御前会議

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1書記
現実の情勢なんだけど、
ハルノートを受諾してて、
陸海軍が残ってたり、米国と同盟関係だったり、大日本帝国憲法だったり、
国民の軍に対する信頼が厚かったり、
英霊十八万四千柱やらなにやらで大陸に捲土重来を果たしたかったり、
北方領土や周辺の島を取り戻したかったりして、拉致被害者とか、
国際協調とか、
今後の国政の方向性を左右したりしたい会議。


名前欄に、派閥(皇族、陸軍、海軍、内務、外交、他)分かるようにして頼む。
2海軍 大神一郎少尉:2006/02/08(水) 12:37:56 ID:???


誰かまず>>1を翻訳よろ
3名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:38:09 ID:???
3get
4名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:40:56 ID:Ga7Lk6OH
寒鱈ってうまいよね
5名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:46:01 ID:???
鱈より鰤の方がうまいよ
6名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:54:14 ID:???
寒鯖の味醂焼きがうまい
7名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:55:11 ID:???
しめ鯖もいいよね
8名無し三等兵:2006/02/08(水) 12:55:36 ID:???
鰤の照り焼きが最高
9名無し三等兵:2006/02/08(水) 13:03:01 ID:???
おまえかいぎ?
10名無し三等兵:2006/02/08(水) 13:04:10 ID:???
午後になったので終了〜
11名無し三等兵:2006/02/08(水) 13:22:51 ID:???
寿司食べたくなってきた
12名無し三等兵:2006/02/08(水) 13:26:49 ID:???
カッパ寿司でトリノフェアーを開催中です
13名無し三等兵:2006/02/08(水) 13:34:17 ID:???
かっぱ寿司でついでに『ピットロードからニミッツ級発売記念フェア』とかもやってほしいな
14名無し三等兵:2006/02/08(水) 16:36:08 ID:???
やっぱり家で手巻き寿司だろ。
15名無し三等兵:2006/02/08(水) 16:44:42 ID:???
やっぱ寿司っていえば軍艦巻きだね
ネギトロくいてー(゚д゚)
16名無し三等兵:2006/02/08(水) 16:56:51 ID:???
かっぱ寿司行ったことねーよ。
自慢じゃないけどここ数年回らないすし屋でしか食ってない。



まあオゴリのときしか寿司食ってないからと言う理由なんだが。
17名無し三等兵:2006/02/08(水) 17:02:13 ID:???
よくわからないマヨネーズ和えとかイタリアン風の軍艦が
大好きなおいらって・・・

だって安いし
18名無し三等兵:2006/02/08(水) 17:29:27 ID:???
おれもおれもw
100円均一の回転すしとかでもマヨネーズのサラダの軍艦とか食うw

セブンのサラダ巻きとかも好き
19名無し三等兵:2006/02/08(水) 17:31:38 ID:???
サラダ軍艦は採算合わせのぼったくりメニューだぞ?
せっかくOLL100円なんだから高いの食えよ
20(´Д`):2006/02/08(水) 17:37:06 ID:???
(´Д`)でもねぇ、お腹空いてるから、つい、取っちゃうのよ…
ホントはにぎり待ってるのに回って来ないから…。
サビ抜きの皿を確保して、別にワサビを自分でつけちゃう時も…。
21名無し三等兵:2006/02/08(水) 17:41:27 ID:???
100円で一つしか乗ってないやつってどうなの?
22(´Д`):2006/02/08(水) 18:00:34 ID:???
通ぶって取るのも悔しい話タイ。
質より、量。かねぇ。
23名無し三等兵:2006/02/08(水) 18:04:28 ID:???
>>19
いや、300円皿とか500円皿とかが流れてくる中にそれがあると
お得感満載
24名無し三等兵:2006/02/08(水) 18:05:43 ID:???
回転寿司でマグロとトロを食べないおいらは異常か?
ねぎとろだけは食べるけど
25逝け袋キター!愚痴:2006/02/08(水) 20:23:02 ID:???
今はもう無いけど新宿しょん横の回転寿司はカウンターにいた金髪ロン毛だけが日本人で板前に見えたのは厨獄塵でホールはムスリム女だった。
26名無し三等兵:2006/02/08(水) 22:23:34 ID:???
>>25すごいすし屋だな・・・


にしても、寒鰤食べたい
27(´Д`):2006/02/09(木) 01:21:28 ID:???
自動寿司ロボットが握るというか、シャリとネタがチューブから
にゅ〜・・・と出て来て合体。これを容認出来るかどうかで、
今後の東京一人暮らしは決まる。 侍従武官、如何か?
28名無し三等兵:2006/02/09(木) 10:35:54 ID:???
寒鰤くいてー!

ダメだ!我慢できん!朝から食ってくるノシ
29ヴァンツァー厨:2006/02/09(木) 12:49:20 ID:???
この前に銚子に行ってきた時に買っておいた鱈の粕漬けを今夜は食べようと思います。
30島の人:2006/02/09(木) 13:24:07 ID:???
漁港で喰う寿司はうまい。
昼まだやから、港にいってくるわ
31名無し三等兵:2006/02/09(木) 14:50:48 ID:???
寿司なんかもう数年食ってねえよ・・・
スーパーのでもいいから食いたい・・・・・・・
32名無し三等兵:2006/02/09(木) 16:18:31 ID:???
たまごがいちばん好きですがなにか?
33名無し三等兵:2006/02/09(木) 18:10:04 ID:???
おまえさん通だねえ。


だが俺は赤身を食う
34名無し三等兵:2006/02/09(木) 20:29:33 ID:???
海軍って寿司とか出たのかな?
35名無し三等兵:2006/02/09(木) 20:44:57 ID:???
>>34
魚の寿司はどうか知らんが航空弁当には海苔巻きや稲荷寿司が出た。
36名無し三等兵:2006/02/09(木) 22:45:12 ID:???
ここで今日さくら水産で刺身をたらふく食った俺がやってきましたよ。
37(´Д`):2006/02/09(木) 22:55:43 ID:???
戦争中は魚は獲れなかったげな。
38名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:21:00 ID:???
開戦前夜の超大物「重臣会議、陸海軍幹部、参謀本部、海軍軍令部、枢密院、軍事参議院、現職閣僚」
肩書は東條内閣発足当時(16年10月18日)
 {  }内は陸海軍予備役、後備役

<陸軍の大物>
陸相:東條 参謀総長:*杉山 教育総監:*山田 航空総監:*土肥原
軍事参議官:寺内(南方軍)、朝香宮、東久邇宮、*中村、*西尾、*山田、*篠塚
軍総司令:*畑(*後宮)(支那派遣軍)、*岡村(北支那方面軍)、*梅津(関東軍)、板垣(朝鮮軍)
朝鮮総督:{南次郎} 

<海軍の大物>
海相:嶋田 軍令部総長:永野
軍事参議官:百武源吾、加藤隆義、及川古志郎、塩沢幸一、吉田善吾、日比野正治
聯合艦隊:山本五十六 支那方面艦隊:古賀峯一
台湾総督:長谷川清

親王:*秩父宮(陸)、高松宮(海)、*閑院宮(陸)、*伏見宮(海)
宮廷:*木戸、*原嘉道、*鈴木貫、松平、蓮沼(陸)、{百武三郎}
重臣:*近衛、*平沼、*若槻、広田、*岡田、{*阿部、林、米内}
閣僚:*東郷、*星野、*賀屋、*岸、{鈴木貞一}
大使:*重光、{*野村、大島}、吉田、白鳥、本多熊太郎
政界:久原房之助、中島知久平、町田忠治、中野正剛
在野:*宇垣、頭山、徳富、*安岡、*鮎川、{*小磯、*柳川、真崎、荒木、石原、小林躋造、末次}
-----------------------------------------------------------
小物故排除(秋永月三、迫水久常、児玉誉士夫、笹川良一、橋本欣五郎)
既に死亡又は隠棲(湯浅、牧野)
宇垣、岡田、鈴木は退役
39名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:21:36 ID:???
第二次近衛内閣発足(15年7月22日)から開戦までの省部主要職員の推移

陸軍省
次官:阿南惟幾→木村兵太郎
 軍務局長:武藤 章
   軍事課長:岩畔豪雄→真田穣一郎
   軍務課長:河村参郎→佐藤賢了
 人事局長:野田謙吾→富永恭次
 兵務局長:石本寅三→*田中隆吉

大本営陸軍部
参謀次長:沢田 茂→塚田 攻→田辺盛武
 第一部長:冨永恭次→田中新一
   第二課長:岡田重一→土居明夫→服部卓四郎
 第二部長:土橋勇逸→若松只一→*岡本清福

海軍省
次官:*住山徳太郎→*豊田貞次郎→*沢本頼雄
 軍務局長:*阿部勝雄→*岡 敬純
   第一課長:矢野英雄→高田利種
   第二課長:山口治平→鹿目善輔→石川信吾
 兵備局長:*保科善四郎
 人事局長:*伊藤整一→中原義正

大本営海軍部
軍令部次長:*近藤信竹→*伊藤整一
 第一部長:*宇垣 纏→福留 繁
   第一課長:中沢 佑→富岡定俊
40名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:22:13 ID:???
宮廷:
内大臣  *木戸幸一 1940.06.01-1945.11.24
侍従長    百武三郎 1936.11.20-1944.08.29(元海軍大将)
宮内大臣   松平恒雄 1936.03.06-1945.06.04(松平容保の4男)
枢密院議長 *原 嘉道 1940.06.24-1944.08.07
枢密院副-  鈴木 貫太郎 1940. 06.24-1944.08.10(元海軍大将)
侍従武官長  蓮沼 蕃 1939.08.31-1945.11.30(陸軍中将1940.12.2大将親任)
41名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:28:24 ID:???
やっぱトロハマチが一番うまいよ。あの脂身がなんとも言えん。
口の中でとろける脂身とはまち特有の歯ごたえが絶妙にマッチする。
42名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:31:52 ID:???
ポツダム宣言の受諾

8月9日、鈴木貫太郎首相は最高戦争指導者会議を開きます。会議の冒頭、
鈴木首相は「情勢から見てポツダム宣言を受諾せざるを得ないので、
みんなの意見を聞きたい」と述べます。

しばらくして米内海相が(甲案) 「国体の護持を唯一の条件として、
ただちにポツダム宣言を受諾するか」(乙案) 「その他の条件をつけ
て受諾するか」の2つの方法しかないと発言します。この会議中に
長崎市に新型爆弾が投下されたと知らせがはいります。

甲案を主張したのが鈴木首相、東郷外相、米内海相で、乙案を
主張したのが阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長でした。
乙案の内容は事実上戦争を継続する意味の内容でした。

激しい対立のあと、会議をいったん閉会します。同じ9日深夜「御前会議」が
再会されます。前述の6人構成に平沼枢密院議長が加わりました。なぜなら
鈴木首相は、この会議の采配をふる立場にあったからです。

午前2時を回ったとき、議長として中立の位置にあった鈴木首相は「議を尽く
すこと長時間に捗り、3対3のままで議決に至ってない」と発言します。

いつのまにか平沼議長は、甲案(ポツダム宣言受諾)賛成者になっていたのです。
出席者は「ハッ!」とします。阿南陸相が発言を求めますが、鈴木首相はそれを
無視します。そして「かくなる上は、はなはだ恐れ多いことながら陛下の
御聖断を仰ぐしかありませぬ」と言って、陛下の前へ進み出ます。
43名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:34:35 ID:???
北海道なら鮭親子。ネギトロの鮭バージョン+いくらの贅沢な一品。
うまいよ。
44名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:38:57 ID:???
内閣総理大臣・鈴木貫太郎,

海軍大臣・米内光政,
陸軍大臣・阿南惟幾,

外務大臣兼大東亜大臣・東郷茂徳,
枢密院議長・平沼騏一郎,

海軍軍令部総長・豊田副武,
陸軍参謀総長・梅津美治郎,
45名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:40:50 ID:???
すし屋で出される潮汁が好きな俺は異端でしょうか?
というか潮汁のまずいところはネタもまずいよ。
46名無し三等兵:2006/02/10(金) 00:47:00 ID:???
平沼騏一郎
東京大学法学部に入学。首席で卒業すると司法省に入った。「シーメンス事件」時、検事総長として
の辣腕ぶりで名をあげ、政界入りを果たす。1924年に右翼団体国本社を創立し、枢密院議員、副議長
をつとめるが、キングメーカー西園寺に嫌われ長く枢密院議長になれなかった。

その後、平沼の反共反ソ姿勢の裏返しとしての英米協調路線を西園寺が選び、平沼内閣は1939年1月
に発足した。その直後、ドイツからある提案が出された。日独伊三国同盟の締結である。これは第3国
から攻撃を受けた場合の相互武力援助を義務付けるというもので、2年前、ソビエトに対抗するために
締結した日独伊防共協定を強化する内容だった。ここで問題となったのが第三国の規定であった。新し
い同盟案では、これまでのソビエトだけではなく、イギリスとフランスも加えることになっていたの
である。この内容を巡り、国内の意見は2つに分かれた。陸軍は賛成。外務省と海軍は反対したのであ
る。平沼は総理就任早々、難しい舵取りを迫られた。

さらに、ノモンハン事件が起こり、対ソ戦が続く中、衝撃的なニュースが平沼の元に届いた。ドイツが
ソビエトと相互不可侵条約を結んだというのである。平沼にとってはドイツと三国同盟を結ぶために尽
力していただけに衝撃をだったようだ。

結局平沼は、ドイツ政府に対し、三国同盟に関する交渉は打ち切る事を伝え、「欧州情勢は複雑怪奇」
という声明を残し、総辞職した。

その後、東條倒閣に関与、天皇のお召により御前会議に出席する権利を得たが、アメリカから事実上の
無条件降伏を要求されると、出席するたびに国体論から降伏に反対した。しかしついに日本降伏、彼は
身を「く」の時に折って泣いたという。

米軍の進駐がはじまると、ほぼ同じくして戦犯の収監がはじまった。東條英機らのほか、平沼も収監さ
れることとなったが、それに先だってソ連の係官が彼を尋問するために自宅に訪れ、茶飲み話のように、
「あなたは今後、責任ある地位に立たれた場合、依然として共産党に弾圧を加えますか」
 と質問した。平沼は平然として、
「もちろん、弾圧します。(その理由は)共産主義はわが国体に反するからです」と答えた。
47名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:02:09 ID:???

鈴木 貫太郎は、元海軍大将であり、2.26事件で重傷を負った人。
ルーズベルト大統領への弔辞も有名。
48名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:06:14 ID:???
御後会議
49名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:10:35 ID:???
梅津美治郎 大分 歩兵科 熊幼ー中幼ー陸士15期 陸大23期首席(次席は永田鉄山)

父を早くに亡くし母が再婚したため、若い頃は是永を名乗っていた。
陸大を卒業した頃に、是永家で生まれた弟が家を継いだため、梅津に復籍。
若い頃は中々美形で、その気になれば相当もてただろうが、弟と妹を東京に
引き取って学校に通わすなど面倒を見ていた。40前で宇垣の媒酌で結婚するも、
数年後に結核で妻が亡くなると、後添えは貰わなかった。

省部の要職を歴任し、満州事変時は参本総務部長であった。彼は、その性格から、
関東軍の暴走には不快感を抱いていたであろうことが想像される。
荒木陸相の就任で総務部長職を追われ、支那駐屯軍司令官となった。
昭和10年6月、親日新聞記者殺害事件を切欠に梅津・何応欽協定が結ばれる。
この一件は何応欽のプライドをいたく傷つけ、戦後酒井隆参謀長は絞首刑となった。
しかしこの頃梅津は新京におり、交渉にはあまりタッチしていなかった。

10年8月の定期異動で第二師団長に栄転。2.26事件のとき、各地の師団長が
玉虫色の対応を見せる中、梅津だけは即時討伐という意見具申の電報を陸軍省に打ち、
幕僚達を感心させる。事件後、陸軍次官となり、寺内を輔佐して粛軍を行った。

宇垣に大命が降ったが、梅津自身はそれほど宇垣に反感は無かったようである。
しかし石原片倉らが策動して之を阻止した。そのときの梅津の対応は>>21に見る通り。
林に大命が下ると、石原は十河信二を組閣参謀長に、自分の理想を実現する為の
内閣作りに励んだ。彼は、陸相には盟友板垣征四郎を据えるつもりであった。
しかしそれを阻んだのが梅津であった。梅津は林の実弟白上祐吉と結び、
石原ー十河ラインを林から遠ざけ、陸相には中村孝太郎を送り込んだ。
梅津がこういう政治的な動きをするのは珍しい。
これは彼が石原に一種の危なっかしさを感じてた為であろう。

この頃、陸軍省には機密費目当ての自称”愛国者”が多く擦り寄ってきていたが、
梅津は機密費の取扱の厳しい人であった。その為多くの右翼が乾上がり、
そういった連中は梅津を悪し様に罵った。
50名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:11:15 ID:???
支那事変に対する彼の態度は、曖昧ではっきりしない。
拡大派であるという人もいれば、不拡大派であるという人もいる。
しかし、いくつかの証言や事例から鑑み、少なくとも強硬な一撃論者ではなかったと思う。
この前年、関東軍参謀副長今村均少将が、内蒙工作の資金をねだりに上京したとき、
梅津は、この人にしては珍しく、はっきり感情を現して今村を説教してる。
曰く「中央は内蒙工作を禁じておるのに、なぜ中止しないのか」
曰く「そもそも君を関東軍にやったのは、勝手な事をする参謀を抑えさせる為なのだ。
君の悪評が満州から伝わるたびに、僕は喜んでおった。それがなんだ。
木乃伊取が木乃伊になって」
平素本心を他人に吐露しない梅津が、このようにはっきり言うのは珍しい。
それだけ今村を信頼していたということだろうが、中央の統制に服さない幕僚への
強い怒りがこの苦言となったのだろう。
これには後に昭和の聖将と呼ばれる今村将軍もただただ恐縮するばかりであった。
また梅津は派閥を作らない人物であり、そのことに関しては極端に気を配っていた。
その彼の唯一の腹心といえるのが柴山兼四郎軍務課長だ。柴山は支那事変に関しては
絶対不拡大派であり、陸軍省内で強硬派の田中新一軍事課長と激しく対立していた。
之等の事から推測すると、やはり梅津は強硬論とは一線を画していたと見るべきだ。
しかし、彼がはっきりと不拡大を唱えた形跡はない。この辺が彼の限界であろうか。

当時参謀本部を事実上取しきっていたのは、石原莞爾第一部長であった。
石原は対ソ戦などの観点から、事変拡大に反対していたが、8月に関東軍参謀副長に
転任した。石原を満州に追ったのは梅津であると書く本は多いが、
参本に居辛くなった石原が多田次長に辞職を申し出、石原と親しい多田は
石原の為に阿南人事局長に無理を言って関東軍参謀副長の職を貰った、
というのが真相である。
ただ梅津が石原を軍秩の破壊者とみなしていたのも確かなことであった。
一方の石原の梅津評は「梅津は石橋を叩いても渡らない。しかし陸軍省で
話が出来るのは梅津だけだ」というものであった。
51名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:12:23 ID:???
阿部内閣組閣時、阿部大将に天皇から直々に
「陸相は梅津か畑を」という御言葉があった。
梅津が能力・人格ともに陸相として最適であるのは衆目の一致するところであった。
その評判は天皇の耳にも届いていたのである。
しかし丁度その頃ノモンハン事件があり、梅津は植田大将の後任として
関東軍司令官となった。関東軍司令官は普通古参の大将がやる職である。
しかし昭和に入ってから、常に中央の統制を無視し暴走を続けていた関東軍を、
抑える事が出来るのは梅津しかいないということで、中将での就任となったのである。
梅津の軍司令官就任によって、関東軍に長らく蔓延っていた下克上の風潮は
完全に影を潜めたが、もしこのとき関東軍司令官ではなく陸相になっていたら、
あるいはその後の歴史は変わっていたかもしれない。
結局梅津が中央に復帰したのはそれから5年後、戦争も漸く行き詰まった頃であった。

関東軍司令官としての梅津は、幕僚の越軌の行動を厳しく戒め、北方の静謐を
保つ事に集中した。独ソ開戦以降の帝國の執るべき道に関しての梅津の考えは
「独ソが開戦した以上、ソ連はいずれ我敵となる。この機会を利用して
北方問題解決すべし」というものであった。
しかしその後策定された帝國国策要綱で、日本は南進を決定。
真珠湾奇襲で大東亜戦争が始まった。
梅津が関東軍第一課長田村義富大佐に
「この戦争はどうなるだろうか」と質問したところ、
田村大佐は即座に「この戦争は勝ち目が無いように思います」と答えた。
梅津も「自分も其のように思う」と田村に同意したという。
ミッドウェーの敗戦について、大本営はひた隠しに隠していたが、
外電は早くも米軍大勝を伝えた。この知らせを受けた梅津は
「この戦争はもう駄目だ」と嘆声を漏らしたそうだ。
52名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:13:07 ID:???
昭和19年7月15日、退陣する事となった東條は、自分が兼任していた参謀総長の後任に
後宮大将を内奏した。ところがこれを聞いた参謀本部内は、後宮では戦争が出来ないと
大騒ぎとなり、服部卓四郎は冨永次官の元を訪れ、参謀総長は畑か梅津のどちらかに
してくれるよう頼んだ。それを受けた冨永は東條を説得し、2日後異例の内奏やり直し
で梅津が総長となった。上京してきた梅津は三長官会談で次期陸相について相談。
東條は陸相として次の内閣でも残りたいと考えていたが、梅津はこれをはっきり拒絶。
逆に阿南ではどうかと切り出した。しかし、前線の司令官を引っ張ってくる事は出来ない
と東條が反対。結局小磯と同期の杉山教育総監に決定した。

総長となった梅津は組織の簡素化や人事の刷新を熱心に行った。
このころの彼の机の上には、停年名簿一冊だけが置かれていたという。
また一撃和平論を内心持っていたようで、レイテ決戦に関して、熱心にこれを推し進めた。
ただ中国戦線から満州への兵力転用問題に関しては優柔不断な態度をとり続け、
宮崎第一部長や河辺次長を苛立たせた。
鈴木内閣では、同郷の後輩で昔から親しい阿南大将が陸相に就任。
参謀本部と陸軍省はここに初めて完全な一致をみたが、すべて遅すぎた。
和平問題に関して梅津は立場上、表向きは継戦論であったが、
内心はポツダム宣言受諾やむなしであった。
一部の将校が画策していたクーデターについては、最初から最後まで絶対反対であり、
其の意見がぶれる事は無かった。
ミズーリ号上での降伏文書の調印式の全権に、重光と共に大本営代表として
選ばれたときだけは、激しくこれを拒絶し抵抗したが、天皇に直々に説得され、
結局行くこととなった。

その後、A級戦犯として起訴されたが、これはソ連が強くのぞんだもので、
当初梅津はアメリカのリストの中には挙がっていなかった。
ソ連のおかげで起訴されたのは梅津と重光で、逆に助かったのは阿部と真崎であった。
裁判中に癌で倒れ、病院で洗礼を受けた。判決は終身禁固。判決が出た2ヶ月後に死去。
53名無し三等兵:2006/02/10(金) 01:13:42 ID:???
梅津は陸軍でも右に出る者が居ない細密な頭脳と事務処理能力を持ち、
軍紀、秩序を重んじ、これを蔑ろにするものを許さなかった。
一方、なかなか本心を表に出さない曖昧な態度を「明哲保身の人」と揶揄する人もあった。

人間関係に関しては、派閥を嫌い、同世代の優秀者の多くが所属した一夕会とも
無関係であった。
昭和に入ってから、陸軍では大分県人の進出が目立ち始めた。
2.26事件で南大将が予備に入ってからは、大分軍人の頂点に立つのは梅津であったが、
彼は世間から大分閥と後ろ指をさされるのを極度に恐れ、同県人の取扱には
特に気を払った。その為後輩の大分軍人からは、冷たい人だと思われていたらしい。
しかし、世間はそうは見なかった。
池田純久、秋永月三と大分出身で。東京帝大経済学部を出た所謂統制派の
経済軍人が居た。近衛と其の周りの皇道派は彼らをアカと見做し、
また彼等の先輩である梅津もアカであろうと勝手に思いこんでいた。
この近衛と皇道派の妄想は中々根強く、近衛&皇道派シンパの人が
戦後書いた本の中によく見るところである。
しかし実際は、彼が親しくしていたのは同期以外では阿南、山下、今村といった程度で、
お気に入りの部下は柴山と田村義富くらいであった。

柴山は輜重兵科ながら、梅津によって異数の抜擢を受けた人で、
田村は田村怡与造中将の甥で、グアムで戦死した。
(終)
54名無し三等兵
正直ウザイ