【祖国】朝鮮戦争を語るスレ【万歳】

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12コピペ
日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう (dat落ち)
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1053936480/



548 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 12:55 ID:???
皆様ごきげんよう。
>518の約束を果たしてみようかと、少々の書き込みなどを。
よろしければ、しばらくお付き合いくださいませ。

1950年6月25日より始まった朝鮮戦争は、北朝鮮軍の開戦奇襲の成功によって韓国軍が大きな損害を受け首都ソウルが陥落したことにより、3年余りの長期にわたって戦争が継続する結果となりました。
以下は、開戦よりソウル陥落までの戦争経過を、各師団担当正面ごとに時系列に沿って記述したものです。

1950年6月25日は日曜日であり、韓国軍の各部隊の大半は、兵士に外出許可を出しており低い警戒態勢にありました。
これは、3月以来繰り返し警戒警報が出されていたために韓国軍に馴れが生まれ、全体的に緊張が薄かったことと、4月以来部隊は警戒待機下にありその間特に異状が発生しなかったため、将兵に休暇が必要であると判断されたこと、が、理由とされています。
また、1948年4月の済州島蜂起からあと韓国全土で左翼勢力の蜂起が相次ぎ、その掃討に韓国軍主力が拘束されてもいました。
実際に38度線国境付近陣地に配置されていた部隊の数は、韓国軍の61個大隊のうち11個大隊であり、残りの大隊のうち25個がゲリラ討伐のために南部に分散配置され、残る25個大隊は第一線師団の予備としてソウル−原州−三陟の地域に駐屯しておりました。
13コピペ:2005/07/11(月) 21:00:12 ID:???
549 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 12:56 ID:???
北朝鮮軍による国境突破は、半島西部では、第1軍団に所属する、第1、第6師団と第203戦車連隊、第206機械化連隊が韓国軍第一師団を、第3、第4師団と第107、第109戦車連隊が第七師団を、それぞれ攻撃することで始まりました。
半島東部では、第2軍団に所属する、第2、第7師団と独立戦車連隊が第六師団を、第5師団および第766、第424、第200の独立連隊が第八師団を、それぞれ攻撃することで開始されました。

北朝鮮軍は、6月25日0430頃より38度線全線で砲迫3000門による攻撃準備射撃を開始し、30分後に全線で国境線を越えて侵攻を開始しています。
韓国軍陸軍本部が、甕津半島の第十七連隊からの緊急電報を受け取ったのが0600頃であり、続いて議政府正面の第七師団からの緊急電報が入ったのが0830頃でした。
そして、全軍に非常呼集がかけられ作戦命令が発せられたのが0700前後であったのです。
14コピペ:2005/07/11(月) 21:00:34 ID:???
550 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 12:57 ID:???
甕津半島の第十七連隊は、北朝鮮軍第3警備旅団及び第6師団第14連隊の計6800名の来襲を受け、第一線大隊の各分哨は壊滅し、その主力も包囲されました。
第十七連隊主力は、これまでの国境紛争の際と同様に反撃に移ったが、兵力が約二倍半で装備も優越する北朝鮮軍の撃退に失敗し、26日朝、派遣されたLST3隻に分乗して仁川に撤退しました。
15コピペ:2005/07/11(月) 21:00:57 ID:???
551 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 12:58 ID:???
開城の第一師団第十二連隊は、北朝鮮軍第6師団主力の2個連隊の攻撃を受けています。
第6師団長は、第6師団第13連隊で、地域一帯の制高点でもある松岳山正面から攻撃をかけて第十二連隊を拘束し、第6師団第15連隊を京義本線鉄道を利用して列車で一気に開城駅まで突進させ、腹背から挟撃することを決心しました。
25日朝の時点で、第十二連隊は多くの兵に休暇外泊を与えていたために実勢力は通常の半数くらいであり、全線にわたって配備は手薄でした。
このため、第6師団長の奇計は成功し、第十二連隊は南北より奇襲を受けて壊乱し、開城は0930頃には完全占領されてしまったのです。
なお、第十二連隊で部隊として後退に成功したのは、連隊本部と2個中隊のみであったとされています。

高浪浦の第一師団第十三連隊は、0500頃より北朝鮮軍の砲兵射撃が開始され、後、北朝鮮軍第1師団及び第203戦車連隊(T-34x40輌)の攻撃を受けています。
連隊は、まず57mm対戦車砲で射撃をしたが効果が無く、続いて爆雷や梱包爆薬、柄付き爆薬などをもって肉薄攻撃を行いました。
これにより、北朝鮮軍戦車4輌を撃破したものの、第一波約90名全員が戦死したため、後に続くものがいなくなりました。
このため、北朝鮮軍戦車は陣地の突破に成功して国境陣地背後から射撃を開始し、第十三連隊はそれ以上の防御戦闘を断念して、25日夜に陣地を撤収し、臨津江南岸の既設陣地に移動しています。
16コピペ:2005/07/11(月) 21:01:22 ID:???
552 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 12:59 ID:???
ソウルの北20kmの水色にいた第一師団司令部と第十一連隊は、秩序良く北上して25日中に臨津江南岸の文山里付近の既設陣地に入りました。
第一師団長は、第一師団の目的は、北朝鮮軍をソウルの西側から進入させないことであるとし、その目的を達成するために陣地に拠って遅滞防御を行うことを考えていました。
このため師団長は、戦前より各部隊長に対し、開城−高浪浦の線の陣地は警戒陣地であり、師団の主抵抗線は臨津江南岸の高地線であることを徹底させていたのです。
これによって、第十二連隊及び第十三連隊、休暇外泊中の将兵が三々五々と陣地に集結しつつありました。
このため、第十二連隊主力の臨津江渡河後に臨津鉄橋を爆破する予定は遅延し、北朝鮮軍第1師団は第十二連隊と混交状態で急追しため、第一師団は鉄橋の爆破に失敗し、橋は無傷で北朝鮮軍の占拠するところとなってしまいました。
この結果、翌26日朝0900頃、北朝鮮軍第6師団の一部が文山駅の北側高地を占領し、第十一、第十三連隊の背後から圧力をかけ得る態勢となってしまったのです。

第一師団は、この京義本道を制する緊要地形である高地を奪回するべく、増援として到着した陸軍士官学校教導隊の2個中隊相当の部隊をもって1000頃逆襲し、高地を奪回しています。
さらに、北朝鮮軍主力の渡河がいまだ終了していない態勢に乗じて、師団の全力をもって反撃に出ました。
1300第十一連隊は増援の歩兵学校教導隊を配属され、臨津鉄橋方向へと進発し、師団左翼の主抵抗線の回復に成功したのです。
しかし、北朝鮮軍の優勢なる砲兵の猛射を受けてそれ以上の攻勢は持続せず、さらに第十一連隊の背後に北朝鮮軍の戦車が回りこんで退路を断ち、第十一、第十三連隊の全面に圧力をかけてきました。
結局第一師団は、現陣地でのこれ以上の抵抗を断念し、26日夕刻、各連隊に対し奉日川南方の後方陣地への後退を下令しました。
この後退は、さらに増援として到着した第十五連隊第三大隊、第二〇連隊第三大隊の協力を得て速やかに秩序良く行われ、翌27日早朝には、第一師団主力は再配置を完了しています。

第一師団は、師団長の陣頭指揮の適切と、それによって士気を鼓舞された将兵の勇戦によって、翌28日まで陣地を固守することに成功したのでした。
17コピペ:2005/07/11(月) 21:01:51 ID:???
553 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:00 ID:???
議政府正面に展開していた第七師団は、第一連隊に38度線を警備させ、第三連隊を東豆川、第九連隊を抱川に配置し、師団司令部を議政府に置いていました。
師団の任務は、反撃部隊の到着まで議政府付近を確保することでありました。

北朝鮮軍の主攻軸は、この議政府回廊に指向されています。
第4師団と第107戦車連隊が東豆川道から、第3師団と第109戦車連隊が抱川道から、議政府を目標に0530攻撃を開始しました。
北朝鮮軍の攻撃は、まず戦車と自走砲を韓国軍陣地の前面に進出させ、その支援の元に工兵が道路両脇のトーチカを破壊することから始まりました。
さらに、この正面攻撃の間、歩兵は急峻な崖を登って陣地の背面に進出し、道路を突破してきた戦車の支援の元、韓国軍陣地を攻撃し、0800頃には国境陣地の要点の占領に成功しています。
これらの攻撃によって第一連隊は後退を余儀なくされ、さらに後退中に急追してきた北朝鮮軍の戦車と自走砲のために大損害を受けてしまったのでした。

この第一連隊の防御戦闘中に、第三連隊と第九連隊主力は、それぞれ既設陣地に進入し、第九連隊は25日夕刻まで抱川北側の陣地を固守していました。
しかし、第三連隊は、第4師団師団砲兵主力と第107戦車連隊の主力の支援を受けた第16連隊の猛攻を受けて陣地を突破され、夕頃には東豆川を占領され、その南側に後退させられてしまいました。
18コピペ:2005/07/11(月) 21:02:08 ID:???
554 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:01 ID:???
春川攻略を担当したのは、北朝鮮軍第2軍団の第2師団であり、これを五台山で活動していたゲリラ部隊が支援する形となっていました。
第2師団師団長は、韓国軍の陣地が高さ300〜400mにも及ぶ切り立った崖のような水利山系にトーチカを中核とした野戦陣地を構築しているために、正面攻撃ではこれを攻略することは非常に困難であることを理解していました。
最大の理由は、錯綜した地形のために砲兵陣地の適地が少なく、主力である加農砲が使えず、榴弾砲もしくは迫撃砲が主力となり、これらの砲ではトーチカの銃眼を射撃することができないことにありました。
このため第2師団は、第4連隊に正面から牽制の攻撃を行わせて韓国軍の注意をひき、その隙に第6連隊が北漢江の河床道を潜進して、韓国軍陣地の正面を奇襲突破することを着想したのです。

第2師団は、攻撃準備射撃の後、予定の通り攻撃を開始し、第6連隊は北漢江の河川敷に進入しました。
しかし第6連隊は、待ち構えていた韓国軍の105mm榴弾砲の射撃を受け、両岸は断崖が多いこともあって退避することもままならず、大損害を受けてしまいました。
さらに、第4連隊も、水利山頂のトーチカ陣地を攻撃したものの、待ち構えていた韓国軍の猛射を受けて大損害を受けています。
河床道の第6連隊は、韓国軍砲兵の集中射撃によって損害が50%に達し、韓国軍陣地正面の第4連隊は督戦を受けて突撃を繰り返したものの、攻撃は頓挫したのです。
第2師団長は、予備の第17連隊を右第一線に投入したが、戦局を打開することはできませんでした。
北朝鮮軍第2師団は25日一杯力攻を続けたが、韓国軍第六師団も予備の第十九連隊を増援したために、北朝鮮軍の攻撃は進捗しなかったのです。
19コピペ:2005/07/11(月) 21:02:23 ID:???
555 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:02 ID:???
北朝鮮軍第7師団は独立戦車連隊(T34x30輌)の配属を受け、第六師団第八連隊を攻撃しつつ洪川へ向けて前進中でした。
第八連隊は、峻険な地形と肉薄攻撃によって防戦を行っていたが、25日夕刻には麟蹄南方25kmの三街里付近に後退させられてしまいました。
北朝鮮軍第2軍団長は、25日の夜、第7師団に対し「麟蹄に引き返し、春川の東方に進出して、第2師団と協同して春川を攻撃せよ」との命令を発しました。
第2軍団長は、北朝鮮軍最高司令部から与えられた「ソウル南側に進出して韓国軍主力を包囲する」任務の達成の為に、春川を奪取することを最重要視していたのです。
このため、目前の第八連隊の撃破よりも、第六師団主力を撃破して春川を占領し、第2軍団の一部でもソウル東南方に突進させることが、軍全般の企図に合致すると判断していたのでした。

第7師団は、一部を三街里に残置し、主力は山間の一本道を反転して26日の夕刻には春川東方に進出しました。
そして、ただちに春川の攻撃に参加し、戦車は道路から、歩兵は昭陽江両岸の切り立った高地を攻撃しましたが、まもなく日没となり、攻撃は進捗しませんでした。
翌27日、第2軍団は第2、第7両師団の攻撃を調整して総攻撃を実施したが、峻険な山岳の地形の為に戦車と砲兵の威力を発揮できず、第2師団の損耗が40%に達して攻撃力を失ってしまったのです。

北朝鮮軍第2軍団は、ついに春川の奪取に失敗しました。
韓国軍第六師団は春川の陣地を確保していましたが、東海岸の第八師団が敗退し、27日夕刻にはソウルの防御が崩れた為に、春川だけが敵中に取り残される格好となったのです。
このため第六師団は、27日夕刻陸軍本部の命令を受けて同日夜後退し、洪川南側の阻止陣地につき、江陵から原州に向かって退却中の第八師団を援護しました。
28日朝、北朝鮮第2軍団は春川の町を占領し、第7師団は洪川から原州に南下し、第2師団は加平を経てソウルに向かって前進しています。
20コピペ:2005/07/11(月) 21:02:56 ID:???
556 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:04 ID:???
東海岸道を守備していた第八師団は、師団司令部を38度線の南方24kmにある江陵におき、第一〇連隊に38度線南側の峻険な地形を利用した国境陣地を守備させ、第二一連隊を38度線南方64kmの三陟に駐屯させて太白山脈のゲリラを討伐させていました。
北朝鮮軍第5師団は、東海岸道を速やかに突進し、浦項付近に進出する任務を与えられていました。
北朝鮮軍最高司令部は、この第5師団の突進を支援する為に、第766、第424、第200などのゲリラ戦訓練を受けた独立連隊を韓国軍の後方に上陸させ、在来ゲリラとも連携させて、第八師団の退路を遮断させようとします。
それと同時に、以後内陸に浸透させて、中央道を南下する第2軍団主力の前進を援護させようとしました。

北朝鮮軍第5師団は、0500時攻撃を開始し、同時に漁船や小型貨物船に分乗したゲリラ部隊を、玉渓、三陟、臨院津港、江陵、に上陸させました。
三陟に上陸を企てたゲリラ船団は、第二一連隊の57mm対戦車砲によって2隻を沈められて撤退しましたが、玉渓には約400人、臨院津港には約600人、江陵付近には第766連隊の2個大隊が上陸して、第八師団司令部と各部隊間の連絡を遮断しています。
これによって第八師団は各所で分断され、26日、江陵の司令部で米軍顧問も全員出席の上で部隊長会同が行われ、師団は後退することを決定し、退路を内陸に選択したのです。

米軍顧問団は26日夜に江陵から原州に向かって退却し、同地で第六師団司令部と合流しました。
第八師団は、後方を整理し重装備を下げた後、27日陸軍本部に報告後、28日朝には整然とした退却に移りました。
第八師団は、この3日間の戦闘で731名の兵員を失い、29日に掌握していた兵員は6135名でしたが、火砲その他の装備はそのほとんどを持ち帰ることに成功しています。
21コピペ:2005/07/11(月) 21:03:37 ID:???
557 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:05 ID:???
6月25日0900頃に陸軍本部が把握しえた情報は、次の通りと考えられています。

1、甕津半島に配置されている第十七連隊は壊乱に陥り、米軍顧問は脱出を要請してきた。
2、開城から高浪浦にかけて配置されている第一師団は、戦車を伴う優勢な敵と激戦中。
3、議政府方面の第七師団は、第一連隊が突破され、第三、第九連隊が東豆川と抱川北側で戦車を伴う敵と交戦中。
4、春川方面の第六師団は、敵に大損害を与えつつ既設陣地を確保、固守している。
5、東海岸の第八師団は、第一〇連隊をもって38度線南側の既設陣地を固守し、ゲリラ討伐に投入されていた第二一連隊を集結中、ただし師団後方に上陸した敵部隊によって退路を遮断されている。

以上の情勢判断により、韓国軍参謀総長は、既定の防衛計画に基づき、南部の3個師団をソウル北方に集中し、議政府正面の北朝鮮軍に対して反撃することを決心したのです。
韓国軍参謀総長の反撃計画の基礎は、以下の三点にありました。

1:議政府正面の敵は、北朝鮮軍第4師団の1個師団と戦車数十輌である。
2:第一師団は、臨津江の障害を利用し得るので、陣地を持ちこたえ得るであろう。
3:第二師団は、明朝までにその主力を集結し得るであろうし、第三、第五師団も明日中には戦闘に参加し得るであろう。

これにより25日夜、第七師団は、東豆川の南側に集結し、翌朝からの攻撃を準備ています。
しかし、反撃のために抱川の第九連隊を招致しなければならないのにも関わらず、交代に来るはずの第二師団の部隊が到着せず、夜半に第九連隊を陣地を撤収させて主力と合流させることとなりました。
このため、一時的に抱川道を守備する部隊がいないという危機が生じていますが、北朝鮮軍の追尾が無かったために事なきを得たのでした。
22コピペ:2005/07/11(月) 21:04:47 ID:???
558 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:06 ID:???
大田に駐屯していた第二師団は、25日午後には北上を開始しましたが、ゲリラ活動や輸送計画の不備により師団主力の出発がいつになるかは完全に不明でした。
しかし、韓国軍参謀総長は、翌26日早朝より既定計画どおりに反撃に出ることを重ねて命令し、第二師団は抱川道方面から、第七師団は東豆川道方面から反撃に出ることとなったのです。
ところが、第二師団が26日の朝までに議政府に集結し得た兵力は、師団司令部と第五連隊の2個大隊にすぎなかったのでした。
このため第二師団長は、2個大隊の歩兵だけで攻撃してもどうにもならないと考え、この2個大隊で議政府東側の隘路を防御させ、主力が集結してから攻撃を行うことにしました。

こうした韓国軍の動きに対し、北朝鮮軍第1軍団は、韓国軍の南部集団が集結を終えるまでに議政府を占領することを目指していました。
また、ソウルに圧力をかけることによって韓国軍主力をソウル北方に誘致し、第2軍団によるソウル南方への仰回運動によってこれを捕捉し包囲殲滅することを目標としていたのです。
そこで、26日には、第3、第4師団とも2個連隊を並列して一挙に議政府を攻略するように指導したのです。
23コピペ:2005/07/11(月) 21:05:10 ID:???
>>22の続き)

韓国軍第七師団は、予定の通りに反撃を開始しました。
この反撃は、北朝鮮軍第4師団が攻撃を開始しようとしていた矢先に先制攻撃をしかけた結果となり、第4師団は混乱状態に陥りました。
しかし、北朝鮮軍第3師団が、26日朝に無人になっていた抱川を占領し、引き続き第109戦車連隊を先頭に南下を続けたのです。
韓国軍第二師団第五連隊と支援砲兵が、道路上を突進してくる北朝鮮軍のT34に対して射撃を行いましたが、効果がなく、北朝鮮軍戦車隊はそのまま議政府に突入してしまったのでした。
続いて、戦車に続行していた北朝鮮軍第7連隊が、砲兵の支援の元に第五連隊に対して攻撃を開始し、逐次第五連隊の両翼を包囲するように機動し始めています。
第五連隊は、戦車に中央を突破され、さらに両翼を包囲されそうになったので、急速に戦意を失って東南方の山中に壊乱してしまいました。
この北朝鮮軍第3師団による議政府占領によって、韓国軍第七師団は退路を失い、南北から挟撃される態勢となりました。
このため、師団は重装備を放棄して議政府西方の山中に分け入り、議政府南方へと脱出することとなったのです。
24コピペ:2005/07/11(月) 21:05:25 ID:???
559 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:07 ID:???
北朝鮮軍は、26日の夕刻には完全に議政府を占領し、第3、第4師団は合一してソウルに迫る態勢をとりました。
しかし、それでは当初の計画にそわなくなる為に、議政府にとどまって翌27日の攻撃を準備しています。

韓国陸軍本部は、議政府正面の反撃の失敗に動揺し、逐次到着する第二師団の後続部隊や、第三師団、第五師団、首都師団も議政府道に投入し、北朝鮮軍の南下を阻止しようとこころみました。
しかし、27日の朝より始まった北朝鮮軍の攻撃に対し、これらの部隊は逐次投入される形となりました。
また各部隊は、それぞれ直接陸軍本部の指揮下で戦闘することとなり、各個ばらばらに無統制な反撃や防御を行うこととなったのです。
ですが韓国軍は、27日一杯は、ソウル周辺の山地丘陵地帯を占領して確保し、北朝鮮軍のソウル突入を阻止し続けていました。

27日1930頃、北朝鮮軍第3師団第9連隊は、戦車とともにソウルの東北角に突入したが、猛射を受けて撃退されています。
続く28日0100頃、北朝鮮軍の戦車がソウル市内に突入に成功し、その混乱の中で続く0215頃、漢江橋が韓国軍によって爆破されてしまいました。
この時点で、第二、第三、第五、第七、首都師団は、ソウルの外郭防衛線でそれぞれ組織的防御戦闘を継続していたのです。
しかし、北朝鮮軍が28日1130頃ソウルの中心部に突入し、ソウル市内東大門付近の防御線が突破されたことや、漢江橋が爆破されたことを知った各部隊は、一気に士気崩壊して漢江南岸へと壊走し始めました。
このため、装備のほとんどが遺棄され、各部隊は完全に組織的戦闘力を喪失してしまったのです。
28日終わりの時点で、韓国軍陸軍本部の掌握下にある兵員は、開戦当初の9万8千名に比し、2万2千名に減ってしまっていたのでした。
25コピペ:2005/07/11(月) 21:05:44 ID:???
560 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:09 ID:???
さて、上記の国境会戦の経過を見た上でまず思うのは、準備未完の状態で敵の攻撃を受けた際の戦線崩壊の速さですね。

韓国軍は、5月1日のメーデーを警戒して営内待機をしており、続く5月30日の総選挙の際に何かが起こる可能性を考えて警戒待機を続けていました。
また、平壌放送は連日南糾弾の放送を繰り返し、さまざまな「平和統一」策を提案するなどして揺さぶりをかけてきていました。
こうした北朝鮮のプロパガンダに対して、韓国国内の不満分子が蜂起する可能性を考え、韓国軍は6月11日より再度の警戒待機に入っていたのです。
すると、北朝鮮は平壌放送を通じて朝鮮独立運動の功労者である゙晩植と、韓国が逮捕していた南労党地下工作責任者の金三龍と李舟河の両名との交換を提案してきました。
これに対して、6月23日、韓国側はソウル放送で応諾する旨を放送しましたが、北朝鮮は回答をしませんでした。
こうした経緯から韓国軍は、同日が金曜日であり、農繁期でもあり実家の農作業の手伝いが必要でもあることから、将兵に週末の外出を許可したのでした。
26コピペ:2005/07/11(月) 21:06:05 ID:???
561 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:10 ID:???
このような長期にわたる緊張の連続は、実は人に馴れを発生させ、知らず知らずのうちに緊張を緩めさせてしまうのですね。
実は韓国軍も韓国政府も、北朝鮮軍に南進の意図があり、それに応じて必要な戦備の充実を図っていることを承知しており、ほぼ正確な北朝鮮軍の戦力と部隊配置を把握していたのです。
そうでありながらかくのごとき奇襲を受けてしまったのは、一つには、当時の韓国が非常に貧乏であり、戦車、野砲、航空機、その他重装備はおろか、地雷や鉄条網に至るまで、必要な装備の購入が制限されていたことがありました。
そしてもう一つには、韓国は、世界的な戦略情報はアメリカに完全に依存しており、肝心のアメリカが共産陣営の動向について非常に甘く見積もっていたのです。
そして、当時の韓国国内は、反体制運動が激化しており、各地で北朝鮮の支援を受けたゲリラが蜂起している有様であって、韓国軍はまともな練度には無かったということもあったのです。
ちなみに、白善Y将軍の第一師団は、大隊訓練を終えた時点で開戦を迎えましたが、他の師団は中隊訓練がようやく終了し、大隊訓練に移行する段階で開戦を迎える羽目になったということです。
この結果、個々の将兵や前線小部隊が勇戦敢闘しても、それを戦術的な勝利や、作戦上の優勢に結びつけることができなかったのでした。

開戦奇襲を受けずに済むかどうかは、敵がいつ、どのようにして戦争を開始するか決定する以上、事前に開戦そのものを予測することが極めて困難であるが故に、非常に難しいものがあります。
敵が十分な兵力を集結させ、示威行動を繰り返すならば、これに対応していくだけで我は疲弊し緊張を失っていくことになるのです。
この我の対応の不備を突いて敵が攻撃を行うならば、開戦奇襲は容易に成し得る事になります。
27コピペ:2005/07/11(月) 21:06:20 ID:???
562 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:11 ID:???
さて、続いて各方面の戦闘を見ていきますと、北朝鮮軍の戦車の活躍がまず目に付きます。
韓国は、その地勢から、例え戦車であっても道路上を進撃するしかないのですね。
開けたところでも、一度に4輌から5輌が横隊になるのが精一杯ですから、機甲衝撃力を発揮した驀進は不可能だったのです。
まして6月ですから水田には水が張っており、戦車も歩兵も、道路を離れて進むのは非常に困難であったのでした。
ところが、韓国軍に有力かつ十分な数の対戦車火器が存在せず、また北朝鮮軍のT34に対抗可能な戦車も存在しなかったために、T34が移動砲台や移動トーチカとして相互に援護しあいながら前進してくると、
もはやこれに対抗しようがなかったのですね。 そのため、韓国軍の第一線部隊は、後退するか左右の山地に逃げ込むかするしかなくなり、北朝鮮軍は進撃路を確保して一気に突進することが可能となったのです。

春川正面での韓国軍第六師団の活躍や、東海岸での第八師団の離脱の成功は、北朝鮮軍の戦車の投入が無かったということが非常に大きな意味を持っています。
議政府の第七師団の壊滅の原因は、北朝鮮軍の機甲部隊が後方に展開して退路を断ち、師団主力が包囲されてしまったからなのですね。
また第一師団が、これだけ勇戦敢闘しつつも北朝鮮軍に圧迫され後退せざるを得なかったのは、北朝鮮軍の戦車が第一師団の両翼を迂回して後方に回り込み、随時圧力をかけてきたからなのです。
さらに、一度後退して予備陣地に移動し、あらためて準備を整えて敵を迎え撃とうとしても、常に北朝鮮軍の戦車が後衛部隊に圧力をかけ、場合によっては混交して部隊に追随してくるために、
どうしても準備未完の状態で敵を迎え撃たないとならないという状況が起こっています。
第六師団が逆に北朝鮮軍に対してあれだけの損害を与えられたのは、険要地形によって事前の準備通りに陣地防御戦を行いえたから、というのが理由としては大きいでしょう。
また、第八師団がさほどの被害もなく戦場から離脱し、第六師団との合流に成功できたのも、追撃する北朝鮮軍に戦車が無く、容易に敵との間合いを取れたからでしょう。
28コピペ:2005/07/11(月) 21:07:16 ID:???
563 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:13 ID:???
さて、暴露歩兵の衝撃力の弱さは、春川戦での北朝鮮軍第2師団の壊滅からも明白なわけです。
第2師団は、第六師団に対して砲迫の数では圧倒的に優勢でした。
第六師団は、師団砲兵が105mm榴弾砲15門、各連隊に81mm中迫撃砲が12門と57mm対戦車砲が6門、各大隊に60mm軽迫撃砲が9門、というものです。
これに対して第2師団は、師団砲兵が122mm榴弾砲12門と76mm加濃砲24門、各連隊に120mm重迫撃砲6門、76mm榴弾砲4門、45mm対戦車砲4門、各大隊に82mm中迫撃砲9門と45mm対戦車砲2門、各中隊に60mm軽迫撃砲4門、でした。
時間あたりの投射弾量比は、韓国軍師団と北朝鮮軍師団とでは、約1:10にもなります。
しかし第2師団は、錯綜した険要地形によって陣地防御戦を行った第六師団によって、逆に砲迫に大きな損害を受けています。
その損害は、26日と27日の戦闘で、師団砲兵7門、76mm自走砲16輌、45mm対戦車砲2門、迫撃砲数門とされています。
これは、地形の制約から砲兵の陣地が限定されていたために、韓国軍が、陣地になりそうなところに予め射撃を準備していたことと、北朝鮮軍が直射支援のために無理に砲兵を前線に出して銃眼射撃を行ったこと、が理由として挙げられるのですね。
こうした、支援火力の発揮に難がある状況での徒歩歩兵の陣地攻撃は、あまりにも大きな損害を受けるのに比べて、戦果はほとんど得られない、という、南北戦争以来の当たり前の事実が明らかになったわけです。
ちなみに、第2師団の損害の大半は、第六師団の師団砲兵の105mm榴弾砲の射撃によるものとされています。
29コピペ:2005/07/11(月) 21:07:28 ID:???
564 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:14 ID:???

さて、こうした状況では、敵の阻止射撃に抗堪しつつ、敵の火点を制圧可能な装甲と火砲を持った戦車が大きな威力を発揮することになるのが明らかでしょう。
地形が峻険で、容易に敵の陣地防御線を迂回することができない場合、敵を攻撃するためには、陣地を正面から攻めなくてはならないわけです。
そうなりますと、どうしても敵の射撃に耐えられる装甲を有する火砲を第一線に展開させて、歩兵が陣地に突入するのを支援しなくてはならなくなるのです。

第六師団が春川でこれだけ粘れたのは、北朝鮮軍第2軍団長が第六師団を正面から撃破し、春川を占領することに拘泥したためであるわけです。
もし、第7師団があのまま直進して26日中に洪川を陥落させ、続いて第六師団を後方から攻撃していたならば、27日中に春川を陥落させることは不可能ではなかったでしょう。
重要なのは、いかにしてソウル南側に第2軍団主力を展開させ、韓国軍主力を包囲殲滅するか、であり、そのための攻勢発起点となる春川の攻略をいかに素早く成功させるか、でした。
漢江橋の過早爆破という韓国軍のミスがなければ、最悪の場合、韓国軍主力が漢江以南への離脱に成功し、漢江線沿いに防御線を引くことに成功していたかもしれないのです。
この場合機甲部隊の運用としては、敵の後方を遮断し、もって敵の継戦能力を無力化するという間接アプローチこそが、適当であったと言えるのではないでしょうか?
30コピペ:2005/07/11(月) 21:07:55 ID:???
565 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:15 ID:???
国境会戦から得られる戦訓は、まず開戦奇襲を受けないようにすることは非常に困難である、ということでしょう。
このため、敵の奇襲を受けた場合、いかに敵の浸透を防ぎ、味方が反撃準備を整えるまでの時間を稼ぐか、が極めて重要になるわけです。
そのためには、事前に周到な陣地構築と、砲迫の射撃準備を行っておき、可能な限り短時間で我の態勢不備を挽回して火力を発揮できるようにするか、にかかってくるわけです。

多数異方向からの同時攻撃を受けるならば、我は指揮能力が飽和し、容易に敵の突破を許すことになります。
これを防ぐには、我は十分な火力を準備し、敵の攻撃を火力によって妨害し、敵の攻撃の連携を乱す以外に方法はないでしょう。
そして、敵の攻撃の連携が乱れ、その隙に乗じて内線である故の彼我の相対的時間の優位を活かして、敵を各個に撃破し、敵の攻勢衝力を破砕するのです。

議政府回廊での韓国軍の敗北は、北朝鮮軍との相対的機動力で劣位にあったにも関わらず、あえて無理な反撃に出たことでしょう。
これは、韓国軍参謀総長が政治的にソウル陥落を許容できないという要請があったために、あえて無理を承知で行わせたものです。
しかし、当時の韓国軍と北朝鮮軍の戦力差から考えるならば、逆に無理な反撃は味方の防衛線の戦力を早期に喪失し、敵の攻撃を勢いづかせかねないのです。
そして、議政府回廊での第七師団の反撃は、まさしく師団の戦力を早期に喪失し、逆に北朝鮮軍の南下の勢いを強めさせ、増援として投入された第二、第三、第五、首都師団の各師団を敵の各個に撃破する機会を与えたに終わったのでした。
31コピペ:2005/07/11(月) 21:08:26 ID:???
566 名前: 名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc. [sage] 投稿日: 03/10/23 13:16 ID:???
防御作戦においては、敵が攻勢限界に到達したか否かの見極めこそが重要になります。
敵が攻勢限界に到達する以前に、我が反撃に出るならば、逆に敵によって我の戦力は大きく減殺され、我の後退に乗じて敵のより一層激しい攻勢にさらされる事になるからです。
我の防御態勢の維持のための逆襲と、敵の攻勢破砕のための反撃は、似ているようで違うものであることを理解しなくてはなりません。

第一師団の臨津江での逆襲が、度々大きな効果を発揮したのは、これが味方の防衛態勢の機能の維持のためのものであり、北朝鮮軍の攻勢能力の破砕そのものが目的ではなかったからなのですね。
北朝鮮軍の攻勢能力の破砕は、あくまで陣地防御戦によって損害を強制することでなし、その陣地防御戦を戦い抜くための態勢の維持のために、必要な地勢や陣地の確保のために適時適切に逆襲を行っているのです。
多分に韓国陸軍本部は、この両者を混同して、第七師団に無理な反撃を強要し、結果として早期にソウルを喪失するという結果に陥ったのです。

とりあえず、今回はここまでとし、次は気が向いたときにでも書き込みさせていただきます。
それでは、皆様、ごきげんよう。
3210:2005/07/11(月) 21:12:15 ID:???
以上であります。
で、終わってから気づいたのですが、保存用に改行をあらかた抜いていたのを忘れてました。
すみません。
ちなみに、「車嶺山脈中での第24師団の遅滞戦闘」も保存してありますが、いかが?
33名無し三等兵:2005/07/11(月) 21:13:03 ID:ZpuTDkjy
ありがとうございます。
34名無し三等兵:2005/07/11(月) 21:39:10 ID:???
思うんだけど、在韓米軍撤収して、日本もオッケーサインだしたらもう一回南進するかな。
北と南でうじゃうじゃ云われるより一個にまとめた方が良いんじゃないかと思えてきた。
35名無し三等兵:2005/07/11(月) 21:40:14 ID:???
>>32
勉強になりました。
よろしければ「車嶺山脈中での第24師団の遅滞戦闘」もお願いします。
3610:2005/07/11(月) 22:20:43 ID:???
白将軍(開戦時第1師団長)も悔しがっていましたが、漢江の過早爆破さえなければ各部隊は建制を
保ったままで後退し、漢江南方で防御線を構築できた可能性もあったわけで、その点で蔡参謀総長
の死守命令は極めて重大な失陥であったと言わざるを得ないのではないでしょうか。
また、朝鮮戦争全体に渡って韓国軍の戦車・砲兵部隊の貧弱さが目に付くわけですが、
例え軽砲のみであっても暴露地形でのその威力は瞠目すべきものであるというのを蟹お嬢さまの
書き込みで再認識させてもらいました。白将軍の回顧録でも、敵への物理的な効果が期待しがたい
10榴の射撃でもT-34の進撃を遅滞させることが可能であったと述べられていますが、防戦における
砲兵火力の重要性には注意しなければいけませんね。
ところで、>30の「多数異方向からの同時攻撃」への対処法は、釜山円陣攻防での火消し戦術に
通ずるところがあるように思いますが、いかがですか?
37名無し三等兵:2005/07/12(火) 12:21:49 ID:???
蔡啓徳の戦死の経緯と、漢江南北岸の問題。当時あった橋などをもう少し教えて頂きたく。
38名無し三等兵:2005/07/12(火) 12:32:50 ID:???
補足 陸士卒業生の間で、米軍に戦場で射殺されたなんて噂があったのです。
3910:2005/07/12(火) 15:15:15 ID:???
自分も特別詳しいわけではないのですが、分かる範囲でお答えさせていただきます。
もっと詳しい方の補足を期待しつつ。

まず、蔡秉徳将軍の戦死について。
緒戦の敗北の責任をとって6月30日に更迭された蔡前参謀総長は、7月25日夕には 晋州市(慶尚南道)まで
後退していました。このとき、500人前後の北軍が河東へ向けて進撃中であるとの報に接し、蔡将軍は交通の要衝
である河東の重要性をアメリカ軍第19連隊長に説きました。これを受けて連隊長は第3大隊に河東確保の命令を
下し、これに蔡将軍が同行する許可を与えました。蔡将軍は一切の指揮権を持たず、通約兼道案内としての同行
だったようです。また、少数の韓国軍士官も同行しました。
2230時、第19連隊第3大隊は移動命令を受け、2300時に移動を開始しました。
(7月26日)
夜明け直後、20人前後の負傷した韓国人と遭遇しました。彼らは前夜に北軍の襲撃を受け、400人の民兵部隊は
潰滅し、彼らのみが生き残ったと話しました。この情報をもち、第3大隊の副指揮官は晋州へ引き返し、第19連
隊長に対して命令の変更を迫りましたが、命令は変更されませんでした。副指揮官は渋々この命令を受け入れ、
午後になってから第3大隊に帰隊しました。
夕刻、第3大隊は河東から3マイルの村落で配置に付きました。直後、前線航空統制班が到着しました。
しかし直後、前線航空統制班の無線機は故障し、連絡不能に陥りました。
(7月27日)
0845時、3大隊は前進を開始しました。L中隊長が重火器中隊から分遣された1個小隊とともに先導し、これに
K,M,I中隊が後続しました。河東の峠から1000ヤードの地点で、L中隊は10人前後の敵の斥候兵と接触し、
これに対し2門の75mm無反動砲で砲撃を加えましたが、外れました。L中隊は速やかに前進しけ河東の峠を確保
し、塹壕を掘って0944時に予定されていた空軍の支援攻撃に備えました。
その直後、後方を行軍していた3大隊長は、北方のやや離れた高所に人影が動くのを目撃しましたが、これをそ
の方向に進撃中であったK中隊と誤認しました。
4010:2005/07/12(火) 15:16:24 ID:???
第3大隊長は隊列後尾にいた副指揮官を討議のために呼び寄せ、このため、大隊の指揮要員たちが一所に集まる
こととなりました。
峠の上に第3大隊の指揮要員が集合した直後、敵の隊列が峠に向かって前進してくるのが視認されました。
この敵兵は、峠が米韓軍の占領下にあることを知らないようでした。
また、それとは別に小部隊が峠に向かって前進してくるのを蔡将軍が目撃しましたが、このうちの数人が米軍の
作業衣姿であるように見えたため、100ヤードの距離で蔡将軍は彼らを韓国語で誰何しました。
直後、この小部隊は発砲を開始し、またこれに米軍が応射を開始した直後、北方の高地より峠にむけて迫撃砲お
よび小火器による攻撃が開始されました。
最初の射撃によって蔡将軍は頭部に被弾し即死、また同じ射撃により第3大隊の副指揮官が重傷を負ったほか、
第3大隊の指揮要員はほぼ全員が負傷しました。また、北の高地よりの迫撃砲射撃により大隊長が重傷を負い、
また空軍の前線航空統制班の車両が破壊されたため、空軍による支援攻撃はなされませんでした。
この後、一時大隊長が行方不明となっていたため、L中隊長の指揮のもとで第3大隊は北軍に応戦しました。
彼らは午前一杯勇戦し、峠を確保していましたが、その後後退しました。その直後北軍の追撃を受け、各部隊は
壊乱しました。

以上が、蔡秉徳将軍の戦死のいきさつです。遺体は衛生兵により後送されたということです。
「米軍に射殺された」という噂は、「このうちの数人が米軍の作業衣姿であるように見えた」というところから
出たものではないでしょうか。

また、ソウル市内を流れる漢江には漢江鉄橋,広壮橋など鉄橋3本と人道橋1本(漢江大橋)が架かっていたとの
ことですが、残る鉄橋1本の名前は分かりませんでした。
41名無し三等兵:2005/07/12(火) 21:35:44 ID:???
お手数でした。別の書物でかなり昔に読んだ断片的記憶が埋まりました。
晋州が現場だったのですね。
いろいろと流れる噂の中には、漢江橋梁爆破のタイミングを巡るいさかいとかがありまして。
4210:2005/07/13(水) 22:19:37 ID:???
少々遅れましたが、「車嶺山脈中での第24師団の遅滞戦闘」、全5レス予定です。
なお引用元は
90式戦車7
http://bubble.2ch.net/test/read.cgi/army/1056810252/125-130
です。
43コピペ:2005/07/13(水) 22:20:49 ID:???
125 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:28 ID:???
以下は、朝鮮戦争における北朝鮮軍の攻撃により、第24師団が大きな損害を受けて後退するに至った戦闘の一例を、その経過を時系列に沿って記述したものである。

7月9日から12日にかけての車嶺山脈中での第24師団の遅滞戦闘。

7月8日午前、天安の失陥後、第24師団長は、以下の通りの決心を行い、新たな筆記命令を下達した。

「師団は、本道と公州道の沿線で遅滞行動を実施し、錦江南岸の主戦闘陣地に後退する」
「錦江の線は、いかなる犠牲を払っても保持する。抵抗繰り返せば繰り返すほど、敵を最大限に遅滞させることができるのである」
「第34連隊(第3大隊欠)は、公州道に沿って前進する敵を遅滞せよ」
「第21連隊(第2大隊欠)は、鳥致院正面において、敵の前進を阻止せよ。長致院は、清州北側で作戦中の韓国軍の左翼を援護するために、また補給用列車を清州に到着させるために、どうしても確保しておかねばならない。あと4日は増援はない」
「第3工兵大隊主力は、公州道の途絶と、錦江の全橋梁の破壊を準備せよ」

第24師団長の企図は、車嶺山脈によってできる限り多くの時間を稼ぎ、その間に第19連隊を招致して、錦江の線で敵を阻止しようという意図であった。
予定では、第27連隊戦闘団の到着が7月9日頃であり、11から12日頃に第19連隊をこの方面に招致できるという予定であったためである。
44コピペ:2005/07/13(水) 22:21:31 ID:???
126 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:28 ID:???
7月9日の朝の時点で、第21連隊第1大隊の一部(A、D中隊等の500名)は、全義の東側200メートルの稜線に
前進陣地を構築し、第3大隊は、車嶺山脈の主稜部に陣地を構築中であった。
第1大隊残余は、大隊長とともに大田で再編成中であり、10日頃再編成完了の予定であった。
連隊指揮所は鳥致院に設けられていたが、連隊長は、大隊長不在の第1大隊とともにあり、これの指揮を
代行していた。

7月9日午後、北朝鮮軍の戦車11輌と、歩兵200〜300名からなる縦隊が、第1大隊の目下の全義の町に進入し、
その後方に第4師団主力が後続していた。
米軍は、師団砲兵主力をもってこれを攻撃、また要請により飛来した米空軍機は、全義、平沢間の道路上に
停止していた車輌200輌のうち、約100輌を破壊、もしくは炎上せしめた。
この攻撃により、北朝鮮軍第4師団はその前進を阻止された。
45コピペ:2005/07/13(水) 22:22:22 ID:???
127 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:29 ID:???
7月10日0700頃より、朝霧の中、北朝鮮軍の攻撃が開始された。
北朝鮮軍第4師団の主攻は、本道南側の孤立していた、第1大隊A中隊の1個小隊に向けられ、北朝鮮歩兵は
隠密接近して近接突撃をしかけてきたが、第1大隊の重迫小隊の阻止射撃による弾幕によって撃退された。
しかし、大隊の右翼を迂回して本道に進出した北朝鮮軍は、本道上を突破した戦車と協同して重迫小隊の陣地を
攻撃し、これを蹂躙した。
0800頃、霧が晴れると、北朝鮮軍の主力による攻撃が行われた。
第21連隊第1大隊の正面から攻撃してきた北朝鮮軍は、砲兵支援の元、歩兵が陣地によって敢闘し、これを撃退
するも、左翼正面の阻止弾幕射撃を担当していた重迫小隊が蹂躙されたため、本道南側に孤立していたA中隊
所属の1個小隊は重囲に陥った。
1130に空軍機2機の支援を受けるも、1135には危急を報告後連絡途絶し、1140に全滅した。
これにより、第21連隊第1大隊左翼が解放され、北朝鮮軍は大隊の左側側背に接近してきた。
この北朝鮮軍の突進により、砲列と前進観測将校との間の有線が戦車により切断され、無線も途絶したため、
砲兵は歩兵陣地が北朝鮮軍によって占領されたものと誤認し、1132頃より友軍陣地への砲撃を開始した。
第21連隊第1大隊最右翼の小隊は、1125頃より正面と右側と後方の三方より北朝鮮軍の射撃を受け始め、小隊
兵士はパニックに陥り逐次陣地を放棄し後退に移り始めた。

1205頃、第21連隊長は、両翼包囲を受けつつある第1大隊の状況から、退却を決心した。
この後退の合図で各兵士は陣地後方の水田のあぜ道を移動し後退を開始した。
この戦闘で、A中隊は兵員181名中57名の損害を受け、D中隊は6名、重迫小隊は14名の死傷者を出し、装備の
大半を喪失した。
46コピペ:2005/07/13(水) 22:23:20 ID:???
128 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:29 ID:???
第21連隊長は、第3大隊の指揮所に後退し、第3大隊長に対し逆襲を命令した。
逆襲の目的は、まだ後退してこない第1大隊残余の兵員の救出と死傷者の収容、装備品の回収であり、攻撃目
標は第1大隊陣地であった。
第3大隊は急ぎ逆襲に転じ、本道北側の陣地を回復して兵士10名を救出したものの、本道南側の陣地の奪回に
は失敗した。
この逆襲にM24軽戦車8両が参加したものの、T34を1輌破壊するも2輌を喪失し、後退した。

この一連の戦闘の間に、第1大隊残余は大隊長の指揮の元に再編成を終了し、後退してきたA、D中隊と鳥致院
に集結し、11日朝には鳥致院北側の陣地を占領した。

7月11日0100頃、第3大隊が元の陣地に戻ってくると、北朝鮮軍とゲリラの一部が大隊の陣地に進入していた。
第3大隊k中隊は、0200頃までにこれを撃退し、旧陣地を回復した。
11日未明、北朝鮮軍第4師団と交代した第3師団は、朝霧の中を第3大隊に対して以下の通りに攻撃を開始した。
予め、歩兵陣地と指揮所・砲兵陣地間の有線を切断し、退路遮断部隊を浸透させ、0630頃より霧まぎれて戦車を
突入させ、同時に大隊本部と砲兵指揮所を迫撃砲で制圧して通信車と弾薬車輌を破壊し、約1000名の歩兵が
第3大隊の両側背より攻撃を行ったのである。
米軍の前進観測将校は、連絡手段の途絶により砲撃を指揮することが出来ず、第3大隊の歩兵は独力で各々の
陣地を固守しようとしたが、後方との連絡を遮断されてしまったために弾薬の補給も受けられず、後退することも
できず、北朝鮮軍によって蹂躙されることとなった。
11日中に第3大隊は、大隊長以下大隊本部は壊滅し、後方の鳥致院に後退できたのは装備を一切失った約150名
のみであった。
この戦闘により、第3大隊は兵員667名中517名を喪失したが、7月15日までに山中に四散していた兵士が逐次
合流したため、生存者の合計は322名にまで回復している。

なお、この北朝鮮軍の第4師団が第3師団と交代して全義から公州道に向かったことにより、第34連隊は大きな
被害を受けずに後退することに成功している。
47コピペ:2005/07/13(水) 22:24:12 ID:???
129 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:30 ID:???
第21連隊は、この7月10日と11日の戦闘により、第1、第3の2個大隊がその火器と資材のほとんどを喪失したため、
実践力は半個大隊にまで低下した。
第24師団長は、7月11日夜、第3大隊の壊滅の報告を詳知し、第3工兵大隊に対し公州道途絶のための障害の設置
と橋梁破壊の準備を急ぐように督促した。
そして、大邸と延日の警備についていた第19連隊戦闘団を錦江河畔招致した。

大隊全力を掌握した第21連隊第1大隊長は、鳥致院北側の陣地を占領していた。
7月12日の払暁、北朝鮮軍は第1大隊陣地に対し山中踏破して隠密接敵し、これを両翼包囲することに成功した。
0930頃、約1個大隊の北朝鮮軍が砲兵射撃に膚接して、第1大隊左翼に対して攻撃を始め、続いて2個連隊約2000名が
第1大隊を包囲するように攻撃を開始し始めた。
第1大隊はその陣地で敢闘したものの、1200前後には戦線に破綻の徴候が現れてきた。
この状況に対し、第21連隊長は、以下の通りの報告を師団司令部に対し打電した。
「連隊は包囲されようとしている。第1大隊の左翼は崩れかかっており、右翼方面も危険な状況である。
鳥致院と錦江の間には遅滞陣地として利用し得る地形がない。自分は連隊に一挙に錦江の線に後退するように命令した」
連隊の後退は、砲兵の支援を受けて秩序よく行われた。
7月12日1530頃、第1大隊残余は錦江の南岸を占領したが、その兵力は261名であった。
48コピペ:2005/07/13(水) 22:24:54 ID:???
130 :名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/01 21:30 ID:???
公州道方面では、第34連隊第1大隊が、移転してきた北朝鮮軍第4師団の前進を遅滞していた。
北朝鮮軍第4師団は、6月25日の開戦以来、すでに2週間以上も先駆を務めてきたため、疲労と損害が限界に達し、
その衝力が非常に低下していた。
第34連隊第1大隊は、M24軽戦車4輌と、師団工兵大隊D中隊の支援を受け、車嶺峠や公州北側の地形を利用し
数次に渡って北朝鮮軍第4師団の尖兵を待ち伏せ、包囲されそうになると後退して遅滞防御を継続していた。
しかし、7月11日午後、公州北側の水村里付近で第4師団に捕捉され、M24軽戦車3輌を喪失し、7月12日午後、
錦江南岸に移動し、大田で再編成した第3大隊と合流し、錦江線の守備についた。
なお、車嶺山脈中での遅滞行動に参加したM24軽戦車は全部で8輌であったが、T34を1輌撃破したのみで7輌を
喪失している。
4910:2005/07/13(水) 22:54:13 ID:???
以上です。
「朝鮮戦争における北朝鮮軍の攻撃により、第24師団が大きな損害を受けて後退するに至った戦闘の一例」
とありますが、やはりこの時期の戦闘の典型例であるように思います。

で、私がたいへんに疑問に思うのは、なぜ米第24師団がこれほど容易に圧倒されているのか、と言うことです。
白将軍の回顧録などを読んでおりますと、当事者であることを割り引いて考えても、小白山脈西麓での韓国軍の
遅滞戦闘はそれなりにうまくいっているように思います。
しかし、これに対して米第24師団は、上のとおり7月9日から12日にかけての車嶺山脈中での戦闘の後、
14日には北軍第3,4師団に錦江の渡河を許し、20日には大田が陥落し、第24師団長が北軍の捕虜となっています。
韓国軍の弱点は弱体な機甲火力・砲兵火力であったと思いますが、この時期の米24師団は戦車こそ持たないものの、
砲兵火力という点では韓国軍よりも有力であったと思います。
また、韓国軍が緒戦の敗戦のショックを抱えていたのに対し、米軍にはそのようなことはなかったはずです。
にもかかわらず、なぜこのような差が生まれたのでしょうか?