やっちまうほかに手はあったのか?
日中戦争時の日本軍は捕虜収容の準備を全くしていなかった。
この時点で戦時国際法に即して捕虜を遇する意思がなかった事を示している。
しかし、日本の現地軍将校は士官学校において捕虜に対する処遇を教育されており、これに従って軍司令部の電話で“やっちまえ”と勝手にわめいていた長勇のけしかけに対して「絶対に応じない」と抵抗した将校もいた。
なかでも悲劇的だったのは、1937年12月15日に幕府山砲台で投降した14,000名の捕虜の処遇に困った山田支隊のケースで、載せられるケースだったためか偕行社の書籍にも掲載されている。
山田支隊の山田旅団長と両角連隊長は、旅団副官を軍司令部に派遣して軍による捕虜収容を建言するが容れられず、逆に軍司令部で「捕虜を速やかに処理せよ」と命じられてしまう。
これを嫌がり、独断で捕虜を解放しようとしたが、捕虜が“殺される”と勘違いして暴動を起し、結局 1000名近くを軽機でまとめて殺す羽目にもなってしまった...
>日本の現地軍将校は士官学校において捕虜に対する処遇を教育されており
独断で捕虜を逃がせば重罰って軍規に載ってる。
利敵行為になるそうだ。
当たり前だが。
何のための包囲戦なるぞ。
つうか、逃がしたという日本軍側の証言ってあんの?
803 :
長勇:2005/11/23(水) 16:17:25 ID:???
くだらん論争はよそでやれ
ここでこれ以上ウヨサヨ論争やる奴は、俺が鉄拳制裁してやるからな
覚悟しやがれ
捕虜取り扱いねえ…。でも戦争じゃないんだよな、シナ事変って。
805 :
名無し三等兵:2005/11/23(水) 19:08:12 ID:gRb4yBKe
上海から南京攻略戦の時の傾向としては捕虜については数が少なければ処刑で、
数が多ければ解放。藤原彰が引用している資料では処刑の所だけがクローズアップ
されているが、藤原彰がカットしている部分では「解放するのも構わない」とし
ている。つまり現地で臨機応変に対処しろということ。
>>801 幕府山は栗原証言でスケッチがあったが、あれは戦後に毎日新聞が聞いた際に
書いたもの(新聞では「当時入院中にスケッチ」とあったが)。
幕府山では捕虜を受け入れた歩兵連隊は定数3800に対して2200まで
減衰しており、また初日に実際に移送を行なった第一大隊は150弱まで減少し
た人員で移送を行なっている。
そこで移送中に暴動が起きたたが、日本は少尉以下数人が死んでいる
(負傷も入れるともっとなる)。移送だから重機関銃は追随できず、突発的な
暴動のために日本にも死者が出ている。
100人弱の兵数での一万五千人の移送中に起きた、突発的な暴動に
対する軽機関銃と歩兵銃の乱射による暴動制圧では効果がたかが知れている
ので偕行社などの資料は幕府山で死んだ中国兵は数百〜千人としている。
しかし戦後は死んだ数が少ない、一万以上だと偕行社を責め、計画的な
処刑だと暴動を否定するが、日本にも被害が出た手際の悪さ、殲滅するには
少なすぎる日本兵の人数を考えれば計画的大量虐殺は少しでも軍事常識が
あればあり得ないと分かるだろう。
37年の南京事件の問題については南京専門スレで書いて、
このスレでは、南京について書きこみたがる奴は放置して、
知識を日中戦争にかかわる他の問題について披露してくれ。
ここは南京にこだわらずに日中戦争全般を扱う良スレなので、
37年の南京事件の問題は回避したいのだ。
南京虐殺の有無はともかく「長勇の人物論」については、このまま終わると
あまりに「尻切れトンボ」というか、後味が悪いので少し脱線します。
>>785 >>クーデター起こそうとしたけど怖くなってリーク(つうか料亭で酒飲んで
>>計画を高吟)して逃げたアホ
十月事件(1931年)の舞台、「料亭・金竜亭」での模様は、戦後に行なわれた
馬奈木敬信へのインタビューが詳しいです。
馬奈木(中将)は、長勇の竹馬の友で、福岡の修猶館(中学校)以来、熊本幼年学校、陸軍士官
学校とずっと一緒でした。連隊の所属から長が久留米、馬奈木が熊本と分かれますが、馬奈木が
陸軍大学校の再審試験のために満州から上京したときは、長の自宅で朝晩を厄介になっています。
馬奈木は、参謀本部第二部(情報)に長く所属し、ドイツなど欧州を中心に駐在武官を
歴任します。事件の前には、親友の長から「桜会」に入会はともかく、九段の偕行社で
行なわれる会合に一度出席してみないか?と誘われたこともあり、二人の親交は続きます。
長の親友である馬奈木へのインタビューは、いわば『身内論』の最たるものです。
しかし、荒木中将とともに「金竜亭」に同行して、生の現場を目撃している人物
ですから、貴重な証言であることに違いありません。
十月事件の顛末を要約すると、以下の通り。話の視点は馬奈木のものです。
本当なら、支那に赴任しているはずの長から手紙が来た。このごろ第二部ロシア班で
仕事をしているのは、藤塚少佐ひとりだけ。他は不在。たまに会うと、みな目は
血走っており、長君は東京に戻って某所に隠れていると、耳打ちしてくる者もいた。
10月20日昼ごろ、使者が現れて手紙を渡される。長君が築地の「金竜亭」で自分に会いたい
とのこと。もともと長君とは竹馬の友である。何と言っても、私には打ち明けやすいもの
だから、電話を避けて書面で私を驚かしたようである。
「いつ帰ってきたのか?」との問題から始まり、「あまりガタガタしては駄目だぞ」と
しばらく話して参謀本部に戻った。
長君は「侠客」じみた派手好みだから、3週間も地下生活を強いられて人寂しくなり、
親友の自分に会いたい気持ちが押さえ切れなかったようである。
しかし「知らぬが仏」は本人や自分ばかりで、既に憲兵は、橋本中佐や危険視されている
将校の動向を逐一調査、上層部に報告し、長君の居所も突き止められていたようである。
長君に会った直ぐの夕方、第一課から呼び出しを受けた。そこには荒木中将や今村均大佐
などが協議している真っ最中で、荒木中将は開口一番、
「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」 と。
最初は知らぬ存ぜぬを通したが、どうしても許されない。やむなく長君に右の旨
電話をすると、彼は言下に拒絶した。荒木中将は、私を促して車上の人となり、
10数分後には金竜亭の前に車は横付けされた。
812 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:14:12 ID:Ai2l/ROi
荒木中将が「金竜亭」に着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を
聞いた彼は、浴衣の上に羽織を引っかけ袴を結びながら、2階から飛ぶように降り、
玄関に平伏した。
それが荒木中将の気に入ったらしい。「酔っ払っていても上官を迎える礼を知っている」と
笑われ、お褒めの言葉を私たちに漏らされた。
直ぐ2階に上がり、酒肴を準備させつつ、荒木中将は長君に対して
「お前はいつ帰っていたのか? 帰ってきたら顔ぐらい出せよ」
と、きわめて物静かに語り、詰問するようなところはない。自分で長君に酌をしながら、
頃合になると「ちょっと話があるからお前ら下がれ」と女たちを退けた。そして――、
813 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:23:54 ID:Ai2l/ROi
(荒)「長、お前なにか考えているそうじゃないか」
(長)「何も別に考えておりません」
(荒)「なにはともあれ、いま考えていることをやめよ」
(長)「それはできない、やります」
(荒)「どうしてか?」
(長)「それは私一人のことではない。私には相棒として、橋本欽五郎中佐や
その他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ、私はやめる訳にはいかん」
(荒)「それじゃ、橋本がやめると言ったらやめるか?」
(長)「それならやめます」 と答えます。
814 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:36:18 ID:Ai2l/ROi
「橋本中佐をすぐに呼べ」ということになり、1時間後に橋本は現れた。荒木中将は、
「長君はきみの言うことなら聞くとのことだが、きみの計画をしていることを
やめてもらいたい」 と圧力をかけます。
橋本中佐も「事ここに至っては万事休す」と結論を出して終幕となり、荒木中将は
引き揚げた。その折に橋本中佐は将軍に対して、
「今後の満州事変の処理を完遂しますか?」と念を押した。荒木中将は
「その職に就けば必ず世論に応えたい」と言明した。
そのあと「金竜亭」に憲兵下士官2名が現れたが、橋本中佐は「大木分隊長
(少佐)みずから出張せよ」と追い返した。橋本は「荒木のやつはひどいことを
しやがる。人をこれだけにしておいて、俺たちを憲兵に捕まえさせるとは…」と
怒ったが、大木憲兵少佐が来てなだめ、保護の名の下に東京憲兵隊長難波大佐の
官舎に移ったのが、夜中の1時か2時である。
815 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 20:55:08 ID:Ai2l/ROi
上記の会話が事実だとすると、「荒木貞夫の人たらし」の上手さが目立ちます。
「十月事件」が終幕したのが20日(深夜)です。二十畳敷ぐらいの大座敷に
通された3人に、翌朝から鯛の塩焼きなど二の膳付きの待遇であったので、
橋本は機嫌を直しました。橋本中佐は、難波大佐にこう言ったといいます。
「貴様も志士を迎える方法を知っておった。それでは飲んでやろう」
翌21日夕方には、「東京にいては煩いからしばらく田舎で静養せよ、
善後策はわれわれが行なう」との方針が出されます。
参謀本部第二部の将校がほとんどで、これに「桜会」のメンバーを加えた
同志が軟禁隔離されます。比較的、年齢や階級差の少ないペアを作ることとなり、
橋本欽五郎中佐と根本博中佐が千葉の稲毛に、長雄と馬奈木が市川市真間に、
影佐少佐と和知少佐、小原・田中両大尉、野田注意などが宇都宮と横浜に隔離されました。
816 :
だつお:2005/11/23(水) 21:00:53 ID:zwlqSjOv
>バカだね、農地解放政策による、農民の支持があったからこそ
>ジリ貧の共産軍があっという間に国民党を台湾に追い落とした。
日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、
ケ小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思
っていませんよ」と切り出した。あっけにとられた一行を前にしたケ小平
の説明はこうだった。
「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、
長征の途についた。延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、
人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが日中戦争が始まり、
われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押され
ていく。袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、
日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。そして戦争終結時
には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」
http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm 日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党−ケ小平語録
ドイちゅ を仲介役にして
わへいすればよかったのに・・・
兵力は満州へ集結・・・
ソ連は脅威になったろうし
ドイちゅ にも多少の利益はあつたはず
818 :
だつお:2005/11/23(水) 21:09:07 ID:zwlqSjOv
>地主制を維持する国民党より、地主制撤廃の共産党の
>方が相対的にはるかにましなので支持された。
いったんは地主制撤廃で土地を人民に配分しても、
すぐにチンピラゴロツキ同士の土地配分争いになった。
この辺の事情は太平天国の乱とそっくり。
結局のところ、土地は共産党が没収し人民公社化するしかなかった。
819 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 21:11:25 ID:Ai2l/ROi
これにより参謀本部ロシア班は全滅し、まったく仕事にならなくなりますw。
橋本中佐などが「軟禁先でドンチャン騒ぎ」という話は、
>>815 に拠るものでしょう。
もちろん 815 の様子ですと、稲毛の隔離先でも騒いでいたでしょうがw。
最終的に十月事件の関係者は、参謀総長の金谷範三から処罰を受けますが、もっとも重い
橋本中佐と長勇少佐が「重謹慎1ヵ月」です。
処罰を言い渡されるときは普通、「今後は堅く慎みます」「誓って再びいたしません」など
決まり文句を述べるものですが、長勇の場合、
「ありがたく頂戴いたします」 とやって、さらに加罰を喰らうことになりますw。
橋本中佐は、2.26事件後に予備役編入となります。長勇と橋本欽五郎は、
血盟の仲とも刎頚の契りの間とも自称し、一心同体以上の関係にありました。
腐女子のネタで「橋本欽五郎×長勇」は十二分に可能でしょう。もう既にあるかも
しれません。このカプリングの場合、もちろん「攻め受け逆転」もOKです(核藁)。
話は先に戻りますが、別に南京虐殺問題に触れること自体は構わないと思いますよ。
一旦、論争に火が付くと余裕で100ぐらいレスが進んで、話が分断されるのが困りますが。
>>805 は分かりやすくて非常にためになりました。
821 :
だつお:2005/11/23(水) 21:35:22 ID:zwlqSjOv
土地改革ってのはよー、単に地主を殺して土地を配分することじゃないぞ。
政府主導で公共事業を進めることで新しい産業を興していくことで、
労働生産性を高めて小作人の地主離れを促進させることだ。
昭和維新では工作機械・自動車・飛行機産業が官僚主導の護送船団方式
で進められ、小作人・労働者の地主離れ・財閥離れが進んだ。
822 :
名無し三等兵:2005/11/23(水) 21:39:36 ID:dilV7lvb
そもそも十月事件は池田純久と田中清が今村均に密告したことで露見しました。
今村は建川美次に橋本たちを抑えるように頼み、建川は橋本と会談。
橋本は建川に”やめることに致します”と約束し、やれやれ一件落着と皆喜んでいると、
再び今村のところに、桜会の根本博、影佐禎昭、藤塚止戈夫が現れ、「橋本中佐が
断念したというのは虚言なり」と訴えたのです。これを受けて陸軍省に省部の主だった
人々が集まり、善後策を協議した結果、荒木中将が行って説得するのが良いということに
決定しました。それが
>>811です。
その後、金竜亭から戻ってきた荒木は、「彼等は止めるとはいわないが、実行を4日延ばす
というので引き揚げてきた」と報告。それを聞いて即時拘束を主張する人々に対し荒木は、
「4日あるのだからその間に説得すればいい」と、拘束に反対します。そうこうするうちに
三度今村大佐のところに全く知らない人物の名刺が届けられました。裏を見ると、
「さきほど荒木中将に申した4日の日延べは虚言なり。明朝実行に変わりなし」と書いてあります。
これをうけて遂に橋本以下の拘束が決定しました。それが
>>814の憲兵派遣です。
>>820 有り難う御座います。
ですが話をぶった切るリスクのあるレスをして済みません。
>>805 偕行社の資料では、下記の様に推移したとある。
1. 12/15 山田支隊は幕府山砲台で投降した14,000名のうち非戦闘員を除く8,000名を捕虜として受け入れた
2. 山田支隊は捕虜を幕府山砲台建物内に拘留/監視したが、国府軍の残存食料で自炊をさせていた
3. 山田旅団長は、残存食料での捕虜の長期扶養は困難なので軍司令部に方針伺いを立てたが「捕虜はとらぬ方針」と(おそらく長勇中佐から)返答され、自分達で処理する羽目となった
4. 同日夜、炊事中に発生した火事の混乱に乗じ、捕虜の半数が逃亡した
5. 12/16 山田旅団長は旅団副官を軍司令部に派遣し、軍による捕虜収容を建言するが容れられず、調査に来た憲兵将校にも多数の捕虜を処理する事の困難を説くが、軍司令部の返答は「捕虜を速やかに処理せよ」だった
(憲兵将校の捕虜収容状況視察とは、即ち山田支隊が捕虜逃亡を防げなかった事が“陸軍刑法/第10章 俘虜ニ関スル罪/第91条 俘虜ヲ逃走セシメタル者ハ十年以下ノ懲役ニ処ス”に該当するかどうかの調査だった事は明白である)
6. 捕虜処分を回避したい山田旅団長と両角連隊長は、揚子江中洲/北岸への捕虜放逐を決めた
7. 捕虜を河岸に引率したところ、船が無い事を見てとった捕虜達が殺されると勘違いして騒ぎはじめた
8. 数発の銃声がきっかけとなって捕虜の暴動が発生し、栗原伍長が機銃を掃射し捕虜1000名近くが死亡した
9. この時、日本軍将校1名が軍刀を奪われ死亡、他に6人の日本軍兵士も死亡した。
となる。山田/両角の両氏は軍司令部に抗命してでも、捕虜を釈放して その命を救おうとしたが結果的に1,000名の捕虜と7名の日本軍将兵が死亡した。
同時に、ここから判明するのは 軍司令部から捕虜処分=殺害指示が出されていた事である。
↑根本的な疑問だが船もないのにどうやって捕虜を揚子江中洲/北岸への放逐するつもりだったのか?という点。
山田/両角の両氏は、結局 軍司令部の命令に従って捕虜を殺害するつもりだったが、捕虜が抵抗して不慮の損害を受けたため、このような形で口裏合わせをしたと考える方が辻褄が合う。
>>824 レスしていいものかどうか迷うが、日中戦争の時の機関銃に関連つけて。
南京攻略戦前後の時に日本軍にあったと思われる機関銃(保式、鹵獲品は割愛)は、
重機関銃が3年式機関銃(銃本体だけで25,6キロ)、92式重機関銃
(銃本体28キロ、三脚入れて55キロ)
軽機関銃が11年式軽機関銃(脚付き10キロ、5発クリップによって30発)、
最新型で96式(1936年)軽機関銃(脚付き9キロ、30連)。
重機本体は足をつけて二人かかりで運ぶので(弾薬手は別)捕虜の移送には
使えない。
だとすると普通に軽機関銃になるが、11年式軽機は5発クリップ積み重ね
の給弾機構が実用的で無いタイプであるし、終戦まで11年式が使われているこ
とや最新型の96式が彼らのあったか疑問。また軽機は弾をすぐに使ってしまう
ので、捕虜集団の護送のために日本兵は点在していた(そのため個別に制圧射撃
を行なっていた日本兵に被害が出ている。少尉は腹に軍刀を刺されて死んでいた
のが鎮圧後に発見された)のも考えて暴動鎮圧の最初すぐに弾が無くなったと
考えられる。
移送に当った大隊が100名程度ということを考えると殺害指示が出たという
ことは考えられない。
また栗原氏ら機銃手が根性入れて射撃しても移送中の際の暴動勃発を考えて
機銃手一人当り10人殺したら御の字だろう。
>>826 軽機については、以前別スレでも詳解した事があるが、日本軍は国産の出来損ない11年式ではなく鹵獲品のチェコ製ZB26軽機を多用(というよりそれしか使える軽機がなかったw)していた。
鹵獲品のZB26軽機が日本軍でいかに大量に存在していたかは、各種の従軍兵士手記に必ずといって良いほど鹵獲したZB26軽機についての記述がある事からも推察されるが、具体的な数は判明していない。
しかし、南京城陥落直後の戦利品発表では、重軽機関銃3,200丁 銃砲弾各種合計460万発が鹵獲されたと発表されている事と、上海→南京の国府軍が装備を放棄して行く壊走状態だった事を考えると、数千丁のZ26機銃を日本軍は有していたと考えて良いだろう。
軽機は密集した集団に向けて発射されれば、驚異的な殺傷力を発揮する。
100名もの日本兵と数丁のZB26軽機があれば1,000名程度の丸腰の捕虜を始末するのは極めて簡単な事でしかない。
828 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 23:05:05 ID:ny4P8FeJ
>>822 >>その後、金竜亭から戻ってきた荒木は、「彼等は止めるとはいわないが、実行を
>>4日延ばすというので引き揚げてきた」と報告。
スイマセン。肝心なところが抜けていましたね、説明サンクス。
馬奈木少佐の場合、十月事件が起きた1931年7月まで、ドイツ大使館付武官補佐官
(1929年〜)として欧州に滞在していましたから、当時まったく自分の周りが
掴めていなかったと思います。
「え? 大川周明って誰?」と、長の紹介で初めて存在を知ったぐらいですからねw。
馬奈木本人も、第二部のあまりの変わり様(1926年〜1929年:参本部員)に面食らっていました。
結果的に「上記のインタビュー」は間の抜けたものと言わざるを得ませんかね。
または故意に粉飾しているとも言えますw。本人インタビューの常ですが、聞き手も
読み手もミスディレクション(誤導)されないように勉強が必要です。
>>827 ZB26は性能が良いが装弾数20発。引き金を引いて20発撃ったら再度装填
しないといけない。突発状況での連続射撃と弾薬補給、銃身加熱などを考えると
各兵が散開していた状況で数丁の機関銃で密集した群を撃っても、全弾命中、
1発1殺というのは難しいからそんなには殺せない。
また幕府山の移送は南京が陥落して日が浅いので、新たな鹵獲品が行き渡って
使えるようになれたかも疑問。
また100名程度の護送兵の大分は歩兵銃だが、歩兵銃は5発クリップの
ボルトアクション。仲間は散開していて周りは中国兵だらけという状況を想像
して欲しい。
引き金を引いて1発ごとにボルトアクションをして、5発ごとに再装弾。
しかも撃って当てて殺さなければならない。
だからその後死にそこなったのを銃剣で刺し殺しまくったという状況でも
偕行社などが数百名から最大千名くらいとしたのは護送部隊などの規模を
考えると妥当じゃないかな
830 :
イナゾウ中佐 ◆FU/OcfTlfM :2005/11/23(水) 23:27:51 ID:ny4P8FeJ
このスレでは『軍閥』の話で大きく脱線することが多いですが、日中戦争・
支那事変を語るうえで「不可避」のことですので、どうぞご容赦ください。
上記の十月事件も、同年9月18日に起きた「満州事変」に大きく関わっています。
満州事変に橋本欽五郎中佐が大きく関わっていたことは、板垣征四郎高級参謀との
秘密電報のやり取りからも明らかです。
満州事変が招いた事態にひよらず、事変の目的を完遂できる内閣が必要だという決心で
橋本中佐は現政権の転覆を狙ったのです。
それは
>>814 で
>>その折に橋本中佐は将軍に対して、「今後の満州事変の処理を完遂しますか?」と
>>念を押した。荒木中将は「その職に就けば必ず世論に応えたい」と言明した。
と念押ししたことからも窺えます。
>>829 偕行社も1,000名程度の捕虜を殺害、という点をはっきり記しているので、この部分にはあまり余地はないだろう。
ZB26軽機は、米国のBARなどと違って抱えて移動しながらの射撃は想定されていない構造になっている。
抱え撃ちも不可能ではないが、火傷覚悟で銃身下のガスチューブを掴む必要があり、基本的には二脚を広げて地面に据えて撃つ物である。
偕行社の聞き取った内容では、捕虜が騒ぎ出したのは捕虜が河原に到着してから。
捕虜は密集し混乱した状態にあり、河へ飛び込む以外には日本兵に向かってくるしか逃げる途はない。
ここで軽機を使用したという事を併せると、軽機を使用するには理想的な環境だったと言えるだろう。
密集した群集に高貫通力の小銃/軽機弾を使用すれば、一発で数人を貫通してしまう。
(日中戦争での捕虜を用いた試し撃ちではZB26軽機やモ式小銃より低威力の三八式/11年式用の6.5mm小銃弾でさえ六人を貫通した)
尚、ZB26軽機は日本人が実践に即して高評価を与えた敵方銃器のひとつ(後には米国製トミーガンやガランドといった鹵獲品にも日本軍は高評価を与えておりガランドに到っては7.7mm弾への改造や国産化を目指している)だった。
華北/華中ではZB26軽機と7.92mm弾薬の製造工場を丸ごと接収しているが、接収後にも製造を続け中国大陸で展開した日本軍各部隊へ中国製ZB26軽機がそのまま支給されていた事実もある。
鹵獲後に“我方最新鋭軽機”として即時使用(扱いは11年式より格段に楽だった)した結果、使用環境について日本側にも詳細な情報が残っているが、それらを総合すると、
1.軽機にとって重要な銃身交換は300発程度の連射がタイミング
2.交換銃身1本が常時ペアで運用(これは11年式でも同じ)
3.弾薬箱(20〜30発x10マガジン)と交換銃身は弾薬手が運搬
4.マガジン交換時間は3秒程度、銃身交換も10秒程度で、誰でも簡単に出来る
であり、1,000人の捕虜を殺傷するには3丁程度のZB26軽機で充分だった事がわかる。
これらの状況から、元々小器用な日本兵がZB26軽機の取扱に不慣れだったなどとは考えられない。
>>830 >このスレでは『軍閥』の話で大きく脱線することが多いですが、日中戦争・
>支那事変を語るうえで「不可避」のことですので、どうぞご容赦ください。
日中戦争における現地日本軍の対中態度でこの軍閥は極めて重要である。
満州を独立させたために関東軍は国境線で直接ソ連軍と対峙することとなった。
ソ連側兵力は極東ソ連軍の増強とシベリア鉄道の整備による有事における欧露からの部隊輸送力の増加で日本
側とソ連側の兵力差が決定的となり、日本側兵力はソ連側の半分、1/3以下へと低下する。
正面のソ連軍に対する劣勢は、背面であり内蒙、北支へは謀略による日本側への引き込み工作を生んだ。
これにより、関東軍は北支において現地軍閥を国民党から分断、独立させ独自の自治政府擁立に動く。
しかし、辛亥革命以降の中国の強力な民族統一エネルギーに真っ向から対立する事となる。
これは、日本側の中国に対する認識が、軍閥が跋扈する古い時代のものであった点が大きい。
対ソ戦略の背面である北支に親日軍閥を政権を作り緩衝地域とする日本現地軍の戦略はそもそも無理があった。
満州国建国まで否定しますか。
↑満州建国が全ての構造を歪めてしまった。
満州での利権/潜在開発余地は大日本帝國の国運と釣り合うような存在ではなかった。
835 :
名無し三等兵:2005/11/24(木) 11:56:07 ID:5w47l11V
>>831 確かに1000人程度でしょうね。
しかしながら移送の最中、散開したままの状態のために日本兵に被害が
出ています(「少尉がやられた」として護送兵の間に警戒が走り、それから
ほどなくして暴動が起きていることより)。
この少尉の他に他にも日本兵は死んでおり、それより軽機を据付で撃て
るように軽機の展開の終わった状況ではないでしょう。一弾貫通数殺の
話も、並べて構えた理想的な状況では十分に有り得ると思います。
ですが、状況的には数千、人によっては一万以上という捕虜の群れです
ので、近距離の捕虜には致命部にあてることが出来ても、距離が遠ければ
角度によって貫通後には地面、あるいは捕虜の頭を掠めて飛んでいきます。
この時はたまたまゲートルで捕縛されていたためと、逃げるのが目的
だったために捕虜の動きが鈍かったのでしょうが、状況としては日本兵の
方が逆に殲滅されてもおかしくなかったでしょう。
機関銃での殺戮も想像してもらえば分かっていただけるかと思いますが、
捕虜の群れが数百単位で自分の方に走って突進してくるとします。20発
の連続射撃の後に、空のマガジンを取り外して新しいマガジンをつけて、
レバーを引いてという動作をしなければ再度発射は出来ません。人間が
全速力で走れば数百メートルはほんの数分で突破できます。
機関銃による大量虐殺の一例としてはフランス戦でSSがMG34を
2丁使って英軍捕虜を100人弱殺しています(生き残りは拳銃で殺した)。
後送されるものと大人しくして油断した捕虜を殺すのにも2丁は用意して
います。
ちなみにZBは「チェッコ機銃」ということが本当に評判が良かった
ようですね。だからコピーとして96式、99式が出来たのでしょうが。
836 :
少佐:2005/11/24(木) 12:13:16 ID:YxBQifkB
もし旧日本軍がバンザイ突撃だけのアホ集団だったら、南京も攻め落とせてないだろう。
旧日本軍は38小銃による狙撃だけでなく、情報戦、航空攻撃、砲撃、迫撃砲、機関銃、手榴弾、
銃剣、日本刀、拳銃、素手とあらゆる人間力を総動員して中国軍と戦い重慶まで迫ったのだ!
その凄まじい人間力をどうして太平洋戦線の敗北だけで全否定できようか!
>>835 なんか随分統制のとれた捕虜達だな。
機銃に立ち向かって突進するほど連中の士気が高ければ上海でも負けなかっただろ。
>>834 満州取られてもいいなら日露戦争も必要ない。
朝鮮の国境でひたすら守ればよかっただけ。
虐殺場所と言われた場所では、三方を河に囲まれた場所。そうなると
逃げるには日本兵の突進しないといけない。それに100人程度の
護送兵で機銃が数丁程度なら、捕虜が数千から一万以上なので
機関銃や日本兵はスカスカの配置状態になる。仮に日本兵の展開が終
わったとしても。
それに統制が取れていれば数百の殺到が波状になってくるので日本兵は
武器を奪われて逆に殲滅されている。
>>838 朝鮮も要らない。世界3位の海軍で日本海を固めていれば本土防衛は果たせる。
>>840 日本が鎖国してるなら良いけど、現実には無理。
「大海運・海軍国の防衛戦は交易相手の港の後ろ側にある。(英国の諺)」
少なくとも西欧流の近代的価値観を共にする国家が、半島南部に存在してないと
大陸と貿易も出来ない。
>>841 別に半島南部経由でなければ貿易が出来ないわけじゃあるまい。
上海に租界は確保してるんだから、そこから対共産党戦を支援などして
国民党と関係を深めれば良い。
844 :
32:2005/11/24(木) 18:58:53 ID:???
>>840 >>841 >>843 島帝国論という有力な政策論が明治時代に政府内部でありました。
それができなかったのは、大陸防衛を義務づける日英同盟との関係。
そして、利権を持ってしまうと撤退が難しくなる歴史の常です。
ただ、日中戦争の前史としても、このスレで扱うには古すぎるかも。
>>835 概ね同意。ただ、実際の状況は日本兵に河原に誘導された時点で軽機の展開/射撃準備は整っていた(本当に逃がすつもりだったかどうかはさておき)と思われる。
でなければ、騙されたと感じて日本兵に向かって突進してくる4,000人もの怒れる捕虜達を制圧できるとも思えない。
ZB26機銃は以前アフガンで実物に触れるチャンスがあったが、さすがチェコ製で良い工作精度で作られている上に、部品どうしの接触面が最低限度なので大陸のような悪環境で泥や砂にまみれても使用可能なように設計されていた。
大日本帝國も満州事変でZB26機銃を鹵獲してから96式でコピーを試みているが、三八式/11年式に使用する6.5mmx50SR弾が自動火器向けの構造ではなかったために、御得意の弱装弾仕様で切り抜けている...
尚、日中戦争で主に使用された小銃/軽機弾に限って見れば、日本軍内での6.5mmx50SR弾から7.7mmx57弾への換装期に当ったという特殊条件も、日本軍の弾薬使用への心理的制約を外す一因となっていた。
実際、この4年後の本換装期の満州では、6.5mmx50SR弾を軽機訓練用に“どんどん使え”という指示が出されたほどだったが、実際には消費し切れず38式歩兵銃とセットで現地匪賊との阿片取引等の代価として使用された。
尚、国共合作当時の中共軍/八路軍は、38式歩兵銃/6.5mmx50SR弾を事実上の制式小銃としており、AKほどではないにしろ世界中で高く評価されいたといえるだろう。
明治30年に日本陸海軍の制式小銃弾となった6.5mmx50SR弾は、優れた低進性(フラットな弾道特性)から日露戦争〜第一次世界大戦(ロシアへの軍事援助として送られた)期には高い評価を受けていたが、
その後の技術革新に伴う戦術変化に対応できない事が判明し、1931年の満州事変後に7.7mmx57弾への換装が決定された。
熱河作戦とか北支工作の話教えて欲しいんだけど
誰か語ってくれないかな
<続き>
6.5mmx50SR弾の欠点とされた部分は、下記のような点だった。
1. 薬莢のデザインが自動火器が一般化する以前のもので、自動火器に使用すると薬莢側面が破け易かった
2. 1.と同じく、薬莢のデザインがSR(セミリム)型だったため、自動火器を設計する上で弾倉のデザインに制約を受けた
3. 航空機の発達に伴い、曳光弾を使用する対空機銃の運用が必須となったが、当時の技術では6.5mm弾の曳光弾が製作出来なかった
4. 西欧諸国で採用されている銃弾に比べて貧弱な威力、というイメージ(実際には大差なかった)があった。
上記1.2.3.の欠点は、多少の改良を加えれば改善/打開可能な欠点だったが、日本軍の西欧コンプレックスから生じていた4.が主な要因となり、太平洋戦争開戦直前の小銃/軽機弾という大失策が実行されてしまう。
その後、対米開戦迄に小銃/軽機弾の6.5mmx50SR弾から7.7mmx57弾への換装は完了せず、二重体系の弾薬補充という困難を自ら背負う羽目となった。
尚、1930年代の米国では自動小銃の試作が最終段階に入っていたが、強力過ぎる7.62mmx63(30-06)弾を低威力/低反動の7mm(276ピーターセン)弾に換装する計画も同時進行していた。
日本とは逆の方向を志向していた訳だが、世界戦争への米国の参戦が近いと考えていたマッカーサー大将(当時)により弾薬換装計画は中止させられている。
その後、米国は超大国への歩みのなかで世界中で戦い続けるが、7.62mmx63(30-06)弾が7.62mmx51(308 NATO)弾にマイナーチェンジされたのは、朝鮮戦争が終了した1954年以降の事で、7mm(276ピーターセン)弾への換装が中止されてから実に20年も後の事だった。
(その10年後に米国は泥沼の越南へ介入を始めるが、越南の戦場に7.62mmx51(308 NATO)弾は適さず、あっという間に5.56mmx45弾へ換装されてしまい、現在に到っている。兵器の宿命とはこうしたものである)