.jp/3970489/ >歴史上、最初の人権宣言が紀元前539年という大昔に、初代ペルシャ帝国皇帝のシウルス大王(注:イランではクロッシュ、日本ではキュロス大王と呼ばれてます。)によってバビロン陥落後、バビロニア人の権利と福祉を保証する為に公布されました。
>「被征服民族の伝統、文化、宗教を尊重し、いかなる統治者や下臣もこれらを見下したり、侮辱したりしてはならない。」
>(この人権宣言の銘板は1971年にイランから国連に寄贈され展示されているそうです。)
>ところで、ペルセポリスにある階段に彫られているレリーフには皆が微笑み、手をつないで歩いている姿などが描かれ、それらは人間の幸福を強調しているとの事です。
>また古代ペルシア人にとっては、統合、和というのがメインの考えであり、そしてそれぞれの多様性の共存の中にこそ、強さを得ることができると信じていたそうです。
と有るし
スパルタやギリシャにはこの様な考えは
持ち得たのかだが
ペルシャも奴隷は何処迄解放されたのか
どうかだが
580 :
某研究者:2007/06/07(木) 11:22:41 ID:ejW+/oDE
581 :
某研究者:2007/06/07(木) 11:33:39 ID:ejW+/oDE
http://blog.ohtan.net/archives/50819251.html >アレキサンダー大王は、ギリシャ諸都市を征服した後、弱体化していたアケメネス朝ペルシャを前330年に滅ぼすが、アレキサンダーのやったことは、
>古典ギリシャ文明とより重要な古代ペルシャ文明という二つの文明を破壊した蛮行にほかならなかった(注11)。
>なお、アレキサンダーの征服した版図は、古代ペルシャのかつての最大版図の一部に過ぎないことからすれば、アレキサンダーの大征服なるものは、古代ペルシャの二番煎じにも値しない代物だ。
アレクサンダーも結果的にはペルシャ帝国を破壊して
中東を混乱・分裂させただけと言う事も
有る訳だろうが
長生きしていたら其の限りでは
無いかも知れぬが
582 :
某研究者:2007/06/07(木) 12:29:13 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200703280002/ >ペルシア帝国がギリシャ征服に失敗した背景には、説明が難しい問題が残っており、現代の研究家はなぜ彼らが勝利したか、逆に言えば、何故ペルシアが敗北したか答えを出せないでいます。
>当時のペルシア軍は、戦術的な柔軟性とバランスのとれた構成を取っており、士気も決して低くありませんでした。
>有力な騎兵戦力を駆使すれば、単純な密集戦法しか出来なかったギリシャ歩兵に敗北する要素がありません。
>おそらく敗因はギリシャ側にではなく、ペルシア側内部に何らかの事情が発生したためであろうとしか推測できないようです。
>決戦であったプラタイアの戦いは、史料を基に再構成してみると不自然なことばかりです(ペルシア側30万とも言われる兵力自体が疑わしい)。
歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが
騎兵に関してはどうなのかだが
騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が
マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが
583 :
某研究者:2007/06/07(木) 12:30:01 ID:ejW+/oDE
http://plaza.rakuten.co.jp/goraemo785/diary/200704180000/ >ギリシャはペルシアから見れば田舎であり、偏狭の敵対的な勢力の一つでしかなかった。ペルシア戦争も辺境の一紛争でしかなかった。
>何百万も派遣したと言うのは勿論虚構で、実際には帝国全軍を投入した戦いではなかった。戦役全体では、両者の実戦力は、ほぼ互角か、
>総動員をしていたギリシャ側の方が上回っていた可能性が高い。
>当時帝国最大の敵は北方の遊牧民であるスキタイ諸族であり、遠距離戦闘を重視した帝国の防衛組織も、彼らを考慮したものであったようである。
>ギリシャは自分たちの自負とは裏腹に、戦争好きの野蛮な困った人々と帝国支配層には思われていたであろう。ペルシア戦争は、いわば危険な辺境住民、蛮族に対する防衛的な戦争であった。
ペルシャ側の兵力が余り多くは無く
蛮族支配の為では無く
牽制の為に差し向けた少数兵と言う可能性も
有る訳だろうか
(ギリシャ等生産性の低い土地等支配しても
余り価値は無い訳だろうが
蛮族同士で戦わせようと内紛を起こそうとしたら
失敗したので兵を投入して牽制・或いは親ペルシャ勢力を
増やそうとしたと言う事なのだろうか)
584 :
某研究者:2007/06/07(木) 12:50:37 ID:ejW+/oDE
585 :
某研究者:2007/06/07(木) 12:55:02 ID:ejW+/oDE
>>570 すごいサイトだね。あなたは素晴らしいね。
587 :
某研究者:2007/06/07(木) 21:58:07 ID:zjFyToL2
>歩兵はギリシャの方が恐らく上だろうが
>騎兵に関してはどうなのかだが
>騎兵を封じられれば相手が倍程度でもギリシャの歩兵が
>マラトンの様に勝つと言う事は無いのかどうかだが
プラタイアではギリシャ10万・ペルシャ20万だから
騎兵を封じれば十分勝てる兵力な訳だろうし
騎兵を完全に封じず共突撃を正面に限定すれば
勝てたと言う可能性も有る訳だろうし
カエサルも短槍で騎兵を封じていた訳だろうか
588 :
某研究者:2007/06/07(木) 22:04:53 ID:zjFyToL2
589 :
某研究者:2007/06/07(木) 22:22:11 ID:zjFyToL2
http://mp.i-revo.jp/user.php/ufuxjvlm/entry/132.html#bbs >彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。
>「彼等が最強だったから」
>彼等は、当時、多くが小規模だった都市国家としては異例の巨大な領地を持ち、正市民1万人(18歳以上の男子のみ認められる)に対し、25万人という恐ろしい量の奴隷を所持していた国家でした。
>なぜ、数の少ない彼等が、25倍の人数を誇る奴隷を統治できたのか?
>その理由はただ一つです。
>「彼等が最強だったから」
奴隷の比率が此れ程多かったとは知らなかったが
ギリシャの奴隷は市民と同数程度だっただろうか
>300人で2万人を殺したんだから、一人当たり約67人を倒したことになります。
2万人は負傷者込みと言う事は
無いのかどうかだが
590 :
某研究者:2007/06/08(金) 05:31:16 ID:39M+uoMp
591 :
某研究者:2007/06/08(金) 05:48:56 ID:39M+uoMp
大陸の弓の両端のそりが何のためなのか疑問だったけど、動画を見てやっとわかった。
弦の耳(って言うのか?)を傷めないための振動ダンパーというかストッパーなのね
593 :
某研究者:2007/06/08(金) 23:17:59 ID:dXNtyJkD
ギリシャ・スパルタも
ペルシャに奴隷を解放される事を恐れて
戦ったと言う事は無いのかだが無いのかどうかだが
594 :
某研究者:2007/06/08(金) 23:35:23 ID:dXNtyJkD
595 :
某研究者:2007/06/08(金) 23:53:03 ID:dXNtyJkD
596 :
某研究者:2007/06/08(金) 23:56:30 ID:dXNtyJkD
イスラム台頭が無ければ
モンゴル侵攻迄平和は保てたと言う
可能性は無いのかどうかだろうし
モンゴル帝国の誕生は必然では無いなら
下手をすると現代迄巨大なペルシャ帝国が残って
平和を保てたと言う
可能性も有る訳だろうか
597 :
某研究者:2007/06/09(土) 00:01:11 ID:h4/rYOJq
紀元前500〜現代迄
2500年もの間戦争の殆ど無い
巨大なペルシャ帝国が
存在し得たと言う可能性も有るだろうが
インドや中国を統合出来た可能性は
有るのかどうかだが
P
599 :
某研究者:2007/06/09(土) 01:30:10 ID:h4/rYOJq
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2005/051202.html >そして前412年にはペルシアの使節がスパルタを訪れ、スパルタにとってのペルシア戦争を終わらせ、逆にアテナイに対する戦争を協力する協定を結んだ。
>ペルシアはスパルタに対して資金援助を惜しまなかった。苦境に貶められたアテナイでは前411年に「400人会」の寡頭制によって民主政が一時倒壊されるも、すぐに民主政に回帰、軍事的にも復調の兆しを見せるが、
>ペルシアの莫大な資金には所詮敵うはずもなく、前405年にはリュサンドロスによってアテナイへの食糧輸入路であるヘレスポントスを抑えられ、翌年アテナイはスパルタに降伏する。
>その後アテナイは、スパルタとペルシアの戦いの際、ペルシア側につく事となる。アテナイの軍人がペルシア海軍を率いてクニドスでスパルタ海軍を打ち破ったり、
>アテナイとテーベが結んで「コリント戦争」起こしたりするなどし、前386年にペルシアに有利な「大王の和約」を結ぶのにアテナイは一役買った。その戦争でスパルタが衰退する一方、アテナイはペルシアの資金で長城を修復し、
>ペイライエウスを要塞化した。それと共に一時失っていた海外領のレムノス島、インブロス島、スキュロス島の所有が認められた。
ペルシャ戦争後はアテナイやスパルタは
ペルシャと同盟して互いに
戦って居る訳だろうし
ペルシャも両者の離間を待ってから攻めた方が
良かったと言う事かも知れぬが
600 :
某研究者:2007/06/09(土) 01:55:09 ID:h4/rYOJq
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Histoly_25_28.html >アテネの復興に脅威を感じたスパルタは、ペルシアに和解を申し込む。
>その結果、ペルシアにより 「大王の和約」 が強制され、コリント戦争は終結。
>小アジアのギリシア人は、ペルシアに売り渡されました。各ポリスは
>自治独立の美名のもと、小国にとどまることになりました。この和約により実利を得たのは
>ペルシア。そして条約実行の監視役となったのがスパルタでした。
ペルシャがアテナイ・スパルタを消耗させる為に
戦争に上手く介入したと言う可能性も
有る訳だろうが
危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は
出来なかった訳だろうか
601 :
某研究者:2007/06/09(土) 02:48:45 ID:h4/rYOJq
>危険なマケドニアを彼等を利用して上手く牽制は
>出来なかった訳だろうか
無能なダレイオス3世にこの様な真似は
出来無かった訳だろうか
602 :
某研究者:2007/06/10(日) 05:07:05 ID:TYrr9Je1
http://d.hatena.ne.jp/njf/20070520 >自分に反対する人々にも寛容で「私が自由にした人々が再び私に剣を向けることになるとしても、そのような事には心を煩わせたくない。
>何ものにもまして私が自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている」と言い、
>実際自分が許した人々によって、次の巻の最初でカエサルは暗殺されてしまうわけですが、いったいカエサルが後10年生きていたらどれだけローマが発展しただろうかと考えざるを得ないです。
カエサル死後三頭政治を行った
反共和派は元老院の反対勢力を可也抹殺しているし
アウグストゥスは此れが無ければ
直ぐに暗殺されていたと言う事は無いのかだが
カエサルが後10年生きて居たとしても
アウグストゥスと同様の政策を行ったのみと言う事は
無いのかだが
603 :
某研究者:2007/06/10(日) 06:47:53 ID:TYrr9Je1
604 :
某研究者:2007/06/10(日) 07:23:01 ID:TYrr9Je1
605 :
某研究者:2007/06/10(日) 07:57:55 ID:TYrr9Je1
http://kobe.cool.ne.jp/taniteru/gan_49.htm >キュロス大王の事跡はあまり広くは知られていない。しかし、オリエント世界はむろん、世界の歴史に果たした、個人としての影響力はアレクサンダー大王を遙かにしのぎ、ジンギスハンに迫るものがある。
>個人、つまり一人の英雄が歴史に直接影響を与えるのはまれである。
アレクサンダーはキュロスの模倣だろうし
モンゴルは破壊的な部分が
多かったかも知れぬが
サーサーン朝は宗教弾圧は
行って居た訳だろうが
キュロスの時代には無い訳だろうか
606 :
某研究者:2007/06/10(日) 08:21:12 ID:TYrr9Je1
http://www3.ocn.ne.jp/~mknight/AoE/aoe_html/peruperu.html >交通網の重要さに初めて目を付けたのもペルシア帝国でした。「王の道」と呼ばれる帝国の主要幹線道路は全長2575kmにおよび、これらはほとんど全てが舗装されています。
>道路の要所には中継所を置き、伝令や旅行者のための馬小屋や宿泊施設を整えました。これにより早馬90日の行程を一週間に縮めたと当時の記録では残されています。全国に張り巡らせた舗装道路は帝国内での移動を劇的に変化させたのです。
>「全ての道はローマに通ず」ってあのことわざは、もともとはローマではなくペルセポリスなんだそうです。
ローマ帝国がペルシャの道路網を
模倣したと言う事なのだろうか
>神に仕える神官達はマギ(Magi)と呼ばれ、これは魔法のMagicの語源となったと言われています。
ゾロアスター教の神官が
魔法の語源と成って居た訳だろうか
607 :
某研究者:2007/06/12(火) 06:51:45 ID:bw/gAm0z
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88269&servcode=400§code=400
>「カルタゴの名将ハンニバルとの争いで毎度負けてばかりいたとき、ローマがどのようにしたのか思い浮かべる必要がある。
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。代わりに指導層が自ら最前方に出た。ハンニバルにローマの執政官10人が犠牲となった。エリートたちが自ら国を守るという志を果たしたのだ
彼等を徴用しても勝算は無いと考えたと言う
事は無いのかだろうし
不満が高まって親ハンニバル勢力が台頭するのを
恐れたと言う事は無いのかだが
ローマよりキュロス大王やアレクサンダーの政治の方が
同様の世界帝国である
ロスチャイルド新大英帝国の一員と成るかも知れぬ
日本には参考と成ると言う事は無いのかだが
>塩野さんは「部下たちの才能を咎める上司がいるが、それは上司の想像力に問題がある」とし「部下の能力を適切に把握して適材適所に、どんな能力でも最大限発揮するようにするのがリーダーに要求される資質」だと言った。
此れを歴史上一番上手くやれたのは
誰なのかだが
608 :
某研究者:2007/06/12(火) 06:54:43 ID:bw/gAm0z
>国家の存亡が危なげな状況でもローマのリーダーたちは兵役の義務がない17歳未満や奴隷、下層民は一切徴用しなかった。
銃では無く腕力を使う戦いでは
ろくに訓練も受けて居ない様な彼等は
正直戦力に成るのかだろうし
戦時でも労働力は必要なら
兵にする意味は有るのかどうかだが
おお、冒険の独演会なんて久々に見たなw